【継体天皇】傍系相続の君主を語ろう【徳川慶喜】

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1日本@名無史さん
歴史上の傍系の血筋から家督を継いだ君主について語りましょう
例としては応神天皇五世子孫の継体天皇や徳川家康十世の子孫徳川慶喜など遠い傍系から宗家を継承した君主や、
東山天皇三世子孫の光格天皇、徳川家康三世子孫の徳川吉宗、徳川家斉二世子孫の徳川家茂など近い傍系から宗家を継承した君主など
2日本@名無史さん:2014/09/27(土) 21:49:46.75
幕末では傍系の大名が活躍していて、四賢侯のうち山内容堂は藩主豊策の孫、
伊達宗城は藩主村候の曾孫から継いでるよね
3日本@名無史さん:2014/09/27(土) 23:09:15.41
皇室における傍系継承の例
(但し南北朝など二系統並立の場合を除く)
・清寧天皇→顕宗天皇(6親等)  5世紀頃?
・武烈天皇→継体天皇(10親等) 6世紀頃? 
・称徳天皇→光仁天皇(8親等)  8世紀頃
・称光天皇→後花園天皇(8親等) 15世紀頃
・後桃園天皇→光格天皇(7親等) 18世紀頃
4日本@名無史さん:2014/09/27(土) 23:46:44.60
>>3
こうして長い皇室の歴史を観ると継体天皇は特異な存在ではなく他にも沢山傍系継承の天皇はいるんですね
光格天皇以降は今上天皇まで直系ですか?
5日本@名無史さん:2014/09/27(土) 23:56:06.31
孝謙天皇→淳仁天皇も6親等だな
あと父親が天皇だけれども四条→後嵯峨も6親等
6日本@名無史さん:2014/09/28(日) 01:11:40.01
黒田長貞が傍流過ぎて好き。その孫の上杉鷹山も傍流過ぎて好き。

黒田長興ー黒田一貫室ー鶴子(野村祐春室)ー黒田長貞

上杉定勝ー富子(吉良義央室)ー上杉綱憲ー豊姫(黒田長貞室)ー春姫(秋月種美室)ー上杉鷹山
7日本@名無史さん:2014/09/28(日) 20:32:40.79
九条頼経が義朝の血を引いてることが驚きだった
8日本@名無史さん:2014/09/30(火) 23:10:28.42
その辺の時代でいうと、南北朝の天皇が共に平清盛の血を引いてるのが好き。
平清盛ー四条隆房室ー四条隆衡ー四条貞子(西園寺実氏室)ー西園寺姞子ー後深草天皇
平清盛ー四条隆房室ー四条隆衡ー四条貞子(西園寺実氏室)ー西園寺姞子ー亀山天皇
9日本@名無史さん:2014/09/30(火) 23:36:22.71
>>1

確かに慶喜の場合、途中でかなり奇跡が入っている感じはする。
徳川家康ー徳川頼房ー松平頼重ー松平頼侯ー松平頼豊ー徳川宗堯ー徳川宗翰ー徳川治保ー徳川治紀ー徳川斉昭ー徳川慶喜
・頼房:11男で(秀康・秀忠・忠輝・義直・頼宣と)成人してある程度の年まで生きてた兄も多かった。(28万石)
・頼重:長男だったが家督を継いだのが光圀で分家(高松藩主)に甘んじる。(12万石)
・頼侯:4男で庶子なので、「高松藩士」の立場。(5000石)
・松平頼豊:頼侯の死去後「高松藩士」として跡を嗣ぐ。その後、高松藩主の後を嗣ぐ。(12万石)
・徳川宗堯:高松藩主の長男から水戸藩の跡取りとなり、「水戸藩主」に。(35万石)
・徳川宗翰:2男であったものの、正室腹のため跡取りに。「水戸藩主」(35万石)
・徳川治保:側室腹だが、正室に子無し。長男。「水戸藩主」(35万石)
・徳川治紀:正室腹の長男。「水戸藩主」(35万石)
・徳川斉昭:3男。跡を継いだ長男に子が無く跡を嗣ぐ。「水戸藩主」(35万石)
・徳川慶喜:7男。正室の2番目の男子。一橋家の養子になる。「一橋家当主」を経て、「将軍家」(天下人)

 頼侯は自分の子が藩主の養子になる前に死んでいるが、よもや自分の男系が将軍家を嗣ぐとは思ってなかっただろう。
10日本@名無史さん:2014/10/01(水) 05:24:06.19
>>8
その時代皇室にも義朝の血が混じっとるぞ。
西園寺実氏は
義朝ー坊門姫ー全子ー西園寺実氏で>>8の系図に合流する
11日本@名無史さん:2014/10/02(木) 02:39:15.78
>>7
竹御所が無事に出産してれば父方・母方とも源氏嫡流に近い将軍が続いたのにね。
12日本@名無史さん:2014/10/02(木) 07:42:41.71
>>7 >>10
それゆえ、史料上鎌倉将軍の中で義朝の血を引いていないのは、6代宗尊親王のみ。
13日本@名無史さん:2014/10/02(木) 10:20:17.09
>>1は男系分家からの家督相続の例を出しているのに
だんだん女系で誰の血を引くかという話ばかりになっているな

女系は婿養子を取って実家を継いだ場合を除いて
血を引いてはいても他の家になっているのだから
分家からの家督相続例にはならないのでは?
14日本@名無史さん:2014/10/02(木) 22:05:31.34
島津勝久→島津貴久の継承も結構な遠縁だな
15日本@名無史さん:2014/10/02(木) 22:40:52.44
武家なんか傍系相続だらけだろ。
16日本@名無史さん:2014/10/02(木) 22:42:29.71
家斉系で血統塗り替えられた徳川一門とかも傍系相続扱い?
越前松平春嶽は本家筋から養子に来てるがこれも傍系相続ってあつかいになるの?
17日本@名無史さん:2014/10/03(金) 14:06:26.78
本家から分家、有力家臣に養子に行くなんてのはそれこそ腐るほどあるな。
18日本@名無史さん:2014/10/11(土) 22:09:04.48
江戸時代に限定しても直系相続の藩なんてまれでしょ?
19日本@名無史さん:2014/10/11(土) 23:00:49.35
>>18
将軍家に限定しても 綱吉、家宣、吉宗、家斉、家茂、慶喜、家達、恒孝で半分弱傍系相続だしな
20日本@名無史さん:2014/10/12(日) 00:46:57.80
>>16
家斉が血統塗り替えた厨は、家斉の子供のほとんどが子をなさずに若死にした
ことを知らんらしい
21日本@名無史さん:2014/10/12(日) 13:35:35.82
家斉の男系子孫って以外なほど残ってないよね。
蜂須賀や紀州は戦後まで残ってたけど今も確実に残っているのは「こらえてつかあさい藩」の当主くらいじゃないの?
22日本@名無史さん:2014/10/13(月) 20:14:40.00
傍系相続した主君の方が名前が残ってる気がする。
徳川の押し付け養子みたいに早世を繰り返す例も多いけど
徳川将軍家なんか傍系相続した将軍は家宣以外は、そこそこメジャーになってる。
23日本@名無史さん:2014/10/13(月) 22:46:09.29
いや、在世中に最も人気があった将軍は家宣だったのではと思うのだが。
24日本@名無史さん:2014/10/14(火) 00:02:09.67
慶喜さんと家達さんの微妙な空気が舞う空間で二人な仲を取り持ってあげたい
25日本@名無史さん:2014/10/14(火) 11:09:37.90
傍系相続の場合、周りから軽く見られるかもという劣等感から行動派の君主が多いと思う。
天皇号を復活させた光格天皇が良い例。

もちろん軽く見られて廃位されたり何も出来なかった君主も多いがw
26日本@名無史さん:2014/10/17(金) 19:00:31.24
光格天皇って応仁の乱以降中絶したり簡略化した儀式とか沢山復活させたり幕府に飢饉対策をさせて窮民救ったり名君だったんだよね
最近本読んで知った それまでは江戸時代の天皇はなんの権力もないと思ってた
27日本@名無史さん:2014/10/18(土) 00:38:54.25
諡号に光の字が入ってる天皇は傍系だよね。

光には途切れたものを繋ぐって意味があるけど、現代日本語じゃこの意味で使わないから、あまりピンとこない。
28日本@名無史さん:2014/10/18(土) 08:27:16.45
血筋って今じゃ天皇家以外、意味ないだろ。
29日本@名無史さん:2014/10/18(土) 09:24:12.05
>>26
傍系だったからこそこだわったんじゃと言われてるね。
幕末の混乱時、孝明天皇が攘夷にいちばんこだわったらしい。
当時、天皇の血に近いのは宮家じゃなくて摂家だった。
鷹司政通は東山天皇の四世孫だが、孝明天皇は5世孫だったとか。
30日本@名無史さん:2014/10/18(土) 09:35:57.30
考えてみれば、慶喜ってすごい血筋だね。
徳川はもちろん、霊元天皇四世孫なんだよな。
31日本@名無史さん:2014/10/18(土) 10:40:19.81
女系の血筋なんか関係ない
側室所生の将軍>>>>>宮家女系の御三家
光格天皇だって母親の身分は凄く低かったし
32日本@名無史さん:2014/10/18(土) 18:51:39.69
>>27 称光天皇はむしろ自分の血統が途絶えた方だけど
33日本@名無史さん:2014/10/18(土) 18:57:00.46
>>30 徳川斉朝も藩祖義直と後西天皇の女系子孫かつ、将軍の甥であり娘婿。
34日本@名無史さん:2014/10/18(土) 19:02:02.77
>>15
貴族も皇室からの降下してきた人で繋がってたりするから
それをいっちゃあおしめえよw
35日本@名無史さん:2014/10/18(土) 19:06:14.52
>>31
まさか光格天皇が継ぐとは思わなかったから
嫁は適当だっただろw
36日本@名無史さん:2014/10/18(土) 22:03:56.74
母親の身分は大事ってのは常識だろw
嫡子と庶子がいたら嫡子が家を継ぐわけでw
37日本@名無史さん:2014/10/18(土) 22:24:11.06
>>36
光格天皇は閑院宮家の嫡子ですら無いだろ?
同じように徳川将軍や大名家でも庶子で家督継いだ例なんか腐るほどある。
母親の身分が大事だったのは後ろ盾をあてにした平安時代や戦国時代まで。
38日本@名無史さん:2014/10/19(日) 09:34:53.80
でもやっぱり側室が生んだ長男と正室がうんだ次男だったら、跡継ぎは次男でしょ。

光格天皇は例外中の例外でしょう。
39日本@名無史さん:2014/10/19(日) 11:12:35.92
>>37
ちゃんと>>36の文章読んだ?光格天皇は宗家に男子がいなかったから分家から後継ぎになれただけで、嫡子をさしおいて庶子が家をついだわけじゃないよ
徳川将軍家でも大名家でも嫡子がいれば嫡子が家督を継いでるし嫡子がいないときに庶子が継いでる
正室に男子がいないときは側室の男子も家督継承ができるだけのことで優先されるのは正室の子供
40日本@名無史さん:2014/10/19(日) 14:39:07.65
>>39

>宗家に男子がいなかったから分家から後継ぎになれただけで、嫡子をさしおいて庶子が家をついだわけじゃない

分家の庶子から宗家の跡継ぎになったというのが正しい。
実際閑院宮は母親の身分が高い兄が継いでいる。

>徳川将軍家でも大名家でも嫡子がいれば嫡子が家督を継いでるし嫡子がいないときに庶子が継いでる

徳川家斉には正室との間に早世した男子がいたが彼が生まれた時でも庶長子の家慶が嫡子扱いだった。

庶長子と嫡子のどちらが継ぐかはその次代や家を取り巻く背景による。
嫡子が優先された例も勿論あるが庶兄が家督を継いだ例も腐るほどある。
41日本@名無史さん:2014/10/19(日) 22:39:18.15
光格天皇が跡継ぎになれたのは嫡子庶子という理由ではなく、独身で年齢が内親王の婿として相応しかったから
光格天皇の兄は既婚で婿候補として不適切だったから皇位を継げなかった。

武家で諸長子が相続している例が多いのは無嗣断絶を恐れて男子が産まれたら後継者としてすぐに幕府に
届けたからであって後に正室に子が産まれても諸長子を廃嫡→新嫡子を立てるのが面倒だったというのもある。
42日本@名無史さん:2014/10/20(月) 00:00:01.68
>>40
嫡子庶子両方いる状態では嫡子が家督を継いだ例の方が庶子が家督を継いだ例よりも多いよ
この事実から母親の身分は重視されていたのは明らか
43日本@名無史さん:2014/10/20(月) 00:29:10.00
それで、>>40の言ってる、清水家の敦之助の件が皮肉に感じられるよね。
将軍家なんだから、誰を気にしなくてはならない立場でもないのに。
まあ、外祖父が島津家なんてところを嫌がられた面もあるんだろう。
しかし、家慶、家定の没後まで生きていれば、敦之助が普通に嗣いだだろうけど。
44日本@名無史さん:2014/10/20(月) 00:49:45.03
>>12
 鎌倉関係で皮肉なのは、後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたせいで、仲恭天皇が廃立させられたこと。

 源義朝ー坊門姫ー九条良経室ー九条立子ー仲恭天皇

 仲恭天皇は頼朝の妹の血を引いていて、鎌倉将軍家に近い血縁だった。
45日本@名無史さん:2014/10/20(月) 01:33:42.64
戦国時代まで普通に正室の子が継いでいたのに江戸以降は側室の子が主流になってるよね。
正室はお飾りになったという証左だと思う。
正室の血どころか手っ取り早く養子を迎えてお家存続と男系もさほど重視されなくなっているし。
46日本@名無史さん:2014/10/20(月) 07:46:23.63
>>45
逆。
江戸時代には正室の地位が上がった。
側室は家女房や奥女中などの出が多くなり、正室との格差が広がった。

戦国時代までは側室が跡取りを産むと正室を越えて権力を持つ例があったが
基本的に江戸時代には側室腹であっても正室を実母と公称し正室の子として育てられた。
(正室機能が働いていなかった3代将軍家光の奥などでは側室たちが幅を利かせ
綱吉の生母として権力をふるった桂昌院みたいな例も一部例外はあるが)
47日本@名無史さん:2014/10/20(月) 07:51:32.78
統計とったの?

正室の子供がいない(女子のみ含む)場合はもちろん側室の子供が跡を継ぐわけで。
正室の男子が成人したのにもかかわらず、側室の子が家の跡を継いだ事例ってのはあるの?
48日本@名無史さん:2014/10/20(月) 08:00:42.25
>>47
11代将軍徳川家斉のとき、側室が産んだ家慶が跡取りに定められた。
家慶誕生の3年後、家斉の正室寔子が嫡男である敦之助を産んだ。
しかし、跡取りは側室腹の家慶のままで、敦之助は清水家に養子に出された。
敦之助は夭折したが、他家に養子に出された以上、家慶を越えて将軍になることはありえなかった。

同様に朝廷でも、光格天皇のとき、当初は中宮欣子内親王との皇子が儲君に立てられたが夭折。
その後、光格天皇と側室との間生まれた恵仁親王が欣子内親王の養子として儲君に立てられた。
恵仁親王誕生の16年後、欣子内親王が再び男子の悦仁親王を出産。
しかし、悦仁親王は儲君に立てられることなく、1年後に恵仁親王が即位し仁孝天皇となっている。
49日本@名無史さん:2014/10/20(月) 15:48:46.21
初期の津軽の例も有名だな。
石田三成の側室の子が津軽藩を継ぎ、家康養女の正室満天姫のは分家して黒石藩を立藩。
マイナーな大名まで広げたらもっと沢山出てくると思う。

そもそも正室の子と側室腹の兄が並立した例が少ないけどね。
50日本@名無史さん:2014/10/20(月) 16:13:57.47
少数の例外をもって全体の傾向を見誤っちゃいかん
正室の子と側室の子がいれば正室の子が家督を継ぐのが多数なんだから
51日本@名無史さん:2014/10/20(月) 16:22:49.65
お由羅騒動ってのもあったな
これは正室腹で嫡子認定を受けていた斉彬が廃嫡されて側室弟の久光に家督を譲ろうとした
嫡庶の別も長幼の序も何もあったもんじゃない事件。

>>50
幕藩体制が定まった江戸中期以降、庶出の兄が嫡流の弟に先を越された事例も多くないよ。
それを言ったら正室が産んだ弟の相続例も少数の例外となってしまうがw
52日本@名無史さん:2014/10/20(月) 20:07:01.58
まずは正室をもらい、その後側室という流れなんだから、相対的に正室が
長男を産む確率が上がる。ただし、正妻は江戸に人質だから、将軍家と
似たような白粉で早世の比率があがるかも。
白粉がなけりゃ、ヨーロッパや明治以降のような豪華な姻族が出来てたろうに。
53日本@名無史さん:2014/10/21(火) 09:00:54.83
正室は家と家の繋がりだが、あえてややこしそうな、庶出の長男次男がいるような
ところへ嫁にやりたい親はいない。次期当主が他人になるなら嫁にやる意味は無い。
54日本@名無史さん:2014/10/21(火) 10:29:12.38
江戸時代には生まれの庶嫡に関わらず跡取りが一度決まり
幕府に了承されれば覆されることはほぼないから
(跡取り本人が早世すれば別だけど)
その心配はないと思うよ
55日本@名無史さん:2014/10/21(火) 15:38:13.25
>>54
庶子を嫡子に認定した後に正室に子が出来たらどうするの?
廃嫡して正室の子を嫡男にする?それとも側室の子のまま?
56日本@名無史さん:2014/10/21(火) 17:29:32.15
57日本@名無史さん:2014/10/22(水) 11:53:41.83
嫡子認定なんか当主が死ぬ時に決めたら良いだけなのに
幕府が絶対的な権力を持ち無嗣改易が跋扈するようになって本来嗣ぐべき正室の子が継げなくなった感じなのかな?

でも他家から養子に入った上杉鷹山だって自分の子に継がせず、順養子で先代の子にきちんと家督譲ってるよね。
これえも傍系相続の名君だよね。
58日本@名無史さん:2014/10/22(水) 19:51:57.69
>>55
庶子を嫡子にした時点で正室の子供にするだろ。(将軍様にお目見えするから確定)
だからその後に生まれた正室の子は正室の次男ってことになって
嫡子の養子にするとか。
59日本@名無史さん:2014/10/23(木) 12:50:15.04
実母が権勢握ったと聞くけど子無し御台所が権勢握ったってあまり聞かないよね
名義だけ正室の子にしても正室は単なるお飾り?
60日本@名無史さん:2014/10/23(木) 13:46:21.23
>>59
御台所は一応大奥のトップだよ
子供のない御台所は次代将軍の治世に将軍母として権勢握れなかったってこと?

徳川将軍家は特殊なんだよ
江戸時代には天皇家・公家・大名家などはすべて跡取り決定に幕府の裁定が必要で
すべて当主と正室の子として届けるから側室の子でも正室と養子縁組して正室が育てることが
嫡子認定される条件だった
しかし徳川将軍家では幕府裁定が必要なかったため(裁定を与える側であるため)
将軍が前御台所と養子縁組をしていないケースが多かった
結果、前将軍が死ぬと御台所は二の丸などに移って養子関係のない次将軍とは疎遠になり、
一方で将軍実母は本丸大奥に残って我が子将軍の治世に大奥を牛耳るということが起こった

それでも7代将軍徳川家継の没後、紀州から吉宗を迎えるのに発言力を有した
6代将軍徳川家宣の正室近衛煕子の例もある
幕末の大奥を支配した13代家定正室篤姫の場合は、徳川家継と養子縁組をしていたために
家定死後も本丸大奥に残ったケース
6160:2014/10/23(木) 14:52:53.38
訂正
徳川家継と養子縁組→将軍徳川家茂と養子縁組
62日本@名無史さん:2014/10/25(土) 20:28:11.72
家慶の正室は子は夭折したけど発言力があったみたいだね。
早死してしまったからあれだけど、70まで長生きしてたら、慶喜の将軍が
もっと早くて、いろいろ違ったかも。
彼女が産んだ子が成人して将軍になってたら、幕末のゴタゴタが少なかったかも
と思ったり。
63日本@名無史さん:2014/10/25(土) 20:33:08.91
>>62
将軍家じゃないけど、有栖川宮家が続いていれば、傍系とはいえ
宮家復帰の候補だったのにね。
64日本@名無史さん:2014/11/06(木) 22:15:31.85
>>57 上杉鷹山は顕孝に帝王学を施してるし実際世子になってるわけだから、後継者にする気満々だったじゃん
65日本@名無史さん:2014/12/23(火) 17:19:43.81
近衛煕子は別格じゃなかろうか。
母は内親王、父は近衛尚嗣で天皇の孫
家慶の正室も霊元天皇のひ孫だな。徳川斉昭の正室の姉妹だ。

こう見ると、天皇家の娘というか宮家の娘は結構しっかりものが多いのか。
66日本@名無史さん:2014/12/27(土) 10:35:54.05
本来宗家を継ぐはずじゃなかった傍系相続の場合帝王学ってどうしてたんだろう
67日本@名無史さん:2015/02/06(金) 19:11:43.78
>>66
俄勉強だろうさ。
現代の会社でもあるよ。大スキャンダルで役員候補が総崩れして、冷飯食いだった人が急遽抜擢されるような事態は。
68日本@名無史さん:2015/02/07(土) 00:34:01.63
陽成院「あれ?あいつ(宇多帝)俺の召し使いじゃなかった?!」
69日本@名無史さん:2015/02/09(月) 21:58:14.49
>>68 これほんと?
70日本@名無史さん:2015/02/09(月) 23:05:05.52
大鏡の時期にそういう逸話が伝えられていたことは事実でしょうね。
実際にあったことかどうかはともかくとして。
71日本@名無史さん:2015/02/22(日) 20:00:34.76
後嵯峨天皇「まさか皇位につけるとは思わなかった」
72日本@名無史さん:2015/02/23(月) 04:12:41.37
継体天皇「まさか皇位につけるとは思わなかった」
孝徳天皇「まさか皇位につけるとは思わなかった」
淳仁天皇「まさか皇位につけるとは思わなかった」
光仁天皇「まさか皇位につけるとは思わなかった」
光孝天皇「まさか皇位につけるとは思わなかった」
後堀河天皇「まさか皇位につけるとは思わなかった」
後嵯峨天皇「まさか皇位につけるとは思わなかった」
後花園天皇「まさか皇位につけるとは思わなかった」
光孝天皇「まさか皇位につけるとは思わなかった」
東武皇帝「ま…」
新皇「おまえは黙ってろ」
73日本@名無史さん:2015/02/23(月) 07:15:21.08
>>72
光格天皇な
74日本@名無史さん
ワロタw