1 :
邪馬台国九州説:
('仄')パイパイ
3 :
邪馬台国九州説:2014/02/12(水) 23:06:35.85
1世紀::筑前王国の成立(倭奴國[倭都國])
2世紀::筑前王国は滅び、肥前王国に交代するが、倭國乱となる。
(倭面土國帥升〜倭都國王[伊都國王])
3世紀::前期筑後王国の成立。(卑弥呼共立〜壹與)
4世紀〜6世紀前期::後期筑後王国の時代。(倭王旨〜岩井死亡)
517年〜528年::久留米九州王朝時代
6世紀中期〜7世紀::筑前王朝の再興と滅亡。(岩井死亡後〜薩末比売)
528年〜617年::久留米九州王朝時代
618年〜683年::大宰府九州王朝時代
684年〜694年::畿内九州王朝時代
695年〜700年::九州王朝崩壊期
8世紀::畿内王朝の成立。(文武〜)
4 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 00:16:24.20
奈良盆地に大和王権が誕生し、やがて巨大な大和朝廷へ発展していったのであるが、
なぜ奈良盆地だけでそうなったのか・・・、そこにはそれだけの底力が備わっていたからであろう。
その偉大さに気付かず、奈良県民は卑弥呼の名声だけに頼ろうとする、それが間違いなのだ。
畿内説信者が成すべきは、古代奈良盆地の底力の由縁を明らかにすることである。
俺は九州説だが、その1,2を挙げるなら以下のようなことであったのであろう
・大和王権は、王族葬送における残虐・無慈悲な殉葬習慣の廃止に踏み切ったこと
・巨大古墳を作る時にできた大穴をため池に利用し、水田の開墾および生産力の向上につなげたこと
・(もちろん他にもいくつかあったであろう)
これらの、かってない善政が、多くの豪族・人民の支持を得たからに違いない。
オラが古墳の大きさを吹聴するだけでは、それは奈良県民の自慢話過ぎない。観光客は小バカにされたと思う。
しかし、上のような歴史背景を説明すれば、必ずや多くの人々の共感を呼ぶであろう。
修学旅行の団体客も増える。
奈良の考古学者も、桜井市役所の役人も、桜井小学校の先生児童も、ホテルや土産物屋の主人・従業員たちも尊敬されるであろう。
桜井市民にはもっと誇りを持っていただきたいのだ、、、
つうか邪馬台国が奈良観光の中心とかないだろ 馬鹿じゃね
法隆寺とか史跡山ほどあるのに
纏向の発掘現地報告会とか見に行くのは一部古代史フアンで観光客とはまた違うし
ほとんど地元に金も落とさない
6 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 00:33:14.30
いらんやる
古墳を見る一般観光客は大阪の大仙陵などに行くからな
魏志倭人伝に「邪馬台国」という記載は無く「邪馬壱国」の記載を
江戸時代の学者松下見林が「邪馬壱国」=「邪馬臺国」と変換してしまっただけ。
邪馬臺国(やまたいこく)→大和国(やまとこく)という勝手な連想。
魏志倭人伝に「壱」と「臺」を取り違えている記載は無いので単なるこじ付け。
9 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 09:23:12.32
「邪馬壱国」の記述は某写本の記述に由来するらしい
また「邪馬臺国」の方は江戸時代に始まったのでないことは明らか。
7世紀の隋書では?国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」としている。古田式のこじつけは良くない。
10 :
満州大尉:2014/02/13(木) 09:28:13.30
邪馬臺国は邪馬臺国。壹与は壹与。
これを区別して書いている文献あり。
仮に邪馬臺国が邪馬壹国であったところでヤマイ国ヤマイチ国などという
国名は古代日本のどこにもなかったのだから古田説は棄てるべきなのである。
天鄙は天日だとか日向は日向峠だ、とか古田説はトンデモ多し。
ピミらも一刻も早く古田説から脱皮すべし。
11 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 12:05:08.93
古田説は
学者に相手にされず
一般大衆からも見捨てられた
ただのカス
骨なしコンニャク人間説を唱える満州は、
一般大衆から見捨てられる以前に、
初めから支持ゼロだから心配するな。
13 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 20:41:18.29
2ch史上
満州ほど嫌われた者はいないだろう
伊作も嫌われたが味方もいた
馬鹿がいても意味なし
満州ゴンは低脳。なぜ自分が低脳と言われるのかすら理解できない。糞ガキだよ。
つーか統一教会だろ
17 :
統一教会満州:2014/02/13(木) 21:53:54.06
>>14はいても意味ない馬鹿
>>15は低能の糞ガキ
>>16は精神の幼稚なネトウヨ
いかにもド低能チンピラという感じの連中。まともな人間ではない。
いい加減にしろヒョーロク玉。出て行け!
>>17 満州ゴン太郎よ、出て行けと言われただろ。字も読めないのか?
21 :
統一教会満州:2014/02/13(木) 22:17:05.68
22 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 22:30:31.09
人類の共通祖先は、骨なしコンニャク人間だった、と信じている満州は、
何をどう語ろうと、誰からも信用されないトンデモ人間。
25 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 22:56:45.67
人の迷惑顧みず 毎日出没 満州荒らし
26 :
北へ帰る満州:2014/02/13(木) 22:59:59.43
プッ 迫力ないなw
もしかして古田説を批判したから怒り狂っているのか?
それではピミ、宗教だよ、宗教w 大日本古田教(笑
ちなみに
>>11はポクではないぞ、念のため。
>>26 お前はスレチだから出て行けと言われてるんだ。馬鹿者!
スレチどころかイタチだ。
もう吉野ヶ里が邪馬台国でいいよ
難しくかんがえんなよ、終了終了
30 :
北へ帰る満州:2014/02/13(木) 23:27:45.73
>>10がスレチに思えるようでは、ピミらに未来はない(笑
32 :
日本@名無史さん:2014/02/14(金) 00:13:59.75
>>30 迷惑なんだよ
このスレチ野郎
往生際が悪い
とにかく消えろ!
博多に始まり博多で終わる
博多抜きで日本の歴史、文化は語れない
金隈人こそ日本人の起源である
34 :
北へ帰らない満州:2014/02/14(金) 09:19:32.02
預言者故郷に容れられず、という言葉がある。
イエスは人類を救うために来たのに、人々から石を投げつけられ磔にされたのであった。
それと同じで、親切心で古田説が間違いであることを指摘してやったのに、
スレチだ荒らしだと非難され罵倒され排除されるのである。
困ったことだ(トホホ
「人類共通の祖先は、骨のまったく無い人間だった」 by 満州
↑間違いはこっち。気は確かですか?
36 :
邪馬台国九州説:2014/02/14(金) 11:11:41.35
>>33 倭の1世紀は、博多に始まり博多で終わる
1世紀の金隈人は倭奴國の住人である。
3世紀の金隈人は餘傍國の一国を構成する住人でもある。
−−−−−−−−−−−−−−
1世紀::筑前王国の成立(倭奴國[倭都國])
不明〜57年〜106年::怡土博多時代
2世紀::筑前王国は滅び、肥前王国に交代するが、倭國乱となる。
107年〜3世紀初頭::吉野ヶ里惣座時代
(倭面土國[米多國]王帥升 〜 伊都國王[倭都國王])
3世紀::前期筑後王国の成立。(卑弥呼共立 〜 壹與)
190年頃〜265年〜不明::久留米三潴時代(卑弥呼 〜 男王 〜 壹與)
4世紀〜6世紀前期::後期筑後王国の時代。(倭王旨 〜 磐井・葛子)
不明〜368年〜516年::筑後平野(瀬高八女三潴久留米)時代(倭王旨 〜 倭五王 〜 磐井)
517年〜525〜528年::久留米九州王朝時代(磐井〜葛子)
6世紀中期〜7世紀::筑前王朝の再興と滅亡。(岩井死亡後〜薩末比売)
528年〜617年::久留米九州王朝時代(〜多利思北孤)
618年〜683年::大宰府九州王朝時代(多利思北孤〜薩夜麻)
684年〜694年::畿内九州王朝時代()
695年〜700年::九州王朝崩壊期(薩末比売)
8世紀::畿内王朝の成立。(文武〜)
701年〜::大和朝廷(文武〜)
37 :
北へ帰らない満州:2014/02/14(金) 12:28:52.17
ピミらの反応を見ていると笑えるw
アトランティスの骨なし人間は絶対に嘘だとピミらは思っているだろう。
それが嘘である根拠を挙げてみよ、と言われれば何も挙げられない。
ただ単に、そんなことは信じられない、というのがその根拠であるw
同様に、武内宿禰が三百歳生きたというのもピミらは信じない。
その理由は、ただ単にそんなことは信じられない、からである。
しかし現代の常識で古代を判定してはいけないのである。
ピミらが信じようが信じまいが、骨なし人間も武内宿禰も事実である。
こういう話を聞いて即座に否定するのはたいした人間ではない。
記紀は嘘だ創作だ陰謀だと言い張る人間も軽佻浮薄な人間である。
あわれだな
40 :
北へ帰らない満州:2014/02/14(金) 22:30:17.35
物を識らない人間は哀れだ(笑
武内宿禰は行司の木村 庄之助と同じだ。
初代だけが本物の武内宿禰て
二代目以降は役職を継いだ者が武内宿禰の名も継いだだけだ。
42 :
日本@名無史さん:2014/02/15(土) 09:14:57.30
武内宿禰に限らず、古代の天皇家の人間は実際に長生きだったのだろう。
天皇はアトランティス大陸から受け継がれた秘法で
現代科学でも到達できないようなことを普通に可能にしていたのだ。
小保方さんがph5.7の酸性水で細胞をリセットする方法を発見したように
細胞を活性化して長生きする簡単な方法が古代に発見されていたのだ。
天の磐舟も特殊なエネルギーで空を飛んでいたのかもしれない。
そんなバカなと思うかもしれないけれど、
文明なんてものは、供給サイクルが分断されただけですぐ崩壊するものだ。
化石エネルギーがなくなれば、自動車もジェット機も無くなる。
化学繊維やプラスチックも作れなくなり、技術そのものが消失するだろう。
ましてやアトランティスのように大陸ごと海に沈んでしまえば、
製造元も、メンテナンス網もなくなり、
残された天の磐舟は、備蓄されていたエネルギーと補修部品だけで使い続けられ、
それが尽きたときにただのスクラップ自動車のようになった。
それが前方後円墳の形ではないだろうか?
武内宿禰って、現代で言えば武内常務みたいな感じじゃない
哀れな満州・・・
45 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 11:37:45.80
景行天皇九州征伐神話
>熊襲は、日本の記紀神話に登場する九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々、および
>当該地域名を意味する語である。
>古事記には熊曾、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。
>肥後国球磨郡(くまぐん)は、球磨川上流域の現・熊本県人吉市周辺)から、隣接の薩摩・囎唹郡にかけて居住した部族とされる。
>なお囎唹郡(そおぐん)とは現在の鹿児島県霧島市・伊佐市、えびの市周辺であり、
>近世に名づけられた鹿児島県大隅・曽於郡(現・曽於市)とは領域を異にする。
熊襲は、鹿児島〜熊本県境を本拠に活動した山岳部族であり、
熊本平野〜阿蘇高原に住んでいた豪族くまモンとは出自を異にしていたので念のため
46 :
川柳の達人:2014/02/17(月) 13:31:10.50
>>37 朝鮮満州
骨なし人間やら300歳超えの人間やらと胡散臭いものに頼らないと説が確立できないのは説とは呼べんな(笑)
むしろ、骨なしやら300歳を実証すべきは「朝鮮満州」だが言い張る以外にできるのか?
>しかし現代の常識で古代を判定してはいけないのである。
朝鮮満州が常識的思考ができていない証拠だな(笑)
47 :
北へ帰らない満州:2014/02/17(月) 17:45:14.73
川柳の素人の爺っちゃまよ、おめーの書いとるこつは現代の常識からの判断だべ。
どこにも証拠はねーど。あるなら挙げてみれ(カラカラ
骨なし人間のこたあ、霊視で確認されとるずら。
武内宿禰のこたあ、サンジェルマンの例があるけん、嘘とは言えんずら。
それよか、議論に勝てそうなときだけ名前を入れるのはやめれ(爆
48 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 17:52:56.16
もう、やぶれかぶれ満州
>>47 このドチンピラゴンボウ、ここはお前のような患者の来るところじゃない。何度言われたら判るんだ?失せろ馬鹿者!
50 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 18:14:58.00
このスレッドも満州アラシで酷い状況になった
しょーがない。
人に嫌われることで快感を得ているんだから
読者に迷惑をかけている実感もないのだろう
82にも同じ輩がいるよ
やっぱりスレが廃れてる
もう邪馬台国関連スレはまとめてお終いだな
52 :
川柳の達人:2014/02/17(月) 18:55:11.90
>>47 朝鮮満州
>どこにも証拠はねーど。あるなら挙げてみれ
そりゃあるわけないわな、元々想像や妄想のたぐいだから( ´,_ゝ`)プッ
>それよか、議論に勝てそうなときだけ名前を入れるのはやめれ
朝鮮満州と議論したこともないししようとも思わない。いい加減に出ていかんかいと示唆しているんだよ・・と言っても判らんか
53 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 18:58:46.72
邪馬臺國なんぞ抑存在しない。
二次三次情報にて書ならむ者を根據として、邪馬臺國ありきとするは莫迦らしい話である。
所詮は支那人の歴史書である。
54 :
北へ帰らない満州:2014/02/17(月) 19:08:41.69
川柳の素人の爺っちゃまよ、おめーの書いとることは変だべさ。
骨なし人間のことは置いといてだな、武内宿禰のことは記紀に書いてあるんじゃけん、
それが嘘だとゆーなら嘘である証拠を上げんといかんぜよ。違うけ?
武内宿禰の長寿が嘘だとゆーなら証拠を上げてみろや。できねーだろが。
現代の常識でそんなことは嘘だと思っとるだけだろが。違うけ?
記紀を簡単に否定してはいけねーずら。
BC660年から日本は大和朝廷の支配する国になっとるだ。
それを無視して三世紀の畿内は田舎だ、つーようなことはアンポンタンの言うことだべ。
55 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 19:14:32.39
とうとう満州は、後期高齢者の仲間入りを果たしたようだ
56 :
川柳の達人:2014/02/17(月) 20:10:00.02
>>54 朝鮮満州
議論するつもりもないし議論にもならないが
>骨なし人間のことは置いといてだな・・
置いとくな、自分で言い出したことだちゃんと答えろ
>武内宿禰の長寿が嘘だとゆーなら証拠を上げてみろや
300年生きるというのは一般には考えられないことだからそのような説を上げる者が300年生きた証拠を見せねばならない。
チン毛な知識で人をけむにまこうとしても無駄、朝鮮満州のような薄汚く人を罵る極めて軽率浅はかな人間が記紀がどうしたと述べるな。古代史が汚れる。
朝鮮満州は単なる荒らしのチンピラだ。
57 :
川柳の達人:2014/02/17(月) 20:21:06.27
>>54 朝鮮満州
ついでに
>BC660年から日本は大和朝廷の支配する国になっとるだ。
>それを無視して三世紀の畿内は田舎だ、つーようなことはアンポンタンの言うことだべ。
7世紀の畿内の発展は3世紀に現れていると言いたいのだろうが、そう言う言葉を引き出すようなことを私はいった覚えはないぞ?
どうやら朝鮮満洲も過去にいた畿内説バイト「ジョーカー」の一味のようだな( ´▽`)
ここの連中頭おかしいだろw
59 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 21:16:44.60
おかしいふりをしてるのもいるけどなww
60 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 21:30:19.97
スッ
i⌒i スッ
./ ̄\ | 〈| @日本史板住民がジャムリンを攻撃する
| ^o^ | / .ノ||
,\_// ii|||| グチャーン!!
/ ̄ / iii|||||| グチャーン!!
/ /\ / ̄\ii|||| ・;`.∴.'
_| ̄ ̄ \ / 从,;,・从//`i⌒i スッ
\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:;・,‘;`.∴:;・< | 〈| スッ
||\ ヽ、' ^q^ ノ.'/ .ノ||
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ \ l / / ii||||
.|| / ̄ / iii||||||
/ /\ / ̄\ii|||| .' , ..
_| ̄ ̄ \ / ヽ ・;`.スカッ'
\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \__) スカッ Aジャムリンはなぜか部外者を攻撃する
||\ \
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
.|| ||
邪馬台国は熊本
「おてもやん」の詞に卑弥呼の存在が昇華し反映されている
九州説
あとはどうなと
きゃーなろたい
もしかして、まんしゅうさんを攻撃してる人たちって、
リアルにムーやアトランテスと対立していた部族の輪廻じゃねえだろうなあ・・・
ムーに流れていた神音は、ド・ミ・ソ・ラな。
おまえムーの人ww?
>>64 この言葉使いたくないんだけども、
ワールドメイトの人って、
ムーとかアトランテスとかに居た人なんだってよ。
大体、あなたはムーとかアトランテスとかを、否定してる人?
もし本当にそういう大陸があったなら、
数百年とかもっととか、人がいたわけだから、
今世生まれ変わってても、不思議じゃないでしょ?
あなたがユダヤ教だとしたら、
なにかしらムーやアトランテスに対して悪感情を持たれてるの?
ちなみにプラトンは、
第一天国という人霊が入れる最高霊界にいらっしゃるんだって。
悪い悪い。
ここは邪馬台国を論ずるスレッドだったね。
もとの流れに戻してね。
金毛十尾
厨二か・・
68 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 13:52:09.12
畿内説のよりどころであるモモソ媛は農業の神様だったらしい
どのみち箸墓も、隣のため池を掘った残土で盛り上げ成形したのであろう
魏との外交や狗奴国との争いに奔走した卑弥呼とは趣を異にする
>百襲姫は、香川県の水主神社と田村神社でも祭神として祀られており、姫が讃岐に来たという伝承が残されています。
>両社とも延喜式内社で、田村神社は讃岐一宮の名神大社です。
>高松市仏生山町にある百相神社も百襲姫の来遊を伝えています。
>それらの伝承は次のようなものです。
>百襲姫は、8歳で大和を旅立ち、讃岐・引田の安戸の浦に到着し、水主(水主神社)に住み地元の民に稲作・灌漑を伝えたが、
>讃岐全土を治めるため、馬篠(艪掛神社)から船に乗り、讃岐・船岡山(船岡神社)に入り落ち着いた後、
>讃岐一宮(田村神社)に住み、ため池を作り、稲作を伝えた。
>しかし、18才の時大和国から迎えが来て、地元の民は引き続き姫に讃岐に留まって欲しいと抵抗したが、
>それも空しく、大和の国に帰っていってしまった。
>その後、讃岐では姫を農業の開祖神として祀った。
空想乙
70 :
日本@名無史さん:2014/02/21(金) 18:58:34.70
テスト
71 :
川柳の達人:2014/02/21(金) 19:02:39.70
熊本市東区新南部の新南部遺跡群から、弥生時代中期の甕棺墓がほぼ完全な構造で複数出土したことが9日、分かった。
墓の地表に無数の石を並べた標石(墓の目印)も出土。県文化課によると、甕棺墓の上部構造まで残る例は全国でも数例で、
甕棺墓の構造解明に役立つ極めて貴重な資料という。
白川の拡幅工事に伴う県教委の調査で見つかった。調査区域の約1500平方メートルは、墓域の一部とみられる。
県文化課によると、出土したのは甕棺墓7基と木棺墓3基。うち2基の甕棺墓には、標石とみられる石群が残る。
複数の標石を並べた甕棺墓は全国でも珍しいという。石を円状や不規則に並べた標石とみられる遺構も複数見つかっており、
墓の数は増える可能性がある。
72 :
川柳の達人:2014/02/21(金) 19:10:26.71
弥生中期の甕棺墓だそうな。弥生後期の甕棺墓が無いのは後期にはすでに甕棺による墓制は石棺墓などに変わったのだろう。
熊本では考古学上既に鉄生産の可能性も示唆されており石の切り出しなどもできるようになってた可能性はある。
熊本ははそれだけ先進的だったという事だな。
73 :
日本@名無史さん:2014/02/21(金) 20:02:47.79
test
74 :
日本@名無史さん:2014/02/21(金) 20:11:22.46
∧_∧ イィキペディア悪質編集者ジャムリン氏だ〜 アッー!
(ヽ( )ノ) ∧_∧ ガチホモだ〜 ∧_∧
ヽ ̄ l  ̄ ./ (ヽ( )ノ) ∧_∧ (ヽ( )ノ)
∧_∧ | . . | ヽ ̄ l  ̄ ./ (ヽ( )ノ) ヽ ̄ l  ̄ ./
(ヽ( )ノ)(___人__ ) | . . | /⌒ヽ ヽ ̄ l  ̄ ./ | . . |
ヽ ̄ l  ̄ ./ ; 丿 し ( _,;*;,__ (ヽ( )ノ) | . . | (___人__ )
∧|_∧ | ∪ ∪ ; 丿 ヽ ̄ ∧_∧ (___人__ ) ∧_∧
(ヽ( )ノ) ∧_∧ ∪ (ヽ( )ノ)丿 し (ヽ( )ノ)
ヽ ̄ l  ̄ ./ (ヽ(::::::::::::::::)ノ) ∧_∧ ヽ ̄ l  ̄ ./∪ ヽ ̄ l  ̄ ./
| . . | ヽ:: ̄ー ̄./ (ヽ( )ノ) | . . | ∧_∧ |
(___人__ ) ∧_∧::::::|:::::::::| ヽ ̄ l  ̄ / ( _,;*;,__ ) /⌒ヽヽ(::::::::::::::::)ノ)
; 丿 し (ヽ( )ノ) ::::::::) | . . | ∪ ; 丿(ヽ( )ノ) ー ̄./
∪ ヽ ̄ l  ̄ ./ ; 丿 (___人__ ) ∪ ヽ ̄ l  ̄ ./::::::|:::::::::| ∧_∧
| . . | ∪ ; 丿 し | . . | (:::::人:::::::(ヽ( )ノ)
アッー! ジャムリン待て〜 アッー!
熊本は肥国、
熊襲国は、宮崎大隅。
78 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 08:31:51.76
>古事記には熊曾、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。
>クマソは、球磨川上流域(現・熊本県人吉市周辺)から、隣接の薩摩・囎唹郡にかけて居住した部族とされる。
79 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 10:17:16.58
80 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 10:28:29.54
http://abekawamoti.at.webry.info/200504/article_25.html 志布志の由来あり。鹿屋の高須、ここはたが巣か、と言われたとの説あり。
また、高隈山麓の花岡には高千穂神社があるが、ニニギノミコトが霧島から
笠沙に行幸する時に休憩したとされる場所です。高隈山正面下の串良町細山田に
霧島神社があり、ここが本家とも言われています。最近、高速道の発掘調査で、
この近辺から5000年前の西日本最古の祭祀用石剣、弥生大集落跡、人骨跡、
縄文時代横穴巨大古墳跡など数々出土しています。高速工事発掘調査は大崎〜
志布志を行います。また、重要物が発掘されるのを期待します。
熊本は日の国
よって日巫女
説得力有り過ぎw
あ、すみません・・・
志布志ってそういった由来があるのですか。
現地の人に不快感を与えてしまい申し訳ありません。
83 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 12:47:51.38
_,,..--――--,,..
/::: ハゲ \
/:::" ヽ ←ジャムリン
,i :: ◞≍≍≖≍≍◟ ◞≍≍≖≍≍◟ i
`. `Y.. / ー-' ヽ '.
>イ ヽ ::.| ト‐=‐ァ' |: i ボクはジャムリンです♪
ノ∧ 丶、 ` `二´' }ィ´`フ
_人_ /N::::_:::::/::| ` r ' //:/: /‐く V
`Y´ /::::::://:::/:::::| >< /:::丁´:::::::::::::V゚}∩ * ボク、ジャムリンは
/::::nんh_::∧:::::}/八. ∨::::::」::::::::::〈ヽ.ノ///〉
. /:/| ! // 〉:::::>ヘ.ノ八 ソ::::{::::::::::::/:::} っ ウィキペディアをヤリタイ放題編集・加筆してます♪
//:::::::\__ノ〉::〈:::::::|/ ∧〉::::〉::::::::/::::∧ , ィ´
/:::::::::::::::::::::/::::::::\::! /:::::>'´::::::::/::::/:::い.ノ):〉 日本史板も荒らし回ってます♪
!:::::::::::::::::::/:::::::::::::::::ヾ厶イ:::::::::::::/:::/:::::::ヽノ:/
|::::::::::::::/ヽ:::::::::::::::<>:::::::::::::::::::/ |:::::::::::::::::::/ *
`ー七:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ |:::::::::::::::::/
//:::::::::::::::::::::::<>::::::::::/::::/ ヽ:::::::::::/
/⌒〈:::::::::::::::::::::::::::::::::::イ::::::::/ `ー‐' *
84 :
筑紫倭皇帝:2014/02/23(日) 06:16:14.47
日向峠­­­­‐(古代名「ヒュウガ」「ヒムカイ」)
この峠は北西の平原遺跡によって千八百年前(弥生時代)からの古代名をもつ、
日本神話を伝承する地として考えられています。
この峠から南西に韓国(王丸山)北西は櫛触山(読み:クシフル山)、その先に高祖山といった
神話の山々が連なり日向三代神話の源流となる処です。
85 :
筑紫倭皇帝:2014/02/23(日) 06:16:59.65
日向峠‐(古代名「ヒュウガ」「ヒムカイ」)
この峠は北西の平原遺跡によって千八百年前(弥生時代)からの古代名をもつ、
日本神話を伝承する地として考えられています。
この峠から南西に韓国(王丸山)北西は櫛触山(読み:クシフル山)、その先に高祖山といった
神話の山々が連なり日向三代神話の源流となる処です。
86 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 10:00:31.25
天孫降臨は東国から。頭椎太刀は九州に縁の薄い物だよw
この太刀は古墳時代後期の、
東国が主体だな
九州を前提には描かれていないという事だからな。
少なくとも高天原北部九州説は無い。
89 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 11:02:27.24
「世有王 皆統屬女王國」
>歴代の伊都国王は、女王国の統(すべる)に属す
他の国々にも王は居たが、皆々共立に伴って統べるに属したはず
それにもかかわらず、伊都国の行だけに「世有王 皆統屬女王國」 と書かれているのは、
特別な意味、経緯があったからであろう
伊都国は何らかの由縁で女王国と親密であり(おそらくは血族一統であり)、
伊都国にいた女王の祖父・父親は、最有力の後見人でもあったのではないか
90 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 11:39:10.98
>>86-87 東征中の忍坂の戦い(vsヤソタケル)で、神武が頭椎太刀・石椎太刀で討てと言うところがあるが、
頭椎太刀は確かに古墳時代後期の東国に多い。
しかしそんな後の時代に東征なり西征なり、そんなものは絶対に不可能で、可能性の欠片すら見えません。
畿内が絶対的権力を確立して全盛期に繋がっていくような時期。
東征西征を可能性としてなんとか想定出来るのは古墳時代前期まで。
都合の悪い事は無視しちゃダメだな。
結局天孫降臨話は大和朝廷の権勢主張話、
及び隼人に気を使っただけの話だよ。
92 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 11:54:32.67
隼人に気を使ったなら熊襲の話なんぞ書くわけないだろ。
まぁ九州内のお話ではないのは確かだ。
94 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 12:18:21.78
隼人は熊襲で、中心は大隅隼人。阿多隼人などは早く大和に降ったが大隅隼人は
最後まで抵抗した。最後の反乱が720年。日本書紀編纂と同じ。国司が鹿屋で殺害され、
大伴旅人が征隼人大将軍で大隅隼人を鎮圧。713年、大隅国がひむか国から分国し霧島市
(旧国分市)に国府を置いたが大隅国の中心は鹿屋。鹿屋の中心の丘の上に国府城があったが、
その麓は曽原と呼ばれ、近くには曽田の地名も残っており、曽於の中心であった。
国分に国府を置いたのは隼人勢力の弱い国分に置いたこと、そのことからもわかるように
霧島は後世霧島山、高千穂の峰、韓国岳の名が都合よくつけられただけ。関係のない地域に
天孫降臨の神話を当てはめて隼人・熊襲の歴史を封印することが目的だった。
しかし、内之浦町誌(現肝付町)、志布志の伝承、大隅から出土する遺跡等からもそのことは
伺われる。できれば、宮内庁指定の唐仁古墳群大塚神社、横瀬古墳の石室を公開してもらいたい。
95 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 12:20:29.82
_,,..--――--,,..
/::: ハゲ \
/:::" ヽ ←ジャムリン
,i :: ◞≍≍≖≍≍◟ ◞≍≍≖≍≍◟ i
`. `Y.. / ー-' ヽ '.
>イ ヽ ::.| ト‐=‐ァ' |: i ボクはジャムリンです♪
ノ∧ 丶、 ` `二´' }ィ´`フ
_人_ /N::::_:::::/::| ` r ' //:/: /‐く V
`Y´ /::::::://:::/:::::| >< /:::丁´:::::::::::::V゚}∩ * ボク、ジャムリンは
/::::nんh_::∧:::::}/八. ∨::::::」::::::::::〈ヽ.ノ///〉
. /:/| ! // 〉:::::>ヘ.ノ八 ソ::::{::::::::::::/:::} っ ウィキペディアをヤリタイ放題編集・加筆してます♪
//:::::::\__ノ〉::〈:::::::|/ ∧〉::::〉::::::::/::::∧ , ィ´
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高天原=北部九州説なんてホント都合悪い事は無視だからなw
97 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 12:52:16.44
高天原=中部九州説こそ本命だからなw
>>94 最後の反乱は霧島市付近でしょ?…そのあたりに前方後円墳が無いのも証拠のようなもの。
囎唹郡は江戸時代には場所が動かされてて概ね現在地になったようだが、元々の所在は霧島市付近。
99 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 13:30:02.70
霧島市(囎唹郡)の北は球磨地方(人吉市)に連なる、これすなわち球磨囎唹→クマソ
100 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 14:51:27.62
いまどき九州説なんて連中が頭おかしくないわけあるまい
101 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 15:00:26.79
その程度のことしか言えぬかw
人吉は一応肥国の領域。
このへんが、熊襲との最前線だろう。
むろん、時代によっては、肥国側が取ることもあれば、
取られることもあっただろう。
大国と思われる邪馬台国が、熊襲に、
場合によっては負けるというのは、
この軍事的に制限のある地勢によるものが大きい。
また熊襲も、えびの、都城、
そして宮崎の平野、大隅半島を抱えているわけで、
国力全体としても引けを取るものではない。
古代大戦スレ
105 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 17:05:04.39
ふーん、その程度にしかすぎないというのは事実か。
106 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 17:55:05.79
107 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 18:21:30.89
九州説はその程度
108 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 18:46:57.87
畿内説も苦労が絶えぬのう
109 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 18:59:11.91
大阪とか近江とか岐阜あたりのほうが僻地の大和よりまだましなのにさ
神武天皇は熊襲出身だて
北部九州は4世紀以降位から、
前方後円墳も見受けられるようになるが、
それ以降にも大型円墳などが作られており、
少なくとも、墓制においては、
統一も支配もされている形跡はない。
>>110 記紀にそんなことは書いてない
山幸彦(ホオリ、ホホデミ)が海幸彦(隼人)と戦いはした
その時代に隼人という集団はいない
>>112 景行天皇は日向で熊襲を倒した
よって神武天皇も熊襲出身だと考えられる
後の装飾古墳は、九州から岩手県まで分布するが、
その中心は熊本県だ。ちなみに、畿内に装飾古墳はない。
>>113 山幸彦と海幸彦(隼人の元)の争い→東征後代を経て熊襲が出現→隼人が出現 という流れ。
景行天皇の九州巡幸では、
豊後禰疑野(竹田市か)で討伐を行ってから、日向高屋宮(宮崎市か)まで賊無し。
高屋宮で熊襲を討つ策を練り、策を以って娘・市乾鹿文に父・厚鹿文を暗殺させ、不幸として市乾鹿文も処刑。
?鹿文の息子の取石鹿文に厚鹿文の娘・市鹿文を娶らせ「襲国造」(古事記)「火国造」(日本書紀)とした。
半年でことごとく「襲國」を平定した。
帰路、岩瀬川(小林市か)では賊はおらず、人々は天皇を饗応しただけだったが、
しかし賊かもしれないと皇軍は警戒したことから、熊・襲地域に近かったことが分かる。
熊県(人吉盆地)では従う者と従わない者がいたので従わない者を討った。
116 :
筑紫倭皇帝:2014/02/24(月) 08:39:59.51
烏尾峠‐カラスオトウゲ
烏尾峠の名称の由来は、峠にさしかかった神武天皇一行が、一羽の烏に導かれ、
悪天候の中を無事に峠越えが出来たという伝説にちなんでつけられています。
国境石真下に所在する烏尾峠古墳をみていると、古代から飯塚〜田川間の通路
となっていたことが想像できます。
117 :
筑紫倭皇帝:2014/02/24(月) 08:42:13.66
ショウケ峠‐ショウケゴエ
宇美で出産を済ませた神功皇后は、生まれたばかりの応神天皇をショウケに乗せて、
この峠を越え、大分(だいぶ)に至ったことから、ここを「ショウケ越」と
云うようになったというが「ショウケ」は「宗家(そうけ)」の意味だと解釈する。
宇美八幡宮から大分八幡宮へ至るには、このルートが最短距離である。
118 :
筑紫倭皇帝:2014/02/24(月) 08:55:34.90
仲哀峠‐チュウアイトウゲ
仲哀峠の名の由来として、かつて仲哀天皇が熊襲征伐の折、この峠を通られたことに由来し、
隧道が開削された谷には仲哀天皇腰掛岩など、 仲哀天皇にまつわる伝説があったのにちなみ仲哀隧道、
取り付け道路の峠道は仲哀峠と命名された。
七曲峠
七曲峠は福岡県、京都郡と田川郡を結ぶ、香春道という主要道(太宰官道略称だいかんどう)に
古来より存在した峠(標高約303、7メートル)で、古くは平城京から瀬戸内海の各国々の首府(国府)を連ねて、
宇佐(大分県宇佐市)、宇の島(福岡県豊前市)に上陸し、豊津から今の県道58号を通り、
みやこ町(新町)〜宿場町上野村(現在上野)〜七曲峠を越して、呉〜鏡山〜香春と抜けて大宰府に至る太宰官道の途中にある。
七曲峠の南約1キロに位置する仲哀峠(仲哀隧道)と混同され、誤用されることがあるが、
田川郡側で一部ルートが重複するものの七曲峠と仲哀峠の両者は別の道である。
119 :
筑紫倭皇帝:2014/02/24(月) 08:56:36.07
日向峠‐(古代名「ヒュウガ」「ヒムカイ」)
この峠は北西の平原遺跡によって千八百年前(弥生時代)からの古代名をもつ、
日本神話を伝承する地として考えられています。
この峠から南西に韓国(王丸山)北西は櫛触山(読み:クシフル山)、その先に高祖山といった
神話の山々が連なり日向三代神話の源流となる処です。
糞みたいな妄想だなw
121 :
筑紫倭皇帝:2014/02/24(月) 09:07:08.53
福岡平野‐飯塚‐田川‐香春‐京都郡
福岡→(ショウケ越)→飯塚→(烏尾峠)→田川・香春→(仲哀峠)→京都郡
神功皇后は葛城の姫と明記されているのにw
123 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 09:34:34.80
日向峠には伊都国日向峠という石碑も残っている。
あぼ〜んだらけになった。
125 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 12:10:28.36
<筑紫倭皇帝>
漢委奴国王の如く、正統漢人は大きな概念から並べて国王名としている
筑紫倭皇帝では、大筑紫の中に小倭があり、その小倭邑の村長が筑紫倭皇帝という響きになる
少なくとも「倭筑紫皇帝」とすべきだったと思うな
126 :
筑紫倭皇帝:2014/02/24(月) 15:58:11.15
福岡平野‐飯塚‐田川‐香春‐京都郡
福岡・神武原→(ショウケ越)→飯塚→(烏尾峠)→田川・香春→(仲哀峠)→京都郡
127 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 16:25:27.47
むろん「筑紫倭皇帝」なんてものは実在しないがな
128 :
筑紫倭皇帝:2014/02/24(月) 16:55:32.98
福岡平野‐飯塚‐田川‐香春‐京都郡
福岡・神武原→(ショウケ越)→飯塚→(烏尾峠)→田川・香春→(仲哀峠)→京都郡
全ての道は倭奴国王大国主命・邪馬台国・天孫族の舞台、倭の都・筑紫博多湾沿岸へと繋がる。
129 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 17:00:42.88
おまえの道は行き止まり
131 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 17:59:03.91
吉野ヶ里遺跡を考える 滋賀大教授ら講演
>国指定の特別史跡・吉野ヶ里遺跡(神埼市・吉野ヶ里町)について考える講演会が23日、佐賀市文化会館で開かれた。
>県教委が弥生時代後期の国内最大規模の環濠(かんごう)集落跡だと発表し、
>全国に知られるようになって25年の節目を迎えたことを記念して開いた。
>小笠原名誉教授は、奈良時代に地方を治めた役所「郡衙(ぐんが)」が吉野ヶ里遺跡の史跡指定外に存在していることを解説。
>「律令社会がどのように発展したかを伝える貴重な資料。
>史跡を拡大することも検討すべきでは」と提案した。
>九州大大学院の島谷幸宏教授(河川工学)は、
>治水・利水を行った江戸初期の佐賀藩士、成富兵庫茂安(1560〜1634年)の功績を紹介。
>遺跡周辺を含む佐賀平野で、堰(せき)や堤防、放水路などを組み合わせて
>治水システムを作り上げていたことを説明した。
(2014年2月24日 読売新聞)
132 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 18:20:27.38
卑弥呼の時代のものって、九州から何か出てきてるの?
むろん、畿内の影響下にあることを示す数々の遺物が
134 :
九州王:2014/02/24(月) 20:21:16.73
何も出てこない。
135 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 22:01:34.08
つまり邪馬台国は九州にはない
九州説以外はありえないので、詐欺の畿内説や他の妄想説を潰すのが、これからの課題。
137 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 22:37:41.15
そんな暇があったらさっさと九州説を証明すりゃ良いじゃん
したら他説は自ずと消える
馬鹿なの?
証明され尽くしたから、もう証明不要。
139 :
大和 田直木:2014/02/24(月) 23:27:13.54
>>136-138 >九州説以外はありえないので、詐欺の畿内説や他の妄想説を潰すのが、これからの課題。
>さっさと九州説を証明すりゃ良いじゃん、したら他説は自ずと消える
>証明され尽くしたから、もう証明不要。
邪馬台国が九州のどこであったかは未だ証明され尽くされていない。
邪馬台国があったのは筑紫平野かそれとも福岡平野かだ。
確かに九州説には基地外しかいないのは証明されたなw
141 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 23:28:02.81
九州説は成り立たないことが、な。
九州説は確定してるから、あとは発掘や出土などの発見で、自然に答えが出る。
畿内説のように、詐欺で結論を捏造していくようなことは、一切不要。
143 :
九州王:2014/02/24(月) 23:55:02.26
>>139 邪馬壹国は筑紫平野、福岡平野、熊本平野とその周辺部を含む北部九州一帯だ
筑紫平野とか福岡平野の様な小さな国ではない。
>>132 鉄、鏡、環濠集落など
畿内よりずっと有力な物が出てる
どこから? w
146 :
川柳の達人:2014/02/25(火) 06:14:09.42
147 :
川柳の達人:2014/02/25(火) 06:15:24.87
148 :
川柳の達人:2014/02/25(火) 06:18:42.84
弥生後期の巨大環郷遺跡なら、全国各地に存在するしな。
九州説論者は視野ぎ狭すぎ、かの国とよく似ているんだよw
150 :
筑紫倭皇帝:2014/02/25(火) 09:23:41.18
>>146>>147>>148 ぶっちゃけ出土品ショボすぎwww
恥ずかしいから熊本は出しゃばらん方がいいww
こりゃ〜ヤマタイの可能性すら 0 だなww
こんなものを堂々と出されたら九州の恥だww
いや、マジでw
151 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 10:38:35.13
今日も朝からどんたく騒ぎ
152 :
筑紫倭皇帝:2014/02/25(火) 10:45:04.67
猿田峠‐サルタトウゲ
宗像市と鞍手町の境にある県道29号の峠。
宗像一族の宗像と宗像三女神の降臨の地、六が岳連峰を結ぶ峠。
旧道に 猿田彦神社 や 剣神社 がある。
剣神社はスサノオとヤマトタケルが主祭神であり、石碑に「倭国大神猿田彦大神」の記載が残る。
宗像三女神はニニギの降臨の際、天照大御神よりニニギの道中の安全を守護するよう命じられた神。
猿田彦はニニギの道中の道案内を買って出た神。
筑紫博多湾沿岸(高天原)で 国譲り と 鞍手直方地方の平定(降臨の準備) を終えた
天孫族(アマテラス)が、ニニギを筑豊へ送り込んだか??
153 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 10:46:10.75
>>150 それ発掘が10%ぐらいやで
大部分が未発掘
154 :
筑紫倭皇帝:2014/02/25(火) 10:54:24.48
六が岳連峰‐ムツガタケ
鞍手町南部の山岳で、旭岳を最高峰として天冠、羽衣、高祖、崎戸、出穂の六峰を六ヶ岳と呼んでいます。
旭岳の山嶺で直方市と宮若市に接していますが、頂上では、はるか英彦山や響灘も眺望できる絶景地で、
毎年6月には登山日を定めて直方市と宮若市と鞍手町の三方から一斉登山が行われています。
天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御陵といわれる可愛の陵は、伝説によると、
第一峰旭岳に尊のなきがらを、第二峰天冠山には冠を第三峰羽衣岳には衣を埋葬し奉るとあり、
山々の神秘性とロマンに想いを馳せさせます。
六ヶ岳を古代は崎戸山といい、宗像(むなかた)の三女神は崎戸山に天降り、その後宗像に移り住まわれたとあり、
山麓の六嶽神社の祭神はこの三女神であり、土地の人は三柱様と称えています。
あきらかな後進地帯を邪馬台国と言い張る熊本説の痴態は、九州説の恥部
156 :
筑紫倭皇帝:2014/02/25(火) 11:44:04.16
豊日別宮‐福岡県行橋市
かつての官幣社豊国一ノ宮。
明治期に「我は倭国大神猿田彦大神也・・」と記された古文書が発見される。
猿田峠の猿田彦神社に「豊日社」の石碑あり。
かつては「豊日社」を名乗った可能性あり。
猿田峠の豊日社「我は倭国大神猿田彦大神也・・」となると・・・
ニニギの道中の安全を守護するように天照大御神に命じられた宗像三女神。
ニニギの道中の道案内を買って出た猿田彦。
話は戻って、豊日別宮‐福岡県行橋市。
大伴金村が欽明天皇の時任那四県割譲の責任をとって隠棲したのが行橋市の豊日別宮。
以後子孫が豊日別宮の神官を務める。「神」氏を称した。
風土記では豊前京都郡について、
「宮処の郡(福岡県京都郡) 古え、天孫ここより発ちて、日向の旧都に天降りましき。けだし、天照大神の神京なり」と記されてる。
行橋市簑島神社‐由緒‐
「天皇筑紫の日向より豊州簑島に入り給ふや、是に天照大神を斎ひ祭りぬ、後島民その行在所に一祠を建て天皇を奉祀せり。」
157 :
筑紫倭皇帝:2014/02/25(火) 11:47:13.06
筑紫博多湾沿岸(高天原)の天孫族は行橋平定後は京都郡に都を移した可能性があるな。
「古え、天孫ここより発ちて、日向の旧都に天降りましき。」の
「日向の旧都」とはまさに博多湾沿岸の日向峠一帯の事だろう。
やはり倭国はせいぜい現福岡県域であろうな。
倭奴国が倭国の極南界。 奴国が倭国の南限と記した中国の歴史書は正しい。
筑紫平野(久留米神崎一帯)はスサノオが平定した可能性が高い。ヤワタノオロチ=筑後川
神崎櫛田宮のクシナダ姫はその時にスサノオが妻にしたのだろう。
スサノオ以前の久留米周辺は、元は奴国から分裂したか奴国の兄弟国的存在の狗奴国なのだろう。
おれの説は改めてなかなかの説だったな。
158 :
筑紫倭皇帝:2014/02/25(火) 11:54:40.14
やはり
天孫族の一兵として京都郡にいた神武が筑紫の日向に戻り畿内へ旅発った(挙兵)した、と
していた俺の説はなんと近かった事か。
己のセンスには驚くばかりだ。
「古え、天孫ここより発ちて、日向の旧都に天降りましき。」
まさにそのままではないか。
ただ、豊前の風土記では博多湾沿岸の日向は 旧都 という事になってんだなw
熊本説は極めて有利。
魏志倭人伝を一目見て宗像とか絶対にないと認めない福岡説の横暴は、九州説の呆部。
160 :
筑紫倭皇帝:2014/02/25(火) 12:08:02.52
行橋市簑島神社‐由緒‐
「天皇筑紫の日向より豊州簑島に入り給ふや、是に天照大神を斎ひ祭りぬ、後島民その行在所に一祠を建て天皇を奉祀せり。」
この
「天皇筑紫の日向より豊州簑島に入り給ふや、是に天照大神を斎ひ祭りぬ、」とは、
神武天皇が筑紫の日向より豊州簑島に入り、ここに(簑島神社に)天照大神を祀る社殿を建てた。という事。
要するに、筑紫の日向とは博多湾沿岸の日向のことだな。
筑紫の日向を宮崎と言い張る宮崎のアホはもうあきらめろw
161 :
火星人満州:2014/02/25(火) 12:39:16.09
× おれの説は改めてなかなかの説だったな。
× 己のセンスには驚くばかりだ。
○ おれの説は改めてなかなかのアホ説だったな。
○ 己のセンスの無さには驚くばかりだ。
162 :
筑紫倭皇帝:2014/02/25(火) 12:43:11.82
>>161 お前は笑いのセンスすらない低能である事実が更に分かった。
満州、お前ほんと頭悪そうだなw
歴史もダメ、理系もダメ、笑いもダメなら何の取り柄もないなw半島満州よw
邪馬台国って、
九州一体、とか、
西日本一帯、
とかかね。
政府と城や砦、一般人が住む居住地って、
一か所じゃないでしょ?
と無知が書いてみる。
164 :
筑紫倭皇帝:2014/02/25(火) 12:55:14.21
そういえば満州も「筑紫の日向は宮崎だ!!}とか言ってる
低能知識薄キチガイだったなw
お前もあきらめろ、キチガイ満州w
福岡が筑紫の日向だったら
祖国朝鮮が福岡の天孫族に支配されてたという事実が日本人にバレてしまうから
必死なんだろうw
しかし日本は関西や宮崎やアホ熊本が「おらが村だべ!!」と必死に発狂してる。
この隙に「祖国の名誉を」と必死に工作してるのが満州であり、
こいつ(満州)の発言がいい例であるww
と、ユダヤ教徒が述べておりますです。
日本語が巧みで、反日本ってなんだろ?
統一教会?
一般のネラーなら、
満州さんをそこまで嫌ってないはず。
2chを使ってどうかしたい人達だろうね。
167 :
筑紫倭皇帝:2014/02/25(火) 13:05:19.98
>>163 邪馬台国とは魏志倭人伝に記載してある国で倭国にあった国だよ。
その倭国とは魏志倭人伝では奴国が南限。
要するに福岡平野が南限であり、都が博多湾沿岸にある壱岐対馬等を含む
朝鮮半島南部まで支配していた海洋国家なんだよ。
ちなみに後漢書でも倭国の極南界は倭奴国。
つまりつまり「漢の倭奴国王」の金印が出た博多湾沿岸なんだね。
博多湾沿岸の遺跡や出土品みると、倭国がせいぜい現福岡県域だと
いうことは土の中も証明してるよ。
神籠石や甕棺墓等々の分布をみてもせいぜい福岡県域であることは一目瞭然だな。
つまり倭国にあった邪馬台国はせいぜい現福岡県域でしかないという事だよ。
天孫族もみんなね。
筑紫の範囲も相当狭い。現在の福岡都市圏ぐらいだろうね。
倭国が一つの国で、
そこを仕切ってたのが邪馬台国っていう認識でいいのかな?
169 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 13:14:37.02
無知だな
170 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 13:19:19.61
今日も、博多ドンタクが大騒ぎ
まあ、大学受験レベルだと、
詳しくやってくれないからなあ・・・
というか、まだ史実として学問界で決着がついていないから、かな?
172 :
筑紫倭皇帝:2014/02/25(火) 13:23:31.53
>>168 そうだね、ただ邪馬台国の頃は倭国も一枚岩じゃなかったと思うよ。
だから倭国内(九州側)の国々の中から卑弥呼が共立された。
ようするに、邪馬台国の時は半島まで強い支配は及んでないだろうね。
しかし、半島南部は歴史上も倭国の領土だから
後の時代でも倭国は度々半島に出兵してるね。
半島の百済新羅は倭国の事を大国として認めて恐れていような存在だったんだね。
邪馬台国九州一体説で終わっていい。
熊襲も後世の政情変化で不当に辱められた地域集団てことで。
そうかあ・・・
倭の国と邪馬台国の勢力が
どれくらいの広さだったかを定義するスレッドだったのか
175 :
大和 田直木:2014/02/25(火) 15:34:34.30
>>168 >倭国が一つの国で、
>そこを仕切ってたのが邪馬台国っていう認識でいいのかな?
違う
正始元年(240年)に倭國となる倭の女王國が一つの国で、
そこで卑弥呼王が居たのが邪馬台国である。
176 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 15:41:44.08
意味不明、理解不能
177 :
大和 田直木:2014/02/25(火) 15:58:30.79
>>163 邪馬台国とは魏志倭人伝に記載してある国で3世紀に女王國や倭國であった国だよ。
その倭國とは魏志倭人伝では投馬國と邪馬台国が南限。
要するに筑後平野が南限であり、都が久留米南部にある壱岐対馬から
筑後平野南端まで支配していた国家なんだよ。
ところが後漢書の1世紀の倭國では、その極南界は倭奴国。
つまりつまり「漢の倭奴國王」の金印が出た博多湾沿岸なんだね。
博多湾沿岸の遺跡や出土品みると、1世紀の倭奴國は福岡平野だと
いうことを土の中も証明してるよ。
一方3世紀の倭國にあった邪馬台国は筑紫平野の半分を占める地域だよ。
178 :
大和 田直木:2014/02/25(火) 16:17:26.61
>>176 国の広さ・・・・倭國>女王國>邪馬台国
女王の居所・・・「邪馬壹國 女王之所都」
女王國が倭國として魏に認められた時・・・正始元年(240年)
魏志倭人伝をよく読めばわかる。
179 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 16:18:39.74
意味不明、理解不能
自説の論拠が説明がまったく出来ず
「倭人伝を読めば分かる」でお茶を濁すのが
九州説の特徴
181 :
川柳の達人:2014/02/25(火) 18:34:14.15
>>150 筑紫猿
@出土品がしょぼいとほざいているが鉄製石包丁が意味するところは理解してないだろう
A特に方保田東原遺跡は全体の1割程度で邦製鏡の出土数は日本一だそうな。この意味は理解できているのか?
B西弥護免遺跡は弥生初期〜中期の遺跡なのだそうだが鉄工房らしき跡が発見されている。この意味は理解できているのか?
182 :
川柳の達人:2014/02/25(火) 18:39:44.86
筑紫猿
あとついでにな、ここは邪馬台国について議論しているところだ。
「魏志倭人伝の道程」や弥生時代に先進的であった遺跡を無視して自分の妄想だけを語っても
説得力0現実性0妄想性100000でバカらしくて読むに堪えんな┐(´ー`)┌ ヤレヤレ
妄想猿相手に必死と思われたくないからここらでやめとくが、せめて九州説を汚すな
弥生後期の鉄工房なら既に三原、安芸周辺に存在してるしな。
瀬戸内の倭人がヤマトに入って秋津島と名付けたのはそういうこと。
九州説には具体的な人物像や場所が全く無い時点で話にならんw
185 :
川柳の達人:2014/02/25(火) 18:55:11.13
>>183 ななし
「鉄工房があった」以外に先進性はあったのか?弥生後期の鉄工房なぞ特に珍しくない
>>184 ななし
具体的な人物像とは何かね?もしや想像の人やら無理やりな説明が必要な人やらあるいは
妄想上の事か┐(゚〜゚)┌ 何がいいたのかわかりませ〜んだな
鉄工房の最新タイプは纏向
九州説なんて有りもしない事を全部妄想で語るくせにw
先進的といっても、正直技術的には銅鐸製造の方が高いだろう。
189 :
川柳の達人:2014/02/25(火) 19:08:31.41
纏向遺跡自体は弥生時代の集落は発見されていない。そこから外れたところに集落跡や大量の土器が発見されているらしいが
先進性は見られないな・実に残念なことに普通の集落だろうよ。そういったところにあった鉄工房は普通に集落にあった
工房だろうよ( ´,_ゝ`)プッ
190 :
川柳の達人:2014/02/25(火) 19:11:34.02
なんだかショボイ畿内説のガキが迷い込んでるみたいだな・出口はあっちだ
191 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 19:13:12.89
>鉄工房の最新タイプは纏向
自分のカキコの矛盾に気づかないのかねえ、かわいそうにw
畿内説など、詐欺で支えているだけのインチキ説なんだから、このスレに出番など無いな。
193 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 19:36:16.33
弥生中期の吉野ヶ里でも、
鉄器の加工はしてたようだから、
後期になると特に珍しいものじゃないだろうな。
195 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 19:45:45.14
>鉄工房の最新タイプは纏向
つまりは、一番あとってことかな?
鉄の石庖丁型ってのが、大陸の鉄の利用法の猿真似じゃなくて、
自前で研究していたことが伺えて、興味深い。
オリジナルな技術開発の芽生えだな。
ついでに、平原の大型内行花文鏡も、
そんなサイズのものは中国にはない。
おそらく、中国人の工人がいたら、つくろうとも思わなかっただろうし、
ひょっとしたら平原の王様が無理に作らせたかもしれない。
いずれにせよ、日本オリジナルをつくろうとして、
「やらかした」例だと思う。
情熱と技術の無駄遣いって、面白いし、
何を考えているのかが、少し見えてくる。
196 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 19:58:16.26
>鉄工房の最新タイプは纏向
つまり、自分のカキコの矛盾にさえ気づかない自己陶酔型詐欺師のセリフ
197 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 19:59:38.78
あと、鉄の石庖丁ってのは、貴重な鉄が武器だけじゃなくて、
庶民に流通していたことを示しているし、
銅器の影響を余り受けていないことを示している。
つまり、銅器と鉄器はほぼ同時期に入ってきていた
可能性が高い。
倭国は鉄が豊富だとは何処にも書かれてないのにw
199 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 20:08:16.13
倭国は鉄が豊富でないとは何処にも書かれてないのにww
確かに一カ所だけ書かれてたよなw
201 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 20:28:27.85
兵用矛、楯、木弓、木弓短下長上、竹箭或鉄鏃或骨鏃
鉄鏃は、熊本、大分辺りでたくさん出土する
畿内とちがって、このあたりではめずらしくもない日用品だww
202 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 20:44:36.12
熊本は女酋長、土蜘蛛の巣なんだろw
争いばかりの場所は都じゃないわww
>>199 わざわざ弁辰まで取りに行ってると書かれているんだから
倭国は鉄が豊富でないとは書かれてるも同じww
204 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 21:07:12.61
>>196 「邪馬台国は九州だ!」とか「矛盾だ!」とかmy結論を叫ぶだけで
理世尾をひとことも言えないのが
九州説男ちえおくれの証明
205 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 21:14:51.10
わざわざ弁辰まで取りに行ってると書かれているくらいだから
輸入された鉄で熊本は鉄溢れる国だったわけだ
今の日本と同じさ
自給にこだわる畿内説は孤立主義の塊ww
なにを輸出してたの?
207 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 21:28:43.46
鉄にもいろいろあるんだよな
208 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 21:34:04.75
何のために朝貢していたかというとだな、、、、
>汝大夫難升米、次使都?牛利奉汝所献男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到
筑紫は糸島や博多で、
肥国は唐津や天草経由で、
鉄の輸入ルートが確保されていた。
玄界灘に面する地域ながらも、
唐津が肥国側であったことは、
肥国にとっては重要だった。
筑紫に鉄ルートを縛られるわけには行かず、
なんとしてでも、肥国が自由にできる
鉄ルートを保持する必要があった。
オリジナルの鉄器開発が進んでいれば、
その過程の原始的な製品や、アホな失敗作が出てくるもの。
それが出てなくて、いきなり先進的な
完成形が出てくるのは、
すでに他所で完成された技術や人が、
そこに入ってきて作ったものである。
211 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 22:05:15.09
残念ながら唐津は糸島勢力下
壱岐も糸島勢力下
熊本説はまるで絶望
まったく、ありえない
だから注目する学者はゼロ
212 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 22:20:33.38
残念ながら、空しく聞こえる
213 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 22:22:48.48
弥生鉄の遺跡ザクザク、熊本説は極めて有望
厳密に調査したわけではなく、
印象でしかないが、
宮崎の古墳群のほうが、
畿内に比べて、バリエーションがおおく、
試行錯誤の特殊なものが多いように感じる。
宮崎である程度完成され、定まった形式が、
畿内に伝わった前方後円墳ではないだろうか。
215 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 22:28:44.73
無理
>>214 >宮崎である程度完成され、定まった形式が、
吉備阿波はスルーですかw
鉄が貴重、かつ、需要が大きいものであることは言うまでもないだろう。
弥生期の鉄の出土が、北部九州を離れるに連れて、
急速に少なくなっているのは、
輸入されたものが、奪い取るように先を争って加工され、
使われているシーンがふと浮かんだ。
鉄器加工遺跡が八女、瀬高、玉名などの
大牟田荒尾付近を中心とする領域と、
緑川、宇土半島周辺に集中するのは、
大牟田付近は唐津からの輸入鉄、
宇土半島は島原天草経由の輸入鉄
を使用していたからではないか?
つまり、輸入されたものはその港付近で、直ぐに分配され、
周辺地域ですぐに加工、消費されていたのではないだろうか?
>>202 その通り
だから卑弥呼に繋がる
畿内で、卑弥呼・臺与と2代続いた女王って誰を指すの???www
219 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 23:34:21.63
九州じゃ誰を指すの? (墓穴)
>>219 文献が残ってないので分からないなあ
でも考古学的に発見される可能性はまだ残ってるよ
で、二代続けた女王は畿内じゃ誰?
文献が残っていて該当者が居ないのなら
畿内じゃない事の証明だが
アホ、熊本の女酋長とか安い本の読み過ぎw
記のセヤタタラヒメ、紀のモモソヒメ(日女命)が卑弥呼だ。
文献が実際の歴史どおりだなんで、固定観念に囚われたひとだね
じゃ、倭人伝も否定しろよw
224 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 01:33:20.56
はうううっ!! ♪イヨはまだ 16だから〜
226 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 01:40:02.92
やっぱり畿内論者は発狂したか
無理も無い
何も根拠が無かったんだからな・・
>>223 何百年も後に伝説を取りまとめて政治的意図まるだしに編集した史書と
ほぼ同時代の史料と同じに考えるなんて
九州説のひとの文献の扱い方は、まるで素人ですね。
228 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 01:55:03.89
卑弥呼の宗女で倭国王でしょ?
それが何か?
230 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 02:31:59.96
>>229 だから誰?
モモソヒメだけじゃ駄目だぜ
231 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 03:19:56.73
>>230は白痴だな
無文字社会で特定個人名が300年以上100%遺存すると信じてるよ
おまえに歴史は無理だ
あきらめろ
232 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 04:18:37.97
sっさああ
っさあ
っさあ
っさああ
>>228 ヤマトトヒメだよ。
で、九州説では誰なのかな?
女酋長の妹でいいから楽だねw
237 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 07:40:05.52
九州説の馬鹿が壊れた(れてる)
石包丁型の鉄器は、鋳鉄で脆いといえど、
石に比べれば、はるかに頑丈だろう。
また、鉄鏃も鋳鉄で十分重くて硬いものが作れる。
刀剣のように苦労して鋼にする必要はない。
そういう意味では、低い鉄器加工
技術でも造れる初級入門作品と言って良い。
そういう過程を経て、高度なものへ
進んでいくのである。
その過程がない地域で、高度なものが出る
ということは、他所から入ってきたと考えて良いだろう。
239 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 08:34:40.53
畿内説にとっては悔しい限りだろうが
九州で伝説の女王と云えば、
あの高貴なお人をおいて他にいないだろう
九州で女王?演歌の女王位だなw
241 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 09:59:51.14
>ヤマトトヒメだよ。
ま、せいぜい四世紀初頭の媛
242 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 11:34:01.70
憐れな希望的願望にすぎないなw
243 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 11:36:11.90
記憶が有るのに
卑弥呼→臺与の、いわゆる女王の該当者が居ない
畿内説哀れよのう
244 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 11:57:47.10
やまとひめのみことは、仁徳天皇からいえば四世代前の媛
仁徳退位のAD400 年から80年ほど前の320年ころに伊勢神宮へ達した計算になる
卑弥呼・台与とはかれこれ80〜100年ちがうわ
245 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 14:02:58.68
証明してみな
246 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 14:19:50.76
>>245 周知の通り、記紀では神功皇后を卑弥呼・台与の治世に充てている
その神功皇后の三世代前が倭姫命だ
一方で、記紀が示唆する神功皇后は否定しながら、
他方で数十年しか年長でない祖々母世代の倭姫は正しいとするのは合理的でない
そう主張したいのであれば、
垂仁天皇から仁徳天皇まで430年ほどでわずか6〜7世代しか経過していない不自然さを含め
それなりの納得いく説明を要する
年代で計算すると、
やっぱ卑弥呼=神功皇后じゃない?
存在の大きさをから言ってもぴったし。
何回言われてもわからない奴を低脳という。と言われてもやはり理解できないだろうな。低脳だから。
>>248 ユダヤ教だと神功皇后説がなんかまずいのか?
あ、やっぱり低脳だ
「説」と言うところなんかどうよwwwwwwwwwwww
おてもやんに決まってるだろ
じつはおてもやんの歌は4世紀にはできていたのだ
歌詞は今とは違うが
>252
誰ではない。
卑弥呼は卑弥呼以外にない。。
資料にも卑弥呼の名で記載してある。
256 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 16:06:41.05
倭人伝に出てくる人物なのに、記紀に登場する人物に読み替えないと気が済まないのか
これを記紀中毒という
>>256 記紀の中で邪馬台国をあえて比定するならクマソだな
風習や立地が邪馬台国とよく似てる
258 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 18:47:52.07
>>256 じゃ、九州説は今後一切記紀と無関係でいいんじゃないのw
勿論高天原や神武も神功皇后も。
259 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 18:57:37.82
邪馬台国=クマソ説を記紀の筋書きにのっけて読んでみると、
景行天皇が熊襲(邪馬台国)を討伐した(100年ほど)のちに、
畿内から(卑弥呼と思しき)神功皇后が筑紫へ下って行ったわけだ。
よって、仲哀天皇は熊襲(=邪馬台国)出身のうら若き卑弥呼ないし台与を嫁に迎え、
その嫁がのちに神功皇后を名乗って活躍したとなる。
そうすると大和朝廷の祖は、熊襲(=邪馬台国)、もしくは熊襲国と九州邪馬台国の両方を取り込んだことになる。
官製神話としてはなきにしもあらずか、、、、
260 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 19:01:32.34
>>258 じゃ、畿内説は今後一切倭人伝と無関係でいいんじゃないのw
勿論伊都国や卑弥呼も台与も。
>>260 畿内説は倭人伝を否定してないのに、全く意味不明だよw
262 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 19:18:05.28
>>261 畿内説に合う倭人伝は肯定するが、九州説における倭人伝は否定しておる。
典型的なダブルスタンダード、二枚舌であるww
>>262 九州説では倭人伝の記述には合致しないだけ、簡単な話だw
大体九州説なんて戸数の問題だけでも全否定だよ。
264 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 20:32:53.92
其俗、国大人皆四五婦、下戸或二三婦
一戸あたり夫婦に子供三人なんて、今どきの常識で戸数を推定してはいないか
男どもは兵士狩り、奴隷狩りで極端に少なかった
倭国は、あらかた母子家庭ばかりといってよい状況だったのだぞ
今でさえ、平均世帯人数は2.5人である。
これは、独身の世帯があるからだが、
夫が戦で消耗すれば、
未亡人や未婚の世帯も増えるだろう。
主要な竪穴式住居の大きさは6畳二間程度。
一夫多妻制の場合、妻と子で一戸と
考えるべきである。
複数の妻と子を収めるほどの大きさがないからである。
既に吉野ヶ里より大きい弥生環豪遺跡が日本各地に存在する以上は、
九州説なんて論ずるだけ無駄、伊都や奴国所在地で終了。
267 :
川柳の達人:2014/02/26(水) 21:59:09.04
もーこんな畿内説的短絡思考表現浅墓な呆け増進老人倶楽部会員の書き込みなど
「どーでもいい」から先に進もうぜ
268 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 22:36:53.46
佐賀平野に伊都国、熊本平野に邪馬台国、宮崎平野に投馬国という配置は、
九州島の地形地理に良くマッチしているとおもう
もちろん倭人伝の道里記述にも適合する
中央を南北に走る九州山地を期にする向きもあるかもしれないが、
実は九州山地の尾根筋には南北縦走路もあり、全島交通は意外に便利なのだ
こうしたことも手伝って倭国の女王共立もできたのであろう
269 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 22:55:28.34
<大宰府天満宮に伝世された翰苑>
山に憑き、海に負い、馬臺を鎮め、以て都を建てる
山に憑きとは、鬼道のシャーマニズムを意味し、
おおかた阿蘇山の噴煙噴火の威を借りて衆を惑わしていたことでも書き表わしたのではないか
海に負いとは、海の恵みのお陰で(邪)馬台国を治めたこと、
つまり有明海沿岸での製塩業と漁業の富を統治の背景にしていたことをのべているのではないかと思う
短い句ながら邪馬台国支配の要諦を表わしている
もちろん遺跡の語るところでは、大陸から持ち込まれたであろう鉄器の威力もあったに違いない
>>267 記紀も無視するんだろ?
行程パズル位しかやること無いクセに。
271 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 23:10:04.67
神武東征は史実反映してるだろ、そりゃ。
272 :
大和 田直木:2014/02/26(水) 23:19:12.47
佐賀平野には伊都國と奴國と不彌國。 二萬二千餘戸
佐賀平野と筑後平野には投馬國。 五萬餘戸
筑後平野と北野地域には邪馬台国。 七萬餘戸
福岡平野には其餘旁國の奴國。 推定二萬餘戸
熊本平野には狗奴國。 推定十萬餘戸
273 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 23:57:13.87
神功皇后の子が応仁天皇
臺与ってだれよ?
274 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 00:10:28.96
数万戸の推定戸数とか、九州脳はこれだからw
まず弥生期集落跡のある遺跡を見つけてから言えよ。
現状でも弥生後期最大級は高知や鳥取にあるのにな。
275 :
大和 田直木:2014/02/27(木) 00:33:44.71
>>265 戸 ≠ 世帯
「下戸或二三婦」の場合
1戸=戸主世帯+婦世帯+婦世帯
2〜3軒の建物(竪穴住居等)に住んでいた
「大人皆四五婦」の場合
1戸=戸主世帯+婦世帯+婦世帯+婦世帯+婦世帯
4〜5軒の建物(竪穴住居等)に住んでいた
婦とは
@正妻
A単身の母親、老齢の両親
B亡父の元妻
C単身の叔母
D亡兄弟の元妻
E夫を失った女性
F独身の兄弟姉妹
「神功皇后の子が応仁天皇」って・・
記紀もろくに読んだことないやつが
記紀の人物に当てはめなきゃ気が済まない病だってのは
矛盾があるね、人として。
277 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 03:11:18.04
>>276 なに言ってるのか分からないです
日本人として基本的な歴史の知識を勉強してから出直してねw
278 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 06:23:28.68
279 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 09:12:05.42
あいつの頭のなかでは、
記紀は全て畿内を舞台とし、
畿内人についての事績のみ書かれている、九州人の記事はない・・、となっているようだ
そう考えるとなぜ無脳なのかがよくわかる
280 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 09:24:24.60
根拠のない「ようだ」が無能の証明
281 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 09:43:31.57
<大宰府天満宮に伝世された翰苑>
山に憑き、海に負い、馬臺を鎮め、以て都を建てる
海の無い山国ではまず塩に苦労する。
また海に出る術なくば、時代に遅れ、新式の船・武器も手に入れがたい。
そのような出口の無い辺鄙な地に、先進の大国家があったとは考え難い。
邪馬台国には、鉄を加工するための広大な木炭山もあり、いささかの鉱山もあったに違いないが、
海の恵みを存分に受ける有明海、八代海沿岸も支配下にあり、海人達もおり、
半島大陸へ向うにも便利な地であったと見るべきであろう
あの時代、敵に塩を送ってくれる者などいるはずもなかった。
あほくさ
塩なんて縄文時代から分業交易してるのに
283 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 10:18:47.11
あほくさ
海なくば分業交易で不利を強いられるのに
そうか、奈良は海の無い県だったなww
奈良の縄文遺跡からは海水魚の骨も
海の貝も出てるがな
製塩土器、縄文時代とかでググレカス
そもそも特産があるということは生き延びる上ではっきり有利なのだ
塩を作れる土地なら労少なく食料を手に入れられる
黒曜石や翡翠が縄文時代にどれほど広範囲に交易されているか
285 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 10:32:15.26
海の無い奈良盆地は、縄文のころから交易で苦労してきた弱小国だったんだろうな
道理で、少人数の神武勢力にコテンパンにやっつけられ、
かんたんに国を乗っ取られたわけだwww
286 :
サガミハラハラ:2014/02/27(木) 10:33:27.44
応仁天皇じゃなくて応神天皇ね。
妄想にはつきあいきれん
つーか考古学の基本を知らんやつはどこまでもトンデモしか言えんな
ちなみに塩は翡翠などのような貴重品ではない
弥生時代には近隣の山の集落と海の集落で手軽に交易されていた
288 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 10:46:13.04
近隣の集落同士ならばという前提つきだろ
弥生後期・古墳初期ともなれば、諸方に国や街道や関ができ、交易も管理され、税も徴収された
それが国家の成立というものだ
289 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 10:48:43.41
「応仁天皇」なんて書いてる奴は記紀をろくに読んでないアホと呼ばれて当然
>>288 どんだけバカなんだよ
塩の話をしてやってるんだ
勝手にお前の妄想に話をすり替えるな
ちなみに、塩のように効率的に製塩する技術というのはあっても
基本的に海沿いならどこでもとれるようなものに関しては
けっして売り手が有利ということはない
292 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 11:54:00.65
上杉・武田の逸話のように、山国では塩は決して効率的にとれない
山国と海国の交易の問題を沿岸周辺部のことにすり替えてはならない
また、海国であっても製塩の効率には格差がある
お天気つづきの瀬戸内・九州と、曇天模様の日本海側では大違い
古代、山国の王族が塩を手に入れるためには、どのみち女子供を何人か差し出したのだろう
すげえ妄想
294 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 12:15:48.30
>>285 アホ、神武軍は河内湖の直接戦闘でぼろ負けしてるぞw
295 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 12:17:49.42
巻向で塩がとれるのか?
巻向で翡翠がとれるのか?
巻向で黒曜石がとれるのか?
こういうネットバカの特徴は、いくら学問的な話をしてやっても
自分では一つも調べようとせず妄想に固執するところだな
あくまでも学者様ゴッコをしたいだけで、自分の知識を広げようとは考えない
謙虚さが足りんし俗物そのものだ
>>295 纏向の話とかしとらんが
297 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 12:29:27.90
巻向は山国の例として示したわけだ
古代ともなれば学問の前に喰いものがだいじ、喰い物の確保を忘れた学問なぞ有り得ない
当時奈良盆地は海が近いのだが。巻向では海魚の骨が沢山出てるしな。
それにあの周辺は宇陀の丹山だよw
塩は竹内遺跡周辺に分配ルートがある。
鉱物の宝庫二上山からは翡翠ではなくサファイア(碧玉)とれるな。
299 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 12:35:01.58
九州脳は日本の地理には特に疎いからなw
300 :
火星人満州:2014/02/27(木) 12:36:54.60
豆知識
依山負海とは一種の常套句である。山に依り海を負う。
憑山負海も同じ。上で誰かが書いているような意味ではない。
302 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 13:27:08.67
>依山負海とは一種の常套句である。
では聞きたいのだが、そもそもはどのような意味を持った常套句なのか??
303 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/27(木) 13:55:21.09
>>289 古史古伝には、応神を応仁と、そういう記載名の書があったな。
齊南以泗為境,東負海,北倚河,而無後患
305 :
火星人満州:2014/02/27(木) 17:16:34.77
依山負海。文字通り、山に依り海を負うということである(笑
意訳すれば、背後に山、前には海がある地で暮らしているということ。
日本、朝鮮、遼西、山東、沿海州…等々、すべてこれに該当する。
306 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 19:19:35.47
ま、纏向が臨海地域を含む広域の国の都であることは確定してるわけだが
307 :
川柳の達人:2014/02/27(木) 20:27:22.70
畿内説のボンクラどもへ
<ウィキペディア>
九州と畿内で布留0式土器と共に古式新羅伽耶陶質土器が出土しており、古式新羅伽耶陶質土器は名前の通り
新羅や伽耶が建国された時期の土器だからである。新羅や伽耶が建国された時期は楽浪郡が高句麗によって
滅ぼされた後の事で、4世紀半ばと言うのが自然だから。ただし、韓国の学者は新羅や伽耶が建国された、
あるいはその胎動が始まった3世紀末には古式新羅伽耶陶質土器が作られた可能性があるとしている。
しかし、韓国の学者の意見を採用しても、布留0式土器は3世紀末より早まる事はない筈である。
だとよ
308 :
川柳の達人:2014/02/27(木) 20:29:20.88
はい・巻向終了―( ´,_ゝ`)プッ
古式新羅土器のネタは以前に別スレで論破されてたじゃんか
ホントに九州説・東遷説って恥知らずなのな
310 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 21:31:08.38
中国 清王朝が満州族による統治ならば沖縄も満州族かもしれんよね
つい最近まで高床式を採用、衣食住で生活していたら?
311 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 21:38:42.50
>>310 なんの冗談だよ大陸が好きだなw
奄美に高倉まあ正倉院も高倉だがな日本家屋も高床の潰れた様なもんだがな。
北で演ってろよ
巻向は塩が取れなくても魚のウロコが取れる。女がいたという伝承もある。
どうだ、すごいだろ。候補のない九州とは大違い。畿内で決まりだな。呵呵
313 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 22:23:16.34
>>307 そんな稚拙なトンデモを触れ回ってるから九州説はもう専門家からは全く相手にされない。
「古式新羅伽耶陶質土器は名前の通り」
じゃないのは、ちょっと考古学を知ってる人間なら常識。
砲弾甕が大砲と無関係なことを知らない人がいないのと同じなんだよね。
314 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 22:26:04.82
せいぜい東征した神武の新植民地といったところ
つーか日本の考古学の編年を信じないくせに、韓国の考古学の土器編年は信じるんだよ
ダブルスタンダードそのものだろ
韓国の考古学は出発が遅れてるし、実年代の推定は三国史記の影響を強く受けている
かつて日本がたどった道だが
316 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 23:23:21.16
共立女王卑弥呼は九州島の倭30国を代表して朝貢団を魏へ送った
しかしそれだけではなかった、
東国へは神武らの一団を送りだしたのであろう、のちに言うところの征夷大将軍のような役割であった
熊本説の場合はこのように考えるとよいのではないかとおもっている
318 :
大和 田直木:2014/02/28(金) 00:58:16.69
>>316 共立女王卑弥呼は九州島の倭29国を代表して朝貢団を魏へ送った。238年景初二年
神武らの小集団は、帥升に敗れた倭奴國勢力の一部が武装難民漁労船団となって、
神武が生まれた東部九州の漂浪を経て、新天地を求め東国へ旅立ったものである。
106年延平の頃−永初元年(107年)の前年。
319 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 01:52:31.96
九州説は記紀の人物を無視するはずでは無かったのか?
320 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 02:30:30.20
神武天皇は九州出身
負海とは、国境が海に接しているという意味で
中原から遠く離れた東の辺境という侮蔑語。もともと斉を卑しんで使っていた。
憑山も同様の侮蔑の意味が込められてるだろう。
平地に都城をつくっていない、要は辺鄙な田舎という意味であろうから。
憑山負海とは中原から東に遠く離れた、田舎の国ということだ。
憑山負海は要害の地という意味も含まれているね
軍事関係の書には憑山や負水によって敵を阻むという言い方がよく出てくる。
323 :
川柳の達人:2014/02/28(金) 06:09:25.54
昨晩は畿内説の者達の触れてはいけないとこに触れたみたいで必死の反論が書き込まれてるね( ´,_ゝ`)プッ
まー土器編年を地道に調べ上げて作っていった苦労は認めるがその始まりを弥生時代にどうにか持っていこうとする
汚い根性やら根拠のデタラメさで信用性を失うことになるのだ。
過去にあった「ホケの山古墳騒動」でもおなじことがあったねーヽ(´ー`)ノ
324 :
川柳の達人:2014/02/28(金) 06:20:46.54
古式新羅加耶土器―古式陶質土器
まず、生活遺構での出土例は福岡県糸島郡志摩町・御床松原遺跡35号・37号・59号住居跡〔井上(編)1983:80,82-83,85,90-91〕など、
北部九州に集中している。北部九州の生活遺構での畿内布留式系土器の登場と陶質土器の登場が同時期であることは、柳田康雄がすでに
指摘している〔柳田1991:43〕。
だとよ・はい巻向年代弥生遡り節終了―( ´,_ゝ`)プッ
実は何の問題の無いことに気付かない、
古臭い顔文字な情弱の爺さんが哀れだw
女王国は瀬戸内から東を指すのだからな、
所詮九州は無関係な話だ。
東に倭種あり、って書いてあるからね。
確かに倭種有りは房総半島でピッタリだな。
329 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 08:39:36.66
憑山負海なら、海に面していない大和は明白に該当しないだろう
畿内布留式系土器に加えて、またも巻向節終了−
330 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 09:08:59.13
大乱を経て九州島に共立された倭国としては、
平和を維持するために大事業を要したのであろう
その一つが魏・郡への朝貢で、これにより鉄等の新技術を輸入することであったわけだ。
もう一つは狗奴国の平定支配と、
及び東の倭種の国への進出で神武伝説はこの時代のこと。
倭人伝にはないが、神武の東征は共立卑弥呼のもとで進められた渡海植民地政策だったのであろう。
古代天皇の平均在位年数からみても、神武即位は240年頃が妥当。
331 :
筑紫倭皇帝:2014/02/28(金) 09:09:53.70
もうさあ、いい加減糸島博多湾沿岸説以外のやつは諦めなよw
どう考えても糸島や福岡平野以外はないだろw
糸島や福岡平野は1000m超級の山々に囲まれた韓国に向かい開けた平野。
筑紫の日向も散々俺が示したろw
博多湾沿岸以外はないんだよw
大国主も邪馬台国も天孫族もぜ〜んぶ博多湾沿岸部で興った史実なんだよw
いい加減博多湾沿岸説以外のやつらは諦めろ。
どうあがいたって本物が詰まった博多湾沿岸には勝てないんだよ。
332 :
孝霊厨:2014/02/28(金) 09:19:09.74
>>329 >憑山負海なら、海に面していない大和は明白に該当しないだろう
畿内説としては別に巻向だけに拘る必要もないんだけどね。
奈良県北西部の信貴山周辺部だと、正に条件にはピッタリですよ。
実際二上山周辺は天孫降臨伝承もありますからね。
333 :
筑紫倭皇帝:2014/02/28(金) 09:22:16.30
博多の古代名
覇家臺=博多=はかた
意味:覇者、皇帝が都するところ。住んでいる所。家があるところ。
もう充分だろ。 糸島福岡平野といった博多湾沿岸にはどこも勝てないんだよ。
覇家臺湾=博多湾:皇帝、覇者の海(宇美、産み)ってことだ。
334 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 09:32:45.49
きのう巻向、きょう信貴
畿内説はふらふら地名を変えるので、あてにならん
335 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 09:35:28.61
覇家臺=博多=はかた
はかたはウガヤフキアエズのははかたの都
博多がのちの九州王朝につながる
大勢力なのは全く否定しないどころか、
むしろ必然と思っているが、
行程からみれば邪馬台国では無い。
博多は倭奴国か、その後継だろう。
邪馬台国は博多に食われたか合併したと見る。
337 :
孝霊厨:2014/02/28(金) 09:45:32.91
文献上でハカタの地名が確認出来る最古例は河内の柏原市ですけどね。
ここは大和川の船着場で、宇美山も存在しています。
>>334 勝手な思い込みですね。上牧町があるように、マキの地名は
むしろ県北西部が主ですよ。
338 :
筑紫倭皇帝:2014/02/28(金) 09:58:46.44
‐イザナギから神武まで‐
イザナギがオロコロジマ(博多湾に浮かぶ能古島)を産み、筑紫を産んだ、
そのイザナギが黄泉の国(玄界灘=限界)から戻り、筑紫の日向の橘の小戸で禊ぎをして
アマテラスや住吉、警固の神々を産む。つまりイザナギによる福岡平野の平定だな。
アマテラス=台与、かもなw←可能性は低いw0(ゼロ)に近いw
アマテラスは鞍手、宗像地方を平定する。(俗にゆうニニギ降臨の準備)。
アマテラスの息から産まれた宗像の神、宗像三女神。つまり、アマテラスによる宗像平定。
アマテラスが自ら平定した宗像地方経由で福岡県中央部(英彦山等々)にニニギを送り込む。
ニニギの道中の安全と守護は支配した宗像三女神に命令する。
猿田峠付近で迷うも倭国大神猿田彦大神の登場で救われる。
天孫族は現福岡県域を支配するも、いまだ京都郡で奮闘していた神武が
「いまだにこの国には(天孫族が筑紫を支配しだして永いのに)自らを 王 と名乗るものが絶えない・・・」
と嘆き、東征を決意する。
天孫族、倭国の都、筑紫の日向に戻り東征開始。
豊州簑島(行橋)に入り、天照大御神を祀る、簑島神社を建設。
「天皇筑紫の日向より豊州簑島に入り給ふや、是に天照大神を斎ひ祭りぬ、後島民その行在所に一祠を建て天皇を奉祀せり。」
まあこんなところかな。
参考資料:豊前風土記
「宮処の郡(福岡県京都郡) 古え、天孫ここより発ちて、日向の旧都に天降りましき。けだし、天照大神の神京なり」
339 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 10:08:54.06
覇家臺=博多=はかた
博多はウガヤフキアエズのははかたの都
340 :
筑紫倭皇帝:2014/02/28(金) 10:14:04.13
高天原は博多湾沿岸一帯のこと又は(場面場面では)博多湾沿岸の真上のことだろうな。
要するに、その場面場面で、博多湾沿岸や博多湾沿岸の真上が高天原になるという事。
341 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 10:21:52.16
高天原≠邪馬台国
高天原ははかたとしても、伊都国は佐賀平野、邪馬台国は熊本方面だ
343 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 10:35:40.75
>憑山負海とは中原から東に遠く離れた、田舎の国ということだ。
こういう古田式の卑下差別的な言い方は、説得力があるようで無い。
衆を惑わすものだ。
322 :日本@名無史さん:2014/02/28(金) 05:36:47.28
>憑山負海は要害の地という意味も含まれているね
>軍事関係の書には憑山や負水によって敵を阻むという言い方がよく出てくる。
こちらは「海、山のおかげで敵を阻む」という役割・有り難さを述べている。
邪馬台国も海や山のおかげをこうむっていたのであろう。
344 :
筑紫倭皇帝:2014/02/28(金) 10:38:21.81
>>342 お前の知識の薄さに失笑ものだなw
>>341 ないないww 超妄想もいいところw 文献や地名すらないw
自分(君)の願望(のみ)の説なんてどうでもいいんだよw
346 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 11:18:42.91
博多というより、ははかた。
>>343 負海者,《輕重乙篇》云:“東方之萌帶山負海,北方之萌衍處負海。”
《漢書地理志》:“太公以齊地負海寫鹵。”此蓋借用之為邊遠地區之代名詞。
張佩綸以“負海”屬上為句,謂“齊諸侯即齊國,負海自指齊言”,
宋翔鳳謂“負海子”為“蠻夷之子”,均失之。
負海は、輕重乙篇や漢書地理志に用例が見られ、ここから辺遠地の代名詞となった。
張佩綸は斉諸侯は斉を自ら指して負海と称したとし、
宋翔鳳は負海子(爵)とは蛮夷の子(爵)であるとしたが、ともに誤り。
まあ、清人の考察でもまとまっていないらしいが
辺境の地という意味はあるらしいよ。
349 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 12:33:06.70
憑山負海が、中原に対する僻地の意味で用いられたこともあったかもしれないが、
翰苑にある「憑山、負海、鎮馬臺、以都建」の場合は、
以て都を建てたことの由縁と理解される。
したがって「おかげ・・」のような意味でよろしいのではないか。
>>349 師古曰:「負海,猶言背海也。」
顔師古さんは、海を背にするという意味としている
善く見積もっても、負海は国境が海に接しているという意味
単に地勢を語っているだけかと。
翰苑の冒頭は
倭国は山に集落を構え、国境は海に接している。大和に都を建てている。
という意味だろう。
中原からすれば東の彼方の国というイメージ。
山の人である仙人が神秘的に見えたように普段俗人が近づかない
天険の地に住む倭国人は唐人にとっては北欧神話の妖精のような存在だったのかもしれないな
>>333
博多にあったのは
其餘旁國遠絶不可得詳の
奴国や好古都(はかた)國だよ。
好古都の塩
355 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 14:38:34.63
倭人伝を読めば
博多にあったのは
其餘旁國遠絶不可得詳の,,,國々、でよい。なんせ末蘆→伊都は肥国佐賀平野だもんな
356 :
大和 田直木:2014/02/28(金) 16:06:19.50
>>351 >>355 同意する。
「其餘旁國遠絶不可得詳」の國々全てが博多(福岡平野)にあったわけでもないが。
宗像、日田、伊万里、多久、武雄、白石、嬉野、鹿島にも餘旁國があったかも。
>>354
九州北岸、博多湾岸は倭国大乱の一方の当事者だよ。
邪馬台国ではく、邪馬台国を攻めた勢力だ。
九州北岸、博多湾岸に匹敵するもう一つの南の勢力が
邪馬台国の勢力だ。
あったのは筑紫平野だよ。
攻めた勢力の人を共立したりはしないだろうな。
共立された卑弥呼は攻められた方の勢力の人だ。
359 :
竹斯の民:2014/03/01(土) 05:29:38.60
>>325 >>326 反論にすらなってない・哀れで・低脳で・稚拙な畿内説の代表だね〜
土器しか出てこないマキムク遺跡は先進性の欠片も見れないという現実が
畿内説信者には見えないんだなー( ´,_ゝ`)プッ
360 :
【小吉】 :2014/03/01(土) 07:08:02.58
女神を引けば、邪馬台国は九州で確定です。
361 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 07:13:20.58
「土器しか出てこないマキムク遺跡は」ww
みずから無知を暴露
362 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 07:23:31.10
桃の種や魚のほねは出てたね。
363 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 08:51:11.88
九州説が、最近の発掘の成果を無視した単なるお花畑だということが良くわかった。
邪馬台国は七万戸もの大国だという点を無視するのが九州説だからな。
仮に吉野ヶ里周辺で金印が出土しても、そこは伊都だという事で終了だし。
根本的に北部九州説なんて成立出来る訳がないんだよw
まあもう畿内で決まったよな
教科書にそう書いてもいいくらいだ
九州位の距離じゃ近過ぎというのもあるしな。
367 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 09:25:37.60
空念仏 ますます虚しい 畿内説
368 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 09:29:40.38
「憑山、負海、鎮馬臺、以都建」
海の無い奈良盆地に邪馬台国はあるはずもなしww
主語は倭国だよ
倭国は山の中にある。境は海にかぎられており、大和に都す。
つうか纏向遺跡だけが邪馬台国ではないだろ
おそらく大和川から大阪湾までは一つのクニだろう
阿波、讃岐など纏向遺跡と四国とのつながりは深い
勢力範囲の一部であったろう
371 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 10:21:38.06
魏略曰く、、、東南五百里、伊都国に到る。
魏志倭人伝も同様にいわく、、、東南陸行五百里、伊都国に到る。
畿内説のごとく、どちらも東を東南に誤ったは通用しない。まやかしである。
>「魏略曰く、帯方より倭に至るには、海岸に従い水行する。
>韓国を過ぎ(魏志では歴)、枸耶韓国に到る。七千余里。始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。
>南に海を渡り一支国に至る。官を置く。対馬と(与対馬)同じ。土地は三百里四方。
>また、海を千余里渡って末羅国に至る。人は上手に魚を捕る。うまく水に浮き沈みしてこれを取る。
>東南五百里、伊都国に到る、、、。」
畿内説って、ぜんぶ詐欺ですね。
373 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 10:31:35.98
>つうか纏向遺跡だけが邪馬台国ではないだろ
>おそらく大和川から大阪湾までは一つのクニだろう
わらかしてくれるな
ならば 纏向ごときド田舎辺鄙に都を建てたりするはずもなく・・・、見当違いをほじくってどうするよ
>>373 馬鹿か
瀬戸内と東海を結ぶためだろ
纏向は祭祀の中心地でありまた市でもあった
375 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 10:43:01.62
>東南五百里、伊都国に到る
>その南至る邪馬台国
これがどうして大阪湾〜大和川〜纏向のクニになるのだ
見当違い、方角違いもはなはだしい
布留0〜1期の吉備型庄内式甕の分布は、博多湾沿岸→周防灘→松山平野→今治平野→
備後東南部→吉備・播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和という道筋だな
この時期はちょうど箸墓の築造された頃
一番多く出土しているのが「河内・小阪合遺跡」で45点
分布の両端にあたる「西新町遺跡」と大和への出入り口「船橋遺跡」そして「纏向遺跡」で突出した出土がある
つまり箸墓の時期には博多までの交易ルートが完全に完成している
瀬戸内海ではなく、四国を通るというのがやや意外ではあるが
四国はそれだけ強い勢力を持っていたのだろう
近畿と東海は、銅鐸祭祀を共有するという点では近いが形式上の違いがある
また前方後方墳も同様のものであったろうと考えられる
東海の勢力は滋賀の頭部にまで及ぶ
つまり文化を大きく共有しながら細部で張り合うような仲だ
それが一つにまとまろうという動きが出たのが纏向遺跡の時代
纏向から出土する外来土器は特に初期において東海系のものが多い
>>371 >また、海を千余里渡って末羅国
ここで「南」とは記述されてないからな、千余里なら松浦半島じゃ近すぎだし。
ここが重要なポイント。
379 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 11:46:09.32
>>378 南でなかったらその方角は必ず記載される
従前同の南であるから書かれていないのである
>>379 距離の問題もあるぞ、松浦半島は近すぎ。
大体文の最初に東、または南とあるからな。
381 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 13:04:37.24
>>380 >>南に海を渡り一支国に至る。
>>また、海を千余里渡って末羅国に至る。
>大体文の最初に東、または南とあるからな。
↑このようには書かれていない。
なお松浦半島の突端の呼子にするから近いと感じるのだろう
実際には唐津市内の松浦川(末羅川)をやや南へいった唐津競艇場付近だ、四捨五入すれば千里で妥当
382 :
【大吉】 :2014/03/01(土) 13:16:30.85
主催者発表の観客動員数7万が当てにならないのは、いつの時代も同じです。
実勢7千、サバ読みもいいところです。
この程度なら小さな平野、島、盆地、いくらでも候補地は広がります。
383 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 13:25:50.05
サバ読みに噛みつく畿内説
道理で巻向からサバの大骨小骨が出るわい
倭人伝にはその程度の信憑性しかないんだよ。
距離や方向だって所詮は適当なもんだろ。
385 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 13:33:42.22
その程度の信憑性を根拠にした南→東修正の畿内説はなおさら信憑性に欠ける。
386 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 13:55:12.11
末盧は唐津、伊都国は佐賀、それで何の問題もない。
387 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 14:16:00.12
倭人伝読めば、三世紀と書かれているんだよね?
「三」の前に「十」が消えていれば、
× 十三
○ 三
になるよね
>>338 神武は、歴史泥棒(到着した時期は、700年以後藤原不比等の元に訪れ保護される)
イザナギはニニギだよ
化け物であるニニギの存在を分解すると、国王ニニギと神イザナギに分けられる
388 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 14:17:52.90
科学の進歩や通説に対する怨嗟の怒号と
まったく根拠の出せない言い張りの塊
それが九州説
389 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 14:28:06.43
>>388 好都合なことに、キミが望むような根拠は今後1000年は出てこないだろう。
安心して逝ってくれ。
なにしろ高名な神社神域の下に眠っているからねえ。
好古都なことに、キミが望むような根拠は今後1000年は出てこないだろう。
安心して逝ってくれ。
なにしろ高名な神社神域の下に眠っているからねえ。
391 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 14:33:08.76
邪馬台国とかもはや学問の領域にはないな
畿内説はサギのネタ探しで生きてきました。
箸墓・△鏡・年輪・桃種・鯖骨
マジレスすると、邪馬台国は失われたムー大陸の一部。地震で海に沈んで地図から消えたが
本当は東アジア全域を支配していた。でも、だんだんやる気がなくなって始皇帝に支配を譲った。
そのとき始皇帝は300歳ぐらいだな。
いや、500歳か。
>>385 現実に方角を間違えた日本地図も存在してる以上は
お前の希望的観測にすぎないからw
阿蘇山が噴火する前、あの山の頂上は2000m級の広大な台地が広がっていて、九州全域を見渡せていた。
高地から周辺国の動きをたちどころに察知することができたから、簡単に九州を支配できた。
そう、阿蘇には山台国があった。
398 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 15:13:29.53
おまえの頭はヤマイ国
おまえなんか、じゃまだい国
400 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 15:28:04.36
>>396 誤って書かれた地図は、正統性の根拠にはならない
401 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 15:29:53.75
>>396 誤って書かれた地図は、畿内説誤りの根拠にはなりうるw
大事なところを、
沿岸にするかどうか、か
403 :
竹斯の民:2014/03/01(土) 15:39:04.71
九州と畿内で布留0式土器と共に古式新羅伽耶陶質土器が出土しており、古式新羅伽耶陶質土器は名前の通り
新羅や伽耶が建国された時期の土器だからである。新羅や伽耶が建国された時期は楽浪郡が高句麗によって
滅ぼされた後の事で、4世紀半ばと言うのが自然だから。ただし、韓国の学者は新羅や伽耶が建国された、
あるいはその胎動が始まった3世紀末には古式新羅伽耶陶質土器が作られた可能性があるとしている。
しかし、韓国の学者の意見を採用しても、布留0式土器は3世紀末より早まる事はない筈である。
Wikipedia
>>400-401 現実を認めなきゃな。否定するなら
正しい方角で描かれた、3世紀頃の東アジアの地図を
証拠として出せばよいだけの話w
正しく測量してるなら地図位あるだろう。
405 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 15:44:32.69
新しい酸素同位体年輪年代法で、
遠からず、巻向遺物の正確な年輪年代も明らかになるであろう
>396は、その時まで元気でいてくれよ
406 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 15:45:47.61
>>405 万が一巻向の年代が新しくなると、鍵唐古、もしくは
阿波や吉備辺りが候補になるだけだろうw
もう九州説は既に終わってるんだよ。
408 :
竹斯の民:2014/03/01(土) 15:48:53.87
魏志倭人伝が示す道程、遺跡・出土物の先進性どれをとっても九州説なのだが
これをひっくり返すには古墳時代の始まりを遡らせなければならない。
そのために古墳時代の土器を古くしてあらゆる土器を古くする。
そういったペテン作業が暴露したというわけだ。
そりゃ畿内説は必死になって否定するわな( ´,_ゝ`)プッ
>>406 唯一の老後の娯楽、妄想パズルが出来ないからなw
新しい年代測定法では纏向は20年程度古くなると思うがなあ
おそらく布留式の開始が260あたりだ
411 :
竹斯の民:2014/03/01(土) 15:53:35.78
へーまだ混一彊理図(こんいっきょうりず)出す時代遅れが畿内説にはいるのかー流石
>>408 でた、恨み節w
でも畿内説を恨むのはお門違いだぞ。
瀬戸内から紀伊半島が女王国だからな。
九州説自体が過去の遺物だろう。
414 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 16:03:52.50
415 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 16:06:47.80
ヤマトに海がないw
いや、九州説の最有力の甘木には海があるのかい?
当時の海岸線だと、纏向ー河内と甘木ー海岸は差がないんだよな。
徒歩だとヤマトのほうが近いんだよ。もしかして知らなかったかな?
九州の先進性。
うん、確かに弥生前期・中期は先進的だったね。
でも、邪馬台国は弥生の終末期だ。
九州説のやつは、弥生前期にしたいらしいけど、残念だったな。
416 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 16:35:16.52
「九州説の最有力の甘木」
?????????????
ここの九州説は北部九州説と熊本説が多くて
甘木朝倉はあんまりいないだろ
そもそも邪馬台国は甘木よりはるかに広い地だろ
もし中心が甘木だとしても海岸部まで国は続いてるだろう
そのほうが大国として利便性が高い
纏向だとしても大阪湾まで国の範囲であるはずだ
狭い地域に押し込めようとするほうがおかしい
もし3世紀における大国というのがあって、海がないとかありえんだろ
九州でも、畿内でも海の近くの集落は吸収されるか
おそらくは進んで傘下に入ろうとするだろう
さらに言えば、纏向なんかは外部勢力+地元勢力が新しく築いたものであって
四国、吉備と東海をつなぐのが主目的であったから
(おそらく土質が土木工事に向いてるというのもあるだろう)
当然大阪湾までが邪馬台国になる
纏向遺跡という名称は旧の行政範囲で、線路一本隔てた場所は同じ国ではではないとか
そんなバカげたことはない
単に史跡としての範囲を言っているだけで、もっとずっと広い国の一部分にすぎない
瀬戸内から東海に行くんなら、紀伊半島回った方が早くないか?
大和を通るんなら、伊賀越えになるんだから、あまりに難所だ
山城にぬけて琵琶湖南回りから美濃・尾張ルートの方が安全だし開けている。
>>421 海路はもともとあるだろうし、琵琶湖東部は東海領域なんだ
>>421 纏向遺跡の外来土器は
初期段階では5割近くが東海のものなんだよ
吉備が2割弱
424 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 19:10:28.50
>>421 潮岬沖は結構難所なんじゃないかな。
美濃・尾張は今の地図だと陸だけど、この時代は伊勢湾はかなり奥まで
海だったようだから、すごい大回りに見えるけどなあ。
津から船で渡るのが、メインだったとか読んだ。
纏向からは東海の土器がたくさん出るが
実は東海には近畿の土器は少ない
これが何を意味するかは軽々には言えないが
おそらく東海から纏向という人の流れが圧倒的だったろう
畿内で発見された弥生期の
九州土器は、今のところ、
ひとかけらだけ。
では東海の人々の立場が弱かったかというとこれがよくわからん
前に纏向で出て話題になった桃核の祭祀土器なんかは
東海系の流れを組んだものなんだ
九州からはそこそこ畿内土器が出てくるが、
畿内から九州土器はほとんど出ない。
土器に何を入れて運んでいたのかわからんが
畿内から九州に物流があることを示している。
弥生期に奈良は海に意外と近いよな。
大体河内の柏原周辺だって充分候補地だろうし。
>>428 庄内土器が九州で出るのは単に煮炊きの効率に優れているからだ
底の形状が違うし、外部を叩いて内部を削って非常に軽量だ
同じ時期の北部九州の土器と比較して、高さが同じなら重さは半分程度
だから筑紫庄内といって九州の土を使って真似して作られた
これは珍しいことじゃなく、優れた土器はそれ以前から広まるのは早い
ちなみに九州で見つかる庄内甕は持ち運びに適したものではない
持ち運ぶなら壷だがこれは多くない
つまり畿内から九州へも物流はなかった。
もちろん、九州から畿内への物流の痕跡も薄い。
土器制作技術などの、一部の文化は伝わったが、
基本的に九州と畿内はあまり関係がない。
>>431 おそらく弥生末は交流が少なかったろう
ただ古墳時代になると北部、東部、南部九州に前方後円墳が出始める、三角鏡も
で、いつ弥生時代が終わるかが問題なんだw
畿内説の多くは卑弥呼の時代は古墳時代初めと考えているからな
だから、弥生時代とか、古墳時代とか大雑把に言わないで、ピンポイントの庄内期、布留期と呼ばないと話が進まない。
もっとも、一部の人は、そこらへんを理解していながら無視するところがありますが。
しかしここは九州スレだからな
庄内甕が自立しないことを知らないような人ばかりだ
九州は岩戸山古墳のようなかなり
大型の前方後円墳が作られた時期かそれ以後にさえ、
それに匹敵するような円墳、バチ型の、
御塚権現塚古墳が作られたりしている。
墓制が統一されているような、
つまり、支配されているような
形跡はない。
倭人伝にあるようにそれぞれ独立した墓制をもつ氏族が、
共立というゆるい連合形式をとっていたのであろう。
そうなると、どこからが古墳時代なのだろうか?
一つでも作られた時期か?
半数が前方後円墳に移行した時期か?
大多数が移行した時期か?
バチ型も前方後円墳にいれるなら、
知っている限りでは、
宮崎が最古だったはず。
宮崎の原始的なバチ型前方後円墳が、
瀬戸内に伝わり、吉備などを経て、
畿内で前方後円墳の形式が定着すると
考えるのは、それほど無理な考えではないだろう。
だから、古墳時代でも、弥生時代でもよい、時代区分の呼称にはこだわらない。
河内・大和で庄内式が、筑前で西新式が造られていた時代、そう言わないと議論にならない。
北部九州は、墓制に関しては割りと
無頓着で、統一感のないまま、
古墳時代後期まで続く。
だんだん、前方後円墳の割合は増えていくようなので
少しづつ文化が浸透してはいるのだろう。
そのとおりだな
ヤマト王権も外形的な墓型をそしいところには分与するくらいで
宗教的な統一のようなことはない
基本的に、北部九州と畿内との関係は、
薄い緩い交易関係がせいぜいであり、
支配、被支配の関係にあるとは言い難い。
その庄内式土器が大量に出土したという決定的な証拠、
卑弥呼の宗女と同じ「豊」の名の付く地名を有しながら、
豊中市が邪馬台国論争から無視される理由でもあるのか?
大声で宣伝するやつがいないからだろ
443 :
日本@名無史さん:2014/03/01(土) 23:07:04.59
444 :
竹斯の民:2014/03/02(日) 04:55:29.88
ほれ、巻向を語れば「土器だけ」しかでてこないだろう。
先進性を示す鉄器や鏡などは出てこないから土器でしかその遺跡を語ることができないのさ。
土器などは流通するものではなくその地で作られ消費するもの。つまり人が移住しそこで
生活した証拠でしかない。更に言わせてもらえば支配層はわざわざ土器など作らない、煮炊き
や食料の貯蔵は下々の行う作業だからだ。
土器と木器だな
古墳築造用のクワや有名な矢板などの大量の木器
この木器はむろん石器や青銅器で加工されているわけではない
>>444 何度も指摘されてるが、邪馬台国は七万戸の大国だよw
どの位の遺跡数が必要か単純計算も出来ないのか?
447 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 09:17:45.97
河内の柏原の元は大隅の東串良町柏原。難波の大隅の元でもある。地形が酷似。
448 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 09:42:43.53
九州説って無知すぎ
449 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 09:46:01.89
海の無い奈良巻向は邪馬台国ではない
河内湖があるから無問題
451 :
筑紫倭皇帝:2014/03/02(日) 09:54:41.03
ASEAN首脳会議にオブザーバーとして参加した韓国代表。
突然立ち上がり日本がいない隙にASEANを味方につけようと日本批判を力説する。
なかなか日本批判を止めないので、我慢の限界に近づきしびれを切らした
インドネシア代表が韓国代表の力説する日本批判をさえぎり発した貴重なお言葉。
「韓国人はどうやらASEAN諸国を見下しているようだ。
我々は確かになかなか発展できないでいる。
しかしもし、日本がそばにあったら、現在のようなASEANではなかったはずだ。
日本が隣にあれば、どんな国家でも韓国程度の発展はできる。
韓国の成功は100%日本のおかげであって、別に韓国が誇れるようなものではない。
韓国人が、恩を受けた日本人に感謝ひとつできない人達であることが我々には全く
理解できない。
我々は戦前に日本から受けた恩に今でも感謝している。
永遠に忘れることができないものだ。
その結果できたのが、今ここで開催しているASEAN首脳会議である。」
工作員の満州も見習う事だな。
452 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 10:00:38.82
>兵用矛、楯、木弓、木弓短下長上、竹箭、或鉄鏃、或骨鏃
巻向が邪馬台国なら、鉄鏃や鉄鏃の加工所跡はたくさん見つかるだろう
朝鮮人は遺伝子レベルで壊れてるからな
>>452 二世紀末、畿内の鉄工房は淡路島にあるから。
また信貴山辺りにも少々、金山彦神社周辺にも存在するだろう。
モモソ媛の母は淡路島に宮を持つ事からも年代はピッタリ合う。
455 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 10:23:05.07
初めは、箸墓だから女王之都は巻向だといい、
こんどは、河内湖があるから巻向だといい、
次には、淡路島があるから巻向だという、
後追いの理屈さがしは根拠なきことの証明
淡路島の垣内遺跡は最後まで庄内式土器を受け入れていない
石野博信「(ここの鉄は)出土物を見比べると、畿内ではなく香川や岡山に運ばれたように見える
今後の研究課題だ」
実際に住居の切り方や出土品は徳島あたりに近い
おそらく纏向成立前後に大阪、吉備、四国あたりで小競り合いがあったのではないか
垣内遺跡が畿内よりであったという根拠はない
458 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 10:56:22.51
>>455 勝手に畿内説=巻向だとお前が思いこんでるだけだろw
河内説や東瀬戸内含む説の人も昔からいるだろ。
淡路島にいた母親から生まれたモモソ媛というのは、
文献に記された物だからな、これは脳内妄想ではない。
また讃岐や香川の伝承で、聡明な少女モモソ媛が
惜しまれてヤマトへ戻ったという伝承があるのも事実だからな。
460 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 11:09:40.02
それは四世紀はじめのこと
大体オオヤマトクニアレヒメという名は、
大倭国を生んだ媛という名だろう?
つまりモモソ媛=大倭国の事でもある訳だ。
462 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 11:18:52.72
倭国≠大倭国
倭人伝にも国中の市を取りまとめる大倭は登場するからな。
またモモソ媛=神大市媛でもあるから、
全ては文献資料だけでも説明出来る訳だ。
妄想だけの九州説とは既にレベルの違う話。
464 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 11:25:10.68
大倭(官名)≠大倭国(国名)
465 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 11:29:05.22
記紀上のモモソはBC150年頃の者
なぜそれが二世紀後半と断言できるのか?
466 :
大和 田直木:2014/03/02(日) 11:29:06.36
大倭國=俀國
倭国は半島から西日本一帯に及ぶ国。
大倭国を都としてる資料もあるからな。
結局権力があったから都にしたんだろう
>>465 大市墓とされる箸墓の存在。また周辺古墳を含めた
阿讃の影響力、淡路島の垣内遺跡等の
年代を含めた判断だろう。
469 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 11:45:59.41
>>408 これをひっくり返すには古墳時代の始まりを遡らせなければならない。
オーパーツ(竹内文書)によると、古墳は紀元前2世紀から造られていたことになる
470 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 11:57:34.26
>倭国は半島から西日本一帯に及ぶ国。
>大倭国を都としてる資料もあるからな。
古代の資料があるだけでは全く不十分。
倭国使用例と大倭国使用例の両者が同時代・同国であることの証明が必須。
471 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 11:59:25.51
倭国と大倭国
文字が異なれば、その意味するところも異なるのが常識。
472 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 16:04:55.34
おまえのmy常識など誰も興味がない
誤字脱字はふつーにある
そのままじゃ文意が通らなくなるし
474 :
筑紫倭皇帝:2014/03/03(月) 09:18:22.62
糸島博多湾沿岸説以外の九州説のなんとレベルの低さやww
熊本説:邪馬台国は阿蘇付近にあり阿蘇が噴火する前は2000m級の巨大な台地だった。
これが邪馬台国になる。
笑いのツボ:何万年前の話をしてるんですか??邪馬台国は2千年前の話ですが・・・
類人猿の話はいいです・・
台=臺:皇帝の居するところの意味を持つ。
博多=覇家臺=はかた:覇者、皇帝が都するところ。居するところ。家があるところ。
ちなみに、熊本説の言う邪馬台国は台ではなく一の可能性が高い。
つまり邪馬台国の場合は邪馬台国ではなく邪馬一国の可能性あり。
475 :
筑紫倭皇帝:2014/03/03(月) 09:27:53.90
宮崎説
博多=覇家臺=はかたの はかた は神武の 母方 から来たものだ!
素朴な疑問:「母方」ってあんたが現代人だから「ははかた」って言ってんじゃないの??
おかあさんは武士が使ってた「おかたさま」からきたみたいだけど・・ 「はは」って・・・
博多の由来で大分県玖珠の大木が倒れ葉っぱの形がついたから 葉形=博多 になった
という説は聞いた事あるけど、神武の 母方 とかw 言ってんのあんただけじゃないの??
古文書や文献あるの?? あんたが本に残して2千年後にどっかから発見されれば新説の古文書だね(笑)
476 :
筑紫倭皇帝:2014/03/03(月) 09:39:27.67
佐賀説
伊都国は佐賀平野である!
アホのツボ:どこに佐賀平野に伊都ってついた地名があるの??
古文書や文献は??
佐賀平野に伊都国があったんなら伊都や志摩の地名が残る文献や古書は??
あんたら著書の佐賀超妄想風ぷー土記なら読まないよ(笑)
福岡の伊都や志摩を否定して何にもない佐賀に伊都だって力説するあんたらはまさに
鬼畜の所業、キチガイの極み(笑)
477 :
筑紫倭皇帝:2014/03/03(月) 09:50:12.41
「邪は伊都に届き傍ら斯馬へと連なる」
「邪馬台国の都は伊都にあり、傍らの斯馬へと連なる」
もういい加減あきらめな。様々な古書や文献、実際の遺跡や出土品
様々なものが何の矛盾もなく当てはまるのは博多湾沿岸しかないんだよ。
理由:邪馬台国や天孫族、大国主の活躍の舞台が博多湾沿岸だったため、
様々な文献、古書、遺跡、出土品が全て一致する。
何もないのに、強引に474-476を力説する他地域の九州説は
まさに九州説の恥さらし。身の程しらず。
478 :
日本@名無史さん:2014/03/03(月) 09:56:05.39
>どこに佐賀平野に伊都ってついた地名があるの??
>佐賀平野に伊都国があったんなら伊都や志摩の地名が残る文献や古書は??
何をおっしゃる竹○輪さん。
末盧の東南五百里は伊都国でござんす。
倭人伝ほど確かな文献古書はほかにありますまい!
>又渡一海千余里、至末盧国、東南陸行五百里、到伊都国。
479 :
筑紫倭皇帝:2014/03/03(月) 10:03:04.42
大体な、古代から伊都や志摩といった地名は福岡に語り継がれているんだから
まず、それぐらいは認めような。
本物があるからこそずっと地名が語り継がれてんだよ。
又は、畿内のように本物が筑紫より移されたり、宮崎の後付けも語り継がれてるには入るな。
それすらない佐賀は最初から ボツw
それを本気で伊都国は佐賀だと言ってるお前らは本物のキチガイだよw
もし、佐賀なら佐賀にも伊都や志摩といった地名が語り継がれてるはず。
いい加減基本ぐらい認めろ、佐賀説のバカたれたちはww
480 :
日本@名無史さん:2014/03/03(月) 10:04:35.26
>「邪は伊都に届き傍ら斯馬へと連なる」
邪のお隣さんは伊都さんち、そのまたお隣は斯馬さんちでは古書にわざわざ書くほどのことでない
まあこのくらいには読まないと→
「邪(馬台国女王の血脈)は伊都に届き、傍ら斯馬へと連なる」
481 :
日本@名無史さん:2014/03/03(月) 10:09:07.80
>古代から伊都や志摩といった地名は福岡に語り継がれているんだから
古代と言っても、せいぜい神功皇后こらのちのこと、
それも訛ってやっとこさのイトらしいではないか
482 :
日本@名無史さん:2014/03/03(月) 10:30:48.89
<諸説>
大和・河内を合わせたくらいが邪馬台国の範囲ではないか?
甘木・久留米を合わせたくらいの広さが邪馬台国ではないか?
熊本平野一帯に邪馬台国があったのではないか?
旧来の福岡説・畿内説は、せいぜい邑単位のチマチマしたクニグニ、巨大古墳を作れる力なぞ無かったであろう。
これに比較すると、
上の諸説の大きさの憑山負海邪馬台国説は、古代史観に大きな変更をもたらす。
とても良いことだ。
483 :
筑紫倭皇帝:2014/03/03(月) 11:04:46.91
>>478 はい、キチガイが吊れましたww
倭人伝の「末盧の東南五百里は伊都国」しかない。しかも、倭人伝には佐賀が伊都国とは書かれてない。
「末盧の東南五百里は伊都国」があると書かれている。しかも、実際に末盧の北東五百里に古代より伊都と呼ばれる場所がある。
さらに傍らには志摩まである。
普通にこの伊都が倭人伝の伊都と考えるのが自然であり当然である。
もし、現在でも佐賀に伊都や志摩の地名が残るのであれば話は別である。
しかし、現実はどんな古文書や文献、佐賀の風土記ににさえ「古、この地は伊都と呼ばれた」等の記述はない。
ようするに、全く無関係という事。これが超現実の話。
ただ、「東南」という言葉だけに踊らせらたキチガイがお前らなんだよw
ちょっと、こんなキチガイどもを相手にしている俺が実に情けない事情けない事ww
>>481 と、2か月そこらしか佐賀に伊都が語り継がれていない伊都の地名すらない佐賀人が申しておりますw
しかも相手は、有史以来、筑紫や伊都や志摩、奴、宇美、香椎といった地名が語り継がれている筑紫福岡に吠えておりまするw
484 :
筑紫倭皇帝:2014/03/03(月) 11:28:29.00
憑山負海邪馬台国説ww
まさにこれも糸島‐福岡平野といった博多湾沿岸を示すものだな。
糸島半島〜福岡平野〜志賀島に囲まれた海が博多湾。
天孫降臨の逸話や天孫族にまつわる
可也山や日向峠、高祖山、飯盛山、立花山、油山等々の400m級の山々は
博多湾沿岸の糸島や福岡平野の中にある山々。
その周り、糸島、福岡平野の博多湾じゃない方、つまり平野を囲む後背の山々は
地理を知らない者は信じられないだろうが、なんと1000mを超える山々に三方を
囲まれているのが糸島であり、福岡平野という現実。
つまり 「憑山負海邪馬台国」 である。
つまり博多湾沿岸は全面が 海 であり後背の三方向を1000m超級の山々に囲まれた
天然の要塞であるのが現実である。
糸島や福岡平野の後背がすぐ1000m超級の山々に囲まれた地であることは全国でもあまり知られてないだろう。
ちなみに日本の日本全国の電波時計をカバーしてる電波の発信所は二つ。
一つは福島県であり、もう一つの発信所は糸島と福岡平野の後背の山地の脊振山地。
この二つで、日本全国どころか、韓国の全域から北朝鮮の全域までカバーしている。
脊振(せふり)はクシフルの後ろ(背)って事かもな。
485 :
日本@名無史さん:2014/03/03(月) 11:36:38.88
>糸島や福岡平野の後背がすぐ1000m超級の山々に囲まれた地であることは全国でもあまり知られてないだろう。
なんと、不便なところよのう。。。。
486 :
在日満州:2014/03/03(月) 12:29:27.95
豆知識
福岡王朝男の大嫌いな朝鮮に、脊振に似た地名や官名あり。
所夫里←百済最後の南遷地。
徐伐(徐那伐、徐羅伐)←新羅発祥地
舒弗邯(助富利智干)←新羅の最高官
487 :
日本@名無史さん:2014/03/03(月) 12:39:43.27
満州とは、九州のことである
488 :
日本@名無史さん:2014/03/03(月) 15:02:44.72
くず...?
489 :
大和 田直木:2014/03/03(月) 16:02:34.22
1000m超級の山々に囲まれた不便な地に、
人口7万戸の邪馬台国はありえない。
福岡平野が倭の中心地で在り得たのは、1世紀迄と7世紀前半だけ。
490 :
日本@名無史さん:2014/03/03(月) 16:06:36.01
糸島周辺だと雷山とその隣が900mクラスで
あとは4〜500mクラスだけどね。
492 :
日本@名無史さん:2014/03/03(月) 18:36:00.45
伊都は漢の時代にはイタと発音していたそうです(上古音)。
だからといって福岡のイタズケがそうだということではありません。
古語が後世までかならずしも残っているとは限りません。
494 :
日本@名無史さん:2014/03/03(月) 19:39:06.00
日本が統一され国の制度が整った時、地方の小国の王が、そのまま国造、県主となり
地名の多くが残っている。
927年の「延喜式」によると、九州地方の郡名は95郡ある。
現在もそのまま残っているのは、55郡である。
「生葉→浮羽」「三宅→三池」「築城→築上」などの一部変化や、「怡土+志摩」「嘉穂」
などの吸収合併を加えると71郡となり、実に【75%】もある。
さらに市町村名として残っているのを入れれば、【84%】である。
また、昭和時代に消滅した郡までも入れると95郡のうち90郡となり【94,7%】も残っている。
アイヌ語は滅んだが、地名は多く残っている。
「札幌、幌別、登別、稚内、振内」あげればきりがない。
その地名をつけた民族の言語が滅んでも、地名は残る。
地名は、言語の化石である。
佐賀県は、古くから「サカ」「佐嘉」だよ。
魏志倭人伝に記されている倭人語の国名も残っているのだろう。
くまもんの勝ち
伊都国は小国だから名前も残りにくい。
その点
投馬国ツマコク、邪馬台国ヤマトコクは大国だから名前も残りやすい。
伊能忠敬の地図にある
下妻郡、上妻郡が投馬国
山門郡が邪馬台国だ。
これが真実だ。
497 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 00:13:50.32
江戸時代の地名じゃだめだろ。
ツマ国が八女当たりなのはいいとしても、
山門郡はすぐ隣でそれほど大きくもない。
山門郡もツマ国の一部じゃなかろうか?
499 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 08:44:37.77
崇神天皇は4世紀前半
景行天皇は4世紀中頃、
景行記をみると行く先々で地名を改めている。
つまり、今風にいえば過去ログを消去してまわっている。
ゆえにこれ以降に出てくる地名は、邪馬台国時代のものとは大幅に変わっているのではないか
500 :
筑紫倭皇帝:2014/03/04(火) 10:03:46.84
こうやってみるとイザナギが一番最初に産んだ島「能古島」を中心に、
伊都+志摩(糸島)と福岡平野が放射状に拡がり、
その糸島と福岡平野を取り囲むように1000m超級の山々が連なる。
まるで1000超級の連山が博多湾+糸島+福岡平野の「高天原??」を守っているかのようだ。
そして、まさに1000m超級の山々に守られた糸島と福岡平野の間に天孫族の降臨等の逸話も残る
400m級の高祖山や日向峠が連なり、まさに日向峠一帯が天孫族の高天原の日向の都のようだ。
前面に広がる博多湾、糸島と福岡平野を取り囲むように連なる1000m超級の高い連山。
一部だけ開けた「筑紫の後ろの地」、「筑後」へ抜ける細い道。
まるで支配地、朝鮮へ開けた天然の要塞だな。
「憑山負海邪馬台国」「邪は伊都に届き傍ら斯馬へと連なる」の言葉がピッタリだな。
さすがに俺が、天孫族、邪馬台国、大国主が活躍した中心の舞台、都、だと比定する地なだけはあるな。
糸島と福岡平野はやはりセットで語るべき地だな。これを見るとよく分かる。
http://yahoo.jp/Z5CMgy 水域図
http://yahoo.jp/lf7kjk イザナギが旅した黄泉の国、「玄海灘=玄界灘=限界の世界」
帰ってきて禊ぎをした小戸。
クシフルの後ろ、後背を意味する??脊振山。
玄界灘、博多湾、伊都、志摩、福岡平野、そのすべてをまとめて筑紫。
まさに神々しい日本の楚である領域だな。
501 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 10:19:39.63
朝の勤行、ご苦労さん
502 :
筑紫倭皇帝:2014/03/04(火) 10:34:03.27
>>499 宮崎説死亡ww
神武がクマソ宮崎の出なら景行天皇のクマソ討伐はまずない。
自分の始祖神の神聖なる地を「討伐」「退治」「平定」等々をするはずがない。
これは神功皇后の「三韓討伐」にもあてはまる。
もし天孫族が半島からきたのであれば、「討伐」「征伐」等々の言葉をつかうはずもない。
天孫族はことあるごとに「筑紫」を連呼する。これは天孫族の故郷は「筑紫福岡」だという事を意味する。
もちろん神聖なる「筑紫」への討伐はあるはずもない。後の大和ですら「福岡平野討伐」「筑紫討伐」は行ってない。
「筑後」は元々筑紫ではない地域であることから、(景行天皇の筑後遠征)や大和に攻められた事はあるが
筑紫への遠征はない。 これも「筑紫」が神聖なる領域だという証であろうな。
宮崎へのクマソ討伐は、後々も数多く行われている。
これは宮崎が神聖なる領域ではないクマソの地であることを意味する。
神武が出た神聖な土地なら、「討伐」「征伐」等の言葉は絶対に使わないだろうな。
「聖地奪回の軍」「十字軍」的な呼び名なら宮崎がもしかしたら神武出生の地かな??となるがな。
まずこういう希望的観測はムリだ。
とにかく、レベルの低い、宮崎説熊本説佐賀説のアホどもはもういい加減あきらめる事だな。
503 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 10:36:12.20
朝の勤行、ご苦労さん
504 :
筑紫倭皇帝:2014/03/04(火) 10:58:57.86
まあ簡単に考えても
「筑後平定」や大分から宮崎にかけての「クマソ討伐」等々あるが、
「筑紫」福岡の平定の話は全く存在しない。
これは何を意味するか。
そ う 、 「筑紫・福岡」 が天孫族の本拠地だからである。
もちろん、古の倭奴国・大国主・邪馬台国から天孫族と代々ずっと都が置かれた「神聖な領域・地」であるためである。
簡単な事。 ずっと覇者が都をおいてきた土地「博多=覇家臺=はかた」
自軍の都、福岡、博多を討伐する軍など出せるはずがないのである。
もういい加減、佐賀説熊本説宮崎説等々のレベルの低い説はあきらめろ。
もう俺が全ての答えを出してしまったな。
筑後の景行天皇、福岡の神功皇后、
北九州の仲哀天皇は、おそらく地元の豪族であり、
のちの記紀編纂時に組み込まれただけである。
景行天皇のモデルとなった豪族が、
九州統一を果たしたのだろう。
ただ、成務天皇は政治的には
大きい功績があったようだが、
どこを支配したとかいう話は聞かないな。
家康に対する秀忠みたいな位置づけだろうか。
神武天皇は宮崎に安住できずに、
瀬戸内海文化圏を転々として、
畿内に移住した一部族。
506 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 11:06:34.11
ずっと覇者が都をおいてきた土地「博多=覇家臺=ウガヤフキアエズのははかた」
507 :
筑紫倭皇帝:2014/03/04(火) 11:09:19.84
大国主から「聖地・覇家臺=はかた」を奪った天孫族。
さすがに自らの聖地(志摩)を含む博多湾沿岸を軍で奪ったという話は野蛮なので、
「天孫降臨」、天孫族が筑紫を産み降臨したという美しい話にしたのだろう。
なかなか、毎度のことながら我ながら鋭いな。
508 :
在日満州:2014/03/04(火) 11:10:52.20
× もう俺が全ての答えを出してしまったな。
○ もう俺が馬鹿だとバレてしまったな。
509 :
在日満州:2014/03/04(火) 11:12:14.19
× なかなか、毎度のことながら我ながら鋭いな。
○ なかなか、毎度のことながら我ながらアホだな。
510 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 11:20:11.68
そういえば、肥前、肥後、筑前についての平定の話は聞かないな。
景行天皇が肥後を通って戻るときも、たんなる巡幸でしかない。
そのころには既に支配下となっていたと考えて良い。
しかし、肥後と筑後の間の、南関などの地形は
西南戦争でも激戦区となったほどの天然の要害だし、
筑後と肥前の間、吉野ヶ里から鳥栖の付近にかけては、
多くの戦のあとがある。
どの時代、どの段階でつながったのだろうか?
景行天皇が高良山に仮宮を築いた。
これは、不完全かも知れないが、
筑後を支配下に置いたと言って良いだろう。
そして、この地が「筑後」となっているということは、
「筑紫」の支配下に置かれたと見て良い。
筑紫と肥国は共に多くの鉄と人口をもつ国である。
この二国が生存戦争を行えば、相当な激戦となるはずであるが、
その形跡はない。
景行天皇以降、なんらかの不戦提携が行われているはずである。
512 :
筑紫倭皇帝:2014/03/04(火) 11:54:19.67
>>505 >神武天皇は宮崎に安住できずに、
瀬戸内海文化圏を転々として、
ば〜か、だから言ってんだろ。
神武が宮崎の出なら「クマソ討伐」「クマソ平定」「クマソ退治」等々の言葉は使わんよw
>のちの記紀編纂時に組み込まれただけである。
景行天皇のモデルとなった豪族が、
九州統一を果たしたのだろう。
のちに、記紀編纂時に組み込んだならなおさらだw
お前らの言う、「宮崎が筑紫の日向と記紀に書いてある!」と主張するなら、
なんで後の景行天皇が「筑紫の日向=宮崎w」を平定、討伐、退治するんだよww
いい加減少しは学習しろってお前らわwww
ほんと糸島福岡博多湾沿岸説以外の九州説は支離滅裂で頭の悪いアホばっかだなw
お前らみたいなキチガイはほんとどっか行けって感じだよな。
天孫族は自らの聖地・志摩を含む博多湾沿岸の高天原を力(兵)で大国主から奪った。
しかし、高天原で兵を動かした、軍で高天原を平定したというのはあまりにも野蛮な話だから
高天原(博多湾沿岸の真上)から筑紫を自ら産み、国譲りを行い降臨させたというきれいな話を作ったのだろう。
後の記紀編纂時に討伐された、平定されて「日向」になった宮崎はもちろん降臨した日向ではない。
天孫が降臨した宮崎の日向なら、記紀編纂の時に「景行天皇の聖地奪回英雄伝」として記紀に登場するだろうな。
討伐、平定されるような土地は、天孫族の「聖地」ではないということだよ。
まあ君たちにはこのような「常識」も通じないのであろうなww
だから糸島博多湾沿岸説以外の九州説はトンデモキチガイ説と言われるんだよ。
513 :
在日満州:2014/03/04(火) 12:27:44.48
× まあ君たちにはこのような「常識」も通じないのであろうなww
○ まあ筑紫倭皇帝には日向は宮崎だというような「常識」も通じないのであろうなww
天孫降臨は頭椎太刀を持ってる時点で東国を前提してるのは確実だよ。
515 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 14:03:28.82
>なんで後の景行天皇が「筑紫の日向=宮崎w」を平定、討伐、退治するんだよww
読みがあさい、
討伐とはいうものの、実際には塩を撒いた程度
どうせ大和王権の意を受けて、かって天孫族が出身地の日向や肥後行った悪業の跡を消して回ったのだろう
事実、阿蘇では、神武親族を祀る阿蘇神社に寄進をして再建している
ま、ある種の自作自演さ
>>497 八女は
四世紀には八女津姫にちなんで八女と名づけられ
その後妻になり
現在は又八女になっている。
三世紀は八女でないのは確かでありツマの可能性が高い。
山門も四世紀以前からの名前だ。
517 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 18:10:10.14
三世紀
八女は八女でないのは確かでありツマの可能性が高い。
斯馬
518 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 18:14:04.81
(つづき)
いにしえの八女は斯馬→ これが中世に(八女)福島に変わったのではないか
>>498 >山門郡はすぐ隣でそれほど大きくもない。
五世紀頃作られた神護石は標高195mの山腹をぬって、全長3kmにも及ぶ列石である。
最大でたたみ一枚ほどの大きさがあり、直方体に加工して並べているが、
その石は十q以上も離れた別の山から運んできたものだ。
相当の大国でなければできない工事だ。
山門郡以南は当時の人口大密集地帯であり、山門郡は邪馬台国の一部だ。
>山門郡もツマ国の一部じゃなかろうか?
投馬国の比定地だけでも対馬国+一支国の四千の人口の
十倍以上が推定できる広範囲な人口密集地帯だ。
四世紀にこの地域を治めていたのが八女津姫。
その頃山門郡を治めていたのが田油津姫。
つまり
ツマ国と山門郡は別の女王が支配していた別の国。
山門郡以南は大人口地帯にもかかわらず、別の王の記録がない。
山門郡と同じく田油津姫が支配していたのだろう。
520 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 18:50:35.07
昔からある説だな
当時四〜五世紀は、鉄器が普及し、有明海沿岸の芦原地帯の水田化も急速に進んだ時代だから、
大きなクニもでき、八女津姫や田油津姫のような女王も活躍し、人口も増えたであろう
ただ八女津姫や田油津姫とて百歳も二百歳も生きることなかったであろう
四〜五世紀にそうだったから、
二〜三世紀の卑弥呼の時代もそうだったといえるかどうか?
521 :
大和 田直木:2014/03/04(火) 19:12:40.44
>当時四〜五世紀は、鉄器が普及し、有明海沿岸の芦原地帯の水田化も急速に進んだ時代だ
有明海沿岸の低湿地の水田化が急速に進んだのは弥生後期2世紀。
弥生後期の気温低下の始まりが低湿地の急速な水田化と倭國乱の原因となった。
522 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 19:17:04.19
みんな、パー?。ここは記紀の内容を論じるスレではない。邪馬台国がどこに
有ったかを研究スレだ。あたま大丈夫かい?
>>510
>そういえば、肥前、肥後、筑前についての平定の話は聞かないな。
~功皇后は筑前(九州北岸、博多湾)岸で出産し兵を集めている。
ここが~功皇后の出身地だったから、
~功皇后の妹の與止日女命が佐賀大和の女王に納まったのも、
與止日女命が遙かに遠い畿内ではなく九州北岸にいたから。
早い話が佐賀大和を乗っ取ったのである。
卑弥呼の数代後の田油津姫を濡れ衣を着せて攻め滅ぼしたのが~功皇后。
投馬国の八女津姫は山越え谷越え、山越え谷越え、山越え谷越え
人の住めないような山奥まで逃げている。
>この地が「筑後」となっているということは、「筑紫」の支配下に置かれたと見て良い。
筑前にあるのが福岡平野と御笠川、筑後にあるのが筑紫平野と筑紫次郎。
名前から判るように「筑紫」の支配下に置かれたから筑後なのではない。
筑前と筑後で筑紫なのだ。(筑紫は九州をさす場合もある)
筑前、筑後は肥前、肥後と同じで位置的な関係を示しているだけ。
>>511
>筑紫と肥国は共に多くの鉄と人口をもつ国である。
この二国が生存戦争を行えば、相当な激戦となるはずであるが、
その形跡はない。
あるではないか。
倭国大乱だ。
筑前が
広くて肥沃で人口最密集地帯で栄えていた筑後を攻めたものだ。
四世紀に~功皇后が邪馬台国を滅ぼして以来
(倭の支配権を奪っただけで邪馬台国の支配権は手中にしていない)
筑前の勢力は筑後に本拠地を移している。
http://www.daizenji.kurume.ed.jp/gonngenn2.htm ※失敗した倭国大乱から学んで、抵抗しなければ柔軟な対応で支配している。
>景行天皇以降、なんらかの不戦提携が行われているはずである。
戦わずして支配する裏工作が得意になっている。
神功皇后の母が葛城高額媛という名で、
大和出身なのは明白なのはスルーかw
だからご都合主義だとバカにされるんだよ。
日向市の美々津から東征した神武天皇は
奈良に大和朝廷を建国し二度と帰ってこなかったが
宇佐神宮が天皇家の神事を代行している
誰か神功皇后の母の話をしていたか?
528 :
日本@名無史さん:2014/03/05(水) 14:51:08.06
神功皇后の家系は息長氏じゃね?
529 :
大和 田直木:2014/03/05(水) 17:06:45.82
>>筑紫と肥国は共に多くの鉄と人口をもつ国である。
>>この二国が生存戦争を行えば、相当な激戦となるはずであるが、
>>その形跡はない。
>あるではないか。
>倭国大乱だ。
>筑前が
>広くて肥沃で人口最密集地帯で栄えていた筑後を攻めたものだ。
倭國大乱は、福岡平野、北野地域、佐賀平野、筑後平野の四つ巴の戦いである。
低湿地農業の発展により広くて肥沃で人口最密集地帯になった
筑紫平野の新興勢力の伸張により、力のバランスが崩れたのが倭國大乱の始まり。
倭國大乱は、吉野ヶ里の帥升率いる倭面土國(筑志米多國)が倭奴國を滅ぼしたことから始まる。
530 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 18:19:00.27
吉野ヶ里とかただ単に環濠集落があるってだけw
吉野ヶ里吉野ヶ里言う吉野ヶ里信者の佐賀のキチガイはただ知識が薄いだけのアホなんだよなw
よっぽど、筑紫の日向周辺の
吉武高木遺跡、井原遺跡、平原遺跡や志登支石墓、
奴国の丘公園の
須玖岡本遺跡等々の方が遥かに重要。
これらがわからないやつはほんとに知識の薄いただ地元に天孫族を、邪馬台国をと
地元しか知らんバカたれキチガイなんだなw
まあ佐賀でいうなら、吉野ヶ里よりも唐津の支石墓や菜畑遺跡の方がよっぽど重要。
はっきりいって大和 田直木は知識の薄いバカだな。
宮崎のやつらもほんと知識の薄いバカばっかw
こいつらの言ってる事はなんの参考にもならないのが現実。
531 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 18:45:15.21
>>514 おい、バカ
宮崎のハゲが 頭椎太刀 を持ってるぐらいで天孫族とわwww
お前らの脳みそ知識がよっぽど薄い事を物語ってる証拠だよww
キチガイ宮崎がww
>>515 はっ??宮崎バカじゃね??
>どうせ大和王権の意を受けて、かって天孫族が出身地の日向や肥後行った悪業の跡を消して回ったのだろう
だから、何で「筑紫」を平定してないんだよ。
お前らのキチガイ説では天孫族の聖域・地元の「宮崎」が何度も討伐やら退治されてのに、
貴重なものがゴロゴロでてくる「筑紫」をなんで宮崎の天孫族は平定しないんだ??
また「ははかた」とかキチガイ説を言うなよww
ちゃんと根拠を示せ。
古文書や様々な文献にも、博多は天孫族の「母方」とは書かれてない。
きちんと根拠を示せ。キチガイ宮崎どもは。
なぜ「筑紫・福岡平野」は過去に一度も討伐、平定、遠征軍の標的になってないのか??
なんでキチガイ宮崎説の聖地宮崎は何度も後の天孫族により
「蝦夷」「クマソ」平定、退治の遠征軍の標的になったか。
むしろ宮崎のような「野蛮」な地を遠征した天孫族は「英雄」扱いされる。
そんな「野蛮」な地を「聖地」だという宮崎は知識の薄いばかだって事なんだよw
ほんとこういうやつらの書き込みは無意味で意味のない書き込みなんだよな。
532 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 18:46:36.45
>>526もそう。そんな低レベルでアホな話全く面白くも関心もないわw
まあ、宮崎が天孫族の故郷なら天皇を絶対と記すような 記紀(特に日本書紀) で
「討伐・平定・退治」 等々の言葉は使わんわな。
宮崎に遠征する皇族は「聖地奪回」の英雄扱いされるはず。
しかし扱いは、
宮崎遠征=征夷大将軍=宮崎や東北などの未開の野蛮な地を遠征する将軍
これが現実。 つまり、宮崎と天孫族は全く関係ないという事。
533 :
日本@名無史さん:2014/03/05(水) 18:55:27.71
金八先生、今日は夜間授業のクラスですか。
ご出勤遅いですねえ。
534 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 19:17:50.62
支石墓→甕棺墓への移行
甕棺墓が博多湾沿岸部(伊都周辺)で始まりどのように朝鮮半島南部まで広がっていったか?
後の神籠石が築かれた範囲と分布図。
神籠石にも種類があることを忘れるな!!
つまり筑紫福岡の神籠石と関西や本州の神籠石は「似て非なる」もの。
筑紫に残る様々な地名や。
天孫族や倭奴国王から続く当時の覇者たちがなぜ「筑紫平定」をしなかったか??
俺は、天孫降臨や国産み、国譲り等々は博多湾沿岸での志摩の天孫族による
筑紫内、高天原内倭国内の覇者交代であり、軍で高天原を奪ったという事実(野蛮な行為)を隠すために
天孫族が作った神話であるとする。 これが事実上の平定といえば筑紫の平定だわな。
志摩には「高天原」や「ニギの浜」等々の興味深い地名も残る。
「高天原」は伝承??かな。 「ニギの浜」は志摩に実際にある地名。
こういった、まず
「支石墓から甕棺墓へ」
「甕棺墓が糸島から始まり熊本や朝鮮半島南部までの拡大」
「筑紫福岡県内の地名と、神籠石の分布」
等々を調べてみるのが初心者にとっては有意義なものになるだろう。
535 :
日本@名無史さん:2014/03/05(水) 19:27:40.82
金八先生の2時間目おわり。
536 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 19:30:35.65
倭国の都が一貫して博多湾沿岸にあった事が
なんの矛盾もなく見えてくるだろうな。
そしてモンゴルによる博多湾への攻撃(元寇)。
当時の日本の首都は鎌倉だったのでほんとは元軍は最終的に鎌倉に軍を結集させるべきだった。
しかし、元軍は、壱岐や対馬や佐賀、長崎北岸を押さえながら何故か博多湾に軍を集結させた。
なぜ元軍は博多に「全軍」を集結させたか??
そ う 、 そこは 倭奴国 と言われた古代よりずっと覇者が都を置いてきた
「博多=覇家臺=はかた」 だったからだ。
「 倭奴 は東海に極小の国土しかないのに独り 元 に服属しない・・・
その昔 倭奴 は白村江で唐に負けた・・・
今の 倭奴 は昔のような(唐に負けたような弱い)倭奴 ではない・・」
いい加減あきらめななさい、佐賀熊本宮崎のおバカさんたちは。
537 :
日本@名無史さん:2014/03/05(水) 19:32:30.39
金八先生の夜間名講義、3時間目の終わりです。
538 :
日本@名無史さん:2014/03/05(水) 19:33:31.39
景行天皇の熊襲退治は、豊前中津から日向にかけて行われている。
これは記紀を見れば明白である。
しかし、それと同時に、この熊襲の領域にある、豊前の宇佐神宮は、
宇佐神託事件にあるように、天皇家の決定を左右するほどに敬われている。
つまり、熊襲は敵視されながら、宇佐は敬われている。
古事記の編纂は西暦712年、
書記の編纂は西暦720年、
宇佐神託事件は西暦769年、とされている。
宇佐神託事件の時代は記紀が存在して、熊襲退治のことも
知っていたはずであるが、宇佐、そして、日向の神武天皇は
敬われている。
熊襲退治の遠征先だから敬われないとは限らないようである。
539 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 19:36:42.17
どうしても邪馬台国や天孫族を地元に持っていきたいやからが
倭奴国王の金印は偽物だ!!と叫ぶが
倭奴国王の金印が博多湾沿岸から出てきた事実も
な〜んの矛盾もない当然の事なんだよ。
540 :
日本@名無史さん:2014/03/05(水) 19:45:15.28
天孫族を名乗るからには、
足跡をたどってどこまでも遡ることができては出自を怪しまれる。
例えば天孫は、実は博多の出身と分かっては元も子もない。
だから天孫族は自らの痕跡を消すため、
景行天皇の熊襲退治と称して九州の伝承・足跡を消して回った。それが記紀言う処の熊襲征伐。
そのあとに、我々は天上の高天原から下ってきたものたちである・・・、と続くわけだ。
541 :
日本@名無史さん:2014/03/05(水) 19:53:30.60
博多湾沿岸が奴国なら、間違いなくそこは邪馬台国じゃないわw
542 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 19:53:49.46
>>538 宇佐の本宮は穂波大分宮(現福岡県飯塚市)。
博多湾沿岸からはショウケ峠を越えたところが穂波大分宮だ。
つまり、宇佐は穂波大分宮(現福岡県飯塚市)から今の宇佐へ移されたもの。
君が思ってるほど 宇佐 は重要ではないよww
君は佐賀の吉野ヶ里信者と一緒で 宇佐八幡信者 なんだよw
宇佐に邪馬台国があったんだ!っていう一種のキチガイね。 まだ君はそこまで行ってないようだがね。
ちなみにかつての豊州一ノ宮 福岡県行橋市の 「豊日別宮」
「我は倭国大神猿田彦大神・・・」の古文書が出てきたところね。
宗像と鞍手の間にある「猿田峠」
高天原(博多湾沿岸)のアマテラスにニニギ降臨の守護をするように命じられた宗像三女神。
豊州簑島神社(行橋)の由来
「神武天皇が筑紫の日向(博多湾沿岸)よりこの地に入られ、ここに天照大神を祀る社を建てた」
同じ豊州でも宇佐より福岡県内の豊州の方がよっぽど重要な 地 だろうね。
京都郡という地名も残るしね。
筑紫の日向(博多湾沿岸)を発った神武天皇が豊州に立ち寄った事を意味するだろうね。
543 :
日本@名無史さん:2014/03/05(水) 19:54:22.40
>志摩には「高天原」や「ニギの浜」等々の興味深い地名も残る。
>「高天原」は伝承??かな。 「ニギの浜」は志摩に実際にある地名。
仮にも天孫族だ、こんな証拠を残すわけない。
高天原は実は志摩で、
あのころのアマテラスは、西の海女のオババ役やってたなあ・・では、神秘性と権威は吹き飛んでしまうだろ。
544 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 20:02:03.37
神武東征だから博多湾沿岸から東へって事でも全く矛盾もないね♪
>>540 だから、なんで筑紫博多湾沿岸討伐の遠征軍が出ないんだよ。
おまえらって自分のとこしか見えてないだろww
ほんと 必死 なキチガイだよな お前らはw
そしたら、支離滅裂になって「筑紫博多湾沿岸」は関係ないと言い出すアホ宮崎w
博多湾沿岸説以外は矛盾だらけで支離滅裂。
いい加減あきらめろ佐賀宮崎熊本等々のあほんだらはw
545 :
日本@名無史さん:2014/03/05(水) 20:06:26.24
>だから、なんで筑紫博多湾沿岸討伐の遠征軍が出ないんだよ。
博多=覇家臺は、ウガヤフキアエズの「ははかた」の郷だったからだ、ははは。
546 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 20:11:34.50
はい、今日の授業は終わり。
自分のとこしか見えてない矛盾だらけの自説を力説して
真実を聞こうとしないお前らはやっぱだめだわw
何の矛盾も発生しない博多湾沿岸説。
いい加減にあきらめなさい。宮崎佐賀大分熊本は。
自分の所に必死にもってこようとしても矛盾だらけで支離滅裂になるのがオチ。
宮崎佐賀大分熊本は頭を柔らかくして、プライドを捨てることから始めようなw
そして、結局は博多湾沿岸説には勝てない否定できないんだよw
あえて「勝つ」という言葉を使った、意地悪な俺w
筑紫倭皇帝は意地悪。←これが結論でいいじゃん(笑)
筑紫倭皇帝は、
優生学のユダヤ教徒。
煽動にだまされないように。
548 :
日本@名無史さん:2014/03/05(水) 20:17:31.91
いや、馬鹿という結論だ
549 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 20:19:34.19
まあ宇佐よりも
伊野天照皇大神宮 のが遥かに重要だな。
これが後の 伊勢神宮 だろうな。
ん?
邪馬台国の
ことばっかりで、
ムーやアトランテスと日本のつながりを言わないのは
偽ユダヤもそんなに知識がないの?
宮下文書って読んだことある?
所詮は九州説なんて電波しかいないって事だよ。
北部九州説なんてその最たるものだと証明してくれてるよなw
あと、
ここれまで筑紫筑紫って言いながら、
宗像も英彦山も出てこないね。
文書だけしか知らないからかね。
つくしの子が恥ずかしげに顔をだします
554 :
日本@名無史さん:2014/03/05(水) 21:12:06.02
>>531>>532 記紀を何度読んでも日向に入って宮崎平野から小林市まで討伐はやっていないとしか読めないな
蛮族なら討伐すればいいだけで
何年も留まって子まで残すかい
小林市にはひなもりまで居たんだからもう確定
記紀では人名のようになっているがひなもりとは邪馬台国云々の場なら皆ご存知のように元々人名ではない
それが北部九州王朝なり何らかの北部九州勢力による遠征だったかも
ということは否定できないしむしろ経路からはそれを臭わせる。
556 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 21:46:28.87
>>554 >記紀を何度読んでも日向に入って
ここからもう間違っている。
討伐のため宮崎に入った景行天皇が、
「ここは日に向かっているから 日向 にしよう」 名付けたのが宮崎の日向。
まず基本から学んだほうがよい。
景行天皇のだいぶ前の天孫族がそんな 「筑紫の日向」 に降りてくるわけがない。
それから「筑紫の日向」の筑紫は九州だ!と必死に宮崎のアホたちは叫ぶが、
豊州簑島神社の由来等にもあるように「筑紫の日向」の筑紫は国名であり日向は小地名であることは常識であり
筑紫の日向を宮崎にもってきたいキチガイが筑紫を九州島と解釈したいだけである。
筑紫‐国名 日向‐小地名 が常識である。
557 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 21:48:03.64
豊州簑島神社の由来
「天皇筑紫の日向より豊州簑島に入り給ふや、是に天照大神を斎ひ祭りぬ、後島民その行在所に一祠を建て天皇を奉祀せり。」
「筑紫国(博多湾沿岸)の日向より豊国(豊州)簑島 に入り」が当たり前の常識。
この筑紫が九州なら
「九州(筑紫)の宮崎(日向国)のピー(放送禁止)からピー(放送禁止)の豊州(豊国)の簑島に入り」となる。
このピー(放送禁止)の部分が全く足りてないどころか、ピーを無視するなら
「九州の宮崎から豊州の簑島」となる。
同じ九州なのに宮崎には頭に九州が付き、豊州には九州が付かないどころか
そ も そ も 豊州簑島 が 九州にあるのに
「九州の宮崎」から神武天皇がくるという表現には大きな矛盾が生じるという事だ。
「筑紫の日向」は 国名 と 小地名 であり、それでもまだ矛盾を言い張る宮崎はキチガイだろうな。
つまり、「神武天皇が筑紫(福岡)の日向より豊州簑島に入る」が正解。
景行天皇の巡幸でも、肥国は戦闘になっていない。
天草など廻っているから、
反乱がないか、睨みは効かせてたかも知れないが。
筑後の戦闘で、景行天皇が高良を獲ったときに、
肥国勢は負けを確信して、不戦提携を結んだのであろう。
後に肥前では、神功皇后の妹と言われるヨド姫を迎える。
肥前に筑前の血が入ったことになる。
政略結婚を意識させるものである。
>>556>>557 風土記とか伝承は少しは分かってるし頭ごなしに否定なんてしてないよ
ただ古墳てのは大和朝廷側の象徴のようなものだからなあ
560 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 22:04:47.66
それから、
京都郡の日向から筑紫に向かったという表現だが、
以前宮崎派が、「日向より筑紫に向かった」 神武の行動につじつまが合わないと言っていたが、
日向は小地名であり
参考資料:豊前風土記
「宮処の郡(福岡県京都郡) 古え、天孫ここより発ちて、日向の旧都に天降りましき。けだし、天照大神の神京なり」
で分かるように、豊国の日向(新都) から旧都の筑紫の日向にまず向かったとも考えられる。
筑紫と豊国の境はまだ詳しく調べてなくてただの思い付きで書くが・・
おそらく宗像と鞍手の間の「猿田峠」もそうであり
神武一行から名が付いた飯塚と田川の間にある「烏尾峠」もそうじゃないだろうか・・
これは後で調べておこう。
福岡から京都郡を結ぶ道路(峠)にことごとく付く天孫族の名残からくる地名
福岡‐(ショウケ峠)‐飯塚‐(烏尾峠)‐田川・香春‐(仲哀峠)‐京都郡
これもなんとも興味深い事実だな。
磐井が反乱した時は、筑後で先頭になり、
北の筑豊方面に逃げている。
またそのあと、北方の筑前を抑えていた弟が降伏している。
南の肥国方面から攻められたかのようである。
不戦であったとはいえ、反乱を潰すだけの
独立性は保っているようにみえる。
大和朝廷からの派遣というのは信じていない。
大和朝廷が攻めるなら、
まさに磐井が逃げた方向から
攻めることになるはずだからである。
>>560 磐井の逃走経路がおかしいことや景行天皇一行が肥後で無難すぎること
についての理由の調べの方もお願いします。
563 :
筑紫倭皇帝:2014/03/05(水) 22:59:03.42
>>562 磐井の乱ってそもそもどの記述が正しいか分かってないでしょ。
古事記や筑後国風土記じゃ簡単なものになってる。
古事記では「天皇(筑紫)に従わなかったから殺された」とか、
筑後国風土記は豊国の上膳県に逃げる途中で死んだとされてるでしょ。
豊国でも上膳県は今の福岡県の大分県に近い豊前市でしょ?
詳しく調べてないけど、豊前なら筑後平野を大分方面へ逃げて
耶馬溪経由でしょ。
方角も何も矛盾してないよ。
嘘が多い日本書紀はやたらと詳しく書いてるみたいねw
でも古事記や筑後国風土記じゃそんなに重要でもない事件のようだ。
「官軍が急に攻めてきた」とかね。 官軍=筑紫の兵 のことだろうね。
あんま詳しくなくて、筑後に詳しい人たちにはまず謝っとくよ、
「ごめん」。そのうち勉強するよ。
磐井は筑紫君ということになっている。
弟が糟屋にいたということなので、
弟を筑前の後詰に残し、磐井は筑後を押さえた。
官軍が筑紫の兵であれば、糟屋の弟以外の福岡平野は
また別の豪族が抑えていて、その兵かもしれない。
ただ、それならそれで、むしろ先に弟を血祭りにあげてから、
磐井を襲いそうなものである。
自分はここで肥国の兵が動員されたものと見る。
磐井の墓、岩戸山古墳には、石人石馬の広場が
併設されており、父の時代の石人山古墳にも、
石人が出ているからである。
むしろ、磐井はわりと肥国に近い血筋なのかもしれない。
筑紫君というのが、書記の捏造かも知れない。
古事記には竺紫君石井
日本書紀には筑紫國造磐井
君扱いしているのは古事記の方だね
まあ、筑紫を攻略したのは景行のときだから
五世孫の継体よりもはるかに遠い傍流だったのかもしれんが
一応皇族だったのかもな
566 :
大和 田直木:2014/03/06(木) 00:49:59.56
>>564 磐井は久留米を都とする筑紫君、筑紫平野(旧邪馬台国地域)を領地とする王。
磐井の出身は筑後平野の中央の広川町八女市筑後市のある上妻南部。
糠屋は磐井の飛地。
筑後平野下妻(旧投馬國地域)、福岡平野(旧倭奴國地域)、熊本平野(肥後旧狗奴國地域)
佐賀平野(肥前旧筑志米多國地域)は、磐井の領地ではない地域。
磐井は三井北野地域での戦いに敗れれば、東の日田方面に逃れるしか道はない。
569 :
大和 田直木:2014/03/06(木) 01:16:13.18
>>565 筑紫君磐井は、年号継体(517〜521)善記(522〜525)正和(526〜530)を制定した九州王朝初代王。
ワカタケルこと雄略は明らかに九州を平定しているわけだが
571 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 06:31:34.24
筑紫君の磐井、
筑紫国造の磐井
後に筑紫王サツヤマというのもある。
彼らは筑紫を治めた、おそらくは九州の最有力豪族だが、
倭国全体の王ではない。
漢倭国王の金印をもらった人物の系譜で、
隋に国書を送ったアメタリシヒコの系譜が、
いわゆる倭国全体の王であり天子が、
別にいたと考えている。
後の天皇家と武士政権の幕府のような関係である。
権威と権力の分散は、魏志倭人伝に見られるように、
卑弥呼と弟王のように、すでに萌芽していたと考えるべきである。
ただし、卑弥呼と直接の関係があるかどうかはわからない。
どちらかと言えば、関係は薄いのではないかと考えている。
572 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 06:33:53.10
豪族は兵力と領地を持つ関係上、
そう簡単には土地を離れられないが、
天子一族は実質の看板だから、
比較的移動は容易だと考える。
白村江の敗北のあと、
畿内へ天子一族が疎開するのも可能かもしれない。
573 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 08:48:27.49
このように九州説は、どこまで行っても立証がなく、ただ妄想ばかりが続く
574 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 09:02:25.40
捏造畿内説よりはるかにまし
575 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 09:19:18.34
景行天皇も神功皇后も四世紀の人物
多少の変更はあったとしても、卑弥呼体制の後継王たちとみてよいのではないか
特に、卑弥呼時代の佐賀イト国から邪馬台国への街道筋であった八女・久留米を
抑えていた筑紫君の磐井は、それなりのキーマンと思われる
>景行天皇も神功皇后も四世紀の人物
根拠なし
根拠を訊かれると「どう考えても」くらいの返事しか出来ないのが、何も考えていない人々。
それが九州説。
何も根拠が出せないまま「捏造」「捏造」と喚くしか抵抗のすべを知らない負け組。
それが九州説。
579 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 14:43:04.85
17代 履中天皇:
その父は仁徳天皇(在位 400-405)であるが、仁徳天皇以前はやたら在位年数が長い、
そこでこれを後世並みの一代10〜13年で考えると、
神功皇后は履中天皇の三代前なので360年代頃の人、
景行天皇は履中天皇の五代前なので340年代頃(神功皇后を参入しても六代前の330年頃)の人となる。
大サービスで、一代を15年と見ても四世紀内の人物となる
数人の天皇を一人に集約させているとも考えられるわけだが?
みごとなまでに穴だらけな年代推定だこと
ですな
583 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 15:01:57.31
考えるのは自由だが、根拠に乏しいわな
例えば神功皇后の父方5代前は開花天皇、
神功皇后の夫である仲哀天皇の父方直系五代前も開花天皇で両系とも代数は合っている。
この場合、数人の天皇を一人に集約させているわけではなさそう
仮に集約すると、某系のほうでバレる恐れがあるので、全系図を集約しなくてはならず、たいへんな作業になる。
ま、そんな姑息な手段は、集約される方の豪族が納得しなかったであろう。
記紀に神功皇后のときに魏使がきたって書いてあるのに・・・
単純に時代繰り上げで済むと思ってるやつどうなの?
>>583 >仲哀天皇の父方直系五代前も開花天皇で両系とも代数は合っている。
そんな正確じゃないよ
氏姓は成務に定められてるからある程度は整理されてるとは思うけど
586 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 15:32:25.80
>>585 正確でないにせよ、
少なくとも、数人の天皇を一人に集約させたと言うような荒療治はしてないのではないか
587 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 15:49:48.04
そういう根拠なし
たとえば、神功皇后は、卑弥呼と台与の合算になっている
魏志倭人伝から、卑弥呼は250年ごろには亡くなっているのに
神功皇后は300年近くまで生きてるんだから。
なぜ、魏志を見て二人だと判明しながら、一人と扱ったのか?
答え:伝承に従ったから。
590 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 17:45:49.00
>>588 自分で自分に騙されとるな。親子二頭のウマをみてあれは一頭のシカだといい張ってる珍しい奴だ。
いや、記紀と他国の史書をつきあわせるとそう結論せざるをえないわけだが?
北史には魏主假金印紫綬。正始中,卑彌呼死,更立男王とある。
正始は10年(西暦249年)まで。神功皇后が亡くなったのは69年(西暦269年)。
没年が合わない。
記紀には
(神功皇后)六十六年。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云、武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。
とあるが、これは魏志倭人伝の
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,
貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。
にあたる。なぜなら、それ以降の朝貢の記録はどの史書にもなく、それしか一致するものがないから。
よって、壱与=神功皇后が成り立つ。
つまり、卑弥呼+壱与=神功皇后とみなさざるを得ない。
記紀は魏志を読みながら、なお神功皇后一人にこだわった。
なぜか?答え:伝承に従ったから。
592 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 18:24:56.02
歴代天皇が真実だと思う馬鹿
593 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 18:46:01.64
>>591 記紀と倭人伝を対比すればそのようになることは明らかだ。
しかしその記紀伝承では神功皇后は在位70年、神武即位は前660年になるなど、不自然なところが少なくないわけだが、
それでも伝承は正しいと言いたいのか。
それとも伝承に従えばそうなるといいたいだけのことなのか、はっきりしてほしいねえ。
594 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 19:07:31.98
伝承の都合のいいところを拾って都合の悪いところを自由に修正すれば
どんな説だって作れるわ
論理的なところは皆無だが
>>593 伝承は伝承。
8世紀まで伝わり残っていたものがそれであり、それは彼らにとっての真実であった。
当時の人にとっても人が100年以上も生きられるとは信じてはいなかっただろう。
だが、伝承がそうである以上書き換えるわけにはいかなかった。
だから、史書との比較対照作業で、相互の不一致があっても伝承を変えず
なるべく両書のつじつまがあるようおに編纂した。
現代よりはるかに古代についての伝承が残っており、豪族の本籍地や和語の意味成り立ちについての知識
があった当時の人たちが比較対照作業をした結果のだから、俺は一定の信用をおくべきだと思う。
ただ後漢書の倭奴国のあたりまでは比較対照が可能なのは分かるが、それ以前、つまり崇神以前については
かなりアバウトだと思われ。百済の記録が正しいのだとしても紀元前後までしか遡れないからな
ただ、三国史記の飄公の記録が伝わっていて、これをアマノヒボコの話とつなげていたなら、
但馬守が垂仁の時代だから、それ以前を推定でつなげた可能性はあるな
あるいは、本当に神武時代の享年が伝承されていたか
だが、記紀を信用しないで、伝承がまちがったか、対照作業がまったく見当違いだったかと考えるのであれば
とくに記紀と史書のズレを気にする必要はないことになるな
だが、逆に言えば、記紀の信用性を疑うのならば
記紀を都合よく切り貼りして持論を補強することもまた見当違いな結果を産むだけだと忠告しておく。
596 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 19:22:57.89
>>595 根本的なところを勘違いしているな
そもそも倭人伝は伝承ではない
伝承と伝承でないものを突き合わせたところで意味は無い
また、伝承に依拠して伝承でないものを論評しても意味はない
>>596 倭人伝が伝承だなんて一言も言ってないわけだがww
日本書紀は唐式の歴史編纂方法に則って書かれたもので
唐人に自国の歴史を主張、あるいは示すための書と言ってよいだろう。
だから、唐の史書と年代を合わせる必要があった。
そのためには以前の史書を調べて共通の出来事をピックアップして
年代を推定していくしかあるまい。その結果が、神武創業紀元前660年なわけだよ
そうやってあんたが辻褄合わせても仕方ない
599 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 19:34:47.47
>倭人伝が伝承だなんて一言も言ってないわけだがww
ならば、記紀によって倭人伝を論評しないでくれ
スレの主旨には合わないかもね
だが、記紀の信ぴょう性はそこらの学者よりはるかに高いのは事実だ
かっこうの二次資料だからな
601 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 19:52:51.86
その通りだ、記紀はあくまで二次資料である。
しかし、一方の倭人伝は明白な一次資料であり、そこに基本的な立場の差がある。
一次資料なのか?
603 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 20:13:45.32
一次ではない。
単に信憑性が
倭人伝>>(越えられない壁)>>記紀
なだけ。
そうかな?外国のことはそれほど真面目に記録されない。
例:明史
605 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 20:42:37.01
おまえよりマジメ
だから?
>>591 それが苦肉の策って言う奴だよ
卑弥呼の該当する天皇が居なかったので年代を捏造して神功皇后に合わせた
「・・・神功皇后かもしれぬ」でお茶を濁した
神功皇后だけが比較対照であったならそうだろうね
俺はそんな単純じゃないと思うけど。
609 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 00:30:02.69
神功皇后自体が歴然とした創作(合成)キャラなのにね
610 :
サガミハラハラ:2014/03/07(金) 08:35:45.07
神功皇后は実在しましたよ。
「神功皇后は実在した 後藤幸彦著 明窓出版刊」をご覧ください。
611 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 09:12:23.78
やたら在位年数を引きのばし、
神武天皇〜神功皇后〜仁徳天皇の17代で1060年も経過したと主張するから、
かえって実在性を疑われる結果になる。
古代〜中世の天皇17代は200年足らず、
よって神武天皇は三世紀初めの卑弥呼と同時代になる。
このように合理的に考えさえすれば、各人物は実在したとの考えで良く、また古代史にさほどの疑問は生じない。
記紀は実在性を疑われる危険を知りながらあえて在位年数を引き伸ばした。
そのことは魏志と記紀の比較から明らか。
すぐバレる嘘は嘘として成り立たない。ただ古さを誇るためならば、代数をもっと増やせばよかっただけである。
にもかかわらず、7、8世紀の人がなぜあえて在位年数を引き伸ばすような選択をしたか、
合理的な説明が必要なはずである。
説明もなく、単純に押し縮めれば真実になると考えるのは古代人より愚かな解答と言うべきであろう。
加えて、縮める基準を古代〜中世の天皇17代に置くのも謎である。
なぜ彼がそれを比較基準に選んだのか説明もなく類推の例として挙げている。
しかし、案ずるに上古の天皇は必ず崩御によって退位しており、また傍系継承も成務天皇に至って初めて起こるのであるから
継承形態は明治から平成に近い。さらに上古は長子相続となっていない。
大正天皇のような例があったとしても、中世の例にならえば昭和天皇が明治天皇の養子になって代位するという方法も
ありうる。よって、各代を一人と限定したとしても、一代40年〜50年と見積もるのが妥当であろう。
そもそもなぜ、一部の人間たちが在位年数10年をもちだしてくるかと言えば
卑弥呼の後、4世紀に神武が起こったと想定したいがためである。実に動機が単純なのである。
彼らが合理性を追及しているというより、こじつけに躍起になっているようにしか見えないのは私だけであろうか。
613 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 11:49:18.55
>にもかかわらず、7、8世紀の人がなぜあえて在位年数を引き伸ばすような選択をしたか、
まさに、この件が最大の疑問である。これに対する合理的な回答を見出す必要がある。
思うに、新参渡来豪族の天孫族の血を引いた大和朝廷の有力貴族は、
自分たちの祖よりはるかに長い歴史を有したが、当時はすでに弱小化していた旧豪族への対抗上、
あえて皇祖神武の前660年即位説を唱え、強引に記紀に採用させたのではないか・・、という疑問が残る。
>しかし、案ずるに上古の天皇は必ず崩御によって退位しており、、、
>よって、各代を一人と限定したとしても、一代40年〜50年と見積もるのが妥当であろう。
一代40年〜50年と見積もれば、17代で770年ほどになり、神武即位は前370年頃と言うわけだ。
そうかもしれないが、そうでないかもしれないと言う疑問も付きまとう。
特にこの場合の問題点は、神功皇后稜が五世紀築造と見られていることであろう。
空想乙
615 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 13:07:18.23
けっこう良くできた空想であろうw
>新参渡来豪族の天孫族の血を引いた大和朝廷の有力貴族は、
>自分たちの祖よりはるかに長い歴史を有したが、当時はすでに弱小化していた旧豪族への対抗上
それは考えにくい。畿内豪族のほとんどは記紀の記述においてさえも皇族より早く畿内に土着している。
国津神しかり、アマノホヒしかり、アマノワカヒコしかり、ニギハヤヒしかり。
たとえ神武が前660年であっても、他豪族はさらに古い。
ただ、九州の豪族については不明。皇族は日向の出のはずだが、熊襲との関連が描かれていない。
皇族と交わった熊襲の子孫はあっても、熊襲固有の系譜が分からない。
国津神系は出雲系氏族やミナカタなど固有の系譜が残っているが、熊襲はない。
出土物からして弥生初期は明らかに九州の文化は高いはずだが
系譜に残されていないということは熊襲固有の豪族は歴史の闇に葬られたということだろう。
>特にこの場合の問題点は、神功皇后稜が五世紀築造と見られていることであろう。
どの古墳がどの人物のものであるかの比定は江戸時代になされたものだから、裏付けなく信用するのは危険だろう。
年代推測も検証方法によってまちまちである。その部分についての考察もする必要がある。
617 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 14:43:45.96
>>しかし、案ずるに上古の天皇は必ず崩御によって退位しており、、、
>>よって、各代を一人と限定したとしても、一代40年〜50年と見積もるのが妥当であろう。
この件については、もう一つの問題がある。
一代45年とすると、その天皇Aの崩御のときに子息Bはすでに一定の年齢に達しているので、
Bの即位年齢+45年の後に崩御することになる。
この時、その次子息Cは少なくとも45歳に達しているであろうから、天皇Cは45歳+45年の90歳で崩御することになる。
このようにして、17代の平均をとると、
平均即位年数45年の場合、天皇の平均寿命はその2倍の90歳でなくてはならない。
奇しくもこれは現在の平均寿命において言えることである。
別の表現をすれば、
全員が崩御退位の場合の平均在位年数は平均寿命の1/2になると言うことである。
あの時代、平均寿命90歳は考え難い。
まぁ、せいぜい良くてこの半分くらいか??
今、一代一人であるという仮定を前提に話をしていると断っておきたいのだが、
その仮定の下での反論もありうる。
たとえば、末子相続であったという可能性。
また息子が老齢で難がある場合は孫を養子として嫡子とした可能性な。
619 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 16:44:38.24
そう言うことだ
平均在位年数が長くなれば末子相続や、孫相続を想定し無ければならない。
だがそのときも平均寿命は45年+αで、十分に長くなくてはならない。
ともあれ記紀の記述は、
ようするに実態不明、検証不明にするために書かれているのであるから、
これをもって倭人伝を肯定したり否定したりするのはそもそもナンセンスであろう。
倭人伝の語るところによれば、
あのころ倭人の国々に共立された土蜘蛛女酋が九州またはその他日本列島のどこかに居て、
ときどき魏都へ貢物をしていたと言うだけのことである。
そしてその女王の都は倭人伝のみぞ知るというわけである。
620 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 17:00:50.63
女はウザいし、以後はまとも。
サルでなければね。
>平均在位年数が長くなれば末子相続や、孫相続を想定し無ければならない。
>だがそのときも平均寿命は45年+αで、十分に長くなくてはならない。
別段、否定しない。
記紀の文面通りの事実が起こっていたと言えないのは明らかだろう
>ようするに実態不明、検証不明にするために書かれているのであるから
記紀編纂の動機が検証不明にするためとするのはナンセンスだろう
どういう過程をへてそのような結論に至ったか不明。
>これをもって倭人伝を肯定したり否定したりするのはそもそもナンセンスであろう。
倭人伝を肯定しこそすれ、否定した覚えはない。
俺は、記紀と魏志の両書をまず肯定的に受け入れた上で、各論において比較検討していくべきだと考えている。
記紀編纂者は倭人伝を参照したはずなのだから、倭人伝との矛盾はあるべくしてあると見るべきだと思う。
>倭人伝の語るところによれば、
>あのころ倭人の国々に共立された土蜘蛛女酋が九州またはその他日本列島のどこかに居て、
肯定しかねるなw
九州説を否定するつもりはないが、それと断言できるとも思わないから。
ただ、九州説を主張するならば、持説に記紀を援用するのはナンセンスだとは言っておく。
あー、少しコミュニケーションの難を感じたんだが。。。
上で在位年数40年から50年と見積もるべきだと言ったのは
あくまで、一代10年と見積もって論を構築している人たちの論拠を否定するためであって
別段、一代一人とすべきだと主張したわけではないよ?
たとえば、彼はうまい棒を買い込むと意気込んでいた。
彼は所持金1000円をもっていたから、一つ10円のうまい棒を100個買っていたはずと主張する人に対し
うまい棒は20円に値上がりしていたから、100個買ったという説は成り立たないと反論したのだとしても
別段、彼がうまい棒以外のものを買わなかったという説を私が是認した、という話にはならないだろ?
100個買うのは無理だと言いたかっただけなんだから。
たぶん、分かってるとは思うんだけど。
623 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 17:42:22.24
九州説そのものがナンセンスなわけだがw
624 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 18:09:39.68
>>549 伊勢神宮は本当に不思議。
何であんなところでいきなりアマテラスを祀ったりしてるんだろう?
元々あの辺の豪族の神社が壬申の乱のとき、その豪族が天武についたから地位が引き上げられたとも聞いたが。
伊野は神功皇后の足跡が見えるよう。
>>624 伊勢は神武天皇が上陸した地
そこで援助を受け持ち直したっぽい
卑弥呼にも倭の五王にも
畿内に適合者がいないのは当然。
卑弥呼も倭の五王も九州の王なのだから。
627 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 23:47:34.55
結論を連呼するだけで理由がまったく言えないのが
九州病
九州の王など名前すら残っていない。
豊前国風土記さえ残っていれば…
629 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 00:07:53.97
邪馬台国論争の登場人物は漏れ無くキチガイ
630 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 00:14:07.09
おまいのことか?
631 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 00:15:10.77
アメタリシヒコと聖徳太子は別人っぽいからなあ。
福岡の天多利思比孤がいる時代に、葛城に寺建てた豪族が
いたってだけの話だろうし。
632 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 00:28:14.24
帯方東南大海中の九州島に倭人に共立された土蜘蛛女酋がいた
その名は卑弥呼
一海を渡ること千余里にして至る末盧国。東南陸行五百里にして到る伊都国。
東南至る奴国百里。東行して至る不弥国百里。
南して至る投馬国、郡より水行20日。
また同じく南すれば至る邪馬壹国、郡より水行10日陸行1月。そこに女酋の所都あり。
自帯方郡より至る女酋王国は万二千余里なり。
どう見てもこの女酋王国はくまモンの熊本地方だわ。
633 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 01:07:29.71
記紀も伝承ではない。そこを間違えている奴が多すぎる。
>>632 筑紫平野と熊本菊池は肥の国だったが
後に筑紫平野は筑紫が一般的な呼び名になる。
佐賀熊本はは肥前肥後の名が残る。
元々は呉王夫差の子孫で姫(忌)氏だが(熊鹿文の子孫が熊襲を名乗る。
倭の五王は熊鹿文の五代後の子孫。
熊が名で鹿文が氏。
系図には倭の五王、卑弥呼、難升米、その他倭人伝記載の名前が記載してある。
山門郡の邪馬台国に対抗した熊本菊池の狗奴国は
共に呉王夫差の子孫で同族の争い。
635 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 03:59:31.68
このように九州説は害吉の巣窟
畿内詐欺師が嘆いている。
637 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 09:43:27.09
しかし、邪馬台国は数年、長くて数十年しか存在しなかったのだろう。
卑弥呼は自力で女王の地位を勝ち取ったわけではなく、長引く戦争に疲弊した諸王から共立されたわけだから、
血統の正しい古代国家の王家の血を引くものであったと見て間違いない。
となると、縄文末期の人口集積地、南九州ということになる。
芋と黒豚の南九州 ぷぷぷぷぷ
卑弥呼ととよが一緒だから、
天皇家は宇佐八幡を訪れる、
とか考えてみた。
640 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 11:58:12.64
なにしろ戦乱の時代だった。
邪馬台と呼ばれた臺の国は卑弥呼と台与の共立時代だけしか存在しなかったのでは・・、
という考えは正しいのかもしれぬ。
641 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 12:43:39.10
「戦乱の時代だった」なんて根拠なし
642 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 13:21:12.37
>其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。
>倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻?状。
>卑弥呼以死、大作冢。更立男王、国中不服、更相誅殺。当時殺千余人。
たぶん、おマイは、
記紀に記述がないから戦乱の根拠は無いといいたいのだろうな。
悲しい奴だ。。。。
七八十年前は日本武尊の時代だから十分該当箇所があるわけだが
旧事本紀は神武・応神・継体を巻頭におくから
それぞれ画期であった可能性は高いと思う
応神らワケ系は傍系皇族だったと私は考える
645 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 21:26:46.21
>>642って頭悪いの?
>其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。
は明らかに卑弥呼の時代じゃない。
>倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃。
は説明しただけ
>卑弥呼以死、大作冢。更立男王、国中不服、更相誅殺。当時殺千余人。
は誅殺だから戦争じゃない
646 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 21:44:21.63
>>645 おお畿内ワラベか、お囃子ご苦労である。
647 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 00:10:06.10
九州説には、逃亡と罵倒以外なにひとつ出来ないウス馬鹿しかいないな。
卑弥呼は鬼道を持って民衆を抑えてるから、
晩年を除いては比較的平和な時代だといえるだろう。
649 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 08:29:36.16
そうだねえ
共立話がまとまって、卑弥呼・台与の時代はいっときの平和を享受できた時代だったかも
650 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 09:15:31.73
関心深い解説を発見した。
>古事記では、天皇家の祖先である天照大神によって高天原を追われた素戔嗚尊が出雲に降り立ち、
>そこで八岐大蛇を征伐し、その後、大国主命に国土経営を託します。
>大国主命は様々な苦労を経て豊葦原中国という豊かな土地にしていきます。
>しかし、それを見た天照大神は、自分が素戔嗚尊を追放して行かせた土地であるにもかかわらず、
>「本来は自分達天つ神が支配すべき土地で、国つ神が傍若無人な振舞いをしている」と言い、
>国を譲るようにせまり、最終的に大国主命は国を譲ります。
651 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 09:18:27.92
(つづき)
>大和族が重要な製鉄産地を背景に持つ出雲族を征服(懐柔?)して、
>さらにその後、熊襲・蝦夷を征服していき、日本を統一していくという古代歴史を想うと、
>大和族と出雲族の製鉄方法の違いがどういう意味を持ったのか想像してしまいます。
652 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 11:12:39.07
邪馬台国は妄想になるだけだからやめとけ
653 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 12:43:49.23
弥生末期は九州はもう落ちぶれてるんだよな。
考古学者で九州説ってもういないらしい。
発掘で出てくるたびに、一世紀から二世紀にかけて東が優位になるのが
分かるらしいな。
654 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 13:03:27.63
昨日の敵は今日の友。敵の敵は味方。結局考古学で分るのは庶民の暮らし。政治ではない
考古学の余計な干渉がなければ榎一雄が放射説を提唱した時点でほぼ解決できていた問題
655 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 13:20:50.41
その意味では花弁状住居を取り上げることは本来的な考古学の立場からの考察といえる
656 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 17:01:08.50
九州説は、もう考古学的に否定されちゃたからなぁ
658 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 20:49:15.48
>>657 おまいも畿内ワラベか、お囃子ご苦労であ〜る。
659 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 21:06:23.45
「反論できない」病か
もう終りだな、九州説
畿内説は、単なる利権詐欺集団だったわけだが、まだ余命があったんだなw
661 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 23:03:19.44
ひとことも反論できないまま
何の証拠も出せない中傷をわめくことしか出来ない九州説は
正直もう終わっている。
吉野ヶ里遺跡が公表されて、邪馬台国文化圏であることが証明されてしまった。
それ以後の畿内説は、露骨な詐欺の逃げ道を追求するばかりになってしまった。
今更吉野ヶ里w
邪馬台国の年代とは全く合わないのにな。
同じ文化圏なのが証明されたから、時代が少々ずれても、九州に確定だな。
665 :
大和 田直木:2014/03/10(月) 04:28:58.63
>>663 吉野ヶ里は2世紀初頭の帥升の都(墓制に後漢文化の影響、帥升後に衰退)
帥升倭國 = 倭面土國 = 筑志米多國
吉野ヶ里付近の地名「めた」
米多(上米多・下米多)
目達(目達原)
米田(米田郷 肥前國風土記)
三田(三田川・三田川村)
豆田(豆田・上豆田・下豆田)
牟田(西牟田・前牟田・東牟田)
「邪馬台国文化圏」だなんて誰も証明してないのに
ガセネタに踊らされた九州説はヌカ喜びして、考古学様々と吹聴しまくった。
考古学によって邪馬台国が九州には無かったことが明らかになると
ハシゴを外され孤立無援となったた九州論の老人たちは考古学を恨み
死ぬまで中傷を絶やさないでいる。
667 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 06:24:50.28
668 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 06:25:40.78
無駄な時間だったな榎一雄から50年。本居宣長の熊襲説からなら250年か
669 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 08:04:25.50
天皇礼賛の右翼主義者が、なにがなんでも皇室が中国の臣下だったことを否定しようとして創作した妄説が自然消滅するまで数百年を要した。
政治思想が学問を汚染することの生む損失の大きさというものの甚大さを実感するね。
670 :
サガミハラハラ:2014/03/10(月) 08:29:23.89
>>663 吉野ヶ里の年代が邪馬台国の時代にあわないのは、年代を決めた人が、
畿内説に気を使い、または惑わされて(まきむくが邪馬台国だとして
)畿内説から離れたところに年代を設定したからです。
ヤシのガリが発掘されはじめたころの年代は邪馬台国の年代にぴったりでしたよ。
671 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 08:48:15.33
だという証拠は?
672 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 09:07:24.61
結局妄想と恨みしかないのが九州説w
弥生時代後期の環郷集落遺跡なんて今や日本各地に確認されてるのにな。
673 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 09:07:40.79
・・・と聞くたびに足元が狭まってくる。
674 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 09:29:51.66
首が絞まる九州説
我らキナイブシ
九州説が憎くてたまらん
676 :
大和 田直木:2014/03/10(月) 10:05:45.93
>>670 >ヤシのガリが発掘されはじめたころの年代は邪馬台国の年代にぴったりでしたよ。
吉野ヶ里遺跡は、少なくとも紀元前から8世紀まで継続している。
問題は、王墓を築いて栄えた吉野ヶ里遺跡が衰退縮小した時期がいつ頃かである。
吉野ヶ里遺跡が衰退縮小した時期は2世紀中葉の倭國乱の頃と思われる。
畿内マキムクが、邪馬台国とはまったく異質な文化圏で、
吉野ヶ里が遺跡が邪馬台国の文化圏であることは、完全に証明されていて
詐欺の畿内説には手も足も出ない。
△鏡・箸墓・年輪・桃種・鯖骨などを使って詐欺を解説しても無駄。
678 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 10:49:35.76
>吉野ヶ里遺跡が衰退縮小した時期は2世紀中葉の倭國乱の頃と思われる。
九州島で繰り広げられた倭國乱が終息し、共立体制へ向ったことで、
吉野ヶ里のような環濠にたてこもる必要も無くなったからではないのか?
>九州島で繰り広げられた倭國乱
考古学、文献資料的にはどうみても倭国乱=西日本一帯の話だけど?
681 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 11:47:45.11
>考古学、文献資料的にはどうみても倭国乱=西日本一帯の話だけど?
なるほどそのとおりと思う。
出雲のスサノオ伝説から国譲りにかけての様子は、倭国乱が九州島に留まらず、東へ波及したことを物語る。
ただそうした中にあって、九州島はいち早く共立体制に移行(統一)できたのではないか?
そしてその主導権を握ったのは、
圧倒的な威力をもつ鉄製武器文化を手中にした邪馬台国・伊都国・斯馬国など卑弥呼の血族一統であり、
やがてその邪馬台連合の者達(邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)は、
西日本一帯をも手中に収め、大和に都を建てることになったのではないかと思うのだうが・・、
>大和に都を建てることになったのではないかと思うのだうが・・
その巻向周辺の遺跡に考古学的には影響が一番大きいのが
阿讃であって、文献資料的に瀬戸内から大和へ
入る伝承を持つのがモモソ姫だという事だから。
どうあがいても九州説では設明不可能なんだよ。
684 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 12:40:20.20
征服後に近場から労働力が大量に連れてこられたんだろうな。
685 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 13:45:45.89
>瀬戸内から大和へ入る伝承を持つのがモモソ姫だという事だから。
そのモモソ媛を伴って大和へ入った黒幕は誰だったのか・・、ということだww
魏志倭人伝に書かれていないものばかりの畿内。
畿内の古墳乱立だの、数百枚出土する△鏡などはいい例だ。
魏志倭人伝の邪馬台国文化にぴったり符合する九州の遺跡。
あとは九州のどこかだけが論点だ。
687 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 14:48:09.13
>畿内の古墳乱立だの、数百枚出土する△鏡などはいい例だ。
倭人伝の記述となにひとつ矛盾しないけどな。
九州の何が「邪馬台国文化にぴったり符合する」の?
具体的事実が何も出せない惨めな九州説。
688 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 15:01:25.03
怪しげなものを掘り出すたびに具体的なものだと言い張る畿怪説。
689 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 15:15:08.38
現実に存在すれば、それは具体的なものだがね
何も存在しない九州説の悲惨さといったら・・・
690 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 15:19:16.02
いかにも怪しげな具体的なるもの
691 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 15:19:26.97
そんな広域の乱の痕跡がどこにあるの?
>>685 モモソの母親なら淡路島にいるし、父親の孝霊天皇の宮なら鍵唐古遺跡の近所だが?
まぁ黒幕は九州勢力に無関係だなw
693 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 15:29:05.97
694 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 15:33:59.51
>>692 うひひ
卑弥呼、台与に続く三代目の鬼道巫女がモモソだったのだ。
大和に転じた九州勢は四国のモモソ童女に目を付け、大和へさらっていったのだ、うひひ、、、、
695 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 15:37:23.06
神功皇后のモデルとなった豪族ならともかく、
モモソヒメは九州とは関係ないな。
記紀から見れば、そもそも女王じゃないし
推測する年代が近い、という以外に一致しそうな項目もとくにない。
弥生後期なら瀬戸内や出雲に戦闘の痕跡なら沢山あるしな、また高地性集落も。
この辺りなんて孝霊天皇や吉備津彦の成敗伝承だらけだw
興味深いのが出雲地方には月支国から孝霊期に攻めてきて
戦闘した伝承もある事だな。
実際半島人との戦闘、殺傷痕も確認されてるだろ。
697 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 15:42:15.27
>実際半島人との戦闘、殺傷痕も確認されてるだろ。
これはどこの遺跡?
邪馬台国には、卑弥呼の塚が一つだけ出てくる。
「巨大古墳がたくさんあるから邪馬台国は畿内」という詐欺が畿内説。
桃の種でも鯖の骨でも卑弥呼の証拠だそうでw
畿内説は、世界から笑いものにされてます。
699 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 16:21:45.52
こいつ、心底ばかだな
サイキバといいます
701 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 16:43:50.06
やっとこさで共立体制ができたばかりの邪馬台国で、
箸墓みたいなバカでかい本格古墳を築造するなんて考える方がおかしい、せいぜい自然の丘を均した程度の御稜だろ
702 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 17:07:09.81
実に九州説らしい無根拠妄言乙
サイキバです
704 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 17:18:25.40
箸墓は卑弥呼の墓、実に畿内説らしい無根拠奇怪妄言乙
705 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 17:40:31.15
明治以降の土建屋の発想だな
でかいのがえろいというのがおこちゃまののおみそ
706 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 17:42:58.08
妄想たくましてフリーハンドで看做しちゃえば
丘陵頂にしでかされた弥生墓も簡単に前方後円墳にできちゃうし
707 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 18:15:44.06
何も証明するもののがない九州説の断末魔が凄いなw
まぁ老後の娯楽に妄想パズルは丁度いいのだろうな。
卑弥呼が魏からもらった鏡が、どんどん増殖て枚数が増えたんだそうだ。
さすが畿内説は、物理現象を超えた立派な事を言うなw
709 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 18:32:17.95
宮内庁に阻まれて、
立ち入りすらできないのに、
箸墓を大発掘して卑弥呼の金印を掘り当てたかの如く言う畿内説の無根拠奇怪妄言亡
畿内説は△国産で何の問題もないのにw
神仙思想が早くから畿内に浸透していた事に他ならない訳だしな。
711 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 18:40:34.68
神仙思想って、どこかの教祖が振り回していたやつだろ
魏志倭人伝を読むと、倭人は海洋民族だ。
奈良県は海洋国家でした、というのが畿内説だ。
畿内や淡路島に倭種がいたことは比定しない。
ただ、そのへんの地域は、九州とはあまり関係がない。
神武東征の可能性はほとんどなく、
あったとしても、小規模の氏族が、
瀬戸内海を転々として、
なんとか隙間を見つけ、住み着いた程度。
九州の主要勢力とは関係がない。
比定→否定
715 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 19:42:54.97
ふふふ・・・、四国か、いひひ
畿内からは九州土器は一欠片しか見つかっていない。
これも関係が少ないことを示す例だろう。
717 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 19:46:03.82
そのとおり。畿内説のアホウ。
718 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 20:26:55.29
>>712 決して畿内説=巻向ではないだけの話だ。
河内湖なんて現奈良県界隈からすればすぐ近所だよ。
719 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 21:02:51.19
いまどき九州説なんて信奉してる時代遅れ爺さんは不勉強だから
大和がある意味で海人の国であることも知らないんだな
720 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 21:13:05.40
過去の全主張の根拠を修正するか、畿内説はw
721 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 21:29:18.60
新たな発見が相次いで、主張を修正出来ないから
九州説は消滅するしかないんだよw
まさに九州説の死に体ぶりを象徴する発言が続いています。
もはや幻の邪馬台国ではなく幻の九州説、過去の遺物だなw
724 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 21:34:22.39
っていうか幽霊
725 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 21:55:58.55
畿内と言うか、
とかく近畿方面の学者諸氏は使いまわししたがるからなあ???
意味不明なうえ根拠に欠けるな
727 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 22:11:26.91
>>726 浮世離れしとるな。
TVともPCとも縁が無い生活してるのか、まさかなw
畿内説って詐欺しかいないから、相手にする必要もなくて安心。
729 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 22:24:49.13
九州説の特徴
なにがあっても絶対に証拠を出さない
反論されると罵るしか能ない九さん
畿内説が完全自滅した吉野ヶ里以降、九州説は腰を落ち着けて論じられるから楽になったよ。
732 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 22:34:48.28
うん、邪馬台国時代を考えるうえで吉野ヶ里の発掘は偉大な成果だった。
その功績は、はるか後世まで語り継がれるな。
なんか新興宗教にハマった信者がうわごとを言ってるみたいだな
734 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 23:06:06.77
九州説が考古学に否定されて完全崩壊したショックで現実逃避しているのだろう。
いまどき吉野ヶ里なんて言ってるのがカナ〜リ痛イ
吉野ヶ里以後、畿内が邪馬台国文化圏とはまったく異質なことがバレちゃったからね。
必死でプロパガンダしている積もりのようだが、内容が皆無なの連呼は九州説の恥なだけ
738 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 02:12:20.12
>>737 内容がないままに連呼してるのはあなたですね
739 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 02:33:46.66
ほら、幼稚な言い返ししか出来ない
九州説はレベルが低いな
>ほら、幼稚な云い返ししか出来ない
ボクうまいこと言うね、どこで教わったの?
741 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 02:57:33.81
知能不足でうまいこと言えない九州説爺を悼む
ほら、幼稚な言い返ししか出来ない
畿内説って、畿内説利権に巣食う連中の詐欺だったけど、もうオワコンだね。
745 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 03:30:36.91
以上のとおり、内容のない連呼とウソ、証拠のない中傷が九州説のすべて・・・のようだ。
746 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 06:34:45.71
以上のとおり、内容のない連呼とウソ、証拠のない中傷が畿内説のすべて。し
かも「無い」という漢字も知らないマ○ケどもだ。
747 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 08:00:54.66
ごくろうさま。
あなたは九州説がウソと猿真似しか能がないことを証明しました。
748 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 09:41:36.48
STAP細胞論文に捏造疑惑 近畿は大丈夫か?
>新たに画像酷似の指摘で「根幹揺らぐ」
>生物学の常識を覆すとして世界に衝撃を与えた万能細胞「STAP細胞」の論文が、
>撤回される可能性が出てきた。発表からわずか1カ月余り。
>論文の不適切さを問う声が相次ぎ、共著者まで「確信が持てない」と表明した。
>次々に明らかになる問題に、理化学研究所(神戸拠点)の対応は後手にまわっている。
畿内説は説を補強する発見しかないから大丈夫だよw
750 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 10:15:26.83
世紀の発見のはずが、STAP論文の重要部分に疑念
(神戸新聞NEXT 3月11日(火)8時0分配信)
>共著者の一人が他の著者に撤回するよう呼び掛けた「STAP細胞」の論文について、
>理化学研究所(理研)などで免疫学を研究した、、、、、、の担当部長は10日、
>「最も重要な点に捏造の疑いがあり、理論的にあり得ない結果として示されている」と指摘した。
>論文中、STAP細胞の最も重要な根拠となる遺伝子の変化に関する部分で、
>理論的にあり得ない結果が示され、画像を切り貼りして作られた可能性があるという。
>他の複数の専門家も同様に指摘している。
騒動の元は理研の神戸研究拠点だろ、畿内説は大丈夫だよなw
こいつコピペまでして必死すぎだろw
752 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 10:54:04.49
他山の石、反面教師、人の振り見てわが振り直せ
などなどの言いならわしもある、すべからく自重しなくてはならぬ
753 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 11:05:16.26
桃の種の年代もとっくに調べてるんだろうな
畿内説の年輪年代測定は非公開だから、絶対に詐欺がバレません。
畿内説詐欺のみなさん、どうか安心してください。
「年代は確定できないが……」
よく見かけるフレーズだが、大まかな確定もできないほど無能なのか、
それとも確定しそうになってこりゃまずいと慌てて中止するのか、どっちだろう?
756 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 13:40:07.73
おい、中傷専! コテハン付けろよ。
757 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 13:53:48.60
こら、畿内厨! コテハンつったって一人や二人じゃない、二桁は居るからな。
758 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 14:28:18.27
いくら何でも、こんな馬鹿が二人といる気がしない
>>757は、9州説が悪質な罵倒中傷魔の巣窟だと主張しています。
ほんとうでしょうか!
760 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 14:38:09.34
その通り、たった一人だ。
その唯一の馬鹿が君なのだ。
761 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 14:42:47.58
>>755 確定出来たら自分たちでなんとか弱点を探し出して
「やっぱり確定とは言い切れませんなあ」とやるんだよ。一寸の詐欺にも五分の良心w
どう考えても、こんな根性曲がりの馬鹿は一人だよな
でないと九州説が可哀想すぎる
764 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 15:06:01.23
九州説のイメージダウンにしかならないと、どうして気付かないんだろう。
根性曲りの馬鹿ばっかりの畿内説は可哀想どころの騒ぎじゃないな
766 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 15:11:11.71
猿真似鸚鵡返ししか出来ない詐欺厨九州教徒の知能を哀れむ
知能の片鱗もない奴が人を哀れむって、冗談は自分のアタマだけにしとけ
>>762のコテは「九州(くず)詐欺厨」でいいな?
お前らもともと相手にされてないんだよ、いい加減気付けよ畿内バカタコ
770 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 15:21:20.54
>>738 >>746みたいな芸のないオウム返しを連発するのは「知能の片鱗もない奴」な証明なんだがな
771 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 15:21:21.98
九州の根拠は? 九州の根拠は?
自ら畿内説の根拠に不安を抱く余り、毎日コンコンギツネの老畿内説
自分の主張の根拠が言えないのは「知能の片鱗もない奴」の証し。
773 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 15:32:26.23
>>769 そういう根拠のない罵倒をするのって、あんたが知能の片鱗もない奴の
な証明だよね
774 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 15:35:54.88
畿内説の者が、九州スレで大きな顔をするこたあねえんだ
世界のどこでも、九州説が大きな顔を出来る時代ではないもんで、相対的に他説のひとの顔が大きくなります。
776 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 16:08:58.29
777 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 16:43:57.84
そしてクズ捏造厨は馬鹿の典型
九州説がいかに世間から相手にされなくなったかが、よくわかる。
しかし詐欺厨は本気で三角縁が破砕鏡だと思ってるんだろうか。
「邪馬台国論争」と言えばもっともらしく聞えるがもともと論争などという高級なものじゃない。
漢文の読めない奴が漢文を勝手に捏ねくりまわしたり
まるで関係ないものをくっつけて根拠だ証拠だ候補だと喚いたり
(桃の種だからモモソだ、モモソは女だから卑弥呼だ、魚のウロコが出たから邪馬台国候補だ)
詐欺無知低脳の畿内節に加えてアニメゲームと勘違いする奴まで涌いて、もうキチガイ沙汰だ。
そこで専ブラを使うことをおすすめする。俺は JaneXeno というのを使っている。
これだと、いま涌いているような畿内馬鹿はその都度透明あぼ〜んで見えなくできるし、
満州クラゲ人間のような糞コテはNGネームに登録してあぼ〜んできる。
邪馬台国はなかったとか邪馬台国はパプアニューギニアだとかタヒチ島だとか言わない限り、
九州にあったことは精神病でない人間には自明だから、
まず病人をあぼ〜んで消して無視して、それからゆっくり話を始めようではないか。
消さないと邪魔になるし、あまりのアホらしさにからかってやりたくもなるから、とにかく消すことが肝心。
781 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 19:06:10.94
負け犬が逃げ出しました
わかりやすいなぁ。
畿内説利権にしがみついて、生活を守っている連中の事を少しは考えてやれよ。
詐欺で生計を立てている可哀想な立場だ。桃の種も鯖の骨も、卑弥呼の証拠なんだよ。
784 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 22:15:43.52
ここまで利権!利権!と騒ぎ続けるザマを見せつけられると、もうマヂで
こいつ吉野ヶ里で卑弥呼そうめん売ってる業者じゃないかって気がするな・・・
なるほど、三輪素麺が憎いのか。
年輪年代判定をすれば、箸墓が作られたのは卑弥呼の死んだ年なんだよ。
ただし、畿内説の生活がかかってるから、永遠に非公開じゃないとダメなんだよ。
787 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 23:37:47.81
ソース、プリーズ
畿内から何が出土しても卑弥呼の証拠なんだよ。
新聞やテレビが「畿内にいた卑弥呼の証拠」って連呼してくれてます。
電通様には「畿内説利権」をたっぷりしゃぶらせてあるから安心、なんて
うっかり口外しないでくださいよ。生活かかってますから。
そんなに山本そうめんの卑弥呼五彩が脅威なのか
790 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 23:52:33.88
>>786 「年輪年代判定をすれば、箸墓が作られたのは卑弥呼の死んだ年」なら畿内説にはgj!では?
791 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 00:38:14.48
吉野ヶ里のめいぶつ館が閉館しちゃってから、もう丸2年になるね。
793 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 01:24:04.64
それ、ワッシー爺さんの独自説と合わないってだけだから。
畿内説:現役学者(文系&理系) vs 九州説:70歳前後のアマチュア(文系or無学系)
という構図が定着したなぁ。
安本が死ねば九州説は終わるだろ
畿内説は詐欺だった、ってばれちゃった今、九州説が不戦勝状態だな。
797 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 04:21:32.36
で、なぜ『詐欺』だと言い張るかの理由は絶対に言えない・・と
798 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 05:10:25.99
>>769 こんど神埼そうめんも通販で買うから、そうグレるなよ
800 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 05:48:13.39
通説を否定できるのなら
どんなゴミでも拾う
いかなるう汚物でも啜る
という覚悟
しかと、みとどけたぞ
801 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 08:18:42.43
見よ、スタッフ細胞疑惑の衝撃を!
自説に都合のいいような作為的な論文発表
暴かれるんだよ、そんなものは
科学に騙されるな!
データに騙されるな!
そんなもんで邪馬台国なんぞ解けない
最近、鬼の首をとったような振る舞いの目立つどこかの論者にいいたいわ
802 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 08:23:30.40
魏王朝は機内政権に目を向けていたわけではない
九州政権を念頭に置いていた
間違って、機内の情報を混ぜていただけだ
陳寿の表現したかった政権は倭の奴国の後になっている九州にあったもの
非科学万歳かよ
804 :
筑紫倭皇帝:2014/03/12(水) 08:41:20.90
九州説のやつらも佐賀とか宮崎熊本大分とかで主張するから畿内のバカどもにやられるんだよww
畿内も佐賀宮崎熊本大分もないないww
博多湾沿岸説からみたらお前らの争いは実にくだらない争い。
本物で何の矛盾も生じない博多湾岸沿岸が答えなんだよ。
畿内派が主張するもしくは日本書紀卑弥呼=神功皇后説(そのようにも見えるように日本書紀に記述してる)も
すべて博多湾沿岸で大国主(倭奴国)・邪馬台国・天孫族が活躍してたと認めれば
簡単に何の矛盾もなく答えが見つかっているというもの。
お前ら畿内や佐賀宮崎熊本大分が必死になって「おらが村に邪馬台国を!」「天孫族を!」島根も「大国主を!」
ってレベルの低い争いをしてるから答えが出ないんだよ。
土の中を見ても、もうさんざん博多湾沿岸と答えは出ている。
お前らがレベルの低い争いを続けてる限り無理だわww
プライドを捨て博多湾沿岸説を学ぶ事だな。
805 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 08:47:14.96
その博多湾沿岸説を調査してる学者に、ひとりも九州説がいないのは何故?
806 :
筑紫倭皇帝:2014/03/12(水) 09:21:28.89
大国主=元々の漢倭奴国王の可能性大。
邪馬台国天孫族以前の博多湾沿岸(倭国の都)の覇者であり
天孫族(国産み・天孫降臨)により出雲へ追放(国譲り)される。
邪馬台国=博多湾沿岸部を都とする 倭国 の覇者。
日本書紀によれば卑弥呼=神功皇后の可能性もあり。
天孫族=博多湾沿岸部の斯馬国(志摩)を聖地とする
日本を古代より現在まで支配する世界最古で最後??の皇帝。
自分たちの祖でもある大国主から博多湾沿岸(筑紫・高天原)奪い、
大国主を出雲に追放する。
博多は古代より覇者の住むところとして 覇家臺=覇者・皇帝の住む処。家がある処。 と呼ばれる。
元寇の時もその名残で、元軍はなぜか当時の都・鎌倉ではなく、古代より覇者の住む処 博多 に全軍を集結させる。
天孫族による九州の国別けも「筑紫国・肥国・豊国・熊襲国」とあり
筑紫国だけ博多湾沿岸部だけというものすごい範囲の狭さ。
これは博多湾沿岸部の「筑紫国」だけは天孫族にとって特別な「国」だという事の証であり、
「高天原」は博多湾沿岸か博多湾沿岸部の中にある狭い土地(範囲)であることが考えられる。
全てこのことから古代史を解いてみろ。
全ての歴史がきれいにつながっていくからな。
そのうち俺の亜流が本を出すのだろうな・・・
俺にはその才能がない・・
807 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 09:25:17.00
かってにお話を造っても、それ歴史じゃないから。
808 :
酢タッコ細胞満州:2014/03/12(水) 09:26:41.80
× プライドを捨て博多湾沿岸説を学ぶ事だな。
○ プライドを捨て博多湾沿岸説を捨てる事だな。
博多湾沿岸説なんて矛盾しかないじゃないか。
泥船にのる学者なんて当然いないだろうw
「ここkは邪馬台国じゃない」ということを一番よく知ってるのは、博多湾岸の現場を調査してる考古学者たちですね、
811 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 09:50:39.61
>俺にはその才能がない・・
っていうか無能
812 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 10:21:36.83
矛盾を付くと泥舟になるって例えかい
それだと捏造が歴史になるけど
813 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 10:21:41.20
博多湾岸が大都市でのちに九州を主導する国家であることを
否定するつもりは毛頭ないんだが、
1世紀の段階で倭国王帥升や冊封体制で金印を持つような国が、
言い方は悪いが、鬼道や鏡で戦を左右する、
オカルト的な国とは思えないんだな。
つーことで、九州王朝の前身の筑紫国と、
邪馬台国の肥(日?)国は、別の国と主張したい。
帥升
倭國王帥升等獻生口百六十人
卑弥呼
奉汝所獻男生口四人 女生口六人 斑布二匹二?
帥升は博多だから、外交戦略には長けていただろうが
あとの卑弥呼のほうが貢物がしょぼい。
どちらかと言えば、外交初心者か?
のちに完全支配じゃないにせよ、筑紫に従属することに
なっただろうな。
4世紀といわれる景行天皇の時代に、景行天皇が筑後を取り、
肥国が敗退、提携することによって、戦争がなくなる。
その余った軍隊を熊襲に向けることになる、と想像している。
814 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 10:33:17.02
昔から博多は豪商の街だよ。頑固な筑後者とは違う。
強面が攻めてきたら争わずに巻かれて実利を取って栄える。
覇王の教祖様もお呼びでない。
815 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 10:34:26.98
誤:覇王の教祖様もお呼びでない。
正:覇王も教祖様もお呼びでない。
816 :
筑紫倭皇帝:2014/03/12(水) 11:00:26.76
まあ確かに、筑後でも朝倉辺りとかは実に怪しい雰囲気を持っている。
邪馬台国の範囲も博多湾沿岸部だけという事じゃなく、
一部筑後も含まれるかもしれないが、筑後は限定的な範囲かもしれない。
筑後(久留米周辺)は狗奴国とみる。
しかし、狗奴国は性質上、博多湾沿岸部の筑紫とは兄弟国的な部分や元は同一国家であった可能性もある。
しかし、魏志倭人伝の時は 「狗奴国」 であったとするのが俺の説だ。
まあ唐津や筑後の博多湾沿岸部の沿線は「倭国」と呼べるような地域であったとおもう。
倭国=邪馬台国ではなく。
倭国は博多湾沿岸部の「邪馬台国」とその淵に沿ってるその他の地域だという事。
つまり 倭国=邪馬台国+その周りの唐津や宗像や筑後の限定的範囲 だという事。
大体の流れは
>>813の後半部だと思う。
それが自然の時間の流れでも矛盾はない。
大体、宮崎や畿内説といったものは自然な必然的な時間の流れや地理関係を全く無視した トンデモ説。
そんなSF的描写を信じてる古代史マニア(特に2ちゃんに多い畿内、宮崎派等々)はバカとしか思えん。
よく、自然な流れを無視した畿内説やら宮崎説を含め他の九州説論者は
自分がとんでもないSFを語ってる事に気づいてないバカ丸出しなことを自覚していないなと思うよww
そんな突拍子もないことを普通に語る学者たちもほんと自分が愚かなバカであることに気づいてないんだなと
つくずく感心するわw
817 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 11:04:19.79
学者はみんな畿内説
818 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 11:05:22.54
才能がない満州はSF的描写を信じてる古代史マニア(特に2ちゃんに多い)
819 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 11:12:36.37
学者といっても考古学は本来専門外だし、少なくとも一方は確実に間違っているわけで
九州は候補地を絞れとあおっていた近畿説も巻向から候補地を広げようとする現状
挙句に共同研究という名の邪馬台国論争保存会を立ち上げようとする始末
>>816 自然な必然的な時間の流れや地理関係を全く無視した トンデモ説。
それはまさにお前の事だよw
歴史的や考古学的見地からも、大陸・半島人の指向は
瀬戸内方面へ向かうのは明白だろ。
>>819 >近畿説も巻向から候補地を広げようとする現状
君が勝手にマスゴミに踊らされてる事に気づこうな。
邪馬台国は七万戸の大国、大和盆地だけではあり得ない。
巻向は卑弥呼の宮ではないか?というのが正しい論調だよ。
822 :
筑紫倭皇帝:2014/03/12(水) 11:22:33.06
>>820 瀬戸内www
どうやって半島や大陸からピンポイントで瀬戸内にいくんだよww
まさにこれ
『自然な必然的な時間の流れや地理関係を全く無視した トンデモ説。 』
もうさ、まじで畿内や瀬戸内や宮崎とかを相手にするって時間の無駄であり
最大の 「損」「恥」 であるんだよね。
頭わるすぎてあんたらにはほんと 呆れる わw
823 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 11:26:59.98
824 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 11:29:09.50
>>820 >どうやって半島や大陸からピンポイントで瀬戸内にいくんだよ
アホ、倭人=海人なら簡単じゃないかw
記紀上でも伊都津彦はアナト(山口)まで王権を主張してるぞ?
>>823 畿内説=巻向が邪馬台国だという論調じゃないのか?
畿内説の石野の主張でも、大和盆地に7万戸の集落なんて
あり得ないと以前から言ってるのだが。
826 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 11:43:00.46
鉄器そのものは、九州全域でわりとどこからでも出てくるが、
鍛冶遺跡や後の製鉄遺跡は、それなりに集中しているようである。
糸島から福岡市西部
春日周辺
筑後南部から玉名山鹿などの熊本北部
宇土半島から八代の熊本南部
などである。
これらはいわゆる大陸からの「鉄の道」の終着点であり、
鉄素材が運ばれた地域だと思う。
糸島、福岡市西部は、いうまでもない。
春日も当時は近くまで海、または水路があったと考えられる。
大牟田あたりを中心とする筑後南部から熊本北部は
一度唐津に上陸し、佐賀や大川で再び海路を渡ったであろう。
これが、投馬(ツマ?)国への道である。
大きく島原半島を迂回し、天草を通り抜けたのが、
熊本南部の鉄の道、宇土半島や八代に上陸して、
運ばれた鉄の素材は、すぐに加工されてしまうのである。
ついでに、関門海峡を越えて淡路島にたどり着く
鉄の道もあったということだろう。
ただし、絶対的な鉄の出土量が少ないので、
需要を満たすほどの鉄素材を入手するのは難しかった
と考えられる。
827 :
筑紫倭皇帝:2014/03/12(水) 11:43:50.71
>アホ、倭人=海人なら簡単じゃないかw
お前の自論なら世界各国の海辺に住む人が倭人だなww
このようなバカとは今後一切絡む必要なし
キエロ瀬戸内派
828 :
酢タッコ細胞満州:2014/03/12(水) 11:53:45.85
○ このようなバカとは今後一切絡む必要なし
○ キエロ瀬戸内派
これ正解w もっと言ってやれw
>>827 おまえは九州説の恥さらしだと自覚あるのか?
瀬戸内西部なんて普通に九州の文化圏だと思うが。
830 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 11:56:06.20
福岡の人間なら、河口が大きい印象を持つ多々良川を知っているだろう。
この周辺にも鉄の伝承が残っている。
たたら、なので5世紀以降かも知れない。
鎌倉時代以降のたたら製鉄では、石炭を使用していた伝承もあるそうである。
八木山や筑豊、志免には炭鉱があった。
それ以前の製鉄でも使っていたかもしれない。
831 :
筑紫倭皇帝:2014/03/12(水) 11:59:06.39
たたら製鉄
たたら=鉄 みたいなものか
多々良川の上流が伊野であり、伊野天照皇大神宮があるんだよな。
832 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 11:59:29.42
833 :
筑紫倭皇帝:2014/03/12(水) 12:03:45.89
多々良川の支流は
猪野川(いのがわ)、伊野天照皇大神宮の伊野(猪野)であり、
宇美八幡宮の宇美川なんだな。
なんとも古代のロマンを感じるな。
博多湾沿岸部一帯はほんと古代史が詰まった本物の地であるという証だな。
834 :
筑紫倭皇帝:2014/03/12(水) 12:47:07.79
神武天皇の后が「ヒメタタライスズ姫」
つまり「たたら」、福岡市東部のヒメ。
ヒメタタライスズ姫は大国主の息子、事代主の娘。
天孫族と大国主の「国譲り」の際、大国主は息子の事代主に聞いてくれという。
漁をしていた事代主の所へ天孫族が行き事代主に迫ったところ「国譲り」に承知したので、
大国主も「国譲り」を承諾する。
当時の大国主の本拠地、カタス国=福岡市東部の博多区堅粕(かたかす)潟州(かたす)付近。
事代主はその東部の現多々良川付近。
娘で神武天皇の妻になるヒメタタライスズ姫。
この当時は博多湾沿岸部西部の天孫族、東部の大国主。
漢倭奴国王の金印は東部の志賀島。 しかし、志賀島でも糸島(伊都+志摩)が見渡せる所から発見された。
実に面白いね。
しかし、ほんとに博多湾沿岸部ってのは本物が詰まって面白いね。
大体、宮崎とか出雲とか畿内とかの連中って、
大国主や天孫族のやりとりを、馬もないような時代に徒歩でやりとり、その距離を
行き来してたと思ってんのかね?? そんな途方もない距離をやり取りがすぐに成功するわけないだろww
行くのに数か月、帰るのに数か月でまともなやりとりは出来んよ。
博多湾沿岸部ってのはほんとなんの矛盾もなく全てがピッタリとはまるな。
>>825 知りもしない他説にでたらめな批判をする馬鹿発見
836 :
筑紫倭皇帝:2014/03/12(水) 12:57:48.23
837 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 13:07:50.95
>>821 7万戸のエリアを広く解釈しようとする傾向に異論はない
邪馬台国と思われる場所には候補地が多くなるのも当然のこと
ならば先にトーナメントの如く細かい候補地を絞るという発想自体が的外れな事という
ことが分かって来ただろう。
南九州は別けてもいいが北部九州の中で無理に候補を1本化する必要もないだろう。
838 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 13:10:06.31
ピッタリとか自然とか言うだけで何も論証できない
それが九州説クオリティ
詐欺しか生きる道のない畿内説は、九州説が羨ましいのでカミツキガメ状態。
自分が中傷しか出来ない噛みつきガメな事実に気づかない愚かさ
畿内説が勝手に自然消滅したので、九州説はゆっくり検討できるな。
良い時代になったものだ。
842 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 17:49:55.14
843 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 18:09:04.24
844 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 04:17:18.15
>>841 現実逃避だけが九州説の生きる道か。。。あわれな、、、、
845 :
大和 田直木:2014/03/13(木) 05:03:08.75
「帯方郡から女王国まで1万2千余里」の正しい計算
ソウル(帯方郡) → 巨済島南岸沖(其北岸狗邪韓國) 7000餘里=水行7日
巨済島南岸沖(其北岸狗邪韓國) → 唐津競艇場(末盧國) 4400餘里=水行3日
ソウル(帯方郡) → 唐津競艇場(末盧國) 11400餘里=水行10日
唐津競艇場(末盧國) → 肥前國庁跡(伊都國) 500里
肥前國庁跡(伊都國) → 吉野ヶ里遺跡(不彌國) 100里
吉野ヶ里遺跡(不彌國) → 八女市(邪馬壹國官伊支馬城柵) 500餘里
唐津競艇場(末盧國) → 八女市(邪馬壹國官伊支馬城柵) 1000餘里=陸行1月
やはり九州説にはバカパズルがお似合いだなw
畿内説に行程パズルは無理。
そんな、ひとから馬鹿にされるようなことを、普通の人はしませんから
849 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 10:43:56.70
>>847 そりゃ何処でも行けるパズルなんて時間の無駄だからなw
解釈しだいでエジプトだって行ける位だし。
たしかに畿内パズルではそうなるな。
畿内よりはエジプトの方がよほど楽だ
「郡」を「ローマ」にして「陳寿の間違い」とすればOK
853 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 12:37:08.74
>>850 畿内を目的にパズルを解くと矛盾が多すぎて無理があり正に時間の無駄
パズルを解のが無駄なのではなく畿内を目的にパズルを解く事が時間の無駄なんだな
>>852 そのレベルなら畿内は簡単に行けるよ。
方角を東に変えるだけなんだからなw
隋書に出てる秦王国なんてどうみても瀬戸内の国だろ?
金毘羅宮(海を渡ってきた神)なんてどうみても中華の事だろうし。
856 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 13:00:26.93
畿内を目的にパズルを解くことは時間の無駄
つまり畿内説自体が最大の無駄
△鏡、箸墓、年輪、桃種、鯖骨など、畿内説の根幹を成す理論が詐欺なので、
畿内説研究は、詐欺の研究にしかならない。
方向を東に変えれば畿内につくとは言うが、
帯方郡から、南を東に曲げると、
日本には行けなさそうである。
どこかの地点までは、南は南に行き、
どこかからは、南を東に変えるという、
統一感のない恣意的な書き換えが必要である。
どう解いても畿内パズルは矛盾が多い。
だから畿内説では行程論はみぬふりをしたいのである。
知らない土地に行ったら方角に迷うだろ
思い出して書いたとしたらさらに曖昧だし
畿内パズルなんてものは存在しないよ。
畿内説は行程を根拠に用いてないから。
倭人伝に書かれている行程を
畿内説では根拠に出来ない。
倭人伝に出てくる倭錦=絹は、ほとんど九州なんだよね。
倭人伝に出てこないもので、畿内に多いものはあるんだけどね。
それ、知識古いから
>>862 >倭人伝に出てくる倭錦=絹は、ほとんど九州なんだよね。
九州も倭国だから何の不思議もないんだよw
距離や方角の問題も女王国が瀬戸内〜畿内方面ですべて片付く問題だわ。
絹や行程から、倭人伝に九州が
書かれているのは必然。
これは畿内説でさえ否定できない。
九州説では畿内は要らない。
あ、要らないということはなかった。
畿内は東の倭種として必要。
867 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 15:14:38.62
当時畿内が倭国の中心なら倭錦=絹も畿内を中心とした地域に出土するはず。
仮に九州から金印が出ても、伊都という事で
説明出来る畿内説には何の問題もないからな。
もう邪馬台国論争、九州説なんて終わったんだよw
讃岐から大和に入るモモソが卑弥呼で全く問題ない。
>>867 水銀朱鉱山は阿波、丹生神社は紀伊半島中心にあるけどな。
実用品の銅鐸ではなく、祭祀用大型銅鐸なら畿内が多いんだけど、
畿内銅鐸国家って、バーンと中心部から滅亡しちゃってるよね。
邪馬台国の記述と、この畿内の動向はぜんぜん符合しないね。
大型古墳がたくさんある、なんて魏志倭人伝には書いてないしね。
871 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 15:23:31.36
そすか?
872 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 15:24:32.26
スレまちがえた、、、
邪馬台国の頃は北部九州が栄えてる訳じゃないぞ。
874 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 15:30:05.93
>>869 真朱(水銀朱)を魏から貰ってるから朱は阿蘇のリモナイトの朱だ。
875 :
訂正:2014/03/13(木) 15:34:50.94
>>869 「真珠鉛丹各五十斤」と真朱(水銀朱)50斤を魏から貰ってるから「山有丹」の丹は阿蘇山のリモナイトの朱だ。
876 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 15:35:41.94
北部九州の弥生中期から後期にかけての遺跡の密集具合は、
人口が飽和しつつあることを示している。
当時の地層が残ってて、住みやすい場所には、
必ず遺跡が出ると思って良い。
神武天皇の逸話が示すように、まだ人が少ない新天地に向かって、
九州を出て行ったものも多かったのだろう。
吉野ヶ里は9世紀の木簡が出ている。
政治形態が変わって、使用状況も変わったであろうが、
放棄されたわけではなく、おそらくは役所的なものとして、
使い続けられている。
>>875 珠と朱は全く違う漢字
混合するなよバカ
878 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 15:48:15.18
吉野ヶ里でも少量ながら中国産の水銀朱が使用されているから、
全く知らないわけでもなかったのだろうが、
赤色塗料としてはベンガラが豊富にあるから、
祭祀に使うちょっと特殊な塗料という扱いだろうな。
無いなら無いでどうということもない。
実際全く使っていない遺跡の方が多い。
水銀朱鉱山の周辺に丹生神社もあるが、
そんなに必死に掘っていたような形跡もない。
大体リモナイトは黄土だよ。鉄が豊富という記述はないし、
倭人が半島まで鉄を求めてくるという記述にも矛盾する。
丹は基本的に辰砂、さすがにこれは否定は出来ない。
881 :
訂正:2014/03/13(木) 16:58:24.56
>>877 真珠は五十斤とは数えない
鉛丹と並べて書かれていること
五十斤と数えていることからここの真珠は真朱(水銀朱)の誤記
>>879 リモナイトはベンガラの原料となり古墳には大量のベンガラが使われている
日本にリモナイトから鉄を作り出す技術あったの?
882 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 17:12:25.35
現在の製鉄ではベンガラ鉱を鉄原料に使っているから出来なくはないが、
砂鉄や磁鉄鉱にくらべて、還元エネルギーが大きいので、余計に燃料が必要。
当時は砂鉄や磁鉄鉱が主だろうというのが、今のところの見方。
リモナイト、ベンガラは赤色塗料原料だろう。
883 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 17:28:26.94
>>837 7万戸は北部九州一帯だろう
福岡、佐賀、長崎、熊本、大分位含むだろうな。
884 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 17:50:55.84
1戸で何人?
15万戸って異常に多くね?
885 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 18:02:14.78
倭人伝は中華の書物だしな。
中華の資料で当時酸化鉄を丹とする文献は皆無だから。
まぁ辰砂=丹だよ。それにベンガラなら何処でもある。
丹有、なのに、中国からもらっている。
あまり採掘もせず、利用する文化も
なかったということだろうな。
倭人伝の使者に、こういう鉱石が出るところはないか?と聞かれて、
それならこの山にあるよ、
って答えた程度かな。
887 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 18:27:04.65
吉野ヶ里の支配地域で一万五千から二万人程度と推測されている。
旧郡ひとつで、人口一万人程度が目安。
もちろん、大きい郡もあれば小さい郡もある。
吉野ヶ里は地方王権の中では少し大きめで、
二郡程度を支配していた。
888 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 18:28:34.32
1戸で5人として
7万戸で35万人
3世紀の福岡、佐賀、長崎、熊本、大分位なら十分だろう。
889 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 18:34:12.83
2万戸の奴国を筑前の主要部として
筑前が10万人+α
筑後が5万人
肥後が10万人
肥前が5万人
豊前が3万人
35万人はいくな。
890 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 18:39:35.45
竪穴式住居一つには、核家族一世帯程度しか住めない。
代表的な大きさの竪穴式住居は6畳二間程度の大きさ。
これに炉や各種道具、食料の蓄えなどを入れたら、
一世帯の核家族が寝るところがなんとか確保できる程度。
倭人伝によると、大人で4〜5婦、小人でも2〜3婦と、
一夫多妻制となっているようであり、そんな大人数を
代表的な大きさの竪穴式住居一戸に収める余裕はない。
そのため一婦に一戸と考えて良いように思う。
そうすれば、婦とその子で2〜3名が一戸に収まる人数だろう。
891 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 18:46:42.29
当然、夫が死なれたり、結婚前の男子がいたりすれば、
一戸一名ということもあり得るが、とりあえず、一戸2.5名とすると、
二万戸で5万人、
五万戸で、12.5万人、
七万戸で、17.5万人ということになる。
ちなみに現代の平均世帯人数も2.5名程度。
現代も独身が多いからな。
892 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 18:58:37.99
wikipedia 江戸時代の人口統計
によると、
享保6年(1721年)では、
筑前 302,160
筑後 266,426
肥前 609,926
肥後 614,007
である。
893 :
大和 田直木:2014/03/13(木) 19:29:40.31
ベンガラの主用途のひとつは消臭剤
隋書倭國伝にも、ベンガラが遺体の消臭剤として使われたことを伺える文がある。
「死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服、貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿」
消臭剤としてのベンガラ無しでは、遺体の腐臭に耐え切れないだろう。
古墳石室、石棺、甕棺にも消臭目的で使われ始めたのが、彩色目的へと変わっていったと考えられる。
大量のベンガラ使用例は消臭以外の何物でもない。
九州説はないな
古代に核家族はありえない
竪穴式住居にもれなく三世代同居だったから、じいちゃんばあちゃんとうちゃんかんちゃんにいちゃんねえちゃんおれ
最低でも7人はいる
895 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 19:44:45.34
昔の人は短命だし
竪穴式住居に母親を中心に子供3〜5人だろう
男は通い婚で母親の家に居るとして
1戸5人位でいいんじゃない
いや、幼児の生存率が平均寿命を下げているだけで爺はいる
知らないおじさんが母ちゃんと寝てたなんてこともしばしば
しかも古代は一夫多妻
子供10人は軽くいける
897 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 19:56:20.23
母系家族なら一人の女性が生む子供の数は3〜5人だろう
子供の死亡率も高いし婆さんが生きていたとしても
1戸5人位でいいんじゃない
>>886 倭人伝でもイヨは丹を献上してるのだが。
少なくともベンガラ贈っても向こうは喜ばないよw
そうかもね
ベンガラ八兵衛
>>898 トヨさんの白珠五千個は普通に真珠だったんじゃないかね?
ここは一斤という表現じゃないし。
それは真珠でいいだろうな。
903 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 23:03:40.93
天然真珠五千個そろえるのは難しく不可能に近いから
白珠は真珠ではなく白い珠、石か何かを加工し穴を開けた物だな
孔・・・あな・とおる
つまり、かなーりアリエナイ史料曲解を敢行しないと九州説は主張しえないという結論
905 :
日本@名無史さん:2014/03/14(金) 05:57:42.02
どこを曲解?
906 :
日本@名無史さん:2014/03/14(金) 06:00:42.53
白珠って、勾玉、管玉の一種かね
装飾用の白い宝石と解釈した方がいいのかな?
丹を無理やり酸化鉄だと
908 :
日本@名無史さん:2014/03/14(金) 09:57:10.96
白珠は、臼玉の誤記でしょう。
孔は、孔の前で切れて、深いの意味で後ろの青にかかるとみていい。
909 :
大和 田直木:2014/03/14(金) 10:33:01.52
>>908 貢「白珠五千孔」「青大句珠二枚」「異文雜錦二十匹」
白いビーズ五千個(白い連珠)、惣座遺跡から出土した青い連珠ような。
「青大句珠」は何かわからないが、板状の翡翠のような物か。
模様の異なる錦が20枚。
910 :
日本@名無史さん:2014/03/14(金) 12:16:15.64
911 :
筑紫倭皇帝:2014/03/14(金) 14:33:47.23
やっぱ、博多湾沿岸説以外の九州説はいい加減あきらめろ(笑)
江戸期にすでに語られていた「筑紫」の語源
「筑紫」とは「西海道」すべてを言うのではなく、「筑前」のみを言うのである。
そして、筑前が古来、異国から「大宰府」へ向かう重要な路であったため、それが石畳にて造られていた。
それを称して「築石」といい、これがなまって「筑紫」となったのである。
石畳の道は筑前の海岸に現存しているという。
調べれば調べるほど博多湾沿岸以外ないんだよ。
大国主も邪馬台国も天孫族もみ〜んな博多湾沿岸を都として活躍していた史実なんだよ。
いい加減、他の九州説もあきらめろ。
必死すぎてお前らまじでキモいわw
912 :
筑紫倭皇帝:2014/03/14(金) 14:41:08.55
「筑後」は本来「肥」国の可能性が高く、
後に「筑紫」に組み込まれて「筑前」と「筑後」に区分された。
天孫族による九州の国別け
「筑紫国・肥国・豊国・クマソ国」
現在の博多湾沿岸部のみの極狭い範囲だけの「筑紫国」
天孫族にとっても、特別な重要な意味を持つ「筑紫」という事が
よくわかる事実だ。
特別な博多湾沿岸部「筑紫」
大国主も邪馬台国も天孫族もぜ〜んぶ博多湾沿岸部に都を置き
活躍していた史実だという事がよ〜く分かるね。
他の九州説はもういい加減にあきらめなさい。
基本、博多湾岸だというのはわかるんだが、一時期、
有明海沿岸に遷都していた時代もあったと思う。
結構な頻度で遷都していたから、わかりにくいのだと思う。
最後の最後は、大宰府だったようだ。
914 :
日本@名無史さん:2014/03/14(金) 16:16:39.41
理由もなく、ただ思っちゃうのが九州説クオリティ
915 :
筑紫倭皇帝:2014/03/14(金) 16:19:03.72
「八幡」←この名前が北九州市にあるが福岡市に発見した!!
旧筑紫郡八幡村。 現福岡市南区と中央区も一部。
「八幡」というのはかなりすごいキーワードで北九州なのか?と思ってたが
やっぱり博多湾沿岸部にあったか!!
やはり日本の楚、大国主、邪馬台国、天孫族が本拠地を置いたのは
博多湾沿岸部だな。
詐欺で生き延びようとする畿内説の野次は、さすがに汚いな。
917 :
九州王:2014/03/14(金) 16:23:37.57
>>911 考え近いんだけど少し違う
倭の中に30か国の国邑が在り
邪馬壹国は単体の国邑ではなく国邑の連合体
邪馬壹国の都は伊都国で邪馬壹国中最大の国邑は奴国
邪馬壹国の範囲は福岡、佐賀、長崎、熊本、大分ぐらい
博多湾沿岸とかないので。まず、地図をみなさい。
高句麗、新羅、百済、伽耶とあり、博多周辺はあまりにも面積が小さすぎる。
こんな小さな面積で中国へ朝貢など無理な話である。倭の奴国という例外はあるが。
919 :
大和 田直木:2014/03/14(金) 23:20:19.92
>>910 >鉄発色のコバルトブルーのガラスのは列島独自のハイテクらしい 発色の技術的な系譜が辿れない
日本ではガラスの原料となる石は、火山性で鉄イオンが多く含まれている。
その鉄がガラスを青に発色させる。
日本でガラスを普通に作れば自然と青になるので、
鉄イオン量の調整によりきれいなコバルトブルーになり易い。
だから日本ではコバルトブルーのガラスはハイテクではない。
逆に、鉄イオンを含まない白色のガラスを作るほうが高度な技術であり、貴重品となる。
「白珠五千孔」には、少量の勾玉が含まれていることもあり得る。
920 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 06:32:49.02
>>916 あなたの野次の汚さは、九州説が詐欺であると声高に主張しています。
921 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 06:56:40.33
922 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 08:18:42.11
そういう証拠は?
923 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 10:01:12.97
今日もまた九州説は、自分たちの主張に根拠がないという事実を帰納的に証明し続けている
既得権益詐欺しかいない畿内説が何を言っても、
詐欺とは無縁の九州説は余裕。
このように
まったく立証するすべのないことを
まったく立証する意思のないまま
ただ言い張るのが九州説
926 :
九州王:2014/03/15(土) 14:33:08.93
倭王の卑弥呼は伊都国に都して 邪馬壹国(邪馬臺国)を支配していた。
邪馬壹国は奴国を中心国邑とした26か国の国邑の連合体であり九州の北半分ほどの地域にあった。
女王国とは邪馬壹国の内、卑弥呼を共立した伊都国、奴国、不弥国の連合体のことである。
帯方郡郡治から奴国までを各距離(7000里+1000里+400里+400里+1000里+300里+300里+1000里+500里+100里)と各所要時間(20日+10日+1日)と総距離(12,000里)とで3重に併記している。
旁國(奴国から奴国まで)を通過する21か国の国名と総距離(5,000里)とで2重に併記している。
女王国から裸国、黒歯国までも同じ行程を距離(4,000里)と時間(12日)とで2重に併記している。
投馬国は朝鮮半島南部の倭人の国邑が集まった連合体、投馬国の中心国邑が狗邪韓国。
927 :
九州王:2014/03/15(土) 15:08:10.46
伊都国(福岡県糸島市)が魏使の目的地であり、卑弥呼・壹與など代々の倭王は『魏志倭人伝』に「世有王 皆統屬女王國」「(伊都国には魏の)世に王(卑弥呼、壹與)がいて、(倭の国々は)皆、女王国に統屬していた」と記された伊都国に居して倭の国々を支配していた。
『魏志倭人伝』は正確を期するため同じ行程を距離と所要日数とで繰り返し併記しているのである。この解釈の方式であれば、従来は矛盾しているとされていた距離や方角、その他の問題も完璧に説明できる。(この里は東夷で使われた短里であり1里≒76mであるとする)
伊都国の説明で「世有王」と伊都国が王都であると解説し、王都近郊の奴国、不弥国まで紹介し終え距離(里数)での説明は終了。「南至投馬國水行二十日」から行程の説明が時間(日数)に替わり、この文からは再度、帯方郡の郡治からの行程を時間で説明し直しているのである。
同じ行程(帯方郡郡治-奴国)を各距離(里数)と各所要時間(日数)と総距離(12,000里)とで3重に併記している。
郡治-狗邪韓国-対馬国-一支国-末盧国-伊都国-奴国七千里 + 千里 +(四百里×2)+ 千里 +(三百里×2)+ 千里 + 五百里 + 百里
= 帯方郡-投馬国-邪馬壹国水行二十日 + 水行十日 + 陸行一月(陸行一日)
= 帯方郡-萬二千餘里-女王國
邪馬壹国は北部九州一帯にあった国邑の連合体であり、構成国は、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、斯馬国-烏奴国の計26か国。
928 :
九州王:2014/03/15(土) 15:13:12.97
「女王之所都」「女王の都のする所」と記された邪馬壹国の中で、跳びぬけて大きい人口を持つ奴国が女王国の中心国邑であり、行程や地理を説明する場合には基点として使われているが、女王国の都は前述した様に伊都国である。
「參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里」「倭の地について聞き取り調査すると、海中の島の上に孤立して在り、途切れたり連なったりしているとのことだ。一周は5,000里と推察される。」
ここでも同じ行程(奴国-奴国)を通過する国名と総距離(5,000里)とで2重に併記しているのである。「周旋可五千餘里」とは北部九州一周のことで、「奴国」からはじまり「奴国」に戻る道程。
まず「奴国」から「不弥国」に向かい、その後は次々に「斯馬国」「已百支国」「伊邪国」「都支国」「彌奴国」「好古都国」「不呼国」「姐奴国」
「對蘇国」「蘇奴国」「呼邑国」「華奴蘇奴国」「鬼国」「爲吾国」「鬼奴国」「邪馬国」「躬臣国」「巴利国」「支惟国」「烏奴国」「奴国」と21か国を通るのである。
「周旋可五千餘里」の5000里は推定値であり、実測した末盧国-伊都国の500里、伊都国-奴国の100里、奴国-不弥国の100里を用いて計算で推定したものである。
(女王国-裸国 黒歯国)でも同じ行程を距離(4,000里)と時間(12日)とで2重に併記している。
女王國-裸国・黒齒国=四千餘里=船行一年可(船行十二日可)
侏儒国は、永納山城を中心とする愛媛県(伊予国)であろう。裸国は、鬼城山城(鬼ノ城)大迴小迴山城を中心とする岡山県(吉備国)や播磨城山城を中心とする兵庫県南西部(播磨国)であろう。
929 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 15:52:38.39
このように
まったく立証するすべのないことを
まったく立証する意思のないまま
ただ言い張るのが九州説
930 :
九州王:2014/03/15(土) 16:28:43.32
続きは「♪邪馬台国ドンと来い!♪124」へ
>>926 それじゃまるで畿内説じゃないか
自分で何言ってるのかもわからない奴をアホという
>>926 二重併記してる例って魏志の中で他にあんの?
文章を自然に読んでも多重表記をしているようには見えん
つじつま合わせにしか聞こえないんだが。
934 :
九州王:2014/03/15(土) 19:32:15.97
つじつまの合う様に読むのが一番正しい
つじつまの合わない様に読むのは読みが誤っている証拠。
「畿内説は詐欺」とすると、100%つじつまが合う。
936 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 20:49:29.38
万事自分都合のつじつま合わせ
それが九州説
937 :
九州王:2014/03/15(土) 22:40:42.22
狂人が書いた文章でないので元々は辻褄が合う様に書かれていたものが
途中の転写ミス等にりょり辻褄が合わない様に思えるだけ
如何に辻褄が合う様に読むかが元の意味を理解する本来の目的
自分の説が全く辻褄が合わない出鱈目な読みである事に気付けよ!
938 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 23:05:06.12
ストレートに読んだら、変なところに行き着くことは確実なので、
どこか、何かを修正するか、解釈を変えるかしなければならない。
基準となるのは、
修正量が少ないこと
修正に統一性があること
修正に伴って発生する新たな矛盾が少ないこと。
南を東にするだけでは、
帯方郡から東に行って、日本にすらたどり着けなくなるからね。
939 :
大和 田直木:2014/03/16(日) 01:05:37.76
倭の卑弥呼は邪馬壹国(邪馬臺国)に都して 倭の29ヶ国に共立されていた。
倭は女王國を中心国邑と25ヶ国の国邑の連合体であり筑紫平野以北の九州に限られていた。
女王国とは、奴国、不彌國、投馬國、邪馬壹国の連合体のことである。
帯方郡郡治から奴国及び不彌國までの各距離(7000里+1000里+400里+800里+1000里+300里+600里+1000里+500里+100里)合計総距離は12000餘里である。
又、帯方郡郡治から投馬國までの距離は水行20日(水行20000餘里)であり、
帯方郡郡治から邪馬壹国までの距離は水行10日陸行1月(水行11400餘里+陸行1000餘里)である。
餘傍國は筑紫平野周辺の国々と福岡平野周辺の国々のことである。
帯方郡郡治から倭の南端狗奴國までの距離は、13000餘里である。
其の内訳は、帯方郡郡治から對海國までの距離が8000餘里、
倭の北端對海國から倭の南端狗奴國までが5000餘里(周旋五千餘里)。
どう誤魔化しても辻褄の合わない機内説。
畿内説の根幹を成す部分が、全部、詐欺。
根拠が皆無なのが九州説だな、所詮は妄想小説だらけ。
943 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 07:56:38.83
反論することが出来ないので中傷するしか能のないのが九州説
みじめだね
>自分の説が全く辻褄が合わない出鱈目な読みである事に気付けよ!
「辻褄が合わない」というのが錯覚なんですよね。
倭人伝自体の辻褄は合っているんです。
それが、現実の地理と突き合わせようとすると、合わない。
それは「辻褄が合わない」んではない。
倭人伝の筆者が得た情報が間違っているか、現行の写本が陳寿の原文と違っているか
その、どちらか。
945 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 12:55:52.85
「貢白珠五千、孔青大句珠二枚、」
中華書局より、
ここの区切りは、このテキストがいいと思う。
岩波文庫は間違ってると思う。
なお、魏志には、
「出真珠、青玉。」とあり真珠は真珠と書くので
白珠は、真珠ではない。
「真珠、鉛丹各五十斤、」
これは、朱。
白珠が五千と多い。これは日本の遺跡からもかなり
出てくる物と考えられる。考古学事典には、
白珠はない。字がにてる臼玉がある。これは辞典に
でてる。臼玉の誤記の可能性が高い。
日本で縄文・弥生を通じて真珠の出土は
ないことはないが極めて少ない
おそらく真珠5千は無理
白珠は別に臼玉と決めつけなくても、丸く磨いた滑石や蝋石でいいんじゃね
947 :
大和 田直木:2014/03/16(日) 17:16:27.08
>>945 「臼玉」は日本語である。
「白珠」でよろしい。
「白珠」はガラス製の白い連珠のこと。
数千個の青い連珠は出土している。
青い連珠とは違い、白い連珠は貴重品であるので献上品として相応しい。
948 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 17:22:25.29
中国が昔から現代まで白髪三千丈式の国であることに注意。倭人伝も数字は何
倍にも膨らまされている。しかし方角を間違えることはない。畿内説の学者が
南は東の誤りと言うのはアホウのきわみ。こんな奴らが学者をやっていること
こそ「誤り」なのだ。
949 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 19:07:54.69
このように、ひたすら理由なき断定を繰り返す
それが九州説
950 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 20:21:50.73
都合のいいものは理由もなく盲信し
都合の悪いものは中傷してでも排除する
平気で虚言を弄し
証拠もなく他人を陥れ
妄想に残り僅かな余生を生きる
それが九州説
畿内説は根幹が、既得権益を守るイカサマ集団による詐欺だから、
学問として「圏外」なので、誰からも相手にされなくなったな。
952 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 22:47:00.60
都合のいいものは理由もなく盲信し(△縁、桃の種)
都合の悪いものは中傷してでも排除する(倭人伝)
平気で虚言を弄し
証拠もなく他人を陥れ
妄想に残り僅かな余生を生きる
それが畿内説
畿内説の主張そのままだよな。
953 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 22:49:31.21
伊都国は、前原とか、奴国が福岡とかはもう動かない。
奴国から東の海岸が不彌国で、ここから南に行ったとこに邪馬台国が
ある。と魏志に書いてある。
となると、邪馬台国が福岡か、佐賀か、近畿か議論にもならない。
こんな簡単なこと説明も何もいらない。
954 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 22:54:10.37
>平気で虚言を弄し
>証拠もなく他人を陥れ
詐欺と呼ばれたあの方がいらっしゃいましたね。
古田のことか
956 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 23:31:50.10
ぶー
古田氏は直接的な議論以外で
他人をどうこうすることはなかったな。
ツガルにさえ手を出さなければ
ここまでの汚名はなかったろうな
958 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 23:40:28.42
いや、まったくそのとおり。
全部賛同しているわけではないが、
みんながなんとなく考えていることを、
しっかりまとめて主張されたのは慧眼だった。
無論、自分と違っている部分はいくつもあるが。
959 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 23:43:22.45
>伊都国は、前原とか、奴国が福岡とかはもう動かない。
つまり方位の記載に間違いがあることは確定ずみ。
奴国は久留米だな
961 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 23:50:42.78
方位の記載に間違いがあったら、
前原や奴国にも行けないよね。
方位の記載が間違いとして、
帯方郡の南東を修正するとどこにいくんだろう
黒竜江省か、沿海州か
962 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 00:04:04.41
方位の記載に間違いがなかったら、
前原や奴国には行けないよね。
963 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 00:08:22.19
うむ、たしかに。
方位の記載が間違いでも正しくても、
前原や福岡にはたどり着けないか。
正しければ佐賀方面
間違っていれば黒竜江省か?
九州内の複雑な海岸線や、入り組んだ山道なら方角を間違えるが、
畿内に行く方角は間違いようがない。
965 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 00:10:38.76
前原方向に持って行きたかったら、
ちょっと複雑な修正と、それを補完する解釈が必要だな。
方向の間違いだけでは、前原方向には行けない。
まあ邪馬台国は
熊本説ですべてが解決する
968 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 00:13:52.37
畿内の方向は北東、
倭人伝では南東と南
畿内に行く方角が間違えようがない以上、
南東と間違えることはありえない。
つまり畿内説は完全にありえないということだな。
969 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 00:15:30.85
九州内の複雑な海岸線や、入り組んだ山道で既に方角を間違えてるんじゃなかったの?
970 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 00:16:59.52
さあ?
971 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 00:18:37.75
ご都合主義
それが九州説
972 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 00:19:41.40
間違えたという信頼性のある論拠があれば、
考えもするが、いまのところ間違えたとする
明白な根拠もないからな。
ない以上、変にご都合主義には走らないで
倭人伝そのままの解釈でよかろう。
だと、唐津からは佐賀の方に行くしかないね。
伊都国が前原、奴国が福岡とかはもう動かない以上
方角は間違っている。
975 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 00:31:06.58
だいたい、唐津から前原なんて、
海岸ベタの202号線が切り開かれる前は、
歩行ですら困難な道だからな。
川もいくつかあって、そのたびに渡船が必要。
徒歩で行く意味はまるでない。
壱岐から船で直接前原にいけよ、ってなもんだ。
大して距離も変わらないんだから。
それに比べて、佐賀から唐津までは、
山の間を縫って、それほど標高も高くない街道が
続く道だ。天然の街道になってて、環境も良い。
976 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 00:55:52.56
でも、そこに伊都国はないんだな。
977 :
大和 田直木:2014/03/17(月) 01:52:21.01
伊都国は唐津平野南東500里(約40km)の佐賀平野にある。
伊都国が前原、奴国が福岡の説は倭人伝曲解説。畿内説と五十歩百歩。
978 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 02:36:42.43
いつまでも九州にあっただのいってるとどこかの馬鹿な企業のやつらみたいだぞ
979 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 03:28:20.95
ただ言い張るだけ
決して理由は言えない
それが九州説
それは畿内説だな
982 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 04:48:33.05
このように、ただひたすら言い張るだけ
決して理由は言えない
ひとことも、言えない
それが九州説
畿内説は、論拠が全部詐欺だから、100%有り得ないことが前提だが
984 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 11:47:48.29
↑
100%中傷
985 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 13:19:35.80
↑
と、ただひたすら言い張るだけの畿内説
986 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 14:07:49.63
きみが証拠を出さないまま詐欺詐欺と言い張っている、という
目の前にある事実を指摘しているだけ
これは証拠そのものだから「言い張る」には該当しないの
畿内説の論拠そのものが、ぜんぶ詐欺の証拠だろ。
△鏡、箸墓、年輪、桃の種、鯖の骨・・・全部詐欺だったな。
988 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 15:09:28.28
こいつ、ちょっと足りないのかな?
989 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 15:13:18.39
>>979 >>982 のように同じようなレスを粘着してずっと書き続けている。
足りないというか、一種の知障だろうなあ。
残念ですが、畿内説300年の歴史に幕
991 :
九州王:2014/03/17(月) 15:20:19.88
方向のずれは25〜30度程度だ
北部九州の海岸線の傾に惑わされたのだろう
陸行一月を陸行一日の誤記とすれば全て矛盾無く説明できる。
992 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 15:27:25.89
前原あたりは、微妙な海岸線の傾きに誘われて、
海側を北としたくなるのは確か。
前原に実家がある俺が言うから間違いない。
しかし同時に、前原と唐津は移動困難でもある。
202号は崖っぷちに海に乗り出すように
道が作ってあるところが結構ある。
それで、今では熊本南部説をとってる。
993 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 15:30:58.62
994 :
九州王:2014/03/17(月) 21:12:15.70
熊本市民だが前原が邪馬壹国の都の伊都国説だ
福岡にも住んでいたことがあり二丈カントリークラブでゴルフをしたこともある
大した山もないので十分に通行可能だろう
前原と唐津は移動困難と云うほどでもない。
一月と一日は筆で書かれた文字なら誤記も有り得え
南と東は間違いようがないな。
通行可能かどうかは地形だけで決まるものではない。
山賊が出た。これだな。
魏の使者は国賓だから、山賊に襲われないよう、がっちりと守られている。
997 :
大和 田直木:2014/03/17(月) 22:31:14.07
>>994 奈良県民だが佐賀平野の伊都国説だ
福岡には何度も旅行しているが、二丈カントリークラブは海辺の丘でルート外れの位置にある。
福岡セブンヒルズカントリー倶楽部のある白木峠は厳しい山越えだ。
前原と唐津は移動困難な白木峠越えだ。
一月と一日の概念を整理しよう。
一日は日の出から日の出までの12時間だ。
一月は月の出から月の出までの12時間50分だ。
東南と東北は間違いようがないな。
くだらねえ理屈だな、おい
999 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 22:40:36.50
999
1000 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 22:47:37.90
邪馬台国自体がありま1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。