それから都城と奈良の地名の類似もかなり後代に
奈良からの役人がつけたとしか
何時からあったかもわからない地名にすがり付いた時点で、東遷説はもう学問じゃなかったわけだが
332 :
孝霊厨:2014/05/26(月) 21:41:03.24
元々安本の地名相似説なんて全く何の根拠もないからなw
倭人伝に書かれてもいない、豊富な鉄器を根拠とするのと
同じで、呆れる位に詐欺まがいのお話なんだよな。
まあ奈良で讃岐縁の地名なら、広陵町三吉(讃岐からの転化)や
御所市の蛇穴(サラギ)なんかもそうだ。
現在の地名を持って相似説なんて馬鹿馬鹿しくてw
奈良自体は本来曾(蘇)、ソフでありソホ。
【一応は、事実に基づいていると推定される東遷】
・神武ら十数人が九州〜瀬戸内〜畿内に引越し
【絶対にありえない東遷】
・邪馬台国が国家まるごと畿内に引越し
スレ主の主張は2番目→阿呆
334 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 21:47:08.88
>>333 前者にもう一つ付け加えるとだ・・・
畿内ヤマトから九州へ大和入り要請
これなら九州がわざわざ来ないヤマト目指す理由をこじつけなくていい
まあその要請に答えたのが男王なのかはたまた巫女なのかだが
畿内説のスレ主はそんな主張せんけどな
どれにせよ邪馬台国東遷はないわ
東征の話は布都御魂が平定したって言いたいだけだろ、神武達失神してたんだからw
338 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 21:56:39.64
私は九州王朝説なので、
先に移住した九州氏族はともかくとして、
7世紀の白村江の大敗北で、
九州王朝の王が畿内に疎開したと考える。
いろいろ混じってるような気がするが、
天智天皇は水城の工事などの事績があるので、
天智天皇に九州王朝の事跡が仮託されており、
畿内に疎開したものの、畿内の天武天皇系に
ひっくり返されたと考えている。
もっとも官僚の氏族はそのまま取り込み、
8世紀の大和朝廷の急速な整備につながる。
下には下があるもんだ
つうか弥生末期に人口爆発で食糧事情の悪かった九州は
内陸部に移っていきたかったし、実際に移った小集団も多数あったと思われる
が、大集団で東に攻め寄せてくるにはあまりに集落がバラバラだったし
それ以前にそんな長距離遠征とか時代的に不可能
そして、この小集落が混然としてバラバラというのは
古墳時代に入っても列島各地は依然としてそう
地方に国府レベルのまとまりができてきたのがせいぜい6世紀とか
342 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 22:10:22.33
勉強して文字も書けるようになった
というところから始めないと解決しない
吉野ヶ里とかでも
佐賀平野にはあの程度の集落が5つほどはあったと思われるが
互いにゆるい協力関係はあっただろうが
一致団結して長距離を攻めていくなんて不可能
344 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 22:24:46.11
九州の場合
拠点集落が周辺集落に対し求心力をもつ要因として
銅や鉄の鋳造品あるいは吉野ケ里から出てきた管玉のような
工芸品に負うところが大きかったんじゃないだろうか?
(無論本州もそうだろうけど)
それが畿内ヤマトを中心にし首長連合ができて福岡平野もそれに入った時点で
それまで潤沢に回ってきてた鉄資源等の舶載品が回ってこなくなった
工人層を抱える首長らにとっては文字通り死活問題
これが狗奴国との軋轢の原因というのはどうか?wwwwwwwww
環濠内の人と外の人ではかなりの身分差があったと思われる
そこは倭人伝に出てくる大人と下戸的な状況だろう
耕作可能地を環濠内の集団が握ってたんじゃないか
とにかく重要なのは食料で、工芸品とかも交易で食糧に代えることに意味がある
こう書くと誤解されそうなので付け加えると、
ある程度の鍛冶・石製品の加工などは集落ごとに自給自足で
環濠内の優位性にそれなりの役割は果たしていたのではないか
346 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 22:35:32.33
戦国スレに書いてあったな〜
「捏造」と「判官贔屓」は同じようなもの
戦国スレもいいが
弥生末頃に戦国時代と同じようなことができたと思ってるやつが
来るんだよな
348 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 22:40:27.76
なんか東遷厨の脳内の九州王朝なら中国大返しとかできそうwwwww
で少し真面目な話3世紀頃の戦争の規模ってどれくらいだったんだろうね?
数百まではいかない?二桁?
349 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 22:45:18.58
【畿内説の論拠】かつては「三角縁神獣鏡こそが魏から送られた鏡に違いない」とされ、また「当時外交できる中心地は畿内としか考えられないから」とされてきた。
しかし今では、三角縁は舶載鏡ですらない国内製(仿製鏡)で年代も古墳代のものと考えられ、当時畿内や東海、吉備、四国、北陸など「本州四国側の合同王権」と「北部九州王権」は別勢力と見られるようになってきた。
そもそも三輪山のふもとの纏向は天皇の初期の都であって、邪馬台国関連は欠片も出てない。
私は関西で子供の頃は畿内説を当然だと思ってたが、今は何を根拠に畿内説を唱えているのか知りたい。
吉野ヶ里の人口が15000〜20000
戦国時代の動員数だと300〜500
これは攻撃側の数で、防衛側はこの倍くらい動員する。
弥生時代はもっと動員できたのかなあ?
戦争の規模はよくわからんが
吉野ヶ里を例にとると、
現養父郡の勢力、三根軍の勢力、おそらく三津永田が中心の神埼の勢力
惣座を中心とする勢力、土生を中心とする勢力・・・
これらが人口は周辺部を入れて3千から5千くらい
互いに環濠の奪い合いになるんだろうが、共倒れの可能性が高そう
352 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 22:54:02.61
>>351 それ戦国時代でも相当な大軍だろうに・・・
>>352 いや、一つの集落の総人口が周辺部入れて3000から5000、
兵はこれよりずっと少ない
結局は兵の数の問題じゃないんだよ
食料の備蓄はどれくらいあるのか
兵器、たとえば鏃の備蓄とか
補給はできるのか、補給に耐える道はあるのかとか
この手のことの一つ一つが後代とはまるで違う
355 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 23:06:28.38
というか、これらの要因の結果、
動員できる兵の数が決まるのではないかと。
>>355 つうか物事というのは基本的に並行して進化していくんだよ
遠くの集落を攻めることができたとして、周りにはまだまだ他の集落があり
占領して維持管理とかは不可能に近い
戦闘の部分だけが突出してるとかはありえないわけだ
ヤマト王権にしたって
まともに地方を統治する機構が整ったのはずーっと後代のこと
魏志倭人伝みると大雑把に大国はおのおの万戸、小国は千戸。
万戸の大国は約20国。百余国の残り約80国これが小国で1国あたり千戸。
合計28万戸、1戸25人として総人口は700万人だなw
359 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 23:56:11.27
正始八年(247)
遣塞曹掾史【張政】等因齎【詔書・黄幢】拜假【難升米】爲檄告喩之
魏からの派遣されて【王頎】が太守に就任して
これのを補佐する現地系の酋長【張政】が特命で倭國を詣でて
【難升米】に拜して【詔書・黄幢】を齎して【不記載の役職】に関連する権限を假しているわけだが
【不記載の役職】のは間違いを恐れずにあえて暴露しちゃうと
【征夷大將軍】あたりのがぴったしか かするかとかしているであろう。
【黄幢】のがキイポイントだろうが
これは【節】(竹竿に三段に為したるベコのしっぽ)の如きものが【錦の御旗】ののルーツなんだろう
【錦の御旗】掲げて出発する東征軍の規模はもとのはえろ少人数でも進むに従って雪達磨
ましてや難升米の手下のは「諸國畏憚之」なのだから
倭國の最強軍団のがコアで船団でスタートをしてからに各地に募兵事実を周知させつつ港巡り
桃太郎の里あたりのはにいちゃんの系のが大規模参加ので御先手仰せ付けられて大和に居付くとかか
360 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 00:01:22.61
【行程に北部九州は含まれる】 畿内説であろうと九州説であろうと、あるいは放射説であろうとなかろうと、少なくとも「帯方郡からの行程では対馬、壱岐、唐津を経由して糸島に至る」まではほぼ同じ。
これらはいずれも「北部九州王権の勢力地域」であり、畿内その他の地域に比定できる記述はない。
361 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 00:03:24.02
卑弥呼は始祖か何かだったの?
ネタならネタと言っておいたほうがいい
>>359 あんたは節と三角鏡の笠松紋様の関係をどう思うわけ?
363 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 00:10:24.12
中華思想と卑弥呼
どうなんだろう
364 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 00:12:06.14
ああキチガイだったか
>>349 ただの願望でこんな偽現代史を捏造しちゃう人が
どうして正しく古代史を語ることができるだろうか。
いや、騙るだけである、
367 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 06:48:47.87
>>336 どこか間違ってますか?(そうは言ってない?)
九州に楽浪郡と帯方郡を合わせたくらいの大国(7万戸)があって、それが3世紀中葉にごっそり畿内に移ってくるなどというのは物理的に無理だし、そんな痕跡もない。
もともと両方をまたぐ大国があって首都だけが移転したというなら、これまで畿内説を批判してきた主張のすべてが反古。
王ですらない数十人(生活文化に影響が出ない程度の少人数)が東を征服したというならそれは「邪馬台国東遷」ではない。
邪馬台国東遷説はありえない。
369 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 07:24:05.48
>>368 貧弱な発想だね。どこが論理的に同値になっているのかな。単に素人の
ぐだぐた意見でしかない。
370 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 07:30:32.86
倭すなわち北部九州の邪馬台国が、本州四国側に吸収された結果
畿内の合同王権に参加しただけだろう。
つまり畿内には来たが東遷とは真逆の状況。
371 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 07:52:06.87
みなさんがイメージしている物真似をするチンパンジーは子供というのをご存知でしょうか?
猿回し芸で楽しそうに芸をしてるように見えるのは調教によるもので大人になったチンパンジー
は顔の色が黒くなり握力も200キロを越えホモ猿を馬鹿にしてるそうです
372 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 07:53:46.41
実際に被害もでているそうな?
>>369 なにも反論も出来ないで感情的な反発だけするのは、精神がガキの証拠
東征
文献史では100%
考古学では60%
ゆえ100点満点で80点
非東征説は20点www
あさましい自画自賛
東征
文献史では100%
考古学では60%
(これは九州がという意味で、吉備、播磨、讃岐を入れると90%)
非東征
文献史では0%
考古学では10%
wwww
>>319 女性墓だろう
>>324 >当時の中央の地名を左遷先である九州に 地名を持って来たんだろう。
そんな時代にそんな事したなら記録に残るはず。
あきらめろwww
理由もなく「はず」と言い張るのが
はっずかしいトンデモ説の特徴
九州説の勘違いというか意図的に無視してるのは、九州優位のデータは
すべて弥生初期〜前期のものだということ。
九州説には弥生後期が存在しないw
瀬戸内〜畿内〜東海〜関東が、遺跡が増え(人口が増え)、九州の力が
相対的に衰えていることを無視している。
今のイギリスがアメリカに対して「うちのほうがお城がいっぱいだ。先進国だ」
と喚いているようなもの。
あ、違うな、フランスのノルマン地方がイギリスに対して・・