邪馬台国は九州にあった36

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1日本@名無史さん
魏志倭人伝の文献史学により九州説は当然
前スレ
邪馬台国は九州にあった35
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1384501155/
2日本@名無史さん:2013/12/05(木) 08:32:04.48
乙です
3サガミハラハラ:2013/12/05(木) 08:34:06.64
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡(さくらおか)です。
大正時代の工事の時に頂上部から大量の土器と鉄刀が出土(現在不明)しています。
4日本@名無史さん:2013/12/05(木) 09:11:37.88
前スレ >>992 よりコピペ引用

>繰り返しを嫌うのが陳寿のクセと考えられる。

>ただ、陳寿がくり返しを嫌い前と後で記述を変えたとみていいと思う。
>二重にくり返しを嫌ったのであろう。

たしかにこのことは強く感じるね
同一表現の繰り返しや、記載内容の重複は、慎重に避けている
この点、学術論文とはいささか異なる文章スタイルだ
5日本@名無史さん:2013/12/05(木) 09:48:35.48
異なる表現は異なる意味を持つことに気づかないとは困ったもんだ。
6大和 田 直木:2013/12/05(木) 10:31:58.39
>>4-5

A:陳寿は重複表現になる部分を省略している。
@「從郡至倭 循海岸水行(方可四千里) 歴韓國 乍南乍東」
A「所居絶島 (循海岸水行)方可四百餘里」
B「(循海岸水行)方可三百里」
  ( )内が重複による省略部分

B:異なる表現は異なる意味を持つ
@「東南 至奴國 百里」・・二国間の相対的な位置関係だけを表現
A「東行 至不彌國 百里」・二国間の道程を表現
B「地点間距離を表す場合」と「領域間距離を表す場合」では語順が異なる。
  「方向―至(到)目的地―距離」と「方向―距離―至(到)目的地」
7日本@名無史さん:2013/12/05(木) 11:16:16.92
表現を変えるのと意味を変えるのは違うな
陳寿の書は文学的表現を多用してる
それを学術論文であるかのごとく金釘流に解釈したがる傾向は困ったもんだ
8日本@名無史さん:2013/12/05(木) 11:33:02.63
>>5は馬鹿で阿呆
9日本@名無史さん:2013/12/05(木) 11:37:55.43
我々日本列島住民の弱点は平仄の理解に乏しいことである
ささいな語順に気を取られて過大な解釈を加えたのは良いが、実は平仄ゆえのこともあり得る
有名な「到」と「至」の違いも、単に平仄上の使い分けにすぎないらしい。

>平仄とは「平」と「仄」の組み合わせであり、近体詩では最も重要な規範の一つである。
>漢詩では平声の脇に○、仄声の脇に●を記入し、平仄を明示することがある。
>例として杜甫の詩の一節を分析すると:

   国破山河在 ●●○○● 城春草木深 ○○●●○

>となっている。尚、「国」は現代中国語では第2声であるが、古代では入声であり、仄である。
10日本@名無史さん:2013/12/05(木) 12:27:21.39
漢字研究家の白川静氏によると元々、「到」と「至」は意味の違があり
「至」は単に至ること「到」は特に人が至ることを意味したそうだ。
11日本@名無史さん:2013/12/05(木) 12:43:41.09
前出のこの部分も:
D 東南 至 奴国 百里
E 東行 至 不彌国 百里

Dを 東南至 の三文字にした関係上、
Eも 東行至 として三文字に揃えただけのことであろう
12日本@名無史さん:2013/12/05(木) 13:03:00.33
>>10
>「至」は単に(道が)至ること「到」は特に(その道を辿って)人が至ることを意味したそうだ。

たしかにこの使い分けは現代の我々でも理解できる
つまり主人公(主語)が道か人かの違いであるから、この違いを以って「到」の先へは行かなかったとはならぬ
13日本@名無史さん:2013/12/05(木) 13:04:13.61
到はこえて至る、つまり、曲がったりして届くということ。AからBを経てCにいたるといったニュアンスがある。
至は矢がとどく、つまり直接とか、真っ直ぐとかだ。Aから直接にCにいたるというニュアンスだね。もちろん、あまり
区別することなく使われることも多い。
14日本@名無史さん:2013/12/05(木) 13:29:58.28
>>13
到は人が至るだから曲がったりしても届くんだろうな

>至は矢がとどく、つまり直接とか、真っ直ぐとかだ

つまり、単純な至だな
15日本@名無史さん:2013/12/05(木) 16:53:41.64
>「至」は単に至ること「到」は特に人が至ることを意味したそうだ。

>「至」は単に(道が)至ること「到」は特に(その道を辿って)人が至ることを意味したそうだ。

これ、歪曲改竄って言わね?
16日本@名無史さん:2013/12/05(木) 19:08:27.20
これが現実

http://yamatai.cside.com/katudou/image/312-03.gif

甕棺墓の分布からみても魏使は海を目印に
海岸沿いを唐津〜伊都まで移動したのは明らか。

集落も何もない唐津〜佐賀平野を移動するとは自殺行為そのもの。
休憩場所や日が暮れた時等のことを全く考えない伊都国佐賀派のただの思い付きそのものw

だいたい唐津〜佐賀平野を移動したなら魏使は上陸してそのほとんどを山の中で過ごしており、
唐津や伊都の情緒豊かな海の情景が魏志倭人伝に記述されるわけがない。

唐津〜佐賀ルートなら「倭の地は山だらけだ」という表現になるだろう。
唐津〜糸島の海岸沿いを進んだからこそ、倭地の海の情緒豊かな情景をこと細かく魏志倭人伝に記しているのだ。

それから弥生期には有明海の海が佐賀平野に大きくせりだしていて
「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり」がぴったりとか
言ってたバカがいるが、佐賀平野にはそこが海だとしても「島」は全く存在しない。
「島」が存在しないうえに、もし久留米柳川等の福岡県内をそう呼びたいのなら
それは「海」ではなくあきらかに「川」によるものである。
そしてこの場合「筑後川」の存在が魏志倭人伝にないのもおかしな矛盾になる。

さらには有明海のような「湖」のような海を
「海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり」と壮大に表現するのもまたおかしな矛盾になる。

このように伊都国佐賀説とは「自称倭人伝通り」である事実は「方角以外は倭人伝とは矛盾だらけ」である。

ここの畿内派宮崎派佐賀派はほんとに郷土愛が強すぎて客観的に判断できないバカだらけなのである。
17日本@名無史さん:2013/12/05(木) 19:15:25.02
佐賀平野にはこういうところもないしな

伊都国で魏使が感じた「倭」の印象

http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg
「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。


佐賀はムリムリ

もし伊都が佐賀なら
> 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり

この一文は無いな。
上陸してすぐ唐津から佐賀平野へ山ばっかりの地形を行った(上陸してほとんどを山で過ごし海は全く見ないという事になる)
魏使ならその一文のような表現はこれっぽっちもでてこないだろう。
ましてや「島」がない佐賀には全く違う景色になる。

佐賀はまずムリ。 常識的に客観的視点をもってあきらめなさい。
18サガミハラハラ:2013/12/05(木) 19:18:05.89
唐津佐賀平野の間は集落はいっぱいありますよ。それに1泊ほどで多久盆地に入り、あくる日には佐賀平野にぬけますよ。
佐賀平野に抜けますよ。
海の情景は、上陸した海岸の情景ですよ。
19日本@名無史さん:2013/12/05(木) 19:18:11.46
古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述

倭人伝:「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」
     
     (今までの道理行程を振り返ると、その場所は会稽郡東治(紹興市)の東にある)

      つまり、魏使は帯方郡から、九州に上陸してからも基本ばずっと南下してたと勘違いしている明らかな証拠だな。



「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」


現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。
20日本@名無史さん:2013/12/05(木) 19:18:42.71
伊都国(倭奴国)と位置関係

☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
  現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。 
  それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。

☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
  福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
  「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
  これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
  自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
  これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
  元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。

☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
  伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
  現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
  今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
  福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
  要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
  当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
  基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
  (北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)
21日本@名無史さん:2013/12/05(木) 19:19:27.27
やっぱり邪馬台国は宮崎か
22日本@名無史さん:2013/12/05(木) 19:24:47.31
近畿説が焦ってるみたいだな
東南陸行は佐賀だよ
東北陸行なんかあるはずない
商人、観光客じゃなく、軍人だぞ
23日本@名無史さん:2013/12/05(木) 19:34:02.21
>>18
山ばかりを移動した=上陸してほぼ全部を山中で過ごす

もし唐津〜佐賀に抜けたのなら
魏志倭人伝に情緒豊かなな「海」の情景ばかりが記述されることは無い。
ましてや、ほぼ全部を山の中で過ごしたのに全くその記述が
魏志倭人伝にないということも大きな矛盾。

http://yamatai.cside.com/katudou/image/312-03.gif

これのように魏志は「海」と「集落」を目印に
唐津から糸島まで海沿いを進んだんだよ。だからこそ松浦の

「山海にそいて居る。 草木茂盛して行くに前人を見ず。
 好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。」
こういった情景や

伊都の
「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり」
こういった表現がある。

佐賀には全く「島」は無い。
そしてその景色を久留米付近と言いたいなら、それは「川」によるもの
その「筑後川」の存在が倭人伝ないのも矛盾するし、
「湖」のように穏やかな有明海を
「海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり」こう表現するのも、また伊都おかしいw

常識的に客観的に判断すればすぐわかること。
あまり郷土愛だけを丸出しにするのはやめた方がいい。
これをもう一度よくみて自分で客観的に考察するがいい。
http://yamatai.cside.com/katudou/image/312-03.gif
24大和 田 直木:2013/12/05(木) 19:52:04.90
@ A到E
 (A→B→C→D→E)のB地点〜D地点を省略したもの。

A A至E
 (A→E)A地点から何処にも寄らないで直接E地点に。

例1「循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
  A地点「帯方郡庁」は省略。E地点は其北岸狗邪韓國。
  B地点〜D地点は、「韓國」(韓地の国々)と「乍南」点と「乍東」点。

例2「東南陸行五百里 到伊都國」
  A地域「末盧國」は省略。E地域は伊都國。
  B地域〜D地域は省略。

私は言語ではうまく説明できませんので、言語能力が高度な方々の説明をお願いします。
例1ではA〜Eは地点を表し、例2ではA〜Eは地域を表しています。
25日本@名無史さん:2013/12/05(木) 19:57:34.24
>23
それは甕棺の分布で弥生の一部の習慣の分布になる

弥生遺跡の多さはこれ
http://inoues.net/9shumapnew01.gif

九州中部、畿内、関東が多い
これは古来の勢力と一致する

上の画像はここから
http://inoues.net/yamahonpen18.html
26日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:02:23.02
>>23
その図とこれを見比べれば当時の地勢もわかるんじゃないの

http://flood.firetree.net/?ll=33.3582,130.3059&zoom=10&m=1
27大和 田 直木:2013/12/05(木) 20:08:29.62
>>23
>唐津から糸島まで海沿いを進んだんだよ。

違います。
「濱山海居」と「好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之」は、
虹の松原の南、松浦川沿いに広がる古松浦湾の情景を描いているのです。


「絶在海中洲島之上 或絶或連」は、対馬から北部九州までの景色を描いているのです。
「洲」は、唐津古松浦湾(末盧國)と有明海沿岸(奴國・不彌國・投馬國)を指しているのでしょう。
28日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:13:00.12
>>25
>それは甕棺の分布で

その甕棺が重要なんだがww
倭国(邪馬台国連合)の墓は「甕棺」と書いてあるんだが・・・

ちょっと畿内派や宮崎派や佐賀派ってほんと必死すぎて周りが見えてないんですけど・・・
反論のレベルが第一に「邪馬台国・倭国連合の事情」をなしてないのにそれを根拠に反論してくるってww

ほんとあんたら郷土愛が強すぎて周りが見えてなさすぎなんだよw
基本から出直してこい マジで

ちょっとほんとにあんたらレベル低すぎるよ・・・ 情けない・・
29日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:15:57.72
人の話聞かないね君も
30日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:16:24.26
>>27
じゃあなんで、大部分を過ごした松浦の山の中の情景が
全く倭人伝に記述がないんだよ

お前らまじでばっかじゃね〜の?
常識で考えろ

郷土愛が強すぎて視野が狭すぎるんだよ キチガイが

まじで ほんと 低レベルな反論 やめてくれ ほんと悲しいわ
31日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:19:39.11
常識で考えて山道に何も無ければ
何も書かないぞ
草が多かったぐらいしか書かないなw
32日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:20:18.70
>>28
>倭国(邪馬台国連合)の墓は「甕棺」と書いてあるんだが・・・

ホラ吹くな
33日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:21:10.56
もうこいつには何を言っても聞こえない。
さっと流すのが吉
34日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:26:22.81
福岡は筑紫国で、九州を代表する発展した国家だった。
それを否定するものではない。

しかし、同時に肥国も発展しており、
鳥栖付近で筑紫と争うほどの国家であった。
倭人伝によると、クナ国と想定される
熊襲国とも争っていたらしい。

倭人伝佐賀ルートは、筑紫国を全く通らない。

つまりはそういうことだ。
35日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:30:14.30
>>34
じゃ、奴国は何処?
36日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:34:30.39
>>34
バカかw
筑紫を通らないww
例えそうなら狗奴国のように筑紫の名前が堂々と倭人伝に乗るだろwww

だから、おまえらまじで郷土愛が強すぎてほんと周り(常識)が見えてないっつうのwww

ほんとアホばっかw

筑紫国の記述がないのは筑紫国に魏使が行ったからなんだよ。
つまり邪馬台国は筑紫国におあったんだよ。

当時の一番強大な筑紫、佐賀より大きな筑紫の存在が書かれてない=つまり魏志は筑紫に行ったんだよ。

ほんとお前らって大馬鹿だよなw 突っ込みどころが満載というか、
ほんとおらが村おらが村ばっかで周り、常識が全然見えていないww

ほんと畿内派宮崎派と変わらんなw
37日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:41:37.09
>>35

自分は、肥国+筑後南部が女王国、
その中の多久、小城郡が伊都国。
佐賀郡が奴国。
筑後川東南側の久留米から大牟田荒尾までが投馬国。
熊本全域が邪馬台国。
38日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:48:34.25
>>37
>小城郡が伊都国。 佐賀郡が奴国。

伊都國 有千餘戸。 奴國百里 有二萬餘戸。だけどね。
同じ位の規模にしか見えないが・・・1対20は無理だろ

仮縫い説。方向と寸法だけ。根拠一切なしかかよppppp
恥ずかしくないか
39日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:48:37.31
八女付近に上妻、下妻って地名があるんよ。
その辺を中心にして、投馬国を設定。

魏使が寄ったのは大牟田荒尾の有明海へ突出した
半島状態のところだが、
補給のためにちょっと寄っただけなので、
中心からは外れてる。

でも、ここも遺跡は多く、十分大きな集落だっただろう。
40日本@名無史さん:2013/12/05(木) 20:50:54.47
標高見れば、
佐賀大和から、佐賀城付近まで、広大な半島だからな。
この辺の面積はかなり大きい。
41サガミハラハラ:2013/12/05(木) 22:16:07.23
草木茂生して前人を見ず、は、松浦川に沿って歩いた光景ですよ。
今でもおおきなかわの河川敷や近くには葦や柳がしげり、釣りなどで中をとおると、しだれかかってきて、前を歩く人がみえなくなるほどでしょう。
その光景が、ステップ気候で暮してい華北の人には珍しかったのでかような表現をしたのです。
42風の中のゴキブリ:2013/12/05(木) 22:49:01.93
オマエらは相変わらず進歩がないな
アホばっかり
43日本@名無史さん:2013/12/05(木) 22:51:56.74
あえて進歩を拒否した古き良き世界なんだろ
44日本@名無史さん:2013/12/05(木) 23:08:02.33
>>42 ゴキ
お前も相変わらずだな
自説を持たないブリ
45日本@名無史さん:2013/12/05(木) 23:12:34.94
博多湾岸にある西新町遺跡は朝鮮半島の土器も見つかる海外貿易港である。
そういうルートが確立されているのに、
福岡に行くのにわざわざ唐津に寄って遠回りする必要はない。

唐津に行くのは、有明海側に抜ける意志があると考えるべきである。
46日本@名無史さん:2013/12/05(木) 23:59:19.63
>>37
大分、宮崎、鹿児島はどうする? 女王国の東渡海千里はどう解釈する?
47日本@名無史さん:2013/12/06(金) 00:02:19.88
>>45
そうなると、伊都国は佐賀あたり。伊都国が有明海沿岸ならば、奴国や不彌國へ行かずとも
伊都国から舟で南下できる。ということは、放射式が正しいということ。伊都国から水行1
0日陸行1月ならば邪馬台国は南九州になるね。
48日本@名無史さん:2013/12/06(金) 00:10:50.15
伊都国から水行十日、または陸行一月だと思う
49日本@名無史さん:2013/12/06(金) 00:25:07.74
○千里というのはかかった日数であり距離ではない
50日本@名無史さん:2013/12/06(金) 00:25:37.58
水行10日で行けるならば陸行1月なんて余計なこと書かないだろ。
それに、水行10日だけならば投馬国よりも近くなる。投馬国を書いた理由が
分からない。
51日本@名無史さん:2013/12/06(金) 00:44:15.09
だから全部伊都国から放射状なんだよ
投馬国はデカイ国だから書く意味が有った
52大和 田 直木:2013/12/06(金) 00:50:15.98
郡から水行10日(11400余里)で末盧國。
末盧國から水行10日(倭人からの伝聞)で投馬國(瀬高)。

郡から水行10日(11400余里)で末盧國。
末盧國から陸行1月(1000余里=80km)で邪馬台国(八女)。
53日本@名無史さん:2013/12/06(金) 07:06:02.81
陳寿が書いた数字はすべて6倍〜10倍に水増しされていると推定される。数
字をいくらいじくっても無駄だ。だいたい唐津に上陸したという奴が多いが、
それを証明した人はまだ誰もいない。有明海に行きたいならまず唐津上陸を証
明するこっちゃ。玄界灘の潮の流れと偏西風を考えれば神湊に上陸した可能性
のほうが強いよ。
54日本@名無史さん:2013/12/06(金) 07:17:57.90
韓伝に国名あげてる箇所があるが、国名だけである。倭人伝の21カ国には、
すべてに 次 がついてる。これは意味があるのであろう。
邪馬台国でユーターンして、一筆書きのように、奴国まで戻ったと思われる。
21カ国は邪馬台国の北とすると魏志がよく理解できる。
通常21カ国は邪馬台国の南にしてる。確かに倭人伝にはそう読める
記事がある。以北略載・・の記事である。多分、これは陳寿が邪馬台国の
南に21カ国があると誤解して、前記一文を加筆したのだろう。
この21カ国を邪馬台国の北にすると記事がうまく理解できる。
北にすれば、位置論終了すると思う。
狗邪韓国までの7000里に周旋の5000里たすと12000里である。
別記事から帯方郡から邪馬台国までが12000里とある。つまり邪馬台国は
倭の端にある。この先に国はないのである。21か国を南にすると倭からはみ出す。
一大率なども、邪馬台国の北におくとするとすべての国に置いたことになる。

前回の補足
伊都国で 津にのぞみ とあるので船で行ってる。大きな都市に
いきなり乗り付けると戦争になるので、近くで伝令を降ろす。
陸も海もともに行く。これは8個の内の4つ目だが、8個目の
水行10日陸行1月とセットである。
8個目の陸行には、起点国名、方位がないので、水行すれば10日、
陸行すれば1月のあるいは式解釈でいいと思う。
55サガミハラハラ:2013/12/06(金) 07:24:48.44
私の主張する、小城甘木の南は有明海であるから、南には国がない、つまり、
21カ国は邪馬台国の北にあるということになります。
56日本@名無史さん:2013/12/06(金) 10:26:05.43
まともな反論もできんくせに妄想ばっかふくらませて調子こいてんじゃね〜ぞ、
この気持ち悪いキチガイ伊都国佐賀説のバカどもはw
見ててお前らの妄想には反吐がでるわ 
地名も何の名残もないめちゃくちゃ 倭人伝と方角しかあってない思い付きのくせ調子こくなキチガイどもが
まともな思考をもて バカども

これが現実

http://yamatai.cside.com/katudou/image/312-03.gif

甕棺墓の分布からみても魏使は「海」と「集落」を目印に
海岸沿いを唐津〜伊都まで移動したのは明らか。
57日本@名無史さん:2013/12/06(金) 10:26:52.93
これが現実

http://yamatai.cside.com/katudou/image/312-03.gif

甕棺墓の分布からみても魏使は海を目印に
海岸沿いを唐津〜伊都まで移動したのは明らか。

集落も何もない唐津〜佐賀平野を移動するとは自殺行為そのもの。
休憩場所や日が暮れた時等のことを全く考えない伊都国佐賀派のただの思い付きそのものw

だいたい唐津〜佐賀平野を移動したなら魏使は上陸してそのほとんどを山の中で過ごしており、
唐津や伊都の情緒豊かな海の情景が魏志倭人伝に記述されるわけがない。

唐津〜佐賀ルートなら「倭の地は山だらけだ」という表現になるだろう。
唐津〜糸島の海岸沿いを進んだからこそ、倭地の海の情緒豊かな情景をこと細かく魏志倭人伝に記しているのだ。

それから弥生期には有明海の海が佐賀平野に大きくせりだしていて
「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり」がぴったりとか
言ってたバカがいるが、佐賀平野にはそこが海だとしても「島」は全く存在しない。
「島」が存在しないうえに、もし久留米柳川等の福岡県内をそう呼びたいのなら
それは「海」ではなくあきらかに「川」によるものである。
そしてこの場合「筑後川」の存在が魏志倭人伝にないのもおかしな矛盾になる。

さらには有明海のような「湖」のような海を
「海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり」と壮大に表現するのもまたおかしな矛盾になる。

このように伊都国佐賀説とは「自称倭人伝通り」である事実は「方角以外は倭人伝とは矛盾だらけ」である。

ここの畿内派宮崎派佐賀派はほんとに郷土愛が強すぎて客観的に判断できないバカだらけなのである。
58日本@名無史さん:2013/12/06(金) 10:29:17.17
佐賀平野にはこういうところもないしな

伊都国で魏使が感じた「倭」の印象

http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg
「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。


佐賀はムリムリ

もし伊都が佐賀なら
> 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり

この一文は無いな。
上陸してすぐ唐津から佐賀平野へ山ばっかりの地形を行った(上陸してほとんどを山で過ごし海は全く見ないという事になる)
魏使ならその一文のような表現はこれっぽっちもでてこないだろう。
ましてや「島」がない佐賀には全く違う景色になる。

佐賀はまずムリ。 常識的に客観的視点をもってあきらめなさい。
59日本@名無史さん:2013/12/06(金) 10:32:15.74
古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述

倭人伝:「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」
     
     (今までの道理行程を振り返ると、その場所は会稽郡東治(紹興市)の東にある)

      つまり、魏使は帯方郡から、九州に上陸してからも基本ばずっと南下してたと勘違いしている明らかな証拠だな。



「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」


現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。
60日本@名無史さん:2013/12/06(金) 10:33:42.54
伊都国(倭奴国)と位置関係

☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
  現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。 
  それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。

☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
  福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
  「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
  これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
  自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
  これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
  元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。

☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
  伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
  現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
  今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
  福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
  要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
  当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
  基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
  (北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)
61日本@名無史さん:2013/12/06(金) 10:51:03.37
まあ、ずいぶんと難しいことを書いているが、
方向が違い、道もない糸島よりは、

俺は、方向が合い、平坦な道があり、集落も多い佐賀の方に行くよ。
62日本@名無史さん:2013/12/06(金) 11:22:51.83
>集落も何もない唐津〜佐賀平野
その間にもそれぞれ集落はあるだろ。普通にな。

> 「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり」
>この一文は無いな
何を勘違いしているのかな。これは伊都国から先の話だ。有明海を南下し薩摩南端を回って
いく途中の風景だよ。

>博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。
怡土は単なる村名だ。伊都国の名残にしてはおかしい。奴国が那の津、不彌が宇美なんていう
のはこじつけ程度の話しだ。それよりは、南の方がまだましな名前が残っている。
63日本@名無史さん:2013/12/06(金) 12:12:45.59
>>41
>草木茂生して前人を見ず、は、松浦川に沿って歩いた光景ですよ。

「山海にそいて居る。
草木茂盛して行くに前人を見ず。
 好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。」

どう考えてもその前後の文とのつながりでも「海」沿いの風景だがww


前)山海にそいて居る。←「海沿い」

中)草木茂盛して行くに前人を見ず。

後)好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。←「海沿い」


間の(中)だけ川沿いの風景と主張するあんたらのキチガイ度がよくわかるレスだな。
「草木茂盛して行くに前人を見ず。」←この一文が川沿いなら
(後)の文も川沿いの情景になるだろう。

〜例〜
山海にそいて居る。 好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。
道は草木茂盛して行くに前人を見ず。 川沿いにも家あり。

とな。
前後が「海沿い」の情景を詳しく書いてるのに、中だけ「山」の景色と考える
あんたらは常軌をなくしたキチガイだよ。
あんたらは必死に佐賀に持っていこうとして都合よく「一部分」だけとかを切り取って
大声で叫んでるだけなんだよ。 つまり気持ちの悪いキチガイなんだよ。

よく常識を考えて、素直に解釈しな。
64日本@名無史さん:2013/12/06(金) 12:17:09.47
>>62
お前みたいなバカが邪馬台国について語るのは2000年早いんだよ。
出直してこい キチガイ。

>>61-62
お前らのような基本も何もわかってないバカは
もう一度>>56-60をよくよんで
2000年後に書き込んでくれ

早くまともな主張ができるようになれよ
65日本@名無史さん:2013/12/06(金) 13:25:42.24
直接博多に船で行かなかった使者は大バカだな
東西南北も分からない白痴なのも頷ける
>>64
そう言いたいのですね
66フィクション大魔王:2013/12/06(金) 16:52:23.48
>>65
魏使は壱岐から直接今津湾に来たんだよ。
67日本@名無史さん:2013/12/06(金) 17:16:54.06
福岡に行くなら、直接糸島に行くやね
68日本@名無史さん:2013/12/06(金) 17:18:59.50
じゃあ伊都国は博多から五百里歩いた所だな
69日本@名無史さん:2013/12/06(金) 17:52:10.02
>>66
ないない
壱岐からなら絶対に呼子だ
70日本@名無史さん:2013/12/06(金) 17:55:24.85
どこに糸島や福岡に「松浦・まつろ」の地名があるんだよ。
こいつらほんと妄想ばっかでキチガイばっかだなw

畿内厨宮崎厨佐賀厨、松浦福岡厨といいほんと
ただの「思い付き」ばっかでそれを連呼するキチガイばっか

ちったーまともな考えを持て、キチガイどもがww

ほんとキチガイがワイワイ集うスレだな 
ただの「思い付き」を叫ぶバカばっかw

まともに「根拠」をもってこれないアホばっかw
合ってるのは「方角」だけww

この時点でお前らはバカなんだよ。 「方角」以外は矛盾だらけの

「思い付きトンデモ説」の畿内宮崎佐賀、松浦福岡説厨ww
ほんと妄想だけのキチガイばっかだな。
まともな思考能力を持て、キチガイどもが。
71日本@名無史さん:2013/12/06(金) 18:11:17.49
畿内厨・宮崎厨・佐賀厨・松浦福岡説厨はもっと魏志倭人伝を読み込め
まず基本から始めろ。

魏志倭人伝と今の地名、そして考古学的物証その他を
よーくまともに客観的に判断しろ、バカ者どもが。

お前らの主張はただ「方角」のみが合ってるただの「思い付き説」なんだよ。

「方角」や「数字」の一番あいまいになってる部分だけを抜き出して
必死に魏志倭人伝をかたるな。

あくまで「方角」や「数字」は め・や・す 目安 にしか過ぎないいんだよ。

分かるか?? 「 目 安 」 

おまえらが必死こいて一部分しか見てないが、それは 目安 なんだよ。

ほんとお前らバカばっかだな。

一から 魏志倭人伝 を読み直してこい バカが
72日本@名無史さん:2013/12/06(金) 18:55:10.01
め・や・す だな!
わかったぞ!
73日本@名無史さん:2013/12/06(金) 19:33:55.45
しかも、今のメルカトル図法の地図を見て
壱岐から糸島とかww

お前らの妄想なんていらないんだよ 気持ち悪いw

>>59-60
をよく読め。
当時は九州は南に延びてるとおもってんだよ。
今も南に延びてるが、現代でも難しい九州北部の地勢から、
魏使は上陸して「海」と「集落」を目印に東南に向かう、
「海」と「目印」を目印に進むが陸路はいつの間にか「北東」になってる。
そして 伊都国 に到着。
魏使は伊都国までを「東南」に進んだと勘違いしたんだよ。

今でも福岡市は福岡の北部にある 区 を「東区」と呼んでいる。
これに関しても、特に西部に住む福岡人は「東区」言う呼称に違和感を持つ人は多数いる。

そういう勘違いをおかしやすい地形なんだよ。唐津から福岡までの海岸線は。

福岡市東区
>区域は地図上における方角としては福岡市の北東部および北部といえる場所だが、
 福岡市民は一般的に福岡市の「東側」と見なしている。博多湾沿いを区域とし、
 北東端部の和白地区から海の中道と呼ばれる砂州が西へ約9kmにわたって伸びている。
 その先には陸繋島の志賀島がある。
74日本@名無史さん:2013/12/06(金) 19:47:22.49
>>73
>魏使は伊都国までを「東南」に進んだと勘違いしたんだよ。

浜崎から串崎は真北だ 勘違いなんかするかよ ボケ
軍人が東南と言われて真北、東北へ行くのかよ

志賀島地域は糟屋郡で、昭和46年に東区になった
東地域が東区だったんだよ ド素人
75日本@名無史さん:2013/12/06(金) 19:49:33.85
福岡市東区
>区域は地図上における方角としては福岡市の北東部および北部といえる場所だが、
 福岡市民は一般的に福岡市の「東側」と見なしている。

この、「北東部」及び「北部」なのに「東側」とみなす。

これは、現代の感覚でも東区へ行くのに「北東」「北」に進路をとってるはずなのに、
「東」に行っていると 勘違い をおかしているという事実なんだよ。

当時の魏使が九州に上陸して「海」と「集落」を目印にまず「東南」にむかう。
そしていつの間にか陸路は「北東」になってるのに気付かず 伊都国 に到着。
そして倭人伝には「東南」に向かったと記載する。
現代人でも錯覚している唐津〜福岡の海岸線の方角。
上陸してまず「東南」に陸路をとった当時の魏使も勘違いしてもおかしくはない。

これが方角のカラクリだよ。
当時の中国は九州を南にある暖かい太陽が昇る桃源郷というイメージを持ってたからな。
76日本@名無史さん:2013/12/06(金) 19:59:22.75
君が福岡大好きなのは分かった
77日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:01:59.25
>>75
>「東」に行っていると 勘違い をおかしているという事実なんだよ。

浜崎から突然真北になるんだよ アホ
深江は字の如く深く入り組んだ海で、今度は真南に行くんだよ 次は東北だ
S字に進むんだ 勘違いなんかする暇はねえ ウスノロ
78日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:02:40.28
>>74
>東地域が東区だったんだよ ド素人

ほらみてみろw
こいつのように強い自信があるやつですら福岡市東区を「東地域」と言い切ってるww
 
お・ま・え・は・ば・か・かw
「東地域」は志免町や粕屋町・須惠町が福岡市の「東側」なんだよ。
東区は正式には「北部」「北東部」

現代になってもこのばかのように「北部」「北東部」を「東」といいきる九州北部の独特の地勢。
現代は正確な地図があるにも関わらず、このばかのように「北部」「北東部」を「東」といいきる。

上陸してまず「東南」に向かった魏使が「北東」に進路を変えていたのに
気づいてなかったまま 伊都国 に到着をした。

これは>>74のバカの主張をみてもよくわかる事実だな。
79日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:13:48.45
>>78
>「東地域」は志免町や粕屋町・須惠町が福岡市の「東側」なんだよ。
全部糟屋郡だ
東区に編入しただけだ 間抜け
80日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:16:05.76
福岡市西区からすれば「東」というと本当は
粕屋・須惠・志免どころか、その南の宇美町や太宰府市・大野城市が「東」に当たる。

しかし、どうだ。
大宰府や大野城や宇美と言えば、完全に「南」のイメージ。

こういう方角の誤解が生まれやすい地勢なんだな九州北部の地勢ってのは。

魏使が上陸してまず「東南」に進路をとる。「海」目印に進すむが実際には
いつの間にか進路は「北東」にかわる。
気づかないまま 伊都国 に到着。 魏志倭人伝に「東南」と書く。

当時の中国は九州を南にある暖かい太陽が昇る桃源郷というイメージを持ってた
事にもはまるしな。

こういう独特の地勢があったからこそ魏使は「東南」にそのまま進んだと思っていたのだな。。
81日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:21:30.49
あの、伊都国は戸数千戸なんだが

現代の感覚で語るなんて誤解してるぞ
82日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:23:38.23
福岡県の海岸なんて、北陸と同じ積雪地帯。
生で冬菜なんか採れません。

有明海沿岸に行かないと、温暖な地域にならない。
83日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:28:00.36
>>80
>こういう独特の地勢があったからこそ魏使は「東南」にそのまま進んだと思っていたのだな。。
方向音痴の軍人さんね
あったかもね、、、(笑)
84日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:32:23.65
>>79
こいつバカじゃね??
編入とかしてないがww

お前ら必死すぎてまじキモいんだけど


>>82
それからお前。
福岡の冬の平均気温知ってる??
最低気温なんか宮崎より高いぞ。
ちなみに福岡の冬の平均気温は全国でもトップ5に入る暖かさですけど・・・

そしてあんたたちバカ??
温暖とかって帯方郡や魏(中国)と比べての事ですけど・・・
あんたたちみたいに周りが見えなくなって南九州と北部九州を比べてるんじゃないよ(笑)

雪も福岡は朝鮮半島が傘になってどんな大雪の日でも福岡は雪が降りにくい(積もらない)
で有名ですけど・・・ 
福岡でスタッドレスタイヤとか全く不要ですよ(笑)
85日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:49:39.63
>>84
>編入とかしてないがww
地図見りゃわかるだろ
志賀島を出したから書いたまで  ヘチマ

>ちなみに福岡の冬の平均気温は全国でもトップ5に入る暖かさですけど・・・
邪馬台国を南方にイメージしての記載だろう
論ずるに及ばない   カボチャ
86日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:51:48.80
>>82
そして、有明海沿岸より遥かに博多湾沿岸のほうが暖かいぞ。

有明海沿岸ってのは福岡県内では遥かに気温が低い地域
久留米朝倉や有明海沿岸ってのは内陸部と一緒だから遥かに気温が冷え込むし
雪も降り、積もるのが福岡の内陸部だ。

逆に福岡の博多湾岸は対馬暖流の影響を受け冬も気温が高いのは「教養」がある人間なら知っている事。

博多湾岸より有明海沿岸のが暖かいと力説するお前は 教養 がないのだろうけどなw


どっちみち、気温とか温暖ってのはそんな九州内の比較ではないんだよ。

帯方郡や魏(中国)と比べたらってことだ。 よく覚えとけ。

福岡県内の一月の平均気温
福岡 7.1 前原 6.3 大牟田 5.9 宗像 5.9 久留米 5.7
太宰府 5.6 朝倉 4.9 添田 4.9 黒木 4.2
87日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:56:43.34
陳寿は所詮は役人。 自らが魏から乗って来た船を降りてまで邪馬台国に至ろうとは思わなかったんでしょう。
皆さんも陳寿になったつもりで考えてみて下さい。

現代の常識でいくとまずおかしな所は松浦半島に到着した所。明らかにそこからの描写は
「東北東方向に海沿いに進んでいる」のに「松浦から東南に陸行している」と記載されている所。

おそらく陳寿は松浦半島に到着した時点で倭人たちに「さあ、邪馬台国へ行くにはここで上陸して東南へ陸行ですよ。」
と言われたのだろう。だが役人の陳寿はそんな何が出てくるか解らない陸行なんてできない。
そこで良心の呵責を少しでも和らげる為に彼は倭人の言ったとおり「東南に陸行」した事にして
九州北沿を魏から乗って来た船で東北東へと向かい、その光景を描写したのでしょう。
88フィクション大魔王:2013/12/06(金) 21:04:30.02
伊都国は、糸島今津湾でいいんだ。
一大率がいて入国管理、税関の役割を担っていた。
島伝いで帰還して来る船を今津湾に行かせるために配下の者を置き、
検察、畏憚させていた。それが以北の国である対馬、壱岐、唐津だろう。

唐津の桜馬場遺跡付近からは、奴国特有の広形銅矛の鋳型が出ている。
完成品と鋳型では意味が違う。生産していたと考えられるからだ。
宇木汲田、中原他とは場所も大きく異なる。奴国勢の墓だろう。官はいない。
途中下船は出来ない。

壱岐から帰って来る宝船の管理、権益こそが倭国乱の目的のはずだ。
佐賀説では、この権利を放棄したことになる。自由交易だな。
一大率は糸島が最適だ。壱岐から離れる必要は考えない。
そして全貌が望める周船寺に住していた。
89日本@名無史さん:2013/12/06(金) 21:08:20.70
そして次に奇妙な所が不弥国に至ったあと、いきなり「南の方、投馬国に至る」となり、次に
「南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月」となる所。

これは津屋崎を越えたところでまた陳寿は倭人たちに
「さあ、ここで船を降りてこの遠賀川を遡ると邪馬台国ですよ。ここを過ぎると遠ざかってしまいます。」
と言われたのでしょう。船を降りたくない陳寿は「じゃあ、ここからどうやって邪馬台国へ行くんだ?」
と倭人たちに尋ね、彼らの答をそのまま記載したのでしょう。

まあ、方向からは松浦半島から見て東南方向、遠賀川河口から見て南、に邪馬台国はあるのでしょう。
90日本@名無史さん:2013/12/06(金) 21:13:19.12
そも陳寿が派遣されたわけではないのだけれど
91日本@名無史さん:2013/12/06(金) 21:16:46.42
>>87
こいつ陳寿が倭に来たと思ってるらしい。
低脳は邪魔だから出て行ってくれ。
92日本@名無史さん:2013/12/06(金) 21:23:42.35
卑弥呼の朝貢時に陳寿はまだ子供
93日本@名無史さん:2013/12/06(金) 21:45:06.73
福岡県内で積雪が目立つのは、
鳥栖から二日市だな。
94日本@名無史さん:2013/12/06(金) 21:55:57.93
糸島に住んでたときは、積雪は滅多にないが、
よく道路が凍結する印象。
佐賀はめったに凍結もしないな。

久留米や飯塚は内陸部で寒い。

二日市に住んでたときは、30センチの積雪があって
ビビったが、地元の人に言わせると、
3年に一度程度の雪だそうな。
95フィクション大魔王:2013/12/06(金) 22:10:59.40
翰苑 分軄命官、統女王而列部
「魏略曰。從帯方至倭・・・其國王皆屬王女也」に奴国以下の記載がない。
ところが官は間違いなくいた。これはおかしい。
すると翰苑では、以北の国は対馬、壱岐、唐津ということになり、伊都国で終わる。
ここまでが、梯儁の報告書ではないだろうか。

梯儁は伊都国ですべての役目を終えた。
卑弥呼は、伊都国の南に隣接して居た。

張政が来た時には卑弥呼は死に、壹與の時代となっている。
奴国以下の記事は、張政の報告書の可能性もある。辻褄は合う。
倭人伝の混乱は、ここに始まったかもね。

邪馬台国は移動していたのか?
96日本@名無史さん:2013/12/06(金) 22:11:03.34
そもそも温暖だと表現されてるのは倭の地であって邪馬台国じゃない
喧嘩すんな
97日本@名無史さん:2013/12/06(金) 22:13:59.53
佐賀の冬は寒すぎw
どさくさにまぎれて伊都国佐賀説のバカが混じってるなw
98日本@名無史さん:2013/12/06(金) 22:22:54.50
かんきつ類、とりわけ大型のかんきつ類は、温暖でないと採れない。
福岡県じゃ無理だなあ。温暖な有明海まで出ないと。
99フィクション大魔王:2013/12/06(金) 22:25:35.76
委=「イ」の地名の本源は伊都とみられ、伊都中枢に飯氏、井田、井原、飯原。 
伊都から飯盛山塊を越えて早良の飯盛、壱岐、飯原、飯倉と「イ」地名の広がりがみられる。

「イ」の地名が飯塚平野の西、伊川、伊岐須から始まり飯塚へ。烏尾峠を越えて、
伊方、伊田、伊加利、位登、猪位金、猪国、伊原、と田川平野は「イ」地名の集中する。 
飯岳山あたりを越えて行橋へと、「イ」地名が筑豊の中央を東西に横断している。

 古地名を捜せば、まだ沢山の「イ」が見つかる。

漢字以前の古くは音がすべてであった。 委、伊、位、猪、壱、飯は、古くはすべて同じ「イ」。
そして「イ」地名は豊前から伊予国、出雲国。 讃岐神も飯依比古と「イ」が移って行った痕跡がある。

「イ」の話は、金印の「委奴国」の「イ」から、阿曇イソラやイタケルの神々へと繋がると思われる。
100日本@名無史さん:2013/12/06(金) 22:27:27.06
>>80
確かに福岡周辺に住んでいると海が北で大宰府や大野城や二日市が「南」のイメージ
香椎や古賀は「東」姪浜や前原が「西」だよな。
地図で見ると現実は大分違うな。
101フィクション大魔王:2013/12/06(金) 22:33:29.85
権力の象徴でもある「素環頭大刀」は、中国の漢代〜三国時代に盛行した。
刃部の長さによって呼び名が、区別されている。
  細身で20cm以下・・・刀子
  幅があり30〜40cm・・小刀
  60cm以上を太刀として分類されている。

弥生時代の出土数は51例であり、そのうち42例が九州に集中している。
弥生時期では、中期7例、後期18例、終末〜古墳初頭が22例で、不明が
4例である。その殆んどが九州北部であって、山口県、佐賀県にも出ている。 
近畿では1例しかない。

特に注目すべきは、立岩遺跡のある飯塚市から田川香春、行橋地域にかけての地区であって、
弥生終末に17例の出土がある。 壹與時代の政権の中枢は、この地域以外には考えられない。
 壹與の都は行橋に比定する。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」 うん、ピッタシだ。

この後隋使裴世清が訪れたのも、後の倭王多利思比孤の豊前国と思う。
ここらは勉強中だがね・・・
102日本@名無史さん:2013/12/06(金) 22:37:14.59
福岡は寒いよ
いつも気温が高めに出るが福岡管区気象台が街のど真ん中にある為だろう
103日本@名無史さん:2013/12/06(金) 22:37:32.44
>>99
>伊都から飯盛山塊を越えて早良の飯盛、壱岐、飯原、飯倉と「イ」地名の広がりがみられる。

宮崎派が悔しがる「筑紫の日向峠付近」を越えてと言いなよ。

>烏尾峠を越えて

烏尾峠とは神武天皇一行がカラスに導かれて越えた峠だな。
その先に仲哀峠(仲哀トンネル)がある。

福岡県ってのは天孫族が活躍した本物の地であるから
天孫族の話は沢山残ってる。 バカ宮崎とは違うよ。
104日本@名無史さん:2013/12/06(金) 23:28:23.72
まあ神武東征ってのは天孫族・神武天皇が
福岡県東部または北東部を平定するお話だとする説もあるぐらいだからな。

それを後に畿内まで東征を成し遂げた天孫族(筑紫勢力)が引用した可能性だってある。

天孫族や邪馬台国・倭国の話って結局は九州北部限定の狭い話だったんだよ。
せいぜい福岡県域を少しはみ出す程度の範囲で起こってた出来事なんだよ。

こういう事実は、考古学的物証でも明らかだからな。

甕棺墓の分布にしても三種の神器や神籠石の分布、絹にしてもそう
福岡県域がメインで少しだけ福岡県周辺にもはみ出してるってのが現状なんだよ。

倭国・邪馬台国及び天孫族ってのが活躍したのはせいぜい福岡県域がメインの話なんだよな。
105日本@名無史さん:2013/12/06(金) 23:47:53.67
天皇陛下が執り行う儀式で陛下の体調が悪い時には大分の宇佐神宮が代わりに
執り行うと聞いている。
106日本@名無史さん:2013/12/07(土) 00:18:12.06
>>54
邪馬台国島原半島にようこそ
対岸の熊本以北に21ヶ国あり、奴国に戻ります
107日本@名無史さん:2013/12/07(土) 00:23:33.60
伊勢神宮の存在が謎だな。
微妙に天皇家とは関係がない、というようにも見える。
108日本@名無史さん:2013/12/07(土) 00:39:43.75
北部九州が唐軍の支配下に置かれたときに、
「聖地、糸島半島の伊勢」を祀る代用として、
三重県の伊勢にもってきたのではないか?
109ひなもり:2013/12/07(土) 00:40:02.97
伊都国に位置については、やはり佐賀平野が妥当じゃなかろうか。

第一に、糸島では行程として不自然。末盧国まで船で来たらそのまま船で
行けば楽なのに、船を降りて荷物を抱えて陸路はありえない。方向も違う。
また、そのあとが続かない。不弥国から先はどういう行程になるのか。
放射説をとっても同じで、南に水行が出来ない。

また、諸国を検察する一大率が糸島というのも不自然で、ここにあっても
検察する諸国がない。有明海沿岸諸国は検察できないから意味がない。
佐賀平野の西部にあれば、有明海沿岸諸国を検察できるだけでなく、
有明海沿岸諸国と大陸を結ぶ交通の要所であるから何かと便利。
110日本@名無史さん:2013/12/07(土) 00:42:20.91
>>107
天皇陛下は一度も伊勢神宮を参拝されたことはない
式年遷宮式典も民間人になられたサーヤ様だった
伊勢神宮と全く同じ造りなのが宇佐神宮
伊勢をコンパクトにした境内
もちろん宇佐神宮のほうが歴史は古い
111日本@名無史さん:2013/12/07(土) 00:48:24.70
>>109
糸島は邪馬台国を隠すためのレプリカではなかろうか?
よくある話さ
112日本@名無史さん:2013/12/07(土) 01:38:22.00
>>109
邪馬台国との関係ということもあるだろう。玄界灘沿岸では北九州諸国が背いたときに
一大率は完全に取り囲まれ、邪馬台国本国との連絡もままならない。しかし、佐賀ならば
本国へ急を知らせ、また、熊本あたりから援軍を期待することもできる。
113日本@名無史さん:2013/12/07(土) 01:44:15.72
自分が一国の主となった時の事を考えれば察しが付くだろう
敵が攻めてきやすい糸島半島に城を建てるか?
都を築くか?
糸島説のバカは消えろ
114日本@名無史さん:2013/12/07(土) 01:45:03.43
本国が肥後国で、一大率が肥前国なら、しっくり来るな。
115日本@名無史さん:2013/12/07(土) 01:47:31.04
筑紫国にとっては、糸島は最前線でしょうね。
高祖山山嶺の怡土城と、高祖山の望楼跡は、
博多湾防衛のため。
116日本@名無史さん:2013/12/07(土) 01:48:14.38
糸島は博多湾の入り口だから。
117日本@名無史さん:2013/12/07(土) 01:53:24.21
>>114
肥後はない
肥後は熊襲だ
118日本@名無史さん:2013/12/07(土) 02:04:14.32
熊本県人の特徴として頬骨が高いのと目が二重
これが熊襲の特徴
119日本@名無史さん:2013/12/07(土) 02:08:26.48
熊本県人の特徴: 性欲が強い
120日本@名無史さん:2013/12/07(土) 02:14:54.40
熊本の山奥の方に行くと頬骨人間が多い
121日本@名無史さん:2013/12/07(土) 02:18:25.55
魏志倭人伝や邪馬台国を語る前に民俗学を研究したほうが良いのではないか
122日本@名無史さん:2013/12/07(土) 03:25:29.89
昔の侍の写真見たら頬骨出まくってゴツゴツしたのばかり
明治天皇も頬骨出てるし髭濃いがそれについてはどう説明するんだ?
123日本@名無史さん:2013/12/07(土) 04:00:58.37
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/73/Meiji_Emperor.jpg
明治天皇はそんなに頬骨は出ていない
ただ不細工だな
不細工は今も遺伝しているようだ

明治天皇すり替え説があるが明治天皇は孝明天皇に瓜二つ
124日本@名無史さん:2013/12/07(土) 06:52:15.55
熊本は肥国。
熊襲は宮崎、大隅。
125日本@名無史さん:2013/12/07(土) 10:03:44.82
この明治天皇の顔、どこかで見覚えがあると思ってググったのだけれど思い出せない。
ググってみても顔の特徴だけでは無理。
トイレに立って手を洗い鏡を見たら思い出した。
そうだったのか・・・
126日本@名無史さん:2013/12/07(土) 10:09:20.95
気の毒というか、自業自得というか……
127日本@名無史さん:2013/12/07(土) 10:17:42.26
でも明治天皇はこの写真にショックを受けたらしく
二度と写真を撮らせなかったと言う逸話も残る
一般に使われたのは西洋風の肖像画だった
いい写真だと思うけど
128日本@名無史さん:2013/12/07(土) 10:24:14.45
ナポレオンハット
ドイツ風じゃなくフランス風なのな
と思ってググってみたら当時はどこの国も正装として取り入れてたのか
129日本@名無史さん:2013/12/07(土) 10:27:18.45
スレチやめれ
130日本@名無史さん:2013/12/07(土) 10:40:15.43
天皇は熊襲出身
131日本@名無史さん:2013/12/07(土) 11:03:42.23
討伐された側なのに?
それも卑怯な手で
132日本@名無史さん:2013/12/07(土) 13:15:27.37
卑怯の手で倒した出雲も大国主として祭っているし、
卑怯な手を使って残忍に殺した相手の祟りを恐れて祭るというのが大和の特徴ではないのか?
祭られているのはいつも倒された相手の方。祖先神ではないのだ。
そしてその中でも祟りのひどい伊勢津彦系の霊を慰めるために太田種子が呼ばれたんだろう?
明治天皇も同じ構図じゃないのか?
133日本@名無史さん:2013/12/07(土) 13:40:25.43
>>113
倭国は九州北部ばかりでなく朝鮮半島南岸も領有していた
当時、伊都国は両岸を統治するのに最適な場所だった。
134日本@名無史さん:2013/12/07(土) 16:34:53.20
国譲りとは・・・
一般的には天孫族と交渉した大国主命が 出雲大社=大国主命 であるため
出雲と天孫族が国を交換したという誤解や 天孫族が交渉した出雲こそ日本の祖であると勘違いされてきた。

しかし真実はなんの事はない。
大国主は博多湾岸で「漢倭奴国王」の金印をもらった当時の倭国・筑紫福岡の王統である。
倭人伝:「邪馬台国の一大卒である伊都国(倭奴国)には代々王がいた。」
大国主は代々(天孫族や女王卑弥呼が活躍する以前)筑紫福岡・倭国の王統である。
もちろん大国主命は筑紫福岡を本拠とする安曇君(志賀海神社)・宗像君(宗像大社)等々の豪族の祖先神である。
国譲りとはその大国主が治める筑紫(博多湾岸)を譲れと天孫族が大国主に迫った話のことである。
筑紫・倭国を追われた(追放された)大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい出雲に移住(追放)された。

だから出雲は出雲大社の本殿が筑紫・西を向き大国主の筑紫福岡と同じ「銅矛銅剣文化」であるが、
後の「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった天孫族や邪馬台国の頃の筑紫の文化(倭国の文化)とは無縁である。
何の関係もない宮崎はもちろん「銅矛銅剣文化」すら無縁である。

この大国主から繋がる筑紫の神々の天孫族による支配を正当化するために古事記や筑紫神話があると言うこと。

ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。
魏志倭人伝:「男子は大小となく入れ墨をしている。」

また天孫族が元々いたのは志摩国、
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

このように、天孫族・倭国・邪馬台国等々の日本の発祥地は博多湾岸である。
135日本@名無史さん:2013/12/07(土) 16:38:29.59
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
 魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
 後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」

元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
 唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
 倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
 今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」

旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
     日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
     筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」

このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。

「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
136日本@名無史さん:2013/12/07(土) 16:39:10.92
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg
「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg
綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界・元海もとうみ)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg
卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。
137日本@名無史さん:2013/12/07(土) 16:39:57.05
〜まとめ〜

「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」

(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)

倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。

魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。

魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。

大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。
138日本@名無史さん:2013/12/07(土) 18:08:22.98
九州で最も寒い土地を、温暖としなければならない矛盾が出てしまい、コケたな。
139日本@名無史さん:2013/12/07(土) 19:09:02.55
アホクサ 
帯方郡使は235年以降から少なくとも260年代までは伊都国に常駐していただろ
で、陳寿が倭人伝を書いたのが280年代
その間ずっと情報を間違えたままなわけないだろ
140日本@名無史さん:2013/12/07(土) 20:40:59.98
東南と東北を間違えるわけないだろ

船乗りにとって方向を間違えるってことは死につながる
141日本@名無史さん:2013/12/07(土) 22:49:31.11
またスレッド数減ってるけどどうしちゃったんだ?www
142日本@名無史さん:2013/12/07(土) 22:55:24.53
>>139
畿内説には都合が悪いが
魏志倭人伝の情報は信頼性が高いと考えられるんだよな。
143日本@名無史さん:2013/12/07(土) 23:51:57.56
都合の悪い事実は、秘密保護法の適応で凌いだ。
藤原不比等の子孫が考えることは時代が変わっても同じなので笑ってしまった。
焚書は古代の秘密保護法だった。
これで、また一つ謎が解けた。
144日本@名無史さん:2013/12/08(日) 00:01:32.10
鳥栖あたりですごい金縛りにあったから
あのへん怪しいわ。
145日本@名無史さん:2013/12/08(日) 00:36:59.34
△鏡
箸墓
年輪
桃の種
鯖の骨

これらの畿内説理論は、秘密保護法の対象にします。
でないと畿内説詐欺がネタバレします。
146日本@名無史さん:2013/12/08(日) 01:34:49.51
>>144
壱岐の島の旅館で金縛りにあったので
あのへん怪しい
147日本@名無史さん:2013/12/08(日) 10:36:03.34
967 日本@名無史さん 2013/12/04(水) 17:58:01.70
ttp://fast-uploader.com/file/6941702910099/

唐津から糸島までの道と、多久、小城までへの道
148日本@名無史さん:2013/12/08(日) 12:04:09.76
>>137
しょーもない事は、もう書くな
現役軍人が、南北を勘違いなんかするか
ボケ
149日本@名無史さん:2013/12/08(日) 13:16:43.74
>>139
地図を見ずに前原あたりにいると
海が北で海岸線が東西に思えるので
呼子は西北の方向に感じるな
伊都国に常駐していた使者も同じだったんだろうな。
150日本@名無史さん:2013/12/08(日) 13:23:00.67
使者が常駐するかボケ
151日本@名無史さん:2013/12/08(日) 13:31:20.30
>>150
伊都國について「郡使往來常所駐」って書いてあるけど?
152日本@名無史さん:2013/12/08(日) 13:36:11.76
横レスだが
郡の使の往来して常に駐る所なり
なので常駐とは意味合いが違う
153日本@名無史さん:2013/12/08(日) 13:45:59.33
張政とか長居したんじゃないの
154日本@名無史さん:2013/12/08(日) 13:54:14.63
邪馬台国にね
155日本@名無史さん:2013/12/08(日) 14:51:07.77
糸島は貿易港としてはふさわしい。
実際には近所の西新町遺跡に痕跡がある。

唐津も貿易港にはふさわしい。
菜畑遺跡には、縄文時代から何層にも
輸入文化の痕跡がある。

どちらにも船や人は入ってきていた。

だが、倭人伝の記録は唐津から佐賀の記録だ。

記録が錯綜してごっちゃになった可能性もなくはないと思うが。
156日本@名無史さん:2013/12/08(日) 14:54:49.17
糸島以降の地名と唐津以降の地形と行程をとれば、
最強である。

まあ、それでは決着はつかんが。
157日本@名無史さん:2013/12/08(日) 15:02:45.92
唐津〜佐賀は山越えみたいに思えるかもしれないけど、
ずっと平坦で標高100m程度の峠前後で少し上り下りがあるだけですね。
158日本@名無史さん:2013/12/08(日) 15:13:50.34
神武天皇は紀元前660年に即位されてる。日本書紀は、神武天皇の
前に神代がある。この初めのほうに、一書に曰く とある。
つまり紀元前660年より前から日本には書物があふれてたようだ。
紀元前後が一般には弥生時代と言われてるが、その前から書物が
たくさんあったらしい。
というより、日本書紀は史料としては使えないということだろう。
159日本@名無史さん:2013/12/08(日) 15:33:32.63
>>154
魏志倭人伝の記述では張政も末廬國、伊都國、奴國、不彌國までしか来ていない
この辺が邪馬台国の中枢なんだろうね。
160日本@名無史さん:2013/12/08(日) 15:35:14.80
今まで気づかなかった解釈
前も書いたが説明無かったのでわかりにくかったようなので。
陸行一月は長いという人がいるが、これは当時の倭人の単位。
今の何kmとかはわからないはずだが。
しかし、陳寿は賢い。これが何時でも解るようものさしとしてここを
記述してる。
邪馬台国への水行十日、陸行一月は、陸行の
起点国名、方位がないので、あるいは式に読むのであろう。
南へ水行、陸行出来るのは、海岸線が南北になっている事を意味する。
九州の東海岸で海岸が南北になっているのは、延岡から宮崎市までの
海岸である。地図でこの間の距離を測ると75kmである。
つまり、水行十日=陸行一月=75km と言える。
他には南北の海岸線はないのでは?
奴国を福岡とすると、この東の海岸は、行橋あたりだろう。
距離があわないが、当時では、方位、距離の精度はこの程度では。
東南とか言っても、東南に直線道路があるわけではない。
左右に曲がったりしただろうし。東も少し南北にぶれてもいいが。
不彌国から邪馬台国まではこれでいくと水行30日になる。
225kmが計算ででる値。行橋から宮崎市までの直線距離は
約200km。九州の南北距離は約300km。
邪馬台国は海の中には入らないようだが。
161日本@名無史さん:2013/12/08(日) 15:47:28.76
>>159
張政が不彌國より先に行っていれば、もっと詳しい説明が魏志倭人伝にあるはず
「南至投馬國 水行二十曰 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月・・・」
は帯方郡から伊都國、奴國までの行程を日数で説明し直しただけだな。
162日本@名無史さん:2013/12/08(日) 16:58:43.52
>>149
九州北部に住んでる人ならわかる独特の錯覚だよね。
普段からなんとなく正確な地図を見てる現代人にも関わらず、
九州の北岸の海岸線の方角位置関係はみんな錯覚してるのが現実だよね。
前原の東というとみんな香椎や古賀と感じるが、
実際はかんり北に位置してるんだよね。
確かに前原からみたら北西が呼子って感じがするね。
163日本@名無史さん:2013/12/08(日) 17:43:40.23
>九州北部に住んでる人ならわかる
唐津から前原には歩かない
壱岐から直行する
小学生でもわかる
164日本@名無史さん:2013/12/08(日) 18:06:08.30
錯覚するのはむしろ正確な地図のイメージがあるからだと何故気付かない
我々は方角を現在地と頭の中の地図を照らし合わせて推測する
そして日没になって間違いに気付く
当時は逆に太陽の位置や星の位置でしか方角をイメージしない
道は間違えても方角は間違わない
165日本@名無史さん:2013/12/08(日) 18:20:52.78
>>162
九州の北岸の海岸線の方角は微妙に傾いて
人間の感覚では無視されてしまうのでしょうね
博多〜大宰府のラインも南北と感じちゃう
正確に観測しないと太陽の位置や星の位置では気付かないレベルですね。
>>163
使者も長い船旅で陸に早く上がりたかっただろうし
倭人も国の中枢に直接入れたくなかったのだろう。
166フィクション大魔王:2013/12/08(日) 20:22:18.69
「壹與以死」

梁書 「復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命」
 壹與の死亡は、289年である。
その後、男王が倭王となり中国の認可を得ている。
「並」とは並立ではなく、「皆」「それぞれ」という意味である。

 晋書・武帝紀太康十年(289年)
「是歳、東夷絶遠三十餘國、西南二十餘國來獻。虜奚軻男女十萬口來降。」
 
この「絶遠」とは、前史にも多く記載されている倭国の枕詞である。 
三十余国も魏志倭人伝の「今使譯所通三十國」に合致している。
「東夷絶遠三十餘國」は倭国のことであり、その後の男王の倭王就任の挨拶と思われる。 
入貢の時期も以前同様に十二月である。

晋武帝によって倭国王の継承を認められ、「並受中國爵命」となった。
卑弥呼から受け継いだ壹與。その後の男王と継承されて「倭の五王」へと続く。
 旧唐書 「倭國者、古倭奴國也」

「卑彌呼以死」は、「張政等、因齎詔書・黄幢、拜假難升米、爲檄告諭之」であり
卑弥呼でなく「拜假難升米」なので「すでに死んでいた」でいいのだろう。
167フィクション大魔王:2013/12/08(日) 20:55:36.57
「次有奴國。 此女王境界所盡」

この奴国は現在の熊本県玉名市と思われる。
玉名郡は古くは、「タマナノコオリ」「タマナノムラ」と呼ばれていた。
肥後国風土記に「玉名ノ郡」。書記景行紀には、「玉杵名の邑」とある。
両方とも「タマキナ」と読ませている。

和名抄には、「多万伊奈」(たまいな)の訓注がある。
「少人」が小さき人から小さい人と呼ばれるように、イ→キの例は多い。

玉杵は、好字令により「玉名」と変わった。
「其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王」
菊池郡と隣接している。
168日本@名無史さん:2013/12/08(日) 21:00:02.78
「あくまでも一仮説だが」というスタンスならいいんだけど、「これが真実だ」ってな感じで自説を書き散らす人が多いよね
端で見ていて痛々しいんだよね
169日本@名無史さん:2013/12/08(日) 21:04:17.01
もう生きていくための精神的な糧がそれしかないんだろ
170日本@名無史さん:2013/12/08(日) 21:04:32.84
俺は自分じゃ気付かない自説の問題点を指摘してもらう為に書くけどね
自説の問題点を指摘されても無視したり逆切れする人いるね
根拠も示さず自分の主張を繰り返すだけとか最低。
171日本@名無史さん:2013/12/08(日) 21:18:43.47
はっはっは
イケイケ大魔王に近畿説が、か細い反論
解釈で来ているんだ
解釈、説、論で戦え
172フィクション大魔王:2013/12/08(日) 22:16:19.33
漢書地理志・粤地条

澹耳、珠崖郡。民皆服布如単被、穿中央為貫頭。男子耕農、種禾稲・紵麻、女子桑蚕・織績。
亡馬与虎、民有五畜、山多麈鹿。兵則矛・盾・刀・木弓・弩。竹矢或骨為鏃。

会稽海外有東魚是人、分為二十余国、以歳時来献見云


魏志倭人伝

其風俗不淫。男子皆露?、以木綿招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈?、
作衣如単被、穿其中央貫頭衣之。種禾稲・紵麻、蚕桑・緝績、出細紵・?綿。
其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鉄鏃或骨鏃。
所有無与澹耳・朱崖同。 

計其道里、當在會稽東冶之東

よく似てるなぁ〜!
173ひなもり:2013/12/08(日) 22:34:05.23
>>166
晋書・太康十年の記述には「倭」とは書かれていない。
三十カ国と言うだけで、倭と解釈していいものかどうか。東夷はけっこう
幅が広くて倭も含まれるわけだが、もともとは山東省あたりの人々を指す
言葉であり、この意味で使われているのかもしれない。

一般的にも、266年の「武帝泰初二年十月。倭女王遣重訳貢献。」(日本書紀・
起居注)以降、倭の五王まで日本と大陸との交流は途絶えていたとされる。

266年が邪馬台国の最後の遣使とすれば、「並受中國爵命」は台与と男王の
並立と考えられる。中国の爵命を並び受ける、の解釈としてもそれが自然。

日本書紀・古事記でも、巫女的な女王である天照大神と武力に秀でた
高皇産霊尊という男女の王の並立が見られる。
狗奴国の侵攻に対して魏に援助を求めることしか出来なかった卑弥呼。
その後を継いだのもやはり巫女的な女王である台与。男王の出現は不可欠
だったのだろう。

記紀でも、高皇産霊尊の登場により、出雲の国譲りがあり、天孫の日向降臨が
あるなど周辺に向けて勢力を拡大する様子がうかがえる。饒速日命が天磐船に
のって大和に降りて来たのもこの頃と考えられる。
174フィクション大魔王:2013/12/08(日) 22:44:23.96
隋書
俀王以天爲兄、以日爲弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。
高祖曰「此太無義理。」

中国に天子は一人である。
倭国に二人認めるわけない。

神話に興味ない。
175フィクション大魔王:2013/12/08(日) 22:55:02.57
>>173 ひなもり
>高皇産霊尊という男女の王の並立が見られる。

並立なら、何故八神殿に天照大神がいないんだ?
176ひなもり:2013/12/08(日) 23:06:23.91
>>174
梁書を見ると、「卑彌呼死、更立男王」「賛死、立弟彌」「彌死、立子濟」
「濟死、立子興」それ以降も全部こんな調子で、死後、後継者が立ったと
なっている。

ところが、台与に関しては「卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命」
となっていて、台与が死んだとは書かれていない。文の解釈としても
並立と考えるのが妥当。

さらに、266年の倭女王の晋への遣使が邪馬台国の最後の遣使だとすれば、
台与以降のことはわからないことになる。台与の死後に男王が立ったことは
わからない。しかし、並立していたとすれば、わかることになり、筋が通る。
177フィクション大魔王:2013/12/08(日) 23:09:05.48
>>173 ひなもり
>山東省あたりの人々を指す
言葉であり、この意味で使われているのかもしれない。

山東省が、何故「絶遠」になるんだ?
178ひなもり:2013/12/08(日) 23:14:17.58
>>175
並立と言うのは、古事記や日本書紀の記述による。
特に、古事記では「天照大神と高御産巣日神の命により…」という表現も
見られる。
日本書紀においては、高皇産霊尊が皇祖と書かれていて、天照大神よりも
いろんな場面で主導権を発揮している。
179フィクション大魔王:2013/12/08(日) 23:16:53.18
176 ひなもり
>台与に関しては「卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命」
>並立と考えるのが妥当。

其後の「其」は何だ?
臺與だろう。臺與後、元の様に男王が立った。
180ひなもり:2013/12/08(日) 23:18:04.28
>>177
『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳を見ると、
[烏丸] [鮮卑] [東夷] [夫余] [高句麗] [東沃沮] [韓] [倭人]
に分かれている。東夷とだけ言う場合は、倭人は含まれないだろう。
181ひなもり:2013/12/08(日) 23:20:50.64
>>179
倭人伝を読めばわかるだろう。
卑弥呼の死後、男王が立ったが国中が不服で争いが起き、千人あまりが殺された。
そこで卑弥呼の宗女である台与を王とした、国中はついに定まった。
その後また男王が立つ、というわけで意味は通じる。
182フィクション大魔王:2013/12/08(日) 23:28:20.54
>>178 ひなもり
>高皇産霊尊が皇祖と書かれていて、天照大神よりも
いろんな場面で主導権を発揮している。

天照大神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E
日本神話に登場する神。皇室の祖神で、日本民族の総氏神[1]とされている。


>>180
>倭人は含まれないだろう。

『三国志』魏書・東夷伝・倭人条
倭人は、西域伝に含まれるのか?
183フィクション大魔王:2013/12/08(日) 23:34:20.51
>>181 名前ひなもり
>その後また男王が立つ、というわけで意味は通じる。

並立なんだろう?
一国に二王いたと主張してるんよな?
「その後」は、卑弥呼の後かい?
184フィクション大魔王:2013/12/08(日) 23:39:22.75
>>173 ひなもり
>東夷はけっこう 幅が広くて倭も含まれるわけだが

>>180
>東夷とだけ言う場合は、倭人は含まれないだろう。

どっちだい?
185ひなもり:2013/12/08(日) 23:44:34.64
>>182
天照大神は、伊邪那岐命が日向の阿波岐原で禊払いしたときに生まれている。
伊邪那岐命から高天原を治めよと命じられる。
ところが、弟とされる素戔鳴尊から数々の乱暴を受ける。機織小屋で神布を
織っているところに皮をはいだまだら馬を投げ入れられ、ついに怒って
天岩戸に隠れてしまう。ここまでに高皇産霊尊は登場しない。

天照大神が岩戸に隠れると、高天原も葦原中国も真っ暗になり、悪い神が
騒ぎ出す。そこで、多くの神々が協力して天照大神を岩戸から出す。
天照大神が岩戸から出てくると、高天原も葦原中国ももとのように明るくなる。

ここから高皇産霊尊が登場する。これが倭人伝の記述と良く似ている。

卑弥呼は、狗奴国との戦争の最中に亡くなる。跡継ぎをめぐって国中で
争いが起こり、千人あまりが殺される。そこで台与を王にすると国中が定まる。
その後、男王が立ち、中国の爵命を並び受ける。

……

東夷伝の中の倭人の条だが、東夷の国はたくさんある。だから、東夷と
いうだけでは倭人と限らないし、むしろ、東夷とだけいう場合は
倭人は含まないと考えられる。山東省の付近が妥当というわけ。
186ひなもり:2013/12/08(日) 23:46:31.75
>>183
読めばわかるだろう。台与が王になった後と言うこと。
187フィクション大魔王:2013/12/08(日) 23:47:47.16
>>185
>山東省の付近が妥当というわけ

山東が、何故「絶遠」になるのかな?
二度目だぜ!

そろそろストップが来そうだな。
またの機会にやろうぜ!
188日本@名無史さん:2013/12/09(月) 03:13:12.99
金印には紐がついてる。これは長い。紐は、腰にまき肩にまわして金印は
そでにいれる。紐が切れても袖にのこるように。
このように金印は肌身はなさない。
金印を持ってきた役人は横取りされないように金印を自ら卑彌呼に
渡す。卑彌呼が受け取るのを自分の眼で確かめてから国に戻る。
金印を盗まれないよう当然武官もたくさんついてると考えていい。
邪馬台国へは当然行ってる。
黄幢には当然兵がついてくる。使者は2,3人とかではない。
植物や動物について書いてるが、これは専門家が同行してることも
意味する。国力をはかるのは当然で公表はされないが田畑も詳しく
しらべてるはずだが。
189満州二等兵:2013/12/09(月) 09:00:11.28
漢書地理志・粤地条などと魏志倭人伝の風俗記事が似ていることは
夙に学者によって指摘されていることで、だから倭人伝の風俗記事は当てにならないのである。

東夷とは基本的に満州朝鮮方面のことを指す。山東半島のことではない。

並受中國爵命とはどちらも中國の爵命を受けたということ。
王が並立していたという意味ではない。
190日本@名無史さん:2013/12/09(月) 09:43:05.12
書き方が似ているから当てにならないというのは、おかしな理屈だ。
文章なんてものは、先人の書いた優れた文章をまねて書いていく方がまともなものとなる。
倭人伝の原資料を書いた人物は漢書地理志を読んだ教養ある人物だったということだろう。
漢書地理志にならって何を書くべきか、似ているところはそのまま、違っているところは
それなりに訂正して資料を書いたのだと思うよ。
191満州二等兵:2013/12/09(月) 12:31:05.29
倭人伝の風俗記事が、三世紀の日本を正確に写実したものだと考えているような学者はいまい。
古くから中国に伝わっていた日本の風聞とか、沖縄や台湾あたりの風俗を、
全部まとめて記録したものと考えるのが常識的な見解である。

男子無大小皆黥面文身
自古以來,其使詣中國,皆自稱大夫
其地無牛馬虎豹羊鵲
以硃丹塗其身體
有棺無槨
持衰
特置一大率
………

こんなことをそのまま信じてはいけないのである。
記紀に書いてあることは疑うくせに、なぜピミらは倭人伝をそんなに信用するのか。
192日本@名無史さん:2013/12/09(月) 12:41:42.99
書かれてる行程も風俗も信用しないなら存在自体も信用する必要がなくなる
それはそれで決着ではあるが
193日本@名無史さん:2013/12/09(月) 12:47:09.95
>記紀に書いてあることは疑うくせに、なぜピミらは倭人伝をそんなに信用するのか。
記紀は単なる物語。倭人伝は使者の目撃や倭人からの聞き取り等が資料だ。
資料価値はまったくちがう。
194日本@名無史さん:2013/12/09(月) 12:50:50.32
倭人伝が日本の風俗を詳しく記録した最初の文献だと思う
複数の使者が倭に着て彼らが複数の記録を残した
それを陳寿が魏志倭人伝としてまとめた
だから信頼できる

記紀も信頼できるよ
倭人伝と記紀を信頼して導かれる答えが真実だ
195日本@名無史さん:2013/12/09(月) 14:08:23.91
前にも書いたけど、
邪馬台国問題で大事なことは、従来の論争で間違いが2つある。
1つは、21か国は、邪馬台国の南でなく北にある。もう1つは、
狗奴国は、邪馬台国の南でなく、奴国の南にあるということ。
これで、位置論は解決すると思う。
具体的に言うと、奴国は、福岡で確定していい。となると南の狗奴国は
熊本になる。これもまあ確定では?邪馬台国は、奴国の東の海岸に出て、
南に行った所にある。東、海を渡る千余里、倭種がいることから、
邪馬台国は九州の東海岸にある。
196日本@名無史さん:2013/12/09(月) 15:57:56.45
>>195
21か国は、邪馬台国を構成している国邑だよ
奴国も邪馬台国を構成している国邑の一つで最も有力な国邑
南の狗奴国は熊本か鹿児島、宮崎(熊本も邪馬台国に含まれる可能性あり)
197日本@名無史さん:2013/12/09(月) 16:04:32.59
>>195
俺もそう考えてる
女系相続の日向族がいて
そこから奈良へ東征したんだろう
198日本@名無史さん:2013/12/09(月) 16:07:04.13
伊都国(倭奴国)と位置関係

☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
  現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。 
  それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。

☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
  福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
  「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
  これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
  自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
  これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
  元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。

☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
  伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
  現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
  今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
  福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
  要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
  当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
  基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
  (北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)
199日本@名無史さん:2013/12/09(月) 16:07:47.98
古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述

倭人伝:「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」
     
     (今までの道理行程を振り返ると、その場所は会稽郡東治(紹興市)の東にある)

      つまり、魏使は帯方郡から、九州に上陸してからも基本ばずっと南下してたと勘違いしている明らかな証拠だな。



「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」


現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。
200日本@名無史さん:2013/12/09(月) 16:08:40.25
これが現実

http://yamatai.cside.com/katudou/image/312-03.gif

甕棺墓の分布からみても魏使は海を目印に
海岸沿いを唐津〜伊都まで移動したのは明らか。

集落も何もない唐津〜佐賀平野を移動するとは自殺行為そのもの。
休憩場所や日が暮れた時等のことを全く考えない伊都国佐賀派のただの思い付きそのものw

だいたい唐津〜佐賀平野を移動したなら魏使は上陸してそのほとんどを山の中で過ごしており、
唐津や伊都の情緒豊かな海の情景が魏志倭人伝に記述されるわけがない。

唐津〜佐賀ルートなら「倭の地は山だらけだ」という表現になるだろう。
唐津〜糸島の海岸沿いを進んだからこそ、倭地の海の情緒豊かな情景をこと細かく魏志倭人伝に記しているのだ。

それから弥生期には有明海の海が佐賀平野に大きくせりだしていて
「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり」がぴったりとか
言ってたバカがいるが、佐賀平野にはそこが海だとしても「島」は全く存在しない。
「島」が存在しないうえに、もし久留米柳川等の福岡県内をそう呼びたいのなら
それは「海」ではなくあきらかに「川」によるものである。
そしてこの場合「筑後川」の存在が魏志倭人伝にないのもおかしな矛盾になる。

さらには有明海のような「湖」のような海を
「海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり」と壮大に表現するのもまたおかしな矛盾になる。

このように伊都国佐賀説とは「自称倭人伝通り」である事実は「方角以外は倭人伝とは矛盾だらけ」である。

ここの畿内派宮崎派佐賀派はほんとに郷土愛が強すぎて客観的に判断できないバカだらけなのである。
201日本@名無史さん:2013/12/09(月) 16:14:12.40
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
 魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
 後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」

元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
 唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
 倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
 今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」

旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
     日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
     筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」

このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。

「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
202日本@名無史さん:2013/12/09(月) 16:15:03.36
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg
「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg
綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界・元海もとうみ)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg
卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。
203日本@名無史さん:2013/12/09(月) 16:50:13.73
〜まとめ〜

「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」

(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)

倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。

魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。

魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。

大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。
204日本@名無史さん:2013/12/09(月) 16:51:10.73
国譲りとは・・・
一般的には天孫族と交渉した大国主命が 出雲大社=大国主命 であるため
出雲と天孫族が国を交換したという誤解や 天孫族が交渉した出雲こそ日本の祖であると勘違いされてきた。

しかし真実はなんの事はない。
大国主は博多湾岸で「漢倭奴国王」の金印をもらった当時の倭国・筑紫福岡の王統である。
倭人伝:「邪馬台国の一大卒である伊都国(倭奴国)には代々王がいた。」
大国主は代々(天孫族や女王卑弥呼が活躍する以前)筑紫福岡・倭国の王統である。
もちろん大国主命は筑紫福岡を本拠とする安曇君(志賀海神社)・宗像君(宗像大社)等々の豪族の祖先神である。
国譲りとはその大国主が治める筑紫(博多湾岸)を譲れと天孫族が大国主に迫った話のことである。
筑紫・倭国を追われた(追放された)大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい出雲に移住(追放)された。

だから出雲は出雲大社の本殿が筑紫・西を向き大国主の筑紫福岡と同じ「銅矛銅剣文化」であるが、
後の「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった天孫族や邪馬台国の頃の筑紫の文化(倭国の文化)とは無縁である。
何の関係もない宮崎はもちろん「銅矛銅剣文化」すら無縁である。

この大国主から繋がる筑紫の神々の天孫族による支配を正当化するために古事記や筑紫神話があると言うこと。

ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。
魏志倭人伝:「男子は大小となく入れ墨をしている。」

また天孫族が元々いたのは志摩国、
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

このように、天孫族・倭国・邪馬台国等々の日本の発祥地は博多湾岸である。
205日本@名無史さん:2013/12/09(月) 20:24:41.03
204
同意です。
筑紫君や火君はどのような系譜とお考えですか?
206日本@名無史さん:2013/12/09(月) 21:34:18.98
204は単なるコピペ屋
貼るだけで古代史は知らない

君は王統の兄弟、従兄弟だろ
207日本@名無史さん:2013/12/09(月) 21:36:40.88
おっとっと
208日本@名無史さん:2013/12/10(火) 14:16:59.33
>>201
>倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の
>出発地に畿内・南九州は全く関係ない。

神武天皇の出発地は宮崎県だと思ったけど。
天孫降臨とか神武天皇の出発地に何故宮崎県なのか?
これは近畿の政権が宮崎県とつながっていないとまずいと
言うこと。
邪馬台国が宮崎としたら、これらは納得いくのでは。
私は、宮崎出身でないし、宮崎に住んでるわけではないけど。
209日本@名無史さん:2013/12/10(火) 15:16:46.37
神武は、北部九州や西部九州の地で、お役御免となった軍人さ。
半島までの遠洋航海も苦手だし、西部リアス式海岸沿岸も不案内。
国際的な軍国主義時代になったのに、これじゃ使い物にならない。

宮崎県で陸軍傭兵の道を模索したが成功せず、瀬戸内の豪族に
穏やかな海での水軍傭兵として売り込んだがこれもダメ。
仕方がないので、畿内に乱入して自ら小領主になり上がった。
210日本@名無史さん:2013/12/10(火) 15:18:18.09
弥生の甕棺、地表には目印 熊本市新南部遺跡群
http://kumanichi.com/news/local/main/20131210001.shtml
211日本@名無史さん:2013/12/10(火) 16:41:14.64
>>208
神武の出発地が宮崎県という話は誤解で、九州北部だよ。
212日本@名無史さん:2013/12/10(火) 16:45:16.41
九州北部だと一旦瀬戸内に出てからまた引き返した事になる
神武天皇は熊襲出身で決まりだ
倭国大乱で追われた勢力かも
213日本@名無史さん:2013/12/10(火) 16:46:30.49
600年頃までの倭国が九州だったことは明らかなんだよ。
倭の一部の邪馬台国もそう。

倭人は甕棺墓に葬られるとされているが、畿内からは甕棺墓は出ない。
出るのは九州北部。

600年頃に倭国に来た役人が阿蘇山に驚いてる。

しかも、600年頃の倭国は昔の倭国ではなく、成りすましだろうと書かれている。
倭国に来たら、朝鮮の秦王朝だったと。
214日本@名無史さん:2013/12/10(火) 17:25:10.95
熊襲征伐した祭りが宮崎に残っているね。
215日本@名無史さん:2013/12/10(火) 18:36:18.79
磨製石器→人類最古は日本
土器→人類最古は日本

よって青森県が人類文明発祥の地
216日本@名無史さん:2013/12/10(火) 19:06:19.49
>>215

サガミハラハラ氏に、エサを撒かないでください。
217日本@名無史さん:2013/12/10(火) 22:14:04.35
ここは猿山か?
218日本@名無史さん:2013/12/10(火) 23:38:45.59
倭人伝は、倭国巡りをした魏使の日記をもとに書かれていると理解する人が圧倒的に多いようだ
あたかもマルコポーロの東方見聞録、松尾芭蕉の奥の細道、司馬遼太郎の街道を行く・・・などなどの如し

しかしそれは違うのではないか
魏志倭人伝の資料集めを担当した洛陽の書記官は帯方郡まで出張しただけであろう
東夷のことは郡役所の下級役人の所管だからである
そして郡役所に滞在中に、倭に関する帯方太守の認識を聞きとりし、関連の調査資料を受け取ったにちがいない・・・

即ち倭人伝は、いわば帯方太守の目線で書かれたと理解すべき書であろう
もちろん現代の読み人も、郡役所の見晴らし台に立って帯方太守の目で読むべきと思う
219日本@名無史さん:2013/12/11(水) 00:56:35.24
三国志執筆当時の陳寿は洛陽の書記官に資料を収集させる地位には
いない。手に入った限りの資料を勘考して書いただけだろう。
魏志だけでも三十巻。それらの資料は相当にむらがあるはずだ。
魏志巻一から巻三十の終りまで読んだ読者にしても、
ほう、倭人というものはそんなところに住んでるのかい、
と口をあけて感心しておしまいというのが大半だろう。
むしろそういう読者の「目線」で読むのがいいと思う。
つまり細かいことはなかなか分かりにくいが大ざっぱなイメージは掴める。
220日本@名無史さん:2013/12/11(水) 08:32:57.60
魏書(倭人伝)はお役所の文書だから、
実際は大勢の役人がかかわって作成された書物、今でいう白書のたぐいだったのであろう
せいぜい陳寿は、その書の編集長ないしは監修者の立場
221日本@名無史さん:2013/12/11(水) 08:53:22.19
東夷伝には高句麗や三韓も入ってるし
帯方郡にしてみれば国境を接しているわけだから
かなり具体的な脅威を意識してるよ
だから戸数や風俗や武装を記述してる訳で
222日本@名無史さん:2013/12/11(水) 09:10:30.66
資料は帯方郡から魏本国へ出された報告書だろう。わざわざ帯方郡へ行って
調べたわけではない。
223日本@名無史さん:2013/12/11(水) 09:22:54.63
>>218 のつづき:

以下、主要な記事はいずれも帯方郡役所(ないし帯方太守)を基点に記述されている
倭人伝は、すべからく帯方長官である(であった)太守の目線で読むと良いのではないか

*倭人在帯方東南大海之中、
*従郡至倭、
*自郡至女王国万二千余里、
*遣使詣京都帶方郡諸韓国及郡使倭国、
*正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王、
*其八年、太守王?到官、
*遣倭載斯烏越等詣郡説相攻?状、遣塞曹掾史張政等、
*壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還
224日本@名無史さん:2013/12/11(水) 12:24:04.50
弥生の甕棺、地表には目印 熊本市新南部遺跡群
熊本日日新聞 2013年12月10日
http://kumanichi.com/news/local/main/20131210001.shtml

>熊本市東区新南部の新南部遺跡群から、弥生時代中期の甕棺墓がほぼ完全な構造で複数出土したことが9日、分かった。
>墓の地表に無数の石を並べた標石も出土。
>甕棺墓の上部構造まで残る例は全国でも数例で、甕棺墓の構造解明に役立つ極めて貴重な資料という。

>県文化課によると、出土したのは甕棺墓7基と木棺墓3基。
>うち2基の甕棺墓には、標石とみられる石群が残る。複数の標石を並べた甕棺墓は全国でも珍しいという。
>石を円状や不規則に並べた標石とみられる遺構も複数見つかっており、墓の数は増える可能性がある。

>甕棺の長さは約50センチから1メートル超で、ほぼ完全な形のものもある。
>墓域を区切る溝跡や、墓域と集落を結ぶ通路のような遺構も確認されている。
225日本@名無史さん:2013/12/11(水) 14:42:52.27
甕棺が出ない時点で、畿内はない。
226日本@名無史さん:2013/12/11(水) 14:56:51.82
畿内を掘れば掘るほど、魏志倭人伝の描写と乖離するばかり。
畿内説に懇願された電通が、いくら宣伝しても無理なものは無理。
227日本@名無史さん:2013/12/11(水) 16:37:41.52
陰謀説は自分がトンデモだという自白と同じ
228日本@名無史さん:2013/12/11(水) 21:41:58.92
電通に不可能はありません。
太平洋戦争だって、電通が仕掛けたわけだし、
229日本@名無史さん:2013/12/11(水) 21:54:40.15
映画版まぼろしの邪馬台国の制作委員会に名を連ねてる電通がどうしたって?
230日本@名無史さん:2013/12/11(水) 21:58:15.90
ネット世代には電通も手を焼いていることだろうフッフッフ
231日本@名無史さん:2013/12/11(水) 22:16:38.44
>>223 のつづき:

上で、倭人伝の主要記事はいずれも帯方郡役所を基点に記述されていると述べた。
そこで帯方太守の立ち位置で読み返すと、難問と思われていた以下の部分もなんなく理解できる。
つまり、水行二十日、水行十日、陸行一月は、いずれも帯方太守の下からの日数であることに疑いはないであろう。

>南至投馬国、水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。
>南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳?、可七万余戸。
232日本@名無史さん:2013/12/11(水) 23:16:31.87
東南至奴国百里も帯方太守の下からの距離であることに疑いはないであろう。
233日本@名無史さん:2013/12/12(木) 00:04:19.52
『まぼろしの邪馬台国』は、九州の主人公が町興しのために、
九州説に人生を投じた馬鹿話に仕立ててあった。
畿内説から頼まれた電通様は、さすが、やることが違うな。
234日本@名無史さん:2013/12/12(木) 22:55:47.95
そういうあなたは電波通
235日本@名無史さん:2013/12/12(木) 23:28:27.15
有明海のモンサンミシェル

邪馬台国島原半島にようこそ!
236日本@名無史さん:2013/12/12(木) 23:41:17.48
>自郡至女王国万二千余里

過去、多くの人たちが唱えてきた中九州〜南九州説もさりながら、
倭人伝が書きしるした帯方太守の認識によれば、
末盧国から東南〜東〜南方向へ陸行二千余里、徒歩でおよそ一月を要する位置に女王国は有ったわけだ。
いまさら電通が疑う余地もない。もし疑うなら、これからは電波の電2とよばれるかもな。
237日本@名無史さん:2013/12/12(木) 23:43:54.35
どのみち女王の邪馬台国は、有明海沿岸こそ最有力の地
238日本@名無史さん:2013/12/12(木) 23:49:41.33
つーか有明海沿岸国家でないと連携とれんよ
遮蔽物無しで狼煙も光もアクセス良好
239日本@名無史さん:2013/12/12(木) 23:57:41.39
「女王の邪馬台国は、じつは有明海帝国だった・・」、とでも唱えてはどうかな。
冗談でなく、実態としてはそうだったと思うな。
240日本@名無史さん:2013/12/13(金) 00:10:38.03
>>236
やたら力んでいるけど、徒歩でおよそ一月を要する位置とは書いてないな。
水行10日陸行1月は邪馬台国だ。末盧国から二千里の女王国ではない。
241日本@名無史さん:2013/12/13(金) 10:08:52.54
この1年で邪馬台国論争は様変わりした。
大和説や福岡説を唱えるものは数えるほどに減少、一方でくまモン人気に湧いた年だった。

今年の1字は「熊」
242日本@名無史さん:2013/12/13(金) 10:16:54.61
狗奴国は、熊本の可能性高いと思うけど。
有明海帝国はきつくない?
243日本@名無史さん:2013/12/13(金) 10:24:11.29
隈本は後世、熊本は近世の命名
狗奴国は、大隅国・曾於(襲、ソー)のことと伝わる
244日本@名無史さん:2013/12/13(金) 14:21:43.47
倭たい!!

・・・でヤマタイ国九州説ということではないですよね
245日本@名無史さん:2013/12/13(金) 14:31:02.90
それを本気で言った馬鹿は実在する
246日本@名無史さん:2013/12/13(金) 16:18:15.79
わたし、わし、われわれ、われら
われ、わーりゃ
247日本@名無史さん:2013/12/13(金) 22:06:36.76
>>217
あなたは今、猿山にいます
他の人達が猿山にいるのかどうかはわかりません
248日本@名無史さん:2013/12/14(土) 01:44:21.54
宮崎説が一番説得力ありますね。
魏志から、日本書紀からも。天孫降臨とかで。
249日本@名無史さん:2013/12/14(土) 04:21:56.84
東北大学 佐藤弘夫教授の思想:正しき信仰によって災害を抑えるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
権力は手段www創価死ねwww

http://vukivuki.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-d12a-1.html
佐藤教授・まさにそうですね。本来、国とは民衆のことであり、国家権力というのは「手段」なのです。
 しかし、日本では常に権力が「目的」です。日蓮は明確にこれを逆転しました。民衆の幸福こそが「目的」であり、「国家権力は「手段」であると。
 立正安国論を提出する契機も、正嘉の大地震によって、多くの民衆が嘆き苦しんでいたことでした。日蓮は、まず正しき信仰によって災害を抑えるという方途を示しました。
250日本@名無史さん:2013/12/14(土) 09:34:01.09
九州説は宮崎で何とか候補になれるレベル。
後はもう捨てていいよ。
251日本@名無史さん:2013/12/14(土) 10:18:58.15
ヒムカって熊本の事なんだけど
252日本@名無史さん:2013/12/14(土) 10:57:50.40
ひむかのたちばなのおど

って熊本のどこなのさ
253日本@名無史さん:2013/12/14(土) 11:15:03.98
それが分かれば苦労しない
254日本@名無史さん:2013/12/14(土) 11:26:38.28
福岡だな
筑紫とは現福岡県、博多の住吉神社から西に約10kmに日向峠があり北東に約10kmに古賀市青柳(阿波岐)があり、立花(橘)山、その北が尾東(小戸)山麓と地名が対応している。
255日本@名無史さん:2013/12/14(土) 11:30:47.09
>>254
早良区の小戸港かも
256日本@名無史さん:2013/12/14(土) 12:23:51.45
見事にカスばっかりだな
257日本@名無史さん:2013/12/14(土) 12:36:37.26
じゃあ投票だな

最初は大雑把に

@ 福岡周辺  A 宇佐周辺  B 熊本周辺  C 宮崎

D 吉野ヶ里周辺  E 甘木周辺  F 有明海周辺
258日本@名無史さん:2013/12/14(土) 13:00:42.41
ヒムカなら日は東にあるだろ。
よって九州に天照大神はいない。
259日本@名無史さん:2013/12/14(土) 13:25:23.89
藺牟田池(いむたいけ):鹿児島県薩摩川内市祁答院町藺牟田にある直径約1キロメートルの火山湖。

ここが邪馬台国だ。
260日本@名無史さん:2013/12/14(土) 16:57:30.77
筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎が原に禊ぎ払いたまいし時にあれませる

これ
イザナギの禊ぎの地

多分に応神天皇も禊ぎしてる。
卑弥呼と関連なし

住吉神社の境内の小さな池も小戸という
261日本@名無史さん:2013/12/14(土) 17:17:25.80
>>257
宇佐周辺に1票。
262日本@名無史さん:2013/12/14(土) 17:32:48.47
日向は本来はヒナタと読み、博多湾岸の日向峠あたりとの説もあるな。
カラクニに対峙しているという点、宮崎の日向はずっとのちに日向というようになった点からは、博多湾岸説が説得力あるな。
天孫降臨に関する古事記と日本書紀の記載は微妙に違ってんだよな。
263日本@名無史さん:2013/12/14(土) 17:33:31.62
鹿児島はないだろう
264日本@名無史さん:2013/12/14(土) 18:09:16.46
そういや、早良区のの早良ってのは、
室見川を昔は早良川って言ってたくらい古い地名。

早良皇太子って、なんか関係ないのかね?
265日本@名無史さん:2013/12/14(土) 19:22:11.90
日向峠っていつから日向と呼ばれるようになったの?
266日本@名無史さん:2013/12/14(土) 19:40:07.68
近くの高祖山も日向山との名もあるようだから
古くは日向峠付近一帯の地名が日向だったらしいよ。
267日本@名無史さん:2013/12/14(土) 19:40:36.36
天皇の象徴「三種の神器」がセットで出土してる
「神武東征」以前の遺跡は極少数に限られている。

神武東征で「三種の神器」がセットで畿内にももたらされた。

神武東征以前に「三種の神器」がセットで出土する地はどこなのか??

それは宮崎にはない。 

筑紫の日向=福岡の日向峠周辺にある
吉武高木や三雲南小路、平原や須玖岡本遺跡の日向峠及び
その周辺の福岡平野や前原で出土するという事実。

天孫族や邪馬台国ってのは常識でかんがえても福岡なんだよ。
268日本@名無史さん:2013/12/14(土) 19:49:50.02
>>267
完全同意
普通に考えて前原周辺以外ないでしょ。
269日本@名無史さん:2013/12/14(土) 19:55:38.16
>>266
どういう資料にどのように書いてあるのかな?
270日本@名無史さん:2013/12/14(土) 19:55:49.28
>>266

高祖山で立花山は聞いたことはないが、
油山が橘山と呼ばれていたらしい。

また、東区なら立花山がある。
271日本@名無史さん:2013/12/14(土) 20:44:17.52
それ「ひなた」だろw
天孫は「ヒムカのたちばなのおど」
だから福岡の「ひなた」は違う場所だ
272日本@名無史さん:2013/12/14(土) 21:11:14.05
日向だろ仮名でヒムカとか書いてない
273日本@名無史さん:2013/12/14(土) 21:22:34.50
>>272
神事の大祓詞が音で残っている
筑紫→つくし
日向→ひむか
274日本@名無史さん:2013/12/14(土) 21:24:04.63
天孫が降臨した山は阿蘇山だな
275日本@名無史さん:2013/12/14(土) 21:43:12.71
高天原
↑↑にあれませるイザナギ
それから禊ぎをした地

禊ぎした地
高天原


なんで、これらが邪馬台国と関係あるわけ?
276日本@名無史さん:2013/12/14(土) 22:17:50.26
邪馬台国や狗奴国の王族と肥君や筑紫君はつながりあるの?
277日本@名無史さん:2013/12/14(土) 23:37:08.26
【考古学】国内初、鉄生産の地上炉跡 長崎・壱岐のカラカミ遺跡
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1387004866/
国内初、鉄生産の地上炉跡 長崎・壱岐のカラカミ遺跡 日本列島の鉄文化の起源に迫る発見
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1387017933/

★国内初、鉄生産の地上炉跡 長崎・壱岐のカラカミ遺跡
2013年12月14日10時00分

長崎県壱岐市の弥生集落カラカミ遺跡で、国内で初めて、鉄生産用の地上炉跡が複数確認された。
同市教委が13日、明らかにした。朝鮮半島の系譜を引く構造とみられ、当時最先端の技術で
鉄素材を本土に供給する中継基地だったとみられる。弥生社会で明確に確認されていない精錬炉の
可能性もあり、日本列島の鉄文化の起源に迫る発見だ。

■精錬工程の痕跡か
中国の史書「魏志倭人伝」によると弥生時代、壱岐には「一支国(いきこく)」があり、カラカミ遺
跡は王都の特別史跡・原の辻遺跡とともに、弥生の環濠(かんごう)集落跡として知られる。
2011年から市教委が発掘している。

弥生時代後期(紀元1〜3世紀ごろ)の複数の時期の、少なくとも6基の炉跡が出土。いずれも床面に
直接炉を築く地上式で、炉壁や焼け土、炭の堆積(たいせき)層が良好に残っていた。国内で確認されて
いる、地面に穴を掘り込む鍛冶炉とは違い、韓国南部の勒島(ヌクト)遺跡などに見られるタイプと似て
いるという。後期中ごろの炉跡1基は、工房とみられる長さ8メートル余りの長円形の建物内にある。
炉を高温にするため風を送るふいごの羽口(送風管)や鉄滓(てっさい、鉄くず)、棒状の鉄素材、
鉄成分が付いたたたき石、砥石(といし)なども出土した。

http://www.asahi.com/articles/SEB201312130065.html
278日本@名無史さん:2013/12/14(土) 23:44:39.90
【社会】弥生時代に鉄精錬の可能性…壱岐に地上炉跡
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1387025111/

長崎県壱岐市教育委員会は14日、弥生時代の環濠集落跡「カラカミ遺跡」(壱岐市)で、
鉄生産用の地上炉跡が見つかったと発表した。弥生時代の地上炉跡は国内で初めての発見。
専門家は、弥生時代には明確に確認されていない精錬炉の可能性があると指摘、市教委は
今後も調査を進める。

市教委によると、炉跡は弥生時代後期(紀元1〜3世紀ごろ)のもので、少なくとも
6基が見つかった。床面に直径約80センチの範囲で焼けた土が広がっており、床面に
直接炉を作る「地上式」と確認した。

*+*+ NIKKEI NET +*+*
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1402M_U3A211C1CR8000/
279日本@名無史さん:2013/12/14(土) 23:47:06.09
やはりチョンと混じっていたのか
黒歴史だな
280日本@名無史さん:2013/12/14(土) 23:56:33.21
>>279
場違いなところに薄汚いツラ出すな精薄、ゴミ溜めに戻れ!
281日本@名無史さん:2013/12/15(日) 00:20:14.63
当時の半島南部は倭だってば
282日本@名無史さん:2013/12/15(日) 04:57:58.53
百済から桓武天皇が妃を迎えているが
当時の百済は日本系で日本民族ともいえる
283日本@名無史さん:2013/12/15(日) 06:10:20.86
邪馬台国は、福岡?福岡は奴国が有力では?
この説だけは無理っぽいな、、、
284日本@名無史さん:2013/12/15(日) 07:10:22.00
九州なのは魏志倭人伝でゆるぎない
285日本@名無史さん:2013/12/15(日) 07:31:20.12
女王国が伊都国の南にあるんだから、九州は確定ですよ。
286日本@名無史さん:2013/12/15(日) 07:36:51.04
有明海沿岸の国を総称して、ヒ、の国
博多湾周辺の国が、ナ、の国

漢字は後に当てられたものにすぎない。

漢字が入ってきて、ヒ、の国は、
肥、火、日の漢字が当てられた。

筑紫は大陸からの影響が濃いせいか、
音をそのまま当てることはせず、
好字二文字で作りなおした。
287日本@名無史さん:2013/12/15(日) 08:40:29.45
>>285
伊都国の南ではないだろう、奴国もある。
それに記紀では伊都津比古が穴戸で王を主張してるよ?
穴戸は山口県だからなw
288日本@名無史さん:2013/12/15(日) 08:44:26.47
まぁ九州説の人がいくら頑張っても、国生みは淡路島からだというのは動かしようがない。
日は当然東の国だ。
天照大神は東から九州に下ったんだよ。
289日本@名無史さん:2013/12/15(日) 08:49:09.89
286
同意です。
ヒとナの考え方、同感です。
ヒとナ、邪馬台国と狗奴国の関連性や地名に残る日ノ隈や帯隈などのクマ、前原や中原などのバルとの関連性をどのようにお考えですか。
290日本@名無史さん:2013/12/15(日) 08:51:12.40
長門もナの国だよ。
291日本@名無史さん:2013/12/15(日) 09:07:55.69
>>290

ナが戸、かな?
292日本@名無史さん:2013/12/15(日) 09:18:41.19
>>287
「自女王国以北、特置一大率、検察諸国、諸国畏憚之。常治伊都国、於国中有如刺史。」

伊都国にいる一大率が女王国より北を検察するんだから、伊都国は女王国の北だろ?

記紀の伊都津比古ってのは、卑弥呼の時代の人?
293日本@名無史さん:2013/12/15(日) 10:37:58.59
崇神の次世代に出てくるよ。モモソが卑弥呼説だと
伊都津比古はずっと九州で王権を主張してた事になる。
294日本@名無史さん:2013/12/15(日) 10:48:22.40
伊都津比古は「いつつひこ」と読むんだろうな。
295日本@名無史さん:2013/12/15(日) 11:19:50.71
箸墓には葺き石があるから、卑弥呼の墓じゃないよね。
つまり、モモソは卑弥呼になりえない。

高句麗の墓なら葺き石あるけど。
「積石為封、列種松柏。」
296日本@名無史さん:2013/12/15(日) 11:39:27.43
>>267
要するに、福岡の日向峠周辺又はその一帯が
日本の「王家の谷」といっていい地域だいう事実だな。

王家の谷とは・・・
>古代エジプトの新王国時代の王たちの墓が集中していることからこの名がある

つまり、日本の「王家の谷」は福岡の日向峠周辺とその一帯ということだな。
297日本@名無史さん:2013/12/15(日) 12:04:07.84
>>277-278
結局こういった記事等は俺が普段から述べている>>198-204
更に正解・真実なのだという域に押し上げてる事実のような記事なんだよ。

宮崎や畿内や伊都国佐賀説のバカが自分勝手に思い付きの自論を展開しても
結局出てくるものは>>198-204の俺の見解を後押ししてくれるものばかり。
宮崎、畿内、佐賀説のバカどもはただ郷土愛が強すぎるキチガイなだけなんだよな。

>>210の甕棺もそう。
福岡が倭国・邪馬台国・天孫族の舞台だという事を裏付ける事実。
熊本のこの甕棺は、筑紫に憧れた田舎種族が筑紫に憧れて、
「筑紫の先進文化を真似しました」といわんばかりの熊本オリジナル。

前から言うように
倭国は博多湾岸を都、中心とする半島南岸の一部から九州北岸(北部)までの海洋国家。
南九州や畿内は関係ない。
南九州はクマソで畿内は遠い倭種。熊本は倭国(筑紫)に憧れる田舎首長が治める
倭国の外延部のさらに外延部、倭国には関係ない地域とクマソの地。

後漢書にも伊都国が倭国の極南界と書いてある。

様々な歴史書や考古学的物証を冷静に判断すれば答えは簡単に出てくるんだよ。

考古学的物証も何もないくせに思い付きばかりで勝手に自論をあたかも本当のように
話す畿内宮崎佐賀派はただのキチガイで郷土愛が強すぎるバカにしかすぎん。
298日本@名無史さん:2013/12/15(日) 12:05:23.29
>>295
九州説者は間抜けだから理由が言えない
299日本@名無史さん:2013/12/15(日) 12:08:31.13
箸墓は畿内説の考古学者の多くは卑弥呼の墓とは考えないだろ
300日本@名無史さん:2013/12/15(日) 12:20:33.36
>>275
邪馬台国は「倭人伝」に書いてある。
つまり(倭国の中)の当時の勢力図である。

倭人伝当時の「倭国」の覇者は「邪馬台国・卑弥呼」だったということ。

その以前は伊都国に代々の王がいた←「漢倭奴国王」=「大国主」

そして天孫族が治めた倭国

この三つの倭国は全て 博多湾岸 舞台にしている倭国なんだよ。

このことは 魏志倭人伝 にも 後漢書 にも書いてある。

倭人伝=倭国は半島の南岸一部から奴国までの九州北岸(北部)
後漢書=伊都国が倭国の極南界である。

つまり、「漢倭奴国王・大国主」も「邪馬台国・卑弥呼」も「天孫族・国産み、東征」の舞台も
全部博多湾岸だという事だよ。

これは様々な「歴史書の記述」どころか遺跡から出てくる「考古学的物証」にも何の矛盾もない。

ただの「思い付き」で考古学的物証等を無視して自論を展開する畿内宮崎佐賀のアホどもとは全然違う
本物だという証拠だよ。
 
301日本@名無史さん:2013/12/15(日) 12:27:57.94
天孫降臨はおそらく大陸・半島か先進的な勢力が北部九州に来たことを言ってるんだろう
ただ記紀の編纂された8世紀においてそうしたくない事情があって
舞台を南九州に移したのではないかな
302日本@名無史さん:2013/12/15(日) 13:11:32.38
結局、筑紫の日向については、いつからの名称か、まったく資料がないってことだね。
303日本@名無史さん:2013/12/15(日) 13:48:24.75
>>298
> >>295
> 九州説者は間抜けだから理由が言えない

何の理由が必要かな?

高句麗伝には
「積石為封、列種松柏。」

倭人伝は
「有棺無槨、封土作冢。」

卑弥呼の墓は土で封をしてあるはずで、
石で封じられているわけではないという意味だけど。

箸墓に葺き石があるのは事実だろ?
304日本@名無史さん:2013/12/15(日) 14:15:15.89
やはり、ばかだな
「はず」しか言えない
卑弥呼の墓がそうだなんて倭人伝にはひとことも書いてない
おまけに、このうすばかは「封」の意味も知らないで
赤恥をかいた

まったく、九州説の馬鹿は、恥をかくために生まれてきた連中だな
哀れだよ
305日本@名無史さん:2013/12/15(日) 14:25:04.82
>>304
> やはり、ばかだな
> 「はず」しか言えない
> 卑弥呼の墓がそうだなんて倭人伝にはひとことも書いてない
> おまけに、このうすばかは「封」の意味も知らないで
> 赤恥をかいた
>
> まったく、九州説の馬鹿は、恥をかくために生まれてきた連中だな
> 哀れだよ

貴方こそ「はず」じゃない理由を述べるべきでは?
東夷伝から、高句麗と倭とで墓制に違いがある事は明らかだけど。

ついでに、「封」の意味も知らないので教えて頂けるとありがたいね。
306日本@名無史さん:2013/12/15(日) 14:49:22.99
漢和辞典も引けない九州説論者の学力を憐れむ
日本語で書いてある理由も読めないうすばかを哀れむ
307日本@名無史さん:2013/12/15(日) 15:02:52.73
>>306
> 漢和辞典も引けない九州説論者の学力を憐れむ
> 日本語で書いてある理由も読めないうすばかを哀れむ

「有罵倒無理由」ですか。

卑弥呼の墓には葺き石があるとは書かれていない=箸墓
なら

卑弥呼の墓には葺き石があるとは書かれていない=ピラミッド
でも良い。

つまり、
卑弥呼の墓には葺き石があるとは書かれていない=箸墓

を主張するなら理由が必要なんだけど。


辞書引けって言うだけで、当方の解釈の何が間違っているかは指摘できないんだ。
308日本@名無史さん:2013/12/15(日) 15:57:47.87
やっぱり字書も引けないうすばかなんだwwww
しかも
卑弥呼の墓には葺き石があるとは書かれていない=箸墓
なんて誰も言っていない主張を捏造する

うすばかでウソツキ
それが九州説老人の実態
309日本@名無史さん:2013/12/15(日) 16:04:33.06
サイキバ=あわびまん はうすばかのヒキニトボッチだがまだ老人ではないだろう
310日本@名無史さん:2013/12/15(日) 16:09:09.05
脳はボケ老人、いやサル並みでしょう。

>「有棺無槨、封土作冢。」
> 卑弥呼の墓は土で封をしてあるはずで、

「封土作冢」を
土で『封をして』冢を作る、と読んでいるなら
人並みの知能があるのか極めて疑わしいですからね。
311日本@名無史さん:2013/12/15(日) 16:43:26.16
>>308
> やっぱり字書も引けないうすばかなんだwwww
> しかも
> 卑弥呼の墓には葺き石があるとは書かれていない=箸墓
> なんて誰も言っていない主張を捏造する
>
> うすばかでウソツキ
> それが九州説老人の実態

よく読んでもらいたいね。

卑弥呼の墓には葺き石があるとは書かれていない=箸墓
を主張する「なら」理由が必要なんだけど。

貴方が主張していると断定しているかい?

「うすばかでウソツキ」が好きなフレーズなんだね。
312日本@名無史さん:2013/12/15(日) 16:44:36.32
>>310
> 脳はボケ老人、いやサル並みでしょう。
>
> >「有棺無槨、封土作冢。」
> > 卑弥呼の墓は土で封をしてあるはずで、
>
> 「封土作冢」を
> 土で『封をして』冢を作る、と読んでいるなら
> 人並みの知能があるのか極めて疑わしいですからね。

そう読んでいるんだけど、サル以外はどう読んでいるのかな?
313日本@名無史さん:2013/12/15(日) 17:00:53.80
>よく読んでもらいたいね。
> 卑弥呼の墓には葺き石があるとは書かれていない=箸墓
>を主張する「なら」理由が必要なんだけど。

>貴方が主張していると断定しているかい?


ヒキニトアワビは
>「有罵倒無理由」ですか。
> 卑弥呼の墓には葺き石があるとは書かれていない=箸墓
>なら

といっているから、理由がないと主張している。
つまり
「貴方が主張していると断定して」いるので
よく読んでもあわびマンうすばかでウソツキと確定。
314日本@名無史さん:2013/12/15(日) 17:30:37.05
横からだが、このキナイバカはいい加減せいよ。お前がまず箸墓が卑弥呼の墓
であることを証明すればいいことだ。さぁ証明してみろ。できまい。ザマーミ
ロ。キナイブシのあんぽん○ん。
315日本@名無史さん:2013/12/15(日) 17:32:07.40
>>312
サルには無理だから・・・古代史。
316日本@名無史さん:2013/12/15(日) 17:43:23.10
ちょっと反論されると一発で撃沈される九州説は悲しいね
>>314みたいな言い返ししか出来ない
317日本@名無史さん:2013/12/15(日) 17:52:36.19
っていうか、箸墓が卑弥呼の墓だと証明されると九州説完全消滅だよね
318日本@名無史さん:2013/12/15(日) 18:32:30.65
>>313

> ヒキニトアワビは
> >「有罵倒無理由」ですか。
> > 卑弥呼の墓には葺き石があるとは書かれていない=箸墓
> >なら
>
> といっているから、理由がないと主張している。
> つまり
> 「貴方が主張していると断定して」いるので
> よく読んでもあわびマンうすばかでウソツキと確定。

304では
「卑弥呼の墓がそうだなんて倭人伝にはひとことも書いてない」としか書いてないから、

卑弥呼の墓には葺き石があるとは書かれていない=箸墓
なら

としたんだけど、

「卑弥呼の墓がそうだなんて倭人伝にはひとことも書いてない」だけで、

僕の主張
「箸墓には葺き石があるから、卑弥呼の墓じゃないよね。
つまり、モモソは卑弥呼になりえない。」

を否定する理由とは思えなかったので
「有罵倒無理由」ですか。
と返したんだけど。

「ヒキニトアワビ」って日本語?
319日本@名無史さん:2013/12/15(日) 18:36:47.62
>>315
> >>312
> サルには無理だから・・・古代史。

読み方教えてくれないのなら、無理に返信しなくてもいいよ。

女王国が九州に在ることは確実なんだし、畿内板で語った方が良いんじゃない。
320日本@名無史さん:2013/12/15(日) 18:44:37.12
>>317
だから証明してみろ。できないならごちゃごちゃ言うな。キナイブシの○ホウ。
321日本@名無史さん:2013/12/15(日) 19:14:02.49
箸墓には記紀にも建造の謂れが記される程の重要な墓だからな。
しかも巨大円墳の型をもつ。
大体前方後円墳なんて呼称はごく最近のものだろう。
しかも埋葬者は大物主の嫁という重要女性だ。
これだけでも十分卑弥呼の資格がある。

まあ九州にそんな謂れのある墓でもあるのかねw
322日本@名無史さん:2013/12/15(日) 19:23:17.01
それが証明の積りかい?。幼稚園から勉強し直せ。
323日本@名無史さん:2013/12/15(日) 20:03:31.72
箸墓は時代が合わないと考古学者ですら認めている。はい、終わり。
324日本@名無史さん:2013/12/15(日) 20:13:33.23
卑弥呼の墓は冢で、古墳みたいにこんもりしてないんだぞ。
記紀の登場人物を無理やりこじつけるな。
邪馬台国は記紀じゃなく魏志に書いているんだぜ。
魏志をよく読んでみろ。
325日本@名無史さん:2013/12/15(日) 20:17:56.47
>>319
このサルは倭人伝の現代語訳を一度も読んだことがないそうだ。
ここまで不勉強でないと、いまどき九州説ではいられないんだね。
326日本@名無史さん:2013/12/15(日) 20:53:37.25
>>325
> >>319
> このサルは倭人伝の現代語訳を一度も読んだことがないそうだ。
> ここまで不勉強でないと、いまどき九州説ではいられないんだね。

がっかり。
読み方教えてくれないのなら、無理に返信しなくてもいいよ。

ループするだけ…
327日本@名無史さん:2013/12/15(日) 22:21:47.90
誰でも簡単に調べられることを、決して調べようとしない
それが九州説
しない理由は明らか
調べると、そこにあるものは自分にとって都合が悪いtp知っている
から
328日本@名無史さん:2013/12/15(日) 22:50:57.22
>>327
土で『封をして』冢を作る

以外の読み方を教えてほしいと言ってるんだけど。
言えない理由は畿内説だから?

この板、前と変わんないね。
329日本@名無史さん:2013/12/15(日) 22:53:13.20
>卑弥呼の墓は冢で、古墳みたいにこんもりしてないんだぞ。

無根拠電波乙
330日本@名無史さん:2013/12/15(日) 22:57:18.79
>土で『封をして』冢を作る
>以外の読み方を教えてほしいと言ってるんだけど。


「土を盛り上げて冢を作る」だけど?

じゃ、土で『封をして』冢を作る
という読み方をしてる人の名前を教えてほしいな
331日本@名無史さん:2013/12/15(日) 23:01:26.25
っていうか「土で封をして」って具体的に、何を何することよ
具体的に答えてほしいな
332日本@名無史さん:2013/12/16(月) 01:57:24.37
魏志には、その北岸狗邪韓国に到る七千里。 とある。
そのは倭である。倭の北の岸は、狗邪韓国の南岸であり、この南の岸の南
の海から倭国ということ。倭の北端の国ではない。
この点について、対馬へは度ると書かれてる。他は、東の倭種のとこにも
渡るとなっている。つまり、対馬へは国境があるから字をかえてると思う。
残念ながら、狗邪韓国は倭ではないと思う。

陸行一月は、75kmである。行橋あたりから瀬戸内海を225km行くと
岡山。日本海を行くと出雲。近畿説は、距離的に合わない。魏志から陸行一月
75kmを超える解釈を示さない近畿説は無理ですが。
方位も合わない。また、以北略載も、西になおしたりしないと。というより
魏志を読む限り近畿説の根拠は何もないと思う。

箸墓は、モモセ姫の墓では?卑彌呼とは書いてない。名前が違ったら
他人の墓だと思うけど。
333日本@名無史さん:2013/12/16(月) 06:59:53.99
>>330
>>331

> 「土を盛り上げて冢を作る」だけど?
>
> じゃ、土で『封をして』冢を作る
> という読み方をしてる人の名前を教えてほしいな

「つちもりをする」と書く辞書があるので、
「土を(高く)盛る」とでも解釈してんのかな?

該文の「封」は、「封印、封鎖」の「封」で「とじこめる」の意。
「封」を「盛り上げる」に特化して解釈しているのは貴方だけ(或いは、もう一人居るかな)だと思うよ。

確かに、「土を盛って墓を作る」と訳す人は居る。
しかし、これは意訳であって真意は「土で封じ込める」だ。
直前の「有棺無槨」がポイントなんだよ。
該文は、「棺を土で封じ込める」という意味で「棺直葬」を表現したものだ。

マジで、「封」に「盛り上げる」という意味があると思ってんなら、相手しないけど。
畿内板に閉じこもっていた方が良くない?
334日本@名無史さん:2013/12/16(月) 08:41:40.81
土で『封をして』冢を作る
という読み方をしてる人の名前は教えられないのね?
335日本@名無史さん:2013/12/16(月) 08:50:45.50
じゃあどうやって塚を作ったの?
336日本@名無史さん:2013/12/16(月) 09:14:50.32
>>322
君は日本史よりまず正しい日本語を学んでからきなさいw
337日本@名無史さん:2013/12/16(月) 09:20:18.79
>>323
今の考古学者の大半は九州説の主張には否定的だぞ?
根本的に七万という戸数なら、相当広範囲に渡る国だという認識だから。
北部九州には奴国だけでも収まるか疑問だとさ。
338日本@名無史さん:2013/12/16(月) 09:27:14.42
冢を作るとあるから土を大きく盛ったと分かるわけだろ。
339日本@名無史さん:2013/12/16(月) 09:28:45.76
北部九州説は行程的にも話しにならんよ。九州全体を考えないとだめだ。
340日本@名無史さん:2013/12/16(月) 09:33:20.05
>マジで、「封」に「盛り上げる」という意味があると思ってんなら、相手しないけど。
>畿内板に閉じこもっていた方が良くない?

積土増山曰封(康煕字典)
堆土。積土為墳。墳状的堆積土。(漢語大詞典)
341日本@名無史さん:2013/12/16(月) 09:47:18.88
>>333
「封」に土を盛り上げるという意味を載せてない字書があるなら、教えてくれよ
342日本@名無史さん:2013/12/16(月) 10:09:33.94
>>332
>倭の北の岸は、狗邪韓国の南岸であり、この南の岸の南
>の海から倭国ということ。倭の北端の国ではない。

ここの部分は支離滅裂だな、「倭の北端の国ではない。」の結論が何処から湧いてきたんだ?
「その(倭の)北岸狗邪韓国に到る七千里。」狗邪韓国は倭の北岸だとしか読めんがな。
343日本@名無史さん:2013/12/16(月) 10:15:00.29
倭の北岸と読んでいいんだよ。しかし、倭の領域ということではない。倭の北方にある
朝鮮半島の南岸に狗邪韓国はあるということ。狗邪韓国はあくまでも韓国だ。
倭ではない。
つまり、倭の北岸と言っても、倭は方角の基点を示しただけ。これを倭の領域を言った
ものだと早とちりするのは漢文を読めないアホウ。
344日本@名無史さん:2013/12/16(月) 11:01:44.11
>>343
お前の説明だと狗邪韓国には海がないことになる。

ちなみにお前の言う狗邪韓国から南の海が「倭国」というなら
相当な矛盾が生じる。

海の領域を全く持ってない 狗邪韓国 。
対して博多湾岸を中心とする九州北岸(北部)から 狗邪韓国 の南岸に接する海までが 倭国 。

こんな矛盾が発生するような状況はまず無いだろうな。

上のような状況なら 狗邪韓国 の一部(半島の南岸一部も倭国)と考えるのが自然。

何故、神功皇后が韓国を攻めたか??
古来から半島にもある 倭国 領地を守るため(奪還)するためだろう。

白村江の戦いにも同じことが言える。
半島にある 倭国 領地を守る(奪還する)ために倭国は半島を奪おうとする 唐 相手に兵を出したのだろう。
345日本@名無史さん:2013/12/16(月) 11:03:55.15
>何故、神功皇后が韓国を攻めたか??
>古来から半島にもある 倭国 領地を守るため(奪還)するためだろう。

っていうか、祖国だろう。
346日本@名無史さん:2013/12/16(月) 11:05:20.80
狗邪韓国の韓国は地理的な認識から中国がつけたんじゃないの
実施は狗邪国で伽耶のことだろ
347日本@名無史さん:2013/12/16(月) 11:08:48.45
実施は× 実際は〇
348日本@名無史さん:2013/12/16(月) 11:13:36.54
>>343
お前のようなバカにわかりやすく教えるなら、

倭国に全ての海・領海を奪われてる弱い 狗邪韓国 が
「陸地だけは倭国に奪われていない」と力説するお前の自論は常識的に考えて
バカ丸出しという事だ。

倭国にしてもそう、狗邪韓国の南の海だけが倭国の領域だと考えるのは都合の良すぎる
お前のただの思い付き説だってことだよ。

お前の説が正しいとしても狗邪韓国は度々その領土を倭国に奪われてるからこそ
倭国が狗邪韓国南岸の海までを領域としている証だ。

つまり倭国は 半島の南岸の一部まで勢力下においていた という事だ。

なので、倭国は神功皇后や白村江の戦いで度々半島に兵を出してるんだよ。

それは古来からの倭国の地、倭国の領域を守るため、又は奪還するための戦いだったってわけだ。

思い付きで話すのもいいが、こんなふうにきちんと論破されたら素直に間違いを認めろよ。

じゃないと、お前も畿内派宮崎派佐賀派のようなキチガイの仲間入りだな。
349日本@名無史さん:2013/12/16(月) 11:13:52.26
>>344
>お前の説明だと狗邪韓国には海がないことになる。
何をトンチンカンなことを。何でそんな話しになるんだ?
350日本@名無史さん:2013/12/16(月) 11:18:00.41
>倭国に全ての海・領海を奪われてる弱い 狗邪韓国
誰もそんなことは言っていない。領海の観念はまだなかったろうが、狗邪韓国の海、
対馬の海それぞれ常識的に考えればいい。
海を倭国のものだなんてことは言っていない。
351日本@名無史さん:2013/12/16(月) 11:30:47.24
>>350
対馬や壱岐はれっきとした倭国の領土だ。

半島からほど近い対馬(半島から対馬が見える)が狗邪韓国ではなく倭国の領土。

このことからも倭国>>>狗邪韓国の力関係は見てわかる。

このことは狗邪韓国以南の海は倭国が支配していたとみるのが自然。

つまり半島の南岸の一部にも倭国の影響が及んでいたと考えるのは自然なんだよ。

倭国が半島の南岸も影響下においていたことは事実だろうな。

お前の狗邪韓国は狗邪韓国の海、対馬は対馬の海という自論もここで論破されたわけだ。

思い付きもいいが、認めるところはきちんと認めような。
352日本@名無史さん:2013/12/16(月) 11:34:50.89
>>350
玄界灘は天孫族の元海(もとうみ・げんかい)なんだよ。
353日本@名無史さん:2013/12/16(月) 11:46:38.23
>半島の南岸の一部にも倭国の影響が及んでいたと考えるのは自然なんだよ。
そうかも知れんが、狗邪韓国以南の海は倭国が支配していたなんてことにはならんよ。
韓国側からみれば、倭国へ韓国の影響が及んでいたと考えるのは自然だし事実だろう。
だからといって、倭国への海が韓国の支配だということにはならない。
354日本@名無史さん:2013/12/16(月) 11:57:25.36
天って韓国か。
355日本@名無史さん:2013/12/16(月) 12:19:37.52
>>353
だから、半島にほど近い対馬(半島から見える対馬)が倭国の領土だった事実を
客観的に冷静に考えろって。

倭国の方が遥かに狗邪韓国より強大だった事実なんだよ。

つまらん自我丸出しで論破された自論をいつまでも屁理屈垂れていってんじゃね〜よ。
客観的に考えろ。

今、確実に歴史書や時代背景がすぐには出てこないが、
中国の歴史書も「倭国は半島にも領土、影響を持っている 大国 だ」と認めた記述もあったはずだし、
朝鮮の広開土王碑や朝鮮の歴史書も「倭に度々領土を奪われた」と記述している
歴史書もいくつかあったはず。それによると確か倭は数年おきに朝鮮に出兵してる。
そういったものも全部精査して書き出せば、きっと俺が主張していることが正しいことが
証明されるはずだ。

まあくだらん自論はいつまでも主張するな。 違うところは違うですぐあきらめることだな。

それからイザナギイザナミの頃の天孫族はもうずっと福岡の志摩に住んでる、
天孫族の故郷は福岡だな。

イザナギイザナミの何十代も前は半島から来たかもしれんが
それを言ったら今の日本人なんてほぼ全員どこかで半島の血が混ざってるだろうからなw

「神武以前の32代は筑紫の日向宮にいた」「神武は筑紫城にいて後に大和州を平定し天皇になった」

天孫族は大国主や邪馬台国の一国を預かる「筑紫福岡の豪族」だったのかもな。
356日本@名無史さん:2013/12/16(月) 13:44:43.15
はずだ、はずだ、でハズい電波やのう
357日本@名無史さん:2013/12/16(月) 16:41:12.03
>>355
狗邪韓国は倭の北岸なんだから、狗邪韓国も倭の一部だったのであって
倭国の方が遥かに狗邪韓国より強大だったは違うでしょ。
358日本@名無史さん:2013/12/16(月) 16:44:14.05
唐書によると、小さな日本が大きな倭国を征服したそうだから、広さでは、
狗邪韓国より、明らかに倭国の方が大きかったんだろう。
359日本@名無史さん:2013/12/16(月) 16:48:36.36
>>358
日本は神武が九州北部からヤマトに東征し先住の日下を追い出して建てた国
後に九州倭国を乗っ取った。
360日本@名無史さん:2013/12/16(月) 16:53:39.61
>>358
狗邪韓国は可五萬餘戸と記された投馬國の中心的国邑で
朝鮮海峡の南側が可七萬餘戸の邪馬壹國
361日本@名無史さん:2013/12/16(月) 17:13:14.35
おーい!

「封土作冢。」
 > 卑弥呼の墓は土で封をしてあるはず
だと言い張るあわびマン、どこに消えた?
引き籠り逃げ隠れしてないで、はやく
土で『封をして』冢を作る
という読み方をしてる人の名前を教えてくれよ。
362日本@名無史さん:2013/12/16(月) 18:12:20.09
日本は白村江で故国防衛戦に破れた成りすまし朝鮮人が、故国から見た列島が日の本だから
付けた国名だろう。
363日本@名無史さん:2013/12/16(月) 18:41:41.82
ま、箸墓が卑弥呼の墓なぞと余計な心配するな
あそこに殉葬はない
石葺きも後世に流行したの墓のかたち
364日本@名無史さん:2013/12/16(月) 19:07:11.62
近畿説を唱える考古学者は魏志倭人伝をまともに読んでない。
そして、文献学者の魏志倭人伝の翻譯もまともでない。
 
 
365日本@名無史さん:2013/12/16(月) 19:10:18.90
やれやれ
「おれさまだけが正しいんだ!」ですか・・・
カルトだなぁ
366日本@名無史さん:2013/12/16(月) 19:38:47.42
文献史学者が誰を指してるかは知らんが
漢文の権威以上に読めるほどの学識があるやつが2chに書くとかねーよ
367日本@名無史さん:2013/12/16(月) 20:11:02.18
魏志倭人伝を恣意的に訳してんだよな
「世有王」・・・「代々王がいた、魏代に王がいた」
「代々王がいた」と訳した場合でも基本的に魏代内限定で2〜3代程度
「代々王がいた」と訳すより「魏代に王がいた」の方が正確なんだが
368日本@名無史さん:2013/12/16(月) 20:56:44.99
>>340
>>341
> >>333
> 「封」に土を盛り上げるという意味を載せてない字書があるなら、教えてくれよ

333をよく読んでもらいたいね。
>「封」を「盛り上げる」に特化して解釈しているのは貴方だけ
とあるだろ。

「封」に「土を盛る」という意味はあるが、「盛り上げる」単独で使われることはないんだよ。

340の例文を見ても、日本の漢和辞典でも、必ず「土を」が付いているだろ。
土を盛り上げるのは境界を作るためで「さかい」の意味だ。
その境界に「閉じ込められた」土地を「封土」というわけ。
「封」の熟語を調べてみると良いよ。
「高く盛り上げる」という意味で使われている熟語はないと思うけど。

「封」を「土を盛り上げる」という意味にとると
「封土作冢」は「土を土盛りして冢を作る」という不可思議な文章になるし、
先に指摘したように「有棺無槨」に繋がらない。

文章は前後をよく読んでから解釈するものだ。
369日本@名無史さん:2013/12/16(月) 21:28:21.44
土封・・・封樹すること
封樹の方法
諸侯は、命を周に受けると、国中に大社を建て、
壝の東には青、南に赤、西に白、北に驪、中央には黄色の土をおく。
そして封国の方位の土を取り、黄土で包み、白芽に苴みむ。
370日本@名無史さん:2013/12/16(月) 21:30:20.31
×苴みむ。
○苴む。(つつむ)
371日本@名無史さん:2013/12/16(月) 21:46:52.17
>「封」に「土を盛る」という意味はあるが、「盛り上げる」単独で使われることはないんだよ。

「盛り上げる」単独で使われることはないから
「土」という目的語を必ずつけて
「封土」で土を盛り上げること、または盛り上げた土を示すんだよ

それより、土で『封をして』冢を作る
なんて珍妙な読み方をしてる人って、君以外にいるの?
ひとりでもいいから、名前を教えてくれよ。
372日本@名無史さん:2013/12/16(月) 21:49:38.72
掘地為海、封土為山(魏志所載魏略)
封者、謂封土為壇(後漢書社稷)

「封土」は
普通に「土を盛り上げる」という意味の
誰でも知っている言葉ですが?
373日本@名無史さん:2013/12/16(月) 21:52:53.70
「封土作冢」の場合は「土を土盛りして冢を作る」じゃなくて「儀式を行ってから冢を作る」やないかな
374日本@名無史さん:2013/12/16(月) 22:05:46.78
なんか根拠でもあんの?
375日本@名無史さん:2013/12/16(月) 22:07:21.77
「封土作冢」の場合は「土を土盛りして冢を作る」の訳では
封と作で動詞がだぶつてしまうから違うな
376日本@名無史さん:2013/12/16(月) 22:20:42.61
>>372があげてくれた
   掘地為海
   封土為山
   封土為壇
は、どうなんだよ
377日本@名無史さん:2013/12/16(月) 22:29:55.16
掘地為海・・・掘
封土為山・・・封
封土為壇・・・封
動詞1個づつだね
378日本@名無史さん:2013/12/16(月) 22:37:50.43
え!!!
こいつ、「為す」が動詞だって知らない!!
もしかして超無学?
379日本@名無史さん:2013/12/16(月) 22:39:38.81
ここは超無学がごろごろ。
380日本@名無史さん:2013/12/16(月) 22:45:54.13
>>378
バカかお前ら
超〜無学
地を掘って海と為す
「為す」は動詞じゃねえよ
381日本@名無史さん:2013/12/16(月) 22:50:22.15
言い張るだけ馬鹿
382日本@名無史さん:2013/12/16(月) 22:53:49.36
>>380
この場合、掘が動作で動詞
為すは結果を示しているだけ
為すでは動作は何もない
383日本@名無史さん:2013/12/16(月) 22:55:24.44
>>381
漢文以前に日本語もダメだね
384日本@名無史さん:2013/12/16(月) 22:56:12.76
「封土作冢」
と書けば、魏や晋の人々はどういう形式の墓であるか、すぐ分かったわけだ。
では、具体的な姿はどうなのか、中国の古代墓を検索すれば分かるのではないか。
どうせ、粘土で表面を突き固めて仕上げた墓という程度のことだろうけどな。
385日本@名無史さん:2013/12/16(月) 23:08:06.63
>>380
ちょっとマジで訊くけど、あんた高校は出た?
386日本@名無史さん:2013/12/16(月) 23:14:24.85
>>382
で?
品詞は何?
387日本@名無史さん:2013/12/16(月) 23:15:58.33
>>385
「為す」「為に」は助詞だよ中卒
388日本@名無史さん:2013/12/16(月) 23:17:50.73
用例の追加です。


封土象山(後漢書吳祐伝)
積尸封土於其上(後漢書皇甫嵩伝)
封土立社(後漢書社稷)

封土為墳(正義)
封土為冢(晉書倭人)
389日本@名無史さん:2013/12/16(月) 23:27:16.17
>「為す」「為に」は助詞だよ中卒

 為さない
 為します
 為すとき
 為せば・・・

活用する助詞だとさ。
390日本@名無史さん:2013/12/16(月) 23:33:50.49
>>389
大馬鹿
そんな活用しねえよ
成すと勘違いしてない
391日本@名無史さん:2013/12/16(月) 23:40:15.50
分からん人達だな「為す」「為に」は単に結果を示しているだけでしょ
誰かが何かをしたのではなく現象を指しているだよ
392日本@名無史さん:2013/12/16(月) 23:49:00.95
>>371

> 「盛り上げる」単独で使われることはないから
> 「土」という目的語を必ずつけて
> 「封土」で土を盛り上げること、または盛り上げた土を示すんだよ

340に
積土増山曰封(康煕字典)
堆土。積土為墳。墳状的堆積土。(漢語大詞典)
とあるだろ。

つまり、「封」自体に「土を盛る」という意味があるんだよ。
「積土」の方が「土を盛り上げる」だ。

高句麗伝の「積石為封」が参考になるだろ。
「石を盛り上げて閉じ込める」だ。

> それより、土で『封をして』冢を作る
> なんて珍妙な読み方をしてる人って、君以外にいるの?
> ひとりでもいいから、名前を教えてくれよ。

棺直葬と関係なく「土を盛り上げる」と読んでいる人が居るとは思えないけど、
土で『封をして』冢を作ると読んでいる人に関しては、後日返答する。
現在、史料確認が困難な状況なので。
393日本@名無史さん:2013/12/16(月) 23:50:14.51
>>372

> 掘地為海、封土為山(魏志所載魏略)
> 封者、謂封土為壇(後漢書社稷)

> 「封土」は
> 普通に「土を盛り上げる」という意味の
> 誰でも知っている言葉ですが?

340を紹介してくれたのが貴方だね?
「封土」を「土を盛りあげる」と記すのは、広辞苑かな?
「封土」は名詞で「閉じ込められた土」のことだ。
土を上方に積み上げるという意味ではない。
日本語では「土を封じて」と読み下し、「土を盛って」と訳すがね。

個人的な事情で返答は遅れると思う。
それでも良ければ、好きに書き込んでくれていい。
394日本@名無史さん:2013/12/17(火) 00:11:28.21
>>382に中学卒業程度の学力がないことは確定

三省堂 大辞林
な・す 【成す/為す】
(動サ五[四])

(1)あるまとまったものを作り上げる。築き上げる。《成》
「一代で財を―・す」
(2)(「…をなす」の形で)そういう形・状態をつくる。《成》
「カラスが群れを―・している」「返品が山を―・す」「文章の体を―・していない」
(3)別の物・状態に変える。
「荒野を変じて沃野(よくや)と―・す」

《以下略》
395日本@名無史さん:2013/12/17(火) 00:12:30.87
>分からん人達だな「為す」「為に」は単に結果を示しているだけでしょ

ばかだな墓穴掘りの東遷説
自滅してら

土を盛り上げた結果、塚となったんだ
いくら土を「封じて」も塚は出来ないよ
誰からも絶対信用してもらえないトンデモ読み乙
東遷説なんて、そんなもんさ
396日本@名無史さん:2013/12/17(火) 04:26:16.73
封土作冢
南九州に見られる地下式の墓でしょ。地下に埋蔵して土で埋めて、
その上に、冢を作る でしょ。

ついでに、狗邪韓国について、
魏志に、参問倭地、絶在海中洲島之上、
倭は海の中にあると思うけど。
あーこれわかりますよね?海の中の意味。
海の中の洲や島にある。
397日本@名無史さん:2013/12/17(火) 06:14:27.25
それはないです。
穴や溝を埋める土は「填土」と言います。
上に盛り上げる土が「封土」です。
398日本@名無史さん:2013/12/17(火) 10:06:46.38
>>396
『後漢書』倭人伝
去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東、
その西北界の拘邪韓国から七千余里。その地は凡そ会稽郡東冶の東に在り

西北界の拘邪韓国から邪馬台国まで七千余里
超大国だな
399日本@名無史さん:2013/12/17(火) 10:42:45.96
何を勘違いしている。七千里は狗邪韓国から楽浪郡徼までの距離だ。
400日本@名無史さん:2013/12/17(火) 10:55:18.48
じゃあ「西北界の拘邪韓国」から邪馬台国まで五千里
大国だな
401日本@名無史さん:2013/12/17(火) 10:57:58.62
そこから始まるってだけだからな。大きさは分からん。
402日本@名無史さん:2013/12/17(火) 21:46:12.56
東夷伝・倭人条は、東夷を統括する帯方太守の報告書類をもとに洛陽の王朝役人によって取りまとめられた。
故にこの書は、基本的には帯方郡役所を護る帯方太守の視点で読まれなくてはならない。
つまり上から目線(もしくは下り向き、南向き目線)で読む必要があるのである。
こうすることで、邪馬台国へ到る道筋や里数も見えてくる。
とりわけ下記の部分は、帯方郡役所からの所要日数(所要時間)であることを明確に読みとれるであろう。

南至投馬国水行二十日
南至邪馬台国女王之都水行十日陸行一月
403日本@名無史さん:2013/12/17(火) 21:51:54.70
九州説最後の生命線である「南」を放棄しちゃってね?
404日本@名無史さん:2013/12/17(火) 21:59:45.21
南も北も東も、えらく静かだけど、
大規模規制でも実施中なんかねえ
405日本@名無史さん:2013/12/17(火) 22:06:51.44
加耶阿鼓今惱窒朱日の別名は内珍朱智
朱智神社が祭ってるのは息長氏
朝鮮に派遣された倭国の官の息長氏が倭国に反乱した
それがスサノオ(朱智の王)
406日本@名無史さん:2013/12/17(火) 22:33:23.65
つーか嘘っぱちじゃね?
卑弥呼も邪馬台国も存在して無いんじゃ?
だとしたらどーする??
407日本@名無史さん:2013/12/17(火) 22:44:27.76
>>406
魏志倭人伝を嫁
408満州二等兵:2013/12/17(火) 23:13:21.36
>>405の情報は実に役に立った。
一年に一度あるかないかの有益情報だ。
409日本@名無史さん:2013/12/17(火) 23:18:55.18
ゴミはゴミを識る
410日本@名無史さん:2013/12/17(火) 23:22:25.22
自演する木に花が咲く
411日本@名無史さん:2013/12/17(火) 23:25:55.18
九州は中国の第一列島線作戦で滅ぶ
412日本@名無史さん:2013/12/17(火) 23:26:53.52
第二列島線では近畿まで滅ぶ
413日本@名無史さん:2013/12/18(水) 11:53:14.84
266年頃の九州に候補になる遺跡はあるのかい?
414日本@名無史さん:2013/12/18(水) 12:38:36.75
266年って何の年?
415日本@名無史さん:2013/12/18(水) 15:19:04.47
266年11月に「倭人來獻方物」があった。(晋書 卷三 帝紀第三 世祖武帝 炎 泰始二年)
416大和 田 直木:2013/12/18(水) 15:31:27.39
>>414
晋書の266年11月の「倭人來獻方物」は、
魏志倭人伝の「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還(266年)。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」
に該当すると思われる。
417日本@名無史さん:2013/12/19(木) 00:38:06.20
>>413
とりあえず思いつくもの、他にも有るかもしれん
吉野ケ里遺跡
平塚川添遺跡
方保田東原遺跡
うてな遺跡
418日本@名無史さん:2013/12/19(木) 09:18:30.88
古代に好立地であったところは今に至るも好立地、
現状、遺跡の姿とは限らないのがむつかしいところ。
遺跡らしき場所の上に高名な神社・仏閣・城塞や、
県庁・市役所・町村役場が鎮座し、あるいは市街地になっているケースもありうるし。。。
419日本@名無史さん:2013/12/19(木) 12:58:03.35
>>417
どこもだけど、古墳時代になると環濠もうまり遺跡が衰退するんだなあ。
420日本@名無史さん:2013/12/19(木) 13:40:27.40
九州で繁栄を続けたのは南九州の日向だけだ。
421日本@名無史さん:2013/12/19(木) 14:53:29.89
邪馬台国から連絡がなくなった事実に合致するね。
やはり、九州北部で、朝鮮の王朝に滅ぼされたんだ。
422日本@名無史さん:2013/12/19(木) 16:01:17.97
ちょうど畿内王朝が九州を征服した時期だな
ついでに朝鮮も占領したし
423ひなもり:2013/12/19(木) 16:41:20.94
>>416
卑弥呼が死んだのは248年頃。従って、台与が王になったのは遅くとも250年。
国中が定まり、張政は役目を終えて帰還するわけで、それを送っていったのが
台与の朝貢ということになる。その時期は倭人伝の記述から、やはり250年頃になる。

一方で、司馬炎が魏の皇帝から禅譲を受けて即位したのが泰初265年12月。
その情報が届き、倭女王が遣使したのが泰初2年(266年)10月。

従って、台与が張政を送らせたのが266年というのはありえない。もしそうなら、
台与の遣使は三国志ではなく、晋書の範疇になるわけだから。
424ひなもり:2013/12/19(木) 16:48:54.25
>>421
当時、朝鮮には王朝はない。百済の建国が346年ころ。新羅の建国は356年ころで、
卑弥呼時代よりも100年以上後になる。
卑弥呼時代の朝鮮は、三国志韓伝によると、

其俗少綱紀、國邑雖有主帥、邑落雜居、不能善相制御。無跪拜之禮。居處作草屋土室、形如冢

というような状態。
425日本@名無史さん:2013/12/19(木) 19:59:28.40
>>423、424
陳寿が倭人伝を書いたのは晋になってからで、台与の266年の遣使を魏の時
代のこととして書いた。晋代は進行中で晋誌を書くわけにはいかなかった。も
し書けば晋の滅亡を期す謀叛人として、即刻打ち首になったであろう。
426日本@名無史さん:2013/12/19(木) 20:29:15.48
なんやそれ
427日本@名無史さん:2013/12/19(木) 20:56:07.91
軍師張政の支援で、遅くとも250年頃までには台与はめでたく王位に就き、
国中が定まった。
しかしその役目を終えて帰還する張政を見送ったのが266年では、いかにも間が空きすぎてる。
台与はそろそろ三十路のおばさんに、張政は浦島爺になってしまうだ。
428大和 田 直木:2013/12/19(木) 22:41:57.88
>>423
>>427
「政等以檄告喩壹與」
壹與は、張政に檄告喩されて泣だしそうな14〜16才のガキではなく、
既に三十路のおばさんになっているのだ。

前政権の駐在武官として役目を終えた張政をねぎらって母国に送ったのである。
そして、新政権への挨拶として臺に詣で生口三十人も獻上するこにしたのである。
429日本@名無史さん:2013/12/19(木) 23:37:17.07
この頃の航海技術高いな。
後世に劣化してるよな。
430日本@名無史さん:2013/12/20(金) 07:51:25.18
白村江で5万人近く送り込む割には、
遣唐使では、遭難続出。

南路に変わったせいもあると思うが。
431日本@名無史さん:2013/12/20(金) 08:30:35.05
盛ってる盛ってる
432大和 田 直木:2013/12/20(金) 08:49:19.94
南路は対馬海峡路よりも高度な航海技術が必要。

しかも、天平5年733年の遣唐使以降は航海技術の劣化。
433日本@名無史さん:2013/12/20(金) 09:15:46.33
>>430
白村江は天皇も必死だね。故郷だからでしょ。
434日本@名無史さん:2013/12/20(金) 12:47:58.64
さては台与と張政のあいだに子供でもできたか
それで別れを惜しみ十数年もとどまったのだろうな、
ま、子供もそろそろ一人前になるし、魏も晋に衣替えになるし、ここらで新王朝への顔つなぎをと考えてのご帰還か、、、

どのみち台与は、親魏倭王印と引き換えに、晋王朝から新しい「親晋倭王」の金印でも貰ったんだろうな
435日本@名無史さん:2013/12/20(金) 13:26:12.64
魏志では伊都国は千余戸ですが、魏略では戸万余。誤記と言われてるが、
数字で0が1つ多いとかではない。漢字なので似てない。
これは誤記でなく両方正しいのではと思う。
つまり当時の中国で 千 は、倭では 万 だったのでないか。
こうすると行程記事などが容易に理解できる。卑彌呼の古墳も
十余歩で径14mくらいでもよくなる。九州にもあるのでは?
436日本@名無史さん:2013/12/20(金) 13:42:39.16
九州には、未調査ながら100m超の古墳・山稜はあちこちにある
しかも地元の古老が執念を燃やす殉葬伝承の墓さえみられる
径14mなどと安易にハードルを下げてくれるな
http://www.yukan-daily.co.jp/news.php?id=29180
437日本@名無史さん:2013/12/20(金) 14:01:15.24
九州は掘らせないんだよ。ヤバイから。
438大和 田 直木:2013/12/20(金) 15:12:49.72
>>435
>魏志では伊都国は千余戸ですが、魏略では戸万余。誤記と言われてるが、

どちらも正しい。違いは原資料の時代が異なる為。

魏略が古い資料によるもの。
伊都國の領域が佐賀平野西部と肥前国庁付近の時の1万戸。

魏志が新しい資料によるもの。
伊都國の領域が肥前国庁付近に縮小してからの1千戸。
佐賀平野西部の1万戸は奴國に併合。
439日本@名無史さん:2013/12/20(金) 21:49:52.68
魏略が正しくて魏志が間違っているのです
魏略には邪馬台国がでてこないので
邪馬台国は存在しないのです
440日本@名無史さん:2013/12/21(土) 10:31:00.50
倭に関する記述はありのに、邪馬台国に関する記述が一切ない。
散逸してしまったとも考えられるが、はじめからなかったと言う方が合理的だ。
441フィクション大魔王:2013/12/21(土) 13:58:53.76
>>440
邪馬台国は「壹與都所」行橋だな。
卑弥呼は糸島を都とした。
442大和 田直木:2013/12/21(土) 15:26:35.29
魏略は、237年までの倭の情報で編集されたもの。
邪馬台国は未だ4ヶ国分立状態で成立していない。
分立4ヶ国は、伊支馬長官の国、彌馬升長官の国、
彌馬獲支長官の国、奴佳鞮長官の国である。


魏志は、238年以降の倭の情報を入れて編集されたもの。
邪馬台国は4ヶ国連合成立後の国。
邪馬台国は、長官伊支馬、次官彌馬升、次官彌馬獲支、次官奴佳鞮が、
それぞれ自治地域と城柵を持つ連合国。副官はいない。
443日本@名無史さん:2013/12/21(土) 15:26:42.81
10分の1なら水行2日、水行1日、陸行3日。
陸行1月75km。今は、1時間に4km歩ける。1日6時間として1日24km。
3日で72km。合う。前を行く人みえないような道なら距離は減るだろう。
1日8時間歩いたかも。現在不動産関係は1分80mで計算する。
1時間4.8km。1日28.8km。3日で86.4km。
距離的には正しいような気がするが。
444日本@名無史さん:2013/12/21(土) 15:44:39.03
>>大和 田直木
妄想は別な場所でやってくれ
一応学問だぞ
445大和 田直木:2013/12/21(土) 15:56:46.18
水行1日は、1100〜1200里≒85km
魏志東夷伝より
水行10日=帯方郡〜末盧國≒11400里(861km 1里=75.5mとして)

陸行1月=海行1月=1月行≒80km
隋書東夷伝より
海行3月≒240km、5月行≒400km、3月行≒250km。

「水行二十日」≒1700km
「水行十日陸行一月」≒850km+80km=930km
446大和 田直木:2013/12/21(土) 16:18:57.49
>>444
妄想ではありません。
真面目な推論の結果です。

根拠説明は長くなるので省略しました。
447日本@名無史さん:2013/12/21(土) 18:27:09.50
あほ
448日本@名無史さん:2013/12/21(土) 19:04:32.54
>根拠説明は長くなるので省略しました。

ば〜か
449日本@名無史さん:2013/12/21(土) 19:10:43.35
ワロタ
450日本@名無史さん:2013/12/21(土) 21:45:14.39
マギー司郎のお笑いマジックみたいだな
451日本@名無史さん:2013/12/21(土) 23:01:00.25
少なくとも、そういう金のとれるものとは違う
452日本@名無史さん:2013/12/22(日) 00:05:32.75
魏志に、倭人帯方東南大海之中 とある。
海の中(の陸地)であり、朝鮮半島の南部とは解釈
できないように思うけど。
対馬、壱岐、唐津や邪馬台国の福岡では小さいような気も
するし、、これこそ、郷土愛が強いようですが。
まあ、福岡はでかい街だから支持者も多いのでしょうけど。
453大和 田直木:2013/12/22(日) 07:01:53.54
邪馬台国は筑紫平野。
女王國も筑紫平野。
2世紀の倭國乱で衰退した小国乱立が福岡平野。
(福岡平野の大国倭奴國は106年帥升に滅ぼされた。←倭國乱の序奏)

@女王國=邪馬台国+投馬國+不彌國+奴國
A邪馬台国は北野平野と筑後平野内陸の4地域(うきは・朝倉・筑紫野〜八女)による連合國。
B投馬國は筑後平野低地部。(みやき町三根〜大牟田)
C不彌國は吉野ヶ里遺跡周辺
D奴國は佐賀平野中部西部(佐賀平野東部は有明海)
E其餘旁國(21ヶ国)は筑紫平野周辺地域、福岡平野、筑豊(遠賀川流域)
F狗奴國は熊本平野
G伊都國は肥前国庁跡周辺、末盧國唐津平野、一大國壱岐、對海國対馬
454日本@名無史さん:2013/12/22(日) 08:27:58.73
大牟田まで投馬国か
だんだん女王国の範囲が南下してきたな、狗奴国をやっつけはじめたかw
455大和 田直木:2013/12/22(日) 08:54:01.14
大牟田に投馬國があるので、狗奴國は女王國を攻めあぐねているのです。

狗奴國が女王國を攻めあぐねている要因
@有明海の反時計回りの潮流です。この潮流が海路からの船団による攻撃を困難にする。
A築肥山地越えの攻撃ルートが3本しかない。国道3号ルート(小栗峠)、県道4号ルート(矢部谷峠)、九州自動車道ルート(南関)。
456日本@名無史さん:2013/12/22(日) 09:05:31.04
狗奴国も魏に対する朝貢国だということを理解していないな。
457大和 田直木:2013/12/22(日) 09:41:16.53
>>456
狗奴國はもと會稽海外の東鯷人の国。
狗奴國は呉と通じていたのだ。
458日本@名無史さん:2013/12/22(日) 09:49:37.99
いずれ投馬国は、山鹿、菊池へと進攻するのであろうなw
459大和 田直木:2013/12/22(日) 10:00:27.10
>>458
逆だよ。
山鹿、菊池の狗奴國が、投馬國(山門)邪馬台国(八女)に侵攻するんだよ。
460日本@名無史さん:2013/12/22(日) 10:11:52.27
熊本は肥国。
宮崎大隅が熊襲国。

鹿児島は熊襲国なのか、ひょっとしたら
隼人国みたいな別の国かも
461日本@名無史さん:2013/12/22(日) 10:14:59.68
薩摩と大隅では人種が違うからなあ
462日本@名無史さん:2013/12/22(日) 10:22:18.58
鹿児島は南洋土人の血
463日本@名無史さん:2013/12/22(日) 10:25:15.38
>>462
具体例だせよwあまりYーDNA分布出ないなそう言えば
464日本@名無史さん:2013/12/22(日) 11:22:51.89
国家秘密保護法の影響で地域毎のYーDNAの頻度とか内乱に繋がる情報は永遠に闇に葬られることになる。
465日本@名無史さん:2013/12/22(日) 11:40:45.98
目鼻立ちが良く眉毛が濃い
466日本@名無史さん:2013/12/22(日) 23:48:58.00
TOKIOの長瀬はどの民族の特徴を持っている?
467日本@名無史さん:2013/12/23(月) 00:03:58.22
>>371

> それより、土で『封をして』冢を作る
> なんて珍妙な読み方をしてる人って、君以外にいるの?
> ひとりでもいいから、名前を教えてくれよ。

ずいぶん遅くなって申し訳ないが回答しておく。
魏志倭人伝の代表的な翻訳は、岩波文庫『新訂魏志倭人伝』(石原道博編)が有名だ。

(訳注)その死には棺あるも槨なく、土を封じて冢を作る。
(日本語訳)人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)はなく、土を封じて塚を作る。

訳注、日本語訳共に「土を封じて」とある。
「有棺無槨」を「封土作冢」と一連の文章として訳してあり、「棺を土で封をして」の意味と思われる。

僕と同じ解釈と思われる本を二つ紹介しておこう。

三木太郎氏の『邪馬台国研究事典1(文献史料)』(新人物往来社)では、
「人が死ぬと棺を用いるが、棺を入れる槨(うちひつぎ)は造らないで、直に土を盛って塚を造る。」
三品彰英氏の『邪馬台国研究総覧』(創元社)も、
「人が死ぬと、埋葬するため遺体を棺に納めるが、墓にはその棺を納める槨がなく、棺の上にすぐ土を盛り上げて冢(盛り土)をつくるのである。」

いずれも棺直葬を意識した解釈となっている。
ただ、佐伯有清氏は、その著『魏志倭人伝を読む』で、
「土を封じ」、すなわち原文の「封土」は、土を高く盛りあげること。
と解釈されている。
「土を高く盛ると解釈しているなら相手しない」は暴言だった。お詫びしたい。
468日本@名無史さん:2013/12/23(月) 00:04:23.12
九州説はほんと往生際が悪いなあ
今の状況を将棋に例えると、プロ棋士が投了してるのにアマチュアがしつこく粘ってる状態
プロ棋士は棋譜を汚さないようにするため勝負が見えた段階で投了する
九州説のアマチュアは王将が詰まされるまで、いやそれどころか王将の駒を相手に取られるまで負けを自覚できない
469日本@名無史さん:2013/12/23(月) 00:06:34.39
>>467

「封」についての補足

藤堂明保氏の『漢和大字典』(学習研究社)では、「封」の字義を

「△型に土を集め盛った祭壇やつかを示す。四方から△型によせ集めて、頂点であわせる意味を含む。」

と解説している。つまり、土を三角型に形成することを「封」で示しているのである。

藤堂氏が、なぜ△型と特定しているのかは分からない。
「封」自体で「墓」を意味したり、「封泥」の形を考えると
「土をまんじゅう型に寄せ集める」という意味ではないかと思われる。
つまり、「封」は「まんじゅう型に形成する」という意味で、「高く盛り上げる」という意味ではない。
そのため、「封」の熟語に「上方に積み上げる」と理解できるものがないのである。
先に提示された「封土為山」は「土をまんじゅう型に形成して山とする」という意味であろう。

「封土作冢」は「土で覆って冢を作る」と訳すのが適当ではなかろうか。
470日本@名無史さん:2013/12/23(月) 00:31:54.35
結局だれひとり
土で『封をして』冢を作る
なんて読んでないじゃん。

「土を封じて」は『土で封をして』ではないよ。
 テニオハが違うだろう。
土を盛り上げてという意味だ。
土で封をするという意味ではない。

「直に土を盛って塚を造る」も
「土を盛り上げて冢(盛り土)をつくる」
も『土で封をして』ではない。
471日本@名無史さん:2013/12/23(月) 00:36:44.63
単純に土をかぶせた以上の意味は無いのでは?
その結果盛り上げたかどうかはまた別の話。
472日本@名無史さん:2013/12/23(月) 00:53:23.47
結論だけ勝手に言い張ってまったく理由を言わないのが
九州説特有の病気だ
そういうのを世間では「馬鹿」という
473日本@名無史さん:2013/12/23(月) 00:58:18.98
漢字の字義は一つじゃないだろ

「密封」といったら外から遮断することだし
「封禅」といったら土壇を築いて天に感謝すること
474日本@名無史さん:2013/12/23(月) 01:06:17.39
「封土」といったら土を盛り上げること
又は盛り上げた土
475日本@名無史さん:2013/12/23(月) 01:13:15.49
しっかし九州説の人間って、現代日本人の文章すらまともに読めないんだな。古代の文献読むなんて無理の無理だろ。
476日本@名無史さん:2013/12/23(月) 01:17:06.13
>>468
勝ち側が終わらせたけりゃ王手かけるより他ないからな
477日本@名無史さん:2013/12/23(月) 01:22:16.24
まあ、多くの九州説論者も、東に倭種がいることまでは否定していない。
478日本@名無史さん:2013/12/23(月) 01:24:33.01
王も金銀も全部取られてるのに歩があるから勝ちと言い張ってるのが九州説
479日本@名無史さん:2013/12/23(月) 01:31:59.77
プロてなダースで王将持ってんだろ?
480日本@名無史さん:2013/12/23(月) 02:07:14.21
結局、倭人伝を「土で『封をして』冢を作る」なんて読んだ人は303以外にはいない
土で封をしてないから箸墓は卑弥呼の墓ではない
などというトンデモが失笑以外に何か買うとしたら
顰蹙くらいだな
481日本@名無史さん:2013/12/23(月) 02:15:28.01
大人気ないのが畿内説
482日本@名無史さん:2013/12/23(月) 02:40:52.24
吉野ヶ里遺跡の発見で邪馬台国文化圏の中心は九州以外になく、
畿内が100%、邪馬台国文化圏外であることが証明され、
それ以降の畿内説は、詐欺やオカルト、利権屋だけになった。
483日本@名無史さん:2013/12/23(月) 02:41:08.16
脳子供いたぶっちゃうからな
484日本@名無史さん:2013/12/23(月) 02:44:50.90
>>482 九州説のひとは1980年代で時間が停まっちゃってるシーラカンス
485日本@名無史さん:2013/12/23(月) 02:49:54.79
九州説は今年息を吹き返して
来年花火のように大輪の花を咲かせる
486日本@名無史さん:2013/12/23(月) 03:00:21.95
花火のようにただ一瞬
487日本@名無史さん:2013/12/23(月) 03:01:28.76
そして枯れて土へと還る
488日本@名無史さん:2013/12/23(月) 03:02:08.48
実は皇室の御物として張政が倭国で書いた木簡が眠っている
489日本@名無史さん:2013/12/23(月) 03:03:54.16
おいしいカレーライスの作り方がしるされている
490日本@名無史さん:2013/12/23(月) 03:06:12.78
あの当時は一般の人は吉野ヶ里が邪馬台国だろ視して
大勢の小中高生が修学旅行で訪れるくらいだったのにな
発見が足りんから畿内に持って行かれる
491日本@名無史さん:2013/12/23(月) 03:11:51.52
あれは史跡を守るための文化庁の優しいウソだったんだよ
492日本@名無史さん:2013/12/23(月) 08:32:39.85
封:
土を二つ重ねている
寸部は手で掻き寄せる動作の意

そもそもは「手で土を掻き寄せる」の意味であるから、そういう態様で墓をつくったということではないか
さらにいえば、卑弥呼の墓は石葺きではなかったという意味も含まれるのであろう
493日本@名無史さん:2013/12/23(月) 08:50:59.68
そんな空想で、自分が肯定できて他人が否定できると思ってンの?
494日本@名無史さん:2013/12/23(月) 08:57:39.76
また畿内説の蛆虫が涌いてきたな。何度も同じ事を言わすな。畿内説が正しい
歴史の事実だというなら、それをお前、畿内説者が立証すればいいだろうが。
立証してから文句を言え。立証できないだろうが。畿内説のドア○ウ。
495日本@名無史さん:2013/12/23(月) 09:08:22.87
既にしたよ。難しい話が理解できるかどうかは君らの知能の問題で、当方は感知しない。
496日本@名無史さん:2013/12/23(月) 09:16:11.84
畿内宇宙人の言うことは理解しがたいねえ
497日本@名無史さん:2013/12/23(月) 09:35:15.72
「封土」は土を盛り上げるという意味だよ
これまで世界中誰も主張したことなかった
「土で封じる」なんて珍解釈を新発明して
それが絶対に正しいから箸墓は卑弥呼の墓ではありえない
なんて言い張ったら
世間の皆から馬鹿にされるだけさ
九州説の人はおつむが足りない、ってね
498日本@名無史さん:2013/12/23(月) 09:41:50.23
とはいえ、箸墓は石葺きだからなあ
明確に論外だ
499日本@名無史さん:2013/12/23(月) 09:46:16.92
狂った人の頭にとって、いくら「明快に論外」と感じられても
世間の人にはひとことも理由を言わない人間の言うことは
まったく不明なんだけどね
500日本@名無史さん:2013/12/23(月) 09:54:16.31
封の字義を理解していれば、

・「封土」とは土を盛り上げるという意味
・「封土」は土で封じるという意味

このどちらでも同じことさ、
暇な畿内宇宙人のいけず
501日本@名無史さん:2013/12/23(月) 09:57:25.10
勝手に「マイ字義」つくっても無意味
502日本@名無史さん:2013/12/23(月) 10:04:13.30
これまで誰も主張したことのない倭人伝の新解釈を作る
それが絶対正しいと言い張る
そして
 その解釈と合わないから畿内説は間違いだ
と言い張る
これが九州説の間抜けすぎるパターンだ
自分が馬鹿だということしか証明していない
503日本@名無史さん:2013/12/23(月) 10:08:57.22
>>501
辞書でも検索してきたかw
ま、なかなか説得力のあるマイ字義だろ

それにつけても箸墓には大きなむりがあったなあ、あれはそもそも中学校の教師が言い出した巷説だ。
台与のことを考慮していないという大きな欠点があった。
504日本@名無史さん:2013/12/23(月) 10:15:05.21
中身のない中傷をしても無駄
505日本@名無史さん:2013/12/23(月) 10:20:31.24
「土で封じるという意味」は誰が作ったの?
506日本@名無史さん:2013/12/23(月) 11:23:27.71
九州説は相変わらず俺様解釈の妄想ばかりか。
507日本@名無史さん:2013/12/23(月) 12:20:18.86
>>506
だから出て行け。畿内説の立証作業をせんかい。ドア○ウ。
508日本@名無史さん:2013/12/23(月) 12:42:03.42
畿内説のいけず坊や
509日本@名無史さん:2013/12/23(月) 14:31:20.88
>>453
>@女王國=邪馬台国+投馬國+不彌國+奴國

郡より女王国に至る万二千余里

郡より、狗邪韓国までが7000里、倭が5000里。
邪馬台国を女王国にしてると倭の端にあるで理解出来るが、
女王国は、いくつかの国を言うとなると、数字的に合わないような????
510大和 田直木:2013/12/23(月) 14:59:27.85
>>509
>>@女王國=邪馬台国+投馬國+不彌國+奴國

郡より女王国に至るは万二千余里
郡より伊都國までは11900餘里。
伊都國から奴國は100里。
伊都國から不彌國も100里。
郡より奴國と不彌國に至るはそれぞれ万二千余里。
511日本@名無史さん:2013/12/23(月) 15:04:09.06
>>507
立証する必要があるのは九州説のお前等だろ
馬鹿なパズルで候補地も候補者もないんだし。
妄想ネタばかりしてないで現実をみなきゃなw
512日本@名無史さん:2013/12/23(月) 15:12:19.16
大和 田直木 苦心の大作

郡より伊都國までは11900餘里
伊都国は佐賀
邪馬台国は朝倉

古田説、安本説、伊作の伊都国佐賀説を、足して3で割ったというか、いいとこどりしたというか、、、
513日本@名無史さん:2013/12/23(月) 15:25:56.74
>>507 反論できなくなると罵って誤魔化す末期症状の九州説
514日本@名無史さん:2013/12/23(月) 15:35:49.55
>>511、513
ここは九州スレだ。このスレで九州説を披露してなにが悪い。悪いのは
九州スレに土足で踏み込んでくるキナイブシのお前達だろうが。キナイ
ブシは礼儀を知らんのかい。礼儀をわきまえろ。
515日本@名無史さん:2013/12/23(月) 15:40:44.24
九州説スレで九州説の批判をしてなにが悪い。悪いのはお前の頭だ。
516日本@名無史さん:2013/12/23(月) 15:42:47.89
九州スレで畿内説に立証を要求するのは変ですね
517日本@名無史さん:2013/12/23(月) 15:43:56.69
>>515
へぇー?批判?。批判している積りなの?。批判になっているかい?。学問の
批判とはどういうもんか勉強してから言え。このドア○ウ。
518日本@名無史さん:2013/12/23(月) 15:57:33.14
畿内信者のは批判ではないな、非難だなww
519日本@名無史さん:2013/12/23(月) 16:14:43.89
そんな高級なもんじゃない。痴呆のよだれくり。
520日本@名無史さん:2013/12/23(月) 16:16:59.05
ていうか、畿内説って詐欺なんだから、畿内説の立証そのものが詐欺でしょ。
詐欺の演説は、100年聞いても詐欺。
521日本@名無史さん:2013/12/23(月) 16:56:13.24
少なくとも>>517-520が「批判」でも「反論」でもないことは確実
522大和 田直木:2013/12/23(月) 17:16:36.81
>>512
>古田説、安本説、伊作の伊都国佐賀説を、足して3で割ったというか、いいとこどりしたというか、、、

@郡より伊都國までは11900餘里
  結論は古田説と同じになりました。

A伊都国は佐賀
  伊都國は佐賀ではない。伊都國は佐賀大和の惣座遺跡。
  20年前からの自説です。伊作の伊都国佐賀説より古い。

B邪馬台国は朝倉
  邪馬台国は浮羽朝倉筑紫野から八女の地域。卑弥呼の城柵は久留米。
  安本説とは関連無し。
523日本@名無史さん:2013/12/23(月) 17:24:05.32
「オレ様」の数だけ九州説がある
524日本@名無史さん:2013/12/23(月) 17:26:39.99
オレ様が住んでいる地域の数だけ
525日本@名無史さん:2013/12/23(月) 17:42:42.36
もっとだ。明らかに現地九州の地理を知らないアホ九州説も結構あるもの
526日本@名無史さん:2013/12/23(月) 18:10:01.74
その点、畿内説は詐欺集団の団結だから統制がとれてるな。
所詮、詐欺だけどな。
527日本@名無史さん:2013/12/23(月) 18:11:53.62
一点集中のマキムク空騒ぎ
528日本@名無史さん:2013/12/23(月) 18:15:14.06
八方ふさがり九州説、悪口雑言以外に打つ手なし
529日本@名無史さん:2013/12/23(月) 18:17:29.74
箸墓こけたら全員こけた、モモソこけたら全員こけた

ハイつぎ、ヒメタタライスズ姫いってみよー、ズンタタ、ズンタタ
530日本@名無史さん:2013/12/23(月) 19:45:22.62
頭が変な人なのか?
531日本@名無史さん:2013/12/23(月) 20:18:13.83
畿内説につきあってるとおかしくなるんだな
532日本@名無史さん:2013/12/23(月) 20:23:45.66
論破されちゃって悔しさのあまり
533日本@名無史さん:2013/12/23(月) 20:25:04.45
>>503
>辞書でも検索してきたかw

もちろん辞書を調べれば
「封土」は土で封じるという意味だなんて
作り話とわかるけど
534日本@名無史さん:2013/12/23(月) 20:26:51.15
>>503
>それにつけても箸墓には大きなむりがあったなあ、

しかし何が「むり」だかは何も言わず・・


>あれはそもそも中学校の教師が言い出した巷説だ。

内容に反論せず中傷で誤魔化し・・


>台与のことを考慮していないという大きな欠点があった。

それが何で「欠点」なのか言いもしないという
みせかけの「反論」モドキ。

無内容ぶりを露呈し
九州説は反論が出来ない、する能力がない
という自らの汚点を喧伝しているだけだ。
哀れなものだ。
535日本@名無史さん:2013/12/23(月) 21:22:35.90
>>534
けっこう、ジャブが効いてるようだわい
これも作戦のうち、心理戦。いずれ脳みそがしびれる。
536卑弥呼:2013/12/23(月) 21:29:49.81
畿内じゃなかです
537日本@名無史さん:2013/12/23(月) 21:38:29.11
さよう、ヘリコプターまで飛ばして盛大に開催した箸墓・西殿塚の立ち入り調査
そのあと、先生方も大マスコミもすっかり沈黙してしまったもんな
これが何を意味するか、いわずと知れたこと!
538日本@名無史さん:2013/12/23(月) 21:54:13.06
畿内説による、一点突破詐欺

 「これぞ決定的証拠だああああああ〜〜〜〜!」

△鏡詐欺
箸墓詐欺
年輪詐欺
桃種詐欺
鯖骨詐欺

全部詐欺でした。
539日本@名無史さん:2013/12/23(月) 22:34:03.35
九州説には、もうデマ中傷と虚勢しか残っていないようだ
540日本@名無史さん:2013/12/23(月) 22:39:31.88
大学者になるほど、論争には強いが中傷にはよわいからな
541日本@名無史さん:2013/12/23(月) 22:41:37.15
大学院者の方が偉い人
542日本@名無史さん:2013/12/23(月) 23:33:29.76
>さよう、ヘリコプターまで飛ばして盛大に開催した箸墓・西殿塚の立ち入り調査
>そのあと、先生方も大マスコミもすっかり沈黙してしまったもんな

手詰まりの九州説は、またデマを流して何とか劣勢を打開しようと
無駄な努力をしているね

ヘリを飛ばして立ち入り調査をした事実はないし
調査結果は各専門誌の発表されており、新聞報道もある

すぐバレるウソは、ただ自分を更なる劣勢に追い込むだけだよ
543日本@名無史さん:2013/12/23(月) 23:56:17.61
ヘリはマスコミじゃね
544日本@名無史さん:2013/12/24(火) 00:05:28.34
纏向から何が出土しても

 「邪馬台国の有力な証拠が発見されました」

と一斉に報じる、馬鹿マスゴミ。
馬鹿マスゴミは詐欺共同体です。
545日本@名無史さん:2013/12/24(火) 00:09:53.45
箸墓は御食津神の墓なわけだが、この神名に当てはまるのは誰だろ?
546日本@名無史さん:2013/12/24(火) 00:17:58.56
近畿説って何か根拠あるのかな?
邪馬台国が近畿なら、天孫降臨が宮崎になってるのを
どう解釈するのかな?紀元前660年?それ以前は、昔
だからどうでもいいのでしょうね。
魏志からも東に海があり、倭種がいると思うけど。
奈良は海ないようだし、倭種は何処?
箸墓は円墳ではなく前方後円墳だし、円の部分も140mも
あり大きすぎるし。
距離的にも、行橋あたりから225kmでは岡山へんで
遠すぎる。
南を東にかえるとなると、原因が季節による日の出方位の
ズレなら、対馬から壱岐への南を東にしないといけないけど。
又があるから対馬へも東になり、もうめちゃくちゃですが。
中国への使者は2年にいってるが、鏡には3年があり、三角鏡は
偽物と自供したも同然だし。3年は喪中で、喪中の年号の鏡は造らないし、
お土産に喪中の年号鏡あげたら失礼になる。
いったい、近畿説って何が根拠なのかな?
橿原研の予算とるためなのだと思うけど、近畿説のスレでがんばって、
ここには来ないでもらいたいな。近畿説の邪魔はしないから。
お金絡むから必死なのでしょうけど。
547日本@名無史さん:2013/12/24(火) 00:31:43.60
545
素戔嗚尊が馬首投げ入れてびっくりして転倒し
ホトに箸が刺さり死んだ織り姫
548日本@名無史さん:2013/12/24(火) 05:12:37.87
九州だけで30国は無理だよなあ。
村ならあるけど。
吉野ケ里が30必要だ。
549日本@名無史さん:2013/12/24(火) 09:04:50.61
畿内の大学の回転椅子にふんぞり返って倭人伝を読むと、邪馬台国は畿内になってしまう
福岡の大学で読めば福岡県内になる
倭人伝はそういう仕掛けになっている
陳寿の術中に嵌らないためには、倭人伝は帯方郡役所の椅子にふんぞり返り、太守になりきって読まなければならない
550日本@名無史さん:2013/12/24(火) 10:29:05.77
吉野ヶ里級の遺跡でも千戸もないのにな。
九州で何処に奴国や邪馬台国を収めろとw
やっぱり九州説はバカしかいないのか?
551日本@名無史さん:2013/12/24(火) 11:28:40.57
吉野ヶ里丘陵は水の乏しいところ、倭国大乱の有事に備えた避難城柵にすぎなかった
本当の古代都市やコメ作り&漁労集落は、丘を下った水の得やすい一帯のあちこちにあった。
今は市街地になっているところ。
552日本@名無史さん:2013/12/24(火) 11:32:29.34
「一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家」「末廬國 有四千餘戸」
九州内で十分、奴国や邪馬台国は収まるな
553日本@名無史さん:2013/12/24(火) 11:40:05.50
誰かさんは、
九州島の大きさは淡路島くらいしかないと思ってるんだろw
554日本@名無史さん:2013/12/24(火) 14:23:33.93
伊都国は肥前、奴国は筑紫、肥後・薩摩が投馬国、日向・豊が邪馬台国だ。
投馬国の5万戸、邪馬台国の7万戸も何ら問題あるまい。
555大和 田直木:2013/12/24(火) 16:08:36.31
3世紀の筑紫平野の人口は、71万人(14万2千戸)。

21世紀初頭の筑紫平野の人口は、156万人。
556日本@名無史さん:2013/12/24(火) 17:29:38.22
>>555
九州論者けど…





そげな居らんて
557日本@名無史さん:2013/12/24(火) 18:21:55.98
せいぜい15万
山際以外は開発されてないし稲の収量は少ないし耐候性も低い
558日本@名無史さん:2013/12/24(火) 18:35:00.12
3世紀の筑紫平野の人口が71万人ならば、九州全体では500万人ぐらいと
考えないとね。
559日本@名無史さん:2013/12/24(火) 18:52:45.10
大和 田直木は、
3世紀の筑紫平野に、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国、傍国の大半があったとしている。
だから筑紫平野の人口が、せめて71万人くらいあってくれなくては苦心の大和田説がなりたたぬのだーー。。。。
560日本@名無史さん:2013/12/24(火) 19:12:17.27
私は佐賀平野二万戸、
筑紫平野五万戸
熊本平野七万戸で考えてるけどなあ。
561日本@名無史さん:2013/12/24(火) 19:20:48.37
1697→1834→1873石高(万石)
大和 50→50→50
出雲 28→30→32
筑前 61→65→63
筑後 33→38→54
肥前 57→71→69
肥後 56→61→85
豊前 27→37→37
豊後 37→42→46
日向 31→34→42
大隅 17→17→26
薩摩 32→32→32
562日本@名無史さん:2013/12/24(火) 19:25:41.86
>>561

これは実高?それとも表高?
563日本@名無史さん:2013/12/24(火) 19:28:16.46
実高です
564日本@名無史さん:2013/12/24(火) 20:09:30.16
当時、稲ばっかり食っている奴はあまりいないだろ。
魚・獣・鳥・野菜・芋・粟・稗・栗・果物・木の実だけで、十分に生きていける。
565大和 田直木:2013/12/24(火) 20:11:56.74
>>561
1697年の筑紫平野の石高は、肥前筑後筑前の一部で100万石以上はあるね。
弥生末期からの耕地面積はそれほど拡大していないから、
弥生末期でも筑紫平野の石高は50万石はある。
雑穀野菜魚介類の生産量を合わせると70万人位は養える平野である。

>>559
弥生末期の筑紫平野71万人(14万2千戸)は妥当である。
壱岐::弥生末期2万人(4千戸)→現代2万9千人
筑紫平野::弥生末期71万人(14万2千戸)→現代156万人
566日本@名無史さん:2013/12/24(火) 20:56:36.00
三世紀の日本の総人口って200万人だっけか?

何で倭人伝の戸数を鵜呑みすっかねぇ…
その部分スルーして考えた方が良いよ
余りにも馬鹿げた数字だから
567日本@名無史さん:2013/12/24(火) 21:06:19.03
せいぜい100万
568日本@名無史さん:2013/12/24(火) 21:14:02.98
倭人伝と限らず魏志の外域伝なんてものは雑多な資料から
適当に見繕ったものだからもともと数値などはいい加減なものだ。
それでも当時の中華人の世界認識としては一応サマになっている。
現代の日本語Wikipediaなんかよりは数段マシだ。
569大和 田直木:2013/12/24(火) 21:19:52.51
九州だけで200万だな
570日本@名無史さん:2013/12/24(火) 21:28:13.47
漢文も読めない学者や嘘つきの土掘り屋、税金ぶん取り専門の糞役人団体、
おまけに頭の悪い小学生まで加わった2ch、
こういうのがいくら騒いでも屁の役にも立たない。
571日本@名無史さん:2013/12/24(火) 21:31:16.18
中国では完全に民族が入れ替わってて当時の漢文の解釈法なんてもう失われてしまってるじゃん
結局どの解釈法を信じるかの世界
572日本@名無史さん:2013/12/24(火) 21:31:40.21
二行目が君ね?
573日本@名無史さん:2013/12/24(火) 21:31:42.38
>>570
それで、その2chにくわわってるキミは何者なのかね
574日本@名無史さん:2013/12/24(火) 21:36:59.06
倭人伝は、帯方郡役所の椅子にふんぞり返り、上から目線の太守になったつもりで読むと良い。
郡から邪馬台国までの行程がありありと見えてくるであろう。
575日本@名無史さん:2013/12/24(火) 21:39:26.15
それはそうだけど、比較的マシなのが2chかな
たまにまともな人が書き込みすることがあるからね
576日本@名無史さん:2013/12/24(火) 21:45:46.19
>>574
陳寿が書いたものは陳寿の目線で読むのが当たり前。
そういうことさえわからないやつが本を読んでもしかたない。
577日本@名無史さん:2013/12/24(火) 21:51:59.53
陳寿および彼が想定した読者ね
578日本@名無史さん:2013/12/24(火) 21:53:15.62
ヤフーって強度のキ印ばっかりだよな
579日本@名無史さん:2013/12/24(火) 21:57:35.33
そう。2ch以外はだいたいそうだな。
2chはときどきキ印でないのが混じるところが面白い。
580日本@名無史さん:2013/12/24(火) 22:02:29.21
陳寿は入手できた文献を編纂してそれらしくまとめただけだから
自身は全容を把握できてなかったんじゃないか?
581日本@名無史さん:2013/12/24(火) 22:03:40.38
>>576
東夷を統治していたのは帯方郡太守であるから、基本的視点も太守であるべし

ま、その視点をベースに倭人伝を編集した陳寿も視点は概ね同様
陳寿(あるいは太守)の視点で読めば、倭国は全九州島を舞台にしていることが納得できるであろう
582日本@名無史さん:2013/12/24(火) 22:14:24.69
オレ様教乙
583日本@名無史さん:2013/12/24(火) 22:28:37.13
うん、まあ試しに上から目線で読んでみてくれ
584大和 田直木:2013/12/24(火) 22:52:40.48
夫餘 寒冷地平野の方可2千里(23000ku) 8万戸
高句麗 寒冷山地の方可2千里(23000ku) 3万戸
韓 山地の方可4千里(92000ku) 10万戸
女王國 冬季凍結しない温暖筑紫平野(1200ku) 14万戸
 
585日本@名無史さん:2013/12/24(火) 23:10:40.92
末廬國は漁労が主で4,000戸も養えたらしいし、
壱岐の3,000家は今の5割くらいの人口があったかもしれない。
こう考えると70万人も推定の上限としてありなのかなあ?
586日本@名無史さん:2013/12/24(火) 23:33:11.20
九州全体で百万だろう。
587日本@名無史さん:2013/12/24(火) 23:49:17.36
ありえない。
コメの生産高で賄えない人口があるという島嶼部を基準に全土の人口を考えるなんて、まったくのナンセンス
588日本@名無史さん:2013/12/24(火) 23:51:13.19
九州は米の二期作可能だけど
589日本@名無史さん:2013/12/25(水) 00:00:41.66
だから何?
590日本@名無史さん:2013/12/25(水) 00:01:37.50
想像してみて下さい
弥生人のカッコした人が
何十万も生活してる都市を
現在でも稀な、30万オーバーの
都会と言われるごく一部の都市の人達が
全て弥生人のカッコしてる姿を
七万の竪穴式住居の群れを…

あるわけねーだろ、バカじゃね?
591日本@名無史さん:2013/12/25(水) 00:06:21.93
吉野ヶ里が周辺部を合わせて人口5000くらいという高島の推定だな
そのあたりの数字を敷衍させていくのが現実的
592日本@名無史さん:2013/12/25(水) 00:07:08.52
>>590
馬鹿じゃね?
心底オマエは馬鹿じゃね?
593日本@名無史さん:2013/12/25(水) 00:17:29.54
>>592
平均的な竪穴式住居の一戸の面積調べて7万掛けてみ
594日本@名無史さん:2013/12/25(水) 00:19:52.54
米なんか、太平洋戦争までは、めったに食わない(食えない)日本人が結構いた。
3世紀に列島人全員が米ばかり食っていたことを大前提に考えるな。
595日本@名無史さん:2013/12/25(水) 01:24:09.12
>>593-594
ここまで無知で低脳の人間て
まだ現存してたんだーーーwwww

すげー
生きてる恐竜を見た気分だなwwww
596日本@名無史さん:2013/12/25(水) 01:25:38.25
中卒以下の知能の
朝鮮学校の出身者を発見したぞw
597日本@名無史さん:2013/12/25(水) 01:28:04.13
>>593
オマエ、古墳時代の畿内も
庶民の住居は竪穴式住居だったと知ってる?
598日本@名無史さん:2013/12/25(水) 01:31:16.95
朝鮮人は米を食えない土人だっだったからねえwww
100年前まで竪穴式住居だし
爆笑
599日本@名無史さん:2013/12/25(水) 03:36:41.89
明治になっても、穢多村には竪穴式の作業場があった。
600日本@名無史さん:2013/12/25(水) 03:58:26.15
弥生時代は100%竪穴住居住まいと言っても当たらずとも遠からず。
調理に火を使うから床が不燃でなきゃならない。
それでも失火・消失痕がある住居はたくさんある。
高床建物は倉庫。
常に給仕されていたごく一部は高床住まいもあったかもしれないし、無かったかもしれない。
明確に首長・王の住まいとされるような高床建物はない。
居住性が良いとも思えないので、大きな竪穴住居住まいだったと思われる。
末になると纒向のような大規模な高床建物が現れる。
古墳時代も殆ど竪穴住居。
庶民も高床住まいになるのはかまどの出現を待たねばならない。
奈良時代には高床住まいになっているが、東日本では鎌倉時代まで残る。
601日本@名無史さん:2013/12/25(水) 07:35:16.12
何を根拠に何十万もの人が一ヶ所に住んでいたと
言っているのか説明して欲しいもんだ
602日本@名無史さん:2013/12/25(水) 07:52:03.37
竪穴式住居は、土で断熱性がいいから、
水さえ涌かなければ、住居には良い。

水が湧かない微高地が多いが、環濠の空堀は、
大雨でも水を湧かせない水抜きのためのもの。
603日本@名無史さん:2013/12/25(水) 08:19:24.18
北海道には江戸時代くらいまで深い竪穴式住居が、
一部に残っていた。

いまでも、その穴が残っている場所があるそうである。

初期のチャチな木造建築では、厳寒になかなか
耐えられなかったようである。
604日本@名無史さん:2013/12/25(水) 10:38:55.17
近代以前の日本の人口統計
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
魏志倭人伝を日本全体の人口とみて3世紀の人口を異常に少なく推測してるが
Farris (2006, 2009年)の推計をもとにすると
 730年5,800,000–6,400,000
1280年5,700,000–6,200,000
古い時代では500年位じゃ人口の増減殆どないから
おそらく5,700,000–6,200,000位で
このうち九州は700,000–800,000位と推測される
605日本@名無史さん:2013/12/25(水) 11:05:20.35
「魏志倭人伝を日本全体の人口とみて3世紀の人口を異常に少なく推測してる」
というのがウソ800
九州説はウソツキの巣窟だな
606日本@名無史さん:2013/12/25(水) 11:33:48.13
本当こういう一瞬でバレる嘘をつく九州説人がやたら目につく
マジ、頭がおかしいんじゃないだろか
607大和 田直木:2013/12/25(水) 11:34:46.78
>>591
>吉野ヶ里が周辺部を合わせて人口5000くらいという高島の推定だな

不彌國吉野ヶ里説に合致するね。千家(5000人)
608日本@名無史さん:2013/12/25(水) 11:39:49.35
実は高島も不彌国千余家(5000人)がちらついていたから、吉野ヶ里は5000人と推定したのではないか
609大和 田直木:2013/12/25(水) 13:40:04.62
>>608
高島は、伊都國惣座肥前國庁跡説もちらついていたのだろうな。
610大和 田直木:2013/12/25(水) 13:51:49.29
夫餘 寒冷地平野の方可2千里(23000ku) 8万戸 人口密度17人/ku
高句麗 寒冷山地の方可2千里(23000ku) 3万戸 人口密度6.5人/ku
韓 山地の方可4千里(92000ku) 10万戸 人口密度5.4人/ku
女王國 冬季凍結しない温暖筑紫平野(1200ku) 14万戸 人口密度580人/ku
611日本@名無史さん:2013/12/25(水) 13:57:20.37
女王国だけやたらと人口密度が高いな。
612日本@名無史さん:2013/12/25(水) 14:01:10.68
対馬  有千余戸   中国
一大  有三千許家  中国
末ロ  有四千余戸  中国
伊都  有千余戸   中国

奴   有二万余戸  倭
不彌  有千余家   ?
投馬  可五万余戸  倭
邪馬台 可七万余戸  倭

2番目が家なのでこれは4つが対になっている。
不彌国が千で小さい。単純に小さな国とも考えられるが、
許家と余家でことなっているので、ここの解釈は
変えたほうがいい。余里の余と許家の家を取って
余家としたのだろう。当時、倭には家という数え方は
なかったのかもしれない。ここの千は中国の千とみた
方がいい。
奴は二千余戸、投馬は五千余戸、邪馬台国は七千余戸と
みていいのではないだろうか。
613日本@名無史さん:2013/12/25(水) 14:06:38.09
畿内で人口が急増したのが古墳時代。
九州で人口が急増したのが弥生時代

ともに該当する時代、遺跡の出土量が増大する時期である。

古墳時代のあとの飛鳥時代には、400万はいると推定されているから、
九州100万、畿内100万、他200万程度は、平野の面積から考えればいただろう。

九州では、平野は熊本以北の肥国、筑紫国に集中しており、
同様に人口も肥国、筑紫国に集中したであろうことは、想像に難くない。
614日本@名無史さん:2013/12/25(水) 15:13:45.16
古代は北部九州よりも南部九州の方が人口は多かった。これ常識。
615日本@名無史さん:2013/12/25(水) 16:13:53.52
>>614


???
616日本@名無史さん:2013/12/25(水) 16:17:36.77
人口の問題は、自然増加と渡来人による増加をどう考えるかだが
これは学者によってもだいぶ異なっているな
617日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:32:12.79
3世紀から8世紀のたった500年で10倍とか有り得ないよな
3世紀に日本の人口が50〜60万とかだったら漢民族の流民が押し寄せ
今頃日本なんて国なわな
618日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:33:26.42
>>617
倭国がなくなって日本になってるだろが。
朝鮮猿が倭国をのっとったんだよ。
619日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:43:10.31
>>618
ほう、それでお前はどこの猿かね?
620日本@名無史さん:2013/12/25(水) 17:54:58.03
倭そのものが血統の含まれた呼称だからな南血統。羊系民族には使わん
621日本@名無史さん:2013/12/25(水) 19:07:14.83
〇抑込
622日本@名無史さん:2013/12/26(木) 00:04:08.80
>>612
それでも多いぐらいだけどそんなモンかな
倭人の自己申告なら、かなり盛ったんだろ
一国千余戸、5000人居れば大国家
それでも信じられん数だと思う
野に山に、街に分散しての数なら理解もするが
623日本@名無史さん:2013/12/26(木) 08:42:12.18
宮崎の西都原古墳群を築造するには、一帯にどのくらいの戸数・人口があったか、
そんな研究・推定をした人はいないのかなあ
624日本@名無史さん:2013/12/26(木) 08:45:53.91
「有」と書かれているものについては倭人の自己ではなく使者の見聞によるもの
「可」の投馬国五万戸、邪馬台国七万千戸は使者が倭人から聞いて推測したもの
一か所に集中して住んでいたのではないのだろう
625日本@名無史さん:2013/12/26(木) 09:09:56.85
たしかに、「有」と書かれている対海国〜不彌国は、近くの高台に登れば、ほぼ一目で見渡せる範囲の国だ
しかし、「可」の投馬国を宮崎平野、邪馬台国を熊本平野に比定すれば、
とうてい一目では確認できない
長年の倭人側の調査資料に基づいた戸数という推論は納得できる
626日本@名無史さん:2013/12/26(木) 11:09:44.36
倭人伝の記述読むと3世紀も8世紀もたいして日本の人口変わらなかったように思えるんだよな
627日本@名無史さん:2013/12/26(木) 12:42:58.21
「東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸」
奴國(筑前の大部分)が20,000戸(100,000人)だからな

鬼頭宏推定 筑前
800年 89,200人
900年 134,100人
1150年 143,300人
1600年 122,800人

鬼頭宏の800年の推定人口は倭人伝の記述読むと3世紀の人口としても少なすぎるな
628日本@名無史さん:2013/12/26(木) 12:52:34.31
欲望でしかモノが言えないんだね
629日本@名無史さん:2013/12/26(木) 13:00:46.13
鬼頭宏の推定人口では
725年 4,512,200人
1150年 6,836,900人
1600年 12,273,000人

Farrisでは
730年 5,800,000–6,400,000人
1150年 5,500,000–6,300,000人
1600年 15,000,000–17,000,000人

Farrisの方が現実に近そうだ
630日本@名無史さん:2013/12/26(木) 13:43:40.40
どうして君らは理由というものが言えないんだろうね
631日本@名無史さん:2013/12/26(木) 13:57:23.45
文献(魏志倭人伝)の記述と合わない
632日本@名無史さん:2013/12/26(木) 21:01:19.67
合うけど? 九州説捨てさえすれば。
633日本@名無史さん:2013/12/26(木) 21:08:41.91
奴國 有二萬餘戸をどう説明するの?
634大和 田直木:2013/12/26(木) 22:07:15.11
>>633
>奴國 有二萬餘戸をどう説明するの?

對海國 有千餘戸 領域:700ku方可四百餘里 対馬
一大國 有三千許家 領域:140ku方可三百餘里 壱岐
末盧國 有四千餘戸 領域:面積不明 唐津平野  津:中原遺跡
伊都國 有千餘戸  領域:面積不明 肥前国庁跡(惣座遺跡)近辺
奴 國 有二萬餘戸 領域:面積不明 佐賀平野中部西部 城柵:佐賀市城内
不彌國 有千餘家  領域:面積不明 吉野ヶ里遺跡近辺
投馬國 可五萬餘戸 領域:面積不明 佐賀平野東部・筑後平野低地部(大牟田を含む)
邪馬壹國 可七萬餘戸 領域:面積不明 北野平野・筑後平野台地部
635日本@名無史さん:2013/12/27(金) 08:24:16.78
>>634
鬼頭宏の725年推定
筑前 112,000人
肥前  48,300人 
壱岐  12,100人
対馬   9,900人
魏志倭人伝(1戸1家を5人とすると)
伊都國 有千餘戸 
奴 國 有二萬餘戸(105,000人)
末盧國 有四千餘戸(12,000人)
一大國 有三千許家(15,000人)
對海國 有千餘戸(5,000人)
鬼頭宏の725年推定と魏志倭人伝された人口は同じぐらいだ
636日本@名無史さん:2013/12/27(金) 09:00:17.86
倭人伝の固有名詞は魏台の中古音(移行期)で解釈するのが妥当だが、「奴国」に限っては
中古音noではなく上古音nagで解釈して那珂川下流域(春日丘陵)に王都のある国が想定されている。
人口データについても奴国に限って光武帝に入朝した時代のデータが使われたと考えることは不合理でない。
つまり当時の支配域(ただし広義の)である北部九州総人口である。
鬼頭(小山)は北部九州の人口を弥生以降安定して概ね全国の7〜8%としている。
奴国二万戸は多少過大という程度で妥当域に収まるだろう。
637日本@名無史さん:2013/12/27(金) 09:12:50.48
鬼頭宏の推定と魏志倭人伝の記述から云えることは
壱岐、対馬、筑前、肥前に於いては3世紀と8世紀の人口は略同じ位で
肥後、豊前などの北部九州圏でも3世紀には8世紀並みの人口が在った
鬼頭宏が725年の推定としたものを北部九州の3世紀の人口の目安としていいのではないか
筑前 112,000人
筑後  59,300人
肥前  48,300人
肥後  108,700人
豊前  47,200人
638日本@名無史さん:2013/12/27(金) 09:22:22.33
筑前 112,000人(2,240戸)
筑後  59,300人(11,860戸)
肥前  48,300人(9,660戸)
肥後 108,700人(21,740戸)
豊前  47,200人(9,440戸)
一大國 3,000家
對海國 1,000戸
合計 79,100戸・・・邪馬壹國は北部九州に十分収まる
639訂正:2013/12/27(金) 09:23:05.84
筑前 112,000人(22,400戸)
筑後  59,300人(11,860戸)
肥前  48,300人(9,660戸)
肥後 108,700人(21,740戸)
豊前  47,200人(9,440戸)
一大國 3,000家
對海國 1,000戸
合計 79,100戸・・・邪馬壹國は北部九州に十分収まる
640訂正:2013/12/27(金) 09:42:15.31
>>634
古田武彦や大和 田直木さんの筑後説などでは人口問題が解決できない
邪馬壹國を對海國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、其餘旁國の連合体
北部九州一帯が邪馬壹國だと考えないと解決不可能
641大和 田直木:2013/12/27(金) 11:21:11.72
>>640
従来の人口論が変なのです。参考とするに足りません。
642日本@名無史さん:2013/12/27(金) 12:25:51.91
倭人伝の戸数なんて信用に値しない
黄金の国ジパングの黄金の部分
643日本@名無史さん:2013/12/27(金) 12:41:27.09
>>593
直径5mの竪穴式住居が七万で、約1100km2
ぎゅっと寄せ集めた面積だけで1100km2…
644日本@名無史さん:2013/12/27(金) 12:46:36.37
>>643
訂正
約1374km2だわ
645日本@名無史さん:2013/12/27(金) 12:53:40.46
バカバカしい
1km×1kmの正方形に、一辺が5mの正方形が何個入る?
646日本@名無史さん:2013/12/27(金) 12:56:57.67
念のため
1km=1000m
だからな
647日本@名無史さん:2013/12/27(金) 14:12:43.08
1平方キロで、4万戸入るね。
648日本@名無史さん:2013/12/27(金) 14:33:14.25
当時はほぼ農林漁家だから、
山岳を除いて、平方キロ辺りの扶養人口から推定する方が良いのでは。
多分、1平方キロあたり15〜20戸くらいかな、
20戸として千平方キロ、つまり約30km×30km(四百里×四百里)で約2万戸を養える感じ、
これを筑紫平野に割り振るとどうなるかなあ
649日本@名無史さん:2013/12/27(金) 14:33:33.05
弥生時代にびっしり家を建てるわけがない。戸数が多いと言うことは、それだけ国が広いと
いうことだろう。邪馬台国は宮崎、大分を合わせた広さ。それで何の問題もない。
650日本@名無史さん:2013/12/27(金) 14:44:18.97
>648 のつづき

邪馬台国七万戸は、約30km×105kmの広さ、
投馬国五万戸は、約30km×70kmの広さ、

これを熊本平野と宮崎平野に当て、その余の傍国を大分・北九州・長崎に割り振れば、なんとか収まりそうではないか。
651日本@名無史さん:2013/12/27(金) 15:10:36.97
今の地名の、字、小字が江戸時代の村の単位
石数にして500石から2,000石程度
人口は500〜1000人前後

人家はある程度まとまったほうが都合が良いが、
余り遠方の田畑へ通勤?するわけにも行かない。
652日本@名無史さん:2013/12/27(金) 15:24:14.84
大体、一村100戸が目安かな?

筑前 861村
筑後 789村
肥前 849村
肥後 1908村
653日本@名無史さん:2013/12/27(金) 15:29:16.71
人口
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

小山修三さんかと思ったら鬼頭さんのだった。

      200年
北九州[32] 40,500
南九州[32] 64,600

Wikipediaによると
対馬 696km2
壱岐 133.82km2
九州 42190.90km2

対馬と壱岐の平均は、約420km2
420x30=12600km2
面積的には3個分あることになる。
近畿まで広げると隙間が多くなるので国は30
以上ないとあわないようにも見えるが。
まあ、いくらぐらいがいいのか、基準がないが。
654訂正:2013/12/27(金) 16:50:21.72
>>641
700年代以前の人口については魏志倭人伝の記述を日本全体と見なして
異常に少ない推計等があるが
700年代以降については多少の誤差は有るが多くの研究者がだいたい似た様な数字を出している
鬼頭宏の725年の推定は少な目なので
鬼頭宏が725年の推定としたものを北部九州の3世紀の人口の目安としていいのではないか
と思う、否定するなら相当の研究と根拠がいる
筑前 112,000人
筑後  59,300人
肥前  48,300人
肥後 108,700人
豊前  47,200人

豊後  51,600人
日向  30,800人
大隅  40,600人
薩摩  38,400人
655日本@名無史さん:2013/12/27(金) 17:06:09.49
八世紀から三世紀を推し計る
平成から室町を推定する
二階から目薬
656日本@名無史さん:2013/12/27(金) 17:53:33.84
エクセルでグラフ化してみた。
8世紀以前は信頼出来ない感じがするね。

ttp://fast-uploader.com/file/6943689881436/
657訂正:2013/12/27(金) 18:39:09.71
>>655
8世紀と13世紀比べて人口殆ど増えてない
平成から室町を推定するのとは違うでしょ

南九州に邪馬壹國を想定するなら肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩くらいの範囲になるな
658日本@名無史さん:2013/12/27(金) 18:50:13.54
>>656
二世紀、三世紀の落ち込みが大きい印象
最近の知見では、推定の基礎になった弥生遺跡の年代は数百年遡ることになるのではないか
659訂正:2013/12/27(金) 18:58:49.14
>>656
グラフにすると分かり安いですね
700年代以前は明らかに過少に推定されている
200年代と700年代でそんなに人口が急に増えるはずがないんですよね
200年代と700年代では多くても1〜2割程度の増加が予想される
鬼頭宏の725年の推定は少な目なので、そのまま200年代に使ってもいいと思うんだよな
660九州王:2013/12/27(金) 19:55:09.68
人口から考えても九州説なら北部九州一帯を邪馬壹國に想定しないと成り立たない
卑弥呼の都は「世有王」と記された伊都国しか考えられない。
661日本@名無史さん:2013/12/27(金) 20:06:48.25
>鬼頭宏の725年の推定は少な目なので、そのまま200年代に(向けて推定線を延ばして)使ってもいいと思うんだよな

こうすると、200年代で二百五十万人くらいかな
ちょうどいい感じじゃなかろか
662九州王:2013/12/27(金) 20:20:42.03
>>661
他の推定に比べて鬼頭宏の725年の推定は少な目なので
725年の推定人口を200年代の人口として使っていいだろうと云っているんだが
200年代の人口は四百五十万人くらいだろうな
663日本@名無史さん:2013/12/27(金) 20:24:21.42
>>662
仰りたいことは理解してます
ただ、725年は鬼頭だけが飛びぬけて少ないわけではないし、、、
真横にずらすといかにも不自然だなあ
664九州王:2013/12/27(金) 20:30:15.46
>>663
壱岐とか筑前とかの人口みるとそのまま使えそうだと思うんだが
665九州王:2013/12/27(金) 21:08:41.01
Farrisが730年を5,800,000–6,400,000人と推定してる
200年代の人口を四百五十万人くらと推定して矛盾はない
666日本@名無史さん:2013/12/27(金) 21:09:27.42
>始度一海、千余里至対海国、、所居絶島、方可四百余里、、有千余戸、無良田食海物自活、乗船南北?糴。
>又南渡一海千余里、、至一大国、方可三百里、、有三千許家、、耕田猶不足食、亦南北?糴。

倭人伝の200年代で、すでに対海国や一大国は人口いっぱい、
ゆえに725年になってもさほど変わらなかったであろうことは良く理解できる。
667日本@名無史さん:2013/12/27(金) 21:43:26.61
こうしてまたトンデモが生まれる
668日本@名無史さん:2013/12/27(金) 22:03:39.29
北部九州全体の山裾に、びっしり弥生遺跡があるから、
少なくとも九州は飽和してそう変化しなかったと
考えても良さそう。
669九州王:2013/12/27(金) 22:09:11.95
大和田直木さんや南九州説の人意見ない?
670日本@名無史さん:2013/12/27(金) 22:20:05.04
北部九州という表現は人によりさまざまな受け取りをするので、この際、県市・平野など具体名でいいんじゃないかな

さてそこで、山裾にびっしりあるということなら、
そのデータを元に、例えば筑紫なり筑豊なり限定で、鬼頭氏を越える新しい推定値を求めてはどうかねえ
671日本@名無史さん:2013/12/27(金) 22:21:29.88
北部九州が多かったというなら、南部九州はもっと多かったろうな。
672日本@名無史さん:2013/12/27(金) 22:25:58.32
宮崎市周辺の貴重な古墳の多くは明治のころ県令の命令で更地にされたらしい
古墳群の規模から見て、古代からかなりの人口を抱えていたとみられている
673九州王:2013/12/27(金) 22:29:59.25
8世紀以前の文献はないし
遺跡だけでは3世紀の人口推定は不可能だな
Farrisや鬼頭の推定を元にするしかないだろう
北部と南部に分ければ北部九州は長崎、佐賀、福岡、大分、熊本
674日本@名無史さん:2013/12/27(金) 22:31:30.77
そうね。日向は熊襲の地だから、遺跡は保存する必要なしという考えだったのだろう。
考古学者も最近まで日向の古墳は5世紀以降に造られたと決めつけていた。
675九州王:2013/12/27(金) 22:32:37.50
>>672
筑前 112,000人
筑後  59,300人
肥前  48,300人
肥後 108,700人
豊前  47,200人
豊後  51,600人
日向  30,800人
大隅  40,600人
薩摩  38,400人
676日本@名無史さん:2013/12/27(金) 22:33:21.82
日向といえば、妻に天皇陵があって、国鉄妻線が走ってたな。
677日本@名無史さん:2013/12/27(金) 22:36:01.83
>>671>>672>>674>>676
希望や願望だけではとんでも説と云われても仕方ないですよ
678日本@名無史さん:2013/12/27(金) 22:59:50.50
>>672>>674
西都原古墳群発掘調査の轉末も知らないのか
679日本@名無史さん:2013/12/27(金) 23:01:05.13
倭人伝の行程どおりに進んだ結果だよ。方角も距離も畿内説みたいに無視したりは
していない。到達した先が九州随一の強国だったということさ。
考古学的にみても、三遺跡以降、九州で発展を続けたのは日向のみと言ってよい。
680日本@名無史さん:2013/12/27(金) 23:03:21.69
三遺跡→三世紀
681日本@名無史さん:2013/12/27(金) 23:08:50.67
九州南部で消えた古墳は数多い
682日本@名無史さん:2013/12/27(金) 23:17:42.04
>>678
ネットで紹介している西都原程度の知識だ、顛末というほどのことはしらない、
宮内庁は男狭穂塚・女狭穂塚あたりでレー探とかやって帆立貝と見立てたらしいが、
新しい発見でもあったのかなあ
683日本@名無史さん:2013/12/27(金) 23:28:03.23
>>682
新しい発見ではなく、戦前に西都原が大規模発掘された経緯とかの話し
684日本@名無史さん:2013/12/27(金) 23:32:54.27
>>683
西都原は以前から関心をもっていた、
古墳は畿内で発生して地方へ波及したので、西都原のは全て五世紀以降と聞いて納得できなかったのを覚えている
戦前の発掘話の件は始めて聞いた、いままで全く知らなかった
685日本@名無史さん:2013/12/27(金) 23:36:11.49
甕棺墓って東海にもあるし越にもあるんだよな
甕棺墓を九州説の根拠にしてる人って無知すぎてカコワルイ
686日本@名無史さん:2013/12/27(金) 23:40:12.86
それをいうなら、装飾古墳は畿内を除く西日本から岩手県にまで広がっており、
その中心が熊本県であることは意味深長だ。
687日本@名無史さん:2013/12/27(金) 23:50:45.06
おてもやんが卑弥呼
688日本@名無史さん:2013/12/27(金) 23:51:05.93
>>684
戦前の発掘も知らずに西都原を語っちゃいけないな

>>685 >>686
用語だけでなく、それぞれがどんなものかよく調べた方がいいよ
689日本@名無史さん:2013/12/27(金) 23:53:34.47
鬼頭氏の数値では、古墳時代に急増が見られる。
ただ単に畿内地方の遺跡の増加傾向から、
全体を推測しただけに見える。

九州の人口急増期は弥生時代、
畿内の人口急増期は古墳時代、

これは、前後の時代の遺跡数から推測できる。
690日本@名無史さん:2013/12/27(金) 23:57:25.01
戦前の発掘なんぞ大して意味はないよ。古墳の状態から年代を決めたわけではない。
記紀の熊襲討伐の話しから、討伐後に古墳が造られたはずだ、よって五世紀以降と決めつけて
しまったのさ。そのため、日向の古墳は見向きもされなかった。
691日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:00:46.58
>>688
すっとこどっこいにもっと詳しく
692日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:00:54.96
ここで人口論を語っている面々は
増大した人口を支えるために必要な
収穫量の増大に直結する耕作地の拡大と農法の革新が
どの時期にあったと考えられているか考えた方がいいぞ
平野だからといってどこでも水田をつくることができるわけじゃない
693日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:01:59.73
>>690
戦前の発掘の契機を知らないからそんな馬鹿をいうのだよ
694日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:03:04.78
韓国の前方後円墳の経緯には負ける
695日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:05:22.32
帆立型、バチ型、円墳など、
宮崎には前方後円墳の先祖と見られるものが多い。

また、宮崎と畿内は瀬戸内海文化圏の両端にある。
神武東征神話など、移動したという話も残っている。

宮崎の古墳文化が洗練されて、畿内に伝わったと考えるのが妥当。
696日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:06:07.62
>>692
土地は余ってるんだから
水田は増え人口は伸びて行くだけだよ
697日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:06:50.86
>>690
サービスしとくよ

>1912(大正元)年に始まった日本考古学史上初めての本格的な発掘調査は、
>「記紀」神話に彩られた皇祖発祥の地「日向」の史実を考古学的に明らかにし、
>古墳群を保護、顕彰する目的で着手された。

ttp://miyazaki.daa.jp/saitobaru/
698日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:07:03.21
複数の形があるってことは他から影響されまくったってことだろw
699日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:08:25.89
>>698
伝わった方は多様性が無くなる
700日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:10:26.66
伝わった後に断行すれば多様性が生まれるから一概にはそうとは言えない
701日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:16:09.73
>>697
アホだなあ。そのぐらいの綺麗事は誰だって書くだろう。
問題は結果だよ。古墳の成立年代を正しく検討したか? 五世紀以降と結論
づけているだろ。そこだよ問題は。
702日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:16:14.08
>>692
農業には水が必須
現在では「平野」と分類される地域も
技術革新で長距離の用水路などが整備できないと
微高地上には水田はつくれなかった

大和盆地や河内・和泉の中期以降の巨大古墳の多くは
平野につくられていると思われがちだが
実際に現地にいってみると段丘上などに立地していることがわかる
耕作できない土地だからこそ古墳がつくられているんだよ
703日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:17:29.48
>>701
調査事実を受け入れることができないのなら学問板からは去った方がいい
704日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:20:56.20
>>692

そのとおり。

縄文末期から弥生前期に農耕が導入される。
この頃は人口の変化は比較的ゆっくりであり、
唐津菜畑遺跡、熊本緑川流域のように、条件のあった河川敷などが
主な耕作地である。

弥生時代中期は、熊本や兵庫など、ある程度標高の高い台地が、
水利灌漑され、主な耕作地として増加する。
陸稲や芋類が主力だろうか。

ここで人口の急増が発生し、更に耕作地の拡大が必要になる。
海に近い低湿地の開拓、排水技術が整ったのはこの辺だろう。
筑紫平野の低湿地の開発もこの頃であろう。

吉野ヶ里や安永田遺跡の戦争痕のある遺体などは、
弥生中期から後期である。
人口の飽和による土地の不足が深刻化していたということだろう。
705日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:22:03.83
>>701
ここで重要なのは

西都原は熊襲や隼人の地だからと無視されたわけでも
宮崎の人々が古墳をぞんざいに扱っていたわけでもなく
古墳の価値を理解した上で記紀神話を実証しようとして発掘したら
その目論見は大外れだったってことだろ

誰かさんの主張がまとはずれだってことがあきらかになってるじゃん
706日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:24:32.25
>>704
弥生時代中期に排水技術なんてどうするんだよ
遺物や遺構に基づいて実証的に論じてくれ
707日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:34:13.65
環濠集落の環濠ってのも、排水技術やね。
竪穴式住居に水が湧かないようにするための、
地下水面制御技術。

弥生時代ってのは、農耕に必要な水との戦いと協調の
時代の始まりだったってことさね。
708日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:37:23.82
>>705
古墳の価値を理解した上で記紀神話を実証しようとして発掘したらというのが綺麗事だと
言ってるんだよ。何が出てきたら記紀神話が実証できるんだ? 当てなどありゃしないよ。

重要なのは、何を根拠に日向の古墳は五世紀以降だと判定したかだよ。古墳の形が畿内の
前記古墳と同じであること、古い形式である粘土槨が多いことなど、分かっていながら、それ
でも五世紀以降としたのは記紀の物語に影響されてのことだ。

>>703
調査事実というが、五世紀以降としたのが誤りだってことは今や常識だ。
709日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:41:34.61
西都原に前方後円墳が伝わると同時に絵画土器も伝わってるはずだが
710日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:42:25.23
これが日本最古級の板付遺跡の再現なんだけど
2500年ほど前かな
http://lunabura.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=15429605&i=201011/09/61/c0222861_2064956.jpg

この水田の下には陸稲を育てた跡が有って3000年以上前まで遡る
711日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:45:14.42
日本の水田は弥生初期から中国や朝鮮には見られない
高度な技術を伴っていた
712日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:49:09.41
>>691
単に甕棺墓というと、本来は「甕を棺に使用した墓」という意味しかないからね
縄文から江戸まで広くみられるものだよ
弥生時代北部九州の甕棺は大人用の棺として特別製の土器を使っているところがミソ
ちゃんと両者を峻別しないと議論は噛み合わない


装飾古墳も同じで、本来は「墓室に装飾をもつ古墳」程度の意味しかない
壁画で知られる高松塚やキトラも装飾古墳の範疇に入れられることがある

古墳時代の九州で特徴的な装飾古墳は、幾何学のほか、
素朴ながら人・馬・盾などモチーフが分かるものが表現されているもので
関東や南東北に分布する装飾古墳とは同列に扱えない
(九州からの影響までを否定するものではないよ)
用語が同じだからといって十把一絡げに扱うと議論は成り立たないんだよ
713日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:54:10.20
>>712
人・馬・盾などモチーフが分かるものが表現された甕棺と同様の絵画土器って、
どちらが先の時代の物なの?
714日本@名無史さん:2013/12/28(土) 00:59:57.32
>>708
>何が出てきたら記紀神話が実証できるんだ?
当時の知見において、もっとも古いと考えられる遺物・遺構だったろうね
すくなくとも大正時代の宮崎県知事は前期古墳だと信じていたから発掘に踏み切った

>何を根拠に日向の古墳は五世紀以降だと判定したかだよ。
遺構や遺物ですが、何か?
あと、5世紀以降ってのは古い実年代観で、今の年代観だと4世紀後半以降な

>古墳の形が畿内の前記古墳と同じであること
西都原の調査結果を受けて、墳形は絶対視できないことが明らかになりました

>古い形式である粘土槨
粘土槨は前期中葉以降のものですね

>五世紀以降としたのが誤りだってことは今や常識だ
当時の年代観ならそれで正解
いまの年代観なら4世紀後半以降ですが何か?
715日本@名無史さん:2013/12/28(土) 01:01:58.26
>人・馬・盾などモチーフが分かるものが表現された甕棺と同様の絵画土器って

>>712だけどそんなことはひのような甕棺については書き込んでません
716715:2013/12/28(土) 01:04:14.84
ミスったw

>>715
>そんなことはひのような甕棺
 ↓
 そのような甕棺
717日本@名無史さん:2013/12/28(土) 01:08:58.80
アホくさくまともに読んでなかった、スマソ
で、装飾古墳と絵画土器ってどちらが先の時代のものなの?
718日本@名無史さん:2013/12/28(土) 01:16:46.06
>>710
集落は微高地上、水田は氾濫源に立地していることがよく分かる

弥生から古墳前期までは農具の変化がほとんどなく、農業技術的にはほとんど進歩がないとされている
大きな変化が起こるのが古墳時代中期で、農具の鉄器化が広く進む
この段階で、それまでの木製農具では開墾できなかったような台地の農地化が進んだと考えられているんだ
719日本@名無史さん:2013/12/28(土) 01:42:26.27
>>718
逆だな
古墳時代は湿地帯の開拓が盛んになった
台地は捨てられ古墳地帯になった
720日本@名無史さん:2013/12/28(土) 01:51:37.30
>>714
当時は古墳時代中期以降と言っていたのだよ。しかし、それは間違いで、今は前期から造られていたと
いうのが常識。つまり、年代が全体的にずれたというだけの話しではない。
かつては、日向の場合、たとえ柄鏡式の墳形を呈し粘土槨を伴っていても畿内の古式古墳と同一視はで
きないなどという乱暴な決めつけが行われていたわけだ。
721大和 田直木:2013/12/28(土) 01:54:21.87
>>668
>北部九州全体の山裾に、びっしり弥生遺跡があるから、
>少なくとも九州は飽和してそう変化しなかったと

すばらしい着眼点だ。

扇状地と台地の弥生遺跡は残りやすかった。

ところが、低地の弥生遺跡はほとんど残ることはなかった。
大きな原因は二つある。
@川の流路の変化で弥生遺跡が流れてしまった。
 筑紫平野では、筑後川矢部川嘉瀬川の流路変化の影響が特に大きい。
A有明海沿岸の筑紫平野低地湿地は沈下が大きく、
 弥生遺跡のほとんどは海水面下に埋もれてしまっている。
 江戸時代の干拓地の地下海水面下には弥生遺跡があると考えられる。
722日本@名無史さん:2013/12/28(土) 01:56:57.95
条里制により古墳や遺跡をつぶしてしまったということもあるよ。
723日本@名無史さん:2013/12/28(土) 02:04:57.01
>>714
>当時は古墳時代中期以降と言っていたのだよ。しかし、それは間違いで、今は前期から造られていたと
>いうのが常識。つまり、年代が全体的にずれたというだけの話しではない。
>かつては、日向の場合、たとえ柄鏡式の墳形を呈し粘土槨を伴っていても畿内の古式古墳と同一視はで
>きないなどという乱暴な決めつけが行われていたわけだ。

ソースくださいな
724日本@名無史さん:2013/12/28(土) 02:14:53.97
>>719
>逆だな
>古墳時代は湿地帯の開拓が盛んになった
>台地は捨てられ古墳地帯になった

妄想乙
725日本@名無史さん:2013/12/28(土) 02:16:59.39
>>720
大正時代の発掘知らなかった奴が
なんで当時の判断なんてものを偉そうに語れる訳?
726日本@名無史さん:2013/12/28(土) 02:29:13.92
>>724
畿内の歴史知らないだろ
727日本@名無史さん:2013/12/28(土) 02:36:18.06
>>726
その歴史とやらが論じられている論文か
遺跡を例示して具体的に語ってください
728日本@名無史さん:2013/12/28(土) 08:01:54.30
>>710
3世紀にもなると北部九州で水田稲作が始まって1000年以上経っている
当時の技術で耕作可能な土地は開発し尽され人口は飽和状態
3世紀から8世紀の500年で急に人口が増えるなんて
よほどの技術革新が無い限り考えられないな
729日本@名無史さん:2013/12/28(土) 08:24:17.48
>>726
弥生時代の畿内には巨大な河内湖や巨椋池あり湿地帯が広がっていたんだよな
730日本@名無史さん:2013/12/28(土) 08:41:23.25
3〜5世紀ぐらいに新しい技術を持った神武東征が九州からあり
その後畿内の開発が急速に進み力を付けてプレヤマト朝廷に成長したと
俺は考えている
731日本@名無史さん:2013/12/28(土) 08:50:57.14
典型的な素人論だなw
732日本@名無史さん:2013/12/28(土) 08:57:42.21
日本に於いて鉄器は紀元1〜2世紀頃から製鉄が始まっており
九州北部では弥生時代の遺跡から多くの鉄製品が出土している
733日本@名無史さん:2013/12/28(土) 09:08:33.80
神武天皇と欠史八代の8人の天皇と
第40代天武天皇からがヤマト朝廷の天皇で
間の天皇は九州倭国の天皇だと思う
日本書紀を編纂する時に歴史を合体させたんだな
734日本@名無史さん:2013/12/28(土) 09:32:45.99
「倭國亂 相攻伐歴年」
人口が増加しても開発可能な土地が無くなり騒乱が発生した
北部九州での出来事だろう
巨大な河内湖や巨椋池あり湿地帯が広がっていた関西の事とは考えられん
735日本@名無史さん:2013/12/28(土) 09:35:24.63
九州説の、倭国は南方で暖かいから、奈良なんかありえん、だからな。
736日本@名無史さん:2013/12/28(土) 10:00:19.73
吉野ヶ里遺跡が邪馬台国文化圏だと判明した時点で、畿内説は消えたよ。
737日本@名無史さん:2013/12/28(土) 10:31:26.31
人口から考えて邪馬壹國を博多湾岸や筑後、熊本等の国邑ではない
邪馬壹國は北部九州全体を治める国邑の連合体だったのである
人口面から南部九州では収まらないし、関西でもない
738日本@名無史さん:2013/12/28(土) 10:58:59.73
邪馬台国を北部九州に詰め込もうとするのはだめだよ。倭人伝の行程、人口のいずれからも無理。
倭国は九州全体を考えないとね。甑島や屋久島まで含めて考えようね。
739日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:10:00.94
>>735
そりゃ裸足は南国の習慣だしな
使者の比定だと会稽の東冶の東だし
740日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:25:13.27
鬼頭宏の725年推定
筑前 112,000人
肥前  48,300人 
壱岐  12,100人
対馬   9,900人
魏志倭人伝(1戸1家を5人とすると)
伊都國 有千餘戸 
奴 國 有二萬餘戸(105,000人)
末盧國 有四千餘戸(12,000人)
一大國 有三千許家(15,000人)
對海國 有千餘戸(5,000人)
鬼頭宏の725年推定と魏志倭人伝された人口は同じぐらいだ
鬼頭宏が725年の推定としたものを北部九州の3世紀の人口の目安としていいだろう
筑前 112,000人(22,400戸)
筑後  59,300人(11,860戸)
肥前  48,300人(9,660戸)
肥後 108,700人(21,740戸)
豊前  47,200人(9,440戸)
一大國 3,000家
對海國 1,000戸
合計 79,100戸・・・邪馬壹國は北部九州に十分収まる
741日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:29:39.53
>>738
倭国は九州全体でも
邪馬壹國は北部九州に限定しないと
狗奴國の存在場所がなくなるな
742日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:30:48.84
邪馬台国を北部に比定するからには、投馬国や旁国21国も北部に比定しないとな。
743日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:32:56.20
>>738
倭人伝の行程については
距離(里)と時間(日)で同じ行程を二重に説明していると考えれば
邪馬壹國を北部九州全体と見て問題ない
744日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:33:32.01
狗奴国のことは考えなくていいんだよ。倭国の乱のときも卑弥呼後の男王のときも
狗奴国は何ら手を打てなかった。小国に過ぎないね。
745日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:35:50.05
>>742
当然、旁国の21国も北部九州です
邪馬壹國連合の旁国の21国は構成国の一部
投馬國は狗邪韓國を中心とした朝鮮半島南岸
746日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:40:33.51
>>744
九州内に邪馬壹國と狗奴国在っても北と南に離れていたから
倭国の乱のときも卑弥呼後の男王のときも狗奴国は何ら手を打てなかった
弱小国だったのではない
747大和 田直木:2013/12/28(土) 11:41:28.41
人口から考えて邪馬壹國は福岡平野や熊本平野の国邑ではない。

邪馬壹國は筑紫平野の扇状地や台地(北野平野・筑後平野)を治める
4ヶ国邑の連合体だったのである。

又、投馬國は筑後平野と東部佐賀平野の
半農半漁の水人の国だったのである。

女王國の領域はほぼ筑紫平野全域を占めており、
邪馬壹國、投馬國、奴國と不彌國の4ヶ国によって構成され、
人口は約70万(約14万戸)[現在人口約160万人]であった。
748日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:51:14.18
>>747
それで傍国の約20国はどこに?
各国1万戸としてもおよそ20万戸になるのだが、、、
749大和 田直木:2013/12/28(土) 11:54:19.01
旁国21ヶ国は、福岡平野、遠賀川流域と筑紫平野の東西周辺に散らばる国々である。

旁国21ヶ国の最後にでてくる「奴國」は福岡平野にあった旧「倭奴國」である。
750日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:56:33.08
>>728
考古学的な根拠はない訳だw

>>729
弥生時代にはまだ河内潟で
そのまわりからたくさんの弥生集落遺跡が見つかってるがw

>>731
その弥生時代の鉄器は具体的に何かな?

もっと本を読むべきだな
751日本@名無史さん:2013/12/28(土) 11:59:45.22
要するに倭国は福岡県+佐賀県ということか
そうすると、大分・宮崎・鹿児島・隈本が狗奴国。
大和田説は、古田説+安本説の範疇だな。
752大和 田直木:2013/12/28(土) 12:06:43.12
>>748
旁国21ヶ国は500戸から5000戸の小国で、
福岡平野にあった旧「倭奴國」の「奴國」が多くても1万戸と思われる。
佐賀平野の「奴國」2万戸は、上記「奴國」の分国で卑弥呼共立に組したものと考える。
卑弥呼は共立により、福岡平野から筑紫平野の要(中央)にある久留米につれて来たのである。
753大和 田直木:2013/12/28(土) 12:22:05.49
>>751
「狗奴國」は緑川以北の熊本平野(中心地は菊地盆地)。

大分は倭人であるが魏志には記載がない。
大分から東に海を渡ると倭種。

宮崎・鹿児島は魏志の認識外地域。「周旋可五千餘里」の外。
「周旋可五千餘里」(対馬〜熊本平野)の南限は緑川。
754九州王:2013/12/28(土) 12:26:11.79
>>748
邪馬壹國を構成する国邑
「対馬国」「一支国」「末盧国」「伊都国」「奴国」「不弥国」「斯馬国」
「已百支国」「伊邪国」「都支国」「彌奴国」「好古都国」「不呼国」
「姐奴国」「對蘇国」「蘇奴国」「呼邑国」「華奴蘇奴国」「鬼国」
「爲吾国」「鬼奴国」「邪馬国」「躬臣国」「巴利国」「支惟国」「烏奴国」

「參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里」
「倭の地について聞き取り調査すると、海中の島の上に孤立して在り、
途切れたり連なったりしているとのことだ。一周は5,000里と推察される。」
「周旋可五千餘里」とは北部九州一周のことで、「奴国」からはじまり「奴国」に戻る道程。
まず「奴国」から「不弥国」に向かい、その後は次々に「斯馬国」「已百支国」「伊邪国」「都支国」
「彌奴国」「好古都国」「不呼国」「姐奴国」「對蘇国」「蘇奴国」「呼邑国」「華奴蘇奴国」「鬼国」
「爲吾国」「鬼奴国」「邪馬国」「躬臣国」「巴利国」「支惟国」「烏奴国」「奴国」と21か国を通るのである。
「周旋可五千餘里」の5000里は推定値であり、
実測した末盧国-伊都国の500里、伊都国-奴国の100里、奴国-不弥国の100里を用いて計算で推定したものである。
奴国-不弥国の100里に末盧国-不弥国間の平均距離を21(不弥国から奴国までの国邑間の数)倍し加えた。
100里 + (500里+100里+100里)÷3 × 21 = 5000里
人口は対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の平均で2000戸と計算し
2,000戸×25か国=50,000戸に奴国の20,000戸を足して可70,000戸
755日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:39:47.05
有明海のモンサンミシェル

邪馬台国島原半島にようこそ
756日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:44:14.13
大和 田直木氏は伊都国佐賀説をあきらめ
俺の説にすり寄ってきたな。

しかし、それが現実的であり、常識人が冷静に判断すると当たり前の事だからな。

きちんと精査すれば、博多湾岸が古来より倭国の中心地であることは
様々な歴史書や、発掘された遺跡や出土品、弥生遺跡の豪華さからも
常識的に博多湾岸が古来より、倭奴国や倭国の中心、
もちろん倭国を形成する魏志倭人伝当時の倭国の覇者邪馬台国も博多湾岸が
中心だったことは常識的に考えれば明らかなことだ。
757日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:45:06.46
国譲りとは・・・
一般的には天孫族と交渉した大国主命が 出雲大社=大国主命 であるため
出雲と天孫族が国を交換したという誤解や 天孫族が交渉した出雲こそ日本の祖であると勘違いされてきた。

しかし真実はなんの事はない。
大国主は博多湾岸で「漢倭奴国王」の金印をもらった当時の倭国・筑紫福岡の王統である。
倭人伝:「邪馬台国の一大卒である伊都国(倭奴国)には代々王がいた。」
大国主は代々(天孫族や女王卑弥呼が活躍する以前)筑紫福岡・倭国の王統である。
もちろん大国主命は筑紫福岡を本拠とする安曇君(志賀海神社)・宗像君(宗像大社)等々の豪族の祖先神である。
国譲りとはその大国主が治める筑紫(博多湾岸)を譲れと天孫族が大国主に迫った話のことである。
筑紫・倭国を追われた(追放された)大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい出雲に移住(追放)された。

だから出雲は出雲大社の本殿が筑紫・西を向き大国主の筑紫福岡と同じ「銅矛銅剣文化」であるが、
後の「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった天孫族や邪馬台国の頃の筑紫の文化(倭国の文化)とは無縁である。
何の関係もない宮崎はもちろん「銅矛銅剣文化」すら無縁である。

この大国主から繋がる筑紫の神々の天孫族による支配を正当化するために古事記や筑紫神話があると言うこと。

ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。
魏志倭人伝:「男子は大小となく入れ墨をしている。」

また天孫族が元々いたのは志摩国、
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

このように、天孫族・倭国・邪馬台国等々の日本の発祥地は博多湾岸である。
758九州王:2013/12/28(土) 12:45:12.79
>>755
「參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里」

この文章からすると有明海一周ルートかな
邪馬壹國は北部九州全域でOK
759日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:45:47.94
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg
「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg
綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界・元海もとうみ)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg
卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。
760日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:46:25.31
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
 魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
 後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」

元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
 唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
 倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
 今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」

旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
     日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
     筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」

このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。

「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
761日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:47:12.85
〜まとめ〜

「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」

(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)

倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。

魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。

魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。

大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。
762九州王:2013/12/28(土) 12:47:37.48
>>756
前原の伊都国に卑弥呼が居て邪馬壹國を治めていた
博多湾岸が中心だったことは同意見
763日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:50:57.51
未だに妄想ばかりか、九州説には何の根拠も無いじゃないかw
764日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:53:33.21
福岡県に居を構え、明太子をつまみ、博多の安酒をあおりながら倭人伝を読むから、
女王国は福岡県になるんだろな

倭人伝は、帯方郡役所の貴人の金椅子に座り、美女に酒をつがせてるシチュエイションで読むべし
765日本@名無史さん:2013/12/28(土) 12:55:04.10
>>746
邪馬台国と狗奴国が離れていたって? 普段から小競り合いをしていたじゃないか。
近いに極まってるよ。無茶苦茶だな。
766大和 田直木:2013/12/28(土) 12:55:28.44
>>756
>大和 田直木氏は伊都国佐賀説をあきらめ
>俺の説にすり寄ってきたな。

伊都國は佐賀平野肥前國庁跡近辺(背振山地の山裾)千戸(5千人)の地域です。
佐賀平野中部西部の殆どは奴國の地域です。
767九州王:2013/12/28(土) 13:03:22.23
>>765
邪馬壹國と狗奴國は国境は接していても都は離れていた
国境で普段から小競り合いをしていても全面戦争してたのではない
調停した張政にも緊張感はない
768日本@名無史さん:2013/12/28(土) 13:03:59.05
結論を先に決め、そこから道中を逆算するのが得意な男だなあ
769九州王:2013/12/28(土) 13:04:32.96
>>766
大和田直木さんの説は人口問題でボツ
770大和 田直木:2013/12/28(土) 13:08:52.34
>>760
誤>魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
正 魏志倭人伝:「3世紀の倭の北限は狗邪韓国、南限は狗奴國。」

誤>後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
正 後漢書:「倭奴国は1世紀倭國の極南界である。」
771日本@名無史さん:2013/12/28(土) 13:13:29.39
結論から逆算して数字を合わすことができれば、自分の結論は正しいと判断するクセあり
772日本@名無史さん:2013/12/28(土) 13:16:20.47
伊都国(倭奴国)と位置関係

☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
  現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。 
  それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。

☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
  福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
  「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
  これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
  自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
  これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
  元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。

☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
  伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
  現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
  今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
  福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
  要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
  当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
  基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
  (北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)
773日本@名無史さん:2013/12/28(土) 13:16:58.92
古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述

倭人伝:「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」
     
     (今までの道理行程を振り返ると、その場所は会稽郡東治(紹興市)の東にある)

      つまり、魏使は帯方郡から、九州に上陸してからも基本ばずっと南下してたと勘違いしている明らかな証拠だな。



「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」


現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。
774大和 田直木:2013/12/28(土) 13:17:33.29
>>765
>邪馬台国と狗奴国が離れていたって? 普段から小競り合いをしていたじゃないか。
>近いに極まってるよ。無茶苦茶だな。

同意
女王國(邪馬台国・投馬國)と狗奴國が築肥山地を境に接していた。
775九州王:2013/12/28(土) 13:19:55.55
江戸時代の筑後の人口
この時代になるとかなり詳しく分かっている
1721年 266,426人
1750年 260,875人
1756年 263,176人
1786年 270,448人
1792年 273,293人
1798年 272,239人
1804年 277,579人
1822年 284,169人
1828年 292,913人
1834年 307,206人
1840年 295,678人
1846年 299,041人
1872年 391,535人
1873年 393,656人
776日本@名無史さん:2013/12/28(土) 13:23:13.12
>>772
恐ろしき博多中華思想
帰り道のことを考えてないなww
博多から唐津へ戻るには北へ行くんだろうなww
海のはまってまうぞww
777日本@名無史さん:2013/12/28(土) 13:27:20.58
>>770
>誤>魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
正 魏志倭人伝:「3世紀の倭の北限は狗邪韓国、南限は狗奴國。」

>>772に書いてるだろ
>☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
  福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
  「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
  これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
  自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
  これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
  元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。

「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった分布をみても
倭奴国〜倭国(邪馬台国等々)〜天孫族倭国が代々せいぜい福岡県域なのはあきらか。
元々博多湾岸の倭国勢力と同一か兄弟国のような久留米付近を中心としていた勢力が
狗奴国となったと考えるのが自然だな。

とにかく俺が唱える説は何の矛盾もないのが現実できちんと全ての説明にも整合性がつく決定的なものだよ。

邪馬台国以降の「神籠石」等が確認される地域が後の倭国の範囲。
よって南九州っての博多湾岸(倭国)とは文化等も全く関係ない クマソ の地なんだよ。
778九州王:2013/12/28(土) 13:28:40.67
>>776
博多から唐津へは西に向かう
博多の街で唐津はどの方向ですかと聞けば100%西との答えが返ってくる
呼子は唐津の北
呼子付近に上陸したと考えれば南東、東と矛盾しない
779日本@名無史さん:2013/12/28(土) 13:30:41.19
,考古学的には南九州はずっとバラバラだな
西都原とか生目はヤマト王権とのつながりがある海人集団
780日本@名無史さん:2013/12/28(土) 13:35:19.04
径百余歩の大きな塚から人骨が百人分ほど出てきたら
「おい、これひょっとして卑弥呼の墓じゃないのか」
という話になる。それまでは卑弥呼の墓は不明。

ただし、「卑弥呼ここに眠る」という墓碑銘が
意外なところから出てくるかもしれない。
たとえば桜井市からwww
(笑い事じゃないぞ)
781九州王:2013/12/28(土) 13:38:25.16
>>777
邪馬壹國の中心は博多湾岸に在ったが
範囲はもっと広大で筑前、筑後、肥前、肥後、豊前くらい
でないと可七万戸は無理
782日本@名無史さん:2013/12/28(土) 13:41:54.74
>>778
>博多から唐津へは西に向かう

>772は、唐津から博多へ向うために南(東南)へ行ったと書いておるではないか
故に博多から唐津へ戻るには北(北西)へ向わなくてはならない
それが正しい理屈だ
自分の泊まるホテルを忘れた中州の酔っ払いでもあるまいに、街で中国貴人が倭人に道を聞くとはちゃんちゃらおかしい
783日本@名無史さん:2013/12/28(土) 13:57:22.85
>>780
人骨と墓碑銘と両方出るかもしれないぞ。
墓碑銘は「卑弥呼又謂モモソヒメ」。
ところが人骨を鑑定したらどうも二十一世紀のものらしい。
考古学研究所の発表:「時期は特定できない」。
784日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:01:04.70
畿内が今現在仕込んでるんじゃないのww

で、数百年後に掘り起こして卑弥呼の墓だってw

これは決して無いとは言えないやり口だと思うぞw
785日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:05:23.64
畿内仕込み大吟醸ひみこw
ついでに宮○土器の盃もなw
786九州王:2013/12/28(土) 14:05:53.80
>>782
今の博多は当時は海中だ
博多の住吉神社が海辺だったんだよ
787日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:08:34.09
冬休みになった事だし、又パズルか

年末年始はずっとパズルで行くの?
788日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:11:23.12
やはりパズルは大事だよ
地曳網を絞り込むようなものだ、大魚を逃がしてはならぬ
789日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:11:34.49
>>787
失礼な
あと、地名の語呂合わせと他説批判があるよ
790九州王:2013/12/28(土) 14:13:00.98
>>781
邪馬壹國の範囲が筑前程度なら直ぐに確認できるから
「可七萬餘戸」ではなく「有七萬餘戸」となるはず
791日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:14:37.26
>>784
先生方と教育委員会が慎重に準備してるのに
先走ったやつが別の所から掘り出してしまった。
卑弥呼の墓がふたつあった!
792日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:15:25.29
何でこの「九州王」とやらは壁打ちしてるの?

触れてはいけない人?
793日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:15:43.31
邪馬台国とか完全にキモヲタ御用達のジャンルになったな。
794日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:18:47.61
>>791
いや、二つ目は台与の墓だよ
795日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:19:45.95
あいかわらず
あわびマンとか紫とか壁打ちマンとか
キチガイに事欠かないんだな九州説は
796九州王:2013/12/28(土) 14:20:08.89
>>792
追加の説明だけど、なんか文句ある
ここに詳しい説明がある
邪馬壹国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC
797日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:25:49.03
心理状態も最悪な年の瀬なんだろ

団塊サヨクジジィ達にはwww

衆院、参院とボロ負けし
株価は上昇、過剰な円高は是正
特定秘密保護法は通過
靖国参拝
沖縄の基地移設承認
オマケにPKOにてピンチの韓国に弾薬提供


ざまぁーwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
いつまでも反体制で甘えてんじゃねーよwwwwwwwwwwww
798九州王:2013/12/28(土) 14:33:51.88
>>797
団塊の世代の人と話してる時に学生運動を批判したら
その時代を知らないくせにと云われた覚えがあるな
日本がまだ貧乏で人口増加で競争の激しい時代だったそうだ
占領教育のせいもあるんだろうな
799日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:34:25.92
あわびマンとか紫はまだ生息してるの?
もう恥ずかしくて巣から出れないの

もっとも恥なんて概念はないだろうけど
800日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:38:44.78
>>798
必ず何かのせいにするから
甘えてんじゃねぇーと言われんだよwwwwwwwwwwwwwwwwww
801九州王:2013/12/28(土) 14:40:18.46
九州説の人の多くが何故か人口の問題だけはスルーしてる
俺以外でこの問題を説明できる奴見たことない
802日本@名無史さん:2013/12/28(土) 14:41:37.47
>>800
アンタ気違い?
803日本@名無史さん:2013/12/28(土) 15:13:21.93
九州王の九州説といいながら
結局は、博多中華思想
804九州王:2013/12/28(土) 15:21:22.81
>>803
オレ熊本なんだけど
福岡にも住んでてたことはあるけど
伊作さんみたいに地元に邪馬壹国を誘致しようなんて
考えてない
805日本@名無史さん:2013/12/28(土) 15:36:26.98
>倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑、旧百余国

倭人伝の出だしは、このようにカッコ良くはじまってるんだから、
九州島の北面だけちょこっと倭国で、じつはその向こうの大かたは狗奴国とかでよーわからん、、、
というのも、東夷伝としてはなさけないよ
地元誘致というより、やはり倭人伝は九州島全体を舞台にしてるんじゃないの
806大和 田直木:2013/12/28(土) 15:36:50.94
>>804
君は熊本でも、菊地、山鹿ではないな。

菊地のおばはんの郷土愛は強烈すぎてまいったなあ、もう。
807日本@名無史さん:2013/12/28(土) 15:38:25.94
>>801
そこらへんの数字ってのはまともに考える必要はない。

数字にとらわれて肝心な出土品や分布といった大切な事を
見逃してたのがここの今までの九州説の主張だよ。

数字ってのはあくまで 「おおよそ」 でしかないんだよ。

土から出てくる本物を検証すればよいだけ。

そこらへんの数字でしか判断できないから、説が 「空想」「妄想」 になるんだよ。

畿内説や宮崎説佐賀説のようにな。
808日本@名無史さん:2013/12/28(土) 15:47:39.46
>>805
それはお前のただの「願望」なんだよ。
お前の「願望」などどうでもよい。

歴史書の記述や、遺跡や出土品、様々な分布図をじっくり検証すればいいだけの事。

どうしても、自分の地元や南九州熊本や佐賀とかに持っていきたいがために、
記述や遺跡や出土品、様々な分布図を「ねつ造」「歪曲」又は「無視」して
ただ数字や方角だけを頼りに邪馬台国を比定する連中が、
ここの南九州、佐賀説を唱える九州説論者には多すぎるな。

記述や遺跡や出土品、様々な分布図にしたがって素直に邪馬台国を比定すればよいだけ。
おのずと答えは出てくるよ。

福岡の博多湾岸がやっぱり最有力で何の矛盾もないとな。
809九州王:2013/12/28(土) 15:51:50.90
>>805
狗奴国も倭でしょ
倭人伝は九州島全体を舞台にしてるし
本州の事も一部書いてる

>>806
はい菊地、山鹿とは違います

>>807
正確でなくとも概算は合わないと
全ての物が遺跡として残る分けでもなし
出土品や分布だけでは限界がある
魏志倭人伝の記述を信じる他ない
810日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:03:07.97
女王国が九州だとすると「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」は
本州や四国の事だと簡単に答えが出る
畿内説だと渡海できないw
811日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:03:16.63
>>809
数字ってのはある意味一番あいまいになる部分なんだよ。

お前は現代においても日本国政府が「公式」に発表している様々な数字を信じてるのか??

大体、そういった数字は都合のいいように、水増しされたりしてるもんだよ。

倭人伝の数字も一緒だ。 
魏使は自分らの功績を大きなものにするために水増しした可能性だってある。

お前も自分の貯蓄を正確に教えるか??

数字ってのはそんなもんだ。 数字をあまり真剣に考えるな。
「本物」が見えなくなるぞ。 数字の記述ははあくまで 「そんなもの」 程度のもんなんだよ。
812九州王:2013/12/28(土) 16:10:17.45
>>811
軍人が報告してるので
そこそこ信じてもいいものだろう
援軍送ったら全然情報と違ったら全滅とかしますから
概算は合ってるでしょうね
自分の都合よく解釈して変えるのは危険です
813九州王:2013/12/28(土) 16:13:44.70
魏志倭人伝読むと
3世紀には北部九州、南部九州と地域毎に国家が生まれつつあったと
思えるんですよ
814日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:16:07.92
きっかけは卑弥呼の援軍要請だからね
軍事行動の参考にするのに桁を間違えるとか無いw
異様に記述が詳しいのも軍事資料だから
素人の旅行記じゃない
815川柳の達人:2013/12/28(土) 16:19:42.37
古代の推定人口について根拠となる資料をだれがどのように調べたか掲載します。
旧石器時代・縄文時代・弥生時代の鬼頭宏の推定人口は、小山修三(1978,1983年)に依拠している。小山修三氏の推定法は下に掲載

<小山修三氏の人口推定の方法>
@遺跡数
 時代別、地域別に遺跡数の分布を調べる。基礎資料として文化財保護委員会が昭和40年にまとめた『全国遺跡地図』(全47巻)が利用された。
 人口推計の対象とされたのは草創期と晩期を除く縄文早期〜後期の5期と、弥生、土師器の 各時代である。地域は北海道・沖縄を除く、本土の九地域である(東北・関東・北陸・中部・東海・近畿・中国・四国・九州)。
A基礎人口
 推計の基礎になる人口を土師器文化期(3〜12世紀)の中ほどにあたる8世紀に求める。選ばれたのは、澤田吾一が出挙稲をもとに推計した奈良時代の左右両京を除く良民人口(全国で約540万人)である。
B集落規模
 詳しい数量的データの得られる東京および関東地方の遺跡から各時代の集落規模(人口)を推し、土師器文化期を1として比例定数を決定する。
 縄文早期は土師器時代の20分の1、縄文前期〜後期は7分の1、弥生時代は3分の1とされた。
816川柳の達人:2013/12/28(土) 16:20:18.85
つづき
C8世紀の集落人口
 関東地方の土師器時代の集落あたりの人口を八世紀人口に対応させて計算する。
 (943,000人÷5,549=170人)
D関東地方の人口
 例えば関東地方の縄文中期人口は次のようにして求められる。
 土師器時代の集落あたり人口(4)×比例定数(3)×縄文中期遺跡数(1)=
 170人×1/7×3,977=96,600人
E時代別、地域別人口
 上のようにして得た関東地方の人口を基準にして、各地方と関東地方の遺跡数の比率から、時代別・地域別人口を計算する。
で、上記を基にしたグラフがこれhttp://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7240.html
特に@については、地域ごとに考古学的発掘に対する力の入れようが違うのでバランスを
欠くのではないか疑問が残る所です。遺跡発掘は進んでいるし、そこから推定される弥生
集落の発展は深化されているし・・・古代の人口について再考の必要がありそうですね。
817九州王:2013/12/28(土) 16:25:18.40
遺跡発掘が進むんで
人口の推定は最近のものほど多くなってるよな
818日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:28:30.10
>>813
それはそうだと思うよ。
ある意味日本全国がそうじゃないの。

その中の博多湾岸にあった倭奴国や倭国勢力が後に日本列島を統一した。
だから日本の歴史(古代史)は筑紫福岡の倭奴国や倭国の歴史が今でも語り継がれている。

しかし、その過程において倭国勢力から派生した畿内が最終的に日本列島を支配したから、
筑紫福岡の倭奴国や倭国の歴史をそのまま畿内の歴史として引用したんだろう。

そして畿内大和王権の九州平定時にいつまでもうるさい クマソ(南九州) の支配も正当化するため
(古来より南九州は天孫族の地)としクマソ南九州も大和王権に順ずるようにしたのだろう。

だから今でも南九州人はそれを真に受けて 邪馬台国 や 天孫族 が南九州にいたと
本気で思ってるんだろうな。

しかし、土の中は嘘をつかないという事だよ。 南九州は古来よりずっとクマソの地だよ。
819日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:35:41.20
神武天皇は熊襲出身だな
820日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:36:37.69
形質人類学のデータ
http://ryuchan56.269g.net/article/17864123.html

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、
東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、
全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、

部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。

とし、

頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大塩きく、頭幅は小さい。
したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。
しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

と書き、さらに、

大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。
おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。

と述べている(図2参照)。

http://ryuchan56.up.269g.net/image/ryuchan56-2013-07-12T11:25:23-1.jpg

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、
中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
821日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:38:37.44
>>818
おっと、訂正
>(古来より南九州は天孫族の地)とし

こういった些細な記述ミスもまた南九州人に誤解を与えるものなんだよなw
こういった些細な記述ミスでもすぐ調子に乗るのが宮崎派だからなw

(古来より南九州も天孫族の地)とし ←これが正解。

前後の繋がりとしては
>そして畿内大和王権の九州平定時にいつまでもうるさい クマソ(南九州) の支配も正当化するため
 (古来より南九州も天孫族の地)としクマソ南九州も大和王権に順ずるようにしたのだろう。
822日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:38:42.71
長頭短頭なんてバカな研究は
最近の学者は誰もしないよw
耄碌老人おつ
823日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:39:16.56
被差別部落民の特徴を,「頭の形の幅広ならざる事,眼の蒙古的ならざる事,頬 骨の突起
せる事,顔の長き者の希なる事,鼻のトビナルド 10)表中の第一(側面より見た る時湾曲
無きもの)多き事,髪の生え際の好く揃ひたる事,髭髯と脚毛と少しく有るのみ にて他
には体毛と称すべきもの存せざる事」と報告している 11)。また鳥居が強調したのは

「蒙古眼 12)」の特徴が見られないことで,これは多数の地元小学校の生徒についても
同様 であったことを指摘している。さらに頭示数の平均が 75 と「頭の幅狭隘なるこ
と」に言 及し,これが「所謂マレイ諸島ポリネリヤン島の土人即ちマレヨポリネリア
ン種族に類 似せるを発見せり」と述べている[鳥居 1897]。

この結果を受け,鳥居は部落民について「朝鮮人の帰化せし者なりとの説は少しも信
ずるに足らざるなり。蓋し一も其帰化らしき体質を認めざればなり。若しも彼等が朝
鮮 的体質なるならば彼等の目は必ず蒙古的ならざるべからず。亦頭形がブラキセ
フワリッ ク即ち幅の広きものならざるべからず。然るに彼に在りては此要素を少しも認
むる能は ざるに於ては寧ろマレー的体質を備ふるものに類似せるなり」と述べ,朝鮮半
島からの 帰化人とみなす認識を批判する。

また鳥居は,先述したベルツの説を引き,日本人種が蒙古人種,マレー人種の二系統か
らなるとする見解を紹介した上で 13),このうち被差別部落民が後者の体質を備えてい
る,
824日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:41:59.76
>>819
ほらほら、こういったバカがすぐ現れるのが
宮崎派の特徴w

南九州の事を少しでも間違って記述すれば
すぐこういったバカ宮崎派がすぐ現れるw
825日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:43:16.33
>>824
神武天皇が出発した地はどこ?
826日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:46:04.09
827日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:46:36.80
>>819
>神武天皇は熊襲出身だな

ばか宮崎派の主張w
神武天皇がいきなり高千穂に沸いたそうですww
証拠は全くありません。 物証もなにもありません。
でも
「おらが村の神話(伝承)には神武天皇は宮崎だと書いてあるっぺよ」

これが宮崎派の主張です。
828日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:47:06.66
>鬼頭の人口推計→小山の人口推計→昭和40年の発掘遺跡数
もとをたどればこういうわけかあ

昭和40年の遺跡発掘の進度には地域差、府県間の差に著しいものがあったにちがいない
最近、宮崎県下でも東九州自動車道の工事が進み、予定地の発掘が進んでいるそうだ
到るところに人家や道などの遺跡が出てくるらしい
南九州の遺跡による評価はこれからだな
829日本@名無史さん:2013/12/28(土) 16:55:11.63
>>816 
ここのリンク先によると、北九州と南九州の区分は以下の通り

北九州:(筑前、筑後、肥前、壱岐、対馬、豊前、豊後) 福岡、佐賀、長崎、大分
南九州:(肥後、日向、大隅、薩摩) 熊本、宮崎、鹿児島
830日本@名無史さん:2013/12/28(土) 17:00:46.77
単純に北九州と言ったら、北九州市と間違えるし、
南九州と言ったら普通は鹿児島。

北部九州、南部九州と言ったほうがいいのではないかな。

自分は熊本は北部九州に入れてたな
831日本@名無史さん:2013/12/28(土) 17:01:03.95
>>927
おまえ馬鹿か
なんで高千穂が出てくるんだよ

記紀によれば
神武天皇は日向国から出発だよ
読んだ事無いの?
832日本@名無史さん:2013/12/28(土) 17:05:44.85
>>831
勝手にねつ造歪曲すんなキチガイ

どこに日向「国」の記述があるんだよ。
お前らみたいなキチガイはマジで書き込むな

スレが一気に低レベル化するは

こういった歪曲ねつ造を繰り返すのが宮崎派がキチガイと言われるゆえんなんだよ。

そして気持ち悪いほど周りが見えない自分本位集団。

まざに現代でもキチガイであり、祖がクマソである証拠だなw
833九州王:2013/12/28(土) 17:09:39.00
>>830
宮崎、鹿児島だけじゃ人口や経済力でバランス悪いから熊本や大分を南部九州に入れる場合もあるが
歴史的文化的には
北部九州:(筑前、筑後、肥前、肥後、壱岐、対馬、豊前、豊後) 福岡、佐賀、長崎、熊本、大分
南部九州:(日向、大隅、薩摩) 宮崎、鹿児島
834日本@名無史さん:2013/12/28(土) 17:21:09.44
>>832
日本書紀 長而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃。
古事記  卽自日向發、幸行筑紫。

東征順路
日本書紀 出発→速吸之門(豊予海峡)→筑紫國→筑紫國岡水門
古事記  日向→豐國→筑紫之岡田宮一年坐
835日本@名無史さん:2013/12/28(土) 17:22:03.30
北九州:(筑前、筑後、肥前、豊前、豊後) 福岡、佐賀、長崎、大分
中九州:(肥後、日向) 熊本、宮崎
南九州:(大隅、薩摩) 鹿児島

という分け方もある。
人により、会社により、官庁組織によりいろいろだから、県名を上げて示すほかあるまい
836日本@名無史さん:2013/12/28(土) 17:59:36.51
>どこに日向「国」の記述があるんだよ。
日本書紀に 「長而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃」とあるのを見逃していたとは
オソマツだな。
837日本@名無史さん:2013/12/28(土) 18:41:12.28
>>835
中九州:(肥後、豊前、豊後) 熊本、大分は見た事あるが
中九州:(肥後、日向) 熊本、宮崎は珍しいな
838日本@名無史さん:2013/12/28(土) 19:01:33.13
宮崎のうち都城地域だけ南九州にいれるとか、大分・宮崎を指す場合は東九州と呼ぶとか、
九州の区分けは鬼門だ、ま、深追いしない方がよかろ。
839うんえー:2013/12/28(土) 19:10:52.80
【コーメイ・ソーカ】スレ
ここのスレッドは、KO大学 理○ 大学院 2回生が書き込んでいるそうですね。
ごくたまに京都弁が散見されますが、京都出身の方ですか?
どうしてここまで悪く書くのでしょうか?
「集団ストーカーは存在しない」と聞きました。
逃亡犯にとって、周囲の人間全てが警察官に見える心理と同じ、と。
なぜ、存在しないものを、あたかも実在するかのように書き連ね、一般市民の不安を煽るようなことをなさるのですか。

108 学籍番号:774 氏名:_____ sage 2013/08/08(木) 01:24:04.69 ID:???
誰かおらんのか?
【慶応】慶應 大学院 理工学研究科 後期博士課程

896 名前:ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη :2013/12/23(月) 03:02:31.46
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宇 城 市長選:公明推薦で元国会議員の現職候補 が敗れる 。

※ 集団ストーカー
2ch運営者のひとり=宇土成○平による造語。
2ちゃんねるを中心に、主にネットで広められている。
疑心暗鬼の心理をつき、特定の人物を精神的に追い詰めるために発案。
実際には存在しない。
840日本@名無史さん:2013/12/28(土) 19:13:09.71
南九州のキチガイどもは相手にしないのが賢明な判断であることに間違いはない。
841日本@名無史さん:2013/12/28(土) 19:35:53.32
>>820
これあちこちコピペしてるのはどういう属性の人間?
一見しただけで旧国単位で色分けして雑との印象を受ける
n数とかものすごく少なそう
昭和30年代臭がする
842日本@名無史さん:2013/12/28(土) 19:39:56.20
南九州説は生理的に受け付けないようですね
ある種の聖地でもありますし、やたら発掘されてもねえ
843日本@名無史さん:2013/12/28(土) 19:42:15.09
地下とかに洞穴掘るのが上手な土人さんがおった
844日本@名無史さん:2013/12/28(土) 19:46:21.44
南九州は狗奴國で納得してね
845日本@名無史さん:2013/12/28(土) 20:00:47.83
>>842>>844
南九州はクマソだからな。
しかもこいつらは俺に何度も何度も論破されても
ただ同じことを歪曲ねつ造して何度も何度もループして言ってくるキチガイだからw

問い詰めたら結局何も言い返せなくなって、またしばらくして
同じことを言いだすマジキチだからなw

先祖がクマソだから今でもクマソなんだろw
ほんと気持ち悪い奴らだよ 南九州人(宮崎派)ってのは
846日本@名無史さん:2013/12/28(土) 20:01:21.20
景行天皇の巡幸路から南の薩摩・大隅が狗奴国のような気がする
847日本@名無史さん:2013/12/28(土) 20:43:21.03
どこでもいいわ。
848日本@名無史さん:2013/12/28(土) 20:45:44.95
南九州はないわ
849日本@名無史さん:2013/12/28(土) 21:24:33.21
北九州と南九州のあいだをとって、中九州にしたらどうかな
名案とおもうんだけどなあ
850日本@名無史さん:2013/12/28(土) 21:48:04.18
狗奴国ってのは、倭奴国が倭国大乱で分裂した片割れに狗という蔑字を付けられたもの
中国的には非公認だった方の倭国
851日本@名無史さん:2013/12/28(土) 21:51:11.59
つーか九州説にしたら大分ー宮崎間しかありえんし。
だいたい記紀の記述に普通に女王がでてくるんだしwww
熊襲退治も女王の記述のあと。普通に記紀とあってる。

畿内説ってのは天皇の遺跡を掘り返してるだけだからな。
歴史上一番罰当たりなことしてる低学歴な素人連中。
852日本@名無史さん:2013/12/28(土) 22:02:22.66
土蜘蛛をお忘れなくw
853日本@名無史さん:2013/12/29(日) 03:01:48.41
国名のみの21か国は邪馬台国の南にあったというのが、
邪馬台国混乱の元。21か国を邪馬台国の北にすれば
解決する。
奴国から東、南、南で邪馬台国。邪馬台国でユーターンして、
北、北、西で奴国へ戻る。2つ目の奴国は福岡に戻ること
だった。
狗奴国は、邪馬台国の南ではなく、奴国の南にあった。
これも多くの人が間違えた。魏志を見れば解ると思うけど。
奴国は福岡。この南は、熊本です。
北九州に対し、南九州で対立していたというが、南九州の中央には、
山がある。これで、東西の南九州が北と対立するかな?
北部九州と東九州の逆L字の女王連合と、熊本などの囲まれた
西九州の狗奴国と対立してたのでは?
熊本と北部九州の境に吉野ヶ里がある。塀とか物見櫓は前線の国では?
854日本@名無史さん:2013/12/29(日) 04:04:08.49
精神異常者が横行するようになったな
855日本@名無史さん:2013/12/29(日) 06:37:12.03
九州は温暖で近畿は寒いから九州だ!と思ってる奴がいるからな。
博多と大阪はあまり変わらないし、内陸の飯塚や朝倉と奈良はそんなに
違わないのにさ。
856日本@名無史さん:2013/12/29(日) 06:54:32.34
九州も近畿もほとんど寒暖差とか感じないだろ
857日本@名無史さん:2013/12/29(日) 07:00:18.54
>>855
>博多と大阪はあまり変わらないし、内陸の飯塚や朝倉と奈良はそんなに違わないのにさ。
畿内と北九州、どっちも駄目だということだろう。
858日本@名無史さん:2013/12/29(日) 08:03:18.52
北九州だ、北部九州だ、東九州だ、西九州だ、中九州だ、南九州だ

いろいろ言っても人により受け止め方さまざま、ゴチャまぜになって収拾付かぬ
旧国名か県名で書いてくれ
859日本@名無史さん:2013/12/29(日) 10:50:13.49
大型かんきつ類の多くは、畿内じゃ生育不能。
熊本・宮崎・鹿児島ならたくさん実がなる。
860日本@名無史さん:2013/12/29(日) 11:41:07.02
北九州(福岡県、佐賀県)に対し、南九州(熊本県、宮崎県)で対立
していたというが、南九州(熊本県、宮崎県)の中央には、
山がある。これで、東西の南九州(宮崎県、熊本県)が連帯し北(福岡県、
佐賀県)と対立するかな?
北部九州(佐賀県、福岡県)と東九州(大分県、宮崎県)の逆L字の
女王連合と、熊本県などの囲まれた西九州(熊本県、鹿児島県西側)の
狗奴国(熊本県、鹿児島県西側)と対立してたのでは?
熊本県と北部九州(佐賀県)の境に吉野ヶ里がある。
塀とか物見櫓は前線の国では?
861日本@名無史さん:2013/12/29(日) 12:07:20.67
南九州(宮崎、鹿児島)は熊本、大分を征服したか、連合したか、とにかく自軍に取り込んで
北部九州(福男や、佐賀、長崎)と戦ったのだろう。環濠集落というのは、いきなり夜襲などを
受けないように国や村落の中心部の周囲を囲んでいるだけで、北部九州の最前線というわけでは
あるまい。
862日本@名無史さん:2013/12/29(日) 13:06:21.46
>>859
え?みかんも甘夏も近畿最北端の近くで作ってるよ。
863大和 田直木:2013/12/29(日) 13:30:10.14
>>862
それは最近の温暖化のせい。
50年以上前には鑑賞用のかんきつ類しか植えられていなかった。
酸っぱくて食えない。
柑橘類栽培適地である和歌山沿岸地域は除く。
864日本@名無史さん:2013/12/29(日) 14:18:31.46
むしょうに戦い好きなお人がいらっさいますねえ

卑弥呼の功績は、戦乱を治めて平和な倭国にまとめ上げたこと
おそらくはその手腕で金印を下賜されたのでしょう
従わなかったのは狗奴国1国(薩摩?大隅?)だけの状態、それもいずれ女王に降ったのでは。
865日本@名無史さん:2013/12/29(日) 14:47:01.56
>>864
でも、無性に戦い好きで騙し討ちを得意とする朝鮮人がやってきて、
邪馬台国は滅ぼされました。
日本は、そういう朝鮮人によって征服されたのです。
866日本@名無史さん:2013/12/29(日) 16:09:53.33
北部九州、邪馬壹國(福岡県、佐賀県、長崎、熊本、大分)と南部九州、狗奴國(宮崎県、鹿児島)
867日本@名無史さん:2013/12/29(日) 16:45:26.11
>>865
バカだなw
半島南部は古代から奈良時代までず〜〜〜と倭だよ
868日本@名無史さん:2013/12/29(日) 17:21:10.20
朝鮮半島南部、投馬國
北部九州、邪馬壹國(福岡県、佐賀県、長崎、熊本、大分)
南部九州、狗奴國(宮崎県、鹿児島)
869日本@名無史さん:2013/12/29(日) 17:36:17.24
狗奴国は小国。邪馬台国の旁らにあった国だ。すぐに邪馬台国に併合された。
870日本@名無史さん:2013/12/29(日) 17:51:03.99
>>863
すまんな。オレ年寄りだから50年以上昔でも作ってたんだが。
あれは夢だったのかい?
871大和 田直木:2013/12/29(日) 18:40:24.96
>>870
あの酸っぱいみかんを食っていたのかね。
あの頃は甘いものがなかったから、甘く感じたんだろうね。
あぁ、自家用のみかん?夏みかん?
872日本@名無史さん:2013/12/29(日) 19:23:33.41
江戸時代、
紀伊国屋文左衛門が船で江戸へ運んで財をなしたのは紀州小みかんだった
甘くてうまくて江戸っ子に大好評だった
873日本@名無史さん:2013/12/29(日) 20:32:38.97
>>816 :川柳の達人

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7240.html
ここのデータは大いに参考になった、
とりわけ弥生時代における南九州への人口集積は驚異的

人口集積上位3ブロックの歴史的変遷 
(時 代 ・・・・・・・・1位、 2位、 3位、、、 時代の特徴)
縄文中期(4300年前)・・ 東山、南関東、東奥羽、、、 東日本の繁栄
弥生時代(200年)・・・・東山、 畿内周辺、 南九州、、、 西日本シフト
奈良時代(725年)・・・・畿内周辺、 東海、 畿内、、、、 大和朝廷
平安遷都(800年)・・・・畿内周辺、 畿内、 山陽、、、、 京都が中心に
平安前期(900年)・・・・北関東、 南関東、 畿内周辺、、、、 関東武士の時代へ
874日本@名無史さん:2013/12/29(日) 20:43:54.36
>>873 のつづき

>弥生時代(200年)・・・・東山、 畿内周辺、 南九州、、、 西日本シフト

ここの南九州は: 熊本、宮崎、鹿児島(肥後、日向、大隅、薩摩)
875日本@名無史さん:2013/12/30(月) 11:32:22.77
>南九州への人口集積は驚異的
人が都へ集まるってのはいつの時代でも同じ。
876日本@名無史さん:2013/12/30(月) 13:30:41.83
天孫がクシフルを都としたとき、他の都市より人口少なかったと思うけどね。
ちょっと増えても、神武が東征して都を移すまで、都の人口は他より少なかった。

人口多いのが都という発想は誤りだ。
877日本@名無史さん:2013/12/30(月) 16:07:16.66
>>862

はあ?「大型かんきつ類の多く」は畿内で生育不能な南方系だ。
878大和 田直木:2013/12/30(月) 22:08:52.23
>>877
「大型かんきつ類の多くは畿内で生育不能な南方系だ。」は、言い過ぎだ。

奈良のよう内陸でも、大型かんきつ類が生育し、結実した。
酸っぱくて食えたものではなかったが。

現在では、温暖化と品種改良でみかんも栽培できるようになったけれども。
879日本@名無史さん:2013/12/31(火) 00:02:15.89
わからない事は素直にわからないと言いましょう
880日本@名無史さん:2013/12/31(火) 00:44:16.30
わからないことを知ったかぶりするのはやめましょう
それじゃ支那人や朝鮮人ですよ
881日本@名無史さん:2013/12/31(火) 00:49:37.57
北部九州が倭国だとしたら
また大乱に入ってるんじゃね
物騒すぎる
882日本@名無史さん:2013/12/31(火) 00:54:28.34
だーかーらー、倭国大乱で委奴国が分裂した
その片割れが狗奴国なんだって
何回言ってもオマエラ解かんないんだな
つーか信じたくないんだな
883日本@名無史さん:2013/12/31(火) 01:06:16.30
そういえば、委奴国も伊都国もイドコクって読めるんだよな
884日本@名無史さん:2013/12/31(火) 01:32:37.45
>>878

みかんは「大型のかんきつ類」じゃありません。
畿内では、大型のかんきつ類のほとんどが、生育しません。
885日本@名無史さん:2013/12/31(火) 01:43:34.79
イドコクじゃなくてイデュコクの可能性のほうが高いな
伊豆や伊東(佐土原の支配者)に通じる音の可能性のほうが高いかな
886日本@名無史さん:2013/12/31(火) 02:05:39.34
崇神が船舶の建造を命じたのも、現在伊豆と呼ばれてるところじゃなくて、伊藤氏が支配してた伊都国だと思うんだよなぁ
887日本@名無史さん:2013/12/31(火) 02:09:40.98
伊藤は伊東の間違い
888日本@名無史さん:2013/12/31(火) 07:06:05.35
>そういえば、委奴国も伊都国もイドコクって読めるんだよな

なるほど、そう読むと一連の経過はわかりやすい。
889日本@名無史さん:2013/12/31(火) 07:32:33.00
九州説は漢字知識もないクズばかりだ
890日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:42:04.81
夏みかんは確かに酸っぱいといえば酸っぱいが、食えたもんじゃないということは
なかったな。家の周りに普通に植えてあったとけど。
891日本@名無史さん:2013/12/31(火) 15:09:01.13
魏志倭人伝には倭国大乱なんて書いてないんだよね
倭国乱としか書いてない

倭国乱は北九州にあった倭国(筑紫)内での
王位継承争いだろう
北九州だけの話だ
892 【凶】 :2014/01/01(水) 00:14:04.25
あけおめ!
893大和 田直木:2014/01/01(水) 03:17:36.99
>>890
夏みかんは、春から夏に結実するので、畿内でも栽培できる柑橘類である。

晩秋から春に結実する柑橘類については畿内は栽培不能地域としてよいであろう。
894日本@名無史さん:2014/01/01(水) 03:34:10.70
>>893

夏みかんとみかん(という例外)だけを取り上げて、畿内で実ると言われても困るな。

たんかん、マーコット、アンコール、セミノール、晩白柚、文旦、日向夏、天草、スイートスプリング、はれひめ、河内晩柑、
895日本@名無史さん:2014/01/01(水) 06:56:05.27
wikipedia



日本に古くから野生していた日本固有のカンキツである。
和歌山県、三重県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地に
まれに自生する。 静岡県沼津市戸田地区に、国内北限の
自生地が存在する。
896日本@名無史さん:2014/01/01(水) 08:19:50.67
奴国を福岡にすると、その東の海岸から南にいったところに
邪馬台国がある。また、邪馬台国から東 海を渡ったところに
倭種。
これから邪馬台国は九州の東海岸、これはもう動かないと思う。
残念ながら他は間違いは明白なのだが。
897日本@名無史さん:2014/01/01(水) 10:43:56.22
ずばり、邪馬台国は宇佐市だね。
898日本@名無史さん:2014/01/01(水) 11:15:12.12
宇佐神宮が、邪馬台国のような土蜘蛛の国であるはずない。
899大和 田直木:2014/01/01(水) 12:21:28.06
>>896
奴国(其餘旁國の奴國)を福岡にすると、
南にいったところの筑紫平野に邪馬台国がある。

また、邪馬台国のはるか東方の幅千里の海(伊予灘)を渡ったところに倭種。

残念ながら他は間違いであることは明白なのだが。
900日本@名無史さん:2014/01/01(水) 12:28:03.47
邪馬台国は、滅亡させられた後は、被差別部落になってるんだろうな。
901日本@名無史さん:2014/01/01(水) 12:31:06.77
>>899
邪馬台国など何処にもない
日本人が作り出した幻想だ
在ったとしたら、邪馬壹国だろ
902日本@名無史さん:2014/01/01(水) 12:41:17.82
>>901
こうゆうレベルの話は他でしてもらいたい。
903日本@名無史さん:2014/01/01(水) 12:46:32.63
>>899
奴国を福岡にすると、
奴国を含めた北部九州全体が邪馬壹国
残念ながらきみの説は間違いであることは明白
904日本@名無史さん:2014/01/01(水) 13:35:14.72
邪馬台国がどこにあるのかは、倭人伝の行程記事を読めば明らかだろう。何で
分からないというのかが不思議だ。末盧国から東南五百里の伊都国は佐賀市付近。
そこから南へ水行10日陸行1月の邪馬台国は南九州。八代付近で上陸して南へ陸行すれば
都城盆地あたりに邪馬台国があったということになる。それで何の問題もなかろう。
905日本@名無史さん:2014/01/01(水) 13:39:18.08
東に海がある有明海のモンサンミシェル

邪馬台国島原半島にようこそ!
906日本@名無史さん:2014/01/01(水) 13:42:39.50
>>904
チミの頭が悪いから
907日本@名無史さん:2014/01/01(水) 14:54:05.73
新年早々、低脳児らしい反応だ。
908大和 田直木:2014/01/01(水) 16:17:25.57
邪馬台国がどこにあるのかは、倭人伝の行程記事を読めば明らかだろう。
何で分からないというのかが不思議だ。

末盧国から東南五百里の伊都国は佐賀肥前国庁跡付近。
そこから東へ行百里で吉野ヶ里遺跡の不彌國だ。

不彌國に南接して投馬國と邪馬台国がある。
投馬國は帯方郡から水行二十日(約2万2千里)であり、
邪馬台国は帯方郡から水行十日(約1万1千里)と陸行一月(80km)である。
5万戸の投馬國は吉野ヶ里の南から大牟田までの筑後平野の海岸沿いとなり、
7万戸の邪馬台国は、筑後平野の山側と筑後川中流域の内陸となる。

2万戸の奴國は佐賀平野の中部及び西部で、その城柵は伊都國東南百里の佐賀城付近。

方向も距離も倭人伝に書いてある通り。難解な読み方をする必要はない。
909日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:40:51.23
>>904
都城盆地で7万戸は不可能

>>908
筑後平野の山側と筑後川中流域の内陸でも7万戸は不可能

二人共終了
910日本@名無史さん:2014/01/01(水) 16:47:07.96
都城に7万戸があったなどとは誰も言っていないよ。そこが女王の都する所だというだけだ。
邪馬台国の領域は宮崎、大分を合わせたぐらいを考えるべきだな。つまり、戸数はその領域の
広さとある程度比例しているんだよ。
911帯方郡太守:2014/01/01(水) 17:03:23.04
新春早々、倭人倭種の読み解きはいささか不可解である

そもそも東夷伝・倭人の条は、我が帯方郡役所の手になる書である。
よってこれを読みこなそうとするのであれば、まずは郡役所の楼観に立ちて南を望み、
手にした倭地図はさかさまに置いて読んでいただきたいものであ〜る。
912日本@名無史さん:2014/01/01(水) 17:29:26.57
>>904
>都城盆地あたりに邪馬台国があったということになる。それで何の問題もなかろう。

致命的な問題がある。
都城盆地あたりは成立する余地がない。
913大和 田直木:2014/01/01(水) 20:08:43.35
>>911
その通り。
しかし地図はさかさまにしていない。
その地図は南が上だから。
914日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:51:44.77
激烈放映希望
大型時代劇 「卑弥呼」

第一部「倭国大乱」
第二部「親魏倭王」
第三部「邪馬台国は消えず」

卑弥呼:大島優子
弟王:松坂桃李
壹與:能年玲奈
難升米:西田敏行
狗奴国王:松田龍平
張政:金城武
魏王曹叡:草薙剛
司馬仲達:北大路欣也
ナレーター:前田敦子

できれば放映時間は6時間以上で
915 【ぴょん吉】 :2014/01/01(水) 21:22:22.63
おう、みごと!
916日本@名無史さん:2014/01/01(水) 21:27:23.27
>>914
卒業記念ドラマかw
まあそれはともかく邪馬台国は久留米か大牟田だよね
917大和 田直木:2014/01/01(水) 23:34:30.34
>>916
邪馬台国にある卑弥呼の城柵は久留米。
邪馬台国の官伊支馬の城柵は八女。

大牟田は投馬國の最南部で狗奴國と対峙していた。
918日本@名無史さん:2014/01/02(木) 00:25:53.17
畿内でも九州でもどっちでもいいが
単なる素人の学者様ゴッコと思ってないやつはキモすぎる
919日本@名無史さん:2014/01/02(木) 01:50:28.77
>>911
どんな地図を使ったり、さかさまにしても、南へ進む限り
行くとこは南九州だと思うけど。
何が言いたいのかな?
920日本@名無史さん:2014/01/02(木) 06:30:28.01
>>903
奴国と邪馬台国は同じですか?
大丈夫か?少し休んだほうがいいと思う。
921日本@名無史さん:2014/01/02(木) 08:30:32.77
いまとなっては九州説なんて矛盾だらけだな。
922日本@名無史さん:2014/01/02(木) 08:36:19.36
南部九州へ進める人は正解

脳内回路に矛盾を抱えてる人は東へ東へ流されていく
923日本@名無史さん:2014/01/02(木) 08:41:18.32
邪馬台国の官 伊支馬 は、生目だと思う。
生目古墳郡 今 発掘してるのでは?
情報欲しいな。誰か近くの人いないかな?
924日本@名無史さん:2014/01/02(木) 08:51:30.90
>生目古墳群(いきめこふんぐん)は、宮崎県宮崎市跡江地区にある古墳群。

>宮崎平野を流れる大淀川右岸に位置する標高25メートルほどの台地上に広がる古墳時代前期から中期の古墳群である。
>3世紀後半ないし4世紀前半頃から作られ始め、古墳時代前期としては九州地方最大の古墳群とされる。
>1943年(昭和18年)9月8日に前方後円墳7基、円墳36基の計43基の古墳が国の史跡に指定された。
925日本@名無史さん:2014/01/02(木) 09:35:12.86
>>920
邪馬壹國は「可七萬餘戸」で北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨る大国
邪馬壹國は26か国の国邑で構成される
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

邪馬壹国70,000戸の内訳は、1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)+20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国〜烏奴国の20国分)
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国〜烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
926日本@名無史さん:2014/01/02(木) 09:45:26.40
九州説ならば邪馬壹國広域説を取らないと「可七萬餘戸」は不可能であり
博多説、筑後説、熊本説、宇佐説、南九州説等の地域説は全て誤りで
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨る大国で
卑弥呼は伊都國にいて邪馬壹國全体を治めていたのである。
927日本@名無史さん:2014/01/02(木) 09:50:04.91
つまり九州説は誤りである
928日本@名無史さん:2014/01/02(木) 09:51:00.35
伊都國には「丗有王 皆統屬女王國」「魏代に王がいた、(倭の国は)皆、女王国に統属す」と書かれており
卑弥呼は伊都國にいて邪馬壹國全体を治めていたのである。
929日本@名無史さん:2014/01/02(木) 09:52:35.46
というか倭人伝の7万余戸という記述が誤りである可能性もあると思うのだが
九州説では倭人伝の記述は神のごとく絶対視されているからな
930日本@名無史さん:2014/01/02(木) 09:54:37.75
>>927
つまり畿内説や四国説等の邪馬壹國北部九州広域説以外の説も全て誤り
931日本@名無史さん:2014/01/02(木) 09:56:24.50
>>929
倭人伝の記述を疑えば邪馬壹國を論ずること自体無意味になる
932日本@名無史さん:2014/01/02(木) 09:58:23.51
統属とは血縁をもって属すの意味。 血族、一統
933日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:07:54.07
>>929
家数と戸数は違うんじゃないの、家は一戸建だが、戸は長屋とか世帯数とか
ともあれ、全畿と同じ広さの熊本平野や宮崎平野なら、5万、7万は余裕さ
934日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:16:26.05
>>932
つまり邪馬壹國内に王は伊都國の卑弥呼だけだったんだよ
935日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:18:00.91
>>933
根拠の無い独善は妄想
936日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:29:45.41
邪馬壹國北部九州広域説なら魏志倭人伝の記述を全て矛盾無く説明でき
最も真実に近い説だ
937日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:33:57.92
日本の文化,文明が博多から始まった事から紐解けば論争など無意味。
938日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:35:12.78
>>936
古田安本説かい
939日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:58:40.03
>>938
古田説・・・70点
安本説・・・50点
畿内説・・・30点
南九州説・・・20点
四国説・・・10点
邪馬壹國北部九州広域説・・・90点以上
940日本@名無史さん:2014/01/02(木) 11:20:15.25
邪馬壹國北部九州広域説 = 古田説70点+安本説50点 = 120点
941日本@名無史さん:2014/01/02(木) 11:25:31.93
日数無視説だな。
942日本@名無史さん:2014/01/02(木) 11:33:31.75
>>941
日数に合わせるためだんだん広域化させてきたんだろ
邪馬台国=くまモン県以北、投馬国=宮崎県
943日本@名無史さん:2014/01/02(木) 12:16:56.82
九州説はもともとは南九州を考えていたんだよ。だが、万二千里を邪馬台国までの
距離と誤解した連中が北九州を主張しだした。
しかし、万二千里と日数とは絶対に合わない。日数が邪馬台国までの行程であることは
明白なのだから、万二千里にとらわれないで考えなければないない。となれば、やはり
南九州が本命なのだよ。
944日本@名無史さん:2014/01/02(木) 12:18:24.64
>>941
日数無視などしてません
邪馬壹國北部九州広域説
郡治〜狗邪韓国〜対馬国〜一支国〜末盧国〜伊都国〜奴国
七千里 + 千里 +(四百里×2)+ 千里 +(三百里×2)+ 千里 + 五百里 + 百里
= 帯方郡〜投馬国〜邪馬壹国水行二十日 + 水行十日 + 陸行一月(陸行一日)
= 帯方郡〜萬二千餘里〜女王國
945日本@名無史さん:2014/01/02(木) 12:19:56.54
>>943
20点赤点
946日本@名無史さん:2014/01/02(木) 12:23:15.14
万二千里を帯方郡から邪馬台国までの距離、
日数も帯方郡から邪馬台国までの行程、

このように考えても南部九州になる。いずれにしても南部九州こそ本命。
947日本@名無史さん:2014/01/02(木) 13:05:06.15
>>946
伊都國には「丗有王 皆統屬女王國」「魏代に王がいた、(倭の国は)皆、女王国に統属す」と書かれており
卑弥呼は伊都國にいて邪馬壹國全体を治めていたと書いてある。
南部九州とかパーですか
948日本@名無史さん:2014/01/02(木) 13:07:47.87
>>944
>七千里 + 千里 +(四百里×2)+ 千里 +(三百里×2)+ 千里 + 五百里 + 百里

今年も苦心の策でがんばるか、ごくろう。 とはいえ春なのに新鮮味に欠けるなあ。
949日本@名無史さん:2014/01/02(木) 13:17:02.14
>>947
伊都國には「丗有王 皆統屬女王國」、すなわち「(かって)伊都国には代々の王がいた、(その王たちは)皆、女王国に統属していた」と書かれており 、
卑弥呼は女王の都のある邪馬台国にいて倭国全体を治めていた」と書いてある。
北部九州とかパーですか
950日本@名無史さん:2014/01/02(木) 13:22:23.21
>>947
そんなアホな読み方をする学者はいないよ。そこに書いてあるのは、伊都国が女王国に
統属していたということだ。伊都国と女王国は別の国。伊都国は郡から万五百里、女王国は
郡から万二千里。
951日本@名無史さん:2014/01/02(木) 13:28:52.28
>>947
小国の伊都国が、戸数数十万の邪馬壹國全体を治めていたという書き方はない
また、小が巨大国を支配するというような統治形態も考え難い
952日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:00:21.72
>>947 はあまりにアホすぎる。
読めもしない文をこねくりまわすんじゃないよ。
今までに何回も言われてるだろが。
953日本@名無史さん:2014/01/02(木) 14:34:42.24
>>914
その映画に賛成。宇佐を邪馬台国とし、倭人伝の距離・日数・戸数を10分の
1とすると、十分作れるだろう。ただし、卑弥呼は相当なババアだから大島優
子ちゃんは可愛そう。市原悦子がいい。優子ちゃんを出すなら卑弥呼の若い時
としてダブルキャストにしたら良い。能年玲奈ちゃんの台与は絶。こんな映画
をぜひ見たいなあ。
954大和 田直木:2014/01/02(木) 14:54:29.29
>>947-950
伊都國には「丗有王 皆統屬女王國」、すなわち「伊都国には(元倭王である)代々の王がいた、
(その王たちは)皆、女王国に統属していた」と書かれている。

卑弥呼は女王の都のある邪馬台国にいて(狗奴國を除く)倭全体を支配していた」と書いてある。
卑弥呼の時代には、未だ倭國は成立しておらず、卑弥呼は倭の数ヶ国をたばねる王であった。
女王が直接支配したその数ヶ国(4ヶ国)が女王國である。

伊都國をはじめ残り25ヶ国には一大率を派遣監視して、卑弥呼は統治していた。
大陸交易を握る一大國が一大率を派遣し女王國のパートナーとなっているのである。

一大國三千許家は對海國をも含め対馬海峡を支配していたのである。
一大國が対馬海峡を支配することにより、
旧倭奴國等の福岡平野の勢力は半島への航路を失っていたのである。
955日本@名無史さん:2014/01/02(木) 15:00:08.90
「(元倭王である)」

こういう勝手なことを言うなってのが分らないのか?
畿内節スレに逝け。
956日本@名無史さん:2014/01/02(木) 15:07:54.40
>>950
畿内説の学者がむりやり「丗有」を「代々有り」と訳したのを
用例を調べもせずにそのまま使ったのが間違いのもと
「丗有」を三国志魏書内で調べれば殆どが「魏代に有り」の意味で
「代々有り」の意味と解釈される場でも魏代内で代々2〜3代のこと
調べれば直ぐに分かるよ
「丗有王 皆統屬女王國」さえ正しく訳していれば何の問題も無かったのだ
全ての矛盾の起こりは「丗有王 皆統屬女王國」の誤訳に始まっている。
957日本@名無史さん:2014/01/02(木) 15:27:21.36
三国志魏書内で用例を調べると
「丗有」の多くの意味は「魏代に有り」で単数の場合が多いが
2〜3代の場合もあるので 「代々有り」と訳していい場合もある
「丗有」の基本的な意味は「魏代に有り」です
958日本@名無史さん:2014/01/02(木) 15:54:27.27
>>951
>小国の伊都国が、戸数数十万の邪馬壹國全体を治めていたという書き方はない
>また、小が巨大国を支配するというような統治形態も考え難い

邪馬壹國を日本国とすると伊都国や奴国は山城の国や武蔵の国のようなもの
小が巨大国を支配するというような統治形態ではない
959日本@名無史さん:2014/01/02(木) 16:19:51.88
960日本@名無史さん:2014/01/02(木) 16:46:40.80
文を流れとして読めないなら用例など調べても何の役にも立たない。
961日本@名無史さん:2014/01/02(木) 16:53:37.09
>>960
>文を流れとして読めないなら

何のこっちゃ?
962日本@名無史さん:2014/01/02(木) 16:59:37.70
お前はアホってこと
963帯方郡太守:2014/01/02(木) 18:28:40.80
倭人は大宰府に居て、倭種は大和に居て倭人伝を読もうとするから有らぬ方向へ向う
そもそも糸島なぞに伊都国はなかった、郡使の常駐所もなかった
帯方郡役所の物見台に立ち、
東南大海中の筑紫島を見下しながら倭人伝を読めば、伊都国等は佐賀平野にあったと明白に読みとれるであろう
964日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:01:45.80
伊都國や邪馬壹國ってどこですか?
ttp://up.mugitya.com/img/Lv.1_up35142.jpg
965日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:08:09.25
最後の手段は天皇陵発掘しかなさそうだな
もちろん俺は反日左翼ではないし
必要最小限にすべきだが
966日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:11:27.17
>>953
卑弥呼は晩年まで大島で十分w
壱与については相当な脚色がいるな。
昔読んだ小学舘の歴史漫画では
父を狗奴国に殺されたとか独自解釈が出てきていた。
967帯方郡太守:2014/01/02(木) 19:19:21.83
>>964
こりゃー、九州の水田地帯じゃろもん?
糸島・博多・筑豊周辺がどげんしたつね〜
熊本平野や、人吉盆地や、宮崎平野を見てみんね〜
968日本@名無史さん:2014/01/02(木) 19:41:06.44
重要四国 邪馬壹國 伊都國 奴國 狗奴國
奴国しか定まってなく
熊本の立ち位置がさじ加減ひとつで全然変わるね〜
969日本@名無史さん:2014/01/02(木) 21:10:55.03
実は邪馬台国は東海だったとかになって
九州説、畿内説全員が憤死する姿を見てみたいは
970日本@名無史さん:2014/01/02(木) 23:47:18.46
佐賀から南へ水行してどこへ行くか? そんな単純な話しが分からないとは
不思議だなあ。
971日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:09:00.48
伊都国が佐賀って前提が傍流
伊都国=糸島が本流
佐賀を掘って出先、出張所、っぽい何かを出せばこの界隈は大騒ぎよ
972日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:10:06.38
相変わらず知識もないのに妄想する、トンデモ論ばっかりだね。
973日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:16:14.68
伊都国=糸島はこれまでいくら検討してもその先がうまく行かなかった。
糸島説が成立しないことは証明済みというべきだろう。
佐賀説は倭人伝どおり。しかも、一番合理的だ。末盧国で上陸した理由も
南水行の意味もすっきりと分かる。
974日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:31:07.20
天孫って、



由来の農耕と漁業の水辺の民のことでしょ
灌漑と農業の技術を持っていて、鬼道と結び付いて残土で巨大古墳を作った
975日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:41:41.00
国譲りとは・・・
一般的には天孫族と交渉した大国主命が 出雲大社=大国主命 であるため
出雲と天孫族が国を交換したという誤解や 天孫族が交渉した出雲こそ日本の祖であると勘違いされてきた。

しかし真実はなんの事はない。
大国主は博多湾岸で「漢倭奴国王」の金印をもらった当時の倭国・筑紫福岡の王統である。
倭人伝:「邪馬台国の一大卒である伊都国(倭奴国)には代々王がいた。」
大国主は代々(天孫族や女王卑弥呼が活躍する以前)筑紫福岡・倭国の王統である。
もちろん大国主命は筑紫福岡を本拠とする安曇君(志賀海神社)・宗像君(宗像大社)等々の豪族の祖先神である。
国譲りとはその大国主が治める筑紫(博多湾岸)を譲れと天孫族が大国主に迫った話のことである。
筑紫・倭国を追われた(追放された)大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
 そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい出雲に移住(追放)された。

だから出雲は出雲大社の本殿が筑紫・西を向き大国主の筑紫福岡と同じ「銅矛銅剣文化」であるが、
後の「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった天孫族や邪馬台国の頃の筑紫の文化(倭国の文化)とは無縁である。
何の関係もない宮崎はもちろん「銅矛銅剣文化」すら無縁である。

この大国主から繋がる筑紫の神々の天孫族による支配を正当化するために古事記や筑紫神話があると言うこと。

ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。
魏志倭人伝:「男子は大小となく入れ墨をしている。」

また天孫族が元々いたのは志摩国、
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

このように、天孫族・倭国・邪馬台国等々の日本の発祥地は博多湾岸である。
976日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:42:14.47
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg
「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg
綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界・元海もとうみ)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg
卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。
977日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:44:11.24
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
 魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
 後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」

元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
 唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
 倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
 今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」

旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
     日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
     筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」

このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。

「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
978日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:45:04.42
〜まとめ〜

「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」

(邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(すぐ北の)斯馬国から福岡平野へと連なる)

倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
    その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
    その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」

何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか??
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面(上陸地点より北に行く)にも伸びていると魏使の頭にはなかった。

魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」

この倭人伝の記述にあるようように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
※(北に向かう=朝鮮半島に戻る=おかしい)←この事よりあえて東南と記した可能性もある。

魏使は帯方郡よりずっと南下してきた故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか自分達が北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。

大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。
979日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:45:49.31
伊都国(倭奴国)と位置関係

☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
  現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。 
  それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。

☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
  福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
  「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
  これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
  自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
  これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
  元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。

☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
  伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
  現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
  今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
  福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
  要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
  当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
  基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
  (北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)
980日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:52:49.43
舟には乗り換えないって
981日本@名無史さん:2014/01/03(金) 01:32:40.80
>>924
ありがとう。
資料館もできてるのね。面白い出土品ないかな?
投馬国の官のミミとかミミナリとかは宮崎県の耳川とか関係
ありそうですが?さて、どうかな?
982日本@名無史さん:2014/01/03(金) 02:15:37.00
議論が成り立たず各人が主張を述べ立てるだけの
yahooに似てきたな
983日本@名無史さん:2014/01/03(金) 08:15:09.51
そりゃ基地外の巣窟にかわりがないからなw
984日本@名無史さん:2014/01/03(金) 08:28:29.55
コピペ魔は yahoo からの乗り換え組かい
985日本@名無史さん:2014/01/03(金) 08:45:06.81
コピペ魔はバイトだろ
986日本@名無史さん:2014/01/03(金) 08:54:58.42
九州王朝もバイトの時代か
987日本@名無史さん:2014/01/03(金) 08:59:08.24
邪馬台国とか素人のキチガイヲタばかりのジャンルだしな
988日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:05:10.90
>>986
日本語不自由なのがバレちゃマズいんだろうw
989日本@名無史さん:2014/01/03(金) 14:48:22.12
方角の勘違いだ、距離の勘違いだといえば、邪馬台国をどこにでも比定できる。
しかし、そんな話しは、誰も納得しないね。
990日本@名無史さん:2014/01/03(金) 16:00:32.73
方角だ距離だそんな話は聞きあきたわ。江戸時代から延々してるしアホかと。
991日本@名無史さん:2014/01/03(金) 16:41:49.07
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/hougyonenn.gif

古事記と日本書記の天皇代位の乖離、よそのスレから借りてきました。
古事記のピンクラインをそのまま伸ばすと、初代の天皇は250〜300年頃になります。
992大和 田直木:2014/01/03(金) 16:56:24.30
倭人伝は、方角と距離で読むべし。

方向は八方位であるから、その誤差は最大22.5度(50%)以内。

距離は「里」で表されている。その誤差は最大50%以内。

「水行十日」「水行二十日」「陸行一月」は距離を表すものではない。
993日本@名無史さん:2014/01/03(金) 17:50:47.26
日数は距離を表す一つの方法だ。里数がよく分からないときに日数で表す。
それを否定してはしょせんトンデモに過ぎない。
994日本@名無史さん:2014/01/03(金) 18:07:07.21
倭人伝は、郡から邪馬台国女王之都までの距離里数を確実に把握している
距離不明だから日数を用いているのではない
995大和 田直木:2014/01/03(金) 20:11:01.62
>>994

× 倭人伝は、郡から邪馬台国女王之都までの距離里数を確実に把握している

○ 倭人伝は、郡から女王國までの距離里数を確実に把握している


女王國の中の邪馬台国の中に女王之所都(女王の城柵)があるのだ。
996日本@名無史さん:2014/01/04(土) 05:01:22.99
邪馬台国は九州にあった37
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1388779155/l50
997日本@名無史さん:2014/01/04(土) 08:03:53.07
>女王國の中の邪馬台国の中に女王之所都(女王の城柵)があるのだ。
これはその通り。少し分かってきたか。

あとは伊都国から放射式だということをきちんと理解できればいいのだが。
998日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:00:04.39
だから、女王国の中の邪馬台国の中に女王之所都はどこだ?。東のすぐの所に
海が有り、向こうに裸国・黒歯国が見えそうな所はどーこーだ。
999日本@名無史さん:2014/01/04(土) 09:09:04.43
郡治〜狗邪韓国〜対馬国〜一支国〜末盧国〜伊都国〜奴国
七千里 + 千里 +(四百里×2)+ 千里 +(三百里×2)+ 千里 + 五百里 + 百里
1000日本@名無史さん:2014/01/04(土) 10:09:14.72
うめ
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