鎌倉執権北条氏専用スレッドです。
多くの門流が派生し、同族間の争いも絶えなかった北条氏。
北条氏の出自、幕府内での各門流の動向、幕府滅亡後のその各門流の子孫の動向、御内人・被官について語るスレッドです。
また北条氏とその他有力御家人との政争についてもご自由にどうぞ。
2 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 07:22:34.93
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼 (三河四郎大夫 )は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼( 三河四郎大夫) 、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で過し没する(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼(三河四郎大夫)は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・1109年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
・1154年、季範(額田冠者)が死去する
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する
・1219年、源実が朝暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する ←足利王国の誕生
3 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 07:24:13.99
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・公暁
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源頼家→公暁(母親は足助重長(三河国加茂郡足助)の娘)
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
4 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 07:25:27.62
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
葛山氏
大森葛山系図は内大臣藤原伊周の後裔としているが真偽のほどは不明。
大森葛山氏の祖惟康は三河高橋の領主で甲斐・駿河両国の守となり,以後大森氏は親康,親家と続いて鎌倉御家人を輩出した。
葛山氏は親康の弟惟兼の流れをくむもので,惟兼の子惟忠を経てやはり鎌倉御家人を多く出している。
大森葛山の祖・高橋惟康
「伊勢新二郎大夫、成高橋殿、三河国高橋庄領主故号、母実範三位女、外戚伯父伊勢権守令養育之」
寺部八幡宮(愛知県豊田市社町1)
寺部八幡宮は、平安時代に高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村の館内に、石清水八幡宮を勧請し祀ったことがおこりです。
その後、惟康の子孫高橋氏が、長承2(1133)年3月15日再勧請造営したのが始まりです。
往事は数多い神宮寺を有していたと伝えられていますが、現在わずかに悟楽寺、儀隣寺の二ヶ寺の寺名のみ伝えています。
不動堂館(愛知県豊田市上野町1丁目)
平安時代(794〜1185/1192年頃)、藤原北家の流れを汲む高橋惟康は伊勢国に生まれ、伊勢新二郎大夫と称した。
母三位女の所領三河国加茂郡高橋荘を相続し、荘内の高橋郷〔上野町1丁目〕に在住して高橋殿と称され、三河国高橋氏の祖になった。
1060年惟康は駿河国へ移住。惟康の遺蹟として社町八幡社〔豊田市社町〕、神明神社〔豊田市上野町7丁目〕、香良須神社〔豊田市市木町谷耳太〕などが考えられる。
場所は上野町1丁目とされ、現在は畑地、住宅となり、遺構は無い。
5 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 07:30:55.65
■金剛三昧院(和歌山県伊都郡高野山425番地)
愛染明王
http://www.kongosanmaiin.or.jp/attractive/aizen_myouou/index.html 当院の本尊、愛染明王(あいぜんみょうおう)像は、鎌倉幕府を開いた源頼朝公が亡くなった際、正室の北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し
、頼朝公の等身大の坐像念持仏(ざぞうねんじぶつ・今日の愛染明王像)として作成された、当院建立の原点となるものです。
■滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)
聖観音菩薩立像
http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html 熱田官司藤原範忠の子、寛伝が従兄弟にあたる源頼朝の菩提を弔うために正治三年(1201年)建立した惣持禅院に安置したもの。
仏師は運慶とその長男湛慶で、頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという。
・寛伝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→寛伝
法華堂阿弥陀仏(消失)
建長7年(1255年)、滝山寺で足利義氏の一周忌法要が営まれた際、、法華堂が新たに建てられ、出家し尊観と名乗っていた足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))が
、その本尊である阿弥陀仏を高野山より迎え、義氏の遺骨を胎内に納める
・足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→娘(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)→足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))
関連事項
■専長寺(愛知県西尾市吉良町吉田斉藤久100)
阿弥陀如来坐像(本尊)
http://www.city.nishio.aichi.jp/index.cfm/8,14707,91,408,html 鎌倉幕府3代将軍源実朝の菩提を弔うために夫人の本覚尼(ほんがくに)が京都に建立した遍照心院大通寺の本尊であった。寛喜3年(1231)に落慶供養会が行われた(『名月記』)。
明治初年の廃仏毀釈で編照心院が維持困難になったため、浄土宗西山深草派の本山誓願寺に移され、明治17年に同派の専長寺に本尊として安置された
6 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 16:56:03.52
ニートの三河馬鹿は日曜日も早朝から元気だなw
北条と足利は良好な協調関係を保ちつつも
足利泰氏の無断出家など危うい場面もあったんだな
結局、泰氏は九条道家の陰謀にどれくらい深く関わって
いたのだろうか
8 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 19:58:58.82
北条って立地はいいよな
三島から平野ですぐだし狩野川あって
伊豆半島のねっこのとこだから、江間から海に出るのもすぐだ
堀越公方や早雲があの場所を本拠にした理由は知らんが、北条氏が伊豆の武士の
中心みたいになるのわからんでもない
10 :
日本@名無史さん:2014/06/23(月) 12:42:02.95
そう。
あそこは農地経営の場としては大したとこじゃないから大豪族になるのは難しい。
だけど、交通の要衝なんだよね。
東西を東山道、南北を駿河を抜けて甲斐行く道と南伊豆に行く道とが通っていて交差している。
そして港もある。
商業的な事するには最適の場所なんだよな。
そして現に北条は甲斐や駿河の連中と深いつながりがあった。
旗揚げの時、北条親子は甲斐の連中と交渉して味方につけるという大功をあげてるよな。
情報もたくさん入って来てそれをどう生かすかを常日頃考える連中が生まれそうな環境だ。
伊豆の館あとの発掘で京で使うようなものがゾロゾロ出てきたとかなかったっけ
まだ鎌倉で勢力誇る前のとこから
12 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 09:35:38.87
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13 :
日本@名無史さん:2014/07/05(土) 04:57:11.09
14 :
日本@名無史さん:2014/07/05(土) 06:30:08.13
.
鎌倉北条氏って時政以前の系図なんかは良く判らないらしいが、
案外伝承どおり、平直方流じゃないのかな?と思える。
平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流であり、
従五位下の京の軍事貴族として公卿の警護みたいな仕事をしていた。
平盛方が活躍する時代は、同族伊勢平氏(貞盛流)の平忠盛(清盛の父)が台頭
し活躍し始める時期でもある。当然、平盛方と平忠盛はライバル関係に有り
新興勢力の忠盛は、平貞盛流の嫡流の座を狙い始めていた。
平盛方の子供と言われる熊谷氏の伝承によると朝廷で平忠盛襲撃事件があり、
その一味に同族である平盛方が加わっており、その罪により処刑されてしまう。
事実、平忠盛は当時は異例の高待遇である内昇殿を許可された。
『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たち
による闇討ちが企てられるが、忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す
機転によって彼らの襲撃を防ぎ、鳥羽上皇から賞された事(殿上闇討事件)があった。
それ以外でも武士でありながら出世を重ねる忠盛に反感を抱く公家による襲撃事件が多数あった。
この平盛方処刑により盛方流は没落、これで貞盛流嫡流だった直方流の都での評価は地に
落ちたと思う。盛方流は、都に居られなくなり、盛方の弟である阿多美聖範の家筋に平直
方流の当主の座は移ってしまう。そしてこれが伊豆北条氏の直接の家祖として考えても良
いのではないだろうか。
15 :
日本@名無史さん:2014/07/05(土) 06:54:23.24
(
>>14の続き)
処刑された盛方の弟の阿多美聖範は伊豆阿多美郷に土着し開発領主としてこの地域を開発した。
阿多美四郎を名乗り伊豆北条氏の通字である四郎が始めて登場する。罪人となった平盛方の
の実子の直光は聖範が引き取り、阿多美郷の領主を引継ぐ。
また、その弟の直貞は、まだ赤子で乳母に抱かれて武蔵国大里郡熊谷郷に落ち延び熊谷氏の祖になる。
聖範の実子である平時方は、当初は阿多美郷和田里に居住して和田太夫四郎と
名乗っていたが、処刑された盛方にかわって直方流を継いで都に上がり宮仕えを始める。
平時方は、処刑された盛方とは違い、順調に出世し上総介や肥後守を勤めた。そして晴れて
伊豆守に任命され伊豆の国司となる。この時期の国司は国元には赴任せず代理人を派遣して
国司業務を代行させたが、平時方は父の聖範や盛方の子らが居る伊豆に赴任して在国の国司
として三島の国府庁舎で国司業務をこなした可能性が高い。またその方が地元の事情が判り
国元での影響力を行使し易く、国司業務がはかどる、という事もあったであろう。
国司任期終了後の平時方は、都に帰らず三島国府庁舎の直ぐ近くにある北条郷に土着し氾藍原の
開発領主となってしまう。俗姓も平から北条に改め、都での平直方流軍事貴族としてのキャリア
を捨て東国武士として伊豆北条氏の歩みを始める。また、平忠盛の意向を呑んだ可能性もある
もっとも自分の故郷の近くであり、任国として実際に数年間統治し、父や盛方の実子が居る伊豆で
のんびりやっていた方が、都での軍事貴族として出世競争にあせくせするよりマシだ。 と言う判断が、
時方にあったのかも知れない。
また平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流の地位を継承してきたが、
盛方の忠盛襲撃事件関与により直方流の没落が決定的となり、忠盛-清盛流が貞盛流の
嫡流の座を引継ぐ事になった。その為に盛方処刑後に直方流を継いだ時方は、貞盛流の
嫡流の座を忠盛に明け渡し京武者(都の軍事貴族)の立場を捨てて伊豆北条郷に土着し
東国武士(関東武士)としての歩を始めたのだろう。
ただし、京都大番や公家の従者を勤め続けているので、
伊豆北条氏から、完全に京武者の性格が無くなった訳ではない。
16 :
日本@名無史さん:2014/07/05(土) 08:47:24.16
三浦やら伊東やら畠山と普通に姻戚関係結んだり京の公家と姻戚関係になったりしてる。
全くの馬の骨の家にそんなことは出来んから直方流でおかしくないよ。
没落した直方流なら家が小さくても不自然でもなんともないし。
系譜がわからんのは、前にも書いたけど吾妻鏡とかを編纂した時に時政の事を必要以上に触れなかったからだろ。
その結果当時は別段謎でもなかったことが、後世の人間には全くわからなくなってしまっただけでw
17 :
日本@名無史さん:2014/07/05(土) 10:31:38.17
北条時政とか熊谷直実は単なる仮冒の偽平氏だろうね。
18 :
日本@名無史さん:2014/07/05(土) 17:28:55.70
.
伊豆北条氏は、領地・兵力共に弱小な割には、
官位(伊豆介・伊豆権守)だけが、代々異常に高い。
しかも京の公家とも独自のパイプがある。
これを見ると伊豆国衙に寄生する、
地方官的な存在であり、京武者由来であろう。
伊豆に土着して、まだ三代目でしかない時政には、
京武者志向が残っているが、義時になると完全に関東武士としての行動になる。
時政と義時の間には、意識と行動の面で相当な断絶がある。
時政の失脚の背景には、これがあると思う。
また、北条氏の系譜の混乱には、都で罪人として
処刑された盛方を排除している事から発生している。
時政だけでなく盛方も伊豆北条氏としては、触れれたくなかったのであろう。
さらに熊谷氏(盛方流)と伊豆北条氏(聖範流)の
家祖の違い(兄弟)が、系譜の混乱の原因の一因になっている可能性がある。
前スレから添付
貞盛-維将-維時-直方-聖範-時直-時家-時方-時政(尊卑分脈)
貞盛-維将-維時-維方-直方-時方-時家-時政(前田本)
貞盛-維将-維時-維方-直方-時方-玄承-時忠-時家-時政(前田本イ)
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政(群書類従)
貞盛-維将-維時-直方-雲範-時直-時家-時方-時政(野津本)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-聖範-時家-時兼-時政(野辺本)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時範-時直-時家-時兼-時政(野辺本イ)
貞盛-維将-維時-直方-維方-聖範-時家-時兼-時政(中条本)
貞盛-維時-直方-維方-俊則-時家-時方-時政(山門本)
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時兼-時政(入来院)
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政(入来院イ)
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時政(桓武平氏)
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時家-時政(系図纂要)
貞盛-維将-維時-直方-雲範-時直-時家-時方-時政(古系図)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時方-時政(正宗寺本)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時兼-時政(内閣文庫)
貞盛-維将-維時-中方-聖範-時方-時兼-時家-時政(内閣文庫イ)
貞盛-維衡-政度-維時-直方-維方-時方-時家-時政(熊谷氏系図)
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時兼-時政(妙本寺本)
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時兼-時家-時政(指宿氏系図)
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政(延慶本平家物語)
貞盛-維衡-維度-維盛-盛基-貞時-時家-時方-時政(源平闘諍録)
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時家-時政(千葉大系図)
20 :
日本@名無史さん:2014/07/05(土) 19:39:29.83
貞盛を祖としている以外はめちゃくちゃだな。やはり仮某。
21 :
日本@名無史さん:2014/07/05(土) 20:40:56.19
大和国大神氏の一族とかを伊豆北条氏の出目にしている人が居るが、関係ないと思うな。
土着したのはそう古い年代ではなく、系図でも時政で伊豆土着をして三代目に過ぎない。
また幕府内での世渡りの良さに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にあったのだろう。
初代伊豆北条氏と言える時方は、伊豆国司だが、
その子の時家も伊豆介・伊豆権守に就き国司に次ぐ地位で伊豆国府に関与している。
時家の弟に当るのが、時兼で彼も伊豆介となっており在庁官人である。
この様に伊豆北条氏は、伊豆国府では上級の地方行政官職を確保し続けた比較的
官位の高い武士であるが、その割には北条氏の領地は北条郷しか確認出来ておらず、
高い官位に見合った領地を確保出来ていない武士だった。
この様な事から伊豆北条氏は、開発領主としての性格よりも伊豆国府の
行政実務を実質的に担う在庁官人としての性格が強い地方官的な武士だった。
平安時代後期からは律令制が動揺を始めており、在庁官人は国司の従順な部下である
だけではなかった、在庁官人はの実態は決してそうではなく、元々現地有力者(大規模
開発領主)でもあり、中央の国司に対峙する地元利益代表としての顔も持っていた。
しかし伊豆北条氏は、伊豆に土着する時期が遅く、当時の農業土木技術では
もはや開発余地が少なく開発領主として伊豆で田畑を開発し北条氏の領地を
拡大する事が出来なかった。その為に伊豆国府での勤務や地方行政上の実務
に注力する地方官色の強い在庁官人業務に注力した関東武士となったのであろう。
22 :
日本@名無史さん:2014/07/05(土) 23:40:51.60
>>18 >ただし、京都大番や公家の従者を勤め続けているので、
>伊豆北条氏から、完全に京武者の性格が無くなった訳ではない。
この指摘は、重要だな。
鎌倉幕府は、成立すると律令制からは離れるが、
結局のところ、中央集権体制を採用するからな。
北条義時は、諸国の守護職の終身制を改めて、
任期を導入し、守護定期交代制を導入しようとしている。
この案は、有力御家人の反対で流れるが、鎌倉幕府の集権体制は、
その後も続き、承久の乱や元寇を理由に畿内や西日本までもが、集権化の対象となる。
そういえば伊東氏も工藤祐経が都を主な生活基盤にして、伊東祐親が地元の領地経営を担当していたと言われてるよな。
伊豆の豪族は都と何らかの繋がりをもってるな。
伊豆に限らず坂東各地に都と地元の役割分担してあた豪族も結構いたらしいな。
結城とか評定衆に任じられても断ってるよな
小山一族自体が武張っていて、官僚的なのは合わないというお家
関東武士ってそういう連中ばっかだったんだろう
だから逆に、官僚的お仕事ができる北条氏におまかせします、てなノリになったというか
北条氏が官僚的お仕事ができたというのは、やっぱお家の歴史がそうだったんだろう
25 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 04:58:00.56
治承の騒乱の時に北条家があまり目立った活躍してないものそれだろうな。
武の家じゃないから。
あの時に目立ったのは親子で甲斐源氏を説得して味方につけたとか、
時政が上京して後白河院と交渉して守護地頭の設置を認めさせたとか交渉事だもんな。
そして兵乱の時代が終わり、政争の時代に入ってから本領を発揮しだす。
大江、三善等の京下りの官僚陣が頼朝死後は政子の配下になってるのも
官僚的な仕事のできる北条家が背景にあったからだろうね。
26 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 21:14:32.74
得宗の嫁さんも官僚系というか文ができる家からきてる
小山でなくて宇都宮とかさ
>>15 盛方が忠盛襲撃して死罪って熊谷氏系図以外の文献あるんだっけ?
平家物語の殿上闇討と百錬抄にある平盛方が藤原為綱殺害して佐渡流罪ってのをくっつけて創作したんじゃないの。
28 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 09:14:36.47
なるほど、時政の京武者的性格か。
時政の母親は伴為房という人物の娘で、伴大納言の後裔であるかどうかはわからないが、
地方に土着した大伴氏であることは間違いないだろう。
時政の父の時代には、在庁官人の大伴氏と姻戚関係となり、地方官吏として
働いていたと考えていいのだろうか?
29 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 09:34:19.96
メディチ家のように有能な人材を輩出した家だよね。
輩出した人材の数と質から言ったらメディチ家をも上回る。
分家の赤橋、金澤、大仏でも有能な人材が沢山出たからね。
30 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 22:33:57.25
>>29
戦国時代になっても、まだ慕われていたのかねぇ
小田原を根拠地にした伊勢氏が、何を根拠にどういういきさつだか知らんが
北条と改姓するのだから
31 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 12:09:41.51
支配者としての安心感があったんだろう
でないと改姓なんてないわな
32 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 12:17:17.79
戦国に入る前の足利時代の支配者はほんと酷かったからなw
その酷さが支配者の交代、一円支配の実現という所謂戦国大名出現の下地となったわけで。
最初の戦国大名である後北条家では名乗るに際して思うところあったんだろうね。
33 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 14:13:18.50
>>23 律令制の元では、中小規模の武士なら国衙、
千葉氏、下総氏、小山氏の様な一国単位の武士なら中央政界にコネが無いと話にならないのかもね。
>>24 小山氏の様な、国造以来の東国系豪族的武士団は、
幕政にはそれ程興味が無かったと思う。下野の権益を維持出来れば、それで良いのだろう。
ただ梶原景時は、行政処理能力があったみたいだけどね。
梶原景時がつぶす事で、頼家も潰せたし、執権北条氏の台頭が始まった。
北条氏が、源頼朝の将軍独裁を支えた梶原景時を潰したのは、
執権北条氏の台頭をイメージするのに象徴的な感じがする。
逆に言うと頼家が、梶原景時を守り、比企氏と梶原氏のスクラム体制を
維持していれば、北条氏も手が出せなかったと思う。梶原景時の弾劾に
加わってしまったのが比企氏のミスだね。
34 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 14:32:34.54
なんか官僚ってのが好きだねお前ら
35 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 14:40:58.65
>>25 伊豆北条氏の軍事力は精々30騎程度であり、これでは軍事力にはならない。
ボディーガード兼取次役的なポジションが伊豆北条氏であろう。
京下貴族と東国武士の間には、対立があり、それも頼朝の将軍独裁を支える
背景になっているが、梶原景時を潰した後の北条氏が京下貴族の大江氏と組めた
事が政権維持には必須だったであろう。
これには、北条政子が、将軍ご生母だった事が大きいと思う。
北条時政は、鎌倉殿御外戚の立場で幕政に関与したが、義時は、将軍ご生母の
政子から委任を受けて政権を受けて執権(政所別当兼侍所別当)に就き政権を
運営した形になっている。
京下貴族の大江が北条氏と組んだのも、政子が将軍ご生母だった事が大きいと思う。
執権北条氏が、幕政を支配出来たのは、時政が鎌倉殿御外戚だった
からではなくて、北条政子が将軍ご生母だった事に由来すると思う。
36 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 14:57:08.72
>>34 民主党政権を見てきたからな
正直、官僚は鼻につくけど、官僚制がないと国家は一日
たりとも機能しないからな
37 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 15:15:31.22
知り合いで
俺は北条政子の子孫だって言ってる人が
昔いたけど、どうなんだろう、、、
>>33 結局、北条は独断専行では動いていなくて諸侯と連携を
とっているんだよな
比企も梶原も孤立化した事が命取りになった
梶原は有能だけど敢えて汚れ役を請け負う事が多くて
疎まれていたんだろうな
39 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 17:00:26.56
40 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 22:00:54.70
歴史の教科書では、北条氏がどんどん台頭していったというふうに書かれていて、
なぜ北条氏が「主君の源氏を滅ぼして、実権を握るに至ったか」について、よく
わからない。
でも、北条氏は実は東国御家人たちと連携していて、その支持が大きかった、
人望もあったというように考えると、説明がつくと思う。
41 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 23:29:53.62
時政は北条氏でも庶子家だったからな。
>>36 大昔の不動の自民党政権時代から、「政治屋がぐだぐだでも〜」
と言われ続けていたからな。
正直、過大評価もいいところだと思うが。
43 :
日本@名無史さん:2014/07/13(日) 23:47:44.43
実際どんなに有能な官僚でも、官僚だけではなにもできんよ。
だって官僚は責任をとらないし、またそういう地位にもいないからね。
むしろ有能な官僚であればあるほど責任をとらなくていいように立ち回る。
責任を取る人、つまり政治家がいないと世の中なんて動かん。
鎌倉幕府だって滅亡したけど二階堂とかあの辺の官僚群は普通に生き残って室町体制に移行してる。
責任をとるべき立場の人間じゃないからな。
戦国自大に北条名乗った時は周りの家がびびっただろうな
エエエエ北条家復活したのかよっていう
45 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 00:16:12.95
頼朝みたいな流人の監視って在庁の仕事なん?
46 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 02:49:00.67
関東武士は官僚のいうことはきかないよ
だから、大江や二階堂には従わない
北条が武士だったから連中は従った
47 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 02:52:03.18
あと、比企が梶原追放に荷担したのもわかる
梶原は比企を潰しに出たかもしれないからな
彼は頼家以外の人物には危険だったんだよ
だから、頼家が守らなければならなかったが、かれはさじをなげてしまった
48 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 08:37:50.66
>>38>>47 確かにそうだけど、
梶原景時は、頼朝-頼家の嫌われ役(憎まれ役)
北条義時は、実朝の嫌われ役(憎まれ役) と言う気もしないではない。
梶原景時が担っていた役割を、北条氏(義時)が、
執権(政所&侍所の別当)に就く事で、代行し始めた感じもする。
それと比企氏の乱は、比企氏が反乱を起こしたのではなくて、
北条氏(時政)が、比企氏を急襲した形になっている。
比企氏の乱は、むしろ時政の乱だと思う。でも将軍ご生母を抱える
北条氏は、その違法性をウヤムヤに出来た。
北条政子が、病気で人事不省になった頼家に代わり、将軍職を代行していた面がある。
>>43 日常の政権運営は、官僚無しではやって行けないからね。
でも、ナンかしくじったら官僚でも責任問われる。今でもね。
>>40 時政は、頼家を潰しているけど、実朝を暗殺したのは、三浦氏だろ。
北条氏が鎌倉源氏を滅ぼして、時になることなんて何にも無い。
むしろ大損で、事実幕府弱体化と誤解した後鳥羽上皇が戦争を起こしている。
後鳥羽上皇は、三浦義村が幕府から離反すると思ったんだろう。
北条時政は、三浦氏と協調体制を築いているが、義時は、完全に三浦氏をつぶしにかかっている。
本当は、和田の乱で本家筋の三浦氏も潰したかったが、バックレたので出来なかった。
義時は、後妻に毒殺されたらしいね。
49 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 08:39:33.87
(
>>48を一部修正)
時になること → 得になる事
景時と義時は違うよ
景時は侍所別当で秘密警察みたいな役割
そら嫌われる
義時は別に侍所でなくて、政務官みたいに訴訟や行政やってる
ただ、金窪を部下にして景時の役割をさせてるが
51 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 09:17:33.77
>>44 ちなみに長尾氏が上杉の名跡を継いだときは
信玄なんか、いつまでも長尾、長尾と言っていたからな
領民はともかく(早雲の家は領民に慕われていたから)
敵対勢力まで、北条を認めていた節があるからな
あの今川だって、伊勢、伊勢と言わずに、北条で書類を出しているみたいだし、
52 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 09:59:32.31
金窪は義時の殺し屋w
確かもう1人いたよな。名前度忘れした。
2人の殺し屋がいたんだよね。
御家人の行状を頼朝に密告してたのが景時
頼朝は賢いから、一応御家人もおとなしくしてた
頼家はバカだから、御家人も心配して景時を葬った
義時は御家人と実朝のとりもち役
御家人は実朝のご機嫌損ねたら義時に泣きつきに行く
全然違う
54 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 11:20:59.21
>>50>>53 でも執権ってのは、政所と侍所の別当を統合したポストじゃん。
>>52 尾藤景綱?関実忠?平盛綱? 後の内管領になるけど。
55 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 11:23:07.06
>>50>>53 でも執権ってのは、政所と侍所の別当を統合したポストじゃん。
>>52 尾藤景綱?関実忠?平盛綱? 後の内管領になるけど。
それとも安東忠家?
56 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 11:28:29.11
>>54 思い出した。
安東忠家。
金窪と安東はコンビで政争の時代の義時の秘密警察長官みたいな事やってたね。
尾藤、平、諏訪はもう少し後だな。
連中は義時の後期から泰時の時代にかけての統治の安定期に得宗の懐刀として活躍していく。
57 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 11:34:31.54
>>50 金窪は侍所所司(次官)だよ。
後の内管領が就く職種。
棟梁の貴種性が何よりも重要視された時代に
人望だけで北条氏が上に立てるか?
むしろ野心に満ち溢れた北条氏に体よく無限責任激務暗殺の
リスクを押し付けたように見えるが。
執権は侍所とは関係ない
義時が継いだ時は和田が別当だった
金窪が所しでこれを部下にしたが金窪は御家人だしな
和田が滅んでしばらくしたら、泰時を別当にしてる
60 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 14:39:24.75
名前が出て来るような御内人はみんな御家人なんだよな。
金窪も安東も長崎も尾藤も諏訪も。
得宗の家臣であるけど、御所からみて陪臣ではない。
藤原定家が九条家の家司であると同時に朝臣であったのと全く同じ事。
江戸時代より前は主君が複数居る事が普通だったから不思議でもなんでもないんだが、
江戸時代以後は主君は1人になってしまったからこの辺誤解する人が未だに多い。
61 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 15:11:56.24
>>59 執権ってのは、政所と侍所の別当を統合したポスト。
>>60 問題なのは、関実忠と平盛綱だな。
彼らの出目が良く判らない。関実忠と平盛綱は、兄弟とされる。
内管領長崎氏の祖でもある。
62 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 15:16:43.45
長崎って名字だから、古くからの北条家の家臣じゃないかな。
北条のすぐ近くに長崎って地名があるんだよね。
そこから得宗家が権力握るに従って御家人に格上げしてもらったんだろう。
臣籍降下した一族以外にも平性っているのかな?
64 :
日本@名無史さん:2014/07/14(月) 20:58:16.06
いるよ。
『中世的世界の形成』読むと、開発領主の息子が突然名乗っている。
65 :
日本@名無史さん:2014/07/15(火) 07:06:29.39
奥州の戸沢とかがそんな感じか。
>>62 かつての清水市に長崎と楠っていう地名が近くにあって、長崎氏と楠氏はそこを名字の地としてるんじゃないかって説もあるね。
あの辺の在地武士が軒並み梶原討伐に加担して打ち取ったっていう。
66 :
日本@名無史さん:2014/07/15(火) 14:01:41.97
長崎県
67 :
日本@名無史さん:2014/07/15(火) 15:36:44.21
>>62 さてさて、内管領長崎(平)氏の出自は、ドレだろうね?
平資盛血統説(自称)
北条氏血統説(細川重男説)
伊勢平氏系関氏説(一応系図)
伊豆北条館の近所(長崎郷)の土豪(主達)説(細川重男説)
etc
68 :
日本@名無史さん:2014/07/15(火) 15:37:34.17
(
>>67の続き)
平資盛-平盛国-平盛綱
と言う系図になっているが、どうなんだろ?
殿下乗合事件で、資盛が13歳の頃から6年間伊勢に流されていたのは
事実だが、この間に一人の男子が出来てそれが盛国だと言うのには、疑問が多い。
古い時代とは言え、子供が出来るのには、少し早すぎる感じもするし、
平盛綱が、別名で盛国と言われていたとwikiにはあるから、盛国が、
資盛の子であったとの説には信憑性が薄い。
関氏の祖とされる関実忠は、平実忠とも言われ御内人で平盛綱と異母兄弟にあたる。
伊勢の「瑞光寺」や「加太氏系図」などによれば、実忠は、
盛国の子国房の長子となっているから、余計にワケがわからない。
平実忠と平盛綱は、共に吾妻鏡に北条氏重臣として記述されており、
当時、鎌倉にあって、北条氏の重臣として活躍してたのは事実だろう。
承久の乱でも活躍している。
平実忠は、北条時政の娘と結婚しており、それで北条氏との姻戚関係が出来たらしい。
これらの史実では、実忠は、伊勢の関に所領を得て、関氏になり、
平盛綱は、伊豆の長崎郷に所領を得て、長崎氏の祖になってる。
69 :
日本@名無史さん:2014/07/15(火) 16:17:47.96
ホントに系図は難しいよな
アントニオ猪木だって出生地が2箇所あるそうだし、
小保方さんだって誕生日に2つの説があるのだからなww
70 :
日本@名無史さん:2014/07/15(火) 16:26:54.75
>>69 w
戸籍のある現代においてそうだからなw
現代でも戸籍がなくなりゃ、本人死後にはもうわからなくなる。
系図が複雑になるのは当然なんだな。
皇室とか貴族とかが例外と考えるべきだね。
71 :
日本@名無史さん:2014/07/15(火) 17:18:39.31
平資盛って子供は居ないはずだけどね。
平将門の乱に出てきた、興世王とか源護とかも正確な出自はわからんらしいから
この時代でさえわからんのだからな
>>68 時政の娘って、政子・阿波局・足利義兼室・畠山重忠室・稲毛重成室
宇都宮頼綱室・平賀朝雅室・河野通信室・大岡時親室・滋野井実宣室
坊門忠清室の11人じゃなかったっけ?
74 :
日本@名無史さん:2014/07/15(火) 21:44:25.83
>>50>>53 北条義時と梶原景時は、やっていることが一緒。
二人とも、東国系豪族的武士団を潰しにかかっている。
強硬な中央集権論者でもある。
>>22にあるように守護定期交代制を導入しようとしている。
これは、源頼朝の家子(親衛隊)筆頭だから出てきた発想だろう。
律令制を知っている頼朝が、以前から考案しており、それを義時が実行した。
その点でも時政と対立していたと思う。
これは、同時期のヨーロッパ(フランク王国や東ローマ帝国)でも、まだ導入されて無い制度だ。
75 :
日本@名無史さん:2014/07/16(水) 12:18:48.78
>>74 同感だな
ただ北条義時は他人から慕われていたのにたいして
梶原景時は本当に性格が悪かったのだろうな
76 :
日本@名無史さん:2014/07/16(水) 12:38:24.71
北条氏皆殺しの巻〜
そいや執権北条氏も伊勢北条氏もどっちも皆殺しに近いな
77 :
日本@名無史さん:2014/07/16(水) 18:40:04.18
>>74-75 執権北条氏は、中央集権志向だと思うが、
かといって中国の柵法体制に入りたがっている訳ではない。
中華帝国からむしろ離脱して、日本の独自性を高めつつ、中央集権を目指している。
その点が、歴史的にも評価されているのではないのだろうか?
78 :
日本@名無史さん:2014/07/17(木) 09:59:48.47
和田義盛の乱で本家筋の三浦氏を一緒に潰せていたら、
北条義時は、守護定期交代制を実現出来ていたかも知れないね。
でも、三浦氏は逃げてしまい、
その後には、千葉成胤、三浦義村、小山朝政らがスクラムを組んで
先祖代々の守護職や朝廷地方官職の任命書などの書類を一斉に提出、
既得権を見せ付けて、抵抗してる。
和田氏だけでは規模が小さいし、小山朝政も北条義時の宇都宮氏追討を実行しなかった。
義時は、苛烈な中央集権志向ではあるけど、まだまだ執権北条氏の権力は、弱かったのか?
79 :
日本@名無史さん:2014/07/17(木) 10:06:50.22
>>78 執権北条氏の権力が強大になったのは時宗以後。
平頼綱を滅ぼした貞時の時に最大になる。
80 :
日本@名無史さん:2014/07/17(木) 10:21:04.30
>>79 でも貞時は、嘉元の乱で北条氏傍流の
討伐に大失敗して、政治への関心を失う。
しかも内管領長崎氏までプレイバックしてしまう。
81 :
日本@名無史さん:2014/07/17(木) 10:33:46.46
あらゆる意味でピークが貞時なんだよね。
酒に溺れる貞時への金澤貞顕のぼやきの日記が後々を考えると哀しい。
ただ、得宗家自体の力は強大なまま幕末へ。
そして突然の滅亡と。
82 :
日本@名無史さん:2014/07/17(木) 10:48:24.66
貞ポア
夏目三久御推薦北条政子
将軍家が絶えて事実上の源氏嫡流だった足利の身内を人質に取るなんて
馬の骨の家柄が傲りすぎと思われても仕方ない
85 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 02:05:18.38
執権は政所と侍所とは関係ないよ
あれは摂政みたいなもので独自のポスト
86 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 07:01:30.82
>>84 足利は嫡流ではないよ
そもそも源氏将軍よりも身分の高い摂家将軍・親王将軍をいただいているのだから
足利ごときを担ぎ上げる理由もなかった
血統から言えば嫡流じゃないけど、鎌倉で将軍家に次ぐ源氏といえば足利しかいない
88 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 08:39:04.85
>>87 そんなの足利が天下とった後の後付けの話でしょ。
当時は親王将軍が定着してたので、シャッポとして清和源氏の価値なんてなかったはずだよ。
89 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 10:07:35.98
宮将軍を立てて北条氏の独裁か?
それよりなんで北条氏が将軍にならなかったのか不思議だわ
それから鏑矢ってのは元は安東氏らが絡む俘囚文化の馬の
遠がけの風習やんけ
90 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 10:09:39.37
武士の勃興には源頼義、安倍貞任、清原家衡
この辺の年代がかなり関わってきてるのね
91 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 10:38:19.36
あら面白い
9世紀末の末期古墳の消滅のあとに安倍貞任が現れているんだな
92 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 10:39:08.35
10世紀だった
93 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 11:15:39.93
>>87 源氏の門葉としては平賀や安田、加賀美などのほうが足利よりも
「吾妻鏡」の名前の序列が上なんだよね
頼朝流に次ぐ源氏の嫡流が足利だなんてことはなかったはず
94 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 13:01:14.09
>>93 ただ他は色々とごたごたがあって潰されたけど、
足利だけは生き残ったからな
95 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 14:15:49.99
藤原秀衡のときの日光山と赤城山の神の抗争ってなんだ?
96 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 14:22:03.86
下野に勢力を伸ばしたのは藤原氏の方よな
もとは熊野別棟などの山伏ってのは分かりました
97 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 14:54:44.51
>>94 足利は北条一門のような顔してたからな
足利が鎌倉幕府でそこそこの扱い受けていたのは
北条の姻族としてだろ
鎌倉政権が倒されることなく、得宗独裁がさらに強化されていったとしたら、
北条氏はやがて守邦親王を追放し、自ら鎌倉殿となる日が来たのだろうか。
そして、相模守のような卑官ではなく、右近衛大将とか、権大納言といった
官位を得て、鎌倉殿にふさわしい家格を獲得するに至ったのだろうか。
99 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 01:52:07.86
>>98 そんな事したら立場が危うくなるのでは?
宮将軍を奉じることが権威の保障となるのだから
100 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 04:59:22.98
>>98 藤原摂関家が権力を持っても天皇を追放しなかったように
北条は執権の座を守り続けたと思う
当時は室町・江戸幕府の例もなくあるのは
天皇を補佐する摂関の例のみだし
101 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 14:54:15.51
やっぱり鎌倉だと、
後の後醍醐みたいに、中華王朝的な中央集権の
絶対王権の発想はわかなかっただろうな
いくら北条絶対王朝が成立しても、貨幣の発行すら思いつかなかった
だろうな
102 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 15:00:29.33
中華王朝の謎は解けた^ ^
103 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 15:29:57.30
>>101 貨幣の発行なんか日本では8〜10世紀に朝廷がやった後
豊臣秀吉まで作られていない
基本的には中国からの輸入銭だった
104 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 15:35:11.59
戦国大名は領国内で甲州金とか発行してるけどな。
また、秀吉の天正大判は贈答品用で、庶民が日常的に用いる銭貨は発行していない。
105 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 15:36:32.61
つうか中国こそ貝と羊だったくせによくいうな
106 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 15:40:16.05
104
戦国時代は石見銀山の路銀の時代ですわ
甲州金は知行代わりの報酬だったからそりゃそうだわな
107 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 15:42:58.77
中国の貨幣文化は北のシルクロードから入ってきたんですわ
108 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 15:50:42.36
>>103 しかし、後醍醐は貨幣どころか、紙幣まで検討していたらしいからな
やっぱり京都と鎌倉では経済に対する嗅覚が違うのかねぇ
109 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 15:54:55.77
あいかわらず煽るだけで中身がないな
110 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 15:54:53.33
あいかわらず煽るだけで中身がないな
111 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 17:51:14.79
鎌倉時代の手形の流通はすごいな
世界一だろう
112 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 21:09:48.67
さてさて、内管領長崎(平)氏の出自は、ドレだろうね?
平資盛血統説(自称)
北条氏血統説(細川重男説)
伊勢平氏系関氏説(一応系図)
伊豆北条館の近所(長崎郷)の土豪(主達)説(細川重男説)
etc
113 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 21:20:16.62
遠征計画を掲げていた北条義政が亡くなり
その一方で専守防衛を掲げていた安達泰盛の威光が鰻登りになったんだよな
115 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 21:30:34.06
今年出版された中世の人物 治承〜文治の内乱と鎌倉幕府の成立(清文堂出版)の
「北条時政と牧の方」落合義明著 読んだ人いる?
感想聞かせてよ。
内管領の「平頼綱」という名前を初めて見たとき、「あれっ?」と思った人は多いだろうな。
「源頼朝」のように本姓を名乗っている人は主君筋の高貴な人で、家人は当然
苗字を名乗っているという先入観がある。
だから、陪臣の下卑な人物が平氏の本姓で呼ばれていることに違和感を覚えるんだと思う。
117 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 05:14:32.91
>>98 北条氏が名実ともに征夷大将軍、鎌倉殿になるとすれば、
それは一回幕府が滅んで再生できた場合だろう
中先代の乱が成功して北条時行の名の元で持明院統を担いで
後醍醐一派を放逐できたら第二次鎌倉幕府ができて
憚ることなく鎌倉殿として右大将にも将軍にもなれるだろう
118 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 05:27:58.86
>>117 北条義時は承久の乱で朝廷に勝利しているから幕府再生がやれなくはなかったんだよね
片田舎出身の足利があっさり征夷大将軍になれているから北条でもなれそうだと思われるが
鎌倉時代末期は80年にわたって親王将軍で征夷大将軍の地位は高騰していた
足利氏は片田舎の関東を出て都に定住し、天皇の養父になったり、公家と婚姻したりして家格を高めた
北条が関東を捨てない限り征夷大将軍はなかったと思う
「武家の棟梁は皇族の血筋」という価値観は
結局詐称してまで源氏を称した徳川まで崩れなかった訳だから、
どの道北条は神輿の補佐官の道しかなかったと思う。
120 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 06:43:41.49
>>119 北条は桓武平氏を称していたのだから皇族の血筋だよ
121 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 06:55:49.12
北條得宗家に真の政治的権威が発生したのは承久の変で朝廷を倒したからだよ。
この時、将軍という存在が事実上空白だったのにも関わらず朝廷を妥当したので、義時自身に頼朝並の権威が発生した。
だから義時の後継者にはあの義時の後継者であるという権威が継承されて行ったんだ。
義時の後継者であるという事自体に幕府統率者としての政治的権威があるのだから、
もはや得宗自身の官位や幕府における地位の上下にほとんど意味がなくなったんだよ。
時頼以後、得宗が執権じゃなくなっても全く政治的権力にに変わりがなかったのはそういうこと。
そしてその北条家は、幕府において執権以上の地位に執着しなかったから将軍にならなかっただけのことだよ。
当時の公家の記録に、朝廷では北条家の望む官位を与えようとしてたが、北条家では相模守あたり以上の官位を望まなかったとある。
幕府内の地位に関しても全く同じ姿勢だったんだろう。
それは「自らに権威を付与すると将軍家みたいに政治の道具にされて抹殺される」という懸念があったからかも
源氏を道具にしてきた張本人なんだから
123 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 07:15:55.77
>>122 それはあるかもね。
毛利が中国の主になっても、安芸の国人との間では一揆関係のままだった。
成り上がった権力者の保身なんだろうね。
>>116 学習マンガ日本の歴史を読んでいた小学生の頃
「あれっ?平氏は滅んだんじゃ?」と思った
125 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 08:28:24.42
長崎氏といえばわかりやすいんだけどな
得宗家は政治的権威を獲得し、地位においても一定の節度を持っていたにも関わらず、北条氏は滅亡してしまった。
滅亡の経過を見ると、北条氏一門だけが武士社会から孤立し、人望を完全に失っていたように見える。
承久の乱で抜群の指導力を発揮したころと対照的だ。
滅亡を防ぐにはどうすればよかったのか?
得宗独裁を抑制し、評定衆に他家の御家人も入れて、「みんなの鎌倉幕府」というスタンスを崩してはいけなかったのではないか?
>>119 摂家将軍以前にも、秀郷流藤原氏等々、皇族の血筋でない棟梁はいくらでも
存在しているよ。
128 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 12:09:10.42
>>126 あの時代は、バリバリの土地こそ命の価値観の時代だったからねぇ
しかも相続が均等相続、
あの時代の技術力では土地の開拓だって限りがあるから、時代が下るにしたがって
分家が力をもち挙句相続争い、土地争いが多発して、収拾がつかなくなるのは
目に見えていたからな
鎌倉幕府の主要任務は、土地争い、相続争いの調停だからな
だから滅亡を避けるには、土地だけじゃなしに、銭の経済を取り込んで、
商業利権にも手を広げて、徳川幕府みたいに貨幣を発行して、
公儀という概念を成立させて、絶対王朝的な包括的支配体制を確立して、
武家の官位と公家の官位、寺社仏閣の官位を総合的に支配して
権威と実権の分離を徹底させるような体制を確立させるようにすべき
だったと思う。徳川幕府的なものになるべきだったと思う。
129 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 13:19:19.91
>>128 北条得宗体制の崩壊の原因は元寇だったと高校の授業で習った
御恩と奉公だったのに、元寇の場合、元軍を追い返しただけで
新たに取得した土地がなかったために
御家人の奉公に報いる新たな土地の配分ができなかった
結果、御家人達の大きな不満になったと
130 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 14:36:13.21
>>126 >みんなの鎌倉幕府
お前は、ヨシミか?wwwwwwwww
それとも浅尾か?wwwwwwwwwwwww
江田憲司も含めて、みんなダメ(by中野剛志さん)だろ!wwwwwwwwww
131 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 15:09:53.80
>>117-118 後鳥羽上皇は、一度も「倒幕」とは言ってない。義時追討しか言ってない。
後鳥羽上皇の狙いは、三浦氏離反による鎌倉幕府分裂と朝廷の支配力(特に土地の)回復でしょう。
義時もそれが判っていたから、和田氏の乱で本家筋の三浦氏ごと潰したかった訳で。
慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの後も「徳川慶喜追討令」で官軍が江戸に進撃している。
>>128 >土地だけじゃなしに、銭の経済を取り込んで
それは伊豆北条氏時代から判っていたんじゃないかな?
つまり伊豆北条氏の所領は、北条郷だけで、これでは、家中が食べていくだけでやっと。
だから伊豆北条氏は、漁業とか、海運業とかも営んでいて、キャッシュフォローを得る為の
経済活動にもかなり力を入れていたと思う。もちろんこれは伊豆全般の武士にも言える話だし、
伊勢平氏全般が、貿易や漁業に力を入れている。
北条氏は、源平合戦の後に所領を増やしていくが、これらの所領は、海辺だったり河川付近
だったり港湾施設があったりする場所が多い。これも北条氏全体が、農作物を年貢として
取り立てるだけではなくて、自ら経済活動を行い、キャッシュフォローを得易い所領を獲得
していたと思われる。また、同時に通行税も徴収していたと思う。
つまり得宗専制体制そのものが、農業生産物だけの確保から、
キャッシュフォローと農業の双方を確保する体制に変わる為のモノだったと思う。
132 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 15:26:21.27
>>129 >御家人の奉公に報いる新たな土地の配分ができなかった
だから、
>>113にある鎌倉幕府の高麗遠征計画が出てきた訳で。
安達泰盛が、恩賞の為の得宗家所領の分配を
言い出したので、内管領長崎氏がブチ切れた訳だし。
でも安達氏を滅ぼして、その所領を分配したから、
実はかなりの割合で元寇の恩賞は、実は給付出来ていると言う説もある。
鎌倉幕府滅亡の実態は、分割相続の進展繰り返しで
御家人だけでなく、御内人も分裂動揺し始めたからでしょうね。
悪党跋扈は、元寇少し前から出始めていましたからね。
>>131 北条だけでなく、当時の武士たちは「交通の要衝」を押さえておくのに熱心だったらしい。
例えば新田は寺尾城に籠った時期があったが
ここは街道が交錯する場所にあったらしい。
佐竹、上総、千葉が絡んだ相馬御厨も水産資源もとれると同時に水運の交通要衝だったらしい。
134 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 15:40:25.86
>>114 元寇の恩賞分配を巡って、北条義政と
安達泰盛は、まったく考えが違ったんでしょうね。
そして、北条義政死後に平頼綱が台頭して来る。
135 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 15:51:33.21
>>133 既に保有する所領の隣地の荘園を獲得し、
両方を一体化させて農地の規模を大きくする事もやってますけどね。
飛び地で所領を確保する御家人と
特定の場所に集中して所領を確保する御家人と両方居ます。
>>135 その隣接地作戦ってもしかして荘園領主や耕作人と連携してやってないかなあ?
昔読んだ荘園関係の本で、荘園の周りの公領を取り込む動きがあったり、その際そこの住民も荘園に入ることを望んだ場合もあった
と読んだことがあったから。
ところで一昔前だと武士=開発農場主だったけど最近はそうとは言い切れないみたいだね。
上みたいに物流商業に手をだしたり、
荘園の管理してるといってもその荘園が牧場で馬飼ってたり、漁業地だったり、鉱山だったりする場合もあるから。
137 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 18:13:13.43
>>136 農地が荒れてなくて、そのまま耕作地が拡大すれば、
経費も削減されるし、生産性は上がりますからね。隣地取込は当然あるでしょう。
しかし公領を取り込んだら、国衙と戦争になりかねませんけど、
平将門の乱とか平忠常の乱の発生原因の一旦もそれっぽいですよね。
将門も忠常も農耕地の開発にはかなり力を入れていた武士ですね。
武士が色んな事業に手を出すのは、その地域特性もあると思いますね。
甲斐源氏とか初期の徳川幕府の収入のポートフォリオみれば、鉱工業の割合がかなり大きそうですし。
得宗家が、物流商業に手を出したのは、伊豆北条氏時代からその経験があるのと、
同時に、もう一つは、執権北条氏として所領が拡大し、売る物(農作物)が増えたので、
下流に進出した面もあるかと思います。生産だけでなくて販売までやってしまえば利益率も上がりますし。
時政の血筋って北条の中でも傍流だったんでしょ?
本流はどこへ消えたんだ?
139 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 18:35:06.82
>>132 >安達泰盛が、恩賞の為の得宗家所領の分配を
>言い出したので、内管領長崎氏がブチ切れた訳だし。
安達泰盛ってフランス革命のロベスピエールみたいだね。
ロベスピエールの没落(ジャコバン派の分裂)は、
都市部貧民(サンキュロット)に反革命派の貴族やブルジョワの資産を分配しようとしたからだ。
ロベスピエールが成立を目指したヴァントーズ法ってのは、
反革命容疑者の資産没収と分配を定めた法律だったからね。
140 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 18:50:01.77
平頼綱はフーシェかな。
フーシェよりずっとおっかないけどねw
141 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 19:38:28.05
安達泰盛が、恩賞の為の得宗家所領の分配を
言い出しのは、やはり、得宗家の所領拡大を危惧したからかな?
他の御家人とのバランスを考えたとか。
安達泰盛と足利家時が、近かったのも気に成るところ。
平頼綱ら御内人は、その点を危惧したのかもね。
142 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 19:46:53.30
いい加減あきたわほんとによ
143 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 20:07:47.59
きっと
>>142は秋田城介に引っ掛けた洒落なんだよ
>>137 その公領取り込みに都の荘園領主を使っていたんじゃないかと読んだ記憶がある。
加納(うろ覚え)や一部だけ荘園に年貢で他は国府に納入するグレーゾーンを
どんどん荘園に組み込んでいったと。
それを都で手続きを踏ませて、正当に荘園化させたと。
146 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 00:19:16.08
>>145 奥州藤原氏ナンかは、陸奥や出羽の押領史の権限と
>>145の書き込みの様な感じで所領を増やしていったみたいだけどね。
それでも荘園領主(摂関家)と分け前を巡って揉めているし、
平将門や忠常は、結局国衙と揉めて大戦争になっている。
荘園だと朝廷や国衙の発言権は残るし、武士が幕府を作ったのも、その点をクリアーする為だろうな。
将軍御料国になれば、国司の人事権は幕府だし、結構御家人に有利になったと思う。
幕府末期(1300年代ごろ)において、北条氏は「このままではまずい、いずれ倒される」といった危機感のようなものはあったのだろうか。
幕府のポストは一門でほぼ独占していたし、有力な御家人はほぼ殲滅したし、かなり安泰と感じていたのではと思う。
1330年を過ぎたころでも、自分たちの体制はずっと続くと考えていたのでは?
「これはやばい!」と思ったのは、滅亡も迫った分倍河原の合戦のころではないか。
>>147 皇族将軍に源性つけた時から危機感は感じてたんじゃないか
149 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 14:45:23.75
内管領長崎氏による御内人のコンロトールが、効かなくなってから、幕府倒壊が早かった。
蝦夷管領の安藤氏の乱の時に際し、内管領長崎氏は、当事者双方から賄賂を受取、
その結果紛争の激化(安藤氏の乱)を招き、幕府の権威を低下させたと言われる。
しかし、これは幕府と言うよりも内管領長崎氏と得宗家公文所への信頼性を失わせたといえる。
これで御内人の内管領長崎氏と得宗家公文所への信頼が失墜し、
御内人は、得宗家からの離反を開始し、外様御家人の相対的な復権が始まった。
安藤氏の乱では、御内人の工藤祐貞が追討に派遣されたが、鎮圧しきれず、
悪党が引き続き蜂起し、翌1327年には幕府軍として外様御家人の宇都宮高貞、
小田高知が再び派遣され、ようやく鎮圧に漕ぎ着けた。
安藤氏の内紛は御内人の内紛であり、これを内管領長崎氏や得宗家公文所の
政治力だけでは処理しきれず、外様御家人の助力を得なければならなかった事自体、
御内専制体制(内管領専制体制)の崩壊を象徴するものであったと指摘出来る。
150 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 16:05:05.74
御内人は内管領の下、鉄の団結を誇っていた風の説明をよく見るけど
あれは違っているのか
151 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 16:20:28.09
安藤氏って安倍氏ってあるが安倍比羅夫につながる方か
蝦夷を服属させ粛慎と戦争かあ
152 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 17:12:49.13
平頼綱のあたりまではそうだろうけど、組織が強大化すると、いろんな奴らが御内人として参入してくる。
三浦の残党とか北条一門の人間まで御内人になってくるようになると鉄の団結なんてなくなるだろうね。
153 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 17:20:19.95
平禅門の乱
鎌倉時代にまた詳しくなったね!
154 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 19:22:00.57
>>150>>152 御内人が団結していたのは、三浦氏とか安達氏とかの
明確な敵(外様御家人)が居た時点までと言う指摘すらある。
安達氏が一度滅びると、得宗の北条貞時は、今度は、内管領長崎氏を滅ぼしている。
そして得宗家傍流が、内管領(内執権)に就いている。そういう意味では、御内人や
得宗家公文所も作っては壊しの連続であり、安定的なモノではない。
後醍醐天皇に味方した楠木正成も御内人と言われており、
鎌倉時代後半には、全国に散らばり、膨大な人数になっていた。
その為に、得宗家公文所が管理し切れなくなっていた可能性もある。
しかも鎌倉時代後期の御内人には、得宗家公文所の世襲ポストに
基づく家格や階層が出来ており、御内宿老層(執事家や執事補佐家)と
一般御内人の格差が大きくなっていた。
155 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 19:56:19.22
鎌倉時代中期まで流動的だった御内人の家格秩序も、
鎌倉時代後期には、固定化されて、機能不全を起こしていたのか?
内管領も後半は、長崎氏ばっかりだもんな。 尾藤とか諏訪とかは、如何してたんだろうね。
156 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 20:03:50.21
でそのあと、どうやって話を繋げていくの?
格差の固定化って、場合によっては安定につながるのでは?
平安時代後期以降の公家社会とか、江戸時代の武家社会とか。
158 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 22:24:44.75
>>157 外圧とか、社会構造の変化には弱いのでは?
159 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 22:52:31.19
157
安定してたと思うか?
京都あたりだって洛外は死体の山だぞ
160 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 22:54:34.44
本当に歴史隠してるから表にでないんだなあ
161 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 22:58:04.99
四方に門があってありゃ一つの城塞都市だからな
各地の有力者=長者=棟梁と連携してたんであってな
162 :
日本@名無史さん:2014/07/22(火) 03:35:24.88
霜月騒動までは、御内人も結束していたと思うし、
家格秩序だけではなくて、御内宿老層の人事も結構実力主義な面があったのでは?
そうでないと、安達や足利に負けてしまう。
北条家傍流は独立採算制で得宗家には必ずしも従ってない。
でも、安達が滅び、足利もおとなしくなって、外様御家人の勢力が極端に弱体化。
それで御内人サイドも前例踏襲の固定された
家格秩序で得宗家公文所の幹部人事が決まり始めたのかも。
その結果が鎌倉幕府後期の内管領(長崎氏)専制体制とも言える。
163 :
日本@名無史さん:2014/07/22(火) 10:18:58.44
内管領が長崎氏のほぼ世襲になったけど、
内管領以外に得宗家の公文所や御内侍所などの役所では
どんな役職があってそれに就けた御内人の家柄ってどんな感じ?
164 :
日本@名無史さん:2014/07/22(火) 15:30:22.40
>>157 コイツは、ソ連の崩壊とか中国のバブル崩壊とか知らん奴なんだろ。
いまの中国経済は、かなりヤバイし、
汚職摘発もあって、周近平政権の政権基盤が脆弱なんだけど。
165 :
日本@名無史さん:2014/07/22(火) 15:38:48.27
>>163 得宗家公文所は良く聞くけど、
御内侍所なんて始めて聞く。そんな官庁と言うか組織が有ったのかね?
得宗家公文所は、得宗家の家政機関。ボスは、内管領。
全国の得宗家の所領を管理するホールディングカンパニー(持株会社)。
幕末には、得宗家の所領は、全国300箇所にまで及んでいた。
昔の財閥本社や国土計画(西武鉄道グループ本社)みたいなモノ。
166 :
日本@名無史さん:2014/07/22(火) 15:42:42.59
公文所ってのは、結局、今で言うところの
オフィス(事務所)って意味合いだからね。
ファミリーオフィスとかファミリーカンパニーって感じ。
167 :
日本@名無史さん:2014/07/22(火) 16:05:40.71
高時の嫡男、邦時の生母って御内人五大院氏の出なんだけど
長崎円喜や高資は邦時が得宗になったら五大院に内管領の座を
奪われるかもって危惧は抱かなかったのか
168 :
日本@名無史さん:2014/07/22(火) 16:32:20.33
内管領って得宗の外戚がなる地位じゃないだろ
169 :
日本@名無史さん:2014/07/22(火) 16:55:09.62
カンパニー松尾(高卒) 溜池ゴロー(明大卒)
江戸時代の安定は法治主義の推進と技術革新による農業生産増大に依るところが大きいのでは
171 :
日本@名無史さん:2014/07/22(火) 19:08:14.30
>>179 江戸時代後半は、人口が一定なのに、
米増産ばっかりやっていたから、米余りで米価の下落傾向が続いていた。
その為に幕府の税収も下がり始め、鉱工業収入(金鉱山)の収入も減少、
鎖国だから関税収入は無いし、江戸幕府後期は、貨幣改鋳益に依存する税収構造になっていた。
今でも国債を日銀が買っているが、それに似た話し。
むしろ開国した幕末の方が、幕府の税収は、関税収入が増えて良くなっていた。
徳川慶喜政権で、莫大な費用をかけて慶応の改革(工業化)を
開始したが、以外と幕府倒壊時の財政は、破綻していなかったと言う。
江戸時代後半には、米価が安くなった代わりに、
米加工食品が増えたけどね。日本酒とかせんべいとか。
172 :
日本@名無史さん:2014/07/22(火) 19:09:21.39
173 :
日本@名無史さん:2014/07/23(水) 03:01:06.38
>>167 高時としては、そうしたかったから、長崎円喜を討とうとしたのかも。
でも、事前の情報漏れで大失敗した。
内管領と侍所の次官(所司)を兼任させたら、そりゃ実権奪われるわな。
内管領と侍所や政所の所司は、双方とも御内人でも良いけど、別人にはして置くべきだった。
174 :
日本@名無史さん:
>>164を一部修正します。
周近平政権 → 習近平政権