日本の天皇というのは独特なもので、いわゆる万世一系ですが、
長い歴史のあいだには、いつそのまま亡びても不思議はないほどの
危機を何度も経験しています。
天皇の地位が力で奪えるものであったなら、藤原氏、源頼朝、北条泰時、
織田信長、豊臣秀吉、その他日本史の上にあらわれた実力者たちが、
いつでも天皇に代わることができたでしょう。
しかし実際には二千年近くのあいだ一度もそんなことは起こらなかった。
これは日本の不思議であり、日本史の不思議です。
ヨーロッパだったら王を倒した者はそのまま王になる。
そのため近世のはじめまでは血腥い戦争の連続だった。
日本ではむしろ相争う権力者の両方が天皇をかつごうとする。
なぜか?
それを実際の歴史に即して考えてゆくのがこのスレのねらいです。
2 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 16:25:25.69
安康、崇峻、用明、孝明、睦仁(大室寅之祐の入れ替わりで殺害されている)
天皇は案外殺されている、天皇家の歴史は醜い権力争いの血まみれの歴史
大室信者ってまだ絶滅してないのか
4 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 16:44:11.79
5世紀までは将来天皇家になる資格のある王のようなものが日本の各地にいて、
6世紀になるとはっきりといまの天皇家が超越的な姿をあらわしてくる。
天皇でいえば継体天皇ぐらいからだろ。
しかしこの時代はまだ内乱続きだから天皇権が安定したというわけではない。
5 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 17:01:20.49
6世紀の半ばごろから仏教が入ってきてるが、これを受け入れるのは天皇家としては
かなりの決断だったと思うな。
天皇というのはもちろん政治的権威だけれども、それ以上にまず宗教的権威、
要するに神主の親玉でしょ。
大昔はとくにそうだったと思う。
そういう人が異国の宗教を許すというのは自分の価値の根本的な転換だからな。
今上陛下がクリスチャンになるよりもっとたいへんなことだったろうと思う。
まあ、今上陛下がクリスチャンになることはないけど。
だからすぐには受け入れていないよ。
「元興寺縁起」という説話によると、仏教はだいたい530年代ごろに、
百済の王室から日本の王室に伝えられたが、日本の王室はしばらく受け入れないで、
590年ごろやっと受け入れられた、となっている。
とすると半世紀くらいは公認されないわけだ。
もちろんこれは伝説(縁起)だから1つの手がかりに過ぎないわけだが、
はじめ、蘇我稲目が仏教を入れようとする。
ところが欽明天皇も敏達天皇も日本としては公認できないといって拒絶する。
そこで稲目はプライベートに信仰するわけだ。
ところが稲目の息子、馬子の代になると蘇我氏も勢力が大きくなったから、
公然と禁をやぶって585年、蘇我馬子が百済から伝わった弥勒像をまつるために
大法会をもようした。
そこで敏達天皇は怒って、いわゆる破仏を行ったということになっている。
この説話を信じるとすると、結局、崇峻天皇のとき飛鳥寺をつくりはじめ、
推古天皇のとき聖徳太子が仏教を国教化するまでには、大へんな抵抗があったんだと思う。
朝鮮を調べてみても、たとえば新羅の説話によると、はじめは仏教が迫害され、
法興王という人が出てきてはじめて公認された、ということが述べられてある。
そこでも抵抗はあったに違いない。
8 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 17:50:11.04
蘇我氏が宗教的な存在としても邪魔であった天皇を倒さずに立てていたのか、
ということが理解できない。
馬子は公然と政治的な対立から崇峻天皇を暗殺しているぐらいだからな。
そこまでやった男がどうして自分で天皇にならず、推古天皇を立てたのか説明できない
9 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 18:08:46.86
天皇一族は渡来人であり、日本列島にいた原住民を制圧して一つにまとめた。
神道は西洋宗教を日本列島に持ち込んだ渡来人(天皇一族)が、
原住民の自然崇拝とドッキングして作り上げていった神学体系ということになる。
徐福 : ユダヤ教の儀式と風習、旧約聖書を日本列島に持ち込んだ。
秦氏 : 原始キリスト教(ミトラ教の一派)と新約聖書を日本列島に持ち込んだ。
蘇我氏: ミトラ教の中でも東洋グノーシス主義の流れを汲む仏教を輸入
原始キリスト教とグノーシスの流れを汲む仏教は本質の部分(ミトラ教)では共通する。
カトリックやプロテスタントは頑なに認めないが、
イエスキリストはエッセネ派(ミトラ教の一派)に属してグノーシス主義者だった。
今のキリスト教はイエスの思想からかけ離れたミトラ教の模倣に過ぎない。
587年に物部守屋が蘇我馬子と争って、馬子に滅ぼされる。
これは天皇家としては危機になりえたんだろうけどな。
天皇の軍事指揮官であり、祭祀的な天皇の機能にもつながる一面をもった、
それ故に仏教にも反対していた物部氏が、自分の目の前で倒されてしまったんだからな。
ほんとうなら、天皇にとっては右手をもぎとられたのも同じだ。
ところが蘇我氏もそのころには天皇家と外戚関係を結んでいる。
聖徳太子でも誰でも、そのころの皇太子はみんな広い意味で蘇我氏一族なんだから、
皇室全体としてはどうということはない。
そのへんが、天皇家のしたたかさの最初の証明だったといえる。
11 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 18:41:42.00
要するにそのころになると日本の国としてもそろそろ仏教が必要になってきた。
東アジアの情勢をみると日本はいつまでもまとまりのない国のままではいられない。
東アジアのどの国もがそうであるように、中央集権国家を成立させなければ
これらの国からの脅威をまぬがれない。
しかし、それぞれの部族がそれぞれの神様を持っているようでは、
中央からの威令は行われないから、この際、部族信仰を超えた普遍宗教である仏教を興隆させることにしよう。
こういうきわめて政治的な理由で、仏教の本格的な受け入れが始まったんだと思う。
これが聖徳太子の時代だ。
12 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 18:43:29.23
蘇我馬子 → 我蘇りし馬屋の御子
厩戸皇子 → 厩で生まれた御子
聖徳太子 → 聖人で徳の高い太陽の御子
冠位十二階 → 黄道十二星座、十二支族、十二使徒
聖徳太子の逸話(十人の声を聞き分けた)→失われた十支族をまとめる長、レビ族
確実にユダヤ教と原始キリスト教(ミトラ教、太陽神信仰)の影響を受けている。
イエスはエッセネ派(ミトラ教の一派)に属してグノーシス主義者だった。
原始キリスト教はその実態はミトラ教で、グノーシス主義と融合していた。
従って蘇我氏がグノーシス主義の流れを汲む仏教を日本に広めようとしたのは、
そもそも神道自体がミトラ教の流れを汲んで作られているので、何ら不思議ではない。
13 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 18:49:55.31
イエス本来の教え(イエス自身の思想)であるグノーシス主義を、
日本に広めるために仏教(東洋グノーシス主義の流れを汲む)を持ち込んだ。
イエスはユダヤ教の一派ではないし、
イエスの思想はローマカトリックが始めたキリスト教とも本質的に関係がない。
だから当時主流だったが後に異端として駆逐されるグノーシスの生き残りである、
東洋グノーシスを日本に持ち込んだ。
東洋グノーシスにはゾロアスター教、マニ教(やがて滅んだが)など様々な分派があったが、
日本には仏教として伝えられた。
儒教も当然入ってきている。
むしろ入ってきたのは仏教より儒教の方が早いんじゃね。
ただその入り方が、中国の学術文化と一緒にジワジワと浸透してきたために、
儒教だけをとり上げては論じにくい面がある。
この儒教もつきつめると天皇制とは相容れないんだよな。
天皇制というのは世襲でしょ。
儒教思想は帝王に徳がなければ世襲を許さないからな。
仏教のように具体的な抵抗の例をあげることはできないけど、
とにかく本質的には性が合わない。
そういうことはあったけど、聖徳太子の時代になると憲法にしても冠位にしても、
基本的には儒教だよな。
推古朝の政治は儒教の政治だったとさえ思えてくる。
15 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 19:10:51.95
聖徳太子の時代には仏教も儒教も国家をつくるための、
あるいは天皇の支配を高めるための手段にすぎなかった。
本質の相違はこの際問題にならなかった。
そういうことでしょ。
16 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 19:12:27.22
和を以って尊し・・・なんかは儒教的だな。
日本に入ってきた仏教は大乗仏教の方だから、
儒教の影響を受けていても何ら不思議ではないからね。
というか儒教と大乗仏教が同時に輸入されたと思える。
いずれにしろ神道や皇族の作り上げた宗教観というのは、
渡来人が日本列島に持ち込んでごちゃ混ぜにした宗教観ってことだ。
唯一、日本にオリジナリティがあるとすれば自然崇拝しかない・・・orz
自然崇拝は世界どの地域どの民族にも普遍的にありえた原始宗教の基本だからね。
アマテラスなんてのは日本オリジナルの神ではないwwあれは太陽神ミトラの成れの果て。
ところで太子と馬子との関係が興味深いな。
印象批評的ないい方するけど、馬子の方は政治的権力をにぎって実際政治をやっている。
太子はちょっと政治的中枢から離れて斑鳩宮に住んだりして、精神的権威として立っている。
そうすると馬子は覇道、太子は王道を行なっているわけで、二人は分業関係にあるような気がする。
そして太子の歩んだ道は、後世の天皇の道になるような気がする。
権力でなく権威で生きていくスタイル。
天智天皇とか天武天皇のような人は、日本史の中でも例外的な、中国皇帝に近い人だけどね。
そうすると、聖徳太子のあり方というのが、日本の天皇のあり方のモデルとして、
崇められたという一面もあるのかもしれない。
太子信仰というものもあったしな。
18 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 19:40:26.07
蘇我馬子 → 我蘇りし馬屋の御子
厩戸皇子 → 厩で生まれた御子
聖徳太子 → 聖人で徳の高い太陽の御子
冠位十二階 → 黄道十二星座、十二支族、十二使徒
聖徳太子の逸話(十人の声を聞き分けた)→失われた十支族をまとめる長、レビ族
実像はどうであれ、少なくともネーミングはユダヤ&キリスト教そのまんまwww
19 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 20:09:42.93
天智天皇という人は、天皇家にはめずらしいパーソナリティの人だな。
何か外国人の血でも入っているんじゃないかと思うぐらいに意志的で厳しい人だ。
まず蘇我馬子の子蝦夷とその子入鹿を退治した。
これは改新のために計画したクーデターだから論外だが、
この入鹿暗殺のときに味方した倉山田石川麿も後に邪魔になると処刑したし、
有馬皇子もかなり残酷に殺している。
目的のためには手段をえらばないところがある。
一方古代人にはめずらしい組織力があり、理智的判断も持ち合せている。
織田信長、豊臣秀吉の古代バージョンだな。
歴史の曲がり角には、こういうタイプの人が出てくるもんだ。
入鹿は父蝦夷以上に権力欲が旺盛で、人民を使って自分の生前の墓をつくったり、
天皇だけが使う陵の名でそれをよばせたり、従兄の古人大兄皇子の擁立をたくらんで
山背大兄王を殺したりして、皇極女帝をしのぐ勢いだったからな。
滅ぼさざるを得なかっただろうな。
これを亡ぼして、新しい体質の国をつくるよりほかにないと考えられたのだろうな。
中大兄皇子は孝徳、斉明両天皇の皇太子をつとめ上げるんだけど、
その間17年もあった。
聖徳太子の方は30年間太子のままだったから、これにはおよばないが、
いずれにしても年をとった皇太子であった。
中大兄がすぐ天皇になれなかったのは、やっぱり聖徳太子の例にならって、
皇太子摂政という形式の方が政治がやりやすい、という知恵がそのころの
宮廷人にあったんだろうな。
まだあとにも続くな、この伝統は。
若いときは自分でやる。
自分が象徴的地位に立つと人にまかせる。
一種の隠居だな。
22 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 21:37:52.45
なぜ聖徳太子は権威で中大兄は権力になったか、
という問題もそれで説明がつきそうだな。
中大兄は蘇我氏を倒した。
そして鎌足を蘇我氏の地位につけなかった。
もしつけていれば、聖徳太子が権威でその下に権力の馬子がいたように、
自分が権威になって、その下に鎌足を権力にするという図式が成立する。
ところが中大兄は天皇家の安泰を計って、その関係を成立させまいとしたわけで、
そうなると自分みずから権力をとらなければならない、そうすると、孝徳天皇を立てて
その下に自分がつく方が自然な形になるんだな。
23 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 22:42:47.35
謚号に『徳』『聖』等が入る場合は貴人が非情に不味い死に方(非業の死)をした人の霊魂が荒び祟り成すのを 畏れた場合に))贈られるのが不文律。
24 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 22:50:23.66
斑鳩の法隆寺(蘇我本宗家の邸宅(宮居あと))辺りは日に向かい東西南北他の神霊結界の中心、正に王者の都するに相応しい王城の地
桓武天皇は天智以来、奈良時代を通してそうだった古代型天皇という感じの強い人だな。
平安京という立派な宮殿をつくったが、宮殿をつくるというのは自分の威厳をしめすための手段だ。
その意味でも最後の古代型天皇で、以後新しく宮殿をつくる天皇は、日本にあらわれない。
嵯峨天皇になるとだいぶ桓武天皇と違ってくるな。
あまり俗事が好きじゃないというか、父親の桓武天皇のやり方に反発を感じていたのかもな。
桓武天皇は武断の人で古代帝王という趣だったからな。
蝦夷征伐も大動員してやってるし。
これに批判的で自分は文でやるんだ、その際唐文化を充分輸入して唐風でいくんだ、と思ったかもしれない。
聖徳太子は実は天皇で、あの時代は南北朝だった、みたいな説を上げてた人がいたけど意外とつじつまが合ってて面白かった。
隋の史書の記述との一致とか
28 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 00:04:55.21
あのころの天皇をみると兄弟間の争いが烈しくて、ある天皇がなくなると、
その弟と皇子が皇位を争って弟の方が殺されるというケースが多い。
そういう皇位争いが嵯峨天皇はイヤになっていたということもあるだろうな。
実際、嵯峨天皇は大家族主義で、皇子たちを仲良くさせて自分の在世中は争わせなかった。
そして自分から子供に姓を与えて、さかんに臣籍降下させている。
こんなことも桓武天皇だったらしなかったろうな。
臣籍降下というのは、平たく言えば皇族の口減らしでしょ。
いくら天皇家だって、皇族が無制限に増えたらたまらないだろ。
臣下におろされると、たとえ皇族出身でも官職につけることができる。
皇族のままで臣下とおなじ役人になって出勤してくるのはまずいもんな。
天皇の威厳が保てなくなるからな。
戦後はともかく、戦前までは宮家の殿下がサラリーマンになったらおかしいという雰囲気はあったんじゃね。
まあ、それと同じ感覚でしょ。
30 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:51:51.61
皇室の立場で権力本位に考えてみると、太政大臣とか、
そういう枢要な地位は天皇の次男や三男でガッチリ固めておく方が、
得策だという気がするけどな。
そのほうが天皇家に権力を集中しておけるじゃん。
奈良時代のごく初期まではそうだったんだよ。
ところが、平安時代に入ると親王や皇孫が大臣になるのは
おかしいという考えになって、皇子たちは臣籍降下させてから
官職につける、ということになった。
血なまぐさい皇位争いが続くので、これを避けるという意味もあった。
宇多天皇になってからだが、やっぱり自分の息子を源氏におとすんだな。
というのは、自分の息子には藤原氏の血が入っていないので、
もし皇子のままでいて、将来皇位を主張するようになると藤原氏に対して
相すまん、という意味からだ。
これは、宇多天皇が藤原氏のおかげで皇位についた、という経緯が原因しているわけだけどな。
臣籍降下と言えば「源氏物語」だな。
ずいぶん思い切ったフィクションだと思うな。
光源氏が天皇の女御と密通してできた子供が天皇になるんだから、
大胆不敵なストーリーだよな。
戦時中よく発禁にならなかったな。
軍部が不勉強だったのかな。
何しろ万世一系を問題にする人にとっては、大へんなことだろ。
光源氏も男系の皇統に属する人だからまあ、多少はね?
当時、「源氏物語」に似たような話が実際にあったしな。
在原業平は藤原高子と関係があったといわれている。
高子は清和天皇のお后になって、次の陽成天皇を産んでいる。
そうすると高子が業平の子を身籠っていないにもせよ、かなり「源氏」と似た話だよな。
そういえば、業平は平城天皇の孫だったな。
自分は皇族であるにもかかわらず、非常に不幸だという気持ちをいだいて東下りする。
これがそのまま「伊勢物語」になる。
35 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 21:28:21.44
臣籍降下された当人は、身の不幸を感じさせられただろうな。
まあ、文学というのは、何か不遇なものがないと生れないし、
だいたい順調に出世した人が、文化的貢献者になれるわけがないよ。
それではあんまり虫がよすぎる。
嵯峨天皇時代の代表的な唐風文化といえば、これはもう、空海・最澄だろ。
この二人の天才は、おもしろいほど対照的で、日本における指導者の二つのパターンの原型になっている。
簡単に言えば、最澄は戦闘的でマジメ人間、空海は世渡りのうまいソフトな人間だ。
最澄は法相宗とカンカンガクガクの議論をたたかわせるし、本山の延暦寺は比叡山に置いて、きびしい修行をするわけだ。
一方、空海の真言宗は政治的な動きをする。
わざわざ京都から遠く離れた高野山に道場をかまえながら、実際には高雄の神護寺を足場に宮廷社会の中に着々と地歩を築く。
37 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 00:02:50.14
たしかに対照的な二人だが、これは性格的な違いより、天台と真言、
つまり、戦闘的な法華経と宇宙包容主義の大日経とのちがいじゃね。
まあ、禅宗でいうと、道元と栄西だな。
道元は福井の永平寺にこもり、栄西は貴族のご機嫌をとって貴族社会に
くいこんだわけだ。
遣唐使で送り出したのは桓武天皇だっけ
39 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 00:13:17.26
桓武天皇までは、早良親王の例でみるように、
不遇な皇子が政治的に動くけど、嵯峨天皇以降は、
その不満のハケ口が文学や風流にむかう。
このへんの時代の相違が面白い。
もうこのころになると、不満を持った親玉を、後押ししてくれる有力な氏族がいなくなっちゃったってことでしょ。
奈良時代には、大伴とか佐伯という豪族がまだまだ強大で、藤原氏に十分対抗できた。
ところが時代が平安にかわるころはすっかりおとろえて、藤原氏しか残らなかった。
その藤原氏に最後の挑戦を試みるのが大伴家の子孫の伴善男だ。
平安京応天門が炎上すると、伴善男は左大臣源信の仕業だと訴えるわけだが、
太政大臣藤原良房のために伴善男のざん訴だという決定がされ、源信は無罪、反対に伴善男は遠流になった。
それに共犯ということで紀豊城も流罪ときまった。
この結果、良房は臣下ではじめての摂政になり、古来の名族大伴・紀両家は政界での勢力をすっかり失ってしまう。
応天門の変は、藤原氏繁栄の第一歩で、このあたりから皇室といえども、藤原氏に対しては手も足も出なくなってしまった。
41 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 12:30:40.87
阿衡事件というのもあったな。
宇多天皇が即位するとき、藤原基経を関白にしようとして、橘広相に詔を起草させたところ、
「阿衡に任ず」とあったため、基経はつむじを曲げちゃったという事件(877)。
要するに「阿衡」というのは名があって実がないことじゃないかとゴネた。
結局、天皇が勅書の非を認める宣命を出して、事件は解決するわけだが、
これは藤原氏の天皇に対するイヤガラセだろ。
宇多天皇が即位する時、藤原氏がイチャモンをつけたということは、象徴的なことで、
最初にガーンと一発くらわせたようなもので、勝負はこれで決まった。
宇多・醍醐の治世といえば、延喜天暦の治といわれて、後世の人、
とくに天皇親政を標榜した人たちの理想になってるけどな。
後醍醐天皇の建武中興の政治スローガンが「延喜天暦の治にもどす」じゃなかったっけ。
しかし、実際のところ親政どころか、権力を藤原氏にもぎとられた時代だったというわけだ。
まあ、それはそれとして、延喜天暦の治はいい時代だと思うけどね。
つまり、桓武天皇までのような古代帝王の親政ではなくて、
天皇自体はむしろ権力から解放されて風流の世界に入り込んでいく。
同時に文化が国風文化になって落ち着いていくんだからな。
44 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 23:17:56.09
藤原氏ってのは実に興味深い家柄だな。
天皇家は万世一系だけどな、藤原氏も万世一系なんだよ。
藤原氏は決して地方勢力の上で成長したものではない。
藤原氏が平安時代に独占的になるのは、
天皇家が古代において蘇我氏をはじめ対等の勢力がいっぱいあった中で頭角をあらわしていったのと同じように、
佐伯氏とか大伴氏を掃討して生き残ったのだと思う。
天皇家の成長過程と、藤原氏の成長過程が同じようなものだということはたしかだ。
しかし常に黒幕でいたいという家柄なんだな。
45 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 08:16:38.96
南北朝時代がすごい
天皇家は勢い余って絶滅させられていたかもしれない
南北両朝揃って人質になっていたことがあるんだから
>>44 藤原氏自体が大きいし、また天皇家と同じように権力を持っていたからね。
だから地方の物持ちなども、やっぱり藤原氏は中央で権力を持っているから、
自分の地位を中央で認めてもらうには、藤原氏についた方がよいということになって、土地を寄進したりする。
またそれが藤原氏の勢力を強くするということで、シーソーゲームのような関係だな。
48 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 18:28:05.82
藤原氏が強いとなったら、地方の金持ちたちはその名声をきいて、土地を寄進するようになるわけか。
ところで、日本という国は、へんぴな田舎にまで中央の情報が伝わっているのは驚きだな。
都会の華やかな文化とか、そこに働く人は尊敬すべきであるという情報が、北は陸奥から南は九州まで通じている。
テレビも新聞もない時代にどうも奇妙な気がするな。
業平が美男子で、その上路用のカネをたっぷり持っていたからかもしれないが、
「伊勢物語」を読むと、都のやんごとないお方で教養のあるお方だから、尊敬するという考えがちゃんとあるもんな。
49 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 18:45:55.13
宇多天皇あたりからかな、人の祟りをやかましくいうようになったのは。
奈良時代の人間の心は、伝説と神話の世界にさまよっていた印象があるけど、
平安時代になると、疫病が蔓延するのも、ある大臣が不慮の死をとげるのも、
みんな怨霊の祟りのせいになる。
自然や神ではなく、人間を怖れるようになったということだな。
菅原道真のあと、急速に国風文化がおこってくるな。
政治的には絶対天皇制から、摂関政治へ、
文化的には唐風から国風へ、それぞれ転換する基礎をきづいたのが、
宇多天皇の時代だったと言えるんジャマイカ。
51 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 21:29:02.19
その摂関政治と武家政治とを結ぶ、ちょうどその中間に院政という特殊な制度がある。
その代表として白河法皇と後白河法皇がいる。
院政をはじめたのは白河上皇だ。
白河天皇が、当時声望高かった実弟の三宮に皇位を譲りたくないという強い執念が、院政開始の直接の動機だった。
そのためわずか8歳の善仁親王を強引に皇位につけ、上皇でありながら、政務を執った。
しかし政治的独裁者ってのは、後継者をきめないのが常でしょ。
それによって、後継者たちに忠誠を誓わせることができるからな。
もし、自分の地位を脅かす者がいれば、たとえ自分の息子でも容赦なく抹殺する、
これが独裁者のやり方だと思うんだが、白河天皇がやったことはこれとはまったく逆なんだよな。
そのあたりが疑問だ。
52 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 21:43:48.04
>>51 院政自体は江戸時代まであったんだがな
院政が否定されたのは明治時代
そもそも明治以降は天皇の生前譲位が禁止されたから上皇不在
今の天皇って
南北朝時代の時に正式な天皇が南朝って
されたからちゃんとした血が入ってないとか
なんで大覚寺統の傍流に過ぎない南朝が正統扱いされてるの?
天皇は政治的独裁者どころか、政治を主宰している人とはいえないでしょ。
まつりごとという言葉で表わされるように、政事と祭事の両方がまざり合っているのが日本の天皇の本質だ。
古い時代にさかのぼるほど祭事、つまり宗教的な色彩が濃い。
早い話が、古代の天皇はシャーマンの親方みたいなもんだ。
だからこそ、現代まで続いてきたんで、もし天皇が西洋風の統治者だったら、ずっと前に滅ぼされちゃっただろうな。
現在でも天皇の本質は、シャーマンの親方にあるわけで、実際、
天皇のいちばん大切な仕事は宮中の賢所で重要なお祭りの主宰をすることだ。
そういう観点から院政の意味を考えると、白河院は伝統的なシャーマンの親方から、一歩、
人間臭い政事の世界へ足を踏み入れたくなったといえるんじゃないかな。
シャーマンの親方の地位は、堀川天皇に譲ったでしょ。
祭事の主宰は、天皇家の血筋でありさえすれば、8歳の子供でも一向に差しつかえがない。
しかし政事の責任者、いまの言葉でいえば元首ということになると、8歳ではどうしようもないないからな。
つまり、天皇が娑婆臭いところへ下りて来た。
これが院政の意味だと思う。
そう思って見ると、白河院以後、およそ100年間の院政時代に現れる上皇は、つき合い易い風貌を持っているような気がするよw
57 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 23:30:35.79
天皇というのは、つねに政治以外のもう一つの精神的権威であって、
これが一貫して続いていて、一方、それに対して権力者がつぎつぎと交代していく、
これが日本の政治の原型だと思うけど、ただ見落としてはいけないのは、
天皇にも権力を手に入れたいという根強い欲求があるってことだな。
それが時によっては院政になり、場合によっては後醍醐天皇のように天皇親政になる。
58 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 11:38:00.14
お隣の中国では、日本の天皇とはちがって、皇帝は自分の哲学を持ち、
きちんと世の中を管理していかねばならんという思想がある。
だから、中国の歴史をなまじっか、かじった天皇は「オレもいっちょうやってみるか」
という気になるんじゃないかな。
世の中は正常でない、朕みずから改良してやろうというのが白河院の立場だろうと思う。
実は天皇制にとって、それが、なによりも危険なんだけど。
それにしても藤原時代以後の貴族社会は面白い世界だ。
院政を経済的に支えたのは受領層だ。
受領というのは出身からいえば武士や下級の公家だが、
これが国司に任命されても地方生活をいやがる上級の公家に代わって実際の地方行政をやる。
たいへん金の儲かる仕事だったらしく、院の庁に多額の寄付をして受領の資格を買う連中が増える。
ところが、その背景として面白いのは、上級公家の方はいたって退嬰的で、
互いに地方へ赴任しないように規則を作って牽制しあっていたらしい。
またそんな雰囲気だから、多少とも国家元首的な政事責任を感ずる天皇は、
なんとかしなければならんと思って、院政を考えたんだろうね。
そんな責任なんぞ感じないで、悠々と遊んでいればよかったのにね。
お妃をたくさん置き、血筋を絶やさぬよう日夜、奮闘努力していればいんだよ。
天皇の最大の責任は、血筋を絶やさぬことなんだから。
62 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 00:07:12.24
その点、後白河法皇は見上げたものだ、法皇になってからも、
ちゃんと子供をもうけていると、「愚管抄」で褒めているよ。
普通出家すると、妃たちとの関係が絶えてしまうのにと、
著者・慈円は大真面目で感心している。
63 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 00:26:38.50
破戒僧 最高権力者 諷刺
天皇は神だったんだ。
天皇自ら政治を行えばただの人になってしまう
神が出家する。
それすなわち神仏習合。
68 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 11:28:47.86
後白河院は、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽まで5人の天皇をみている。
これは白河院の場合と同じように、自分の眼の前をつぎつぎと天皇が代るのを眺めながら、
自分の皇統がずっと続いてゆくさまを見て楽しんでいるという感じがする。
信西入道が後白河院を評して、日本・中国を通じてまれにみる暗愚の天皇だが、
二つだけ徳を持っている、一つは他人に相談しないで物事を決めること、
もう一つは聞いたことは絶対に忘れない、年月がたっても心の底におぼえていることだ、といっている。
信西はさらに注を加えて、最初の特質は従来の天皇観からすれば大きな欠点だが、
ほかに欠点が多すぎるので、せめてこれを徳とするだってさw
従来の天皇は、自分では何事も決定しなかったのに、後白河院は先例を無視してどんどん自分で決めちゃう。
同時代の人間に言われてんだから、まあ、そういう人なんだろうよ。
南朝と北朝どっちが正統なのかそろそろ白黒付けようぜ
71 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 13:00:12.21
>>62 後白河法皇が、嘉応元年(1169年)の出家後に儲けたのは
晩年の寵妃・丹後局との間に儲けた覲子内親王一人だけだろ
72 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 13:01:12.74
慈円の兄九条兼実は丹後局を嫌っていたし
愚管抄でも別にほめてないが
73 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 13:16:18.89
>>69 信西の批評だという点が面白いな。
信西は稀にみる秀才で、中国の歴史に関する学識が深かったから、
天皇は中国の皇帝のようにならねばならないと思っていたかもしれない。
信西自身は少納言どまりの身分の低い貴族だから、政局を動かすことができない。
そこで、後白河院を通じて自分の理想を実現しようとしたのかもな。
>>69 面白い
>>70 北朝、断じて北朝
南朝なんか最後のほうでは全国的に支持を失ってるんだぞ
どっかのサイトであった解説
北朝:現実主義、融通が利く、武家と調和、権威とわきまえ権力を求めない
南朝:理想主義、教条的蒙昧、武家と敵対、権威のみならず権力も求める
追加
北朝=自民党
南朝=野党
>>73 中国でも六朝までは政事責任者は上級貴族だ。
家柄がないとちゃんとした地位につけない。
ところが、唐代(618〜907)になると、家柄がなくても官人採用試験にパスさえすれば宰相にだってなれるようになった。
そういうことを藤原時代の日本人が知って、秀才の下級貴族はかなり不満を持ったということも想像できる。
でも光厳天皇ってどうなのよ
信西はあるとき、藤原頼道(摂政・関白)のところへ行き、
自分はこんなに勉強したのに偉くなれないとさめざめ泣いたという話がある。
信西は唐の科挙制度のことはくわしく知っていただろうから、
門閥制度の現状に対して激しい不満を抱いていたと思う。
>>78 いや、藤原頼通って信西が生まれる前に死んでるだろ
80 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 18:17:07.61
後白河法皇が、裏でいろんな画策をし、1人1人宿敵を自滅させていった陰険な
マキャベリストだとする解釈はいつごろから固定化されたんだろうな。
昔からの説じゃなくて、案外、吉川英治あたりが最初かな。
井上靖の「後白河院」もそうだが、しかし、後白河院がそこまで計算してやったとは思えないな。
どちらかというと、フラフラ泳いでいく型だったような気がする。
保元の乱のときは、後白河院はなにもできなかったろうな。
信西、平清盛、源義朝たちの取巻きが勝手にことをはこんだわけだ。
>>81 平清盛の嫡母である藤原宗子が重仁親王(崇徳皇子)の乳母であったことから
清盛は最後まで態度保留で崇徳は清盛の支援を期待してたんじゃなかったか
後白河の側で保元の乱を主導していたのは信西とはいえ
いくらなんでも後白河本人もかつては居候するほどの仲だった実兄に帝位を渡さない
覚悟はあったはず
83 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 20:27:15.75
後白河院はもともと天皇になれそうもなかった人だからな。
だから、若いころから今様をやったり、遊女とつき合ったりしていた。
ところが、逆にそういうところが買われてひょんなことから天皇になった。
敏腕のホープよりも、新橋や赤坂で相当の実績がある、
おっとりした人を社長に据えたほうがいいと取巻きは考えたんだろう。
本人はまさか社長になるとは思っていなかった。
>>70 現在の皇室の見解では南朝が正統みたいだね。
>>83 後白河院は女遊びの経歴を買われて天皇になったわけではないし
もともとそれほど帝位から遠かったわけでもない
後白河は后腹だし2番目・3番目の兄は障害児だったため早くから長兄・崇徳が夭折もしくは男子がない場合のスペアだった
鳥羽上皇が晩年に美福門院を寵愛して母待賢門院が出家に追い込まれ異母弟近衛天皇が即位したため少々グレはしたが
実際に後白河が白拍子と遊んでいるさなかにも美福門院は後白河の皇子(後の後二条)を養子にしていた
それにしても遊女から今様を習う天皇というのは、当時の宮廷社会の常識からいってもまことに革命的だな。
身分制度があれほどやかましい宮廷のなかに、どうやって遊女を入れることができたのか?
>>86 宮中にずっと住むのは天皇と皇太子(東宮)だけ
即位前の後白河は宮中に住んでないよ
88 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 22:39:29.58
>>86 お気に入りの遊女には下級女官として適当な身分をやればいいだけだ。
もちろん、実際は仕事をさせないで、今様を歌合せたりなんかする。
いまだって、特定の関係の女性をとりあえず秘書として入社させておく、
という手があるだろw
当時の遊女は売春婦そのものだが、それほど問題にしたかどうかだな。
むしろ一種の職業婦人だという気持ちの方が強かったんじゃね。
たとえば、左大臣にまで昇った藤原頼長は自分の日記の中に、
たまたま遊女のことにふれ、「これと通ず」と堂々と書いているくらいだからな。
まだ梅毒も渡来してなかったしね。
90 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 01:00:08.99
後白河院は、結局、何をしたらいいのか、自分としていったい何をしたいのか、わからなかった人だろ。
権力者になりたいと、さほど思っているわけでもないし、
権威という点では、すでに最高の権威で、これ以上望みようがない。
しかも、自分をめぐっていろんな人間がうごめく。
それに対しても同じ程度の愛情と同じ程度の迷惑を感じている印象だ。
後白河院と対蹠的なのが清盛で、あれだけの地位につきながら、
絶えず自分が誰であるか証明しなければ不安だったんだろうと思う。
そのために、白河法皇の御落胤説にすがったり、ついには安徳天皇の外戚になる。
そこで初めてホッとしたとたん、皮肉なことに清盛の凋落がはじまるわけだ。
何かしっかりしたものを必死につかみたがっている清盛が、
彼の望むものをすべて持っているにもかかわらず、
何をしたいのかさっぱりわからない後白河法皇を眺めている関係は、なんともいえず面白い。
歴史の皮肉だな。
91 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 08:42:08.17
>>88 さすがに庶民出身の遊女に官位を与えて宮中に召し出した例はないよ
同時代に庶民出身の常盤が九条院の雑仕女に選ばれた例があるが
これも殿上はできず(清涼殿に上がることができない)天皇にお目見えできない
(常盤が十二単来て貴族出身の女房同様に中宮のお傍でお使いなどの仕事をしていた大河の清盛はおかしい。
雑仕女って炊事洗濯などの水仕事を主にする下っ端)
そもそも後白河は在位2年で退位している
2年間ぐらい宮中に白拍子を呼べなくてもよかったと思うんだが
行幸や行楽で宮中を出れば訪問先や別院へは白拍子を呼んでもいい
>>90 御両人の話が合う部分があったとすれば、白拍子のことかなあ。
清盛は本当かどうか知らないが、祇王・祇女とか仏御前とかに熱を上げた履歴があるから、
白拍子についてなら、お互い気安く語り合えたかもしれないなw
>>69 実際の院政は後鳥羽上皇の承久の乱の失敗で終わるわけだが、そこで天皇制本来の姿に戻る。
つまり、天皇は祭りを、幕府は政治をするようになる。
ただ一度だけ、後醍醐天皇が天皇親政という少し変わったやり方をして、
それは成功することなく足利幕府に引きつがれる。
それ以後は政治をリードする天皇は出てこなかった。
つまり、院政時代は天皇が支配者意識にめざめて、
この日本国を藤原家に代って統治してやろうと思ったわけで、その意味では変則的だが、
逆にいえば、天皇の本質を鏡で照らし出したような時代といえる。
天皇という試料を歴史の実験室に入れて、どこまでがシャーマンの親方で、
どこまでが国家元首なのか、反応させてみたのが、院政時代だ。
その中で生れたのが、後白河院という、歴代天皇のなかできわめて特異な変種だったということだな。
94 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 12:25:36.41
武家政治の時代は幕府が権力で朝廷が権威だから、天皇家としては政治に責任を持たなくていいし、
ある意味では気楽な時代だ。
ところが天皇の中には幕府から政治権力を奪おうとして無理をした人がいる。
後鳥羽上皇と後醍醐天皇だ。
後鳥羽上皇は頼朝が幕府を開いて三代目の実朝で源氏が断絶したときに、
これを機に執権の北条義時を討とうとして逆に敗れて隠岐島に流された。
しかしこの後鳥羽以上にすさまじい権力欲を持った天皇が後醍醐天皇だな。
これも幕府を討とうとして逆に笠置山で敗れ隠岐島に流される。
ところが後鳥羽院は隠岐島では和歌を詠んだり、のんびり風雅を楽しんでいたが、後醍醐天皇は、
隠岐からさかんに綸旨を出して、諸国の武士に協力を要請した。
そしてやがて隠岐島を脱出し、尊氏が六波羅探題を倒すのに乗じて京都にもどり、建武の親政をはじめる。
ところがこの親政はむしろ武士の所領をとりあげてしまうので、
不満を持った武士たちは尊氏をいただいて京都に攻めのぼる。
後醍醐天皇は吉野に逃れ、南北朝の争乱がここからはじまるわけだが、その最中、
亡くなるときに天皇はわざわざ自分の遺体を北面にして葬るように遺勅する。
天皇は南面して葬られるのが普通なのに、朕は京都の天をにらんで死ぬといって、片手に剣、
片手に法華経を持って亡くなったというんだから、かなりはげしい意志の持主で、
ちょっと日本人離れした怨念の人という感じがする。
当時は大覚寺統と持明院統が交互に天皇を出す時期で、
皇太子になってもなかなか天皇になれず、
即位したのが32歳、当時としては例がない。
その間に政治への関心が高まっていたんだろ。
父親が後宇多天皇だから、4代も間があって天皇になるわけだ。
その間相当な不満が鬱積していたこともあるだろうな。
政治好きの背後には、宋学の影響があると思われる。
宋学のなかには大義名分の思想があって、これは王道を尊び覇道を卑しむという考え方だ。
つまり、幕府を倒し、王政を復活させようという後醍醐天皇にとって、うってつけの思想だった。
98 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 20:27:20.72
しかし、どうなんだろ。
後醍醐天皇のやり方をみると、宋学という筋道の立った思想のほかに、
密教的というか呪術的な影響がみられるよな。
吉野へ逃れたときに活躍する山伏とか、真言立川流などという邪教など、
後醍醐天皇のまわりには、なにかドロドロしたものがあるように感じてならないんだが。
99 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 02:02:03.53
天コロ様の権威を利用すれば、
実権を握りつつ、無批判に天コロを崇拝している愚かな大衆を支配できる。
それに尽きる。
>>98 まあ、あのころの人の宗教生活は、天台・真言を信じながら、
禅僧に近づき、同時に念仏を唱える。
天皇はすべての宗派に公平・平等であるべきだとされていたからな。
よくいえば八宗兼学、悪くいえば雑信仰だ。
>>95 大覚寺統と持明院統の対立は、たんなる天皇の対立ではなく、公家社会の対立でもあったからな。
大雑把にいうと、上級貴族は持明院統、下級貴族は大覚寺統を支持したようだ。
それについては「徒然草」におもしろい話が載っている。
あるとき、腰のまがった眉のまっ白な西大寺の静然上人が参内するのをみて、
西園寺実衡が「なんと尊いお姿だろう」と感嘆したところ、側にいた日野資朝が
「年をとっただけで尊いなら、老いさらばえたむく犬も尊いだろう」とうそぶいて、
彼のもとにその犬をおくったという。
西園寺のような上級貴族と資朝のような下級貴族の伝統や先例に対する
感覚のちがいをよくあらわしているエピソードだと思う。
資朝や俊基が目指したのは古臭い伝統の破壊、いまの言葉でいえば反体制運動だな。
102 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 14:02:21.77
武士についても同じようなことがいえる。
足利尊氏は源氏の正嫡、武家の正統だ。
身分の低い武士は北朝側についてもたいして出世は望めない。
そう思って南朝側をみると、あそこなら案外、出世できるかもしれないというんで、
後醍醐天皇のまわりに集まってきたんだろ。
南北朝の対立といっても、べつにイデオロギー的に真っ二つに割れているわけじゃないからな。
一家の中でも、惣領が尊氏側につけば、それと反目する庶子が南朝側につくという具合だった。
あくまで利害打算で動いてんだから。
103 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 13:31:23.45
後醍醐天皇の政治スローガンは、一口に王政復古、天皇親政といわれるけど、
実際、建武中興でやったことは、土地をすべて天皇家のものにしようとするようなムチャクチャなことが多く、
いったいどんな政治構想があったのか疑問だな。
もちろん、初期の段階で関所を廃止し経済活動を活発にしようとしたり、
米の価格を抑制する政策を推し進めたりするんだけど。
後三条天皇のほうが地に足が着いた考えしてそうだ
>>103 初期の段階は、宇多・醍醐・村上天皇の延喜・天暦の治、
いわゆる摂関政治以前の天皇制にもどそうという理想は持っていた。
ただし、延喜・天暦の治を理想の時代とするのは後世の虚像だけどね。
実際は平将門の乱があったり、非常に乱れていた。
後醍醐というおくり名はあきらかに醍醐天皇を意識している。
しかし、ふつうおくり名は亡くなってからつけるんだが、後醍醐というのは生前からの自称だ。
そこに延喜・天暦を再現したいという情熱はうかがえるけど、
現実はもはや古代天皇制に戻れるような時代ではない。
後醍醐天皇はこういう歴史の現実が見えなかった。
建武中興の失敗の原因はこれにつきると思うな。
106 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 02:38:04.15
107 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 10:46:22.43
>>101 大覚寺統と持明院統の争いは天皇家及び
西園寺家と洞院家(洞院家は西園寺家の傍流)の争いが発端
下級貴族と上流貴族に分かれて対立していたわけではない
実際に南朝と北朝に兄弟が分かれて仕えた例も多数
>>105 むかしあったある型を理想化して、それを再現するというかたちで革新のスローガンを掲げる。
これはひとつのパターンだね。
相手側の尊氏も鎌倉幕府初期の北条義時・泰時の時代を理想の政治体制とし、そこへもどすといっている。
明治維新だって、王政復古だからな。
意志を決定するときいつも不安で、一種の理想形をつくって、それのアナロジイで自分の意志を決める。
まったくの新しい原理じゃダメなんだな。
この傾向は政治ばかりではなく、仏教の場合も同じだな。
法然や親鸞、戦闘的な日蓮さえ「本文に曰く」といい、権威を過去の経典に求めている。
法華経や涅槃経にこう書いてある、といわないとみんなを納得させることができない。
独創じゃダメなんだ。
こういう本文主義は現在まで続いているよ。
後鳥羽上皇が承久の乱で勝ってたらどうなったの?
DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
↓
DQN「おきに流されるって、北条政子かよwww」
源平以前の天皇家の末って臣籍降下してたの?
112 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 10:59:43.49
>>108 本文主義の総元締のようなものは天皇制だろ。
その天皇制が最大の危機をむかえるのは、南北朝時代だと思う。
いつの時代でも、権力者はたとえ天皇の実質的な力を弱めてもつねになんらかの位置に据えていた。
秀吉にしても、家康にしても天皇を圧迫はしたけれど、権威の象徴と
見做していたことに変りがなかったように思う。
ところが、尊氏がいちばん信頼もし、いわば足利家の番頭である高師直は
「天皇なんて所領ばかり取って無駄な存在だ、あんなものは木か金でこしらえておけばいい」といったという。
「太平記」の作者は「あさましきかぎり」と憤慨してるけど、もっと大胆不敵なヤツがでて来る。
美濃の守護土岐頼遠は、街頭で光厳上皇の行列に出あい、「院の車ぞ。下馬せよ」と注意されると、
「なに、インの行列、イヌの行列だと」といって、上皇の車をかこんで矢を射かけたという。
古い権威なんぞ屁とも思っていない新しい人種が、この時代に登場したということだろうな。
天皇制否定にまで行きつかざるを得ないものを思想として持っていたのが、後醍醐天皇の臣、資朝だ。
なにしろ伝統や先例の権威を否定し、これを嘲笑する反体制の思想家だからな。
しかしそれにもかかわらず、天皇制が存続したのはなぜかといえば、まあ、
簡単にいえば尊氏が廃止しなかったからだよ。
古い権威を一顧だにもしなかった高師直や土岐頼遠が出て来たが、その反面、
地方の武士の間には綸旨や令旨がたいへんな権威をもって通用したこともこのころの現実だよ。
だからこそ、尊氏にしても新田義貞にしても、兵を挙げようとしたものはすべて大塔宮の令旨をもらった。
そうしないと、兵を動かせないんだ。
とくに尊氏はその効用についてよく知っていたので、いったん敗れて九州へ逃げるときでも、
ちゃんと光厳上皇から院宣をもらうことを忘れなかった。
だいたい、この時代の大多数の武士の考えは保守的で、本当に革命を考えていたとは思えない。
114 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 13:17:35.60
武士の側自体に貴種崇拝の思想があるからね。
力や才覚があるから尊敬されるのではなく、
家柄が良いということで重んじられる。
源氏や平氏が地方に下って武家の棟梁になれたのも、
貴種崇拝の考えがあったればこそでしょ。
足利氏も一流の源氏出身だから天下に覇を唱えることができた。
源氏も平氏もとどのつまりは、天皇の血筋につながる。
貴種崇拝は天皇制思想だともいえるな。
後醍醐天皇は意欲ばかり先走って、現実が見えないから、
自分のイデオロギーをしゃにむに通そうとする。
これが後醍醐天皇の政治の特徴だな。
117 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 10:34:48.35
王侯制度や貴族制度ってのは武力の他に外交が権力の源泉で
また外交に於いて最も高い信頼度を得る方法は姻戚関係を持つ事だった
学校の授業では弥生人は朝鮮半島から渡って来たくらいしか言わないけれども
奈良時代くらいまでは中国が本気を出して攻めて来たら周辺国は吹かれて飛ぶ様な存在だったし(白村江で負けた後には唐軍が北九州に進駐していたらしいw)
日本の朝廷は朝鮮半島の諸王朝と姻戚関係を幾度も結び直していた
これらの人脈を全部潰してしまうと朝鮮乃至中国に攻められてしまうかも知れないとの懸念が室町幕府までは大きかったので覇者は皆とも征夷大将軍より上を望まなかった
織田信長は南蛮貿易を通じて朝鮮でも明でもやっちゃえるかもと考える様になったので殿上人になった
秀吉は信長に倣い実行に移した
家康は海外に野心が無かったので管理貿易にだけ執心した
日韓併合や満州国建国もこれらの歴史が大義名分になった
後醍醐天皇の頭の中には、はじめは宋学の大義名分論があったけれど、
新政開始後は現実の問題処理に追われて、イデオロギーがどうのとはいってられなくなった。
南朝についた武士も北朝についた武士も、最大の関心は自分の所領を一寸でも伸ばすことだ。
そのために鎌倉幕府を倒したわけだからな。
なにも後醍醐天皇の大義名分論に共鳴したわけじゃない。
天皇に現実が見えないというのはそのことなんで、そこに天皇の悲劇がある。
だから、戦いが終われば、当然、恩賞を要求する。
ところが後醍醐天皇の恩賞の与え方は、武士の本当の欲求にさっぱり応えなかった。
せっかく、記録所や雑訴決断所などの新政を運営する役所もつくったのに、そこに働く人材もいなかったし。
なんだかないないづくしみたいだが、それが天皇親政の実体なんだよな。
119 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 19:49:24.66
明徳3年(1392)、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を返し、この結果、
およそ60年にわたって対立していた南朝と北朝は合体する。
めでたし、めでたし。
120 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 23:13:39.39
〜都道府県の居住意欲ランキング〜
1位は『 京都 』
「地域ブランド調査」(全国3万2124人から回答)によると、
47都道府県のうち、最も「住んでみたい」と思われている地域は京都府でした。
京都は、回答者のうち12.2%が「ぜひ住みたい」と答え、13.3%が「できればすみたい」と答えるなど、
ほぼ4人に1人といえる25.5%が居住意欲を示しています。
年代別にみると20代の居住意欲が最も高く、ほぼ4割である39.8%が居住意欲を示しています。
そこからさらに学生に絞ると、なんと半数を超える53.7%という結果となります。
つまり、学生など若い世代の居住意欲がかなり高いのです。
南北朝合体を実現させたのは、もちろん義満の力だろうけど、
こう抗争が長びくと情勢も大いに変わってきたよな。
楠木正儀は北朝側に走るし、南北両朝とも内部対立がはじまった。
122 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 06:37:09.98
>>121 一世代でおわらんかったもんだから子の代でみてるとたすき掛けおきてるんだよね
北朝なのに南朝にはしってしまったり
それぞれの内輪揉めから
南朝から北朝にいっちゃったとかが内情かな?
123 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 10:19:43.68
>>121 北朝天皇を擁立し、北朝から征夷大将軍に任じられた足利尊氏すら
後村上天皇に臣従したりしてるから。
室町幕府自体、初期はどっちの天皇でも良かった。
124 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 13:45:56.07
>>121 とくに南朝側は、後醍醐天皇の遺勅のうけつぎ方に二派あって、
一つは朝敵ことごとく滅ぼすという抗戦派、もう一つは和平派だ。
このころは、両者の関係が決定的に悪くなっていた。
>>119 朝廷の中も、いろいろ割れていたし、後小松天皇の立場も微妙だった。
事実、奥吉野には南朝が残るし、その影響はずっと後の応仁の乱(1467〜77)
まで尾を引き、小倉宮が南朝の後胤だと称して動きまわる。
終戦後になっても熊沢天皇なんていうのも出たしw
126 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 16:50:28.11
>>119 こんとき統一されたって
教科書ではめでたしめでたしになってるけど、残った旧南朝系はそのままどうなってったの?
一部はそのまま後南朝たててきえてしまったけど、統合した人たちもその後は二度と系統的に表舞台にですに終わってるから
消えちゃったの?
忘れた頃にしんせき降下させられて仏門おくりになったん?
義満は後小松のお父さんの後円融天皇と同じ年だな。
そうすると、二人の関係は、もちろん天皇と臣下だけども、
感情の上では親子のような気持ちだったかもしれん。
だから、義満は自分は天皇の上位という意識がでて来て、
出家した後はまるで法皇のようにふるまっている。
たとえば北山殿の行幸の場でも、ふつう法皇がすわる上座にすわって、
列席の貴族をおどろかしている。
なくなってからは、太政天皇(譲位した天皇のこと)という号を朝廷から
おくられ鹿苑天皇とよばれている。
それに、孫の義嗣の元服は親王のそれに准じて内裏で行った。
このとき義満の正室日野康子は准母(天皇の母がわり)の称号を受け、
もうこうなると、義満は天皇とちっとも変らない。
後小松天皇としても、それを横目でみて内心、面白くなかったろうな。
もっとも、そんなことはおくびにも出さなかったろうけど。
128 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 22:32:59.64
>>127 足利義満と後円融天皇は同い年の従兄弟。
足利義満の母紀良子は後円融天皇の母紀仲子(広橋兼綱の養女になったので広橋仲子とも)の異母姉だ。
このように義満と後円融天皇は血縁が近いだけではなく、たびたび後円融天皇は義満の皇位簒奪に脅えていた。
次第に妄想も激しくなり、後円融天皇は後小松天皇の母である三条厳子を足利義満と密通したと疑って怒りのあまり
刀の鞘で殴打、驚いた厳子は里へ逃げ帰ったという実話まである。
鞘殴打事件は後小松天皇が生まれた6年後のことだが、足利義満は後小松天皇母との密通を疑われたことまであるという点で
後小松天皇とも浅からぬ関係がある(後円融天皇の妄想が事実でかつもっと早い時期から密通があったとしたら
義満は後小松天皇の実父の可能性もなきにしもあらず…)。
義満の行動パターンをみていると、武士であると同時に、
公家化して行く、この二つの行動様式を巧みに一身に兼ね備えている。
武家の棟梁でありながら、公家の伝統に結びつくことに、
一種の活路を見出すという感覚があったようだ。
小さいとき、父の義詮をなくし、わずか10歳で将軍になって以来、
複雑きわまりない権力争いにまきこまれながら、そういう感覚を
身につけたんだろうな。
同じ3代将軍でも家光よりはるかに条件が悪い。
130 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 01:56:31.63
なに?少しは室町押しでも始まったのか?
異様に江戸時代ばかりとりあげてたもんな
あとは戦国時代とかな
義満以後の将軍は義満の中の武士の部分と公家の部分を分業するような形で受け継いでいく。
つまり、非常に武士的に振舞おうとする将軍と、すっかり貴族化した将軍という具合にハッキリ二つのタイプに分けられる。
たとえば、義満の息子・義持は関東武士的な性格を濃く残している。
偏見から世阿弥を迫害したり、対外貿易をやめたり、なんだか親父がやったことにいちいち反対する。
朝廷から義満に太政天皇の号を贈られると辞退しちゃう。
古い武家の棟梁といったおもむきがある。
義満に可愛がられた義嗣が長生きしていれば、教養の点でも趣味の点でも、義満の持っていた公家的側面を引きつぐはずだったと思う。
そのつぎの義教は武断派だね。
あまり、守護大名に強権を振ったせいで、赤松満祐に暗殺されてしまう。
その後の義政は徹底して公家化して行く。その両方の原型が義満の中にあるわけで、公武合体を一身に体現していた義満だが、
その政策もまた、公と武のバランスが巧みにとれていると思う。
政治の実の部分もうまい人だが、虚の部分というか、情報戦略が大へんわかった人のような気がする。
北小路室町に花の御所をつくったり、そのあと丹後の天橋立や厳島に豪奢な行列をつくって遊覧の旅をする。
それが文化育成にもつながった。
たんに文化育成ではなく、政治に利用することも計算に入れている。
もともと幕府方は南北どっちでも良かっただろ。
たまたま軟調後醍醐が親政やりたがったんで武家棟梁の尊氏は
北朝と組んだだけで。
幽閉中の後醍醐が吉野に逃げ出しても、にこやかに送り出す
くらいなもんで。
133 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 13:55:36.15
安土桃山時代には、伝統的権威の頂点に立った人が3人いると思う。
まず、足利15代将軍義昭、これはおちぶれたとはいえ室町幕府の総帥だ。
つづいて本願寺の教主顕如、これは蓮如以来、大政治集団となった浄土真宗の指揮者で全国の一向一揆の精神的支柱だ。
つづいて、正親町天皇。
以上3人だが、戦乱の時代が過ぎてそのうち誰が生き残ったかというと、正親町天皇なんだよな。
あとの2人は信長と争って結局ほろびてしまう。
正親町天皇は実力の世界に一切タッチしないで、純粋に非政治的な立場を通したから生き残ったんだろうな。
134 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 17:16:15.75
>>130 未だに戦国時代とか情弱丸出しだろ。バテレンかぶれの横暴者とか
足軽上がりの成り上がりみたいなのばかりで、ロクに文化もない。
135 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 17:18:08.41
戦法は武士らしい一騎打ちもやめてしまって、歩兵戦で南蛮の飛び道具だ。
136 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 17:20:06.26
武将たちは無闇に残虐な真似ばかりして世の中は荒んでるし。
ロクな時代でない。
137 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 17:24:23.22
大陸出兵の土産物で茶道は起こったか。
ノリキューも秀吉が腹切らせたろ。
138 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 17:44:01.80
我々大衆はゲップが出る。
139 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 18:07:57.89
>>133 信長くらい残虐な性格だと強いは強いが部下にあっさり討たれちまう。
あんまり自慢にならん。
140 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 18:48:46.43
>>139 信長が残虐なせいで部下に殺されたというのを信頼できる一次史料で証明しよう。
他のスレで暴れているアンチ信長君。
141 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 19:50:38.79
力の強い順、あるいは金のある順でいったら、顕如、義昭、正親町天皇の順になるだろうな。
信長からのやられ方もこの順にひどいな。
顕如をリーダーと仰ぐ本願寺門徒は数万人焼き殺されたというし、
本拠である石山本願寺は海上封鎖されて兵糧攻めにあって落城した。
力に抗するに力をもってした悲劇だな。
義昭の方は最初は信長のお蔭で将軍になったが、たんなる精神的権威としての立場がつらぬけず、
妙な政治的画策をして、信長を裏切ったので、結局追放されてしまう。
義昭は見通しの悪さで亡びたという印象だ。
正親町天皇となるとこれはもう、自分を信長に利用させるだけで、それで安泰だった。
何しろ正親町天皇は貧窮して、践祚してからもお金がないために3年ほど即位できなかったからな。
御所の塀がくずれたまま直せないので、三条の橋の上から中の灯りが見えたというほどの暮らしをしていたのだが、
自分の利用価値を正しく認識していたので、あわてずさわがず、戦乱の世に処したのが成功したわけだ。
さすがに権威の総元締めはかしこい。
義昭や顕如にはまだまだ伝統の知恵が足りなかったな。
しかし信長という人も偉い人だったね。
当時天下を取るにはいくつかの方法があったと思う。
一つは北条早雲のように、関東に武家政権をうちたてて鎌倉幕府を踏襲しようとするもの。
もう一つは、まず自分の領国を固め、生産を高め、武力を蓄えた上で次々に隣国を攻めていくやり方。
いろんな天下争奪のプランがある中で、最初から京都に目を向けていた信長が結局は天下をとった。
これは偶然じゃないと思う。
↑で書かれているけど、信長、顕如、義昭、正親町天皇の関係って興味深い
格付けとしての関係と実力としての関係があるしね
誰か今の時代に例えてみてよ
無理やり今の時代にあてはめた場合、正親町天皇は今上天皇、顕如は今の浄土真宗の教主として、
問題は信長と義昭だけど、安倍総理が義昭になるのかな?その場合は信長は誰?
義昭ー信長の関係は野田ー安倍になるのかな?
妥当なような違うような
まあぴったり当てはまるはずもないけどね
義昭-信長の関係は協力関係にもあったわけだし全然違うだろ
あくまでも「形」としては、幕府の将軍は今の首相になるんだろうな
信長の該当者はわからんけど
現代に当てはまる要素がないでいいんじゃないの。
>>141 正親町天皇が貧窮したのは、足利幕府の力が弱まったので、
幕府の武力で守られているはずの朝廷に、各地の御料地からの
上りが、大名に横領されてこなくなったからだよ。
だから、当時は幕府再興をうたう大名が入洛するのを朝廷も歓迎した。
大名の側としても、そういう大義名分のもとに自分の武力を京に
しめすことの有利さを知っていた。
これはみんな同じで、武田にしても上杉にしても、最終的には、
そこに眼をつけていた。
しかし結果的に信長が成功したということだ。
戦国大名は武力さえあれば天下を取れたというのはウソで、
将軍家とか天皇家とかの伝統的権威を復興させるという、
大義名分がなければ一般の武士が納得しなかった。
明治天皇すり替え説ってちょっとでも可能性のある話なの?
>>150 そういう反日が喜びそうなのは近代史板でやってろよ
>>128 すり替えならこっちのほうが可能性高いんじゃないか
安倍首相は祖父である岸信介を政治家として尊敬していると言ってました。
また、安倍首相は現皇室に対しても敬意を示し、「我々政治家がどんなに頑張っても
陛下の代わりは務まらない。これは皇室の歴史そのものだから」と言うニュアンスの
ことを言っていました。
しかし、尊敬する岸信介は生前、「明治天皇は維新の折にすり替えられた」と
言っていたようです。
この発言は現皇室の正統性を根底から否定しかねないですよね。
皆さんはこの辺どうお考えですか?
死人に口無し
155 :
日本@名無史さん:2013/12/21(土) 00:42:42.60
ちなみに今の天皇も昭和天皇の実子じゃないよ。
今上天皇は私の家系は百済にゆかりがあると言ったことあるだろ。
昭和天皇のお嫁ちゃんの香淳皇后は島津家の出だ。
島津家は百済にも新羅にもゆかりがあるんだ。(三韓=韓国)
明治維新以降、天皇家は実は政治的に利用されていて政治も民族主義者に操られていた。
今もか...(韓国議員連盟)主に長州藩・薩摩藩ね。
天皇家は実は戦・戦争・クーデターによる天皇征伐・排除でその時代が決まる。
今の天皇家はマスコミと政治を利用し、いわば日本の象徴を作り出している虚像。
美しい日本を捨て、西洋文化を取り入れ近代化を作りだした北朝の象徴なのだ!
近代化とは「美しい日本」を捨てることだった。
南朝・北朝は今でもある。
天皇家は南朝にあり。これが正しい。
今上天皇は北朝の南朝派。
だが極右の北寄りの氏族の安倍氏を任命したのは今上天皇さm。
「中国は嫌いだけど、韓国は交渉もできない愚かな国」発言。
右翼思想が軍国主義・社会主義につながる。
156 :
日本@名無史さん:2013/12/21(土) 14:45:53.46
明治天皇すり替え説とか明治の元勲が一同に介したあの写真とかおもしろい話だけど全部ウソだからな
>>149 関白とか征夷大将軍とかいう位も、結局、天皇につながっているから権威になる。
この時代、正親町天皇にしろ後陽成天皇にしろ、生身の天皇は蔭の人だったからな。
ところが、この天皇が賜わる位をめぐって、政権の交替がつぎつぎとおこなわれた。
天皇というものの面白さがそこにある。
豊臣秀吉は後陽成天皇を(少なくとも表面上は)尊重していましたが、
関白政庁として御所を遥かに凌ぐ豪華絢爛な聚楽第を御所の近所に
建てました
この辺の精神的、権勢的駆け引きはどういうものなんでしょうかね?
161 :
日本@名無史さん:2013/12/24(火) 22:27:01.05
matome.naver.jp/odai/2136862417660256501
天皇と安倍は親戚 、安倍は現在日本人独裁支配工作中。
www.youtube.com/watch?v=qZve5N-_doI
ユダヤが明治天皇を朝鮮人にすり替え
田布施朝鮮人昭和天皇が中国で金をユダヤの為に略奪。実行部隊「巣鴨プリズン」には触れず。
ロシア国営テレビゴールデンタイム放送
blog.livedoor.jp/home_make/archives/1845811.html
第二次世界大戦もユダヤ茶番戦争。ユダヤによる日本人傀儡支配代理人田布施朝鮮人昭和天皇が
敵国にいる仲間と演技で戦争しただけ。家族の為、日本の為、1919年の牧野の精神で戦った日本人は
みんな死刑。一方でユダヤ茶番戦争を仕掛けた田布施朝鮮人には利権。
小和田家は日本人を何万人も水俣病で虐殺したチッソ創業一族。外務省も小和田中心に在日支配。
チッソに抗議した家族は逮捕。小和田家には利権www
しかも、水俣病になる事を知っていた意図的な虐殺工作。
www.youtube.com/watch?v=9cs6I9dh5UM
ユダヤが在日を右翼と左翼に分けて茶番対立支配。
ユダヤが敵対思考に工作員を送り茶番対立支配。
自分の利益しか考えず他人の利権には嫉妬に狂う朝鮮人が何で街宣右翼やって
天皇を批判した日本人を殺せるのか?考えてねwww
ハイ、お前ら全員相手に完全論破!!
162 :
日本@名無史さん:2013/12/24(火) 23:24:57.50
天皇家は南朝にあり。これが正しい。
今上天皇は北朝の南朝派。
明治維新以降の企業家は皆、半島混血種。
政治家も多数。平民は大和民族。
出世するのは半島混血種。
利用されるのは、在日。
日本人=扶余族+エヴェンキ+大和民族の交配種。
神道の国日本。
仏教徒日本。
なーのにクリスマスを祝う馬鹿な民族。
おどれらキリシタンか。
売国奴め
163 :
日本@名無史さん:2013/12/25(水) 01:24:35.66
>>161 明治天皇すり替え説から太平洋戦争で日本占領のストーリーは
既に
ユダヤが勝って自分達の好きにできる様になったので
今上から筋を元に戻してあって
すり替えを騒ぐお調子者を利用できる機会に使って嵌めて天皇家の権威を数倍高める段階まで進んで居る
との噂も80年代には流れていたがw実際どうなの詳しいおまいら?
豊臣秀吉の治世になっていきなり公家や太政官の数が飛躍的に増えたわけじゃないですよね
豪華絢爛な関白政庁の聚楽第に出仕する公家、太政官はそれまで何処にいた人ですか?
新しい関白政庁の聚楽第ができたことによって、取り壊された古い政庁があったわけですか?
>>158 あの写真が偽物だと根拠ってなんですかね?
166 :
日本@名無史さん:2013/12/29(日) 03:04:36.02
天皇は世界で王という地位+宗教的な神話教主的地位もあったってのがデカイよねえ
わかりやすく言うと 天皇=ローマ法王+アレキサンダー大王 みたいな…
素人的主観だけどこれは強いよホント
代重ねする毎に弱くなる王的立場も宗教的立場なら弱まることも無い
むしろ神秘性が増して強くなる
王的立場も新勢力に関白なり将軍なりつけるだけでやはり残る
新製力が天皇家を倒せば新勢力となったとはいえ疲弊した状態で賊軍扱いでフルボッコされる可能性がある
つまり日本では2回連続で天下取りできる軍事力と求心力がないと天皇家を超える事はできなかったと
天皇システムマジすげえww
儒教とか学問的なもんだったし
キリスト教とか早いうちに流れ込んできてたらヤバかったね
なんつー奇跡的な位なんだ天皇。あるいみマジ神だな…
167 :
日本@名無史さん:2013/12/29(日) 04:48:12.81
何が言いたいのかよくわからん
いや、言いたいことはある程度わかるぞ
宗教と王権が一体なのは、世界的に見て普通のこと
170 :
日本@名無史さん:2013/12/31(火) 22:57:17.10
歴史板なのに酷いな、中高生しか居ないの?
新皇将門や日本国王義満なら「男系系図」持ってたろうから出来たかもかしれない、そういう事。
後は知識暗記より理由を自分で考えることな。
172 :
日本@名無史さん:2014/01/01(水) 04:54:23.86
ニート天皇はナマポの在日
ニート天皇はナマポの在日
ニート天皇はナマポの在日
江戸時代に入ると、鎖国して政治の中心も京都を離れるわけだが、
それだからかどうかは知らんが、徳川幕府の政治は陰険になるな。
さりげなく規則をつくっておいて、その規則に相手がはまって自滅
するのを待つ。
真正面から力ずくで相手を倒す、あるいは失脚させる攻撃型ではなく、
相手のミスを誘い、有無をいわせないところでぎりぎり締めつける。
後水尾天皇が憤慨のあまり、一時は退位を考えたという紫衣事件なんか
その典型だろうな。
174 :
日本@名無史さん:2014/01/01(水) 10:26:00.77
ゴダイゴだー、大政奉還だーっても変えられん変えない方が良いと権力者も庶民も思った理由を考えてみよう。
175 :
日本@名無史さん:2014/01/01(水) 10:56:50.83
>>173 後水尾天皇擁立を実現したのは他ならぬ家康なんだよな。
〜古事記代〜:天孫降臨、国譲り、神武東征===天皇↑
〜古墳時代〜:皇族同士の内戦、皇族主導===天皇↑
〜平安前期〜:藤原氏の興隆、摂関家の繁栄===天皇↓
〜平安後期〜:院政のはじまり、摂関家の失墜===天皇↑
〜室町中期〜:南北一統以後影響力弱まる=====天皇↓
〜江戸中期〜:国学の興隆→明治維新の原動力===天皇↑
177 :
日本@名無史さん:2014/01/02(木) 07:29:57.30
明治維新はキリシタン革命。島原の乱はイエズス会とフランシスコ会の内戦。ドミニコ会は布教を続ける。大名、近代華族はほとんどキリシタン。家畜には国家神道を与え、キリスト教式の替わりとする。フルベッキ写真は被差別部落のキリシタン。
178 :
日本@名無史さん:2014/01/02(木) 16:24:07.27
>>173 禁中並公家諸法度17カ条で、天皇と公家たちをがんじがらめにしばり、
これで、朝廷は幕府に絶対抵抗できないようにされてしまった。
それとは別に後水尾天皇がやめた直接の原因は、春日局謁見事件だろ。
まあ、それにしても退位して上皇になって仙洞御所でじつに文化的で自由な生活を
楽しんだようだからいんじゃね。
>>178 むしろ、近年の説だとむしろ紫衣事件がきっかけで統制が強化された訳で、家康存命中はまだ豊臣対策で手が回らなかった。
180 :
日本@名無史さん:2014/01/02(木) 21:29:31.31
外人は日本と皇室の歴史が理解出来無い。
>>1の理由が全世界の常識だからだ。
そこで外人に説明する時は
「天皇はローマ法王みたいな位置付けで権威の象徴」
「天皇と徳川や豊臣の関係はローマ法王とローマ皇帝の関係みたいなもの」
と言うと大概は納得する。
181 :
日本@名無史さん:2014/01/03(金) 06:24:09.57
キリスト教圏の欧米なんかはローマ法王を例に出せば理解しやすいかもしれないが、日本人ならローマ法王との決定的な違いも理解しとく必要がある。
ローマ法王は十二使徒のペテロの後継者であり、出発点から宗教的権威であること。
ローマ帝国からの弾圧の後、国教化や帝国の東西分裂、西ローマの滅亡といった歴史的経緯により、民衆に深く関わる事になった。
末端の行政機関が未整備だったゲルマン諸国は、この教会組織を利用する事で民衆を支配し、結果的に教会は世俗社会に対して大きな権力を持つようになった。
一方、皇室は祭政一致の古代王権を出発点としている。
これ自体はユーラシア大陸においてもさして珍しい事ではないが、
治乱興亡の激しい大陸にあっては、異民族による王朝交代が日常茶飯事だった。
そして、アジアの王朝は最後まで君主が世俗権力と宗教的権威を兼ねる存在だったが、日本では実力者が天皇の権威によりその統治権を代行するように推移していった。
結果的に、ヨーロッパの政教分離のような形になった。
ただし、ローマ法王はインターナショナルな存在であるが、天皇はナショナルな存在なので、
バチカンのように分離独立する必要はなく、今でも対外的には国家元首として振る舞われておられるので、
いち宗教教団の教祖のような扱い方は不適切だし、憲法や法律を変えて、そのようにする必要もない。
ローマ法王もローマ皇帝もローマの最高神祇官 - Wikipedia
ユリウス・カエサルもまずは最高神祇官になり
のちのカエサルもみな最高神祇官になった
カエサルの血筋は皇帝ネロでとだえたが最高神祇官の地位は受け継がれ続けた
日本の皇室は日本の最高神祇官たる伊勢の斎宮を出す家系であり今も血筋は繋がっている
執政者たる摂政関白も征夷大将軍もその地位は天皇の勅許にもとづくものだ
西ローマ帝国 - Wikipedia
379年に、ウァレンティニアヌス1世の息子にして後継皇帝のグラティアヌスは、
最高神祇官 (pontifex maximus) の衣裳を羽織ることを拒否し、
382年には、異教の神官の権利を剥奪して、異教の祭壇をローマの元老院から撤去した。
そして最高神祇官(Pontifex Maximus)の称号をローマ教皇に譲ったのである。
天武朝98年間は後継に空いた日が無い(持統天皇除く
まさかここまで磐石だったとは思わなかった知らなかった
>>183 世界史でカッコいい用語に大空位時代があったが
日本史上最大の大空位時代ていつかな?
今は皇室典範に天皇崩御後直ちに皇太子が即位とあるから
タイムラグはゼロ秒だな
天皇不在の瞬間が全く存在しない
神功皇后の胎中天皇
継体天皇即位までの空位
天智天皇、持統天皇の称制
細かくいうと、先帝崩御後は践祚で、
即位するのは即位の礼を以てだな
187 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 20:44:29.54
応神崩御後の仁徳と菟道稚郎子との譲り合い
反正崩御から允恭即位の間
清寧崩御後の仁賢・顕宗の譲り合い
武烈崩御から継体即位の間
188 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 21:04:41.66
あ、継体はかぶった
明治以前は弘文天皇がいない空位期間をどうしていたんだろうか
190 :
日本@名無史さん:2014/01/09(木) 22:23:49.36
日本民族1億3000万人の中で、遡れば皇族に行き着く人間は民族全体の何割くらいいるの?
天武天皇の称制扱いじゃなかったっけ?
193 :
日本@名無史さん:2014/01/13(月) 00:54:23.22
>>190 親が通婚していない帰化、特別外国人らを除く全員。
2014/1/30付
(入門講座)日本古代史への旅(4)天皇号はいつから使われたか 文献・出土史料で諸説 千田稔
http://www.nikkei.com/article/DGKDZO66052750Z20C14A1BE0P00/ わが国で、いつごろから「天皇」という称号が使われたかについては確かな答えがない。
私見では舒明朝
天武天皇(在位673〜686年)の時代には天皇号があったと見るのが有力だが、使われ始めた時期については、
文献史料によるか出土史料なども考慮に入れるかで見解は分かれる。推古天皇(同593〜628年)にまで
さかのぼるとする説もあるが、私は舒明天皇(同629〜641年)に始まったのではないかと考えている。
…
196 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 19:36:21.98
197 :
日本@名無史さん:2014/03/18(火) 14:33:04.28
198 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 22:55:26.63
劔を持ちて伊勢神宮に参られました。
やっぱり一条天皇の時代にデジカメ持って行ってみたいな
一条はもちろん道長・定子・彰子・清少納言・紫式部・藤原 行成とか
写真で撮り捲くりたいぞ
貴族飯も食ってみたいし日本縦断して写真撮ってみたい
200 :
日本@名無史さん:2014/04/09(水) 11:37:22.70
201 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 22:11:09.04
202 :
日本@名無史さん:2014/04/26(土) 23:23:09.92
ビックカメラ札幌店 副店長
佐藤伸弦が天皇の悪口をフェイスブックに書く
その後削除
後鳥羽上皇の評価について 彼は自らの理想のもとに、鎌倉幕府に挑んだ豪傑なのか、
それとも身の程知らずのキチガイなのか?どうなんでしょうか?
>>1 日本の二重性の二重王のこれからについての素案
宗教王=天皇陛下+大規模皇族+華族
権力王=徳川征夷大将軍+上級武士
なお、下級武士は百姓に二本差しを便宜上許したものであり、
これは農民であるので
天皇陛下の側に属すので権力王側ではない。
なお、皇族をわざわざ大規模皇族と書いたのは、
現在の小規模皇族は汚いアメリカが
天皇陛下の血筋を途絶えさせるための謀略だからである!
なお、現在大日本帝國は継続しており、
大東亜戦争は継続しており、
大東亜共栄圏は繁栄を続けており、
目下、アメリカ全体主義国家の破壊と
人種解放と世界の安定に向かっている状況である。
206 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 05:57:47.32
>>1民主主義は多数派とされる者達が少数派を虐殺するためだけに存在します。
>>240 それ支那事変。
支那事変圧勝です。
一号作戦とその司令官の岡村大将について調べればわかります。
三戒なども。
支那人の圧倒的大声援のもとで一号作戦は完遂されました。
「日本人が匪賊(国民党軍と八路軍)を討伐してくれた!次の王朝は日本だ!」
>>241 権力者たちの合議制(昭和時代の自民党の派閥の合議制)のほうが
民主制(テロリスト民主党を選んでしまう欠点)より明らかに優れています。
>>242 >日本は封建制度が一番合ってるよ。
僕もそう思います。
天皇陛下がおはして、その配下に征夷大将軍がいるバランスの良さ。
>>243 >日本に独裁者制度って合わないような印象なんだけど。
征夷大将軍は独裁者ではありません。
二重王の宗教王・権力王のうち権力王を担当する王です。
宗教王=天皇陛下
権力王=征夷大将軍
207 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 06:01:06.49
>>5 >6世紀の半ばごろから仏教が入ってきてるが、これを受け入れるのは天皇家としては
かなりの決断だったと思うな。
天皇陛下は喜んで仏教を受け入れました。
いや、天皇陛下こそが仏教を日本に導入したお方です。
ミトラ教=神道
ミトラ教=仏教
だからです。
なぜならば、天皇陛下と蘇我氏と聖徳太子のルーツは
アスカ=パルティア大帝国でユーラシア北方遊牧騎馬民族大帝国出身だからです。
飛鳥=アスカ=ヒト=クニ@北方遊牧騎馬民族
208 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 06:26:54.51
>>6 >百済の王室から日本の王室に伝えられたが、日本の王室はしばらく受け入れないで、
「皇室、ね?不敬罪で死刑にされちゃうよ?」みを
ユーラシア北方遊牧騎馬民族大帝国=アスカパルティア大帝国=フーユ(扶余)=クダラ(百済)=ミマナ任那日本府=日本帝国
>>8 天皇陛下=ユーラシア北方遊牧騎馬民族大帝国皇太子
蘇我氏=ユーラシア北方遊牧騎馬民族大帝国系アスカパルティア大帝国ミトラ教大神官
つまり、天皇陛下と蘇我氏と聖徳太子は血縁者。
209 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 06:27:47.43
>>9 「なんでこの人にレスが付かないのかなあ?馬鹿ばっかりじゃないのこのスレ??」みを
>天皇一族は渡来人であり、日本列島にいた原住民を制圧して一つにまとめた。
「理解も表現法も違うかな」みを
天皇陛下=日本帝国の王の中の王
日本帝国=扶桑国+文身国+三輪王国+大漢国+邪馬壹国+越の国+河内国
日本人=縄文人*アスカパルティア大帝国皇族貴族神官
>神道は西洋宗教を日本列島に持ち込んだ渡来人(天皇一族)が、
原住民の自然崇拝とドッキングして作り上げていった神学体系ということになる。
神道=ミトラ教
>徐福 : ユダヤ教の儀式と風習、旧約聖書を日本列島に持ち込んだ。
それは支那における扶桑国伝説と扶桑の木伝説と蓬莱山伝説の混交体だね。
>秦氏 : 原始キリスト教(ミトラ教の一派)と新約聖書を日本列島に持ち込んだ。
秦氏ら=ミトラ教大神官蘇我氏の先遣隊
>蘇我氏: ミトラ教の中でも東洋グノーシス主義の流れを汲む仏教を輸入
蘇我氏=ミトラ教大神官であり最後に渡来して日本に本格的にミトラ教を導入
210 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 07:26:13.35
>>9 「お兄ちゃん鋭い!!」みを
>原始キリスト教とグノーシスの流れを汲む仏教は本質の部分(ミトラ教)では共通する。
カトリックやプロテスタントは頑なに認めないが、
イエスキリストはエッセネ派(ミトラ教の一派)に属してグノーシス主義者だった。
アスカ(ユーラシア北方遊牧騎馬民族大帝国)ミトラ教
→メソポタミア文明サカ人(スメル人(シュメル人(シュメール人)))ミトラ教
→派生物ミトラシズム(ミシアにズムになまる(メシアニズムになまる))@東イラン高原
→ユダヤ王ユダヤ人バビロン虜囚ミトラ教を学ぶ
→ユダヤ王ユダヤ人パレスチナに帰されミトラ教とメシアニズムを信仰し続ける
→「お母さんは処女なのに懐胎して僕が生まれた。」とか言っている
少しだけ頭のおかしな大工の息子イエスがあるときユダヤにいた。
→ユダヤ人はユダヤからメシアが現れたと大喜びした。
→キリスト教成立
→新約聖書成立
→ミトラ教が広まっていたローマ王国(ローマ帝国)にミトラ教を土台にキリスト教が広まった。
→旧約聖書成立
>今のキリスト教はイエスの思想からかけ離れたミトラ教の模倣に過ぎない。
そのとおりです。
キリスト教アタナシウス派はイエスの思想からかけ離れたミトラ教の模倣に過ぎず、
キリスト教の言う悪魔とはミトラ教最高神太陽神ミトラ様であり、
キリスト教の言う唯一絶対神とは悪魔の最高神にすぎない。
211 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 07:33:24.97
>>9さんへ
>>151 岩明均がヒストリエで本当に描きたかったのは
1.スキタイ人は優秀な民族であること。
2.アレクサンドロス大王の遠征はなぜ止まったのか?
だから、50%強は成し遂げているわけです。
>>154 背景も全部岩明均さんが描いていらっしゃいます。
>>156 >ところでスキタイの子孫って現在は主にどこにいるの?
ってかスキタイって見た目はアラビア系?白人系?
スキタイ人の子孫が日本人です。マジで
スキタイ人=スキト人=アスカ人=飛鳥びと=聖徳太子たち=日本人(武士系)
源流は北満洲で、
発展場は南シベリアで、
民族名は『アスカ』で、
国名は『アスカ』で、
起源文明は世界最古の文明『ミヌシンスク文明』で、
宇宙観は『スメラ』で、
宗教は『ミトラ教(=神道=仏教≒キリスト教)』で、
彼らはこう呼ばれています。
『北方ユーラシア遊牧騎馬民族大帝国』
212 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 07:34:51.61
>>9さんへ
>>156>>157>>158>>160>>165>>167 1.岩明均は栗本経済人類学徒であること。
2.スキタイ人は古代ギリシア人の勝手な呼称であり、
「サカ人」の騎射部隊をサカ人が「スキト」と呼んだため、
サカ人の特に騎射部隊を恐れた古代ギリシア都市が
「サカ人」を「スキト」と呼ぼうとして
ギリシア語訛りで「スキト」が「スキタイ」になっただけ。
3.アスカ(ヒトかつクニ)の流れ図
0-1.ミヌシンスク文明
→0-2.北方ユーラシア遊牧騎馬民族大帝国(すべての源流。世界史の中心。)
→1.北満洲→日本人@日本帝国(日本国)(複数の王の連合制だから)
@日本列島と朝鮮半島南部
(のちに朝鮮半島からは王皇族貴族は全員引き上げ奴隷のみ残した。
日本の奴隷たちが現代朝鮮人の祖。)
→『スメラ』(『宇宙の中心』という意味)が天皇(王の連合制をまとめる王の中の王だから)→1-3.天皇陛下+皇族+貴族(華族)+下級武士+百姓+常人
→2.アスカ帝国(パルティア帝国)
→ミトラ教と二重性と『アスカ』を伴ってミトラ教神官蘇我氏が日本へ渡来
→大化の改新でくじかれる→2-4.武士系=征夷大将軍+大名+上級武士+山人
1-3と2-4が二重性(双子の重視)
→3.東のカフカスの分派→サカ人(スキタイ人)
→4.カフカス→アシュク人@アシュク帝国(カザール帝国)(のちのアシュケナージユダヤ人)
→5.フン族(ゲルマン人の祖先の一派)
→6.タタール人(タタールのくびき)
暗闘と暗殺を繰り返している白人とユダヤ人と日本人はみな親族なのでみな仲良く。
213 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 07:35:59.19
>>9さんへ
>>685 >遊牧騎馬という生活スタイルを発明したのはスキタイ人で、
遊牧騎馬民族という生活スタイルはダナキル地塁停滞からの出アフリカから
メソポタミア、カフカスを抜けて人類が草原の道に出た時期、
つまりミヌシンスク文明と北方遊牧騎馬民族大帝国で確立されました。
そのごく一部の支流分派がサカ人(スキト人(スキタイ人))です。
>オリエント文明の流れから青銅器文明を持っていた。
移動と金属器に異常な興味と積極姿勢を見せていたのが
ミヌシンスク文明とその後継の北方遊牧騎馬民族大帝国です。
1.青銅器は南シベリアで発明されました。
2.北方遊牧騎馬民族大帝国の一部のグループアスカ人(スメル人)が南下西進し
メソポタミア入りしてメソポタミア文明を大繁栄安定運営し、
青銅器の鋳型として最適な「非食用蜜蝋」をメソポタミアから南シベリアに送りました。
3.南シベリアでは高度な青銅器文明が精緻を極めました。
4.北方遊牧騎馬民族大帝国の極小数のグループが南下し
支那入りし、夏王となり、殷王となり、支那人に
北方遊牧騎馬民族の知恵の移動と金属器のうち
金属器とメソポタミアの農耕と各種の種を伝えました。
5.歴代支那皇帝は二人を除き
全員北方遊牧騎馬民族大帝国出身者で占められています。
>これは周辺の遊牧騎馬民族を捕えて奴隷として使役していた為と考えられている。
奴隷は常に支那人の方ですよ(笑)
>殷の青銅器は支那の歴史上最上のクォリティとされ、時間の経過とともに劣化したとされている。
殷王は北方遊牧騎馬民族の皇族ですw彼の方は支那人などではありませんw
214 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 07:37:25.13
>>9 キリスト教のパクリねたもとのミトラ教は東方の東イラン高原から来たと
キリスト教徒ユダヤ教は思っているから。
実際は南シベリアから東イラン高原に南下して西進してメソポタミア文明に入った。
そしてパビロン第X王朝はユダヤ王国を破壊してユダヤ王とユダヤ人をバビロンに補囚した。
バビロンでミトラ教とミトラ教から東イラン高原で発生た救世主思想を教えられたユダヤ人はキリストつまり救世主を待ち望みつつミトラ教とメシアニズムを信仰し続けた。
そこに『お母ちゃんは処女なのに懐胎した。』とか言っている
少しだけ頭のおかしな大工の息子イエスが現れた。
ミトラ教とメシアニズムがなければどこにでもいる少し頭のおかしな子として見過ごされたはず。
だが、ミトラ教とメシアニズムを得たユダヤ人はイエスをメシアと設定した。
メシアを強く待ち望んでいたからだ。
そしてキリスト教が誕生した。
キリスト教はミトラ経から剽窃して教義と体系を確立した。
その後ユダヤ教が成立し旧約聖書が整理された。
215 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 09:03:33.06
>>9天皇陛下の日本史
時代は少し前に戻る。
サカ(スキタイ)が南シベリアから西進して南下しローマ王国(ローマ帝国)を脅かした。
その時ミトラ教はミタンニ王国に広まった。
ローマ王国(ローマ帝国)がミタンニ王国
(ミトラのミトとアンニでミト・アンニ、ミタンニ)
と戦ったときとった捕虜から
ミトラ教を学んだローマの軍人や将軍がミトラ教を信仰し出した。
ローマ王国(ローマ帝国)にギリシア神話の丸パクリのローマ神話でなく、
先進的なミトラ教が広まった。
(ただし、ギリシア神話の元ネタは南シベリアの遊牧騎馬民族が
ティエン(天)からアスカ(人)がいかにして生まれたかを語った神話。
この神話は日本に伝わり聖徳太子が
『天皇記』スメラミコトのフミとしてまとめ古事記日本書紀に垣間見える)
ローマ王国(帝国)のミトラ教信仰がキリスト教受け容れを準備した。
216 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 11:21:09.39
スレチ。スレタイを見よ。
Test
218 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 19:15:42.97
皇族が出雲大社の子孫と結婚しましたね!
どんな神様が生まれてくるか楽しみだ!
219 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 14:12:31.23
>>218 出雲大社の宮司って先祖は皇室の弟で男系でいえば同じ一族だぞ。
別に大国主の子孫ってわけじゃない。
大国主の子孫は大神神社の宮司だけどそっちは女子しかいなくて断絶確定してる。
220 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 22:17:18.54
皇族に戻られるのか。
221 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 22:18:26.68
222 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 22:34:41.33
滅ぼされた出雲が許されたと思ったら、ただの近親婚でしたw
223 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 23:22:39.38
>>221 名門っつっても伝説上は名門だろうけど実際はただの普通の家だぞ
女性宮司で頑張ってるけど確か姉妹全員未婚だったような
養子もとらないんじゃないのかな、今時だし…
ちなみに大国主の子孫だと他に宗像大社の宮司もある
天皇て徳川の時代は何やってたんだ??
>>223 宗像大社の宮司は、宗像氏で宇多天皇の子孫じゃないの?
しかも断絶してる。
226 :
日本@名無史さん:2014/06/03(火) 02:04:45.30
228 :
日本@名無史さん:2014/06/04(水) 04:44:18.38
日本人は木気が強すぎ土を提出できていない
これは天人地がある中国から来た天皇の国としてはあるまじきこと
例えば天皇にしても系譜を続かせるだけでそれに縛られている
ある程度土を増やし革命される恐れを持ってもまともに人の道を開拓しなくてはならないのである。
でなければ人の世でない世界になってしまう。
人の道を開拓できないものは自然を恐れただ萎縮した野蛮人である。
この時代になってもまだなお野蛮人を続けるのなら日本人に徳は無い。
>>227 何が言いたいのかはわかるが、誰に向かって、何を意図してるのかわからんね。ダラダラ長すぎるし。
男系に限るってのはそれなりに意味があると思うけどね。その意味を重要視しないなら、そりゃあ無意味だろうさ。
230 :
日本@名無史さん:2014/06/08(日) 18:37:37.67
231 :
日本@名無史さん:2014/06/08(日) 18:55:07.17
両親は二人とも90超えて健在なのに、子供は5人のうち4人が亡くなっているのか。一人は47歳で死んでいる。
やはり隔世遺伝で大正天皇の血が出てるのか。
てか98歳の三笠宮崇仁親王は流暢なヘブライ語を操るってマジか。関係無いが
>>231 母方の祖父(百合子妃の父)の高木家の人間も異常だしな。
発狂して青酸カリ飲んで自殺したり
>>230 崩御が使われるのは天皇・皇后・皇太后・太皇太后
親王・王・女王・親王妃など皇族には使わない
そうか。
てか女は二人生きてたわ。
235 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 08:26:01.25
>>10 >587年に物部守屋が蘇我馬子と争って、馬子に滅ぼされる。
これは天皇家としては危機になりえたんだろうけどな。
天皇の軍事指揮官であり、祭祀的な天皇の機能にもつながる一面をもった、
それ故に仏教にも反対していた物部氏が、自分の目の前で倒されてしまったんだからな。
ほんとうなら、天皇にとっては右手をもぎとられたのも同じだ。
ところが蘇我氏もそのころには天皇家と外戚関係を結んでいる。
聖徳太子でも誰でも、そのころの皇太子はみんな広い意味で蘇我氏一族なんだから、
皇室全体としてはどうということはない。
そのへんが、天皇家のしたたかさの最初の証明だったといえる。
天皇陛下も蘇我氏もその頃は同じアスカ人皇族。
>>11 >要するにそのころになると日本の国としてもそろそろ仏教が必要になってきた。
東アジアの情勢をみると日本はいつまでもまとまりのない国のままではいられない。
東アジアのどの国もがそうであるように、中央集権国家を成立させなければ
これらの国からの脅威をまぬがれない。
しかし、それぞれの部族がそれぞれの神様を持っているようでは、
中央からの威令は行われないから、この際、部族信仰を超えた普遍宗教である仏教を興隆させることにしよう。
こういうきわめて政治的な理由で、仏教の本格的な受け入れが始まったんだと思う。
これが聖徳太子の時代だ。
シンプル。アスカ人蘇我氏聖徳太子がアスカ教ミトラ教である仏教も採用しただけ。
神道はそのままミトラ教だから。
236 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 08:33:41.78
>>12 >聖徳太子 → 聖人で徳の高い太陽の御子
1.ミトラ教最高神太陽神ミトラは神母子の三面神である。
2.聖徳太子は神の子たる太陽神の子であり、救世主キリストである。
>確実にユダヤ教と原始キリスト教(ミトラ教、太陽神信仰)の影響を受けている。
逆。
ミトラ教=神道=仏教。
ミトラ教キリスト教学のユダヤ人バージョンがキリスト教で
その後にユダヤ教典がミトラ教典から転写され成立。
>原始キリスト教はその実態はミトラ教で、グノーシス主義と融合していた。
よく研究なさっていらっしゃいますね。
>従って蘇我氏がグノーシス主義の流れを汲む仏教を日本に広めようとしたのは、
そもそも神道自体がミトラ教の流れを汲んで作られているので、何ら不思議ではない。
よくそこまでご研究を。おっしゃるとおりです。
ひとつ。仏教はインドの西イラン高原でミトラ教から成立・発展・文書化されたミトラ教の別の顔です。
古代は女系継承の方が多いし、神社は特にそう。
娘が残ってて、婿を取れば大神家が続くなら、それは全然「断絶」とは言わないな。
物部と蘇我の争いは、仏教の受容、排斥を巡る争いではありません。
物部の邸地跡からも寺院の遺構が発見されていまして、つまりは物部も仏教はそれなりに受容していましたので。
あれは実際は朝廷の祭祀長の座を巡る戦いです。
>>237 なら継体天皇にも王朝の連続性の問題は無いな
240 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 19:43:09.30
>>14 支那皇帝だって世襲大原則だろう。
アスカ大帝国のパクリの『スメラミカド=宇宙の王の王』を僭称しているのだから。
日本は儒教ではないし、そもそも儒教は宗教ではない。
支那は昔からずっと呪術だ。
日本は縄文神道からアスカ教たるミトラ教神道へとスムーズに融合して今に至る。
歴史が超絶長いよ。
>>16-1 >和を以って尊し・・・なんかは儒教的だな。
それはミトラ教=神道を重んじよという意味だよ!
ミトラ教のアスカ大帝国は合議制を採用してい続けたからね。
合議制=和を以て貴しと為す。
>というか儒教と大乗仏教が同時に輸入されたと思える。
ミトラ教とミトラ教救世主思想仏教の同時導入だよ。
だから所詮ミトラ救世主思想劣化バージョンにしか過ぎないキリスト教は日本に根づかなかったわけ。
241 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 19:45:26.80
>>16-2 >いずれにしろ神道や皇族の作り上げた宗教観というのは、
渡来人が日本列島に持ち込んでごちゃ混ぜにした宗教観ってことだ。
ミトラ教ほど完成された体系だった宗教はほかにない。
>唯一、日本にオリジナリティがあるとすれば自然崇拝しかない・・・orz
自然崇拝=多神教=ミトラ教
縄文文明の宗教は他地域アニミズムとぜんぜん違うよ。
>自然崇拝は世界どの地域どの民族にも普遍的にありえた原始宗教の基本だからね。
アマテラスなんてのは日本オリジナルの神ではないwwあれは太陽神ミトラの成れの果て。
太陽神ミトラの神母子三面神の神母を担っているのが天照大御神。
子は聖徳太子だった。
聖徳太子は日本と世界の救世主で
聖徳太子は日本をアスカ大帝国の正統後継者として世界に表明する意味もあって
日本の国号を飛鳥国あすかこくとし、国民を飛鳥人あすかじんとする予定だった。
そもそも、日本書紀古事記に垣間見えるスメラミコトのフミ天皇記の日本神話は
ミトラ教神話とまったく同一。
最初の神から以下にして神々と最初の新人が生まれたかを説明しているが、
パターンがそっくり。
これ前に書いたけど。読んでおいね。
242 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 19:48:28.72
天照は絹を織ってました、米を食べていました
243 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 19:50:49.26
卑弥呼は稗を食べていました
244 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 19:59:39.52
漢字が、伝来するまでの天皇はカタカナ表記が正解だと思いますが、
日本の教育本は「記紀によると漢字で・・・」とか表記されてないのが残念です。
245 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 20:08:05.16
教科書の「日本の歴史」は、漢字伝来まではカタカナ表記がいいと思います。
もしくは、「記紀での漢字表記では」の但し書きが必要かも・・・・
神武天皇はジンム?ジンナム、ジョム?かもしれません。当て字でしょう。
大陸の史書に残っているものは、OKですが・・・・・・
246 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 20:22:40.34
漢字は朝鮮から伝来してます。
ハングル文字は庶民の文字で、朝鮮の王族は漢字です。
漢字を上流階級のみに制限した結果、ハングル文字が生まれたのは周知の事です。
百済のブネイ王の末裔を桓武天皇は妃としています。
247 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 20:26:19.67
ブネイ王?
無理に結びつけるのも変だと思うけどね?
248 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 21:14:32.05
>>247 平成天皇や宮内庁も認めてるのですが・・・・
249 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 21:21:08.50
>>248 桓武天皇の生母である高野新笠は、武寧王を遠祖とする渡来人系の和氏の出身という記述が『続日本紀』にありますが、
宮内庁は言い過ぎでしょう。
250 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 21:25:58.26
>>249さん
続日本記も含め、記紀の危機ですね。
>>245さんは、わかり易いですが、現在日本史ということで漢字でもいいのでは。
神武天皇が現存したと思ってる方は少ないですよ。神話です。
北朝鮮の金一族の神格化と似ていて、怖い時代だったのでしょう。
251 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 21:27:42.28
漢字の辺からカタカナはできてるからそりゃ無理だわ
252 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 21:32:37.47
今の天皇と関係ない話ですが・・・今天皇も生活は保障されてますが、気苦労の多い職務です。
五色の賎や良賎の令なんぞは、朝廷の貴ぐらいを示したものでしょう。
中国や朝鮮でも賎民は反逆者か征服されたものの象徴です。(王が誰がつくかにより、賎民も変わりますが)
253 :
日本@名無史さん:2014/06/11(水) 22:28:12.27
神武から光仁までの漢風諡号は淡海三船がまとめておくったもの。
当然、イワレビコが在世中に神武天皇とか和風諡号のハツクニシラススメラミコトと呼ばれていたわけではない。
だが、日本史や世界史では、天皇や帝王を諡号で呼ぶのが慣例。
奈良時代におくった漢風諡号を、カタカナ表記とかナンセンス。
254 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 00:44:06.73
ブルネイ王がなんやねん
255 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 20:19:31.26
教科書の子供の教育じゃないんだからさ。
考古学で書き込むなら、
日本に漢字伝来するまでか?記紀が書かれた以前の(大陸の史書にあるもの以外)は
カタカナで書いてほしいものです。
ジンム天皇とか・・・・・・
256 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 20:38:05.64
宮内庁が悪い。
257 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 20:42:06.72
大乗仏教はあらゆる考え方が許されるから国教じゃないぞ
真言から浄土真宗まである。
どれも異端じゃない。
258 :
日本@名無史さん:2014/06/12(木) 21:11:53.26
>>255 で、わざわざ漢字を使って中国風の諡号をおくったのに、カタカナにする理由は何?
やまと言葉に適当な漢字で当て字した言葉なら、カタカナ表記する意味があるけど。
実在最古の天皇、雄略天皇を本名の諱でワカタケル大王(オオキミ)と表記するなら、当時の発音の再現だから意味があるが、
後からおくった漢風諡号の雄略をユウリャクと表記する意味はない。
漢風諡号は中国の諡法を参考に漢字の意味を考慮して付けられたものなので、
漢字表記しなければ意味が充分に伝わらない。
漢字伝来以前の言葉を尊重したいのなら、やまと言葉だけカタカナにすればいいのであって、漢語の読みをカタカナにするのは筋違い。
259 :
日本@名無史さん:2014/06/14(土) 09:17:26.59
天皇は渡来人だから、漢字で良し。
260 :
日本@名無史さん:2014/06/14(土) 09:28:48.72
天皇と書いてスメラミコトと書くの何で?
261 :
日本@名無史さん:2014/06/14(土) 09:31:40.61
大王はオオキミ、古人大兄皇子を調べてて分かったが阿なんとかから始まる漢字4文字でオオキミなんだね
神武天皇は南九州に「天孫降臨」し、海路で奈良に「東征」した
ここが肝だよね
みんな歴史教科書の刷り込みによって無意識的な盲点があって
それは日本の古代史には中国と韓国しか登場しないっていう思い込み
天皇は、ポリネシアンだよ
正確に言えば後にポリネシアンと呼ばれる東南アジアからカヌーに乗って太平洋に出た海洋民族
それが天皇のルーツ
だから南九州に降り立ったんだし、南九州から陸ルートではなく海ルートで奈良に行ったわけ
天皇一派ってのは騎馬技術より海洋技術に長けた一派だったってこと
天皇が天孫降臨した時代に中国北部や韓国の民族が日本に来ることはありえないんだよ
だって彼らは陸の民であり騎馬技術はあっても海洋技術はないから
古事記によると神武天皇の身長は3メートル以上あると
これはもちろん神話ならではの誇張表現なんだけど
つまりは大男だったってことだよ
そりゃそうだ
日本人がどんぐり食ってる間、天皇一派は毎日魚(動物性たんぱく質)を食べてカヌーこいでたんだもん
そりゃ日本人からしたらとんでもないガチムチの大男に見えただろう
263 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 16:57:34.53
やはり、日本人は、縄文人と、渡来人とその相の子なのですか。
縄文人=被征服者 渡来人=朝廷に代表される征服者 今の日本人は相の子ばかりでしょうか。
264 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 16:58:48.67
縄文人の祖先がデニソワ人と交わった可能性をゲノム配列から探る
斎藤成也
国立遺伝学研究所 集団遺伝研究系
総合研究大学院大学 生命科学研究科遺伝学専攻(兼任)
東京大学大学院 理学系研究科生物科学専攻(委嘱)
日本列島は南北に4000km以上にわたっており、アイヌ人、本土日本人、琉球人という3人類集団が居住している。
これらの人々の起源はながいあいだ研究されてきた(総説としては斎藤成也[2005]を参照)。
頭骨データの解析にもとづく定説は埴原和郎(1991)の提唱した「二重構造モデル」である。
このモデルによれば、日本列島への最初の移住者は東南アジアのどこかから後期旧石器時代にやってきて、縄文人の祖先となった。
第二の移住の波は弥生時代であり、こんどは北東アジアから人々がやってきた。
縄文時代以来の原住民と弥生時代以降の渡来民はゆっくりと混血していった。
日本列島の最北端の主たる島である北海道に居住するアイヌ人と南西諸島の琉球人(沖縄人)が地理的に大きく離れているにもかかわらず、
これらの人々のあいだの形態的類似性があることに対して、 このモデルは整合性のある理由を与えている。
両人類集団の類似性については、100年以上前にvon Baelz (1911)がアイヌ琉球同系説として提唱している。
265 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 16:59:21.89
日本列島人類集団遺伝学コンソーシアム(2012)は、アイヌ集団と琉球集団についてゲノム全体にわたる単一塩基多型(SNP)を決定し、既存データと比較した。
この論文はこれらゲノム全体にわたるデータについての最初の報告である。主要な結果は
(1)二種類の解析から、1/3以上のアイヌ個体について、本土日本人との最近の混血が観察された、
(2)アイヌ集団はもうひとつ別の集団との混血を経験したらしく、この二種類の混血の組み合わせはこの集団に特徴的である、
(3)東ユーラシア人類集団の系統樹において、アイヌ人と琉球人は100%のブーツストラップ確率で強固にクラスターし、本土日本人がそれとさらにクラスターする。
これらの結果は、日本列島人についての二重構造モデルを明確に指示するものである。ただし、縄文人と弥生人の起源についてはまだ未解決である。
そこでわたしたちは縄文時代の人々の細胞核ゲノムの塩基配列を調べた(神澤秀明ら、未発表)。これら古代DNAこそ人類の歴誌の直接の証拠だからだ。
その結果、現代人でもっとも縄文人に遺伝的に近いのはアイヌ人であり、本土日本人も縄文人のDNAをしっかりと受け継いでいた。
また縄文人の祖先集団がデニソバ人からの遺伝子流入があった可能性も、統計解析から示唆された。
ネアンデルタールとサピエンス交替劇の真相:学習能力の進化に基づく実証的研究
http://www.koutaigeki.org/PDF/general/meeting/2014.5.10.pdf
266 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 17:01:17.16
良賎の令から言えば、良民(渡来人)と賎民(縄文人)との間の子は良民とされたから
ほとんど、縄文系と大陸系の血を引いていると考えられます。
267 :
日本@名無史さん:2014/06/15(日) 17:09:39.95
オオキミ論どうなった?
君主の名をオオキミ、婦人をキミという
268 :
日本@名無史さん:2014/06/16(月) 06:57:53.65
壬申の乱を起こした連中は前の政権を滅ぼして
古事記、日本書紀なんかで乗っ取りを正当化している。
これは、渡来人の仕業。九州は既に渡来人に征服されてたから、渡来人の東遷であり、
邪馬台国は東遷していない。畿内以西で渡来人に滅ぼされたのだろう。
オオキミなるものも、創作では?
王朝交代説の泣き所は考古学的な証拠が無いこと
あと、王朝交代を正当化する論理が中国の儒教にあるのに、
それを用いずに、わざわざ万世一系を捏造する理由が乏しいこと
270 :
日本@名無史さん:2014/06/16(月) 13:08:09.58
武家が天皇に対して軟弱すぎるのが謎
271 :
日本@名無史さん:2014/06/16(月) 15:43:07.60
>>270 武家の棟梁自体が天皇の子孫であることをウリにして(自称を含む)
周囲の武士たちを従えていたのだから仕方がない
272 :
日本@名無史さん:2014/06/16(月) 16:14:20.84
武家政権自体は仏教に帰依してるところも多いから一概にそうとも言えない
ただ、その仏教の世界も世俗のヒエラルキが反映されるようになったがな。
そもそも、出家集団は年功序列がデフォだが、しだいに皇族や貴族出身者が要職を占めるようになる。
また、寺院の格も天皇の勅願寺や門跡寺院が宗派内で上位を占めるようになる。
天皇在位中は神事がある為いろいろ行動を制約されるが、譲位して上皇となれば治天の君として政務をこなしたり、出家して法皇になったりと、かなり融通がきくようになる。
法皇や法親王のような貴種は仏教界においても特別待遇されたのは言うまでもないし、仏教界に厳然たる影響力を持っていたことも言うまでもない。
274 :
日本@名無史さん:2014/06/17(火) 05:09:49.99
>>18 >実像はどうであれ、少なくともネーミングはユダヤ&キリスト教そのまんまwww
ミトラ教そのまま。
だってミトラ教最高位神官だもの。
275 :
日本@名無史さん:2014/06/19(木) 12:32:59.56
『新撰姓氏録』
新良貴氏「是出於新良国。即為国主。稲飯命出於新羅国王者祖合」
これ新良国に出ず。すなわち国主なり。稲飯命新羅国に出て王は祖合す。
新羅国の王族は天皇の兄弟。
276 :
日本@名無史さん:2014/09/28(日) 09:06:59.11
「クイズ!?正解は出さないで」のナレーションで花山天皇を「はなやまてんのう」と呼んでたな
277 :
日本@名無史さん:2014/09/28(日) 09:19:47.53
徳島県教祖 四国初中に支援金伝達
徳島県教職員組合から四国朝鮮初中級学校に150万円の支援金が送られた。
5日、徳島県教育会館で県教組・富田真由美書記長が四国初中・呂東珍校長に手渡した(写真)。
総連徳島県本部ではこれまで学校訪問や朝・日交流の場で、
四国初中が60余年の歴史と伝統を誇る四国で唯一の民族学校であり
同胞学父母の熱意と協力によって運営されてきた経緯と現状について訴え、民族教育に対する支援を呼びかけてきた。
これを受け徳島県教組は、日教組が全国的に行っている街頭での「子ども救援カンパ」の一部を四国初中へ充てるよう申請し、積極的に働きかけた。
こうした試みは全国初だという。
富田書記長は、「行政の民族差別もあり、
学校運営の厳しさを知っていただけに何か出来ることはないかと日頃思っていた。
支援金を渡せて、大変うれしく思ってる」と述べ、学校関係者にエールを送った。
呂東珍校長は、「厳しい状況の中でこのような貴重なカンパ金をいただき深く感謝している。
これからも、朝・日交流のさらなる発展のため、力を注いでいきたい」と語った。
毎年恒例となっている学校訪問についての話し合いも行われた。
12月5日に教職員、児童生徒、父母らとの交流、意見交換会を開くことが決まった。
[朝鮮新報 2009.8.21]
ttp://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/03/20090821j002.jpg ttp://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/03/0903j0821-00001.htm
278 :
日本@名無史さん:2014/09/28(日) 13:10:30.55
キミ=元々は貴人をの呼称で古新羅系がクンの概念を持ち込み意味を当て嵌めた
オオキミ=クン→ダイクンの概念を古新羅系が持って居りその影響でオオキミができた
時代が下って外来人の勢力が強まると大君>君の用法が強まり王乃至大王に当て嵌められる様になった
しかし元々は主(ヌシ)で表されていたと考えられる
279 :
日本@名無史さん:2014/09/28(日) 13:14:35.49
キミ 貴身
280 :
日本@名無史さん:2014/09/28(日) 13:20:01.83
万葉の大らかな君が代を中央集権国の国歌に押し上げたのも侵略の象徴として扱き下ろしたのも韓国人
>>274 天皇の宗教はミトラ教?
ミトラ教は悪魔崇拝とどこかで読んだが、天皇は悪魔崇拝してるってこと?
282 :
日本@名無史さん:2014/10/12(日) 11:55:47.86
万世一系こそ厳然たる日本の掟であり
天皇位の実子相続はされないことが普通であって基本である。
神武→綏靖
崇神→垂仁
くらいが例外である。
垂仁は最初の掟破りであり、殺されないように
野見宿禰という異能の武道家がガードにつけられていた。
283 :
日本@名無史さん:2014/10/12(日) 13:13:21.07
いい加減あきた
285 :
正理会:2014/10/22(水) 12:26:48.93
286 :
記憶喪失した男:2014/10/23(木) 10:39:14.42
287 :
記憶喪失した男:2014/10/23(木) 15:02:05.97
288 :
記憶喪失した男:2014/10/24(金) 19:44:00.21
突然だが、新説である。
☆ 八幡大権現のハプログループは何か?
八幡大権現とは、応神天皇のことである。
応神天皇とは、仲哀天皇の息子といわれているが、神功皇后が仲哀天皇の死後三年たってから出産した天皇である。
現在の天皇は仲哀天皇の血を引いているため、天皇であることに何の問題もないが、
応神天皇は、神功皇后が別の誰かの種をもらって産んだ子だと思われる。
ずばり、
八幡大権現は、日本の天皇家直系ではない!!!
八幡大権現は、神功皇后の謀略により一度は日本を支配した天皇。
八幡大権現のY染色体ハプロは何型なのか。
今後の遺伝子解析に期待したい。
しかし、仲哀天皇─継体天皇の子孫ではなく、応神天皇の子孫である者が現在残っているのだろうか。
八幡大菩薩じゃボケ!
290 :
日本@名無史さん:2014/10/28(火) 21:57:04.14
継体天皇、応神天皇の5世の孫だったよな
291 :
日本@名無史さん:2014/10/28(火) 21:59:55.55
藤原不比等が天智天皇のご落胤だったは本当かな?
そうなら日本人の大部分は天智天皇の子孫だ
↑嘘です
293 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 15:29:03.90
>>291 少なくとも平安時代の藤原氏はそう思っていた。
藤原は鎌足にのみ与えられたので不比等の子孫だけが藤原氏で、それ以外の中臣氏は中臣のままである。
竹取物語の登場人物のひとり車持皇子は不比等がモデルと云われており、不比等の母方が車持氏。
大臣でなく皇子とされているところから物語が成立した頃は一般に信じられていたらしい。
持統天皇の不比等への厚い信頼は異母兄弟であったからとも思える。
294 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 15:52:24.43
>>293 藤原姓は鎌足のみに与えられたのではなく親族の旧中臣の者も名乗っていた
そのため不比等が文武天皇に詔を出させてわざわざ藤原姓を自分と自分の子孫に限定し
他の連中を中臣に戻らせている
「詔曰。藤原朝臣所賜之姓。宜令其子不比等承之。但意美麻呂等者。
縁供神事。宜復旧姓焉。(続日本紀 文武2年)」
不比等落胤説が平安時代に流布していたのが分かるのは
竹取物語の車持皇子のモデルだからではなくて
平安時代成立の「大鏡」にそういう記載があることから
あと、不比等の天智天皇落胤説では不比等の母親を
車持与志古ではなく鏡王女とするものがある(「興福寺縁起」)
295 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 15:52:30.12
車といえば群馬はグンマと呼ばれているがこの呼び方だと本来はグンバになるのが正解な
群馬の正確な呼び方は群馬(くるま)県が正解だ
296 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 15:55:37.69
古代、栃木群馬県境で利根川水系を巡る日本最大の決戦が行われたのが
天下分け目の
戦場ヶ原の合戦な^o^
297 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 17:38:50.98
>>294 鏡王女が鎌足に与えられたのが不思議だ。
皇族の女性が臣下に嫁ぐことは禁止されていたはずだが
それほどまでに鎌足の功が大きかったからか
あるいは、鎌足= 豊璋説を考えるべきか
298 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 18:40:20.17
>>297 今みたいなことはないから
中臣氏より百済王の方が上だよ、わざわざ隠すことはないぞ
299 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 18:43:53.09
うん、桓武天皇も別に母方の血筋を誤魔化してない
300 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 18:50:18.78
お〜お〜
一時、陸奥の守になった百済王氏な
百済王だか知らんが日本にきたらただの従五位下だぞ
301 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 18:56:28.40
299
桓武天皇か?
チョンコロの意見はもう飽きたわw
もう一度、朝鮮と戦争するか?
朝鮮の歴史をみてきても半島のやつらが
強兵だった時代などないw
302 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 19:33:32.31
303 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 20:20:07.27
天皇は国民に恨まれたり警戒されていた訳ではなかった。
実利の面から考えるが中国の皇帝が人を平気で殺すのに対して、
天皇はそんな事はしなかった。
権力を行使して国民を虐げなかったから
長い歴史の間で信頼関係が生まれたんだと思う。
天照大神の子孫だからと言うより
権力を捨て権威の存在となったから
親子のような信頼関係が生まれたのだ。
304 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 20:26:55.36
303
正確に言うならその力はなかった
大昔は知らん、初期は大勢殺してるかもな
305 :
日本@名無史さん:2014/10/29(水) 20:31:29.76
下向ってのも数人の連れだけで旅をして何らかの当てで現地に滞在しながら
兵を集るやり方だからな
306 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 15:35:41.75
日本での『ギャンブル依存症』の9割以上はパチンコが原因。
ならば、『ギャンブル依存症』という用語を使用することは、
ギャンブル依存症の最大原因であるパチンコをマスキングしてしまう事になる。
日本におけるギャンブル依存症の因果関係を明確にするためにも『パチンコ依存症』という用語を使おう。
307 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 15:41:22.79
パチンコ自体は西洋からきたピンボールが起源だ
釘などを打ち直して独自に改良したのがなんとか
ゲージとかだ、パチンコの元になったものはすで
に大正時代に存在する
パチスロは元はそのまんまラスベガスマシーン
改良重ねてあんなものになったんだよ
308 :
日本@名無史さん:2014/11/03(月) 15:46:13.76
パチンコ屋自体は元はゲームセンターが始まり
換金なんてなくて景品オンリー
だから、後鳥羽鳳旺とそれぞれの天皇は存在したという説でいいんじゃないの?
面倒だから、大正天皇から平成天皇をすっとばせば。
人間未満のジャップとネトウヨが精一杯の日王擁護をしてるよwwwwwwwwwwwwww
ジッャプはネトウヨと共に世界から消えて無くなれよ
糞スレ終了