【初心者】スレッド立てる前に質問をPart33【歓迎】

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1日本@名無史さん
分からないことがあるときは、スレッドを立てて聞く前にこのスレで質問してください。
専門的な質問については、各分野の専門スレで聞くほうが、より詳しい説明を得られるかも知れません。
回答に時間がかかったり、回答が得られなかったりしても、怒らないでください。
質問が続くようでしたら、名前やトリップを付けることをお奨めします。
また質問する前に一度自分でも調べてみましょう。
人名・用語について調べたいときは、ここで聞くよりも検索したほうが速くて確実かと思われます。

※まずは下記でチェックしてください。
日本史・世界史FAQ
http://www.geocities.jp/magurogyosenn2000/index.html

<お願い>
・常時age進行でお願いします。
・回答に時間がかかることもあります。ご了承ください。
・既に専門スレがあったり、板違いの質問があったりする場合は、速やかに誘導してください。
・過度な論争は自粛してください。
・煽り質問はスルー。
前スレ
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart32【歓迎】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1392555205/
2日本@名無史さん:2014/06/19(木) 09:50:02.19
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3日本@名無史さん:2014/06/19(木) 23:11:33.89
前レスの終盤で秀吉や秀次、秀頼の件を聞いたものですが、レスありがとうございました
以前何かの本で、子宝に恵まれなかった秀吉は姉の子(秀次)を養子に迎え、目に入れても
痛くないほどの可愛がりようだったと読んだことがあります。
これは歴史的な史実でしょうか?
もし史実であるなら、秀頼誕生後の展開があまりにも悲劇過ぎるなあと思います。

今のところ、秀次謀反は冤罪であり、秀吉が我が子秀頼を後継者にしたい一存で
秀次に謀反の罪を着せたという説が主流ですが、この辺に詳しい方、ご意見、ご見解を
お聞かせください。
43:2014/06/19(木) 23:17:57.09
個人的な見解として、秀吉は秀頼誕生前、割と早く秀次に関白職を譲っているので、
秀次に対して愛情を注いでいた、信頼していた、という気はします
5日本@名無史さん:2014/06/20(金) 08:54:55.32
以下は秀吉の実子・養子の一覧。秀次は数少ない肉親の一人だから子供の頃から可愛がってはいただろうけど、養子に迎えた時はもう「目に入れる」ような年じゃないでしょ。その話は秀勝 (最初の養子) のことじゃないかなぁ。

羽柴石松丸 (1570-1576) 非実在説もある。
羽柴秀勝 (1568-1585) 信長の息子。1579年に養子となる。
豊臣秀勝 (1569-1592) 秀次の弟。1586年に養子となる。
豊臣鶴松 (1589-1591)
豊臣秀次 (1568-1595) 1591年に養子となる。
豊臣秀頼 (1593-1615)

殺生関白云々は捏造だろうし、秀頼が生まれてから秀次が疎まれていたのも事実なので秀吉自身が冤罪を着せた可能性は高いけど、ひょっとしたら他の誰かにはめられたのかも知れない。
6日本@名無史さん:2014/06/20(金) 10:26:22.56
秀吉の甥は3人いて弟が秀次よりも先に秀吉の養子になっている
秀次は三好家の養子に出されたりして割と苦労したほうじゃないかなあ

秀吉が秀次に関白を譲ったのは豊臣家による関白世襲を肯定させるためでしょ
実際には隠居した秀吉が太閤と呼ばれて政治実権握り続けてた
7日本@名無史さん:2014/06/20(金) 18:44:01.20
赤の他人の秀家には優しかったのに
実の甥に超厳しい秀吉
8日本@名無史さん:2014/06/20(金) 18:48:51.91
秀家じゃあ、秀頼の地位を脅かすはずもないからなあ
秀吉は関白まで譲った秀次以外の養子には基本優しいと思うよ
9日本@名無史さん:2014/06/20(金) 19:41:04.02
みんな感じ入るところがあるのはわかるけど
歴史を「目に入れても痛くないほどの可愛がりようだった」とか
優しい・非情とかで語ってもしゃーないじゃん?
10日本@名無史さん:2014/06/21(土) 01:27:57.54
じゃなくて、伝えられるところ、そういう事実があったようだがどうなのだろう?という話でしょ。
11日本@名無史さん:2014/06/21(土) 13:51:20.21
秀吉が秀次に出した書状で、
この日頃、秀吉の甥子であることをやたらと鼻にかけ、
人にもけしからぬ態度を示してきた。
しかし今後は誰からも秀吉の甥と崇められるような覚悟をもって行動しなさい。
お前のような心がけの者はいっそ、この世に亡き者にしてやろうと、
一度は決心したけれど、 まあまあと思いこの手紙を書いたのだ。
これから心がけを改め他人にも一人前の人間と呼ばれるようになったならばもっと引き立ててやろう。
しかし、こんどの合戦に、木下助左衛門(木下祐久)と同勘解由をつけてやったところが、 両人とも殺してしまった。
それをとりわけ申し訳ないと思うべき筈であるのに、
それどころか、さらにその代わりに津田監物を欲しいなどと一柳市介を通じて頼んできたとはもってのほかである。
秀吉の預けた者を両人ながら討死させておいて代わりの家来を要求するとは、
それを頼んだお前はもちろん、それを取り次いだ奴も大たわけ者だ。
そこで市介めを手討にしようかと思ったが今のところ我慢してやっているのだ。
今後ともよく分別し諸事に嗜み深く秀吉の甥の切れ端かと人に呼ばれさえすればそれで満足だ。
お前の覚悟さえ直ればどの国なりと遣わそうと思うが今のような馬鹿者ではたとえ命を助けたとて仕方が無い。
秀吉の面目にかかわることだから手討にするぞ。
秀吉は元来、人を斬ることは嫌いだがお前をこのままで他国へ出したのでは恥の上塗りである。
同じ殺すなら人手にはかけない。

などと書いていて小牧長久手の戦いは秀吉のミスではなく、
明らかに秀次のミスであることがわかるんだよwww
しかも秀次はそうとうに性格も覚悟も悪いダメ人間なのがわかる。
12日本@名無史さん:2014/06/21(土) 13:52:20.92
天正12年4/11
秀吉→養徳院(信長乳母で池田恒興の母)
孫七郎(秀次)参らせ候 そこ元下々騒ぎ候わんと存じ、御城(大垣城)の留守居に遣わし参らせ候
孫七郎めも、命助かり候も、せめて三左衛兄弟(輝政・長吉兄弟)の為に(首に)縄かかりにて候と、御うれしく思い参らせ候

などと秀吉は書いていて秀次を大垣に派遣した目的を
池田家中が怒って騒いでいる元凶である秀次の失策で恒興親子を死なせた償いとして、
秀次を罪人同様に縄目の恥をかかせたのでうれしく思ってくださいと書いている。
ちなみに岡山大学付属図書館では秀次への縄かかりを兄弟への罪滅ぼしとしてさせることと訳している。
東京史料編纂所の所属だった染谷氏の訳は「兄弟からその失態によって縄で縛られることでしょう」と訳している。
この書状からも秀吉の作戦の失敗というよりも秀次の判断ミスであるのは明白。
13日本@名無史さん:2014/06/21(土) 20:57:55.29
>>11
まあ、秀吉と比べたら何桁違いで落ちるのは仕方ねゃー
14日本@名無史さん:2014/06/21(土) 21:05:31.56
つーか最盛期の秀吉って日本史上でも1位争いができるくらい凄い印象が
15日本@名無史さん:2014/06/21(土) 21:21:59.74
ここは質問スレなんだが…
そもそも、小牧長久手の経緯は別だろ、一緒くたにして何を演説したいのやら┐( -"-)┌ヤレヤレ...
16日本@名無史さん:2014/06/21(土) 21:22:47.36
小牧長久手の経緯は別

小牧と長久手の経緯は別
17日本@名無史さん:2014/06/22(日) 01:24:48.34
>>11
ボロクソ言いながら結局許してんじゃねーか
18日本@名無史さん:2014/06/22(日) 06:01:19.67
物部氏、蘇我氏の氏とハプスブルク家、ホーエンシュタウフェン家、ブルボン家の家は同じものと解釈して正しいですか?

違う場合はどう違うのですか?
19日本@名無史さん:2014/06/22(日) 08:00:46.06
>>18
氏は氏族のこと。ハプスブルグ家とかの家は、日本語で言えば「宗家」と見るべきだろ。
まあどちらにせよ使い方やそれを書く人間の考えで全部違ってくる。文脈から読み取れ。
20日本@名無史さん:2014/06/22(日) 09:18:30.32
どこかで聞き齧っただけの知識なので、事実誤認があるかも知れませんが
質問させてください
戦後に臣籍降下した旧伏見宮系の宮家は幕末の頃の親王がたくさんの
男子をもうけ、その男子が次々と新しい宮家を創設した為と聞きましたが、
本当でしょうか?
本当だとすれば、なぜその時だけはたくさんの世襲宮家創設が
認められたのでしょうか?
21日本@名無史さん:2014/06/22(日) 10:29:58.30
幕藩体制から廃藩置県を経て現在に至るわけだけど、幕末や明治初年の頃に
「県」とか「道」とか「府」という概念や定義はあったのですか?
県は人口規模はこれくらいで面積範囲はこれくらい、とか
それとも廃藩置県に際して新しく考え出されたのでしょうか?
22日本@名無史さん:2014/06/22(日) 12:57:42.48
>>21
それら地方行政区分を表す言葉は古代中国の頃からあったけど、中国では「郡」(現在は「省」) より「県」の方が小さい。
「道」は複数の「国」をまとめた区分であり、それらの「国」を結ぶ幹線道路を意味する場合もある。「府」は元々「蔵」の意味で、そこから「政庁」「政庁が置かれた都市」「都」へと変わって行った。
幕末以前の日本では県は使わず、奈良・京都周辺を「畿内」と呼び、それ以外の本州・四国・九州を7つの「道」に分けていたけど、行政区分として機能したことはほとんどなく単なる地方名。「府」は行政区分ではなく政庁の意味で使われていた。つまり「幕府」の「府」。
23日本@名無史さん:2014/06/22(日) 17:52:13.13
>>21
>県は人口規模はこれくらいで面積範囲はこれくらい、とか
最初はそれ以前の藩がそのまま県に呼び変えられた。その後統廃合してだんだんに今の形になって行くけど、
その過程ではいろんな事情でそれ以前の境界線を引き直したりもしたらしいよ。詳しい話は忘れたけど兵庫県とか。
24日本@名無史さん:2014/06/22(日) 18:27:20.58
尺八(楽器じゃない方)ってどのくらい広まってたの?
25日本@名無史さん:2014/06/22(日) 18:34:27.47
>>19
回答ありがとうございました。よくわかりました。
26日本@名無史さん:2014/06/22(日) 18:57:10.15
国鉄民営化でできたJR、郵政民営化でできた日本郵便。
しかし、JRは国鉄以下の糞、日本郵便も郵便局と変わらない糞。
中曽根も小泉も死んでほしいですがなんでこんな無駄な民営化なんてしたんですか?
民営化がうまくいかなかった理由は何ですか?どうすればうまく行ったのでしょうか?
2007年と言うと小学5年生だったのでよくわかりません。
27日本@名無史さん:2014/06/22(日) 20:23:18.22
470 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2014/06/22(日) 18:57:58.52 0
国鉄民営化でできたJR、郵政民営化でできた日本郵便。しかし、JRは国鉄以下の糞、日本郵便も郵便局と変わらない糞。
中曽根も小泉も死んでほしいですがなんでこんな無駄な民営化なんてしたんですか?民営化がうまくいかなかった理由は何ですか?どうすればうまく行ったのでしょうか?
さらに、世界史的に見て民営化の例を教えてください。2007年と言うと小学5年生だったのでよくわかりません。

471 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 19:16:44.36 0
お前は国鉄がどれだけクソだったか知らんようだなw

474 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 19:28:41.26 0
国鉄は破綻していたから改革しただからJRは成功しか無い

郵政は上手く行ってたけど僻まれ外圧で改革したよって失敗する可能性が高い
農協改革も同じで外国資本が入りやすくなるように金融界を変えている
短期では成功する可能性は有るが長い目で見ると日本は外国資本の植民地になる

475 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 19:30:44.39 0
>>470
日本の国鉄分割民営化ほど大成功した民営化はないと海外からも高く評価されている。

湘南新宿ライン、三都物語、エキナカ、アーバンネットワーク、SuicaなどのICカード、ぷらっとこだま、ななつ星in九州、シュプール号、ジョイフルトレイン、お座敷列車、
JR神戸線などの路線愛称、SL銀河、サイクルトレイン、ウェディングトレイン、特急日光、特急はまかいじ、駅型保育所、トクトクきっぷなどは民営化されたからこそ生まれたものです。
28日本@名無史さん:2014/06/22(日) 21:20:28.42
>>20もぜひよろしくお願いします
29日本@名無史さん:2014/06/22(日) 23:17:48.56
何でちんこは放送できるのにまんこは放送できないの?
30日本@名無史さん:2014/06/23(月) 00:18:56.39
>>28
本当。
朝廷浮揚の時期であるというのは大きい。

それと臣籍降下する場合、それなりに受け皿が必要なわけで
江戸時代は賜姓皇族というのは少なく、基本的に門跡寺院に入ることが多かったが
それこそ枠が決まってるので、皇籍を離脱するより宮家を創設する方が手っ取り早かったというのもある。
31日本@名無史さん:2014/06/24(火) 08:26:20.85
江戸時代の吉原と歌舞伎役者について質問させてください。

江戸時代には、役者は吉原に登楼できなかったとよく言われ
その理由として、役者は士農工商の身分から外れたいわゆる河原者だったからということが挙げられています。
しかし、1708年の勝扇事件によって歌舞伎役者は穢多頭・矢野弾左衛門の支配から外れ
良民としての地位を得ているようなのですが、その後も役者は吉原に登楼できなかったのでしょうか。

また、たとえば大奥と歌舞伎役者のあいだで起きた1714年の江島生島事件のように
吉原と芝居町のつながりを示唆するような事件や出来事などがもしあれば教えてください。
32日本@名無史さん:2014/06/26(木) 01:54:55.29
鉄道運賃などで銭や文が一番最後に使われていたのはどこ?
33日本@名無史さん:2014/06/26(木) 13:56:37.18
>>20>>28
明治時代には皇族男子は軍人として大日本帝国軍を率いることを期待された
そのために僧籍に置いておくよりも還俗させて軍人となることを要求された
僧侶から還俗した伏見系皇族男子は軍人となっている

あとは明治時代半ばになるが明治天皇の内親王の婿として分家を認められた伏見系宮家も多い
明治天皇の成人した男子は大正天皇ただ一人だけであったために
女系相続を想定していたと考えられている
34日本@名無史さん:2014/06/26(木) 14:02:11.36
29
ま○こなんてこっちじゃ言わないけどな
べ○ちょと言う
35日本@名無史さん:2014/06/26(木) 14:04:04.06
この辺は流行らしたのは本○ひろ志だわ
36日本@名無史さん:2014/06/26(木) 14:10:46.65
それからはまるでそれが昔からずっと言ってきてたような風潮になってるからな
37日本@名無史さん:2014/06/26(木) 15:20:25.29
鎌倉幕府以前で、武家が公家のシビリアンコントロールに収まりきらなくなるのって
いつ頃ですか?
38日本@名無史さん:2014/06/26(木) 16:35:01.96
>>37
鎌倉政権は武家政権であって、公家のシビリアンコントロールなんて最初からないも同然
基本的に鎌倉政権と京都の朝廷は互いに利用し合っていただけ
しいていうなら、1185年に北条時政が京都を制圧して、守護、地頭を置く権限を認めさせたのが
一つの転機かな
そして決定的に鎌倉が上位に立つのは、1221年の承久の乱
39日本@名無史さん:2014/06/26(木) 18:45:07.63
>>37
シビリアンコントロールなんていう発想はそもそも無い。
40日本@名無史さん:2014/06/26(木) 18:56:06.05
そもそも源氏平氏も公家の一派だ
41日本@名無史さん:2014/06/26(木) 19:43:52.52
八幡太郎義家は後三年の役を私戦とされたので
朝廷からの恩賞はなかったな
42日本@名無史さん:2014/06/26(木) 23:36:46.14
>>38
頼朝じゃなくて時政なの?
まだ頼朝は生きていたのに
43日本@名無史さん:2014/06/27(金) 00:06:51.44
>>42
もちろん、北条時政にそうするよう命令を出して京都に派遣したのは鎌倉にいた頼朝だよ
44日本@名無史さん:2014/06/27(金) 08:53:10.19
江戸時代の大名の役職、○○守ってあれなに?
住んでる場所と関係ないし
どうやって誰が決めたの?
45日本@名無史さん:2014/06/27(金) 16:32:04.74
いわゆる武家官位。元々は朝廷が任命する官職名だったけど、戦国時代くらいには自分たちで勝手に名乗るようになり、江戸時代には幕府から与えられた (本人の希望はある程度考慮されるけど、家柄によってどのランクの名前を使えるかは決まっていた)。
46日本@名無史さん:2014/06/27(金) 20:59:23.43
ありがとう!

○○守の○○の部分は地名が入ってる印象なんだけど
その地名によってランクが設定されていたって事ですか?

例えば××長門守って人がいたとして、それが薩摩に住んでいる大名だとしたら
やっぱり自分の領地を冠したいとか思わなかったのかな

当然、一地名につき一人だけですよね?(長門守は何人もいないですよね)
47日本@名無史さん:2014/06/27(金) 22:24:37.82
>>46
薩摩・長門レベル(島津家・毛利家嫡流)だと、さすがに地元の○○守をもらってます。
けれども薩摩の身内の小藩(宮崎南部)にあった佐土原藩主は、飛騨守とか淡路守をもらってます。
長州の津和野藩主も、豊前守とか隠岐守が多いです(古代朝廷の役職として津和野守ってないし)
48日本@名無史さん:2014/06/27(金) 22:25:24.22
地名というか国名だ。守(かみ)というのは古代に国ごとに置かれた国司の内の長官の事。
ちなみに介(すけ)は次官。織田信長は上総介(かずさのすけ)を名乗った。江戸時代じゃないけどな。
ちなみに上総は千葉県中部に当たる。信長は尾張だから何の関係も無いけどカッコいいと思ってそうした。

それと武家官位というのは○○守みたいのだけじゃない。御三家は大納言とか中納言だし、
他にも中将とか侍従とか。遠山の金さんは左衛門少尉だ。
49日本@名無史さん:2014/06/27(金) 22:36:01.92
○○に入るのは旧国名で、そのランクは平安時代に決められた。
http://earlgreyimperial.bufsiz.jp/edo_q/kuni_meishou.gif
名前がダブってもいいんだけど、
* 一国全体を領地にしているような大大名以外は、自分の領地のある国名を使ってはいけない。
* 同姓同名の人がいてはいけない。
* 老中になった人と同じ名前を使ってはいけない。
等の決まりがあった。また国名以外の官職を名乗る場合もあって、浅野「内匠頭」なんかがそれ。
50日本@名無史さん:2014/06/27(金) 23:04:44.93
>>48-49
上総守や上野守じゃなくて介なのは、それらの国が親王国だったからなんだな。
51日本@名無史さん:2014/06/27(金) 23:06:48.28
>信長は尾張だから何の関係も無いけどカッコいいと思ってそうした。
駿河今川氏の当主の官職は歴代「上総介」
52日本@名無史さん:2014/06/27(金) 23:45:10.16
羽柴秀吉が筑前守、明智光秀が日向守で、偶然か故意かはわからないが、
ライバル同士がともに九州の国だな
53日本@名無史さん:2014/06/28(土) 00:10:21.82
信長が九州までも支配下に置くという宣言とも言われる。
54日本@名無史さん:2014/06/28(土) 00:36:46.88
質問。なんか江戸時代に臨死体験?した少年を取材した本とかあったとおもうんですけど
誰が取材したんでしたっけ?新井白石だったような気がするんですけど
調べても出てこない。
55日本@名無史さん:2014/06/28(土) 06:37:22.20
天狗小僧、寅吉は?
56日本@名無史さん:2014/06/28(土) 12:46:19.80
>>47-53
ありがとう!!

非常に興味深かった。
良い知識が得られたよ。
57日本@名無史さん:2014/06/28(土) 13:02:53.54
安政の大獄とか当時はそう呼ばれてなくて、後世に名付けられたと思うのですが、
現在普通に呼んでる政策や世相を反映した言葉なんかで、後世今とまったく違う
呼び方をされるということも有り得るわけですよね
阪神大震災と東日本大震災がそれぞれ後世では「平成前期大地震」「平成後期大地震」
みたいに
58日本@名無史さん:2014/06/28(土) 15:23:13.99
>>57
歴史上の用語で呼称が変わったものといえば、1914年〜1918年の戦争があるね
我々は当たり前のようにそれを「第一次世界大戦」と呼んでいるが、その当時はそうは呼ばれていなかった
後に、第二次世界大戦があったから、「第一次」世界大戦という言い方になったわけで、当時は「欧州大戦」とか
「世界大戦」と呼ばれていた
59日本@名無史さん:2014/06/28(土) 21:22:35.59
>>58
もっと分かりやすい例として、当時は「大東亜戦争」と呼んでたのに、
戦後のある時から「太平洋戦争」になったことがあるね
60日本@名無史さん:2014/06/28(土) 22:28:17.93
バブル景気なる用語が出たのもバブル末期だった覚えがある。
政府高官がどんな景気名にするかのくだらない論争をやってて
高天原景気とかいろいろ出されてたな
61日本@名無史さん:2014/06/28(土) 22:55:31.38
南海バブルとかチューリップバブルっていうのが経済史用語にはあってだな・・・
62日本@名無史さん:2014/06/29(日) 09:03:48.28
>>57
細かい話だけど、阪神大震災も発生当初は「兵庫県南部、淡路大地震」みたいな
呼び方をしていた
阪神大震災って呼ばれ始めたのは少し経ってからだったと思う

しかし、今となってはもう定着しすぎていて、今更新しい呼び方になるかもって
言われても実感がわかないね
63日本@名無史さん:2014/06/29(日) 10:12:33.89
地震そのものが兵庫県南部地震で災害の総称が阪神淡路大震災だな
64日本@名無史さん:2014/06/29(日) 10:12:37.10
ちょっと探している本があるのですが、アドバイスお願いします

・東北地方
・九州地方
・北陸地方
・中国地方
(北陸と中国については、環日本海としてのククリでもおk)

上記地方の、最近の通史ってある?(出来れば中世〜近世史重視)

北海道・北方史については、アイヌ・北東アジア・北太平洋分割などの絡みで、
かなり多くの著作物を見るけど、それ以外の地方史って、あまり見かけないので
都道府県史はあるけど、それよりも広い地方の通史が読みたい・・・・


(時代が限定されるけど吉川の『動乱の東国』が面白かった)

心当たりあったら、お願いします
65日本@名無史さん:2014/06/29(日) 20:32:46.37
七つの海を楽しんでみたい←みたいなセリフを言った武将はいませんでしたか?ぱっと思い出したんですけど検索してもヒットしません。
66日本@名無史さん:2014/06/29(日) 20:53:36.21
そういう臭いセリフはテレビドラマとかにしか存在しないと思うけど、
要するに海外と通交、通商しようとしたくらいの意味なら、使節を
派遣した伊達とかが典型例じゃないかね。
67日本@名無史さん:2014/06/29(日) 21:05:28.37
「七つの海」という言い方自体が、西洋の言い回しなので、幕末・明治時代以前の日本の武将が
言ったというのはちょっと違和感がありますね
幕末の坂本龍馬あたりなら言いそうですけど
まあ、戦国時代や江戸初期にスペイン・ポルトガル・オランダあたりからその言い回しが入ってきた
可能性もないとは言えませんが
68日本@名無史さん:2014/06/29(日) 23:30:35.60
平安時代の貴族ってどのくらい貯金があったのかわかる?
69日本@名無史さん:2014/06/30(月) 00:35:29.40
いや、七つの海はぱっと浮かんだんでなんかそんな感じの言葉です。
70日本@名無史さん:2014/06/30(月) 08:14:42.29
秀吉の朝鮮征伐に関連して、「唐・天竺まで」って話じゃね。
唐(から)は中国で天竺はインドの事だけど。
71日本@名無史さん:2014/06/30(月) 14:42:03.77
銭や厘は戦後のインフレや新円切り替えで実質的に廃止でいいの?
戦時中はまだ使われてた?
72日本@名無史さん:2014/06/30(月) 16:31:28.88
昭和28年7月に制定された小額通貨整理法により、同年12月末日で1円未満の補助貨幣及び紙幣の使用は停止され、翌年6月末日までに円と交換された (端数は50銭を境に四捨五入)。
例えばハガキ代は昭和12年まで1銭5厘 (召集令状の代名詞にもなった)、昭和20年に5銭、昭和26年に5円。
73日本@名無史さん:2014/06/30(月) 18:03:58.55
日本人のヨーロッパの知識って昔はどんな物だったんですかね?

モンゴルがローマせめてそのモンゴルが日本にも着たわけだから
中国の向こう側にローマがあるって事は北条時宗とかは知ってたんですかね?
74日本@名無史さん:2014/07/01(火) 07:12:53.24
蘇我入鹿の生きてた頃、イルカはやっぱりイルカって呼ばれていたのか?
んで、蘇我入鹿の”イルカ”ってイルカの意味なの?
それともイルカ以外にもなんらかのイルカがあって、そこから因んだ名前なの?
75日本@名無史さん:2014/07/01(火) 08:17:28.05
どうしてイルカだけが気になるんだろう?
76日本@名無史さん:2014/07/01(火) 08:54:19.88
蘇我入鹿のミュージックハーモニー
77日本@名無史さん:2014/07/01(火) 12:31:59.60
蘇我一族の名前は、本当にそういう名だったかどうか怪しいけどな
蘇我韓子、蘇我高麗(蘇我馬背)、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿と、
異民族を連想させる名や動物の漢字を使われた名が妙に多い
大化の改新以後に記録を改竄されて、悪い名前をつけられた可能性もある
そんなバカなことがあったわけがない思うかもしれないが
称徳天皇が、自分の意に沿わない報告をした和気清麻呂に対して「おまえなんか
清くない、清麻呂ではなく穢麻呂(きたなまろ)じゃ」と改名させた実例がある
天皇家をないがしろにしてきた蘇我氏も、異民族や動物におとしめられた名をつけられても
不思議はない
78日本@名無史さん:2014/07/01(火) 18:41:04.05
でも猿丸大夫とか高橋虫麻呂とか現代人には納得のいかない名前も実際あるからねぇ。
79日本@名無史さん:2014/07/01(火) 19:56:26.57
秀吉の時代に、捨丸やら拾丸やら変な名前を故意につけて
強く丈夫に育つよう願ったものらしい。

大陸にも、もともとそういう伝統的命名があり、「愚」とか「疾」とかいった漢字を使った命名をする。
80日本@名無史さん:2014/07/01(火) 20:41:09.39
大陸からの風習といえば
男なのに幼少の間は女のような名を付けるというのもあるな
81日本@名無史さん:2014/07/01(火) 21:32:06.28
愚といえば韓国の盧泰愚(ノテウ)元大統領もそうだな。
82日本@名無史さん:2014/07/01(火) 23:30:25.59
>>80
ダライラマ14世(テンジン・ギャツオ)の幼名って、女性名であるパンタン・ラモか何かだった。当然、吉祥天女みたいな意味。

だから、それって仏教由来の風習かも
83日本@名無史さん:2014/07/02(水) 00:17:21.63
蘇我一族と千葉市蘇我って関係あるの?
84日本@名無史さん:2014/07/02(水) 00:35:11.50
>>83
あります。大ありです。
ヤマトタケル伝説でタケルの妻が入水自殺した話があり、地元では神として祀られています。
合祀されているのが八幡神であり、八幡神とは羽曳野に陵がある応神天皇。
蘇我氏は応神天皇の忠臣武内宿祢の子孫です。
ヤマトタケルの墓とされる場所も羽曳野にあります。

また羽曳野は蘇我氏の本拠地であったと考えられています。
85日本@名無史さん:2014/07/02(水) 00:56:30.40
>>72
割り込みだけど、そうだったの。

1円紙幣は戦後生まれの世代も見たことがあって、子供心にも軽く見られてたとかいう話だけど、
「1円未満」が実質昭和29年に消えただけで、その後もしばらく残ったということね。
86日本@名無史さん:2014/07/02(水) 01:00:13.25
>>74
知らんけど、実名なら、位が上のものとか親とか以外、一般には「呼び捨て」にはしなかった、
というか礼儀の点でできなかったんじゃない。

天皇とかになら、当然実名で呼ばれてたはずだね。
8774:2014/07/02(水) 06:55:25.88
おまえらすまんな。
この板的にはまずいんだろうが、
俺は、日本ではイルカはいつ頃からイルカと呼ばれてたのか知りたくて質問しただけなんだ。
古事記、万葉のころからあったのかどうか、あったとしてもサメがワニだったように別の生物をイルカと呼んでいなかったかどうか、とかを。
まあ、蘇我入鹿はけっこうどうでもよかったw
88日本@名無史さん:2014/07/02(水) 11:57:17.33
>>87
いるかの語源で調べればすこしわかるかも
古く「ウロコ」は「イロコ」と呼ばれており、「イル」や「イロ」「イヲ」は魚を表す言葉に用いられる
海豚は中国語を当て字

そういうのをまとめた漁業史みたいなのがあればいいけど
89日本@名無史さん:2014/07/02(水) 20:02:33.54
京極氏の嫡流はどの家か教えてください
90日本@名無史さん:2014/07/02(水) 20:33:01.01
幕末・明治の日本人の「早く近代化を成し遂げないと欧米列強の植民地にされてしまう」
という焦りは杞憂だったということでよろしいですか?
91日本@名無史さん:2014/07/02(水) 21:05:02.76
>>90
実際に治外法権の居留地作られてるのに杞憂も糞もあるか無知
92日本@名無史さん:2014/07/03(木) 08:20:40.89
>>90
1861年にはロシアが対馬の租借を狙って上陸し、居座ろうとした
この時は幸い、幕府が毅然と対応したのと、イギリスが介入してくれたので、ロシアは退去した
1864年には、下関戦争後の交渉で、4国連合軍は他の条件の他に彦島の租借を要求したが、これも
長州の代表として交渉にあたった高杉晋作が、それだけは断固拒否した
わずかな土地でも、ひとたび租借を許せば、そこを拠点にどんどん植民地化を進めたり、あるいは
経済的な影響力を強めて半植民地化していくのは、ボンベイやカルカッタから植民地化されて
いったインドの前例がある
欧米人が支配する上海を実見した高杉は、そのことをよーく知っていたのだ
93日本@名無史さん:2014/07/03(木) 21:50:36.20
>>84
大有りというのは大袈裟なくらいあまり関係性を見いだせないのだけど
94日本@名無史さん:2014/07/03(木) 21:57:06.48
>>89
宗家ははっきりしてるでしょ。
若狭小浜藩などを経て讃岐丸亀藩を維新まで治めた家。
95日本@名無史さん:2014/07/03(木) 22:31:55.85
>>94
やはり京極高次の子孫でしたか
ありがとうございます
96日本@名無史さん:2014/07/04(金) 01:51:17.57
ちょっと聞きたいんだけど御連枝とか御家門ってどう違うの?
何か分け方でもあるのか?
97日本@名無史さん:2014/07/04(金) 04:11:34.32
>>87
あ、「呼ばれて」というから人の呼び名の話かと思った。

イルカという動物自体の呼称がどうなってたか、という話ね。
知らん。
98日本@名無史さん:2014/07/05(土) 09:23:00.65
>>97
城みちる
99日本@名無史さん:2014/07/05(土) 19:29:04.05
日本でも結構昔から10進法や12ヶ月で1年みたいなルールが平安時代以前から取り入れられてるけど どういう経緯でそうなったの? 平安時代とかは西洋と東洋の交流が殆どなさそうだから独自の法則があってもおかしくないと思うんだけど
100日本@名無史さん:2014/07/05(土) 21:51:52.62
>>99
日本が西洋のグレゴリオ暦を導入するのは、明治5年だ
それより前の旧暦は、西洋の暦とはまったく違うぞ
閏月のある年には、は1年が13ヶ月になる
101日本@名無史さん:2014/07/05(土) 21:56:31.43
>>100
もう少し詳しく頼む 昔の睦月如月弥生...ってのは今と違うってことか
102日本@名無史さん:2014/07/05(土) 22:24:43.23
基本的には12ヶ月で1年。ただし新月から次の新月まで (29日か30日) が1ヶ月なので、1年は365日より短い。そのため何年か経つと季節がずれてくるので閏月 (うるうづき) を入れて調整する。一月、閏一月、二月……みたいに。
何年目に閏月を入れるか、何月にするかは暦法によって決まっていて、大昔は中国の暦をそのまま使っていたけどそのうち日本独自の暦を作るようになった。
103日本@名無史さん:2014/07/05(土) 22:32:51.00
>>101
旧暦の、今のグレゴリオ暦との最大の違いは、月の満ち欠けに1ヶ月が合わせられているということだ
旧暦は毎月1日は新月
毎月3日は、月は必ず細い、その月のことを「三日月」という
毎月15日は満月になる、だから満月は「十五夜」だ
104日本@名無史さん:2014/07/05(土) 22:53:20.27
なるほどな ありがとう

十進法についても頼む
105日本@名無史さん:2014/07/05(土) 22:55:57.87
暦には、太陰暦、太陽暦、太陰太陽暦(または太陽太陰暦)がある
古代の人間にとっては、1年が正確には何日なのかを把握するのは容易ではなかった
だいたい360と何日かぐらいで季節が一巡することはわかっても、それが364日なのか、366日なのか、
正確なところは、専門家が太陽や影、星などをきっちり観測できないとわからない
それに対し、月の満ち欠けは、誰でもはっきりわかるから、まず「1ヶ月」という単位が出来上がった
季節の移り変わりはだいたい12ヶ月周期だ、ということになって、まず1年が12ヶ月となる
しかしそれだと、実際の1年とはかなりのずれがあるので、毎年どんどん、季節とずれていく
それでもかまわないと、月の満ち欠けだけを基準にした暦が太陰暦
今でも、イスラム暦は太陰暦だ
月の満ち欠けを基準にしつつも、ずれが蓄積してきたら1ヶ月を余分に挿入する、つまり閏月を入れることで
ずれを修正し、季節変化にも合うようにしているのが太陰太陽暦(または太陽太陰暦)
中国や日本の旧暦がこの方式
これらに対して、たとえば冬至から次の冬至までの期間は365日と1/4日なのだから、1年はその長さに
する(4年に1度366の閏年を設け、他の年は365日とする)、という、太陽に合わせた暦が太陽暦
これだと、季節変化には合致する
以前の名残として1ヶ月という単位は残ったが、1年を12ヶ月にしたために、実際の月の満ち欠けとは
合わなくなる
これがエジプトやローマで採用された
後に、閏年のルールがさらに改良されて正確になったものが、現在国際的に使われているグレゴリオ暦
106日本@名無史さん:2014/07/05(土) 23:03:32.01
>>99
10進法は人間の指の数が10なのに由来すると考えられている。だから割と世界的にもポピュラー。
でも古代シュメール文明では何故か60進法だった。シュメールでは取引が盛んだったので2でも3でも
割り切れる60が扱い易かったらしい。

太陽の運行を基準に1年を365日とする暦を太陽暦、月の満ち欠けを基準に1月を30日として
1年を360日とするのを太陰暦という。大雑把に言うと西洋では太陽暦が使われて、東洋では
太陰暦を使った。大雑把に言ったから例外は有るだろう。
107日本@名無史さん:2014/07/05(土) 23:12:33.67
>>104
西洋でも東洋でも、1人の人間の手の指は両手を合わせて10本
算数教育を受けていない原始時代の人間は、指をおって物を数えたり、物の数を指に対応させて
把握していたから、10というのは最初におとずれる限界になる
10までの数は彼らでも容易に把握できるが、それをこえる数の把握は、とたんに彼らにとっては
難しくなる
で、「両手の指の数」(つまり10)と「それとは別に何個」という
さらに把握すべき数が多くなってくると、10の集まりがいくつ、というように、10を一つの単位と
するこになる
そして、やがて十進法が生まれる
人間の手の指が10本である以上、十進法が発達するのは必然で、日本と西洋のどちらの数学体系も
十進法だからといって、驚くことは何もない
108日本@名無史さん:2014/07/06(日) 09:26:04.94
日本では外来の仏教と土着の神道が長い時間の中で自然に溶け合い、「神仏習合」と
なりました。これは日本の自然な流れ、文化、風土だったと思います。
明治の初期になぜこの神仏習合を無理やり政治的に分けたのでしょうか?
分けることによってどういうメリットがあったのでしょうか?
また、神社側、仏教側、一般大衆からの反対や抗議はどれくらいあったのでしょうか?
109日本@名無史さん:2014/07/06(日) 11:14:11.57
神仏分離は国家神道を確立して天皇を現人神に祭り上げる上で仏教が邪魔となったから。
この時点では分離するだけの事だったがその後廃仏毀釈という運動が起こる。

江戸時代は全ての人が何処かの寺の檀家になってキリシタンではない事を証明してもらう制度
になっていた。(寺請制度)つまり布教の努力をしなくても食いっぱぐれる事は無い坊主丸儲けの
制度だった。これによって江戸時代の仏教は腐敗していたようで、明治になって神仏分離令が出ると
仏教は要らない、寺も壊せという事になった訳だ。

その結果奈良の興福寺の坊さんが大挙、隣の春日大社の神職に転職して興福寺が無人になったり、
同じく興福寺の五重塔(国宝)が売りに出されて薪にされる所だったりした。この時代に破壊されたり
海外に流出した仏教美術品も少なくない。
110日本@名無史さん:2014/07/06(日) 15:02:37.34
神仏分離令
王政復古・祭政一致の理念にもとづいて,奈良時代以来の神仏習合・神仏混淆を禁止し,神社からの仏教色の排除を命じた,明治初年の一連の行政措置(法令)。
1868(慶応4/明治1).3.17,神社の別当・社僧に還俗を命じ,3.28,権現などの仏語を神号に用いることや,神社での仏像・仏具の使用を禁止した(神仏判然令)。
これらの法令は近世の儒学・国学の復古思想や排仏思想の高まりを背景とするため,神職や国学者や地方官の間で廃仏毀釈の行動が激化し,中央政府が排仏を諫めたにも関わらず多くの寺院が破壊された。

廃仏毀釈(排仏毀釈とも書く)
明治初期の神仏分離令,神道国教化政策を契機に全国各地で行われた仏教排斥運動。
近世の儒学者・国学者の排仏論や儒学経世論,財政逼迫を背景とした水戸藩などの寺院整理を淵源とする。
神職・国学者や地方官によって指導され,神社の仏教的事物の棄却や,合併・廃止などによる寺院の削減が行われた。
その結果,排仏を諫める中央政府の布告にも関わらず,多くの寺院,仏像・仏具・仏典などが破却された。
廃仏毀釈は仏教界に改革を促し,護法運動や教団近代化運動を惹起した。
また,各地で真宗僧侶や門徒による一揆(大浜騒動・越前真宗護法一揆など)も発生した。
111日本@名無史さん:2014/07/07(月) 11:48:00.67
奈良時代の僧侶行基も、鎌倉時代の日蓮みたいに辻説法していたんでしょうか?

また、多くの寺を建てたようですが、仏像や仏画、建築の高度な技術を、民衆はどうやって学んだんでしょうか。
当然、許可なしの教化は違法行為だから、官には教えてもらえないはずですが…。
112日本@名無史さん:2014/07/07(月) 15:40:21.10
 
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1245600247
織田信長以外の戦国大名も鉄砲を持っていましたか?
大友氏、島津氏などは、3000丁とか持っていたのでしょうか。

長宗我部は?
113日本@名無史さん:2014/07/08(火) 08:28:47.27
皇族の宮号について、
江戸時代は世襲親王家の内親王でも○宮××と呼ばれたのはなぜですか?
徳川吉宗や徳川家慶の正室など
逆に言うと現代の皇族では、三笠宮家の内親王は○宮が無いのはなぜですか?
114日本@名無史さん:2014/07/08(火) 14:36:26.32
>>113
世襲宮家の女子は内親王ではなく女王ですね
江戸時代の世襲宮家では幼名としてまず宮名が付けられました
○子女王という名前が決まるのは、摂家や公家、大名家に輿入れする際です
もしくは寺に入り出家した際に法名に女王を付けて呼ばれることもありました

現在の世襲宮家では、誕生して7日目に○子女王という名前が決まります
(ただし戦後の皇室典範では世襲宮家であっても天皇孫までは内親王となる)
宮家を号して○○宮○子女王と呼ばれます
あえて幼名である宮号を付ける必要がなくなったためです
ただし現在でも宮家ではない天皇直系の内廷では
伝統的に○宮○子内親王といった名づけ方法がされています
115日本@名無史さん:2014/07/08(火) 14:46:13.88
>>111
奈良時代、仏教は朝廷に管理されていて、天皇家と限られた貴族だけのものでした。
行基はいわゆる辻説法で一般民衆にも仏教を説いたため、弾圧を受けています。
また、この頃に行基が暮らしていたところは寺というよりも草庵に近かったとみられていますし、
行基開山49寺のうちにも伝承が多く含まれすべてが行基開山とは言い難いものも多いです。

行基が明確に寺の創建に関わるようになるのは、
聖武天皇の願いによって行基自身が朝廷に組み込まれてからです。
行基は朝廷から僧侶最高の地位である大僧正の位を受け、
東大寺をはじめ多くの国家プロジェクトの寺に関わるようになります。
市井の辻説法をしていた頃に東大寺のような大規模寺院を創建していたわけではありません。
116日本@名無史さん:2014/07/08(火) 19:43:23.27
>>112
数はわからないが、およそ信長と同時代頃の有力な戦国大名なら、たいてい鉄砲は保有していた
どこの大名だって、鉄砲の有効性はちゃんと理解していた
ただ、問題は、鉄砲自体の数よりも、火薬の供給だ
火薬の原料の硝石が日本では産出しない
鉄砲は国産できたが、硝石だけは輸入に頼るしかなかった
堺などの商人が輸入して各地の大名に売りさばいてはいたが、やはり地方の大名たちは、そう簡単
に大規模に鉄砲隊を運用するというわけにいかなかった
信長にそれができたのは、それだけの経済力があったのと、堺という貿易港に強い圧力をかけられる
立場だったので、硝石の供給が安定していたから
117日本@名無史さん:2014/07/08(火) 21:49:16.81
>>109>>110
どうもありがとうございました
ただ、歴代天皇の中には熱心な仏教徒だった方も多いですが、
仏教を排除、弾圧することに皇室や公家からの反発はなかったのでしょうかね
と思ったのですが、政府は仏教弾圧に対しては諌めたと書いてありました
118日本@名無史さん:2014/07/09(水) 00:18:10.05
近世以前に問題がないわけじゃないけど、近現代史での天皇・国家批判には気をつけた方がいいよ。
岩波系の出版社が事実関係をまとめていても未だ印象や「ねばならない」で語りたがるのは現実社会でも腐るほどいるから。
119日本@名無史さん:2014/07/09(水) 03:34:47.70
>>117
皇族や旧公家らはこれまで人減らしのために家督を継げない男子を寺に入れていたのを
明治新政府がこれからは皇族や華族として出家などせずとも世俗で面倒みましょうと言われたのだから
かえって良かったかもしれん
宗教としての仏教の存続は認められていたし
廃仏毀釈はこれまで幕府の寺請制度で檀家から色んな布施を求め
おいしい汁をすすってきた寺に対する一般庶民の不満が爆発したもの
120日本@名無史さん:2014/07/09(水) 14:39:39.79
いくつか質問です
豊臣秀吉の朝鮮役で荷駄の差配をしていたのは長束正家だと思うのですが、そのスタッフに岡部治部右衛門という人物はいたでしょうか?
若しくは前田利家の家中にいたでしょうか?
また、前田家中に渡海した人物はいたでしょうか?
それと明使の接待の際、麦鳥や煎鳥といった料理を出したかどうかわかる史料はあるでしょうか?
最後に、治部右衛門って呼び名は当時あり得る名前でしょうか?
クエスチョンが多くてすみませんが、一つでもお答え頂ければ幸いです
121日本@名無史さん:2014/07/09(水) 22:41:31.70
岡部治部右衛門という人物は金沢料理「治部煮」の名前の由来 (の一説) に登場するだけで、実在したのかどうかは不明。

前田勢は後詰めとして九州に留まったので、渡海した者は多分いない。

当時ではないが、幕末に窪田治部右衛門鎮勝という旗本が実在した。
122日本@名無史さん:2014/07/09(水) 23:00:30.13
治部は治部省、右衛門は衛門府とそれぞれ別の役所(官位)に由来する名前だし
それを混ぜるのは無いんじゃないかねぇ。幕末ともなるとテキトーだけど。
123日本@名無史さん:2014/07/10(木) 21:15:03.45
>>121-122
ありがとうございます
やはり岡部さん、実在の証拠はなさそうですね
ネーミングセンスも微妙だし…
124日本@名無史さん:2014/07/11(金) 17:39:22.56
大河ドラマ平将門で一つ気になるシーンがあるので質問があります。
「鵺を退治した源頼政殿じゃ」という紹介で頼政が登場するんですが
実際、そんな非日常的な怪物を倒したなんて現実的にありえないとおもうのですが
ドラマ中にも鵺のような怪物はでてきませんし。
鵺ってのは一体、なんなのでしょうか?
盗賊の名称とかいう話ならわかるのですけど
125日本@名無史さん:2014/07/11(金) 20:18:12.78
鳴き声はトラツグミという鳥の物だったと考えられている。頼政が射たのは……まぁ猿か何かだったんじゃないかな。
126日本@名無史さん:2014/07/11(金) 21:14:07.06
トラツグミが鳴く
ビビった貴人が臥せる(もしくは、たまたま体調崩す)
坊主が加持祈祷しつつ、頼政に弓鳴りとかさせる
偶然か必然かトラツグミの声が聞こえなくなり貴人快癒
頼政スゲー
巷で鵺退治の噂が広まる

みたいな裏設定が脚本にあったりして
127日本@名無史さん:2014/07/11(金) 22:07:39.83
何で方形周溝墓があるのにズル剥け周溝墓は無いの?
128日本@名無史さん:2014/07/11(金) 22:11:31.65
本能寺の変後、秀吉は一応信長の遺児(三男)を立ててましたが、
いつ頃から明確に自分が信長の後継者として振舞いだしたのでしょうか?
それ以降の秀吉と遺児(三男)の関係はどんな感じだったのでしょうか?
129日本@名無史さん:2014/07/11(金) 22:19:42.86
信長の長男の息子な
130日本@名無史さん:2014/07/11(金) 23:11:17.49
>>128
次男信雄、三男信孝は既にいい大人で自分の思惑も有り、秀吉の操り人形にはなりません。
そこで秀吉は長男だった亡き信忠の子、三法師を織田家の後継者に推しました。
しかし誰も納得していないので信孝とその後援者である柴田勝家が秀吉を叩き潰そうとして
賤ヶ岳の合戦になります。これに敗れた柴田は滅び、信孝は切腹させられます。

結局の所、三法師に織田家の跡目を継がせても、天下は自分が頂戴するという秀吉の目論みは
誰の目にも明らかだったという事でしょう。

その後の三法師は秀吉の片諱を貰って織田秀信と名乗り、岐阜城主として13万石を領したが、
関ヶ原の合戦で西軍について、一命は救われたものの追放処分となった。

という訳で秀吉にはそれなりに良くしてもらったし、秀信も恩義を感じていたであろう。
131日本@名無史さん:2014/07/11(金) 23:18:20.33
>>127
  ご注文をもう一度大きい声でおっしゃってくださいますかい? ええ? お客さんよ
   
    ,!::: : : : : ,-…-…-ミ:: : :',       
   {:: : : : : :i  ,;ノ;´:`ゞ、i: : :.:}   ∩─ー、     
   {:: : : : : :|  ェェ;;;;;;;ェェ|: : : } / ●   `ヽ  
   { : : : : ::|    ,.、 .| : : :;!/U ( ●  ● |つ
    ヾ: :: : :i   r‐-ニ┐| : : :ノ|  /(入__ノ  ミ
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132日本@名無史さん:2014/07/11(金) 23:44:12.47
>>128
信長の葬式で喪主を勤めた時には既にその意志を示しており、賤ヶ岳の合戦に勝利したことでそれを確実な物とした。
三法師こと織田秀信は本能寺の変から6年後に元服し、秀吉配下の武将となった。秀吉の甥の秀勝が病死するとその領地だった美濃を受け継ぎ、中納言の官位も与えられた。
石田三成が挙兵すると秀信も西軍に参加するが、関ヶ原の合戦の前に東軍と戦って敗れ、改易出家させられた。
133日本@名無史さん:2014/07/12(土) 19:45:20.09
今の京都府南部、昔の山城の国なんですが、かつての都である平城京と平安京に
挟まれた地域でしかも平野が多いんですが田舎ですよね
(現在の京田辺市、精華町、山城町、木津川市あたり)
地の利を考えるともっと栄えてもおかしくないと思うのですが、なぜそんなに
栄えなかったのでしょうか?
歴史的に見てもずっとそんなに栄えてなかったのでしょうか?

気を悪くされた方がおられたら申し訳ありません
134日本@名無史さん:2014/07/12(土) 20:10:26.37
川が氾濫するから
135日本@名無史さん:2014/07/12(土) 21:21:52.52
巨椋池でググると幸せになれるよ
地盤がグズグズだから将来的にも発展の余地なし
136日本@名無史さん:2014/07/12(土) 22:29:44.25
>>135
それを言うなら、今の関東平野でも
あの土地の将来性を見抜いた、秀吉と家康は相当なものだよ。
137日本@名無史さん:2014/07/12(土) 22:49:16.64
土地の将来性を見抜いたのは秀吉でも家康でもなくて北条早雲な
当時濃尾平野と関東平野の生産高は日本国内で二強と呼べるような状況だった
濃尾平野から肥大化していった織田家やその後継者秀吉が次々と他を併呑していく中
北条家が最後まで生き残ったのも故ない話ではないんだよ
138日本@名無史さん:2014/07/12(土) 23:40:16.78
土地の将来性に対する見識は河川改修とか土木工事のレベルによるからな、
早雲はそこまで考えてないだろ
139日本@名無史さん:2014/07/12(土) 23:41:07.92
地の利はいいと思ったのですが、川の氾濫や地盤に問題がありましたか
どうもありがとうございました
140日本@名無史さん:2014/07/12(土) 23:56:19.06
東京湾岸と違って巨椋池の場合は岩盤層まで既成杭を打ち込んでも
費用が見合わないからね
141日本@名無史さん:2014/07/13(日) 01:44:23.17
小椋佳
142日本@名無史さん:2014/07/13(日) 09:38:42.75
四国は昔から讃岐、伊予、土佐、阿波の4つの国から成り立っていました。
明治維新による廃藩置県の際に香川、愛媛、高知、徳島の4つの県となりましたが、
なぜ讃岐、伊予などが県名にならなかったのでしょうか?
県(かつての国)の面積や形状はほとんど変わってないと思うのですがね
143日本@名無史さん:2014/07/13(日) 12:34:01.67
>>142
旧国名がそのまま県名になった事例は他にあるのですか?
144日本@名無史さん:2014/07/13(日) 20:10:39.04
>>142
日本中、だいたいどこの県も、廃藩置県の時点ですぐに現在の形になったわけではない
最初は、かつての小藩や小さな天領の領域をそのまま県にするなど、もっと細かい県が多数、乱立していた
数年ぐらいの間に、それらの小さな県が統廃合されて次第に現在の形の県が形成された
結果的に旧国とほぼ同じ県域になっても、だからといって旧国名を県名にすることはなかったようだ
145日本@名無史さん:2014/07/13(日) 21:25:32.80
>>142は四国より佐渡を例に出して欲しかった
146日本@名無史さん:2014/07/13(日) 22:17:24.50
>>145
>>142は佐渡より淡路を例に出して欲しかった
147日本@名無史さん:2014/07/18(金) 01:20:22.92
ググる先生に尋ねても、自治体のサイトを見ても出てこなかったので質問です。
平安とか鎌倉とか、少なくとも江戸時代以前に実の兄と妹で愛し合ってしまい、
これはまずいと妹の方をまわりの人が、現在の大阪の茨木市のあたりへ幽閉というか引き離した歴史上(架空?)の人物って誰でしたっけ。
ちなみにこの話、以前近畿地方では有名な浜村淳さんのラジオで聞いたのですが、詳細までは覚えていなかったものでして。
148日本@名無史さん:2014/07/18(金) 16:28:09.23
まず、お求めの話に100%一致する人物は僕にもわかりません。平安時代以降にそうした史実があったかどうかは不明ですが、それ以前であれば似たような話はあります。
ただし大前提として、この時代には異母兄妹同士が愛し合うことはタブー視されておらず、問題になったのは両親とも同じ場合に限られたことはご承知下さい。

*19代允恭天皇の皇太子であった木梨軽皇子と、妹の軽大人皇女
*38代天智天皇と、妹で36代孝徳天皇の皇后であった間人皇女

どちらの話にも、現在の大阪府茨木市に繋がる地名は出て来ません。

*29代欽明天皇の子であった茨木 (または茨城) 皇子と、異母姉妹の磐隈皇女

この話では兄妹 (または姉弟) だったことではなく、伊勢の斎宮という神に仕える立場にいた皇女を傷物にしたことが問題とされています。
149日本@名無史さん:2014/07/18(金) 19:51:02.82
『地上より永久に』という映画のアラスジを、浜村淳のラジオで聞いて、TVで放送されたら必ず観ようと思った中坊の夜…
二十年という星霜を経てBSで放送されたので観てみたが…
……とんでもない糞映画だった…

「観ていない映画を観てきたように話す達人」として知られる浜村淳だが
あの糞映画を斯くも格調高く語れる浜村淳は凄い人です
150日本@名無史さん:2014/07/18(金) 20:44:42.26
二言目には同志社大学
151日本@名無史さん:2014/07/19(土) 15:56:18.57
菟道稚郎子、うじのわきいらつこってどうしてこんなふざけた、悪意に満ちた名前なんですか?
勝手につけられたの?本人は納得してるの?

また、地名の宇治と「うじむし」って何か関係あるのでしょうか?
152日本@名無史さん:2014/07/19(土) 18:08:57.59
http://i.imgur.com/Hk21nbXh.jpg

この画像、歴史人って雑誌の何年何月号かわかる方います?
153日本@名無史さん:2014/07/19(土) 19:52:11.99
>>151
意訳すると「宇治の若王子」だけど、どこに悪意があるの?
154日本@名無史さん:2014/07/19(土) 21:58:42.02
>>153
わかってるくせにしらじらしいわ。
155日本@名無史さん:2014/07/19(土) 22:05:38.89
「うじ」から蛆虫しか連想できないアホなんだなw

宇治 地名 由来でググってみるくらいはしろよ
156日本@名無史さん:2014/07/19(土) 22:35:46.61
>>155
うさぎのみちと書いて菟道、読み方はうじ、転じて宇治までは事前に調べて知ってたよ。

キミはうじむしとまったく関係ないって言い切れるのですか?
157日本@名無史さん:2014/07/19(土) 22:41:01.97
ググり方が足りないな
うさぎの道ってのは後付けだとされてるぞ
158日本@名無史さん:2014/07/19(土) 22:43:45.85
>>156

蛆は「うじ」、宇治は「うぢ」な。
159日本@名無史さん:2014/07/19(土) 22:44:05.88
初心者 歓迎 って書いてあるのをお忘れなく

宇治と蛆虫が関係ないっていいきれますか?
160日本@名無史さん:2014/07/19(土) 22:50:12.19
自分の思い込みが否定されたからってファビョるなよ

関係あると主張する側に立証責任があるんだぞ
161日本@名無史さん:2014/07/19(土) 22:53:36.81
質問スレなのに立証しろって何いってんだ?だったら質問スレじゃないじゃないか。
162日本@名無史さん:2014/07/19(土) 23:16:00.29
質問は↓な
>151 :日本@名無史さん:2014/07/19(土) 15:56:18.57
> 菟道稚郎子、うじのわきいらつこってどうしてこんなふざけた、悪意に満ちた名前なんですか?
>  勝手につけられたの?本人は納得してるの?

> また、地名の宇治と「うじむし」って何か関係あるのでしょうか?

これに対して質問の前段に関しては
>153 :日本@名無史さん:2014/07/19(土) 19:52:11.99
>>151
> 意訳すると「宇治の若王子」だけど、どこに悪意があるの?
と回答があった

これに対するそちらのレスは
>154 :日本@名無史さん:2014/07/19(土) 21:58:42.02
>>153
> わかってるくせにしらじらしいわ。
で、回答者に謝意をのべるどころか非難しており、
すでに自分の中で決めつけを行っているのが明か

質問の後段に対しては
>158 :日本@名無史さん:2014/07/19(土) 22:43:45.85
>>156

> 蛆は「うじ」、宇治は「うぢ」な。
との回答がなされている

この回答を受け入れず、あくまで自分の思い込みを主張したいなら
その立証責任は当然、そちらにあるということになるのだが?
163日本@名無史さん:2014/07/19(土) 23:30:00.27
「初心者だから大目にみろ」って、自分で言うヤツに理詰めで攻めても自省する事はまずない
164日本@名無史さん:2014/07/20(日) 00:48:58.13
大井川の川越人足って明治維新後に橋が建った後は失業したの?
165日本@名無史さん:2014/07/20(日) 02:00:02.47
服部半蔵が服部石見守。百地三太夫が百地丹波守。
あと、上泉伊勢守とか忍者や剣豪がこのような官位のようなものを
名乗ってますが、どこからもらうのでしょうか?
勝手に名乗ってるわけじゃないですよね?
166日本@名無史さん:2014/07/20(日) 05:52:10.87
半蔵の場合は家康が与えた可能性もあるけど、戦国時代あたりでは勝手に名乗っていた者も少なくない。
167日本@名無史さん:2014/07/20(日) 10:56:49.61
「家康が与えた」も朝廷が与えたのでない以上、「勝手に名乗ってた」の範疇じゃないか?
168日本@名無史さん:2014/07/20(日) 11:10:59.21
>>167
それって朝廷が与えたものでなければ権威がない。
あるいは効力がないということでしょうか?
歴史小説や専門書の類いでも忍者だったら甲賀は山中大和守。望月出雲守。
伊賀は服部石見守。百地丹波守。剣豪では上泉伊勢守とか出てきます。
守護大名の官位は天皇家からもらうと聞いた記憶があり
これらも天皇家からもらったのかと疑問に思ってました。
169日本@名無史さん:2014/07/20(日) 12:15:06.30
>>168
当然の事ですが、朝廷の公認が無い自称官位には何の権威も有りません。
170日本@名無史さん:2014/07/20(日) 12:20:11.16
>>168
ちなみに信長が上総介を名乗っていたのは有名ですが、その前には短い期間ながら
上総守を名乗っていた。しかし上総は親王任国といって親王以外の人は守に成れないので
あり得ない。つまり信長の上総介も自称です。
171日本@名無史さん:2014/07/20(日) 12:21:51.01
>>170
上総守を名乗ってたのって単に信長(とそのブレーン)が無知だったからだっけ?
172日本@名無史さん:2014/07/20(日) 13:53:48.19
>>169-170
ありがとうございます。
忍者や剣豪も自称だった可能性が高いですね。
173日本@名無史さん:2014/07/20(日) 14:17:55.35
上総って昔は陸地と切り離されていて島だったろ
今の東京の辺は海の中
174日本@名無史さん:2014/07/20(日) 14:20:08.46
海岸線も八王子あたりまでは食い込んでいたのかな?
175日本@名無史さん:2014/07/20(日) 16:57:39.81
日比谷辺りは江戸時代初期まで入江が有ったけど、江戸城本丸より西は武蔵野台地じゃね。
霞ヶ浦はもっと広くて香取海と呼ばれる内海だったけど、房総半島が島だったのは2万年前じゃね?

>>171
無知だったからだろう。
176日本@名無史さん:2014/07/20(日) 16:58:07.04
さすがに上総と呼ばれる頃にはもう陸続きで、文字通りの意味での島じゃないよ
下総、上総、安房方面は、湿地やら利根川やらがあって陸路で行こうとすると不便で、
海路で連絡していたために、比喩的な意味では陸の孤島だったけど
ちなみに、海路で連絡していたから、南の方が都により近いので、ウサの国を2つに分割
した時、南の方が「上」総、北が「下」総となった
177日本@名無史さん:2014/07/20(日) 18:29:12.84
フサ(総)の国だよな。
178日本@名無史さん:2014/07/20(日) 22:40:22.60
僕はフサフサです
179日本@名無史さん:2014/07/22(火) 18:46:55.07
洞中制度の詳しい専門書教えてください。
180日本@名無史さん
>>165
受領名とか百官名ですね。