邪馬台国畿内説 Part14

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952日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:01:06.19
葛城襲津彦(かつらぎ の そつひこ、曽都毘古・沙至比跪)、
彼が幸彦なのは確定として、山幸彦と海幸彦のどちらなんだろ?
953日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:12:35.48
葛城襲津彦が室宮山の被葬者、即ち大物主で、意富多多泥古が室猫塚の被葬者ってことになるのかな?
954日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:16:16.46
意富は多氏、多氏の本貫は関東なんだよなぁ
955日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:31:39.84
玉前神社の伝承が凄く重みを増してくるなぁ
956日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:38:15.59
しかし8世紀に編纂された記紀の年代は信じないくせに、
12世紀に編纂された三国史記の年代を無条件に信じてる奴らが多いのは何故だろ?
舶来信仰と自虐史観のコラボなのかな?
957日本@名無史さん:2014/06/19(木) 22:52:46.35
>>952

襲津彦(そつひこ)の新羅訛りが沙至比跪(サチヒコ)
日本SOTU→新羅SATI
O→A
U→I

新羅の王号「尼師今(ニシキン)」も日本語の新羅訛り
主君(ぬしきみ)→尼師今(ニシキン)
NUSIKIMI→NISIKIN
U→I
958ローガン:2014/06/20(金) 14:22:05.63
>>948
>基本的に仮説を構築する上で材料は少なくするのがベターという「オッカムの剃刀」的な考え方をしてる自分には首肯出来かねる話やな

なら、私の意見がベター。
六年の黄幢に対して、余分な仮定を付加する必要がないから。
史料実態には、女王に対する援軍派遣などない。
旗が来ただけ。届けられた理由は前に書いてある通り、六年に詔がでているから。
六年に詔がでた理由は、前に書いてある通り、韓地で郡が苦戦していたから。
明解。

以蠻夷攻蠻夷中國之形也
という訳だ。

 
  
959日本@名無史さん:2014/06/20(金) 14:29:26.73
956
別に信じてないわけじゃなくてグルグルグルグ〜ルが多いから比較対象としていいってことじゃねえの
960日本@名無史さん:2014/06/20(金) 14:30:33.48
ブタヨがいろいろちょっかいかけてたのももう暴露てるしな
961日本@名無史さん:2014/06/20(金) 14:37:29.12
ほほう、今日のローガンは、畿内説なんだな。
962日本@名無史さん:2014/06/20(金) 14:47:40.33
詔ねえ、、、やばやば
963日本@名無史さん:2014/06/20(金) 14:49:32.34
魏志倭人伝の記述と日本書紀の記述を照らし合せてみるのなら
狗奴国王は、許乃国(このくに)の国主だった武埴安彦命。
彼は孝元天皇の庶子だった。

彼の勢力範囲は、山背と河内に飛び地にあった。
山背の宇治のあたり(許乃国)に本拠地があり
河内のほうは、彼の母方の豪族や彼の正室の出身地であった。
964日本@名無史さん:2014/06/20(金) 14:59:11.69
神武天皇の勢力がなかったなんて考えられないもんな
じゃなきゃ子孫の名乗りがあるわけがない
記入する必要もないしな
965ローガン:2014/06/20(金) 15:10:28.30
広域ネットワーク社会で、西側からの文物流入を活性化させようとして、
東海は、マキムク造営に積極参加したものの盟主になれなかった。
これが、「素不和」。
東海の搬入土器が多いにもかかわらず、祭祀土器が吉備由来であることも、この推論を裏付ける。
966日本@名無史さん:2014/06/20(金) 18:03:11.05
正始八年の条のところがさっぱり読み込めていないのも眼が悪しいせいか
967孝霊厨:2014/06/20(金) 18:19:47.89
倭人伝に照らせあわすなら、瀬戸内連合が主の女王国
対狗奴国でいいと思うんだけどね。トヨがたつまでの話で。
河内湖や奈良盆地の南北で対立してたのではないかと。
まぁ対立と言っても主導権争い程度のもの。
百襲姫の予知逸話は作為的な部分を感じるしな。
968孝霊厨:2014/06/20(金) 18:32:28.62
基本的には今の記紀の歴史は太平洋側の勢力=元々狗奴国側が
主導権をもって成立してるのではないか?
それなら女王の存在を消したい理由もわかるし、
おそらくルーツである、南九州からの
東征話を組み入れたのも納得だろう。
わざわざ紀伊半島を回って南から攻めてるしな。
969日本@名無史さん:2014/06/20(金) 18:51:26.71
紀伊半島をまわってというより瀬戸内を出たのが大きかったと思うんだよね
神武天皇の兄は海で死んでるようだし
陸が両側に見える航海と比べ黒潮にさらわれたらもう戻れないというのは
嫌というほど知ってたんじゃないかな
970日本@名無史さん:2014/06/20(金) 20:09:37.02
多賀大社の多って多氏の多で、多氏を祀る神社なのかなぁ
多賀大社の祭神はアマテラスと山幸海幸だけど、
山幸海幸は玉前神社の伝承に残る
常陸出身の多氏が一時は天下を取って、その名残が鹿島信仰に残ってるのかなぁ
後の親王任国とも辻褄が合うわけで
日向髪長媛が諸悪の根元かな
971日本@名無史さん:2014/06/20(金) 20:16:50.17
「お伊勢参らばお多賀をまいれ、お伊勢お多賀の子でござる」
この伝承って意味深だよなぁ
972日本@名無史さん:2014/06/20(金) 20:30:14.52
玖賀耳之御笠の玖賀って勾玉のクガなのかなぁ
匂玉で祭祀を行う勢力
973日本@名無史さん:2014/06/20(金) 21:14:15.25
オッパイは正義、これが今も昔も変わらない真理ってことだな
974日本@名無史さん:2014/06/21(土) 00:03:27.73
>>958 老眼

正直意味が良くわからない
(老眼本人でなくてもいいから分かってる奴はかいつまんで説明してもらえないだろうか?)

要するに六年の詔・黄幢は
「これをもって半島に馳せ参じよ」
というもので
八年の詔・黄(+檄による告諭)は
倭国内の揉め事の解決のために出されたという話かな?

しかし六年の要請に対し八年の返答ではいくらなんでもタイムラグがありすぎなんじゃないのか?
例えそれまでのらりくらりかわしてたとしても
長引けば長引くほど関係の悪化の要因になるし

魏朝は結局断られたのに相手の国内の揉め事の解決に関しては骨を折ってやるというのは
倭国側が一方的に利益を得てる話だなwwww
975日本@名無史さん:2014/06/21(土) 00:07:30.58
黄幢を貰ったのは女王国じゃなくて倭王国じゃなかったっけ?
976ローガン:2014/06/21(土) 01:23:57.73
>>974
>要するに六年の詔・黄幢は
「これをもって半島に馳せ参じよ」
というもので 八年の詔・黄(+檄による告諭)は
倭国内の揉め事の解決のために出されたという話かな

八年に詔がだされたんじゃない。
黄幢下賜の詔が出たのが六年。その詔書と黄幢を携えた使者の来倭が、八年以降。
よって、詔が、八年に太守になった王キに説明した「相攻撃状」に起因するものではないということ。
君の大好きな「ベッカムの髭反り」
六年黄幢について、よけいな仮定を設けない、シンプルな話。
977日本@名無史さん:2014/06/21(土) 01:43:54.77
>>976 老眼

まあ六年と八年で二つの黄幢を想定した場合
前者のものは倭国側でどのように使ったかについての説明がいるだろうから

それを一つにしたほうが説明が少なくて済むのは道理かもしれんが

はっきり言って益々わからない話

六年に詔が出て倭国側に出兵の要請があって
八年までだんまり決め込んだかあるいはのらりくらりかわしたか知らんが
八年には国内事情(対狗奴国)で断って

それでも魏が黄幢を倭国側に渡す状況というのがさっぱり分からない

ひょっとして檄による告諭とは派兵要請のダメ押しという解釈かな?
978日本@名無史さん:2014/06/21(土) 01:52:25.63
たかが半島制圧に黄幢・檄文とかそういう大掛かりなことを中国人が考えるかねえ
さらには倭国の未開な状況も知ってたと思うが
979日本@名無史さん:2014/06/21(土) 02:11:06.68
まあ公孫氏は滅ぼし残党狩も済んでたろうしなあ・・・
980日本@名無史さん:2014/06/21(土) 02:37:11.60
当時の日本に黄幢なんか持って来ても
兵が集まるとか、対立国が兵を引くとかちょっとな
六年に郡に付託した黄幢は、毌丘倹が王頎に位宮を追撃させた時に
半島南部の倭に対して準備しといた程度のもんじゃないのか
列島の倭国内の軍事行動に積極的に介入したような内容だが
自分の国中心に考えるからな、あの人たち
981日本@名無史さん:2014/06/21(土) 02:37:59.60
このように
たくさんの仮定を設ける九州説はベッカムの髭剃りできれいに剃毛
982日本@名無史さん:2014/06/21(土) 03:00:20.59
まああくまで「ルーニーの剃刀」で言うならばw

老眼説だとじゃあ魏が倭国に討たせようとした勢力だの
当時の半島情勢を丸々想定しなければならないと思うが

それは六年の黄幢について多少の説明・推定を加える比じゃないだろうに・・・

で結局倭国側は魏からの要請に応えなかったんだろうか?

だとすると266年の入貢は(晋に代わったといえ)相当気まずくないか?wwwwww
983日本@名無史さん:2014/06/21(土) 03:43:26.13
だから、うちらも内戦でマジヤバかったんス!で誤魔化した
984ローガン:2014/06/21(土) 15:24:33.70
>当時の半島情勢を丸々想定しなければならないと思うが
それは六年の黄幢について多少の説明・推定を加える比じゃないだろうに・・・

だから前に書いてあると言っているんだが。
倭人伝だけ読めば、唐突な感じがするが、倭人条は巻末。読者はすぐ前にある韓伝で、同時期に太守が戦死する反乱があったことを知っている。
勿論、三國志の用例が示す通り、軍旗を渡すという行為は、受け取る側が、渡す側の軍に参加するという意味だ。
その軍旗、倭が乞うたものではない。そんな記述はない。
なら、渡す側の都合。つまり出兵要請だ。
呼応する檄も集兵の木札だ。
率善とはいえ中郎将に対し六年に軍旗を下賜せよと詔が出された。つまり出陣せよ、だ。
しかし、その該当戦乱に於いて、担当太守が戦死。八年に新太守任官。
その後、粛々と滞っていた六年詔が施行の運びとなるが、その間に新太守に対し、自国内における緊張を伝えた訳だ。

さておき、勿論、私はそう読むという話。狗奴国とのどつきあいはなかったと。
ゆえ、戦争の痕跡がないことが、狗奴国東海説に否定の根拠にはならない。ということ。
985日本@名無史さん:2014/06/21(土) 15:37:09.59
【節・印綬・符策・九錫・什物】のごときものは帝から【假授】される物件で

【黄幢】の「黄色」のは委鬼の帝のを象徴する専用のカラーだ

【黄幢】を【黄幢】されるということは本来的に【魏帝】に属する権限の一部を委託されることであり

ただただおばかに単純に「参戦要求があった」みたいなまぬけな理解をされちゃかなわんわ

こおゆうところで読み手の丈がばれてしまう
986日本@名無史さん:2014/06/21(土) 15:38:02.83
【黄幢】を【黄幢】されるということは

【黄幢】を【假授】されるということは ね
987日本@名無史さん:2014/06/21(土) 16:44:30.18
>【節・印綬・符策・九錫・什物】のごときものは帝から【假授】される物件で

十パひとからげww
わかってないみたいだね
988日本@名無史さん:2014/06/21(土) 16:54:27.92
989日本@名無史さん:2014/06/21(土) 16:59:18.59
http://zh.wikisource.org/w/index.php?search=%E6%AA%84%E5%91%8A
【檄】に記されたなかみのは募兵に関するものだけに限定されるわけでもなし
990日本@名無史さん:2014/06/21(土) 17:07:16.53
【檄】のは【符策】の言い換えたるべし
991日本@名無史さん:2014/06/21(土) 17:14:08.54
その八年に倭國では同一人物から2ウェイで【檄告喩】がやらかされている

遣塞曹掾史【張政等】因齎詔書 黄幢 拜假【難升米】爲【檄告喩】之

復立卑彌呼宗女【壹與】年十三爲【王】國中遂定 【政等】以【檄告喩】【壹與】


【壹與】にむけた【檄】のなかみが募兵命令であったとしたら

ちがうほうの【檄】でインフォームドさせた前王【難升米】さん向け指令の補助

そっちのサポート部隊用の募兵命令でないの?
992日本@名無史さん:2014/06/21(土) 17:48:59.14
>>988
キミ、漢文が読めてないだろう。
動詞が「仮」と「奉送」で違うのが判らないかい?
993日本@名無史さん:2014/06/21(土) 18:31:41.32
あたま悪いくせにまた自爆か カス
994日本@名無史さん:2014/06/21(土) 18:33:22.17
偽使者張彌 が齎した 賊權所假臣節 ←こいつを 公孫珩を使いに出して奉送した
995日本@名無史さん:2014/06/21(土) 18:38:19.35
白文解読させたらローガンよか満州くんのがまだましだな
996日本@名無史さん:2014/06/21(土) 19:04:47.63
993
頭が悪い方が生きることは有利
997日本@名無史さん:2014/06/21(土) 23:39:19.27
【週末古代史】 邪馬台国論争に遂に終止符!                         か?
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1403354359/

奈良)大和古墳群、国史跡へ 「邪馬台国論争の鍵」保全

国の文化審議会が20日、国史跡に指定するよう答申した大和(おおやまと)古墳群(天理市)は、邪馬台国論争や大和政権成立の鍵を握る存在として注目されてきた。
道路建設などで遺跡の破壊が懸念されただけに、地元や研究者らは今後のさらなる保全や調査に期待している。

大和古墳群は、巨大な前方後円墳と前方後方墳(こうほうふん)が混在し、畿内に古墳が現れた3世紀の様子を示す貴重な遺跡だ。
24基の古墳からなり、今回は調査で内容が明らかになっている3基が指定対象となった。今後、一体的に保護を図る方針だ。

南部にある中山大塚古墳(3世紀後半)は全長130メートルの前方後円墳。
岡山県吉備(きび)地方で発達して埴輪(はにわ)のルーツになったとみられる特殊器台の破片が、1980年代に見つかった。

http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20140620001490_comm.jpg

http://www.asahi.com/articles/ASG6M54KMG6MPOMB00W.html
998日本@名無史さん:2014/06/22(日) 01:08:20.77
>>984
>読者はすぐ前にある韓伝で、同時期に太守が戦死する反乱があったことを知っている。

「三国志魏書 馬韓伝」の太守弓遵の事か?

それって景初年間の話じゃなかったか?
999日本@名無史さん:2014/06/22(日) 01:37:31.21
>>998

太守弓遵は正始元年にはまだ生きてるぞ
1000日本@名無史さん:2014/06/22(日) 02:02:58.28
ローガンのこれはいくらなんでも妄想だろう
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