1 :
日本@名無史さん:
「邪馬台国は九州にあった33」がダブっていたので、
この継続スレは「邪馬台国は九州にあった35」になります。
2 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 17:04:37.51
新スレも立った事だし
週末は心おきなくパズルするか
3 :
大和 田 直木:2013/11/15(金) 17:11:36.13
パズルは面白い。
罵倒は止めようよ。
4 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 18:14:15.21
>>1 乙
やっぱり九州説って言ったら、パズルと語呂合わせだよな
週末はパズルしよう
6 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 23:24:54.89
伊都国佐賀説を発展させよう。畿内説は自然死だ。
7 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 00:01:03.07
まあ弥生どころか縄文初期の九州系土器が葛城地方から確認されたしな。
こりゃ九州脳がしばらく暴れるなw
>7
関係ないな。
交流があったところが倭とは限らない。
吉野ヶ里ではヨーロッパの青い色素が使われている。
10 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 00:29:47.85
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
又有裸國K齒國復在其東南船行一年可至
とある。
倭ではない土地でも交流があったから知っている。
九州勢力が畿内を開拓していった証拠が、これからも出てくるだろう。
>>5の続きが楽しみだ。
むざんだな
18 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 04:20:55.92
しつこいウスノロだな
>>17 女王が使う鏡なのに宝石の装飾がされていない
違うな
20 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 06:29:28.31
九州説の爺は畿内と交流してない九州王国だとか言ってたのに
終わっちまったな
元々脳内妄想だけの根拠の無い話だったから
崩れると早いな
後はそれを認められないジジィが喚くだけだろ
22 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 07:15:29.52
紀元前に鍵唐古とは普通に交流があるのだからな。
河内への貨泉の流れといい、もう以前の主張は使えないよ。
23 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 07:23:40.95
何か謎の海人が、一枚岩の九州に味方して
関門海峡を塞き止めてるとか言ってたキチガイも居たな
哀れよのぉーーー
おまえ等、九州説のじいさんは今新しい妄想を構築中だから
もう少し待て
きっと楽しませてくれるよ
巻向に気を取られて油断した感じだな。
鍵唐古だって全貌がまだ掴めてないのに。
しかし見事に九州説の主張が崩されてゆくね。
そりゃ考古学に恨み持つ訳だ。
26 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 07:43:55.76
九州説は20世紀までで終わってるんだよ。
あとは無い。
九州説は19世紀末に皇国史観によって生み出され、20世紀末に老衰死した。
亡霊たちもまもなく消える。
28 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 08:00:08.87
このキナイブシの馬鹿野郎ども。今度の発見は畿内が九州の影響下にあったと
いう発見だ。文化的に九州の亜流、二番手、エピゴーネンだったという証明に
なるものだ。死にかかっているのはキナイブシだぞ。マ○ケ。
北部九州の文化じゃないしなw
30 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 08:08:41.04
10センチくらいの破片ひとつで
「畿内が九州の影響下」だ
などと叫ぶ阿呆が九州説を代弁してしまう不幸に同情
>>16 屁理屈ではなく事実だ。
だから反論できまい。
32 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 08:14:17.91
屁でなく糞なので嗤われます。
>>17 >画文帯神獣鏡は中国北部の魏と異なり、南部の江南がルーツともいわれ、
卑弥呼が魏帝から貰った鏡じゃないじゃん。
そんなのに「卑弥呼の鏡」は不適当、恣意的、誤魔化し、詐欺だ。
34 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 08:17:15.75
キナイブシとか言ってるのは、いつも朝から恥かくあわびマンだな。
>>20 大和朝廷は九州北部海岸沿いの出身なのだから
交流してない訳がない。
馬鹿じゃないのか?
36 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 08:19:36.98
九州から何か発見されましたとか、聞かないしな
0と1には超えられない壁があるよ
っていうか、九州説の最後の拠り所、魏志倭人伝が立証出来てない資料って事忘れたの?
唯一の心の拠り所で、唯一な物なのに
屑レスしかしない畿内説の屑どもは出て行け。
【邪馬台国畿内説】から出てくるな。
>>36 お前が魏志倭人伝読めない、理解できないだけの話。
>>36 年取り過ぎてすぐ忘れるんだよ
魏志倭人伝が立証されてる資料だと思い込んでるバカもいるしな
考古学者は勘違いしているようだが、
邪馬台国とは、魏と親交のあった女王政権の代名詞みたいなもの
土器の破片に女王卑弥呼の御名御璽でもあるならともかく、
そうではないのだから、桃の種やサバの骨と同様、政権の所在地を示すうえではなんら役に立たぬ
九州説も何か発見すればいいんだよ
その貶してる、土器の破片とやらでもいいけどさ
そうだな
まあ、発見というよりは今も卑弥呼の宮殿は観光客の眼前に有るのだが、、、
>桃の種やサバの骨と同様、政権の所在地を示すうえではなんら役に立たぬ
立ちますよ。
九州説の馬の骨や鰯の頭は立ちませんが。
おいおい、馬の骨が出れば大したものだ
倭地に牛馬無く、と書かれているのだからな
45 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 08:57:11.95
馬鹿って話じゃね?
46 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 09:00:25.35
<宇佐神宮の祖、宇佐祖神社>
>祭神:菟沙津彦・菟沙津姫
>祭神の2柱は、かつて東征中の神武天皇をこの地でもてなしたとされる。
<出雲の国・出雲大社>
>天照大御神は大国主大神の私心のない「国譲り」にいたく感激され、大国主大神のために天日隅宮をおつくりになり、
>第二子である天穂日命を大国主大神に仕えさせられました。
>この天日隅宮が今の出雲大社であり、天穂日命の子孫は代々「出雲國造」と称し、出雲大社宮司の職に就いています。
<卑弥呼の宮殿>
八侘の大鏡を祀る伊勢神宮のほかに、天照大神を代々御護りする宮も現存して不思議ではない。
まして卑弥呼の宮殿も、、、
畿内信者には純粋なお人が多いんだねえ
49 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 09:17:11.92
九州説に不純な人が多いのも事実
畿内信者はお羊さん、九州では生きてゆけぬな
<天岩戸神社・東本宮>
>東本宮は創祀時代不明であるが、昌泰年間(898-901年)の古記録に、
>思兼神が天岩戸より出御した天照皇大神に、東本宮の地に造営した社殿への鎮座を願ったのに創まるという。
伝承とはいえ、これほど古い由緒はほかに見当たらぬ
52 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 09:43:45.59
いつものパズルや語呂合わせしようよ
もう、九州説にはそれしか残されてないんだから
なぜか九州説も畿内説も素知らぬふりをしているようだ
しかし古代を考える上で、天岩戸神社と出雲大社はいったい何者なのか、避けて通れない課題であろう
54 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 09:57:57.35
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「およそ23世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台はは九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
君が代や熊野権現須玖岡本に在り、穂波大分宮、神武原等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
55 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 09:58:40.48
まさに、天岩戸神社と出雲大社を無視する典型例
是非はともかく、素知らぬふりはよろしくない
金印の出土が都合悪いんだ
邪馬台国の卑弥呼が金印を授かってたなんて…
近内説にしないと中国の属国になるからな
58 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 11:53:37.47
九州説はいよいよ終了か。
>近内説にしないと中国の属国になるからな
そうだろな、
理屈でも学術でもない、これが畿内信者の強気の源泉 www
60 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 12:36:37.35
うん。確かに
パズルや語呂合わせは学問でも学術でもないよな
九州説の人もたまには的を射た発言するんだな
しかし畿内信者の好むとおり邪馬台国が大和にあっても、時の大和王が金印をもらったことに変わりは無い
むしろ、本州中央政権に対する金印授与だから事態はより深刻、
周知の通り、記紀でさえ卑弥呼は北九州で活躍した神功かもしれぬといってるくらいだから、
卑弥呼の都は九州だったかもしれませんねえ、と言うほうが得策なはずだけどなあ、
何をトチくるってるんだか???
62 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 13:00:42.23
歴史を得策とか愚策とか考えるのはチョンくらいだよ
そうさ、畿内信者は、
有りもしなかった女王之都を畿内に想定することで得策と考えてるから御執心なんだろ
>得策とか愚策とか、
そもそも歴史とはそういう言うものだ
65 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 13:09:31.23
チョンとバレて発狂してて笑えるww
さすがに本国からこのスレにアクセスしてるとも思えないから
在日チョンなんだろうなww
はやく南チョンに帰れよ
チョンは、得策じゃないから見つけた古墳を破壊する国だからな
その国の国民もそれで納得してるのだろうしって事で
本当に九州説は在日朝鮮人が多いんだな
北は邪馬台国はあまり興味ないの?
韓国だけ?
今日、在日が圧倒的に多いのは関西圏。
この関西圏で、なぜか畿内説が圧倒的に支持されてるわけだ。
68 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 14:29:00.67
圧倒的に多いのはどうしても東京だろうな
人口多いから
在日チョンはやはり日本地図も分らんか
早く祖国韓国に帰れよww
兵役はどうしたんだ
東京じゃないよ。近畿のほうが多いよ。
70 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 14:53:46.31
近畿にするなら関東にする必要があるだろ
比較すら満足に出来ないのかチョンは
ウスバカ、精薄、ネトウヨ、人間の屑、失せろ!
72 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 14:57:24.58
関西とくに大阪におよそ70万人くらいいるらしい。もう100年ちかく日本
にいて代を重ねているにもかかわらず、帰化もせず、そうかと言って本国に帰
るわけでもない。もう日本語しかわからない人も多い。個人的には明るい若者、
可愛い美女、親切な年配者が多いように思うので、帰化を勧めることもあるが、
考えが頑固なのか顔を曇らして、なかなか帰化しようとはしないようだ。
73 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 14:59:34.00
古墳は韓国に不利だから壊す
日本から仏像は盗む
神社から盗んでるのもおそらくチョンだろ
歴史は得策が愚策かで判断とか言ってる九州説とは極めて親和性高いんだろうな
74 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 15:07:17.22
差別用語連発してるやつらは女房に逃げられてチョンガー
75 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 15:15:52.80
差別用語とは、士農工商穢多非人、公家や僧侶はこの枠に入らず別扱い。これも逆差別。
人類の歴史は差別の歴史。差別を語らずして歴史を語ることはできないのではなかろうか?
>>73 団塊サヨクとチョンだからな、そりゃ基本的に反日で親和性も高くなるよ
得策が愚策かで歴史を決めろとか目を疑ったよ
さすがに団塊サヨクとチョンは違うなと
77 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 15:43:57.75
そりゃ得策か愚策かで歴史を決めるんだから
無条件に魏志倭人伝を信じこめるわな
何の立証も出来てないのに不思議だなと思ってたんだ
得策か愚策かで決めるなら問題ないよ
多分、団塊サヨクか在日朝鮮人なのか知らんけど、得策なんだろ
魏志倭人伝を無条件に何も間違いのない資料だと言うのは
短里もこの辺だろうな理由は
不思議だったよ。何故ここまで主張出来るのかと
得策、ただそれだけ
もう学問じゃないよ
歴史学は学問だが、歴史は学問ではない
そもそも邪馬台国問題が純粋に学問なら畿内説と九州説に分かれて300年も論争するわけもなし
とうに決着してるはず
79 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 15:53:44.49
歴史だから答えはあるな
とはいえ
得策か愚策かで決めるのは、団塊サヨクと韓国人くらいのもんだよ
80 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 15:59:43.80
要は九州説の人は又、政治闘争ならぬ歴史闘争してるって事でしょ
もう、哀れだよな
常に社会の邪魔ばかり
益にならないキチガイ揃い
あわびマン、紫、歴史を得策か愚策で考えろマン
揃いも揃って本当にクズでキチガイばかり
得策か愚策かに異常反応してるな
語るに落ちる畿内信者
畿内信者は純粋で正直者、心の底を隠しきれない
84 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 16:09:22.03
九州説も終わったな
86 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 16:42:58.11
>得策か愚策かに異常反応してるな
そりゃ反応もするでしょう。
そんな不純な動機で歴史を汚そうなんて、許せませんよ九州説。
畿内説なんかは初めから成立していないから終わりようもない。
88 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 16:44:03.49
そういう証拠のない言い張りが九州説の特徴
詐欺師集団の畿内教が自分のことは店にあげて
何か偉そうなことばかり言っている。
90 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 16:46:37.65
そういう子供もみたいな言い返しも、九州説の特徴
>>86 いっとくがオレはただの民間人
民間人から見る畿内説は、「三世紀の大和国は中国の属国でござ〜い」と大声を張り上げているようなもの
やっとおわかりになったようだな
92 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 17:10:33.38
それ、江戸時代の皇国史観ゴリゴリ国粋主義者が九州説を発明した動機だから
>>92 キミも読みが浅いねえ、問題はその次だよ。
94 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 17:36:08.27
佐賀平野が紀元前から文明発祥の地と決まっておる。大陸からの移民ですな。7部族が争い、大和王朝を築く。リンユウ国が最右翼、仏哲が後に続く。
>>91 真実から目を背けること。
これが九州説論者になる動機付けかw
中味のない罵倒や理由のない断定が出来ること。
これが九州説論者になる資格要件さw
南を東だとか、北を西だとか、
倭人伝を自己都合で捻じ曲げて来たのは誰?
伊都国は糸島だとか、語呂合わせに興じて来たのは誰?
98 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 18:15:12.69
べつに自己都合じゃないし、語呂合わせでもないけど?
99 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 18:23:10.75
と言っても、伊都国佐賀説には反論できないみたいだな。
語呂合わせって、このばか、伊覩県という地名とか伊都県主なる人物とか
知らないんじゃね?
どうして「反論できない」と思い込むのか、馬鹿の思考はどうも読めない。
ここはもと伊蘇国という、いま伊覩というは訛れるなり
103 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 18:41:36.43
でたらめばかり書いている日本書紀あたりを持ち出しても無駄だろう。
当時の日本最大の集落でなく、魏史に出てくる邪馬台国を探しているのなら九州に決まってる
畿内とか言ってるやつはつられ過ぎ、あれは昔、京大の学者が東大学派の作った通説に対抗しようとしてでっち上げた説で
京大でも今さら引けないから続けてるだけで本気で信じているやつはいない
当時の日本最大の集落はヤマト
魏志倭人伝に出てくる倭国の都のもヤマト
畿内で決まりです
106 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 19:11:34.95
>>104 そうやって夢を見ているといいよ、ブラジル勝ち組くん
中味のない罵倒や理由のない断定が出来ること。
これが畿内説論者になる資格要件さw
これが正しい。
>>98 自己都合だし語呂合わせ以外の何ものでもない。
現代人のバズルごっこでなく、魏史の漢文を普通に読めたら大和に決まってる
九州とか言ってるやつはつられ過ぎ、あれは80年代にはもう大勢きまってたけど
それ山川出版が漏らしたら大騒ぎになったから
学界でもイベントの資金集めで仕方なく続けてるだけで本気で信じているやつはいない
110 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 19:27:10.51
びょおきの邪馬壹國が波禮て東遷したのが正始八年(247)直後で
新規に奈良湖湖岸にしでかしたのが御眞木の邪馬台国のでもお良いだろう。
111 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 19:30:45.87
112 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 19:37:00.80
>魏史の漢文を普通に読めたら
漢字くらいまともに書き写せばええのに。
こゆうところでレベルがばれちゃうのにさ。
113 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 19:42:17.39
九州説が本格的に終了なのか…
114 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 19:44:22.53
根拠のないお話を言い張る以外は
相手の変換ミスを詰るくらいで
なにも反論のすべがない九州説の悲しさ
>>112 自分たちは学問知識のなさでレベルの低さがバレてるのに、誤変換くらいしか突っ込み返せない九州説は、何とも可哀想だ。
116 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 19:51:56.92
そういう切り返ししかできないキナイブシはもうお仕舞いだな。あわれーー。
吉野ヶ里遺跡が報道されて、世界が邪馬台国の位置を悟った。
邪馬台国と畿内とでは、全く異質な文化圏であり、
吉野ヶ里は邪馬台国と同一の文化圏であることが判明した。
これ以降、畿内説は吉本興業並みのお笑い説となった。
だからここで畿内説を喚こうが叫ぼうが、誰も振り向かないのである。
118 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 20:09:28.26
畿内の唐子鍵遺跡で九州土器がやっと一欠片だけ見つかった。
よく調べていないが九州からは畿内はもちろん、
西日本各地の土器が見つかるそうだ。
常識的には西日本各地から九州に、
物流が流れ込んでいたと判断できそうだが。
119 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 20:17:02.12
半島物産の買い付けに各地から来てた。
住み着いてバイヤーやってたと思われる人も多い。
だから、倭人伝に畿内の情報が入らないということは、ありえない。
120 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 20:20:14.21
福岡の西新町遺跡などは、まさにそういう場所だろうな。
121 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 20:21:29.85
お互いにつごおの悪しきことは書かないのがルール。
122 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 20:21:34.28
東に倭種ありと書かれているから、
その程度の情報はあったのだろう。
123 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 20:23:28.78
難升米はんが呉の方にも通じていて画文帯神獣鏡とかコレクションしておったとか書いちゃまずいよね。
124 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 21:08:01.54
こうして、唯一の拠り所である倭人伝の信頼性も貶めてしまった九州説に出口無し
125 :
日本@名無史さん:2013/11/16(土) 21:52:25.14
男王が数年の間でしゃばって、けっかもめてあまされて
その後にこども女王に代わってめでたしめでたし。
男王は殺されたか、押し込められたか、追放されたか、転封されたか。。。
127 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 07:21:56.97
これは妥当な評価
現代の九州高速自動車道の一大交差点は鳥栖インター、
同様にここからそう遠くない吉野ヶ里も、古代九州島の一大交差点であったと言えよう
その発掘の成果はまちがいなく時代と世論を動かした。事業の評価は今後ますます高まるであろう
129 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 09:45:16.03
基肄城から高良大社のラインは、
四方に平野を持つ中心地
高良を取るものは天下を取る。
といっても、筑紫、肥の範囲だが。
130 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 09:48:28.43
高良に仮宮を築いた景行天皇のモデルとなる豪族は、
北部九州を支配したと見て過言ではない。
ここを背景にして、南九州の攻略が始まる。
131 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 09:50:46.29
これを背景にして、九州論者の妄想が始まる。
132 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 09:57:07.29
地図上で、基肄城から高良大社に向けて線を引き、
筑後川にあたったところまでの線が、
だいたい肥前国と筑後国の国境。
ついでに基肄城のふもとが、筑前と筑後の国境でもある。
平野で境界がはっきりしないから、
基肄城ってランドマークなのよね。
133 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 10:02:05.05
住んでる人の気風はずいぶん違うのにね
134 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 10:07:27.92
日本は7ヶ国渡来人の歴史。島原海から上陸した。佐賀市諸富町からシラギのギョウヨウが多数出土しているが畿内説学者によって没。ゴッドハンドも駆使。(*^-^*)
<宇佐神宮・宇佐祖神社>
>祭神は:東征中の神武天皇をもてなした菟沙津彦・菟沙津姫
<出雲の国・出雲大社>
>天照大御神は和の御心で天日隅宮をおつくりになり、第二子である天穂日命を仕えさせられた。
>この天日隅宮が今の出雲大社であり、天穂日命の子孫は代々出雲大社宮司の職に就いている。
<天岩戸神社・東本宮>
>思兼神が、天岩戸より出御した天照皇大神に東本宮社殿への鎮座を願ったのに創まるという。
これら三社を結ぶ者はスサノヲの命であり、今も荘厳な社殿を誇る。
さて卑弥呼の時代より、前代か、同代か、後代か、関心は深まる。
九州説はどんどん神がかっていく
まぁ日本の始まりが淡路島なのが大原則だ。
異論は認めないし、そうじゃないと主張する奴は
マジで国籍を疑ってしまうわ。
実は神々は、地上の星だ
そのことを踏まえて記紀も倭人伝も読みこなさなくてはならない
139 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 15:13:52.96
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台はは九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
140 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 15:14:27.40
神武天皇は南九州出身だが
142 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 15:32:34.58
>>141 頭の悪いお前だけにちょっと改訂
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台はは九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
143 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 15:34:34.82
144 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 15:36:57.48
やはり福岡は朝鮮人のような町だな
地名や伝説をでっち上げ起源を主張しまくる
これが↑フクションの糸島王朝説か、ごくろうww
146 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 15:42:28.03
>>137 淡路島は記紀を書くときにダシにされただけだ。記紀は日本の歴史を神話時代
から描くに当たって、日本各地の神々を系列化するという役目も果たさねばな
らなかった。そこで淡路島に有る夫婦の神、イザナギ・イザナミの神が天照や
スサノオを描くのに都合が良かったのだ。淡路島は記紀の作者・編者達に利用
されただけさ。判ったかい?
147 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 15:44:24.51
ま、卑弥呼ちゃんは糸島あたりの喫茶店で働いているらしいからな
148 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 16:07:41.24
>>144-145 頭の悪いお前らだけに更にちょっと改訂
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台はは九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
「神籠石」「甕棺墓」の分布を見ても明らかだな。
149 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 16:18:13.10
神籠石・甕棺墓・三種の神器の分布をみても明らか。
畿内や南九州は
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
出雲の社殿は西・筑紫福岡を向いている。
これは単に出雲は筑紫の支配下にあった事を意味するだけ。
>>142-143 が総てだな。
150 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 16:32:44.13
宇佐神宮の上宮は南を向いておる、下宮は西の香春だ。
出雲大社も、西は西だが韓国・新羅を向いている
国引き神話のとおりだ
どちらも福岡なぞ素知らぬ顔、福岡は昔から奴だからなあ
151 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 16:33:49.86
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台はは九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
152 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 16:36:34.57
宇佐神宮の上宮は南を向いておる、下宮は西の秦氏・香春の方向だ。
出雲大社も、西は西だが韓国・新羅を向いている、
国引き神話のとおりだ。
どちらも福岡なぞ素知らぬ顔、福岡は昔から奴だからなあ
153 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 16:37:11.13
>>150 >どちらも福岡なぞ素知らぬ顔ww
ちゃんと読め
我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
154 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 16:54:33.33
155 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 17:15:33.16
九州説、負けが決定して荒らしに身を堕とす
156 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 17:35:27.75
>ちゃんと読め
>我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり
書くだけならなんとでも書ける、しかし実際に向いている方向は福岡ではない、ざんね〜ん。
157 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 17:49:54.52
フィクション糸島王朝説、なかなかよくできてるのう
158 :
フィクション大魔王:2013/11/17(日) 17:59:11.98
>>157 有り難うございます。
決め手が一本あるのですが、今調査確認中で・・・
またの機会に。
159 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 18:17:53.11
160 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 21:14:12.22
祝詞の小戸の阿波岐原と言われる場所か。
161 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 23:16:09.47
上記糸島王国説は2世紀初頭までをよく物語っている。
糸島王国説の第二章は6世紀から7世紀末まで。
期待する。
2世紀初頭から6世紀初頭までは筑紫平野王国説だな。
>>158 糸島に二見が浦があり夫婦岩がある
志摩という地名も桜井神社も存在する
古墳多し
だが糸島地方というより九州を広く支配していたと思う
大分の宝石が散りばめられた3世紀の物とみられる宝石が散りばめられた
鏡が大分から出土している
佐賀も吉野ヶ里がある
宮崎も宮内庁から発掘を止められている古墳がある
邪馬台国は大分に違いないとは思っておりましたよ。
>>164 神武天皇が宇佐から東征する際に1人の人物に九州を任せた
その人物も大分の神社に祀られている
その人物の御名は何ですか?
椎根津彦神社
神武天皇が何故に宇佐から東征せねばならなかったのか…
この疑問は自分なりに解決できた気がする
高知大学の岡村教授が大分の竜神湖を調べたところ過去に
20mの津波が襲っている
神武天皇が東征し奈良に大和朝廷を建国した時期とどうも被っているようだ
神武天皇は津波の来ない良い土地はないものかと探して航海したのではないだろうか?
169 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 08:25:03.44
>>162 >糸島地方というより九州を広く支配していたと思う
ちゃんと読め
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
>>156>>168 >書くだけならなんとでも書ける
アホ丸出しw
宇佐宮託宣集に「我宇佐宮より穂浪郡大分宮は我本宮なり」とあるんだが・・
お前らどうしても南九州や出雲や畿内にしたがる必死君たちの願望より大分信憑性があるんだが・・(笑)
宇佐宮八幡御託宣集:八幡縁起 託宣 信仰の史実伝承を収録。
日本宗教史 文化史上重要視されている。
ちなみに穂波大分宮は箱崎八幡宮の元宮でもある。
その他にも糸島の初や宗像三女神等もお前らに解かりやすくまとめてやろう。
まあ普通に考えれば倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸で
畿内や南九州は関係ないことがわかるな。
無かった事を必死に自分のところと言い張っても何にも出てこないんだよ、畿内も南九州もww
当たり前、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸だからな。
170 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 08:40:48.61
倭国の北限は狗邪韓国にしてはその戸数が書いてないな。
171 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 08:45:01.09
どんどん倭国が小さくなる盆栽九州説
金印紫綬がもらえないよ
172 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 09:20:50.50
邪馬台国→邪馬小国
173 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 09:37:21.04
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
これはウガヤフキアエズの母系であった綿津見大神(豊玉彦)の系譜32世のことで、代々筑紫城にいたといっているのであろう。
フィクションいうところの博多湾岸を支配してた王のお話しだろな。
綿津見大神を祀る神社
志賀海神社- 福岡県福岡市東区志賀島 総本社
174 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 10:22:21.93
平安時代に日本の僧侶が持ってきた本に「筑紫日向宮」と書いてあったんなら
筑紫は日向国高千穂宮のことに決まってんじゃん、それ
175 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 10:38:13.46
日向峠の茶屋の婆さんが卑弥呼って名前だったそうだ。
176 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:02:02.01
177 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:12:55.09
>>174 お前バカじゃね?
筑紫日向宮=筑紫国日向宮だろ
どこをどうやって
筑紫日向宮=日向国高千穂宮になるんだよ
宮崎の奴って必死すぎでバカすぎw
178 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:19:53.72
179 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:20:34.51
筑紫の島って九州のことだよ。古事記にそう書いてあるのを読んだことないのかな?
つまり、筑紫日向宮は九州の日向国に宮があったということ。
福岡の日向峠に宮なんぞあるわけないじゃん。
180 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:22:47.40
福岡の日向峠にあったのは婆さま営む茶店一軒
181 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:23:35.24
つまり、知能が低くないと九州説に入信はできないんです
182 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:24:14.05
>>178-179 キチガイは出直してこい
筑紫=福岡周辺域
筑紫島=九州島
気持ち悪いんだよ 必死なおバカな宮崎厨は
183 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:25:55.52
ほら、知能が低いから連呼と罵倒しかできないでしょ、九州説は?
184 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:28:07.53
おや、福岡日向峠の大魔王様がお怒りのご様子で、、、
185 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:29:19.74
筑紫には筑前も筑後もあることは誰でも知ってることなのに
根拠もいわずに
筑紫=福岡周辺域
と言い張るところが九州説の低レベルさを雄弁に語ってますね。
186 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:34:52.00
九州説ではない。北九州説又は古田説ね。
187 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:36:06.81
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
188 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:38:03.67
189 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:38:14.87
古田の北九州説。。。。
190 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:43:47.16
九州説と一緒にしてごめんなさい。
レジに並んでいるのに万引きと呼ばれるくらいの侮辱でした。
反省しています。
191 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:44:48.02
古事記を読むならば、もう少しちゃんと読めばいいものを。神武は「日向より
発たして筑紫に幸行しき」とある。筑紫国の日向から発って筑紫国へ行ったで
は意味をなさない。日向は筑紫国とは別のところにあることが明らか。
192 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:45:45.56
敗勢になるといつもコピペ荒らしを始める古田子作がおるな
193 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:57:16.36
>日向は筑紫国とは別のところにあることが明らか。
それがどうしたのかな?
チョーネン和尚は「筑紫国」なんて言ってないし。
竺紫日向之高千穂之久士布流多気が福岡県とでも言い出すかな?
194 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:57:28.29
宮崎の奴ってバカだなw
なんで歴史書に「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった」と書いてあるのに、
そこは「九州の日向国の高千穂宮って読むんだよ」っていってるんだ(笑)
もし宮崎の奴が言ってる事が正しければ、註釈等で「筑紫の日向宮は日向国の高千穂宮である」と書くだろ普通。
宇佐八幡の託宣でさえわざわざ「我が宇佐宮より穂波大分宮は我が本宮なり」と書くぐらいなのに。
なんでわざわざ暗号のように「日向の高千穂宮」を「筑紫の日向宮」と書くんだよ。
ほんと必死すぎなんだな宮崎のバカどもはw
そうそう、現実社会でとうとう宮崎奈良島根の記紀嘘3兄弟がタッグを組んだなww
今年から作った賞だが記紀の謎を解いた本に賞を与えたとさww
どんなに必死なんだよ記紀嘘3兄弟わは(笑)
全てが嘘で全部福岡でしたってなることに相当危機感を抱いてるんだろうな。
現実社会でも(笑) まさに福岡筑紫包囲網だな。
195 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 11:59:43.41
>註釈等で「筑紫の日向宮は日向国の高千穂宮である」と書くだろ普通。
誰が?
どこの中国人が?
196 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:01:57.66
>>194 それ、コムドはウリナラの伝統武術ニダって言ってる連中と同レベル
197 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:02:37.21
日向峠を降りた福岡側には飯盛神社、吉武高木遺跡があり、
日向峠を降りた糸島側には、高祖神社、三雲、曽根の遺跡群がある。
どちらもかなり規模の大きい遺跡であり、
日向の宮殿があるなら、そのどちらかになるだろう。
また、飯盛神社、高祖神社は高祖山連邦の麓の西と東に位置している。
198 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:05:15.38
>神武以前はおよそ32世
天照大神の系譜の出雲国造は垂仁天皇のときに14代、現在は84代、
ゆえに、神武以前およそ32世は、どう見てもウガヤフキアエズの母系祖先のこと、
199 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:05:44.44
「日向峠」って地名が昔からあったって証拠出してちょ
200 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:07:01.22
>>191 >筑紫国の日向から発って筑紫国へ行ったで
は意味をなさない。日向は筑紫国とは別のところにあることが明らか。
バカですか?? ねつ造すんなアホ 「国」とは書いてないだろ。
要するに
「久留米から福岡に行く 北九州から福岡に行く 大牟田から福岡に行く」
全部同じ福岡県内の移動だが何か?
ついでに「糸島から福岡に行く」←これも自然だが何か??
お前ら必死すぎて気持ち悪いんだよ キチガイどもが
201 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:08:44.37
>日向峠を降りた福岡側には飯盛神社、吉武高木遺跡があり、
>日向峠を降りた糸島側には、高祖神社、三雲、曽根の遺跡群がある。
>どちらもかなり規模の大きい遺跡であり、
>日向の宮殿があるなら、そのどちらかになるだろう。
どっちも日向って地名じゃないのに、どうして?
202 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:10:09.51
>宇佐八幡の託宣でさえわざわざ「我が宇佐宮より穂波大分宮は我が本宮なり」と書くぐらいなのに。
ならば、福岡日向峠のむこうかこっちに宇佐神宮並みの巨大神殿が現存してるはず、なにか有るの?
203 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:10:19.58
古田厨みなからボコボコですぅ
204 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:13:23.24
ちなみに高祖神社の由緒としては、
中興の祖として、神功皇后が現在の位置に立て直し祀られている、
それ以前の祭神は高祖ヒメや彦火火出見尊 など諸説あり、
創建は神代となっている。
高祖山そのものが祭神でありご神体という説もある。
205 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:18:26.89
そのときの福岡は福岡県ではない、福岡市だろ。
久留米から福岡県へ行くとは言わないよ。
206 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:21:54.14
>高祖神社(たかすじんじゃ)は、福岡県糸島市の高祖山西麓にある神社。旧社格は県社。
>祭神:
>彦火火出見尊 「日向二代目」、 玉依姫尊、 神功皇后
日向二代目ではねえ、高千穂の宮は天照大神だよ〜ん。
207 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:24:45.40
>久留米から福岡県へ行くとは言わないよ。
バカですか?? ねつ造すんなアホ 「国」とは書いてないだろ。(代理人が再掲)
結局どうしても詐欺してまで博多湾岸に持っていきたいのね
209 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:27:23.74
>>206 この日向二代目、ってどういう意味ですか?
210 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:33:35.52
>>207 では、筑紫って筑紫国のどこにあったのかな?
211 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:36:36.42
212 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:37:42.35
福岡県旧筑紫郡大字筑紫、筑紫神社
213 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:39:29.98
福岡県旧筑紫郡大字筑紫、筑紫女学園
214 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:45:37.03
そこへ行くのに何で豊国の宇佐を通るのさ?古事記読んだ?
215 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:50:09.71
高天原の時代と神武の時代ではたぶん100年以上の時代差あり
「筑紫」といっても同一とは限らぬ
216 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:58:08.35
大体、「神籠石」の存在
そして何よりも魏志倭人伝に登場する「甕棺墓」「絹」の出土分布にしても
宮崎や畿内は全くのゼロ(笑)
神籠石・甕棺墓・絹も福岡特に福岡平野と糸島がほぼメイン。
倭国・邪馬台国・記紀の舞台はせいぜいこれらの事実からも福岡県域での出来事。
神武の代でも福岡県域ですら天孫族は完全に掌握しきれてなかった。
なので、神武は「いまだにここには自らを 王 と名乗るものが多数いる」と嘆き
「もっとスムーズに天下を治めるいい土地はないか?」と東征を決意したんだからな。
>>197 トヨタマ姫がヤマサチを追って上陸したのが志登神社。
志登神社は今は平野のど真ん中だが、昔は
>志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
この状況なので忠実に素直にとっていい。となると天孫族はやはりメインは糸島側か。
支石墓が甕棺墓より古い。たしか三雲や曽根や吉武は甕棺墓でも古かったはず。
福岡平野の春日の須玖岡本も古く三種の神器とさらに璧が出土した遺跡だから、
三雲・曽根・吉武高木・須玖岡本あたりがアマテラス、スサノオ、卑弥呼に関係しそうな感じだな。
吉武高木が一番戦闘にたけてた感があるからスサノオ、もしくは神武辺りか?
なんとなくだがイメージ優先では須玖岡本あたりが卑弥呼で平原辺り(三雲・曽根)あたりがアマテラスのような気もする。
ただ、須玖岡本のすぐそばに「熊野権現須玖岡本村に在り」(イザナギ)が気にはなるが、
イザナギ・イザナミは糸島の芥屋の大門のそばの「大祖宮」なのでイザナギイザナミは志摩国だろうな。
アマテラスは後に「伊野天照神宮」に祀られたかもしれんが、
立花山(筑紫の日向の橘)の天然記念物のクスの原生林が実は植えられてるかもしれないという話があるので
それも気にはなるな。 二子の山、立花・三日月もなにかありそうだし、
大分八幡からショウケ峠(神功皇后がショウケで担がれ越えた峠)を超えたところが神武原ってのも何かあるよな。
福岡県には天孫族にまつわる話(筑紫神話)が豊富だからな。
217 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:07:51.89
宗像三女神が降臨した六が岳連峰。
「朝日(旭)、天山、羽衣、高祖、崎門、出穂」の六峰から構成されるが、
ニニギの、「旭岳に尊の亡骸を、天冠岳には冠を、羽衣岳には衣を埋葬した」伝承
がありここも面白い。
とにかく、神籠石・甕棺墓・絹にしてもその他諸々にしても皆無の南九州も畿内も
天孫族や倭国・邪馬台国には全く関係ないクマソと遠い倭種のお話。
倭国・邪馬台国や記紀の舞台は博多湾岸を中心にした筑紫(福岡県域)の話なんだよな。
218 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:14:41.36
立花山・三日月山をちょいとウィキペディアで覗いたら面白い記述が(笑)
>古くは二神山と呼ばれ、イザナギ・イザナミを祀っていたという。
ほんと福岡って天孫族のお話が豊富だな。
さすがは本物の記紀の舞台だけなことはある。
219 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:19:09.66
糸島半島には「初」という地名がある。
ここが日本の全ての「初」かもな。
220 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:23:00.90
立花山周辺だと香椎宮か。
神功皇后の旦那の仲哀天皇の墓と言われており、
香椎廟とも呼ばれる。
話は変わるが、博多で有名な櫛田神社。
この元社は吉野ヶ里にも近い、神埼櫛田神社であり、
景行天皇が本社を建てたのが発祥とされているが、
なぜか祀られているのは須佐之男、櫛稲田姫、ヤマトタケルである。
221 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:24:16.30
全国各地に言い伝えはある。
本物なら以下のような由緒ある巨大神殿が現存してるだろう。福岡はどうかな?
<宇佐神宮・宇佐祖神社>
>祭神は:東征中の神武天皇をもてなした菟沙津彦・菟沙津姫
<出雲の国・出雲大社>
>天照大御神は和の御心で天日隅宮をおつくりになり、第二子である天穂日命を仕えさせられた。
>この天日隅宮が今の出雲大社であり、天穂日命の子孫は代々出雲大社宮司の職に就いている。
<天岩戸神社・東本宮>
>思兼神が、天岩戸より出御した天照皇大神に東本宮社殿への鎮座を願ったのに創まるという。
222 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:32:28.89
巨大神殿なんてのは、全く重視してないな。
あきらかに時代が新しい、鍋島家が勧請した佐嘉神社や、
祐徳稲荷神社のほうが、明らかに大きいからな。
それよりも、佐賀城の脇にある与賀神社が
6世紀末期で、記紀よりも古い。
これは上流の與止日女神社の下社になっている。
與止日女は神功皇后の妹という説がある。
223 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:34:41.70
明らかに佐嘉神社や祐徳稲荷のほうが大きいが、
肥前国一宮は與止日女神社である。
この神社は、肥前国庁や国分寺と近い場所にある。
224 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:42:20.34
仲哀峠に烏尾(からすお)峠
福岡の地名ってほんと天孫族にまつわる地名が多いな。
特に神武の頃になると福岡県の中部から東部にかけて多いような気がする。
天孫族がだんだん博多湾岸から福岡の東部に向けて広がっていったんだろうな。
で、福岡県南部あたりは博多湾岸や糸島のように古い。
北東部の宗像や宮地嶽等も古い。
福岡県域では筑豊や香春や豊前あたりの東部が福岡県内では新しい方か?
まあ天孫族でも神武辺りの代が活躍(平定)してたのがそのあたりかもな。
今の段階では完全な推測だが・・
しかし、古さをイメージで言えば博多湾岸糸島・福岡県南部・福岡県北東部・東部東南部って感じかな。
どちらにしろ他の県からすればいずれも(天孫族に支配され先進地域になったのは)圧倒的な古さだけどね。
225 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:47:38.74
天孫族といってもウガヤフキアエズの母系傍流32世代の繁栄の痕跡だろう
そう考えると古さと濃密さが納得できる
その後、佐賀〜熊本〜宮崎の高天原勢力と婚姻関係を結んだ、、、
226 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:49:11.13
>>221 お前は自分からの目線だけで物を語ろうとするな。
客観的にすべてのものを判断して視点を変えてみろ。
おのずと答えは出てくるから。
明らかに小さなこと、又は現実の記述や物証と違った事間違った事を
必死に書き続けるから傍から見たらキチガイに見えるんだよ。
きちんと様々な記述や物証を客観的に判断しろ。
まず、神籠石や甕棺墓や絹すら出てない地が記紀や邪馬台国の舞台のはずがなかろう。
基本的に何もないのにただ「伝説では伝説では」言い続けても気持ち悪いだけだ。
客観的に考えろ。客観的にな。
227 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:51:33.12
飯盛神社のHPより
福岡平野を挟み、東には若杉山に坐す「太祖神社(伊邪那伎尊)」
西には飯盛山に坐す「飯盛神社(伊弉册尊)」乃ち夫婦山として
古代よりの国産み伝説の基であります
228 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:55:54.41
>>225 お前の願望などどうでもよい。
客観的にそうだなと思える物証をだせ。
お前の妄想なんてどうだっていいんだよ。
妄想だけで勝手に話を膨らますな、気持ち悪いw
筑紫福岡みたいな膨大な物証や話をもってこい。お前らの話はそこからだ。
お前らの気持ち悪い妄想はほんとにどうだっていいんだよ。
関心できるような物証をもってこい。
229 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:57:50.94
>宮崎や畿内は全くのゼロ(笑)
いまだに纏向遺跡から絹製品が出ていることを知らないような
情弱が九州説をあがめている
あわれむべし
230 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 13:59:20.47
筑紫福岡にどんな物証が?
231 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 14:03:45.39
>>226 残酷無慈悲なようだが、歴史の中では古いから正統とは言えぬな
ともあれ倭国大乱は、後漢時代に朝貢した旧博多勢力と、
末蘆国〜佐賀平野ルートで大陸・半島から鉄をもたらした新興の邪馬台国勢力との争いの物語ではなかったかと想定している。
それにより、記紀の諸記述および現存の「由緒ある巨大神殿」という客観的証拠も納得できる。
232 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 14:09:10.39
>>229 ばかかw
古墳時代になれば畿内でも絹は出てるんだよw
宮崎はゼロだがなw
アホかお前はw
纏向遺跡の絹はいつかな??(笑)
233 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 14:12:22.48
>>229 訂正
ばかかw
古墳時代になれば畿内でも絹は出てるんだよw (極少数だが・・・)
宮崎はゼロだがなw
アホかお前はw
纏向遺跡の絹はいつかな??(笑)
234 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 14:29:51.15
3世紀
235 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 14:31:39.98
「畿内は全くのゼロ(笑) 」とウソをついたことを認めたようだな
236 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 15:24:48.85
みまきいりひこがお引越ししたあとならじゃんじゃんでているだろ
主として四角いお墓から
237 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 15:29:44.82
このように、九州説の半分はウソから、残りの半分は妄想から出来ている。
238 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 15:45:07.36
弥生時代とされる畿内の絹の出土はゼロではない。2だ。
ちなみに福岡では18ね。
239 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 15:45:53.66
遺跡データベースより
240 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 18:52:52.34
弥生時代は関係ないけどね
241 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 19:29:03.41
客間的に考えると、九州ならば3世紀後半に九州で一番繁栄した南九州が第1候補だろうな。
242 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 19:32:59.24
どうタイプしたら客間という漢字が出てくるんだろうか
もちろん「きゃくまてき」と打ったのだ。
「主人を待つあいだ客間でお茶を啜りながら考えると」という意味だ。
244 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 19:54:12.93
すまんな。古ーいワープロ使ってるもんで。変換が悪いんだよ。
245 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 20:37:25.49
ワープロって・・・・・
未だに動くのか
もう世の中、名前しか知らんって世代もいるだろうに
>>226 > まず、神籠石や甕棺墓や絹すら出てない地が記紀や邪馬台国の舞台のはずがなかろう。
> 基本的に何もないのにただ「伝説では伝説では」言い続けても気持ち悪いだけだ。
>
> 客観的に考えろ。客観的にな。
神籠石、甕棺墓、弥生時代の絹。
そんな時系列ばらばらな事象を列挙して、何の説明、論証も無く「決めて」みたいに言われてもなあw
単に、貴方が無知なのだとしか思えないのだが。
247 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 21:32:43.37
九州説の場合、まず結論があって、それは何があっても動かない
その上で何か自分が有利になりそうな物を探すけれど
所詮ネットサーフィンくらいしかしないから
出所不明の怪情報くらいしかない
そのうえ、これが使えると勘でそう思っただけだから
>>226みたいに単語を羅列するだけで、それ以上のことは無理
立証などは夢のまた夢なのが九州説さ
248 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 21:51:58.35
何で最近はパズルしないの?
他説にバカにされたっていいじゃん
九州説には、パズルとゴロ合わせしかないんだから
249 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 22:03:43.75
畿内説には、遺跡が出れば卑弥呼の祭殿宮殿とかゴリ押ししかないな
あれは卑弥呼の宮殿でほぼ間違いないでしょう。
251 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 22:36:29.40
九州説も何か見つければいいのに
別に見つけてはいけないとは言ってないよ
もう倭人伝だけで満足しています。
他のものは必要ありません・・・・・つーか、有ったら困る。
253 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 23:06:19.75
残念ながら東に宮殿はないよな。
254 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 23:15:36.28
東ってどこよ?
255 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 23:19:48.00
すくなくとも福岡は弥生遺跡数は奈良の4倍以上。
銅器6倍、鉄器は20倍、絹は9倍となっている。
奈良文研 遺跡データベースより。
256 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 23:40:19.52
それと邪馬台国と、なにか関係が?W
卑弥呼が治めた邪馬台国を糸島に絞る事はできない
もっと広大なものだったはず
258 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 00:39:52.09
卑弥呼は、邪馬台国を治めたのではない。
卑弥呼は、邪馬台国に住んで女王國を治め、
238年12月以降には倭國を治めたのである。
259 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 00:57:41.70
女王國::奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國の4ヶ国
倭國::狗奴國を除く倭29ヶ国。
卑弥呼は怡土の国に誕生した
或いは大陸から送り込まれた
とでも言うのだろうか?
どっちにしろ火山列島の国に大陸から渡来したのは間違いない
普通に考えると東松浦半島経由になるな
261 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 01:06:31.13
帯方郡から1200余里の国は、奴國と不彌國。
不彌國の南に隣接する国は、投馬國と邪馬壹國。
>>261 それらは今のどこら辺の地方?
魏志倭人伝とか読んでないので教えて
263 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 01:19:56.17
卑弥呼は、筑紫平野で擁立された、怡土出身の傀儡王。
>>263 なるほど
朝倉市が卑弥呼祭りやっているわけだ
265 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 01:28:34.84
奴國:;佐賀平野中部西部と白石平野
不彌國::吉野ヶ里遺跡およびその近辺
投馬國::佐賀平野東部と筑後平野沿岸部大牟田まで
邪馬壹國::北野地域と筑後平野の内陸部
>>265 狭すぎる!
大分も入るはず
宇佐神宮は大分にある
267 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 01:38:37.67
吉野ヶ里が栄えたのは2世紀初頭、帥升が倭王となった頃まで。
帥升没後衰退。
吉野ヶ里の国名::メタ国(倭面土國・米多國・米田國・筑志米多國・目達國)
宇佐神宮の祭神に謎の神様ヒメコがある
これが卑弥呼だろう
269 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 01:47:40.94
邪馬壹國の東端は日田盆地まで。
宇佐は5世紀頃遠征によって併合された地域。
邪馬台国が九州説なんて戦前は当たり前だった
万葉集でも歌われている
272 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 07:24:43.59
昭和40年代、松本清張、宮崎康平らの著書が出版され、
これに対して、原田大六著邪馬台国論争で箸墓を取り上げて反撃して以来、
出版各社の思惑もあって畿内説と九州説の対立が拡大してきた。
賑やかではあったが、つまりは商業ペースだったわけだ。
273 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 08:40:05.69
自分が通俗本しか読んでないだけじゃん
274 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 09:43:26.43
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台はは九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
275 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 09:44:06.81
276 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 09:49:52.15
惨敗するたびコピペ荒らしの堕落九州説
277 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 10:00:54.54
>>246 ばかかお前はw
ほんと俺に抵抗してくる奴って知識が薄くてバカばっかり
客観的に物事を判断しろって言ってるだろ。
いちいち説明さすな。
要するに古代史(特に国産みや邪馬台国倭国)を語るに 神籠石、甕棺墓、弥生時代の絹 は
重要なキーワード。
これらが全くない畿内や南九州は邪馬台国・倭国・国産み等には全く関係ない土地という事だ。
神籠石、甕棺墓、弥生の絹の分布図を自分で見てみな。
見事に畿内や南九州は外され博多湾岸や糸島、福岡県域がメインだからな。
特に甕棺墓と弥生の絹は魏志倭人伝にも登場するキーワード。
神籠石を初め甕棺墓や弥生の絹が出ない宮崎や畿内は
国産みや邪馬台国以前から神武の東征の後世まで全く関係のない地域ということだ。
>西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
これを裏付ける重要な事実であり、さらには
> 倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
これが正しい事を裏付ける事実。
これらが全くでない畿内や宮崎はクソ(笑)
倭国・邪馬台国・そして国産み〜天孫降臨〜神武東征の記紀の舞台はせいぜい福岡県域であることを
きちんと歴史や中韓に残る歴史書が示している証だな。
お前も指ばっかくわえてないで少しは賢くなれよ。
278 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 10:04:58.34
これが正しい方
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
279 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 10:16:02.00
>>238-239 はいバカw
お前の言う畿内の2ってどこだよ??
奈良の大和天神山古墳??桜井茶臼山古墳??
それ 古墳時代 ですから〜〜〜〜(笑)www
ほんと畿内ってどさくさに紛れて背伸びばっかするな〜w
キチガイ畿内w
畿内も南九州も倭国や邪馬台国や国産み天孫降臨神武東征等々の舞台に全く関係ないからww
畿内と南九州はハエみたいでうざいですw
残念(笑)
南九州はただの野蛮なクマソ、畿内は遠い倭種w
それから、畿内の山城(神籠石もどき)は完全に大和作ですからw
筑紫福岡に似せようとしても無駄無駄w
「要するに」とひとこと言って、あとは全部結論ですね。
理由がなにも書いてない。
「客観的に物事を判断しろって」自戒して下さいな。
知識が薄くてバカなざまを晒してますよ。
281 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 10:20:00.73
>>280 悔しさがにじみ出てるよw
>>277を何度も読んで出口を探せ。
ちょっとは賢くなれよ、低能
そうやって吠える態度に、悔しさが滲み出ていますよ。
>>277は出口なしです。九州説の閉塞感を表していますね。
神籠石、甕棺墓、弥生時代の絹 などが、なぜ邪馬台国と関係あるのか
なにも説明できていません。
個人感覚に終始していて、客観性がまるでありませんね。
ばかのようです。
神籠石が朝鮮式山城であって、瀬戸内から畿内まで分布していることも
知らないのでしょう?
「知識が薄くてバカ」ですね。
283 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 10:30:52.66
神籠石、甕棺墓、弥生時代の絹か。どうでもいいことだね。
なによりも大切なのは、倭人伝の行程記事を正しく読むことだ。
従来の伊都国比定は誤り、佐賀市付近とするのが正解。倭人伝どおりだし、
南への水行や末盧国から陸行したことも合理的に説明できる。従来邪馬台国の位置
が分からなかったのは出発点において間違えていたからだ。
284 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 10:36:53.16
こういつは倭人伝バカ
285 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 10:44:37.29
>>283 はいバカ発見w
>なによりも大切なのは、倭人伝の行程記事を正しく読むことだ。
無理無理w そんな無理なことをするより素直にそれ以外の
魏志倭人伝の内容を読め。 答えは簡単な事だ。
難しい事をひねくれなくていいんだよ。 素直にその他の内容を読め。
>>282 >神籠石、甕棺墓、弥生時代の絹 などが、なぜ邪馬台国と関係あるのか
なにも説明できていません。
なんの知識もないガキはすっこんでろ
お前にみたいなアホの無知ちゃんにいちいち一から説明してあげるほど
お前みたいな無知と関わりたいとは思わんよw
>神籠石が朝鮮式山城であって、瀬戸内から畿内まで分布していることも
知らないのでしょう?
「知識が薄くてバカ」ですね。
>>279を読んだ?? お前みたいな低能はほんと面倒臭いんだよ。
もう少し知識をつけてから出直してこい。
まじ知識が薄いくせにうぜ〜んだよ。
まずは基本から習って15年後にまた書き込め
こいつの質問まじでレベル低すぎでうざい
286 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 10:47:48.84
>>283 無理無理w そんな無理なことをするより素直にそれ以外の
魏志倭人伝の内容を読め。 答えは簡単な事だ。
難しい事をひねくれなくていいんだよ。 素直にその他の内容を読め。
そしたら客観的に物事を判断できるようになりおのずと答えは出てくるよ。
287 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 10:49:19.50
>>282 >神籠石、甕棺墓、弥生時代の絹 などが、なぜ邪馬台国と関係あるのか
なにも説明できていません。
なんの知識もないガキはすっこんでろ
お前にみたいなアホの無知ちゃんにいちいち一から説明してあげるほど
お前みたいな無知と関わりたいとは思わんよw
>神籠石が朝鮮式山城であって、瀬戸内から畿内まで分布していることも
知らないのでしょう?
「知識が薄くてバカ」ですね。
>>279を読んだ?? お前みたいな低能はほんと面倒臭いんだよ。
もう少し知識をつけてから出直してこい。
まじ知識が薄いくせにうぜ〜んだよ。
まずは基本から習って15年後にまた書き込め
こいつの質問まじでレベル低すぎでうざい
反論できないので、罵って誤魔化すのですね?
みじめだな君は。
289 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 10:59:06.55
>>287は、基本を知らない無知ちゃん背伸びの末路の典型
290 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 10:59:14.57
>>270 日田盆地は大分県にあるが、地域性は筑紫平野。
宇佐は、景行遠征に記されている、5世紀の筑紫の倭王による征服地。
291 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 11:02:32.36
>>282 分かった??低能無知君(笑)
正確に言うと「神籠石」と「朝鮮式」と「大和作神籠石もどき」があるんだよ(笑)
畿内にあるのは最後の「大和作神籠石もどき」だよ♪
それから、神籠石だけで判断しないようにね♪
きちんと客観的に「神籠石」「甕棺墓」「弥生の絹」「三種の神器」等々トータルで考えようね♪♪
あれれ♪♪ おかしいよ・・♪♪
畿内と南九州が全くな〜い♪♪
そうそう、畿内南九州は倭国や邪馬台国・国産み等々の舞台とは全く関係のない僻地、クマソと遠い倭種のムラだったね♪♪
客観的に物事を判断すると答えがスイスイ出てきて楽しいね♪♪
292 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 11:05:18.42
なんにも証拠を出さない「客観的」連呼 = お笑いネタ
293 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 11:06:38.90
>>288-289 あ、ごめんごめん(笑)
>>291で少し手ほどきしてやってしまった(笑)
とにかくお前らはもう少し知識をつけて出直してこい、ハゲ♪♪
294 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 11:08:10.55
>>291みたいな、絵に描いたような低脳レスする者は九州説の恥部
295 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 11:11:50.37
誰かから九州説が有利になる魔法の呪文みたいにキーワードを教えてもらっただけなんで、ただ唱えるしか能がないのだろう
九州説信者のレベルの低さを物語る好例だ
296 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 11:18:26.29
>>294-295>>289 てか、お前らさっきから「愚痴」とそうであって欲しいと「願望」しか書けないな。
可愛そうな畿内派宮崎派の末路・・・
必死に「伝説では・・伝説では・・」叫んでも何にもない畿内と南九州の末路はこんなもの。
ごめんな、お前ら。お前らみたいな低能相手にいじめすぎて♪
畿内と南九州に幸あれ(笑)
297 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 11:19:52.63
と、ひとことも理由が言えないまま逃げていった
298 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 11:36:52.46
俺は何気に今はダム湖に沈んでる「日向神峡」ってなんか気になるんだが・・
ダム湖に消える前はかなりの景勝地だったと覚えがあるんだが、
まあ多分後付けだとは思うがね。
ただ神社(誰だか忘れた)と卑弥呼かアマテラス、後付けだろうが、アマテラスの岩戸とか
言われる神社があったよな。 まあ多分、天孫族が治めるようになってからの神社を含め後付けの
景勝地だろうが・・
後づけはよくある事だからな。
299 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 11:42:12.94
まあ後づけっぽいな。これは自ら却下。
帯方郡から奴国まで
|●郡
|
|循海岸水行、曆韓國、乍南乍東(七千餘里)
|
|_●狗邪韓國
|
|度一海(千餘里)
|
●對馬國
|
|南渡一海(瀚海)(千餘里)
|
●一大國
|
|渡一海(千餘里)
|
●末盧國
\
\東南陸行(五百里)
\
●伊都國
\
\東南(百里)
\
●奴國
伊都国から(順次式)
●伊都國
\
\東南(百里)
\
●奴國──東(百里)──●不彌國
|
南水行二十日
|
●投馬國
|
南水行十日陸行一月
|
●邪馬壹國
伊都国から(放射式)
●伊都國──東(百里)──●不彌國
| | \
南 南 \東南(百里)
水 水 \
行 行 ●奴國
二 十
十 日
日 陸行
| 一月
●投馬國 |
●邪馬壹國
「水行二十日」と「水行十日陸行一月」を郡からと看る場合は?
うまく書けない。誰か頼む。
306 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 13:01:08.73
そんなくだらない説を図化する必要はないよ。
>>302は「邪馬壹國」の位置に予断があるように見えるので訂正
伊都国から(放射式)
●伊都國──東(百里)──●不彌國
| | \
南 南 \東南(百里)
水 水 \
行 行 ●奴國
十 二
日 十
陸 日
行 |
一 ●投馬國
月
|
●邪馬壹國
308 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 16:10:43.75
伊都国は佐賀市付近、これで九州説は全面的に変わった。
奴国と不彌国はどのみち佐賀市の近郊なんだから、順次式で読もうが放射式で読もうが大勢に影響ない。
あとは投馬国、邪馬台国を放射式(二股式)で読むか、連続式で読むかだが・・・、連続だと九州島を通り抜けるだろう。
そして残る難問は、伊都国からの水行・陸行日数か、帯方郡からの水行・陸行日数で読むか・・・、そのことくらいだわな。
309 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 16:27:37.45
むろん世間からは白眼視
310 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 16:38:53.79
そうだな、世間から恨めしがられるくらいでないとホンモノとはいえぬな。
311 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 17:13:37.41
星の数ほどある仮説の一つでしかないのに「これぞ真実!!」とばかりに喚くから白眼視される
九州脳はそこが分からないんだな
312 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 17:25:18.85
それも、エジプト説並みなのに。
313 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 17:54:52.72
>>310 いや、誰も恨めしがっていないけど
相手にされていないだけ
314 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 18:11:12.59
連続説か放射説かは学会を二分する学説。その両方で考えて一方が駄目だとなれば
結論は見えているな。星の数ほどある仮説なんてごまかそうとしても、上記2説以外は
話しにならんトンデモばかり。
315 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 18:57:57.12
連続説か放射説かは、伊都国糸島の場合に学会を二分する大論争であった。
しかし伊都国佐賀説となれば二分するほどのことではない。せいぜい佐賀市の西の端か東の端か程度のちがい。
316 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 19:55:57.15
そうかもな。伊都国が佐賀で有明海に面しているとなれば、そこから直接舟に
乗ることは当然の話。放射説が正しいことは一目瞭然だ。
317 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 20:09:51.48
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
318 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 20:10:39.62
319 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 20:14:51.73
独創性のない右翼の宣伝カーか偏執狂の焼き芋屋が巡回してるみたいだ
320 :
○:2013/11/19(火) 20:42:43.81
>>314 >連続説か放射説かは学会を二分する学説。
学者は頭が悪い。
何故奴国以下三ヶ国に国情記事がないのか。
理由は何んだ?
実際に行ってないからだろう。
魏志は一旦伊都国で終結している。
321 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 20:47:24.75
魏志は一旦奴國及び不彌國で終結している。
その後、5000里の小トリップを果たしている。
322 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 20:50:01.26
>>314 >連続説か放射説かは学会を二分する学説。
あほかw いつの昔のこといってんだよ
これだから歴史ライターの書いた与太本しか読まぬ素人は…。
今はそれは論点になってない。
連続説でも九州説は成立するし放射説でも大和説は成立する
323 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 20:55:20.01
いまどき未だ九州説に残存しているひとは、もう学史や先行研究とか知らないし
論文や学術書なども読まないし、史料の原文なんかも見たことがないんだろうなぁ
そんな投稿しか無い
324 :
○:2013/11/19(火) 20:55:50.61
>>315 肥後風土記によると
唐津=松浦郡、佐賀市は、西から
「杵島郡ー小城郡ー佐嘉郡ー神崎郡ー三根郡ー養父郡ー基肄郡」
と記されている。小国の王が大和朝廷に組み込まれた時
国造、県主となり、地名の多くが残っている。
今でも地名が残っているという事は、国割りが正しいからだろう。
現在の地図をみても青筋だらけで、古代湿地帯は間違いない。
何処が伊都国で、二万余戸の奴国はどこに比定するんだ?
325 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 20:59:45.04
伊都国糸島説を前提にした学史や先行研究とかは、読もうにも気乗りがしなくて。。。
326 :
○:2013/11/19(火) 21:01:16.32
>>323 具体的な史料、学史を教えてくれ!
検討してみるから。
答えろよな。
327 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 21:02:26.91
二万余戸の奴國は広がりから云うと弁辰の40%から50%の広さを想定すべき。
人口が集中できる環境にあったかもと仮定しても1/3程度はほしいところ。
>答えろよな。
勉強は自分でするものです。
「教えて君」というのは、ネットで馬鹿にされるタイプの代表ですよ。
329 :
○:2013/11/19(火) 21:12:52.09
>>328 それでも良いから、書いてみろ!
書けないのか?
「はいこれ」って1冊2冊読んだだけでなんでもわかるようになるわけないだろ
どんだけ甘えてんだよ、ゆとりか藻前は
331 :
○:2013/11/19(火) 21:24:50.49
>>330 今分からなくてもいいよ。
多少の勉強にはなるだろう。
1冊2冊でも書いてくれないか?
待ってるぜ!
332 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 21:31:55.08
おまえみたいなのに親切に教えてくれる人はいないよ
333 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 21:32:19.24
>>322 何を勘違いしているのかね。畿内説でも九州説でも連続式か放射式かという問題はあるさ。
どちらに読むかで大きく異なる。論点になってないなんて馬鹿なことを言っちゃいかんね。
334 :
○:2013/11/19(火) 21:32:58.17
335 :
○:2013/11/19(火) 21:39:09.67
336 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 21:48:58.13
>>324 伊都国〜奴国〜不彌国間は、放射説の場合で100里(7-8km)、連続説でも200里(14-15km)ほどでしかない。
これは倭人伝が倭国の旅行案内を書いたのではなく、女王国との外交関係を記すのが主目的だったと思われるところから、
三国間距離というよりは、末盧国〜邪馬台国を結ぶ主街道の道のりを記した可能性が高いように思われる。
つまり倭人伝は迅速・確実に女王国へ至るための主街道を描いたため、奴国の中心を横切って不彌国に至ったのかもしれないが、
奴国の端のほうをかすめて不彌国に至った際の距離だったのかもしれない。
はたしてどのような道筋だったのかは、佐賀県教育委員会の今後の発掘作業にかかっていると言わざるを得ない。
ご承知の通り佐賀県は、つい先頃までは吉野ヶ里こそ邪馬台国かもしれないとの期待を公言していたわけであるから、
ただちに伊都国〜奴国〜不彌国の解明には着手できないかもしれない。
しかし佐賀県の実力をもってすれば、そう遠くない時期に所要の発掘を進め、概要を明らかにできるのではないか。
当事者・関係者でもない私2ちゃんねラーとしては、期待を込めて成り行きを注目するほかないと思っている。
>>332 おまえは「畿内説≡連続式」「九州説≡放射式」って定式を
主張するのかしないのかどっちなんだよw
338 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 21:51:18.51
339 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 21:52:41.39
340 :
337:2013/11/19(火) 21:53:20.11
341 :
○:2013/11/19(火) 21:54:44.63
>>336 >期待を込めて成り行きを注目するほかないと思っている。
私も期待してるよ。
342 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 21:56:06.00
1/6の人ですが、九州説で連続式です。
>>325 >伊都国糸島説を前提にした学史や先行研究とかは、読もうにも気乗りがしなくて。。。
その通りだね。
伊都だから糸島に違いないというのは邪馬台だからヤマトだというのと同レベル。
方角も合わない。それなのに末盧国は松浦半島だと平気で言う。
それよりなにより自分で松浦から糸島まで歩いてみればいい話だな。
344 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 22:15:47.72
>>343 >伊都だから糸島に違いないというのは邪馬台だからヤマトだというのと同レベル
頭悪すぎw 何も知らないバカが調子こくなっての(笑)
糸島や博多湾岸をよ〜く研究してからぬかせバカ
345 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 22:15:58.51
距離・日程なんざアテになんないからの現状通りだから、そこをさっ引いて
上陸地がドコだろうと九州に至ってからの記述で『西に海を渡っても倭種の地』(水行と分けてある)だけ見ても邪馬台国は九州だあね
九州に到達以降で安芸も吉備も伊予も讃岐も阿波も水穂も浪速もスッ飛ばして到着とか
本州なら、西の倭種の地に行くのに『海を渡る』記述の必要性すらない。
結論ありきで考えるんでなければ大陸の歴史書を見る限り(記紀を見ても)邪馬台国も神武も九州にしかならん
346 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 22:16:28.52
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
347 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 22:17:02.91
348 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 22:18:34.10
>>337 説としては、畿内説でも九州説でも連続説、放射説どちらもあり得るよ。
正しいのは、九州説で放射説。それ以外は間違い。
オレがオレがの九州説
>>348 私も畿内説、ま、それは置いといて、伊都からは放射読みだと思います。
路程解釈で邪馬台国の所在地論争をする気はないのですが、
倭人伝の文章は、複数の原資料からの継接ぎだろうと考えています。
伊都までとそれ以降で文体が変わるのは、そこで二つの文章を接いだからだと、
まあ、ただの思い付きですけどね。
351 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 23:11:01.44
どんな主張も検証不可能だからね
決して完全否定されることなく気持ちよく自説を喧伝出来ちゃう
352 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 23:28:09.01
私は行程記事は一人の人が書いた単一の資料に基づいていると思うよ。複数の資料を繋ぎ合わせる必要はない。
使者は邪馬台国を訪ね卑弥呼に会っている。
353 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 23:46:05.27
根拠のないこと言い放題
いいねえ
気持ちよく自説を喧伝出来ちゃう のjは
354 :
大和 田 直木:2013/11/20(水) 02:14:43.00
@末盧國(古松浦湾南岸)の東南へ道程40kmで伊都國(背振山地南麓)に着く。
末盧國の津は中原遺跡、伊都國の城柵は肥前國庁跡付近(惣座遺跡)
A伊都國の東南8kmの位置に奴國がある。
奴國城柵は佐賀城、奴國領域は中部西部の佐賀平野と白石平野。
B伊都國の東へ道程8kmで不彌國に着く。郡から12000余里
不彌國城柵は吉野ヶ里遺跡。
C不彌國領域の南に接して投馬國と邪馬壹國の領域がある。
筑後川の北岸に不彌國、南岸に投馬國と邪馬壹國の領域がある。
投馬國領域は有明海沿岸低地と洲の東部佐賀平野から大牟田まで。
邪馬壹國領域は筑後平野内陸部と北野地域に広がる旧5ヶ国(久留米・八女・浮羽・朝倉・小郡)の連合地域。
D投馬國へは、郡から水行20日(20000余里)の道程にある。
投馬國の中心地は山門(瀬高)
E邪馬壹國へは、郡から水行10日(10000余里)と陸行一月(1000余里)の道程にある。
邪馬壹國城柵は、末盧國から陸行1000余里(80km)の八女。
卑弥呼の都する城柵は邪馬壹國の別場所(久留米)。
>>333と
>>348は同一人物?別人?
同一人物なら既知外で議論の相手にできない。別人ならどうでもいいが。
357 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 07:58:33.88
日数を郡からと読むのは駄目だろう。不彌國までの行程を書いているのに、いきなり郡に
戻ってしまっては不彌國と投馬国、邪馬台国の位置関係はまったく不明となる。
358 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 08:15:29.97
359 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 08:58:16.37
>>375 そうかといって、伊都国/奴国/不彌国から水行二十日、水行十日陸行一月と考えても、
投馬国や邪馬台国までの距離・位置関係は皆目見当つかぬ、・・・ぬぬぬ。
>>356のリンクを覗いてみたら横にキチガイビデオがぞろぞろ出てきた。
ああいうのに比べると2chのキチガイどもはスケールが小さいなwww
361 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 09:35:33.11
>>174 >筑紫は日向国高千穂宮のことに決まってんじゃん
筑紫(ちくし)は福岡平野
筑紫(つくし)は筑紫平野に残っている。
日向国高千穂宮が筑紫の中心地だったのなら
日向国高千穂に筑紫の名が残っていそうなものだ。
末盧国から狗邪韓国〜末盧国の三分の二の距離しかないことや
周旋可五千餘里からも邪馬台国宮崎説は成立しないと思うな。
363 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 11:31:33.12
>>359 伊都国は佐賀、そこから放射式に行くわけで、水行20日は薩摩川内、水行10日陸行1月は
都城盆地あたり。万二千里は女王国の境界までの距離にすぎず、行程はその万二千里にとらわ
れず素直に考えればよい。
周旋五千里(約四百キロ)は末盧国からぐるりとまわって宮崎南端までの距離。一周ではない。
364 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 11:40:45.65
>>362 日向国高千穂宮は、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある。
宮崎といっても宮崎平野の中ではなく、阿蘇山の東南麓・阿蘇高原の一角にあり、昔も今も熊本市の経済圏内。
末盧国からは約二千里、およそ150kmの所で、倭人伝の距離に良く一致する。
なお周旋五千里を九州島の南北長とすれば、末盧国から高千穂宮まで約二千里、高千穂宮から九州島南端まで約三千里、
合計五千余里となって、これも良く一致する。
365 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 11:44:13.69
366 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 11:54:08.17
伊都国佐賀説を採用し、そこから南方向となれば、
邪馬台国女王之都は、熊本市〜高千穂町〜都城市、のあたりに落ち着く。卑弥呼の都も絞られて来た感じだ。
367 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 12:05:08.27
水行10日陸行1月を水行10日又は陸行1月と読めば熊本あたりということになる。しかし、
これは読み方として不自然、投馬国につき水行のみの記載であることとも合わない。
宮崎市や高千穂町あたりならば、単に南という表示は疑問。ある程度のところで東へ行くことを
乍南乍東とか表示するはず。ということで都城盆地ならば何ら問題なし。
気になるのは菊池郡辺りに有ったという山門郷
正確な場所分かる人居ない?
369 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 12:25:16.52
1/6すれば筑後川のどこかから、出発し
当時半島のように突き出ていたと思われる
大牟田荒尾付近。
さらに水行して、熊本から宇土半島付け根
ここから上陸して陸行。
370 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 12:45:32.53
371 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 13:06:59.09
似た地名をみると飛びつく人たちがいるんだ。
372 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 13:22:08.24
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
373 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 13:24:40.50
>>370 >熊襲が自分達の居住区を邪馬台と呼んでいたことを重視し
へ〜
やっぱり神武も宮崎県の熊襲出身だしな
374 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 13:25:04.84
375 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 13:53:34.62
一番あてにならない魏志倭人伝の道程距離だけで邪馬台国を判断しようとする
素人たちってなんなの??
こんな素人らが大きな声で邪馬台国や日本の歴史を語るなっての。
魏志倭人伝には福岡筑紫の事が何の矛盾もなく書かれてるんだからせいぜい福岡県域だろ。
大体、歴史が流れていく中で、
神籠石-三種の神器出土-甕棺墓-弥生の絹-その他様々な出土状況-地名がかぶっている状況等々
「志賀の浜長きを見れば幾年あらん〜」←畿内では長い白浜がないため琵琶湖に比定(志賀・滋賀県)
普通に考えればそれらの出土状況や分布図をみれば簡単に答えはおのずとわかる事。
南九州とか古い歴史の中で 神籠石 ない魏志倭人伝に登場する甕棺墓も弥生の絹もない
そんな過去からもず〜〜と僻地が邪馬台国や天孫降臨だけは ウチ だと力説しても
言えば言うだけキチガイ染みて気持ち悪いだけ。
神籠石の分布にしても甕棺墓の分布にしても弥生の絹の分布にしても
実際が示してる事実はず〜〜と古来より倭国(後に一部が邪馬台国)や倭奴国
の中心が一貫して博多湾岸にあった事を物語っているだけという事実。
一番あてにならないとされてる道程距離だけで延々と邪馬台国を語る素人は
歴史を語るにはまだまだ2000年早いという事だな。
ちなみに宮崎は>神籠石の分布にしても甕棺墓の分布にしても弥生の絹の分布にしても
これらは全くでない。
これは宮崎が北部九州とは全く違った地域 クマソ であった事を意味する。
後の大和が 福岡の支配=九州の支配 としたため現在でもクマソ宮崎が調子こいているというだけ。
リアルに宮崎が邪馬台国とか言ってるやつは ド素人の低能で知識が全くないキチガイ だな。
376 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 14:34:22.00
では、日向の古式古墳についてはどう説明するのかな?
377 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 15:00:08.10
>>376 南九州って相当なくそ田舎だったんだろうな
西都原だけがずっと栄えるぐらいww
とても先進地域とは思えない惨状ww
で、もっと詳しく書けよ
何をどういうふうに判断してほしいのか。
逆にお前に聞こう
宮崎から何が広がったんだ??
天孫族や日本の中心地邪馬台国が宮崎にあったんなら
さぞかし当時の宮崎から日本全土に広がりそれが現代まで延々と繋がっているものがあるんだろうな?
ちなみに福岡からは現代の天皇の象徴とされる「三種の神器」をはじめ
ムラや国といった現代社会の基礎というものまで様々なものが現代でも広がっているんだが、
宮崎が天孫族や邪馬台国なら様々なものが宮崎から日本全土に広がったろうにww
まあ、西都原にしても僻地だったゆえに広がっただけ(笑)
魏志倭人伝に卑弥呼の土地は巨大な墓陵群があるとか書いてあったか??
もし宮崎が邪馬台国だったら魏志倭人伝が西都原古墳群を記述しない(忘れてる)とかなかろうに(笑)
まあ、全てトータルに考えても宮崎も畿内もないな 残念
378 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 15:02:51.15
魏志倭人伝にはこういう事まできちんと書いてる。
宮崎だけ西都原古墳群を忘れてるとかなかろうww
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg 「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
379 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 15:06:38.40
年末を控え、大魔王宮殿の台所事情もきびしそうですな
380 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 15:17:16.66
なるほど、使者が来た頃には西都原古墳群の壮大な風景は既にできあがっていたと
いう認識なんだね。
381 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 15:20:32.36
>>380 逆にお前に聞こう
宮崎から何が広がったんだ??
天孫族や日本の中心地邪馬台国が宮崎にあったんなら
さぞかし当時の宮崎から日本全土に広がりそれが現代まで延々と繋がっているものがあるんだろうな?
ちなみに福岡からは現代の天皇の象徴とされる「三種の神器」をはじめ
ムラや国といった現代社会の基礎というものまで様々なものが現代でも広がっているんだが、
宮崎が天孫族や邪馬台国なら様々なものが宮崎から日本全土に広がったろうにww
まあ、西都原にしても僻地だったゆえに広がっただけ(笑)
魏志倭人伝に卑弥呼の土地は巨大な墓陵群があるとか書いてあったか??
もし宮崎が邪馬台国だったら魏志倭人伝が西都原古墳群を記述しない(忘れてる)とかなかろうに(笑)
まあ、全てトータルに考えても宮崎も畿内もないな 残念
魏志倭人伝にはこういう事まできちんと書いてる。
宮崎だけ西都原古墳群を忘れてるとかなかろうww
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg 「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
382 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 15:25:04.89
383 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 15:50:41.38
宮崎から広まったものなんてケチな考え方をしていては駄目だろうな。邪馬台国が南九州ということは、
倭国の乱で北九州を征服し、九州をほぼ統一したってことだ。となれば、筑紫も肥後もその邪馬台国の
指示を受けて本州へ兵を出していくわけだ。福岡の物が広まっているというのも当たり前、熊本の赤い
土器が東海地方などに広まっているのも当たり前なんだな。
古墳だってその東征の過程でいろいろ工夫したんだろうが、それも全て邪馬台国主導で広めたもんだよ。
どこが最初に造ったかなんぞ、問題ではない。ただ日向には畿内に少ない手鏡型古墳がぞろぞろある。
一見僻地にも見える日向に、初期古墳からそろっているということの意味を考えんといかんね。
注目すべきは、蛇行状剣だろうな。実用には使えないいわば指揮刀だ。全国からぱらぱらと出ているが、
それが南九州からたくさん出ている。全国へ散って働き無事に帰ったものがその墓に入れたということだ
ろう。南九州に全国で軍を指揮した物が大勢いたということ、これが都がどこにあったのかを物語っているよ。
384 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 16:09:44.97
そうか、三世紀中頃にはすでにあの西都原大古墳群は完成していたのだな。
なるほど大魔王だけにそれが見えるというわけか!
385 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 16:21:44.80
>>383 そういうのがばかじゃね〜のかって言ってるんだよ。
ほんとお前ら宮崎派や畿内派ってのは、
自分の 願望 だけで勝手に決めつけんなって言ってんの(笑)
物証や現代に残ってる文化等々ちゃんと表に出してからそういう話はもってこい。
お前のおとぎ話なんてだれも聞きたくね〜んだよキチガイ
宮崎が北部九州を制圧した物証等々きちんと出してからものを言え このキチガイが
お前の 夢のおとぎ話 なんてど〜でもいいですよ♪(笑)
386 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 16:31:59.91
>>383 倭国の乱が南九州で起こってた事実をだせよ バカ
南九州でも北部九州同様倭国の乱が起こってたなら
なんで北部九州の
>神籠石の分布にしても甕棺墓の分布にしても弥生の絹の分布にしても
これらが全くでないんだよw
お前らが言ってるのは「現代のマンゴーの日本における栽培は福岡から始まった」と
勝手にいってるようなもんだw
しかしマンゴーの栽培分布を見てもあきらか。メインは宮崎だろう。
それをお前らは「天孫族や邪馬台国は宮崎だー」ってキチガイのように主張してるだけ。
天孫族や邪馬台国が宮崎ならなんで
>神籠石の分布にしても甕棺墓の分布にしても弥生の絹の分布にしても
こういったものから南九州は完全に無視されてんだ??
答えは簡単 南九州は天孫族も倭国も邪馬台国も全く関係ない僻地 野蛮なクマソ って事が
状況として実際に成り立ってるわけだ。
それでもお前らが天孫族や邪馬台国が宮崎というならきちんと
>>381に答え
様々な状況証拠をもってきて何の矛盾もなく説明してみろ。
キチガイのように宮崎宮崎言っても無駄なんだよ アホが
ほんと宮崎や畿内派は気持ち悪すぎるww
387 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 16:38:18.04
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
388 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 16:39:01.94
389 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 16:51:40.17
>>387 >西・筑紫福岡を向く出雲の社殿
出雲大社の神殿は南向き、鎮座する神が向いているのも国土を引いてきた韓国・新羅の方向
残念ながら福岡は向いていな〜い
>神武以前の32世筑紫福岡に都があった
この32世はウガヤフキアエズの母方の先祖のこと、傍系だな。
390 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 16:59:27.47
>>383 大体、南九州が北部九州を支配したのならその時に
北部九州の文化は捨てられ南九州のもに代わってるはずだが、
何処に北部九州が南九州クマソに染められた跡があるんだい??
北部九州は一貫してずっと北部九州だが・・
神籠石も絹も甕棺墓も何もない南のクマソが何夢のおとぎ話を展開してるのやらw
宮崎派はキチガイとしか言いようがないな(笑)
宮崎をクマソと決めつけて邪馬台国から排除しようとする奴がキチガイ
志布志市あたりは日向国だったと考える
まだ手つかずの古墳だらけだ
熊襲の穴は姶良にある
392 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 22:31:34.39
3世紀から畿内式の古墳が多数築かれている地域が
クマソは無いだろう。
393 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 22:57:03.63
>大体、南九州が北部九州を支配したのならその時に北部九州の文化は捨てられ
>南九州のもに代わってるはずだが、
かってな思い込みだな。南九州が北九州を支配していたことは、倭人伝の「女王国に
に統属す」や一大率に関する記述により明らかだ。
> 南のクマソ
本当に熊襲などという人々がいたのならば、それを露骨に記紀に書いたりはしないよ。
後々までそこの人々の恨みを買うことになる。国家の平穏が保てるわけがない。
熊襲の物語には特別の意味がある。それを読み取らんとな。
394 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 23:04:38.39
荒れてきたしパズルでもするか?
いつも荒れてるとも言えるけどな
395 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 23:06:04.32
葛城襲、熊襲はそれぞれ「葛城」「熊」という地域の世襲系です。
>>393 いやw
熊襲ははっきり書いてあるぞwww
邪馬台国と敵対する別の勢力があったと魏志倭人伝にある
それが熊襲
後の菊池郡の豪族
菊池の年寄たちは自分たちが熊襲の末裔と知っている
菊池出身の婆さんが先祖は熊襲のばっそんと言っていた
398 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 23:22:15.76
ウィキペディアによると、熊襲とは、日本の記紀神話に登場する、九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々
となっているな。菊池郡の豪族とは関係ないだろう。
399 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 23:27:08.10
でも「熊本」だからなw
400 :
大和 田 直木:2013/11/20(水) 23:27:54.41
パズル
@帯方郡(ソウル付近)から東南方向の末盧國へは水行11400余里(=水行10日)
A末盧國(古松浦湾南岸)の東南へ道程40kmで伊都國(背振山地南麓)に着く。
末盧國の津は中原遺跡、伊都國の城柵は肥前國庁跡付近(惣座遺跡)
B伊都國の東南100里(8km)の位置に奴國がある。
奴國城柵は佐賀城、奴國領域は中部西部の佐賀平野と白石平野。
C伊都國の東へ道程100里(10km)で不彌國に着く。郡から12000余里
不彌國城柵は吉野ヶ里遺跡。
D不彌國領域の南に接して投馬國と邪馬壹國の領域がある。
筑後川の北岸に不彌國、南岸に投馬國と邪馬壹國の領域がある。
※投馬國領域は有明海沿岸低地と洲であって東部佐賀平野から大牟田まで。5万戸
※邪馬壹國領域は筑後平野内陸部と北野地域に広がる。7万戸
後漢書の旧5ヶ国(久留米・八女・浮羽・朝倉・小郡)の連合地域。
E投馬國へは、郡から水行20日(22000余里)の道程にある。
投馬國の中心地は山門(瀬高)
F邪馬壹國へは、郡から末盧國の水行10日(11000余里)と
末盧國から邪馬壹國の陸行一月(1100余里)の道程がある。
邪馬壹國城柵は、末盧國から陸行1100余里(90km)の八女。
卑弥呼の都する城柵は邪馬壹國の別場所(久留米)。
G狗奴國領域は投馬國と邪馬壹國の南、菊池川流域と白川流域の熊本平野。
H緑川以南は非狗奴國地域。
I對海國北端から緑川北岸までが、倭地周旋可五千餘里(400km)
401 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 23:29:17.30
日向にクマソがいた証拠出してみそ
>>398 関係ないとは言いきれない
菊池神社HPによると大宰府の長官藤原隆家に仕えた武人とあるが
それ以前の事が書かれていない
403 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 23:38:25.95
>>401 日本書紀の景行天皇の九州巡幸に明記されてる
呼んでミソ
>>401 バカバカしいよね
日向国が熊襲のはずがない
基地外は相手しないようにしようよ
魏志倭人伝以外必要ない
日向はむしろ吉備以西の瀬戸内海と交流が深かったんでしょうね。
弥生時代中期から搬入土器や模倣土器、折衷土器が出土している。
西新式や免田式といった九州土器も搬入されているのでオープンだった感じだよ。
408 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 23:49:14.33
というか、海からやってきた人々の土地だったのでは?
410 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 23:53:17.58
古事記では、九州は、筑、肥、豊、熊襲、からなる。
これは、旧国の筑前筑後、肥前肥後、豊前豊後、
そして、日向大隅薩摩、を示す可能性が高い。
景行記の熊襲退治も、豊から日向にかけての話しである。
411 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 23:57:43.20
豊と熊襲は瀬戸内海との関係が深く、
神武天皇の東征記でも、
瀬戸内海文化圏の移動の記録になっている。
私は、神武天皇は熊襲の一豪族であり、
肥や筑の勢力とは別の勢力であったと見る。
412 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 00:00:58.58
ついでに、大量の古墳を築いた古墳文化は、
畿内の古墳群と日向の古墳群は、関係があると思っている。
瀬戸内海文化圏の西の端が日向であり、
東の端が畿内である。
邪馬台国の話をしてるのになんで記紀が必要なんだよ
関係ないだろアホ
>>411 それってずーっと思ってた
よくぞ言ってくれた
不敬にあたるとして今まで書けなかった
瀬戸内土器の搬入は初めは薩摩まで及んでいたが
弥生後期には薩隅では減じるなど外への態度に違いがあった。
古墳も殆ど作られなかった。
日向の言葉は豊の国とほぼ同じ。
都城盆地や志布志あたりまで所謂日向だったと思われる。
>>415 >日向の言葉は豊の国とほぼ同じ。
びっくりだけど本当なんだな
北九州市(筑豊含む)だけが異質な方言になっている
宗像大社のある宗像は殆ど博多弁
417 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 10:23:02.95
>>404 >>405 熊襲の物語は実に奥が深い。熊襲はまつろわざる者。つまりは支配に服していない者だ。
だが、倭国においては全ての人民が倭国王の支配下にある、例え王に不満を持つ者であって
も王の支配下にあることは間違いない。となると、大和王と熊襲王の関係はどうなるかだ。
418 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 10:33:07.12
ちなみに糸島は確認されている古墳だけで1000を超えているという事実。
福岡平野はどこを掘っても弥生遺跡にぶち当たるといわれてるほどの弥生銀座である。
糸島地方の古墳文化 糸島の大小1000基以上の特色ある古墳を紹介
福岡市内やその周辺には「弥生銀座」と呼ばれるほど、多くの遺跡があります。
春日市は、古くは弥生時代のクニ「 奴 ( な ) 国 ( こく ) 」の中心地として栄えていました。
弥生銀座と呼ばれるほど全国的にも貴重 な遺跡が多数発見され出土品は質・量ともに全国一と言われてい ...
福岡県の弥生時代の 主な 遺跡一覧
http://park20.wakwak.com/~fujimaki/iseki.htm 糸島だけで1000基以上古墳があると言われてるのに
糸島から主な遺跡一覧にノミネートされた遺跡はたった4つだけ。
一体、倭国・邪馬台国・天孫族が活躍した頃の筑紫福岡はどんだけ充実してるんだ・・・
遠い倭種畿内とクマソ宮崎 涙目ww
ちょっともうちょっとしてからクマソ宮崎をいじめてやろうかな。
まっとけよクマソ宮崎のばかども(笑)
質問ですけど、
隼人と熊襲の違いはなに?
420 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 12:06:38.85
弥生文化(弥生時代)と古墳文化(古墳時代)をごた混ぜにしてはいかんねえ
なぜ弥生文化のただ中に古墳文化が割って入ったかが肝心
421 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 12:25:41.44
鬼の攪乱か、大魔王の攪乱か。。。
関西史観が全ての元凶
>>419 海軍と陸軍かな
ただ熊襲は大和朝廷が付けた蔑称だからな
自分たちをヤマトと呼んでいたという説も有り
424 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:05:31.20
425 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:22:09.14
>>383 >注目すべきは、蛇行状剣だろうな。実用には使えないいわば指揮刀だ。全国からぱらぱらと出ているが、
それが南九州からたくさん出ている。全国へ散って働き無事に帰ったものがその墓に入れたということだ
ろう。南九州に全国で軍を指揮した物が大勢いたということ、これが都がどこにあったのかを物語っているよ。
クマソってのはやっぱどの時代になっても低俗でバカで学習能力のない列島種族だな。
お前らクマソはほんと支離滅裂でキチガイだわ。ちゃんと筋を通して説明してみろ。
お前らクマソが北部九州まで、ましてや邪馬台国や天孫族ならその 指揮刀 とやらが主流になって現代でも天皇の 象徴 として
崇められてなければおかしいんだよ。 何が全国でパラパラで各地から帰還したものが墓に入れただ←プププ
キチガイすぎてお前らクマソの学習能力のなさには失笑なんだよw
バカ丸出しww パラパラで帰還したやつだけ墓に入れたとかwww
そんなお前らキチガイクマソのオナニーなんかききたかね〜んだよ。
もちろん本物の記紀の舞台であり邪馬台国・倭国の舞台だった福岡の「三種の神器」をはじめ
ムラや国といった現代文化の基礎は、現天皇の象徴や現代の基礎になってるしな。
こういっ何の矛盾もない筋の通った説明してみろ。
お前らクマソの主張は一つとして筋の通ったものはない。
この時はこうで、あの時はあーだとか都合の良すぎる支離滅裂なキチガイの主張なんだよ。
全国でパラパラで現代に繋がってない←お前らクマソはやっぱクマソでしかない証拠だ。
426 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:33:49.12
ほんの5,6年前までは宮崎説と言えば宮崎康平説だったのにな
427 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:34:45.99
428 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:37:08.09
>>393 >かってな思い込みだな。南九州が北九州を支配していたことは、倭人伝の「女王国に
に統属す」や一大率に関する記述により明らかだ。
だからどういうふうに南九州が北部九州を支配してたんだよ。 きちんと説明してみろクマソが。
大体な宮崎が邪馬台国なら魏志倭人伝の
>倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg ↑これをきちんと説明してみろ。宮崎の真っ直ぐな海岸線をなぜこんな表現してんだ??
宮崎が邪馬台国なら宮崎のバカみたいな真っ直ぐな海岸海岸線をこんな説明はしないよな。
それから宮崎の南のクマソってどこだよww
お前ら全体がクマソなんだよ。自覚しろ劣等種族が
一番難解な道程距離で無理矢理宮崎に邪馬台国をもってこようとする劣等低能素人集団クマソw
その他の倭人伝の内容もきちんと精査して判断しろよ、劣等種族クマソw
甕棺墓は?? 絹は?? 奴国が倭国の南限ですけど?? バカじゃないですか? 劣等クマ種はw
429 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:39:41.69
大魔王に異変?
430 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:40:53.87
>福岡の「三種の神器」
アホだねえ。三種の神器が福岡のものだってどこに証拠があるんだよ。そんなものは
日向の古墳にだってあるぜ。九州と近畿を対比するときには役に立つかも知れんが、北九州
と南九州を対比するときには役には立たん。
431 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:49:19.34
>>418 こういうのを見ても斯馬国〜奴国まで30か国あるが
もしそれぞれの遺跡が「クニ」を名乗ったら福岡平野だけでも楽に30国以上はある。
要するに斯馬国〜奴国は卑弥呼が直接治めるクニであって福岡平野だけで十分説明がつくわけだ。
後漢書の「倭奴国が倭国の極南界」
倭人伝の「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国」 の記述にもピッタリ。
何より神籠石や甕棺墓・絹や三種の神器の出土地の分布もせいぜい福岡県域が限界で
糸島・福岡平野がメインで出土するそういった状況、そして延々と天皇の象徴になり現代日本の楚にもなってる状況。
やっぱ、天孫族や邪馬台国・倭国・伊都国をはじめとする日本のあけぼのは全て福岡博多湾岸から広がったものだな。
劣等クマソはしゃしゃり出てくんなっつうの。
出てきてもいいが筑紫福岡に申し訳なさそうに出てこい。 ほら吹きクマソが
432 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:49:43.38
>宮崎が邪馬台国なら宮崎のバカみたいな真っ直ぐな海岸海岸線をこんな説明はしないよな。
東南五百里の伊都国をどこだと思っているんだ? 佐賀から南下するのに九州の東海岸の光景は
関係ないな。西回りなんだよ。
で、福岡説でどこが 海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなりに
なるのかな。回るのは海でなければならん。北九州説では陸地を回らんといかんのでは?
433 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:57:25.38
>>430 ば〜か セットで出てこないと意味がね〜んだよ。
いちいち必死こいて出てくんな 劣等種族が
そして、いちいち 単品 だけで物を語るなっての。
お前ら劣等種族はほんと学習能力0だな
そんなことだから昔からも クマソ と軽蔑されるんだよ
トータルで考えろ トータルでな。
客観的に物事を判断しろ 客観的にな。
ほんとお前らは劣等種族だわ このキチガイ野郎が。
いいか、これからは単品で主張すんな。
きちんと筋を通せ。 単品だけであれはこう、これはこうと支離滅裂なオナニーのような主張はすんな。
きちんと宮崎から何がでて、だから現代にもこう伝わって、こう繋がってると
筋を通して説明しろよ。
お前らの単品だけであーだこーだ支離滅裂に主張するのはやめろよ キチガイクマソが
434 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:59:11.12
>>431 倭人伝に出てくる奴国は二つある
伊都国の東南百里で二万戸の奴国と、遠絶にして戸数里数を省略された傍奴国だ。
このところやや混乱しているように見受けるが、血圧は大丈夫かな??
435 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 14:01:03.55
>>432 お前はきちんと読め。
>倭人伝の「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国」 の記述にもピッタリ
まあその他の
後漢書の「倭奴国が倭国の極南界」
何より神籠石や甕棺墓・絹や三種の神器の出土地の分布もせいぜい福岡県域が限界で
糸島・福岡平野がメインで出土するそういった状況、そして延々と天皇の象徴になり現代日本の楚にもなってる状況。
やっぱ、天孫族や邪馬台国・倭国・伊都国をはじめとする日本のあけぼのは全て福岡博多湾岸から広がったものだな。
劣等クマソはしゃしゃり出てくんなっつうの。
出てきてもいいが筑紫福岡に申し訳なさそうに出てこい。 ほら吹きクマソが
にもピッタリだな。
何回も言わすな。
436 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 14:03:45.18
福岡平野に邪馬台国は無い
これは確実
437 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 14:03:59.83
殿、また血圧が、、、、
438 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 14:11:20.42
>>432 お前は伊都国を佐賀とか言うキチガイかw
それより佐賀の国割りに伊都国や奴国の入る余地はないと指摘されてたが
お前はまずそれに簡潔に説明してらどうだ??
なぜ、佐賀平野に伊都や奴国の名残がないんだ??
お前のただのオナニー論だという事だな。
伊都国奴国のような大国が現代に名残を残してないことがまずおかしい。
そして「漢倭奴国王」の金印がなぜ福岡の志賀島から出土したんだ??
伊都国・倭国の中心が古来より博多湾岸にあるという事だよ。
よってお前の伊都国奴国佐賀説はクマソ邪馬台国論と同レベルのオナニー論であることは確かだな。
439 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 14:12:42.86
>>436 お前らキチガイクマソの願望などどうでもよい。
440 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 14:14:36.43
北部九州説保存会
441 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 14:16:33.60
>432 ではないが、
倭人伝によれば、奴国は明らかに二つあった。
442 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 14:19:56.31
これが全て
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
>>439 だって九州北部に上陸して、それから陸行に水行してるし
客観的に総合的に見て、どうみても福岡平野は有り得ないw
444 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 14:25:52.68
>西・筑紫福岡を向く出雲の社殿
出雲大社の社殿は南向きである。
鎮座まします大国主命神が向いているのも国土を引いてきた遥か韓国・新羅の方向
残念ながら筑紫福岡なぞ向いてはいな〜い。
445 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 14:40:07.02
>「神籠石」
いつのものだと思っているんだ? 時代がちがうぞ。
446 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 15:22:12.19
>>445 ば〜か
南九州いつまでもずっとクマソだってことの証だろ。
低能がいちいち自論もないくせに(オナニー論)しかないくせにしゃしゃり出てくんなっての
447 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 15:22:54.60
日向国を熊襲という気印のスレになってもうたなぁ
449 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 15:39:56.17
>>430 お前にはこういう優しく丁寧に教えてくれるブログでも参考にして
まず基本から入った方がいいかもな。
http://blogs.yahoo.co.jp/kiyonchandayoon/17390904.html >三種の神器(鏡、剣、玉)は玄界灘沿岸の弥生遺跡である宇木汲田遺跡(佐賀県)、
吉武高木遺跡(福岡県)、須玖岡本遺跡(同左)、三雲南小路遺跡(同左)、平原遺跡(同左)
からセットで出土している。
しかも、弥生中期から後期まで長期に亘っている。
三種の神器は後に近畿を中心とする前期古墳の副葬品として埋葬されるようになる。
>三種の神器は記紀において天孫降臨の際に天照大神が邇邇芸命に三種の神器を授けるという話で登場する。
>弥生時代の北九州の重要な文化が近畿に移ったものがもう一つある。それは絹である。
これらに登場する 三雲南小路・平原・吉武高木遺跡 は筑紫福岡の日向峠の糸島側と福岡側それぞれに広がる遺跡だ。
そして 須玖岡本遺跡 ←これも「熊野権現須玖岡本に在り」の福岡平野にある遺跡だ。
まあこの人は丁寧に優しく教えてくれてる。
お前らみたいな知識の薄いバカはまずこういう優しい人から少しでも知識をつけて出直してこい。
450 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 15:52:19.41
>>445 >>449からも
そして南九州はずっと 劣等クマソ だったという事だ。 わかったか。
神籠石も甕棺も三種の神器も絹もナイナイナイの僻地 劣等クマソ なんだよ南九州はw
残念だったな クマソ
451 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 17:02:22.89
原田二世〜、古田二世〜、おっかれさん
452 :
大和 田 直木:2013/11/21(木) 17:09:06.98
邪馬壹國は福岡平野ではない、その南の筑紫平野である。
倭奴國は福岡平野である。
その倭奴國はAD107年に筑紫平野の帥升に滅ぼされた。
その時の倭奴國の都は春日付近とみられる。
怡土(いと)[AD56迄]も倭奴(いと・いど)[AD57〜AD106]も倭都(いと)を意味する。
福岡平野の繁栄はAD106年迄である。
筑紫平野の帥升はAD107から吉野ヶ里を倭都(米多國・倭面土國)とする。
米多は吉野ヶ里遺跡の東南2.5kmにある帥升倭國の津(2世紀筑後川河口の浦)。
吉野ヶ里の王墓は帥升王統のものと推察される。
倭國乱の時代に入ると、倭米多國(倭面土國)は、
後の投馬國や邪馬壹國に攻められ、
倭都を10km西の惣座遺跡に遷都、吉野ヶ里は衰退し、
邪馬壹國の傀儡政権である不彌國の城柵となる。
帥升王統の倭國は3万戸程度に縮小するが、
唐津末盧國を拠点にして一大國と組み楽浪郡との交易を確保していた。
しかし、福岡平野の倭奴國の分派が佐賀平野に進出し、
奴國1万戸が佐賀城周辺に成立。
これにより後漢末期には帥升王統倭國(伊都國)は末盧國も切り離され1万戸になる。
魏代に入ると佐賀奴國は2万戸に勢力の伸ばし、
小城地域を失った帥升王統倭國(伊都國)は、惣座遺跡周辺の1千餘戸のみになる。
453 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 17:11:42.68
>>449 まあこの人も
>中国、朝鮮及び日本の古代の歴史書の記述内容と考古学的な物証を根拠に日本における国家の成り立ちについて考察します
客観的にトータルで考察して結論を出してるな。
ここのバカクマソや畿内説アホは、客観的にトータルで判断できる力を身につけろよ。
分かったか、バカども
おまえらキチガイ染みたオナニー論は所詮 クソ なんだよ。
キチガイクマソと畿内論者がw
いずれにせよ北九州に邪馬台国は無いでしょ。
一大率を畏れ憚る奴国ならありますけど。
畿内にあるとするのが大勢だと思いますけどね。
女王の
光が届く
有明海
456 :
大和 田 直木:2013/11/21(木) 23:29:41.50
女王は
高良山から
輝く有明海を見たであろう
457 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 00:06:40.56
まあ、見えなくはないが、高良大社からだと
目の前を流れる筑後川と、広大な水田が美しい。
そして、先に見えるのは基山なのが、意味深だったな。
>>456 高良山は倭の五王である玉垂命の本拠地で
墓や天皇屋敷は大善寺にある。
大和朝廷と同じ勢力だが活躍したのは卑弥呼よりも二百年ほど後になる。
大和朝廷と同じ勢力の倭の五王や磐井が筑紫平野で勢力を誇ったのは
四世紀に卑弥呼がいた山門の田油津姫が神功皇后に殺されてから
460 :
大和 田 直木:2013/11/22(金) 17:26:15.21
>>459 魏志倭人伝の道程記述と位置間記述を読むと、
邪馬台国の城柵は、山門か八女になる。
山門を邪馬台国とすると投馬國5万戸の地域がなくなり、
邪馬台国の城柵は八女とせざるを得ない。
一方、隋書では俀國の都と邪馬台国の城柵の場所が同じだとある。
これは、卑弥呼の城柵と官伊支馬の城柵が別々であったことを示している。
ゆえに、官伊支馬の城柵は八女にあり、
卑弥呼の城柵は海岸から遠くはない東高西低の地形である久留米近郊となる。
又、「聖徳太子伝暦」推古二五年条を読むと、
倭の都は、大宰府の南方に在り、617年迄の400年間その位置で続いていたとある。
玉垂命は4世紀中葉の久留米南部の話だ。
5世紀にも久留米南部(大善寺付近)に都があったことが景行記九州中部巡幸部分に書かれている。
461 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 20:31:27.70
462 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 21:35:11.90
玉垂厨という新キャラ登場か?
九州説の芸人軍団は本当によく笑かしてくれるなw
>>460 >山門を邪馬台国とすると投馬國5万戸の地域がなくなり、
投馬國5万は対馬国一支国末盧国合計八千の六倍強、
四世紀に八女津姫が治めていた八女市八女郡筑後市三潴郡は
人口過密地帯なので対馬国一支国末盧国合計八千の六倍強は妥当。
上妻、下妻の地名も残っており五万の投馬国の可能性が高い。
また
其余旁國遠絶不可得詳から投馬国と邪馬台国の間に他の国はなく、
言い換えれば
投馬国の次で投馬国の南にあるのが邪馬台国なのだから
邪馬台国は山門郡になる。
大牟田市までは海岸沿いに密集して大牟田では
内陸部まで密集していることを考慮して
対馬国一支国末盧国合計八千の九倍弱の邪馬台国の範囲は南は熊本県北部まで。
なお四世紀には
伊能忠敬の地図にある下妻郡上妻郡の投馬国は八女津姫
山門郡の邪馬台国は田油津姫が統治しており別の国である。
464 :
大和 田 直木:2013/11/23(土) 00:19:59.08
>>463 投馬國と邪馬台国はそれぞれ不彌國の南にある。
投馬國は水行で行けるから沿岸国。
邪馬台国は水行後陸行で行くから内陸国である。
ゆえに、投馬國は有明海沿岸の山門瀬高となり、
邪馬台国は内陸の八女となる。
投馬國領域は三根以南の有明海沿岸低地地域5万戸となり、
邪馬台国は筑後平野内陸台地地域となるが、7万戸としては狭い地域であるので、
久留米北東の北野地域も邪馬台国領域に含まれる。
>>464 佐賀平野では西日本最大級の貝塚遺跡が海岸線から15qも離れた場所にある。
20q離れている吉野ヶ里では東西に港があったが、
その場所は大きく深く沈んでおり川ではなく海だったようだ。
また筑後平野でも海岸線から10s以上離れた場所から海の貝殻が密集して出土するし
港を示す津のつく八女津、前津などの名前があるし
久留米でも筑後市でも荘島など島であったことを示す名前がある。
つまり八女が内陸だったことには大きな疑問がある。
八女も久留米も山門も当時は沿岸国だったと考えられる。
倭人伝には東行至不彌國、南至投馬國、南至邪馬台國の順番に記載してある。
投馬国は邪馬台国の北にあると考えられる。
それを裏付けるように
自女王国以北其戸数道里可略載と記載してあり投馬国も戸数道里を略載してある。
投馬国が邪馬台国の北である証拠ばかりで南である根拠は何処にもない。
466 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 08:04:45.41
>>464,465
佐賀に一大率がいて
どうやって対馬、壱岐を
検察したんだ
アホか?
467 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 08:19:38.97
貝塚は海岸線のすぐそこだけにできるのではない。
かなり遠方の集落から半日歩いて潮干狩りに出かけ、とれた貝を背負って半日かけて持ち帰ることもあったらしい。
帰る前あるいは帰りついら貝を煮て、干し貝にして保存したという。
もちろん貝殻は海辺まで運んで戻すわけではなく、その集落の近くに捨てたので、
かなりの内陸にも貝塚は出来たのだそうだ。
とはいえ、そこは海岸線からせいぜい半日〜1日程度の行程であったであろう。
やや内陸とはいえ、決して陸行1月もかかるほどの遠さでは無い。
黒木、星野ならともかく、筑後八女は陸行1月の内陸地とはいいがたい。
魏のような海など見たこともない大陸の内陸部にある国の人に、水行10日といっても想像できない。
そこで、実際には陸行したわけではないけれど、仮に陸を歩けば1月かかる距離と言い換えたわけだ。
帯方郡から水行10日で着く九州南部、有明海周辺が候補地。
469 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 08:44:10.98
魏の都の洛陽は大河のそば、赤壁の戦いにもみるように巨大な軍船もあった。
470 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 09:23:09.66
>>465 長い歴史の中で川筋が何度か変わったことも考えられるね。
>投馬国が邪馬台国の北である証拠ばかりで南である根拠は何処にもない。
伊都国からの放射式。水行20日の投馬国と水行10日陸行1月の邪馬台国の
どちらが遠いかは一概には言えないよ。
以北の国々は戸数道里が書けるとあっても、そこに投馬国は含まれない。水行20日と
あることからすれば、万二千里より遠いことは明らかだからね。
海岸から一ヶ月も歩く内陸部の大都市なんて日本には無い。
水行陸行は無視して考えるべじゃないだろうか。
不弥国からは千三百里しかないのだから二ヶ月はおかしいよね。
473 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 09:52:55.63
そこで1/6の短里短日説ですよ。
公里の1/6に相当する短里と同様に、
日数相当距離も1/6すれば、万二千余里にも収まる。
倭舟には乗り換えない
船行行程と陸行行程がごちゃ混ぜに書いてある
475 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 10:18:08.67
>>471 九州を横断するぐらいの距離を考えれば、1月もあり得るよ。
>>472 おかしいね。だから、千三百里は投馬国や邪馬台国までのことではない。
単に女王国の国境までのことと考えるべきだ。
矛盾を解決するために新たな矛盾が生じる説は
間違っていると相場は決まっている。
478 :
大和 田 直木:2013/11/23(土) 12:01:40.43
>>465 >また筑後平野でも海岸線から10s以上離れた場所から海の貝殻が密集して出土するし
>港を示す津のつく八女津、前津などの名前があるし
>久留米でも筑後市でも荘島など島であったことを示す名前がある。
>つまり八女が内陸だったことには大きな疑問がある。
君が反論しているのは、標高10m以下の低地の地域。
島や入江であったとみられる地域。
邪馬台国は筑後平野の標高10m以上の台地地域。
投馬國は島や入江のあった標高10m以下の低地地域。
現八女市地域でも矢部川河口デルタに近い地域は、標高10m以下で、低地地域である。
>投馬国が邪馬台国の北である証拠ばかりで南である根拠は何処にもない。
投馬國は邪馬台国の北にあるとは何処にも書いていない。
不彌國の南に投馬國と邪馬台国があると書いてあるので、
不彌國の南の西側沿岸低地に投馬國があり、
不彌國の南の東側内陸台地に邪馬台国があると理解できる。
現在の有明海海岸線から15kmの内陸でもクリークのある低地部は投馬國の領域。
「投馬」の意味は、低湿地水田、クリーク、洲、入江が混在する
矢部川筑後川のデルタ地帯で、「馬が使いものにならないので、
馬がいても投げ捨てる」と言うことであろう。
水田とは人工湿地のこと。馬は泥水に足をとられて使いものにならない。
魏使は、投馬國の地域を見て、シナの呉地域を連想したのであろう。南船北馬
「投馬」の倭音は「とば」「とま」と思われる。
「とま」は葦(藁・菅・萱)で作られたもの(苫)。
479 :
大和 田 直木:2013/11/23(土) 12:15:53.00
海を行くとき
海行一月≒80km
ゆえに、
陸を行くとき
陸行一月≒80km
となる。
帯方郡から末盧國までが「水行十日」11000余里
末盧國から邪馬台国までが「陸行一月」80km
末盧國から不彌國まで600里45km。
不彌國から邪馬台国まで35km。
不彌國(吉野ヶ里)の南35kmは八女。
480 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 12:17:29.30
地域に反論する人って
駅頭ですわった目をして何やらぶつぶつ演説している浮浪者とか?
481 :
大和 田 直木:2013/11/23(土) 12:23:38.98
>>466 >佐賀に一大率がいて
>どうやって対馬、壱岐を
>検察したんだ
>アホか?
一大率の派遣元が一大國(壱岐)だよ。
482 :
大和 田 直木:2013/11/23(土) 13:47:10.11
魏使の道程
@帯方郡郡庁(ソウル漢江河岸)から狗邪韓國南端海岸(其北岸狗邪韓國)までが7000里。
A狗邪韓國南端海岸から對海國中心地(巌原)までが1800里
帯方郡郡庁⇔對海國中心地:8800里
B對海國中心地から一大國中心地(原の辻)までが1600里
帯方郡郡庁⇔一大國中心地:10400里
C一大國中心地から末盧國の津(中原遺跡)が1000里
帯方郡郡庁⇔末盧國の津:11400里
D末盧國の津から伊都國城柵(惣座遺跡)が500里
帯方郡郡庁⇔伊都國城柵:11900里
E伊都國城柵から不彌國城柵(吉野ヶ里遺跡)が100里
帯方郡郡庁⇔不彌國城柵:12000里
一方
帯方郡から女王國までが12000里である
ゆえに
魏使は不彌國で女王國に到着したのである。
スレチだが至急教えてほしいことがあるんだ
伊藤博文が大日本帝国憲法をつくるときにプロイセンの憲法参考にしただろ?この時に博文はプロイセンにいってないよな?
484 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 17:12:31.09
イギリスに留学し、ドイツに渡っているから行ったということだろう。
485 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 18:06:22.03
魏志倭人伝の編者だって邪馬台国に行かないで書いているということはないよな。
自分では行かないまでも、本当に行ったことのある信用のおける情報筋の話を書く。
いつの時代も洋の東西に関わらず、記者にとっては当たり前のことだ。
あのなあ、3世紀のリテラシーに何を期待してるの。
陳寿の上司の張華は、怪獣怪人てんこもりの本を書いて、さすがにそりゃダメと言われた人だよ。
487 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 21:23:39.73
>>486 もっと言ってやって
ここの連中倭人伝統一教会だから
視野の狭さは抜群だ
>>486.487
さすがにダメなのは自分の脳味噌だろうに。
489 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 23:41:11.97
491 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 07:32:48.03
とつけむにゃー
近頃某BS-TV局では、天岩戸で知られる高千穂町巡りをたびたび放映している。
月1回くらいのわりで、同じ内容のをもう数回は見たかな。
あの狭い山里に250もの神社がまつられているらしい、もちろん其の中心は天の岩戸神社。
この高千穂町は、なんと九州島のほぼ中心にあり、佐賀からは千五百余里の約120km、古代陸行1月の内陸としては手頃な位置にある。もしやとは思うが??
493 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 13:55:55.02
ないない!
天の岩戸神社は山中の社のひとつ。
人が住めば必ず作る祠のひとつ。
494 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 14:18:29.33
高千穂峡の美しさは異常。
実に神々しい。
>>493 一度お訪ねされてはいかがでしょうか。
最大の関心事はこの神社の神紋、ただの山中社・祠ではありませぬぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=9yCT0RZgiUw これが九州男児の首都福岡wwwwwww
日本人力士が勝つと会場総立ちで万歳三唱
どこの土人軍団なんだよwwwww
おまけに九州場所は普段は九州力士以外には冷ややかで満員にもならない。
九州力士(魁皇の頃)がとる時だけ試合前に芸者がずらりと列を組んで席を陣取り
その力士の試合が終ると後は見ずにそのまままた列を組んですぐに出て行くwwwwwww
大陸と近いから在日も多いイメージだが
その実、在日に対して知り尽くしていて、地元民は在日に対する排外意識が強烈に強く
もともと苛烈な九州な血を持ってるから調子に乗り出すと手に負えなくなる
旧日本軍も九州と山口(半分九州みたいなもの)の派閥が牛耳って
イケイケドンドンでやっちまったのに半世紀以上たっても民度がまったく変わってない九州王国(爆笑)
497 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 14:54:10.46
>>496 普通に日本人として誇らしい風景だが。
むしろその取組を見ていて日本人として鳥肌がたったぐらい。
日本国家発祥の地として脈々と遺伝子の中には国家を守るという情報が組み込まれてるかもな。
どちらにせよ日本人として素直に喜ばしい事だ。
君は逆に在日かね?
498 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 14:58:11.85
それから宮崎はナイナイ。
また
>>495のようなキチガイクマソのバカが
何の自論もないくせにアホ丸出しで高千穂宮崎叫んでるだけw
>>495こういう低能なバカが宮崎宮崎言うのがまずキモすぎ。
お前ら宮崎は客観的にトータルで考察できるようになって出直してこい。
2000年早いんだよバカが
499 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 14:58:42.61
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
500 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 14:59:37.43
>>498 ほほう、実は高千穂の宮についておくわしいようですね
502 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 15:19:16.16
狗奴国は久留米だったんじゃないのか?
狗奴国がその後どうなったのかは不明。
その後博多湾岸の伊都国や奴国の倭国連合に組み込まれたか、
狗奴国に「奴」がついてる事から、同じ甕棺墓等の文化を持っていたかもしれない。
となると福岡平野の倭国・邪馬台国連合を苦しめる強力な、
福岡平野の南にある筑後平野の狗奴国。
邪馬台国の南の狗奴国にも合致するしな。
景行天皇が「筑後」を「筑紫」の後ろだから「筑後」とした話は有名。
ちなみに、宮崎が「日向」になったのもこの景行天皇が宮崎を遠征した時に「日向」と命名したのも有名。
ゆえに、宮崎が「筑紫の日向」だという主張もこの時点でもう崩れてるしな。
宮崎のクマソどもはとにかくクソ。何にもないくせに主張だけはうざ過ぎ。
誰かが言ってた「櫛田神社」の元宮の話もあるし。
推測でしかないがヤワタノオロチは筑後平野の話かもしれないしな。
ヤワタ=八幡説も気になるところではある。
狗奴国=久留米はありえるかもな。
503 :
大和 田 直木:2013/11/24(日) 16:17:33.41
>>502 狗奴国=久留米もナイナイ
邪馬台国投馬國等14万戸を収容できるのは、
東は浮羽、西は武雄、南は大牟田、北は筑紫野に至る筑紫平野以外にナイ。
狗奴國は菊地川流域菊地盆地だ。
菊地盆地熊本平野なら10万戸前後の人口があり、
築肥山地を越えて、山門八女の女王國を脅かすことができる。
504 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 16:20:14.12
てか、宮崎ってウィキにも書かれてるやんww
>『日本書紀』には「日向」の語源説話として、景行天皇と日本武尊の征西説話において、
「是の国は直く日の出づる方に向けり」と言ったので、「日向国」と名づけたと記述されている[1]。
>現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。
特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される[6]。
>そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている[7]。
簡単にまとめると、宮崎はずっとクマソです。後にクマソを平定した時にクマソ対策で神話に入れてやりました。
要するにこれだよ
>>499の
>このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
505 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 16:29:46.35
>>503 ぶっちゃけ道程距離や数字はそこまで重要ではない。
数字等は人間は誇張する癖等があるためにそのまま真剣に考える必要はない。
現代人においてもそう。
数字や距離は国家でも数字はごまかすし、個人にしても距離や数字はたいていの人間は誇張する。
「あそこまでめっちゃ遠かったー」とか「あそこはすごかったよ」とか。
その他の位置関係や風土等が重要であり、現代にあける物証からも考察する必要がある。
数字や道程距離をやたらと重要視する考察は正直いただけないな。
しかし、邪馬台国やその他狗奴国等は現代の物証や倭人伝等でも
せいぜい福岡県域だろうなという推測はつくわな。
506 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 16:39:59.36
>>504 要するに「初代天皇」の神武が「筑紫の日向」を発ったわけで、
後の「12代天皇」が「日向」と名付けた宮崎は
初代天皇の神武が発った「筑紫の日向」とは無関係という事。
しかも「筑紫の日向」とは「筑紫国の日向」であり、
その他様々な物証でも宮崎は完全に蚊帳の外であることは明らか。
507 :
大和 田 直木:2013/11/24(日) 17:10:33.52
>>505 >その他の位置関係や風土等が重要であり、現代にあける物証からも考察する必要がある。
その通りだが、時間軸がいい加減な物証も困りものなんですよね。
特に2世紀から6世紀の物証時間軸がいい加減なのです。
508 :
大和 田 直木:2013/11/24(日) 17:26:58.84
>>506 初代天皇の神武が発ったのは、2世紀の福岡平野の日向なんだろうね。
それも敵前逃亡の難民放浪の旅に発ったのね。
逃げ遅れた者のうち160人は奴隷になってシナに送られたんだよね。
高千穂の天岩戸神社は九州随一、いや日本一。
その最大の関心事は、伊勢神宮をも上回る高貴な神紋。
ただの山中社・祠ではありませぬぞ。
510 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 17:59:29.09
的だらけの九州より、敵のいない住吉の方が吉。
511 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 18:22:19.78
神武は東征時に筑紫国内を全く通っていませんが…。
魏志倭人伝に見られるように海人族の地でしょう。
>>504 wikiの特に歴史特に古代史などはしつこい者勝ち
あなたはじめここの方々のようにね
そんなもんソースにすな(笑)
513 :
大和 田 直木:2013/11/24(日) 21:03:15.69
>>511 戦いに負け辛うじて脱出した筑紫を通過地として記録に残すことはない。
筑紫を脱出して落ち延びた地が最初の通過地。
神武一族は海人族、糸島の付け根の前原湾(潟)あたりから、
小船の武装船団を組んで発ったのでしょう。
514 :
大和 田 直木:2013/11/24(日) 21:32:42.55
追加
神武一族が東方への船行で立ち寄ったところは全て「潟」の地。
日下の蓼津の敗戦後の最後の脱出地も南潟(南方)。
彼らは、潟生活の達人、海人族。
>>502 >景行天皇が「筑後」を「筑紫」の後ろだから「筑後」とした話は有名。
それはホントか?
ホントは筑紫が筑前と筑後に分けられたんじゃないのか?
だから
筑前は福岡平野なのに筑後は筑紫平野と言うし、
筑後川を筑紫次郎と言ったりするんだろ?
516 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 07:23:09.53
>後の「12代天皇」が「日向」と名付けた宮崎は
>初代天皇の神武が発った「筑紫の日向」とは無関係という事。
いい理屈を思いついたと思っているのだろうが、日本書紀をほとんど読んでいないな。
神武天皇の条の最初に「日向国吾田邑吾平津媛」と出てきている。神武が発った「筑紫の日向」
とは日向国のことであることが明白。
このところ、
倭国=福岡・・・でなくては困る信者が頑張っております。
518 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 08:17:16.66
憲法と皇室典範はプロイセンから雇った宮廷貴族のドイツ人モールに作らせた。憲法発布日をジンムの日に決めたのもモール卿。であるから、近代史はほとんど内務省、宮内省の捏造。
519 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 08:38:46.41
下忍のキリシタン伊藤にしてやられた。マンセイイッケイも大室寅之佑も。クダラない耶麻大国論争で焦点をボカス。
520 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 09:27:10.91
全体が筑紫で、あとから筑前と築後に分けられたのか、
筑前が本来の筑紫で、筑後地方があとから追加されたのか?
素朴だが、重要な疑問だな。
肥前肥後の間に筑後が割り込んでいることからみて、
筑後地方、特に高良大社以南は岩戸山、石人山古墳群など、
熊本の影響が濃い遺跡になっている。
近いから当然といえばそれまでだが、
肥国領域だったところが、筑紫に切り取られ、
筑後となった可能性もなくはない。
また、最前線だから当然といえば当然だが、
八女、瀬高付近の鍛冶遺跡と玉名、山鹿付近の膨大な鍛冶遺跡は、
大牟田荒尾や南関の山岳地からみて、隣り合わせの関係といっても良い。
古代において、関ヶ原の合戦みたいのが何度か有ったのだろう。
八女・筑後辺りの有力な遺跡史跡の少なさは、いかにも疲れ果てた感じ。
522 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 12:05:55.18
>>511 ば〜か、出発点が 筑紫の日向 なんだよ アホ
>>516 散々宮崎は関係ないことが立証されたろ。
もう一回読み返して出直してこい キチガイクマソが
>>520 甕棺墓等々の分布をみても久留米付近は博多湾岸と近い文化を持ってるのは事実。
久留米辺りに奴国の「奴」の一字を持つ(何かしらの共通点がある)強力な 狗奴国 があり
博多湾岸の倭国・邪馬台国連合と覇権を争っていた可能性はある。
狗奴国が後にどうなったかは不明なので、
博多湾岸の倭国・邪馬台国連合とくっついたり離れたりを繰り返したのかもしれんしな。
狗奴国はその他の南九州のクマソとは違う性質を持つクニだったんだな。
その他の南九州は博多湾岸とは基本的に文化の違う文化後進地であり、
神籠石の存在すら後々になっても築かれてない事実から、
南九州は根本的に博多湾岸、九州北部とは全く違った クマソ の土地であることは明らか。
当時の倭国の範囲はせいぜい福岡県域だという事実だよ。
523 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 12:17:11.87
何かしらの共通点というのは、文化は基本的に同じ、
倭奴国・奴国とも同じ「奴」の字を持つ 狗奴国 という事は、
過去は同一のクニだったことも考えられるし、
ヒト同士の婚姻関係等々の様々な繋がりがあった可能性はある。
狗奴国を クマソ の一員と考える人もいるみたいだが、
俺は 狗奴国 と クマソ は全く違う
元は倭国・邪馬台国連合の兄弟分ともいえるような性質を持つクニだったと思うぞ。
その他の南九州は根本的に博多湾岸とは文化自体が違うので
野蛮なクマソだという事。
後の時代の「クマソが度々国境を越えて攻めてくる」というクマソは
まさにその南九州のクマソ、本当の意味のクマソだろうな。
古代福岡帝国の信者乙
525 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/25(月) 12:59:22.90
倭国・邪馬台国連合の都は伊都国で古の倭奴国、卑弥呼の居た処
倭国・邪馬台国連合の範囲は福岡県を中心に佐賀、長崎、熊本、大分県
狗奴国は鹿児島、宮崎県
526 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 13:19:08.46
>>520 後から筑紫に組み込まれたんだろうよ。
だから同じ筑紫でも筑後は「筑紫の後ろ(しりのえ・みちのしり)国」→「筑紫後国」
筑紫の都から遠い所という意味だよ。
同じ筑紫で博多湾岸の文化と肥国の文化が混じる地域。
この地域に博多湾岸の文化を持つ 狗奴国 が発生したんだろ。
その 狗奴国 がその当時の勢力圏では 卑弥呼がいた 倭国・邪馬台国連合を脅かしていたという事だよ。
倭奴国や倭国は博多湾岸を中心地、都にしてず〜っと、大古より脈々と繋がってたんだよ。
倭人伝当時の勢力範囲は度々変わっていくだろうが、神籠石の分布をみても
その後の時代までもせいぜい福岡県域だってことだよ。
527 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 13:21:22.48
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
528 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 13:22:00.70
529 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 13:38:50.39
>>525 >倭国・邪馬台国連合の都は伊都国で古の倭奴国、卑弥呼の居た処
倭国・邪馬台国連合の範囲は福岡県を中心に佐賀、長崎、熊本、大分県
狗奴国は鹿児島、宮崎県
まあこれを、
倭国・邪馬台国連合の都は伊都国で古の倭奴国、卑弥呼の居た処
倭国・邪馬台国連合の範囲は博多湾岸を中心とした福岡県域
狗奴国はその南の筑後地域(文化は博多湾岸と基本同じ、元は兄弟国か?)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜異文化〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
クマソは南九州(鹿児島・宮崎・熊本南部)「博多湾岸文化とは全く違う」
まあこうすればいいんじゃないか?
まあ、福岡県域なら邪馬台国の可能性を否定できないのも事実だからな。
・・・
大福岡倭奴帝国総統乙
531 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/25(月) 20:10:50.42
邪馬台国は可七萬餘戸
福岡県域だけでは収まりきれない
倭国・邪馬台国連合の範囲は福岡県を中心に佐賀、長崎、熊本、大分県と考える
北九州〜宇佐〜大分〜宮崎〜高千穂峰の豊日圏に蓋をされた形の海人圏であるが、
海幸は山幸に屈服したと記紀にあるので宇佐あたりの邪馬台国が九州を統一したのでしょう。
533 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 20:32:06.77
倭人伝どおりに進んで伊都国=佐賀は動かないだろう。となれば、宇佐は方向違いだね。
宇佐説を主張するならば、まず、伊都国佐賀説を論破しなければいけない。
>>533 唐津〜糸島の海岸沿いの急峻な悪路を行った可能性
@末廬國上陸→A東南陸行五百里→B到伊都國
Aに含まれる草木茂盛行不見前人はそのような可能性も示唆
記述に忠実にという前提なら、伊都国=佐賀説が東南という語で有利にはなるが、伊都国糸島説も消えません。
535 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 20:48:31.80
>>533 魏使の上陸地は唐津と証明されたわけではない。宗像の可能性も強い。唐津で
なければ佐賀説は成立しないわけで、唐津の証明ができない以上、佐賀説も証
明できない。はい、論破。
536 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 20:59:12.80
>>535 壱岐から宗像だと方向が変わっちゃうね。
まあ、対馬と壱岐を別の島と云うのかもしれないけど。
ちょっと無理があるね
537 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/25(月) 21:02:18.60
>>533 女王の古墳とかあるし伊都国は前原付近でしょうね
>>532 邪馬台国は記紀に記されてない
宇佐は邪馬台国連合の範囲内かもしれないが外縁部でしょうね
対馬からは〜沖ノ島〜宗像の直行ルートになるもんねえ。
壱岐から九州島をめざすとなると、やはり唐津が適当でしょう。
今は唐津と呼ぶけど、唐津港に注ぐ川は松浦川。
539 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/25(月) 21:12:09.90
壱岐から九州島をめざし呼子当たりに上陸し
草木茂盛行不見前人、東南陸行五百里
でしょうね
540 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/25(月) 21:26:48.72
呼子を素通りして唐津まで行く理由がない
541 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 21:37:02.03
>>540 呼子は途中じゃなくて、唐津と別方向の土地だよ
542 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 21:37:46.05
>>540 呼子で途中下船する必要はまったくない
道なき道を重たい荷物持って歩く馬鹿はいない
帯方郡お抱えの専用船で伊都国最寄りの唐津港へ行くのに、
途中、呼子で下船する理由は無い。
例え下船したところで、帰りを待つ空船はどのみち古松浦港へ回さにゃならぬ。
544 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 21:45:35.39
伊都国糸島を先に決め、遡って上陸地点を探すから呼子になるんだろ。
ま、使い古されたネタバレの手品だ。
でも江戸時代の学者でさえ、なぜ一番イージーな佐賀平野に抜けようとしなかったのか。
もしかして、無意識に神功皇后の進軍路をなぞりたかったのかなあ。
546 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 21:57:10.47
家康は佐賀から唐津に向かう唐津街道を、
何度も通っているはずなんですけどねえ。
547 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 22:00:58.09
宗像沖ノ島に12万点の国宝がある。見てみたい
548 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 22:03:32.58
宗像大社に宝物殿があったような。
江戸時代の学者はうすうす気づいていたのに、あえて難路の海岸沿いに糸島方面へ向う説を唱え、
邪馬台国を大和へ導こうとした可能性もないわけでは無いなあ。
まして神功皇后や景行天皇に事績は、いっそう心して読まなくてはならないのでは。
550 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 22:12:44.43
出雲大社はわずかに南に寄る西向き、宗像大社は北西向き
ともに注連縄が特徴である
(海向き)
宇佐神宮の本殿はわずかに東に寄る南向き
宮崎神宮も同じ
(太陽向き)
阿蘇神社はわずかに南に寄る東向き
香椎宮はわずかに西に寄る南向き
鹿児島神宮もわずかに西に寄る南向き
性質が異なるようです。
551 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 22:54:32.35
>>540 呼子に寄りたければ寄っていいんだよ。だが、そこで上陸したら陸行距離がそれだけ
長くなる。東南へ行くなら船で唐津まで行くだろう。
552 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 23:22:28.67
末廬國=宗像説
・東南陸行で宇佐が伊都国
・南至投馬国水行二十日
・東至邪馬台国水行十日(吉備西端)陸行一月(大和)
553 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/25(月) 23:40:29.18
>>551 帯方郡から使者は三十日も航海を続けて倭国に到着した
折角、陸地に付いたのだから少しでも早く上陸したいのが人情でしょう
呼子から目的地の伊都国は直ぐそこ倭の風俗を見学しながらの旅だ
荷物は迎えの倭人が運んでくれる
554 :
大和 田 直木:2013/11/26(火) 02:26:41.94
@西暦57年(建武中元二年)、福岡平野の倭奴(倭都[イト])國が倭國の覇者となる。
A西暦107年(安帝永初元年)、筑紫平野吉野ヶ里の帥升が倭奴(倭都[イト])國を滅ぼし倭國王となる。
倭奴(倭都[イト])國の捕虜160人は生口として後漢安帝に獻じられる。
B西暦2世紀初頭、吉野ヶ里の倭面土[イメト]國(米多國)の帥升王統は、
新興邪馬台国投馬國連合(北野平野・筑後平野)の圧迫を受け、
西方の惣座遺跡に遷都する。吉野ヶ里には不彌國成立。
これが倭國乱の始り。
惣座に遷都した帥升王統の米多國は倭都[イト]國として楽浪郡と接触を続ける。
帥升王統の倭國構成国は、倭都國末盧國一大國對海國の4ヶ国。
C西暦2世紀末、邪馬台国投馬國連合は福岡平野の旧倭奴國勢力と卑弥呼を共立する。
女王國の成立。
旧倭奴國の一部は佐賀平野南部に進出し、奴國成立。
D西暦220年(文帝黄初1年)には、帥升王統の倭都國王は女王國(卑弥呼)に統屬。
倭都國も伊都國と称される。
E西暦238年(明帝景初二年十二月)、魏明帝は女王國を倭國と詔す。
555 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 05:21:12.33
>>553 玄界灘上空には1年中、偏西風が吹いている。壱岐から風に逆らって唐津へ向
かうより、風に乗って宗像に向かうほうが楽ちんなのだ。時間もさほど違わな
い。何よりも橋もトンネルも無い当時、大量の荷物を背負って陸行距離を長く
するより、なるべく水行するほうが使節団にとっては得だった。呼子上陸でも
唐津上陸でも後の陸行距離がながーい山道だわな。使節団としてはできる限り
避けたいルートだった。
556 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 06:57:18.81
>>553 いくら2chでも、そこまでレベルを
落としていけない
>>554 根拠、論理の勉強からだな
557 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 08:46:54.57
未だパズルやってるとかw
>>555 行きはよいよい、帰りは怖い
帰りの船の都合も考えなくちゃね
560 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 09:12:13.09
>>558 完全に解けてるでしょ
未だパズルやってるのはここの住民。
561 :
大和 田 直木:2013/11/26(火) 09:22:23.81
>>556 >根拠、論理の勉強からだな
根拠、論理の行き着く先だね。
君が
>>554を理解することは、一般相対性理論を理解することより困難だ。
北野平野筑後平野の邪馬壹國投馬國連合が福岡平野の旧倭奴國を取り込み、
卑弥呼を共立したのが邪馬壹國による傀儡政権女王國。
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼の説は、前原を首都とする広域九州王朝説ということな
倭奴女王の前原ひみこちゃん説
563 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 09:46:13.99
大体な国譲りにしても出雲とかは関係ないんだよ。
出雲と筑紫とか言ってるが
天孫族が筑紫の安曇君・宗像君等々の祖先大国主命が治める筑紫を
天孫族に譲れと戦争を仕掛けた事を記してるんだよ。
日本の神話は後世に出雲や宮崎に華を持たせてやったから大きな勘違いを生んでるだけだ。
本当の倭国・天孫族・邪馬台国・伊都国が活躍した舞台は博多湾岸を中心とする福岡なんだよ。
564 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 09:47:33.89
倭国・邪馬台国・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取りを成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
565 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 09:47:45.40
>>561 注意してあげよう
資料が少ないのは細かいことまで書くと妄想になるよ
こんなこと想像で書いても誰からも相手にしてもらえないよ
566 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 09:48:43.23
567 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 10:01:09.65
>倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
ウィキにもあるように、
これは実際に見聞したのではなく現地の人々に聴いて情報を集め、それを基にした記事
糸島半島とかの近場じゃなくて有明海沿岸、島原、天草などのことだろうな。
いくら願望を書き連ねても願望に終始するなら誰も読まないし読んでもレスポンスする気も起こさない
言い負かしても何も得るものもない
569 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 10:03:49.54
571 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 10:15:26.46
>>567 てことはお前の主張する7万戸根拠論は全く通じないという事だ。
そして、「その死するや棺有れども槨無く・・」の倭人伝の記述のように
甕棺墓の分布をみても一部のみ長崎や熊本はあるが大分とかは無い。
考古学的物証からみてもお前の説は 無い という事だな。
だが惜しい。
倭国・邪馬台国連合の範囲をせいぜい福岡県域に納めれば全て比定する材料はなくなるという事だよ。
考古学的物証に矛盾が発生するということは その説は無い と考えていい。
572 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 10:24:08.07
>>571 熊本(家の近所)からも大きな甕棺が出てましたけど
(たまたま近所の整理中の発掘資料が置いてある建物に入る機会があった)
まだ九州では未発掘のものが多いんじゃなかろか
範囲の特定は難しいが福岡県域ってことはないな
573 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 10:44:34.54
倭人伝の記録は、肥前、筑後、肥後の記録というのが持論。
邪馬台国は肥後とする。
ただし、同時に筑紫も非常に発展していて、
こちらが九州王朝の祖となる。
筑後肥前とちがい、筑前と肥後は若干標高が高い台地が多く、
農耕初心者にも農耕しやすい。おそらくは陸稲が主だっただろう。
筑後と肥前は筑後川と有明海による低湿地が多く、灌漑治水技術が発展する前は
使えない土地であるが、技術が成熟すると、非常に広域の有効な土地になる。
使えるようになってから、筑紫と肥の、筑後肥前領域の奪い合いが始まる。
それが吉野ヶ里や安永田の戦の痕跡だろう。
景行紀から推測するに、筑と肥は、ある時期に提携、
あるいは合併したと思われるが、支配関係というよりは、
それぞれの主権を維持した不戦条約みたいのものだと考えている。
そうして、背後の憂いがなくなったところで、景行紀のモデルとなった豪族が、
南九州を熊襲退治という形で治めたのだろう。
574 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 10:57:08.59
>>572 ぶっちゃけ家が熊本だから倭国・邪馬台国連合の範囲を広げたいんじゃないの??
俺は久留米を狗奴国とみるがな。
君ら 大和 田 直木 さんと 伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼 さんが言ってるのは
畿内論者や宮崎の奴らみたいに大きく離れてはないけど、
まだ 大和 田 直木 の言ってる方がいいかな。
なぜなら福岡県域ならどこがどこを押さえたとか様々な可能性があるからだ。
残念だけど大分とかそういったところは考古学的物証からしても可能性はないよな。
今出てる甕棺墓等もやっぱ博多湾岸を中心に福岡県域が圧倒的だし、
神籠石の分布にしてもやっぱ福岡県域なんだよね。
これは、倭人伝当時も国同士の交戦の範囲も狭いし、移動を考えても答えが出るだろうけど、
当時の倭国邪馬台国連合の範囲はとても狭い範囲だと思うよ。
後の神籠石の頃でさえ、しばらくの間の倭国・筑紫王朝の範囲はせいぜい福岡県域だという事。
南九州は全く別の地域「熊襲国」であり畿内のように遠い倭種的な存在だったと思うよ。
倭国が少し大きくなった後の時代のクマソの襲撃は南九州の仕業だろうけどね。
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種
畿内説だと女王国の東に海を渡って倭人が居るというのが全く説明付かない
でも九州説ならそれは単純に四国の事だと分かる
576 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 11:04:28.35
>>573 筑後はその昔は肥国の一部じゃないのか。
そこを筑紫が肥国から切り離し筑紫に組み込む
だから筑後は「筑紫の後ろ」「筑紫の都から遠い所」という意味で「筑紫後国」とよばれる。
だから筑後には一部肥国の文化が残る地域があってもおかしくないと思うぞ。
佐賀県・長崎県も肥国だよね
有明海を中心にしてるから筑紫平野も海沿いは肥国だった可能性が高い
578 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 11:16:44.43
>>573 本来は 「肥前・肥中・肥後」 となってないといけない。
ところが実際は 「肥前・筑後・肥後」 となってるわけだ。
これは「筑後」は本来「肥中」であるが「筑紫」が「肥中」を肥国から奪ったために
「筑紫の後ろ」「筑紫の都から遠い所」という意を込めて「肥中」が「筑紫後国」→「筑後」になった訳だ。
奴国の南の狗奴国が久留米の可能性が更に出てきたな。
使者が着いたとされる末盧国に唐津が比定される事が多いが、唐津は肥前国に属する
南東に歩いて伊都国は佐賀市周辺が有力で、佐賀市も肥前国に属する
邪馬台国熊本説なら邪馬台国は肥後国であり
使者は肥国のみを旅した事になるのである
これ正解w
>>573 >ただし、同時に筑紫も非常に発展していて、
>こちらが九州王朝の祖となる。
この考えはとても重要とおもう
なぜなら卑弥呼体制を支えた豪族には、少なくとも父方と母方の二つの勢力があったであろう。
だから倭人伝の前後、九州に二大勢力〜三大勢力があったとしても不思議ではない。
581 :
大和 田 直木:2013/11/26(火) 11:26:14.77
>>573 基本的には同意。
異なる点
>筑前と肥後は若干標高が高い台地が多く、
>農耕初心者にも農耕しやすい。おそらくは陸稲が主だっただろう。
やはり水稲です。
人工湿地である水田の水管理がし易い、山裾の扇状地と台地に挟まれた谷間での水稲作。
陸稲は、連作障害を避けるため、畑作作物のひとつとして作られていたのでしょう。
>景行紀のモデルとなった豪族が、南九州を熊襲退治という形で治めたのだろう。
南九州ではなく東九州。景行が大隅薩摩に入った形跡はない。
薩摩より北の西九州は、景行の巡行となっていて平和的だ。
景行紀のモデルとなった豪族(倭王)が、北部中部九州を統一したのである。
582 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 11:27:35.14
>>579 ないない
博多湾岸が全く入ってないことがなかろう。
伊都国が佐賀とは妄想も激しすぎw
583 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 11:28:33.40
筑紫周辺の溢れかえった弥生遺跡をみてると、
筑紫が発展してないとは言えるわけがないからねえ。
過去に海や湿地帯でなければ、必ず遺跡があるくらいなんだから。
584 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 11:29:02.83
大体な国譲りにしても出雲とかは関係ないんだよ。
出雲と筑紫とか言ってるが
天孫族が筑紫の安曇君・宗像君等々の祖先大国主命が治める筑紫を
天孫族に譲れと戦争を仕掛けた事を記してるんだよ。
日本の神話は後世に出雲や宮崎に華を持たせてやったから大きな勘違いを生んでるだけだ。
本当の倭国・天孫族・邪馬台国・伊都国が活躍した舞台は博多湾岸を中心とする福岡なんだよ。
博多が邪馬台国の場合 直接船で着けた方が断然有利
使者は上陸してから五百里も東南に歩いた
しかもそこから水行十日陸行一月だと言う
これらは博多に邪馬台国が無い決定的な証拠
586 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 11:32:51.43
改訂版
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
>>581 南九州、東九州という呼び方は、人により定義を異にするので、誤解を招く
宮崎を南九州に入れる人もあり、また都城方面のみ南九州に入れる人もあり、鹿児島のみ南九州という人もある。
また東九州は大分+宮崎の場合に用いる。ゆえに単純に県名か旧国名がよかろ。
588 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 11:33:25.41
熊本は北部しか土地勘がないが、
熊本も玉名や山鹿では弥生遺跡は溢れかえっているからな。
緑川流域なども多いと聞く。
筑も肥も巨大な弥生勢力であることは間違いない。
589 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 11:37:09.19
>>585 そんなもの根拠にしてたら邪馬台国は日本列島からはみ出してしまうがw
そんな道程距離や数字だけで邪馬台国を探るような素人はお呼びでない。
>>583 筑紫平野が水田になったのはかなり後
大規模な干拓が始まってから
縄文時代は海で、弥生時代も湿地帯や干潟だった
筑紫平野は山沿いから水田や集落が発展した
筑後平野は筑紫平野の東側を指すのが名残かもしれない
>>582 博多湾岸は卑弥呼の外戚(母方もしくは義母系)のふるさとだったんだろうな。
つまり共立体制とはこのこと。
592 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 11:38:50.24
>>589 全然飛び出さないよ
飛び出すのは理解が間違っているからだな
593 :
大和 田 直木:2013/11/26(火) 11:41:56.89
>>580 >倭人伝の前後、九州に二大勢力〜三大勢力があったとしても不思議ではない。
ほぼ同意。
四大勢力があったと見られる。
@筑後平野北野平野の勢力(邪馬壹國に代表される複合国家)
A福岡平野の勢力(倭奴國に代表される複合国家)
B佐賀平野の勢力(伊都國に代表される複合国家)
C菊地盆地の勢力(狗奴國に代表される複合国家)
594 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 11:44:22.92
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように倭奴国や倭国の都・中心地は代々博多湾岸にあったの。
倭奴国が佐賀がだったらこれらも矛盾だらけ。
まああとは宮崎派ができないようにどれだけ郷土愛を捨ててトータルで見れるかだな。
595 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 11:44:27.63
>>590 甘木朝倉方面が、筑紫平野の始まりかな?
あのへんは筑後川の上流方向で、若干標高が高いから、
開拓できる時期も早かったでしょうね。
596 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 11:47:23.23
郷土愛か。
福岡、筑後、筑紫野、糸島、筑豊、久留米、佐賀
に住んでたことがあるんだよなあ。
597 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 11:59:35.83
>>585 五百里は75m×500で37.5km
1日の行程だよ
呼子付近から前原までが丁度そのくらいだ。
水行十日陸行一月は
水行二十日で朝鮮半島を周り
朝鮮海峡を渡るのに水行十日
呼子付近から前原までが陸行一日(月)だろうな
前原王朝説 乙
599 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 12:19:12.38
糸島、前原の方格規久四神鏡が30枚くらい出てるのは、
卑弥呼が鏡を百枚もらって、近所の豪族に配った余り、みたいで、
ぴったり合うのは事実なんだが、
行程論的にはそっちじゃなさそうだけどなあ。
もちろん、糸島も重要な遺跡であることは間違いない。
平原の近くに小さい寂れた細石神社があるが、
最盛期にはかなり大きい怡土の中心の神社だったそうだ。
イワナガヒメとコノハナサクヤヒメが祀られている。
600 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 12:23:55.49
>>595 筑紫は那珂川と春日、大野城辺りと聞いた事ある。那珂川に筑紫耶馬渓がある。
601 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 12:29:21.68
>>599 >行程論的にはそっちじゃなさそうだけどなあ
陸行一月が陸行一日の誤記ならピッタリなんだ
これを証明するのは難しいが
人口、方位、距離行程、日数行程もドンピシャに合い完璧に説明できる。
602 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 12:29:48.60
>前原の方格規久四神鏡が30枚くらい出てるのは
それ、日本製だから
水行10日に続けて陸行1日では、
一万里のあとに百里追加するようなもの、
現代なら新幹線で3時間、駅から自転車で3分、みたいな感じでどうにもチグハグ。
つか、証明するのが難しい説明なんて・・・
605 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 13:35:42.60
>>603 転写する時に君と同じような感覚を持った人が
陸行1日を陸行1月の誤りだと感じて陸行1月に変更してしまったのでは
実際には短いが陸行1日はあり
陸行1日が東南陸行五百里に対応してたと云うこと
水行20日の投馬国も、それは港までの距離であり、港のすぐそばに宮殿を構えていたとは限らぬ。
邪馬台国においても、もし宮殿が港から歩いて1日の距離であったなら、
「陸行うんぬん・・」の文章は最初から無かったであろう
607 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 14:01:05.03
水行20日の投馬国は「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里」に
対応し距離7000里を20日で航海
>>605 その考えは、伊都国≒邪馬台国。
まあ大陸育ちの超大物作家である陳寿は、そのような細々した構成にはせぬだろな。
609 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 14:13:41.95
伊都国が邪馬台国の王都
邪馬台国は九州北半分
610 :
大和 田 直木:2013/11/26(火) 14:52:13.43
伊都國は帥升王統の倭都
611 :
「ガスライティング」で検索を!:2013/11/26(火) 16:06:42.73
★マインドコントロールの手法★
・沢山の人が偏った意見を一貫して支持する
偏った意見でも、集団の中でその意見が信じられていれば、自分の考え方は間違っているのか、等と思わせる手法
・不利な質問をさせなくしたり、不利な質問には答えない、スルーする
誰にも質問や反論をさせないことにより、誰もが皆、疑いなど無いんだと信じ込ませる手法
↑マスコミや、カルトのネット工作員がやっていること
TVなどが、偏った思想や考え方に染まっているフリや常識が通じないフリをする人間をよく出演させるのは、
カルトよりキチガイに見える人たちを作ることで批判の矛先をカルトから逸らすことが目的。
リアルでもネットでも、偽装左翼は自分たちの主張に理がないことをわかっているのでまともに議論をしようとしないのが特徴。
...
612 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 16:49:11.04
倭奴国は漢から漢委奴國王の金印を授与された
帥升はこの「漢委奴國王」の金印をもっていたので倭王と認定された
卑弥呼も魏に朝貢した時に直ぐに倭王と認定された
つまり卑弥呼も漢委奴國王の金印をもっていた
王朝が交代したので次の金印「親魏倭王」を貰いに行った
「漢委奴國王」は不要になり埋められたか倉に納められた
「漢委奴國王」が見つかった博多湾沿岸に卑弥呼は居た
613 :
大和 田 直木:2013/11/26(火) 18:50:32.60
佐賀の伊都國は帥升王統の倭都
614 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 19:20:10.54
>>613 それは無いな
「漢委奴國王」が見つかった博多湾沿岸に卑弥呼は居た
卑弥呼の都は伊都国で、そこにいた
佐賀は博多湾から遠く前原は近い
前原が伊都国だな
615 :
大和 田 直木:2013/11/26(火) 19:28:55.06
福岡平野の倭奴國は西暦106年までの倭都
倭奴國は筑紫平野の帥升に破れ、逃亡行の途中に金印「漢委奴國王」を紛失した。
帥升は生口160人の証拠により安帝から倭王として認定されたが、
金印「漢委奴國王」を受け継いでいなかったので請見は叶わなかった。
卑弥呼は福岡平野(前原)出身の筑紫平野(久留米)にいた倭王。
616 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 19:36:37.05
紛失した金印が後世見つかるのも変な話
卑弥呼が筑紫平野(久留米)にいた根拠はなんですか?
617 :
大和 田 直木:2013/11/26(火) 19:42:10.27
帥升の倭都は吉野ヶ里遺跡
その倭都吉野ヶ里と対立したのは北野筑後の邪馬台国
618 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 19:44:52.81
古代福岡帝国信者乙
有棺無槨の棺が甕棺とかアホとしかいえない
呉と言えば超国宝級の「穀璧」
チンケで粗雑な福岡あたりの破片とは違う正真正銘の真打ちよ
加賀前田家に行ってるらしいが…却って良かったな
福岡あたりの人間に渡ったらウチから出たと言いだしたり遺棄したりしそうだからな(笑)
619 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 19:45:27.04
筑後は馬を食べる風習があるので邪馬台国かも知れないなw
621 :
大和 田 直木:2013/11/26(火) 19:53:05.01
卑弥呼が居たのは多利思北孤と同じところ
多利思北孤がいたのは久留米
622 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 19:54:31.08
>>618 定義的には間違いではないよ。
有棺無槨てのは、棺があり、それを収める部屋がない、
つまり棺を直接埋めるということ。
甕棺は直接埋めるものだから、間違ってはいない。
623 :
大和 田 直木:2013/11/26(火) 20:08:00.49
>>619 吉野ヶ里が衰退したのは2世紀前半。
吉野ヶ里の王墓にはシナ思想の影響がみられる。
佐賀平野で2世紀前半にシナ思想を導入できたのは帥升王統だけ。
624 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 20:50:12.48
>>615 根拠 物事が存在するための理由となるもの。存在の理由。
妄想 非合理的かつ訂正不能な思いこみのこと。
625 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 21:10:28.04
論理 考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。
626 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 21:23:55.98
>>621 >卑弥呼が居たのは多利思北孤と同じところ
>多利思北孤がいたのは久留米
この2つの根拠は?
>>623 >佐賀平野で2世紀前半にシナ思想を導入できたのは帥升王統だけ。
何故?
628 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 22:16:36.24
唐津は肥の国
伊都国も肥の国
邪馬台国も肥の国
>>579 勝手に物語を作るな。
少しは調べてから言え。
↑↑↑
>>628は
>>578 勝手に物語を作るな。
少しは調べてから言え。
の間違い。
579さんこめんよ。
631 :
大和 田 直木:2013/11/26(火) 22:53:05.14
>>624 非合理的かつ訂正不能な思いこみと思うことしかできないのがが論理思考のできないお方。
>>626 >卑弥呼が居たのは多利思北孤と同じところ
「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」隋書俀國伝
>多利思北孤がいたのは久留米
6世紀末から7世紀初頭に「京」であったことを示す遺構が久留米で見つかった。
617年、多利思北孤は北方の大宰府に遷京すると勅令をだした。
>佐賀平野で2世紀前半にシナ思想を導入できたのは帥升王統だけ。
2世紀前半までに、シナ思想を導入できた王権は、倭奴國王統と帥升王統の二つしかない。
倭奴國は福岡平野であるから除外。
残る帥升王統だけが漢思想を導入できる立場であった。
漢思想の影響を受けた吉野ヶ里の王墓は、帥升王統のものとしか考えられない。
吉野ヶ里王墓の王権は2世紀前半に衰退している。
>>630 まだズレてるような気もするがw
邪馬台国=肥の国
これで全てが見えて来た
卑弥呼 = 肥巫女
633 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 23:02:20.53
生国魂神社(大阪市) 紀元前700年 日本列島の神そのものを祭る神社
634 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 23:04:38.14
ついでに言えば、邪馬台国時代には日本には、
まだあまり文字が普及してなかったと考えられるので、
多分音しか関係がない。
とすると、日巫女でも火巫女でも、肥巫女でも同じということになる。
肥弥呼 = 太った巫女
636 :
日本@名無史さん:2013/11/26(火) 23:08:34.48
卑弥呼 = 肥巫女 = 日巫女
アマテラス
637 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/26(火) 23:48:10.92
>>631 邪馬台国を筑紫平野(久留米)としているよですが
七万戸が3世紀の筑後に入りますかね
725年の日本の推定人口は、451万〜640万人
推定人口の時451万人
筑前 112,000人
筑後 59,300人
肥前 48,300人
肥後 108,700人
その推定人口は大間違いね。
639 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 00:01:43.95
>>532 熊本では日をテントウサンと言うのでヒミコは火巫女
640 :
大和 田 直木:2013/11/27(水) 00:24:15.76
>>637 鬼頭の九州推定人口なら、過少評価で今や信頼性なし。
邪馬台国7万戸は北野平野と筑後平野の一部。
すなわち、
邪馬台国7万戸は筑前の一部と筑後の一部。
一大國(壱岐)は3000家15000人 現代30000人
對海國(對馬)は1000戸5000人 現代35000人
末盧國(唐津)は4000戸20000人 現代80000人
筑紫平野は現代の四分の一以上の人口がいたのでは?
邪馬台国時代の筑紫平野の人口は50万人を下回ることはないでしょう。
641 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 01:30:11.94
九州全体の人口は、3〜400万人を考えるわけですね。
江戸時代より多いよw
643 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 08:12:48.49
佐嘉(佐賀)はパキスタンの古地名サカからきている。佐賀の天山(テンシャン)山脈にツーベット山(チベット)がある。行基は佐賀平野一帯に楠木から薬師如来(マリア信仰)を安置する。
644 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 08:22:35.55
基本的に農耕の弥生期は、人口は農耕ができる平野に集中する。
福岡平野と佐賀平野は2万戸
筑紫平野が5万戸
熊本平野が7万戸
これは、江戸時代の農耕可能面積の1/3〜1/10程度にすぎない。
馬とか居ない時代と農地面積を比較する意味が解らん。
大体倭国は海人なんで基本的に海沿いにしか住んでないだろw
646 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 08:52:31.86
647 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 08:53:47.69
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
648 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 08:54:37.43
649 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 08:55:17.04
吉野ヶ里は、環濠集落内に1500〜2000人
支配領域には15000〜20000人の人口を抱えていると言われている。
そしてその支配領域は、
佐賀と鳥栖にかなりの遺跡が存在することから、
その勢力に挟まれた地域であると考えられる。
特に鳥栖の遺跡からも戦の痕跡が多く出土しており、
鳥栖と吉野ヶ里で争っていた可能性がある。
平野でもあり具体的な境界は不明だが、
神崎郡や三養基郡あたりが領域だろうか。
その程度に2万人、5千戸あるのならば、
筑紫平野全体で5万戸は十倍程度であり、
それほど無理な数字ではない。
>>645 諏訪が最も古いけどな
3万年前から継続して居住してるし
昔は阿蘇山が湖だったからその辺も多かったと思うぞ
あと日本は馬は農耕に使わないから関係ない
今日もがんばってるな、博多アラモード!
652 :
伊都国(倭奴国)の女王卑弥呼:2013/11/27(水) 09:33:28.24
>>640 肥前 48,300人にたいして
末盧國 4000戸 20,000人では
末盧國以外の肥前が2,300人か?
鬼頭の九州の推定人口は確かに過少評価過ぎるようだ
松浦地方は長崎県から佐賀県に及ぶから末盧國も唐津付近でけでなく
大国だった可能性がおおきいな
それにしても肥前 48,300人は少ない
倍くらいはいたようだな
北部九州の人口を倍にすると
筑前 224,000人
筑後 118,600人
肥前 96,600人
肥後 217,400人
豊前 94,400人(47,200人の倍)
壱岐 15,000人
対馬 5,000人
合計 771,000人 約70,000戸だな
653 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 09:40:10.77
筑後だが、筑後川上流部の甘木朝倉地方は、筑後川下流と違って、
かなりの人口を計上して良いと思う。
下流はまた開拓していない可能性が高いが。
654 :
訂正:2013/11/27(水) 09:45:11.15
>>640 肥前 48,300人にたいして
末盧國 4000戸 20,000人では
末盧國以外の肥前が2,300人か?
鬼頭の九州の推定人口は確かに過少評価過ぎるようだ
松浦地方は長崎県から佐賀県に及ぶから末盧國も唐津付近でけでなく
大国だった可能性がおおきいな
それにしても肥前 48,300人は少ない
倍くらいはいたようだな
北部九州の人口を倍にすると
筑前 224,000人
筑後 118,600人
肥前 96,600人
肥後 217,400人
豊前 94,400人(47,200人の倍)
壱岐 15,000人
対馬 5,000人
合計 771,000人 1戸5人として約14万戸だな
余裕がありすぎるか?
倍まではなくとも十分に収まるな
725年と248年じゃ477年しかたってないし
この間に生産能力が急激に大きくなるような変革もない
725年と248年の人口は大してかわらいと予想して考えた。
715年と1200年では1割程度しか増えてない
655 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 09:45:56.95
弥生遺跡の密集する北部九州では、開拓できない低湿地や海、意外は、
ほぼ開拓していたとしても良いように思う。
そういうところは、時代が下っても農地は余り増えないだろう。
平安時代の推測人口と江戸時代の実石高と乖離が大きいのが肥前だが、
肥前は海の干拓と筑後川下流域の開拓で、大きく面積を伸ばしたと思う。
656 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 09:55:25.74
私ならば九州全体で二十万戸、約百万人を考えるね。北九州が島まで入れて約4万戸、
投馬国(熊本、鹿児島)で五万戸、邪馬台国(大分、宮崎)で7万戸、その他旁国
(甑島、種子島、屋久島なども含む)で2万戸かな。
657 :
訂正:2013/11/27(水) 10:23:56.40
ファリスの730年640万推定から
250年前後の人口を1割減とすると580万人
鬼頭の725年推定430万人の1.3倍くらいになる
北部九州の人口を1.3倍にすると
筑前 145,600人
筑後 77,090人
肥前 62,790人
肥後 141,310人
豊前 61,360人
壱岐 15,000人
対馬 5,000人
合計 508,150人 1戸5人として約100,000戸か
これでも肥前62,790人の内、末盧國は4000戸、20,000人つまり3分の1近くが末盧國
長崎、佐賀の北半分は末盧國だな
筑前 145,600人の内、奴國20,000戸、100,000人3分の2近くが奴國
倭人伝に記された国邑はかなり広いな
658 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 10:30:14.71
659 :
大和 田 直木:2013/11/27(水) 11:13:03.23
>>653 >筑後だが、筑後川上流部の甘木朝倉地方は、筑後川下流と違って、
>かなりの人口を計上して良いと思う。
>下流はまた開拓していない可能性が高いが。
主旨には同意だが言葉の選択が良くない。
北野だが、筑後川中流部の甘木朝倉地方は、筑後川下流低湿地(標高5m未満)と違って、
かなりの人口を計上して良いと思う。
(筑後川以北の北野の大部分は筑前、久留米市域の北野は筑後)
筑後川下流低湿地(標高5m未満)は筑後川中流の北野と違って
未だ十分には開拓されていない可能性があるが、
弥生末期には、洲や潟に生活本拠を置く海人族が半農半漁で水田開拓をしていたと思う。
低湿地は天然の水田であるからその生産量も少なくない。
筑後川下流矢部川下流(筑後平野)の低湿地や洲に本拠をおいたのが投馬國と推定される。
660 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 14:42:33.14
どさくさにまぎれてキチガイクマソ宮崎が混じってるなw
筑紫の話に混じってくんな宮崎クマソ
661 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 15:00:07.05
大国主=帥升
安曇、宗像君等々の筑紫の先祖神大国主命。
国譲りとはその大国主に筑紫を天孫族に譲れと迫ったものだ。
そして大国主は筑紫を追われ他の土地に行く(出雲が有力)。
よって出雲の本殿は西・筑紫を向いているということ。
イザナギが産んだ警固大神の神々の総本社も福岡の警固神社。
倭国・邪馬台国・伊都国・国産み・国譲り・天孫降臨・神武東征等々
天孫族や卑弥呼等々博多湾を中心に福岡周辺で起こった事、日本の起源は全て博多湾岸にあるということだな。
662 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 15:01:35.05
それから、道程距離や数字を意識しすぎ、
そんなあいまいなものをいつまでも重要視しても意味がない。
それらの数字はあくまで 目安 なんだよ。
663 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 15:02:19.93
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
664 :
訂正:2013/11/27(水) 15:04:03.39
>>657 邪馬台国が九州以外に在ったとすると
魏志倭人伝の記述では北部九州だけ人口が多くて
他の日本列島は極端にスカスカになってしまうんだよな。
>>659 多くて筑前、筑後、肥前、肥後 豊前、壱岐、対馬の合計で508,150人約100,000戸ぐらいだと
幾ら何でも投馬國とか無理じゃない。
665 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 15:05:14.31
博多、博多、、、
博多アラモード
667 :
大和 田 直木:2013/11/27(水) 16:19:53.28
>>665 何度も掲載しくれてよく解ったよ。
ただ時間軸が少しずれているよ。
>>665は2世紀初頭迄の玄界灘沿岸のことだよ。
天孫族による玄界灘沿岸支配は2世紀初頭まで。
2世紀初頭には非天孫族である帥升が現れる。
非天孫族の世は6世紀前期岩井まで続く。
天孫族が再復権したのは400年後岩井政権が倒れてから。
6世紀は、筑紫神話の整備構築で忙しいな。
668 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 16:31:52.33
>>631 >6世紀末から7世紀初頭に「京」であったことを示す遺構が久留米で見つかった。
>617年、多利思北孤は北方の大宰府に遷京すると勅令をだした。
久留米が「京」であったことを示す遺構とはどこでしょうか?
669 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 16:36:51.45
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg 「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg 綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg 卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。 全ては博多湾岸から始まったものだな。
670 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 16:46:53.34
日本人(東京マスゴミに洗脳された関東人を除く)であれば京都・奈良、近畿を日本の都・聖地としてたたえる。
キリスト教の国々がローマを聖地とたたえるように!
・日本仏教の本山も京都・奈良・畿内に存在し、聖地は高野山と比叡山である。
・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。
・兵庫県淡路島の伊弉諾神宮には、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が祀られている。
・天皇陵も京都の泉涌寺など京都や奈良、近畿にそのほぼすべてが集中しており、歴代天皇が眠る畿内、近畿はまさに日本の聖地
・日本の世界遺産もその多くが近畿に存在している。
671 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 16:52:47.33
>>670 >・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。
伊勢神宮をはじめ、神社のオリジナルは九州にあり700年前後に関西に移された
7世紀以後の天皇稜があるだけ
九州には天照大神をお祭りする由緒正しき神社あり、伊勢神宮よりさらに古い正統
673 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 17:04:16.18
福岡県糟屋郡久山町猪野の天照皇大神宮
神功皇后が仲哀天皇に祟った神を祀ったとされる
674 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 17:09:24.40
畿内の総本社は新しい神社等だけだろw
>>670 お前バカ
香椎宮は神功皇后が造った仲哀天皇の陵
676 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 17:16:20.80
住吉神社も博多が始原とされている
大阪の住吉大社は博多の住吉神社から分社されたもの
677 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 17:56:50.33
宇佐神宮の本宮は飯塚市大分八幡宮
筥崎宮の元宮としても知られる
>>677 ほほう
実は山笠は福岡県に広く存在し
あちこちで祭りが行われている
長崎の壱岐でも遭遇し確認済み
おいどんが大九州は日本で一番偉大たい
680 :
大和 田 直木:2013/11/27(水) 19:13:08.88
>>668 >久留米が「京」であったことを示す遺構とはどこでしょうか?
第一期国府〜第三期国府の跡とされる遺跡と、
第三期国府跡の東側に隣接して「曲水の宴」の遺構が見つかっている。
第一期国府は7世紀とされているが、
周辺出土物の時代考証からみて、6世紀初頭までのものと思われる。
第三期国府跡が6世紀末から7世紀初頭のものと考える。
681 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 10:57:44.09
test
683 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 12:51:15.19
俺が散々日本の古代史の謎を解明してるだろ。これが大体の流れだよ。
国譲りとは・・・
一般的には天孫族と交渉した大国主命が 出雲大社=大国主命 であるため
出雲と天孫族が国を交換したという誤解や 天孫族が交渉した出雲こそ日本の祖であると勘違いされてきた。
しかし真実はなんの事はない。
大国主は博多湾岸で「漢倭奴国王」の金印をもらった当時の倭国・筑紫福岡の王統である。
倭人伝:「邪馬台国の一大卒である伊都国(倭奴国)には代々王がいた。」
大国主は代々(天孫族や女王卑弥呼が活躍する以前)筑紫福岡・倭国の王統である。
もちろん大国主命は筑紫福岡を本拠とする安曇君(志賀海神社)・宗像君(宗像大社)等々の豪族の祖先神である。
国譲りとはその大国主が治める筑紫(博多湾岸)を譲れと天孫族が大国主に迫った話のことである。
筑紫・倭国を追われた(追放された)大国主は
「この国を差し上げる。その代わり私のすむ所はあなた方が住むのと同じぐらい大きな宮殿を建てて欲しい。
そうしたら私の百八十神(安曇・宗像等々)は事代主神に従ってあなた方には背かないだろう。」
といい出雲に移住(追放)された。
だから出雲は出雲大社の本殿が筑紫・西を向き大国主の筑紫福岡と同じ「銅矛銅剣文化」であるが、
後の「三種の神器」「甕棺墓」「神籠石」「絹」といった天孫族の筑紫の文化(倭国の文化)とは無縁である。
何の関係もない宮崎はもちろん「銅矛銅剣文化」すら無縁である。
この大国主から繋がる筑紫の神々の天孫族による支配を正当化するために古事記や筑紫神話があると言うこと。
ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。
魏志倭人伝:「男子は大小となく入れ墨をしている。」
また天孫族が元々いたのは志摩国、
倭人伝「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」
このように、天孫族・倭国・邪馬台国等々の日本の発祥地は博多湾である。
>高千穂神社で披露された神楽
国の重要無形民俗文化財「高千穂の夜神楽」が週末を中心に高千穂町で始まり、多くの見物客でにぎわっている。
高千穂神社(後藤俊彦宮司)では22、23日、恒例の「神話の高千穂夜神楽まつり」が開かれ、
県内外から訪れた参拝客を魅了した。
>夜神楽は岩戸隠れの神話の中で、天照大神(あまてらすおおみかみ)を引き出そうと
天鈿女命(あまのうずめのみこと)が舞った踊りが由来とされ、33番の演目からなる。
紙の飾り「彫(え)り物」で囲った神庭(こうにわ)と呼ばれる舞台で笛や太鼓に合わせて舞われる。
>夜神楽まつりは後継者の育成を目的に1973年に始まり、
昭和天皇のご病気のために開催を見送った88年を除く毎年行われ、今年で40回目。
(2013年11月26日 読売新聞)
685 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 12:55:15.35
倭国・邪馬台国・国譲り・国産み・天孫降臨・神武東征の出発地に畿内・南九州は全く関係ない。
倭国の範囲は博多湾岸を中心、都とする半島の南岸から九州北部まで。南九州はクマソ。関西は遠い倭種。
魏志倭人伝:「倭国の北限は狗邪韓国、南限は奴国。」
後漢書:「倭奴国は倭国の極南界である。」
元・モンゴルが何故博多湾に兵を集結させたか?答えは倭国=倭奴国の中心、都が古来より博多湾岸にあるためだ。
「倭奴は海の東に極小の国土しか持たないのに独り元に服属せず・・・
唐が百済を攻めた時百済は倭奴の兵を借りたが白村江で敗れた。
倭奴は物欲しそうにウロウロしながらも撤退した。
今の倭奴は昔唐に負けたような倭奴ではない・・・」
旧唐書:「倭国とはいにしえの倭奴国なり」
隋書:「倭国は後漢書にある倭奴国から連綿と続いた王朝であり・・」
新唐書:「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったと言っているがどうも疑わしい。
日本は隋の時代に中国と通じた倭国とは別と捉えている。
筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった。」
旧唐書:「倭国と日本は別種であり小国だった日本が倭国を併合した。」
宗史:「神武以前はおよそ32世、筑紫の日向宮に都があった。」
このように、倭国・邪馬台国・国譲り・国産みを初めとする天孫族の記紀の舞台は九州北部博多湾岸である。
倭国の乗っ取り(国譲り)を成功させた天孫族は筑紫の支配を正当化するために古事記・筑紫神話がある。
それを後に筑紫から派生した神武を祖とする筑紫の分家大和が筑紫福岡の本家を支配した時に
九州の支配を正当化するため古事記・筑紫神話を引用し範囲を広げ(クマソまで含め)日本書紀を完成させる。
この日本書紀が正史となっているために現代の混乱が産まれている。日本史は全て福岡から始まったもの。
「君が代」や「熊野権現須玖岡本に在り」「我が宇佐宮より穂波大分宮は我本宮なり」「神武原」「伊野天照皇大神宮」
等々様々な本物がある日本は福岡から始まったものだな。
西・筑紫福岡を向く出雲の社殿や「神籠石」「甕棺墓」「三種の神器」「絹」の分布を見ても
神武以前の32世筑紫福岡に都があったのは明らかだな。
686 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 12:59:30.37
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg 「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictL/Y8/Y352988/Y352988260.jpg 綿津見神(総本宮は志賀海神社)の娘 トヨタマ姫
「私はこの子を育てに 海の道 を通ってあなたの元に行こうと思っていた。」
綿津見神の総本宮志賀海神社(別名龍の宮・龍の都)=綿津見神の住居は竜宮城
イザナギが生んだ住吉の「日本第一住吉」、日本最古の住吉は福岡平野の住吉神社
イザナギが生んだ警固大神の神々の総本社は福岡の警固神社
アマテラスが生んだ宗像三女神の総本宮は福岡の宗像大社
スサノオがもらった嫁、クシナダ姫は博多の総鎮守「櫛田神社」
イザナギ・イザナミが一番最初に生んだオロコロ島は博多湾に浮かぶ「能古島(のこのしま)」
イザナギ・イザナミの象徴二見が浦(夫婦岩)の本物は糸島半島の志摩にある夫婦岩
イザナギが黄泉の国との境を塞いだ大岩は糸島の玄海(限界)灘に突き出した芥屋大門
http://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/J00000000000B4701120/B4701120-1/B4701120-1_m.jpg 卑弥呼が直接治めたのは斯馬国(志摩)〜奴国(福岡平野ないし福岡県域)まで。
倭国・邪馬台国連合と対立した狗奴国は久留米周辺「その南(奴国の南)に狗奴国あり。」
志摩国にいた天孫族は、邪馬台国の一大卒古来から代々王のいる名門伊都国を落とす←天孫降臨
スサノオのヤワタノオロチ退治←福岡平野の倭国の強豪国を天孫族の支配下に置く活躍
そして力をつけた天孫族は倭国自体を乗っ取る。←国譲り
そして天孫族の皇統を(筑紫の支配を)正当化するため古事記(筑紫神話)がある。
日本書紀その他は後世に都合よく古事記・筑紫神話をもじって作ったもの。
全ては博多湾岸から始まったものだな。
687 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 13:29:05.10
今日もまた、博多アラモード!
688 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 14:33:25.87
熊襲の宮崎とか関係無いよな
宮崎県が日向国だったんで筑紫の日向を宮崎県だと後世の人が勘違いしただけ
筑紫の日向って、福岡市の日向峠付近なんだよな。
689 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 14:49:32.89
日向峠は田舎の過疎地
正しき日向はこちら
日向大神宮:
(京都市山科区日ノ岡一切経谷町29)
(内宮)天照大御神・多紀理毘賣命・市寸島比賣命・多岐都比賣命
(外宮)天津彦火瓊々杵尊・天之御中主神
社伝によれば、第23代顕宗天皇の治世、勅願により筑紫日向の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建された。
「宇治郡名勝誌」、「京都府山科町誌」には、延喜式神名帳小社に列する「山城国宇治郡 日向神社」とする
690 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 15:01:43.32
この地は韓国に向かい、笠沙の御前真来通りて、朝日のまっすぐに射す国、夕日のよく照る国である。
京都や宮崎じゃあ「韓国に向かい」じゃないし「夕日のよく照る国」でもない
691 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 16:11:21.80
少なくとも「対岸は韓国・・」、のような目と鼻の先の意味ではないな
大九州島全体の概況を説明していると読んで、良〜く理解できる。
(北は)韓国にも向いているが、(南は)笠沙にも通ず、
(東九州は)朝日の真射す地、(西九州は)夕日の良く照る地、
(そのど真中にある高千穂クシフルの峰に我らは降臨した・・・)
大九州島w
九州脳は相変わらずだなww
693 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 17:12:33.51
>>691 九州全体を指して「この地」?
「この地」とは高千穂の久士布流多気のことですよ。
高千穂の久士布流多気で
「この地は韓国に向かい、笠沙の御前真来通りて、朝日のまっすぐに射す国、夕日のよく照る国である。」
と云ったのだよ。
694 :
大和 田 直木:2013/11/28(木) 17:14:55.57
>>589 日向峠は田舎の過疎地じゃない。
50m上がって100m下がる小さな峠。
車で通るとあっと言う間に通り過ぎる。
日向峠で見かける二羽のツガイ?のシャモかニワトリか知らんけど
よく猫に襲われないで生きていると思う
あの二羽を見たら心が和む
696 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 17:25:21.94
日向峠の福岡側のラーメン屋によく行ってたな。
今でもあるんだろうか。
697 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 17:47:55.64
>>693 ケツの穴が小さい、もっともっと雄大に考えろ
のちのち天皇家を率いようかという家系なんだからな
「この地」とは、天孫降臨して治めようと言う大なる九州島のことにきまっとる
九州以外から来た
韓国に向かう国
つまり半島や九州以外から降臨したんだろw
確か国生みは淡路島からだよな?
もう答え出てるじゃんw
699 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 18:08:53.61
>>697 ハア?
宮崎の高千穂の上で「この地は韓国に向かい」
九州島の北に韓国がある?
馬鹿ですか?
700 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 18:11:25.00
>>696 まだあるけど味が落ちて客入りが少ない
あの辺も宅造されて家が立ち並んできた
702 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 18:34:28.04
昔、カップラーメン持って高祖山(日向山)に登ったことがある
当時は、ここが高千穂とは知らなかった
カップラーメンの包装が気圧が下がって膨れていたな
>>694 福岡のベットタウンに丁度いいな。
703 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 18:43:26.69
>>699 それはだねえ、天空から雲に乗って高千穂クシフルの峰目指して急降下してきたと理解してるから、「この地」をピンポイントで解する。
しかし雲に乗って下ってきたなんてことは有り得ないわな。
九州島をあちこち物色したあげく高千穂に居を決めたはず、
その九州島の状況を振り返って「この地は・・(我が支配すべき九州島は・・)」といってるわけだ
よろしいか、この記事そのものは後世に書かれている
すでにニニギの子孫は皇統の地位を確たるものにしてからの記述だからな
704 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 19:09:00.06
>>703 後世の創作ですか?
すると高千穂クシフルも何処か全くわかりませんね
僕は基になった九州で書かれた書物が有り
それを転記したものだと考えますがね
じゃないとわざわざ
「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降った。」
とか九州の地名を出さないでしょう。
705 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 20:15:21.48
>>704 決して後世の創作という意味ではないぞ
皇統の口承(ないし伝承)を、後世、文字(記紀)に書き起こしたのであろう
であるから、そのことを十分に含んだ上で解釈しなくてはならぬということだ
もう少しいえば、天孫降臨の時において、すでにニニギらには野心があったのだ
706 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 20:29:02.30
>>683 知ったかぶりのタレ被り
>ちなみにここに登場する宗像君は「胸」や「肩」に入れ墨を施していたから宗像と言われるようになった。
宗像の地名の由来は宗像三女神の降臨・鎮座に際して、その形状を奉斎したことにより、
「身の形」・「身の像」と称したことによる。
707 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 20:31:02.31
記紀はそれ以前に在った文献を纏めたもので
口承を、文字に書き起こしたものではありません
始めは前王朝の歴史書を作成するはずが
途中で気が変わり前王朝の歴史自体を抹殺して
現王朝の歴史書に書き換えてしまったものです
嘘がバレルといけないので
記紀以前の歴史書は全て廃棄され残っていないのです。
前王朝は九州にあったのです。
708 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 21:21:53.76
>>707 >>705のカキコを訂正しておく。
追加訂正:皇統の口承(ないし伝承)を、後世、文字(最終的には記紀)に書き起こしたのであろう
問題は、「この地は韓国に向かい」の「この地」はどこを指すのかということだ。
小学生のクシフル登山なら、「この地」はクシフル峰のあたりで良いであろう。
しかし仮にも大和の歴史書〜記紀の記述なのだから、いま少し歴史色・政治色をつけて雄大に解釈しなくてはねえ。
709 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 21:42:06.72
710 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 22:50:36.76
>>709 いささか古田氏は結論を急ぎすぎてるね。
古田氏は、記紀の高千穂を宮崎県・鹿児島県境の活火山である高千穂の峰と断定しており、
肝心の宮崎・熊本・大分の三県境の西臼杵郡高千穂については第二の俗説として地名を上げているにすぎない。
>「筑紫の日向の高千穂」の有力な比定地は、宮崎県・鹿児島県境の高千穂峰か霧島山とされた。
>(比定地に二説ある。一は南の霧島山。一は北の宮崎県臼杵うすき郡高千穂)。
しかし圧倒的に注目さるべきは、西臼杵郡の高千穂町のほうである。
ここに伝わる250社とも言われる神社を詳細に検討したうえでの古田説なら傾聴にも値しよう。
そうした作業なしに、第二の俗説に過ぎない、と端から無視の態度では学者として説得力はない。
この地の歴史と現存する神社史跡は別格中の別格なのである。
711 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 23:05:37.39
「日向風土記」の逸文を読む
ニニギノミコトは天の八重雲を押し分けて日向の二上の峯に天降ってきたが、ときに天は真っ暗で昼も夜も分からなかった。
天つ神が困っていると、忠告する土蜘蛛があった。名をオオクワ、コクワという。
この土着の民が、稲の霊力によってこの闇は晴れるというので、千穂の稲を籾として投げたところ、
天は晴れ、日月も輝いた、という記述である。
「風土記」は和銅六年(七一三)の詔に応じてできたものである。
とすれば奈良時代において、ニニギノミコトが降臨されたのは臼杵郡内の智鋪の里、
すなわち今の宮崎県西臼杵郡高千穂町であると考えられていたことはまず間違いない。
(梅原猛著、天皇家の"ふるさと“、日向をゆく・新潮社刊)
712 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 15:07:03.13
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」
やはり
>>683>>685>>686の俺の説が正しいかもな。
伊都=佐賀説はやはり無理があるか・・
何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか?
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面にも伸びていると魏使の頭にはなかった。
(自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。)
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
まさか北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だな。
大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。
713 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 15:57:59.31
>>683>>685>>686まとめ
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」
何故、魏使が伊都国の方角を間違えたか?
それは魏使が帯方郡よりひたすら南下してきたゆえに、
まさか筑紫福岡が北方面にも伸びていると魏使の頭にはなかった。
魏志倭人伝:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある」
この倭人伝の記述にあるように
自分たちがまさか北に向かっているとは全く頭になかった。
ずっと基本は南に向かっていると勘違いしたのだ。
北に向かうという概念が倭国を訪れた魏使には全くなかったのだ。
魏使は帯方郡よりずっと南下してき故(倭人伝にあるように倭の地は南と思い込んでいた)
まさか北に向かっているとは思っていなかった。
故に、九州に上陸して実際は北東に向かったが、
自分たちは基本は南下していると勘違いをおかし方角を東南と記してしまったという事だ。
大体の古代史の流れ、大まかな謎は俺がこれで何の矛盾もなく説明してしまったな。
素直に歴史書の記述や考古学的物証を客観的に判断すればおのずと答えは出てくるものだよ。
714 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 17:01:39.27
天孫降臨の地が日向峠近く(おそらく高祖山が高千穂)であれば
伊都国が卑弥呼の都であり邪馬台国の首都であったのも頷ける
日本は伊都国(倭奴國)から始まったのだ
天孫降臨とは伊都国から日本が興ったことを示している。
715 :
大和 田 直木:2013/11/29(金) 18:27:17.25
>>712 伊都國=怡土(前原)説は在り得ない。
魏使・郡使が方向音痴ばかりとは在り得ぬこと。
末盧國の東南が伊都國なんだよ。
だから、邪馬台国=福岡平野説も在り得ないのだよ。
>>712が描いている倭は1世紀までの倭である。
2世紀から6世紀前半まで、倭の世界の中心は筑後平野(佐賀・北野・筑後)なのだ。
6世紀岩井の敗戦によって、福岡平野勢の倭の世界への再登場が始まる。
しかしながら、それは700年に完全に終る。
716 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 18:33:18.08
倭の世界の中心が筑後平野(佐賀・北野・筑後)になったことがあるにしても
それは、もっと後のことで磐井が九州倭国の天皇だった
717 :
大和 田 直木:2013/11/29(金) 18:38:28.06
>>714 >日本は伊都国(倭奴國)から始まったのだ
倭奴國=倭都國≠伊都國(魏志)
伊都國(魏志)=旧倭都國(佐賀の帥升王統)
718 :
大和 田 直木:2013/11/29(金) 19:05:52.25
>>716 >磐井が九州倭国の天皇だった
磐井は、筑紫平野勢による倭國の最後の天皇である。(磐井は筑後出身)
筑紫平野勢の倭國王は、帥升(佐賀)に始まり、磐井(筑後)に終わる。
筑紫平野の倭都変遷は、
吉野ヶ里遺跡→肥前國庁跡(惣座遺跡)→久留米を転々と移動→筑後國庁跡(第二期or第三期)
719 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 19:15:07.70
大和 田 直木さんは郷土愛が強すぎて変
720 :
大和 田 直木:2013/11/29(金) 19:24:12.66
修正
>磐井は、筑紫平野勢による倭國の最後の天皇である。(磐井は筑後出身)
磐井は、筑紫平野勢による倭國の最初で最後の天皇である。(磐井は筑後出身)
年号と律令の開始は西暦522年(善記元年・磐井律令)
721 :
大和 田 直木:2013/11/29(金) 19:26:55.68
>>719 >大和 田 直木さんは郷土愛が強すぎて変
私の郷土は奈良大和です。
722 :
大和 田 直木:2013/11/29(金) 19:41:10.67
>>719 奈良は私の本籍地です。
近くには、薬師寺、唐招提寺、垂仁天皇陵があります。
723 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 19:44:31.57
「漢委奴國王」の金印が博多湾岸で出土している
「漢委奴國王」の金印は漢から倭へ国璽として贈られたものだ
卑弥呼は魏へ使者を遣わし「親魏倭王」の金印を貰った
これは王朝が漢から魏に変わり漢からの国璽が効力を失い
新たな魏からの国璽が必要になったからだ
「親魏倭王」の金印を貰ったので「漢委奴國王」の金印が必要が不要となり
卑弥呼の墓に入れられるかしたのだ
「漢委奴國王」の金印が発見された近くに卑弥呼の都が在ったことは間違いない
伊都国、現在の前原付近に卑弥呼の都が在った。
724 :
大和 田 直木:2013/11/29(金) 19:58:09.83
金印は、倭奴國と帥升との戦いの中で紛失したのだ。
「漢委奴國王」の金印が発見された近くに倭奴國(倭都國)が在ったことは間違いない。
帥升は生口160人(倭奴國の捕虜)で金印の再交付を望んだが、安帝との請見すら叶わなかった。
725 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 20:05:59.08
倭国大乱とかは国璽の「漢委奴國王」の金印を巡る争いだ
卑弥呼が共立され国璽の「漢委奴國王」の金印を受け継いだからこそ
倭の国々から倭王として認められたのだ
726 :
大和 田 直木:2013/11/29(金) 20:10:15.37
>>719 私に九州の土地鑑があるのは、現役時代に九州によく行ったからです。
この秋も福岡佐賀熊本を車で十日間1000kmの旅をしました。
727 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 20:14:16.47
帥升は倭國王と記されている
「漢委奴國王」の金印を持っていたからだ
728 :
大和 田 直木:2013/11/29(金) 20:24:20.14
>>725 倭国大乱は気候変化による社会の不安定化と思われます。
西日本の旱魃と豪雨水害で食料不足に陥ったものと思われます。
人口集中している九州で特に旱魃と集中豪雨の被害が多くでたのです。
社会混乱が落ち着いたのは寒冷化した4世紀に入ってからです。
九州では旱魃と集中豪雨が少なくなり食料も増産でき、社会が安定したのです。
729 :
大和 田 直木:2013/11/29(金) 20:29:07.51
>>727 いいえ。
帥升は倭國王であって「委(倭)奴國王」ではありません。
730 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 20:30:51.24
委(倭)奴國王=倭國王です
731 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 20:31:13.10
>>726 邪馬台国との関係を抜きにしても、
九州を知るには、宮崎と鹿児島を知る必要がある
両県は広くて茫漠としてつかみどころがない、しかしここ抜きでは九州の正体はわからない
732 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 20:33:26.42
倭奴は匈奴と同じ様に倭に奴を付けて蛮族の意味を持たせただけ
733 :
大和 田 直木:2013/11/29(金) 21:26:08.76
>>731 倭奴(ヰド[ト])は、「倭都(ヰト)」の意味。
匈奴(キョード)は「さがわしいやつ」の意味。
734 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 21:51:06.04
>>733 倭奴と付けたのは漢人
倭奴を伊都に変えたのは倭人
「尹」は神杖をもつ形で、神意を媒介する聖職の人をいう。「伊」は神の憑りつくその呪杖をもつ人の意味。伊都=呪杖をもつ人の都=卑弥呼の都。「伊」は、「治める人」の意も表す。伊都=治める人の都=首都
そういえば紀伊半島には伊都郡もあるな。
しかも丹生都比命神社もある。
736 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 22:13:21.37
関西の地名と九州の地名が似ているのは
記紀の編纂時に九州での出来事を関西での出来事にする為に
九州と同じ地名を関西に付けたから
737 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 22:30:41.82
738 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 22:37:16.24
神社、仏閣も移してる
だから関西の神社、仏閣は700年前後の創建が多い
>>736 俺のものは俺のもの
おまえのものも俺のもの
九州のものは九州のもの
関西のものも九州のもの
740 :
大和 田 直木:2013/11/30(土) 01:11:55.45
>>736 >九州と同じ地名を関西に付けたから
7世紀の後半主に白村江の敗戦後から8世紀初頭の頃、
九州の人間が畿内に移住してきて、九州と同じ地名を畿内に付けたから。
東遷説の人に聞きたいんだが、そうする理由はなんだったの?
白村江での敗戦で九州まで割譲したの?
742 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 02:32:29.27
倭国大乱で負けたから畿内に移住した
邪馬台国が勝者だよね?
ということは邪馬台国は九州に留まったってことね
それで東に落ち延びた国はどこ?
そこが大和朝廷になったってことだよね?
倭国大乱は国として勝者は無く
停戦協定みたいなもんだよ
えっと...
じゃあ負けたからって話はどこに?
そりゃあ、いろんな人が居たからな
国と一族は同じじゃない
国が滅びなくとも反対派とか追放される事も有るしな
卑弥呼に反対する一族だったかもしれん
神武以前は三種の神器を持つ天孫系は多数居た
神武だけが天孫では無い
ニギハヤヒと見せ合ってるし
神武の子孫が日本を統一したけどな
新参なもので共通認識だったすまん
謎の集団が近畿に移ったわけね
それが大和朝廷のルーツってことでいいのかな?
謎って言うか
全部謎なんだがw
3世紀は九州勢力も畿内勢力も西日本を掌握していない
九州から移ったのは記紀に書いてあるから
それ以外の解釈は不可能だしな
なるほど
ただ上に書いてあるように九州の地名や寺院を移したとなると範囲と規模からして相当な数の人間が移ったことになるよね?
それこそ国単位の
混乱の大きな原因は地名
筑紫は、筑紫国(福岡)と筑紫島(九州)が有る
日向も、景行天皇が付けた日向(宮崎)とそれ以前の日向(ヒムカ)が混乱してる
九州にもヤマトが幾つか有るしな
九州には、筑紫、日向、ヤマトが有る
しかし畿内にはヤマトしか無い
邪馬台国=倭国=九州
大和朝廷=日本国=畿内
753 :
大和 田 直木:2013/11/30(土) 04:45:18.17
>>741 >東遷説の人に聞きたいんだが、そうする理由はなんだったの?
>白村江での敗戦で九州まで割譲したの?
@白村江での敗戦で唐が九州に攻めてくるおそれがあったので、
661年九州の一部の勢力(天智)が畿内の第二都に移動した。
A672年唐軍が、白村江戦で捕虜になった筑紫の君薩夜麻を伴い、
進駐軍として博多に来たので、九州の一部の勢力(天武)が畿内に移動した。
B684年九州から畿内に遷都。九州から畿内への移住盛ん。
C695年文武のクーデター。697年文武が実権を掌握する。701年文武王朝の成立。
754 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 05:27:45.19
>>753 ということは、現在学校で教えてる日本の歴史はその時代までデタラメだってことかい?
聖徳太子とか大化の改新とかも全部捏造のお話?
まあまあ
色んな空想ができるから邪馬台国の話は今も昔も人気があるわけで
>>753 それだと先に移った天智天皇は九州でも王だったという話でなければ辻褄が合わないけど一部の豪族ってことでいいの?
ヒムカはヒの国のむかいにあるからヒムカ、筑紫島は本州側から見た名称(同じ事例に伊予之二名島である四国)
どちらも客体的な名称で自称ではない
757 :
フィクション大魔王:2013/11/30(土) 08:10:20.80
>>753 大和 田 直木氏
おやおや、邪馬台国論はとても賛同できないが、
この辺の展開はイイね。 特にCは賛同するよ。
「帋灯(しとう)柿本人磨呂 柿花 仄著」は面白いよ。
古代「軽」は双子に使われていた。
25歳崩御に「倭根子豊祖父天皇、天之眞宗豊祖父天皇」は
いくら何んでも似合わない。
758 :
大和 田 直木:2013/11/30(土) 09:28:34.24
>>755 >それだと先に移った天智天皇は九州でも王だったという話でなければ辻褄が合わないけど一部の豪族ってことでいいの?
もし天智天皇が九州でも王であったら、遷都になります。
667年に遷都はありません。
遷都があれば改元があるはずですが、改元はありません。
天智は畿内の副都の長の立場であって王(天皇)ではないのです。
759 :
大和 田 直木:2013/11/30(土) 09:37:50.52
>>754 デタラメですね。
聖徳太子とか大化の改新は無からの捏造ではなく、脚色改変です。
760 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 09:51:37.01
>>753 @白村江で九州王朝の王である薩夜麻敗戦が唐の捕虜になり倭は敗戦。
A672年唐が新羅との戦争に倭を協力させる為に、 白村江戦で捕虜になった九州王朝の王である君薩夜麻を返還
君薩夜麻と留守中に政務を執っていた大友皇子(弘文天皇)との対立に畿内ヤマトの豪族大海人皇子(天武)が介入し
「壬申の乱」が起きる
B「壬申の乱」で九州倭国の天皇(高市皇子=薩夜麻)は大海人皇子(天武)の力を借り大友皇子らに勝利を得たが
協力を得る為に吉野の盟約で大海人皇子(天武)と九州倭国系の鸕野讚良皇女(持統天皇)との間の息子(草壁皇子)を皇太子に指名した。
戦乱により九州の有力豪族の多くが滅亡したことにより天皇(高市皇子=薩夜麻)の基盤は弱体化し
戦乱とそれに続く天災で荒廃した九州から天武の勢力圏ヤマトへ天皇(高市皇子=薩夜麻)は移った。
C695年文武のクーデター。697年文武が実権を掌握する。701年文武王朝の成立。
761 :
大和 田 直木:2013/11/30(土) 09:57:26.81
>>753のBに追加
畿内の都の本格的稼動は、686年朱鳥元年からです。
684年と686年に大嘗祭があったと見られるので、
遷都だけではなく、天皇の交代もあったようです。
762 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 10:37:59.87
>>760追加
@白村江で九州王朝の王である薩夜麻敗戦が唐の捕虜になり倭は敗戦。
A672年唐が新羅との戦争に倭を協力させる為に、 白村江戦で捕虜になった九州王朝の王である君薩夜麻を返還
君薩夜麻と留守中に政務を執っていた大友皇子(弘文天皇)との対立に畿内ヤマトの豪族大海人皇子(天武)が介入し
「壬申の乱」が起きる
B「壬申の乱」で九州倭国の天皇(高市皇子=薩夜麻)は大海人皇子(天武)の力を借り大友皇子らに勝利を得たが
協力を得る為に吉野の盟約で大海人皇子(天武)と九州倭国系の鸕野讚良皇女(持統天皇)との間の息子(草壁皇子)を皇太子に指名した。
戦乱により九州の有力豪族の多くが滅亡したことにより天皇(高市皇子=薩夜麻)の基盤は弱体化し
戦乱とそれに続く天災で荒廃した九州から天武の勢力圏ヤマトへ天皇(高市皇子=薩夜麻)は移った。
C689年草壁皇子が即位せずに死去。
D695年文武のクーデター。697年文武が実権を掌握する。701年文武王朝の成立。
763 :
大和 田 直木:2013/11/30(土) 10:41:22.24
>>760 大海人皇子(天武)が若い頃の嫁が胸形君の娘であることから、
大海人皇子(天武)は畿内ヤマトの豪族ではなく、
九州の弟王天皇(薩夜麻)に近い豪族と思います。
兄王天皇・・祭祀が職務
弟王天皇・・内政外交等の実務が職務
畿内の天皇(文武以降)は、兄王天皇と弟王天皇の職務を一本化したものである。
弟王天皇:帥升、難升米、倭王旨、倭五王、岩井、多利思北孤、薩耶馬 等
兄王天皇:卑弥呼、壹與 等(517年以降年号は兄王天皇によって制定された。)
畿内に日向はないけれど、日下という集落が東大阪市にあります。
『日本書紀』神武紀の戊午年三月??四月の条に、「草香邑(くさかむら)」「草香津(くさかのつ)」「孔舎衙坂(くさかのさか)」などと書かれる「くさか」地名が初出します。漢字表現が二種類であることは、漢字が当て字にすぎないことを物語っています。
この日下の地で、日に向かって戦ったがゆえに矢を受けて痛手を負ったとする五瀬彦(いつせひこ)の説話(『古事記』神倭伊波礼毘古の段)があるように、日下とは日向そのものなのです。
なお、生駒山とは高麗山のことですし、五角形の五瀬彦=伊勢彦はイスラエル人だったと思われます。
765 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 11:17:58.40
>>763 大海人皇子(天武)は畿内ヤマトの豪族だが
その10代くらい前の先祖がに北部九州から東征して入植したもので
九州の豪族との血縁があり婚姻も盛んに結んでいた
鸕野讚良皇女(持統天皇)が嫁入りしたのも大海人皇子(天武)が有力な豪族に成長していた為
薩夜麻と高市皇子は同一人物で薩夜麻の母が胸形君の娘
高市皇子を天武の息子とした為に胸形君の娘が天武の嫁になってしまった
薩夜麻は弟王天皇ではなく兄王天皇
旧唐書には麟徳2年(665年)高宗が泰山で封禅を行った際に劉仁軌が、
新羅・百済・耽羅・倭4国の酋長を率いて参加したと記録されている。
このとき唐にいたのは筑紫君薩夜麻であるので、
薩夜麻が封禅に参加した倭の天皇である。
お前らすげえなホンモノだな
767 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 11:45:56.81
講談師 見て来たような ことをいい
768 :
大和 田 直木:2013/11/30(土) 12:11:42.50
>>765 >旧唐書には麟徳2年(665年)高宗が泰山で封禅を行った際に劉仁軌が、
>新羅・百済・耽羅・倭4国の酋長を率いて参加したと記録されている。
>このとき唐にいたのは筑紫君薩夜麻であるので、
>薩夜麻が封禅に参加した倭の天皇である。
上記は薩夜麻が唐の捕虜だった時の記事とみられ、
薩夜麻の外交に関する記述とみられる。
外交軍事内政に関わるものは、弟王天皇の職務である。
この時の兄王天皇は大宰府にあって、
弟王天皇の代行業務をしていたのが中大兄皇子(天智)等である。
ホンモノのキだ
770 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 12:31:47.87
古田史学会報83号 2007年12月6日から引用
>天智四年の守君大石等の派遣と薩夜麻の封禅の儀参加は、倭国の降伏と唐への服従の証しであり、もはや薩夜麻を唐に留め置く必要は消滅した。
>一方、天智6(667年)高句麗に内訌がおこり、国政を摂ていた大兄男生入唐し、「其の国(高句麗)を滅ぼさむことを謀(書紀・同年一〇月条)」った。
>これにより唐は攻勢を一層強め、天智7年10月唐将軍英公によって高句麗は滅ぼされた。
>このような時代背景を見れば、天智6年薩夜麻を倭国王として帰国させ、対高句麗戦に協力させることに、唐として大きなメリットがあることとなった。
倭とは大和朝廷が支配する一国、筑紫君は天智天皇が派遣した特使、もしくは天皇の名代を勤める皇太子という感じだな。
筑紫は倭の一地域、すでに天皇の子が支配していたと読める。天皇ではない。
771 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 13:19:34.03
日本書紀「天智称制元年」(662年)夏5月の記事に次のような記述があるが「勅」するあるいはその「勅」を「宣する」、
「継がせる」「撫でる」「褒める」「賜う」などは、至高の存在(天皇)の行為であり、
安曇比羅夫と共に天皇(薩夜麻)が百済に親征していたからである。
大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率船師一百七十艘送豐璋等於百濟國宣勅以豐璋等使繼其位又予金策於福信而撫其背褒賜爵祿
(大将軍大錦中の安曇連比羅夫等が船170隻を率い扶余豊璋を百済まで送った。勅を宣し豐璋に百済国王の位を継がせた。
また鬼室福信に金を与えた。それに加え、その背を撫で褒めて爵位と禄を賜った。)
まぁ九州に日向があるなら日は間違いなく四国か本州だな。
773 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 13:21:46.16
次のことから天武は天皇ではなくヤマト日本の一豪族に過ぎなかったと考えられる。
氏姓は天皇が臣下へ賜与するものであり、古代日本において天皇は氏姓を持たなかった。
しかし天武の倭風諡号は天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)であり八色の姓「真人」を持っていた。
天皇が交代すれば元号は必ず改元されるが、九州年号の白鳳は661年から684年まで続いているので、
少なくともこの間は天皇は交代しておらず、同じ天皇の在位が続いていたと考えられる。
従って中大兄皇子(天智)の即位(668年)・大海人皇子(天武)の即位(673年)は史実ではない。
天皇家の菩提寺である泉涌寺に天武系天皇の位牌が無い。
天武が天皇であればその息子が天皇を継ぐのは当然である。
ところが天武は吉野の盟約において皇族達に、自分と鸕野讚良皇女(持統天皇)の間の息子「草壁王子」を天皇にすることを誓わせている。
774 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 14:43:07.20
実態としては、畿内勢力の方が経済力軍事力でも優位にあったけれど、
もしかして、白村江の戦で日本が敗れるまでは、
天皇は倭の一地域の王に過ぎず、倭王といえば筑紫の王のことだったのではないのか?
775 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 14:46:58.75
だが、日本の祖は筑紫=福岡=博多湾岸一帯にあったのである。
全ては博多湾岸一帯の日向から始まった話だよ。
776 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 14:52:33.08
そして邪馬台国も博多湾岸にあったものである。
「邪は伊都に届き傍ら斯馬へ連なる」
「邪馬台国の都は伊都国にあり、傍ら(北の)の斯馬国から福岡平野へと連なる」
「女王国(伊都国)から以北(志摩国)はその戸数・道理はあえて省略する。(志摩国〜奴国までが近い)
その他の国は遠絶にしてあえて詳らかにすべからず。次に斯馬国あり〜奴国あり。ここが女王国(福岡平野)の境界である。
その南に狗奴国(久留米付近)あり。女王に属せず。」
ここまで来るとただの空想、妄想だな
778 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 15:03:56.59
福岡妄想
779 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 15:06:25.36
>>774 倭は半島の領土を失い多くの兵や物資も失った
畿内勢力はその間領土内を開発し力を蓄えていた
形の上では倭王の配下だっただろうが
実力は何時の間にか凌駕していたのだろう。
780 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 15:09:24.23
>>777 邪馬台国や天孫族の故郷が宮崎や畿内という究極の妄想(オナニー)にはかないません。
特に何にもない宮崎のバカは悲惨なものw
日本全国で行われている学芸会以下レベルの 神楽 で天孫族が宮崎だったと力説する虚しさよw
宮崎のサルはバカとしか言いようがない。
781 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 15:20:28.85
>>776 狗奴国が久留米付近か熊本か鹿児島かは、明確見には分からないな
筑前、筑後、肥前は邪馬台国の範囲内だと思うよ
肥後、豊前が入るかどうかだろう
7万戸ですから
782 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 15:28:16.61
>>777-778 と・く・に
天孫族が 「 空 」 から降ってきたと 究極の空想・妄想 を平気で声高にいう宮崎のクマソの恐ろしさよw
その 「 空 」 から降ってきた人間が四国沖太平洋になる東へ東征したと平気で言うアホ熊襲w
「襲は宮崎に届き現代の陸の孤島へと連なる」
倭は九州を中心とした国家群で朝鮮半島南部と文化圏を一部共有していた
九州北部にある国は衣服や宗教、生活スタイルまで影響を受けていたが南部にある国はいまだ土着的な文化を保っていた
中国から亡命して来た一群もその中にあり倭国の盟主から最初に与えられた自治区のような場所が天孫降臨の地である
その一群がやがて国家再興を目指して新天地東へ流れやがて近畿に根を降ろした
大陸の煌びやかな衣装を着て違う言語を話す一群は本州に住む土着民からはまさに天兵や天女に見えた
倭が白村江で敗れて勢力が衰えた頃には東は関東、西は中国地方までその支配圏を拡大していたその国は大陸の王朝に対抗して日本を名乗っていた
やがて倭も併合した日本はついに中国へ使いを送る
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す
当時の中国にとって突然現れたこの蛮族の意識もなくルーツや出自を明らかにしない新しい倭の代表を名乗る国は無礼なだけでなく甚だ不審であったが、領地を面していない一朝貢国を特に気にかけることはなかった
妄想ならこれくらい行こうぜ
784 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 16:46:48.09
天孫族が 「 空 」 から火山の頂に降ってきたなどと早とちりして、それをネタに空騒ぎするのは畿内説か福岡妄想説
いうまでもなく「 降 臨 」は言葉の綾である、宮崎の者は冷静沈着に受け止めておる
宮崎って南洋土人の血が混じった過疎県のこと?
>埋蔵金、スターシリーズ
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1947年8月24日熊本県生まれ 世田谷区玉川在住
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虚言癖・統合失調症
橘高啓1949年岡山生まれ 練馬区に住民票有り(嫁は練馬住)
埋蔵金(今は武田より高天原の5000京円)に夢中
ネットを使って信者集めセミナーで金儲け。
虚言癖・統合失調症
788 :
【豚】 :2013/12/01(日) 09:55:57.28
女神を引けば、邪馬台国九州が確定。
789 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 10:07:29.27
orz
ここは妄想の巣になってしまった
せめて根拠を出して書き込もう
九州説には無理
792 :
大和 田 直木:2013/12/01(日) 13:37:15.93
無知な人にとっては妄想に見えるのかな?
智者は反論しないで質問をする。無視する智者もいる。
いちいち根拠まで書いていたら、論文どころ本になってしまう。
ここでは、結論を書くだけで精一杯。
個々の質問については要旨で応えられるのが関の山。
それをご託宣という
九州説は世界的に確定してるんだから、あとは九州のどこかという議論と、
畿内説をはじめとする九州説以外のトンデモ説を暴くことが主要な論点だ。
根拠なんていくら説明しても、3ザルのトンデモ説論者にお膳をひっくり返されるだけ。
みじめだな
796 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 16:53:50.99
797 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 17:10:31.85
糸島と壱国・伊都国を語呂合わせする点で、畿内説も九州王朝説も同じ根っこ
深層心理に神功皇后の事績があったからと言わざるをえない
吉野ヶ里遺跡が明らかになって、邪馬台国と吉野ヶ里遺跡とが
同一文化圏であることが、世界に向けて証明されてしまった。
この後に、畿内や四国などで「ヤマト」地名のごろ合わせは無意味。
九州内での語呂合わせなら、傍証は必要だが論ずるに値する。
799 :
大和 田 直木:2013/12/01(日) 17:34:22.75
>>797 >糸島と壱国・伊都国を語呂合わせする点
糸島と壱国・伊都国を語呂合わせしない九州説があり、それが正しい。
>>798 >吉野ヶ里遺跡が明らかになって、邪馬台国と吉野ヶ里遺跡とが
>同一文化圏であることが、世界に向けて証明されてしまった。
しかし、吉野ヶ里遺跡(帥升の出身国)と邪馬台国は対立していた。
800 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 17:46:15.47
しないな
801 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 18:17:20.41
>>797 伊都、糸だけでなく総合的に考えて北部九州しかない
それ以外は100%ない。
802 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 18:31:15.09
総合的とは語呂合わせも含む概念w
803 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 18:35:23.55
殆ど何も合わない残念な南九州説、四国説、畿内説etc.とは違います。
熊本はどっちですか
急襲を南北に分けると上の方だが
805 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 18:53:09.68
くまモンは仲九州
806 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 18:53:32.57
熊本は肥国。
熊襲国は宮崎鹿児島。
807 :
大和 田 直木:2013/12/01(日) 19:15:29.86
>>801 総合的に考えると福岡平野説はない。
福岡平野説の欠陥は、時間軸がデタラメなことだ。
方向地勢気象潮流についてもデタラメなところがある。
福岡平野説は、物理的事象の矛盾を無視して作られている。
物理的事象の矛盾を解消すると、伊都國は佐賀平野に、
邪馬台国は筑紫平野にあったことになる。
808 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 19:17:38.81
>>808 熊本は北九州説なのか南九州説なのか
やっぱり熊本説で独立させた方がいいかな
810 :
大和 田 直木:2013/12/01(日) 19:20:55.65
>>807から導かれる狗奴國は、熊本平野(菊地川流域)となる。
811 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 19:31:05.53
>>807 大和 田 直木
>物理的事象の矛盾を解消すると、伊都國は佐賀平野に、
壱岐から来る宝船の争奪戦をやってるんだよ
伊都国が佐賀にあってどうなるの。交易船は垂れ流しかい?
一大率は何んの為に特に設置されてんのかな?
812 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 19:46:49.86
>>810 邪馬壹国の範囲が確定していないから
狗奴國が熊本平野(菊地川流域)なのか
もっと南の鹿児島、宮崎なのかは分からないな
>>811 伊都國が佐賀平野なんて笑われるだけですよね
それこそ何の根拠もない
813 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 19:50:57.14
>>811 いうまでもなく自前の船で半島まで往来するわけだ
あえて争奪というなら航路と水先案内人の争奪戦
一大率活躍の結果、壱岐〜末蘆(唐津)航路は佐賀勢の手に・・・
814 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 19:52:36.00
ALDH2活性型出現頻度
鹿児島71.4 熊本64.3 大分60.2 宮崎60.2 福岡57.8 佐賀56.3 長崎56.3
A型 福岡41.5 宮崎40.0 熊本39.9 大分39.9 鹿児島39.8 長崎39.3 佐賀38.7
B型 佐賀22.6 大分21.2 長崎21.1 福岡20.6 鹿児島20.5 熊本20.3 宮崎19.3
O型 鹿児島30.8 熊本30.1 宮崎30.1 長崎29.4 福岡28.6 佐賀28.3 大分28.0
AB型 大分10.9 宮崎10.7 佐賀10.4 長崎10.3 熊本9.7 福岡9.2 鹿児島8.9
815 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 19:53:44.50
>>812 末蘆国から「東南陸行五百里」を無視するか、
それこそ、お笑い、大笑いwwwwww
816 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 20:00:12.53
糸島と博多湾は当然ながら筑紫国の貿易港。
松浦、唐津は肥国の貿易港。
唐津から佐賀に伸びる唐津街道の出口が、小城、多久。
ここを押さえれば唐津からの物資は掌握できる。
熊本を本拠地とする邪馬台国は、ここに一大卒を置いて、
肥前国と貿易を管理した。
佐賀大和にある肥前国庁、その前には小城にも
拠点があったらしく、肥前国風土記には、
小城国府の言葉が残っている。
817 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 20:04:00.32
>>815 単細胞なんだよ
人間には意訳という能力があるんだよ
直訳だけするな!!!!!!!!!!!!
ゾウリムシ!
818 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 20:06:34.09
むしろ、異訳
819 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 20:07:35.82
唐津から糸島へは、今でも、
海沿いの崖っぷちに作られた道か、
標高の高い山を登る道しかない。
あ、あと、山の上に高架で有料道路ができたな。
820 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 20:11:01.64
唐津から糸島までは、JR筑肥線が走っているが、
崖っぷちにトンネルが掘られるまで開通できなかった。
唐津から福岡に直接行ける路線は、地元住民の悲願だった。
821 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 20:15:40.68
唐津街道は朝鮮出兵の大軍も行進した古くから有名な街道筋
邪馬台国問題に限り、この街道を知らぬ存ぜぬの江戸学者とその一派が多いのはナゾ
822 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 20:21:51.96
823 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 20:47:20.54
>>821 時代を考えろよ
秀吉の時代に魏使が来たのかーーーー
824 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 21:06:43.35
>>822 ここ何度も通ったことあるけど
海岸沿いの道で平坦で通り安い道だ
線路引くにはトンネルが必要だったかもしれないが
人が通る分には問題ない
山越えで佐賀に出るよりは楽だな。
825 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 21:14:33.00
>>823 ちと説明不足だったな
江戸時代に整備された「唐津街道」は小倉〜宗像〜福岡〜前原〜深江〜唐津の海沿いの道
いっぽう(現)唐津鉄道ぞいの佐賀市〜笹原峠〜唐津市の道も古くから知られていた街道で、秀吉軍も通過している
だから江戸時代の学者の新井白石や本居宣長が知らぬはずなく、
この道を利用して簡単に佐賀平野へ出られることはわかっていたに違いない
なのにこれを無視した結果、今日に至るまで邪馬台国論争に陰を落としている
そういう意味
826 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 21:16:50.73
唐津から糸島へ向かう道は、
江戸時代は唐津往還路と呼ばれていた。
3度渡船に乗ったそうだ。
>>822にあるように、崖が海まで迫り、
その崖を切り崩して、コンクリートで
固めているのがわかるだろう。
827 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 21:20:01.90
佐賀へ向かう唐津街道は、ずっと谷が続き、山の間を抜けて
佐賀へ続く道。
最も標高が高いところは、厳木の峠で、
標高100メートルもいかない道である。
828 :
○:2013/12/01(日) 21:41:49.50
【 糸島誌 】 福吉村 第五章 交通
本村は、地形東西に長く南北に狭く山脈海に迫れるを以って交通は便利ならず。
又、海岸に良港湾なく水運の便少なし。
福岡市より唐津に通ずる懸道は、平坦にして運送の便よく、
且通路は多くは海濱に沿えるを以って風光の佳麗なる処多し。
佐渡より堀までは其通路傾斜急なるも道幅廣く荷車を通ずるを得。
堀より真名子に至る道は嶮しく歩行に困難を覚ゆ。
吉井より東松浦七山白木に通ずる道は嶮悪なれば将来改築の計画あり。
吉井より鹿家に通ずるには、新道と旧道とあり、新道は所謂懸道にして
旧道は立花嶺を越ゆるを以って頗る嶮なり。(二丈CCだな)
されど今は新道によりて運送をなす。
大正十四年北九州鉄道開通以来交通便利を得るに至れり。
「二丈町誌」より
陸路が難所のため、出入りの出荷は、危険を冒してでも玄界灘の
海運に頼らざるを得ない状況だった。
829 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 22:17:52.57
邪馬台国問題で大事なことは、従来の論争で間違いが2つある。
1つは、21か国は、邪馬台国の南でなく北にある。もう1つは、
狗奴国は、邪馬台国の南でなく、奴国の南にあるということ。
これで、位置論は解決すると思う。
有明海のモンサンミシェル
邪馬台国、島原半島へようこそ
831 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 23:44:56.54
交通は便利ではないが福岡市から唐津に通ずる県道は
吉井から鹿家までが立花峠を越えるので険しかったが
新道が出来て平坦になって運送の便が良くなった
と書いてあるけど
>陸路が難所のため、出入りの出荷は、危険を冒してでも玄界灘の
>海運に頼らざるを得ない状況だった。
なんて書いてないけど?
>海岸に良港湾なく水運の便少なし
だから海運に頼ってないでしょ?
832 :
大和 田 直木:2013/12/01(日) 23:57:25.29
>>830 邪馬台国7万戸35万人の人々は何処の地域に住めたのでしょうか?
833 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 00:17:52.67
唐津から怡土へ行くというのならば、方角が合わない。陸行するというのも不自然。玄界灘
沿岸からいきなり南へ水行するというのも不自然。南へ向かうのならば、佐賀へ行って有明
海を南下するのが便利。これならば、倭人伝の書く方向、距離がぴったり。陸行も当然。
834 :
大和 田 直木:2013/12/02(月) 00:54:18.77
>>831 >>828をよく読め。
糸島市二丈吉井から先は山越えで道が険しいと書いてあるんだよ。
糸島市二丈鹿家は立花峠(二丈CCの南)を越えた先の陸路のドン詰り。
唐津市七山白木は白木峠(福岡セブンヒルズGCの北)越えで、玉島川中流(東松浦)の谷間に出て、
玉島川沿いに下り唐津市浜玉(東松浦)に出る。
感想
このあたりのゴルフ場は、比較的傾斜の少ない丸い山頂部にあるんだね。
835 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 06:48:31.11
なるほど、今は唐津街道があって糸島から唐津へ海岸沿いに行けるようになっているが、
邪馬台国時代にはその道がなくて、糸島市二丈吉井から糸島市二丈鹿家は山越えの極め
て厳しい道だったということか。
836 :
○:2013/12/02(月) 08:43:30.84
>>831 >なんて書いてないけど?
二丈町誌と糸島誌を混同してないか?
もう一度読んでみたら。私も今度図書館に行ったら確認するが・・・
>>834 大和 田 直木氏
どちらにせよ、陸行五百里で糸島は無いと言う事だろう。
地元研究家は、壱岐〜今津直行説が多いけどね。
ローガン氏と一緒の「地理誌」説だな。
837 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 10:57:10.06
伊都国(倭奴国)と位置関係
☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。
それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。
☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。
☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
(北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)
838 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 10:57:47.97
古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」
このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」
現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。
東西南北を間違える池沼は役人に採用されない
840 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:16:51.13
お前らってほんと馬鹿じゃね??
だから素直に倭人伝を読めって
「又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。
草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。」
末盧國=山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。
好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。
どこに上陸して伊都国に至るまで、「末盧國の家は山の中にあり、山菜を好んで食す」って書いてあるんだよ。
どこに伊都国までの道理で「山中を行く」とか書いてんだよ。
素直に読め、ばか者
「山海に沿いて居る」=どう考えても山がすぐそばに迫る海沿いって事だろ
「好んで魚ふくを捕うるに」←どう考えても海沿いだろw
「東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る」=そして海沿いを陸行して伊都国に行く
こう考えるのが普通だろうが。
お前らは、どうしても自分の故郷に邪馬台国を持っていきたくて必死すぎなんだよ。
素直に解釈しろ、素直に。
ただ方角がおかしくなる。この事も
>>837-838で説明してんだろ。
魏使はずっと南下してると思ったんだよ。だからその後の記述に
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある」と書いてるだろ。
つまり、ずっと基本は南下して「九州の場所は会稽郡東治(紹興市)の東」と勘違いしたんだよ。
勝手に「山の中」とか作るな。 まるで畿内説や宮崎派のやることと変わらんぞお前らは。
もっと素直になれ。
841 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:22:20.92
>>838曰く
「唐津〜福岡の位置関係はオレでも錯覚するくらいだから、当時の魏使が錯覚しても不思議ではない・・・、」
おいおい、語るに落ちるだぞ
842 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:30:59.82
>どこに伊都国までの道理で「山中を行く」とか書いてんだよ。
山中じゃねえよ。
小城、多久までずっと谷だ。
厳木に標高100m程度の峠がひとつあるだけ。
GoogleEarthでは標高もでるから、確認してみな。
843 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:31:26.77
追加
「草木茂盛して行くに前人を見ず」←これは道無き道を歩いたことを意味してんだよ。
素直に考ろ、お前ら反糸島組は反論してるつもりだろうが
全部自分で魏志倭人伝の答えを言ってんだよw
>>835 >なるほど、今は唐津街道があって糸島から唐津へ海岸沿いに行けるようになっているが、
邪馬台国時代にはその道がなくて
そのとうり(笑)
「草木茂盛して行くに前人を見ず」。そう書いてるだろw
お前らは必死に糸島に反論してるようで、実は糸島=伊都を肯定してんだよ。
気付け。そして素直に読んで素直に解釈しろ。
844 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:34:16.61
>>840 >至末盧国、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。
>東南陸行五百里、到伊都国
濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、の部分は末盧国に関する形容である。
このようにざっと末盧国を見渡したのち、
それでは行くか・・、と次の目的地の東南・佐賀伊都国へ向って歩きだしたというわけだ。
845 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:35:52.22
唐津に上陸して、素直に南東に進んで、小城に到着。
素直に東南に進んで、佐賀に到着
素直に東に進んで、大川に到着
素直に筑後川から南へ水行。
847 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:37:31.92
>>842 山でも谷でも一緒だろうがw
どこに「谷を行った」と書いてんだ??
どこに「谷沿いに家が並んでいる」とかいてんだ??
「谷」なんぞ「山」より一文字も倭人伝に記述がないわww
勝手に創るな(笑)
「山海に沿いている」←すぐ山が迫る海岸線に沿っているが正解
これを「谷」に沿っていると勝手に解釈するお前らは
畿内派宮崎派のやってることとやり方が同じなんだよ。
848 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:43:31.13
>>847 >末盧国、有四千餘戸、濱山海居、
前後関係をごちゃ混ぜにするなよ。素直に読めば「山海に沿いている」のは、末盧国の四千餘戸に関する形容である。
東南へ向う街道のことではない。
849 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:44:12.33
又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。
草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。
有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。官曰?馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
>草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
この部分は末廬國に関する見聞であり、途中の道のことでは無いと思われる。
850 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:49:40.95
>>844 >濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、の部分は末盧国に関する形容である。
それでは行くか・・、と次の目的地の東南・佐賀伊都国へ向って歩きだしたというわけだ。
まるで 空から天孫族がクシフル岳に降りて来たのだ と主張する宮崎派と同じ知識レベルw
だ・か・ら どこに「谷」を行ったと書いてあるんだ??
「谷」なぞ「山」よりも一文字も出てこない勝手な解釈。
びっくりするぐらいトンデモ自分勝手説にすぎんww
末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。
草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。」
「谷」など一文字も無いw
どう考えても海岸沿いの道無き道を歩いたと解釈する方が自然だろ。
家も「山海にそいて居る」のだからな。
それと、伊都国・斯馬国・奴國・不彌國 佐賀のどこに名残があるんだよw
おまえら郷土愛が強すぎで自分の故郷に邪馬台国を持って行こうと必死すぎなんだよw
怡土郡志摩郡と佐嘉郡は同一の王が統治していた可能性
852 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:54:53.23
>だ・か・ら どこに「谷」を行ったと書いてあるんだ??
>「谷」なぞ「山」よりも一文字も出てこない勝手な解釈。
>びっくりするぐらいトンデモ自分勝手説にすぎんww
谷以前に、平野とも崖とも山中とも、
行程に関しては描写されていないと思うのだが?
853 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:56:58.95
>山海にそいて居る。
これは末盧國の住人がそのように居住していると見るべきであり、
行程の描写ではなかろう?
854 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 11:59:31.15
>>850 文章の流れは、時間の流れに沿って順々に書くべきもの。
前へ行ったり後ろに下がったりは小学生の書き方。
また前へ戻ったり、後ろへ飛んだりも小学生の読み方。キミはその時代の癖が抜けてないなあ。。。。
855 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:00:12.72
「谷」の道なき道を行く←こんなどこへ行くかも分からない自殺行為をすると
平気で主張する伊都国佐賀説派ww
同じ道なき道を行くなら絶対に「海沿い」を行くわな 誰だってw
「山」や「谷」の道なき道を行くとかww
まだ尾根の「山」を行くなら分かるが、「谷」の道なき道を行くとかww
俺が魏使なら絶対に「拒否」して「海沿い」を行こうと言う。
自分に置き換えて想像してみろ。
例えここを行けば伊都国に行くといわれても
「谷」の道無き道なぞ絶対に行かんわなw
動物に襲われる可能性もあるし第一にそんな道を勧める倭人を疑うわなww
常識も通じらんのか伊都国佐賀説の連中はww
856 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:04:01.08
>伊都国・斯馬国・奴國・不彌國 佐賀のどこに名残があるんだよw
当時の国を村ぐらいに考えるのがまちがいだな。伊都国なんぞ玄界灘沿岸から
有明海沿岸までだったと考えればいい、怡土のあたりから佐賀のあたりまで領土
だったとな。奴国も同様に玄界灘沿岸から有明海沿岸までだろう。福岡から大川
までな。とにかく、奴国、伊都国は北部九州の大国なんだよ。
857 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:07:17.66
>>855 唐津は福岡県ではないぞ。
今も唐津は、佐賀県唐津市である
古来、唐津市と小城・佐賀市の交通はまことに便利であり、今日も経済圏を同じくしていることはきわめて重要であろう。素直に嫁。
858 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:09:38.49
この時代に唐津から佐賀に行く道がどの程度整備されているかはわからんが、
まさに通路のように山の間を縫って、道が続いている。
天然の連絡路といっても良い。
後の秀吉の唐入りなどでも、拠点である松浦の名護屋城へ行くために使われた道であり、
佐賀城下にまで滞陣した話が伝わっている。
859 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:09:41.75
>>852 「山海に沿いている」
「草木茂盛して行くに前人を見ず」
「東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。」
どこが、「谷」ですか??
谷の道なき道を行くような自殺行為をする人間は君達ぐらいだろw
そして壱岐から最短距離で九州に上陸して、伊都に陸行するには
まず東南に歩くよね。そしていつの間にか北東に向かうのが九州北部の地勢。
まさに
>>837-838が正解。
君達のは畿内派宮崎派のような勝手な解釈のトンデモ自分勝手説だよ。
「谷」ってww どこに出てきてんだよww
860 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:13:23.83
>>859 これ以上は水掛け論だろう。
古来より使われてきた唐津街道と、
険しい記録が残っている唐津と糸島への道
どちらを取るかは他の読者次第だ。
861 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:15:04.09
道がないなんて馬鹿なことを本気で言ってるのか。縄文時代、弥生時代だって大変な長さだ。
当然、道はかなり発達しているよ。ただ、自動車や馬車がないからな。
そう立派な道ではないだろうし、道路脇に草木が茂ったりしているということだろう。
862 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:15:18.16
糸島へ向かうなら、唐津に上陸する必要はない。
直接糸島に向かえば良い。距離も余り変わらない。
>同じ道なき道を行くなら絶対に「海沿い」を行くわな 誰だってw
直接行けば、このような無理をする必要はない。
863 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:17:21.22
>>859 >「東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。」
>どこが、「谷」ですか??
おまい、グーグルの航空写真も見れぬのか、困った年寄りだ。
東南五百里の小城・佐賀へは、谷間の平坦な道を行けばよいのだ。小学生の遠足にも、爺婆のウオーキングにも好適。
864 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:20:01.74
>>858 もうここまでくれば、お前らが言ってる事って
畿内派宮崎派が必死にあることない事書いて自分の思うところに必死に持って行こうと
しているトンデモ説なんだよ。
魏志倭人伝に一文字も登場しない「谷」を行ったとかww
トンデモにトンデモを上塗りしてるだけなんだよ、お前らの主張は。
もっと素直に解釈しろ、ちょこっと「ハマった」からって所詮トンデモなんだよw
名残も何にも無いところに勝手に比定したり、そのトンデモを正当化するために
魏志倭人伝に一文字も出てこない「谷」を行ったとか行ったり。
はっきり行ってお前らの言ってる事やってることは キチガイ だ。
もっと素直に解釈しろ。
俺みたいに何の矛盾もなく説明できるようにしろ。
865 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:21:09.86
矛盾だらけが、良くいうよww
866 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:25:20.10
867 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:32:12.92
>>862 伊都国には女王卑弥呼が居るので直接船を乗り付けるのは不敬であることと
使者は長い船旅で早く陸地に上がりたかったから。
868 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:32:35.73
>>862 >糸島へ向かうなら、唐津に上陸する必要はない。
直接糸島に向かえば良い。距離も余り変わらない。
直接行けば、このような無理をする必要はない
ば〜か。
>>859を良く読め
>壱岐から最短距離で九州に上陸して、伊都に陸行するには
まず東南に歩くよね。そしていつの間にか北東に向かうのが九州北部の地勢。
最・短・距・離 分かる??
>>863 だ・か・ら どこに「谷」って書いてんだ??
お前らはほんとキチガイだな
必死すぎて気持ちわるいんだよ キチガイ連中がww
だから、お前ら勝手に物語を創るな。
魏志倭人伝には「谷」や「谷間」なぞ一文字も無い。
気持ち悪すぎるんだよ 伊都国佐賀説 連中はw
佐賀に 伊都国・斯馬国・奴國・不彌國 の名残も全くない。
アホかお前ら キチガイが
もっとまともな証拠をもってこい キチガイ どもが
まるで 隣の国の連中みたいな主張と開き直る態度 おまえらほんと気持ち悪すぎw
書いてある字も読めないんだから書いてない字が読めないのは当然だなw
あきらめな低脳くんw
870 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:54:22.49
家も何もない山の中(谷)にもぐりこむ伊都国佐賀説連中の主張ww
想像したら自殺行為以外の何ものでもないww
定説(素直)
家は「山海に沿いてある。」←山が迫る海岸沿いに沿ってある
伊都国佐賀説(富士の樹海ですか??)
家も何も無い山の中(谷間)の道なき道を行く←馬鹿丸出しww自殺行為w
どう考えても海沿いだな(笑) ましては大事なお客様なのにww
家も何も無い谷を歩くとか馬鹿丸出しw
どこで休憩できるんですか?? 熊に襲われますよww
目印は何ですか?? 迷子になりますよww
だれがどう考えても家が並んでいる 海沿い を陸行しますわな。
佐賀説馬鹿すぎww
871 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:56:07.79
伊都国(倭奴国)と位置関係
☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。
それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。
☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。
☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
(北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)
872 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 12:56:52.79
古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」
このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」
現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。
873 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 13:01:04.37
>だれがどう考えても家が並んでいる 海沿い を陸行しますわな。
では、唐津市から佐賀市へ行くときは、どういうコースをたどりますか?
874 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 13:03:06.35
大魔王の錯覚と錯乱
875 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 13:10:19.97
>>856 伊都国は1,000戸しかない、玄界灘沿岸から有明海沿岸まで怡土のあたりから佐賀のあたりまででは領土大きすぎ
奴国も20,000戸だが筑前地方内に十分収まる、玄界灘沿岸から有明海沿岸まで福岡から大川では大きすぎ。
傍らの国21か国が入るところがなくなる。
岩場の多い海岸は
海沿いを歩くのは自殺行為だよ
古代に道を造るのは不可能だよ
877 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 13:53:03.35
傍伊都国の大魔王錯乱中!
中国人にとっては、道なき海岸より、平らな内陸の道ほうが好きだろう。
879 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 14:58:59.05
中国・半島から連れてこられた乗馬や挽馬だって平らな内陸の道を好む、鹿はしらぬ、、、
881 :
フィクション大魔王:2013/12/02(月) 16:12:09.18
>>874,877 そこの権兵衛!
私は、壱岐→今津湾説だぞ。地理誌説だ。
唐津から糸島へなど歩くか。
882 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 18:13:07.55
さようですか
大魔王様はあんな道はお歩きになりませぬか、、、
883 :
フィクション大魔王:2013/12/02(月) 18:39:21.77
>>882 おやっ、以外に懐の深い受け答えだね。
今宿バイパスの県境に鹿家Pがあるが、よく車が止まって景色を見ている。
私が「魏使は、ここを歩いたそうですね。」と声を掛けると
女性「そんな馬鹿な」
男性「はっはっは、困りましたねぇ。」と答える人が多い。
そんな場所だよ。
884 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 19:12:58.58
テスト
885 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 19:19:23.73
糸島ジモティで、唐津自動車学校に通ったが、
あんな道が当時からあったとは思えんしな。
唐津から糸島へ歩くなんてありえんと思うよ。
886 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 19:30:16.93
それでも唐津街道は、あった
887 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 20:20:24.46
現代人と違って昔の人は何処に行くにも歩いたんだよ。
888 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 21:20:26.37
>王遣使詣京都帶方郡諸韓国及郡使倭国、皆臨津搜露伝送、文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
「搜露伝送、文書賜遺之物詣女王」とあるからには、それなりの人数で文書物資を伝送する道幅や引継の宿所を備えていたのであろう。
歩く道さえあればよかったという程度のものではあるまい。
>>887 草鞋が普及する前は何を履いていたんだろうね?
石破が「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わら ない」と言ったが
九州説の根拠のない断定戦術、連呼戦術もテロ行為だわな
891 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 23:36:24.88
>>883 バイパスの県境を歩いたと思う方が異常だな
文明はまず道を確保しないと発展しないからね
唐津街道も長崎からのシュガーロードも興味深い
893 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 23:51:10.32
国道202号の深江−浜玉間は、
玄海の荒波砕ける崖の上にありますからね。
景色はいいですが。
894 :
日本@名無史さん:2013/12/02(月) 23:53:27.94
シュガーロードで、松露饅頭と白玉饅頭。
うまいよ。
白玉饅頭の美味しさは異常
日持ちしないので土産にならないので地元民しか知らない
896 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 05:30:48.91
今まで気づかなかった解釈
邪馬台国への水行十日、陸行一月は、陸行の
起点国名、方位がないので、あるいは式に読むのであろう。
南へ水行、陸行出来るのは、海岸線が南北になっている事を意味する。
九州の東海岸で海岸が南北になっているのは、延岡から宮崎市までの
海岸である。地図でこの間の距離を測ると75kmである。
つまり、水行十日=陸行一月=75km と言える。
897 :
フィクション大魔王:2013/12/03(火) 06:44:10.38
>>891 権
>バイパスの県境を歩いたと思う方が異常だな
高台から唐津海岸線を見渡したら、こんな場所を荷物持って歩くよりも
壱岐から船で直行するだろうという多くの人の感想だ。
山の上を歩く馬鹿がいるわけないだろう。
レベルが低く過ぎるんだよ!
898 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 07:38:22.03
倭人の歓迎パレード用の道が呼子から前原まで
荷物は歓迎の倭人達が運ぶ
まぁ昔はイノシシ等の獣道が役にたったらしい
有明海のモンサンミシェル
邪馬台国島原半島にようこそ
7万戸?弥生時代に35万都市が在ったとでも?
まず鵜呑みせずに、冷静に物事を考えましょう。
あと、同時の人の流れは水と同じ。
自然の地形で道を作り、境界線を引いている。
同時ちゃう、当時だった(^_^;)
902 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 11:35:04.34
道と云えば航路も海の道
壱岐からは、松浦、今津、博多、香椎、古賀など、対馬からは沖ノ島〜宗像、小倉などなど、
現代に名前は伝わっていないけれど、各地の豪族ごとに海の道を確保していたのであろう
倭人伝はその代表として、そうした名もなき豪族たちによって共立された卑弥呼の国を伝えているわけだ
903 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 12:02:07.72
そんなら要らないじゃん一大率
女王が壱岐対馬から遠いから必要なんですお
904 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 16:28:03.44
>>903 ば〜か、「漢倭奴国王」が代々博多湾岸にいるだろ。
それがその名残が「一大卒」なんだよ。
佐賀や宮崎の奴は必死すぎて魏志倭人伝や記紀を素直に読めんバカばっかだなw
どうにかして、「我が町宮崎」や「おらが村吉野ヶ里」に比定しようとして
現実を事実の記述を捻じ曲げて「おらが村」に持ってこようと必死すぎて滑稽だなw
905 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 16:55:14.71
古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」
このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述
倭人伝:「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」
(今までの道理行程を振り返ると、その場所は会稽郡東治(紹興市)の東にある)
つまり、魏使は帯方郡から上陸しても基本ばずっと南下してたと勘違いしている明らかな証拠だな。
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」
現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。
906 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 17:01:56.17
徒歩で何日も太陽見てて方角間違うもんかね?
907 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 17:02:53.22
伊都国(倭奴国)と位置関係
☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。
それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。
☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。
☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
(北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)
908 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 17:06:39.96
邪馬台国の範囲としては少なくとも筑前、筑後、肥前
肥後、豊前も入るかもしれない。
当時は使者が常に通る道だから呼子から前原までは道が整備されていたんだろうな
島原名物の白玉の原料寒ざらし(白玉粉)はいとこの所で作ているので
十数年前は、仕事で古湯によく行っていたがインチキ臭く感じて白玉饅頭一度も買わなかったな
美味しいのか?
909 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 17:10:19.82
>>906 季節によって太陽の方位は45度ずれるからな。
東南と東北もちょうど45度。
どっちにしろ、そういった季節とうの屁理屈を抜いても
「会稽郡東治(紹興市)の東にある」
↑
この記述からも魏使は上陸してからもずっと基本は南下したと
勘違いしていたという事は素直に理解できる。
910 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 17:18:09.70
911 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 17:42:24.65
基本的に誤読説は、正読説が成立する場合、
相当の根拠がなければ、ひっくり返すのは難しい。
912 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 17:45:21.53
色々難しいことを書いているが、
東南方向に立派に道となる地形もあることだし、
私は、東南の佐賀に向かう唐津街道を採る。
913 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 18:01:35.37
>>909 目星をつける
それが図星
などの如く、古来、星や星座は方向を定めるもっとも重要な手掛かりだった
季節で方角を変える太陽の動きなど、北京原人でも知っていたであろう
914 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 18:55:07.22
何度も同じようなことの繰り返し。邪馬台国関係者はやはりキチガイヲタだらけだな
915 :
イタクァを作らないか?:2013/12/03(火) 19:14:55.49
このスレの乾燥を唄に米て
916 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 21:02:17.28
頭悪し
917 :
フィクション大魔王:2013/12/03(火) 21:13:03.54
>>912 >私は、東南の佐賀に向かう唐津街道を採る。
唐津から「東南陸行五百里」は、小城市牛津になるだろう。
とっとっところが、
肥後風土記によると 唐津=松浦郡。 佐賀市は、西から
「杵島郡ー小城郡ー佐嘉郡ー神崎郡ー三根郡ー養父郡ー基肄郡」と記されている。
小国の王が大和朝廷に組み込まれた時、国造、県主となり、地名の多くが現在も残っている。
今でも地名が残っているという事は、風土記の国割りが正しいからだろう。
筑後川沿岸は現在の地図でも青筋だらけで、古代湿地帯は間違いなく大国は考えられない。
伊都国=糸島説は、奴国=春日市とセットで、認識されている。
伊都国=佐賀説は、「東南五百里」の奴国の説明が必要となる。
918 :
フィクション大魔王:2013/12/03(火) 21:29:05.78
対馬から伊都国まで、情緒豊かに記載されて来た国情記事が、
奴国からは、ひと言も一文字も書かれていない。
記載がないからと言って、行っていないとは言えない。
だが、実際に行ってるのに記載しないはずがない。
「男子無大小、皆黥面文身」海人族の世界からは一歩も出ていない。
「皆」のひと文字の存在は大きい。
「丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」。伊都国から出ていない。
卑弥呼は、糸島に来ていた。
919 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 21:42:59.75
図星とは北極星のことだ。
妙見、北斗信仰のある部族は、北斗七星の地平線からの角度を頼りに遠くアレキサンドリアから同じ緯度を東征してきた。
アレキサンダー大王の東方遠征は地球が丸いという仮説を証明するための壮大な実験だったのだ。
遠征隊からの伝令が途絶えると、再び遠征隊を派遣するといった要員補充も計画に行われた。
しかし、それさえ、6万年も昔に古モンゴロイドが南アメリカ最南端に達した古都の焼き直しに過ぎないのだ。
三浦雄一郎、植村直己、野口健といった冒険家の行動は、彼らの子孫だろう。
920 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 22:03:40.94
<東夷伝>
中国の史書の中で、中国の東方に住んでいる諸民族について書かれた伝(記述)。
全13の東夷伝は、多くは倭について前書を参照しつつ軽くふれているにすぎない。
これらと対照的に、魏書東夷伝にあっては例外的に倭国と女王につき詳細に記載されている。
このことに留意しなくてはならない。
1 『三国志』の東夷伝
2 『後漢書』の東夷伝
3 『宋書』の東夷伝
4 『南斉書』の東夷伝
5 『魏書』の東夷伝
6 『晋書』の東夷伝
7 『梁書』の東夷伝
8 『周書』の東夷伝
9 『隋書』の東夷伝
10 『北史』の東夷伝
11 『南史』の東夷伝
12 『旧唐書』の東夷伝
13 『新唐書』の東夷伝
921 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 22:43:09.05
>>920 だから何んだ
自分の意見がないのなら書くな
一人で留意してろ
922 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 22:54:10.05
>>921 「例外的に倭国と女王につき詳細に記載されている」 ←この意味は
あれも書いてない、これもかかれていないなどと、不平不満を述べるのは欲の皮が厚すぎると言う意味
魏志倭人伝においてこれだけの字数を費やしてあること自体、特別別格の扱いと知るべし
923 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 23:02:00.88
>>922 そんなもん、支所を見りゃわかるだろう
特別別格の扱いが何を意味してるんだ
状況だけを書くな
一人で留意してろ
924 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 23:04:04.26
925 :
日本@名無史さん:2013/12/03(火) 23:29:16.15
>>922 ご説もっともなのかもしれないが、IDもトリップもなしではあなたがどういう主張の人か1つのレスで判断するしかない
結論まで書くかトリップ付けてくれる?
926 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 08:42:09.46
>「丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」。伊都国から出ていない。
> 卑弥呼は、糸島に来ていた。
「自爲王以來 少有見者」
卑弥呼は出歩かない、卑弥呼は、糸島に住んでいた。
「丗有王 皆統屬女王國」
魏の世、伊都国に王が居た。倭の国々は皆、女王国に統属していた。
927 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 09:52:18.17
>>909 棒を立て、影の先端を印して、棒を中心に影の先端の長さで半円書いて、
円と影の先端が合ったら、前の先端と結ぶ線は東西を示し、垂直線は南北を
示す。
太陽が東から南にずれて昇る時、沈むのは、西から南にずれる。つまり、
日の出と日没の真ん中の南は季節に関係なく、ずれない。
南にずれて昇る時、沈むのは、北にずれると思ってる人はいないと思うけど。
念のため。
それは地球物理を知っている現代人の発想さ
天地が実際よりずっと小さいものだと思っている古代中国人は
大地の東の果てに近い土地では太陽の上る方角は南
と認識した可能性が大きい
929 :
大和 田 直木:2013/12/04(水) 10:20:01.32
>>918 >>926 「自爲王以來 少有見者」
「邪馬壹國 女王之所都」
「居處宮室樓觀 城柵嚴設」
卑弥呼は出歩かないで、卑弥呼が都する所の邪馬台国の城柵に住んでいた。
「丗有王 皆統屬女王國」
「郡使往來常所駐」
伊都国では、魏の世にあっても2〜3代の王が居り、
その王たちは皆、女王国に統属していた。
伊都國では、郡使が常に往来しており、そこでは彼らが駐していた。
930 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 10:32:36.90
>>927 唐津から伊都まで歩いてるのに一日中、棒を立ててるわけないだろw
常識で考えろ、キチガイ宮崎伊都国佐賀説の馬鹿どもはww
ほんとこいつらってしつこいキチガイだなw
必死なキチガイ=知能がない
ちったあ常識を考えて素直に歴史書を読み客観的に常識的に考える力を身につけろ
キチガイが
931 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 10:35:07.48
古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」
このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述
倭人伝:「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」
(今までの道理行程を振り返ると、その場所は会稽郡東治(紹興市)の東にある)
つまり、魏使は帯方郡から、九州に上陸してからも基本ばずっと南下してたと勘違いしている明らかな証拠だな。
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」
現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。
932 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 10:36:42.19
伊都国(倭奴国)と位置関係
☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。
それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。
☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。
☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
(北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)
933 :
大和 田 直木:2013/12/04(水) 10:45:25.91
倭人伝の方向はある星座の位置を基準として決めたのだ。
商殷代(BC1100)の星座を使って、魏代(AD238)に方向を測定すると、
その測定した方向は実際の方向より反時計回りで約30°ずれる。
東南よりの南方向は東南方向になり、東よりの東南方向は東方向となる。
倭人伝行程の南方向が東南方向寄りになっている理由が上記である。
しかし、90°もずれて、東南陸行五百里が東北陸行五百里になることはない。
934 :
大和 田 直木:2013/12/04(水) 10:55:52.91
>>931-932 >>933の理由により45°以下の方向間違いはあっても、
90°も方向を間違えることはあり得ない。
末盧國の東南500里の伊都國は、佐賀市大和町の肥前国庁跡付近である。
935 :
大和 田 直木:2013/12/04(水) 11:11:09.86
對海國から伊都國までの国情記述は多いのに、
奴國から国情記述が少なくなるのは何故か?
それは奴國で女王國に到着したからである。
女王國の記述は後文で多量に記述されていくからだ。
郡から伊都國までの合計道程距離は11900余里である。
残り100里の奴國と不彌國で12000余里になるから、
奴國と不彌國は女王國を構成する国である。
>>933 そんなデタラメな天文学、あるわけないでしょ
937 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 14:38:57.72
>>929 >卑弥呼は出歩かないで、卑弥呼が都する所の邪馬台国の城柵に住んでいた。
@卑弥呼は外出せず宮殿から動かなかった。
A卑弥呼と魏の使者は対面している。
B魏の使者は伊都国までしか来ていない。
@ABより卑弥呼の宮殿は伊都国にあった事になる。
伊都国が卑弥呼の都とすると
「丗有王 皆統屬女王國」をどのように理解すべきか
「魏の治世には伊都国に王が居た。倭の国々は皆、女王国に統属していた。」
と訳すことが出来る、この訳は漢文上正しく問題ない。
「丗有王」については代々とも訳せるが、三国志では2〜3代程度の代々であり
長い意味の代々では使われていない、魏の治世の中での限定的な代々である。
「丗有王」は単に「王が魏の治世に居た」の意味で単数か複数かは不明である。
「皆統屬女王國」の「皆」は「丗有王」を指すのではなく倭の国々を指す。
これを裏付ける資料として『魏志倭人伝』と同時代に書かれた『魏略』逸文がある
『魏略』逸文では「東南五百里 到伊都國 戸万餘 置曰爾支 副曰曳渓觚 柄渠觚 其国王皆屬王女也」とあり
『魏志倭人伝』にある「世有王」が『魏略』にはなく
『魏略』の文中で「皆」が指しているのは其国王で倭国の王達のことである
従って同一の資料(又は『魏略』)を参考に作成されたと見られる『魏志倭人伝』の「皆統屬女王國」の「皆」も
同様に倭国の国々を指しているのである。
938 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 14:49:25.36
>對海國から伊都國までの国情記述は多いのに、
必ずしもそうではないぞ
対海国と一大国は厳しい生活ぶりのなかでも、南北に交易する経済のたくましさに焦点をあてて書いている
末蘆国では、洛陽では目にするべくもない山海の温和な自然環境について述べている
伊都国においては、郡との外交関係と国内統治・政治・王制がらみを書いている
このように必ずしも各国の国内情勢全般を網羅するものでなく、
女王国に至る道すがらを変化に富んだドラマ仕立てで区々解説している
また奴国と不彌国についてはあえて記述を抑えることで、そのあとにでてくる最大の山場を女王国においているのだ
この手法ゆえに「邪馬台国女王之都」は一層際立っているというわけだ
939 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 15:05:28.31
「郡使往來常所駐」だから郡使は伊都國まで来て滞在し
里数の記載された奴國や不彌國までは見聞しているが
それより先には行っていない。
940 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 15:34:29.58
「郡使往來常所駐」は、今でいえば大使館か領事館
行く行かないは別にして、全九州島の情報はもれなく収集していたであろう
941 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 15:57:28.96
>「郡使往來常所駐」は、今でいえば大使館か領事館
伊都国にあった大使館でしょうね
倭について収集した情報は
「其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國
次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國
次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國
次有爲吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」と
「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南
人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」
942 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 16:02:36.18
「駐」って、目的地にいく途中に留ることだぞ
943 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 16:09:02.64
駐の意義
1.(馬や車を)長時間、停める。 駐車
2.(別に本拠とするところがあるが)じっと一箇所にいる。 駐在、駐屯
駐の造語
1.国外に派遣され、長期間滞在しているという意味の語を作る。 駐米、駐英
944 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 16:14:57.10
>>942 そんな意味ないぞ
元々は馬をとどめることを云う
軍を留めるを駐兵、使者を派遣することを駐箚と云う
目的地に留まるの意味だよ。
945 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 16:26:12.28
攻撃目標にいく途中じゃん
946 :
大和 田 直木:2013/12/04(水) 16:30:06.92
>>936 >そんなデタラメな天文学、あるわけないでしょ
デタラメではなく最新の天文学ですよ。
地球の歳差運動により、BC12C〜AD3Cの1400年間に天の北極が20°移動する。
天の北極の位置変動に伴い星座の方向がずれてくる。
天の北極に近い星座は最大180°方向が変化する。
一方、天の北極から最も遠い方向の星座はほとんど方向の変化はない。
天の星座の方向を12等分すると、星座の間隔は60°となる。
天の北極に近い星座が天の北極と30°ずれている場合は、方向が30°ずれる。
947 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 16:32:49.53
>>945 ふざけて意味不明ことを書かずに建設的な意見を
948 :
大和 田 直木:2013/12/04(水) 16:45:47.33
>>937 >@卑弥呼は外出せず宮殿から動かなかった。
>A卑弥呼と魏の使者は対面している。
>B魏の使者は伊都国までしか来ていない。
同意 @卑弥呼は外出せず宮殿から動かなかった。
同意 A卑弥呼と魏の使者は対面している。
異議 B魏の使者は伊都国を基点に、指定された日時に合わせて卑弥呼に会いに出かけた。魏使も郡使と同様に伊都國に駐したのである。
949 :
大和 田 直木:2013/12/04(水) 16:48:02.12
修正
誤 天の星座の方向を12等分すると、星座の間隔は60°となる。
正 天の星座の方向を12等分すると、星座の間隔は30°となる。
950 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 16:48:24.73
>BC12C〜AD3Cの1400年間に天の北極が20°移動する。
20度の移動はほんとうか
そんなに地球が傾いたら、九州はカムチャッカもしくはフィリピン辺りの緯度になるぞ
951 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 16:55:02.04
>>948 >異議 B魏の使者は伊都国を基点に、指定された日時に合わせて卑弥呼に会いに出かけた。魏使も郡使と同様に伊都國に駐したのである。
卑弥呼に会いに出かけたとしても、魏の使者の行動範囲は奴國や不彌國まで
そこから先の情報は倭人からの伝聞だけですから。
952 :
大和 田 直木:2013/12/04(水) 16:57:18.66
>>950 歳差運動では緯度の変化はありません。
地球の歳差運動について調べてね。
地球の歳差運動の周期は約26000年。
953 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 16:58:08.02
常識で考えても唐津から魏志倭人伝に全く記述のない「山」や「谷」を通って佐賀とかないわな。
佐賀派が宮崎派や畿内派のように無理矢理こじつけてキチガイ染みた話を展開してるにすぎん。
ましてや「前の人も見えない」所を行ったのに、
何処に出るかわからないような、「山」や「谷」を行くバカはいない。
左手に海(目印)を見ながら陸路を行ったのが自然だな。
第一に唐津周辺の海や住人の事を詳しく書いているのに、歩いた道だけ
佐賀に持っていこうと「山」や「海」に持っていこうとするのも佐賀説の
宮崎派や畿内派と同じキチガイ染みた自分勝手な思想。
九州に上陸して、糸島に向かうのに、海岸線をまず「東南」にむかう。
そして海を見ながら歩いていたら陸路はいつのまにか「北東」に向かってる。
そういった北部九州独特の事情や出発前の「東夷=九州」のイメージから魏使は方角を
間違ったと考えるのが自然。
魏志倭人伝に記述のない「山」や「谷」に急きょ進路を変えたと主張する佐賀説はその時点でもう成立はしないな。
まあトンデモ説とはそういう「矛盾」を声を大にして言わないと成立しないのがSAGAだからなw
素直に魏志倭人伝や記紀を読みなさい。
954 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 16:58:44.43
955 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 16:59:42.15
>正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王、
魏使一行は、確実に邪馬台国女王之都まで詣でた
956 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 17:01:00.16
前の人も見えないような「山」や「谷」に入る
↑
自分から遭難しにいく自殺行為
常識で考えな佐賀派はw
957 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 17:01:31.42
古代中国において、倭がある九州島を太陽が昇り扶桑の茂る「九夷」として憧れの地になっていた。
「孔子が言った。中国で道徳が受け入れられないなら、東の海にある九夷に行きたい。」
倭人伝では:「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」
このように出発前の魏使の頭には倭のある九州は温暖であり豊かであり桃源郷のような場所のイメージがあった。
よって上陸してからも東南に向かった事などからもずっと基本は南に向かっていた(楽園に向かうように)と思ったんだよ。
「場所はおよそ(倭国がある九州島)会稽郡東治(紹興市)の東にある。」←これがその結果の記述
倭人伝:「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。」
(今までの道理行程を振り返ると、その場所は会稽郡東治(紹興市)の東にある)
つまり、魏使は帯方郡から、九州に上陸してからも基本ばずっと南下してたと勘違いしている明らかな証拠だな。
「邪は伊都に届き傍ら斯馬に連なる」
現代でも錯覚しがちな唐津〜福岡の位置関係。当時の魏使も出発前のイメージと上陸して東南に向かった可能性がある事実
からしても、当時の魏使も錯覚するのはある意味仕方がない。
にしても、伊都国=佐賀はないな。 伊都国にしても斯馬国にしても奴國にしても不彌國にしても現在何の名残もない。
博多湾岸一帯にはそれらの国の名残は多数残っているがな。
958 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 17:02:08.93
伊都国(倭奴国)と位置関係
☆伊都国以北に斯馬国〜奴国までがある。
現在でも福岡市の西区周辺に住む住人には東区という呼称に違和感を持つ人は多い。
それは東区は東区ではなくて本当は北区の方が地形的にもしっくりくるというものだ。
☆奴国の南の狗奴国。男の王在り。女王に属せず。
福岡平野の南側、久留米付近にあったと思われる。
「倭奴国」「奴国」「狗邪韓國」「対馬国の大官卑狗、その妻卑奴母離」「一大国(壱岐)の官は亦卑狗、副は卑奴母離」
これらの邪馬台国(女王国)周辺の国や官と同じ「狗」や「奴」の字が使われている事。
自らを「王」と名乗れる程先進地域にあると言う事。
これらのことから狗奴国は南九州のそれ(クマソ)とは違う博多湾岸と同じ文化を持つ
元は同一の国、兄弟国とも言えるような国だったと思われる。
☆魏使が壱岐から九州への最短地点に上陸したら・・
伊都国への道のりはまず上陸して東南に進むことになる。そしていつのまにか陸路は北東に変わる。
現在でも唐津から糸島へ行くときに北東に向かうという表現はしない。
今の時代でさえ福岡から唐津へ行くのに西南に向かうという感覚はない。
福岡市にしてもそう実際は北区と呼べるような場所を東区と呼んでいる。
要するに、今現在でも北に向かうという感覚がない唐津〜伊都国間の方角は
当時の魏使にしても上陸してまず東南に向かった可能性があるため
基本は南(東南)に向かっていると勘違いしたのだ。
(北=朝鮮半島に戻る←これもおかしな事になる)
959 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 17:05:36.90
>>954 何の根拠も説明もない一行レスに
反論とか罵倒とかは無いです。
960 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 17:11:46.66
ふーん、逃げ回るんだ
961 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 17:13:59.43
佐賀平野にはこういうところもないしな
伊都国で魏使が感じた「倭」の印象
http://img29.imageshack.us/img29/4805/5312e.jpg 「ここは韓国に向かい朝日が真っ直ぐ射し夕陽が良く照るところ。故に吉き地なり。」
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
糸島半島・・・弥生時代になると瑞梅寺川と川原川からの沖積土がデルタ地帯としてのびていたが、まだ北部は島として取り残されていた。
志登と泊の間は満潮時には海面となり、干潮時には干潟となる状況が中世まで残っていた。
佐賀はムリムリ
もし伊都が佐賀なら
> 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり
↑
この一文は無いな。
「山を越えたら平野が広がっている」という表現になってるだろうな。
佐賀はムリ。 常識的に客観的視点をもってあきらめなさい。
>>952 時刻で位置の変わる星座を使って方位を判断する人はいない。
963 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 17:25:38.02
まじか...
964 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 17:35:51.44
>>952 地球の歳差運動はわかった、地軸のブレだな
しかしだからと言って、魏の人々が商殷代と同じ星、つまり天の北と30度も違う星を北の目印にしたとも思えぬ
魏の時代にはそれなりに正しい星を北の目印にしていたのであろう
>商殷代(BC1100)の星座を使って、魏代(AD238)に方向を測定すると、
>その測定した方向は実際の方向より反時計回りで約30°ずれる。
965 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 17:41:15.60
>>961 佐賀市付近は、当時はすぐそばまで海が迫り、あたりは島だらけ
この島だらけの佐賀〜筑後川近辺ほど倭人伝の記述に合う場所もめづらしい
966 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 17:50:05.62
>>961 > 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり
参・・・集めるの意味
問・・・問い
参問・・・問いを集める
「倭の地について参問するに」が正しい訳、情報を収集するの意味だな。
>海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり
これ北部九州全体のことでしょうからこれで「佐賀はムリ」とか云えないです。
967 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 17:58:01.70
968 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 18:00:06.58
>>966 つづく文章「周旋可五千餘里」も可(推測を示す「ばかりか」)が使われているから
明らかにこの辺りは倭人からの伝聞で、使者達は行った事が無い所の話。
969 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 18:01:27.66
だいたい同縮尺のはずです。
糸島へ行けるような道はありませんね。
970 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 18:11:16.17
糸島へ行ける道で所とされた立花峠でも標高100mくらいしかないからな
972 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 18:27:02.54
唐津から糸島へ行ける道で難所とされた立花峠でも標高100mくらいしかない
973 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 18:40:03.48
どうやら糸島ルートも楽じゃないな
974 :
大和 田 直木:2013/12/04(水) 19:04:12.89
糸島へ行ける道で難所とされた立花峠は標高150mくらい
しかし、二丈鹿家から浜玉までの崖下波打岩場のところ通行不能。
唐津から多久、小城までへの道は広い谷間の道。平野と変わらない。
標高100mの笹原峠は比高20mほどの緩い登り下りの道。
975 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 19:14:15.23
>>974 地図で等高線を見ると立花峠は標高100m〜120mの間ですけど?
976 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 19:44:42.73
唐津に上陸したと考えるから上のような問題が起こる。上陸地点を再検討しな
いと解決は有り得ないよ。
977 :
大和 田 直木:2013/12/04(水) 19:55:09.99
>>975 >地図で等高線を見ると立花峠は標高100m〜120mの間ですけど?
勘違いしていました。
立花峠は標高114mです。
978 :
大和 田 直木:2013/12/04(水) 20:11:02.53
>>976 >唐津に上陸したと考えるから上のような問題が起こる。上陸地点を再検討しな
いと解決は有り得ないよ。
違うね。
唐津に上陸して、高さ20m程の笹原峠(標高102m)を通って、
東南の佐賀平野へ陸行したとしか考えざるを得ないのだよ。
979 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 20:38:09.03
>>978 頭の柔軟性が不足している。何事も思い込みは失敗の素。いろいろな可能性が
いっぱい有ると考えられないのなら邪馬台国から手を引いた方が良い。
980 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 21:02:22.08
>>979 自分の見解を述べる気はないのか
評論家、コメンテイターなら引っ込んでろ
邪魔
981 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 21:36:10.54
評論家が評論家を評論するw
コメンテイターがコメンテイターについてコメントするw
982 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 21:40:19.13
>>981 評論家が評論家を評論するw とコメンテイターが言ってる
983 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 21:43:02.36
こりゃ、きりがないなあ、、、
984 :
大和 田 直木:2013/12/04(水) 21:49:47.63
>>987 >頭の柔軟性が不足している。何事も思い込みは失敗の素。いろいろな可能性が
>いっぱい有ると考えられないのなら邪馬台国から手を引いた方が良い。
頭が硬く思い込みが激しいのは伊都國前原説の君だよ。
私は頭が柔らかく、思い込みもしないので、
私の佐賀平野への東南方向ルートは、別の根拠から国道323号沿いで標高460mの観音峠越えなのです。
985 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 21:59:37.53
986 :
大和 田 直木:2013/12/04(水) 22:16:07.59
>>984 奴國の城柵は佐賀城付近。
奴國の領域は佐賀平野中部と西部。
伊都國の城柵は肥前国庁跡付近。
伊都國は佐賀平野中部背振山地の麓の狭い地域。
不彌國の城柵は吉野ヶ里遺跡(帥升王の倭都跡)。
不彌國の領域は吉野ヶ里遺跡の周辺佐賀平野東部背振山地の麓の狭い地域。
不彌國の南で奴國の東は、筑後川の河口と有明海の入江。
987 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 22:25:23.83
>>986 見事なほどに根拠なし
壱岐からの交易船はフリーだな
988 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 22:43:13.35
なるほど、
「魏使さまが通過した山道」では不十分なのだな
「倭女王が権益を支配している主要交易路を、魏使御一行も安全に進んだ・・」という状況でなくてはならないわけだ
989 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 22:46:17.09
>>986 絵に描いた餅
《どんなに巧みに描いてあっても食べられないところから》何の役にも
立たないもの。また、本物でなければ何の値打ちもないこと。
唐津湾から松浦川に入ればそのまま東南に直進するよ
991 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 00:50:54.41
とにかく、伊都国は有明海沿岸。それで陸行した理由も分かるし、南への水行もできる。
何でこんな簡単なことに気づかなかったのか、不思議だな。
992 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 01:31:17.68
@ 始 度一海 千余里 至 対海国
A 又南渡一海 千余里 至 一大国
B 又渡一海 千余里 至 末ロ国
C 東南 陸行 五百里 到 伊都国
D 東南 至 奴国 百里
E 東行 至 不彌国 百里
F 南 至 投馬国 水行 二十日
G 南 至 邪馬台国 水行十日陸行一月
A番目が 又南 とあるので、@は南と解る。Bに又とあるのでBも
南と解る。同じ事でも3つ全部文が違う。繰り返しを嫌うのが陳寿の
クセと考えられる。
次の3つは陸行である。最初は陸行とあるが、次は何もなくE番目に
は行のみである。東行である。
この次は、里数表記から日数表記で、ここでも、くり返しを嫌う表記。
Fは、水行の日数表示。次は、予測できますね。陸行の日数表示。
しかし、違う。8個全部異なる記述である。
全部で8個ですが、半分は4つで、4までは、
方位 距離 至 国名
5からは、
方位 至 国名 距離
4番目が伊都国であるが、一つの書物の中で、ここから
特殊な読みがあるとするには無理がある。ただ、陳寿が
くり返しを嫌い前と後で記述を変えたとみていいと思う。
二重にくり返しを嫌ったのであろう。
993 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 02:02:56.60
>一つの書物の中で、ここから特殊な読みがあるとするには無理がある。
連続式と放射式が混在する文章は実際にあるよ。
糸島説さんは頭ごなしに他は違う!糸島だと結論づけているだけですよ
朝倉は卑弥呼祭りやっているし、youtubeにも朝倉が邪馬台国だったという
趣向の動画があがってます
もっと視野を広くして考えた方がいいかもしれません
だいたい九州で吉野ヶ里遺跡より大きな遺跡は見つかってません
996 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 02:24:39.91
それ、チートだから
998 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 06:43:44.33
有明海沿岸、特に佐賀、熊本などの最大の欠陥は「東の海」が無いことだ。倭
人伝の読み方ではきっちり書いてなくとも、魏使たちは目の前にその「東の海
」を見ていたと解釈すべきである。九州東岸部に邪馬台国は有った。
999 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 06:46:33.75
熊本は無理だが日田ならok
1000 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 08:12:39.44
伊都国は佐賀、九州の西側も熊本あたりから女王国、東側も大分あたりから女王国
だ。その広大さが分かるだろう。
1001 :
1001:
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