貨幣総合スレ

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1日本@名無史さん
以前、世界史板にも貨幣スレがあって結構盛り上がっていたので、日本史板でも立ててみました。

取りあえず、皇朝十二銭はどの程度まともに、今日でいう「貨幣」として流通/機能していたんでしょうね。
2日本@名無史さん:2013/08/16(金) 06:20:26.66
経済を根本から理解できないバカが政策で無茶苦茶にしたからな。新たな銭種を出すたびに、
以前の銭種の十倍の価値を付与したりして。
江戸時代の藩札でも同じことをやってるから、経済が未成熟だからって話でもない。
為政者の経済理解が未成熟なだけ。今も多くの為政者は未成熟。
3日本@名無史さん:2013/08/16(金) 20:08:33.99
日本史上、貨幣の本質を理解した上で貨幣政策を展開したのは荻原近江守重秀(勘定奉行兼佐渡奉行、3700石)
4日本@名無史さん:2013/08/16(金) 22:45:10.51
荻原は儒者の新井白石の讒言によって失脚
白石の異様な執念のこもったネガキャンによって悪名が現代に伝わる
5日本@名無史さん:2013/08/16(金) 23:55:14.54
のみならず、倅彦次郎乗秀に家督相続を許されたものの、3700石のうち、3000石を
ボッシュート。
6日本@名無史さん:2013/08/17(土) 06:13:47.91
儒者は貨幣経済を嫌うからな。
大坂町奉行組与力だった陽明学者の大塩平八郎でさえ、大坂で散々貨幣経済関係の訴訟を
扱ってきたにもかかわらず、結構素朴な経済認識しか持ってなかった節がある。
7日本@名無史さん:2013/08/17(土) 10:24:14.47
荻原は貨幣の本質など理解していない。
貨幣改鋳による差益が目的にすぎない。元禄の1度目の改鋳時ですら
貨幣価値を切り下げた新貨幣を同価で旧貨幣と交換しようとしたため
旧貨幣の退蔵が起き、当の荻原が交換の強制を命じているくらいだ。

また巷間よく知られているように2度目の宝永の改鋳による全国的な
インフレが荻原の失墜につながったとされるが、元禄の改鋳時、東北は凄まじい
飢饉で物価高はこの地域に追い討ちをかけたことも一般にはあまり知られていない。

2000年代のデフレのせいで持ち上げられた荻原、明治維新が色あせてきた中で再評価
がすすんだ徳川、特に大都市江戸を中心に見る史観の中で文化興隆に尽くした(とされる)綱吉
の持ち上げは信長や龍馬の持ち上げと同一のものといっていい。

元禄の飢饉時の幕府の対応は50年前の寛永の飢饉時と比べて無為無策としか言い様がない。
放漫財政にもかかわらずだ。綱吉の悪評は故なしとは到底言えまい。荻原の政策やその末路
は綱吉のツケを払わされたにすぎんよ。
8日本@名無史さん:2013/08/17(土) 20:35:34.87
豆板銀て江戸でも使えたの?
9日本@名無史さん:2013/08/17(土) 20:55:29.33
江戸の人間が上方との取引きで手元に来た場合、すぐに両替商のお世話になる。
金銀貨は偽物が混じっていて、小判でさえリスクが大きいほどだから、秤量貨幣である丁銀豆板銀は
上方の一般の取引きでさえあまり使われない。両替商の包みに入れた物を用いるとか、すぐに
両替商の手形の形にする。
10日本@名無史さん:2013/08/17(土) 21:04:57.10
江戸には銭売りという形で両替業務を行う零細商人がいたけどね。銭売りは豆板銀でも
普通に両替に応じていた。
一般人同士では真贋や価値の鑑別などできるわけがないし、大店の手代丁稚でも
金貨の受け取り程度にしか対応できなかった。それ以外は、「両替してきてくれ」で終わり。
11日本@名無史さん:2013/08/17(土) 21:26:54.34
秤量貨幣なんて、決済のたびにいちいち量っていたら、効率悪くて仕方ないよな。
ちょうどいい額面になるように豆板銀でちびちび調整するのも、一か八かだし。
几帳面な人は露銀も結構持ち歩いたのだろうか。
いずれにせよ両替商の手形にすぐ変えるのが現実的だったのだろう。
12日本@名無史さん:2013/08/19(月) 09:05:26.63
>>11

でもさぁ、そのお陰で我々後世の収集家が収集の悦びをより一層味わえるんだよね。
確かに当時は非効率だったにせよ(因みに、俺は日本の貨幣の中で豆板銀が一番好き)
あと、江戸幕府は頻繁に貨幣改鋳を繰り返したけど。結果的に収集のレパートリーが
増えて面白味が増してやはり後世の収集家にとって有り難い事だと思うよ。賛否両論
有るだろうけど・・。
13日本@名無史さん:2013/08/19(月) 12:40:20.81
バリエーションなら藩札だろ
14日本@名無史さん:2013/08/19(月) 13:03:13.85
当たり前だけど、話題が江戸時代に終始するな
15日本@名無史さん:2013/08/19(月) 15:20:23.76
明治の近代貨幣もなかなか面白いのにね
16日本@名無史さん:2013/08/19(月) 15:57:59.25
これを貼れといわれた気がした。

http://history.harikonotora.net/img/217-3.jpg
17日本@名無史さん:2013/08/20(火) 08:24:43.43
当銀長太郎あげ
18日本@名無史さん:2013/08/20(火) 20:49:42.55
>>9 両替商の手形って何?
19日本@名無史さん:2013/08/20(火) 22:03:19.71
>>10>>11
中国の馬蹄銀みたいな形のやつって日本にはなかったのかな。
戦国時代の地方貨はけっこう秤量貨幣のバリエーションあるから、
あってもおかしくないような気がする。

>>12
そうだね、後世の収集家から見れば古金銀はなかなか面白い分野かもね。
金銭に余裕がなく穴銭専門だった厨房の頃、何か憧れていた。
20日本@名無史さん:2013/08/20(火) 23:02:23.98
>>19

俺も小学生の頃から古金銀に憧れていたんだけど、なんせ月々貰う小遣いじゃ
とても買えなくてね。まぁ、お年玉なんか貰うと一朱銀などは買ったんだけど。
その反動で大人になって給料を稼げる様になってからは、小判を始め色々なもの
を買っているんだけど・・(因みに一番好きな分野は豆板銀だね)。
21日本@名無史さん:2013/08/21(水) 05:39:08.05
>>18
振手形。小切手みたいなものと思えばいい。
両替商に金銀を預けている者が、その両替商に支払いをするよう依頼する形の書面になっている手形。
手形を切った者と両替商に揃って信用がある場合だけ普通に流通する。信用が落ちれば受け取り拒否される。

http://kahei.e.u-tokyo.ac.jp/image/kosatsu/1-17-23.jpg

書面の例はこんな感じ。これは紙幣として通用するように作られているものだけど、様式は振手形そのもの。
手形を切った商人、つまり預金者が大黒屋半兵衛、両替商は銭屋弥七。紙幣として通用させるのが目的だから
小額で、支払い要求額は銀五分。つまり銀0.5匁。金一両がおよそ銀六十匁とすれば120分の1両。
22日本@名無史さん:2013/08/21(水) 19:14:39.43
この銭屋弥七銘の手形、俺ももって居るんだけど、かなりの数
流布してんのかな?。事情を知っている方、良かったら教えて
下さい。
23日本@名無史さん:2013/08/21(水) 19:23:20.42
現存量は流布量とはあまり関係がない。
維新で回収されて一箇所に集まるから、それがまとめて廃棄されるかまとめて保存されるか、
それだけの違いでしかない。現状でありふれたものの場合はそうなる。
24日本@名無史さん:2013/08/21(水) 19:24:49.92
藩などの発行元がが引替義務を放棄して流通範囲に広く残る場合もあるけどね。
25日本@名無史さん:2013/08/21(水) 21:13:14.24
>>21 ありがとう、こんなものあったのか。
貨幣カタログにも載せてほしいなぁ
26日本@名無史さん:2013/08/22(木) 05:06:43.52
>>25
古札類はあまりに多種類な上に相場が極端に流動的だから、カタログには適さない。
数十年前に貨幣収集専門誌に藩札図録が連載されたけど、それがいまだに参考資料として
使われているほどだ。位付を馬鹿正直に信じていると痛い目を見るけどね。
>>21の札は私札類に属するから、日銀発行の『図録日本の貨幣』あたりが参考資料。
27日本@名無史さん:2013/08/22(木) 18:51:23.07
>>23 >>24
なるほど、古金銀類の発行数と現存数が必ずしも一致しないことと
同じ理屈なわけですね。兎も角、ご意見有り難うございました。
28日本@名無史さん:2013/08/23(金) 05:39:16.87
現存数の話なら、ありふれた札。
29日本@名無史さん:2013/08/26(月) 23:32:39.32
天保通宝とか寛永通宝って実際明治期も流通してたんだっけ。
最後に使われたのはいつなんだろう。
30日本@名無史さん:2013/08/26(月) 23:46:54.30
一般的には明治中期とか書かれているがそれほど根拠があってのことではないらしい。

俺は寛永通宝の文銭を1枚持ってるが、これは明治45年山形生まれの祖母から
直接貰ったもの。子供のころ銭棹に2枚状態の寛永通宝をばあちゃん家で見つけ、
興味を示したら1枚くれた。

後年親父と話したがばあちゃんがこの寛永通宝を古銭として入手したとは
考えにくいとのこと。察するに昭和初期まで田舎では子供の小遣い銭などとして
一定の流通があったものが手元に残っていたらしい。
1厘扱いなので戦前の物価水準では幾枚かで飴玉くらいは買えたものと思われる。

さすがに戦中戦後の流通は物価的に厳しいだろう。
正式な通用停止は昭和28年、1円以下の硬貨全部と一緒。

天保通宝の流通停止はずっと早く明治24年。発行時は100文(寛永通宝100枚分)
だったのに明治に入ってからはたったの8厘扱いだった。
3129:2013/08/26(月) 23:50:59.41
>>30
即レスありがとうございます。
感服致しました。

m(_ _)m
32日本@名無史さん:2013/08/27(火) 04:53:42.45
>>30
旧家では普通に銭差しを退蔵しているものだ。蔵の整理なんてそうそうやるもんじゃないからな。
33日本@名無史さん:2013/08/27(火) 09:46:45.02
>>1
これはあくまでおいらの想像だが、
皇朝十二銭や中世の私鋳銭は、金属の重さのみのスクラップとして
流通していたのではないかネェ
銅は、どの時代でもスクラップ業者が引き取るから
物々交換経済ならそれはそれで比較的重宝するから
34日本@名無史さん:2013/08/27(火) 14:13:57.43
銭流通の基本は枚数カウントだよ。高額取引きでは重量でやりとりした方が便利なのにそれをせず、
せっせと枚数を数えていた。
35日本@名無史さん:2013/08/27(火) 15:34:47.44
吉備とかで西暦1世紀の頃の王莽銭が発掘されるけど
このころの日本では、中国の貨幣を
どのように認識していたんだ?
36日本@名無史さん:2013/08/27(火) 15:45:22.89
ガラス玉を宝石扱いする大航海時代の非欧州人みたいな感じだろ
37日本@名無史さん:2013/08/27(火) 16:13:30.59
>>36
富本銭と一緒で祭具あつかいだろ。
38日本@名無史さん:2013/08/27(火) 17:14:02.83
紀元前1世紀から、倭国と前漢が外交結んでいたぽいな。
39日本@名無史さん:2013/08/27(火) 18:02:57.11
出土する遺跡が王莽の新王朝滅亡より大幅に新しいと説明されてきた関係からか、

新王朝滅亡後に日本列島に持ち込まれた、貨幣として持ち込まれたのではない、

などと説明されてるみたいだけどね、なんとなくだが、怪しい説明だと思う
40日本@名無史さん:2013/08/27(火) 18:19:35.29
>>37
だから「良く分からんがありがたい」だろ。
41日本@名無史さん:2013/08/27(火) 19:17:22.17
最近は外国の貨幣に投資する人が増えてるらしいけど
日本の古銭ってどうなのよ?
42日本@名無史さん:2013/08/27(火) 20:02:24.79
古銭に投資もいいけど、やはり現在流通中のカネ集めに限る
お年よりは沢山持ってるらしい。
「母さん助けて!」と電話してかき集める輩が蔓延ってるとか
43日本@名無史さん:2013/08/27(火) 21:50:11.27
仮に倭国に王莽の貨幣が流れてきても
それは倭国内では流通しないでしょう?そんなに。
そんなもん貰うよりも、物々交換のほうが有難い。
もし、それを利用するとしたら、対外貿易においてだろうね。
倭国はかなり古くから、漢字や貨幣を使う人いたけど
それは、あくまでも対外関係においてだ。
44日本@名無史さん:2013/08/27(火) 22:03:21.22
>>40
そこまではいっていなかったのではないかなぁ
銅鐸や銅矛を作れるのだから、それなりに金属についての知識も
あったようだし、
物々交換経済の中で、それなりに重宝されたのでないの?
45日本@名無史さん:2013/08/27(火) 22:19:43.93
王莽銭って、王朝が短命の割にダボハゼのように出土して、二束三文で買えるよな。
日本でいうと文久永宝のような短期集中発行だったんだな。
46日本@名無史さん:2013/08/28(水) 09:23:42.82
一度流通したら、それを真似して、各地で作ったんじゃないかな?
47日本@名無史さん:2013/08/28(水) 13:15:22.43
>>46
中国で作られたものだ。

ただし、仮に国産で作ったとしても、それはそれで興味深い。

とにかく、その当時って、中国でも、今ほど貨幣経済は浸透していないしな。
現在の国家ほど信用できるものではない、その当時の政治体制って。
貨幣の信用って、その貨幣を発行する政府への信用だから。
その貨幣をただの金属の塊だと認識されたら、誰も交換しないし。
48日本@名無史さん:2013/08/28(水) 17:17:08.17
>>47
自分たちが作れないからこそ、高い価値が付く。
一昔前のガラス玉にしろ、今の日本のシリコンウエハにしろ。
49日本@名無史さん:2013/08/28(水) 17:22:58.51
最初は単純に銅と同じ価値だろう。
流通して信用が形成されていくと、
地金の価値と、貨幣の価値が離れていく。
行き着くところまで行って、数字だけが独立していった
のが、現在の通貨。
50日本@名無史さん:2013/08/28(水) 17:37:18.03
「銅の価値」は文明の産物。いつまでも鏡のような金属光沢が残るわけじゃない。
51日本@名無史さん:2013/08/28(水) 17:40:37.69
そのへんは中国史的な王莽銭の意味も把握しておかないと。

王莽は最新技術で復古的なデザインの貨幣を大量に発行している。
鋳造技術は高いが、高額硬貨が多くて信用貨幣性が強く、復古とはいえ
珍奇な形をした貨幣だ。

その後、王莽の新は短期間で滅び、後漢になると五銖銭が復活して、
これが何と唐の開元通宝の流通が本格化するまで続く。規格的にも開元通宝の
準拠モデル、つまり東アジア穴銭の起源の起源となった銭だ。なにしろ
日本で流通してた渡来船にも若干混入していた程だ。

いわば中国では王莽銭は大量に存在した廃貨で、中国では流通しないが、
物量があり、外観は立派。流通というより珍宝レベルで扱う段階の
外民族に渡すには誠に好適な存在となる。

外民族としても定型的で保存性の高い「珍宝」は蓄財や交換財ともしやすい。
そんな保証者や統括者のいない「準貨幣」的な存在だったのではないかな。
52日本@名無史さん:2013/08/28(水) 18:50:55.42
>>45

俺もバブルの頃(S62年)貨泉の綺麗な状態のを千円未満で
買った覚えがあるな。
53日本@名無史さん:2013/08/28(水) 19:39:20.74
>>51
素材でなく形が評価対象って話だな。その話なら、別に大陸で素材としてありふれた鉄や鉛でも構わん。
54日本@名無史さん:2013/08/28(水) 20:00:35.21
鉄や鉛の加工品は「形」を維持できないだろ。
てか、そこが優れてるのが金銀銅なんじゃんか。
55日本@名無史さん:2013/08/28(水) 21:50:17.23
トウタクなんかが鉄の貨幣を作ったりしているけど、
たいてい長続きしないのだよな
おおむね、金銀銅に落ち着く
56日本@名無史さん:2013/08/28(水) 22:38:05.22
鉄銭は材質よりも見た目の悪さが不評だったと思う
57日本@名無史さん:2013/08/29(木) 00:51:38.71
鉄銭はむしろ、南朝の梁が代表だろ
58日本@名無史さん:2013/08/29(木) 07:36:33.01
59日本@名無史さん:2013/08/30(金) 19:15:33.54
>>49
通貨発行益は王莽の貨泉のときから、日本でも認められていたのかねぇ?
王莽の貨泉の時は、日本でもスクラップと同じ価値しか認められて
いなかったように思うのだが、
和銅開宝から皇朝十二銭の頃は、ひょっとすると日本でも認められたのかなぁ?
60日本@名無史さん:2013/09/14(土) 17:35:55.19
貨泉とか五銖って昔は数千円くらいしたのに、1980年くらいからダラ安になって百円でも買えるようになったよな。
61日本@名無史さん:2013/09/14(土) 20:25:52.94
>>60

俺が中学三年の時(昭和58年)の話だが、近所に古銭を売っている家
(只の民家)があって、そこで刀幣(明刀)が4000円也で売っていた。
当時の俺は「まさか、紀元前のお金がこんな値段で買えるわけ無いだろう」
と思いつつ、半信半疑のまま購入した。当然、家族の誰からも「これって、
ニセモノじゃないの?」と言われる始末で、俺も「やっぱり騙されたのかな」
と思うようになってしまった。これが適正な市場価格だと判ったのは、それから
3年くらい後の事だったな。
62日本@名無史さん:2013/09/14(土) 20:39:33.65
東大出の博士と某国立博物館に行って、中国の紀元前の青銅製のメートル単位の大きさの容器の
コレクションを前に、「一つ一つがとても数十万円では済まない」と説明したら、素材価値換算で
俺の見積りを批判してくれた。二千年以上前の物だと繰り返しても同じ返事。

その人、俺と同じく理系だけどね。なんか教養と学歴とってまったく別物だと改めて思い知らされたよ。
けっこうその人の学識に信頼を置いていただけにね。
63日本@名無史さん:2013/09/14(土) 22:19:15.83
>>61
刀貨や貨布の値段は今でもそんなもんだね。

五銖他の大暴落は中国が大幅に規制緩和して大量に流入したからだって何かで聞いたことある。
64日本@名無史さん:2013/09/14(土) 23:29:44.61
>>62
テンプレにしたいくらいつまらない奴だなw
65日本@名無史さん:2013/09/15(日) 05:43:27.14
>>64
人柄には愛嬌があって、けっこう人に囲まれてる人なんだけどね。嫌う人は一人もいない。
でも、歴史の知識はあってもそれが単なる雑学的な知識で留まって、教養には繋がってない。
本人は芸能やスポーツの知識を増やすことで、俗物たちに囲まれるのが楽しいようだ。
なにしろ、「東大仲間と博物館に行ったときには、みながじっくり見たがるから時間がかかって
仕方がなかった」と愚痴っていたくらいだから。

頭がいいし、知的能力に関するプライドも当然高いだけに、医学部に進んでいれば
教養を磨かなければ恥って意識も持てたかもしれない。旧帝大クラスの医学部の医局なら
親も優秀な医者ってのが多いだけに明らかに意識が違う。
66日本@名無史さん:2013/09/16(月) 09:48:08.82
>>63
ほんと2000年前くらいのお金が、高々100円や200円程度で取引されるのだからな
2000年前はどれくらいの量が流通していたのだよ?になるわな
どんな時代になっても銅とか、青銅はスクラップとしても流通するのだから
なおさらだよな
67日本@名無史さん:2013/09/17(火) 06:04:25.89
和同開珎も残存数からすれば数千円程度の価値しかないのに、買い支えてる奴らが
たくさんいてあんな値段。
68日本@名無史さん:2013/09/17(火) 18:58:06.80
>>67

学校の歴史教育のお陰だな
69日本@名無史さん:2013/09/17(火) 19:34:16.27
和同開珎は思い入れられ杉。

富本銭の評価にしたって執拗に「厭勝銭」だって連呼する向きがあるが、
きちんと明らかになっていることを元に推論したっていうより、
「和同開珎の前に流通貨幣なんてあっちゃいけないんだ」という
決め付け先行の主張が多くてうんざりする。

厭勝銭や通貨様宝物だと主張するならばそれなりの根拠になる
出土状況とかがあってしかるべきなんだが、どうも
和同開珎に地位が危うくなるようなことがあってはならないっていう
変な「信念」から発想してる話が多いんだよな。

「流通貨として作ったけどあんまりちゃんと流通しなかった」っていう
一番最初に思い浮かぶありそうな結論からははなから目を逸らし
理由もなく逃げてるヤツの多いこと。
70日本@名無史さん:2013/09/17(火) 20:33:14.84
>>69
和銅の元号のエピソードを神聖視する一部勢力じゃないか?
71日本@名無史さん:2013/09/18(水) 01:05:14.84
ほぼ全勢力だと思うけどね
72日本@名無史さん:2013/09/20(金) 09:26:38.24
文献的にも、和同開珎以前の発行例はあるだろ。
無紋銀銭は重量補正のために小片がくっつけられていて、明らかに通用を意識したものだし。
和同が最古でないことは確実。
73日本@名無史さん:2013/09/20(金) 10:33:58.47
駿河墨書小判は関東移封前の家康が作ったと見るべきでは
74日本@名無史さん:2013/09/20(金) 21:17:55.92
>>73

武蔵小判は家康だけど、駿河の方は別人じゃなかったけ?
75日本@名無史さん:2013/09/20(金) 21:22:14.63
『大日本貨幣史』には文禄4年鋳造とあるが、これは武蔵墨書小判との混同だと思う
76日本@名無史さん:2013/09/20(金) 22:16:43.62
慶長通宝とか元和通宝は、誰がどんな意図で発行したのか?
77日本@名無史さん:2013/09/20(金) 22:41:30.36
家康を初めとした江戸幕府の通貨への注力を見ると、
幕府主導が妥当かと
78日本@名無史さん:2013/09/20(金) 23:26:31.75
中国の魏志倭人伝の本元の魏書の東夷伝の朝鮮半島の話で
倭人とか韓人、その他半島の原住民は鉄を掘り出しては
お金のように鉄を使っているとの記述があるけど、
その頃から一種の金属貨幣の使用に日本人は慣れていたのに、
富本銭や和同開珎まで、時間が空きすぎているような気がするのだよな
物々交換経済でも、米や布切れよりも金属の方が使い勝手が
よさそうな気がするし、昔は金属の価値は今よりもはるかに
高かったのだから、
79日本@名無史さん:2013/09/20(金) 23:32:35.07
布を貨幣として使ってたから
必要性を切実には感じ無かったんじゃね
80日本@名無史さん:2013/09/21(土) 01:27:07.07
>>78
日本書紀の「銀銭」に関する初出記事は顕宗天皇2年(486年)とかなり古い。
従来は和同開珎を基準に「こんな古い時代に銀銭とかありえない」とか
言って資料根拠なしに捏造・錯誤・修辞と言って平気で否定するといった
ものだった。

しかしこれも「無紋銀銭」のことだとするとそんなにムチャクチャな話でもない。

というか無紋銀銭があった時点で、実は日本の貨幣は中国の影響を受けつつも
最初から中国とは違った展開をしていたという凄い話にもなるのだが。
81日本@名無史さん:2013/09/21(土) 13:49:08.76
>>80
それは貨幣というよりただの物々交換じゃないのか。
82日本@名無史さん:2013/09/21(土) 15:48:50.10
>>81
東地中海沿岸を除く西欧の貨幣はずっとそうだよ
83日本@名無史さん:2013/09/21(土) 16:51:51.25
>>81
無紋銀銭の現物は一定の重量に作られているから、明らかに貨幣。
84日本@名無史さん:2013/09/21(土) 21:51:28.52
物々交換経済でもいいけど、
日本で金が重宝されるようになったのは、仏教が伝わって、大仏さんに
金メッキをやるようになってからだろう?ちょうどその頃に金が見つかったと
記録にあるようだし、でもこれ絶対におかしいよな
金は砂金とか、金塊の形で転がっている場合が多いから、絶対に縄文人や
弥生人が見つけていたはずだと思うのだがな、その縄文人や弥生人も
貴金属と言うか、装飾品関係の光物には弱くて、ヒスイを探し出したり、
南方から夜光貝を取り寄せたり、青銅器を作ったり、挙句鏡に執着して
魏の皇帝から、倭人は鏡を特に好むそうだから、鏡をわざわざ調達して
やったぞと言われているし、金(ゴールド)に執着しないはずがないのだ
朝鮮半島だって、古墳から金(ゴールド)が大量に出た例もあるのだから
銅鐸を作って、鉄を作ったりしたのだから、金の加工くらいはお茶の子
さいさいだろうに
85日本@名無史さん:2013/09/22(日) 05:30:11.15
東北北海道以外の砂金の産地ってどこだよ
86日本@名無史さん:2013/09/22(日) 16:17:31.58
>>85
今でも採算度外視で頑張れば、95%の川で砂金が取れるそうだ
現実に安倍川でも、多摩川でも、金沢市の犀川でも、加古川でも取れるそうだ。
87日本@名無史さん:2013/09/22(日) 16:55:30.37
>>86
砂金が無理ならお前の主張は無理。古代の王なら首をはねるよ?
88日本@名無史さん:2013/09/22(日) 17:16:52.15
>>86
日本の金採取は砂金も多かったよ
駿河や薩摩も鉱山開発より先に砂金、日本史勉強しろよ
89日本@名無史さん:2013/09/22(日) 17:17:34.71
>>87
日本史勉強してない低脳はこっちか
90日本@名無史さん:2013/09/23(月) 14:56:30.26
水戸藩は1600年代、寛永通宝を作りすぎて領内でインフレが起こった。
幕末はコントロールしたようだ。経験で経済学を会得。
この経験が慶喜の家来渋澤栄一が日銀をつくり、
水戸藩御用商人上がりで影の日銀と言われた川崎財閥。
関係あるのかな?
91日本@名無史さん:2013/09/23(月) 17:28:08.66
日銀つーか、渋沢が三井に作らせたりした国立銀行は欧米のシステム導入の結果じゃね?
92日本@名無史さん:2013/09/23(月) 18:29:40.45
意外と徳川家は資産を維持し渋沢や川崎に託して経済力は保有していた?
代わりに政治には口出さずで。
川崎は三菱と合併したが、店舗数は三菱より多かった。
93日本@名無史さん:2013/09/30(月) 11:44:00.94
>>11
>秤量貨幣なんて、決済のたびにいちいち量っていたら、効率悪くて仕方ないよな
逆。大量の貨幣の枚数をいちいち数える方が手間。
まとめて一度で計れる方が効率がいい。
94日本@名無史さん
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