1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 14:19:17.93
三角縁神獣教
3 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 16:10:17.15
確かに九州説にはロマンもギマンも豊富にある。
畿内に王権を立てたのは九州人。
5 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 17:56:45.61
邪馬台国の本命は大分県宇佐市です。畿内ではありません。
6 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 18:43:11.39
お歯黒の風習のあった畿内は黒歯国だったんじゃないの?
まだ畿内説は負けを認めないのか・・・
8 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 19:51:03.14
勝ってるから当然
9 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 20:31:41.77
もう卑弥呼の宮殿まで見つかってるに、抵抗してる九州説は異常。
纏向地域に宮殿が出来るのは崇神時代であって、
3世紀前半の纏向地域の宮殿なんて記紀に記録がないのだがw
11 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 20:53:20.89
あんたがそんなこと決めても無駄
12 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 20:53:24.55
崇神258年没で問題なしだからな。
>>12 そうするとあの宮殿は崇神の磯城瑞籬宮?
どこの誰もそんな事言ってない。
あんたがそんなこと決めても無駄
14 :
満州中尉:2014/02/01(土) 21:06:43.56
崇神258年没?(爆
そんなことを考えてるのはアホ学者と、ここの連中だけであるw
とくに四国説でモモソ説のアンポンタンw
あ、それと葦原醜男太国(爆
15 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/01(土) 21:29:30.85
>>14 オマエは編年で「八幡愚童訓」のような文証を示せない。w
この大陸側の日本襲来記録を集めた史料から
黄龍2年=230年=開化48年
が定まる。
これを倍暦降下計算から 崇神没年=259年 を算出でき、1年違いで
古事記の崇神没年(戊寅)=258年
が正しいことが判明する。
オマエのは根拠を示せないオマエの脳内の逆らう否定のみ。pp
16 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 21:45:23.05
孝霊天皇は孝霊帝に対応しているからな。
倭の乱れた時期とも一致している。
17 :
満州中尉:2014/02/01(土) 22:26:55.28
ふふ、パカな奴らだw
孝霊天皇は箕子朝鮮が遼東に後退した頃の天皇である。
もう文献的な確証があるのである。
開化天皇の実年代も記紀の編年通りである確証がある。
応神天皇紀の編年も正しいことはポクが本に書く予定だ。
ピミらが何を言おうともう無駄なのである。
ピミらの書いていることはすべて空想である(ゲラゲラ)
18 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 22:49:39.68
孝霊天皇=百襲姫(卑弥呼)の比定で特に問題はないからな。
19 :
満州中尉:2014/02/01(土) 22:55:06.58
四国人はアンポンタンということで特に問題はないからな(爆爆爆
満州君は相当四国説が気になって仕方ないんだねw
西日本一帯や尾張に伝承されてるからな。
十分大乱といえるだろう。
24 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 09:10:57.79
それは孝霊天皇でなく、時代的にスサノオの大乱にあたる
25 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 09:21:15.52
孝霊天皇の皇子達と素戔嗚尊と天照大神の誓約で
生まれた神は女神三柱、男神五柱と同じだからな。
孝霊の后に淡路島の宮に、オオヤマトクニアレヒメが
いたと言うことは、素戔嗚尊神話は孝霊期前後の話を
引用している物だろう。
孝霊がそんな画期的な天皇であるわけがなかろう。
27 :
満州中尉:2014/02/02(日) 09:42:22.37
満州が慌て否定するという事は、正しいという事か。
孝霊厨も満州もどっちも基地外という点では同じだな
葛城厨とか物部厨とか
基地外は九州説だけかと思ったら畿内説にもいっぱいいるし
つーかもうそういうやつしか2ch見てないんだろな
30 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 09:51:35.69
以前から、欠史八代の多くは神武の取り巻き支援者の将軍たちではなかったかと思っていた
その功績に感謝して、
神武家系にはそれなりの伝承が伝えられており、
十分ではないが欠史天皇として処遇されたと考えれば、ことが理解しやすい。
また一方の出雲で、これがスサノオとして伝えられてきたのなら、誠に興味深いことである。
31 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 09:54:00.25
孝霊5年に富士山が大噴火、孝霊9年に
肥後国一宮である阿蘇神社が創建されてるからな。
まぁ本来は相当著名な天皇だろう。
32 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 10:05:43.23
肥後国一宮である阿蘇神社
>祭神・健磐龍命は、まさしく阿蘇火山の神であるが、
>この地方を開拓した阿蘇氏の祖神とされるようになったのだろう。
>社伝では、健磐龍命は神武天皇の勅命を受け山城国宇治から下向し、
>先に下向していた日子八井耳(國龍明神)一家と協力し、阿蘇開発を行った。
>阿蘇中岳の東北麓、一宮にある。
巻向横にある江包、大西神社で2月に行われるお綱祭りは、
素戔嗚尊と稲田姫の婚姻祭りだね。
面白いのは巻向にやってきた入船側なのが稲田姫だからな。
34 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/02(日) 10:30:30.31
>開化天皇の実年代も記紀の編年通りである確証がある。
確証より「欠く証」だな。pp
そんなことは確証とやらを出してからモノを言え。
>孝霊天皇=百襲姫(卑弥呼)の比定で特に問題はないからな。
女王(女天皇)に即位してないし、壱与も即位の事実は記紀に0。
その等号は成立しない。試験の等式の「問題」にも使えない。
>>31 >肥後国一宮である阿蘇神社が創建されてるからな。
おかしいな。
孝霊は九州まで掌握してたのかい?
記紀には無くとも海部氏系図には百襲媛=日女命、
神大市媛とある以上は無視出来ないな。
国宝認定された資料を疑うのかな?
>>35 出雲の孝霊山は高良山とも呼ばれていたからな。
筑紫一宮と言えば…
阿蘇大宮司家が、とんでもなく古い家系なのは確かにそうだが。
健磐龍は神武の孫ではなく、地元開拓の火山神だろ。元々は。
父親を神八井耳にして、無理やり神武系統に結びつけた。
景行の時にアソツヒコ、アソツヒメが帰順しているが、
その頃、三世紀半ば頃に大和の影響化に入ったと見るべきだろう。
>>36 ヒミコではなくヤマコかモモコなら決定なのに残念だな。
>>38 >父親を神八井耳にして、無理やり神武系統に結びつけた。
普通に神武が九州から東征したと考えたらいいじゃん。
孝霊山は韓山、瓦山、なので必然的に香春や高良にも繋がる訳だ。
まぁ製鉄民と関連深いのは間違いない。
これは素戔嗚尊がまず新羅に降り立た話にも繋がる訳だよ。
間違えちゃいけないのは、素戔嗚尊が新羅(半島)で生まれたのではなく、
倭から渡った王の話を反映してる事だろう。
伊都津彦は新羅の王でもあるという話からは、素戔嗚尊の子
という事は推測出来るだろうな。
>>40 いや、健磐龍が阿蘇を開拓したのは神武東征以降の話になってるから。
却下w
43 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 11:57:14.00
>>42 >普通に神武が九州から東征したと考えたらいいじゃん
>健磐龍が阿蘇を開拓したのは神武東征以降の話
この二つは、良く整合してる
なぜ、却下なのか?? 気にくわないからか??
阿蘇神社が創建されたのは、神武東征より大分後、六代後だ。
それなのに、神武の孫が、って世代的におかしいだろ。
景行の時に改めて帰順するあたり、阿蘇神は当初より、
というより後に大和に帰順したと読むだろう、普通。
45 :
満州中尉:2014/02/02(日) 12:22:19.80
なぜか阿蘇神の話が続いております(笑)
なぜ阿蘇神について議論しているのか、さっぱり分りま千円(笑)
46 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 12:37:28.57
>>44 >阿蘇神社が創建されたのは、神武東征より大分後、六代後だ。
孝霊達は、実は神武に孝行した取り巻き親衛隊長で、概ね同世代の者たちだったのでは・・、
とオレはいいたいのだ
孝霊5年創建だから、孝霊が田原本(鍵唐古)で
宮を持っていた年の出来事なのだからな。
>>44 >阿蘇神社が創建されたのは、神武東征より大分後、六代後だ。
>それなのに、神武の孫が、って世代的におかしいだろ。
普通に兄弟継承があったからだろう。
皇后で見る限り3代4代5代6代は、ほぼ同世代だ。
系図って、その氏族の由来や血縁関係を物語る大事なものなんだからさw
兄弟相続を父子相続に改変したりとか、有り得ないだろw
>>45 君の頭脳では分からないだろうな。
天皇家が九州から東征したのではなく、
畿内発祥であり、孝霊の時代に吉備や出雲に足係りをもったという孝霊厨がいるのでね。
こちとら天皇は九州からの東征説なので。
51 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 12:58:28.04
たしかに、命と同じくらい系図は大事だ、
しかし記紀を編纂するとき、編者たちがそれをどの程度尊重したか(どのように扱ったか)は別問題
根拠のない話は普通人の脳では分からない。
>兄弟相続を父子相続に改変したりとか、有り得ないだろw
父子相続なんて近代の話だ。
帝紀に名前だけ書かれてて、相関関係は分からないので、
とりあえず無難な父子継承にしたという説は決して少数ではない。
>>53 そのとおりなんだよ。
記紀が編纂された八世紀には、古代大王の名前しか伝わってなくて、
仕方なく縦に繋いだのが欠史八代。
このスレの馬鹿には、何故か兄弟相続だったと分かってしまっているw
ましてや記紀にも書かれていない大王の事跡までw
あぼーん
欠史八代で、なぜ不自然な父子相続が何代も続くのか?
一つの考えとして、本当の系図が分からなくなって、適当に父子相続にした。
もう一つの考え方として、欠史八代の系図が正しく、古くから伝承されてきた。
57 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 13:31:23.96
>「大山」の裾野から頭を出している独立峰を「孝霊山」(コウレイサン:751m)という。
>別名を韓山又は瓦山ともいわれ、朝鮮半島、高麗(こうらい)にまつわる伝説などが残されているという。
>この孝霊山は、第七代天皇・孝霊天皇にまつわる名称だともいわれる、
>この地方に孝霊伝承と云われる一群の伝承群がある。
>孝霊山は、以前は高麗山(韓山)と表され、所在する村の旧名は高麗村であったという。
>その山麓に鎮座する「高杉神社」は孝霊天皇を祀っていて、
>こちらにも「吉備」が発祥とされる「桃太郎伝説」があるらしい。
で、まあ、古代日本の衛生環境、医療技術、平均寿命を見る限り、
父子相続を何代も続けられたとは思えない。
ただ、大王の正当性を物語る系譜が、名前しか分からなくなるという事態も考え難い。
では、どうなるのか?
59 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 13:35:05.57
建前を取り繕うため、
記紀の編者たちがない知恵を絞ったのではないか
東国にも当然歴史はあるからな。
考古学もそれを裏付けてるし。
記紀だけじゃ当然説明出来ないでしょ。
>>57 元々の高麗山が、コウレイという音から、
孝霊山と書かれるようになったんだよな。
で、孝霊天皇の伝承が生まれたという。
62 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 13:38:28.23
>>61 孝霊天皇の周辺にはオオヒルメの伝承もあるのを忘れちゃダメだよ。
63 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 13:41:04.59
>>48 >皇后で見る限り3代4代5代6代は、ほぼ同世代だ。
そうすると神武と孝霊のあいだはずいぶん近くなる・・、なるほど!!
ヒルメとかヒナタとか、農耕民の原始的太陽神信仰で、いくらでも説明できるがな。
わざわざ欠史八代を持ち出す必要はない。
>>64 霊石山の伝承では、オオヒルメ(天照大神)が
出雲遠征の途中、東国からやってきたとある。
農耕や太陽信仰とは無関係なのだが。
66 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 13:48:39.46
オオヒルメって、スサノオの兄弟姉妹の天照大神の別名のことだろ
神武と孝霊の間が縮まれば、さほど荒唐無稽な関係でもなかろ
ヤマトのヒルメ(送迎)山の麓には孝霊天皇の墓があり、
聖徳太子の飢人伝承も存在する片岡山だ。
元々江戸時代の伊勢騒動もここから始まったのを、
すっかり消されたのは何故だろうね?
また百襲媛の墓石、芝山はヒルメ山の横に存在する。
ヒルメ伝承が残る→孝霊伝承は正しい?w
流石に無理やり過ぎるw諦めたかw
孝霊の話なんかもういい。
お腹一杯。
70 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 14:11:28.96
孝霊は百襲媛の父である以上は無視出来ないからな。
現実から目を逸らしちゃダメだよw
71 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 14:15:17.52
>>69 お腹一杯、じゃなくて
キミの頭脳のファイルが満杯で、オーバーフローし始めてるんだろ
後漢霊帝の諡名が孝霊であり、また
倭国乱れた時期に一致している点も無視出来ないからな。
孝霊って、記紀書いた人でさえ、欠史にするくらい存在感のない大王だからな。
孝霊が実在したとしても、唐古鍵の首長くらいの存在。
山陰やら熊本まで遠征したとかは流石に有り得ないだろw
ヒルメがその証拠?w何だそれ、一体?w
神社の社伝やら寺の縁起って、結構いい加減なのが多いし、記紀にも採用されない地方神社の言い伝えを
安易に史実と考える馬鹿には何を言っても無駄かw
銅鐸は北部九州から東海まで広がった訳だからな。
吉備や阿波大和を中心に、出雲に遠征した人物を
具体的に説明出来るのは孝霊しかいないのだよ。
しかも鍵唐古に宮を持ってるしな。
最初、銅鐸が広がったのは、あくまで文化としてだろ。
前期の聞く銅鐸は、デザインも材質も画一的でなく、
各地で色々と作られていた。オウが誕生する以前の共同体の祭りに使用されている。
それが画一性を持ち、同一工房での一括生産、各地への配布が想定出来るのは、
後期の見る銅鐸以降。その中心は畿内、東海。
出雲や九州ではない。
だが東海地方の伝承にも孝霊の名は残るからな。
孝霊五年といえば富士山噴火で有名だし。
それ故に東国から西に人が移動した話もある。
巻向に東海地方の土器がある事の説明ができるだろう。
77 :
満州中尉:2014/02/02(日) 15:12:00.26
ここの連中は父子相続は不自然なものだと思っているらしい。
無知な連中だ。父子相続が一般的で、兄弟相続は例外なのだ。
三韓の歴史を見てもそうなっている。
檀君朝鮮や箕子朝鮮などもみんなそうだ。
学者が欠史八代の父子相続は不自然だとかなんとか唱えるから、
それを真に受けて不自然だと思っているのだろう。
記紀を嘘だ創作だ陰謀だといじくりまわして好き勝手な空想に耽っている。
それでいて俺たちは学がある、原典批判をしていると思っているのだから、
救いようのないアホどもであるw
>>76 東海、関東は、
阿倍とか物部の領域だろう。
何でも孝霊と結びつけたくなる馬鹿なんだな。
79 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 15:31:41.60
江戸時代、富士山といえば孝霊五年がセットなのは事実だからな。
大体阿部や物部なんて三世紀以前からそこにいたのかよw
問題なのは孝霊五年とセットになったのはいつか?なんだよ。
確かに阿倍や物部がどこまで遡れるか?は議論の余地がある。
しかし、それでも阿倍・物部は記紀に採用されてるから。
地方神社にかろうじて残る孝霊伝承と比べるのはどうだろう?w
少なくとも孝霊伝承より古い成立なのは確かだろうな。
>>58 つまり、欠史八代の父子相続は、父子関係擬制であり、
本来血縁関係がない者同士を結びつけた。
いわゆる有力豪族による大王位持ち回りだ。
親子関係の擬制は、今もヤクザ社会に残る。
跡目を継いだ大王は、前大王の子とされた。
欠史八代の系図が分からなくなり、適当に親子関係で結びつけたとかより、余程ましだろう。
記紀も風土記もそんなに時間差ないだろう。
少なくとも百襲を日女命とした文献は古い。
それが隠匿扱いされていた理由は何だろうね。
いやまあ、俺自身は卑弥呼=モモソ姫でも良いと思ってるがな。
ただまあ、孝霊が伯耆を攻めたり、全国各地に伝承を残してる
とかにはついていけないだけでw
記紀は何も伝承の全てを記載した訳じゃない事は当たり前の話。
漏れた話が形を変えて各地に残るのは当たり前だと思うけどね。
欠史の中でも孝霊の伝承が格別に多いのは紛れもない事実だ。
しかも銅鐸の地に多いのもな。
日本書紀を書く時に漏れた話もたくさんあれば、
日本書紀編纂後に、それに合わせて創られた話もたくさんあっただろう。
で、どちらが多く残ったか?と言えば後者。
86 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 17:01:18.41
結局記紀は冊封をしたととられる可能性のある女王を隠したという事だ。
聖徳太子も同じ目的で脚色された人物という事。
日本は付かず離れずの関係でいたかったんだろう。
87 :
満州中尉:2014/02/02(日) 17:24:00.13
何の根拠もないのに、毎日毎日、年がら年中、朝から晩まで、
記紀を嘘だ創作だ陰謀だといじくりまわして遊んでいる馬鹿者ども。
日本人のふりして日本人への嫌がらせ、それが朝鮮人
89 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 17:52:59.88
欠史8代の父子相続は不思議ではない。
単なる「天孫族」の系図だと考えれば問題はなくなる。
天孫族が実権を握ったのは「台与=モモソヒメ」を立ててから。
この後、畿内での実権を掌握し、共立性から世襲制に移行したと考える。
90 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 18:03:42.91
>>87 気になってそれをわざわざ覗きに来るくせにw
>>84 >しかも銅鐸の地に多いのもな。
出雲ではとっくに銅鐸は消え去っているが。
>>89 >台与=モモソヒメ
どこをどう読めば台与=モモソヒメになるのだ?
トトヒか?バカな。
>>90 満州にポイントが入っているかどうか確認しにくるんだよ。
>>86 この議論は前スレでもやってるがーw
朝貢の事実を隠したいなら、倭人伝自体書かないだろ。
倭の五王のように無視すればいい。
そもそも神功紀に書く意味が分からん。
本当に紀の編者が卑弥呼=モモソ姫と考えていたのなら、
倭人伝を挿入するのは崇神紀になる筈。
そもそも崇神紀に、対外的な外交記事なんて皆無だし、
紀の編者が卑弥呼=モモソ姫と考えていたとは思えないのだが。
96 :
日本@名無史さん:2014/02/02(日) 23:51:22.53
そう言われてみればそのとおりだなあ、
無理して倭人伝を引用することもない、やぶ蛇になるだけだものな
もしかして神功皇后のことでは・・、と親切心を出したのかもしれぬ
記紀のヤマト王権の版図拡大記述にはブレがない。
神武の時に奈良盆地で即位。系史八代で何もなく。
崇神で四道将軍で国土を大幅に拡大。
景行で九州。熊襲と国境を接し、戦闘へ→仲哀死亡。
神功、三韓征伐。応神以降、半島から渡来人がやってくるようになる。
記紀を書いた人は、神功の時に漸く、ヤマト王権は半島に乗り出したという認識で。
その頃のことが、倭人伝の邪馬台国として記載されていると考えた。
実際はそれより百年以上前に、ヤマト王権は大陸と交渉してたんだけどね。
>>95 >そもそも神功紀に書く意味が分からん。
本当に紀の編者が卑弥呼=モモソ姫と考えていたのなら、
倭人伝を挿入するのは崇神紀になる筈。
唐向けの記なんだから、倭の女王の記述入れなきゃ変だろ。
約400年前の事だ、どこか適当に入れとけくらいなもんだw
大体ずっと新しい推古天皇の事すら、隋の記述にはないぞ。
聖徳太子像も微妙に異なるしな。
日本側は外交関係の記述は避けたい、曖昧にしたかった
という事、すっとぼけたいだけなのだろう。
99 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 05:43:47.09
>唐向けの記なんだから、倭の女王の記述入れなきゃ変だろ。
>大体ずっと新しい推古天皇の事すら、隋の記述にはないぞ。
矛盾したことを書いている意識もないのかなあ。倭の女王の記述入れなきゃ変だと言うならば
隋史にあることも入れなきゃ変だろ。
>>99 相変わらず理解力のない奴w
日本の独自性を強調したい事を言ってるんだよ。
101 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 08:24:18.76
独自性を強調するならば倭の女王の記述入れなくてもいいだろうが。
102 :
満州溥儀:2014/02/03(月) 09:01:06.24
四国説のパカはほっとけばいいのであるw
相手になるな。
記紀は嘘だ創作だ捏造だと疑うことが頭がいい証拠だと思ってる男なのだから。
中国の文献にあるものが、全く記述が無いのも
変だから注釈に入れたんだろう。
国史を全一致させると付かず離れずの関係にならないよ。
この話は記紀編纂のための資料論になるんだけどな
8世紀に記紀が編纂された時点で、どのような3世紀頃の資料があったのか
口承なのか・・・
>>102 と、いいつつ必ず書き込みを確認してるくせにw
満州、昨日はポイント取れなくて残念だったね。
神武東征を否定するバカどもは、
神武と共に大和入りした大伴氏や久米氏が、
後の時代まで豪族として存在する事をどう考えるのだ。
後まで残った豪族達が都合良くなるように
東征話を作っただけだろw
>>108 アホ。
じゃ何で大伴と久米だけなんだよ。
都合よくなるようにって言うのなら、
物部も巨勢も平群も紀もみんな東征に結びつければいいではないか。
アホ、東征の協力者という形で描かれてるだろ。
>>110 アホ。
物部(ニギハヤヒ)は抵抗勢力だし、
巨勢、平群、紀が東征の協力者という形で描かれてるのか?
どこに?
孝霊厨脂肪www
抵抗勢力は同じ天孫だったと説明してる訳だがw
珍彦は瀬戸内の海人だし、母方は吉野の元々出だ。
それに剣を下ろしたタケミカヅチは本来何処の神なんだ?
結局神武東征なんて実体を伴わない、見かけを繕った話だよ。
>>113 論点そらすな。
神武と共に大和入りした大伴氏や久米氏が、
後の時代まで豪族として存在する事をどう考えるのだ?
>>115 事実なんだし論点は逸らしてないが。
古くからいたように見せかけたかったんじゃないの?
孝霊厨脂肪www
>古くからいたように見せかけたかったんじゃないの?
ならば豪族みんな古くからいて、一緒に東征して、
仲が良かった事にすればいいじゃん。
何で大伴と久米だけなのかな?
119 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 19:24:02.49
大伴・久米が天皇家にでもなったの?
正直何を主張したいのがわからんが?
神武東征を否定するのと何の関係があるんだよw
>>98 >唐向けの記なんだから、倭の女王の記述入れなきゃ変だろ。
>約400年前の事だ、どこか適当に入れとけくらいなもんだw
いや、卑弥呼は活躍した倭の女王みたいだから、と、神功皇后だろうと推定しているよ、明確に。
そもそも、そんないい加減に倭人伝を神功紀に入れたのなら、
倭人伝以外に百済三書も神功紀に引用している理由が分からない。
それと、神功紀にせっかく引用した百済の肖古王は、
実は百年以上後の近肖古王だったということも分かっている。
要は日本書紀の編者は、百済の歴史書を根拠に、
倭人伝の卑弥呼=神功皇后と推定した。
ただまあ、確証がなかったので、注釈にしたという。
つまりは、八世紀時点で、卑弥呼が誰のことかさっぱり分からなくなってた。
少なくとも、モモソ姫=卑弥呼とは考えてなかったようだw
122 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 22:57:46.90
倭人伝の言う卑弥呼・台与の活躍年代である 201〜269年 に、
神功皇后の即位年代をピタリ合わせているわけだから、卑弥呼・台与の実在を承知していたのは明白。
ただし、
神功皇后は卑弥呼・台与と確信してのことだったのか、
他に合致する人物がいないから仕方なく年次を合わせたのか、
卑弥呼に相当するほんものの人物を隠すため神功皇后を身代わりに立てたのか
その真意は、ナゾといえばナゾであるな。
つーか3世紀時点でも日本では卑弥呼が誰のことかさっぱり分からなかったりしてな
>>119 >正直何を主張したいのがわからんが?
神武と共に大和入りした大伴・久米の実在は認めるが神武は認めないというのは変だろ。
大伴・久米の実在を認めのるなら神武も実在したのだよ。
>>121 >つまりは、八世紀時点で、卑弥呼が誰のことかさっぱり分からなくなってた。
少なくとも、モモソ姫=卑弥呼とは考えてなかったようだw
だが、それでは百襲を日女命と記した海部氏の系図を
ずっと隠匿扱いする必要ないんじゃないの?
>>125みたいな馬鹿の思考回路ってどうなってるんだろうなw あっちは断線、こっちは短絡か?
なんだ、まともに反論も出来ないかよw
系図は仮にも国宝指定されている資料だからな。
>>126 思考回路なんていう上等なものじゃないだろ。ただの滅茶苦茶。自分がなぜ馬鹿呼ばわりされているかも分らないだろう。
129 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 01:22:38.74
まあ阿蘇の肥後一宮が孝霊帝の世に創建されたらしいからな。
そりゃ孝霊の娘が卑弥呼じゃ九州説は困るよなw
馬鹿が馬鹿なことを言ったからって誰が困るんだよ? お前はほんとに馬鹿だなwww
本当にバカだ、神武東征なんてあるわけないだろw
132 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 05:36:57.25
九州説は都合の悪い事は無視すりゃいいんだからな。
頭の悪い妄想君には人気あるんだろう。
>>125 持統の時、大三輪氏以下18の有力氏族が墓記を提出させられている。
日本書紀が出来た後、整合性のとれないものは、修正を迫られただろう。
それを警戒して秘匿したと。
日本書紀の編纂の理由の一つが、
各氏族の伝承がバラバラで混乱してるってのが理由だったからな。
>>129 神社の創建年代なんか適当だよw
唐古鍵の時のプレ大和王権が、熊本県まで勢力を伸ばしていたなんて事実はない。
考古学ではそうだし、記紀にさえ書かれてない。
倭人伝に阿蘇山の記述でもあれば別だがw
まぁ畿内説とすれば、モモソ媛かウナビ媛かの二択だと思うけどね。
日女命はやはり卑弥呼と捉えてよい。
>>134 創建の年数は大した問題ではない。
何故孝霊期かが重要な問題な訳だから。
江戸時代まで孝霊といえば富士山が出来た年だからな。
阿蘇神社の件も孝霊期に天変地異があったと見るのが正確だろう。
孝霊は正史では欠史扱い。
都合悪いから欠史にしてるとか苦しい言い訳をしてるが、
阿蘇神社が建てられたり、山が噴火したりの記述のどこが、
記紀に不都合だったというのかw
子=少年 、女=少女
帰国子女=外国から帰ってきた少年少女
日子 ⇔ 日女 主に皇族に使われる
毘古 ⇔ 毘売 豪族に使われる びこと濁る
比古 ⇔ 比売 豪族に使われる ひこと濁らない
彦 ⇔ 姫 一般に使われる男女の雅号
139 :
満州大尉:2014/02/04(火) 17:35:52.12
>日子 ⇔ 日女 主に皇族に使われる
これ間違い。うろ覚えだが倭姫命世記で地方の普通の男女に使われている。
日女は姫(とくに高貴な女性を指すわけでもない)を表わす普通の語。
某氏系図の日女命は卑弥呼だというのは物を知らない人間の言。
とにかくここの連中は文献知識がなさすぎる。
倭姫命世記などは必読文献に属すると思うが、読んでいそうな気配がない。
140 :
日本@名無史さん:2014/02/04(火) 17:52:37.87
>>137 記紀に載せる場合、仮に卑弥呼の父なら都合悪いだろw
神功期に注釈した意味がない。
また孝霊が架空なら、肥後一宮の由緒も大嘘だという事になるからな。
肥後一宮は神武の子孫だよな
神武ってば大和に移り住んだのはいいけど
嫁もってるのに、大和の嫁を正室したもんだから
前妻の子は九州に帰っちまった
国造に任命したってのはあやしいな
仲直りで同盟って程度じゃないかなぁ
思うにだね、古代は母系社会で、天皇は嫁の地に移って宮を建ててることが多い気がする
もし、本州が母系社会で天皇が父系社会であったならどう社会が変遷していくのだろう?って思う
やはり、母系社会と父系社会が競合すると父系社会が勝つんかな
世界的に父系社会が多いのを見ると、天皇が勢力を拡大させた理由は父系社会にあるかもしれない
在チョンが日本人に成り済ましている
出雲国風土記
玉日女命
天甕津日女命
綾門日女命
真玉著玉之邑日女命
八野若日女命
天御梶日女命
どれが卑弥呼?
>>135 >モモソ媛かウナビ媛かの二択だと思うけどね。
どっちも女王でないので却下
>>140 >記紀に載せる場合、仮に卑弥呼の父なら都合悪いだろw
>神功期に注釈した意味がない。
まったく意味不明なんだがwww
孝霊が卑弥呼の父親で、一体全体、何が都合が悪いんだ?
そもそも卑弥呼=神功と思わせるように、紛らわしく神功紀に倭人伝を入れてる時点で、
朝貢の事実は隠せてない。というか、隠す気がないよなw
更に言えば、卑弥呼=モモソ姫と分かっているなら、
崇神紀に倭人伝を挿入すればいいのに、
わざわざ百年以上新しい神功紀に倭人伝を挿入する意味が分からない。
ただ一つの答えは、日本書紀を書いた人間が、卑弥呼を神功皇后と誤認した。
たまたま、卑弥呼の時代と神功皇后の時代に、百済に同じ名前の王がいたから
間違えてしまったんだよ。
>>140 ていうか、一宮、一宮うるさいんだけどw
一宮って、要はその国に国司が赴任して最初に参拝する神社って意味しかないのだが。
そもそも阿蘇神社が、元々朝廷から尊崇されてたか?は甚だ疑問。
九世紀初頭の段階で、阿蘇神社の神階は従四位下に過ぎない。
三位以上が公卿とされた律令では大した位階ではなかった。
まあ確かに、阿蘇神社はその後、トントン拍子に神階が上がり、
最終的に正二位まで成り上がる。
しかしそれには訳があってだなw
丁度この頃、阿蘇山の火山活動が活発になってたようなんだよ。
それを慰撫するために神階が上がったという。
>>146 三国史記、三国遺事の倭の襲来の記録に従えば
十分3世紀の時点での神功皇后の新羅征伐の可能性はありうるんだけどな
とくに、百済については日本の記紀以上の記録があるし
それは当然、新羅が接収した記録、および寺院に伝わっていた記録から
再現したものであるから、新羅統治下で日本の関係者が改竄したとも思われない。
にもかかわらず、記紀の記録と符合するのであれば
信頼性がある程度担保されると思うのだが。
恐らくは応神以降の誰かであるヤマトの大王、
倭の五王は、流石に実在していて。
実在していたとすれば、四世紀末以降が、生存年代だ。
実在性が高いとされる応神の、その母が、百年以上前の人物にされることはないだろう。普通
応神の没年を四世紀末にしているのは干支だろ?
干支だから60年周期
現代の常識で調整するのはいただけないな
伝承なんてのは所詮、物語化されたものなんだから
複数人いたところをまとめたとも言える
そもそも神功皇后も卑弥呼と台与の合算ともとれる
それより大切なのは記紀編纂における編集方針でおそらく他国の事跡と照合させて
編んでいったはずなのだから系図で比定作業するのはかえって全体性を逸しさせているよ
151 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 07:01:00.68
>>146 意味不明なのはお前だろw
問題なけりゃ日女命と記述された海部氏系図が
隠匿扱いされる意味がない。
またモモソは神大市姫とも書かれてるからな。
>>147 だから問題は孝霊期に創建されたとされる理由はなんだ?
という事を指摘している訳だが。
富士山が噴火したとされるのが孝霊5年、
阿蘇神社創建が孝霊9年。
やはり大規模な災害がこの時期にあったと考えるべきだろう。
だから、記紀に採録されてないし、阿蘇神社の適当なでっち上げだろうw
古くから大和王権と関わりがあったことにしたくて、
記紀に載ってる古い大王を適当に持ってきた。
そもそも、社伝を無批判に全部信じるあたりがw
記紀のでっち上げは認めてるのになw
頭、おかしいだろw
>>150 いや、倭の五王で、武=雄略、興=安康、允恭=済あたりまでは確定だし。
允恭のお祖父さんの応神あたりは実在とみるのが妥当。
大王位の継承も、兄弟相続になり、途端にリアルなものになっている。
有力豪族の持ち回りから、一つの血統による大王位の世襲が始まったのだろう。
阿蘇神社の社殿はおかしくない。
神武は実在して九州から東征したから子孫の孝霊が祀っただけ。
たったそれだけ。
神武の東征を認めないならおかしな話になる。
156 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/05(水) 10:10:31.99
>倭の五王で、武=雄略、興=安康、允恭=済あたりまでは確定だし。
右辺と左辺は年代を合わせた研究家学者連は一人もいない。
つまり年代が一致しないから、各双方は別人。
>>154 確定の理由は記紀の年号と系図、それと中国の各国史との整合性が高いからだよ
雄略の実在性は出土物から明らかだから
そこから溯及させて、武から遡って済までが確定できるだろうって話なんだよ
学会の権威を押し付けるより、まず学会の主流がそう判断した理由に留意すべき
だが、そもそも中国との連絡をとっていたのが大和政権中枢かどうかの確証はない。
政権中枢と外交部が分けられている事例は日本史で多く存在する。
朝鮮との連絡役であった宗氏やオランダとの連絡役であった長崎通司たちなど。
それらの多くが、外交部のトップが中央政権と一蓮托生の関係にないために
外交部独自の権益を延命させようとして、二重外交に陥りがちになる。
事実、宗氏も長崎通司たちも外交を円滑化させるために中央を欺くことがあった。
魏志でも伊都国に大陸からの外交官が集まり、そこで彼らを管理させていたと窺える記述がある。
国造の廃止は聖徳太子のころから始まる中央集権化を待たなければならないので
それまで大陸との貿易は従来から国使をやりとりしてきた九州の国に委任させていた可能性は
効率性などから十分ありうる。よって、媒介になっていた九州外交部の都合で
日本と中国の歴史書の齟齬が生じた可能性もまたありうることになる。
そもそも、記紀の記述が神話的になるのは独自の建国史をもつ日本の各国家群の言い分を立てながら
それらの伝承を外国との歴史と照合させながら中国式の歴史編纂方法によって記述しようとしたところにもある。
だから、系図などに重きを置くより、外国との関係であった主な事跡を負う方が合理的だと思う。
158 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/05(水) 10:47:59.78
>>154 1〜2年えの年代の不合は許容範囲でいいが、悉くちぐはぐで帯に短し
襷に長しで、まぁ合わないね。
これは右辺左辺の各人が各々別人だということだね。
天皇は畿内の人物だが、五王は九州の別の人物だということになるのだ。
朝鮮の歴史で倭の襲来が目立って多くなってくる時期が3世紀初頭から。
ある種の画期であったと思われる。
仲哀が韓征伐の神託に驚き、これを拒否して、夭折したことを考えると
それまで半島への倭の襲来がほとんどなかったことを示しているのではなかろうか。
よって神功皇后の事跡がこの時期に当てられると記紀編纂者が考えてもおかしくはない。
>>158 さすがに武の上奏文の内容から
武が雄略に比定できることは否定できないよ
161 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 11:33:56.58
>>153 根本的にお前が勘違いしてる。
俺は記紀が別にでっちあげだとは言ってないぞ。
元ネタが存在している点や、欠史の一部は神話期に流用されている点等
つまり情報の取捨選択してると言ってるだけだからな。
大体阿蘇神社の創建をでっちあげで済ませる気がしれないわw
中国各国史の倭に関する記述は、邪馬台国についての後は倭の五王についてになるが
これは倭が混乱していて中国に使者を送ることができなかったことによるものではないと思う。
魏が晋に交代するのが250年前後であり、晋が混乱し東遷するのが八王の乱の300年前後以降である。
いわゆる五胡十六国への序章であるが、
淵源は北からの異民族の侵入にあり、後漢のころから見られる漢人の異民族の軍事力利用に端を発する。
よって晋のころには異民族は漢人後継国の中にすでに十分浸透しており、
内乱が起こることよって漢人の抑制のタガが外れたことで、はじめて異民族の独立が目に見える形で
現れてきたと言うべきであると思う。のちに百済を構成する民族が遼西にいた理由もこうした異民族の南下の流れの
中に位置づけられるもので、彼らが西晋崩壊後に急遽南下し、そこを掠め取ったわけではないと思う
西晋の崩壊によって日本はにわかに朝貢外交(国家間外交)ができなくなったのであり、
貿易はあったかもしれないが相互の国家的な統制の中でこれを行うことはできなくなった。
これが北史中にも倭についての記述が残らなくなった理由ではないだろうか。
華北は燕から前秦、肥水の戦いでこれがすぐに崩壊し、北斉、北魏とめまぐるしく変わっていくため
安定せず、南朝との交易についても百済が国家として安定した後、彼らを通じてはじまるのであり
それまでは国家間外交が不可能であったと思われる。
163 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/05(水) 13:10:25.89
>>160 否定出来るね。
一文字名前の字が合ったとの内容だけなら、同一人物になるとはいえない。
もしそうなら、神武にも武があるわけだから、貴方の言い分では武王が
二人いたような方向に行く。どうころんでも一文字の一致のみで武王が
雄略天皇とは言いがたい。
ワカタケルは西は九州、東は関東にその足跡を残している
同時期、列島にそれほど強大な国家が存在している中で
後顧の憂いなく北部九州の小国家が朝鮮半島に進出するとは思えない
また、百済新羅を押さえて、高句麗と対峙するには
せめて同程度の支配領域が存在しないとその説得力がない
しかして地図を見つめれば、半島南部は九州一島に等しい面積しかない
とすれば、武が雄略に比定されてしかるべきだと思うのだが?
165 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/05(水) 14:58:11.74
>>164 >後顧の憂いなく北部九州の小国家が朝鮮半島に進出するとは思えない
これは御都合的思えないの主張であり、逆に〜思えるという考えを完全に
排除できたとはいえない。
それ以前に九州所在の女王国の卑弥呼もいたわけで、彼女の国が後代の雄略の支配域
より可也小さかったと観るのが正の公算が大きいわけで、その考えは決着には
ならない。
五王当時確かに雄略の支配は九州に及んでいたがそれは九州の完全制覇を
してたものではなく彼の九州支配はその一部あるいは暫定的不充分な状況
にあり、まだまだ別人支配の地域が九州に残存していたと観て可である。
現状、邪馬台国の比定地についての論争が決着を見たことはない
むしろ学会では畿内説が有力である。
あまつさえ畿内説スレで論拠なく九州説を前提に論陣をはるなぞあまりに不躾ではなかろうか
まあ、それはいいか・・・
前方後円墳の全国分布からして畿内を起点としてこれが全国に広がったのは疑いようがなく
ワカタケルが活躍する5世紀に九州にそれ存在するのは当然として朝鮮半島にも存在している
とすれば、北部九州勢力はどう見積もってもこの時期に独立性を失うあるいは消滅していなければならず
どう見ても兵力を朝鮮半島に送って対外外交に腐心している場合ではない。
雄略の九州支配が不十分であったとは思われない
167 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/05(水) 16:48:39.07
五王は邪馬台国人なのか?pu
ヤマトの国号を継承していることからその可能性は高い
九州は前方後円墳よりでかい円墳が
あったりするからね。
いち早く導入した豪族もいれば、
古くからのしきたりのままの豪族も
いたということだろう。
支配というほどの強制力はなさそう。
170 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 17:14:14.91
ごくふつうに、この流れでよかろ
九州・邪馬臺 → 畿内・邪靡堆 → 日本・大和国
大和連合国家における地方国家群に中央がどれほどの強制力を有していたかはともかく
少なくとも、畿内が中心として意識されていたとは言える。
そして、朝鮮半島への軍事行動に出ていた倭国の国力を考えると
とても北部九州だけでは説明がつかないから、雄略が五王の武である可能性は限りなく高い。
172 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/05(水) 17:15:24.94
>>168 年代が双方合わないという現実は、五王と天皇とは別人だな。
まあ、考古学上、それを完全に否定することはできないだろうなw
だが、より蓋然性の高い歴史を考察していくなら大和政権中の人物と考える方が
より合理的に説明できる。よって天皇に比定するのが主流説になると思われ
174 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 17:36:26.75
九州と畿内の類似地名は九州→畿内な。
175 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 17:39:39.54
書紀は、五王と天皇の年代を完全に一致させてはまずいと考えたんだよ。
176 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 18:03:38.35
あいまいは最良の決着・・
古事記の干支だけど、明らかに正確な年代を記していないのに、なんでこういう情報は書いたのだろうか?
伝承が残っていたのか、作ったのか
しかし、作るにしてはあまりに蛇足な記述の流れだと思う、きっと残っていたと思われ
ワカタケルの剣にも年号はないが干支は書かれている
干支は十干と十二支の組み合わせで表現されるので最小公倍数である60年周期で一回りしてゆく
誰それにいつ物を贈ったとか、こういう出来事があったとか
身近な、生きている人の間だけで過去未来の年時を言及するのにはさして問題が起こらない方法だろう。
だが、問題がある。
誰が、他国の暦との整合性を理解して干支を使っていたのだろうか?
干支の始めの年、甲子の基準は輸入したのか、自国で決めたのか
また、誰が暦を管理し、その年の干支を決定していったのだろうか?
当然政権中の人物であろうが漢字の知識が必要であるから渡来人の助けを借りているはずだ
だが、それは正確だったか?
また、記紀に従えば、ヤマト政権には史官がいなかったであろうから
文書によって管理せず、干支の伝承は口承の他、単純な形、刻んだり、縄などで記憶を助けていたのだろうが
その伝承の中で誤りはおこらなかったか?
現代人が干支から年数を特定するには種々の問題が起こると思われるのだがどうなのだろう。
日本の文化の自立性を表すために記紀の神武天皇即位が甲子になるように
記紀がつくられていることは窺える。
そうしなければ他国の暦に従属したという感覚は否定できなくなるだろうから。
たまたまいっしょという体にするために、神武の即位年を甲子に合わせたと言うのが
自然な評価と思われる。
また、漢字の銘文はまったく渡来人関係者にまかせて書かれたものなのか
それとも、特権階級の間では干支は生活の一部になっていて
わりと自分たちのものとしていたのだろうか?そこの考察も不明なところだ
179 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/05(水) 18:51:38.17
>>177 当時は2倍年暦等の行使を行っていたので当時は1年が365日の暦法では
なく1年180日等の暦の存在のため年代が古くなって見えるだけで、実年代は
もっと後代に位置する。
つまり年代はかなり正確であると観てよい。
180 :
済州島出身満州:2014/02/05(水) 18:56:37.17
つまり太国はかなりパカであると観てよい(爆
>>179 倍暦は結構だが平均寿命30代後半あたりで計算してね。
182 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/05(水) 19:23:14.54
つまり根具はかなりのデ○パであると観てよい(爆
183 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 19:30:11.34
新説・日本三国志8の1【古代の日本】
九州北部から畿内までの範囲に広がる複数の国の集合体=倭=「葦原中津国」
西の九州北部の勢力の「狗奴国」は、地の利を生かした大陸との交易で繁栄し、後漢の光武帝から「漢委奴國王」の金印を授かって
軍事力的にも、経済力的にも、倭=「葦原中津国」の国力の主体をしめていた
一方、東の畿内の勢力の「邪馬台国」は、内陸国であるが故に海路の確保が出来ないため、大陸との交易は少なかったものの
豊かさでは、西の九州北部の勢力の「狗奴国」には及ばないまでも、負けない國であった
しかし、西の「狗奴国」と、東の「邪馬台国」の間には、広大な荒れ地が広がる貧しい地域になっており、
そのことによりこの2大国は軍事的にも経済的にも隔絶され、衝突することはなく、倭=「葦原中津国」のなかで各々が繁栄を極めていた
新説・日本三国志8の2【新たな新興国・出雲の誕生】
ある時、東の畿内の勢力の邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)の弟のスサノオが、政争に敗れて畿内を追われ、
敵国である西の九州北部の勢力の狗奴国との国境の、荒涼とした出雲にたどり着く
そして盗賊の征伐と引き替えに地元の豪族の娘・稲田姫を嫁にして新たな国造りを始め、稲田姫との間に須世理姫が産まれる
須世理姫はその後、地元の豪族の大国主命と結婚し、スサノオから出雲を託された大国主命は、九州北部・狗奴国から来たスクナビコナの援助を受けて、
新興国・出雲を、北九州狗奴国・畿内邪馬台国と並ぶ大国にまで成長させる
倭=「葦原中津国」は、西の九州北部の勢力の【狗奴国】と、東の畿内の勢力の【邪馬台国】、その中間に位置する【出雲】の3大勢力となり
軍事的、経済的に隔絶されていた【狗奴国】と【邪馬台国】は、中間に【出雲】が出来たことにより、安全保障の上では隣接してしまうようになる
184 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 19:31:01.07
新説・日本三国志8の3【倭国争乱と出雲の国譲り】
そこで畿内勢力の邪馬台国は、九州北部・狗奴国のスクナビコナの庇護の元、大国にまで成長した出雲を、
もともとはアマテラス(=卑弥呼)の弟のスサノオか造った国として北九州・狗奴国から引き離し、手に入れようとし始め、
出雲に、アマテラス(=卑弥呼)の息子であるアメノホヒを派遣して、スサノオの娘婿である大国主命に、出雲を禅譲することを求める
しかし、父から相談を受けた長男のコトシロヌシは、祖父であるスサノオが、アマテラス(=卑弥呼)の弟であることから同意したモノの、
次男のタケミナカタは、北九州・狗奴国勢力とともに邪馬台国に果敢に抵抗し、「葦原中津国」=日本は新興国・出雲を巡って争乱状態となる。
次男のタケミナカタと北九州・狗奴国勢力の連合軍は善戦するが、結局、畿内の邪馬台国勢力に破れ、大国主命は、
戦いに敗れた次男のタケミナカタの延命と出雲大社の建設を条件に、出雲を邪馬台国に委譲することを認める
邪馬台国はアマテラス(=卑弥呼)の孫のニニギを出雲に派遣して、北九州・狗奴国勢力とともに武力抵抗した次男タケミナカタを、
北九州から東に遠く離れた諏訪の地に幽閉し、出雲に残した大国主命の長男コトシロヌシを傀儡として、
倭国に、「漢委奴國王」の北九州・狗奴国勢力に対抗しうる【「畿内・邪馬台国&出雲」連合国 】が誕生する
185 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 19:36:45.55
新説・日本三国志8の4【大陸の政変と邪馬台国の台頭】
出雲を併合し、北九州・狗奴国勢力を凌駕しうる大国となった畿内の邪馬台国は、伊都國(出雲)に天にも届くほどの大社を建設して
一大率という派遣官を在駐させ、末廬国(松江)伊都國(出雲)に新しい港を開いて基点として、大陸との交易の海路を開き
独自に大陸との交流を始め、さらなる一大勢力に発展する
ちょうどそのころ大陸では、北九州・狗奴国勢力に「漢委奴國王」の金印を授けた後漢が、魏に権力を禅譲して滅び
後漢との関係が深かった北九州・狗奴国勢力に、さらなる激震が走る
内外に権力掌握を示し、権力移行を実感させ、服従させるため、魏はさっそく、後漢が定めたことをいくつか改変することを決定し、
それに伴い倭国の王も、後漢が定めた北九州・狗奴国勢力から、【「畿内・邪馬台国&出雲」連合国 】に変更することが決定され
魏は、邪馬台国のアマテラス(=卑弥呼)に「親魏倭王」の金印を授けて、帯方郡からの魏の役人の常駐先も、北九州から、
倭国の新港である邪馬台国の伊都國(出雲)に変更される
こうして邪馬台国のアマテラス(=卑弥呼)は、「漢委奴國王」の北九州・狗奴国勢力にかわり、「親魏倭王」として倭国の王となり
畿内邪馬台国は狗奴国勢力の北九州は利用出来なかったので、朝鮮半島−対馬−壱岐−出雲−奈良のルートを使用して
大陸との交易をほぼ独占することに成功した
魏(220年 - 265年)の『魏志』倭人伝、対馬國−一大国−末廬国−伊都国−奴国−不弥国−投馬国を経て邪馬壱國
186 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 19:37:33.49
新説・日本三国志8の5【アマテラス(=卑弥呼)の死と後継者・勢力争い(海幸彦と山幸彦)】
一方、出雲を巡る闘いで邪馬台国に敗れ、倭国の王の座も、大陸交易の利権も失った北九州・狗奴国勢力は、
それでも権力と大陸との交易利権の奪還の機会を虎視眈々とねらい続け、アマテラス(=卑弥呼)の死という邪馬台国の混乱に乗じてついに、
諏訪に流された、かつての盟友タケミナカタの子孫の男王を、次の【「畿内・邪馬台国&出雲」連合国 】の国王に立てようと画策して動き出す
しかし、諏訪に流罪になってたタケミナカタの子孫である男王の正統制のなさを提唱することで、混乱状態からかろうじて
アマテラス(=卑弥呼)の宗女、壱与を女王とした邪馬台国勢は、それまで出雲を治めていた傀儡のコトシロヌシの子を伊都國(出雲)の王にして、
北九州・狗奴国勢力の破壊工作の阻止を図り、出雲で再び、畿内・邪馬台国勢力と北九州・狗奴国勢力間の緊張が高まる
それにより、出雲に派遣されていたニニギの二人の子、海幸彦と山幸彦も、
海幸彦が畿内邪馬台国・出雲コトシロヌシ派、山幸彦が北九州狗奴国・諏訪タケミナカタ派、に分断され、
伊都國(出雲)内でのニニギの二人の子の争いは次第に、
中間干渉地域である出雲を巡る、畿内・邪馬台国勢力と北九州・狗奴国勢力の代理戦争の様相を呈していく
187 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 19:38:45.51
新説・日本三国志8の6【混乱の収拾と後継者勢力の確定(魏の介入)】
出雲後継の座をめぐり、畿内邪馬台国・出雲コトシロヌシ派と北九州狗奴国・諏訪タケミナカタ派に分かれ牽制し合っていた
ニニギの二人の子のうち、戦力で劣勢であった北九州狗奴国・諏訪タケミナカタ派の山幸彦が、北九州狗奴国の手引きの元に、
狗奴国の「漢委奴國王」の金印を携えて、伊都國(出雲)ではなく、かつての大陸との窓口の北九州の竹斯国(筑紫)から、
密かに海神=魏に赴いて事態を告げようとするが、金印は北九州から一大国(壱岐)に脱出する際の戦闘によって行方知れずになってしまう
一方、倭国からの使者が、連絡もなく誰にも知られずに、帯方郡にこつ然と現れたことに、魏はとても驚くが、
魏の国内の権力掌握も為し得た今、一大国(壱岐)から遠い不便な伊都國(出雲)を倭の基点とするよりも、
一大国(壱岐)に近い便利な北九州の竹斯国(筑紫)を基点とするほうが有利と考え直した魏は、
倭国に張政を派遣し、それまでとは一転して檄文で畿内邪馬台国・出雲コトシロヌシ勢の壱与を告諭して、北九州狗奴国擁護の立場に立ち
畿内邪馬台国・出雲コトシロヌシ勢力による北九州狗奴国・諏訪タケミナカタ勢力に対しての、一方的な迫害とも言える攻撃は終止符をうつ
結果、畿内邪馬台国勢に滅亡・消滅させられそうになっていた北九州狗奴国勢は、今度は魏の擁護の元、倭国に存続することとなり、
それにより北九州・狗奴国勢は竹斯国(筑紫)を、大陸との交易の基点として復活させ、魏の要人の娘と婚姻関係を結ぶなど、
畿内・邪馬台国勢に追いつくように、それまでの後漢色を廃して、どんどん魏との関係が密になっていき
密かに海神=魏に赴いて事態を告げた山幸彦も、畿内・邪馬台国勢に戻らず、北九州・狗奴国の日向に高千穂の宮を立てて、日向に留まった
188 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 19:57:39.56
>>174 逆だよ、成敗した土地から地名を貰うわけ無いだろw
189 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 20:03:13.30
前漢鏡は出ないわ銅鐸までも希薄だわの奈良盆地のは畿内説のでも論外
卑弥呼は前漢鏡をもらってたのかな?
191 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 20:25:46.56
新説・日本三国志8の7【北九州・狗奴国勢の権力の拡大と出雲の衰退と邪馬台国の軍事クーデター(神武東征)】
魏の後ろ盾を背景に、北九州・狗奴国勢の権力が拡大していく中、魏との交易の中心も次第に必然的に、
一大国(壱岐)から遠い伊都國(出雲)から、一大国(壱岐)に近い北九州の竹斯国(筑紫)に戻りはじめ、
それに危機感を覚えた出雲は、巻き返しを図りたい畿内・邪馬台国勢と共に、北九州・狗奴国勢を牽制しようとする
出雲の申し出を受けた畿内・邪馬台国勢は、「親魏倭王」の名にかけて、今度こそ北九州・狗奴国勢力の討伐に乗り出すが、狗奴国勢は、
畿内・邪馬台国勢に戻らず、北九州・狗奴国の日向に高千穂の宮を立てて、日向に留まっていた、
魏とも深い関係をもつ邪馬台国の王族の山幸彦の孫のカムヤマトイワレヒコを担ぎ出し、魏による密かな援軍も得て、
カムヤマトイワレヒコに邪馬台国に対する軍事クーデターを起させて、
畿内の邪馬台国は逆に、邪馬台国の王族の山幸彦の孫であるカムヤマトイワレヒコ率いる北九州・狗奴国勢に、
武力制圧されてしまうことになる
畿内・邪馬台国を、まんまと武力制圧した北九州・狗奴国勢は、好機とばかりに邪馬台国を解体一新して、
新しく大和国と改編することに決め、武力制圧の将軍であったカムヤマトイワレヒコを、
その新しい国の新しい王『天皇』として駐留させて、
北九州・狗奴国勢は、新興国・出雲と旧敵・畿内邪馬台国を完全に押さえ込むことに成功する
192 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 20:27:30.32
新説・日本三国志8の8【北九州・狗奴国と新しい大和国・天皇の蜜月の終了と覇権の確定(タギシミミの反逆)】
しかし、初代の天皇カムヤマトイワレヒコの死後、次の天皇を誰にするかで、もともとは邪馬台国の流れを汲む新しい大和国・天皇勢は
初代天皇が軍事クーデターを成功させてから、大和国で出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミを推し、
北九州・狗奴国勢は、初代天皇と一緒に軍事クーデターを起した長男の、初代天皇が北九州狗奴国日向の高千穂の宮にいたときに
日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘「アヒラツヒメ」との間に作った子タギシミミを推したことで意見が分かれ、両者の蜜月は終了する。
そこに再び、捲土重来を図る出雲の残党が加わり、事態は今度は、大和国内での
北九州狗奴国勢 vs【「 畿内の新しい大和・天皇勢と出雲の残党」連合 】の戦いの様相を呈していくが
結局
【「 畿内の新しい大和・天皇勢と出雲の残党」連合 】が推していた、
初代天皇が東征後大和国で出雲のコトシロヌシの娘との間に作った子カムヌナカワミミが、
北九州狗奴国勢が推していた、初代天皇が北九州狗奴国にいたときに狗奴国の豪族の娘との間に作った子タギシミミに勝利して、
妾の子である弟が正室の子である長男を殺害排除する・・かたちで「大和」の次の天皇「綏靖天皇」となる
193 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 20:32:42.59
新説・日本三国志【外伝4−1・その後の日本】
しかし混乱はおさまらず、それ以降『天皇』は、
出雲・邪馬台国の流れを汲む妾系統と、魏を後ろ盾に持つ北九州狗奴国の流れを汲む正室系統の間での
血なまぐさい政争が8代続き、
その後『天皇』が、出雲・邪馬台国の流れを汲む妾系統から、恒常的に代々輩出されていくようになって、やっと安定する(欠史8代)
が、「大和国」は「親魏倭王」でありながらも次第に、大陸の影響を外夷として嫌って「日本国」へと変貌する
一方、北九州狗奴国はその間、
「魏」が想像以上の早さで衰退して「晋」となった後も、
畿内邪馬台国・初期大和王権勢力下、あるいは国力を増していた新羅勢力下の
対馬・壱岐を使用せずに、大陸と行き来する
朝鮮半島−五島列島(一支国)の直通ルートを開拓し、
畿内邪馬台国の王と偽り「倭国」として、大陸の代々の南朝と独自の交流を続け、
それはその後「宋」「斉」「梁」と、大陸の南朝が消滅するまで続く(倭の五王)
梁(502年 - 557年)の『梁書』倭人伝では、一支国−末廬国−伊都国−奴国−不弥国−投馬国を経て邪馬臺国
194 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 21:10:26.03
新説・日本三国志【外伝4−2・大陸の統一と日本の統一】
しかし「梁」が滅亡し、大陸が北朝の「隋」に統一され、南朝が消滅すると、南朝と関係の深かった北九州狗奴国の国力も衰退して、
北九州狗奴国はついに、大和の「日本国」に併合される(ヤマトタケルの西征)
そして「倭国」は、「日本国」という統一国家として大和から北九州を利用して、第33代推古天皇の時代に
朝鮮半島帯方郡(百済)−済州島−対馬−五島列島−筑紫−大阪−奈良のルートをたどり、
607年に遣隋使・小野妹子を大陸を統一した北朝「隋」に送ることになるが、
『隋書』に「竹斯国(筑紫)より以東は、いずれも倭に附庸している。」と書かれているとおり、
562年に任那日本府が新羅によって滅ばされて以降、隋は対馬を「倭」とは認めていない。
隋(581年 - 618年)の『隋書』倭国伝では、百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国−竹斯国−秦王国−十余国を経て難波津−奈良
その後、日本が再び対馬を占領下におくのは、645年の大化改新前後の「唐」の時代となるが、
遣唐使も当初は対馬を使用していたモノの
660年、伝統的な友好国だった百済が唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)に攻められて滅び
663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、
676年の唐・新羅戦争で新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため、
日本は対馬を使用しての遣唐使派遣が出来なくなり、
今度は五島列島(旧・一支国)から東シナ海を横断し蘇州に渡り、半島を経由すること無く、直接大陸と行き来することとなる
195 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/05(水) 21:40:27.15
>>181 エジプトのラメシス2世も半島の長寿王などは90歳以上生存した。
日本の天皇だけ30歳後半あたりの寿命と決めこむのは間違いの元。
朝廷には全国かた朝貢があるわけで、けっこう一般の民と違いうまいもの
を食えるから、長寿があってもおかしくはない。
196 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/05(水) 21:43:00.05
>>195 訂正
× 全国かた朝貢が
○ 全国から朝貢が
197 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 21:46:49.34
新説・日本三国志【外伝4−3・壬申の乱と日本書紀の編纂】
第38代天智天皇の死後、天皇自ら後継にした太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が
地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし、朝廷軍を打ち破って、無理やり天皇の座に就いてしまうという、
初代神武の軍事クーデターとそっくりの、国を2分する大内乱戦争が再び起きてしまう(壬申の乱)
勝利した皇弟・大海人皇子は第40代天武天皇に即位後、その内乱の正当性を固めるため、日本国の正史として「日本書紀」の編纂を命じ、
まだ自身の文字を持たなかった当時の日本は、中国の学者を雇用して、「中国語による漢文」で「日本書紀」を書き始め
さらに第42代文武天皇が大宝律令を制定し、唐を模倣した官僚制への国内改革を急速に推し進め、
都も、唐の長安にそっくりの、それまでの藤原京より、もっと中国式の平城京への遷都が計画される
しかし、文武天皇は遷都の前に死去してしまい、次に天皇になった母の第43代元明天皇は、
中国式の平城京への遷都に猛反対し、藤原京に留まることを強く希望するが
それにもかかわらず、唐に追いつき追い越せの王公大臣達は天皇の言うことを聞かずに、遷都は強行されてしまう
198 :
日本@名無史さん:2014/02/05(水) 21:49:17.05
新説・日本三国志【外伝4−4・古事記の編纂と日本書紀の書き換え】
しぶしぶ藤原京から平城京へ移った天皇は、国内の極度の唐かぶれをさらに嫌うようになり、
「中国語による漢文」ではなく日本独自の「やまと言葉」を用いた古事記の編纂を命じて、太朝臣安萬侶が命を受け執筆を開始するが
天皇は、古事記が「中国語による漢文」ではなく「やまと言葉」で綴られることに大変執着したため、
太朝臣安萬侶は当て字を用いるなどをして、「中国語による漢文」の日本書紀を「やまと言葉」に変えて表現することに大変苦労する
しかし太朝臣安萬侶はその都度、元明天皇に伺いをたてながら筆を進め、その際に元明天皇の命により、
・先祖の邪馬台国と、敵対する北九州狗奴国が、中国に任命される日本の王様の座を巡って闘ってた
・大和朝廷の祖である神武は、先祖は邪馬台国・大和の出なのに、敵の北九州狗奴国と手を組んで邪馬台国を乗っ取って、大和朝廷を興した
・そのあとの天皇は、長男である正室の子が、弟である妾の子に殺されて、妾の家系が代々天皇になってしまった
という話は
・壬申の乱・・みたいなことは、もう2度と起きて貰っちゃ困る
・官僚が、中国のやってることばっかありがたがって、天皇の意向を無視するみたいなことも、もう2度と起きて貰っちゃ困る
という理由より全て「天孫降臨神話」に置き換えられて、
中国の学者によって「中国語による漢文」で書かれていた日本書紀の第一巻から第十三巻第20代安康天皇までの話もそれに合わせて
日本の学者によって「漢文に似たようなモノ」に書き換えられてしまうこととなる
そうして古事記は、後から執筆が開始されたモノのいち早く、712年に完成して献上され、
日本書紀は、先に執筆が開始されていたモノの、古事記に遅れること8年後の、720年に全三十巻すべてが完成して献上され、
日本の記紀からは、邪馬台国や卑弥呼などの記述も、大陸との関係も、北九州狗奴国の流れを汲む話も、姿を消すことになった
モモソヒメが大市に葬られたらしいが
大市の地が巻向であることはどう調べられたの?
>>199 箸墓所在地が旧地名城上郡於保以知郡だから。
また百襲媛は讃岐の田村神社の祭神だが、
その由緒に百襲媛の御墓は大和国大市村にあると記述されている。
201 :
日本@名無史さん:2014/02/06(木) 01:01:24.55
>>194新説・日本三国志【外伝4−2・大陸の統一と日本の統一】の補記:その1
北九州狗奴国はついに、大和の「日本国」に併合される(ヤマトタケルの西征)のち
日本書紀によれば
西暦562年、任那日本府が新羅によって滅ばされた。
これを回復するための「征討軍」が推古朝に3度、計画されている
1度目600年は新羅へ侵攻し、倭国に朝貢を約させ、
勢いに任せて日本は、新羅の親玉の隋にまで使者を派遣
しかし、北朝の隋にとって
倭国は、「魏」「晋」「宋」「斉」「梁」と、代々南朝に朝献していた国であり
新羅は、建国以来いち早く、毎年毎年「隋」に朝献してくる属国
当然、倭国からの使者は、改めるよう訓令とともに、けんもほろろに追い返され
倭国が引き上げると再び、新羅は任那に侵攻した
2度目は602年、聖徳太子の弟来目皇子が新羅征討将軍として軍2万5千を授けられ
筑紫国に進軍するモノの、対馬に渡れず、新羅への進軍を延期
3度目は603年、来目皇子の異母兄当麻皇子(たいまのみこ)が新羅征討将軍に任命されるも
播磨で朝廷に帰還し、計画は頓挫
・・・で、607年の小野妹子
隋は、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな」と一度は激怒したモノの、
対馬に対する倭国と新羅との調整役をかねて、裴世清らを倭国に派遣する
202 :
日本@名無史さん:2014/02/06(木) 01:02:53.25
>>194新説・日本三国志【外伝4−2・大陸の統一と日本の統一】の補記:その2
その後日本は、608年、610年、614年と、3回「対馬を使わせて貰って」隋に遣隋使を送るが
618年に隋が滅んで、619年に唐になり、630年に始めて「対馬を使わせて貰って」遣唐使を派遣
その後、642年頃に危機感を募らせた高句麗が緊急軍事態勢を敷き、百済と連携(麗済同盟)して事態は急変、
新羅は国際的に孤立し、それにより日本は対馬を奪還、
645年の大化改新ののち律令制が施行されると、対馬は西海道に属する令制国すなわち対馬国として現在の厳原(いづはら)に国府を置き、
日本は対馬を大宰府の管轄下に入れて、653年から大手を振って対馬から遣唐使を派遣するようになる
しかし
660年、伝統的な友好国だった百済が唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)に攻められて滅び
663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、
676年の唐・新羅戦争で新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため、
日本は五島列島−対馬ー朝鮮半島を使用しての遣唐使派遣が出来なくなり、大陸と行き来は対馬−半島を経由すること無く、
五島列島(旧・一支国)から東シナ海を横断し直接、蘇州に渡ることとなる
大陸とのルートから外された対馬には防人と烽が置かれ、山城も築かれて外寇の防備としたが、その後も
8世紀から9世紀にかけての新羅の入寇、
11世紀の刀伊の入寇、
13世紀の元寇
15世紀の李氏朝鮮による応永の外寇
などしばしば戦火をこうむった。
203 :
日本@名無史さん:2014/02/06(木) 10:02:13.54
>>161 >元ネタが存在している点や、欠史の一部は神話期に流用されている点等
>つまり情報の取捨選択してると言ってるだけだからな。
阿蘇神社の社伝も、元ネタ(国土開発神、健磐龍命伝承)が存在していて、
記紀から孝霊天皇を拝借して創建年代を加飾したんだよ。
つまりは情報の取捨選択w
>>203 取捨選択する対象には当然重要な人物を選ぶという事だよw
後年何でも聖徳太子に関連付けたがる事と同じ事だろう。
偶然だが大和の太子道は孝霊と縁のある場所ばかり
結んでるのは意味あるのかもね。
>>200 サンクス
日本書紀の大市は和名抄(10世紀)から大和と特定したのか
ただ大市郷だけどな
田村神社の由緒は口伝なのかな
よくわからないな
日本書紀にあるモモソヒメは
古墳に葬られたのかな
神大市媛というと、素戔嗚尊の后という事になるからな。
大市は大内、越智からの転化という見方もある、やはり蛇神姫か。
207 :
日本@名無史さん:2014/02/06(木) 20:00:04.79
もはや畿内説も妄想ばかりだな。喜べ畿内説ファン、巻向で新しい建物跡が発
見されたらしいぞ。これを基にもっと学術的なカキコをやれよ。
畿内説で本当に重要なのは巻向遺跡ではないからな。
209 :
日本@名無史さん:2014/02/06(木) 23:31:23.61
>>204 >取捨選択する対象には当然重要な人物を選ぶという事だよw
第七代天皇が重要でなかった、というのもなw
まあ欠史の大王だし、自由に伝承が創れただけだと思うが。
伯耆の場合は、隣国の吉備に吉備津彦伝承があって、その父親が隣国に来てた
とか造り易かったのかもしれない。
隣国の強国と腹違いの兄弟が始祖、とか、いかにも有りがちな話だw
>>210 いい加減さすがに苦しいぞw
では阿蘇神社の件や東国の富士山、近江の琵琶湖に関する説明は出来るかな?
勿論これらが史実だとは言わないが、何故孝霊なんだろうね?
適当で選ぶなら欠史で他の天皇でもいいはずだが。
見苦しいのはどっちだかw
当たり前の話だがw富士山と琵琶湖が同時に出来たとかはない。
琵琶湖が現在の形になったのは新しく見積もっても四十万年前、
富士山のそれは一万年前だ。
つまりは、琵琶湖と富士山が同時に出来たとかは、昔話、御伽噺の類。
御伽噺を根拠に人物の実在を語るとか、頭がおかしいと言われても仕方がないだろうw
そもそもの御伽噺は、ダイダラボッチが、穴を掘って土を積み上げた。
その穴が琵琶湖になり、積み上げた土が富士山になったという
プリミティブな、国土形成神話なんだよ。
本当にあった天変地異とか馬鹿か?とw
御伽噺だった伝承にリアリティを持たせるために、
孝霊天皇何年、とかもっともらしい年代を差し込んで、
神社の社伝とかは創られていく。
そもそも、富士山が孝霊五年とかの記述は、
最古でも十四世紀の職原抄なんだよな。
果たして孝霊五年とかの伝承がどこまで遡れるのやらw
(少なくとも記紀には記述が無い)
確かに孝霊天皇が、阿蘇山や大山、富士山とか、
山と深い関わりがある人物として描かれてるのは確か。
で、何故、孝霊なのか?と言えば、非常に馬鹿馬鹿しい語呂合わせ、駄洒落なんだそうだw
たかね→高嶺→コウレイ→孝霊w
スイゼイ天皇が人を喰っていて、岩屋に閉じ込められた
とかいう熊野の伝承も、次の第三代天皇の漢風シ号が安寧だから、
暴虐の天皇がいなくなって安寧の世になったという語呂合わせから。
中世はこういった語呂合わせやら、漢字から想起される伝承が数多く創られた。
>>212 当然史実ではないがと断ってるのに、どうみても見苦しいのはお前だw
阿蘇、大山、富士に孝霊が関わった伝承が残った(創られた)時点で
孝霊が元々どんな人物だったか答え出てるだろ。
「霊」や「フトニ」なんて名前の天皇は皇霊そのものと言ってもいい。
后もオオヤマトクニアレ(国生み)媛だしな。
>>215 後漢の霊帝の諡名が孝霊帝なのは知ってるよな?
年代的にも倭国乱の時期にあてはまる時期だ。
帰化系豪族に霊帝の末裔を自認していたのが多いのも
無視出来ないだろう。
孝霊で語呂合わせするなら、
孝霊=高良=タカラ=タタラなのも忘れちゃダメだなw
欠史八代は、葛城地域の山や川の神々を天皇にした、って説もあったがな。
どちらにしても、富士山・孝霊五年が出てくる、一番古い文献が
14世紀の職原抄ってことは、この伝承がかなり新しく創られた可能性が高い。
というかw逆に古いとする根拠がないわな。
富士の高嶺っていうくらいで、高嶺→孝霊っていう語呂合わせ。中世あたりの創作。
しかしまあ、孝霊に元々「山」属性があり、葛城地域の山の神だった可能性もある。
ただまあ、唐古鍵の時代に、伯耆や阿蘇まで畿内勢力が伸長してたなんて、
考古学的にはまったく有り得ない与太話。
出雲地方から出土した銅鐸には、鍵唐古で
作られたと思われる物も存在してるけどね。
まぁ霊帝の末裔を自認した氏族が、始皇帝の末裔を
自認した氏族に力関係で負けてしまったんだろう。
蘇我が悪者にされた主因の一つはこれ。
霊帝の末裔を名乗るって、宣統帝の子孫を名乗るくらい哀しくね?
東漢氏が後漢霊帝の末裔だった筈。
>>220 弥生後期、畿内勢力が各地に見る銅鐸を配布してたのは確かにそうだが。
出雲から見る銅鐸出土してたかな?
225 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 18:16:46.21
卑弥呼=日の巫女
邪馬台国=大和大国
>>223 蘇我と共に悪者にされてただろう?
対して秦氏がバックに付いた聖徳太子の評価は上げまくり。
そもそも畿内説九州説って括りがアホくさい
纒向説
大分説
福岡説
宮崎説
佐賀説
長崎説
これだろ?
んで巻向以外、何も発見できてない
いや、巻向説もおかしい、畿内説でいいだろ。
邪馬台国は七万戸だよ?大和盆地だけではさすがに無理w
箸墓が百襲媛の墓であってもかまわないが、
時代的に卑弥呼ではない。
30〜40年はずれてる。
>>220 >出雲地方から出土した銅鐸には、鍵唐古で
>作られたと思われる物も存在してるけどね。
まったく逆だろ。
出雲で作られたものが畿内で出るのだろうが。
どこまで畿内原理主義なんだこいつ。
近江 あわうみ→おうみ
遠江 とおつあわうみ→とおとうみ
232 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 21:48:44.40
>>216 >阿蘇、大山、富士に孝霊が関わった伝承が残った(創られた)時点で
孝霊が元々どんな人物だったか答え出てるだろ。
山の神がモデルで、実在の人物ではない、ということですか?
>「皇霊」や「フトニ」なんて名前の天皇は皇霊そのものと言ってもいい。
皇霊じゃなく孝霊なんだが?もしかして漢字が読めない?w
フトニが何故皇霊そのものなんだ?
勾玉から?勾玉は三種の神器で最後に追加されたとされてるがなw
234 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 23:23:12.38
>>230 出雲の何処で造られたの?
鍵唐古では一応型は出土してるのだが。
相変わらずのイワシのアタマの根拠厨。次は九州には候補がないと来るぞ。馬鹿だねえこいつら。
>>233 富士、大山、阿蘇に関連する山の神なら最高峰の神だぞw
それに霊の名が付く大事な神を忘れてるようだな。
238 :
日本@名無史さん:2014/02/07(金) 23:44:04.56
>>236 そりゃ妄想や願望に根拠求められても困るよなw
239 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 08:45:02.60
>>238 そうではない。倭人伝にしろ、記紀にしろ、発掘物にしろ、根拠とするには弱
いものばかりで、邪馬台国を研究するには足りないということだ。特にキナイ
ブシの人らは発掘物を重視する傾向にあるが、発掘物がものを言うか?。証言
するか?。何よりも古代の日本の文明発達の状況を考慮して研究しないと邪馬
台国は発見できないだろうよ。
240 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 09:04:49.58
>>239 少なくとも文献資料や考古学的見地からみて、
現状一番可能性が高いのは間違いなく畿内だよ。
中国、日本のどの資料をみても九州は男王の国。
241 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 09:32:18.13
結局、畿内説に反対する者は
いつも根拠が述べられない。
242 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 10:00:05.64
いくら探しても畿内にそれらしいものは見つからない
ただそれだけのこと
妬んでる暇あったらさっさと九州を掘ってくればいいのにw
244 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 10:17:15.31
九州では着々と発掘が進んでおる
もういろいろと出ているが
決定的証拠はしばらく待て、大和みたいに発掘予算が豊富じゃないからな
九州は、弥生期の
金印やら、三種の神器のような埋葬物やら、
鉄やら、絹の錦やら出てるからな。
倭人伝に書かれている用な出土物には困らない。
>>234 茶臼山の4つ前の箸墓古墳が3世紀中頃では早すぎる。
3世紀後半だろう。
弥生期の奈良はむしろ真空地帯に近く、
兵庫や愛知県のほうが弥生遺跡は多い。
>>245 邪馬台国の時代には早すぎるけどなw
それに気候風土条件なら冬温暖で丹山のある阿波だよ。
>>246 桜井茶臼山の築造年代がはっきり分からないからな。
四代前が箸墓って、西殿塚くらいしか分からないが、
あと二つの大王墓って何?
行燈山や渋谷向山は桜井茶臼山より新しいか、せいぜい同時平行とされているが?
>>237 ていうか、孝霊が富士山や大山、阿蘇山の伝承と習合された時期が大事なんであって。
それはおそらく記紀編纂以降、ってのが大勢の意見だろw
諦めろw見苦しいw
巨人が琵琶湖と富士山を造ったという昔話があって。
記紀にも採用されてないから、八世紀には既に信じられなくなっていたんだろう。
その昔話を実話として再解釈したのが富士浅間神社。
伝承が生まれたのが中世の頃で、14世紀の職原抄に採録されたという話。
残念ながらw
253 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 13:13:31.83
>>251 お前の考え方なら伝承に孝霊が選ばれたのは適当なんだろ?
そんな説明で誰がどう納得しろとw
孝霊が山にまつわる天皇に選ばれた時代が大事だと言ってるだろ?w
それが記紀以降なのは確か。何故なら記紀に載っていないからw
一番古い文献でも14世紀。
都合が悪いから隠蔽されたとか泣きながら抗弁しているが、
肝心の「どこが都合悪いのか?」には答えられない始末w
情けなさ過ぎw
256 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 13:37:25.36
マスコミをそそのかして、さんざ卑弥呼の宮殿を煽ってきただけに、
今じゃ巻向発掘隊長は、引っ込みつかなくなって、
夜ごと、悪夢にうなされていることだろうww
>地層だ
はい、馬鹿出ましたw
>>255 そりゃ孝霊が卑弥呼の父なら都合が悪いので、記紀に詳細を
書けないという事だよ、簡単な話だw
モモソを日女命とした海部氏の系図を隠匿していた理由と同じだね。
モモソが女王って…
アホにはかなわんw
孝霊天皇には出雲中国地方の伝承が多いからな。
やはり出雲に関係の深い人物の詳細を書く訳にはいかないのだよ。
崇神以前に活躍されては困るからな。
>>260 だが他に候補はいるのか?
墓の造営逸話まで記述された人物は天皇でも他にいないからな。
>>259 だから何故孝霊が卑弥呼の父親なのが都合が悪いんだ?と訊いてるのだが。
そもそも、日本書紀は卑弥呼=神功皇后としてるから、
孝霊は卑弥呼の父親にならない。
お前、もうちょっとちゃんと考えてから書き込めよw
百襲の父が最高峰の山の神で、母親が海人クニアレ(国産み)姫か。
どうみても女王だろw
モモソが女王なら8代9代天皇はいなかったということね?
あれ、じゃオオヒコさんはいないのかな?
「孝霊の大活躍を書くと孝霊が卑弥呼の父親だとバレてしまう」
は?www
全く意味不明なんだが?w
倭人伝に卑弥呼の父親の大活躍なんて書かれていないしw
頭おかしいの?w
>>263 お前こそまともな知識を得てから書き込もうなw
日本書記には神功皇后=卑弥呼とは何処にも書いてはいない。
注釈の事を指すならば、卑弥呼=神功と記入されてないと。
>>265 実は崇神が架空なのかもねw
「后」記述で女性説なんてのもある事だし。
注釈にしたのは、確信があったからじゃなく、推定だったから。
つまりは卑弥呼が誰のことか分からなくなっていたから。
百済に同じ名前の王がいたから混同した。
もう結論出てるだろw
それより
「何故孝霊大活躍を書くと、孝霊=卑弥呼の父親になってしまうのか?」
早く説明しろよw
>>266 記紀に載らないから各地に伝承として残ったんだろうな。
しかも他ならぬ出雲地方に残った意味は大きい。
大和に中々服従しなかった大国だ。
孝霊をオオヒルメ(天照大神)視している例もあるからな。
>>269 簡単な話だ。中国地方の各地の伝承が事実なら、
東国から西へ向かい出雲で半島勢力を退治。
息子と娘は瀬戸内海で賊退治、淡路島で宮を持つ海人后もいるしな。
モモソが卑弥呼なら銅鐸圏からは共立を得れる立場だ。
記紀には崇神以前にこんな事書ける訳がないだろw
残ったというか、記紀編纂以降に創作されただろ?w
出雲風土記にも記述が無いしさ。
孝霊を出雲と結びつけて延命を図ってるみたいだが、
銅鐸にしろ、後期の見る銅鐸は出雲とは無関係。
書いてることの殆どがデタラメで、全てを否定されてるのに、
いつまでも同じことを書き込み続けるというのは、違う意味で驚嘆に値するw
>>271 崇神以前に孝霊が大活躍したらダメな理由が全く書かれてないなw
却下w
>書いてることの殆どがデタラメで、全てを否定されてるのに、
本人が否定されたとは全く思ってないからな。
気になるからお前も粘着してるくせにw
孝霊大活躍を書くと、孝霊が卑弥呼の父親だとバレてしまう
→孝霊が大活躍すると、なぜ孝霊=卑弥呼の父親になるんだ?
→崇神以前に孝霊大活躍を書ける訳がないから
→何故崇神より前に孝霊大活躍を書けなかったんだ?
→???
また訳の分からない、ズレた回答をするんだろうなw
やれやれw
>>273 >崇神以前に孝霊が大活躍したらダメな理由が全く書かれてないなw
こいつ大ボケ?アホなのか?
「ハツクニシラス」より目立ってしまうだろw
その証拠に記紀での吉備津彦の活躍年代も変えてるしな。
また訳の分からない、ズレた質問をするんだろうなw
やれやれw
じゃあ、大活躍の孝霊をハツクニシラスにすればいいじゃん。
もともとハツクニシラスは二人いるし、一人くらい増えたっていいだろうw
孝霊大活躍を書くと、孝霊が卑弥呼の父親だとバレてしまう
→孝霊が大活躍すると、なぜ孝霊=卑弥呼の父親になるんだ?
→崇神以前に孝霊大活躍を書ける訳がないから
→何故崇神より前に孝霊大活躍を書けなかったんだ?
→ハツクニシラスの崇神目立ってしまうから
→なぜ、崇神がハツクニシラスでないといけなかったのか?孝霊がハツクニシラスでもいいだろ。→???
当初の質問から、いかにズレていくか?の研究素材として使えそうだなw
せいぜいのた打ち回って無様を晒せw
>>272 >孝霊を出雲と結びつけて延命を図ってるみたいだが、
銅鐸にしろ、後期の見る銅鐸は出雲とは無関係。
別に孝霊とは無関係に、上牧銅鐸と兄弟型が出雲で出土してるだろ。
その兄弟銅鐸は聞く銅鐸。
いい加減に理解しろ馬鹿
→なぜ、崇神がハツクニシラスでないといけなかったのか?孝霊がハツクニシラスでもいいだろ。→???
民主のババアかよw
まさに訳の分からない、ズレた質問をするんだなw
孝霊がハツクニシラスではないが、后は意富夜麻登玖邇阿礼比売命(大倭国生み姫)という名だよ。
何故崇神がハツクニシラスか?細媛皇后〜孝元ではなく、
后の意富夜麻登玖邇阿礼比売命〜百襲姫(卑弥呼)のラインが
強調されてしまうからに他ならないだろう。
>>281 上牧は孝霊の宮や墓に近い場所というのが重要だが。
そこから出雲と同型の銅鐸が出土してるんだぞ?
普通はそこは古くから関係が深い証拠と見るだろw
>>268 >実は崇神が架空なのかもねw
>「后」記述で女性説なんてのもある事だし。
論外。
氏ね。
上牧といえば銅鐸出土地の近所、久度遺跡から画文帯神獣鏡が
出土した事も重要だろう。同種が畿内を中心に和泉や高槻等から
出土しているが、丹後の大田南、何より徳島の萩原遺跡が一番先行
しているからな。
まあ女王を共立出来る範囲はこの辺りとみていいだろう。
286 :
日本@名無史さん:2014/02/08(土) 18:25:33.81
貧乏な女王さまだな
画文帯神獣鏡こそ卑弥呼が貰った鏡だろう。
>>282 >細媛皇后〜孝元ではなく、后の意富夜麻登玖邇阿礼比売命〜百襲姫(卑弥呼)のラインが強調されてしまうからに他ならないだろう。
まったく答えになってないw
孝元も孝霊の子どもなんだし、孝霊が活躍するのは構わないだろう。
お前の理屈なら、むしろモモソ姫が活躍する方が具合が悪く、
孝霊みたいに「書かない」という選択肢が選べるなら、書かない筈だ。
モモソ姫は崇神紀でかなり目立ってしまっているが、それはオッケーなのか?w
だから4つ前って断定する根拠は何?
>>283 古くから出雲と大和は交流があったんだね、程度。
孝霊実在で出雲を攻めた、とかは電波w
孝霊大活躍を書くと、孝霊が卑弥呼の父親だとバレてしまう→孝霊が大活躍すると、なぜ孝霊=卑弥呼の父親になるんだ?→崇神以前に孝霊大活躍を書ける訳がないから→
〜
→なぜ、崇神がハツクニシラスでないといけなかったのか?孝霊がハツクニシラスでもいいだろ。
→孝霊が目立つと、孝元が霞むから
→孝霊が活躍しても、孝元はその息子なんだから問題ない。
むしろ、モモソ姫の活躍が書かれている方が問題じゃないか?
最初の「孝霊が活躍すると、卑弥呼の父親だとバレてしまう」と、
全く論調が変わってしまってるんだが?www
>>288 本当に頭悪いのかよ、日本書記を読むんだな。
モモソは崇神の後ろ立てでもあり、箸墓の巨大古墳の被葬者だぞ。
存在を無視は出来なかったという事だ。
だが最後には神託に失敗、大物主から恥をかかされて終わってるだろ。
日本書記はキチンとハツクニシラス上げ、モモソ下げで一貫してるよ。
293 :
日本@名無史さん:2014/02/09(日) 02:29:53.93
>>291 お前が無理に曲解してるだけの話だw
質問ばかりだが、お前は誰を比定して何説なんだよ?
>>290 だが同型の銅鐸が出土している場所の周辺には、
どちらも孝霊天皇の伝承が多いからな。
実際かなり重要な話だ、電波扱いしたくなるのも理解出来るよw
>>294 銅鐸まで孝霊かよ、いいかげんにしろ。
出雲→畿内に決まってるだろうが。
おまえは大物主が畿内にいたことは無視か?
銅鐸の型は出雲地方で見つかった訳じゃないからな。
>>295 意味不明、大物主が畿内にいて何の問題があるんだ?
>>297 大物主は別名大国主、つまり出雲系だろが。
>>292 頭が悪いのはお前だw
孝霊の事績を書かない理由になってない。
却下w
モモソ姫は無視することが出来なかった
→古事記では無視してるが?
孝霊大活躍を書いてしまうと、卑弥呼の父親だとバレてしまう
→この頓珍漢な話はもう捨てたの?
302 :
日本@名無史さん:2014/02/09(日) 12:50:20.32
>>299 どうみてもお前の頭が悪過ぎるだけの話w
で、誰が卑弥呼と比定なの?
>>302 卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ媛だろう。
唐古鍵が邪馬台国の可能性もある。
記紀で邪馬台国をあえて比定するなら熊襲だな
奈良はまずない
>>303 それじゃ俺と同意見だけどなw
鍵唐古もそうだが、本来宮古、保津遺跡の方が
中心だろうと思ってるけどね。
勘違いしてる奴も多いが、モモソの記述自体は日本書記にしかない。
しかも結果的に神託に失敗して、大物主に恥を書かせた姫として、
むしろ悪く書かれている方だからな。
武烈天皇と同様に扱いに困った人物と捉えられている。
>>305 お前と同意見とは心外だわw
お前の意見って、アレだろ?w
孝霊が出雲を攻めたり大活躍して、阿蘇まで名前が轟いていた、とか?w
あと、なんだっけ?
孝霊は昔から孝霊と呼ばれてたから、地元の人は孝霊山と呼んだとか。
富士山と琵琶湖が同時に出来たのは、孝霊の時の天変地異のメタファーとかw
天変地異が続いたから、後漢の霊帝と同じ名前だ、とかw
完全に電波じゃねーかw
>>301 おまえの大好きなモモソ媛の元に毎夜通ってるだろうがボケ。
>>307 電波も何も、俺の水準にすぎない後漢霊帝の件以外は、
伝承として残ってるものを上げたに過ぎないだけの話だ。
これだけ各地に孝霊の名が残ってる以上、
他の欠史とは同一視は出来ないと思うけどね。
大体モモソや鍵唐古に注目する以上は、孝霊の存在はセットだよ。
お前が軽視しようが関係ないな、俺は最重要視するが。
>>310 くだらない屁理屈はやめれ。
「出雲系大物主は畿内に実在した」でいいな?
313 :
日本@名無史さん:2014/02/09(日) 18:38:56.44
8世紀に成立したブツでは
読み手に「出雲系大物主は畿内に実在した」とおもって欲しかった。
>>309 そういうお前の信念を聞きたいんじゃなくてw
「なぜ孝霊が大活躍すると、卑弥呼の父親だと思われ、都合が悪いのか?」を訊いてるんだがw
>>313 おまえは纏向周辺が出雲庄であったことを無視か。
316 :
日本@名無史さん:2014/02/09(日) 18:59:23.33
>>315 3世紀まで遡れる確証とかあるのか
鯨ので嘘交じりのがばれちゃってるからむださ
>>316 銅鐸だろうが。
おまえは銅鐸まで畿内産だとおもってるのかドあほ。
>>314 もはや質問厨だなw
簡単に言うと、仮に孝霊が畿内から出雲方面に遠征して活躍する
記述があると、半島や大陸と関連があった事を当然悟られるだろ。
(孝霊山は新羅からぶん取った事になってるw)
記紀は極力具体的な外交関係は書かない事で徹底しているからな。
と、答えてもどうせまともに聞くつもりがないなら、
これ以上は質問を断るぞw
それよりお前がモモソを比定するなら、孝霊の代には倭国が
乱れなきゃいけないはずだが?
出雲方面に遠征する話に何か問題あるのか?
銅鐸まで畿内産でOKだろう。
じゃあ、戦国時代、鉄砲をつくっていた堺や紀伊が日本を支配していたことになるのか
>>319 加茂岩倉と同範のものが畿内製なのかアホ。
畿内には鉱山資源もあったからな。
銅鐸造れても不思議はないだろ。
>>321 出雲地方で作ってたのなら、型は出てるのか?
324 :
日本@名無史さん:2014/02/09(日) 20:07:38.59
銅鐸さえまともに出土しないくせして
銅鐸は出雲の何処で作ってたんだ?
大体加茂岩倉の銅鐸が出るまで無縁と思われてたはず。
加茂岩倉の銅鐸まで畿内製と言ってるのはおまえくらいだボケ。
三輪山の出雲庄といい出雲→畿内は明白だろう。
出雲庄にこだわりすぎだw
大和で元出雲はあの場所だけじゃないからな。
他にも複数箇所あるんだよ。
教えてやってもいいが、態度が偉そうな限りは無理だな。
>大和で元出雲はあの場所だけじゃないからな。
>他にも複数箇所あるんだよ。
ならば余計出雲→畿内は明白だろう。
出雲←畿内の選択肢はないのかよw
霊石山の伝承では、オオヒルメは東からやってきたという話もあるが。
播磨国風土記に出雲の阿菩大神が大和三山の妻争いの仲裁に出雲を立たれたが
大和へ行く途中、いさかいが終わったことを聞き、播磨国揖保(いいぼ)郡上岡の里に鎮座したという話があるな
香具山は 畝傍惜(を)しと 耳成と 相争ひき
神代より かくにあるらし
いにしへも しかにあれこそ
うつせみも 妻を 争ふらしき
香具山と 耳成山と あひし時
立ちて見に来(こ)し 印南国原(いなみくにはら) 中大兄皇子
>>318 >簡単に言うと、仮に孝霊が畿内から出雲方面に遠征して活躍する
>記述があると、半島や大陸と関連があった事を当然悟られるだろ。
まったく意味不明w
崇神が出雲を攻めて、ヒボコが来たとかの伝承があるが、記紀は別に隠してないしなw
>(孝霊山は新羅からぶん取った事になってるw)
国引き神話の亜流だろ。安易に神話をすぐに史実と考える。相変わらずお前はw
>紀は極力具体的な外交関係は書かない事で徹底しているからな。
いや、むしろ百済三書などを引用して、積極的に外交関係を書いてるだろ。
お前の妄想の外交史は書いてないだけw
>>318 >それよりお前がモモソを比定するなら、孝霊の代には倭国が乱れなきゃいけないはずだが?
倭国乱については議論が分かれるが。
実際、どのようなものだったか?は具体的な記述が無いから、どうとでも解釈可能。
考古学的に考えれば、玄海灘グループが倭王だった時代から、
各地でオウが乱立。筑紫以外では、出雲、丹後、吉備、畿内、東海などだ。
その状態を倭国乱と言ったのだろう。
>考古学的に考えれば、玄海灘グループが倭王だった時代
倭王じゃないだろw
>>318 畿内が頭一つ抜け出して、大王権を樹立。
後漢に代わり遼東を支配した公孫氏と結び、筑紫と対抗した。
唐古鍵が見る銅鐸の生産センターとして機能したとすれば、
唐古鍵→マキムクへの移転で良いと思う。
しかしモモソ媛の血縁は吉備色が強い。
箸墓から特殊器台が出土していることからも、吉備の影響が強いことは間違いない。
松木が言う「倭面土国王・帥升が吉備楯築の王」なら話が簡単だ。
吉備の女王が大和に東征したか、大王として呼び出されたかして、
マキムクで女王に共立され、やがて倭王になった。
>>331 >崇神が出雲を攻めて、ヒボコが来たとかの伝承があるが、記紀は別に隠してないしなw
相変わらずの理解力の無さだ。
前から記紀は崇神あげだと言ってるだろw
それに日野郡史を始め、中国地方の伝承も崇神でいいんじゃないの?
実際攻め行ってるならね、でも殆ど痕跡が見当たらないのは何故かな。
出雲風土記なんて天皇自体の記述が極端に少ない(崇神以前はなし)
なのに孝霊の伝承が多いのは明らかに変だろう。
>いや、むしろ百済三書などを引用して、積極的に外交関係を書いてるだろ。
一番肝心な対中国はどうなんだ?
>>332 >出雲、丹後、吉備、畿内、東海
その国々には孝霊天皇の伝承、逸話が残っているだろう。
なのでモモソ=卑弥呼なら、共立の支持を得る基盤だと主張してる訳だが。
>>335 >前から記紀は崇神あげだと言ってるだろw
崇神アゲにする理由がないだろ。
仮に孝霊大活躍を書いたとしても、崇神サゲにならないし。
お前、本当に馬鹿だよなw
>なのに孝霊の伝承が多いのは明らかに変だろう。
変じゃない。孝霊家族関連の伝承が伯耆や讃岐に伝播するのは、
吉備発だろう。始祖を吉備津彦にすると吉備の風下になるから、
吉備津の父親にしたんだろう。
もっと言えば、伯耆の孝霊伝承は、ササフクという製鉄民の伝承で、
砂鉄による製鉄が行われた古墳中期以降の伝承。
>一番肝心な対中国はどうなんだ?
中国との関連記事は、卑弥呼の倭人伝が最初だな。
同時に、百済の肖古王も採用している(百年ズレているが)。
それ以前は中国と交渉が無かった、というのが日本書紀の公式見解。
記紀なんて書きたくないことはまともに書かない、で徹底してるよ。
>>336 だから、その孝霊伝承が、記紀編纂後に創作されたと言ってるんだがw
>>337 >お前、本当に馬鹿だよなw
そのまま返すよw
ハツクニシラスの名前は重要だろう。
>砂鉄による製鉄が行われた古墳中期以降の伝承。
その時期なら尚更孝霊の名である必要性が全くない。
崇神と吉備津日子の伝承でいいはずだが?
倭は倭人伝の記述からは、古くから使いを送ってたはずだよな?
一切触れないという事は、やはり書きたくないという事だ。
聖徳太子と推古天皇の時代ですら微妙に違うしな。
341 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 00:56:10.80
「太瓊」のは「賦斗邇」で「太珠」だから「孝霊」さんは「玉祖命」とちとかぶる。
「玉祖命」の本部のは周防国一宮。
ご子孫がここを基点にしてふらんちゃいずしたのでよろし。
>>339 >その孝霊伝承が、記紀編纂後に創作されたと言ってるんだがw
だから伝承は孝霊である必然性があったという事だろ?
誰でもいいなら他に欠史の天皇を適当に当てはめりゃいいじゃないかw
必然性も何も、高嶺→孝霊の語呂合わせだからなw
孝霊が記される最古の文献が記紀で、事績が伝わらない欠史。
出雲と関わりが深いというが、出雲風土記にも描かれない。
漸く14世紀の職原抄にそれらしい記述が現れるだけ。
信じろと言う方が無理だろうw
日本書紀は、一書を併記する等、出来るだけ客観的な記述になるよう苦労してるよ。
恣意的に改竄されたのは、大化改新あたりと、蘇我氏の全盛期である推古・舒明。
壬申の乱の天武紀あたりだろう。
成立年が定かでない社伝を重視し、正史である日本書紀を軽視する。
自分だけが知り得た真の歴史!と有頂天になっている様が滑稽。
竹内文書にも通じる
今年史学科に入る俺にはトレンドなスレ
>>340 >>砂鉄による製鉄が行われた古墳中期以降の伝承。
>その時期なら尚更孝霊の名である必要性が全くない。
>崇神と吉備津日子の伝承でいいはずだが?
吉備津彦は吉備に著作権があって、勝手に使えなかったとか?w
もしくは、隣国の吉備の始祖に征服されるという伝承には抵抗があった?
(元々は吉備の影響が強い伝承だったんだろう)
あとまあ、孝霊山って名前の山がたまたまあったから、
自分たちの神社の権威付けに記紀から孝霊を拝借したというのが真相に近い?
少なくとも記紀編纂以後に創作されたのは間違いない。
>倭は倭人伝の記述からは、古くから使いを送ってたはずだよな?
>一切触れないという事は、やはり書きたくないという事だ。
ていうか、卑弥呼が誰か分からなくなっている位だから
(日本書紀も神功皇后だと誤認している)
当時の対外交渉の歴史自体がきちんと伝承されていなかったんだろう。
きちんと伝承されるようになるのは神功・応神以降。
>恣意的に改竄されたのは、大化改新あたりと、蘇我氏の全盛期である推古・舒明。
壬申の乱の天武紀あたりだろう。
彼はいろいろ盗みを働きましたが全部は盗んでません
とてもまじめな信用できる人間です みたいな話かw
改新の詔なんて改竄したっていいだろうみたいなw
>>329 >出雲←畿内の選択肢はないのかよw
ない。
あきらめろ。
348 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 08:15:14.55
孝霊厨ってのがいるんだw
確かに「欠史」と言われるけど、古事記には色々書いてある。
ただ、「欠史」と言ったのは明治以降の人間であって、ひとつの説にすぎない
にも関わらず、騎馬民族国家説のごとく盲信されている。
騎馬民族説以上に困難なことは、古い学者がこれを否定することを許さないこと。
「欠史8代」がすべての前提で話す某氏のように。
国家神道と欠史8代の呪縛から離れる日が来ないと、日本の国家成立の黎明期は
解明できない。
>>346 まったく逆。
一部の錯誤や政治的改竄があったとしても、全体を否定する必要はない。
あやふやにはなっているが、ある程度、きちんと歴史を書こうとした
と捉えて良いと思うがな。
それより、何故孝霊の活躍を書いたら、都合が悪かったか?
の答えをまだもらってないんだがw
>>347 諦める必要が全くないのでお断りしますw
351 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 09:14:45.37
>>343 そんな語呂合わせで片付けるような奴の話に説得力を感じないなw
孝霊は後漢霊帝の諡名と同じ意味を持たせているという事だ。
大体出雲の山で一番高いのは孝霊山ではなく大山のはずだが?
何故孝霊山じゃないんだよ、矛盾してるだろw
出雲風土記に地方の古い伝承は書かれていないだろう。
天皇の記述も崇神からなのに、周囲には
孝霊の話が多いというのは全く整合性がない。
ヤマタノオロチ伝承すら無いんだからな。
孝霊山が元々高麗山だったからだろ。
孝霊と当て字されて、周辺の製鉄の民の伝承が、
孝霊の事績に改変されたんだろう。
高嶺→孝霊じゃおかしいよな、横の大山の立場が無いよw
半島から鉄をもたらした人物だ。
鍵唐古近所に宮を持つ孝霊が、孝霊山麓の
妻木晩田遺跡から妻を得る伝承話は整合性があるだろう。
しかも出雲からは奈良北西部の上牧出土と
同型の銅鐸も出土した訳だからな。
崇神以前には同一文化圏の国が、丹波辺りを中心に
存在していたのではないか?
356 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 16:16:45.79
昔の豊国
宇佐が邪馬台国のあった場所だ
畿内は遅れたところ
崇神天皇の時代に、「始めて船が造られた」という、奇妙な記事があります。
畿内では船も作れなかったところだった
3世紀の九州の先進文化時代から著しく退化している畿内の様子が描かれている
357 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 16:28:14.97
畿内には応神天皇稜があるが
宇佐に祭ってある
ようするに邪馬台国は宇佐でその後朝鮮から騎馬民族が一緒に畿内を侵略したてこと
騎馬民族?また化石のような話だなw
359 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 17:43:46.00
>>356 凄いな、船無しで畿内の連中はサヌカイト運搬してたのかw
奈良周辺だと内陸だから、
船はあまり発達してないってことかね?
361 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 19:53:19.19
古代奈良には水運が必需品なので普通に船は古くから存在してるよ。
大体神武東征は何で来たんだ?
初代倭国造の珍彦なんて瀬戸内海の海人なのにw
362 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 20:21:00.96
歴史古い順
上町台地(大阪市)
神武天皇(初代天皇)の生国魂神社(大阪市)紀元前700年 (日本列島の神そのものを祀る神社)
神功皇后の住吉大社(大阪市)
日本仏教初の官寺は聖徳太子(日本仏教の祖)の四天王寺(大阪市)後に奈良の法隆寺
難波高津宮 難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)(日本初の首都)大化の改新(天皇制の始まり)はここで行われそれは大化元年〜平成26年の今も続いている
難波津 住吉津 渡辺津(国際港湾都市(街))(物流の一大拠点経済の中心)商人が増え出す 商業都市として栄える(大阪市)石山本願寺(浄土真宗本山)(大阪市)跡地に大阪城(難波津や渡辺津が船場となり商工業が更に発展)
大阪市(難波宮、難波京)
奈良市(平城宮、平城京)
京都市(平安宮、平安京)
江戸(東の京、東京)
江戸城を築いたのは大阪の源氏
東京へはまだ遷都されていない為現在でも首都は東京じゃない
363 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 20:22:45.54
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>>355 >鍵唐古近所に宮を持つ孝霊が、孝霊山麓の
>妻木晩田遺跡から妻を得る伝承話は整合性があるだろう。
>しかも出雲からは奈良北西部の上牧出土と
>同型の銅鐸も出土した訳だからな。
その兄弟銅鐸ってのが弥生中期末頃で、聞く銅鐸だから、
孝霊が実在しても数百年の開きがあるがな。
何度も書いてるが、出雲はその後、銅鐸や銅剣を大量埋納し、
青銅祭器と決別。四隅突出型墳丘墓に移行。
畿内は聞く銅鐸を巨大化させて、見る銅鐸を共通祭器とした政治体制になる。
弥生後期は明らかに、出雲と畿内は違う道を歩んで行く訳だ。
出雲と畿内で弥生中期頃に元々同一祭祀具を
使用していたという証拠だろう。
それが別物に変わって行くのは徐々に倭国乱れてゆく証拠になる訳だが。
なので大和から征伐遠征が派遣されるという事になる。
弥生中期頃には出雲周辺に倭国王がいた。
その後周辺諸国が力をもち始める。
倭国乱れて(孝安〜孝霊辺り)、ヤマトに卑弥呼(モモソ)が立つ。
孝元の代にイヨ(ヤマトト)がいるが、モモソと混同しているのかもね。
>倭国乱れて(孝安〜孝霊辺り)、ヤマトに卑弥呼(モモソ)が立つ。
都合のよいこと言うな。
神武東征のほうがよっぽど大乱。
平日祝日関係なくずっとPCの前に張り付いて「孝霊!孝霊!」と叫んでても事実にならないからねw
>>368 マジレスするとPCとは限らないしな。
出張の移動中、暇な時に書き込んでるよ
大体それを監視してるのも相当だぞw
>神武東征のほうがよっぽど大乱。
畿内限定の戦いだしな。
370 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 13:32:35.64
高齢ですから!
>>365 荒神谷で358本の銅剣が見つかってるのを知らんのかw
弥生後期の倭国は、筑紫、出雲、丹後、吉備、畿内、東海など群雄割拠の時代。
出雲の荒神谷や加茂岩倉などの青銅器一括埋納を見る限り、
新しい政治権力が出雲内部に生まれて、
四隅突出型墳丘墓に至るというのが考古学的見解。
それは弥生後期初め頃の話で、孝霊とかの二世紀の話ではない。
>>369 高地性集落の分布は畿内だけではないのだが?
>>373 その群雄割拠時代こそ倭国大乱に比定すべきものだな
さらに大乱以前はもっとゆるやかな連合体があったと見る
それがハツクニシラス崇神時代に位置づけられる
それ以前には出雲を中心とした日本海交易圏があったはず
377 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 14:58:18.23
出雲に言及するならこの人を忘れてもらっては困るなあ
>>373 の騒動は、スサノオの時代
スサノオの時代は紀元前6世紀以前
>>376 崇神陵は行燈山か渋谷向山だろうから、崇神は三世紀末頃〜四世紀初めの人物だろう。
二百年ズレてるよ。
宮内庁比定な
いやいやw
あの二つが、古代の大王の墓だったのは間違いないし、
あの辺りで陵の伝承がある大王は崇神と景行の二人しかいない。
実際は柳本の大王墓は西殿塚を加えて三つなんだが、
伝承される大王は二人しかいないという問題はあるがな。
382 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 15:22:26.54
>>378 紀元前6世紀では、出雲大社の社伝、および現在第八十四代出雲国造千家尊祐宮司のことが合わない。
スサノオならびに天穂日命は二世紀頃が妥当
>日本書紀の記録によると、大国主大神は、
>日本民族の大親神である天照大御神に、その豊葦原の瑞穂国をお譲りされたとあります。
>天照大御神は大国主大神の私心のない「国譲り」にいたく感激され、大国主大神のために
>天日隅宮(あめのひすみのみや)をおつくりになり、第二子である天穂日命を大国主大神に仕えさせられました。
>この天日隅宮が今の出雲大社であり、天穂日命の子孫は代々「出雲國造」と称し、出雲大社宮司の職に就いています。
>現在は、第八十四代出雲国造千家尊祐宮司がその神統と道統を受け継がれています。
>>381 大王墓であるとはどういう基準で決められるの?
>>382 出雲国造はホヒの末裔だよ
彼らは天津神
大王墓の基準は、同時代の古墳の中で、とりわけ大きいということ。
葛城や吉備の古墳も大きいが、同時代の百舌鳥・古市より
明らかにスケールが小さいので、大王墓には入れない。
箸墓は女王に相応しい大きさだからな。
>>382 ごめん、説明になってなかったわw
ただ、ホヒは大国主と同じルーツではない
所詮、神武より少し早く本州島へ渡った一族にすぎないってことね
>>384 同時代って言ったって古墳時代200年程度にこの時期とりわけ大きいというのは
どの時期に限定してるの?って話じゃないか?
古墳はどんどん大きくなってくるんだから、以前と比べて大きいということはありえても
この期間の古墳の中で大きいということはありえない基準だと思うが。
加えて、古墳時代は応神ごろから盛んになってくるが
仁徳以降は傍系継承が増えていくし、雄略は末子で親類を多く殺している
自分より大きな屋敷を立てたからとかそんな理由でさ
だからこそ、安康や継体での皇統断絶の危機が起こったわけで
大王墓なんて基準が当時からあったらそんな争いもおこらなかったんじゃないか
たとえば、伝履中陵の上石津ミサンザイと相似形の
吉備の造山古墳をどう見るか?だな。
同時代の大王より大きい古墳は造ってはならない、のような規制がかかっていた
と見るべきではないか。
真・継体陵とされる今城塚も、同じ三島野の二〜三代前の太田茶臼山(伝・継体陵)より小さい。
継体陵より大きい太田茶臼山が大王墓と見做されないのは、
同時代の百舌鳥や古市の古墳と比べて小さいからだ。
まあ、記紀の伝承で、それらしい大王がいないというのもあるが。
規制はないと思うが、ワケ(王家)の一人がつくったんじゃないかね
一つの国造がつくれるレベルじゃないし
普通に考えて、同時代の大王より大きな古墳を造るのはかなりの不敬だがな。
まあ実際問題として、同時代の中で大きい古墳を大王墓としないと、
伝承の大王より大王墓の数が多くなり過ぎる。
393 :
pipipi満州:2014/02/11(火) 17:18:48.24
古墳の話が続いております(苦笑)
考古学大好き人間が集まっております(苦笑)
>スサノオならびに天穂日命は二世紀頃が妥当
完全に頭がイカレテおります(爆
不敬もなにもそこまで大和王権が他国に干渉できていたとは思えない
いちいちそんな理由で攻めむことができるんならもっと早く全国統一をしているよ
それに伝承の大王とやらは、系図から比定者を都合よくあてはめていくだけのパズルだろ?
記紀にある程度の信頼を置いて、系図より事跡で追った方がいいというのが俺のメソッドだね
じゃないと、室町(1333)から織豊(1600)までの攻防を全部いっしょくたにして
室町までの事跡をすべて織田に付託するごとき歴史解釈になってしまうと思うんだがな
新田義貞の九州攻めは、秀吉の中国攻めから作った架空の物語だみたいな
仮名手本忠臣蔵は、赤穂浪士の仇討ちの影響を受けているから高氏は存在しなかったみたいな
極論になると思う
396 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 17:29:34.92
満州大王により完全否定されると言うことは、
なにがしかの確からしさを残しているということだな、安堵したわ(爆々
仮に室町から織豊までの文字資料、文芸資料が一切偽物であるとなったときに
出土物の考察からなる考古学によってどこまで歴史が推定できるかを考えると
おそらく、器などはほとんど海外からのものだから、それまでは海外の影響下にあって
自発性はまったくなかったとし、
大きな遺構、山城や平城、鉄砲の普及から群雄割拠の戦国時代がはじまり
安土のある滋賀県あたりに生まれた勢力が全国に平城をたてて日本を統一したという結論くらいしか
立てられないと思われ。
そこからは天皇という文化的な背景も、将軍という諸侯をまとめる存在も発見できない。
>>394 しかし箸墓の相似形とされる古墳は全国にある。
同じ形で縮小した古墳が。
古墳時代の人は古墳の大きさに拘っていただろう。
倭人伝にもわざわざ径百余歩と書いてるあたり、
箸墓の大きさは倭国全体に知れ渡っていただろう。
しかしまあ、大和王権の支配は点で、面的支配ではない。
大和に与して畿内の土器や古墳を受け入れる集落のすぐ隣の集落が、
在地の土器を作り続け、畿内を受け入れない。
全か?無か?のような単純な話ではなく、モザイク状に文化圈が乱立してた。
400 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 18:10:16.07
まぁ欠史を後漢辺りの年代に想定するのは確実だろう。
>>398 相似系とは寸分たがわぬほどの精度なのかい?
どの古墳も往時の姿を失っている中でどれほどの正確さでそれを検証したのかな?
年代が同じで、形もほとんど同じだと思われるのであれば同一人物による設計が
考えられるが、それにどれほどの実証性があると思うの?
そういう場合、まず反証の少なさを挙げるべきじゃないかな
同じ形なのにひどく年代が離れている例がどれほどあるか。
また、すべての相似形の古墳が畿内のオリジナルに必ずたどれるかどうか。
そういった検証ぬきだとどうもね
>>400 それが分からんのだよね
古墳時代から全国統一がはじまるって単純な考え方を元にしているとしか思えない
403 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/11(火) 18:17:50.34
蒟蒻クラゲ人がいたという満蒙巣コングはもはや真性のもようで
治療は困難!
江戸時代から全国的に平城が立てられるが
大大名でないかぎり、天守閣なんて、月見櫓なみの小ささだろ
敬意をはらう以前に財政上、その程度の城しかつくれなかったし
作っても、壊れたのちほとんどが修復しようとしなかった
広島城や姫路城、熊本城なんてでかさは当時でも全国でもまれな大きさだったろうに
それでも、大阪城や江戸城にはかなわん大きさなんだが
崇神4世紀前半。
これはもはや定説。
孝霊なんて影の薄い天皇はせいぜい3世紀中頃。
時代が合わない。
以上。
406 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 18:48:25.94
まあ百襲が卑弥呼で間違いない。
それじゃ議論にならないな
1世代約20年。
これで計算してみろ。
じゃ賛同者のいる巣に帰ったらいいのにw
410 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 18:57:35.46
まだ平均在位年数とか詐欺師みたいなこと言ってる奴がいるのか。
武内宿禰とか無茶苦茶長生きに設定するクセにw
411 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 19:05:39.77
神武天皇から〜(神功皇后)〜仁徳天皇まで17代、1代の目安はざっと10年というところでしょう
そうすると神功皇后は370年頃、崇神天皇は320年頃、モモソは300年頃、神武天皇は230年頃となり、
神武天皇は、卑弥呼の晩年にご神託を拝して東へ向った勘定になります。
畿内説のお人にはあれだが、せいぜいこんなところでしょう。
>>410 まだ平均在位年数も計算できない馬鹿がいるのかw
413 :
pipipi満州:2014/02/11(火) 19:08:17.05
>崇神4世紀前半。
>これはもはや定説。
>孝霊なんて影の薄い天皇はせいぜい3世紀中頃。
>まあ百襲が卑弥呼で間違いない。
完全に頭がイカレテおります(憫笑
しかし孝霊厨って一日中いるのか。
どんなんだよこいつw
>>408 系図より事跡と何度言えば
伝承は、事象の物語化の中で容易に抽象化され整理される
だから、系図にとらわれるべきではないと以前言ったような気がする
417 :
pipipi満州:2014/02/11(火) 19:14:22.34
>神武天皇から〜(神功皇后)〜仁徳天皇まで17代、1代の目安はざっと10年というところでしょう
狂人です(笑
狂人が集まって議論しております(笑
418 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 19:22:43.37
満州ころすにゃ刃物はいらぬ
一代十年と云えばpinころり
419 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 19:47:57.95
ネットみても判るが孝霊を重視してる人は普通に多いぞw
モモソが卑弥呼なんてもう当たり前の話だろう。
証拠ではなく、論理ですらもなく、同意する人の多寡で正否を決めようとする
そんな学問があってよいのか
421 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 19:54:01.08
モモソが卑弥呼なんて当たり前すぎて天動説みたいな話だろう。
>>410 モモソは女王ではない。
嘘つくな。
名前も卑弥呼とはほど遠い。
424 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 20:19:12.43
ダサい奴w
7代、8代、9代、10代天皇の間に、
仲哀から応神、
神武から綏靖のような「皇位の隙間」がない。
隙間があったとき、
それぞれ神功皇后やヒメタタライスズ媛のような女王がいるわけだ。
わかったかアホ畿内説ども。
ゲームのしすぎ
ヒメタタラ?
所詮は創作逸話だ。
まぁ畿内説で間違いないはないが。
モモソヒメが女王になった時期があれば、
推古など他に例があるのだから、
そう書かれているはずだが、
書かれてない以上、少なくとも、
記紀編纂者は、女王という根拠は
持ち合わせていなかったということだろう。
429 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 20:44:53.60
ヒメタタライスズも神功皇后も畿内の人物だしな。
孝霊て吉備と同盟したと考えられている大王だよな
そこから四道将軍で本州をまとめていく話がでてくるわけで
九州まではとても遠征できんかったと思う
>>427 創作逸話は孝霊。
何が琵琶湖が裂けただアホめ。
創作逸話は似たようなもんだ、ホトに矢が刺さってなんたらとかw
逆さま琵琶湖と淡路島は形大きさがそっくりだ
434 :
日本@名無史さん:2014/02/11(火) 21:04:45.08
一世代は20年では無理だよ。
在位じゃなくて親子関係ね。
平安時代〜戦国で23.5〜30年ほどだ。
早婚で早くに子をもうけたかも知れんが、最初の子が男で生き延びて子を
残せるかどうかは分からん。
10世代程度をいくつかピックアップして平均を出すと、29.7年、27.5年、
23.5年、28.4年、25.3年。
平均すると27年くらいだけど、跡取りがいなくて何代か前の天皇の子孫が
年を取ってから後を継ぐとかになると伸びる傾向にある。桓武天皇のような。
時代が古いと短いかというと、そうでもないんだよね。
実在と時期がかなりあってるらしい雄略の没年が489年。
いくつで亡くなったかは難しいが、50歳だとして世代平均23年で
計算すると、8世代で崇神の生まれが255年になる。
その計算で記紀の系譜通りとすれば、神武は48年頃生まれで、大きな息子を
連れてヤマトへ来てるらしいから40才頃として1世紀終わり頃に来た。
いくつで死んだか、これも難しいが綏靖が大人になってるから、60歳位として
108年ごろと言う計算だ。
建武中元2年(107年)の朝貢は、ヤマトはまだまとまってないようだから、
九州の王なんじゃないかなあ。
帥升は面土国の王です
>>432 それは創作というより、地名の成り立ちと結びつけることで記憶にとどめようという工夫だと思われ
マイクロソフトのゲーム機があまりに糞だったので、人はこれを糞箱とよぶようになったとさ、みたいなこと
437 :
pipipi満州:2014/02/11(火) 23:07:01.18
>モモソが卑弥呼なんて当たり前すぎて天動説みたいな話だろう。
>神武は48年頃生まれで
精神障碍者がたくさん参加しております(笑
>>434 >その計算で記紀の系譜通りとすれば、神武は48年頃生まれで、大きな息子を
>連れてヤマトへ来てるらしいから40才頃として1世紀終わり頃に来た。
あのなぁ、欠史8代を本当に8代とでも思ってるのかな?
応神4世紀後半から4世代で崇神4世紀前半、
そこから5世代前で神武だよ。
神武は2世紀後半だな。
当時の平均寿命は40歳に届かない。
系図信仰か
神武天皇二世紀とか、今更アホかとw
神武に実像は無い、剣主や珍彦の伝承を組み合わせた話。
在位百年とか当時の人でも信じてないだろ
だが伝承と事跡を照合していくとそうならざるをえなくなったから
そうしたまでだよ
>>401 まあ、図を見る限り、同じ設計図を元にしてるように見えるがな。
まぁ系図なんて各氏族で相当異なるしな。
大体古来氏なんて存在したのかも正確ではない。
逸話で女装や男装したりで性別が変わったりする事もあるからな。
複数の人物を〜天皇としてまとめているのは充分有り得る話。
群雄といっても戦国時代のように
遠距離を攻め入るなどの社会体制にはない
允恭の代に氏姓を整えているから、
このとき、他の豪族の系図伝承と整合させた可能性はある
しかし検証方法がクカタチだから、明らかな血筋以外は曖昧な可能性もある。
在位数なんて平均値として数えても何の意味もない
紛れも無く生きたきた人間なのだ
448 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 07:25:58.80
日本書紀の変な記述について。
崇神天皇の時代に、「始めて船が造られた」という、奇妙な記事があります。
何処らへんが奇妙なのかはあとで解説するとして、いつもの通り該当箇所を、宇治谷孟氏編訳の「日本書紀・全現代語訳」から引用していきます。
日本書紀
崇神天皇一七年秋、七月一日、詔して、「船は天下の大切なものである。
いま海辺の民は船がないので、献上物を運ぶのに苦しんでいる。それで国々に命じて船を造らせよ」といわれた。冬十月、初めて船舶を造った。
なぜか大陸と交流あった時代から先祖返りして文明が後退してる謎
この時代は畿内の様子でその後応神、仁徳の騎馬文化が九州か朝鮮から持ち込まれたことを意味してる
船の件は紀の崇神を持ち上げる記述の一つだろう。
戦乱もしくは津波のような災害で、船を損失していたのかもね。
450 :
pipipi満州:2014/02/12(水) 09:16:25.36
>神武は2世紀後半だな。
>当時の平均寿命は40歳に届かない。
キチガイが参加しております(笑
451 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 09:20:57.82
>>437 :pipipi満州:2014/02/11(火) 23:07:01.18
>>モモソが卑弥呼なんて当たり前すぎて天動説みたいな話だろう。
>精神障碍者がたくさん参加しております(笑
満州も意外に文章を流し読みするんだな
この文章のミソは「天動説」となっているところ。
当時、世界中の人は天動説を正しいと信じて疑わなかった、しかしそれは大きな誤りであった。
つまりこの文章では、
「畿内人は(天動説のように)モモソ=卑弥呼と信じて疑わない愚かな輩だ」と揶揄してるわけだ
おわかりかなpipipi(笑
太国さんもいい加減諦めたらいいのにw
モモソが卑弥呼で問題無し。
イヨは孝元天皇の娘、ヤマトト姫だな。
記紀の逸話は改変で混同されているという事。
454 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 10:18:40.37
王の在位11年説は、他国の王の在位で調べていて、古代はそれが当たり前だったと
思われる。王権が安定し、子供でも赤ん坊でも、無能のやつでも凡人でも、
王家の生まれなら王になれた。というか有力者が王位を争うのは戦国だ。
記紀でも、400年頃の応神から継体までは、10年余りだ。
300年頃の崇神から応神までは、20年近くなる。
応神以前はまだ不安定だったのかも知れん。
崇神以前は、天皇家は有力者ではあるが王の中の王にはなっていなかったんだろ。
子孫がそういう先祖も王としただけで。
当時のヤマトは、戦国の尾張や近江というか、秀吉時代の伏見のような、
突然お城が作られ、周辺に町が出来、大名屋敷が出来たのに近かったのかも
知れんな。
千年後に発掘したら、都が大内氏の山口から伏見に移ったことになってるかも知れんな。
>300年頃の崇神から応神までは、20年近くなる
一応、父子継承が多いからね。
一世代と同じになる。
ただ成務天皇の影が薄く、このあたりに兄弟継承があったかもしれない。
>>453 8代、9代天皇がいなかった、あるいは即位してないという前提でしかありえない。
8代、9代天皇を認めるのなら「女王」は必要なかろう。
ところが稲荷山鉄拳で名前があるオオヒコは8代孝元天皇の子。
孝元天皇は欠史8代の中でも極めて実在性が高い。
457 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 11:01:06.09
>>454 で、卑弥呼は何年女王だった計算してるんだよw
>>456 男王は女王を補佐して内政を担当するのだから問題はないだろう。
外交記述をカットすれば存在自体あまり書く事もない。
459 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 11:16:44.02
>>457 王権が確立していない時期の、「共立された女王」の在位年数なんか、
あまり意味がないと思うけどw
そもそも卑弥呼が天皇家の系譜にないんだから。
460 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 11:16:59.44
初代・神武天皇〜神功皇后〜16代仁徳天皇までの17代・伝800年は不自然だ
これに対し、
履中天皇〜推古天皇までの17代は229年
舒明天皇〜桓武天皇までの17代は177年
平城天皇〜三条天皇までの17代は211年、、、、
どう見ても17代継承は200年程度、よって神武天皇は三世紀初頭から前半にかけての人物だろう
>>459 ではモモソが記紀編纂以前、女王として
認められていたとしても問題ないだろう。
462 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 11:25:15.10
>>460 つまり神武=崇神までの創作物語で計算は合うだろう。
崇神の実像は磐余彦でいい。
463 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 11:25:28.09
モモソはAD300年頃の皇女のひとりだ
50年も前倒しするからはちゃめちゃになる
465 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 11:36:43.31
>>462 創作物語というか、
天孫を自任する特定の豪族が大和王権内で実力を蓄えて天皇を輩出するようになり、
彼ら豪族内に伝えられてきた先祖代々の将軍たちを遡り奉って天皇と称したのであろう
466 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 11:43:07.41
>>464 巻向もまた一日にして成らず、古くから多くの人々が暮らしていたに違いない
ただ巻向集落とモモソがいつだったかは別問題
まぁ298年頃でもいいぞ、三世紀末だな
467 :
pipipi満州:2014/02/12(水) 11:46:33.57
キチガイどもの議論が続いております(笑
大学で統計学を学んだ人たちのようです(笑
469 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 12:27:48.98
纏向は三世紀初めからと言いたいんだろうが、その根拠はと聞かれると何も言えないのが
苦しいね。
重々専門誌で説明されてる定説じゃん
知らないほうが不勉強
471 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 12:36:27.11
巻向遺跡が三世紀初めだから、モモソも箸墓も三世紀初めだったとは言えない
両者は別問題であるということをまず認識してかかるべし
考古学の初歩だな
四世紀からとする根拠はもっと無いからな。
473 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 12:39:49.31
いいとこ三世紀末か
モモソは崇神より数世代前の媛なのになw
モモソの年代が遅いとなると、
クニアレ媛が卑弥呼という可能性も出てくるな。
淡路島に宮を持つ位だし、血統も申し分ない。
名前は凄いが実績が判らないというのも、可能性があるかもな。
476 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 12:54:58.69
モモソは崇神より三世代前の孝霊天皇の媛だから、
実質活躍したのは、崇神に先立つ二世代前、つまり二十年くらい前だろう
>>460 >よって神武天皇は三世紀初頭から前半にかけての人物だろう
まったく同じ意見だ。
そうするとヒミコはヒメタタライスズしかいなくなるだろう。
彼女は神武死後、 綏靖が即位するまでの間、皇位を持っていた。
つまり短期間だが女王であった。
もはや神武厨だなw
神武=崇神ならヒメタタラ=モモソかもな。
微妙にホト絡みの逸話も被るし。
だいたい一皇女であるモモソが女王だったなんて馬鹿らしくて話にならん。
481 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 13:13:00.45
モモソは一皇女といっても大物主の妻だから。
墓造りの逸話まである人物は他にいるかな?
482 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 13:15:21.49
モモソは古事記には記事がないんだよな。
その辺りがね。
モモソの母の名前も大層な名前なんだよな。
孝霊の娘ではない誰か、巫女の伝承を書いたとか。
名前だけ見ればモモソ母なんて大倭国を生んだ媛だからな。
吉備津彦とモモソ=倭国という事になる。
>>484 若い頃の逸話なら讃岐や吉備の神社に伝承が残っている。
>>484 そんなもん消さなきゃ男系の王統譜が作れないじゃん
古事記の神武神話で、三島に神の子、セヤダタラヒメがいる逸話があるが、
これは摂津の三島ではなく、瀬戸内の三島の事だろうと思う。
大物主に見初められホトを突かれてヒメタタライススキ媛を
生む事になるのだが、
瀬戸内にいて大物主に嫁ぐ媛なんてモモソそのものだろう。
古事記でのモモソはセヤダタラヒメとして描いてある。
セヤダタラとは勢野、ヤマトに来てからは
王寺町周辺の竜田川周辺にいた事になる。
摂津の三島にいたより、瀬戸内にいた方が、
タタラという製鉄つながり名を持つ人物として自然な流れだろう。
その地域で製鉄技術者集団を傘下におさめていた氏族から輿入れした
お姫様という意味かな
イミナは基本的に秘密だから記録に残らないんだろう
>>490 それで話は繋がるだろう、神の子なら尚更大三島だ。
踏鞴とも関連性は深い。
欠史や神武東征で河内湖までの記述がないのは当然で、
欠史時代の逸話を流用しているという事。
孝霊厨とすれば、モモソ=セヤダタラ=卑弥呼、
ヒメタタライスケヨリヒメがイヨを反映、という説になる。
神武天皇が架空という訳ではないが、
実像は古過ぎて逸話が残っていなかったのではないか?
>>491 大三島の神社はもともと摂津にあったのを移したらしいよ
あそこすごいよ、伊藤博文とか歴代の権力者がお参りしてる
たかが瀬戸内の小島にな
大三島の位置は瀬戸内海でも重要な位置にあるからな。
摂津も重要な場所ではあるが、踏鞴とすれば
中国地方と考えていいはず。
古事記に百襲はいないが、紀の逸話はここに描かれているのだろう。
暗殺計画をイスケヨリヒメの歌で防いだ点も類似点の一つ。
>>486 >そんなもん消さなきゃ男系の王統譜が作れないじゃん
何で作る必要あるんだ?
神武天皇にセヤダタラヒメの話を持ちかけるのが側近のオホクメ。
オホクメが愛媛の松山辺りの人物だとすれば、大三島は
目と鼻の先なので、美少女と噂される人物の話を
持ちかける事が出来るのである。
>>494 だから、大三島の神社は後代に摂津から移されてできたから
神武の時代には存在しなかったんだってばw
>>496 何で久米が愛媛の松山なんだよ。
大伴とともに九州時代からの臣下だ。
おまえいい加減にせい。
瀬戸内の要は児島じゃないの?
国産み神話にもでてくるし、昔はあそこは島になっていたから
児島がいい波止場になって、吉備の港として活躍していたと思う
大三島周辺は安芸側につながっているので、のちの大和王権を考えると
結びつきは弱いだろうね
安芸は山陰出雲との交通路になっていて古墳も出雲系が多くある
この地域が盛んになったのは毛利の時代、村上水軍の活躍ぐらい、かな
島が点在して入り組んでいるから守りによく、港としても仕える場所が多い
村上水軍には三系統あって来島、能島、因島。
島が点在しているだけに統一的な勢力が生まれにくい
501 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 22:30:39.86
>>498 >何で久米が愛媛の松山なんだよ。
大伴とともに九州時代からの臣下だ。
久米は九州の出身だとは書いてないと思うが?
途中四国周辺を巡ってるのだから、
弥生期の大集落が存在する、松山辺りに基盤があっても
何の矛盾はないぞ(久米縁の地だし)
>>500 >大三島周辺は安芸側につながっているので、のちの大和王権を考えると
結びつきは弱いだろうね
大体村上水軍は孝霊の第二皇子(吉備津日子か百襲)を祖にしてるんだよw
>大体村上水軍は孝霊の第二皇子(吉備津日子か百襲)を祖にしてるんだよw
三つの村上家の起源ははっきりしないが、もともとは一つの家であったという。
その起源として最も有力とされるのが、『尊卑分脈』に記された、河内源氏の庶流信濃村上氏を
起源とする説である。
503 :
日本@名無史さん:2014/02/12(水) 23:00:35.44
久米歌といえば「みつみつし」
御津とは古くから皇室の港。
三津の渡しが松山には今でも現存しているのである。
そういえば三島も御津島の意かもな。
横に生口島あるのがなんともw
三津三津し久米の子
大切なことなので二度言いました。
岩手か やはり東北だったのか
どうりで頭椎大刀が6世紀にならないと西日本にほとんどないと思ったわ
石の頭椎大刀は縄文時代に関東〜東北で祭祀やってるけどね
三津の渡しは三途の渡し。
大三島へ行くかは生口島へ行くかはお宝次第か。
瀬戸内海沿岸部の海商国家群が大同団結して、
東国との交易を求めて東の端に都を建設した。
日本列島の東西交易を牛耳って富裕化し、ヤマト王権に至ったんだろう。
住吉三神。大三島の大山祇。宗像三神。志賀の島の安曇磯良。紀氏、吉備、渦彦。
あとまあ、琵琶湖水運の丸邇など。
当時の倭国は海上や河川交通が主流で、海人族が持て囃された時代だったのか
松山の文京遺跡も宮跡らしき物も確認されてるからな。
規模もそうだが、住居跡の密集度では突出している。
だが殆どが開発で喪失しているため、
実際の規模が判らなくなってしまったのが残念。
>>501 >久米は九州の出身だとは書いてないと思うが?
ニニギの天孫降臨からお供してるのだから九州だろ。
あと南さつま市の『上加世田遺跡』に「久米」の墨文字がある土器が出てる。
511 :
満州大尉:2014/02/13(木) 09:36:43.28
孝霊厨=モモソ厨=四国厨=陰謀史観厨=ネトウヨジョーカーw
ヒメタタライスズ男のおかげでそれが分ったw
とにかくジョーカーが2chの常連中の常連の十年選手で、
スマホやパソコンで一日中2chに書き込んでいる。
九州説に絶えず茶々を入れているのもこの男だ。
そこそこ知識はあるが相当なポケナスであることは間違いないw
こういうポケナスには何を言っても無駄なのである。
完全に頭がイカレテいるw
512 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 09:45:19.50
満州はやっぱり底の浅い奴だなw
孝霊厨はジョーカーじゃ無いぞ。
>>510 久米の文字?それが神武の時代の証拠になるのかw
514 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 09:59:00.82
古事記のセヤダタラ=モモソ説は孝霊厨位だろう。
515 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/13(木) 10:22:15.54
クラゲ厨←デ○パ脳
516 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 10:34:23.15
俺は九州説だと思うけどね
邪馬台国の傘下に、奴国や伊都国などの北九州はあれど、
古代の有力地域の吉備や出雲や難破や伊勢が入ってないのは不自然
あと卑弥呼の鶴の一声で、特に遠征もないまま、
大和から北九州までの遠大な地域が
平穏に静まるほど単純じゃない
久米が松山辺りの人間だというのは、久米歌からも解るだろう。
御津の子=久米の子は先に上げた。
持つ武器は石鎚で、石鎚山の石。粟の畑の韮なんて勿論阿波の畑だろう。
これは服の事を言っているのかもな。
九州でパズルやってりゃ何も判らないよw
孝霊厨はこれでも講師や講演会資料作成の仕事で忙しい。
>>512 屁理屈こくな。
久米の居住地の証拠にはなる。
松山など何も関係ない。
何でニニギが松山に光臨するんだよ。
519 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 10:53:00.78
>>516の続き
卑弥呼の後に、邪馬台国の連中が「神武東征」のように東を攻めて、
大和を落として、大和朝廷としたのだろう
はい これで解決
521 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 11:09:44.45
>>519 あってる
卑彌呼没後のイベント
入植直後に卑彌呼のお墓こさえた。
なかみはとうぜんからっぽ。
522 :
満州大尉:2014/02/13(木) 11:49:16.10
久米氏まで四国人だと言い出すのだから、四国厨は完全に頭がイカレテいるw
>>519-521 ここはヒメタタライスズ男と孝霊厨が死闘を繰り広げるスレだから、
ピミらは出て来なくてよろピーw
>>518 ニニギではなく久米の話だろ、それに石鎚や阿波とくれば四国だがw
大体神武は安芸に八年滞在したんだろ?
仮に久米が九州出身でもこの辺りの事情には当然精通してると思うぞ。
>ニニギではなく久米の話だろ
ニニギの天孫降臨にお供したのが大伴と久米だろうが。
何を言ってるんだ、おまえは。
半島に近くなったと言う以上、天孫降臨は東からだからな。
つまり出発点は国産みのある四国辺りを指す事になる。
神武東征で瀬戸内から河内まで記述を書けないのは当然の話w
久米の基盤が松山辺りで正解なのだよ。
松山や高知の弥生遺跡は吉野ヶ里なんかより大規模なんだよ。
>半島に近くなったと言う以上
そんなこと言ってない。
「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、
朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である」
>久米の基盤が松山辺りで正解なのだよ。
筑紫の日向の高千穂の久士布流多で、
天忍日命(大伴の祖)と天津久米命(久米の祖)が武装して先導したのだろ。
松山なんて何の関係があるんだよボケ。
何を言い張ってるんだよ。
528 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 12:31:33.07
×久士布流多
○久士布流多気
>>527 どうみても元々九州島無いにいた人物の言葉じゃないだろw
神武のルートをみても、四国はことごとく避けているぞ?
で、国産みは四国の方が先で久米歌には石鎚に阿波だ。
こんな簡単な話が理解できないのなら終わってるよw
>>529 久米がどこにいたかという話だな。
天津久米命が武装して先導した日向の高千穂の久士布流多気が四国なのかボケ。
俺は仕事に戻るが、どうせまた屁理屈こくんだろ、このクソ孝霊厨は。
>>530 お前は頭悪いにもほどがあるな。
現実に久米歌からは四国に関する言葉が多いのだから仕方ない。
訳すれば解る事だな。
どの言葉か言ってごらん
534 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 13:06:33.01
御津の子久米の子
石鎚に阿波。
どうみても九州ではありません。
御津(みつ)は岡山か兵庫
山椒で有名なのは兵庫県養父市八鹿町朝倉地区原産の棘のない朝倉山椒
京都や日本各地で栽培されているのはこの品種がメイン
和歌山有田川の山椒は棘があるぶどう山椒で朝倉山椒から派生した系統とされる 国内生産高80%
>>534 御津って岡山にもあるんだけど。
>石鎚に阿波
何のこと?
「頭椎い石椎いもち 撃ちてしやまむ」のことか?
頭椎の太刀や石椎の太刀でもって、撃ち取ってしまうぞという意味なんだが?
久米四国説www
538 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 14:44:38.84
久米は四国!
/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\
/ ⌒(__人__)⌒ \
| |r┬-| |
\ `ー'´ /
ノ \
/´ ヽ
___
/ \
/ノ \ u. \ !?
/ (●) (●) \
| (__人__) u. | クスクス>
\ u.` ⌒´ /
ノ \
/´ ヽ
____
<クスクス / \!??
/ u ノ \
/ u (●) \
| (__人__)|
\ u .` ⌒/
ノ \
/´ ヽ
まあでも、出雲、播磨、讃岐は友好関係で人が往来移住しているのは播磨風土記からもわかる
540 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 14:58:07.01
AAまで貼って必死だことw
>>536 粟の畠に韮はどう訳する?
御津といっても岡山に久米の地名はあるのかな?
松山平野は正に久米だな、背後は勿論石鎚山だよ。
最大級の弥生後期遺跡も存在しているからな。
>>540 その前に「石鎚に阿波」はおまえの独断と偏見ということでいいな?
岡山に久米の地名はあるよ。
山陽道 美作国 久米郡
山陰道 伯耆国 久米郡
久米は九州だ、あきらめろ。
なんで四国なんだよ、恥を知れw
>>542 >その前に「石鎚に阿波」はおまえの独断と偏見ということでいいな?
独断ではあるが偏見ではないよ。
普通粟畠に韮なら阿波の韮と解釈するもんだw
頭椎太刀なんてのも本来時代が合わないが、東国に多くて
九州南部には殆どないのでは?
北部九州や瀬戸内周辺に数例、南なら土佐の小杉神社か。
>>516 俺は魏使は九州北部にとどまっていて、邪馬台国の記述は伝聞だったから
吉備や畿内のことが詳しくかかれなかったという立場だね
遣隋使や遣唐使はあっても、中華朝廷(皇帝がいる中央政府)から直接使いが
日本に来朝(日本の最高権力者に面会すること)した例は、ほとんど存在しない。
日本の歴史書に唐使が来朝した記述はあるが、それは遠征を任された将軍から派遣されたものであり
中華朝廷に報告する義務はない。よって中華朝廷の史官に記録されるものではなかった。
したがって、中華皇帝の命で日本に来朝した使者は、魏使の梯儁と、隋使の裴世清だけで
彼らのみが中華朝廷の史官に倭への行程を報告しえたと考える。
新唐書以降は、みな日本の使いが筆談し、また日本書紀を献上しているので、
中華朝廷からの使いが来朝することはあっても、日本の使いの記述が優先されている。
宋史に書かれている日本伝に、行程ではなく日本の地理が記述にされているのはそのためだろう。
そこで、魏使の梯儁と、隋使の裴世清のみについて説明する。
梯儁について、魏志によれば不弥国(もしくは奴国)以東に女王国の境がある可能性が高い。
九州北部に女王国の境界があり、筑紫の鴻臚館で通常、魏使を出迎え用事を済ませていた。
金印の授受については朝見する必要があったはずだが
記紀によれば、この時期は神功皇后の時代であり、およそ魏が滅亡する265年まで
新羅征伐のために九州に神功皇后が居す宮があった。
よって魏使がわざわざ大和に出向かなかった理由は説明できる。
裴世清について、日本書紀は難波で出迎えたとあるから、彼は畿内にまで来ていたはずだ。
隋書によれば、筑紫から東に秦王国に至るとあり、これが畿内だと思われる。
ローマ帝国は大秦国と記され魏書はその理由を秦に似ているからとしているが、同様の理由による命名だろう。
隋書は九州から海に渡ると記述していないから秦王国は畿内ではないという反論もあろうかと思うが、
そもそも隋書には対馬から海に渡るという記述を省いている。(又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國)
これは対馬から、島に降りては船旅の連続であったため、筑紫から大和も同様の流れで記述されたものと
考える。よって、これも過不足なく説明がつく。
>普通粟畠に韮なら阿波の韮と解釈するもんだw
何勝手に四国と結び付けてるんだよ。
「粟の畑には、臭い韮が一本生えている」の意味だ。
>頭椎太刀
そうとは決まってない。
「頭椎い石椎いもち 撃ちてしやまむ」がなんで石鎚という四国の山の名前になるんだよ。
おまえパラノイアか。
韮は古事記は加美良、万葉集は久々美良、正倉院文書は彌良
>>548 歌なんて基本簡素な語呂合わせであったりするからな。
石鎚や粟なんて正に四国を表す文言だからな。
ま、どれも九州を表す物は皆無だよw
頭椎太刀の説明解釈は?
九州南部に縁はあるのかな?
>>550 >ま、どれも九州を表す物は皆無だよw
筑紫の日向の高千穂のクシフル岳が四国なのか。
病院いけ。
>頭椎太刀の説明解釈は?
頭椎太刀と決まってない。
環頭太刀でも充分だ。
>>509>>526 伊予は、吉備や大和と違って、古墳ではなく建物を重要視していた。
伊予に王権が無かった訳ではなく、単なる文化の違いではないか?
と村上恭通が言ってたな。
どちらにしても、記紀読んで大和中心史観とか流行らないw
考古学的には、ジンムやら、孝霊の時代に出雲を攻めた、とか有り得ないんだが。
石製の環頭w
久米歌の宇陀ってどこのことなの?
>>551 >筑紫の日向の高千穂のクシフル岳が四国なのか。
話の流れではその前に四国にいたという事だから。
これなら半島にも近くなる。
国生みの順番を素直に認めろよ。
なので東征には四国は登場しない(出来ない)のだよ。
少し賢くなっただろうw
4世紀から九州に多い蛇行剣が畿内で出土するのは、
九州勢力が王権に関わっていた証拠。
>伊予は、吉備や大和と違って、古墳ではなく建物を重要視していた。
これは重要なポイント、だから御津でいいんだよ。
案外伊都かもな(根拠はないw)
海幸彦が負けて山幸彦の家来になるといった話はどう解釈するの?
>話の流れではその前に四国にいたという事だから
ニニギを先導する以前の久米の話なんてどこにも書かれてない。
何言ってるんだおまえ。
>国生みの順番を素直に認めろよ
皇統が縄文系D2a1bであることは最近の分子生物学でもはっきりしてる。
つまり朝廷が蔑んでいた「熊襲」の流れなんだよ。
したがって国生みの順番を畿内からにしないと編纂者の気持ちが治まらなかったのだろうw
ニニギと結婚するのはオオヤマツミの娘
やっぱり東、大三島だなw
熊襲は頭を渠師者(イサオ)と呼び、2人おり、その下に多くの小集団の頭たる梟師(タケル)がいた
自單單大山領以西屬樂浪、自領以東七縣、都尉主之、皆以濊為民。後省都尉、封其渠帥為侯、今不耐濊皆其種也。漢末更屬句麗。 『三国志魏書』穢伝
>>560 >したがって国生みの順番を畿内からにしないと編纂者の気持ちが治まらなかったのだろうw
四国の話だったと思うが?
こいつ何とぼけてるんだよw
あら、「ワイ」が化けちゃったね まいいか
>>563 >四国の話だったと思うが?
パラノイアのおまえが思ったって意味がない。
久米が四国などとどこに書かれてる?
いい加減にせいよ、おまえ。
大久米命の黥ける利目は安曇族にもあったといわれてる。
どっちみち九州だ。
>>565 反論出来なきゃ誹謗中傷かよw
久米が九州出身だとも書かれてないよ、何度も言うけど。
まあ九州でパズルしてりゃいいんじゃないの?
知識が色々不足してるような奴はそれがお似合いかもな。
安曇目
履中紀元年四月の条「召安曇連浜子詔之曰、汝与仲皇子共謀逆、将傾国家。
罪当于死。然垂大恩而免死料墨。即日黥之。因此時人曰安曇目。」
神武のころ九州で目のまわりに刺青をしていたって根拠は何?
>久米が九州出身だとも書かれてないよ、何度も言うけど。
筑紫の日向の高千穂が九州ではないとは、
もはやキチ○イの境地だな。
>神武のころ九州で目のまわりに刺青をしていたって根拠は何?
馬鹿かおまえ。
久米の大きな目を見てヒメタタライスズ媛が驚いて歌を詠んだのが神武との馴れ初めだろ。
知らないなら黙ってろやハゲ。
>>568 四国の話だったと思うが?
こいつ何とぼけてるんだよw
久米が九州なんて根拠はないからw
>久米の大きな目を見てヒメタタライスズ媛が驚いて歌を詠んだのが
当然九州にいた姫じゃないな。
574 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 16:46:50.91
そこのはほんとは「久米」と綴って「くま」と読む。
パンダトーテムだな。。。
>>572 当たり前じゃないか、東征後の奈良での話なのだから。
.
孝霊厨って結局ただのアホだったwww
アホくさ、またね。
.
>>575 だから古事記のセヤダタラが百襲=卑弥呼、
ヒメタタラがイヨでいいというのが自説なんだけどね。
578 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 16:53:09.15
「久米」のは「狗」のとコモンだ。
「伊久米伊理毘古伊佐知命」のは
「狗」の「和氣」(掖)の子で「伊佐治」(男弟)のが無事に本家「狗」のを継承した。。。
>>576 なんだ、評価してくれたのかw
ネタになる爆弾なら色々持ってるからな、
考古学でも発掘出来たようだし、地元の特権で。
>>547 記紀、神功紀の金印についての記述で、神功は大和にいるね
使者は大和に来ていないと説明がつかない。
でも、魏使の記録は梯儁のみなのは確か。
約180万年前に筑紫の日向の高千穂に降臨した神話←結局これ一本やり
そしてすぐファビョるw
582 :
支持ゼロ満州:2014/02/13(木) 17:39:41.41
四国厨を見ていて思い出す諺
病膏肓に入る(笑)
ところでこの男、大学で考古学を学んだという男だと思うが、
>孝霊厨はこれでも講師や講演会資料作成の仕事で忙しい。
こんなことを書いているところを見ると、
もしかして橿原考古学研究所とかそういうところの職員ではないのか?
どうやら奈良に住んでいるようだし…。
水行二十日、投馬国は出雲
水行十日、丹波国
陸行一月、丹波道から摂津を経て大和に到着した
丹波国の但馬で降りたのはそこから大和が一番近かったから
順路説・日本海航路を押したい
584 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 18:25:41.85
なるほど、
日本海航路の、水行二十日、水行十日陸行一月は、なかなか説得力あるな
585 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 20:35:47.06
>>583 港は、京丹後市の網野(銚子山古墳)のあたりか、神明山古墳のあたり、
もしくは天橋立経由の加悦町の蛭子山古墳のあたりのどこかじゃないかな。
今は陸地だけど、当時はいい潟湖だったらしい。
>>585 加悦の蛭子山あたりが港なんて初めて聞いたw
ありえんw
>>582 >橿原考古学研究所とかそういうところの職員ではないの
橿考研が孝霊厨みたいな低レベルだったら侮蔑しかないよ。
588 :
統一教会満州:2014/02/13(木) 22:10:01.88
以前、浜名寛祐の言語学の本を読んだことがある、と書いた男がいた。
それもこの孝霊厨だろう。
浜名寛祐の言語学の本なんて古書店でも置いてないはず。
大学の図書館にでも行かないと置いてない。
それを読んだということは、それを読める環境にいたということだ。
学生時代に読んだのか、それとも社会人になってから大学の図書館で読んだのか…。
とにかく普通人では絶対に読まないような本だ。
それどころか、そんな本を知っているのは特殊な人間だけである。
とにかく孝霊厨は、意外にも、古代史関係の専門家かもしれない。
あるいはよほど熱心な古代史マニアだろう。
589 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 22:22:13.46
もし邪馬台国が大和にあるなら、魏使を平和に大和へ迎えるには、
四国の土佐以外の3カ国、山陽道諸国、大阪湾諸国、北九州諸国を、
完全に平定しておかねばならない
卑弥呼と弟に、そんな軍事的才能があったんだろうか?
そんなことはキミが心配しなくてよい
591 :
日本@名無史さん:2014/02/14(金) 00:21:15.95
魏志倭人伝の邪馬台国までの道程は
日本海沿岸部の航路を利用している。
古代の北東アジアの航路の中心は
太平洋側や瀬戸内海側ではなく、日本海側がメイン。
592 :
日本@名無史さん:2014/02/14(金) 00:23:39.41
>>589 魏志倭人伝を読め。
邪馬台国(大和国)は、
北九州にあった伊都国に
一大率を設置して
諸国(おそらく九州諸国)を監視している。
後の大宰府、九州探題のような組織。
>>582 橿考研でも奈文研の職員でもないよ。
だが仕事の手伝いはしていた事もあるし、考古学関係では
知り合いも多くいる。だが俺の本業ではないけどね。
奈良には勿論住んでるよ、考古学関連の資料を集めるには
かなり恵まれた環境ではある、色んな面で。
孝霊厨が橿考研な訳ないだろw
未だに、前期銅鐸と後期銅鐸の区別がつかない考古学音痴w
>>592 伊都国は邪馬台国から北の方角にあった国だぞ
伊都国が佐賀・福岡近辺なら奈良は明らかに違うだろ
幼稚だね
597 :
日本@名無史さん:2014/02/14(金) 13:42:32.56
明白な結論を受け入れられない妄想家だね。
>>592 賛同
中世、目立って地域安定に活躍した府は
太宰府、京都(畿内)、幕府。
日本は近代まで中央の京都が東西二つの府と連携することで安定を保ってきた。
奥州探題もあるけれどね
太宰府は古代から存在していて、九州統治に絶大な権威を発揮していたが、
幕府は東夷を征討するための鎮守府で、平安中期から発展してきたもの。
平安期に藤原純友と平将門によって東西で反乱がおこったが
鎮西のための行政府は太宰府がすでにあったため、従来からの朝廷との連携の中でうまく安定したが
征夷のための行政府はもともとそこに地域安定のための機構が存在しなかったために
奥州の東夷を抑える武力を付与された坂東武士、彼らをたばねる武家の棟梁システム(幕府)が
朝廷から追認をうる形で太宰府のような役割を担うようになった。
古代、多くの反乱が起きた九州では、すでに安定的な統治をするためのシステムが構築されていたが
その黎明期の姿が伊都国の一大卒に確認できるというべき
>>594 これでも銅鐸関連の図録を手掛けていた事もあるぞw
今日は奈良も大雪、生駒葛城山系が麓まで冠雪するのも珍しい。
>>577 >だから古事記のセヤダタラが百襲=卑弥呼、
>ヒメタタラがイヨでいいというのが自説なんだけどね
名前も全然違うし、安易な同一人物説はやめてくれ。
ドッチラケる。
大物主が代々王の名称で複数の人物というのならまだ分かるが。
てす
602 :
日本@名無史さん:2014/02/16(日) 18:31:54.80
ワロタ
>>600 だが古事記のセヤダタラ逸話と日本書記の
モモソ逸話には共通点が多いからな。
三島も瀬戸内の島だとすると本当に同じだろう。
605 :
北へ帰らない満州:2014/02/16(日) 19:58:35.06
勢夜陀多良比売は神武の妃の母。
倭迹迹日百襲媛命は孝霊の皇女。
なぜこれが同じなんだ、パカじゃないのか、お前は(笑
よくそれで考古学者の手伝いが出来たものだ(爆
>>604 共通点ってホトを突くだけじゃないか。
一方は初代皇后を生み、一方は死ぬ。
どこに共通点があるのやら。
神武の時代に踏鞴の名前を付けてる時点でw
大三島辺りは現時点で最古級の製鉄地の一つだからな。
609 :
日本@名無史さん:2014/02/16(日) 20:59:04.05
iイ彡 _=三三三f ヽ
!イ 彡彡´_ -_=={ ヽ
fイ 彡彡ィ 彡イ/ ・ ヽ
f彡イ彡彡ィ/ f==ュ r==‐ォ
f/ミヽ彡f 、_‐‐tッ,゙ ' r' r tッ‐ァ'
イイレ、´彡f `ー 'ノ !、`ー ' .リ まるで成長していない・・・
fノ /) 彡! . ,イ 'ヽ l
トヾ__ら 'イf u ゚ ´...:^ー^:':... ゚ !
|l|ヽ ー '/ r ζ竺=ァ‐、 /
r!lト、{'ー‐ ヽ `二´ 丶 / 何やってるんだ
/ \ゞ ヽ ヽ ヽ /
./ \ \ ヽ /
/〈 \ ノ ジャムリン・・・
-‐ ´ ヽ ヽ \\ \ 人
610 :
北へ帰らない満州:2014/02/16(日) 21:03:56.86
2ch珍言集
神武の妃の母は孝霊の皇女である(爆
>>607 >大三島辺りは現時点で最古級の製鉄地の一つだからな。
全然関係なし。
三島は大阪府茨木市。
日本最大級の銅鐸生産地である東奈良遺跡近辺。
まぁセヤダタラ=モモソ姫説は孝霊厨の独断説だからw
東奈良遺跡周辺部には踏鞴の跡はあるのかな?
またその地に神の子と称されるような女性の話がないと。
瀬戸内讃岐、香川には聡明な少女とされる
モモソ姫の伝承が沢山残っているからな。
山片虫番桃の頃から、
神武が応神のことだとか、
崇神や倭建命の出雲征伐が、神代の国譲りだとか云われてたからな。
記紀の話は二度繰り返される。
九州からの大王の東征や、大和による出雲征伐など。
それは恐らく、征服者側と、被征服者側の認識の違いだろう。
征服側である崇神・倭建や応神から見た時と、
被征服側である出雲、畿内から見た時は
同一の歴史的事実でも見え方が異なる。
三輪山信仰の神婚の話も二回あり。
三輪山祭祀を乗っ取った三輪氏から見た場合、
大物主の妻は子を残さず、滑稽な死に方をしなければならなかった。
実際の伝承は、大物主の子を産み、それが初代の王ハツクニシラスになる、
というものだったのだろうが。
百襲姫=神大市姫という名もあるからな。
神扱いとした文献資料も一応ある。
615 :
北へ帰らない満州:2014/02/16(日) 23:06:54.82
孝霊厨と四国厨は別人なのか? まあ、どちらでもいいがw
どちらも重度精神障碍者であることは変わりない(爆
満州もよく粘着するね、そんなに気になってたのかw
617 :
日本@名無史さん:2014/02/16(日) 23:33:58.00
日本書紀によると、
15代・応神天皇は、年齢110才、在位期間41年。
16代・仁徳天皇、年齢不明、在位期間87年。
ところが
17代・履中天皇、年齢70才、在位期間6年。
18代・反正天皇、60歳くらい?、在位期間5年。
19代・允恭天皇、56才、在位期間41年。
20代・安康天皇、52才?、在位期間3年。
17代・履中天皇あたりから突然のように年齢・在位期間が妙に
現実的になっている。
松沢病院が満員なので成仏できないらしい。
>>617 しかし考古学的にその時代を見れば、
百舌鳥古墳群と古市古墳群の二系統の大王家があって、
交互に大王位に就いていたと想定されている。
最終的に古市古墳群と百舌鳥古墳群の中間地点に河内大塚山が築かれ、
二つの大王家は合一されたのだろう(恐らく雄略)。
その後、三島野の継体=今城塚を経て、再度奈良盆地に大王家が移る。
記紀で見れば、古市から継体に移る前に、
顕宗・仁賢・武烈の播磨系大王家が挿入されているが。
>>612 >東奈良遺跡周辺部には踏鞴の跡はあるのかな?
タタラは踏鞴ではなく祟りのことだから。
祟られるような事があったのかよw
やはり神武東征話は複数の豪族の伝承をまとめたものだな。
吉備や安芸滞在は孝霊天皇の物だろう。
神武天皇自体は紀元前に存在したのかもしれないが、
伝承自体は殆ど残されていなかったのかもしれない。
623 :
北へ帰らない満州:2014/02/17(月) 09:47:25.56
さあ今週も重度精神障碍者たちの熱き議論が始まります(笑
>>621 ホトを突かれたのが祟られたということだろが。
おまえ記紀を知ってるのか?
>>622 >吉備や安芸滞在は孝霊天皇の物だろう
そうすると吉備の弧紋円盤が出た纒向石塚古墳は誰の墓なのかな?
>>623 満州君も当然その一人だよな。
時代は全然関係ないが、昨日上牧銅鐸が出土した近所に、
また七世紀頃の有力豪族墓らしき物が確認され、見学会があっだろう。
昨年は弥生後期の鏡も出土した場所だ。
つまり銅鐸の時代から押坂彦人皇子の時代まで、
馬見ヶ丘丘陵地には一貫して何らかの
有力豪族がいた事は確実視してよい。
やはり今後鍵になるのは奈良県北西部だろう。
627 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 10:02:45.01
>>627 モモソはタタラになってない。
勝手に話を作るなボケ。
629 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 11:05:57.79
モモソはタタラレ媛
>>628 ヒメタタラは大物主と神婚した訳ではないが、
タタラの名がつく点を説明出来ないぞ?
>>630 お母さんがホトを祟られて産まれたからだろうが、おまえ知らないのか?
素直にタタラは踏鞴と解釈すればいいだけの話だな。
大三島の神の子、セヤダタラ=モモソだろう。
なので古事記にはモモソが登場しないし、
日本書記には孝霊の瀬戸内や中国地方遠征記述は書けない。
具体的に神武神話を創る為に苦労してたんだろうw
>大三島の神の子、セヤダタラ=モモソだろう
出た、パラノイアw
>具体的に神武神話を創る為に苦労してたんだろうw
何で創るの?
634 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 11:35:25.57
>>833 当然神武天皇をハツクニシラスとする為だな。
>>631 モモソも毎晩大物主にタタラれていただろw
>>634 ハツクニシラスなら崇神で充分じゃん。
2人いるのはおかしいね。
638 :
北へ帰らない満州:2014/02/17(月) 12:42:46.54
重度精神障碍者たちのグジグジした議論が続いております(笑
重要なはずのセヤダタラの父親の記述がないしな。
そりゃ孝霊なんてかけないからだろうw
ここの連中は神の子セヤタタラヒメについて、ミシマミゾクイなんて
文言があるが、意味判ってるのかね?
これは正にトリという意味もあるのだけどね。
641 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 14:35:16.51
>>622 :日本@名無史さん:2014/02/17(月) 09:31:37.85
>やはり神武東征話は複数の豪族の伝承をまとめたものだな。
そういう頓珍漢な説には飽きたよ。
お前ら満州という重度精神障害のお仲間が増えたぞ。よかったなあ。生ぬるく迎えてやれや。
643 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 15:11:55.61
>そういう頓珍漢な説には飽きたよ。
神武神話自体が頓珍漢な話のオンパレードだがw
644 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 16:48:39.91
神武なんて架空のキャラだろ。
ファンタジーやゲームのキャラと同じレベル。
645 :
孝霊厨:2014/02/17(月) 16:51:37.52
讃岐地方の伝承では、百襲姫は「ため池」を作り渇水に備える方法を
考案し、治水と稲作の安定に貢献したという聡明な姫。
セヤダタラ姫は又の名を三島溝杭姫、これも治水の神という名前だね。
大物主以外にも共通項は多い訳だ。
更に別名は玉櫛姫なのだが、ヤタガラスに化けて神武を先導するという
存在でもあるので、鳥に例える事も出来る。
ミソサザイという、スズメのような小鳥がいるのだが、実は鳥の
王様という昔話が各地に存在するのだ。
このミソサザイを瀬戸内ではミソクイと呼んでいた事もある。
ミソクイはヤタガラスにも化けるのだよw
646 :
孝霊厨:2014/02/17(月) 17:04:42.23
更に記紀でミソザザイは何度か登場するが、この鳥に
自身を例えてるのが、実は仁徳天皇。
武内宿禰の項でも登場する重要な鳥な。
647 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 17:20:55.15
>百襲姫は、香川県の水主神社と田村神社でも祭神として祀られており、姫が讃岐に来たという伝承が残されています。
>両社とも延喜式内社で、田村神社は讃岐一宮の名神大社です。
>高松市仏生山町にある百相神社も百襲姫の来遊を伝えています。
>それらの伝承は次のようなものです。
>百襲姫は、8歳で大和を旅立ち、讃岐・引田の安戸の浦に到着し、水主(水主神社)に住み地元の民に稲作・灌漑を伝えたが、
>讃岐全土を治めるため、馬篠(艪掛神社)から船に乗り、讃岐・船岡山(船岡神社)に入り落ち着いた後、
>讃岐一宮(田村神社)に住み、ため池を作り、稲作を伝えた。
>しかし、18才の時大和国から迎えが来て、地元の民は引き続き姫に讃岐に留まって欲しいと抵抗したが、
>それも空しく、大和の国に帰っていってしまった。
>その後、讃岐では姫を農業の開祖神として祀った。
白斂(ガガイモ)の皮の舟に乗り、鷦鷯(ミソサザイ)の衣を着てやってくるのが少彦名
大国主の親友
やはりセヤダタラ姫はモモソそのものだろう。
これから何度でも主張してやるよw
おまえさぁ、コテハンと名無しの両方使い分けるなよ。
セヤダタラ姫がモモソなんて恥ずかしい説はおまえだけなんだから。
モモソ姫が実在したとしても、吉備系だろうけどな。
セヤダタラ姫の丹塗矢神話ってのは、結構広く伝承されててさ。
モモソ姫もその一例(死んでるから変形ではあるが)。
別に同一人物にする必要はない。
654 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 18:56:31.82
丹塗矢神話は、大国主の伝説と共に我がド田舎にもある
我が町の自慢話にしようと思っていたのだが、全国あちこちに転がっているのな
655 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 18:57:47.00
セヤダタラヒメの父親は結局だれだろうね?
まぁヒメタタラを卑弥呼とする説は、今後
モモソもセットになってくるのは確かだよ。
神武伝承自体が、後世創られたっぽいからな。
イワレヒコという贈り名からも、恐らくは、雄略・清寧、継体あたり、
磐余地域に宮があったころに創作された伝承だろう。
ハツクニシラスは元々崇神で、後世に神武が加上されたと。
モモソ媛の伝承は、そのまま三輪山伝承だからな。
元々は大三輪氏が三輪山祭祀に携わるようになった由来を語る職掌伝承だから、
そのまま史実とみるのは良くないだろう。
モモソ媛が大物主を怒らせて死なないといけなかった。
そうしないと、大三輪氏に三輪山祭祀権が移らない。
神武神話が欠史辺りの伝承を用いてつなぎ合わせてるのがよくわかる。
架空の天皇なんているわけないじゃん
馬鹿なの
天皇は実在したかもしれないが、逸話に創作が多いという事だな。
神武を否定するなら、豪族としての大伴と久米の存在を否定してみろ。
蕎麦(ソバ)は中国南部原産で日本への伝来は奈良時代以前であることは確実とされている
一般に穀物は、イネ科(単子葉類)であるのに対して、ソバはタデ科、つまり双子葉類である
このようにイネ科以外の穀類として、アマランサス(ヒユ科)、キヌア(アカザ科)等があり、これらは擬穀類とよばれる
利用方法として、主にソバの実の製粉して蕎麦粉として利用し、それを用いた麺(蕎麦)や蕎麦掻等を食用にする
アマランサスはギリシャ語の(アマラントス、(花が)しおれることがない)が語源で
古代アンデスでは数千年前から利用され、トウモロコシや豆類に匹敵する重要作物であった
このアマラントスが天照大神であり
そして信州そば、出雲そばなどの蕎麦連合と新興勢力の讃岐うどん、愛知のきしめん連合を統べるのが
統麺尊、すなわちスメンラミコトである天皇
天皇は麺王であった
神武とか欠史八代を史実と考えるからおかしくなる。
考古学的に見てマキムクが最初の畿内王権だし
(それまで畿内では特定首長墓の発展が見られない。いわゆる部族連合族長社会だ)、
崇神が最初のハツクニシラスだったのは間違いないだろう。
神武が応神やら継体、天武みたいに外部からやってきて畿内を服従させた
大王をモデルにして創作されたのではないか。
大伴とか久米が三世紀の昔から営々と有力氏族だった根拠など皆無だしなw記紀以外ではw
大伴はせいぜい大伴室屋あたりからの新興豪族だろう。
室屋の父親とか結構曖昧だし。
五世紀頃から大王権のトモ制の拡大してからの大伴氏。
天孫降臨やら神武東征で活躍してるなら、それらの伝承が大伴氏が権力を得た
五世紀末〜六世紀初め頃に創作された伝承なのだろうというのが、
まあ、まともな意見だと思う。
吉備と阿波にプレ畿内王権の基盤があったという事だな。
阿波限定ではなく、播磨、讃岐を入れた東瀬戸内地域。阿讃播+吉備だな。
東瀬戸内地域に吉備津彦の血縁の伝承が伝播してることからも、
阿讃播は吉備・楯築の影響で古墳を造り始めたと思われる。
666 :
後期高齢者満州:2014/02/18(火) 09:06:04.69
この番組は重度精神障碍者の提供でお送りしております。
>>665 初代倭国造が瀬戸内の海人珍彦だとする、
記紀の記述と考古学が一致してきたという事だな。
またモモソも若い頃は讃岐中心に活躍していた点も
証明する事になるだろう。
>>663 何で大伴と久米だけが天孫降臨にお供してるのかな?
別に他の豪族でもかまわないのに。
久米は久米歌の内容からも判るように、
大分、四国東側辺りに基盤を持つ、豪族だったのだろう。
671 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 09:41:56.19
結局神武神話は四国周辺国が大和に進出してゆく話だね。
大伴や久米の基盤もその辺りだろう。
673 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 09:52:59.98
四国勢はもちろんだが、
吉備もそれに随伴したのだろう
筑紫の日向の高千穂が四国だと…
病院行きだな。
アホはお前、高千穂に降りる前に東側の国にいただけの話w
記紀の国生みの順番をみりゃ判る話だからな。
九州より四国の方が先、現実認めなきゃw
677 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 10:38:37.67
確かに四国は早い、
早すぎてイザナギ・イザナミの時代だ、卑弥呼ははるか後世なりww
頭椎太刀は九州には縁の薄い太刀だと判ってるよな?
これだけでもニニギの天孫降臨が、九州島内からの
話じゃないなんて判りそうなものだが。
ビミらにはわからんだろうが邪馬台国は西インド諸島にあったのだ
680 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 11:02:00.40
福岡県・津・宮地嶽古墳出土 頭椎太刀レプリカ
宗像遺産宝物
2.7メートルの長さを予想して復元されています。
握りこぶし十個分の長さをさす十拳剣が文献に出て来ますが、そのおよそ3倍の長さです。
須佐之男命が十拳剣を噛みにかんで、砕いてしまい霧となし、宙へと息吹くと宗像三女神が成れますのでした。
682 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 11:35:30.32
で、四国の出土例はいくつ有るんだ?
四国も少ない、瀬戸内方面に数例かな。
出土数なら断然東海より東方面に多いだろう。
どちらにせよ頭椎太刀は基本「東」だな。
>>675 >高千穂に降りる前に東側の国にいただけの話
ということは高天原四国説という珍説か。
そんなことどこにも書いてないが。
アホ。
685 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 11:55:36.83
満州一味の四国男かw
>>684 四国とは書いてないが、九州ではない事位
余程のアホじゃないと判るだろw
687 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 12:19:59.69
九州とは書いてないが、四国でない事位
余程のアホじゃないと判るだろw
つまり記紀の高天原は紀伊半島高野周辺でいいと言う事だよw
筑紫の日向の高千穂のクシフル岳から見て高い天の原は阿蘇あたりだろう。
紀伊半島高野周辺って…プッ
690 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 12:34:44.97
畿内大和だけじゃ足りなくて、紀州高野山まで借りてきたか
高野山信者乙w
691 :
役に立たない満州:2014/02/18(火) 12:36:12.20
この番組は、ごらんのスポンサーの提供でお送りしています。
四国厨
孝霊厨
モモソ厨
陰謀史観厨
692 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 12:55:43.54
>>689 何の根拠も無い癖にw
半島から離れて近づいたなんて言う奴いるのかよ?
693 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 13:01:04.00
>半島から離れて近づいたなんて言う奴いるのかよ?
解読不明、意味不明、
高野山に何か遺跡あったっけ?
アホくさ。
695 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 13:19:39.34
丹生都姫神社なら高野山の入口にあるけどな。
>>693 単にお前がバカなだけだろ。
阿蘇から高千穂に降りて、半島に近くなったなんて言うのかよw
697 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 13:24:31.94
文化遺産オンライン
頭椎大刀 かぶつちのたち
古墳時代後期
全長103.0cm
出土地不詳
頭椎大刀は、古墳時代後期の装飾付大刀の一種で、
把頭(つかがしら)はこぶし状に膨れ、横に凹凸の線が入る
(横畦目式・よこうねめしき)。鐔(つば)は倒卵形の大形で
6窓の透し、鞘(さや)の表面には2列の円形浮文、裏面には
2列の渦巻文毛彫りを施した金銅装で飾られ、儀礼用大刀
と考えられる。一般的には、把頭が平滑な無畦目式で鐔は
無透しか8窓透し、横畦目式で8窓や6窓透しのものが古く、
続いて堅畦目式の6窓透しに変化するといわれている。
東海地方以東からの出土例が多い中、兵庫県下からも
2例確認されており、中央と地方豪族の関係を物語る貴重な
資料といえる。
なお、クリーニング・樹脂含浸するなどの保存処理をおこなっている
698 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 13:26:46.78
>阿蘇から高千穂に降りて、半島に近くなったなんて言うのかよw
文章がまともになったようだ
ま、それはそれとして、どう読んでも半島に近くなったなどとは書かれていない
>>698 阿蘇や北部九州から移動して吐く言葉じゃないのは確かだよ。
>>699 言葉尻だけで考えるなら阿蘇はありえるよ。
畿内なんて後進地は論外。
702 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 13:55:28.57
>>699 基本的なところでカンチガイをしておるな。
あくまで邇邇藝命は高天原を離れ、雲をかきわけて下って来たのだ。
その前提で記紀は書かれておる。
しかし現実に天から人間が下ってくることは有り得ない、
だからせいぜいのところ阿蘇や北部九州からやってきたのだろう。そう考えることは荒唐無稽ではない。
>邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降った。
>邇邇藝命は「この地は韓国に向かい、笠沙の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。
>それで、ここはとても良い土地である」
>(「此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也」『古事記』)
>と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。
なお、邇邇藝命が発したことになっている「この地は韓国に向かい、笠沙の岬まで真の道が通じていて・・、」とは、
ここから(九州北端を経て)韓国に向う道もあり、
また(九州南端の)笠沙の岬までも真の道が通じていて・・・、と読めば、
九州島内における日向・高千穂の立地の優位性を強調したものと理解できるであろう。
>阿蘇や北部九州からやってきたのだろう。そう考えることは荒唐無稽ではない。
まず高天原自体が九州に無い時点で充分荒唐無稽だよw
704 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 14:12:59.07
高天原の場所は雲の上かどっかの架空の世界だろ
九州だとか畿内だとか具体的に想定するほうがおかしい
キミは記紀における仮想と現実の区別ができていないようだ、古代人以下・・、
江戸時代までは在ったぞ
ガリバー旅行記に書いてあった
どこまでを実在の人物とするかだが、
神武より5世代前のアマテラススサノオを実在と見なしてもいいだろう。
俺は2世紀初頭の倭国王帥升をスサノオと見てる。
707 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 15:32:00.06
「;:丶、:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:|
ト、;:;:;:丶、:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:|
{::ト、:;:;:;:;:;:` '' ー―――;:;: '|
l::l . 丶、:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:|
',:i r- 、、` ' ―――一'' " .|
|| ヾ三) ,ィ三ミヲ | 麻呂が
lj ゙' ― '′ .|
| , --:.:、:.. .:.:.:.:..:.:... | ジャムリンを
| fr‐t-、ヽ. .:.:. '",二ニ、、|
l 丶‐三' ノ :ヾイ、弋::ノ| 見つけました
', ゙'ー-‐' イ: :..丶三-‐'"|
', /.: . |
', ,ィ/ : .:'^ヽ、.. |
',.:/.:.,{、: .: ,ノ 丶::. | ジャムリン・・・
ヽ .i:, ヽ、__, イ _`゙.|
,.ゝ、ト=、ェェェェ=テアヽ|
_r/ /:.`i ヽヾェェシ/ | とうとう見つけたぞよ
_,,. -‐ '' " ´l. { {:.:.:.:', `.':==:'." |
一 '' "´ ',ヽ丶:.:.:ヽ、 ⌒ ,|
ヽ丶丶、:.:.ゝ、 ___,. イ |
`丶、 ``"二ユ、_,.____|
天から高い山に降臨して始祖王になるってのは、北方アジアで普遍的に見られる神話。
史実と考えるのが馬鹿。
というより白痴
バカだね、天孫降臨時点で年代の合わない頭椎太刀を持ってる時点で、
創作された話なのはわかりきってるしな。
大伴や久米が後に追加したお話w
711 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 18:18:53.21
高天原を何処に想定して描いてあるかが重要な訳だろ。
普通に高野、天野周辺を想定していただけの話。
北部九州とか寝言にも程があるぞw
712 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 18:24:04.17
・・と、起きて寝言を申しております。
>大伴や久米が後に追加したお話w
他にも豪族がいるのに何で大伴や久米だけがお供してきたのか説明しろ。
岩戸開きの時にはいないからな、大伴久米の祖先は。
高天原には元々いない氏族と言うことで、
後から追加するために高千穂に降りる天孫降臨神話で同伴。
なので頭椎太刀という、古墳時代末期の太刀を持っているのだろう。
>なので頭椎太刀という、古墳時代末期の太刀を持っているのだろう
南九州に多い蛇行剣は4世紀から畿内で出土するのだが。
>>714 後から説話を追加したのは藤原(中臣)だろう。
717 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 18:51:06.91
wikipedia
蛇行剣
蛇行剣(だこうけん)とは、古墳時代の日本の鉄剣の一つ
(大きさによっては鉾と捉えられている)。文字通り剣身が
蛇のように曲がりうねっている(蛇が進行しているさまの如く)
形状をしているため、こう名づけられている[1]。
西日本を中心に出土している鉄剣で、その形状と出土数から
実用武器ではなく、儀礼用の鉄剣と考えられている[2]。
古墳や地下式横穴墓群などから出土している。九州地方発祥
の鉄剣と考えられているが、5世紀初頭には近畿圏にも広がり
をみせている(備考参照)。古墳時代における日本独自の形状
の鉄剣・鉾と言う意味から、考古学上、重要な資料となっている。
天太玉命が高天原にいたというのが嘘。
藤原が地位を利用して無理やり説話を押し込んだ。
蛇行剣は隼人じゃないの?
天孫降臨とは無関係だろう。
天孫降臨とは無関係でも東征とは関係あるね。
ということは天孫降臨とは九州だね。
四国はぜんぜん関係ないからwww
721 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 19:22:10.89
邪馬台国が大和だったら、瀬戸内海の水軍も、
ある程度は大和に服属していたことになるのかな?
瀬戸内海の水軍は服属でなくて東征だろう。
纏向石塚から吉備の弧紋円盤、
ホケノから西部瀬戸内の土器が出てるのもその証拠。
>>720 天孫降臨が四世紀になってしまうのだが…
724 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 19:43:40.11
725 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 19:56:28.46
{ ! _,, -ェェュ、 |
ィ彡三ミヽ `ヽ ,ィハミミミミミミミミミヽ、|
彡'⌒ヾミヽ `ー /ililハi変態iliミliliミ|
ヾ、 /iiiiイ!ヾヾミ、ミニ=ー-ミ|
_ `ー―' i!ハ:.:.\\_::::::::::::::/:.| このスレは
彡三ミミヽ i! ヽ:.:.:.:冫': : :::/ ∠|
彡' ヾ、 _ノ i!::: ̄二ー:: : :(◎) | ジャムリンに
`ー ' {ヘラ'(◎)シ;テ ヽ''''" |
,ィ彡三ニミヽ __ノ ヽヘ彡 ( o -^ ノ | 監視されて
彡' ` ̄ `l ∴ )-=ェっ( ∵ |
_ __ ノ ヽ ⌒ | います
,ィ彡'  ̄ ヾ ヽ-- ' |
ミ三彡' /⌒ / ヽ : ::::::::::|
ィニニ=- ' / i `ー----(二つ
,ィ彡' / ミ/ (二⊃
// / ミ/ ト、二)
彡' __,/ ミ/ :..`ト-'
/ / ミ/ :.:.:..:| ジャムリン出没注意
/ ヾ\_ :.:.:.:.:|
ィニ=-/ ミ/ :.:.:.:.::::|
/ / ̄ ̄/ : .:.:.|
ノ _/ / :. :.:.:.:.:.:.:|
マキムクから必ずやそば屋の本店が見つかるはず
>>723 わずかだが纏向遺跡から北九州土器も見つかってるので東征は2世紀後半〜3世紀だ。
>>724 瀬戸内全土に拠点持ってた物部氏だろう。
729 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 21:55:32.07
東征って今考えると楽だけど、
日本地図もない、字も伝わってない当時の九州の豪族は、
「東」の地域・勢力図をどこまで把握していたのだろうとは思う
闇雲に東へ東へ軍を進めるのは、結構無茶だよ
兵士の食糧とかも考えないといけない
>>727 わずかじゃダメだろw
阿讃の影響が強い事は、考古学でも文献や
伝承でも既に一致してる話だからな。
731 :
日本@名無史さん:2014/02/18(火) 22:00:35.20
だから計画的かつ数十年かけて東征したのだろう
>阿讃の影響が強い事は、考古学でも文献や
>伝承でも既に一致してる話だからな。
吉備にも播磨にも阿讃にも物部の拠点がある。
当然時間がかかるので、結局複数の人物の伝承を
組み合わせた話だという事だよ。
物部は決して九州発祥の一族ではないからな。
もう三世紀に邪馬台国を九州に比定する事なんて所詮無理な話、
これから益々否定的な資料ばかり出てくるよ。
二世紀後半や三世紀初めに神武東征(筑紫からの)
→マキムクは考古学的に否定されている。
東瀬戸内+吉備の沿岸部の海商国家群が、東海との交易を求めて、
東の端、マキムクの地に都を築いた。
大和・中河内の大和川連合もそれに乗ったということだろう。
西の九州から偉大な大王がやってきて、ってのは
応神天皇のことだろう。
物部って、東国の方に同族が多いからな。
つまりは、ヤマト王権の東国進出に従って、勢力を強めたという。
物部を無理やり遠賀川土器と結びつけてる馬鹿がいるが、
物部が九州出身なんてことはない。
そもそも物部自身が、自分たちの祖先神ニギハヤヒが降臨した地を河内、
その後奈良盆地に移ったとしている。
考古学的にも伝承でも否定されている物部九州とか言う馬鹿は、
一体何を根拠に寝言をいってるのかw
根拠は「己の愚かしさ}
製鉄だって決して九州が進んでいたと言えない状況になるかもしれない。
現に広島周辺の物は相当古いからな。
739 :
役に立たない満州:2014/02/18(火) 23:08:46.74
この番組は
四国ガス
孝霊電気
モモソ食品
陰謀史観フィナンシャル・グループ
の提供でお送りしました。
満州よ、邪馬台国八幡平説を、はやく証明しろよ。
お前の故郷、新潟が要衝の地だったとする我田引水説だったな。
骨無しクラゲ人間と絡めて、ちゃんと証明してくれ。
脳無しクラゲ人間なので証明できません
満州もただの構ってちゃんだったんだなw
743 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 08:53:42.17
>二世紀後半や三世紀初めに神武東征(筑紫からの)
>→マキムクは考古学的に否定されている。
それ以前の唐古鍵の時代から北九州の影響があったことが、
考古学的に証明されている。
744 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/19(水) 09:47:14.07
骨無しクラゲ人間←稀代のデ○パ説
↑
こういう説を言う野郎は松沢病院強制入院が妥当!
745 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 09:50:01.60
746 :
役に立たない満州:2014/02/19(水) 09:54:50.77
>カンブリア紀初期(約5億4千万年前)の地層から見つかった。
こんなのは完全な嘘(失笑)
747 :
役に立たない満州:2014/02/19(水) 12:28:47.56
番組からのお知らせ
本日は重度精神障碍者のみなさんが治療に専念しておりますので、
番組は中止いたします。
悪しからずご了承ください。
748 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 12:59:46.84
>>743 つまり弥生中期の時点で倭国は紀伊半島までという事だな。
749 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/19(水) 13:43:34.59
満毛巣根具よ
オマエはクラゲ状の人間だったから、化石は残らないと言い張って
いたが、なん〜だ、
>>745のようにクラゲも化石になるそうではないか。><
だからクラゲ人間の化石がなきゃぁ、オマエのいうクラゲ人間の存在は
陽和病院息のデタラメのインチキだと証明される。
>>748 だいたい遠賀川式土器が北九州から広がってるし。
751 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 16:41:37.42
どこの家も大概ひとは玄関から入って来る。
しかし人は玄関では暮らさない。
>>751 だから九州の影響(人の移動も含めて)が畿内にまで来てたということに同意だね?
九州の影響より他地区の影響の方がでかいよ。
もういい加減九州から少しは離れろよw
畿内から半島や大陸を行き来する以上は
北部九州上を通過するのは当然の事なんだからな。
玄関で暮さないが、家を突き抜けた低湿地の裏庭みたいな畿内よりずっと快適。
間違いなく日本は奈良から始まったんだけどなw
757 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 17:30:45.17
なるほど、日本の始まりは奈良からだが、
倭国は違うぞ
倭国は国生み淡路島からで九州ではないだろw
初代の倭国造も瀬戸内のウズヒコなんだしな。
>間違いなく日本は奈良から始まったんだけどなw
勾玉の発祥地でもなく、
鏡の発祥地でもなく、
古墳の発祥地でもない畿内が何だって?
>勾玉の発祥地でもなく、 鏡の発祥地でもなく、 古墳の発祥地でもない
こいつは何処だと言いたいんだろうw
761 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 18:51:51.61
畿内は後発国だった!
>>760 勾玉の最古は三内丸山だね。
鏡は北九州。
古墳は出雲。
畿内って何があるの?www
鏡は北九州。
古墳は出雲。
発祥地?アホかw
764 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 19:13:03.46
>>762 鏡発祥が日本とでも?
それに前方後円墳が全国から半島まで及ぶ訳だがw
>>765 日本国内での話に決まってるだろアホwww
畿内が最後発なのは間違いないだろう。
国生み神話でも一番最後だからな。
769 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 20:12:54.74
国生み神話の一番最初は、淡路島な。
現在では近畿地方に含まれる。
770 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 20:27:34.28
今、近畿地方ではあるが、どうみても奈良ではないだろ。
そんなもの畿内で編纂されたからだろ。
ニニギが降臨したのは九州。
畿内奈良は低湿地なので、古代の稲作ぐらいにしか向いてなかったようだ。
773 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 21:19:50.26
/変質者\
.|/-O-O-ヽ|
6| . : )'e'( : . |9 ←ジャムリン
`,-=-‐⌒ヽ
_/⌒/⌒/ / |__
/ (つ /_/ /\ | /\
/ (_____/ ヽ/ \
/| ̄ ̄  ̄ ̄|\ /
/ | かまって | \/
| ください |/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
※皆さん、ジャムリンにかまってあげて下さい
>>771 じゃ、なんで九州中心に歴史書作らないんだよww
畿内土着の桓武が、九州勢力を嫌がったからだろ。
776 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 22:02:51.17
>>752 >だから九州の影響(人の移動も含めて)が畿内にまで来てたということに同意だね?
どうして?
駅前の郵便局から来た人の影響が
どうして玄関の影響に化けるの?
777 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 22:16:29.37
三世紀ころの後発地が、八世紀になぜ先進地になりえたのか?
そこを解明するのが畿内説の人間の大きな役目なのだ
白村工の敗戦以後、九州が危険地帯になってしまって、
九州の首都機能を機内に移転したと考えるのが順当。
なんだかんだ言っても、国内最古の木簡は太宰府周辺だからな。
先に都市のようなものが発達したのは間違いあるまい。
銅鐸の発祥地・中心地は畿内じゃないよね。畿内は文化後追い地。
畿内というか、兵庫や名古屋は、それなりに弥生遺跡も豊富。
奈良が発達してくるのはその後のことだろう。
784 :
日本@名無史さん:2014/02/19(水) 22:52:43.20
{ ! _,, -ェェュ、 |
ィ彡三ミヽ `ヽ ,ィハミミミミミミミミミヽ、|
彡'⌒ヾミヽ `ー /ililハi変態iliミliliミ|
ヾ、 /iiiiイ!ヾヾミ、ミニ=ー-ミ|
_ `ー―' i!ハ:.:.\\_::::::::::::::/:.| このスレは
彡三ミミヽ i! ヽ:.:.:.:冫': : :::/ ∠|
彡' ヾ、 _ノ i!::: ̄二ー:: : :(◎) | ジャムリンに
`ー ' {ヘラ'(◎)シ;テ ヽ''''" |
,ィ彡三ニミヽ __ノ ヽヘ彡 ( o -^ ノ | 監視されて
彡' ` ̄ `l ∴ )-=ェっ( ∵ |
_ __ ノ ヽ ⌒ | います
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ミ三彡' /⌒ / ヽ : ::::::::::|
ィニニ=- ' / i `ー----(二つ
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/ / ミ/ :.:.:..:| 監視だけじゃなく
/ ヾ\_ :.:.:.:.:|
ィニ=-/ ミ/ :.:.:.:.::::| 投稿されても
/ / ̄ ̄/ : .:.:.|
ノ _/ / :. :.:.:.:.:.:.:| います
弥生紀の遺跡なんて今や九州以外でも有力な物多いだろ。
丹波に土佐、吉野ヶ里以上の物が多い。
製鉄だって今や最古級は三原周辺だ。
786 :
火星人満州:2014/02/19(水) 23:17:39.79
この番組は
妄想で開く明るい未来
「重度精神障碍者を放置する会」
の提供でお送りしました。
朝鮮人も落ちぶれたもんだなw
788 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 00:09:58.31
>>771 ニニギが降臨した場所は南九州だが、
ニニギが生まれた場所は近畿。
>>788 物語の折衷案だろw
畿内勢力の先祖そこらの山に降りたって垂直物語を何故創れなかったかだな
ニニギの生まれた場所は近畿。
南九州に降臨(移住)して海幸山幸の戦いで海幸(隼人)を下したはずだが、
実は下しきっておらず争いは8世紀まで続いていた。
争いにうんざりして、あるいは領土を奪われて、一団で畿内に逃亡したのが東征の真相。
後の代の天皇はわざわざ自らクマソ討伐に赴くという念の入れ様なのもそれが原因。
ニニギが生まれた場所は対馬じゃないのか?
ニニギが生まれた場所は近畿
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l_j_j_j と) | | | / l_j_j_j と) | | | / l_j_j_j と) | | | /
畿内とすると、九州に行って帰ってまた行って、となるから、
まあ、こじつけの印象は否めないわな。
ニニギは九州の生まれだろうが、親は出雲か中国地方方面だろう。
熊本北部、阿蘇を経由して高千穂に降臨したニニギの生まれた場所は北部九州。
ニギハヤヒは生駒、(一説では二上山)に降ってるしな。
二上山は石器時代からサヌカイトや鉱物資源を産して
、また海路からの指標にもなる神山なのは間違いない。
高千穂近くにも二上山が存在するのは、
そういう意味合いがあるという事。
神武東征で瀬戸内海で戦闘がない、
生駒を超えない、もっと容易な亀の瀬や大坂、
竹内を超えないのは、そういう意味合いが含んでいるという事。
798 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 08:34:02.45
三世紀ころには後発地であった奈良が、八世紀になぜ大和朝廷を擁する大先進地になりえたのか?
そこを解明するのが畿内人の大きな役目なのだ
おそらく其の一は、奈良湿地の開拓に成功したからだろう
そして其の二は、垂仁天皇の世に残虐な殉葬を廃し、吉備風の埴輪葬に切り替えることができたからだろう
799 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/20(木) 08:45:52.18
満毛巣根具は稀代のデ○バ亀根具らしい?w
クラゲ火星人が古代地球にいた←デ○パ説 狂狂パーと認定
>ニギハヤヒは生駒、(一説では二上山)に降ってるしな。
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801 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 08:56:49.56
AA張り出したという事は(
802 :
火星人満州:2014/02/20(木) 08:59:19.62
この番組は
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803 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 08:59:31.43
奈良盆地に生まれた初期王権は、
旧王族による極悪非道の殉葬風習を廃し、
今風にいえば人権と和と経済建設をだいじにする平和国家へ歩みだしたのであろう。
それはのちの大和朝廷誕生から奈良の大仏建立までつながる、、、、。
荒らしは太国だったのかw
高千穂降臨なんて、神武東征を追加するために創作された
お話だったということか。
806 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 09:13:36.77
それを言うなら、まぁこんな感じではないの
>高千穂降臨なんて、神武(のご先祖を美化し、)東征を(正統化して)追加するために創作された
>お話だったということか。
そういう事。
なので矛盾が発生する部分の詳細は書けないだろう。
808 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 09:20:32.53
二二ギ以来神武まで、それ自体が真なのか偽なのか、
所在が九州北部なのか南部なのか、何時から何時までなのかはともかく、
仮に日向国として、瀬戸内海で全く戦闘がないのは当然とも言える。
土器の出土具合から、かなりの親瀬戸内だったことが推測されるので。
というか北部九州からの移住と思われる遺跡もあり、土器もあり、何処との敵対関係も読めない。
武器類が古墳時代でも時を経るほど多くなるので、いずれかと軍事的緊張状態にあったのも読める。
仁徳天皇のあたりで日向系の后がいたりするので根も葉もない話ではないかなとは思う
しかし応神天皇系の直系は武烈天皇で断絶している
継体天皇は応神天皇の5世の男系男子であるとされるが…
810 :
孝霊厨 :2014/02/20(木) 10:43:47.22
本当に畿内説で重要なのは巻向よりも、信貴山周辺部の解明です。
信貴は当然磯城でもあり、竜田の祭神はシナツヒコとシナツヒメ。
風の神という事は勿論製鉄の事、「シナツ」は勿論そこが
大陸との窓口でもあったという事でもあるしな。
神武の宮があったと推測される御所の柏原は発掘してないので何もわからない。
ただ当地のすぐ近くに薩摩や吉備という地名がある。
また九州時代のアヒラツ媛を祀る小さな祠もある。
アヒラツ媛を祀る神社は宮崎県日南市以外にない。
神武はやはり南九州から来たのだろう。
>「シナツ」は勿論そこが大陸との窓口でもあったという事でもあるしな
おまえまさか当時からシナという呼称があったと思ってるのか?
どんだけバカなんだよwww
813 :
孝霊厨 :2014/02/20(木) 11:08:10.67
>ただ当地のすぐ近くに薩摩や吉備という地名がある。
奈良盆地の現地名を論拠にする場合は、極力旧地名を辿る必要がある。
特に明治期以降にかなり変えられているからな。
例えば御所市自体が昔は櫛羅藩、布施藩だったり。
で、布施の苗字を持つ人は、御所市に皆無で香芝市や
葛城市といった、二上山麓に集中しているからね。
814 :
孝霊厨 :2014/02/20(木) 11:20:35.37
竜田とは当然タタラ、火を起こすには当然風を起こす必要があるからな。
竜にダッタン、まあ祟るにしても火を使う作業は必要だろう。
半島南部はもう完全に倭の属国だった。
朝鮮人が広開土王碑の拓本は、日本軍が偽造しただのイチャモンつけてたが
日本の拓本以前の拓本が中国から見つかり、朝鮮人が嘘をついていたことが証明された。
強制連行も慰安婦問題もよくよく調べてみれば嘘だった。
北朝鮮は拉致していないと強弁していたのも嘘だった。
在日が優遇されているのも事実だった。
朝鮮人の影響を受けて平和だなんだ言っているやつらがつくった歴史は
もう捨てた方がいい。脳みそ腐るから。
>>813 明治期以降に薩摩や吉備から移住者があったなら記録に残ってるだろ。
ないという事は太古に移住してきたんだよ。
だいたい何で明治以降に奈良に移住するんだ?
817 :
孝霊厨 :2014/02/20(木) 11:34:32.18
>>816 奈良には限る訳じゃないが、九州方面からの移住者は結構
最近まで多かったよ。特に繊維産業関連。
819 :
孝霊厨 :2014/02/20(木) 11:51:05.66
>>818 そこまではわからないな、大字レベルの変更を調べりゃあるかもしれないが。
明治以降は鉄道の開通と、それに伴う土地開発もあるからな。
単純に出雲や薩摩といった旧地名があっても、そこが故地だとは
「単純に」考えない方がいいと思うけどね。
工場勤務で九州から出てきて地名まで変わるわけなかろう、バカが。
出雲や薩摩という地名は古代に出雲や薩摩と関係あったんだよ。
久米や忌部という地名も久米氏や忌部氏と関係あったんだよ。
821 :
孝霊厨 :2014/02/20(木) 12:16:51.25
>>820 「だいたい何で明治以降に奈良に移住するんだ?」
こういう質問があるから答えたまでだがw
>出雲や薩摩という地名は古代に出雲や薩摩と関係あったんだよ。
久米や忌部という地名も久米氏や忌部氏と関係あったんだよ。
まあ否定はしないが、その地名がいつまで辿れるかが重要なんだけどね。
地名だけなら旧国名が大半あるからなw
また文字の変化の例もあり、、讃岐なら三吉、蛇穴という例もあるように、
単純に判断はしてはいけないという事だから。
822 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 12:20:22.59
_. ‐''"^``丶、
,r'" `ヽ、
,r'" `';i,
,i;'´ 二  ̄ ‐ -- ';i, ジャムリン容疑者の人相
,i;' ‐ -- ';i,
,i;' _ -‐- -‐- 、 ';i,
i;' /‐''" ̄`  ̄`ヽ\ i;i 特徴@ 頭頂部がハゲてる
n __ _...._ i;h
| | : = <●\ ∠●>-=: i| | 特徴A 後頭部もハゲてる
ト|: ` ̄  ̄´ : | |
l」: / ヽ lノ 特徴B 全体的にハゲてる
l (__ __)ヽ l
l ( ';';';';`ー'´;';';';',';
l: . r‐===‐ 、';i /
∧:: : . ヽ士土±ノ : . : :/
/{ \;: . `二二二´. : ::/ト 、__
/\二\ ヽ、;';';';';';';';';';';'/ `iニヽ ヽニヽ
/ \ニニ\ ヽ`二二二´ / |ニヽ \ニ\
/三\ \ニニ\ ヽ i ノニニヽ \ニニ\
823 :
火星人満州:2014/02/20(木) 12:24:17.03
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但馬とか薩摩とか旧国名の大字は、そのいかにも取って付けた感から
明治以降の名付けだろうと決め付けてたんだけど違うの?
全国地名辞典の奈良県版でも見れば載ってるけど調べもしなかった。
隼人の多い集落は大和の薩摩周辺じゃないし。
>>825 薩摩なんて新しい呼称だろうな。
ハヤトは何とかハヤトとか頭に領域呼称があるだろ。
827 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/02/20(木) 13:35:47.88
満毛巣根具は稀代のデ○バ亀根具だな?w
クラゲ火星人が古代地球人だった←デ○パ説 狂狂パー 松沢病院入院相当と認定
828 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 14:01:10.84
>>824 律令制時代の旧国名でしょう
但馬や薩摩は古墳時代からあります
>>825 >隼人の多い集落は大和の薩摩周辺じゃないし。
どうして?
それは隼人の乱以降に移住した地域だろ。
アヒラツ媛が柏原に住んだというのは同郷の隼人が多かったからだろう。
>>821 たとえば出雲庄は出雲系の移住地だろ。
大物主(大国主)も三輪山に住んでたのだし。
おまえってシナツを「シナの津」なんてアホ解釈するくせに、
こんなことは無視かい。
>>829 柏原のバル呼称付けはハヤト的だな何処まで遡るかだなまあ、バラになってんだろうが
御所の柏原周辺にハヤト居住地ないけどな。
大体柏原なんて地名は畿内に多いぞ。
834 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 15:13:30.76
日本神話ゆかりの地に限って、明治以降の鹿児島県は出血大サービス
>>832 DNA調べろとしか突き放した言い方しか出来んな。所詮物語だ大和朝廷が何者かは自分で調べろとしか
>>834 島津はハヤトに関係ない血統なのよ可なり不自然な現象。自分の血統に繋がらない土地の歴史をでっち上げる必然が何処にある?
現神武天皇陵自体の比定が幕末だしなw
>>833 >御所の柏原周辺にハヤト居住地ないけどな。
五條の阿太のように、隼人の乱以降にアダ隼人が住んだとはっきりわかる話ではなく、
神武の頃の話だから、記紀に従う限りにおいては柏原近辺に神武東征軍が住んだのだろう。
神武東征軍w
御所周辺だと隼人のような南方系の人種より、大陸や半島からの
古い帰化人系の方が多い気がするが。
>シナツを「シナの津」なんてアホ解釈するくせに
聖徳太子伝承地の近くだぞ、これは他に解釈出来るのか?
>>839 何世紀の話をしてるんだよ。
東漢氏などは5世紀の話だろ。
843 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 15:32:03.60
_. ‐''"^``丶、
,r'" `ヽ、
,r'" `';i,
,i;'´ 二  ̄ ‐ -- ';i, ジャムリン容疑者の人相
,i;' ‐ -- ';i,
,i;' _ -‐- -‐- 、 ';i,
i;' /‐''" ̄`  ̄`ヽ\ i;i 特徴@ 頭頂部がハゲてる
n __ _...._ i;h
| | : = <●\ ∠●>-=: i| | 特徴A 後頭部もハゲてる
ト|: ` ̄  ̄´ : | |
l」: / ヽ lノ 特徴B 全体的にハゲてる
l (__ __)ヽ l
l ( ';';';';`ー'´;';';';',';
l: . r‐===‐ 、';i /
∧:: : . ヽ士土±ノ : . : :/
/{ \;: . `二二二´. : ::/ト 、__
/\二\ ヽ、;';';';';';';';';';';'/ `iニヽ ヽニヽ
/ \ニニ\ ヽ`二二二´ / |ニヽ \ニ\
/三\ \ニニ\ ヽ i ノニニヽ \ニニ\
>>840 シナツヒコとシナツヒメという3〜4世紀のヒメヒコ制の時代に、
「シナ」という呼称が日本に存在したのか?
空海の時代あたりが最古だろう。
何でコテはずしてんだよ。
>>842 神武を紀元前とマジで思ってるなら病院行きだな。w
神武東征を現実と思ってる方が病院行きだよw
847 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 15:40:23.08
>>836 島津氏は熊襲というより、秦氏の系譜
>島津氏は、秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む惟宗基言の子の惟宗広言が、
>主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津荘の荘官として下り勢力を拡大、
>その子の惟宗忠久が、新興勢力である源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ、
>島津庄(現・宮崎県都城市庄内町)を起こしたのが始まりとされ、
>のちに薩摩国出水平野に城を築き、拠点を移している。
>しかし、現在では同じ惟宗氏でも広言ではなく惟宗忠康の子孫とする説が最も有力である
>>846 神武東征を唱える人は柳田さんや柳沢さんのような考古学者にもいるが?
神武を紀元前なんて言ってるのは古田というキチ○イだけ。
>>847 だからハヤトは畿内移住してるだろがよ池沼か?残存も幾らか在ったろうがな
850 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 15:46:49.81
>>844 孝霊厨じゃないから。
シナの語源なんて何時からかはっきりわかってないが。
秦由来説に凡語等、まだまだわからない事が多い。
神武東征をそのまま信用してる人なんて殆どいないだろw
>>850 >孝霊厨じゃないから
嘘つけ。
>シナの語源なんて何時からかはっきりわかってないが。
記紀に書かれてない時点で意味なし。
853 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 15:52:42.49
>>849 島津氏は朝廷から下ってきた者達であるから、
大和朝廷の先祖たる皇祖神話を薩摩・大隅に奉ろうとするのはありうること
>>853 だからハヤトと島津は血統に繋がらない事だけ理解すれば良い今では天皇家に繋がる家柄だが重要な部分だ頭の隅に入れとけばいいだろ。
>>852 アホか違うわ。
しかも記は志那都比古神、紀で級長津彦神の名はあるぞ?
読んだ事もないクセにアホ抜かすな
>>855 アホはおまえだ。
中国を指すシナという呼称が記紀にあるのかと聞いてるのだ。
糞ドアホ。
>>856 中国以外にあるのかな?語源がわからないと言ってたはずだが?
字も読めないほどボケてるならネット止めた方がいいぞ、ボケ爺
>>857 何で話を摩り替えてるんだよ。
3〜4世紀の日本が中国をシナ(支那)と呼んでたのかと聞いてるんだ。
シナツだからシナの津というお前の説は、
信濃をシナの野だと言ってるのと同じようなアホ説。
まだわからないのか?
>>858 知らねーよ、大体何もすり替えてないぞ?
読解力のなさを人のせいにするなよ、カス
860 :
火星人満州:2014/02/20(木) 17:19:09.20
神武非実在論者と神武東征紀元後論者。
重度精神障碍者どうしの死闘が続いております(笑
アホどうしの罵り合いも続いております(笑
この番組は
「土手のキンピラ保存会」
の提供でお送りしております。
当事者の癖に惚けておりますw
>>859 アホ退散www
信濃はシナの野かい?w
勝手に勝利宣言きましたww
大体シナノの語源だって判らないからな。
科の木説が有力だが、鉄由来の言葉説もあるから、
別に大陸に関する言葉としても間違いでもない。
大体国譲りで出雲から信濃に逃げてるし。
>>864 >間違いでもない。
あのなぁ。
秀吉の時代でさえも「唐入り」でわかるようにカラだろ。
シナなんて呼び方が一般化するのはむしろ近代だ。
百歩譲って仏典に支那という記述があったとしても、
日本への仏典の渡来は6世紀だな。
おまえって負けず嫌いにもほどがある。
信濃の語源はシナノキ(科の木)だろ。
「大陸に関する言葉としても間違いでもない」ってバカかよw
科の木?じゃそれが竜田の神になるねかよ?
何の事かわからないわww
まだ言い返してるわ、こいつ。
固定ハンドルで恥じさらしたもんなw
竜田など関係なく信濃の語源の話なのだが。
どっちにしても(シナツヒコを含めて)シナ(中国)ではない。
じゃシナツヒコが科の木?、誕生話知ってるのかよw
本当にもう止めとけww
>じゃシナツヒコが科の木?
信濃の語源の話なのだがと言ってるわけだがw
狂い始めたなw
別に信濃の語源だって一説にすぎないのだが=科の木
まぁ竜田の神に科木は全く無関係なのは確かだな。
>>871 おまえがやるべき事は、3〜4世紀の日本人が、
中国を「シナ」と呼んでいたと証明すること。
さぁやれ、ドアホ。
>>872 お前は早くシナツヒコの意味を説明しろよw
>>873 質問返しでごまかすな。
固定ハンドルで恥かいて泣いてるのかい?
シナツヒコの意味なんか知るかいボケ。
考えたくもないわ。
ま、シナ(中国)でないことは確かだろうwww
>>874 質問返しはお前だろ、大体孝霊厨じゃないw
孝霊厨じゃなきゃ困るのか?
実際中国関連(秦とか)以外に他に無いだろ、
あの辺は大和朝廷の外洋港みたいなもんだし。
>大体孝霊厨じゃないw
シナツヒコはシナの津と言いはじめたのは孝霊厨だろ。
そんな事言うアホが日本に2人もいるかよ、ごまかすな。
>>876 アホ、違うのだから仕方ないだろ、俺はのっかっただけだ
さっさと説明しろよ
>>877 中国を「シナ」と呼んでいたと証明するのはおまえだろ、ボケ。
質問返しでにげるなハゲ。
東漢でわかるように漢を「あや」と呼んでたのは確かだろうな。
シナってwww
>>878 判らないなら判らないでいいんじゃないの?
>>881 どうでもいい。
おまえがシナを証明しろww
先に聞いたのに逃げるなカスww
>>882 信濃や科の木じゃなけりゃ、大陸、中国に
関する港としか例えようがない。
他にあればヨロシク。
景教や拝火教の要素も飛鳥時代には入ってると思われるからな。
>>883 語源なんて諸説あって正解なんてないのだが、
「シナ」だけはないwww
アホw
>>885 だから風神だろ?竜なら火だし、たたら。
それでシナ「津」なんだから国内、まして信濃ではないなw
>それでシナ「津」なんだから国内、まして信濃ではないなw
誰が信濃って言ったのかな?
シナが中国だと説明しろと何回言えばいいのかな?
いい加減にしろよ。
天香具山の天はアメリカではない。
シナツヒコのシナは中国ではない。
以上。
こいつ、まだ言い返してくるから注目w
シナ自体は元々秦だ、ギリシャで紀元前、インドでは二世紀頃からチーナ。
山背は秦氏の本拠地なんだからシナツヒコなんだろうな、簡単な話。
>>890 日本で古代からシナと呼んでいた証拠をと言ってるわけだが?
記紀にそんなこと書かれてるのか?
呉は「くれ」
漢は「あや」
>>890 場所的にそれしか説明出来ないだろ?
シルクロードの終点で秦氏の本拠地に
そういう逸話があっても不思議はない。
初期製鉄の窯なんてインドの物に類似してるしな。
仏教以前に拝火教が入ってたのは確実なんだよ。
秦氏をシナ氏と読むのなら納得してやろうw
>>894 シナツヒコなんてそう解釈するしか無いだろうw
そうなると偶にヨーロッパからのお宝が
あの辺りに出てくるのも説明出来るかもしれない。
>シナツヒコなんてそう解釈するしか無いだろうw
お〜ま〜え〜は〜ア〜ホ〜か ♪
というか音読みって漢字が渡来してからできたものだろ?
3〜4世紀に音読みはないわけだ。
5世紀でも秦をハタ、漢をアヤ、呉をクレだな。
899 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 21:20:54.62
あれ?茅渟王なんてよくよく考えると、チーナ王だなw
>>900 魚のチヌだボケ。
大阪湾は茅渟の海だ。
底抜けのアホだなおまえwww
スレが速くなる不思議なレス
半島南部はもう完全に倭の属国だった。
朝鮮人が広開土王碑の拓本は、日本軍が偽造しただのイチャモンつけてたが
日本の拓本以前の拓本が中国から見つかり、朝鮮人が嘘をついていたことが証明された。
強制連行も慰安婦問題もよくよく調べてみれば嘘だった。
北朝鮮は拉致していないと強弁していたのも嘘だった。
在日が優遇されているのも事実だった。
朝鮮人の影響を受けて平和だなんだ言っているやつらがつくった歴史は
もう捨てた方がいい。脳みそ腐るから。
隋から来て「おいおい、ここは秦王国かよ?」
なんてさけんだのだからな、名乗るなら魚くんより秦王だろw
茅渟王‥彦人皇子周辺も謎が多い、漢王とかもいたしな。
904 :
日本@名無史さん:2014/02/20(木) 22:06:56.18
秦…養蚕・機織り ハタ
漢…文字記録 アヤ
呉…貿易 クレ
韓…もう得るものが何もない カラ
茅渟がChina?
じゃ古代の大阪湾は茅渟の海だったからシナ海?
いや、もうね…言葉が出ない。
どうせ恥さらすだけだし好きなように言っておけば。
言われなくても好きにするよw
だが兵庫辺りで見られる初期製鉄の窯が
インドの物に類似していたり、飛鳥の遺跡が
仏教の物でないのも事実なのだ。
きもちわる
908 :
日本@名無史さん:2014/02/21(金) 12:26:22.12
>>902 属国とかじゃなくて、半島南部と北九州が同一文化圏だったんだろうな。
倭人はその後、半島に出来た勢力に追い出されるが。
909 :
日本@名無史さん:2014/02/21(金) 12:45:17.70
{ ! _,, -ェェュ、 |
ィ彡三ミヽ `ヽ ,ィハミミミミミミミミミヽ、|
彡'⌒ヾミヽ `ー /ililハiハゲiliミliliミ|
ヾ、 /iiiiイ!ヾヾミ、ミニ=ー-ミ|
_ `ー―' i!ハ:.:.\\_::::::::::::::/:.| このスレはWikipedia編集者ジャムリン(ハゲ)に
彡三ミミヽ i! ヽ:.:.:.:冫': : :::/ ∠|
彡' ヾ、 _ノ i!::: ̄二ー:: : :(◎) |
`ー ' {ヘラ'(◎)シ;テ ヽ''''" |
,ィ彡三ニミヽ __ノ ヽヘ彡 ( o -^ ノ | 荒らされています
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_ __ ノ ヽ ⌒ |
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ィニニ=- ' / i `ー----(二つ ハゲと言うと傷つくので
,ィ彡' / ミ/ (二⊃
// / ミ/ ト、二) ハゲと言わないで下さい
彡' __,/ ミ/ :..`ト-'
/ / ミ/ :.:.:..:|
/ ヾ\_ :.:.:.:.:|
ィニ=-/ ミ/ :.:.:.:.::::|
/ / ̄ ̄/ : .:.:.|
ノ _/ / :. :.:.:.:.:.:.:|
なかなか興味深い話だ。
911 :
日本@名無史さん:2014/02/21(金) 15:46:13.45
だが妄想だ
もう畿内で決まったようなもんだからな。
>>908 職貢図も広開土王碑も倭に属すってきちっと書いてるよ
属国じゃなかったと主張する方が難しい
914 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 03:32:26.40
古代の中国史をみても
半島と日本を異なる民族と明確に分けているけどな。
半島南部から見て、倭人は言語が通じなかったとあるし。
915 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 09:01:04.12
モモソヒメが卑弥呼だという事が、証明されつつあるな。
916 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 09:07:06.11
んなこと証明などできんし新しい発見でもないかぎりもう論議は進まない。やるだけ時間の無駄
917 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 09:16:31.55
ひみこの時代は北九州が邪馬台国
子孫が東征して大和へ移った
918 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 09:17:37.68
もはや紀のモモソ以外に比定者はいない。
問題は文献で他にどんな名前で表現されているかだろう。
北部九州は男王の国だから最初から候補地の資格がない。
日本書紀が編纂された8世紀の時点で
中国に朝貢した倭王がいたのは都合が悪かった
よって卑弥呼の事績は消され
中国に朝貢しておらず三韓を討伐した神功皇后が設定された
モモソヒメは実在の人物ではなく
ヤマト王権に多くいた巫女的性格の女司祭モデルなのだろう
そこに卑弥呼の事績の一部が隠された形で挿入されている
921 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 10:19:57.45
>>920 なんで、そういう解釈になるのかw?
モモソ媛は卑弥呼なんだろう。
モモソヒメが王になった記述は、
記紀にはない。
朝貢は臣下じゃなくてもできるよ
ただ冊封がマズイ、卑弥呼=神功皇后が国王に冊封されたから
倭はかつて属国だったじゃんて話が出される
それで倭から日本への国号変更だろうな
倭じゃないから、もう臣下じゃないよってことだろう
925 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 11:46:12.05
倭の女王卑弥呼は、冊封を受けていない。
親魏倭王だから、冊封を受けていない。
朝貢でもあっても、冊封ではない。
冊封を受けたのは、倭の五王から。
926 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 11:55:31.43
_,,..--――--,,..
/::: ハゲ \
/:::" ヽ ←ジャムリン
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>イ ヽ ::.| ト‐=‐ァ' |: i ボクはジャムリンです♪
ノ∧ 丶、 ` `二´' }ィ´`フ
_人_ /N::::_:::::/::| ` r ' //:/: /‐く V
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もうモモソは古事記のセヤダタラで確信したよ。
竜田=タッタ=タタラ=祟られた姫。
大三島(これは女王国の事でもある)からヤマトに戻った
神の子セヤダタラヒメ=卑弥呼=モモソ。
古事記のセヤタタラ姫の記述はどう見ても悪意だろう。
>>925 親魏倭王ってのは魏国の王位を授けられたということだろ?
皇帝の臣下の王という地位に即いたということだから冊封では?
930 :
火星人満州:2014/02/22(土) 12:48:00.08
冊封なんて、日本の学者が唱えているような厳密な意味があるわけではない。
もっといいかげんなものである。
外国の使者が来たから、表彰状を贈りました、程度のものである。
学者はくそまじめにガチガチに定義付けて論じようとする。
で、素人はそれを読んで勘違いしてしまう。
931 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 13:27:34.51
>>929 違う。
冊封を受けたのなら、魏国属倭王になる。
親魏倭王ってのは、親魏である倭王って意味なので、
一応、魏を上位として認めているが、独立国という扱い。
亀の瀬とは亀の背の事で、大和川だけの事ではない。
だから地元の人に聞いても具体的にどの石を指すかわからないのだ。
これは道教思想からよる物で、谷自体が動いている事を指す。
皆亀の背に乗って動いてしまうのだ。
933 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 16:33:25.27
「魏国属倭王」って何やそれ
アホか
>>931 そんな称号倭の五王ですらもらってないんだけど
935 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 02:40:31.99
それ以前に「魏国」が笑わせるよww
曹家はまだ魏国公だったりするのか? 皇帝じゃなくて・・
魏は国号でなければ、何の号?
937 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 04:25:45.77
_,,..--――--,,..
/::: ハゲ \
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254年に、我当必死為魏国鬼と叫んだ兵士は魏国という概念をもっていたみたいだけど
まぁ邪馬台国は畿内で間違いは無いだろう。
国という概念をまず整理したほうがいいよね
岡田英弘なんかは国とは城郭都市のことだと言っているけど
一つの城郭都市は邑なんじゃないかな
たくさんの邑をもっている国も存在するし、都市=国ではないと思う。
邑をもっていても侯もいる。侯は統治権は与えられず徴税権だけが付与されるらしい。侯も封じられると表現される。
要するに国ってのはその漢字の成り立ちからして、統治権をもつ者が治める領域のことじゃないかな
倭人伝には、倭国、女王国、邪馬台国といった三つの分類が見ることができる。
倭国は、倭人の王が治める国々すべての領域
女王国は、女王国を共立する国々すべての領域
邪馬台国は、女王が都するところにある国の領域ではなかろうか
当時の列島の実態が中国でわかってなくて
便宜的に国という語が用いられているだけかもしれないけどね
ちょっとこれだと国には値しないようなとこだけど、まあそう言っとこう
というような感覚
当時の「國」と言う言葉の使い方は、現代英語で言うと”Country”に近い感覚。
國はもともと「ある区域」を表す言葉だったようで、はじめのころはせいぜい都城までの意味しかなかったようだ
だが戦国時代以降、国家の意味が出始めてきた。
ややこしいことに、漢代以降は高祖劉邦の諱を嫌って、邦が国と書き換えられるようになったために
国が封土の意味の邦という意味をも有すようになったようだ。
だから、だんだん国も邦も、諸侯の国を表し、小を邦、大を国、あるいはその逆、の意味をもつようになったとか。
邦は、右のおおざと(=邑)が意味を表し、左のやつが音を表す、という形声文字で、
釈名(紀元後200年ごろ)によると、邦は封である。功あるものをそこに封じる。とある。
史記からして前漢代の書であるから、すべての国史は国と邦の混同があると言っていいが
史記以降であっても漢国などの表現があることからして、国が曖昧な概念でありつづけた可能性は大きい。
事実、国の意味には、@独立した国家A封土B領地C地区地域D国都などの意味があるとされるし、
国家には、皇帝や天子の意味もある。
945 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 15:27:17.36
印璽に刻される国という文字は官制を踏まえるので曖昧ではあり得ない
946 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 15:30:49.47
つまり郡と同格
投馬国と邪馬台国だけ国の単位おかしいよね
948 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 15:57:28.05
おまえの頭以外おかしくない
>>946 郡国に王を封じる例は前漢代と晋代に多く見えるな
それには理由があるんだけど。
でもやっぱ、国と言えるかどうかは統治権で判断されるんじゃないの?
漢書、後漢書、隋書などには、郡以上の領域をもっている外国はある。
ただ三国志魏書は国王って用語がないのは確かだな
親魏の称号があるのは倭王と大月氏王だけだけど、
彼らは決して倭国王や大月氏国王と記されていない。
見つかっている魏王印も、国王とは書かれていない。
大月氏に至っては三国志魏書に大月氏国と一度も書かれていない、
西域諸国が〜国と定義されているのにもかかわらず。
国が都市集落周辺を意味する言葉だったことが窺えるが
一方で、倭国や魏国、呉国はあるから、国家の意味もあった。
やっぱり、曖昧なんだろう
950 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 17:50:29.29
おまえの頭以外曖昧でない
だから、官制でも爵位でも、国は位置づけられていないんだろ
将軍、大司農、郎中、令や僕射と言った官職名にも国はないし
王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯・関内侯と言った爵位にも国はない。
だから、曖昧に使われるんだよ
952 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 19:25:24.08
平国侯の逸話は劉邦時代にあるけどな
>>952 平国侯じゃなくて、侯公を平国君にしたって話だろ?
平国は個人名じゃないの?
匿弗肯復見曰此天下辯士所居傾國故號為平國君とあるし
注にも、以其善説、能平和邦国とあるし。
平国の君って意味じゃないと思う。
邦国をもらっていたようではあるけどね。爵位も不明。
前漢代には、東平国や広平国などの邦国をもらって、公や王の爵位を名乗る皇族がいるけど
彼らも東平公や東平王であって、東平国王とは呼ばれていないね。
954 :
日本@名無史さん:2014/02/23(日) 23:04:00.82
大国主
出雲→津軽
ニニギ
日高見(東北) 生まれ
ハラアサマ宮(富士) コノハナサクヤ姫
ミヅホ宮(近江)→九州
シノ宮(近江)→ソヲ 高千穂
クシタマホノアカリ
日高見(東北)→葦原国(大和)
(多賀→イカルガ→アスカ)
(ホツマツタエ)
955 :
日本@名無史さん:2014/02/24(月) 02:35:51.50
>>951 国は明確に位置付けられている.
おまえの頭以外に曖昧なものはない
女王国というのは吉備讃岐〜大和でOKだな。
すっかり勢いがなくなったなw
まぁ答え出たようなもんだから語る事もないのだろう。
>>956 お前まだアタマ修繕してないだろ?手遅れになるぞ
>>958みたいなクズ人間には死んでもなりたくないな
やっぱり手遅れだったか
「魏国属倭王」は無知の産物ということで決着済み
今更どう足掻いても女王国は瀬戸内海から東の国だろうな。
963 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 07:34:44.67
↑ だからそれを立証しろと言うんだ。立証の無い主張などまったく価値が無い。
モモソは瀬戸内から畿内に帰って大物主に嫁ぐという巫女王。
モモソを日女命とする文献資料の存在もあり、
少なくとも記紀等の伝承上では成立してる訳だが。
また考古学的にも、瀬戸内東から奈良盆地への影響は九州の比ではない。
>>964 モモソごときは女王ではない、あきらめろ。
3〜4世紀に女王であったのは、
神功皇后とヒメタタライスズ媛しかいない。
名前から言っても時代から言っても卑弥呼はヒメタタライスズ媛だ。
そうだな、古事記のセヤタタラ姫=モモソ姫だからなw
ヒメタタラはイヨだよ。
967 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 09:31:27.61
卑弥呼はモモソ媛命。
卑弥呼が倭国でどういう人物だったのか知りたければ
日本書紀に書いてある。
セヤタタラ姫の逸話は神武を皇祖とする話を作る為に
丹塗り矢話が導入されたという事だな。
時系列の矛盾した創作話なので、セヤタタラ姫の
親に関する記述が書けないという事。
もう隠しても無駄なのだ、モモソ姫が卑弥呼。
実は他にも証明出来る物がもう沢山ある。
970 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 11:01:59.72
モモソ姫は架空の人物、卑弥呼は実在の人物。比べようがない。
>>966 もう誰でもありだな。
同一人物説でももう少しまともな説をとなえれば。
まったくつまらん。
九州説はもはや現実逃避か?
墓の所在地の書かれてない卑弥呼の方が架空ならまだわかるがw
973 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 11:39:35.12
>>971 だがセヤタタラは重要人物なのに親の記述が無いのは事実だからな。
同一人物の逸話を流用してるだけの話。
974 :
火星人満州:2014/02/25(火) 12:41:06.79
この番組は
「重度精神障碍者 友の会」
の提供でお送りしております。
975 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 13:16:04.65
満州とは、九州のことである
>考古学的にも、瀬戸内東から奈良盆地への影響は九州の比ではない。
まぁ、
倭種の国の話であり、
邪馬台国とも卑弥呼とも無関係な話だ。
977 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 17:19:23.60
難波宮跡の柱「7世紀前半」…新手法で年代特定
>大阪市中央区の難波宮跡で出土した柱材2点が、
>年輪に含まれる酸素原子同位体の比率から年代を決める新手法によって、7世紀前半のものとわかり、
>大阪府文化財センターが24日、発表した。
>1年単位での年代測定が可能な手法としては年輪の幅を利用する年輪年代法が知られているが、
>今回の手法は樹種を問わずに測定できるのが特徴。
>遺跡の年代決定で初めて成果を上げたことで、今後の本格活用が期待される。
>新手法は、総合地球環境学研究所(京都市北区)の中塚武教授(地球化学)が開発した「酸素同位体法」。
>年輪のセルロース(繊維素)に含まれる酸素原子の同位体(重さが異なる原子)2種類の比率が、
>降水量に比例した残存率を示すことを応用し、約2500年間の指標を作成。1年単位での測定を可能にした。
>柱材は2004年の調査で出土。1点(直径約31センチ、長さ約126センチ)はコウヤマキ製で、
>もう1点(直径約28センチ、長さ約60センチ)は樹種不明。
>難波宮は飛鳥時代(7世紀)と奈良時代(8世紀)の前後2時期あるが、どちらの時代のものか、特定できていなかった。
>今回、最も外側の年輪はそれぞれ612年、583年と判明。伐採年を示す樹皮は残っていなかったが、部材の加工状況から、
>いずれも600年代前半に伐採され、前期難波宮北限の塀に使用されたとみられる。
倭種の国、畿内説の面々は、さぞ気がかりなことであろう。
978 :
火星人満州:2014/02/25(火) 17:36:08.55
今日のヒント
倭種の国とは日本列島のことである。九州も含む。これホント(笑
979 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 18:12:54.33
>>953 さすがに「○○君」 の○○は本名じゃないよw
980 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 18:34:08.57
まぬけ君
981 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 18:36:39.42
>>978 正確には北部九州の一部のみだよ、九州の倭国は。
北部九州が、倭国の・・くず・・・?
満州さん。
こんなところで独り遊びしてて楽しいのw
満州君はこのスレが気になるんだよw
「国」という字も読めないやつまで出てきやがった。下には下が……といっても毎度のことか。
986 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 20:47:31.87
大国主命と大物主命の違いは何。
987 :
日本@名無史さん:2014/02/25(火) 21:15:46.64
国と物
「国」と「物」の違いだよな。
国が土地のことだとすると、物は万物(英語のMatterの意より幅広く、intangibleな対象も含む)。
土地(その地上界、地下界の有象無象も含むが)の支配者と万物の支配者くらい意味はことなる。
ぼくちゃん偉いね。でもお医者さん逃げてきたらダメでしょ?
っさあ
991 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 11:19:27.69
大物主=三輪山の神名
大国主=出雲王朝の国家元首の通称
992 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 11:20:38.86
大国主は、後世、本来なら
全く異なるものでも同一視するものが多かった。
たとえば、大黒屋とか。
993 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 11:31:55.42
神話紀の話は同じネタをループしてるだけだよ。
だから名前を変えて出てるだけ。
994 :
日本@名無史さん:2014/02/26(水) 15:08:31.84
大国主を中心にして、話が広がったと言うことなのかな。
その結果、大国主が脱け殻化したんだ。どうなっつてんだろうか。
派生した事象を全て除くと大国主が残るんだ。
廻らぬアタマ、廻れ廻れ
崇神の時代、大物主は死んでいた。
崇神が大物主の祟りを恐れたから死んでいたということな。
だがモモソ媛の時代には大物主は生きていてモモソ媛夜這いをかけてた。
ここポイントな。
997 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 09:33:19.19
古事記では、大国主と大物主は別だが
日本書紀だと同一視するようになっていたはず。
大物主というのは人ではなくて、三輪山の神名なので、
何世代にもわたって登場し、その正体は見えない存在。
逆に、大国主のほうは、実際に実在していた出雲の王様のことだろう?
たぶん、本名ではなく、位名や通称だと思う。
たとえると、源頼朝という本名ではなく、鎌倉殿という通称。
998 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 09:35:44.71
>>996 モモソ媛命の時代でも大物主は正体がなく、実はヘビだった。
要するに実在の人物ではなく、三輪山の神名のこと。
また、崇神の時代は、モモソ媛命の時代よりも同じか後。
崇神が大物主の祟りを恐れた時には、まだモモソ媛命は存命中。
>>998 >実在の人物ではなく、三輪山の神名のこと
じゃ事代主は誰の子なんだよ。
>崇神が大物主の祟りを恐れた時には、まだモモソ媛命は存命中。
違うね。
モモソが大物主にホトを突かれて殺されたんだよ。
それで崇神や吉備津彦が仕返しをしたから大物主の霊を恐れたんだよ。
崇神以降、大物主の話がパタッと出てこなくなるだろ。
1000 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 13:01:15.32
誰かスレたててチョ
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。