九州説に嵌るのは時間の無駄遣い以外の何物でもない。
3 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) 21:40:09.99
>>1 スレ立て乙
末盧国東南陸行五百里は佐賀平野、まぎれもなく伊都国はここにあった。九州説こそ真実である。
4 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) 21:44:54.57
伊都国は太宰府のようなもの。
邪馬壹国は九州南部。
5 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) 21:54:36.37
>自郡至女王国万二千余里
郡から伊都国までは、海岸水行七千余里〜渡海三千余里〜陸行五百里で、小計 万五百余里。
ここから女王国まで、残すは千五百余里となりました。
6 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) 22:24:43.63
女王の名は、卑弥呼
中国古語では、pimiho?、pimiwo?
倭人による発声は、pimiho?、pimiwo?、pimewo?、pimeywo?
倭語をもとにした漢字表記は、比巫呼?、日巫呼?、比孁呼?、日孁呼?
7 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) 23:01:36.23
>渡海三千余里
勝手に一千里も増やしてはいけないよ。
「呼」は「ho」だね。
ただ当時の日本には「ho」という発音は無かったという説もある。
日本語はp→f→hという変化をしてきたからということらしいのだが
だからといってhが無かったというのはどうだろう。
8 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) 23:30:01.18
あれっ、
対馬まで千余里、壱岐まで千余里、末蘆国まで千余里、じゃなかったっけ???
まあいいや、ところで発音だけど、
九州邪馬台国説だと、少なくとも固有名詞は九州弁で読んでみるのもいいんじゃないかとおもう
その場合の「呼」は ho 、それともfo、もしくは他に候補あるかんなあ??
9 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) 23:32:16.52
倭人伝パズル大会はじまるよ〜♪
10 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) 23:39:26.17
そっか、対馬までの一千里を忘れてた。
「呼」だけど他には「ha」に近い可能性もある。
11 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) 23:43:06.87
中国語の表記「卑弥呼」のもとになった倭語九州弁は
pimipo、pimifwo、pimifo、pimiwo、pimiho、、、、?
こんなんわかるものかね?
>>11 頭んとこは「phi」な気もする。
SF作家のPhilip K Dickさんにあるように、「ピ」と「フィ」とのあいだの感じ。
音韻について知りたいなら、森博達とかを読もうぜ
15 :
日本@名無史さん:2013/07/07(日) 01:05:07.97
吉美侯部(きみこべ)または吉弥侯部(きみこべ)、は古代日本における部民およびその氏である。
邪馬台国は滅ぼされ、その住民は浮囚として、部民に編入され全国に散った。
東国では、なお、毛野氏など一大勢力を維持したものもいる。
本拠地はもちろん、吉備。特殊器台の分布でわかる。
「辺野古」
琉球語では「ヘヌク」と発音する
この辺りもヒントになるだろう
琉球語だとあいういうになるんだね
アラビア語みたいだな
ここは安定の低クオリティーだなw
20 :
日本@名無史さん:2013/07/07(日) 08:29:05.93
卑弥呼
卑弥狗呼
須佐能乎(スサノヲ・出雲国風土記)
前スレにもあったように、呼、乎 は男女神に共通の尊称らしい。
九州倭語の発声では ヲwo(または類似の音)ではないか、九州弁〜琉球弁の達人に鑑定をお願いしたい・・・
奴国の官の名はシマコ
伊都国の副官はセモコ、へギコ
筑紫君イワイの息子はクズコ
日出づる国の天子の使いはイモコ
中臣鎌足の元の名はカマコ
九州北部では一般的な名だったんだろうな、〜コは
22 :
日本@名無史さん:2013/07/07(日) 08:54:16.63
卑弥呼を日巫女と考えるのは早とちりなんだな
九州北部的には、泄謨觚、柄渠觚、卑弥觚・・・か、
23 :
ぐったり満州:2013/07/07(日) 09:24:47.40
呼和浩特 フフホト
呼蘭 フーラン
呼倫湖 フルンノール
戸県 フーシェン
湖州 フーチョウ
虎頭 フートウ
呼、戸、湖、虎…。これらはいずれもフと読むのである。
卑弥弓呼はどうなるんだ
25 :
日本@名無史さん:2013/07/07(日) 09:38:20.53
韓国の浦項製鉄所が「PONG!」と音を立てて爆発したそうです。
アホの満州の頭も「ポ〜〜〜ン!」と音を立てて爆発します。
まあこの3世紀当時の倭語とその漢字表記についても
考えることはいろいろあるんだけどな
まず卑弥呼という表記は難升米らの発音を聴きとって中国人がつけたものか
それとも難升米らが自分で漢字表記できたのかとか
泄謨觚・柄渠觚なども郡でどうやって記録したのかとか
27 :
日本@名無史さん:2013/07/07(日) 11:26:26.66
人名・官名・地名などの記録の経過が単純でなさそうと考えるのは重要とおもふ
とりあえず卑弥呼の卑は日、呼は王族か高官の尊称として、
「弥」をどのようにとらえるかだけど、なぜか祭神の名前に弥・彌の字が見つからぬ
28 :
日本@名無史さん:2013/07/07(日) 13:25:58.65
「呼wo」が中国語の「王huang」の借用語ってのは、安本美典の説だね。
29 :
日本@名無史さん:2013/07/07(日) 15:06:55.87
亀井静香が、天皇陛下に「京都か広島にお住まいに」と進言!
亀井静香金融担当相(当時)は天皇陛下と閣僚との昼食会の際に
「江戸城跡地にお住まいになるのは立場上ふさわしくないのではないか。京都か広島にお住まいになってはどうかと、陛下に申し上げた」と述べた。
陛下は返答は避けつつ「京都は好きです」と応じたことを明かした。
広島はないだろう
31 :
日本@名無史さん:2013/07/07(日) 15:42:23.85
>>28 そうかあ、woは安本説に登場するのか。
東京方面の女子アナだと、ha、hi、hu、he、ho は柔らかくて弱くて澄んだ発声をするけど
しかし九州人は、勢いよく鋭く息をはきだしながら発声する傾向が強く、
hohoho なんて悠長な女子は少ない。
松田聖子の歌声を聞くと fha、fhi、fhu、fhe、fho とか、fwa、fwi、fwe、fwo とかに聞こえる。
その発声の鋭さとスピード感でオーデイションに一発合格したらしいが、
やはり九州人だなあとおもう。
32 :
ぐったり満州:2013/07/07(日) 17:03:33.95
>「呼wo」が中国語の「王huang」の借用語ってのは、安本美典の説だね。
安本美典がそんな説を唱えているのか。
見直した。なかなか見どころのある男だ。
やはりチミらのような○○とは少し違う(カラカラ)
33 :
日本@名無史さん:2013/07/07(日) 18:28:26.93
ほう、
安本美典に満州の組み合わせか、こりゃ意外な展開だwo
安本は地名相似説の時点で普通見限るもんだ。
35 :
日本@名無史さん:2013/07/07(日) 20:36:09.04
弥・彌
[音]ビ、ミ
[訓]や、おさめる、ひさしい、わたる、あまねし、いよいよ
[字源]
字形は、「彌」の「爾」の上に「曰(珠玉の形)」がある形。
弓は魔除けの呪具として用いられ、「爾」は婦人の上半身に文身(入れ墨)を施している形。
珠玉も加わり、多幸を祈る意と思われる。
彌の字源に婦人の分身を表わす意味ありとはまことに驚き。
古代中国では、「彌」は必ずしも正統を表わすものでなかったのかな??
36 :
ぐったり満州:2013/07/07(日) 22:46:23.13
ポクは安本美典は読んだことはないのである。
なぜかといえば、この男が天皇の平均在位年数で神武の実年代を
割り出そうとしたということを知っていたからである。
そんなことはアホのすることである。
昔、イギリスの偉い大司教か誰かが、人間の平均寿命から計算して、
アダムは紀元前五千年頃の人物だと言い、一般大衆はそれを信じていたらしい。
あほらしい話である。安本美典のやっていることもそれと同じである。
2chにも同じ手法で神武は西暦200年代だと書いているド阿呆がいる。
2chとはこういうド阿呆の集まる場である。
37 :
日本@名無史さん:2013/07/08(月) 08:22:48.83
>>36 不審者を見かけると吠えたり突っかかったりの猛犬気どりだな
しかし見知らぬ人に出会うたび緊張しすぎて振り回されてばかり・・、おかげでぐったりとも言える
猛犬と言うより、猛犬のしっぽの感じがしないでもないぞ
長老らしくどっしり構えていてくれぬか
38 :
サガミハラハラ:2013/07/08(月) 08:32:06.40
ちなみに、日本書紀の在位記録からすると、神武天皇の即位は西暦130年ということになります。
ちなみに、ニニギノ命の天孫降臨は西暦40年となります。出雲国譲り(倭国統一)は39年となります。
39 :
ぐったり満州:2013/07/08(月) 09:17:14.45
>>37 こんなに蒸し暑いとイライラする。しかも神武は西暦200年代だとか、
崇神は西暦300年代だと書いてくるド阿呆が続出するのでイライラが頂点に達する。
サガミハラよ、チミも松沢病院に行け。
40 :
日本@名無史さん:2013/07/08(月) 11:31:17.84
>>39 日本は紀元前660年から天皇家が支配しているのだ...、なぞと奉っているのに、
その口のはしから臣下のキミがイライラしっぱなしでは、
迷惑なさる御方も少なくないのではないか?
さて、卑弥呼のことだが
卑piは日の卑字、
呼ho、woは中国語の「王huang」からの借用字で、なおかつ倭国貴人の尊称卑字であるとすれば、
彌・弥(mi、mie、mei?)は、鬼道に仕え良く衆を惑わす(文身の)霊女を意味する卑字と見て良さそうだ。
読みは、ピミホpimiho、ピミヲpimiwo、
ただし九州方言による変声を考慮すれば、倭音ではピミェヲphimiewo、ピメェィヲpimeiwo、等々の変異ありかも。
41 :
ぐったり満州:2013/07/08(月) 12:46:21.18
卑弥呼の卑弥を姫と解したのでは、卑弥弓呼がまったく解釈できないのである。
男王に姫の字が付くはずがないからである。
そこで卑弥呼の卑弥は馬韓の卑弥国の卑弥とでも解釈するしかない。
では弓呼はどう解すべきか。
一案だが、弓と狗奴国の狗とは音が似ているから、弓呼とは狗王かもしれない。
新羅では狗徒とか鶏徒とか牛徒などと呼ばれる仙徒がいて、
彼ら仙徒は新羅の国王とは別に仙徒の王を戴いていた。
たとえば狗徒には狗徒の王がいたのである。
弓呼とは狗王で、狗徒の王かもしれない。
で、たとえば鶏徒と狗徒が争って乱を起こすということもあったのである。
倭国大乱とは仙徒同士の争いかもしれないのである。
ネット史を読んでいるとこういう推理を楽しめるのである。
42 :
日本@名無史さん:2013/07/08(月) 13:33:04.04
古代中国の鬼道にはいくつか宗派もあったらしい
よって彌・弥は、その宗主を示した字と考えることができる、現代風に書けば巫であろう。
またその巫には巫女と巫男があったであろう。
よって一案として、「弥」は巫女、「弥弓」は巫男を意味したと解することができる。
なお満州の見解のごとく弓王=狗王=狗呼であり、卑弥呼に比べて明らかに粗野な王であった、
と理解することもできるであろう。
もしかして満州の見解に分があるかもしれない・・・。
>>40 むしろ倭人がいった言葉が漢人にはpimihoと聞こえたんだろう。
その倭人が九州人だとすると、九州方言でpimihoとなるわけだ。
44 :
日本@名無史さん:2013/07/08(月) 15:52:02.79
>>43 「卑弥呼」の出発点となった九州方言には地域により多くのバリエーションが想定される
とはいえそれを究明するためのスタンダードとして、
pimiho が きわめて重要な位置を占めることはよく理解できる
45 :
ぐったり満州:2013/07/08(月) 17:02:07.00
>>42の男の案はなかなか面白い。
卑弥呼の呼を巫と解することもできる。
卑弥呼は卑弥巫。卑弥姓の巫女。
弓呼は君呼で男の巫。卑弥姓の男巫。
46 :
ぐったり満州:2013/07/08(月) 17:36:44.14
もともと彌は、一般的にはメとは読まない。
漢語拼音 mi ni
粵拼 mei nei
日本語 bi mi gei
朝鮮語 mi
粵拼というのは香港あたりの発音らしい。
中国南部では mei とも発音されるようだが、普通はミである。
47 :
日本@名無史さん:2013/07/08(月) 19:58:26.69
>>45 こんどは、呼=巫 の手できたか。
おまけに彌はメとは読まないとも付け加えている。
何手か先を読んでこの手を打ってきたのだろう。ぐったり満州という割には頭の回転は速い。
ま、人間の一日の消費エネルギーの1/3は頭脳の活動によるという。
ときに頭を休ませることも、ぐったり解消には重要で有効。
僕ぁ、邪馬台国東北説を推すよ
昔の中国人は日本列島を逆さまに理解していたんだよ
彼らが14世紀に制作した世界地図には日本列島は南に向かって伸びてる様に描かれていたんだよ
その認識に則って南に水行20日行くと邪馬台国は東北にある事になるんだ
昔読んだ小説にそう書いてあったんだ!これが正解なんだよ!
>>38 本まで出版してる大御所の説に異論を唱えるのは恐縮ですが、
出雲国譲りが神武より前、天孫降臨より前というのはおかしいと思います
大和朝廷ができる前に国譲りが行われたとすると、その出来事が大和朝廷の神話に残るはずがないからです
50 :
ぐったり満州:2013/07/08(月) 21:21:09.39
満州の歴史小話
邪。これは朝鮮語では(sa)もしくは(ya) と読む。ゆえに、
邪馬壹国はサマイ国と読める。
ところで百済には薩買県というのがあった。三国史記地理志に出ている。
薩買を漢語で読むとsamai 朝鮮語で読むとsalmayである。
salのlは入声というやつで、発音されない傾向がある。
そうするとsalmayはsamayである。
漢語でも朝鮮語でも薩買はサマイで邪馬壹と同じである。
ちなみに別スレでサルタがサタに変化するという話が出ていたが、
saltaのlが朝鮮語の入声ならlが消えてsataになる。
51 :
ぐったり満州:2013/07/08(月) 21:41:36.55
満州の歴史小話 その2
百済に実於山県というのがあった。三国史記地理志に出ている。
これを日本語風に読むとミオヤマである。
馬韓に彌烏邪馬国というのがあった。
>>48 その説は以前、夢幻如という男が唱えた。名前通り夢幻の如く消え去った(笑)
>>49 サガミハラはイカレポンチだから異論を唱えるのに恐縮する必要はないが、
記紀に書いてあることに異論を唱えてはいけない。
記紀を信じないのを非国民という。
和辻哲郎の解釈は面白かった
倭人は魏の使者に日本書紀一巻辺りの神話を語って聴かせる
通訳を介してのことなので魏人は色々と誤解する
それでアマテラスは卑弥呼に、スサノオは補佐官の弟という具合にすり変わる…
ロマンがあるね
ここはやっぱり妄想スレだな。
55 :
日本@名無史さん:2013/07/09(火) 08:53:19.52
御祭神のみ御名に弥・彌はほとんど見られず、多くは、美・三・水・御・見・観・看を充てている。
わずか、建彌己己命(たけみここのみこと、伝・神武治世の対馬県主)の一例にみられる。
記紀では避けられているように思える。
56 :
ぐったり満州:2013/07/09(火) 09:19:01.25
>>54 ここの参加者は全員中高生だから仕方ない。
年配者−太国、唐松山、ローガン、川柳の達人、サガミハラ…などはまだ許せる。
それ以外の連中は人格的にもチンピラだからむかつく。
>>56 過ぎたるは及ばざるが如し
おまえらみたいなヲタの方が本質から逸れてる場合が多い
58 :
日本@名無史さん:2013/07/09(火) 10:49:12.55
平安時代に入ると仏教の影響を受けてか、「弥」は各地霊山の名前などに数多く見られる
しかしそれ以前の記紀の時代(古代ないし奈良時代)において、弥・彌の字を避けていたように思えるのは、
やはり社会全体に「弥・彌」が巫(鬼道)を連想させる雰囲気のようなものが残っていたからではないか
59 :
日本@名無史さん:2013/07/09(火) 17:56:45.77
満州は偽書マニアの精神異常者だろw
60 :
精神異常者満州:2013/07/09(火) 21:54:21.95
おめーはクルクルパーだろ(ケラケラ)
>>58 新潟の彌彦(弥彦)神社は万葉集にも出て来るんだが、
その表記(万葉仮名)は「伊夜彦」だもんなあ。
ミの甲類、乙類つーても他にいっぱいあるからな
>>59 精神異常者と言うよりも
妄想の膨らみきった精神破綻者という感じがする
最近の気温よりキツイ…
邪馬台国が水行10日して陸行一月って解釈は間違いじゃね?
壱岐から確実に九州に渡ってるんだから、それからの行程を
そんな風に進んだら確実に九州をはみ出してしまう。
九州に上陸した地点(末盧國)から水行なら10日、陸行なら一月と
考えるのが妥当だろ。
ANDなのかORなのか
直線式なのか放射式なのか
もしANDで直線式の解釈をした場合、水行20日+水行10日+陸行1月となり、
九州から東京まで軽く行けてしまう
test
初歩的な行程パズルだね
69 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 07:37:11.34
矛盾が出なければ、シンプルであればあるほど、
説得力は高い。
70 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 07:51:59.39
前段に、X地点から投馬国まで水行20日とある。
なのに次の文が、X地点から水行10日 or 陸行1月、のように異なった論理の複雑な記述はしないであろう。
よって次も、X地点から水行10日+陸行1月、と単純明快に書かれたに違いない。
このことから、末蘆国にこだわることなく、双方に共通する最適なX地点を探す必要が生ずる。
71 :
呆れた満州:2013/07/10(水) 10:30:18.30
やれやれ、また行程パズルに逆戻りかえ?
おめーらはほんに飽きねーのう。
それより他にやることはねーのけ?
そんな行程パズルを百年続けても答えは出ねーのは分かっとるだろうによ(泣)
行程パズルに参加できない方は、みんなそう言う。
邪馬台国問題はパズルに参加した時点で失格だよw
あれはバカ発見器だからな。
74 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 11:02:30.52
取れないぶどうは酸っぱい。
75 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 11:24:55.85
遊園地の巨大迷路をさっさと潜り抜けるには出口から遡ると簡単に抜けられる
邪馬台国迷路もそのケースだ
末蘆国或は伊都国もしくは不弥国に辿り着いて、さてこの先はと考えるからトリックにはまるのだ
満州みたいに猪突猛進では100年たっても答えは出ない。
邪馬台国から遡って考えろ。
北部九州説は戸数問題をクリア出来ない時点で失格だからな。
倭人伝の数字が虚だとするなら別だが。
そうなると結局ご都合主義だと指摘されても反論はできまい。
77 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 11:49:35.22
古代とはいえ、倭人伝の30国をあらかた福岡県に押し込めようとするのははじめっから無理難題。
今日でいえば福岡県の一地方の市町村長が中国首脳とさしで外交を繰り広げるようなもの(相手にされぬわ)。
もう少し、雄大に考えてほしいな。
78 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 12:12:17.89
邪馬台国肥後国説なら、
奴国二万戸を肥前国、
投馬国五万戸を筑後国(筑紫国全域かもしれぬ)
邪馬台国七万戸を肥後国、
と比定すれば、人工的には無理は無い。
79 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 12:13:37.37
人工→人口
親魏倭王の金印を見つけるしかない
巻向に期待したいが、どーも違う気もする
畿内説の根拠
・発音がヤマト → これが唯一の根拠といえる
・箸墓古墳 → 年代ごまかしてました
・本田△鏡 → 日本製でした
・丹 → 否定の証拠にはならないという意味でしかない
畿内説の弱点
・倭人伝での方角が違うし、距離も違うし、日数も違う
・倭人伝に出てくる国は九州の小国ばかりなのに、いきなり奈良に飛ぶのは不自然
・南に敵対してる狗奴国があるはずなのにそれらしい国がない
・東側にある海の向こうに倭人が住む未知の国があるはずなのに陸続きの場所しかない
・畿内に鉄の出土がほとんどない
・記紀に親魏倭王の卑弥呼のことが書かれてない
畿内論は捏造論だから(笑)
83 :
満州:2013/07/10(水) 12:48:11.44
畿内説の弱点
神功皇后が紀の公式編年通りとしても、卑弥呼とはやや時代がずれる。
記紀に台与や中国朝貢の記事がない。
九州説の弱点
九州に大乱があった、あるいは王朝があったと想わせる記事が記紀に無い。
ゆえに卑弥呼の倭は日本のことではない。
それは満州か朝鮮のどこかの国の話である。
大体、日本から中国に救援要請に行くはずがない。
九州倭国と近畿国には断絶があるだろ。
それで何か九州説に弱点があるのか?
85 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 14:56:15.29
<銀山上神社> 長崎県対馬市厳原町久根田舎
ご祭神 安徳天皇
<同上境内摂社 都々地神社>
ご祭神 建彌己己命(たけみここのみこと) 高魂命(高御産巣日神)の五世孫
神武天皇の治世に津島(対馬)県主となる。創祀は神武天皇の時代と伝える。
境内の小社ではあるが、神武天皇の時代の建彌己己命を祀る由緒ある神社。
なお「彌」を含む神名は他に例を見ない。
建彌己己の意味はくみとれないが、
建・彌己己(みここ)と考えれば、卑・弥狗呼(みくこ)に通づるものがある。
このように解すれば、卑弥狗呼は「狗奴の県主」クラスの人物だったということになる。
>>84 九州説の弱点はヤマトという国名がなぜ偶然一致したのかを説明できない点
東遷説は論外だけど、他に偶然一致する理由がなかなか見当たらない
邪馬台国が九州で最大の国で1/3か1/2くらいの面積を占めていたと仮定すれば、
神武が邪馬台国出身という仮説も成り立ち、偶然の一致は十分ありうる
87 :
満州:2013/07/10(水) 16:58:24.31
>>84 断絶などない。なぜそうやってわざと記紀を無視するのだ?
紀元前660から、九州も含めて、日本は天皇家の支配する国だ。
>>85 建彌己己は建・彌己・己だろうが、意味は不明だ。
確かに卑弥呼、卑弥狗呼と関連がありそうな名だ。
>>86 え、説明に苦労なんかないでしょ。
米国に英国の地名がたくさんあるのと同じ。
>>87 激しく断絶しているから、旧唐書のような記述になった。
89 :
満州:2013/07/10(水) 17:50:45.70
ネット新羅史の逸聖紀にこんな記事がある。
七月 以汗介爲都都娘 介以汗昔女 善於神事 能禱雨致雨 且有姿色 其徒奉爲女主 上許爲都都娘(A.D.208)
新羅の王侯一族に汗介という女がいて、神事の才があり、よく雨を降らせ、
容色も優れていたので、その徒が奉じて女主(仙徒の女王)とした、という記事。
この都都娘という語が、倭迹迹日百襲媛命の迹迹日を連想させる。
建彌己己の己己も何か関連があるかもしれない。彌は尊称の御か。
>>88 そんなことはない。中国が本州の存在を知らなかっただけ。
90 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 18:01:36.25
天皇家の祖先は北部九州高天原邪馬台国に属するタダの豪族だった。
しかし、中国南部のワニ族と瀬戸内勢力と合体して機内に独立国を建てたのだよ。
その後、邪馬台国を滅ぼす。
磐井の乱が最期の戦いだ。
>>81 全く的外れな畿内説批判だな、20年前なら通用したかも?
畿内説なら南の狗奴国を紀伊半島の勢力とすればいいだけだし。
つまり紀伊半島の丹山の権利を持っているので
女王国と対抗出来る訳だ。
卑弥呼の死後、倭の女王トヨが丹を輸出出来るのは、
狗奴国と何らかの和解があったのだろう。
>>89 中国は、中央アルプスも津軽海峡も知ってただろう。
本州を知らないなんてトンデモは、休み休み言え。
畿内説矛盾点だらけで笑った
ここまでくるともうお笑いレベルだな
つーか満州含めて倭人伝無視して考え過ぎ
記紀に邪馬台国や卑弥呼が書いてあんのかよ
副本を正本と勘違いすんな
イザナギとイザナミのまぐわい読んでオナニーしてろ
九州説なんて倭人伝読んでも行程パズルしかやる事ないんだろ?
96 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 22:15:44.42
<熊本県 阿蘇神社 御祭神>
(いずれも神武天皇・神日本磐余彦命の一族)
一宮 健磐龍命(神武天皇の三世孫)
二宮 比当セ神(三世孫)
三宮 國龍明神(二世子)
四宮 比東芬q明神(二世子)
五宮 彦御子明神(五世孫)
六宮 若比当セ神(六世孫)
七宮 新彦明神(三世孫)
八宮 新比当セ神(四世孫)
九宮 若彦明神(四世孫)
十宮 彌比当セ神(七宮の新彦明神の妃)
十一宮 國造明神(四世孫)
十二宮 金凝明神(二世子、綏靖天皇)
上記の如く、さらに一名、彌の字を有するご祭神の名を見つけた。
阿蘇神社・十宮のご祭神「彌比当セ神」である。
>>85に述べた 建彌己己命 とともに、神武天皇ゆかりのご祭神に「彌」を見ることができるわけである。
そのまま理解すれば、この時代にかぎって「彌」は神名に用いられていたのかもしれない。
97 :
満州:2013/07/10(水) 22:47:00.89
>>92 >中国は、中央アルプスも津軽海峡も知ってただろう。
プッ、そんな資料があんのけ? あるなら出してみろや(ケラケラ)
>>94 >記紀に邪馬台国や卑弥呼が書いてあんのかよ
書いてねーからおらは畿内説は苦しいと言っとるだ。どこかおかしいけ?
おめーはほんにパカだのう(カラカラ)
四道将軍が出雲には辿り着けなかったのは何故なんだろう?
100 :
日本@名無史さん:2013/07/10(水) 23:14:22.25
阿蘇神社に祀られているのは神武一族の12神
これは並大抵のことではない
大和を本家とするなら、阿蘇は元祖かもしれない・・。いや、少なくとも分家ではある。
101 :
満州:2013/07/10(水) 23:24:56.23
>>99 おめーのようなクルクルパーには用はねーべ(カラカラ)
>>81の補足
・方角に関して
倭人伝に邪馬台国は南と書かれてるのに畿内説だと東になってしまう
また邪馬台国より北側にある国には一大率を置くなど、方角に関しては計3ヶ所も出てきているので
畿内説のやつらが主張してる誤字の可能性はありえない
よって方角に関しては畿内説は明らかに間違っている
・距離に関して
倭人伝によると帯方郡から邪馬台国まで12,000里となっており、伊都国までが10,500里で残りは1,500里なので
邪馬台国は九州島内に収まっていると解釈するのが妥当
伊都国までの距離は短里(1里=75〜90m)を用いているので邪馬台国は伊都国の南1,500里(110〜140km)のあたりとなる
畿内説のやつらが主張している公里を用いた場合、伊都国でさえ遥か南の海の上になってしまう
短里を用いた場合は九州になり、公里を用いた場合は南の海の上になって、どちらでも畿内にはたどり着けない
・日数について
水行十日陸行一月は九州説、畿内説ともに合理的な説明はできない
南に行くと海の上、東に行くと関東や東北まで行ってしまう
103 :
日本@名無史さん:2013/07/11(木) 00:56:40.65
>短里を用いた場合は
その たんり って奴の度を教えてくれ
もちろんその出典もね
その出典を見た上でなるほど魏の里が たんり 以外無いと判断できるなら ひょっとしたら倭人伝の里も たんり かもしれない
まず必要なのは たんり の度 その体系の出典
話はそれから
古代ギリシャとローマの関係を考えよう
ギリシャの方が先進文明で南イタリアやシチリアに植民市を持った
都市国家は独立しており、同盟は組んでも「帝国」というものではなかった
やがてローマにギリシャの影響を受けた都市国家が誕生し、
領域を広げギリシャ地域を飲み込む
建築、芸術はギリシャの模倣
ローマ人の子孫はギリシャのトロヤ戦争の英雄であるという伝説が生まれた
大和地方の人にとり「文明は西から来る」という伝説があってもおかしくない
それが九州の倭人なのか朝鮮かはさておき、
北九州が大陸、朝鮮文明に刺激を受け、文明が発達しやすいのは間違いない
>>103 ↓倭人伝は距離が短里で計算されている
602 :日本@名無史さん:2013/06/30(日) 18:57:42.98
>>584 帯方郡→狗邪韓国
(京城・沙里院) (巨済島・金海) 7000余里 630-710km
距離の中間値(670km) 一里=96m弱
狗邪韓国→対馬国
(巨済島・金海) (佐護・厳原) 1000余里 64-120km
距離の中間値(92km) 一里=92m弱
対馬国→壱岐国
(佐護・厳原) (原ノ辻・勝本) 1000余里 53-138km
距離の中間値(98km) 一里=98m弱
壱岐国→末廬国
(原ノ辻・勝本) (呼子・唐津) 1000余里 33-68km
距離の中間値(51km) 一里=51m弱
算数が少しできれば、倭人伝記述の1里は360mではないことが明白。
106 :
日本@名無史さん:2013/07/11(木) 02:19:23.88
>>105 >倭人伝は距離が短里で計算されている
その計算のもととなった 度 の話をしてるんだが
魏で使われたという たんり の度の体系とその出典を教えてくれ
それがあってはじめて倭人伝の里が 魏の たんり だと言えるんだ
まずは 度 の体系とその出典を教えてくれ
話はそれから
実際の距離が判明してるんだから出典とかどうでもいいでしょ
文献なんかはケチつけようとすればいくらでもできるが、事実は否定しようがない
ここに書かれた距離が信用できないなら、あとは現地に行って自分で測量するしかあるまい
満州は夢幻如
>>102 君は根本的に間違えてるな。
実際東と南を間違えた日本地図がある以上、
方向間違い説は成立するだろう。
また12000里は邪馬台国までの距離ではなく、
女王国までとしてるはずだが。
30国の説明では女王との境界は奴国と書かれてあるので、
短里を用いた場合、距離的には女王国が大分や
山口辺りからにならなければいけない。
つまり行程パズルをしても、少なくとも北部九州説はアウトだろう。
>>96 神武天皇縁ではあっても卑弥呼とは無関係だろ。
つまり阿蘇は邪馬台国では無いと言うことだw
111 :
日本@名無史さん:2013/07/11(木) 08:36:06.58
>>110 阿蘇の彌比当セ神を卑弥呼とするには時代を異にするし、事績もつたわっていない。
しかし、いろんな意味で興味深い反論だな・・。
なお前スレで、
天照大神の別名である大日霎貴を「於保比屡灯\武智」と読ませている件に関し、
比屡塔qルメの屡ルは助詞であり、比ノ唐ノ同じという國學院大學の説を紹介した。
「阿蘇・彌比当セ神」の御名からも、この「ル助詞説」は納得できる。
112 :
満州:2013/07/11(木) 08:41:27.19
>>105 >帯方郡(京城・沙里院)
だからこれが間違いだと何度も言っとるだろが。
おめーも懲りねー奴だのう。
113 :
満州:2013/07/11(木) 08:50:39.95
>>111 だからよ、hilmeのlが朝鮮語の入声ならlは消える、つーこつばい。
(・д・)チッ死ねばいいのに
>>109 >方向間違い説は成立するだろう。
これは流石に冗談だよな?
本気で言ってるなんてことないよな?
死ねとか冗談でもやめろよな
>>115 現実に間違えた地図がある以上は仕方ないな
118 :
日本@名無史さん:2013/07/11(木) 09:58:29.69
>>177 ひとり間違えたのだから全員間違える、などとは全く言えない。
大人数のなかで間違えるのはほんの少人数、そのうちの一人はおまいだな。
119 :
日本@名無史さん:2013/07/11(木) 10:03:24.30
>>113 「阿蘇・彌比当セ神」は朝鮮式発声なんだよな、同意だ。
だから朝鮮は阿蘇にあった、そして卑弥呼は阿蘇周辺にいたのだよな。
120 :
日本@名無史さん:2013/07/11(木) 10:22:50.28
>>117 >現実に間違えた地図がある以上は仕方ないな
混一地図のことか?
あれは南に伸びてるぞ。
あの地図を見れば、みんな南に向かい、東に行く要素は全くない。
121 :
日本@名無史さん:2013/07/11(木) 10:47:05.75
大笑いした
たしかにあの地図をみれば、誰一人として東へ行こうとおもう者はおるまい
そして南へ南へ行けば間違いなく邪馬台国に到る
まことあの地図は正しいww
おまえらあの里数なんか信じてんのか?
124 :
日本@名無史さん:2013/07/11(木) 12:06:47.08
>>123 畿内説の人間はあの里数を信じたくないだろう
同情するよ
畿内説の人は魏志倭人伝を全否定しないと自説を押し通すことができないもんな
倭人伝を全否定したら邪馬台国って国はどっからきたんだよってなるがw
完全に自己矛盾だろ
126 :
満州:2013/07/11(木) 12:37:50.32
おめーら九州人よ、
>>122の地図をよーく見てみろや。
大和に赤印が打ってあるべ。
神武の昔から日本の首都は大和だべ。
邪馬台国は大和に決まっとるだ。
九州に邪馬台国を探すなんつーことはもうやめるがえーだ。
>>126 これを読め
>この地図は、明の建文4(1402)年、李氏朝鮮で作成されたもの
128 :
日本@名無史さん:2013/07/11(木) 13:01:17.33
>>126 だから神武東遷の大事業によって大和を首都にしたと記紀にあれほど・・・、
ま、神武一族のふるさとは阿蘇地方、卑弥呼の住まいした朝鮮城も阿蘇にあったのだ
日本史三大トンデモ説
・義経=ジンギスカン説
・徳川家康影武者説
・邪馬台国畿内説
その中でも畿内説は、産学共同の壮大な詐欺だから、始末が悪いな。
>>126 畿内論不利じゃなかったのかよw
朝鮮じゃ満州じゃ大和じゃ忙しいのう
支離滅裂
132 :
日本@名無史さん:2013/07/11(木) 16:26:47.40
>>126 <熊本・阿蘇神社>
二宮 比当セ神(神武天皇三世孫)
四宮 比東芬q明神(神武天皇二世子)
六宮 若比当セ神(神武天皇六世孫)
八宮 新比当セ神(神武天皇四世孫)
十宮 彌比当セ神(神武天皇三世孫の新彦明神の妃)
阿蘇神社は、満州の好きな朝鮮読み比当セ神を5柱も御祀りしてる。
朝蘇も卑弥呼も邪馬台国も阿蘇にあった、神武天皇がお生まれになったのも阿蘇だ。
133 :
満州:2013/07/11(木) 16:59:35.70
そらよ、神武は奥さんを九州に残してきたのだからよ(よく知らんがのw)、
九州で神武の子孫が生まれるのは当たり前ーだべ。
>>129 まさか九州王朝説という最有力候補を無視ですかw
135 :
日本@名無史さん:2013/07/11(木) 21:20:38.99
>>132 の熊本・阿蘇神社(ご祭神並べ替え)
宮 比東芬q明神(神武天皇二世子)
宮 比 明神(神武天皇三世孫)
宮 彌比当セ神(神武天皇三世孫の新彦明神の妃)
宮 新比当セ神(神武天皇四世孫)
宮 若比当セ神(神武天皇六世孫)
神武天皇と比当セ神との血縁関係によって神名を変えていることを読みとれる。
「彌」は、神武天皇の一族血縁でない妃に使用している。
彌比当セ神は、もしかして鬼道をマスターした渡来の高学歴貴族で漢族か満鮮族だったかもしれないな。
>>135 谷川健一によると、名前に「ミ」「ミミ」がつく一族は母系ないしは双系だったので、
天皇家の男子が「ミ」族の娘と結婚するたびに、「ミ」の名前がつく子が生まれていると
言ってるよね。 ちょいと長いが引用。
----------------------------------
ニニギミコトは南九州の吾田のコノハナサクヤヒメと結婚してヒコホデミを生む。
ヒコホデミは海神の娘のトヨタマヒメをめとり、ヒコナギサタケウガヤフキアエズを生む。
ヒコナギサタケウガヤフキアエズはトヤタマヒメの妹のタマヨリヒメをめとり、カムヤマトイワレヒコホホデミを生む。
これが神武帝である。この結婚は、すべて女が海神族であるという特色をもっている。
そして海神族にはオオヤマツミとかワタツミとかミのつく名前がある。このミのつく海神族の娘と結婚するたびに、
ヒコホデミとかカムヤマトイワレヒコホホデミとか、ミのつく男子が生まれる。
そればかりではない。神武帝もまた吾田のアヒラツヒメをめとって、タギシミミやキスミミを生む。
さらには三島のミゾクイミミの孫娘のヒメタタライスズヒメをめとってカムヌナカカワミミを生む。
カムヌナカカワミミは第二代の綏靖帝である。そのこのしきつひこたまでミは第三代の安寧帝であり、
その子のオオヤマトヒコスキトモ(ミミ)は第四代の懿徳帝である。
谷川健一「青銅の神の足跡」
阿蘇や宮崎は「健、竹」の国々なので卑弥呼とは無関係だろう。
>>137 「タケル」「タケ」は、後世に征服した側の持ち込んだ名前が反映されている
可能性もあるんじゃないかと。記紀にあるヤマトタケルの進軍経路と、
「武部」「建部」などの苗字の分布とが一致するという話もあるよね。
139 :
日本@名無史さん:2013/07/11(木) 23:48:39.42
伊都国が佐賀付近だってことに気づいたら邪馬台国がどこにあったかは簡単だろう。
馬鹿な、邪馬台国は海に沈んだはずだ!
141 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 00:35:11.69
隋の時代でも倭国の南北は3ヶ月かかっていた。水行10日陸行1月ならば
海に沈むなどということはない。十分に九州の中さ。
142 :
ローガン:2013/07/12(金) 00:58:02.01
>>107 >実際の距離が判明してるんだから出典とかどうでもいいでしょ
いや、肝心なんだ。「実際の距離」云々は、現在簡単にわかる。そんなことはどうでもいいんだ。
その「実際の距離」と魏志倭人伝に記された里や歩が、中華における魏代の「度」に適合してはじめて、
倭人伝の地誌に出てくる「里」が正確な情報である。と言える可能性がある訳だ。ゆえ、倭人伝の地誌に関する記述に間違いなど無い…と主張したいなら、適合する魏代の「度」その出典は必須。
>事実は否定しようがない
史書記述として存在するという「事実」それ自体は、誰も否定しない。
でもそれは、その記述の真偽や正誤と関係ない話なのは言うまでもない。
もし「倭人伝に誤りは無い」を主張するなら、それと適合する「度」に触れた資料の提示は必須。
>>142 問題
下記の2地点間について倭人伝に記述された里と実際の距離が判明している
・帯方郡→狗邪韓国 7000里 670km (一里=96m弱)
・狗邪韓国→対馬国 1000里 92km (一里=92m弱)
・対馬国→壱岐国 1000里 98km (一里=98m弱)
・壱岐国→末廬国 1000里 51km (一里=51m弱)
となっている
次の2地点間の距離は何kmになるか推測せよ
・伊都国→邪馬台国 1500里 ○○○km
以下の(A)(B)(C)より最も適当と思われるものを選択せよ
(A)76.5km〜147km(判明している距離の最大最少である一里=51m〜98mの範囲とする)
(B)540km(公里の一里=360mを適用)
(C)短里の長さについて信憑性のある文献がないので距離は推測不能
144 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 02:15:56.65
度量衡の文献があっても、実際の距離はわからないよ。
文献だけでは、一尺と書かれていても、
それが現在の単位でどのくらいかは実際のものを使って推測する必要がある。
推測されている中国の度量衡も、発掘されたものさしや原器、
建物や古墳の距離からの推測にすぎない。
無論、短里も周髀算経や倭人伝と実際の土地の位置からの推測にすぎない。
建築に使う曲尺が、比較的年代にたいして、変化が少ないことが知られている。
145 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 02:21:24.73
資料に一尺とか、一里とか書かれていても、
それが何メートルかは、文献だけではわからない。
文献では各単位の「関係」しかわからない。
かならず発掘されたものや、実際の距離を基準にしなければ、
文献の一尺や一里が何メートルかはわからない。
146 :
風の中のゴキブリ:2013/07/12(金) 02:25:57.17
満州は夢幻如
>>139 確かに北部九州や阿蘇周辺にない事は確実だな。
阿蘇は古くから開けていた、伊都国のように世々有王の豊かな地域だったのでは。
記紀でも阿蘇の王たちは土蜘蛛扱いされず、きちんと神として登場する。
邪馬台連合に併呑された蘇奴国、対蘇国がそれだろう。
随書では阿蘇は祭事的に特別視されていたらしいしな。
近くに高千穂がある。
どこから降臨したかって阿蘇山、肥後なんじゃないのか?
日向と豊を建てたのは肥後北部だったりしてな。
150 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 08:07:33.89
熊本との県境に近い、大分県の旧大野郡大野町では、
大量の鉄のやじりが発掘されている。
熊本勢との戦の痕跡と推定される。
151 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 08:13:32.80
大野町は、熊本から見て阿蘇山の裏側。
ほぼ真東に位置する。
152 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 08:21:31.76
>>142 >>143 短里の1里がどの程度の距離かということは、倭人伝そのものの中に明記されていると
いうことですね。納得です。
大分熊本県境地帯で何らかの軍事的緊張や衝突があったのは確からしいな
夢幻如って何?
155 :
夢幻如満州:2013/07/12(金) 09:27:57.74
短里が当て嵌まっているのは狗邪韓国から末盧国間だけである。
帯方郡は京城でも沙里院でもないから、帯方郡〜狗邪韓国間は全然当て嵌まっていないのである。
ここの連中はそれを無視して相変わらず短里説を唱えている。
ただもう呆れるしかない。
短里説を唱える前に地理の研究をしたまえ。
なんだ慢臭って、以前、高慢ちきだった夢幻如の別名だったか。
157 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 09:58:40.15
>>155 >短里が当て嵌まっているのは狗邪韓国から末盧国間だけである。
この間だけあってればその後の行程さがしには十分だ。
>帯方郡は京城でも沙里院でもないから、帯方郡〜狗邪韓国間は
それは満州に任せる、正確な数字を研究して教えてくれ。
夢幻如で終わらすな。
蘇奴=阿蘇、対蘇=高千穂なんじゃないか?
159 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 10:57:15.69
湿地水田地帯の蘇≒宇土、向うの蘇≒天草、火を吹く蘇≒阿蘇、と言うのはいかが?
こじつけも甚だしいなw
161 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 11:26:54.73
仏教の伝来後は、「阿弥陀如来、弥勒菩薩」のように、「弥」は敬うべき仏教用語として広まった。
ちなみに広島・厳島神社の霊山は「弥山」と呼ばれる。
しかしこれまで見て来たように、どうやら記紀以前においては
神武のころの特定民族に属する鬼道宰主、貴族、高官、武人など渡来の貴人を指す語であったのではないか。
弥・彌の取り扱いには、なにやら特別の意味合いを感じる。
対馬銀山上神社・・・彌己己命
熊本阿蘇神社・・・彌比当セ神、
投馬国・・・官曰弥弥、副曰弥弥那利
邪馬壹国・・・卑弥呼、官次曰弥馬升、次曰弥馬獲支
狗奴国・・・卑弥狗呼
162 :
夢幻如満州:2013/07/12(金) 11:54:17.21
>>157 山形明郷によると帯方郡治は遼東半島の熊岳だったらしいから、
あとはチミが距離を計測すればいい。
163 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 12:08:38.86
>>162 他人の説を流用するな。手抜き工事はならぬ。
天才・夢幻如満州どのの御考えを聞いているのだ。
どーしても九州説に持っていきたいのかここの連中は
165 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 12:15:15.88
ここは九州説スレです。
166 :
夢幻如満州:2013/07/12(金) 12:46:46.21
>>163 帯方郡が遼東半島だということは、様々な資料から、ほぼ確かである。
郡治が熊岳だというのも、当たらずとも遠からずである。
山形明郷によると、昔は熊岳に帯方郡治の碑が立っていたそうである。
日帝統治時代に日帝がその碑をソウル方面に移したのだとか。
浜名寛祐の契丹古伝には楽浪郡と帯方郡の諸県の比定地が具体的に書かれている。
日露戦争当時に某日本人が現地の古老に尋ねて調査したものである。
それを見ると帯方郡の県はすべて遼東半島にある。
何はともあれ帯方郡が遼東半島なら、短里説はガラガラと音を立てて崩壊するのである。
167 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 12:55:27.75
>>138 タケってのは、インドネシア語などのオーストロネシア諸語で男を意味するlakiに由来するという説がある(村山七郎)
クマソタケルがヤマトヲグナにヤマトタケルという名前を与えたように、
タケってのは南方的な名前だと思う
168 :
夢幻如満州:2013/07/12(金) 12:55:29.68
<帶方(今安東縣附近地)><烽上帝>紀
<帶方>(<屯有>卽<遼中>以南之地)<故國川帝>紀
ネット史でも帯方を遼東半島地区に比定している。
帯方が遼東半島地区であることは好太王碑をよく読めば分かる。
ここに書くのは惜しいから書かないだけである。
169 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 12:59:04.37
一方、オーストロネシア祖語には、「男」を意味する *laki がありました。
日本語の語頭にはラ行音は立たず、AN語の語頭音 *l は、tに音韻変化したと考えられます。
従って、*laki は、日本語で taki になるハズで、これは「健」「武」(take)に対応すると考えられます。AN語でも不完全重複による並行的な意味変化 laki (男)> lalaki (強い)があり、この推定を支持します。
日本神話におけるアダムとイヴである「イザナキ」「イザナミ」は恐らく、
iza-naki < itsa-n-naki < isa-n-taki < isa-n-laki
iza-nami < itsa-no2-mi < isa-no2-mi
に遡り、itsa はAN祖語の「一」= isa に対応し、
「イザナキ」=「一」「の」「男」= 「最初の男」
「イザナミ」=「一」「の」「女」= 「最初の女」
というオーストオロネシア祖語に遡る注)事は、村山、川本両氏が主張するところです。(語形変化は私の解釈によるものですが、他に色々なヴァリエーションが考えられます。)
ttp://homepage3.nifty.com/rosetta_stone/wissenshaft/AN_2/ANJP_16_18.htm
遼東と遼西に別けられてるってことは、遼は南北に延びてる存在でなければならない
該当するのは朝鮮半島しかない
「ネット史」てなんだよ
インターネットの歴史かね
あるいは、ネットワーク技術の歴史か?
172 :
ローガン:2013/07/12(金) 14:57:16.25
>>145 >資料に一尺とか、一里とか書かれていても、それが何メートルかは、文献だけではわからない。文献では各単位の「関係」しかわからない。
その「関係」が 度だ。しかし短里は度の体系に微塵も合致しない。 「各単位の関係」から乖離した「里」など存在しない。
短里とやらの発明は、昭和の日本。しかも単なる結論先取り。
173 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 15:11:20.58
>>172 >度の体系に微塵も合致しない。
度の体系ってなんのことですか??
174 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 15:12:54.97
>>172 度量衡の「関係」は、数学書、「周髀算経」において数式化され、
体系も完全に一致して、矛盾は全くありませんが?
というより、周代から秦の時代において、統一化修正事業が不完全だったのか、
秦の時代の、度と量の関係に不備が生じていますね。
長さ×長さ=面積、長さ×長さ×長さ=体積が基本ですが、
体積原器を使ったせいだと推測しますが、
この関係か崩れていますね。
これこそが、体系に合致しないというべきでしょう。
ローガンとやらは
>>143の問題に答えてくれんかね
176 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 15:25:12.99
>微塵も合致しない
日本語では聞いたことのない言い回しだな、「微塵の違いもない・・」なら良く聞くが。
177 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 15:26:18.60
里程の話で、良く6尺=一歩 という体系の話が出ますが、
これは周代までの話で、
秦以降からはなぜか5尺=一歩、となっているようですね。
178 :
ローガン:2013/07/12(金) 15:27:41.99
>>173 >度の体系ってなんのことですか??
145氏の言を借りれば、「各単位の関係」。
179 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 15:33:49.83
>>178 他人の言葉を借りたのでは無意味でしょう。ご自分で使った意味をお願いします。
180 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 15:44:17.40
少なくとも唐の時代には大尺、小尺の体系があり、
大尺は、五尺=一歩、三百六十歩=一里
小尺は、六尺=一歩、三百歩=一里
となり、一里はともに千八百尺である。
そして、これらの計算がしばしば混同されて、
計算間違いとなっているそうである。
大尺は秦以降の統一化後の体系、
小尺はそれ以前の体系であろうと思われる。
突然統一令を出しても、そう簡単に統一できるはずもなく、
まして、中国国内ではない東夷の別国で、
単位系が統一できるはずもない。
そもそも、日本には里がなく、日数をもって計るのみ、と
倭人伝に書かれていて、
単位系は東夷の倭国では統一されていないことがわかる。
181 :
ローガン:2013/07/12(金) 15:58:21.84
>>179 ああ 各単位の関係 では意味がわからない訳だな
分寸尺丈歩里のことだ。 もし、これでまだわからないなら 話にならんので 悪いが返信はしない。
182 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 16:00:13.59
今の日本は1里約4キロ、1里がどれくらいの距離かということは、時代と場所と似
よっていくらでも変わる。同一資料のなかで1里がいくらくらいの距離を表す単位と
して使われているか、それが重要なことだね。
183 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 16:00:29.47
逃走w
184 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 16:08:13.43
>>181 「各単位の関係」では、度量衡各単位(内)の関係なのか、度量衡各単位(相互間)の関係なのか不明確。
さらに日本語ではめづらしい、微塵も合致しない、と続けられてはいっそう疑問を持つからな。
185 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 16:08:32.28
まあ、いろいろ書かれているように単位系の統一はそう簡単ではなく、
地域によって様々な単位があった。
従って短里を否定するのはそう簡単ではない。
短里がないことを証明するのは、悪魔の証明に近く、
実質不可能ではないかと思う。
短里を肯定する資料は、倭人伝そのものに始まり、
隋書や周髀算経など、数は多くないがいくつか存在するものである。
「短里」という言葉に語弊があるのなら「倭人伝で使われている里という単位」って言い方に変えて議論すればいい
こうすれば出典だの度の体系だの各単位の関係だのの議論に関係なく話を進められる
目的は邪馬台国の場所と距離を推定することなのに完全に脱線してる
187 :
ローガン:2013/07/12(金) 16:18:43.30
>>175 ああ すまんすまん(笑)
「次の2地点間の距離は何kmになるか推測せよ
・伊都国→邪馬台国 1500里 ○○○km」
※当時の中国人が使う公定里が1里約434mだから、約650km
「以下の(A)(B)(C)より最も適当と思われるものを選択せよ
(A)76.5km〜147km(判明している距離の最大最少である一里=51m〜98mの範囲とする)
(B)540km(公里の一里=360mを適用)
(C)短里の長さについて信憑性のある文献がないので距離は推測不能 」
該当なし
188 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 16:20:38.08
公定里(笑)
189 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 16:30:18.55
短里という言い回しだが、
「中国魏の時代に短里と言う長さの単位があってそれを用いて倭人伝が書かれた」、というのとは違う。
倭人伝に千里、万里と書いてはあるものの、後世計ってみたら実際には約1/6だった。
それで昭和の人間はこの現象を便宜上「短里」と称したにすぎない。
>>186氏のごとく「倭人伝で使われている里という単位」というのが正解であろう。
現在でも、町の大工さんはいちおう1間6尺で図面を引くものの、
土地の広さと予算次第では、1間5尺5寸とかに随時読み替えて家を建てるなんてことをする。
このように昭和短里と言うのは一種の読み替えと思えばよいのではないか。
190 :
ローガン:2013/07/12(金) 16:41:38.52
>>184 >「各単位の関係」では、度量衡各単位(内)の関係なのか、度量衡各単位(相互間)の関係なのか不明確。
「度量衡の体系」ではなく「度の体系」なんだが… まあ、わからないならいい。
>>185 >従って短里を否定するのはそう簡単ではない。
簡単だ。「無い」で終わり。
>短里がないことを証明するのは、悪魔の証明に近く、実質不可能ではないかと思う。
あった!あった!と主張する側に立証責任があるだけで、「無い」側には証明の可能不可能以前に、する必要がない。
>>188 私も君達が「公里」って書くたびに笑っちゃう。
いつか注意してあげようか…とか思いつつ放置しているんだが。
191 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 16:45:42.18
>>190 微塵も合致しない、もわからないんですけど。
江戸時代の道中記でも壱岐ー対馬
壱岐ー唐津などは実距離の3倍から4倍の間なんだけどな
193 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 16:47:39.88
>>190 「倭人伝の里は公定里ではない」
で終了だな。
194 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 16:53:25.92
倭人伝の里は公定里ではない、ことは証明できるが、
短里が無いことは証明できない。
海上の距離に関してはかかった時間などをもとに大雑把に決めてるでいいと思うが
196 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 16:56:10.35
立証責任なんていうこと自体が間違い。何が事実だったかを追求するときに
立証責任なんて問題はない。
197 :
夢幻如満州:2013/07/12(金) 17:02:22.22
>>171 最近は新参者も多いようだな。
ネット史というのは、韓国では出版されているのかもしれないが、
日本では出版されていないので、ネット上の韓国サイトでしか読むことが出来ない、
三国史記よりはるかに詳しい三韓の歴史書である。
一応題名も付いているが、面倒くさいので、ポクが勝手にネット史と名付けているのである。
198 :
夢幻如満州:2013/07/12(金) 17:08:18.21
帯方郡は遼東半島だから、短里説はもう崩れているよ。
熊岳から釜山までの距離を測ってみればいい。
短里とは全然合わない。
どちらかといえば公里の方が合っている。
「春秋左氏伝」を「里」に注意しながら読んだけど、
里の長さは国によってバラバラとい印象だった。
だからこそ始皇帝は度量衡の統一をしたんだろうけど、
政府が大声で統制しても、なかなか全国で統一は難しかったんだろうな
方言・文字すらなかなか統一できないし
「史記」によると、中原の人は斉の言葉をちゃんと理解できないレベルだったらしい
三国志の時代の「里」の長さがちゃんと統一されていたといのは、現代人の幻想といえる
200 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 17:55:59.84
遼東半島から狗邪韓国まで何里で何キロあるんだ?
201 :
ローガン:2013/07/12(金) 18:03:21.58
倭人伝の里(笑)
倭人伝(を都合よく読む為)の里 か…
で、どこの国が公定里の1/6の里を当時使用していたのかね?
生憎、日本では、時代下っても 「夷人不知里數、但計以日。」な訳だ。
で、どこの国でかっちり公定里で統一できてたんだ?
203 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 18:25:50.24
>>201 >どこの国が公定里の1/6の里を当時使用していたのかね?
誰もどこの国が1/6里を使用していたとはいってない。
倭人伝の里を現場に当てはめれば1/6くらいが妥当と言ってるわけだ。
日本語の本末が理解できないのは外国人のゆえか??
204 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 18:30:58.07
東夷の倭で、公定里が使われていないのは自明だが、
中国国内でも、完全に統一化されているわけではなかっただろう。
秦から漢、隋を経て、唐の時代でも、まだ複数の尺や歩の並立が見られる。
換算するための資料も残っているようだ。
205 :
夢幻如満州:2013/07/12(金) 18:35:14.21
>>200 地図を見て目分量で測るとだな、ざっと1400kmだ。
これは公里だと3200里、短里だと18400里だ。
どうみても公里の方が合っているぞ。
206 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 18:42:40.07
いや、満州里だと7000里どんぴしゃだ、 ←満州ならこう言え、オチがつく。
つーか実測値がどんだけあるかもわからんからな
特に地方は地元のやつが言った概算の値をそのまま書いてる場合も多いだろ
208 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 19:09:17.29
満州は帯方郡の起点をデタラメに動かしてるんで、
変な数値になる。
定説の平壌付近にしておけば、何の問題もない。
209 :
ローガン:2013/07/12(金) 19:11:19.79
>>203 >>どこの国が公定里の1/6の里を当時使用していたのかね?
>誰もどこの国が1/6里を使用していたとはいってない。
はア、疲れる…
>>180に
>まして、中国国内ではない東夷の別国で、単位系が統一できるはずもない。
とあるだろうに。
単位統一の及ばない東夷の別国で使用された里が「倭人伝の里」だと示唆に他ならない。
しかし日本は時代下っても夷人不知里數、但計以日。
日本じゃないなら、倭人伝の里(笑)を使用していたのはどこだ? と尋ねたワケだ。
キミ、無理して参加しなくていいから。
210 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 19:28:26.81
>>209 >>180からそんな内容は読みとれない
自分かってに意地悪読み方するから、はア、疲れる…のさ
そういうのをひとり相撲という、どうせ意味わかるめえがよ。
211 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 19:34:58.03
>>209 ストレートに取らずに、ひねくれた取り方をするのは、
ローガンのよくやる手口だが、
それでも、論理的に否定になってないよね?
あなたも無理して参加しなくていいからね?
.
>>167,
>>169 なるほど、イザナキイザナミは説得力があるな。
岡正雄の仮説によるとオーストロネシア語族がもたらしたのは
産屋や若者宿などの海人系文化だから、淡路島の神がそっち系
というのはうなづける(岡正雄,1958:日本文化の基礎構造)。
タケミカヅチが祀られているのは鹿島
短里論争を見てて思うんだが、みんなは古代の道をどういう風に
想像してるんだろ?
フラクタル理論のマンデルブロによると、国境線や海岸線などの
自然地形に由来する曲線の長さは、地図の縮尺が大きくなるほど長くなる。
現代の道は山にトンネルを掘り谷に橋をかけて可能な限り線形を良くするけど、
古代の道は山をつづれ折に登り、谷は降りやすいところに迂回して、
さらにそこかしこに点在する集落をつないでウネウネと繋がっている。
だから25万分の1の地図で見れば古代の道は、たとえば国道3号線と重なって
見えるかも知れないけど、5千分の1の地図で長さを計れば数倍の違いが
あるかも知れないのだ。
215 :
ローガン:2013/07/12(金) 20:28:01.13
>>211 >それでも、論理的に否定になってないよね?
否定? 尋ねているだけだが。
>>209 倭人が周代の里を使っていたのを知っていて、訊いているのか?
ここまでローガンが無知だと、ほんと疲れるわ。
ローガンはもう、「里」議論に参加しなくていいから。
>>215 ローガンは、否定せんがために尋ねている=否定したうえで尋ねている、だろうが!
いちいち畿内説にふさわしい詐欺論法を使うなよ、この詐欺師!
>倭人が周代の里を使っていた
無知な俺のためにその根拠をお願い
>>218 一行レスでポンと数学的に示せる単純根拠はないよ。
周の初期に周王が使っていた里と、倭人伝の里が一致する、という膨大な話。
詐欺師のローガンはすぐ否定するだろうが、それは詐欺だからw
倭人は里程を知らず、との整合性は?
伊作以降、倭人は里程を知らなかったから日数で表してたっていうのがこのスレの総意のようだが
ローガンとかいう詭弁野郎、相当痛いな
自分に不利な事実を受け入れることができない、自分の間違いを認めることができない、屁理屈こねくり回して自分を正当化する
これじゃ対人関係維持できないし、社会から孤立してるんだろうな
憂さ晴らしにネットで詭弁を弄して自分の正しさをアピール
哀れな人生だな
222 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 21:33:05.68
倭人は(しょうもない人種で)里程を知らず、日数で表していました。
(がしかし、我々魏の調査は完ぺきで、きちんと里数をつかみました)、
・・・と読むべきでしょう。
バカな倭人のせいで里数は分かりませんでしたでは、子供の使いと言われて斬首。。。
やはりこのスレでは上のやつのように魏使が来たときの数字が
里程日程の元になってると考えるやつは多いんだろう
224 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 21:53:20.42
不弥国までは陸続きでもあり、その一つ手前の奴国までは
多くの人間が来てたから、里の見当がつくが、
そこから先は、ほとんど行ったものはおらず、
倭人の言う日数しか書けなかったということだろう。
225 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 21:56:17.45
しかし、日数しかわからないとはいえ、
実際に行けばある程度の距離はわかる。
それが万二千余里であり、会経とうちの
226 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 21:57:12.47
カイケイトウチの東という表現になる。
途中で送ってしまってすまん。
227 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 21:58:31.96
始度一海千里至對海國
又南渡一海千里名曰瀚海至一大國
渡一海千里至末廬國
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
上段と下段で表現がかわってる。
伊都國の「郡使往來常所駐」という説明と合わせると使者は伊都國までしか
行っていない可能性がかなりある。
倭人からの伝聞だとすると倭人は百里までは測ることができた?w
228 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 22:12:50.89
>>220 「倭人は里程を知らず」の一節だが、
手許の倭人伝に、倭人は「正歲四節を知らず」はあるが、里程を知らずの旨の記述は見当たらぬ・・・
229 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 22:16:44.63
BS歴史館で三国志学者が魏にとって倭が呉への牽制になる位置の曾稽東治之東で
あってほしいなという希望的観測バイアスがかかってるという説を言ってた。
230 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 22:26:10.80
学者さんの希望的観測バイアス
百里なんて10km弱だし散歩程度で行けただろ
投馬国と邪馬台国は遠すぎて行ってないから倭人から聞いた日数になってるんだろ
倭人伝の里程・日程だけでも大雑把にみて
記録者について
@ 魏使の梯儁らが測ったものが原資料である
A 郡使らの記録によるものである
B @Aやその他の資料が混じったものである
記録方法についても
A ほぼ実測値である
B 倭人からの伝聞である
C 北部九州は実測に近いが日数表記は伝聞である
こんな感じで認識の開きがあるからな
233 :
夢幻如満州:2013/07/12(金) 22:41:45.49
>>214 道がくねくねと曲がっていて、大きく迂回しないと辿り着けないとしても、
ある地点までの距離というのは直線距離で表わすのが普通である。
だから邪馬台国まで万二千里というのは直線距離であって、
不彌国までの距離を足しても仕方ないのである。
残り千五百里というのは九州論者の単純な誤解である。
これも何回も投稿しているのだが、
ここの連中は同じことを百回言っても理解しない(トホホ)
倭人が里程を知らずというのはそうだと思う
里のような長い距離が最初からあるわけではなく
普通は尺とか歩のような短い距離がまずあってその倍数として長い距離が決まってくる
しかし当時の列島からは公尺原器を思わせるような遺物は出土していないな
235 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 22:50:13.49
>ある地点までの距離というのは直線距離で表わすのが普通である。
要根拠。
236 :
夢幻如満州:2013/07/12(金) 22:52:17.67
誤解されないようにあらかじめ言っておくと、
帯方郡から狗邪韓国まで七千里というのは、直線距離ではなく、
実際に航行して要する距離である。
しかし郡から女王国まで万二千里というのは、
実際の航行や徒歩に要する距離ではない。郡からの直線距離である。
草ぼうぼうの、見通しの悪いクネクネ道をずっと歩いて、
いままでの直線距離は何里だな、って分かるはずないな。
そもそもその帯方郡の位置は大間違いだし
239 :
サガミハラハラ:2013/07/12(金) 22:57:25.17
地図がないのに、かなりの遠距離を直線距離であらわすのは難しいですよ。
240 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 22:58:30.87
郡から狗邪韓国と郡から女王国までの測距法を変えた理由はなんだろう?
里数というのはそれほど便利なものだろうか
古代の道というのは獣道のようなものであってもある程度通る場所が決まっていたはず
例えばこの川を渡るにはこの浅瀬といったような具合
とすればある場所まで行くのに普通なら半日とか10日とか日数でわかるほうが
食料計算などがしやすく荷の量も決めやすい
242 :
夢幻如満州:2013/07/12(金) 23:04:18.70
>>235 根拠なんてものはない。それが普通だからである。
鹿児島から東京までの距離はといえば、鹿児島からの直線距離で示す。
>>237>>239 だから距離なんてものは大体の推測で書かれているのである。
>>238 チミはもう来なくてよろしい。
243 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:08:16.17
誰か書いてたが、究極に荒っぽく取れば直線距離になり、
砂粒の限界まで細かく取れば無限大になる。
自分は人が歩数で計れる程度の実際の道のりだと思う。
相模原っぱさんの説って小城市だっけ?
それだと近すぎじゃないの?
245 :
ローガン:2013/07/12(金) 23:11:40.09
>>217 >ローガンは、否定せんがために尋ねている=否定したうえで尋ねている、だろうが!いちいち畿内説にふさわしい詐欺論法を使うなよ、この詐欺師!
おうおう、ご苦労。
ただなあ。尋ねても答えてられないので切り返しの質問…ってなあ
そんなに否定されるのが嫌かい?(笑)
言っとくが勿論、九州説自体が悪い訳じゃないんだ。短里とか言うのが幼稚。
実際の道のりだとすると今度は起点論が出てくるんだな
つまり測ったのは王都から王都までなのかとか出発点と到着点についての議論だな
これが倭人伝が暗号解読といわれるゆえん
>>233,
>>236 「郡より女王國に至ること萬二千余里」
「至る」というのは到達することで、実際の行程を反映していると
見るべきだと思う。鳥の視線で距離を記載することは、飛行機を持たない
人らにとっては無意味だよね。
大陸の平原で暮らす遊牧の民は直線距離と道程とが一致しているから
無頓着だけど、火山性列島では勝手が違うのだ。
ついでに書いとくと、渡海に関する見解は
>>195に同意。当時は漕船だから、
漕いだ時間を歌などで計って距離に換算していたはずで、潮の速い対馬海峡では、
どうしても長めに出る。
海上距離については上でも書いたが
近世江戸時代の旅行ガイドである道中記でも対馬ー壱岐間は実距離の4倍近い数字になっている
これはそれだけ海上の距離をとるのが難しかった証拠で
まさか江戸時代に海上だけ短里を使っていたという議論はあるまい
現代の山行でもある縦走をする場合
距離はもちろん見るけれども距離とその道程の難易度は違うので
山男の足なら普通は2日半とか考えて食料を準備する
日数表記は便利な点が多い
250 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:23:11.61
海とか遠くまで見渡せる所は目測、時間、船速を合わせて総合的に見てると思う。
海を目測って船に乗ったことある?
船速っていうが当時の船にスピードメーターでもついてたの?
252 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:29:36.97
いくつかの古代船航海実験では、
平均速度はニノット程度で、
歩く速度程度。
当時の魏船は帆があったと思われる
もちろん人力の漕ぎと併用していたであろうが
海上を完全な直線で進むわけではなく風待ちのようなこともあったかもしれない
254 :
紫敷布:2013/07/12(金) 23:31:41.60
東夷伝に書かれている里の長さは70m前後だわよね。これを便宜上短里と呼んでいるようだけど、私は
周の里(「周髀算経」にある里)じゃないかと思うのよ。韓の地には中国の春秋、戦国の時代から逃亡者
が入って来ているわよね。それらの人が広めたのが周の里で、楽浪郡や帯方群が設置されても現地採用の
官吏達は従来から使い慣れた周の里をそのまま使って行政をしていたのじゃないかしら。
私の想像では、300歩を1里としていたのだけれど、1歩は足裏の長さを用いたのじゃないかしら。
255 :
日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:33:37.05
>>251 目測ってそう意味じゃ・・・w
船速は離岸するとき速度は大体わかるでしょ。もちろん沖に出れば海流とかで
感覚はくるってくるが。
>>192 なるほど。
海流込みの距離が直線距離の3倍程度になる海流を計算すると、
だいたい漕ぐ速度の0.9倍くらいになるな。けっこう妥当な速度だと思う。
小城は都支国じゃないのかなあ
258 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 00:27:56.47
倭人伝がどの程度の距離を1里としているのかは明らかなんだから、それに基づいて
考えればいい。根拠とかはいわばどうでもいいことだ。
>>258 普通の人はそう考えるけど、変なコテが粘着してて話がおかしくなった
260 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 00:45:48.44
まあ、大和説論者が残り1500里をなんとか引き延ばしたいと考えてごちゃごちゃ
言っているんだろう。
>>245 切り返してるんじゃなくて、ローガンが一方的に誤っているだけなんだが。
2ノットで1日10時間航行なら狗邪韓国から末盧國まで6日くらいかかる。
ああいう難癖つける人って真実を追求したいから研究してるんじゃないんだなって思ったわ
自説を押し通したいだけで、自分に都合の悪い証拠とかが出ると筋が通らない難癖でも平気でつけてくる
畿内説で生活している人間には、難癖が人生を守る手段だからな。
老癌は揚げ足とりの達人
測量も地図も無い時代に直線だの公里だのw
268 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 07:05:01.20
おや、このところこのスレは大賑わいじゃないか
けっこう、けっこう、大いにけっこう
まさに真実は九州にある
>>264 考古学関係で邪馬台国絡みの発表があると、
難癖を付けてるのは大半九州説の人だけどな。
270 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 07:28:04.36
吉野ヶ里が邪馬台国と思っている九州説の人間はあまりいないが、
同クラスの遺跡が畿内にあれば、間違いなく邪馬台国になってるだろうな。
畿内説は、とにかくなんでも邪馬台国と結び付けたがって困る。
桃の種や魚の骨が出てきたゴミをみて、
邪馬台国と主張するのが畿内説脳である。
272 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 07:58:44.77
>>269 それは近畿の遺跡発掘についてだろう。九州の遺跡なら逆になる。近畿の考古
学者も邪馬台国の痕跡とは絶対に表明しない(やったら他の学者から袋だたき
にされる)のに、近畿のマスコミがリップサービスを求めるのだ。マスコミ論
調にだまされるなよ。
273 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 08:33:28.58
>>186 の言い分が真っ当だな
6分の1の里が都合いい それで楽しんでいるんだから邪魔をするなとwww
最近は九州説には不利となる発見ばかりだからな。
何たらの会が鉄器の多さ強調しても、そんな記述は
倭人伝に全く無いのもバレてしまったし。
ネット上では阿蘇黄土のベンガラを必死で
丹山にしようとしてる奴もいたりな。
涙が出るほど情けない連中だ。
275 :
夢幻如満州:2013/07/13(土) 09:31:45.22
九州人は怠け者である。
こいつらは帯方郡が何処にあったかを決して調べようとしない。
あくまで京城か沙里院にあったことにして論を組み立て、
いつまでも倭人伝の里は短里だと言い続ける。
十年後もこいつらは同じことを言っているだろう。
九州人を相手にしても仕方ないのである。こいつらは永遠の子供である。
276 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 09:36:53.88
満州人は怠け者である。
満州人を相手にしても仕方ないのである。こいつらは永遠の子供である。
勉強ちっともしないで、倭人伝ばっかり語ってるから♪
来年もきっと唱ってるだろう 径百歩のブルースを♪
278 :
夢幻如満州:2013/07/13(土) 09:42:36.66
仮の話だが、狗邪韓国までの距離は直線距離だと仮定しよう。
そうすると残りは五千里である。
遼東半島から釜山までが七千里なら、釜山から大和まではほぼ五千里である。
よって畿内説の勝ち(カラカラ)
279 :
夢幻如満州:2013/07/13(土) 09:51:48.47
女王国までの万二千里は直線距離だと仮定し、
半島西南端から釜山に向かわずに末盧国に直進すると約七千里である。
残りは五千里。
末盧国から五千里といえばやはり大和であって、九州島は越えてしまう。
ゆえに、どう考えても女王国は大和なのである。
280 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 09:57:01.34
彌・弥のつく人名は、
倭人伝に登場する王・高官と、神武天皇の縁者にかぎって見られる
両者は歴史上のそう遠くない時代及び場所にいたのではないか
そのカギは阿蘇山周辺
阿蘇の西麓には弥護という鉄工房遺跡もあった
281 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 10:11:53.74
遼東半島から釜山までが七千里じゃないんだろ。→
>>205 つまり、遼東半島は帯方郡ではないってこと。そして、公里説も成立しない。
283 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 11:29:22.05
マスコミのコチョコチョに弱い畿内人
ま、最近はそれも少なくなってお寂しそうですね
284 :
夢幻如満州:2013/07/13(土) 11:40:25.32
>>281 おめーは意味が全然分かってねーな。
くだらねー反論をする前に帯方郡の位置を研究してみろや、スカタン。
ローガンっていうやつと丹にやたらこだわってるやつ
この2人はどうしようもないくらいモラルが低いね
286 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 11:50:20.48
>>284 遼東から釜山まで3200里
半島から末蘆国まで7000里
自分では分かっているのかもしれない、しかし舌足らずの説明と言うほかない
挙句の果てに暴言はよろしくない、しかるべき御方たちはご迷惑なさっておられるぞえ
光武賜以糞尿
288 :
夢幻如満州:2013/07/13(土) 13:01:58.93
>>286 おめーも分かってねーのけ?
おらは公里とか短里の話をしてるのではねーど。
帯方は遼東半島で、狗邪韓国は釜山だべ。
で、遼東半島から釜山まで七千里と書いてあっから、
その比率で言うと、釜山から(あるいは末盧国から)五千里は大和だと言うとるだ。
えーか、よく聞くがえーど。
七千里という里数から帯方はソウルだろうと推測するのは邪道だべ。
まず帯方の位置を調べ、七千里という里数が正確かどうかを検証する。
それが正道だべ。
>>281の男は邪道を行っとるのさ。おめーは正道を歩まねばならねーぞ。
289 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 13:13:09.04
>>288 お前がやってることは短里説の連中と同じじゃん
帯方郡の位置比定が違うだけで、どちらも「倭人伝で使われてる里という単位」を元に論を展開している
山形の著作を読んで洗脳され、2chで大威張りしたがっているだけの池沼が
>>288
291 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 13:32:56.50
倭人伝の記事をもとに考えれば、狗邪韓国から7000里のところに帯方郡がある。
いわゆる1里=80メートル前後の短里で考えればソウル付近でぴったりだ。
しかし、遼東半島は公里で考えても短里で考えてもまったく合わない。
可能性0だろが。
>>291 短里って用語使うとまた変なのが湧いてくるぞ
293 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 14:53:15.41
天子の代理が報告書で使った尺度が短里
打ち首もんだなワラ
おいおい、邪馬台国は四国にあったという事で決着しただろ!
296 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 15:25:40.62
倭人伝の里程(1実里≒70〜80m)
渡海千余里(実里約75km)対馬国に至る
末蘆国東南陸行500里(実里約37.5km)伊都国に到る ・・・・こんな具合では??
伊都国から南に1500里とはどこになるか?
倭人伝での換算率でkmに換算すると約100kmになる
古代の道だから曲がりくねってて現代の道と比べると5割増し程度と仮定する
現代の地図で糸島市から南に徒歩70kmは柳川市、つまり旧山門郡(やまとぐん)あたりとなる
298 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 15:50:00.42
短里とか愚かなことを言っている人は祇園祭に行って三条〜四条の距離を計測しなさい。これが1里の距離です。
299 :
夢幻如満州:2013/07/13(土) 16:38:35.94
>>291 だからそういう考え方が邪道だっつーの!
まず帯方がどこかを研究してから物を言えっつーの。
ま、おめーらは自分で調べる能力もねーのだから、
おめーらに何を言っても無駄だがの(ケラケラ)
自分で調べるのが面倒なら山形明郷の本でも読んでみるがえーべ。
で、山形に納得できりゃーそれでええし、納得できねーなら自分で研究してみるこった。
300 :
夢幻如満州:2013/07/13(土) 16:49:09.82
>>286 もすかすて、
遼東から釜山まで3200里
半島から末蘆国まで7000里
の意味が分らなねーのけ?
それはこういうこった。
遼東から釜山まで3200里。これは公里での話だべ。
半島から末蘆国まで7000里。これは倭人伝の話だべ。
遼東−半島西南端−釜山が7000里と書いてあるべ。なら、
遼東−半島西南端−末盧国もだいたい7000里だべ。
半島西南端−釜山も半島西南端−末盧国もだいたい同じような距離だからの。
これで分ったかの? 舌足らずの説明で迷惑かけたのう。赦してけろ。
1里の距離がどのくらいかは時代により地域により違ってたし、特定することは不可能で、いつまでたっても水掛け論のままになる
だが倭人伝で使われている里という単位は現代の地図をもとに計算できる
伊都国から邪馬台国への距離を推定するにはこれで必要十分
303 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 18:14:22.24
天子の代理が報告書で使った尺度が短里
打ち首もんだなワラ
倭人伝で使われている里という単位をもとに邪馬台国までの距離を計算すると畿内説は完敗する
だから堂々巡りになるように里の長さについて出典がどうのこうの定義がどうのこうの言って攪乱してるだけだよ
ほんと卑劣なやつらだよ
305 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 18:32:32.60
>>300 数字の読み方は三通りくらい考えてたが、これで相わかった(礼)。
ついでに、邪馬台国路を大和まで引きのばすため、
なんとかして帯方郡を遼東まで持っていきたい満州の執念も良く分かった。
306 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 19:20:41.39
>>303 打ち首にはならないよ。書いたのは晋の時代になってからの史官、陳寿だから
ね。そんなことが論理的な補助になると期待するのかね。あさましい。
307 :
夢幻如満州:2013/07/13(土) 19:26:02.18
>>301 そんな文学的考察をしても仕方ないのである。
そんなのはどうとでも解釈できる表現だから。
仮に周代に短里が使用されていたとしても、倭人伝は短里では書かれていないのである。
なぜなら短里なら帯方郡から狗邪韓国までは一万八千里だからである。
古田も帯方が遼東半島だと知らないから、そんな考察に無駄な精力を傾けているのである。
畿内説で生活している人が大勢いるので、倭人伝を正しく読まれると困るんです。
△鏡詐欺や箸墓詐欺で、いままで懸命に支えてきたのに、倭人伝の里が解明されて、
畿内説が崩壊したら、生活していけないんです。
畿内説で人生を支えてきた人々をを守るために、今日も満州は働きます。
310 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 19:34:28.18
邪馬台国九州説は田舎の地域振興策ですよ。
畿内説が成り立つためには魏志倭人伝の内容を全否定しなければならないんだから
人類史上、他に類を見ない矛盾した珍説
九州説は、九州利権関係者以外が推進しているのが特徴。
畿内説とは大いに違うことに注目すべき。
313 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 19:43:41.47
そうそう、それでも学問の自由とか言ってられるんだから日本はいい国だ。
314 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 19:45:52.92
邪馬台国九州説は放射説・短里説など中国人が嘲笑する珍説で成り立っています。
315 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 19:48:35.38
>帯方郡から狗邪韓国までは一万八千里
七千里と明記されているのに何を言ってるのかね。もう、支離滅裂。
316 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 19:50:39.43
>>310 >邪馬台国九州説は田舎の地域振興策ですよ。
この文章は、これまでの畿内説がまぎれもなく地域振興策であったことを告白するものであります。
317 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 19:54:16.88
>>314 邪馬台国畿内説は世界中の人々が嘲笑する奇説で終わりました。
318 :
紫敷布:2013/07/13(土) 20:07:27.50
満州のお爺ちゃんは冗談が好きね。
ところでこんなのはどうかしら。倭人伝に「計其道里當在會稽東冶之東」とあるわね。これは「自郡
女王國万二千餘里」からすればということだわよね。それで、會稽東冶を現在の寧波辺りだとして万
二千里北上したとしたらどの辺りになるかしら。1里を70mとした場合は三島半島の北岸辺りになって
これは緯度としてソウルに近いわね。1里を430mとすると満州を超えた北になるわよね。ふふふ。
マジで教えて欲しいんだけど畿内説って根拠は何?
江戸時代なら畿内説を主張するのもありえるかもしれないが、
現代の人が畿内説を信じる理由を知りたい
320 :
紫敷布:2013/07/13(土) 20:17:25.26
訂正
>>318の三島半島→山東半島
暑すぎて間違えたわ。今でも外気温31℃よ。室内は熱が籠ってもっと暑いわ。扇風機が壊れそう!!
>>319 簡単な話、倭人伝の内容を考えれば特に北部九州は有り得ないだろ。
逆に未だに九州説を信じる理由が知りたいわw
>>321 そういう煽りはいらないから誰かマジレス頼む
>>322 マジだけどね。
倭人伝の内容では気候風土に出土品、距離や戸数で
九州内部で該当出来るのは南九州位だろう。
記紀や風土記の記述内容でも女王国は大分より東だ。
九州は男王の国々だろう。
北部九州って具体的にどの辺?
筑紫平野は北部九州に入るの?
325 :
紫敷布:2013/07/13(土) 20:53:15.41
北部九州は福岡県、佐賀県、大分県の北部、長崎県の北部だわよね。だから筑紫平野は九州北部よね。
九州中部は熊本県、宮崎県の北部よね。
九州南部は鹿児島県、宮崎県の南部よね。
326 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 20:56:08.75
北部九州で邪馬台国のような大きな人口を抱えた国は筑後川流域の平野以外にあり得ないだろ。
327 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 20:57:49.60
>>306:07/13(土) 19:20
>>303 >打ち首にはならないよ。書いたのは晋の時代になってからの史官、陳寿だからね。
「書いたのは」って何??
陳寿は資料をまとめただけだろう
それともなに?天子の代理の使者が、晋代になってから陳寿に報告したってか?
>そんなことが論理的な補助になると期待するのかね。あさましい。
いや、君の話は論理以前にむちゃくちゃなんだが
328 :
紫敷布:2013/07/13(土) 20:59:20.02
>>323 >倭人伝の内容では気候風土に出土品、距離や戸数で 九州内部で該当出来るのは南九州位だろう。
これどうゆうことなの?説明してよ。
>記紀や風土記の記述内容でも女王国は大分より東だ。
記紀の何処に、またどの風土記に女王国のことが書いてあるのよ?
329 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 20:59:47.82
国というのは、集落とは一致しないんだよ。いくつもの集落が集まって一つの国を
つくる。したがって、いくつもの平野を包含した広い国ならばどこにでもありえる。
徐福は連雲港を出立して倭国へ向かった
となると、山東半島南岸を経由して朝鮮半島中部へ渡り倭国へ向かったと見ていいだろう
倭国へ向かう為のルートとしてこの経路が秦の時代から知られていたことは間違いない事実
一方、帯方郡を手中に収めてそこへ倭国からの使者がやってきたことで、これで東夷の全容が判ったと書いている
これは帯方郡は前述のルート上にはないということを意味してる
半島西岸廻りのルートに加えて新たなルートが開拓されたとなると、それは半島東岸廻りのルートしかない
半島東岸ルートだと、乍南乍東という記述とも地形的に一致する
331 :
紫敷布:2013/07/13(土) 21:14:55.39
>>327 まあ、この言い合いはあなたの勝ちかもしれないけど、いわゆる短里を用いた報告書があったことは
倭人伝の存在で明らかでしょ。陳寿が資料なしで書くとは思えないでしょ。だから、短里が通用した
のよ。梯儁等や張政等も打ち首になったような記録はないでしょ。
気候風土 → 帯方郡と比較して温暖だって意味だから日本は関東以西で雪が積もらない場所はどこでも温暖
出土品 → また丹かよ
距離 → 距離が合わないのはむしろ畿内説、しかも方角も違う
戸数 → 意味不明
記紀 → 記紀では卑弥呼など知らんかったと白状してるようなもの
南九州でも戸数の条件満たしてるなら北部九州は楽勝だろう
>>328 まず吉野ヶ里でさえ推定人口2000人程度だ、戸数なら当然もっと少ない。
現在弥生末期の遺跡で最大級の戸数だと言われてるのが
高知の遺跡で500戸程度。
これだけでも北部九州に奴国に邪馬台国も全て収める論が
どれだけバカげた話かわかるだろう。
また記紀には国名も説明してあるが、
女性名の国は伊予二名国の瀬戸内側二国のみだ。
国の名に女性神の名を付けるのは、当然女王国と考えるのが自然だろう。
335 :
紫敷布:2013/07/13(土) 21:35:49.23
>>330 >徐福は連雲港を出立して倭国へ向かった
>となると、山東半島南岸を経由して朝鮮半島中部へ渡り倭国へ向かったと見ていいだろう
徐福は倭国へ向かったのかしらね?倭国なんてまだ知られていなかったんじゃないの。ただ、不老不死
の薬があると思われる東の國を目指したのじゃないの。また、
連雲港から出立したのなら、大陸の海岸沿いに南下して(黄海の海流を利用して)上海の沖合に出て、
それから黒潮に乗って北東に向かったんじゃないの。
>>335 ヒント:徐福村
連雲港の場所を知ってて言ってるの?
337 :
紫敷布:2013/07/13(土) 21:40:59.72
>>333 距離が全くダメだろ。それに伊都国の意味がない。
339 :
紫敷布:2013/07/13(土) 21:47:11.51
>>336 連雲港には行ったことあるわよ。徐州の東200km弱、青島の南南西200kmのところよ。
>>334 要は
>>329ってことじゃないのん?
それはさておき、後段の国名(この「国」は弥生の「クニ」とは別物ね)の
話はなるほどと思った。瀬戸側の海人たちと、太平洋側の焼畑の民とは
別物なんだよね。
341 :
夢幻如満州:2013/07/13(土) 22:00:43.13
紫敷布のお姉ーたんよ、万二千里つーのは短里では900kmくれーなもんだべ。
熊岳から直線距離で900kmだと九州には届かねーぞ(ケラケラ)
ソウルから直線距離で900kmだと九州を越えてしまうでよ(ハヤシもあるでよ)
玄菟郡は洛陽東北四千里と漢書に書いてあっど。
洛陽〜開原はざっと1200kmだど。
公里だと約2800里。短里だと約15800里だど。
やはり公里の2800里の方が4000里に近いど(カラカラ)
漢代は公里だから、とおめーは言うかも知んねーがな、
例の地図を見ても朝鮮半島はいやにバカデカく描いてあっだろが。
洛陽から玄菟の距離よりも朝鮮半島は大きいと思われていたから
陳寿は七千里と書いたのさ。
おめーも詭弁合戦に興じるより帯方の位置の研究でもしたほうがえーど(カラカラ)
342 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 22:02:35.25
末蘆国の港は今の唐津の競艇場あたり。
伊都国・奴国・不弥国の三国は佐賀平野にあった。
>>339 この時代の大船は沿岸航行が主流だったんじゃないの?
国々の名だがタケの名が付くのは南九州と高知、
それに瀬戸内の児島だろう。
神「武」東征とも少なからず縁を感じさせる場所だ。
>>341 シナの敵対勢力がそんな場所に都を置くと思うのかい?
日本でさえ古代の街は入江の奥の島影が遺跡の主流なのに
九州説の高島忠平は弥生時代後期の北部九州は小国分立状態と見てるけどな
小さなクニを束ねる支配権力の存在が想定できないという
ちなみに佐賀平野には7つのクニをみている
柚比本村を中心とする基肄郡のクニ、養父郡のクニ、松原を中心とする三根郡のクニ
吉野ケ里を中心とする神埼郡のクニ、惣座を中心とするクニ、土生を中心とするクニ
杵島を中心とするクニ
吉野ケ里はさらに5つの小さなまとまりの中心地で三津永田、川寄吉原などが含まれる
吉野ケ里と周辺部合わせて最盛期の人口が5千をやや超えるくらい
347 :
夢幻如満州:2013/07/13(土) 22:17:39.36
大体がだな、玄菟郡への距離も実際の二倍強の里数で書かれているべ。
狗邪韓国への距離も二倍強の里数で書かれているべ。
つまりは公里で書かれとるちゅーことだべ。
狗邪韓国から末盧までの距離が実際の数倍の里数で書かれとるっつーことはだな、
ただ単に海上航行だから距離感がつかめなくて大きく狂った、つーことだべよ。
分るかな、分んねーだろーな、おめーらでは(ゲラゲラ)
>>347 >玄菟郡は洛陽東北四千里
解釈の間違いがないとして、その南に帯方郡があるんだろ?
候補地は山東半島だけじゃないだろw
地形図で見ればわかるけど、山東半島には帯方郡のような大都市の痕跡はない
350 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 22:25:16.29
夢幻如満州は、畿内説でメシ喰ってる人たちのチョウチン持ちしてるんです。
>>346 だよね。個々の集落は「ムラ」であって、「クニ」じゃないのだ。
高島忠平によれば、むしろ北部九州だけで小国が30もあることが
倭人伝の邪馬台国の範囲はそう広いものではないと考える根拠となると見ている
ただし人口問題はちょっと困るだろう
353 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 22:34:50.26
>>352 その小国30ケ国は、旧百余国の時代の大きさじゃないの
何かの原因理由であっという間に再編され、30余国になって邪馬台国も登場した
10年単位で時代は動いていたんじゃ?
>>353 いや北部九州はまだ一つのクニが大きいほうで本州はもう数百どころの話ではない
それから北部九州は弥生時代開始の時期から激しい戦争があり
戦争は平野部から山間部に移っていった
高島が出した北部九州30国の図はむしろ戦いによって収斂された後のものだ
あと広域の集落間での分業はあった
特産品を持つ集落と言ったほうがいいかもしれない
356 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 22:40:51.16
>>354 それが倭国の倭国たる由縁、いろいろな意味で九州島は先進地だった、そう言うことでは。
>>352 人口はさほど問題にならない気がする。
1) 倭国の人らが見栄をはって、多めの人口を申告した。
2) 現代の人口推計法に問題がある。
特に2)は小山修三理論がもとになってるんだけど、ちょっと過小評価
じゃないかという議論があるのだ。特に住居面積(1人当たり1坪)については、
良民の基準であって、より劣悪な住環境だった生口・奴婢の存在を
無視している気がする。
358 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 22:49:33.81
肥前国と肥後国の肥国領域で、
旧郡は三十弱である。
>>357 小山修三はシンポジウムで自分でもちょっと過小だったと述べているけどな
弥生末で100万は確実に超えるだろうと
あとまあ奴婢の住居とかいえば、比較にはならないかもしれないが
インド旅行をしたときに列車から畑の中に転々と貧民のテントがたくさん並ぶのを
見たことがある
発掘は限定された範囲しか普通はできないから
本当は中心遺跡から広い範囲を掘れば
当時の階級社会がどうなっていたかわかりそうなものではあるが
まあ当然できない
361 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 23:11:42.34
農業ベースの国では、国と集落は別もの
国が大きくなって三倍になったからといって、集落も三倍の大きさになるわけではない
支配する土地面積が増えて傘下の集落数が三倍になる・・・、というかたちと思えば良い。
だから国が大きくなったといっても遺跡としては簡単には出てこないであろう。
出るとすれば、支配面積を増やすに必要な道路、橋、船、船着き場だが、
これとて発掘は相当困難であろう。
望ましいのは、やはり卑弥呼の住まい・城柵・楼観、あるいは墓を掘り当てることかな。
もっとも、墓の上に有名神社でも建てられていればどうにもならぬわけだが。
倭国は漢時には百国を擁する大国だった
それが倭国大乱で分裂して卑弥呼の勢力は30国だった
なんで皆んなこの事実を無視して勝手なことばっかり言ってるんだろうか?
363 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 23:18:52.61
>>347 島の大きさについては、黙ってごまかすしかないよな。
364 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) 23:24:48.49
>>362 以下の文章、特に「一女子を共立して王となす」の部分から、分裂でなく、集約と読むのが妥当。
其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼
>>364 共立したのは一部の国々だけだったんだろう
その証拠にその共立に参加しなかった越、毛野、鹿島などの国々については記紀に記述がない
諏訪の記述も無いな
なお、古くは『魏志倭人伝』に見える「狗奴国(くなこく)」を「毛野国」にあてる説もあった。
狗奴国とは邪馬台国の東にあり長年争ったという国である。
しかしながら、遺跡調査から邪馬台国の時代にはまだ毛野地域の平野部の開拓はなされていなかったことが判明した。
そのため、近年では狗奴と毛野は全く別のものと考えられるようになっている
wikiより
四道将軍が派遣された地域が大乱前の元々の倭国の範囲なんだろう
蝦夷征伐のように異文化の征伐は簡単にはいかない。時間がかかる
最後まで抵抗したのが出雲なんだろう
関東は東海から古墳初期に移っていった勢力がけっこういるな
370 :
日本@名無史さん:2013/07/14(日) 00:39:54.61
>>331:紫敷布さん
>この言い合いはあなたの勝ちかもしれないけど、
勝ち負け以前。知識も無ければ考える力も無い そんなヤツが
>>>論理的な補助になると期待するのかね。あさましい。
なんてね 論理なんておそらく意味もわからず使ってるんだろうから
>いわゆる短里を用いた報告書があったことは倭人伝の存在で明らかでしょ。
ならそれが魏の正規の里でしょ?詔書を届けた使者の本国への報告書なんだから
>陳寿が資料なしで書くとは思えないでしょ。だから、短里が通用したのよ。
じゃあ倭人伝の里とは魏朝が使用していた里でいいよね?
共立するってことはそれぞれの国王が一ヶ所に集まって全体会議を行えるくらいの近い距離に住んでないと無理ですよ
日本の歴史で関東のトップと関西のトップと九州のトップが集まって話し合いで政治をやってたなんてないでしょ
平安時代でさえ京都から見たら関東や九州なんて島流しの場所なんだからさ
丸々一月かけて出雲に集まってたわけでしょ?
この時代の国々は通説より強固な繋がりを持ってたように思える
大陸では三国志の時代だったわけで、その影響を全く受けてないとは思えない
373 :
風の中のゴキブリ:2013/07/14(日) 03:51:20.55
夢幻如が迷走しててワロタw
お前はそのまま瞑想してろ
374 :
日本@名無史さん:2013/07/14(日) 08:58:07.43
>>370 倭へ使節に行って打ち首になった例をあげてみろ。お前さんの非論理性がこん
な間の抜けた議論を生じているのだよ。
375 :
夢幻如満州:2013/07/14(日) 09:10:32.57
ったくおめーらはパカだのう(泣)
百国つーのは日本のことではねーど。
共立つーのも各国が共立したのではねーど。
倭国大乱つーのは王位継承争いだからの、
臣下が共立した、つーことだど。
>>373 おめーのようなド低能イカレポンチゴキブリは来なくてえーど。
倭人伝に書かれている共立というのは正統な後継者と目されるもの以外を
臣下が押し立てたという意味合いだな
そのとおり。
過ぎたるは及ばざるが如しだ
深読みはかえって真実から遠ざかるぜ
379 :
日本@名無史さん:2013/07/14(日) 10:05:09.61
共立の件は、冒頭に書かれた
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国、漢時有朝見者、今使訳所通三十国
および、
其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼
の二つをセットで読むべしと思う。
とりわけ、百余国、でなく、わざわざ 旧百余国 と書かれているのは、
もとは百余の国が、抗争を経て今30国に集約された、
その締めくくりが一女子の共立であったとの意味合いと思われる。ここに注目すべきであろう。
380 :
提灯持ち満州:2013/07/14(日) 11:56:33.30
各国が争っていた、というなら、各国に王がいたはずで、
それらの王が共立した女王というのは、
それらの国が統属した或る王朝の女王ということになるが、
九州にそんな王朝があったという記事は記紀のどこにもないから、
少なくとも倭国大乱は九州の話ではない。
またそもそも各国に独立した王がいるのに、それらの王が
共立して王を立てる、などということはありえない。
あるとすれば上のような場合だけである。
ゆえに共立とは各国が共立したのではない。
或る国の臣下が共立したのである。
倭国大乱や共立に関するこれまでの通説は、初歩的な誤読ミスである。
>>380 集落の長を王と書いてるだけ。中国側の習慣にすぎない
倭国王帥升と同時期の韓の代表は邑君だから、単に支配下の人民の多さを問題にしてるんだろう
日本列島は過去2000年間、人口は半島の2〜3倍だ
これらが共立して卑弥呼を擁立したのは古代ギリシャのアムフィクチュオニアのようなもの
一種の共同代表のような存在だろう
だから、もっぱら外交関係の記事しかない
こういう存在は前述の韓レンシ邑君や辰王もそうだろう
中国側としては、異民族対策の窓口を限定させて簡易化させる目的があった
どこまでも中国側の都合だよ
国内には邪馬台国連合以外の王国があったと思うね
382 :
提灯持ち満州:2013/07/14(日) 12:39:16.72
各国の王が集落の長だとしても(各国という語も王という語も倭人伝にはないのだが)、
集落の長が王を共立するというような話は聞いたことがない。
中国でも三韓でも日本でもそのような制度もなく実例もない。
郡や県や村の長はすべて王の支配下にあるのであり、
郡や県や村の長が王を共立したというような制度もなく実例もないのである。
日本に大和王朝以外の王朝があったというのは空想にすぎない。
九州にも出雲にも、その他のどこにも、そんなものはない。
記紀以外のどんな文献資料にも、そんなものはないのである。
チミらは考古学的空想に耽っているだけである。
383 :
日本@名無史さん:2013/07/14(日) 12:41:40.97
畿内説の提灯持ち金満州のごとく理解するならば、
其国本亦以男子為王
この段の「其国」は邪馬台国を指すことになり、卑弥呼はあくまで「其邪馬台国」のみの女王に過ぎなかったことになる。
お家騒動の続く一小国に過ぎない「其邪馬台国」の王が親魏倭王の金印を受けるほどの評価をされたとは考え難い。
また倭人伝は女王国の一員として次々21カ国+αの合計29国を挙げているが、
「共立」以外に、なぜに「其邪馬台国」がそれほどの支配力を有していたかの説明がないではないか。
「其国」とは共立30国からなる「倭国(連合)」のことにほかならないであろう。
また倭国(連合)であればこそ「親魏倭王」の称号を賜ることができたのであろう。
しかし九州説なんて出土品でも文献解釈でも全くダメだな。
候補者に候補の遺跡も無い、殆ど推測しかないじゃん。
385 :
日本@名無史さん:2013/07/14(日) 13:00:42.32
金満州の論のごとくならば、
男子天皇の世継ぎをめぐって七八十年の攻伐があり、
その後に臣下の協議で夫のいない女性天皇が即位したことになる。
金満州のこれまでの論ならば、それは神功皇后ということにならざるをえないであろうが、
神功皇后には伝説の御子あり、いささかの疑問を残す。
其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王、名曰卑弥呼
伊都国と狗奴国にも王が居る
387 :
日本@名無史さん:2013/07/14(日) 13:29:39.97
>>374 >倭へ使節に行って打ち首になった例をあげてみろ。
朝から幼稚なこと言ってんなあ 「打ち首もん」 とあるので実際の処刑と必ずしもイコールではないんだ
日本語の不自由な君にわかりにくかった訳だ
配慮の足らなかったことは謝る
日本に天子の代理として訪れた武官が 本国宛てに書いた報告書
その「里」は魏朝の正規の里、皇帝を頂点とする魏軍の里に他ならないということだ
魏使についてはイサクがトンデモ論をぶっているが実際不思議だよな
建中校尉 梯儁が最初の使いとして名前が出ているが
これだと率善中郎将の難升米より位が下ということになる
畿内説有利
・発音がヤマト
・戸数
・伊都国の存在意義(九州南部説の場合、優位性なし)
九州説有利
・方角
・距離
・記紀に卑弥呼のことが書かれてない(東遷説の場合は中立)
・東の海の向こうに倭人が住む国あり
・南に敵対してる狗奴国
・邪馬台国より北に一大率
・倭人伝で場所が判明してるのは一大国、末廬国、伊都国など九州の小国ばかり
・鉄器の出土
畿内説、九州説に中立
・気候が温暖
・到達日数の水行十日陸行一月
・本田△鏡
・丹
卑弥呼は巫女の元締めか各国が擁立した巫女として影響力があったので、王として各国を支配下に置いたのではないのでは。
卑弥呼がいた国か村かがたまたま邪馬壹だったんじゃないかな。
卑弥呼の鬼道や呪術が凄かったとか。
そうであれば別にど田舎にいてもおかしくないし、でかい集落じゃなくても遺跡や遺物が豪華でなくてもいいのでは。
そんなアドバイザーかご意見番じゃ親魏倭王に認められません
392 :
提灯持ち満州:2013/07/14(日) 18:33:20.28
>>385 チミチミ、チミは誤解しとるど。
おらは「卑弥呼は神功皇后ではない」つー説だど。
「邪馬台国は大和だが卑弥呼は日本の女王ではない」つー説だど。
394 :
金欠満州:2013/07/14(日) 18:58:43.21
んだ。それがどした?
>>394 山形信者じゃ、誰からも信用されないのわかってる?
さざなみの近江
つぎのう山背
あおによし奈良
倭国の都が近江だった時代に倭国大乱が起こった
そのために霊仙の裏側(山背)の濃尾平野に遷都
しかし濃尾平野だと外洋を通らなければ船で大陸と交易出来ず、
不便だったので大和に再遷都。
397 :
金欠満州:2013/07/14(日) 19:35:16.09
そーゆーおめーは山形を読んだのかえ?
読んだ上で山形を信用しねーとゆーならそれでえーど。
そんな奴とは話をしたくねーからな。
読まずに信用しねーとゆーとるならそれでもえーど。
そんな奴とは話をしたくねーからな。
要するにおめーのよーな奴とは話をしてもしょーがねーぞ。
399 :
金欠満州:2013/07/14(日) 20:06:23.82
そのサイトには間違いや誤解が多々ある。
まずそのサイトの論者の言う「遼東は遼河の東」というのは大誤である。
また山形は遼東を遼東半島に限定してはいないし、
邪馬台国は遼東半島にあったとも言っていないし、
卑弥呼は公孫氏の一族だとも言っていない。それは最初の著作で漢文を誤読したもので、
後の著書では訂正している。
山形が比定した倭の領域は間違いだとポクも思っているのである。
ポクは山形の著作の一から十まで肯定しているわけではない。
ま、そのサイトの論者もパカである。山形よりパカである。話にならん。
>>382 日本書紀に出てくる百済の聖王の手紙によると、任那諸国は毎年春に集まって討議し、
重要事項について決済をしたとある
これがアムフィクチュオニア、隣保同盟というもの
君は偉そうにしてるが、あまり知識がなさそうだね
401 :
紫敷布:2013/07/14(日) 20:58:58.73
>>370 >じゃあ倭人伝の里とは魏朝が使用していた里でいいよね?
うんにゃ。魏でもその後の晋でも「東夷の国々では周の里が用いられている」ということを知っていた
のではないかと言っておりますのよ。だから、東夷の国々での事柄にはそこで用いられている里で記述
しても差し支えないというような、それが常識みたいな、状況だったのではと言うことなのよ。
でも、魏の行政上の文書では魏の里を使ったと思いますよ。混同しないでね。
満州よ、遼東半島から倭奴国や邪馬台国の金印が出てきたら、
少しはお前の説も考えてやるよ。
403 :
金欠満州:2013/07/14(日) 21:35:21.69
>>400 そらよ、諸国の王や重臣が集まって協議することはあるだろーよ。
すかし王を共立したという例はねーだろが。
ま、新羅や金官の初代の例はあるけんどな。
すかしそれも朝鮮の話だべ。日本には例はねーど。
つまりこれまた卑弥呼の倭は朝鮮のことだっつー証拠でねーか(カラカラ)
>>402 出てきたときはおらの勝ちだから、出てきてから考えるのは遅えーど(ケラケラ)
伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神は、別天津神たちに漂っていた大地を完成させるよう命じられる。
↑
これって共立だよね?
405 :
日本@名無史さん:2013/07/14(日) 21:52:11.58
狗邪韓国→対馬=対馬→壱岐=1,000里
を基準にするべきじゃないかい?
金印は王が死んだら返さなきゃいけないらしいから見つかるかどうか。
記念の複製品を作ったという例もあるそうだが。
漢委奴国王印は当時倭にあそこまでの複製を作る技術があったとは思えないから
このときの王国は滅ぼされて返すことができなかったんだろうね。
>>403 邪馬台国が朝鮮なら、何で倭人伝にそんな風に書いてないんだよ?
倭人伝完全無視なら、邪馬台国も卑弥呼も存在しないだろ。
もう辞めちまえよ、完全に的外れだわ。
ここの満州って人と満州ブログやってる人は同じ人なの?
408 :
紫敷布:2013/07/14(日) 22:47:37.27
>>341 :夢幻如満州
このレス見逃していたわ。
お爺ちゃんは「自郡至女王国万二千餘里」の万二千餘里は直線距離だと言っていたわよね。
この万二千餘里から推し量れば女王国は會稽東治の東に位置するだろうというのが倭人伝に書かれている
ことだわよね。
そこで、お爺ちゃんの言うように朝鮮半島が実際の何倍もの大きさに見積もられていたために郡から狗邪
韓国までを七千餘里という過大な数値にしていたとしてもよ、會稽東治から万二千豫里といったらどの辺
りになるのよ?1里を430mとしたらシベリアでしょ。
また、東夷伝の韓は方可四千里とあるでしょ。これは1里70mでほぼぴったり。1里430mだとすると魏の
領土面積よりも大きくなるわよ。オーホホホ。
409 :
満州美人:2013/07/14(日) 23:19:32.54
あ〜ら、紫敷布お姉たまったら、なんてパカなのかしらw
玄菟郡まで四千里って書いてあるでしょ?
韓半島は洛陽から玄菟までと同じくらいの大きさだと思ったから方可四千里と書いたのよ。
万二千里もそれと同じよ。
洛陽から玄菟までの三倍くらいだと思ったから万二千里と書いたのよ。
当時の中国人は正確な地理なんて何にも知らないのよ。
万二千里ならシベリアに達してしまうなんてことも知らないのよ。
分る? あなたってパカね。オーホホホ。
410 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 02:22:00.84
>>401:紫敷布さん
>魏でもその後の晋でも「東夷の国々では周の里が用いられている」ということを知っていた
日本を含む東夷では 周の里が使われていたことを当時の中国人には常識だったということですね
しかし300年以上後の史料には「夷人不知里數、但計以日。」とあるんだけど
まずは、東夷が魏晋朝に周の里という尺度を使用しており、そのことは当時の中国人の常識だったという資料の提示をお願いします
で、続いてその周の里が魏朝正規の里の6分の1にあたる資料の提示をお願いします
それを拝見した上で、はじめてその資料に基づいた数字を、東夷伝倭人伝の里に当てはめてみたいと思います
つーか魏では東夷の周里が知られていたとしても
歴史書は後代に伝えるという意味があるものだから何で公定の里に換算しないんだろうね
簡単なことだしそのほうが同時代人にももちろんわかりやすい
413 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 03:49:09.81
415 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 07:18:09.47
満州皇帝不義も山形明朋も心の底は記紀信者、
畿内説の大和=倭に対抗して満鮮倭国説をブチあげてみたものの、
九州説の大本命・伊都国佐賀平野説に足を掬われ、戸惑っているのがホンネらしい
満州の出自は満州ではない、性格言動からしてどうやらかなり温暖な地方のようだ
鮮虫だろ
417 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 08:40:21.85
>>410 まぁ、資料が有れば理解するということなのね。あったま悪いー。
邪馬台国の時代のことは倭人伝にしろ、記紀にしろ、発掘物にしろ、資料がま
だまだ少なくて断定できるほどのものが無いから、いろいろ論争してる訳よ。
こういう時はいろいろ仮説を立て論証するほうが真実に近づきやすい。だから
皆、自分の仮説を発表しているわけ。わかったー?
418 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 09:44:09.48
根拠無き仮説
人はそれを妄想と呼ぶ
419 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 09:46:39.13
畿内説か
420 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 09:51:11.80
満鮮説か
421 :
満州皇帝不義:2013/07/15(月) 10:31:32.37
最も可能性の低いのは九州説である。
なぜなら倭国大乱や共立をどのような意味に解釈しようと
(つまり各国の戦争と解しようと王位継承のゴタゴタと解しようと)、
それは九州王朝というものを想定しないと解釈不可能だが、
九州王朝があったと想われる証拠は一つもないからである。
次に可能性が低いのは畿内説である。
なぜなら三国史記でもネット史でも、倭の女王が新羅に遣使した後で于老が出てくる。
ネット新羅史によると于老が生まれたのは倭の女王が新羅に遣使してから45年も後である。
しかし紀によると神功出兵時には于老は舒弗邯になっていたと思われるのである。
つまり卑弥呼は神功皇后ではない。卑弥呼が神功皇后でなければ畿内説はほとんどアウトである。
となれば残るはポクが説いている満州朝鮮説しかない。
422 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 10:41:38.97
>>417 >まぁ、資料が有れば理解するということなのね。あったま悪いー。
何事にも根拠は必要 根拠もなく空想を膨らませることが「頭がいい」なら「あったま悪い」はむしろほめ言葉
>>401 >魏でもその後の晋でも「東夷の国々では周の里が用いられている」ということを知っていたのではないかと言っておりますのよ。
は根拠を尋ねられて当然
423 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 10:47:40.47
424 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 10:48:35.51
<[祁・示偏の旧字]:キ馬台国>
>写本を比べて、その誤りを訂正することを「校勘(こうかん)」という。
>「梁書(りょうしょ)」 校勘記に、
>【 邪馬台国に至るの「邪(や)」 は、もともと<[祁no kyuji no 示hen ]:キ>と記されていたが、
>それは誤りであったので、十一世紀に成立した「冊府元亀(さっぷげんき)」 に拠(よ)って、
>「邪(や)」 と改めた。 】と記述されている。
>この重要な指摘は、1991(平成3)年、山形明郷氏の著『卑弥呼は公孫氏』に於いて公表されている。
>本来、すべての「古文献資料」中には「ヤ馬台」 でなく、「キ馬台」 と記されていたという指摘である。
これを読むと、山形氏もなかなかの人物ではないか、
つまるところ、祈(キ)も、邪(ヤ)も卑字であり、その本幹は「馬台国」であったというわけである。
そう言えば、邪馬台国は「馬台国」である、という古文献が九州・大宰府にも伝えられているではないか。
425 :
満州皇帝不義:2013/07/15(月) 10:50:02.12
于老の没年には三通りの資料がある。
249年 ネット高句麗史
253年 三国遺事
331年 ネット新羅史
一方、于老が舒弗邯になったのはネット新羅史では306年である。
ここから計算すると于老が舒弗邯になった年は、224年か228年か331年である。
神功出兵は224年か228年か331年以後である。
紀の干支を信じるなら260年である。
426 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 10:53:24.40
>>411 換算して渡海千里を渡海184里と書き換えろっていうのかな。そんな半端な数字にしたら
それこそ測量したのかなどと誤解されるよね。
427 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 11:02:30.76
>>421 >最も可能性の低いのは九州説である。
満州皇帝も内心では九州説を最大の脅威に感じているようだな
428 :
満州皇帝不義:2013/07/15(月) 11:06:52.59
しかし神功出兵を260年としたのでは、249年か253年に于老死という資料と合わなくなる。
そこで神功出兵を200年としてみる。
ところが于老誕生を277年とするネット新羅史に合わせて計算すると、
他の資料では于老が生まれたのは195年か199年になる。
つまり神功出兵200年だと于老はまだ幼児である。
ということで、考えれば考えるほど編年は難しいということが分かってくるのである。
>>428 お前はいったい何を探してて何処をさ迷ってるんだ?
430 :
満州皇帝不義:2013/07/15(月) 11:18:29.13
>>429 るせー野郎だな。おめーのようなウスバカは消えろ。
431 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 11:24:38.32
>>423 >倭人伝や韓伝自体がその資料だよ。
100%記述に誤りがないという前提が 真 である証明が出来ない以上
検証の対象を資料とは認められない
他の資料からの類推により 検証対象についての仮説の妥当性を述べる以外に無い
>>421 >なぜなら倭国大乱や共立をどのような意味に解釈しようと
>(つまり各国の戦争と解しようと王位継承のゴタゴタと解しようと)、
>それは九州王朝というものを想定しないと解釈不可能
これ詳しく!
433 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 11:35:48.09
その論理では、都合が悪い資料は全て検証の対象に取り込めば排除できるってことだね。
「100%記述に誤りがないという前提が 真 である証明」なんていったら、どんな資料も
使えないってことになる。資料の信憑性はそれぞれ個別に検討して、合理的な疑問を入れる
余地がなければそれでよしとしなければね。
倭人条の記述どおりなら
畿内説など成立しようがないんだから
そりゃ「倭人伝はデタラメだ」と必死にもなりますよ
畿内説(笑)は
435 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 11:59:16.48
>(他人が提出する資料は)100%記述に誤りがないという前提が 真 である証明が出来ない以上
検証の対象を資料とは認められない
>(自分が提出する資料は)0.001%でも記述に正が含まれるという前提が 推定できれば
検証の対象を資料と認められる
>>431 の真意はこんなところ↑だろうなww
微塵の相・違を発見することに異常ともいえる興奮を覚えるお人。
436 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 12:28:52.19
>>433 >その論理では、都合が悪い資料は全て検証の対象に取り込めば排除できるってことだね。
本件における検証対象は倭人伝韓伝だ
ここに表れる里が魏朝正規の里とすれば記述に誤りがあると考えられる
6分の1の里を倭人伝韓伝から導くという場合 記述に誤りは無いという前提は欠かせない
しかし勿論記述に誤りなど全くない なんて前提は設けることなど不可能
よって他の資料からの類推によりその妥当性を論ずるという手法を採らざるを得ない
437 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 12:37:02.75
倭人伝韓伝では周の里が用いられている
その根拠は倭人伝韓伝である
話にならん
慢臭が、九州説を敵視すればするほど、
九州説の信頼性が高まるのには笑える。
439 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 12:41:44.84
>魏朝正規の里とすれば記述に誤りがあると考えられる。
魏朝正規の里ではないんだよ。まったく違うことは、誰が見たって分かるだろ。
ただしくは800里だ、それが1000里とある、というなら見誤ったかなと
考えられるが、倭人伝の里はそんなレベルではない。「誤り」などと言えるも
のではない。
440 :
風の中のゴキブリ:2013/07/15(月) 12:54:02.67
夢幻如アホすぎワロタwww
441 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 12:56:18.80
>>436 >6分の1の里を倭人伝韓伝から導くという場合 記述に誤りは無いという前提は欠かせない
錯覚してはいけない、1/6の数字は倭人伝・漢伝から導かれるのではない
現場に当てはめたとき、倭人伝・漢伝に対卑して現地図上で求められる数字である。
正規の里とかどうでもいいだろ
邪馬台国の位置を推定するのに必要な情報は倭人伝で使われている里の実際の距離だ
どう倭人伝を読んだら、朝鮮に邪馬台国があったり
卑弥呼が居たり思えるのか教えて欲しいモンだ
444 :
満州皇帝不義:2013/07/15(月) 12:58:45.76
>>432 >>380>>382>>403等を参照せよ。
ちなみに東夷伝の高句麗大乱、ネット史の召文大乱、日本書紀の高麗大乱など、
大乱という語はそのほとんどが王位継承をめぐる王族間の争いである。
各国間の争いなどではない。
文献の実例は各スレに投稿しているのでどこかを探せば出てくるだろう。
446 :
風の中のゴキブリ:2013/07/15(月) 13:04:30.58
山形史観はインチキ
それに毒された夢幻如もインチキ
無減尿慢臭
「俺様は畿内説で暮らしを立てているから、邪馬台国や卑弥呼が
畿内だという詐欺で押し通そうと思ったが、詐欺がバレてしまった。
こうなった以上、敵である九州説論者に中にもぐりこみ、山形の
トンデモ説を担ぎ出して、邪馬台国朝鮮説をとなえ、敵の崩壊を
画策して、畿内説を守るしかないだろう。」
馬鹿を観察しているみなさん
「満州が一人で墓穴掘ってるけど、いったい何やってるのかな?」
448 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 13:04:58.11
>>441 倭人伝韓伝に出てくる地名と里数を全て検証したの?
449 :
満州皇帝不義:2013/07/15(月) 13:07:08.39
>>440 だからおめーのよーな横チャリ専門のタコは出て来なくてえーつーの!
>>443 >>421でも読めや。
ちなみにおらは邪馬台国が朝鮮にあるとは言ってねーど。
邪馬台国は大和だが卑弥呼は満州か朝鮮にいると言うとるだど。
誤解せんでけれや、お兄ーたん。
>>438 それが狙いなんだろう、あいつは元々九州説だからな。
451 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 13:12:50.56
そもそも山形説は、大和=倭国説をつぶすことを目的としていたようだ。
しかしそこに九州説の台頭をみたため、満州はあることないこと支離滅裂に至っているわけだ。
いまや九州説の追っかけ親衛隊ww
452 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 13:20:03.28
>>448 まだ錯覚しとるな
倭人の条ではおよそ1/6と求められるが、その他の条では其々に適切な数字が得られるであろう。
>>449 > ちなみにおらは邪馬台国が朝鮮にあるとは言ってねーど。
> 邪馬台国は大和だが卑弥呼は満州か朝鮮にいると言うとるだど。
だからそれを思わせる内容箇所を倭人伝から抜粋して示せっつてんだよ
オメーの屁理屈か妄想かはどうでもいいんだよ
454 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 13:51:54.60
満州さんは自ら畿内説の馬鹿さ加減、アホさ加減を周知させ
九州説を補強するために日夜がんばっておられるのだ
体を張ったギャグではないが、畿内説を唱える者はこんなに異常なのですよと
体を張って証明しようと涙ぐましい努力をなさっておるのだ、満臭さんに敬礼!
456 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 14:04:39.68
>>454 まだまだ錯覚から抜け出ておられないようだ
倭人の条のことを論ずるには倭人の条の範囲内の検証でよろしい
他の条のことに関心をお持ちならご自分で当たられよ
457 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 14:06:49.24
>>439 >魏朝正規の里ではないんだよ。まったく違うことは、誰が見たって分かるだろ。
記述が正しいという前提にたてば そういうことも可能かもしれない
しかしその前提が 真 である論証が必要
編者は参問しているので、記述の里数が使者によりもたらされた単一の資料によるものかどうかは不明
参問の結果、机上で作られた数字の可能性はあるなど
他の考えられる可能性を客観的根拠に基づく論証にて 排除してはじめて
記述に誤りはないという前提に妥当性が出てくる
そういう作業を拒否する君らの意見とは
仮説の根拠が自説 という循環論法と判断せざるを得ない
458 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 14:07:40.21
>>455 そうだな
満州皇帝はまことに名君であらせられる
459 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 14:15:19.03
読み方がまちがっているね。参問しているのは、原資料を書いた使者だ。陳寿ではない。
それに、倭人伝の里は陳寿が初めて書いたわけではない。その前に魏略がある。
>>444 ご教授いただきありがとうございます
お言葉を返すようでありますが、邪馬台国=大和朝廷(あるいは邪馬台国が東遷)と考えるから
記紀に記述がないのは変だって結論になるのではないでしょうか?
邪馬台国が大和朝廷とは別物とすれば記紀にないのは当然ですし、土蜘蛛の一言で片づけてしまえば十分じゃないでしょうか?
戦国時代がいい例ですが、畿内に大きな国があるのなら九州にも四国にも関東にも
大きな国ができるのは当然じゃないでしょうか?
461 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 14:32:48.88
>>456 その倭人の条の範囲内全ての里数表記と地名を検証したの?って聞いてるのだが
462 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 14:44:49.14
>>459 >読み方がまちがっているね。参問しているのは、原資料を書いた使者だ。陳寿ではない。
「参問しているのは使者だ」には笑う以外に無いが、肝心の
「他の考えられる可能性を客観的根拠に基づく論証にて 排除してはじめて
記述に誤りはないという前提に妥当性が出てくる
そういう作業を拒否する君らの意見とは
仮説の根拠が自説 という循環論法と判断せざるを得ない 」
に対するコメントは寄せられない と理解した
463 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 14:46:56.44
>>461 そうかい、それならそうと最初から言ってくれればよかったのに
倭人の条の範囲については(私を含め)数多くの人が検証し、およそ1/6辺りが適当との見方が大勢
改めて言うまでもないことだが、これが九州説(伊都国佐賀説)の原点
464 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 15:13:00.09
そうね。理由はどうあれ、倭人伝の里は70〜90メートルだ。方角は当時の人間だって
間違えるわけはない。それで考えれば、伊都国佐賀は極めて合理的。
畿内説とはおさらばだ。
1里が約500mじゃ、まったく解釈できないよ。
466 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 15:30:52.56
狗邪韓国〜対馬と一大国〜末ら国がどちらも千里表記だが実際は倍以上の距離の差がある
なのに倭人伝の一里が70〜80mとか馬鹿げているよ
船で停泊した分を、換算で里数を足しているのでは?
468 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 15:39:23.78
古代にメートル原器もメートルと言う単位も無かった
そこで古代らしくおおざっぱに千里刻みで歯切れよく書いてるわけだ
これで生ずる誤差をどのように飲み込めるか、そこがカギだな
ま、ミリ単位の誤差も気になる厳密主義の現代人に古代史は向ない
469 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 15:42:02.51
>>466 そんなに違いはないよ。地図をみれば一目瞭然だ。
470 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 15:43:18.49
木を見て森を見ないのが現代人ってわけだな。
471 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 15:48:33.75
海上だから細かく計測はできずに荒っぽく書いただけのこと。
だが、釜山の入り口に近い平地と、
唐津の河口に近い平地の2点は、
短里76mの直線で、ピッタリ三千里である。
この二点間は天測したのではないかと思っている。
472 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 16:06:53.93
つーかほぼ間違いないと言える比定地は対馬と壱岐だけでしょ
倭人伝の一里=何キロと断じるにはサンプルが少な過ぎるよ
>>466 こんなの誤差範囲だろ
そういうのを難癖というんだよ
466と472は同一人物か?
見苦しいにも程がある
475 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 16:31:25.26
>>472 おみゃーもまじめだのう
当時メートル法は無かったのだから、何メートル何センチ何ミリまで断じる必要はない
釜山港辺りから唐津港あたりまで切り良く千里ずつで三千里だ、
千年たっても万年たっても、対馬や壱岐が泳いで逃げるわけでなし、今少しおおらかにいけー
476 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 16:33:06.53
倍違うのを誤差とは言わない
法則性の無いものに無理矢理法則性を見出だすのは愚かなこと
だから九州説は馬鹿にされる
477 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 16:39:35.77
>>476 >(現代的)法則性の無いものに無理矢理(現代的)法則性を見出だすのは愚かなこと
そりゃおまいのことだ、
其々千里と書いてあるのに、それがおかしいと言うほうがおかしいんだよ
文句があるなら、あの世へでかけて陳寿さまへ申し立てろ
478 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 16:39:53.67
魏軍の武官が天子の代理で、里数を知らず距離を日数で測る日本を訪れた際
本国宛ての報告書に本国で通用しない里を使用した
なんて平気で主張できるのは馬鹿以外のなにものでもない
479 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 16:47:29.86
>本国宛ての報告書に本国で通用しない里を使用した
錯覚だな
仮に、倭国で通用していたのは日数だったとしても
報告書のほうは本国で通用する「里」で書いてあるではないか
(ただしその里がどれくらいの実数であったかは別問題、←こういう理解ができないと官吏にはなれぬぞ)
480 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 16:51:59.96
ふーん、
畿内説の人間は、「単位」と「実数」をごちゃ混ぜにする特徴があるんだな
481 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 16:53:12.49
>>477 実際の地理と合わすことにより立論しようとしたことが
肝心の部分で 他人を納得させられない 反論に耐えられない以上 放棄する以外にない
あげく、編者に聞け ということは自分の間違いを認めた に同じ
482 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 16:59:35.06
公文書だけでなく、東夷で使用されていた地図資料も参考にした可能性もあるんじゃないかな
483 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 17:06:40.79
>>477 陳寿は資料に千里と書いてあったら千里と書くしか無い
実際の距離なんて解りゃしないんだから
「随分遠い所だなぁ」なんて思いながら書いたんじゃないの?
484 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 17:08:07.10
>>479 じつにくだらない
反論したいようだが 具体的には何一つ言及出来ないようだ
皇帝を頂点とする魏軍の武官だ 作戦 兵糧に支障が無いよう軍統一の度の使用は当たり前の常識
485 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 17:11:34.52
>>481 >肝心の部分で 他人を納得させられない
なにが納得できないのかね、たぶん1里76mが妥当でないとおっしゃりたいのだろうな
繰り返すが、魏代の1里が正確に76mだと言ってるわけではない、
場合によっては50mかも知れぬし100mかも知れぬ。
しかし500mでもなければ5mでもないことは明白。
よって九州説の立場からは、千里と書いてある所は概数70〜80m見当とみればよさそうと言ってるのだ。
ちなみに、「概数」と言う概念は法則性のひとつだ。
もちろんこれをすべての人に強いるものではないし、納得してもらおうとも思わない。
これを認めないというのならそれも一つの見識、個人の見解を否定するものではない。
486 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 17:15:45.61
>>484 それじゃ聞くが
倭人伝の1里は、現代風に換算すれば何メートルだったのかね。
487 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 17:24:18.74
>>485 レス引用に 肝心の
「反論に耐えられない」が抜けている
勿論、わざと引用しなかったんだろう 反論に耐えられないのは事実だから
488 :
満州皇帝不義:2013/07/15(月) 17:25:54.45
>>460 倭国大乱とか共立という語を使用しているところをみると、
たとえば山門県などは邪馬台国とは言えないのだよ。
そんな小さなクニの話ではないのだ。日本とか九州一円の話だ。
少なくとも召文国とか甘文国とか、韓史で〜国と書かれている規模の国の話だ。
土蜘蛛の話でもない。田油津媛は山門県にいたが、山門県主だとは書いてない。
山門県にいた山賊の類だろう。大和朝廷の管轄下にある山門県の県主ではない。
そりゃ九州にも四国にも関東にも国はある。
しかし前660年から九州も四国も関東も天皇家が治める国なのだよ。
それが記紀だ。ここの連中はみんな記紀を無視して空想に耽っているのさ。
489 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 17:29:48.69
魏代の一里は約430m
倭人伝の里数表記にこれを当て嵌めると実測値と合わない
だから倭人伝の里数表記はいい加減である
普通はこういう結論になると思うが
490 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 17:38:00.94
近畿説でも少数派だろうね
491 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 17:55:05.74
九州説でも畿内説でもまともな人間なら倭人伝の里数表記は当てにならないと思っているだろ
492 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 17:56:43.69
>>486 倭人伝の里 なんて特別なものはない
三国志魏書共通の里だ 魏の骨尺が約24cm 1800尺で432m これが1里だ
皇帝を頂点とする魏軍共通の里だ
実際の地理と合わない以上、間違いもしくは改変 又は机上で創作された数字という訳だ
現代の地図に合わせて里を発明しようするのは考え方自体が間違い
100人に1人か1000人に1人かの割合でこういういちゃもんつける異常者いるじゃん
企業から見ればクレーマー、学校から見ればモンスターペアレンツみたいなやつ
イチャモンつけること自体が目的だからどんな説明しても納得なんかしないよ
異常者と分かった時点で無視でしょ無視
494 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 18:14:21.17
一里イコール70〜90mと言う珍説を披露する以上それなりの説得力が求められるのは当然だろ
495 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 18:23:01.76
過去でも現代でも、地理と距離は変化しないが、
単位は変わる。
有名どころでは大工の使う曲尺と通常使う尺でさえ、
当時から違っている。
むしろ、魏の里といわれるものも、
残された尺ものさしや、地理と旅程の記録から
推測されたものに過ぎない。
というか、そうやって推測するしか方法がない。
文献だけでは実距離はわからないのだから。
倭人伝の短里も同様に推測したに過ぎない。
奈良時代に作られたとされる行基図という日本最初の地図を見ればわかるが距離はかなりいい加減
それより500年前の文献でありながら実際の距離との差が30%程度に抑えられてるんだから
正確性は十分すぎると言えるでしょ
行基図のwikiのURLを貼り付けようとしたがダウンしてるっぽい
497 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 18:32:43.34
文献からは、各単位の関係しかわからない。
そのため、実距離を計算するためには、
必ず基準が必要。
それが文献に書かれている場所と里数の情報や、
尺などのものさしに代表される原器である。
短里の基準は、倭人伝の地理、周髀算経、隋書など、
数は多くないが複数の根拠がある。
498 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 18:33:55.47
>>492 >現代の地図に合わせて里を発明しようするのは考え方自体が間違い
「里を発明」の部分に錯覚と怒りの根源を見た。
と言うより
「釜山〜松浦間を、千里−千里−千里、と書いてあるのはいたしかたない、
しかしそれが地図上でおよそ70〜80mだなぞとかってに換算しておる九州説の輩は許せぬ、
邪馬台国問題の畿内大御所であるオレ様に事前の相談・お伺いを立てぬやつらの説は絶対認めぬ、」
なーんて、あちこちで良くあるケース。
499 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 18:35:37.78
まともな反論は出来んのかね…
500 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 18:37:53.37
>>489 魏代の一里は約430m
倭人伝の里数表記にこれを当て嵌めると実測値とまったく合わない
だから倭人伝の里数表記は通常の魏代の里とはちがう単位らしい。
ふつうは、こういう結論になると思うよ。
501 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 18:45:01.99
不弥国からは日数を使っていることから見ても、
現地の単位を使っている可能性は高い。
帯方郡からの里は東夷、朝鮮半島で使われた里だろう。
方4000里が、現韓国の面積とほぼ一致することから見ても、
計測できる範囲では、かなり正確といえるだろう。
>>494 倭人伝を1里=約430mで解釈できる、というほうが余程の珍説。
503 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 18:46:50.66
>>492 で432m これが1里だというならば、まず、帯方郡から7000里、三千キロのところに
狗邪韓国を比定しないとね。そして、末盧国はその狗邪韓国の南1300キロのところかな。
日本列島あたりで邪馬台国探しをしていては君の主義主張と矛盾するね。
504 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 19:00:15.34
>>503 レスも読まずにアンカーを付けるのは止めたほうがいい
ちゃんと
「実際の地理と合わない以上、間違いもしくは改変 又は机上で創作された数字という訳だ」 書いてある
505 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 19:03:56.09
合わないというが、どうやって狗邪韓国、末盧国を比定したんだい?
まず、君が信じる距離だけ進んでみて、そのあたりで探すべきだろうが。
506 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 19:22:42.14
江戸時代の文献に「日本橋から三条大橋迄は千里」なんて記述があったら当時の千里は約500kmだとでも言うのかね?
まともな人間ならこの文献は間違ってると思うだろ
507 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 19:24:13.49
>>504 「実際の地理と合わない以上、間違いもしくは改変 又は机上で創作された数字という訳だ」のくだりは、
あいまい文章で、よんでもさっぱりわからぬ。
何をどう改変し、また何をどう創作したというのかね。
508 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 19:28:40.79
>>506 思わないね。日本橋ってどこの橋?三条大橋ってどこの橋?
ここにいう千里は何キロのこと? それらを考えるんだよ。
509 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 19:31:19.50
畿内説の大御所、しっかりしなはれや
510 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 19:34:38.62
>>508 日本橋は江戸の日本橋、三条大橋は京都の三条大橋だよ
君がまともな人間じゃない事はよく解った
畿内説は今やまともな人間じゃないのが流布している妄想
・帯方郡→狗邪韓国 7000里 670km (一里=96m弱)
・狗邪韓国→対馬国 1000里 92km (一里=92m弱)
・対馬国→壱岐国 1000里 98km (一里=98m弱)
・壱岐国→末廬国 1000里 51km (一里=51m弱)
1か所だけなら正しいのか間違ってるのか判断しようがないが、
これだけ出てきてほぼ同じような値になってるんだから
倭人伝の作者というか実際に旅した人はローカル基準みたいなので距離を測ったと解釈するのが普通だろう
513 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 19:49:50.05
>>512 サンプルが少ないし、その数少ないサンプルの中でも壱岐国→末廬国は他の半分くらいしかない
なにがしかの基準があったとするにはちと乱暴すぎる
514 :
満州皇帝不義:2013/07/15(月) 19:53:39.13
>帯方郡→狗邪韓国 7000里 670km
アナタ、ソレ間違イアルヨ、トコカラ測ッタアルカ?
ワタシ、イツモ言ッテルアルヨ、帯方郡ハ遼東半島アルヨ。
アナタ、パカアルヨ。モー来ナクテイイアルヨ。
515 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 19:53:44.90
肝っ玉のちいせえ男だな、
四捨五入すればいいんだ、それで十分。
516 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 19:55:49.60
>>512のほかに、韓国の方四千里、対馬国方四百里、一大国方三百里などもあるよ。
>>513を見ても、1里=約430mはいくらなんでも無理だろ。
518 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 19:59:14.37
満州の言いたいことはよくわかった
もうキミもこなくていいアルヨ、皇帝が2ちゃん残米では格好付かぬ。
519 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 19:59:43.56
一大国と末盧国はどこからどこまでを考えるかでだいぶ違ってくるしな。
520 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:02:07.38
>>517 だから倭人伝の距離表記はいい加減だって事だよ
シンプルに考えろ
521 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:02:18.74
少なくとも公里では、日本を通り過ぎて、
遙か太平洋上に行ってしまうので、
それだけはありえないことは確実。
522 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:02:44.80
それはマツロ国を唐津としているからだ。宗像市とすれば約70mになる。
523 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:04:19.12
>>449 >邪馬台国は大和だが卑弥呼は満州か朝鮮にいると言うとるだど。
魏志倭人伝を読んでないのか、倭人伝を完全否定してるのかw
だからクレーマーを説得するのは無理なんだから放置しろって
100人中99人が納得してもこういう異常者は永遠にケチつけ続けるんだからさ
525 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:06:01.63
中国の里と日数から推測される距離を1/6した、
短里短日説なら、すべての面において、全く矛盾がない。
526 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:08:31.10
俺も末盧国は宗像あたりだと思ってる。
上古音で末盧国=「ムァッロ」なのだが、これが「ムの方」になったのかなと。
527 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:10:34.32
>>513 貴人が死んだら生きたままの奴婢を墓に埋めた、そんな時代だったんだよ
おマイの言葉を借りれば、里数を計るにも乱暴な基準があったってことだ。
528 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:13:54.25
短里信者が九州説の足を引っ張ってるんだよね
九州説に有利なら何でもかんでも信じる浅はかさに呆れるわ
529 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:17:50.59
>>528 畿内説大崩壊で、畿内説信者も居場所がなくなったしな
ま、そこそこにしとけよ
530 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:18:32.77
テンパると罵詈雑言を吐き出すのは畿内説の習性。
532 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:26:12.98
どうみても短里信者の方が論理破綻してるんだが
基地外には正論も常識も通じないんだな
533 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:28:29.39
>>505 >まず、君が信じる距離だけ進んでみて、そのあたりで探すべきだろうが。
おいおい まあ落ち着け(笑)
合わないって言っている者が なんでその合わない数字を用いて 国の所在地を求める?大丈夫か?
倭人在帶方東南大海之中、〜到其北岸狗邪韓國
なんだから 大海にある倭に向かう際の大海の北岸(=半島の南岸)にあるのが狗邪韓國だ
韓伝にある弁辰狗邪國と考えるのが妥当
ここまで7000里ということは魏の正規の里とは合わない つまり 間違ったのか 意図的に改変したのか それとも 単に机上で創作しただけの数字かだ。
他の方も指摘されているとおり、実際の地理から尺度を求めるという方法は成り立たない
出掛けるから 後だ
>>520 シンプルに、1里=約70m強だよ。シンプルに考えろよ。
535 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:33:44.52
>短里信者の方が論理破綻してるんだが
どこが?
逆に長里で倭人伝を見たら倭への上陸地はどこになる?
536 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:38:04.74
>>533 新たな尺度を求めているのではないと言ってるのに、またこれだ。
正規の里にあわないのなら机上で意図的に改変・創作したのだろう。不思議ではない。
畿内説の大御所もすっかりお年を召したねえ。
537 :
535:2013/07/15(月) 20:38:33.84
上陸地はどこになる?
聞きたいのは末盧国の比定地のこと。
簡単な数学の問題
4つのサンプルから平均と標準偏差を出す
・帯方郡→狗邪韓国 7000里 670km (一里=96m弱)
・狗邪韓国→対馬国 1000里 92km (一里=92m弱)
・対馬国→壱岐国 1000里 98km (一里=98m弱)
・壱岐国→末廬国 1000里 51km (一里=51m弱)
↓
平均1里=84.25m、1里の標準偏差22.3
↓
68%の確率で1里=62m〜106mに収まる
95%の確率で1里=40m〜129mに収まる
サンプル4つあっていずれも近い数値になってるんで規則性ありと認めるに十分だな
540 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 21:20:27.03
>>534 当時の一里が約430mである以上、これを基準に考えるのが普通で
これに合わない距離表記は間違っていると判断するのが妥当
541 :
満州皇帝不義:2013/07/15(月) 21:23:18.76
>>538 >帯方郡→狗邪韓国 7000里 670km
アナタ、ソレ間違イアルヨ、トコカラ測ッタアルカ?
ワタシ、イツモ言ッテルアルヨ、帯方郡ハ遼東半島アルヨ。
アナタ、パカアルヨ。モー来ナクテイイアルヨ。
542 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 21:27:18.37
短里とかアホなことを言っている人は祇園祭に行って三条〜四条の間を計測しなさい。ちまきを食べたら賢くなるかも。
543 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 21:28:37.81
サンプルが4つしかない上に1/4が他のサンプルの半分の距離しかない
その上末廬国以降の実測値は不明
とてもじゃないが規則性があるとは言えない
>>543 おまえ数学赤点ばっかりだっただろwwwwwwwwwwwwwww
そのレスは恥ずかしすぎるぞwwwwwwwwwwwwwwwww
545 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 21:35:22.79
数学とか関係ないよ
常識で考えなさい
君みたいなアホが数字のマジックに容易く引っかかるんだろうなw
>>545 常識ってなんだよ
数学音痴のおまえの主観か
客観的な数字で証明してるんだからこれ以上に信頼できる根拠はないだろが
547 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 21:48:03.94
>イツモ言ッテルアルヨ、帯方郡ハ遼東半島アルヨ。
根拠は?
>>540 一里が約430mとすると対馬から南に千里ってどこになる?
548 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 21:51:47.07
【庄内】古墳黎明期を語る-参-【布留】スレから入室御断り宣言をされ、
行き場をなくした畿内説の残党が、
九州説の1里=70〜80mに恐怖感を抱き、必死に打ち消そうとあがいております。
よほど恐ろしいのでしょうかww
549 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 21:58:29.07
1里=70〜80mとか言っている大馬鹿者は1町が何mか答えなさい。知能指数を測ってあげます。
550 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 22:00:05.75
>>547
だから倭人伝の距離表記は不正確だってこと。
何度言えば分かる?
551 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 22:02:48.82
長里、短里どちらにしても畿内説には当てはまらないが、
短里の場合九州説に当てはまってしまうというのが気にくわないだけだろう。
552 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 22:02:49.58
畿内説の残党が相変わらず短里にビビっています。
距離は置いといてもさ
対馬
↓
壱岐
↓
末盧國(九州上陸)
と来て、方向的に南に女王國があるとされてるんだから、
畿内説は成り立たないよね、フツーは。
尚且つ女王國の名は邪馬台国で、その女王の名は卑弥呼って
書いてあんのに、朝鮮か満州に卑弥呼は居るって…
それならクレオパトラが卑弥呼だと言っても良いだろw
邪馬台国探して資料集めて、気付けば倭人伝
否定してんなら、こんな本末転倒な事は無いな。
554 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 22:06:48.87
気にくわない、←それ大正解!
555 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 22:09:26.61
>>553 そうそう
方角だけで九州説は充分なんだよ
短里説は胡散臭いから不要
>>550 >だから倭人伝の距離表記は不正確だってこと。
ハイ論破
>>538を見ろ
これ見ても意味が分からんなら高校からやり直せ
557 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 22:10:12.42
>>550 しかし短里で考えると当てはまる場所が複数ある。
短里を完全否定するなら代わりの案を出すべきだ。
実は俺も距離に関しては記録者の主観でかなり狂ってるとは思ってるが。
なんか里程論が続いてるなあ。
アメリカのルート66なら実距離≒直線距離でいいだろうけど、
日光いろは坂なんか実距離≒直線距離×10くらいあるぞ。
まず当時の古道を推定しなきゃ、話が始まらん気がする。
>>471 さすがにそれはないw
仮に子午線長がわかっていたとしても、経度が違えば時計あわせが要る。
倭国に攻めこむ時のために里程が残されてるわけで、魏がその所要日数を把握出来るものでなければ書き留めておく意味はない
560 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 22:22:34.19
>>558 末蘆国から東南伊都国までは、現在の鉄道唐津線沿いだ、これは古代の道でもあり岩屋駅も途中にあった。
そして伊都国は佐賀平野の中ほどあたり。
これはすでに3スレくらい前で話題になったこと。
561 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 22:22:55.36
>>558 >
>>471 >さすがにそれはないw
>仮に子午線長がわかっていたとしても、経度が違えば時計あわせが要る
まあ、それほど声高に主張する気もないが、
糸島の高祖山あたりからだと、対岸が見えるからね。
それで子午線方向からどの程度傾いているかはわかる。
それで方向がわかるから、緯度の距離と、
角度(だいたい30度くらいの傾きがある)から、
計算できる事はできる。
ま、話半分で。
しかし満洲がいない時は議論のレベルが上がるね
563 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 22:25:52.24
唐津から佐賀までは天然の間道だから、
昔から知られていておかしくはない。
ちなみにこの道沿いの何箇所かに、縄文遺跡が出る。
唐津菜畑遺跡は、最古級の水田遺跡だが、
縄文時代の遺跡層もある。
>>560 そうかも知れんけど、唐津線には鉄橋もトンネルもあるよね。
唐津線の線路の上を歩くのと、その線路が引かれる前に
同じ経路を歩くのとでは、所要時間は雲泥の差だと思う。
565 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 22:38:59.26
唐津街道は、一番高い所でも標高は100mいかないし、
ずっと山の切れ目の谷を縫うような道。
唐津線の鉄橋やトンネルも線形的に急角度が取れないために、
作られているだけ。
車で行けばわかるが、唐津線のトンネルの横をとおる道がある。
この未知はトンネルではない。
だから、必ずトンネルが必要な路線というわけではない。
唐津から糸島方面に行くならば、トンネルがなければ、
線路を引くことが出来ない。
同じく糸島方向に行く二丈浜玉有料道路は、
山の上を通る高架道路となっている。
魏志倭人伝は複数の記録からの寄せ集めなわけで、
「自女王国以北其戸数道里可得略載」以降は由来が違うように思う
「奴国」が出てきたので、その記述があるものを別の時代、別の勢力の記録から引用したものだろう
567 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 22:49:23.10
往生際が悪い奴はいるもんだ。
記紀好きな満州に教えてやろう
高天原は月の裏側だw
>>565 なるほど。
でも川は何箇所かで渡っているよね。
地図で見ると、たとえば厳木町のあたりは川沿いを辿る道だったろうし、
そういうのも「チリも積もれば山となる」な気がするんだよな。
つか、ボオっとしてたけど、伊都国はやっぱり糸島じゃないん?
いや、この話題の中ではどうでもいい問題だがw
伊都国には海があるだろうな
そうすると糸島になると思うけどね
571 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 23:01:41.72
海なし県は、埼玉県・栃木県・群馬県・山梨県・長野県・岐阜県・滋賀県・奈良県だけ
573 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 23:05:50.39
鉄道線路はどうしても、線型やカーブ、勾配に制限がありますからね。
人や車が走る道のようには作れません。
必然的に山を切り崩して、鉄橋を作り、トンネルを掘ることで、
穏やかな線型になりますが。これをそのまま人の歩道と
同じように見ることは出来ないでしょう。
574 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 23:09:14.48
>>569 末蘆国(古松浦港)から東南陸行と言えば、なんたって唐津線沿いのこの道が第一候補
あえて海岸を糸島方向へ陸行するのはとてつもない難路、
そんなことなら郡から乗ってきた船で糸島へ先回りがはるかに妥当。
575 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 23:11:22.01
>>570 佐賀平野も海に面している。ご心配なく。
576 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) 23:32:33.39
だいたい糸島から南下するのならば、東回りか西回りかを書かないというのは
理解できない。佐賀からならば有明海を南下するだけのこと。倭人伝の簡単な
記載も十分に分かる。
唐津、糸島半島周辺は始終風向きや潮流の変わる難所。
巨済島(狗邪韓国)→対馬国→一支国→末蘆国と晴れた日に目的地を視認しながら渡海したであろう古代人は
難所を海行することをせず「陸行」したのだと思われる。
佐賀平野はその温暖な気候、平地の広がりからかなり豊かな地域だったと思われる。
邪馬台国そのものの候補地にもなりうる地域。わずか千戸しかない軍事基地である伊都国にはそぐわない。
578 :
ローガン:2013/07/16(火) 00:28:56.53
>>536 皇神さん
いや、正直、今更畿内説なんてどうでもいいんだ
勿論九州説もどうでもいい 好きに主張して遊べばいい
当方としては、この度は短里とやらが、いかに幼稚な話題であるかを、あらためて浮き彫りにして 遊んでいるだけなんです
短里とかの言い方はどうでもいいが、公式の里とは違うローカル基準の距離単位があったことは
>>538を見れば明らか
議論の余地もない
畿内説で生計を立てているローガンとしては、畿内説の完全破綻が悔しいので、
最後っ屁として、一発かました発言がこれです →
>>578
581 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 07:02:09.38
みんな、何年も前からの議論のループをしているだけだね。
582 :
満州皇帝不義:2013/07/16(火) 08:29:29.23
九州人、ミンナパカアルネ。
相手ニシナイホウガイイアルネ。
ワタシ、日本ノ諺知ッテルネ。
「パカハ死ナナキャ治ラナイ」
583 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 09:35:28.87
山形 明郷著『邪馬台国論争・終結宣言』
10. 祁馬台国(きまたいこく)
>「梁書校勘記」に、邪馬台国の「邪(や)」は、もともと「祁(き)」と記されていた。
>しかし十一世紀の「冊府元亀」 に、それは誤りであったので「邪」 と改めた、と記述されている。
>すなわち、これ以前の古資料には、正しく「祁馬台国」と記されていたのである。
山形明郷はこのように記している。満州皇帝不義も心酔した通り、なかなかの慧眼である。
要するに、祁、邪ともに「馬台国」にかかる卑字であったということにほかならないであろう。
この「馬台国」には関しては、別の重要文献もある。
大宰府天満宮に伝世される「翰苑」は、唐の張楚金の撰で、国宝に指定されている。
その中には、このように記されているという。
「山に依り、海を負い、馬臺を鎮め、以て都を建てる」(注:馬臺は馬台の旧字で邪馬台国を指す)
畿内説は圧倒的に不利だから倭人伝さえも否定して痛み分けの引き分け狙いという暴挙に出た
倭人伝の里はデタラメで間違ってるだとさwww
585 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 12:05:33.01
しかし、大和説の学者が短里を認めているのだから、暴挙も不発。漫画的でしかないね。
586 :
満州皇帝不義:2013/07/16(火) 12:34:10.40
>>583 僕は別にそんなところに感心したわけではない。
そんなことは他の学者も論じている。
古朝鮮や楽浪帯方百済新羅等の比定に感心したのである。
しかし後に浜名寛祐やS氏を読んでみると、
古朝鮮や楽浪帯方の位置については浜名寛祐やS氏が既に説いていた。
最初に説いたのはS氏で、浜名はそれを踏襲している。
しかし百済や新羅の発祥が満州ではないか、
という見解に達していたのは山形だけではあるまいか。
馬鹿言え、10万年前はみんなアフリカに住んでいたんだ。
だから極東の国の人間はみな、西が起源だ。
588 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 12:41:04.65
そうゆう昔の話と3世紀ころの話の区別がつかないのが満州
589 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 12:51:06.40
サンプルが少ないのに平均値や標準偏差などのもっともらしい数字を挙げても意味がない
詐欺師やインチキ予想屋がよくやる手口
590 :
満州皇帝不義:2013/07/16(火) 12:53:12.18
アナタタチ、二人トモパカアルネ。モー来ナクテモイーデスハンソン。
10万年前ハアトランティス時代アルヨ。
アフリカニ住ンデイタノデハナイデース。
モットペンキョウシテクダサーイデス。
591 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 13:00:19.13
そもそも倭人伝はでたらめ改変だらけだったとか、大和=倭国説は間違いで倭国は満鮮にあっただとか、
もう畿内はグチャグチャになってもうたな
畿内説は満州と一緒に完全破綻したな。
詐欺もトンデモとは無縁の九州説は、ゆっくりやろうよ。
>>589 馬鹿すぎwwwwwwwwwwwwwwwww
サンプルの少なさが標準偏差に反映されるだろがよ
数学音痴が偉そうに能書き垂れんなよ
恥の上塗り
594 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 13:10:33.94
倭人伝のいうとおりに進めば邪馬台国女王之都に辿りつける。
倭国は九州島、倭国の王は卑弥呼、邪馬台国は阿蘇。
まあ、中国ベッタリの王朝といえば九州なのかもな
中国側もコントロールしやすいだろうし
596 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 13:24:50.50
伊都国から水行10日、陸行1月だよ。阿蘇では近すぎる。
南九州だね。
597 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 13:32:13.21
>>589 サンプルは十分にあるさ。公定里のサンプルは一つもないけどね。
598 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 13:51:05.46
さすが本命の九州説だけあって、スレの進行も早い
南に狗奴国があるから南九州はきついんじゃないかな
邪馬台国は中九州のどこか(現長崎、熊本県のどこか)
そして南九州にあった狗奴国のほうが邪馬台国よりも文化的だったんじゃないかな
邪馬台国=ヤマタノオロチ、恐怖政治を敷いた軍事国家のイメージがある
熊本の内陸部、阿蘇山近くが適地かな?
そういえば南九州の西側は、伝統的に揚子江文化の影響下にあるだろ。
三国時代の揚子江文化は呉国になるわけだが、列島側の呉の支配を
抑え込むためには、九州の西側中央あたりまでは、魏の傘下たる
邪馬台国の領域として死守して貰い、呉の支配を抑え込みたいわけだ。
しかし卑弥呼が、よりにもよって呉で流行した鬼道の女王というのは、
魏にとって気味が悪かっただろうし、一種の矛盾ともいえる。
602 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 16:05:17.32
九州島の中心と言えば、ちょうど阿蘇山くらいだねえ
阿蘇神社あたりからは、九州山地の古道を通じて
大分、福岡、山鹿、熊本、人吉、鹿児島、宮崎、西都にも行ける。まさに天山の八方交差点。
603 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 16:25:34.88
阿蘇市および阿蘇山を取り囲む熊本平野一帯はなだらかな田畑・草原がどこまでもつづき、広大かつ雄大。
大きな国を想定するのにふさわしい土地柄だ、こんな適地はなかなかみつからないねえ。
604 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 20:18:42.42
>>599 これを見たまえ
次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國
狗奴國は奴國の南だと読める。
邪馬壹國の南だとは書いていない。
倭人伝の邪馬台国には火山の記述が無い時点で阿蘇周辺は無い。
後継国のイ妥国には阿蘇山があるって書いてあるが(隋書)。
倭王が西国である九州方面を成敗した後だからな。
畿内国の紹介に、「都から離れた辺鄙な阿蘇山で国家行事をやっている」なんて書かないだろ。
609 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 21:26:39.11
そもそも畿内説は魏志倭人伝から地名だけを拾ってきて強引に大和に持ってくる
という説なんだろ。
畿内説論者が倭人伝は間違ってるとまで言い出したのには笑った
短里を適用すると九州説がドンピシャになってしまうのが悔しくてしょうがないんだろうな
611 :
紫敷布:2013/07/16(火) 21:39:07.35
>>578 :ローガン
>当方としては、この度は短里とやらが、いかに幼稚な話題であるかを、あらためて浮き彫りにして 遊んでいるだけなんです
ローガン先生は博学だなどと言ったわたしが恥ずかしいわ。ペダンテイックな人なのね。それも底の浅さが嫌ね。
ところで、「魏の使者が東夷の里などを使って報告したら打ち首になる」だの、「魏の里に合わない里数だから倭人伝の記事は
でたらめだ」などとヘンチクリンな理屈を言っている人も居たわね。
魏の使者がデタラメな報告をする可能性を考えてみたことあるのかしら?自分が初めてで最後の使者だとわかっていれば嘘の報
告をしてもバレないと思うでしょうが、今後別の使者が倭国を訪れる可能性は十分考えられるのだから嘘の報告ができるわけが
ないでしょ。魏の使者は倭人伝に書かれているようなことを正しいものとして報告したのよ。ということは、東夷の地理記述で
は東夷の里を使ったし、魏の知識人の間ではそれを理解していたと見ることができるじゃない。
倭国大乱で分裂してた双方の国との複数の記録から引用してるから解りにくくなってるけど、
卑弥呼の国の南に狗奴国があるんじゃなくて、卑弥呼の国をもう一方の国が狗奴国と読んでたんだよ
よく読めばわかること
613 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 22:25:49.17
>卑弥呼の国をもう一方の国が狗奴国と読んでたんだよ
はぁ?
ローガンとかいうコテって証拠を目の前に突きつけられてもシラ切ってる犯罪者みたいだな
615 :
満州皇帝不義:2013/07/16(火) 23:15:30.46
紫敷布ノオ姉ーサン、アナタ、美人ネー、デモ頭悪イネー。
魏使ハ日本ニハ来テナイアルヨ。
倭ニハ来テマスネー、デモ倭ハ日本デハナイデース。
アナタ、ソレ分ラナイカラ、タメアルヨネー。
616 :
ローガン:2013/07/16(火) 23:16:14.87
>>611:紫敷布
>ローガン先生は博学だなどと言ったわたしが恥ずかしいわ。
そう。恥を知ることは人間として大事なことだ。
>ヘンチクリンな理屈を言っている人も居たわね。
私だ。名無しで、からかっていたんだがたまには構わないだろう。
>今後別の使者が倭国を訪れる可能性は十分考えられるのだから嘘の報告ができるわけがないでしょ。
「嘘の報告」書だと主張した者がいるのか?私に云うのは見当違いだが
私が上で書いたのは、「間違い又は、意図的な改変、あるいは机上の創作」だ。
私見は何度も書いたが3つ目の「机上の創作」だ。
>魏の使者は倭人伝に書かれているようなことを正しいものとして報告したのよ。
言い切る以上、その報告書とやらに倭人伝地誌の里数が全て記載されていたという論証を求められるが、出来るのかね?出来なきゃ、単なるあなたの見解。
>ということは、東夷の地理記述では東夷の里を使ったし、魏の知識人の間ではそれを理解していたと見ることができるじゃない。
その言い分は、倭人伝地誌の里数が全て報告書とやらに由来するものであることを、根拠の出典を明示したうえで論証出来なきゃ
主張の根拠は自身の見解 という循環論法でしか無いんだがね。
さてあなたに出来るかな?
阿蘇に有力な王がいたのはほぼ確実なことだと思う。
が、それは邪馬台国ではなく蘇奴国だろう。
蘇奴国のような有力国家さえ卑弥呼と邪馬台国の前には屈するしかなかった。
当然ながら卑弥呼は呉とも通じていただろうと思われる。
が大陸情勢を見て魏が優勢と見るや、すかさず魏使を送っている。
大陸情勢を正確につかむため、結構な数の間者を卑弥呼は呉や魏に送っていたのではないか。
また、邪馬台国にはその情勢を知る呉など大陸からの渡来人が結構な割合でいたのではないか。
ローガンが、また細かい屁理屈をこねくり回してるが、
議論が途絶えた頃に畿内説の詐欺を言い逃げしたり、
九州説の不意を突いて屁理屈をこねくり回したりする手口は、
相変わらずだな。
大阪のみなさん、大阪にもこんな詐欺師がいるんですよ、
よく注意してください。
>>617 狗奴国の狗古智卑狗は菊池のキクチヒコだ、という説(俗説?)はあるよね。
>>610 >短里を適用すると九州説がドンピシャになってしまうのが
アホ、全然ならねーよw
倭人伝の里数がデタラメでも間違いでも創作でもないことは
>>538で明らかなのに
数学落ちこぼれた低脳がまだグチグチ言ってのか
622 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) 23:51:33.88
お笑い草だな
623 :
風の中のゴキブリ:2013/07/17(水) 00:48:34.65
老癌の死期も近いな ワラワラ
624 :
風の中のゴキブリ:2013/07/17(水) 00:51:19.75
夢幻如は完全に逝ったな ガハハ
626 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 06:50:05.00
>>620 短里短日説だと、誤差範囲内でピッタリだよ。
627 :
サガミハラハラ:2013/07/17(水) 07:25:56.67
魏志倭人伝における1里は67.5mです。
これは周尺(中国の周や殷の時代につかわれた尺度)なのです。
これは、半島を支配していた箕子朝鮮に起因しています。
箕子朝鮮は殷の箕子が朝鮮に築いた王国で、漢の時代においても周制をもちいていました。
倭国はそこに貢献していたのです。漢に貢献するようになったのは、武帝が朝鮮をほろぼして(BC108 )よりです。
つまり、東夷では、朝鮮の影響により、周尺を使用しており、その使用されている時代に
倭人伝の行路の測定がおこなわれたのであり、魏使が計測したのではないのです。
その行路記事をチンジュは晋の図書館でみつけ、それをもとに倭人伝の行路をかいたのです。
628 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 07:49:03.81
古田信者か
629 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 07:59:31.94
>>626 合ってもいないピースを強引にはめ込んで自画自賛。
それが九州説の行程パズルというお遊戯w
630 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 08:03:28.64
畿内説の6倍サイズピースは、
試すまでもなく、収まらないことが明白。
631 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 08:04:43.69
短里ピースは、すんなり収まるからねえ。
邪馬台国を畿内にもって来ようとさまざまに画策するもことごとく失敗、あげくに破綻・・・
これが畿内説の歴史である
哀れ畿内説よ
行程パズルのバカバカしさがよくわかるな。
強引にハメ混んで合意の上だと主張するレイプ犯みたいだw
634 :
サガミハラハラ:2013/07/17(水) 08:14:01.90
>>626 古田さんそんなこといってましたか。私のオリジナルと思ってましたが。
パズルの短里説に乗っかるなら、畿内説は
女王国まで万二千の距離が証明出来りゃ十分だし。
女王国は大分辺りから東でいいんだよ。
636 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 08:51:55.31
>>635 パズルと言っても距離だけではないよ、方角も合わせなきゃね。
とかく畿内説は、将棋の歩を角のように、角を飛車のように動かしてしまうからね。
>距離だけではないよ、方角も合わせなきゃね。
それは九州説も同じだよ、南へ水行10日 陸行30日じゃ
正直何処でもいける。
638 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 09:54:01.22
>>637 いつまでたってもその手しか思い浮かばないのが畿内説アタマの石壁と言うべきか
ま、読むべき人が読めば素人の及ばぬところに妙手あり
639 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 09:57:49.55
妙手なんてねーよ
640 :
満州皇帝不義:2013/07/17(水) 10:01:10.75
>>627 >半島を支配していた箕子朝鮮
アナタ、コレ間違イアルヨ。
イーカゲンニシロヨ、コノヤロメ。
641 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 10:02:31.79
素人さんは1〜2手先までしか御読みになりませんからねえ
その点、プロの棋士は一瞬にして古今東西の名棋譜を想い浮かべるという、、、
642 :
風の中のゴキブリ:2013/07/17(水) 10:12:44.37
夢幻如ネタ切れワロタw
643 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 10:21:32.72
畿内説九州説共に邪馬台国論争には
>>641みたいなキチガイがワンサカいるよね
644 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 10:30:19.52
プロ棋士と同じように、「邪馬台国は九州にあった」の1〜26までの関連カキコを、
一瞬にして思い出せるような凄いお人もいる。それくらいでないと邪馬台国問題は解けないだろう。
雑魚はともかく、その域の達人はワンサカとはいないけどなww
>邪馬台国は九州にあった」の1〜26までの関連カキコを、
一瞬にして思い出せるような凄いお人もいる。
普通はそれをアスペというw
646 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 11:13:28.47
>>645 うんうん、わかった
ま、それぐらいでないと男は大事業、大出世できぬからな
それを脳内社長、別名自宅警備員という。
648 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 12:08:44.81
>>674 なかなか、面白いこというではないか、年期がはいっとるのうw
ともあれオレは雑魚のたぐいにすぎぬ、真の達人は邪馬台国神社にご鎮座じゃ・・・
ある人が海外旅行に行ったとする
持参した地図によると、目的地は駅を降りて右に行くはずだ
駅に到着したので念のため現地人に道を聞いてみた
現地人Aは左だと答えた
現地人Bも左だと答えた
現地人Cも左だと答えた
現地人Dも左だと答えた
こういう状況のときあなただったらどう考えますか?
九州説の人「現地人が4人とも左だと答えるのだから、持参した地図は間違ってて、正しくは左だろう」と考える
ローガン「現地人は間違っている。左だと主張するなら現地発行の地図で左であることを証明しろ」と考える
沖縄だったりして
651 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 13:25:55.94
なんくるないさ〜
652 :
ローガン:2013/07/17(水) 14:09:46.12
>>649 >こういう状況のときあなただったらどう考えますか?
現地人に地図を見せて、右と左という認識の違いが何故発生したか を尋ねてみようと考える(笑)
自分から見て右は相手から見て左
654 :
ローガン:2013/07/17(水) 15:17:04.33
で、現地人に地図を見せて尋ねた旅行者が、改札が線路を挟んで複数あるという情報を得た場合、どちらも(地図も現地人も)間違いではない可能性がある。
又、駅出口が一カ所の場合においても、駅舎の移動や駅前改修等々 持参した本国入手の地図と現地の現在の様子が合致しない場合、発行時の地図が誤りであるとは指摘出来ない。
更に、旅行者が知る目的地の固有名詞と現地人間に通用する名称が合致しない場合においても、「左右」という認識の違いが発生する可能性は否定出来ない。
他にも「現地人が正しく地図が間違い」とは言えない状況はあるだろうが…
君らのように、ただ目の前にあるものだけを見て判断を下すのではなく
複数の、可能性の中で、他を棄却出来ないまでも、他より蓋然性が高いと主張するために 様々な方面からの考察が必要なんだ。
この問いを設けた者のように目の前のものだけを見て、つい判断してしまう。 このような思考停止は改められるなら改めたほうが良い。
あらゆる可能性を考える必要があるとか偉そうなことを言いながら、
ローガンが今までやったことは倭人伝の里を完全否定して公里をひたすら主張しただけw
656 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 16:28:34.39
畿内に居場所がなくなって九州まで流れてこらしたちゃろw
657 :
ローガン:2013/07/17(水) 17:02:44.08
>>655 600年頃の日本の様子を伝える書に「夷人不知里數、但計以日」とある以上、遡る3世紀に日本で、距離を里で計っていたとは考えられない。
その3世紀に、魏軍の校尉が天子の代理で詔書を持参している。倭人伝地誌の里数がこの使者来倭に拠るものなら、
皇帝を頂点とする魏軍共通の里と考える以外に無い。
であれば、魏の公定里が所謂「短里」であったと主張するしかないが、その根拠となる記述が三国志には無い。根拠の無いものは採用出来ない。
又、倭人から聞いた里数を記録した可能性は、上述の理由により却下。
ゆえ、倭人伝地誌の里数が、魏軍校尉の記録によるものという前提下では、魏軍共通使用の公定里と考える以外にない。
つまり、短里という可能性は棄却されたわけだ。
で、その里数が実際の地理と乖離している理由だが
勿論、魏軍校尉の記録による単一資料という前提下では、間違っていると判断せざるを得ないが
倭人伝に見える「参問」や 評の記述から倭人伝における地誌のソースは、校尉の単一資料であるという前提自体が、誤りである可能性が大きい。
おそらく、机上で創作された数字の書かれた先行史書に、私見を交えたものが、倭人伝の実態であろう。
658 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 18:02:26.10
膨大な里数も日数も大袈裟に数字を盛っただけでしょ
659 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 18:14:43.10
東夷の里でないとする根拠はないが、
公里でないのは多くの根拠があり、明白である。
660 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 18:33:33.29
公里の可能性は0
661 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 19:01:15.22
なんか倍歴と同じ理屈だなw
662 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 19:03:50.25
>>657 根拠根拠とお前が言うが、お前が唱える畿内説は
完全な詐欺だったという証拠は無数にあるわけだが。
まずそちらを問題にして、とっとと2chから消えろよ、
この屁理屈百万言野郎。
>>658 司馬炎の祖父司馬懿を称えるための造作だからね
楽浪郡をぶん盗って独立していた公孫氏を滅ぼしたのは司馬懿
その結果、東夷の国々が朝貢した
曹爽がクシャーナのヴァースデーバの朝貢を成功させたことの謂わばカウンター
クシャーナ朝は洛陽から16000里
邪馬台国は12000里
『同じ位遠くの大国から使者を呼び寄せた』と言いたいわけだ
現実には邪馬台国等々の東方工作をしたのは安北将軍の張華だが、
陳寿はこいつのお陰で仕官できた。陳寿の恩人というわけ
中国史料を分析するにはこういう視点も重要
665 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 20:05:29.05
>>664 その視点が倭人伝の本質であろう。賛成。細かい数字にこだわっている人は
木を見て森を見ず、ね。
666 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 20:13:20.19
で数字の整合性に拘るあまり短里なんてありもしない単位を夢想してしまうと
方角で考えれば九州しかないんだからそんな必要無いのに
667 :
ローガン:2013/07/17(水) 20:18:07.98
>>663 >お前が唱える畿内説は完全な詐欺だったという証拠は無数にあるわけだが。
威勢はいいが 何一つ「完全な詐欺」の具体例に言及出来ないようだ。
あまり家に来て欲しくない奴にお前の家を見てみたいと言われて立場的に断れなかったら・・・
グルグル回り道して道を憶えられないようにするよね(`・ω・´)
>>657 要約すると、公里で計算すると距離が合わないから里数は創作である
どんな論理だよ
飛躍しすぎだろ
他の可能性は一切考えないのかよ
>>667 お前の言っていること全部が詐欺。以上、指摘終了。
671 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 20:45:26.75
とはいえ単位を変えてしまえという発想は現実味無さすぎ
こういう人は同じく単位を変えてしまえという発想の、某氏の唱える倍歴も信じちゃうのかな?
信じるも何も、三国志の里が全部同じ長さだと矛盾するわけだが。
673 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 20:51:36.11
普通は数字が間違ってると思うが
現実に里は時代によって場所によって違っていたんだが
675 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 20:55:11.70
魏代の一里の長さは435mだったと判明しているのだが
676 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 21:03:39.57
お金の単位の「円」は変わらないが、1ドル何円かは日ごと時間ごとに変動する。
ご承知のおカネの変動相場制。
それと同じように、古来、「里」と言う長さの名称は変わらずとも、
その実際の長さmは時代により場所によりさまざまに変動したわけだ。いわば「里」の変動相場制。
畿内論者必死過ぎワロタw
678 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 21:05:02.86
言ってること無茶苦茶だぞ
679 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 21:08:51.48
堂々巡りの予感
680 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 21:27:53.66
>>664 おいおい、魏略逸文に次のようにあるのを知らんのか?
従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里 始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴
無良田南北市糴 南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
陳寿が初めて短里を書いたわけではないぞ。原資料に短里があったんだよ。
今の支那人と同じでいい加減な奴ら韃靼だな
682 :
紫敷布:2013/07/17(水) 21:32:32.46
>>616:ローガン
なによこのお高くとまったレス!キザだわね。キザなだけでなく間抜けだわね。こんなレスをしている
からタイガースが7回に5点もとられて1点差まで追い上げられたじゃないの。ハラたつ〜!
>私見は何度も書いたが3つ目の「机上の創作」だ。
>言い切る以上、その報告書とやらに倭人伝地誌の里数が全て記載されていたという論証を求められるが、出来るのかね?出来なきゃ、単なるあなたの見解。
おっさん(もう先生とは呼ばないわよ)は上記の言葉を自分の主張に当てはめて考えたことないのかしら?
「東夷伝の里程記事は陳寿が机上で創作したもの」と言うなら、それを証明する資料を持っているの?持っているなら出しなさいよ。
出せないのなら潔く謝罪しなさいよ。
683 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 21:45:40.87
魏代の一里が435mと決まってたと過程してさ、
自分の家スタートして、計測機無しで『このコンピニまで二里』
…何て、正確に計れるとか現代でもフツーに無理だよね。
獣道みたいであったろう当時の道を、登ったり下だったり
曲がりくねったりして歩いてりゃ、正確な距離なんか解る訳無い。
『大体これ位だろ』みたいにして記されたモンだろ?
そんなモンに正確性を求めてどうする?
アバウトに考えていいんでない?方向さえ間違えなきゃさ。
685 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 21:55:38.58
1.5倍くらいなら、当時に技術レベルなら誤差範囲としてもいいが、
6倍違うと、さすがに誤差範囲というわけにもいくまい。
686 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 22:01:42.03
約4倍が三例、約8倍が一例
6倍は何処から出たのか
だから1里を435mでなく、70数mにすると結構、倭人伝の意が通じるわけで。
>>657 倭人伝の里数はデタラメでもないし創作でもない
一定の基準のもとに書かれている
>>538を見ろ
これでもまだ創作された数字だと言い切るのか?
様々な方面からの考察が必要だと自分で言う以上もちろん数学的アプローチも検討したんだよな?
>>684 うむ。
当時の距離計測といえば、歩数を数えたか、要した日数から換算したかだよな。
前者は精密な測量(たとえば卑弥呼の墓の径を測るとか)用で、
里程を知るための手段はもっぱら後者だったかと。
そんでもって、倭人伝に出てくる距離は100里単位なわけだ。
一里が435mと仮定した場合、43kmが単位になっている。
江戸時代の東海道の江戸−伊勢間の平均日数は12日で、40km/日だから、
この100里は1日に歩いた距離である可能性が高い。
末廬国から伊都国まで5日、伊都国から奴国まで1日、奴国から不彌国まで1日。
上古の橋もへったくれもないクネクネ道なら、そんなもんじゃなかろうかと。
実際は丸一日かからずに2時3時くらいに着いたとしても、それを正確に
測る時計はないのだから、四捨五入で「百里」にするよな。
そういう意味では、いわゆる短里の場合はどうやって測ったのかという
問題が出てくる気がするの。
安来が玉鋼の産地だから製鉄集団を出雲に幽閉したのかな?
↑誤爆、失礼
692 :
紫敷布:2013/07/17(水) 22:46:05.57
>>657 :ローガン
>その3世紀に、魏軍の校尉が天子の代理で詔書を持参している。倭人伝地誌の里数がこの使者来倭に拠るものなら、
>皇帝を頂点とする魏軍共通の里と考える以外に無い。
校尉梯儁は帯方郡大守の弓遵によって派遣されたのよね。その梯儁は帯方郡に勤務していた者でしょうが現地採用の武官かも知れないわよね。
少なくとも、倭国に至るまでの韓の地理や事情に疎い本国の者より知識のある者を派遣するわよね。梯儁に同行した書記官その他の従者にも現
地採用の人間が多かったのじゃないかしら。彼らが周の里を用いていたらどうかしら。魏軍共通の里に換算するのは本国の者がやれば済むこと
だし、現地でいちいち換算するのは面倒だから使い慣れた里で記録した-ということも考えられるでしょ。
おっさんみたいに「魏軍共通の里と考える以外に無い」と断定するのは頭が固い、柔軟な思考力に欠ける脳硬化症患者よ。
>で、その里数が実際の地理と乖離している理由だが
>勿論、魏軍校尉の記録による単一資料という前提下では、間違っていると判断せざるを得ないが
>倭人伝に見える「参問」や 評の記述から倭人伝における地誌のソースは、校尉の単一資料であるという前提自体が、誤りである可能性が大きい。
>おそらく、机上で創作された数字の書かれた先行史書に、私見を交えたものが、倭人伝の実態であろう。
ほらほら、「机上で創作された数字の書かれた先行史書」の論証も無しにい〜。
魏使の最上位は中郎将の難升米で校尉の梯儁はその下
694 :
ローガン:2013/07/17(水) 22:50:07.18
>>682床擦れ敷布
>タイガースが7回に5点もとられて1点差まで追い上げられたじゃないの。ハラたつ〜!
それは、試合後のインタビューで「榎田の握力がぁー」と言い訳していた監督に言え。
「一週間休みだから今日は総力戦!メッセ行け〜」が彼の監督としての技量の無さ って事だ。
>「東夷伝の里程記事は陳寿が机上で創作したもの」と言うなら、それを証明する資料を持っているの?持っているなら出しなさいよ。
持ってない。なぜなら私の言い分は、「おそらく、机上で創作された数字の書かれた先行史書に、私見を交えたものが、倭人伝の実態であろう。」だからだ。
全て陳寿の創作だあと主張するヤツがいるならソイツに云うべきだと思うが。
結局、畿内説も九州説も焼き豚なんだな
セパタクロー愛好者は濃尾平野ってのが総意なんだが
696 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 22:55:38.67
今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印青綬
率善中郎將のも、率善校尉のもステータスは銀印青綬で同じののもあったりするよ。
建忠校尉の梯儁さんが現地採用の武官だろうという視点はご推奨でける。
敷布えろいよ。
697 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 22:56:02.65
>>687 その70数mは何処から出てきたの?
辻褄の合いそうな数字を計算したら70数mだったってだけの話でしょ
698 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 23:05:13.06
>616 名前: ローガン 投稿日: 2013/07/16(火) 23:16:14.87
>言い切る以上、その報告書とやらに倭人伝地誌の里数が
>全て記載されていたという論証を求められるが、出来るのかね?
>その言い分は、倭人伝地誌の里数が全て報告書とやらに
>由来するものであることを、根拠の出典を明示したうえで論証出来なきゃ
>私が上で書いたのは、「間違い又は、意図的な改変、あるいは机上の創作」だ。
>私見は何度も書いたが3つ目の「机上の創作」だ。
>694 名前: ローガン 投稿日: 2013/07/17(水) 22:50:07.18
>>「東夷伝の里程記事は陳寿が机上で創作したもの」と言うなら、それを証明する資料を持っているの?持っているなら出しなさいよ。
>持ってない。
699 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 23:06:12.65
700 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 23:07:43.11
七千里じゃね?
701 :
684:2013/07/17(水) 23:08:02.01
>>689 日=100里 計算は良いですが、日に40kmは無理ですぜ…
せいぜい日=10km歩けるか歩けないかでしょう。
三世紀の道は、江戸時代の東海道とはかなり違うかと…
もちろん、山道と平地では走破距離は違うでしょうが。
伊都国ー奴国間は百里=7キロ弱ってこと?
候補地はどことどこ?
703 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 23:13:21.27
成人男性なら一日十里40キロいけるでしょうが、
女子供老人を考えると16キロ程度
軍隊の旧日本陸軍の目安は25キロ
戦国時代の行軍の目安は15キロ程度ですね。
秀吉の中国大返しでも、一日30キロ程度ですね。
屁理屈のデパート、詭弁の総合商社やな
人間の歩幅基準じゃね?
>>680 実際魏志倭人伝だと朝鮮半島が【方四千里】
インド大陸くらいの大きさになっちまう
陳寿は嘘だと知ってて筆を曲げたんだよ
707 :
日本@名無史さん:2013/07/17(水) 23:26:26.15
方4千里
短里で現在の韓国の大きさとほぼ同じ。
>>701 「1日歩けば100里」ってのは、大陸の平原にできた国の基準なのよ。
その基準を辺境の火山性列島に適用したから、ややこしいことになったと。
中原の政権は世界帝国(中華世界)の主を自認していたから、僻地に赴く
官吏には、共通の基準で距離を測るように徹底していたのじゃないかと。
付け加えると、海流が関係しない沿岸航海での船の速度の経験則を、
海流激しい対馬海峡に適用したから、「ああ疲れた。こりゃ千里は漕いだわ…」となる。
>>703 官吏は成年男子だから、女子供は考慮しなくていい気がする。
重たい荷物背負ってるし戦国時代の行軍程度じゃね
>>708 ここまでアバウトだと、単里と言うか、倭人尺で良いのでは?
唐津街道、旧古道を4日半でざっくり500里って感じでしょ。
711 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 00:08:41.25
畿内説の大御所の精神崩壊がはじまった。
他人の論には超正確性を要求し、反面、自分のはおおざっぱな机上の創作でOK。
こんな不様を晒してるようじゃ、破綻は近いなww
712 :
ローガン:2013/07/18(木) 00:11:10.68
>>692:床擦れ敷布
>魏軍共通の里に換算するのは本国の者がやれば済むこと
そうしなかった理由は何?
ローガンの論理展開自体が詐欺。
714 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 00:16:26.99
理由は何?
これは古手教授が学生をやり込めるときの常とう話法ww
715 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 00:23:10.14
716 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 00:27:10.67
理由は何、根拠は何、出典は何、論証が求められる、具体例が求められる、
みーんな、老獪教授の口癖みたいなものww
>>657にあるローガンの主張の矛盾点
・倭人伝の里数が魏の役人が記録したものなら公式の里を使っているはずだが、短里は三国志にないので却下
・倭人伝の地誌のソースは魏の役人が記録した里数ではない
つまり短里を否定するためにまず魏の役人を理由にしてるが、次に魏の役人ソースも否定してる
完全な詐欺論法です
倭人伝のソースが別のところにあるなら短里もありえる
ローガンが、ネチネチネチネチ、屁理屈を並べ出したら、
それはいつもの詐欺論法。
719 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 00:58:22.35
でも短里はねえよな
一里が70〜90mだと計算が合う→だから当時の一里は70〜90mだった!!
アホかと
720 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 01:01:58.76
>>717 倭人伝の里数が魏の役人が記録したものなら公式の里を使っているはずだというのが
嘘なんだよ。そんな決まりはどこにもない。
721 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 01:04:49.83
倭国で使用されている日数が用いられているから、
現地の単位を尊重して(換算が面倒で)書かれているのは、
明白である。
722 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 01:10:00.51
>>719 それは公里でも同じ。
基準をもとに計算して、同時代のものと照合して
公里の大きさを決定している。
唐でも複数の単位があったし、
時代によって細かく変化もしていた。
723 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 01:11:49.49
短里には基準が無いだろ
724 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 01:15:15.99
身体尺とゆうやつはそれほど便利。
裸足だと危険だから小股で歩むのだろ。
725 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 01:20:04.75
あしあと300こならべてあげたら1里か
無人島に流れ着いたら使えるなあ
726 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 01:28:56.77
1里=1800尺
短里だと1尺何cm?
727 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 01:36:32.67
土人にとっては里を尺に換算するのは本来のが邪道
ちんぽを歩で計測するがごとし
こおゆうものは寸で表示するのが掟
728 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 01:39:09.72
>短里だと1尺何cm?
短里のときは、1里=1800尺ではないだろう。
729 :
ローガン:2013/07/18(木) 01:40:43.44
>>692:床擦れ紫敷布
>ほらほら、「机上で創作された数字の書かれた先行史書」の論証も無しにい〜。
如淳曰:如墨委面、在帶方東南萬里。
これがいうまでもなく魏代の認識。
しかし
而公孫淵仍父祖三世有遼東天子爲其絶域委以海外之事遂隔斷東夷不得通於諸夏。景初中大興師旅誅淵又濳軍浮海收樂浪帶方之郡而後海表謐然東夷屈服。
其後高句麗背叛又遣偏師致討窮追極遠踰烏丸骨都過沃沮踐肅愼之庭東臨大海長老説有異面之人近日之所出遂周觀諸國采其法俗小大區別各有名號可得詳紀。
公孫氏により、東夷は絶域。軍が、淵を斬り位宮を追って初めて東夷の様子が判るようになった訳だ。「可得詳紀」の理由は「大興師旅誅淵」と「遣偏師致討窮追極遠」という いずれも魏代の軍事作戦。
さて、では如淳曰:如墨委面、在帶方東南萬里。 だが、
正始の使者来倭以降の認識だとすれば、資料にあるのは萬二千余里だ。
よって、如淳の注記は、東夷絶域時のものであることが判る。
つまりこの萬里とは漠然とした遠いという意味の修辞と考える以外に無い。
では、倭人伝の萬二千余里はどうだろう?
先行史書の魏略に地誌にあたる記述があるが、その里数を積み上げて萬二千余里とするのは無理がある。
つまり、萬二千余里とは行程の総和では無い。ではこの萬二千余里はどこから出てきた数字なのだろう?
行程の総和でない以上、使者来倭によりもたらされた数字ではないと考えざるを得ない。
複数の資料からの推測と考えるのが妥当。それが見えるのが
「參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里」という記述である。
あらためて言うが、魏代の認識では、在帶方東南萬里。倭とは孔子が憧れた地、そしてなにより金印下賜の倭。
しかし上述の通り、この萬里は修辞でしかない。それに二千余里が付加されている理由は、使者来倭による情報量の増加と捉えて差し支えない。
よって修辞の「萬里」が実際の地理との乖離の理由。
寝る
730 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 01:45:45.47
短里だと
1里=300歩
1歩=6尺
ではないのか
ではどういう計算になるの?
731 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 01:47:43.54
万二千里も万里だろうが。頭が固いなあ。
732 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 02:02:01.46
733 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 02:02:06.07
だな
萬里でも萬二千餘里でも、具体的数字でなくすんごく遠い所だよーんっつー意味だろうね
>>729 >それに二千余里が付加されている理由は、使者来倭による情報量の増加と捉えて差し支えない。
何だこのトンデモ論理は?
未知の国なら漠然とすげー遠いで意味は通じるが、
実際の訪問記録で目印となるようなどこどこまでが何里でと細かく書いてあって、
最後にトータル距離は漠然とすげー遠いで締めくくるなんてありえんだろ
>>729 中国で萬二千餘里が修辞として使われたことが他のケースであるなら出典が必要
別に二千でも三千でも四千でも構わんが
ローガンは他人に厳しく、自分には甘い。
>使者来倭による情報量の増加と捉えて差し支えない。
ローガンは、まず自分のこの一方的断定の証拠を出せよ。
738 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 05:28:56.88
隋書百済伝によると、水行一月=80キロ=短里千里
倭人伝より、総合計は
7000+1000+1000+1000+500+100+100里
水行20日
水行10日+陸行一月
より、
10700里+水行一月+陸行一月=
10700+1000+1000=12700里
つまり、万二千余里
739 :
サガミハラハラ:2013/07/18(木) 07:31:40.49
>>730 それは秦の始皇帝が度量衡を新しく定めてから後の話。
それ以前は1里は50歩でした。
50歩100歩の故事があるでしょ。あれは、1里逃げたものと2里逃げたものの違いということになります。
740 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 07:39:30.90
もともと、一尺は大きく広げた親指と人差し指の距離。
一歩は足の大きさ。
時代とともに巨大化してくる。
萬二千餘里が修辞として使われてる例はよ
742 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 09:28:16.68
だからって5倍6倍にはならんだろ
743 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 09:34:36.96
>>739 一里が50歩だったなんて聞いたこと無いぞ
744 :
満州パンダ明明:2013/07/18(木) 09:38:23.24
>隋書百済伝によると、水行一月=80キロ
アナタ、コレ間違イアルヨ。
イーカゲンニシロヨ、コノヤロメ。
745 :
風の中のゴキブリ:2013/07/18(木) 09:53:13.55
ネタが切れて難癖専門になった夢幻如くそワロタw
もはやただの荒らしだ
5倍6倍なら、
6尺一歩、5尺一歩が、昔は一尺一歩だったってことじゃね?
748 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 10:10:33.04
さすがにそれは無いだろ
単位が違う意味が無いわな
750 :
サガミハラハラ:2013/07/18(木) 10:47:01.78
>>743 この説は福永晋三がとなえた説で、拙書の「神功皇后は実在した 明窓出版刊 平成19年発行」及び「邪馬台国の終焉 明窓出版 平成25年発行」
にて紹介しております。ぜひご購読のほどを。
ギーコギーコと首を斬る
752 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 12:15:17.60
>>750 だったら「〜という説もある」と書かないと
754 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 13:12:21.58
このブログ参考になったわ、なかなかおもしろい。
孝のつく四天皇は、神武天皇を助けた吉備はじめ中国・四国地方の豪族ではと考えていたが、
孝霊天皇に関して同様のことを述べてるな。
755 :
ローガン:2013/07/18(木) 14:48:07.71
今来た
>>736 >中国で萬二千餘里が修辞として使われたことが他のケースであるなら出典が必要
そりゃそうだ。
で、当方の主張は「上述の通り、この萬里は修辞でしかない。」なので萬里が修辞の用例
「宇内萬里」
「大漢方制萬里」
「中国之人以億計地方萬里」
>>737 >>使者来倭による情報量の増加と捉えて差し支えない。
>ローガンは、まず自分のこの一方的断定の証拠を出せよ。
既に書いてあるが…
而公孫淵仍父祖三世有遼東天子爲其絶域、委以海外之事遂隔斷東夷不得通於諸夏
淵を斬るまで東夷は絶域なんだ。
景初中大興師旅誅淵又濳軍浮海收樂浪帶方之郡而後海表謐然東夷屈服。其後高句麗背叛又遣偏師致討窮追極遠踰烏丸骨都過沃沮踐肅愼之庭東臨大海長老説有面之人近日之所出遂周觀諸國采其法俗小大區別各有名號可得詳紀。
景初中に進軍し淵を斬り、その後背いた位宮を追い進軍している。
二度の軍事行動をもとにした「周觀諸國」により、「可得詳紀」という訳だ。
ただ日本には進軍していないので使者来倭がこれにあたる。
淵存命の絶域時、萬里と言われた日本までの距離に、二千余里付加されたのは、使者由来の情報と考えるのが妥当。
>>755 >淵存命の絶域時、萬里と言われた日本までの距離に、二千余里付加されたのは、使者由来の情報と考えるのが妥当。
肝心のこれの類例、出典がないけど?
まとめると、
「萬里」はすごく遠いという意味の修辞として使われることがあるが、
「萬二千餘里」はそういう用法はなく距離である
758 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 15:10:53.76
>ローガンは、他人に厳しく、自分に大甘
まさに、その通りのカキコでわろたww
759 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 15:17:15.82
>>732 >1里=360尺とか考えるわけだよ。
なるほど5分の1か
じゃあヒミコの墓の径百余歩
120尺で直径30mの墓ってことでいいの?
しかしどうやったらこういう屁理屈人間が出来上がるのかな
自分の間違いを認めたくないために論点すり替えたり詭弁で誤魔化したりって日本人の持ってる誠実さとはかけ離れてるな
生まれつきの性格なのか、親のしつけの問題なのか、教育の問題なのか
いくつくらいのやつか知らんけどこのままだと人生無駄になるからやり直すなら早い方がいい
761 :
ローガン:2013/07/18(木) 16:19:06.20
>>756 >肝心のこれの類例、出典がないけど?
論証の類例出典ってなんだ?
論拠は二度にわたり提示済みだがね。反論があるなら聞くが。
762 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 17:16:40.17
一度使者がくると二千里ずつ増えるのか、まるでスーパーのポイントカードみたいだ
ともあれ、使者が来た論拠と、二千里増える論拠を使い分けてるな
畿内説の大御所はなかなかしぶといわい
いままで、この手で世間を渡って来たんだろうな
763 :
満州パンダ明明:2013/07/18(木) 17:33:49.53
>>753 ソレ、ワタシジャ有馬温泉デスネー。
ワタシ、モット頭イーデスハンソン。
ツマラナイ洒落デ、スミマ千円デース。
764 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 17:37:13.70
>755 名前: ローガン 投稿日: 2013/07/18(木) 14:48:07.71
>二千余里付加されたのは、使者由来の情報と考えるのが妥当。
なぜ妥当なのかの論拠をお願いします。
万二千余里
この内、帯方郡から狗邪韓国までが七千里、
狗邪韓国から松浦までが三千里、
不弥国までが700里
既に一万里の詳細は書かれており、
「萬里が修辞の用例」には該当しない。
766 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 18:04:51.78
末廬国までが10000里で残る2000里はそこから先、すなわち倭地に上陸してからの距離
つまり「萬二千餘里」は倭地上陸までの距離に従来からの情報である「萬里」を当て嵌め、それに倭地上陸後の距離である2000里を加えた数字である、と言いたいのだろローガンは
ローガンは
>>755で、話を煙に巻いただけで、
「根拠」は自分の思い込みだけです、って吐露してるわけか。
はやく根拠を出さないのか、ローガンは。
あ、ごめん。お前、畿内説詐欺師の代表格だったな。
何を語っても、詐欺しか出せるわけないか。
768 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 18:54:59.51
根拠は挙げてるのだからそれが妥当か否かという話をすべきでは?
766の解説は、ローガンが承諾していないから、いまのところ煙に巻いただけだな。
770 :
ローガン:2013/07/18(木) 20:56:54.82
>>764 >なぜ妥当なのかの論拠をお願いします。
○景初中、公孫淵存命中はまだ東夷は絶域だった。倭までの距離は萬里とされた
○正始になって使者が初めて倭を訪れた。その後に書かれた魏書に萬二千余里とある。
○倭人伝に「参問」とある以上、萬二千余里は単一資料によるものではない。
○時代が下る書に夷人不知里数とある
☆よって二千余里の付加は使者由来のもの
論拠は、三国志、隋書 以上。
>>765 それについては又後程。
>>769 では承諾しましょう。
今から帰るので又後程。
771 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 21:08:24.52
参問てどういう意味よ
四問の前
これは数ある見立ての一つに過ぎず、他の説を排除できない。
774 :
紫敷布:2013/07/18(木) 21:28:26.62
>>729 :ローガン
>
>>692:床擦れ紫敷布
なによこれ。他人の名前をいじって貶めるなんて、日本男子のやることかしら。下劣な品性が現れてきたわね。
おっさん、女性にもてたことないでしょ。
それに、長々とくだらない書き込みをしているけど「机上で創作された数字の書かれた先行史書」が何であるか
指摘もできてないじゃないの。情けないひとね。
またローガンが屁理屈こねくり回して挙句の果てに矛盾して自滅してんのか
アホすぎ
○景初中、公孫淵存命中はまだ東夷は絶域だった。倭までの距離は萬里とされた → この萬里は漠然と遠いの意味
○正始になって使者が初めて倭を訪れた。その後に書かれた魏書に萬二千余里とある。 → この萬二千余里は純粋に距離
○倭人伝に「参問」とある以上、萬二千余里は単一資料によるものではない。 → 萬二千余里だけが別ソースの根拠なし
○時代が下る書に夷人不知里数とある → まあこれは関係ないからどうでもいいけど
はじめは萬里は漠然と遠いの意味だから、適当に2000里追加した萬二千余里も同じようなものだとこじつけて
里数は創作だのトンデモ説の根拠にしようとしてた
トンデモ仮説からトンデモ結論を作りだして、今度はトンデモ結論でトンデモ仮説の説明をしてる
もう滅茶苦茶だな
「萬里」は漠然と遠いの意味として使ったり
二千余里を足すときには数字の10,000里の意味としたり
もう滅茶苦茶
それに使者が来たら二千里増えるってなんだそりゃ
千里とか三千里、四千里じゃいかんのか?
778 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 21:42:36.84
参問だとか、度だとか、どっかのスレでは踏み返しなんてのも使ってた
度とはなんぞやとおもったら、この度(このたび)だったな。
しばしばハッタリ語や引っかけ語が入るからなww
779 :
紫敷布:2013/07/18(木) 21:48:11.08
>>776,
>>777 そうよねえ。ローガンのおっさんは自分は利口だと思っているのでしょうが、まぬけね。
780 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 21:53:13.59
どの道、末蘆国上陸後の2千里はだれがが洛陽へもたらしたのだから、ローガンの論にさしたる意味なし。
それより、自郡至女王国万二千余里 のうち上陸後の2千里は日数からの逆算(推算)でなく、
(中国人)使者の里数確認によるものであることを確認したことは大きな意味を持つ。
これでローガンは九州説を容認したに等しい結果となるだろう。
781 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 22:07:32.11
参問の意味は「聞く。尋ねる。問う。」だよ。
倭の地は、と問えば「絶海の洲島の上に離れたり連なったりし、一通り巡ると五千餘里」
ぐらいの意味だね。要するに概観を言ってる。
ここで洲島とは倭の本島のようだが九州島のことだろう。
この文からは本州島や四国島の存在は見受けられない。
782 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/07/18(木) 22:08:15.59
ローガンは盲象学者。哀れな奴だ。
しかし唐松山よりはずっとマシ。宿主は超S級の盲象野郎。
満蒙巣コングは盲象A級。
783 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 22:09:07.19
既存情報の(修辞である)「萬里」は尊重しつつ、その数字に上陸後の距離情報である二千餘里を合算したって事だろ
そんなにおかしい話ではないと思う
だからって何で畿内になるのかさっぱり分からんが
784 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 22:10:35.54
太国さんは短里についてはどう思いますか?
785 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/07/18(木) 22:14:26.76
もう寝る時間だ。w
ローガンはおそらく長里でないの?
だってローガンは扶桑国を北米あたりでこちらに反論を過去に書きこんでいたと思ったぞ?
だいぶ過去の論争だったので、はっきりせずいまは忘れたころだが・・・?
だから奴は長里なんだろう?
zzzzzzzzz・・・・・
786 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 22:25:43.68
畿内だとそもそも方角が違うよね
787 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 22:32:28.74
畿内説の大御所と奉られて舞い上がっていたローガン教授、その口癖は、
>理由は何、根拠は何、出典は何、その論証が求められる、その具体例が求められる、
しかし今では、理由は何? 根拠は何? 出典はどこ? で追いまくられる日々ww
788 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 22:42:27.02
その辺は全部提示してるじゃん
サイキバは無視
九州だよ
791 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 22:50:01.32
>>770 追加された二千里余の根拠が無いよ。
使者由来の二千余里の根拠の出典を明示したうえで論証出来なきゃ
主張の根拠は自身の見解 という循環論法でしか無いんだがね。
さてあなたに出来るかな?
793 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 23:03:35.28
循環論法の意味解ってないだろ
>>781 島を一周できてるんだから九州だけだよね
本州まで含めて日本一周ではできなかっただろうから
795 :
ローガン:2013/07/18(木) 23:22:20.11
>>774 >情けないひとね。
駄レス書く暇があるなら なぐさちゃんの見解
「梯儁に同行した書記官その他の従者にも現地採用の人間が多かったのじゃないかしら。彼らが周の里を用いていたらどうかしら。魏軍共通の里に換算するのは本国の者がやれば済むことだし、現地でいちいち換算するのは面倒だから使い慣れた里で記録した」
という、複数の見解をそれぞれ論証してみたらどう?云いっぱなしもつまらんだろう。
その論証それぞれに高い蓋然性が見いだせるなら、勿論私は自説を引っ込めますがね。
796 :
日本@名無史さん:2013/07/18(木) 23:25:36.03
797 :
ローガン:2013/07/18(木) 23:48:44.91
>>773 これは数ある見立ての一つに過ぎず、他の説を排除できない。
勿論そうだ。より蓋然性が高い推論か有れば、そちらを支持し、自説を棄却する。
>>780 >それより、自郡至女王国万二千余里 のうち上陸後の2千里は日数からの逆算(推算)でなく、
(中国人)使者の里数確認によるものであることを確認したことは大きな意味を持つ。
漸く意味を理解してくれる人が現れた。
>これでローガンは九州説を容認したに等しい結果となるだろう。
九州説の容認?
以前から認めているが…
短里とか幼稚な言い出すから口を出さざるを得ないだけだ。勿論まともな九州説の方に迷惑なのは承知。
798 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 00:07:43.48
1里=1800尺
短里だと1尺何cm?
>>797 皇帝に献上する正式な報告書の中に萬里を漠然と遠いの意味と距離の10000の意味の2つを
同時に合わせ持つような使い方が問題ないと証明する必要があるな
語呂合わせやダジャレじゃないんだから
ローガンは、頑迷固陋な畿内説詐欺師であって、
九州説を叩くためにここにきてるわけだろ。
何をいまさら、九州説を容認とは笑わせる。
801 :
ローガン:2013/07/19(金) 00:38:40.68
>>799 >皇帝に献上する正式な報告書の中に萬里を漠然と遠いの意味と距離の10000の意味の2つを同時に合わせ持つような使い方が問題ないと証明する必要があるな
なら、そう主張しているヤツに言ってくれ。アンカー私に付けるのなら、私のレスくらい読むのは礼儀だろう。
まして名無しとちがい、コテなんだから他との区別は容易いと思うんだが。
言っても無理か…
倭国は帯方郡から「萬里」のかなたすごく遠くにあると昔の文献に書いてありました
邪馬台国に行った役人が実際の距離を測量したところによると倭国に上陸後からは「二千里」でした
↓
陳寿は2つの情報を合体させて倭人伝に帯方郡から邪馬台国は「萬二千余里」と記述しましたとさ
ほんとにこんなことやったら打ち首もんだろwww
アホか
803 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 01:09:39.67
老眼は漠然と遠いの意味の万里を末盧国までの距離に割り振った、その先の2000里は
実数だとこじつけたわけだ。
しかし、韓国方4000里、対馬国方400里、一大国方300里などは万里の割り振り
とは関係ないはずだが、それも万里の割り振りに合わせて1里80メートルぐらいで書い
たというのだろう。となると、上陸してからの2000里も割り振りに合わせてあるはず
だが、そこは都合が悪いから知らん顔するわけさ。
つまり、畿内説特有の苦し紛れのこじつけ理論さ。ボケ老人はごまかせるかも知れんとい
う考えだろうよ。
804 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 01:12:33.29
でも実際に末廬国まで10000里も無いのだからその推理も当たらずも遠からずではないかな
どの道いい加減な数字であるのは明白
805 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 01:19:32.93
海の上で足跡カウントするのとかほんとたいへんだよね
流れに逆らって操船してあげたら
移動もさほどしないくせに
足跡のカウント値だけがどんどん上がってしまうよ
倭人伝の情報ソースは複数あっただろうな
地誌について書いてある場所が2か所に分かれている以上少なくとも2人の情報をもとにしてるだろう
1人は行程について詳しく書いてる人
帯方郡から狗邪韓国までが7000里とか、一大国から末廬国までが1000里とか、末廬国から伊都国までが500里とか
この人は伊都国までしか行ってないので邪馬台国は水行十日陸行一月としか書いてない
もう1人は邪馬台国まで直行した人
張政か誰か知らないけど魏の役人か軍人
だから自郡至女王國萬二千餘里と書けた
他人には厳しく、自分には大甘のローガンは、
証拠を出せだの、根拠を示せだの他人にはネチネチ言うくせに、
>>803のとおり、お粗末な論理展開。
私は畿内説で生活しているから、私の生活を守ってください、と
土下座しながら正直に言えばいいものを。
仮に上陸後2000里ならはっきり書くだろ
あえて書かずに修辞の万里と合計して万二千余里と書いたなんてこじつけとしても限度を超えてる
もともとは短里を否定したいがため里数は創作と言い出したんだが、もう少しまともな理屈を考えられなかったのかな
というかそんなトンデモが合理的な説だと自分では考えてるところが非常識だし不気味でさえある
まともに社会生活送れてるのか疑う
809 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 03:36:54.10
>>803 >となると、上陸してからの2000里も割り振りに合わせてあるはず
別々のソースならそうは限らないだろう しかし必死で否定しているな >サイキバくん
810 :
風の中のゴキブリ:2013/07/19(金) 03:43:47.09
ローガン完全に逝ったね
ご愁傷さまです
そろそろ別の話題を
812 :
サガミハラハラ:2013/07/19(金) 08:20:32.51
万2千余里とは総里数、郡から邪馬台国の都まで、のことですよ。
水行10日陸行1月とは総日数のことです。
投馬国の水行二十日は脇道のことで、総日数や総里数にはいりません。
九州説はどうせパズルしかやること無いだろw
814 :
満州パンダ明明:2013/07/19(金) 08:24:58.60
やはり安定の行程パズルw
816 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 09:32:19.36
1里=1800尺
短里だと1尺何cm?
1歩は何cm?? 教えてよ
817 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 09:37:57.11
1里=300歩
1歩=6尺
短里でもこの換算方式なのか?
だとしたら一尺は何cmなのか?
それとも換算方式が異なるのか?
短里にはこの辺を説明する史料が皆無だよね
だから絵空事としか言い様がないんだよ
818 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 09:59:25.50
1短歩が1尺では格好つかぬ
短里−短歩−短尺というような短い系はないと思うよ
ま、1短里=50歩 みたいな感じでいいんじゃないの、キリもいいし。
>>814 あのブログやっぱり満州さんのですよね
満州って名前で古代史のブログやってて
畿内説を支持してて
記紀を重視する考えを持ってる
これだけでかなり絞られてくると思う
でも同一人物じゃないかと思ったのはこういった表面的なことじゃなく
いくつか特徴的な視点を持ってたからなんです
たとえば、出雲国譲り後なぜニニギは日向へ行ったかを疑問だと考えた点などがあります
820 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 10:10:19.70
東夷の里の体系がわかればいいんだけどな。
明らかに公里と違うのに、文献が残ってないのが
悩ましいところ。
当時の東夷の里の体系が載った文献があれば教えてくれ。
そもそも、文字があったかどうかも怪しく、
おそらくは倭の日数もまだ文字を使っていない時代なので、
残っているとは思えないけど。
残っているためには、ある程度の下級役人層まで、
文字が普及し、それが記録できる環境であることが、
前提条件となる。
記録を要求するならば、その前提が満たされていると考えているのかな。
821 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 10:22:33.05
つーかそういう文献も無いのによく「東夷の里」なるものがあったと思い込めるよね
マシで不思議
822 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 10:24:55.32
>>817 前に書いたのを読まなかったのかな? 直木孝次郎氏は、「360尺(6尺1歩とすると
60歩)=1里という特別な里制があったのであろうか」と書いているよ。
823 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 10:26:17.41
東夷の里の根拠は、倭人伝や隋書などだな。
明らかに公里と違う里が記録されている以上、
単位の違う里が使われていると推測するのは自然なことだろ。
824 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 10:29:45.51
ごく最近まで統一されることもなく、
日本の一里は4キロメートル、
中国の里は450メートルだった。
地方と時代によって単位が違うと考えるのは当然のこと。
825 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 10:32:59.93
ちなみに、今中国語で一里とかかれていたら、
1キロメートルのことらしい。
826 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 10:36:30.61
>>822 その直木さんはどの史料を元にそういう主張をしてるの?
中国じゃ日本の通貨単位を、日元って呼んでるぐらいだから、
倭人伝の里も、現地で使われている度量衡だろう。
828 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 10:58:04.53
でも倭人は距離を日数で数えていたんだろ
だから倭人伝の「里」は現地の距離単位って訳では無いじゃん
となるとやはり魏の「里」とするのが一番自然
829 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 11:01:28.30
日数は倭の距離単位だろ
830 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 11:12:22.69
だから現地の距離単位で書いたというのであれば倭地については全て日数表記じゃないとおかしいでしょ
でも実際は里数表記
ということは現地の距離単位で書いた訳では無いってこと
中国人が行ったとこは里を、行ってないとこは日数で書いてあるじゃん
邪馬台国は勅使みたいな人は行ってるから万二千里ってなってるし
下級役人か交易商人だかなんだかの人は伊都国まででその先は日数でしか書いてない
832 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 11:38:09.02
「里」は距離単位の名称であり、国語の問題。
「1単位」が何メートルであったかは算数の問題。
国語の時間と、算数の時間は区別してお勉強しなさい。
833 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 11:39:25.88
倭地でも、不弥国までは大陸との交流も多く東夷の里が使えた。
しかしそれから先は、東夷の里ですらわからず、
倭の日数を持ちいた。
と言う事じゃなかろうかね。
834 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 11:46:04.14
不弥国から先の距離は千三百里、これを加えて万二千余里。
これくらいスラスラ暗算できなきゃ中国貴族の資格なし。
日本の中学も入学できぬ。
女王国まで万二千、瀬戸内周辺という事だね。
836 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 11:51:04.48
うん、あさっての方角だけどな。
837 :
サガミハラハラ:2013/07/19(金) 11:56:56.21
周の時代の1尺は22.5cmであり、1歩は1.35cmです。
1里は50歩であったので、1.35x50=67.5となります。
始皇帝は1里50歩であったのを6倍にして、1里300歩とした。
くわしくは、後藤幸彦著「邪馬台国の終焉ー卑弥呼の野望と壱与の挫折ー」のp49
からか、「神功皇后は実在した」のp346からごらんください。中国各時代の度量衡については「角川漢和中辞典の付録p1311をごらんください。
838 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 11:59:28.44
>>826 倭人伝が書く距離の比率があっているからでたらめの数値を書いたとは思えない
ということで、そのような里が存在した可能性を考えているんだよ。
>>831 行ったかどうかで区別しているわけではない。行ったところでも日数で表示している。
距離が良く分からないところを日数で表示するということだろう。
839 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 12:02:53.76
>>834 その前に国語の勉強だ。万二千里は女王国までの距離であって、邪馬台国までの
距離ではない。
840 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 12:06:53.74
>>822 てことはヒミコの墓の直径は150mということか
841 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 12:10:31.30
>>840 そうなりそうだな。ただ、歩というのは、現代ならば距離の単位ではない使い方も
ある。倭人伝の場合にどうかは分からんがね。
842 :
満州舞子:2013/07/19(金) 12:31:46.20
>>819 それ、うちやあらへんえ〜。
あんたはん、気ぃきかんおひとどすな〜(笑)
>>836 奴国を本州西部に跨る国と考えれば無問題
844 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 12:40:25.35
>>833 >倭地でも、不弥国までは大陸との交流も多く東夷の里が使えた。
>しかしそれから先は、東夷の里ですらわからず、
>倭の日数を持ちいた。
じゃあ12000余里はどこから出てきた数字?
○○○までの距離とか日数って言ったら古今東西、首都とか中心地までのことを表すよね
まさか国境までの距離ではないよね
846 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 12:53:54.13
高句麗伝あたりを読んでみな。国境までの距離を書いているよ。
>>845 国の主要地が中心部にある訳でもないし。
奴国は5万戸を誇る大国なのに、何故かその事無視する人が多いよね?
この時期最大級の遺跡でも数百戸程度だぞ。
奴国は五万じゃないな。
849 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 13:49:26.05
>>839 1時間目の国語の時間で〜す。
女王国とはどの範囲を言うのでしょうか??
850 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 13:52:42.83
万二千里の所から始まり、南の奴国の尽きるところまでの領域だよ。
>>849 >女王国とはどの範囲を言うのでしょうか??
伊都や奴国は男王の国だから九州より東の国だな。
852 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 14:08:37.84
普通に女王国=邪馬台国だろ
馬鹿じゃなかろか
現代の道路標識は、異国間においては国境までの距離が表示されて
同一国内では自治体(州や都道府県や市町村)の首長がいる役所までの距離が表示される
854 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 14:20:27.79
>>833 >倭地でも、不弥国までは大陸との交流も多く東夷の里が使えた。
>しかしそれから先は、東夷の里ですらわからず、
>倭の日数を持ちいた。
じゃあ12000余里はどこから出てきた数字?
855 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 14:22:18.64
>>普通に女王国=邪馬台国だろ
史書はそんないいかげんな書き方はしないよ。
考えてもみろ。伊都国から千五百里で邪馬台国へつくなら、水行10日陸行1月もかかる
ものか。何で日数を書いたと思う? 里数が分からんからだぞ。総里数なんぞ書けるわけが
ない。
856 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 14:34:00.54
>>850 >南至邪馬壹国、女王之所都、
>自女王国以北、其道里可得略載、
>其余旁国不可得詳、次有斯馬国、次有・・・
このような骨組みなので、女王国の位置記述に傍国は関わっていない、
また傍国は、女王国の南北東西遠近いずれにあるか言及されておらず、奴国は必ず南にあるとはいえない、
よって
>>852 の如く解するのが妥当でしょう。
857 :
サガミハラハラ:2013/07/19(金) 14:37:17.24
訂正お願いします。
>>837の、1歩は1.35cmを1歩は1.35mに訂正お願いします。
858 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 14:41:56.70
>>855 >自郡至女王国万二千余里
文章の中締めとして、しっかり総里数が書かれておる。
なお「里数は距離」、「日数は時間」、かくして距離+時間はいい加減な書き方の典型でござる。
859 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 14:52:16.73
>>855 812 :サガミハラハラ:2013/07/19(金) 08:20:32.51
万2千余里とは総里数、郡から邪馬台国の都まで、のことですよ(注:距離)。
水行10日陸行1月とは総日数のことです(注:時間)。
投馬国の水行二十日は脇道のことで、総日数や総里数にはいりません。
倭人伝にとてもお詳しく、著書もたくさんあるサガミハラハラ先生も、このように申していらっしゃるぞえ。
860 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/07/19(金) 15:18:44.90
>>814 満蒙巣コングよ
それはオマエの論に対する評価だよ。
名誉を毀損するのが目的ではない。
オマエこそコチラを書紀に違背するとかの非国民だと言ってたではないのか?
自分のことをよく考えろ!
861 :
ローガン:2013/07/19(金) 16:15:39.90
>>809 私も
>>803に以下の件を訊いてみたいなあ
「>となると、上陸してからの2000里も割り振りに合わせてあるはず
別々のソースならそうは限らないだろう しかし必死で否定しているな >サイキバくん」
>>828 >でも倭人は距離を日数で数えていたんだろだから倭人伝の「里」は現地の距離単位って訳では無いじゃんとなるとやはり魏の「里」とするのが一番自然
同意。短里とは魏の里であったと主張しないとなあ。
でないと
>>774みたいに
「梯儁に同行した書記官その他の従者にも現地採用の人間が多かったのじゃないかしら。彼らが周の里を用いていたらどうかしら。魏軍共通の里に換算するのは本国の者がやれば済むことだし、現地でいちいち換算するのは面倒だから使い慣れた里で記録した」
などという論証不可能なことを云わなくちゃならん。
862 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 17:04:40.76
理屈というより、里屈探しがふさわしそう
863 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 17:11:52.83
山台国 阿蘇山 蘇我氏のふるさと
九州と瀬戸内が倭国領でいいんでないの
南の概念今と違った
864 :
満州舞子:2013/07/19(金) 17:21:35.61
太国はんも冗談の分らんおひとどすな〜(笑)
そんな怖い顔せんと、また遊びに来ておくれやす。
せやけど九州の男はんも物分りが悪いどすな〜。
短里がどないやらこないやら…。
そんなもん、あらしまへんえ(クスクス)
865 :
サガミハラハラ:2013/07/19(金) 18:05:18.93
何度もいうが、陳寿は晋の図書館で三国志かきあげたのである。実地にいって計測したのではない。
このことに異議のあるかたはおられませんでしょうね。
866 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 18:25:30.08
サガミハラハラ氏はグーグルアースで邪馬台国を見つけなさい。佐賀県の原口とか言う民主党の馬鹿が言っているよ。
867 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/07/19(金) 18:34:31.40
868 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 18:50:22.58
>>856 >傍国は、女王国の南北東西遠近いずれにあるか言及されておらず、奴国は必ず南にあるとはいえない、
だからだよ。旁国はどこにあるか分からないんだ。
邪馬台国よりも北にあったらどうなる? 邪馬台国=女王国だったら、女王国以北に戸数・道里の書けない
国があるということになる。しかし、倭人伝はそれがないと明言している。つまり女王国の中に旁国が入っ
ているということさ。それならば、邪馬台国よりも北に旁国があっても何の問題もない。
869 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 19:06:55.98
>>861 >別々のソースならそうは限らないだろう
ソースは一つさ。統一がとれた記載だ。
仮にソースがいくつかあって使用した距離単位がちがうものがあったとしても、
陳寿が使用単位の違う記事をごっちゃにするわけがない。それに、万二千里と
会稽東治の東とは短里でつじつまがあっている。
870 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 19:23:40.66
>>868 だから傍国は邪馬台国=女王国以南に有るってことだろ
要は帯方郡からずっと南下して女王国までは行ったがその先の国は行ってないよってことでしょ
普通に読めば
871 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 19:51:15.19
南行は今で言う下りほどの意味で
倭国の南は東日本が妥当
872 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 19:59:25.78
実際の方角は知らんが文意としては南だろう
873 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 20:07:45.84
ここは九州説スレだから九州説以外の人は出て行け。畿内説を言いたい人は畿
内説スレを作って、そっちへ移れ。マンチュ氏、畿内説スレぐらい作ったらどう
だ。だらしないぞ。
874 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 20:09:41.76
>>868 >従郡至倭、到狗邪韓国。
>始度一海至対海国。
>南渡至一大国。
>渡至末盧国。
>東南陸行到伊都国。
>東南至奴国。
>東行至不弥国。
>(南至投馬国水行20日)←脇道
>南至邪馬壹国女王之所都。
こまで来たところで、自女王国以北、其道里可得略載、となっている。
つまり以上の国々は、邪馬台国女王之都(女王国)に至る主要幹線航路・道路が通過する「重要国」であり、
里数を記載することとする・・、と読むべきであろう。
そして、其余旁国不可得詳(その他大勢の国々は、里数や位置関係など詳細を省略するが・・)、
次有斯馬国、次有・・・、と21国が続く。要するに旁国は、どうってことない二流属国扱いだわな。
875 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 20:24:44.53
卑彌呼さんから鏡とかのプレゼントを配分するようにと明帝さんからいいつかった
其余旁国(20國)は建前上倭國政権内ので卑彌呼さんになまなまお任せといったスタイル。
欲しいものとかは女王の耳に達するようにしてあげればある程度答えてくれるだろうし
利益関係とか低レベルだから毛唐のほうはあまり興味とか涌かない。
876 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 20:31:39.20
邪馬台国は九州でも大和朝廷は
東日本の王のおかげで白村江の戦いで
唐の捕虜になった傀儡天皇を唐から守ってできた
ヤマトタケルのみことは在日唐軍を滅ぼした
天武天皇
島原半島に邪馬台国を置いて、対岸の熊本側を見ながら
傍國の21ヶ国を北側へと読むと辻褄は合うんだよな。
ずいぶんと前にも書いたけど。
狗邪韓国
↓
対馬
↓
壱岐
↓
末盧(九州島上陸)
.\
..伊都國→→不彌國...↓\
..↓.\
..↓..\
..↓...奴國
.投馬國..↑
..↓...↑
..↓...↑
..↓...↑
..↓...↑
.邪馬台……斯馬
879 :
満州舞子:2013/07/19(金) 22:40:54.90
>>867 うち、そんなおひと、知らしまへんえ〜。
うちとそんなおひと、一緒にせんといておくれやす〜。
太国はん、いけずやわ〜。うち、いけずなひと、嫌いどすえ〜。
>>873 うちは畿内説やあらしまへんえ〜。
なんでうちが畿内説スレ作らなあかんのんどす?
あんたはんもいけずやね〜。いけずなひと、嫌いどすえ〜。
880 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 22:42:11.63
>駄レス書く暇があるなら なぐさちゃんの見解
うん???ローガンさんお久しぶりです。なぐさですよ。
で、そのなぐさちゃんって、わたしのこと?
わたし、そんなこと言っていないですよ???
そんで、・・・倭人伝の行程記述の箇所は魏の使者たちが来倭したときのものでしょうか?
わたしは違うように思います。
倭人伝の行程記述は、北部九州の国々を調べた、卑弥呼朝貢時より少し時代が古い
帯方郡に存在していた紀行文を参照したものでは?
倭国と朝鮮半島の国々は、卑弥呼が朝貢するはるか以前から往来がありますよね。
公孫氏が楽浪郡を支配下に置いた時代にも、倭について調べられていたとも考えられるわけ
でしょう?
で、その行程記述は朝鮮半島の国々で使用されていた尺度が使用されている。
これは、始皇帝が統一するまでの戦乱期に中国から朝鮮半島に移住した時に伝えられたもの。
881 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 22:59:35.80
>>870 旁国が南にあるなどと言えるわけはない。常識的に考えてみろ、北にだって東にだって
ある、それが旁らの国だろうが。
882 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 23:06:20.41
実際の傍国の位置は分からんが、あの文章は傍国は女王国より南にあるという想定で書かれているだろ
883 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 23:12:05.99
>>710 亀レスですまんが、やはり言いたい。
このスレ的には、魏代の人たちはどうやって距離を測ったと思っているのだろう。
1) 巻尺とかで測った
2) 歩数を数えた
3) 単位時間に歩いた距離で測った
4) その他(天測したとか)
885 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 23:16:27.01
>傍国は女王国より南にあるという想定
そんな想定はないね。道里を書けないというのだから、どこにあるかも確かめていないってことだ。
女王国より以北にある旁国(不彌國や末盧国は旁国だろう)は道里が書けたってことね。
886 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 23:18:04.05
>>882 「旁国は遠絶にして詳らかにするを得ず」
東西南北、大小遠近、ようわからんかったといっとる。
ま、本音はその他大勢の国々には深く関わりたくないという言い訳、逃げ口上じゃなかったのかな。
887 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 23:18:16.70
女王國以北は「其道里可得略載」
つまりそれまでに紹介してきた国々
>>886 横レスだが、遠近については「すげー遠い」と言ってる気がするが。
889 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 23:20:01.01
>>885 は、はぁ…
どうしたらそういう解釈になるのかね…
女王國“以北”はその戸数道里を略載しまっせ
その余の旁國は遠絶ですんで詳しく出来ません
↑
って前置きして、旁國の名前が次々と上がって行くでしょ
戸数も何も無しに、国名だけ淡々と
891 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 23:25:20.24
>>884 以前、邪馬台国スレのどこかで、当時すでに羅針盤を使用していたというカキコをみた。
水に浮かべた鉄針とかなんとか。ならば天測儀もあったとの推測はあり得る。
>>891 でも距離を得るためには、地球の直径(子午線長)が必要だぞ。
その距離はどうやって測ったのかと。
羅針盤があって方角を間違えるってことはないわな
邪馬台国は南で確定
894 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 23:34:55.27
>>888 幹線沿いの主要国を記述するに精一杯で、「すげー遠い」は逃げ口上でしょう。
「実は近い傍国もあるにはあったのだが・・」では、
「ならば、近いところは書け」、と言われかねませんからね。
895 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 23:38:53.70
>>892 子午線全長は不要、中国大陸の平原で子午線のごく一部を測定し、角度と距離の関係を求めればよい。
海で道が途切れて女王國から行けないからです
遠絶←絶の字が大事
897 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 23:41:22.45
>>889 何が理解できないのか、そこが分からない。
邪馬台国は水行10日陸行1月の遠いところにあるんだ。南九州だよ。
当然、中九州あたりに旁国がいくつかあるだろう。
>>895 そこだそこ。
>中国大陸の平原で子午線のごく一部を測定し
の「測定」は、どうやって測ったのかと。
>>898 例えばの話で…
・五人編成と仮定して、一列に並び進む
・ほぼ等間隔で歩く事を守る
・それで隊列の長さは決まる(基準尺)
・先頭の人間が棒を地に刺す
・その棒をシンガリが抜いた時、基準尺だけ進んでる
・【棒を抜いた数×基準尺=移動距離】
・シンガリが抜いた棒は、バケツリレーで先頭へ
棒は五人編成なら、三本あれば十分かと
900 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 23:54:48.23
>>898 そんなの簡単ですよ。オレでもすぐ考え付くわ。
女の黒髪か馬の尻尾の毛で作った伸び縮みの小さい50歩くらいの縄を使って、三百里くらいの長さを計る。
堅い木材で周囲5歩くらいの大きな車輪を作って転がし、回転数から距離を求める。
両者を併用する。
徒歩で距離を測る訓練を受けた人間を、数名連れていけば測定完了。
>>899,
>>900 そういう道具で測ったという史料があるなら見たいけど、それはさておき。
それならなぜ、倭人伝の距離の記述は最小単位が100里なのかという
疑問が出るよね。倭人伝に限らず、東夷伝その他もそうだけど。
903 :
日本@名無史さん:2013/07/19(金) 23:59:43.14
>900
堅い木材 → 軽くてそこそこ堅い木材
>>901 だんだん核心に近づいてきた。
この「徒歩で距離を測る」というのは、歩数を数えるという意味?
905 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 00:01:42.44
邪馬台国九州説は放射説・短里説など中国人が嘲笑する珍説で成り立っています。
>>891 現実的には無理だろう
2つの地点で同時刻に測定するための時計がない
曲がりくねった道を移動するので2つの地点間での東西南北の位置関係がわからない
907 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 00:10:18.98
>>902 天測で計れるのは直線距離、
実際の道はある程度まがってるから、百里でプラマイ拾里程度の誤差はみなくちゃね。
ま、なんたって徒歩の時代、センチ・ミリまで正確に記述するほどの必要はなかったんじゃないの。
当時の生活感では百里単位で十分だったんだとおもうけどね。
908 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 00:17:34.20
>>906 羅針盤があれば、およそ正午の時間はわかるな
>>907 結論から言えば
>>906と同じで、「当時は天測は不可能だった」なんだけど、
道なりの距離を測るにしても、有効数字が100里という部分は、
もう少し重視されて良い気がするのよ。
短里にしろ公定里にしろ、歩数を数えて距離を測っていたなら、
分解能はもっと上がるはずだよね。だから歩数ではない。
そうすると、>884で書いた
3) 単位時間に歩いた距離で測った
しか残らない。
で、この「単位時間」はどのくらいかという問題になる。
>>908 「その場所の正午」がわかっても、経度差は出てこないよ。
経度測定は、クロノグラフの発明まで無理だった。
親魏倭王の金印出るまで待てよお前ら
911 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 00:28:11.27
んなもん出ないよ
912 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 00:34:25.60
> 3) 単位時間に歩いた距離で測った
具体的な状況方法が良くわからぬ
単位時間に歩いた経験距離をもとにAB間の所要時間を距離に換算した??(海上は困るけど、それは別な)
ともあれ有効数字をいうなら、当時の距離測定は有効数字百里だったでいいんじゃないの
日の出から日没迄の移動距離=日=百里かな?
後は四捨五入で切り捨て繰り上げ
時計無いしね
寝る…
914 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 00:41:03.67
しょっちゅう行き来してれば、腹の減り具合でも百里単位の距離の見当くらいつくわ
>>912 実際のところ、外交使節団に精密な測量をさせるのは無理だろうから、
簡便な方法で距離を報告させたんじゃないかと。
そうなると、歩いた時間を元に換算するのが蓋然性がある。
有効数字100里の根拠は
>>689に書いたとおりで、だいたい1日の行程に相当するのだ。
>>913の言うように、時間分解能は半日だから、有効数字は1日分の距離になる。
「倭人は里程を知らなくて、日数で語る」とかバカにしてるから、
魏の人らの測った里は格段に正確かもと期待しちゃうけど、100里以下の
数字が出てこないところを見ると、ともかく時間→距離の換算をしたことをもって
「文明的」と考えてる節があるのだ。
大宝律令 厩牧令
凡諸道須置駅者。毎卅里置一駅。
(凡そ諸道に駅置くべくは、卅里毎に一駅を置け。)
徒歩で1日50里、荷馬車で1日30里移動できることから、街道に30里ごとの駅家の設置を行った。
30里はおよそ16キロメートルである。
前2世紀の馬王堆から出土した絹布に書いた地図なんかを見ると
中国の地理把握能力は古代からすごいけどね
史記にも暗殺者の荊軻が始皇帝に面会するために
督亢の地図を手土産として持参する話が出てくるし
ただそういう専門の官が倭地に来ていたかはわからんけど
919 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 01:22:45.73
前も書いたが、目測、速度、時間で計ったんだろ。陸でも。
「草木茂盛行不見前人」なんか道中視界について気にしているともとれる。
>>905 近畿説は距離や方位なんていうつまらないものなんか超越してるからなw
920 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 01:25:50.20
登望駅-逢鹿駅 現状での徒歩ルートで4.6km。
1里77mで換算すると 60里になります。
うねうねしているとみると、もそっと大なんだろうね。
まだ九州とかいってたんだ
とっくに死滅してたと思ってたが
やっぱ2ちゃんだな
国内の三等三角点網をつくり歩いた陸軍省陸地測量部は
外地ではカスピ海付近まで地図を作り上げている
商人に扮したりのスパイまがいだから測量器具など使えない
携帯コンパスと歩測だけでかなり正確な地図になっていて驚く
923 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 01:43:42.03
追放くらってからに
しょうがないから分け前の鏡10枚ともども
畿内に入植したのが御肇國の崇神の難升米さんだら。
はんこめぐまれてる印惠だしね。
難升米さんは天之日矛の子か孫か
たぶん子かもね。
そしたら大毘毘が日矛ご本人とゆうことにはなるが。
日矛を受け入れた多婆那のは丹波だべさね。
924 :
常識人満州:2013/07/20(土) 08:46:37.88
遼東半島から釜山までは公里でざっと三千里で、それが七千里と書かれているのだから、
実距離の約二倍と見積もられていたのである。
釜山から伊都国までは、周知の如く、約五、六倍に書かれている。
遼東半島から大和まではざっと1300kmほどで、公里の万二千里は約5200kmだから、
実距離の約四倍に書かれている。
つまり釜山までは二倍、釜山から伊都国までは五、六倍、大和までは四倍に書かれているわけで、
正確な地理を知らなかったから見積もりを誤ったというだけのことである。
公里の1/2、1/5、1/6、1/4の短里があった、というわけではない。
これを読んで、なるほど、と思った人間は物分りが良い。
九州人は物分りが悪いので、決してこういう論を肯定しようとしない。
925 :
常識人満州:2013/07/20(土) 08:56:27.82
末盧国というのは唐津か伊万里で、伊都国は福岡市か北九州市付近である。
つまり伊都国は末盧国から見て東、あるいは東北に当たる。
それが東南と書かれているのだから、その時点ですでに45°か90°方角が狂っている。
だからそれ以後の方角も45°か90°狂っている。
つまり南と書かれているのは東であり、邪馬台国は大和である。
これを読んで、なるほど、と思った人間は物分りが良い。
九州人は物分りが悪いので、決してこういう論を肯定しようとしない。
926 :
常識人満州:2013/07/20(土) 09:03:21.60
常識あるまともな人間なら、幸福の科学がインチキ宗教であることは判断できる。
しかしそれを判断できない多くの人がいるのである。
同様に、常識あるまともな人間なら、短里とか倍暦は珍説だと判断できる。
しかしそれを判断できない多くの人がいるのである。
九州スレに集まっているのは後者である。
普通の人間なら簡単に判別できることが、彼らには判別できない。
927 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 09:37:00.82
重い教養が邪魔する満州人、今日もカキコが空回り
さて
>>915 >「倭人は里程を知らなくて、日数で語る」とかバカにしてるから・・
倭人伝にそんなくだりはみあたらぬが・・
ま、倭人だって縄文の昔から何百年、何千年も九州中を歩きまわってるんだから、
蓄積された距離感および所要時間の口伝には相当正確なものがあっただろう
方角里数を誤ったなどは、我田引水の畿内説か満州のような記紀信者の為にする言い訳にすぎぬ
非常識人慢臭は、九州邪馬台国を、畿内と見誤っただけのことでsる。
単里や東遷はおとぎ話を構成する重要なアイテムだから
どうしても必要だろ
930 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 11:07:38.50
短里を珍説と言いながら、倭人伝の書く里のことがまったく説明できない畿内説
は珍説の最たるものだな。
931 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 11:44:36.57
短里では一尺が何cmであるとか或いは一里が何歩であるとかの基準を示す史料が無いからね
何処まで行っても架空の単位
基本的に向こう様の単位だから中国社会科学院に公的に認めてもらうようにしないと
933 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 12:07:43.21
さよう、中国の史書に使われている「里」の根拠は中国側で提示すべきこと
東夷の一外国人にすぎない我々からあれこれ論評を発するのは大きなお世話と言うもの
934 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 12:19:16.48
>>931 釜山から対馬、対馬から壱岐という、邪馬台国時代から距離の変わらない事実
上の尺度が有る。それが認められない奴はパーカね。
>>925 魏使は太陽の昇る方向も沈む方向も解らなかったんすね
936 :
満州与作:2013/07/20(土) 12:46:51.29
>>935 おめーはパカだなや。
東南到伊都国ちゅーのが魏使の報告によるものだ、とはどこにも書いてねーど。
書いてねーことを勝手に空想するでねーど。このパカタレ。
937 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 12:51:39.01
>>936 2ちゃんとはいえ、そのお行儀の悪さはいかがなものか。
神聖なる記紀の品格を台無しにしておる。以後、配意されたい。
938 :
満州の漢人:2013/07/20(土) 12:52:46.88
九州人、ミンナパカアルヨ。
相手ニスルノ、無駄アルヨ。
939 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 13:16:25.04
940 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 13:30:12.13
なんで尺度じゃいけないのか?
不弥国までの情報は、倭人伝に魏使の後も郡使が常駐していたと書かれているから
その方面からの情報と考えるほうがいいのではないか
942 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 13:37:33.35
一里の長さを短くしても水行陸行の日数は変えられないから、どのみち九州には収まらない
出てくる戸数もかなり大きい
やはり倭人伝の数字にはかなりの誇張があると考えるのが妥当なんじゃないかな
943 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 13:43:09.43
伊都国に郡使常駐とは、今でいえば伊都国大使館に大使一行常駐みたいなもんだろ
スパイ活動よろしく、あれこれ情報収集してるわな
944 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 13:51:46.34
>>942 里数に日数を足すこと、つまり距離に時間を足すのは意味をなさない
現代の文系人間はこんな素人然を平気でやってのけるんだな、古代人以下の貧脳ww
戸数はかなり水増ししてるだろうな
万単位の戸数をどうやって数えたんだ
しかもあちこち分散してるんだしな
たとえば現代人が事前知識なしで福岡県の人口を独力で数えられるか?
ほとんど無理でしょ
これらは盛った数字と言わざるを得ない
>>936 苦し紛れの言い訳がこれかw
お前迷惑だからもう書き込むな
>>945 戸数は概ねで数えたんでなく、倭人の自称と思われる。
戸数数字を盛ってると主張するなら、方角も距離も
倭人の伝聞という畿内説の主張も認めなきゃな。
949 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 15:55:14.08
なんで?
950 :
ローガン:2013/07/20(土) 16:42:58.97
>>915:婆◆HKZsYRUkck
>有効数字100里の根拠は
>>689に書いたとおで、だいたい1日の行程に相当するのだ。
妥当でしょう。法顕がインドへ向かう際、楼蘭までの1500里を17日で歩いたと記録している。
951 :
満州の漢人:2013/07/20(土) 16:50:13.13
>>946 おめーのよーなカスは来なくてえーど。
早く死ねや。そのほーが世のため人のためだど(ケラケラ)
満州さんの文献知識はすごいけど喧嘩早いのが…w
>>944 >現代の文系人間はこんな素人然を平気でやってのけるんだな、古代人以下の貧脳ww
1行目はとりあえず置いといて、この文はローガンとかいうコテがまさにその通りだな
自然科学の話題になると理解できないから話題を変えようとして、中国の文献を引用してきたりして論点をずらす
>>951 満州さんのブログすごく参考になります
水戸黄門が身分を隠して諸国を漫遊したように、
ここでは別人として自由に発言したいんだと思いますのであまり突っ込みませんが、
一人のファンとして応援してます
>>951 オメーの国は太陽は南から昇るのかw
アホやの〜
全世界古今東西太陽は東から昇るだろうが
魏使じゃなくとも方向を間違うかよw
♪南から昇ったお日様が〜
♪北にぃ〜沈む〜
♪これでーいいのだぁ〜
♪畿内説にはいいのだぁ〜
♪まんまん満州〜バカ満州〜
♪天才気ぃ〜取りぃ〜
♪バ〜カ 満州!(・∀・)
956 :
満州の漢人:2013/07/20(土) 18:17:34.66
>>954 それ、うちやあらへんえ〜。
応援してくれはるの、うれしおすけどな〜。
あんたはん、ええおひとどすな〜。
>>946や
>>955のような九州の芋侍はんとは月とすっぽんえ〜。
957 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 18:24:08.17
やはりあのブログは満州さんのかあ
たしかに文体もよく似てるし、内容のほうも斬新でなるほどと納得させられるよ
958 :
満州の舞妓はん:2013/07/20(土) 18:41:32.94
いややわ〜、うち、モテモテやわ〜。
けど、うちとは何の関係もあらへんえ〜。
>>955 アナタ、ワタシ、カラカッタアルネ。
ワタシ、アナタ、許サナイノコトアルヨ。
覚エテイロヨ、テメーコノヤロ。
959 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 19:21:03.47
マンチュは最近、自分の説をレスること無く、批判・批評ばかりだね。脳味噌
が枯渇したか。ナムアミダブツー。
960 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 19:49:44.56
急に満州ヨイショが増えて気持ち悪いw
961 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 20:05:13.92
アホの満州は座薬を正座して飲みなさい。
962 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 21:35:47.77
1日で百里、20日で2千里、予備日を見込めば陸行1月もまあまあのセンか。
軽装の役人たちが必死こいて歩くのでなく、
大陸・半島往来の賜物や物材を運ぶために必要な末蘆国〜邪馬台国間の日数と考えれば妥当だな。
963 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 21:43:11.40
>>944 君はさぞやアクロバティックな解釈をしてるんだろうね
どっとはらい
965 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 22:43:48.60
邪−よこしま、不誠実
馬−卑しい(用例:馬齢、犬馬)
台−回りを見渡せる高いところ
馬には卑しいの意味もあるんですね、
そうするとけっきょくは 台≒楼観≒城都 となり、
邪馬台国は、女王の台のあるよこしま(邪)で卑し(馬)い国というだけのこと。
966 :
日本@名無史さん:2013/07/20(土) 23:19:00.36
>>963 もともと自然科学というか理科系の人間。
だから距離に時間を足すなんて、巻尺が短いので時計で補うような不合理を感じるほうだから。
そもそも中国の大平原ならともかく、
日本列島には、山あり・坂あり・谷あり・川あり、また湿地もあれば、入江もある。
同じ五百里でも、三日で行ける場合もあれば、十五日かかる場合もあるはず。
よって倭国における里数と日数には、それぞれ重要な意味・意義があったと解すべきではないでしょうか。>944
>>966さん、おっしゃるとおり
と物理屋の俺が言ってみる。
私立の史学科行くやつなんて理系科目壊滅してたやつらじゃん
969 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 00:04:27.07
自分も理系だけど、距離=速度×時間なので、
距離は、人の歩行速度の誤差範囲で、時間の関数として成立するから、
距離と日数を合わせるのには、それほど問題は感じないな。
>>966,
>>969 「東京から○○インターまで△km、そこから国道◇号線を15分で目的地」なんて表記は、
けっこうありがちな気がするよね。
それはさておき、
>>966の言うように歩いた日数から精度良く距離がわかるというのは、
たしかに平原の民の発想だよな。しかし一方、中華思想というのは四辺にあまねく
文明の光を照らせるし照らさなきゃいけないという思想なのだ。
実際に現地に赴いた官吏としては「こりゃ百里/日 なんて絶対無理だって…」と
思ったとしても、帝国の地理誌を編纂するのは中央の官僚なんだから、
すべからく統一の基準を適用すべしという意思が働く。
そこで捨象される情報が出てくるんじゃないかと。
草木が生い茂って前を行く人も見えないとか嘆いてたしね
道なき道を行く川口浩探検隊の気分だっただろう
>>971 たしかに、使者は優秀なジオグラファーだったと思う。
後世の俺たちにも、末盧国−伊都国の500里がちょっと長すぎる理由を
考える手がかりを与えてくれてるもんね。
973 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 00:45:19.65
文系理系以前に文章読解力に問題がある人が何人かいるよね
東海道五十三次の宿場町の間隔って、確か12km位だろ?
人が無理せず1日に歩いて移動出来る平均距離ってそんなモンだよ。
そりゃ宿場代浮かす為に無理して歩く人も居たろうけどさ。
道も整備されてないであろう、草木掻き分けながら進まなきゃ
成らない様な道が多々ある時代なら、絶対10km切るよ。
でも1日移動したら公里で百里記録、この誤差が今議論を生んでる。
公里でありながら、単里(と呼ばれるモノ)に成ったんじゃない?
親魏倭王の金印出るまで確定しないだろ
戦国時代の行軍が1日15kmなんだしそんなもんだろうな
長旅で荷物も多いだろうし、そこそこの大人数の御一行様になっただろうから似たようなもんだろ
1日40kmなんてどうやっても無理
秀吉の中国大返しが1日平均30kmだっけか
あのときは兜とか重たいものは船で運んで
兵は丸腰で移動してやっとのことでそれだけ移動できたわけだし
当時は水路で行けるとこなら水路で行くという形で陸路はそう重視されてなかったんじゃないか
もちろんそれなりに道はついてただろうけど戦国時代とは比べられない
特に他集落に出かける場合は交易の荷を運ぶにも水路のほうが都合がいい
古墳時代になっても山越えの近い集落同士で交流が見られない例も多い
唐津から佐賀平野まで、現存の道を使わず山に入り込んで行け…
何て言われたら、余裕で4〜5日掛かる自信があるな。
完全に日が暮れる前に夜営の準備するだろうし。
秀忠が大坂冬の陣に参戦するとき、関ヶ原のトラウマがあったんで滅茶苦茶速いペースで進軍して
江戸から伏見まで17日間で到着したそうだ(1日平均28km)
おかげで兵たちは疲労困憊でとても戦える状態でなくまたしても家康に大目玉を食らったとか
981 :
ローガン:2013/07/21(日) 02:23:59.19
>>953 おやおや、どうした。「中国の文献は苦手です」ってか。まあそう言わず色々読んでみることだ。(笑)
>1行目はとりあえず置いといて、
別に置いとかなくていいがね…
国の位置関係を示す記述において、距離と日数の混在なんて漢書に複数見える。
戦国時代は道があったから夜でも松明持って移動してたけど
この時代は夜は絶対無理だね
移動に使える時間もかなり限られてくるな
ローガンってあいつか
すごく遠い意味の漢字「万里」+数字「二千里」=「万二千里」
ってやってたやつ
漢字と数字を足し算するって誰が見ても屁理屈だわな
984 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 07:13:08.13
>>969 成人男子の軽装歩き限定なら 距離=速度×時間 でOK
しかしそれなりの装備・食糧・ナベカマ・携行品も加わると、山坂の速度はガクッとおちる。
渡河でもあればなおさらのこと。当然だが、物資輸送なら水路が最も望ましかったかも。
それ以上に古代における最大の計時問題は、実用的な時計がなかったこと、
計ると言っても半日ないし一日単位、良くてせいぜい腹時計くらいだったろうな。
985 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 07:37:27.28
お伊勢参りで一日十里移動するらしいが、
時速4キロで10時間とか、現実問題としていけるのかなあ。
そうとう道も整備されてて、
金さえあれば、重い食料を持ち歩かなくても、
飯屋で食えるのが大きいと思うけど。
朝7時に出発して、昼食も含めて途中で一時間休憩、
夕方6時到着って感じかな。
986 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 07:48:33.54
で、このように邪馬台国当時の移動の仕方を考えてみると、「邪馬台国は九州
に有った」というスレタイは妥当だよね。ハイッ、九州説で決定!
987 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 08:16:49.87
邪馬台国九州は構わないがその後邪馬台国はどうなりましたか?ヤマトに滅ぼされた?
九州説の方その後をよろしく
狗奴国に壊滅させられた後、王族は宇佐に逃げおおせて細々と生き残る。
その後、半島から景行天皇、神功皇后たちが九州に侵入し
応神天皇はその伝統ある邪馬台国の血筋を自分たちに入れることで箔を付け
そのまま東進、大和朝廷の元をつくる。
989 :
満州:2013/07/21(日) 08:23:12.36
魏使が日本に来て九州の山道を歩いたと思っている阿呆どもが議論しております。
2chはこういうド低能の集まりです。
990 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 08:24:03.28
畿内説は、水行の速度を勝手に決めて、はるか海上に出てしまう、
だから、「南」は「東」の間違いというが、陸行一月の方は完全に無視
しているな。
単純に、4km×10時間×30日なんて計算していたら、1200kmになってしまう。
991 :
満州:2013/07/21(日) 08:25:40.23
>>988のような妄想を書くド低能も混じっております。
2chはこういうド低能の集まりです。
2chってそもそもそういうものだけどな
まともな世間様は相手にせんよ
993 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 08:35:09.35
後に肥国か筑紫国主導で九州統一。
といっても藩と同じで、各国半独立状態。
筑紫国が全体の盟主になり、アメタリシヒコが天子として君臨。
筑紫王サツヤマなど、各国に王もいる。
6世紀初期に九州王朝設立。
7世紀中期に白村江で大敗北
倭国軍総司令官の倭国王サツヤマ捕らえられる。
あちこちに移民して、比較的勢力が大きい
畿内に天子のアメ氏及び文官が避難疎開。
比較的勢力が大きい畿内には、賛成派反対派の現地の豪族と、
いろいろあって、
天武とか天地とか大化の改新とか壬申の乱とか。
その結果アメ氏を受け入れたのか、受け入れなかったのかは知らない。
それから、元号制定や律令整備、史書の作成など、大慌てで国家整備が始まる。
というのが自分の妄想。
994 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 08:41:40.57
秀吉の中国大返しの時も、
先行隊が街道沿いの有力者に炊き出しを要請していて、
後に支払うという書状も残っている。
各兵が重い食料を担いで、それを煮炊きしていたら、
もっと遅くなっただろうね。
このへんの「計り」は秀吉の真骨頂と言える。
995 :
風の中のゴキブリ:2013/07/21(日) 08:52:52.56
難癖をつけて批判ばかりのネタギレ夢幻如
>>988 景行が半島から来たなんて考えてもみなかったが
たしかに可能性としては充分ありうるな
おまえの妄想よりは理にかなってるよ
997 :
座薬満州:2013/07/21(日) 09:12:44.94
邪馬台国論争史は誤読の歴史である。たとえば−
倭人伝を読んで学者は魏使が日本に来て九州の山道を歩いて伊都国まで行ったと思ったのである。
倭国大乱から九州もしくは本州で大乱があり、高地性集落がその痕跡だと思ったのである。
また、ごく当然のこととして、卑弥呼も五王も日本の王だと思ったのである。
これらはすべて初歩的な誤解、初歩的な漢文誤読である。
いつまでたっても学者すらそのことに気付いていないのだから、
ここの阿呆連中が気付くわけがない。
かくして毎日毎日アホな議論が延々と続けられる。
998 :
ネタ切れ満州:2013/07/21(日) 09:35:06.20
ローガンなどは、この人は早稲田くらいは出ているのではないかと思わせるものがある。
ところが九州人でローガンのレベルに匹敵する人間は一人もいないのである。
九州人の代表格伊作が消えたので、あとは雑魚ばかりである。
伊作待望論が出てくるのは、九州人のレベルが低い証拠である。
伊作以外にローガンと張り合える人間がいないのである。
九州スレを読んでいると、こいつらは三流大卒ばかりだな、と思わざるを得ないのだ。
まあ、それが2chだから、仕方がないといえば仕方がないが、
せめてもう少し優秀な人間が来てほしいものだ。
自分で古代史のブログを持ち、本も出そうかという人間に参加してほしい。
999 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 09:39:10.42
>>997 自分が一番アホなのには気づいていないのか。
邪馬台国論争が発展的でないのは、最初から邪馬台国の位置を決めている人が
多いため。邪馬台国の位置は、それぞれの論点で最も妥当な結論を出し、
その積み重ねの結果決めるもの。
最初から結論を決めていて、その結論に合うように全てを解釈しようとするから
議論は噛み合わないし、妥当な結論も出ない。
1000 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 09:43:10.28
>>833 >倭地でも、不弥国までは大陸との交流も多く東夷の里が使えた。
>しかしそれから先は、東夷の里ですらわからず、
>倭の日数を持ちいた。
じゃあ12000余里はどこから出てきた数字? 答えられないみたいだね
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。