邪馬台国は九州にあった27

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1日本@名無史さん
九州説が妥当だと思うが

邪馬台国は九州にあった26
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1373112542/
2日本@名無史さん:2013/07/21(日) 16:56:18.66
>>1

九州説こそ真理、異説を駆逐し燦然と輝く真実を希求しましょう。
3日本@名無史さん:2013/07/21(日) 17:00:05.16
九州だと思う
でも短里は無いと思う
4日本@名無史さん:2013/07/21(日) 17:15:17.38
邪馬台国と発しまするは、女王の都楼(台)を戴く、ケチ(邪馬)な国でござんす・・

どうせ倭人伝は、こんな寅さんノリで書いてるんだろな
九州のどこかにあった戸数七万の超大国、その御台はどこに??
5日本@名無史さん:2013/07/21(日) 18:36:16.56
1乙。

戸数は眉唾です。
何十万も人口居ませんから…
嘘と真実を見分けて謎を解きましょう!
6日本@名無史さん:2013/07/21(日) 18:37:46.51
>>833
>倭地でも、不弥国までは大陸との交流も多く東夷の里が使えた。
>しかしそれから先は、東夷の里ですらわからず、
>倭の日数を持ちいた。
じゃあ12000余里はどこから出てきた数字?
7日本@名無史さん:2013/07/21(日) 18:39:42.63
粘着さんが来たわ
8日本@名無史さん:2013/07/21(日) 19:52:18.83
>理由は何、根拠は何、出典は何、論証が求められる、具体例が求められる、

これはローガンの口癖だけど、>>6 の指摘で気づいた。

逆に言うとローガンは、他人の説であれ自分の論であれ、理由・根拠・出典さえしっかりしてれば即納得するということ。
例えば超一級の出典である倭人伝に「自郡至女王国万二千余里」とあるからには、
その根拠・背景なぞまるきり詮索する必要なしとの安直思考。

ある意味、他人を騙す前に、第一級の出典だから疑う余地なしと自分自身を騙し(無条件で納得させ、信じ込み)、
それから論戦に出発するわけだ。
ところがスタンス(根拠出典)がその時々でくるくる変わるだけでなく、
論戦に敗退すると責任を出典のせいにして涼しい顔をしてるので、世間には不信感だけが蓄積していく。。。
9日本@名無史さん:2013/07/21(日) 20:31:18.09
出典原理主義って古典的で凝り固まった思考だな
閉鎖的で外部との交流がまったくない環境で何十年も生きてきたんだろうな
里数を現代の地図から推定することさえ否定したのがその典型的な例
10日本@名無史さん:2013/07/21(日) 20:37:59.77
<熊本県>
世帯数・・・約70万世帯
人 口・・・約180万人

邪馬台国(7万戸)が熊本県あたりであったとすると、単純にいって平成の世帯数・人口のおよそ1/10程度
11日本@名無史さん:2013/07/21(日) 20:54:34.63
>>6

実際に行けば、ある程度は検討つくだろ
12ローガン:2013/07/21(日) 21:43:19.72
>>8
>>6 の指摘で気づいた。

なら、6に返信してあげたらどう?

>逆に言うとローガンは、他人の説であれ自分の論であれ、理由・根拠・出典さえしっかりしてれば即納得するということ。

勿論論証として認める。なけりゃ単なる空想だ。空想とは議論にならん。だから求めるんだが…

>例えば超一級の出典である倭人伝に

「超一級」とはどういう意味か?
私は使った覚えも無いし、勿論「超一級」なんて考えたこともない。
ゆえ「超一級」とは単なる君の思い入れ

>例えば超一級の出典である倭人伝にその根拠・背景なぞまるきり詮索する必要なしとの安直思考。

一度「史料批判」で検索してみなさい。
で君の思考の一助となった>>6に答えてあけだたらどう?
13日本@名無史さん:2013/07/21(日) 22:53:25.74
>>9
とはいえ当時の一里はおよそ430mで確定しているのだから、それと異なる「里」があったと主張するのであればそれ相応の根拠を求められるのは当然じゃないの?
存在が確認されていない物を「あった」と言い張る以上はさ
14日本@名無史さん:2013/07/21(日) 23:04:27.80
>>13
根拠とは現代の地図だよ
現代の地図で測ると430mなんて明らかに間違ってるんだから事実を受け入れるしかないでしょ
科学の進歩を否定して文献にそう書いてあるから正しいと信じるってローガンと同じくらい頭が固い
15日本@名無史さん:2013/07/21(日) 23:14:25.73
>>12
畿内説は、魏志倭人伝を否定しないと成立しない説だからな。
16日本@名無史さん:2013/07/21(日) 23:19:00.29
>>15
そうでもないんじゃん?
17日本@名無史さん:2013/07/21(日) 23:20:05.72
>>14
だからそれは普通は数字が間違っている(錯誤、誇張等)と判断するでしょ
頭が固い柔らかいの話じゃないよ
むしろ短里支持者の考えの方が安直過ぎるよ
18日本@名無史さん:2013/07/21(日) 23:21:21.06
>>13
>当時の一里はおよそ430mで確定しているのだから

9ではないが、それは皆が承知している。しかしだ、
そこで思考停止するということは魏志倭人伝を読み解くことをやめたと言うことに等しい。
對海國から一大國まで南渡一海千餘里と書いてあるのだが、
じゃぁこの「里」は何なんだと言うことだ。みんなそれを探っているんだろ。
根拠は魏志倭人伝そのものだ。

逆に聞きたい、一里およそ430mとすると對海國や一大國は一体どこのことなんだ?
これが答えられなければ、お前さんに批判する資格はない。
19日本@名無史さん:2013/07/21(日) 23:23:48.56
そもそも、彼の国で一里約430m基準とした方法ってなんなの?
20日本@名無史さん:2013/07/21(日) 23:24:57.26
>>17
数字が間違っているのならどう間違ってるか提示するべき。
21日本@名無史さん:2013/07/21(日) 23:31:28.08
>>19
基本は「分」ということかな。分を10倍したのが「寸」。
寸を10倍すると「尺」。尺を10倍して「丈」。
6尺が「一歩」。300歩が一里。
22日本@名無史さん:2013/07/21(日) 23:50:44.51
>>17
だから間違いでもなくデタラメでもなく創作でもないんだよ
里数には一定の基準がある
これを見ろよ

538 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:46:31.42
簡単な数学の問題
4つのサンプルから平均と標準偏差を出す

・帯方郡→狗邪韓国 7000里 670km (一里=96m弱)
・狗邪韓国→対馬国 1000里 92km (一里=92m弱)
・対馬国→壱岐国  1000里 98km (一里=98m弱)
・壱岐国→末廬国  1000里 51km (一里=51m弱)
 ↓
平均1里=84.25m、1里の標準偏差22.3
 ↓
68%の確率で1里=62m〜106mに収まる
95%の確率で1里=40m〜129mに収まる
23日本@名無史さん:2013/07/21(日) 23:52:39.95
>>18
>根拠は魏志倭人伝そのものだ。

それを根拠とは云わない
そういうことが理解できるようになってからおいで
24ローガン:2013/07/22(月) 00:00:48.32
>>22
670kmの求め方を書いてごらん。 その上でそれが実際の航行距離と合致するか考えてみなさい。
25日本@名無史さん:2013/07/22(月) 00:16:09.58
>>22
逆の言い方をしたほうがいいかもしれないな。
帯方郡から狗邪韓国まで七千里。一里を434mとすれば、3000kmあまり。
帯方郡はいったいどこにあったのか。
26日本@名無史さん:2013/07/22(月) 00:19:43.54
>>24

602 :日本@名無史さん:2013/06/30(日) 18:57:42.98
>>584
帯方郡→狗邪韓国
(京城・沙里院) (巨済島・金海) 7000余里 630-710km
距離の中間値(670km)  一里=96m弱
狗邪韓国→対馬国
(巨済島・金海) (佐護・厳原) 1000余里 64-120km
距離の中間値(92km) 一里=92m弱
対馬国→壱岐国
(佐護・厳原) (原ノ辻・勝本) 1000余里 53-138km
距離の中間値(98km) 一里=98m弱
壱岐国→末廬国
(原ノ辻・勝本) (呼子・唐津)  1000余里 33-68km
距離の中間値(51km) 一里=51m弱
算数が少しできれば、倭人伝記述の1里は360mではないことが明白。
27日本@名無史さん:2013/07/22(月) 00:35:56.48
>>26
> 630-710km
をどうやって求めたのか? を尋ねられているのがわからないようだ
28日本@名無史さん:2013/07/22(月) 00:49:08.60
>>27
現代の地図に当てはめるしかないだろ
29日本@名無史さん:2013/07/22(月) 00:54:09.66
簡単な数学の問題といいつつ 数字が理解できていない という笑い話www
30日本@名無史さん:2013/07/22(月) 01:03:31.80
>>29
いちゃもんか
他に方法があるなら書いてくれ
31日本@名無史さん:2013/07/22(月) 01:07:57.45
三國志の中にも公里と短里が混ざってるみたいね
何とか先生が比較出来る里数拾い上げて調べたんだと
で、陳寿は短里で書いたのではと

問題はそれが書いてあるソースを落とした…
32ローガン:2013/07/22(月) 01:38:17.86
>>28
海岸は一直線じゃない。そしてここの記述は循海岸水行だ。しかし
(京城・沙里院) (巨済島・金海) 7000余里 630-710km
は直線での数字だ。
出来るだけ短くしたいという意図の透けて見える、誰にも相手にされない数字だ。
33日本@名無史さん:2013/07/22(月) 01:54:29.20
>>32
狗邪韓国から対馬國まで千里。対馬國から一支国まで千里。一支国から末盧国まで千里。
もともとがこんなに大雑把なのに、そこだけ詳細な数字を求めることにあまり意味が
あるとも思えないが。
34日本@名無史さん:2013/07/22(月) 04:06:02.20
>>32

おかしいな、島嶼がたくさんある海岸を迂回して、
少し外海にでた航路で700キロくらいなんだが。

島嶼がたくさんある中を直線で突っ切ってる訳じゃなく、
少し長めに出るはずなんだけどね。
35日本@名無史さん:2013/07/22(月) 04:09:03.35
開始地点が、京城・沙里院、
終了地点が巨済島・金海で、

google earth のパス計測機能で辿ってみると690キロくらいだった。
島嶼部に入らずに、すこし外洋を遠回りした結果である。
36日本@名無史さん:2013/07/22(月) 06:16:46.99
↑ こういう現代の科学的方法を考えろよ。3世紀の記録を対象に根拠、根拠
と騒ぐ奴はパーカね。
37帯方太守満州:2013/07/22(月) 08:37:20.47
>>26
>帯方郡(京城・沙里院)

おめーも懲りねー奴だの。これが間違えーだと何度も言っとるだろが。
一度自分で調べてみれ、つーの。

ま、おめーのよーなパカは調べる方法も分らねーのだろうからよ、
山形明郷の本でも読んでみれや。
浜名寛祐は難しすぎるだろうからよ、おめーには無理だべ(カラカラ)

伊作などはよ、叱ってやったら出て来なくなったべ。
その後自分で帯方郡の位置を調べとるのかどーかは知らねーがな、
調べたらよ、帯方が京城や沙里院ではねーことが分かるのさ。
尤も、おめーのよーなパカでは分んねーかも知れねーがな(ガハハ)
38サガミハラハラ:2013/07/22(月) 08:55:32.42
>>35
690km7千余里だとすると、1里100mとなりますね。
行路が確定しているのは、対馬壱岐間ですから、その間100kmとなりますね。
そんなにないでしょ。
それとも100kmになるところを結ぶとか?
39伊都縣主満州:2013/07/22(月) 09:06:48.66
洛陽から遼東まではざっと2800里くらいなものである。
その遼東に玄菟郡や楽浪郡があったのだが、
玄菟は洛陽から四千里、楽浪は五千里と書いてある。
実際の約3/2倍に書かれているのである。

だからといって公里の2/3の短里があった、などと考える者はいない。
実際よりやや大きく見積もっているな、と思うだけである。

帯方〜狗邪韓国も同様で、実際には三千里ほどだが七千里と書かれている。
だからといって公里の3/7の短里があった、と考える者はいない。

同様に狗邪韓国〜末盧が実際の5〜6倍に書かれているからといって、
公里の1/5〜1/6の短里があったと考える者はいない。
実際の数倍に見積もっていたんだな、と思うだけである。

ところが九州人は公里の1/5〜1/6の短里があったと考えるのである。あゝ、哀れ(泣)
40日本@名無史さん:2013/07/22(月) 09:31:25.82
満州もローガンも良く似た思考回路をもってる。
漢文風に全部漢字で「短里」と書いて音読みさせると学術用語と認識し、あれこれ詮索した揚句に間違いだー、と詰問する。

しかし「倭人伝はみぢかい里(短い里)で書かれた・・」と平仮名交じりの訓読みにすると、
不思議なことに公里の1/5〜1/6の短里があったとは考えない。
実際の数倍に見積もっていたんだな、と思うだけである。
旧帝大出の一流学者になればなるほどその傾向をみせる。満州がその好例である。不思議な人種だ。
41日本@名無史さん:2013/07/22(月) 09:44:27.22
帯方郡から狗邪韓国まで行くのに南と東しか書かれてないんだから
海岸線べったりってことはないな
ある程度陸から離れた航路で南に行き、半島南端で東に進路をとった
海岸線べったりだったら北に行くことも西へ行くこともあるのだから
42日本@名無史さん:2013/07/22(月) 09:54:52.51
さよう、倭人伝の里程は、古代人のおおらかさでザックリ・ザックリ書いてある。
重箱の隅をつついて微塵の差異を得意気に自慢する現代人とは、そもそも肝っ玉の大きさがちゃうわ。
43サガミハラハラ:2013/07/22(月) 11:45:39.65
いいかい、中国の度量衡は時代によって異なるのですよ。
さらに大昔は地方によっても異なるのです。
魏志倭人伝の行路記事も、いつの時代に計測記録されたのかを考えなければなりません。
魏の公里であわないと考えられるならば、ほかの時代や地域でと考える必要があるのです。
それで私は、多方面から考察した結果、これは、周尺(周の時代につかわれた尺度)で1里67.5mであるとの結果に達したわけです。
44ザックリ満州:2013/07/22(月) 11:52:42.90
>>40
何が言いてーだか、さっぱり分らんばい。
おらとローガンの思考回路が似ているんでは無ーて、
普通の人ならそう思う、つーことだど。

>>42のように、ザックリ書いたから5〜6倍になっただけだど。
短里つーもんがあったわけではねーど。
45日本@名無史さん:2013/07/22(月) 12:22:35.34
>>43
これは有り得るな
46日本@名無史さん:2013/07/22(月) 12:23:07.48
コテの中で誰を信用しようかというとやっぱりサガミさんだな

本を出版してるサガミ > ブログやってる満州 > 何もなってないローガン
47日本@名無史さん:2013/07/22(月) 12:29:19.47
>>44
>(魏の度量衡制度に)短里つーもんがあったわけではねーど。

このような論調で噛みつくところが、ローガン老教授と瓜二つの漢字漢民族優越思考なのだ。
「短里」は古〜い九州説の大学者ご用達の造語、そんなことわかっとるわ。

>>43 のサガミハラハラ先生によれば、
(魏制による「短里」ではないが、)「短い里」として周尺の1里67.5mを利用したのではないかと。
確かに納得させられる御説ではある。
48日本@名無史さん:2013/07/22(月) 12:53:41.42
周尺で一里67.5mだなんて聞いたこと無い
周代の一里は約540mだろ
自説に都合のよい未確認情報をさも既定事実の様に吹聴するのは良くない
49ザックリ満州:2013/07/22(月) 12:57:31.36
高麗史地理志にこういう記述がある。

凡往耽羅者發羅州則歷務安大堀浦靈岩火無只瓦島海南於蘭梁凡七晝夜至楸子島
發海南則從三寸浦歷巨要梁三內島
發耽津則從軍營浦歷高子黃伊露瑟島三內島皆三晝夜至楸子島.

耽羅は済州島、楸子島は済州島の北にある島である。
半島南端から楸子島に至るのに三晝夜かかると書いてある。
そうすると済州島に至るには一週間か十日かかってしまうことになる。
船で一週間か十日もかかるなら千里くらいはあると思ってしまう。

これが対馬まで千里と書かれた理由である。
半島から済州島までと、対馬まではほぼ同じような距離である。

短里とか周代の里で書かれたわけではないのだ。
50日本@名無史さん:2013/07/22(月) 13:00:25.33
予想が外れて、今年の夏はあまり暑くならないとかで、
コメの不作が心配され始めているようだが、

それはどこの話じゃ。
佐賀、久留米は相変わらず殺人的に暑いぞ。

少々の冷夏は、九州では減収ダメージにならない。
むしろ限度を超えた猛暑のほうが、収穫が減る。
51日本@名無史さん:2013/07/22(月) 13:17:42.44
こういうのもあるな
1里=76.5m
http://www.mctv.ne.jp/~kawai/old/log/note2012/20121130.html
52ローガン:2013/07/22(月) 15:46:59.51
>>41
>ある程度陸から離れた航路で南に行き、半島南端で東に進路をとった海岸線べったりだったら北に行くことも西へ行くこともあるのだから

貴説に従い、沙里院の西側入江から、「海岸線に沿わず半島南端に向け南へ出航する」ためには、
まず100kmほど西へ航行しないと、龍淵郡を通過出来ない。
また、途中寄港するなら100km以上、東へ航行しなきゃならんがそれぞれの距離を加算してあるのか?
海岸線沿いの航行なら、そんな馬鹿げた事を考える必要は無いが、直線距離よりはだいぶ伸びる。

まあ、それ以前に
n=4
μ=84
SE=55
に規則性を見るのは無理
53日本@名無史さん:2013/07/22(月) 16:06:52.76
>>52
>>41 の出発点は沙里院?? 
54ザックリ満州:2013/07/22(月) 16:58:32.34
>>51
どこの馬鹿が書いたのか知らないが、論理が無茶苦茶である。

まず、一歩を一歩としているが、表を見てもどの時代も二歩を一歩としている。
さらに、「三百歩を里と為す」周制を認めていながら勝手に百歩を一里としている。
また、6を聖数としたのは秦王朝だというが根拠の提示がない。
また、6尺に根拠がなく、三百歩にも意味がないというが、根拠と意味を知らないだけである。
昔の度量衡が60進法とか12進法を採用していたという歴然たる事実を無視している。
10進法は近代になって人為的に採用されたものなのである。
百歩を一里とするというこの男の勝手な言い草は近代人の発想である。

要するに古田信者の馬鹿である。
55日本@名無史さん:2013/07/22(月) 17:12:06.50
どっとはらい
56日本@名無史さん:2013/07/22(月) 17:12:20.21
>>52

>>26のデータを元に計算すると、
n=4
σ=25.97
se=12.9 になったよ。
57ローガン:2013/07/22(月) 18:08:05.75
ごめんなさい。22.3÷2 でした。お詫びの上訂正します。
58ローガン:2013/07/22(月) 18:36:05.27
なお、>>57の数字22.3は>>22に基づいたものです。

>>54
>要するに古田信者の馬鹿である。

その古田氏が短里の根拠とする周髀算経に
「即平地徑二十一歩,周六十三歩。令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」とある。
径21歩 周63歩の地を平らにし、水正をもって平をはかり 即ち径121尺7寸5分を位す
アバウトに平らにした直径21歩の円の中に 直径121.75尺の水平な円があるわけだ。
1歩が6尺を下回る事は無い。もし、周髀算経を短里の根拠と考えるなら、短尺を主張する以外にないだろう。
59ザック満州:2013/07/22(月) 19:17:18.62
>>58
意味がイマイチ不明だが、21歩=121.75尺ということか?
すると一歩≒5.8尺ということになるが、なぜそれが短里の根拠になるのか?

中国の度量衡というサイトによると1尺=19.9cm、1歩=6尺=119.4cm とあるから、
短里があるなら60歩=1里という体系がなければならないのである。
しかし「三百歩を里と為す」という資料があるそうだから、60歩=1里という体系はない。
要するに短里というのは空想なわけである。
60日本@名無史さん:2013/07/22(月) 19:50:36.57
>>58

術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一歩,周六十三歩。令其平矩以水正,
則位徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,
以應周天三百六十五度、四分度之一。審定分之,無令有纖微。分度以定,
則正督經緯。而四分之一,合各九十一度十六分度之五。於是圓定而正。
則立表正南北之中央,以繩?顛,希望牽牛中央星之中。則復望須女之星先至者。
如復以表繩希望須女先至,定中。即以一游儀希望牽牛中央星,出中正表西幾何度。
各如游儀所至之尺,為度數。游在於八尺之上,故知牽牛八度。其次星放此,以盡二十八宿度,則之矣。


訳し方がわからんのでなんともいえないが、九章算術も周髀算経も、
「意地でも」、と言っていいくらい、歩里単位系と尺寸単位系を混ぜないんだよね。

ここでも、二十一歩と六十三歩、
一百二十一尺七寸五分、三百六十五尺、四分尺之一,

こんなかんじで別に書いている。
九章算術では八歩四分三みたいに、意地でも尺で書こうとしない。
それで一度、そっちの方面からの解析を諦めたことがある。

この2つの関係は、ローガンの言った通りの訳でいいのか、
古代中国語が翻訳できないのでわからない。
61日本@名無史さん:2013/07/22(月) 19:51:12.24
対馬 四百里四方

壱岐 三百里四方
62日本@名無史さん:2013/07/22(月) 19:51:41.75
倭国が周代の里を使ってたってのは、太伯の後ってのとも整合性があるな
ところで倭をワって読むのは絶対なの?
倭にはシって読み方もあるわけだが
倭国=シコク=後の四国説も捨てがたい
63日本@名無史さん:2013/07/22(月) 20:49:50.20
倭人伝の距離表記は実距離と大きくかけ離れている→間違っているのは一里当たりの距離だ
根拠は?→倭人伝が根拠だ

短里信者は倭人伝原理主義なんだよね
64日本@名無史さん:2013/07/22(月) 20:53:48.91
>>23
根拠だろ。
魏志倭人伝では430mとは違う「里」を使っているのだから。
数字が間違っていると言うのならどう間違ってるか提示するべきと言ってるだろ。
この点はお前さんより満州の方がまだましだ。
数字の間違いに関してだが6、7割ならまだしも2割なんてザックリしすぎだろ。
いくら大雑把とはいえ公文書に使う記録でここまで数字を盛るというのはありなのか?
ここまで数字を変えるのなら時間を使った方がよかったんじゃないか?
実際使ってる箇所もあるし、「里」を使う必然性がないだろ。
65日本@名無史さん:2013/07/22(月) 20:55:10.71
>>63
根拠は倭人伝だと? またまた錯覚しとるなw
6664:2013/07/22(月) 20:59:04.18
前に、記録者の主観で距離はかなり狂ってると書いたことがあるし
対馬→壹岐=1000里をだいたいの基準にしてるから
正直、短里だろうが数字の間違いだろうがどうでもいいが
批判のための批判しかしないレスにはイラッとくる。
67ローガン:2013/07/22(月) 21:04:44.72
まあ、短里なんて主張するより、
破賊文書,舊以一為十
(勿論、倭が賊だと言うわけではないが…)「大袈裟に記録する場合があった」とまでは言えると思う。


魏最後の皇帝である明帝。 徳を慕って大海中の倭から朝献。
返使を派遣した所、なんと、そこは萬里の彼方の地だった。帝の徳とは遥か萬里を超えるものだ。
と明帝時の魏老中が私撰の書に距離を大袈裟に記述した。
…ってどう?
68婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/22(月) 21:08:15.80
>>49
船の進む距離ってのは、船が水に対して進んだベクトルと
海流のベクトルとの合成ベクトルの長さだもんな。

前スレで古代船の平均速度が2ノットと紹介されていたが、
海峡の再隘部の流速は3〜5ノット。島を目指して漕いでいる
つもりでも、あれよあれよという間に下流に流されてしまう。
だからまず、流速の緩いところで思いっきり上流(西)に移動しておいて、
おもむろに南下するとかしなければ、目的地に着かないのだな。

>>41とか>>52とか
沿岸航海については、帆走ならある程度陸から距離をとるのも利があるけど、
漕走の場合は基本的に海岸線と平行だと思う。もちろんちょっとした岬や入り江の
場合は大回りにパスすることはあるだろうけど、島嶼部は積極的に利用して
波を避けると思う。波があるのとないのとでは漕ぐ疲労が格段に違うから、
距離を犠牲にしても波を避けたい。
69日本@名無史さん:2013/07/22(月) 21:08:54.14
>>58 が事実なら、6尺1歩が崩れたことになる。
数学書だから誤差という言い訳は通じない。
実測値ではないからだ。

尺という単位と歩と言う単位が別にあって、
たまたまある時代に六尺と一歩が近かったというだけになる。
六尺一歩という法は、少なくとも当時は存在しなかったと言うことだろう。
70日本@名無史さん:2013/07/22(月) 21:23:13.57
>>67
可能性ないこともないな。
71日本@名無史さん:2013/07/22(月) 21:24:20.83
一里=約80mで計算すると実距離と合うから倭人伝の距離表記は正しい

一里=80mの根拠は一里=80mで計算すると実距離と合うからである


こういう理屈に違和感を覚えないのが短里信者
72日本@名無史さん:2013/07/22(月) 21:31:16.50
伊都国ー奴国間が100里=7キロ弱なら、候補地はどことどこになるんよ?
73日本@名無史さん:2013/07/22(月) 21:31:48.76
短里は伊都国を佐賀にもっていくにも実は都合がいい
桃太郎のきびだんごのようなアイテム
74日本@名無史さん:2013/07/22(月) 21:35:00.72
>>72
小城市−佐賀市、あるいは佐賀市−神埼市
75日本@名無史さん:2013/07/22(月) 21:39:37.18
>>71
>一里=80mの根拠は一里=80mで計算すると実距離と合うからである

こういう現代的合理性に嫉妬を覚えるのが畿内説信者
76日本@名無史さん:2013/07/22(月) 21:43:04.74
どっちにしろ九州南部説は安泰w
77日本@名無史さん:2013/07/22(月) 21:58:27.58
>>75
君の思考が論理的でない事はよくわかった
78ローガン:2013/07/22(月) 22:04:17.51
>>69
>>58 が事実なら、6尺1歩が崩れたことになる。

なんで?
「アバウトに平らにした直径21歩の円の【中に】 直径121.75尺の水平な円があるわけだ。」
なんだけど。なお【 】は、わかりやすいようにこのレスで加えた。
79日本@名無史さん:2013/07/22(月) 22:07:46.91
>>77
お前さん、魏志倭人伝なんかどうでもいいんだろ。
対馬→壹岐=1000里の意味を考えようともしないのだから。
それとも考えたくない?w
80日本@名無史さん:2013/07/22(月) 22:08:19.26
畿内説スレが無いのは論理的でないからw
81日本@名無史さん:2013/07/22(月) 22:16:57.95
>>71
というか、それが帰納的アプローチなんじゃね
複数の共通する結果から未知の法則を発見する方法
物理学などでは典型的な方法
82日本@名無史さん:2013/07/22(月) 22:17:29.24
結局、ローガンは一里を何mと思っているのだろう。
その一里で、どのように、邪馬台国までの里程を考えようとしているのだろう。
83日本@名無史さん:2013/07/22(月) 22:30:05.95
>>78

【中に】、この表現の文字はどれが該当するの?
84日本@名無史さん:2013/07/22(月) 22:37:54.38
>>79
どうしてそういう発想になるのか分からん
実距離とかけ離れた「千里」の表記から導き出されるのは「倭人伝の数字の信用性は低い」という結論だろ
君らは金科玉条の如く倭人伝の数字に拘り過ぎてるんだよ
85ローガン:2013/07/22(月) 22:49:58.31
>>83
a平地とb其平矩以水正の記述から。
言えることは、bの円はaを超えない だけ。a=bを主張するなら別の論拠が必要。
86日本@名無史さん:2013/07/22(月) 22:52:49.79
>>84
> 実距離とかけ離れた「千里」の表記から導き出されるのは「倭人伝の数字の信用性は低い」という結論だろ

横槍だが…
んじゃ里の度に拘る必要もないじゃない。
アバウトに測られて、アバウトに書かれたモンだろ?
俺もそう思うよ。
だから現在の地図と比較して、一里≒80mが
妥当って結論を出してる訳だ。

公里とか短里とかじゃないの、『倭人伝里』なの。
87日本@名無史さん:2013/07/22(月) 22:56:30.78
周代の特別な度量衡とかもったいつけたことを言い出すと
どんどん袋小路に入っていくのは確か
88日本@名無史さん:2013/07/22(月) 22:57:49.35
現状では東夷の文献ってないからなあ
89日本@名無史さん:2013/07/22(月) 23:02:20.49
江戸時代の(出版は明治)道中記でも対馬ー壱岐、壱岐ー唐津間は実際の距離の
4倍近くに書かれているが
この当時に海上だけ短里が用いられていたというやつはいないだろう
これは海上の距離は近世になっても求めにくかったことと
所要時間を距離に換算して考えていたことがいえるのではないか
90日本@名無史さん:2013/07/22(月) 23:03:14.45
邪馬台国論争界隈以外で短里なんて聞いたこと無いよね
91日本@名無史さん:2013/07/22(月) 23:11:32.20
>>84
あいかわらず本末転倒・錯覚しとる。これだからな文系人間は。

いうまでもなく倭人伝に書いてあるから対馬と壱岐が生まれてきたのではない。
先に倭の国土という実態あってこその倭人伝の里(短い里)であり、
例えば海を隔てて存在する対馬〜壱岐の実距離を千余里と記述したにすぎないのだ。
92日本@名無史さん:2013/07/22(月) 23:17:15.65
辻褄の合いそうな数字を算出したら1里70〜80だったと
どうにも無理矢理感が拭えない
93日本@名無史さん:2013/07/22(月) 23:19:24.61
>>89
海里ではないの
幕末だと入ってるでしょ
94日本@名無史さん:2013/07/22(月) 23:21:56.83
>>93
いや、そういう書き方はしてない
95日本@名無史さん:2013/07/22(月) 23:23:19.75
そもそもカッコ良く、千里−千里−千里、と書いてるわけだ、ただそれだけ。
それをグダグダ詮索するのは野暮、ダサイ。
96日本@名無史さん:2013/07/22(月) 23:27:08.31
見知らぬ土地で、Aさんの感覚で距離を測って地図を作って貰った。
地図には地点間の距離もちゃんと記載しておく。
Bさんに地図を渡す。
Bさんには車のオドメーターで距離を確認しながら回って貰う。

当然誤差は出る。

5kmと書かれてた地点は3kmしかなく、かと思えば
1km長かったり、はたまた丁度に良かったり…
平均すると、Aさんの1kmの感覚は600m程だった。

Aさんの地図を実際の地図と見比べる時は、1kmを
600mで計算すると、すんなりその土地を回れそうだ。



おわり。
97日本@名無史さん:2013/07/23(火) 00:00:15.26
短里の発生原因が解らないな
6町だっけかを1里と定めていて、その元になる尺が時代によって変化したため、十数%の違いが生じただけだろ
尺は人間の尺骨の長さから来た単位だから、そう変わること自体がおかしい
日本の里は後に半時に人が歩ける距離をもって1里とするという慣習が行われて、江戸時代にそれを公里と定めたから≒3.9qになったと言う
倭人伝で邪馬台国を語るときだけ短里を使ったなら、それは何処で作られた単位なのだ
98ローガン:2013/07/23(火) 00:34:02.24
>>91
>先に倭の国土という実態あってこその倭人伝の里(短い里)であり、例えば海を隔てて存在する対馬〜壱岐の実距離を千余里と記述したにすぎないのだ。

そう。ただ「記述したにすぎない」んだ。
「短い里1里≒80m」とやらが、別史料から得られる「真の前提」なら、
「記述したにすぎない」倭人伝の里が、当時使われた短い里であるという論証は可能なんだがね。
99日本@名無史さん:2013/07/23(火) 03:19:19.56
「里」というのは陸行にも使われている。
末盧国から伊都国まで五百里など。
一里を434mとすれば、五百里は217km程度になる。

唐津市を中心に200kmの円を描くと、九州の場合は鹿児島市がその距離になる。

その後の奴国まで百里などを考えると、やはり魏の時代の一里=434mでは
計算が合わない。短里主義者ではないが、一里は50〜100m程度と
考えたほうがつじつまが合う。
100婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/23(火) 06:49:27.50
>>96
この場合、Aさんは徒歩で地図を作ったんだから、Bさんが車で確認しちゃダメだろうと。

俺の興味は、「実用上、Aさんの距離をBさんの距離に換算する係数を得る」ことじゃなくて、
Aさんの距離とBさんの距離との差のでき方を知ることにある。
そうしなくちゃ、換算係数が定数なのかどうかもわからない。
実際のところ、大陸と朝鮮半島で係数が違うんだよね。

>>99
可能な限り橋を架けトンネルを掘って線形を良くした現代の道路だって、
直線距離=実距離にはならんぞ。たとえば国道3号線の場合、その比は
1,6倍くらいになる。この値はけっこう国道や高速クラスではけっこう普遍的で、
障害物を円弧で避けながら進む場合の迂回距離(π/2)に一致する。
もっと小さい道では国道の路線を直線とみなした距離に対してこの係数がかかるから、
普遍化すると  実距離=直線距離×(π/2)^A となる。
このAが、地形とスケールのパラメタなのだ。
101日本@名無史さん:2013/07/23(火) 08:20:14.75
>>100
Bさんと言うか、車のオドメーターと言う計測器だね。
102日本@名無史さん:2013/07/23(火) 08:56:38.05
>>100
釜山−対馬−壱岐−唐津は千余里−千余里−千余里、それぞれ余を付けて書いてるところから見て、
定数などと言うようなものは最初から期待薄。
編集に苦しんだ陳寿の心のうちを察してやれ。
さらにその後の伊都国・奴国・不弥国に至っては、現状では肝心の比定地さえ混沌としてる。
そのようなところに定数なぞ持ち出すのは誰ぞ学者の功名心というものよ。なあ、ばあさんや。
103ザック満州:2013/07/23(火) 09:02:27.90
何度も言うが、5〜6倍で書かれているのは狗邪韓国〜末盧国間だけなのである。

末盧国〜伊都国も5〜6倍で書かれているように見えるが、
チミらが偽書だと言っている某書では伊都国は日向国とも言うと書かれている。
唐津から公里で東南五百里はドンピシャで日向国である。

だから5〜6倍で書かれているのは狗邪韓国〜末盧国間だけである。

>>49で書いたように、高麗史が書かれた頃でさえ、
済州島まで一週間か十日かかると思われていたようであり、
対馬までもおそらく一週間か十日かかると思われていたのである。
だから千里と書かれた。それだけのことである。

福州海中有彭湖島 相去三千里 自福州順風而往 不半日至也(玉堂薈記)

台湾の彭湖島までが三千里と書かれている。福州〜台湾は釜山〜唐津と同距離である。
玉堂薈記が書かれた頃でも実際の数倍に書かれている。
短里で書かれたのではなく、海上航行で距離勘が狂ったというだけの話である。
104日本@名無史さん:2013/07/23(火) 09:17:50.65
>>103
満州が「伊都国は日向」を繰り返したおかげで、
あいつまで倭人伝の日向国を口にするのなら、もしかして邪馬台国は南九州となり、
新九州説は注目をあつめるようになった。
皮肉なものよのう。
105日本@名無史さん:2013/07/23(火) 09:39:57.77
各海峡を渡航する時間は1日(日の出〜日没迄)で行けるだろうか?
個人的には1日で渡り切らないとダメだと思ってる。
エンジン・ナビ付なら別だけど。
夜間航行は何処に向かってるか解らんだろうし、潮に流される。
それとも錨を降ろして停泊したのか?
やはり、目視で陸を確認出来る日中に移動し終えた方が安全だ。

となると日照時間が長い夏場になるだろうし、末盧國での
風情(海に潜って漁とか)の下りにも繋がる。
何を言いたいかと言うと、やはり1日の移動距離で里数を算出してるのではと。
海上なら千里、陸上なら百里…ここに度数からの距離換算を
用いるのは無駄な気がする。
106日本@名無史さん:2013/07/23(火) 09:56:11.18
でも帯方郡から狗邪韓国って七日で行けるのかな?
107日本@名無史さん:2013/07/23(火) 10:05:21.75
>>106
潮の流れとかで可能なのでは?
そこまで調べてないけど。
108日本@名無史さん:2013/07/23(火) 10:08:20.00
当時はどんな船だったんだろう?
手漕ぎの船なのか帆船なのか?
109日本@名無史さん:2013/07/23(火) 10:30:01.03
>>108
主動力手漕ぎの、副動力帆じゃなかったかな?

http://www3.pa.hrr.mlit.go.jp/nihonkaikankyo/shizen/kairyu/images/kairyu_03.gif

帯方から狗邪韓国までなら、沿岸航行で潮に乗るね。
沖合なら逆流になる。
110日本@名無史さん:2013/07/23(火) 10:48:31.71
>>105-108
すでにこのスレで詳しい解説もあったとおり、
釜山〜唐津の渡海には潮の満ち引き(で生ずる離岸流)を利用するのだそうだ。
通常は各島間を1日ずつ都合3日、季節と潮の具合によっては壱岐→釜山は1日で行けたらしい。
もちろん港を出て潮に乗るまでは手漕ぎ、潮に乗ってからは風次第で帆も利用できたという。

基本的に潮の力なので、ここは1日単位と言うことになるであろう。
111日本@名無史さん:2013/07/23(火) 11:29:45.14
>>103
>高麗史が書かれた頃でさえ、済州島まで一週間か十日かかると思われていたようであり、

>>109 の海流の地図にみるとおり、
済州島付近は常時南からの強い海流に洗われている。
よって帰りは難なく渡海できるが、問題は海流に逆らう行きであろう。
場合によっては、いったん朝鮮半島沖合の本海流を漕ぎ渡り、反転流に乗って中国大陸近くをかすめ、
大回りして南から済州島へ近づく航路をとったのかもしれない、これなら7〜10日かかっても不思議ではない。
112日本@名無史さん:2013/07/23(火) 12:30:37.76
・帯方郡→狗邪韓国 七千里(7日)
・狗邪韓国→対馬 千余里(約1日)
・対馬→壱岐 千余里(約1日)
・壱岐→末盧國 千里 (1日)

◆合計1万里(水行10日)
◆邪馬台国は水行10日陸行一月

水行部分を郡からの移動時間だとすると、放射式や連立式での
倭国内水行部分は削除され、行程基点は郡からとなるな。
陸行基点は末盧國、現在有力比定地の唐津から陸行一月の場所。
113ローガン:2013/07/23(火) 13:07:31.07
>>112
辿り着いた結論が、伊作説ということか…
で、投馬国までは、九州上陸から水行10000里という訳だ。
114日本@名無史さん:2013/07/23(火) 13:21:14.24
>>113
そこですぐ水行距離に換算したがるからな・・・、長老ともなればそう急ぐでない。
とりあえず水行距離はわからぬが、およそ10日かかるで吉。
115日本@名無史さん:2013/07/23(火) 13:21:21.08
>>113
あらそうなの?伊作先生知らんから。

投馬國迄はそうなるかな、それが西側廻りか東側廻りか知らんけど。
女王國まで万二千里で、残り陸行一月を二千里とすると、
1日に≒70里となるね。それをkm換算する気はないけど。
ちなみに日=百里としたならば、三割削られる地形を進んだのかな?
大陸なら20日で行ける距離を、30日掛かってる訳だから。
116日本@名無史さん:2013/07/23(火) 13:29:34.63
>ちなみに日=百里としたならば、三割削られる地形を進んだのかな?
   ↓
(こっちの表現をお勧めする)
ちなみに日=百里としたならば、三割増しになる地形を進んだのかな?
117日本@名無史さん:2013/07/23(火) 13:31:56.61
>>115
自己レス。

いや、それだと『万三千里だろ』となるな…
ニュアンス的には二千里を一月掛かる距離ってなるのか?
各国々に寄った時間も足されてるのか?
やはり邪馬台国より先に、手前の国々の比定と
行程矛盾を解き明かすが先だな。
118日本@名無史さん:2013/07/23(火) 13:36:46.68
>>116
あ、そうっすね、どうもです。
119日本@名無史さん:2013/07/23(火) 13:41:42.77
>>117
倭人伝は中国人が書いたのだ。

「大陸とちがって、倭国の旅は山坂道や大小河川で時間を喰うからなあ」と、彼の地の雰囲気をにじませたところが陳寿のうまさ。
120日本@名無史さん:2013/07/23(火) 15:15:40.12
さて、末盧國から東南に五日(五百里)で伊都國。
邪馬台国まで残り25日、旧説の糸島なのか?新説の佐賀平野か?
糸島なら方角矛盾と行程矛盾(直接水行)をどう解くか?
121ザック満州:2013/07/23(火) 16:52:23.23
>>111
実際は楸子島までは一日で行けたと思われる。
済州島までも一日で行けただろう。
彭湖島までも順風なら半日足らずで行けると書いてある。

ところがそれが千里と書いてある。
書いたのは学者文人で、実情を知らないのだろう。あるいは、
昔から千里と言われている、あるいはそう書かれている文献があるから、
そのまま千里と書いたのだと思われる。
122ザック満州:2013/07/23(火) 17:03:00.78
讀史方輿紀要
釜山《志》云:在朝鮮東萊縣南二十一里,西北去王京千四百里,
濱大海,與日本對馬島相望,揚帆半日可至。

釜山から対馬まで揚帆半日可至と書いてある。

明史
蓋登、萊度金州六七百里,至旅順口僅五百餘裡,順風揚帆一二日可至。

山東半島から遼東半島まで順風揚帆一二日可至と書いてある。
123満州の舞妓はん:2013/07/23(火) 17:40:10.49
こんなんもありますえ〜。

瀛寰志略/亞細亞東洋二國 作者:徐繼畬1795年—1873年
元王ツ《泛海小錄》云:「由對馬島六百里,逾一岐島。又四百里,入容浦口。…

対馬から壱岐まで六百里、壱岐から容浦口まで四百里どすえ〜。
倭人伝の半分くらいの里数で書かれておますえ〜。
容浦口てどこか、うち、知りまへんえ〜。
124日本@名無史さん:2013/07/23(火) 19:01:31.63
帆船ですからねぇ
125日本@名無史さん:2013/07/23(火) 19:37:13.45
帆船だと、水中翼や、それに近い働きをするキールがないと、
風下に進むしか無いが、どこまで進んでたもんだか。
126ローガン:2013/07/23(火) 20:28:39.71
●大秦國一號犂[革干]、在安息・條支西大海之西、從安息界安谷城乘船、直截海西、遇風利二月到、風遲或一歳、無風或三歳。

●澤散王屬大秦、其治在海中央、北至驢分、水行半歳、風疾時一月到、最與安息安谷城相近、西南詣大秦都不知里數。

いずれも魏略西戎伝。
皆さんが言うように、水行日数の合計が区間距離(=里)を示すなら、
上記のように、状況により日数に極端な差が生じることもあり、
日数から得られる里数を、地図上の距離と照らし合わせ、その里の長さを決める
というのは、手法として誤りである と判断出来る訳だ。
127日本@名無史さん:2013/07/23(火) 20:47:36.60
>>126
> 日数から得られる里数を、地図上の距離と照らし合わせ、その里の長さを決める

いやもう里の長さは決めません、求められませんので。
数式・数字には出来ないって意味です。
ざっくり1日で百里、2000里を30日の行程地形の切り口から考えて行きます。

ちなみに水行行程が消えた事で、畿内説も消滅ですね。
128ローガン:2013/07/23(火) 21:06:50.62
>>127
>ちなみに水行行程が消えた事で、畿内説も消滅ですね。

あなたの思考の変化が、通説に影響を与えるとは思えないが…
まあ、結構でした。
129日本@名無史さん:2013/07/23(火) 21:10:13.32
1日で○○里という事にしていたのなら水行十日や陸行一月も里数で表記したんじゃないの?
130日本@名無史さん:2013/07/23(火) 21:11:54.03
>>129
え?万二千里じゃダメなの?
131日本@名無史さん:2013/07/23(火) 21:24:15.01
>>130
それだと水行1日は何里になるの?陸行一月は?
132日本@名無史さん:2013/07/23(火) 21:35:42.89
水行1日で千里表記となるなら水行は計30日だから三万里表記になるね
万二千里どころじゃない
133日本@名無史さん:2013/07/23(火) 21:51:34.71
天候や風や海流の状況や船の形状にによって日数が余計にかかるなら
そういう特殊事情を除外して考えればいいんじゃない
最短で行ける日数がわかればそこから距離は推定できるんだから
松木安太郎がいつも言ってるようにあきらめちゃいかん
134婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/23(火) 21:53:05.43
うわ、なんかスレが進んでる。

>>102>>119
陳寿(あるいはそのもとになる資料をまとめた役人)のうまさと言えるかも知れんけど、
結局は情報の欠落だと思う。実際に歩いた人は「この地形では1日百里は無理だよなあ」と
思っていても、辺境の地理誌のフォーマットが「里程=日数×百里」だったわけだよな。

さておき、>>102が「定数」と書いてるけど、定数は1次近似なわけで、いわゆる短里説と
変わらん。俺は定数じゃなくて、地形の関数じゃなかろうかと言っているのだ。
135日本@名無史さん:2013/07/23(火) 21:54:29.28
本当にパズルしかやることないんだな、ここの連中…
九州説もマジで終わったな。
136日本@名無史さん:2013/07/23(火) 21:55:36.80
>>131>>132

>>105ぐらいから読み直せば理解されるかと…
陸行2000里(20日行程)を30日なら、50%増しだね。
あくまで場合で変化するんで平均値でしょうが。
それより、方角の正確性の検証が大変なんだよなぁ…
137婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/23(火) 21:59:31.50
>>109, 110
弥生末に帆船があったという史料はあるのん?

>>122,>>123
そのへんは全て帆船だよね。
138日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:11:45.58
>>137
ばあさんや、レッドクリフは見たんかいな
河川・湖水用の船ではあるが、どでかい船にどでかい帆をあげてよ、
三国志の時代にあれだけの大技術をもっていたのだ、帯方郡の船もさぞでかかったことじゃろて
139109:2013/07/23(火) 22:14:21.44
>>137
手漕船(+潮流)で考えてますよ。
調べたら、予備動力と成る位の帆はあったみたい。
あくまで補助的な役割の。
140日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:18:51.67
>>136
読み直したけど、理屈に合わないよね
水行十日陸行一月は郡からの日数と言い出すし
陸行1日百里と言いながら陸行一月は2000里だと言うし
水行二十日は無視してるし
141日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:20:52.94
>>138
映画ですんで脚色が(苦笑)
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse053.html
142婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/23(火) 22:25:23.08
>>138,>>139
言われてみれば、手漕ぎで長江を溯るのは骨かも知れん。
でも、銅鐸の文様とか古墳の内装とかに帆船が見られることはないような
気がするし、>>125の疑問のように、海上でどこまで役にたつか疑問な気がする。

三国志(演義の方)の記述に、昼夜で方向が変わるとあることを考えると、
長江下流域では海陸風を利用していたと考えるのが妥当かも。
これなら追い風の利用のみだよね。

ちなみに日本の上古の川の遡行は、川岸からロープで引いたらしい。
奈良時代の大和川とかもそうだよね。
143日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:25:32.68
九州説否定したいのは朝鮮人とか左巻きだろ?
144日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:29:48.34
>>140
>陸行1日百里と言いながら陸行一月は2000里だと言うし

四角四面、融通の利かない一方通行の読み方だなあ
「陸行1月は2000里」ではなく、「末蘆国からの2000里には一月かかる」だ。
あくまで特定区間の陸行に要する日数であり、別の区間では違う所要日数になる可能性を含む書き方だな。
145あぼーん:あぼーん
あぼーん
146日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:39:29.13
>>144
だからそもそも水行十日陸行一月を郡からの日数としている事に疑問があるわけ
万二千里に合うように無理矢理数字を合わせている様にしか見えないのよ
それに水行二十日はどうなるの?
147婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/23(火) 22:40:58.36
>>141
おりょ、帆船ないやんw
148日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:41:08.50
帆船は中国には古くからあったが外洋では人力のほうが効率がよかったと思われる
弥生末の倭船には帆はなかったか、あっても飾り程度だったろう
149日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:43:49.86
>>142
ばあさんや、倭人伝は当時中国の都の洛陽に住む高官の手になる中国史書ですよ。
弥生時代や銅鐸がどうとか、大和の古墳の内装がこうとか、
そんなこと洛陽の人が参考にしたわけはない。
議論の基本として、中国人の立場になって読んでいただきたいものです。
150日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:49:17.97
>>146
まあ、あわてなさんな。ゆっくりとなぞ解きをしていきましょうぞ。

>>147
ばあさんも気が早いなあ、帆船のことは文章でかいてあるだろ。
>三国時代には外洋へ出るための大型海洋船にまでなった。
>孫権が東南アジアに使者を使わせたときの船は、7枚の帆を張り600人から700人の乗員を乗せていた。
151日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:49:51.98
中国の里と日数を1/6した短里短日説なら、
倭人伝の全ての記録において矛盾なく一致する。

もっとも、短里と同じで、
「なぜ1/6なのか」はわからない。
152日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:50:33.57
ところで現代中国人から見た邪馬台国問題ということで
中国社会科学院・日本研究所の高洪氏の論文を貼り付け

http://ijs.cass.cn/japanese/uploadfile/2010/0119/20100119052833879.pdf
153婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/23(火) 22:50:41.28
>>146
水行は渡海でも内水面の舟行でもない。
当時形成中であった沖積平野下流域の葦茂る湿原地帯を半舟半歩で進む行程である。

てな説を主張したことがあったが、賛同者は皆無だったw

>>149
ということは、魏の使者は帆船でスイ〜とやってきて、倭人はエッホエッホ漕いで
渡ってわけかw
朝鮮半島には弥生中期から鉄の買い付けに行ってたわけだから、
彼我の船にそこまで違いはなかったと思うぞ。

>>150
「演義」なんてもう信じません! ><
154日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:52:47.17
>>153
中国の帆船といっても使えるのは順風耳時のみだったと考えられる
155日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:54:01.28
>>153
乗船できる人数にはかなりの差があったはず
むしろ倭国は小船の船団だったのではないか
156日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:55:50.46
>>146
よくよく考えたら、出発点から目的地迄の行程を書く(表現する)でしょうよ。
彼方側の人が、彼方側の人達が読むであろう事を前提に書かれてるんだから。
郡から倭に向かう側に立って読み直せば理解出来ないかな?

投馬國は別ルートだから、2000里は郡から投馬國の迄の里数。
郡から船で直接投馬國に行く水行日数(里)を書いてある。
157満州:2013/07/23(火) 22:59:39.92
>>123に関しては帆船かどうかは何の関係も無いのである。
19世紀に於いてさえ実距離の三倍近い里数で書かれているということがポイントである。

つまり三世紀に於いて六倍に書かれていても何の不思議もないのである。
短里で書かれているのではないのである。

三世紀は六倍に書かれ、十九世紀はやや修正されたが、それでも三倍に書かれているのである。
短里とは何の関係も無く、海上距離は過大に見積もる傾向があるということである。
158満州:2013/07/23(火) 23:09:13.17
ま、九州人に何を言っても通じないのだから、畿内人はもう寝なさい。
これから九州の中高生が深夜まで延々と議論を続けるそうだから。
159日本@名無史さん:2013/07/23(火) 23:15:13.05
満州先生の考える、当時の距離の測り方を教えて下され。

水陸両方で。
160婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/23(火) 23:22:20.13
>>157
おおなるほど。
いずれにしても海上での速度計測はよくわからんよね。
ただ、19世紀にもなれば、目盛りのついた紐を結んだ板を流して測る方法は
伝わっていただろうし、実際の航路長だった可能性はある気がする。
つまり、海流に流される分を見込んで回り込んでいたと。
161日本@名無史さん:2013/07/23(火) 23:30:04.25
>>156
投馬国と邪馬台国だけ郡からというのはちと不自然でしょう
162日本@名無史さん:2013/07/23(火) 23:31:54.03
>>158
お前は早く寝ろ!
つーか永眠しろ
163日本@名無史さん:2013/07/23(火) 23:32:34.02
対馬から壱岐まで船は南西に向かって漕いでるつもりでも
海流で流されるから実際には南東に向かって進むってことか
でもこの場合実際の航路は南東に向かって一直線の最短距離になるよね
労力は膨大でも距離が長くなるってわけじゃないからな
164婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/23(火) 23:50:03.25
>>163
進路と横向きの海流に逆らってまっすぐ進もうとしたら、
実際は水に対して斜めに進むことになる気がする。
つまり、直角三角形の斜辺の長さね。

飛行機のピトー管も>>160の板もその辺の事情は同じで、
空気や水に対する相対速度だもんな。
165日本@名無史さん:2013/07/24(水) 00:09:21.37
海上なんて対岸の山を見て目視で終わりだろw
海流と計算とか絶対無理
166日本@名無史さん:2013/07/24(水) 00:10:56.93
>>161
全部郡からだと思うけど?
足し算して行けば良いのでは?
末盧國迄は1万里、他の国々は…

・伊都國=水行10日(10000里)+陸行500里(五日)=10500里(15日)・奴國=伊都國行程+陸行100里=10600里(16日)
・不彌國=奴國と同上。
※伊都國からの放射式支持者ですんで。

最終目的地の邪馬台国だけ解りやすく書いてあるけど。
ちなみに、以前は末盧國基点で水行10日陸行一月って思ってました。
投馬國も同上だけど…文体見るに、九州本土で行ってる國は
末盧國、伊都國、邪馬台国だけだと思う。

九州本土の國で、船で直接行ったのは末盧國だけ、伊都國ビミョー。
投馬國は倭人からの聞伝えからの算出臭い。
167婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/24(水) 00:27:02.11
>>165
計算できたら直線距離を書くだろとw
計算できないから、水に対する相対距離しか書けないのだ。

でもって、漕船の場合は休むわけにはいかないから、
漕ぎ手を互い違いの2群に分けて、交代で漕いだんだろなと想像する。
たとえばソーラン節のような舟歌で漕ぐリズムを合わせ、
そのリピート数で交代し、併せて距離計測にも利用したんじゃないかと。
いや、ソーラン節は実際は網を引く特に歌うんだけど、同様に
漁場に漕ぎ向かうときに歌った歌もある気がする。
168日本@名無史さん:2013/07/24(水) 01:00:11.80
海上なんて波は流れるし
風は流れるし
海を見てたら距離感なんてまったく無いぞ

だから船乗りは山を見て星を見た
169日本@名無史さん:2013/07/24(水) 01:06:02.61
びんだれ山
170日本@名無史さん:2013/07/24(水) 01:19:07.51
海流が流れてる対馬まであるいは壱岐まではやっぱり1日で航行したと考えるのが妥当だと思うけどな
夜じゃ目印が見えないから夜間航行はありえないし、海流が流れてるところで一晩停泊もないでしょ
流されて日本海まで行ってしまったら目印もなくなって遭難してしまう可能性もあり危険すぎる
そうすると1日の航行をざっくり1000里と定義するって説もありえるかな
その場合、短里を前提で考えないと距離が長すぎてしまう
171日本@名無史さん:2013/07/24(水) 01:24:48.82
曹爽が実現したクシャーナのヴァースデーバの朝貢のカウンターとして、
邪馬台国の卑弥呼の朝貢を掲げる必要があった
クシャーナ国は14000里、邪馬台国は12000里
『はるか遠方の大国から使者がやってきた』ことを陳寿は筆を曲げても書く必要があった
魏志は晋の時代に書かれている
東夷の朝貢を促したきっかけは司馬懿の公孫氏征伐だ
もともと蜀の人だった陳寿は皇帝の祖父を大いに讃えなくてはならなかった
中国史書を読み解くにはこういう視点も必要
詳しくは岡田英弘『倭国』をどーぞ
172日本@名無史さん:2013/07/24(水) 01:28:16.11
>>170
それ行程を考える時に必ず思うことだけどやっぱりそうだよな。
朝鮮半島から対馬まで50kmくらいあるが、どうやってでも1日で行ってたかなと。
手漕ぎで2ノット程度だとか言われることもあるが、もしそうなら14時間くらいかかるが。
173日本@名無史さん:2013/07/24(水) 08:16:02.45
>>172
夏場の日照時間ギリギリだね。
174日本@名無史さん:2013/07/24(水) 08:23:08.09
夜間でも陸地が見えるところまで近づけば火をたいてもらうとかできるだろ
175満州:2013/07/24(水) 08:46:44.49
あんさん、こんなんもありまっせ。

天工開物/雜舟
不遇逆風,一晝夜水行四百餘裡,逆水亦行百餘裡。

さ、また小中高校生ばかりで議論しなはれ。
176日本@名無史さん:2013/07/24(水) 08:47:49.38
基本的に、釜山〜唐津(末蘆港)は潮の満ち引き(離岸流)の力で渡った。
潮の力にたよる関係上、渡海の季節、月齢は重要な要素だったらしい。また渡海は1日以内となる。
なお手漕ぎ、帆は補助。
177日本@名無史さん:2013/07/24(水) 09:04:07.74
このスレに水行・陸行の速度にこだわる人物あり。
しかし古代には時計なく、あってもせいぜい腹時計ゆえ、時速は求められなかった。

その代わり、時間代わりの1日当たり通行距離をもって速度に代えたわけだ。
潮の力に頼る渡海ならなおのこと1日単位にならざるを得ない。
「時速/km]でなく、「日速/里」というわけだ。

なお倭人伝の陸行の場合、大陸の良道は「日速100里」、倭の山坂道は2/3にあたる「日速67里」を採用したわけだ。
これが当時の速度(定数・関数)だったと考えれば良いのではないか。なあ、ばあさんや!
178日本@名無史さん:2013/07/24(水) 09:35:27.59
ナンセンス
179日本@名無史さん:2013/07/24(水) 10:06:57.87
>>175
満州先生の考える、当時の距離の測り方を考え下され。

水陸両方で。
180日本@名無史さん:2013/07/24(水) 10:12:56.40
中国社会科学院 日本研究所(中国北京市) 高 洪研究員論文

「 邪馬台国の位置めぐる諸問題」
http://ijs.cass.cn/japanese/uploadfile/2010/0119/20100119052833879.pdf
181日本@名無史さん:2013/07/24(水) 10:25:00.19
東 太陽が昇る方向
西 太陽が沈む方向

実際行ったのなら小学生でも間違えない
182日本@名無史さん:2013/07/24(水) 10:37:54.59
中国の学会の状況を少し書くと
邪馬台国問題がそれほど関心を持たれているわけではないが
九州説と畿内説では畿内説のほうが多い
これは一つには隋書の記述の影響があるようだ
ただし中国では政治と学問では政治が上位にくるため
尖閣が古来から中国領土であったというような論の操作は当然あるだろう
そこは心しておく必要がある
183日本@名無史さん:2013/07/24(水) 10:48:28.29
>>181
倭人伝聞だから日数表記な訳だろ?
それに実際方位を間違えた地図があるのも事実だしな。
184日本@名無史さん:2013/07/24(水) 11:37:23.21
日数が倭人伝聞だとした場合、当然方角も倭人伝聞となる
倭人までもが邪馬台国の方角を勘違いしていたとは考えられない
185満州:2013/07/24(水) 11:37:44.42
>>179
おらはそんなことは考えたこともねー。

里数なんつーものはおよその見当で書かれとるに決まっとる。
隣り町まで何里あるかと訊かれて、いちいち距離を測るパカはいねーど。
1里がどれくれーの距離か大体分かっとれば、大体の見当は付くど。
目視でも実際に歩いた体験でも、およその見当は付くど。

島の場合はよ、島が見えているなら目視で見当が付くど。
見えてねーなら実際に渡航すれば大体の見当は付くど。
ただし波しか見えねーから見当が大きく外れるだ。

雑学王か誰かが書いてたではねーか。江戸時代でも実際の3〜4倍に書かれている、と。
正確な地図も無ー時代によ、正確な里数なんて分かるはずもねーべ。
186日本@名無史さん:2013/07/24(水) 12:39:52.07
そうだよ、満州の云う通りだ。
1里がこのくらいと分かっていれば、
これはあれの2倍だ、こんどのこの道は3倍だ、みたいに大体の見当はつく。
小学校から高校まで山道を通った経験でそう言える。人間のカンはバカに出来ねえ。
187日本@名無史さん:2013/07/24(水) 12:40:20.17
>>185
だろ?
それに公里を当て嵌めて考えるのが間違いだってこと。
もちろん短里も違うと思うよ。
188日本@名無史さん:2013/07/24(水) 12:42:27.25
円周率求める様なものだってことね。
189日本@名無史さん:2013/07/24(水) 12:50:58.51
およその距離資料をもとにして、七千余里、三千余里、二千余里、合計で万二千余里・・てな具合に、
陳寿の美学で小綺麗に仕上げたということだろ。
算数+作文の能力さ。
190日本@名無史さん:2013/07/24(水) 14:00:16.54
>>183
>それに実際方位を間違えた地図があるのも事実だしな。
西が上に書かれていた日本地図を中国の誰かが切り貼りして世界地図を作ったら
日本列島が南北に延びるように描かれてるアレか
まあ北を上にして地図を作らなかった日本人の知識不足が原因だとも言えるが
日本に来たこともないやつが作ったものだから根拠としては無意味だわな
191日本@名無史さん:2013/07/24(水) 14:18:23.18
>>183
間違い地図はなんの根拠にもならぬ
192日本@名無史さん:2013/07/24(水) 15:35:29.91
>>185
>1里がどれくれーの距離か大体分かっとれば

それを知りたいんだよ
193ローガン:2013/07/24(水) 16:29:29.35
●從帶方至倭循海水行歴韓國乍東乍南七千餘里始度一海。海闊千餘里名瀚海至一支國又度一海千餘里名未盧國。又東南陸行五百里至伊都國。
又東南行百里至奴國。又東行百里至不彌國又南水行二十日至投馬國。又南水行十日陸行一月日至邪馬臺國 (梁書)

●従帯方至倭循海岸水行歴韓国従乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千餘里。
始度一海千里至對馬國戸千余里大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方四百余里地多山林無良田食海物自活乗船南北市糴。
又渡一海一千里名曰 瀚海一大国置官与対馬同地方三百里多竹木叢林有三千軒許家亦有田地耕田不足食方行市糴。
又渡海千余里至末盧国戸四千浜山海居人善捕魚水無深浅皆能洗?沈没取之。
東南陸行五百里到伊都国官曰爾支副曰泄謀觚柄渠觚有千余戸世有王皆統属女王帯方使往来常止住。
又東南至奴国百里置官曰先馬觚副曰卑奴母離有二万余戸。又東行百里至不弥国戸千余置官曰多模副曰卑奴母離。
又南水行二十日至於投馬国戸五万置官曰弥弥副曰弥弥那利。又南水行十日陸行一月至耶馬台国 (太平御覧)

いずれもテキストは「魏志倭人伝」だろう。 版本三国志にはない投馬国、邪馬台国の前の「又」という字がこの両者には見える。
「又」…移動の起点が直前の国であるのは言うまでもない。
両者のテキストは、現存通行本以前の写本とし、倭人伝の古形を伝えているなら、
版本倭人伝は、「又」の脱字がある。よって水行10日の起点は投馬国である…。
という反論に対する再反論を用意しておいたほうが良い。
上記反論、(他にもあるがそれはさておき)を棄却出来なければ、
水行10日の起点を帯方郡に出来ないゆえ、それに基づく推論は無意味になるよ。
194日本@名無史さん:2013/07/24(水) 18:01:53.25
>>191
まともな思考なら、間違った地図の存在が根拠になるんだぞw
195日本@名無史さん:2013/07/24(水) 19:41:27.64
>>193
粗悪なコピー品って文体だな。
又又又又又又…こんな流れの悪い文体を陳寿が書く訳ない。
つか原文な訳がない。
コピーにコピーに、更にコピーを重ねたヤツって感じ。

陳寿の文体には奥行きを持たせてる。
最初に里数で距離感を表し、邪馬台国、投馬國は日数でぼかす。
そして後の詳細で、女王國って名を変えイメージを膨らませ、
バン!と里数を書き、一気に遥か彼方の魅惑の國を連想させる。

当然連立式だから、もしこれが原文で公里使ったら、一体何処まで行くのやらw

エジプト?方角変えても大和にゃ収まらんけど。
196日本@名無史さん:2013/07/24(水) 21:21:55.19
インチキ地図を根拠に方角の間違いを正当化しようとしてるやつに
粗悪なコピー品を根拠に連続式行程を正当化しようとしてるやつ
畿内説を主張してるやつらってこんなんばっか
197日本@名無史さん:2013/07/24(水) 22:14:23.96
>>193
いずれにせよ、邪馬台国が「南」にあることは共通している。
198日本@名無史さん:2013/07/24(水) 22:21:55.24
てか普通に読んだら連続式だろ
199日本@名無史さん:2013/07/24(水) 22:36:02.85
邪馬台国が「南」にあったら太平洋にドボン!と沈没します。邪馬台国は「東」にありました。
200日本@名無史さん:2013/07/24(水) 22:36:32.56
連続式のほうが妥当だが、問題はその後。

末盧国(東南陸行五百里)→伊都国(東南百里)→奴国(東百里)→不弥国(南水行二十日)
→投馬国(南水行十日、陸行一月)→邪馬台国

畿内説にとっては問題は山積み。まず不弥国をどこにするのか?
201日本@名無史さん:2013/07/24(水) 22:43:00.83
>>199
陸行・水行の一日をどの程度の距離にするかが問題。
畿内説にとって都合のよい距離にしても問題は解決しない。

だいたい、倭人伝には帯方郡からの方向・距離が書かれている。
邪馬台国の「南」だけを「東」に変えるような勝手が許されるのか。
それとも、帯方郡からの「南」は全部「東」に変えるのかな。
202ローガン:2013/07/24(水) 22:43:48.62
>>195のなんら根拠に基づかない、単なる個人の見解
>陳寿が書く訳ない。
>原文な訳がない。

>>196では
>粗悪なコピー品を根拠に連続式行程を正当化しようとしてるやつ

「粗悪なコピー品」が、何やら、急に論証済みの既成事実という訳だ。

そこで、九州説の諸氏に訊きたいんだが
この2レス(>>195.>>196)を読んで「所詮、九州説なんてみんなこんなもん」
というレッテルを貼るのは私だけではないように思うのだけど。それでいいかな?(笑)
203日本@名無史さん:2013/07/24(水) 22:58:42.12
>>201
「大唐六典」に1日の行程は歩=50里、水行=45里と書いてあります。
204日本@名無史さん:2013/07/24(水) 23:01:34.82
>>198
> てか普通に読んだら連続式だろ

そう思ったヤツが又付けて写して、それが繰り返されて
又又文体書物になってる気がする。
又が脱字でなく、加筆された可能性が高い。

ある程度読み手に想像させる書き方で奥行きが出るんだけど、
各所に又付けてハッキリさせたらそれが全部壊れる。
読んでて、なんつーか…しょっちゅうブレーキかけてる感じ。
で、それを曖昧にしたことで、連続式なのか放射式なのかの
議論も副産物として生まれてるんだけどね。

連続式か放射式かは読み手の受け取り次第だけど、自分は放射式。
理由はそちらが文体に無理がないから。
205日本@名無史さん:2013/07/24(水) 23:10:16.83
>>203
そういうのはあまり当てにならないだろう。

歩く場合はどういう道を歩くのか、荷物を持っているのか、そういうのに
大きく影響される。水行も同じで、海の場合は潮の流れや風向きに大きく
影響される。
206日本@名無史さん:2013/07/24(水) 23:17:39.36
>>202
それならばローガン先生の言葉を借りれば『又の脱字
って根拠を上げよ』ってなりますが?
それも個人のいち見解でしょう。

つーかどうしたい訳?畿内に邪馬台国を持って行きたい訳?
それとも倭人伝の謎を解きたい訳?
俺は後者だよ。確かに九州人だけど、何も知らん時は
マスコミとかの煽りもあったし、畿内だろうと思ってた。
でも倭人伝読んで、『これでどうやったら畿内になるの?』
って疑問符だらけになったもの。

無理無く矛盾無く解いてるつもりだけどね?
それがパズルになって当たり前だし、成らんかったら嘘っぱちだろw
207日本@名無史さん:2013/07/24(水) 23:22:05.87
南は南
208日本@名無史さん:2013/07/24(水) 23:22:45.14
>>205
茶色の日本史年表に朝貢輸送路の図があり大宰府〜京都まで30日と書いてあります。
209日本@名無史さん:2013/07/24(水) 23:31:57.93
そもそも又は同じ事を繰り返す事だから
同じ方角に行く時しか使えんだろう 普通
210ローガン:2013/07/24(水) 23:52:10.42
>>204
君の「俺の漢文に対するセンスは四大書を超える」という自負は、理解した。
後は、万人が首肯出来る根拠に基づいた論証をするだけでいいんじゃない?

>>206
いや、畿内九州…なんて、正直どちらでもいいんだ。勿論、色々考えて九州説から畿内説に変わったんだが。九州説自体を悪く言うつもりは無い。
上のレスで言いたかった事は、当然ある筈の反論に対する回答の用意ぐらいはしておきましょう。
という意味だ。
211日本@名無史さん:2013/07/24(水) 23:53:30.99
>>202
自分の説が批判されるとなぜ反撃の矛先が九州説になるんだ?
212日本@名無史さん:2013/07/24(水) 23:55:32.25
>>200
>畿内説にとっては問題は山積み。

なーんも問題ないよ。不弥国は今の飯塚市のとこ。
213婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/24(水) 23:56:56.15
>>203
魏志もその換算係数を採用していたら、50里単位の距離数が出てくる気がする。
だけど、少なくとも東夷伝では100里が単位になってるよね。

>>177
おおむね賛成なんだけど、俺は作為じゃなくて単なる情報の欠落だと思う。
まとめる側の人が、「5日かかったのなら500里ね」ってしちゃったの。
もう一点、当時の道は俺らが想像する以上に長かった、というのもあると思う。
中華帝国の地理誌の姿勢からして、実際に踏査した人は、できるだけ真面目に
歩いたことは想像できる。だから(直線距離ではなく実際に歩いた)距離の記述は
案外しんらいできるんじゃないかと。
214ローガン:2013/07/24(水) 23:58:58.09
>>209
>そもそも又は同じ事を繰り返す事だから同じ方角に行く時しか使えんだろう 普通

ほれ、またこのような事を…

又東南陸行五百里
又東南行百里至奴國
又東行百里至不彌國
又南水行二十日至投馬國
又南水行十日陸行一月日至邪馬臺國

という例を挙げたばかりなのに。
215日本@名無史さん:2013/07/25(木) 00:02:44.94
倭人伝の放射式の可能性は認めてるわけだ
216日本@名無史さん:2013/07/25(木) 00:03:04.86
>>208
確かにそれは信頼できる数字なのだろうが、京都が出てくるわけだから時代が
違う。舟が違う。でも、30日かかっている。

古代船の場合、速度を推定するのはなかなか難しい。

1975年に作られた野生号による実験航海では、一日に10km程度は航海できた
らしいが、基本的に現代の船で、乗っているのは漕ぎ手だけ、荷物なしなど
条件が異なるのでなんともいえない。

一日に10km以上はありえないと思うが、それ以下についてはいろんな可能性
があると思う。
217日本@名無史さん:2013/07/25(木) 00:05:30.53
>>212
飯塚市からどこに水行するわけ?
218日本@名無史さん:2013/07/25(木) 00:09:48.21
>>217


行程記述が異なる。つまり文献が異なるということ。
219ローガン:2013/07/25(木) 00:11:20.43
>>215
>倭人伝の放射式の可能性は認めてるわけだ

私宛てかな?
可能性無しとは言い切れない。
しかし、蓋然性が高いと主張出来る根拠は無い。
逆に上で書いたように「又」の起点は直前の国が妥当なので、これは放射説の否定材料でしかない。
220日本@名無史さん:2013/07/25(木) 00:14:00.68
それで十分。大きな進歩だ
221日本@名無史さん:2013/07/25(木) 00:14:59.40
>>214
横ですが
?お叱りの意味が解んないけど

南からの流れ、末盧國からなら↓
>東南陸行五百里
>又東南行百里至奴國
>東行百里至不彌國
>南水行二十日至投馬國
>又南水行十日陸行一月日至邪馬臺國

これで良くない?ってこと。
又は無くても又の前が起点って解るし、連続式にしても文体スッキリ。
読みやすいし、十分わかるでしょ。
222日本@名無史さん:2013/07/25(木) 00:15:36.92
放射説なんてないよ
223日本@名無史さん:2013/07/25(木) 00:23:48.48
邪馬台国って台湾だろ
日本でいくら探しても見つからないのはそういうことだからだよ
ちなみに投馬国は沖縄
中国大陸からなぜ直接台湾に渡海しなかったかというと呉が邪魔で行けなかった
朝鮮半島から日本の九州、島伝いに沖縄を経由して行くしかなかった
島に寄らずに長距離渡航は危険
224日本@名無史さん:2013/07/25(木) 00:33:04.13
>>223
連続式ならあり得るなと思ったけど、それなら九州を
陸行する意味無しだし、末盧國にまた船を取りに行くのかとか
矛盾だらけなんで可能性は低いでしょう。
225ローガン:2013/07/25(木) 00:38:26.15
>>221
>これで良くない?ってこと。

勿論、わかりますが、上で挙げた史料実態はそうなっていない。ということは

>同じ方角に行く時しか使えんだろう 普通

が間違いであるということ。
226日本@名無史さん:2013/07/25(木) 00:41:23.12
>>224
倭王が台湾にいるわけがないなど、台湾説は頭からありえない。
ただ、陸行が不合理というのは畿内説には当てはまるかも。
227日本@名無史さん:2013/07/25(木) 00:44:19.70
そうそう、魏の使者たちは畿内の邪馬台国まできていないということ。
それだけ。おしまい。
228日本@名無史さん:2013/07/25(木) 00:52:10.95
>>226
あ!ホントだわw
里数と一緒で思い込みの落とし穴だww

単純な部分に答えってあるのかも
229日本@名無史さん:2013/07/25(木) 01:31:01.91
なるほど
連続式の場合、水行→陸行→水行の行程で
後の方の水行は日本の船に乗ったとしか解釈できなくなってしまい、とても不自然だな
230日本@名無史さん:2013/07/25(木) 06:19:54.73
畿内説の問題点、@方向を勝手に東と変更する、A近畿から北九州までの恐ろ
しく広い国土を想定する、B2世紀までは寒村であった、C鉄器の導入が遅れ
防御力が弱かった、D銅鐸が突然破棄された、などを総合してなお邪馬台国が
畿内に有ったと立証した学者がいない。それでも畿内説を信じるの?なんちゅ
うパーカねぇ。
231日本@名無史さん:2013/07/25(木) 07:01:45.98
>>230
畿内説の一番の問題点は、
学会は畿内説で決まっているとか、
考古学者で九州説を唱えるものは一人もいないとか、平気で嘘を言うこと。
232日本@名無史さん:2013/07/25(木) 07:22:23.16
>203
それをもとに日本の古代街道を建設する時に30里ごとに駅が設けられた
荷車は1日に30里だったから
233日本@名無史さん:2013/07/25(木) 09:10:49.11
>>229
別に不自然じゃないだろ
234日本@名無史さん:2013/07/25(木) 09:59:51.87
>>233
自分の大事な船をどこの馬の骨ともわからないやつに数ヵ月も貸すか?
235日本@名無史さん:2013/07/25(木) 10:05:13.02
水行で行けるならそのまま水行するでしょ
伊都國糸島説とも通じるところがある
236日本@名無史さん:2013/07/25(木) 10:48:14.87
>>230
典型的な情弱九州脳だなw
@以外は今やすべて九州説の弱点だし。
237日本@名無史さん:2013/07/25(木) 10:49:22.11
畿内説の致命的なところは記紀に卑弥呼のことが書かれてないこと
中国の文献読むまでそんな人知らんかったと白状してるようなもの
238日本@名無史さん:2013/07/25(木) 12:23:34.36
唐津に上陸して伊都国の大使館に寄って有明海からまた船に乗る
九州の陸行を合理的に説明する行程って他にどんなのがある?
239日本@名無史さん:2013/07/25(木) 12:43:19.26
>>238
上陸後は陸行のみ
240日本@名無史さん:2013/07/25(木) 12:55:17.91
>>234
どの道陸行一月だから往復で二ヶ月間は船は停泊していた計算になるが
241日本@名無史さん:2013/07/25(木) 13:08:02.02
>>234
あ、それとも倭人が魏使に数ヶ月も船を貸す訳がないって言いたいの?
倭国内を魏使だけで水行する訳がない
倭人の操る倭人の船で水行したと考えるのが自然
倭人の案内が無きゃ邪馬台国まで行けないでしょ
242日本@名無史さん:2013/07/25(木) 13:13:49.24
>>237
>記紀に卑弥呼のことが書かれてないこと

別に九州説に有利でも何でもないけどなw
記紀の国生みでも九州は男神の名だし。
243日本@名無史さん:2013/07/25(木) 13:31:56.84
>>242
九州にあった邪馬台国と大和朝廷は何の関係ない
記紀に書かれてないのはむしろ当たり前
九州は男神とか何の事だか知らんがそんなのが影響あるんか?
244日本@名無史さん:2013/07/25(木) 14:01:50.68
伊都国に一大率がいて、唐津から入ってきたものをチェックしてるんだから、
そこで不弥国からの船も都合つけてもらえるだろう。

というか、一大率の所で許可が出なければ、
そこから先には行かせてもらえないと思う。
245日本@名無史さん:2013/07/25(木) 15:10:20.34
大和朝廷が暗に葬り去った可能性がある
246日本@名無史さん:2013/07/25(木) 15:50:26.73
知ってることを精一杯書いた結果が中国の文献を引用したあの文だろ
変に隠したりせず知ってることは正直に書いてるように見えるけどね
247日本@名無史さん:2013/07/25(木) 16:07:37.11
書紀を信じたくない人はそう受け取りたくないんだよね
造作が酷いなら不明なことが少なくなるし一書に〜なんて要らないんだし
欽定国史のわりにすこぶる穏当に努めたと思うけどな
248日本@名無史さん:2013/07/25(木) 16:14:40.28
>>243
>九州は男神とか何の事だか知らんがそんなのが影響あるんか?

逆に記紀の記述を一切関係ないとしたいのかな?
じゃ、九州説は誰を卑弥呼を想定したいの?
記紀にある人物や神以外で探さなきゃいけない訳だがw
249日本@名無史さん:2013/07/25(木) 16:51:57.23
無理にあてはめる必要は全くないんだよ
そもそも歴史に残ってる地方の王や豪族なんて極わずかだろ
250日本@名無史さん:2013/07/25(木) 16:53:12.20
融通無碍
どうでもいい
251日本@名無史さん:2013/07/25(木) 17:19:21.13
>>248
九州説には、東遷説と九州王朝説(あるいはその系統)の二つがある。
二つは全く異なるもので、九州王朝説はむしろ畿内説に近い。
そこのところをしっかり把握していないといけない。
252日本@名無史さん:2013/07/25(木) 17:26:26.46
ちなみに、昔からいわれる東大の九州説は東遷説。
戦後、畿内説は東遷説論者を軍国主義者呼ばわりした。

皇国史観が日本を戦争に導いた。いまだに神武東征の亡霊のような東遷説を
主張するのは、戦争の悲劇を反省していない軍国主義者だというわけである。

東大は嫌気がさしてあまり係わらなくなった。戦争体験者は軍国主義者と
いわれるのが嫌で、代わりに九州王朝説が広く人気を集めた。
そういう時代だったのである。今は昔の話だが。
253日本@名無史さん:2013/07/25(木) 17:39:29.63
畿内説だと記紀には殆どふれられてなくても
神格化されてる丹生都比命のような存在もあるからな。
九州説にはそういうのすら皆無でしょ?
254日本@名無史さん:2013/07/25(木) 18:33:46.76
満州君、本の執筆は諦めた?
255日本@名無史さん:2013/07/25(木) 20:24:19.66
満州大先生は九州説を抹殺する資料をお探し中だ
256日本@名無史さん:2013/07/25(木) 20:50:08.91
満州ブログ
プロフィール
自己紹介
誤解されている人もいるようですが、 2chの「満州」氏とは別人です。
http://blog.goo.ne.jp/kitano-manshu

こんな自己紹介の欄以前からあったかな?
キャッシュを見る限りないので、つい最近追加されたと考えられるな
墓穴掘ったかな
257日本@名無史さん:2013/07/25(木) 20:55:22.53
>>248
神功皇后が九州を攻めたとき
田油津媛を討った
それを聞いた兄の夏羽は逃げた

田油津媛は「たぶらかす」とも読める
妹の方が強かったようようだ
しかも打ち取った場所は山門w

卑弥子の系統はこっちくさい
258日本@名無史さん:2013/07/25(木) 20:56:34.70
田油津媛が臺与だった・・・

邪馬台国終わるな
259日本@名無史さん:2013/07/25(木) 21:09:36.20
古事記・日本書紀に卑弥呼のことは書かれていませんが国記・天皇記には書かれています。
260日本@名無史さん:2013/07/25(木) 21:12:05.72
>>257
安い本を読み過ぎだよw
261日本@名無史さん:2013/07/25(木) 21:58:55.24
NHKニュースでやってたが水月湖の年縞と照らし合わせれば
古代の遺跡でも1年単位で年代が確定できるんでしょ
箸墓とかもようやく白黒はっきりできそうだな
262日本@名無史さん:2013/07/25(木) 22:22:16.78
>>260
日本書紀だが

「戊子、皇后欲擊熊鷲、而自橿日宮遷于松峽宮。時飄風忽起、御笠墮風。
故時人號其處曰御笠也。辛卯、至層増岐野、卽舉兵擊羽白熊鷲而滅之。
謂左右曰、取得熊鷲。我心則安。故號其處曰安也。丙申、轉至山門縣、
則誅土蜘蛛田油津媛。時田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來。然聞其妹被誅而逃之。」
263日本@名無史さん:2013/07/25(木) 22:39:12.53
>>262
卑弥呼像に合致する部分は皆無だろw
倭(ヤマト)と名のつく姫ならそれ以上にいるよ。
264日本@名無史さん:2013/07/25(木) 23:02:59.39
>>263
山門県 → 邪馬台国
田油津媛 → 鬼道を使い人を惑わすヒメ
兄に逃げる → 兄弟が女王を補佐
山門郡には女王塚という古墳が有る

もちろん田油津媛が卑弥子ではないだろう
卑弥子を継いだ臺与か、その次の女王の可能性が有る
265日本@名無史さん:2013/07/25(木) 23:04:05.14
記紀は補助書物
あるいは副本
頭の中で主本と副本が入れ替われば

道を違えるぞ
266日本@名無史さん:2013/07/25(木) 23:08:05.61
山門=八女戸
八女郡=邪馬国
267日本@名無史さん:2013/07/25(木) 23:18:48.80
>>264
結局語感の一致だけか。それじゃ出来の悪い畿内説だな。
268日本@名無史さん:2013/07/26(金) 00:08:45.44
>>267
理解力が無いなあ
269日本@名無史さん:2013/07/26(金) 00:31:59.78
>>268
無いのはおまえの説得力だろw
270日本@名無史さん:2013/07/26(金) 00:43:31.91
ああ?
卑弥子の資料と断定て切る資料なんか日本の歴史書にはまったく無いぞ
それなのに確信してる方が馬鹿
271日本@名無史さん:2013/07/26(金) 02:19:16.53
大和朝廷からみたら邪馬台国なんて所詮土蜘蛛
272日本@名無史さん:2013/07/26(金) 08:07:49.72
九州邪馬台国は大和朝廷からすれば黒歴史
273日本@名無史さん:2013/07/26(金) 08:39:01.67
黒歴史以前に九州に邪馬台国なんてある訳ないしな。
274日本@名無史さん:2013/07/26(金) 08:49:23.70
瀬戸内海、豊後水道文化圏の大分、宮崎は畿内王権と多少は関係があるだろうが、
有明海、玄界灘文化圏の、いわゆる北部九州勢は、
畿内王権とはあまり関係がない。

もっとも、人口が飽和していたと思われる弥生後期に、
各地で個別に移住が行われても不思議ではない。
275日本@名無史さん:2013/07/26(金) 19:36:16.00
<<271、272、273
畿内説だってか? ここは九州説スレだぜ。パーカ。
畿内説者は畿内説スレを立ち上げて、そちらでやれ。スレも立てられないのか。
276日本@名無史さん:2013/07/26(金) 19:48:16.67
九州説?所詮はパズルスレだろw
277日本@名無史さん:2013/07/26(金) 19:49:37.09
パズルに参加できないのが畿内説
278日本@名無史さん:2013/07/26(金) 20:02:16.56
パズルだと思うのならこのスレに来なくてもいいだろう?。なぜ来るの。
279日本@名無史さん:2013/07/26(金) 20:16:24.83
puzzle [名]1 難問, 難題, なぞ
280日本@名無史さん:2013/07/26(金) 20:23:24.12
バラバラのピースを綺麗にはめ込んで、完成を目指すのが九州説
ピースを一枚置いて、それに合う様にピースを作るのが畿内説
281日本@名無史さん:2013/07/26(金) 20:31:58.14
全くバラバラのピースを強引にはめて自画自賛、
それがここの九州説の全てだな。
282日本@名無史さん:2013/07/26(金) 20:36:28.45
>>278
つまり突っ込まれても反論出来ないから来てもらっちゃ困る訳か?
283日本@名無史さん:2013/07/26(金) 20:37:52.37
>>281
畿内説センパイには敵わないっすよw
詐欺まがいっすもんww
284日本@名無史さん:2013/07/26(金) 20:54:45.10
で、なんだ、畿内説は九州を一旦陸行して、倭舟に乗り換えて再び水行する訳か。
九州に立ち寄らず、そのまま畿内まで船で向かえば済むことなのに。
まあ末盧國で補給作業はしなくちゃかもしんないけどさ。
285日本@名無史さん:2013/07/26(金) 21:11:28.74
支倉常長がヨーロッパに行ったときも海路→陸路→海路で行ってる
ショートカットしたかったんだろ
286日本@名無史さん:2013/07/26(金) 21:14:34.25
畿内説では伊都が玄関みたいなもんで無問題だし。
287日本@名無史さん:2013/07/26(金) 21:30:46.61
ショートカットw
玄関口ww

パズル合わせて作り始めたな。
邪馬台国の北に伊都國なんだがな。
畿内に邪馬台国、九州に伊都國。
東に邪馬台国、西に伊都國でさてこれ如何に?
288日本@名無史さん:2013/07/26(金) 21:31:08.31
遣隋使・遣唐使で九州を陸行したものは一つもない。
だいたい、たくさんの下賜品を積んでいるわけだから、船を降りて
歩くわけがない。
289日本@名無史さん:2013/07/26(金) 21:40:53.62
神功皇后が関門海峡を切り開くまでは九州を陸路で横切るしかないだろ
しかも中国船が入港できるくらい整備された港は日本には末盧国にしかなかったから遠回りになったんだよ
290日本@名無史さん:2013/07/26(金) 21:45:17.83
不自然な読み方をしなければ畿内だろうが九州だろうが陸行後にまた水行してるだろ
291日本@名無史さん:2013/07/26(金) 21:48:41.39
>>290
近畿地方が目的地ならば、陸行の必要はないということ。
陸行の後の水行にはそれなりの意味があるわけで、それに合う考えをすべき。
つまり、陸行したほうが合理的な場所が邪馬台国ということになる。
292日本@名無史さん:2013/07/26(金) 21:55:37.73
どの道陸行一月は不合理だろ
日本の地形ならもっと近くまで船で行けば良い
293日本@名無史さん:2013/07/26(金) 21:58:13.62
外洋をかね
294日本@名無史さん:2013/07/26(金) 22:01:07.11
九州南部にあった
295日本@名無史さん:2013/07/26(金) 22:03:23.81
外洋だと何か問題あるの?
296日本@名無史さん:2013/07/26(金) 22:06:22.17
一発大波
297日本@名無史さん:2013/07/26(金) 22:07:16.30
なぜ外洋を越える?
298日本@名無史さん:2013/07/26(金) 22:08:40.58
水行十日で外洋なんか越えられない
299日本@名無史さん:2013/07/26(金) 22:14:20.66
現在の波の高さ。
長崎県沖、天草沖 1.5m
有明海 0.5m(0mはないのでこれが最低値)
300日本@名無史さん:2013/07/26(金) 22:24:13.45
宮崎県だよ
狗奴国の沿岸を船では通れないから陸上を1ヶ月かけて歩くしかなかったんだよ
唐津に上陸後佐賀県を縦断して有明海にでる
有明海からまた船に乗り八代海のどっかで降りて九州を横断した
301日本@名無史さん:2013/07/26(金) 22:26:39.85
>>289
それ(信じてないけど)言うと思ったわw
もしそうだったと仮定して、俺が魏使なら末盧國で物資補給して、
対馬海流利用してガンガン日本海進むわ、舞鶴辺りまで。
大丈夫よ、大型タンカーじゃないんだから、当時の日本の津ならほぼ入港可能ね。

あと水行→陸行→水行の矛盾は九州でも同じで、上の方
>>100位〜)で水行日=千里・郡基点でとりあえず説明はつく。
そうすると、邪馬台国は内陸部かもしれん。
ちなみにそうなると、『女王國の東の海〜…』の下り部分が矛盾する。

有明海を水行とかなら、水行→陸行→水行の矛盾は少し和らぐが、
邪馬台国までの水行郡基点と、水行里数は振り出しに戻る。
ただ、伊都國佐賀平野がほぼ確定し、倭人伝の方角も現代と同じだとほぼ確定。

畿内説は消える。
302日本@名無史さん:2013/07/26(金) 22:29:36.04
外洋は無理だから九州に上陸して陸行後に内海を水行二十日+十日して畿内に行った、で陸行→水行については畿内であっても説明はつくな
まあそれ以前に方角が違うので畿内は無いが
303日本@名無史さん:2013/07/26(金) 22:39:11.26
そもそも魏使は邪馬台国の場所を知らないわけ
だから倭人の案内通りに行くしかない
304日本@名無史さん:2013/07/26(金) 22:52:42.08
水行十日+陸行一月 これを満足させるのは関東だ
305日本@名無史さん:2013/07/27(土) 00:36:41.24
>>301
そんなボロみたいな理屈で消える訳ねーだろw
306日本@名無史さん:2013/07/27(土) 01:01:55.75
>>305
理由を教えて(キャピッ)
307日本@名無史さん:2013/07/27(土) 02:33:54.63
傍から見ると>>301を呼んでも一つの解釈でしかなくて
畿内説を消しさるほどのことが書いてあるようには見えないけどね
308日本@名無史さん:2013/07/27(土) 07:33:33.75
>>306
見て解らん奴は聞いても解らんだろw
309日本@名無史さん:2013/07/27(土) 07:46:10.03
要は、畿内説は倭人伝に叶う解釈は不可能で、有り得ないってことよ。
310日本@名無史さん:2013/07/27(土) 08:04:07.96
雑だね
311日本@名無史さん:2013/07/27(土) 08:20:26.09
>>309
むしろ倭人伝の解釈では九州説の方が無理だよ。
距離と戸数だけで殆どアウトだ。
312日本@名無史さん:2013/07/27(土) 09:43:28.46
倭人伝はすべて正しいまたはすべて間違いではない
ただその中で最も間違いの可能性が高そうなのが戸数だろう
戸籍などの制度がなく数を把握するのは不可能
そんな状況で万単位の数字はかなり疑わしい
313日本@名無史さん:2013/07/27(土) 10:09:25.73
>>311
> 距離と戸数だけで殆どアウトだ。

距離は日に百里、百里はアバウトな数字。
1日歩けば百里で、地形や記録者の能力etcに左右される。
戸数は全く信用してないし、あの数字は畿内でも収まらない。
唯一、魏使が常駐していたであろう、伊都國の千戸だけは信憑性がある。

多分、大きな國でもそれぐらい。
314日本@名無史さん:2013/07/27(土) 10:16:25.64
結局は九州説も倭人伝を否定してる訳だな?
つまり行程パズルなんて何の意味も持たないという事だよ。
315日本@名無史さん:2013/07/27(土) 10:18:13.36
>>313
伊都を一万戸とする資料もあるけどな。
316日本@名無史さん:2013/07/27(土) 10:30:49.07
倭人伝は正確だと思うよ
記紀も信頼に値する

そして行き着く結論は九州南部
九州北部は無理すぎ
317日本@名無史さん:2013/07/27(土) 10:57:13.08
既に北部九州説は100%有り得ないだろう。
これは断言してもよい。
31815:2013/07/27(土) 11:01:14.94
ようやく九州説スレらしくなってきた。さあ、邪馬台国は九州の内、北部か、
中部か、南部か。はたまた東部か西部か、皆さん、どんどん議論を。
319日本@名無史さん:2013/07/27(土) 11:32:47.77
九州北部は世々有王の伊都国が平定していた地域。
邪馬台国は九州中部、九州南部に狗奴国。
邪馬台国が伊都国と争ってそれを支配下においたのが倭国大乱。
狗奴国をも支配下にしようとするも返り討ちに遭い失敗し、邪馬台国は滅亡。
320日本@名無史さん:2013/07/27(土) 12:44:20.39
>>314
信憑性のある部分と無い部分を見分け、矛盾を無くし
謎解きをしなければならない…って事だよ。
日の出位置を東の方角としていたら、確かに季節によって
最大45度のズレが生じるが、90度にはならない。
流石にこれは間違えないよ、残念ながら。

東が南に成る事は無いんだよ。
http://www.google.co.jp/gwt/x?gl=JP&u=http://www.saga-ed.jp/workshop/edq01460/tendousetu.html&hl=ja-JP&ei=N3zyUd_IHczkkAW094DgBg&wsc=tb&ct=pg1&whp=30
日の出位置基準なら、どの季節に記録者何処にが居たか…?
ってのを説の一つとして今考えてるが、まだ纏まってない。

末盧國に渡ったのはまず夏場だろう。
でも邪馬台国に移動するまでは一月以上掛かってると、
当然その後の方角も変わってくる。
倭人伝の中の方角も里数と同じで定まって無い気がする。
321日本@名無史さん:2013/07/27(土) 12:51:31.20
日本も中国も緯度は大して変わらない
日の出の方角も夏は北寄り、冬は南寄りでずれ方は大きく違わない
322日本@名無史さん:2013/07/27(土) 12:57:54.10
水行すれば楽なのになぜわざわざ陸行したか
答えは簡単
敵対してる国の沿岸は危険だから舟でも通れないからだ
地形だけで考えてしまっていたからいつまで経っても答えが見つからなかったのだ
323日本@名無史さん:2013/07/27(土) 20:32:27.93
九州説あげ
324日本@名無史さん:2013/07/28(日) 14:06:37.26
陸行1月、水行10日
若狭湾舞鶴港に上陸して、東山道で関東平野に抜け伊豆下田に至る。
そこから船で太平洋岸を渡って、島伝いに10日足らずで神津島に着く。

黒曜石の産地として金属器が入ってくるまで全国的な流通網を持つ大きな勢力があったはず。
この島の女王こそ卑弥呼だろう。
325日本@名無史さん:2013/07/28(日) 16:39:33.02
326婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/28(日) 23:11:08.16
【陸】の語義は「丘や山がうねり続く、堅固な大地」。その「陸行」の対となる
「水行」というのは、ずぶずぶの湿地帯の行程であるべきだろう。

古事記の冒頭、造化三神が現れた後の描写「国稚く浮きし脂の如くして、
くらげなす漂へる時、葦牙の如く萌え騰る物によりて成れる神の名は、
宇摩志阿斯訶備比古遅神」に見られるように、弥生人にとっての
この列島の太古の記憶は、葦茂る湿地帯なんだよね。
このイメージは繰り返し現れ、「豊葦原瑞穂の国」へと結実していくのだ。

具体的に言うと、縄文海進が終わって形成途上であった沖積平野。
弥生早期・前期の環濠集落は沖積平野内の微高地に見られる。
湿地だから溝を掘ったのだ。
327日本@名無史さん:2013/07/29(月) 06:52:54.33
海行と水行は違うでしょうね。
328日本@名無史さん:2013/07/29(月) 08:34:40.51
しかし、陸地は敵がいるから水上をいくというのいならわかるが、沿岸に敵がいるから陸を行くということはありえないでしょ。

海行という表現はどこにでてきますか?
329日本@名無史さん:2013/07/29(月) 10:12:12.84
狗邪韓国からずっと水行だから区別無いと思う。
倭舟乗り換え無く、ずっと魏船って気もする。
330日本@名無史さん:2013/07/29(月) 10:22:22.92
船で行くといってもはるか沖合を通るわけではなく敵に見つかったら終わり
夜は上陸して海辺で野宿するから敵国だといつ襲われるかわからない
敵国は海も陸も危険なんだよ
だから敵国を避けて邪馬台国の支配が及ぶ国の陸上を歩いて行くしかなかった
331日本@名無史さん:2013/07/29(月) 11:33:28.21
水行十日 OR 陸行一月、だと思うが
南に水行十日 AND 陸行一月、だと場所ない

東に水行十日だとすると、伊都国に着いて上陸したのが不自然
もうちょっと東の関門海峡辺りまで航海するだろ
航海的にはすげー楽だし
332日本@名無史さん:2013/07/29(月) 12:35:45.49
やっぱし水行行程は郡からと考えるのが自然。
総日数を表記してある。
333日本@名無史さん:2013/07/29(月) 12:57:38.14
不自然だよ
334日本@名無史さん:2013/07/29(月) 13:17:08.07
南は東だという主張も有るが、それは明らかにおかしい
魏志倭人伝には東に行くと別の国が有ると書いてある

「女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。」

この東とは北の事だと主張しなければならない。
そして畿内から北に向かったこの海は日本海になるが、何も無い
しかも「その南(東)に侏儒国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。」
「その東南(北東)に裸国やK歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか」

どうみても日本海じゃねえw
つまり破綻している
335日本@名無史さん:2013/07/29(月) 13:28:02.59
test
336日本@名無史さん:2013/07/29(月) 23:02:46.43
倭國の風俗に関して書かれてる部分は伊都國だろうか?
337日本@名無史さん:2013/07/30(火) 01:19:12.39
そうだろうな
338日本@名無史さん:2013/07/30(火) 06:02:24.67
334氏に賛成。一票。
339日本@名無史さん:2013/07/30(火) 08:07:44.77
>334
東に海を渡るとは伊勢湾のことである
弥生時代は濃尾平野の奥深くまで海が進入しており、東海道にあたる陸路は狭隘であった
不破関が天然の要砦となっておりそこから東はみな東国
不破関の東側に青墓宿という場所があるが、古代より非常に古墳が多い土地である
東海地方を支配する王国(=句那国?)が守りを固めていた関門である
だから倭国は海上で関東と行き来した
ヤマトタケルも最前線基地の熱田から船に乗っている
江戸時代でも桑名から知多半島までは船の便で結んでいた
だから東海道(海の道)というのである
340日本@名無史さん:2013/07/30(火) 08:22:55.96
>>339
屁理屈にしか聞こえないね
341日本@名無史さん:2013/07/30(火) 09:22:53.10
別に屁理屈じゃないだろ、ヤマトタケルが
千葉へ渡るのも走水の「海」を渡るとされてるぜ?
342日本@名無史さん:2013/07/30(火) 09:48:28.86
重たい荷物を船に積んで運んだ方が楽だったからで、
倭人伝にある海の向こうに倭人が住んでるとは根本的に意図が違う
343日本@名無史さん:2013/07/30(火) 10:03:18.59
都合の悪い解釈があると見ないふりをする。
それが九州説の最大の問題点だね。
344日本@名無史さん:2013/07/30(火) 10:12:42.35
こじつけ曲解を指摘したら都合の悪い解釈だと言われたわ
畿内説って韓国人みたいだな
345日本@名無史さん:2013/07/30(火) 10:44:57.07
韓国人学者は九州説支持多いけどね。
まあ朝鮮の影響下である事を言いたいだけだがw
346日本@名無史さん:2013/07/30(火) 11:08:30.84
ここは九州説スレなんで、九州説前提で良かろう。
347日本@名無史さん:2013/07/30(火) 11:16:52.80
九州説を支持してるが反対意見を排除する流れには同意できない
たぶん346の人は東遷説でも同じような主張をしてる人だと同一人物だと思うがかなり了見が狭いな
同じようなカキコミ繰り返してるからみんな辟易してると思うけど
348日本@名無史さん:2013/07/30(火) 12:25:33.62
ごちゃ混ぜ記録を陳寿が纏めてんなら解読不能だな。
349日本@名無史さん:2013/07/30(火) 12:32:03.71
「東海の沿う道の国々」ということじゃないの
紀伊〜四国と至る南海道も海の道といえば海の道だが
350日本@名無史さん:2013/07/30(火) 13:25:04.26
>>339
「東に海を渡る…。」については、そのまんま「東」でよくて、
どうして邪馬台国の「南」だけ「東」に変えるのかが問題なのだよ。
351日本@名無史さん:2013/07/30(火) 15:09:10.82
九州説だと邪馬台国から見て、
北に伊都国や支配下の国
南に狗奴国
東に海がありその先に倭人の住む未知の国

これが畿内説だとどうなるんだ?
352ローガン:2013/07/30(火) 16:24:40.59
>>351
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。」
この段落はお約束の異人譚。
「東夷」とは中国の版図拡大に従い、東へ東へ広がっていく。
東方はユートピア。その東の果てに陽の上る扶桑がある。
公孫淵を倒して、ようやく東夷の果てだと思われる倭まで辿り着いたが、そこはまだ陽の上る地ではなかった。
伝説の地は更に東にある… くらいの意味。
353日本@名無史さん:2013/07/30(火) 18:03:28.53
ご都合解釈ですな
354日本@名無史さん:2013/07/30(火) 18:08:45.47
>>352
>「東夷」とは中国の版図拡大に従い、東へ東へ広がっていく。

畿内だったとしたら東ヘ東ヘと広がっているイメージ通りなのだから、南と間違えるなんて不自然だろ
355ローガン:2013/07/30(火) 19:28:16.63
>>354
意味がわからん
356日本@名無史さん:2013/07/30(火) 19:45:48.99
>>347
指摘しているのは私のことだと思うけど、残念ながら346氏ではない。私は
勤め人なので11時ころにカキコすることはできないのでね。ただ私と同じよ
うな考え方の人は他にもおいでになるということだね。
反対意見が問題なのではない。ここは九州スレだから、スレタイに沿ってこの
部分がおかしいという意見なら判る。しかし畿内説の連中は畿内説が正しいか
ら九州説がおかしいとカキコしてくる。反対意見もスレタイに沿った意見を書
けと言っている。
357日本@名無史さん:2013/07/30(火) 20:06:12.05
仮に倭人伝がユートピアを書いたものだとしても、

弥生遺跡の密度や規模などは、奈良よりはるかに九州が大きく、
絶対的な距離は明らかに近い。

また、鉄器や銅器の出土状況をみても、かなりの国力が示されており。
九州である蓋然性があるといえるだろう。

そして、倭人伝がある程度本当の情報を表しているとすれば、
九州であることはほぼ動かないものになる。
358日本@名無史さん:2013/07/30(火) 20:15:55.23
>>357
>弥生遺跡の密度や規模などは、奈良よりはるかに九州が大きく、
情報が古くない?
359ローガン:2013/07/30(火) 20:20:56.54
>>357
私宛てかな?
>>352は、>>351の一部、
「東に海がありその先に倭人の住む未知の国これが畿内説だとどうなるんだ?」に対するもの。
なにも、倭人伝が全て異人譚だと述べている訳じゃない。それに

>奈良よりはるかに九州が大きく、

何故 「奈良」対「九州」になるのかな?
我々の考えるところは広域倭国なんだが。勿論、九州も含まれる。
360日本@名無史さん:2013/07/30(火) 20:21:31.84
>>358

最新とはいえないが、それほどは古くないと思うよ。
奈良文研の遺跡データベースでは、
福岡県の弥生遺跡の数は、奈良県の4倍ほどある。
出土物は鉄は数十倍、銅器でも6倍以上ある。

あくまでも「数」で、量じゃないが、量(重量)の資料が
見当たらないので分からない。
361日本@名無史さん:2013/07/30(火) 20:23:24.38
>>359
>我々の考えるところは広域倭国なんだが。勿論、九州も含まれる。

ならば、一番遺跡密度が大きいところが、首都として一番蓋然性がありますな。
362日本@名無史さん:2013/07/30(火) 20:27:18.13
>>359
>なにも、倭人伝が全て異人譚だと述べている訳じゃない。それに

>>357
>そして、倭人伝がある程度本当の情報を表しているとすれば、
>九州であることはほぼ動かないものになる。

ですねえ。
363ローガン:2013/07/30(火) 20:29:10.50
>>361
そういう主張は可能だと思いますよ。
そして、その年代が合うかどうかが、論点になるのは言うまでもないでしょう。
364日本@名無史さん:2013/07/30(火) 20:32:04.70
>>360>>361
よく言われる遺跡の数ってのは
少しでも発掘調査した所限定なのかな
それとも未調査の遺跡や包蔵地を含んでるのかな

出土した遺物の量については発掘調査=開発行為の多寡にも左右されるし

何れにしても一覧に挙がってるような単純な数字では何とも言えないんでないの
365日本@名無史さん:2013/07/30(火) 20:48:28.51
畿内説の邪馬台国候補地は以前は唐古・鍵遺跡だった。

昭和12年に初めての調査が行われ、現在まで100次を超える調査が行われている。
その結果、邪馬台国の候補地としては諦められた。

代わりに登場したのが、ご存知纏向遺跡。しかし、この遺跡は、ある日突然の
ようにできた遺跡。いろいろ説があるが、まあ三世紀代あたりだろう。
三世紀代といっても100年ほどの幅があるわけだが。

纏向が邪馬台国ならば、すでに九州の各国に「官」が置かれ、伊都国に
諸国が畏れ憚るような「一大率」が置かれているという奇妙なことになる。

纏向に邪馬台国が突然登場したのはなぜなのか、などを含め、畿内説には
奇妙な点が多々ある。
366日本@名無史さん:2013/07/30(火) 20:59:51.17
蓋然性から推論するのが科学だが
考古学に当てはめても適さない
蓋然性とうのは統計であり、全部データが出揃ってみないと推論をスタートできない
だが遺跡データが出揃うなんて事はいつまで待っても無理
無作為サンプリングで発掘という訳にもいかない
データが腰折れしてるのに蓋然性もなにも無いではないか
全国区選挙の当落速報を都市部の開票データだけをもとに発表してるようなもの
遺跡発掘の可能性は奈良より九州の方が大きいと言うだけのこと
奈良は藤原京・平城京の造営によってだいぶ遺跡を壊している
古墳も削平してしまって石棺の石で建物の基礎を作ったりしている
データの公平性はすでに無いんだよ
367日本@名無史さん:2013/07/30(火) 21:21:31.85
ほら、ローガンさん、
蓋然性とやらが批判されてますよ。
368日本@名無史さん:2013/07/30(火) 21:43:00.99
>>352
東西南北のうち東しか答えられないのかよw
都合の悪いことはダンマリか
369日本@名無史さん:2013/07/30(火) 21:58:14.26
蓋然性の指標のとりかたが鉄で良いのかな
ギリシャ文明は青銅器だぞ
370日本@名無史さん:2013/07/30(火) 22:07:27.94
鉄でも銅でも、福岡のほうが、
圧倒的に出土量が多い。
371日本@名無史さん:2013/07/30(火) 22:28:22.53
        /゙ミヽ、,,___,,/゙ヽ
        i ノ  ノ   ヽ、'
        / ` ・  . ・ i、    
       彡 /// ミ(_,人_)彡ミ    ふふふ・・・宇佐    
        ヽ,       ノ
     ./          \,    
     /   ,     .    、 'i
    ./   r´    人.    ヽi
    i   人_,、__ノ  ヽ、_,,_ノ.|
    |   /  ゚        ゚ .|.|
    |  /(       .з   .iノ
   _.しゝ ヽ_______,ノ
  _ノ_.ノ__.\.i,___,    ∞   _ノ
 |ヽ /_.__\ 'ヽ、     ./ |
 |# |++++| .  'ヽ、,_ノ  .i
  ヽ|++++|     ノ    i
    ̄ ̄ ̄i ̄    ./.    .|
        i    ノ ヽ   i
        |   /   .\  |、_
       ,/  /     ヽ、__つ
      .と__,,ノ
372日本@名無史さん:2013/07/30(火) 22:43:05.98
邪馬台国の候補地論争で唯一否定できる場所が有る
それが福岡だ

伊都国って今の福岡市w
福岡県の南部も水行十日陸行一月なんて有り得ないから
373日本@名無史さん:2013/07/30(火) 22:44:50.08
>>355
言葉が足らなかったね
「邪馬台国の方角を「南」と書いたのは当時の中国人が倭国は南に長い地形だと思い込んでいたからだ」というのが畿内説支持者の言い分でしょ
でもあなたの説だと当時の中国人は『「東夷」とは中国の版図拡大に従い、東へ東へ広がっていく 』というイメージを抱いていたんでしょ?
であれば邪馬台国についても東の彼方に在るという想定だったんじゃないの?
その邪馬台国がイメージ通り東に在ったんだったらそのまま「東」と書くだろ?って事
つまり邪馬台国の方角を勘違いした理由が「イメージ」だったとすればあなたの説だと邪馬台国の方角はイメージ通りだったという事になるので間違えるのは理屈に合わないという事
374ローガン:2013/07/30(火) 22:58:05.12
>>367
そんなつまらないことは折り込み済み。
>>361
>ならば、一番遺跡密度が大きいところが、首都として一番蓋然性がありますな。

>>363
>そういう主張は可能だと思いますよ。


>>361氏推論が、未提示なれど某かの論拠に基づくものなら、

「主張は可能だと思いますよ。」


主張自体の可能性の有無に関しては、問題ないと、返信した訳だ。
勿論「首都として一番蓋然性がありますな。」は >>361氏の言い分。その蓋然性の多寡は未提示の論拠次第。

もう少し、他人の書き込みを読んでから参加しなさい。
375日本@名無史さん:2013/07/30(火) 23:07:34.79
纏向を邪馬台国に仕立て上げようとすればするほど
畿内説が自分たちで自分たちの首を締め上げてゆく結果になったのは事実
誰が纏向に注目を集めさせたんだ!と責任のなすり付けあいをしても
今さらどうにもならないのにね
376日本@名無史さん:2013/07/30(火) 23:10:05.63
畿内説の肩を持つわけではないが、
兵庫県ならば福岡県に匹敵する弥生遺跡がある。

邪馬台国兵庫説とか、兵庫発祥説、などなら
少しは説得力もあるだろう。
377婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/30(火) 23:23:17.47
ううむ、「水行」=「湿地行」説は思いっきりスルーされとるなw

それはさておき>>376とか
べつに邪馬台国が当時の列島で最大の国だった必要はない気がする。
女王国はあくまでも三十余国の盟主だよね。

そして、纏向が邪馬台国だという説は、その部分を暗黙のうちに
前提としちゃってる気がするの。
378日本@名無史さん:2013/07/30(火) 23:47:35.00
>>377
日本じゃ湿地そのものが少ないし
湿地を避けて道が出来るし
湿地の中で泊まるなんて考えられないw
379ローガン:2013/07/30(火) 23:52:52.84
>>373
>でもあなたの説だと当時の中国人は『「東夷」とは中国の版図拡大に従い、東へ東へ広がっていく 』というイメージを抱いていたんでしょ?

何を言ってる?
広がっていくというイメージを抱いていたのではない。
例えば、東夷の地であった准河下流域が漢民族に包含されたのちは、朝鮮地方が東夷と位置付けされる訳だ。
版図の外側に位置するものだ。拡大すれば其の先へ逃げていく。 これが東夷観。
私の説じゃない、常識。「当時の中国人が広がっていくというイメージを抱いていた」 などというのは間違いだ。

>であれば

前提が間違い、よってその後の書き込みに対する返信は無意味なのでしない。
380婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/30(火) 23:59:58.80
>>378
たとえば筑後平野下流域や新潟平野なんかは、今でもクリークを掘って
揚排水機場を整備しなければ乾田を維持できないわけで、当時は葦茂る
湿地帯だったのだ。そしてそういう氾濫原に田が開かれ、環濠集落は
そういう湿地帯の微高地にあった。

道について言えば、いわゆるバイパス的な道は中央集権国家になって
出現するもので、緩やかな連合体の段階では集落同士を結ぶ道々の
網だったはずだよね。したがって、必然的に湿地を渡る道になる。
てなわけで、点状に分布する大小の集落をウネウネと一筆書きでつなぎながら
泊まって進む旅だったんじゃないかと。
381あらため(鍋奉行):2013/07/31(水) 00:00:25.34
まあ、まあ、落ち着いて落ち着いて(笑)
382あらため(鍋奉行):2013/07/31(水) 00:01:51.33
>「水行」=「湿地行」説

なにこれ?
383婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/31(水) 00:09:39.01
>>382
ひらたく言うと、大陸平原の民にとっての「陸」とは何なのか?
という話なのだな。

別の言い方をすれば、水田を「池」と見る感性の話でもあるw
384日本@名無史さん:2013/07/31(水) 00:13:21.14
>>379
じゃあ何で版図の外側だった倭国は一貫して南に伸びているの?
385ローガン:2013/07/31(水) 00:56:02.99
>>384
>じゃあ何で版図の外側だった倭国は一貫して南に伸びているの?

「東夷とは中国の版図の外側にある」という常識が、
倭国を南北に長い列島だと思ったのかどうなのか?
という想像の可否に直接的な影響を及ぼさないので「じゃあ何で」と問われても答える気がしない。
もう寝るが、もしまだ私宛てにレスをくれるつもりなら、もっと知識を蓄えてからにして貰えないだろうか?
386日本@名無史さん:2013/07/31(水) 01:00:09.37
道のり的には版図の東の外側にあるだろ
かつて東夷だった朝鮮半島のその先って解釈なら
半島に2郡をおき版図化したから、その外側に広がっている世界は新たな東夷なのさ
倭国が半島の南にあって日本列島が南北に伸びていようと関係ない
387日本@名無史さん:2013/07/31(水) 01:05:03.06
>>385
前の書き込みとは別に、版図の外側たる倭国が南に伸びている様に描かれている理由は何故だと思うか問うている
388日本@名無史さん:2013/07/31(水) 01:12:40.38
ローガンって邪馬台国からみた地理上での東西南北の話を
中国の東夷の概念にすり替えてトンズラかい
389日本@名無史さん:2013/07/31(水) 01:36:44.98
>>377
30余国?魏志倭人伝の女王の支配下の国の数を数えた所、
29くらいしかなかったが…

まあいずれにせよ倭王武は西に66国、東に55国、海北に95国で
合計216国を制圧しているし、
そのくらいの盟主を、ついでに倒していてもおかしくない
西の66国の中の誰かだろう

邪馬台国が畿内だったとすると、西日本のほとんどを制圧していないと
中国に使者が送れないと思うけど、
西日本全域にしては29国にしろ30余国にしろ少なすぎると思う

倭王武は畿内政権なんだと思うけど
武の時代でも畿内政権より西に66国もあるんだからね
390日本@名無史さん:2013/07/31(水) 02:00:19.99
どのみち南と東を間違えただなんて無理があるよね
倭種の国についても東夷がどうのこうの言い出してますます苦しい
391日本@名無史さん:2013/07/31(水) 05:00:51.91
書くのも面倒くさい
九州はニニギが天孫降臨しに来てから注目された土地
ニニギ以前は九州より東方の地が主役なんだよ
九州説なんて九州人のホルホルファンタジーにすぎない
当たり前すぎる
392日本@名無史さん:2013/07/31(水) 08:20:56.82
國産み神話じゃ本州は九州より後だがな
393日本@名無史さん:2013/07/31(水) 09:02:36.00
國産み神話じゃ九州は淡路島より後だがな
394日本@名無史さん:2013/07/31(水) 09:04:23.56
>>391
出雲は出て来るが畿内は出てこない
つまり畿内説はファンタジー以下ってことかw
395日本@名無史さん:2013/07/31(水) 09:17:47.35
昔から出雲は日没所と言われた根の国だからな
そりぁ高天原から天降りする場所としては
はじめの方にでてくるわな
それに比べたら九州なんて辺境の土地すぎるんだよ
九州説を盲信する人たちは九州の日向国の語源でも調べて
日本の中心である高天原の場所でも調べてみるんだな
もちろん天上界である高天原に天降りするなんてことはできないんだから
天降りをした場所(出雲とか九州とか)には高天原なんてないがな
396日本@名無史さん:2013/07/31(水) 09:23:45.78
>>389
>西日本全域にしては29国にしろ30余国にしろ少なすぎると思う

全然少なくないでしょ、女王国じゃない国や魏と関係ない国も
あるんだし。
397日本@名無史さん:2013/07/31(水) 09:30:38.74
>>395
だから、畿内は出て来るのかとw
398日本@名無史さん:2013/07/31(水) 09:31:57.54
>>392
じゃ、距離も方角の矛盾も少ない四国だろ。
イヨの二名島で答えは出てるw
399日本@名無史さん:2013/07/31(水) 09:38:52.60
伊都国は佐賀、それで畿内も四国もない。
400日本@名無史さん:2013/07/31(水) 09:45:28.93
土佐には佐賀という地名もあるけどなw
弥生後期最大級遺跡も存在する。
401日本@名無史さん:2013/07/31(水) 10:01:13.34
くだらん
邪馬台国は大和国で既定だろ

だいたいなー
昔の中国人ってたまーに
東を南だと言ったりするんだよ
沢山の例がある
東を南と言ったり
北を東と言ったりするから
中国大陸にたいして
縦長の昔の日本地図ができあがるほどだ
402日本@名無史さん:2013/07/31(水) 11:10:26.23
沢山の例はよ
403日本@名無史さん:2013/07/31(水) 12:04:03.99
畿内派が拠り所にしている地図は、李氏朝鮮で書かれたものだからな
朝鮮をデカデカと書いて中国を書いて
余った所に日本を書いた

あれは朝鮮の都合、中国の認識と言えるのかなー
中国人は半島をあんなにデカく書くと思うか?
404日本@名無史さん:2013/07/31(水) 12:19:10.04
あれは日本地図を入手した朝鮮人が北が上になっていると思い込んでたためであり、
日本に来たこともないやつが各国の地図を切り貼りして作っただけ
現代でこそ地図は北を上にして描くことで世界中統一化されているが、
当時はばらばらでその日本地図は西が上で描かれていた
405日本@名無史さん:2013/07/31(水) 12:59:10.88
行基図って地図内の文字の向きだと東北が上、九州が下だろ
406日本@名無史さん:2013/07/31(水) 13:34:06.92
test
407日本@名無史さん:2013/07/31(水) 13:38:52.81
随分長い規制だったわ。どうしてかしら。
>>366
あなたの考えによれば、遺跡で邪馬台国を論ずることは出来ないということになるわね。
わたしは倭人伝をもう少し調べてみたいのよ。そこで問題だけど、自郡至女王國萬二千餘里をもとに
末盧國からは二千里で女王国と見てる人が多いようだけどそれはおかしいんじゃないかしら。
帯方郡から狗邪韓国を経て末盧國に至るまでの行程里数を足し合わせて万余里になるとしてるけど、
狗邪韓国から對海国、對海国から一大国、一大国から末盧國までの行程里数は渡海の里数でしょ。つまり
これは国境間の距離よね。對海国と一大国の国内行程の距離は計算に入っていないわよね。
それから、伊都国を糸島としても佐賀の何処かとしても、末盧國からだと間に山などの無人地帯が存在す
るわよね。これらの無人地帯はどこの國にも属していなかったのじゃないかしら。末盧國なら集落や田畑
が末盧國に属するというところが末盧國の領域だったのじゃないかしら。どうしてこんなことを言うかと
言うと、倭人伝に書かれている行程記事の里数は国境間の距離ではないかと思うからよ。私のこの考えか
らすると、伊都国から東南百里で奴国、奴国から東へ百里で不彌国では戸数二万の奴国が狭すぎるという
問題も解消するのよ。伊都国と奴国の国境間の距離が百里、奴国と不彌国の国境間の距離が百里だと何の
問題もないの。そして、不彌国から投馬国そして邪馬台(壹)国までのところでは里数が書かれていない
けど、これは両国が不彌国と国境を接していたから、つまり国境間距離がゼロだから、なのよ。
水行二十日、水行十日陸行一月は距離を表すものじゃないのね。日数が距離に換算できるものなら里数に
直して書くわよ。わたしの推測では、これは梯儁らの旅程日誌の記述が紛れ込んだものだわ。投馬国では
水行で二十日間巡った、邪馬台(壹)国では国内を巡ること水行十日陸行一月であったということね。
408日本@名無史さん:2013/07/31(水) 14:09:27.71
畿内説にとって、「南」を「東」に変えるのは生命線。
倭人伝どおりに「南」では、畿内説は最初から成立しないわけだから。

だから、何が何でも「東」に執着せざるを得ない。
しかし、やはり無理があるな。
409日本@名無史さん:2013/07/31(水) 14:13:49.49
一番の生命線に一番の無理があるんだからお笑い草だよな
410ローガン:2013/07/31(水) 14:55:44.03
>>387
>前の書き込みとは別に、

ずらさなくてよろしい。>>379の常識は理解できたかね?
411日本@名無史さん:2013/07/31(水) 15:44:53.04
南は東の間違いと言うのであれば、東南は東北で東は北となるわけよね。
末盧國から東南陸行五百里は東北陸行五百里だから伊都国は糸島でいいわね。だけど、
さらに東北百里の奴国はどこになるのかしら?まさか能古島?そして北へ百里の不彌国は玄海島?
もっとも1里を70m前後としないローガンさんなら伊都国を糸島にはできないからどこに比定する
のかしら?
412ローガン:2013/07/31(水) 16:32:53.12
>>411
>南は東の間違いと言うのであれば、東南は東北で東は北となるわけよね。

現実の地理と乖離しているので間違いは明らかだが、その原因を見つける資料が欠けている以上、全ての方角を同様に置き換えてよいかどうかは疑問。
間違いを包含している事は事実、ただしその原因は不明。という態度でよろしい。


>もっとも1里を70m前後としないローガンさんなら伊都国を糸島にはできないからどこに比定するのかしら?

いや、私に限らず、まともな思考の者は誰一人「1里を70m前後としない」
勝手に「里」を発明して楽しむのは自由。しかし、主張の論拠に使用するのは当然ペケ。それくらいは理解しなさい。

勿論、伊都国とは糸島辺り。交易さかんな小チャイナタウン。
仮に糸島辺りではないとすれば、
初めての地を訪れる者が自国民の多い所を無視し、記録すら残さなかったという甚だ、不可解な主張をせざるを得ない事になる。
勿論、そんなのはペケ。 伊都国とは糸島辺り。
413日本@名無史さん:2013/07/31(水) 16:54:01.31
>>410
理解出来たから回答よろしく
414日本@名無史さん:2013/07/31(水) 16:58:43.93
「南は東の間違い」の根拠は何かというと「邪馬台国は畿内だから」
結局結論に合わせて都合よく解釈しているだけなんだよね
415日本@名無史さん:2013/07/31(水) 17:01:41.45
隋書や北史とは整合性とれるようになるけど
416日本@名無史さん:2013/07/31(水) 17:16:52.27
>>412
方向については、結局、畿内説にあわせて、都合の悪いところを
都合よく変えているだけ。整合性が全くない。

混一疆理歴代国都之図を持ち出したところで、「東に海を渡ったところの
倭種の国」は想定できないなど矛盾が多々出てくる。

「里」については、倭人伝に、帯方郡から狗邪韓国まで七千里。狗邪韓国から
対馬國まで千里、一支国、末盧国までも千里とあるわけだから、
自分で地図を見て距離を測り、妥当な数字を出してみたらいい。

短里については良く知らないが、倭人伝の「里」がどの程度の距離を
示しているかはわかるはず。
417なぐさのこ:2013/07/31(水) 17:19:40.37
>>412 ローガン
>勿論、伊都国とは糸島辺り。交易さかんな小チャイナタウン。
あらら。ローガンさんは1里は約430mの魏の公式の里という考えだったわよね。
伊都国が糸島だと言うのなら、糸島の東南約200kmのところにあるべき末盧國は何処かしら?
誤摩化さないで答えてね。
418なぐさのこ:2013/07/31(水) 17:26:40.71
わたしの提案>>407について反応が無いわね。みなさん考えてないのかしら?
419日本@名無史さん:2013/07/31(水) 17:34:20.06
畿内説でも方角の間違いなんてないですよ。
奴国を本州西部に跨る国だと考えりゃいいだけだし。
戸数を重視するなら奴国も相当の広さを持つ国なんだしな。
420日本@名無史さん:2013/07/31(水) 18:14:11.22
このスレ、ニワカしかいないだろ?

>>405
行基図は、九州地方が北、東北地方が南になってるんだよ
421日本@名無史さん:2013/07/31(水) 18:16:28.13
世間では既に邪馬台国は大和国って既定路線だからな。
422ローガン:2013/07/31(水) 18:20:36.67
>>413
>理解出来た

OK 言うまでもなく>>379
>>352
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。」
についての話。という事は、
「この段落はお約束の異人譚。」が共通理解という訳だ。

さて、其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、タン耳相近、故其法俗多同
こんな地理観だ。無理もないだろう。
423ローガン:2013/07/31(水) 18:32:01.58
>>417:なぐさのこ
>1里は約430mの魏の公式の里という考えだったわよね。

当然だ。それ以外にないから。

>伊都国が糸島だと言うのなら、糸島の東南約200kmのところにあるべき末盧國は何処かしら?

北西だろうが。
だから地誌に間違いがあるというんだ。
「倭人伝に決して間違いなど無い」なんてふざけた前提を勝手に設けたら、上で書いたような不可解な主張をせにゃならん。

勿論、唐津辺りで結構。
424ローガン:2013/07/31(水) 18:53:14.91
>>416
>自分で地図を見て距離を測り、妥当な数字を出してみたらいい。

そのあなたが出した妥当な数字とやらでは、
「又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里。」
侏儒國はどこにあったの?
加えて
「夷人不知里数」なんだから、四千餘里と記述がある以上、使者が侏儒國まで足をのばした と主張せねばならんが それでいい?
425日本@名無史さん:2013/07/31(水) 18:54:20.94
>>422
それは元資料から倭の地形を推察した陳寿の地理感だよね
実際に邪馬台国まで赴いた魏使の地理感ではないでしょ
426日本@名無史さん:2013/07/31(水) 19:01:28.48
「東を南と間違えた」とする根拠は一体何?
427日本@名無史さん:2013/07/31(水) 20:11:13.22
四千餘里か、短里で与論島あたりかねえ。

短里短日説で、短里千里=一月とすると、
水行一年は12000里

これを単離で換算すると、
沖縄の少し向こうか、台湾のちょっと手前。

誤差があることを考慮すると、どっちかは決められないが、
そんなもんだ。
428なぐさのこ:2013/07/31(水) 20:32:32.39
>>423 :ローガン
あら、間違って東南で書いたけど西北だわね。よく気付いたわね。えらい!
でもさ、唐津辺りを末盧國とすれば糸島まで五百里(二百キロ強)では違いすぎるでしょ。あなたは倭人伝の
地誌に間違いがあると言うけど、6〜7倍も間違うなんておかしいでしょ。自分の主張の矛盾点は地誌の記述の
誤りにして済ますのね。そんなんだったらどんな説でもありよ。
429日本@名無史さん:2013/07/31(水) 20:57:54.74
>>420
行基図で九州が上になるのは地図外に書かれた文字の向きに合わせたとき
地図内に書かれた文字に合わせると九州が下になる
430なぐさのこ:2013/07/31(水) 21:00:07.68
>>423, 424
>>1里は約430mの魏の公式の里という考えだったわよね。
>当然だ。それ以外にないから。

あのな、東夷伝では1里は約70mで書かれているのだが、君にはそれが分からんのか?韓条には方可四千里
とある。郡から狗邪韓国まで七千餘里とある。狗邪韓国から對海国まで渡海千餘里とある。これが魏の公式の
里ではないことが分からんか?

>そのあなたが出した妥当な数字とやらでは、
>「又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里。」
>侏儒國はどこにあったの?

その段落は「お約束の異人譚」だろうが!!
431日本@名無史さん:2013/07/31(水) 21:00:27.27
ローガンとかいうやつの根拠のない決めつけ酷いな
それにコミュニケーション能力低すぎ
他人に自分の考えを誤解を招かないように分かりやすく伝える能力がもの凄く劣っている
同じ人間とだけ交流してて、外部の人間と交わらない世界で生活してるんだろうな
432日本@名無史さん:2013/07/31(水) 21:02:27.74
キチガイって頑固だよな
たぶん九州説論者は一万年後も延々とループした議論してるよ
433日本@名無史さん:2013/07/31(水) 21:08:18.36
行基図は通常、九州が北で東北が南に記されている地図だよ。
434日本@名無史さん:2013/07/31(水) 21:16:17.98
そもそも、九州の日向・中国の出雲・近畿の大和って、天下りした下界だろ。
天上界の高天原が、どこにあったのかの議論をした方がよくね?
435日本@名無史さん:2013/07/31(水) 21:16:42.94
九州が北って何?
上ってこと?
436日本@名無史さん:2013/07/31(水) 21:16:57.40
>>433
画像検索で出てくるのはほとんど地図内に書かれた国名が九州を下として書かれてるんだけど
437日本@名無史さん:2013/07/31(水) 21:20:57.33
>>436
画像検索は見やすくしてくれるもんな(笑)
僕もたまに使っているツールだよ(笑)
438日本@名無史さん:2013/07/31(水) 21:23:24.64
どこをどう見やすくしてるんだろう
439日本@名無史さん:2013/07/31(水) 21:25:51.86
日本人が見るようにってことだろ
440日本@名無史さん:2013/07/31(水) 21:26:06.13
地図の向きじゃねーぞ
地図内に書かれた文字の向きだからな
441日本@名無史さん:2013/07/31(水) 21:51:50.87
侏儒國裸國黒齒國については「お約束の異人譚」だろうが、
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」については小人や裸族の話じゃなく「倭種」だと言ってるのだから現地で新たに得た情報だろう
いっしょくたに「異人譚」とするのはご都合解釈が過ぎる
442日本@名無史さん:2013/07/31(水) 22:10:45.27
>現実の地理と乖離しているので間違いは明らかだが、その原因を見つける資料が欠けている以上、全ての方角を同様に置き換えてよいかどうかは疑問。
>間違いを包含している事は事実、ただしその原因は不明。という態度でよろしい。

なんだこれ
自分の偏見は正しいと主張してるのに等しい
同じ基準で方角が判断された可能性が高い以上、すべての方角が同じようにずれていると考えるべき
443:2013/07/31(水) 22:14:08.08
(下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする。黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある)「山海経」
これは日本国の扶桑国の位地だけど、東西南北の方角と、上下左右の方向が、区別されて記されている。
これは、上とは上界、下とは下界という意味であり、東西南北の方角とは、別の意味として使われているのだと思う。
つまり、山海経によると、湯谷は下界、その湯谷の天上界に扶桑国があり、黒歯国の西(中国人の言う、南が東ならば、北は西となる)に扶桑国がある。
自己推論だが、湯谷は近畿地方の熊野だと思う、そして天上界である扶桑国が、下界である熊野の東にある房総だと思う。そして、そのまた東にある黒歯国とは、羽州の羽黒三山だと思う。
444婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/31(水) 22:24:40.26
みんな方角にナーバスになりすぎな気がする。

たとえば末盧國が唐津市の桜馬場遺跡だとして、そこの道端に立って
そこらへんを歩いている人に「糸島にはどう行けばよござんしょ?」と尋ねたら、
みんな南東に伸びる204号線を指差すと思うぞ。

実際の行程はそこから山道をクネクネ進み、結果としては東北東になるが、
出発点から到着点を見通せるわけじゃないのだから、歩いた人にとって
最も確度の高い情報は「出発時にどちらに向かって歩き始めたか」になる。

このへんも、平原の民の日常を火山性列島に持ち込んだ結果かと。
445婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/31(水) 22:25:23.85
>>389の上んとこ
あ、ごめん。
そこらへんうろ覚えなのw
446日本@名無史さん:2013/07/31(水) 22:33:21.94
>みんな南東に伸びる204号線を指差すと思うぞ。
もしそうならば、玄界灘沿岸から水行の方角は、誰でも北を指すだろう。
447日本@名無史さん:2013/07/31(水) 22:34:01.05
邪馬台国が九州にあったなんてのは、
もう古くさい推論だと思うんだよね。
当時の邪馬台国は、現代の近畿の大和国でいいんだよ。

もう、そういう議論の次元を越えて。
天照が、下界である九州の日向国住みのニニギに、
家督相続(豊芦原は吾が子孫が治める)する以前に、
天照が住んでいた天上界の“高天原”が、
どこにあったのかの議論に進みたいものだ。
448婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/31(水) 22:36:02.69
>>446
指さんわいw
沿岸航海を前提にしているのは彼我共にわかっているのだから、右か左になる。
449日本@名無史さん:2013/07/31(水) 22:39:34.40
>右か左になる。
右も左も書かれていないのは困ったもんだね。
450日本@名無史さん:2013/07/31(水) 22:48:17.01
俺、東北出身だけど
東北の蝦夷は、昭和時代の人が思っているより
日本語は喋れたし
製鉄技術もあったよ
それに、東北の日高見国を日の本と呼んでたし
遠い九州の人は、そういうことを知らないだろうけど
451日本@名無史さん:2013/07/31(水) 23:06:45.55
“国譲り”の場面で、高天原にいる武甕槌と経津主神が、出雲に天降りして、大国主から
国を譲ってもらい、天照太神の住む高天原に帰った。
その武甕槌と経津主神がいる所が、高天原に近い場所だろう。
452日本@名無史さん:2013/07/31(水) 23:24:51.20
邪馬台国は大和国。
高天原は水中(海上)の房総半島で決まりだな。
いにしえの古書では、そこに世界の中心である世界樹があった。
水中(海上)の房総半島の扶桑樹のことだな。
453日本@名無史さん:2013/07/31(水) 23:34:07.77
九州の者だが東北日高見国とか日高見川→北上川説とか知ってるよ
でももっと昔は畿内を日高見国と書いてるだろ
454ローガン:2013/07/31(水) 23:35:05.46
>>430:なぐさのこ
>東夷伝では1里は約70mで書かれているのだが、君にはそれが分からんのか?

だから、1里が70mの度の体系を指し示す直接の史料の提示をもう何十年も前から、求めているんだがねえ。
誰一人、いつまで経っても提示しない。簡単な事だ。論証は不要、度の体系から1里が70mを指す史料の提示だけでいいんだ。
勿論、なければ無いでもいい。それなら、単なる個人の想像だ。想像を糾弾するつもりはない。
しかし、その個人的な想像を「君にはそれが分からんのか?」と押し付ける神経には 学問というカテゴリーを逸脱した妙なものを感じるが。

>その段落は「お約束の異人譚」だろうが!!

そうだ。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。」はお約束の異人譚の段落だ。

しかし、>>416
>「東に海を渡ったところの倭種の国」は想定できないなど矛盾が多々出てくる。

どうもこの方は、その段落が単なる異人譚ではないとお考えのようなので、そこに記載の4000里について質問した訳だ。
「異人譚の段落である」という私と同じ認識のあなたが、私宛てに
『その段落は「お約束の異人譚」だろうが!! 』などというのはお門違い。
455紫敷布:2013/07/31(水) 23:35:05.42
>>442
そうよねえ。ローガンのおっさんは屁理屈ばかりで文章が加齢臭を発しているわよね。
對海国から「南渡一海で一大国に至る」とほぼ正確に南の方角を認識しているのよね。それがどのような
手段による認識だったか(日の出の位置か星の位置かその他か)書かれていないけど、九州に上陸した途
端に認識が変わるなんておかしいでしょ。
私は魏の使者は磁石を持っていたと思うの。磁鉄鉱を木片に埋めたやつね。水に浮かべれば南北を指す
のよ。これがあれば東に千歩進んで南に千歩進んだから東南の方向に千四百歩進んだことになる・・という
具合に目的地までの方角と距離が計算できたと思うの。今の中学生でもできるでしょ。か〜んたん。
456日本@名無史さん:2013/07/31(水) 23:44:00.17
たぶん九州説論者は倭人伝しか読んでないんだろうね
昔の中国人なんて東夷の日本が南にあるとか
他の書物にも沢山書いてあることなんだけどね
たぶんニワカなんだろうね
457日本@名無史さん:2013/07/31(水) 23:44:01.14
>>451
高天原から派遣された武甕槌命は、出雲で建御名方神を打ち負かしたが、
建御名方神は諏訪まで逃げた。
結局、つかまり、殺さないでください、ここ以外には行きません。と命乞いを
する。

常識的に考えて、出雲の建御名方神は高天原と反対の方向に逃げたと考えられる。
まあ、敵の本拠地の方には逃げないだろう。
458日本@名無史さん:2013/07/31(水) 23:47:47.17
日本などと軽々しく書くところを見ると何も分かってないな。
459日本@名無史さん:2013/07/31(水) 23:49:29.72
>>456
ここの九州説達ってことで 禿同
460日本@名無史さん:2013/07/31(水) 23:52:04.13
元々この国は日の出る国だ
中国人が呼んでいた倭などの呼称の方が正しいとでも言いたいのか?
笑えるね
461日本@名無史さん:2013/07/31(水) 23:54:03.78
世界中、どこでも日は出るだろう。
462日本@名無史さん:2013/07/31(水) 23:54:37.97
>>454
>だから、1里が70mの度の体系を指し示す直接の史料の提示をもう何十年も前から、求めているんだがねえ。

おまえ年いくつだよ
老いぼれ爺さんだったんかいw
463日本@名無史さん:2013/07/31(水) 23:55:21.42
>1里が70mの度の体系を指し示す直接の史料の提示
魏略でも見たら。
464日本@名無史さん:2013/07/31(水) 23:58:49.40
ニワカは日神という存在も知らないんだろう
世界の国旗で、日本は太陽、日本より西側は太陰なのは、偶然じゃないんだよ
465なぐさのこ:2013/07/31(水) 23:59:14.75
>>454 ローガン
あのね、東夷伝の里数記事はわたしの想像ではないのよ。書かれた事実なのよ。その里はあなたの言う
魏の公式の里ではないというのもわたしの想像ではなく事実なのよ。韓の方可四千里も1里を約70mと
すればぴったり合うのよ。これも想像ではないのよ事実なのよ。
このように魏の公式の里で書かれていないことは事実だし、書かれている里を求めてみれば1里は約70
mとなるというのも事実なの。
「度の体系から1里が70mを指す史料」は周牌算徑の一寸千里の法じゃないの。
466日本@名無史さん:2013/08/01(木) 00:24:48.44
「実距離の○○倍で書かれている」というなら分かるが、「公式の里でない」というのは論理が飛躍し過ぎ
467日本@名無史さん:2013/08/01(木) 00:27:25.59
公式の里なんて証拠がまったくないことも知らんらしいな。
468日本@名無史さん:2013/08/01(木) 00:28:49.19
九州説って不毛な議論だよね
なぜ伝承も無い田舎者が「九州に首都があった」と言えるのかが不思議
伝承が多く残っている所でさっさと話しを進めた方がいいよ
469日本@名無史さん:2013/08/01(木) 00:30:06.69
帰納法的な考え方を否定するってのは頭がカチンカチンの証拠
自然科学の法則はほとんど帰納法的アプローチで発見されてんのにな
今回のケースだと1里=70mで合致する行程が複数見つかればそれから蓋然性を導くって方法
470日本@名無史さん:2013/08/01(木) 00:38:05.98
畿内に首都があったという伝承なんぞないぞ。
471日本@名無史さん:2013/08/01(木) 00:42:24.36
帰納法的アプローチであっても最終的には裏付けが必要
裏付けが無い内は単なる仮説
472日本@名無史さん:2013/08/01(木) 00:45:40.88
>>467
骨尺が出土しているが
473日本@名無史さん:2013/08/01(木) 00:48:18.75
それで分かるのは尺の長さだけだろう。それが公式の尺だとどうして分かるんだ?
それと何尺で1里になるのか、どうして分かるんだ?
474日本@名無史さん:2013/08/01(木) 00:50:46.78
短里が仮にあったとしても存在を証明するのは極めて困難
こういう物を前提に議論を進めても不毛でしかない
475日本@名無史さん:2013/08/01(木) 00:54:21.05
存在は倭人伝や魏略に書かれている記事自体で明らかなんだよ。
476日本@名無史さん:2013/08/01(木) 01:00:24.41
じゃあ短里では一尺何センチ?一歩は何尺?一里は何歩?
477日本@名無史さん:2013/08/01(木) 01:01:34.72
>>471
100%に持っていくためには確かに裏付けが必要
だが蓋然性が高いってだけでも十分でしょ
一番問題なのは帰納法的アプローチそのものを認めないって姿勢だよ
478日本@名無史さん:2013/08/01(木) 01:04:30.38
アレだな。小学校で、昔は小さな国が沢山あって、それが大きくなった、とか教えたのが悪かったよな。戦後レジームだな(笑)
479日本@名無史さん:2013/08/01(木) 01:08:11.64
>>456
その文書はなに?

隋書倭人伝だと「その地形は東高西低。」と書いてあるが
480日本@名無史さん:2013/08/01(木) 01:08:14.75
オスマン帝国もムガル帝国も発生時は小国ですがな
481日本@名無史さん:2013/08/01(木) 01:15:17.62
482日本@名無史さん:2013/08/01(木) 01:21:20.33
>>477
別に帰納法的アプローチ自体は否定しないさ
でも裏付けが無いのに「短里があったのは事実」などと宣うのはおかしいだろ
483日本@名無史さん:2013/08/01(木) 01:27:40.02
>>482
事実なんて言ってないが
短里があった可能性が高いってだけだ
裏付け、裏付けと何度も言ってるが、それこそ帰納法を認めてない証だな
帰納法とは裏付けなしで導くアプローチなんだが
484日本@名無史さん:2013/08/01(木) 07:18:58.43
短里の推測法は、

距離から推測する倭人伝
天測と地球の大きさをつかう周髀算経
面積を使う、韓地方四千里
月数を使う隋書百済伝

などがあり、互いに相互変換できることから、
誤差を除けば、数学的に体系が整っていることが
伺える。
485なぐさのこ:2013/08/01(木) 10:23:14.11
>>476
>じゃあ短里では一尺何センチ?一歩は何尺?一里は何歩?

この人な〜んにも知らないんじゃない?
周髀算経の一寸千里の法から導かれる里は6尺で1歩、300歩で1里という体系とは異なる体系の里なんだからね。
毎回毎回同じ質問ばかりしてアホみたい。
486日本@名無史さん:2013/08/01(木) 11:28:47.91
だからその「異なる体系」が何なのかを提示してよ
487日本@名無史さん:2013/08/01(木) 11:34:01.67
日本の1里は一尺何センチ?一歩は何尺?一里は何歩?
488日本@名無史さん:2013/08/01(木) 11:41:46.27
一歩は何尺?一里は何歩?とか分からんが、1里四キロって分かれば十分に使える、
ま、そうゆうこったな。
489日本@名無史さん:2013/08/01(木) 12:28:22.05
>じゃあ短里では一尺何センチ?一歩は何尺?一里は何歩?

邪馬台国の場所を推定するのにそんな情報は不要
必要なのは1里が何メートルであったかである
一尺何センチ?一歩は何尺?一里は何歩?が知りたきゃ自分で調べろ
そんなのは趣味の世界に過ぎない
以上
490なぐさのこ:2013/08/01(木) 12:33:33.67
>>486
>だからその「異なる体系」が何なのかを提示してよ

提示したじゃない。周髀算経の一寸千里の法を勉強すれば分かるわよ。自分で勉強しなきゃ伸びないわよ。
491日本@名無史さん:2013/08/01(木) 12:42:31.47
その一寸千里の法ではどういう基準で一里が決まるんだい?
まさか影の長さが基準だとも言うの?
492なぐさのこ:2013/08/01(木) 12:44:14.29
中原において一寸千里の法を適用すれば1里は約71mだそうよ。
これは測るのに都合の良い数値なのね。大人がゆっくり歩くときの歩幅が約70cmだから、百歩(片足)
で1里になるの。非常に実用的でしょ。
493日本@名無史さん:2013/08/01(木) 12:49:16.14
>>492
一歩=約70センチとか一里=百歩とか周髀算経にも書いてないだろ
494日本@名無史さん:2013/08/01(木) 15:33:58.59
九州説になると九州にコンパクトになりすぎないか?
出雲は?近畿は?日本じゃないの?
495日本@名無史さん:2013/08/01(木) 15:42:21.07
周旋5000里、つまり四〇〇キロ、九州ならばちょうどだ。
496日本@名無史さん:2013/08/01(木) 15:47:26.01
>>494
もちろん出雲もあったし、奈良には大和朝廷の初期段階のような国もあっただろう
でも中国が倭国として認識してたのは九州だけだったってこと
497日本@名無史さん:2013/08/01(木) 16:32:40.40
何尺何歩と良く言うが、
尺寸と歩里の単位系は本来別の由来で、
相互換算できるものではない。

周髀算経でも、九章算術でも、
古い数学書は混ぜて使われていない。
498日本@名無史さん:2013/08/01(木) 16:34:13.88
>>494
東に渡海したところにも倭種がいると書かれている。
499日本@名無史さん:2013/08/01(木) 16:35:43.04
6尺1歩が、いつから使われるようになったのかは不明。
500日本@名無史さん:2013/08/01(木) 17:02:57.30
>>496
そのとおり
邪馬台国は伊都国、奴国、不弥国級の小国家を30ほど束ねていただけの小国家連合
たまたま大陸に近い九州にあったからこそ狗奴国とともに大陸の史書に名が残っただけ
出雲や吉備、四国(阿波)、大和、尾張、東海、越などにあった連合国家のほうが
規模も大きく文化的に進んでいたかもしれない
501日本@名無史さん:2013/08/01(木) 19:10:29.41
なんか前にも書いた気がするが…

邪馬台国畿内説は邪馬台国=大和王権説だと思われるが、
そうだとすると卑弥呼と台与は誰なんだぜ?

卑弥呼をアマテラスにしても神功皇后にしてもヤマトトトヒモモソヒメにしても
台与に対応する人がいないんだぜ

つまり関係ないってことだと思うよ

だいたい女王を立てて国がおさまった記憶のある国が
「女から声をかけるのはダメ」(国産み)とか
「女のせいで国が乱れた」(天岩戸)とかの神話を採用するだろうか
違う気がする

>>500
規模はともかく三世紀頃に九州以東が北九州より文化的に進んでいたというのは
考古学的見地から否定的らしい

やっぱり大陸とのアクセスに有利な北九州が進んでいた
邪馬台国畿内説は、そうした北九州と畿内の格差も無視している
畿内政権が北九州を服属させていたなら畿内が当時もっとも先進的な地域にならないとおかしいだろう

畿内が北九州より先進的になるのは四世紀頃かららしい

畿内は大規模な古墳を作っていたし、人口では北九州に勝っていたのだろう
野蛮だが数に勝る畿内政権が北九州政権をぶったおしたって所だろう
四世紀が空白なのもそうした政権交代のせいなんだろうね

もし邪馬台国と大和王権が連続性があるなら
四世紀が空白にならないと思う
502日本@名無史さん:2013/08/01(木) 19:36:31.44
気がする
思う
だろう
らしい



俺もそんな気がしてきたよw
503日本@名無史さん:2013/08/01(木) 19:49:26.05
倭人点が伝える倭国は、倭人が住んでいたところだ。異種の種族はいない。
本州は、倭王武の上表文から明らかなように、毛人が住んでいたところなんだよ。
もし、倭人伝が伝える倭国が本州を含むものならば、毛人との関係を書いていなけ
ればおかしいわけだ。倭国は九州のみの話さ。
504日本@名無史さん:2013/08/01(木) 19:52:38.52
>>497
短里説では寸尺と歩里は相互換算出来ないのね
だとして一歩が何cmで何歩が一里なの?
歩と里は相互換算出来るよね
505日本@名無史さん:2013/08/01(木) 20:35:14.96
>>503
女王国の東に倭種の国が有ったとの記述があるけど、それは無視?
506ローガン:2013/08/01(木) 20:54:55.38
>>465:なぐさのこ
>「度の体系から1里が70mを指す史料」は周牌算徑の一寸千里の法じゃないの。
周髀算経
冬至日丈三尺五寸.夏至日尺六寸.冬至日長.夏至日短.日損益寸.差千里.故冬至夏至之日.南北遊十一萬九千里.

これをどう計算したら1里が70mになるんだ?(笑)
507日本@名無史さん:2013/08/01(木) 21:11:04.26
倭はもともと100以上の国が有った
卑弥子の支配が及ぶのは
このうちたった30

つまり邪馬台国は九州しか支配してなかった
記述から見て対馬・壱岐・狗邪韓国は卑弥子の支配下に無い
出雲の支配下に有った可能性も有る

東に海を渡って千里、倭種の国が有るというのは四国になる
海峡横断は全部千里だからなw
508日本@名無史さん:2013/08/01(木) 21:16:03.20
女王国以北の国は従属してたんじゃ無いの?
509日本@名無史さん:2013/08/01(木) 21:21:26.25
だから女王国は南に有ったw
510日本@名無史さん:2013/08/01(木) 21:22:36.60
いやいや
女王国は伊都国から南
南に有ったのは都の邪馬台国
511日本@名無史さん:2013/08/01(木) 21:22:43.77
100の國が30程に淘汰されたんだろ?
その一つが狗奴國だろうが、想像するに狗奴國はデカイ。
九州の南半分は狗奴國だろう。
512日本@名無史さん:2013/08/01(木) 21:30:14.01
女王国と邪馬台国を分けて捉えている人いるよね
意味不明としか言い様がない
513日本@名無史さん:2013/08/01(木) 22:02:23.07
>>512
倭>女王国>邪馬台国

邪馬台国は戸数7万
女王国の北は一大卒を伊都国において検察してるとある
これは対馬など北の国を
伊都国が監視していると言う事だろう
514日本@名無史さん:2013/08/01(木) 22:09:30.09
倭人伝の文脈から判断すれば女王国=邪馬台国だよ
515日本@名無史さん:2013/08/01(木) 22:12:09.60
女王国≠邪馬台国と考えてるのは極一部の少数派
ほとんどの人は女王国とは邪馬台国を別の言葉で言い換えた表現だと考えてる
つまり
日本列島>倭国>邪馬台国=女王国
516日本@名無史さん:2013/08/01(木) 22:16:30.45
>>514-515
とすると、邪馬台国の東は海に接していた事になる
畿内説と博多説が死ぬぞw

九州南部(日向)説には問題ないが
517日本@名無史さん:2013/08/01(木) 22:17:05.69
女王国≠邪馬台国と思っている人は文章読解能力に問題がある
国語の成績悪かったと思う
518日本@名無史さん:2013/08/01(木) 22:18:34.51
>>517
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。

邪馬台国は東に海に接していた
これでいいですね?
519日本@名無史さん:2013/08/01(木) 22:21:13.38
>>516
邪馬台国は大分か宮崎にあったはずだから問題ない
520日本@名無史さん:2013/08/01(木) 22:21:47.96
そういう事でしょうな
521日本@名無史さん:2013/08/01(木) 22:34:40.76
じゃあ、女王国を北を検察するため
なんで伊都国に一大卒を置いたの?
都から遠すぎて不便だろ

一大卒は国際貿易港で税関の様な存在だと思うが
都より北であれば
それは国内政治の拠点に過ぎない
522日本@名無史さん:2013/08/01(木) 22:46:30.91
卑弥呼は倭王だから、その場合の女王国は「倭」と考えたほうがいい。
29カ国か30カ国の広がりが倭の地域。

ただ、陳寿もあまり厳密には考えていないだろうと思う。
邪馬台国と受け取るのが妥当なところもある。

倭人伝には邪馬台(壱)国は一度しか出てこない。陳寿はあまり邪馬台国を
使いたくなかったのかもしれない。
523日本@名無史さん:2013/08/01(木) 22:52:05.51
狗奴国も倭国に含まれると中国人は考えてたと思うよ
524なぐさのこ:2013/08/01(木) 23:05:37.88
>>506 :ローガン
>>465:なぐさのこ
> 冬至日丈三尺五寸.夏至日尺六寸.冬至日長.夏至日短.日損益寸.差千里.故冬至夏至之日.南北遊十一萬九千里

これは垂直に立てた八尺の棒の影の長さが冬至の日(の正午)では1丈3尺5寸、夏至の日(の正午)では1尺6寸であり、
その差は11尺9寸になる。1寸の差で千里の差があるので(天蓋の)南と北の距離は119×1000里=十一萬九千里になる
と言っているだけよ。
中原で夏至の日の正午に南北方向に於いて実測して、八尺の棒の影の長さが1寸違う所の距離をはかったら千里が10万歩(両足で
1歩とするなら5万歩)だったということじゃないの。もちろんメートル法はなかったから1歩が70cmなどということは分から
ないわよ。
525日本@名無史さん:2013/08/01(木) 23:13:29.48
>女王国とは邪馬台国を別の言葉で言い換えた表現だと考えてる
そう考えてる人が多いようだが、まちがいだね。
史家はそんないいかげんな書き方はしない。
526日本@名無史さん:2013/08/01(木) 23:21:13.81
別にいい加減ではないだろ
527日本@名無史さん:2013/08/01(木) 23:34:44.77
>>523
その拘奴国なんだけど
『後漢書』倭人伝
自女王國東度海千餘里至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。
(女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。いずれも倭種とはいえども女王には属していない。)

というわけで四国が正解みたい
きっと仲裁したので正しい情報が入ったんだろうな
528なぐさのこ:2013/08/01(木) 23:44:26.08
倭人伝に出てくる女王国は以下の五つね。

1:世有王、皆統屬女王國
2:自女王國以北、其戶數道里可得略載 
3:自郡至女王國、萬二千餘里。
4:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之
5:女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種

これらの女王国が全て同じものを指すのかどうかが問題ね。
529日本@名無史さん:2013/08/02(金) 00:01:28.99
>>524
棒の高さ、影の長さから2つの地点における太陽の南中高度と緯度を求める
A地点:高さ8尺、影1尺6寸 → 南中高度78.69度 → 北緯34.71度
B地点:高さ8尺、影1尺7寸 → 南中高度78.00度 → 北緯35.4度
となる
ところで緯度が1度違うと距離は111km離れている
(地球1周4万km÷360度=111km)
A地点とB地点の緯度の差は0.69度だから距離は76.59km離れている
(111kmx0.69=76.59km)
1000里で76.59kmということは1里は76.59mとなる
530日本@名無史さん:2013/08/02(金) 00:16:41.21
女王国は、皆同じ概念だよ。世有王、皆統屬女王國 、自郡至女王國、萬二千餘里と
あるから北九州諸国は女王国に入らない。
女王国は万2000里から南だ。そして、女王国の東は海。熊本以南は狗奴国を除き
全部女王国の領域ということだろうな。南の奴国も女王の境界とあるだろ。
531日本@名無史さん:2013/08/02(金) 00:28:00.38
奴国は九州北部
532日本@名無史さん:2013/08/02(金) 00:46:21.00
南にも旁国の奴国があるんだよ。
533ローガン:2013/08/02(金) 01:01:29.81
524:なぐさのこ
冬至日丈三尺五寸.夏至日尺六寸.冬至日長.夏至日短.日損益寸.差千里.故冬至夏至之日.南北遊十一萬九千里.
135寸−16寸=119寸。
ここに、寸の差は千里と書いてある。この「一寸千里法」によると、太陽の位置は、夏至と冬至で119000里の差がある。
これに実際の数値を代入
夏至…北回帰線 北緯23.5度
冬至…南回帰線 南緯23.5度
地球上における中心角47度の弧が、影の実測から得た119000里にあたる。
実際の地球上でのこの距離は、2πr×47度÷360度
これを119000で割ると 1里は約44m

つまり、1里が約70mってのは、夏至の日限定の尺度。
季節によって、その長さが変化する
これが君達の大好きな「短里」。
534日本@名無史さん:2013/08/02(金) 01:03:30.72
なるほど。公式の里とはちがうのがあったのですね。
535日本@名無史さん:2013/08/02(金) 01:10:55.78
半島から対馬 千里
対馬から壱岐 千里
壱岐から九州 千里
女王国から東 千里

これだけおおざっぱなのに実測から計算しても何も出ないぞ
536日本@名無史さん:2013/08/02(金) 01:23:06.43
季節で変化する里ってすごいなwww
537日本@名無史さん:2013/08/02(金) 01:56:13.63
短里は季節により長さが変化するので、実距離から逆算する事でどの季節だったのかを知ることが出来る
538日本@名無史さん:2013/08/02(金) 02:36:21.64
季節によって影の長さが変わるのは当然だから、
いつでも一寸千里が成立するわけではない。

夏至の日の陰の長さが、一寸千里である。
539日本@名無史さん:2013/08/02(金) 02:47:14.52
九州にあったのは
筑紫の磐井王朝じゃないかな?
筑紫の磐井王朝は、武内宿禰の末裔だから
大和王朝の分家としての王朝が
九州にあったと考えるのが自然

現に戦国大名の大内氏は
大内義興日本国王を自称して
中国と交易していたし

それに似たような存在が
九州にあっただけだと考えるのが
自然だねカンターン
540日本@名無史さん:2013/08/02(金) 02:56:26.31
ああ、そうだろうな。

当時も戦国時代の大内氏のような存在が、九州にあったんだと思うよ。
大内氏のように日本国王を称していたから、中国人は九州を首都だと勘違いした。
でも、実は戦国時代に畿内に首都があったように、九州より東の方に首都があったとみるのが自然だろうな。
541日本@名無史さん:2013/08/02(金) 03:13:08.00
そもそも、三世紀時点では全国支配はしてないだろうよ。
坂上田村麻呂の蝦夷征伐だって、九世紀だ。

実質4世紀から5世紀といわれる、景行天皇から神功皇后で、
九州がやっと統一できた程度。

山陰で鉄の出土量が増え始めるのが三世紀末期
製鉄が五世紀

出雲の国譲りはどの段階かな?
542日本@名無史さん:2013/08/02(金) 03:26:22.73
伊勢国に住む猿田彦が天皇家の祖ニニギを日向国にエスコートしたんだから
それを考えると九州は元々分家的な要素が強くて
天照太神から天穰無窮の神勅を受けてから
ニニギ王朝が宗家的な存在になったんだと思う
ニニギ王朝以前は伊勢国の方に近い天照太神王朝が宗家だったんだろうね
天穰無窮の神勅ではニニギ王朝の九州の方は豊芦原と記されてあるから
ニニギ王朝以前の天照太神王朝があった伊勢国方面に高天原があったんだと思うよ
だからニニギ王朝の神武天皇が神武東征をしたと考えるとすごく自然になる
543日本@名無史さん:2013/08/02(金) 03:41:20.03
>>542
ココのスレの人達は九州絶対論者だから何言っても無駄。
田舎だった九州に日本の首都があったと本気で思い込みで議論してて、
九州以東を疎外しているから、九州以外の人達から「は?」って思われている。
九州以外の郷土史も知らないみたいだから、九州のみにあった小国を、
日本国の起源だと思ってる無学者達だよ。
544日本@名無史さん:2013/08/02(金) 03:48:29.93
小九州
545日本@名無史さん:2013/08/02(金) 03:51:14.68
しょうがないだろ元々九州には何も無いんだから。邪馬台国があったと妄想して人を呼ぶしか稼げないんだよ。
546日本@名無史さん:2013/08/02(金) 03:55:15.85
江戸時代から続いている嘘だからな。九州に高天原があったとか。
もう取り返しがつかなくて、最近は意地になってきてるからな。
547日本@名無史さん:2013/08/02(金) 03:55:51.29
>>541
国譲りは3世紀後半から4世紀前半じゃないかな
崇神かその少し後くらいで、景行天皇が九州行くときはとっくに終わってた
記紀にあるニニギ前ってのは絶対にありえない
大和朝廷が出来てないんだから譲る相手がまだ存在してない
548日本@名無史さん:2013/08/02(金) 04:15:56.29
伊勢神宮が「日の本の昼を守る」のに対し、出雲の日御碕神社は「日の本の夜を守る」との勅命があるから、高天原は畿内らへんで、豊葦原は出雲とか九州あたりだな。
549日本@名無史さん:2013/08/02(金) 04:47:10.41
伊勢は何も出ん土地
初期大和政権の東の端だってだけだよ
芙蓉の山を背後にして祖霊を祭っただけ
三輪山は大和における須弥山で死者の霊が昇る山、真東の方角に伊勢神宮がある
550日本@名無史さん:2013/08/02(金) 05:21:55.80
三輪の大物主の子孫・太田田根子は多氏。
多氏は神武天皇の皇別。
(ちなみに徳川家康が賀茂氏なら太田田根子の子孫)
そして、大物主は大国主の化身。

あれ?
551日本@名無史さん:2013/08/02(金) 06:25:14.46
ここは九州説スレだ。他説はそのスレを立ててそっちでやれ。
552日本@名無史さん:2013/08/02(金) 06:31:09.28
>>543
そんなことどうでもいいから、今でも大都会の奈良に邪馬台国があった根拠を
論じるべきじゃないかな。
553日本@名無史さん:2013/08/02(金) 06:45:15.57
>>521
伊都国が歴史ある強国だったから。
邪馬台国がそれを軍事力で敗北させ支配下に組み込んだ後も
一大率を置いて元伊都国連合(北部九州諸国)を検察する必要があった。
大陸との行き来もそれまでは東シナ海を渡る航路だけだったのが
伊都国を手に入れた後は壱岐対馬半島経由の航路も手に入った。
刺史の如く、諸国は皆これをおそれるといった表現からも一大率は
国内を統制するための組織ではなかったか。
554日本@名無史さん:2013/08/02(金) 07:55:04.90
本州の銅鐸国がどこの勢力に征服されたのかきちんと整理して考えないとな。
555日本@名無史さん:2013/08/02(金) 07:56:31.94
邪馬台は普通に大和国だろ。この基本的なことを何故無視するの?
556日本@名無史さん:2013/08/02(金) 08:06:09.63
普通にヤマタイだからヤマトじゃないの?
何で九州にヤマトなの?畿内のヤマトじゃないの?
九州にヤマトって名前の旧国名なんかあったっけ?
557日本@名無史さん:2013/08/02(金) 08:43:14.15
逆に、畿内ヤマトには旧国名だけで、それ以下の地名がない。
いわゆる郡名以下の地名がない。

そして、記紀にも、ヤマトトヒモモソヒメのような、
人名がらみでしかヤマトの文字が存在せず、
宇治とか、吉野のような地名で使われている例がない。
葛城に向かうという文はあっても、ヤマトに向かうという文例はない。

従って、ヤマトの古地名は存在せず、
記紀編纂時かそれ以降に人工的に設定されたものと考える。

筑紫の場合は、
筑紫島筑紫国筑紫郡大字筑紫、筑紫神社まである。
558日本@名無史さん:2013/08/02(金) 09:03:19.05
筑紫は特例だとしても、筑「前」、筑「後」など、中央目線の国名が多いことは、
国名が自然発生的なものではなく、奈良時代や平安時代に人工的に
作られた国名ということをあらわしている。

ヤマトも当時割り振られた人工的な地名である可能性は高い。
当然、畿内奈良地方をヤマトと名づけたかった人たちがいたのだろう。
559日本@名無史さん:2013/08/02(金) 09:14:43.16
>>538
>夏至の日の陰の長さが、一寸千里である。
わかるよ>>533
冬至日丈三尺五寸.夏至日尺六寸.冬至日長.夏至日短.日損益寸.差千里.故冬至夏至之日.南北遊十一萬九千里.
1寸は千里だとかいてあるが
都合上 夏至のだけを採用したい気持ちは痛いほどわかる
560口汚く相手を罵る満州:2013/08/02(金) 09:21:16.66
チミらは計算を間違えている。

ある地点に立てられた棒の影の長さが夏至と冬至では119寸の差がある。
その差を生じさせたのは太陽の南中高度である。
一寸千里とは、この場合、太陽が千里動くと影の長さが一寸伸びるという意味である。

夏至と冬至の太陽高度の差は、地球上のどの地点でも約47°である。
そこで、夏至と冬至の太陽の距離差をx、地球と太陽の距離をrとすると、
2πr:360°=x:47°
これを解くとx≒1億2千万kmとなる。
これが11万9千里に相当するというのだから、1里≒1008kmとなる。

1008mではない。1008kmである。
これで周髀算経がかなりデタラメな書物であると分る。
561日本@名無史さん:2013/08/02(金) 10:25:11.36
大和は古来は大倭と書いたんだよ。大倭というのは、邪馬台国の地方長官であり、またその駐在地。
つまり、大和が邪馬台から遠いところにあるということは地名自体から明らかなのだよ。
562日本@名無史さん:2013/08/02(金) 10:26:30.57
>>557
無知にも程があるねw
例えば奈良に今讃岐という地名があるが、
これは本来サラキ、サルキと読むのだ、同意で蛇穴と書いてサラギとも
読む地名もある。

邪馬台はむしろヤマダという地名を辿ればいいのだ。
563日本@名無史さん:2013/08/02(金) 10:33:50.70
>大倭というのは、邪馬台国の地方長官であり、またその駐在地。

むしろ大倭なら倭の中心地という印象だがw
564日本@名無史さん:2013/08/02(金) 12:19:46.89
大倭は邪馬台国とは別だよ。倭人伝を良く読め。
565日本@名無史さん:2013/08/02(金) 12:26:43.53
邪馬台国の時代には奈良県には唐子・鍵しかなかったのだよ。
纏向は4世紀中ごろ。
箸墓は4世紀末。
鉄も満足になかった奈良県に邪馬台国があるわけがない事を自覚しな。

記紀に書いてある事は殆どが5世紀から6世紀の話だ。
記紀から邪馬台国の所在を探す事も無理だ。
566日本@名無史さん:2013/08/02(金) 12:33:56.98
倭人伝に書かれてる距離や方位をもとにあーだこーだ持論展開しても意味ないんじゃないですかね・・・
なにせ元があてにならないのだからそれを元に論を展開してもおかしな方向にしかいかないよ
邪馬台国の場所は「わからない」で終わりでいいんじゃない?
567日本@名無史さん:2013/08/02(金) 12:50:50.60
それを言っちゃあ御仕舞いよ
568日本@名無史さん:2013/08/02(金) 12:58:54.21
>>565
淡路島に大規模鉄器工房があるじゃん。
それに日本最初の製鉄も瀬戸内にあるからな。
569日本@名無史さん:2013/08/02(金) 13:08:54.65
>>565
君は全く倭人伝を読んでないね。
邪馬台国は七万戸の国だよ。
奈良県だけじゃとても無理だが、勿論九州にも存在出来る場所もない。
それに倭人伝には邪馬台国に鉄器が豊富なんて記述はないよ。
570日本@名無史さん:2013/08/02(金) 17:01:55.80
普通に考えて
倭国=大倭国
ヤマタイ国=ヤマト国
結局、近畿の大和国だろ
5712chの満州:2013/08/02(金) 17:05:39.99
どんなに九州内に邪馬台国を探しても、そんなものは九州にありはしないよ。
九州に30国を統治していた女王がいた、女王国があった、などという資料は、
記紀にも風土記にも神社その他のどんな記録や伝承にもない。

これに反し神功皇后のことは記紀、風土記、神社の記録その他多くの資料がある。
ゆえに邪馬台国とは大和、卑弥呼とは神功皇后だとまず考えるべきである。

しかし卑弥呼と神功皇后の事跡はどうも食い違うから、
卑弥呼は満州か朝鮮の女王ではないか、と考えるべきなのである。
572日本@名無史さん:2013/08/02(金) 17:20:44.44
反日中国のことだから日本の卑弥呼のことを良く書こうとは思わないと思う。
意図的に中国に従った人物だとか中国より劣る国だとか華夷秩序思考が発動された倭人伝なんだろう。
そう考えると卑弥呼=神功皇后でも不思議ではない。
573日本@名無史さん:2013/08/02(金) 17:22:35.86
>>559

>冬至日丈三尺五寸.夏至日尺六寸.冬至日長.夏至日短.日損益寸.
>差千里.故冬至夏至之日.南北遊十一萬九千里.

横から補足すると

-------------------------------------------------------------------
冬至の日は135寸、夏至の日は16寸、(その差は119寸)
冬至の日(の影)は長く、夏至の日(の影)は短い。

一寸あたりの距離は千里だから、119寸から、119千里動いているはずである。
-------------------------------------------------------------------

思いっきり意訳だけどこんなところかな。
574なぐさのこ:2013/08/02(金) 17:23:21.91
>>533 :ローガン
>つまり、1里が約70mってのは、夏至の日限定の尺度。
>季節によって、その長さが変化する
>これが君達の大好きな「短里」。

なによこれ。これで一本取ったつもり?バッカじゃないの?
現代の者から見れば周髀算経の誤りは分かるわよ。地球は平で天(太陽)が動くとして作られた体系
だからおかしな結果が得られるわよ。
でもね、そんなことは関係ないの。当時の人達は周髀算経を天文や数学の権威ある理論と信じてたのよ。
それで、中原で夏至の日に実測した1寸千里が5万歩(両足で一歩とした場合)だったら、1里は50歩で
メートル法に直せば約70mということで、これが定着した・・でいいじゃん。なんか文句ある?
575日本@名無史さん:2013/08/02(金) 17:35:33.96
>>573にあるように、>>533は、別に冬至の時の千里を論じているわけではない。
一寸千里から、太陽が南北にどれくらい動くかを、安直に論じているだけである。

というより、差119寸と119千里の119つながりで、気づかなかったんだろうか?
576日本@名無史さん:2013/08/02(金) 17:38:15.47
「一寸千里」が先にあってこの実測値から一里の長さを決めたってこと?
なんかもう無茶苦茶だな
5772chの満州:2013/08/02(金) 17:41:19.89
日損益寸
これはおそらく太陽が損なわれると寸が増す
=日差しが弱くなると影が長くなる
=太陽が南に傾けば傾くほど影が長くなる、という意味だろう。

差千里
これは太陽が南に千里傾けば影が一寸増す、という意味だと思われる。で、

故冬至夏至之日.南北遊十一萬九千里.
冬至から夏至に至るまでに太陽は南北に十一萬九千里移動する、という意味である。
578日本@名無史さん:2013/08/02(金) 17:43:23.77
現代でも地球の大きさから、メートルを出しているからな。
変わらない基準を探すのは、度量衡の理想。
579日本@名無史さん:2013/08/02(金) 17:44:01.19
大体「一寸千里」ってキリが良すぎるよね
単なるハッタリでしょ
580日本@名無史さん:2013/08/02(金) 17:46:40.74
地球の子午線を通る一周が4万キロ
キリが良すぎるから、単なるハッタリだろう。
581日本@名無史さん:2013/08/02(金) 17:50:55.72
夏至の日の八尺棒の影の長さを基準に千里の長さを決めたと本気で思ってるの?
582日本@名無史さん:2013/08/02(金) 17:57:45.16
>>581

数学的な定義の問題なので、逆でも構わんけどな。

あるいくつかの主要都市で計測した結果、
A都市、B都市の南北間の距離とその夏至の日の影からでも
求められるよ。

1.5寸で1700里だったが、曲がりくねってたり誤差があるので、
エイヤッと一寸千里に決めたでもいいんだし。
583日本@名無史さん:2013/08/02(金) 18:03:56.04
だからさ、何で夏至の日の八尺棒の影の長さなんぞを基準にせにゃならんのよ
常識的に判断しようよ
584日本@名無史さん:2013/08/02(金) 18:08:34.50
>>583

その常識ってなに?

純水の凍る温度零度、沸騰する温度百度
地球の大きさを基準にしたメートル。
最も密度の高い4度の水一リットルの重さ、一キログラム

当時の中国の技術では、早すぎたかもしれんが、
度量衡の基本は、変わらない物理的な基準を探すこと。

距離の基準を天文観測で求めようとしたのは、慧眼だと思うのだが?
5852chの満州:2013/08/02(金) 18:55:14.66
故冬至日晷丈三尺五寸,夏至日晷尺六寸。冬至日晷長,夏至日晷短。日晷損益,寸差千里。
故冬至、夏至之日,南北遊十一萬九千里,四極徑八十一萬里,周二百四十三萬里。

どうやらこれが原文のようだ。
ということは日晷損益とは日影の増減の意味である。
南北遊は何の南北遊かは不明だが、おそらく太陽のことである。
天蓋ではない。なぜなら四極徑八十一萬里,周二百四十三萬里。が天蓋のことだと思われるから。
586日本@名無史さん:2013/08/02(金) 18:55:24.84
普通に考えて「夏至の日の正午における八尺棒の影の長さが一寸違う距離」などと言う非常に計測し難い長さをわざわざ「千里」の基準にする理由がないだろ
587ローガン:2013/08/02(金) 18:57:34.58
>>574:なぐさのこ
>1寸千里が5万歩(両足で一歩とした場合)だったら、1里は50歩でメートル法に直せば約70mということで、これが定着した

その推論の論拠となった史料の提示を求めよう。
588日本@名無史さん:2013/08/02(金) 19:02:53.49
>>586
>普通に考えて「夏至の日の正午における八尺棒の影の長さが一寸違う距離」
>などと言う非常に計測し難い長さをわざわざ「千里」の基準にする理由がないだろ

日時計の印をつけてりゃいいんだから、
むしろ簡単な部類だろ。
589日本@名無史さん:2013/08/02(金) 19:11:18.41
616 名前: ローガン 投稿日: 2013/07/16(火) 23:16:14.87
言い切る以上、その報告書とやらに倭人伝地誌の里数が
全て記載されていたという論証を求められるが、出来るのかね?

その言い分は、倭人伝地誌の里数が全て報告書とやらに
由来するものであることを、根拠の出典を明示したうえで論証出来なきゃ

私が上で書いたのは、「間違い又は、意図的な改変、あるいは机上の創作」だ。
私見は何度も書いたが3つ目の「机上の創作」だ。





694 名前: ローガン 投稿日: 2013/07/17(水) 22:50:07.18

>「東夷伝の里程記事は陳寿が机上で創作したもの」と言うなら、それを証明する資料を持っているの?持っているなら出しなさいよ。

持ってない。
5902chの満州:2013/08/02(金) 19:34:28.75
南北遊が何の南北遊かが分らなかったが、もしかしたら、
地球表面上の南北の距離ではあるまいか。
冬至の日と夏至の日では、太陽は、
地上で、南北に十一萬九千里離れた地点の上空にある、という意味である。

そうだとしたらローガンの解釈が正しいことになる。
計算してみたらローガンの言う通り1里≒44mとなる。

そうすると周髀算経によって1里≒76mが否定されたことになる。
591日本@名無史さん:2013/08/02(金) 19:38:07.17
>>590

試算の数式出さないと、さっぱりわからん。
592日本@名無史さん:2013/08/02(金) 19:52:46.76
「一寸千里」になる距離を現代の知識で算出したら約70kmだったというだけ
計測地点の地名の記載もなく、実測に基づかない便宜上の値である事は明白
593日本@名無史さん:2013/08/02(金) 19:56:00.57
>>592
>計測地点の地名の記載もなく、実測に基づかない便宜上の値である事は明白

素朴な疑問だが
公里を実測した計測地点はどこ?
594日本@名無史さん:2013/08/02(金) 20:33:31.04
夏至の日の影って
緯度によって長さが違うんだけどw
上海と北京で馬鹿みたいな差が出るぞ
文系はこれだからw
595日本@名無史さん:2013/08/02(金) 21:04:15.61
大雑把に測られたモンに正確性求めてもムダ。
腹時計で書かれた日記を、クォーツ時計基準にして足跡辿る様なモン。
596ローガン:2013/08/02(金) 21:07:20.68
>>590
>そうすると周髀算経によって1里≒76mが否定されたことになる。

いや、地中での夏至における計算なら、76mぐらいになるんだ。
上記はそれと同様の計算をしたものだ。
蓋天説なんで、太陽の高度は一定。太陽直下までの距離だ。
いずれにせよ、76mも44mもなんの意味もない数字。にもかかわらず76mだけを採用するのは単なるチェリーピッキング。
又、後程。
5972chの満州:2013/08/02(金) 21:09:42.59
>>591
夏至の日にA地点の真上に太陽があるとする。
冬至の日にはA地点より緯度で47゜南のB地点の真上に太陽があるわけである。

この太陽の位置の違いが影の長さの違いとなって現れ、
周髀算経は、A地点とB地点は十一萬九千里離れていると見なすわけである。

そこでA地点とB地点の距離を計算してみると、
地球半径をr、A地点とB地点の距離をxとすると
2πr:360°=x:47°
地球半径rを6371kmとするとx≒5223512m
これが119000里だから、1里≒43.895…≒44mとなる。
598日本@名無史さん:2013/08/02(金) 21:36:57.28
ローガンより満州のほうが算数はできる感じだな。
だが、周髀算経では、地上は平面という前提だからな。
599日本@名無史さん:2013/08/02(金) 21:40:06.88
>>594
夏至の日の正午に8尺の高さの棒で影の長さが1尺6寸だから緯度は特定されてる
北緯35度のどこか

>>595
こういうの苦手なのかw
600日本@名無史さん:2013/08/02(金) 22:08:05.85
>>597
その地球の半径はどうやって出した?
中国の古文書に有るのか?
601日本@名無史さん:2013/08/02(金) 22:15:37.93
>>599
一尺六寸だった場所と一寸変化した場所、それぞれ具体的に何処だったか書いてないでしょ
602日本@名無史さん:2013/08/02(金) 22:21:33.87
>>593
出土品等から一尺の長さが明らかになっているだろ
603なぐさのこ:2013/08/02(金) 22:40:19.30
>>596 ローガン
>いずれにせよ、76mも44mもなんの意味もない数字。にもかかわらず76mだけを採用するのは単なるチェリーピッキング。

それはおっさんの単なる願望的言い草ね。
現代的な知識で1寸千里の法を批判したって無意味だと言ったじゃない。
北緯35度辺りで夏至の日に実測した千里の長さを以て1里=50歩と決めたのならそれで決着よ。
当時の人達がそれを基準とすると決めたのに現代人が文句を言っても始まらないわよ。
604595:2013/08/02(金) 22:43:58.86
>>599
いや、無駄な推論議論にしか思えないから
605日本@名無史さん:2013/08/02(金) 22:47:06.49
しかしさ、ローガンっていい年こいて、
言うことが矛盾や嘘、悪質な攻撃性に満ちていて
自分を恥ずかしいと思ったことは無いのかね。
大阪にはこんな悪い奴がいるなら、大阪人は苦労が絶えないな。
606日本@名無史さん:2013/08/02(金) 22:54:36.97
一寸あたりの距離は千里って
何も根拠の無い数字に思えるんだが
607ローガン:2013/08/02(金) 22:58:45.84
>>603:なぐさのこ
>>587 はスルーするしかないのか。
勿論こんな場末の掲示板、答える義務などないが、
足下で吠える子犬と 似た感じがした。犬好きにはきっと嬉しいだろうねえ。
608日本@名無史さん:2013/08/02(金) 23:01:49.86
>>601
北緯35度の場所であれば地球上どの地点で計測しても同じ結果になる
具体的な場所がわかったところで何の意味もない
6092chの満州:2013/08/02(金) 23:05:58.95
>>600
そんなことを聞いて何が言いたいのか知らないが、
もちろん中国の古文書にそんなものはない。「地球の半径」で検索すれば出てくる(笑)

周髀算経のポイントは一つである。それは、八尺の棒の影の長さが、
南あるいは北に千里離れれば一寸長くなる、あるいは短くなるという、それが、
実測された事実なのか、それとも机上の理論か何かのようなものか、ということである。
もしそれが実際に千里離れた処で計測された事実なら、間違いなく周の一里は76mだったのである。

しかし倭人伝が短里で書かれているとしても、邪馬台国は九州にはないのである。
なぜなら邪馬台国は九州北岸から水行陸行しなければならない場所にあり、
関門海峡が開通していなかったなら、日本海ルートを取るしかないからである。
で、倭人伝に書かれている情報は、関門海峡が開通する以前の情報だと思われるからである。
といっても、なんとなくそう思われるだけで、何の根拠も無いのだが(笑)
610日本@名無史さん:2013/08/02(金) 23:06:18.95
なかっち 動画
http://www.youtube.com/watch?v=z2qK2lhk9O0s



みんなで選ぶニコ生重大事件 2012
http://vote1.fc2.com/browse/16615334/2/
2012年 ニコ生MVP
http://blog.with2.net/vote/?m=va&id=103374&bm=
2012年ニコ生事件簿ベスト10
http://niconama.doorblog.jp/archives/21097592.html


生放送の配信者がFME切り忘れプライベートを晒す羽目に 放送後に取った行動とは?
http://getnews.jp/archives/227112
FME切り忘れた生主が放送終了後、驚愕の行動
http://niconama.doorblog.jp/archives/9369466.html
台湾誌
http://www.ettoday.net/news/20120625/64810.htm
611なぐさのこ:2013/08/02(金) 23:07:51.98
>>606
現代人の目にはそう見えるでしょうけど、当時の人達は周髀算経(あるいはその基になった理論)に
最高の権威を感じていたのよ。そこに1寸千里の法があればそれを信じて、実測して1里=50歩を見
出したということじゃないの。根拠と言えば1寸千里の法ということになるわね。
612日本@名無史さん:2013/08/02(金) 23:21:08.32
だから現代の常識を元にして計算して里を出すなよw

一寸あたり千里って何の理由も裏付けも無いぞ
勝手な決め付けだぞ
613なぐさのこ:2013/08/02(金) 23:23:27.35
>>607 ローガン
>>587 はスルーするしかないのか。

史料があれば誰かが発見しているでしょうよ。無いわよ。無ければダメと言いたいんでしょうね。
でも、1寸千里の法というものがあれば、机上の理論として見るだけでなく誰かが実測を試みるでしょうよ。
それはもう人間の性のようなものよ。子供だって測ってみたいでしょうよ。あなたの好きな蓋然性の多寡で言
えば極めて蓋然性が高いと言えるわ。100%の確率で起こると予想できることよ。
614ローガン:2013/08/02(金) 23:25:53.45
>>603:なぐさのこ
>千里の長さを以て1里=50歩と決めたのならそれで決着よ。

「決めたのなら」と勝手に言われてもなあ(笑)
一向に「決めた」事が共有できる史料の提示が無いのだが。
出さない、又は 出せない理由は何?
615595:2013/08/02(金) 23:28:02.27
ついでに書けば、当時は正確に距離を測れる術が無い。
だから、どんぶり勘定で水行1日なら千里、陸なら百里…それだけ。
同じ千里でも場所によりマチマチで、どんな尺も当てはまらない。
度に正確性を求めようとするなら、その度を使って、正確に
測量されたと言う証明も同時にしなければ意味がない。

短里も現代地図を使って出した平均値だから、曖昧に測られたモノを
更に曖昧にしてしまうから意味がないよ、後々矛盾を生むだろし。
616なぐさのこ:2013/08/02(金) 23:30:13.10
>>612
>だから現代の常識を元にして計算して里を出すなよw
何を言っているのよ?意味が分からないわ。

>一寸あたり千里って何の理由も裏付けも無いぞ
周髀算経を読んで自分で考えてね。
617日本@名無史さん:2013/08/02(金) 23:37:53.52
こういう話題だと文系脳のやつらはちんぷんかんぷんでイライラしていちゃもんつけてくるな
おもしろw
618日本@名無史さん:2013/08/02(金) 23:40:43.27
ローガンは、周髀算経の関係のない一部を取り出してきて、
論理的な短里の比定を試みたが、一蹴された。

あとはいつものうわ言のように、資料の提示を求めるしかない。

これが始まったら、もう反論材料がないということだから、無視しとけば良い。
繰り返す以外に何も出来ない。
619日本@名無史さん:2013/08/02(金) 23:41:48.92
比定→否定
620日本@名無史さん:2013/08/02(金) 23:43:58.15
>>609

結局、またいつもの根拠なき連呼に戻ったな。

先ほどの計算は間違ってなかったよ。
前提は違っているけど。
621日本@名無史さん:2013/08/02(金) 23:47:58.38
ごめん理解出来んw
「周髀算経」
其次,日冬至所北照,過北衡十六萬七千里。為徑八十一萬里,周二百四十三萬里。
分為三百六十五度四分度之一,度得六千六百五十二里二百九十三步、千四百六十一分步之三百二十七。
過此而往者,未之或知。或知者,或疑其可知,或疑其難知。此言上聖不學而知之。
故冬至日晷丈三尺五寸,夏至日晷尺六寸。冬至日晷長,夏至日晷短。日晷損益,寸差千里。
故冬至、夏至之日,南北遊十一萬九千里,四極徑八十一萬里,周二百四十三萬里。
分為度,度得六千六百五十二里二百九十三步、千四百六十一分步之三百二十七。此度之相去也。

周は地球の円周だよな?
243万里、地球の円周=40,075 km。よって、里=16.5m
これでいいよな?
こういう計算してたんだよな?
622日本@名無史さん:2013/08/02(金) 23:49:31.45
>614 名前: ローガン 投稿日: 2013/08/02(金) 23:25:53.45
>>>603:なぐさのこ
>>千里の長さを以て1里=50歩と決めたのならそれで決着よ。
>
>「決めたのなら」と勝手に言われてもなあ(笑)
>一向に「決めた」事が共有できる史料の提示が無いのだが。
>出さない、又は 出せない理由は何?

翻訳

うぐぐ、論理的には否定出来ない。
でも、史料が出るまでは、ぼくちゃんの負けじゃないんだい!!
623なぐさのこ:2013/08/02(金) 23:50:12.62
>>614 ローガン
>>千里の長さを以て1里=50歩と決めたのならそれで決着よ。
>「決めたのなら」と勝手に言われてもなあ(笑)

おっさんは自分では頭がいいと自惚れているかも知れないけど、理解力に劣るわね。
わたしが「千里の長さを以て1里=50歩と決めたのならそれで決着よ。」と書いた意味は
当時の人達が決めたことに現代人がおかしいと批判しても無意味だし何も変わらないとい
うことよ。

>一向に「決めた」事が共有できる史料の提示が無いのだが。 出さない、又は 出せない理由は何?
あらら、タイミングが悪かったわね。>>613を見てね。
624日本@名無史さん:2013/08/02(金) 23:50:18.55
割りきれない円周率を何時まで求めるのやら…

基準尺はあって無いものと同じなのに。
625日本@名無史さん:2013/08/02(金) 23:55:05.95
>>608
実測ならね
でも実測だったことを示す位置情報が無い
一寸千里という計算に都合の良すぎる値からも実測値とは思えない
626日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:04:20.51
周髀算経
http://ctext.org/zhou-bi-suan-jing/juan-shang/zh

自分で考えたけどどうでもいいやって感じw
だれか頑張れ
627日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:04:33.13
>>623
あなたの言ってる事って
「夏至の日の正午、八尺棒の影の長さが一寸変化する距離を計測したら当時の千里にあたる距離だった」
ではなく
「夏至の日の正午、八尺棒の影の長さが一寸変化する距離をもって千里とした」ってこと?
おかしくないかそれ?
628日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:12:29.88
唐代に南宮説って天文学者が一寸千里の法が正しいか実験したら一里=116mという結果になり、当時の一里は440mだから一寸千里の法なんて出鱈目じゃねーかという事になったそうな
当然ながらこの結果により一里の長さを116mなんかにはしてない
629日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:14:47.90
>>627

横からだが、それでいいんじゃないかな。

基準が必要なくらい、里の大きさは決まってなかった。
それで、妥当な大きさの8尺棒の影で決めた。

もともとの里とかけ離れているなら、
3尺棒一寸でも1丈棒一寸、でも使えばいいんだし。
630日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:18:47.21
んなアホな
631日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:19:22.57
四極徑八十一萬里,周二百四十三萬里って、>>626にある一番外側の輪っかの大きさか
これって当時の中国人が考えてた地上の大きさ?それとも宇宙の大きさ?
カリスマブロガーの満州さん、おせーて
632日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:21:46.47
始皇帝の頃に度量衡が統一されようとして、
いわゆる升の原器のようなものが作られるが、

原器自体が結構ばらばらで、貸すときの升と、
返すときの升の大きさが別になってしまう始末。

税をとる役人も、升が大きいほうが私腹を肥やせるので、
各地でそれぞれ違う大きさになってしまったりしている。

誰にも変化させられない基準を作るのは結構大変。
633日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:27:42.37
>>628
その実験って夏至の日に行われてるのか
なぜ測量の基準日が夏至の日だと知ってたんだろう?
こういうのって古代の中国人にとっていちいち言わなくても分かってる常識なんだろうか
根拠が分からん
634日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:28:42.56
となると原器は夏至の日の正午のA地点とB地点で、それを千等分して一里か
635日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:38:03.87
>>632
> 誰にも変化させられない基準を作るのは結構大変。

作っても、それを元に船と徒歩で正確な実測とか不可能でしょ。
だから基準求めても無駄だよって言ってるんだけど…
気の済むまでやってくれ。
636日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:40:53.74
周髀算経では一里=三百歩、一歩=六尺なんだが
637日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:42:22.16
>>633
暦があって、影が無くなる(太陽が真上にくる)日って知ってれば、自然とそうなるのでは?
638日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:54:03.08
日時計を細かく記録していくと、自然にそれが時計となり、暦になる。
窓から入る陽の光が床に記録され、暦を調べる部屋が、西洋にあったな。
639日本海ルート論者:2013/08/03(土) 00:57:19.20
>>43 婆さん
測量技術があっても、測量しながらの旅は
許されないでしょうね。また、方角につい
ても同意。でも伊都有明海で邪馬台日向は
行程パズルとしてはアリだと思うなあ。
一応伊都糸島支持ですけど(笑)。
ただ、今回見直す良い機会になったかも。
名護屋浦上陸と仮定して糸島への経路を見
ると、何とも倭人伝の記述通りというか。
Googleの衛生写真で見ると、松浦潟の西
は緑(森、林)と白(家)の混合で草木茂盛行
不見前人だったかも。唐津市まで南直進。
松浦潟東部は、内陸部は山だらけ。これ海
岸沿いに歩いたんじゃないかと。つまり、
好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之の記述はここ
周辺の記述だと思う。そうなると、末盧国
は領域国家になるけど、元々経路として
通過しただけで末盧王には会ってないんじ
ゃないかと。記載が田舎じみてるし、衛星
集落で宿をとったんでないかなあ。濱山海
居はこれら通過記録の総体と私見。
糸島までズバリ5日。西部3日、東部2日。
私見では、これが東南と錯覚させた原因。
640日本海ルート論者:2013/08/03(土) 00:58:46.03
すみません、板間違いです(涙)
641日本@名無史さん:2013/08/03(土) 00:59:03.00
>>625
そんなに疑うのなら自分で検算してみれば

冬至?長一丈三尺五寸,小寒丈二尺五寸,大寒丈一尺五寸一分,立春丈五寸二分,雨水九尺五寸二分,?蟄八尺五寸四分,
春分七尺五寸五分,清明六尺五寸五分,穀雨五尺五寸六分,立夏四尺五寸七分,小滿三尺五寸八分,芒種二尺五寸九分,
夏至一尺六寸,小暑二尺五寸九分,大暑二尺五寸八分,立秋四尺五寸七分,處暑五尺五寸六分,白露六尺五寸五分,
秋分七尺五寸五分,寒露八尺五寸四分,霜降九尺五寸三分,立冬丈五寸二分,小雪丈一尺五寸一分,大雪丈二尺五寸
642ローガン:2013/08/03(土) 00:59:28.03
>>594
>文系はこれだからw
私も文系、間違ってたら訂正頼んます。

私が上で挙げた文が述べているのは、地中では夏至の影長か16寸。冬至の影長が135寸。
地中が、夏至の太陽直下より北にある為出来る影長16寸を、135寸から引けば夏至の太陽直下から冬至の太陽直下の距離が、1寸が千里なので119000里である というもの。
勿論、蓋天説前提はいうまでもない。
さて、同書には、夏至の正午には地中で、8尺の表に出来た影長は(A)16寸であった。南千里の地では(B)15寸であったとある。
ここで当然の前提である蓋天説は横におく。
で、これに実際の地球の数値を代入。(勿論、太陽は平行光線、極半径は6357km)
(A)と北回帰線との中心角度 θA=tan-1 16/80=0.1974(rad)
(B)と北回帰線との中心角度 θB=tan-1 15/80=0.1853(rad)
弧ABとは、極半径6357km×(θA−θB)=76.9km  AB間は千里であるから1里は77m である。
で、私の挙げた同書の文を、同様に実際の地球の数値を代入して計算。中心角がわかっているのでもっと簡単。
6357km×2π×47゚÷360゚=5212km
5212km÷119000里=43.8m

短里の1里が76mの論拠、周髀算経におけるチェリーピッキングがよくわかる例。
643日本@名無史さん:2013/08/03(土) 01:10:23.84
>>641
影長が一尺六寸だった地点(基準点)と一尺七寸だった地点(A地点)及び一尺五寸だった地点(B地点)がそれぞれ具体的に何処だったかの情報が無いと言ってるんだよ
基準点は君の言う場所だとしてもA地点とB地点の位置情報は皆無でしょ
644日本@名無史さん:2013/08/03(土) 01:18:29.48
>>636
となると一尺=4センチくらいじゃないと短里は成立しないな
645日本@名無史さん:2013/08/03(土) 01:30:12.78
>>642
横レス失礼
実際に実験したのは夏至の日だけであり、そのときの結果は1000里離れてると影が1寸長くなったり短くなったりするということ
そこから一寸千里の法を発見したんだろうが、
問題はその一寸千里の法が1年中いつでも当てはまると当時の中国人が勘違いしてしまったことだろう
例えばもし冬至の日に同じ実験をやれば影の長さは3寸くらい差が出ることになるのにそれを知らなかった
机上の計算だけで、夏と冬で119寸違えば距離は119000里と間違った結論を出してしまった
まとめると、実験で確かめたのは夏至の日の1寸差だけで、119寸差から119000里はただの理論値ってこと
646日本@名無史さん:2013/08/03(土) 01:36:26.66
周髀長八尺,夏至之日?一尺六寸。髀者,股也。正?者,句也。正南千里,句一尺五寸。正北千里,句一尺七寸

↑実験したっていう文はこれでいいのかな?
647日本@名無史さん:2013/08/03(土) 01:48:06.04
>>642

119000里の算出手法が、天蓋説前提だからねえ。
下の実際の地球と太陽に当てはめるなら、里も
実際の地球と太陽を前提に求めなきゃだめだよ。

天蓋説の結果を、実際の地球と太陽に当てはめるなんて、
ローガンこそがチェリー・ピッキングってやつじゃないかい?

あえてやるならθ基準にしようか。平面じゃなくて球だからね。

(A)、(B)二点間の地球中心角度は、

>(A)と北回帰線との中心角度 θA=tan-1 16/80=0.1974(rad)
>(B)と北回帰線との中心角度 θB=tan-1 15/80=0.1853(rad)
>弧ABとは、極半径6357km×(θA−θB)=76.9km  AB間は千里であるから1里は77m である。

より θA−θB=0.0121(rad)となり、その角度での地球の表面での距離は千里。
数式を借りて
(A)と北回帰線との中心角度 θA=tan-1 16/80=0.1974(rad) 夏至の日の影長
(B)と北回帰線との中心角度 θB=tan-1 135/80=1.035(rad) 冬至の日の影長

これより二点の角度の差はθB-θA=0.861(rad)
千里あたり0.0121(rad)より 0.861/0.0121=71.15(千里)これが球を前提とした里数

あとはまた数式を借りて、
6357km×2π×47゚÷360゚=5212km
5212km÷71150里=73.3m

と、誤差が蓄積しちゃったがこんなもんだ。
648日本@名無史さん:2013/08/03(土) 01:57:20.55
>>647
6357kmって突然どこから出て来たの?
649日本@名無史さん:2013/08/03(土) 01:57:48.17
>>647 により、
北回帰線、南回帰線の距離を知らなかったであろう、
当時の人間が観測した影の長さを用いても、
ちゃんと地球が丸いことを知っていれば、正しい答えになることが
確認された。

つまり、これらの値は実測である可能性が高いということである。
650日本@名無史さん:2013/08/03(土) 01:58:45.79
>>649
馬鹿
651日本@名無史さん:2013/08/03(土) 02:01:58.95
>>648
>6357kmって突然どこから出て来たの?

>>642 のローガンの数式からだね。

しかし、
>>弧ABとは、極半径6357km×(θA−θB)=76.9km  AB間は千里であるから1里は77m である。
この行は、いらなかったね。

これがなくても 0.0121(rad)=千里が定義できるから、それだけでよかった。
652日本@名無史さん:2013/08/03(土) 02:06:00.95
うむ、これは短里の新しい根拠になりそう。
653ローガン:2013/08/03(土) 02:31:44.57
>>647
おお!勉強になる。
しかし
>119000里の算出手法が、天蓋説前提だからねえ。

しかし、これは違う。119000里だけでなく、周髀算経自体が蓋天説前提なんだ。

>千里あたり0.0121(rad)より

それはここでの定義には不適でしょう。資料実態が119000里なんだから。
(A)北回帰線直下と(B)南回帰線直下 間、
弧AB=R×∠AOB=R×(θA−θB)だから、
6357km×(1.035−0.1974)=5324km
5324km÷119000里≒44m

呑みすぎたので寝る。文系にはきつい。(笑)
654日本@名無史さん:2013/08/03(土) 02:38:00.44
>>653
>6357km×(1.035−0.1974)=5324km

こらこら、半径とラジアン(角度)を直接かけちゃダメ。
シラフになってからやりましょうね。
655ローガン:2013/08/03(土) 02:39:53.72
ああ (θB−θA)だった。
落ち…
656日本@名無史さん:2013/08/03(土) 02:46:22.77
>>655

いや…修正になってませんよ、素面になってからにしましょう。
といいつつ、私も飲んでますが。

角度/角度 のように比にするか、sin、cos使うかして、
スカラー量にしないと、半径×角度、なんて出来ません。
657ローガン:2013/08/03(土) 02:58:30.99
l = rθ
と昔習ったと思ったが、間違いだったか
zzz…
658日本@名無史さん:2013/08/03(土) 05:51:15.16
>657
θが微少角のとき、その式で近似されます
ただし、θはラジアンです
659日本@名無史さん:2013/08/03(土) 08:37:19.81
573氏あたりから全部スレチ。寸、尺にえらい拘ってギャーギャー議論して
いるが、君らは皆、まるでギャオスだな。ギャオーーース。
倭人伝の数値は実際の6〜10倍で書かれていると推定される。理由は既出。
いくら細部に拘ってギャーギャー議論したって無駄だよ。
660日本@名無史さん:2013/08/03(土) 08:49:06.65
九州説なんてどう足掻いても有り得ないのにね。
6612chの満州:2013/08/03(土) 08:59:40.09
>>631
四極徑八十一萬里,周二百四十三萬里

これが何の大きさかは不明。
しかし地球の大きさではないことは分る。
なぜなら47°に相当する地球表面の円弧長が十一萬九千里だから、
地球の円周はその約8倍で、90万里くらいだろうから。

周髀算経を理解するには、周髀算経を最初から全部読まないと理解できないだろう。
誰か暇な人、挑戦してみてくれ。特に短里論者は。

とにかく周髀算経のポイントは、一寸千里の法が実測値かどうかということである。
実測値なら、誰が何と言おうと、一里は76mだったに違いない。
ところが同じ周髀算経に一里は300歩と書かれているそうだから(僕は未確認)、
それだと寸や尺が非常に小さな値になってしまうのである。
662日本@名無史さん:2013/08/03(土) 09:08:51.78
地球の大きさを求めようとして
いろいろ変な事をしてるのが周髀算経
それを元にして
現代の数値から逆算しても無意味な数値しか出ない
6632chの満州:2013/08/03(土) 09:19:01.90
倭人伝に書かれていることは、おそらく前漢時代の情報なのである。
その根拠の一つは、韓の戸数があまりに少ないことである。

で、その頃は関門海峡は未開通だから、九州北岸から日本海ルートを取るか、
九州の西廻りルートを取るしかないのである。

ところが倭人伝に西廻りルートを取ったと思える表現は無い。西という語が出てこない。
だとすれば日本海ルートを取ったのであり、投馬国とは但馬である。

九州には投馬国に比定できるような所はどこにもない。
都万なんて日本人さえ知らないような地名が中国に知られていたはずがない。
敢えて言えば薩摩だが、苦しい。

但し、サツマ→サッマ→サマ=邪馬台かもしれない。邪は朝鮮音でサとも読めるのである。
664日本@名無史さん:2013/08/03(土) 09:44:06.44
8尺の棒を立て、
夏至の日の影の長さが16寸、角度にして11.3度
冬至の日の影の長さが135寸、角度にして59.3度

これが周髀算経に出ていた数値。

夏至の日の太陽は北回帰線上にあり、
冬至の日の太陽は南回帰線上にあることから、

地球の太陽に対する傾き、23.4度から、
夏至と冬至では、23.4*2=46.8度の差があるはずである。

実質は上の影の角度の差は 59.3-11.3=48度となっている。
数値の単位が寸という荒い単位表現で在ることを考えれば、
かなり正確だといえるだろう。

周髀算経はそもそも天蓋説に基づく数学書であり、
書かれた当時は地球が丸いことを知らず、
勿論大きさも知っているはずはないのは当然であり、
地球の傾きという概念を持っているはずもない。

それにもかかわらず、かなり正確な角度が出てきているのは、
これらの数値が実測である証拠となるだろう。
665日本@名無史さん:2013/08/03(土) 10:05:58.59
>>664
影を実測して角度が正確なのは当たり前
これは異論ない
でもその2点だけでは距離は絶対に導けない
666日本@名無史さん:2013/08/03(土) 10:14:03.33
定点観測はしてたのだろう
しかしそこから南北各千里先の地点で夏至の日の影長を計測したとは思えない
千里先で計ったら影長の差が一寸だったと言うのは偶然にしてはキリが良すぎる
かと言って一寸変化する地点を探した結果千里先だったというのも現実的でない
667日本@名無史さん:2013/08/03(土) 10:18:09.14
>>659
俺もそうだと思う
一里の長さを変えてまで倭人伝の数字を正しい物とすることに何の意味が有るのか分からん
668日本@名無史さん:2013/08/03(土) 10:22:22.16
647さんの説明をベースに文系の人にも分かりやすいようにまとめてみた

原文
周髀長八尺,夏至之日?一尺六寸。髀者,股也。正?者,句也。正南千里,句一尺五寸。正北千里,句一尺七寸
故冬至日?丈三尺五寸,夏至日?尺六寸。冬至日?長,夏至日?短。日?損益,寸差千里。
故冬至、夏至之日,南北遊十一萬九千里,四極徑八十一萬里,周二百四十三萬里

実験結果から判明したこと
・A地点で夏至の日に高さ8尺の棒を立てると長さ16寸の影ができた(これを@とする)
・A地点より南に1000里のB地点で、夏至の日に同じ実験をしたら15寸の影ができた(これをAとする)
・夏至の日にA地点とB地点で一寸千里の法が正しいと確認された
・A地点で冬至の日に高さ8尺の棒を立てると長さ135寸の影ができた(これをBとする)

推論として書かれていること
・A地点で夏至と冬至で影の長さには119寸の差があるので、一寸千里の法を適用して、太陽の位置には119,000里の差があるはず
 →しかしこれは現代科学で検証したところ間違っていたのである
 (一寸千里の法は夏至の日のみで成り立ち、影が伸びるに連れて、1.1寸千里の法、1.2寸千里の法となってしまうため)

(続く)
669日本@名無史さん:2013/08/03(土) 10:22:53.25
(続き)
では、A地点で夏至と冬至の間では太陽の位置は119,000里の差ではないとしたら、ほんとうは何里の差があるのでしょうか?
まず前述の@ABの太陽の南中高度を求める
@高さ8尺、影16寸 → 太陽の高度78.69度
A高さ8尺、影15寸 → 太陽の高度79.38度
B高さ8尺、影135寸 → 太陽の高度30.65度

つぎにこの南中高度をもとに地球上でどの位置にくるのかを求める
なおBは冬至の日であるが、比較を容易にするために夏至の日で同じ太陽高度となる場所を探し代わりにCとする
@北緯34.71度(=90+23.4−78.69)
A北緯34.02度(=90+23.4−79.38)
C北緯82.75度(=90+23.4−30.65)

緯度をもとにして実験したAB地点間の里数と夏至と冬至の間の理数を求める
@とAの間は緯度で0.69度の差があり、実験の前提条件から距離は1000里であるとあらかじめ分かっていた
@とCの間は緯度で48.04度の差があり、里数は48.04/0.69x1000=69,623里となる
(@とCの差は本来なら北回帰線と南回帰線の合計である46.8度になるべきであるが、
 実験結果から得られた数値をそのまま使っているため誤差が生じている)

A地点で夏至と冬至の間では太陽の位置の差は119,000里ではなく、69,623里となるのである

またここから1里が何メートルになるか換算する
地球1周40,000kmx48.04度÷360度=5,338km
1里が何メートルかを計算すると、5,338km÷69,623里=76.67m

一寸千里の法の実験だけでなく、夏至と冬至の太陽の位置を修正した計算でも短里が導きだせたことになる
670日本@名無史さん:2013/08/03(土) 10:27:40.16
>>661
長文書いてたんで返事が遅くなりました
カリスマブロガー満州さんの方にお尋ねしたんですが、2chの満州さんから返信いただけたということは
やはり本人だったんですね
ありがとうございます
671日本@名無史さん:2013/08/03(土) 12:43:25.69
終わったか?
里数計算は気が済んだか?
各海峡間はきちんとその値を元に実距離と同じに成ったか?

成らなかったら全て無駄よ、無駄議論。
672日本@名無史さん:2013/08/03(土) 13:44:06.00
>>669
解説ありがとー
でも夏至の日に、8尺棒を立て、影16寸、北1000里17寸、南1000里15寸
これだけで結果出るよなw
もちろん答えは、1里=76.7m

と思ったら>>529にも書いてあったw
冬至とか言い出すから混乱する
最初の引用が悪い!
673なぐさのこ:2013/08/03(土) 13:59:31.80
>>671
>各海峡間はきちんとその値を元に実距離と同じに成ったか?

あなたは単細胞動物か?同じことの繰り返しで進歩が全く感じられないじゃん。
陸上なら歩測でほぼ正しい里数が得られるけど、海上では目測や勘に頼らざるを得ないのよ。
それでも、狗邪韓国の出航地である巨済島から対馬、対馬から壱岐、壱岐から松浦川河口まで千里
としたのはかなりの精度よ。
674日本@名無史さん:2013/08/03(土) 14:11:07.05
自分も検算してみた。
>>668
>>故冬至、夏至之日,南北遊十一萬九千里,四極徑八十一萬里,周二百四十三萬里
地上は平坦で、天蓋があると考えていているのだろう。
@地点とA地点の太陽の高度差は、79.38-78.69=0.69度
だから、太陽までの距離は、1000里/sin(0.69度)=83039里
太陽までの距離を測っているようでいて、実際は地球の半径を測っていることになる。
地球の半径は、40000/(3.14*2)=6369Km
だから1里は、6369/83039=0.0767Km
つまり、76.7m だった事がわかる。
また、影の計測で、夏至と冬至で太陽は48度動くから、
動く距離は、83039里×48/360=11071里
これを、南北遊十一萬九千里と示している。
ただし、
四極徑八十一萬里,周二百四十三萬里 というのがどうも解らん。
四極徑八十一萬里というのが天蓋の直径だとすれば、810000×3.14=2543400里
これを周二百四十三萬里と示してたとも考えられるが、
だとすれば天蓋の半径が、先ほど計算で出た 83039里 と一致しない事になる。
太陽は天蓋の表面にあると考えないで、それよりも下、地上と天蓋の間に浮いていると考えたのかも知れない。
だが、天蓋の半径をどう導いたかは和からない。
675日本@名無史さん:2013/08/03(土) 14:18:33.17
ここの連中は相変わらず全く無意味な事やってるなw
676日本@名無史さん:2013/08/03(土) 14:41:35.93
ポイントは一寸千里が実測に基づくか否かなんだけどね
周髀算経自体の精度は関係無い
677日本@名無史さん:2013/08/03(土) 14:59:10.24
>>676
夏至の日に実測したって書いてあるだろ
ちゃんと読みなよ
678日本@名無史さん:2013/08/03(土) 15:09:14.65
>>677
実測だったら何処其処と何処其処で計測したと書くだろう
679日本@名無史さん:2013/08/03(土) 15:24:07.74
>>678
それがこの部分だとオモタ
>正南千里,句一尺五寸。正北千里,句一尺七寸
680日本@名無史さん:2013/08/03(土) 15:35:22.51
>>679
具体的な都市名が書いてないという事を言っているのです
681なぐさのこ:2013/08/03(土) 15:39:17.21
>>678
>実測だったら何処其処と何処其処で計測したと書くだろう

>>679のとおりよ。八尺の棒の影の長さが1尺六寸である地点から真南と真北にそれぞれ千里離れた
地点でと書いてあるでしょ。
もしかして地名を書くべきだと言っているの?
なんで地名を書く必要があるのよ?
682日本@名無史さん:2013/08/03(土) 15:43:56.54
後世には何承天や南宮説が一寸千里が本当かを確かめる実験をしている
中国人でも一寸千里は眉唾だったという事さ
683日本@名無史さん:2013/08/03(土) 15:45:44.94
>>681
地名が書いてないと計測地間の実距離が検証出来ないでしょ
684日本@名無史さん:2013/08/03(土) 15:46:00.98
いつ?どこで?誰が?なぜ?何を?どのように?がないから信憑性ないって言いたいんだろ
理数系科目落ちこぼれた低脳のいちゃもんだよ
スルーしよう
685日本@名無史さん:2013/08/03(土) 15:52:34.42
>>674
>動く距離は、83039里×48/360=11071里

これは何を算出するの?
地球の半径 x 角度???
あと勘違いだと思うけど、十一萬九千里は119000里で1桁違うよ
686なぐさのこ:2013/08/03(土) 16:00:15.81
>>683
他の人が検証できないということなの?でも、地名を書いてもダメよ。
それは南宮説の実験の場合も同じよ。河南省とは分かっていても具体的にこの地点からこの地点とは
分からないでしょ。測定地点に石碑みたいな標識でも付けておかないと検証できないわよ。
687ローガン:2013/08/03(土) 16:29:46.77
l = rθ が何故間違いなのか わからないが…まあいい。(笑)
しかし実測に基づいたとは言えないんだ。
大地は三萬里。がお約束。だから「故王者必居天下之中」(旬子大略篇)
影長尺五寸の地が地中(=世界の中心)。古くはここに都をつくろうと考えた訳だ。
「以土圭之法測土深正日景以求地中日至之景尺有五寸即天地之所合…乃建王国」(周礼)
三萬里の中心の求め方が「影長尺五寸の地」という古い考え方に基づいたものだろうと思う。1寸千里なわけだ。
さて、1里が仮に、77mだとしたら、1歩が25.7cm 1尺が4.28cm 1寸が4.3mm
4mmの影差が千里って現実味ないだろう。
まあ、測定地の地名でもわかれば実測があった根拠になるだろうがね。
688ローガン:2013/08/03(土) 16:51:49.05
追加
上で1里が50歩だ なんて根拠もなく言っているのがいたが
周髀算經卷上之三に
6652里293歩 とあり少なくとも1里とは294歩を下回らないわけだ。
6892chの満州:2013/08/03(土) 17:17:21.80
なぐさちゃんがいやにリキんでいるな(笑)

しかしローガンはいやに漢籍に詳しいな。
中国文学でも専攻したのかw
690日本@名無史さん:2013/08/03(土) 17:28:34.85
>>687
逆かもね。
王権立ててから、今いる尺五寸の地を
王にふさわしい土地と宣伝して、権威をもたせたと。

そして、その頃から位置を測るのに、
影長が使われていたと。
691日本@名無史さん:2013/08/03(土) 17:33:34.79
わかる範囲で調べてみたが、シュウヒサンケイ、九章算術共に、
尺寸系と里歩系で、単位系が混ぜられていない。
両方使われているにもかかわらず、
何歩何尺とは書かれていない。

尺寸か、里歩なのだ。
お陰でこの数学書からは換算式が出せないわけだが、
何か有りそうな気がするな。
692日本@名無史さん:2013/08/03(土) 17:48:08.18
>>691
鋭い!
693ローガン:2013/08/03(土) 17:49:56.82
>>691
孫子算経にならありますが…
十忽為一秒、十秒為一、毫十毫為一釐、十釐為一分、十分為一寸、十寸為一尺、十尺為一丈、十丈為一引、五十尺為一端、四十尺為一疋、六尺為一歩、二百四十歩為一畝、三百歩為一里
694日本@名無史さん:2013/08/03(土) 17:57:15.88
>>693

孫子算経…四〜五世紀ですか。うーむ。
695日本@名無史さん:2013/08/03(土) 18:02:12.58
ということは、2,3世紀までは距離の単位と長さの単位が別々だったのかもしれない
696日本@名無史さん:2013/08/03(土) 18:08:28.15
基本的に尺寸は手の大きさから。
歩里は、そのもので歩く距離から。

相互変換する発想がまだ出てなかったのかもね。
6972chの満州:2013/08/03(土) 18:21:31.27
周髀算経
即平地徑二十一歩,周六十三歩。令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分

ちゃんと歩、尺、寸が出てくるが。
698日本@名無史さん:2013/08/03(土) 18:30:58.31
>>697
尺寸でまとまってて、歩と尺を混ぜてはいないでしょ。
699日本@名無史さん:2013/08/03(土) 18:40:24.26
何やってんだよこいつ等…
完全に九州説は終わったね。
700日本@名無史さん:2013/08/03(土) 18:53:45.13
俺は九州説だが不毛な論議だと思ってるよ。
701日本@名無史さん:2013/08/03(土) 18:58:15.16
短里を認めると、尺寸が小さくなりすぎて現実的な長さでなくなってしまうという問題点もこれで解決したね
めでたし、めでたし
702ローガン:2013/08/03(土) 19:34:48.31
701
ところが
「六千六百五十二里二百九十三歩」の記述から、里と歩の換算、1里が294歩を下回らないことがわかる。

また、「即平地徑二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正.則位徑一百二十一尺七寸五分.」の記述から、歩と尺の換算、1歩が6尺を下回らないことがわかる。
1里=300歩=1800尺で問題なし。
703日本@名無史さん:2013/08/03(土) 19:47:10.26
>>680
正確に北に千里、南に千里行ったら
そこが街の可能性はほとんど無い
原野のど真ん中かもしれんぞ

ふと思ったんだが、この1里って歩幅で100歩じゃね?
7042chの満州:2013/08/03(土) 19:58:57.71
一里を76mとすると千里は76kmだ。
あの時代に、ある地点の76km南、あるいは76km北が正確に測定できただろうか?

江戸時代の日本でさえ無理ではあるまいか。
否、明治時代でさえ出来ただろうか。
705日本@名無史さん:2013/08/03(土) 20:08:40.97
そりゃ歩いてだろw
一里ずつ石を置いてそれを千回繰り返す
バカバカしいと言ってもこれしかない
706日本@名無史さん:2013/08/03(土) 20:10:02.51
一定距離ごとに狼煙を上げて方角を確認しながら進むとか
707日本@名無史さん:2013/08/03(土) 20:18:54.58
千里を正確に測るのも面倒臭いとか言ったら、万里の長城なんて造れやしない
708ローガン:2013/08/03(土) 20:22:05.89
1寸が4mmだから、影長計測で0.1mm違えば23里に相当。
非常に現実味のない話。
709日本@名無史さん:2013/08/03(土) 20:34:42.74
>>704
>江戸時代の日本でさえ無理ではあるまいか。

その江戸時代に伊能忠敬は歩いて測って正確な日本地図を作った。
710日本@名無史さん:2013/08/03(土) 20:54:23.15
なんか諦めきれないおっさんがいまだにぐちぐち言ってるように見えるんだけど
7112chの満州:2013/08/03(土) 21:53:30.88
千里が76mで300歩なら−

一歩=25.3cm
一尺=4.2cm
一寸=0.4cm

さすがにこんなことを信じる人間はいないと思うが(同情して泣く)
712日本@名無史さん:2013/08/03(土) 21:57:41.03
ローガン説って邪馬台国は万里の彼方の倭国に上陸後200里だから
倭人伝が短里で書かれていることになると自動的に消滅だからな
713日本@名無史さん:2013/08/03(土) 22:28:44.02
だから正確な測量が出来ないし、書かれてないから
無駄な議論だとずっと言ってるのに…
日に歩いて百里って書いてあるだけだって。
それが実質10kmでも百里、5kmでも百里。

里の単位が変化するものに、定数が当てはまるわけないでしょ…
714日本@名無史さん:2013/08/04(日) 00:29:51.43
1日に76mしか歩けない>>713は、可哀想な奴だな。
715日本@名無史さん:2013/08/04(日) 08:46:07.67
ハァー?。1里=76mで、100里は7.6kmだけど。そんな計算もでき
んの?。なんちゅうパーカ。
716日本@名無史さん:2013/08/04(日) 10:04:30.48
>>711
短里信者はその事に不自然さを感じないようです
717日本@名無史さん:2013/08/04(日) 10:27:40.63
周髀算経にはこんな記述もあるな

「是故一衡之間萬九千八百三十三里三分里之一。即為百歩。」

(訳;従って、衡と衡の間は、19,833里と3分の1里であり、3分の1里は100歩のことである。)

やはり一里=三百歩だな
718日本@名無史さん:2013/08/04(日) 11:18:18.87
>>715は、一日に7.6kmしか歩けないのか。可哀想な奴だな。
719日本@名無史さん:2013/08/04(日) 11:34:51.56
>一日に7.6km

現代の舗装された道をゆくサンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼でさえ
一日に歩く距離は平均して12〜15キロ
古代であればだいたいこれくらいだろ
720日本@名無史さん:2013/08/04(日) 12:12:32.03
>>711
案外、当時はそんなもんだったりして。
倭人伝の行程に影響するわけじゃないし。
721日本@名無史さん:2013/08/04(日) 12:16:37.90
江戸時代の大名行列は1日平均32・8km進んだ。
722日本@名無史さん:2013/08/04(日) 12:37:28.45
自炊と宿があるかで、だいぶ違う気がするね。
723日本@名無史さん:2013/08/04(日) 12:45:28.73
江戸時代は道も整備されてて銭と着替えだけあれば旅行できたからな
食事は旅籠や本陣で金払えば食える
古代だと食材だけでなく鍋釜一式持っていかないといけない
寝泊まり用の道具も必要
しかも長旅になるほど荷物が増える
724日本@名無史さん:2013/08/04(日) 12:52:10.61
日本の江戸時代の道路の便利さは世界でもトップクラス
あの街道整備は素晴らしい
女の一人旅でさえ不可能じゃないんだから
725日本@名無史さん:2013/08/04(日) 13:17:20.48
平地が続く中国の道路なら、7.6kmなんてすぐだろ。
726日本@名無史さん:2013/08/04(日) 13:45:01.19
川に橋は無く渡し舟を見つけるか自分で舟を借りて渡らねばならなかった。山
にトンネルは無く、山賊・強盗の類も自分の甲斐性で切り抜けねばならなかっ
た。他国・遠隔地では武器で拘束されることも多かった。邪馬台国の時代は。
727日本@名無史さん:2013/08/04(日) 14:27:17.40
鍋釜持ち歩いて、野宿にいい場所を探して、
調理して飯炊いて、食って、洗って、
なんてやってると、一日が終わりそうだw
728日本@名無史さん:2013/08/04(日) 14:34:49.98
唐津から2000里(=150km)ってことが濃厚になったけど
それだけで場所は相当限定されるな
729日本@名無史さん:2013/08/04(日) 15:04:28.45
なんで?
海岸を移動 七千余里、狗邪韓国
海を渡る 千余里、対馬国
海を渡る 千余里、瀚海
海を渡る 千余里、末盧国
東南に陸行 五百里、伊都国

合計は1万五百里以上で、余を考慮に入れると
1万二千里とは郡から伊都国までだろう
730日本@名無史さん:2013/08/04(日) 15:07:50.87
西都原だな
731日本@名無史さん:2013/08/04(日) 15:22:43.22
朝倉かもしんねぇ
732日本@名無史さん:2013/08/04(日) 16:58:06.80
南 なだけに(笑)
733日本@名無史さん:2013/08/04(日) 17:03:49.76
山門郡だな
距離も名前もぴったり
734日本@名無史さん:2013/08/04(日) 17:53:51.53
ヤマイ国だから八女
735日本@名無史さん:2013/08/04(日) 18:57:04.86
アホばっかりw
736日本@名無史さん:2013/08/04(日) 22:46:58.49
>>725
大陸なら公里で日に百里(約43km)が基準なんだろ。
その基準を未開の島国にも使ったから、大陸の百里が百里で無くなった。
つーか、大陸でもかなり曖昧なもんだったと思うよ。
一応尺はあるけど無いようなもので、感覚的に伝われば良いような。

『歩いて30分ぐらい』って現在でも良く使うけど、
それを聞いて頭の中で大雑把な距離をkmに変換し想像する。
肉体の疲労度合いまでも想像する。
そんな部分までも含めた距離が『日に百里』じゃないの?

どちらかと言えば巻き尺じゃなしに、時間尺って感覚だったんだろ。
737日本@名無史さん:2013/08/04(日) 23:00:55.71
一月に千里程度が基準じゃないかと思う。
月に435キロ、一日あたり14.5キロだ。
738日本@名無史さん:2013/08/04(日) 23:11:29.97
数学が絡むと、みんなが考え方を共有できるし、
結論もしっかり出るから、きちんと結果が終息するのが心地良い。

そういう議論ならやってても見応えがあるが、
水掛け論から最後には罵倒の応酬になるような議論は、
つまらん。
7392chの満州:2013/08/04(日) 23:16:17.22
居處宮室樓觀 城柵嚴設(三國志 倭)

この一節を見て誰もが吉野ケ里を連想するわけだが、宮室や城柵があったのは倭だけではない。

有宮室…作城柵皆員(三國志 夫餘)
有城柵屋室(後漢書 辰韓)

扶余や辰韓にも宮室や城柵があった。
城柵だけなら高句麗にも百済にもあった。

何が言いたいかというと、卑弥呼がいたのは日本とは限らないということである。
倭とは日本だという先入観があるから、中国正史のこういう記述を見過ごしてしまう。
実はポクもその一人で、今日、「中国民族史」という本の扶余の項を読んでいて気付かされた。
740日本@名無史さん:2013/08/04(日) 23:16:39.12
周髀算経は短里で書かれてはいないという事で結論は出たね
741日本@名無史さん:2013/08/04(日) 23:18:38.04
>>740
>周髀算経は短里で書かれてはいないという事で結論は出たね

こういう中身の無い連呼厨のレスはつまらん。
742日本@名無史さん:2013/08/04(日) 23:23:23.63
>>738
東遷説のスレ見てるとつくづくそう思う
神武東征じゃなく東遷説なんだから記紀を見るなとしつこく言うやついるけど
それじゃただ妄想を語るスレになってしまうがな
743日本@名無史さん:2013/08/04(日) 23:24:03.61
>>739
>卑弥呼がいたのは日本とは限らないということである。

対馬から壱岐に渡り九州に到達したのにそれは無い
744日本@名無史さん:2013/08/04(日) 23:27:05.48
>>741
議論の内容を見たら明らかだろ
つーか連呼してないし
745日本@名無史さん:2013/08/04(日) 23:28:19.76
>>743
そこをスルー出来る頭脳が満州先生ですよ
746風の中のゴキブリ:2013/08/04(日) 23:39:28.48
都合の悪いことは華麗にスルーする夢幻如
747日本@名無史さん:2013/08/04(日) 23:50:46.00
文字を持たないと文献として残らないだけでなく伝承としても残らないってことだろ
どの文献にも書かれてなくて伝承だけが残ってる事例なんてないでしょ
748日本@名無史さん:2013/08/04(日) 23:54:08.02
>>744
おまえが数学できないのはわかったから消えてくれ
749日本@名無史さん:2013/08/05(月) 00:03:01.93
>>738
言いたい事は解るが無理だわ。

里の単位(X)を正確に求めても、掛ける数値が曖昧だもの。
最初から公式が成り立たない議論は見てて無駄だなと思ってた。
XとYのXだけ求めても答えは出ないでしょ?
倭人伝の里数が細かく刻んで記載されてたら、また別だったけど。
アバウトに100里単位だもの、Yの値に正確性無いし。

公式を成り立たせるには地上の二点間を特定し、当時の道を
実測してYの値を出さなければ成り立たないよ。
地図上の直線距離は意味がないから。
記録者は空飛んで移動してないからね。
750日本@名無史さん:2013/08/05(月) 00:14:30.25
議論についていけない者は議論そのものを否定するいい例だな
751日本@名無史さん:2013/08/05(月) 00:15:51.71
無駄な議論を引き延ばすことに意味を見出す人が多いね
752日本@名無史さん:2013/08/05(月) 00:28:11.95
>>750
里の単位を求める議論は否定しない。
でも単位を求めるだけの議論で、答えを導きだす議論じゃないのは否定する。
753日本@名無史さん:2013/08/05(月) 00:52:27.89
周髀算経が短里で書かれていると仮定するとそれに伴い短歩短尺短寸になり極めて非現実的

短里は先ずない
754日本@名無史さん:2013/08/05(月) 01:12:03.16
いやちがう。
検証できるものから一つ一つ確認して行こうという姿勢が欲しい。
短里の存在について検証できそうな題材があるなら、一応チェックしてみたら良い。
蓋然性とは、そう言う積み重ねから出てくるものではないかな。
遺跡が多い=都だった可能性が高い
こんな短絡的は発想で
蓋然性だと言われても困る。
九州に収まる為には、短里を想定する必要がある、人口を養うだけの水田面積を想定する必要がある、という命題が浮かぶなら検証するのは当然じゃないか。
なに飛ばしてるんだと思う。
755日本@名無史さん:2013/08/05(月) 01:33:30.10
少なくとも周髀算経は短里では書かれて無いよね
短里存在の根拠の一つは否定されたね
756日本@名無史さん:2013/08/05(月) 01:42:25.49
連呼してるじゃん
757日本@名無史さん:2013/08/05(月) 01:48:23.47
多くの人がそう思ってるという考えに至れない
758日本@名無史さん:2013/08/05(月) 02:02:17.30
短里は周髀算経の追計算で否定されたのではない
短里だと尺や寸が小さくなりすぎて実用的でないと言う話がでただけ
そんなもん最初から解っている事だ
759華麗にスルーする満州:2013/08/05(月) 07:47:51.01
オウム真理教。
普通の人はこんなものは信じない。
ところが東大医学部の伝説的な秀才がそれを信じてしまう。

幸福の科学。エホバの証人。
普通の人はこんなものは信じない。
ところがかなり多くの人がこういうのを信じて入信してしまう。
最初は信じていなくても、勧誘されて話を聞いているうちに信じてしまうのである。

短里説。倍暦説。
普通の人はこんなものは信じない。
ところが古田の本などを読んでいるうちに信じてしまうのである。

信じるのは良いことだ。それが嘘であろうと何であろうと、
それを信じることが生きる支えになるなら。

九州人よ、九州説を信じて生きてゆけ。
760華麗にスルーする満州:2013/08/05(月) 08:03:38.10
しかし、かの故森村伊作大先生も、短里説を認めることは躊躇しておられた。
やはり、頭の片隅に、短里説はやや苦しいという判断をお持ちだったからである。

頭のどこかに、そういう常識的判断力が少しでもあるなら、
その人は狂信に陥らなくて済む。

サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ [宮沢賢治]
761日本@名無史さん:2013/08/05(月) 08:14:59.76
そもそも、里(距離)と言う概念が現代人とは違うんじゃないか?

九州論者ではあるが。
762日本@名無史さん:2013/08/05(月) 08:37:14.21
里は複数有ったとみるべきだろ
もともと歩数や時間を元に作ったのが里だし
古代は尺だってバラバラだったしな
763日本@名無史さん:2013/08/05(月) 08:59:09.18
当時正確な測量が可能なら、地図の一つも残すと考えるのが普通の人。
それが東アジア関連の物が一切無い時点で、行程距離の数字なんて
参考程度のものでしか無いでしょ。
764日本@名無史さん:2013/08/05(月) 09:27:27.56
>>758
>そんなもん最初から解っている事だ

「一里=50歩」とか「寸尺と歩里は相互変換出来ない」と言ってた短里支持者がいたけど…
765日本@名無史さん:2013/08/05(月) 09:33:33.09
短里説なんてあたかも事実でないかのように
説なんて付けるまでもなく、1里=約76mだろ。
説じゃなくて単なる事実だ。

ちなみに箸墓=卑弥呼墓は詐欺説だったし、
△鏡=卑弥呼鏡も詐欺説だったし、
年輪年代判定も詐欺説だった。
766日本@名無史さん:2013/08/05(月) 09:37:26.76
詐欺と言うのは、鉄器の出土が多いから邪馬台国とか
地名が畿内と相似するから邪馬台国とか言ってる連中の事だよ。
767風の中のゴキブリ:2013/08/05(月) 09:38:51.47
伊作は短里の存在には懐疑的だった

「何故か分からぬが通常の1/6で書かれている」と言ってたね
768日本@名無史さん:2013/08/05(月) 09:58:53.96
>759
信じるも宗教、否定するも宗教
科学とはそんなものではない
用いるならその根拠、否定するならその根拠、を持たない限りは賛否を語れないと言うことだ
769日本@名無史さん:2013/08/05(月) 10:26:00.74
>>759
おまえ、正真正銘の馬鹿だなw
770日本@名無史さん:2013/08/05(月) 12:20:36.07
「即平地徑二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正.則位徑一百二十一尺七寸五分.」

この時代でも1歩=6尺の公式が成り立つと考えていたのは、
もともとローガンがこの文を直径21歩の円の中に直径121.75尺の円が入ると解釈したためだろ
そう解釈した理由は121.75尺を1歩=6尺で換算すると20.29歩となり21歩よりぎりぎり小さくなる丁度いい数字だからだと思われる
本当にこの解釈で正しいのだろうか?
むしろ逆で、内側に入るのではなく外側にあるのではないだろうか?
根拠1:直径121.75尺はその後ろにある文「三百六十五尺、四分尺之一」の1/3の値であり、これは当時の円周率が3であったためで、
「即平地徑二十一歩」とは関係ないところから得られた数字である
根拠2:円周の長さ「三百六十五尺、四分尺之一」は太陽暦で1年は365日1/4と関わりがある何かを示していると思われる
根拠3:中国語が理解できないが出てくる文字を拾って全体の意味を推測すると、
天体モデルあるいは太陽軌跡モデルについての説明ではないか
カリスマブロガーの満州さん、時間があれば訳してくらはいませ

もしそうなら地上の直径21歩の大きく外側に太陽軌跡あるいは宇宙の直径121.75尺がくるのは当たり前となる
ということで、1里=300歩は明らかであるが、歩と尺の間には相関関係がないということになる
771日本@名無史さん:2013/08/05(月) 12:32:33.18
金印の一辺の長さは決まっている。したがって短里などない。
772日本@名無史さん:2013/08/05(月) 12:49:42.61
方寸とあるが現存しないので何センチ角かわからない
773日本@名無史さん:2013/08/05(月) 12:59:21.15
長さの単位=尺寸と距離の単位=里歩はこの時代ではまだ相関関係がないと考えてるわけで
774日本@名無史さん:2013/08/05(月) 13:07:34.61
一歩六尺だが、とりあえずのところは、小さすぎることは後回しで良い。
倭人伝、周髀算経など、この時代の文献では、尺や寸の大きさが矛盾になるところはないから。
775日本@名無史さん:2013/08/05(月) 14:16:41.36
五尺刀
776日本@名無史さん:2013/08/05(月) 14:22:10.48
古代は里が一種類しか無かった・・・

それは無いw
777日本@名無史さん:2013/08/05(月) 14:30:53.51
秦の始皇帝の一大事業に数えられるくらい中国の度量衡は多種多様だった
もちろん簡単に統一は成らなかった
778日本@名無史さん:2013/08/05(月) 14:42:47.43
一歩=25.3cm
一尺=4.2cm
一寸=0.4cm

このような有り得ない尺寸仮説を根拠にした短里なしの結論もこれまた有り得ず
779日本@名無史さん:2013/08/05(月) 15:36:39.61
公里 万二千余里=5220km以上

これもまた有り得ず。
780ローガン:2013/08/05(月) 15:47:00.19
>>770
「即平地徑二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正.則位徑一百二十一尺七寸五分.」

即ち、地を平らにすること径21歩周63歩
その平らにすること水正を以て矩らさせる。即ち径121尺7寸5分に位す。

以外の読み方なんてある?(笑)
水正とは、百工為方以矩為円以規直以縄正以縣平以水(墨子法儀篇)
正以縣平以水…下げ振りで垂直を出し、水平器で水平を出すこと。

あらかじめ、平らにした地面において、高い精度で水平出したらもとの地面より、はるかに大きくなったなんて おかしくないかい?
781日本@名無史さん:2013/08/05(月) 15:54:15.75
少なくとも倭人伝においては、公里が使われている形跡がまるでない。
短里(相当)が使われている形跡は豊富であり、
周髀算経でも、一寸千里に加えて、
夏至、冬至の観測結果からも短里を導き出すことができる。

これは、東夷でそのような単位が使われていると推測できるが、
倭も含めた東夷では、中国本土ほどは、文字の使用が広まっておらず、
残念ながら記録が残っていない。

この記録そのものも東夷の記録ではなく、
魏志倭人伝の言葉が示すように、魏の記録である。
782日本@名無史さん:2013/08/05(月) 15:56:55.62
安物はベイズ統計学なんてまた新たな詐欺みたいな事を始めてるなw
みっともないと思わないのかな?
783日本@名無史さん:2013/08/05(月) 16:07:13.41
倭里じゃね?
784日本@名無史さん:2013/08/05(月) 16:30:38.60
五尺刀なる記述からして一尺=4.2cm はありえず
しかし現地に即すれば一里=76m程度の短い里であることは明らか
785日本@名無史さん:2013/08/05(月) 17:08:46.36
>>778
「あり得ない寸尺」は仮説じゃなくて一里=75mという仮説を前提とした場合の結論
あり得ない結論が出るということは前提となる仮説が間違っているという事
786華麗にスルーしない満州:2013/08/05(月) 17:10:15.50
>>769
ということはお前はオウム真理教、幸福の科学、エホバの証人、
短里説、倍暦説を信じているのだな。

お前こそ正真正銘の馬鹿である。
お前のようなド低能はもう来なくていいぞ。

まったく九州人というのは底無しの馬鹿である。
これまでの議論で短里説が珍説であることは明々白々ではないか。
敷布ちゃんやなぐさちゃんでさえ、納得したのか、反論して来ない。
それなのに九州の男どもは馬鹿丸出しで未だに短里説を主張している。
どこまで馬鹿なんだ、こいつらは。小学生か。
787日本@名無史さん:2013/08/05(月) 17:39:33.76
>>786
そいつらにかまって欲しくてしょうがないおまえも十分小学生並
788日本@名無史さん:2013/08/05(月) 17:45:28.36
>>785
五尺刀の記述からして、一里=75mをもとに短尺寸を導くことが明確な誤り
789日本@名無史さん:2013/08/05(月) 17:50:10.61
>>788
君らの大好きな周髀算経でも一里=三百歩、一歩=六尺となってる
したがって一里=75mだとあり得ない寸尺になる
アホでも解る話だ
790日本@名無史さん:2013/08/05(月) 18:04:14.21
>>789
倭人伝に適用して有り得ない尺寸になること自体、それを導く過程に誤りを包含することの証明だ
791日本@名無史さん:2013/08/05(月) 18:18:56.72
尺寸が現在に近い大きさであれば、
逆に影の長さが間違っているということになる。

影の長さが正しいことが検証されている以上、
尺寸が小さかったか、里歩尺寸の換算の何処かが
違っているということ。

1歩6尺が正しいと仮定すれば、
他の換算に誤りがある可能性がある。
792華麗にスルーしない満州:2013/08/05(月) 18:46:42.13
正しい判断ができない理由の一つは、知識がないからである。
世間の人は仏教やキリスト教に対して深い知識を持っていないので、
幸福の科学やエホバの証人にだまされるのである。

短里説にも同じことが言える。
伊作もなぐさちゃんも韓地方四千里を短里の証拠と思っているようだが、
それは帯方郡はソウルではないことを知らないからである。

だから、短里説を説く前にまず帯方郡の位置を調べよ、と前々から言っているのだが、
ここの連中はそんなことには何の関心も無いから調べない。
調べないから、あいかわらず帯方郡をソウルと考えて、いつまでも短里説を唱える。
自分で調べるのが面倒なら山形明郷の本でも読めばいいのだが、
なにしろ満州や朝鮮のことなど何の関心も無いのだから、読まない。
読まないから、いつまでも延々と短里説を唱える。
793華麗にスルーしない満州:2013/08/05(月) 18:59:25.25
大体、中国正史の地理記事なんて、実にデタラメなのである。
たとえば扶桑国。梁書を読めば、誰だってそれこそ北米か、などと思ってしまう。
しかし扶桑国の官が高句麗と同じであるから、高句麗の領土圏であることは間違いないのだ。
仏教僧の談であるから北米ではないことは確かだ。
で、あれこれ考えると、沿海州やロシア方面ではないかと見当が付くのである。

他にも中国正史のデタラメ地理記事は多々ある。
里数や方角にも間違いがあるのである。
794日本@名無史さん:2013/08/05(月) 19:13:22.63
ところで、(又)南至投馬国・・、(又)南至邪馬台国・・、だが、
「又」にいくつかの意味・用法あり、たとえば

1、(不弥国から)また再び南して投馬国に至る・・・、
2、(不弥国から)また同様に南して邪馬台国にいたる・・・、

と読み分ければよいのではないか。
前者はいわゆる連続読み風、後者は二股読みとなる。
結果として、投馬国へは脇道をたどるの意味になり、邪馬台国へは引き続き末蘆国からの幹線道路を下るの意味となる。
795華麗にスルーしない満州:2013/08/05(月) 19:47:06.35
どう読もうと勝手だが、九州に投馬国に比定できるような所はない。
敢えていえば薩摩だが、サツマのツが消えてサマとなることはあっても、
サが消えてツマとなることはない。
しかもツに投の字を宛てたような例はないだろう。

というわけで九州説は諦めたほうが良い。
796日本@名無史さん:2013/08/05(月) 19:48:37.40
1里=75mであると主張があり、その根拠に周髀算経が挙げられた
で、その周髀算経は、1里=300歩であり、1歩=6尺であるという
1里=75mなら、1寸=4mmなのは明らか
果たして陰差4mmは現実的な数字であろうか?
理系の諸氏はいかが考えておられるのか?
797日本@名無史さん:2013/08/05(月) 20:23:41.43
>>796
里が複数使われていると言う事だよ
同時代でも複数の単位が使われて例は多い

それでは質問だが郡から女王国まで6000kmあった
これを主張するつもりか?
798日本@名無史さん:2013/08/05(月) 20:28:02.11
>>791
棒の長さと影の長さの比率さえ合っていれば寸尺の実長は関係ないよ
799日本@名無史さん:2013/08/05(月) 20:30:58.36
>>797
周髀算経内で複数の里が使われていると言う事?
それとも倭人伝と周髀算経では違う里が使われていると言う事?
800日本@名無史さん:2013/08/05(月) 20:39:22.28
>>799
だから「里」には多くの意味が有った
そういうこと

日本で「里」が統一されたのは明治に入ってかららしいw
江戸時代まで色んな長さの里が有った
801日本@名無史さん:2013/08/05(月) 20:43:05.85
>>800
答えになってないww
802日本@名無史さん:2013/08/05(月) 20:45:59.23
>>796
>その周髀算経は、1歩=6尺であるという

どこにそんなことが書いてあるんだよ
803日本@名無史さん:2013/08/05(月) 20:50:07.64
>>802
お前今までのレスを読んでないのかよ
まあ厳密に言えば一尺は約1/6歩を上回る事は無いとなるが、それを言いたいの?
804日本@名無史さん:2013/08/05(月) 20:50:08.93
>>801
答えているだろ・・・
周髀算経内で複数の里が使われている可能性は高い
倭人伝と周髀算経では違う里が使われている可能性も有る

次はそっちの番ね。ちゃんと答えてね
>それでは質問だが郡から女王国まで6000kmあった
>これを主張するつもりか?
805日本@名無史さん:2013/08/05(月) 20:53:05.09
邪馬台国はニュジーランドに有った
こんな新説がこのスレから生まれそうだなw
これは期待していい
806日本@名無史さん:2013/08/05(月) 21:14:44.54
語呂としては薩摩より出水だろ
807日本@名無史さん:2013/08/05(月) 21:14:50.89
>>796
>で、その周髀算経は、1里=300歩であり、1歩=6尺であるという
>1里=75mなら、1寸=4mmなのは明らか

キミのその換算経過は明らかにありえない結果となっている、誤れる数字は何の根拠にもなりえないのだ
808日本@名無史さん:2013/08/05(月) 21:36:20.98
>>807
誤れる数字は一里=75mという事だよね
809日本@名無史さん:2013/08/05(月) 21:40:52.55
伊都之尾羽張(いつのおはばり)

>日本神話に登場する神の名前であり、神刀の名でもある。
>古事記の神産みの段において、伊邪那岐命が迦具土神を斬ったときに使った十拳剣の名前として登場する。
>葦原中国平定の段では、天穂日命(あめのほひ)、天稚彦(あめわかひこ)に次いで三番目に葦原中国に派遣する神を選定する際、
>思兼神(おもいかね)が、伊都之尾羽張神もしくはその神の子の建御雷之男神を推薦している。
>伊都之尾羽張神が、建御雷之男神が適任であると答えたため、建御雷之男神が葦原中国に派遣されることになった。

>>795
畿内説が伊都国を「いとこく」と読み、糸島を充てたことについて、
伊作先生は、伊都国は「いつこく」と読むべしとの論を展開された。
日本神話においても、伊都之尾羽張神にみるごとく、伊都は「いつ」と読ませている。
伊作先生が伊都国を佐賀平野とされたのはまことに慧眼であった。
810日本@名無史さん:2013/08/05(月) 21:46:12.51
>>808
誤りがいずこにあるかは、
>1寸=4mmなのは明らか、と主張するものが自らの責任において根拠を示し明らかにすべきこと。
811日本@名無史さん:2013/08/05(月) 21:53:25.92
>>808
少しはちょっと前のレスを読めよ…
一里=三百歩、一歩=六尺(厳密に言うと一尺≦1/6歩となるが)という事をローガン等の人達が周髀算経の該当記述を引用して明らかにしているだろ
812日本@名無史さん:2013/08/05(月) 21:56:57.24
すまぬ
>>811>>810宛てね
813日本@名無史さん:2013/08/05(月) 22:01:59.45
>>812
そうかい、周髀算経をもって倭人伝を制して良いのか、その根拠は?
814華麗にスルーしない満州:2013/08/05(月) 22:02:14.84
伊作は伊都国を佐賀平野に比定したのか?

プッ、ケラケラ、ゲラゲラ、笑いが止まらない。
伊作はそんなパカだったのか(カラカラ)
815日本@名無史さん:2013/08/05(月) 22:05:47.12
2chの満州、ついに。。。(涙
816日本@名無史さん:2013/08/05(月) 22:22:35.09
>>813
短里の根拠として周髀算経を挙げたのは短里信奉者だろ
817日本@名無史さん:2013/08/05(月) 22:23:15.32
>>780
地面の上に円を描くってのが一般的な解釈のようだけど、何のためにそんなへんてこなことをするのか疑問に思ってた
直径30メートルの円を地上に描いて人の目線でどうやって見るんだってのもあるし
で、自己流解釈だけど、文章全体でプラネタリウムのようなものを表してるのかと思ったわけ
「即平地徑二十一歩」→ 直径21歩に縮小した地上の模型
「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」→ 地面と水平になるように天井からつるした直径121.75寸に縮小した天の模型
距離単位の歩ではなく、尺寸で記述されてるってことは地上にはないものと考えた
で、天の大きさ>>>>>地上の大きさって思ったまで
まあ中国語わからないからただの推測でしかないけど
818日本@名無史さん:2013/08/05(月) 22:34:18.97
恐らく、古代にも熱気球があったのではないかと思われます。
麻より軽い繊維で編んだ布に樹脂をしみこませ空気漏れを減らす。
籠を釣るして下で火をたけば気球は上がることくらい古代人でも気がつく。
材料は何千年も残るものではないから、痕跡は残らない。
しかし、ナスカの地上絵にしろ天の岩舟にしろ、
古代人が空を自由に飛べたのではないかという遺物があちこちに残っている。
819日本@名無史さん:2013/08/05(月) 22:34:43.16
自分も何かパラダイムシフトがあるとは思うが、
とりあえず一寸=4mmで直感以外に問題はなかろう。
820日本@名無史さん:2013/08/05(月) 22:59:38.70
>>816
そしてその周髀算経に追いすがったのは畿内信者だがw

ま、古来中国の度量衡にはいろいろさまざまの変異変遷があったというのが常識
だから九州説は多様性を否定しない、一寸千里もその一例。
もし魏〜王朝のころには里は一種類しか存在しなかったと主張したいなら、それ相応の論拠・根拠を要すからな
821華麗にスルーしない満州:2013/08/05(月) 23:09:07.80
僕もローガンの挙げた文の意味がどうもよく分らなかったが、どうやらこれが原文のようだ。

術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。
因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一。

で平矩に関しては冒頭にこういう文がある。

商高曰:「平矩以正繩,偃矩以望高,覆矩以測深,臥矩以知遠,環矩以為圓,合矩以為方。

矩というのは物差しか矩形のことではないのか?
ローガンの解釈が間違っている可能性がある。
検索してみるとローガンが述べていることと同じことを述べているサイトがあるから、
ローガンはそれをコピペしただけだろう。いやに漢籍の知識があるな、と思ったが、
単にネットの情報をコピペしただけだったのだなw
822日本@名無史さん:2013/08/05(月) 23:20:07.27
仮に邪馬台国が九州にあったとしよう でどうしたの?
823日本@名無史さん:2013/08/05(月) 23:47:03.12
>>822

畿内説で生計を立てている、産・学・商の連中が、
詐欺がバレると生活できないので暴れ出す。
824日本@名無史さん:2013/08/06(火) 00:31:23.71
>>820
とりあえず周髀算経でも一里=三百歩、一歩=六尺だから一里=75mだと一歩=25cm、一尺=4cm、一寸=4mmという事は認めるのね

それでも短里はあったと信じるのなら、やはりどうかしてると思うよ
825日本@名無史さん:2013/08/06(火) 00:56:22.53
>則位徑一百二十一尺七寸五分

もし仮に1歩=6尺なら、なぜ20歩1尺7寸5分と表記しないのか?
これは歩と尺で互換性がないからではないのか?
826日本@名無史さん:2013/08/06(火) 03:45:45.24
>>824
一歩=25cm、一尺=4cm、一寸=4mm などと非現実的な数字・理屈・体系をこねくり回すのは無駄
有り得ない数字は、肯定にも否定にも役立たぬことを知るべし
827風の中のゴキブリ:2013/08/06(火) 03:53:57.66
>>824
アホやなあ
夢幻如レベルの短絡思考
828日本@名無史さん:2013/08/06(火) 04:06:50.05
>>824
そもそも周髀算経のなんたるかを知らぬようだな、
中国千余年の古天文学の知識の集大成というか、寄せ集めみたいなものだ、
ゆえに千余年を通じて単位統一されてるわけがない、ネットでいいんだからちょこっと勉強してくれぬかのう
829日本@名無史さん:2013/08/06(火) 04:53:49.71
へー
未だに、こんな説あるんだ

そっ閉じしよう… …
830ローガン:2013/08/06(火) 09:03:19.76
>>826
そう 有り得ないんだ。
上で挙げたように同書のなかでは1里が300歩 1歩が6尺 。
ゆえ周髀算経では1里=75mは 有り得ないが結論。簡単な話。
九州説自体が駄目だと言うつもりはないが、周髀算経を根拠にした短里説は間違いなんだ。
831華麗にスルーしない満州:2013/08/06(火) 09:09:09.72
即平地徑二十一步,周六十三步。令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。

即ハチ、徑ハ二十一歩、周ハ六十三歩ノ地ヲ平ラカニシ、
其ヲ平ラカニスルコト水正ヲ以テ矩(はか)ラ令(し)メ,則ハチ徑一百二十一尺七寸五分ヲ位スル。

ローガンが参照したであろうサイトの読み下し文だ。
しかし矩には動詞の意味はないから、この解釈は誤りである。
そもそもこれでは徑一百二十一尺七寸五分という数値がどこから出てくるのか、さっぱり分らない。
倍正南方,以正勾定之。
この文の意味が分らないと上の文の意味は解らない。
正勾とは何か。まずそれを調べないと解釈不能。

とはいえ、おそらく一歩を六尺とみなしているであろうことは推測が付く。
832日本@名無史さん:2013/08/06(火) 09:09:44.51
>>823
邪馬台国に乗っかってる自治体や産業の数は圧倒的に九州だぞw
833日本@名無史さん:2013/08/06(火) 09:17:00.29
>>826-829
一寸千里の法の記述については短里で書かれており、短里の場合は一里=三百歩、一歩=六尺ではないと言いたいのか
どんなご都合解釈だよ

まあ幾ら何でも苦し紛れの言い訳だよね?
本気で言ってたらどうかしてると思うよ
834華麗にスルーしない満州:2013/08/06(火) 09:17:56.28
僕の予想では、正勾とは、
徑二十一步,周六十三步の円に内接する、
辺の比が3:4:5の直角三角形の斜辺の長さではあるまいか。
835日本@名無史さん:2013/08/06(火) 09:20:58.47
>>831
>即ハチ、徑ハ二十一歩、周ハ六十三歩ノ地ヲ平ラカニシ、
>其ヲ平ラカニスルコト水正ヲ以テ矩(はか)ラ令(し)メ,則ハチ徑一百二十一尺七寸五分ヲ位スル。

訳として意味不明だわ
前後関係がないから全体として何をしているのかさっぱりわからない
836日本@名無史さん:2013/08/06(火) 09:42:15.10
里歩→距離の単位 1里=300歩
尺寸→長さの単位 1尺=10寸

歩と尺の関係は不明で、両方が一緒に書かれているのがあの意味不明な例文
「二十一歩」>「一百二十一尺七寸五分」なのか?
「二十一歩」=「一百二十一尺七寸五分」なのか?
「二十一歩」<「一百二十一尺七寸五分」なのか?
それとも比較することが不可能なのか?
837日本@名無史さん:2013/08/06(火) 09:49:25.88
細かな部分はよく分からないけど大意としては直径二十一歩の円い地面に直径一百二十一尺七寸五分の円を描いたという事だろう
だから「二十一歩」≧「一百二十一尺七寸五分」だろうね
838日本@名無史さん:2013/08/06(火) 09:58:25.56
>>833
文献の文字面ばかり重んずる畿内の文系形式主義者に云わせればご都合解釈というのか

周髀算経は古代中国千余年の学術的な知識・伝承・文献を寄せ集め、体裁を整えた(編集した)に過ぎない書
これを現代の知識で検算すればいろいろな里を見ることができるわけだ
それはご都合でなく、現代科学の目で見る学術合理主義というべきであろう
839日本@名無史さん:2013/08/06(火) 10:11:57.49
>>837
普通の言い方として、「地面に直径一百二十一尺七寸五分の円を描いた」の1行で終わるでしょ
わざわざ「直径二十一歩の円い地面に〜」なんて言わないと思うけど
もし同じ場所に円を描いたならなぜ共通の単位を使わなかったのか不自然な点が残る
840日本@名無史さん:2013/08/06(火) 10:15:00.45
意地でも里歩と尺寸を混ぜない部分で、何かあると思うんだけどなあ
841日本@名無史さん:2013/08/06(火) 10:16:02.89
三歩三尺とか絶対に書かないんだよね。
842日本@名無史さん:2013/08/06(火) 10:22:16.26
>>833
この時代では里・歩は距離を表す単位で、尺・寸は長さを表す単位であり、別々の概念であった
両方が合体したのは後の世のこと
したがって、○○歩○○尺のような使い方は一切ない
843日本@名無史さん:2013/08/06(火) 10:29:40.93
>>838
どう考えても「一里=75mは誤りであり、『一寸千里』は実測値ではない」と解釈するのが一番合理的だろ
844日本@名無史さん:2013/08/06(火) 10:35:09.27
>>843
ま、ここで必死に追いすがる畿内信者の気持ちもわからんではない、もうあとが無いからな。
845日本@名無史さん:2013/08/06(火) 10:37:07.96
>>843
いや一番合理的なのは、1歩=6尺という後の世に生まれた概念を除外することだ
846日本@名無史さん:2013/08/06(火) 10:43:07.94
>>839
今一分からん部分は字面から推測すると地面を真っ平らにしたという様な意味だろう
凸凹した地面じゃなくて水平面上に円を描いたという事を説明しているのではないかな
847日本@名無史さん:2013/08/06(火) 10:46:16.97
術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一歩,周六十三歩。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一。
審定分之,無令有纖微。分度以定,則正督經緯。而四分之一,合各九十一度十六分度之五。
於是圓定而正。則立表正南北之中央,以繩?顛,希望牽牛中央星之中。則復望須女之星先至者。
如復以表繩希望須女先至,定中。即以一游儀希望牽牛中央星,出中正表西幾何度。
各如游儀所至之尺,為度數。游在於八尺之上,故知牽牛八度。其次星放此,以盡二十八宿度,則之矣。

ローガンはこの文章全体をどういう風に解釈してるんだい?
全体の意味がわかればあの意味不明な文も理解可能になるかもしれない
848日本@名無史さん:2013/08/06(火) 12:52:09.18
遷都もしてないのに首都って言ってる東の京 東京
849日本@名無史さん:2013/08/06(火) 13:20:56.95
>>843
それこそご都合主義
実測したと書いてあるものを一蹴するわけにいかない
850日本@名無史さん:2013/08/06(火) 15:07:33.20
まあ、短里「説」が否定されても、
倭人伝の1里が約76mであることは自明だから、
九州説にとって何の障害にもならない。
851日本@名無史さん:2013/08/06(火) 15:09:04.45
時間を絡ませてるとしか思えない。

里数を時間に置き換えて表した時、1/6に成るって文献無いの?
又はシュウヒサンケイからそんな部分を見出だせない?
天空を12分割する思想は太古からあるし、それを昼と
夜で別けると昼は6分割出来るが。
852日本@名無史さん:2013/08/06(火) 15:19:12.70
一歩が示す距離として、

右足左足で歩いた大歩のほかに、
片足分歩いた半歩。
足の大きさを示す小歩

なんて説を読んだことはあるが、
あまり取りたい説じゃないな。

あくまでも個人的印象だが。
853日本@名無史さん:2013/08/06(火) 15:29:04.72
>>847の翻訳は無理なので単語をググって出てきたのがこれ↓

周天三百六十五度、四分度之一 : 西洋の360度に対応する全天の角度を指している
合各九十一度十六分度之五 : 全天を4分割したとき1つの角度
牽牛星 : 鷲座(わしざ)のα(アルファ)星アルタイルの漢名。古来、天の川を隔てて対する織女星とともに七夕伝説で有名。彦星(ひこぼし)。
須女星 : 織り姫星の古代での呼び名
二十八宿 : 天球における天の赤道を、28のエリア(星宿)に不均等分割したもの
元々は、新月の時の月の位置を推定するために、1日ごとの月の位置の移動にあわせ、天周を28に分割し、その目印の役割をさせた星のことである

全体として天体観測の説明だと思われる
したがって直径21歩の地面の内側に121.75尺の円を描いたっていう解釈はどう考えても間違っている
むしろ下から見上げて星の位置を座標軸で表すための道具と考える方が妥当性がある
「二十一歩」>「一百二十一尺七寸五分」は間違いなので、一歩=六尺も成り立たない
この時代では「里歩」と「尺寸」の変換はできなかったと考えるべき
854日本@名無史さん:2013/08/06(火) 15:41:02.64
中国で天が半球状の概念になったのは数百年後であり
この当時は円盤状であると考えられてたらしい
855日本@名無史さん:2013/08/06(火) 16:28:27.29
九州説もいよいよネタが無くなったみたいだね。
856ローガン:2013/08/06(火) 16:42:34.95
>>831:満州
「令其平矩以水正」
だから、意味はそうなるだろうが。そういう奴もいるだろうと、水正については>>780書いた訳だがね。

>>853
天は平らなんだ。そして天の一周(=1年の運行)が365 1/4 なんだ。
天の模型を地面に描く訳だから、円周365尺1/4が、まっ平らであることが重要。
ある程度の平らな面に「平矩以水正」で、きちっとレベルを出した訳だ。
徑二十一歩周六十三歩」の円の中に「徑一百二十一尺七寸五分」の円がある。
857華麗にスルーしない満州:2013/08/06(火) 16:54:51.67
>>834
書き込んだ後で間違いに気付いた。
円に内接する直角三角形の斜辺の長さは円の直径と同じだから二十一&amp;#27493;である。

とにかくこの文章の意味は正勾の意味が分らないと解けない。
858華麗にスルーしない満州:2013/08/06(火) 18:40:42.75
平地は地を平にする、あるいは平地という名詞だろう。
平矩は矩を平にする、あるいは平矩という名詞だろう。

また周天三百六十五度、四分度之一 とあるところを見ると、
天を平らだと思っていたとは思えない。
地球が丸いことは知らなかっただろうが、天は天球と把握していたはずである。
中国人だってそこまでアホではない。

とにかくローガンの説明では徑121.75寸という数値がどこから出てくるのかさっぱり分らない。
地を平らにせよ、とか水平を出せ、とか、何のためにそんなことをするのか。
曲面を平面に直せ、とか曲線を直線に直せ、とかの意味なら分かるが。
859日本@名無史さん:2013/08/06(火) 19:01:58.09
中国人は天を球体と思ってた節がある。
860日本@名無史さん:2013/08/06(火) 19:23:06.41
地面を平らにするのは正確な円を描く為でしょ
121尺と言ったら一尺=18cmとして20m以上の長さになるので地面を平らに整地する必要がある
861日本@名無史さん:2013/08/06(火) 19:26:59.06
>>853
ではその場合直径21歩の地面と直径約121尺の円はどういう関係にあるの?
862日本@名無史さん:2013/08/06(火) 19:35:04.38
ピタゴラスの定理を勾股定理というらしい
863日本@名無史さん:2013/08/06(火) 19:36:48.78
直角三角形の底辺を勾
直角の縦方向の辺を股
斜めの線が距、らしいのだが、
中国語はよくわからんので、要確認。
864日本@名無史さん:2013/08/06(火) 19:41:16.25
>>855

畿内説には詐欺のネタしか無かったね。
九州説は詐欺をやる必要ないからな。
865日本@名無史さん:2013/08/06(火) 19:56:24.26
詐欺ネタが尽きていちゃもん付けるしかなくなったのが畿内説
まああと十数年もすれば跡形も無く消え去ってるよ
866日本@名無史さん:2013/08/06(火) 21:09:31.79
>>856
その説明はかなり苦しいんじゃないか?
まず実用性がない
何のためにそんな巨大な模型をつくるのか意味がない
続きの文には天体観測のことが書かれているのに地面に天の模型を作ることと関連性がない

それに直径30メートルのばかでかい模型を作っても人の目線でどうやって見るんだってなる
眺めるだけなら縮尺を変えて紙に書けば十分でしょ

地上に描かれた円が何らかの観測に使われるかというとそれも無理だろう
日中なら太陽の動きとかに使えるが、夜だと真っ暗で見えないから星の観測には使えない

地面なんて普通は平らなのにあえて平らにすると書かれているのにはそれなりに意味があるはず
平らとはデコボコのことではなく傾きがないことだろう
傾きがないことが最も活かされるのはどういうときかというと、天体観測のときではないかな
地面が水平なのは当たり前すぎるから、地上から上に設置した観測道具を水平にしろよって意味だろう
地面に円を描くくらいでそこまでしつこく平らにしろと言わんでしょ普通は

>>861
わからん
観測道具だろうって推測だけで具体的な使い方まではわからん

>>858
直径121.75尺 × 円周率3 = 円周365尺1/4
古代の中国人は太陽暦にすると1年が365日で4年に1度閏年がくることまで知ってたのに
円周率はゆとり教育レベルだったみたい
867日本@名無史さん:2013/08/06(火) 21:23:07.44
>>866
キミの言いたい事がよく分からん、というかイメージ出来ない

直径21歩の円形の地面の上に直径約121尺の円を描いたので無ければ何がどうなっているんだ?
868華麗にスルーしない満州:2013/08/06(火) 21:52:09.01
大体、天文学書や数学書で、凸凹の地面を平らにせよ、とか
水平を出せとか、そんな土木工事的な指示を書くはずがないw
だからローガンの参照したサイトの解釈は誤りだと思われる。

倍正南方、正勾、平矩、水正、これらの意味すら不明である。
正南方とは真南の意だろう。倍正南方の意味は不明。正勾も不明。
其平矩とあるから平矩はおそらく名詞である。
水正の正は、ローガンの挙げた文によると垂直のことも謂うようである。
だから水正とは水平を出せという意味では必ずしもあるまい。
869九州論者だが:2013/08/06(火) 22:11:01.46
夏至の日の正午に計測は良いとして、どうやって
時計の無い時代に正午を確認したんだろう?
三点間の計測だから、三年掛かる訳で、その三回
共にバッチリ同時刻に計測しいと意味がない。

あと、太陽光線って平行に照射してなかったっけ?
南北に千里移動しても影の長さって変わるかね?
870日本@名無史さん:2013/08/06(火) 22:17:56.69
>>869
朝日と夕日の角度の2等分で簡単に出る

>南北に千里移動しても影の長さって変わるかね?
それが地球が丸い証拠なんだよwww
871華麗にスルーしない満州:2013/08/06(火) 22:18:21.69
真南を知る方法があったのだろう。
影が真南に来たときが正午である。

太陽光線は平行だが、緯度が変わると棒の傾きが変わるのである。
872日本@名無史さん:2013/08/06(火) 22:22:09.91
>>865
まあ現実は現在でも九州説なんて無きに等しいけどなw
873日本@名無史さん:2013/08/06(火) 22:30:26.13
時間を確認する必要はない
その場所で影が一番短くなるときが南中なんだからじーっとものさしをあてながら見てればいい
三点間の計測は3人いれば同時にできる
874日本@名無史さん:2013/08/06(火) 22:35:16.95
千里離れた地点で影長を測ったら偶然にも一寸の差になったと
ずいぶん計算しやすい値になったモノである
875華麗にスルーしない満州:2013/08/06(火) 22:41:23.78
八尺の棒だから影が一寸になったのであって、八尺でなければ一寸にはならない。
八尺と千里と一寸と夏至がセットになっているのである。
876日本@名無史さん:2013/08/06(火) 22:44:02.97
難波津 住吉津 (大阪市)(国際港湾都市)(物流一大拠点経済の中心)と大和の関係は?やっぱり奈良に邪馬台国があったんじゃね?
877日本@名無史さん:2013/08/06(火) 22:45:57.13
江戸城をつくったのは大阪の摂津源氏
徳川征夷大将軍は大阪の河内源氏 征夷大将軍は源氏にしかなれない
徳川政権時代に中之島 難波周辺などが出来る 梅田はその後
878日本@名無史さん:2013/08/06(火) 22:48:56.91
日本の首都古い順
難波京(大阪)(大化の改新で天皇制の始まり)
平城京(奈良)
平安京(京都)
東の京(東京)(遷都(せんと)もしてないのに首都といっている)
東京から見ると京都市は古い
大阪から見ると京都は新しい
879九州論者だが:2013/08/06(火) 22:49:09.21
ふむ、時間と三点間の計測は了解、厳しいとも思うが。
影の長さの違いは…地が平らという概念の時代だよね?
地球が丸いと言う知識が無い状態で、一寸千里の法を生み出した訳だ。
知っていたら…

北凵|凵|剴 の、凾重ねた斜辺の誤差角度と計測距離で、
地球一周の距離を割り出してただろうな。
ひょっとしたら気付いていたかも知れんが。
880日本@名無史さん:2013/08/06(火) 22:52:02.22
>>874
まずは、5尺、6尺、7尺、8尺、9尺、10尺、20尺、30尺・・・・、といろんな長さの棒を立てて計り、
その結果、8尺ならちょうど1寸の陰になることを発見したということだな
棒の束を担いでエンヤコーラと千里の道を行ったわけだ。
881日本@名無史さん:2013/08/06(火) 22:52:30.37
おまえら
小学校の時に、グランドに棒を立て
影の位置を記録するという実験した事無いのかw
難しく考え過ぎだろ
882日本@名無史さん:2013/08/06(火) 22:55:39.16
>>875
一寸は影長の差であって影長そのものではないよ
棒の長さは関係ない
883日本@名無史さん:2013/08/06(火) 22:59:20.89
>>867
ビニール傘をさして夜空を見上げてマジックで印をつければ星の位置を客観的に特定できるでしょ
884日本@名無史さん:2013/08/06(火) 23:00:14.68
>>882
俺もそう思った。
影の長さの比率は変わらない筈だった。

満州赤面w
885華麗にスルーしない満州:2013/08/06(火) 23:04:53.35
チミらはふんとにパカだな(ゲラゲラ)

あまりにもあほらしいから説明するのはやめるw
886日本@名無史さん:2013/08/06(火) 23:09:49.56
>>883
益々よく分からんのだが、直径20m以上の巨大なビニール傘的なモノを作ったということ?
それこそあり得ないでしょ
地面を円形にする意味もないし
887日本@名無史さん:2013/08/06(火) 23:15:33.60
>>885
まさか定点の影が無くて、南北千里が一寸の影って言わんよね?
888日本@名無史さん:2013/08/06(火) 23:20:07.05
日時計なんで、ときどき、影の先端に
印をつけとけば、南中時なんてすぐに分かる。

これを一年続ければ、暦の完成。

西洋だと、小さな窓から入る光の場所を、床に記録した教会があり、
それで季節を知ることができる。
889日本@名無史さん:2013/08/06(火) 23:22:31.18
精密な日時計だと15分単位で読み取れるそうだ。
これは先端に玉がついていて、
影がぼやけはしても、一番暗い中心部がわかるようになっている。
890日本@名無史さん:2013/08/06(火) 23:24:42.73
すまん、15分じゃなかった、15秒だった。
ローテクなはずだが突き詰めると恐ろしいもんだ。
891日本@名無史さん:2013/08/06(火) 23:26:50.00
>>887
>八尺と千里と一寸(一寸刻みの陰の差)と夏至がセットになっているのである。

そもそも一寸千里をテーマにしたカキコであるのだから
文章を読めば()内を省略したものであることはわからないといかんぞえ、小学生じゃあるまし。
892日本@名無史さん:2013/08/06(火) 23:36:30.67
>>891
いやいや(笑)

> 八尺の棒だから影が一寸になったのであって、八尺でなければ一寸にはならない。

それなら↑これ要らんでしょw
八尺で無くとも影の差は一寸でしょ。
間違えたって素直に言えばよかろーでw
893日本@名無史さん:2013/08/06(火) 23:38:14.98
16尺の棒なら差は2寸だよ
アホw
894日本@名無史さん:2013/08/06(火) 23:41:01.39
棒の長さと影の長さの「比」は同じ。
895日本@名無史さん:2013/08/06(火) 23:47:10.88
比率が同じじゃなけりゃ、一寸千里の法も成立せんだろw
元が八尺で南北が16尺なら、そりゃ2寸差になるが。
896日本@名無史さん:2013/08/06(火) 23:49:40.12
>>880
千里間の影長差を知りたかったのか、八尺棒の影長差が一寸変化する距離を知りたかったのかで話が変わってくる
前者であれば影長差は一寸でなくても良いので様々な高さの棒で計測する必要はなく、八尺棒の影長差がたまたま都合よく一寸だったということになる
後者であれば何処で一寸変化するかは不明であるため無数の地点で計測する必要がある
どちらも現実味がなく、やはり実測値ではないと考えるのが自然
897日本@名無史さん:2013/08/07(水) 00:02:50.38
1/6里(短里)が使われていたのでは無く、六倍で表記されてたのでは?
898日本@名無史さん:2013/08/07(水) 00:14:40.71
一寸千里でも、500里の半寸でも、333里と1/3寸でも「比」は同じ。
周髀算経を書けるような数学レベルなら、それくらいわからなくては務まらない。
十分南北差のある任意の二点間で、一寸千里は容易に導き出せる。
899日本@名無史さん:2013/08/07(水) 00:16:03.89
892の優勝でいいよ、もう
900日本@名無史さん:2013/08/07(水) 00:24:31.61
>>897
六倍っつーか単に大雑把で大袈裟な数字というだけだろうね
901日本@名無史さん:2013/08/07(水) 00:32:32.24
>>898
> 一寸千里でも、500里の半寸でも、333里と1/3寸でも「比」は同じ。

それを導き出すのが、地面を平にしたデカイ円形の実験場なのだろうか?
確かに、それなら真南真北の千里先で測量の必要は無いな。
つか絶対無理だわ、GPS無いと。
計算が面倒だから、縮小サイズの影の差は出さんけど、
かなりシビアな数字だろう…
902日本@名無史さん:2013/08/07(水) 00:34:08.80
>>901

まあ、あまり小さくすると誤差があるから、
無理の無い範囲で、それなりに距離はとるだろ。
903日本@名無史さん:2013/08/07(水) 00:41:42.36
>>900
いや、時間で距離を表すとそうなるかも…
日時計の原理から、なんたらかんたらして。
六倍になる計算式導き出しても、自論だから信憑性無いよな…

どう考えても正確な測量なんて不可能だから、時間から
距離を導き出したとしか思えない。
904ローガン:2013/08/07(水) 00:49:30.05
>>866
>何のためにそんな巨大な模型をつくるのか意味がない

いや、すぐ後に「以應周天三百六十五度、四分度之一。審定分之,無令有纖微。分度以定,則正督經緯。」と。
円周365尺1/4にすることにより、天の周365.25に応じ、審定しこれを分け、僅かなミスを出さぬようにし、分度を定め経度緯度を観察する。
位の意味だろう。天の周と同じ365.25という寸法を採用しただけのこと。
905日本@名無史さん:2013/08/07(水) 01:25:59.42
>>904
緯度経度の意味が現在と同じなら、天を半球体に想像してた…ってこと?
平面だったり傘だったり、何か時代思考がごちゃ混ぜ…
良くわからんけど、太陽や月、北極星を中心とした星の動きから、
天空を半球体に想像しないのがおかしいと思うんだよな。

夜と昼、半球体二つで天空を球体だと思ってる節もある。
十干十二支を突き詰めると、そう思えるんだよね、何となく。
ひょっとしたら地球は丸く、地動説も遥か昔に知ってたかもね。


…寝る。
906日本@名無史さん:2013/08/07(水) 01:53:03.32
天球儀という概念はあったと思う
星座を含む星空の構図が東から西に回転して見えるのは明らか
ただ、シュウヒサンケイでは天は地表と平行した平面だと考えている節がある
地上で千里動くと影の長さが一寸変わるから、夏至と冬至で119寸動く太陽は千里の119倍の119000里南北に動くと書いている点
907日本@名無史さん:2013/08/07(水) 02:11:05.72
>>906
それ、愚かな勘違いだし
地球が平面で太陽が近いという仮説かな
908日本@名無史さん:2013/08/07(水) 06:46:25.94
>>892
八尺棒の場合に一寸千里と言う意味は、
あらかじめ八尺棒を全国に配布しておき、その地の夏至の正午の陰差が半寸なら原点から南または北に500里、
1寸差なら千里、2寸差なら2千里、3寸差なら3千里、の距離にあるという具合に、
全国の距離差(緯度の差)が簡易に分かるという意味を含むのであろう(16尺棒なら陰長および陰差は其々2倍の寸になる)。
つまり八尺棒はメートル原器ならぬ千里原器と言うわけだ。

>>906
天地ともに平面であるなら、お日様は略同大のまま昇ったリ沈んだりできないから、
やはり天/天道は広大な半球形であり、星は遠く、太陽は中くらいのところを円/円弧をなして移動する・・、
しかし大地は平面のままである・・、という具合に西洋の天動説と同様に考えたのであろう。
(なおそこに一寸千里の法を適用した場合、天動説であっても地動説と同じ結果になる)
909日本@名無史さん:2013/08/07(水) 08:18:37.62
さて、里の話を進めるか、方角に移すか?
影の最短が真南の原理を知ってるから周髀算経が
成り立つなら、里の度量衡は置いといても方角は正しいのだが…?
910華麗にスルーしない満州:2013/08/07(水) 08:52:41.56
南北に千里ずつ離れた場所で測ったら(実際に測ったかどうかは不明)、
棒の長さと影の長さの比が80:15、80:16、80:17という整数比になった。

それで説明の便宜のために八尺の棒と書いたのである。
実際に何尺の棒を用いたかは不明。

こういうことだ。分かるな、チミ達(カラカラ)
911華麗にスルーしない満州:2013/08/07(水) 08:59:57.97
伊都国とは、紀によれば、今の福岡か長門の辺りである。
だから東南至伊都国と書かれた時点ですでに90°方角が狂っている。

ゆえに南水行至邪馬台国とは東水行至邪馬台国と同じことである。
やえに邪馬台国は大和なり。

明日も勝つなりー!(阪神ファンにだけ分かる洒落w)
912日本@名無史さん:2013/08/07(水) 09:05:54.34
里論好きなお人って多いんだねえ
ともあれ遥か紀元前の周・商の時代から天文学/数学に関して莫大な実験を行い、豊富な知識を蓄えていたとはおどろきだ
倭国においても、先進のクニグニはそういう知識ないし知識人を輸入・招聘していたのだろう
相応に里程・方角もしっかりしたものだったにちがいない
913日本@名無史さん:2013/08/07(水) 09:14:22.83
現代の科学技術はすごい
でも現代人の全員がそれだけすごい知識や能力を持っているわけではない
それは>>892を見れば明らか
914日本@名無史さん:2013/08/07(水) 09:27:47.26
>>911
山形明郷先生を誤解してないか
記紀の正統性を損ないかねない畿内説には敢然として立ち向かう、それが先生の真意であった
その点で九州説は、記紀神話は荒唐無稽でなかったとの立場から出発している
九州説を応援してこそ敬虔賢明なる山形信者なのだ、
ただ惜しむらくは満州の理解はそこまで及んでいないようだが。。。。(涙
915日本@名無史さん:2013/08/07(水) 09:36:16.49
イデオロギー先にありきの人は学者としては信用できん
真実なんかどうでもいいと開き直ってるようなもんだから
916日本@名無史さん:2013/08/07(水) 09:38:47.68
>>910
一尺六寸の場所では実際に八尺棒で定点観測をしていたと思われる
夏至以外の様々な日の観測結果が記載されているからね
南北千里移動した場所で計測したかは怪しいけど
917日本@名無史さん:2013/08/07(水) 10:47:15.96
山形明郷はトンデモ学者。
918日本@名無史さん:2013/08/07(水) 12:25:34.35
>>911
お前の思考が90度歪んでんのはわかった。

90度誤差は無いんだよ、アホ。
太陽の昇る方角を南と勘違いするかよ。
んで日本海渡って、若狭付近から都合良く南に下るのか?
畿内論者特有の方角詐欺論説だなw
日本海ルートは行きは良いが、帰りはキツいぞ。
つか絶対海流に逆らえない。

そこまで考えてないだろ?
919日本@名無史さん:2013/08/07(水) 12:57:48.96
シュウヒサンケイでの測定点は緯度的にはいかほどか
920華麗にスルーしない満州:2013/08/07(水) 16:41:27.76
>>914
山形明郷は満州朝鮮に邪馬台国を求めたが、それはほんの試案。本格的な論ではない。
山形明郷の主目的は楽浪や帯方や三韓の位置の通説が誤であることを暴くことであった。
僕の立場は浜名寛祐と同じである。
浜名寛祐は邪馬台国は大和、卑弥呼は神功皇后の風聞だと見なした。
しかし本当の卑弥呼は馬韓の女王だと考えたのである。

>>917
山形明郷は学者ではない。在野の研究者である。浜名寛祐も同じ。

>>918
チミはパカだね。
神功皇后が敦賀から日本海を西下しているだろが。
江戸時代の北前船が東北から日本海を西下して商業活動をしているだろが。
921華麗にスルーしない満州:2013/08/07(水) 16:47:32.16
>>919
それはすでに答えが出ている。
夏至の日に80:16の比で影ができるのは34.8°付近である。以下参照。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku14/atogaki.html
922日本@名無史さん:2013/08/07(水) 18:14:52.04
>>920
>山形明郷の主目的は楽浪や帯方や三韓の位置の通説が誤であることを暴くことであった。
>僕の立場は浜名寛祐と同じである。
>本当の卑弥呼は馬韓の女王だと考えたのである。

この誤りを暴く真の狙いは、記紀の正統性を損なう畿内説に対抗する(を打ち砕く)ことにあった。
尻馬に乗り、誤って九州を攻撃しても満州になんの利益も無い。
923華麗にスルーしない満州:2013/08/07(水) 18:45:02.45
山形明郷は九州説にも畿内説にも何の関心も示してはいない。
九州説を応援しようとか、畿内説に対抗しようなどという姿勢は微塵もない。

浜名寛祐は九州説など完全に無視している。S氏も九州説など完全無視。
ちなみに当時は九州説が主流だった。

学界が九州説と畿内説に分かれて争っていた時代にたったひとり馬韓説を唱えた
浜名寛祐こそ天才学者というべきである。
924日本@名無史さん:2013/08/07(水) 18:54:13.37
まぁ半島には100パーセント無いですよ。
925華麗にスルーしない満州:2013/08/07(水) 19:06:46.10
↑と誰もが思っていた時代に馬韓説を唱えたのである。

いかに天才か分ろうというものだ。
上のような男では絶対に思い付けない独創的な説なのである。
926日本@名無史さん:2013/08/07(水) 19:37:52.30
なんだ、けっきょく満州はあっちの馬、こっちの馬と、オス馬の尻ばかり追いかけてるのか。。。(涙

まあいい、そろそろ自分の説でも世に問うたらどうか
せっかくの天才的才能がもったいない
927日本@名無史さん:2013/08/07(水) 19:50:03.64
>>925
思いつくだけなら誰でもできるからな。
だが冷静に君の説を検討して、多くの資料を
検証してもその可能性は全く無い、という判断だね。
928日本@名無史さん:2013/08/07(水) 20:17:02.04
倭人伝無視すりゃ何処でも比定出来るわな
929日本@名無史さん:2013/08/07(水) 20:32:53.11
短里説も同じようなもんだけどな
目糞鼻糞
930ローガン:2013/08/07(水) 20:34:25.84
>>905
故曰日照四旁.各十六萬七千里.

太陽が隠れて夜になるわけではなく、太陽光線の届く距離に限りがあり、届かない所が夜だと解釈しているみたい。
平面ゆえの思考でしょ。
931日本@名無史さん:2013/08/07(水) 20:54:46.26
>>926
どうかお許し下さい。そう、オス馬の尻ばかり追いかけているパーカ息子なの
です。だからしっかりとした自分の説も実はまだ持てていないのです。無けれ
ば世に問うこともできないわけで、天才的才能などとおだてないでやって下さ
い。このパーカ息子に成り代わりましてお詫びを申し上げます。
932華麗にスルーしない満州:2013/08/07(水) 21:12:12.87
>>930
そんなのはローガン個人の解釈である。

周髀算経に七衡圖という同心円の図が描かれている。
また365.25°という度数からしても天を天球と考えていたのだと思われる。
まさか180°を365.25°に分割していたわけではあるまい。
周天とか天周という言葉も出てくる。
天が平面なら、東から出た太陽が西に行き、また東から出てくることの説明が付かないではないか。

話は変わるが、矩とはおそらく直角定規のことである。平矩の意味は不明。
933華麗にスルーしない満州:2013/08/07(水) 21:24:39.29
ところで、その浜名寛祐よりも上を行く人物がいた。それがS氏である。
浜名寛祐が契丹古伝の中でしばしばS氏の著書に言及していることから見て、
浜名がS氏に触発されたことは間違いない。

もともと浜名が契丹古伝を解読するきっかけを与えてくれたのが、おそらくS氏なのである。
というのもS氏は東夷伝の韓伝の中の有名な難読箇所を解読していたからだ。
浜名はその慧眼に感服している。

僕もS氏を読んだとき、これまで読んだ本の中で最高の名著だと思った。
S氏と浜名が双璧である。その他の学者は読むに足らず。
934日本@名無史さん:2013/08/07(水) 21:25:10.81
平面上で円運動をしているという風に考えていたらしいよ
935華麗にスルーしない満州:2013/08/07(水) 21:35:01.09
>>934
そんなことはありえない。なぜなら、
天の平面が北極の上に水平に広がっているなら、
その平面を太陽が円運動するなら太陽が東から出て西に沈むという現象は起こりえない。

また天の平面が南北両極の軸を含む垂直平面であるということもありえない。
なぜなら空を見上げれば星々がその平面以外にも存在していることは明らかだからである。
936日本@名無史さん:2013/08/07(水) 21:53:15.80
>>935
十干十二支(六十干支)で説明がつくかもしれん。
書き込みに時間が掛かる故、暫し待て。
937日本@名無史さん:2013/08/07(水) 22:05:20.76
周髀算経の天蓋説モデルは、
平面天蓋上に太陽や星があって、
太陽は中心に近づいたり、遠ざかっているというモデル。

天蓋説説のライバルに、ほぼ天動説と同じ物もある。
938936:2013/08/07(水) 22:29:01.76
【十干】…甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
【十二支】…子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥

この十干と十二支を組み合わせ六十干支を作り、年号に当てはめたのは
紀元前11世紀から12世紀にかけての周王朝時代らしい。
天の声にある種の法則性が働いていることに気づき、体系化したもの。

◆十二支…天空(時間)を12等分し、方位を定めた。
◆十干…1ヶ月を10日毎に三旬に分け、その順序を表す。
空間(場所)も表す。

ここからは自論。
丸い壁掛けのアナログ時計があるだろ?あれを水平にすると考えてくれ。
アナログ時計は十二支、天空だ。
天空が十干の干渉を受けて二次元方向に回りだすんだが、
十干は空間も表すから、三次元方向にも回りだす。
すると天空が球体になるのが想像出来ないかい?
コインを立てて、バックスピン掛けながら弾いたことあるだろ?要はアレ。

ざっくり書いたけど、どうもこの理屈が六十干支には見て取れる。
939華麗にスルーしない満州:2013/08/07(水) 22:45:25.01
天が平面であるなどという考えは、天は天球であるという考えよりも、
人間の理性にとって理解しがたいものである。

未開の土人ならいざ知らず、そんな宇宙観を持った民族がいたか?
東洋人だってそんなに馬鹿ではないのである。

古代人は天は平面であると考えていた、などというのは、
近代のアホ学者が考えた珍説である。
940日本@名無史さん:2013/08/07(水) 22:57:01.51
自分で読みもしないでそういう結論を出すのは満州さんらしくない
941日本@名無史さん:2013/08/07(水) 23:03:08.35
解ってちゃいたが、危険思想で言えない学者もいたろうさ。
942華麗にスルーしない満州:2013/08/07(水) 23:08:08.88
カルデア人の天文学は驚異的な水準に達していた。
日食や月食を正確に予知できただけでなく、大年さえ正確に計算していた。

大年とは太陽系の諸惑星が一直線に並ぶサイクルである。
諸惑星は太陽の周りを回っているので、いつかは一直線上に並ぶ。
公転周期が異なるので以後は離れ離れになるが、いつかはまた一直線上に並ぶときが来る。
たしか2万1千年くらい経つとまた一直線上に並ぶのである。
それが大年である。カルデア人はその大年を知っていたのである。
943日本@名無史さん:2013/08/07(水) 23:19:07.52
オカルト談義は、唐松山と別な場所でやってください。
944日本@名無史さん:2013/08/07(水) 23:20:02.12
周髀算経では地表は平面で、太陽の高さは固定で八萬里

このことからも天を平面と捉えていたと伺える
945日本@名無史さん:2013/08/08(木) 00:36:46.08
周髀算経での測定地点は、太陽高度からみて北緯35度18分の場所になる。
経度だけでいうと、西安の北150kmくらいの場所だ。
946風の中のゴキブリ:2013/08/08(木) 03:01:52.55
満州=夢幻如は以前、邪馬台国東北説を唱えていたキチガイですよ

満州=夢幻如には自説などありません

トンデモ説を吹聴して誰かに構ってほしいだけのレス古事記なのです
947日本@名無史さん:2013/08/08(木) 04:43:14.88
目立ちたがりw
バ〜カ息子w
スレのぞき趣味w
レス古事記w
948風の中の満州:2013/08/08(木) 08:04:31.90
検索したら出てきた。

25920年といえば地球の惑星歳差運動の1周期の概算値である。
この値は通常26000年として表されており、グレートイヤー(大年)
もしくは大プラトン年とも呼ばれている。

太陽は、12の星座を、1ケ月1星座を巡回し、1年で1周しますが、
僅かづつ西にずれて、2160年で1星座ずれます。
現在、春分のころは、太陽は魚座の中にありますが、
イエスの時代は、牡羊座の中から魚座に移った頃なのです。
完全に同じ位置へ1周するには、2160 × 12 = 25920 年となります。
シュメル時代の天文古文書には、この25920 の数字さえ記録されています。

>>942よ、これがオカルトか? 自分の知らないことは何でもオカルトかw
>>944 文章の一部分だけ取り上げて判断するのではなく、周髀算経全体を読んで判断せよ。
>>946 本気でポクを夢幻如だと思っているとは、チミは救いようのないパカである。

九州人よ、文章の一部分だけ取り上げて、南と書いてあるから南だと判断するのではなく、
現実の地理や諸々の史書と照合して、総合的に判断せよ。
949風の中の満州:2013/08/08(木) 08:15:12.42
われわれは現実の日本の地理を知っているのだから、
現実の地理と照合して判断すればいいのである。

倭人伝を読めば、陳寿が日本を南に延びている島だと思っていたことは明らかだから、
(はは〜ん、これは南と東を間違えているのだな…)と分かる。

それを、現実の地理を無視し、倭人伝の文章を重視して、
南と書いてあるから南だろう、などと判断するのはパカのやることである。

九州人はいつまで経ってもこういう小学生的なパカな思考に耽っている。
950日本@名無史さん:2013/08/08(木) 08:15:21.39
オカルトとは思わんが、そろそろスレ違いだな
951日本@名無史さん:2013/08/08(木) 08:22:36.51
バ〜カ息子
目立ちたがり
スレのぞき趣味
レス古事記
952日本@名無史さん:2013/08/08(木) 08:25:29.83
>>949
「南」は「東」の間違いは畿内説の口実。
12世紀の朝鮮の地図を持ち出すなんてのは論外。

陳寿はおろか、当時の中国人が日本の地理に対する先入観があったとは
考えられない。地図に溢れた現代でも、例えばフィリピンの地理感なんてのは
まずない。フィリピンの観光記があったとき、我々が自分の地理感で
方向を書き直すなんてのはありえない。

だいたい「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」は、畿内説では
どのように解釈するのかな。
953風の中の満州:2013/08/08(木) 08:37:33.60
倭は、小さな島嶼だけではなく、東にもかなり大きな島があった、
と思っていたというだけの話である。
それが倭の本島で、卑弥呼は実はその島の女王だと知らなかったというだけの話である。
また、北海道のことを指しているのかもしれないのである。

昔の地図を見れば分るではないか。
日本の周辺に、ありもしない変な島がいっぱい描かれている。
954日本@名無史さん:2013/08/08(木) 09:19:58.39
>>948
満州さんも周髀算経なんかほとんど読んでないでしょ
短里信者みたいに直感でモノを言われても困るよ
955日本@名無史さん:2013/08/08(木) 09:40:33.47
倭人伝あっての邪馬台国・卑弥呼
この年になって、そうひねくれて読むこたあねえんだ
956日本@名無史さん:2013/08/08(木) 11:58:47.53
>「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」は、畿内説では
どのように解釈するのかな。

関東の事で無問題だよ
957日本@名無史さん:2013/08/08(木) 12:06:14.36
倭人伝の方角は特に間違ってないのである。
奴国を九州内に収める必要もないし、
20000という戸数、山口県の長門という地名から
判断すると本州西部に跨る国だとすればいいだけの話だ。
958日本@名無史さん:2013/08/08(木) 12:28:50.24
日の出位置を東と考えてたなら、南北の軸が西に
最大45度傾いてるのは考えられるけどな。
対馬〜壱岐〜唐津が南なら、東南は大まかに
東となって、糸島が伊都國と言えなくもない。
これは日照時間が一番長い夏場に海峡を渡ったと
考えると、無理無くそうなるだろう。

東が南になることは、北から太陽が昇らない限り無い。
959日本@名無史さん:2013/08/08(木) 12:43:40.59
周髀算経の諸知識から見て方角にさほどの誤りは考え難い
まして星に関する知識も豊富だったのだから、日出の方角だけで決めたわけではないであろう
960日本@名無史さん:2013/08/08(木) 13:16:40.37
でも魏使がそうだったとは限らない
961日本@名無史さん:2013/08/08(木) 14:17:51.12
倭人伝は一個人の旅日記であるマルコポーロの東方見聞録なぞとはわけが違う
というのは、伊都国には郡使常駐、今で言う大使館もあったのだ
一回や二回の魏使により方角を見定めたのではなかろう
962日本@名無史さん:2013/08/08(木) 14:38:26.97
伊都国がイト国と発音したとはかぎらず、まして糸島であったとはいいがたい
(イトは景行・神功あたりの命名イソに由来するという)

一方、高天原神話には、天の岩屋にいる伊キ之尾羽張(イツのオホバリ)という神が登場する
また宮崎県西都市妻には今も都万神社(ツマ神社)が鎮座する
どちらも「都」を「ツ」と読ませている
伊都国はイツ国(またはitsu国)だったのではないか
963なぐさのこ:2013/08/08(木) 14:40:58.45
>>786 :華麗にスルーしない満州
>これまでの議論で短里説が珍説であることは明々白々ではないか。
>敷布ちゃんやなぐさちゃんでさえ、納得したのか、反論して来ない。

お爺ちゃんたら世間知らずだわね。反論が無いことの理由を一つだけと思っているようじゃだめね。
納得したから反論しないんじゃないわよ。規制で書き込めなかったのよ。
さて、
短里(便宜上の名称)批判派の皆様へ
周髀算経には現代の知識で見ればおかしいところはあるわよ。でも当時の人達は正しいと信じていたの。
また、周髀算経に1里=300歩ととれる記述があっても関係ないの。1寸千里の法で実測したら1里は50
歩になったのよ。あらら!だけど、この1里は300歩の1/6なのね。それを理解しておれば便利な新しい
里として使えるわけよ。土地の広さを測るにも手頃だと思うわよ。手頃で便利・・・これは流行するわ。
魏、晋の時代に於いても東夷の國では1/6の長さの里が使われているということが知られていたのよ。
だから、陳寿は現地の里を用いた記録をそのまま使ったのよ。でないと「計其道里當在會稽東冶之東」など
とは書かない筈よ。會稽東冶から(仮に北へ)万二千里を1里を430mとして計算したら何処になると思う?
遥かシベリアの地よ。読者は誰も帯方郡がそんなところにあるとは思わないわ。ところが1里を70mとすれば
青州(山東半島)辺りになるので納得できるのね。どうよ。なんか文句ある?
964風の中の満州:2013/08/08(木) 17:26:09.31
なんだ、なぐさちゃんは敷布ちゃんと同じ論法ではないか。
なぐさちゃんよ、そんな屁理屈は世間では通用しない。ここでは通用しても。
さて、なぐさちゃんはほっといて、

即平地徑二十一步,周六十三步。令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。

この文の意味が分ったので書いておこう。たぶんこういうことである。
AB=21歩=126尺を直径とする円の中に、その円に内接する、辺の比が3:4:5の直角三角形を描く。
この直角三角形と円周との接点をCとする。
ABは、直径であると同時に、この直角三角形の斜辺であるとする。
Cから直径ABに垂線を下し、そのまま延長すると円周と交わる。
その交点をDとすると、CDの長さが121.75尺となるのである。

計算すると実際は120.96尺にしかならない。
121.75尺となるのは直径ABが126.8229166666…のときであるが、
小数点以下を省略して126尺としたものだと思われる。
最初に121.75尺という数値を決めておいて、上のような方法で直径を126尺としたのである。
965日本@名無史さん:2013/08/08(木) 17:46:31.88
とりあえず次スレ頼む
966なぐさのこ:2013/08/08(木) 18:13:03.79
>>964 :風の中の満州
>なぐさちゃんよ、そんな屁理屈は世間では通用しない。

帯方郡を遼東辺りと考えているお爺ちゃんには認め難いから屁理屈などと言って片付けたいのね。
皆さんはごちゃごちゃと理屈を並べ立てるけど、物事の真相は意外に単純なのよ。澄んだ心と正常な
判断力を有する頭脳の持ち主ならわたしの説明に納得するわ。納得できない人は邪心の持ち主だわね。
一寸千里の法によれば1里は50歩になることは事実であるし、東夷伝の里数はこの里を用いて書かれ
ているとすれば無理無く理解できるでしょ。1里を約430mとする里では全く理解できないでしょ。
このように単純な事柄を認めない人は邪心の持ち主であると言わずして何と言うの?
967風の中の満州:2013/08/08(木) 19:07:13.17
帯方郡治を遼東半島の熊岳として、直線的に半島西南端−釜山と進んだとしても950kmはある。
これは公里では2200里、短里では12500里である。それが7000里と書かれている。

熊岳から熊本までは約1160km。これは公里では2700里、短里では15300里。
熊岳から大和までは約1340km。これは公里では3100里、短里では17500里。
それが12000里と書かれている。

一見短里の方が倭人伝の里数に近いように見えるが、
短里では釜山までですでに12000里を越えている。

公里で考えれば、以前も書いたが、
洛陽から玄菟郡、楽浪郡までは実際の2.5倍くらいに書かれている。
釜山までは3倍に書かれている。釜山から松浦までは6倍に書かれている。
邪馬台国までは4倍に書かれている。

実際の2〜6倍で書かれていると考えれば済むことである。
正確な地理を知らなかったから2〜6倍の差が出たというだけの話である。

なぐさちゃん、分かりる?
968日本@名無史さん:2013/08/08(木) 19:39:58.31
周髀算経っていつ書かれた書物なのかね。書かれた時点ですでに古い話やそれほどでもない時代の
話などいろいろな時代の話の寄せ集めだろ。
969日本@名無史さん:2013/08/08(木) 19:41:53.74
帯方郡治を遼東半島の熊岳としてってのがまちがいなんだから、それ以降のことは全てまちがいだ。
分かる?
970日本@名無史さん:2013/08/08(木) 19:44:06.27
>>966
>一寸千里の法によれば1里は50歩になることは事実であるし、

周髀算経のどこに書いてあるのかな
971日本@名無史さん:2013/08/08(木) 19:56:32.15
次スレばよかですか
972日本@名無史さん:2013/08/08(木) 20:10:17.05
>>970
そんな程度の暗算もできぬのか
973日本@名無史さん:2013/08/08(木) 20:42:53.93
>>972
いや、そういうことじゃなく
例は山ほどあるが
例えば、度得六千六百五十二里二百九十三歩
が、1里=50歩なら
6657里40歩と記述しなきゃならんだろう ってこと
974日本@名無史さん:2013/08/08(木) 20:54:20.05
俺の祖先は多氏たい。卑弥呼は俺の一族とよ。
筑紫島の本当の歴史ば、解明すっとよ。
975日本@名無史さん:2013/08/08(木) 20:56:51.21
>>973
>>968のカキコを参考にしてほしいな
古代中国の紀元前千余年にわたる知識・伝承・逸話・書物等の寄せ集めだそうだ。
いまの日本でさえ、この手の物を編集すればメートル法あり、尺貫法あり、江戸時代あり、戦国時代あり、室町あり・・
とうてい首尾一貫した記述にはならぬだろ。
976日本@名無史さん:2013/08/08(木) 21:33:37.13
>>975
それは詭弁だよ
977日本@名無史さん:2013/08/08(木) 21:36:53.31
短里なら短歩短尺に成らざるを得ない
でも短歩短尺はあり得ない
だから短里なんて無い
まともな思考ならこうなる
978日本@名無史さん:2013/08/08(木) 21:47:46.51
それこそ詭弁、四角四面の単純思考
中国は広い、民族も多く、言語も多様、それに千余年はとてつもない長さ
室町時代の文献がメートル法で書いてないみたいなグチ言ったってしょうがない
979日本@名無史さん:2013/08/08(木) 21:49:48.91
>>977
一寸千里に不満ありなら、自分で原典にあたって調べたらどうかな
980日本@名無史さん:2013/08/08(木) 21:59:33.95
替え玉ばよかですか
981日本@名無史さん:2013/08/08(木) 22:02:45.32
うん、○浜ラーメンでも喰いにいくか
982なぐさのこ:2013/08/08(木) 22:08:28.82
>>970, 973, 977
>周髀算経のどこに書いてあるのかな
少しは頭を働かせなさいな。1寸千里の法では1里は76〜77mになるのよ。もっともこれは現代の知識
での計算結果だけどね。これで1里は50歩になるのよ。周髀算経に文章で1里は50歩なんて書いてないわよ。
1寸千里の法から出てくる数値なの。なんでこんなことも分からないの?

>短里なら短歩短尺に成らざるを得ない
頭が固いわね。石頭だわ。あなたのような人はあまり仕事ができないでしょ。
300歩を1里とするならそうだけど、50歩を1里とする短い里であれば普通の歩と尺でいいでしょ。
983日本@名無史さん:2013/08/08(木) 22:21:49.51
>短里なら短歩短尺に成らざるを得ない
直木孝次郎氏氏は、1里=360尺(60歩)の特別の里を考えているよ。
984邪心の持ち主満州:2013/08/08(木) 22:43:31.52
>>973その他ですでに一里=300歩であることが確定している。
また>>964その他ですでに一歩=60尺であることが確定している。
また一寸千里の法そのものが一尺=10寸であることを示している。

そうすると一里=76mなら一寸=4mmとなってしまうのである。
一寸=4mmとする体系もあるだろうよ、などと言っている男もいるが、
そんなことを信じる人間は百人に一人もいないのである。

そんなことを信じるのは九州のアンポンタンだけである。
985邪心の持ち主満州:2013/08/08(木) 22:49:01.45
直木孝次郎などという男はアンポンタンだから無視すればいいのである。
日本の学者は、チミらと同じで、みんなアンポンタンのひょうろく玉なのである。

チミらはアンポンタンだから、学者はアンポンタンだということが分からない(ケラケラ)
986邪心の持ち主満州:2013/08/08(木) 22:58:30.77
ここに集まっている九州人は、人間の中でも特別の阿呆に属する。
世間のフツーの人がフツーに理解できることを、ここの九州人は理解できない(泣)
987ローガン:2013/08/08(木) 23:09:52.39
>>975
>古代中国の紀元前千余年にわたる知識・伝承・逸話・書物等の寄せ集めだそうだ。

色々考えることは結構。しかし
だからなに? それがどうした?って質問が来ますよ。
「寄せ集め」の書の存在することが何故、「魏代が短里であった」といえるのか?って…論証が必要になるのはわかるでしょう?
肝心なのはそこ。

では以下は余談。
何故、周髀算経なんかに九州説の論拠を求めようとするのかわからん。短里など主張するから、馬鹿にされるんだ。
せっかくの九州説スレなんだから まともな思考の研鑽こそが、肝要だ。


もし返信があるなら余談を除く部分に頂けることを期待する。
988日本@名無史さん:2013/08/08(木) 23:17:36.35
何故短里などと言うありもしないものにこだわるのか理解出来ない
九州に比定するなら「倭人伝の里数は実距離よりも大きな数字で書かれている」で十分ではないか
989日本@名無史さん:2013/08/08(木) 23:20:13.75
>>988

いや、それを短里と行ってるんだが。
990日本@名無史さん:2013/08/08(木) 23:20:40.80
「魏代が短里であった」などとは言っていないよ。短里も使われていたというだけのこと。
東夷だけのことかも知れないがね。
991日本@名無史さん:2013/08/08(木) 23:23:38.93
>>979
その一寸千里が書いてある周髀算経において一里=三百歩、一歩=六尺となっている
だから一里=75mであれば短歩短尺に成らざるを得ない

どうも短里信者は物事を順序だてて考えるのが苦手なようだ
992日本@名無史さん:2013/08/08(木) 23:23:57.15
まあ、ローガンは周髀算経の算数全敗だからね。

>もし返信があるなら余談を除く部分に頂けることを期待する。

ならば、つまらない余談など書かないほうがいいと思うよ。
993日本@名無史さん:2013/08/08(木) 23:29:17.79
>>991
>>968 >>975に書かれていることが理解できないらしいな。
頭が固すぎるんだよ。
994日本@名無史さん:2013/08/08(木) 23:30:52.36
まあ、逆に、普通の尺、寸、歩、里を使えば公里になるが、
周髀算経から、その公里をを否定されるんで、
あきらかに矛盾している。

なにか、からくりがあるんだろう。

それを探すのも一興。
995日本@名無史さん:2013/08/08(木) 23:31:47.07
>>989
違うよ
公定里とは別の距離単位があったとするのが短里信者の主張だよ
996日本@名無史さん:2013/08/08(木) 23:36:48.39
スレ立てしました

邪馬台国は九州にあった28
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1375972553
997日本@名無史さん:2013/08/08(木) 23:36:49.40
>>993
それは何の根拠もない主張
論理が飛躍し過ぎている
もっと物事を順序だてて考える能力を付けなさい
998日本@名無史さん:2013/08/08(木) 23:43:50.87
ほう、その能力がある方は、一寸千里の法をどのように解釈しているのかな?
999なぐさのこ:2013/08/08(木) 23:44:54.53
>>988
>何故短里などと言うありもしないものにこだわるのか理解出来ない

それはあなたの頭の問題ではないかと思いますざます。
わたくし(達)は韓の方四千里、郡から狗邪韓国まで七千餘里、狗邪韓国(出航地は巨済島)から對海国
までの渡海千里、對海国から一大国までの渡海千里が短里でよく理解できること、また、一寸千里の法の
存在を論拠に挙げているけど、あなたは「ありもしない短里」と言い切るための論拠も示せないでしょ。

>九州に比定するなら「倭人伝の里数は実距離よりも大きな数字で書かれている」で十分ではないか
九州に比定するために「短里で書かれた」と言っているのではないざますのよ。実距離より大きな数字で
いいのなら10倍でも7倍でも3倍でもとrandomな数字でいいでしょ。約6倍に統一されているのは短里が
用いられているからと考えることができるでしょ。
1000日本@名無史さん:2013/08/08(木) 23:50:39.31
そうゆう単純明快な合理的思考が畿内説論者にはできないらしい。気の毒な連中だ。
はい、次ね。
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