文献じゃなくて珍読を無視するだけ
67 :
日本@名無史さん:2014/08/02(土) 06:08:03.52
>>34 他人との関係を勝ち負けでしか考えられないヤツなんだろうね
友好関係から連合、そして統一という平和的な発想が出来ないのだろう
国が広がるのは戦って奴隷化したとしか思えないのは朝鮮人的発想
とりあえず、
お前自身の中身のないレスを書くためには
ひと月近く前のレスにアンカー持っていくという低脳丸出しなのはよくわかった
東亜から出てくるなバカ
なんだ
畿内説って
ただの妄想か…
70 :
日本@名無史さん:2014/09/03(水) 21:27:31.53
という妄想で自らを慰める東遷説の痴態
畿内説の根拠って何だろうね?
時代は知らんけど(西暦250〜350くらいなのか?)
卑弥呼の時代にはおそらく日本の各地にはけっこうな規模での統治組織がそれなりにあった。
たぶんここまではどこに比定しようと誰もが同意するんじゃないの?
九州派はまだその時期に西日本をほぼ統治下にした広範囲支配組織が生まれていないということと
いわゆる魏志倭人伝すなおによんだら畿内まで行けねぇ説じゃないの?
畿内説は、その当時に西日本を勢力圏にしていた政体があったということを前提にしているんじゃないの?
大規模な遺跡多いし。遺構からの情報は畿内のほうが多そう。
あと、文献の正確度は疑問過ぎるからとりあえずそこに手は付けない派じゃないの?
と九州北部連合説な自分が言ってみるwwww
どちらもそれなりに文化度が進んでいると思うので
双方とも繋がりの太さに違いはあるものの、大陸と何らかの影響下にはあったと思う。
九州はいうまでもなく大陸と近いから、これは畿内に対するアドバンテージなんだけど
最終的にというか、平城京以降の大組織は畿内にあるので
それと整合性を保つために、その後九州組織が消滅するか移動するかはともかく、
政治の中央から外れていくことを考えなければいけないし、それは畿内説よりも不利かな。
と九州連合、畿内に吸収されて消滅した説な自分が言ってみた。
1.弥生時代(前〜)中期には北部九州(博多周辺)が圧倒的に優位を保っていた。
この頃、吉備・近畿中部・北部九州・東海に大きな勢力があった。
2.弥生時代後期は北部九州が降下傾向となり、近畿中部も降下気味(天候不順・
寒冷化が原因?この頃吉備が東西に拡大を始める)
3.弥生時代末期以降、北部九州は確実に衰え、近畿中部が突然圧倒的な優位を
保つようになる。
4.遅くとも古墳時代前期には北部九州は、近畿中部の政権の支配下に置かれる。
5.古墳時代中期には近畿中部の政権がほぼ日本(東北以北を除く)を制圧する。
この発掘データの事実をどう解釈するかだよ。これに無理矢理魏書東夷伝の
記述を当てはめようとすれば、当然無理や矛盾が出る。記述するうえでの事
情や、情報の錯誤・混乱もある以上、事実が書かれているとは限らないから
だ。
もし東夷伝を信じたうえで、九州説を取るのなら東遷説に頼らざるを得な
いだろうな。
ただし、ある勢力が移動したとすると、必ず出てこなければならないもの
がある。移動以前の埋葬方法と、同じ祭祀方法を採った遺構や遺物だ。これ
は最も伝統的なものであって、人の根幹にかかわるものであるため、そうそ
う変わるようなものではない。もし、大きく変わるとすれば文化の違う民族
に入れ変わったか、支配者の命令に従った時ぐらいだろう。
今のところ、北部九州から近畿中部へ政権が移動したという根拠は考古学
的には見当たらない。
ちなみに私は魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人の項目は半信半疑だと思うので、どっ
ちでもいい派。ただし地名は変わらない派でもあるので、邪馬台国が存在し
たとすれば、大和のことだとは思うけど。
纒向:搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 :49%
北陸・山陰系 :17%
河内系 :10%
吉備系 :7%
近江系 :5%
関東系 :5%
播磨系 :3%
西部瀬戸内海系 :3%
紀伊系 :1%
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、
古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。
また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、
祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。
また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含み、
それ以前の外来系遺物に比べてきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があったことを物語っている。
ド素人なのでよくわからないのだけど、
纏向のあたりから出土する土器などはいわゆる地元系みたいなのはあるの?
搬入といっても時期とかもあるだろうし、
出土数や種類(実用とか祭器とか)もそこそこ意味を持ってきそうな感じ?
東海との繋がりって東海道線経由なのかな、それとも東名阪?
琵琶湖のあたりも勢力圏だったのかなぁ。
むろん地元のが最も多くて北部九州まで入り込んでるんだよ
面白い関係があって九州の土器は纏向ではほとんど見られない
纏向系の土器は九州に入り込んでいる
東海の土器は纏向に多いが、東海で山門系の土器は少ない
78 :
日本@名無史さん:2014/09/13(土) 00:58:50.20
>>75 纏向といえば一般に「搬入(外来系)土器」の多さが真っ先に特徴として出てくるが
それでも最大30%
逆に言えばあとの70%は地元だよ
そこを勘違いしないようにw
79 :
日本@名無史さん:2014/09/13(土) 05:08:30.36
畿内土器が九州に運び込まれていることから見て、
畿内から九州に物流が流れていると見て良い。
九州から畿内へはほとんど流れていない。
弥生期の九州土器は一欠片しか発見されていない。
80 :
日本@名無史さん:2014/09/13(土) 05:36:07.80
>畿内から九州に物流が流れていると見て良い。
ってより、大量に畿内人が来てるんだよ
町も作ってる
進出と言っていいね
81 :
日本@名無史さん:2014/09/13(土) 06:04:33.34
畿内人が当時進んでいた九州に移住することは、
当然のことだろう。
しかし、来た畿内人は本国との関係をあまり持たなかったのが、
畿内の九州土器の少なさから推測できる。
畿内から九州へは、進出というか脱出かもね。
82 :
日本@名無史さん:2014/09/13(土) 06:21:02.41
畿内人の九州進出は半島・大陸と直接に交易するためだからね
九州の物産に興味がないだけさ
そして中間マージンで栄えていた湾岸国の凋落が始まる
何でこう前のスレも見ないし、基本のわかってないバカばっかしなんだ
庄内土器が九州に流れ込んでるのは九州の土器より煮炊きの効率が優れているからだ
肉が薄く、同じ大きさの九州の土器の半分の重さしかない
土器そのものが交易品なんだよ
それが証拠に、九州でマネして同じようなのが作られるようになる
もちろん畿内から人も入り込んでるがな
そのルートもほぼわかっている
庄内は西新の子だからこのあたりが盗人猛々しい着ない詐欺の核心部
畿内に東海や北陸の土器が入ってるのは、
そちらの土器が高性能だったってことか。
九州説の非学問・反科学ぶりが痛々しい
>>83 では、あなたの言う基本知識とやらが書かれている参考文献でも紹介してくれ
88 :
75:2014/09/13(土) 23:23:22.98
なるほど、普通に考えたら地元品ばっかりですよねぇ
ところ畿内って岡山や出雲と繋がりが深いのでは無いの?
それとも土器とかの部分ではあまり繋がらないの?
妄想だと畿内は出雲や福井越前あたりを玄関として
大陸と結びついていたのかと思っていたので。
福井なら鯖街道とかあるし、出雲街道は姫路からだけどけっこうつながっているのかなぁと
姫路からというと弥生とかは岡山あたりよりも姫路のほうが強かったのかなぁ
纏向から博多近辺までの土器の流通ルートはだいたいわかってる
四国内を通るんだけどね
あと庄内時は、吉備の内面削りの技法と畿内のタタキ成形技法との融合
庄内時 →庄内土器
91 :
zarakoku:2014/09/15(月) 15:45:55.06
またYahooの九州王朝スレからの転写です。
私の話は、全て史料事実に基くもの。
新唐書には、
「日本、古倭奴也」とし金印の委奴の地にいた事を示し、
「去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行」として大和日本国が列島半分を領有している事を記し、
「國無城郭、聯木爲柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、検察諸部」として、
三国志に書かれた「伊都國」を意図せしめ、
「其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿毎氏、 自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城」として、
王姓が阿毎氏であった事を示し、
その阿毎氏が「筑紫城=倭奴の城=伊都国の城=怡土城?」であった事を示し、
「彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州。次曰綏靖・・・」として、
伊都國の阿毎氏の王家の中の一部の神武(兄弟)らが大和の移った、という認識を記載しており、
それとは別に、隋書が、九州北岸から「後十日」の場所に阿毎氏のタリシホコがいた、
という事を記録しているんですよ。
だから、「阿毎氏」といっても、九州の阿毎氏であるのか?、大和の阿毎氏であるのか?の区別があったんですよ。
>>91 また、とかいわれても、こちらは本スレでは無いので意味不明です。
纒向説もあるけど、唐古鍵遺跡じゃないかと思うようになった。
土器が周辺地域のものが来てるんだよな。
共立したころは唐古鍵で、卑弥呼の死後に纏向に移したか。
一代ごとに宮を作るというヤマト王権の伝統からすると、それのほうが。
94 :
日本@名無史さん:2014/09/21(日) 19:11:54.03
出雲の国を天照に取られ、その時九州地方に逃がした女が卑弥呼。
95 :
日本@名無史さん:2014/09/22(月) 07:14:41.83
またポエムっすか?
96 :
zarakoku:2014/09/22(月) 22:21:51.07
また転写です。
天武は、天智よりも年上であるようであり、
大皇弟(倭國天子の弟)であり、
筑紫で宗像の姫を見初めて娶ったのであり、
大海皇子(大いなるアマ(海)の皇子)であるのは、倭國の阿毎氏の皇子であったのであり、
母親の斉明も倭國の女王的地位になったようであり、
白村江で負けて、唐軍の支配下になった筑紫倭國を諦めて、
(唐の承認を受けて670年に倭國を併合吸収継承した)天智の、息子を倒し、て、大和政権を奪い、
唐軍の処罰が怖いから、倭國とは関係を断ち切って、
大和日本国が始めから列島盟主であった、という主張をする事にし、
そういう歴史書も造作する事にした。
97 :
日本@名無史さん:2014/09/23(火) 00:50:51.03
>>91 新唐書の阿毎氏は隋書からの引き写しだろうが。なに言ってんだよ…
有名な吉害だから触るな
99 :
日本@名無史さん:2014/09/24(水) 20:08:39.97
畿内説って大嘘じゃないの?
100 :
日本@名無史さん:2014/09/24(水) 20:18:06.92
ふんふん、随書、唐書、なにが本当なのかね〜
畿内説
>>79 >>79 重要なことは、畿内土器が北部九州に大量流入した時期。
3世紀末から4世紀初めつまり邪馬台国が消息を断った後の出来事。
反対に言えば邪馬台国の時代は畿内土器が入ってきてない。
畿内説では「畿内が(北部)九州を領域に含んでいる」ことが前提だがそれが成り立っていない。
魏志倭人伝でも、對島や伊都など北部九州の記述は確実にあるが、
畿内の状況や畿内までの行程を想起させる記述が一切ない。
鉄鏃や矛、絹、銅鏡などの考古学的情報からも、
文献情報からも、畿内説は否定される。
頑張って年代論を引き下げてね
>>102 >3世紀末から4世紀初め
時期の判断基準は何?土器はもとより炭素や年輪年代でも問題点がある。そこまで
ピンポイントの年代決定は現代科学ではまだ困難で、今後の調査次第ではでまだまだ流動的。
九州説は従来の年代測定をもとにした決めつけ的論理展開はもう止めるべき。
後でボロが出た時ばつが悪いよ。
>>104 その心配は要らない。
要は「畿内勢力と北部九州勢力が別々にあり、しかもその関係は疎遠というより紛争状態だった」ということ。
時期は少々ずれていようががオーバーラップしてようが問題ない。
北部九州は畿内までの中継地でしかないはずが、魏晋鏡も素環頭大刀を畿内にほとんど届けもせず
弥生絹の本格的な生産をしているのに畿内の都にはほぼ届けなかった。
(素環頭大刀や絹製品は畿内でもそれぞれ1件程度は見つかっている。北部九州は九割以上)
纏向遺跡では北部九州を除く畿内、東海、吉備、出雲、讃岐(わずかに中南部九州)の炊飯土器が集結しており、古墳時代前後になるとそれらの土器が北部九州に大量に流入している。
そして倭人伝には北部九州での行程や風俗、規模は書かれているが
主題となるべき畿内の規模も行程の詳細もなければ、畿内の様子すら書かれていない。
倭についての報告書は、北部九州の様子だけ書いて出来上がっている。
一体どこを見れば畿内説が優位になるのか理解に苦しむばかりだ。
(本当は畿内説は成立すら困難だと思うが、「北部九州は畿内の勢力下のひとつなので、いくら絹や剣が見つかろうと畿内説は成立する」というだろうから。
だがそれはハワイ説でも同程度に成立はするし、もちろん北部九州説なら考古学上も文献上も比較にならないほど優位に成立しているのは明らか)
3世紀後半以降に弥生時代から古墳時代への大きな節目が存在しており、決して「畿内の邪馬台国がそのままヤマト政権になった」んじゃ無い。
北部九州の保有していた鉄や絹や様々な大陸の文物が一気に畿内に流入したその節目とは、すなわち「北部九州の邪馬台国が畿内政権に吸収された」ということ。
また晋には「倭」だけでなく「東倭」も通交してきていたとある。
北部九州を倭とするなら、東倭とは畿内(出雲、吉備、讃岐、東海)政権であり、倭が東倭に吸収合併されて、「大倭」すなわち「大和」と改めたと考えられる。
それだけでなく北部九州に倭連合のシンボルであった「銅矛」文化を捨てさせる代わりに、畿内連合もシンボルであった「銅鐸」を捨て、
大和政権共通のシンボルを「前方後円墳」と「三角縁神獣鏡」に切り替えている。
>>105 「暖簾に腕押し」「糠に釘」「馬耳東風」
忠告にもかかわらず推論を史実(前提)とした論法が多々見受けられる。
推論(私見)と断った上もしくは「〜と見る(考える)」と書けば納得出来るところだが、
高圧的な断定による独断的論理展開が九州説の十八番。対馬の観音像が「盗まれた」としか
解釈できない某国を反面教師にすべき。これは畿内説も然りで肝に銘じなければならない。
>畿内勢力と北部九州勢力が別々にあり、しかもその関係は疎遠というより紛争状態だった
弥生時代は紛争が多発していたのは間違いないが、卑弥呼の時代にも該当し、九州(邪馬台国
/卑弥呼)と畿内紛争があったとの推論を断定的に述べている。
>3世紀後半以降に弥生時代から古墳時代への大きな節目が存在しており
また決めつけ。古墳時代の始まりが3世紀後半以後とは確定していない。
近年箸墓の前方部周辺で出土した土器年代でも250〜260年頃が有力視されている。
>畿内の規模も行程の詳細もなければ、畿内の様子すら書かれていない。
一番驚いたのがこのくだり。
もしこれが断定されるならそもそも邪馬台国論争自体が存在しなくなる。それを堂々と言い
切ったね(笑)。江戸時代以来の論争は一体何だったのか。
>時期は少々ずれていようががオーバーラップしてようが問題ない
勝手きわまりない。第一多少のずれとはどの程度の年数でその基準は誰が認定したのか?
邪馬台国論争の大きなポイントは
「権力が九州から畿内に移動したのは誰しもが認めるところ。それが239年以前か以後か」
にある。
ここでもはや揶揄の対象と化した東遷説でも20〜30年下れば台与の時代になる決定的要素だ。
デリケートで慎重な検証が必要な年代を軽視して文献重視と言うなら倭人伝もどの程度の裏付け
・調査のもとに書かれたかも含めた信憑性を実証しなければならない。それが不可能に近いから
前提とする以外ないという論法には全く同意しかねる。
南→東の歪曲と徹底批判して倭人伝の記述重視を標榜しながら、一月→一日、榎放射説など都合
の良いように解釈してきたのが九州説。まさに「罪のないものだけが石を投げろ」である。
どうでもいいけど、ここは雑談専用の重複スレだぞ
>>107 最近、さらに困ったちゃん専用も出来たらしいよ
105-106
東遷ちゅうくせえな
バカっぽい書き込みが
文献重視なら魏書にも晋書にも記述のない
東遷など最初からないだろ
111 :
日本@名無史さん:2014/11/04(火) 16:59:55.77
いちれんの半島での戦いのが終了した後に
難升米さん
詔書・黄幢貰って檄告喩されちゃってるということは
半島でないところの戦いやらかしなさいよっていう檄告喩だろ
112 :
日本@名無史さん:2014/12/07(日) 08:28:04.00
ここ途中で終わらせるなよ
113 :
日本@名無史さん:2014/12/07(日) 08:40:03.38
誰かが朝鮮、どこかで中華
例えるならAからKまでは朝鮮、L辺りで中華になった
114 :
日本@名無史さん:2014/12/07(日) 08:42:39.80
神武とかのスレ?
115 :
日本@名無史さん:
また朝鮮になったの?
歴史上の人物等の肖像画が偽物とか