1 :
徳川家康(初代スレ主):
以下、俗に言う徳川一門の話題を扱うスレッドです
■御三家■
尾張徳川家/徳川義直(1代家康9男)
紀州徳川家/徳川頼宣(1代家康10男)
水戸徳川家/徳川頼房(1代家康11男)
■御三卿■
田安徳川家/徳川宗武(8代吉宗2男)
一橋徳川家/徳川宗尹(8代吉宗3男)
清水徳川家/徳川重好(9代家重2男)
■御家門■
越前松平家/結城秀康(1代家康2男)
会津松平家/保科正之(2代秀忠4男)
越智松平家/松平清武(3代家光2男の徳川綱重2男)
奥平松平家/松平忠明(1代家康娘の亀姫1男)
久松松平家/康元系・勝俊系・定勝系(1代家康異父弟)
■御家門(断絶)■
駿河徳川家/徳川忠長(2代秀忠3男)
甲府徳川家/徳川綱重(3代家光3男)
館林徳川家/綱吉綱吉(3代家光4男)
2 :
徳川家康(初代スレ主):2013/09/25(水) 14:38:28.78
■御連枝■
尾張徳川家連枝
梁川松平家 - 第2代藩主徳川光友の三男(庶長子)松平義昌を分封(陸奥梁川藩)
高須松平家 - 第2代藩主徳川光友の次男松平義行を分封(美濃高須藩)
川田久保松平家 - 第2代藩主徳川光友の十一男松平友著を内分分知
紀州徳川家連枝
西条松平家 - 初代藩主徳川頼宣の次男松平頼純を分封(伊予西条藩)
丹生松平家 - 第2代藩主徳川光貞の三男松平頼職を分封(越前丹生藩)
葛野松平家 - 第2代藩主徳川光貞の四男松平頼方を分封(越前葛野藩)
水戸徳川家連枝
高松松平家 - 初代藩主徳川頼房の長男松平頼重を分封(讃岐高松藩)
守山松平家 - 初代藩主徳川頼房の四男松平頼元を分封(陸奥守山藩)
府中松平家 - 初代藩主徳川頼房の五男松平頼隆を分封(常陸府中藩)
宍戸松平家 - 初代藩主徳川頼房の七男松平頼雄を分封(常陸宍戸藩)
※尚、スレッド更新の際には、新スレを立てるスレ主は
スレの代数ごとに沿ってスレ主名をつけてください
たとえば次スレを立てる人は「徳川秀忠(二代スレ主)」でお願いします
3 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 18:29:47.86
御三家の当主あるいは世子は、近衛権中将から参議補任の際、
中将は参議兼任とするが、
御三卿や他の大名(例えば加賀金沢前田家)で中将から参議への
転任では、中将の兼任は行わない。
4 :
日本@名無史さん:2013/09/25(水) 19:05:00.36
歴代の徳川将軍を天皇家風の「幹」、つまり「世」で数えると
「世」の数え方を受けられるのは、
最後の慶喜の「13世(15代)」ただひとつだけであり
秀忠から家茂までの13人は慶喜と血が繋がっていないので
正式な将軍の血統とはみなされない
最後の将軍である慶喜が水戸家から入ったことにより
将軍家の幹(正式な血統)は
将軍に就任しなかった11人の水戸藩主たちに移行したからである
つまり初代将軍・家康を1世とし、水戸初代・頼房が2世となり
そこから水戸2代〜11代・斉昭までが3世〜12世となり
斉昭の子の慶喜が13世で将軍となる
もちろん、慶喜が将軍にならなければ
水戸家に将軍家としての「世」は生じない
これは神皇正統記に出てくる天皇家の「世」の数え方を
徳川将軍家にあてはめた場合の数え方である
スレッド名で検索した際、「御三家」で引っかからなかったから
類似スレ、なかったと早とちりしてしまった
数年前だが、徳川一門スレが3代続いたので
需要はあると思ったのだが…
7 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 05:28:15.72
徳川で絞られていて分かりやすいと思いますが?
水戸の御連枝守山藩、藩主が領地に行ったことはあるのだろうか?
終了
9 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 12:12:35.83
御三家筆頭水戸斉昭
溜詰 帝鑑間は家来筋になるから連枝ではないだろう
田安宗武の第7子であった松平定信が
白河藩(久松松平)に養子に出された経緯がイマイチ不明
Wikiには「田沼意次の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済によって」
と書かれているが、一橋治済は田安定信のいとこでしょ?
どうして田安家の定信が
一橋家の治済の命をきかねばならない立場にいたの?
12 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 14:15:25.20
賄賂を贈って田沼を動かした
田安家に権力はなく、将軍家・三卿というひとつの一家のなかでは治済の力が強かった
高須も西条も守山も徳川連枝だよ。御三家支藩から御三家家督を継ぐケースがあるし。
15 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 18:04:08.63
>>13 どうして治済の力が強かったの?
田沼家と姻戚を結んだから?
16 :
日本@名無史さん:2013/09/26(木) 21:17:34.84
>>11 徳川家基早世後、子の豊千代を世子にと望んだ治済の一番の障害が英明の誉れ高くかつ血筋が豊千代より将軍に近い田安家の定信だったのさ
いや、だからどうやって
その田安定信を追い出したのか、という疑問なのだが…
一橋家は、当時全盛だった田沼家の関係者を家老に据え
田沼家との関係強化を図り、その田沼の権力で
定信を養子に出すよう命じた、ということでいいのかい?
そこを答えられ人、いないの?
かな
あれ、定信を養子に出した後に、家基死んでる?
ああ、殺す予定だったのね。
田安家2代がもともと病弱で、定信が養子に行ったから当主不在になったんだもんな
一橋家の倅は越前家に養子に行ったのに、定信は久松なんてかわいそうだ。
21 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 09:22:19.60
徳川頼房の息子、大名となった5人以外の成人男子はどうなったの?
24 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 17:03:25.77
水戸斉昭は息子を養子に出しまくりしたが、
できの良い慶喜は水戸家のスペアにしキープ。
しかし一橋は別格だったんですね。事情が変わった。
焦って御連枝等に出さなくて良かったね。
25 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 18:42:11.81
>>24 キープも何もないだろ。
弟たちのほうが先に養子に出て行き
慶喜はいつまでたっても部屋住みだったわけじゃなし。
一橋家は家斉が生まれた家だから
幕末には三家三卿の筆頭格
28 :
日本@名無史さん:2013/10/04(金) 13:19:39.26
慶喜は生母が正室で女王だから別格
その生母は将軍家慶の正室の妹
29 :
日本@名無史さん:2013/10/04(金) 17:44:25.49
>>28 慶喜の同母兄が水戸藩主なのに慶喜は一橋家養子から将軍と
同じ母親からの兄弟なのに弟のほうが出世してしまったんだよな
>>28 そうだったのか。。。
でも、家慶の正室にとって慶喜は甥に当たるのでしょ?
知的障害だった家定の跡目として
家茂ではなく、慶喜を推してもよさそうなものだけど。。。
31 :
日本@名無史さん:2013/10/05(土) 10:31:47.84
>>30 将軍徳川家慶の正室・喬子女王は慶喜が数え4歳の時に死んでいるよ。
家慶の跡を継いだ将軍家定は喬子女王の子ではない。
慶喜の父である斉昭はかなり血の気が早い武闘派で大規模軍事訓練をしたり
僧侶が政治に介入しすぎるとして水戸藩内の寺弾圧を行ったために
将軍家慶の怒りを買い、家督を譲って蟄居を命じられた。あまり家慶とは仲良くなかった。
昔夢会筆記によれば慶喜自身の話として
当初阿部正弘から慶喜を一橋家にと言われた時に
斉昭は慶喜は水戸の控えに残しておきたいと拒否したが
正弘から家慶の『深い思し召し』があって慶喜でなければいけないと言われて
慶喜を一橋家に出したという。
家慶は慶喜を早世した次男に似ていると言って気に入っており、
朝比奈昌寿が残した史料によれば狩りで世子が務める役割を慶喜にやらせようとしたが
阿部正弘から反対されて「まだ早いか」と言ったとか。
下手をしたら、一生部屋住みで終わったかもしれないね
34 :
日本@名無史さん:2013/10/05(土) 23:11:50.34
下に〜は彼等だけが言える
>慶喜の父である斉昭はかなり血の気が早い武闘派で大規模軍事訓練をしたり
>僧侶が政治に介入しすぎるとして水戸藩内の寺弾圧を行ったために
>将軍家慶の怒りを買い、家督を譲って蟄居を命じられた。あまり家慶とは仲良くなかった。
その前には斉昭の藩政改革を賞賛・激励して大量の褒美を下賜して
斉昭は感動して一層の改革に取り組んで寺院破却や軍事訓練に励んだという
>>32 慶喜が生まれた当時、一橋家は田安家からの養子である徳川慶壽が当主を勤めていた。
徳川慶壽は25歳で、子がないまま死亡。
尾張藩から徳川昌丸が末期養子に迎えられて一橋家を相続した。
この昌丸は慶喜より9歳年下(1歳で家督相続)。
しかし昌丸はわずか2歳で夭折、やむなく水戸藩から慶喜を迎えた。
特別の思し召しも何も、慶喜より若い昌丸の夭折がなければ慶喜は一橋家を継げなかった。
一橋家が尾張藩の昌丸を養子に迎えたのは勿論、将軍家慶の世の事である。
>>36 水野忠邦の時には改革を進めていた藩を表彰していた。
水戸藩が先駆けて改革を行い水野はそれに影響されたのだが
水野は幕府改革に水戸藩が倣ったという形にしたのだが。
>>36 当時は清水家も空いていたので斉昭は家慶もまだ健在で家定も若いのだから
清水家のように開けておけばいいと言ったが正弘は特別の思し召しがあると言った。
おそらくこの時点ですでに家定に生殖能力がないことがわかっていたので
一橋家に後継候補を置いておきたいというのが『思し召し』だろう。
しかし家定は自分よりイケメンの慶喜を嫌っており茂承(家茂)のほうを自分の子供のように思うと言っていた。
慶喜が宗家を継いだ後、一橋家には前尾張藩主の茂徳が入ったのはどうして?
しかも改名するときに前将軍の偏諱を残して茂栄と名乗る。
慶喜への宣戦布告みたい。
実弟の昭武を格下の清水家に入れるくらいなら、一橋家に入れれば良かったと思うんだ。
尾張義直の血筋は養子先の下総高岡藩井上家で続いているようですが、
相続の際、「藩祖の血筋」と言う事で井上家からの養子相続を目論むような
動きは尾張藩内には無かったのでしょうか?碩学の方、どうかご教示を。
8代宗勝
├────┐
井上正国 竹腰勝起
|| |
井上正紀←井上正紀
|
井上正瀧
├────┐
井上正域 井上正和
||
井上正和
|
井上正順
|
井上正言
他姓の者は継げない
尾張の支藩美野高須を水戸の某が乗っ取る
会津松平を水戸の某が乗っ取る
Wikiを調べてみましたが、
門葉以外の家来筋の家で
数世代も過ごしてしまったのが痛かったですね
高岡藩というのは2代・秀忠のときまでは旗本で
3代・家光の時代にようやく大名(1万石ギリ)に
してもらったような家ですね
そんな家に計 6世/7代もの長い間おり
正直、尾張藩に戻るには貫禄が不足してしまっていたのでしょう
おそらく完全に井上氏だと見られていたでしょうし
そんな小名から養子を入れるくらいなら
他の格式ある門葉から取ったほうがよほどマシと思えたのでは
44 :
日本@名無史さん:2013/10/07(月) 00:05:56.50
>>32>>38 慶喜の一橋家養子の件が将軍家慶の命令だったとしても(大名の養子縁組は幕府の認可が必要)
家慶がその時点で慶喜を家定の次の将軍にすることを決めていたというのは早計だよね
慶喜が一橋家養子になったとき世子の家定は24歳
家定と正室・鷹司任子との間に子はなかったが
家慶がこの時点ですでに家定の種無しを認識していたのかは分からない
この翌年、任子が亡くなると
更に二度目の正室である一条秀子が家定のもとへ嫁いでいる
ちなみに秀子も死んだあとの三度目の正室が篤姫なわけだが
篤姫と結婚したとき家定は32歳だ
>>44 なるほど…
江戸時代の人の発想は、現代人が考えてる以上に
かなり場当たり的に決まるから、現代人的な計画的発想でなど
動いてない、ということに留意が必要だよね
とくに篤姫が薩摩から招かれた理由は
11代家斉の正室が同郷の薩摩出身で、
このとき家斉の室らが多産だったから、というもので
ようするに、この時期までは子作りが期待されていた形跡がある
家定に子種がない、というのは後世の人がそれを知ってるからで
リアルタイムの人は、もしかしたら生まれるからも、と
思っていた可能性は十分あるのに
>>40 井上正順の正室は水戸斉昭の娘なんだな
意外なところで、義直と頼房の血が結合した
47 :
日本@名無史さん:2013/10/07(月) 11:46:37.57
家慶は斉昭を疎んじているのに息子は好きって矛盾している。
まして将軍継承の可能性がある一橋へ引っ張る。
水戸から一度出しても良いと斉昭と密約でもしたか?
斉昭の引退は自民党みたく親子で総理と大臣やるのを避ける意味とか?
48 :
日本@名無史さん:2013/10/07(月) 12:13:17.74
だから将軍家慶本人の強い思し召しで慶喜は将軍後継として一橋家に養子に行った
というのが慶喜の思い込み(過大評価?)なんだよ
一橋養子の件は斉昭と老中・阿部正弘の作戦だろ
阿部正弘は水戸の徳川斉昭や薩摩の徳川斉彬から厚い支持を受けており
自分に有利な大名から将軍を出そうとして
老中の立場を利用し将軍家慶を上手く丸め込んだ
しかし家慶は幕政に口出ししすぎる斉昭や斉彬に対して態度を硬化させ
後に両者と対立して蟄居を命じ、老中阿部も失脚させた
49 :
48:2013/10/07(月) 12:48:51.80
薩摩の徳川斉彬→薩摩の島津斉彬
斉彬も阿部老中も、地位を保ったまま死んじゃったわけだが、
書いてることが適当すぎないか?
たしかにもう少し
言葉を厳密に使っても
いいかもしれんな
52 :
日本@名無史さん:2013/10/07(月) 16:59:20.03
吉宗将軍後継決定の際、
初代の母親が同じである紀伊と水戸が組んだことが勝因との説も。
とすると、紀伊は水戸に借りがある。
でも幕末は紀伊と一橋で後継闘争になってしまったけど。
すんなり14代の慶喜が見たかった。もう少し柔らかい明治政府が出来たような?
>>52 紀伊家は家斉の血筋、水戸家は家斉の血縁ではないが、慶喜は家斉生家の一橋家を相続していた
家斉がポイントということ
54 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 07:18:25.49
>>52 吉宗が将軍に擁立されるとき、最大のライバルが尾張藩継友だったのは事実だが、
別に水戸は吉宗を押してないよ
吉宗の将軍擁立は天英院によるものだし
一橋家は慶喜が養子になる前に尾張藩から昌丸が入っている
昌丸が夭折しなければ尾張の昌丸が将軍だよ
>>初代の母親が同じである紀伊と水戸が組んだ
こんな100年も前の血縁が
将軍職を前提とした高度な政治で
果たして機能するものなのだろうか?
水戸家
頼房 正三位権中納言
光圀 従三位参議
綱條 従三位権中納言
58 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 08:56:43.51
当時水戸藩主綱條、神君のひ孫の長老。発言権は大きい。
260年経っても神君家康公の国ですもの。
水戸家が御三家としての地位を確定できたのは、家宣が将軍になる少し前
尾張、紀伊、駿河
尾張、紀伊、 水戸、甲府、館林がほぼ横並び
尾張、紀伊、甲府 綱吉が将軍のときに甲府は35万石となる、このとき水戸はまだ28万石
尾張、紀伊、水戸 綱豊が将軍世子となり甲府は絶家、水戸がくり上がる
60 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 11:11:55.93
>>59 駿河は家光の弟、甲府と館林は家綱の弟の家で
将軍後継としては御三家に優先してただろ
変な人がいるな。。。
御三家の成立は、家光が水戸初代の頼房を贔屓して
引き立てたことに起因するのであって
後の時代になる御両典の断絶などとはなんの関係もないはず
まあ御三家というのも初めから確立した形式じゃなかったしね
越前家落や信吉・忠吉・忠輝の脱落に駿河・両典の廃絶と
結果的に有力な分家で残ったのが家康の末の三子だったってだけのこと
頼房が徳川を名乗るのは忠長の死後?
>>63 そう
封地は既に水戸で落ち着いていたし極位極官も既に達していた
やはり忠長死後にスペアとしての重きを加えられたということかな
水戸は紀伊の同母弟ということで紀伊の分家扱いみたいな感じだったのが
少しずつ独り立ちさせてもらったといったところかね
65 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 13:04:26.70
豊臣家の背面をつく和歌山、豊臣消滅後存在意義がないのでは?
大坂に入るか西国を睨む姫路とかへ何故、国替えしなかったのだろう?
交通の要所名古屋、東北を睨む水戸。これはわかる。
紀伊は直轄御料地でよかったと思うが。
>>65 大坂は重要すぎて与えられないべ
姫路は良かった気もする
尾張は木曽の山があったけど
紀伊も自領は山だらけ
会津にしろ甲府にしろ親藩には山が要るんだよ
>>66 播磨は姫路に本多、明石に小笠原、赤穂他に池田という徳川の血縁が既にいた
福島を改易した後の広島の方が現実味がある
和歌山は伊勢神宮、高野山、熊野という宗教地域を控えてるから、畿内への抑えも考えると重要度は高い
68 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 15:35:20.52
広島まで行くと会津みたいに捨て駒タイプ。
まあ江戸時代的経済では豊かな紀伊半島に落ち着いちゃったってとこか。
69 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 15:43:37.97
最初の親藩は家康の次男・結城秀康が封ぜられた福井藩だけどな
秀康当時は52万石で親藩最大だった
嫡子には将軍徳川秀忠の娘が嫁いでいる(親藩に将軍の娘が嫁いだ最初)
その後だんだん親藩の中でも地位が低下したが…
でもなんども将軍の息子が養子に来ている
越前家は伺候席といい、位階といい、敬して遠ざけられる外様みたい
むしろ前田、池田の方が親藩扱い
毛利と縁戚という点に利用価値があったのか
光長は秀忠の孫で別格扱い
前田は秀忠の外孫、池田は家康の外孫だから扱いが違うのだろうね
>>69 福井藩に養子に入ったのは田安家の公子(重富、重昌、慶永)が多く、
将軍の公子は家斉の子斉善だけ。
>>44 将軍継嗣問題というものを根本的によくわかっていないような。
家定の子供が期待されたなかったのは種無しかどうかという以前に
家定が明らかに障害者だったからで、逆に家定生母をはじめとする
大奥は家定に生殖能力がないと認めず継嗣問題自体否認した。
こういったギャップは島津斉彬によく表れている。
天璋院が嫁いだのは大奥が公家の娘ではダメ、広大院の例がある島津がいいと言っていたからだったが
当の島津斉彬は天璋院と家定との子供に期待せずむしろ天璋院を
慶喜擁立工作の鍵としようとしていた。
しかし家定の生母は慶喜を養子にするなら自殺するという有様で大奥工作は失敗した。
家定の二番目の正室の一条のお姫さんは身長が異常に低い上に足が曲がっていて
家定同様に健康体ではなかった。もし家慶が家定の子供に期待していたなら
こういう相手を選ばないだろう。
この例があったから大奥は京ではダメ、薩摩だとなったんだろうが
結局天璋院が嫁ぐのは一条のお姫さんが亡くなって六年後、家慶が亡くなってからだ。
基本的に正室は子供を産まないんだけどそれでも子供は正室が養育するんだから
これも家慶が家定の子供に期待していなかったということ。
74 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 17:33:51.82
家定障害者説には、あまり同意したくないな。
明治になってから、家定の小姓だった旗本が歴史家のインタビューに答えた内容では、
ごく普通の若者だったとか、もし家定公が暗愚ならほとんどの大名は暗愚だとか、
いまだに愚か者呼ばわりされているのが悔しいみたいな意味の発言をしている。
政敵の松平慶永が家定をして「凡庸中の最下等」みたいな表現をしているのも、
一応「凡庸」=並み、普通の人物と評価しているからではないのか?
慶喜とか慶永みたいな人物に比べれば、政治家としては相当劣ることはまちがいないが、
一個人としては可もなく不可もない、そこらへんにいくらでもいる平凡人だったのでは?
75 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 18:13:58.49
ルイ16世みたいなものか。
76 :
日本@名無史さん:2013/10/08(火) 18:35:20.70
>>73 将軍継嗣問題が分かってないのはそっちw
徳川吉宗の長男で9代将軍の徳川家重は明らかな障害者だったのに子を儲け、
その子は10代将軍徳川家治として将軍位を継承している。
ちなみに徳川家治に障害はない(ただし後継は育たず家斉を養子にしている)。
家定はハリスと対面した際、きちんとした対応を取っており、障害者ではない説は強い。
正室が将軍を産んだ例は家光の母江一人だけで他の将軍はすべて側室腹で
何も将軍を産むのは正室でなくともよい。
家定が障害者なので子供ができないようにあえて障害者の正室を迎えたというのは無理。
(最初の正室鷹司任子や、3度目の正室篤姫、また家定の側室・お静が健常者だった言い訳ができない)
一条秀子障害者説もあまり信憑性がない。
立った時に頭が襖の取っ手のところにあるくらいの低身長だったというのだが、
これは公家の姫はけして立ち上がらず、常に膝行していたためとも言われる。
>>74 朝比奈閑水だね。むしろ家定が障害があったという話は
ほとんどこの人のものをソースにしているよ。
そういう風に家定を擁護している人だからこそ信頼がおける証言なわけ。
ちなみに家慶が将軍世子がやる役割を慶喜にやらせようとしたが阿部正弘に反対され
まだはやいかと言ったという話はこの人の父親がソース。
>>76 そん時は他に後継候補がいくらでもいたので家慶、家定の場合と話が違うよね。
天璋院が嫁いだのは家慶の死後であることや正室の役割は書いた通り。
比較的有名なエピソードばかりだな
もっと隠れたすごいのないの?
>>76 対応はこなしてるけど奇矯な振る舞いもあったのでは?
まあ障碍者扱いして貶めたいわけではないが十全たる健常者というわけでもなかったと思う
80 :
日本@名無史さん:2013/10/09(水) 06:21:47.33
病弱で強いコンプレックスの持ち主ではあったが、
よく言われるような障害者とか池沼ではなかったろう。
いまなら、心療内科にかかるようなタイプでは?
いずれも憶測の域を出ないな
当時のルポタージュは自身の立場に
あまりにも身贔屓に書かれてるから
家定に仕えた者が健常者であったと書いたからといって
ほんとうに健常者であったかどうかは、疑わしい
封建時代の感覚として、自分の主だった者を
不具者であったと正直には書けないはず
家定に知的障害があったかどうかの話は、もうやめよう
あまり意味のあることではない
家定が知的障害者だったから、二人目の正室を出した一条家も
同じように障害者を送りつけてきた、という話も
そんな失礼なことを徳川将軍家に対してやれたかどうかをを考えれば
常識的に答えは出せるはず
つまりガセだってこと
リアルタイムの人々は、家定の生殖能力にまだ期待を持っていたと思う
薩摩からの篤姫の輿入れを、慶喜擁立のためのものだという見解もあるが
たぶんに結果論的な見方だと感じる
当時の日本人がどれだけ縁起を重んじ、
現実に有効な処方だと信じていたかを考えれば
篤姫は嘉例から求められたのだとするのがいちばん現実的
スレタイ、読もうねw
いや、8代吉宗以降の宗家は14大まで
紀州系とみなしても差し支えないはずだし
まして一橋系統の家定のことを語るのはなんら問題ない
もし、宗家を継いだことを理由に分家スレで語れなくなるなら
他姓に養子に出た連枝のことを語ることもできなくなるではないか
高岡藩井上家へ養子に出た連枝のことを語るのが許されるのは
養子先よりも、出生元が優先されるからに他ならない
それなら、養子先の宗家よりも、出生元の
一橋や紀州を優先して、分家スレで語る資格がある、というのが筋
バカなの?
バカなんだろうね
いろんな「感性」を許容するのが2chだよ
屁理屈を 感性という このセンス
90 :
日本@名無史さん:2013/10/09(水) 19:15:10.87
清水家って御三卿の中で一番影が薄いな。
家斉の時代なんて、家斉の公子が紀州家に養子に行くまでの待機先みたいな印象。
そりゃ家系が続かず当主が居たり居なかったりで存在感出るわけない
明治以降すら爵位返上したり影が薄い
92 :
日本@名無史さん:2013/10/09(水) 19:31:31.66
久松松平家って家門なのか譜代なのか、よくわからんな。
松平定信は老中、幕末の定敬は京都所司代になってるけど、
普通、これは譜代大名が就任する役職だ。
そもそも家門(親藩)は、役職につかないのが原則だし。
家系は譜代、当主は親藩、そゆこと。
久松家は、三男の定勝系から大名家を複数出したけど、
旗本に落ちた長男の康元系を、一応の宗家と見なしていたのかね?
大久保や渡辺を見ると旗本だろうが、陪臣だろうが、宗家は宗家
血統的には兄の家系でも
宗家扱いまでしてくれるかどうかは
その家次第でしょ
徳川将軍家だって越前に飛んだ兄の家系を
宗家などとは見ていない
ただ血筋上の兄の家、というだけ
やはり相続した家の大きさ、格式がものをいうようです
水戸徳川家も、光圀の同母兄である頼重が外へ出されて、
高松藩主となったしね
みんなが大名だったら、将軍家の子供
養子に入れる?
>>97 綱條以降は頼重系になってるけどね
光圀系の血筋は残らなかったのかな、頼常も頼重系から養子取ってるし
100 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 12:17:31.59
>>99 頼常の二人の男児は共に早世で、光圀の血は断絶したはず
>>1 >>6 前身となるスレがあることを知ってて立てたくせに自分は初代を称するとか痛いな
102 :
日本@名無史さん:2013/10/10(木) 17:50:52.97
光國に娘がいたんじゃない?程度の噂はある。
どこかでDNAが残っているといいな、北斎と同じに。
義直は浅野幸長の娘、頼宣は加藤清正の娘、どちらも大大名の娘を正室にしたけど、
頼房が正室を持たなかったのはなんで?縁談も無かったのかね?
頼宣より一等扱いが低いからじゃね。
にしたって家康の実子で家光と昵懇だった大名なんだし縁談くらいなかったのかね
血縁や関係性の遠近だけで兄二人を超えるわけにいかなかったんだろ。
頼重光圀を里子に出すくらい身辺に気を遣っているくらいなのだから。
兄より位の高い家から貰わなければ済むことだろ
身辺に気を遣ってると言うけどやることはやってるんだな
50才過ぎまで生きて、生涯正室がいなかった大名は徳川頼房くらいなものだろう。
普通に不思議だよ。
根拠不明ながら変人だったとの噂がある。
頼房は若い頃素行が悪くて
お兄ちゃんの秀忠に、「そんなんじゃ嫁さんも来てくれないぞ」と叱責されて
「嫁なんてイラネ」て答えたらしい
本人がどう思おうが
政略結婚させられてもなんら不思議はないよな
頼房は家光に子供がいないから正室を娶らずにいたところ、手を付けた女中に子供が出来たから里子に出した。
同じ女中が妊娠したから家臣に与え、生まれた子供は殺せと命じた。
後に、子供の存在が発覚して、実子の認知し、紀伊家傍流という点からも、正室を娶る必要性がなかったので、生涯正室は不在だった。
だっけ?
>>109の話だけれど、水戸家に伝わる話では、秀忠の側に
詰めていた幼時の事、秀忠が頼房を前にしてお江の方に
「阿鶴をだれぞの婿にしたいものだ」と語ったところ、
「あのようないたずら者に、だれが娘をやるものですか」と
言われて、「一生正室を迎えるものか」と悔しがったという
事だとか。(林董一「将軍の座」)
もしそういう動機で妻帯しなかったのなら
まずはとびきりの変人といって
差し支えなかろう
>>111 前半はその通りだと思うけど
後半はどうなの?
普通、傍流だからといって妻帯しない理由にはなるまい
やはり家光との人間関係が関係あるような気がする
というか、他にあるまいw
>紀伊家傍流
この表現は初めて見た。傍流が権中納言、あほ臭い。
頼房は、英勝院の養子になっている。
家光と頼房は仲良し。
家光は、弟忠長が役に立たないから、頼房を頼りにするとお手紙まで書いた。
>>108 初代家康は正室2人といずれも不和で長らく正室を持たなかった人だし
家光も正室とは不和で正室を大奥から追い出して別居していた
養母の永勝院も家康の側室であって正室を取ることにうるさくなかったから
もう娶らずにいただけでは?
>>111 頼房は子供を持つことを嫌ったとウィキには書かれてあるけれども
その割に側室との子供多すぎだよね。
>>傍流が権中納言、あほ臭い。
そういう意味じゃないだろ。
恐らく、「血統が分家筋」と言いたかったのだろう。
水戸頼房が紀伊頼宣の同母弟だったことを指してるだけだろう。
同母弟を傍流というなら、
徳川光圀も傍流だな
徳川慶喜も傍流だな
頼房は忠長の死後に徳川賜姓
それまでは頼宣の支流扱い
因みに英勝院の養子としては松平忠昌が下妻藩を継承している
>>111的な発想からすれば
立派な傍流だろw
彼は同母弟を傍流と表現するのだから
121 :
日本@名無史さん:2013/10/11(金) 19:47:28.17
松平清武は、なぜ兄綱豊(家宣)の後を継いで甲府藩主になれなかったの?
なぜ甥家継の後を継いで8代将軍になれなかったの?
清水重好は、なぜ兄家治の後を継いで11代将軍になれなかったの?
松平確堂(斉民)は、なぜ甥家定の後継者候補になれなかったの?
血筋や年齢や識見のいずれにおいても、慶福や慶喜よりふさわしかったのに。
122 :
日本@名無史さん:2013/10/11(金) 20:14:28.00
越智清武は高齢で本人もその気がなく、また清水重好は母親の身分が低い上、ホモで子がいなかった。津山斉民は、推す勢力が結集出来なかった。
123 :
日本@名無史さん:2013/10/11(金) 23:05:18.55
>>121 清武も重好も斉民も、年取り過ぎだろう。
前将軍の親世代が将軍位継承するというのは考え難い。
124 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 00:05:59.25
清水重好や尾張斉朝のように、子がいないだけでホモ認定されてるがソースはあるの?
125 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 07:52:05.66
家宣って名君とか人格者のように言われているけど、
実弟の清武への扱いを見てると、なんか冷たい人だよね。
将軍の実弟なのに、家光が保科正之に行ったような大封を与えることもせず、
しかも将軍になってからしばらくしてから、やっと小大名取り立てている。
その後もチビチビ加増した程度。
ケチというより、弟が嫌いだったのかと思わせるくらい冷淡すぎる。
清武も子供がいなかったので、大封を与えてもすぐに養子を迎えるのでは無用な加増だ
家宣は自分の後継者にも困ったから、どこか他所から清武の養子を探さなければならない。
無用な加増だ。
127 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 08:24:49.14
>>125 家光にとって保科正之は将軍継承の恐れがない劣り腹&他姓の弟で
何の警戒心もなかったからだろ
家光が将軍継承の可能性が非常に高かった同母弟・忠長にした仕打ちにくらべれば
殺されなかっただけマシ
128 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 08:55:19.52
さにあらずさにあらず。家宣公は傍系から家督を相続したばかりで
血縁者をいきなり大禄を与えるのは幕臣の手前、憚られたからに御座候はずや?
綱重があと1年長生きしておれば
130 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 10:01:34.40
連枝の一角である清水家に関し、将軍のスペアの役割を終えたにもかかわらず
一橋系からどんどん養子を送り込み、養子がいなくなったからとうとうあきらめて
清水家は徳川宗家に吸収合併するのかとおもったら、空き屋形のまま
「清水卿御支配」というポストを新設して跡部能登守を管理人にしていた
家斉を出した一橋が一番大事
一橋治済はモンスターだと思う
133 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 11:20:11.62
家斉がペリー来航以降の幕末期に存命だったら、
幕府が滅亡することもなかっただろうに
家斉は1773年生まれなので、ペリー来航時に存命なら80歳。
大政奉還の慶応3年=1867年には94歳。
大御所家斉存命なら、幕府の滅亡はなかっただろう。
134 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 16:42:52.97
せめて家慶が存命でも、かなり状況はちがったろうな。
家慶はペリー来航時に60歳で亡くなってるから、
大政奉還の時点でも74歳。
>家斉は1773年生まれなので、ペリー来航時に存命なら80歳。
>大政奉還の慶応3年=1867年には94歳。
>大御所家斉存命なら、幕府の滅亡はなかっただろう。
さっさと逝けよ老害
136 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 19:53:28.04
家斉も家慶もこれといった政見がないし、家慶に至っては大事な所で重臣を見棄てるから生きていても余り意味がなさそう
137 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 20:14:38.18
>>125 綱吉が嫌々、養子にしたのもあったし、将軍の子でもない家宣が
将軍就任そうそう、身内を優遇できるわけないだろ。
生まれながらの将軍の家光と同じ将軍とは言え、権力がまだ使えなかった。
せめて将軍在任5年ぐらい過ぎて、老中が自分が任命した者が大半で
自分の周りを固めないと、身内を優遇なんてできない。
それに家宣は遺命で清武の加増しろっと言っている。
吉宗も、しばらくは大奥に口出しできなかったし、長福丸を正式に
将軍継嗣にできなかった。
138 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 20:18:05.68
あの家斉さえ将軍就任の頃は、老中たちに遠慮していたんだから。
139 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 20:34:54.22
最悪、吉宗一代限りってこともあり得たのかな?
>>130 清水家を当主不在の空き屋形にしたのは、田安家が取りつぶしに反対したからだよ
そういう前例をつくると、先々田安家も危ないから
田安家は、治察のあと当主不在の前例もあった
>>139 流石にそれは無いだろう混乱の元
鎌倉期の執権は一族持ち回りとは言え得宗家はちゃんと存続していたし
142 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 10:19:19.14
清水家が当主斉疆の紀州家転出で当主不在になったときは、
他家を相続している者を除いたら、家斉の男系子孫がほぼ死に絶えてて、
もう補充要員がいなかった。
家斉の実家である一橋家ですら、補充要員がいなくて水戸の慶喜を迎えたくらい。
家斉や家慶は大量の子どもを生産したが、その大半は夭折、早世しており、
精力の壮大な無駄遣いだったといえる。
143 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 10:25:55.41
で、幕末、将軍継嗣問題がおこったとき、井伊大老は南紀派の補強のために、
当時津山藩の隠居だった松平斉民に清水家相続を打診している。
斉民自身が辞退したため、実現はしなかったが。
家斉の男子で幕末に生存していたのは津山の斉民と蜂須賀斉裕のみで、
この二人は大奥にも自由に出入りできて、将軍家茂から頼られていたらしい。
戊辰戦争では尾張も福井も寝返ったのに
津山と会津は忠義を尽くした
145 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 11:43:51.52
>>143 こういう例にあらわれているように、御三家・御三卿という建前上の家格とは別に、
家斉時代に事実上の家格の再編成が行われて、その実系男子が優遇されていた。
>>145 嘘くせえなw
そんな少しの例だけで家格の再編成などとw
「徳川実紀」で家斉や家慶が亡くなったときの形見分けのメンバー表を見たことがあるが、
確かに家斉の実子やその養子先、嫁ぎ先を重視する序列になっていた。
尾張家の五代五郎太、一橋家の昌丸など、
幼児が当主になれたのは、御三家御三卿だから別格扱い?
149 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 13:14:08.36
家斉の孫越前の慶永が慶喜擁立に動いた時に
真っ先に賛同して連名で建言書を出したのが家斉の子蜂須賀斉裕で
逆に慶喜をよく知らないと言って断ったのが水戸系の尾張の慶恕だった。
>>145 家格の再編成なんて大げさなもんじゃなくて単に近親者を優遇していただけだろ
家格として固定化されたとは断定できない
>>147 形見分けなんだから子女が優先されるのはあたりまえだろアホ
>家斉の孫越前の慶永
なんだ、これw
154 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 14:46:12.16
慶永は家斉の弟の田安斉匡の孫。
孫じゃない。息子だ。
すまん。治斉の孫の間違いな。
一橋系の養子戦略は治斉からだ。
治済だしw
まともな知識がないやつは、その都度確認してから書き込め
158 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 16:10:19.76
家慶は、亡くなる前年に末子長吉郎が生まれてるんだが、
その長吉郎は父家慶の死の直後に夭折している。
どうも、家定サイドによる謀略の匂いがプンプンするんだが。
耳鼻科に行けばいいと思うの
160 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 16:55:26.33
でも、長吉郎の死んだタイミングが絶妙すぎて不自然だよなあ。
ペリー来航→家慶死去→長吉郎死去→家定即位
日本史板って一スレに一人はおかしなのが棲息してるよねw
即位かよw
164 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 18:24:54.42
松平長吉郎江戸日記
165 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 19:32:36.41
長吉郎が成長してたら、家定の実弟だから明き屋形の清水家あたりを相続して、
普通に14代将軍になってただろうな。
そうなってれば、将軍継嗣問題も発生せず、慶福は紀州藩主として平穏な生涯を送り、
江戸幕府もまだ存続していただろう。
166 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 19:44:31.60
御三卿はリーチ、御三家はダマテン。だよね?将軍継承。
三卿がイーシャンテンで三家がリャンシャンテンくらいだろう
水戸黄門の影響で御三家筆頭のように見えてしまう
169 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 20:29:02.92
維新後は事実上の宗家なんじゃね?
170 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 20:38:22.36
>>167 吉宗は大三元?四暗刻かな?
慶喜は斉昭が後ろから振り込めと脅していた感じ。
171 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 22:38:33.06
ほとんど早世しまくっているのは、解せぬ。
明石、川越、浜田、因幡
養家は加増や持参金貰えて、養子の用が済んだから暗殺されたんじゃないのか
172 :
日本@名無史さん:2013/10/14(月) 05:25:33.35
幕府にそれがバレたら、ただじゃすまないから、さすがにそれはないだろ。
173 :
日本@名無史さん:2013/10/14(月) 18:24:42.44
家門でも越智松平だけ微妙に格下扱いだな。
普通、家門は役職につかないのに、譜代大名同様に老中とか寺社奉行になってる。
やっぱり清武の家系は、養子の時代になっても親藩として低い扱いをされてるな。
水戸家の連枝でも、宍戸、府中辺りは親藩ではなく譜代扱いではなかったっけ?
そもそも親藩・譜代・外様という括りなんてちゃんとしてなく伺候席での区別の方が実質だったのではないか
幕府の役職についてた連中は
家来筋と考えてよい
そこが分水嶺
178 :
日本@名無史さん:2013/10/15(火) 02:02:19.26
朝廷の介入で幕府の役職に就いたので幕臣というより朝臣
溜詰の高松、会津も家来筋?
ボーダーラインの存在だな
大広間詰の越前、柳間詰の大和守、明石は敬して遠ざけられてほとんど外様扱い
大廊下>大広間>溜>柳って感じかな?
譜代だと大広間と溜が逆転する感じで
184 :
日本@名無史さん:2013/10/15(火) 17:15:45.39
>>175 宍戸・府中は旗本に毛がはえた程度だが参勤交代免除や特権も。
幕府のスタッフにとっても面倒な存在。
城も持たぬ殿様、譜代並みに扱えないし。
国会議員より面倒な県会議員みたいに。
親藩、譜代、外様よりも伺候席の方が重要
表大名
大廊下 親戚大名
大広間 大大名
帝鑑 譜代名家
柳間 並大名
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
御役の大名
溜間 幕政諮問
雁間 幕府役職者を出す城主大名
菊間縁頬 幕府役職者を出す城主格・無城大名
大和守、明石
五位柳間→四品大広間
越智
五位帝鑑→四品大広間
御三卿は将軍の家族扱いだから詰間なし。
では、城中ではどこにいたのか?
>>185 気になったので補足
親藩、譜代、外様よりも伺候席の方が重要
表大名
大廊下 親戚認定された大名
大広間 大大名
帝鑑 譜代名家の家柄の大名
柳間 並大名
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
御役の大名
溜間 幕政諮問
雁間 幕府役職者を出す家柄の城主大名
菊間縁頬 幕府役職者を出す家柄の城主格・無城大名
>>187 それは吉宗・家重時代だけで、
以降は大廊下上にいたって
190 :
日本@名無史さん:2013/10/15(火) 20:07:34.55
親戚なのに廊下に控えてたのか・・・
191 :
日本@名無史さん:2013/10/15(火) 20:54:05.65
鷹司松平家は肩身狭そう
もともと松平でもなんでもねえ
赤の他人だしなw
193 :
日本@名無史さん:2013/10/15(火) 23:58:24.03
松平信任までは、御台所の兄弟と紀州徳川家の血筋なので、そこまで肩身狭くも無いのでは?
松平信発になって、秀康系の血筋になってやや微妙。
その後の松平信謹は、上杉系だからかなり微妙だったかも。それで?吉井姓に…
御家人斬九郎がいたとすれば、ドラマの中であったように、そこら辺の小大名より格は上だったのかな
>>193 上杉から養子とかいってる段階で
あんまし松平というギミックに執着ない様子だよなw
上杉氏というのは鎌倉時代、6代将軍宗尊親王にしたがって
鎌倉に下向してきた藤原氏(勧修寺氏)の家系だから
同じく藤原家系の鷹司松平としては、本音では
同姓に継がせる、みたいな発想だったのかもな
戦国時代、藤原姓の上杉氏が源姓の佐竹氏に対し
関東管領職の譲渡をもちかけたことがあったが
付帯条件として上杉姓の相続をあげていたため
佐竹氏は「姓(祖先の血統)が異なるから相続できない」と断っている
鷹司(藤原)松平氏の上杉(藤原)からの養子受け入れは
上記的な発想を連想させる
その上杉家も吉良氏からの養子系統だから
現在の鷹司松平家は男系だと清和源氏になるんだよね
江戸時代って女系の血統が、かなり機能してるよね
嫁が御三家から来たからといって、松平姓/一門扱いというのがスゴい
しかし諸氏に松平姓をおしつける、というのは
前政権で豊臣氏のやった政策の模倣継承でしかないのだが
豊臣姓はかなり強引に送りつけられたらしい
踏み絵的な意味で使われてたのかもしれないが
前から気になっていたのだが
徳川氏/松平氏一門が勤皇傾向なのは
家康が将軍就任の際、家系図を南朝方の
新田義貞に結び付けたから、という理解でよろしいのかな?
また、なかでも水戸家がズバ抜けて大陸的な哲学的勤皇へ向かったのは
朱舜水の招聘に起因している、という理解でよろしいのかな?
また変なのが湧いてる
しかも連投
どこが変なのかw
勤王は尾張と水戸
尾張義直の勤王思想の影響を受けた水戸光圀が始まり
203 :
日本@名無史さん:2013/10/16(水) 22:49:18.15
尾張藩は義直以来の勤皇砂漠の大藩
あなたがいれば
205 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 04:53:38.85
光圀、贈正一位。
義直、放置。
206 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 07:06:02.92
>>198 女系を理由に松平姓になったのは、家康異父弟の久松系と家康外孫の奥平系くらいだろう。
あとは女系云々より、大名の序列化における外様大藩の格付けのため。
尾張は勤王を水戸のように士民に勤皇思想の浸透を図ったり
専門の史局を設けて学者を雇うほどにはのめり込んでいなかった。
朝廷側の覚えも水戸は勤王の家として認知されるようになった一方で
尾張は目立たなかった。
>>199 >徳川氏/松平氏一門が勤皇傾向なのは
尾張、水戸以外の事例は?
>>208 勤皇を邪魔しなかった、という程度の一般論でしかない
元彦が著書のなかで江戸時代に南朝優位の価値観が成立したのは
家康が家系図を南朝方に結び付けたからだ、と書いて
一般にも流布するようになった説
元彦って井沢さん?
おそろしや、おそろしや
誰がそんなこと言ってるのかと思ったら井沢かよ
あはは
義直個人はどうして勤皇化する必要あったの?
213 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 18:36:37.50
御三家の勤皇は 宗家への嫉妬なんだろうね
「自分は分家で 宗家の家来じゃない 朝廷の臣として対等だ」
義直や頼宣がなぜ家光や幕府に反骨的だったかのか分からん
神君の子と言っても晩年の庶子の子で、家康死去時とうぜん相続権もなく
それでも大大名として遇されてる方なのに
>>212 義直の母親は石清水八幡宮の祠官の娘だったからじゃないのか
石清水八幡宮は昔から朝廷との縁が深いし
216 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 21:40:51.33
慶勝をNHK名古屋や黒鉄ヒロシが持ち上げている。
黒鉄は坂本龍馬も持ち上げて気持ちが悪い。
実態を知らない訳がなく、捏造を楽しんでいるのか?
>>216 漫画家として
どっちも知名度あがれば
作品かきやすいっていう思惑なんじゃない?
神君家康に
「(秀忠を)兄と思うな、主君と思え」
と言われたはず。
関係がややこしくなるのは、家光の代になってからだろう。
しかし秀忠が弟を親族として扱ったために
弟たちはその気になってしまった
ところで、水戸勤皇化における
朱舜水の役割って、どの程度なの?
220 :
日本@名無史さん:2013/10/18(金) 17:46:54.77
幕末に誇張したかもしれないし、本当に良識ある最後の中国人かもしれない。
朝鮮に亡命した中国人は潰れた明には用は無い、なんて冷遇されたかもね?
光圀が真摯に外国文化を受け入れた姿勢は感動モノだったと想像したい。
朱舜水って南京奪回作戦に参加した
バリバリの勤皇だからね
ただ、この人が水戸学に具体的に
どんな影響を与えたのか、漠然としている
司馬遼の小説に、朱舜水の影響を強調した表現があったと思うが
奴の場合、恣意的な書き方をするので当てにならん
斉昭が海防参与や慶喜が将軍後見職など幕府の役職に就いているのだから
この場合は間違いなく将軍家に仕えている家臣だろう。
文久の改革以降は別
朱舜水は日本の田畑や道路の整地が行き届いていることに驚いていたという。
225 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 05:35:42.04
>>222 斉昭の海防参与ってのは、御三家の長老にお知恵を拝借というかご意見をいただくって感じだし、
慶喜の将軍後見職とか慶永の政事総裁職、容保の京都守護職は、文久の改革による新規の職制で、
朝廷というか薩摩の久光のゴリ押し人事だから、従来の幕府の慣例とは関係ない。
幼君の将軍後見職自体は、井伊大老のときから田安慶頼の先例がある。
226 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 05:54:46.46
水戸藩内ではペリーの20年前にイギリス捕鯨船が来てるからね。
死を覚悟し現場に向かったら、船員と地元漁師が洋酒で酔っぱらっていて拍子抜け。
スコッチを日本人で最初に飲んだかも?漁師。
227 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 06:04:21.65
ふと思ったが、家定のあとは津山の斉民が無理でも田安慶頼という選択肢もあったのではないか?
慶福や慶喜より年齢の点でふさわしいし、御三卿で治済の血筋だから家格・血筋でも問題はない。
まあ、家斉の実子の斉民が本当は一番ベストなんだけどね。
228 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 06:53:28.58
家定在位中の近親者
尾張慶勝→水戸系の養子で血筋が遠すぎる
紀伊慶福→家斉の孫、家定のいとこ
水戸慶篤→血筋が遠すぎる、ただし家慶夫人の甥
田安慶頼→家斉の甥
一橋慶喜→水戸系の養子で血筋が遠すぎる、家慶夫人の甥、英明との評価
清水家→明き屋形で当主不在
松平斉民→家斉の実子
蜂須賀斉裕→家斉の実子
松平慶永→家斉の甥、田安慶頼の兄弟
田安慶頼は慶喜の次でもいい年齢だったのに、
なぜか幼稚園児並みの年齢の亀之助が宗家の家督を継いだ。
人物に問題ありだったのか。
田安亀之助は家茂の後継候補でもあった
斉昭は海防参与として石川島造船所の造営を命じられ将軍家の家臣として職務を果たしている。
将軍後見職として慶喜は諸大名による参与会議を老中達の望みどおりに潰して幕府の統制を維持しようとした。
232 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 10:15:51.31
>>226 その漁師さんは好奇心旺盛な人なのか、コミュ力あったひとなのかすげーきになる。
みとことない色のでかいひとあらわれたのに一緒に楽しめるってグローバル化にもほどがある(笑)
233 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 10:45:50.43
人にもよるけど、庶民の方が偏見やイデオロギーに凝り固まってない分、
知識人とか武士よりも柔軟に対応できるよね。
234 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 13:02:55.88
>>231 波止場に船をつなぐ綱を髪の毛で作ったらパラパラとすぐに千切れてしまいましたがね
235 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 13:29:44.13
>>238 この面々を見てると、斉民、斉裕、慶永の3人を三家、三卿以外の養子に出したのが、
つくづく悔やまれるな。
この3人が徳川姓のまま残っていれば、幼少の慶福や軽薄な慶喜の出る幕はなかった。
慶永は京都守護職を会津に押し付け
自分はさっさと政事総裁職を投げ出したから、
慶喜より軽薄だ
238 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 14:50:25.92
イギリス捕鯨船に会沢 正志斎が乗り込み事情調査。
大砲も搭載していたようでかなりショックを受けた。
正志斎は翌年、新論を書き尊皇攘夷のきっかけになった。
水戸藩の尊皇攘夷は捕鯨船ではじまった。
長崎の役人は知ってはいたんでしょうが、
彼らは憂国の思いは湧かなかったのかな?
239 :
日本@名無史さん:2013/10/19(土) 14:51:37.19
でも、そのあとの会津藩の惨状を考えると、さっさと投げ出したのは賢明だと言える。
会津藩でも引き受けるべきではないって声を馬鹿殿が押し切って引き受けたんだし。
藩主ってのは、今で言えば経営者だから従業員のことを考えたら、無謀なことはできない。
>>239 徳川の藩屏としての立場を投げ出すのは本末転倒
春嶽は幕府統制には寧ろ否定的で大名会議を望んでいたように見える。
家斉以降は家斉の血筋かどうかが決めて
慶永は家斉からは遠くなる
244 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 13:28:44.05
御三家は、どこも綱○の影が薄いね
ものすごい子沢山なのにほとんど早世とか、綱吉の娘婿とか、実は兄の実子とか
それぞれどういう人生を送ったのやら
245 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 14:17:35.68
尾張綱誠は苺、大福の食いすぎで中毒で頓死し、吉通、五郎太、継友、宗春ら係累が◯◯したため、タカスから宗勝が◯◯しました
饅頭だなんだというのは吉通の話じゃなかったかな。
247 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 17:25:36.58
吉宗が宗家を相続したとき、なんで紀州藩を宗家に吸収しなかったんだろう?
御両典の館林と甲府は、綱吉や家宣のときに、どっちも宗家に吸収されたのに。
紀州の場合、新将軍の吉宗自身が残す、と決めたからでしょ
それに継がすべき親族もいたし
だいたい、天領にするには大きすぎる
御両典も次男以下がいれば、それらに相続させた可能性は
多分にあったんじゃないかな?
249 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 17:50:34.94
これは結果論だけど、家斉や家慶の子どもがあんなに生存率低いのなら、
下手に養子に出さずに、宗家で温存しておけばよかったのに。
斉民とか斉裕が徳川家に残っていれば、幕末の将軍継嗣問題も起こらず、
スムーズに宗家の相続も行われたと思う。
徳松は一応館林を継ぐという話になっていなかったかな。
徳松は形式上は館林を継承した
252 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 00:03:34.26
武田信吉が早世しなければ水戸はずーとっ武田藩?
それとも雄藩のくさびに移動か。
家康はブランド好きで結城とか思い入れがあったのかな?
家康には御三家プランは無かったんでしょうね。
253 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 00:05:46.91
家斉の子も、1800年の段階では、6男まで生まれていたのに5人死んで男子は家慶1人だった。
その頃に、スペアは養子に出さない決断をしてれば良かったんだけど、
1823年に25男が生まれた頃には、12人死んでるものの13人の男子が生存。
翌年1人死ぬけど、また1825年には1人生まれて13人状態が復活。
そんなこんなで、すっかり安心したんだろうな。
あと、その1825年時点の生存男子13名は全員元服したにも関わらず、男子が
生まれたのは6名だけ(家慶、斉順、斉荘、斉民、斉彊、斉裕)で、元服した
男子を残せたのは4名だけ(家慶、斉順、斉民、斉裕)ってのが痛すぎる。
それで更に子孫を残せたのが斉民と斉裕だけ…。せめて斉荘と斉彊の男子が長
命だったらまた評価は違ったんだろうけどな。
>>252 武田信吉の別名が松平信義だから、二代目から松平姓かもね
佐竹に対して武田を配置したのだから、ずっと武田藩だったと想像できる
255 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 06:23:29.25
>>253 生き残って子孫を残せたのが、徳川姓以外のところに養子に出た2人ってのが痛すぎるな。
>>二代目から松平姓
結城や保科の例からみて、武田もそうでしょ
松平姓より格上の苗字には、ことごとく松平が贈られている
平岩仙千代も忘れないでください
>>248 幼少とはいえ、後の宗武を紀伊家に残す方法もあったと思う。
従兄弟よりも息子の方がかわいいし、コントロールしやすい。
長男がアレだからな
260 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 17:56:04.23
キチ藩主重倫はマズイので、大蔵卿治察を紀州藩主と為すべきで有った。
261 :
日本@名無史さん:2013/10/21(月) 19:04:11.86
家康が信吉を武田家の跡取りにしたのは理解できるが、
その他の息子を長沢松平とか平岩とか家臣の養子に出したのは理解できない。
信吉が早世しなければ、甲斐武田家の正嫡は信吉の子孫ということになり、
竜芳の系統が武田宗家として復活する見込みはなかっただろうな。
長澤松平には松平廣忠の娘が嫁いでいた。
東條は軍功の家で松井、小笠原という有力陪臣がいた。それらの陪臣は忠吉家臣から尾張藩臣へ。
安祥譜代の名家である平岩は人質以来の家来。信康傅役だった罪滅ぼし。平岩陪臣はそのまま尾張藩直臣になおされる。
忠吉、仙千代が長命だったら御三家の歴史も変わってた。
>>262 忠吉が生きてたら、頼宣の同母弟だった頼房は
絶対、松平止まりだったよねw
そうしたら水戸による史局の設置もなく
明治維新も違ったものになったかも(´-ω-`)
265 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 05:38:15.73
まだ家康が一大名だったときとはいえ、
東条とか長沢とか平岩とか養子先としてはショボすぎるな。
266 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 19:12:23.81
甲府家や館林家は徳川姓ではなく松平姓だったという説を聞いたことがあるが、
本当に松平姓のままだったのだろうか?
綱重も綱吉も城持ちに成った辺りで徳川姓になってるらしいから、
それまでは部屋住み扱いかなんかで、どう遇するべきか決まってなかったんじゃないかなぁ
269 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 21:34:17.36
宗武や宗尹も、父親が将軍になっても元服前は松平姓だったな。
信康だって松平だったという説もあるな
家督相続が決まるまでは誰でも松平
271 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 21:56:07.03
信康のことを「岡崎信康」ともいうが、岡崎というのは姓なのだろうか?
便宜上の呼び名としか
尾張義直とか紀伊頼宣とかと同じだと思うよ
274 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 07:49:18.43
ただ、戦国大名の分家、支流は所領の地名にちなんだ名字を名乗ることが多いから、
そういう意味では名字と言えるのかもしれないが、信康は家康の嫡子だから事情がちがう。
普通は当主と嫡子は同じ名字のはずなのに、大名時代の家康って徳川姓を自分専用にして、
嫡子にも使わせていないらしい。
だから、岡崎信康とか松平信康という表現が多いが、最近では「徳川」信康という表記も、
一部で使われるようになってきて、よくわからない。
信康は廃嫡され、秀忠系に継承されたから、事実が消されて残らないから…
家康が神格化されたことで、家康のしたことに間違いがあってはならないと、不都合な事実は抹消される
信康の切腹って、マジでどっちなの?
最近では家康が信康と揉めていた証拠がみつかって
信長の命令ではなく、実は家康の命令で腹を切った、という説もあるが
詳しい人の意見、是非、お聴きしたい
家康が岡崎の信康派が増長する芽を摘んだということ
信長の婿を無断で廃嫡する訳にはいかないから、事前に具申した上で粛清した
(このころには既に徳川は織田に隷属していた)
徳川の歴史は粛清の歴史でもある
油断すると当主が粛清されちゃうからね
まぁこれは徳川(松平)に限った話ではないが
忠直、忠輝、忠長
忠はダメやのう
後者2名は将軍の実子だけど、息子がいたら、大幅減封で乗り切れたのかな?
280 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 16:05:52.19
>>278 >まぁこれは徳川(松平)に限った話ではないが
たしかに
父子相克は徳川家に限ったことではないね
武田家は信玄自身父を追放長男を死に追いやる
おなじようなことが徳川家でおこなわれたとみるのが自然でしょうね
江戸幕府ができて
東照大権現が子殺しではまずいので信長の命で殺したことにしてしまったってとこ
>>279 忠輝、忠長は謹慎中も割とやりたい放題だったらしいからなぁ
ちゃんと謹慎してれば許されたと思うけどなぁ
松平信忠は押込強制隠居だし、松平徳川は暗黒だなぁ
283 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 18:28:36.79
松平信忠といえば、その親父の長親って曾孫の広忠の代まで生きてて、
広忠の子の竹千代(家康)が生まれたときも生きてたんだよな。竹千代の名付け親らしい。
どれだけ長生きなんだよ・・・
285 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 19:47:17.58
大坂の役で戦死した小笠原忠脩とか、千姫の二度目の夫の本多忠刻とか、
家康の曾孫だけど、家康の晩年で既にそんな大きな曾孫がいたのか。
家康は、彼らに自分の曾孫という意識を持っていたのだろうか?
286 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 19:53:21.46
家康信康の年齢差が15歳しかなく、これでは父をば、輔翼するより、競争者になりなねないと思ったこと
徳川として今後も清洲同盟をば、維持していくには、この母子はいずれ始末をば、つけねばならないと考えていたのであろう。
又、信康切腹の年に、西郷氏が長丸をば、産んだのも偶然ではなかろう
>>285 意識していたよ
大坂の陣後に播磨国は姫路の本多、明石の小笠原、西播磨の池田と、家康と女系で繋がった家が支配してた
288 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 20:20:24.43
>>286 それを言い出したら、広忠ー家康親子だって15歳しか年齢差がないよ
289 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 20:26:20.48
>>285 家康は本多忠刻に、再婚とは言え徳川宗家の将軍嫡女を嫁がせているわけだからね。
290 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 20:52:08.50
>>281 忠輝って諏訪時代はおとなしかったのではないの?
隆慶一郎の小説とかは配流後は描いていないからわからないけど
>>274 > 大名時代の家康って徳川姓を自分専用にして、
> 嫡子にも使わせていないらしい。
実際の信康の称号がわからない以上、想像でしかないのでは?
岡崎三郎君、岡崎の三郎、等々と呼ばれていたから「徳川では
ない」と断定できるわけでもなし。
個人的な感覚だが、実質的な主君である信長の婿を、自分の
嫡男であると明示しないことができたとは考えづらいが。本人が
徳川に住していたというならともかく、「わが家系は『徳川(得川)
の裔である」ということで「松平」から「徳川」に変えたわけで、
「本人だけ」という話にできるような事では本来は無いわけだから。
江戸大納言豊臣朝臣秀忠は明らかに徳川姓だった
>>290 改易前と改易前をごっちゃにしたらいけん
295 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 14:30:25.07
>>291 三河時代の家康が自分一人だけ徳川を名乗ってそれ以外の親族に名乗らせてなかったところで
信康は長らく家康の一人息子で紛れもない嫡男だったし
徳川を名乗っていないなら嫡男ではないと言って信長が婿にしないとも考え難い。
生前の信康の史料はあまりにも少ない。朝廷から官位も受けていない。
まあ、東照大権現様の息子殺しの史料など江戸幕府が残しておくはずもないが。
ただ江戸時代の史料ではすべて信康に徳川を名乗らせていない、ってとこだろ。
296 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 14:51:44.68
>>291 三河時代の家康は源氏姓名乗ったり藤原姓名乗ったり
今度も他姓名乗る可能性も十分にあったから
自分一人だけ徳川を名乗っていてもおかしくないがなあ。
家系ごと得川に変えて、未来永劫これで行く、なんて
三河時代の家康は思ってないでしょ。
初めてそう決めたのは征夷大将軍になったときだよ。
297 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 18:38:07.91
自分ひとりだけが徳川姓を名乗るって、当時の大名としてはかなり珍しいな。
他の戦国大名はどうだったんだろう?
でも、信長も次男や三男は北畠とか神戸を名乗らせてるし、弟は長野、甥は津田だし、
やっぱり織田姓を独占してたのかな?
上杉謙信も上杉家相続後は、自分以外の一族は長尾姓のままだったんだろうか?
298 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 18:51:31.49
>>297 織田や上杉、松平や徳川は苗字ね。
信長の次男・三男や弟が他の苗字名乗っていたのは他家に養子に出したからでしょ。
信長自身は代々の織田氏を名乗っていたし、自分の代で苗字を変更していない。
上杉謙信だって、養子に入ってからの上杉苗字だよ。
家康は自分の代で親の苗字をやめ、苗字を変更している。
しかも、自分の実の息子すら徳川を名乗らせていないのがいる。
自分は得川の流れであり一族皆徳川に苗字を改めるのだったら
弟たち(異父弟だが兄家康の苗字を名乗った)や息子たち、孫たち一人残らず全員徳川になるからね。
>>297 北畠信意、神戸信孝、長野信包は、養子先の名字なんだから、ちょっと比較するのはおかしい。
織田の庶流には津田を称する人が散見され、信澄は父・信行の行状を憚って、織田を避けて津田を称したんだと思うが、
だからといって単純に織田>津田かといえばそうでもない。
信澄個人は信長に気に入られていたこともあって、その他大勢の織田某どもより、家中での序列は上だったし。
上杉は、謙信が憲政の養子になっただけだから、一族は基本的に長尾のままだよ。
謙信以後の当主の養子や女婿になったり、名乗りを許されたりでもしないかぎりは。
津田は織田の傍系苗字
徳川ー松平
羽柴ー木下
みたいな感じ
家康の息子の松平姓もそれぞれ養子先の苗字じゃね?
「徳川」は祖父清康が称していた世良田と同族だから、
「親の苗字をやめ」と単純には言えない。
それはともかく、系図をいじって「自分の先祖は藤姓
徳川だから徳川に戻す」としたわけだから、本人だけ
が徳川の流れなんていう話には本来はならないのでは?
> しかも、自分の実の息子すら徳川を名乗らせていないのがいる。
これについては、庶家が宗家と異なる名字を称する例が
珍しくないという指摘がすでに出ていますね。
304 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 00:45:27.04
頼房の徳川賜姓は忠長死後で、wikiでは1636年とかになってるが、
これは本当なのかな? 根拠となった出典は、南紀徳川史のようだけど。
この南紀徳川史そのものの編纂は維新後に始まっていて、
頼房の生きた時代とは200年以上の隔たりがあるんだけど。
水戸も福井も自家に有利なように改竄するからなw
当事者が不都合な事実を描かないのが歴史
他の側面から浮かび上がる事実もある
>>301 忠吉、松千代、忠輝は十四松平の東條、長澤の松平だが、
信吉、仙千代、頼房や秀康の子供は連枝の松平
奥平からの養子、特に大阪藩主を務めた松平忠明は、井伊直孝と並んで大政参与の任にあったので連枝とは言い難い
308 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 10:24:50.05
>>303 信康については家康から家督を譲られる前に死を賜っており、
徳川を名乗ったかについては史料がなく不明でしょう。
親が徳川なら子も徳川とならないのは周知のとおり。
家康が先祖伝来の苗字を変えていないというのならば、
その清康が「徳川」を名乗った史料を上げてください。
清康は世多良の末裔を自称したことはありますが
世多良を自分の苗字にしたことはありません。
頼房はなんか謎が多いね
世良田
>>308 > 徳川を名乗ったかについては史料がなく不明でしょう。
後段に付け足しで想像を書いていますが、もともと
>>291もそういう趣旨です。
後、
> その清康が「徳川」を名乗った史料を上げてください。
何をもって「名乗った」と解釈するのか不明ですが、通常は大樹寺の
「大檀那世良田次郎三郎清康、安城四代岡崎殿」をもって、
世良田を称していたという根拠にしますね。
そもそも、何をもって
> 世多良を自分の苗字にした
とするのかが不明なんで、これ以上は答えようがありませんが。
最も子孫が繁栄したのは、頼房だから歴史は面白い
幕末
将軍慶喜、尾張慶勝、水戸慶篤、一橋茂栄、清水昭武、
その他松平、高松、会津、浜田、島原、桑名
鳥取池田、岡山池田、土浦土屋
313 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 14:45:28.96
武田信吉とか松平忠吉の「吉」って秀吉の一字を拝領したもの?
でも、主筋から拝領した一字を名前の下の字に使ってもいいの?
普通は「吉○」だろ。
いつものおバカさん?
>>313 豊臣政権では関白秀次から偏諱を受けた者も次○ではなく○次だから、
それと同じようなものだろう。
もともと編諱は、必ずしも名前の上につけるものではなく、鎌倉時代の北条などは、
時宗みたいに将軍(宗尊)からもらった字を下につけている。
317 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 18:34:53.28
>>315 秀次の次は確かに変則的だね
ただ偏諱の授与は足利義満のときに整理されたと言われてるよね
諱のうち上下の字をそのままそれぞれに名乗る場合は同格や一門扱い
上の字を下につける場合は主従の場合で特に個人間のつながりが強いと
どこかで読んだ様な
だから
>>313の場合は徳川氏を秀吉が一門扱いしてるからじゃないかな
まあ時代によっても様々だからなんともいえないが
江戸時代以降は将軍の権威が高まるから家の字の拝領は初期だけで
一門にも名乗るものがいなくなってしまうけど
318 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 18:36:29.53
>>317 間違えた
>上の字を下につける場合は←誤
下の字を上につける場合は
天海の「水戸から将軍を出せば徳川は終わるという」遺言からして
天海在世の時点で水戸家は将軍就任の資格は一応は認められていたのだろう。
徳川側は見栄を張って
祖父・広忠の「忠」だ、といってるけど、嘘だよな
秀忠、忠吉の「忠」って祖父のものじゃなくて
秀吉に忠義を誓うって意味だよな
まだ「忠康」なら格好ついただろうけど
その頃には格に差がつき過ぎて、「忠吉」になってしまったのだろうw
ん?
忠吉の初名が忠康
忠康→忠吉
信義→信吉
義利→義直
頼将→頼宣
忠は秀忠の偏諱じゃね?
諱でいうと、秀忠が豊臣滅亡後も
秀吉の「秀」の偏諱を外さなかったのは
どういう理由なのだろう?
子の秀頼とは敵対したが、父の秀吉から受けた偏諱だから
改める必要はない、との認識だったのか
327 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 07:20:45.90
外そうとしたけど、家康が外すに及ばずって言ったんだっけ?
それとも周囲の勧めを秀忠本人が断ったんだっけ?
いずれにせよ、徳川氏自身があえて外さなかったのは確実だが。
328 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 10:50:48.10
足利尊氏だって後醍醐天皇と敵対しても「尊」の字を捨てなかったし
主君が変わるたびに毎回改名する決まりもないってだけじゃね?
新たに仕えた別の主君が、俺の一字をやるから改名しろ、と言えば別だが。
329 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 10:53:55.14
陶隆房→晴賢の「晴」って足利義晴の偏諱?
主君の大内義隆を滅ぼしたから、隆の字を捨てて将軍の一字をもらったの?
330 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 10:57:59.69
>>325 兄の偏諱というより、松平氏で代々多用されてた字だから使ったんじゃないのか?
332 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 12:28:46.32
忠康、信義が忠吉、信吉になったのは、
大友義統が吉統に改名したようなものだな。
それでも、下の字なのが引っかかるが。
333 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 13:43:18.86
>>327 秀忠は関ヶ原後に家忠に改名すすめられたが、家康が反対したってのがある。
理由の1つに家忠日記のあの人を大切に思ってたからって説みたことあるわ
334 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 14:59:13.00
>>319 天海は運命学に長けていて、いわゆる風水から水戸排斥論を説いたのだそうだね。
つまり、水戸藩は江戸城から見て東北鬼門方位に当たったので、「水戸藩より世継ぎ(将軍)を迎える時、徳川家は終焉する」と。
水戸は江戸の鬼門、九星の定位盤では八白土星の定位で「艮」(ごん)の方向。
その象意は「曲がり角」「終り」「変化」「停止」だそうな。
要するに一つのものが終わって新しく始まる方向だから・・・
まぁ、史実はたしかに水戸系の慶喜が将軍家を嗣いで、徳川幕府は滅んだわけだが・・・
水戸藩主は、江戸定府だったのにね
こじつけもいいところ
天海大僧正の遺言といっても、しょせん家光の時代までしか影響力ないんとちゃう。
この時代、まだ尾・紀・水を御三家とする体制は確立されていなかったはずやし。
>>下の字なのが引っかかる
秀吉から関白職を継いだ秀次が、偏諱として
自身の下の文字を配下の名の下の文字に使わせていた
このような使い方は、本来、自身の下の文字を
配下の上の文字として使わせて、上下関係を表現することが目的のはずの
偏諱の意味合いからすると、その真意を理解しづらいところがあるが
おそらく豊臣氏、公儀周辺には、
後世には消えてしまって理解しづらくなってしまった
独特の偏諱の感覚が存在したとみるべき
当時の消えてしまった感覚を後世の常識で見るから
不可解に見えるだけで、当時は理解できたのであろう
関白だった秀次の偏諱の使用法が、当時でも非常識であった、
というのは絶対、間違いだと思う
立場上、そんなことをするはずは絶対ない
自分の下の文字を、配下の下に使わせることについて
当時の公儀では、なにがしかの理解があったから行われたはず
ただ、その週間が途絶した後世からみて不思議に見えるだけ
忠吉や信吉の「吉」は、そういういわば「秀次流」の偏諱理解のもとで
使われたはずであって、嫡子に「秀忠」と名乗らせていた
徳川と豊臣の力関係からみれば、忠吉と信吉の「吉」が
秀吉の偏諱であることはまず間違いない、とみなされるべき
秀吉が正式に偏諱として与えたものかはともかくとして
下の文字に「吉」の字を用いることが、
少なくとも失礼だとは思われていなかったことは確実
江戸時代の目から見て、不遜に見えるだけ
秀忠に秀を与えたのと、弟に吉を与えたとことの意味を考える必要がある
浅野長吉、池田長吉という例もあるが。
忠吉は兄の「忠」と秀吉の「吉」をくっつけただけだろ
信長の頃、「信」の字と家康の「康」をくっつけて
信康にしたのとまったく法則性は同じ
信義は語呂だろうな
忠輝の頃になると立場逆転だから、兄の偏諱だけで十分、と
そんで三家の頃になると公家の仲間入りで「頼」になります、と
>>341 徳川史家の主張している
「秀忠の『忠』の字は、祖父・広忠から採ったもので
秀吉への忠義、という意味ではない」という見解
これは嘘だろう、当時は秀吉への忠、と読めるようにつけたのだろう
将軍となってから、その「忠」は広忠のものだ、と見栄を張るように
なったのだろう、という意味
現代人は豊臣摂関家の壮絶な権勢を過小評価し過ぎ
徳川史観の影響を受けている人々は豊臣氏の権勢を
小牧・長久手の頃のイメージで捉えようとするから間違う
北条征伐を終えた以降の豊臣家はこの国の封建権力としては
史上空前絶後のものであり、徳川など完全に豊臣の一家臣に
過ぎなかったという、この点を厳然として再認識すべき
忠吉・信吉の偏諱は、上記したように、
「秀次流」の偏諱が徳川庶子に及んだということに過ぎず
秀次流であることと、それが当主以外に及んだということが
江戸の常識と違うために奇異に映っているだけ
偏諱スレでも立てろよ
346 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 21:02:55.91
浅野長吉、池田長吉などの例も考えると、「秀次流」というより、
秀吉、秀次に共通した「豊臣流」の偏諱なんだろうな。
藤堂高吉
佐野信吉
結論は、
>>346で既に出たんじゃね。
ただ、家康の子らはともかく、
「綱吉」だけは、ようわからん。
豊臣に臣従する時代じゃないのに・・・
お玉は、お控えの綱重の、またお控えであるわが子を
将軍にさせたいと願うあまり、
藤吉郎から出世した「秀吉」にあやかろうとでも思ったのかな?
349 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 00:51:23.86
いつまにか「親」の文字は使われなくなったんだろう
松平・徳川家って年代や家によって通字バラバラだよね
家康の子を見るかぎり、松平氏にとって
「吉」の字は嘉例ではない
よってどうして家光の子の時代に
「吉」を入れる必要があったのかは不明
嘉例ではないどころではない
忠吉、信吉など、早死にした連中ばかりだ
何を先例にして綱吉にしたのだろう?
たしかに不思議だ
>>633 旧唐書の記述は誤りが多い。
後に新唐書が編纂されて理由を考えてみるがいい。
「日本が倭の別種」というのはとっくに論破されてる。
おまえみたいな朝鮮人は2chに来る資格すらないよw
353 :
10人に一人はカルトか外国人:2013/10/28(月) 03:50:29.49
★マインドコントロールの手法★
・沢山の人が偏った意見を一貫して支持する
偏った意見でも、集団の中でその意見が信じられていれば、自分の考え方は間違っているのか、等と思わせる手法
・不利な質問をさせなくしたり、不利な質問には答えない、スルーする
誰にも質問や反論をさせないことにより、誰もが皆、疑いなど無いんだと信じ込ませる手法
↑マスコミや、カルトのネット工作員がやっていること
TVなどが、偏った思想や考え方に染まっているフリや常識が通じないフリをする人間をよく出演させるのは、
カルトよりキチガイに見える人たちを作ることで批判の矛先をカルトから逸らすことが目的。
リアルでもネットでも、偽装左翼は自分たちの主張に理がないことをわかっているのでまともに議論をしようとしないのが特徴。
354 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 04:03:02.20
御三家の諸兄が行きて藩が存続したらどうなったんだろうね?
分家松平や武田のままで御三家が別格のままだったのか?
それとも御三家は末弟という事で家康の子息の藩の中では格下にされたか?
忠直→福井
忠昌→?
直政→?
直基→?
直良→?
忠長→?
正之→?
綱重→?
綱吉→?
忠吉→名古屋
信吉→水戸
忠輝→?
松千代→高田
仙千代→甲府
義直→?
頼宣→?
頼房→?
頼重→?
今川家から松平勝久?(久松松平の人?)の養子になったひとの子孫っているの?
三好信吉→羽柴秀次
>>354 家康が子づくりをやめた可能性もある
御三家の祖は義直ですら1600年生まれだから、
生存中の諸兄が7人という設定になる
もう子供はいらん、お家騒動のもとじゃ。
359 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 15:19:13.90
幕末の現高
尾張、紀伊 ともに約27万石
水戸 6万石弱
上杉や南部以下、これでは水戸は苦しい
>>354 50万石クラスの大名そんなに作れないから養子いったり10万あたりだったりじゃね?
361 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 19:21:58.68
なぜ徳川将軍家は、余った男子を寺に入れなかったのだろう?
家斉の息子たちこそ、寛永寺や増上寺や輪王寺に入れればよかったのに。
>>362 359ではないが、たとえば「華族誕生」(浅見雅男)などに出ている。
>>363 読んでないからあれだけど
尾紀の現高がどうして表高の半分になるんだろう
水にいたっては数分の一
他の大名から見ても著しく少ないの?
現「高」であって
現「収」ではないんだろ?
>>364 現高=年貢収入
表高の30〜50%が相場じゃない?
表高=現高だったら農民は全員餓死するw
追記
>現「高」であって
現「収」ではないんだろ?
収納高という言い方が一番しっくりくるのだろうけど混同されてるんだろうね。
>>359 上白米に精米するとして、租税率を半公半民としたら、年貢収入は実高の35%くらいになる
尾張、紀伊は木曽や熊野の山林が石高に含まれている
水戸は20万石くらいの実高なのに表高を嵩上げして背伸びしてるんだっけ?
>>367 他藩の殆どは表高より実高の方が多いものだけど
水戸は28万石から35万石に直した時に表高と実高の差が無くなった
税率で言えば幕領の多かった関東は他地域より比較的低めだったけど
水戸は格式の維持やら藩主以下多数の家臣が定府だったり文化事業とかやってたりでかなり高めだった
明治になって関東一円の庶民には重税の不満が高まったけど
水戸は江戸期からそんなに変わらなかったので新政府への不満はさほどでもなかったらしい
1俵=3斗5升入(0.35石)
知行取り1石=米1俵
現米35石=100俵
1人扶持=米5俵
知行取り100石=蔵米100俵=現米35石=20人扶持=金35両
名目レート:現米1石=1両換算
て、27万石と6万石はなんで?
>>362 その現高は、各藩の自己申告だったと記憶している。
結果的に、爵位を決める基準となった。
水戸は御三家だから、石高に関係なく侯爵。
明治維新後は徳川幕府下で
御三家末席だった水戸家は将軍家と同格扱いに格上げされて逆転
慶喜の大政奉還への評価を反映したのか。
南朝を正統とする大日本史編纂事業が評価された
375 :
765:2013/10/30(水) 02:06:19.73
明治帝は北朝のはずでは?
376 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 05:14:41.44
>>373 慶喜の名誉回復爵位は
宗家とは別のべっけとしてもらってるから水戸がってことは
あまり関係ないのでは?
水戸は大日本史編纂の功績でしょ。
378 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 03:44:48.99
慶喜の父ちゃん斉昭への贈正一位は天皇家からの最大の感謝の表れ。
逆に徳川将軍で一位になれなかった唯一の将軍、慶喜。
明治に存在した立場から遠慮もあったんでしょう。
そんなもの役にもたたんと内心思っていたかも?
379 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 07:29:46.11
中期に繁殖した吉宗系統より
末期に繁殖した水戸がおいしい思いしましたってだけだよな。
もし紀伊吉宗というか家斉系統が幕末まで多く繁栄してたら
明治維新も時期ずれたりしたのかな?
水戸は尊皇思想だからすんなり大政奉還できたって部分もあるだろうし。
どうだろうか?
380 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 07:32:10.12
尾張は宗春のあと
高須から入った系統がばかすか
子供作ってれば、他の御三家にのっとられなかったろうけど
なんであそこまで簡単に尾張は分家含めたえてるんだ?
食べ物が悪いからじゃね?
味噌かつ、味噌煮込みうどん、海老フライ、天むすって、脂っこ過ぎる
382 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 09:03:53.61
味噌カツ、味噌田楽ウマー
>>380 自分で調べたことはあるのか?
宗勝には26人も子供がいた。
宗睦の後継候補も何人もいたが、世子のうちに次々に死んでいる
これでも一応、水戸を尊皇にした家康は先見があったのかな
385 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 17:09:35.11
完全な滅亡を防ぎ、しかも薩摩長州と同格とは云え公爵として生き延びたから、成功と言えよう。
根絶やしにされ、遺骨まで遺棄された豊臣氏に比べればはるかにマシ
387 :
日本@名無史さん:2013/11/01(金) 02:22:38.83
>>381 味噌悪かったらそもそも家康も
多くの戦国武将もアウトだろ
388 :
日本@名無史さん:2013/11/01(金) 08:10:31.03
慶喜は静岡に向かい隠遁しました。静かに余生を暮らしました。
と思いきや、
静岡に随行した家来、渋沢栄一は数年後東京へ戻り日銀を創設。
また水戸藩御用商人が川崎金融財閥を起こし陰の日銀と言われた。
政治に口出さないが、ちゃっかり経済界に影響力を維持した。
将軍偏諱を受けてない御三家当主(除藩祖)
尾張五郎太 元服前の幼児だから
紀伊頼職 藩主になってすぐに死んじゃったから
水戸昭武 清水家当主時代に慶○でもよかったはずなのになぜだろ? 渡仏の影響か
>>389 昭武が水戸家当主になったのは慶喜が宗家継いだ後やで
>>390 そりゃ、実父の諱外して喜武とか、実父の諱の前に自分の諱を与えて喜昭、というわけにはいかないだろうな
>>388 渋沢栄一や川崎財閥に慶喜のどんな影響があったんだよ?
渋沢は天狗党に参加しようとしたのを慶喜に止められ命拾いした。
後年渋沢は慶喜の回顧録の編纂をしている。
>>394 経済界への影響力を維持したっていうのがそれなのか?
謹慎の身の上、影響力の影も形も無く隠遁していたが、
旧側近だった渋沢、旧幕臣の勝海舟、旧水戸藩士の香川敬三と
慶喜を支える人士は各界に幅広く、慶喜を復権させる力となった。
はぐらかす能しか無いのは分かった
398 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 00:26:50.14
水戸家の家老筋三木某が大阪で二股ソケット売っている青年に資金援助し東京進出にも貢献した。
青年は後に感謝の意を込め、白い髭の爺さんが出る時代劇のスポンサーになった。
三木は皇居に顔パスで入れる謎の人物、多分香川敬三や川崎財閥がバックにあったと思われる。
慶喜が経済界に影響を及ぼしたとするのは想像だけで根拠は何も挙げられないのだな
400 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 01:39:47.45
慶喜が銭儲けした訳でなく、旧幕臣が路頭に迷わぬよう資産運用を託されたのが勝や渋沢。
川崎金融財閥は三菱銀行と合併したけどね、川崎の方が店舗は多かった。
慶喜家は現在の当主で終わりだそうだから消滅。
401 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 03:16:15.17
尾張藩には「将軍家に関わるな」という家康の内々の命令でもあったのか?
八代将軍擁立の時も一部家臣が間部詮房らと継友を擁立しようとしても
重臣の成瀬と竹腰が積極的でなかったようだし。
402 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 05:28:55.18
>>392 ほかならぬ慶喜自身も一橋家相続にあたって親父の斉昭の「昭」の字を捨てて、
全く新しい名前「慶喜」を12代将軍家慶から拝領しているのだから、
普通に考えたら、昭武も清水家相続の時点で「喜」の字をもらっておかしくない。
慶喜本人が「家○」に改名していないから、あまりこだわりがなかったんだろう。
慶喜の一字をもらった人って、会津の世子喜徳と肥後の世子喜延しかいない。
403 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 05:31:30.55
>>396 香川敬三って元水戸藩士だけど、実質的には土佐の人脈だし、倒幕派の志士上がりだから、
あんまり慶喜の役に立ってるとは思えない。
慶喜の叙勲は香川無くしてあり得なかった
>>慶喜本人が「家○」に改名していないから、
>>あまりこだわりがなかったんだろう。
先代の将軍が死んでるのに、勝手に改名できないだろw
綱吉、吉宗、みんなそうだろ
406 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 06:25:40.27
綱吉は改名しようと思ったら改名できたんじゃないのか?あえてやらなかっただけで。
吉宗は、大名に取り立ててくれた綱吉への恩義と自分が紀州系将軍初代という自負から、
あえて改名しなかったと思う。
407 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 12:40:56.49
>>403 慶喜は倒幕派とも言える。徳川内閣は狙っていたとおもうが。
自民党の総理が自民党をぶっ潰すみたいな感じ。
幕府は解散、でも徳川家はぶっ潰さなかった。
香川敬三は一橋慶喜の側近時代もあった。
他家から将軍家に養子に入った者は、
8歳で養子になり15歳で将軍になったの家斉と、13歳で就任した家茂以外は、
元服とかいう通過儀礼は別にして、
成人養子の綱吉、吉宗、慶喜は、
みんな「家○」と名乗るのを遠慮したんじゃないの。
409 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 14:26:28.04
慶喜や昭武の場合は、幕末も押し迫った時期だから名前など些末的なことに、
いちいちかまってられない状況だったということもある。
諱が些末なことってw
前の将軍が存命中に将軍世子となった養子は家○
家宣、家斉、家茂
将軍死後、他家から将軍後継者となった場合はそのまま
綱吉、吉宗、慶喜
結果論かもしれないけどね
いや、そういうことだろ
綱吉にしろ、吉宗にしろ、将軍から諱を
もらった名だから、自分では改名は、
できないだろうな。
どうしても改名するなら、自分より上の
天皇に諱をもらうしかない。
>>392 実父の諱より、現将軍の諱が有難いでしょ
余九麿が昭則から喜徳となったのに、
余八麿が昭武のままというのは、家格からしても変な感じだ
幼名が竹千代の将軍は少ないな
途中で改名した?秀忠は除くと家康、家光、家綱、家治の4人しかいない
直系が上手く続かなかったんだな
諱といえば、越智松平清武も不思議な変遷をしてるよね
綱吉の偏諱貰って吉忠
↓
綱吉死後に、家宣から偏諱を貰い清宣
何故か偏諱を下に使う
↓
家宣が死ぬと、その貰った偏諱を捨てて清武
なんなんこの人?
417 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 19:54:02.58
>>401 たしかに不思議だよな いくら継友 玄孫 吉宗 曾孫といえ
家柄からいえば尾張だよな
>>413 将軍になったら、自分が最高権力者なんだから改名は勝手だろう。
綱吉は家綱の養子
吉宗は綱吉の義理の孫の養子
儒教的にはアウトってことかな?
420 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 23:55:23.86
>>418 将軍と言えども、自分の主が与えてくれた名を勝手に変えることは
出来ないんじゃないか?
実際に、勝手に改名した将軍がいないのがその証拠。(創始者の
家康は除く)
最高権力者といえども、その時代の慣習やしきたりには、逆らうことが
出来なかった。(例えば、歴代将軍の命日には大奥に入れないとか)
昔は今と違って、人の上に立つ者ほど身を先例を破るような勝手なことは出来ない
422 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 06:47:36.56
家康だけ除外するのは、フェアじゃないな。
目上の主君がくれた名前を自分の意志で変えたことに変わりはない。
秀忠も秀吉の死後、周囲は改名を勧めたというし、決してタブーだったわけではないだろう。
423 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 07:09:02.56
>>416 それ逆なんじゃないのか?
元服時は吉忠だったけど、綱吉が将軍になったから清宣と改名。
ところが、しばらくして兄の綱豊が家宣に改名したから、清武と再度改名。
そう考えた方がスッキリするんだが。
424 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 07:16:00.43
清武が吉忠や清宣と名乗ってた頃は、一甲府藩士や旗本の頃だから、
将軍から偏諱をもらえる立場ではなかったと思う。
家宣が将軍になっても譜代の小大名扱いで宣○と名乗れなかった。
大体、越智松平家って大名になっても、親藩というより譜代の扱いっぽいし、
歴代当主も偏諱をもらえたのは家斉の息子を養子にもらったときだけ。
清武自身の待遇も、越智家自体の待遇も家門とは言い難い感じがする。
426 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 08:21:46.80
家宣って名君だの好人物だのって言われてるわりに同母弟に冷淡だよね。
とても将軍実弟に対する扱いじゃない。
427 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 11:18:00.62
>>416 その清武の改名遍歴って元ネタはウィキみたいだけど、あの記事、ちょっと信憑性が・・・
最初の諱が30すぎてからというのも不自然だし、まだ甲府家家臣だった頃に偏諱をもらうのも、
綱吉時代の他の例、たとえば吉宗(松平頼方)と比べてもありえない。
まして将軍が代替わりしたから新将軍の偏諱に変更するとか、他の大名を見ても例がない。
しかも、大名に取り立てられたあと、兄貴が死んだらその偏諱を捨てるとか、ますますありえない。
あのウィキの記事は細かく見ると不自然な部分が多く、参考にできないと思う。
松平頼純の長男って不遇だよな
政争による病気名目の廃嫡なんてよくある
430 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 14:32:03.05
尾張の家臣が将軍継嗣問題に積極的ではなかったのは
領地を返上したくなかったからだろう。
綱吉が将軍になった時は館林を返上したし
家宣が将軍になった時は甲府を返上した。
もし吉通や五郎太や継友が将軍になった場合
先例から言えば尾張を返上しなければならなかったはず
家臣にとっては豊かな尾張藩をわざわざ返上してまで幕閣に加わる必要なんてない
(紀州は上手い事やって返上から逃れたが)
「徳川実紀」によれば、綱重は叔母に当る家光の妹東福門院の勧めで、
関白左大臣二条光平の娘を正室として迎えたばかりであったので、
その手前遠慮して、側室お保良の方とその子虎松(綱豊)を家老新見備中守正信に預けた。
ところが綱重は虎松に会うことを口実にしてたびたび、お保良の方を訪れるうち、
またまたお保良の方が懐妊してしまった。
そこで今度は急遽、書院番越智与右衛門喜清の妻として下賜した。
お保良の方はこの越智家で次男熊之助(清武)を産み、その翌年28歳で没したが、
延宝8年(1680)5月28日に清武は越智家300石を家督相続してしまった。
その点、新見正信は、虎松が綱重の実子であり、預かるだけの誓詞をあらかじめ幕閣に出しており、
新見家の家督も継がせていない。
同腹とはいえ、綱豊と清武は当初から君臣の立場で境遇が全然違うので、
兄が将軍になったからといって、弟をご家門扱いにはできなかったのではないか。
>>430 尾張家が将軍家になり替わるわけじゃない。
あくまでその時の当主が、将軍家に養子入りするだけだから。
家は存続する。
甲府は宝永元年、綱豊が養子入りする際に、嗣子がいなかったし、
館林は徳松一人しかいなくて、綱吉が一緒に江戸へ連れて行ってしまったから
無嗣絶家になっただけじゃないか。
綱吉時代の初期から、すでに御三家は将軍家の直系が絶えた時、宗家を継ぐ家柄として
別格扱いされていた。
子のない当主が宗家に養子入りし際、無嗣にならないように連枝を設け、
その所領は本家からの分知ではなく、特別に幕府から新知されていた。
ネタにマジレスしちゃったようで
434 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 16:47:27.00
>>431 清武も二条の娘も秀忠の曾孫どうしなのに、遠慮して300石の陪臣扱いなんてかなり不憫だな。
徳川秀忠ー徳川和子(後水尾天皇中宮)ー賀子内親王(二条光平室)ー隆崇院(徳川綱重室)
徳川秀忠ー徳川家光ー徳川綱重ー松平清武
>>432 館林は徳松を当主として存続したが、徳松が死んで廃絶
松平清武の清て
松平清康から取ったんだと思ってたけど違うんだな
>>435 そこなんですよねぇ、実態がよくわからないのが・・・
実は、「徳川実紀」には徳松が上野館林二十五万石に封じられたとういう記述がないのです。
延宝8年8月に綱吉が将軍宣下を受け、徳松が同年11月に将軍嗣子として西の丸に入っているのですが、
「後継者は綱吉」という家綱の遺言が、老中末席の堀田正俊一人の一名奉書で伝えられた時、
綱吉の将軍就任に反対していた大老酒井忠清らを納得させるため、綱吉の就任は、当時大奥に家綱の遺児を懐妊していた女子(おまる)がいるので、
その子が誕生生育するまでの中継ぎとする。したがって徳松は館林藩主として据え置くという・・・談合の上の、実体のない形式だけの話のようなのです。
同じ延宝8年10月に遺児が流産し、11月に徳松の西の丸入りが強行され、12月酒井忠清が失脚する。
館林城が破却されたのは、たしかに徳松死後の天和3年なのですが。
綱重が生きて五代将軍になっていた場合の、清武の処遇はどうなっていたのだろうか
将軍実子として徳川姓と甲府貰えたのかな
>>438 さすがに実父が将軍になっていたら相応に遇されただろうよ
あるいは清武派と綱吉派に分かれての抗争になったかも
まぁ越智家の家督を相続した時点で、アウトかな。
家光にまだ子がなかった当初、保科正之が候補にならず、
家治の跡、松平定信の名が挙がらなかったように、
そして清武自身、家継の死にあたり、後継者として推されなかったように。
臣籍に下ってしまった以上、将軍家を継ぐのは無理かと思う。
ただ、綱重が五代将軍となれば、甲府綱豊は世継ぎとして西の丸に入るだろうから、
そのあとの甲府藩をもらって、大封を得た可能性はあると思うよ。
でも、称徳川は、ヤッパ、無理っショ!
家康次男の秀康が結城を継いだからダメ、という家康がつくった前例があるから、
正之も清武も徳川にはなれないろう。
でも保科正之の場合は、徳川を固辞したばかりか、松平すら固辞したという話を読んだことがある。
そのとおり!
正之は葵の御紋も松平姓も固辞していた。
その次の正容の代になって、ようやく賜った。
但し、Wikiに書いてあるような「親藩」扱いは微妙。
讃岐高松松平同様、「溜の間詰」で「臣下」扱い、のようなもの。
越智は帝鑑間
>>讃岐高松松平同様、「溜の間詰」で「臣下」扱い
けちをつけるわけではないが、連枝なら、吉宗のように
「三段跳び」で宗家を継承する可能性はある
連枝なら・・・そのとおりです。
いかんせん、話題になっている、越智松平、会津松平、白河松平は、いずれも該当せず。
その恩恵に浴せる可能性があるのは、御三家連枝のみ。
讃岐松平家は、水戸家を継げば、論理的には将軍家を継ぐ可能性あり・・ってことになるのだろうけど、
ただ、水戸家が将軍家を継げるかどうかは議論があるみたい。
前レスにあった天海の風水に基づく水戸排斥論は別にして、
尾張、紀伊には、当初から将軍家に嗣子無き時に、宗家へ当主が養子入りする事態を想定して、
連枝として、西条松平や高須松平を設け、その知行は幕府から特例で与えられていたのに、
水戸の場合は、それがない。
当初は自分の領地を削って、分家に知行を与えた。
>>447 それは違う。
讃岐高松藩自体が、幕府から水戸家の連枝として新たに知行を与えられた。
それも破格の12万石も・・・だから、尾張、紀伊と同様の扱いでしょう。
守山、府中、宍戸の支藩は分知だとしても・・・それも幕府に反抗的だった光圀の死後、
幕府から新知拝領しているはずでは。
449 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 08:11:10.81
水戸家は本家の石高だけだと、御三家の中で見劣りがするが、
高松以下連枝4家の石高も合計すると、そこそこ大きな石高になるな。
>>417 家柄としては三家は同格、特に尾紀両家は互角。
>>422 家康の場合、むしろ「主君ではない」という宣言として
積極的に偏諱を捨てたんだろ?
>>447 > ただ、水戸家が将軍家を継げるかどうかは議論があるみたい。
後期に作られた伝説を別にすれば、別に議論は無いよ。
実際に三家が将軍継承に絡んだ八代争いの時には、吉宗が
「門地では尾張殿、年齢では水戸殿」と辞退したという話が伝わっ
ているわけだし。
後、尾紀両家の分家も当初からのものではない。特に尾張の
場合は四谷、大久保、川田久保の三家とも二代光友の子だし。
御三卿は御三家より格下でいいの?
官位(極官)では格下になるな。
455 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 13:45:04.94
越智は雁間だボケ!
尾張家、紀州家の連枝はもちろん、越前や松江の松平家が大広間詰なのに、
なぜに水戸家連枝の高松藩は、井伊や酒井や久松松平といった家臣扱いの溜間詰なの?
御両典と駿河家が続いてたら面白かったのになぁ。
ひとりかふたり、低レベルなヤツがおるね。
相手されてないのに、しつこい。
↑自己紹介乙
>>456 譜代大名並みに扱うことで、御三家連枝としては破格の12万石を得られた
会津松平家も常溜であり、なんら問題はないと思うが
461 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 16:21:02.56
>>452 >実際に三家が将軍継承に絡んだ八代争いの時には、吉宗が
>「門地では尾張殿、年齢では水戸殿」と辞退したという話が伝わっ
>ているわけだし。
ただの方便だろw
水面下で吉宗に後継が確定した上でのただの駆け引き。
常識で考えたらわかるだろこんなこと。
水戸が後継争いに絡んだことなんて1度もないよw
>>461 > 水面下で吉宗に後継が確定した上でのただの駆け引き。
それはその通りだが、継承権があるかどうかというような議論で
重要なのはあくまでも「建前」の方だよ。
八代継承のときの実態がどうだったのかという話を始めたら、
水戸以上に後継争いから遠い尾張には、将軍継承権はなかった
ということになってしまう。
463 :
日本@名無史さん:2013/11/04(月) 17:49:36.98
高松にせよ会津にせよ、常溜ということで譜代の最高ランクなんだろうけど、
井伊みたいに大老にはなれなかったな。
常溜とは家格なのか役職なのか、どっちなんだろう?
佐竹の領地そのままで常陸徳川54万石だとまずいのか?
まずいです
以上
>>461 >>462 このスレでは、「観念的(白紙的)」に継承権をあるか否かが重要だと思う。
当時の政治情勢上、実際的には、宗家継承の可能性はなくても、白紙的には
継承資格があるというということであれば、水戸家も継承資格はあったという
ことになると思う。
昭和戦前期において、伏見宮系の皇族が皇位継承する可能性は事実上ゼロ
だとしても、白紙的には、皇位継承件を有していたということは事実である
ということ相似形だと思う
尾張にも紀伊にも適任者がいなければ、
水戸から将軍が出てもおかしくないよな
将軍家が絶家はあり得ないから
御三卿ができてからは、尾張と水戸は圏外
頼房が子供を水に流せって命じてたのは、二人の兄より先に子供作れないと遠慮してたって解釈は結構好き
469 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 01:20:07.27
平和な頃の親分は大人しく理屈っぽく無い方が良い。
幕末、さすがに英明待望論が出てきたら水戸しかいなかったってのが実情。
470 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 01:45:03.04
>>462 そうだね
暗黙のルールとして水戸に継承権ないならそんなことはいわないで門地で尾張殿では?
って一応いうだけだろうしね
>>吉宗が「年齢では水戸殿」といって辞退した
それ、違いますよ(苦笑)
江戸時代には「自薦」という文化がなかっただけですよ
必ず「他薦」というポーズを必要としたわけで
吉宗がいったん辞退して見せたのは
そういう江戸文化の文脈で捉えるべきで
あくまで当時の作法を演じているだけの吉宗の言葉に釣られて
あたかも水戸が尾紀両家と同格だったかのような錯覚をするのは
この板の住人としてはやっちゃいけないことですよ
観念も大事ですが、やりすぎると朝鮮人と同じになってしまうわけで
やはり日本の史学の場合、実態を優先するのが大事なのかな、と
水戸にも継承権があったかどうかという話をしてるのに
なぜ尾紀と同格とかいう話にしたがるのかね
すぐ朝鮮人とか言い出すのも苦笑
473 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 21:44:41.68
>>471 文化と継承権あるなしは別では?
それにそもそもないのであれば
水戸に話しふるのはその時代の自薦文化がないからっていったら
継承権ないのにこいつなにいってんだ?ってなるから
尾張にだけいえばいいのに
水戸にも一応話しふってるんだから、継承権はあったってとらえられてもおかしくないよね?
>>471 継承権の有無と言う事柄そのものが建前論の話なんだから、「建前としてどうか」という
議論になるのは当然でしょう。
吉宗としては水戸どころか尾張継友にも譲る気などは欠片もなかったわけですから、
実態優先と言い出したら尾張家にも継承権はなかった、という結論になりますよ?
伝えられている話では、「門地では尾張殿、年齢では水戸殿」と同時に語っているわけ
ですから。いずれにせよ、
> 吉宗がいったん辞退して見せたのは
> そういう江戸文化の文脈で捉えるべきで
皆最初からそういう前提で話をしていますので、今更したり顔で言うようなことではない
ですね。
475 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 23:42:47.36
こういう議論になると、特定の人間同士で延々バトルが続いて、
他の人間が他の話題を書き込みにくい空気になるのはイナメナイヨネ。
天海の遺言もあるし水戸の継承権は建前だけだろ。
天海の遺言って、怪しげな風水屋が唱えている与太話だろ?
>>472 >>水戸にも継承権があったかどうかという話をしてるのに
>>なぜ尾紀と同格とかいう話にしたがるのかね
あなたは、単なる継承権の話をしていたのではないはずです
あなたが引用した吉宗のセリフでは
彼は門地と年齢を並列に扱っており
つまり、尾張と水戸には同等の継承権がある、と言っているのです
だから私は、それは違う、
吉宗が水戸に尾紀と同等の継承権があるかのようにいったのは、
当時の自薦禁忌の習慣によっただけで
実際に、水戸に対等の継承権を認めたわけではなかろう、といったのです
もし御三家だから継承権があるだろう、というような
そんな一般論をいいたのなら、それこそ
今更したり顔で言うようなことではないのではないでしょうか?
>>473 >>水戸にも一応話しふってるんだから、
>>継承権はあったってとらえられてもおかしくないよね?
言葉が足らなかったですね
私、水戸に継承権そのものがない、と言いたかったのではありません
吉宗が家格と年齢を出して
あたかも尾張と水戸が同等であるかのような言い方をしていたので
明らかに格下の水戸を対等であるかのような言い方をする理由は、
それが建前に過ぎないからであろう、といいたかったのです
>>実態優先と言い出したら尾張家にも継承権はなかった、
>>という結論になりますよ?
よく考えてみてください
尾張は吉宗と比べて、一親等離れていたり
藩の財政運営に難があったりと、条件面で劣っていただけであり
これら条件さえ吉宗を凌駕していれば、尾張は将軍になれた、
つまり尾張には継承権はあったと思います
一方、水戸はどうでしょうか?
もし水戸が吉宗より一親等近く、藩財政がうまくやれていれば、
水戸は将軍を出せたのでしょうか?
もし出せた、というのなら、水戸に実質的な継承権はあったのでしょう
しかしもし、水戸のほうが好条件であっても
やはり将軍は尾紀から出たであろう、と思うのなら
水戸には、実質的な継承権はなかった、と考えてよいのでしょうか?
それはご自身の胸に問うてみてください
>>水戸には、実質的な継承権はなかった、と考えてよいのでしょうか?
打ち間違えました
「水戸には、実質的な継承権はなかった、と
考えてよいのではないしょうか?」
と読んでください
>>実態優先と言い出したら尾張家にも継承権はなかった、
>>という結論になりますよ?
よく考えてみてください
尾張は吉宗と比べて、一親等離れていたり
藩の財政運営に難があったりと、条件面で劣っていただけであり
これら条件さえ吉宗を凌駕していれば、尾張は将軍になれた、
つまり尾張には継承権はあったと思います
一方、水戸はどうでしょうか?
もし水戸が吉宗より一親等近く、藩財政がうまくやれていれば、
水戸は将軍を出せたのでしょうか?
もし出せた、というのなら、水戸に実質的な継承権はあったのでしょう
しかしもし、水戸のほうが好条件であっても
やはり将軍は尾紀から出たであろう、と思うのなら
水戸には、実質的な継承権はなかった、と考えて
よいのではないでしょうか?
それはご自身の胸に問うてみてください
483 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 01:14:59.52
>>334にもあるとおり、天海の風水は、水戸家以外の諸侯の配置を決める際にも影響力があったといわれている。
だが彼の風水に基づくアンチ水戸説が、家光以後の幕府を長く、強く拘束したとは考えにくい。
水戸家に将軍家を嗣ぐ資格がないという根拠によくされるのが、明治時代に編纂された
幕府の法令集「徳川禁令考」に載っている「公武法制応勅十八ヶ条」だが、
これは今では偽書と認定されている。
逆に、たびたびここでも登場している「門地では尾張殿、年齢では水戸殿」と
吉宗が一旦辞退したとされるやり取りは、
幕府正史の「徳川実紀」の「有徳院殿御実紀」に記述がある。
このやり取りは、水戸家からも将軍を出せることを前提にしている。
また、吉宗の辞退は、紀・水間の出来レース、政治ショーとも吉宗のパフォーマンスとも受け取れるが、
それは儒教の謙譲礼節の美徳とかいうものとは違った、政治的打算から演出されたものではないのか。
つまり、もともと「棚からボタモチ」で後継者にかつがれたのでなく、
周到な政治工作と諜報活動の成果として「紀州殿こそ・・・」と推されるまでになった吉宗にとって、
ここで大奥(天英院派か月光院派か、どっちが吉宗を推したか諸説があってはっきりしないが)や
老中(土屋正直や井上正岑ら)に推挙されるまますんなり将軍職に就いて、彼らに「借り」を作ることのないように
しただけではないのだろうか。
>>478 > 実際に、水戸に対等の継承権を認めたわけではなかろう、といったのです
これは全く根拠のないあなたの憶測にすぎませんね。
実際に吉宗が
> つまり、尾張と水戸には同等の継承権がある
と言っている以上、あなたの憶測には何の意味もありません。
吉宗が尾張を持ち上げ、水戸を落とした言い方をしていたなら
ともかくね。
綱吉の後継者が定まらない時期に、
将軍家にも尾張にも紀伊にも将軍後継がいないなら
我が子がいる、と光圀が言っていたらしいよ。
家光が家綱綱吉綱重を生まずにいたら
正之の将軍後継の目ってあったのかねえ
正之が保科家を継いでるといっても
家光と御三家は軋轢もあったし
家光なら我を通せそうだし
>>486 さすがに無理だと思うよ
家綱が生まれる前の後継候補は、尾張光友(家光娘婿)でほぼ固まっていたと思うし
家光と頼房の関係は極めて良好だった
将軍になろう、などという野望を微塵も見せないから
家光は正之を信頼していた。
家綱後継候補には親王とか高須が挙がってたんだっけか?
つまらすぎるネタふり、いらねえよ
491 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/06(水) 16:15:57.88
頼房は水戸家の微妙な立ち位置を理解していて家光と良好な関係を作っていたよね。
コミュ力高かったのかな?
水戸城に石垣が無いことを家光は心配し資金提供した。
伊豆の石材を置く場所まで作ったが、光圀が大日本史に流用し石垣は出来なかった。
日本の為には良かったのか?光圀も大胆な人物だ。
493 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 21:41:49.46
>>492 >491は高校の図書館で読んだ。名前は覚えてない。何で伊豆なんだと思ったから覚えている。
水戸に行けばある。
>>485は初耳。
明治からある高校だから戦前の本もあったなー、戦災で焼けなかったし。
私でも読めたから出版物だったと思う。
>>492 485にある話は、たとえば林董一「将軍の座」に、
桃源遺事からの引用として載っています。
光圀は綱豊を強く押して綱吉と険悪になったと聞いた
家光の長女千代姫と尾張義直の嗣子光友の婚約で、
光友の次期将軍が内定したことを裏付ける旗本の書状が、
平成22年11月に、山口県文書館所蔵の毛利家文書からみつかったとそうだ。
家光の近臣だった旗本安倍正之が長州藩主毛利秀就に出したもので、
日付は寛永15年2月21日付で婚約発表の翌日。
その中に、「家光に男児が生まれなければ、天下は光友に譲られるとの風聞がある」
との趣旨の記述がある。
寛永18年に家綱が生まれ、尾張家からの将軍誕生は幻に終わったが。。。。
>>495 「當代(綱吉の代)のはじめ 徳松君を儲君に立られんとて、三家に議せられしに、
卿(光圀)ひとり異議をとり、御兄(甲府綱重)の卿をはせば大統をつぎ給ふべきに。
世を早くし給ひしかば、豊代御末弟(綱吉のこと)をもて大統をうけさせ給へり。
されば御兄の子唯今の甲府殿(綱豊)を二子に立給ひ、徳松殿をば又その次、
御世つぎとせられんに於ては、天意人望にも叶はせ給はんと申給ひし事あり。
又その後もしばしば直言を申されし事ども。何となく旨にたがひしにや。
その後はこの卿(光圀)卒去のころまでも、水府をば疎遠にわたらされ、
卒去後に及び、綱條卿をば懇遇ありし由なり、さる故もありにけるにや」
……の、ことやね。
499 :
日本@名無史さん:2013/11/07(木) 23:55:50.19
>>485 尾張にも紀伊にも将軍後継が居ない時ってあったか?
紀伊には綱教がいるし、尾張には綱誠→吉通がいる。
しかも紀伊尾張双方とも将軍家とのパイプが強い
(綱教の嫁は綱吉の娘鶴姫、綱誠の母は綱吉の姉千代姫)
水戸の綱條に将軍後継のお鉢なんて回って来るわけない。
光圀自身もそう思ってたから甲府の綱豊を推したんだろ。
>>499 桃源遺事にあるのは、貞享年中に綱吉の跡継ぎとしての養子を考えておい
た方が良い、という話が出たのに対して、
「将軍はまだ若いのだから子供が生まれないと決めつけるのは早すぎるし、
本当に養子の必要が出た場合でも、甲府宰相がいる。
で、もし理を非にまげて甲府宰相を拒否した場合でも尾張中将がいるし、
それもいやだとなれば紀伊中将もいる。それでもいやだとなれば、倅の少将
もいるのだから云々」
と発言したという話だとか。
>>499 この「桃源遺事」にある光圀の発言と言われるものの背景には、
当時幕政を主導していた大老酒井忠清の有栖川宮擁立への牽制として
あくまでも家綱の跡継ぎは、徳川一族がいる以上、
尾張がダメなら紀伊が、それもダメなら我が倅が…という
趣旨の主張で、もっともな発言だと思います。
>>484 それなら、もし水戸に紀伊同様の好条件があって
さらに紀伊に尾張のような悪条件さえあれば
尾張・紀伊を差し置いて、水戸が将軍を出せた、と
あなたはお考えなのですか?
ほかの住人の方にも伺いたいのですが
家継後継に水戸の目など、本当にあったのでしょうか?
吉宗の言っていることはまったく建前に過ぎないように感じますが
水戸の継承権など実際には機能せず、無いのと同様ですよ
たとえ建前でもあったはずだ、などというあなたの見解は
ただの観念論でしょう
水戸が幕末になって将軍を出せたのは、
あくまで尾紀の血統で適任者がいなかったからであって
決して継承権があったからではないですよ
たとえば、もし水戸にも適任者がいなければ
別に連枝からでも将軍は出たと思いますよ
あなたのいう「水戸の継承権」などというのは
その程度のものですよ
そんな一般論的な話を継承権といっていいのなら
おそらく全ての連枝に「継承権」はあった、と思います
>>502 こいつの言ってることの方が観念論に聞こえるのは俺だけなのか
>>503 だったら三家の連枝にも潜在的な継承権があったと見るべきだろうし
三家を差し置いて連枝が将軍家を相続するってどういう事態なんだよ
506 :
日本@名無史さん:2013/11/08(金) 03:18:22.89
>>503 適任者が他に居なければ将軍になれるというのを端的に「継承権がある」というんだが。紀伊や尾張には劣後した権利であるにせよ。
507 :
日本@名無史さん:2013/11/08(金) 05:25:36.31
>>三家を差し置いて連枝が将軍家を相続するってどういう事態なんだよ
8代将軍を決める際、水戸に好条件があれば、
尾張と紀伊を差し置いて将軍を出せたはずだ、
なぜなら吉宗が「門地では尾張殿、年齢では水戸殿」と言ったからだ、
と主張している人がいるから、俺はその人に対して
幕末に水戸が将軍を出せたのは、尾張・紀伊に年齢的な適任者が
いなかったからで、もしそのような状況が水戸にも生じていれば
連枝からでも将軍は出たであろう、ということを述べたまで
>>だったら三家の連枝にも潜在的な継承権があったと見るべきだろうし
だからそんな一般論なら論じる必要はない、と言っただろ
水戸にも継承権はある、しかし
>>452が主張たように
それが尾張・紀伊に匹敵するほどなのか、を論じてるんだ
>>452はどこへ行ったのか?
君は吉宗が「年齢では水戸殿」と言ってるから
吉宗が水戸に自分と同様の継承権を認めていたはずだ、
ととれる書き方をしている
それに対し、俺は
「それなら吉宗が尾張・水戸両藩主に持っていたような有利点を
水戸藩主が尾張・紀伊両藩主に持っていれば
水戸から将軍が出たと思っているのか、そう思えるなら
水戸は尾張・紀伊と同等の継承権を持っているといえばいいが
しかしその条件下でもやはり
将軍は尾張・紀伊から出たであろう、と思うなら
あなた自身が、水戸の継承権など信じていないということだ」と尋ねた
この問いに答えてみてほしい
>>適任者が他に居なければ将軍になれるというのを
>>端的に「継承権がある」というんだが
そんな一般論はあたりまえのことだ
ここでは水戸に尾張・紀伊に匹敵する継承権があったのか
「門地では尾張殿、年齢では水戸殿」といった吉宗の一言が
建前なのか、それとも本気なのか、そのことを論じているのだ
何が気に入らなくて騒いでいるのか正直わからん
水戸が尾張紀伊と並ぶのがそんなに面白くないのかとしか思えない
>>水戸が尾張紀伊と並ぶのがそんなに面白くないのかとしか思えない
違うだろw
それなら反対している人は
「水戸が尾張紀伊と並ばないと面白くない人」ということになってしまう
そうではないだろ
とりあえず
>>511は、家継の後、当時の条件さえそろえば
水戸からの将軍入嗣はあったと思うの?
まずは自分の意見をいうことから始めよう
513 :
日本@名無史さん:2013/11/08(金) 06:04:38.09
普通に御三家ともあっただろ
緊急時でもとうしょうだいごんげん様の遺訓は絶対だから
もしそれならけいきさん
一橋ついでてもだめなものはだめってなるやろうし
>>512 君が根本的に阿呆なのはわかる
>それなら反対している人は
>「水戸が尾張紀伊と並ばないと面白くない人」ということになってしまう
仮に水戸が並ぶのが面白くない人がいるにしても
それに反論する人は論旨のおかしさに反論しているのであって
並ばないと面白くない人に収斂されるものではない
>当時の条件さえそろえば
むしろ条件が揃っていても水戸からの入嗣が駄目だったのかと尋ねたいね
>まずは自分の意見をいうことから始めよう
あなたの自分の意見とやらはどのレスなの?
すみません、質問をさせてください。
なぜ御三家の中で水戸家だけが将軍の継承権が無いのですか?御三家は同格ではないのでしょうか?
家康が何か指示していたのでしょうか?
もし家継が年齢に似合わずしっかり者で、
自分の後継は水戸綱條殿に頼みたいと遺言して息を引き取っていたら、
それでも水戸は論外とされ、史実どおり吉宗が将軍になっただろうか。
そこまで水戸は排斥されてしまうだろうか。否と考える。
>>507 慶喜は水戸のままでは将軍家を相続できなかった
518 :
日本@名無史さん:2013/11/08(金) 10:06:42.67
慶喜が将軍後継になったのは「御三卿」の一橋家だからだよ。
もし養子に行かず水戸家のままだったら将軍後継になれなかった。
え〜い、控え控えぃ〜!
こちらにおわすお方をどなたと心得る!
恐れ多くも前の天下の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!
一同の者、ご老公の御前である頭が高い!
控えおろう!
>>517>>518 水戸家のままってw
水戸藩主は慶篤で、七郎麿は部屋住み。
部屋住みでは、尾張家でも紀伊家でも無理だろう。
松平義行が五代の候補に上がってるんだし、継承権が全く無いわけでも無いのでは?
松平摂津守義行は、尾張家連枝高須藩主。家光の外孫。
立場が全然違うんじゃね。
慶喜が水戸藩主だったら幕末の水戸藩の混乱を収拾できたのではないかと
幕末時の水戸の人士は残念がっていた。
三家の中で吉宗が継承したのは、
>>461自身が述べているとおり
> 水面下で吉宗に後継が確定した上でのただの駆け引き。
の結果であり、尾張継友が一世代下がるだの水戸綱條の年齢
が高すぎるだのといった理屈は、吉宗継承を正当化する
ための後付けに過ぎない。
水戸と同じく尾張継友も、八代候補としては鼻にもかけられて
いなかったのが実態だからね。
>>515 > 家康が何か指示していたのでしょうか?
家康に仮託した偽法令では、水戸には継承権が無いということに
なっていたらしい。いつ誰がでっち上げたのかも、どういう範囲に
流布していたのかもわからない偽文書だけどね。
なんでも、家康の時の紀州は浅野家の領分なのに「尾州紀州
云々」という文言が出てくるという、お粗末極まりない代物らしいが。
「水戸に継承権はあるが、水戸に継承させた時は徳川が終わるときである」
という天海の遺言が全て。
だから最後まで水戸は将軍を出せなかったし、将軍を出したときが徳川幕府の終焉となった。
527 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 05:20:42.89
北東の守りとして水戸に実子を配置したと通説になっている。
しかし戦闘ポイントはいつの時代も白河、宇都宮でも良かった気もする。
やはり天海上人のアドバイスか、鬼門は北東。
佐竹の旧領で治安が悪いくて治め難い地域という解釈もある
529 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 14:04:31.34
幕末の高須4兄弟を見ていると、同じ連枝の家に生まれても、
兄2人は尾張藩主(三家)、一橋家当主(三卿)。弟2人は会津藩主(家門)、桑名藩主(譜代)。
大きな差が出たな。
新政府は慶喜隠退のあと、尾張慶勝の子義宜(元千代、徳成)に宗家を継がせる考えもあったようだが、
結局、勝先生にうまいこと言いくるめられて、田安亀之助(家達)に落ちついてしまった。
おかげで尾張家による宗家乗っ取りの唯一のチャンスが失われてしまった。
515です。ありがとうございました。しかし天海って不思議な事を言う人ですね、その正体は明智光秀だって説も有るらしいし。では、ROMに戻ります。
高松松平三代目の頼豊は、なぜ家に残っていられたのか?
水戸から光圀の倅が来て、本来は出番なしなのに、幸運にも藩主になる。
さらに自分の倅は水戸藩主に。
佐竹氏の跡に信吉が入って以来、家康の子が封じられてきた
わけだから、天海だの風水だのと言った話を持ち出すまでもな
い。そもそも天海が仕えていたかどうかということにすら疑問
がある時期のことでもあるし。
533 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 23:56:07.26
>>529 ところで成人した中では規姫が産んだのは慶勝と武成だけだけど他に夭折した子供は産んでいるのだろうか?
それと側室が何人いてそれぞれ何人産んだのか気になる
幕末に水戸から最後の将軍出たって言ってるアホって・・・・・・
紀州や一橋、家達もカウントしたら田安からも出ているが・・・・
血統で言っているのなら幕末尾張慶勝も水戸の男系だし。。。。。
535 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 03:50:19.89
御三家筆頭水戸斉脩
536 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 08:06:13.62
家斉以降は、家斉の血筋でなければ将軍後継者の資格はないが、慶喜は家斉の実家である一橋に養子に行ったから将軍後継者になり得た
あの状況じゃ紀州だの家斉だのとかいっていられるわけ無い
仮に慶喜が水戸藩主だったとしても幕末の政局からして
慶喜を推さざるを得なかっただろ。
慶喜の将軍職に板倉なんか頭下げてお願いしてるし
孝明天皇は何度も就任要請の書状を出している有様。
538 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 10:40:20.53
既に慶喜が一橋家を相続した時点で、家斉の男系子孫は絶滅危惧種だった。
早世する者がやたら多く、他家に養子に出た者も斉民、斉裕以外は全滅状態。
田安家まで候補を広げても、当主の慶頼以外は越前の慶永しか残っていない。
いくら家斉の孫だからといって、紀伊藩主の慶福を一橋家に入れるわけにはいかない。
結局、松平や他家に養子に出た連中を呼び戻せない以上、水戸系から連れてくるしか、
もう人が残っていなかった。
やっぱり斉民と斉裕を外に養子に出したのが痛かった。
540 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 13:08:11.55
幕末の京都の政界が水戸血筋の「一会桑」で牛耳られていた時期、
水戸藩が内ゲバなどやらずに一橋を積極的にバックアップしてればよかったのに。
慶篤って、慶喜の兄貴のくせに使えないヤツだったな。
慶喜が将軍になったとき、鳥取の慶徳や岡山の茂政といった兄弟に徳川姓を与えておけば、
大政奉還以降の時期に両池田を味方につけることもできたかな?
田安治察は正室がいなかった
摂家から姫を貰える身分だし、絶家確実じゃないか
どうしてだろう?
治済家斉父子は将軍家将軍家御三家御三卿を一橋家の血筋で牛耳ろうとしたのに
幕末から明治にかけてまさか水戸家に浸食されようとはな
御三家最強は紀伊治宝だよね
生前に従一位
将軍と同列とか幕府も何考えてたのやら
>>541 正妻をもらわない理由は知らんが、
御三卿だから、適当なところから養子をもらえばいいだけだし
そのときは養子が居なくても、空き屋敷になるだけで、絶家にはならないのでは
御三卿は分家というより将軍スペアの部屋住み枠って感じでしょ?
546 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 06:06:47.18
御三卿は、もともと
>>545みたいな感じだったから、
一橋家でも最初の頃は、息子をどんどん養子に出してた。
治済の兄たちが立て続けに越前松平家に養子に出されてる。
「家」として永続させるようなものではなかったらしい。
御三卿は当主不在でも、幕府から出向してくる役職は働くから、幕府の一部署
一橋家の場合は、宗尹がまだ若く、長男次男を養子に出しても、嗣子に恵まれる可能性が高かった。
現実に治済が生れ、その弟もいた。
田安家の場合は、治察が病弱で、定国は養子に行き、残りは定信以外いなかった。
状況がまったく違う。
空き屋形でもいいなら、将軍のスペアという役割は果たせない。
弱った田安に介入した一橋治済が定信を白河へ出した
550 :
日本@名無史さん:2013/11/11(月) 18:54:30.60
>>548 でも、普通に家なら長男を残して次男、三男から先に養子に出す。
上からトコロテン式に養子に出してたのは、存続を前提とした独立した家ではなく、
この時点では、将軍の跡取りのスペアの待機場所にすぎなかったからだろう。
父の実家の離れに祖父の弟一家が住んでて、父は従兄弟と兄弟同然で育ったって聞いたんだが、将軍家と御三卿もそんな感じの関係だったんだろうな
いや、逆に御三卿家が将軍スペアというのも結果論で、当時は部屋住みの厄介扱いで、子供たちだけは小なりとも大名家に送り込んで「自由」の身にしてやろうと必死だったのかもしれない。
宗尹次男の重富が養子に出たのが宝暦8年、治済の元服と将軍お目見えが宝暦12年
この間の宝暦11年に家重が薨去してる
つまり、家重が死んだから、一橋家の後継者を置くことが公式に許され、家として存続が認められたのではないかなと
定信が将軍になってたら
吉宗以上の倹約重税になってたのかな
555 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 06:43:06.05
トヨタの社長みたいに、一族回り持ちだったら御政道も安定したな。
成人であり四十歳未満の御三家当主又は健康な長子。
>>555 天皇家もそんな感じで皇位継承していた時期があったねw
摂関が没落して院政も陰ってから、いつのまにか直系相続重視になったけど。
室町幕府は庶流の一族が重役。
徳川家は分家に大封と高官を与えたが幕政は執事にやらせていたからなぁ。
天武天皇までは同世代継承
それ以降は直系継承が基本
外戚による介入はまた別儀
>>552 部屋住みに、権中納言や10万石はくれてやらないだろう
越前や白河への養子縁組を決めたのは、幕府
>>558 宗家相続権がある部屋様の格式を保つには御三家に準じた格式がいるから10万や中納言は普通にくれてやるだろ?
560 :
日本@名無史さん:2013/11/12(火) 19:15:23.04
江戸城に同居してる将軍の御家族って扱いだから、広い意味での「部屋住み」と言えるかもな。
吉宗の意図、全然わかっちゃいないね。
家重の思慮深さも理解してない・・・・はぁ?って感じのレスばっか。
御高説を賜りたい
563 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 19:16:09.57
吉宗が自分の子孫で将軍位を独占しようとして、
田安、一橋の両卿を創設したのは、まだわかるとして、
家重が重好のために清水家を創設したのは意味があるのか?
宗家を相続する場合、家格の点で田安や一橋が優先されるわけだし、
将軍公子としての重好の処遇以外にとくに大きな意味はないな。
実際、重好は兄家治のあとを継げなかったし、没後は明き屋形になったし。
重好に男子がいたらどうなってたか
単純に吉宗の時代くらいの幕府には新たに大藩を作るだけの力がなく、
さりとて将軍の公子を微録の小大名とするわけにもいかず、適当な養子先もない
そこで苦肉の策として、江戸城内に屋敷を作って将軍の後継者候補を囲ってるという形にしたんじゃなかろうか
家重は宗武、宗尹からイジメを受けて恨んでたんじゃなかったかな?
それで田安、一橋よりも将軍家に血筋が近い清水を立てた
結果的に重好の血筋は残らず、治済の陰謀によって一橋が勝ったのだが
家治薨後に重好が継がなかったのは、家継薨後に清武が継がなかったことより不思議。
清武みたいな履歴の問題があったわけではないし、
40歳と歳は食っていたけど大奥で励めば男子誕生の可能性も十分あっただろうに。
正室の貞子女王を御台所に収めるのが嫌われたとか?
568 :
日本@名無史さん:2013/11/13(水) 22:03:50.50
重好さんてエピソードとか無いよね?
英明だったり暗愚だったら何か話が残るだろうし
普通の人だったのか
>>567 家治が死ぬ前に養子取ってるんだから、そりゃ重好の出番はないやろ(´・ω・`)
>>569 再従弟を養子にするのも良いけど順養子だって良かったじゃん?
>>570 吉宗の曾孫世代から選ぶ方が順当だと思ったんじゃね?
家基が死んで
その2年後に家治が家斉を養子にして、
同じ年の年末に重好を参議にしてあげてる。
家基が死んだ時点で、重好を養子にしてれば
当然後継者ってことになったはずだけど、後
継者になっても不思議になってもしなかった
ので、その替わりのフォローのための参議昇
格って感じ満載。
>>571 でも家綱の後は綱豊が継ぐ前に35歳の綱吉を経由してるから
家斉の前に40歳の重好が継いでも良かった気もするのよね
>>573 家治が思いの外早く死んだから、重好もまだ若かったけど
家治が長生きしてたら、その分重好も歳を重ねるわけで
>死んだから
死んだら、の間違いだろうな
重好は生母の身分が低くて、なにかと軽んじられていた、と読んだことがある。
詳細は知らない。
吉宗の生母なんて百姓なのに、孫世代になると生母の身分で軽んじられるもんなんだねぇ
歴代将軍の大半は軽んじられてたわけか
580 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 18:37:19.62
重好の「生母の身分が低くて」というのは、ちょっと意味がちがうんだよね。
公式には浪人三浦某の娘ってことになってるけど、実際には吉原の遊郭経営者の娘らしい。
そういう意味で「身分が低くて」、軽んじられたらしい。
家治生母が公家の娘だから、余計に比較されたのかもね(´・ω・`)
>>578 吉宗自身、母の身分が低いために軽んじられていたという
ことになっているぞ。元服・叙爵は兄頼職と同日のようだし、
そこまで軽んじられていたというようには思えないけど。
いずれにせよ、長子であるのに三男とされた尾張家の義昌
の例や、幼時には松浦の称号も「様付」も与えられなかった
という松浦静山等、母の身分による格差は珍しくもない。
583 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 08:36:14.92
吉原行った将軍様は居たんだっけ?
水戸家はお好きな様で、子孫残すわけだ。
584 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 08:42:38.85
吉宗の生母って古代豪族系じゃないんだ。
そもそも吉宗が所生で軽んじられたのは大名の子としてであって、
将軍家の後継を論じるのとは土俵が違うんだがな。
重好は、当時「身が病身でならぬ哀しさ」と巷の落首で憐れまれるぐらいだから、
病気がちだったんだろう。
しかし、「実紀」には式日に登城の記録があるので、病床にずっと伏していたわけでもないようだ。
不能説というのもあるが、これは事実としても記録には残らないだろうから検証しようがない。
生母の身分の賤しさについては、
浪人某の娘ではなく吉原遊郭の三浦屋の娘だったというのは、さらに偽装で、
実は遊女だったという説もある。
もし、そうなら、将軍の出自として問題にされても不思議はないと思う。
もう一つは、吉宗の孫の代から候補者を選ぶとなると、複数いるので、
争いを避けるため、曾孫の代から選んだ、という話もあるようだ。
587 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 22:03:14.51
それで治済ではなく家斉が将軍に選ばれたのか
世代横滑り相続は綱吉の時にも異論があったが、吉宗でも世代を逆向するという見方で異論があった
589 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 22:31:13.78
重好って実はガチホモで子供など望める状況じゃなかったと聞いたことある
尾張斉朝の男色説は『井関隆子日記』という傍証があるけど、
重好には、昔から噂だけ、だと思う。
公の記録に将軍がゲイであることが残っているはずもないだろうが、
家光と堀田正盛、館林時代の綱吉と柳沢保明の男色関係ほど明るみに出てこないのは、
家光、綱吉のそれが通過儀礼みたいな男色行為であったのに対して、
重好の場合は、尾張斉朝のように「真性」だったからかもしれないし、
あるいは、男にも女にも不能だったからなのかもしれない。
どちらにせよ「かもしれない」としか、言えないのだろうな。
592 :
日本@名無史さん:2013/11/15(金) 23:35:53.84
>>592 申し訳ないけど、伝聞なので読んでいない。
御三家+駿河家以外にも付家老はいたんですか?
直臣から陪臣への格下げ感が半端ないです。
>>594 下野守忠吉家、上総介忠輝家、中納言秀康ー宰相忠直ー中将光長家にいた
596 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 08:52:28.01
加賀前田家の家老本多家は、幕府からの付家老じゃないの?
597 :
水戸侯付家老中山備前:2013/11/17(日) 15:34:30.34
本多安房は幕府の威光を笠に傲岸な振る舞いをすることは決してなく、
領地紛争では前田家の肩を持つなど、前田本位に動いて呉れた
たいがい附家老は幕府の思惑から外れて、公儀より「御家大事」に動くよな。
竹腰と中山は藩主の血統になった
601 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 21:23:50.98
みんな江戸後期には、独立大名を目指して、主家そっちのけで運動した。
安藤と成瀬は、付家老になってなければ、老中になれる家柄だろうからなあ
だから加賀本多家は附家老じゃないってw
604 :
日本@名無史さん:2013/11/17(日) 22:54:42.17
徳川家の元祖は徳阿弥。
よって徳川一門は一人残らず非人であった乞食坊主の子孫である。
606 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 02:32:06.19
水戸家も徳川を名乗っていた以上、他に適切な候補者がいなかったら
将軍位継承権はあっただろうし、少なくとも候補にはなったと考えるほうが自然だろう。
普通に血統維持が目的なら、水戸家が全然蚊帳の外になると考えるほうが無理がある。
家斉以降は家斉の血筋の方が順位が高いし、三家三卿のなかでは一橋が最優先
>>606 いや、家綱死亡後に宮将軍擁立の話しがあったように、水戸家なんて論外で宮将軍を迎える可能性の方が高い。
宮将軍擁立問題のときは、
水戸だけでなく、尾張も紀伊もすっ飛ばされてますが、三家とも論外なんでしょうか?
あんた、底が浅すぎるよ
610 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 09:17:48.92
あのとき、尾張家当主をすっ飛ばして連枝の松平摂津守の名前があがってるんだけど、
素直に尾張家当主でよかったんじゃないか?
なんで摂津守だったんだ?
そこは謎だよねえ
2人とも家光の外孫だから、綱誠が将軍、義行が尾張が順当だ
水戸の将軍襲名は天海の遺言で禁じ手
>>610 その時点では義行はまだ部屋住みで、養子に取りやすそうだったからじゃね?
614 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 10:50:36.52
一番、素直に考えたら、綱吉でも有栖川でも摂津守でもなく、
甲府綱豊(家宣)がストレートに継ぐのが順当だったと思う。
黄門もあとからガタガタ言うくらいなら、最初から綱豊を推せよ。
既に家綱で幼君の先例がある上、綱豊は元服ずみで当時としては一人前。
あとで兄の家系に将軍位をもどすくらいなら、はじめから綱豊継承で何の問題もなかった。
黄門様が綱吉にこだわった理由がわからない。
黄門さまは将軍の子であり弟である綱吉と孫であり甥である綱豊ならば
子であり弟である方が血縁が近いから優先したってことだろ
だいだいあとで兄の家系に戻すってのはあくまで結果論だ
617 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 10:30:05.28
単純な長系相続なら、家綱のあとは甲府家なんだけどね。
家康ー秀康ー忠直ー光長ー綱國
綱重逝去後なんだから、家綱の最年長の弟である綱吉というのはごく
順当な話だね。
久松松平の初代はラッキーだ
母親のおかげで、ほとんどついでに大名になれた
久松家本家は絶家したのかな
松山の家臣になったんだっけ?
622 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 19:03:42.03
寛政重修諸家譜には、久松姓のままの旗本がポツンと記載されていたけど、
もしかしてその家かな。
久松氏は、江戸時代、ほとんど松平姓になってるから、久松姓のままの家は珍しい。
康元の系統なら旗本だし、信俊の系統なら松山家中だな。
624 :
日本@名無史さん:2013/11/25(月) 21:47:14.25
居眠りしてる間に腹切ってた嫡子がいたのは康元系だっけ?
康元系の松平忠章だな、本当の話なのかね。
626 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 19:03:35.50
慶喜や容保がイケメンすぎて、他の一族が見劣りするな。
田安慶頼の写真を見たときは、正直、失望した。
息子の家達によく似てるけど、まだ中年以降の家達の方がマイルドに見える。
でも、松平確堂(斉民)は、禿だがけっこう渋い爺様だった。
禿といえば、高須4兄弟で慶勝と茂栄が禿なのが、スマートでイケメンの容保と対照的。
627 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 21:21:06.00
容保は若い頃はイケメンだったが晩年は痩せててその面影は無い。
あと少年時代と思われる喜徳の眉毛の濃い写真はあるが、青年期はあるのかな?
松平斉民の写真って、兄の徳川家慶の肖像画と面影が似ているね。
家慶の写真は残ってないけど、兄弟の顔が似てたんじゃないかと思える。
基本的に身分の高い人は、
「いい女を選んで子どもをつくる。→美形な子誕生。」
な傾向のはずだと思うんだけど、結果的にそうでも無い場合もあるような。
>>628 天皇家を見れば一目瞭然じゃん。
代々美女を迎えてるのに一向に効果が現れません。
630 :
日本@名無史さん:2013/11/28(木) 22:44:43.33
>>629 天皇家は明治天皇まで、妃も側室もすべて清華家以上の公家の姫君
中宮・女御は宮家か摂家の姫、側室も清華家以上
内裏に上がり天皇のお目にかかれるのが相応の公家の出の姫のみだったから
天皇が美女を自由に選べるようになったのは現在の天皇から
徳川将軍家の側室が庶民出身の美女でよかったのとは大きく異なる
徳川将軍家だって初期は家康の血が濃く表れた狸顔で全然美男じゃない
何代も経て幕末にようやく効果が表れて美形になる
日本史板は
スレ違い脱線を修正できないバカが多いよね
634 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 23:41:58.63
天ネタは地雷踏むことになるぜ
635 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 14:28:34.69
>>628 増上寺の将軍墓地が改葬されたときの発掘調査で、家慶の遺体も調査されたが、
そのときの記録写真の頭蓋骨を見ると、肖像画のとおりの形状なんだよね。
逆三角形の細面のシャクレ顔で。
だから、あの徳川宗家に伝わる肖像画はモデルにかなり忠実なものだと思われる。
636 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 17:13:43.70
家重とか家慶の肖像画は絵師がリアリズムに徹してるな。
普通、あんな絵を描いたらお手討ちものだろ。
家慶はよほどのことが無い限り厳しい処罰はしない。
死罪に処したのは大奥の女に手を出した破戒僧や
密貿易が発覚した鳥取藩の家老の切腹ぐらい。
638 :
クリマメ:2013/12/01(日) 03:34:03.03
家斉侯のお命を、頂くのだ
絵師のリアリズムに信頼がおけるなら、
家定は親父の家慶とちがってけっこうイケメンだったんだな。
能力ではいろいろ悪口言われてるけど、顔は悪くない。
640 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 14:35:32.69
密貿易発覚は浜田藩の家老じゃなくて?
将軍の話は他所でやれ
なんだか急に書き込みとまったな。どした?
643 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 18:15:51.19
ネタを限定するからだ。
644 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 19:17:38.41
肖像画や遺体の頭蓋骨から推定される家慶、家茂の顔と、
田安家の慶頼、家達の顔は全然ちがうな。
かなり近い親類なのに、全然顔が似てない。
おまけに慶頼は人相悪すぎ。殿様というより、ヤ○○の親分みたい。
御三家をはじめとする徳川・松平一門と
徳川宗家の現在の関係がどんなもんなのかは気になるな
徳川別家なるものも明治にできたわけで、その立ち位置もきになる
幕末
水戸 斉昭ができもしない攘夷を強硬に主張、脱藩浪士が大老を暗殺
尾張 藩祖以来の尊王の家柄なのに、勅命による第一次長州征伐でお茶を濁す
紀伊 第二次長州征伐で役に立たず
なんだ、こいつら?
一族とはいえ、200年も経てば赤の他人と同じだよ。
なんでもっと通婚して絆を深めておかなかったのかな。
648 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 18:51:14.62
いや通婚しまくってるよ。
幕末目前の家斉の代にも尾張、紀伊には婿養子押しつけまくったし、
水戸にも嫁をやってる。
尾張の場合、それが逆効果になって藩内の反幕府派を結束させてしまった。
尾張家はそもそも紀州系になってしまった幕府には含むところがあったろうしなぁ
650 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 20:32:35.52
そこで大殿斉朝様ですよ。
尾張吉通公と紀伊吉宗公の血を引いております。
651 :
日本@名無史さん:2013/12/08(日) 14:31:02.45
徳川治宝は隠居後十数年で従一位をもらったけど、何で斉朝は正二位止まりだったの?
652 :
日本@名無史さん:2013/12/09(月) 14:30:53.25
徳川光圀の任権中納言の宣旨は現存するのか?
せめて、この宣旨における上卿がわかれば
復元は可能なのだが・・・。
653 :
日本@名無史さん:2013/12/10(火) 08:32:50.54
654 :
日本@名無史さん:2013/12/19(木) 08:27:03.65
655 :
日本@名無史さん:2013/12/22(日) 14:35:43.23
家光はホモだから、若いうちに子供がいなくてもわかるが、
忠長はなぜ子供がいなかったんだ?
長七郎がいたじゃん
>>656 長七郎は江戸時代の歌舞伎「大久保武蔵鐙」に登場する架空人物で
その後小説やテレビドラマの題材とされただけでしょ
>>655 徳川忠長の妻は正室の織田昌子(織田信長の曽孫にあたる)が知られている。
忠長は28歳で切腹、当時昌子は20歳。昌子には子はなく、忠長切腹と共に落飾した。
他に忠長の墓所・大信寺には側室のものと思われる位牌があり、
3人程度側室がいたと思われるが、子がいたという記録はない。
658 :
日本@名無史さん:2013/12/23(月) 00:41:59.87
平成17年に亡くなった尾張21代当主徳川義宣氏によれば、
尾張徳川家の家系図には、
徳川忠長の子として、「松平長七郎」の名があるそうだ。
但し、氏の話では、「長七郎」には子があったようだが、
系図は「長七郎」で消えているのだそうな。
659 :
日本@名無史さん:2013/12/23(月) 08:15:45.11
12代将軍家慶の末子には、長七郎ならぬ「松平長吉郎」がいる。
ところが親父の家慶が亡くなった直後(ひと月後くらい)に夭折している。
どうも、家定サイドの謀略の匂いがプンプンするのだが・・・
660 :
日本@名無史さん:2013/12/23(月) 08:24:52.76
ちなみにペリー来航時点で将軍との親疎では、
嫡子家定、末子長吉郎のみが家慶の実子として健在であり、
その次に血統で近いのは家慶の甥の紀伊慶福(家茂)、
そして家慶の従兄弟の田安慶頼と続く。
本当は家慶実弟の松平斉民と蜂須賀斉裕もいるのだが、
他家に養子に出されたため、継承資格はない。
661 :
日本@名無史さん:2013/12/23(月) 14:25:37.36
家慶が70代まで生き延びて、長吉郎がスクスクと成長してれば、
徳川幕府も安泰で、家茂や慶喜の出る幕はなかった。
↑こいつは相手しちゃいけないんだっけ?
家定が病弱で継嗣の生まれる見込みがないのなら、家慶存命中に長吉郎を家定の養子にしておけば、
万事丸くおさまった気がする。
664 :
日本@名無史さん:2013/12/23(月) 23:25:12.11
征夷大将軍を逝去後に贈られたのは
唯一、徳川綱重のみである。
665 :
日本@名無史さん:2013/12/24(火) 11:52:22.98
>>664 息子の6代将軍徳川家宣が将軍在任中に、父親である徳川綱思に征夷大将軍を贈ったんだろ
(天皇家で息子が天皇になった際、父親が即位していなければ院号を贈るみたいなもん)
11代将軍徳川家斉も実父である一橋治済に征夷大将軍を贈り大御所待遇にしようとしたことがあったが
幕府の反対で認められなかった
666 :
日本@名無史さん:2013/12/24(火) 11:56:43.05
>>658 歌舞伎で松平長七郎長頼が有名になったために
後の時代に家系図に書き加えられたのだろうな
忠長に男子がいたなら家光が何らかの処分しないはずはないし
吉宗は光貞に征夷大将軍を贈ろうとしなかったのかな
生きていたら将軍になれた可能性が大だった綱重
どの道将軍になれる可能性は皆無だった治済、光貞
治済は可能性皆無ってことはないと思うが。
将軍に成れる可能性の大小じゃないだろうな。
綱吉や家宣は、まだ家光の血統を受け継いでいた。
吉宗はじめ御三家は、権現様まで遡らなきゃならないからなぁ。
実際、吉宗は、綱吉や家宣に比べ、大奥やら幕閣やら周囲にずいぶん気を遣った。
光貞の贈号は難しかったろうと思う。
綱重は生きていも、その悪評から将軍に成れた可能性は、存外低い。
>>666 そんなとこだろうね。
松平長七郎伝説には、よく言われるように
鷹司松平信平や松平忠直の遺児永見長頼との混同が疑われる。
>>662 松平長吉郎って実在の公子じゃないか。
長七郎みたいな時代劇のヒーローとちがって、れっきとした実在の人物だろ。
673 :
日本@名無史さん:2013/12/25(水) 11:25:46.56
十四代将軍家茂の治世、将軍の従兄弟に当たる男が、将軍の意向に逆らって野に下り、
自由闊達に生きていた。
幼児だけどな。
松平右近?
歴史に「たられば」を持ち込むのは禁物と言われるが、
それも程度問題だろうなあ。
実在してたかどうかじゃなく、
存命だったら―――と仮定することに、意味があるかどうかだ。
677 :
日本@名無史さん:2013/12/27(金) 15:30:06.03
家茂は、異母兄家慶と将軍の座を争って命を落とした、紀州大納言斉順卿の忘れ形見である。
あんまりにもスレがのびないなー
なんか御三家のとんでも説とかない?
679 :
日本@名無史さん:2013/12/29(日) 17:22:45.97
御三家紀州藩の重倫がガンマニアで、やばすぎて強制隠居させられたことしかしりません。
秀康系松平家は、なにか一体感はあったのかね?
秀康の息子の代で、すでにバラバラっぽいw
越後家光長 綱吉によって御一門払い
→三度に渡る改易で津山家は宗主権のない嫡家
福井家忠昌 英勝院の養子
→二度に渡る改易で福井家は宗主権のない別家
出雲家・大和守家・明石家は津山家を宗家と仰ぐも、津山家の家格低下で自立
改易なら、一発で終了じゃないのか?
683 :
日本@名無史さん:2013/12/30(月) 12:15:47.03
除封であっても、浪人させずに捨て扶持、堪忍料、無高でも家名を存続させる場合は改易
家名を断つことを断絶と言う
684 :
日本@名無史さん:2014/01/02(木) 10:02:04.74
越後騒動の処罰、越前家の貞亨の大法、大和守家の度重なる転封など
秀康系は綱吉に目の敵にされている印象。
685 :
日本@名無史さん:2014/01/07(火) 22:21:13.33
御三家筆頭水戸斉脩が長生きし、藩政改革が成功していれば、斉昭の出る幕はなかったのである。
>>684 綱吉は、徳川幕府の絶頂期を体現する「絶対君主」だからね。
日本では、治世末期の斜め上の政策ばかりが取り上げられ、もはやバカ殿扱いされているが、
実際には、17世紀後半に世界で同時多発的に出てきた、一連の「絶頂期の絶対的世襲指導者」の列に入る。
このことは、オランダの出島商館長ケンペルが正確に記していて、
それをモンテスキューが読んで、法の精神における、日本に関する言及のベースとなっている。
そこに書かれている「日本は島国なのになぜか厳しい専制」という話のモデルは、実はまさかの徳川綱吉だった。
その綱吉の政策を見ると、断絶前の秀忠系徳川宗家にとって、権力系譜上問題となる最大の同族集団は、
御三家などではなく、広義の福井系(秀康系)だったことが、ハッキリ分かる。
福井系は、7代までの宗家にとって、室町幕府にとっての鎌倉公方のような、地方における大変に厄介な存在だった。
これが、吉宗以降の「紀州幕府」になると、目の上の最大のたんこぶは、福井ではなく名古屋(尾張家)になる。
争いは同レベルの者でしか…(AA略
というのは、系譜の正統性についても言えるのだろうと思う。
用語用法が間違っている
福井系と言うと、初代福井藩主松平忠昌の系統と限定されてしまう
綱吉期の越前家当主は三代松平光長
この場合は越前系とすべき
今の宗家当主って男系でたどったら途中で高松藩士いるんだな
>>686 福井なんか御三家とは比較にならないほど官位も低いし将軍継承権も全く無いし
単なる庶長家だろ?
制外の家なんていって持ち上げられたのは一応兄を立てた秀忠時代だけで
それ以降は単なる親藩(御家門)
御家門って言っても福井と松江は大身外様と同じような待遇だし、大和守家と明石は譜代並み。高田・津山だけが純然たる親藩扱い。
>>綱吉の政策を見ると、断絶前の秀忠系徳川宗家にとって、
>>権力系譜上問題となる最大の同族集団は、御三家などではなく、
>>広義の福井系(秀康系)だったことが、ハッキリ分かる。
具体的に、綱吉の何の政策を見てそんな感想を抱いたの?
越後騒動の再審
綱吉がことさらに越前家とういうか、秀康系を嫌った背景には、
光圀への敵愾心があると思うよ。
綱吉が秀康系を嫌ったと推し量れる事実としては、
@越後騒動の再審
A越前家への処分
B尾紀水を御三家とする仕組みの制度的な確立
C加賀前田家の御三家に準じる家格への格上げ
などが、あるんじゃないかな。
@ Aで秀康系の経済力を削ぎ、家格を引き降ろし、
Bで将軍継承権を完全に剥奪し、
Cで越前家の地政学的なレゾンデートルを無くす。
『土芥冠離記』という書物があって、その編者を光圀と見立てる学説によれば、
そこには2代秀忠から当代綱吉までの記述が落っこちているんだけど、
それは編者の意図的な作為だというんだなぁ。
つまり、そもそも兄秀康を飛び越えて将軍職を継いだ秀忠は、
跡継ぎを家光か忠長かと迷う以前に、兄の子忠直にこそ将軍の座を譲るべきだったという・・・
まぁ『伯夷伝』を尊ぶ光圀得意の・・・そう、兄を差し置いた弟が兄の遺児に跡を譲るという、例の考えが根っこにあるんだそうな。
これは、徳松を世継ぎにしたかった綱吉にとっては不愉快きわまりないだろう。
徳松が生きていた頃から、公然と兄の子綱豊にこそ将軍位を譲るべきだなどと説教垂れていた
光圀への鬱憤が、光圀が親しかった光長を追いやる結果となってしまった、っていうオチ。
越前家解体→津山・福井の分立
>>695 去年、邪馬台国スレで「卑彌呼以死、大作家」に笑わせてもらったが、
「土芥冠離記」は今のところ今年一番のヒットだな。
歴史を考察する前に漢字を勉強しましょう。
肝腎の綱豊には何もせず、越前家で憂さ晴らしとか、将軍という最高権力者のくせに迂遠なことよ。
肝腎の綱豊には何もせず、って?
甲府家を、25万石から35万石に加増している
699 :
日本@名無史さん:2014/01/16(木) 23:53:21.25
>>689 初代秀康は権中納言であり御三家より劣っていない
御三家と差がついたのは2代忠直のとき
御三家成立前から忠直が色々問題起こしていたからだろう
正室の秀忠息女暗殺未遂に至っては完全に将軍秀忠を怒らせた
>>699 江戸最初期なら中納言程度になった外様大名はゴロゴロいる。
幕政が安定してからの、それらの大名の極官は前田の参議は別格として中将少将。
越前の場合もそれと同じで御三家よりも劣っていないという君の意見は説得性がない。
そもそも一度養子に出たとはいえ徳川姓を許されなかったことに将軍継承権が無いことと御三家に劣った家格であるという事実が担保出来るだろう。
福井は外様扱い
そう考えたら納得できる
秀康自体、家康に疎まれて認知されていない私生児扱いじゃなかったか?
だから養子に出されたり、秀忠に将軍職が移行したり、ずっと後から産まれた御三家の下に
立たされたりと報われない一生を送った。
忠輝も改易されずに生き残ってたら越前と同じような扱いになったと思う。
武田を継いだもう一人の庶子は知らんw
704 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 19:09:03.23
>>700>>702 秀康は外様だから権中納言だというんだね
外様の前田も権中納言だから外様仲間を一緒に並べたと
けして身内の御三家と同類ではないと
加賀百万石の最大の外様大名前田の隣に
70万石の外様大名秀康じゃあ、危険すぎじゃないのか
大封の外様2つを並べた例など他にないぞ
705 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 20:19:17.73
前田は越前と糸魚川の両松平氏に挟み撃ちだお
706 :
日本@名無史さん:2014/01/17(金) 20:58:36.49
秀康が長生きしてたら大納言になった可能性は高いと思う。
秀康を中納言に据え置いて、義直たちに大納言ってことは、
なかったんじゃないだろうか。
秀康が長命なら、忠直にスムーズに家督を継がせて、
忠直も大納言になった可能性だってあるだろう。
>>705 七日市も松平にマークされてるしなW
…途中からだけど
大身国持=大広間詰=外様扱い
国持大名は、詰間をいうまでもなく、ほとんど外様なんだが。
前田、島津、伊達、細川、黒田、毛利、浅野、まだ続けますか?
>>706 実際早死して大納言になれなくて、彼らの子孫も御三家並みの官位を未来永劫得られなかったのだからそんなこと言っても全く意味が無い。
姓、官位、伺候席で劣っているところからしても御三家と比較対象にすらならない。
711 :
日本@名無史さん:2014/01/18(土) 00:37:02.68
>>708 越前家の場合、30万石クラス、極官は会津の中将(伊達や島津)よりも下の少将(並の国持大名、御三家連枝と同じ)
ということで普通に外様大身国持扱いだったんだろうね。
定溜まりの会津とはここでも差が付けられている。
結論、越前の家格は御三家どころか会津よりも下。
>>711 少将なら外様ってことはない
幕末に福井藩主松平春嶽が政事総裁職についたのだって親藩だからだろ
外様がこんな役職に就けるかよw
713 :
日本@名無史さん:2014/01/20(月) 18:09:36.28
>>712 32万で少将っていう役職は外様の同程度の石高と同じ極官と言いたいんでしょ?
言うまでもなく御三家御三卿は大中納言だし福井よりも僅かに石高が劣る会津は親藩故に中将。
親藩ゆえ幕末に政事総裁職に就いた事を除けば親藩としての官位では3万石の西条高須松平並ということか・・・・
でも将軍家からの押付養子で一時的に中将になった気がする。
そういえば越前、会津系、御三家連枝以外で家康の男系子孫を祖とする親藩って無いね。
>>711 福井藩は初代秀康と16代慶永(春嶽)は権中納言
2代秀康と3代忠直が参議、13代〜15代が中将
極官が少将なわけがないだろう
会津松平家も少将が多いし福井のほうが劣っているとは思えんが
松平清武を舐めてんの?
それに残らなかっただけで江戸前期には結構立藩されてる。
吉宗以降は御三卿が受け皿になってたし、あぶれたら他家への養子で
幕府自体に分知する余裕がなくなってたし。
>>716 >13代〜15代が中将極官が少将なわけがない
これ、押付養子貰った代償と幕末の官位インフレのお陰で越前家の家格そのものを
反映しているわけではないよ。
>>718 会津が中将だというのも幕末の官位インフレで
江戸時代中期は少将ばかり
>>719 幕府が定めた家による家格で彦根会津は中将、越前その他国持クラスは少将。
会津で少将が多かったのは早世とかで藩主在任期間が短かったからでは?
押付養子組や島津重豪みたいに若干例外あるけど家の極官は決まってるよ。
>>716 江戸初期や末期の特殊例で、極官が中納言だ参議だというのは間違ってると思うよ。
しかも松平春嶽の中納言は大政奉還後、そこまで言ったら島津の極官は左大臣ということになってしまう。
越前、津山の極官に関して言えば中期までは少将、藩祖の血を将軍家近親に変えたことによって中将に
上がったかも?というのが妥当なところだと思う。
越前家として家格が中将に上がったのか偶然、養子を繰り返して代々中将になったのかは知らんけど。
秀康 中納言
忠直 参議
光長 中将
>>724 分立や減俸繰り返して石高減った結果、少将
何度も同じ事言わせるなw
秀康系の総石高足したら幕末でも90万石で御三家を凌ぐって聞いたが?
727 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 02:53:31.32
御三家、御家門の傍流あたりで家康男系の旗本家ってあるの?
728 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 11:24:57.16
>>722 wikiでは出典にならないよ。
偉そうに日本史板で高説を述べている人の根拠がwikiってw
越前家の極官は少将、会津の極官は中将って書いてある、
江戸幕府が出した一次史料はないんじゃん
それなのにwiki見て決めつけて偉そうに
「幕府が定めた家による家格」があるってw
wikiですら出典に江戸幕府史料とは書いてないしな。
>>728 発端となった将軍家が御三家よりも越前家を恐れていたという一次資料も皆無なんだが?
恐れて弾圧されたというよりはむ親藩だからこそ改易にもならずにお情けで減封で済んだといった感じであろう。
730 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 12:41:10.71
>>729 将軍家が御三家よりも越前家を恐れていたってどこに書いてあるの?
しかも将軍家が御三家を恐れていたっていつの時代の話?
結城秀康は御三家成立以前に亡くなっているし
御三家成立以前に、越前松平家は最初の親藩として
御三家以上の石高を持って成立していることが書いてあるだけでしょ
731 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 12:56:40.83
>>729 お前の脳味噌、wikiで毒されてると思うぞ
日野家の極官は左大臣
前田の極官は大納言と言ってるようなものか
>>730 >>686に書いてる
ここから越前が凄いかしょぼいかのネタばっかりになった。
レスの流れ読めないの?
734 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 14:27:04.26
>>733 >>686を書いた人は極端な例でしょ
それを否定するために
「越前は少将家、中将家の会津より下」と
wikiの記述を基に反論しているほうが馬鹿
735 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 14:40:07.10
>>734 吉宗の血統導入するまで長生きした藩主も官途極官が少将家そのものなのだが、そこは
どう説明するの?
少将家なら多少優遇されていたなら中将になれなくても従四位上や正四位貰っても良さそうだがそれもないだろ?
初期と紀州越前家以降の中将以上就任をもって言い貼るには無理あるぞ?w
リンク貼りやすいからネットでは多用されるwikiは多少いい加減な所があるのは確かだろうが出典がwikiと聞いただけで
具体的反論も出来ずに罵倒する奴に限って論理的思考力や知識が足りない気がする。
そういえば江戸幕藩大名家事典にも越前は少将、会津や高松は中将という記述もあるね。
藩祖の血統駆逐して将軍家から養子貰った大名って他にも結構いるけど、家格上昇は
1-2代限りが多いよね?
福井松平の場合、江戸時代後期から歴代が中将になっているから家格自体も上がったのでは?
>>737 父子相続が稀で将軍家からの養子相続が大半だけどね。
蜂須賀とか例外はあるが押付養子ってすぐ断絶する気がする。
739 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 18:10:01.99
>>735 会津の藩主が長生きした藩主も官途極官が少将家そのものなのだが
そこは どう説明するの?
吉宗の血統を入れることができること自体名門の証だし
それを「吉宗の血統が例外的に入った、だけど本来はー・・・」と妄想されてもね
>>739 >会津の藩主が長生きした藩主も官途極官が少将家そのものなのだが
>そこは どう説明するの?
日本語おかしいしウソまで吐いてレス貰おうとするし本当に終わってるねw
741 :
日本@名無史さん:2014/01/21(火) 18:34:03.29
家督侍従、家督数年で少将、30年で極官ってのが標準の会津の官途極官が少将家そのものって・・・・・
>>739
>>738 押し付け養子が断絶するというより家斉の子が粗製濫造なんだろう。
会津の養子供給元 尾張の御連枝
越前 将軍家直系もしくは御三卿
これだけ見ても御家門筆頭は文字通り越前
>>743 徳川慶勝は、御連枝から尾張家継いでいるが?w
綺麗に男系滅んだ尾張ですら、押付養子に相当反発あったというけど
維新の際に真っ先に裏切ったのは、吉宗以降の仕打ちにあったのかもね。
>>743 庶子や分家に男系男子がいるにもかかわらず養子を押しつけられるということは
幕府に舐められているとも受け取れる。
実際親藩はもちろん、外様、譜代にも莫大な数の養子が押しつけられて処理されてるしね。
越前厨はスルーでいいんじゃね?
異姓の養子に祖先の祭祀をさせるとか、犬畜生の行いって習ったけど。
蜂須賀も徳川も松平も正真正銘の同じ清和源氏だから異姓では無いなw
他の大名も清和源氏を始めとした源氏だらけだから殆ど問題ないだろ?w
>>746 日本史板って河内源氏厨とか津山厨とか変なの湧いてくるよね
家康なんて小細工ばかりのヘタレ武将
こんな腐れ外道の奴の墓なんか小便かけてやればいい
752 :
日本@名無史さん:2014/01/27(月) 16:11:19.46
石高は高くても越前、会津は最初から将軍継承権の無い臣下。
将軍実子が養子に行って他に将軍候補が無ければ例え血統が遠くても臣下に落ちていない御三家御三卿系から時期将軍が擁立される。
家格と言う次元から見たら官位が同程度で石高は大きく劣る3万石の御三家連枝にも劣る。
お子ちゃまが紛れて来たのか?
754 :
日本@名無史さん:2014/01/28(火) 00:56:54.84
徳川も蜂須賀も先祖隠蔽に必死だったなあ
清和源氏とはよほど身分隠して一般人以下の身分になりすましてたのが多かったということか?
阿呆か
>>752 官位や伺候席からの幕府の扱い的には越前は有力外様、会津、高松は有力譜代的だよね。
御三家、連枝、御三卿と比べたら越前と会津は少し特殊な気がする。
親藩なのに外様っぽかったり譜代ぽかったり将軍継承権無かったり。
でも家柄的に軽くも扱えないから扱い苦労したんだろな。
758 :
日本@名無史さん:2014/01/30(木) 22:08:05.31
会津は定溜で幕政のご意見番、御三家御三卿連枝は血のスペアといった役割があるけど
越前ってどんな役割を求められていたんだろ?
冷遇されまくって養子押しつけられた尾張みたいに反幕的な思想熟成されてたのかな?
水戸の尊王といい宗家に従順だったのって紀州位か?
>>758 津山は徳川宗家の藩屏
福井、松江は外様扱い
大和守、明石は要地に鉢植えの松
760 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 00:49:56.86
越前は幕末まで筆頭家老が藩祖男系なのに、藩主は将軍縁者とか尾張と似てる
761 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 01:40:56.88
春嶽の跡に越前を継いだ分家の糸魚川藩主は結城秀康の子孫?
毛利も敬親の後にやっと藩祖輝元の男系子孫に戻ったよね。
762 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 01:44:08.83
毛利は元就庶子の穂田元清の子孫が幕末まで宗家相続してたからね。
>>759 ならなぜ政治総裁職に外様の福井藩主がついて
藩屏の津山がつかない?
764 :
日本@名無史さん:2014/01/31(金) 12:15:30.27
徳川の主要一門って紀州系にほぼ乗っ取られたけど江戸末期になると
紀州の血が振るわなくなって水戸系にシフトし始めるよね。
男系断絶しているのならともかく、支藩や一門に臣下に落ちていない男系子孫が
いるのに紀州血統押しつけられたりで紀州系は他家乗っ取りをやり過ぎた。
でも末期に将軍家と比べたら大きく劣る水戸の血統が他家にまで大繁殖したのは何故なんだろ?
>>763 越前は前期は冷遇されたが後期は秀康の血を放棄して幕府に媚びたことによって
石高と官位を1ランク上げてもらってる。
伺候席も大広間→大廊下下の間にランクアップ?しているから外様的扱いは
余った宗家の血を繰り返し導入したことによって多少譜代的に変化したんじゃないかな?
越前は将軍の兄の家なのに何故末弟の御三家の下風に立つことになったんだろ?
お家騒動と改易を繰り返さなくて70万石のままでも松平姓のままで将軍継承権は無かったんでしょ?
没落する前の越前は大封を得る事によって兄の家という体面を得た文字通りの制外の家ということ?
幕末に水戸系だった御三家御三卿ってどれくらい?
尾張水戸会津は水戸系だったのは知ってるが。
まあ御三卿にこともあろうか水戸の子を挿れたところからして吉宗系の
血統は枯渇し始めていたんだろうけど。
水戸は説明するに及ばずで、水戸から養子に入った高須藩出身の尾張、その尾張の弟の一橋、慶喜の弟の清水、の計四家か?
あれほど家斉の頃から水戸以外の御三家御三卿を紀州一橋が占めていたのに
まさか幕末明治に水戸が来るとはな
>>764 押し付けるのもなにも、尾張は義直の血統がいなくなった
水戸は頼房の血統がいたからそのまま残った
御三卿はもともと紀伊系
水戸も斉昭の前の代に押しつけられそうになったって聞いたな
断固反発して男系は守れたが
幕末において禁裏守衛総督という肩書きを持っていた慶喜が水戸藩主だったら
江戸幕府の将軍職という厄介な仕事を引き受けたとは思えん。
あるいは水戸藩内の収拾で手一杯で将軍職云々どころでなかったかもしれない。
775 :
日本@名無史さん:2014/02/01(土) 23:38:52.99
中期は紀伊系、幕末は水戸系でしめられてる家ばかりだろうし
御三家、御三卿はともかく
御連枝、御家門の当主はそんなに家格とかきにしてなかったんじゃない?代々のその家の重臣のがきにしてそうだよね
家の存続が最優先
傀儡君主が喜ばしい
改革派名君は門閥譜代層からみたら暴君
血統が水戸系と言ってもだ、
尾張慶勝が、わが祖先は水戸頼房公などと考えるわけなかろう
せっかく200年もさかのぼるなら、わが祖先は東照大権現と考えるだろう
778 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 14:16:04.10
男系が異常に重視された結果 江戸期以降って女系は何でも良くなったよね。
殆どの皇族、将軍藩主が側室所生、酷い例は正室に男子が生まれてもそのまま庶長子が世継ぎのまま。
779 :
日本@名無史さん:2014/02/03(月) 17:06:04.32
>>777 さらに遡って初代親氏までは間違っても遡らないだとうなw
遡ると将軍更な遡ると流浪坊主、、という凄まじき下克上系譜w
日本語でいいよ
>>778 それって何か事情があったんじゃないの?
正嫡でも17歳未満とか病弱とか。
無嗣断絶を避けたいなら17歳未満を藩主にすることは避ける。
幼児であればなおさら。
>>778 御三家からははずれるが、松浦静山は母親が側室ですらない
お手付き女中だったということで、世子の長男でありながら正
式の披露目どころか「松浦」の称号も「様」付も許されず、
国許には「山代英三郎『殿』」と呼ぶようにという指示があった
という話がある。
10年経った後、他に男子が生まれなかったということで
嫡子に昇格し「松浦英三郎様」と呼称が改められたという
ことだけれども、翌年には父親が亡くなり世子になっている
から、おそらくは父親の健康状態が悪くなり嫡子の届け出が
必要になっていたんでしょう。
784 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 12:07:16.06
チャイニーズ強制送還著作権オレオレ空気プレン 沖縄海マー君博多焼きそば
チャイニーズ強制送還著作権オレオレ空気プレン 沖縄海マー君博多焼きそば
チャイニーズ光金強制送還著作権オレオレ空気プレン 沖縄海マー君博多焼きそば
チャイニーズ光金著作権ブラックジャック空気 沖縄海マー君焼きそば
>>782 それを言えば、吉宗の母もお手付きだったんで、綱吉おなりの時にお目通りできないはずだったが、大久保忠朝のはからいでお目通りがかない、領地を賜って大名に取り立てられた。
786 :
日本@名無史さん:2014/02/13(木) 18:38:43.98
>>785 すぐ上の兄貴にやる予定だったのが二人御目見えになったもんで一万石をわって五千石だけど
一応表高一万って呈になったみたいだよね。
吉宗の生母は巨勢氏とかいわれてるけど、帰農して百姓してたんかね。百姓の倅とか自分でもいってたっていうけど
>>785 そういう話が伝わっていますね。
ただ、一方で元服・叙爵は頼職と同時のようなので、本当に伝説ほど
冷遇されていたのかどうか、ちょっと疑問があります。
叙爵から後の昇進まで同日だったというのが、紀伊家が尾張家と
同格だと主張する最大の根拠なんで。
788 :
日本@名無史さん:2014/02/14(金) 17:26:34.95
>>787 割り込んで御目見えしたから
越前丹生郡一万石を五千にずつに分けたって説もあるから
ある程度の年からは兄弟対等に
庶子って光貞から扱いうけてたのかな?
789 :
日本@名無史さん:2014/02/15(土) 00:07:24.57
水戸家の連枝 初代頼房の子が家祖
尾張家の連枝 二代光友の子が家祖
紀伊家の連枝 初代頼宣の子と二代光貞の子が家祖
紀伊家だけは、揉めそうな構成だ
揉めることなく、光貞の子が順番に宗家を継いだが
791 :
日本@名無史さん:2014/02/28(金) 23:25:26.75
結局、将軍継承順位は
将軍の嫡子>将軍の家族たる三卿当主>分家たる三家当主(尾=紀>水)
でいいのか?
将軍の庶子は除外かよ
御三卿ができてからは、尾張と水戸に出番はない
家斉以降は家斉の血筋が最優先
>>792 平時なら慶喜なんて論外だったろうねえ。年増だし。
綱吉、家宣の例を出すまでもなく時の将軍から一番近い血統の御三家御三卿じゃね? 水戸は一段下がるのは家格の低さと現将軍からの血統が遠すぎるからだろう。
>>792 秀忠の次男忠長を封じた駿河家、家光の庶子を封じた典厩両家(甲府、館林)は御三卿誕生以前だからな。
>>795 家慶は、まだ平時といってもいい時期に慶喜に一橋家を継がせた。
嫡子家定廃して慶喜を後継にしようとしたとも言われているが定かではない。
しかし、わざわざ一橋家を継がせたのは後継候補の一人とする意図があったからなんだろう。家慶の正室楽宮の甥だったからという話もある。
799 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 19:32:52.42
>>798 正室の甥ってのも大きいが、そこまで枠を広げなければいけなかった背景として、
養子にできる家斉系の公子がほぼ全滅状態だったという切実な事情がある。
実弟の斉民や斉裕はいたが、徳川姓以外の養子に出た者を呼び戻すわけにはいかなかった。
800 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 23:17:53.55
これでどうだ
将軍の嫡子>将軍の庶子>将軍の家族たる三卿当主≧分家たる三家当主(尾=紀≧水)
この地位からはそのまま将軍になれる
他の地位にある者は(仮に家斉直系でも)一旦これらの地位にならなければならない
802 :
日本@名無史さん:2014/03/03(月) 01:12:39.06
>>800 水戸家からそのまま将軍になれるの?
後、後期の場合は御三家御三卿の家格云々じゃなくて徳川姓で最近親じゃないか?
>>802 光圀が綱吉の後継候補に綱條も挙げていたらしいから、資格はあると解釈されてたんじゃね?
>>801 御連枝(松平)→御三家→将軍 のコースは吉宗の先例があるし、御連枝がスペアのスペアだからかまわないのだろう。
>>804 吉宗以降は徳川宗直系も含む松平頼純の血筋は対象外
もちろん尾張や水戸の連枝も、それ以降は将軍家の関節的相続権はなくなる
越前家の津山、福井や、徳島(蜂須賀)、鳥取・岡山(池田)、会津(保科)、越智などの松平氏も当然対象外
806 :
日本@名無史さん:2014/03/03(月) 13:59:16.19
井伊大老は安政の将軍継嗣問題のとき、紀伊慶福=家茂を支持させるために、
津山の斉民を徳川に復帰させて、清水家を相続させようとしていたらしい。
807 :
日本@名無史さん:2014/03/03(月) 23:56:51.56
尾張も家斉血統でのロンダリングが成功したら将軍職の芽があったということだよね。
逆に藩祖の血統が幕末まで続いていたら将軍家が紀州系に代わった時点で事実上継承権なしってことだよね?
808 :
日本@名無史さん:2014/03/04(火) 01:01:32.63
斉民の清水家入りが実現してたら、その子孫が宗家継いでた可能性高いよね。
慶喜に先を越されても、斉民系が家達よりも上位の後継者に成れていそうだ。
そういう仮定はまったく意味が無い。
斉民自身の環境が変われば、妻も子も違うし、清水家で生まれた子供が次々早世、
という可能性も否定できない。
津山藩主だったからこそ、史実の斉民と子孫がいた。
家康子息のうち男系子孫が残ってるのって
秀康、頼宣、頼房の3系統だけ?
義直
812 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 18:51:04.09
付家老の竹腰とか譜代大名の井上って、いまでも義直の男系子孫なのかな?
竹腰って、家斉系の歴代藩主や水戸系の慶勝、茂徳などをどう思ってたんだろうな。
813 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 04:51:51.60
尾張徳川家は鍋島家です
養子将軍の相続時のライバルを見ればいいのでは?
815 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 18:49:28.21
>>814 綱吉vs京都の宮様vs綱豊
吉宗vs尾張の誰か
家斉vs誰?
家持vs慶喜
慶喜vs対抗馬いた?
こんな感じだね
>>815 吉宗のときは一応清武も候補じゃないかな?w
一応検討はされたみたいだしw
家斉のときは松平正信が候補。一橋家に潰されたけど。
817 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 19:04:23.82
>>815 × 家持 ○ 家茂
>>816 × 松平正信 ○ 松平定信
ここ、日本史板なんだから、これくらいまちがえないで・・・
アバウトすぎだろw 半端な知識なら書かなきゃいいのにw
(´・ω・`)
821 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 20:49:32.17
>>815 慶喜の対抗馬は、田安亀之助。
家茂の遺志や大奥が推してたのは亀之助。
でも、在京の板倉老中らが慶喜に宗家を相続させてしまった。
822 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 23:25:15.74
松平斉民→清水徳川家→将軍家
ってパターンも検討されてたんだよね。
家斉の子で家慶の弟、家定・家茂の叔父ってことで、
超強力なライバルになったはずだよな。
823 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 23:36:20.57
誰なのか明白に分かる誤変換指摘して悦に入っている奴も相当気持ち悪いと思うけどな
たかが2chだし個人的には分かればいいと思っている。
前々から何度か指摘されている水戸の相続権、慶喜の一橋入り自体は幕末動揺期前の事だし
紀州将軍系の血統が萎えたら水戸にも将軍の芽があったという事だろうね。
ただ、水戸のまま相続できるか他の徳川養子経由でないと相続できないのかという疑問が残るということか?
田安亀之助は一橋系ではあるけど家斉の男系子孫ではないよね。
家茂を最後に臣下筋に落ちていない家斉系は居なくなったということ?
そもそも一橋系自体、徳川姓、連枝松平から枯渇したの?
825 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 01:44:23.78
家斉の男系子孫は現在でも沢山いると思うが御三家御三卿以上の家で幕末に残っている血統は無いよ。
慶喜はともかく昭武まで御三卿に行っているところからして察しろw
明治時代に、一橋家も水戸系になって現在に至るだもんな
現在
水戸系 宗家、慶喜家、水戸家、一橋家、清水家
紀伊系 紀伊家(女主人)、田安家
他人系 尾張家、松戸家
今の徳川宗家も水戸の血統だな。
水戸→高須→会津→宗家
尾張家って水戸系じゃないの?
尾張徳川家は、現在は紀州系
徳川慶勝(水戸系)の養子義親が越前の松平慶永(田安家出身)の子
>>829 その後堀田家から婿養子が入ってるな。
徳川家康ー秀忠ー家光ー千代姫(尾張徳川光友室)−綱誠ー吉通ー三千君(九条幸教室)ー二条宗基ー二条治孝ー千万(鍋島直与継室)−鍋島直紀ー娘(鍋島直柔正室)ー堀田正恒ー徳川義宣
男系は鍋島氏だよ。慶永系は女系。
鍋島直柔−堀田正恒−徳川義宣−義崇(当)
松平慶永−徳川義親−義知−三千子(義宣妻)−義崇
832 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 18:28:43.96
>>824 あれだけ多数いた家斉の息子たちだが、早世や子なしが多く、孫の代ではほぼ壊滅状態になってて、
紀州から家茂が相続した時点で、徳川姓を名乗る家斉系の公子は枯渇していた。
松平斉民と蜂須賀斉裕という臣下に下った者の系統しか残らなかったというのは、皮肉なものだ。
833 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 05:29:01.17
義知には五郎太という実子がいたと聞いたが、なぜ堀田家から養子を?
後を継がなかったということは親より先に亡くなったんだろう
>>829 義親は慶勝の養子ではなく孫婿
そもそも慶勝は義親が生まれる数年も前に亡くなってるんだから養子にできるわけない
836 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 13:16:19.63
837 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 15:38:25.66
>>826 紀伊家は日系人の血筋になりました
独身の女当主には妹がいるが結婚出産しているかどうかは不明
慶喜家は当主が離婚して子供は元奥の実家に引き取られた模様です
田安家の当主は娘しかいないようだが弟が三人いるので大丈夫なはず・・・?
あと、松平各家を調べたら以下のようになる
水戸系・・・会津、高松、守山、石岡、宍戸
紀伊系・・・津山、越前
秀康系・・・松江
他大名系・・・糸魚川、前橋、高須
公家系・・・広瀬、西条
平民系・・・浜田、母里、明石
しかし津山と石岡は娘しかいない模様で守山は当主離婚で子供は千家家出身の元奥に引き取られている
徳川宗家はベトナム系だっけ?
839 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 14:10:12.62
家広なんてやつはいないと(ry
子孫ネタ、毎度毎度ウザい
つまらない
お前にとってつまらなくても、興味ある人間はいるんだよ
ここでも宗家・慶喜家の
分家
の話はあまりないよね
843 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 20:45:39.80
宗家の分家は慶喜の息子の厚が立てた男爵家で、
慶喜家の分家も慶喜の息子の誠が立てた男爵家。
実質、どちらも慶喜家の分家。
844 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 22:53:26.78
ここ最近の水戸徳川家って斉が通字みたいになってる
なぜ圀じゃなく斉なんだ?
徳川斉昭が贈正一位になってるからじゃないか。
それと光圀の血は絶えてる。
846 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 23:23:42.03
本来なら、初代が頼房だから、連枝の松平家同様、頼を通字に使うべきなんだが、
黄門様=光圀があまりにも有名すぎるから圀を通字に使ってたんだろう。
でも、圀の字って難しいから、より平易な斉の字(斉昭の斉)に変えたんだろう。
847 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 23:52:23.28
光圀ー頼常ー頼康
この頼康って早世したの?
家斉の斉なんだがな
849 :
日本@名無史さん:2014/03/18(火) 09:04:16.53
確かに水戸徳川って名前に一貫性が無いね
慶篤の息子は2人とも篤○
篤敬の長男は圀順、次男は敬信(一橋家に入り宗敬に改名)
圀順の息子は全員圀○
圀斉の息子は2人とも斉○
頼を通字にしないのは篤敬夫人が頼を通字にする家の出身なのと圀斉夫人が頼子という名前だから?
江戸時代は将軍から偏諱を賜るから、通字は無理
初代が頼房だからといって、頼が通字になりようがない
外様雄藩の殿さまですらそうだった
現代のことは大きなお世話だな
>>850 偏諱を受ける場合、下に通字をつけるのが通例ではないかな。
尾張の場合、光友の初名は光義ということだから、当初はこの
パターンで考えていたんでしょう。
もっとも水戸の場合には紀伊家と「頼」字を争うことにはならな
いでしょうが。
853 :
日本@名無史さん:2014/03/19(水) 00:42:58.39
854 :
日本@名無史さん:2014/03/19(水) 07:22:38.56
>>853 吉宗以降は村が多くなり維新後は宗に復帰じゃね?
855 :
日本@名無史さん:2014/03/19(水) 11:56:56.22
通字より、紀伊家が常陸守を引っ張ってるのが気になる
856 :
日本@名無史さん:2014/03/19(水) 12:24:19.08
常陸介な。
もともと頼宣が最初にもらったのが水戸20万石だからでは?
尾張徳川家は、義直の右兵衛督を引っ張ってる。藩祖の官歴をなぞってるんだろう。
あと常陸は親王任国だからな。
858 :
日本@名無史さん:2014/03/19(水) 13:07:07.10
親王任国とはなんぞや?
姓氏というものを考えた場合、古代は何々の名前と
いう形をとるんだよな
源とは水元に住んだから、平とは平野部に住んだからかな?
なら藤原とは藤の咲いてる原っぱに住んだからかもな
橘はこりゃミカン関係かねえ
859 :
日本@名無史さん:2014/03/19(水) 13:11:28.52
海外なんかだと○○○の○○○の前部にくるのは住んでた地名だもんな
860 :
日本@名無史さん:2014/03/19(水) 13:18:48.65
構造的に向こうの姓氏とは違うからな
862 :
日本@名無史さん:2014/03/19(水) 13:34:06.47
850
一つおもしろいことに気づいたんだけど時代が動いてるってか
まあ事実上の下克上が起きてるのはある偏諱を与えられたとき
なんだね
家治のときの一橋治済、開国のときは家斉の偏諱をもらった
斉○って名前が多いだろ
安政の大獄をやった井伊直弼、秀忠のときもやたら偏諱をも
らった親族衆の忠○の名前のが取り潰し多いね
863 :
日本@名無史さん:2014/03/19(水) 13:36:57.07
両雄並び立たずの足利尊氏、足利直義www
摂津で暴れまくった源頼光(らいこう)
こりゃもう間違いないわ
864 :
日本@名無史さん:2014/03/19(水) 13:40:22.47
正に動くか負に動くかこの行は賭けだねw
865 :
日本@名無史さん:2014/03/19(水) 13:42:31.43
平将門もいたな、有名人
水卜に限らず
徳川家て時代によって通字バラバラだよな
867 :
日本@名無史さん:2014/03/19(水) 18:25:02.69
譜代大名の諱に「忠」や「康」が多いのは、秀忠とか家康の偏諱を、
そのまま代々の通字として受け継いでるのかな。
>>859 日本の苗字なり称号だって基本的には地名、邸宅名だよ。
869 :
日本@名無史さん:2014/03/20(木) 19:21:03.72
870 :
日本@名無史さん:2014/03/21(金) 21:56:05.26
尾張の五郎太、水戸の鶴千代、越前の於義丸などの幼名継承はなぜ和歌山藩では無いの?
嫡男である光貞、綱教、家重の幼名は長福で、普通に藩祖の
幼名を継承していると思うが。
872 :
日本@名無史さん:2014/03/22(土) 00:19:28.10
>>871 重倫、治宝親子が岩千代なのはおかしい!
出生時は庶子だったけど嫡男に格上げになったからだろ?
874 :
日本@名無史さん:2014/03/22(土) 16:31:43.79
明治以降で義知は五郎太時代があるけど頼貞や圀順は長福丸や鶴千代の時代はあったの?
875 :
日本@名無史さん:2014/03/22(土) 17:40:21.10
>>873 重倫や治宝の早世した兄たちの幼名も長福丸ではない
876 :
日本@名無史さん:2014/03/22(土) 20:31:22.24
義親侯は錦之丞の時代があったな。
明治の頃は、まだ幼名から実名に改める習慣が一部の家では残ってたんだな。
877 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 12:48:10.45
明治前期に生まれた大名華族の子弟の中には、
幼名のまま実名に改名するタイミングを失ったような人が何人かいるな。
あえて、そのままにしていたのかもしれないが。
家重が長福のまま江戸城入りしているから、その後は
遠慮したんじゃないかな。
879 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 13:24:40.17
徳川長福丸(明治2〜3)
父徳川茂承 母伏見宮則子女王
家治の幼名は何だっけ?
881 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 13:55:47.55
>>880 竹千代
将軍の長子で順当に跡目相続できた人って、この人が最後?
家慶とか家定は兄が早世して繰り上がってるから竹千代じゃないし。
882 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 17:58:44.25
883 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 18:05:49.54
884 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 18:12:25.98
島津長丸とか吉川重吉(ちょうきち)もそうだろうな。
毛利元徳の息子たちが嫡男以外は○郎(西園寺八郎とか)ばっかりなのも、
おそらくそのケースだろうな。
885 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 18:20:31.74
明治になっても何之丞とか何々丸みたいな名前が命名されてた時代に、
厚とか精とか誠のような慶喜の息子の名前は現代的だな。
嫡子の慶久や池田の養子になった仲博も、はじめは久や博だったというし。
886 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 23:10:03.16
夭折したけど琢磨も現代っ子の名前だな
887 :
日本@名無史さん:2014/03/28(金) 16:17:46.84
敬事と善事は理解に苦しむ。
幼名なのか通称なのかイミナなのか、判断しかねる。
888 :
日本@名無史さん:2014/03/28(金) 18:02:12.16
まあ30過ぎて待望の男児誕生で脳内お花畑になっていて名前までお花畑系(?)な名前になったということにしよう(夭折したけど)
そういう現代的な名前は明治どころか江戸時代から普通にあったんじゃないの?
新選組隊士の名前とか見てたら斉藤一とか島田魁とか現代的な名前を結構見る。
上流階級である大名家がそういう命名をしなかったというだけで
水戸七代治保の主な
子 水戸治紀、高須義和
孫 水戸斉脩、高松頼○、水戸斉昭、関白鷹司政通室
ひ孫 水戸慶篤、水戸昭武、将軍慶喜、池田慶徳、池田茂政、喜連川縄氏、土屋挙直、
尾張慶勝、尾張茂徳、会津容保、桑名定敬、
松山勝成、高松頼聡、有栖川宮○仁妃
現代に通ずるような名前は家に伝わる伝統的な命名法が無くて漢籍や古典の知識がある下級士族やそれに近い層が名乗っている印象がある。
庶民は吉とか助とかがつくありがちな名前で、大名や名門士族はその家の伝統に則った名付けばかりなのに対してね。
うちは譜代小藩で代々12俵から20俵に2人扶持がつく程度の職を務めてた下士で信濃村上支族だけど、
もう少し禄の多い本家は代々新八郎を名乗ってるのに対してうちは漢字一文字の訓読みとか、
漢字二文字で音読みだけど百官名じゃないような名前が西暦の1800年代初頭生まれくらいから頻繁に使われてる。
>>891 「新八郎」や百官名は通称名。
これとは別に一人一人に実名が付いている。
例えば、三河大久保氏の本家の当主は代々新八郎で忠俊ー忠勝ー康忠→と新八郎の名が相伝されていった
一方、分家は初代・忠員は甚四郎だが、二代・忠世から忠隣ー忠常ー忠職と新十郎を名乗った
自分のことは実名で言っても、二人称以上で実名を呼ぶのは失礼にあたるから、古文書や古記録では通称名でしか伝わらないことが多い
松浦氏や渡辺氏みたいに実名を一字にしていた家系もあった
893 :
日本@名無史さん:2014/03/29(土) 08:24:59.65
近藤勇の場合は一字名が通称。実名は近藤昌宜。
894 :
日本@名無史さん:2014/03/29(土) 17:45:08.16
>>885-889 松平容保も嫡子の容大(幼名慶三郎)だけは伝統的な命名だが、
次男以下は健雄、英夫、恒雄、保男と現代的な名前になってるな。
>>892 >>891だけど、どうしてそういうレスがつくのか意味がわからない。
あなたは他人に知識を披露して褒められたいのかもしれないけど、
日本史板住民にとっては常識レベルの事を話題と無関係に書きこまれても反応に困るよ。
896 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:58:11.34 BE:913047252-PLT(14000)
897 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 15:14:47.10
あれだけ栄えた徳川氏も、いま貴族的な立場を維持できてるのは尾張と水戸くらいか。
明治維新後の百年は、戦国期以上の急激な社会変革だったんだな。
家財を財団法人に移行させるだけの先見性と度量が有ったか無かったかだな
899 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 09:15:18.13
御三家
尾張→徳川黎明会・徳川美術館・八雲産業など
水戸→徳川ミュージアム(旧水府明徳会)・徳川博物館・大能林業など
紀伊→先々代が放蕩散財
御三卿
田安→作家、元大企業重役
一橋→茨城で酪農経営
清水→明治時代に破産、一時爵位返上
900 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 09:37:04.81
宗家や田安家の当主は大企業の重役を引退したあと、
いろんな名誉職を引き受けてるけど、次世代以降は微妙だな。
宗家は自前の財団つくったのも最近だし、博物館も持ってないし、
資産管理会社もないし、後継者も事実上いないのと同じ状況だし、
もう慶喜家と合体すればいいのに。
901 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 11:41:56.09
一橋家は拠点を茨城に移した上、史料類も茨城県立歴史館に寄贈(寄託?)して、
もうすっかり水戸に乗っ取られてしまったな。
一橋治済や家斉は草葉の陰でどう思ってるんだろう?
902 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 11:48:51.83
財団だの重役だの考え方が明治以降だな
そんでそんなやつらが権威だのなんだの語ってるのか?
企業グセのついてるやつらが歴史を語るのやめたら
903 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 11:52:43.12
企業なんて浮衆の浮船ってのはもうばれてるんだからよ
お前らが土着することはない
904 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 13:27:38.35
>>900 慶喜家も将軍コーヒーの人の次は、事実上後継者がいない。
もう宗家も慶喜家も打ち止めでいいよ。
そのうちに有栖川詐欺事件みたいなことになりそうだな
906 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 16:14:05.75
尾張家の現当主のHPは尾張徳川家を意識してアピールする内容なのに、
宗家の息子のそれは全然徳川カラーがないな。
カラーを出す出さないの是非は置いとくとして、尾張当主のページは葵の紋で画面が見辛いつうか下品だよ
慶喜家や清水家は元々文化財などの財産少なかったのか
今は本当に一般人みたいだな
909 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 11:59:06.93
慶喜家って慶喜が身一つで起こした家だから、公爵として別家を立てたときに、
徳川一門から什器とか家宝になるものをいろいろもらったらしい。
慶喜家の家産はカメラと自転車
911 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 13:39:57.66
絶やすや清水の三京て徳川名乗れなかったの?
喜連川も足利性複製したり板垣みたいな自称レベルでも勝手に複製してんのにな
ん?慶喜家は一応現当主にゃ子はいたはずですよと
ただ離婚?したようなので継ぐかどうかは不明
913 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 14:22:32.72
>>911 御三卿は御三家同様、当主と嫡子は徳川姓を名乗れる。
ただし、維新後の数年間、清水家だけは徳川姓を名乗らず、清水姓を使ってた。
すぐに徳川に戻したけど。
914 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 19:18:23.59
>>901 だって水戸以上に水戸の血を濃厚に引いているから
徳川治紀ー徳川斉昭ー徳川慶篤ー徳川篤敬ー徳川宗敬ー徳川宗信
徳川治紀ー松平頼恕ー松平頼聡ー徳川總子ー徳川宗敬ー徳川宗信
徳川治紀ー徳川斉昭ー徳川慶喜ー池田仲博ー徳川幹子ー徳川宗信
徳川治紀ー徳川斉昭ー池田慶徳ー池田輝知ー池田亨子ー徳川幹子ー徳川宗信
上記のうち水戸家は慶徳の血を引いていない(仲博の血は同母妹の圀順夫人英子で代用可能)
この他鳥取池田家(幹子弟徳真夫人美知子は篤敬弟篤守の外孫)、朽木家(幹子弟綱博が同じ慶喜の孫と結婚)、清水徳川家(好敏夫人千枝子の両親は2人とも斉昭の孫)などが血統的に水戸家に乗っ取られている
ウィキペディア編集者ジャムリンによる日本史板での自作自演が酷すぎる件
以下が問題の爆笑自演投稿
日本史板住人がWikipediaを弄るスレ PART20
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1372047431/l50 569 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:39:28.23
ジャムリンって何者なんだ?
そんな悪い奴なのか?
570 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:54:41.47
>>569 ジャムリンは偉大な天才歴史学者です。
イケメンで長身、髪はフサフサの美形青年です。
フェラーリ・ベンツに乗って美女に大人気、誰もが羨む男の鏡、神の化身のような大英雄です。
>>899 > 清水→明治時代に破産、一時爵位返上
清水家が旧諸侯格で受けた爵位は返上したままでしょう?
後で受けた男爵は陸軍航空への勲功に対して与えられた
ものだし。
917 :
日本@名無史さん:2014/04/08(火) 20:22:03.37
徳川好敏の男爵授爵は、確かに陸軍航空の父としての業績によるものだが、
やはり旧御三卿の末裔というのも裏の理由としてあったんじゃないかな。
もし好敏以外の普通の軍人だったら、すんなり授爵できたかどうかあやしい。
918 :
日本@名無史さん:2014/04/08(火) 22:29:37.48
好敏さんの好は初代重好さんから取ったのかな?
>>917 もちろん影響した可能性はあるだろうけど、建前としてはあくまでも
勲功華族だね。爵位制度創設時の「外戚優遇」もだけど、華族制度
に関しては建前論が守られていたんでしょう。
920 :
日本@名無史さん:2014/04/09(水) 19:06:17.73
徳川好敏の兄弟で誰が正室腹で誰が側室腹なんだろうか
921 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 08:41:15.49
幕末。
尾張家が官軍につかずに、あくまで幕府死守に回った場合。
この場合でも薩長が勝つことができたと思うかい?
桑名と尾張が同盟を結ぶも
藤堂の必殺技と同じで尾張は官軍に寝返る。
そもそも尾張は幕府と心中する気などないよ
福井も真っ先に薩長側に寝返ったからな
924 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 18:57:07.78
だけど、越前と土佐はギリギリまで新政府内部で慶喜を擁護していた。
慶喜が江戸からやってきた強硬派幕臣や会桑の暴発を抑えて、大坂城で静観していれば、
新政府での徳川氏復権の可能性は高かった。
925 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 19:08:03.47
まあ実質水戸幕府だからな
家康の系統でも末子の家系
福井は長男だからな、しかも水戸学で尊皇思想
作ったの尾張から水戸の流れどからなw
基礎は尾張の義直から水戸の光圀って流れ
926 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 19:56:37.63
あ〜間違った
次男の系統、長男は殺されてたな
本来の宗家である秀忠の系統すら三男だからな
厳密に言えば福井は次男の次男の系統な
928 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 09:17:14.14
慶喜が水戸なら、春嶽は紀州だ。
春嶽は田安家(一橋が田安を乗っ取った)からの養子で家斉の甥だ。
津山が家斉の血統
930 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 18:22:07.23
津山の斉民は当然として、家斉の甥である越前の春嶽(慶永)も、
水戸の慶喜より、はるかに宗家と血が近かった。
臣籍に下った松平姓の将軍職即位が不可というルールさえなければ、
斉民や春嶽こそ、年齢・人物両面から14代将軍にふさわしかった。
あたまの悪さ全開中
松平が将軍に即位できないルールって明文化されてたのか?
それとも単なる慣例?
後者だったら、無視しようと思ったら無視できたんじゃ?
933 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 08:45:37.66
だから、家斉は外孫の前田犬千代を家慶の次の将軍にしようとした。
家斉くらいのストロングマンが健在だったら、幕末の将軍継嗣のゴタゴタもなかったろう。
案外、犬千代で丸く収まったり、斉民の宗家復帰とかありえたかもしれん。
少なくとも慶喜は松平姓から一橋を継いで将軍になってるね。
頼方も松平姓から将軍になってるな。
936 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 09:24:55.77
将軍てか源氏長者になってるだろ
これ本来は祭事を司る村上源氏の役割りだったんだろ
義満のときに崩れているんだよな
つかそれだと将軍となっても源氏の棟梁とはたりえん
937 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 09:31:26.11
つか将軍てよりも後醍醐帝の子の親王なんかもそうだが東北にきたりして
御所を開いてるのって親王か源氏かどっちかだけだったんだよぬ
家康のときに崩れてる
938 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 09:38:44.58
平氏ですら御所を自ら開いたのは存在しない
必ず源氏なり親王なりを迎えてる、藤原頼経の場合は
頼朝となんらかの血のつながりみたいのがあったはず
あ〜奥州藤原氏の場合があったか
でもあれ独立国扱いみたいなもんだったからな
綱吉も家宣も松平から直接将軍にはなっていない
940 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 18:09:23.64
甲府、館林両家は徳川姓?松平姓?
941 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 23:35:51.70
両典は徳川だろう。しかも家宣は、綱吉の養子となって西の丸入りしてる。
駿河、甲府、館林は徳川姓の史料が現存せずだっけ?
>>941 養子になって西の丸に入らずに、松平姓から将軍を継承した事例は存在しない
944 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 08:39:47.40
幕末の血筋の状況
宗家:水戸系
尾張家:水戸系
紀伊家:紀伊系
水戸家:水戸系
田安家:吉宗系
一橋家:水戸系
清水家:水戸系
越前家:吉宗系
津山家:吉宗系
極端に水戸系が優位になってるのな。
本来の宗家である吉宗系が傍流に追いやられてる。
水戸の繁殖能力と生命力のせいだな。
どうせ養子をもらうなら名門からという需要とも合致した。
946 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 11:04:21.43
慶喜正室美賀子も水戸家の血を引いている
947 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 11:19:24.05
三島由紀夫も水戸家の血を引いているのには驚いた。
948 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 17:51:40.18
そろそろ次スレだね!
案外盛り上がってて
見てるだけでも楽しい
949 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 18:25:20.99
三島由紀夫の祖母は性格に問題があって不自然なほどの格落ち婚で
結婚翌年に三島由紀夫の父親を産んだだけで12人の子供を産んだ母親(宍戸藩の出)とは対照的にそれ以降子供産むことがなかったらしい
徳川・松平一門だけじゃなくて、
養子で他大名の中にも幕末までに水戸系に成ってたりするからな。
繁殖力凄い
951 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 18:50:41.11
津山の斉民を将軍にして、その代わりに津山を廃藩にして津山の家臣は幕府の御家人ってしたら、
幕府の直轄地も増えるし、家斉の近親が跡を継ぐし、一石二鳥だったんじゃないだろうか。
(甲府・館林の先例にならうってことで。)
よほどお万の方の血が優秀だったのだとwww
水戸系の繁殖力がすごいんじゃなくて、
家斉の血統と尾張家の死亡率が異常なんだと思う。
954 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 22:35:57.00
水戸って正室腹の藩主結構いるよね
>>954 定府だから正室とやる機会も多いし、正室と住んでいたら側室も持ちづらいんじゃね?
なら将軍家は正室腹少ないだろ?と言い返されたら有効な反論は出来ないがw
大奥が京都の朝廷の干渉を受けないようにするために、正室の懐妊を避けたんじゃないかな?
逆に水戸は水戸学の考えから、京都の血筋を欲したのでは?
徳川宗家正室が懐妊した例
家康
秀忠
家宣(甲府時代)
家重
家治
家斉
家慶
14人中(家継は除いた)7人は正室孕ませているから特別少ないとは言えないのでは?
家康秀忠を除いて考えても12人中5人。
吉宗も紀州時代に正室孕ませてるぞ。的中率はまあまあだろう。
宗家の場合懐妊よりも生まれた子が育たないという例が多い気がする。
典型が家斉と家慶で、あれだけ生まれたのにほとんどまともに育ってない。
あと秀忠の罪は重いな。
正室だけであれだけ孕ます能力あったのに、側室持たず仕舞いだったのが後々の宗家断絶につながっている。
お江が多産系だったんじゃないのか、お市もそうだったし。
秀忠の場合、せっかくできた保科正之と親子対面をして処遇してやらなかったのがいかん。
960 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 08:11:49.93
お万の方は、頼宣、頼房と生んでるから、紀州もお万の方の血筋。
961 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 08:28:04.78
幕末の徳川と名乗る家は全部お万の方の子孫だな。
家康の子孫の松平の大半もそう。
秀康の男系子孫って幕末の松平に居たのかな?
962 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 08:47:25.77
>>957 慶喜も一橋時代に美賀子に娘を産ませているぞ
963 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 08:54:11.87
あと家茂も早死にしなければ子供も生まれていたかもしれない
家茂の婚約者は結婚は家茂より早いのに家茂の死後に3人の子供を産んでいる
>>961 春嶽の養子で越前継いだのが秀康の男系じゃない?
>>964 サンクス
秀康の男系が残ってたのは嬉しいね。
津山が家斉系と交互相続してたんだっけ?
そうだね。
いろんな意味で一番正統に近いのが津山藩というのが面白い。
津山城は凄いよな。
あれ、今でも完全体で残ってたら姫路城を上回るだろ。
>>967 天守の美しさは姫路の方が上だと思うけど20万石程度の城にしては凄いよね
津山は10万石だったw
970 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 20:23:24.17
>>984-965 残念ながら、春嶽の後を継いだ糸魚川藩出身の茂昭は、
男系で遡ったら久松松平(家康の異父弟)の子孫。
秀康の子孫は福井藩主家には続いていない。
松江藩あたりは続いてる可能性があるが、どうだろう?
971 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 20:24:17.15
松平茂昭は結城秀康の三男・松平直政の男系だね
最末端の支藩だから男系生き残れた感じか?
めぼしい越前系は宗家から養子入りまくりだしw
972 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 20:30:21.46
松平康元(家康の異父弟)→忠良→康尚→定員(旗本)→直好(糸魚川藩2代)
973 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 22:03:01.52
>>970 越前系ではその松江しか秀康の男系子孫がいない・・・
明石も昭和まで男系で続いていたのだが平民に嫁いだ娘の系統になってしまった・・・
あとの松平家で秀康の男系は上山藩のみ
974 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 22:46:49.79
津山藩家老の安藤家も幕末まで結城秀康の男系じゃなかった?
永見は?
高田藩廃嫡子の松平三河守綱國の直系が安藤家だっけ?
新宿区にある名残?
早稲田の甘泉園 清水家の屋敷跡の大名庭園、当主不在の空き屋形なのに城外に屋敷があるw
戸山ハイツ辺り 尾張家下屋敷跡、箱根山が有名?
市ヶ谷防衛省 尾張家上屋敷跡
神楽坂白銀公園 水戸家付家老中山家の江戸屋敷跡、ただの公園
978 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 18:13:45.24
斉民の息子は秀康の男系子孫を嫁に迎えたけど妾?がいたようで誰が正妻腹で誰が側室腹なのかわからない
子供の生年などから全員腹は同一なのもありえなくもないけど1人で13人?も産めるのやら
>>954 生母が正室だったのは綱條、宗翰、治紀、慶篤だね。
980 :
尾張大納言:2014/04/17(木) 10:22:45.94
名古屋城のみ天下普請。あと 三家・親藩の所在地のなかで名古屋のみ大都市
あとは和歌山 水戸 福井 会津若松 高松 津山 以下地方の小都市。
やっぱり、宗春≫吉宗 は正解。
あら、ま、頭のわるい意見だことw
982 :
日本@名無史さん:2014/04/17(木) 18:57:06.34
983 :
日本@名無史さん:2014/04/17(木) 19:19:11.15
天下普請の城に入った大名は不思議とろくな目にあわないことが多いなw
家康は義直に新しく城を建ててやったが、頼宣には自分自身の城を
与えているね。
忠長を駿府城に入れるために、頼宣は紀州に移封されたな。
986 :
日本@名無史さん:2014/04/18(金) 08:00:47.83
江戸時代の半ばくらいまでの名古屋は大都市でもなんでもないからな。
家康在世当時は駿府が江戸に遜色ない大都市でもちろん駿府城は天下普請。
義直と頼宣(頼将)に差はない。
987 :
101:2014/04/19(土) 07:20:19.44
988 :
799:2014/04/19(土) 20:54:09.00
989 :
77:2014/04/20(日) 09:41:17.51
990 :
914:2014/04/20(日) 21:45:12.28
991 :
897:2014/04/20(日) 23:20:02.95
992 :
尾張大納言:2014/04/21(月) 12:19:52.56
尾張は実力100万石。東海道 中山道の両道を支配した。
紀伊は55万石でいっぱい。辺境の地。
親藩・家門の大名の支配地で21世紀の現在、大都会は尾張・名古屋のみという事です。
東京、大阪、京都が天領だったからな
994 :
987:2014/04/22(火) 07:21:13.59
ttp://homepage1.nifty.com/madeinjapan/the_book_of_magic_to_love/tidimiyukusakuratyann.htm >888
途方に暮れていたさくらに一人の女性が手を差し伸べてきた。サウスタウン・チャイナタウンの若きリーダー、李苺鈴であった。
もともと苺鈴とさくらは実の姉妹以上に仲がよかったこともあり、苺鈴は仕事の合間を見てよくほたるの面倒を見た。 >180
それを受けさくらも李家のもとで修行を再開。特に自らの弱い心を克服せんとした。 >201
こうして心身ともに成長しつつあるさくらのもとに苺鈴に付き添われて一人の男が現れる。
「さて“奴”の妹というのはどこにいる」 >256
「まあ、ちょっと待ってて、あっ、さくらちゃん。あのね、あなたに会いたいって人がいるんだけど」
苺鈴の招きに応じ、たまたま顔を出したさくらが近づいてきた。 >786
その男は青い服に身を包み、オールバックで整え、両脇の金髪の筋がある少し長めの髪のいで立ちだった。
「はい、えーと、あなたは・・・・・」 >957
「李小狼だ。なるほど、お前がそうか」
「・・・はい、木之本さくらです・・・・・」
そこに苺鈴が割って入る。 >687
「小狼はわたしのいとこで、まあいくらか修行にも付き合っていたんだけどね。
まずはあなたの実力を見てもらって、それからは今後の対策を話しましょう。
それから小狼、あまりやりすぎないでね、さくらちゃんは力つけたっていうけど、身体は強いわけじゃないからね」
995 :
日本@名無史さん:2014/04/22(火) 08:07:36.56
>尾張
何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」
尾張の歴史
◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
996 :
日本@名無史さん:2014/04/22(火) 18:15:21.59
埋め
997 :
日本@名無史さん:2014/04/22(火) 20:00:17.35
997
999
1000 :
日本@名無史さん:2014/04/22(火) 20:11:30.83
千
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