邪馬台国畿内説 Part6

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1日本@名無史さん
邪馬台国ド本命の畿内説のスレです
王者の貫録を見せつけてやりましょう

前スレ
邪馬台国畿内説 Part5
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1384724164/
2日本@名無史さん:2013/12/29(日) 21:55:59.75
前スレの>>999
欽明以前は総無視ですか。
そんなやつが畿内説語るなよ。
3日本@名無史さん:2013/12/29(日) 22:00:23.11
理由のひとことも言えない奴が歴史語るなよ。
4日本@名無史さん:2013/12/29(日) 22:09:07.58
古代史上の人物の実在性を○✕式でしか考えられない単細胞に歴史学は無理だな
5日本@名無史さん:2013/12/29(日) 22:12:15.33
欽明以前の天皇は総無視でモモソ媛だけは認めて卑弥呼だってか?
そんな勝手な説がまかり通るわけなかろう。
6日本@名無史さん:2013/12/29(日) 22:19:03.67
ま、textreamでなら多少は論理的な話も出来ると思ったのだが、
来る気がないというか、来るのを怖がってるようなのであきらめて寝るわ。
7日本@名無史さん:2013/12/29(日) 22:23:27.55
>>5
そんなふうに
目の前に証拠をのある現代人の発言さえ
自由自在に捏造出来る人間が語る古代史が
どんなものかは
お察し
8日本@名無史さん:2013/12/29(日) 23:06:10.99
>>5
君は相手を誤解しながらレスをしてるから混乱するんだよw
俺はモモソ姫は卑弥呼かトヨをある程度
反映させた存在だと思ってるがね。
歴代天皇の平均年を出してる点については
全否定だが、欠史八代天皇は否定しない。
倭国大乱は考霊天皇の出雲方面遠征の事だと主張したからな。
9日本@名無史さん:2013/12/29(日) 23:12:27.76
神武東征では鉄器を大和にもたらした話にはならない。
それが決定的に神武天皇と三世紀の大和盆地が結び付かない点だろう。
考霊天皇や吉備津彦の賊退治は鉄の産地と密接な関係がある。
しかも鍵唐古の近所に宮を持つ天皇だからな。
10日本@名無史さん:2013/12/30(月) 01:34:33.74
孝霊が唐古鍵の王。
孝霊の子どもモモソ姫、大吉備津彦・若武吉備津彦は備中吉備津神社に祀られてる。

このことから察すれば、吉備楯築の首長であった孝霊が、唐古鍵の王として迎え入れられたのではないか?

孝霊以降の、孝元・開化は葛城や丸邇系の王で、孝霊と同世代。
吉備→唐古鍵(奈良盆地南東部、大和川水系)や
丸邇(奈良盆地北部〜山城・近江の琵琶湖・淀川水系)、
葛城(奈良盆地南西部、紀ノ川水系)が奈良盆地の王位を持ち回りしていた。
しかしなかなか収まらなかったので、
吉備の巫女で強大な霊力を持つと評判だったモモソ姫を共立することで、
漸く倭国連合=初期倭王権が成った。
11日本@名無史さん:2013/12/30(月) 02:03:30.08
考霊天皇の時期に倭国大乱を求めると、かなり
具体的に話が繋がってゆくんだよな。
鍵唐古と吉備・出雲と鉄に銅鐸。
12日本@名無史さん:2013/12/30(月) 08:48:00.87
丹後地方の鉄器、ガラス製品を忘れてはいけない。
13日本@名無史さん:2013/12/30(月) 09:15:36.35
>>10
>孝霊が唐古鍵の王

唐古鍵といえば銅鐸だよね。
何で2世紀後半あたりで止めたのだろう?
14日本@名無史さん:2013/12/30(月) 09:23:44.83
考霊天皇の中国地方遠征の間に、新たな技術や
思想が入ったに他ならないだろう。
15日本@名無史さん:2013/12/30(月) 09:27:48.02
銅鐸は変遷上、出雲から畿内・東海とはっきりしてるわけだが、
孝霊が唐古鍵の王という事は天皇(大王)家は出雲系なのか。

初耳だ。
俺はてっきり大物主が出雲系だと思ってた。
三輪山近くにに出雲庄もあったしな。

じゃ大王家は誰に国譲りしたのだろう。
訳が分からない。
16日本@名無史さん:2013/12/30(月) 09:34:09.32
>>14
>新たな技術や思想が入ったに他ならないだろう。

銅鐸に代わる祭器が、九州の方が早い「鏡」であったことの説明をお願いします。
17日本@名無史さん:2013/12/30(月) 10:32:53.49
畿内説の根拠は邪馬壹(台)國の音がヤマトに似ているからだけだからな
18日本@名無史さん:2013/12/30(月) 10:34:34.18
>>16
時期的に大陸からの神仙思想に他ならないだろう。
独自進化のガラケーからスマホに変わってゆくような物。
日本海側の丹後にも早い時期立派な鏡が伝わってるしな。
19日本@名無史さん:2013/12/30(月) 10:36:19.46
>>17
バカには用がないから来るなよw
20日本@名無史さん:2013/12/30(月) 10:40:56.35
>>19
お前も来れないなw
21日本@名無史さん:2013/12/30(月) 10:45:38.53
>>20
バカにはパズルや妄想専用スレがあるだろw
22日本@名無史さん:2013/12/30(月) 10:50:44.94
ここが妄想専用スレですが
23日本@名無史さん:2013/12/30(月) 10:53:09.51
唐古鍵から銅鐸の鋳型が出ていること。
唐古鍵は放棄され纏向が作られること。

どちらも広い範囲の土器の交流が見られるが、纏向は一段と多いこと。
本州中央部ではこの頃に銅鐸が一斉に放棄されたと考えられること。
九州はこの頃は衰退に向かっていること。
鉄製品の出土は、この頃には丹後地方で多いこと。
纏向型古墳が広い範囲で現れること。
ただし、大規模な戦乱の証拠の遺跡は見られないこと。
多地域との交流は見られるが、特定地域に征服された形跡がないこと。
中国史書が書く、「女王を共立した」状態に似ていること。
天皇家の正史には、該当者が不明とみられること
24日本@名無史さん:2013/12/30(月) 10:53:21.88
>>18
>時期的に大陸からの神仙思想に他ならないだろう。

その神仙思想の取入れが、何で九州に比べて大きく遅れたのだろう?
それより九州勢の大和入りを考えた方がよっぽどてっとり早いのだが。

それと孝霊が唐古鍵の王なら出雲系という事になるが、
誰に国譲りしたのかな?
25日本@名無史さん:2013/12/30(月) 10:59:13.84
考霊天皇が宮を置いたとされる場所が黒田庵、庵戸宮(イオト)
しかも字名は宮古(都)だからな。
26日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:01:04.86
畿内ってぶざまなくらい鏡の出土が遅いよね。
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater12.html

剣や玉の埋葬もそうだし。
九州勢の大和入りを考えた方がいいよね、これは。
27日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:05:40.33
>>23
>唐古鍵は放棄され纏向が作られること。
それは間違い、放棄はされてないよ。
それに 纏向・箸墓から鍵唐古・保津遺跡経由で王寺町方面へ向かう
古道が、実はもう確認されているんだよ。
水運の他にも交通手段があった事になる。
28日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:09:58.91
>>24
>その神仙思想の取入れが、何で九州に比べて大きく遅れたのだろう?

単純な話だが、距離の問題なだけの話。
九州は単に玄関口に過ぎないだけだろう。
29日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:12:03.58
唐古鍵は古墳時代前期には各地の土器が増える
おそらくいろんな地域から来た人たちが滞在していた
30日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:14:03.94
>>28
>単純な話だが、距離の問題なだけの話。

たとえば内行花文鏡の伝達に400年かかったと?
誰か医者呼んでやれw
31日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:17:21.46
鍵唐古自体が未だ調査中なんだしな。
しかも周囲に弥生期の小集落の存在もわかっている。
保津・宮古周辺には鏡作神社もあるんだしな、まだ
何か色々あるんだろう。
32日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:21:06.17
>保津・宮古周辺には鏡作神社もあるんだしな、まだ
>何か色々あるんだろう。

鏡作神社ゆかりの鏡作部は4〜5世紀。
時系列が無茶苦茶。
33日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:25:39.04
>たとえば内行花文鏡の伝達に400年かかったと?
>鏡作神社ゆかりの鏡作部は4〜5世紀。

まだ詳細がわかってないのに根拠ないだろw
結論:今すぐ君が病院へGO!
34日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:26:55.32
唐古、鍵は滅ぼされ、住民たちは纏向の奴隷にされた。それが一番素直な解釈だろう。
35日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:28:29.06
唐古鍵に鏡があったのか?

まだ詳細がわかってないで逃げれるのなら楽なもんだ。
36日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:31:39.44
社伝ではあの場所で鏡作を始めたのが崇神6年なのに、4〜5世紀はないぞw
37日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:45:39.73
考霊天皇辺りの事を調べると、かなり具体的に
邪馬台国像が見えてくるな。
38日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:48:38.19
出雲の国譲りって、実際はマキムク以降だろ?
マキムクは出雲の影響が殆どない。

紀で言えば、崇神の時の出雲振根や、記の出雲建の説話がそれで、
恐らくは大和が吉備と協力して出雲を屈服させた。
それが出雲側から神話的に語られたのが国譲り神話。
39日本@名無史さん:2013/12/30(月) 12:07:47.38
>>34
それはない。
記紀によれば出雲系大物主(銅鐸氏族だろう)の娘ヒメタタライスズは神武と結婚している。
通い婚の時代だし、奈良盆地の最上位の地位であったということになる。
40日本@名無史さん:2013/12/30(月) 12:11:40.71
>>36
崇神は4世紀前後なので何も変ではないが?
41日本@名無史さん:2013/12/30(月) 12:23:26.87
崇神6年で少なくとも5世紀は変だぞw
42日本@名無史さん:2013/12/30(月) 12:33:59.38
宮崎スタートの神武東征で、畿内に鉄や鏡をもたらせる話は成立しない。
コース的には水銀朱を求めたルートだと言われてるしな。

つまりヒメタタライスズを、卑弥呼の活躍した3世紀前半に
想定なんてとても不可能な話。
43日本@名無史さん:2013/12/30(月) 12:41:56.11
>崇神6年で少なくとも5世紀は変だぞw

4〜5世紀なので3世紀末でもよかろう。
たいした問題ではない。

>>42
>宮崎スタートの神武東征で、畿内に鉄や鏡をもたらせる話は成立しない。
>コース的には水銀朱を求めたルートだと言われてるしな。

あのな、鉄や鏡は北部九州の物部。
南九州の神武とは別。
つまり九州でも2派あったわけだ。
44日本@名無史さん:2013/12/30(月) 12:53:57.44
鉄を持たない神武が北部九州の物部に勝てたのか?
かなり無理がある話だねw
しかも東征話に鉄や鏡が出てこないぞ?
畿内では赤土を求めて勝ったとかだしな。
45日本@名無史さん:2013/12/30(月) 12:54:53.79
銅鐸を出雲系とか…。
荒神谷、加茂岩倉を見ても、出雲地域は弥生後期初めには青銅祭器から訣別し、
四隅突出型墳丘墓に移行している。

対して畿内や東海は銅鐸を巨大化させ、聞く→見る銅鐸へ。

青銅祭器から古墳祭祀への転換は、時代の差こそあれ多くの地域で行われている。
銅鐸族が征服されたとかナンセンス。
46日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:04:36.64
何故ヤマタノオロチ伝承が出雲地方だけじゃなく、
奈良盆地にも残ってるかというと、
考霊天皇の中国遠征がベースになっているに他ならないだろう。
なので鉄の剣を得る話も成立する。
47日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:38:24.89
歴史古い順
上町台地(大阪市)
神武天皇(初代天皇)の生国魂神社(大阪市)紀元前700年 (日本列島の神そのものを祀る神社)
神功皇后の住吉大社(大阪市)
日本仏教初の官寺は聖徳太子(日本仏教の祖)の四天王寺(大阪市)後に奈良の法隆寺
難波高津宮 難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)(日本初の首都)大化の改新(天皇制の始まり)はここで行われそれは大化元年〜平成25年の今も続いている
48日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:40:12.83
難波津 住吉津 渡辺津(国際港湾都市(街))(物流の一大拠点経済の中心)商人が増え出す 商業都市として栄える(大阪市)石山本願寺(浄土真宗本山)(大阪市)跡地に大阪城(難波津や渡辺津が船場となり商工業が更に発展)
奈良
京都
江戸
江戸城を築いたのは大阪の摂津源氏
徳川征夷大将軍も源氏 征夷大将軍は源氏にしかなれない
49日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:18:48.97
>>44
>鉄を持たない神武が北部九州の物部に勝てたのか?

記紀にそう書いてるし勝てたのだろうね。
もともと高天原は熊本の阿蘇にあったと思ってる。
熊本は鉄は豊富だ。

>>46
おまえは大物主をどう解釈してるのだ。
派生した鴨(加茂)氏は実在してるし、
いなかったわけはなかろう。
50日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:22:13.77
>>45
>対して畿内や東海は銅鐸を巨大化させ、聞く→見る銅鐸へ。

出雲系・大物主が畿内にいたからね。
51日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:29:43.50
>>49
北部九州で物部集団と合流した神武軍は河内湖で大敗してるぞw
九州鉄器軍はそんなに弱いのか?

結論:神武話に鉄は関係ないという事。
52日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:30:39.18
出雲系とかw
考古学的に見てもマキムクに出雲の影響は無いしな。

大国主命ってのは、まつろわぬ国津神の代表として記紀神話で創作された総合神。
だから山ほど亦の名がある。
53日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:31:29.64
モモソ媛って、毎夜現れる大物主のおっさんが蛇である事に驚いて陰部突いて死んでるね。

これが卑弥呼なのか?
54日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:33:04.87
>>52
>考古学的に見てもマキムクに出雲の影響は無いしな。

ないよ。
纏向遺跡と出雲は関係ない。
関係あるのは物部のみ。
55日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:35:03.40
>>51
最終的にニギハヤヒが屈服したのだからそれでいい。
おまえごときがどうこう言う問題ではない。
56日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:37:24.49
物部とか出雲を、簡単に一言でまとめる時点でダメだなw
大体出雲なんてどの範囲を指すのかも判らんのに。
物部だって後世の総称にすぎないぞ。
57日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:39:33.97
>>55
嫌だね、どうこう言うよw
所詮同属の内輪の戦いだったんだろ?
58日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:47:14.88
>>57
>所詮同属の内輪の戦いだったんだろ?

そうだよ、九州どうしのね。
だから奈良での鏡が3世紀からなんだよ。

分かったかね?
59日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:49:56.27
物部が史実で全盛期を迎えるのは、磐井の乱を鎮圧したアラカヒと、
朝鮮問題で大伴氏を失脚させた尾輿からだよ。

物部氏の分布は全国にわたるが、特に東国に多く、
大和政権の東国経営に深く関与したことが伺われる。
60日本@名無史さん:2013/12/30(月) 15:53:29.95
>物部が史実で全盛期を迎えるのは、磐井の乱を鎮圧したアラカヒと、
>朝鮮問題で大伴氏を失脚させた尾輿からだよ。

知ったかするな、天理の布留遺跡は物部氏の遺跡で決着してるんだよ。
異論なんてほとんどない。
61日本@名無史さん:2013/12/30(月) 16:05:13.64
物部の本拠は河内国渋川郡だろ。
62日本@名無史さん:2013/12/30(月) 16:09:27.49
>>61
それは守屋の時代の本拠の一つ。
大伴も大阪に進出してたし。
63日本@名無史さん:2013/12/30(月) 16:21:56.94
だから奈良での鏡が何で3世紀からなんだよ。
なんで突然、九州系の鏡、玉、剣の副葬スタイルに変わるのか、
考霊天皇辺りで説明よろしく。
64日本@名無史さん:2013/12/30(月) 16:27:36.91
邪馬台国が九州なら難波津や住吉津と大和の関係はどうなるんだ?やっぱり邪馬台国は近畿にあったと思うが
65日本@名無史さん:2013/12/30(月) 16:29:50.70
邪馬台国は畿内だが、卑弥呼をモモソ媛だとして思考停止してるやつがおるのでね。
66日本@名無史さん:2013/12/30(月) 16:46:22.55
>>58
結局鏡と神武は無関係だがなw

畿内に鏡や剣等の埋葬が見られるようになるのは、
中国からの影響が及び易くなっただけの話。
考霊天皇たちが西日本の交易障害を排除したんだよ。
なのでモモソが西日本諸国で共立されたんだろ。

その辺りの話が、ヤマタノオロチに桃太郎といった伝承になったとさ、
めでたしめでたし。
67日本@名無史さん:2013/12/30(月) 16:47:32.77
邪馬台国が九州だったら大和とは関係ないに決まってるじゃないか
大和と北九州は別の国だったんだよ
大和の人が書いた歴史書に卑弥呼のことがまったく載っていないんだから
別の国と考えるのが自然だろう
68日本@名無史さん:2013/12/30(月) 16:50:54.41
九州を支配したのは男王だからな、卑弥呼は全く無関係だよ。
69日本@名無史さん:2013/12/30(月) 17:03:56.02
>>66
>畿内に鏡や剣等の埋葬が見られるようになるのは、
>中国からの影響が及び易くなっただけの話。

中国のいつの時代のどこに鏡、剣、勾玉の埋葬例があるのだ?
70日本@名無史さん:2013/12/30(月) 17:09:07.82
神武が紀元前後というアホ相手にしててもつまらん。
忘年会に行ってこようっと。
71日本@名無史さん:2013/12/30(月) 17:20:36.66
忘年会で痛い老害扱いされるんだろうなw
72日本@名無史さん:2013/12/30(月) 17:27:09.25
聖徳太子は大阪市に日本初の官寺である四天王寺をつくりその後奈良に法隆寺をつくり やっぱり邪馬台国は近畿だと思う
73日本@名無史さん:2013/12/30(月) 17:29:08.67
なんかこのスレもう無茶苦茶だな
74日本@名無史さん:2013/12/30(月) 17:46:36.97
最近は聖徳太子など実在しなかったという説が有力だな。ま、畿内説論者にとっては
事実かどうかなど、どうでもいいことなんだろうが。
75日本@名無史さん:2013/12/30(月) 17:59:45.97
まぁ聖徳太子はともかく、100%邪馬台国は九州には無いから心配すんな。
76日本@名無史さん:2013/12/30(月) 20:45:50.17
と言いつつ、伊都国佐賀説には反論が見いだせない。
77日本@名無史さん:2013/12/30(月) 20:49:01.66
>>76
人口が問題
78日本@名無史さん:2013/12/30(月) 20:55:47.75
あやふやな推定人口ぐらいしかネタが見つからんか
79日本@名無史さん:2013/12/30(月) 20:56:21.37
>>76
山口県に伊都津彦登場
80日本@名無史さん:2013/12/30(月) 21:31:07.76
何の関係もないだろう。
81日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:40:25.18
鏡の副葬は確かに筑紫の影響だろうが、
ただまあ、一要素として採り入れただけだろう。
各地の色々な要素をパッチワークして造ったのが前方後円墳で、
その最古がマキムクで造られた。
筑紫で造られて大和に波及したなら別だが、残念ながら東遷は有り得ない。
82日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:45:18.79
伊都が佐賀でも山口でも関係ないしな。
邪馬台国は畿内という点に全く関係無い話。
考霊天皇の娘、モモソ姫が卑弥呼に間違いない。
83日本@名無史さん:2013/12/30(月) 22:53:41.87
出雲や吉備から帰った考霊天皇が、大陸から神仙思想の
新たな知識、アイテムとして鏡を入手。
「筑紫の方では墓に入れてますぜ」
「朱が価値あるそうだ、ならヤマトで採れるよな?」
という事で新たな墓が完成、といったところだ。
九州からの東遷とかは有り得ない。
84日本@名無史さん:2013/12/30(月) 23:03:04.07
ていうか、東瀬戸内(阿波、讃岐、播磨)の積石墓を参考に、
マキムクで古墳が造られるようになったんだよ。
鏡の破鏡や副葬は筑紫発だが、一旦東瀬戸内で吸収され、
その後で大和に入っている。
85日本@名無史さん:2013/12/30(月) 23:43:22.10
>>72
> 聖徳太子は大阪市に日本初の官寺である四天王寺をつくりその後奈良に法隆寺をつくり やっぱり邪馬台国は近畿だと思う

「やっぱり」ねえ。ここまでの馬鹿も珍しい。
ところがこれが畿内節の典型なのだからすさまじい。
86日本@名無史さん:2013/12/31(火) 01:02:22.26
>>84
つまり、考霊天皇が中国遠征でまず対日本海側のルートを確保、
続いて子孫が瀬戸内側のルートを確立した話とは合うだろう。
87日本@名無史さん:2013/12/31(火) 01:54:48.14
中国地方遠征って、出雲に対して?
記紀では崇神〜景行にかけてのことにされているが?
88日本@名無史さん:2013/12/31(火) 08:31:39.72
中国地方の神社や古文献には考霊とされている物があるよ。
墓もあるとされてる位だしな。

再び征伐に出るのは卑弥呼死去後に男王登場で国内荒れるとあるから。
九州の伊都津彦が登場するのもこの時だな。
89日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:42:17.84
>>83
>「筑紫の方では墓に入れてますぜ」

何で真似したの?
90日本@名無史さん:2013/12/31(火) 10:55:21.21
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E5%9E%8B%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%A2%B3

>第3点として、鏡・玉・武器・腕飾類、あるいは鉄器の多量副葬など、威信財・副葬品に関しては、いずれも前代の北部九州の強い影響をみてとれる。

墓の形状などは最新の流行取り入れたとしても、
その被葬者が誰かを示す石室の副葬品は嘘をつかない。
被葬者は九州系だろう。
91日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:19:21.68
該当者に九州系なんて人物はいないぞw
単に海人族だという事だ。
92日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:34:20.98
銅鐸だって弥生初期に北部九州でも作られてたし、出土もしている。
つまり倭国はその頃から西日本一帯である程度共通の思考があるのだよ。
貨泉も河内まで出土確認されてるしな。

埋葬様式に類似があるといっても、それは畿内の
邪馬台国に新たな知識として受け入れたに過ぎない話。
安全な交易手段が確保されて、半島方面からの
目的地が移動したにすぎない。
93日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:59:58.25
九州から来たといっても該当者いないんじゃ話にならんよなw
東瀬戸内方面からの影響なら、考霊天皇やモモソ姫の逸話と合致する。
なので結論は、ある程度政情が安定して、
新たな思考が入りやすくなったという選択肢しかないんだよ。
94日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:10:07.00
>九州から来たといっても該当者いないんじゃ話にならんよなw

推定2世紀後半のニギハヤヒ。
それ以前の唐古鍵にも北九州の土器がみつかったね。
95日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:14:49.59
それと神武が紀元前後というなら2世紀初頭の倭国王帥升を誰と言ってたっけ?
俺は神武の5世代前のスサノオだと思うが。
96日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:44:18.09
ニギハヤヒにスサノオとか、時系列はもう何でも有りなのかw
97日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:50:16.83
スサノオなら例えばヤマタノオロチ伝承があるだろ?
あれは出雲にゆく前にオオゲツヒメの所でメシ喰ってんだよ?
つまり高天原から阿波に寄って出雲に向かう話。
どうみても畿内からの視点だよな。
98日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:54:01.67
河内に降臨したニギハヤヒを、あくまで筑紫出身と言い張るなら、
まず高天原が筑紫だということを立証しないとな。
まあ、そんなこと記紀には一切書いてないがw

妄想乙w
99日本@名無史さん:2013/12/31(火) 12:56:39.31
九州脳は行程パズルだけじゃなく、神話パズルも始めたのかよw
100日本@名無史さん:2013/12/31(火) 13:23:15.34
>>98
>まず高天原が筑紫だということを立証しないとな。

高天原は筑紫だと思わない。

http://mononobe.digiweb.jp/kujihongi/tenjin/tousen.html

もちろん畿内→九州の時代もある。
土師器や前方後円墳もそうだ。

が、その前は九州→畿内だろう。
文化的には北九州が遥かに高いからな。

で、おまえは倭国王帥升を誰と言ってたっけ?
101日本@名無史さん:2013/12/31(火) 13:56:39.05
崇神3世紀前半で神武紀元前後なら4代懿徳、5代孝昭天皇あたりが帥升か?

アホなの?
102日本@名無史さん:2013/12/31(火) 14:00:23.09
神武天皇を何世紀だって?
103日本@名無史さん:2013/12/31(火) 14:09:59.26
神武を紀元前後というアホがいますが〜

             ∧..∧
           . (´・ω・`)
           cく_>ycく__)
           (___,,_,,___,,_)  ∬
          彡※※※※ミ 旦
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   \ どっ!!  /   \ ワハハ! /
     \     /      \    ∞
 l|||||||||||||| ∩,,∩ ∩,,∩  ∩,,∩ ミ∩ハ∩彡
 (,    )(,,    )    ,,)(    )(    )
104日本@名無史さん:2013/12/31(火) 14:18:16.21
スサノオのヤマタノオロチ退治が考霊天皇の中国地方遠征を
反映していると考えてもいいかもな。
大蛇を退治して新たな剣を得る点、
(新たに鉄の剣を得る話なら、九州視点は有り得ない)
退治後、クシナダヒメ=神大市姫を得る、
(モモソを神大市姫だと記する資料もある)

スサノオは性格が極端に描いてある事を考慮すると、
やはり天皇何人かの伝承をまとめた物だろう。
105日本@名無史さん:2013/12/31(火) 14:20:03.91
>>100
>が、その前は九州→畿内だろう。
>文化的には北九州が遥かに高いからな。

しかしまあ、筑紫は平原王墓以降続かないからな。
むしろ、その後は、大和の墓制を採り入れている。

筑紫から東方へ文化が伝播・波及したのはそうだろうけど、
それは弥生時代全般で見た話。
弥生後期からは各地で王権が誕生、筑紫一極ではなくなっている。
いわゆる倭国乱だな。


>で、おまえは倭国王帥升を誰と言ってたっけ?
松木武彦とかは、吉備楯築の被葬者と言っていたなw
確かに時代的には合う。
個人的には伊都王(ヒラバルの関係者)で良いとは思っているが。
106日本@名無史さん:2013/12/31(火) 14:20:44.86
九州脳の発作が酷いなw
神武天皇、所詮は創作だよ。
107日本@名無史さん:2013/12/31(火) 14:28:00.14
>>105

君は誰?
ほとんど賛成だ。
108日本@名無史さん:2013/12/31(火) 14:35:52.79
鏡の副葬・破鏡にしても、筑紫の影響は間違いないが、
大和にいきなり導入された訳ではなく、
播磨の西条52号墳や綾部山39号墳を経て、大和の前方後円墳に、
あくまで「一要素として」採用されている。
つまりは、前方後円墳の源流はやはり東瀬戸内にあって、
筑紫の墓制がいきなり大和に来た訳ではない。
109日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:04:21.16
>>108
物部は古代から鉄の供給氏族であったと思う。
その物部は播磨にも四国にも拠点を持ってたようだ。
後に播磨物部、三野物部と呼ばれる。
吉備にも物部郷がある。
纏向遺跡にはホケノや東田大塚のように西部瀬戸内系の土器も出る。
これは赤間物部で説明できるだろう。
110日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:06:40.26
神武天皇はいつごろの人かは分からないが
大阪が海だったころの人だろう
纏向は崇神天皇の都だから3世紀ごろ
神功皇后が朝鮮半島に攻め込んだのが4世紀のことだろう

卑弥呼や帥升は北九州にいて大和朝廷とは関係ない人だ
古事記にも日本書紀にも出てこないからね
111日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:08:14.42
>つまりは、前方後円墳の源流はやはり東瀬戸内にあって、
筑紫の墓制がいきなり大和に来た訳ではない。

それが正解だろう。
で、その東瀬戸内で伝承を持つ女性というと、モモソと
モモソ母のクニアレヒメが該当するという事。
国生み伝承が淡路島からなのとも一致している。
112日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:16:57.53
布留遺跡の円筒埴輪

http://inoues.net/club/tenri_furu15.jpg

これが何を表現してるか分かるかな?
答えを言おう。

竹細工だ。

竹(笹竹でなく真竹)の原産地は南九州だ。
竹という植物は人間の手を介さなければ分布地を拡げられない。
今日、あちらこちらで見られる竹林は昔に誰かが植えたものだ。

物部氏の布留遺跡から竹細工が出るのは物部が九州系である証拠になる。
113日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:18:12.81
>>110
>卑弥呼や帥升は北九州にいて大和朝廷とは関係ない人だ

帥升はともかく卑弥呼=邪馬台国:北部九州はない。
まず北部九州に5万や7万戸は不可能だから。
可能だという奴は詐欺師くらいなもんだ。
114日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:19:01.85
物部が全国に分布してるのは部民制のためだろ。
大和政権の勢力拡大で、物部氏が地方の豪族たちを同族として取り込んでいった結果。
物部は特に東国に多いしな。

物部という名前がつけば全部同族とかw気がふれてるだろw
115日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:20:09.54
>纏向は崇神天皇の都だから3世紀ごろ

3世紀前半か後半かで大きく違う。
当時の平均寿命を30歳半ばとして、
3世紀の後半だろう。
116日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:22:49.13
>物部氏の布留遺跡から竹細工が出るのは物部が九州系である証拠になる。

ならない、海人族が運んだだけの話。
大体物部なんて古代豪族の総称みたいなもんだよ。
117日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:24:26.57
>当時の平均寿命を30歳半ばとして、
3世紀の後半だろう。

まだそんなアホな事言ってるのかw
118日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:25:40.28
>ならない、海人族が運んだだけの話

物部氏は海人で尾張氏や海部氏と同祖だが?
119日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:29:14.71
>>118
そうだけど?
でも九州系とは言わない。
倭の海人なら縄文時代から全国移動してるよ。
120日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:33:24.36
>>117
江戸時代の平均寿命は農村の過去帳調査の報告によると、
男が36.8歳、女子が26.5歳

弥生〜古墳時代なら何をか言わんや。
121日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:36:47.34
>>119
>倭の海人なら縄文時代から全国移動してるよ。

そうだね。
そして弥生時代に北部九州に日本列島で一番高度な文化を根付かせたわけだ。
文化は高い所から低い所に流れる。
つまり海人の多くは北部九州系。
122日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:41:24.22
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu14.jpg

この弥生時代の鉄も海人が運んだのだろう。
北部九州系で何か不満でもあるのか?
123日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:43:12.28
>>120
農村と王室は違うよw
それに卑弥呼やイヨは何年生きていたんだろうね?

>>121
航海に長けた海人が、半島に近い北部九州に基盤を持っただけの
話だね。それに海部の本拠地は四国東南部にもあるのに九州系?
124日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:45:25.82
>>113
邪馬壹國は福岡、佐賀、長崎、熊本、大分にまたがっており
3世紀でも7万戸は十分に可能だ
卑弥呼や帥升は北部九州にいて大和朝廷とは関係ない人だな
125日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:48:05.45
奴国と投馬が消失しましたw
126日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:48:10.45
>>123
>農村と王室は違うよw

アホ。
昔の死因は虫歯や盲腸も多いが、
王室は虫歯や盲腸にならなかったのか?
127日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:50:41.78
王室は虫歯や盲腸にならなかったのか?

弥生期に甘い物は何があるんだろうか?
でも記録見る限り、卑弥呼は長生きしてるよ。
128日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:51:00.35
>>123
>海部の本拠地は四国東南部にもあるのに九州系?

安曇の本拠地として信州の安曇野も有力だが安曇のルーツは北九州。
129日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:55:04.27
>卑弥呼は長生きしてるよ。

40〜50歳くらいだろうね。
だから?
平均と言う意味が分からないの?
130日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:56:14.32
>安曇のルーツは北九州

何故志賀島なのかというと、
貿易に便利な拠点を求めた連中が集まっただけの話。
131日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:00:28.70
>>130
そうだろうね。
それは北部九州系という意味なんだよ。
132日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:01:31.11
>>129
>平均と言う意味が分からないの?

アホ、その平均の中にはイヨのように、記されてない
他の人物が入る可能性はないのか?という話。
信憑性が判らないのに平均出す意味がないだろ。
133日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:04:17.49
>>131
>それは北部九州系という意味なんだよ。

そうだね。
俺は違うと思うだけなんだよ。
国生みは瀬戸内側の方が先だからね。
134日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:06:40.71
>>132
アホはおまえだ。
出土人骨の歯や関節の磨耗具合から大よその年齢は分かるのだ。
したがって平均寿命も分かる。
王室は飢え死にしないから平民より少し高い程度だ。
135日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:09:08.02
>>134
>その平均の中にはイヨのように、記されてない
他の人物が入る可能性はないのか?という話。

これはスルーなのかいw
136日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:10:34.21
>>135
意味不明。
平均にカウントしてやるからイヨの年齢を言えよ。
平均数字にはほとんど影響ないけどね。
137日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:14:27.17
>>133
>国生みは瀬戸内側の方が先だからね。

卑弥呼の時代から見ても大昔。
そんな話は意味なし。
138日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:14:51.38
>平均にカウントしてやるからイヨの年齢を言えよ。

心底のアホだな、それを出すのはお前の仕事だ。
データ・ベースが不正確なのに、平均なんか求める意味が
全くないと言ってんだけどw
だから詐欺師の手法と言われるんだよ。
139日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:18:12.89
>>137
神武天皇だって卑弥呼の時代からみて大昔だよな。
140日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:21:34.59
>>138
なんで俺の仕事なんだよアホ。
弥生や縄文の人骨は多数出てるのでデータ・ベースが不正確ではない。
江戸時代の平均寿命は農村の過去帳調査の報告による、
男が36.8歳、女子が26.5歳より古墳時代の方が長寿なわけないだろう。
141日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:23:20.28
>>139
それは刷り込み。
平均在位から計算して同時代だ。
142日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:33:25.67
>弥生や縄文の人骨は多数出てるのでデータ・ベースが不正確ではない。
江戸時代の平均寿命は農村の過去帳調査の報告による、

江戸時代の資料を弥生・古墳時代を当てはめるのか?
何年開いてるんだ?しかも正確かも判らない資料にww

>>141
刷り込み何も、記紀の記述ではそうだが。
一方で代々天皇の資料を正確だと参考にする時点で
論としては全く成立しないんだよ。
143日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:37:36.95
>江戸時代の資料を弥生・古墳時代を当てはめるのか?

だから江戸時代より古墳時代の方が長寿だとでも言うのか?

どうでもいいから崇神258年没説の人間を言えや。
城の山古墳発掘で四道将軍は4世紀前後という時代設定がほぼ確実視されてきてるわけだが。
144日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:38:34.08
>>125
投馬國は朝鮮半島南岸
奴國は邪馬壹國の一部だ
145日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:46:47.33
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page735.html

「貝田禎造氏の説では崇神天皇の年代は315〜332年。
末松保和氏の計算では崇神天皇は318年没。
笠井倭人氏は崇神天皇元年を301年辛酉の年としています。
少し、学問的に迫ったものは、考古学的な立場から研究をした斉藤忠氏は
崇神天皇の陵の年代を考古学的に研究して、4世紀後半に作られたものと推定しています。
井上光貞氏の説は時代がもう少し遡ります。
在位年代のほぼ確実な応神天皇(370〜390)から世代を逆算してみると、
崇神は270〜290年ごろだろうと推算されています」

258年没説はいませんwww
146日本@名無史さん:2013/12/31(火) 16:51:25.82
>だから江戸時代より古墳時代の方が長寿だとでも言うのか?

基礎となる数字が正確じゃないのに、参考・比較対照として
そもそも成立してないのだ。

>どうでもいいから崇神258年没説の人間を言えや。

何を言うんだよw
147日本@名無史さん:2013/12/31(火) 17:06:57.75
阿曇族は宇都志日金柝命の子孫なり
柝は拍子を打つタク、金(カネ)のタク
148日本@名無史さん:2013/12/31(火) 17:10:11.62
>>145
文献記録上での崇神没年は住吉神社神代記に戊寅とある以上、
これは西暦258年でも全然おかしくはないけど?
149太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/12/31(火) 17:14:23.47
八幡愚童訓という沖縄神徳寺保有の文書と呉史から

 黄龍2年=開化48年=230年 呉兵沖縄来襲

であるからして、開化48年が黄龍2年
と判明した。

ここから倍暦計算で年代降下させると

 崇神没年=259年

を得る。
このことから古事記の崇神没年(戊寅)は258年説が正解となる。
150日本@名無史さん:2013/12/31(火) 17:25:47.99
>>146
おまえは人骨の歯や関節の磨耗から歳を推定できないだろ?
ならば出来る人のいう事を聞くように。

>>148
>西暦258年でも全然おかしくはないけど?
>>149

考古学と合わない。
151日本@名無史さん:2013/12/31(火) 17:25:58.74
>>149
その辺りは同意見だが、あんたは九州説なんだなw
古事記と住吉神社神代記からは258年が間違いではない。
152日本@名無史さん:2013/12/31(火) 17:29:19.26
>おまえは人骨の歯や関節の磨耗から歳を推定できないだろ?
ならば出来る人のいう事を聞くように。

ほー、歴代天皇の骨を正確に検査出来た人がいるのか?
是非教えてほしいもんだw

>考古学と合わない。
そりゃ検証が完全じゃないからだろw
153満州二等兵:2013/12/31(火) 17:33:35.65
>江戸時代の平均寿命は農村の過去帳調査の報告による、
>男が36.8歳、女子が26.5歳

こんなことを信じている男は相当の阿呆である。
おそらく四国説のジョーカーだろうw
154日本@名無史さん:2013/12/31(火) 17:36:57.97
>>153
信じるとか信じないとか宗教の話ではないのだよ。

モモソ媛を卑弥呼にすると、
卑弥呼の死後、
邪馬台国の人々が服さず内乱状態になり1000人が死んだ時の男王が崇神という事だな。
そんなわけないよなw
155日本@名無史さん:2013/12/31(火) 17:41:51.56
247年に大きな移動があったとして、余命10年そこそこしかない。

知初國之御眞木天皇ってたいしたはたらきものだなあ。

独占的に仕切っていた海峡の制海権のこと

卑彌呼のとおちゃんの大毘古さんに見限られて喪失しちゃったんだろ。

大毘古さんは俗にゆう「彌彌」のおひとだろ。
156日本@名無史さん:2013/12/31(火) 17:41:56.74
>>152
>歴代天皇の骨を正確に検査出来た人がいるのか?

死因は平民も天皇も大差がない。
天皇は餓死しないだけ少しましなくらいだろう。
したがって平民とさほど変わるわけなかろう。
屁理屈で逃げるな、情けない。

>そりゃ検証が完全じゃないからだろw

どの部分が不完全なのかな?
157日本@名無史さん:2013/12/31(火) 18:00:46.80
なんか平均寿命が激しく勘違いされてるような
0才で死んだ1人と60才で死んだ1人の2人で
平均寿命が30才になるのだからな
平均寿命30才だから成人男性が30才くらいで死ぬ訳じゃない
あくまでも平均だということをお忘れなく
158日本@名無史さん:2013/12/31(火) 18:04:06.89
>>157
縄文、弥生、古墳時代の平均寿命30代というのは、
15歳以上生きた人の平均で、
0才で死んだ人を含んでない。
159日本@名無史さん:2013/12/31(火) 18:18:39.14
だが卑弥呼は長生きしてるだろw
160日本@名無史さん:2013/12/31(火) 18:19:48.40
平均寿命は乳幼児死亡率が高いと下がるからな。

6人産んで赤ん坊の時に2人、大人になる前に1人死んでしまい、
残った人は平均60才まで生きたとしても、平均寿命は30才程度だ。
50才としたら、平均寿命は25才になる。
なかなか厳しいな。
161日本@名無史さん:2013/12/31(火) 18:23:29.63
>>156
>どの部分が不完全なのかな?
比定が完全ならどの古墳も完全に結論出てるよw
162太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/12/31(火) 18:44:24.31
>>150
合うよ。

2010年前後だったか、千葉歴博考古犯の箸墓鑑定で

 240年〜260年

の鑑定値の結果が出てる。

これなどコチラの主張と一致してる。
163日本@名無史さん:2013/12/31(火) 21:05:32.23
>>161
>比定が完全ならどの古墳も完全に結論出てるよw

年輪年代も含めた大よその比定だ、屁理屈言うな。

>>162
考古犯の主張と一致?w
164日本@名無史さん:2014/01/01(水) 01:39:15.93
>>158
>縄文、弥生、古墳時代の平均寿命30代というのは、
15歳以上生きた人の平均で、
0才で死んだ人を含んでない。

そんな平均寿命は誰が決めて、誰が出したの?
根拠のないあなたの妄想でしょ?
165日本@名無史さん:2014/01/01(水) 09:53:46.91
>>164
国立社会保障・人口問題研究所小林和正さんだな。
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/kitadai/j_kouza/kouza-21.htm

ただ最近、縄文時代の遺跡から少し高齢の人のものがかなり発見されたらしい。
が、平均としてはさほど変わらないだろう。
166満州二等兵:2014/01/01(水) 12:57:11.85
そのサイトの説のポイントは平均余命である。
その学者が平均余命をどうやって推測したのか、その根拠が書かれていない。

つまりその平均余命なるものはその学者の勝手な推測にすぎないかもしれないわけで、
学問的な根拠がない。

何にせよ、常識人はそんな説は信じないのである。
そんな説をすぐに信じるのは、非時香菓はバナナだと書いてあれば
(なるほど、非時香菓はバナナなのか)と信じてしまう四国説男だけである(苦笑)
167満州二等兵:2014/01/01(水) 13:17:40.81
江戸時代の平均寿命−yahoo知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1010561460

ここの解答者はみんなまともなことを書いている。
江戸時代でもみんな60歳〜70歳くらいは生きたということを常識人は知っているのである。
168日本@名無史さん:2014/01/01(水) 13:56:39.97
>>167
◎ベストアンサー
「日本人の出生時平均余命が50歳を越えたのは1947年です。
江戸初期の平均寿命は30歳くらいと推測されています。」

おまえどこ見てんの?www
169日本@名無史さん:2014/01/01(水) 14:00:35.04
朱雀天皇923-952    29歳
村上天皇926-967    41歳
冷泉天皇950-1011   61歳
円融天皇959-991    32歳  平均39.28歳
花山天皇968-1008   40歳
一条天皇980-1011   31歳
三条天皇976-1017   41歳


後一条天皇1008-1036  28歳
後朱雀天皇1009-1045  36歳
後冷泉天皇1025-1068  43歳  平均41.33歳
後三条天皇1035-1072  37歳
白河天皇 1053-1129  76歳
堀河天皇1079-1107   28歳


鳥羽天皇1103-1156   53歳
崇徳天皇1119-1164   45歳
近衛天皇1139-1155   16歳
後白河天皇1127-1192  65歳
二条天皇1143-1165   22歳   平均34.45歳
六条天皇1164-1176   12歳
高倉天皇1161-1180   19歳
安徳天皇1178-1185    7歳
後鳥羽天皇1180-1239  59歳
土御門天皇1195-1231  36歳
順徳天皇1197-1242   45歳
170日本@名無史さん:2014/01/01(水) 14:52:19.12
ま、古墳時代の天皇は35歳くらいだろうな。
171満州二等兵:2014/01/01(水) 15:10:57.34
正月といっても退屈だ。

>>168よ、ベストアンサーだけ見てどうする。
その下にズラリといろんなアンサーがあるだろ?
それらを見てみろ。
みんな江戸時代でも60歳〜70歳くらいは生きたと考えている者ばかりだ。

全部を見ずに一部だけ見て即断する。
だからお前は単細胞だと言われるのだ(ゲラゲラ)
172日本@名無史さん:2014/01/01(水) 15:49:50.22
>>171
>みんな江戸時代でも60歳〜70歳くらいは生きたと考えている者ばかりだ。

アホがアホの意見に納得ってか?
消えてくれ、マジうざい。

昭和の平均寿命
http://shouwashi.com/transition-longevity.html

平均70歳超えるのが昭和50年。

おまえって何をいきがってコテつけてるんだよ。
173満州二等兵:2014/01/01(水) 16:01:08.07
すいませんでした。

今年も生き恥さらします。

よろしくお願いします。
174日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:20:23.40
芭蕉が40代で翁とか言われてるんだよな
175日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:42:48.75
寿命35歳なら、記紀で書いてるような大王位の父子相続が代々続いたなんて殆ど出鱈目になるなw

やはり初期大王位は有力豪族の持ち回りで、
ヤクザの杯みたく親子関係を擬制しただけだろう。
仁徳あたりから漸く兄弟相続に移行していき、リアルな系譜を伝えているように見える。
176満州二等兵:2014/01/01(水) 17:15:55.40
>>172
お前も相当なアホだな。
昭和25年ですでに女は67.75となってるだろが。
昭和25年といえば戦後の貧しい頃だ。
その頃でも女はすでに70歳近く生きているのだ。

お前らは統計学しか読まないのか。
歴史書を読んでみろ。
昔の人間も今と同じような年齢まで生きているのだ。
ネットで安易な統計しか見ないからアホなことを言い出すのだ。
マジうざいのはお前らだ、ボケナスども。
177日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:19:42.08
>>175
>大王位の父子相続が代々続いたなんて殆ど出鱈目になるなw

5世紀の仁徳以降には普通に兄弟継承があるので、
崇神以前の欠史8代が全部父子継承なのは当然嘘だろう。
出鱈目というより帝紀に天皇の代数と名前だけが書かれてて、
誰と誰が兄弟とか分からないので、
とりあえず一番無難な父子継承にしたのだろう。

あと垂仁天皇から仲哀までの間あたりにも兄弟継承があったと思う。
成務天皇の影が薄すぎ。
178日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:22:54.60
>>172
近代医学のおかげだろうね。
江戸時代の医療が昭和と同じレベルだったのかアホ。
179満州二等兵:2014/01/01(水) 17:24:40.15
>>175>>177
こいつらもド低能である。
記紀を無視して勝手なことを書いている。

記紀が捏造だとか嘘だというならそれを証明してみろ、ド低能のカスども!
180日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:25:30.30
>>165
『根拠のないあなたの妄想』は取り消して、訂正する。
181満州二等兵:2014/01/01(水) 17:26:54.11
>>178
だからそんなことを書く前に江戸時代の本をたくさん読んでみろ、ド低能。
推測だけで物を言うな。
182満州二等兵:2014/01/01(水) 17:34:07.81
>>181
ド低能はおまえだ氏ね
183日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:52:17.82
寿命35歳なら父子相続を十代以上続けるのは不可能。
これにちゃんと反論してみてよw

記紀の伝える大王系譜がアテにならないという結論だ。
184日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:05:54.01
で、卑弥呼はどれ位生きてた計算をしてるのかな?
185日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:06:32.14
>>183
だから平均寿命35歳で父子相続を十代以上続けるとは一言も言ってない。
当然、兄弟継承もあったであろう。
たとえば20歳で即位したとして22歳で死んだなら、
当然ながら兄弟が継承しただろう。
186日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:11:07.73
「記紀の皇統譜が正しい」ということの根拠のつもりで書いた
「平均寿命30年」が、結果的に
神武〜成務まで十三代父子相続が続いたとする記紀の記述なんかアテにならない
という結論になった。本当に愚かしい話だw
187太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/01(水) 18:13:59.70
それは研究不充分を露呈したこととなる。
188日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:15:41.68
>>186
俺は崇神から神武まで5世代程度と思ってる。
その上で崇神没を318年とすると、1世代20年で神武の没年は3世紀前半。
189日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:16:01.34
そう、だから平均寿命を求めて代々天皇に
当てはめる説なんて全く無意味な話。
だから詐欺師の手口だと言われるのだろう。
190日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:20:36.87
>>188
突っ込みどころ満載だが、それでは卑弥呼が誰で、
何年生きていた計算をしているんだ?
191太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/01(水) 18:20:54.37
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務41年 宝蔵院(愛知県刈谷市)同年 創立
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
192日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:22:43.11
記紀の皇統譜が信用できないなら、平均寿命とか平均在位とか意味ねーじゃんw
ホントに馬鹿だな、コイツw
193太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/01(水) 18:26:43.97
>>177

終止符75スレ
  ↓
>924>925
194日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:32:27.57
>>192
だから天皇の代数は正しいが、
古代に親子継承が13代も続くわけなく、
当然兄弟継承があっただろうという意味。
分からないならそれは君の問題だが。
195満州二等兵:2014/01/01(水) 18:36:01.29
もともと統計学の平均寿命など論じても仕方ないのである。
それは早死にした人も統計に加えているからだ。
そうではなくて、普通の人は大体何歳くらいまで生きるかが問題である。
いわば自然死の年齢が問題なのである。

そうするとどんな時代でも人は60歳や70歳くらいは生きているのである。
信長の舞の文句に人生五十年というのがあるが、
その頃たいていの人が五十前後で死んでいたかというとそんなことはあるまい。
たとえば信長公記の作者太田牛一は86歳まで生きている。

漢籍、韓史を見ても寿命は今の人間と全然変わらない。
昔の日本の書物を読んでみればよい。今の人と全然変わらないのである。
それなのにここの連中は古代人の寿命を35歳と考えて議論しているわけで、
揃いも揃ってド低能のタコばかりである。
伊作がここの連中をタコ呼ばわりしたのもむべなるかな。
196日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:37:25.82
>>190
卑弥呼が誰で、何年生きていた計算をしているんだ?

初代皇后。
ま、50歳くらいかな。
生年わからないので意味がないが。
197日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:41:50.64
父子相続でもないのに、父子相続と間違えた(嘘をついた?)記紀が、
何故、代数だけは間違えてない(嘘をついてない)と強弁できるのやら?w

記紀では、兄弟で争って皇位を継ぐって説話がワンパターンに続くが、
それは全部嘘なんだな?
198日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:46:06.81
>>197
神武がBC660年な訳なかろう。
そんなアホな話を誰が信じてるのだ。
ゼロサム論しか出来ないのか。

君は卑弥呼の話が出来なくなる。
モモソ媛であったとしても皇女なんだから、
実父の天皇の存在にも懐疑的なのか?
199満州二等兵:2014/01/01(水) 18:48:33.28
タコは私です。

今年中に氏にます。
200日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:53:39.08
ゼロサムっていうかさw
君には何故だか、記紀の正しい部分と間違ってる部分を正しく見分けられる能力
が備わってるみたいなんでねw
代数は絶対に間違ってないという根拠を提示してみてよ?
201日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:58:42.67
>>200
神武BC660年説が信じられなかったら神武が非実在なのか?
実在したとして年代を考える事の何が変なのかを逆に聞きたいね。
倍歴を言ってる連中もいるではないか。
俺は倍歴には組しないが、年代を考える事自体は間違いではなかろう。

カッコつけるな。
202日本@名無史さん:2014/01/01(水) 18:58:56.37
記紀は兄弟相続を父子相続に間違えたけど、
それ以外は断じて間違えてません、ムキーッ

てか。病気だよ、ホントにw
203日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:03:08.80
だから、記紀の正誤を判断するのに考古学が重要になってくるんだよ。

自分勝手に「記紀のこの部分は間違い!この部分は正しい!」
とか、学問じゃねーから。
204日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:04:26.72
>間違えたけど

帝紀には天皇名が書かれてるが誰が兄弟か「分からなかった」と言ってるわけだが。
意味がわからないのは君の知的能力の問題だ。
205日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:10:19.04
いやまあ、それでもいいけどさw
そんな適当なことを書く記紀を本尊として崇めるのはどうか?と思うよ。

「代数は間違いなく正しい」の根拠はまだ?w
206日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:12:32.81
>>205
代数は間違ってるという根拠をどうぞ。
207日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:15:38.54
うわーw
記紀には間違いがあって、そのまま鵜呑みには出来ない。考古学的裏付けが必要、
って言ってるんだよ、俺は。
それに根拠?wwww
208日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:16:45.58
>考古学的裏付けが必要って言ってるんだよ、俺は。

2世紀後半あたりから前方後円墳が誕生し、
環濠集落や銅鐸が消える説明を、
天皇の事跡で説明してくれ。
209日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:21:49.53
質問に質問で返すようになると末期だなww


俺はただ、なぜ代数だけは間違いなく正しいと思い込めるのか?
って訊いてるだけだよ?何故答えないの?w

記紀原理主義者なのかもしれないが、自分で「記紀にも間違いがある」
と認めた時点で論破されてるんだよ
210太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/01(水) 19:23:03.05
記紀は雄略武烈の大悪ぶりを記載してるんだから、
当時父子継承をイカサマとして書くわけがない。

父子継承が継続できたから皇統はすたれず一系が今の世
まで在るわけだ。
211日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:25:52.91
>俺はただ、なぜ代数だけは間違いなく正しいと思い込めるのか?
>って訊いてるだけだよ?何故答えないの?

応神天皇390年から25代、30代、35代後まで計算して平均在位11年なので、
逆算して神武の時代と奈良の文化的大変革期が合致するから。

さぁ今度はおまえが答える番だ。
212日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:31:31.05
だから、記紀が書いた皇統譜が信用できないから、そんな算数の計算は無意味と言ってるのだがw
分からないから適当に父子相続にしちゃえー

なんでしょ?w
213日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:45:24.00
日本書紀の編纂は、適当に父子相続にした、
とかいい加減じゃなかったと思うが。

いろんな一書を並記して、出来るだけ誠実に歴史を語ろうとしている。

ただ、参考にできる歴史書が殆どなかったから、
想像で補って書いた部分は多いだろう。

「代数は間違いなく正しい」とか宗教だろw
214日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:49:16.72
>>212

お前が無意味と言ってもそれこそ何の意味もないし。

「無意味と言ってるのだが」で逃げずに
代数が何故間違いなのかを考古学的裏づけで答えろ。
自分が言い出した事だろ。

俺は答えたぞ。
次はお前だ。
質問返しは末期的症状なんだろ?
215日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:57:46.99
平均在位11年とかさあw
今時何言ってるの?
216日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:58:30.19
卑弥呼が初代皇后?で、歴代天皇の年代は
平均年令を適当に出して俺は正しいとか?
ご都合主義のみで論を主張しても、誰が納得するんだよw
217日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:58:47.66
>>215
今時は何が言われてるの?
218日本@名無史さん:2014/01/01(水) 19:59:53.44
>>215
代数が何故間違いなのかを考古学的裏づけで答えろ。
219日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:00:17.13
安本だろ、馬鹿馬鹿しい
220日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:02:34.17
>>216
偉そうに言うならここに書き込めよ。
俺がたてたスレッドだ。
http://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/a332a6dab8rbxc0ba4h53gol1b2c0b

どうせ書き込めないヘタレだろうが。
221日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:03:18.19
ていうか、記紀を読む時には、考古学を片手に眉に唾をしなけりゃならないってこと。

記紀に書いてるから正しいなんて、根拠にならないんだよw
222日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:04:03.01
223日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:04:56.88
考古学的裏付けならね、神武天皇がヤマトに
もたらした物は何か答えられるのかな?
224日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:08:43.31
>>223
>神武天皇がヤマトにもたらした物は何か答えられるのかな

今の所、宮の跡と地名しかない。
なぜなら纏向遺跡ほど御所周辺は大々的に調査されいないからだ。

ところで、代数が何故間違いなのかを考古学的裏づけで答えろ。
質問返しは末期なんだろ?
225日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:09:05.15
神武東征神話なんて所詮は豪族の伝承を集めたに過ぎないものだろう。
実年代を求めるのはナンセンスだよ。
226日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:11:49.65
.

代数が何故間違いなのかを考古学的裏づけで答えれず逃げたなw

.
227日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:12:07.70
>>224
代数が作為的なのは、卑弥呼やイヨが
王として数えられていない点で明白だろw
何をボケているんだ?
228日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:17:39.48
>>227
そのレスは少しも考古学的ではないのだが?
おまえこそ何をボケているんだ?

卑弥呼が初代皇后なら、神武に先立たれ、
2代綏靖天皇が即位するまでの間、
女王と言う称号にふさわしい。
誰も気付かないだけ。
229日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:20:57.66
>>224
神武天皇三世紀説に関する考古学的裏付けなんてないじゃないかw
代数が正確とは言えない考古学的裏付けなら、
天皇綾の比定に関しても、六世紀の物ですら
完全には出来ない時点で、代数に関する資料が
正確とはとても言えないといえるだろ。
230日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:24:40.36
>>229
>神武天皇三世紀説に関する考古学的裏付けなんてないじゃないかw

あるよ。
ニギハヤヒと神武は接点があるわけだろ。
纏向遺跡は物部氏だと思うが、
ちょうど前方後円墳や土師器の誕生の時代と合う。
これらは2世紀後半〜3世紀だな。

で、いつまで質問返しで逃げるのだ、カス。
231日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:25:38.88
>>228
アホらし、それを普通妄想というんだよw
皇后に卑弥呼像に合致する部分が何もない。
子も婿(しかも再婚)もある。
232日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:28:13.65
>>230
神武天皇の墓って何処ですか?
三世紀の遺跡で答えてみろw
233日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:30:20.85
>>231
こっちこそアホらしい。
子がいないとは書かれてない。

>婿(しかも再婚)もある。

再婚までの間の記述だろう。
234日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:32:25.59
少ない知識で論を組み立てても無駄だという事だな。
神武が三世紀?アホとしか言えない。
235日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:32:53.17
>>232
だからここに書いてる。
http://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/96a8cbd6169180a157075d145f086b7f

おまえなんて質問返しで逃げてるヘタレなので来れないだろうがな。
最低だなコイツ。
236日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:35:09.30
卑弥呼は再婚までの記述?
アホか、倭人伝には死んで墓の事まで描かれるぞw
237日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:37:18.87
>>235
結局宣伝が目的か?
アホとは思ってたが、最低な奴だな、こいつ。
238日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:38:07.94
義理の息子との結婚なんて恥ずかしくて言えなかったのだろう。w
中国史書は完璧ではない。
俺は信憑性60%くらいに思ってる。
239日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:39:17.78
>>237
質問返し野郎の分際で生意気だな、ヘタレw
いつまで逃げてるんだよ。
240日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:41:02.26
バカ丸出し。妄想乙としかw
倭の女王が新たに婚姻関係を持つなら大事だ。
241日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:41:26.93
嵯峨天皇(父:桓武天皇、母:藤原乙牟漏)が編纂させた新撰姓氏録では神武の兄の稲飯命は新羅王の祖
242日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:44:39.11
崇神が考古学的にも4世紀前半になりつつあるのだから、
モモソ媛は卑弥呼の時代に合わないよ。
畿内説は根本的に考え直さないとな。
243太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/01(水) 21:45:31.39
モモソヒメは卑弥呼とほぼ同時代の女性。
前者は畿内、後者は九州の姫だ。
244日本@名無史さん:2014/01/01(水) 21:58:12.91
モモソ媛は、崇神、武埴安彦命、大田田根子と時代的接点ある。
崇神をかなり長寿と仮定して、250年産まれで318年没としても、
成人であった崇神の時代には卑弥呼はとっくに死んでることになるから、
モモソ媛は卑弥呼ではない。
トヨなら一応時代が合うが、ありえないだろう。
245日本@名無史さん:2014/01/01(水) 22:02:02.50
>>243
>九州の姫だ

九州の何という豪族の姫なのかな?
246太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/01(水) 22:03:55.31
>>245
そこまで判明するんなら、もう論争は終わってるぜ。
247日本@名無史さん:2014/01/01(水) 22:11:59.35
>>246
あんた倍歴で九州説だろ?
卑弥呼の時代が何天皇の時代か判明したら、
その天皇の事跡から豪族の名前も分かるんじゃないの?
248太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/01(水) 22:21:23.22
まもなく寝るから、以後の質問は明日答えることとなるよ。

>>247
天皇の事跡から卑弥呼がどこの豪族の出なのか分かるわけがないぞ。
だって朝廷の書庫に卑弥呼の情報なんぞまるでないんだから、
そんな出なんぞ不明そのものだ。
そりゃぁ、倭人伝という外国産の書から神功39年等の情報を得ては
いるが、朝廷の書庫の純日本産文献に卑弥呼の情報が無いという
ことよ。

これは今後の研究にゆだねるほかはない。
つまり新たなブツとかが出ない限り無理だな。
249日本@名無史さん:2014/01/01(水) 22:22:21.71
だがモモソ姫は孝霊天皇の娘、吉備津彦の姉だという事を
見逃せないからな。
孝霊天皇は伝承をみる限り、大和と出雲地方が戦闘をした形跡、
瀬戸内海での伝承を持つ一族なのだからね。
記述の皆無な欠史八代の中で、古事記で逸話が記された
唯一の存在が吉備平定の話。

出雲・吉備を平定してるなら、それは普通に大乱だよ。
250日本@名無史さん:2014/01/01(水) 22:26:03.38
>>248
>朝廷の書庫に卑弥呼の情報なんぞまるでないんだから

卑弥呼の情報がないとしても、
3世紀前半の天皇が誰かは分かるわけだろ?
ならばその天皇の事跡から九州の豪族がある程度分かるんじゃないの?
251日本@名無史さん:2014/01/01(水) 22:27:27.15
孝霊天皇の事を調査すればする程、モモソ=卑弥呼説を
更に裏付ける事になるだろう。

まあ間違っても3世紀の邪馬台国、卑弥呼は九州とは関係がない。
252日本@名無史さん:2014/01/01(水) 22:29:10.61
>>250
モモソ媛が卑弥呼だとすると、
卑弥呼の死後、民に服してもらえず、
争いになり1000人が死んだという「男王」が崇神になるがそれでいいのかな?
それとも別の天皇かい?
253252:2014/01/01(水) 22:30:35.18
間違い。
>>249ね。
254日本@名無史さん:2014/01/01(水) 22:48:57.62
>>252
別に問題はない、モモソと書いて百襲だからな。

また考えられる事は、モモソ=卑弥呼だとすれば
弟吉備津彦が国政を担当した事になるだろう。

すると崇神天皇という存在が?となる。
実は卑弥呼を隠す為に創作された存在かもしれないな。

中国・瀬戸内方面では、孝霊天皇と吉備津彦はセットで登場する
事が多い。由緒では孝霊天皇の中国遠征を天照大神の西征とする
資料もある位だしな。
四道将軍遠征辺りの記述の年代を疑う必要もあるだろう。
255日本@名無史さん:2014/01/01(水) 22:55:48.49
>実は卑弥呼を隠す為に創作された存在かもしれないな。

崇神天皇が非実在はありえないだろ。
考古学的にも実在性が高い天皇であり、
考古学を無視するなら話は別だが。

>由緒では孝霊天皇の中国遠征を天照大神の西征とする
>資料もある位だしな。

何の資料なんだ?
256日本@名無史さん:2014/01/01(水) 23:01:48.06
>崇神天皇が非実在はありえないだろ。
一般的にはそうで俺も実在説を採っている。
だけど現実卑弥呼の存在が謎になってる以上は
色々疑う必要性もあるだろう。墓の比定も正直疑ってる。

>何の資料なんだ?

まず孝霊天皇に関する事は、どれくらいの知識があるのかな?
例えば幼少期に楽楽福と呼ばれてる事とか。
257日本@名無史さん:2014/01/01(水) 23:17:14.42
>すると崇神天皇という存在が?となる。
>実は卑弥呼を隠す為に創作された存在かもしれないな。

と言いながら、

>一般的にはそうで俺も実在説を採っている。

は意味が分からない。


>まず孝霊天皇に関する事は、どれくらいの知識があるのかな?

興味がないのでほとんど知らん。
卑弥呼が死んだ頃の人物だと思ってる。
258日本@名無史さん:2014/01/01(水) 23:41:13.09
>>257
今のところ実在説というところだね。
だが作為も感じられる記述があるので
疑ってるということだ。
名前に「神」がつく天皇は作為が多いと思うしな。

>興味がないのでほとんど知らん。
卑弥呼が死んだ頃の人物だと思ってる。

鍵唐古の近所に、鉄に関する伝承や宮を持つ人物を知らないで
弥生後期の事を語るなんてありえないw
しかも出雲や吉備といった国を平定したとされてるのに。
本当に畿内説なのか?
259日本@名無史さん:2014/01/01(水) 23:52:20.08
>>258
>今のところ実在説というところだね。

眠いので寝るが、ならば卑弥呼の死後の1000人死んだ時の男王が崇神だな。

>弥生後期の事を語るなんてありえないw

孝霊が弥生後期だと思ってないから。
260日本@名無史さん:2014/01/01(水) 23:59:20.94
言い忘れた。
出雲や吉備、讃岐といった国を平定したのは崇神の命を受けた吉備津彦だろ。
崇神が生きていた時代なのだし、卑弥呼の前の大乱にはならんだろ。
261日本@名無史さん:2014/01/02(木) 00:35:16.74
>出雲や吉備、讃岐といった国を平定したのは崇神の命を受けた吉備津彦だろ。

中国地方は考霊天皇の伝承がはるかに多いよ。
考霊山まである位なのにw
262日本@名無史さん:2014/01/02(木) 00:50:27.47
>>259
>孝霊が弥生後期だと思ってないから。
じゃ、いつになるんだよ?

鍵・唐古近所に宮を持ったとされる人物だからな。
相当年代の選択肢は少ないと思うけどなあ。
263日本@名無史さん:2014/01/02(木) 08:20:15.40
考霊天皇を祀ってる神社は、吉備や出雲地方に多いよな。
ヤマトから鉄の確保を求めて遠征したといえるだろ。
264日本@名無史さん:2014/01/02(木) 08:34:57.17
うそつけ、どう見ても吉備津彦だろ。

>考霊山まである位なのにw

漢風諡号は8世紀だろ。

>じゃ、いつになるんだよ?

3世紀第3四半期だな。
265日本@名無史さん:2014/01/02(木) 08:43:32.62
考のつく天皇は、
吉備文化を背負って古大和朝廷入りした将軍たちだろよ
266日本@名無史さん:2014/01/02(木) 08:52:47.30
伝承の一部を都合よく集めて、
吉備津彦の事跡を考霊にしてるだけじゃないか、アホクサ。
267日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:15:31.25
都合悪いと発作を起こすんだなw
268日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:20:57.61
文献資料では、考霊天皇や吉備津彦の事ははっきり別な物が多いのになw
269日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:21:25.97
屁みたいな説なので、何も都合悪くございませんがw
四道将軍は4世紀前後なのはもはや定説です。
270日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:23:32.97
アホ、考霊は四道将軍じゃないぞw
271太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/02(木) 10:28:13.36
>3世紀前半の天皇が誰かは分かるわけだろ?
>ならばその天皇の事跡から九州の豪族がある程度分かるんじゃないの?

だから天皇は崇神だよ。
当時神武からその勢力は畿内の中でまだ小さくあったが、崇神の代にて
畿内がほぼ支配下に入った。
ところが畿内より外部の地域の情勢はどんなものかまた朝廷にまずい
豪族等危険性のある勢力はいるか否か?
これを偵察するために四道将軍が四方に派遣されて調査の旅に出たわけだ。
だから畿内以外は充分に何があるのか何が起こってるのかということは
不充分未解明でいたのだ。
まぁ彼ら将軍によってかなり外部地域の情勢を把握できたが、海を隔てて
九州の方面は彼ら将軍の活動一帯よりもっと遠方だったのだから、九州の
隔絶した地域にあった卑弥呼の女王国の動静なんぞ朝廷は掴んではいない。

だから卑弥呼がどの豪族の出なのかということは、朝廷の書庫の書物に
外来の倭人伝の内容位しか把握してるわけがない。だからそんな出なんか
分かるわけがないし、分かってたならば、もうどこらへんに女王国が
あったか結論が出て、いまの論争なんかしないでいいわけだ。
272太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/02(木) 10:31:48.25
>>257
孝霊天皇に関しては 日野郡誌 をググれ。
273日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:31:48.61
>>270
おまえの言う考霊の事跡は四道将軍の吉備津彦だろと言ってるのだ。
何で都合よくすり変えてるんだよ。
274日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:33:52.67
つまり神武(崇神)が狗奴国の男王だな。
なら卑弥呼がモモソ、もしくは保津姫で微妙に一致する。
275日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:36:20.75
>>273
どアホ、勝手に都合よくすり替えてるのはお前な訳だがw
276日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:38:35.69
>>275
記紀で考霊が吉備や出雲を平定してる記事を出してくれ。
277日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:45:29.98
>>276
記紀にはないよ、古事記には考霊の項に皇子の吉備征伐がある(別人ですな)
日野郡史を始め、中国地方には考霊の伝承は数多い。
瀬戸内海には吉備津彦やモモソの伝承が多い。
普通は親子、別人と判断するはずだな。
278日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:48:13.08
だから「記紀にはない」のに「伝承」で摩り替えてるのはおまえだろ。
279日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:51:31.02
記紀を絶対視するなら卑弥呼は基本いない事になるw
欠史八代は何もしなかったのかな?
280太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/02(木) 10:53:35.44
>>279
してるよ。
孝霊天皇は日野郡誌記載のとおりどうやら活発に活動していた。
開化は長い旅をして視察をやっていた。
281日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:55:30.24
>記紀を絶対視するなら卑弥呼は基本いない事になる

俺は初代皇后説なんで「いる」と言ってるわけだが。

だいたい吉備津彦は崇神の命をうけて吉備平定に行ってるわけだから、
考霊なんてとっくに死んでるわけだが。
282日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:58:04.04
考霊天皇については本当によく調べた方がいいよ。
出雲とも関係が深く、ヤマトに鉄をもたらせた
人物の可能性が大だからな。
283日本@名無史さん:2014/01/02(木) 11:00:42.10
>>281
じゃ、なんで古事記の考霊の代に皇子の吉備征伐記述があるの?
284日本@名無史さん:2014/01/02(木) 11:09:41.20
日本書紀の巻第一〜十三は8世紀になってから書かれたものだから信憑性は凄く低い
日本書紀根拠に邪馬台国の話したってしょうがない
285日本@名無史さん:2014/01/02(木) 11:12:42.32
神社の由緒や古文献を参考にするのは当たり前だよ。
286日本@名無史さん:2014/01/02(木) 12:03:16.24
>>283
つまり吉備津彦だろ。
日本書紀では崇神の時代だし、
考古学的にもそれが定説だろう。

>神社の由緒や古文献を参考にするのは当たり前だよ。

参考にするのはいいが、
考古学の裏づけとか言ってたのに大きく変遷したんだな。
287日本@名無史さん:2014/01/02(木) 12:16:19.77
考霊と孝霊天皇は別人か?
288日本@名無史さん:2014/01/02(木) 12:19:40.00
コレ、コレ、石の地蔵さん〜
289日本@名無史さん:2014/01/02(木) 12:21:46.94
>>211
安本が大昔に書いた「平均在位11年」とかに騙されてる馬鹿がまだいるんだなw
そもそも11年の根拠を分かって書いてるのか?w

奈良時代以降は官僚機構が整備され、幼年の天皇も多いし、生前譲位で上皇になった例も多い。
4・5世紀の状況とかなり違うのに、単純に在位年数を比較するなんてナンセンスなんだよ。
290日本@名無史さん:2014/01/02(木) 12:39:57.72
考古学者で四道将軍なんて真面目に信じてる人はいないw
孝霊の人と俺は別人だよ。

崇神の時に倭国連合が成って、東海、丹波、吉備、越が、
始祖や神話を共有、前方後円墳を採用して同族化したということ。
崇神以前の欠史八代の系譜は、これらのクニグニの始祖たちを系図に採り入れるために創作されたんだろう。
291日本@名無史さん:2014/01/02(木) 12:48:49.91
血縁関係がない部族が同族化する時に、神話や始祖を共有化、
各地の神話を採り入れて加上していく(古い部分をどんどん足していく)のはよく見られる事例。

海幸山幸神話で、隼人の先祖を兄弟にしたりとか、
最近の例では戦前の日朝同祖論とか。

これを言うとすぐ、蝦夷は?と脊髄反射してくるがw
記紀はあくまで八世紀の段階だから、その時点で東北支配はそこまで浸透していなかったというだけ。
平安の頃に記紀が編纂されていれば、違っただろうが。
292日本@名無史さん:2014/01/02(木) 12:57:03.75
>>289
>安本が大昔に書いた「平均在位11年」とかに騙されてる馬鹿がまだいるんだなw
>そもそも11年の根拠を分かって書いてるのか?w

安本は10年と言ってるのだが?
おまえこそ間違えてて根拠もクソもないだろ、馬鹿w
293日本@名無史さん:2014/01/02(木) 12:58:36.04
>>290
>考古学者で四道将軍なんて真面目に信じてる人はいないw

城の山古墳の発掘で実在性が極めて高くなった。
今では否定する方が少ないだろう。
294日本@名無史さん:2014/01/02(木) 13:02:43.53
>>291
>海幸山幸神話で、隼人の先祖を兄弟にしたりとか、

兄弟ではないのに、隼人に気を使って兄弟にして揚げたという意味か?
隼人は結局征伐されてるわけだが?
馬鹿だろおまえ。
295日本@名無史さん:2014/01/02(木) 13:10:21.20
結論

崇神は4世紀前半で陵墓は行燈山か西殿塚がほぼ定説。
したがって、
卑弥呼=モモソ媛説は極めて苦しい。
296日本@名無史さん:2014/01/02(木) 13:35:38.99
海幸は隼人舞で溺れる真似をされてるし、
今後、山幸の部下になると誓って許されてる。
けっして上げられてないw
297日本@名無史さん:2014/01/02(木) 13:41:31.53
何故、城の山古墳が四道将軍の根拠になるのやらw
単に古墳前期に大和王権と交渉してた地元豪族の墓とも考えられるしw
298日本@名無史さん:2014/01/02(木) 13:52:20.94
>>297
>大和王権と交渉してた地元豪族の墓とも考えられるし

そうかもしれないが、これだけ影響受けるということは、
強い接触があったであろうから、
四道将軍の派遣以外に考えられない。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120906/wlf12090614000011-n1.htm
299日本@名無史さん:2014/01/02(木) 13:53:49.55
じゃあ早く、平均在位11年の根拠書いてみろよw
安本はどうでもいいからさw
300日本@名無史さん:2014/01/02(木) 13:56:09.00
>>299
面倒だな。
これ見てくれ。
俺が立てたスレだ。
http://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/96a8cbd6169180a157075d145f086b7f
301日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:13:32.64
> これ見てくれ。

やだね。ヤフーなんて2ch以上の馬鹿ばかり。
ザカゾコとかいうキチガイに任せとけ。
302日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:17:03.42
見ないならもう聞くな。
303日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:20:30.91
だろう、だが、考えられる、がものすごく多いスレだね。畿内説はやっぱり
無理だということを表しているのかな。
304日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:22:52.74
まともな知識が無いバカだから、神武の嫁が卑弥呼とか思いつくんだよ。
平均年数とか爆笑もんだなw
305日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:26:48.02
>>303
他説スレが正確だとかw
じゃ、そっちでやればいいのに。
306日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:35:26.03
安本の在位年数は突っ込みどころが多すぎる
307日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:38:34.71
>>305
説明が面倒だから紹介しただけ。

応神元年390年として、
逆に15代下る(新しくする)と、
30代天皇元年は計算上は555年になる。
30代敏達天皇は誕生538年で崩御585年だからおおよそ合うではないか。
308日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:46:13.08
だから、それは天皇の代数が正しいと仮定した場合だろw
代数が正しいことの証明になってない。

てか、証明なんて無理。諦めろww
309日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:49:03.85
>>307
特定の数字だけみて他が全く見えないタイプだな。
アスペを疑った方がいいかも。
310日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:52:24.29
>>308
>代数が正しいことの証明になってない。

俺は昨日上の方で書いたはずだが、
おまえは聞いてきたまま間違ってる事の証明ができすトンズラしたよな。
311日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:55:02.80
代数が正しい証明で出してきたのが在位11年だろw
で、失笑をかっているww
312日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:57:03.41
在位君は根本的にバカなのを証明しただけだろw
313日本@名無史さん:2014/01/02(木) 15:00:10.01
>>311
おまえのような泣き笑いだけどな。

「倉西裕子氏『東アジアの古代文化112号』の「『日本書紀』における紀年の編成をめぐる一考察」

応神元年が390年である理由。

・ 応神3年条において百済国の阿花王(392-405)の即位を伝えているが、
 『東国通鑑』『三国史記・百済本紀』は、阿花王の即位を392年と記しており、
  逆算して求められる応神元年は390年である。

・ 応神8年条文註に百済国の王子直支の来日を伝えている。
  『東国通鑑』『百済本紀』は、直支王(405-420)を
  人質として遣わした年代を397年と記しており、
  逆算して求められ得る応神元年は390年となる。

・ 応神16年条に「是歳百済阿花王薨」と所見されるが、
  『百済本紀』の伝える阿花王の崩年は405年であることから、
  逆算して求められ得る応神元年は390年である。

・ 巻九神功紀後半の紀年が四世紀後半に位置づけられることは、
  実証主義の立場からは否めない。従って、次巻の応神紀の応神元年は、
  四世紀末にくる。応神元年条の正文にある「庚寅」の年は『日本書紀』の編年においては
  西暦270年に当たるが、史実としては390年に設定されていると認識される。」

 ◎考古学的にも応神天皇陵の外堤の須恵器の編年から5世紀初頭あたりと推測されてる。
314日本@名無史さん:2014/01/02(木) 15:12:54.74
海部氏勘注系図で有名な天橋立にある籠神社の宮司・海部氏は82代目だそうだ。
天皇の代数も早期に譲位しなければ今上天皇は80代目くらいじゃないですか?
315日本@名無史さん:2014/01/02(木) 15:19:31.22
>>314
海部氏がずっと父子継承とは思えない。
というかそれはありえない。
親子かどうかは関係なく、
海部氏親族の中でそれなりの年齢の人物を継がせたのだろう。
316日本@名無史さん:2014/01/02(木) 16:06:25.46
古代日本の氏族ってのは、擬制的血縁関係だよ、大概。

物部ってついたら、全部血縁が同じとか言って、
超巨大鉄供給氏族だ!とか馬鹿過ぎ。
317太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/02(木) 16:08:27.10
>>313 曲学の徒掲示板から
[16380] 宿主空年には武内宿禰の設定ができない 2 Name:太国 2013/02/25(月) 22:11

>16379 続き
こういう120年差という記載内容は紀以外でもあるわけで、先代旧事本紀
大成経の應神4年の条にはサソリ座の超新星☆の記事が下表のこれである。


皇紀 西暦 干支 倍暦 倍干
933 273【癸巳】377 丁丑  経(紀)の應神4年
・・・・・・・・・・・・・
979 319 己卯 393【癸巳】 仁徳3年=紀の仁徳7年 蠍座☆発現


 393−273=120年

干支【癸巳】と倍暦の干支(倍干と略称)とが一致している。倍暦は実年代である。

同経の應神4年の記事は、真は仁徳3年だったということだ。この年、サソリ座のアンタレス星の脇にこの超新星が現れ、二星が並立した天体現象を仁徳が見て、高臺(天文台)に登って二星を観察した示唆が,観測を妨げ
る上空の雲を気にしながら、住民のかまどの烟煙を見つめていたという話である
。仁徳はこのころ二上山に二回登山したのも上空二星の動向の観測にその目的があり(同経にその登山の話がある)、山名も上天の二星に因んでのものである。
318日本@名無史さん:2014/01/02(木) 17:07:20.23
>>314
天皇家は、世代で言うと72か74世代とかじゃなぁったかな。
319日本@名無史さん:2014/01/02(木) 17:12:30.20
>>318
そうそう。
欠史8代を父子継承とした上でそれくらいだから、
実際は60代後半だろうね。
320日本@名無史さん:2014/01/02(木) 17:26:46.37
>>316
箸墓古墳は別として、
纏向遺跡の纏向石塚、ホケノ、勝山、矢塚、中山大塚、東田大塚などの、
一連の古墳を、俺は一氏族の古墳群と見てる。
あれは複数の豪族の古墳群ではあるまい。
321日本@名無史さん:2014/01/02(木) 18:17:52.58
そんな根拠ないだろw

マキムク型は全国にある。物部は全国にいる。

てだけだろ?馬鹿馬鹿し過ぎw
322日本@名無史さん:2014/01/02(木) 18:32:06.11
石囲い木槨の積み石墓を除いて
ろくに遺物も出ないかす集めてマキムク型だとか騙ってもね
323日本@名無史さん:2014/01/02(木) 18:43:49.30
>>321
纏向古墳群が一氏族の墓ではないのか?
こりゃ驚いた。
324日本@名無史さん:2014/01/02(木) 18:55:22.76
大体、氏族の概念をどう考えているのやらw

超巨大古代王権とか、夢想してろw

マキムクは豪族連合だよ。
325日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:00:23.92
豪族連合とか人類のことあまり知らないんじゃないか
世襲の力なめすぎだろう

よく古代史の本とか読んでると律令制度が整うまで
世襲の天皇制がなかったとか書いてあるけど
そんなはずないだろう

むしろ制度が整ってないころのほうが世襲の力が強く働くはずだ
326日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:05:04.61
>>324
例えば福岡平野なら3世紀の那珂八幡古墳から5世紀の老司古墳まで、
普通に福岡平野の首長墓と見られてるのだが?
ならば纏向遺跡も同地域に連続してるから同じだろう。
豪族連合って何だよ。
327日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:47:40.27
てか、国家の成り立ちをいうなら、まず部族社会があって、
部族が連合して(宗教や交易、軍事などが理由)、
共通のリーダーが選ばれる→王権だよ、大体。

倭人伝でもそう書いてるしなw

歴史とか、殆ど知らないんだろうなw

いきなり偉い王様が、とかさw
その偉い王様は一体どうやって王様になったんだよw
328日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:54:00.94
奈良盆地で明らかな大王墓は崇神以降(箸墓は置いておく)。
ならばそれ以前の纏向古墳群は大王墓ではない。
実際、記紀でもあのあたりに大王墓の記述はなく、大王墓は畝傍山周辺だ。
ということは纏向古墳群は一氏族の首長墓。
329日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:55:58.63
×奈良盆地で明らかな大王墓は崇神以降(箸墓は置いておく)。

○奈良盆地で明らかな前方後円墳の大王墓は崇神以降(箸墓は置いておく)。
330日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:59:32.36
偉い王様はどうやって王様になったかって
そりゃ軍事力で他を従えたに決まってるじゃないか

日本書紀にもそう書いてある

大体纏向に都が現れるのが3世紀
律令制度が整うのが7世紀
500年もの間世襲の王様なしに
複数の豪族連合から交代で王様を出していたような国が
あるんなら教えてほしいね

歴史のことよく知ってるんだろう
331日本@名無史さん:2014/01/02(木) 20:01:32.28
>>327
奈良盆地はそうなってない。

いきなり南九州から神武という王が来たと書かれてる。

部族連合ならそう書かれてないのは何故?

ニギハヤヒが神武に従ったのだから「主従関係」があったわけだ。
連合とは言えない。
332日本@名無史さん:2014/01/02(木) 20:05:52.01
軍事力ってw
お前、首長は武人だろ馬鹿だろ?ww


実際、軍事というより談合で倭王権は成ったみたいに倭人伝に書いてるがな。

まあ、格好がつかないんで、派手な神武東征が創作されたんだろう。
偉大な武勲を挙げて、初代大王になりましたと。
話し合いで決まりましたでは締まらないw
333日本@名無史さん:2014/01/02(木) 20:10:13.77
>>322
>実際、軍事というより談合で倭王権は成ったみたいに倭人伝に書いてるがな

纏向遺跡はどことどこの連合なんだ?
纏向古墳群には各地域の各首長が埋葬されてるってか?
時代性も古墳の数も合わないのだが?

馬鹿かよ。
334日本@名無史さん:2014/01/02(木) 20:10:52.22
>>332の間違い。
335日本@名無史さん:2014/01/02(木) 20:39:46.26
マキムク型前方後円墳が東瀬戸内の積石墓の影響とか、
読んだことないか?
前方後円墳の源流は讃岐、阿波、播磨にあると考えてる研究者は多いし、
それの大元を辿ればおそらく吉備楯築だ。

弥生の墳丘墓は大体複数が埋葬されていて(楯築もそう)、
それが古墳時代になると単身埋葬となる。
いわゆるオウの誕生だ。
首長連合から王権への変換の目安となるのが古墳なんだよ。
336日本@名無史さん:2014/01/02(木) 20:40:02.83
>>332
>談合で倭王権は成ったみたい

武力で男王が立つと国が乱れるので、
共立でヒミコとトヨが立てられただけだろ?

ずっと共立ではない。
337日本@名無史さん:2014/01/02(木) 20:52:11.37
>>335
陳腐な話だ。

纏向遺跡の出土搬入土器の3分の2が伊勢東海、北陸山陰であり、
他にも吉備、近江、播磨などの地域の土器が出てるし、
当然、それらの地域からの人の移住もあっただろう。

纏向の前方後円墳に各地域の影響があるのはそのためだ。

が、搬入土器は纏向遺跡出土の一部だ。

つまりほとんどが在地の土師器。

これは在地氏族が支配する纏向に地方から人がやってきたという事を意味する。

という事は纏向古墳群は在地の氏族長の墓ということになる。

断じて豪族連合などではない。
338日本@名無史さん:2014/01/02(木) 20:59:07.35
>>331
いきなりなんて来てないだろ。
宇佐、北部九州から吉備を滞在して紀伊半島を南から回っている。
つまり各豪族の話をまとめた逸話に過ぎないのだろう。
339日本@名無史さん:2014/01/02(木) 21:11:18.59
>>338
奈良盆地民からみればいきなりだろうが。
340日本@名無史さん:2014/01/02(木) 21:17:01.83
>>339
河内湖で戦闘して畿内勢勝利。それから迂回して南から侵入してるぞ?
しかも奇襲で謀略しての勝利だけだけどな。
341日本@名無史さん:2014/01/02(木) 21:24:37.72
>>340
言葉尻とらえるしかできなくなったのか。
342日本@名無史さん:2014/01/02(木) 21:27:27.52
>>337
弥生後期は各地で特定首長墓の発展が見られるんだが、
奈良盆地はそれがない。首長権力の増大が見られないんだよ。
で、弥生終末期に突然マキムク石塚が築かれる。
それも他国の墓制の影響が強い。
石塚は当時の倭国では群を抜くデカさで、弥生丘墳墓ではなく古墳と見られている。

マキムクってのは何も無い場所に突然造営された計画都市。

在地勢力だけの、小さいスケールの話じゃない。
343日本@名無史さん:2014/01/02(木) 21:30:03.30
>>341
何言ってんだ?事実だろ。
344日本@名無史さん:2014/01/02(木) 21:34:48.23
>>342
>弥生後期は各地で特定首長墓の発展が見られるんだが、
>奈良盆地はそれがない。首長権力の増大が見られないんだよ
>で、弥生終末期に突然マキムク石塚が築かれる。

だから纏向地域に突然やってきたのだろうね。
そこに各地の人間がやってきた。
在地氏族と言ったのは、各地から来た人たちではないという意味。
ほんの少しだが早く住んでたのだろう。
345日本@名無史さん:2014/01/02(木) 22:37:10.43
纏向には九州土器は皆無に近いでしょ?
346日本@名無史さん:2014/01/02(木) 23:21:55.81
越にしても南西部の越前や加賀は、畿内土器の受け入れが早いが、
北東部の越中越後は遅く、古墳時代前期でも余り浸透しない。

能登七尾の万行遺跡の巨大倉庫跡は、恐らく畿内王権が作らせたものだが
(七尾市付近にそれまで大きな遺跡がなかった)、
古墳時代初期、おそらくこの辺りが畿内王権の勢力範囲の境界線だったのだろう。

城の山古墳=四道将軍の妄想を打ち砕いて悪いがw
347日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:03:57.63
結局卑弥呼像を反映してるのはモモソしかいない。
348日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:45:21.34
万行遺跡の巨大倉庫群は初期大和王権の性格を示唆しているようで興味深い。

つまりは瀬戸内海航路の安全を保障し得る王権、吉備→マキムクが誕生し、
日本列島の東西交易が活発化。新たなる市場を求めて東に進出する。
四道将軍のような軍事的制圧ではない。
三角縁とかをバラまいて、地方の首長たちを懐柔するのが基本方針だった。

東瀬戸内や吉備などの海商国家群、交易連合が、
東方への交易を希求して誕生したのがマキムク王権の成り立ちなんだろう。
東方との交易を求めて、出来るだけ東、マキムクに共同で都を造った。


結果的に日本海航路は衰退する。丹後の真似ばかりしていた越地域の首長たちも畿内に乗り換える。
349日本@名無史さん:2014/01/03(金) 01:14:18.84
記紀の代数は正しい。
→その根拠は平均在位11年。
→平均在位11年は応神以降の代数で割って計算した
→記紀の代数は正しいのが前提w


典型的な循環論法だな、これはw
代数が正しいことを証明するのに、代数が正しいことを前提にしているw
馬鹿丸出しw
350日本@名無史さん:2014/01/03(金) 02:09:42.60
平均在位年数の話はまともな教養があれば誰でもわかる似非学問
351日本@名無史さん:2014/01/03(金) 03:00:49.55
元産業能率大学教授だから、正しい真実より、安直な答えが大事なんだ。
352日本@名無史さん:2014/01/03(金) 03:10:15.17
地名相似とかと同じで、素人を騙くらかす詐欺の手口だわ
353日本@名無史さん:2014/01/03(金) 06:17:40.99
>>346
>古墳時代初期、おそらくこの辺りが畿内王権の勢力範囲の境界線だったのだろう。
>城の山古墳=四道将軍の妄想を打ち砕いて悪いがw

境界線超えて城の山ができたわけだ。
あと会津の一箕古墳群。
卑弥呼=モモソの妄想を打ち砕いて悪いが。

>>348
孝霊天皇の時代そんな事跡はない。
妄想は勝手だが。

>>349
代数が間違ってる事を考古学で証明しろ。

何度逃げてるんだヘタレ。
354日本@名無史さん:2014/01/03(金) 07:57:39.39
>>353
朝から発作を起こすな、どアホ。
考古学的視点からの見地なら、さっさと
神武天皇&神武嫁の三世紀の遺跡、墓を証明してみせろ、逃げるなよw
355日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:05:22.37
>>354
おまえが代数が間違ってる事を考古学で証明することが先。
5回も逃げてるしな。
神武の墓なんか発掘できるわけなかろう、そんな事も知らんのか。
356日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:13:09.19
代数が間違ってる?
イヨや卑弥呼が王として数えられてないぞ。
はい、証明終了ですw
発掘できないので神武の墓の証明が出来ない?
じゃ、あきらめろよw
357日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:18:07.42
>>356

天皇の代数が間違ってることを考古学的に証明しろ。
俺が答えたのだからお前の番だ。

>発掘できないので神武の墓の証明が出来ない?
>じゃ、あきらめろよw

発掘できた墓からしか選べないのかアホ。
358日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:22:55.60
>>357

お前は何も証明出来てないだろ、アホw
神武墓で証明出来ないなら、他の物で代用してみろ。
神武皇后でもいいぞ。
359日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:27:04.20
奈良の大変革期に時期が、応神天皇から平均在位11年で15代遡ればおおよそ合致する。
したがって代数は正しい。

はい、次はお前。
考古学的に代数が間違えてる事を証明しろ。

俺の思う神武の墓は畝傍の丸山。
360日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:35:12.09
平均年齢11年自体の根拠が全く無い。
考古学的には歴代天皇の骨を調査出来て根拠になるんだよw
更に求めるなら卑弥呼やイヨが含まれいない、はい証明却下。
丸山古墳?いよいよ訳わからんぞw
361日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:42:43.01
>>360
>平均年齢11年自体の根拠が全く無い

面倒くさい。http://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/96a8cbd6169180a157075d145f086b7f

>考古学的には歴代天皇の骨を調査出来て根拠になるんだよw

こんなアホも珍しいな。
じゃおまえは発掘されてない墓について一切語るなよ。
箸墓はもちろんだぞ。
362日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:43:40.20
今時安本のような詐欺的手法に騙されバカはいないと思ってたが…
363日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:45:10.49
今時古田のような神武紀元前後というバカはいないと思ってたが…
364日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:48:40.19
モモソ媛説のお馬鹿さんたちは、
卑弥呼の死後1000人死んだ民に服されない情けない男王が崇神だとはっきり言え。

それからの話だ。
365日本@名無史さん:2014/01/03(金) 10:24:09.62
じゃ、卑弥呼は再婚して子供バンバン産みましたと断言するんだなw
366日本@名無史さん:2014/01/03(金) 10:30:19.03
>>363
アホ、ここは畿内説。
古田や安本なんて元々論外だぞw
367日本@名無史さん:2014/01/03(金) 10:37:47.39
>>364
じゃ、それ前提で話をすると、その男王(崇神)の子孫が後に権利を持ち、
名誉回復の為に卑弥呼やイヨの存在を消した
とも推測はできるんだけどな。
368日本@名無史さん:2014/01/03(金) 10:50:17.91
>>365
年已長大無夫壻

子供の事は書いてない。
ウチの母親も年已長大無夫壻だが子も孫もいる。

>>367
卑弥呼がモモソ媛ではないから辻褄があわない。
369日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:13:50.02
神武皇后説なんてモモソ説以上に全く矛盾だらけだろ。
本当にアスペを疑った方がいいかもな。
370日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:18:16.66
モモソ=卑弥呼の功績を崇神にまとめたのなら一番わかりやすいだろう。
371日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:21:06.86
>>369
どうして?
初代皇后はその前後に大乱があるが、
モモソ媛にはない。

孝霊天皇の伝承なんて全く意味がないし、
吉備への征伐は崇神時代の四道将軍の話だ。
372日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:24:36.58
根本的に神武神話は紀元前の話だw
記紀の記述を最優先するなら、根本から守らなきゃ。
373日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:28:51.50
>>372
だからそれを考古学的でもいいし、
平均在位からでもいいから証明してみろって。

俺の説(神武3世紀前後)は考古学的(銅鐸消滅、古墳の造営)でも、
平均在位からでも証明できるわけだ。
374日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:32:43.08
アホ、それは証明じゃなく推測、もしくは妄想と言うんだよw
日本語の意味すら判らないのか?
375日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:34:55.40
>>374
おまえが妄想だろ、根拠を言えないのだからな。
計算をやってないやつがやった人間に偉そうに言うな。
376日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:38:51.54
>>373
何故神武紀元前説を考古学的に証明する必要があるんだ?
俺はずっと神武神話は各豪族の伝承をまとめた創作話という説だ。
創作話に紀元前でも3世紀でも証明なんて出来ないよw
377日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:40:47.67
根本的に神武神話は紀元前の話だというなら証明しろ。
できないなら妄想だ。
378日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:41:57.85
>>377
アホ、そう記紀に書いてるじゃないかw
379日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:42:22.42
文献に忠実なら神武の話は紀元前660じゃね
380日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:42:53.20
馬鹿すぎるな
381日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:46:41.59
バレバレの九州説、安本信者なんてこんなもんだよw
382日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:48:08.51
>>378
「記紀に書いてる」ならBC660年で神武は100歳超えてたと?

こ ん な 馬 鹿 は じ め て だwww

あほくさ。
初詣行ってくるわw
383日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:51:54.80
記紀に書いていることを自分の好き勝手に変えていいなら
神武がいなかったとしてもかまわんことになる
どうせ絶対に変えた根拠は出てこない
384日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:52:56.18
負け犬クン退散しましたw
橿原神宮に初詣へこいよ、今いい天気だよ。
385日本@名無史さん:2014/01/03(金) 11:59:07.99
橿原神宮近くに橿原遺跡というのがあって、BC660を含む可能性のある
縄文後期〜晩期ころのものだ
東日本の影響が強く、青森の亀ヶ岡式土器も出ている
ここの人たちがこの後、水稲耕作をする弥生人にとって代られたのは間違いない
386日本@名無史さん:2014/01/03(金) 12:31:09.11
御所柏原付近の遺跡はどんどん古い物が出土してるよな。
387太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/03(金) 12:40:37.14
倍暦計算から、
神武年代は紀元前後にまたがる。
この天皇はクレオパトラ女王の年代のころ誕生した。
388日本@名無史さん:2014/01/03(金) 15:57:47.06
曲学の徒氏のHPから借用するが、

http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/hougyonenn.gif

これを見たら古事記の方がよほど実年に近いとわかるだろう。
また古事記の場合、日本書紀と違い、記憶伝承できなかった天皇の没年は、
正直に何も書いてない。
逆に言えば、没年を書いてある天皇の干支は強く記憶されてきたという事で、
信憑性がある。

さて、その古事記のピンクのラインを見れば、神武が3世紀前後であることがよく分かるだろ。

◎神武が卑弥呼の時代に存在した事は間違いないのだ。
389日本@名無史さん:2014/01/03(金) 16:02:25.46
もうそんなキチガイじみた妄想は聞きあきたしうんざりだわ。
いかにも頭悪い文系脳ばかりだな。
390日本@名無史さん:2014/01/03(金) 16:08:35.42
>>389
見たくない、聞きたくないで逃げるなよ。
理系だというなら自分で計算してみろ。
391日本@名無史さん:2014/01/03(金) 17:07:54.84
古事記を根拠に出すなら考霊天皇の項を読んでみろ。
皇子達の吉備征伐が書いてあるぞ?
崇神天皇の項ではないからな。
392日本@名無史さん:2014/01/03(金) 17:48:18.98
お前の算数の計算、平均在位は循環論法だと書いてやってるのに
まだ分かってないんだなw
393日本@名無史さん:2014/01/03(金) 17:51:28.12
>>391
それで考霊が3世紀前半として、纏向遺跡や纏向古墳群が、
吉備や播磨の影響を受けてるというわけか?

纏向古墳群は西部瀬戸内や東海、北陸の影響も強い。
考霊ではそれらの説明が出来ないのでアウト。
394日本@名無史さん:2014/01/03(金) 18:05:47.60
>>393
何言ってんだ?
モモソ=卑弥呼なら考霊天皇の活躍自体は
二世紀後半に当たる計算だろ。
395日本@名無史さん:2014/01/03(金) 18:14:19.77
>>394
だから3世紀初めくらいに纏向遺跡が始まり、
東海や西部瀬戸内の影響があるわけだろ?
吉備、播磨だけなら君の話も成り立つが。
396日本@名無史さん:2014/01/03(金) 18:24:17.93
>>395
意味がよく判らないが、考霊天皇の宮は鍵唐古方面だよ?
それに考霊天皇自体の伝承は出雲方面なんだしな。
巻向は崇神天皇からで、モモソは大叔母として巻向に入る訳だが。
なので別に矛盾しないけど?
397太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/03(金) 18:28:50.30
>>388
それは間違いだね。
卑弥呼を神武の代と仮定すると以後の天皇の在位がスシ詰めになり、
おかしいこととなる。

神武は紀元前後の人物。
398日本@名無史さん:2014/01/03(金) 18:32:23.05
>在位がスシ詰め

ここをもう一歩踏み込めれば真実に到達できるのにね
答えは簡単。同時に、複数の大王が並立してたのさ
399太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/03(金) 18:33:54.81
複数じゃぁ記紀の記述を否定することになる。

だからそれはまずい。
400太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/03(金) 18:35:08.73
畿内で神武以降複数なのは後代の南北朝の時代だけだよ。
401日本@名無史さん:2014/01/03(金) 18:42:55.37
>記紀の記述を否定

そこがまず間違いなのよ
402日本@名無史さん:2014/01/03(金) 18:52:56.71
>>396
>意味がよく判らないが、考霊天皇の宮は鍵唐古方面だよ?
>巻向は崇神天皇からで、モモソは大叔母として巻向に入る訳だが。

元々初期纏向古墳群に讃岐や吉備や播磨の要素があるから、
考霊と絡めてたのではないのか?
考霊はそれ以前の唐古鍵遺跡と関係はしてないだろ。

だいたい纏向遺跡は崇神天皇からではなく、
崇神墓は行燈山か西殿塚だから石塚古墳から100年近く経過してからだ。
403太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/03(金) 19:18:48.46
>>401
記紀の記述と君の記紀の記述でない逆の見解との対立でいずれを採るべきか?

君の否定論には根拠が書かれていな〜い。これでは君の見解は不採用となる。

出土した稲荷山鉄剣の銘文の雄略天皇の名を観ても、このとおり記紀に
その名がある。つまり否定こそ妄想である。おまけに銘文の年代は倍暦計算
で雄略即位年を得ている。つまりこのことは記紀の記述がでたらめでないと
言う証拠の一となる。

ただ年代の干支が記紀双方でくい違いがあるのは、当時倍暦と重暦を行使
していたため混乱と交錯が後代とかに生まれたため合わなくなったわけで、
このもつれが解ければ問題は解決して来る。
404日本@名無史さん:2014/01/03(金) 19:38:13.75
>>402
俺は考霊天皇、吉備津彦の中国遠征や瀬戸内征伐伝承が、
倭国乱だとする説だけど?
高地性集落に銅鐸とも関連性はあるだろう。
なので巻向と考霊天皇は基本的に無関係。
巻向はモモソの代からだしな。

また中国地方へヤマトから遠征するとなると、
当然鉄の確保に他ならない訳だろ。
それに考霊の宮は田原本の唐古の近所で弥生期の遺跡も確認済みだ。
405日本@名無史さん:2014/01/03(金) 19:50:06.93
>>404
>巻向はモモソの代からだしな。

モモソ媛を卑弥呼として(そんな訳ないが)248年没、
崇神を258年没として、纏向石塚古墳(3世紀初頭)とは合わないが?
406日本@名無史さん:2014/01/03(金) 20:01:18.18
>>405
石塚自体は被葬者不明だろう。
モモソ母にはオオヤマトクニアレ姫という、
瀬戸内と縁の深い人物ならいるよ。場所的に「大倭」の名を持つ人物は怪しいかもな。
407日本@名無史さん:2014/01/03(金) 20:07:51.83
それに巻向に東海方面の土器が多い点と、
基本的に瀬戸内方面との繋がりが強いモモソ姫。
一見何も関係がないという意見だが、何の事はない。
鉄を確保した天皇の姫として、存在感を増したという話。
聡明で新たな知識も持っていただろうしな。
408日本@名無史さん:2014/01/03(金) 20:16:51.97
>モモソ母にはオオヤマトクニアレ姫という、瀬戸内と縁の深い人物ならいるよ

考霊の后であったのに纏向方面に住んでたのか?

>一見何も関係がないという意見だが、何の事はない。
>鉄を確保した天皇の姫として、存在感を増したという話。

鉄を確保した天皇の姫と東海と何の関係があるんだ。
話が繋がってない。
409日本@名無史さん:2014/01/03(金) 20:28:47.87
石塚が初期なんだろ?新たに土地を確保したに過ぎない話。
モモソが東国に西からの鉄を確保したのなら、普通喜ばれるだろう。
大市という事はそこで配分するんだしな。
モモソの別名は神大市姫だよ。
410日本@名無史さん:2014/01/03(金) 20:42:55.77
>>409
庄内期以前から関東にもかなり多くの鉄が出て、
神門古墳という庄内期の前方後円墳もある。

おまえの言う時代で全く説明できないではないか。
411日本@名無史さん:2014/01/03(金) 20:52:42.94
412日本@名無史さん:2014/01/03(金) 20:55:55.92
勿論例外はあるだろうな。
だがモモソを卑弥呼像と重ねて説明すると、基本的にはこんな所だ。
それに銅鐸の分布や水銀朱を使っても説明出来るぞ。
△にしても鏡作神社は田原本、考霊天皇の宮の近所だよ。
413日本@名無史さん:2014/01/03(金) 20:55:56.46
神門は前方後円墳3基、方墳3基、円墳1基。
414日本@名無史さん:2014/01/03(金) 20:58:20.56
>>412
何で2世紀後半頃銅鐸を廃止したんだ?
で鏡や剣など九州系の埋葬スタイルにしたのは何で?
415日本@名無史さん:2014/01/03(金) 21:02:49.07
>>414
単純に過渡期で説明出来るだろう。
西から鉄の供給手段を確保できたなら、
当然知識としても新たな物が入るよ。
それに当たり前だが全く九州スタイルという訳ではない。
416日本@名無史さん:2014/01/03(金) 21:06:50.08
>当然知識としても新たな物が入るよ

だからと言って唐古鍵にもあった銅鐸も継続すればいいではないか。
全く銅鐸製造を止めてしまって鏡が入ってくるのは何故だ。
2世紀後半頃に畿内勢力ではない新集団が奈良盆地に来た証拠だろう。
417日本@名無史さん:2014/01/03(金) 21:11:58.08
新たに入ったのは大陸からの新たな神仙思想だ。
鏡、銅鐸は決して無関係ではない、バージョンアップみたいな物だ。
銅鐸は元々北部九州でも出土してるし鋳型もあるだろう。
418日本@名無史さん:2014/01/03(金) 21:19:28.88
何で先祖代々の銅鐸を止めたのか説明になってない。
鏡が大陸からの新たな神仙思想なら九州の方が早かったわけだな。
ならば渡来人が直接来たというならともかく、
そうでないなら九州人が大和入りして銅鐸が廃止されたと見るべきだろ。
鉄の出土量の逆転でも明らかではないか。
419日本@名無史さん:2014/01/03(金) 21:23:12.66
まず九州人がわざわざ入る理由がないから。
選ぶ理由があるとすれば水銀朱しかないんだけどね。
となると、結局丹山有りは紀伊半島を指す事になる。
420日本@名無史さん:2014/01/03(金) 21:25:29.99
>>417
それと、日本神話において天孫降臨の時に、
瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣が、三種の神器だ。
なぜ考霊天皇以前の畿内にないのだ?
おまえの言う2世紀後半の考霊天皇以前は「神武系ではなかった」証拠ではないか。
421日本@名無史さん:2014/01/03(金) 21:28:45.77
古墳内部に朱を使う流れも、北部九州から
出雲、吉備から畿内へと続いてゆくだろう。
考霊の中国遠征からモモソの巻向入り、
新たな神仙思想導入で説明がつくんだよ。
422日本@名無史さん:2014/01/03(金) 21:29:34.80
おまえのいうように神武が紀元前後なら、
その時代の畿内に鏡・玉・剣がなく、
銅鐸があること自体が変だろ。

3世紀前後に神武が奈良に来たというなら、
銅鐸廃止も鏡・玉・剣の埋葬も説明できるではないか。

結論

神武は3世紀前後なんだよ。
423日本@名無史さん:2014/01/03(金) 21:37:25.53
神武はヤマトへ南から侵入してるのだから、狗奴国の王かもな。
三世紀説ならむしろそっちを採るよw
ならホト姫の話も説明出来る。
つまり神武は狗奴国関係者の創作話だね。
424日本@名無史さん:2014/01/03(金) 21:40:25.32
>>421
おまえは時代を根本的にまちがえてるんだよ。
だから奈良の銅鐸も孝霊以前とかあほな年代観になるんだよ。
銅鐸は出雲系氏族の祭器だ。
初代皇后ヒメタタライスズ媛のお母さんであるセヤダタラ媛(出雲系大物主の妻)の
住居近くの大阪茨木市・東奈良遺跡は日本屈指の銅鐸鋳造遺跡だ。

つまり神武以来の大王家とは何も関係ないのだ。
425日本@名無史さん:2014/01/03(金) 21:43:15.26
元々ヤマトに居たであろう、欠史八代をすっ飛ばす
記述で済ますのはそういう事かもね。
神武は狗奴国系の後世の創作話。
426日本@名無史さん:2014/01/03(金) 21:45:51.93
出雲系氏族てなんだろうなw
427日本@名無史さん:2014/01/03(金) 21:57:46.64
>>426
唐古鍵遺跡の王。
428日本@名無史さん:2014/01/03(金) 22:00:56.37
纏向に九州人が入ったならその痕跡がもっとあるはず
そういう無視できない状況があれば学者だって認める
しかしないな
429日本@名無史さん:2014/01/03(金) 22:01:47.85
.

ま、今日はこれくらいしといたろ。

.
430日本@名無史さん:2014/01/03(金) 22:04:20.87
考霊天皇こそ出雲方面で沢山伝承残してるんだけどな。
431日本@名無史さん:2014/01/03(金) 22:04:40.99
>>428
石野さんが言うには纏向遺跡に福岡や大分の土器はあるそうだよ。
数は大した事ないけど関わりがあったしょうこ。
最近見つかった唐古鍵の北九州土器もそうだしな。

寝るわ。
432日本@名無史さん:2014/01/03(金) 22:07:25.64
>>431
つうか土器だけ言えば東海勢が入ったと言ったほうがぴったりだな
例の桃核のやつも東海系の祭祀土器だし
433日本@名無史さん:2014/01/03(金) 22:08:06.88
どっちにせよ、三世紀に神武東征なんて夢見ちゃダメだねw
宮崎に鉄とかは有り得ないから。
434日本@名無史さん:2014/01/03(金) 22:18:40.25
庄内吉備型甕のルートは纏向〜四国〜西新でほぼ明らかになっているし
福岡では畿内Xの弥生土器から出土する
その意味では纏向に博多系の土器がないほうが不自然

それよりも東海系の土器の量は異様だし
単に東海が狗奴国で争いに負けて奴隷が入ってきた程度では片付かないだろう
435日本@名無史さん:2014/01/03(金) 22:38:49.07
銅鐸が出雲系とか、無いからw

加茂岩倉を見ても分かる通り、出雲は弥生中期末〜後期初めには、
青銅祭器を棄てて、四隅突出型墳丘墓に移行している。

弥生後期の各地の状況は、
出雲の四隅突出型墳丘墓、筑紫の広型銅矛、畿内東海の見る銅鐸、吉備の特殊器台に分類される。
それぞれが違った宗教祭祀儀礼を行っていたが、
最終的に、東瀬戸内で発生した古墳祭祀に収斂されていく。
436日本@名無史さん:2014/01/03(金) 22:57:46.46
>>434
東海が有力になった時期があったんだろう。
伊勢湾の太陽神を皇祖神として祀るくらいだからな。

アマテラスがいつ皇祖神になったのかは議論が分かれるところだが、
記紀の記述を読む限り、崇神の頃で良いのかと思う。
崇神の時に、伊勢・東・聖vs出雲・西・穢という東西軸、世界観が創生された。

この時点で、大和王権の西の端は出雲で、筑紫は入っていない。
古墳前期末まで、筑紫は大和と台頭だったということだろう。
437日本@名無史さん:2014/01/03(金) 23:35:53.42
古墳祭祀に発展しそうなのは出雲の四隅突出型墳丘墓だな
吉備の祭祀用土器は出雲と纏向で出る
438日本@名無史さん:2014/01/04(土) 01:08:26.56
やはり吉備や中国遠征の記録が残る考霊天皇が鍵。
当然モモソ姫が重要候補として上がるのは当然の事だろう。
神武三世紀君には悪いが、そんな話は成立しようがない。
何故なら紀伊半島南から侵入、短期間で制圧なんて不可能だからだ。
三世紀にそんな痕跡は皆無だしなw
439日本@名無史さん:2014/01/04(土) 06:58:29.25
物部って書いてる奴、物部氏の成立はもっと遅くて、その時代の先祖は
尾張と同族の丹波一族なんだが。
尾張・物部・海部の共通祖先が近畿〜東海一帯で大きな勢力を誇っていた。
天皇家は、その一族の(支族含む)姫を娶り、婿入りし、徐々に乗っ取って行く。
つーか、そもそも元は同族で、そっちが本家だからな。
後からヤマトへ入ったから、出遅れたんだろ。
440日本@名無史さん:2014/01/04(土) 07:34:39.89
和邇氏も丹波一族なんだよな。
孝昭が世襲足媛尊に婿入りし、長男の天足彦国押人命が家を継ぎ、次男の
孝安が天皇家へ繋がる。

神武からして、婿入りし、長男をそこの跡取りにし、次男を分家させ、本家の姫を娶って
本家との繋がりを強めている。これが何代か繰り返される。
ホアカリ一族は、この頃すでに複数の有力支族があった。

天皇家は、孝霊〜開化にかけて、大彦命や彦坐王が現れてから。
ただ、ホアカリ一族と天皇家を分けて考えるのは、後のことなのかも知れん。
崇神の時にアマテラスを始祖として祀っている。
神武でもなくニニギでもなくアマテラスだった。
後に記紀を作る際には、天皇家のところだけが王統になり、あとは枝葉に
されてしまった。
441日本@名無史さん:2014/01/04(土) 08:49:07.00
記紀は当然権力者側の視点なんだしな。
邪馬台国や卑弥呼の記述が無いとすれば、
基本的に描かれていない所から求める物だろう。
王なのに記述が殆どない、欠史八代がやはり怪しい。
その切り替え点に存在する、崇神と百襲姫がやはり注目すべきところ。
442日本@名無史さん:2014/01/04(土) 08:54:12.88
へぇー、キナイブシの諸君は考古学発掘物ばかりが証拠と拘る人たちだと見て
いたが、記紀の文献にも拘るんだね。しかし孝霊天皇の事跡なんぞは何か証拠
が有るのですか。実在が確かめられるのは10代崇神天皇からで、孝霊天皇の
実在はまだ確認できないのですが。
443日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:01:26.70
崇神天皇ですら確実だとは言えないんだけどな。
444日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:07:13.26
>>442
畿内説は考古学重視というのも勝手な思い込み。
俺はむしろ文献資料を最優先している。

考霊天皇に関しては日野郡史を始めとする中国地方方面の各資料。
具体的内容が多く架空の存在とは言えない。
445日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:17:53.42
>>444
それではなぜ歴史学者たちは孝霊天皇の実在を認めないのですか。
446太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/04(土) 09:23:40.70
>>422
考古学にあわせちゃぁダメだな。
主導権は記紀にすること。考古学の年代推定ではよくて10年単位だな。
1年単位はないわけではないが、滅多にその精度は得られない。
稀にはそれはあるがね。

オマエのは沖縄神徳寺保有の大陸来襲関係に詳しい文書の八幡愚童訓の記述
に合わない。コチラの編年では1年違わず一致する。これから神武年代
が紀元前後であることが把握できるのだ。

同書と呉史から

 黄龍2年=230年=開化48年 呉兵沖縄来襲

がある。倍暦計算でも230年が開化48年と一致するのだ。
230年が開化年代なのだ。開化崇神が3世紀の文証である。これから神武
の年代が紀元前後とわかり、倍暦計算から古事記の崇神没年戊寅が258年
であったこともついでに判明するのだ。
447太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/04(土) 09:27:43.62
>王なのに記述が殆どない、欠史八代がやはり怪しい

別に怪しむ必要はない。
孝霊天皇なんか日野郡誌にその活動状況がけっこう書かれている。
448日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:34:57.10
>>445
単なる無知か敢えてスルーしてるんじゃないの?
モモソ姫の父で、ヤマトから出雲地方を平定してる人物なら
必然的に注目しなけりゃいけないと思うけどね。
俺は素戔嗚尊のヤマタノオロチ話の元ネタだと思ってるが。
449日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:36:58.06
>>438
考霊の時代に中国遠征した痕跡など皆無だな。
450日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:39:18.11
>>449
多分バカには読めないんだよ。
451日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:39:45.12
>>439
>物部って書いてる奴、物部氏の成立はもっと遅くて、その時代の先祖は
>尾張と同族の丹波一族なんだが

ホアカリを祖とすると言う意味ではみんな同じだが、
ヒギハヤヒから別れたのが物部宗家と尾張だろ。
452日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:41:09.55
>>450
書いてる事を「痕跡」とは言わないのだよ。
453日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:43:21.62
物部なんて漠然とひとくくりには出来ないよ。
古代氏族は殆ど全て関連性がある。
454日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:46:28.79
>>452
いや、痕跡だけなら沢山有るけど?
考霊山まであるからな。ホントに無知なんだねw
455日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:47:18.03
>>434
>それよりも東海系の土器の量は異様だし

北陸山陰の土器も多いよね。
不思議だね。

答えはニギハヤヒの子ウマシマジと腹違いの兄弟・天香具山が、
二人で東海、北陸、山陰を制してるんだよ。
それでルートを開発できたわけだ。
(物部神社社伝)
456太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/04(土) 09:49:04.18
>>442>>443
崇神元年 崇神天皇 即位:紀
崇神2年 中山神社 この年 創建(埼玉県)
崇神3年 磯城宮に遷:紀
崇神4年 天皇 天下経綸の詔:紀
崇神5年 疾疫 民多く死 :紀
崇神6年 日神を倭笠縫に祀る:紀
崇神7年 天皇 神浅茅原行幸 卜事:紀
崇神8年 大田々根子に大神を祭らしむ:紀
崇神9年 天皇夢で墨坂神等を祠る:紀
崇神10年 群卿を四方に派遣:紀
崇神11年 四道将軍戎夷平定を奏す:紀
崇神12年 調役の詔:紀
崇神13年 生石神社 創建(兵庫県)
崇神14年 9月1日 野代宮で奉斎(三重県):倭姫命世記
崇神15年 阿陀比売神社 創建(奈良県)
崇神17年 始て船舶を造る:紀
崇神18年 国造神社 創建(阿蘇市)
崇神19年 前年から庶万饒いを楽しむ:大成経
崇神20年 一月 善の詔:大成経
崇神21年 本年から21年間 無事:大成経
崇神26年 豊城入彦 誕生:ホツマ
崇神29年 垂仁天皇 誕生:紀
崇神30年 養父神社 創建 (兵庫県)
                              ー続くー
457日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:49:04.70
>>454
それなら神武の痕跡も大阪和泉の横山や海南にあるのだが?
ホントに無知なんだねw
458太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/04(土) 09:50:56.51
崇神30年 養父神社 創建(兵庫県)
崇神38年 チチツク倭姫 誕生;ホツマ
崇神39年 日神 遷座:籠神社略記
崇神40年 千代気根 誕生:ホツマ
崇神41年 英彦山神宮 社殿完成(九州)
崇神43年 磯城厳橿本宮日神を祀る 山口坐神社(天理)
崇神48年 夢見で活目尊を立太子:紀
崇神49年 泉神社 香色雄命 勅命にて鎮祭(茨城県)
崇神50年 大沢神社 相殿神を合祀
崇神51年 日前社遷座(和歌山県)
崇神53年 越前の大彦大臣 明星天子の夢見:嶋廻縁起
崇神54年 穴山門神社 創建(岡山県)
崇神56年 吉志部神社 瑞籬宮から奉遷(紫金山付近)
崇神58年 崇神天皇 ケヒ行幸:ホツマ
崇神59年 崇神49年から本年まで豊饒:大成経
崇神60年 天皇 出雲神宝を見んと欲す:紀
崇神61年 玉置神社 創建(奈良県)
崇神62年 農事を勧む:紀
崇神63年 来年まで市も寛に楽しき:大成経
崇神64年 伊賀隠市守宮 遷幸:倭姫命世記
崇神65年 熊野本宮 社殿創立:皇年代略記
崇神66年 伊賀穴穂宮に遷 :倭姫命世記
崇神67年 熊野奥照神社 勧請(弘前市)
崇神68年 崇神天皇 崩御:紀
459日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:56:25.93
>>457
俺は何も否定してないけどなw
君は中国地方に考霊の痕跡が無いと言ってたけど?
それに神武軍は大阪湾で敗走してるよw
460日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:01:12.93
>>457
それと豪族としての大伴氏や久米氏の存在は否定できまい。
神武と共に大和入りした彼らの存在は認めるが、
神武の存在は否定するなんてのは典型的ダブスタなんだよ。
461日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:02:32.91
アンカー間違い
>>459ね。
462日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:05:52.48
孝霊山
孝霊山(こうれいさん)は、
鳥取県西伯郡大山町と米子市との境界にある山である。
標高751.4m。瓦山(からやま)、韓山(からやま)との別名がある。

高麗の国の人たちが運んできた山との伝説がある。

孝霊天皇は関係なく高麗山だろwww
463日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:07:31.70
わけわからんw
神武天皇を否定というより、神武神話は
その一緒にやってきた豪族集団の象徴として
描かれた物なんじゃないの?という説だな。
もしくは三世紀実在説なら狗奴国の男王だろうという説。
464日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:11:39.91
>>462
だから考霊天皇がヤマトに鉄をもたらした人物だと考えてるんだけどな。
素戔嗚尊伝承もオロチを倒して新しい剣を得るだろう。
465日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:12:14.66
>神武神話はその一緒にやってきた豪族集団の象徴として
>描かれた物なんじゃないの?という説だな

そっちこそ意味分からん。
大友や久米が実在してるのだし、
君の言う豪族集団には当然首長はいただろう。
それが神武で悪いのか。
466日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:16:48.24
>考霊天皇がヤマトに鉄をもたらした人物だと考えてるんだけどな。

鉄なんてわずかながら全国に出てて奈良にもあるんだよ。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu14.jpg

半島との橋渡しをしてた北部九州の海人が動かなければ、
大和なんて鉄を得られなかったのだよ。
467日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:18:29.11
>>465
だから否定はしないと。
だが侵攻の話は無理が有りすぎなので、
象徴として描かれた話だと思うだけの話。
畿内説だと邪馬台国の南に狗奴国があるなら、
その王が南に存在する神武だろと言ってるのだよ。
468日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:26:00.76
>>466
そりゃ入ってたが僅かだろ?
本格的に半島からのルートを開拓したのが考霊だと。
考霊天皇自身は中国地方で死んだという説もある。
北部九州からは瀬戸内を平定した吉備津彦で説明出来るはずだ。
469日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:28:21.32
>>467
それなら熊野しかないじゃん。
神武熊野説?

>>468
吉備津彦は西部瀬戸内、九州まで行ってない。

話が無茶苦茶だ。
470日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:36:04.06
>>469
だから西部瀬戸内から西は伊都津彦がいるだろ?
九州の男王なんだからもう答え出てるじゃんw
卑弥呼や伊予の時代は協力関係があって記録が残る理由だ。
471日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:39:47.68
垂仁天皇の時代じゃないか。
時系列を滅茶苦茶にするな。
472日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:44:19.47
>>471
その年代に揉めてるのだから、時系列的には合うはずだがな。
伊都津彦は代々王は俺だと宣言してたんだよ。
倭人伝で奴国に女王国との境界線がある記述とも一致している。
473日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:58:48.07
>伊都津彦は代々王は俺だと宣言してたんだよ。

大物主なら神武の義理祖父や義理父と言う話や、
モモソ媛の元に毎夜通ったと言う話もあるので、
時代が長すぎるので代々王だったであろうが、
伊都津彦の「彦」は個人名。
歴代天皇でもそれぞれバラバラの彦だろ。
474日本@名無史さん:2014/01/04(土) 11:56:18.67
おそらく元々奴国王でもある伊都津彦が
半島との一番の権力者には間違いない。
伊予以降に邪馬台国、女王国の消息が長く途絶えるのは、
伊都津彦との間の関係がこじれた事に他ならないだろう。
475日本@名無史さん:2014/01/04(土) 12:17:15.15
韓国の申という教授によると、
太成洞や福泉洞といった古墳群から出る倭系遺物が、
当初は九州系だったものが、途中から畿内系に変わるらしい。

これは九州勢の東征以外にあるまい。
476日本@名無史さん:2014/01/04(土) 12:18:17.22
>>474
>おそらく元々奴国王でもある伊都津彦が

はいはい時代が違う、アウト。
477日本@名無史さん:2014/01/04(土) 12:56:38.46
>これは九州勢の東征以外にあるまい。
全くならないよw
技術移転が済んだだけの事。

考霊天皇といえば出雲の「妻木挽田遺跡」を忘れちゃだめだぞ。
まさに邪馬台国の時代、弥生中後期に存在する
吉野ヶ里以上の大集落だ。

ここには考霊天皇に関する伝承も多いし、何より
考霊山の麓だしな。
ヤマトへの鉄の伝承の足がかりは出雲〜吉備を経ていた
証拠の一つになるだろう。
478日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:04:53.56
つうかその時期の半島からは九州の土器も出てるし
はっきり太成洞の連中が商売相手を変えたとわかる
というより太成洞の連中そのものに変化があるな
それは東アジア史でもかなり重要な部分
479日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:07:15.73
まぁ既に考古学でも文献資料解析でも、畿内説有利なのは間違いない。
480日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:31:27.60
>>477
>技術移転が済んだだけの事。

遺体と共にする副葬品は技術移転とは次元が違う話。
君は>>420に答えろ。
畿内の2世紀後半以前には鏡剣玉の副葬がないので、
畿内には神武以後の大王家はいないという事になる。


>考霊天皇といえば出雲の「妻木挽田遺跡」を忘れちゃだめだぞ。

弥生中期末から後期中葉。
四隅突出墓12基 。

おまえってこれまで孝霊天皇絡みの遺跡にするつもりか?
馬鹿すぎて相手にならん。
481日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:37:36.88
考霊天皇絡みも何も、現地でそう伝承されてるのだから仕方ないだろw
482日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:37:49.03
孝霊天皇がハツクニシラスとでも呼ばれてるのなら考えてやってもいいが、
屁みたいな天皇だろうが。
モモソ媛=卑弥呼が先にあるから、孝霊天皇に注目せざるをえないというのが本音だろ。
そんな結論先にありきではダメだ。
483日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:40:23.91
逆だろ、モモソを卑弥呼として証明するなら
考霊天皇の遠征は重要な事だからだ。
三世紀以降に畿内に鉄が増大する点を証明しなけりゃいけないだろ。
484日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:41:27.70
>>481
伝承でいいなら宮崎にも大阪にも和歌山にも奈良にも神武伝承があり、
東征はまったく正しい事となる。
485日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:44:17.67
>考霊天皇の遠征は重要な事だからだ

証明されてない。
吉備津彦もモモソ媛も成人してからの崇神天皇との接点があるので、
4世紀前後だろう。

>三世紀以降に畿内に鉄が増大する点を証明しなけりゃいけないだろ。

ニギハヤヒ。
後の物部氏。
486日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:46:03.47
考霊の后はオオヤマトクニアレヒメという名だよ。
正に大倭国を産んだヒメだ。

またハツクニシラス天皇より、考霊天皇&吉備津彦の伝承が多いかも?
桃太郎もそうだがヤマタノオロチ伝承もそうだとすると、
民間レベルの古典神話に相当根深く浸透してる事になる。
487日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:49:15.32
>>485
古事記では考霊天皇の代だぞ?吉備津彦の吉備平定は。
488日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:51:04.53
ニギハヤヒの子

A・ウマシマジ(物部宗家)前方後円墳→4世紀から崇神も採用、以後大王家の墓制
B・天香具山命(尾張氏祖)前方後方墳→東海地方から関東にまで拡がる。
489日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:52:20.57
>>484
神武東征あったんじゃないの?
紀元前になw
490日本@名無史さん:2014/01/04(土) 13:53:01.26
>>487
日本書紀では考霊天皇の代だぞ?吉備津彦の吉備平定は。
491日本@名無史さん:2014/01/04(土) 14:40:24.67
>>485
>吉備津彦もモモソ媛も成人してからの崇神天皇との接点があるので、
4世紀前後だろう。

4世紀では弥生中・後期の妻木挽田遺跡周辺に、考霊天皇の伝承が
多い点の説明がつかない。
これは考霊天皇が鍵・唐古の近所に宮を持つ点でも
同様な事が言えるだろう。

日本書紀で吉備津彦の吉備平定が、古事記の考霊天皇から、崇神天皇の
代に改められているのは実績強調に過ぎないだろう。
現地の伝承で崇神天皇の名前が殆ど残らない事からもわかる。
492日本@名無史さん:2014/01/04(土) 14:59:07.96
記紀成立後に、各地で記紀に基づいた伝承がかなり創作されたんだよ。

孝霊なんて、八世紀の淡水三船が創った漢風シ号だしw
孝霊山は、やはり元々高麗山で、孝霊の符合から色々地域で伝承が創られた。
元々違う人や神だったのを、孝霊やその家族に置き換えたのだろう。

これらの地域伝承が記紀に採用されなかったのは、記紀編纂時にはまだ存在しなかったから。
493日本@名無史さん:2014/01/04(土) 15:12:30.90
>孝霊山は、やはり元々高麗山で、孝霊の符合から色々地域で伝承が創られた。
元々違う人や神だったのを、孝霊やその家族に置き換えたのだろう。

それこそ根拠が何もない推測だろうw
494日本@名無史さん:2014/01/04(土) 15:22:00.86
しかし、君の言う孝霊の事績が、なぜ記紀に採用されず、
欠史になってるのかを上手く説明出来てると思うがな。


朝廷は日本書紀編纂前に、各地から風土記を提出させている。
当然、日本書紀編纂に使うためだ。
孝霊の事績が君が言う程、正確に伝わってたとするなら、
日本書紀に採用されてる筈だろ?
495日本@名無史さん:2014/01/04(土) 15:42:02.92
>>494
>欠史になってるのかを上手く説明出来てると思うがな。

高麗と名が似てるから考霊天皇で伝承を作ったとでも?
それはいくら何でも強引だねw
近所の大山麓には蒜山という変わった山もあるしな、個人的には
考霊とセットだと思うぞ、ヒルメ。

>孝霊の事績が君が言う程、正確に伝わってたとするなら、
日本書紀に採用されてる筈だろ?

記紀には大陸と交易までした卑弥呼やイヨの業績も載ってないよな?
情報の取捨選択があったという事だよ。
496日本@名無史さん:2014/01/04(土) 15:42:53.27
>>489
紀元前になw

古代の天皇の平均在位や平均寿命を無視した馬鹿な年代観は止めてくれ。

>>491
どっちみち吉備平定は吉備津彦だろ。
吉備津彦は崇神の時代には死んでいたのかな?
497日本@名無史さん:2014/01/04(土) 15:46:57.82
>古代の天皇の平均在位

これは少なくとも卑弥呼や伊予が無い時点で価値がない。
498日本@名無史さん:2014/01/04(土) 15:49:13.58
孝霊山
孝霊山(こうれいさん)は、
鳥取県西伯郡大山町と米子市との境界にある山である。
標高751.4m。瓦山(からやま)、韓山(からやま)との別名がある。
高麗の国の人たちが運んできた山との伝説がある。

韓山、高麗の国の人たちが運んできたという伝承だから、
誰が考えても高麗山→孝霊山だろう。

バカバカしい。
499日本@名無史さん:2014/01/04(土) 15:51:50.99
>>497
>これは少なくとも卑弥呼や伊予が無い時点で価値がない。

応神が390年説が考古学的にも文献史的にも極めて有力。
ここからいろいろ計算できるだろ。
計算しないのは怠慢か、自説と違う数字が出るので止めた卑怯者かのどちらか。
君はどっちだ?
500日本@名無史さん:2014/01/04(土) 15:53:30.60
>誰が考えても高麗山→孝霊山だろう。

つまりここで半島・高麗からの鉄のルートを確保したんだろうな。
スサノオが半島から島をぶんどってきた神話とも一致するよ。
501日本@名無史さん:2014/01/04(土) 15:57:14.54
>>500
スサノオを何年ごろと思ってるんだ?

俺は2世紀初めの倭国王師升
502日本@名無史さん:2014/01/04(土) 15:57:21.45
>>499
>応神が390年説が考古学的にも文献史的にも極めて有力。
ここからいろいろ計算できるだろ。

数値を求めるなら基礎データが正確じゃないとね。
現状じゃ全く不十分、詐欺の手口は嫌いだよw
503日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:00:32.82
>>502
孝霊山伝承なんて言ってるおまえが「基礎データ」とは大笑いだw

倉西裕子さんの390年説を上に貼ってるから見れ。
スルーしてた分際で偉そうに言うな。
考古学的には応神天皇陵外堤の須恵器の編年。
504日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:04:40.74
>>501
>スサノオを何年ごろと思ってるんだ?

スサノオ神話は性格の違う人物像があるからね。
畿内に鉄を持ち込む人物像とすると、2世紀頃の
人物とはいえるかもしれない。

>瓦山(からやま)、韓山(からやま)との別名がある。
高麗の国の人たちが運んできた山との伝説がある。

これはつまり「唐津」のようなもので、やはりこの近所は
弥生期半島との交易口とみるべきだろう。
505日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:04:44.28
>>495
>高麗と名が似てるから考霊天皇で伝承を作ったとでも?

だろうね。少なくとも孝霊という贈り名が三世紀に無かったことは確かだ。


>記紀には大陸と交易までした卑弥呼やイヨの業績も載ってないよな?
日本書紀では一応、神功皇后=卑弥呼説を採っている。
わざわざ近肖古王を八代前の肖古王に読み替えて、
ニ運120年ズラす念の入りよう。
506日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:11:26.51
>>505
>だろうね。少なくとも孝霊という贈り名が三世紀に無かったことは確かだ。

語呂あわせで伝承を創る例なんて聞いた事がないw
しかも君の説では考霊は取るに足らないマイナーな存在なんだろ?
ちょっと話としては無茶すぎだろう。

>日本書紀では一応、神功皇后=卑弥呼説を採っている。
それでもイヨがいないけど?
結局取捨選択してる事の証明になるな。
507日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:11:35.81
平均在位馬鹿に課した宿題は、
応神の実在性や活躍したであろう年代の論証じゃなくてさw

「応神以前の記紀の代数は間違いなく正しい」の根拠を示せ、
なんだよw
508日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:18:56.89
考霊が高麗からの名前なら、正に高句麗とのルートを
弥生期に持っていた人物という事になる。
鍵・唐古の近所で黒田宮だからな、正に鉄だ。
509日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:21:22.07
>>507
>応神の実在性や活躍したであろう年代の論証じゃなくてさw

ならば応神近辺は平均在位11年弱で文句ないな?

>「応神以前の記紀の代数は間違いなく正しい」の根拠を示せ

書き込むのは3回目だ。
いい加減覚えろ。
平均在位11年で神功皇后を入れて神武まで15代遡ると3世紀前半になり、
その前に神武軍の侵入と奈良盆地の環濠集落や銅鐸の廃止、
古墳や土師器の誕生とピッタリ合う。

したがって代数は正しいとなる。

おまえは俺の>>420にまったく答えてないのだが?
510日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:23:22.97
>平均在位11年で神功皇后を入れて神武まで15代遡ると3世紀前半になり、
その前に神武軍の侵入と奈良盆地の環濠集落や銅鐸の廃止、
古墳や土師器の誕生とピッタリ合う。

これはやっぱりアスペか?
511日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:26:55.48
あとこれはどうだ。
おまえは後方墳の説明など全くできないだろ。

ニギハヤヒの子

A・ウマシマジ(物部宗家)前方後円墳→4世紀から崇神も採用、以後大王家の墓制
B・天香具山命(尾張氏祖)前方後方墳→東海地方から関東にまで拡がる。
512日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:27:53.43
>>510
はいはい、感情論で逃げたのね、可哀想に。
513日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:30:03.34
三種の神器にしろ、三世紀にそんな概念なかっただろ。
そもそも副葬しちまったら、伝世できないしw
514日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:34:38.64
>その前に神武軍の侵入と奈良盆地の環濠集落や銅鐸の廃止、

この頃各地で同じような事があるが、出雲でも銅鐸が埋められる。
また妻木晩田遺跡の環濠集落も消えるぞ?

神武軍は出雲地方も制圧したのかなww
515日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:34:43.92
>>513
屁理屈だけは一人前なんだね。
概念があるから九州では鏡玉剣を埋葬して伝世してたのだよ。
何を言ってるのだ。
516日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:39:19.85
副葬して伝世?
そんなこと出来るのか?w
517日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:42:44.88
>>515
弥生期鉄剣に玉の埋葬なら丹後も多いぞ?
鏡も保管されてたよな?
土器を粉砕という特徴もある。
518日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:44:34.12
>>514
>出雲でも銅鐸が埋められる

安本のように銅鐸族が九州勢に滅ぼされたなんて思わない。
出雲系大物主の娘と神武が結婚するので、
それを機に銅鐸を廃止したのだろう。

その余波が出雲にまで及んだ。

及ばなかったのはクナ国だ。
519日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:49:10.41
何も大陸との窓口は九州だけじゃなかった、という事だね。

>>518
>その余波が出雲にまで及んだ。
だけど中国地方遠征の記録は考霊天皇、吉備津日古が多いのだが。
520日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:51:28.71
安本を読んだことないけど
>>518 を読むと安本ってまともそうに思えるな。
少なくとも >>518 のようなアホじゃなさそうだ。
521日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:52:51.05
だから、出雲は弥生中期末に銅鐸を一斉埋納してるからさー。

いい加減に理解しろw
522日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:54:44.81
そりゃそうだよw
523日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:55:46.07
>この頃各地で同じような事があるが、出雲でも銅鐸が埋められる。

>出雲は弥生中期末に銅鐸を一斉埋納してるからさー。

矛盾してるのでどっちかはっきりしてくれ。
524日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:55:58.52
>>518がアホだという根拠は?
525日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:56:44.49
またこれだwww
526日本@名無史さん:2014/01/04(土) 16:59:05.92
>>519
吉備津彦やモモソ媛は崇神の時代まで生きてた可能性高いだろ。
その時点で卑弥呼=モモソ媛説は終了。
527日本@名無史さん:2014/01/04(土) 17:00:10.78
カオスって来たぞw
少し消えるよ、考霊天皇についてはもっと調べた方がいいな。
528日本@名無史さん:2014/01/04(土) 17:01:03.30
俺の

>>420

に答えろw

何を逃げてるんだよw
529日本@名無史さん:2014/01/04(土) 17:01:43.69
>その時点で卑弥呼=モモソ媛説は終了。

そりゃ君の願望だw
530日本@名無史さん:2014/01/04(土) 17:03:19.86
>>529
平均寿命や在位を無視すれば成り立つ愚説が卑弥呼=モモソ媛
531日本@名無史さん:2014/01/04(土) 17:06:11.93
考霊天皇ってなによ
532日本@名無史さん:2014/01/04(土) 17:06:21.38
どう足掻いても無理なのが神武三世紀説だな
533日本@名無史さん:2014/01/04(土) 17:10:59.41
>>531
卑弥呼=モモソ媛のアホは、
孝霊天皇が暴れて「大乱」を起こしてくれてないと困るわけ。
だから無理やり伝承まで持ち出して大乱を起こしたなんてホザいてる。
しかも孝霊が2世紀後半だとさw
崇神と関わってた吉備津彦の時代と100年は違うw
534日本@名無史さん:2014/01/04(土) 17:15:10.85
その昔名古屋を開拓したのは大阪の源氏
535日本@名無史さん:2014/01/04(土) 17:21:55.12
「考霊」を「孝霊」の間違いと気づかない奴が一人いるんだろよ
536日本@名無史さん:2014/01/04(土) 17:41:53.02
平均在位馬鹿は、循環論法だと何度言えば分かるんだw

そもそもマキムク開始=神武東征ってのも、
お前が平均在位から割り出したんじゃなかったか?
537日本@名無史さん:2014/01/04(土) 17:54:09.36
>>536
循環論法だというなら、お前が数字を出して違うと証明すればいいだけ。

しないで文句言うな。
538日本@名無史さん:2014/01/04(土) 18:00:28.78
だったら、記紀の都合のいい箇所だけ抜き書きして、適当に妄想を書くな。
539日本@名無史さん:2014/01/04(土) 18:05:24.86
孝霊は蠅姉妹に4名のご子息生ませて

それらが吉備上道臣・吉備下道臣・針間牛鹿・高志利波臣・豐國國前臣・五百原君・角鹿海直 のはじまりと記には記してある。

おまいらの大好きな夜麻登登母母曾毘賣命がその4名のご子息のねえちゃんにあたる。
540日本@名無史さん:2014/01/04(土) 18:05:45.94
>>538
それは、孝霊の伝承の都合のいい箇所だけ抜き書きして、
適当に妄想を書いてるおまえにそっくりそのまま返そう。
541日本@名無史さん:2014/01/04(土) 18:07:12.95
孝霊の嫁の蠅姉妹のは

蠅は波延だし飯富加羅國の伴跛だし

孝霊から高麗を連想するよりも、孝霊から高霊を連想するのがまだまし。
542日本@名無史さん:2014/01/04(土) 18:11:07.98
ttp://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=217518434989072787959.0004d4e20235fdaf14e56&msa=0&ll=33.120552,130.513244&spn=0.024872,0.038366&iwloc=0004d4e210edb53a2dda4

ここのが 飯江・波延・蠅(はえ)@山門郡

多 太 大 意富 意冨 飯富 於保 と綴って おふ おほ おう と発声するわけだから

飯のはwoと発声して 穢 濊 と共通であったことがばれてしまう。
543日本@名無史さん:2014/01/04(土) 18:12:52.45
孝霊が偉大な業績残したのなら、もっと強く伝承されてるよ。
こんなパッチモンみたいな天皇のどこが偉大なんだよ。
544日本@名無史さん:2014/01/04(土) 19:16:14.35
孝霊は重要だな、やはりモモソが卑弥呼だね。
545日本@名無史さん:2014/01/04(土) 19:18:59.85
そう山門郡は濊人、その南にトンスルリンという古朝鮮式石組遺構があって
近くにバケモノ娘が住んでいた
546日本@名無史さん:2014/01/04(土) 19:42:53.64
>>543
お前は卑弥呼ディスってる訳だな。
547日本@名無史さん:2014/01/04(土) 19:47:46.97
卑弥呼=モモソ媛なら、毎夜現れる大物主のおっさんににやられまくったあげく、
陰部を突いて死んだ哀れな女でいいのだな?w
548日本@名無史さん:2014/01/04(土) 19:58:39.52
そうだ、箸墓話は卑弥呼下げしてるんだよ。
大物主も小蛇(勿論シンボル揶揄)扱いしてるだろ?
結果的に神道、物部下げしてるんだろうね。
549日本@名無史さん:2014/01/04(土) 20:09:01.47
>>548
意味分からない。
何故卑弥呼下げするのだ?
550日本@名無史さん:2014/01/04(土) 20:16:04.64
卑弥呼下げの理由?対唐との関係上に旧来勢力の
影響力排除に他ならないだろう。
仏教布教の為とかもな。
551日本@名無史さん:2014/01/04(土) 20:17:24.67
物部下ろし? 出雲下ろしだろう
552日本@名無史さん:2014/01/04(土) 20:18:47.37
>>550

まったく意味不明。
自分でも自分の言ってる事がよく分からんだろ?
553日本@名無史さん:2014/01/04(土) 20:23:46.55
>>552
え、判らないの?
では何故卑弥呼が記紀上に記述がないと考えててるの?
554日本@名無史さん:2014/01/04(土) 20:42:36.61
>>553
>では何故卑弥呼が記紀上に記述がないと考えててるの?

いや俺は「ある」と考えてるから。
あるのに誰も気付かないだけで。
555日本@名無史さん:2014/01/04(土) 20:53:40.15
突っ込まれるの怖いだけだろw
556日本@名無史さん:2014/01/04(土) 20:59:53.36
おまえらのチンケなアタマいくらひねくっても蠅一匹出ない。
いい加減に諦めろ。
557日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:02:10.49
>>555

ずっと初代皇后だと言ってるが?
558日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:06:08.10
卑弥呼=モモソ姫なら、 ヤマト(鍵唐古)と対半島との鉄ルート解明が可。
また倭国大乱(中国、瀬戸内平定)に銅鐸から
鏡への変更まで説明が出来るからな。
まぁ孝霊天皇の宮が黒田庵という時点で知識の有る奴はわかるだろう。
559日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:07:44.03
>>557
卑弥呼と共通項が皆無だが。
560日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:08:09.51
>>558
卑弥呼死後の1000人死んだ大乱時の男王は崇神か?
561日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:10:48.88
>>559
名前、前後の大乱、宗教力、すべて卑弥呼の要素を備えてる。
男弟が兄になるくらいかな、違うのは。
卑弥呼の元に通う男はタギシミミだろう。
562日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:13:47.04
崇神と「崇」の文字が入ってるしな。
実際疫病を流行らせたり反乱騒動もある。
563日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:14:07.40
>>558
>また倭国大乱(中国、瀬戸内平定)に銅鐸から
>鏡への変更まで説明が出来るからな

全く出来てない。
おまえは俺の>>420に答えてない。
564日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:16:15.17
>>561
また名前か、似ても似つかないしw
婿が二人もいるしな、全然ダメだ。
565日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:27:12.80
>>562
崇神に民が服さなかったのか。
そしてその後また女王が立ったのか?
何でもありかよ。
いい加減な事書くな。
566日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:36:00.79
>>563
またそれか、弥生後期に鉄剣や玉の埋葬なら丹後に多いし
有名な鏡の出土もあるぞ?
神武の出発の地、宮崎には多いのか?

>>565
疫病を流行らせたり反乱騒動の記述は事実なんだが。
また西日本では崇神天皇よりむしろ孝霊や吉備津日子を
祀る神社の方が多かったりな。
567日本@名無史さん:2014/01/04(土) 21:42:11.67
>>566
丹後の鏡は何世紀の何古墳からの出土なんだ?

>疫病を流行らせたり

何で人間が疫病を流行らせれるんだよアホ。

>>562もおまえだろ。
漢字の崇と祟は違うのだがw
崇神は崇高な神。
祟(たた)りではないw
568日本@名無史さん:2014/01/04(土) 22:12:56.85
>>567
>丹後の鏡は何世紀の何古墳からの出土なんだ?

鏡は少し遅いが鉄剣や玉は弥生後期から出土数多いだろ。
また籠神社には有名な伝世されてきた息津鏡、辺津鏡も存在するな。
で、宮崎にはあるのか?
569日本@名無史さん:2014/01/04(土) 22:14:49.36
>何で人間が疫病を流行らせれるんだよアホ。

アホ、その王の時に流行るのが大問題なんだよw
王の責任になるんだからな。
570日本@名無史さん:2014/01/04(土) 22:22:32.07
>漢字の崇と祟は違うのだがw
崇神は崇高な神。

これは俺が悪かったな。だが「崇」のつく天皇は
崇峻に崇徳天皇、皆不吉な事が描かれる事が多いだろう。
571日本@名無史さん:2014/01/04(土) 23:15:39.94
男弟である崇神天皇は邪馬台国女王の台与から政権を強奪したから悪徳天皇でしょう。
572日本@名無史さん:2014/01/04(土) 23:26:04.32
孝霊天皇で大事な話を思い出したわ。
後漢の霊帝(169-189) 諡号は「孝霊皇帝」だよな。
黄巾の乱の時でもあり、まさに倭国大乱の時期にダブるんじゃないかw

ちなみに後年東漢氏一族は霊帝の末裔を自称、坂上田村麻呂がいるな。や
573日本@名無史さん:2014/01/04(土) 23:26:45.62
>>568
鉄剣や玉が出ても丹後の弥生期は台状墓だから奈良とは全然違う。
首長層の系統が違うのだろうし、畿内とは言えない。

>宮崎にはあるのか?

鏡剣玉の副葬は基本的に北九州だ。
畿内に持ち込んだのはニギハヤヒだと思う。

天皇家が鏡剣玉を三種の神器とするのは前方後円墳を採用した崇神以降だと思ってる。
墓制と同じく、同郷(九州)の物部の強い影響だろう。

畿内の大王墓、例えば神武の墳墓と言われる畝傍の丸山なども掘れないので仕方ない。

宮崎も宮内庁管轄の墳墓が多く発掘できないので未定だ。
が、鏡以上の物も出てる。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/9/Gyokuheki/Gyokuheki.htm

さらに宮崎に近い大分の日田からは凄い鏡が出てる。
http://www.netpia.jp/history/kinginsakugan_shuryumon_tekkyo-summary_Japanese.htm

>>569

>アホ、その王の時に流行るのが大問題なんだよw
>王の責任になるんだからな。

大神神社建ててちゃんと鎮めてるだろうがアホ。

>崇峻に崇徳天皇、皆不吉な事が描かれる事が多いだろう

知らんがな、寝る。
574日本@名無史さん:2014/01/04(土) 23:31:25.62
>>573
>鉄剣や玉が出ても丹後の弥生期は台状墓だから奈良とは全然違う。
首長層の系統が違うのだろうし、畿内とは言えない。

墓の形式自体はもちろん北部九州と畿内もちがうぞ?
各地方の影響が見られるだけで。
575日本@名無史さん:2014/01/04(土) 23:38:40.87
卑弥呼=箸墓の被葬者とすれば、
箸墓の次の大王墓である西殿塚には台与と男弟が葬られてるのだろう。

で、その後に東海勢力の侵攻があって、桜井茶臼山・メスリ山が磐余地域に築かれ、

最終的に東海と大和が和合して柳本に行燈山・渋谷向山が築かれる。

卑弥呼の後の男王では国がまとまらず、大王墓は築かれなかったのだろう。
大和・東海の連合の初代が崇神で、東海の意向で、
伊勢湾のアマテラスを皇祖神にしたとすれば理屈に合う。
崇神が実在すれば四世紀前半か。
576日本@名無史さん:2014/01/04(土) 23:44:21.04
>>574
確かに、ヒラバルはマキムクの前方後円墳と全然違う。
丹後の山の尾根を切り出した墓の方がまだ近いか?

筑紫の単独東遷とか今時流行らないから諦めろw
577日本@名無史さん:2014/01/04(土) 23:47:57.58
盗品は市場に出回っているから、この人なんかもすごいもん持ってる

http://fukugenn.jugem.jp/
578日本@名無史さん:2014/01/04(土) 23:55:31.04
盗品もそうだが、
中国から直輸入したもの、戦前・戦中のどさくさに紛れてもってこられたもの
コレクターは出さんし、考古学者は資料にできない
579日本@名無史さん:2014/01/04(土) 23:58:04.10
スゴイものを持ってる金持ちはたくさんいて
一部見せてもらったこともあるが、普通はコレクター仲間にしかみせん
ブログで見せてるのはましなほう
中国からの正規輸入品でも
中国での出自が犯罪がらみのものが多い
580日本@名無史さん:2014/01/05(日) 00:08:50.29
新羅の賊と書いて「あた」と読む
581日本@名無史さん:2014/01/05(日) 00:17:15.12
殺された初代大隅国守の陽侯史麻呂は朝鮮人だったな
宇佐から大隅国に入植した辛島氏も新羅人
582日本@名無史さん:2014/01/05(日) 00:21:05.10
香春から宇佐だな
583日本@名無史さん:2014/01/05(日) 00:31:51.79
宇佐氏は香春(かわら)の銅で儲かった辛島氏が来る前から宇佐に居たようだが
宇佐家伝承、古伝では元は丹波山(大江山)から奥丹後半島にいたらしい
584日本@名無史さん:2014/01/05(日) 00:36:17.43
吾田姫の謀反というのもあったね、モモソの時に。
585日本@名無史さん:2014/01/05(日) 00:39:30.53
偽者と書いて「あた」と読む
586日本@名無史さん:2014/01/05(日) 00:48:22.58
コレクターの話なら、奈良の金持ちで戦後間もない頃の話は中々凄いよ。
倉持ちの家に大阪から食料品目当てで持ってきた物品数々。
兜やら刀剣等のお宝が凄いのだが、とても表に
出せる代物じゃないのが多いんだよ。
まぁ廃仏毀釈や古墳荒れ放題の頃には色々あったみたいだね。
587日本@名無史さん:2014/01/05(日) 01:08:28.68
孝霊について調べてみたが、意味あいとすれば
「国が乱れた」の意味があるようだ。
やはり倭国が乱れたという意味で、天皇にこの名を付けたのかね?
588日本@名無史さん:2014/01/05(日) 01:12:58.63
森鴎外「按スルニ號謚ヲ弁別スヘキ徴証ナシ」
589日本@名無史さん:2014/01/05(日) 01:28:14.59
結局邪馬台国はやはりヤマトという、当たり前な結論になりそうだね。
590日本@名無史さん:2014/01/05(日) 01:36:55.01
どこが当たり前だよ?無知!ウスバカ!
591日本@名無史さん:2014/01/05(日) 01:41:27.31
あまりにも他説が酷いしな。
もはや候補は百襲姫以外にないだろう。
592日本@名無史さん:2014/01/05(日) 01:44:47.42
また性懲りもなくウスバカが!
593日本@名無史さん:2014/01/05(日) 02:20:23.28
神武=崇神=応神で4世紀後半のこと
594日本@名無史さん:2014/01/05(日) 02:27:06.33
アホや、こいつw
595日本@名無史さん:2014/01/05(日) 03:39:31.01
>>587
江戸時代の霊元天皇は孝霊孝元にあやかって贈り名されてるから、
後世、孝霊孝元とも悪い印象は持たれてないみたいだがな。

ていうか、八世紀に創られた漢風シ号で妄想膨らますのはいい加減やめろw
596日本@名無史さん:2014/01/05(日) 07:31:56.25
>>595
国が乱れたの意は、後漢の霊帝の方だろう。
だがそういった知識がないと、日本でも孝霊とは付けないはずだ。
597日本@名無史さん:2014/01/05(日) 07:46:41.13
また孝霊5年に富士山が大噴火をして
琵琶湖が裂けたとする古文献もあるようだ。
さすがに参考程度の信憑性だが噴火はあったのかもな。

これで興味深い記述が、国が荒廃して
人々が東から西へ移動したとある点だな。
598日本@名無史さん:2014/01/05(日) 09:09:56.05
当時の知識層なら、当然逸周書の諡法解第五十四を、
天皇に漢風の名を送る参考にしているだろう。
悪意はなくても、やはりこの年代に国が乱れたと見るべきものだ。
なので古事記には皇子達の平定話が記述されている訳だよ。
599太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/05(日) 09:14:14.64
>>597
過去の2ちゃんのスレ民からの情報によると

 富士山南麓の溶岩樹型として

  大淵丸火公園北駐車場東の溶岩樹型

   外径 120cm 内径60cm


     約1800年前の噴火で出来たものだという。

これは倍暦計算で孝霊の代の前後となる。
600日本@名無史さん:2014/01/05(日) 09:38:59.39
結局、崇神を卑弥呼死後の民に服されない男王には出来ないという事だな。
屁理屈こいて、無理やり崇神するのなら、何天皇だって出来る。
601日本@名無史さん:2014/01/05(日) 09:41:32.51
和漢三才図会(江戸時代の百科事典のような物)では
孝霊五年というのは富士山が出来た年として有名な話。

あとこれで近江の米が取れなくなったとか、その辺の
逸話がごろごろしてるな。
東国の人員が畿内へ移動した理由かもしれないね、
だとすると、巻向に東国の土器が多い理由のヒントとして
注目しないといけないかも。
602日本@名無史さん:2014/01/05(日) 09:46:51.46
>>600
だが孝霊天皇在位中に国中が乱れた時とするは、
十分な話にはなるだろう。

富士山が噴火して、琵琶湖がさけた。
人が東から西へ移動した。
西国で賊退治をした。

日本中であるじゃないかw
603日本@名無史さん:2014/01/05(日) 09:54:30.23
籠神社に伝わる鏡も海部氏が、
ニギハヤヒの3世孫から始まるのでニギハヤヒ(物部系)だ。

>>602
おまえマジで琵琶湖がさけたと思ってるのか?w
604日本@名無史さん:2014/01/05(日) 09:57:53.92
>>603
まだ物部系とか言ってるのか?
さすがに話にならないぞw

琵琶湖が裂けたというのは当然大地震だろう、当たり前の話な。
605日本@名無史さん:2014/01/05(日) 10:06:08.63
勘注系図でも、先代旧事本紀でもニギハヤヒの3世孫からだが。

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_195.html

琵琶湖は古代湖。
606日本@名無史さん:2014/01/05(日) 10:17:02.59
>>605
海部氏が物部系なんて当然だわ。
この時代なら支配階級の大半が広義の物部系と言っていいくらいだ。
607日本@名無史さん:2014/01/05(日) 10:19:36.85
>>606
鏡の分布とも重なるよね。
608日本@名無史さん:2014/01/05(日) 10:20:47.56
琵琶湖には水没集落なんて数え切れない程あるからな。
最近は数百年前の地震で沈んだ集落が確認されただろう?
こんなのが昔から沢山あったんだろうね。
609日本@名無史さん:2014/01/05(日) 10:33:00.18
畿内説の人たちって倭人伝の行程記事はどう解釈してるの?
610日本@名無史さん:2014/01/05(日) 10:38:04.97
どうとでも解釈出来る、それ位の信憑性。
畿内にもってくるならそう解釈するけど意味は殆どない。
611日本@名無史さん:2014/01/05(日) 11:12:25.99
行程記事は安本の言ってるとおりだろ
あれだけでは情報が足りない
612日本@名無史さん:2014/01/05(日) 11:32:14.27
倭人伝で倭人は裸足とあるが、吉野ヶ里から沓も見つかってるし間違い。
大体、冬の雪が積もるような日に裸足なら凍傷になる。
あと卑弥呼の墓の奴婢殉葬も間違いだろう。
日本の古墳からは今だにそんな痕跡はない。
613日本@名無史さん:2014/01/05(日) 11:53:47.62
雪沓のようなのは縄文遺跡からも出てる
弥生時代、古墳時代の裸足の足跡も多数出てるけどな
614日本@名無史さん:2014/01/05(日) 11:55:14.48
大体数まともな日本地図はおろか、東アジア地図さえない時代に
緻密な計算を当てはめて答えが出る訳がないのにな。
宋代の古今華夷区域総要図に朝鮮の混一彊理歴代国都之図、
皆方角に距離感が滅茶苦茶だしw
615日本@名無史さん:2014/01/05(日) 12:16:45.28
・久努国造
http://www.nihonjiten.com/data/263209.html

「久努(くど、くぬ)国造は久努国(現・静岡県磐田市・袋井市周辺)を支配した国造で、
仲哀天皇(14代)の時代に物部連(もののべのむらじ)の祖・伊香色男命(いかしこおのみこと)の孫・
印播足尼(いなばのすくね)を国造に定めたことに始まるとされる。」

つまり仲哀天皇時代(4世紀中頃)には、今の磐田市・袋井市あたりに「久努」という国名が存在してたということ。
調べると今も袋井市にクヌの名残の様な久能という地名があり、静岡市にも久能山がある。

そして、魏書東夷伝では狗奴国は奴(な)国の南に位置するということだから、
北に奴国を思わせる地名があるか調べた。

伊那、恵那など奴(な)国を思わせる地名がある。

これは偶然か。
というわけで磐田市・袋井市周辺を【狗奴国』だと考えてる。

またこのあたりは銅鐸の最終集積地でもある。
616日本@名無史さん:2014/01/05(日) 12:35:18.90
孝霊天皇の時の天変地異で東海地方の人員が
ヤマトへやってきてたのなら、話はわかりやすいな。
出雲地方の孝霊期における遠征伝承も、
天照大神は東からやってきたとなっている。
617日本@名無史さん:2014/01/05(日) 13:08:02.51
狗奴国が静岡で銅鐸の最終集積地だとすれば、
邪馬台国と狗奴国の争いは、
鏡祭器の邪馬台国と銅鐸祭器の狗奴国の争いだろう。
618日本@名無史さん:2014/01/05(日) 13:26:23.11
二世紀は寒冷化や、大地震、洪水などの天変地異が続いたのは事実らしいな。
で、大陸由来の神仙思想が有り難がられた。

また、そういった難局を乗り切るために、カリスマを持った一個人がオウに選ばれ、
古墳に単身で葬られるようになる。
619日本@名無史さん:2014/01/05(日) 13:46:21.57
過去、キナイブシの諸君は九州説に対して証拠を挙げろ、根拠を示せと言って
きた。しかし昨今のこのスレを見るに、同じことを自分達に言えとキナイブシ
以外の人達から迫られるだろう。証拠を示して論じよ。
620日本@名無史さん:2014/01/05(日) 13:58:32.12
九州説と違い、物的証拠を元に話してるのになw
621日本@名無史さん:2014/01/05(日) 14:25:30.13
畿内説は根本的に詐欺だったとバレた以降、
畿内説に証拠を求めること自体に、意味がなくなった。
622日本@名無史さん:2014/01/05(日) 14:40:45.37
邪馬台国がマキムクっていうのは確証がない。
ただまあ、その可能性が高いというだけ。

那珂八幡古墳が倭人伝の一大率の墓で、
畿内勢力が西新町に乗り込んで大陸との交易を始めた。
623日本@名無史さん:2014/01/05(日) 14:59:44.59
>>621
畿内に決まったからといってそうがっかりするなよ。
624日本@名無史さん:2014/01/05(日) 15:33:40.23
>>623
だからきっちり証拠をあげろ。口先だけで邪馬台国が証明できると思うか。
625日本@名無史さん:2014/01/05(日) 15:53:46.92
庄内や西新町が邪馬台国の時代だからマキムク一択になるんだろ。
これを覆さない限りは九州説は無理。
626日本@名無史さん:2014/01/05(日) 16:30:20.06
>>624
散々挙げてるのに見ないふりしてるじゃんw

日本史に充てるなら弥生期の鍵唐古遺跡近くに宮を持つ、
孝霊天皇期が倭国大乱相当、鏡作神社も周辺に存在して、
銅鐸の鋳型も出土しているだろう。

地名にも宮古が残っているし、保津はホトのことだろう?
誰かが好きな物部の里でもあるという事だ。
また王寺町と桜井巻向を結ぶ古道の存在も確認されているようだしな。

孝霊の娘のモモソが卑弥呼の可能性が高いという事だ。
627日本@名無史さん:2014/01/05(日) 16:34:34.11
桜井茶臼山古墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E4%BA%95%E8%8C%B6%E8%87%BC%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3


>この古墳の後円部の空濠の外に、宗像神社がある。筑前国宗像郡の宗像神社と同神である。

>北部九州系の神社が大和にあることは注目に値する。

>石室全体には水銀朱(辰砂)が塗られており、

>副葬品
>前期古墳の副葬品の典型的組合せ、つまり、銅鏡や玉類、剣や刀などの武器類をセットにしていることである



これらの要素から考えて、なお「九州の影響はない」というやつは、もはや現実逃避だろう。
628日本@名無史さん:2014/01/05(日) 16:38:22.54
>なお「九州の影響はない」というやつは、

ここで誰かそんな主張したか?現実逃避するなよw
629日本@名無史さん:2014/01/05(日) 16:38:59.49
>>626
>孝霊天皇期が倭国大乱相当

しない。
実際に吉備制圧したのが吉備津彦なので、
吉備津彦が倭国大乱の2世紀後半なら、定説の崇神時代と100年違いになる。

畿内説を唱えるなら定説ぐらいは頭に入れておけ。
630日本@名無史さん:2014/01/05(日) 16:40:21.05
>>628
ならば纏向遺跡は九州勢の東征でいいのだな。
631日本@名無史さん:2014/01/05(日) 16:45:30.44
>>629
>吉備津彦が倭国大乱の2世紀後半なら、定説の崇神時代と100年違いになる。

簡単だ、定説が間違いなんだろうw
大体記紀ですら内容が異なる。
銅剣・銅鐸文化圏に△中国産説も昔は定説扱いだぞ?

それに孝霊期に天変地異が多発してたらしい資料なら多数あった。
632日本@名無史さん:2014/01/05(日) 16:49:08.43
>>630
ならない、主力じゃないしな。
前方後円墳の影響なら吉備や阿波の方が顕著だぞ。
水銀朱も吉備・阿波だし剣や玉も丹後なら確認済みだろう。
633日本@名無史さん:2014/01/05(日) 16:51:21.66
>>631
>簡単だ、定説が間違いなんだろうw

こいつダセッw
肝心な時だけ定説から逃げてやんのw

>孝霊期に天変地異が多発してたらしい資料なら多数あった

天変地異と大乱は関係ない。
東日本大震災でも大乱はなかった。
634日本@名無史さん:2014/01/05(日) 16:52:22.02
単独で北部九州勢力の東征なんて、バカらしくて話にならんよw
635日本@名無史さん:2014/01/05(日) 16:53:57.66
>>632
>前方後円墳の影響なら吉備や阿波の方が顕著だぞ

物部の拠点だね。

>剣や玉も丹後なら確認済みだろう

鏡がないよね。
それと剣や玉も九州が早い。
そして海部氏はニギハヤヒの3世孫からなので物部系。
636日本@名無史さん:2014/01/05(日) 16:59:58.38
>>633
>肝心な時だけ定説から逃げてやんのw

質問だが定説の基準ってなんだよw
元々巻向=邪馬台国という定説なんか無視してるぞ?
七万戸が大和盆地に入るとは思わないしな。

>東日本大震災でも大乱はなかった。
約1800年程差がありますが‥
637日本@名無史さん:2014/01/05(日) 17:09:08.30
>>635
>鏡がないよね。

それが畿内では欲しかった新しい信仰の象徴という事だろう。
で、畿内には朱丹がある、利害が一致したので
邪馬台国へ外から来ていただいた一人だ、茶臼山の被埋葬者は。
俺は案外崇神天皇じゃないの?とも思っているが。

なので地名はトビ山という、外山だ。覚えておいた方がいいぞ。
638日本@名無史さん:2014/01/05(日) 17:13:25.91
>質問だが定説の基準ってなんだよw

応神天皇元年390年 誉田御廟山古墳
仲哀没年干支・壬戌362年 津堂城山古墳

崇神没年干支・戊寅318年 行燈山古墳または西殿塚古墳

細かい違いはあれども大よその時代はこんな感じだ。
639日本@名無史さん:2014/01/05(日) 17:15:53.55
>>637

>それが畿内では欲しかった新しい信仰の象徴という事だろう。
>邪馬台国へ外から来ていただいた一人だ、茶臼山の被埋葬者は

あのなぁ、鏡なんてホケノ山ですでに出てるわい。
何言ってるんだ。
640日本@名無史さん:2014/01/05(日) 17:21:12.48
>>639
>あのなぁ、鏡なんてホケノ山ですでに出てるわい。
何言ってるんだ。

そうだが?3世紀中頃推定で何も問題ないけど。
641日本@名無史さん:2014/01/05(日) 17:25:34.36
>>640
4世紀初頭の桜井茶臼山の鏡が「新しい信仰の象徴」であり、
「外から来ていただいた一人」と矛盾してるだろ。
3世紀中頃のホケノ山ですでに来てたわけだから。
642日本@名無史さん:2014/01/05(日) 17:30:40.10
>>641
だから新しい信仰対象が一挙に入る訳じゃないでしょう?
先に阿波や吉備に関連した人物が入手する訳だ。

だが北部九州の連中の方が当然多く持ってるので、直接持ってる奴が来た、
そんな感じだろう。
瀬戸内海の障害が無くなったのかもしれないしな。
643日本@名無史さん:2014/01/05(日) 17:36:46.50
>>642
おまえは一度年代を整理しろ。
2世紀後半の倭国大乱が吉備津彦の時代と言いつつ、
4世紀初頭の桜井茶臼山を崇神かもしれないと言うなら、
全く時代が合わないだろ。
お前の説では崇神258年没説しかないわけだから、
桜井茶臼山とは全く合わない。

俺は今から出かけるので、
壮年期の誰が何年ごろか順に整理して書いておけ。
644日本@名無史さん:2014/01/05(日) 17:46:44.82
>>643
記紀でも吉備征伐と四道将軍の年代は異なってるからなw
資料では孝霊天皇の遠征自体数回あったととれる記述がある。

>俺は今から出かけるので、
壮年期の誰が何年ごろか順に整理して書いておけ。

それは無理だな、気が向いたらね。
資料が莫大になるし出せないのもあるからな。
645日本@名無史さん:2014/01/05(日) 19:13:51.33
横からだがw
箸墓が定型化した最初の倭王権の大王墓とした場合、
大王墓の変遷は、
箸墓→西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→行燈山・渋谷向山となる。

記紀によれば、磐余地域でこの時期に陵を造った大王はいない。
柳本も崇神と景行と二人の大王だけで、実際大王墓級の古墳が3つあることになる。

記紀の代数は当てにならないよ、常識で考えて。
記紀の大王の数より、大王墓の方が多過ぎる。
646日本@名無史さん:2014/01/05(日) 19:33:12.92
>>645
>記紀の代数は当てにならないよ、常識で考えて。
>記紀の大王の数より、大王墓の方が多過ぎる。

それは百舌鳥古市古墳群でもそうだ。
皇后か皇子としか説明できない。
647日本@名無史さん:2014/01/05(日) 19:35:23.05
うどの大王墓のことですか

ねっからの更地に土盛って拵えたわけでもないのでわ
648日本@名無史さん:2014/01/05(日) 20:02:08.05
>>644
>それは無理だな、気が向いたらね。

おおよその時代観もないんじゃダメじゃないか。

>>645
>記紀によれば、磐余地域でこの時期に陵を造った大王はいない。
>柳本も崇神と景行と二人の大王だけで、実際大王墓級の古墳が3つあることになる

そうだね。したがって箸墓が崇神ということはありえないから、
柳本のどれかになり、どっちにしても4世紀絡みだから、
やはり崇神258年没説は無理だね。
城の山古墳でもそうだがやはり318年没説しかないよね。

そうなると卑弥呼=モモソ媛説もなくなるわけだ。
また吉備津彦が2世紀後半なんてトンデモになるわけだね。
649日本@名無史さん:2014/01/05(日) 20:04:00.40
>>645
記紀の記述はやはり完全には賛成出来ないだろうな。
やはり九州系の人物の墓だとしたら、茶臼山だろうな。
これは外山という地名からもわかる。
650日本@名無史さん:2014/01/05(日) 20:13:59.17
>>648
そもそも記紀の記述自体に疑問点が多いのに、簡単には出せないよ。
だが崇神天皇に対しては、後世持ち上げる記述が
かなり強調されていると思うけどな。
特に四道将軍の西方征伐については完全に変。
各地の文献や伝承を調べる限りは、孝霊に関する物が多い。
651日本@名無史さん:2014/01/05(日) 20:33:38.40
何度も書いてるが、畿内土器を受け入れてる地域もあれば、
在地土器を使い続ける地域もあり、それはモザイク状態なんだよ。
律令の頃の郡レベルの大きさ。だから考古学的には片仮名でクニと書かれてる。

畿内王権の影響は面で広がるんじゃなくて、あくまで点。
畿内土器を受け入れてる遺跡のすぐ隣の遺跡が在地土器を使い続けてるみたいな。

こんな古墳前期の状況を見ても、超絶巨大王権とか、四道将軍みたいな軍事的制圧なんてありえない。
652日本@名無史さん:2014/01/05(日) 20:41:31.02
>>650
>特に四道将軍の西方征伐については完全に変。
>>651
>四道将軍みたいな軍事的制圧なんてありえない

変やありえないと言うが日本海側は城の山古墳で確定だと思うがこれも否定なのか?
あと会津には一箕古墳群というのがあり、これも4世紀前半からなんだよね。
653日本@名無史さん:2014/01/05(日) 20:59:02.35
だから、お前が騒いでる城の山も、単に畿内王権と交流のあった地方豪族の墓だろう。

少なくとも四道将軍とか、畿内の軍事的制圧とかの根拠にはならない。
654日本@名無史さん:2014/01/05(日) 21:02:29.55
城の山や会津の古墳は崇神時代の四道将軍で説明できるとしても、
千葉の神門古墳群は庄内期とも言われる前期初頭だ。

これは四道将軍よりかなり早い。

大王家(神武)が大和入りした後、すぐに関東まで進出した記録はない。
また神武以降の大王家の墓所は畝傍山近辺であって纏向地域ではない。

したがって前方後円墳の誕生は大王家以外で考えねばならない。
655日本@名無史さん:2014/01/05(日) 21:04:36.11
>>653
馬鹿かよ。
仮に地方豪族の墓だったとしても、
畿内地域の強い影響を受けてるわけだろ。
そんな強い影響与えたのは四道将軍以外に何があるんだよ。
656日本@名無史さん:2014/01/05(日) 21:12:50.52
城の山の副葬品は鏡、玉、剣、弓矢など典型的な武人。
畿内系であるが元を辿れば九州系だろう。
657日本@名無史さん:2014/01/05(日) 21:22:46.12
あとまあ、畿内王権で何故、吉備や東瀬戸内地域が主導権を握ったのか?なんだが。
瀬戸内海航路ってのは難所が多く、現在でもタンカーが通行する時には、
神戸のコンサルに水先案内人を頼むんだとか。

つまりは瀬戸内海航路では阿波や讃岐、播磨とかの海人たち、
潮待ちの港である鞆ノ浦などを抑えた吉備の手助けが不可欠だったと。
658太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/05(日) 21:37:40.23
ウィキペディア から

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)


     230年 呉の沖縄出兵 の解説

         ↓

230年に呉は海を渡って夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に兵を出したという記録があり(夷州には辿り着いたが、亶州には辿り着けなかった)、これは台湾(夷州)と沖縄諸島(亶州)ではないかと考えられているが、日本ではないかとも考えられている。

この頃、呉の呂岱は交州に出兵して、この地の独立勢力の士氏一族を滅ぼして、この地を呉の直轄とし、南海交易の利益を占めた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして

 日本に来襲した外敵は開化48年に20万3千人

         神徳寺(沖縄県那覇市):八幡愚童訓(甲本)上 による。


このことは 開化48年=230年 だったということを意味している。

これから 崇神元年=237年 が確定し、天津神算木の
計測が正確だったことを物語る。そして・・・

 古事記の崇神没年(戊寅)=258年

が真と判明したのだ。
659日本@名無史さん:2014/01/05(日) 21:42:22.24
>>657
弥生時代の鉄の供給で北九州勢力が瀬戸内各地に拠点を持ってただけ。
今の所、前方後円墳は東部瀬戸内の発案だろうが、それ自体はさほど意味はない。
660日本@名無史さん:2014/01/05(日) 22:02:10.46
ホケノ山古墳は3世紀前半に築造され、
6世紀末の巨大横穴式石室がある。
他人様の墳墓に巨大横穴式石室を造ったとは考えられないから、
これは奈良東部で3世紀前半から6世紀末まで力を持ち続けた氏族の墓ということになる。

物部氏。
これ以外に答えがあるなら言ってくれ。
大伴はちがうぞ、新沢千塚あたりだ。
661日本@名無史さん:2014/01/05(日) 22:33:26.69
ホケノ山古墳は6世紀末に巨大横穴式石室が設置された時に整形された

4世紀の楽浪郡崩壊後に阿さん等のおひとが亡命してきて鏡の製作の手伝いをした。

石囲い木槨のベースはBC100年あたりから観察される楽浪木槨墓で

木の高度な加工には鉄製の工具の存在が欠かせないわけでね

4世紀から6世紀末整形時までのホケノ山は尾根上に築かれた方形墓ということ。
662日本@名無史さん:2014/01/05(日) 22:40:36.52
>>661
違う。
木槨墓でも丸太なので、どちらかと言えば、
伽耶の太成洞や福泉洞などに多いアルタイ系木槨墓に近い。

が、時代的にはホケノ山の方が早いので全然関係ないだろう。
663日本@名無史さん:2014/01/05(日) 22:49:21.49
ホケノ山の3分の2の相似で石囲い木槨も共通する宮崎のは何なんですか?
ただ宮崎のは丸太じゃなくて角材らしいです
664日本@名無史さん:2014/01/05(日) 22:50:33.14
>>661
これ表面的な考古学のニュースしか見てないで想像したすげえトンデモだぞ
665日本@名無史さん:2014/01/05(日) 22:55:43.46
ホケノ山の頂部に位置する石囲い木槨墓は

4世紀に構築された弥生墓ということにはなる。
666日本@名無史さん:2014/01/05(日) 22:55:51.76
>>660
何度もいうが、その頃なら殆どが物部氏と言ってよいw

崇神天皇についてはやはり記紀の記述に根本的な疑問がある。

古事記の序文にある崇神賢后、「后」ってどう考えてもおかしいよな?
皇后だったんじゃないか?
原義は帝王と注釈があるが、それでも妙な話。
本来は女王がいた位置なのかもね。
667日本@名無史さん:2014/01/05(日) 22:57:43.05
矢板や高度な木製加工品をぜんぶ石器で作ったと思ってるんじゃね
668日本@名無史さん:2014/01/05(日) 23:11:11.83
モモソ=卑弥呼説だとすれば、何故対外的な外交史が見当たらないか?
男王は吉備津彦か崇神天皇か等、まだ謎は多いからな。
簡単に記紀だけを資料には時系列を記す訳にはいかないんだよ。
とりあえず孝霊=倭国乱の時期は堅いと思うが。
669日本@名無史さん:2014/01/05(日) 23:22:32.61
赤坂今井墳丘墓や奈具岡遺跡、日吉ヶ丘遺跡。
発掘があまりないのが難点だけど、丹後もあなどれん。
670日本@名無史さん:2014/01/05(日) 23:27:14.53
>孝霊=倭国乱の時期は堅いと思うが。

全然堅くない。
君自身が大よその年代観さえ持ってないのだから。
孝霊は3世紀第3四半期だろう。
671日本@名無史さん:2014/01/05(日) 23:37:08.59
>>670
だが各地の伝承に残る孝霊像とその年代が合わない。
鍵唐古の宮を持つ天皇だがそれでいいのか?
まず年代を求める基準が違うという事だよ。
俺は記紀の各天皇の代を疑ってる所からスタートしてるしw
672日本@名無史さん:2014/01/05(日) 23:43:29.49
>>609
昨日「ナゾ解き卑弥呼 邪馬台国」という番組でやってたが、当時の大陸の人は、日本が南に伸びた島だと思ってたらしい。
当時の南=>現在の東
イト国から出雲に行って、山陰の天橋立あたりで舟を降りて陸路で奈良に到着。
こう考えると行程がほぼ一致するらしい。
瀬戸内海より日本海沿岸の方が海賊に襲われず容易に行き来できるし、
山陰から奈良までの陸路は峠がほとんどなくて楽にたどり着けるとのこと。
小路田教授の説。
673日本@名無史さん:2014/01/06(月) 01:12:56.34
>>672
壱岐が対馬の南にあると書かれているから少なくとも倭人伝の中で方角を勘違いしてる可能性は低いよ
674日本@名無史さん:2014/01/06(月) 05:20:42.05
>>673
方角が違うのはそこから先の日本列島のことです。
当時の大陸人が作った地図では、日本列島が南向きで青森あたりが最南端になってます。
675日本@名無史さん:2014/01/06(月) 07:58:09.83
>>672
見逃したなあ。
確かに、丹後はそのころは鉄とかたくさん出てるんだよ。
青龍3年(235年)の鏡も出ているし、ガラス工房も確かあったな。
676日本@名無史さん:2014/01/06(月) 07:59:41.48
>>674
>当時の大陸人が作った地図

そんな地図があったのか。当時とは魏代?晋代?
どこで見れる?詳しい情報教えてくだされ。
677日本@名無史さん:2014/01/06(月) 08:34:07.86
>>663
宮崎市の檍(あおき)古墳か?
石囲いじゃないよ。
678日本@名無史さん:2014/01/06(月) 09:19:26.36
>>674
本州の配置だけが間違ってると仮定した場合、魏が想像する日本では鹿児島の隣に
山口があることになるぞ
畿内にはたどり着けない
679日本@名無史さん:2014/01/06(月) 09:24:39.75
>>675
散々このスレでも丹後の事は出てたはずだが。
鉄剣なんて非常に多いんだよ。
680日本@名無史さん:2014/01/06(月) 09:28:27.95
>>678
ずっと後年の地図でさえ、本州を琵琶湖で裂いたような
地図が存在する位だからな、それ位の無知は別に不思議じゃないw
681日本@名無史さん:2014/01/06(月) 09:29:02.09
>>678
確か、北海道を除く日本列島が全体的に90度くらい南に回転してるような
地図だったと思うよ。すぐには見つからんけど。
682日本@名無史さん:2014/01/06(月) 10:27:13.56
結局九州説の連中が必死でやってるパズルなんて全く意味がない。
結局日本史資料と照らせあわせながら、考古学の
調査結果を検証してゆくしかないんだよ。
683日本@名無史さん:2014/01/06(月) 10:37:56.22
そうだな
もし行程パズルをやったら畿内説は自滅するもんな
684日本@名無史さん:2014/01/06(月) 10:46:28.98
勿論パズルでは九州説も距離的に選択肢から消えるけどな。
685日本@名無史さん:2014/01/06(月) 11:00:01.63
古事記の崇神賢后については誰も反応無しか?

いくら何でも有り得ない間違いな訳だがな。
崇神の后が賢き后ともとれる訳で。
すると大物主がミマキイリヒコ、という図式が成立するかもよ。
御、巻、入り彦という事で。
686日本@名無史さん:2014/01/06(月) 11:40:29.39
>>685
モモソ媛が陰部を突いて死んだというのは大物主に殺されたようなもの。
仕返しとして弟の吉備津彦か崇神が、大物主を殺したのだろう。

だから疫病の時、崇神は大物主の祟りを恐れた。
祟りを恐れたというのは大物主が死んでることを知ってたし、
祟られるようなことをしたという事だからな。

この話がやんわりと国譲りに投影されてるのではないかと思う。
687日本@名無史さん:2014/01/06(月) 12:12:55.56
記述ではモモソの神託では疫病が治まらなくて、
崇神の枕元に現れた大物主が、オオタタネコを呼べと
神託した事になってる。つまりここで崇神アゲしてるんだよ。
この辺りなんて相当匂わせる記述だよなw

で、古事記では崇神賢「后」だ。
かなり違和感があるんだよ、やはり権力を持つ女性がいたはず。
688日本@名無史さん:2014/01/06(月) 12:20:13.15
崇神=女性=台与 説というのはあるけどな
689日本@名無史さん:2014/01/06(月) 12:28:17.92
どっちにしても崇神の時代には大物主はいなかったわけだ。
出雲での前方後円墳の造営が、他地域にくらべ遅れる事と関係してるかもしれない。
690太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/06(月) 12:32:33.64
>>685
それは皇后の意味ではないですね。崇神は男性です。

それ、古神道の最高機密であなたには現今理解できないでしょうな?
691日本@名無史さん:2014/01/06(月) 12:36:40.61
>>690
后の源義が帝王なのは古事記の注でもわかる。
じゃ、他の王達はなぜそう記述されないのか?という疑問なんだけどね。
692太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/06(月) 13:33:40.11
強いて説明すれば、抽象的ですが、ここでの后は降下の意味です。

天孫降臨の降下に因むためですが、本格的降臨の降下ではなく、それに
準じた、天降りに準じての因縁というか、そういう意味で 后 の御名が
ついてるんですよ。

皇后の意味でもなく後醍醐天皇の 後 でもないです。
693日本@名無史さん:2014/01/06(月) 14:23:34.34
>>692
それは夢で神を下ろした事を言ってるという解釈でいいのかな?
だがそうなると、それをわざわざ注釈で書く意味がどうなんだ
とも思うけどな。

もう一つ崇神天皇についての疑問が、特筆されるような天皇なのに
祀られる神社が少なすぎる点だろう。
例えば瀬戸内の成敗を指示したはずなのに、神社には吉備津日子と
モモソの名はあるが崇神天皇の名がない。
これでは日本書紀の記述とはやはり矛盾するだろう。
694日本@名無史さん:2014/01/06(月) 15:05:58.81
>>693
神武天皇を祀る神社もそんなに多くないよ。
695太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/06(月) 15:30:40.22
夢見のことではないですね。天を前、地を後(ここでは后)と観ての
意味です。将棋でいえば□□玉引とか□□金引とかの棋譜のようなこと。

神社神宮 ↓ と関係ある資料 まだこういうのあると思いますが・・・。
崇神2年 中山神社 この年 創建(埼玉県)
崇神3年 磯城宮に遷:紀
神13年 生石神社 創建(兵庫県)
崇神14年 9月1日 野代宮で奉斎(三重県):倭姫命世記
崇神15年 阿陀比売神社 創建(奈良県)
崇神18年 国造神社 創建(阿蘇市)
崇神30年 養父神社 創建(兵庫県)
崇神39年 日神 遷座:籠神社略記
崇神41年 英彦山神宮 社殿完成(九州)
崇神43年 磯城厳橿本宮日神を祀る 山口坐神社(天理)
崇神49年 泉神社 香色雄命 勅命にて鎮祭(茨城県)
崇神50年 大沢神社 相殿神を合祀
崇神51年 日前社遷座(和歌山県)
崇神54年 穴山門神社 創建(岡山県)
崇神56年 吉志部神社 瑞籬宮から奉遷(紫金山付近)
崇神58年 崇神天皇 気比行幸:ホツマ
崇神60年 天皇 出雲神宝を見んと欲す:紀
崇神61年 玉置神社 創建(奈良県)
崇神64年 伊賀隠市守宮 遷幸:倭姫命世記
崇神65年 熊野本宮 社殿創立:皇年代略記
崇神66年 伊賀穴穂宮に遷 :倭姫命世記
崇神67年 熊野奥照神社 勧請(弘前市)
696満州一等兵:2014/01/06(月) 15:36:26.22
コウ「后」

1 君主。「后王」
2 きさき。「后妃/皇后・三后・母后・立后・皇太后」

〈ゴ〉うしろ。のち。「午后」
[補説]は「後」と通用する。
697日本@名無史さん:2014/01/06(月) 15:44:16.74
>>693
そこが実在が疑われる部分だろう。

>>695
后についてそれでは正直わからないな。
だが記述に違和感を感じる部分に代わりがない。

祀る肝心の瀬戸内方面がないだろ?
そこが日本書記には作為があると言える部分だな。
698日本@名無史さん:2014/01/06(月) 15:51:44.65
>>697
天皇とは本来祀る存在であって祀られる対象ではない。
もちろん応神天皇が八幡神と同一視されて祀られてる場合もあるが。
699太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/06(月) 15:54:06.18
>>695 訂正
× 神13年
○ 崇神13年
700日本@名無史さん:2014/01/06(月) 16:15:00.84
>>154

これこれ。モモソヒメだとここがおかしいんだよ。
卑弥呼の頃は、天皇家はまだ王じゃなかったとしか考えられん。
崇神の何代か前で、単独では王にはなれなかったんだ。
女王(ミコ)と男王というセットじゃないと争いになる。

ミコを出したのは天皇家じゃない。じゃあどこ?となるが、天皇家と張り合う
位の力と権威を持っていたのは、丹波一族(物部。尾張等の祖)しか考えられん。
崇神の没が318年なら、3世代程度前の人だ。モモソヒメも孝霊の娘だから
近いんだが、巫女も男王も天皇家から出すなら、共立する意味が無い。

纏向に東海や山陰の影響が強いこと、天皇家の后の系譜が丹波一族が多く見られること、
丹波一族はアメノホアカリの子孫とされていることから、この頃は火明一族とニニギ一族が
主導権を争っていたが、どちらかが王になっても争いが起き、女王をホアカリ一族
が出し、男王を天皇家にすることで収めた。
この時に巫女の宮を纏向にし、男王は近くに宮を作った。
江戸屋敷のように、有力氏族は纏向周辺に屋敷を構え、なごりが吉備や丹波、河内、
出雲、美濃等の地名に残ってるんじゃないか。

卑弥呼没後も同様になり、トヨを立てた。トヨは開化の后の竹野姫(天豊姫)
じゃないかと思う。梁書にはトヨが朝貢し男王も並んで爵位をもらったと
書いてあるらしい。

トヨが使いをしたのは266年。崇神が1世代下の人なら矛盾はない。
崇神は王の中の王に近いと思うが、それでも巫女はしばらく続く。
巫女を立てないと争いが起きることに凝りて、その後も巫女と男王の
セットでやっていったんじゃないか。
巫女はホアカリ一族から出し、男王の后となる。世代を重ねると、天皇家自身が
ホアカリの血が入るはずなんだが、それでも変わっていない。
崇神の母はホアカリ族だし。
701日本@名無史さん:2014/01/06(月) 17:33:42.42
邪馬台国は絹を生産してたが、3世紀頃の絹はほとんど九州北部で出土してる
702日本@名無史さん:2014/01/06(月) 18:09:10.28
>>700
曲学さんのパクりはやめましょう。
703日本@名無史さん:2014/01/06(月) 18:12:32.69
>>700
そこがミソ、後年に崇神(男王)を上げてる理由かもしれないだろ?
卑弥呼=モモソなら、記紀においてモモソ下げする理由にはなりうる。
日本書記でわざわざ辱めてやろうと言ってんだしな。
704日本@名無史さん:2014/01/06(月) 18:15:39.75
>>701
産出してたのは倭国だよw

それに丹山は阿波だしな。
705日本@名無史さん:2014/01/06(月) 18:24:09.17
>>692
奥義や文献の注釈なんて、後ろめたさを隠す場合に使われるんですよw
706日本@名無史さん:2014/01/06(月) 18:50:33.26
>>693
天皇を祀ってる神社なんてあるの?
いや、明治神宮とか橿原神宮とかの明治のは除いて。
あと、怨霊になった天皇も除いて。
707太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/06(月) 18:54:40.74
>>705
まぁそういう奴もいるだろう。
コチラは真面目な話だ。
708日本@名無史さん:2014/01/06(月) 19:52:30.73
>>707
いや、真面目な話。
表に出せない、隠匿する必要性から奥義になるんだろう。
709日本@名無史さん:2014/01/06(月) 20:12:10.40
古代日本史で何か裏がありそうな場面に
必ず登場させられるのが聖徳太子だね。
物部氏を弱体化させたのもそうだし、物部の
おそらく象徴だった信貴山を命名こした事になってるのも太子。
710日本@名無史さん:2014/01/06(月) 20:25:01.70
>>674
> 当時の大陸人が作った地図では、日本列島が南向きで青森あたりが最南端になってます。

「当時」とはいつのことだ?
711日本@名無史さん:2014/01/06(月) 20:49:02.72
宋代の時点でも南北に間違えてるね。
上(北から)倭奴 日本 毛人 琉球 、そして蝦夷だ。
712日本@名無史さん:2014/01/06(月) 20:57:00.79
后=後だからな。
賢后は普通に、後の方のハツクニシラスという意味だろう。

記紀の崇神が女王というのは流石に無理がある。
713日本@名無史さん:2014/01/06(月) 20:57:10.05
>>711
「当時の大陸人が作った地図」のことを訊いてるんだが、読めない?
714日本@名無史さん:2014/01/06(月) 21:00:51.25
当時より新しくなると精度が悪くなるのかw
715日本@名無史さん:2014/01/06(月) 21:09:36.35
台与を最後に、四世紀以降、大陸との交渉が無くなるからな。

倭の五王の讃=ホムタワケの時、南朝に朝貢したが、

南朝から返使は派遣されなかったようだ。

会稽郡と同緯度だとすれば、日本列島をかなり南に伸ばさないといけない。
716日本@名無史さん:2014/01/06(月) 21:12:41.11
>>710
674ですが、「当時」というのはおれの記憶違いで言い過ぎました。
当時は大陸には日本の地図なんかなくて、倭人や朝鮮人から聞いた話で想像でしか把握していなかったのではないでしょうか。
ずっと後の時代に作られた地図がこれかな。
http://www.j-real.com/ta-san/yamatai/map3.jpg
717太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/06(月) 21:27:14.27
>>708
だから世の中に利害が大で機密にすべきものがあるのだ。
今国会でやってるのもこの類だろ。
718日本@名無史さん:2014/01/06(月) 21:30:45.65
>>716
なるほど、記憶違いで言い過ぎですか。そうすると、

>>674
> 方角が違うのはそこから先の日本列島のことです。

これも言い過ぎですね。了解。
719日本@名無史さん:2014/01/06(月) 21:34:13.41
卑弥呼の存在は具合悪かったんだろうな。
なので色々隠匿工作したんだろう。
720日本@名無史さん:2014/01/06(月) 21:36:32.94
邪馬台国が会稽郡と同緯度にされたのは、
呉に対して圧力をかけるためとか言われてるよな。
大月氏を朝貢させた曹真に匹敵する功績を司馬イに挙げさせるためで。
戸数も明らかに割増があるが、大月氏と匹敵する大国にする必要があったから。
721日本@名無史さん:2014/01/06(月) 21:40:19.59
>>716
魏の時代から中国の地理知識もえらく劣化しているものがあるんだな。
蛮勇度はupしても知的脳味噌的に退化してんのか?
帯方郡から7,000里で狗邪韓国、狗邪韓国から1,000里で対海国、
対海国から1,000里で一大国、一大国から1,000里で末盧国、
と弥生時代の方が余程正確に記してる。
722太国 ◆yVAs7uaYlY :2014/01/06(月) 21:40:48.71
>>719
そんなことはないよ。
なぜかというと、秘密にしたいのなら神功39年の記事など削るはずだ。
723日本@名無史さん:2014/01/06(月) 21:42:26.30
まあ、かなりいい加減な倭人伝を鵜呑みにして、
後世の中国人は日本地図を書いてたみたいだな。
724日本@名無史さん:2014/01/06(月) 21:44:07.85
>>719
>卑弥呼の存在は具合悪かったんだろうな。
>なので色々隠匿工作したんだろう。

なので神武元年を紀元前660年と言う時代に設定して撹乱したんだ。
725日本@名無史さん:2014/01/06(月) 21:46:09.97
>>721
そんなの適当だよ。
726日本@名無史さん:2014/01/06(月) 21:56:06.20
>>720
倭人伝を記述する目的が、呉を挟み撃ちにできる位置にある同盟国の存在を知らしめるためと言われているんですよね。
そのため、先ず、実際の位置とは関係無しに日本の場所が設定されて、
後付けで行程(方角)やら風俗の描写が付け加えられたと。
だから、南方の民族のような記述もあるし、軍事力を示すために馬がいることになっているという話を聞いたことがあります。
727日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:00:46.86
倭人伝(三国志)は呉滅亡後に書かれたんだけどね
728日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:02:28.30
>>727
それは初耳です。ソースありますか?
729日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:05:41.60
>軍事力を示すために馬がいることになっているという話を聞いたことがあります。

>其地無牛馬虎豹羊鵲

倭人伝には↑このように書かれているのに、矛盾も甚だしいテキトーカキコ。
730日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:06:16.52
「と言われているんですよね。」
「という話を聞いたことがあります。」

俺なんかアトランティス人には骨がなかったという話を聞いたことがあるぞ。
731日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:07:39.66
>>728
ソースというか定説だろ
呉の滅亡が280年で、三国志の発表は280年代
まだ呉があるうちに書かれていたとは思うが、陳寿は呉の滅亡後でなければ発表しなかったと思われる
732日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:13:08.98
帯方郡→南に行ったり東に行ったり7,000里で狗邪韓国→南渡海1,000里で対海国→
→南渡海1,000里で一大国→南渡海1,000里で末盧国→東南陸行500里で伊都国
伊都国の東や南東に国々があって、投馬国邪馬壹国は置いといて、
東渡海1,000里でまた倭種の国々がある。
魏人が弥生時代に持ってたこれくらいの知識を地図に反映させたら>716の地図よりマシなのが描けそうだよ。
会稽〜東治の東は別人が推論したんだろう。
乍南乍東と書いてるのに真南に持ってくるわ島が足りないわで大幅に劣化してる。
対して魏代には実際は南というより東南だったりの誤りはあったが、半分北に戻す感じで描けばかなり正確になる。
733日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:13:47.70
中国の正史は、前王朝が滅んだ後に次の王朝が書くんだろ。
同時代、つまり自分で自分の王朝を書くってなかったんじゃ。
734日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:16:12.69
三国志は建前上は陳寿の私家版だったけどね
よくできてたから採用された
735日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:16:34.12
てか、三国志の編纂時が晋だからな。
そりゃ司馬仲達を持ち上げもするだろう。
736日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:18:18.93
呉の滅亡前に発表するとそもそも完結しないし
世間からの非難もある
737日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:26:57.49
晋書の陳寿伝だと、陳寿の死後すぐ皇帝の使者が三国志を取りに来たんだよな
738日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:29:01.70
モモソ媛の話自体が、三輪氏が三輪山祭祀を司るようになった謂われ、伝承がベースだろう。

日本書紀に大きく採用されている。
それくらい三輪山は大事だったということ。

三輪山山麓に王宮を営んだ大王?女王?の記憶が、八世紀まで残っていたんだろうな。

崇神紀には混乱があって、三輪山の大物主を祀るために大田田根子が選ばれた筈なのに、
モモソ媛は神妻であり続けて、最後は女陰を突いて死んでしまう。

女陰を突くというのは、古来から行われていた儀式で、
丹塗矢神話として今に語り継がれている。

神に女陰を突かれた巫女は、神の子を産み、その神の子が始祖王になるのが定番。
それなのに、何故かモモソ媛は子を産むことなく、
むしろ滑稽味を帯びた死に方と伝わっている。
739日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:32:19.96
女陰を突いて死んでしまう のは直系の子孫が王統を継いでないことの強調という説もある
740日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:42:34.82
神の子は生まれず、結果モモソ媛の一族は死に絶えた、と。
そりゃ、大物主は怒り狂うよな。
741日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:42:50.68
それは昔俺も書き込んだ覚えがある、箸で突く=子孫がいない念押し説。
また記紀でホトを痛めるのはアマテラス関連の女性なんだろう。
742日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:47:41.54
>>727
いや、当時から倭国の存在は知られていたと思うよ。
実際よりかなり南に位置づけられた大国として、呉を牽制する意味合いがあった。

だから孫権なんか見事に踊らされて兵を派遣したりしている。
743日本@名無史さん:2014/01/06(月) 22:58:38.58
スサノオの狼藉のところで梭が女陰に突き刺さって死んだ稚日女
大日女(アマテラス)は岩戸の内に引き篭もるわけですが、これは墓ではないか、
稚日女=大日女でアマテラスが死去したのではないか、と言われる人がいます。
アマテラスが岩戸の内に籠もると日食で真っ暗になった。
卑弥呼死去の年に実際に日食があった。
刺したのはスサノオの男根で侵攻と陥落その後の略奪暴行なんでないかと
邪馬台国の滅亡まで想像する人がいるところですが素人小説なんでしょうか。
744日本@名無史さん:2014/01/06(月) 23:01:12.60
>>742
倭国の存在は知られていたと思うよそれは
自分は呉の滅亡と三国志完結の前後関係を示しただけ
745日本@名無史さん:2014/01/06(月) 23:05:27.03
しかし時系列のおかしいやつがいるな
卑弥呼の朝貢は239で、おそらく呉も蜀もそのことはうわさで知ってただろう
ちなみにこのとき陳寿は6歳
746日本@名無史さん:2014/01/06(月) 23:21:40.46
>>743
つまりは、第一次邪馬台国は台与の代で一度滅ぼされてるんだろう。

第一次邪馬台国最後の日がいつのことなのかは分からない。
四世紀内のいつか。

マキムクが廃絶され、大王墓が佐紀盾列→百舌鳥・古市古墳群に移る頃か。
747日本@名無史さん:2014/01/06(月) 23:24:18.36
陳寿が6歳だから時系列がおかしいぞ。どうだ参ったか
748日本@名無史さん:2014/01/06(月) 23:47:41.38
邪馬台国だ狗奴国だと盛んにドタバタしていた頃は陳寿はまだ子供で
しかもこの後蜀に仕えることになる
陳寿が三国志を書き始めた頃には蜀はなくなっており、呉も最末期状態
したがって陳寿が魏(晋)の意向を受けて呉の牽制をねらって倭人伝を書いたとは考えられない
ただしそういう意向の資料を参考にした可能性はある

ちなみに三国志は陳寿の私撰で、陳寿の死の直後、群臣の薦めにより
皇帝の命令で使者が陳寿の家に三国志を取りにきた
晋自体には史書編纂の能はなかったと見る向きが多い
749日本@名無史さん:2014/01/07(火) 00:03:44.01
大倭があって国々にも市があるのが邪馬台国だ。
畿内、大和にあるのが高市に古市に今市、十市、そして大市だよな。
皆交通の要所であったり古墳や遺跡の近くでもあるから、
これらがその名残だろう。
750日本@名無史さん:2014/01/07(火) 00:14:30.96
>>746
アマテラス(卑弥呼)死去、第一次邪馬台国最後の日は248年。
アマテラス(壹與)が岩戸から出て来て、スサノオが邪馬台国を追放され(第二次邪馬台国成立)、
スサノオが出雲に着いたのが250年代。
第二次邪馬台国による出雲への国譲り要求は3世紀末〜
国譲りによって九州への畿内の影響力(脅威)が増す。
東征(第二次邪馬台国の滅亡、第三次邪馬台国成立)がもしあったとすれば4世紀か。
751筑紫倭皇帝:2014/01/07(火) 01:14:46.47
@国譲りとは・・・
一般的には天孫族と交渉した大国主命が 出雲大社=大国主命 であるため
出雲と天孫族が国を交換したという誤解や 天孫族が交渉した出雲こそ日本の祖であると勘違いされてきた。

しかし真実はなんの事はない。
大国主は博多湾岸で「漢倭奴国王」の金印をもらった当時の倭国・筑紫福岡の王統である。
倭人伝:「邪馬台国の一大卒である伊都国(倭奴国)には代々王がいた。」
大国主は代々(天孫族や女王卑弥呼が活躍する以前)筑紫福岡・倭国の王統である。
もちろん大国主命は筑紫福岡を本拠とする安曇君(志賀海神社)・宗像君(宗像大社)等々の豪族の祖先神である。
国譲りとはその大国主が治める筑紫(博多湾岸)を譲れと天孫族が大国主に迫った話のことである。
筑紫・倭国を追われた(追放された)大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい出雲に移住(追放)された。

だから出雲は出雲大社の本殿が筑紫・西を向き大国主の筑紫福岡と同じ「銅矛銅剣文化」であるが、
後の「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった天孫族や邪馬台国の頃の筑紫の文化(倭国の文化)とは無縁である。
何の関係もない宮崎はもちろん「銅矛銅剣文化」すら無縁である。

この大国主から繋がる筑紫の神々の天孫族による支配を正当化するために古事記や筑紫神話があると言うこと。

ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。
魏志倭人伝:「男子は大小となく入れ墨をしている。」

また天孫族が元々いたのは志摩国、
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

このように、天孫族・倭国・邪馬台国等々の日本の発祥地は博多湾岸である。
752筑紫倭皇帝:2014/01/07(火) 01:15:23.24
A
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg
「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
       志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg
綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界・元海もとうみ)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg
卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。
753筑紫倭皇帝:2014/01/07(火) 01:16:06.53
B倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
 魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
 後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」

元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
 唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
 倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
 今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」

旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
     日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
     筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」

このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。

「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
754筑紫倭皇帝:2014/01/07(火) 01:17:26.93
C〜まとめ〜

「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」

(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)

倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。

魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。
参考資料:http://www.j-real.com/ta-san/yamatai/map3.jpg ←当時の魏使に北に向かうという概念が無かった証拠。
                              (九州島は正に(当に)会稽郡東治(紹興市)の東にある。)

魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。

大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。
755筑紫倭皇帝:2014/01/07(火) 01:18:25.15
D伊都国(倭奴国)と位置関係

☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
  現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。 
  それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。

☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
  福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
  「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
  これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
  自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
  これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
  元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。

☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
  伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
  現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
  今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
  福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
  要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
  当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
  基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
  (北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)
756日本@名無史さん:2014/01/07(火) 01:20:46.57
完璧にキチガイスレになったな。おめでとさん。
757日本@名無史さん:2014/01/07(火) 01:28:03.51
こいつらヤッホッホから来てるのか?
758日本@名無史さん:2014/01/07(火) 06:25:39.46
もし畿内に邪馬台国があったなら邪馬台国は畿内から九州までを支配する大勢力となってしまう
たかが一国に圧迫されて魏に泣きつかなきゃいけなかった実際の邪馬台国とは程遠い姿
759日本@名無史さん:2014/01/07(火) 06:27:37.30
方向錯誤説かよ。
760筑紫倭皇帝:2014/01/07(火) 09:01:45.16
E古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述

倭人伝:「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」
     
     (今までの道理行程を振り返ると、その場所は会稽郡東治(紹興市)の東にある)

      つまり、魏使は帯方郡から、九州に上陸してからも基本ばずっと南下してたと勘違いしている明らかな証拠だな。



「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」


現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。
761筑紫倭皇帝:2014/01/07(火) 09:02:44.90
F倭国の覇者の変遷 大国主→卑弥呼→大国主→天孫族 へ

倭国はざっと
大国主(金印をもらった倭奴国王から代々)→卑弥呼→大国主(倭奴国王の王統)→天孫族

へと支配者が変わったんだよ。ざっとだぞ。また必死に壹與がいるとかちゃちゃ入れるなよ。

卑弥呼が女王となった倭国は魏志倭人伝の頃の 一時的 にという事だ。
倭国連合が乱れ 卑弥呼 が共立され倭国・邪馬台国の一大卒、伊都国の大国主の元にいたという事だ。
そしてその卑弥呼が直接治めるのが 伊都国のすぐ北の斯馬国〜奴国までということだ。
つまり奴国までが倭国だ。  
何故卑弥呼が斯馬国〜奴国までかというと伊都国は倭国にとって代々大国主が治める特別な存在(聖地)である。

天孫族はその間ずっと大国主が治める倭国〜卑弥呼が治める倭国とずっと斯馬国を拠点に
倭国を形成する一国の王、豪族として暮らしてたわけだ。
これが「神武以前の32世は筑紫の日向宮に都があった」につながる。

朝鮮の文化は支配下だった朝鮮半島から流入したもの。半島人が伊都国や斯馬国やその他の
倭国の国に家来として入ってきたものだろうな。

証拠に、天孫族はことあるごとに、自分たちの故郷は「筑紫(福岡)」「筑紫(福岡)」と明言してる。
もし、天孫族が半島人なら筑紫を治める前に自分たちは「韓国のどこどこからやってきた」と明言するだろう。
「筑紫」はことあるごとに明言するのに、「韓国」を明言しないという事は、天孫族の故郷は「筑紫福岡」だという事だ。
もちろん家来や普通の一般人として半島人が混ざってたのは否定しない。
762筑紫倭皇帝:2014/01/07(火) 09:03:33.04
G
そして、天孫族は次第に倭国内で影響力を大きくし、倭国の超名門「伊都国(倭奴国)」を落とす。
これを、 「天孫降臨」 として記紀に記したのだろう。
(これは小大名だった織田信長が大国美濃を攻略し尾張美濃を領する大名になった時に
 天下に知らしめした 「天下布武」 と同じ境遇だろう。)
記紀には 天孫降臨 の際、戦闘があった事は明記されてる。
つまり、朝もやを掻き分け(奇襲か??)伊都国を陥落させる。
その作戦成功の爽快感から伊都国の高千穂に立ち、
「この地は韓国に向かい笠沙の御前を真来通り朝日が真っ直ぐ刺し夕日がよく照る所。故に吉き地なり。」と
感激したのだろう。
ちなみに俺はこの「笠沙の御前を真来通り」という表現。
これは倭国の「歴代の倭国王の王墓(古墳)の御前を真来通り」という事なんじゃないかとも思う。
実際に伊都国には古代より王墓と呼ばれる副葬品も素晴らしく豪華な古墳が多数存在する。

そして息子が治めていた伊都国を落とされた博多湾岸の大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい倭国の国外の遠い所、出雲に追放(移住)される。

ここに天孫族による倭国の乗っ取りが成功するという事だよ。

そして筑紫の覇者になった天孫族は、筑紫の国土自体を天孫族が作った国産みや
筑紫の神々(豪族・王)は天孫族に支配されるべき事を正当化するために筑紫神話や古事記があるという事だ。 
日本書記は後に筑紫から派生した大和がつごうよくもじっただけなんだよ。

ちなみに博多湾岸の大国主の地、千代の近くに「堅粕・かたかす」という地があり、
交差点名は「潟州・かたす」なんだな。 なんとも意味深だな。

要するに、倭国の聖地は糸島の伊都であり、天孫族の聖地はその北の斯馬(志摩)だろうな。
君が代も最終的には志摩の桜谷神社につながる。現代の聖地も伊勢志摩という事実もなんとも感慨ぶかいな。
763日本@名無史さん:2014/01/07(火) 09:06:05.40
>>758
三世紀畿内に邪馬台国が有る場合、支配という程ではなく、
北部九州とは密接な協力関係だろう。後の歴史をみても、
九州方面との対立構図が散見される事からわかる。
イヨ以降にしばらく正式な外交記録がないのはそういう事。
764日本@名無史さん:2014/01/07(火) 09:11:02.33
穴と矛盾だらけのボクの天孫史なら九州スレでやれよw
765日本@名無史さん:2014/01/07(火) 10:53:02.70
>「この地は韓国に向かい笠沙の御前を真来通り朝日が真っ直ぐ刺し夕日がよく照る所。故に吉き地なり。」と

韓国に近づいてきてるんだけどな。
どう見ても東から来た奴のセリフだろ、これはw
つまり瀬戸内か日本海側を東へ進んできた話な。
766日本@名無史さん:2014/01/07(火) 11:50:04.81
>>758
>もし畿内に邪馬台国があったなら邪馬台国は畿内から九州までを支配する大勢力となってしまう

庄内土器が九州に波及して前方後円墳が九州に出来る。
ちょうど卑弥呼の時代あたりから。
したがって邪馬台国は畿内だろう。
が、その前段階あたりに九州勢の東征があったと思ってる。
767日本@名無史さん:2014/01/07(火) 12:03:45.52
東征は土器や墓制の異なる異文化他国に対するものであっても、
それを同じくする内乱に近いものであっても良い。
先に畿内に降臨していたニギハヤヒということなのでむしろ後者に近いかもね。
768日本@名無史さん:2014/01/07(火) 12:33:55.61
>>763
邪馬台国は伊都国に一大率という役人を派遣して、支配してたとあるから、
もし畿内に邪馬台国があったなら畿内から九州まで支配してたと考えるべき
769日本@名無史さん:2014/01/07(火) 12:38:03.16
やはり孝霊と百襲の線が卑弥呼につながっている。
銅鐸の分布範囲に伝承を多く残しているし、
謎の多い出雲と大和、どちらにも足跡を残しているようだ。
共通して言えるのは、記述を曖昧にされたり消されている点だな。
770日本@名無史さん:2014/01/07(火) 12:45:34.58
>>769
大和には大物主という「大物」がいたのだが君の中ではどういう存在なのかな?
俺は出雲系住民・銅鐸氏族の王だと思う。
771日本@名無史さん:2014/01/07(火) 12:48:13.98
>>768
だが伊都国には代々男王がいたとされている。
ここと女王国の連携が上手く行かなくなって
暫く大陸への連絡が取れなくなったとみるべきものだろう。
772日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:02:37.93
大国主≠大物主だぞ。
元々は別物だったけど、時代が遡るにつれて
大国主=大物主という思想が生まれた。

大国主とは、出雲の神様の名前で、おそらく、古代の出雲の王の通称。
大物主は、三輪山の神名。
773日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:05:53.28
>>772
その三輪山の麓が出雲荘なので出雲との関わりは否定できまい。
よって大物主は出雲系。
774日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:06:49.48
>>770
今のところ大物主は土着、縄文系の神としか言えない。
対して孝霊天皇はヤマトに鉄を確保する人物とみているからな。

しかも遠征コースが東から出雲に入るのだから、
先に畿内に入った物部系の人物、といった所か。
妻木(当然妻木晩田遺跡だろう)から后を得ている伝承もあるので、
ヤマトと出雲、吉備、淡路島と繋がってゆくしな。
これで百襲を共立する基礎になるだろう。
775日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:09:43.39
七福神の大黒天もインドの神様なのに
いつのまにか、大国主と同一視する思想が生まれた。
776日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:13:47.21
唐古鍵って銅鐸遺跡だよね。
したがって土着縄文系と銅鐸は関係ない。
実際、銅鐸の銅は華北が原産。
俺は出雲の銅鐸が畿内や東海に伝播してきたと思ってるので、
大物主は出雲系だと思う。
777日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:15:29.81
>>774
縄文、弥生なんて分け方は意味なし。
徳川家や足利家を縄文か弥生かなんて考えないのと一緒。
縄文とか弥生という概念が生まれたのは、明治以降の考古学からだ。
古代なんて、自分が縄文か弥生かなんて考えはゼロだ。

だいたい、現在の考古学では、やく3000年前ころから、縄文から弥生への転換
と考えになってきた。
だとしたら、出雲国譲りとかの時代なんて、せいぜい2000年前くらいだろう?
縄文から弥生に転換して1000年くらいたった時代の話が、
日本神話の世界だよ。
778日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:17:39.48
西暦3世紀の卑弥呼がモモソ媛命ならば、
ニニギ命とか神武天皇の話は
西暦前1世紀くらいから西暦1世紀くらいの話だよ。
779日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:21:46.69
東国の方には孝霊五年の富士山噴火という、
メジャーな伝承が残ってたからな。
やはり銅鐸分布図にほぼ一致している。
噴火で国が荒れた東国の人間を、移動させる事が
出来る可能性のある人物だからな。
これで巻向建設の土器も説明出来るだろう。
780日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:21:47.34
>縄文、弥生なんて分け方は意味なし。

意味はあるよ。
Y-DNAで言えばD2やC系の縄文系のいる日本にO2b1の弥生系がやってきて、
やがて華北あたりからO3が来たのだから。

>出雲国譲りとかの時代なんて、せいぜい2000年前くらいだろう?

全然。
手っ取り早く言えば4世紀後半。
他地域より遅く前方後円墳ができる。
それが国譲りだろう。
781日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:26:46.95
邪馬台国は、大和朝廷と何の関係もないだろ。

出雲の国譲りは、邪馬台国の後、神武東征の時の、ニギハヤヒの話だろう。
つまり、大和に出雲の地名があるのではなく、大和の先住支配者ニギハヤヒが、出雲に
流されて、出雲に大和の地名が付いた。

そう考えると、出雲の長男が諏訪に逃げたことも合理的だ。
大和から出雲が攻められて、畿内を通って諏訪に逃げる馬鹿はいない。

出雲の国譲りは、邪馬台国が滅びた後、4世紀以降の話だ。
782日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:28:43.25
>>777
縄文系という呼称はあくまで便宜上だから、土着系とも言ってるだろ?
783日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:30:51.99
>出雲に大和の地名が付いた。

出雲に大和の地名があるのか?
それとも大和は初め出雲と呼ばれ、
後に大和という呼び名になったという事?
784日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:32:12.30
>>781
ニギハヤヒばっかり、君の話は正直雑すぎるw
もう少し具体的な動機や遺物例を出さないと。
785日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:32:36.93
>>780
だからさ、古代のその当時の人間が
自分の遺伝子が何かなんて分かるわけなかろう。
だいたい、縄文も弥生も、現在の黒人や白人やアジア人ほどの
容姿の違いがあるわけではなし、
容姿というのは、父方と母方の両方から受け継がれるので
容姿の違いだけでは、氏族社会で重要な父方の家系なんてわかるわけない。
たとえば、俳優の細川茂樹は一重で容姿でみたら弥生ぽいけど、
Y染色体見たら、旧石器時代に日本に渡来したD2遺伝子だった。
786日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:32:44.42
九州の土器が大量に現れるってことがないから、東征はないだろね。
記紀が初代を盛って書いてると思う。嘘ってことじゃなくて、盛ってる。
ただ、ヤマトの南部のどこかで弥生末期の遺跡に九州系が少々出ても
おかしくないと思うけど。

古事記は吉備のことを孝霊の子達だと書いてる。日本書紀の崇神ていうのが、
盛ってるのかも知れん。
初代ってのは伝承が残りやすいし英雄にされやすい。英雄で当たり前なんだが、
やっぱり盛られることが多い。2代〜は余程のことが残りにくいんだろね。
崇神が何故第二の創業者となったか?
国内を纏め切れた訳じゃない。ヤマトタケルが何度も遠征してる。
なんだろうね?
787日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:34:38.45
>>780
出雲国譲りは西暦前1世紀くらいから西暦1世紀くらいだろう?
西暦4世紀に出雲国譲りなんて、遅すぎる。
西暦3世紀の卑弥呼がモモソ媛命なんだから。
788日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:35:49.95
神武東征なんて数百人で九州から従軍した話だろうw?
そこからは、都が東遷したような大規模なものは
想像できない。
789日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:39:10.25
>>778
>ニニギ命とか神武天皇の話は西暦前1世紀くらいから西暦1世紀くらいの話だよ

永初元年(107年)の倭国王帥升を誰と考えるのかな?
またその根拠は?
俺は帥升をスサノオと考える。
根拠は3世紀前後の神武から1世代20年で5世代前。
790日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:44:37.04
>>786
>弥生末期の遺跡に九州系が少々出てもおかしくないと思うけど。

纏向遺跡にも少しあるし、最近は唐古鍵でも見つかったね?
中継点に吉備があるので吉備の要素が多く出るのは当り前だろう。
791日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:46:52.17
>>789
永初元年(107年)の倭国王帥升は、記紀にもない無名の豪族だろう?
倭の面土国王らしいから帥升は。
面土国(メタ国)=米多国(メタ国)だから、
今の吉野ケ里遺跡があった米多国の豪族だろう?
おそらく、この当時、大和朝廷の統制力が弱体化していて
室町時代の後期(戦国時代)に似たような感じになっていたのであろう?
792日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:47:16.33
英雄伝説のスサノオを特定の誰に比定とかは無理だな。
それにオオゲツヒメ(阿波)によって出雲へオロチ征伐へ行くんだよ?
起点は当然紀伊半島になる。
したも新たな剣を得るのだから九州の人物ではない。
793日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:52:51.38
>>791
何でないと決めてるの?
君の説が無茶苦茶なので見つけれないだけ。
神武を紀元前後と言ってて孝霊を2世紀後半なら、
4代懿徳あたりになるがそれでいいのか?
794日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:57:15.87
>>793
無茶なのはそっち。
帥升を無理に記紀にある人物に特定するからダメなんだよw
帥升なんて、せいえい、筑紫の米多国(メタ国)の豪族だろう。
795日本@名無史さん:2014/01/07(火) 13:59:52.87
あと、神武東征は紀元1世紀中頃以降だと思うね。
紀元元年前後に出雲国譲りがあり、その時に
ヤマト朝廷の前身の王朝が畿内に誕生した。
その時の倭王が、天照国照彦ことホアカリ命な。
そのホアカリ命にニニギ命という兄弟がおり
彼が九州高千穂の統治を任される。
796日本@名無史さん:2014/01/07(火) 14:06:18.20
>>794
あのな。
昭和天皇から15代先の明正天皇までの在位が平均19,8年。
応神天皇から神功入れて15代先の神武がAD0年なら平均26年。

言ってて恥ずかしくないか?
797日本@名無史さん:2014/01/07(火) 14:18:11.80
>>796
おまえ、まさか、安本の数理歴史学を信じているんじゃないのか?
あんなもん、トンデモ暴論だぞ。
ちゃと吟味すれば、やつの言っていることが
いかに無茶苦茶なことは誰にでも分かる。

これを読むことをお勧めする。

安本氏の「数理歴史学」の誤り
ttp://www.geocities.jp/yasuko8787/1-3-3.htm
798日本@名無史さん:2014/01/07(火) 14:21:25.64
>>797
三国史記出してる時点で終わり。
799日本@名無史さん:2014/01/07(火) 14:23:22.52
>>796
あとな、神武がAD0年なんて、誰も言ってないぞw。
そもそも、自分は大和朝廷というか、畿内王権が出雲国譲りしたときの倭王は
現在の天皇家の先祖ではなく、その天皇家の先祖の兄弟という認識。
諱はホアカリ。通称はアマテルくにてるひこ。
この人物の兄弟にニニギがおり、このニニギの曽孫がイワレ彦(神武)だ。

イワレ彦こと神武はせいぜい、紀元1世紀中ごろから紀元2世紀くらいの人物だろう。
しかも、その当時の正式な倭王の地位にはいない。
せいぜい、倭王を支えて実験を握ってた執政くらいの地位だろう。
800日本@名無史さん:2014/01/07(火) 14:45:07.83
>>799
>イワレ彦こと神武はせいぜい、紀元1世紀中ごろから紀元2世紀くらいの人物だろう。

おまえって前は神武紀元前後って言ってて、次は1世紀で今度は2世紀かよ。
だんだん時代を変えてきてるじゃないかw
紀元2世紀くらいなら帥升と同時代じゃないか。
801日本@名無史さん:2014/01/07(火) 14:50:01.17
帥升王=スサノオ
802筑紫倭皇帝:2014/01/07(火) 15:04:25.98
お前らのトンデモ妄想論でよくそこまで盛り上がれるなw
お前らが議論してる事は結局俺の説@〜Gまでで
全て何の矛盾もなく結論がでてるのに、

よくおまえらのトンデモにトンデモをかぶせる議論で盛り上がれるなと
つくづく感心を越えて尊敬するよw

お前らは中韓の歴史書や遺跡や出土品をことごとく
直視できない、無視して、そうしないと成立しない説を妄想しすぎ。

まあ俺の@〜Gの説が結局なんの矛盾もなく成立する説だってことだよ。

とにかくお前らは中韓に残る歴史書や記紀、遺跡、出土品等々を
トータルに判断する力を身に着けることだな。

いつまでも畿内畿内いって畿内にもっていこうとするからどこかに
矛盾が生じるんだよ。

俺の@〜Gを素直に見習いなさい。
803日本@名無史さん:2014/01/07(火) 15:14:30.73
>>800
>神武紀元前後

そんなこと一言も言ってないぞ。別人じゃね?
804日本@名無史さん:2014/01/07(火) 15:16:01.32
帥升王=スサノオなんて、無理からだろう?
帥升は、筑紫の米多の豪族。
今の吉野ケ里の当り。
805日本@名無史さん:2014/01/07(火) 15:24:36.31
朝鮮半島で追い込まれた天照が、子孫を日本列島に送り込んでいた。
邇邇芸もその1人で、九州北部を制圧した。
その孫あたりの神武は、熊襲に太刀打ちできないので、思い切って畿内に新天地を求めた。
幸運にも畿内を制した神武の子孫は、白村江の前後に、九州の本家をも支配下に置いた。
白村江の戦いで、天照の故郷、任那を失った。
806日本@名無史さん:2014/01/07(火) 15:43:49.42
>>804
>帥升は、筑紫の米多の豪族

根拠は?
筑志米多国造ってもっと後世だろ。
807日本@名無史さん:2014/01/07(火) 15:58:08.07
最近のY染色体の研究により、
今から700〜800年前から、
やたら子孫を増やす勝ち組DNAが判明してる。

縄文系D2a1bだ。

これらは時代的に武家の台頭と重なるため、
皇別の武家である源氏や足利、徳川であろう。

つまり皇室は縄文系D2a1bだということになる。

九州の山奥の高千穂が天孫降臨の地であることは正しいのだ。
808日本@名無史さん:2014/01/07(火) 16:03:16.71
皇室が、アイヌと同じD系であるはずないやん。
809日本@名無史さん:2014/01/07(火) 16:05:02.47
>>807
藤原氏のY染色体も皇室と同様、D2a1bな。
D2a1bのもとになったD2は、旧石器時代に日本に入ってきた。

>>805>>807
高天原とは、高野山と天野山の山間一帯の地域を
高天といって、そこからきている。
現在の奈良県の橿原市、葛城市、御所市、五條市、和歌山県の橋本市の
一帯の地域を、高天原といった。

皇祖ニニギは、畿内王権が出雲国譲りを達成し、天下統一した後
畿内王家の命令で、九州高千穂へ地方官として派遣されたことをいう。
810日本@名無史さん:2014/01/07(火) 16:08:41.57
>>808
日本の4割がD2系な。
その中から分派したのがD2a1bで、これが
やたら増殖している。
これは、平安末期、皇室や藤原氏の分家たちが、地方へ開発領主として下って
やがて封建領主として子孫を増殖させたからだと言われている。
それ以前は、皇室や藤原氏も、一夫多妻制とはいえ、わりと子孫をコントロールしていた。
が、平安末期から、系図で見てもわかるけど、皇室や藤原氏が
子どもの数がべらぼうに増えている。
811日本@名無史さん:2014/01/07(火) 16:15:39.13
>>809
そこに古い遺跡が出てるのか?
812日本@名無史さん:2014/01/07(火) 16:20:46.75
古代の奈良県中央部には、大きな湖があり
その南岸から、高野山、天野山の山間の地域を
高天原といった。
記紀によれば、高天原には、天岩戸、天安川、天香久山があり
これらが全部、そろっているのは、上の地域だけ。

ttp://stat.ameba.jp/user_images/20090713/02/kane55/b4/01/j/o0640048010212492987.jpg
813日本@名無史さん:2014/01/07(火) 16:37:24.56
>>809
>藤原氏のY染色体も皇室と同様、D2a1bな。

それはないだろ。
D2a1b以前に増えてるO2b1だろ。
814日本@名無史さん:2014/01/07(火) 16:42:33.12
>>809
何で高千穂みたいな山奥に地方官として派遣されるんだよ。
畿内中華思想もいい加減にしないとな。

神武の宮である可能性が高い御所市柏原から見て、
奈良の高天原の方向をずーーっと行けば南九州になる。
九州がルーツだ。
815日本@名無史さん:2014/01/07(火) 16:44:29.26
まあモモソが卑弥呼なのはもう疑う余地がないだろう。
816日本@名無史さん:2014/01/07(火) 16:56:57.01
>>808
中国の東シナ海の動きと合わせこれから重要に成る。
817日本@名無史さん:2014/01/07(火) 17:18:12.54
>>812
それだと、降臨する必要がないんじゃ。
それに、でっかい奈良湖はもっと古いらしいよ。
818日本@名無史さん:2014/01/07(火) 17:30:07.47
邪馬台国は王が代わるたびに争いが起き、狗奴国には脅かされる不安定な国だった
一方畿内説側が邪馬台国ではないかと主張する遺跡群には争いがあった形跡は少ない。
当時の邪馬台国とはかなり状況が違う
819日本@名無史さん:2014/01/07(火) 17:42:19.80
争った国があっても卑弥呼が女王の期間は長いだろ。
奈良盆地は防御には適した土地なのは誰でもわかるよな?
820日本@名無史さん:2014/01/07(火) 18:01:56.39
>>818
そんなことは史料にひとことも書いてないぜ
821日本@名無史さん:2014/01/07(火) 19:13:20.68
>>818
殺傷痕のある人骨なんて吉野ヶ里や出雲の青谷上寺地が有名だが、
そこらが邪馬台国かと言うとそんなわけはないだろう。
出て「ない」から「違う」にはならないのだよ。
822日本@名無史さん:2014/01/07(火) 19:56:29.43
>>818
それは、その時代に移民が増えたから。
それは、一夫多妻の結果ではなく、移民が増えた結果による。
823日本@名無史さん:2014/01/07(火) 19:59:10.49
>>817
意味不明だよ。

ニニギは、忍穂耳の庶子。
忍穂耳の嫡男は、ホアカリ。
ホアカリの妃は、天道日女命で、大国主の娘。
出雲国譲りとは、大国主が娘婿に降参した話、
824日本@名無史さん:2014/01/07(火) 20:17:13.21
まぁ結局日本書記をまとめた連中は、崇神天皇を
クローズアップしたかったのには間違いない。
なので欠史八代、特に銅鐸文化と密接な
孝霊天皇は無視したかったという事だ。
当然娘のモモソが女王卑弥呼なら、その記述を
描く訳にはいかなかったということだろう。
825日本@名無史さん:2014/01/07(火) 20:26:45.35
>>824
>特に銅鐸文化と密接な孝霊天皇は無視したかったという事だ

そんなアホな。
孝霊が銅鐸を止めた理由は何?
826日本@名無史さん:2014/01/07(火) 20:31:31.26
巻向以前のヤマトの宮は保津、田原本になる。
現信貴山周辺の竜田川近辺もそうだろう。
物部氏が磐船、河内に降臨して勢力を伸ばしたんだろうな。
信貴山は本来磯城山と見るのが正解なんだろう。
827日本@名無史さん:2014/01/07(火) 20:36:26.12
>>825
神仙思想の新しい知識として鏡が確保出来るようになるからだ。
まぁ孝霊が死んでから本格的に畿内に鏡が入るんだろうがな。
828日本@名無史さん:2014/01/07(火) 20:51:19.27
>>826
物部氏は奈良東部だ。

>>827
つまり孝霊は神武以来の系譜ではなかったという事だね。
829日本@名無史さん:2014/01/07(火) 20:54:38.92
神武皇統の中で歴代天皇の中で正式に倭王になったのが
三巻イリ彦(崇神)が最初だったということだろう?
正しくは、彼の父方の大叔母にあたるモモソ媛命が
神武皇統の中の最初の正式な倭王だったと思うけど...

それ以前は、ホアカリの後胤が正式な倭王だった。
出雲の王から国譲りされたのが、彼だったからだ。

ホアカリの兄弟にあたるニニギは
九州高千穂へ地方官として下っていて
その家系でも更に庶流にあたるのが、神武皇統だった。
830日本@名無史さん:2014/01/07(火) 20:56:06.43
>>828
物部は決して奈良東部だけではないと断言しておくよ。
元々降臨伝承があるのは河内や二上山。

神武については複数の話を繋いである。
831日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:04:17.38
3世紀にはヒメヒコ制という男の長ヒコと女の長ヒメが共存してるんだよ。
ヒメとヒコは夫婦とは決まってない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1%E3%83%92%E3%82%B3%E5%88%B6

倭人伝を見る限りヒコは武力争いばかりしてたという事だろう。
832筑紫倭皇帝:2014/01/07(火) 21:05:19.46
ほんとここの連中の妄想には呆れを通りこして
尊敬すら覚えるなww
バカ丸出しw

だから、中韓に残る歴史書や遺跡や出土品の分布をことごとく無視するなってw

なんでこう単細胞なんだよw ここの連中はww

どうしたらそういう妄想が生まれ、トンデモにトンデモを重ね議論できるのか不思議だよww

ほんとあんたらは面白い連中だなw

ある意味すごいわw
833日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:08:21.59
孝霊伝承を簡単にまとめると…
出雲遠征で姫を妻木晩田周辺から娶る。
和知津姫?なら亀岡に出雲大神宮があった理由がなんとなく見える。
また孝霊が吉備方面に戻る途中で死去したという説もある。
姫は淡路島で宮を構えてクニアレ姫を生むという流れ。
その娘がモモソ。
834日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:09:38.15
>>830
孝霊は実在だが神武は複数の話を繋いであるなんてそんなアホな話はないよ。
モモソ媛を卑弥呼にしたいという結論が先にありきはダメだよ。
835日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:11:04.29
>>832
既にレベルが違うんだ、諦めろw
836日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:15:18.58
孝霊の皇后は細媛命であり孝元天皇を産んでる。
妃の子であったモモソ媛が女王になる余地など全くない。
地位が低い。
837日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:17:15.49
>>834
神武を否定してる訳ではないが、侵攻ルートが
不自然過ぎるのは誰でもわかるだろう。
竜田すら越えれない正規軍が、瀕死の状態で
数百倍困難な紀伊半島を南から攻める事なんて有り得ないw
ここは間違いなく別の豪族の伝承を足している。
838日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:20:01.85
>>837
>数百倍困難

勝手に決めるな。
839日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:22:02.23
>>836
だが神大市姫や日女命という称号は卑弥呼に相応しい。
840日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:24:40.41
>>838
どちらも行った事あるのか?
数百倍でも足りない位だよ。
841日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:26:05.30
>>839
相応しいって君が勝手に決めても、
孝霊から孝元にはすんなり皇位が移行してるし、
女王がはいる余地はない。

ましてや后の子など論外。
842日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:28:43.49
畿内説には、何らまともな根拠がないんです。
843日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:28:54.73
>>840
高倉下という案内人がいただろう。
おまえは孝霊の伝承を何のためらいもなく信じて、
神武は否定と言うのはダブスタだ。
844日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:41:41.40
ダブスタなわけがないだろw

神武のは記紀に載った公式伝承。
孝霊のは載らなかった各地の話をまとめたものだが?
卑弥呼や銅鐸と同様、都合が悪いから載らなかった話、
という事を前提にしてるんだぞw
845日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:42:46.68
>>841
だから男王と女王の並立だろう
卑弥呼の時代には補佐する弟王の存在があった
日本書紀では男王が大王であり一族女性がそれを補佐する巫女出会ったように書かれてあるが
実際には男王と女王の並立で3世紀には巫女である女王の権限のほうが強かった
846日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:48:39.31
まぁ鍵唐古近くに宮を持った天皇という時点で、
普通はもっと注目するだろ、畿内説なら。
畿内説は箸墓に鏡や土器ばかりじゃないんだよw
しかも大和川は勿論、保津阪手道といった、巻向直結道まであるんだからな。
847日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:50:18.32
>>845
ところが日本書紀で皇位がすんなり行かず断絶してる時期がある。
神武と2代綏靖天皇の間だ。この間は当然「女王」だ。
ヒメタタライスズ媛の方がはるかに位が高く卑弥呼にふさわしい。
モモソ媛は3世紀後半。
848日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:56:31.22
ヒメタタラ説は論外として、モモソが三世紀後半という説は検証出来る。
その場合は比定がトヨになるだろうな。
849満州一等兵:2014/01/07(火) 21:57:11.60
卑弥呼はモモソ媛だと唱えているこのアンポンタンがジョーカーである。
四国説の男だ。

九州説諸君よ、ジョーカーは四国説男だぞ。どんどん攻撃してやれw
850日本@名無史さん:2014/01/07(火) 21:58:06.73
>ヒメタタラ説は論外として

反論できないだけねw
851日本@名無史さん:2014/01/07(火) 22:29:37.03
ジョーカーって誰だよ、マジで違うわw

セヤタタラヒメは婿二人に子供もいるから論外だからな。
大体実在したならセヤタタラヒメの墓は何処だ?という話だな。
852日本@名無史さん:2014/01/07(火) 22:30:35.40
孝霊と銅鐸を一緒にしてる時点でダメだ。
新しい文化として鏡を輸入した?
バカかよ、今までの自分たちの文化をそう簡単に変えるかよ。
だいたい奈良盆地の環濠集落の終了はどう説明するんだよ。
古墳の造営はどう説明するんだよ。
つまりこのような大変化は外部からの刺激以外にないのだ。
853日本@名無史さん:2014/01/07(火) 22:32:31.87
>>851
セヤタタラヒメの話なんて誰もしてないが。
一人で誰に文句言ってるの?
854日本@名無史さん:2014/01/07(火) 22:41:01.60
>>852
では何故孝霊の宮が鍵唐古の近くで、出雲や吉備に縁が深いんだ?
時期的にも銅鐸の消える時期と大体合致してるぞ?
855日本@名無史さん:2014/01/07(火) 22:45:02.07
>>859
まぁ間違いだ、ではホトヒメの墓は何処に比定する?
卑弥呼なら大きな円墳なんだが。
架空だから無いんじゃないの?
856日本@名無史さん:2014/01/07(火) 22:54:27.41
神武天皇は架空の話なので、結局詳細は判らないんだろう。
857日本@名無史さん:2014/01/07(火) 23:08:26.29
甕棺墓の終焉、銅矛・銅戈・銅剣祭祀の終焉、庄内甕の流入、
前方後円墳と方形周溝墓の受け入れ
九州こそ大変化だけどな
858日本@名無史さん:2014/01/08(水) 09:34:09.01
>>854
唐古鍵からでるのは河内、近江、紀伊の搬入土器だぞ。

>時期的にも銅鐸の消える時期と大体合致してるぞ

だからなんで自分たちの文化を自ら消すんだよ。
859日本@名無史さん:2014/01/08(水) 09:37:30.02
>>855
高鴨神社奥の神山
http://yahoo.jp/qzfp4O

墓であることは間違いないだろう。
860日本@名無史さん:2014/01/08(水) 09:39:52.80
>>858
お前は白黒TVやポケベルを今でも使うのか?
王や女王が新たに鏡を使うというと、それに変わるんだろう。
861日本@名無史さん:2014/01/08(水) 09:58:07.08
>>859
ではシタテルヒメだという説なのかな?
俺もその線は考えていたが、伝承の少なさと、
大きな円墳という部分で違うと判断したけどな。
862日本@名無史さん:2014/01/08(水) 10:08:30.57
>>860

孝霊以前も銅鐸使ってたわけか。アホ言え。
863日本@名無史さん:2014/01/08(水) 10:15:16.94
>>860
これから先、伊勢神宮が御神体を変えるとでも思ってるのか?
864日本@名無史さん:2014/01/08(水) 10:50:30.12
>>862
そりゃ判らん、銅鐸も元々は北部九州発だぞ?
銅鐸と△鏡には文様について共通点も多い。
工作技術も銅鐸の方が困難な位だろう。
思っている以上に思想的な隔たりはないからな。

>>863
だが天皇観についてはこの150年、要所で転換してきただろう。
865日本@名無史さん:2014/01/08(水) 11:21:08.81
なるほど
銅鐸廃止で失業した職人たちの末裔が、見よう見まねで△鏡の製造に手を出したわけか
866日本@名無史さん:2014/01/08(水) 11:25:46.24
それはあり得る話。
海人が工人を大陸・半島から連れてきて技術転移だな。
それを畿内に導入する契機が孝霊天皇の代で、
完全になるのが卑弥呼の代だろう。
867日本@名無史さん:2014/01/08(水) 12:07:19.69
>>864
>そりゃ判らん、銅鐸も元々は北部九州発だぞ?

そうだよ。ただ九州では文化と言えるほど根付かなかったけどね。
しかし君は孝霊を銅鐸と言ったのだからそれ以前の王も銅鐸になる。
神武の年代をしっかり考えてないからそんな変テコな論になるわけだ。


>だが天皇観についてはこの150年、要所で転換してきただろう。

天皇観の変遷と祭器の変更は全然話が違う。
868日本@名無史さん:2014/01/08(水) 12:20:05.77
飛鳥時代の頃は、まだ大和湖があったんだよ。
869日本@名無史さん:2014/01/08(水) 12:28:55.77
>>867
>神武の年代をしっかり考えてないからそんな変テコな論

これは神武の代は作為がある、複数の伝承話の合作という
説なので仕方ない。
記紀の代数を絶対視していないので、平均在位年数を
求めるような詐欺的考え方と根本から違う。

>天皇観の変遷と祭器の変更は全然話が違う。

だが銅鐸や鏡は全国で散見される、配布祭器だ。
宗教観や価値観の変化と共に代えられたもの。
伊勢神宮の御神体は永続的価値が確定しているもので
意味合いが全く異なる。
870日本@名無史さん:2014/01/08(水) 12:29:35.30
銅鐸は、九州じゃ音を出す実用品。畿内じゃ宗教的器物。
871日本@名無史さん:2014/01/08(水) 12:40:06.53
>>869
>記紀の代数を絶対視していないので

そう言いながら、孝霊だけは実在であって、伝承まで出してくる卑怯な論法は止めてくれ。
モモソ媛に合わそうとしてるからそうなるわけだろ。

それと奈良には、唐古・鍵遺跡、天理市平等坊・岩屋遺跡、
桜井市芝遺跡、桜井市大福遺跡、橿原市四分遺跡、御所市鴨都波遺跡
など環濠集落が存在してたわけだが、
環濠集落というのはある種、緊張状態にあったから生まれたわけで、
何で緊張状態になってたのかな?
そして3世紀ごろ、何故、緊張状態がなくなり環濠集落が消滅するのかな?
872日本@名無史さん:2014/01/08(水) 12:42:49.43
緊張緩和は卑弥呼がヤマトで女王になったからに決まってるじゃないかw
873日本@名無史さん:2014/01/08(水) 12:43:26.05
>伊勢神宮の御神体は永続的価値が確定しているもので
>意味合いが全く異なる。

戦争に負けて天皇制が廃止になったら変えられたかもしれないね。
銅鐸もかつてはそうなったのだろう。
874日本@名無史さん:2014/01/08(水) 12:46:43.84
>>872
その前に何故ずっと緊張状態だったのだ?
君は孝霊が吉備あたりに攻め入ったから倭国大乱になったと言ったね。
でもそれなら奈良盆地自体は平和であったから環濠集落は出来ないはずだが。
奈良盆地自体が緊張状態にあった理由を言ってくれ。
875日本@名無史さん:2014/01/08(水) 12:54:34.79
>>874
孝霊が遠征したのは出雲・中国だよ、吉備は皇子たち。
争ってるのだから当然その前後の時代、周辺を警戒するだろう。
876日本@名無史さん:2014/01/08(水) 12:58:06.82
>周辺を警戒するだろう。

ごまかすな。
奈良盆地自体に緊張があったことの説明に成ってない。
奈良以外の敵に対処するなら奈良盆地自体が纏まるだろ。
877日本@名無史さん:2014/01/08(水) 13:10:14.29
>>876
頭の固い奴だなw
国中乱れた時代なら警戒するのは当然だと思うが?
大体今と地形の全く違う奈良盆地だぞ?
孝霊は信貴山周辺に基盤があるので当然
瀬戸内方面は常に警戒してるだろう。
878日本@名無史さん:2014/01/08(水) 13:12:15.78
奈良盆地自体に緊張があった説明をしてやろうか。
記紀の記述のとおり、忍阪のヤソタケルをはじめとする土蜘蛛の存在なんだよ。
これが農民との間に緊張状態を作り出してたんだ。
そして神武軍は土蜘蛛を平定したね。
だから緊張状態が終わり、環濠集落が消滅したんだ。
時期は2世紀後半から3世紀戦後だ。
879日本@名無史さん:2014/01/08(水) 13:13:38.01
×3世紀戦後だ
○3世紀前後だ
880日本@名無史さん:2014/01/08(水) 13:15:44.14
また神武か、環郷集落は奈良盆地だけなのかよw
881日本@名無史さん:2014/01/08(水) 13:20:56.13
>>880
いいや。
でもほぼ同じ時代に終わる。
大乱に神武が決着つけたからだろう。

孝霊ごときマイナーな天皇なんて何も関係ない。

残念!

仕事に戻るわ。
882日本@名無史さん:2014/01/08(水) 13:22:39.60
さすが九州脳のレベルは低いなw
883日本@名無史さん:2014/01/08(水) 14:18:57.02
>でもほぼ同じ時代に終わる。
大乱に神武が決着つけたからだろう。

なんだ?このトンでも野郎はww
884日本@名無史さん:2014/01/08(水) 14:23:13.46
神武天皇に関する興味深い話として神武天皇と共に日向から来た家来が顔に彫り物をしていて、
大和の女が驚いたという話がある
山に囲まれた大和には入れ墨の風習なんてなかっただろうな
つまり大和=邪馬台国の可能性は少ない
885日本@名無史さん:2014/01/08(水) 15:02:37.09
昔の皇軍って卑怯な戦い方してるよね
奈良では饗応をしようと準備中の土蜘蛛を襲撃して全員討ち果たしたり
熊襲の長のバカ娘に贈賄して買収して父親の寝首を掻かせたり
女装して侵入して刺殺したり…これがまともなくらいだけど
アテルイ蝦夷戦でも…
こういうことは戦いにおいては智や勇気として誇られていたんだろうけど
当時の戦争って残酷だったんだろうね
886日本@名無史さん:2014/01/08(水) 15:14:06.69
4世紀始め頃だと大軍で大遠征などできないし
策略と懐柔で傘下を増やしていったことを比喩的に表しているのだろ
887日本@名無史さん:2014/01/08(水) 15:36:05.07
大和国=邪馬台国だろう、どうみてもw
この問題は、とっくの昔に決着しているけど
まだ、文句言っているのがいる。

あと、神武天皇は、大和朝廷の初代倭王ではない。
神武皇統で最初に正式な倭王になろうとしたのは、天国足彦押人命。
それが倭国大乱の原因であり
神武皇統のモモソ媛命の時に倭国大乱が殆ど鎮圧、彼女が正式な倭王になった。
次に三巻イリ彦(崇神天皇)。
この人の時に戸籍までとったり、ヤマト朝廷の基盤が強くなる。
そして、この人物から、現在の天皇陛下まで男系の直系でつながっている。
888日本@名無史さん:2014/01/08(水) 15:39:16.64
>>884
実際は巻向から海魚の骨が沢山出るのだがw
889日本@名無史さん:2014/01/08(水) 15:59:28.27
刺青で驚く話なんて、逆に神武伝承の矛盾を証明するようなもんだろ。
既に刺青の習慣のない人種がヤマトに入ってた事になるんだぞ?
縄文期の土偶や鯨面の絵画類の出土はどう説明するんだよ。
890日本@名無史さん:2014/01/08(水) 16:33:10.60
刺青そのものに驚いたのではなく、
神武の家来の大久米命が目の周りに刺青をしていて(黥利目(さけるとめ))、
その大きな目にヒメタタライスズ媛が驚いた。
891日本@名無史さん:2014/01/08(水) 17:17:10.99
>>887
>神武皇統で最初に正式な倭王になろうとしたのは、天国足彦押人命。

何を訳の分からぬ事を…
892日本@名無史さん:2014/01/08(水) 17:50:41.01
神武天皇はこのスレにはあまり関係ないよ
他のスレでやってくれ
893日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:09:19.85
まぁ記紀は不比等のが好き勝手に操作してるでしょ?
894日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:11:25.95
>>892
>あまり関係ないよ

大有りだよ。
孝霊こそ何も関係ない。
895日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:14:37.79
>>894
じゃ、孝霊やモモソは何者なんだよ?
その場合は黒田庵とかどうするのか知らないがw
896日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:16:37.93
また神武三世紀くんに地名テストでもしてやろうか?
897日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:17:58.04
>>895
普通に3世紀後半頃の人物だが?
898日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:20:32.99
神武は5世紀頃だよ。
899日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:22:59.23
>>897
宮は鍵唐古、墓は比定出来るの、それで?
900日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:29:45.83
>>899
モモソも吉備津彦も4世紀の崇神と絡んでる人物なんであきらめろ。
時代が合わない。
901日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:34:46.46
唐古鍵って、弥生時代を通じて数百年続いた環濠集落だが、
特定首長墓の発展はついぞ見られず。

王権の誕生はマキムクに移って以降だろう。
902日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:34:47.17
>>900
先に鍵唐古の事を答えようなw
それと孝霊の三世紀の墓もね。
あと周辺には保津宮古という弥生中期頃の集落もあるぞ?
903日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:39:29.89
>>902

>先に鍵唐古の事を答えようなw

唐古鍵の何を答えるんだ?
904日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:41:17.44
実際の孝霊の宮というのは保津宮古遺跡の方だからな。
しかも周辺には鏡作関連の神社が複数。
あの辺りは鍵唐古ばかりじゃないんだよ。
土地勘の無い奴には理解出来ない部分も多いだろうが、
まだまだ色んな未調査な所は多いんだよ。
905日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:44:08.97
>>904

だから何?
906日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:47:22.36
>>903
バカか?奈良盆地周辺の考古学との整合性が全くなくなるぞw
907日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:49:06.81
言っておくけど欠史8代の宮跡はまだ一つも発見されてない。
近いうち見つかるとは思うが。
908日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:49:23.75
所詮は九州脳かw
909日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:51:07.54
>>906
バカはおまえだ、意味が分からん。
もっと具体的に言え。
910日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:53:44.67
>>909
そのまま返すわw
三世紀中頃、ホト姫の墓は具体的に何処?
911日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:56:20.39
>>910
何度も言わすな。
高鴨神社の神山を考えてる。
ヒメタタラを祀ってるわけではないが神社の祀神は時代によって変わるからな。
912日本@名無史さん:2014/01/08(水) 18:58:38.44
>>911
それじゃ希望的推測でしかない、せめて伝承なり
考古学的裏付けのかけらも無いので論外だな。
913日本@名無史さん:2014/01/08(水) 19:01:07.41
>>912
神武の畝傍山の丸山古墳もそうだし、
神社を勝手に掘るわけにはいかないからな。

どっちみち、おまえの孝霊2世紀後半説よりはまともだろうが。
914日本@名無史さん:2014/01/08(水) 19:04:06.69
今度は遺跡パズルかよ?
裏付けも何もなく何処がまともなんだろうなw
平均年数とか、思い込みだけじゃね…
915日本@名無史さん:2014/01/08(水) 19:05:42.24
>平均年数とか、思い込みだけじゃね

平均在位はあくまで目安だ。
それさえまともに持ってないバカが神武1世紀だなんて言うのだ。
916日本@名無史さん:2014/01/08(水) 19:08:43.96
神武は何年かけてやってきたんだろうね?
紀伊半島を制覇するだけでも普通数年かかりそうだがw
917日本@名無史さん:2014/01/08(水) 19:10:46.28
>紀伊半島を制覇するだけでも普通数年かかりそうだがw

アホ丸出しwww
918日本@名無史さん:2014/01/08(水) 19:22:41.75
>>907
京奈和自動道建設で、葛城の遺跡がかなり見つかるのでは?
と期待してたのだがw

まあ、所詮、葛城はマキムク王権よりかは地位が低かったのだろう。
919日本@名無史さん:2014/01/08(水) 19:29:13.85
もともとは葛城のほうが中心だろう?
途中でマキムクに中心が移ったと思うが。。。
920日本@名無史さん:2014/01/08(水) 19:34:50.69
>>907
難しいと思うよ。なんせ集落の下だからさ。
921日本@名無史さん:2014/01/08(水) 19:36:18.15
途中と言うか同時期に並存してたと思う。
鎌倉時代の都と幕府のような感じのミニチュァ版。
922日本@名無史さん:2014/01/08(水) 19:36:20.77
纏向の線路の反対側を掘るとか言ってなかったかな。
何か出たらいいね。
923日本@名無史さん:2014/01/08(水) 19:48:08.92
>>917
じゃ、やってみたら?
勿論現地の人間や熊を倒しながらの話だからなw
924日本@名無史さん:2014/01/08(水) 19:55:01.66
>>923
言いだしっぺのおまえが先にやれ。
925日本@名無史さん:2014/01/08(水) 20:02:57.96
>>923
出会う人間全部を殺しまくってたわけではないから。
ヤマトタケルも神武も帰順しない相手を殺してただけ。
926日本@名無史さん:2014/01/08(水) 20:05:05.58
>>924
大台なら撮影でよくけどな。
あんな所の征服目的縦走なんて出来ないのは確実に判るw
竜田や大坂越えなんて、毎日でも行くよ。
ヒルメ越えなんてウォーキングにお勧めだ。
927日本@名無史さん:2014/01/08(水) 20:06:57.20
>>926
毎日行くわりに何で一日中パソコンの前に張付いてるんだ?w
928日本@名無史さん:2014/01/08(水) 20:11:58.45
そりゃ地元だからだろw
929日本@名無史さん:2014/01/08(水) 20:22:28.81
ヒルメ越えはマジでお勧めするぞ。
晴れなら明石大橋まで見えるし、360度パノラマだ。
ヤマトを実感するにはもってこいだ。
名前からして「ヒルメ」だぞ、奈良は意外と海が近いのを実感したまえ。
930日本@名無史さん:2014/01/08(水) 20:45:32.23
マジで明日時間空いたし行こうかと思たが大寒波らしい。
やめた。
行くとしても京都だ。
931日本@名無史さん:2014/01/08(水) 20:52:47.17
>>919
確かに葛城はサヌカイト利権で古くからクニがあったとは思うが、
交易主体の唐古鍵に奈良盆地の盟主の地位を譲っている。

久渡3号墳の主が三角縁を下賜されてるし、
庄内土器が奈良盆地南東部のマキムクと、中河内から多数出土するのに、
その中間地点の葛城は素通りされている。

葛城が力をつけてくるのは四世紀末、葛城ソツヒコあたりから。
932日本@名無史さん:2014/01/08(水) 21:01:27.21
>>930
奈良の古代史好きなら一度は必ず行った方がいい。
大和三山から三輪山も眼下で山頂は曰くある神社。しかも麓は孝霊稜だしな。
山は江戸時代には元伊勢騒動のあった所。
ちなみに亀の瀬も近所で降りる道はあるが、
これは危ないのであまりお勧めしない。
933日本@名無史さん:2014/01/08(水) 21:11:49.36
>>931
>庄内土器が奈良盆地南東部のマキムクと、中河内から多数出土するのに、
>その中間地点の葛城は素通りされている。

物部氏絡みだろう。

>葛城が力をつけてくるのは四世紀末、葛城ソツヒコあたりから。

鴨氏が古くから進出してるが、土盛りの古墳を作らない氏族だったのだろう。
そういえば大王家も崇神までは古墳ではない。
934日本@名無史さん:2014/01/08(水) 22:30:07.51
皇別の葛城氏が勢力を拡大させるのは5世紀からだろうけど
それ以前も葛城が栄えていただろう。
935日本@名無史さん:2014/01/08(水) 23:41:13.90
葛城は栄えていただろう、とする根拠が余りないんだよね、考古学では。
唯一の根拠が記紀の欠史八代になるんだろうが、
和風諡号がオオヤマトネコとか、明らかに後世の美称が入ってる。
後世創られた大王だろう。
936日本@名無史さん:2014/01/08(水) 23:45:36.54
>>933
古代日本の超巨大氏族モノノベを持ち出せば、全て解決!
937日本@名無史さん:2014/01/09(木) 01:02:09.98
皇別の葛城氏が誕生したのは
欠史八代より後だろう?
だって、彼らは武内スクネの末裔なんだから。
時系列が違う。

物部氏はそこまで大きな氏族ではない。
中臣氏よりは少し上、
大伴氏、賀茂氏、忌部氏などよりは格下。
938日本@名無史さん:2014/01/09(木) 01:55:08.21
楽楽福神足洗池伝承 
孝霊天皇は祖神伊弉冊命を祭る御墓山山麓の熊野神社に参詣し、
砥波(阿毘縁)の大塚家に立ち寄られた。
この地を訪れた孝霊天皇は、乞食のような身なりをしていた。
飯を与えようとして近づくと、あたり一面大海のようになって
近づくことを得ず、これは尊い方であろうと気づき、衣服を
改めてくると、大海は跡形もなく消えうせた。
そこで天皇を招じ入れたが、そのときに足を洗われたのが
足洗池である。

これによく似た伝承があるのが、片岡山の聖徳太子飢人伝説。
行き倒れ瀕死の人物に、哀れんだ太子が衣服と食事を与える話。
結局その飢人は死んで葬られるが、後日太子が
通りかかると墓に衣服が畳んであって墓は空っぽだったという。
太子は「あの飢人は真人なり」といって、その服を再び着用したという話。

片岡山に墓が存在するのが孝霊天皇なんだよ。
何故こんな逸話が創られたのかは謎だけど、
多分孝霊天皇の逸話を知った上での話だろう。
939日本@名無史さん:2014/01/09(木) 08:58:40.57
オカルトなネタだが、興味深いのが聖徳太子が
生前自分の墓を現太子町の方へ視察して帰る時に
片岡山に通りかかった時の逸話。
940日本@名無史さん:2014/01/09(木) 09:18:39.20
>>935
考古学を万能だと思いすぎなんだよ。
だいたい、大きな古墳だけで判断するのならば
中世とか、墓の規模が小さくなったことを
どう解釈するんだ??
941日本@名無史さん:2014/01/09(木) 09:19:07.55
崇神以前の大王など、大和におらんわ。
942日本@名無史さん:2014/01/09(木) 09:21:25.43
仏式の火葬になって古墳はやめたんだろ
943日本@名無史さん:2014/01/09(木) 09:29:53.21
>>935
葛城地方なんて、三輪周辺に匹敵する古墳の宝庫なんだが。
944日本@名無史さん:2014/01/09(木) 09:45:49.35
地元の古い伝承では二上山の事を、香山(コウヤマ)と呼んでいたという話。
つまり元々カツラギ山なんだよ。葛木神社もあるしな。

オオヤマトクニアレヒメの別名が倭国香姫。
カヅラヒメとも呼ばれる理由が見えてくるだろう。

モモソの箸墓の石を大坂山から運ぶ理由はあるんだよ。
945日本@名無史さん:2014/01/09(木) 09:52:52.96
>>943
弥生終末〜古墳初期の話だから。
946日本@名無史さん:2014/01/09(木) 10:03:28.68
片岡寺だっけ?
こじんまりとしてなんもないところだったぞ
947日本@名無史さん:2014/01/09(木) 10:11:28.33
北葛城の広陵町大塚にある新山古墳なんか4世紀前半比定だが、
イヨの後の王墓という事になるからな。
この辺りは結構重要になってくるかもね。

>>946
達磨寺だな、有名ではあるよ。
片岡孝霊陵はその少し山手だね。
周辺は宅地開発されて見る影もないが、山は残ってる。
948日本@名無史さん:2014/01/09(木) 10:55:41.22
葛城はあまり掘ってないからね。
秋津中西遺跡に期待するよ。

卑弥呼の時代の住居跡は難しいと思うな。
もし出てくるとしたら、天理市の中心部、桜井市の民家の密集地、御所市の
民家の密集地、田原本町の中心部、発掘は難しい・・

日本全体の人口が100万もない時代から続いていると思われる場所。
949日本@名無史さん:2014/01/09(木) 11:14:26.67
住居はおそらく珠城のほうだ
950日本@名無史さん:2014/01/09(木) 11:17:49.92
農耕の開始時期がいつからで
古代の推定人口なんて大きく変わるんだよ。
いま、ちまたに出回った説なんて、
一昔の考古学的な知識を基に推測したものだから。
完全に実態からかけ離れている可能性が高い。
とにかく、日本の古代史や考古学の研究って
新しい尺度の導入が遅れてしまって
古い権威に縛られたまま。
951日本@名無史さん:2014/01/09(木) 11:19:17.70
中国人の書いた魏志倭人伝に書かれている戸数をみたら
これまでの考古学的な知識で導き出した推定人口なんて
大きく間違っている可能性が高いんだよ。
952日本@名無史さん:2014/01/09(木) 11:55:56.07
正直過去の畿内説は一度離れた方がいい。
勿論九州説に戻れという訳じゃないけどなw
くどいようだが鍵は欠史八代にあるだろう。
文献でヤマトと丹波、吉備、出雲の関係が記述されているのは
この時代しかないんだからな。
953日本@名無史さん:2014/01/09(木) 12:37:36.33
今の福岡周辺に当たる奴国が2万戸程度だから邪馬台国全体は県単位で言えばせいぜい2〜3県ぐらいかな
954日本@名無史さん:2014/01/09(木) 13:01:17.02
当時の平野部なんて少ないからな。
現状最大級の弥生後期集落は妻木晩田遺跡だったな。
あと高知のも大きい。
955日本@名無史さん:2014/01/09(木) 13:30:54.75
卑弥呼がモモソ媛命ならば、
倭国大乱と欠史八代の時期がもろかぶりなんだよw

では、倭国大乱とは何か?いうと、これは同族同士の王位継承争い。
956日本@名無史さん:2014/01/09(木) 13:38:06.35
卑弥呼共立の共立とは
臣下が協議して王を決めるという意味。

中国的な価値観では、表向きは、新王は、先王が決めるということであり、
それが無理な場合は、臣下が共立して王を決めるとなる。

また、易姓革命が起こり、異なる王朝が誕生した場合は
その時点で新しい国が建国したとなるので、共立して王が決まったとはならない。
魏志倭人伝の内容だと、卑弥呼の即位しても、
新しい国家が建国されたとは解釈していないみたいなので

おそらく、卑弥呼が共立されたというのは、後世でいうところの
足利幕府による足利義教の擁立に似ている。
この場合も、先代将軍が決めたのではなく、家臣たちの話し合いによって
足利義教の擁立が決まった。
957日本@名無史さん:2014/01/09(木) 13:54:01.04
皇族が邪馬台国の男のように刺青してるって聞いたことない。
958日本@名無史さん:2014/01/09(木) 14:02:22.68
300年も経てば生活習慣なんてまるで変わるがね
959日本@名無史さん:2014/01/09(木) 14:57:58.90
>>955
実際それしか無いんだけどね。
出雲が絡んでると多分詳細も描けなかったんじゃないの?
じゃ、神話にしてしまえと。
960日本@名無史さん:2014/01/09(木) 14:58:33.67
記紀だと、エミシが刺青してることになってる。
被差別部落はエミシだそうだから、今のヤクザにまで受け継がれてるということか。
961日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:03:04.39
ヤマト出土の埴輪で顔面刺青は珍しくないよ
962日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:13:52.41
「古事記」神武天皇記で大久米命(大伴氏の祖)が刺青していると
書かれてあるんじゃなかったか
963日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:15:53.18
>>959
出雲国譲り自体は、ニニギ命の時代だろう?
欠史八代よりも、さらにずっと前の世代だ。
よって、倭国大乱と出雲国譲りは、時期的に異なる。

>>957
昔の皇族、古代の皇族や貴族は刺青していたというのは有名な説だろう?
964日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:20:14.31
でも、古墳時代になると、刺青の風習消えていったのかな?
965日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:31:29.07
>>962
彼は、土着の倭人なんだろ。
966日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:40:46.60
7世紀の常識でペケなものは歪曲されて記述されてるような
967日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:51:55.55
魏志
「ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。
 宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(唯有男子一人給飮食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設)」

モモソ媛なら誰になる?
大物主のおっさんか?
968日本@名無史さん:2014/01/09(木) 15:57:20.03
>>955
>では、倭国大乱とは何か?いうと、これは同族同士の王位継承争い。

同族同士の王位継承争いの結果、祭器を九州の鏡に変えましたでは話にならん。
新文化として採用したなんてアホ説は通らん。
969日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:00:55.27
>>963
だが現実に記紀において欠史八代の事はスルーされてるだろ?
孝霊は神話とダブる話が多いのはわかってきたし。
今までは架空とされているが、そんな事はないだろう。
卑弥呼の記述が無いならば、やはりそこを疑うべきだね。
幸いモモソ像についても朧気に見えてきたしな。
970日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:11:07.79
崇神      戊寅318年.(古事記没年)
垂仁        330年.(推定)
景行      庚午350年.(日本書紀没年)
成務      乙卯355年.(古事記没年)
仲哀      壬戌362年.(古事記没年)
神功      己丑389年.(日本書紀没年)
 
平均寿命や考古学も考慮して、おおよそこんな感じだろう。
971日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:17:32.62
なかなかの没年推定、なっとく
972日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:18:54.78
>祭器を九州の鏡に変えましたでは話にならん。
新文化として採用したなんてアホ説は通らん。

欲しいのは何も九州の鏡じゃないから。
大陸からの新しい思想が欲しかったというだけだろう。
973日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:23:22.96
>大陸からの新しい思想が欲しかったというだけだろう。

畿内勢力が3世紀まで鏡を知らなかった時点でアレだなw
974日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:31:51.50
>畿内勢力が3世紀まで鏡を知らなかった時点でアレだなw

なので孝霊は丹波、出雲へ鉄を確保する為に向かう訳だよ。
その時にまず入手したんじゃないか?
その時后も貰ってるからな、まさにオロチ伝承だろw
975日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:33:23.69
>>970を見れば、
崇神没年・戊寅258年説がいかに間抜けかわかるだろ?
モモソ媛説は258年説でしか成り立たないわけだ。

あ き ら め ろ!
976日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:37:34.17
欠史八代の時期の当主について書くなとよ
京都朝廷から口止めされていたのは、尾張氏や海部氏。
でも、海部氏はこっそり書いてましたとさ。
それが、国宝海部氏系図として残っている。
海部氏の系図を額面通り受け取るべきではないけど
(とくに、尾張氏のほうが本家なのに、
海部氏のほうが本家みたいな記述とか)
それでも、欠史八代の時期に、天皇家と尾張氏の先祖の間に何かがあったんだろうね。
そこが、倭国大乱の時期とも重なる。
977日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:38:34.09
>>974
おかしいな。
畿内X期や庄内土器が九州に現れるわけだが。
鏡は九州からの影響と考えた方が話が早いが。
978日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:40:03.82
>>975
それで話を進めりゃいいんじゃないの?

俺には孝霊が関係する妻木・晩田や、鍵・唐古の年代との関連で
ズレがあるので無理だな。
979日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:42:08.99
>鏡は九州からの影響と考えた方が話が早いが。

神仙思想は九州発祥ではないんだよw
980日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:43:57.05
景行のところの人脈がぐだぐだ

2人の酋長のことまとめて書いているみたいなかんじ

知初國之御眞木天皇は印惠ではんこ恵まれたって名前だから

【戊寅年十二月崩】(258) の可能性はきわめて高いといわざるをえない
981日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:52:21.69
>神仙思想は九州発祥ではないんだよw

鏡は九州の方が早いんだよw
982日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:55:48.36
>>980
>景行のところの人脈がぐだぐだ
>【戊寅年十二月崩】(258) の可能性はきわめて高いといわざるをえない

ならば自分で没年表を作ってみ。
平均寿命を考慮しましょう。
983日本@名無史さん:2014/01/09(木) 16:56:07.89
当たり前だろ、地理的に近いからなw
984日本@名無史さん:2014/01/09(木) 17:00:29.83
孝霊は丹波、出雲へ鉄を確保する為に向かわなくても
畿内X期や庄内土器からわかるように畿内は九州に進出してたんだよ。
君の説は潰れた。
985日本@名無史さん:2014/01/09(木) 17:12:06.86
鉄砲や大砲が速く普及したのは九州だったけど
だからといって、九州発祥の政権が
東征して日本を統一したわけではないよなw
そういうことだよ。
986日本@名無史さん:2014/01/09(木) 17:19:29.54
>>976
ほぼ同意見。
違うのは、本家は海部(丹波)だと思うことだな。
欠史八代の間は、ホアカリ族が優位だったんじゃないか。
妃の出身をよ〜く読むと、天皇家が婿入りしたかのようなのが多数。

尾張は有力な氏族。近江の息長もあったと思うけど、記紀が出来る前に
衰退したんだろ。名前だけ残ってる。
丹波の海部は、応神のころに臣下になった。
987日本@名無史さん:2014/01/09(木) 17:23:03.53
>>985
屁理屈。
畿内から九州に人が移住してるわけだから。
九州の影響が「ない」というのは無理。
988日本@名無史さん:2014/01/09(木) 17:42:46.09
>>984
>畿内X期や庄内土器からわかるように畿内は九州に進出してたんだよ

潰れる訳ないのだがw
元々銅鐸が北部九州から来て、貨泉も瀬戸内方面で確認してるのに、
何を今更だろ。
直接取引き出来るルートを確保したかったんだよ。
989日本@名無史さん:2014/01/09(木) 17:52:13.40
>>986
本家はどうみてお、尾張氏のほう。
というか、海部氏系図は、尾張氏と海部氏の当主がダブっているのよw
なざかというと、尾張氏は、尾張と丹波の両方の所領をもっていたので
どちらの国主というのは、あながち間違いない。
でも、結局は、分派し、尾張のほうが宗家になった。
990日本@名無史さん:2014/01/09(木) 18:04:48.49
>>988
おまえは畿内の鏡に九州の影響はないって言ってたじゃん。
なんで意見変えたの?
991日本@名無史さん:2014/01/09(木) 18:06:42.37
畿内説には何の根拠もない。
992日本@名無史さん:2014/01/09(木) 18:21:29.59
203-258 天日矛 伊賀迦色許賣生09大毘毘子 10.【崇~】 御眞木 入日子 印惠命
993日本@名無史さん:2014/01/09(木) 18:24:20.12
180-212-243 阿達羅 内色許賣生08國玖琉子 09.【開化】 若倭 根子日子 大毘毘命
994日本@名無史さん:2014/01/09(木) 18:25:07.19
135-192-212 彡今 逸聖 細比賣命生07賦斗邇子 08.【孝元】 大倭 根子日子 國玖琉命
995日本@名無史さん:2014/01/09(木) 18:25:59.33
多婆那婿君 彡尼今 尹公 忍鹿比賣命生06國押人子 07.【孝靈】 大倭 根子日子 賦斗邇命
996日本@名無史さん:2014/01/09(木) 18:28:55.32
>>990
最初からこの意見だが。大陸からの使いは伊都に
一旦寄るのだから、何か問題があるのか?
途中西国が荒れたら直接取引出来るルート探すだろ。
997あ〜ぁ指並太郎 ◆5iIfvK1Gbc :2014/01/09(木) 18:32:08.86
>>996
ならば畿内の鏡は九州ルートで来たという事に賛成だな。
めでたしめでたし。
998日本@名無史さん:2014/01/09(木) 18:34:47.05
>>996
何で畿内は九州の埋葬方法に変えたのだろうね?
999日本@名無史さん:2014/01/09(木) 18:46:52.94
本当に九州好きだねw
阿波や吉備を主体に、各地の要素を取り入れてるだろw
大体前方後円墳受け入れてるしな。
1000日本@名無史さん:2014/01/09(木) 18:50:02.33
>>999
言い分変えてるじゃんwww
10011001
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