もし毛利家が因幡・伯耆に減封されていたら?

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1日本@名無史さん
毛利家が関が原後、周防・長門(山口県)ではなく、因幡・伯耆(鳥取県)
に減封されていたら300年後徳川を倒せたでしょうか?
2日本@名無史さん:2013/05/26(日) 18:26:53.09
無理。何だかんだ言って周防、長門は悪い土地ではない。
何よりも陸上交通も海上交通も外せない要地である。
因幡、伯耆は交通面でマジでどうでもよく、そのまま忘れ去られていたと思われる。
とは言え、土佐みたいなどうでも良い土地で維新に絡んだ所もあるので、これが全てでもないが。
3日本@名無史さん:2013/05/26(日) 18:58:45.45
昔の日本海側は太平洋側よりもずっと発展してたよ。
4日本@名無史さん:2013/05/26(日) 21:13:19.69
うん、家康もどうせやるんだったら、もっと徹底的にぐうの音もでないまでやる
べきだったな。
5日本@名無史さん:2013/05/26(日) 21:54:42.47
>>4
西軍の総大将だから、改易が妥当だっただろうね。

浪人の毛利輝元なんて何の価値もない。立花宗茂、真田幸村などのように
個人プレーができる大名は浪人としてマジで危険だが、大名クラスでは
この手の危険人物は意外に少ない。
6日本@名無史さん:2013/05/27(月) 03:55:19.22
大友吉統みたい末路だろうな
浪人輝元が挙兵したも
毛利慕う旧臣が集まることは集まるが
軍多くてもすぐ鎮圧されそうw
7松平相模守慶徳:2013/05/28(火) 20:41:07.68
池田の因州藩が幕末政局のキーになれなかったことで答えが出ているじゃないですか。
8日本@名無史さん:2013/05/30(木) 14:26:07.95
>>1
因幡伯耆なら絶対に無理。なぜなら下関を抑えらえないから。
幕長戦争で長州がともかく防衛に成功したのは関門海峡の物流が停止したこと、
さらに自由港化しつつあった下関侵攻をパークス以下の外国公使が懸念したため
9日本@名無史さん:2013/05/30(木) 21:33:27.75
せいぜい鳥取砂丘の開発とかして、今日の鳥取の人口が島根よりまし程度にしか
ならんだろうなたぶん。
10日本@名無史さん:2013/05/31(金) 02:13:31.35
>>4
むしろ、「広島城から追い出さず、安芸1国+α程度に減封」のほうが、
徳川政権としては、良い措置のはずだったんだよな。
これは結果論ではなく、同時代でも想定可能だと思う。
浅野氏の良い行き先さえ考えられれば、江戸中期以降に広島への移封でも良かった。
これで、毛利家中は一気に腑抜けになる。
結局倒幕に勤しんだとは思うが、あれほどの恨みに駆られた行動は取らなかっただろう。

戊辰戦争の時代にもなって、米沢の上杉氏が、新潟に色気を出した(領民も歓迎した)ことでも分かるように、
名だたる大名家には、それぞれ、家中と領民の相思相愛のこだわりの土地がある。
毛利氏にとっては、それは明らかに広島だった。
防長二国へ減封というのは、
客観的には、関門海峡という、唯一無二の戦略上の要地を与えたも同然で、
主観的に、広島を追い出して、毛利氏に強烈な恨みを残すことになるわけで、
よく考えれば、これでは良いところが全くない、徳川からみれば致命的愚策だった。

この点は、薩長政権のほうが、まだよく考えている。徳川宗家の減封先は、家康が愛した静岡の地だった。
江戸から引き離しても、静岡だったから、徳川宗家はさほど怒りを持っていない。
青森に飛ばされた会津とは対照的だ。会津松平も、保科ゆかりの信州の、どこかの小盆地に閉じ込めておけば、
21世紀にもなって、これほどの恨み文句は言わなかっただろう。
11日本@名無史さん:2013/05/31(金) 02:50:42.43
会津の場合は猪苗代との二択で自分で選んだ結果だけどね
12日本@名無史さん:2013/05/31(金) 04:36:31.26
>>10

上杉がそこまで越後にこだわったというのがなにげにすごいな。あんな冬になれば
雪で交通もなにも遮断されてにっちもさっちもいかない土地…。例えば謙信の時代に
でも上野あたりに進出して、そのままそこを拠点にしていればその後の歴史も
だいぶ違っていたに違いない。俺も寒い土地の生まれだが特に寒い土地にかぎって
土地への執着は強いような気がす。
その点信長も家康も柔軟だった。信長は美濃に進出するや尾張を捨てているし、
家康にいたっては秀吉からの関八州への移転という無茶苦茶な要求結局のんでいる。
だいたいなんで秀吉は関八州を家康に与える気になったんだろ?なんだかんだいって
関東平野は広大でそこそこの人口を養える。北条治世百年の間に比較的内政も
安定していた。むしろ東海地方の拠点にそのまま置いておいたほうが豊臣政権に
とって害はなかったような気がす。
13日本@名無史さん:2013/05/31(金) 11:44:00.05
>>10
吉川広家に約束したのが長門・周防で、それを毛利本家が譲り受ける形になったんだから仕方ない。
江戸中期になると今度は国替えそれ自体が正当な理由なくしては難しい。
だいたい毛利家は徳川家に反抗的な諸侯と言うわけでもないし、
幕末の長州藩も当初は航路遠略策で幕府の開国路線をサポートする立場に立っていた
藩是も幕長戦争までは「幕府へ信義」を強調しているから、ああなったのは政治的偶然。

それと徳川宗家に関しては温情をもって故地に封じたのではなく、
石高を10分の1に削減して島津家以下にすると言う過酷な処分を正当化するためには静岡と結びつけるしかなかった。
会津の場合は徳川宗家の保証を言い立てて明治新政府に反抗した以上、宗家への処分に準ずる処分はあらかじめ予定されていたので、
石高3万石程度への大減封が先にあり、その上でどこを選ぶかと言う問題になってる。

また幕末になると諸侯と封土、近隣諸藩との結びつきが強くなり、会津藩も奥羽諸候であって信州とは大きな接点がなくなっている。
14日本@名無史さん:2013/05/31(金) 11:53:33.05
徳川宗家の場合は駿河が天領だったから領土の一部に押し込めた形、
米沢上杉家の場合も隣接する越後で新潟港がなかったらあそこまで執着したか分からない

ちなみに「徳川宗家がさほど怒りを持っていない」ように見えるのは、慶喜と言う人間が水戸家出身の外様で、
江戸から離れた京の政局で勝手に(幕臣から見て)行動したあげく勝手に恭順と言う形で、反乱の核を自ら抜いてしまったことにある
その結果、幕臣の怨嗟が身内に向かったためで、仮に家茂のような血縁の濃い宗家継承者が新政府にあくまで抵抗の気勢を示した場合、
承服させるのは相当難しかっただろう
15日本@名無史さん:2013/05/31(金) 11:59:14.88
>だいたいなんで秀吉は関八州を家康に与える気になったんだろ?

家康スレ秀吉スレのほうが詳しいけど
・当時、秀吉が最優先にしていたのは唐入り。唐入りが成功したら関東奥羽なんて難治のド田舎
・北条家が代々支配してきた武蔵・相模も含めて関八州250万石を治められるほどの家臣団を持っていたのが家康しかない
家康は豊臣政権の東国支配に協力して難治の関八州に移ったので、何にも恨まれる要素はない
16日本@名無史さん:2013/06/01(土) 19:22:40.13
毛利が出雲・石見に減封されていたらどうなっていた
17日本@名無史さん:2013/06/01(土) 22:23:35.13
>>16

石見には銀山があったから絶対毛利には渡さない。
18日本@名無史さん:2013/06/01(土) 22:26:56.89
もういっそのこと毛利家は輝元を隠岐に流すか、独島を領国として与えておけば
問題なかったはず。
19日本@名無史さん:2013/06/01(土) 22:41:23.02
毛利を潰す案もなかった?
石見も、毛利に与えても銀山はやっぱり天領にするんじゃないかな?
20日本@名無史さん:2013/06/01(土) 22:44:17.58
もちろん本来は毛利本家は潰して、吉川広家にその後の防長二カ国を与えるという考えだった。
広家がそれを毛利本家に与えてくださいと頼み込んだからしょうがないから潰さない事になった。
21日本@名無史さん:2013/06/02(日) 01:10:49.97
本多佐渡の目論見では、毛利が防長移転の前に安芸で徴集した年貢米を巡って安芸の新領主福島正則と揉め事を起こしていたこと。
指月城築城の際に石切り出しを巡り、熊谷なんとかがトラブルを起こしたこと。
駿府、江戸の普請の手伝い
等で、毛利は内部抗争の挙げ句自壊すると見ていたようです
22日本@名無史さん:2013/06/02(日) 01:47:41.80
10です。
>>13>>20
経緯は全く違うが、スキームの大きな発想としては、実は上杉処分と毛利処分はよく似ている。
「主たる領地を召し上げ、何らかの正統性を認めざるをえない隣地に押し込める」
だが、>>1の趣旨は、この「上杉=毛利スキーム」を外して妄想汁、ということなんじゃないの?と思ったので、
「広島閉じ込め案」という話を、敢えてふってみたんだけどね。
実際、やってやれないことは無かった希ガス。17世紀最初の30年の、徳川政権の対大名政策は、
正直、正当化の理屈なんて、デタラメもいいところの不条理を連発しているので、
正直、「実は、どのようにでも出来た」ような気がするんだよなあ。
上杉の場合は、神指築城に難癖をつけたところから、関が原戦自体が始まるので、
さすがに、景勝を会津盆地から引き離さないと、示しが付かない面があるが、
毛利の場合は、広島から引き離す必須の必要性って、懲罰性以外は実はあんまりない。

徳川氏の静岡転封に関しては、実質的には石高以上にきつい処分だったと、俺は理解しているよ。
そもそも、この静岡藩の領地は、安政東海地震の激甚災害地とぴったり重なる。
幕末の大混乱期で、まだ復興は道半ばだったはずで、そこに敢えて押し込んだことは、実質的にはかなり厳しい移封だ。
それでも、「東照公愛しの駿府に強制帰郷しただけ」ということで、主観的には、恨みが緩和される。
客観は厳しく、主観は緩和する。これが勝者の本来のやりかたのはずで、やっぱり毛利移封は良くない。
23日本@名無史さん:2013/06/02(日) 10:14:28.24
廃藩置県
じつは借金まみれの藩が多かったから
結構多くの大名が歓迎した
24日本@名無史さん:2013/06/02(日) 12:54:22.15
そういえば関ヶ原の戦いの後、主だった西軍のうち島津家は
そのまま領土を安堵され、その後は琉球の統治権まで得てる。
将軍家から嫁を押し付けられたり公共事業を何度も命じられたり
いろいろ嫌がらせは受けていたけど、でも島津って毛利ほど徳川に恨みがない。

もし島津家が他の土地に移されていたら、後世とんでもないことになっていたかも。
25日本@名無史さん:2013/06/02(日) 23:11:39.20
>>23
そういや、馬関戦争の賠償金を徳川に押し付けて
徳川幕府を滅ぼしたら国庫から支払わせた藩があったよね
26日本@名無史さん:2013/06/02(日) 23:48:17.55
攘夷決行は幕府の正式な命令によるものなので幕府が責任を負うのは当然。
27日本@名無史さん:2013/06/03(月) 08:05:24.90
>>26
だったら中止する時も幕府の命令を待たなくてはいけないはずだよ。
始める時だけは命令があったからと言って始め、中止する時は独断なんて絶対に許されない。

しかも長州藩の場合はその講和条件で償金の約束を取り付けさせられてしまっている。
あるまじきことですよ
28日本@名無史さん:2013/06/03(月) 08:16:41.62
長州藩は攘夷を行っても列強が本格的報復を行うことはあり得ないと言う楽観的判断に立って開戦した。
生麦事件の場合は被害者に過失があったし、自己責任で敵軍の上陸を許さず撃退したために幕府が仲介しやすかったが、
長州の場合は民間商船砲撃それ自体は何ら正当性を持たないうえに、
出先で勝手に予備条件を決めてしまったから江戸の本交渉での逆転が非常に大変だった。
29日本@名無史さん:2013/06/03(月) 12:20:15.99
つうか減封前の毛利家って石高どれくらいだったん?
30日本@名無史さん:2013/06/03(月) 14:50:01.45
>>29
公称120万だけど減封後の周防 長門だけで実高55万あるのなら余裕で200万石超えてないか?
31日本@名無史さん:2013/06/04(火) 23:00:06.97
長州藩って幕末には実高90万超えてたって本当かなあ?

だったら広島藩とかも100万石ありそうだけど
32日本@名無史さん:2013/06/05(水) 00:00:32.34
因幡伯耆じゃ問題外、史実の鳥取池田家以上のことは無理でしょう。
悪い意味の役人根性しかない、特に因幡人には絶対に無理。
先頭に立つことは絶対になく、人の足を引っ張る以外に能がない、
それが鳥取市民の特性。
33日本@名無史さん:2013/06/05(水) 22:13:25.89
所詮石破茂では安部心臓には勝てないのであります。
34日本@名無史さん:2013/06/05(水) 23:59:48.17
鳥取と島根は一つの県になるべきだ
35日本@名無史さん:2013/06/06(木) 08:43:54.94
島根の細田博之幹事長代行、山口の高村正彦副総裁に両脇からガッチリ押さえつけられて身動きできる鳥取のゲル
36日本@名無史さん:2013/06/06(木) 20:41:42.02
薩長の実高が異常に高いのは明治政府のお手盛りじゃないの?
藩主は公債とか実高に応じて貰ってたから。
37日本@名無史さん:2013/06/06(木) 23:09:01.36
この「検地」は豊臣政権では、
その土地からの動員数の基礎資料としますので、
1万石に付き300名を標準としていても薩摩島津氏は他国の
倍以上の侍数を抱えていれば1万石に付き600名程の動員数でなければならずに、
このためには玄米高1石との基準数値をモミ高1石(玄米高の倍の量目となる)
として検地高をモミ高計算で三州合計57万8733石4斗1升として、
戦時動員数を最大1万7千名(58×300名)とした奉公を強制したものと考えます。
(ただし推論であり、県下の資料でモミ高に
決定された動機が記載された文献があるかどうかは知りません)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212390042
38日本@名無史さん:2013/06/06(木) 23:15:47.21
明治初年頃の石高      明治史用の4年時点人口・石高で一人辺りの石高   
1.金沢藩 134万石      1.金沢藩;1,065,910人:134万石→1.24
2.仙台藩 102万石      2.名古屋藩;917,497人:88万石→0.95
3.山口藩 98万石      3.鹿児島藩;896,808人:87万石→1.13
4.名古屋藩 91万石     4.熊本藩;719,990人:79万石→1.09
5.佐賀藩 89万石      5.佐賀藩;425,762人:72万石→1.70
6.鹿児島藩 87万石      6.山口藩;608,475人:71万石→1.29
7.熊本藩 79万石       7.静岡藩;813,886人:70万石→0.86
8.和歌山藩 62万石      8.福岡藩;388,409人・57万石→1.56
9.福岡藩 57万石      9.和歌山藩;528,408人・54万石→1.02
10.高知藩 50万石      10.高知藩;516,867人・50万石→0.96
11.岡山藩 49万石      11.広島藩;914,157人・49万石→0.95
12.広島藩 48万石      12.岡山藩;358,327人・45万石→1.27
13.徳島藩 44万石      13.徳島藩;714,022人・44万石→0.62
14.鳥取藩 43万石    14.山形県;318,467人・43万石→1.29
15.若松藩 40万石     15.鳥取藩;378,734人・42万石→1.12

23.松江藩 29万石      39.松江藩;296,750人・26万石→0.84

実高上位の15藩・県+松江藩の表
年度でまちまちではあるけど薩長が特別石高が高いという訳ではない
39日本@名無史さん:2013/06/07(金) 09:58:48.16
概ね0.8〜1.3の範疇か。
大きく外れる佐賀と徳島はなんか作為があるかもって数字だなあ。
40日本@名無史さん:2013/06/07(金) 19:00:22.99
広島藩は0.95ではなく0.54ね
芸州浅野家と蜂須賀家が大藩の中で当時人口が多いのにも関わらず実高が低いのは
お目こぼしだったのか税務がアバウトだったのかと色々考えられる
41日本@名無史さん:2013/06/08(土) 08:12:38.32
>>40
明治初めだったら、どこの藩も殖産興業に力を入れて時間が経っている頃だな。
広島や徳島といえばどちらかというと米よりも水産加工や藍染めや運送業などで
儲けていた藩だけど。
42日本@名無史さん:2013/06/09(日) 12:35:36.04
毛利の「毛」って毛人の毛で、旧約聖書に出て来るイサクの息子のエサウ=「毛深い」のエドム人系じゃね?
境市でもエジプト船が見つかってゑびす信仰が来てるし。
43日本@名無史さん:2013/06/09(日) 21:29:18.46
あれは地名だったと思うが
44日本@名無史さん:2013/06/10(月) 00:58:38.95
内藤興盛(長門守護代)ー尾崎局(安芸・備中・長門・周防守護の毛利隆元室)ー毛利輝元

毛利家は、代々長門守護代と長門・周防守護の血をひくっていう因果は、土地の治めやすさに繋がってると思う。
無関係な国に行くよりも明らかに恵まれた条件だっただろう。
45日本@名無史さん:2013/06/10(月) 02:12:23.97
>>43

神奈川県厚木市 森(もり) だったかな?
46日本@名無史さん:2013/06/10(月) 15:29:40.04
西国諸藩も1人当たりでみると相当の重税だな。豊かかも知れないがそれ以上に搾り取ったと言うイメージかな。
47日本@名無史さん:2013/06/10(月) 15:58:15.46
イメージなら心の中に留めて置けよ
48日本@名無史さん:2013/06/10(月) 21:29:35.63
藩の税収は現高

1.加賀藩 64万石
2.熊本藩 38万石
3.名古屋藩 33万石
4.鹿児島藩 30万石
5.和歌山藩 28万石
6.広島藩 26万石
7.福岡藩 23万石
8.山口藩 22.4万石
9.佐賀藩 21.9万石
10.静岡藩 21万石
11.徳島藩 20.6万石
12.土佐藩 19.3万石
13.岡山藩 18.8万石
14.秋田藩 18.4万石
15.鳥取藩 16万石
16.弘前藩 14.2万石
17.松江藩 13.5万石
18.津藩 12.7万石
19.久留米藩 12.6万石
20.福井藩 11万石

実高との差がある藩が基本税負担が軽い藩だろうが
藩によって税制に違いがあるので一概には決めつけられない
49日本@名無史さん:2013/06/10(月) 21:43:34.66
上のは明治4年の数値ね
現石15万石以上が侯爵位授与条件上での大藩という事になっている
50日本@名無史さん:2013/06/10(月) 22:29:56.06
>>38>>48を比較してみた。
山口、佐賀、静岡が軽く、金沢、熊本、広島、徳島がか重い以外はほぼ30後半〜40前半程度で揃ってる。
ただ、広島や徳島がやや謎の数字を示してるのでよく分からないな。
51日本@名無史さん:2013/06/12(水) 09:42:10.27
なんで公称10万石の弘前藩が混じってるんだろう?
って気になって検索したら、藩政初期にお家騒動が連発しすぎ。
これでよく取りつぶしにならなかったもんだ。
もっと軽易なことで潰された藩も珍しくない。
これはよほど外交能力に長けていたのか。
それとも幕府の側につぶせない理由があったのか?
52日本@名無史さん:2013/06/12(水) 16:28:09.03
弘前は過少申告と脱税の香りがプンプンする
53日本@名無史さん:2013/06/12(水) 18:34:09.62
>>51 所詮、津軽みたいな日本国中の最僻地、幕府が介入するまでもないとか
思ってたんじゃないの?改易しようにも津軽以上の僻地どこ探してもないし、
潰してところで、じゃその後誰が津軽を治めるんだって話。だれも逝きたがら
ないだろ津軽なんて。
54日本@名無史さん:2013/06/12(水) 19:30:56.39
津軽は南部の抑えに使えるから勢力均衡的にグッドと言う判断も働いてたのだろう。
最大の仮想敵は仙台・秋田。仙台は南から会津が、秋田は鳥居山形や庄内が抑えてるが、
北から背後を衝くのは南部・津軽
南部・津軽の抗争は幕府が調整してから、両藩が立場を有利にするために親幕府競争をやってくれると
北奥羽は盤石になって有利になる

あとは蝦夷地交易で松前と折衝をやる藩が変わると面倒だからかな

>>53
弘前は実高33万石、幕末では二十傑に入る隠れた大国だったらしい
55日本@名無史さん:2013/06/12(水) 20:16:16.10
>>38
いわゆる人口過疎地になった藩も明治初年の人口から戦後、最大2倍前後まで増えてるのに、
徳島は70万→80万、高知は51万→84万がMax.そこまで早く生産力限界が来るのか。

明治21年、大正9年とも67万人前後で、減ってる勘定になってるけど、明治4年の人口が少しおかしいのでは
56日本@名無史さん:2013/06/12(水) 21:15:48.19
明治の初め頃は年によって10万前後で人口の振れ幅がある
近代の調査方法に比べたら当然のように調査が甘いので、全年度おかしいというのが実態
あくまで概算値としてみるもの
57日本@名無史さん:2013/06/12(水) 23:42:29.94
>>55
淡路が10万石ちょっとあったから、それを差し引いた阿波の人口は50万強では
増加率は他県より少し低いけど不自然ではないかも
58日本@名無史さん:2013/06/15(土) 13:05:17.05
>>54
いつも思うんだが
大浦為信が攻め滅ぼしたのは
津軽地方の千徳、大光寺、朝日といった国人領主であり
糠部で領土を削り取られた国人は堤や七戸であって
盛岡藩前身である三戸南部は直接為信の害を受けたわけじゃないんだよな。
為信が養子に入る前はそうでもなかったと言うが
為信が継いだころの大浦氏は弘前市のごく一部の領地しかない
しかも為信は岩手の久慈の出身だ
いわば岩手が弘前藩の領地を征服したと言ってもいい。

なぜ津軽全体が一丸で抗争してると思われてるんだろう
59日本@名無史さん:2013/06/15(土) 13:09:50.01
ナチスに侵略征服されたポーランドを
ナチスの一味と見なして叩くようなもの
60日本@名無史さん:2013/06/15(土) 13:19:59.79
為信は戦国時代では負け組が多かった岩手県出身者の中では
成功した部類
61日本@名無史さん:2013/06/16(日) 05:25:11.97
津軽って金持ちそうだよな。青森、鯵カ沢とか湊いくつも持ってるし、
蝦夷地との中継点になってるから副収入あっただろ
62日本@名無史さん:2013/06/16(日) 20:35:17.13
どんどん話が横道にそれてるな。どうして周防・長門のスレなのに津軽が話題
になってんだw
63日本@名無史さん:2013/06/16(日) 20:49:28.37
>>62
どこの藩主になったら儲かるかを妄想するスレだから。
64日本@名無史さん:2013/06/16(日) 21:08:43.83
そうか。
中曽根以降の自民党の中心議員は、
中国地方の選出者が中心だったのか。
島根:竹下、山口:安倍、広島:宮沢、岡山:橋本
今も、山口:安倍、高村、鳥取:石破でその名残。
65日本@名無史さん:2013/06/16(日) 22:02:04.84
>>58
盛岡藩の太祖ともいえる南部信直の父親が為信に殺されてるからじゃね
直接害ないとはいえ
子供として恨まないわけない
66日本@名無史さん:2013/06/16(日) 22:48:26.88
秋田藩とか盛岡藩って領内の面積があんなに馬鹿でかいのに実高40万石か。
ロシアみたいだな
67日本@名無史さん:2013/06/16(日) 23:49:14.20
石高は米だから東北はあまりとれないな
奥州は昔から金や毛皮が貢ぎ物
68日本@名無史さん:2013/06/17(月) 00:18:34.03
秋田藩とか盛岡藩とか面積が広くても山だしな。白神山地とか。
69日本@名無史さん:2013/06/17(月) 00:20:45.45
南部や秋田は、木材や銀・銅が取れたはずなんだけどカウントされていないのかな。
庄内、米沢、津軽あたりは広域市くらいの面積で20〜30万石取れてる。
70日本@名無史さん:2013/06/18(火) 00:01:32.61
名和長年って日本海岸をまたにかける大商人だったけど、伯耆・因幡って良港が少ない?
71日本@名無史さん:2013/06/20(木) 22:37:54.32
>>70
多分まともな港自体が境港ぐらいしかない。美保関と書きかけたが、出雲(島根県)だった。
72日本@名無史さん:2013/06/21(金) 10:19:08.39
 藩名  内高   表高
1.金沢藩 134万石 103万石 2.仙台藩 102万石 62万石 3.山口藩 98万石 37万石
4.名古屋藩 91万石 62万石 5.佐賀藩 89万石 36万石 6.鹿児島藩 87万石 73万石
7.熊本藩 79万石 54万石 8.和歌山藩 62万石 56万石 9.福岡藩 57万石 47万石
10.高知藩 50万石 20万石 11.岡山藩 49万石 32万石 12.広島藩 48万石 43万石
13.徳島藩 44万石 26万石 14.鳥取藩 43万石 32万石 15.若松藩 40万石 28万石
16.久留米藩 37万石 21万石 17.津藩 36万石 32万石 18.米沢藩 34万石 18万石
19.福井藩 34万石 32万石 20.久保田藩 33万石 20万石 21.盛岡藩 32万石 20万石
22.水戸藩 31万石 35万石 23.松江藩 29万石 19万石 24.弘前藩 28万石 10万石
26.鶴岡藩 22万石 17万石 27.厩橋藩 22万石 17万石 28.香春藩 21万石 15万石
29.姫路藩 21万石 15万石 30.彦根藩 20万石 20万石

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98
内高でソートした上位30藩の結果

内高と表高の関係をパフォーマンスとコストとして計った場合の上位10藩(小数点4位以下四捨五入)
1.弘前藩 2.877 2.山口藩 2.647 3.佐賀藩 2.483 4.高知藩 2.446 5.米沢藩 1.870
6.久留米藩 1.744 7.徳島藩 1.722 8.高松藩 1.680 9.仙台藩 1.643 10.久保田藩 1.613
73日本@名無史さん:2013/06/21(金) 15:56:53.39
最上位層でみごとに長土肥が並んだ先にいる弘前津軽の存在感
戦国大名の勃興とも相関が見え隠れして面白いね
74日本@名無史さん:2013/06/21(金) 20:52:44.05
広島藩あやしすぎるだろw
75日本@名無史さん:2013/06/21(金) 21:30:09.87
広島藩の場合はどうなんだろうな
パッと見じゃ民力を藩政に活かせなかった半失敗国家な印象だ
浅野期の頃の広島はよく分からんので印象を覆す反証が欲しい
76日本@名無史さん:2013/06/21(金) 22:06:13.98
広島と徳島があやしいのは、石高が50万石足らずなのに人口が90万もいることなんだよ>>38
77日本@名無史さん:2013/06/21(金) 22:21:20.09
うん、人口の事を民力と言い換えて
それを藩の運営には活かせなかったんじゃないの?という指摘なんだけど
78日本@名無史さん:2013/06/22(土) 02:42:04.66
吉川の暗躍があったとしても西軍の盟主になった上で負けても本領安堵って虫が良過ぎないか?
お家断絶にならなかっただけで大ラッキーだろw
79日本@名無史さん:2013/06/22(土) 02:46:56.36
「民力を藩の運営に生かす」と言うのは、つまりお目こぼしせずに厳しく検見して取り立てると言うことでしょ?
いやだよそんなの
80日本@名無史さん:2013/06/22(土) 03:49:33.99
>>72
金持ってそうな所があんまり内高が大きくない。津とか。
81日本@名無史さん:2013/06/22(土) 10:56:09.83
もし毛利家が今の鳥取県エリアに移されたとしたら、
やはり史実通りの明治期の活躍は難しいだろうな。
港が少ないから密貿易も難しいし、まず大量輸送が厳しい。

ちなみに日本で人口が1万人を超えた事がある城下町を調べたら、これだけあった。
スレタイにある因幡からは池田家30万石の鳥取が入っている。

大垣 高崎 小田原 松本 大和郡山 宇都宮 前橋 甲府 松前 大多喜
高崎 山形 福山 上野 桑名 新発田 浜松 久留米 会津若松 鳥取
米沢 盛岡 佐賀 村上 長岡 尼崎 彦根 姫路 米沢 宇和島
鶴岡 松山 上越 静岡 高松 弘前 岡崎 豊橋 明石 厳原
岡山 松江 水戸 津山 小浜 高知 福井 丸亀 古河 白河
福岡 北九州 大分 熊本 首里 富山 萩 徳島 秋田 仙台
鹿児島 和歌山 広島 金沢 名古屋 (江戸)

門前町や港町では、大阪、京都、長崎、伏見、下関、枕崎、加世田、川内、出水、熱田、
高岡、新潟、相川、横浜(神奈川)、神戸(兵庫)、大津、岐阜、酒田、小松、新湊、米子、
大田(大森)、倉敷、尾道、山口などがある。
3000万人前後だった当時の総人口からすれば、なかなかの数だと思う。
82日本@名無史さん:2013/06/25(火) 11:18:56.85
あえて防長に追ったメリットを挙げるとすれば、瀬戸内海の海賊衆との関係を断つことかな。
海賊停止令で追っ払われたはずの村上水軍衆が、竹原に舞い戻って、
四国から伊勢湾まで参戦して東軍大名を脅かしてる。これを排除して停止令を徹底させたかったのかも
83日本@名無史さん:2013/06/25(火) 21:26:20.30
>>82
ただ山口県ってエリアは日本海にも面しているから、交易って観点から見れば
むしろ日本海と山一つ隔てた広島県エリアよりも有利っちゃ有利かもしれない。
あと広島・岡山よりも山がちな地形だから、必然的に米への依存度が高くならない。
結果的に後の専売制で活躍する特産品開発や貨幣経済転換に対して積極的になる。

明治維新を起こした薩長土肥の共通点は、米以外の収入源を手広く確保したことと
金・銀・鉄などの地下資源に依存しなかったこと、
そして石高を江戸期に一度も減らされなかったことだと思う。
西国に位置していただけに、関西の商人と少なからず関係があったことも大きい。
84日本@名無史さん:2013/06/26(水) 00:54:21.66
>>83
うん、ただ、村上水軍の本拠地からは分断できるんだよ。
関ヶ原直後には、東軍大名の本拠を脅かしたり補給路まで襲う動きを見せた海賊衆を取り締まるほうが優先事項だったのではないかと。
85日本@名無史さん:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN
あーあ、毛利家も隆元、隆景、元春のうちせめて一人だけでも高齢でもいいから関が原
前後まで生きていれば、毛利の天下か少なくとも徳川の世はなかったのにな。
86日本@名無史さん:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
毛利の両川とか隆元なんて宇喜多や大友や尼子に蹴散らされまくるくらいしか実績ないじゃん
87日本@名無史さん:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN
毛利の両川か隆元が生きてたら徳川に二日で瞬殺されてただろうな
史実では圧倒的優位な状況で侵攻した大友戦で負けまくり
領国総兵力あげて臨んだ宇喜多との美作・備前攻防でも負けまくり南条5万石程度すら
攻略失敗してるし
88日本@名無史さん:2013/09/22(日) 19:58:47.89
老後の趣味で中世城郭模型を製作しています。
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
何れみなさんにお見せできる機会があると思います。
http://mirai660.net/castle/
89日本@名無史さん:2013/12/03(火) 20:17:35.30
毛利の領地が広島、島根、山口の3県だけだったから、この中から選ぶしか無い
鳥取は選択肢に入れられない。
最終的にその3県の中で最も価値の低い山口県になるのは当然のこと。
90日本@名無史さん:2013/12/03(火) 20:54:03.71
暖かいなあ
91日本@名無史さん:2013/12/03(火) 22:34:39.51
>>89

島根のほうが無価値じゃないか?
92日本@名無史さん:2013/12/03(火) 22:41:53.76
>>91
鉄と銀がある
93日本@名無史さん:2013/12/06(金) 00:41:52.48
家康自身が北条氏の臣従に失敗して関東に移封、伊達氏も大崎葛西煽動の不始末で移封
本領には置いておけないのが前提で、必ずしも移封先の優劣とかは考えなかったのでは
94日本@名無史さん:2014/01/03(金) 00:57:43.15
それにしても間違って福島から8人も総理が出ていれば、そのうちいずれかは
福島に原発置くことに反対して、今の福島の惨状もなかったかもな。結局一戦場
での戦争の勝敗が両国の100年先、200年先まで左右しちゃうんだよな。薩長
徳川恨むのもせんがないわな。
95日本@名無史さん:2014/01/03(金) 02:02:25.55
山口も岸・佐藤以来、安倍まで総理出してない
高村、河村も引退だし参院の林は安倍が潰してしまったし、
これで安倍が2度失敗したらかなり転落しそう
96日本@名無史さん:2014/01/03(金) 02:14:48.17
間違って会津から出る機会も有ったには有ったんだけどな。
筋が通らないって断ったけど。
97日本@名無史さん:2014/01/03(金) 06:52:56.97
というか山口も都会から見たら米軍ヘリ受け入れて補助金貰ってる県という印象しかない
98日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:15:58.43
実家が山口で高校まで住んでてたけど
山口は酷いもんだよ
幕末はそこそこだった藩も、維新後
萩は人が出払って蛻の空状態
ゴーストタウンみたいに取り残された感じでしばらくそのままだった
(今ではその閑散とした田舎町が、タイムスリップしたような気分になっていいけどね)

山口市は県庁所在地で各行政機関や山口大学もあるのに
日本で一番寂れた県庁所在地と言われている
JR山口駅は単線で新幹線は止まらな
山口のど真ん中にあるのに交通の便が非常に悪い
計画性のない街づくりの見本っていうか、反面教師

その無計画な街づくりの裏話を
地元のご老人から聞いた事がある
当初山口市の山口駅をハブ駅として新幹線も乗り入れさせる計画だったらしい
ところが当時山口市に住む地元の名士、長州閥の生き残りみたいな人で(名前失念)
中央の政財界にも意見できる爺さんが
「ワシの住む所(山口市)に鉄の馬など走らすな!」
「静かな町を騒音だらけにするな」
ってさんざん抗議し、それがかなり効いて、頓挫に導いたらしい
ま、それだけじゃなくて地元の有力者達がそうとう揉めたとか

市民不在っていうか、そういう所あるよ
今も昔も
99日本@名無史さん:2014/01/03(金) 23:52:36.74
鳥取市も似たようなもんだけどね。
発展しないところはしょせん住民が悪いんだよ。
多少は影響有るが本質的には地理の問題じゃない。
他を恨んでもしょうがない。
100日本@名無史さん:2014/01/05(日) 11:07:36.57
>>81
密貿易はできるんじゃないのかな?
島根ならしてたし、鳥取もできそうな気がする。むりかな
101日本@名無史さん:2014/01/05(日) 11:46:30.99
竹島(鬱陵島)と松島(竹島)の開発を進めて、東朝鮮に進出する事も出来たのでは
102日本@名無史さん:2014/03/23(日) 16:59:24.06
江戸前期、鳥取藩は鬱陵島や竹島への漁民の渡航を認めていて、
漁業とかやらせてたんだが、朝鮮側のクレームに幕府が妥協して、
綱吉のときに渡航禁止になったんだよな。
103日本@名無史さん:2014/03/24(月) 01:38:20.24
104日本@名無史さん:2014/03/24(月) 02:07:35.24
鉄道忌避伝説

鉄道創成期に線路を敷設する際、次のような理由で住民が線路を市街地に通すのに反対したため、
鉄道が従来から存在していた町の存在を無視するようなルートになったり、
鉄道の線路や駅が市街地や村落の中心部から離れた場所に設置されてしまった……
などという話が全国各地に残されている。しかし、その例として挙げられるもののほとんどが、
新聞、署名、沿線住民の日記などといった当時の文献では、むしろ誘致運動があったことは
確認できても反対運動が確認できないことから、青木栄一などの鉄道史研究者からは
「都市伝説」として扱われている。
105日本@名無史さん:2014/03/25(火) 21:14:54.22
もし因幡・伯耆に行ったら本拠は何処になるんだろうな。
鳥取、羽衣石、米子のどれかだろうけど、
池田藩みたく鳥取城を無理やり拡張するパターンになるかな。
106日本@名無史さん:2014/03/26(水) 01:23:52.04
>>105
萩が比治山のミニ版であるように、山陰でも、比治山に似た地形を必死で探すんじゃないか?
毛利家中では、広島城は、どうも「秀吉に嵌められた残念設計」と理解されていたらしいということが、
萩の城下町設計をみると、なんとなく見えてくる。
毛利は、本質的に山賊体質なんだろうな。海や平野が落ち着く一族ではない。
東日本だと、佐竹にそういうところがある。
107日本@名無史さん:2014/03/26(水) 19:42:49.54
>>106
萩や比治山というと平野の中にある独立した山って感じかな。
それだと米子が理想的だな。鳥取平野だと旧守護所の天神山城とかもいいかも。
でも幕府の許可が下りそうにもないような…
主要な平野から少し外れた、浦富・鹿野・八橋とかに飛ばされそうな気もする。
108日本@名無史さん:2014/04/26(土) 10:59:20.68
>>107
平野を見渡せて交通の便がいい、ってところになると大概は平野の中の小高い丘や
ちょっとした山、もしくは平地の端っこで山麓のすぐそばとかになる。
盛岡、越後村上、岡崎、彦根、姫路、松江、岡山、松山、高知、まだまだいっぱいある。

完全なる平地の上に作った城って実は二条城、名古屋城、広島城、今治城、赤穂城、
中津城、高松城ぐらいしかないらしいね(水城も平城の一種)。
日本で一番多いのは平山城だとか。
江戸城や大坂城も、平山城とも平城とも両方の説がある。
109日本@名無史さん:2014/04/26(土) 12:18:43.30
広島城の縄張りが聚楽第のコピーなのが気に食わんかったのかな
110日本@名無史さん:2014/04/26(土) 14:06:40.49
毛利氏って広島(安芸)への想いは強かったけど、広島城そのものや
広島(広島市)という町自体にはそこまで極端な執着心は持ってなかったんだろうか。

今の広島を見ても、あまり毛利家というものを全面に打ち出して観光振興している感じはしない。
毛利家を旗印に明治維新までやり遂げた山口に遠慮しているせいかどうかは知らんけど。
同じ広島県の福山は、毛利家が長州に追いやられてから生まれた町だけど
やっぱりあまり戦国時代や江戸時代をアピールしている感じはしないね。
この間鞆の浦と坂本龍馬のつながりを大河ドラマきっかけで言い出したくらいか。

そういう意味では、広島って岡山とも山口とも島根とも鳥取とも何か違う。
戦国期とそれ以降で支配者がガラリと変わった県はいくらでもあるけど、
個人的に広島は司馬遼太郎が言うほど毛利毛利していない気がする。
新潟だって今でも一応上杉謙信の人気はそこそこあるし、春日山の観光宣伝は多いのにね。上越限定とはいえ。
まだ愛知(特に名古屋)のほうが、戦国武将のPRだけは凄い分自然っちゃ自然に思える。
ただ名古屋の場合、尾張徳川家の地元での人気が想像以上に小さいが。やはり三河からの余所者だからか?
111日本@名無史さん:2014/04/26(土) 16:46:17.77
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  |ミ,  /  `ヽ /!    ,.──、
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/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-,  、 _!_ /   
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  海獺        Ks aka 98     池脱兎   
112日本@名無史さん:2014/05/08(木) 23:55:18.31
毛利元就次男 吉川元春公館跡
http://www.youtube.com/watch?v=37PtdefBr8E
113日本@名無史さん:2014/05/16(金) 22:54:50.74
毛利タニア、毛利シャス
114日本@名無史さん:2014/05/23(金) 03:10:18.04
>>110
県民としても一番思い入れが強いのは毛利だよ
浅野はまだしも福島なんか忘れられてる
115日本@名無史さん:2014/05/30(金) 01:47:05.60
116日本@名無史さん:2014/05/30(金) 21:28:15.93
>>110
吉田郡山城周辺とは水系が違うから他所の土地くらいにしか思ってなかったのかな。
117日本@名無史さん:2014/08/26(火) 09:36:48.52
>>105
倉吉でしょう。
もしくは近隣の松崎

話の腰を折るようで悪いが、岩国・萩は米子を踏まえて作ったという
話だが、天守(詰めの丸)・藩主居館・大手の位置関係を見ると
米子はむしろ近江八幡のコピーのようだ。
118日本@名無史さん:2014/09/19(金) 07:25:20.33
毛利の代わりに周防、長門を領有したやつが、代わりに明治維新を起こしただろうね。
119日本@名無史さん:2014/09/20(土) 06:46:16.35
中村、亀井が?
120日本@名無史さん:2014/11/02(日) 06:55:43.41
首都京都に近く、京都までの間に他の大諸侯の藩もない鳥取藩に戦争犯罪人の毛利
が移封されることはない。
長州藩より数段鳥取藩のほうが格上なんで、毛利家では無理。
徳川将軍家の親族で忠誠心が強い池田家だからこそ鳥取藩に封じられた。

全く可能性の無い話を、想像する時間が無駄。
121日本@名無史さん:2014/11/02(日) 10:51:58.54
>>114
福島は広島では善政をしいていたのにな
毛利よりも税金を下げたくらいだし
122日本@名無史さん:2014/11/02(日) 17:26:36.76
経営再建中の毛利と
勝ち組の福島とでは 財源が違うよ

そして生き残ったのはどっちか
123日本@名無史さん:2014/11/23(日) 18:18:42.43
tesuto
124日本@名無史さん:2014/11/23(日) 18:28:26.63
なんつうかお前らって何の話をしてんだかな?
ほんとにいい加減あきてきたぞ
125日本@名無史さん:2014/11/23(日) 20:47:05.29
>>120
池田は世渡りがうまいだけ
特に織田家臣であったり、時に豊臣を名乗ったり、時に徳川につく
中立を守りつつ、時には幕府に加担し時には倒幕派に加担しているだけ
126日本@名無史さん:2014/11/30(日) 19:32:42.63
>>125
池田家はさほど世渡りが上手いわけではない。
池田輝政は豊臣秀次に全てを賭け、一度没落したからな。
あの時は池田家も三族皆殺し寸前までなった。(石田三成、増田長盛とも厳しく要求した)
亡き池田恒興の天王山の戦い、清州会議の功績により辛うじて生き残った。
流石に若御前は処刑されたけどね。

逆に、あれで豊臣家を見切ったのが、結果的に勝ち組徳川家につくことになった。
三成方につくなんてあり得ないからな。
127日本@名無史さん:2014/11/30(日) 21:50:44.15
>>126
また三族皆殺しの人が来たw

若御前は処刑されていないと何度言ったらw
豊臣秀次の正室若御前は処刑されず、池田家に帰されてるよ
128日本@名無史さん:2014/11/30(日) 21:52:58.50
中華ミクスだの何とかミクスだのほざいていたやつらか?w
129日本@名無史さん:2014/12/05(金) 21:38:38.49
>>118
長州は、最初から最後まで、反幕府。
その原動力が関ヶ原。
そんな藩は他にないだろ。
130名無しさん@そうだ選挙に行こう
東北北部に移封すればよかった