1 :
日本@名無史さん:
乙です。
もう畿内で確定だよね。
3 :
筑紫倭皇帝:2014/01/13(月) 14:49:56.32
中韓の歴史書では 倭国=倭奴国=伊都国
倭奴国は金印でも分かるように 博多湾岸 にあったんだよね。
伊都(倭奴国)や志摩(斯馬国)や不彌国や奴国の名残も現在でも残るしね。
そして倭人伝に 「伊都国 の北の 斯馬国〜奴国 まではあえて戸数や距離は省略する」とある。
これは 斯馬国〜奴国 までが密集してるということ。
そしてその 「斯馬国〜奴国までが女王が直接治めるところ」 とある。
つまりこれは 伊都国の北の志摩〜奴国の主に福岡平野又は福岡県域が女王の国であるという事。
これは 「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」 にも表れてる。
その南、「奴国の南に狗奴国あり」はつまり久留米付近の事。
「その他の国は遠絶にしてあえて詳しく書かない」←つまり南九州の事
「倭国の東、海を渡りそこにも国はある。それも倭種である」←つまり畿内等々
これは遺跡や出土品や様々な記述に全く矛盾しないという事実。
しかも新羅の4代王は半島の歴史書によると
「倭国の東北一千里の地から海に流され半島に辿りついた」とのこと。
倭国=博多湾岸の東北東北一千里は北九州市付近。 正に記述通りである。
更に、天孫族の筑紫は福岡であり、福岡には天孫族にかかわる寺社の総本宮や総本社
や天孫族の象徴が多数残ること。
記紀の記述でも筑紫国=福岡であることは容易にわかる事。
大国主は元々博多湾岸を治める、つまり倭奴国王からつながる筑紫の神々(豪族)の祖先神であること。
天孫族に筑紫の覇権争いに敗れ筑紫を追われ(国譲り)出雲に追放された事。
筑紫と出雲は大国主が祭事や天孫族が国産みで使った銅矛と同じ銅矛文化である事。
大国主が建てた出雲大社の本殿がなぜか西(筑紫)を向いてる事等々。
全てに矛盾が発生しないのはやはり博多湾岸が総ての答えだったという事実だろうね。
4 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 16:24:17.16
ヤマト朝廷が日本の政権を盗ったのは701年だな
それ以前は有力地方豪族
5 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 18:42:43.99
倭国は瀬戸内海の海人の国だからね。
記紀にも国は淡路島から始まったと書いてあるのに。
九州説は根本的な事を無視する時点で終了してるからな。
孝霊天皇が倭国の王で、中国地方を中心に争って痕跡を多く残している。
これが倭国乱の事で、名前も同時代の孝霊帝からとってある。
まぁ漢の知識があるなら判るようにしてあるんだね。
7 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 19:06:23.41
//www.change.org/petitions/u-s-figure-skating-president-pat-st-peter-send-mirai-nagasu-to-sochi?share_id=vZRQlFOvfs&utm_campaign=signature_receipt&utm_medium=email&utm_source=share_petition
長洲未来はフィギュアスケート全米選手権で良い演技をしましたが三位になりソチに行けないことになりました
米国人女子は三枠ですが、1位、2位、4位の子が選ばれました
他の選手は転倒があり、無難にまとめたのは未来だけでした。
この扱いには明らかに未来個人への悪意を感じます。
抗議すべく、請願をお願いします。
もう少し票が集まれば長洲未来の請願が出来ます
未来への対応が変わるかもしれません
米国の日系人の待遇を変えるべくよろしくお願いします
//www.youtube.com/watch?v=rzI7zLYsKQE
未来フリー
//www.youtube.com/watch?v=-5d8nygK2nk
未来エキシ
また孝霊天皇は記紀において別名でも登場している。
まぁ欠史にしたいのも当然だな。
勿論娘のモモソも重要人物なのは間違いない。
>>3 俺は大隅半島説
邪馬台国が伊都国や奴国の南にあるなら南九州しかない
邪馬台国の南にある狗奴国というのは福岡の南にある熊本だろうね
投馬国は後の薩摩半島
10 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 00:29:26.99
邪馬台国は九州になんて100%ないと断言出来る。
女王国は山口県より西だからな。
11 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 01:16:08.94
欠史八代の天皇は、世俗的な最高権力者であって
祭祀上の正式な倭王ではなかった。
モモソの名前の意味もわかってしまったかもしれない。
ダブルどころかトリプルミーニングだよ。
卑弥呼=モモソの逸話は、民間レベルでは
永く伝えられる事になっている。
記紀では書けなくても、消すことは出来なかったんだろう。
そもそも、倭=日本と考えるのには無理がある
倭→和→大和
の変遷を考えると
倭を統治して大和になったんだろ
15 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 09:10:03.80
倭人伝の時点で、国中にある市を統括する
大倭という単語があるのは無視出来ない。
しかも箸墓は大市墓とされる点も無視出来ないだろう。
また他文献では大倭国とする物もあるしな。
16 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 17:04:32.53
卑弥呼はモモソ媛命。
それで正解。
17 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 18:11:55.32
モモソがトヨの可能性はすてきれないな。
18 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 21:10:20.06
>>3
査読のある学術雑誌に投稿してみればwww
倭の五王って大和政権の誰のことだよ?
卑弥呼が百襲姫?
こじつけも甚だしい
各地との交流痕跡があって、高貴な女性がいたことを見つけたら
それを卑弥呼に当てはめてるだけじゃねーか
勢力強ければ邪馬台国だったっていう考え方そもそも傲慢なんさ
中華では魏の時代に、邪馬台国では本気の咒で連合国を治めてんだぞ?
そんな不安定極まりない国は取るに足りないっつーの
北九州(倭国)よりも大きな勢力が大和にあったんだよ
しかも北九州(倭国)は井の中の蛙の如くで
本州の勢力のことよりも南の熊襲と争って疲弊してたってだけのことだ
邪馬台国は明らかに未開過ぎるし、弱過ぎるだろ
白村江の戦い辺りがキッカケになって大和政権が労せずに九州を吸収して太宰府設けたんだよ
邪馬台国はおろか、倭国(九州)が弱過ぎたから痕跡残ってねーだけのことだ
20 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 22:11:54.75
>>19 発作をおこすなよw
モモソ姫には日女命とする資料が一応は存在してるだろ。
しかも父親は出雲や吉備に遠征してるという、
大乱に値する活躍をして名を残す理由もある。
根拠もなく適当に妄想している九州説とは訳が違う。
21 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 22:25:02.05
>>20 ヒルメ?ヒルメヒコト?ヒルメノミコト?ヒメミコト?
どう読んでもヒミコにはならないだろ
22 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 22:30:34.92
反論が酔っ払いの言いがかりレベルだなw
日女命が卑弥呼というのはちょっと暴力的だと思うけどな
では他に日本側の資料で日女命以外で候補となりうる呼称があるのかな?
モモソには神大市姫という異称もある。
これは倭人伝にある倭国の市を司る神の名ともとれる。
しかもこれは素戔嗚尊の妻の名でもあるな。
三世紀、ヤマト王権は女王が祭祀を行い、国を取りまとめてたんだろう。
倭人伝を読む限り。
その時の記憶が、アマテラスやらモモソ媛、豊鍬入媛、倭媛とかの伝承として語り継がれていた。
後世のある時期、女系から男系へのシフトがあって、
古代の女王たちの夫の方が実は実権を握っていた
=大王だったという系譜が創られ、それが欠史八代となったのではないか?
崇神や垂仁はイリがついてるのは、本当に入り婿だったからかも?
>>24 それを探すのがそもそもおかしいんだろ
なんで合わせることが前提なのか理解に苦しむ
邪馬台国なんていうのは九州にあった蛮族の小国
倭人伝から読み取れる倭の文化と、日本書紀等から読み取れる大和の文化とは全く違うし
卑弥呼は神秘的で歴史的にも魅力のある人物だとは思うけど
どうせ蛮族の巫女如きなんだよ
それと、当時の中華の地図にある日本はほぼ九州だからな
結構みんな、そこを無視してる
27 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 00:22:14.84
>>26 まぁ君は日本の古代史の研究には向いてないという事だよ。
28 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 00:24:36.90
当時の中華の日本地図?
そんな物が存在してるのか、是非みたいもんだw
まあ、確かに北部九州の方が祭祀女王の伝統がありそうだな。
ヒラバルの被葬者も女性と推定されてるし。
景行紀に出てくる神夏磯媛やら田油津媛とか。
記紀を読んでもヒコヒメ制の形跡は、大和より筑紫の方が多い印象。
ただ、それでもマキムクが邪馬台国と言われてるのは、
土器編年の庄内式の時代が邪馬台国の時代とされてるから。
その時期には筑紫は、大和からの影響が色濃く出ている。
逆に、筑紫は弥生後期の広形銅矛の頃は独自の政治連合を窺わせるが、
庄内の頃に筑紫のみの政治的まとまりは想定し難いんだよ。
吉備津彦や百襲姫は吉備、出雲、讃岐、大和に
痕跡を残している点を無視出来ないからな。
また親の孝霊天皇は丹波や近江、東海にも伝承があるので
まさに銅鐸圏と一致している。
銅鐸圏とか一緒くたにするんじゃなく、やはり
前期の聞く銅鐸
後期の見る銅鐸
に区別すべきだと思うがな。
後期銅鐸の中心は畿内と東海で、それが後のヤマト王権に繋がる土台のように思う。
出雲は聞く銅鐸の時代、弥生中期末?に青銅祭器を終了させている。
また、荒神谷を見る限り、青銅祭器を祭ってた頃も、銅鐸だけに特化していた訳でなく、
銅剣や銅矛も信奉していたようだ。
銅剣の数から言えば、むしろ銅剣>銅鐸?と言えるかもしれない。
孝霊の活躍期は銅鐸後記の時代。
富士山の噴火やそれに伴う天変地異で
人々が東から西へ移動したという伝承がある。
また近江国では凶作が発生したとの記述も存在している。
孝霊期に東国から西国に人々が移動したと
記録されている点は見逃せないだろう。
巻向に東海方面の土器が多い事の説明にはなる。
33 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 08:52:48.81
日女命で矛盾はないと思うけどな。
二人の日女命。
ただ、卑弥呼の墓が箸墓かどうかは分からん。
伝承どおりモモソヒメかも知れん。
モモソ姫の名には大物主の后、葛城の姫だととれる
意味があるので中々興味深い。
何もわかってない奴らは鳥だとか桃だとかで解釈するが、
それだけではないんだよ。
2世紀後半から3世紀前半の畿内土器(畿内Xや庄内)が、
何で北九州から出るのかな。
孝霊では説明できないが。
一番説明できるのが北部九州が地盤と言われる物部氏。
>北部九州が地盤と言われる物部氏。
物部の地盤なんて全国にあるだろw
それに孝霊天皇が仮に倭の王なら、当然漢に接点があるということ。
北部九州〜出雲〜吉備〜阿波〜河内と、貨泉の出土経路とも
全く一致してるだろう。
当然北部九州は途中の通過経路になる。
奴国の南にある邪馬台国を畿内や九州北部に置こうとする意味が分からない
>>37 畿内説だと簡単な話、奴国を本州西部の国と見ればいい。
従来の方角間違えという説でもいいけどね。
孝霊天皇の足跡を北部九州に見つけるなら、高良玉垂命だな。
筑紫一宮の高良大社の祭神だ。
「高良山を一夜借りたい」といって結界をはって高良山に今に至る、だ。
つまり他地方から来てそこを拠点にしたという事だね。
九州王朝なんて全くの幻想だと証明出来るなw
筑紫の一宮が他から祭神がやって来てるという、
九州説には悲しい現実だな。
>>36 孝霊が北部九州に進出したと言う事跡がないわけだが。」
41 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 14:46:50.08
42 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/15(水) 14:48:37.60
43 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 14:59:46.19
高良山の神は他からやってきた。
これを大陸からやってきたのではなく、
大陸へ向かった倭王が拠点にしたとみるかの差だね。
畿内説の俺は勿論後者だな。
>>38 南九州から見れば一番北が奴国だろ
どうしてそんな変な解釈するんだ?
>>44 ・久努国造
http://www.nihonjiten.com/data/263209.html 「久努(くど、くぬ)国造は久努国(現・静岡県磐田市・袋井市周辺)を支配した国造で、
仲哀天皇(14代)の時代に物部連(もののべのむらじ)の祖・伊香色男命(いかしこおのみこと)の孫・
印播足尼(いなばのすくね)を国造に定めたことに始まるとされる。」
つまり仲哀天皇時代(4世紀中頃)には、今の磐田市・袋井市あたりに「久努」という国名が存在してたということ。
調べると今も袋井市にクヌの名残の様な久能という地名があり、静岡市にも久能山がある。
そして、魏書東夷伝では狗奴国は奴(な)国の南に位置するということだから、
北に奴国を思わせる地名があるか調べた。
伊那、恵那など奴(な)国を思わせる地名がある。
これは偶然か。
というわけで磐田市・袋井市周辺を【狗奴国』だと考えてる。
またこのあたりは銅鐸の最終集積地でもある。
46 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 18:21:02.38
弥生中期までは九州が圧勝していることは誰も異論はない。
古墳時代にヤマトが圧勝することも誰も異論がない。
弥生後期がどうだったかということだね。
邪馬台国は、滅び行く九州だったのか、発展してゆく近畿だったのか。
鍵は意外と丹後から出てくるかもしれんな。
発掘が少ないのが難点だけど。
×ヤマトトトヒモモソ媛 ヒミコ
○ ヒメタタライスズ媛 ヒミコ
48 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 20:05:46.26
邪馬台国論争なんて、前提として、歴史学者や考古学者が関西史観と関西皇国史観から、
脱却する勇気を持てば、余裕で解決するよ
一般人も一般郷土研究家も含め、プロ(主に関西系)の歴史学者や考古学者が関西史観と関西皇国史観から、
脱却できないから、論争が続いてるだけ
関西史観と関西皇国史観とは「日本の歴史で畿内以外で権威や権力が存在した事はないよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「日本の歴史で畿内以外が日本の中心になった事はないよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「日本の歴史で畿内以外の地域が日本の中心にあった時期は全て暗黒期だよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「邪馬台国は畿内以外にはありえないよ、九州説とか論外、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「熊襲、琉球人、蝦夷、アイヌは土人で日本人じゃないよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「縄文人は日本民族じゃないよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「縄文時代にも縄文人にも文化なんて存在しないよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「縄文時代は、日本史として認めないよ、存在しないよ、反論する奴は売国奴な」
関西史観と関西皇国史観とは「日本人が日本人を差別するという究極の反日醜悪史観」
関西史観と関西皇国史観の本質は「畿内の起源ルーツが命で全てであり、畿内以外の日本史、日本列島史、日本文化史、日本列島文化史、日本民族史、日本列島民族史は、存在しないもの、価値が無いもの、低俗なもの、土人のもの、暗黒なものと定義する究極の反日思想である」
関西史観と関西皇国史観が、本質的に究極の反日売国思想である事は、疑いようのない事実
関西史観と関西皇国史観は「起源とルーツが命!」と思えばわかりやすい
49 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 20:09:13.63
ヒミコは女王でなければならない。
モモソ媛は女王ではない。
しかしヒメタタライスズ媛は、
夫である神武の死後、
息子の2代綏靖天皇に皇位を引き継がせるまでの間、
短期間ではあるが女王であった。
52 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 21:07:00.85
未だに邪馬台国畿内説なんか主張してる人は頭が完全に狂ってる!
△鏡詐欺
箸墓詐欺
年輪詐欺
桃種詐欺
鯖骨詐欺
畿内説は根幹が詐欺だから、仕方が無いよね。
またアホの神武三世紀クンかw
孝霊バカは消えてください。
畿内説の恥です。
56 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 21:40:40.04
神武クンは畿内説じゃないくせに何でいるの?
>>56 畿内説だよ。
ただ纏向遺跡と邪馬台国は関係ないと思ってる。
邪馬台国は葛城。
崇神 戊寅318年.(古事記没年)
垂仁 330年. (推定)
景行 庚午350年.(日本書紀没年)
成務 乙卯355年.(古事記没年)
仲哀 壬戌362年.(古事記没年)
神功 己丑389年.(日本書紀没年)
応神元年390年
◎崇神258年没説は無理w
>>57 じゃ、その場合は孝霊の宮である
黒田庵はどう説明するんだ?
鍵唐古の近所が三世紀中頃に栄えてるという説か?
>黒田庵はどう説明するんだ?
孝霊の宮があったというだけだが?
宮なんて天皇ごとに変わってるのだがそれがどうした?
黒田庵が三世紀半ばにあったと?
巻向とダブってしまうはずだがw
まぁなくはないがさすがに苦しいな。
62 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 22:13:54.81
ヒメタタラの何処が卑弥呼やねんw
× ヤマトトトヒモモソ媛 ヒミコ
○ ヒメタタライスズ媛 ヒミコ
子供でも分かる。
頭のおかしな子供だろw
大体モモソは日女命だしな。
>大体モモソは日女命
何で中国人が別名なんて知ってるんだよ。
無理があり過ぎ。
66 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/15(水) 22:28:17.09
>>58 沖縄神徳寺保有文書の「八幡愚童訓」と呉史から
黄龍2年=230年=開化48年 呉兵沖縄来襲
を得る。
ここから倍暦年代降下計算から
崇神元年=237年=景初元年
が判明し、さらに年代下降の計算により 崇神没年=259年 が分かる。
ここから1年違いで古事記の
崇神没年(戊寅)=258年
と確定する。
>>65 モモソの方が後からの名前だろw
大体モモソには葛城姫という意味もある。
>モモソの方が後からの名前だろ
根拠は?
墓の築造説話がわざわざ紀に書かれてるあたり、
明らかに単なる皇女じゃないよな>モモソ媛
で、モモソ媛の葬られてる古墳の名前が箸墓なのは、
やはり土師ノ墓の意味で、周囲に林立する特殊器台の威容からそう呼ばれたのだろう。
普通に考えれば、モモソ媛は吉備出身。
古墳の名前が箸墓なのは箸が陰部に刺さって死んだからだろ。
ヒミコが大物主のおっさんに殺されたってか、アホくさい。
寝よ。
>>69 日本書記に記された名前なんて、モモソに限らず大半そうだろ。
箸墓名前由来は「恥」にも掛けてるだろうな。
逸話からは明らかに「下げ」の意志はあるだろう。
女陰を棒状のもので突く、突かれる、
ってのは神話的メタファーなんだよ。
丹塗矢神話とか知らないか?
普通は神に突かれた神妻は神の子を孕み、
その子がその地域の首長の祖先にならなければならないんだが、
モモソの場合はそうはならない。子を生むことなく死んでしまう。
なぜそうなったのか?
それは、三輪山祭祀の主体が、
女系から男系、モモソ媛からオオタタネコ(三輪氏)に移らなければならなかったからだ。
もう一つ、箸墓逸話の大坂山の石の話だが、
大和川水運ではなく、人が手で運んだという話。
あれ考古学的には芝山の石とされているのだが、
その芝山にも大規模な採掘跡があったんだよ。
また運搬した道というのも、箸墓近くから
鍵唐古、黒田庵前経由の河合町方面への古道跡も既に確認済みだしな。
一応伝承の裏付けはとれつつあるんだよ。
崇神紀のモモソヒメの話は順番が逆になってるんだよ。
本来は、大物主の神妻モモソヒメは子を産まず、祀る子孫がいなくなった。
大物主は大いに祟り、
河内の須恵邑から、大物主の子孫のオオタタネコが呼んで来られ、
それが三輪氏の祖になった。三輪氏の始祖伝承、職掌神話がもともとの話。
モモソヒメを大王系譜に取り込んでしまったから混乱が生じてしまっている。
大物主を祀るためにオオタタネコを呼んだ筈が、
何故かその後もモモソヒメが大物主の神妻のまま。
で、まあ、後世の三輪氏が、それまでの女系巫女から三輪山祭祀権を奪取したのはいつか?
という話だが。
三輪氏の祖オオタタネコの出身が河内の須恵邑ということから考えて、
土師器から須恵器に移行した後、
石津川流域上流に一大須恵器生産工場が創られて頃。
四世紀末あたりか?
マキムク廃絶の時期に、三輪山乗っ取りがあったとすれば、
それはマキムク王権に大きな政治変動があり、
それに連動した動きと考えれば分かり易い。
>>72 >日本書記に記された名前なんて、モモソに限らず大半そうだろ。
ごまかすな。
孝霊なんて漢風諡号は当然あとから。
ヤマトトトヒモモソ媛は漢風諡号ではない。
天皇名を漢風に付けるなら、当然言葉の知識もあるだろう。
孝霊なんてわざわざ後漢の霊帝と同じ名をつけるのに偶然はないぞ。
関連性があると考えるのは極めて当たり前である。
それを年代とみるか、国が乱れた時代ととるかだな。
まぁどちらにせよも二世紀中頃になるがw
>>78 >関連性があると考えるのは極めて当たり前である
ねぇよ。
80 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 11:33:48.16
あぁるよぉー。
>>81 孝霊の話なんて理解したくもない。
ヒミコと全然関係ないし。
都合の悪い事は知りませんか、それじゃまるで朝鮮人だぞw
84 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 13:30:16.95
いくらなんでも後漢の霊帝と同じ時代の倭人に孝霊とつけるわけにはいかなかったであろう
おそらく霊帝から数えて数世代のち、後漢から渡ってきた在日三世・四世で、
三世紀半ば以降の吉備王国ゆかりの人物。
85 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 13:37:46.15
五代・孝昭天皇
六代・孝安天皇
七代・孝霊天皇
八代・孝元天皇
皆、後漢の霊帝の血筋で、吉備王国所縁の人々ではないかな
>>83 それは君。
× ヤマトトトヒモモソ媛 ヒミコ
○ ヒメタタライスズ媛 ヒミコ
>>86 それずっと言い続けても誰も賛同者がいないじゃないかw
孝霊に縁がある、考えられる名前というと、高良に広陵。
これで本拠地広陵町にも繋がる訳です。
広大な牧野古墳があるから広陵なんていう由来は後付けなんですよ。
謎の多い彦人皇子の墓とされてますけどね。
高良は勿論、正体が不明とされてきた高良玉垂命に繋がる訳です。
筑紫一宮の祭神は、葛城地方から北部九州をベースに半島へ渡った訳ですな。
なんとなく武内や葛城が半島と結びつきが強い理由もわかってきます。
mixiなんて全然ダメ、別ジャンルでも顔出してたが
呆れるほとレベルが低い。
大体あそこじゃ本音は出ない。
91 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/16(木) 14:39:48.37
>>67 >>58←これなんか何の資料の提示も無し。
つまりこれでは説得力はゼロ。
【開化崇神 編年表】年違わずの一致は金メダルもの、1年違いの整合は銀メダル
皇紀西暦 干支 倍暦紀皇年
510 -151 庚寅 210 7←開化7年
511 -150 辛卯 8
512 -149 壬辰 9
513 -148 癸巳 211 10 崇神誕生⇔崇神の御名に因み任那成立【金】
・・・・・・・・・・・・・
530 -131 庚戌 220 27
531 -130 辛亥 28 崇神立太子
・・・・・・・・・・・・・
550 -111 庚午 230 47
551 -110 辛未 48←→開化48年 呉兵20万3千人沖縄襲来 黄龍2年【金】
552 -109 壬申 231 49
553-108 癸酉 50
・・・・・・・・・・・・・
562 -99 壬午 236
563 -98 癸未 60 開化60年 開化崩御
564 -97 甲申 237 元 崇神元年 崇神即位 天津神算木と一致【金】
・・・・・・・・・・・・・
569 -92 己丑 238 6 崇神6年 倭笠縫 鏡祭祀 鏡作神社鏡改鋳【銀】旧月紀は鏡に映らず
570 -91 庚寅 239 7 景初3年鏡銘文年(鏡祭祀と1年違い)
・・・・・・・・・・・・・
627 -34 丁亥 258 64 倍暦戊寅年=古事記崇神没年(259年崩御と1年違い)
628 -33 戊子 65
629 -32 己丑 66
630 -31 庚寅 259 67
631 -30 辛卯 68 崇神崩御【銀】
92 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/16(木) 14:41:56.37
>>58 何の資料もないということは、ここでは記紀以外の文献 根拠等。
>>86 俺は君と違ってヒメタタライスズ媛のことも色々検証してるけどな。
だが墓やその他の伝承に由来するものが少ないのが現実。
地元の豪族なら畿内に何かありそうなものだが。
>>92 >ここでは記紀以外の文献 根拠等
アンタそのうち松野連とか出してくるんじゃねぇか。
やめてくれよ。
>>93 鴨氏は前方後円墳の氏族ではない。
墓は今の所、高鴨神社奥の神山が最有力。
神社の祭神などは時代とともに変わる。
だいたい初代天皇の名前を知ってても、
初代皇后の名前を誰も知らない事自体がおかしい。
記紀編纂者により意図的に卑弥呼が隠された結果が神武BC660年だ。
初代皇后も同時代に葬りさられた。
モモソ媛が卑弥呼なら記紀編纂者はその通り書いてただろう。
皇女なのだし文句ないはずだ。
ところがモモソ媛では役不足というか小者なので、
干支を2周ずらしてまで神功皇后を卑弥呼にあてはめたのだ。
これは明らかに意図的だ。
卑弥呼が誰なのか分かってた故の所為だ。
ここで日本語「役不足」について突っ込みたい人、どうぞ
↓
↑
反論できないのだなw
生活がかかっているから、モモソが卑弥呼でなくては困る奴だけが、
モモソ=卑弥呼説に固執してるだけでしょ。
モモソ=卑弥呼説は単なる詐欺だから、みなさん相手にしていません。
崇神4世紀前半は考古学的にももはや定説。
したがってモモソ=卑弥呼説は成り立たない。
孝霊という影の薄い天皇をいくら持ち上げても無理。
人間、諦めが肝心。
>人間、諦めが肝心。
まさに
>>100の事だろうw
バカはパズルスレで遊んでなさい。
102 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 16:52:50.72
たしかに崇神4世紀前半とすれば、万事なっとくしやすい
>墓は今の所、高鴨神社奥の神山が最有力。
一応地元でもあるので相当以前から調べたけど、それらしき話は
何も聞いた事がないぞ?
>相当以前から調べたけど
嘘つけ。
伝承のあるなしは置いておいても、あれは墳墓だ。
>>104 墳墓なのは否定してないのだがな。
古墳を疑うような森なら葛城山麓周辺はそれこそ沢山あるから。
北葛のうちの墓の近くの小山からも鏡が出たりしてるぞ。
でも高鴨神社奥の神山に、肝心の卑弥呼に結びつく要素が
何もないという事だ。
>>105 「何もない」もなにも発掘できないのだから仕方ない。
イスズ媛は父親の事代主の時代に葛城に住んだわけだから、
かなり古いとは思う。
他にも柏原村のホホマ丘の上にも墳墓があるが未発掘だ。
葛城・御所周辺はかなり古いぞ。
107 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/16(木) 18:23:43.97
百襲媛と卑弥呼はほぼ同年代の女性であり、
前者は畿内、後者は九州の女性。
>>106 掖上、柏原付近なんて知人も多いのだが。
ナイーブな問題を抱える地域ではあるが、
集落別の話等を取材したこともあるよ。
敷地内に古墳があるなんてのもよくある話だ。
だがあの辺りの古墳が巻向辺りより古いという事はない。
本当に奈良県で一番不明、謎が多いのは
北西部、王寺、香芝周辺だよ。
>だがあの辺りの古墳が巻向辺りより古いという事はない。
発掘してないのに何で分かるの?
>北西部、王寺、香芝周辺
あのあたりも古いだろうがね。
110 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 18:53:15.92
孝霊の黒田と纏向がかぶっても問題ないと思うよ。
当時の天皇家が天皇だと思うから間違えると思う。
卑弥呼を共立した有力氏族の一つであり、纏向周辺に豪族たちが都の屋敷を
作ったと考えれば。江戸屋敷とか京都の大名屋敷とかのようなもの。
>孝霊の黒田と纏向がかぶっても問題ないと思うよ。
3世紀第3四半期だな。
トヨの時代。
柏原村とか掖上は、うん
発掘できないのは御所だからまぁ仕方ないだろ
民家から人骨の山が出てきても嫌だしな
>>109 まぁ偶々出土した物や、保管してあった物を見せて貰ったりとか。
巻向周辺よりは新しいというのは個人的な判断だけどね。
名前は出せないが、同行した人も同意見。
だがあの辺りは弥生末期ではなく、極端に古い物が出土すると予想してる。
北葛周辺は間違いなく考古学では穴。開発も進んでしまったり、
大和川周辺の水害被害もあったりでよく判らない。
竜田の勢野辺りなんて何かありそうな気もするが。
おれも土偶を堀り当てたい。
115 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 22:05:58.68
保津遺跡には遺跡の下に遺跡がある。
117 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 17:58:27.15
こりゃ早い者勝ちだな。
マキムク成立時期の葛城地域は確かに謎。
サヌカイト利権や前期銅鐸の分布から考えても、それなりのクニ(葛城国造)
はあったんだろうとは思う。
しかしマキムクの始まりは庄内土器からで、
その画一的な様式の土器が広く全国に広まるのをもって、大王権力が生まれたとされる。
しかし庄内土器の分布は面的に広がらず、点で分布している。
あくまで在来土器にこだわって庄内を受け入れないクニも多い。
その一つが葛城だ。
最近発見された久渡3号古墳で、漸く葛城地域の古墳前期初頭の様子が分かってきた。
同時代のマキムクの古墳に比べて明らかに小さいこと。
マキムクから画文帯神獣鏡を下賜されていること。
などから考えても、マキムク>>>葛城で、とても対等な立場だったとは考え難い。
法隆寺の五重の塔の礎石の更に下とか、大阪城の下とか、琵琶湖の湖底とか、堀るに堀れないところだろうな。
古代の奈良には二つのクニがあって、
それがシキとカツラキ。
倭国造と葛城国造。
磯城嶋と秋津嶋。
古墳時代中期に二つのクニが共同して、半島権益を保持しようとした。
しかし最終的に葛城王は磯城の王に討たれてしまう。
自動車の鉄は朽ちて、ゴムタイヤだけが大量に出土。
2千年後の歴史愛好家が、ブルヂストンの分布から、久留米工場のあった福岡県の大王が世界を支配していた。
と言っているのに近い。
葛城って一口に言うが、北西部と南西部が同一勢力だったか?は疑問。
馬見古墳群と、室大墓古墳は離れ過ぎてる。
>>121 その話はよく聞く。
土器は残り易いから、考古学はどうしても土器偏重になり易い。
しかしまあ、庄内土器ってのは一つの発明で、
熱伝導率の良さから、広く日本列島全体でもて囃されたんだろう。
だから広く分布する。
当時の飯炊きの大変さは想像以上で、画期的な炊飯器を発明したマキムクが、
その経済力から倭王に共立され、超巨大な古墳を築造したと。
磯城というとどうしても奈良県の印象が強いが、
河内にも志紀があるように、本来は信貴山(生駒山)=を
中心に考えた方がいい。物部の祖先は河内の交野だけではなく、
二上山に降り立った伝承もありますからね。
今の地形や漢字の地名に惑わされちゃダメです。
それに二上山は香山、かづらき山とも言います。
>>118 纏向に王権があったなら記紀に書かれてるはず。
纏向の王権は崇神時代にはあった。
じゃそれ以前の纏向は何なんだという話。
126 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 02:43:14.84
纏向と高尾張(葛城)は、
古代にあった大和湖の東岸と南岸で向かい合っている。
纏向の王権は、高尾張(葛城)の王権の支流。
纏向の王権の主、つまり、欠史八代の前半の天皇たちは、
高尾張(葛城)の王権の支流にあたり、
宗家である高尾張(葛城)の王権につかえていたが、
政治の実権は、欠史八代の前半の天皇たちが握っていた。
見てきたような嘘言うな。
128 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 08:33:15.24
邪馬台国の研究は日本古代史という学問の一分野であり、論証・立証を必要と
されるものだ。早い話がここは学問板だ。いくら2チャンだと言ってもなんの
立証も伴わない妄想・オカルトを述べるところではない。学問のモラルをわき
まえていただきたい。
妄想や願望批判なら他の邪馬台国スレにした方がいいぞw
三輪王朝の前にはやはり葛城王朝と呼んでいいものが
存在したと考えた方が自然だろう。
その葛城地方というのは現在の王寺町周辺を含んだ範囲だよ。
>葛城地方というのは現在の王寺町周辺を含んだ範囲だよ
葛城王朝は神武や綏靖の宮を考えたら御所を含んだあたりだろ。
>>131 勘違いも甚だしい。
二上山でさえ元々葛木山だし、和歌山県にも葛城山はある。
葛城で赤胴が採れるという記述があるように、決して
御所辺りを指す訳じゃない。
二上山に関する勘違いはもう一つあって、大坂山を二上山と
混同してる奴が多すぎる。大坂山は本来穴虫より北側を指す。
>>132 勘違いはおまえだよ。
こっちは山の話なんてしてない。
大物主→事代主(鴨氏)→初代皇后ヒメタタラの拠点には今も鴨系神社があるだろ。
それらは葛城・御所近辺だよな。
葛城王朝ならその話だよ。
この間、えべっさんだったけど、
関西でエビス神社のある所は正直柄が悪い。
差別と関わってる所も少なくない。
事代主=エビスとも言われるが何か関係あるのだろうか。
>>133 やはり勘違いも甚だしい。
その後の天皇が高田市、広陵町等の葛城地方に
宮を持ってる事は無視?
>>135 だから何なんだよ。
神武以降数代が葛城・御所近辺だろうが。
葛城王朝とはその話なんで山の話なんて関係ない。
>>136 葛城王朝を御所周辺に限定するなという話だろ。
馬見丘陵地や王寺辺りまで葛城地方なのだから、山の話は関係大有りだよ。
海人は山を目安にするのだ、間違えると勘違いをする見本だな。
阿蘇山とあるから熊本だと言って留奴や、
箸墓を二上山の石と言ってる奴は基本的にバカと判断していい。
140 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/18(土) 21:25:06.43
巨象根具は盲象カルトの巣韓区。
今までの邪馬台国問題も、当時の地名の意味をよく理解しないから、
滅茶苦茶な解釈がなされていたのだろう。
その最もな例として、カヤを挙げておこう。
半島にも丹後にも国、地名があって、カヤナルミという
重要な存在の意味すら理解されていないのが現実だ。
>カヤを挙げておこう
カヤの意味は?
萱や茅の漢字からだけで連想すれば誤解しやすい。
アイヌ語では確か幌の意味もあったかな。
モモソ姫の箸墓逸話で、昼夜を問わず
神と人が協力して造ったとあるが、これなんか重要な話だね。
諸国が共立した巫女王として相応しい。
>>144 ならばなんでモモソ媛を卑弥呼に当てがわなかったのだろうね。
神功皇后なんて時代違いもはなはだしい。
146 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 10:28:09.27
>>145 編纂当時の対外的な事情だろう。
唐は勿論、半島三国との関係を無視出来ない話。
>>146 それと、モモソ媛を卑弥呼にしなかった事と何の関係が?
モモソヒメを卑弥呼にしなかったのは、紀の編者が「卑弥呼が誰なのか?」
がまるで分かっていなかった(伝わってなかった)から。
で、やむなく、おそらく神功皇后のことだろうと推定した。
いわゆる最初の畿内説の誕生だ。
>>147 当時の権力者が公にしたくなかっただけの事。
中国だって戦乱の時代だよ?
対外的に絡んだ話はバッサリ切りたかったという話。
>>148 倭人伝を熟知している連中が知らない訳がないw
150 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 12:09:33.83
>で、やむなく、おそらく神功皇后のことだろうと推定した。
逆だろ。卑弥呼を描くために神功皇后を作出したんだよ。
日本書紀の神功紀に、わざわざ倭人伝の卑弥呼の記述を引用。
近肖古王を八代前の肖古王に読み替えたり、
かなり工作してることになるが。
そもそも、そんな改竄ばかりの日本書紀を根拠に、議論していても無駄な気がするがw
だから記紀に載ってない部分の伝承や風土記散文を
参照する必要があるという事だろう。
半島〜西日本の歴史なんて白村江の後じゃ、問題有りそうな
点の改変なんて当然。
風土記はともかく神社の社伝とかは、かなり後世に創作されたり改変されたりがある。
眉唾で読まないと人生無駄にするよw
社伝も読まなきゃ脚色かどうかを判断出来ないよw
当然場所や周囲の遺跡状況、交流関係の有無や古地名で
判断するものだ。
社伝に、記紀に採用されなかった歴史の断片が残ってる可能性もある。
ただ、あくまで可能性だからな。
156 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 13:07:07.81
共立したという意味は、家臣が選んだという意味だよ。
これの対義にあるのが、先王が後継者を選ぶって行為。
東アジアでは普通は後者なんだけど
例外的に前者になるわけ。
なので孝霊天皇の伝承が出雲や中国地方に多いのは無視出来ないだろう。
それが記紀では無視されるという事は、
そこに隠したい話があるという事だよ。
158 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 13:13:24.14
>>157 そこらでも、何らかの大きな戦闘があったんだろうけど
だからといって、中国地方が直接的には関係していないと思うわ。
あくまでも、倭国大乱の主戦場は畿内。
瀬戸内や中国地方の乱は鬼退治の話で民間伝承されるのだから、
決して小さな乱ではないぞ。
鬼退治が「倭国大乱」なわけないだろ。
鬼畜米英という言葉からもわかるように、
鬼は侵略者の象徴だぞ?乱以外他に何があるんだよw
162 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 15:55:34.03
応仁の乱も南北朝も主戦場は畿内だけど
これらは全国規模に乱が波及していただろう?
倭国大乱も同じで、主戦場は畿内だが
これは全国規模に波及していたと思われる。
畿内の中央政権が二手に分かれたら、どちらに従うのかで
全国の諸侯でも二手に分かれるだろう?
孝霊や吉備津彦の鬼退治伝承は、出雲の隠岐から中国地方日野川沿い、
そして瀬戸内海一帯に広がってるよ。
高地性集落の分布とも関連するし、
これが倭国乱でなくてなんなんだという話。
164 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 16:28:35.01
>これが倭国乱でなくてなんなんだという話。
倭国とは九州島にあった連合国のこと
隠岐、出雲から瀬戸内へかけてなら「中国」の乱
鬼退治の伝承は九州に残ってないぞw
大和の田原本には有るけどな。
21世紀の初頭、脳を直接やられる悪質な疫病が蔓延したという史実がある。
2chのログが大量に発見されたから疑問の余地なし。後世の史家は楽だな。
>>164 倭国は基本瀬戸内沿岸諸国の事な、九州では北部九州もそうだが。
168 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 17:48:56.75
九州島は倭人の住む倭国
東に渡海千余里の瀬戸内方面は倭種の棲む辺地
ま、鬼が出てもおかしくなかろ
そういえば九州には何も伝承がないね。
筑紫一宮でさえ他から祭神が来てるのだからな。
これは征服されたからだろう。
>>161 おまえは神武東征は乱としてはしょぼいと言いながら、
くだらない鬼退治を大乱と言ってるんじゃないか。
バカかよ。
171 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 18:25:36.49
さよう、
三世紀に東遷し、大和に都を築いた者たちが、
今度は四・五世紀に西征し、彼らの政治体制と文化を広めたのであろう
つまりおれさまは、東遷−西征説
173 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 18:43:51.47
>>170 実際神武東征はショボイぞ。
肝心の瀬戸内海では何も争った記述がない。
河内湖では負けてるしなw
対して瀬戸内海や出雲は鉄記の痕跡(淡路島の垣内遺跡)に
高地性集落等、2世紀末の乱で正にピッタリだ。
>三世紀に東遷
九州からは痕跡が殆どないので無理だよ。
あっても阿波や吉備だな。
>>173 アホか。
高地性集落等、2世紀末の乱こそ神武軍だよ。
編年もせずに適当な事言うな。
>>174 鏡玉剣の埋葬は九州だよ。
文化の輸入なんて屁理屈は通用しない。
>>175 じゃ、何故神武東征の記述が皆無なんだよ?
神武東征とは豪族伝承からの創作だよ。
>鏡玉剣の埋葬は九州だよ
鉄や玉は丹波にあるしな、実質鏡だけじゃんw
>>178 剣は丹波の何古墳?
>鏡だけじゃんw
それが大事なんじゃないかよ、バカか。
>>177 >何故神武東征の記述が皆無なんだよ?
意味分からん。
何言ってるんだ?
>>179 大風呂南とか結構出てると思うが。
>>180 本当に読んでるのか?河内湖までは争った形跡がないぞ。
>>181 昨日もテレビの不思議発見でやってたけど、
大陸・半島への航路は宗像氏など九州の海人を経なければ無理。
>河内湖までは争った形跡がないぞ
だから何なんだ。
ニギハヤヒやナガスネヒコなど大物を巻き込んだ戦争なら大乱だろ。
鬼退治ごときショボイものとと一緒にするな。
アホ、海人は元々九州にいる訳じゃない。
便利な場所に拠点を持っただけの話だ。
鬼退治は民間伝承だろ、当然鬼は半島方面からきた賊の事だ。
神武は渦彦(瀬戸内海の海人)と出会うまで何もしてないぞ?
これの何処が九州勢力の東征だよw
>便利な場所に拠点を持っただけの話だ。
半島に渡るのに北九州以外にどこが「便利」だと言うのだ?
>これの何処が九州勢力の東征だよw
記紀に書かれてるんだから仕方ない。
奈良に吉備の影響が強いのは当たり前。
吉備に長期停泊したのだから。
その吉備周辺で伝承を残してるのが孝霊天皇や吉備津彦だろ?
だから欠史八代の記述を避けただけの話。
神武創作の理由の一つだな。
>孝霊天皇や吉備津彦だろ
孝霊が倭国大乱の主人公なら記紀に素直にそう書けばいいだけ。
書かずに遠慮してる意味が分からん。
お前は一度、何天皇が何年ごろと編年をしてみろ。
俺はやってるぞ。
>>186 書けない理由があるから書かないんだろ、銅鐸や卑弥呼と同じだ。
出雲や半島諸国との関係、隠したい理由はいくらでもある。
それに記紀の作為を探してるのに編年を求める意味はないのだがw
銅鐸が記紀に書かれてないのは神武の前時代の祭器だからだ。
>それに記紀の作為を探してるのに編年を求める意味はないのだが
孝霊だけは実在どころか伝承まで信用してて、
あとは知らんてか。
そんな勝手が通用するかよ。
卑弥呼をモモソ媛にしたいがためのダブスタだ。
卑怯な議論はやめろ。
勘違いしてるようだが神武はいないとは言ってないぞ。
イワレビコが誰かとか、珍彦や剣主との関係とかを探したりしてるぞ。
大宇陀や桜井地方の逸話や痕跡はかなり集めてるぜ。
孝霊は欠史の中でも極端に伝承が多いからな。
それが無視されてるなら興味持つのは当然だろ?
しかもモモソの父なんだしな。
追加するならモモソ=卑弥呼とは断定はしないよ。
トヨの可能性も捨てきれないしな。
>勘違いしてるようだが神武はいないとは言ってないぞ
神武がいて孝霊もいるならほぼみんないるという事だな。
ならば編年しろよ。
>>191 卑弥呼とイヨが特定出来たら編年するよw
193 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 21:03:28.99
物的証拠や根拠もない単なるキモヲタの妄想すぎる。編年などできるわきゃないだろ。
194 :
日本@名無史さん:2014/01/19(日) 21:44:36.54
神武東征や九州説なんて物的証拠は何があるんだよww
こじつけしかない編年なら誰でも出来るわ。
そんな妄想恥ずかしくて出来るかよw
ていうか、恥ずかし気もなく「僕の考えた年表」を発表出来る方がどうかしてるがなw
しかもそれを本にして大量在庫を抱えます。
ていうかやはり、記紀から距離を取るべきなんだよ。
このスレでもかなりの記紀原理主義者でさえ、
記紀の全ての記述が正しいとはしていない。
一番大事な筈の大王系譜でさえ、
本当は兄弟相続だったのを父子相続に記紀が改変したと言っている。
つまりは、記紀の記述を根拠にしてはいけない。
そうそう 敬してさわらず
200 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 03:55:33.35
>>198 そんなこといったら、なんとでも言えるだろうw?
父子相続で間違いないと思うよ。
まあ、一部、事実が忘れ去られて、実は弟が兄の養子になった場合も
あったかもしれんが。
>>195 >>196 崇神 戊寅318年.(古事記没年)
垂仁 330年. (推定)
景行 庚午350年.(日本書紀没年)
成務 乙卯355年.(古事記没年)
仲哀 壬戌362年.(古事記没年)
神功 己丑389年.(日本書紀没年)
応神元年390年
ここまでに文句あるか?
記紀が信用できないと言いながら、
孝霊だけは実在どころか伝承まで信用してます、
ってアホか。
そんな都合の良い話はまかり通りません。
没年.
神武 210年.
A 230年.
BCDE 260年.
F 280年.
GH 300年.
こんな感じだろな。
204 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 06:53:26.41
すべてが正しいとまでは言わんが、すべて捏造とも言えないんじゃないかな。
系譜にしてもさ、乱世の世の中で、まともな跡取りがいないのに生き残れる
って甘いと思うよ。少なくとも成人した子どもなり弟なり甥がいて、一族を
率いていくことが出来ない氏族は、潰れて当然だろ。
>>202 じゃ、頑張ってそれを考古学や各地の伝承をもって
証明してゆけばいいんじゃないの?
まぁその年表なら何故瀬戸内海には神武天皇の伝承があまり残らないのか?
という疑問点しかないんでね。
それに何度もいうが、そこに卑弥呼やイヨを嵌め込む場合、
結局記紀の正確性を疑う事になるよw
どうしても神武を三世紀に持ってきたいのなら、
欠史八代を皆集めた象徴だ、としか言えないな。
それを最初に持ってきたというだけどの話。
>>205 >まぁその年表なら何故瀬戸内海には神武天皇の伝承があまり残らないのか?
>という疑問点しかないんでね。
厳島、安芸、吉備に滞在してるだろ。
神武は滞在してるだけで戦闘したという話なんて全くない。
この辺りで賊を退治した伝承話はなぜ皆吉備津彦なんだよw
>>208 何で戦闘してなきゃいかんのだ。
戦闘せずに普通に吉備の文化を持ってきたと考えるべきだろ。
>>209 じゃ、神武は吉備生まれでいいんじゃないの?
それとは別に神武の宮があったとされる近所の
秋津遺跡の存在は説明出来る?
今の比定は弥生前期、2400〜2600年前とされていてるよ。
つい最近も水田跡から玄米が出土してるはず。
>>200 「父子相続は間違い。それ以外は正しい」と思い込める頭がw
古代人にとって系図は、我々現代人が思う以上に大事で、
それが伝わっていないということは、他の伝承にしても、
混乱、改変、錯誤、推定などがあったと見るべき。
>>210 >じゃ、神武は吉備生まれでいいんじゃないの?
別にいいけどそう書いてないのは何故だろうね。
>秋津遺跡の存在は説明出来る?
はぁ秋津遺跡は複合遺跡かもしれないが、
祭祀用の馬の歯が出てて4世紀前半だろうが。
>>211 >「父子相続は間違い。それ以外は正しい」と思い込める頭がw
成務は父子相続ではないと思うが。
それ以外は大よそ父子継承だろう。
秋津に神武の来る遥か以前に稲作してちゃおかしいよなw
しかも大した戦乱の形跡も無い。
>>212 典型的な都合の悪い事は無視する奴だな、秋津周辺は古いぞ?
神武軍は葛城の土蜘蛛退治してんだろ?
紀元前から稲作してちゃダメだよなw
>秋津に神武の来る遥か以前に稲作してちゃおかしいよなw
別にかまわんだろう。
大物主に代表される出雲系住民もいたようだし。
>戦乱の形跡も無い
源平合戦の形跡って見つかってるのか?
>>214 >秋津周辺は古いぞ?
だから複合遺跡だろ。
217 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 11:17:30.52
誰も神武を三世紀なんて思っちゃいないぞw
>>217 >誰も神武を三世紀なんて思っちゃいないぞw
平均寿命や平均在位を計算できない痴呆がそう思うのだろうね。
220 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 11:29:09.13
朝鮮日報は相変わらずバカだなw
欠史八代から崇神までを神武としてまとめたんだろ。
大まかにはそんなところだなw
簡単な話だろ、孝霊は出雲から嫁もらったんだよ。
やはり邪馬台国はヤマトで何も問題ない。
>欠史八代から崇神までを神武としてまとめたんだろ。
と言いながら、
>孝霊は出雲から嫁もらったんだよ。
その孝霊も欠史八代だよね?
やはり痴呆であったかw
>>222 お前は本当にアホなのか?
もっと簡単に言うと孝霊も神武伝承の一人だと言ってるんだよw
それに出雲は抵抗あるので孝霊の名で伝承を残したということ。
なので記紀では触れないのだ。
まぁカヤナルミの意味を正しく理解出来ないと無理かもな。
>>212 平均寿命30歳で平均在位11年では、父子相続が十代以上続くのは不可能、
だったのでは?冷静に考えて。
>>223 >孝霊も神武伝承の一人だと言ってるんだよw
痴呆の発想には付いていけない。
>>225 >父子相続が十代以上続くのは不可能、だったのでは?
続いてるなんて言ってないが?
せっかくヒメタタライススキ姫のヒントあげたのに
気付かないんだな、神武三世紀君はw
卑弥呼ですけど、何か質問ある?
熟女AVにでも出るのか?
230 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/20(月) 15:15:26.05
>>201 沖縄神徳寺保有文書の「八幡愚童訓」と呉史から
黄龍2年=230年=開化48年 呉兵沖縄来襲
を得る。
ここから倍暦年代降下計算から
崇神元年=237年=景初元年
が判明し、さらに年代下降の計算により 崇神没年=259年 が分かる。
ここから1年違いで古事記の
崇神没年(戊寅)=258年
と確定するのだ。
231 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/20(月) 15:16:48.36
>>201 【開化崇神 編年表】年違わずの一致は金メダルもの、1年違いの整合は銀メダル
皇紀西暦 干支 倍暦紀皇年
510 -151 庚寅 210 7←開化7年
511 -150 辛卯 8
512 -149 壬辰 9
513 -148 癸巳 211 10 崇神誕生⇔崇神の御名に因み任那成立【金】
・・・・・・・・・・・・・
530 -131 庚戌 220 27
531 -130 辛亥 28 崇神立太子
・・・・・・・・・・・・・
550 -111 庚午 230 47
551 -110 辛未 48←→開化48年 呉兵20万3千人沖縄襲来 黄龍2年【金】
552 -109 壬申 231 49
553-108 癸酉 50
・・・・・・・・・・・・・
562 -99 壬午 236
563 -98 癸未 60 開化60年 開化崩御
564 -97 甲申 237 元 崇神元年 崇神即位 天津神算木と一致【金】
・・・・・・・・・・・・・
569 -92 己丑 238 6 崇神6年 倭笠縫 鏡祭祀 鏡作神社鏡改鋳【銀】
570 -91 庚寅 239 7 景初3年鏡銘文年(鏡祭祀と1年違い)
・・・・・・・・・・・・・
627 -34 丁亥 258 64 倍暦戊寅年=古事記崇神没年(259年崩御と1年違い)
628 -33 戊子 65
629 -32 己丑 66
630 -31 庚寅 259 67
631 -30 辛卯 68 崇神崩御【銀】
>>230 >崇神没年(戊寅)=258年と確定するのだ。
そんな後世に作られたパッチモン資料で確定なんてしないよ。
まぁ神武天皇が実際して三世紀とか
寝言以外の何者でもないのは確実だよ。
神と付く人物は基本的に創作された複合伝承の話。
いやまあ、イメージで語れば、昔の倭国は文字がそれほど常用されていなかった。
古代の天皇の事跡を見る限り、殆どが説話文学に近い。
蛇と結婚したり、死んでクグイに化身したり、とか。
昔話とか口承文学の類に近い。そのまま史実と考える方がどうかしてる。
語り部が大王の偉大さを語り継ぐ時代があって、
文字に残さないから、後世の人に分からなくなってしまった時代があったんだろう。
日本書紀が雄略から書き出されているのは意味があって、
雄略以降、漸く文字で歴史を残すようになった。
それまでは語り部が語り継いでいたのを記紀に書き記したのだろう。
>>233 そう言いながら孝霊だけは伝承まで持ち出して実在化するなと言ってるわけだ。
ダブスタの卑怯な議論は止めようね。
>神と付く人物は基本的に創作された複合伝承の話。
応神、崇神は実在が確実だが。
神武も九州時代の奥さんのアヒラツ媛を祀る神社が、
御所と宮崎の日南にあることから確実だろう。
アヒラツ媛も記紀以降だよ。
記紀以降に創られた社伝。
>>236 アヒラツ媛を祀る神社もタギシミミを祀る神社も、
記紀成立以前に建てられてるわけだが?w
記紀成立以前に創立されたと「あくまで神社側が」言ってるんだよね?w
記紀成立以前に創立されたという根拠は無い訳で。
記紀にその神社が記載されていればねw残念w
>>235 本当に理解力がないな。
欠史八代の中で孝霊天皇の場合は中国地方に伝承が多く残されてるのに
記紀に記述がなされないのは変だろうという疑問にすぎない。
特に出雲は国譲りという重要な出来事があるのだから
文献資料に注目するのは当たり前だろ?
孝霊となると、九州説や東遷説の連中が
何故か必要以上にむきになるのが不思議だわw
>>238 記紀成立以後に創立されたという根拠をどうぞ。
>>239 文献資料に注目するのは当たり前だろといいながら、
記紀は無視して伝承にすがるなハゲ。
モモソ媛を何とかヒミコしようとするぶざまなクソ説だ。
242 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 19:17:06.05
記紀を元にして多くの神社の社伝は創られたんだよ。
神社の祀られる神が時代の要請、政治的に変化するのは当たり前の話。
三世紀からずっと変わらず同じ神が祭られてるとかは、
まあ、センチメンタリズムでは成り立つんだろうが、
リアリズムでは難しい。
記紀には古代からある有名な神社の成り立ちが大体書かれているんだよ。
>記紀を元にして多くの神社の社伝は創られたんだよ。
タギシミミを祀る吾田神社は和銅元年(708)の創建だが?
>>241 本当にバカだな。誰も記紀を否定はしてなぞ?
記紀に無い部分を調べてるだけだしな。
勿論常識考えて矛盾する部分は全く信用出来ないが。
まぁ頑張って神武三世紀の痕跡を証明してくれ。
孝霊の伝承ごときに依存してるやつが、
「センチメンタリズムでは成り立つんだろうが、リアリズムでは難しい」
とかクソ笑うわけだがw
>>244 >本当にバカだな。誰も記紀を否定はしてなぞ?
>記紀に無い部分を調べてるだけだしな
なら神武東征でいいではないか。
>まぁ頑張って神武三世紀の痕跡を証明してくれ。
俺は何度も平均在位や天皇の編年や纏向遺跡の古墳の始まりで説明してるが。
おまえは1世紀だ2世紀だとブレてて、しかも一度も根拠を言ってない。
おい卑怯者。
編年をしてみろって。w
>>243 神社の創建は、古ければ古いほど有り難がられたんだよ。
後世に適当に創建年を偽造したという可能性を捨て切れない。
>>247 偽造した証拠を言えって。
偽造していいのなら、和銅元年(708)の創建という中途半端な年代でなく、
3世紀の創建とか、古く古く偽造すれば格好も良いだろうが。
249 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 19:41:34.58
神武には紀伊半島までは大した話が無いしな。
しかも有り得ないルートの侵攻とか。
だから複数人物の伝承の創作だというだけの話。
こんな話何処を信用するんだよw
氷川神社の祭神の変遷を見れば分かるだろう。
いかに政治に左右されるか。
残念ながら。
251 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 19:46:14.21
>>246 記紀を完全に信用するなら神武は紀元前の人物、
卑弥呼とイヨは日本に居ないでいいじゃんw
一体お前は何の為にこのスレいるんだよ?
>>249 孝霊は実在だが神武は否定なんておまえぐらいだ。
神武東征に比べれば孝霊なんぞ屁みたいなもんだ。
神武が忍坂のヤソタケルを倒したとかいう具体的な記述は充分信頼できる。
>>250 隼人たちに、記紀でタギシミミやアヒラツ媛を「創作」したから、
「祀れ!」と言って祀らせたのかアホ。
そんなもん祀るわけなかろう。
記紀編纂以前に神社があるのだし。
つまり記紀以前から隼人たちは、
タギシミミやアヒラツ媛を知ってたから祀ったわけだ。
いい加減あきらめろ、ぶざまなやつだ。
>>252 だが孝霊は出雲に遠征してるからな、銅鐸や鉄の事を考えると
畿内には大変重要な話だ。
神武の吉野の侵攻なんて元々剣主の話だろう。
渦彦にも縁があるしこの辺の話かもな。
>だが孝霊は出雲に遠征してるからな、銅鐸や鉄の事を考えると
>畿内には大変重要な話だ。
そんなもの北九州から運べばいいだけではないか。
何でおまえは意図的に北九州を避けるのだ?
別に無視はしてないが、吉備や出雲の方が
畿内により近いからに決まってるだろw
事実遺跡で一番影響が強い、主導勢力は吉備や阿波だし。
>>256 吉備や出雲も半島の鉄は北九州を経ないと入手できないだろ。
あと畿内発祥の土師器が畿内以外で一番多く出るのが北九州なんだよ。
これだけでも畿内と九州の関係の深さが分かるではないか。
>>257 だから直接やりとりする為出雲と大和が組んだんじゃないの?
丹後には半島に渡った倭人王の話はあるしな。
弥生後期は鉄も多い。
出雲に初期前方後円墳はない。
しかし北九州にはある。
よって畿内と親密な関係であったのは北九州。
261 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 20:29:31.56
前方後円墳の基礎は吉備と阿波じゃないかw
>>261 吉備や阿波とほとんど時間差はないから畿内でいいのだ。
繰り返すが、むしろ北九州での土師器の多さの方が問題だろ。
北部九州に畿内の土器が出土して何が問題なんだよ。
当然半島への本来の正規ルートだからな。
だが半島からなら海流で流される場合もあるので、
出雲寄りのルートも開拓されてあった可能性は否定出来ない。
>>263 畿内Xの時代から九州と畿内で人の行き来があったという事だ。
>孝霊は出雲に遠征してるからな、銅鐸や鉄の事を考えると
>畿内には大変重要な話だ。
というおまえの話が少しも重要でないクソ話だということだ。
今日はこれくらいにしといたろ。
>>264 クソ話の癖によく絡んでくるなw
まぁどんなに喚いたところで出雲や中国地方には
神武の足跡がないからな。
結局九州説の連中はそれでは東征の説明出来ないから困るんだろうな。
267 :
「ガスライティング 集団ストーカー カルト」で検索を!:2014/01/20(月) 21:10:53.23
★マインドコントロールの手法★
・沢山の人が偏った意見を一貫して支持する
偏った意見でも、集団の中でその意見が信じられていれば、自分の考え方は間違っているのか、等と思わせる手法
・不利な質問をさせなくしたり、不利な質問には答えない、スルーする
誰にも質問や反論をさせないことにより、誰もが皆、疑いなど無いんだと信じ込ませる手法
↑マスコミや、カルトのネット工作員がやっていること
TVなどが、偏った思想や考え方に染まっているフリや常識が通じないフリをする人間をよく出演させるのは、
カルトよりキチガイに見える人たちを作ることで批判の矛先をカルトから逸らすことが目的。
リアルでもネットでも、偽装左翼は自分たちの主張に理がないことをわかっているのでまともに議論をしようとしないのが特徴。
,.,,
江戸時代までは孝霊は東国方面でも名を知られてるからな。
富士山噴火の影響で東国から西に人が移動した話が存在する。
巻向に東海の土器が一番多い事を説明出来る唯一の手がかりだ。
その辺りも九州説の連中には触れられたくない部分なのかもな。
269 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/20(月) 21:22:01.19
>>232 後世に作られたって、真を語る書は存在する。
記紀なんか開化の時代より後代だが、よく事実を保全して書かれておる。
八幡愚童訓は後世だとオマエは舐めているが、この書は大陸から日本
へ襲来した事件の内容を年代を入れてけっこう多々書き表しているんだから
それのコレクト専門書の傾向があるわけで、真の可能性は充分ある。
オマエのなんか318年を言っていても、何ら文証を出していない。
これでは価値がなく、内容は確実に信じてもらえない。
270 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/20(月) 21:36:25.74
>>232 鏡作坐天照御魂神社 社伝
創立は崇神天皇六年とみられる。
『大倭神社注進状裏書』によれば
「社傳ニ云ク、中座ハ天照大神之御魂也、
傳ヘ聞ク
崇神天皇ノ六年九月三日
於是地改鋳日御象之鏡、為天照大神之御魂、
今之内侍所ノ神鏡ナリ、即チ当社ハ其像鏡奉斎、
爾来号此地ヲ日鏡作ト」
これから景初3年鏡のこの年代が日本製であり、同年が崇神6年近隣と
把握できるのだ。
ここから当然古事記の 崇神没年(戊寅)=258年 だと分かるのだよ。
おまえのは文献文証が0だ。これではダメだな。
271 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 21:39:02.14
それが文献文証と思えるお前の脳がダメ
272 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/20(月) 21:45:56.72
天津金木(天津神算木)とは三輪(半径r=3)の円の球化の
表面積=体積 の数式をいう。すなわち
4πr**2=113.09733552923・・・
4πr**3/3=113.09733552923・・・
大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
2≠113.097335 ----------@
3≠113.097335 ----------A
いずれの右辺にも 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位 の通説年代がある。
113即ち1/13の崇神即位の月日数は保留し、小数点下から(いずれも)
数列の逆読みで
790−533=257年
これを用い、@の左辺 2 から
257+2=259年=崇神没年(実年代)
またAの左辺 3 から
257+3=260年=垂仁即位元年(実年代)
を得る。 259年は古事記の崇神没年258年と1年違いであり、これは258年説
を唱えた那珂博士、 菅政友、橋本増吉、原秀三郎名誉教授の 言い分がほぼ
真であったことを物語っている。
273 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 22:17:36.61
太国くんへ
崇神天皇六年は
御眞木入日子印惠酋長が即位みたいになった年からいうと翌々年だろ
至急で鏡作やりはじめたとゆうこと
即位みたいになった年のは紀でゆうところの崇神六年ではなくて
御眞木に入った時点のがそうかな?
だいたい250年あたりだとして問題なかろう
このスレの推定人数4人。
@記紀信者、但し父子相続は嘘
A孝霊厨、記紀には色々問題がある。むしろ地方の神社とか伝承を好む
B考古学重視派、寺沢支持者?
C倍暦の太国…おれは完全に読み飛ばしているw
畿内説って王道な筈なのに、4人しかいない過疎ぶりwww
この中で誰が一番人気なんだ?w
孝霊厨にされてしまったか、まあいいけど。
だが欠史の中では異常に残されてる逸話が多いのは事実だからな。
中国地方を少し調べりゃいくらでもある。
霊石山や孝霊山の伝承位は知っておいた方がいいと思うけどね。
まあ4人もいれば充分だが、
でも太国さんは九州説じゃないのかw
孝霊天皇ってのは唐古鍵遺跡やら、
モモソヒメや吉備津彦兄弟の父親と伝わるあたりは、確かに面白いんだけど。
ただ、マキムクの成り立ちを考えると、
唐古鍵とか畿内単独ではなく、むしろ吉備や阿讃播、
筑紫とかの外部勢力の影響が強そうなんだよな。
孝霊の伝承は畿内より出雲や吉備に多く残してるのが重要なんだけどね。
弥生後期の大集落、妻木・晩田周辺から后を得てモモソに繋がってるんだし。
うーん、どうなんだろ?
記紀を読む限り、出雲征伐は崇神の時か、景行の時になるんじゃないの?
もしくは神代の国譲りの時?
孝霊が山陰地方を征伐して、その記憶が残ってるなら、
なぜ記紀にそれが採録されないか?の理由が無いんだよね。
寺沢薫も言ってたが、マキムクの前方後円墳に出雲色は皆無。
当日の西日本の文化や技術を結集した筈のマキムクに、
出雲だけが乗り遅れているという。
>なぜ記紀にそれが採録されないか?の理由が無いんだよね。
理由なら十分ある、出雲に関係してるのだからな。
それに仮にモモソが卑弥呼かトヨなら、記紀編纂上の
矛盾が生じるし、対外的資料としてまずいのは明白だろう。
白村江の後の事情を忘れてはダメだ。
>マキムクの前方後円墳に出雲色は皆無。
瀬戸内側の孝霊や吉備津日子が出雲を成敗してるからだろう。
モモソヒメが卑弥呼か台与なら、いったいどのような不都合が生じるのやら??
日本書紀はむしろ、卑弥呼=神功皇后だと仮定して、
古代の実年代推定の定点に用いている。
もうひとつの定点が紀元前660年の神武即位。
>モモソヒメが卑弥呼か台与なら、いったいどのような不都合が生じるのやら??
昔でも冊封していたと思われるのは当然回避したいはずだがw
強国意識も高まり倭からわざわざ名も変える位なのに。
神功皇后が冊封してれば一緒だろ。
てか、分かってて書いてる?
神功皇后が卑弥呼で中国に使いを送ったなんて
記紀の何処に書いてあるんだw
え?日本書紀で倭人伝引用してるけど?
何処に神功皇后が卑弥呼と書いてるんだよw
わざわざ注釈にしたのは、むしろ神功皇后と別人と言ってるのと同じだ。
中国から突っ込まれた時のアリバイとして入れてるんだよ。
うわ、意味分からんw
わざわざ注釈にしたのがアリバイ?w
二運ずらして、近肖古王を肖古王に読み替えてまで?
おかげで日本書紀の暦年代は百二十年ずれてしまったんだがw
神功皇后が三世紀の人物になっている。
まあ、神功は非実在だとしても、その子の応神はどうなるんだよw
畿内説はどうして卑弥呼の記録がなかったり、大和が魏に朝貢した記録がないのかということも
合わせて説明しなきゃいけないから陰謀論色が強くなるんだよね・・・
大和と邪馬台国は違う国だから記録がないだけとした方が自然なのに
日本書紀を書いた人は、倭人伝の卑弥呼を、おそらく神功皇后と推定したが、
確証がなかったので注釈にとどめたんだろう。
日本書紀は複数の書の内容を併記したり、出来るだけ客観的な記述になるよう努力している。
あえてミスリードしたとかの陰謀史観は、読んでて馬鹿馬鹿しい。
289 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 09:15:31.15
なるべく載せた割にはもれたのが多いのにw
また登場しない神格の重要人物も多い。
また記と紀で食い違った話もあるのはどう説明するんだ?
これは普通に取捨選択してるだけの話だろ。
>>288 お前の方が脳天気過ぎでバカバカしいよwww
>>270 >おまえのは文献文証が0だ。これではダメだな。
文献文証が0って、文献文証で崇神没は258年か318年だろうが。
あとは考古学で崇神の墓が西殿塚、行燈山のどちらかであろうが、
どちらも4世紀前半だ。
つまりお前の説では箸墓を崇神墓とする以外にないのだよ。
ところがそうすると今度は卑弥呼やトヨの墓がなくなるのだ。
あきらめろ。
292 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 09:46:18.12
>>287 じゃ、邪馬台国は大和ではないと記紀ではっきり明記すればいいじゃないか。
わざわざ注釈で済ますような内容ではないぞ?
293 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 09:55:03.46
邪馬台国は大和ではないとか記録がないとかを記紀で明記すれば、邪馬台国は日本国内にあったと認めることになる。
それさえも大和政権にはできなかったし、かといって否定も出来かねた。
そこで全てをあいまいにしたわけだ。
それだけのこと。
じゃ、全てが曖昧な存在にされてる四国が邪馬台国という事だなw
女神の国が二個もあるし、九州や出雲は
大和が成敗したと描かれてるので知らない訳がないんだからな。
295 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 10:00:41.64
うん、大和朝廷の豪族・役人もしたたかだ。
平成の学者が梵々に見える。
>>289 当然、日本書紀編纂時には取捨選択されただろう。
各氏族がバラバラに伝承してたのを、一つにまとめる。混乱を正すってのが、
そもそもの目的だからな。都合が悪く消し去られた伝承も多かっただろう。
ただ、君が言うような孝霊の事跡がバッサリとカットされて欠史にするとかは有り得ない。
孝霊に関する神社は、山陰、中国地方や吉備の他に、
土佐にも多いからな。ハエイロドの宮も淡路島にあったとされてる位だ。
問題なけりゃ記述を載せない理由は無いはずだからな。
大体孝霊五年に富士山が出来たという伝は
東国各地に残ってるんだからな。
勿論真偽はともかく注釈には載せるだろ、普通はw
記紀に孝霊の事跡が載らないのは、記紀編纂後に生まれた伝承だから。
日本書紀の神功紀に倭人伝が引用されてるのは、
紀の編者が、卑弥呼を神功と推定したから。
陰謀とか訳の分からない理屈をつける必要はないw
>記紀編纂後に生まれた伝承だから
わざわざそんな事する必要性ないだろw
それに欠史には沢山天皇が存在するのに何故孝霊なんだよ?
>>298 記紀編纂後に勝手に伝承創作するとか、アホかとw
そんな睨まれるような事誰がするんだよww
中国地方の遠征を記紀編纂後の伝承とするなら、
孝霊ではなく吉備津彦にするだろう。
崇神の指揮で各地に征伐令出してるのだからな。
だが現地では孝霊が遠征したと記録が残っていて、
尚且つ記紀には載らないとなると、
そこには載せない何かしらの事情があるとしか判断出来ないだろう。
またオオヒルメが出雲へ「西征」の途中に
霊石山に滞在したなんて話は、全く記紀とは相容れない話だ。
霊石山は天照大神ではなく別名のオオヒルメで記されてるのがミソだな。
ここでも大和のヒルメ山麓に孝霊天皇の墓があるのに繋がってる訳だ。
聖徳太子の逸話で送迎山なんて漢字を充てているが、普通絶対読めない。
なぜ孝霊を選んだか?は分からんが、
まあ、欠史八代だから色々創作し易かったんだろう。
あと、孝霊山の存在w
淡海三船以前に、孝霊なんて呼び方ねぇーしなw
元々は地元のマイナーな人物の伝承が、孝霊天皇に置き換わった。
全国各地にある空海が造ったため池、とかと一緒で、
地域の伝承の登場人物が有名人に変更される。
有名人にすることで、地域を誇りたい、先祖の顕彰。
自分たちの住む地域を昔から大王ゆかりの地としたかった。
地方ではよくあることだよ。
全国各地の「うちの県こそ邪馬台国」とかと同じだ。
義経北行伝説で、色々な由来地が創られたのも同じ。
>>301 吉備津彦にすると、隣国の吉備に気を遣わないといけないからなw
吉備津彦兄弟は、八世紀ある程度伝承が確立していた筈で、
吉備の了解を得ず、新たに勝手に伝承の追加とかが難しかった
あとまあ、吉備の風下に立つ気はなかったんだろう、伯耆の人たちは。
吉備の先祖ではなく、あくまでヤマトの大王にしたかった。
孝霊は都合よく欠史だし、大王の偉大さを伝える、記紀に反しない内容なので、
別に取り立てて問題にならなかった。ただまあ、あくまでローカルな伝承で、
中央で取り上げられることもなかったが。
そもそも、君の言う孝霊の事跡の一体どこが、当時の朝廷に都合が悪かったのか?
まったく分かりませんが?w
305 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/21(火) 14:21:34.99
>>273 >崇神天皇六年は
>御眞木入日子印惠酋長が即位みたいになった年からいうと翌々年だろ
現今の1年365日計算からは、崇神即位年の翌年末ころですね。
238年末頃だということです。
>>291 考古学の機器の精度じゃぁ、せいぜい10年単位だろうが。w
1年単位で知りたけりゃぁ、文献の年代は1年ごとに記載が
あるのが通例なんだから、オマエの考古は文献に従わにゃぁダメ。><
まぁ、たまには1年精度の正確の場合もないわけではないが、
原則、文献のが年代確定には考古より優先だ。
オマエのは優先順位が逆でサマにならない。pp まぁ諦めろ!
>淡海三船以前に、孝霊なんて呼び方ねぇーしなw
淡海三船が漢の知識もなく孝霊なんて付けたと?
孝霊なんて後漢霊帝の諡号そのままなのに。
倭国大乱とされる時期にもピッタリだしな。
>そもそも、君の言う孝霊の事跡の一体どこが、当時の朝廷に都合が悪かったのか?
まったく分かりませんが?w
本当にバカですかw
307 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/21(火) 14:27:23.65
>孝霊なんて後漢霊帝の諡号そのままなのに。
双方、ほぼ近接年代ですね。
>>303 >なぜ孝霊を選んだか?は分からんが、
まあ、欠史八代だから色々創作し易かったんだろう。
あと、孝霊山の存在w
孝霊山の麓には吉野ヶ里以上の弥生遺跡が存在してる訳だが。
また伝承は日野川流域全般や広島方面等、
もっと広く残ってるんだけどね。
大体当時の出雲がローカルな国なのかよ?
あまりに知識不足が過ぎると恥かくよw
309 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 14:34:00.99
>>306 反論出来ず、「馬鹿」とか脊髄反射、情けないなあw
あとまあ、孝霊という漢風シ号が贈り名されたのって、いつのことなの?
大王が大昔から漢風シ号がおくられてたとか、何か根拠あって言ってるの?
>>307 国が乱れてしまった、の意味があるはずだし。
漢風で付ける以上は、そういった知識が無いと
普通は用いないでしょう。
>>309 >大王が大昔から漢風シ号がおくられてたとか、何か根拠あって言ってるの?
こんな事何時言ったんだ?
各資料ではオオヒルメやらササフクとか色々だけど?
まともに理解力も読解力もなく、記紀以外の資料すら読んでもいない奴に
反論しても無駄だろ?
>>308 妻木晩田を孝霊の根拠にする意味が分からんが?w
大きな遺跡があると、孝霊の事跡が正しいことになるの?どういう理屈?
あとまあ、ローカルってのは、あくまで中央の記紀神話に対して言ってるんで。
八世紀の話。
むしろ、大和中心史観で「大和から大王や王子が各地に兵を派遣した」とか、
光栄ゲーム脳のお前から、そういう発言を聞けただけでも収穫だなw
>妻木晩田を孝霊の根拠にする意味が分からんが?w
これを真剣に質問してるのなら、本当に勉強不足だぞ。
お前の脳内補完では当たり前なのかもしれないが、
一般的には単なる妄想。
>>311 じゃあ、もっと分かり易く質問すると、
孝霊って中国風の贈り名は、いつ作られたんですか?
孝霊山って名付けられたのはその後になるんだよね?
孝霊の伝承が出来たのは、結構後世のことじゃないかな?w
残ってる話を妄想と言われてもなw
孝霊山の伝承というのは、孝霊天皇が中国地方滞在中、
妻木の里(妻木・晩田)から朝妻という女性を気に入り、
孝霊山の宮で鶯王という子を生したという話。
少
し調べりゃ話の存在位はすぐでるぞ?情弱かw
>>315 >孝霊って中国風の贈り名は、いつ作られたんですか?
俺は淡海三船が漢風の知識を元につけたと言ってたはずだが?
お前もそう言ってるだろw
孝霊山に拘ってるようだが、周辺には霊石山や蒜山(ヒルゼン)もあるぞ?
また孝霊は甲羅に瓦、香春や河原、色々とれるしな。
半島や大陸と関連があったのは間違いない。
完璧な白痴。
>>317 だから、なんでそれが孝霊の事跡が史実って根拠になるんだ?
空海とか義経を出して分かり易く説明してやったつもりだが?
>空海とか義経を出して分かり易く説明してやったつもりだが?
それを自画自賛というw
>>319 じゃ、出雲征伐は崇神天皇が行ったと記紀に書けばいい話だと
言ってる訳だがな。
出雲征伐が小さな出来事じゃないのはアホでもわかるだろう。
それが逆に現地には違う人物伝承しかなく、しかも記紀には
その人物の記述がなけりゃ、そこを疑うだけの話。
しかも銅鐸の分布と一致してりゃ尚更だろ。
歴史が何の改変もされず、何百年も伝承されると信じられるのが、脳内お花畑というか。
孝霊の事跡が記紀に載ってないのも「何か不都合なことがあったから」w
何が不都合なのかも、全く分からない。
そんな不都合な伝承が地域で言い伝えられてることも問題だろw
>そんな不都合な伝承が地域で言い伝えられてることも問題だろw
国譲りして表から引っ込んだ出雲地方だから、伝承が残っただけの話だw
例えば大和の送迎山には江戸時代にオオヒルメを祀って伊勢騒動の
きっかけとなったりしている。これは弾圧されたりしているぞ?
また民間伝承として残る場合もあるからな、それが鬼退治や竹取物語だし。
インパクトのある出来事だから伝えられるだけの事。
藤原氏が悪役だったり、ささやかな抵抗をしてる訳だ。
また籠神社には、2000年伝世されてきた息津鏡、辺津鏡が
秘蔵されてるしな、海部氏系図も秘蔵扱いだった。
丹波や出雲はそういう場所だろ。
325 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 17:01:48.80
>2000年伝世されてきた息津鏡、辺津鏡
疑問すらもたないとはおめでたい。
>疑問すらもたないとはおめでたい。
それを言い出したら多くの出土品に対してもだろう。
鏡や金印、全てだね。
327 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 17:10:16.60
日矛がお持込になってから1800年ぴったし。
孝霊厨ウザいよ。
モモソ媛が神功皇后ほどの女王なわけがないよ。
女王はアマテラス、神武死後のヒメタタライスズ、
仲哀死後の神功皇后しかいない。
モモソ媛では無理。
329 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 17:59:38.82
墓も伝承も根拠もなしに断定するアホw
330 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 18:03:52.58
妄想キチガイだらけやん(笑)
まぁ心配しなくとも間違いなくモモソは卑弥呼かトヨだ。
332 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 18:19:03.97
卑弥呼を隠す為に変えたんじゃないの?
まぁ系図じゃ日女命だしな。
冊封した女王の存在は困るから。
意味不明だよ。
神功皇后を干支を2運ずらしてまで無理に卑弥呼の時代にあてはめてるのに。
神功が卑弥呼とは一言も書いてないけどな。
神功が中国に使いを送ったと描かれて無い以上、
都合が悪い話だったと認識してたという事だろう。
339 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/21(火) 21:33:50.74
>>310 倍暦計算を行うと(倍暦行使は日本側)、在位は
孝昭天皇 100〜127
孝質皇帝 145〜146(質帝)
孝安天皇 128〜161
孝桓皇帝 146〜167(桓帝)
孝霊天皇 162〜187
孝霊皇帝 168〜189(霊帝)
孝元天皇 188〜206
孝献皇帝 189〜220(献帝)
御名と年代がかなり接近、似てます。
>>339 かなり似てるでしょ?
まぁ当時霊帝の末裔を自称していた人達が多いのだから、
そういった知識が無いなんて有り得ない訳だと思いますよ。
341 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/21(火) 21:49:20.22
>>310 >>339から 倍暦計算下降にて
開化天皇 207〜236
つまり 開化48年=230年 に相当します。
230年=黄龍2年 から呉史にて、八幡愚童訓の説明が1年の狂いなく
一致します。
ここから 崇神元年=237年=景初元年 で
崇神6年=238年 を得て、 景初3年鏡の 景初3年=239年 が
崇神6年の倭笠縫に日神の鏡を祭祀した年代に近接することが分かります。
太国さん、畿内説に変わった方がいいと思いますよ。
あとカヤナルミの名前ね、ナルミは割と簡単で鳴海、ウルミで海の人の名前だね。
鳴門の渦を思わせますな。
説明は省きますが、私はトヨの事だと思いますよ。
まぁ孝霊からは色々繋がってゆきますw
344 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/21(火) 22:19:56.96
>>342 記紀に卑弥呼も壱与の記事も無いよ。
これじゃぁ畿内説は成立しないね。
百襲姫と卑弥呼はともにほぼ同時代の人物。
前者は畿内、後者は九州の女だよ。
>>344 そう、もったいないね。
正直九州にはいないと思いますよ。
日本書紀で神功紀に倭人伝を引用してるのはあからさまだな。
朝貢を隠したかったとか、有り得ない話。
日本書紀の編者が卑弥呼の正体が分からず、神功皇后に比定した
ってのは、いい加減認められるべき。
いつまで同じ議論をしてるんだw
348 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 01:46:13.85
認めさせるなら納得出来る話を出さなきゃな。
君の話ではとても無理だよ。
神功皇后はむしろイヨの投影だと思ってるからな。
神功皇后が高句麗まで制覇して、中国には
何も触れないという時点で、内容に信憑性はない。
冊封したという事はそれ程避けたい話という事だね。
卑弥呼がダメなら壱与でもいいから畿内にいたことにしてくれよってか
詐欺師も落ちぶれたもんだ
351 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 02:50:18.56
もう言いがかりり位しか言えないんだねw
まぁ九州説なんて既に終わってるしな。
また念仏かよw
卑弥呼がモモソ、伊予が神功皇后という事だろうな。
対中国の部分は一切触れないという事を徹底したんだろう。
邪馬台国への道は郡基準で水行10日で出雲周辺着、陸行一月で
現山陰線ルート、もしくは姫路辺りへ出て大和へ向かう行程だな。
行程なんて郡からの視点でいい訳だ。
単純にその日数を書いただけの事。
355 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 04:19:06.30
畿内信者は、何が何でも畿内からの視点で行程を読みたがるからなぁ
>>348-349 日本書紀が卑弥呼=神功と書いてるのは事実だろ。
朝貢の事実を隠したいなら、その記述をしなければいいだけ。
わざわざ100年も時代が違う人物に捏造する意味がない。
日本書紀は卑弥呼を神功皇后のことだと間違えたんだよ。
>>348 >日本書紀の編者が卑弥呼の正体が分からず、神功皇后に比定した
>ってのは、いい加減認められるべき。
いや、わかってたからこそ、
あえて神武の時代を途方もない時代に設定したとも考えられるぞ。
358 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 08:54:50.74
× 日本書紀が卑弥呼=神功と書いてるのは事実だろ。
○ 日本書紀が卑弥呼=神功であるかのように書いてるのは事実だろ。
日本書紀が間違ったと認めたくない原理主義者かw
360 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 09:19:26.39
わかってなかったとかよく真剣に言えるもんだw
それじゃ七世紀以前の天皇や歴史は全て創作と言ってるに等しいぞ?
九州説なら九州から出発した神武天皇の事は知っていて、
それより後年のはずの卑弥呼はしりませんなんてどんな話だw
結局百襲姫が卑弥呼、神功皇后が伊予で問題なしだろう。
共通してるのは、どちらも葛城地方に母親がいる事。二上山はやはり古代史で重要な存在だな。
推古天皇や聖徳太子が麓に墓を持つ意味もこれでわかる。
362 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 09:57:14.61
ま、
恋は水色、記紀は玉虫色
天の二上は海の二神だな。まぁあれは海からみても格好な目印だ。
364 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 10:32:19.34
>>356 そんな事実はないな。注と本文を混同してんの?
365 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 11:37:29.14
どうみても記紀は邪馬台国や卑弥呼を隠そうとしてるだろ。
それと歴史を古く見せる事とな。
>>361 >結局百襲姫が卑弥呼、神功皇后が伊予で問題なしだろう
医者に行け
仲哀の墓は4世紀後半の津堂城山でほぼ間違いない。
じゃぁ何で神功皇后が3世紀になるんだよ。
レベル低すぎて話にならない。
補足をすると、神功皇后の行動は伊予の反映という意味だな。
対半島に対する年代合わせの一つ。
神功皇后とは離して考えられない武内宿禰の設定をみても、
この辺りの年代記述には相当無理があるのは誰でもわかるだろう。
大体伊予は卑弥呼の死後、男王の後に13才で立った女王だからな。
倭人伝以降の行動は全くわからない。
371 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 12:33:08.17
四国説かと思ったら
伊予ちゃんは、台与のことかいww
>>370 >武内宿禰の設定をみても、
>この辺りの年代記述には相当無理があるのは誰でもわかるだろう。
ないよ。
平均寿命30代の時代にも、稀に70、80歳まで生きた人間もいただろう。
武内宿禰がそれであっても少しもおかしくない。
373 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 12:59:24.00
あれだけ平均年齢は短いとか、アホみたいな理屈で主張してた奴が、
武内宿禰の年齢だけは正しいとかw
九州脳は本当にご都合主義だことww
374 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 13:08:19.70
そもそも邪馬台国自体あるのかもあやふやなのに
>>373 おまえは「平均」という意味が分からないようだな。
昔は早死にと長生きの差が大きかったのだ。
武内宿禰は変ではない。
>>375 お前の頭が変なのは理解した。
ご都合主義にも程がある、帰ってパズルでもやってろw
武内宿禰が開化天皇の孫なら、イヨと同年代で全然問題ないからな。
>>376 頭が変なのは「結局百襲姫が卑弥呼、神功皇后が伊予で問題なしだろう」と言うおまえだ。
379 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 13:53:38.79
>>378 別に変ではない。
記紀の注釈だって神功記に書かれているのは卑弥呼だからな。
同年代の伊予であってもおかしくはないだろう。
>>379 そう重いながらこれからも恥をかき続けろ。
>>380 そうするよ、神功皇后を伊予に比定出来る
一番の理由はまだ書いてないからな。
出さない事を条件に伺った、葛城地方の某神社の宮司さんから聴いた話、
昔築山古墳周辺で調べた伝承を元にした話等、
色々資料はあるのだ。地の利を最大限に
生かせる者しかわからない話ばかりだからな。
382 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 15:57:19.46
伊予って誰だよw
センチメンタル・ジャーニー
デーヨの古田読みだべ
385 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 16:24:02.13
卑弥呼の時代は、崇神前夜。
卑弥呼の前夜は銅鐸の時代。
纏向に集まる土器の産地は、銅鐸の出土地と被る。
記紀の崇神前後までに現れる地名や豪族、妃の出身部族の地盤も
それらと被る。
266年に朝貢したトヨは、男王と共に爵位を貰ったという記述がある。
巫女の地位が高かったことは確かなんだろうけど、後代の大和政権は
女王という認識がなかったことも考えられる。
夫婿なしを独身と考え、該当者が見つからなかったとか。
使いが来た時には夫は死んでいた可能性もある。
ヒメミコという名を持ち、かつて夫がいた女性なら、何人か候補がいたんじゃないか。
>卑弥呼の時代は、崇神前夜。
卑弥呼の死から崇神の死までは60年。
>ヒメミコという名を持ち、かつて夫がいた女性なら、何人か候補がいたんじゃないか。
ヒメタタライスズだろうね。
×60年
○70年
ジャバデー国のデーヨのことか? 古田説では山一商会の伊代とは別人のはずだが
>ヒメタタライスズだろうね。
だろうね。だろうね。精神病院が満員なら総合病院で盲腸切ってもらえ。
390 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 16:55:27.34
卑彌呼の没年 243年以前 (掖邪狗の任官があるから)
御眞木入日子印惠の没年 258年
その差17年
391 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 16:56:32.83
ちょっと算数できなかった
>>389 せめて4世紀の天皇の編年してから偉そうに言え。
俺はしてるからね。
393 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 16:59:32.72
中世ですら
九州に逃れて畿内に抵抗していた
南朝の懐良親王のことを
日本国王良懐って記載するくらいだから。
中国人は昔から、日本の政治システムに関して、
分かりにくくて理解不能なんじゃないの?
まだヒメタタラとか言ってるw
神武は偶像だと言いたいが、実は磐余彦についても
興味深い資料を所持している。
磐余については桜井市や大宇陀にかけての話が多いのだが、
実は奈良西北部にも痕跡があるのだ。
まぁヒメタタラの母でセヤダタラという人物は、
元々王寺町竜田界隈にいたのだろうが、この辺りと
別の場所にも磐余の里という話が存在していたのが驚きだった。
総合病院も満員だってさ
編年と言ってもデタラメじゃ時間と労力の無駄。
>セヤダタラという人物は、元々王寺町竜田界隈にいたのだろうが
茨木市の東奈良遺跡近辺だ。
いい加減な情報ながすな。
孝霊は実在で伝承まで真実とし、神武は偶像だとさ。
先に結論あり期のダブスタ。
おまえが医者に行け。
>>397 おそらく三島は出身地だろう。ヤマトで
初期鉄工房と言えば竜田川流域だ。
金山媛神社の近くには勢野という地名も残ってるだろう。
セヤダタラは銅鐸。
まぁ神武の伝承は現実味があまりないからな。
偶像といわれても仕方ないだろ。
>>401 ヒミコに一番にた名前がヒメタタラで悪いのか?
ヤマトトトソモモソが似てるのか?
子供ふぇも分かる事だ。
アホだろ、おまえ。
それじゃ子供でも呆れるよw
>>404 ヤマトトトソモモソ媛がヒミコに似てるのか?
ヒメミコ・日女命は似てるだろう。
なんでやねんw
お前らにふさわしいレベルになってきたな。よかったなあ。
中元日芽香もヒメタと呼ばれてるしなw
まぁモモソで決まりそうだから、アホが主張して来てるんだよ。
深川穴八幡もラップランドと呼ばれてるしなw
「モモソで決まりそうだから」って、もう決まったって知らないの?
根拠だ証拠だ候補だ伝承だ魚の骨だと何回も言われてるだろ。
おまえ何読んでるの?字が読めないの?
まだトヨがはっきりと判らないからな
トヨってどこのトヨだよ。気軽に呼ぶなボケ
そもそも「倭迹迹日百襲媛命」ってどういう意味だ?
トヨ?神功皇后の事だろう。
>>416 知らなかったのか?倭の大物主の妻である、桂木の媛という。
百襲姫の桃と関係あるのか?
>>420 「迹迹日」は日(太陽)を追いかけめぐるというような意味に解することはできる。
「百襲」は百枚を重ね着するとかそういう意味にも解せる。
しかし確かなことは全然わからんなw
巻向から大量に発掘された桃の事だよ
トトヒやモモソが倭語を漢字の音で表しているとしたら
まずわからないだろう
>>425 それを知るにはかなり古い大和言葉が知らないと無理。
山中と国中、集落別の差とかも集めたからな。
それらを調べてみると、かなり意味が判ってきた。
428 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 23:29:15.62
429 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 23:30:00.45
430 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 23:32:20.73
モモソのモモは、桃と関係あるんじゃね?
纏向遺跡でも、祭祀に使う桃の種が大量に出土しただろう?
桃は、不老不死の象徴なんだよ。
神仙思想ってやつだな。
431 :
日本@名無史さん:2014/01/22(水) 23:34:10.15
桃太郎と黍団子の話も関係ありかもね、一部。
吉備津彦は、モモソ媛命の同母弟。
日本書紀が卑弥呼の正体が分かっていて、
唐や新羅を騙すために、あえて神功皇后と思わせるように書いたとか。
それは流石にないと思う。
卑弥呼を神功皇后に比定してしまったがため、大王たちの暦年代が百年ズレてしまってる。
そんな滅茶苦茶を敢えてしないだろう。
分からないから推定で書いた、という理屈が頭に入らない孝霊厨は、ここを百回読むようにw
日本書紀は、おそらく倭人伝の女王は神功皇后のことだと思って、
あえて神功紀に倭人伝を挿入したんだろう。
はっきり書かなかったのは、卑弥呼=神功という確証が無かったから。
自説に都合が悪いと、すぐに日本書紀が捏造したとか言う輩がいるが
(そういう奴に限って、日本書紀の自説に都合の良い箇所は積極的に引用するというw愚かw)
日本書紀はかなり客観的に歴史を書こうとしているよ。
分からない、伝承が伝わらない大王は、伝承を捏造せず欠史とするしな。
>>381 偽書偽伝を書くのって、大体神主だからなw
あんまり真に受けない方がいいよ。
434 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 00:19:30.83
〜乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という〜
と、あるだろ。いったい誰が名付けたんだ?
名付けては共立にかかる言葉だから、
共立された時点でヒミコの称号を得たんじゃないかな?
435 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 00:23:37.36
モモソヒメは台与(トヨ)だよ。
卑弥呼は狗奴国との抗争の中で更迭され、それによって死んだ(以て死す…自死か)。
おそらく前政権(出雲王朝か)のリーダーだったのだろう。
奈良盆地の片隅でヤマト国部族連合の端くれを勤めてきた「天孫族」の娘に「共立」という形でスポットライトが当たった。
それがトヨであるモモソヒメだ。
これをきっかけに神武以来9代にわたって雌伏していた天孫族が「オオキミ」に成り上がる。それが崇神期。
7〜8世紀の人々にはその記憶があったと思われ、淡海三船の付けた「開化」という崇神の手前の天皇への「諡号」、魏志倭人伝の邪馬台国の記事をすっとぼけたこと、
記紀に崇神以前の天皇の事績が書かれていない理由もここにある。
この時期の出来事を神話の中に閉じ込めてしまったのは、神武東征(そんな大それたものではなかった)以来、その時期まで彼らの先祖が歴史の中心に居なかったことを物語っている。
>>432 相変わらず全く何も判ってないね。
倭人伝の記述も知っていて、漢人や半島からも
大挙人々が入って来てるのに、卑弥呼を知らないとは
流石に考えられない話。
知らないふりをしていた銅鐸についても、
後年鉄鐸を蛹の事とバラした位だからな。
それに当時唐や新羅に対して相当警戒していたのは
紛れもない事実だ、九州での警戒振りをみても判るだろう。
国力を強く見せるには冊封していたような女王は
歴史書に必要ないからという事。
てか、結局、神功を卑弥呼にしたら、
朝貢してることになるんだが。
いや、ホントに理解出来ないんだね、びっくりした。馬鹿の壁
>>429 モモソについては原文ではトトヒメノ命と略されているはず。
まぁ資料まではあげられないが、簡単に説明すると、
蛇神の媛という意味。また魚、海の神の媛という可能性もある。
モモソを単に桃と訳しても良いが、実は桃支をかづらだけと読むだろう?
これは竹の種類であって、葛城を表す意味を含んである。
襲もまた葛城の意がかかっているはず。
>>439 なんか、自分だけ記紀の秘密を知ったとか思ってるよね?w
悦に入ってる感じがかなり伝わってくる。
僕だけが知り得た秘密の歴史とか?w
いやまあ、気色悪いw
オカルト。
日本書紀を読んだ唐の人間は百パーセント、
卑弥呼=神功だと思うよなw
わざわざ神功紀に倭人伝を抜粋してるんだから。
朝貢してた事実を隠すとか言ってるが、言ってる意味がまったく分からないw
注釈に書く意味を判ってるのかな?
公式書で神功=卑弥呼を否定してるんだけの話。
唐の連中が卑弥呼か?と予想しても、違うと答えられる事が大事なのだが。
それに女王はイヨもいることも忘れてないよな?
本当に朝貢の事実を消したいなら、本居宣長みたいに、
卑弥呼=女酋説を採るだろうな。
お誂え向きの女酋は記紀にもたくさん登場する。
田油津媛とか神夏磯媛、名草トベなど。
苦し紛れに「倭国内に倭王を称する独立国があってはいけない」
とか屁理屈を言ってたが、
伊都都比古が倭王を僭称してたことはハッキリ書いてるし
(本当に僭称だったかどうか不明だが)。
自分の言ってる内容が完全に破綻してるのに、全く気づかない。
すっとぼけたい方からすると、
九州辺りの女酋長と思ってくれた方がありがたいだろw
本居先生も騙せる位なら大成功だよ。
卑弥呼を大和王権と関係ない女酋と思わせたいのに、
敢えて倭人伝を引用して、神功=卑弥呼と錯誤させようとする日本書紀の編者w
隠したいから海部氏系図のような物がずっと秘密扱いされてた訳だ。
今は普通に見れるが、昔なら有り得ない事だからな。
447 :
朝鮮日報の満州:2014/01/23(木) 09:53:45.83
日本書紀は朝貢の事実を隠したい。
↓
卑弥呼=モモソ媛だと分かっていながら、
あえて卑弥呼の記事を、卑弥呼より百年以上時代が新しい神功紀に注釈として入れた。
本当に意味が分からんw
アホと朝鮮人には判らないんだろうw
対新羅には征服の史実を強調する必要性がある。
唐に対しては朝貢していた事を知らない事にしたい。
半島外交史との一応整合性を持ちたい。
日本を強国と強調する必要性がある、歴史も古くしたい。
結論:倭から大和へ、卑弥呼に代わる神功皇后、
倭国逸話のリサイクル、神話への再アレンジ使用。
>>432 >分からないから推定で書いた、という理屈が頭に入らない孝霊厨は、
今までずっとそう思ってきたが、それが勘違い、間違いだと判っただけの話w、
>伝承が伝わらない大王は、伝承を捏造せず欠史とするしな。
少なくとも孝霊天皇に関しては各地に相当残っているようだが。
記紀編纂時の太政官に石上(物部)麻呂という男がいる。
この男は当然、物部氏の伝承を多く知ってただろう。
崇神天皇は物部の母から産まれ、物部の地に宮を持ってきた物部系天皇だ。
したがって崇神以降の伝承が多く残ってるわけだ。
それ以前の8代はよく分からなかったのだろう。
だからと言って「いない」とはならない。
453 :
朝鮮日報の満州:2014/01/23(木) 11:49:57.85
孝霊天皇や百襲姫のことをしつこく書いているこの男が四国説男でジョーカーである。
この男は記紀を信じている奴は馬鹿だと思っている男だからほっとくしかない。
記紀は嘘で創作だと知っているオレはエライ、学があると思っているのである(笑)
で、この男を批判しているイスズヒメ男も記紀の編年は信用していないのだから、
どちらもどっこいどっこいである。
要するにこのスレは記紀を信じていないアホとボケが論争しているわけで、
この二人に突っ込みを入れている連中も記紀は信じていないわけで、
救いようのない土手のキンピラの集まりだからほっとくしかないのである。
454 :
朝鮮日報の満州:2014/01/23(木) 11:56:20.60
そういう私がアホでありボケでした、すいません。
>>450 >対新羅には征服の史実を強調する必要性がある。
そう。だから神功の三韓征伐を載せている。
当時、主要交戦国である高句麗でなく、新羅を征伐の相手として書いてるのは、八世紀の国際状況のため。
>唐に対しては朝貢していた事を知らない事にしたい。
まったく意味不明wwww
卑弥呼はモモソ媛なのは知っていた。
しかし朝貢の事実を知っていると、唐や新羅に知られたくなくて、
神功紀に注釈という形で載せて、卑弥呼は神功のことと勘違いさせようとした。
いやw頭がクラクラくるくらい、訳の分からない理屈なんだがw
457 :
朝鮮日報の満州:2014/01/23(木) 12:42:09.98
ジョーカーはなにやら極秘の情報をいろいろ持っているようだが、
本に書いて発表する気はないようだ。口外を禁じられているのだろうか。
なんにせよ、見る人が見ればそんな資料は証拠にはならないことが分かるだろう。
尾張氏系図を持ち出して、そこに載っている某が卑弥呼だと唱える人間が後を絶たないが、
見る人が見ればそんなのは卑弥呼でも何でもないことがすぐに分かるのである。
ジョーカーはアンポンタンだからそれが分らない(笑)
日報はまだジョーカーと勘違いしてるのかw
>本に書いて発表する気はないようだ。口外を禁じられているのだろうか。
まだ出すには調べたい事があるからだよ。
口外やめて欲しいと言われてる資料もある、土地の権利に関する物もあるしな。
459 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 12:52:31.53
日本書紀が、異なる編集意図をもった複数グループの間でキャッチボールさえれたことはもう判明してるので、多少わけわからん不整合があるのは当然だな。
政治的意図を汲み取って元の歴史を復元するのは、それほど大仕事ではない。
しかし、わからんものはわからん。
>>456 >神功紀に注釈という形で載せて、卑弥呼は神功のことと勘違いさせようとした。
まだ勘違いしてるのかw
全く逆で神功皇后を卑弥呼・トヨではないよ、と思わせたいんだよ。
女性で半島の高句麗まで攻めてる皇后なら
普通は誰でも卑弥呼だと思うだろ?
それを注釈に卑弥呼を載せる事によって、違う存在とも説明出来る。
九州の女酋長を退治する逸話の存在はその為だという事で。
九州の似た地名も囮、至る所で防衛線を張ったんだよ、これでわかるかなw
461 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/23(木) 15:45:28.22
卑弥呼≠モモソ媛
板に登場していたジョーカーは確か畿内説だったと思ったが〜〜?
ジョーカーは畿内説だし考古学以外のレスはほとんどしなかった
孝霊厨だが勿論俺は畿内説だがな。
要は撹乱して曖昧に出来ればそれでいいんだよ。
聖徳太子もそうだろ?
過去の外交史はそれでいいんだよ。
464 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 17:27:04.47
纒向遺跡が卑弥呼の住所で終わりです。
465 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 17:35:14.74
>>464 終わらないよ。
纒向遺跡は物部遺跡。
崇神天皇は物部の母から産まれ、
物部の地(纒向)に宮を持ってきた。
ということは纒向古墳群は物部氏の古墳群。
466 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 18:08:37.87
だめだなあ ちよっとおしいな。
崇神と物部の関係に誤読があるな。
崇神の母は
1.國玖琉 08【孝元】
2.大毘古 (多婆那の王)
3.大毘毘 09【開化】
これらを相手にして御子孫を残している香椎の女王
この女王は穗積臣のルーツのところに位置する
大毘毘のが物部のルーツにあたるのさ
物部は記紀にもあるように、まず生駒や奈良西側に下りている。
また河内にも基盤があることを忘れてはダメだよ。
>>466 崇神の母親は伊香色謎命で何が不満なのかな?
469 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 18:20:27.49
伊賀迦色許賣 の子
1.國玖琉 08【孝元】 →布都押之信
2.大毘古 (多婆那の王) →御眞津比賣 = 卑彌呼
3.大毘毘 09【開化】 →印惠【10.崇~】
471 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 18:22:29.63
古事記嫁
御眞津比賣 = 卑彌呼 って古事記に書いてるのかい?
大発見じゃないか。
>>471 伊香色謎命=伊賀迦色許賣の祖父は、
大水口宿禰命で良いのか悪いのかはっきりしてくれ。
474 :
朝鮮日報の満州:2014/01/23(木) 19:27:41.84
ピミらはほんとに無知だな。
>>469は稗箕狐という半狂人の妄想男だから相手にしてはいけない。
>>469もまるでデタラメである。
鬱色謎命と伊賀迦色許賣を間違えているw
こいつはいつも断定的な書き方をするから、つい本当かと信じてしまう。
注意するように。こいつの書いていることはデタラメばかりである。
>>460 >全く逆で神功皇后を卑弥呼・トヨではないよ、と思わせたいんだよ。
>女性で半島の高句麗まで攻めてる皇后なら
>普通は誰でも卑弥呼だと思うだろ?
思わねーよw
なんで高句麗攻めたら卑弥呼なんだ?w
神功紀の中で、わざわざ倭人伝の卑弥呼の記述が引用されてること。
暦年代をわざわざ二運ズラしてまで、
神功と卑弥呼を同時代の人物にしていること。
これらからも、日本書紀はあくまで卑弥呼=神功皇后だと主張してることは明らか。
>それを注釈に卑弥呼を載せる事によって、違う存在とも説明出来る。
なんじゃそりゃ?w
神功紀にわざわざ卑弥呼の記事が引用してる理由がそれ?w
頭おかしいんじゃないか?w
神功紀の中に、倭王に任じられた女王卑弥呼の記載が無ければ、
誰も卑弥呼=神功皇后なんて思わないわな。
倭人伝の内容と、神功紀の内容はまるで違う。
孝霊馬鹿は、いい加減降参したら?w
477 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 22:15:09.27
誰に何を降参するんだよw
まぁ頑張って平均在位年数やらヒメタタラの墓で
も探してたらいいんじゃないの?
神功と卑弥呼の共通点なんか、女祭祀王だった、くらいしかない。
なぜ同一人物だと思うのか?
それは日本書紀で同時代の人物とされ、神功紀に卑弥呼が引用されてるから。
孝霊馬鹿には何度言っても理解出来ないらしいw
479 :
日本@名無史さん:2014/01/23(木) 22:53:32.94
>>475 >暦年代をわざわざ二運ズラしてまで、
神功と卑弥呼を同時代の人物にしていること。
これは本末転倒だよ。記紀の編者が採用した(多分言い伝えられていた)皇紀で編年した年表上で
神功皇后の時代が卑弥呼の時代にぶち当たったから仕方なく記載したと思われる。
編者たちは実際の神功皇后が1世紀以上後の人物だと知ってい他はずだだからすっとぼけざるを得なかった。
にもかかわらず、こんな細工をせざるを得なかったのは、卑弥呼が前王朝のリーダーであって記紀の主体となる「天孫族」とはほとんど血縁がなかったから。
つまり崇神以前の歴代天皇はヤマトの王ではなく1部族の長程度に過ぎなかったということ。
そして編者が魏志倭人伝をスルーできなかったのはこの時代にはまだ当時の記憶があり、卑弥呼の出来事はまぎれもなく畿内のことだと理解していたからだと考える。
そりゃ全く見解が違うから理解出来ないしする必要もないw
まぁ根本的に「神」と名のつく天皇は創作部分が多いと思ってるからな。
孝霊天皇については出雲との関連性が高いので、
その伝承は素戔嗚尊のヤマタノオロチ神話辺りまでの元ネタだろう。
アマテラスとお互いに子を産む辺りからのくだりとか。
>>479 中国の歴史書にはっきり邪馬台国が書かれてたからスルーができなかっただけだろ
まぁ、無理やり三世紀の大和と関係づけようとして苦心したって所かな
>>479 >記紀の編者が採用した(多分言い伝えられていた)皇紀で編年した年表上で
>神功皇后の時代が卑弥呼の時代にぶち当たったから仕方なく記載したと思われる。
>編者たちは実際の神功皇后が1世紀以上後の人物だと知ってい他はずだだからすっとぼけざるを得なかった。
これがまるっきり逆なんだよなw
言い伝えでは、せいぜい大王の没年干支くらいしか分からず、
日本書紀の編者たちは暦年代復元に苦労した。
中国歴史書や百済三書などと合わせようにも、
最古時代の大王がそれらの書物に出てこず、合わせられない。
で、当時流行りの辛酉革命説で神武即位年を紀元前660年に推定。
神功皇后を卑弥呼と推定し、実際より120年ズラして
(近肖古王を肖古王に読み替えまでして)
わざわざ神功紀に倭人伝の女王の記事を採録した。
この神武即位年と卑弥呼の遣使年を2つの定点とし、古代の暦年代を復元しようとした試みが日本書紀。
おかげで非現実的長命の大王が多く生み出されたw
483 :
日本@名無史さん:2014/01/24(金) 07:55:30.91
>せいぜい大王の没年干支くらいしか分からず、
古事記と日本書紀でバラバラだろ。
>>475 編纂者の狙いはこういう反応をしてもらう為だろうw
曖昧に出来ればそれでいい、はっきり知らない振りを出来ればOK。
>>477 ヒメタタラは俺だ。
あんたに絡んでるの俺じゃないぞ。
486 :
満州上等兵:2014/01/24(金) 09:28:48.38
孝霊天皇はBC290-BC213で、開化天皇はBC158-BC98である。
これはすでに文献的裏付けが取れている。
ピミらが何を言おうとそれは空想である。
もちろん太国や稗箕狐や風ゴキの倍暦説も空想であるw
記紀は内容も編年も正しいのである。
ピミらが毎日議論していることは全部空想である(憫笑)
文献的裏付け=ネットに転がってる捏造朝鮮史w
488 :
日本@名無史さん:2014/01/24(金) 10:14:56.19
自作自演の捏造ネット史w
489 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/24(金) 10:15:27.28
孝霊天皇はBC290-BC213で、開化天皇はBC158-BC98であるというのは
1年が365日という計算での年代であってこれは見かけの歴年であり、
当時は倍暦行使であったから1年が180日等の日数であるからして、
現実にはそれらの年代ではなく、実年代はもっと後代にあるのだ。
コチラの倍暦計算では 開化48年=230年=黄龍2年 となり、これは
大陸日本側来襲の年代を収集してある八幡愚童訓の内容と1年
違わず一致していて、巨象根具の主張は崩れる。
このことは交通死亡事故でひき逃げ車両の捜査において、その犯人の
車両の破壊痕と一致したのと同然のことであるからして、こちらの文証
は崩れない。一致がいかに重大な証拠になるか言わずとも知れたことよ。
記紀上での孝霊天皇の年代は、太国さんので同意なんだが、
孝霊天皇の実像について相当謎や疑問があるんだよ。
孝霊の出雲地方の伝承は、神話期に転用されてる部分が多いと思うのでね。
例えば男神五柱に女神三柱という構成は、天照とスサノオの誓約での
構成そのままだったりね。
日矛と照らせ合わせてゆくと、まあ大体見えてくるんじゃないかと。
太国さん、そろそろ畿内説に変わった方がいいと思うけどねw
492 :
日本@名無史さん:2014/01/24(金) 11:21:21.47
>>491 かって九州各地にいくつかの王国があった
中国には出雲王国や吉備王国、四国にも阿波王国があった
そして大和にも、河内にも、東海にも、関東にもそれぞれ王国があった
当時はそういう時代だったのだ、考古年代が合ったからと云って、それだけで巻向が卑弥呼の都とはならない
493 :
日本@名無史さん:2014/01/24(金) 11:25:49.30
卑弥呼とトヨの時代は、神武から開化の間の後半だろ。
孝霊なんぞパチモン天皇は何も関係ない。
纏向遺跡に東海、北陸、山陰土器が多いのは、
物部の祖ウマシマジと、腹違いの兄弟・天香具山命の影響。
この二人が東海、北陸、山陰を征してるのだ。
前方後円墳はウマシマジの物部宗家、
前方後方墳は天香具山の尾張氏だろう。
495 :
満州上等兵:2014/01/24(金) 12:31:25.44
番朝鮮(古朝鮮、箕子朝鮮)が燕将秦開に攻められて二千里(あるいは千里)
後退したのはBC221年。ちょうど孝霊天皇の時代。
この頃穢王から番朝鮮王に宝剣が贈られている。
その宝剣は孝霊天皇から穢王に贈られたものである。
衛満朝鮮が漢に攻められて滅んだのはBC108年。開化天皇の時代。
この頃辰王が開化天皇に使いを出している。
記紀は内容も編年も正しいのである。
ピミらが毎日議論していることは全部空想である(憫笑)
勘違いもここまでくれば大したもんだw
孝霊はその名を素直に読めばいい。
高良かつ皇霊なのだからな。
素戔嗚尊が最初に降り立ったのも新羅。
正に半島に鉄を求めた倭人王を反映してるからだな。
497 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/24(金) 12:38:25.07
>衛満朝鮮が漢に攻められて滅んだのはBC108年。開化天皇の時代。
>この頃辰王が開化天皇に使いを出している。
どこにそんなことが書かれてるのか?w
文献資料証拠がなくてそんな言い分は認められない。
>高良かつ皇霊なのだからな。
クソ笑うわけだがw
499 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/24(金) 12:42:57.89
>>491 記紀に卑弥呼も壱与もその相当年代に女王(女天皇)に即位した事実は
全く書かれていない。
このことは畿内朝廷の書庫に卑弥呼、壱与の日本独自の情報が
なかったことを物語る。つまり畿内の近隣に彼女らの女王国がなかったから
記載が記紀に見られないわけだ。
つまり女王国が畿内から遠方に存在したからであって、そこは九州だと
観るのが相当なのである。
>>499 欠史の話は一部を神話記に分散してあるからな。
南部九州は女王の出身、縁の地ではあるだろうが。
だが三世紀、邪馬台国はやはり畿内にある。
>>498 出身地が不明な筑紫一宮の主がわかって良かっただろw
孝霊とはいわないが、出雲から半島に渡って筑紫に戻った人物なのだよ。
502 :
日本@名無史さん:2014/01/24(金) 13:22:57.95
>>500 南部九州には魏王朝ゆかりの親魏卑弥呼王朝があった。
畿内には魏王朝とは疎縁の畿内王朝があった。
ただそれだけのこと。
南部九州を女王国とするには痕跡が少ない、候補者もいないし。
それにモモソの時代には、既に南部九州の勢力が
畿内に勢力を持った入って来てるしな。
504 :
日本@名無史さん:2014/01/24(金) 13:57:05.62
>それにモモソの時代には、既に南部九州の勢力が
>畿内に勢力を持った入って来てるしな。
当然だろう。モモソは卑弥呼より後世の者。
その前に、親魏の王朝であったなら、魏王朝がたおれればとうぜんにして終える運命
卑弥呼・台与なきあと、どれだけ永らえたかも定かでない
ただそれだけのこと。。。。
505 :
日本@名無史さん:2014/01/24(金) 14:03:15.11
妄想乙
506 :
日本@名無史さん:2014/01/24(金) 14:06:15.59
いかなる文献にも、卑弥呼も壱与もその相当年代に女王が九州で即位した事実は
全く書かれていない。
このことは九州の何処にも卑弥呼、壱与の日本独自の情報が
なかったことを物語る。つまり九州近隣に彼女らの女王国がなかったから
記載がどこにも見られないわけだ。
つまり女王国が九州以外に存在したからであって、そこは九州じゃないと
観るのが相当なのである。
507 :
日本@名無史さん:2014/01/24(金) 14:19:15.61
>>506 いかなる文献にも、卑弥呼・壱与の相当年代に女王が畿内で即位した事実は
全く書かれていない。
このことは畿内の何処にも卑弥呼、壱与に関する日本独自の情報が
なかったことを物語る。つまり畿内近隣に彼女らの女王国は存在しなかったから
どこにも記載が見られないわけだ。
つまり女王国が畿内以外に存在したからと観るのが相当なのである。
508 :
日本@名無史さん:2014/01/24(金) 14:23:13.32
つまり女王国が畿内以外に存在したからと観る頭が相当バカなのである。
509 :
日本@名無史さん:2014/01/24(金) 14:58:24.04
>>507 じゃ、畿内以外なら四国でいいなw
瀬戸内側は記紀にも書かれた女神の国だし、国生みも九州より先だからな。
これで文句ないだろ?
510 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/24(金) 15:01:34.66
>>500 貴殿の言うようなことで、もし、畿内に
あったんなら、当時2回女王(女天皇)の即位の事実が無い畿内朝廷の
天皇国(当時男の天皇だけの国)の近隣に卑弥呼の支配する女王国が
あったということになるが、もしそうならば当然朝廷と近隣のこの女王国
との交流が記紀に書かれて然りのはずで、だがそんな記事は記紀には
存在しない。だから畿内という朝廷の近隣に女王国があったということ
にはならない。だから当時のこの日本において、朝廷の天皇国と卑弥呼の
女王国とは、交流ができないほど地理的に隔絶した場所関係にあったという
ことなのだ。
しかも卑弥呼の活動時代は崇神の時代だから、四道将軍の地方偵察範囲内
には女王国は存在しないこととなる。範囲内なら将軍らによって記紀に
かような大陸にも轟いたこの女王国の記載が含まれていてその活動実態が
記紀にか多く書かれておかしくない。しかしそんな状況は蚊の鳴き声にも
届かないほど純日本文献からと認められる情報の記載は記紀には存在
しない。このことは畿内に卑弥呼とその国はなかったと観るのが正解なので
ある。
>>506 そうではない。
卑弥呼活動当時の天皇国の勢力はたかが畿内に留まる。それに四道将軍の
活動でも卑弥呼の情報は得てないと観るべきだ。
ところが半島からの遣使は北九州を通って畿内に来てたはずだから、北九州
にも女王国はない可能性が高いが、遣使は全部、北九州全域を知悉してたで
ないだろうから、少しは存在の可能性はある。もっとも可能性があるのは、
やはり奥九州あたりだな。先述のとおり崇神朝廷のころは奥九州以南は
情報が得られないから、その以南に関して彼女の女王国の情報がなくても
女王国はそこのへんに存在したと観るの、逆に事由となる。
>四道将軍の地方偵察範囲内
いよいよ四国しか選択肢がなくなる訳だよ。
まぁ、基本的に魏志倭人伝は東西に疎くて南に詳しいからね
邪馬台国から東に千里渡った所にある土地なんて倭と同じ人間が住んでるようだって、
追記的に紹介してるだけ
南九州説が自然かな
神武の国なら男王しか有り得ない。
阿波にはオオヒルメの墓とされてきた場所もあるしな。
しかも周辺の弥生遺跡は巻向周辺にも影響を与えている。
欠史八代を安易に史実と見るのはどうかと思うが。
特に出所の怪しい、地方の伝承などは尚更。
その伝承がいつ生まれたのか?どこまで遡れるか?
はかなり注意しないと。
二代のスイゼイ天皇が人を食ってて、殺された、とか。
記紀の欠史八代は、欠史だからいろいろ空想で伝説が追加されたんだろう。
欠史以外でも大半の天皇の記述は似たようなものだぞ?
神渟名川耳尊 神沼河耳命
高志国の名だよな
517 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 00:11:01.98
>>482 卑弥呼=神功皇后の時代を定点ととらえていたとするなら、なぜ記事を本編に採らなかったのかな?
どちらにせよ、編者は日本書紀上での神功皇后の時代が卑弥呼の時代と重なるということを認識していた。
これを本編に採っていないところに編者の良心が見え隠れする。
つまり、編者たちは「当時流行りの辛酉革命説で神武即位年を紀元前660年に推定。」したことで大きなひずみが生じたことを認識(あたりまえだよね・・・)したうえで、
4世紀の神功皇后を無理やり100年以上遡らせて皇紀を設定した。
「定点として採用したかどうか」が問題ではなく、彼らに「卑弥呼=神功皇后」という認識があったのか否かが問題。
答えはもちろん「NO」だよね。
日本書紀の編者たちは、本気で神功皇后=卑弥呼だと信じてただろう。
そうでなくては、大王の実在年代を変えるとか、
有り得ないだろうと思う。
特に大王は神にしませばの八世紀では
519 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 00:32:08.07
>>510 >もしそうならば当然朝廷と近隣のこの女王国との交流が記紀に書かれて然りのはずで、
だがそんな記事は記紀には存在しない。
「記紀に記事が存在しない=そんな国が存在しない」でないことは解るよね。
記紀を編集する上で「都合の悪い部分はカットする」事は十分ありうるんだよ。
たとえば、女王国の政権を、身内あるいは配下あるいは他氏族が乗っ取り、
共立連合制時代の歴史を歪めて、さも自分の氏族が歴々王として君臨していたように
伝えたとしたら・・・今のような記紀が出来上がると思いませんか?
女王国(或いは前政権)時代のその氏族の長は「国王」とはほど遠い存在であるから事績がない。
これが欠史8代。そして動乱の後、モモソヒメが共立されたことによって力を増したのが「天孫族」。
開化から崇神にかけて「王」にのし上がり、ヤマトを統一した。
まぁ記紀の年代の細かい事を気にしてちゃ禿るぞw
外交史は聖徳太子だってイマイチはっきりしないんだからな。
記紀は8世紀に書かれた書物で、卑弥呼の時代は500年近い昔
正確なことが記されてると思うほうがおかしい
だから民間伝承は重要なんだよ。
正確な年代を割り出せる訳ではないが、それ程
記憶に残る出来事だったという事なんだからな。
また話が分散した場所によって人の移動が証明出来る。
婚姻や葬送、作法に関する古い風習や言い伝えはとても参考になるぞ。
方角に関するモノはなかなか興味深い。
残念なのは、もう当事者ですら祖先の記憶が
薄らいでる場合がとても多かったのだ。
民間伝承はコロコロ変わる。アテに出来ないよ。
元々の話があるのだから、変更を調べるのも大事な話だけどな。
525 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 14:05:48.05
倭人伝によると30か国が中国と通じていた。
ご丁寧にその30か国が倭人伝に列挙されている。
邪馬台国が畿内なら、3世紀の日本各地から漢字が出土すべきだな。
畿内の弥生遺跡から貨泉が出てる時点で問題ないけどな。
527 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 14:45:43.05
528 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 16:01:35.16
貨泉といっても勿論他の出土品と合わせての評価だからな。
それを考慮しても弥生後期までには確実に漢人が来てると判断出来る。
529 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/25(土) 18:04:58.49
>>519 卑弥呼の件では都合が悪いの事由は成立しない。
なぜなら紀の神功39年に彼女の記事があるんだから、隠匿
とか削除したんだという論は成立しない。
さらに都合が悪いのが他にあるではないか。w
例えば雄略武烈の残虐ぶりなんぞ、そっちのほうがよっぽど
削除したいほうだろう。しかしカットされずにその非道ぶり
が書かれている。つまり君の主張は ハイそれまでよ〜だな。
530 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 18:58:15.17
>>519 概ね賛同する。
ただ、乗っ取りとは違うようにも思う。
女王共立時代の天皇家は、「王の中の王」ではなかった。
でも先祖はそこにいて、共立集団の一つだった。
天皇家に卑弥呼の伝承がないことから、巫女の一族ではなかったのだろう。
王になったが国を治めることが出来なかった一族かもしれないし、それ以外かも
しれない。
ただ、相互に政略結婚してるだろうから、無関係とは思えないけどね。
その時代の天皇家の先祖は、
・ボンクラだった
・若死にして大した働きをしていなかった
・他の氏族に有能な人間が複数いた
ボンクラにしては、孝霊以降、複数の有力と思われる氏族から嫁を取ってる。
戦国末期のように、もっと有力な豪族がいたのかもしれない。
崇神が信長としたら、その父や祖父のようなというか。
信長と違うところは、巫女を重視したから反乱で殺されることはなかったw
ただ、モモソヒメのところはどうかなあ。
>>522 民間伝承なんかより邪馬台国が実際に存在した三世紀に陳寿が執筆した魏志倭人伝の方がよっぽど正確だよ
>>532 誰も倭人伝と比較してないのだがw
民間伝承が補完できるのは記紀や風土記だし。
倭人伝の信憑性60%。
記紀の信憑性70%。
こんな感じかなぁ。
社伝てのは改変され易いものだからな。
いつ書かれたものか?とか冷静に判断しないと。
そのまま内容を鵜呑みして史実が書かれてる、とか、世間知らずも甚だしいw
まぁ、アホは社伝や伝承での改変された
元ネタを探す程の知識がないからなw
式内社に選ばれたいがため、大昔から大王とゆかりがあった神社だ、と主張してたんだろう。
祭神の改変も多い。大概は何柱か祭っていて、その内一柱は地元神。
その他が後世追加された、記紀を読んで導入した神様。
そもそも口承ってのは、その都度、時代の要請で改変されていく。
空海や義経の話でも書いた筈だが。
だから、その社伝がいつ書かれたものか?は重要。
明治以降に神社で見つかった神代文字とかの全ては眉唾で、
せいぜい江戸時代に書かれた代物だった。
ただ、書かれた物は基本変わらない。これは重要。
日々変転万化してしまう伝承の「書かれた当時の」内容を、フリーズドライして現在に伝え得る。
神社側からすれば、いつ創建されたか?は出来るだけ古い方がいい。
記紀を読んで、それらしい、リアルな神や大王を合祀していったんだろうな。
大和朝廷におもねることにもなる。
ただ、大和朝廷におもねらない由緒ある神社もあって、
例えば熊野大社などの式外社。古くに創建されているのは確かなのだが、
式内社に選定されていない。力を持っていた古社で、敢えて朝廷と距離を取ることが出来た。
だからこそ、古代の天皇が人を食っていたとか伝承できたんだろうw
539 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/25(土) 21:31:11.58
>>531 >イヨはどうするの?
だから記紀に当時の朝廷に2回連続での女王(女天皇)の即位の事実は
書かれていない。女がダメなら後代の推古天皇らは記載してあることに
矛盾となるから、ダメだにはなってない。
このことは当時において女天皇(女王)など畿内に存在しなかったと
いうことが分かる。つまり卑弥呼、壱与とその女王国は畿内に在ったとは
いえず、このことは彼女らが九州所在だったということが相当になるのだ。
社伝を単純にそのまま信用していれば当然歴史は
滅茶苦茶になるのは当然の話だ。
なので裏付けとして周辺遺跡や古墳、集落の伝承や
地形(河川の状況や古い地盤の状態)を調べるのだよ。
少なくとも俺は奈良盆地はかなり力を入れてやったつもりだからな。
特に大和言葉に冠婚葬祭についての地域差というのは、
考古学や文献資料にはないからな。
>>539 九州に女王の伝承を持つ人物記録がない以上は説得力がゼロだよ。
理詰めの太国さんらしくないねw
>>540 妻木晩田遺跡が見つかったから、孝霊伝承は正しい、とかか?w
本当に馬鹿だなw
大事なのは、その社伝がいつ書かれたのか?作られたのか?だよ。
543 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 21:44:54.60
>>541 その伝承の人物記録こそ、
倭人伝という第一級の資料に残された卑弥呼および台与というわけだ。おわかりかな
544 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 21:48:14.63
>>542 勿論それだけで判断すれば単なるバカだろうw
周辺部における伝承や地名、遺跡の状況を踏まえての話だ。
実際日野川周辺を中心に孝霊天皇の伝承が多いのだから仕方ない話。
この地名や伝承を持ち込んだのは誰と考えてるのかな?
>>543 卑弥呼やトヨは九州にいないから無理だなw
土蜘蛛の酋長とでもいいたいのか?
546 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 21:53:24.06
>>545 倭人伝は解読された。今九州にはいないが、かって九州にはいた。
意味不明だよw
まぁ既に九州説なんてなんの説得力もないと思うけどね。
>>544 竹内文書は武烈天皇と平群真鳥が書いたんだっけか?w
そもそもの社伝がいつまで遡れるかの検証が大事だと言ってるのに、
まだ分かってないw
549 :
日本@名無史さん:2014/01/25(土) 21:57:54.30
>卑弥呼やトヨは九州にいないから無理だなw
なにが意味不明だ、現在形で読み書きする奴には、倭人伝は解けまいww
変な奴だな、何故突然竹内文書がw
義経北行の伝承が各地に残るから、事実というわけだなw
552 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/25(土) 22:11:59.56
>>541 別におかしくないだろうが。
オマエさんは卑弥呼生存当時、朝廷が全国制覇、全国支配の考えで
それを思うからそんな判断間違いをしてしまうのだ。
卑弥呼当時朝廷が全国支配なら、朝廷は卑弥呼の情報を得てなければ
おかしいことは確かだ。しかし九州の奥地はその支配下にないし隔絶
してるわけなんだから、そんな情報記録はないのが当たり前だ。
卑弥呼生存当時の朝廷はその勢力が畿内の留まっており、それで四道将軍
が外界へ偵察に出たのだ。
だからそのころ卑弥呼の日本産の情報など畿内に無いわけで、九州の支配
は北九州がそろそろでとりわけ卑弥呼の後代の仲哀神功の時代に支配度が
出てきたわけで、記紀編纂当時、これでは奥九州あたりの卑弥呼の時代の
記録がないのは、逆に卑弥呼とその女王国が(奥)九州所在だったという
根拠になるんだよ。
>>551 義経のケースとは根本的に違ってるよ。
記紀にも名前しか載らないような孝霊天皇の伝承が
出雲を中心に各地に残っている時点で変な話。
知名度が無い天皇の記述が無いならわかるが、そうじゃなければ
敢えて載せてないて推測するしかないからな。
しかも素戔嗚尊の記述に似通った話が多いぞ?
>>550 江戸後期には国学が盛んになり、多数の偽書偽伝が創作された。
記紀を読んでそれらしく書いても、文字遣いが新しく馬脚を現す。
竹内文書はかなりの電波だったがw当時の大東亜共栄圏とか、
八紘一宇とか言ってた時代背景にマッチしてたんだろう。
伝承を史実と扱うなら、こういった過去の事例をよく知った上で、眉唾で取り組まないとなw
>>552 まぁ説明は省くが銅鐸圏=倭国だと思ってるんでね。
それに三世紀当時、北部九州は男王の国、
また畿内から半島ルートは出雲、丹波にもあると。
そうなると出雲との縁のあるモモソが候補になるとしか
思ってないんでね、卑弥呼かトヨかは別にして。
熊野三山の内、熊野那智大社は神社ではなく山岳修行の場で、熊野那智権現と称していたが明治初期に熊野那智大社になった
熊野坐神社(熊野本宮大社)、熊野速玉大社、出雲の熊野大社は名神大社
孝霊伝承はいつ頃作られた?書かれたか?の検証が先だな。
書かれてるなら、文字遣いで大体の年代は分かる。
まずそれをしてからだ。史実かどうかの検証は。
竹内文書を検証する時に、まず遺跡の場所とか、伝承の分布とかから入らないように。
558 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/25(土) 22:27:19.41
>>555 とにかく伝にははっきり女王国とあるんだから、記紀にはその当時の
記録に推古まで女王国(女天皇国)はないことをしっかり考えるべきだ。
ハッキリ女王国とあるんだから、畿内にあるんなら男王国たる天皇国の
近隣にその女王国があったことになる。そうならば記紀に女王国との
交易、戦争、葛藤、婚姻、遣使等の記録が載るはずだがそれがない。
これは天皇国と女王国が遠隔で別物だということさ。そこを思い知らね
ばならんのだよ。
寝るから明日以降話そう。zzzzzzzz・・・
まず何故竹内文書にこだわってるのかがわからんw
大体内容を見たことも無いのだが。
河川交通が盛んな古代日本において、
その流域の住民たちが伝承を共有するってのは有り得る話だと思うがな。
なぜそれが孝霊伝承史実の根拠になるんだ?w
>>558 記紀にはっきり書かれた女王国なら四国の二国だと思ってるけどな。
ヤマト、巻向とも関係が深いし。
>>559 君の言ってる孝霊伝承と竹内文献は大差がないんじゃないのか?wということ。
>>560 だが記紀の注釈にも載らない、本当に無名の天皇ならは
伝承として採用する意味もないだろう。
他の人物でいい話だ。
>>562 まぁ古事記も偽書扱い事もあるしなw。
だが一切の地域伝承や風土記は参考にもしないのか?
偽書偽伝が作られたのは、
@奈良〜平安時代初期
A中世(仏教の本地垂ジャク説による)
B江戸後期(国学の高まり)
孝霊のは@の頃創作された伝承だろうな。
律令国家で神祇官を中心に宗教統制が図られて、
言うことを聞く神社には、神祇官や国司から幣ハクが下賜された。
その時に日本書紀から祭神を採用、古史古伝を創作した神社は多かったと思われる。
女王国である二名島で女性皇族として明確に
活躍が記録されたのがモモソだろう。
まぁそれだけでも充分資格はある。
しかも孝霊天皇の皇女なら、出雲との関係も説明が出来るし、
充分共立の支持を得れる立場だ。
九州説を主張したいのなら、具体的な候補者なり資料を出せてからだな。
567 :
満州上等兵:2014/01/25(土) 23:02:55.77
だから孝霊天皇はBC290-BC213の天皇だと言ってるのに(笑)
パカな奴らだ(爆
古事記は、天皇記国記の体裁をとった偽書だろ。
ただ、文字遣いから、本文は日本書紀より前に書かれたことは分かってて、
貴重なのには違いない。
平安初期、先代旧事本紀に先に天皇記国記を取られたので、
仕方なく天武天皇の命で太安万呂が書いたという序文をつけた。
wikiに書き込んだ人はそう書いてますけど、仮名遣いとかが真偽の根拠になるものですか?
内容を見る前に、論理的におかしくないですか。
まあ、古代人は現代人より遥かに多くの仮名を聞き分けていて、
それを文字にする時に厳密に遣い分けてたのは事実だろう。
仮名遣いで書かれた年代を推測するのは妥当。
日本書紀では遣い分けがない仮名を、古事記が遣い分けてる。
>>564 >だが一切の地域伝承や風土記は参考にもしないのか?
極端だなw
誰もそんなこと言ってないしw
古史古伝を安易に史実と見てはいけない
と教えやってるだけw
ただ、記紀にも採用されない孝霊伝承を史実と言い張るなら、
その根拠を示せということ。
記紀に採用されない理由は、都合が悪かったからだっけ?w
何でもありだなw
極端にも程があるだろ、いきなり竹内文書とか言い出してる癖にw
記紀と大して成立時期の変わらないような風土記の比較に、
世界や宇宙まで出てくるような
文書を持ち出す気が知れんわw
地方の伝承の成立時期なんて大して問題ではない。
何故その人物かが重要なんだからな。
内容の誇張なんて当然あると見るのが普通だ。
だが根本的に英雄噺を人物を差し替えたりする場合にも傾向がある。
出雲地方なら別に素戔嗚尊でいい話だ。
それがわざわざ孝霊である理由を説明出来るのかよw
自分の家や土地の伝承に縁もゆかりも無い人間を
持ってくる訳がない位理解出来ないようじゃ話にならん。
鳥取県西部には孝霊の幼名の楽楽福神社が5社ある
日南町宮内 日南町印賀 伯耆町宮原 南部町笹相 米子市上安曇
島根県安来市広瀬町にも佐々布久神社がある
同じ鳥取県に含まれる因幡国よりも島根県に含まれる出雲国と、古代遺跡の類似性、方言などの文化的共通点が多いため、雲伯という地域区分がある
また、中国地方最高峰の大山を境にして、東伯(県中部)と西伯(県西部)に分かれ、方言や文化などに違いが見られる
鳥取中央部にある青谷上寺地遺跡からは最多の殺傷人骨と最多227点の卜骨がまとまって検出されている
575 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/26(日) 10:35:35.21
>>561 >ヤマト、巻向とも関係が深いし
関係が深ければ、畿内に女王国の威勢が轟くんだから、記紀に
純日本産の情報のその跡形の記載が出るはずだよ。
つまり畿内朝廷とあんたが言う四国の女王国とはお互いに隔絶
した状況にないということとなる。それでやはり記紀に書かれて
ないのが現実なんだから、そこじゃぁないな。
だいたい四国じゃぁ大陸から女王国への旅がもっともっと広がって
いることとなる。つまり畿内以東以北は別として、女王国に来たその
一行は半日本を知悉したこととなるが、そんなんなら倭人伝の記載が
四国の記事を多く含んでもう女王国の所在が論争まで行くことなしに
決まりだとなる。
だから四国では大陸から遠方にしすぎる嫌いもあるし、四国説は成立しにくいね。
だが四国は倭人伝の気候風俗記述には適合率なら一番高い。
冬温暖で青玉丹山もあって真珠も産する。
酒のみも非常に多いしなw
577 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/26(日) 10:45:48.90
>記紀にはっきり書かれた女王国なら四国の二国だと思ってるけどな
どこにハッキリ書かれてるんか?
まさか伊予の二名島の伊予が壱与で、二名とは卑弥呼と壱与の二名様
だという考えか?w
これはそれと直接関係ないよ。ただ、
〜四国剣山にソロモン王の財宝が埋まれているということで、
終戦前後か? 高根正教という方が実際剣山頂上を掘ってミイラを
多数発見し、さらにその兆候を認めたとかいう話だが、その著書に
四国の細長い半島のあたりが人間の指差し(九州中部を指している)の
感じの姿に見えるという絵を掲げていたが、伊予は壱与の所在した
中九州〜奥九州を指示していると観る考えがそれがしの脳裏に浮かん
だ。しかしこれは証拠にならん。参考だ。
ムー王国だなここは
>剣山頂上を掘ってミイラを多数発見し
嘘つけ
剣山頂上にモーゼのアークが隠されていて、ミイラが出土したというのは
日本オカルト界では有名な伝説だけどな
581 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/26(日) 10:52:20.03
>>579 コチラは著書を読んだだけだから、コチラにウソを突いても
しようがあるまい。高根家に文句を言え。
いまはミイラのほうが重要でなく発見の様子を著書から
書きこんだもので、要点は指差し人間のほうだよ。
国の名で女性名が付いている国は
四国の2つしかない、と言うこと。
阿波の大宣都比売と伊予の愛比売のみだ。
はっきり女性神の国と書かれているのに謎でも何でもないわw
>>573 なぜ孝霊天皇が選ばれたのか?は、やはりお前が言ってたように、
孝霊山があったからだろうな。
記紀を読んだ人が孝霊の符合から、孝霊天皇の事跡とした。
>>583 孝霊の伝承は離れてる日野川沿いにも沢山あるけどなw
なぜ孝霊を選んだか?
→孝霊山があるから。
孝霊伝承は地域の人々に記紀が読まれるようになってから創られた伝承だろう。
そうでなければ、山を孝霊山と名付けられない。
国生みの国名はとても重要なヒントだろう。
建(タケ)の名が付く国が3(九州南部に土佐)、
豊が2(熊本大分)白が筑紫で半島との関連性が強い。
まぁ記紀での出自における基本的認識はここにかかれている訳だ。
もともと高麗(コウレイ)山と呼ばれていたのを、
コウレイの同音から孝霊に読み替えた。
元々の祭神は高句麗関係者か?
孝霊山は元々高良、瓦、韓山だよ。
孝霊天皇は東からやって来て賊を退治した
という伝承なので、当然出発地は大和。
周辺で大規模な戦乱跡があったのなら、正に倭国大乱だな。
コウレイ山から、孝霊天皇を選んだ。
なぜ孝霊天皇なのか?の質問に答えただけだよ。
590 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 11:41:40.38
>>589 他地方にも伝承があるなら、理由として成立しないという事だから。
瀬戸内から中国地方にかけて散在してるだろ。
記紀を尊重するならまず国生みから尊重しなくてはな。
まず最初は淡路島から始まってる。
楽楽福自体、孝霊天皇というより、製鉄・鍛冶の神様っぽい名前だがな。
コウレイ、ササフクとくれば、高麗系の半島出身の製鉄集団か。
少なくとも、記紀の孝霊とは無関係(同音を除いてw)
593 :
満州少尉:2014/01/26(日) 11:54:32.83
四国説なんて物笑いの種(笑)
四国説男は救いようのない○○(憫笑)
イスズヒメ説も東海説も同じ(苦笑)
594 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 11:57:28.37
太国は九州説信奉者がどれ程おばかか宣伝する広告塔
595 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 11:57:46.43
満州説も朝鮮説も同じ(苦笑)
楽楽福伝承の残る地域で、ササ=砂鉄からの製鉄を始めたのはいつか?だが。
古墳時代中期頃?
孝霊天皇が実在したとしても、2〜300年は時代が違う。
諦めろw
597 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 12:01:14.67
>卑弥呼やトヨは九州にいないから無理だなw
現在形と過去形の区別もできない畿内説幼稚園学者
だが畿内の孝霊天皇の故地は鍵唐古で銅鐸、
又鏡に関する神社の近くに宮があり、
王寺町で初期製鉄に関する場所の近くに御陵が存在する。
実際出雲地方との関連性はとても深いぞ?
599 :
満州少尉:2014/01/26(日) 12:26:06.90
国生みが四国から始まったから、とか、国名が女名なのは四国だけ、とか、
そんなパカな小学生のような理屈を年がら年中唱えているのであるw
神功皇后も推古天皇もその後の女帝も四国とは何の関係も無いのにw
四国に日本の首都が置かれたことも一度も無いのにw
おまけに孝霊天皇の出雲遠征を倭国大乱だとか、
高地性集落が倭国大乱の遺跡だとか、アホな空想に耽っているw
まともな人間ならすぐ珍説と分かるはずだが、
如何せん、救いようのない○○だから何年経っても分らないw
600 :
満州少尉:2014/01/26(日) 12:31:15.03
太国はここのアホどもよりははるかに偉い。
なぜなら記紀は真実であると理解しているからだ。
その他のアホどもは記紀は嘘で創作で陰謀だと思っている、何の証拠も無いのにw
ただ太国の惜しいところは卑弥呼は九州にいたと思っていることだ。
それと記紀の編年を信じていないところ。
それさえ除けば太国は他の連中よりずっとまともな論者である。
>>598 鉄は筑紫から。
銅鐸も、後期の見る銅鐸は出雲では作られていない。
いい加減、出雲=銅鐸族とか馬鹿げた妄想は止めろw
>>601 だが現実には出雲が最大出土地だからな。
また最大の戦乱跡も確認された以上は、
ここが倭国大乱の舞台だと言えるだろう。
その場所に鍵唐古近くに宮を持つ天皇の
西征伝承が残る意義はとても大きい。
竹内文献も、書かれた年代が八世紀と判明したなら、世紀の大発見だったのだがw
書かれた年代、成立した年代がいつか?を検証せず、
伝承内容を安易に史実と認定する。
その根拠は「広く分布してるから」w「有名な遺跡が近くにあるから」w
いかに根拠薄弱か、自分自身で噛みしめろw
こいつ竹内文書しかしらない情弱かよ?
恥かくだけだからオカルト板に帰った方がいいぞw
おまえは、いかに精神薄弱か、自分自身で噛みしめろw
>>602 しかしその孝霊伝承は記紀に記載されていない。
その理由は、
@記紀編纂以降に創られた伝承で、記紀編纂当時まだ存在していなかったから。
A記紀編纂時に存在していたが、信憑性がないとして、採用されなかった。
まあ、@が妥当かなw
607 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 12:59:48.92
>>606 だがその理由では神話記に類似の素戔嗚尊神話が
散見される事が説明出来ないけどな。
出雲地方が特殊な扱いを受けていたのは事実だろう。
素戔嗚尊と天照大神の誓約で生まれる女神三柱、男神五柱の構成は
孝霊天皇と同じだしな。
九州説論者の必死な様子が痛々しいなw
B孝霊と藤原氏は関係がなかった、いじめられたから
>>601 銅鐸はカモ・ミワ族。
カモと言う地名と銅鐸の関連はすでに何人かが指摘してる。
>>610 孝霊天皇が蘇我・葛城の出自にゆかりがあるからかな。
出雲は弥生中期末〜後期初めには銅剣や銅鐸などの青銅祭器から訣別し、
四隅突出型に移行している。
地名類似とか、どうとでも解釈出来る。
孝霊バカには困ったもんだ。
平日祝祭日も一日中いついて孝霊、孝霊の連叫かよ。
孝霊なんて全然関係ない。
615 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 13:31:15.81
満州が否定するという事は正しいという事だよw
孝霊の時期は倭国乱で正解のお墨付きだ。
葛城は孝元だろ。
あとまあ、記紀で何か都合が悪いとすぐに藤原不比等を出してくる奴がいるが、
藤原不比等の権勢はそこまで高くない。
光明子が聖武天皇の皇后になるのは、不比等の死から九年後。
>>616 本人の権勢は低下していても、根にもたれていた可能性はあるだろう。
929 可愛い奥様 sage 2014/01/24(金) 20:59:43.70 ID:3ReRn1P20
舛添の本、図書館で見てきた。
オモニってマジで書いてあった。
この本、いろいろ気持ち悪いことが書いてあった。
「日本人は韓国人を見習うべき」
「ハングルの勉強に励んでいますし、韓国への造詣を深めることに喜びを感じています」
「おふくろの味を、韓国南部の家庭料理のなかに発見」
「福岡を起点に考えると、ソウルの方が東京より近いのです」
「歴史の一時期の不幸な体験を乗り越えて、この隣国同士がもっと相互に理解を深めていくべき」
つ 証拠画像
(p)
http://uppuppu.com/upimage.php?mid=344b3233enhjZGVydHl1aW9w
619 :
孝霊厨:2014/01/26(日) 17:01:34.41
九州方面に唯一孝霊天皇の名が残ってる場所知ってるかな?
肥後国一宮、阿蘇神社の創建年が孝霊天皇9年だってw
これは「富士本宮浅間社記」の孝霊5年に富士山が噴火していた、
という逸話と合わせて考える必要はあるかもね。
620 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:35:13.16
阿蘇が高天原なのだろう。
621 :
孝霊厨:2014/01/26(日) 17:49:52.17
普通に考えりゃ5年に富士山(浅間山)が噴火したから
数年後阿蘇に祭祀対象を移したとも考える事が出来るな。
孝霊天皇は抜きにしてもそういう時系列を説明出来るだろう。
富士は噴火しようがしまいがずっと祭祀対象だろ。
623 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 19:11:46.62
富士山は遥かに望む信仰の対象
阿蘇は身近な高原の五岳、ここを高天原になぞらえたのはありえなくないお話し
阿蘇から高千穂に天孫降臨したなら地理的にも納得できるね。
景行天皇が広々とした阿蘇の地に来て「この土地に日本人はいるか」と聞いたところ「われら二人がおります」
と阿蘇都彦と阿蘇都媛の二人が現れた
日本人はたった2人になってしまっていたのであった。
626 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 19:35:48.58
なかなか優れた舞台設定だ
阿蘇山の噴煙を背景に、しずしずと高千穂に下る天孫一行、、、、
我ら一行こそは火の神の下されし者達、、、、
肥後の国一宮の創建年に孝霊の名がある以上は無視できないなw
確か筑紫一宮も高良だね。
やはり新羅に渡って筑紫に降りた王は
孝霊か子孫の可能性が高いのかもな。
孝霊はフトマニ、太珠の意の名前を持っているのも見逃せないな。
霊自体も珠の意味を持っているしな。太珠とは豊玉と同義、豊玉彦だね。
>>625 >景行天皇が広々とした阿蘇の地に来て「この土地に日本人はいるか」と聞いたところ「われら二人がおります」
>と阿蘇都彦と阿蘇都媛の二人が現れた
>日本人はたった2人になってしまっていたのであった。
○日本書記によると景行天皇がこの広々とした土地に来て
「この土地に人がいるか」と聞いたところ「われら二人がおります」と
阿蘇都彦と阿蘇都姫に二神が現れ、そこで阿蘇という地名がつけられたといわれている。
サラッと嘘つくな。
もう畿内で確定してるだろw
631 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 20:44:04.82
ついに倭人伝は解読されました。
南部九州です。
632 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 20:56:41.37
確かに投馬は南部九州にあると書いてあるな。
瀬戸内、西日本を抑えた最初の大和の王が孝霊天皇という事だな。
娘の百襲が卑弥呼という可能性は高いだろう。
日本書紀の国土拡大の記載ははっきりしていて、
崇神の時に物部を派遣して、出雲を討伐。
次代の垂仁で出雲出身、土師臣の祖ノミノスクネが現れる。
このように前後の事跡が関連してるんだよ。
神武が奈良盆地を制して、橿原で即位。
欠史八代は何もなし。
崇神の時、四道将軍を派遣。出雲征伐(古事記では倭建命になってるが)。
景行の時、西征して九州へ。日本武尊が東国の蝦夷征伐。
成務の時、全国に国造や県主を設置し、国の形を完成させた。
孝霊?何それ?って感じだよ、記紀では。
仲哀の時、熊襲征伐に拘り、神意に背き死。
神功皇后の三韓征伐で、応神以降、半島から渡来人が大量に来るようになる。
確かに、大和王権の版図拡大に合わせて、話が進んでるんだよな。
孝霊が活躍し過ぎたら、四道将軍や日本武尊の出番が無くなるw
孝霊帝の年に肥後一宮が創建されてる時点で諦めたらw
欠史八代の逸話は神話期に転用されているで説明がつく。
素戔嗚尊は最初新羅ソシモリに降り立ったんだよな。
で、息子と一緒に倭に向かうとある。
この息子が筑紫を治める伊都津彦であり
戻って来た素戔嗚尊は天日矛なんだろう。
639 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 00:41:27.11
>>634 弥生後期最大の戦闘跡である、出雲の青谷は二世紀だが?
崇神の時代とは全く一致しないよw
孝霊否定しちゃうと肥後一宮の由緒も全否定する事になるのだな。
出雲征伐は古事記でいう倭建命だろ。
出雲での前方後円墳が4世紀後半あるいは中頃なので時期的に合う。
孝霊なんぞクソ野朗の出番なし。
642 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 08:16:35.65
妻木晩田はスルーかよw
>>641 では弥生後期に戦闘跡を残したり、銅鐸埋めたり
した連中を誰と考えてるんだ?
644 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 09:55:24.81
銅鐸勢力の後が孝霊
孝霊の後が出雲の前方後円墳
645 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 10:07:05.18
>>635 違うな。日本書紀では、と書かないと正確じゃない。
古事記には、孝霊の時に吉備が出てくる。
弥生後期で青谷上寺地遺跡以上の戦闘跡はないよな。
おそらく同じような戦闘跡は各地にあったのだろう。
これが倭国乱の証拠の一つであり、鉄器も豊富に
確認されてるのだし、北部九州以外にも鉄の
確保ルートが存在していたのは既に実証されてるよ。
647 :
孝霊厨 :2014/01/27(月) 11:17:44.99
金山姫・金山彦神社が存在する集落というのが、竜田の西、
信貴山の南方にある青谷という集落だよ。
すぐ下の大和川を挟んだ小山が芝山(ここの石を箸墓に使用)
また芝山の近くには船氏縁の場所でもあり、松岳山古墳の所在地。
ここからは日本最古の墓誌が出たところでもある。
この墓をはじめ、奈良周辺の古墳を盗墓してまわったのが、
堺県知事税所だと言われてるな、薩摩の西郷隆盛の側近だね。
お宝は何処へ消えたのやら。
>>644 >銅鐸勢力の後が孝霊
全然違う、70年はずれてる。
>孝霊の後が出雲の前方後円墳
出雲の前方後円墳 は4世紀後半なんだが、
孝霊って200年近く生きたのか?w
>>643 >では弥生後期に戦闘跡を残したり、銅鐸埋めたり
>した連中を誰と考えてるんだ
出雲系だろ。
650 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 11:28:41.20
>全然違う、70年はずれてる。
どっちが70年前or後なのか、読み手によりさまざま
全体の大まかな前後関係をはっきりさせてからにしてくれ
>>650 天皇の編年してないのはお前だろ。
俺はしてる。
653 :
孝霊厨 :2014/01/27(月) 11:49:45.70
>>651 それはボケなのか判断に困るな。
まず松岳山は奈良県ではない。
また明治9〜14年、奈良県は堺県に合併されてるよ。
その時の骨董品マニア、税所の噂は有名だよ。
>天皇の編年してないのはお前だろ。
俺はしてる。
何の説得力もない言葉だなw
656 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 12:06:37.73
>>652 天皇の編年ではない
天皇の編年とりわけ孝霊と、
銅鐸、妻木晩田、弥生後期の戦闘跡、銅鐸埋めた連中、出雲の前方後円墳などなどの相互関係だ
明治20年〜22年 初代奈良県知事も税所篤
658 :
孝霊厨 :2014/01/27(月) 12:13:59.69
まあ現状では青木上地寺の戦闘跡が、倭国乱の年代と
リンクするのは間違いないしな。
出雲地方、妻木・晩田周辺で征伐の伝承を多く残すのは
孝霊しかいないよ。崇神天皇318年説ならさら無理だね。
659 :
孝霊厨 :2014/01/27(月) 12:28:30.03
変換ミス、青木上地寺ではなく青谷上寺地だな。
おそらく丹波や出雲にはまだこういった遺跡の発見があるかもね。
古い地名はやっぱり注目した方がいいな。
何でも孝霊実在の根拠に見えてしまうw
末期症状だなw
孝霊が実在したとしても一〜二世紀?、唐古鍵の首長だろう。
唐古鍵が伯耆まで侵攻したり、阿蘇山まで勢力圏においてたとか、
考古学的に有り得ない。ていうか根拠もない。
記紀にも書いてない。
本当に人生を無駄にしないようw老婆心ながら思うよw
もっと、孝霊伝承はいつ?何故?生まれたのかとかの考察のが、学術的的意味があるだろう。
いきなり史実だ!とかでなくw
661 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 12:41:04.58
>孝霊が実在したとしても一〜二世紀?、
それこそ問題の根源
そんなに早くは無い、もっとあと、もっとあとww
都合が悪くなると発作を起こす奴だなw
孝霊が後と主張するなら少なくとも証拠を出さないと。
平均在位とかの妄想はいらないからなw
663 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 12:54:48.65
孝霊が前と主張するなら少なくとも証拠を出さないとww
664 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 12:57:00.66
>>656 孝霊ごときがエポックメーキングな訳なかろう。
変革にふさわしい天皇なら神武、崇神だろうが、
出雲の前方後円墳は別として、時代的には神武だ。
そしてニギハヤヒな。
665 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 13:04:30.31
孝霊はどう見ても吉備王国
神武の東進を支援した豪族たちの家系
666 :
孝霊厨 :2014/01/27(月) 13:06:26.75
>時代的には神武だ。 そしてニギハヤヒな。
阿蘇神社の存在、由緒を全否定する事になるけどなw
肥後国一宮の歴史を否定しちゃ駄目だぞ。
>>658 >崇神天皇318年説ならさら無理だね
崇神天皇318年説はもはや定説だ。
したがって無理なのは君。
669 :
孝霊厨 :2014/01/27(月) 14:42:47.41
>>668 仮に崇神天皇318年説が定説となっても、青谷や妻木晩田といった
遺跡が3世紀後半に比定される事はないからね。
どちらにせよ孝霊天皇の代=倭国大乱の時期が決定的に否定される
証拠が今のところはない。
平均在位年数は論としては認めるには余りに稚拙な手段だよ。
こちらは地名の相関や銅鐸等による、鍵唐古と出雲地方の
類似性といった、状況証拠を固めるだけだからね。
670 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 14:52:08.46
倭国大乱≠中国地方の大乱
671 :
孝霊厨 :2014/01/27(月) 14:54:28.63
>>663 >孝霊が前と主張するなら少なくとも証拠を出さないと
現状でも加茂岩倉遺跡出土の銅鐸のうち何種類かは、鍵唐古から
出土した銅鐸破片の成分と類似が指摘されてるよ。
更に調査サンプルや新たな出土を待つと、論が補完される事は
あっても覆る事はないんですよ。
672 :
孝霊厨 :2014/01/27(月) 14:57:05.71
>>670 実際現状で2世紀最大の戦闘跡は鳥取の青谷ですよ?
また高地性集落もこの時期は瀬戸内海中心です。
673 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 15:08:41.71
倭国大乱(九州地方の大乱)≠ スサノオの大乱(2世紀の戦闘跡)= 中国地方の大乱
こんなところじゃないかしらね
>>671 まさか唐古鍵→加茂岩倉だと思ってるのか。
加茂岩倉→唐古鍵だろ。
>>669 >どちらにせよ孝霊天皇の代=倭国大乱の時期が決定的に否定される
>証拠が今のところはない。
それは孝霊天皇の代=倭国大乱が手お説である倍井に言う言葉。
定説でもなんでもないのに定説みたいに言うべからず。
>平均在位年数は論としては認めるには余りに稚拙な手段だよ。
それさえ出来ず神無我1世紀打2世紀だ揺らいでる君ってw
676 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/27(月) 15:19:55.00
>>668 定説が必ずしも真だとはいえない。
沖縄神徳寺保有文書の「八幡愚童訓」と呉史から
黄龍2年=230年=開化48年 呉兵沖縄来襲
を得る。
ここから倍暦年代降下計算から
崇神元年=237年=景初元年
が判明し、さらに年代下降の計算により 崇神没年=259年 が分かる。
ここから1年違いで古事記の
崇神没年(戊寅)=258年
と確定する。
318年説は間違い。
倭人伝には大乱とは書いてないけどな
679 :
孝霊厨 :2014/01/27(月) 15:47:51.93
>>675 >それさえ出来ず神無我1世紀打2世紀だ揺らいでる君ってw
妄想では何とでも出来るし、比定は簡単だよ。
だがそれを論として発表しようとは思わないからだよw
しいて言えば太国さんに近いが、崇神天皇自体に少し
存在の矛盾を感じるのでやらないだけの話。
>>674 それは可能性あるかもしれないよ。
今後の発見次第だね。以前からの△の解釈や銅鐸文化圏の
分類なんて簡単に覆ってるだろう?
680 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 17:44:37.69
>>679 >崇神天皇自体に少し存在の矛盾を感じるの
ところが孝霊については伝承までが正しく、
考古学まで強引に結びつけようってか?
城の山古墳の発掘で崇神が4世紀前半は確実なんだが。
>妄想では何とでも出来るし、比定は簡単だよ
平均在位はおおよその目安だ。
当時の平均寿命も科学的に判明してるわけだし。
それさえ理解出来ないバカが神武は紀元前だ、1世紀だ言ってるわけだ。
>それは可能性あるかもしれないよ。
可能性も何も大物主(大国主)のいた三輪山に出雲荘があるんだから、
出雲から畿内への進出は当たり前だろ。
大物主の奥さんであるセヤダタラ姫の地元、茨木の三島が銅鐸遺跡なのだし。
681 :
孝霊厨 :2014/01/27(月) 17:56:05.48
>可能性も何も大物主(大国主)のいた三輪山に出雲荘があるんだから、
出雲から畿内への進出は当たり前だろ。
大物主の奥さんであるセヤダタラ姫の地元、茨木の三島が銅鐸遺跡なのだし。
何を主張したいのか、時系列が全くよく判らない話だよw
それに現在の地名を参考にする場合は、もう少し過去の資料を
色々調べてからの方がいいですよ。
また鍵唐古周辺が全く考慮されないで大和盆地の弥生期を語るのは無理です。
出雲庄に銅鐸の鋳型なんか出ますかね?
セヤのタタラ場といえば三郷町近くだよ。
茨木では話として遠すぎ。
>>681 >何を主張したいのか、時系列が全くよく判らない話だよw
君の時系列がはっきりしてないからそう思うだけ。
神武、ニギハヤヒ、大物主が3世紀前後なら話が合う。
孝霊ごときの出る幕なし。
684 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 18:15:10.56
九州からは小型銅鐸の鋳型が出たが、それほど銅鐸が出ているわけではない。
九州からは鏡はそれなりに出るが、一種類の鏡が大量に出ているわけではない。
大型銅鐸にしろ、大量の三角縁神獣鏡にしろ、
奇形化というか独自進化しているようにも感じるな。
ついでに、古墳も九州では円墳方墳前方後円墳と、バラバラ。
畿内で大型前方後円墳になるのも独自進化かな。
685 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 18:22:03.83
>>683は決定的に知識が無いなら、そういう
乱暴な話しか組めないのだろうな。
例えば先にあった阿蘇神社は孝霊九年、
神武天皇の孫が創建とあるがどう説明するんだろう?
これは由緒がデタラメという事でいいのか。
687 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 18:27:42.47
孝霊−崇神−垂仁2世紀説
孝霊−崇神−垂仁3世紀説
孝霊−崇神−垂仁4世紀説
さてもっとも確からしいのはどれでしょう?
>>685 時系列を無視してて偉そうに言うなよ。
神武1世紀とか乱暴な話しか組めないのはおまえだろ。
>>687 孝霊2世紀後半、崇神3世紀半ばは動かないだろう。
690 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 18:39:55.92
出雲大社の伝承からしても、出雲・因幡の二世紀はスサノオでしょう
>>688 時系列も何も最初から神武天皇は複数の豪族の
伝承を組み合わせた物と主張してるけどな。
瀬戸内は吉備津彦や孝霊、河内湖から
紀伊半島までは渦彦、宇陀周辺は剣主の話だね。
簡単に言うと共通の祖先の話だろう。
692 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 18:44:22.53
>>689 >孝霊2世紀後半、崇神3世紀半ばは動かないだろう。
動きまくるよアホが。
だいたいモモソ媛が女王だったら大物主が実質上の亭主だろ。
毎夜通ってたというのだから。
ところがモモソ媛が先に死んだとなってる。
したがって年已長大無夫壻ではないよな。
ヒメタタライスズ媛なら亭主(神武)に先立たれてるので、
年已長大無夫壻になるんだよ。
残念だったなw
>>692 そこまで記紀を尊重するなら大物主の正体は蛇と主張しろよw
694 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 18:54:36.64
年已長大無夫壻
女王というものは適齢期に達しても特定の夫壻を持つものではない。
御眞津比賣の母親の生んだ子の父親たちのこと調べてみたら?
695 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 19:19:36.45
>>691 >時系列も何も最初から神武天皇は複数の豪族の
>伝承を組み合わせた物と主張してるけどな
おかしいな。
ならば孝霊天皇を初代にすればいいのに。
それなら話が早いのに何でなってないのだろうね?
>>694 >女王というものは適齢期に達しても特定の夫壻を持つものではない。
ならモモソ媛もダメではないか。
大物主という亭主がいたのだからw
古代、巫女とは性的意味合いもあるのだから処女でいるわけがないのだよ。
>>695 神武の出発地は南九州なのだから孝霊ではないだろ?
隼人族も含める必要があるし、「武」の最初の出発地は
南九州や土佐周辺を指さなけばいけない。
だから初代は神武ということだろう。
孝霊は出雲に縁があるのだから、神話紀の
素戔嗚尊に逸話を引用されているのだろう。
まず半島に降りてるしな。
神武天皇は複数の豪族の伝承を組み合わせ、
孝霊は確実に実在と言う珍しいやつもいるもんだw
神武や欠史の架空説なんて戦後ブサヨ連中の偏向教育からだよw
孝霊だって富士山伝承とセットだから、
江戸時代までは普通に著名な存在だわ。
>著名な存在だわ
全然著名じゃない。
モモソ媛=ヒミコの連中がウダウダ言ってるだけ。
九州説はいよいよ終了だな、これは。
701 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 21:01:04.10
孝霊が天皇だと考えるからおかしくなるんだよ。
雄略489年没、8世代約200年前の崇神は没年318年でも矛盾はない。
三世代前の孝霊が三世紀半ばの人でも矛盾はない。
王の在位11年説があるが、この頃の天皇家は「王」ではなかったなら問題ない。
11年説は、王の地位が安定し、赤ん坊が王になっても社会が混乱しない時でないと
当てはまらない。
男王が立っても争いが起き、女王を「共立」しなければいけなかった時代だ。
もしくは、王はいたが、天皇家は王でなかった。王としての事跡が書けなかったから
8代は事跡なしにするしかなかった。孝霊は、息子たちが目覚しい働きをしたから
つい自慢を書いてしまった。
天理の東大寺山古墳から、中平年銘(185〜189年)の鉄刀が出ている。
古墳は4世紀中頃と言われている。金象嵌の文字の金は、純度が非常に高く、
高度な技術で作られたと見られている。
2世紀末から三世紀前半に、何らかの方法で入手した人物がいた。
卑弥呼もしくは、その時代に支配者だった人物の子孫が古墳の主だろう。
天理のその地域は、和珥氏の縄張りだ。
天皇家は当時王ではなかったが、共立した女王と無関係ではなかった。
ただ、王ではないから「王」としての事跡を書けなかった。
8代の事跡をもし書くとすれば、王位を争って死んだ当主や、女王の神託に
従って敵を撃った将軍や、和平交渉の使者としか書けないから書かなかった
のかもしれない。または、実績がないから書くこともなかったのかも知れない。
ただ、姻族関係は分っており、親戚関係にある氏族も知っていることだから
正直に書いた(もちろん不備もあるが)。
そうして、事跡のない欠史8代は出来上がった。
702 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 21:01:47.56
ゲストの子を生んであげるサービスのが竜宮城なんだけど
にぶいやつは処女性云々とか逝っててまぬけ
青谷遺跡は保存状態が特殊なので色々興味深い。
木の遺物が沢山出てたのは貴重だろう。
また殺傷された遺体は100体強あったのだが、
頭蓋骨は半分以下しかなかったんだな。
これは何か意味あるのかな?
また海辺だけに描かれた絵が独特で、
鮫の絵が多いのは注目していいかもな。
この辺りは鮫の事をワニと呼ぶ地域のはず。
洪水の土砂で瞬間パックになって残ってるから、パックにならなかったのは消失したんじゃないかな
登呂遺跡なんかも洪水の土砂のため残ったんだよね
弥生人の脳が残っていたのは凄い。
鳥浜貝塚は5500年前の糞石が残ってるしね
脳細胞からクローンなんて展開を希望。
709 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 22:21:33.77
国譲りの時期はどうだろうね
纏向遺跡の中に出雲大社の本殿様式と伊勢神宮の正殿様式が共存してる可能性があるし
出雲系の神は全国で祀られてる
ウケイで玉からニニギの父正勝を生み出したのはスサノオだからね
記紀の神代の話はやはり出雲が中心だろう。
神武を産むタマヨリビメはワニだ。日本神話で
ワニとと言えば鮫だからな。その鮫をワニと呼ぶ場所は限られていて、
出雲地方と吉備周辺(備前)の方言だからな。
つまり元々出雲、中国地方にいた姫という事になる。
当然神武東征で瀬戸内での記述を書けない訳だ。
神代の話にしなけりゃおかしな事になるからな。
邪馬台国は朝鮮半島南部だよ
半島は倭国ではありますが、勿論邪馬台国ではありません。
714 :
骨のない満州:2014/01/28(火) 09:13:04.55
邪馬台国は大和だろうが、卑弥呼のいた女王国は満州か朝鮮である。
邪馬台国と女王国は別である。
715 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 09:38:59.22
女王国は瀬戸内から紀伊半島、邪馬台国は大和だよ。
716 :
骨のない満州:2014/01/28(火) 11:54:00.96
おや、今日は皆さん、お静かですね(笑)
もう議論のネタが尽きたのでせうか(笑)
四国からわざわざ中国に「お助け下せえまし」と哀願しに行きますかね(笑)
大和に天皇がいるのだから天皇に頼めばいいわけで(笑)
それともなんですか、その頃の四国の王は九州や大和とも対立していたのでせうか(笑)
まぁ、北部九州にはパシリがいたんだからな。
718 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 12:59:06.93
何で朝鮮日報は九州説隠してるの?バレバレなのに。
719 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 17:24:05.62
朝鮮半島南部は投馬国だよ
720 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 17:56:57.43
私の委奴 といへば 阿委奴
私の投馬 といへば 阿投馬 なりいぃ
721 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 18:03:39.59
まぁ半島に丹山はないからな。
所詮は阿波や紀伊半島までは確実に倭国だ。
722 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 18:43:11.82
・倭は、「漢委奴國王」であった北九州の狗奴国と、畿内の邪馬台国の、大きく分けて2国だった
・国力は「漢委奴國王」であった北九州の狗奴国のほうが強く、畿内の邪馬台国は弱かったが、その中間に「出雲」という新興国が出来た
・畿内の邪馬台国が出雲を手中に収め、後漢が滅び魏になったことで倭国の王は、北九州の「漢委奴國王」狗奴国から、畿内の「親魏倭王」邪馬台国に移行した
・魏志倭人伝で「王」がいると記されているのは伊都國と女王國と狗奴國の3っつで、伊都國は「王」の伝説が残る【出雲】
・魏志倭人伝に出てくる末廬国・伊都国は出雲地方、隋書倭国伝に出てくる竹斯国・秦王国は北九州で、全く別の地域
・出雲を手に入れたモノの邪馬台国は、敵対する北九州の狗奴国の竹斯国・秦王国を利用せず、できず、畿内により近い出雲に新港を開いたため「魏志にルート記載」
・出雲大社は、新港である末廬国・伊都国の灯台変わりでもあり、大陸に対して国力を見せつけるための迎賓館
・2大国に挟まれた「出雲」は、ある時は北九州の狗奴国勢を味方に付け、ある時は畿内の邪馬台国勢を味方に付けることで、生き残りを図った
・神武東征は、北九州の狗奴国に一度逃げ延びた邪馬台国の非主流派が、邪馬台国主流派に敵対する北九州の狗奴国軍勢を味方に付けて行った軍事クーデター
・神武は、邪馬台国に出戻った邪馬台国の非主流派の人であったが、神武の出戻りを助けて、神武を天皇にさせたのは、邪馬台国に敵対してた北九州の狗奴国
・欠史8代は、その後の、出雲・邪馬台国の流れを汲む系統と、北九州狗奴国の流れを汲む系統の間での血なまぐさい政争
・その間も北九州の狗奴国は「倭国」として、大陸の代々の南朝と独自の交流を続けていた「倭の五王」
・その北九州狗奴国が、大陸の南朝の消滅と共に、大和の「日本国」に併合された「ヤマトタケルの西征」
・その結果、大和の「日本国」は、出雲地方の末廬国・伊都国からではなく、北九州の竹斯国・秦王国から大陸に遣隋使を送れるようになったため「隋書にルート記載」
・しかし天皇は、北九州狗奴国の娘と作られた系統ではなく、出雲の娘と作られた系統が引き継いだため、記紀に狗奴国の名前は出てこない
・大陸との関係も、第43代元明天皇が国内の、極度の大陸かぶれを嫌ったことで、古事記を編纂する際に天孫降臨神話に書き換えられた
723 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 18:47:03.94
結局、
大和朝廷の祖である神武が、先祖は邪馬台国・大和の出なのに、敵の北九州狗奴国と手を組んで邪馬台国を乗っ取って、大和朝廷を興した
ことと
そのあとの天皇が、
どっちかと言えば正妻の、東征前の日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘「アヒラツヒメ」との子の子孫じゃなく
どっちかと言えば妾の、出雲のコトシロヌシの娘イスケヨリヒメの子の子孫が、即位して継承されるようになってしまった
長男である正室の子が、弟である妾の子に殺されて、妾の家系が代々天皇になってしまった
っつーことが、全ての原因なんだと思うよ
古事記や日本書紀は、皇室に産まれたら、必ず勉強しなくちゃならない教科書だから
おまえらの祖先は、そう言う人達です・・なんて、子孫に代々教えるわけには絶対にいかないし
んなことをやっていい・・とは、子孫には、まかり間違ってでも思って貰っては困る
もう二度と壬申の乱みたいなことが起きて貰っちゃ困るからね(^_^;
んだもんだから、文武天皇が大宝律令を制定し、遣唐使を派遣して、唐を模倣した官僚制を急速に推し進め、
都も、唐の長安にそっくりの、それまでの藤原京より、もっと中国式の平城京への遷都が計画されて
文武天皇が崩御した後即位した、母親の元明天皇が、
自分が唐をモデルにした平城京への遷都を嫌がっても、王公大臣達は言うことを聞かずに平城京への遷都を進め、
国内が極度の大陸かぶれになってたのを、とても嫌って
第43代元明天皇が古事記を「やまと言葉」で編纂する際に、天孫降臨神話に全部書き換えちゃったんだ
724 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 18:47:51.77
まっ、ぶっちゃけ、
大陸かぶれ、唐かぶれで、天皇の意向を蔑ろにし始めていた官僚達に
「ふざけんじゃねぇ、天皇は神様なんだぞ、外国のやってることなんかありがたがるより、ちったぁ言うこと聞け」
・・って天皇が言うために「中国語の漢文」じゃなく「やまと言葉」という日本独自の音で、新たなストーリーとして作られた
のが、古事記であり、
中国から招いた学者により「中国語の漢文」で書かれてた一巻から第十三巻までを、
その「やまと言葉」の古事記に沿って書き換えられちゃったのが、今の日本書紀なんだ
第43代元明天皇からしてみると
記紀を参考に、壬申の乱・・みたいなことは、もう2度と起きて貰っちゃ困る・・てんで
大和朝廷の祖である神武が、先祖は邪馬台国・大和の出なのに、敵の北九州狗奴国と手を組んで邪馬台国を乗っ取って、大和朝廷を興した
そのあとの天皇は、長男である正室の子が、弟である妾の子に殺されて、妾の家系が代々天皇になってしまった
・・っつー話しは記紀から削除
官僚が、中国のやってることばっかありがたがって、天皇の意向を無視する・・みたいなことも、もう2度と起きて貰っちゃ困る・・てんで
むかし、先祖の邪馬台国と、敵対する北九州狗奴国が、中国に任命される日本の王様の座を巡って闘ってた
・・っつー話しも記紀から削除
で、
捻り出したのが、「天孫降臨神話」っつーわけだ
半島との交易は北部九州が中心には違いないが、
出雲方面も思っている以上に盛んだった。
まぁ記紀でもその事は読み取れるよな。
伊都は本来出雲と読んでもいいのかもしれない。
726 :
落武者満州:2014/01/28(火) 19:09:51.71
ピミらは何にも知らないなw
金の宋への輸出品目に丹砂がある。
三江省あたりでは硃砂水銀が大量に採れた。
新羅は水銀を産出することで知られていた。
朝鮮に丹山県があった。
727 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 19:10:01.62
日本書紀は全三十巻あって漢文・・つまり、古代中国語で書かれてるんだけど、
一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までは、中国語じゃ読めないどころか文法も間違っていて、
当時の中国語には無い「和製中国語」も随所にあって、現代の日本語に翻訳するのすら難しい
でもそれが、第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇になると、とたんに古代中国語で読める、きちんとした漢文に変わる
んで、第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇になると、また、めちゃくちゃな漢文になっちゃって読めなくなる
日本書紀は第40代天武天皇が編纂を命じて「漢文」で書かれていて720年に完成で
古事記は第43代元明天皇が編纂を命じて「やまと言葉」で書かれていて712年に完成
書き出したのは日本書紀のほうが早いけど、出来上がりは、あとから書き出した古事記のほうが早い
つまり、アマテラスや天孫降臨などの神話や、壬申の乱あたりの話しは、古事記に合わせて後から書き換えられたモノなんだよ
雇われていた中国の学者によって書かれていた、元の、「古代中国語の漢文の日本書紀」には、三国志なみの
やった・やられた話が書かれていたはずで、それが残ってれば良かったんだけどね
記紀を解釈する時に問題になるのは、
神代の殆どを占める、出雲神話と日向三代。
あとは神武東征と欠史八代をどう解釈するか?
729 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 19:16:27.00
新説・日本三国志8の1【古代の日本】
九州北部から畿内までの範囲に広がる複数の国の集合体=倭=「葦原中津国」
西の九州北部の勢力の「狗奴国」は、地の利を生かした大陸との交易で繁栄し、後漢の光武帝から「漢委奴國王」の金印を授かって
軍事力的にも、経済力的にも、倭=「葦原中津国」の国力の主体をしめていた
一方、東の畿内の勢力の「邪馬台国」は、内陸国であるが故に海路の確保が出来ないため、大陸との交易は少なかったものの
豊かさでは、西の九州北部の勢力の「狗奴国」には及ばないまでも、負けない國であった
しかし、西の「狗奴国」と、東の「邪馬台国」の間には、広大な荒れ地が広がる貧しい地域になっており、
そのことによりこの2大国は軍事的にも経済的にも隔絶され、衝突することはなく、倭=「葦原中津国」のなかで各々が繁栄を極めていた
新説・日本三国志8の2【新たな新興国・出雲の誕生】
ある時、東の畿内の勢力の邪馬台国の女王・アマテラス(=卑弥呼)の弟のスサノオが、政争に敗れて畿内を追われ、
敵国である西の九州北部の勢力の狗奴国との国境の、荒涼とした出雲にたどり着く
そして盗賊の征伐と引き替えに地元の豪族の娘・稲田姫を嫁にして新たな国造りを始め、稲田姫との間に須世理姫が産まれる
須世理姫はその後、地元の豪族の大国主命と結婚し、スサノオから出雲を託された大国主命は、九州北部・狗奴国から来たスクナビコナの援助を受けて、
新興国・出雲を、北九州狗奴国・畿内邪馬台国と並ぶ大国にまで成長させる
倭=「葦原中津国」は、西の九州北部の勢力の【狗奴国】と、東の畿内の勢力の【邪馬台国】、その中間に位置する【出雲】の3大勢力となり
軍事的、経済的に隔絶されていた【狗奴国】と【邪馬台国】は、中間に【出雲】が出来たことにより、安全保障の上では隣接してしまうようになる
730 :
落武者満州:2014/01/28(火) 19:20:03.41
と、どこかの学者が書いていたのだなw
日本書紀の漢文。ちゃんと読めるし文法的にも間違っていないがねw
尤も全部読んだわけではないが。
間違っているならそれを提示してもらいたいものだ。
自分で読んで気付いたのなら提示できるだろう。
さあ、間違っている箇所を提示してもらおうではないか。
731 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 19:21:09.56
新説・日本三国志8の3【倭国争乱と出雲の国譲り】
そこで畿内勢力の邪馬台国は、九州北部・狗奴国のスクナビコナの庇護の元、大国にまで成長した出雲を、
もともとはアマテラス(=卑弥呼)の弟のスサノオか造った国として北九州・狗奴国から引き離し、手に入れようとし始め、
出雲に、アマテラス(=卑弥呼)の息子であるアメノホヒを派遣して、スサノオの娘婿である大国主命に、出雲を禅譲することを求める
しかし、父から相談を受けた長男のコトシロヌシは、祖父であるスサノオが、アマテラス(=卑弥呼)の弟であることから同意したモノの、
次男のタケミナカタは、北九州・狗奴国勢力とともに邪馬台国に果敢に抵抗し、「葦原中津国」=日本は新興国・出雲を巡って争乱状態となる。
次男のタケミナカタと北九州・狗奴国勢力の連合軍は善戦するが、結局、畿内の邪馬台国勢力に破れ、大国主命は、
戦いに敗れた次男のタケミナカタの延命と出雲大社の建設を条件に、出雲を邪馬台国に委譲することを認める
邪馬台国はアマテラス(=卑弥呼)の孫のニニギを出雲に派遣して、北九州・狗奴国勢力とともに武力抵抗した次男タケミナカタを、
北九州から東に遠く離れた諏訪の地に幽閉し、出雲に残した大国主命の長男コトシロヌシを傀儡として、
倭国に、「漢委奴國王」の北九州・狗奴国勢力に対抗しうる【「畿内・邪馬台国&出雲」連合国 】が誕生する
732 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 19:21:51.10
新説・日本三国志8の4【大陸の政変と邪馬台国の台頭】
出雲を併合し、北九州・狗奴国勢力を凌駕しうる大国となった畿内の邪馬台国は、伊都國(出雲)に天にも届くほどの大社を建設して
一大率という派遣官を在駐させ、末廬国(松江)伊都國(出雲)に新しい港を開いて基点として、大陸との交易の海路を開き
独自に大陸との交流を始め、さらなる一大勢力に発展する
ちょうどそのころ大陸では、北九州・狗奴国勢力に「漢委奴國王」の金印を授けた後漢が、魏に権力を禅譲して滅び
後漢との関係が深かった北九州・狗奴国勢力に、さらなる激震が走る
内外に権力掌握を示し、権力移行を実感させ、服従させるため、魏はさっそく、後漢が定めたことをいくつか改変することを決定し、
それに伴い倭国の王も、後漢が定めた北九州・狗奴国勢力から、【「畿内・邪馬台国&出雲」連合国 】に変更することが決定され
魏は、邪馬台国のアマテラス(=卑弥呼)に「親魏倭王」の金印を授けて、帯方郡からの魏の役人の常駐先も、北九州から、
倭国の新港である邪馬台国の伊都國(出雲)に変更される
こうして邪馬台国のアマテラス(=卑弥呼)は、「漢委奴國王」の北九州・狗奴国勢力にかわり、「親魏倭王」として倭国の王となり
大陸との交易をほぼ独占することに成功した
733 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 19:22:27.48
新説・日本三国志8の5【アマテラス(=卑弥呼)の死と後継者・勢力争い(海幸彦と山幸彦)】
一方、出雲を巡る闘いで邪馬台国に敗れ、倭国の王の座も、大陸交易の利権も失った北九州・狗奴国勢力は、
それでも権力と大陸との交易利権の奪還の機会を虎視眈々とねらい続け、アマテラス(=卑弥呼)の死という邪馬台国の混乱に乗じてついに、
諏訪に流された、かつての盟友タケミナカタの子孫の男王を、次の【「畿内・邪馬台国&出雲」連合国 】の国王に立てようと画策して動き出す
しかし、諏訪に流罪になったタケミナカタの子孫である男王の正統制のなさを提唱することで、混乱状態からかろうじて
アマテラス(=卑弥呼)の宗女、壱与を女王とした邪馬台国勢は、それまで出雲を治めていた傀儡のコトシロヌシの子を伊都國(出雲)の王にして、
北九州・狗奴国勢力の破壊工作の阻止を図り、出雲で再び、畿内・邪馬台国勢力と北九州・狗奴国勢力間の緊張が高まる
それにより、出雲に派遣されていたニニギの二人の子、海幸彦と山幸彦も、
海幸彦が畿内邪馬台国・出雲コトシロヌシ派、山幸彦が北九州狗奴国・諏訪タケミナカタ派、に分断され、
伊都國(出雲)内でのニニギの二人の子の争いは次第に、
中間干渉地域である出雲を巡る、畿内・邪馬台国勢力と北九州・狗奴国勢力の代理戦争の様相を呈していく
734 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 19:23:01.18
新説・日本三国志8の6【混乱の収拾と後継者勢力の確定(魏の介入)】
出雲後継の座をめぐり、畿内邪馬台国・出雲コトシロヌシ派と北九州狗奴国・諏訪タケミナカタ派に分かれ牽制し合っていた
ニニギの二人の子のうち、戦力で劣勢であった北九州狗奴国・諏訪タケミナカタ派の山幸彦が、北九州狗奴国の手引きの元に、
狗奴国の「漢委奴國王」の金印を携えて、伊都國(出雲)ではなく、かつての大陸との窓口の北九州の竹斯国(筑紫)から、
密かに海神=魏に赴いて事態を告げようとするが、金印は北九州から一支国に脱出する際の戦闘によって行方知れずになってしまう
一方、倭国からの使者が、連絡もなく誰にも知られずに、帯方郡にこつ然と現れたことに、魏はとても驚くが、
魏の国内の権力掌握も為し得た今、一支國から遠い不便な伊都國(出雲)を倭の基点とするよりも、
一支國に近い便利な北九州の竹斯国(筑紫)を基点とするほうが有利と考え直した魏は、
倭国に張政を派遣し、それまでとは一転して檄文で畿内邪馬台国・出雲コトシロヌシ勢の壱与を告諭して、北九州狗奴国擁護の立場に立ち
畿内邪馬台国・出雲コトシロヌシ勢力による北九州狗奴国・諏訪タケミナカタ勢力に対しての、一方的な迫害とも言える攻撃は終止符をうつ
結果、畿内邪馬台国勢に滅亡・消滅させられそうになっていた北九州狗奴国勢は、今度は魏の擁護の元、倭国に存続することとなり、
それにより北九州・狗奴国勢は竹斯国(筑紫)を、大陸との交易の基点として復活させ、魏の要人の娘と婚姻関係を結ぶなど、
畿内・邪馬台国勢に追いつくように、それまでの後漢色を廃して、どんどん魏との関係が密になっていく
出雲神話が記紀に採用されたのは、分かり易い。
天皇一族が倭国を支配する正当性を持つために、
分かり易い反対勢力、国津神のリーダーに「国譲り」させる必要があった。
オホクニヌシは征伐される対象として、記紀が色んな神様をまとめた総合神。
総合神だから又の名が多い。
各地の首長たちを従属させる時、その首長たちが祀るその地方の国土開発神たちより、
自分たちの神の方が優秀だという神話が必要になり、
その要請により、天津神・国津神の別、国譲り神話は生まれたのだろう。
そういう意味で、「国譲り」というのは出雲だけに起きた事象ではなく、
ヤマト王権の権力伸張により、各地で起きていたと言える。
日向三代については難題w
八世紀当時の大和朝廷の支配領域、全てを包括した始祖伝承が必要になり、
敢えて一番西の端、日向に持ってきたのかも知れない。
北方系の神話で、神の子である初代王は、高い山に降臨する
というのがあるが、まさにお誂え向きの霧島連峰もあったと。
日向が西都原の昔より、親ヤマト勢力だったということもある。
あとまあ、当時の隼人同族化計画の中で、
隼人の祖が大和の祖に服従を誓うという神話も必要で、
隼人系の神話を取り込んだ可能性がある。
日向大隅薩摩は熊襲であり、日向国造家の隼人との関わり、
同族化の流れが日向三代に反映している。
日向三代神話を取り込んだことで、神武は超長距離遠征に旅立たねばならなくなったw
そもそもの大和の始祖伝承はシンプルなもので、
葛城・生駒山系に降臨した神の子が、難敵を打ち倒し、奈良盆地の初代大王として即位した
程度だったんだろう。
ニギハヤヒ伝承とかが、原初ヤマト王権神話の残滓を語り継いでいると思う。
それがヤマト王権の勢力範囲が拡大するにつれて、
その広大な領土全てを含める新しい始祖王伝承が必要とされるようになった。
ハツクニシラスが二人いるのもそのため。
欠史八代ってのは、ヤマト王権がまだ有力豪族の連合政権だった頃の名残り。
古代有力氏族で皇別の殆どが、欠史八代の大王の裔だということが全てを物語っている。
大王位が有力豪族の持ち回りだった時代があって、
それぞれの氏族が「自分たちは、過去大王を輩出した」と主張、
やむなく欠史八代として大王系譜に取り込んだ。
その頃の記憶は殆どなく、氏族たちの系図に名前が現れるだけだったので、
欠史になったということ。
まあ、欠史八代を祖とするのは奈良盆地の中小豪族にも多いが。
739 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 20:12:36.58
なるほど、納得!
740 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 20:15:53.89
>>726 新羅に水銀朱はあったかな?鉱山名で宜しく。
それに大体冬温暖でもないしな。
欠史八代の一部は神代紀に描かれてるでしょ。
殆ど人物像もダブってるしな。
つまり葛城王朝、出雲丹波の話だ。
天野岩戸伝承の舞台なんて葛城周辺でしか説明出来ないからな。
鏡や鉄剣を造れて、夜須川上流に堅石が
存在する場所は二上山周辺しかない。
>>742 バカだろ、おまえ。
田舎者にもほどがある。
イミフだぞw
745 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 21:25:43.69
新説・日本三国志8の7【北九州・狗奴国勢の権力の拡大と出雲の衰退と邪馬台国の軍事クーデター(神武東征)】
魏の後ろ盾を背景に、北九州・狗奴国勢の権力が拡大していく中、魏との交易の中心も次第に必然的に、一支國から遠い伊都國(出雲)から、
一支國に近い北九州の竹斯国(筑紫)に戻りはじめ、それに危機感を覚えた出雲は、巻き返しを図りたい畿内・邪馬台国勢と共に、
北九州・狗奴国勢を牽制しようとする
出雲の申し出を受けた畿内・邪馬台国勢は、「親魏倭王」の名にかけて、今度こそ北九州・狗奴国勢力の討伐に乗り出すが、狗奴国勢は、
畿内の邪馬台国を追われ、北九州・狗奴国日向の高千穂の宮に身を寄せていた、魏とも深い関係をもつ邪馬台国の王族の山幸彦の孫の
カムヤマトイワレヒコを担ぎ出し、魏による密かな援軍も得て、カムヤマトイワレヒコに邪馬台国に対する軍事クーデターを起させて、
畿内の邪馬台国は逆に、邪馬台国の王族の山幸彦の孫であるカムヤマトイワレヒコ率いる北九州・狗奴国勢に、武力制圧されてしまうことになる
畿内・邪馬台国を、まんまと武力制圧した北九州・狗奴国勢は、好機とばかりに邪馬台国を解体一新して、新しく大和国と改編することに決め、
武力制圧の将軍であったカムヤマトイワレヒコを、その新しい国の新しい王『天皇』として駐留させて、
北九州・狗奴国勢は、新興国・出雲と旧敵・畿内邪馬台国を完全に押さえ込むことに成功する
8の7って1からずっとあるのかこれw
747 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 21:51:54.31
新説・日本三国志8の8【北九州・狗奴国と新しい大和国・天皇の蜜月の終了と覇権の確定(タギシミミの反逆)】
しかし、初代の天皇カムヤマトイワレヒコの死後、次の天皇を誰にするかで、もともとは邪馬台国の流れを汲む新しい大和国・天皇勢は
初代天皇が軍事クーデターを成功させてから大和国で出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミを推し、
北九州・狗奴国勢は、初代天皇が軍事クーデターを起こす前、北九州狗奴国日向の高千穂の宮にいたときに
日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘「アヒラツヒメ」との間に作った子タギシミミを推したことで意見が分かれ、両者の蜜月は終了する。
そこに再び、捲土重来を図る出雲の残党が加わり、事態は今度は、大和国内での
北九州狗奴国勢 vs【「 畿内の新しい大和・天皇勢と出雲の残党」連合 】の戦いの様相を呈していくが
結局、【「 畿内の新しい大和・天皇勢と出雲の残党」連合 】が推していた、初代天皇が東征後大和国で出雲のコトシロヌシの娘との間に作った子
カムヌナカワミミが、北九州狗奴国勢が推していた、初代天皇が北九州狗奴国にいたときに狗奴国の豪族の娘との間に作った子タギシミミに勝利して、
妾の子である弟が正室の子である長男を殺害排除する・・かたちで「大和」の次の天皇「綏靖天皇」となる
748 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 22:08:01.24
>>743 事実なのだから仕方ない。
金山彦神社(信貴山)や鏡作神社(田原本)、
それに夜須川(現飛鳥川)の上流に石切場(屯鶴坊)が
実際に存在する場所は二上山周辺しか無い。
>>748 畿内で鏡作り始めたのはいつからなんだよ。
時代考証がムチャクチャだろ。
ちなみに現飛鳥川上流付近は、研磨剤である金剛砂でも有名であり、
その付近ではサファイア(碧玉)が採取出来る場所でもあるからな。
>>749 無茶苦茶も何も、記紀が舞台を二上山周辺を想定した話だろ。
大体素戔嗚尊の時点で馬まで登場してるよw
鏡作神社自体は崇神の代だと言われるが。
752 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 22:24:30.79
新説・日本三国志【外伝2−1・その後の日本と日本書紀の編纂】
しかし混乱はおさまらず、それ以降『天皇』は、出雲・邪馬台国の流れを汲む妾系統と、魏を後ろ盾に持つ北九州狗奴国の流れを汲む正室系統の間での
血なまぐさい政争が8代続き、その後『天皇』が、出雲・邪馬台国の流れを汲む妾系統から、恒常的に代々輩出されていくようになって、
やっと安定する(欠史8代)が、「大和国」は「親魏倭王」でありながらも次第に、大陸の影響を外夷として嫌って「日本国」へと変貌する
一方、北九州狗奴国はその間「魏」が想像以上の早さで衰退して「晋」となった後も、「倭国」として、大陸の代々の南朝と独自の交流を続け、
それはその後「宋」「斉」「梁」と、大陸の南朝が消滅するまで続く(倭の五王)
しかし「梁」が滅亡し、大陸が北朝の「隋」に統一され、南朝が消滅したことにより、南朝と関係の深かった北九州狗奴国の国力も衰退して、
北九州狗奴国はついに、大和の「日本国」に併合される(ヤマトタケルの西征)
そして「倭国」は、「日本国」という統一国家として大和から北九州を経由して、大陸を統一した北朝「隋」に、遣隋使を送ることになるが
第38代天智天皇の死後、天皇自ら後継にした太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が
地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし、朝廷軍を打ち破って、無理やり天皇の座に就いてしまうという、国を2分する内乱戦争が再び起きてしまう
その後、第40代天武天皇が、その内乱の正当性を固めるため、日本国の正史として「日本書紀」の編纂を命じ、
当時の日本はまだ自身の文字を持たなかったため、中国の学者を雇用して、「中国語による漢文」で「日本書紀」を書き始め
さらに第42代文武天皇が大宝律令を制定し、遣唐使を派遣して、唐を模倣した官僚制への国内改革を急速に推し進め、
都も、唐の長安にそっくりの、それまでの藤原京より、もっと中国式の平城京への遷都が計画される
また二上山麓の大字畑(秦)周辺が、神功皇后の母である
葛城高額姫の伝承がある場所でもある。
この周辺は元々繊維の集落でもあるからな。
当然藤原の地を中心に描くだろうな
他の土地はよく知らんだろうし
妄想文章を書くには、決定的に知識が不足している感が強い。
756 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 22:53:43.99
新説・日本三国志【外伝2・古事記の編纂と日本書紀の書き換え】
しかし、文武天皇の死後、天皇になった母の第43代元明天皇は、藤原京から、中国式の平城京への遷都に猛反対し、藤原京に留まることを希望する
それにもかかわらず、唐に追いつき追い越せの王公大臣達は、天皇の言うことを聞かずに、都は遷都されてしまう
しぶしぶ藤原京から平城京へ移った天皇は、国内の極度の唐かぶれを嫌うようになり、
「中国語による漢文」ではなく日本独自の「やまと言葉」を用いた古事記の編纂を命じて、太朝臣安萬侶が命を受け、古事記の執筆を開始するが
天皇は、古事記が「中国語による漢文」ではなく「やまと言葉」で綴られることに大変執着したため、
太朝臣安萬侶は当て字を用いるなどをして、「中国語による漢文」の日本書紀を「やまと言葉」に変えて表現することに大変苦労する
しかし太朝臣安萬侶はその都度、元明天皇に伺いをたてながら筆を進め、その際に天皇の命により、
先祖の邪馬台国と、敵対する北九州狗奴国が、中国に任命される日本の王様の座を巡って闘ってた
大和朝廷の祖である神武は、先祖は邪馬台国・大和の出なのに、敵の北九州狗奴国と手を組んで邪馬台国を乗っ取って、大和朝廷を興した
そのあとの天皇は、長男である正室の子が、弟である妾の子に殺されて、妾の家系が代々天皇になってしまった・・という話は
壬申の乱・・みたいなことは、もう2度と起きて貰っちゃ困る・・
官僚が、中国のやってることばっかありがたがって、天皇の意向を無視する・・みたいなことも、もう2度と起きて貰っちゃ困る・・という理由より
全て天孫降臨神話に置き換えられて、
中国の学者によって「中国語による漢文」で書かれていた日本書紀の第一巻から第十三巻第20代安康天皇までの話もそれに合わせて
日本の学者によって「漢文に似たようなモノ」に書き換えられてしまうこととなる
そうして古事記は、後から執筆が開始されたモノのいち早く、712年に完成して献上され、
日本書紀は、先に執筆が開始されていたモノの、古事記に遅れること8年後の、720年に全三十巻すべてが完成して献上され、
日本の記紀からは、邪馬台国や卑弥呼などの記述も、大陸との関係も、北九州狗奴国の流れを汲む話も、姿を消すことになった
>>756 古事記の原文は漢文なんだけど…(´д`|||)
今に伝わるのは宣長が書き直したものだよ
758 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 23:12:59.95
>>757 漢文・・の意味が違う
全部漢字で書かれているから漢文・・・ではなく
古代中国語の漢字で、古代中国語の文法で書かれ、古代中国語を知っていれば
中国語ですらすら読めて、日本語に翻訳も簡単に出来る・・・のが、漢文
古事記は漢字で書かれているモノの、古代中国語の漢字以外で書かれている名詞や動詞など(これが「やまと言葉」)があり
文法も古代中国語の文法で書かれていない、中国語では全く読めない日本独自の文章
これは日本書紀にも言えることで、全三十巻ある日本書紀も
一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までは、
中国語じゃ読めないどころか文法も間違っていて、当時の中国語には無い「和製中国語」も随所にあって、現代の日本語に翻訳するのすら難しく
第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇になると、とたんに古代中国語で読める、きちんとした漢文に変わり
第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇になると、また、めちゃくちゃな漢文もどきになっちゃって読めなくなる
759 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 23:14:46.50
わざと読めない文章にしているんだろう。
途中追加したのバレバレなんだよな。
>>736 >日向が西都原の昔より、親ヤマト勢力だった
4世紀以後はそうなんでしょうけど、
その前はどのような情勢だったのですか?
敵対とか友好とか。
762 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 23:20:42.03
いいや、平城京に無理やり遷都されて、中国の影響を極度に嫌った元明天皇が、古事記編纂とともに
日本書紀を執筆していた「中国人学者グループ」を解雇して、「日本人学者グループ」に執筆者を変えたため
だよ
だから日本書紀は、執筆者についての記述も、古事記のように残っていないんだ
763 :
落武者満州:2014/01/28(火) 23:25:12.06
いや、だから日本書紀の漢文、ちゃんと読めるし文法的にも間違っていないがw
>>758の男はどこかのアホな学者が書いたことをそのまま受売りしているだけ。
ここの連中は学者が本に書いていることを受け売りしているだけである。
中国の影響を極度に嫌った天智天皇の娘の元明天皇が第二十七巻天智天皇の部分は
中国人学者グループが書いたものをそのまま採用するのか
765 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 23:32:23.97
>>761 日向の高千穂の宮は
卑弥呼(アマテラス)の死後に起きた混乱の際
北九州狗奴国・諏訪タケミナカタ派側に立って、北九州狗奴国の手引きの元に、狗奴国の「漢委奴國王」の金印を携えて、
伊都國(出雲)ではなく、かつての大陸との窓口の北九州の竹斯国(筑紫)から、密かに魏に事態を告げに言った山幸彦が
畿内・邪馬台国勢に戻らず、戻れず、北九州狗奴国の日向に留まって作った宮
神武はその山幸彦の孫で、ひい爺ちゃんのニニギはアマテラス(=卑弥呼)の孫で
東征という畿内の邪馬台国に対しての軍事クーデターを起こす前まで、祖父・山幸彦が立てたー九州・日向の高千穂の宮ーにいた人物
>>733新説・日本三国志8の5【アマテラス(=卑弥呼)の死と後継者・勢力争い(海幸彦と山幸彦)】
>>734新説・日本三国志8の6【混乱の収拾と後継者勢力の確定(魏の介入)】
>>745新説・日本三国志8の7【北九州・狗奴国勢の権力の拡大と出雲の衰退、邪馬台国の軍事クーデター(神武東征)】参照
九州にいたから九州の土着ではなく、一時的に九州にいただけの、畿内邪馬台国のアマテラス(=卑弥呼)の孫のニニギの子である山幸彦の孫
だから4世紀の九州には、大和に見られるような大規模な古墳・集落遺跡も見られないし
近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早い
方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していない
近畿や吉備の人々の九州への移動は確認できるが、逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はない
畿内の文化の主流は畿内の土着文化で、そこに九州の文化がほんの少し残っているだけという【現実】になっている
>>763 森博達のだろ。
確かに精緻な研究で、雄略から日本書紀が書かれたことを解明したことは大きい。
ただまあ、漢文として全く読めないは言い過ぎ。
漢文を学んだ日本人によって書かれたという倭習があるだけで。
>>742 天の岩戸神話って、ポリネシア系神話でも類似のがあって、
葛城特有どころか、別に日本固有の神話じゃないんだがw
知識量が不足すると馬鹿を晒すという典型w
神話を扱うなら最低限、比較神話学、大林太良とか読めよw情けないw
768 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 23:48:04.21
>>763 京都産業大学の古代中国語が専門の言語学者、森 博達教授によって
一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までは
例えば、鎮座や常世という言葉なんか古代中国語には無いのに日本書紀には書かれていたり
当時の中国語で読むと全く意味が取れない、音韻も発音も間違いだらけ、文法も間違いだらけであることが
発表されている
これは、土を掘り返したら遺跡が出てきた・・のと同じように、誰にも否定出来ない事実
>>761 串間の玉璧とか見る限り、古くから力を持った勢力がいたのは確かだな。
税所も大隅だったな
771 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 00:00:36.73
>>764 そうだよ、元明天皇にとって都合が悪いのは
一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までの、
邪馬台国・卑弥呼・狗奴国・出雲・中国が日本の王様を決めていた・妾腹の神武のクーデター・・・っつー話と
第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇までの、
天皇自ら後継にした太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が
地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし、朝廷軍を打ち破って、無理やり天皇の座に就いてしまうという、
初代神武の軍事クーデターとそっくりの壬申の乱・・・っつー話のところだからね
第十四巻雄略天皇から、自分の母ちゃんが天皇になった、第二十七巻天智天皇のところは、そのまんまで良かった・・
っつーか、そのまんまじゃなきゃダメだったのさ
じゃ中国の影響を極度に嫌ったんじゃなくて、都合が悪いところを書き直したんじゃん
773 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 00:10:18.26
つまりね、古事記はぶっちゃけ
藤原京から、中国式の平城京への遷都に猛反対し、藤原京に留まることを強く希望したにもかかわらず、
唐に追いつき追い越せの王公大臣達は、天皇の言うことを聞かずに、都を強制的に遷都されてしまった
元明天皇が、大陸かぶれ、唐かぶれで、天皇の意向を蔑ろにし始めていた官僚達に
「ふざけんじゃねぇ、天皇は神様なんだぞ、外国のやってることなんかありがたがるより、ちったぁ言うこと聞け」
・・って天皇が言うために
「中国語の漢文」じゃなく「やまと言葉」という日本独自の音で、それを使用した日本独自の文章で
新たなストーリーとして作られた【物語り】なんだよ
んで、その【物語り】に合うように、「中国語の漢文」で書かれていた日本書紀も、書き換えられちゃったのさ
>>761 どことも戦乱なぞはしてないのと違いますか。
何処ぞの誰ぞの受け売りですが、誰かが大好きな朝鮮半島で製作された鉄斧とか、
畿内型の周溝墓とか、
瀬戸内海沿岸で製作された土器や日向宮崎の土を使ってそれを模倣した土器とか、
球磨盆地の土器とか、それらを組み合わせたようなものとか、
古墳時代になるより前のことだが、色々あるようだ。
南のパラダイス乙。
775 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 00:33:53.25
北九州狗奴国の東の果ての属国だった吉備は、出雲が出来て畿内邪馬台国が出雲を手に入れるまでは
邪馬台国に、こっそり大陸のモノを横流しとかして、ちょっと繁栄したけど
瀬戸内側で自分では直接、大陸と交易出来なかったのが致命的だったね
出雲が出来て畿内邪馬台国が出雲を手に入れて、出雲に新港開いて、
畿内邪馬台国が吉備なんか頼らなくても出雲で大陸と直接交易出来るようになってから、一気にダメになった
だから神武の東征という軍事クーデターの時は、北九州狗奴国と一緒になって神武に荷担した
んでその後、大陸の南朝が滅亡して、大和の日本国が、北九州狗奴国を討伐したヤマトタケルの西征の時は
統一されればまた、大和と北九州の大事な中継場所に戻れる・・てんで、今度はヤマトタケルに加勢して
一緒に北九州狗奴国を討伐した
776 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 00:41:45.58
>>767 馬鹿ですか?記紀神話が作られた場所設定を
二上山周辺の土地を基本に話を作ってる事を指摘しただけの話なのにw
世界中の神話の類似性なんて当然の話だ。
777 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 00:46:05.02
記紀神話の話だと、ヤマタノオロチ神話は出雲だけではなく、
大阪、奈良県の大和川流域、信貴山周辺に残っているからな。
>>776 世界中に類似の神話があるのは認めるのに、
なぜ神話の故郷が二上山限定になるのかが意味不明w
二上山近辺の人以外は神話を持っていなくて、
二上山神話が全世界に伝播、波及したの?
馬鹿なの?w
779 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 00:55:18.42
>>776 そうだね、元明天皇の時代には、仏教の中国人・・は当然、日本にも来ていたけど
キリスト教の西洋人・・はともかく、キリスト教の中国人も、当然、日本に来ていただろうから
仏教ベースの唐・・を嫌って、新たなストーリーを模索していた元明天皇が
西洋のキリスト教やギリシア神話の話を参考にしたことも、十分に考えられるね
780 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 00:55:49.84
>>778 救いようの無い馬鹿w
世界の神話に夜須川やら堅石の石切場に金山神社が出てくるの?
神話の内容の話じゃないだろw
日本語わかるのか?
でもさー
天の岩戸神話は二上山発祥なんだろ?w
お前、比較神話学とか何も知らないだろ?w
試しに聞くがさ、どんな著者のどんな本を読んだの?
大体二上山の麓の夜須川(飛鳥川)はそれこそ聖徳太子の太子町だよ。
帰化人の郷でもある。景教の知識、世界の神話位入ってただろ?
記紀にそういった要素を取り込む可能性は十分ある。
なので言ってるのは二上山周辺の土地の状況を
元にしてあるだろうという事だ。
>>781 いい加減にしろよ、誰が神話自体が二上山発祥なんて言ってるんだw
え?w
どんな本を読んだの?って聞いてるのに一冊も無しなんだ?w
大丈夫?w
また、質問返しする?w
あれ、既に趣旨がズレてますよw
ていうかさw
一冊でも読んでるのか?読んでないのか?を答えるだけなのにw
何、ビビってるの?
読んでなくても自信持ってるなら「読んでない」ってはっきり言えばいいじゃんw
記紀の神代は間違いなく高天原を葛城地方周辺を
舞台にしている事を指摘してるだけなのにな。
引っ込み付かなくなって、神話の本とか持ち出すとかw
創世神話自体がギリシャ神話にバビロニア、
北欧にも似たような話は多いんじゃないの?
788 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 01:21:50.17
まっ、なんにしても
>>729新説・日本三国志8の1【古代の日本】、新説・日本三国志8の2【新たな新興国・出雲の誕生】
>>731新説・日本三国志8の3【倭国争乱と出雲の国譲り】
>>732新説・日本三国志8の4【大陸の政変と邪馬台国の台頭】
>>733新説・日本三国志8の5【アマテラス(=卑弥呼)の死と後継者・勢力争い(海幸彦と山幸彦)】
>>734新説・日本三国志8の6【混乱の収拾と後継者勢力の確定(魏の介入)】
>>745新説・日本三国志8の7【北九州・狗奴国勢の権力の拡大と出雲の衰退、邪馬台国の軍事クーデター(神武東征)】参照
>>747新説・日本三国志8の8【北九州・狗奴国と新しい大和国・天皇の蜜月の終了と覇権の確定(タギシミミの反逆)】
>>752新説・日本三国志【外伝2−1・その後の日本と日本書紀の編纂】
>>756新説・日本三国志【外伝2−2・古事記の編纂と日本書紀の書き換え】
で
邪馬台国は畿内だよ
九州だったら、すぐにツジツマが合わなくなっちゃって、こんな「小説」「脚本」すら書けない(^_^;
畿内説ではあるが、俺とは全く解釈が違うのはわかったw
790 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 06:42:38.77
お歯黒の風習のあった畿内は黒歯国だったんじゃないの?
792 :
落武者満州:2014/01/29(水) 09:23:32.63
>>768 鎮座や常世は日本語なのだから当たり前である。
日本のことを書くのだから日本語を使用するのは当り前だ。
また、たまに書紀の原文を見ることがあるが、文法に間違いはない。
その森博達という男はアホ学者である。
ここの連中はアホであるから、学者が書いていることの正誤が判断できない。
それで学者が書いていることはみんな正しいと思ってしまう。
学者が記紀は嘘だ創作だ陰謀だと書くと記紀は嘘だ創作だ陰謀だと思ってしまうのである。
太国などは記紀は嘘だ創作だ陰謀だとは言わない。
当時の暦が倍暦だったからだと説く。
軽々に記紀は嘘だ創作だ陰謀だとわめいている連中より太国は数段まともである。
ローガンや伊作にしても軽々に記紀は嘘だ創作だ陰謀だとは言わなかったように思う。
軽々にそういうことを言う連中は土手のキンピラである。
>>751 >大体素戔嗚尊の時点で馬まで登場してるよw
アホ確定www
朝鮮人だから日本の地理状況には矛盾を感じないのだな。
神武東征なんて創作しなきゃ無理な話ばかりだよw
夫婦状の岩や山は古代史においてとても重要な存在なのだからな。
大和の他、富山や南九州にもあるのはとても意味がある。
797 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 10:37:43.61
>>797 真性のアホ、ゆとりか?
記紀が実際書かれた時代には馬がいたって事だろ、
大体機織りまで登場してるわw
>>798 当たり前じゃないか。
それが何で畿内の証拠になるんだよ。
高天原=葛城地方。高野、天野方面という認識を前提に
記紀が描かれたに他ならない訳だろ。
九州説なんて所詮はまともに記紀を理解していないという事だ。
神武東征以前に西へ向かう王がいればおかしいから、
欠史の具体的記述を出来る訳がないので
神話として記述したという事だよ。
結局高天原が葛城地方、先に繁栄した
北部九州が蘆原中国という認識だな。
>>801 アホか。
じゃなんで日向の高千穂に降りたんだよ。
あんな何もない所に何をしに行ったんだよ。
>>803 天皇家の東征伝承を記したいに決まってるじゃないかw
805 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 11:57:03.26
>>803 >あんな何もない所に何をしに行ったんだよ
なにもないとは不思議なことをいうじゃないか、あれほど有名な神社史跡がわんさかあるのに。
どこかの山間僻地と間違えているな。
>あれほど有名な神社史跡がわんさかあるのに
それは天孫降臨のあとに出来たのだろうが。
それ以前に何があった?
こいつバカだわ。
807 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 12:00:47.40
薩摩高千穂の峰とはちがうぞ
由緒正しき日向の高千穂には、今も250の神社古寺がある
誰か高千穂でUFO見たやつとかいたんじゃないか?
809 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 12:06:08.70
>>806 >あんな何もない所に何をしに行ったんだよ
おマイ、現在形で書いておるだろうが
それ以前だと言うなら、過去形で書くべし
重ねて聞くが、天孫降臨の前の畿内大和には何があったと言うのか
高千穂は土地柄・気候も良く、生活には恵まれたところ。この世の極楽みたいなところ。
筑紫日向の高千穂降りた時に、韓国に近くなったと
言ってるのだから、東から来てるのは確実だろう。
これも神代が九州より東国方面の事を指す事に他ならないしな。
当然瀬戸内海で成敗する話なんて描けない。
紀伊半島を無理に南へ回る理由の一つだろう。
だから高天原が阿蘇あたりにあってニニギが高千穂に降りたのなら説明も付くが、
畿内からわざわざ高千穂に行くのにどういう意味があったのだ?
神社古寺は後の時代だぞアホ。
812 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 12:11:26.94
>畿内からわざわざ高千穂に行くのにどういう意味があったのだ?
神社古寺は後の時代だぞアホ。
天皇家の東征伝承を記したいに決まってるじゃないかw
814 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 12:13:23.53
>だから高天原が阿蘇あたりにあってニニギが高千穂に降りたのなら説明も付くが、
だから高天原は阿蘇〜熊本あたりにあったんだろ
>>812 「畿内に天孫降臨」して九州に向かいましたとなってない。
残念だな。w
>>814 あれ、誰だお前。
高天原は畿内といってたアホではなかったのか?
記紀が編纂されたのは律令による中央集権化を推し進めている時代だから
他の豪族ゆかりの地じゃまずいんだな
だれもいないところじゃないと
近くの阿蘇には2名しかいないから最適地だな
馬具が出る時代になると高千穂にもちらほら出る
>>813 王家でも南九州に祖先を持つ人物が、記紀をまとめただけの話。
もしくは隼人懐柔策の一環かな。
>>818 神武実在で本当に南九州から来ただけの話。
何も難しくない。
疑うやつはアホ。
主要国
邪馬台国 7万戸
投馬国 5万戸
奴国 2万戸
阿蘇 2名 少数精鋭
>>815 >「畿内に天孫降臨」して九州に向かいましたとなってない。
誰もそんな事は言ってないぞw
それがまずいから神代の話として、スサノオの話等に
していると主張してるのだよ。
だが実際神武以前に天孫が降臨していた事は記紀にも記載されてるが。
>それがまずいから神代の話として、スサノオの話等に
>していると主張してるのだよ
イミフ
823 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 12:28:21.77
畿内厨、混乱中!
神武軍は実際河内湖まで一切戦闘記述が皆無で、
河内湖で敗北、しかもわざわざ
「我々は東に刃向かっては駄目だ」と書いてるだろ?
これで意味が判らなきゃ、そりゃ東が高天原だと判らないだろうw
東に刃向かっては駄目だというのは日向族だから。
つまり神武軍は九州から来た証拠。
826 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 12:31:40.30
畿内厨、大混乱中!!
>>825 日向族は高千穂に降りる前は何処にいたの?
韓国に近くなったといってるぞ。
まさか宇宙かw
西征の話を描けないから神武を初代にする必要があるだけの話。
そりゃ薩長以降の基本認識でもあるからなw
×韓国に近くなった
○韓国に近い
>>829 意味は元は離れていたという事だが。
九州(筑紫)にいた人物がそんな発言する訳がないw
南九州人を見たとき「こ、これは人じゃない」不比等はそう思ったんだね
そこで天皇=人間とは180万年前に分化したと考えた
おそらく南九州にいたのはホモ・フローレシエンシスだろう
>>830 記紀が書かれたのは畿内じゃん。
あたりまえ。
>>832 だから記紀からは葛城地方=高天原としかとれないと言ってる訳だろw
でも神武を初代にしたいので、描けない部分を神話にしたと。
それを曲解してるのが九州説の連中な。
>葛城地方=高天原としかとれないと言ってる訳だろ
高天原は九州だろう。
それ以外ないが。
835 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 13:00:00.54
空から降りてきたと吹聴するのは何処の王様も同じ。
それが比較神話学とやらだろう。
836 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 13:12:04.57
ヤマタノオロチ伝承でも、実際畿内の大和川周辺に多く残ってるしな。
838 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/29(水) 15:01:16.30
>>486 もちろん太国や稗箕狐や風ゴキの倍暦説も空想であるw
記紀は内容も編年も正しいのである。
オマエの論じゃぁ、神功年代卑弥呼を設定するわけだから、応神仁徳が
連続して百数十歳の寿命だったといういうことを当然だとしている。w
仁徳は武内宿禰を日本一の超長寿者である旨の歌を詠んでるが、仁徳自身
はご自身を同類の超長寿だとは詠っててない。つまり通常の人間の寿命
だったということになる。盲信がオマエの脳内を台無しにしている。ハハ・・・
当時の朝廷は倍暦を行使していたのである。こちらには不合理はない。
839 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/29(水) 15:12:04.15
>>838 訂正 ↓ ここの2行の書きこみは満蒙巣コングの主張です。
もちろん太国や稗箕狐や風ゴキの倍暦説も空想であるw
記紀は内容も編年も正しいのである。
ニニギが畿内という後進地から派遣されたわけなかろう。
国譲りに際して、高天原が天の安河の上流の天の石屋にいる、
伊都之尾張神に相談をゆく行く逸話があるが、これは正に
二上山麓にある屯鶴峰を指しているだろう。
この屯鶴峰の地下は、洞窟が張り巡らされている事で有名な
場所なのだ。戦時中は本土決戦に備えて更に掘ろうとした場所だ。
これに関連した伝承があって、常陸国風土記に崇神の世、
崇神の前に神が現れ、鹿嶋の国に俺を祭れという話だが、
これが武甕槌命だという。
武甕槌命は大坂山の頂上に純白の御着物を着て、白い桙の御杖を
持っているという(屯鶴峰は全面が白石で覆われた場所で有名)
なぜ武甕槌命が二上山麓に?と思うのだが、伊都之尾張神の子なら
当然の話だろう。二上山は今でも岳山(ダケ山)という。
今もダケノボリという行事があるのだ。
842 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 17:44:40.63
太国さんの倍歴論に興味があるのですが、
一年ほど前からの参加で最初から読んでいるわけではないので
その論拠がよくわかりません。
一度まとめてかいつまんでいただけると助かります。
843 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 18:43:05.69
歴史というのは、大陸も関係して連綿と続いているモノ
○○が○○だった・・と、ただ一点を指摘しても
それで
>>729新説・日本三国志8の1【古代の日本】、新説・日本三国志8の2【新たな新興国・出雲の誕生】
>>731新説・日本三国志8の3【倭国争乱と出雲の国譲り】
>>732新説・日本三国志8の4【大陸の政変と邪馬台国の台頭】
>>733新説・日本三国志8の5【アマテラス(=卑弥呼)の死と後継者・勢力争い(海幸彦と山幸彦)】
>>734新説・日本三国志8の6【混乱の収拾と後継者勢力の確定(魏の介入)】
>>745新説・日本三国志8の7【北九州・狗奴国勢の権力の拡大と出雲の衰退、邪馬台国の軍事クーデター(神武東征)】参照
>>747新説・日本三国志8の8【北九州・狗奴国と新しい大和国・天皇の蜜月の終了と覇権の確定(タギシミミの反逆)】
>>752新説・日本三国志【外伝2−1・その後の日本と日本書紀の編纂】
>>756新説・日本三国志【外伝2−2・古事記の編纂と日本書紀の書き換え】
のように、全体のストーリーが描けなければ、その指摘は意味がない
>鎮座や常世は日本語なのだから当たり前である
>日本のことを書くのだから日本語を使用するのは当り前だ。
>また、たまに書紀の原文を見ることがあるが、文法に間違いはない。
>その森博達という男はアホ学者である。
と指摘しているやつがいるが、
日本語・・つまり、日本独自の文字を持たないのに日本語・・つまり
和製中国語や和修の文法が用いられている・・
日本語としての文字がないのに、日本のことを書くのに日本語が使用されている
だから書き直されたんだ・・という全体のストーリーを無視している
要所の判断を間違えては全体のストーリーなんか無意味だけどな。
845 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 18:53:52.68
>>844 それは逆
全体のストーリーが描けなければ、その要所の判断は間違い
たとえば、邪馬台国は北海道にあった・・と指摘しても
邪馬台国が北海道にあったことを前提・・・にして、
大陸も関係して連綿と続くストーリーなど描けない
つまり、その要所の判断は間違い
ストーリー作成なんて結局は自己満ですよ。
847 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 19:13:22.46
>>846 だから、やってみろ
新説・日本三国志を描くに際して
・邪馬台国は九州にあった
・邪馬台国は畿内にあり、北九州まで支配していた
も、当然、それを元にして考えてみたけれど
それだと必ずどこかでツジツマが合わなくなって
全体的な流れとして持っていくことが出来なくなる
848 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/29(水) 19:24:31.70
849 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 19:31:35.93
日本経済新聞・見出しの変遷
(かって箸墓に傾いていた日経も、新しい見出しでは「九州」が先に来るようになった)
九州か大和か 邪馬台国いまだ謎 (2014/1/9付)
邪馬台国の有力地、纒向遺跡を史跡指定へ (2013/6/22付)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳 (2013/2/20更新)
卑弥呼の墓か、3Dで測量 奈良の考古学研 (2012/6/6付)
850 :
落武者満州:2014/01/29(水) 19:47:47.63
>>843 ピミが何を言おうとしているのか、さっぱり分らんw
日本は文字がなかったから、日本の言葉に漢字を用いて当て嵌めただけである。
だからたとえば○○○は音で読めと指示している。
あるいは漢字の意味を汲み取って和製語を作っているのである。
常世などはそういう和製語だろう。
明治期に青春という和製語が作られたのと同じことである。
青春という漢語はないから間違いだ、というのはおかしいのであって、
和製語自体は間違いでも何でもない。
日本人の造語能力の高さを示すものなのである。
また書紀の文法自体には何の間違いもない。
学者の書いていることが何でもかんでも正しいと思ってはいけないのである。
森博達が何を書いていようと、それはあくまで仮説なのである。
記紀は嘘だ創作だ陰謀だ、というのも全部仮説である。
仮説なのに、ここの連中はそれを信じてしまっているのである。
851 :
落武者満州:2014/01/29(水) 19:53:56.39
豊葦原の太国の倍暦論など読んでも仕方ないのである(笑)
番朝鮮(古朝鮮、箕子朝鮮)が燕に攻められて二千里(あるいは千里)
後退したのはBC221年。ちょうど孝霊天皇の時代。
この頃穢王から番朝鮮王に宝剣が贈られている。
その宝剣は孝霊天皇から穢王に贈られたものである。
衛満朝鮮が漢に攻められて滅んだのはBC108年。開化天皇の時代。
この頃辰王が開化天皇に使いを出している。
記紀が正しいことは既に文献的確証が得られているのである(笑)
852 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 19:55:42.02
>>850 そうだよ
日本は文字がなかったから、日本の言葉に漢字を用いて当て嵌めただけである。
そして、それを始めて「やれ」と命令したのが、第43代元明天皇
853 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 20:01:20.18
ありゃ、途中で書き込んでしまった
>>850 そうだよ
日本は文字がなかったから、日本の言葉に漢字を用いて当て嵌めただけである。
そして、それを始めて「やれ」と命令したのが、第43代元明天皇、つまり
「鎮座」や「常世」は【やまと言葉】なんだよ
日本書紀が書き始められたのは、第40代天武天皇の時
その時には「鎮座」や「常世」という【やまと言葉】は存在しない
存在しない「鎮座」や「常世」という【やまと言葉】が
日本書紀の第一巻から第十三巻第20代安康天皇までに使われていることはおかしい
邪馬台国の南にある狗奴国がなぜ北九州にあるのか分からん
855 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 20:16:52.35
つまりだ、第40代天武天皇の時
○○という話を文字で書き残せ・・・と言われた場合は
日本語の○○という話を、いったん全部中国語に翻訳して、全部中国語で書かれていたの
だから、第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇は「全部中国語」で書かれている
和製中国語や和修の文法なんか、一つも出てこない
日本の言葉に漢字を用いて当て嵌めて、○○という話を文字で書き残せ・・と
日本で始めて命令して、書き残したのが、第43代元明天皇の古事記
だから命を受けた太朝臣安萬侶は、古事記の序文で
「中国語による漢文」の日本書紀を、日本の言葉に漢字を用いて当て嵌めた「やまと言葉」に変えるのに
すんげー苦労した・・と書き残しているし、
だから古事記には価値がある
マンチュウが書紀をろくに読んでいないか漢文をよく知らないか、どっちかであることが判明したなw
いや、意味がわからん
全部中国語でかかなくても、はじめから日本語で書けばいいじゃん
さてどっちだろう?
859 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 20:27:34.05
>>857 日本の言葉に漢字を用いて当て嵌めた「やまと言葉」・・つまり日本語の文字
が無いのに、はじめから日本語の文字で書けるわけがねーだろーが(笑)
日本の言葉に漢字を用いて当て嵌めた「やまと言葉」・・つまり日本語の文字は
第43代元明天皇が、太朝臣安萬侶に「日本の言葉に漢字を用いて当て嵌めて書け」って命令して
始めて出来たんだ
860 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 20:32:34.91
>>848 太国さん、ありがとうございます。
じっくり読んでみます。
861 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 20:43:41.33
例えば、日本語で「手紙」
日本語がない時代、日本で便りを「てがみ」と話していたとしても、文字で表す場合は「信」
中国語には「手紙」という文字表現は無い
第43代元明天皇が、太朝臣安萬侶に「日本の言葉に漢字を用いて当て嵌めて書け」って命令して
始めて「てがみ」と話していた音は「信」という中国語の文字から、「手紙」という日本語の文字になった
だから今の中国人に「手紙」と言っても意味が伝わらない、中国語に翻訳出来ない、「手紙」は日本語だから
中国語で「手紙」という文字表現は、トイレットペーパーのことだから
それと同じように、
日本で「ちんざ」と話していても、中国語には「鎮座」という文字表現は無い
つまり「鎮座」は漢字を使ってはいるけど【日本語】なんだ
862 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 20:50:53.21
>>861 訂正
例えば、日本語で「手紙」
日本語がない時代、日本で便りを「てがみ」と話していたとしても、文字で表す場合は「信」
中国語には「手紙」という文字表現は無い
第43代元明天皇が、太朝臣安萬侶に「日本の言葉に漢字を用いて当て嵌めて書け」って命令して
始めて「てがみ」と話していた音は「信」という中国語の文字から、「手紙」という日本語の文字になった
だから今の中国人に「手紙」と言っても意味が伝わらない、中国語に翻訳出来ない、「手紙」は日本語だから
中国語で「手紙」という文字表現は、トイレットペーパーのことだから
それと同じように、
日本で「ちんざ」と話していても、中国語には「鎮座」という文字表現は無い
つまり「鎮座」は漢字を使ってはいるけど、 第43代元明天皇の時に出来た 【日本語】なんだ
863 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/29(水) 20:52:22.98
半島人のコングの百数十歳論など読んでも仕方ないのである(笑)
>>860 鷲崎さんのその板である個所をクリックすると、番外で多々倍暦編年関係
を論じています。
曲学の徒さんの板にもバラバラですが、各所に書きこんでおります。
864 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 21:06:44.89
んで日本書紀の
第一巻から第十三巻第20代安康天皇まで・・は【日本語で書かれている】
第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇は・・は【中国語で書かれている】
日本語で書けるようになったのは第43代元明天皇以降なので
第一巻から第十三巻第20代安康天皇まで・・は、
もともと中国語で書かれていたのを、日本語で書き直した
第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇までを先に書き、第一巻から第十三巻第20代安康天皇までは後から書かれた
どっちにしても、第43代元明天皇以降に書かれたモノ
>>859 古事記の原文みたことある?
基本漢文朝で、和名を記すところで仮名を遣ってるんだよ
和歌のとことかね
和漢併用文ではあるけど、散文に助動詞が用いられていないし
接続詞も仮名ではない。
たとえば八俣遠呂知だけど、八俣は漢字で書かれていて遠呂智だけ仮名で書かれている。
つまり、「八俣おろち」と書かれているようなもの。安藤名津みたいな感じで。
なぜ、やまたも仮名で書かなかったのか、不明。
もともと、おろちは抽象概念を含んでいてそれに相当する漢語がなかったためかもしれない。
とにかく、仮名漢字まじりはのちに仮名だけ字体をくずして仮名を見分けやすくしだすけど
基本すべて漢字が羅列されているだけで、どれが漢字(真名)でどれが仮名かは
文脈を見て判断しなければいけなくて、つまり漢文が読めないと仮名も分からないというわけだ。
そして、書き手、とくに古事記の編纂者は仮名によく使う漢字を使うと、まぎらわしくて
漢文が読める人でも読みづらくなるから苦労したとおもうよ。
866 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 21:10:41.76
>>865 だから
第一巻から第十三巻第20代安康天皇まで・・は、
第43代元明天皇以降に書かれたモノ
867 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 21:14:37.62
第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇までは、全部中国語で書かれていて
どれが漢字(真名)でどれが仮名かわからない
文脈を見て判断しなければいけなくて、つまり漢文が読めないと読めない
なんてこたぁ、ひとっつも無い
あと、どうでもいいけど、古事記のほうが日本書紀より成立早いよ
よく藤原氏が改竄したってうわさをたててる人がいるけどね
869 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 21:18:38.71
「鎮座」や「常世」みたいな仮名・・つまり「やまと言葉」は
第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇まで・・には、用いられていないからね
第一巻から第十三巻第20代安康天皇まで・・と違って、中国語の漢文しか読めない人でもすらすら読める
870 :
満州中尉:2014/01/29(水) 21:20:01.53
だから鎮座は和製語であって、ただそれだけのことである。
それをその和製語が出来た以前の時代に使ってはいけない、ということではない。
たとえば大夫や卿という語はすでに崇神天皇紀に出ている。
諸大夫等歌之曰…其群卿百僚
だからといって崇神の時代にこんな身分や言葉が日本に存在したとは誰も思わない。
のちの時代に知った大夫や卿という語を使って
中国風にカッコ良く表現しているのだろうと思うだけである。
ただそれだけのことである。ガヤガヤ騒ぐような問題ではない。
書紀の倭習が見られる箇所の分布がはっきり分かれているのは森博達氏の指摘どおりだと思うんだが
そうなってしまった原因はいろいろ考えられる
史実がどうであったかは一つ一つ根拠を挙げて論を進めないとだめだろ
ただストーリーができましたじゃ
糞みたいな記紀の話を延々垂れ流されるのは御免だわ
873 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 21:24:02.26
>>868 そっ
日本書紀は第40代天武天皇が編纂を命じて「中国語」で書かれていて720年に完成で
古事記は第43代元明天皇が編纂を命じて「やまと言葉」で書かれていて712年に完成
書き出したのは日本書紀のほうが早いけど、
出来上がりは、あとから書き出した古事記のほうが早い
第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇までは、「中国語」で書かれていて
第一巻から第十三巻第20代安康天皇までは、「やまと言葉」で書かれている
つまり、日本書紀は、古事記が出来た後書かれた・・・か
古事記が出来た後に「やまと言葉」で書き直された
874 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 21:28:21.06
ではなぜ日本書紀は
第一巻から第十三巻第20代安康天皇までを、古事記の後から書く、古事記が出来た後に「やまと言葉」で書き直す、
必要があったのか・・・といえば
藤原京から、中国式の平城京への遷都に猛反対し、藤原京に留まることを強く希望したにもかかわらず、
唐に追いつき追い越せの王公大臣達は、天皇の言うことを聞かずに、
都を強制的に遷都されてしまった元明天皇が、
大陸かぶれ、唐かぶれで、天皇の意向を蔑ろにし始めていた官僚達に
「ふざけんじゃねぇ、天皇は神様なんだぞ、外国のやってることなんかありがたがるより、ちったぁ言うこと聞け」
・・って言うため
そのための新たなストーリーとして作られた【物語】が古事記であり、日本書紀はそれに合わせられた
>>867 そうか?
ttp://www.seisaku.bz/kojiki_index.html ここに原文のってるが
雄略天皇のところの冒頭抜粋すると
「大長谷若建命、坐長谷朝倉宮、治天下也。天皇、娶大日下王之妹、若日下部王。无子。」
おおはせわかたけるのみこと、はせあさくらのみやにざし、てんかをおさめるなり。
すめらみこと、おおくさかのみこのいもをめとる。わかくさかべのみこ、子なし。
まず、おおはせわかたけるのみことと日本人は訓じるが、大長谷若建命の字の使いようは仮名ではなく真名だよね
そもそも長谷をはせとよむのは枕詞という習慣から来たと言われている。
母とくれば、たらちね(意味は垂乳)であるように、長い谷、渓谷には渓流が流れていて、
はつせ(泊瀬)があったことから長谷と書いてはせと訓じるようになった。飛鳥をあすかとよむのも同じだ。
また若をわかと訓じるのは若という漢字にわかいという日本語で使われる意味があったからでこれは直訳だ。
windowと書いてまどと読むようなもん。
建をたけると訓じるのも同じ、もともと建という漢字にはたけるという意味があった。命も同じ。
あと、坐の使い方だが、目的語の前にあるからこれも漢文朝の使い方だ。助詞の「に」もないし、助動詞「す」もない。
読み手が脳内補完するしかない。
治天下也も訓読は分からん。治天下という名詞かもしれんし、也は発音しないのかもしれん。
そもそも也=なりってのも日本独特の書き下し法であって、なりと訓じていいものと断定できるものではないし。
上の文には仮名がまったくない。
876 :
満州中尉:2014/01/29(水) 21:40:33.00
雄略以前は古い時代だから倭語でしか表現できない語が多かっただけである。
雄略以後に倭語が使用されていないというのも眉唾である。
で、雄略から書き始められたというのが正しかったとしても、
それが一体何なのだ? 何かまずいことでもあるのか?
古い時代のことは資料収集に手間取ったから後から書くことにした、
ということも考えられるわけで、とにかく、それがどうしたと言いたい問題だ。
877 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/29(水) 21:51:53.78
満蒙巣コングの論は卑弥呼年代が神功年代とし、このまま皇紀を計算して
いくと、次代を調べれば、応神仁徳の両天鵜皇がなんと百数十歳の超長寿
だと平気で主張したことになる。w
野郎は古代の各天皇はそのカリスマ性からかような超長寿は当然だとし、
平気で百時数十歳の寿命を肯定している。
〜んじゃぁ何故後代の天皇だと一般人同然の寿命に減るのか?
後代の天皇は現人神でなく一般人と同然の無カリスマ天皇だからだと
奴は言い出すのか?
たとえば明治天皇は一般人同然の平民だから寿命が一般人並みなのかという
不審点を奴は答えることが出来ないでいる。ww
すべてその場限りの即興の脳内弁護思考で、盲象論を増幅してスレ民から
影で嘲笑サレてるに気づかないでおり、もんもんとして脳内の用心の箍が
ガタガタの症状にあるのである。ハハ・・・
878 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/29(水) 21:53:41.91
満州は日本書紀を現代語訳で読んだんだろうよ(ケラケラ)
雄略のところにも和歌がのせてあるし、そこは仮名なんだが・・・
「又歌曰、比氣多能 和加久流須婆良 和加久閇爾 韋泥弖麻斯母能 淤伊爾祁流加母」
ひきいたの わかくるすばら、わかくへに、いぬるましもの おいにけるかも
和歌以外にもあるぞ
「故、此四歌、志都歌也。」
ゆえに、このよつのうた、しづうたなり。
しづうたってのは静歌だろうね、しめっぽい歌のこと。
881 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 22:03:25.13
>>875 そっ、だから第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇までは、全部中国語
「中国で読んで、それを日本語に翻訳」しないと意味がわからない・・つまり
日本語に翻訳出来る、ちゃんとした【古代中国語の文章】
しかし、第一巻から第十三巻第20代安康天皇までは【中国語では読めない】
「中国で読めないんだから、それを日本語に翻訳」も出来ない
日本語に翻訳出来る、ちゃんとした古代中国語の文章では無い
日本語に翻訳出来ない、やまと言葉でしか読めない【日本語の文章】
>>876 一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までの、
邪馬台国・卑弥呼・狗奴国・出雲・中国が日本の王様を決めていた・妾腹の神武のクーデター・・・っつー話と
第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇までの、
天皇自ら後継にした太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が
地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし、朝廷軍を打ち破って、無理やり天皇の座に就いてしまうという、
初代神武の軍事クーデターとそっくりの壬申の乱・・・っつー話
その2つの、第43代元明天皇からしてみると「都合の悪い話し」のところだけが
元明天皇が考え出した「やまと言葉」で書かれている・・つまり、とても恣意的なストーリーなのよ
というか、倭人伝もろくに読んでないよね?君。
883 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 22:09:00.30
所詮記紀だけを資料としても無駄だとよくわかるな。
考古学は勿論、国外史や当時の地形に各地の風土記に伝承、
これらが矛盾なく説明できなきゃ所詮は妄想だ。
まぁ九州説は全てにおいてもはや論外だが。
884 :
満州中尉:2014/01/29(水) 22:15:07.90
>>881 ピミの書いていることは全部空想に過ぎないw
大体、その森某の説が眉唾なのである。
常世は固有名詞だから漢字の当て字で書くのは仕方ない。
雄略以後も固有名詞は当て字である。
あとは鎮座というような和製語だけが問題だ。
で、なぜ和製語が使用されているのは後から書かれた証拠だと言えるのか。
その理屈がさっぱり分らないのである。
また鎮座以外にどんな和製語か使用されているのか挙げてもらいたい。
たった一例なら説得力がない。
とにかくその森説は眉唾なのにピミは信じてしまっているわけだ。
そして高度な学術本を読んだので、インテリになった気分で、
ここで自慢したいわけだ(笑)
885 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 22:19:12.89
日本経済新聞の変心
・九州か大和か 邪馬台国いまだ謎 (2014/1/9付)
・邪馬台国の有力地、纒向遺跡を史跡指定へ (2013/6/22付)
・卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳 (2013/2/20更新)
・卑弥呼の墓か、3Dで測量 奈良の考古学研 (2012/6/6付)
かって箸墓に傾いていた日経も、今年の見出しから「九州」が先に来るようになったww
886 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 22:20:21.12
>>882 倭人伝は、第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇までと同じ
「古代中国語で読んで、中国語ではそのまま意味が通じるけど、日本語で意味を通じるようにするためには翻訳しなくちゃならない」
ちゃんとした【古代中国語の文章】ですよ??????????
日本も、第43代元明天皇が「やまと言葉」で古事記を編纂するまでは、日本の話を文字に残す場合
古代中国語で読めば、中国語ではそのまま意味が通じるけど、日本語で意味を通じるようにするためには翻訳しなくちゃならなかった
しかし「やまと言葉」が出来て、逆に日本の文章は
「やまと言葉」で読めばそのまま意味が通じるけど、中国語で意味を通じるようにするためには翻訳しなくちゃならなくなった
一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までと、第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇までは
古代中国語で読めば、中国語ではそのまま意味が通じるけど、、日本語で意味を通じるようにするためには翻訳しなくちゃならない文章ではなく
「やまと言葉」で読めばそのまま意味が通じるけど、中国語で意味を通じるようにするためには翻訳しなくちゃならない文章で書かれている
887 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 22:26:08.04
>>884 あのね、そういう意味じゃないの
漢字がずらずらと並んでいる・・のは、日本書紀も古事記も同じ
それを中国語しか知らない人・・がすらすら読めて、意味が理解出来る・・なら
その漢字がずらずらと並んでいる・・のは、【中国語】
中国語しか知らない人・・がすらすら読めず、意味も理解出来ない・・なら
その漢字がずらずらと並んでいる・・のは、【日本語】
>>884 「森某の説」、お前は読んでも判るまい。
890 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 22:34:12.62
>>884 あのね、そういう意味じゃないの
漢字がずらずらと並んでいる・・のは、日本書紀も古事記も同じ
それを中国語しか知らない人・・がすらすら読めて、意味が理解出来る・・なら
その漢字がずらずらと並んでいる・・のは、【中国語】
日本人はその書かれている【中国語】を翻訳して、書かれていることを理解していた
中国語しか知らない人・・がすらすら読めず、意味も理解出来ない・・なら
書かれている【日本語】を翻訳して、書かれていることを理解しなくちゃならないのは中国人
漢字がずらずらと並んでいても、日本人には「翻訳」なんてする必要は無く意味がわかる
その漢字がずらずらと並んでいる・・のは、【日本語】
和臭はふつうにあると思うんだがな。
やたら、助詞「に」の代用であるかのように、于を使うとか。
也をなりの代用として使うのもそう。其=その、故=ゆえ、者=はなど挙げればきりがない。
御子とか、御=丁寧語のおで使ってるが、これも漢文では不自然。
892 :
満州中尉:2014/01/29(水) 22:39:50.69
>>887 ピミはほんとに頭が悪いなw
日本の固有名詞は当て字で書くしかないから中国人が読んでも分らないのは当然なのである。
常世とか若日下部王とか。
雄略以後も固有名詞はすべて当て字なのである。
それと鎮座のような和製語も中国人が読んで分らないのは当然なのである。
で、問題は、そういう和製語が使用されているのは後から書かれた証拠だという、
その理屈がさっぱり分らないのである。
元明天王云々はあくまで森の仮説であって何の証拠も無いのである。
はっきり言うと森説は全部仮説なのである。
仮説なのにピミは仮説とは思ってないわけで、
もはやピミはオウム森教徒だから、ピミと議論しても仕方ない。
893 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 22:42:00.32
漢字がずらずらと並んでいる・・のは、日本書紀も古事記も同じ、それを
中国語しか知らない人・・がすらすら読めて、意味が理解出来る・・なら
その漢字がずらずらと並んでいる・・のは、【中国語】
日本人はその書かれている、ずらずらと並んでいる漢字を翻訳して、書かれていることを理解していた
これが日本書紀の第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇
中国語しか知らない人・・がすらすら読めず、意味も理解出来ない・・なら
その書かれている、ずらずらと並んでいる漢字を翻訳して、書かれていることを理解しなくちゃならないのは中国人
漢字がずらずらと並んでいても、日本人には「翻訳」なんてする必要は無く意味がわかる
その漢字がずらずらと並んでいる・・のは、【日本語】
これが日本書紀の一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までと、第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇までと、古事記
894 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 22:50:22.51
>>892 常世は、日本人にしかわからない「日本語」
自動車っつっても中国人にはわからないし、中国語の文章には自動車なんて漢字が出てこないのと一緒
古代中国語では「燕国」で、それを「常世」という日本語にしたのは第43代元明天皇のやまと言葉
人名とは全く違う
>>890 それは無理ってもんだよ
日本のような仮名文字文化は他の文化圏でどこも存在しない。
どの国も西夏文字やチュノムみたいに、漢字に似せた表音文字を創作したんだからな
しかも、結局どこの国もそれらを普及しきれなかった。
漢字はそのままで音だけ借りる仮名だからこそ日本に表音文字は定着した。
なぜなら、漢字を理解すれば仮名も自動的にある程度わかるから
自国語を覚えれば、中国からの文物も自動的に勉強できる利がある。
今でこそ仮名は漢字と無関係な文字と扱われているが
変体仮名を見れば、江戸時代まで仮名が一音一文字でなかったことはすぐわかる。
しかも江戸時代の庶民のほとんどが読み書きできたってことは日本人の教養がいかに高かったかを
示している。中国では漢字も書けないような階級まで文字を書けて、しかも和漢両用なんだからな。
ttp://www10.plala.or.jp/koin/koinhentaigana.html 完全な仮名使用は万葉集からはじまる、
古事記では、和歌でも、八俣おろちのような使い方がされるからな
仮名が文学として扱われるのは伊勢物語まで待たなければならない。
896 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 22:58:05.58
>>895 君はなにを言っているの????
だから、日本書紀の第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇は中国語で
日本書紀の一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までと、第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇までと、古事記は日本語で、
書かれた時代が違うんでしょーが(笑)
897 :
満州中尉:2014/01/29(水) 23:00:20.62
>>894 なぜここの連中はこんなに常識がないのかね(呆)
固有名詞とは人名だけではない。国名も固有名詞。
常世はそういう意味の固有名詞。燕国のことではない。
それともなにか? 森は常世とは燕国だと唱えているのか?
常世が燕国とは初耳だ。
898 :
満州中尉:2014/01/29(水) 23:06:50.45
もうオウム森教徒と話しても仕方ないのである。
この子は完全に洗脳されている。
文章から見ても若い子だ。
実際は若くなくても中高生と変わらない。
899 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 23:09:33.00
△のニュースやってたぞ、魔鏡現象を確認だって。
900 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 23:09:37.24
つまり、おまえは
日本は昔、文字を使う場合は、中国語に翻訳して、中国語を使用していた
ということが許せないんだろ(笑)
しかし「日本には文字がない」・・というのは残念ながら、そう言うことなんだ
邪馬台国も、文字がないのに、大陸にモノを送る、大陸からモノを持ってくる場合は役人が
送られたモノと来たモノ、送るモノと来たモノを、文章と付き合わせてチェックしている
そこで使われていた文章は、中国語で漢字がずらずら並んでいる文章
古代日本は第43代元明天皇によって「やまと言葉」での表現が産まれるまで
話す言葉は中国語とは全く違う言葉だったけど、使う文字や文章は中国語だったんだよ
常世という日本語の漢字や、鎮座という日本語の漢字なんか、中国語の文章では使っても意味が通じないので
使われない
>>896 じゃあ、雄略のところに、和歌がのせてあるのはおかしいだろ
他にも例は腐る程ある。
「又天皇、婚丸邇之佐都紀臣之女、袁杼比賣、幸行于春日之時、媛女逢道。」
丸邇之佐都紀臣之女
わにのさつきのおみのむすめ
典型的な仮名漢字混じりだ。
袁杼比賣
おどひめ
ひめは姫とたいてい当てるが、ひめはひこが男性の美称なら女性の美称であって
必ずしも姫は王の娘ではない。だから仮名で表したのだろう。
902 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 23:16:09.30
>>901 はいはい
丸邇之佐都紀臣之女は、古代中国人が、古代中国語で読んでも「人名」です
魔鏡製作で一番重要なのは手作業での研磨である。
畿内周辺で出土する△国産説を採るの場合、製作場所はやはり
田原本の鏡作神社周辺、研磨剤財は柘榴石(金剛砂)
ということになるだろうな。
>>902 じゃあ、古事記の1〜13も古代中国人でも読めるだろww
問題としている鎮座も、鎮撫の鎮は反乱などを治めるという意味だし
座はその場所にいるということだ。
よって鎮座はそこを治めて、住したという意味を十分類推できる。
そもそも、古代中国人が漢字文をすべて理解できたと思う方がおかしい。
周代と春秋、漢代と、それぞれ漢字の使い方が異なる。文法すらちがうからな。
漢文というのは、漢代の漢字の使い方に則って書かれている漢の役人が書く文章のことで
当時の国際語だが、彼らの文法は主に儒教経典を中心として、古代の書物から経験的に
使われている。
よい例が楚辞だ。楚は中原とは異質な文化をもっていた人たちであるので
国際語である漢字をつかう人たちはいたが、彼らの書いた漢字文は中原の人たちですら
理解し兼ねた。それでなくとも地域、地域独特の言い回しがある。
だから、後代いろいろな文献にあたった人たちが注をつけて意味を割り出していかなければならなかった。
だから、古事記全体を通して、明確な差というものは別に存在しないよ
905 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 23:29:05.34
>>904 読めても意味がわからないのは読めるとは言いません
He is HighTension
が、英語じゃなく、日本語なのと同じです
>>905 馬鹿だな、ホント
he got にすりゃだいたい通じるだろ
ハイパーテンションは高血圧だから
こいつ間違っとるわと思われながらな
ナイターやエステ、カラオケも和製英語だが、すっかり向こうでも通じてるよ
ナイターは夜もの、エステはエステティックサロン、カラオケは空オーケストラ
You is silly.
908 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 23:44:21.07
>>906 通じませんよ
HighTension は、いっちゃってる人、狂人の意味です
同じように、この箱はスケルトン・・も、外国人には通じない日本語です
つまり、中国人から見ると、
日本書紀の一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までと、第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇までと、古事記は
そういう「意味のわからない中国語」
日本書紀の第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇とは全く違う
日本書紀の一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までと、第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇までと、古事記は
「日本語」
909 :
日本@名無史さん:2014/01/29(水) 23:50:53.79
同じように、この箱はスケルトン・・も、例え
This box is Skeleton
とアルファベットで書けで、
ディス・ボックス・イズ・スケルトン
と読めたとしても、
外国人には通じない【日本語】です
つまり
日本書紀の一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までと、第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇までと、古事記は
日本書紀の第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇とは全く違う「日本語」 です
そもそも、春秋戦国の諸子百家の書は訓詁学的に一字一字
それがどんな意味で使われているか、音や会意から類推して解読していく
その研究の集積が学問だったからな
我はわたしという意味だが、もともと我は武器を表す文字だ。
しかし、武器の名である「ウォ」は、一人称に使う音と似ている。
よって、我という文字で私という意味を表すようになった。
西という字も本来は酒を意味する言葉だったが、西の発音は方角を表す名と同じだったので
西という字は方角を表す文字として使い、飲み物の方を表す別の文字をつくる必要から
さんずいを足して、酒という文字をつくった。
こういう漢字の構造を知っていれば新しい漢字もつくれる。中国ではたいてい形声の漢字が多い。
たとえば、新種と動物を発見したとき、俺はそれをシャーと名付けたとする。音は西だ。
しかし、それは動物であるから、けものへんに西という言葉をつけて文字にする。
逆に言えば、漢字というのはこんな風にして解読していくものということだ。
>>908 どう通じないのか分からん
前後文脈から十分通じるだろ
だから雄略の前後で漢字の使い方なんて変わってないんだって。
>>909 スケルトンて透明って意味で使うやつだよね
俺も意味わからんのだが、透けるトンてことか?
もともと骸骨男のことだよな?
色に中身がない→透明という類推もできると思うぞ
912 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 00:04:49.75
>>910 んだ
第43代元明天皇と命を受けた太朝臣安萬侶は、それをやって「日本語」を産み出して
日本書紀の一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までと、第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇までと、古事記は
その第43代元明天皇と命を受けた太朝臣安萬侶が産み出した「日本語」で書かれている
日本書紀の第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇は、
第43代元明天皇と命を受けた太朝臣安萬侶が産み出した「日本語」で書かれていない
つまり
日本書紀の一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までと、第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇までと、古事記と
日本書紀の第十四巻雄略天皇から第二十七巻天智天皇は
書かれた時代が全く違う
もはや荒らしだな、こいつ等w
914 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 00:18:54.86
He is HighTensionにしても、This box is Skeletonにしても、それで日本人が「あーこういうことかな」と理解出来るのは
ハイテンションとスケルトンが、「○○という意味で使うやつだよね」と理解してから
だから、そんな理解がない前、大正時代や明治時代に、いっくら
He is HighTension
This box is Skeleton
と書いても、日本人もアメリカ人も意味がわからず、ぽかーーーーんとするだけ
日本人にもアメリカ人にも
He is HighTension
This box is Skeleton
なんて文章は使えない、書かない
それと同じように
日本書紀の一巻アマテラスから十三巻第20代安康天皇までと、第二十八巻天武天皇から第三十巻持統天皇までと、古事記も
第43代元明天皇と命を受けた太朝臣安萬侶が「日本語」を産み出す前は、
日本人も中国人も意味がわからず、ぽかーーーーんとするだけ
・・つまり、第43代元明天皇と命を受けた太朝臣安萬侶が「日本語」を産み出す前には、絶対に書けない文章なのだよ
>>912 馬鹿だなあ、日本語でかかれてねえって言ってるだろ
読んでないだろ、おまえ
古事記序文冒頭
「臣安萬侶言。夫、混元既凝、氣象未效。無名無爲。誰知其形。」
これは漢文でいいな?
古事記天照大~と須佐之男命冒頭
「故於是速須佐之男命言、然者請天照大御~將罷、乃參上天時、山川悉動、國土皆震。」
ゆえに、ここにおいて、はやすさのおのみこともうさく、しかればあまてらすおおみかみまさにまからんことをこう
すなわち天に参上する時、山川ことごとく動き、国土みな震える。
いかにも仏教漢文的な文章の作りだな、魏晋南北朝期の特徴がよくでていると思う
916 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 00:24:52.54
>>915 古事記が日本語で書かれていない・・なんつっているのは、世界中でおまえだけ
古事記は「やまと言葉」という【日本語】で始めて書かれた文章です
スレ流すために突っかかってくるのはよせ、迷惑だ
>>916 だから、それは雄略前後かわらないって言ってるだろ
日本語なのは名詞や和歌に限られている。
それ以外にすべての文章が日本語で書かれるには伊勢物語まで待たなければいけない。
物語ものも和歌の詞書からはじまったとされるから
万葉集の貢献はでかいと言える。伊勢物語は土佐日記より早いだろうから
日記もののはじまりより物語ものは早い。
918 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 01:00:06.85
>>917 それって、地面掘って、考古学者が遺跡が見つけたって言ってるのに
それは遺跡じゃねぇって言い張るぐらい、アホなことだよ
新説・日本三国志のほうがはるかにアホだと思う
920 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 01:03:25.07
新説・日本三国志のほうは
地面掘って、考古学者が遺跡が見つけたって言ってるのに
それは遺跡じゃねぇって言い張るみたいなことは
どこもしていないんじゃない
自分で、発声してみ、新説・日本三国志。笑えるから
まぁ畿内説で確定だろ、スレ流しまで現れる位だ。
923 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 01:07:41.01
古事記が日本語で書かれていない・・なんて口にする方がもっと笑えるね(笑)
三角鏡のニュースもあったのにお前等ときたら…
925 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 01:15:35.12
歴史というのは、大陸も関係して連綿と続いているモノ
○○が○○だった・・と、ただ一点を指摘しても
それで
>>729新説・日本三国志8の1【古代の日本】、新説・日本三国志8の2【新たな新興国・出雲の誕生】
>>731新説・日本三国志8の3【倭国争乱と出雲の国譲り】
>>732新説・日本三国志8の4【大陸の政変と邪馬台国の台頭】
>>733新説・日本三国志8の5【アマテラス(=卑弥呼)の死と後継者・勢力争い(海幸彦と山幸彦)】
>>734新説・日本三国志8の6【混乱の収拾と後継者勢力の確定(魏の介入)】
>>745新説・日本三国志8の7【北九州・狗奴国勢の権力の拡大と出雲の衰退、邪馬台国の軍事クーデター(神武東征)】参照
>>747新説・日本三国志8の8【北九州・狗奴国と新しい大和国・天皇の蜜月の終了と覇権の確定(タギシミミの反逆)】
>>752新説・日本三国志【外伝2−1・その後の日本と日本書紀の編纂】
>>756新説・日本三国志【外伝2−2・古事記の編纂と日本書紀の書き換え】
のように、全体のストーリーが描けなければ、その指摘は意味がない
926 :
満州中尉:2014/01/30(木) 09:30:32.62
要するにオウム森教徒は森の説は完全に正しいと思っているわけだ。
それが単なる一つの仮説にすぎないということに気付いていない。
森の説なんて学界で広く認められているというわけでもないだろう。
また学界で公認されているからといって正しいとは限らないのである。
ここの連中はどうしようもないパカだから、
学者の小難しい本を読むとそれがすべて正しいと思ってしまう。
その典型的な例が四国説のアンポンタンで、
南解次次雄は中筒男だとか非時香菓はバナナだとか、
古代人の平均寿命は三十才代だとかを本気で信じているのである。
なぜならそういうことを唱えている学者がいるからである。
新説・日本三国志なんてあほらしくて誰も読んでいないのに
本人はそう思っていないわけで、それほど自信があるなら本に書くなり
ブログで発表すればよい。ブログに書いても、そんなものは誰も読みやしないのだw
927 :
満州中尉:2014/01/30(木) 09:37:29.14
オウム福岡教徒
菅原道サネ
ヒメタタライスズヒメ男
デカン高原男
オウム森教徒
………
最近は入れ代わり立ち代わり変な新人が現れる。
しかしこういう変人はすぐ消えてしまう。
当り前だ。そんなアホらしい説が長続きするはずがない。
その点、四国説のアンポンタンは年季が入っている。もう十年選手だ。
よほどのパカでないと、こうまで長続きはしない(爆
まぁ朝鮮人の話なんてどうでもいい。
私的には△国内産が裏付け出来るような
発表があった事の方が重要だ。
あれを国内で作ったとすれば、正に奈良県北西部が
重要地になるはずだからな。
929 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 09:50:33.45
崇神の世、戦・剣の神タケミカヅチが
大坂山に現れるのはとても意味がある話。
やはり崇神は大和砂で磨いて剣を作ったのだ。
930 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 12:29:24.55
>>927 倭筑紫皇帝は名無史に戻っただけじゃなのかな?
ややこしいから延々と自説を展開したい人はコテハンにしてくれるとありがたい。
魔境ばから言われてるけど、
あの鏡に「仏」の姿が描かれてる事を何でみんな無視するんだろ。
932 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 13:26:14.44
>>926 そのわりにはアンタは、
アトランティスが満州朝鮮族を制圧したどうのこうのとか宣って
別スレでキチガイ扱いされてるみたいだが(笑)
934 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 13:45:49.18
まぁなんにしても
近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早い
方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していない
この時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はない
ことなどから、古墳時代の前までは、九州と近畿は、全く別の文化を持つ、全く別の国家群で
近畿の国家群が、九州の国家群を吸収し、近畿の文化を九州に普及させたことは明白
どう足掻いても、九州に邪馬台国は無い
もしも邪馬台国が九州ならば、短い期間一時的に日本に成立し、近畿に滅亡させられた国家群
しかしそれだと、ツジツマが合わなくなる
935 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 13:46:08.54
936 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 13:51:55.27
まぁなかなかの筋書きだ
しかしそれだと、記紀とツジツマが合わなくなる
937 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 14:01:37.07
九州邪馬台国説は、歴史の流れ全体が見えていないからねぇ
938 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 14:11:41.14
>>934 畿内や関東にも広がった横穴式石室(古墳)や横穴墓(not古墳)は九州が起源でしょ?
940 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 14:19:16.58
倭種である畿内人は基本的なところで誤解しておる。
倭人伝は大和国の歴史をつづった書ではない。
これは魏朝の栄枯盛衰の中で、いささかのかかわりをみた倭の邪馬台国および女王との出会いのひとコマである。
倭人伝を読み解こうとする者は、洛陽王朝→帯方太守の視点から読み進まなくてはならないのだ。
941 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 14:34:14.43
本州の古墳や鉄器はすべて九州勢力が持ち込んだものだということが分かってないな。
942 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 15:04:35.55
歴史古い順
上町台地(大阪市)
神武天皇(初代天皇)の生国魂神社(大阪市)紀元前700年 (日本列島の神そのものを祀る神社)
神功皇后の住吉大社(大阪市)
日本仏教初の官寺は聖徳太子(日本仏教の祖)の四天王寺(大阪市)後に奈良の法隆寺
難波高津宮 難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)(日本初の首都)大化の改新(天皇制の始まり)はここで行われそれは大化元年〜平成26年の今も続いている
難波津 住吉津 渡辺津(国際港湾都市(街))(物流の一大拠点経済の中心)商人が増え出す 商業都市として栄える(大阪市)石山本願寺(浄土真宗本山)(大阪市)跡地に大阪城(難波津や渡辺津が船場となり商工業が更に発展)
大阪市(難波宮、難波京)
奈良市(平城宮、平城京)
京都市(平安宮、平安京)
江戸(東の京、東京)
江戸城を築いたのは大阪の源氏
東京へはまだ遷都されていない為現在でも首都は東京じゃない
>>934 >近畿の国家群が、九州の国家群を吸収し
九州から東征した人たちが畿内で王権を樹立。
944 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 15:50:28.26
>>934 九州から東征した人たちが畿内で王権を樹立。その後、その畿内王権が古巣九州の国家群を再吸収し、
別に九州の影響だけではなく、各地の影響があるからな。
母体は吉備や阿波なんだし。
三角国産説でも全く問題もない、大陸の神仙思想が入ってる
証明他ならないんだし。
もう完全に九州説の目はない。
946 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 15:58:10.51
九州ででしゃばってあまされた日矛の子が吉備のサポートもあって未開の内海の地に入植。
ここから庄内式とかがぞろぞろ。
畿内には既に丹波・出雲からの鉄のルートもあるからな。
948 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 16:09:30.71
ほう、弥生鉄の重要性を認める気になったか!
>>947 >丹波・出雲からの鉄のルート
九州を経過しなければ話にならないわけだが。
沖ノ島をなめてもらっては困る。
>ほう、弥生鉄の重要性を認める気になったか!
もうそこだけでしょ、九州説の拠り所w
>九州を経過しなければ話にならないわけだが。
九州経由するのは公式ルートみたいなもんだ。
寄りたくなけりゃ直接行くだろう。
大体半島からじゃ海流にのれば本州に向かうよ。
951 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 17:21:18.24
>もうそこだけでしょ、九州説の拠り所w
問題の重要ポイントを良く理解できているようだな
どうしてどうして、畿内にもなかなか聡明な者がおるではないか!
952 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 17:25:54.50
247年より後だと湖畔の丘陵のてっぺんとかから鉄器がぞろぞろ出てきても何の不思議も無いしね
>寄りたくなけりゃ直接行くだろう。
行けねぇよ。
どんな感覚してるんだおまえ。
>>953 泳ぎの下手な朝鮮人じゃないからな。
日常から航行してる海人なら余裕だよ。
>>954 泳ぎの上手い下手と船での航海は全然関係ないのだが。
沖ノ島に寄らず休憩なしで半島に渡ったのかアホ。
対馬からは東に向かえば普通に山口方面へ行くだろう。
沖の島も海人の拠点なだけで九州は特に無関係の話だ。
957 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 19:24:40.85
行きはよいよい、帰りは怖い
山口あたりから対馬へ、海流を逆走して直接還るのはとても難しかろ
>対馬からは東に向かえば普通に山口方面へ行くだろう。
半島に向かうには?
>沖の島も海人の拠点なだけで九州は特に無関係の話だ。
宗像氏なのだが。
何言ってるのおまえ。
959 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 19:37:20.13
キナイブシも落ちたねぇ。立証になっていないだろ。ドア○ウ。
960 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 20:18:33.69
>>938 それって4世紀後半、中国南朝が、「晋」「宋」「斉」「梁」と、滅亡へのカウントダウンしてた時の話し
逆に言えば、日本において、南朝と関係が深かった、九州勢力が、畿内勢力に押されて、どんどん衰退して
ヤマトタケルが征西した時期・・・つまり
九州まで勢力下においた大和政権が、大陸との繋がりに、九州を利用出来るようになって始めて
大陸文化が九州から畿内へという、正常な流れになったんだよ
九州脳の頭が堅すぎるだけの話。
大体関門なんてどれだけ離れてんだよw
962 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 20:22:59.66
>>957 >>958 ぜんぜん問題ないよ
中国と行き来する道程考えると、まず九州・・なんて時代は、とーーーっくの昔に過ぎちゃっていて
すでに、中国と行き来するのには、どこからでもかまわない・・・っつー時代になっていた
963 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 20:37:23.74
例えば、魏志倭人伝には「倭国には文字がない」と書かれているけど
同時代の関東からは文字が書かれている土器が発掘されている
東北でも、北回りで大陸と交易していた痕跡が見つかっているし
邪馬台国は、大陸に船が行く時、大陸から船が来る時
積み荷があっているかどうか、邪馬台国の役人がちゃんとチェックしている
倭国「独自の文字」は無かった・・けど、倭国の役人は、中国語での読み書きバッチリ
出雲神話だって新羅から土地引っ張ってきたなんて書いてる位だ。
半島との行き来を普段からしていたに他ならない。
966 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 21:16:40.39
>>964 役人をのせるような船だからだな
。
技量のある海人なら小型の船で頑張っていくだろう。
新羅の倭人伝承も瓢箪のような小舟に乗ってやってきてる。
967 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 21:28:12.97
968 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 21:52:50.34
>>963 「傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯」
魏志倭人伝によると倭国では文字が使われていたとあるよ。
970 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 22:02:49.65
>>964 っつーか、九州を利用出来れば、九州を利用するのは当たり前
問題は、九州が利用出来ない場合に、大陸との行き来が断たれるのかどうか
九州が利用出来ないと、大陸との行き来が出来ない・・っつーんなら、九州は邪馬台国だっただろうが
九州なんか利用出来なくても、大陸との行き来が出来る・・なら、別に九州は邪馬台国じゃなくても良い
筑紫のオウがマキムクに参加したから、
畿内は西新町で大陸交易に乗り出すことが出来た。
筑紫、吉備、阿讃播、大和中河内を含めて、
初めてマキムク王権は誕生した。
敵対勢力は、出雲と紀伊。東海は最大の貿易相手国。
972 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 22:40:22.07
紀元前700 生国魂神社(大阪市)
三角鏡国産なら普通に畿内は先進技術持ってるよなw
文字理解してる者もいるんだし。
九州説さんご愁傷様w
福永や寺沢が言ってるように、銅鏡の大きさで、序列化していた形跡が弥生末期にあって。
恐らくは弥生終末期の畿内王権は、銅鏡を威信財として、クニグニをまとめていこうとしていた。
唐古鍵〜マキムクが始めた鏡による政治体制は、
地方の首長たちが所有する鏡の大きさの規制を始めている。
それに真っ向から反発したのがヒラバルの女王。
とんでもないデカさの鏡を国内生産した。
反畿内を考えれば、ヒラバル=邪馬台国の可能性は捨てきれない。
平原遺跡から蛋白石(オパール)の耳飾りが出ている
オクタビアヌスはオパールをローマ帝国の3分の1を売って入手しようとしたという伝承がある
ローマ帝国軍が来ていたに違いない
976 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 00:13:46.12
きみらは世間(含む学界)の常識とは逆の考えをするんだな
2ちゃんだから
ドンマイ
978 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 05:05:41.40
>>976 学界の常識が間違っているから、この問題が100年経っても解けないんだよ。
>>966 >技量のある海人なら小型の船で頑張っていくだろう。
一度も休憩で停泊せずに行くのか、どアホ。
島に寄って行くに決まってるだろw
九州に寄らないだけの話で。
981 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 09:48:25.67
平原は女性の墓だし、塚の大きさは小さいが、周りには鳥居や柱等の太陽信仰のあとがあり、それらを含めて墓の径としたなら合致するんだよなぁ。
後、埋葬品が豪華。
瑪瑙の装飾品とかね。
まあ有力な候補だろう。
982 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 09:59:54.31
>>980 問題は帰り道だ、
帰りは九州の諸島に寄らないでどこの島によるつもりか、竹島か、樺太か?
983 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 10:02:43.25
国生みでも規模の小さな島でも重要視されてるからな。
海人の視点なのは明らかで、
九州説は九州島に拘りすぎ。
畿内からの船が九州には寄らないんだとさw
物資の補給などどうするんだろうねw
アホ相手は疲れるw
986 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 10:55:40.69
対馬海流に乗れば、出雲か丹後に流れ着く。
ナホトカ号重油流出事故の時に福井が騒がれたが、船首が付いたから。
重油は丹後半島に大量に押し寄せた。
有難くない話だったが、古代の鉄の道もあったんだろう。
>>985 アホ、対馬、沖の島、山口と進めばいいだけだよw
行使ならともかく、わざわざ遠回りの九州で何の補給をするんだよw
>>987 後の遣唐使の船でさえ九州経由だが?
2回も同じ画像貼らすな、ボケ。
アホ、鉄素材は半島から持ってくるだろw
九州と同じ文化圏とはいえない丹後に鉄が豊富な理由だ。
>>989 九州の方がはるかに古くから豊富なのだが?
991 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 11:25:03.72
>>987 :日本@名無史さん
アホ、その 沖の島 は九州の豪族の支配島w
>>992 それは航路を示してるわけではない。
分かるだろ、それくらい。
994 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 12:08:59.10
沖ノ島(福岡) と 隠岐の島(島根) は違うからな
半島との交流には 往復片道のいずれにせよ、対馬・壱岐・沖ノ島のどれかは通過しなくてはならぬ
995 :
満州中尉:2014/01/31(金) 12:31:46.33
ピミらは年がら年中、海流とか航路とか、そんな話ばかりだな(笑)
大陸との交流は玄界灘沿岸より若狭湾〜東北のほうが古いから
気温が3〜4度高かった縄文時代に東日本日本海沿岸にいた人達が弥生時代に南におりてきたんだろう
玄界灘沿岸には縄文時代の木造建築技術を持った定住集落がない
997 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 13:19:52.61
東の方が歴史古いよなw
東国から下りてきた海人が九州沖に拠点を設けた話だ。
九州脳は勘違いしすぎ、もしくは無知すぎる。
999 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 17:36:32.64
>>988 後の遣唐使の船でさえ九州経由???
九州を利用出来れば、九州を利用するのは当たり前だバーーーカ(笑)
問題は、九州が利用出来ない場合に、大陸との行き来が断たれるのかどうか
九州が利用出来ないと、大陸との行き来が出来ない・・っつーんなら、九州は邪馬台国だっただろうが
九州なんか利用出来なくても、大陸との行き来が出来る・・なら、別に九州は邪馬台国じゃなくても良い
1000 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 17:52:22.61
崇~の墓所は前方後円墳なんかじゃないよね
御陵在山邊道勾之岡上也
岡の上に祭ったって古事記にちゃんと書いてあるしね
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。