♪邪馬台国ドンと来い!♪1

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1親魏倭王卑弥呼
畿内説と朝満老人は秦でね!♪(゚▽^*)ノ⌒☆アッチイケ!

前ヌレ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1360956441/
2日本@名無史さん:2013/04/21(日) 07:22:24.34
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身
耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に
4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる
自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか
3日本@名無史さん:2013/04/21(日) 07:43:49.49
弥生時代末期の北部九州、筑紫・博多。

 漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)
の邪馬台国【銅鏡祭祀】に国を譲る【銅鐸一斉処分:九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
 これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争になり、「和」国が分裂、卑弥呼は急死(男弟/魏の将軍張政/狗奴国による暗殺説)。

-分裂した「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘

 卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎え、旧奴国&隅国(隼人)とも同盟を結び、肥後狗奴国(後の熊襲)を
一網打尽にし、倭「和」国を再統一した。
 「和」国再統一の偉業をなした男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、中原における五胡十六国の
内戦の影響から距離を置くべく、都を筑紫・博多から先遣隊長ニギハヤヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷し、その女系先祖・
卑弥呼(アマテラス)&台与以来の【銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始する。

※古事記・日本書紀が、日向長官の先祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。
 銅鐸祭祀をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の功績を消され出雲に祀られる。
4日本@名無史さん:2013/04/21(日) 07:45:00.65
-「大和」朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(双方の男系男子途絶による)政権交代

4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬国)系大王【四道将軍派遣→国造任命→ヤマトタケル東西平定】
5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王【神功の三韓征伐→倭の五王(讃珍済興武)】
   →(高句麗の南侵に脅かされた)金官伽耶(任那)・百済・新羅への軍事支援により「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王【仏教伝来→白村江の戦い→律令国家】


-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
  …継体大王の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
  …筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
  …「白村江の戦い」完敗→百済・任那滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を喪失。国力低下→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
  …両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
  …筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都
5日本@名無史さん:2013/04/21(日) 09:18:39.27
>>3-4  邪馬台国の地理想定がいかにも不自然だねえ、下記の方がすんなりいく

漢委奴国(福岡/大分)・・・国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)へ、邪馬台国連合へ国譲りして出雲に退く
邪馬台国(熊本/阿蘇/高知保)・・・卑弥呼・台与 →神武は日向から船出し大分・福岡勢と合流
狗奴国(薩摩/曾於/救仁郷)・・・官を狗古智卑狗(後の熊襲)
6日本@名無史さん:2013/04/21(日) 10:48:35.05
>>5 修正
漢委奴国(福岡/大分)・・・国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)へ、邪馬台国連合へ国譲り(筑紫国誕生)して出雲に退く
7日本@名無史さん:2013/04/21(日) 12:11:26.53
金印があろうがなかろうが北九州にでかい国があったのは間違いない
三国志を読めば朝鮮半島に大きな国がなかったのも間違いない
高句麗人が朝鮮語をしゃべってはいなかったことも間違いない
高句麗人は朝鮮人の先祖ではなく満州人の先祖で
朝鮮半島の北部にはシナ人の楽浪郡があり
楽浪郡より南にある国の中では北九州にあった倭国(筑紫)が一番大きく強い国だった
三国史記を読めば倭国(筑紫)が新羅に攻め込んでいる様子が分かる
そして倭国(筑紫)の南には熊襲があり東には出雲や吉備や大和があった
纏向にあったのは邪馬台国ではなく天皇家の大和であり倭国(筑紫)とは別の国である
大和が倭国(筑紫)を勢力下においたのは4世紀の神功皇后の時代である
8日本@名無史さん:2013/04/21(日) 15:32:59.55
三国志を読めば3世紀の朝鮮半島の様子が分かる
朝鮮半島南部には小さい国しかない
百済も新羅もない
後に百済や新羅になったかもしれない小さい国の名前が書いてあるだけだ
北九州の倭国(筑紫)は30カ国がまとまった大きな国で
朝鮮半島の国のどんな国よりも大国である
(纏向にあった天皇家の大和は倭国(筑紫)よりも大きかったことが考古学で分かっている)
三国史記を読めば新羅に倭国(筑紫)が一方的に何度も攻め込んでいたことがちゃんと書いてある
冗談を言った将軍を殺したりしている
朝鮮半島の南部に何らかの拠点を持っていたのだろう
そうでなければ不可能な行動だ

楽浪郡の位置についてはピョンヤンの近くでシナ人の墓が見つかったりしているので間違いない
9日本@名無史さん:2013/04/21(日) 16:32:17.68
久しぶりに、常識的な見解を見たな
10満州スポーツマン金太郎:2013/04/21(日) 17:45:55.01
11日本@名無史さん:2013/04/21(日) 19:23:59.93
>>10
自民族にこだわった文章だな。
二千年前の人は国家や民族なんか意識してたのかな。
多分人口比や食糧、武器など実験室で再現できるような
条件で無意識に動物的に動いてただけのような気がする。
12日本@名無史さん:2013/04/21(日) 21:08:17.98
>>1
おい、タイトルの番号違うじゃねえかよ
責任とれよな
13日本@名無史さん:2013/04/21(日) 21:29:51.06
1はいいこと言ってるじゃないか。

「畿内説と朝満老人は秦でね!♪(゚▽^*)ノ⌒☆アッチイケ!」
14日本@名無史さん:2013/04/21(日) 21:38:59.95
>>13
おっ、それはいま初めて気が付いたわ
15日本@名無史さん:2013/04/21(日) 22:02:40.26
>>10
願望と妄想で満ち溢れてるな、ゴミ屑以下だ。
16満州スポーツマン金太郎:2013/04/21(日) 22:59:35.67
ゴミ屑以下はチミの頭
17日本@名無史さん:2013/04/22(月) 07:21:15.81
>>16
反論したいならきちっと論破しろよ。何度も言わせるな。論破するほどの能力
が無いのか。ならばごちゃごちゃ書くな。
18日本@名無史さん:2013/04/22(月) 08:02:50.28
そんな喧嘩腰にしなくても
19満州スポーツマン金太郎:2013/04/22(月) 09:56:29.22
ならば反論してやろうこの野郎。
たとえば扶余が楽浪を襲ったと後漢書にある。
扶余は遼河上流から洮児河あたりにかけて住んでいたというのか定説だ。
そんなところから朝鮮半島北部の楽浪を襲うには船で遼河を下って渤海に出て、
渤海から黄海に出て襲うか、あるいは鴨緑江を越えて襲うしかない。
前者なら可能だが、後者なら不可能だ。なぜなら鴨緑江を渡るには船が要るからだ。
当時の鴨緑江には橋などないから船で渡るしかないのだ。そのためには予め
船を鴨緑江北岸に用意しておかねばならないが、そんなことは扶余には無理だ。
だから襲ったとすれば前者だが、史書には扶余が海から楽浪を襲ったような様子は全くない。
それどころか扶余や高句麗に襲われて困っているのは遼東の漢人である。
これらのことから楽浪が遼東にあったのは間違いのないことなのだ。
分るかね、ポンクラ諸君(ケラケラ)
20日本@名無史さん:2013/04/22(月) 10:04:22.14
この野郎
この野郎
21満州スポーツマン金太郎:2013/04/22(月) 10:07:41.27
浜名寛祐も山形明郷も、ポクが今読んでいるS氏も、
楽浪や帯方は遼東にあったとキチンと考証している。
それらが朝鮮半島にあったなどとはお笑い草だと一笑に付している。

チミらも本当に興味があるなら、浜名寛祐や山形明郷を読んでみればよいのである。
それでも朝鮮半島にあったなどという奴は、よほどの木瓜茄子だろう。
尤もここはアンポンタンの溜り場だから、それでも朝鮮半島にあったと駄々をこねる野郎が
一人や二人はいそうな気がするがw
22日本@名無史さん:2013/04/22(月) 10:12:51.02
満州のボクちゃんw
23満州スポーツマン金太郎:2013/04/22(月) 11:33:57.42
後漢書にこうある。

至安帝永初五年、夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪、殺傷吏民。

扶余が、歩騎で、楽浪を襲った、とある。
歩兵と騎兵で襲ったということである。
歩兵と騎兵で鴨緑江を渡れるのか? 鴨緑江はそんなに浅いのかw

どうだ、これだけ考えても楽浪が朝鮮半島に無かったことは確実ではないか。
それでも違うというのかポンクラども(ゲラゲラ)
24日本@名無史さん:2013/04/22(月) 11:47:45.87
襲うからには夫餘の勢力は鴨緑江を渡るべく船も用意しており、
渡河上陸後は歩騎で侵攻に及んだだけのこと、不思議ではない。読み方がボクちゃん風だな。
25日本@名無史さん:2013/04/22(月) 11:54:30.86
ホント、満州の根拠は幼稚だな。
26日本@名無史さん:2013/04/22(月) 12:12:44.45
知能の低いコテが一匹だけ紛れ込んでるな、このスレ。
27満州スポーツマン金太郎:2013/04/22(月) 12:20:18.85
>>24-26
いちいち書く必要もないが、世間一般から見ればチミらは真の白痴w
28満州スポーツマン金太郎:2013/04/22(月) 12:27:49.55
そもそもチミらは原資料をよんだことがあるのか?
原資料も読まずに定説だけを鵜呑みにしているからパカなことを言い出すのだ。

たとえば史記朝鮮列伝を、そこに書かれている朝鮮とはどこを指しているか、
というようなことを考えながら読んでみればよい。
そうすれば楽浪が朝鮮半島にあったなどというパカなことは言わなくなるのだ。

とにかく通説定説しか認めようとしないチミらのパカさは驚くばかりだ。
そんなことだからすぐネトウヨになるのである。
29日本@名無史さん:2013/04/22(月) 12:34:10.94
いまボクちゃん反抗期なんですう
30日本@名無史さん:2013/04/22(月) 14:41:54.27
「朝鮮はかつてもっと内陸だった」という山形のパクリネタだけで、
大威張りしている馬鹿コテが、とってもウザいんですが。
31日本@名無史さん:2013/04/22(月) 15:36:42.02
チミらは
チミらは
32満州スポーツマン金太郎:2013/04/22(月) 17:31:38.16
では別の角度から証明してやろう。よく読めよ。
三國志濊伝にこうある。

樂浪檀弓出其地

濊の地で樂浪檀弓が出るとある。樂浪は濊の地にあるのである。
では濊とはどこにあるのか。同じく三國志濊伝に−

濊南與辰韓,北與高句麗、沃沮接,東窮大海,今朝鮮之東皆其地也。

朝鮮の東はみな濊である、とある。で、この朝鮮とは古朝鮮のことで遼東なのである。
だから遼河流域の東はみんな濊である、と書かれているのだ。
だから楽浪も遼東にあったのである。だから後漢書光武帝紀にはっきり書かれている。

樂浪郡故朝鮮國也在遼東
33日本@名無史さん:2013/04/22(月) 18:22:38.87
楽浪は当然遼東だろ。遼西や遼北ではない。
34日本@名無史さん:2013/04/22(月) 22:05:40.90
http://gsm.nricp.go.kr/_third/user/search/KBD011.jsp?ksmno=2611&siltakno=3

これの出土地のが「楽浪郡@前漢」なのは疑い難い死ね
35日本@名無史さん:2013/04/22(月) 22:26:01.32
「樂浪檀弓」は樂浪郡を介して齎された弓だから「樂浪檀弓」なんだろう

「樂浪檀弓」は「濊貊」の弓で別名が「貊弓」なんだろう

倭人の弓のは「木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳・朱崖同」

とあって、もとのの出所のやつ大事にして保存していたみたいだけど

これとはちがうののタイプのものもあって委鬼帝に貢物しちゃっておるのよね

すなはち

其四年(243)倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人 上獻生口倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木 犬付 短弓矢

のの「短弓矢」これである 「犬付」のは世にてきとうな解釈とかみあたらないけれども

もしかしたら 「犭+付」だから「狛」のくずれかかったやつなのかもしれない
36日本@名無史さん:2013/04/22(月) 22:29:43.19
もしかしてまちがってこの連想が妥当なものだとすると

其四年(243)倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人 上獻生口倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木 【狛短弓矢】

とゆうことにはなる
37日本@名無史さん:2013/04/22(月) 22:40:34.28
38日本@名無史さん:2013/04/22(月) 22:43:00.54
http://baike.baidu.com/view/1949944.htm
これも貼っておこう
39満州スポーツマン金太郎:2013/04/22(月) 22:45:02.64
印鑑が何処から出ようと、楽浪や帯方が朝鮮半島にあったわけではないのである。
同様に濊や貊も朝鮮半島とは何の関係も無い。
今の春州が貊の地だというのは真っ赤な嘘である。

百済や新羅の領土が南満州にもあったのだから、
楽浪や帯方が朝鮮半島になかったことは明々白々である。

ま、チミらは考古学を信じればよい。ポクは文献を信じる。
考古学なんて簡単に詐欺ができるのである。中国で発見された金印も偽物である。
あれは志賀島の金印にヒントを得て中国が偽造したのである。
夫租の銀印なども簡単には信用できない。
40日本@名無史さん:2013/04/22(月) 22:51:48.85
もっと緻密にやらないと相手にしてもらえないよ

たとえば

「楽浪郡@後漢」のは「濊貊」にやられて

「遼東郡」の支配領域にある「西安平」まで後退していたというのはじゅうぶんあり得るのだからね

時代とともに移動するのはあってあたりまえ

マップにおとしてもっと緻密にやらないとね
41日本@名無史さん:2013/04/22(月) 22:58:40.56
>ポクは文献を信じる。
文献を曲げて読んでは信じたことにはならんよ。
42満州スポーツマン金太郎:2013/04/22(月) 23:12:27.52
稗箕狐よ、何が言いたいのだ、はっきり言え。
楽浪郡が西安平に移動したという記事がどこにある。
あるなら出してみろ。
楽浪郡が移動したなどという記事はどこにもないのだ。
玄菟郡は移動しているがね。

それに西安平がどこかお前は分っているのか?
とにかく韜晦した文章を書くのはやめろ。
主旨の明確な文章を書いてみろ。
なぜお前はそういう韜晦した、人を小馬鹿にした文章を書くのだ。
お前もかなり嫌われているぞ。注意しろ。
43日本@名無史さん:2013/04/22(月) 23:14:46.04
「西安平」は「安」と呼ばれる領域の西にあるということにはなる
44満州スポーツマン金太郎:2013/04/23(火) 08:49:46.91
今では西安平は遼寧省丹東市付近ということになってしまっている。
その理由はと言えば、丹東市郊外の城址で「安平楽末央」と記された瓦当が発見されたからである。
つまりはこんないいかげんな考古学的出土品を根拠にしているのだ。
いや、それよりも前にそこらを西安平と比定したヘボ学者もいたのである。
しかし西安平はそんなところではない。
<西安平(今康平)>
ネット史のこの比定が正解である。それはネット史の記述を読めば分かることだ。

とにかく遼東郡は遼河流域、玄菟郡はその北部にあったという点で史家の見解は一致している。
楽浪郡だけがポーンと離れた平壌に在るはずはないのだ。
夫祖の銀印は偽物か、或いは別の場所で出土したものを「平壌で出ました」と偽っているのだ。

気を付けよう 甘い言葉と 考古学
45日本@名無史さん:2013/04/23(火) 10:05:14.06
>遼東郡は遼河流域、玄菟郡はその北部にあったという点で史家の見解は一致している。
何とかの一つ覚えだな。その東は何郡になるんだ?
46満州スポーツマン金太郎:2013/04/23(火) 11:39:41.57
その東には郡は無い。その東はみんな穢だと書いてある。
楽浪郡は遼東郡の南である。
47満州スポーツマン金太郎:2013/04/23(火) 12:49:52.30
茶話

話の流れとは何の関係も無いが、
昔は、沖縄の語源は息長だと考えられていたらしい。
48日本@名無史さん:2013/04/23(火) 13:11:35.06
沖縄=大(きな)和
49日本@名無史さん:2013/04/23(火) 13:15:04.58
沖縄=沖の倭
50日本@名無史さん:2013/04/23(火) 13:57:40.77
沖縄 = 沖縄
51日本@名無史さん:2013/04/23(火) 14:00:25.33
琉球は?
52日本@名無史さん:2013/04/23(火) 14:23:55.50
琉球=竜宮

沖縄=大(きな)和
53日本@名無史さん:2013/04/23(火) 15:03:16.95
54日本@名無史さん:2013/04/23(火) 17:19:45.28
>>46
遼東郡の東へ勢力を延ばした場合、どこまでもまずは遼東郡なんだよ。
55日本@名無史さん:2013/04/23(火) 17:34:21.85
>>46
>その東はみんな穢だと書いてある。
穢の戸数はわずか2万だ。奴国と同じだよ。遼東半島の東が全部穢とは
笑ってしまうね。
56満州スポーツマン金太郎:2013/04/23(火) 18:43:47.15
>>54
お前は遼東郡がどこまで延びてると思ってるんだ。
遼東郡の東部都尉治は武次だ。武次がどこか調べてみろ。

>>55
そんな戸数は何の参考にもならんのだ。ド低能。
57日本@名無史さん:2013/04/23(火) 19:02:33.14
東部都尉治がどこだって関係ないことだろうが。
58日本@名無史さん:2013/04/23(火) 19:13:00.72
おちこんでつられたりしたらこまる
59日本@名無史さん:2013/04/23(火) 19:13:44.17
>>56
さような言葉遣いに到るようでは、とうとうドン詰まりまできたと言わざるを得ない。
60日本@名無史さん:2013/04/23(火) 19:18:11.46
ド低能
ド低能
61日本@名無史さん:2013/04/23(火) 19:21:15.85
伊作さんやジョーカー氏の悪いところはまねるなよ。
62満州スポーツマン金太郎:2013/04/23(火) 19:21:32.70
>>57
パカ。東部都尉治より東に遼東郡が延びているはずがないだろうが。
東部都尉治が遼東郡の東限だ。それがどこかを調べてみろ。
そしたら遼東郡の規模がどの程度のものか分るのだ。
そしたら楽浪郡が平壌などにあるはずがないと分るのだ。

さあ武次がどこかを調べてみろ。
63日本@名無史さん:2013/04/23(火) 19:25:44.50
>さあ武次がどこかを調べてみろ。

このようなセリフは好ましくない、言いだした本人において説明責任を果たすべき。
64日本@名無史さん:2013/04/23(火) 19:29:13.39
>東部都尉治より東に遼東郡が延びているはずがないだろうが。
これが思い込みだな。漢の領土が東へ広がったときにどうなるんだ?
東に郡がない以上、全て遼東郡だよ。
65日本@名無史さん:2013/04/23(火) 19:30:19.52
つうか満狂に餌をやるなよ
66満州スポーツマン金太郎:2013/04/23(火) 19:39:23.36
>>64
遼東郡が更に東に延びたというような資料はあるか。
あるなら出してみろ。
67日本@名無史さん:2013/04/23(火) 19:44:43.47
偽書マニアのマンカスジジイが真性基地外・伊作の猿真似するようになってきたなw
でも真性じゃないところが中途半端で嘲えるwww
68日本@名無史さん:2013/04/23(火) 19:50:50.91
>>66
漢が東を征服した事実があったかどうかを調べてみろ。
69満州スポーツマン金太郎:2013/04/23(火) 19:57:03.65
>>68
意味不明なことを書くな。
漢四郡より東に漢が領土を広げたというなら資料を出してみろ。
その前に>>66に答えろ。
さらにその前に武次がどこか調べてみろ。
70日本@名無史さん:2013/04/23(火) 20:06:48.77
鳳凰山山城(烏骨城 遼寧省鳳城市) のが 「武次 東部都尉治 莽曰桓次」 と絡む

「西安平 莽曰北安平」 から 「番汗 沛水出塞外 西南入海」 のあたりまでが 「東部都尉」の守備範囲だろ

その守備範囲の主たる領域は「武次」の東に位置する 「魏志」でいう「西方」「西界」「西邊」の地

「遂成縣」「鏤方縣」「渾彌縣」「浿水縣」 が含まれる

浿川渡ったところの「呑列」もその頃は「遼東郡」の管轄区。 

ここは「樂都」とも呼ばれた時期があったもよう。

「東部都尉」が置かれていた時期はおそらく後漢の前半までで

後半の初元四年(117)には「楽浪郡」に化けている。
71日本@名無史さん:2013/04/23(火) 20:22:00.97
http://zh.wikisource.org/w/index.php?search=%E9%81%82%E5%9F%8E%E7%A7%A6%E7%AF%89%E9%95%B7%E5%9F%8E%E4%B9%8B%E6%89%80%E8%B5%B7

「遂成縣」のは「遂城秦築長城之所起」

http://www.geocities.jp/pikupopodemi/rekisi/ronbun/rakurou100807.htm

のはえろまともぽいからめえとおしておいたほおが良いかな
72日本@名無史さん:2013/04/23(火) 20:40:54.78
「西安平 莽曰北安平」だから

より厳密には

「西安平」は「安」と呼ばれる領域の北西にあるということにはなる
73日本@名無史さん:2013/04/23(火) 20:42:55.43
漢四郡てどこにあったと思っているんだ?
74日本@名無史さん:2013/04/23(火) 20:44:24.36
「安」と呼ばれる領域のはふつうにこれだら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B7%9E%E5%B8%82
75日本@名無史さん:2013/04/23(火) 20:51:15.38
漢四郡などとゆうのは30年間維持できていたかどうかも疑わしい瞬間芸なんだけどね。
76日本@名無史さん:2013/04/23(火) 21:11:18.66
満州ジジィたちの議論は
どっか他所でやれよ
77日本@名無史さん:2013/04/23(火) 21:13:30.62
遼東郡は、定説通りで特に問題はない。
範囲をいじるなら、そちらが根拠を示すべきであろう。
78満州スポーツマン金太郎:2013/04/23(火) 21:19:38.59
>>73
それを今議論しているんだよ。
>>74
お前はアホか。
>>76
何でも好きなことを書けよ。われわれに遠慮することはないんだよ。
79日本@名無史さん:2013/04/23(火) 21:27:28.87
漢武帝元封二年(BC108)
伐朝鮮 殺滿孫右渠 分其地爲四郡 以沃沮城爲玄菟郡

昭帝 始元五年(BC82)六月 罷儋耳・真番郡

昭帝 元鳳六年(BC75)春正月 募郡國徒築遼東玄菟城 → 永陵鎮 
80満州スポーツマン金太郎:2013/04/23(火) 21:29:21.43
>>77
だからその定説で武次はどこかを訊いているんだよ。
誰でもいいから答えてみろ。一カ月くらいは待ってやるぞ。
81日本@名無史さん:2013/04/23(火) 21:36:22.15
>何でも好きなことを書けよ。われわれに遠慮することはないんだよ。

じゃ、オレの好きな野球の話でもさせてもらおうかなァ
82日本@名無史さん:2013/04/23(火) 21:50:13.14
鳳凰山山城(烏骨城 遼寧省鳳城市) のが 「武次 東部都尉治 莽曰桓次」 と絡む

のいみは

「武次 東部都尉治 莽曰桓次」があったところに

後の時代に 鳳凰山山城(烏骨城 遼寧省鳳城市) が構築された。

「武次 東部都尉治 莽曰桓次」があったところは【遼寧省鳳城市】と書いてあげても

読解力とか脳内地図の描けないぢいさんにはほんににゃんこに小判か
83日本@名無史さん:2013/04/23(火) 22:04:44.42
>>78
君が漢4郡より東というから、どこを考えているのか聞いたまでさ。
君が答えないなら、それより東かどうか答えようがないね。
84満州スポーツマン金太郎:2013/04/23(火) 22:20:24.27
>>83
まったく議論が噛み合っていない。
もともと私の楽浪郡遼東説に文句をつけてきたから、
では遼東郡の東部都尉治の武次はどこか、と私は訊いているのだ。
遼東郡が東に拡張したというなら、そのときの東部都尉治はどこなのか。
拡張していないのなら武次が遼東郡の東限と考えるのが自然だ。
だから武次とはどこかと訊いているのだ。

>>82
前々から思っていたが、お前は精薄と狂人のあいのこだ。
一度松沢病院で診てもらえ。
85日本@名無史さん:2013/04/23(火) 22:31:01.53
ここは ♪松沢病院ドンと来い!♪ スレになりました。
86日本@名無史さん:2013/04/23(火) 22:36:15.26
>拡張していないのなら武次が遼東郡の東限と考えるのが自然だ。
そこから東は全部受け持ったんだろ。東限ではない。
87満州スポーツマン金太郎:2013/04/23(火) 22:49:19.93
>>86
パカ。そんなことがあってたまるか。
もっとまともな反論を用意して来い。

もうこの議論は止そう。お前らを相手にしても仕方ない。
>>81よ、さあ好きなことを書け。
88日本@名無史さん:2013/04/23(火) 23:02:35.74
山形の思いつきネタだけで、延々と粘着するなよ。もう飽きた。
89日本@名無史さん:2013/04/23(火) 23:04:46.57
都合が悪くなると、「そんなことはない」だけだな。
理論がないのか、理論が?
90日本@名無史さん:2013/04/24(水) 05:57:55.57
史記朝鮮伝を読めば衛氏朝鮮と衛氏朝鮮を滅ぼしておかれた楽浪郡の位置が分かる
燕の長城の東の浿水の向こうである
浿水は清川江のことなのでピョンヤンの近くで間違いない
シナ人の墓もたくさんあるし楽浪と書かれた封泥も発見されている

そして百済も新羅も大国ではない
三国志を読めば3世紀になっても辰韓が12カ国馬韓が52カ国に分かれていた
地図を見て辰韓を12馬韓を52に分割してみればどんなに小さな国だったか分かるだろう
逆に北九州にあった倭国(筑紫)は1世紀から続く大国である
海を渡り新羅に一方的に何度も攻め込んでいたことが分かっている
91日本@名無史さん:2013/04/24(水) 07:03:15.40
いずれにしろ、邪馬台国は朝鮮に有った、満州に有ったなど、論理的な証明が
できないたわごとを言うア○ウに付き合うことはあるまい。
スレチだから「朝鮮邪馬台国論」とか「満州邪馬台国論」などというスレを作
って、そっちでやってくれ。
92満州スポーツマン金太郎:2013/04/24(水) 08:49:35.07
>浿水は清川江のことなので ←これが間違い
>三国志を読めば3世紀になっても ←三国志に書かれているのは3世紀の韓にあらず

>>91
九州説が語りたいならそっちでやってくれ、痴呆爺さん
93満州スポーツマン金太郎:2013/04/24(水) 08:55:28.06
>邪馬台国は朝鮮に有った、満州に有ったなど

ポクはこんなことは一度も書いたことはないのだが、
あいかわらずこんな誤解をしている。
どうせ>>91は川柳の達人のアンポンタンだろう。
この爺さんは人を中傷するときは名無しにする卑怯者だ。
これからは「卑怯者川柳の達人」と名付けてやろう。
94日本@名無史さん:2013/04/24(水) 09:53:46.00
浿水は清川江のこと。それで問題ないね。
三国志に書かれているのは三国時代の韓、すなわち3世紀の韓だ。
95満州スポーツマン金太郎:2013/04/24(水) 12:32:22.92
チミらのようなアンポンタンを相手にしても仕方ないが、
無下に一喝するのもなんだから説明してやろう。

そもそも浿水というのは水経注に書かれているのである。
で、水経注というのは中国の河川について記された書物なのである。
だから朝鮮の河川ではない。
浿水が清川江でも大同江でもない証拠はいくらでもあるが、たとえば−
渤海國記
金コ縣 【 遼志東京遼陽府遼陽縣本渤海國金コ縣地漢浿水縣高麗本為句麗縣渤海為常樂縣】

遼陽府遼陽縣が漢の浿水縣だと書かれている。分るか?
これでも分らないなら他にいくらでも証拠文献があるが、面倒くさいから止める。
96満州スポーツマン金太郎:2013/04/24(水) 12:41:08.26
因みに、浿水とは遼河であるということで史家の見解は一致している。

燕人衛満亡命 為胡服 東渡浿水 詣準降 (魏略)

東渡浿水とある。浿水は南北に流れている河なのである。

王險城在樂浪郡浿水之東 此自是險涜也

浿水之東とあるから、やはり浿水は南北に流れている河である。
險涜とはどこかを調べてみれば良い。
そうすれば浿水が遼東の河川であることを確信するだろう。
97満州スポーツマン金太郎:2013/04/24(水) 12:47:24.71
浿水 出遼東塞外 西南至楽浪県 西入海 「史記朝鮮列伝」

まさに遼河にピッタリではないか。
まさか遼東塞は朝鮮半島にあったと言い出すんじゃないだろうな。
98日本@名無史さん:2013/04/24(水) 12:51:44.61
浿水縣

  漢置,以浿水名,後漢因之,誤碼天作涀水,即今朝鮮鴨麹]南岸之義州,其地當遼東與樂浪郡治之間,蓋沖要之區也。
99日本@名無史さん:2013/04/24(水) 13:07:58.08
出遼東塞外 外の話だな。
100日本@名無史さん:2013/04/24(水) 14:51:27.63
ネット朝鮮史をご信仰のかたはこちら↓

それでも卑弥呼は朝鮮にいた
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1343518216/l50
101満州スポーツマン金太郎:2013/04/24(水) 17:19:09.52
まったくお前らのパカさは超弩級だな。まだ納得できないのか。
では別の角度から説明してやろう。

公孫淵が大司馬樂浪公に封じられているだろう。
公孫淵は樂浪公だ。
では公孫淵はどこにいたのだ? 平壌にいたのか? 違うだろう。
公孫淵は遼東にいたのだ。遼東が楽浪なのだ。分るか。

これでも分らない奴は放置しておこう。この議論はここで打ち止めだ。
さあチミらの語りたいことを語れ。
102日本@名無史さん:2013/04/24(水) 17:27:35.13
101が見えない どうしてなんだろう
103日本@名無史さん:2013/04/24(水) 17:47:11.16
何を言ってるんかな。公孫淵は最初から遼東太守を名乗っている、遼東が楽浪
ならば大司馬樂浪公にするなんて話は「ふざけるな」と言われるだけだぜ。
104満州スポーツマン金太郎:2013/04/24(水) 18:29:23.17
選り抜きの パカが集まる 2ch
105日本@名無史さん:2013/04/24(水) 18:41:22.51
>>93
自分が嫌われ者だということは自覚したらしいな。
106満州スポーツマン金太郎:2013/04/24(水) 18:57:06.51
>>103の名無しは公と太守のどちらがランクが上かということも分かってないらしい。
パカ丸出しw
107日本@名無史さん:2013/04/24(水) 19:13:42.16
あらら、ランクを上げたら喜ぶだろうってか、かかか(笑)
108日本@名無史さん:2013/04/24(水) 19:24:46.53
遼東公孫氏が好物のおひとかな
109日本@名無史さん:2013/04/24(水) 20:25:57.31
>>106
どっちかが上だと思ってるの?その理由をつけて説明して。
110日本@名無史さん:2013/04/24(水) 20:58:38.36
燕王だろ
111日本@名無史さん:2013/04/24(水) 21:23:00.98
燕王の劉さん騙った
112日本@名無史さん:2013/04/24(水) 21:24:56.69
でもほんとうのところは漢帝なんだろ
113日本@名無史さん:2013/04/24(水) 21:30:10.96
自分でたいへんなスレチをして迷惑かけているという自覚はないんかね
114日本@名無史さん:2013/04/24(水) 21:41:03.89
帯方王家が劉姓のだとすると漢山とか漢江だとかのネーミングがわかりやすいけど
115満州猿飛佐助:2013/04/24(水) 21:45:27.58
>>109
太守と公をWikiで調べれば分かることだよ。

>>113
お前はパカか。
116満州猿飛佐助:2013/04/24(水) 21:47:22.44
選り抜きの カスが集まる 2ch
カスどもが 畿内と九州で 議論する
117日本@名無史さん:2013/04/24(水) 21:47:54.08
畿内なんていなくなったじゃね
118日本@名無史さん:2013/04/24(水) 21:50:52.17
京丹後市もいちおう畿内だし
119日本@名無史さん:2013/04/24(水) 21:53:45.48
2chで正しい知識など意味がない
河童は偉大だった
120日本@名無史さん:2013/04/24(水) 22:01:09.45
>>115
wikiの通りだというのなら、太守は官職で公は身分だから、二つは違うもの。
どっちが上とか比べられない。
大司馬は拜で楽浪公が封となっているのは、そういう理由からだろう。
121満州猿飛佐助:2013/04/24(水) 22:50:56.98
公侯伯子男
公は王に次ぐ諸侯の最高位。

郡太守なんて州刺史より下。比べものならない。
122日本@名無史さん:2013/04/24(水) 23:03:57.15
>>121
楽浪公の公は、公侯伯子男の公とは違うだろう。漢・魏に男爵とか居るのかい?
それから、爵と官は比べるものじゃない。性質が全然違うものだから、比べようがない。
123日本@名無史さん:2013/04/24(水) 23:10:42.26
魏には男爵あっただろ
124日本@名無史さん:2013/04/24(水) 23:50:04.53
>>123
なんの文献に出てる?
具体例をよろしく。
125日本@名無史さん:2013/04/24(水) 23:53:04.73
>>124
「通伝」他たくさん
つかお前勉強不足すぎ
Wikiにもあるだろ
126日本@名無史さん:2013/04/24(水) 23:54:39.37
襄平は少し小高いところにあったみたい

襄平延里社生大石 長丈餘 下有三小石爲之足

支石墓が発見されてたみたいだからなあ
127日本@名無史さん:2013/04/24(水) 23:55:02.90
「通典卷第36」・唐・虞・夏・商・周・秦・漢・後漢・魏では、国王・公侯伯子男爵は一品、
県侯爵は三品、郷侯爵は四品、亭侯爵は五品、関内名号侯爵は六品
128日本@名無史さん:2013/04/24(水) 23:56:38.76
×通伝 ○通典
129日本@名無史さん:2013/04/24(水) 23:58:40.74
帝孫系のは血筋さえ繋がっていればみなさん公孫氏って騙る
130日本@名無史さん:2013/04/25(木) 00:02:20.13
そういえば南匈奴のところも劉さん騙っていたりしたよね
131日本@名無史さん:2013/04/25(木) 00:02:59.62
衛氏朝鮮と楽浪郡は燕の長城をでて東である
ピョンヤンの近くで問題ない

そもそも朝鮮半島にはずっと朝鮮民族の国がありシナ人の国などなかったといいたいのだろうが
残念ながらそれは無理なのである
朝鮮民族なんてものいなかったのだから

三国志を読めば3世紀の朝鮮半島の様子が分かるが
楽浪郡の南には韓穢倭という3種類の集団がいた
この3つは明確に区別されている
たぶん言葉も習慣も文化もぜんぜん違っていただろう
もちろんシナからの流民も多かったはずだ
史記朝鮮伝を読めばシナからの流民を衛満がまとめ上げたことが書いてあるし
大体新羅からして秦からやってきた流民の作った国である
おまけに4代目の王は日本の丹波から流れ着いた怪しげな男だし
瓠公も倭人なのでトップとナンバー2が日本列島の出身なのである
一方百済も朱蒙が王莽に殺されたときに逃げてきた朱蒙の息子がたてた国である
こちらは満州人の国なのだ

ピョンヤン近くの楽浪郡と北九州の倭国(筑紫)に挟まれた地域は
さまざまな種類の人間が流れ込む吹き溜まりのような場所だったのだ

この吹き溜まりのような場所の人間たちがひとつの集団にまとまるのは
統一新羅のできた後でありそれ以前はばらばらである

3世紀ごろには小さな国しかない
国家統一の動きが起こってくるのは高句麗が楽浪郡を滅ぼした後だ
132日本@名無史さん:2013/04/25(木) 00:06:16.51
>>131
満臭にはいくら言っても無駄つーか
そもそもその東夷伝の記述を否定したくて悪足掻いているんだ
133日本@名無史さん:2013/04/25(木) 00:12:56.67
王莽に殺されたおひとの配下の兵隊さんは貊人だけどね

秋(121) 宮・遂 率 馬韓・濊・貊數千騎 圍玄菟 とかのもあるし
134日本@名無史さん:2013/04/25(木) 00:22:04.12
燕人の衛氏王朝の支配領域はピョンヤンあたりをも含むのだが

本部はピョンヤンあたりではなくて発掘済みの

遼東郡から遼東屬國に編成変えになっている

險瀆 (險涜)【史記曰 王險 衛滿所都】ですね。
135日本@名無史さん:2013/04/25(木) 00:23:57.59
そもそもバロンを男爵と訳したのは中国由来だろ
136日本@名無史さん:2013/04/25(木) 00:43:05.04
まめちしき

上海の略称は滬であり、
紀元4、5世紀にあたる晋代において、
松江(現蘇州河)と沿岸部の住民は漁業を生業とし、
また「扈」という魚を捕る竹道具を造り、
それに当時は河川の河口が「瀆」と呼ばれていたため、
松江の下流は「扈瀆」と言われる。

なんか南方由来の漢字のがけっこう多いみたい
137日本@名無史さん:2013/04/25(木) 01:52:24.01
>>125
勉強不足ですまん。確かに魏の最後で五等爵が復活してるね。
ただ、五等爵復活は元帝咸熙元年(264年)。魏は翌年に終わってる。
公孫淵が楽浪公に封じられたのは、それよりずっと前だから、
やっぱり楽浪公の公は、五等爵の公ではないね。
138満州猿飛佐助:2013/04/25(木) 09:18:43.78
>>131の投稿には様々な間違いが詰まっているが、いちいち指摘するのは面倒だからやめておこう。
一つだけ指摘しておけば、燕の長城がピョンヤンまで来ているはずがないのである。

稗箕狐もあいかわらず
>燕人の衛氏王朝の支配領域はピョンヤンあたりをも含むのだが
こんな妄想を書いている。
まあ、この男は精薄に近い男だから放置しておこう。

>>132の南解次次雄もただの雑学ネトウヨ雑談王だからほっとこう。
139満州猿飛佐助:2013/04/25(木) 09:22:27.69
>やっぱり楽浪公の公は、五等爵の公ではないね。

五等爵の公以外に公なんてものはあるか?
まあ、どうでもいいことだが。
140日本@名無史さん:2013/04/25(木) 09:33:43.69
まあ、楽浪郡や帯方郡を遼東半島にもっていきたい満州とすれば、倭人伝の存在が
一番しゃくの種なんだろうな。倭人伝の1里=八十メートルぐらいをもとに狗邪韓国
から7000里とあるから、帯方郡がソウル付近だということは動かしがたい。
そこで、トンデモを連発するしかないということになる。
141満州猿飛佐助:2013/04/25(木) 09:34:17.56
>>131のような投稿を見ていると、朝鮮半島でさえ支那人の国であった、という、
中国の目論見通りのことを信じているようなのである。
中国人とそれに追従した朝鮮人の歴史捏造にまんまと騙されているのである。
バカというか、可哀そうというか…。

歴史教育というのは恐ろしいね。民族の誇りさえ奪ってしまう。
戦後の日本がそれで、ネトウヨはそれに反対しているわけだ。
その意味ではネトウヨは正しい。ただ僕がネトウヨが嫌いなのは、
彼らは三国人を蔑視差別しているからだ。それさえなければ、
とりたててネトウヨが悪いというわけではない。
南解次次雄はネトウヨだが、彼はときどき九州人は朝鮮人だとバカにしている。
そういうことを書くから嫌われるのだ。
142満州猿飛佐助:2013/04/25(木) 09:39:59.18
楽浪郡や帯方郡は遼東にあったのだから仕方ない。
意図もクソもない。それが事実だから仕方がないのである。

それに短里などを空想しているのは日本の邪馬台国九州説論者だけである。
そんなものが国際的に通用すると思ったら大間違いである。
現に日本人でさえ畿内論者は短里説など一笑に付している。
143日本@名無史さん:2013/04/25(木) 10:04:20.66
多くの史家が書き残している短里を無視しては史書を理解することはできないよ。
144満州猿飛佐助:2013/04/25(木) 12:15:15.82
短里で書かれている史書など無い。
そんなものを信じているのはお前らのような古田信者のアンポンタンだけ。
145日本@名無史さん:2013/04/25(木) 12:22:39.25
現実から目を背けるな。楽になるぞ。
146日本@名無史さん:2013/04/25(木) 12:37:07.58
古田は「師の説を受け売りするな」と力説しているわけだが。
『穆天子伝』が短里じゃないと読めない、という古田の指摘に反論してからだな>慢臭
147日本@名無史さん:2013/04/25(木) 14:29:33.71
短里なら尚更畿内だろう。
九州なんて近いわw
148満州猿飛佐助:2013/04/25(木) 17:14:57.60
ではその『穆天子伝』とやらの、どこがどう短里でないと読めないのか、説明してみろ。
あるいは古田のどの本に書いてあるか、でも良い。
今は読む気はないが、そのうち読むことがあるやもしれぬ。

何しろ古田は春耕秋穫で一年を二年と数えた、などと言い出す超アンポンタンだからな。
で、またそんなアホ説を信じているアホがここには何人もいるのだから怖い。
149日本@名無史さん:2013/04/25(木) 17:44:51.59
無理して難しいものを持ち出す必要はない。韓伝の方四千里、対馬などの各千里、
島の方四百里、三百里。これらで十分だ。
原資料を書いた者がいた。それを魏略、魏書、三国志、それらを書いた史家が踏
襲した。ちゃんと検討して間違いないと思うから採用したんだろ。
短里が存在した何よりの証拠だ。
150満州猿飛佐助:2013/04/25(木) 18:34:04.18
>ちゃんと検討して
魏の都にいる文人がどうやって現地を検討したんだ?(笑)
151日本@名無史さん:2013/04/25(木) 18:42:50.19
自分のいるところしか知らんのは満州のみ。これを井の中の蛙という。
152日本@名無史さん:2013/04/25(木) 19:42:13.37
もっと緻密にやらないと相手にしてもらえないよ ってせっかくいってあげたのにさ
153日本@名無史さん:2013/04/25(木) 21:01:55.51
釜山から北九州沿岸上陸地まで「約3000里」と書いているから、海上距離
と割り引いて考えても「短里」しか有り得ない。これが見抜けない奴はア○ウ。
154日本@名無史さん:2013/04/25(木) 21:46:53.86
郡から七千餘里じゃ対馬の真北には着かんな
155満州猿飛佐助:2013/04/25(木) 22:02:46.61
昔は台湾のことを琉球國と謂ったのである。その台湾の近くに彭湖島がある。

彭湖島在琉球國 水行五日(明一統志)
琉球國在泉州之東 有島曰彭湖 水行五日而至(文献通考)
福州海中有彭湖島 相去三千里 自福州順風而往 不半日至也(玉堂薈記)

福州から台湾(の彭湖島)まではちょうど釜山から末盧国までほどの距離しかない。
ところがそれを三千里と書いている。それが中国人の距離感だったのである。
玉堂薈記は近世の書物であるから短里で書かれているわけではない。

つまり倭人伝の里数も短里とは何の関係も無い。
海上航行の場合、距離感がつかめないので実際の数倍に感じてしまうのである。
156日本@名無史さん:2013/04/25(木) 22:20:44.09
方四千里、方四百里、方三百里は海上航行による距離感ではないぞ。
157日本@名無史さん:2013/04/25(木) 22:27:30.70
ちょうせんくんえらいぞ。。。

http://goo.gl/maps/eLZE1
158満州猿飛佐助:2013/04/25(木) 22:32:15.69
そんなものは適当な見当で書かれているのである。
玄菟郡が洛陽東北四千里と書かれている。
朝鮮半島の南北の距離は大体それくらいだろうという見当で書かれているのである。

方四百里、方三百里はたしかにやや誇大という気もするが、
実際の大きさなんて人間の感覚ではつかめないものである。
われわれは地図を見て対馬なんて小さな島だと思うが、
実際に現地に行けばかなり大きな島に思えるのではないか。
実際に行ったことはないから何とも言えないが。
159日本@名無史さん:2013/04/25(木) 23:21:07.50
郡から循海岸水行七千餘里の狗邪韓國はどのあたりだろうな
もともとは勒島だもんな、原の辻と行き来してるのは
160日本@名無史さん:2013/04/25(木) 23:22:40.37
使者は上陸してそこの役人から事情を聞いているだろう。島の南北は何日で
踏破できるか、東西は何日か、島のおよその形はどうだとかね。
単に海上から眺めた印象なんぞでは倭人伝のように正確な数字は出てこない。
161日本@名無史さん:2013/04/25(木) 23:31:24.03
釜山から唐津まで
直線距離でピッタリ短里三千里
162日本@名無史さん:2013/04/25(木) 23:36:30.50
ソウル〜釜山間は対馬〜壱岐間の10倍くらいあるから根拠ないな
163日本@名無史さん:2013/04/25(木) 23:44:08.04
壱岐〜唐津間と比較したら15倍以上あるんじゃないか
164日本@名無史さん:2013/04/26(金) 00:02:42.56
本来、七倍のはずだと言いたいんだろ。しかし、そのぐらいの誤差は、ぴったりの範疇だよ。
現代人で、地図を持たずにその程度の誤差で答えられる奴はまずいないだろうな。
165日本@名無史さん:2013/04/26(金) 00:11:00.83
7倍が10倍、15倍はピッタリの範疇なのか?
幅がありすぎて短里の証明なんてもんには使えんだろ
そうすると結局釜山の根拠もない、方位が正確だとの証明もできんな
166日本@名無史さん:2013/04/26(金) 00:16:13.61
江戸時代の道中記でも対馬−壱岐間は実距離の四倍程度になってるな
167日本@名無史さん:2013/04/26(金) 00:42:07.60
>>165
7倍が10倍、15倍という数字をみるから駄目なんだよ。
一里をいくらとみるか、まず総合的にそれを考えてそれとの誤差を考えてみろ。
君がいう壱岐、唐津間の距離だって海流などの関係で大回りしたとか想定すれば
距離はかなり違ってくるだろう。
168日本@名無史さん:2013/04/26(金) 00:50:53.79
倭国は遠い国というイメージがあったのでは?
実際は思っていたよりもずっと近かったと
169日本@名無史さん:2013/04/26(金) 01:03:06.35
総合的に見るからソウル〜壱岐間の1里に基準があるとは考えられないんだろ
大回りしたほうが都合がいいところは大回りし、小さな島が点在する半島西南部はしない
しかも、その1里の基準に大きく外れても、地図を持っていないから誤差だと釜山に確定する
海の女神の名神大社が祀られている呼子ではなく、式内社もいない唐津にもっていき、
地図をもっていなかったはずなのに一転して方位も距離も正確だとして、
楽浪土器も出ない佐賀市内に伊都国があったという
恣意的解釈にもほどがある
170日本@名無史さん:2013/04/26(金) 01:06:10.49
使者は実際に倭国を訪ねているんだ。イメージなんぞに引きずられることはない。

東夷伝全体の数字が一里=435とは違っているんだよ。高句麗方二千里を435で
考えたら北朝鮮から満州まで全部入れてもたりない。ほかの国が存在する余地がない。
171日本@名無史さん:2013/04/26(金) 01:17:20.24
末盧国までの距離から割り出した1里がどの程度か、多くの人の意見はだいたい
一致しているだろ。逆に、435で書かれているなどというところは全くない。
神社とか楽浪土器とかは、倭人伝の地名の比定にはまったく関係しない話だよ。
それこそ、こじつけ、恣意的解釈だ。
172日本@名無史さん:2013/04/26(金) 01:27:09.14
1里は一致していないし、1里が何mであっても誤差にはかなりの幅があるんだろ
遺物の根拠はいらないし、地名も関係ない、伊都国も邪馬台国もどこでもありだろw
朝鮮半島内でも可能じゃないかw
173日本@名無史さん:2013/04/26(金) 01:35:58.45
唐津〜多久〜小城〜佐賀市、鹿島は土蜘蛛生息地域で、連合もしてない、式内社も極端に少ない
日本人がほとんどいなかったんだろ
174日本@名無史さん:2013/04/26(金) 05:34:18.05
狗邪韓國=巨済(コジェ)島
忠武半島にあったトク盧国と界を接していた倭人の国
175満州猿飛佐助:2013/04/26(金) 09:17:36.01
高句麗方二千里 一里を434mとすると868km。高句麗は約方600km。

これは実際の1.3倍程度の数値だ。決して誇大な数値ではない。実情とほぼ合致している。
短里では全然合致しない。短里では150km。実際の4分の1になってしまう。
176日本@名無史さん:2013/04/26(金) 10:42:11.23
約方600km? 高句麗の領域はどこからどこを考えるのかな?
177満州猿飛佐助:2013/04/26(金) 12:29:05.34
鴨緑江と豆満江の北部は百済と新羅の領域であった。
それ以北の全満州は高句麗の領土である。
中国史書は扶余、穢貊、沃沮などを区別しているが、
実際はそれらはすべて高句麗の支配下にあった。

狭く見積もっても、鴨緑江豆満江以北、第一松花江以南、
遼河以東、ウスリー江以西は高句麗である。
178日本@名無史さん:2013/04/26(金) 14:12:53.49
ということは、魏志東夷伝にかかれていることは全くのでたらめだということだろう。
にもかかわらず、高句麗方二千里を信用するのかね?
179満州猿飛佐助:2013/04/26(金) 17:26:20.81
質問の意味不明なるがゆえに却下す。
180日本@名無史さん:2013/04/26(金) 17:30:23.70
ま、妄想にすがるしか仕方がないってことね。
181日本@名無史さん:2013/04/26(金) 23:47:09.77
方二千里とゆうと弁辰のに毛が生えた程度の領域

弁辰のが4-5萬戸だから

多大山深谷 無原澤
隨山谷以爲居食澗水 無良田
雖力佃作 不足以實口腹

のところのが3萬戸なのはわかりやすいといえちゃう。

其國中 大家不佃作 坐食者萬餘口 下戸遠擔米糧魚鹽供給之

戦闘員する系の征服サイドの貊系ののパーセンテージが6-7%とかの人口構成
182日本@名無史さん:2013/04/26(金) 23:54:36.48
王莽に騙されて首ちょん切られちゃた高句驪縣侯の騶さんのところの兵隊さんは貊人
183日本@名無史さん:2013/04/27(土) 06:43:24.36
>>161
魏使の上陸地が唐津と証明されているわけではない。博多説もあれば神湊説も
ある。こちらであれば倍率は違ってくる。
184日本@名無史さん:2013/04/27(土) 07:53:31.17
だったら一大国までの距離関係で一里の長さを推定すればいいんだよ。
185日本@名無史さん:2013/04/27(土) 09:15:33.56
>>183
一時的な魏使の上陸地というより、当時倭国王と帯方郡との通交交易路。
博多や神湊では上陸してからの行く先に困る、そのことも考えれば古松浦港こそ最適、これ以外にない。
186日本@名無史さん:2013/04/27(土) 10:08:23.31
確かに、唐津ならば上陸して東南五〇〇里、南へ向かうのに合理的。
187日本@名無史さん:2013/04/27(土) 18:07:29.65
なかっち 動画
http://www.youtube.com/watch?v=z2qK2lhk9O0s



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http://vote1.fc2.com/browse/16615334/2/
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台湾誌
http://www.ettoday.net/news/20120625/64810.htm
188日本@名無史さん:2013/04/27(土) 18:27:40.50
>>185
これ以外に無いという考え方を皆それぞれするから、邪馬台国が見つからない
のだよ。学問研究者ではないのだね。
189日本@名無史さん:2013/04/27(土) 18:50:38.35
>>188
そう言われる前に、長崎〜福岡の沿岸の上陸地点を端から端まで当たっての結論。
190日本@名無史さん:2013/04/27(土) 19:46:27.65
>>189
測量地図の壱岐にコンパスの芯を立てて、対馬(およそ1000里)までの距離
を採って、そのまま九州沿岸に半円を書けばーーー。
191日本@名無史さん:2013/04/27(土) 19:54:36.72
>>190
渡海千里も大事だけど、上陸後、東南陸行五百里で伊都国等三国にふさわしい土地柄に至ることはさらに重要。
192日本@名無史さん:2013/04/27(土) 20:32:45.64
倭人が報告したと思われる陸行一月ってどう考えても誤字だよね。
せっかく船で移動してるのに、上陸してから一月も歩くと思えない。
一月を入国審査の待ち時間とする説も聞いたことがあるけど、
それなら「陸行」でまとめず、徒歩の日数と待ち時間を分けるだろう。
魏国人に対して地理について報告するのに、
倭人の外交官がそこをごっちゃにするとは考えられない。

当時は大阪湾が深く入り込んで生駒山麓まで湖だったから
港湾施設も生駒山麓にある可能性が高い。
そこから巻向までは直線距離で20kmもない。
信貴山を越えるか迂回すれば1日で充分。


なんで方角が南になってるのかはわからん。
・当時の北極星は、日周運動をするので精度の悪いこぐま座ベータ星だった
・洛陽と北九州では経度差があるが、平面世界の認識ではそれを理解できないはず。
 日の出日の入りの時刻を使って北極の方向を補正していたらズレが出たかも。
・地磁気の北極はさらにズレていた可能性が有り、指南車(羅針盤)の大きなズレがあった。
などかなあ。
193日本@名無史さん:2013/04/27(土) 20:39:50.65
入国審査はありえんな
194日本@名無史さん:2013/04/27(土) 21:40:48.63
>>191
ふさわしい土地柄はこれから発掘される可能性が高い。今わかっている土地だ
けが候補地ではない。
奴国・伊都国・邪馬台国などには漢字が判る人、書ける人がいたと推定される
が、今までの比定地からは漢字を書いたものはほとんど発見されていない。
195日本@名無史さん:2013/04/27(土) 22:36:26.52
>>192
なんで大阪湾が出てくるんだ。お前バカか?

> なんで方角が南になってるのかわからん。

エジプトだからローマから見れば南に決まってるだろが。
教えてやったんだからお前もう来るな。ウザイんだよ。
196日本@名無史さん:2013/04/27(土) 22:56:36.62
「竹箭或鐵鏃或骨鏃、所有無與&amp;#20747;耳、朱崖同」

なんで石鏃、銅鏃が書いてないんだろうなw
壱岐には確実に来てなければならないはずだが
原の辻は銅鏃出土数最多のところだぞw
197日本@名無史さん:2013/04/27(土) 22:58:29.75
邪馬台国について書いているからさ。
198満州猿飛佐助:2013/04/27(土) 23:15:43.56
>>195>>197
この二人は性格が悪い。
たぶん南解次次雄と「ボクの素直読み」である。
こういう連中が常連中の常連だから2chに人が寄り付かない。
199日本@名無史さん:2013/04/27(土) 23:25:20.90
粘着しているお前が一番、性格が悪い。
200日本の名無史さん:2013/04/28(日) 01:06:31.59
次スレ
「満州と愉快な仲間たち」ww
201日本@名無史さん:2013/04/28(日) 10:29:52.36
方角違い、見当違いを掘っても大したものは出てこないわな、で、とかくえいやーGodハンドとかww
ま、遠からぬうちに佐賀平野から伊とか奴とか不の字くらい出てくるだろう。
202日本@名無史さん:2013/04/28(日) 12:58:50.63
出てから言うこっちゃ。
203日本@名無史さん:2013/04/28(日) 13:58:42.80
伊都国といえば福岡県の独断場だった。
佐賀平野説は最近登場して広まった新説。
これから佐賀県関係の専門家の手で発掘なども進むだろう。成り行きに注目。
204日本海ルート論者:2013/04/30(火) 23:24:20.76
1年振りでしょうか、久々です。
◯さん、いますかね?
205日本の名無史さん:2013/05/03(金) 23:25:08.01
満州はバックれたの?
206日本@名無史さん:2013/05/04(土) 18:17:53.54
満州へ強制送還されたって。
207:2013/05/04(土) 23:33:54.92
は〜い! 元気にしてますよ。

日本海ルート論者さんとは別の意味で、山陰ルートの勉強をしてます。
三月の伊都国歴史博物館での「西谷先生」の講座で、若狭湾につての
質問をしつこくして来ました。

また、戦いましょう! 
208:2013/05/05(日) 00:09:40.50
>>204 ルート66さん
今回は、山陰地方の四隅突出型墳丘墓が若狭湾一帯から出土してない事に
ついて、西谷先生に質問しました。
先生はその地域は環境に煩い所で、必ず存在しているはずだの見解でした。
私は、東北訛が出雲、隠岐島で北陸と連続せず独立している事を述べて、
絶対ない筈と言ってやりました。(笑)
209日本@名無史さん:2013/05/05(日) 02:23:43.81
>>192
纏向が邪馬台国だから、倭人伝の記述はおかしいと言っているわけで、
根本的に間違っている。
倭人伝の記述に合うところが邪馬台国だろうに。
210日本@名無史さん:2013/05/05(日) 03:08:20.20
間抜け面下げて工作員本丸の社会科学院の大先生に聞いても解らんのだろ?w

もうやめたらどうだろう。世の中平和じゃ無い観たいだぞ。
211日本@名無史さん:2013/05/05(日) 07:53:15.10
間違っているのは倭人伝じゃなく、読者。
212日本@名無史さん:2013/05/05(日) 08:23:16.59
纏向中華思想。
213日本@名無史さん:2013/05/05(日) 08:25:36.93
山陰たたらは、技術が輸入されたのか、
それともかなりが独自開発なのか。

脱炭行程まで同時に行うような製鉄法はめずらしい。
214日本@名無史さん:2013/05/05(日) 08:40:34.44
<HITACHI KINNZOKU>
次にたたらという言葉の語源について調べてみましょう。

>実はまだはっきりしないのですが、外来語のようです。
>古事記には百済、新羅との交渉の場にたたら場とか、たたら津などが出て来ますので、
>朝鮮半島からの製鉄技術の伝来とともにたたらという言葉も伝わって来たのかも知れません。

>窪田蔵郎氏は、たたらをダッタン語のタタトル(猛火のこと)から転化したものでないかとしています。
>また安田徳太郎氏によれば、古代インド語のサンスクリット語でタータラは熱の意味、
>ヒンディー語では鋼をサケラーと言うが、これは出雲の鋼にあたるケラと似ていることなどから、
>たたら製鉄法はインドの製鉄技術が東南アジア経由で伝播したものではないかと言っています。
215日本@名無史さん:2013/05/05(日) 08:43:48.32
216日本@名無史さん:2013/05/05(日) 12:16:10.15
>>209 ヨコから
> 倭人伝の記述に合うところが邪馬台国だろうに。

>192は「陸行一月ってどう考えても誤字」と言ってるんだから、
そうは考えていないことが明らかだろうに。

「船で移動してるのに、上陸してから一月も歩くと思えない」というように、
「倭人伝」には誤った部分が含まれており、どこまでが信頼できるのかを検討したうえで利用すべき史料
としてあつかうのは当然だろうに。
217日本@名無史さん:2013/05/05(日) 12:33:43.03
>>216
ほかにさしたる資料もないのに、どうやって検討するのかい
218日本@名無史さん:2013/05/05(日) 12:47:32.38
>>217

おいおいw
219日本海ルート論者:2013/05/05(日) 14:31:05.12
>>○さん、元気そうで何よりです。
>>209 の話題
この頃は丹後が畿内側に調略されていて出雲の斜陽は確定していると考えます。若狭の港に出雲や越の舟が入ることはあったでしょうが、今更文化共有しないでしょね。
むしろ、この頃でも越が四隅を作るぐらい出雲と関連深いというのが大事でしょう。1世紀より前からの古い関係かもですねえ

ところで四隅と前方後円墳は祭祀がまるで違う筈で、四隅は四人の祭祀官が中央に供えるリベラルな祭祀が思い浮かぶ。
一方の前方後円の肝は人工「山」で故国優位の祖霊信仰からの脱却とも思える。山岳崇拝を人工の古墳で行えば、土着王の正当性を誰にもよらず(仲間内だけで)訴えることができる訳です。
あとはまあ踊る人と鏡を持つ人とで天岩戸劇でもやってたんじゃないかな(冗談)
220日本海ルート論者:2013/05/05(日) 21:16:53.85
>>○さん
「雄略=倭の武王」これはこれまでの日本古代史研究の成果ですが、今の限界はこの5世紀までで、これは記紀が信用に値しないのが大きい。すると、魏志の僅か2000字を大きな手掛かりとするしかない。
ただ言えるのは、北九州では領域国家と都市国家が混在していたということぐらいでしょう。

○さんは八女の女酋説で自分と相性が良いと思ってます。どうか今後しばらく雑談に付き合って下さいな。
221太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/05/05(日) 22:25:25.37
雄略≠倭の武王
222日本@名無史さん:2013/05/05(日) 22:31:34.63
太国さんはワカタケル=武ではないとお考えなのですな。
223太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/05/05(日) 22:35:29.57
夜が更けてきましたので、今夜はこれが最後の書きこみです。

倭の五王は天皇ではないですね。
前者は九州王朝王権関係の王達で、畿内朝廷の天皇とは別人ものです。

質問あれば明日以降に・・・。

zzzzz・・・・・
224:2013/05/05(日) 23:12:46.28
>>220 ルートさん

私の見解は通説とは、大きく異なります。
一番大きいのは、卑弥呼を評価していないと言う事です。

陳寿は政治的考慮をしながらも、真実を後世に伝えていると感じてます。
卑弥呼は「死」です。実際の主役は難升米と思っています。
225日本海ルート論者:2013/05/06(月) 22:09:32.61
>>223 太国さん
自分は、雄略を倭の五王と比定する考えを持っていますが、九州王朝説を否定する者ではなく、字数制限による説明不足をお詫びします。

恥のかきついでに、ヒスイ製勾玉について一つ質問させて下さい。
半島南部では5、6世紀に糸魚川産の物が大量に出土するとのこと。
自分はこれを越ルートの流通開放と捉え、この前後に畿内への政治的取り込みが完了したと考えてます。これが国譲りの完結かどうかは不明ですが。
太国さんはこれをどう捉えますか?
お聞かせ願えれば幸いです。
226日本海ルート論者:2013/05/06(月) 22:30:24.14
>>224 ○さん
自分も通説とは程遠いので…(笑)

>卑弥呼は「死」です。実際の主役は難升米と思っています。
自分は単なるバイリンガルの交渉役ぐらいにしか考えてないんですよね… タヂマモリかな? 詳しく聞かせて下さい。
若狭の続きも勿論楽しみにしてます。

因みに自分は、卑弥呼=百襲姫=天照(天岩戸)だと思ってます(勇気が必要)。
天照(うけひ)の方は元は男神、とか。
227太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/05/07(火) 15:17:27.25
日本海ルート論者さん

倭の五王と天皇の件ですが〜

いまだかつて五王関係の活動文献と当時の各天皇の記事と年代を合わせられた研究家はいないと思います。
五王が天皇なら、その関係年代が双方一致するはずですよ。
それが合わせられないんだから、両者は別人と観るべきですね。それがしの編年でも合いませんよ。

当時の日本とは二本であり、王権支配において日本は畿内と九州との二本立てだったということを思い知るべきです。
崇神当時なら、畿内は天皇の国、九州は卑弥呼の女王国の2極だったということですね。
これは大陸が呉、魏、蜀の三本立ての鼎の三分支配だったように、その当時の日本は二本立ての2極支配にあったということです。
半島でさえ一国ではなく、分立してたはずですから、日本だけ畿内朝廷の1極だったと考えるのは間違いの元ですよ。

畿内から多数出土の239年鏡が日本製であったことは中国の王先生でしたか、大陸舶来を否定されており、九州に卑弥呼の鏡が贈られたからといって、これらの畿内出土鏡は来日中の畿内にいた大陸人が関わって造った鏡だということです。
畿内のは卑弥呼の鏡ではないですね。それがしは通常にて考古は範疇外ですから勾玉についてはとやかく言う筋合いではありませんが、ここの鏡の件を貴殿が参考にして考えてもらいたいと思います。
通常において舶来なら九州経由で畿内到達と観るのが相当ですが、貴殿のお考えの日本海っていうのは半島から対馬等を渡り九州から畿内で来るというお考えではなくて、
〜何ですか?〜直接半島から新潟あたりとかに至る〜直送的渡海からの品物だということですか?

ありえないとは思いませんが、冒険的お考えですね? 根拠がうんと有りましょうか?
孝霊年代に月支国の船団が多数出雲付近に襲来してた話とかから完全否定までは出来ませんから、可能性は残りましょうが、
大胆な考えですし、論のリスクはあると思いますよ?
勾玉の形状の良否(吉凶)は知ってますが、貴殿は考古板の勾玉のスレの、それがしの書きこみを見たんでしょうか?
228太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/05/07(火) 16:38:05.87
>>225
ああそうですか〜?

あぁ〜分かりました、要するに北九州から日本海側の道筋を通行しての畿内〜同川近隣到達という
ことですな。可能性はあるでしょう。否定は出来ないですよ。
229:2013/05/07(火) 17:08:46.81
>>226 ルートさん
>自分は単なるバイリンガルの交渉役ぐらいにしか考えてないんですよね

見解が真反対なので、別な意味で面白いですね。
卑弥呼は倭王であっても諸侯に該当せず、被支配民族一般の「死」が使われています。
卑弥呼に代り黄幢を仮授されてもいるは難升米です。実質的な王と判断しています。

難升米は自ら郡、都へ赴いています。当時最も海上交通に長けていた「漢委奴国王」
の末裔と思っています。 卑弥呼後の男王も難升米でしょう。

倭の五王は、近畿とは何の関係もないと思います。
太国氏の見解に同意します。
230:2013/05/07(火) 17:40:36.13
>>226 ルートさん

日本列島が大陸と地続きの時代には、大陸からの固有の言語をもった種族がこの島へ渡って来た。
一万年をかけて異質の複数言語が、次第に統一された原日本語(東北方言)が定立されたと思われる。
弥生人の渡来により近畿地区に都が出来ると、日本海側からの出入り口が若狭湾に求められ、
その付近では弥生語が使われだした。
そして若狭湾で言語が遮断され、出雲、隠岐が東北方言として独立的に現存している。

このルートを開発したのは阿曇族と思われる。琵琶湖西岸に「安曇川」「志賀町」が残っている。
日本海側からは流れに順行であり、水行時間も短かったと考えられる。

これが、若狭湾付近には四隅突起型古墳が出土しない理由ではないだろうか。
231日本@名無史さん:2013/05/07(火) 18:24:28.88 ID:BC9Vy2pP
記紀に書かれる天皇家と、倭の五王などの帝家を一緒に扱ってはいけない。
232サガミハラハラ:2013/05/08(水) 08:16:02.30
>>227
いまだかつて五王関係の活動文献と当時の各天皇の記事と年代を合わせられた研究家はいないと思います。

太国さん、なにをいっているのですか。五王と天皇については既に私が六年前に「神功皇后は実在した」
を上梓して、五王が何天皇にあたるかを論じ(完璧な理論です)、讃が仁徳天皇(411〜432)珍が反正天皇(436〜438)済が允恭天皇(438〜459)
興が安康天皇(459〜461)武が雄略天皇(461〜479)と確定していますよ。(履中天皇は貢献していない)
233日本@名無史さん:2013/05/08(水) 10:05:42.23
えっ、サガミハラハラさんは、研究家だったんですか。
○○家(伏字)だと思ってました。
234日本@名無史さん:2013/05/08(水) 20:05:55.25
夢想家?
捏造家?
235日本@名無史さん:2013/05/08(水) 23:02:45.69
はい、みんな倭人伝通りに進んでみましょうね。
236サガミハラハラ:2013/05/09(木) 07:50:21.04
そうです。東南至伊都国とあるのであるから、東ではなく東南へ松浦川沿いに進んでいくのです。
そうして多久盆地に入るのです。
237サガミハラハラ:2013/05/09(木) 10:08:32.15
多久市中小路庄集落が伊都国の都でした。
そこから東南百里にて奴国です。肥前山口の土元がそれにあたります。
東百里にてフミ国にいたります。
庄集落から百里6.8km東で小城市不二町に到着します。
奴国には至るの字はありますが、行とかの動詞はありません。
よって奴国は、行路上の国にははいらないのです。もっとも、散歩がてら
魏使はいったかもしれませんが。
238日本@名無史さん:2013/05/09(木) 10:28:59.27
順次式に読もうとするから窮屈な話になる。
239サガミハラハラ:2013/05/09(木) 10:31:49.90
けど道案内は順次式が基本ですよ。
240日本@名無史さん:2013/05/09(木) 11:27:04.95
小城市役所に著書をごっそり寄付したのに、なんで反応がないんだろ?
小城市の人にきいたけど、そんな本は知らないって言ってました。
241日本@名無史さん:2013/05/09(木) 11:31:45.95
順次式が基本なんてことはないよ。史書がどのように書かれているか、
それをきちんと読み取らなければならない。
242日本海ルート論者:2013/05/09(木) 22:34:26.62
>>太国さん、○さん
これは痛快!いや面白い。
結論の違いは気にせず、色々と吸収させてもらいます。
243満州まぼろし探偵:2013/05/09(木) 22:51:12.07
チミらは知らないのか。関門海峡は新羅征伐直前に開かれたのだ。
それまでは日本海ルートが主流だから、投馬国は出雲か但馬、多婆那国は丹波か但馬で間違いない。

二朝並立などという思想は非国民が唱えるもの。
太国は非国民なり。

記紀を信じない者はみんな非国民なり。
244日本@名無史さん:2013/05/09(木) 23:06:30.38
バカ丸出しで、記紀を信じた瞬間に、学問から外れて宗教になっちゃうよ。
245満州まぼろし探偵:2013/05/09(木) 23:10:40.80
記紀を無視 インチキ学者を 崇拝す
246日本海ルート論者:2013/05/09(木) 23:20:05.94
モリタポ買いましたよ、ええ(涙)。
やっと書き込めましたヨ、やっと。

>>227 太国さん
ざっと概略を。
自分は「日本は多本」かなあと。ですから、「日本は二本」は否定できません。
それでは話が進みそうもないので、「三本」としましょう。
つまり、九州圏、日本海圏、瀬戸内-東海連合圏です。
崇神の頃は、各国が「一時の野合」と思っていたから実現した「大連立」だと思ってます。
相争った挙句、結果的に共立してる訳ですから、軍事支配ではない。
九州勢も、自由意志で参入したと思ってます。倭の出入り口である九州が参入すれば、貿易ができる。倭の相互交易の百倍儲かる。九州勢からすれば、商品が増える。お互い儲かりますからね。北九州の一部だけでも良い訳で、どこまで参入してるかは不明。
日本海の目玉は、翡翠でしょう。越まで伸びてる筈。流通制限はしたでしょうけどね。
畿内は東海との連合で財力も政治力もあった筈です。あれだけの銅鐸を無料で配れば相応の見返りがあるでしょう。物産の量は多かったと思います。
で。崇神期は、盟主が卑弥呼。という感じです。
247:2013/05/09(木) 23:24:33.10
>>242 ルートさん

難升米は卑弥呼側ではないでしょう。
卑弥呼の部下は、「次使都市牛利」になるでしょう。
難升米が、卑弥呼の配下なら次使の必要はない。
と考えると、難升米は狗邪韓國が相応しいかもね?

郡が仲介し、難升米と司馬側で商談が纏まり、倭地に指示して一緒に都入り。
それなら、貢物は難升米の定例の郡に対するもので、卑弥呼からではない。
粗末さも理解出来る。
248日本海ルート論者:2013/05/09(木) 23:25:26.77
上記に補足。
瀬戸内-東海連合としましたけど、瀬戸内は良くわかりません。四国内陸部は切り離されてると思います。これは高地性集落の話とかができると良いかもですね。
249:2013/05/09(木) 23:29:42.54
>>246 ルートさん
>で。崇神期は、盟主が卑弥呼。という感じです。

卑弥呼の盟主は、有っても飾りでしょう。
陳さんが、盟主を一般人の「死」と書くことは考えられない。
250日本@名無史さん:2013/05/09(木) 23:32:40.07
いくらえろくても東夷の王は死のがふつうだな
251日本海ルート論者:2013/05/09(木) 23:38:34.66
>>249
ですです。飾りだからこその盟主。
後世の女性天皇もそうですが、色んな状況の中で当初は中継ぎ的でも大体が上手くいって長い治世となってますよね。女性というのは、本当にすごい。ただ、卑弥呼の「鬼道」は魏としては受け入れ難いものだったみたいですけどね。
252:2013/05/09(木) 23:48:55.99
>>251 ルートさん
>瀬戸内-東海連合としましたけど、瀬戸内は良くわかりません。

米子に上安曇、下安曇。 丹後付近に安曇郷。 琵琶湖西岸にも安曇。
山陰ルートが先でしょう。 銅鐸の道かな?

私はゴリゴリの九州説なので、九州を離れるとダメです。
253日本海ルート論者:2013/05/09(木) 23:55:18.52
>>○さん
若狭湾は日本海に突出した親畿内勢力だと思ってます。
ですから、畿内を差し置いて出雲と仲良くなることはないでしょうね。
なぜ自分が丹後上陸ルートにしたかと言えば、2:1の比率に加えて、丹後王国論があります。
3世紀前半は少し早いという向きもあるでしょうが、自分は丁度だとおもいますね。畿内にとって日本海が安定した時には、若狭上陸ルートになります。これは瀬戸内、日本海、東海の三海の中央にあたる京都に都が移るまで何世紀もかかったのと似てると思ってます。
254日本海ルート論者:2013/05/10(金) 00:14:45.86
>>252
安曇氏は倭の最古参で、畿内は新参者だと思ってます。
とか言いながら、上記の一文を自分自身上手く解釈できません(笑)。
畿内はふと始めた東海との交易で、互いに巨万の富を手にし、
ここから東は東海、西は畿内という体で、巨大銅鐸を配りまくった訳ですよね。
その財力は周囲とは突出してる。新参の成り上がりと言える訳ですよ。
ただ、その血族が安曇と無関係とは自分には思えない。元は安曇かもという意味で。
海洋族は自由です。移住地で、なおも一族性を保持しているか。土着化して独立するコロニーもあった筈です。だから、畿内も元は安曇氏という可能性も捨てきれない。系図は後で変えれますから。まあ、その記憶すらとうに失せてる可能性もありますが。
255日本海ルート論者:2013/05/10(金) 00:33:05.94
もう寝ます。書き込めて良かった(泣)

>>○さん
254のは、可能性です。○さんは確か安曇氏の役割を水手としていた記憶があるので、254をヨシとはしないでしょう。書いた後で思い出しました(笑)
自分も銅鐸の畿内勢力は土着化した出雲系だと思っているのでヨシとはしません。思い出してくださいね〜

相変わらず書くのが遅いので、明日以降はチビチビと。レス色々としきれてません、ご容赦を。

>>230 のは、有難く頂戴します。感謝。
256日本@名無史さん:2013/05/10(金) 19:40:48.93
>>235
なんの信憑性もないだろ倭人伝なんて
257日本海ルート論者:2013/05/11(土) 21:37:46.69
>>○さん
230は納得です。賛同します。
若狭が親畿内となったのは、どの時期と想定されていますか?
というのも、出雲と越の船は若狭に立ち寄らないと行き来できなかったと思う。そして日本海ルートの歴史は古い。要は「若狭は親畿内」の意味合いです。元々親畿内か、なびいたか。それとも畿内が若狭の作者か、その逆か、とか。
>>229,247,249
難升米が旗もらった男王という説は聞いたことあります。この手の調略は米国とかもコソッとやってそうですし、否定できません。
ただ、漢委奴国王に比定しますか。委だから伊都。そしたら卑弥呼後は豊国連合?いや伊都連合?
>>252 九州ネタで。
後世の伊予国一宮は大三島という「島」にあるんですよね。だから何だって話ですけど、瀬戸内を大きな水路と見れば納得もできる。
阿讃は河内-東海の航路沿いで畿内-東海の陸路より歴史があっただろうから内陸新入も早く始まってると思う。実際栄えてる。
逆に伊予は河内-北九州航路からは外れてる。でも、南九州とは交易できたと思うのですよ。その人たちは内陸へ?とか悩みます。
258日本@名無史さん:2013/05/12(日) 07:16:30.82
伊予と狗奴国とのつながりを提唱する説はちらほら見るな。誰たちだったかは忘れたけど。
卑弥呼の時代の後、狗奴国は四国(高知説と伊予説とふたつ見たことがある)に移って来たんじゃないかとか。
狗古智卑狗=伊予の河野氏の祖と言われる河野越智彦なのではないかとか。
259日本@名無史さん:2013/05/13(月) 22:35:52.58
>>246
通りすがりの者ですが
私の思いに図星です
関東をまとめたのはトヨキイリヒコでしょうね
崇神朝一代かぎりの東国野合です
盟主が卑弥呼、そういう政治形態でしょうね
260日本海ルート論者:2013/05/15(水) 23:59:45.13
>>258
有難うございます。狗奴国との繋がりはあったかもですね。伊予と土佐の両方説があるというのも納得です。
自分は狗奴を九州にした上で、倭種の国をを四国内陸とひとまず比定しています。
あえて倭種の比定地を挙げる必要はないかも知れないんですけどね。
瀬戸内には先住者がいた筈で、だからこそ高地性集落があったと思う。高地性集落は殆どが海辺と川沿いで、伊予は少なく今治とか。
これを河内-北九州ルートを作るための入植とすれば、理屈に合う。でも逆に伊予から発信してるから少ないのではとフト思いついては悩んでいるのです…

追いやった先住民のいる内陸とは分断されている。でも高地性集落を作った人たちの性格がわからない。
伊予発信なら南九州から東へ。西に開けてるのを重視するなら河内から西へとなる。

気持ちとしては、玄界灘を含む日本海から来た移民なり棄民集団で、北九州から東へ。でも北九州とは切り離されて、まさかの大連立で大儲けの好機が?と言う感じですが。
261日本海ルート論者:2013/05/18(土) 23:52:24.48
>>259
図星とは嬉しいです。
加えて宿題をもらったような(笑)
古事記派だからか、書紀で言う四道将軍の方に目がいって豊城入彦は解釈し切れてないんですが政略結婚による分封かなと。

東国野合の一代限りというのは、自分にとっては難問。
というのも台与を豊鉏入日売命台与、台与前の誅殺を武埴安彦命の乱と比定してるので、垂仁までは野合が続いたと考えてます
(因みに武埴安彦命の母は河内青玉繋の女となっていて、翡翠を連想させる)。ただ、日本海ルートが抜けても台与の朝貢は瀬戸内ルートで可能で、つまり一代限りも十分成り立つ、という難問。否定できないんですよねコレは。
262日本海ルート論者:2013/05/19(日) 00:48:14.20
○さんへ

山幸海幸の話は、高地性集落の記憶が残されていると思ってます。
つまり、海神の力を借りて弟(後に来た人=移民者)の山幸彦が、兄(先に来た人=先住者)の海幸彦を屈服臣従させた(結果として兄の土地=浜辺も手に入れた)話で、そう考えると高地性集落にソックリだと思う訳です。

この話を史実だと仮定した時、瀬戸内で海神、つまり綿津見神、安曇氏が果たした役割とは何だと思いますか?
263日本@名無史さん:2013/05/19(日) 13:23:53.15
魏志倭人伝では「邪馬壹國」と書かれていて、後漢書やその後の史書には「邪馬臺國」となってるそうですが、
魏の時代、「邪馬壹國」の文字を中国語で発音するとどうなるのですか?
264日本の名無史さん:2013/05/20(月) 23:51:03.92
満州、なんか言ってやれ!
265サガミハラハラ:2013/05/21(火) 05:48:27.37
代わりに私が答えます。
邪馬壱国=ヤマイ(ヰ)コクです。
266日本@名無史さん:2013/05/21(火) 06:28:24.41
>>265
それは日本語です。
古代中国語では邪馬壹國と発声します。
267日本@名無史さん:2013/05/21(火) 07:13:09.74
中国語は発音ではなく意味の言葉
268満州まぼろし探偵:2013/05/21(火) 09:16:29.70


漢語拼音 yi yin
朝鮮語  il in
269:2013/05/21(火) 10:23:23.38
>>262
アクセス規制があってたみたいですね。

また夜にでも、
270:2013/05/21(火) 19:56:44.46
>>257 ルートさん
日本海が一番古いでしょう。
九州北部から若狭の間でも、20ヶ所以上の停泊地、宿泊地が必要だったと考えられます。
若狭勢力は近江中心で、畿内とは別々の勢力と思っています。
若狭がリードしていたでしょうし、利害の一致もあったのでしょう。
時期は特定できませんね。なにせゴリゴリ九州説ですから、畿内は殆んど知識なしです。
271:2013/05/21(火) 20:09:53.25
>>257 ルートさん
>そしたら卑弥呼後は豊国連合?いや伊都連合?

勿論豊国連合でしょう。

>逆に伊予は河内-北九州航路からは外れてる

奴国特有の「広形銅矛」が宇佐、伊予、高知南部から多量に出土しています。
これが阿曇族の東海ルートと、今は考えています。
名古屋の志賀町、元志賀町、海神社が到着地点ではないでしょうか。
272日本海ルート論者:2013/05/21(火) 23:15:25.67
○さん、面白いですね。
>>270
元は日本海、そして親畿内へと。20箇所以上は同感です。
さて、近江中心なら、水運を背景に独立勢力として十分。近畿をリードする場面もあるでしょうし、食糧難?となれば立場が逆転することもありそうです。桓霊と言い切るのは早計ですかね。
しかしこれ近江は案外謎多いし、面白いですね。ずっと後まで楽しめる。
273日本海ルート論者:2013/05/21(火) 23:26:39.92
>>271
>勿論豊国連合でしょう。
あ〜。魏も難升米も真っ黒ですね(笑)
その上で朝貢する台与はなかなかの傑物?

>奴国特有の「広形銅矛」が宇佐、伊予、高知南部から多量に出土しています。
>これが阿曇族の東海ルートと、今は考えています。
ふむ。迂回するからには瀬戸内に違う勢力がいるんですかね。
ああ、九州と畿内で仲違いがあるからですね。ふむふむ。ココもう少し考えます。
274:2013/05/21(火) 23:43:42.83
>>273 ルートさん
>迂回するからには瀬戸内に違う勢力がいるんですかね。

阿曇族の得意技は、潮の流れに乗ずるです。
瀬戸内海は、時間帯で流れが逆行します。
流れの順行なルートが先に開けたと思っています。
瀬戸内海では、50ヶ所は停泊地が必要でしょう。
そこまで統一されていたとは思えない。
275日本@名無史さん:2013/05/22(水) 07:49:40.94
潮流だとか海賊だとかを持ち出さなければ説明がつかないルートなんぞ
偽物だよ。
276日本@名無史さん:2013/05/22(水) 08:44:53.60
畿内勢力の中心地は近江だっただろうな。
瀬戸内は伊予、吉備、阿波をそれぞれ中心とする勢力に分かれていただろう。
277満州まぼろし探偵:2013/05/22(水) 09:35:01.32
>>276
記紀を無視して勝手なことを書くな、パカ。
278日本@名無史さん:2013/05/22(水) 09:51:25.64
277 :満州まぼろし探偵 :2013/05/22(水) 09:35:01.32
>>276
記紀を無視して勝手なことを書くな、パカ。


こいつ、痛いとこ突かれるとすぐファビョるのなw
279日本@名無史さん:2013/05/22(水) 10:05:38.81
満州某とかいうのは在日か帰化人だろ?記紀を無視して勝手なことばかり書いてるバカ=満州某
280日本@名無史さん:2013/05/22(水) 10:32:59.09
記紀には邪馬台国は九州にあった、近畿は植民地って書いてあるぞ。
281満州まぼろし探偵:2013/05/22(水) 12:48:03.88
大和朝廷が都を近江に置いたのは朝鮮半島経営に備えたときだけである。
それを恰も畿内勢力の中心地が近江であるかのように書いているパカがいるからカチンとくるのである。
282日本@名無史さん:2013/05/22(水) 14:14:52.01
>>275
エンジンのない時代に潮流を考えない
なんて馬鹿だろう
283日本@名無史さん:2013/05/22(水) 14:36:06.60
完全に同意
284日本海ルート論者:2013/05/22(水) 20:04:26.53
>>274 ○さん
あ〜(笑)
そうかそうか。思い違いに一つ気づきました。もう少し整理してから書きますね。

ひとまず
>>253 の自分の書き込みに補足
Wikiにある丹波王国論の「4世紀中・末期頃から5世紀が最盛期」は否定しません。
むしろ、3世紀前半に丹波上陸ルートが出来たからこそ、上記の最盛期があると思ってます。その意味で丁度。
丹は大きな目玉ですけどね。
特産品があっても、売り場所がなければ意味がない。同時に突如最盛期到来なんてこともないと思うんです。
285日本@名無史さん:2013/05/22(水) 22:26:05.84
>>282 >>283
単純思考だな。海流が一定だということはそれに乗って行けるときはいいだろうが、
帰りはえらい苦労するってことだよ。時間によって海流の方向が変わるのならば時間を
考えさえすれば、行きも帰りも苦労しないですむってことだ。
286日本@名無史さん:2013/05/22(水) 22:36:23.85
>>285
馬鹿だな。だから行きと帰りが別路線だったのだろうが
瀬戸内海は、いいとこ4時間半だろ進めるのは
なみはや号は一日目は100mしか進んでないぜ
287:2013/05/22(水) 23:16:03.55
>>284 ルートさん
伊豆諸島の南端「八丈島」は、何故か関西土器が多く出てます。
以北は関東圏内です。

理由は簡単です。何もせずに海流が運んで行ったんです。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/KAIYO/qboc/2013cal/ocf/ocf201319.html

瀬戸内海が便利になっても、九州発は山陰の丹波経由は多かったと思います。
288日本@名無史さん:2013/05/22(水) 23:50:11.14
289日本海ルート論者:2013/05/23(木) 00:05:59.04
>>274 ○さん
安曇は優秀な「操船者」かつ「商人」だから瀬戸内にルートを持っている筈だ。持っていないなら、迂回させるだけの勢力がいるだろう…という思い違いをしてしまいました(笑)

瀬戸内は統一されていない雑居。空き地ではない。加えて、海幸だらけ。潮のこともある。むしろ違うルートを作る方が早い。
こうしたスマートな考えこそ「商人」。潮もそうですが、流れに乗ずると。
その上で、独占と中継とで稼ぎは違うけど儲けは儲けと。瀬戸内と交易もあったのでは?

50は同意です。日本海と違って瀬戸内は面ですから、「統一」ならそうなるかと。ただ、面だからこそ50の結び付き易いかも。文化的というより生活的ですが。
そこも含めて>>271をまだ少し宿題に…
290日本海ルート論者:2013/05/23(木) 00:18:34.44
>>287
お見事(笑)

これ見ると黒潮ルートはロマンを掻き立てますねえ。
自分は大夫を名乗った倭人が大好きなんですよね。一瞬地図から新羅が消えた頃に対唐対策していた史家の苦労を想像するとアレですけど(笑)
291日本海ルート論者:2013/05/23(木) 22:25:24.74
○さん
宿題にはまだ時間がかかりそうです。時間稼ぎに、一つ冗談を。
倭人伝の万二千里がお題。
1) 郡から南に4000、東に3000
2) 南に渡海3000、日本海を東に4000
3) 南に陸行2000で邪馬台国

1)と2)は直角三角形の3:4:5の比率。合計は万二千里(笑)。どうですかね?

ps.
まあ改めて。旅程については九州周旋説が最強と思いました(笑)
292:2013/05/24(金) 16:34:29.02
>>291 ルートさん
>九州周旋説が最強と思いました(笑)

私は「男子無大小、皆黥面文身」
その周辺だけでしょう(大笑)
293日本海ルート論者:2013/05/24(金) 21:59:04.94
>>292
なるほど(笑)。玄界灘の程近く、つまり北九州ですね(笑)。

>>291 のをもう少し引っ張ります。時間稼ぎで。

万二千里のやり難さは、倭内の水行30日をどう解釈するかです。その点で九州周旋説は真剣に最強だと思ってます。でも対抗したい訳です(笑)。
まず、当時の中国人は3:4:5の比率を知ってます(ピタゴラスの定理を九章算術で扱ってる)。作者だけでなく出張者の中にも方角を測れる人間がいる。
次に、水行は倭人伝中に3度しか出て来ず、用法から見て後ろの2つの水行も沿岸に沿うべきです。
また、九州から丹波にかけては順行な対馬海流があります。水行30日の伝聞から4000を魏人が推測したとすれば、潮目を考慮してない分、実際の水行距離より短くなってしまう訳です。

これで冗談は良くできた冗談になると思ってます(笑)。
294日本海ルート論者:2013/05/24(金) 22:20:53.44
追記です。
倭人も方角は知っていた、という人がいますけど、自分はそう思わないんですよね。方角は2点の測量をして初めて分かるものです。
ハイカラな玄界灘の人はどうか分かりませんが、日常生活に方角なんて必要ありませんから。少なくとも古墳時代より前は、方角も3:4:5とも無縁だったと思います。逆に言えば、古墳を作るからには3:4:5は知っていた(教えてもらった)かも知れません。

そう考えると、水行20日とかの日程表記は極めて素朴で日常生活的だと思うし、そこにある南という方角は、自分からすると物凄く違和感があります。なぜかって、どう読んでも倭人は方角を測れる文明人じゃないからです。
だから、これ元々は「太陽の方向に20日、海岸に沿って船で行く」だったと思っています。海岸に沿って行く以上、右か左かだけですから、普通に考えればコレ「東」になります。

ですがね。文明人である、ましてや中国人にとっては、普通に考えればコレ「南」。正午は南だし、だから王は南面する訳で。

こうした異文化ギャップが「南に水行20日」という違和感のある文章を作り上げたと自分は結論付けます。
295:2013/05/24(金) 22:23:19.52
>>293 ルートさん

陳寿は重複を避け、短文化をしています。 張政等から、政等。
「次有」21連続重複は、陳寿の筆法とは思えません。
都が近畿にあり、九州にあった事が完全に忘れられた頃の改竄でしょう。
韓、弁辰条にも、最初だけ「有」で後は羅列です。
倭人条も同じだったと思います。

九州北部〜吉備〜畿内に比定したと想像しています。
296:2013/05/24(金) 22:56:45.79
>>294 ルートさん

倭人伝の「邪馬壹國、可七萬餘戸、女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
を信用すれば、熊本という事になります。

私は信用してませんが・・・
297日本@名無史さん:2013/05/25(土) 04:09:11.38
どうみても沖縄じゃね
もしかして台湾とかだったりしてwww
298日本@名無史さん:2013/05/25(土) 05:20:59.54
倭人から聴取して方位を判断するのは魏の側で
日の出に太陽のある方向なのか、正午に太陽がある方向なのか、
よく聞かないで判断して記すことをするかな?
以後に使者を派遣する時にもし行き付けず、敵対国に行ってしまったりしたら斬首ものなんでは…
299日本@名無史さん:2013/05/25(土) 08:36:18.74
方角があってりゃ、時間がかかってもいつかは到着するが、
方角があってなければ、絶対につかない。

精密な地図がない時代は、方角の情報はもっと大事だと思うけどね。
300満州まぼろし探偵:2013/05/25(土) 10:03:25.90
邪馬台国は大和に決まっているのに、
お前らは一生そうやって邪馬台国の位置探しをするつもりか。
301婆 ◆HKZsYRUkck :2013/05/25(土) 10:22:16.04
>>299
というか人が住んで交易してるんだから、普通に道があったんじゃないかと。
問題は山道がウネウネ曲がりくねっていることで、着いてから
「けっきょく俺らはどっちの方角に着たんじゃろ?」
と悩んでしまうとw
302日本@名無史さん:2013/05/25(土) 10:24:44.33
あんたは、アトランティスがどうとか言ってなかったか?
303日本@名無史さん:2013/05/25(土) 11:43:10.03
添付された方位は出立時の出発方向くらいに

限定的に控えめに理解してあげるのが心遣いとゆうものだとはおもふよ
304満州まぼろし探偵:2013/05/25(土) 12:36:09.52
だから末盧国に着いたのは魏使ではないし、
そこから出立して五百里もトコトコ歩いて伊都国に行ったわけでもないのである。
チミらはちっとも進歩せんな(泣)

緑の名無しに一人だけ賢い男がいて、草木茂盛行不見前人とあるから、
いかにもそこから魏使が伊都国に歩いて行ったように見えるが、その後に、
好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之とあるから、これは末盧国の情景を示した文に過ぎない、
と説いていたが、卓見である。

東南陸行五百里到伊都國というのは末盧国と伊都国の位置関係を示しただけの文で、
魏使がトコトコ歩いて伊都国に行った、という文ではないのである。

稗箕狐もいいかげんそれくらいのことは悟れヨ。
305日本@名無史さん:2013/05/25(土) 12:44:20.18
唐津から唐津街道に向かうと、しばらくは
松浦川のほとりを歩くことになるんだが、
適当に浅くて、魚をとるにはいい場所。

その岸に田を開いたのが、菜畑遺跡。
306満州まぼろし探偵:2013/05/25(土) 12:51:13.67
川なら潜って魚を取る必要はない。
好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之は海の情景である。
307日本@名無史さん:2013/05/25(土) 16:18:15.79
秦の始皇帝以来、中国の皇帝の使者が使い先へ行かずに帰国したとか、途中で
引き返したということは無い。そんなことをすれば皇帝の命令に違反したとし
て斬首・処刑されてしまう。魏の使節は間違いなく邪馬台国へやって来たのだ。
308満州まぼろし探偵:2013/05/25(土) 17:28:14.07
しかし記紀に魏の使節が来たという記録は無いから、魏使は日本には来ていない。

邪馬台国は大和で、卑弥呼は神功皇后、台与は神功の妹豊媛命かもしれないが、
実際に魏に遣使したのは日本ではなく、満州か朝鮮のどこかの国なのである。
309満州まぼろし探偵:2013/05/25(土) 17:39:01.75
あるいは満州か朝鮮のどこかの国が、日本の王だと偽って朝貢したのである。
本居宣長は熊襲偽僭説を唱えたが、僕は満州か朝鮮の某国偽僭説を唱えようとも思っている。

実際、日本が魏に「お助けくだせぇまし」などと救援哀願するはずがない。
310日本@名無史さん:2013/05/25(土) 18:22:40.18
畿内勢力と九州勢力は別なのだから、
九州に使者が来ても畿内の記録に残るはずもない。

もっとも当時はまだ、倭国内では文字が普及しておらず、
記録が残る可能性も低い。
311日本海ルート論者:2013/05/25(土) 18:23:51.69
>>298
えと。面白味を感じたので細かく説明しますね。
倭人は文明人じゃないけど賢いです。だから、知識を知れば、前方後円墳だってバンバン作れる。
一方で、前方後円墳は方位には無頓着なんですね。なぜかって方位を知らないし、必要を感じないから。当然、正午だって必要ないし、季節なんて時代が下っても、種まきと収穫だけで満足してます。

魏人は当然尋問してるけどギャップが(笑)。つまり、こういうことです。
「ずっと太陽の方向?」「うん」
「でも太陽は段々傾くでしょ?」「傾くけど太陽に向かえば良い」
「正午にはどれくらい傾いてる?」「正午って何ですか?」
「ああ(苦笑)」「とにかく太陽の方向です」
「そしたら、正午には真南、その後は西かよ…部長、どう報告書あげます?」「正直に書いとけ。調査は上がやるから」

って、ことです。次に続きます。
312日本@名無史さん:2013/05/25(土) 18:42:14.62
>>308、309
だから畿内説はありえないのよ。わかった?
313満州まぼろし探偵:2013/05/25(土) 18:53:16.35
>倭人は文明人じゃないけど

そんなことはない。日本は昔から大国だったのである。
チミらは弥生時代という考古学用語に騙されて、
あたかも弥生人が原始人であるかのように思っているのである。

>>312
邪馬台国は大和だという意味では畿内説は正しいのである。
九州説が成立するとすれば、九州某国偽僭説しかありえない。
しかし238年という時点で、九州にそのような女王がいたとは思えないのである。
314婆 ◆HKZsYRUkck :2013/05/25(土) 19:27:57.81
>>298,>>311
北極星基準の方位系を持つ大陸の人らに対して、上古の倭人は太陽基準の
方位系を用いていたというのは同意。
だけど、東=「ひむかし」からもわかるように、彼らにとっての太陽は東という方角と
固く結びついていた気がするんだよな。たとえば地名の「日向」は東面する地形だし、
「日立(常陸)」は太陽が昇る場所、さらに「日下」「日本」についても、
谷川健一『白鳥伝説』によると
 > 河内の日下の地がヒノモトと称せられたのは、そこが太陽を迎えまつる難波の
 > もっとも東がわに位置していたためである。そこは太陽祭祀の中心であった。
ということで、これも東。

だからさすがに、「1日のうちのどの時刻の太陽か?」に関する齟齬はなかったと思う。

ただし、太陽基準(日の出基準)の方位系は季節変動する。これは現代の我々から
見たらアホみたいに思えるが、そもそも発想が違うのだ。つまり彼らは、
「東があの山まで来たら種を蒔こう」という具合に、移動する方位を前提とした
社会システムを用いていたのではなかろうかと。
315日本@名無史さん:2013/05/25(土) 19:35:07.68
>>313
卑弥呼の女王就位は西暦180年〜190年と推定されている。
316日本@名無史さん:2013/05/25(土) 19:43:04.58
方角は正しかった
邪馬台国は南
畿内なんてありえないのである
317日本海ルート論者:2013/05/25(土) 20:02:52.88
つづき。
>以後に使者を派遣する時にもし行き付けず、敵対国に行ってしまったりしたら

んと。隋でも唐の時でもそうですけど、中国の使者が、倭の付き添い無しで入国したり、国内で勝手に移動することはありませんでした。
もし、あったら倭の役人の方が斬首されるでしょうね。これは使者の安全を守る理由と国防上の理由からです。
共立まで相争ってた訳で、地勢情報の重要性は理解してるでしょうし、島国は逃げ場ないから用心深くて当然。その積み重ねが日本の歴史で、そうでなきゃ侵略されてたでしょうね。
幕末のペリーなんかは無断で江戸湾の水深測ったり、測量とかしていて、それこそ捕らえて叩き斬るとこですが、黒船が怖くて出来なかった(笑)。

そんな訳で、魏の使者の行動は制限されていたと考えます。里程表記の範囲内でしょう。因みに、奴国の南が狗奴国と読めるので、魏の人が水行30日(沿岸沿い)を南と捉えても致し方ないと思いますよ。
318日本@名無史さん:2013/05/25(土) 20:14:23.61
>>314
琉球語で「にし」が北にあたるのは面白いね
319婆 ◆HKZsYRUkck :2013/05/25(土) 20:29:51.08
>>318
へえ、知らんかった。
と思ってググって見たら、面白いな。
南の「へー」は、本土で南風を指す「ハエ」と同源だろうけど、
「ニシ」はわからん。

東と西は「アガリ」「イリ」でわかりやすいw
320:2013/05/25(土) 20:55:57.12
>>311 ルートさん
吉野ヶ里の北内郭は、南北線と夏至の日の出、冬至の日の入りを
点で結んだ線上を中心に建てられています。
夏至、冬至の誤差はミクロです。

晋書武帝紀
「泰始二年(266)倭人が来て方物を献じた。円丘、方丘を南北の郊に
合わせ,二至の祀りを二郊に合わせた」とあります。
方向、角度は正確だったと思いますよ。

畿内の前方後円墳に、宗教的角度は感じられません。
321日本海ルート論者:2013/05/25(土) 21:17:50.82
婆さん
>>311は正にその通りです。広大な土地なら地図やら直線の道路は作りやすく、現地点の把握もし易い。
日本は山と森林に分断されまくり。ベトナムとかも歴史的に守りが強いのは地勢情報の把握が困難というのが一つ挙げられると思ってます。
その意味じゃ東南の記載がある伊都と奴は方位が詳細に感じられる。これは魏人が方位を測ってそうです。

>>314
ですです。太陽基準の方位だし、太陽が動くことも分かっていたでしょうね。
山を見れば、5〜7段階程度の時刻はあったかもです。ただ、船上で何を時間の基準にするか。

ただまあ、東に進む以上、午後は太陽を背にする訳です。さすがにこれは太陽の方向ではない。
で、これが伝わらなかった理由は良く分かりません(笑)。
倭人は隋書とか見ると、早朝から活動していたようなので、午後が仕事の整理かと。
前から疑問なんですが当時の漁師は朝食をとっていたのか、昼食をとっていたのか…余った魚を売る時間は用意してたでしょうが。
322日本海ルート論者:2013/05/25(土) 22:03:11.67
あ〜、○さん!
295の色々あるんですが、まず感謝?自分もある種周旋説なのに気付きました(笑)。これはまた今度。

>>320
晋書のこの記載、唐突な感じがするんですよねえ。なんで祀りの話?って。
さも、それまで鬼道で卑弥呼にたぶらかされていた倭人がいきなり優等生になりましたって宣伝じみてる。
隋書でも道理に合わないと正されてます。上から目線なのは仕方ない、明治維新の時だって似たようなもんです。
これ、晋(魏の旧臣)が建設に関わってるから記載してるんだと思いますよ(笑)。

あと玄界灘は前からハイカラだと思うんですよ。悪く言えば、かぶれてる。他は無頓着だと思いますよ(笑)。
ただ、古墳時代の前後では幕末と維新後ぐらいの変化があるかと。卑弥呼絡みでね。
323婆 ◆HKZsYRUkck :2013/05/25(土) 22:07:57.47
>>321
おっしゃるように、かっちり東西南北を決めたがるのは、ランドマークが少ない
平原の民の特長だよね。だから北極星が権威の象徴になって、「天子は南面す」
という思想になる。
一方、山の国の民は、そこかしこにある山を目印にできるから、絶対方位を
知る必要がない。現代でも使われている「山立て」(峰の重なりで方位を知る技法。
複数方向を見通せば座標もわかる)でこと足りるのだ。
これは海上でも一緒で、沿岸はもちろん対馬海峡でも琉球諸島でも使えるから、
そもそも倭人は絶対方位に対する意識が低かったんじゃないかと。

だけど、太陽(というか日の出)は大好きだから、>>320のような太陽方位には
妙にこだわるとw

この部分で、魏の使者と倭人との間で意思の疎通に齟齬があったのかも知れない
気もする。
324:2013/05/25(土) 22:16:29.05
>>322 ルートさん

吉野ヶ里の北側「花浦遺跡」からは、シャーマンと思える成人女性と
15位の少女の骨が出土しています。腕には30以上の貝輪が付けられています。
DNA鑑定では血の繋がりがなく、シャーマンは実力優先と考えられてます。
吉野ヶ里は、祭祀のメッカだったと思っています。
325日本@名無史さん:2013/05/26(日) 06:32:05.80
方向が正確ではない可能性はなくもないが、
それは南方向から、ある程度の誤差がある可能性でしかないからな。

この段階では、正確に南ではないという事しか言えない。

東に持って行きたかったら、
もう一段階の根拠が必要であり、
さらにその結果の検証が必要。

それが成立しなければ、日本中どこでもいいということしか言えない。

北海道から沖縄や台湾まで、同程度の可能性となり、
さらにその中から、目的地を決めるための根拠がなければ、
決められない。

それがないかぎり、今までの説を超えることが出来ない。
326日本@名無史さん:2013/05/26(日) 15:58:05.30
>>320
>>322

倭人の話は「倭人來獻方物」だけ。
「并圜丘、方丘於南、北郊,二至之祀合於二郊。」は、
魏が円丘・方丘・南郊・北郊の四つの祭祀を行っていたのを、
晋が二つに統合したという話。
倭人が南北郊で祭祀をしていたという話ではないよ。
327日本海ルート論者:2013/05/26(日) 16:42:30.09
>>323 婆さん
それそれ! 絶対方位です。東西南北。
一方で、倭人は「あの山に向かって云々」の相対方位。加えて、太陽基準方位の指向性を持ってたと思いますね。そこに魏人との齟齬があったかも知れない
気がします(笑)

>>324 ○さん
吉野ヶ里は祭祀のメッカでしょう。近辺の八女は邪馬台国の有力な比定地になり得ると思いますよ。
吉野ヶ里の防御施設がどの方向からの侵入に備えたものか。それが推測できればなんらかの鍵にはなるでしょうが。

>>325
沿岸に沿って南に水行30、陸行30日。なのに、なぜか万二千里。絶対方位換算できるのに、なぜか里程換算できない。
魏人の錯誤の原因は、2つの文化の差異と、「会稽東冶」に対する思い込みでしょう。
自分が持って行きたいのは、「東」ではなく、「魏人の錯誤がどのようにして起きたのか」です。
はるか南海海上という錯誤の原因ですね。
行程記事は支離滅裂で、そこから得られるものは殆どないと思ってます。九州周旋説以外はどれもダメ。ただそれが悔しい訳ですよ(笑)
328日本海ルート論者:2013/05/26(日) 17:00:32.31
>>326
晋が二つに統合した、倭人の話ではない。ふむふむ。主語の違いがあることは分かりました。質問ですが、要はこれ前方後円墳と無縁ですか?、またこれにあたる遺跡が晋にあるということですか?

前方後円墳の影に、維新後のお抱え外国人ならぬ、お抱え中国人がいたと思っているので(笑)…
329日本@名無史さん:2013/05/26(日) 17:03:03.32
>>327

>>325
>沿岸に沿って南に水行30、陸行30日。なのに、なぜか万二千里。絶対方位換算できるのに、なぜか里程換算できない。


短里短日説で完全一致しますよ。
里程が松浦までで1/6程度なのは明らかで、
日数も同じように1/6するだけで、矛盾するところは一切ありません。

1/6換算が何らかの理由で削られていただけでしょう。
330日本海ルート論者:2013/05/26(日) 17:56:49.10
>>329さん
えと。南という絶対方位に換算していながら里程換算せずに、水行30日陸行30日という日程のままにしてる。
南に2000里とか書けば良いのに。なぜそうしなかったか?って話です。ここが結構大事だと思うんです。

正直言って、畿内とか九州とかどっちでも良いんですよ(笑)。大抵、畿内説の文法は方角が違う!九州説の文法は距離が違う!ですから。
ただこれ、どっちも魏人の文法じゃない訳で(笑)。だから、その文法に沿った九州周旋説が素晴らしいと自分は思う訳です。
補足しますが、短里短日説については矛盾がないと自分も思いますよ。一部の中国人は誇大表示好きですしね。
でも、この作者は結構真剣に間違ってると思う。日程表記も誠実さ故に里程換算しなかったんじゃないかと。すると、万二千里という作者の推測には重みを感じざるを得ない訳ですよ!
その結果、海に落ちちゃうんだけど(笑)
だから、作者を救ってあげたい(笑)
331:2013/05/26(日) 17:57:03.29
>>326

有り難うございます。
何せ、チンプン漢文な素人ですから・・・
332日本@名無史さん:2013/05/26(日) 17:57:37.58
>>328
無縁じゃないですかね。
天円地方の考え方によって、天を円丘で祀り、地を方丘で祀るわけです。
円丘を南郊、方丘を北郊に、統合したのだと思います。
つまり円丘と方丘は別の場所にあったわけです。
前方後円墳のように円丘と方丘をくっつけるというのは疑問。
それに、天円地方からすると、地は正方形だから、
前方後円墳のように、鍵穴形で方形部分が長方形なのは合わないと思います。
333日本海ルート論者:2013/05/26(日) 18:08:15.76
>>328
なるほど〜。有り難う御座います。
天円地方ってどういう地方?って調べちゃいましたが、むしろここから地方って言葉が出来てるっぽいですね。しかし、中国人の観念論って別物だわ。分かりやすいけど、分からない。根底が違うというか(笑)。
恥のかきついでに、南郊と北郊って何ですか?良く分からなくなりました(笑)
334:2013/05/26(日) 18:11:27.08
>>327 ルートさん
>吉野ヶ里の防御施設がどの方向からの侵入に備えたものか。

私は、107年帥升に比定してます。
北からの侵入で川を渡って南の八女に移った。
107年以前は大宰府近辺までで、奴国は極南界だった。

狗奴國に狗古智卑狗。同じ「卑狗」が有りますから
狗奴國も一度は倭国王帥升の勢力下にあったと思っています。
(公孫氏かも?)
335日本@名無史さん:2013/05/26(日) 18:19:46.06
>>330

短里短日説で万二千余里だと、熊本南部到着で、
海に落ちたりはしませんよ。

それも含めて、矛盾なしです。
336日本海ルート論者:2013/05/26(日) 18:26:12.31
>>334 ○さん
なるほど。狗奴は元倭連合(奴盟主)で卑弥呼共立はせず、ですね。吉野ヶ里は奴に攻められて八女に南下は了解ですが、師升連合入り?それとも和せず?どっちだろう。
あと、公孫氏は遠交近攻なのか、倭まとめてなのか。
337日本海ルート論者:2013/05/26(日) 18:31:09.19
>>335
つまり、出張者の短里換算の報告忘れですね(笑)。
作者が悪くなければok(笑)
338:2013/05/26(日) 18:42:35.96
>>336 ルートさん
>師升連合入り?
勿論連合入りでしょう。ここは武力制圧ですから。
黄巾の乱まで。
339日本@名無史さん:2013/05/26(日) 18:51:42.32
帥升は簒奪者の可能性が高い。
出自に自信が持てぬからこそ、大陸に使者を送り自身にハクを付けようとした。
340日本海ルート論者:2013/05/26(日) 19:16:18.06
>>332さんだった(笑)
>>333に補足です。>>326
元は4つの祭祀とありましたが、南郊と北郊の祭祀ってなんですか?あと南郊と北郊というのは郊外の南と北で良いですか?
教えて下さい。
ps.
天円地方の考えが、天神地祇に関連しますかね。蛇足ですが、個人的には応神朝の正統性強化から天孫なり、天神地祇の考え(神を分ける、区別する発想)(元々の自家の神と連合先の神)が生まれたと思っています。
341日本海ルート論者:2013/05/26(日) 19:46:16.61
>>338 ○さん
武力制圧後に守りに強い吉野ヶ里の放棄を命じた、住民は八女に移住した(それを許された)ってことですかね。フェニキアのザマも三度目だかにそれやられてますが…
それぐらいの熾烈な戦いだったかもですね。何れにしても、かなりの武断国家と言えそうです。

>>339
師升について自分の2つの奇説を。
1. 生口160人は船で運ぶには多すぎる。なので、半島南部に住んでいた人。倭国王を自称し、実際に出向くが見破られた。(近い時期に別人の出雲王が活躍)
2. 倭の出入り口である奴に、産物供給及び運搬を担っていた他の日本海諸国が分け前を要求したが決裂。多分出雲が盟主になり休戦。この盟主が師升。彼の使いが他連合の使いとともに出向く(師升等)(単独で使いを出せる程の権力集中がないため)。盟主権の弱さを見抜かれ失敗。

どちらにせよ、後のスサノオ伝説の元(一部)になったと考えます。
342日本@名無史さん:2013/05/26(日) 19:46:35.54
>>340
郊祀(こうし)で調べてみてください。
たとえばwikiだと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%8A%E7%A5%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%B8%9D%E7%A5%AD%E7%A5%80
呂氏春秋だと、またちょっと違ってるみたいだけど。
343:2013/05/26(日) 19:53:16.99
>>341 ルートさん
祭祀担当者達は、戦力外でしょう。
344日本海ルート論者:2013/05/26(日) 23:10:12.14
家族サービスも終えたので、もう寝ます。
時間が足りませんが、これだけは今日中に。
>>295 ○さん これ名文でした。
345日本@名無史さん:2013/05/27(月) 07:01:37.15
師升=スサノオ伝説の一部になった王というのは充分ありうることだな。
半島南部にいた一人の倭人が北部九州に来て倭王を名乗ったというのも充分ありうる。
ヤマタ(邪馬台)のオロチを退治した王=狗古智卑狗もスサノオ伝説の一部になった王のひとりだと思われる。
346満州バナナ諸兄:2013/05/27(月) 08:51:19.43
>>345
神話と歴史をごっちゃにするな。
347日本@名無史さん:2013/05/27(月) 10:09:06.21
妄想と歴史をごっちゃにしとるアホがよう言うわ
348満州バナナ諸兄:2013/05/27(月) 11:47:19.06
アホーはおめーずら。
おらはおめーのようなアホーではねーぞ。

神話と歴史の区別もできねーようなアホーは来るでねえ!
349日本@名無史さん:2013/05/27(月) 11:55:50.73
79回考古学協会総会で、鷲崎弘明さんが「年輪年代法の問題点」を
一般参加者も多数参加する中(約300人)発表し拍手がありました。
その内容と質疑です。
@ ヒノキの旧標準パターン及び連動するスギは、640年以前の測定値を
示す21事例が全て100年狂っている。
A 弥生中後期と古墳開始期が通説から100年遡上したのは旧標準パターンに
よるもので、この遡上論は成立しない。
質:「狂っている」とよぶのでなく「疑問の多いパターンと呼ぶべきでは」
答:そのような呼び方は聞いたことがない。これでよいと思う。
質:100年とどうしていえるのか?
答:法隆寺心柱試料では文献と100年狂っている。
質:北九州では三世紀半ばに古墳が造られたと研究があるが。
答:年輪年代法の発表後、巻向の箸墓古墳など100年遡ったことに問題がある。
意見:基資料を公開しないことに問題がある。(拍手多数)
350日本@名無史さん:2013/05/27(月) 15:37:15.93
チョンなのか在チョンなのか知らんが、満臭とかいう糞はこっから出てってくれんかのう?
せっかくええ話やええ議論が出てきてもこれが一人でスレを汚しよる
どこでもいっしょなんやが朝鮮人が紛れ込んでくると一気にスレのレベルが下がってまうわい
351日本@名無史さん:2013/05/27(月) 17:16:51.68
>>334 狗古智卑狗

狗奴國 男子爲王  其  官  有 狗古智卑狗
對海國         其大官  曰     卑狗
一大國            官亦曰     卑狗


狗古智卑狗 = 狗古智 + 卑狗
        = 狗古智 + 大官の称

狗古智    = 狗 + 古智
        = 狗 + 南の
        = 南の委奴
        = 南のゐぬ
        = 南のゐな
352満州バナナ諸兄:2013/05/27(月) 17:20:01.76
ぺっ、おめーらのラベルは低すぎて話になんねーべ。
ラミちゃん、ペッだべさ。
353日本@名無史さん:2013/05/27(月) 17:25:07.14
「泥泥狗」
http://www.google.co.jp/search?q=%E6%B3%A5%E6%B3%A5%E7%8B%97+site%3Ahttp%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fkawa721%2F

http://ameblo.jp/kawa721/entry-10586626445.html

槃瓠 高辛氏 繭 瓠 伏羲 楚 南方のミャオ・ヤオ系族群に属する山地民

「伏羲」=「匏戲」

伏羲・盤古(天地の創造神)・槃瓠は古代の発音はほぼ同音・同一詞
354日本@名無史さん:2013/05/27(月) 22:03:26.97
満州バナナ諸兄さん、こてかえちゃだめだぞ
355婆 ◆HKZsYRUkck :2013/05/28(火) 00:13:33.02
>>346
ちょっとメタな話になるけど、そもそも神話と歴史とは同じな気がする。
お婆ちゃんの豆知識は生活の知恵だけど、それを数式や化学式で
記述するとサイエンスになるみたいな、
356日本@名無史さん:2013/05/28(火) 07:04:47.21
何らかの史実は反映されてるだろうね
357満州バナナ奈良麻呂:2013/05/28(火) 08:51:39.16
神話は史実である。空想でもなければお伽噺でもない。
僕が言いたいのは神話の時代と歴史時代をごっちゃにするなということだ。

卑弥呼がアマテラスだとか、帥升がスサノオのモデルなどと書いているのを見ると、
バカも休み休み言え、ド低能、ドキチガイと言いたくなる。

一流の文化人と目される人までもが卑弥呼アマテラス説などを説いたりするから、
sssのような真面目な男でさえそれに騙されるのである。
358日本@名無史さん:2013/05/28(火) 09:27:26.07
どこからが神話でどこからが歴史なのよ
359日本@名無史さん:2013/05/28(火) 09:41:21.14
>>357
>ド低能、ドキチガイ

自己紹介ご苦労様です。
バカも休み休み言いましょうね。
360日本@名無史さん:2013/05/28(火) 10:17:38.25
とんでもないバカ=慢臭が自己紹介乙。
361日本@名無史さん:2013/05/28(火) 10:42:17.30
満州某とかいうの人気あるねw
知能の低さをひけらかして平気でいられる神経はさすが満州某だと思うよ
362日本@名無史さん:2013/05/28(火) 11:59:08.97
帥升さんなるは(AD130)八月に卞山で熱中症で死亡したおひとと同一人物だろ
363満州バナナ奈良麻呂:2013/05/28(火) 12:33:05.64
>>358
神話的色彩を帯びているのが神代で、そうでないのが歴史時代だよw
記紀で言えば神代巻に収録されているのが神話時代だ。

神話に縄文弥生風の描写が出てくるから、
それを縄文弥生時代と解するオタンコ看護婦がいるのだが、
レムリア、アトランティス時代のことを描写するにもアトランティス以後の
文物を以て描写するしかないからそうしているだけで、縄文弥生時代のことではない。

卑弥呼は百襲姫だと説くのはまだ許容できるが、
卑弥呼はアマテラスだとかスサノオは帥升だなどというのは
半狂人、痴呆、精薄、松沢病院行きのレベルである。
364日本@名無史さん:2013/05/28(火) 12:58:33.48
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/

仏教・神道・宗教・歴史・政治経済・心理学・超常現象・・・

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http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/
365日本@名無史さん:2013/05/28(火) 13:31:40.11
松沢病院長の診断はなかなか奥深いな
ま、気は短いようだが・・
366日本海ルート論者:2013/05/28(火) 20:09:55.69
>>342
有り難う御座います。
上のリンク見ると日本でも3度行われてるんですねえ。内2回が桓武というのも興味深い。
血の軽重を問うのはシステムだから致し方無しですが、仮にここで天子(王権神授)思想が継続してたら日本の歴史は変わっていたでしょうね。
まあ逆に、天武統が絶えた直後の自信故か。そう考えればやっぱ歴史って必然なんだなあ、と益々(笑)
367日本海ルート論者:2013/05/28(火) 21:15:09.00
>>355 婆さん
同意です。その手ので盛り上がっても楽しそうだけど、ここから、あえて入口と出口を変えて書きます。
区別なら、神話はフィクション、歴史はノンフィクションですよね。
だから、本来史家という作者は、その区別を時系列的にも確固たるものとせねば。
なのに、別史料と照らした時に時系列に混同が疑われる表記をするのは、それこそ生活の知恵かも知れないけど、科学ではない。
まあ、史書は内政そのもので。尚且つ、外交そのものですけど。そこはちょいと残念だって思いますね。
風土記はまだ自由だけど、記紀の成立順を含めて考えれば、その元を読みたかったとか思いますよ。
いかにも荒唐無稽な、おらが国自慢、国家史書の編集者達が困惑するような身勝手さのオンパレードだったのでは?(笑)
368:2013/05/28(火) 21:37:39.45
>>367 ルートさん
スサノヲ命は、老夫と老女の二人が童女(櫛稲田姫)を中に置いて泣いていたので
「あなたはどうして泣いているのですか」と尋ねると、答えて言うには
「私の娘は元々八人いましたが、あの高志の八俣の大蛇(ヤマタノヲロチ)が年毎に
襲ってきて食べてしまいました。今年もやって来る時期となったので、泣いているのです」

古代において毎年やって来る怪物、同じ時期にやって来る怪物。
私見では、「台風」と思っている。
櫛稲田姫は、沢山稲が育つ田んぼの表記である。

台風による水害、風雨によって作物が全滅する事は恐ろしい事であった。
したがって、豊穣の祈りは大切なものである。
神は「天空」にあり、秀麗な山「磐座」に降りて来て、その麓「里宮」に来る。
田植え前に「田宮」へ招き、祈りを捧げる。
収穫が終わると感謝の祈りを行い、里宮へと送り出す。

当然、年季は田植えと収穫の二回で数えていた。
369日本海ルート論者:2013/05/28(火) 21:44:20.48
○さん
>>295
レア者の恍惚と不安、二つほど。

次有は、作者の筆法とはかけ離れてますね。倭人条も同じ、にも同意。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ファイル:China_map0420.gif
原則、都市国家群に、領域国家が混じる感じだったと思います。
改竄がねえ。最初軽く流すつもりだったけど、ご存知の通り、この作者が自分は好きで。そしたら、他の中国人だって疑えないですよ(笑)。自然、筆法の違いは作者が出張者報告を理解できなかったが故の原文丸写しとなる。「次」の有無は文意を全く変えますからね。

そしたら、誘導されるがままですよ(笑)。
冒険嫌いなんだけどなあ(笑)。

つまり、
投馬国=出雲。上陸地=丹波。邪馬台国=大和。次有21国=畿内〜瀬戸内〜奴国。
往路は対馬海流、復路は瀬戸内潮流の畿内周旋説の誕生です(笑)。
370日本海ルート論者:2013/05/28(火) 22:27:02.81
>>369に補足。
問題は山積(笑)
「次」は明確に順序を示すから、位置的に考えて、鬼国を紀国、巴利国を播磨国とかにはできそうもないですね。
都市国家群を点の集合と捉えれば、これは畿内〜瀬戸内〜奴国間のルートでしかなく、飛び地の港町も国と数える必要があります。当然、海進を考慮した当時の沿岸沿いの港町。
逆に言えば、ルート以外の点は省かれていると捉えられる。例えば、すでに往路の上陸地として比定した丹波は倭人伝の記述外ふで存在してると定義できます。
要は最小限のルート情報だから、当時を想定して考えられる最短のルートが21地点。これは、瀬戸内は良く分からないという雑感にも沿う。内海の支配者はいないって意味ですが。
ただ、潮流の特色から吉備地方は必須ですかね。海進の影響による当時の潮流は不明だけど、潮待ちの港は必要ですからね。その港が当時は領域国家の体をなしてなくても、ルート完成によってそうなる可能性は確実。
371日本海ルート論者:2013/05/28(火) 23:18:43.11
○さん
>>343
ふむふむ。もし、祭祀担当者と権力者とをヒメヒコのように分けて考えるなら、吉野ヶ里と八女の継承性は無しでも?(僭越ですが)。
吉野ヶ里の南は当時海だから、移住先は海沿いの共通点があるべきで、対して八女は当時も内陸。八女の西、当時の海沿いにワンクッション置くなら別ですけど。
むしろ、吉野ヶ里をデルフォイとして、その所有権争いがあったという関連性で十分というか楽って気がするんです。

>>369
賛同しますよ〜。スサノオは地方の英雄譚には珍しく開拓話が入っていて、地域性の古さがうかがえますよね。
素朴かつ雄大、古代じみてて好きです。誇大妄想的なのやヒロイックすぎる後世の脚色っぽい部分は正直苦手です。
おらが国自慢の炎上と見れば嫌いじゃないけど(笑)。まあ、脚色にたる素材って何時だって望まれちゃうけど。

畿内で言うなら、景行とか。これ完全に英雄ですけど、自分は景行ってシステムだと思ってます。みんなが連合に加わって行く国家システム。実際に景行って人物は不在じゃないかな、少なくとも一人じゃないよなとか。
「武『内宿禰』」って説をネットで見たんですけど、それを進めた感じ。だから、スサノオもシステムかな。そこに素朴な民衆なりプロの作者の願いとか。
ただ、景行は歴史ですよね。だから、ちょっと何かある。畿内に「招かれる」九州出身の血族の応神がいて、畿内のおらが国自慢炎上が景行の英雄譚だと思ったりします。
372日本海ルート論者:2013/05/29(水) 00:22:34.11
>>369 修正に挑戦。なぜ改行?
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ファイル:China_map0420.gif
要は、Wikiの「周」。「西周時代の中国」という地図。失敗してても寝ます(笑)
373満州バナナ逸勢:2013/05/31(金) 08:36:03.48
纏向遺跡から採取されていた花粉がバジルと判明したという。
しかし疑問が二つある。

1 3世紀の溝の土壌の中から見つかったというが、3世紀である証拠がない。
2 細胞の傷み具合から、後世に混入したものではない、とあるが、根拠薄弱。
374満州バナナ逸勢:2013/05/31(金) 12:35:29.66
僕が今読んでいる本に、唐の太宗が編纂に関与している正史は信用できない、と書いてある。
中国に都合の良いように史実を書き換えているからだとか。
史記、漢書、三国志などにも加筆・削除を行った、としている。

で検索してみると、晋書、梁書、陳書、周書、隋書の正史は太宗の命による編纂だと分った。
いや、驚いた。唐代以後の文献は信用できないと思っていたが、
中国正史はほとんど唐代ではないか。しかもそれ以前の史記、漢書、三国志も信用できないとは。

新羅も、679年に国史の大改創を行っているから韓史も信用できない。
(三国遺事の法敏王記に明記されている。)
375満州バナナ逸勢:2013/05/31(金) 12:49:13.44
ちなみに太宗は安市城主楊万春の放った矢で目を射られ、それがもとで死んだらしい。
中国正史にも三国史記にも書かれていないことだが、そういう伝承が残っており、
それを仄めかす詩も存在するとか。
376日本@名無史さん:2013/05/31(金) 13:08:31.14
慢臭の意見が一番、信用できない。
377日本@名無史さん:2013/05/31(金) 13:14:58.38
>>375
楊万春は韓国海軍の広開土大王級駆逐艦3番艦に付けられているな。
軍艦の名につけようにも歴史上の英雄が少なすぎるから朝鮮人かどうかも怪しい渤海の王の名を持ってきたり
孫元一級潜水艦3番艦みたいにテロリストの安重根の名を持ってきたり大変だな、韓国は。
378満州バナナ逸勢:2013/05/31(金) 18:17:48.32
日本から見ればテロリストだが、韓国から見れば英雄。
中国史書や三国史記の列伝に英雄として書かれている人間は、朝鮮から見れば売国奴。

現代で言えば、アウンサンスーチーは善人とされているが、
実は軍事政権側こそビルマ独立のために闘っている英雄。
スーチーは売国奴の娘。(高山正之「スーチー女史は善人か」参照)
379日本@名無史さん:2013/05/31(金) 23:01:13.69
満州も勢いを逸したな。
380日本@名無史さん:2013/06/01(土) 01:51:28.72
日本でテロリスト認定されているから、嫌がらせ的に英雄にしているだけだろ。
やったことは別に英雄的ではない。
381満州ゴマペプチド:2013/06/01(土) 09:07:38.61
お国のために死んだ者は英雄だよ。暗殺者であろうと何であろうと。

淵蓋蘇文は王や大臣を殺したが、それは高句麗のためであって、
唐の攻撃から高句麗を守った偉大な人物である。

新羅の金春秋や金庾信、百済の黒歯常之は売国奴である。
鬼室福信や成忠は英雄だが、三国史記では列伝に無い。
382日本@名無史さん:2013/06/01(土) 19:50:14.32
へぇー。文世光は朴大統領を暗殺しようとした点でテロリストであるが、韓国
の民主化にとっては英雄ということになるのかい。ぜひ韓国民の評価を聞きた
なぁ。
383日本@名無史さん:2013/06/01(土) 19:54:13.30
素朴な疑問だが、「韓国のためになった韓国人のテロリスト」って、
誰がいるのかね?
384日本海ルート論者:2013/06/02(日) 14:43:43.98
畿内周旋に挑戦中、全国古地名表が欲しい昨今です。21国各説の比定者さんどの人も天才だわ〜。

さて、宿題もさすがにレス100跨ぎで、とりあえずの返答ださなきゃとか。
>>271
自分なりの宿題:「銅矛」とは何か?!
とりあえずの答え:よくわからん(笑)
385日本海ルート論者:2013/06/02(日) 15:38:24.81
上のつづき。
銅鐸は単純解釈してて、素材は青銅だから比率で金色とか銀色。まあ、金の方が綺麗、民衆は驚きと感動。当初持ち込んだ側からすれば「単なるベルなんですけど」。

で。巨大銅鐸は驚きを強化。売り手は東海と畿内の成金勢力で、後に畿内一括。元がベルだから無料配布先では多様な使い方。配布元はタダより安い物はなく交易網拡充。ただ、多分畿内と東海は多分発祥地ではない。なにせベルへのこだわりがない。

で。売り物は宗教性を強化した銅鏡に変わる。次いで、技術への驚きを与える古墳という売り物も。「銅鐸祭祀の終焉」とか書くと誤解を招くだけで、ただそうやって「国家」が成り立っていったと思います。
386日本@名無史さん:2013/06/02(日) 18:44:05.89
改行したほうが読みやすいと思うんだ
387日本の名無史さん:2013/06/02(日) 21:13:46.36
>>375
満州、それは伝承ではなく
崔仁浩の小説に出てくるシーンではないのかい
388婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/02(日) 22:16:46.78
>>384
そいや、イザナギとイザナミがオノゴロ島を作ったのも矛だよな。
これは島釣り型に分類される神話で、ポリネシア・メラネシア・ミクロネシア
に分布しているらしい(吉田敦彦「日本神話の源流」)。
これらの類話では釣り針で釣るパターンが多いんだが、日本では矛。
なぜかというと、現代でも「矛突き漁」という言葉があるように、
もともとは漁具なんだと。
389満州バナナ三千代:2013/06/02(日) 22:57:46.66
崔仁浩を検索してみたが、現代の作家ではないか。

太宗が高句麗との戦いのとき、矢で目を射られたという伝説はずっと以前からあるもので、
史学者がずっと以前に考証しているのだから、崔仁浩の小説によるものではない。
太宗の死因は中国の歴史書ではバラバラで、はっきりしないのである。
中国の皇帝の死因が曖昧というのは考えられないことで、要するに隠蔽されているのである。

話は変わるが、源頼朝の死因もはっきりせず、暗殺説も唱えられているようである。
390日本@名無史さん:2013/06/03(月) 00:14:40.49
おほほ
391日本の名無史さん:2013/06/03(月) 13:17:36.30
>>389
崔仁浩を検索したって
ネット史ばかり読んで「消えた王国」は読んどらんなんて
あんたモグリだなw
392満州バナナ三千代:2013/06/03(月) 17:13:49.20
おめーは在日でねーのけ?
おらそんな作家知らねーずら。

ハングルが読めるっちゅーのはおめーのことだなっぺや。
393日本@名無史さん:2013/06/03(月) 17:43:28.50
>>388
> イザナギとイザナミがオノゴロ島を作ったのも矛だよな。

いつも思うんだが、弥生時代の青銅祭器と記紀の記述を同一視するなと。
「広形銅矛」ってのは1メートル近くの大きさでもちろん柄をつけるものでもない。
あれで「オノゴロ島を作った」描写を想像してみ。

> もともとは漁具なんだと。

なかなか興味深い。
対馬での大量一括埋納にみられるように、
銅矛は通航の安全を祈願するマツリに用いられたという考えもあるからな。
394婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/03(月) 20:21:57.78
>>393
もちろん、記紀を書いた人らの脳裏にあったのは、
今で言う「銛」とか「ヤス」のイメージなんだろな。

が、広形矛でも草津温泉の「湯もみ」みたいで風情がある気もするw
395日本の名無史さん:2013/06/03(月) 21:05:52.17
知らないことは知らないと認める
そんな満州が好きだ
396日本@名無史さん:2013/06/03(月) 22:26:36.15
>>393
魏志倭人伝には、『兵は矛を用いる』と書かれている。
恐らく、実用的な鉄器だろうな。
397日本海ルート論者:2013/06/03(月) 23:39:29.09
>>388 婆さん
ほほ〜。漁具と思えば国産みの矛も納得です、なるほどなあ。
国産みの話って素朴で好きなんですよ〜。
自分たちの住んでる島々の誕生話。
オノコロ島は地球そのものダ!とか権威主義な人が後付けするの見るとゲッソリするけど(笑)

人の住みにくい失敗作に上陸し、より良く住める島を作っていく。
最初は小さい島から。段々大きく沢山の人が住めるように。
最後に本州を作って完了。実に素朴。

で。話が出来た後で、隠岐は?対馬は?とか突っ込まれて付け加える。可愛い(笑)。
んで。順番争い。挙句、日本書紀得意の一書羅列。もう書の2に断定しちゃえば?。寄合所帯の辛さ。可愛くない(笑)
398日本海ルート論者:2013/06/04(火) 01:42:11.31
>>388>>385と絡ませてレス。
銅鐸圏の印象は素朴、田舎、のどか(笑)
楽に仲良くできたけど権力集中弱いとか。
逆に銅矛圏の印象は権威的、都会、殺伐。
戦国の三晋とか中原の印象(楚秦でなく)。
この印象の原因は、銅矛の形状も大きい。
だから、矛は漁具というのは実にイイ。
都会は都会だろけど素朴でのどかな感じ。
元形状は先細で、刺す目的の漁具っぽい。

ただ、形状変化が。
広型銅矛なんてもはや銅剣に見える(笑)。
すると支配国に下賜したイメージもわく。
この場合、殺伐。
でも、
それこそ「単なる漁具なんですけど」を、
配布先のニーズに特化させていった結果な
のかも。この場合、のどか。
うーん。難しい。。
399日本@名無史さん:2013/06/04(火) 11:45:19.68
>>396
> 実用的な鉄器だろうな

まあそうだろう。ただし、「倭人伝」に「矛」と記されたものは実際には「槍」であろうと思う。

考古学研究者は柄の先端をはめこむソケットのあるものを矛、柄の先端に差しこんで使うものを槍と呼びわけている。
鉄矛は中期中頃から後期初めの7例が福岡県と佐賀県で、同時期の半島と同形の舶載品が出土しているが、
以後姿を消し、古墳時代になってから復活する。

したがって「倭人伝」が描写した弥生終末期〜古墳時代初頭の日本列島に「鉄矛」が存在した可能性は低く、
これは、同じ長柄武器であり普遍的に存在する「槍」を見て「矛」と書き記した可能性が高いだろう。
400日本@名無史さん:2013/06/04(火) 17:56:13.34
銅矛があって鉄矛がないわけはない。
401婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/04(火) 20:54:20.54
>>399
全くの妄想だが、考古学者が「矛」と言っているものは、実は「犂(スキ)」かも
知れんと言う気がしてきた。ソケットに柄を差し込む機構は、引っ張り力が
かかることを考慮していないわけで、振り回したら遠心力で飛んでっちゃうよなw

正倉院の子日手辛鋤とか、いかにも矛っぽいフォルムじゃね?
402日本@名無史さん:2013/06/05(水) 12:13:24.08
遺跡・遺物の木材:1年単位の新測定法 確率ほぼ100%
(毎日新聞 2013年06月03日 08時25分)

 ◇名大大学院の中塚教授考案
遺跡や遺物の年代を、樹種を問わず、少量の試料で測定できる画期的な木材の年代測定法を、
名古屋大大学院環境学研究科の中塚武教授(気候学)が考案した。
1年単位の高精度で安く短時間に、年代測定ができるという。

論争が続く弥生や古墳時代の開始時期など、考古学や歴史学に多大な影響を与えそうだ。
7月に開かれる日本文化財科学会の年次大会で発表される。【伊藤和史】
http://mainichi.jp/select/news/20130603k0000e040107000c.html


年輪年代のように「神のお告げ」をするのかな?
ちゃんと証拠を出してくれるのか?
403満州バナナ三千代:2013/06/05(水) 12:36:12.51
茶話

中国史や韓史に尼のつく地名が出てくる。
これまでこれはニと読むのだろうと思っていたが、
日本史では宿祢を足尼と書いているところを見ると、これはネと読むのかもしれない。
404満州バナナ三千代:2013/06/05(水) 12:45:40.06
茶話 その2

韓史に、靺鞨が百済を襲ったという記事がよく出てくる。
しかし百済と靺鞨の位置から考えて、これはどうもおかしいと前々から思っていた。
ところがこの間読んだ本に、唐人は穢を靺鞨と書き慣わしていたので、
三国史記は穢を靺鞨に書き換えている、とあった。

わが意を得たりと思った。
ただし鴨緑江や豆満江の北部にも靺鞨がいたかもしれないから、即断はできない。
405満州バナナ三千代:2013/06/05(水) 17:32:27.44
さて僕はチミらが喜びそうなことを見つけたぞ。

山直市、山直神社。この山直を、
ヤマナオ、ヤマタエと読み、現在はヤマダイと読んでいるそうだ。
406日本@名無史さん:2013/06/05(水) 18:10:06.13
なんだ、産直市のことかと思ったわい
407満州バナナ三千代:2013/06/05(水) 23:02:45.16
九州の川内市をセンダイと読む。内裏をダイリと読む。

邪馬台はもともと邪馬内だったのでは?
408日本@名無史さん:2013/06/05(水) 23:12:43.52
古来、日本では「臺」と書いて「うてな」と読むんだぞ。
熊本県菊池市には「うてな遺跡」というのがある。
409日本@名無史さん:2013/06/06(木) 00:02:08.26
>>401 婆さん
鋤かあ。良く考えつくなあ(笑)。面白味ありますね。

銅矛の元はやっぱ漁具的な従属関係を前提
としないモノと考えようかと思います。
東で銅鐸圏が拡大している訳で、経済圏の
拡大は各地方の命題だっただろうってこと
ですね。武力支配による従属関係の拡大は
相応の戦力差が必要で、後世倭人伝にある
玄界灘には邑と言える諸国があり一大卒も
土着王との並存で、領域国家化し切れてな
い状況からも、それは難しそうと思える。

ただ、銅鐸圏ほどノドカでもオカルト好き
でもなく、より現実的でハイカラな銅矛圏
では武具っぽい進化をしたと。単に、当時
の技術で無理なく、キラキラ輝く青銅部分
の表面積を増やしただけかも知れませんけ
どね。技術があればトライデント化してたかも(笑)
410日本@名無史さん:2013/06/06(木) 00:07:43.99
はじめに細型銅矛が朝鮮半島から入ってきたことは間違いない
411日本@名無史さん:2013/06/06(木) 00:47:56.60
あ、あとソケット抜けないでしょ〜。抜け
ても当時の技術の限界だから使用者側の問
題でしょ〜。とか釣られたり(笑)

>>396
鉄器かどうか気になりますねえ。
矛が鉄器だとしたら、鉄或いは骨の矢じり
という記述は「未だに骨鏃も使用(笑)」と
いう意味になるのかな。問題は強度と値段
ですね。輸入品は高額だけど銅より良い筈
(多分)。国産品は?どうなんでしょうね。
あと、矛と盾の使用は集団戦術ですよね、
古代的な。権力者層は別途護身用の剣を帯
びていたでしょうけど。矛だけに会戦主体
の戦闘で、山中のゲリラ戦には弱そうです
412日本海ルート論者:2013/06/06(木) 01:04:24.07
>>410
ですね。半島から様々な青銅器が入ってき
てる。その中で何を選んで流通させるか。
そこにどういう意味付けを付加するか。
どういう配り方をするか。
配布元や配布先の性格や志向が読めるかも。
って、とこなんですが、今一つ。。
413日本@名無史さん:2013/06/06(木) 01:22:51.93
>>408
奈良橿原に雲梯(うなて)って地名が残る
414満州バナナ三千代:2013/06/06(木) 12:55:36.08
僕は今、新撰姓氏録を読んでいるのだが−

日置造 出自高麗国人伊利須意弥也
大狛連 出自高麗国人伊利斯沙礼斯也
島本  高麗国人伊理和須使主之後也

高麗国人イリ〜というのが五例ある。
ご存知のようにイリ〜天皇というのが何人かおられる。
何か関係があるのではないだろうか。

イリは馬韓に多い〜卑離国の卑離ではないのか?
(これは本に書こうw)
415婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/06(木) 18:01:32.31
>>411
いや、けっこう深い話だと思うぞ。
ソケット形式で抜けないようにするには、現在のクワみたいに
楔を打つしかないけど、そのためには柄と刃とのラインをずらさなきゃ
いけないのだ。
てなわけで、柄と刃が一直線の槍や刀は、柄に刃を差し込んで、
紐で締め上げる方式が定着したと。

でも、どうでもいい話といえばどうでもいい気もしてきたw
416満州バナナ三千代:2013/06/06(木) 19:23:55.63
百済にもイリ〜という王があった。
百済国主意里都解四世孫秦羅君之後也

それからこんなのは完全に日本人的名前である。
出自百済国人久米都彦之後也
417日本@名無史さん:2013/06/06(木) 19:50:41.31
小学生の時、学校に雲梯(うんてい)があった
418日本海ルート論者:2013/06/06(木) 21:29:16.97
>>415 婆さん
最悪、ソケットの横と差し込む棒に一致す
るよう穴開けてピンで留めればok。
槍方式で留めることもあったと思いますが
これだと、横殴りすると、外れ易いかも。
相手が盾持ってる前提で、横殴りして盾無
くなったら刺す感じでしょうね。
とまあ、結局殺伐としてきますが(笑)
419日本@名無史さん:2013/06/06(木) 21:36:31.76
画像を検索してて気づいたが、広型銅矛と櫂って形状が似てる。
これは本に書こう
420日本海ルート論者:2013/06/06(木) 21:42:00.61
なんか結局、釣られたような(笑)

ここらで○さんの銅矛解釈を待ったり(笑)
421日本@名無史さん:2013/06/07(金) 14:19:13.35
>>408
「臺(うてな)」って高台の事だよ。
観念的なコトバで須弥山の頂という意味だ。
須弥山(高天原)から降ってきた仙人の子孫が治める国が日本なんだよ。
「邪馬」は古代朝鮮語でサ・マリとよんで、「嘘のコトバ」という意味。
邪馬臺国(サマリハンゴ)は、「嘘のコトバで治める仙人の国」という事になる。
つまり、道教だかの呪術で神がかりな言葉を述べて国を指導する、卑弥呼のイメージと重なる。
仙人のイメージは天皇に繋がる。
前方後円墳、あれは須弥山を模した人工の丘だよ。
天皇の墓でもあるが、須弥山として崇める対象だ。
死んだら霊魂が須弥山に登っていくと言うのが、当時の成仏の概念。
仏教も同じで、あれは釈迦が生前の修行によって成仏したから偉いとされるんだ。
だから、寺で仏像を載せる場所を須弥壇というのだし、須弥山の頂上に住んでいる釈迦を崇拝するのが仏教だ。
小乗仏教は釈迦の修行を真似してそのあとに追従しようとする宗派。
大乗仏教になると、念仏を唱えて釈迦にお願いし、死後に霊魂を須弥山の頂まで導いて貰おうとする様になる。
山岳信仰で、先達に案内されて富士山や越後立山や大峰山に登るのがあるけど、あれは仏教の象徴だな。
大乗仏教そのものが、釈迦を先達に頼んで、須弥山に霊を誘導して貰おうとする宗教だから。
古代においては天皇そのものが、俗民の死後の霊を成仏させる機能があるとされた。
だから、須弥壇ならぬ、前方後円墳(須弥山を模したもの)に遺体を葬る。
仏教が流行りだすと、天皇の機能は仏教を擁護する立場に変わる。
仙人の子で、天上界とコミュニケートする能力を持ち、俗民の魂を須弥山に導ける者、が天皇。
その能力者が釈迦の偉業をたたえ、俗民の霊を成仏させるように依頼する形、これが鎮護国家の仏教。
卑弥呼、天皇、釈迦、いずれも一貫性があるんだよ。
422満州バナナ三千代:2013/06/07(金) 17:33:59.19
と雑学王が嘘かホントか分らないようなことを書いておりますw
チミ達、心して読めよw
423日本@名無史さん:2013/06/07(金) 18:49:08.40
当時の為政者が古墳作るより仏寺を建てたほうが意義深いと考えるようになっただけだろ
424婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/07(金) 18:53:42.29
>>421
須弥山の頂上は「有頂天」だよね。ありがたやありがたや…。

さておき、須弥山はインドの概念だよね。日本で言うと仏教。
3世紀の日本に伝わっていたかというと、それはちょっと疑問だ。
たとえばマキムクで桃の種が出土して、神仙思想(道鏡)の
影響は認められるけど、それは汎東アジアの基盤宗教であって、
仏教的ではない。

たしかに、もう少し時代が下って使われるようになる天皇の呼び名
「すめらみこと」の出典を須弥山だという人もいるけど、牽強付会な気がする。
425日本@名無史さん:2013/06/07(金) 18:58:27.41
天皇の呼び名は天武が進行していた北極星のことだろ
まあ道教に近い
426満州バナナ三千代:2013/06/07(金) 19:19:50.04
太古、バイカル湖の周辺に須密爾国というのがあったんだよ。
わが日本民族はそこから来たんだよ。
須密爾国の王だからスメラミコトと言うんだよ。

これは本に書こうw
427日本@名無史さん:2013/06/07(金) 20:37:55.63
北辰太一
428日本海ルート論者:2013/06/07(金) 21:05:22.87
ふと思ったけど、
倭奴国の朝貢とか公孫氏とか
中国圏から下賜されたモノが
銅矛銅鐸の時代の遺物に含まれてたり?
金文などがなくて見分けがつかないだけで。

しかし、
ウテナだけでこれだけ広げるとは!
因みに、台(うてな)は大三島にもある。
曾祖父が住んでた(笑)
429婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/08(土) 00:23:14.16
>>426
シュメールかw
430日本@名無史さん:2013/06/08(土) 02:53:56.26
天皇の読みは「あまのすめらぎ、あまつすめら」だよ。
「すめらみこと」は“皇尊”であって、皇族というか、仙人の子孫の血統者をさす。
それと、須弥山は仏教以前からあるインド世界観に由来するもので、世界の中心にそびえる天上界に達する巨大な山。
中国では、東方海上の島にあるとされ、蓬莱山と呼ばれた。
つまり日本の富士山に比定された訳で、そこの支配者が仙人の子孫を称したのも不思議ではない。
倭国が成立する以前から日本は芙蓉の国とも呼ばれたが、富士山も別名は芙蓉の山だよ。
431満州バナナ三千代:2013/06/08(土) 09:09:22.86
>>429
僕も最初読んだとき、これはシュメールではないかと思ったのだが、
どこかのブログでバイカル湖周辺のブリヤート族の言語で、
ナントカをスメルとかスメラと言う云々と書いてあって、
それを読んでピンと来たのである。

でブリヤート族の画像を見てビックリした。日本人とそっくりなのである。
432日本海ルート論者:2013/06/08(土) 22:10:42.89
>>426
仮に中国系の人が富士山を見て、しかも
そこに定住したなら仙人の子孫を称すかも
知れない。例えば徐福の時代ぐらいなら、
あり得るかも。山頂に雲のはった富士山は
天と地を繋ぐ雄大で孤立した山に見える。
その人々が列島に技術革命を起こす程の
人数も技術も持っていないと仮定するなら
その可能性は否定しないし可能性や面白味
の面でも歓迎しますよ。様々な回廊を通っ
て渡来した雑多な移住者たちを、大多数の
縄文人をベースに吸収してきたのが、極東
の終着地=日本列島だと思うし。
起源なのか後付なのかは不明だけど、中国
皇帝に対して、仙人的な味付けというの
も確実にあったと思いますよ。
433日本海ルート論者:2013/06/08(土) 22:30:21.97
個人的に不思議なのは、阿蘇山ですね。
隋書かな?そこらまでスルーされてる。
それがなければ、宝満川沿い、特に小郡市
周辺を掘り返せって騒いでます。つまり、
九州説ね。邪馬台国は八女とかだけど。
いや違った、阿蘇が出てないからソコ止ま
り。本来もっと南下させても良いぐらい。

あと、面白味で言うと、阿蘇は八岐大蛇で
も面白いかなと。そんな広域の話は風土記
の文脈からもあり得ないんだけど(笑)
今の見た目でも5、6の峰、山が見えるし。活火山だし。
434日本@名無史さん:2013/06/08(土) 22:35:08.08
山岳信仰は南方系だろ
今の中国人とは全く関係ない
435:2013/06/09(日) 00:56:07.04
>>433 ルートさん
改行されてると、読みやすい。
友人の会社の手伝いで夜勤。
クタクタ、来週まで。
436日本@名無史さん:2013/06/09(日) 11:40:38.09
薩長連合が東征して天皇を担ぎ、大和の旧勢力、つまり出雲を倒して邪馬台国を打ち立てた。
薩摩はニニギの上陸地。長州はスサノオの上陸地。ともに半島からの渡来人勢力だろう。
八重の桜見てればわかるだろう?
そして女王国は、薩摩の方。篤姫見ていれば、薩摩おご女と呼ばれる女傑が卑弥呼の血統だとわかる。
437満州中嶋美智代:2013/06/09(日) 12:29:40.45
と雑学王がインチキ説を述べておりますw
チミ達、心して読めよ、ゆめゆめ疑ってはならぬw
438日本@名無史さん:2013/06/09(日) 14:34:14.51
心して読めよ、ゆめゆめ「疑っては」ならぬ?????
439日本@名無史さん:2013/06/09(日) 14:52:38.12
なじょして朝鮮からきてサヅマに上陸すんだべ
博多あたりに上陸すりゃえがんべぇ
440日本海ルート論者:2013/06/10(月) 02:37:30.38
>>435 ○さん、お疲れ様です。自分も今
まで仕事してました(泣)

>>436
渡来人勢力って言うのが、
1 渡来人を積極的に受け入れた勢力なのか
2 渡来人が原住民を支配した勢力なのか
3 渡来人だけ(居住を許された)勢力なのか
幾つか違いがある訳でどう考えるかですね

原住民が逃げ込む山、川、海ばかり。しか
も、大陸とは違い大量移住が難しい島国と
いう点で、日本の特殊性を考えると、移住
民=決死の漂流者、或いは対馬や日本海沿
岸のプロの助けを得た技術者なり亡命者で
決して主体的存在ではないように思います
話が長くなるので、一旦切りますが。

邪馬台国時代の魏人は、古墳を作るのに必
要な人数を土の体積から割り出す知識を持
っています。また、暦法の知識から日食も
割り出せた。季節感は河北中心だけど(笑)
そこまでの上級官僚が渡来していたかは不
明ですが、半島人と魏人とでは別種。
邪馬台国直後に、維新並みの変革があった
かと。長州、豊前あたりに秦人が住むのは
首府近辺で珍しくなくなった、もっと後か
もですが。
441満州「赤い風船」:2013/06/10(月) 18:41:30.78
堤上考

朴堤上事件は418年か419年の出来事である。
しかしどういうわけかこれが神功紀に挿入されている。
しかし三国史記列伝を読むと朴堤上は婆娑尼師今五世孫とある。
では婆娑尼師今五世孫とはどの世代か。

婆娑−毛利−只珍内礼−伐休−伊買−奈解
婆娑−祇摩−内礼−奈解

奈解は婆娑尼師今の六世孫であると同時に四世孫である。
では奈解はいつごろの王か。

奈解 196−230 ←ネット高句麗史
奈解 257−291 ←ネット新羅史

これを見ると朴堤上も大体その頃の人物と分かる。
つまり神功紀に朴堤上事件が挿入されているのはあながち編纂ミスとは言えない。
神功紀にも同じような事件があり、朴堤上と似たような人物がいたのかもしれない。
ともあれ神功皇后はやはり西暦200年代の人物なのである。
442日本@名無史さん:2013/06/10(月) 18:57:56.20
また愚鈍な歴史書三国史記のババアの尼さんの師匠の話しですね。
三条大橋にセクシーな尼さんがお経を唱えて立っていたよ。寄進しろ。
443満州「赤い風船」:2013/06/10(月) 19:29:24.22
三国史記の著者は、少なくとも>>442の男ほど愚鈍ではない。
444満州「赤い風船」:2013/06/10(月) 19:48:00.39
朴堤上については三国史記にもうひとつ重要な情報が載っている。
そこから朴堤上の年代を導き出すことが出来るが、
ここに書くのは惜しいから書かない。
ただし稗箕狐が既に気付いているかもしれない。

話は変わるが、稗箕狐が気付いているかどうかは知らないが、
新羅の金氏の始祖金閼智は匏公の子である。
445日本@名無史さん:2013/06/10(月) 20:16:54.71
「金・朴・李」と書いて「かねぱくり」と読みます。つまり愚鈍な史料である三国史記は窃盗団のことが書かれています。
446日本@名無史さん:2013/06/10(月) 23:40:56.43
朝鮮の話は、もう飽きたよ
447満州「ひなげし」:2013/06/11(火) 08:51:24.70
そうか。ではもっと朝鮮の話をしてやろう。

ネット史はいろんなことを教えてくれる。たとえば、
新羅の南解次次雄は二代目の王ではない。おそらく三代目の王である。
しかも本当の王は王妃の方である。あるいは南解次次雄は女である。

新羅はもともと女王が治める国だったのだが、男王の国に改竄しているのだろう。
百済も実際は女が王の国だった可能性がある。それを想わせる記述がある。

しかし餌を蒔いたのに稗箕狐が出てこないな。アクセス規制か?
稗箕狐が出てこないと面白くない。他の連中は無知すぎる。
448満州「ひなげし」:2013/06/11(火) 08:58:36.64
阿達羅尼師今にはもしかして足達という太子がいたのだろうか。
もしいないとすれば、阿達羅紀のところで編年が狂っている可能性がある。
あるいは阿達羅紀で何か小細工をしているかもしれない。

倭の女王が遣使してきたという記事も阿達羅紀にあるのだから要注意だ。
449サガミハラハラ:2013/06/11(火) 11:08:38.01
あ、それはね、185年の間違いですよ。
霊帝六年は173年です。
霊帝十八年が185年です。
卑弥呼の使いがきたのは、霊帝の十八年なのですが、記録のさい粗雑に書いたか木簡の状態が悪く、
十の下半分が消えて亠のようになり、そのしたの八とあわせると、六にみえたので、
次に書き写した人は霊帝の六年と書き、換算して阿達羅王二十年としたのです。
傍証として、この書では卑弥呼を卑弥乎としており、これも口偏を落としたものです。
450満州「ひなげし」:2013/06/11(火) 12:26:45.28
? サガミ原っぱが何を言っとるのか、さっぱり分らんちゃ。
霊帝六年に卑弥呼が新羅に遣使したっちゅー中国文献があるがかや?
そんな話は聞いたことはねーがのお…。

ちなみにネット新羅史では卑弥呼の使いが来たのは232年だっぺや。
173年とは59年の差があるけんど、どっちが正しいのか、ちっとも分んねーだ。
451日本@名無史さん:2013/06/11(火) 12:50:29.11
>サガミ原っぱ

今は多摩川流域の日野市在住のはず
452サガミハラハラ:2013/06/11(火) 17:19:12.23
倭と新羅のことですから中国の文献にはありません。
ただし、当時の半島諸国は、楽浪郡に出入りしていたので、中国の年号や皇帝の在位何年という数え方をしていたようです。
はい新撰組の町日野市にすんでおります。
453満州「ひなげし」:2013/06/11(火) 22:44:37.32
ありもせぬ 文献もとに 考証す
サガミハラ 何でも信じる 軽い人
454日本@名無史さん:2013/06/11(火) 23:51:58.21
太宰治や寺山修司と同郷だから、普通の人とは違います。
455満州「きんぽうげ」:2013/06/12(水) 09:24:44.60
朝鮮人はバカにするし、九州人はバカにするし、東北人はバカにするし、
上のお人はさてどこの人なのでせう。
456日本@名無史さん:2013/06/12(水) 14:49:35.84
朝鮮人も九州人も東北人も、みな良き人々だが、
満州馬鹿だけは思い切り軽蔑しています。
457サガミハラハラ:2013/06/12(水) 18:48:01.67
あと加藤智大がいます。文学関係じゃないけどね。
458日本@名無史さん:2013/06/13(木) 00:14:14.63
魏の時代に共立された卑弥呼が173年に使者を送るわけはないね。
459日本@名無史さん:2013/06/13(木) 01:28:09.83
まず西暦とのすり合わせが正確かどうかなんだけどな
460サガミハラハラ:2013/06/13(木) 08:12:22.62
卑弥呼共立の話は後漢書にでております。
卑弥呼即位は後漢の時代なのです。
461満州「きんぽうげ」:2013/06/13(木) 09:24:48.57
ここ二三日、編年の問題について考えてきた。
ネットの高句麗史、百済史、新羅史のどの編年が正しいかという問題である。

百済に関していえば、仇知王が公孫度の娘を娶ったとあるから、百済史の編年が正しい。

新羅史は百済史と編年が同じである。では新羅史の編年は正しいかといえばそうでもない。
高句麗史の記述と矛盾が生じてくるからである。

高句麗史も桓檀古記とは違いがあり、むしろ桓檀古記の編年の方が正しい。

現段階で言えることは、神功紀は、60年ずれることはあっても、それ以上はずれない。
神功紀の編年は、正しいか、もしくは60年ずれているか、である。

ちなみに三国史記と高句麗史の編年は大体一致しており、
百済史と新羅史の編年は一致している。前者は後者より大体60年上げてある。
462日本@名無史さん:2013/06/13(木) 15:41:40.53
サガミ原っぱさんの邪馬台国の終焉って本が売ってたんで買おうかなと迷ってるんですが、
この人ってこの業界の中ではどういう立ち位置にいる人?
@客観的な立場で事実に基づいて推理を展開する良識派?
A結論ありきでそれに適した根拠だけを探してきて理由付けする原理主義者?
B曲解とこじつけでトンデモ説を唱える痛い人?
463満州「きんぽうげ」:2013/06/13(木) 17:27:36.70
えっ、サガミ原っぱは後藤幸彦という人なのか?
アマゾンで検索したら四冊も著書が出てきたぞ。

それはさておき、どうも味鄒尼師今が怪しい。
父がはっきりしないし、母にいたっては三国史記とまったく異なっている。
于老よりずっと年下で、血統も于老より劣るのに于老を差し置いて即位している。
やはり大和朝廷が関与しているのだと思われる。

稗箕狐よ、読んでいるか? 于老について調べてみれ。
464満州「きんぽうげ」:2013/06/13(木) 17:43:36.29
前々から思っていたのだが、于老は実際は王だったのではあるまいか。
于老は奈解帝の太子で、沾解より三才年下だから、順番からいえば、
沾解の次は于老が王になるはずなのである。
紀や新撰姓氏録では于老は新羅王と書かれている。

王が倭人に殺されたとあっては恥だから、王ではなかったということにしたのでは?
味鄒帝は于老より14才も年下で、父は金氏の仇道だから血統的にも劣るのである。

稗箕狐よ、味鄒尼師今と于老について調べろ。
465サガミハラハラ:2013/06/13(木) 20:49:08.50
>>462
もちろん@の良識派ですよ。
今度出した本は高すぎて売れてません。内容からみると決して高くはないのですが。
いままでの定説から大きくはみでた斬新な内容なので皆さん、消化不良のようです。
466日本@名無史さん:2013/06/13(木) 21:05:53.74
卑弥呼の共立はAD189年頃、後漢代の出来事です。
467日本@名無史さん:2013/06/13(木) 22:30:55.63
>>465
サガミハラハラ氏は本を出版しているのですか?本を出版すると国立国会図書館に納められます。
つまり、あなたの珍説が後世まで残ると言うことです。実に恥ずかしいことで税金の無駄ですね。
468日本@名無史さん:2013/06/13(木) 22:33:36.66
ギーコギーコと首を挽く
469日本@名無史さん:2013/06/13(木) 22:35:20.47
いいえ、小城市に自腹で著書をどっさり寄付していますから、
国の費用より本人のほうがもっと使ってます。
470サガミハラハラ:2013/06/13(木) 23:06:08.41
あなたの珍説って、あなた私の本を読んでるんですか・
読んでないと珍説かどうかわかりませんですね。
471日本@名無史さん:2013/06/13(木) 23:28:17.52
ここへの書き込み見てりゃある程度の判断はできるぜ
472日本@名無史さん:2013/06/13(木) 23:45:39.02
>>470
甘木説お笑い。短里説大爆笑。Amazonで一部閲覧出来ますよ。隠蔽すべきでしたね。恥ずかしい。
473日本@名無史さん:2013/06/14(金) 05:16:43.11
mixiは原田実がヲタ全開でキモすぎるし2ちゃんはサガミハラか。
邪馬台国関係者は痛いのばっかだしもう関わるのやめよっ
474サガミハラハラ:2013/06/14(金) 06:59:39.53
ここへの書き込みは、ほんの一部の一部で、散漫なものですよ。
それをもって私の説の判断は危険です。
東アジアの古代文化を考える会のHPの掲示板の討論室のコーナーの雑論雑考や先古代史を考える
もみてください。
475日本@名無史さん:2013/06/14(金) 09:05:43.73
おっと、サガミ先生への悪口はそこまでだ
476満州「きんぽうげ」:2013/06/14(金) 09:12:34.93
と九州人は九州説論者の味方をします。

九州説以外を唱えると途端にバッシングを始めます。
477日本@名無史さん:2013/06/14(金) 09:22:04.13
ていうか、畿内説は詐欺だらけだからな。
あと、九州説支持者は九州出身だなんて、嘘は八百。
根拠示せないだろ>満臭
478満州「きんぽうげ」:2013/06/14(金) 12:25:05.34
ポクが九州人と書いているのは九州説論者のことだよ。
いちいち九州説論者と書くのは面倒だから九州人と書いているだけで。

チミらは空想ばかりして、具体的に物を考えないからダメだよ。
西暦200年代の九州で、倭の女王と名乗って中国に朝貢できるような女性は、
それが土蜘蛛や熊襲の女酋でないなら、一人しかいないよ。
それは誰かといえば−

分かる人にはすぐに分かるだろうが、書くのはやめよう。
もしかしたら新説に属するかもしれないから。
479日本@名無史さん:2013/06/14(金) 12:35:34.48
「九州説論者と書くのが面倒だから九州人と書く」なんて
身勝手な国語が許されると思てってるのか?

あ、お前の国では、何やってもいいのか。
480満州「きんぽうげ」:2013/06/14(金) 12:46:12.44
2chでは何でも許されるんだべさ。
九州説を説いてもええんだべさ(ケラケラ)
481日本@名無史さん:2013/06/14(金) 17:56:49.84
そうか、満州も九州説を説く気になったか。
それも抗しがたい時代の流れ、まこと良いことだ。
482満州きんぽうげ:2013/06/14(金) 18:37:49.07
九州説の可能性は極めて薄い。
九州説を取るなら、「卑弥呼=土蜘蛛か熊襲の女酋」説を採用するしかないが、
西暦200年代の九州に、それほど有力な女酋がいたとは思えないからである。

しかしその頃の九州に、一人だけ、有力な女性がいる。
その女性なら、倭の女王と名乗って中国に朝貢してもおかしくない。
れっきとした大和朝廷の類縁者だからである。

さてその女性は誰でせうか。
483日本@名無史さん:2013/06/14(金) 18:39:01.56
>九州説の可能性は極めて薄い。

そんなこと書かずに、俺はバカだから九州説がわからない、と正直に書けよ。
484満州きんぽうげ:2013/06/14(金) 18:51:28.22
チミは頭が薄い
485日本@名無史さん:2013/06/14(金) 19:04:49.83
>しかしその頃の九州に、一人だけ、有力な女性がいる。

なるほど、それは九州説にとってはとても心強い。
しかも、あの高名な満州様に応援してもらえるとは誠にありがたいことだ。
486日本@名無史さん:2013/06/14(金) 19:23:44.98
ふと思ったんだが
官有 伊支馬→垂仁(太子) 
次曰 彌馬升→彦坐王 ミマス→イマス 似てるかな?
次曰 奴佳 →彦太忍信命 ナケテ→マコト 苦しいかw
487日本@名無史さん:2013/06/14(金) 19:26:33.55
>>485
有力な女性とは田嶋陽子先生ですね。素敵です。
488日本@名無史さん:2013/06/14(金) 19:39:45.64
おてもやん だ
489日本@名無史さん:2013/06/14(金) 19:45:01.38
天照大神でも百襲姫でもない
おてもやんこそが卑弥呼の面影を色濃く残した九州女性である
そしてこの歌には日本史上最大の秘密が隠されていた・・・

「おてもやんの秘密」近日発売!!
490日本@名無史さん:2013/06/14(金) 19:53:15.39
ちと贅沢かも知らぬが、森高千里 にしてはくれまいか。
491婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/14(金) 21:56:12.58
>>489
「嫁入りしたこたしたばってん♪」だと予想w
492日本@名無史さん:2013/06/15(土) 20:20:10.55
卑弥呼は北九州の女王である
当時の日本列島はひとつの国にまとまっているわけじゃないし
日本列島で最大の国がシナに朝貢する権利を得ていたというわけでもない
それにシナに朝貢するのにそれほど大国である必要もない

すっとあとの話だが護良親王が日本国王になったこともある
北九州だけで十分だ
3世紀の時点では北九州だけで朝鮮半島にあるどんな国より大国だからね
493日本海ルート論者:2013/06/15(土) 20:27:04.44
久々に書き込み。>>440の続き。
渡来人って言葉のニュアンスって
日本人独特なんだと思う。
島国独特の大雑把な捉え方というか。
縄文人だって渡来人と言えてしまうし、
弥生人だってそう。なら、倭人って何?とか。
実際には、華南系とか華北系とか、
シベリア経由とか半島系とか。
そもそも半島系も時代、時代で違う。
倭人伝の韓人も地域による区別で人種は
別なのが分かる。これ含めて改めて。
対馬国風土記が無いのが残念…
494日本@名無史さん:2013/06/15(土) 20:33:50.92
昔からの対馬人なんて元寇で壊滅しとるがな
495満州きんぽうげ:2013/06/15(土) 22:17:39.45
>>492
だからそれではただの空想だよ。もっと具体的に考証しないと。

当時の九州に女王と呼べるような女はいないよ。少なくとも文献上では。
田油津媛はすでに成敗されているし。

尤も神功新羅征討がもっと後の時代なら話は別だが、それならそれで、
神功新羅征討の実年代を考証しなければ話にならない。

僕は神功新羅征討は200年か260年のどちらかだろうという証拠を見つけた。
ネット史を丹念に読んで見つけたのだが、チミらはネット史を読まないから絶対に分らないだろう。
496婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/15(土) 22:25:10.61
>>493
つい最近別スレで書いたことだけど、コピペしとく。
傍証の積み上げでもある程度の系統的な整理はできるようだから、
あまり悲観することもない気がするのだ。

----
縄文−弥生の頃に列島にやってきた集団は、5つに大別されるという仮説がある。
 岡正雄,1958:日本文化の基礎構造. 日本民俗学大系2 日本民俗学の歴史と課題,平凡社.
古い仮説だけど、たぶん今でも有効な反論は出ていないんじゃないかな。

 (1)母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化
 (2)母系的・陸稲栽培=狩猟民文化
 (3)父系的・「ハラ」氏族的・畑作=狩猟民文化
 (4)男性的・年齢階梯制的・水稲栽培=漁労民文化
 (5)父権的・「ウジ」氏族的・支配者的文化
 (入ってきたのもだいたいこの順番)

これによると、たぶん(4)から海人族、(5)から天孫族が出たことになる。
ちなみにかいつまんで説明すると、(1)の「秘密結社」というのは、ナマハゲ祭祀など、
(2)は焼畑の民、(3)の「ハラ」氏族は、「ヤカラ」「ハラカラ」などの語源となったツングースの
外婚的父系同族集団を持ち込んだ人々、(4)と(5)はもともと長江河口部の同系同族の種族だったが、
日本列島に至る過程で(5)の方は、ユーラシアステップ地域の騎馬遊牧民の文化の影響を受けたもの、
らしい。
497太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/15(土) 22:31:18.84
498日本@名無史さん:2013/06/15(土) 22:43:08.88
満鉄の 駅舎飾りし きんぽうげ

神功の うしろ姿か 金鳳花 
499日本@名無史さん:2013/06/15(土) 23:08:41.49
>(5)の方は、ユーラシアステップ地域の騎馬遊牧民の文化の影響を受けたもの、
らしい。

そのむかし、さる高貴なお方の庭園を観賞していてふと思ったことがある。
この庭園の造りは、縄文農耕人種の美的価値観とはいささか異質だ。
もしかしてステップ〜乾燥地帯の生命の揺りかごであるオアシスを模したものであり、
その彼らの遠い祖先の愛でた懐かしい風景の再現なのではないかと・・。

ま、満州キンポウゲにとっては、まさにお気に入りの風景であろうが。
500満州きんぽうげ:2013/06/15(土) 23:09:23.54
太国がまた出てきたが、太国の宿敵が最近出てこないな。

川柳の達人は、川柳の才は無いが、詩人的素質があるようだ。
なかなか詩情があってよろしい。

ちなみに僕は、浅田彰に似ていると書いたが、むしろ中原中也に似ている。
中原中也とか石川啄木のようなタイプの人間である。
文学青年、芸術青年、哲学青年である。
ここの中に映画好きもいるようだが、僕も一時は殆んど毎日映画を見ていた。
「きんぽうげ」というのは英国映画である。
主演の美人女優ジェーン・アッシャーは後にP・マッカートニーと結婚した。
501日本@名無史さん:2013/06/15(土) 23:14:33.15
過ぎ去りし日々の思い出が走馬灯のように巡り
ついに翁は目覚めぬ朝を迎えるのであった
502日本海ルート論者:2013/06/15(土) 23:31:50.73
>>494
13世紀までのトリップ感は凄いけど、
対馬神話が記紀にないのは出雲のそれで
足りるからかも。でも、そう納得もねえ。

昔、博多からだったかな?
釜山行の水中翼船に乗ったことがあって。
割とすぐに着けるし、割と島影が追える。
さすがは倭の出入口だと思いました。
半島経由で列島に侵略するならまずは対馬
を手中にすることがどの時代も必須かと。
漂流じゃなく、往来を前提とするならね。
なら何回対馬勢力が壊滅し入れ替わった?
風土記があれば、確証になった訳ですが

逆説的に言えば、
半島経由の大陸からの侵入はないかと。
縄文弥生と九州北部と同じ文化の痕跡があ
るし、むしろ半島南部はまだ固まっていな
い。要は、倭人北上で半島ルート完成。
だからこそ確証不足が惜しい。
503日本の名無史さん:2013/06/15(土) 23:33:41.31
満州の 正体見たり 四十代
504日本海ルート論者:2013/06/15(土) 23:35:57.04
大陸からの侵入」じゃなく「大陸からの侵
略」ね。
武力を背景とした大量移住はあり得ないっ
てことです。
505日本@名無史さん:2013/06/16(日) 12:51:57.44
>>496 婆さん
なるほど〜。
(4)は華南系で水稲伝播の担い手。多分直
接伝播の文脈ですね。これは同意。
越人でしょうね。論衡の華夏の倭人観とも
合うし、近来の遺伝子判定にも合致。
(5)も華南系だけど半島経由の文脈かな。
これを弥生までの時代と仮説した理由は
何なんでしょうね? 稲とかは物的伝播だ
から、推定し易いと思うんだけど、(5)の
は抽象的概念的ですし。
ご存知であれば、教えて下さい。
506日本海ルート論者:2013/06/16(日) 13:06:06.64
つづき。
対馬って沢山面白いのがあって、例えば、
大宝の年号をつけたキッカケの金の産出も
捏造だったと続日本紀に記載がある。
これ面白いですよね。
大化からの独自年号の一旦停止は対唐政策
だと思うけど、その再開が捏造が元って。
ミステリーというか、何というか(笑)
507日本@名無史さん:2013/06/16(日) 20:07:23.66
満州の 正体見たり 五十肩
508婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/16(日) 20:54:01.62
>>505
仰るとおり、(4)はBC4〜5世紀頃に、呉越の滅亡に伴う民族移動の余波でやってきた人たち。
弥生文化における南方系の担い手だよね。トヨタマビメの話にあるように、産屋とか
月経小屋とか若者宿とか喪屋とか、やたらめったら単機能の小屋を建てたがる
人たち。宗教はアマテラスが至高神。

(5)は、>>496の岡説によると、(4)と同じ頃に華南を出た人らが西から来たアルタイ系
騎馬遊牧民に征服されることによって満州南部で成立したが、西暦の始まる
少し前に南下を開始し、朝鮮半島南部にしばらく留まった後、AD3〜4世紀ころに
渡来したとされる。社会構造は、大家族−「ウジ」族−種族というようなタテの三段構造、
軍隊体制・王朝制・氏族長会議・奴隷制・氏族職階制・各種の職能集団(特に鍛冶職集団)を
有していたらしい。宗教はタカミムスビが至高神。
以上の出典は、吉田敦彦「日本神話の源流」。

なお、谷川健一「青銅の神の足跡」によると、(5)は鉄と馬と古墳を伴うもので、AD4世紀頃に
来たとされている。

長々とすんません。
509日本@名無史さん:2013/06/16(日) 21:26:31.16
(5)の、タテ三段の社会構造を伴って渡来したという考え方は重要と思う。
当時における奴隷は、今でいえば自動車や機械や諸道具の代わり。
この制度があることで一つの国の形を成しえたわけだ。

ご承知の通り、神話でイザナギ・イザナミが、国・島だけでなく、
実に多くの神々を生んでいる点に、最小限の統治機構ごと渡来したことを読みとれる。
510日本@名無史さん:2013/06/16(日) 22:43:47.50
>>508前半
高床式と小舟の文化もその人たちなんじゃない?
511婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/16(日) 23:13:10.94
>>509
なるほど、説得力があるな。
もともとイザナギ・イザナミは(4)の南方系の神で、矛でオノゴロ島を作るところまでは
南方系(島釣り型の創世神話)なんだが、そのあとボコボコと国産みするのは
北方系なんだよね。

>>510
岡説によると、板張り舟が(4)の特徴らしい。
ただし、高床式については長江下流域で成立していた文化だから、(4)(5)に共通するっぽい。
鳥越憲三郎「古代中国と倭族」では「玄関で靴を脱ぐ人々」と定義されている。

ついでに書いとくと、大林多良「東と西海と山(日本の文化領域)」では、(4)の文化として、
豊穣儀礼としての綱引き、穂落とし神話とそれに対応する烏勧請の儀礼などを挙げている。
あと、>>508で引いた谷川健一「青銅の神の足跡」では、(4)の特徴として、名前に「ミ」「ミミ」が
つくことを挙げている。大きな耳飾がキーアイテムだったんだと。
512日本@名無史さん:2013/06/16(日) 23:20:11.44
>>511
耳飾り=勾玉ってこと?
銅鐸を類推させるようなものの記録はないの?
513婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/16(日) 23:49:58.61
>>511
訂正するまでもない気がするが、
 誤 大林多良
 正 大林太良
でした。大林先生ごめんなさい。

>>512
谷川説によると、大きな耳輪らしい。
魏志倭人伝に出てくる「タン耳朱崖」(海南島)のタン耳というのは「耳を担ぐ」という
意味で、寝るときや労働するときに耳輪が邪魔なので頭に乗せる様子のことだそうな。
肝心の素材だが、15世紀の与那国島の風俗からの類推で、青玉、または珠に紐を通した
ものだと考えられるとしている。頭の上で3〜4回めぐらせて1尺ばかり垂れてるというから、
相当邪魔っぽいw

銅鐸については鳥居龍蔵の説があるな。彼は南方系文化の担い手として苗族を想定して、
その特徴として、銅鐸、米、麻、草履、下駄、横穴墳、高床家屋、文身などを挙げている。
ただし、大林は銅鐸と横穴墳は疑わしいと言っている。
なお、この部分の出典も大林太良「東と西 海と山(日本の文化領域)」
514日本海ルート論者:2013/06/17(月) 00:34:27.55
これは楽しい。どれもこれもイイ!
>>508 婆さん
(5)が3、4世紀とは、我が意を得たり〜。
ただこの渡来人、主体的ではないかと。
彼らの社会構造の知識を国家構築中の倭人
達が「吸収した」ぐらいでどうでしょう?
あと、同時期に魏呉の知識も入っていると
思うけどこれに合わせる社会構造の準備が
整っていないので、漸次的に(5)に近い形
で受け入れたと思う。ナチュラルに、ね。
で、(5)は扶余系の百済繋がりですかね。
3世紀は魏韓不和の中、上手く倭が立ち回
った時期だと思うんで、伽耶あたりに緩衝
地帯設けるのに成功したかと考えてます。
それもあって見下し気味の「吸収」かも。
ps.奴隷は殺されないだけマシ的な感じで
この時期増えたかと旧主流の政治犯がとか
いや面白すぎる、書き切れない。
でも寝なきゃ(涙) 、でわまた
515夏バテ満州:2013/06/17(月) 09:09:53.88
毎日編年問題と取り組んでいるが、編年問題は超難問である。
あちら立てればこちら立たず。しかしいくつか見えてきたことがある。

1 味鄒帝は、大矢田宿祢によって王位を得たのである。
2 沾解帝は、おそらく、殺されたのである。誰に? 倭人に。大和朝廷によって。
3 基臨帝の父、乞淑の血統が不明である。
4 雲帽と玉帽の事跡と年代が奇奇怪怪である。

まあ、こんなことを書いても稗箕狐以外には理解できないわけだが。
516日本@名無史さん:2013/06/17(月) 11:55:19.52
逝け
517夏バテ満州:2013/06/17(月) 12:34:42.85
ネット史を読み直していたら、堤上の父とされる勿品が出てきた。
父は阿道となっているが、これは金氏の阿道だろう。
363年(300年?)に伊伐飡になっていて、その妻は、驚いたことに于老の孫娘である。

年代から考えると、これは美海を救出した金堤上の父だろう。
婆娑尼師今五世孫の朴堤上とは別人だと思われる。

>>516
お前のような男は死ね。学問の邪魔をするな。
518日本@名無史さん:2013/06/17(月) 13:54:25.19
満州の 正体見たり 更年期
519日本@名無史さん:2013/06/17(月) 14:22:59.73
マン臭は愚鈍で愚昧な得体の知れない生物だ。
520太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/17(月) 15:59:55.34
>>515
満蒙巣コングよ

オマエじゃぁ真の編年は無理 !

オマエには荷が重すぎ。w 〜神武が7人いたとかの、七色仮面が嘲笑
するようなデタラメを押し進めてたり、ムー大陸がどうのこうの言うような
脳内では、編年はデタラメに行き着くだけ。
521日本@名無史さん:2013/06/17(月) 16:34:50.60
てすてすてすてす
522夏バテ満州:2013/06/17(月) 17:26:28.90
太国や唐松山では編年の研究は無理だ。
なにしろ倍暦とか、インチキ考古学を基にした編年だからな(ケラケラ)

しかし編年に興味のない他の連中よりはましである。
なにしろ他の連中ときたら学者が本に書いていることをそのまま信じているだけだからな。

神功紀の百済王記事が誤挿入であることくらい、
ネット史の助けを借りなくても簡単に証明できるのである。
日本の学者のアホーさには心底驚かされる。
523日本@名無史さん:2013/06/17(月) 17:39:17.58
>>515
>3 基臨帝の父、乞淑の血統

とおちゃんが 11助賁

かあちゃんは 嘉凰 といいなさるえろそおなお名前のおかた
524太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/17(月) 18:35:14.07
満蒙巣コングよ

オマエのは神武が7人もいたなどと、七色仮面がプッと噴出すほど
脳内が呆れてたインチキ説をここらのスレに垂れ流ししている。

これでは例の稀代のデンパ同然の松沢病院行きを推奨されるコング脳だ。pp

こんなんでは到底真の年代を追究できない訳で、編年落第男を言われてしようが
あるまい。w

http://www.youtube.com/watch?v=AXCe26oL1BM
525夏バテ満州:2013/06/17(月) 18:52:58.11
なるほど、儒禮尼今紀の冒頭の血統表に書いてあったか。気付かなかった。
ところで味鄒尼師今紀の血統表に月知后(天神)とある、この天神とは何者か。
新羅では天神召文説というのがあったらしく、
どうやら天神は召文から来た人物という意味のようだが、
もしかしてこの天神は倭人ではないのか。

太国さま、神武は七人いたというのは僕が唱えていることではなく、
どこかの神社の記録に書かれているそうだから、文句はそちらに言って下さいませ。
526日本@名無史さん:2013/06/17(月) 19:07:14.30
>どこかの神社の記録に書かれている

それをそのまま信じて論じる満臭が、思い切り馬鹿なだけだが。
527夏バテ満州:2013/06/17(月) 19:18:54.92
月知后(瓠公) - 閼智王(阿婁) (味鄒尼今紀)

瓠公とは陜父である。陜父は芻牟鏡によればBC50生まれである。
ところが金閼智の没年は新羅史ではAD155である。
そうすると陜父の死をAD120とすると陜父は170年も生きたことになる。やや矛盾。

また脱解の死は新羅史ではAD130となっている。
脱解とは鵲太子で、鵲太子はBC19生まれである。
そうすると鵲太子は149年も生きたことになる。やはりやや矛盾。

では新羅史の編年は間違いかというと、そうとも言い切れないのである。
なぜかというと…(以下は都合により略)
528夏バテ満州:2013/06/17(月) 19:33:06.28
三国史記に赫居世38年に瓠公を馬韓に遣わしたとある。
赫居世38年といえばBC32である。
ところがネット史では陜父が新羅に入ったのはAD3年である。
そこから計算すると、赫居世即位は少なくともBC35以後である。

では赫居世即位BC69は間違いかというと、そうとも言い切れないのである。
なぜかというと…(以下は都合により略)
529日本@名無史さん:2013/06/17(月) 21:17:04.47
大便を こき垂れし夜や パンダ死ぬ
530太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/17(月) 21:24:39.00
満蒙巣コングよ

オマエがどこそこ?の神社だとか云ってたんだろうが、しかしまるでそれを
オマエはえらく支持するような書きこみをしていたと思ったぞ?

そうでないのか?

だがムーだとかアトランティスなどと、根拠も薄弱なくせにこんなことを
まるで鵜呑みに信じてる前提での書きこみ主張ではないか?w

これでは全然ダメだ。ただコチラは必ずしもアトランティスを否定して
るわけではないが、学術的に古代史論をするには根拠もありもせずこんな
存在を決めこんでの論では全然ダメだ。ちゃんと根拠史料を掲げてから
主張するのがここらへんの板で求められるべき手法だぞ。

ムー大陸っていうのは、確かチャーチワードがマヤのランダのアルファベットの
マヤ神聖文字のMとUの文字からヒントを得て創作した代物だと思ったが?

とにかく他のカルトとかSFだとか〜そういう板ではそんなのは構わんが・・・。

そういうのを前面から勝手に肯定して編年をやるのは価値がまるでない。

オマエは編年編年だとか云うより、オマエの脳内の「偏念」を糾すほうが先決
だろうが。ww
531日本@名無史さん:2013/06/17(月) 21:49:36.05
パンダ死んで 猿のせんずり とめどなく
532日本@名無史さん:2013/06/17(月) 21:56:14.01
芻牟鏡によれば

陜父の嫁のが樂浪王柴吉の女で柴花夫人といふ

芻牟が死亡した2ヶ月前に生まれたのが鵲太子で

父が芻牟で母が樂浪王柴吉の女で鵲氏と呼ばれているおひと

くだんの炎の中に飛び込まむとして保護されたおひとだ

それぞれBC34とBC23で嫁になっているから

ひとまわりほど年の離れた姉妹の設定になっているよ

陜父と芻牟は姉妹を嫁にしておって

死に際の置き土産の鵲太子のことを

柴花の乳吸わせたりして

陜父が鵲太子をたいせつに育むというかんじね
533夏バテ満州:2013/06/17(月) 22:33:05.47
ポクはムー大陸なんてのは信じていないのである。
なぜならそれは近代の学者が勝手に想像した大陸だからである。
これに対しアトランティスは、証拠も何も、実在したのだから仕方がない。

陜父の妻は樂浪王柴吉女。鵲太子の母も樂浪王柴吉女。
その縁で、鵲太子は陜父の後を追って新羅に入ったわけである。
そして陜父が、伝説では、どういうわけか、倭人瓠公となっている。
ここから、ポクは画期的な新説を着想したのである。
ここまで書けば、ポクの着想した新説がどういうものか、見当が付くはずである。
534婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/17(月) 22:58:54.71
盛り上がってるとこにすんません。

>>514
これはおっしゃるとおりで、岡も谷川も大林も、>>496の(5)で入ってきた
人数はかなり少ないと見ている。その根拠として、岡は至高神がタカミムスビから
アマテラスに変わったことを挙げている。つまり少数派の天孫族が多数派のミミ族
(海人族)に同化されたことを示していると。

谷川は加えて、天孫族の男がミミ族の娘と結婚したら、多くの場合その息子の名前にも
「ミミ」がつくことに注目し、ミミ族は母系かあるいは双系ではないかと言っている。
つまり、母系だと子は母方の家で育つから母方の神が強くなるということらしい。
そういうわけで、(5)が持ち込んだ古墳や階層制などの社会システムは取り込みつつ、
しかし神は交代したと。
535夏バテ満州:2013/06/17(月) 23:02:13.61
この陜父は、金髪で肌が雪のように白いと書かれているから、
のちに黄頭女真と呼ばれる民族である。

早い話が、ロシア南部の白人だろう。
この陜父が新羅の金氏の祖で、つまりは新羅の王の金氏は黄頭女真の末裔なのである。
536日本@名無史さん:2013/06/17(月) 23:30:17.59
いわゆる新羅の歴史のタイトルで取り扱いうけがちなのだが

半島の南サイドの諸酋長列伝ので

瓠系(朴系)のしまいの大酋長が姿を消すのが正始4年(243)

鵲系(昔系)のがその後のして独占

本当のところは4世紀に突入しないと新羅の王たらはいないんだよね

王さまの金さんが出てくるのが 13味鄒 のがお初で

その後も3名ほどの記録が残り 17奈勿 以降のがオール金さん

この金さんの出処は滅ぼしてあげたときに普通ではないみょうに親切な対応ので

おなじ金さんの枝分かれかなんかが滑り込んじゃっていたのかもと疑えない方が不思議

瓠系の酋長も 鵲系の酋長も そのもとのが倭人といふ土人だと書いてはあるのだが
537日本海ルート論者:2013/06/17(月) 23:32:10.90
いや面白いなあ。民俗学イイなあ。
>>511 婆さん
「玄関で靴を脱ぐ人々」だけど、
昔、中国の大衆食堂で食べてたら、隣の客
が食べ終わり外に出た。すると、店員が残
った茶を床に捨てた。ビシャっと。次の客
の後も、その次の客の後もね。高い店は違
うらしいけど、気候とかマナーとか色々違
うんだな〜、つか日本だと床だし。ビバ床
!とか思ったことがあります。読んでいて
ナイス(4)(5)とか思いましたよ(笑)
だからこれ、床が来た後、特権階級は床住
まいと階層分けがあったんでしょうねえ。

苗族は聞いたことあっただけで今更Wiki
読んでたり。担ぐ耳も表意を含むかもか。
538日本海ルート論者:2013/06/18(火) 00:21:07.20
>>534 婆さん
(4)はこのルートを選んでいる時点で往来
無視の決死の覚悟。逆にまあ案外多かった
かもなあと思えるんです。
でも、(5)は少ないと思う。なぜかって生
き延びる道を選んで迂回してるから。
騎馬系なら尚更弱くて押し出されている人
達。強ければ4世紀の華北に殴り込む。
スローライフを選べば半島に住む所は幾ら
でもあった筈です。それでも尚、渡海して
来てる。余程追われたか、むしろ誘われ請
われたか。まあ両方でしょうね。

で。(4)も(5)もWikiのエリドゥのアルリム
王とオアンネスの関係と思う。主体は倭人
で、そこに少数の渡来人が伝播者としてい
たかと。ひとまず天孫族は記紀の構成から
見て、元は九州神話の一部で、応神の正統
性強化で作られた後付け概念だと思うので
(5)は別にいるかと。
でまあ、対馬には(4)がいたと思う。ここ
の宮の祭神はワタツミばかり。対馬だけで
なく日本海まで広がってたと思います。
カシとかコシとか。
と色々と…どうですかね?
(ミミは母系か。ちと考えてみます)
539日本@名無史さん:2013/06/18(火) 00:36:49.13
高床式に住む人たちは、(ハシゴ)上がる前に靴を脱ぐか、素足で地面歩くかだよ。
540日本@名無史さん:2013/06/18(火) 00:49:43.88
履物を家の中で脱ぐ脱がないは床材と関係が深いような気がする
畳やむしろなら脱ぐし石なら脱がない
541日本@名無史さん:2013/06/18(火) 00:54:50.45
竪穴式住居は土間だから脱がないというか
積雪時でなければ最初から履物はない
542日本@名無史さん:2013/06/18(火) 01:17:24.69
>>541
竪穴でも藁とかムシロは敷いてたでしょ
履物は脱ぐよ
543日本@名無史さん:2013/06/18(火) 01:19:53.78
>>542
弥生時代は履物はないだろ
田植えのときの田下駄や積雪時のブーツのようなのを除いて
544日本@名無史さん:2013/06/18(火) 01:22:00.47
一般庶民以外は木沓もあるか
545夏バテ満州:2013/06/18(火) 09:18:07.96
>弥生時代は履物はないだろ

よくもこんなアホなことが書けるな、と。
こんなアホが大家気取りで、オレがスレ主、みたいな顔しているのだからな。
やれやれ…(泣)
546日本@名無史さん:2013/06/18(火) 09:21:42.92
まあ早い話、ここの連中は考古学と民俗学を面白がっているような連中ばかりで、
文献考証とは縁のない連中なのである。

2chでまともな文献考証を見たことがない。
547夏バテ満州:2013/06/18(火) 09:36:28.77
この前読んだS氏はこう書いていた。
三国遺事を何回も読み直し、五、六度目に読んだとき初めて、
法敏王時代に国史の大改創を行ったという文言に気付いた、と。

僕が驚くのは、二流資料とされる三国遺事を何度も読み直した男がいたということだ。
日韓の歴史を調べるにはそれくらいしないとダメなのである。
ここの連中で三国遺事を読んだ者はいるのか?
三国史記だって一回通読しただけではないのか?

朝鮮は嫌いだから朝鮮文献は読まない、などと言っている連中に何が分かるのか。
ふざけるのもいいかげんにしろ。
548太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/18(火) 13:57:54.85
>これに対しアトランティスは、証拠も何も、実在したのだから仕方がない。

満蒙巣コングよ

はよう実在とかいう証拠を具体的に列挙してみい。

それを出さないんでは、オマエとか宿主のような野郎は別として、誰も
常人は信用なんかしないんだぜ。
549夏バテ満州:2013/06/18(火) 17:07:10.91
世の中には、事実だが証明できないこともあるのである。
たとえば輪廻転生とかアトランティスとかイエスの復活とか。

これらは事実だが証明してみろと言われてもできないのである。
しかし霊眼の開けた者には見えるのである。
霊視者には他人の前世とか古代のアトランティスとか
イエスが実際に復活した様子が見えるのである。同様に未来予知もできる。
行基が或る女の前世を見たという話が古典に載っているが、おそらく本当のことなのである。
聖徳太子が未来を予知したというのも本当だろう。

アトランティスに関してはプラトンも書き残しているし、全世界に様々な伝説として残っている。
近代の学者が勝手に想像したようなものではないのである。
550日本@名無史さん:2013/06/18(火) 17:10:39.11
ついに本性を出したな
551夏バテ満州:2013/06/18(火) 17:16:08.94
今日はまた奇妙な記事に気付いた。

勿品の父阿道が311年に伊伐飡になっていて、その妻は宝太である。
ところがこれとは別に191年に伊伐飡になっている阿道がいる。
その妻は加市だから、これが金氏の阿道である。
311年と191年ではちょうど120年の差があるわけで、なんだか怪しい。

ところでこれとは別にもうひとり大刀という人物が阿道曷文王になっている。
つまり阿道と呼ばれる人物は三人いたのである。
552日本@名無史さん:2013/06/18(火) 17:33:17.40
閼智(父) + 阿婁(母) → 勢漢(子)
勢漢(父) + 毛優(母) → 阿道(子)

阿系の酋長さんだな

阿爾♀
阿盧♂
阿婁♀ → 阿道♂(子)
阿利♀
阿孝♀
阿惠♀
阿世♀
阿休♀
阿羊♀
阿達羅♂
阿禮♀
阿爾兮♀
阿召禮♀
阿皇♀
553太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/18(火) 18:04:01.44
>>549
満蒙巣コングよ

心霊関係なら他の板でやれ。
そんなのは証明には、現今では無理。
それはコチラも心霊の実在は否定はしないが、証明に使うのは現今では
まだま〜だほど遠く、時期尚早だ。w

だいたい心霊学ならオマエよりコチラのほうが先輩だな。

オマエは幽霊党の首領か〜?ppppp


http://www.senkosha.net/news/gekkou/gekko201209.html


心霊学での権威といえば通常は「心霊研究」誌と「心霊と人生」誌が
有名だが、オマエはこういう専門誌を読んだことがあるのか?

「心霊研究」誌のいまから50年くらい前のバック・ナンバーでは、
クレオパトラのエクトプラズム化か〜? 彼女の心霊写真が載ってたのを
見たことがある。えらく神秘な雰囲気のよい美しい女性の風貌だった。
オマエはおそらく見てないだろう?ww

だが、まだまだ証拠とやらをこういう関係から固めるのは依然百年早い。

これでは証拠になると臥海(学会)が認めっこないし、こんなのを証拠と
して出せば、その学者が福来博士のように失脚が待ってるぞ。

ちゃんと地についた証拠がなければアトランティスがあったことには
ならない。
すこしオマエの脳内が大甘だと、宿主級に近づいていることを戒めろ。><
554太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/18(火) 18:21:50.72
555夏バテ満州:2013/06/18(火) 18:44:08.25
閼智王(阿婁)

この阿婁の血統が分った。奈勿大聖神帝紀の末尾に書いてある。
しかしこの末尾の解説に阿道が出てこない。本当は
勢漢-阿道-首留 のはずだが、勢漢-首留となっている。

太国よ、だから信じたくなければ信じなくてよいのである。
こちらも、実在したものをわざわざ証明しようとは思わない。

ついでに言っておくと、朝鮮人を憎んでいるネトウヨは、
来世では朝鮮人に生まれるだろう。これは厳然たる事実である。
仏陀が教えた因果応報とはそういうことだ。
現世での愛や憎しみがカルマとなって来世が決定されるのである。
556日本@名無史さん:2013/06/18(火) 19:48:47.05
閼智王≠阿婁

 閼英┳赫居世     瓠公┳月知┳天神
 ┏━╋━┓         ┃   ┃
次雄 大盧 阿婁       閼智  雲帝
557日本の名無史さん:2013/06/18(火) 19:55:32.16
満州と太国だけ楽しそうだな
558日本@名無史さん:2013/06/18(火) 20:05:36.23
 閼英┳赫居世     瓠公┳月知┳天神
 ┏━╋━┓         ┃   ┃
次雄 大盧 阿婁━━┳━閼智  雲帝
             ┃
            勢漢
559夏バテ満州:2013/06/18(火) 21:05:43.97
>>558
どこかの韓国サイトに載ってたのか? 一応メモさせてもらう。

大盧帝(九乙) - 七公(韓那)
日光帝(月光)

この九乙、七公、韓那、月光についても分かったら頼む。
ところで天神の降誕地は鶏林(吉林)ではあるまいか。
560日本@名無史さん:2013/06/18(火) 21:08:49.23
 閼英┳赫居世     瓠公┳━月知━┳天神
 ┏━╋━┓         ┃      ┃
次雄 大盧 阿婁━━┳━閼智 次雄┳雲帝┳ ?
             ┃         ┃   ┣━┳━┳━━┳━┳━┳━┓
            勢漢       儒理 阿利 阿孝 奈老 阿惠 阿世 市老 阿休
                               ┃
                              阿好(阿婁)
                               ┃
                              勢漢
                               ┣━━┓
                              首留  阿道
                               ┃
                              郁甫  骨正
                               ┃   ┃
                              仇道┳緑帽
                                 ┃
                                末マ┳述禮┳仇道
                                   ┃   ┃
                                   ┃   味鄒
                                   ┃   ┃
                                  末仇┳休禮
                                     ┃
                                     奈勿
561夏バテ満州:2013/06/18(火) 21:30:17.43
首留と阿道は兄弟か。そうすると味鄒紀の表は誤か。

しかしこういう図は文献を下に作成したはずだから、
元になる文献があるはずだが。
562日本@名無史さん:2013/06/18(火) 21:33:52.69
邪馬台国と何の関係が?
563太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/18(火) 21:45:35.45
心霊学者 鷹の羽道寛 w
564夏バテ満州:2013/06/18(火) 21:54:50.70
韓史も調べないと邪馬台国問題は解けないのである。
たとえば卑弥呼が朝貢した238(239)年の新羅と百済の王は誰か分かるか?

新羅王は、ネットの高句麗史では助賁帝、新羅史では阿達羅帝だ。
百済王は、高句麗史では古爾王、百済史では肖古王だ。

編年だけでもこれほどの相違がある。
で、それを解くためには韓史を徹底的に研究する必要があるのである。
邪馬台国問題を解くためにはあらゆる分野の研究が必要なのである。
だから2chでもさまざまな分野の話題が議論されているではないか。
韓史もその一分野である。これまでこの分野の議論が置き去りにされていた、
それだけのことである。
565日本@名無史さん:2013/06/18(火) 21:56:41.78
>>562
なかみは倭人だから関係とかでかいよ

>>561
きむちねえさんが読んでまとめてくれたたエクセルファイルのが便利
566太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/18(火) 22:01:49.27
満蒙巣コングよ

証拠もない編年なんかクソ同然。

オマエには荷が重過ぎる。

心霊、超能力じゃぁ現今では証拠にほど遠い。w
勿論コチラはこれらを否定してるんではない。しかし証拠に使うには百年早いぞ。

証拠が無しでアトランティスだとか霊視だとか言い張っても、
これまたクソ同然の論。ppp
567日本@名無史さん:2013/06/18(火) 22:03:02.54
>>561
首留と阿道が兄弟なら2系統のが無理なくよめちゃうし

そこのの首留が首露と共通で鶏林方面で郁甫を残したという筋書きも
568太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/18(火) 22:07:58.21
>こちらも、実在したものをわざわざ証明しようとは思わない。

証拠もないものを実在したといっても、そんなものは幽霊同然の実体のない話。bbb
569太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/18(火) 22:10:54.72
幽霊党党首 満蒙巣コングよ

オマエもそろそろ松沢病院行きか〜?ww

http://www.senkosha.net/news/gekkou/gekko201209.html
570日本@名無史さん:2013/06/18(火) 22:17:27.40
571日本@名無史さん:2013/06/18(火) 22:20:34.00
支那の史料に記述される邪馬台国がどこにあったかという話は
実際のところ日本の歴史においての重要性は無いでしょ
墳丘墓→方墳・円墳→前方後円墳→方墳という流れの中で
日本の最初の支配の中心がヤマト・つまり近畿にあったのは
揺ぎ無い史実なのだから
572日本@名無史さん:2013/06/18(火) 22:31:54.26
>>564
邪馬台国の何がわかるの?
573日本@名無史さん:2013/06/18(火) 22:33:30.28
こいつら何でこのスレでやるんだろうな
自己顕示欲か代償行為か
574日本の名無史さん:2013/06/18(火) 22:47:50.97
満州と 太国が踊る フラメンコ
575夏バテ満州:2013/06/18(火) 22:55:31.32
>>572
だから例えば邪馬台国を解くためには神功皇后について調べる必要があるだろう?
神功皇后は実在したのか、とか、新羅征伐は実際にあったのか、とか、
実際にあったのならそれは西暦何年か、等々。

それを調べようと思ったら韓史も研究する必要があるわけだよ。
君らは考古学と記紀と倭人伝さえ読んでいれば解けると思っているかもしれないが、
それだけでは解けないのだよ。

どうせ君らも韓史を研究する必要があると思うようになるだろう。
そのとき初めて、ああ満州と稗箕狐は進んでいたんだなあ、と思うようになるよ。
>>573のようにしつこく反感を示してくる男もいるのだが、こういう男はほっとくしかない。
この男もいつかは自分の視野の狭さに気付くのである。
576日本@名無史さん:2013/06/18(火) 23:02:14.19
首露王=末露王
首露王の母親は正見母主(第三子)
正見母主の第二子は阿鼓今惱窒朱日(別名 内珍朱智)
朱智と言えば、朱智神社の祭神は息長氏
息長氏と言えば、神功皇后
577夏バテ満州:2013/06/18(火) 23:03:25.18
>>570
唖然としている。何だこれは、という感じだ。
漠然と、高句麗と新羅は何か深い関係があるのでは、と思っていたが、
まさかと思うような図が書かれている。

天神の年代が不合理だが、とにかく呆気にとられている。
まあ、今後じっくり眺めることにする。
しかしこのお姉さんはどこからこういう資料を手に入れたのだろう。
韓国には僕らの知らない文献がまだまだあるのだろうか。
578日本@名無史さん:2013/06/18(火) 23:45:56.46
隋は高句麗を攻めましたが、攻め切れませんでした
百済は対唐対策のために高句麗と同盟を結びました
唐は朝鮮半島支配のために新羅を従え、高句麗・百済を滅ぼしました
朝鮮半島は、唐の支配下たる新羅によって統一されました
579日本@名無史さん:2013/06/18(火) 23:49:04.06
資料批判ができない奴は度しがたいな。
580日本@名無史さん:2013/06/19(水) 00:26:32.93
何処が鶏で何処が卵なのかが悩ましい
581日本@名無史さん:2013/06/19(水) 01:24:40.99
三韓時代の新羅と統一後の新羅は違うのではないか。
ハングルは統一新羅の母国語がベースになっている。
もちろん日本語とは似ても似つかない言語だ、語族が違う。
一方、三韓時代には日本の朝臣は新羅人とは通訳なしに話せたが、百済人とは通訳を要したという。
矛盾してないか。
統一前後で同じ新羅なのだろうか?
或いは、新羅は母国語以外に第二言語として日本語を話していたのだろうか?
582サガミハラハラ:2013/06/19(水) 07:26:36.78
日本の朝臣が話す相手とは、新羅の官吏の上のほうだったのでしょう。
一般庶民との付き合いはなかったのでしょう。
よって、新羅の官吏は、日本語が話せたということですね。
583日本@名無史さん:2013/06/19(水) 10:27:30.14
現代の日本人と在日朝鮮人の関係でしょ
文化のある所に寄生したがるが同化はせず、独自言語"も"話す
最終的には乗っ取りを目指す
584日本@名無史さん:2013/06/19(水) 12:05:27.14
>>583
おっと満臭さんへの悪口はそこまでだ
585日本@名無史さん:2013/06/19(水) 12:23:08.60
文明の中心地(かつては中原)を乗っとればその文明継承者になれる、ってのが中華思想だからね
今では東アジアの最先端は日本だから、中華思想的な目標は中原ではなく日本になってしまってるけど
586夏バテ満州:2013/06/19(水) 12:33:50.61
ネット史を調べていて、やはり神功皇后新羅出兵は200年かという気がしてきた。
好太王碑文の、倭が百済と新羅を服属させたという記述も、紛れもない事実だと思われる。
なぜかといえば…(以下略)

それを隠しているところを見ると、ネット史も、後世に手直しされたものだろう。
偽書ではない。偽書ではないが、手直しされているのである。

きむちお姉ーたまのファイルが気になっているが、調べる必要のあることがあるので、
ファイルを見るのは晩にしよう。しかし赫居世の父母まで書かれているのには笑ってしまった。
587太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/19(水) 16:40:02.80
200年ではな〜い。

日本に来襲した外敵は開化48年に20万3千人

 神徳寺(沖縄県那覇市):八幡愚童訓(甲本)上 による。

このことは 開化48年=230年 だったということを意味している。 これから 崇神元年=237年 が確定する。

開化48年=230年=黄龍2年 ならば、200年に神功の代が来るわけがなかろう。w

オマエは倍暦を否定してるから、死ぬまで編年はデタラメで終わる。w
588太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/19(水) 16:50:49.50
黄龍2年=230年

この時、呉兵沖縄来襲がある。

コチラの編年は1年の狂いもない。

オマエのは恣意的推量の全然デタラメ。
589夏バテ満州:2013/06/19(水) 17:36:10.83
太国よ、お前の論はすでに論破した。
何回も書くのはあほらしいからやめる。

お前の論はすべて誤解の上に成り立っているのである。
その神徳寺:八幡愚童訓とやらをもう一度読んでみればよい。

なんなら本に書け。誰も相手にしないぞ(ケラケラ)
590太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/19(水) 18:11:13.40
幽霊党首領こと満蒙巣コングよ

論破されたのはオマエだ。ww

オマエは乙祁でも論破され、後続の盲象ローガンも手玉にとった。

200年なんかは何の根拠もあるまい?w
紀がそうだとかいっても、それだと仁徳あたりが百歳も超える超長寿に
なって不合理が出る。だから200年というのは見かけの年代なのだ。

オマエは倍暦を否定してるから、死ぬまで合わせることは出来ない。

本は別の件ですでに出版済みだ。
大々的にやってもいいが、とりあえずはこの別件で秘密本としてただいま構想中だ。
591夏バテ満州:2013/06/19(水) 21:04:36.80
お前は資料を誤読しているだけだから、アホな本は出さないほうが良いぞ。
サガミハラと同じで、読者に笑われるだけだw

しかしキムチお姉ータマのファイルには驚かされた。
桓檀古記を読んだとき、加葉原扶余の位置にビックリし、
ネット史を読んだときは高句麗の位置にビックリ仰天したが、
それ以来の驚きだ。

たぶん婆娑尼師今紀以前のネット新羅史も韓国では公開されているのだろう。
でなければこんな図が作成できるわけがない。
592太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/19(水) 21:24:55.46
誤読なんかしていないね。
どこに黄龍2年が230年でないと書かれてるのか?
言ってみい。

むしろ呉読だ。分かったか〜? 幽霊党脳の霊視だとか言ってるんでは
臥海では通らない。ハハ・・・
593夏バテ満州:2013/06/19(水) 21:53:19.85
太国はアホーだなw
神徳寺と八幡愚童訓は何の関係も無いのである。
開化天皇48年に20万3千人の外敵が襲来したと書かれていても、
沖縄に襲来したと書かれているわけではない。
どこに襲来したかは不明なのである。

それをお前は勝手に黄龍2年230年に呉が派遣した軍隊が沖縄に襲来したのだと解釈し、
それを勝手に開化天皇48年のことだと解しているのである。
すべてはお前の勝手な思い込みなのである。

とにかくそんな本は出さないほうが良いぞ。笑われるだけだ(ゲラゲラ)
594日本@名無史さん:2013/06/19(水) 21:55:46.10
唐松山ってもう鬼籍に入ったの?
自演の常習者だったが
595日本@名無史さん:2013/06/19(水) 22:05:24.08
ホツマ教の唐松山は、満州がニラ臭くて悶死したんじゃないか?
596日本@名無史さん:2013/06/19(水) 22:12:58.44
梁職貢図には新羅について中国南北朝時代には「無文字刻木為範」とあるのだが
そうすると新羅本紀というのは・・・
597太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/19(水) 22:18:50.61
満蒙巣コングこと幽霊頭首領よw

http://www.senkosha.net/news/gekkou/gekko201209.html

関係はあるんだよ。沖縄神徳寺にその文書があるんだから、関係はある。

Wiki 孫権 に

・230年(黄龍2年) - 将軍の衛温・諸葛直らに兵1万を率いさせ、
夷州および亶州(台湾、沖縄、もしくは日本という説が存在)の探索を
行わせる亶州には辿り着けず、夷州の数千人を得るだけで、派遣した兵
の大部分を失う。翌年、探索失敗により衛温・諸葛直らを処刑する。

これは呉兵沖縄来襲だな。

これは開化48年で、同年が 230年=黄龍2年 だということになるのだ。
これが八幡愚童訓の中身だ。

http://www.kagemarukun.fromc.jp/page121b.html

到底200年が神功年代になるわけがない。つまりオマエの論はデタラメ。
それに抽象的に霊視だとか証拠にしてる幽霊論では、臥海には通用しない。

唐松山は曲学の徒さんの邪馬台国掲示板で、星屑氏にコテンパに折伏されて
もうすでに3週間以上尻尾を巻いて逃走中だ。
その間えらくおびえており、勝ち目がないと覚ったようで、穴熊の穴に隠れ
ている日々だ。w
598日本@名無史さん:2013/06/19(水) 22:28:49.10
599太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/19(水) 22:29:52.42
満蒙巣コングこと幽霊頭首領よ

沖縄に襲来したと書かれているわけでないなら、オマエのいうマンモス
の出土するロシアだとか高句麗だとかいうのか?

沖縄の寺にあるんだから、もうそれは沖縄だね。
台湾ではあるまいが・・・。w あとは他に考えられないだろう?
まさか北米とかハワイに呉兵来襲だとはオマエでも云うまい?
ローガンなら言い出すかな?pp

いまも中国が沖縄を欲しくてしようがない言動が多々出てるらしいこのごろ
のよう?に、めざとく目につくのは沖縄と観るのが当然だからな。
600日本@名無史さん:2013/06/19(水) 22:55:21.49
倭国はこの時代、瀬戸内海を挟んで南北に分裂してた
その証拠は高地性集落

卑弥呼については、南側勢力と魏との交易の記録
21カ国については、北側勢力と呉もしくは公孫氏との記録

陳寿は両方の記録を入手出来る立場にあった

北側勢力から見て、南には狗奴国があった
南側勢力が、帯方郡に使いを寄越してきた勢力だろうとことが倭人の書に書かれてる

南側勢力については、狗、卑等の蔑字が当てられ判別出来るようになってる
601日本@名無史さん:2013/06/19(水) 22:57:25.66
本で書こうとしてたことを、酔った勢いで書いてしまった
スマン、忘れてくれ
602夏バテ満州:2013/06/19(水) 23:03:00.70
太国はほんとにパカだなw
神徳寺と八幡愚童訓は何の関係も無いんだってば。
八幡愚童訓が神徳寺で書かれたわけでもないし、
沖縄で書かれた文書であるわけでもないのである。

上のサイトを読めば分かる通り、八幡愚童訓にはかくかくしかじかと書かれている、
と紹介しているだけであって、神徳寺とは何の関係も無いのである。

ここの連中には文章読解力のない奴が多いが、太国もその一人である(泣)

>>598
>>570のとどこかが違うのだろうか。>>570のはすでにダウンロードしたが。
ところで天神というのは誰なのか不明だ。
瑠璃と阿爾の子でBC19生まれといえば都切しかいないのだが、
都切はAD1年には死んでいるから、天神とは別人だと思うが…。
603日本@名無史さん:2013/06/20(木) 00:08:50.15
>>602
そこの阿爾の母が召西奴、父がほかした仇台だって知ってた?

あと

都切が生まれたんで 「阿爾妃生子都切 以B斗切(15)改名B溫祚 」

溫祚は召西奴の生んだ子ではないみたいに嫁ちゃう

召西奴(順奴)生子A沸流,A溫公主(ふたご)

ほんとうはA溫公主のむこはんがB溫祚なのかもしれない

阿爾妃の殺されたとも伝えられる前彼が南方に逃げたという噂もきになるし

仇台という看板もえろきになる
604太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/20(木) 11:04:47.37
関係はあるから所蔵されてるわけだ。

その黄龍2年の来襲が沖縄でないならどこだというんだ?

台湾か〜?

これしか日本でない島じゃあありんだろう?
半島の南西に卵形の小島があるが、あれでもなかろう。

こういうのは考えにくいだろうが?

ならば沖縄だよ。だからその寺に所蔵されてるわけだ。

開化48年と日本の年号で示してるんだから、日本の島だったと
いうことは揺るぎ難い。つまり沖縄来襲さ。

このことから 開化48年=黄龍2年=230年 だったということが
堅くなる。
だから神功の代が200年であるわけがない。
所詮オマエの盲象!w
605夏バテ満州:2013/06/20(木) 12:49:09.33
だからお前は完全に誤解しているんだよ。
八幡愚童訓というのは神徳寺に所蔵されてきた書物ではないのである。
それは中世の古典で、一寸大きな図書館ならどこでも読める本である。
神徳寺とは何の関係も無いのである。

今日は午前中に用があってほとんど勉強できなかったが、
帰宅してから少し芻牟鏡を読んだ。以前には気付かなかったことに気付いたが、
もしかしたら沿海州の東の海を桑海と呼んだのではないだろうか。
桑海と扶桑国。何か関係がありそうだ。扶桑国とは樺太か。

それから、以前からチェックしていたことで、本にも書こうと思っていたことだが、
韓国超美人お姉ーたまのファイルで確信したことがある。
ここには書かないが、結局新羅も朱蒙の一族によって建国された国であるということだ。
606夏バテ満州:2013/06/20(木) 13:01:02.07
桑海。扶桑国。藻那国。

桑とは藻で、要するに扶桑国とは満州高句麗の極東部、極北部、
つまり極東北部を指すのであり、尼港方面のことなのである。
607太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/20(木) 14:31:16.91
当たり前だ。
それは図書館に行けばそれは読める。
オマエは現代と同寺の時間を同一に考えるからそんなおかしな言い草に
なるのだ。つまりオマエは現代の目線で考えている。これではダメだ。

沖縄のこの寺に昔からあるんでは、意味がちいと違うんだ。
いまならくらでも書の移動が簡便だし存在の重要性は無関係に近いが、
沖縄の寺つまり毎回の昔に中国からの来襲記事の記録を持ってる文書なら、
これは沖縄来襲に決まって妥当な考察である。

だいたい開化48年なんだから、その年大陸からすごい来襲が来てたんだから、
当然その記録が日本攻めと観て当然だ。日本の年号なんだから日本関係の
来襲だ。台湾で日本の年号記録になろう訳が滅多にない。
そうなると、これが最も妥当つまり呉兵来襲の黄龍2年のは沖縄だと
観て合理的である。

開化48年という日本の年代測定天皇年号で、まさか台湾とか半島西南の島
である可能性はえらく薄い。この件で台湾等に行った日本人らが日本の
年代でもって向こうで残したという可能性はないわけではないが、沖縄
の寺じゃあ、当然呉兵来襲は沖縄と観るのが相当だ。

いまでも中国〜大陸側は虎視眈々と沖縄を狙っていようし元寇とかもそうだし、
当然呉兵が日本(沖縄等)にせめてくるのは史実として充分ありえたと言えるのだ。
608夏バテ満州:2013/06/20(木) 17:27:52.42
>沖縄のこの寺に昔からある

太国よ、だからそれが間違いなんだってば。
八幡愚童訓というのは神徳寺にある文書ではないのである。
嘘だと思うなら神徳寺に問い合わせてみろ。
「貴寺に八幡愚童訓という文書はありますか?」と。
「いいえ、そんな文書は有馬温泉」と答えるだろうw

神社が自社の縁起を説明するときに、
「記紀にかくかくしかじかのことが書いてあります」と説明する。
だからといってその神社に昔から記紀が所蔵されていたわけではない。
それと同じことだ。八幡愚童訓の一節が紹介されているが、
神徳寺に八幡愚童訓が昔から所蔵されていたわけではないのである。
今も所蔵されてはいない。神徳寺のサイトの文章は、神徳寺の住職が
たまたま八幡愚童訓を読んでそれを紹介しているだけなのである。
609夏バテ満州:2013/06/20(木) 17:39:21.28
太国に限らず、ここの連中は初歩的な勘違いを犯しているのである。
倭国大乱と書いてあるので、まるで九州の北と南、あるいは畿内各地で、
あるいは南解次次雄のように山陽と四国で、争乱が続いたなどと誤読する。

倭国大乱とは、単に、王位継承問題で少し揉めました、程度の意味なのである。
それを誤読して高地性集落を倭国大乱の跡だなどと空想する。
素人ならまだしも本職の歴史家がそういうことを唱えるのだから呆れて物が言えない。
610:2013/06/20(木) 17:56:49.76
>>609

「更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定」

ただ一つの盟主の座を争った大きな戦争でしょう。
611夏バテ満州:2013/06/20(木) 18:36:55.66
ネット史にはこういう記事もある。

十六年 正月 召文妙コ王殂 紅鳳碧海黃雲暖玉宝雲牧丹妙雲好蛙 八世主爭立 國中大亂
女主楚雲請救 乃命山乙率仙徒二千人 與盤述 入召文 靖其亂立 楚雲子妙楚爲王 (AD228)(AD169?)

これも王位継承を巡る争いである。大乱とあるが仙徒二千人で靖其亂立とあるから、
たいした乱ではない。台与の場合も當時殺千餘人だから、そんなにたいした乱ではない。
戦国時代のように各国が争っていたわけではないのである。
大体、記紀を見ても、卑弥呼当時の九州もしくは畿内が戦国時代のような
乱世状態であったというような記事は一つもないのである。
612太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/20(木) 18:39:31.25
万蒙巣コングこと幽霊頭よww

http://www.senkosha.net/news/gekkou/gekko201209.html

そうならそれいいが、<たまたま>とはどこにそんな情報があるのか?
オマエは具体的に云わないで上っ面だけしか云っていない。これじゃぁそのとおり
かどうか分からん?

いくらオマエが否定しても、開化48年とあるんではこの年号は日本の
だから、確かにこの年、外国から日本へと来襲があったということだ。
だから台湾とは考えにくし、当然ハワイだとか北米中南米の蛮族が万も
開化年代に日本のどこかに来襲したとはオマエでさえ云わないとは思うが、
(もっとも妄想ローガンだったら平気でそんな盲象をゴリ押しするだろうが?w)
〜〜そうなると<大陸>の軍がこの開化年代、来襲したと考えるほかはない。

それで呉でないというなら、その前後の年代に、万とか20万とかの兵が
日本に来襲したという記事がどこにあるのか?
それとも例の孝霊の代の月支大軍船出雲来襲だというのか?w
ほかにないんではこれしかなく、この呉兵来襲しかあるまいが?w
孝霊の代のだというなら、200年が神功の代にはならない。

言い換えれば〜
つまりオマエの主張なら、神功の末期ころか応神の代あたりに
 黄龍2年=230年 の呉兵来襲があったということになる。
しかしそんな皇后、天皇の代に呉兵来襲があったということは
有名古文献でも聞いたことがない。それともどこかに記録があるのか?
おまけに応神仁徳も神功も100歳以上の年齢が3人も続き、到底オマエの
主張には合理性が全く無い。
だからいずれにせよ、オマエの200年はこの3人超長寿の不合理で成立せず、
オマエの論は幽霊そのものだ。ppp
神功も応神も仁徳も死んで幽霊でこの日本を当時支配してたというのか?
ふざけるのもいい加減にしろい。><
613夏バテ満州:2013/06/20(木) 18:50:07.14
開化48年とはBC111だから、黄龍2年=230年 の呉兵来襲とは何の関係も無い。
おそらくBC111に馬韓が九州に来襲したのだろうよ(笑)
614太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/20(木) 18:57:07.52
満蒙巣コングこと 逆襲の幽霊頭首よ

オマエが200年を主張するなら〜神功の代が200年で新羅出兵だというなら、
神功30年神功31年ころに呉兵来襲の事実がどこかの文書にあるはずだ。

それを出してからものを云え。

前111年だとかぬかすということは仁徳以前の大半の天皇がみな百年以上
生存していたことになる。ww
そんなことはありえないんだよ。

だから開化48年ころが前111年あたりにはならない。
つまりオマエの言い分はあの宿主同然デタラメなのである。
615夏バテ満州:2013/06/20(木) 19:24:58.07
だからその230年の呉兵来襲とは日本への来襲ではないのだよ(ケラケラ)

稗箕狐が上げてくれた>>570>>598のファイルを見てみろ。
匏公の子も匏公になっている。父と子が同じ名前を名乗っていたということだ。
神武の子も神武を名乗った。七代続けて神武を名乗ったのだ。
神武は七人いた、というのはそういう意味だ。

仁徳の後継者も仁徳と名乗ったかもしれないのだ。
長寿すぎるからといって不自然と考えてはいけないのだ。
それに古代人は現代人より長命だったかもしれないのである。
現代の常識で物を考えてはいけないのである。

まあ、愛国老人のくせに記紀を信じていない、
お前のような非国民に何を言っても無駄だろうが(ケラケラ)
616日本@名無史さん:2013/06/20(木) 20:27:27.27
>>609
方形周溝墓が元々の倭国の象徴でそれが有るところが元々の倭国なんだろう
それが倭国大乱で分裂して前方後方墳と前方後円墳が生まれた
で、最終的に勝ったのは前方後円墳勢力
前方後方墳ってのは、出雲の方墳文化(方形周溝墓が無かったことからして倭国の勢力外)と方形周溝墓文化が融合して出来た産物だろう
青谷上寺地がその西の異文化に打ち破られたのがその序章だったのかもしれない
617日本@名無史さん:2013/06/20(木) 21:13:06.82
時系列的には、
青谷上寺地が破られる→近江で前方後方墳が発生→美濃で前方後方墳全盛→大和に前方後方墳が入り込む→前方後円墳発生、
なんだよな
618日本@名無史さん:2013/06/20(木) 21:27:23.19
>>611
なんだか、満州さん、誤読してるようなかんじがするよ。
この文章を、逐語的に翻訳してみせて。
619日本@名無史さん:2013/06/20(木) 21:40:41.20
ねえ、ムーミン
620太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/20(木) 21:48:25.74
満蒙巣コングこと幽霊頭主よww
>だからその230年の呉兵来襲とは日本への来襲ではない

だからそうではない事由を文献を出して不合理なしに言ってみい。

た〜だないなどというのは、こんなのは論説ではない。

日本じゃないなら、なぜ日本の天皇(開化)の年号がついてるのか?
このことはオマエでないの主張を覆す。

日本でない何処の外国に日本の天皇の年号を使う国があったというのか?
半島か〜? ならば半島は日本の属国だな。w
しかし半島に呉兵がわざわざ面倒にも海を使って半島に来襲するわけがあるのか?ハハ・・・
所詮オマエの主張はデタラメに満ちている幽霊論。pp
621太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/20(木) 21:57:54.16
笑わせるなbbbb・・・

http://www.senkosha.net/news/gekkou/gekko201209.html

満蒙巣コングよ

神武という号は神武の代ではなく、後代(三船か?)の者が名づけたもの
であり、当時そんな号を使うわけがないのは確実である。
7人も続けて名乗った文は記紀にもかの臭魔伝にもウエツフミ、
宮下文書等にもないだろうが。w

7人も名乗ったならそのへんの文献に書かれていて然りだ。
それがないということは7人も名乗っていた主張はデタラメだという
ことだ。
つまりオマエの言い分は、オマエの脳内の盲象暴走が育んだそのイカレた
幽霊党の三角アタマに始まる。つまり支離滅裂で根拠も調べずオマエの
幽霊頭がでっち上げた松沢行き〜当選ご歓迎のメチャクチャ論だ。ハッハッハ・・・
622日本@名無史さん:2013/06/20(木) 22:14:57.18
満州、負けんな
ファイトだ〜〜〜
623日本@名無史さん:2013/06/20(木) 22:19:21.83
満洲は唯我独尊、絶対無比、孤高の存在
勝った負けたなんて世俗的なことを超えたところに存在する
624日本海ルート論者:2013/06/20(木) 22:21:03.68
Viva la vida を聞きながら、書き込み。
歴史好きにはたまらない歌詞がイイ。
現在もまた歴史の一部である訳で。

>>539-545
倭人伝には皆徒跣とある。裸足で歩くと。
自分はこれそのまま肯定します。
草履らしき物を見落としてる気もするけど
裸足は別に野蛮の証ではないし、描かれる
倭人の暮らしはある種、楽園のようでもあ
る。

裸足であっても日常的に沐浴はしており
清潔感はあったと思う。また、木の床に住
む人、例えば巫女は殆ど野外を裸足で歩く
ことがなかったようにも思う。
それもこれも水と木が豊富にある島国で
あったが故のことで、華北の都市であれば
そうならなかっただろうし。
>>537のように異文化ならではの違和感は
どの時代にもあって当然でないかな。

元々、靴は西アジアで歩兵の軍事目的が発
祥だった気がする。(4)は海洋民だから、
持ち込まなくても不思議ではないかな。
625太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/20(木) 22:24:53.40
幽霊党首こと満蒙巣コングよ
オマエの霊視だとかアトランティスだとか神武を7人で名を継いだとか〜ww

まあオマエはそろそろあの稀代のデンパに脳内がだいぶ接近してきたらしい。pp

神武を7人継いだなどということは記紀は否定しており、記紀は1人だけだと
そう書いている。

つまりオマエこそ
〜〜愛アリラン野郎のくせに記紀を信じていない、
お前のような非国民に何を言っても無駄だろうとは〜遠回しにオマエが
オマエ自身に言ったセリフとなる。(ケラケラ)

なぜか? 記紀に違背している(7人継いだこと)のは結局オマエ自身だったからだ。
626日本海ルート論者:2013/06/20(木) 22:33:17.57
流れと無関係な書き込み申し訳ないです。

時代感覚が飛ぶけど、
燕と関わりのあった倭は旅の途中の(5)か
も知れない。便宜上これを北倭とすると、
(4)は直接日本に来て水稲を対馬経由で
半島南部に運んだかも。これを南倭と呼ぶ
としたら、倭は南北別に2つある。
ただ両方とも皆黥面文身なので倭。
627夏バテ満州:2013/06/20(木) 22:40:21.13
太国のようなイカレポンチはほっといて、>>618に答えておこうか。

十六年 正月 召文の妙コ王が没した。紅鳳、碧海、黃雲、暖玉、宝雲、牧丹、妙雲、好蛙
の八世主が王位に立つことを爭い、國中が大いに亂れた。
召文の女主(女王のこと)楚雲が救いを請うてきた。そこで山乙に命じ、仙徒二千人を率いて、
盤述と召文に入り、その乱立を靖じさせ、楚雲の子の妙楚を王とした。
628日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:13:34.58
太国さん頑張れ!
629日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:18:24.42
古朝鮮の名前ってチンカラポンコとかそんなのだよな
630日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:19:02.36
流れには関係ないことだが、>>627
この時代の正月ってのは三正の内のどれなの?
631日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:25:31.75
ウルチムンドクとかヨンチソムンとか
632日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:53:12.03
人気のない満州が、太国さんを小馬鹿にしても、
ますます人気が無くなるだけだな。
633日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:55:29.29
>>627
仙徒二千人を派遣したのはどこの国
634日本の名無史さん:2013/06/21(金) 00:09:07.85
>>632
いや、俺も含めて隠れ満州ファンは多いよ。
他のコテハンより文章は格段にうまいし。
面白いのは満州ファンであっても
満州の説は信用してないとこw
635日本@名無史さん:2013/06/21(金) 00:11:39.57
古朝鮮時代は姓とかなかっただろ
それでへんちくりんな名前だったのがいつのまにか中国風になってるという
636日本@名無史さん:2013/06/21(金) 00:15:31.18
満洲は短絡的で深みがない
直近に読んだ資料に影響されてて根本的な中心思想が感じられない
ポッポを見てるみたいな感じ
637日本@名無史さん:2013/06/21(金) 01:16:59.53
中心思想はあるよ
古代の朝鮮の歴史を古く、範囲を広く、文明程度を高く
という渇望だろう
638日本@名無史さん:2013/06/21(金) 07:40:56.29
>>627
>>627
一箇所だけ、「其の乱を靖んじ、楚雲の子妙楚を立てて王とした。」と読むべきだと思う。
もとのネット史が切り間違ったんだろう。
それ以外は、誤読はしてないみたい。
なのになぜ、
>大乱とあるが仙徒二千人で靖其亂立とあるから、
>たいした乱ではない。
こんな発想になるのか?
たとえば中国大陸でのことなら、二千人規模は「たいした乱ではない」と言っていい。
でも召文国なら十分「大乱」だろう。
紅鳳、碧海、黃雲、暖玉、宝雲、牧丹、妙雲、好蛙と女主楚雲の9勢力が乱立している。
そこに二千人の外国の軍勢が介入している。
小国にとって大した乱ではないなどとは、とても言えない。
639夏バテ満州:2013/06/21(金) 09:15:01.45
>>633>>638
これはネット新羅史の記事だから新羅である。

この記事のポイントは世主という言葉である。この語はネット史にときどき出てくる。
たとえば加耶の正見世主とか。しかし意味がイマイチ分らない。
国王という意味なら、召文には少なくとも八国があったことになるから、
召文というのはそれほど小国ではない。

仮に倭国大乱というのがこれと同規模の乱で、各国の争いだったとしても、
記紀を見る限り、当時の九州にも畿内にもそのような乱は無かったのであるから、
倭国大乱の倭とは日本のことではないのである。

九州に畿内とは別の王朝があり、その王位継承を巡って騒乱が起きた、とか、
畿内で歴年王がない状態が続き女王が共立された、というような記事は無いのだから、
卑弥呼の倭は日本ではない。

というポクの説明を聞いて、なるほどと思った人間は見込みがあるというかセンスがある。
「何言ってんの、倭とは日本に決まってるでしょ」と思う人間は見込み無し。
640夏バテ満州:2013/06/21(金) 09:26:43.83
記紀に、倭国大乱、女王共立に相当すると思われる記事は一つだけある。
それは神功皇后凱旋後の王族の反乱である。

神功皇后摂政元年は201年であるから、中国史書の伝える年代とはややずれる。
ややずれるとはいえ、内容的には一致する。

ゆえに畿内説の成立する余地はまだあるが、九州説の成立する余地はまったくない。
641日本@名無史さん:2013/06/21(金) 09:37:06.14
>九州に畿内とは別の王朝があり、その王位継承を巡って騒乱が起きた、とか、
>畿内で歴年王がない状態が続き女王が共立された、というような記事は無いのだから、
>卑弥呼の倭は日本ではない。

スゲー妄想だなw
魏志倭人伝に、たくさん国が出てくるのを知らないのか?
だいたい、7世紀以前の畿内に「王朝」があったと、本気で思ってるのか?
642日本@名無史さん:2013/06/21(金) 10:45:48.69
>7世紀以前の畿内に「王朝」があったと、本気で思ってる

こんなことを本気で思うのは救いようのない馬鹿にだけ許される特権です。
643夏バテ満州:2013/06/21(金) 12:56:43.45
>>641-642
そんなことを本気で思うのは救いようのない馬鹿にだけ許される特権です。

ネットの高句麗史と新羅史では奈勿帝と訖解帝のところで60年ずれてしまっている。
どちらが正しいのか不明だが、ずれている箇所では、高句麗史に何年間も
新羅の記事が出てこないことが分かった。これをどう考えるべきか…。

高句麗史の編年が正しければ神功出兵は200年、新羅史が正しければ神功出兵は260年である。
気になるのは新羅史の383年に熊彦が出てくることで、これが千熊長彦だとすれば、
さらに60年下げる必要があるが、そうすると仁徳が403〜405に出てくることと
釣り合いが取れなくなるので、この記事は無視するしかないが、
さりとて完全に無視するわけにもいかず、とにかく編年は難しい。
644日本@名無史さん:2013/06/21(金) 13:12:57.29
「王朝」って歴代続いている官僚体制や法治体制がないと、王朝とはいえないぞ。
7世紀後半より以前の畿内に、王朝など笑止千万。
645日本@名無史さん:2013/06/21(金) 15:24:46.20
>>644
「王朝」である為には元号も必要

701年〜が畿内王朝

517年〜700年は九州王朝

〜516年には王朝なし
646太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/21(金) 15:40:51.93
>とにかく編年は難しい

神功出兵が200年だとか言ってるんでは、オマエは真の年代を把握できない。ヘヘヘ

オマケに記紀の主張と明確に違背する神武が7人もいたなどとww〜

http://www.youtube.com/watch?v=zSL78Iw5rEg

これではオマエ自身が言ってオマエがせせら笑った非国民とは、他ならぬ違背の
当人たる〜霊視、アトランティスだとか頑張る幽霊頭首領のオマエ自身だということ
となる。つまりオマエ自身が非国民だということをオマエが説明したこととなる。bbb
647日本@名無史さん:2013/06/21(金) 16:33:59.11
お引取り頂いたはんこもろた男王さんにも銅鏡の分け前とかいぱいあたったんだろ
648夏バテ満州:2013/06/21(金) 19:05:14.09
では編年の大先生の太国様にお聞きします。

十六年丁卯, 七月, 甲戌朔, 日食.AD127 (ネット高句麗史)

この日食の日は西暦127年の何月何日なのでせうか。
ご教示願えれば幸いです。

あらあらかしこ あらかしこ
649夏バテ満州:2013/06/21(金) 19:17:32.28
もしかして6月29日でせうか。

もしかして唐松山様に聞いた方がよろしいのでせうか。
650太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/21(金) 19:26:07.75
オマエはどうかしてるんでねえの?w

コチラは編年をやってるんだよ。オマエの質問は編月、編日ではないか。
そんなものは現今の文献の量では分かるわけがなかろう。年代決めだけで
精一杯だぞ。

これが出来てるような論を言う奴は大ウソのはずだ。
たとえ太陰暦の朔望をたどって逆算してもだ、年代の途中に何らかの
改暦があってつり橋のない両崖になって古い年代の真の月日に辿れないのだ。
これを無視してやってたのは例の盲象王唐松山といういかれた野郎だよ。
だからあいつのはデタラメである。

ただ単に史料文献にある月日を出して論に使うのは有効だが、編年式に
編日をやるのは○ぬけな考えだ。w

オマエこそ記紀に違えて神武を7人も作るんでは、オマエこそ愛国心の
ない非国民だと、オマエ自らオマエの書きこみはそれを承認していたことになる。

 祝 富士世界遺産

金甌無欠揺るぎなき〜♪

http://www.youtube.com/watch?v=4M8a-Gy7lcI
651日本@名無史さん:2013/06/21(金) 20:04:08.08
朝鮮くんは召文なんてしょぼいものでもめたってそんなのたいしたこと無いといふ

もめてわやだから介入してくれって阿達羅さんたら要請されて

山乙めいんで介入してからに

以山乙爲召文監國 七月召文王妙楚入朝 請以國獻 以帝女多禮妻之

じつは

この年の7年前に 召文王妙コ以其女雲帽獻之

雲帽の血筋がこのあとおおいばりで

ここのの大酋長をつぎつぎと量産する結果になるのではあった
652日本海ルート論者:2013/06/21(金) 21:01:30.72
なんだか突然。凄い早さで世界が巡る。

「国家なんて別に必要なんてない」
逆を言えば必要さえあれば国家は作られ
る。ただ、すぐに作れるものじゃない。
それなりに暮らせれば都市国家で足りる。
一方で、「生き延びる」為には横の繋がり
を持たなければ、地方的な飢饉でさえ、大
きな被害を被る。島の中では、地続きだか
ら、それを契機に没落することもある。
まあ没落するのは特権階級だけなんだが。
だから各々が交易関係を持つようになる。

生き延びる為の交易が「儲け」すら生む。
遂に「莫大な富」すら経験したら?
誰だって、それを維持したくなるだろう。
でも、それを維持するには強大な力が必要
だ。かと言って一人では当然無理だけど。
「なにせ国家がないんだから」

それに気付き始めたのが古墳時代。
だからって、すぐに作れるものじゃない。
653日本海ルート論者:2013/06/21(金) 21:32:16.58
>>534 婆さん
ミミが母系。色々考えました。
結局、母系或いは双系ってのは、どっちの
名前をつけるかは力関係だけってこと。
男系の意識があるかは不明だけど、事実と
仮定するなら、多数中の少数ながら、天孫
族は外婚しつつも血統を保持したというこ
とになりますね。
ただ、男系とか気にしない他から見れば、
傍系でしかないんで、パラドックスを生み
出しそうですが(笑)
654日本海ルート論者:2013/06/21(金) 22:10:33.06
>>514の、(5)は百済繋がり?は、
百済(伯済)以外の馬韓の方か。ミスった。
655夏バテ満州:2013/06/21(金) 22:28:10.75
太国の爺っちゃまよ、おめーにも分んねーのけ? そりゃ困ったもんだべな。
だどもおらはヒントを得たべよ。ここには書かねーがのw

稗箕狐タンよ、おらは雲帽と玉帽について調べてよ、重要なヒントを得ただよ。
ここには書かねーがのw
656日本@名無史さん:2013/06/21(金) 22:58:41.25
http://cafe412.daum.net/_c21_/bbs_list?grpid=bluw&fldid=Ge7F

6から後のの「百濟王記」て知ってた?
657日本の名無史さん:2013/06/21(金) 23:11:07.38
稗箕狐って誰?
658夏バテ満州:2013/06/21(金) 23:16:40.03
>>656
ざっと見たが、たぶん全部読んだやつだと思う。
それより婆娑尼師今紀以前の新羅史がどこかに転がっているはずだが。

>>657
変な男であるw
659日本の@名無史さん:2013/06/21(金) 23:25:01.41
一行ごとに改行してる人ですか?
660日本@名無史さん:2013/06/21(金) 23:38:15.77
変な男に変な男と言われるってことは…
661日本@名無史さん:2013/06/22(土) 00:01:35.80
http://cafe.daum.net/radioproject/Ge7F/6

「百濟王記」のはじまりのところは「雛牟鏡」とだいぶんちがっていて

ねえさんの表ではこっちのほう採用している

沸流と溫祚と阿爾は召西奴が生んだ優台の子
662日本@名無史さん:2013/06/22(土) 01:24:02.86
>>639
>国王という意味なら、召文には少なくとも八国があったことになるから、

「八世主爭立」の句が、「立爭」なら八国あったという解釈も成り立つけれど、
爭立なのでそうならない。
召文一国のなかに、八人の君主が並び立って争っていたという意味。

記紀に倭国大乱が無いというけれど、それはどうかなと思う。
たとえばヤマトタケルの活躍は、記紀的には正統王朝が周辺の蛮族やまつろわぬ神を征伐した話だけど、
大陸から客観的に見れば、東夷の倭人同士の主導権争い=倭国大乱ということになる。

「歴年主無し」とは、記紀における天皇不在を意味しない。
天皇がいても、大陸から客観的に見て、その天皇が倭をまとめきれていなければ、
中国の帝国からみれば、歴年主無しという状態。

記紀と中国では視点・立場が違うのだから、記紀に倭国大乱の記述がないとは安直には言えない。
663夏バテ満州:2013/06/22(土) 09:17:25.59
>>659
yes it is.>>661の男である。

>>661
血統に関しては雛牟鏡も百濟王記も誤。朱蒙は解慕漱の子ではない。
生まれたのもBC79。これが正しい。

>>662
要するに世主の意味が問題。チミのような解釈も成り立つ。
ヤマトタケルのときは大和に天皇がいたのだから、その解釈はいかがなものか。
歴年主無しに当て嵌まるのは仲哀崩御から神功摂政までの約一年間である。
ただの一年とはいえ天皇不在であった。

まあ早い話、中国史書を過信してはいけないのだが、そのまま信じれば、
倭国大乱は日本のことではない。
664夏バテ満州:2013/06/22(土) 09:30:33.99
ネット史を読んでいて、意味不明な語は他にもある。たとえば−

多波那君薨 而無嗣 其妃請奉彡尼今爲夫 惠后許之 命水路大師 裝船百艘 而送之

この彡尼今の意味が分らない。この語は祇摩紀にも出てくる。
副王の意味かと思ったが、副王は副君と書かれている場合が殆んど。
皇太子は副君とか正統太子とか嗣と書かれている。

誰か分かる奴はいないか?
665日本@名無史さん:2013/06/22(土) 10:14:05.12
満州に小判ってやつか
666太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/22(土) 10:45:01.80
満蒙巣コングこと霊視を証拠とする幽霊頭首よ

困るっていったって、史料文献の現今の量では不可能だぞ。
それをあくせく出来ると思って細かくやってるのが例のいまおびえて
隠れている唐松山という最高級のデタラメ野郎だ。
そんなのは出来っこない。改暦がうんと時代時代で行われて、これが
月日干支とかでの逆算を正確に出来なくさせてるから、現今では
この方法は遺棄するのが最良の選択だし、半島は120年など日本との
歴年の段差がすごく存在して、とても月日まで合わせることは出来る
野郎はいない。やってても合うわけがないぞ。
667日本@名無史さん:2013/06/22(土) 11:07:05.86
太か爺さんは嫁ないひとだから論外か

先方のは記紀のとはちがって詳細に記してあるから

しっかり読んで炙り出せばでてくるのにさ
668日本@名無史さん:2013/06/22(土) 11:19:12.49
669太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/06/22(土) 14:34:59.38
>>648
満蒙巣コングこと霊視を証拠とする幽霊党党首よ

A.D.127年といえば、孝昭天皇崩御の実年代だぞ。

その年が孝昭の没年だ。
670日本海ルート論者:2013/06/22(土) 19:13:44.11
ドラえもんまとめに向けて。次は対馬。

銅鐸:畿内と東海が結びつき双方成金に。
その富を背景に銅鐸を東と西へ無料配布。
見返りは通商網。元々はベルだが成金二国
が商品化。ベルを持ち込んだのは二国とは別。

銅矛:形が武具なので、主従を関連させ、
反発を生みそう。その意味で銅鐸ほど良い
商品じゃないかも。ただ、漁具として配布
すれば話は別。形から、元は下賜品?

銅剣:幅広銅剣は銅矛の影響を受けてる
としか思えない。一方で、わざわざ違う商
品としている。ここらは、出雲に寝返った
幾人かの天孫の説話を想起させもする。
潮待ちの要所吉備は、九州と交易できて
こそ儲けがある一方、北では出雲と接する
土地柄。独自勢力化はむしろ自然かも。

瀬戸内:玄界灘、出雲、渡来人?らの雑多
な入植と土着、領域化と読む。阿讃淡路
は東海河内、吉備は出雲玄界灘、伊予高知
は玄界灘(ここは対等でなく主従?)
671日本海ルート論者:2013/06/22(土) 19:44:34.38
対馬:倭の出入口。ここと壱岐を半島勢力
が保持してたら、日本海は半島勢力が主体
となっていたと思う。しかし、半島南部の
水稲は日本経由と判明しており、対馬国の
祭神がワタツミなので、この間の主体勢力
は華南系倭人
672婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/22(土) 20:46:45.74
>>653
学問的な話の流れとしては、まず、高天原の主宰神が
(5)の人らのタカミムスヒから(4)の人らのアマテラスに交代した、
という説が出され(三品彰英「建国神話の諸問題」)、その説が
どうやら正しいらしいと論証された(金子武雄「延喜式祝詞講」、
松前健「日本の神話と古代信仰」、溝口睦子「王権神話の二元構造」などなど)
というのが前提だよね。

で、次に出てくる問題は「なぜ交代したのか?」となるわけで、
>>493の岡正雄は、(5)の征服民族は数が少なく、また女子を多く伴わなかった
からだとした。それが、ニニギミコトが独身で降臨して現地のコノハナサクヤさんと
結婚した記述に現れていると。

だけど、それだけで征服した側の神が征服された側の神に上書きされるのか?
という疑問もあるわけで、「ミミは母系」という谷川説はけっこう説得力を
持っていると思う。
673日本海ルート論者:2013/06/22(土) 20:47:47.31
つづき
対馬は倭人伝にもあるように、耕地面積が
少なく、交易をその糧とする必要がある。
半島には出張者か友人がいる。しかし、
半島に拠点を作ることはしない。
つまり、交易の儲けを半島に移すと、丸々
損をすることがあるから。基本、玄界灘の
金庫に儲けを運ぶ職能集団(水手)。
なので、個人的には狗邪韓国やら後代の
日本府などは、あくまで友人、傀儡(商
人、軍人の出張)の類。

親魏倭王の時代は、魏と韓で一悶着して
おり、魏の武力による権威保持はギリギリ
の様相。韓への牽制役として倭がいる。
(ギリギリなので狗奴への魏軍派遣なし)。
「親魏」は主従としては緩やかな表現で、
対等寄り。魏晋に気遣いつつも、半島南部
との関係作りは倭にとって願ってもない
好条件だった筈。後代に結実し、破産するけど。
674日本海ルート論者:2013/06/22(土) 22:02:45.73
>>672 婆さん。やっぱ民俗学面白いなあ
タカミムスヒからアマテラスへの交代は
論証されてる訳ですね。凄いなこれ。
個人的に天照は元々うけひと岩戸で別人な
のが後に統合されたと思ってて、少なくと
もこの後で主神化してると思う。しかも、
文字で読めるようになってから、かと。
また、神話上、姉弟喧嘩をまあまあとなだ
める主神が本来いたようにも思う。
だからこれ、(4)(5)(4)と交代したのか、た
だ(5)(4)と変わっただけか?あと推定で良
いので交代時期。教えて下さい。

あと気になったのは征服民族って表現。
>>342>>366の例を出すと、仮に「郊祀」
が桓武以降の祭祀方法と変わっていたとす
る。これ、桓武の母方の渡来系、和氏の影
響が当然あるけど、中国人が征服したとは
ならないと思うんです。漢風文化なり文明
開化なり征服される前に同化しようとする
気質がある。そういうことかと。
675婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/22(土) 22:52:25.53
>>674の前半
タカミムスヒからアマテラスへの交代は、たぶん間違いないん
じゃないかな。このあたりの文献レビューは溝口睦子「アマテラスの
誕生」(岩波新書)にまとめられている。

んで、その入れ替わった時期は定かではない。(5)がやってきたのが
3〜4世紀、記紀が執筆されたのが8世紀初頭だから、その間のどこかと
しか言えないよね。ただ、延喜式の月次祭祝詞第四段のアマテラスに
関する部分の内容・形式は、明らかに他の部分と言葉遣いが違うという
ことから、交代はけっこう遅い(8世紀初頭に近い)時期なのかも知れない。

(4)(5)(4)か(5)(4)かってのは微妙だけど、要は社会制度や風俗の多くは
(4)→(5)である(つまり(5)が(4)を征服した)のに、なぜか(5)の神は(4)の神に
その座を譲った。

社会制度や風俗については、武光誠「邪馬台国と大和朝廷」(平凡社新書)
のまとめによると、たとえば刺青の有無、服装、弓の形、履物の有無、食事方法、
お墓、持衰などで邪馬台国とヤマト王権とで不連続があって、これらは
(5)が持ち込んだ文化がヤマト王権に反映されたけど、なぜか神は被征服民俗の
アマテラスのままだったと。
676夏バテ満州:2013/06/22(土) 23:00:06.14
だからアマテラスはレムリア時代かアトランティス時代の話だっちゅーの!
677日本@名無史さん:2013/06/22(土) 23:05:50.16
ばあさんはもっと古事記のことちゃんとよんでみたら

天照の要求とか命令だとか貫徹できていない齟齬のがたくさんあるでしょ

天照のは差し替えられているのね

鬱系の女王様が貶められているのとか透かして見えんかなあ

御成敗式目が出来た頃には天照は信用のおけない嘘つきの神様だってのが常識
678婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/22(土) 23:35:14.88
>>677
アマテラスがらみの話で齟齬が多々あるのは全く同意。
だからこそ、アマテラス自身が「入れ替わった神」であるこことがわかったわけで。

>御成敗式目が出来た頃には天照は信用のおけない嘘つきの神様だってのが常識

ってのはよくわからんが、本地垂迹にしろ度会神道にしろ、上古の交代とは別の話だよね。
679日本@名無史さん:2013/06/22(土) 23:56:11.55
御成敗式目を制定したような階層の仲間内では天照は起請文には使用できない神様だった。
それは「天照はうそをおおせられる神さまだ」との共通認識があったからである。
680日本@名無史さん:2013/06/23(日) 00:04:00.27
古田か なるほど
681婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/23(日) 00:05:22.83
>>679
それはつまり、当時の鎌倉政権にjは「朝廷の権威に後ろ盾を与えている神を
否定したい」という気持ちがあった、ということだよな。
いま話題になっている上古における神の交代とは、関係ない話じゃないかと。
682日本@名無史さん:2013/06/23(日) 00:08:38.46
朝廷の権威の一部分を構成しているのが幕府を騙るパワーでし
683日本@名無史さん:2013/06/23(日) 00:08:57.80
鎌倉幕府は実朝の後から摂家将軍、親王将軍だけどな
684日本@名無史さん:2013/06/23(日) 00:14:23.51
開府儀同三司で幕府がオープンできるという構図
685日本@名無史さん:2013/06/23(日) 00:19:10.67
このアマテラスの嘘と鎌倉時代の起請文の話が
ここで何かの根拠に使われるのにふさわしいかは疑問だけどな
これは基本的には仏教がらみの話じゃないか
686日本@名無史さん:2013/06/23(日) 00:28:01.97
アマテラスが刺し込まれたおかげで
とおちゃんの伊邪那岐にまで
嘘の貫徹できっこない命令を騙らせているアマテラスは
ほんとおに悪い娘だわ
687日本@名無史さん:2013/06/23(日) 00:30:54.23
アマテラスはイスカンダル人だった。
688日本@名無史さん:2013/06/23(日) 00:36:33.90
>>686
お前の思わせぶりな書き込みは理解するやつも少ないだろうが
けっこういいかげんなものが多いと思うぞ
689夏バテ満州:2013/06/23(日) 09:18:49.47
稗箕狐の書いとることは古田の受け売りだからの。
邪馬台国を研究しとる素人が御成敗式目のことまで研究しとるはずはねーからの。
古田ならそれくれーは研究しとるからの。
古田がそげなこつをどっかに書いて、それを読んだ稗箕狐が、
ここに自慢げに書いとるだけだからの。

おめーらも気いつけれや、こいつに騙されてはなんねーぞw
690日本@名無史さん:2013/06/23(日) 09:27:46.18
古田が書いているのもタネ本があるけどな

>なぜ、(天照大神は信用できな)とするような「中世的常識」が存在したか。佐藤氏は、これを明快に分析する。
 鎌倉期に成立した無住の『沙石集』の冒頭に「大神宮の御事」の一節がある。

 (弘長年間(一二六一〜六四)、わたし(無住)は伊勢の内宮に参詣した。そのとき、一人の社官から次の話を聞いた。
 遠い昔、日本列島形成の頃、大海の底に大日如来の印文があるのを見つけた天照大神が、鉾を下ろして探ってみると、
 鉾の先からしたたった滴が、露のような形(日本列島)をなすに至った。
 これを見ていた「第六天の魔王」(仏敵)が、その国土に仏法が広まるのを妨げようと、天から下ってきた。
 そのときアマテラスは魔王に告げた。
 「私は三宝の名を口にすることも、この身に近づけることもしない。どうか心安らかに天にお帰り下さい」
 魔王はこの言葉を信じて天に昇った。

これは記紀にはまったく見られない後代の仏教的な解釈によって天照大神が「嘘つき」とされてしまったということだろう
このあたりは仏教界での本地垂迹の取り合いとも関係があるのではないか
天照大神は最終的には大日如来になったのだっけかな
691日本@名無史さん:2013/06/23(日) 09:33:19.86
あと執権北条氏は形式だけ親王将軍をいただいて
武家社会に対して朝廷の権威を利用したと見るのは間違いではないだろう
正確には相互依存のような形なのだろうが
またタイミングよく元寇が起きるし
692日本@名無史さん:2013/06/23(日) 09:35:22.28
で、このときの攘夷という概念が幕末にいたって復活するわけだ
おもしろい
693夏バテ満州:2013/06/23(日) 12:57:44.91
おらは今日面白れーことを見つけたど。
もすかすたらネット高句麗の402年以前の編年は、
40年ほどずれているんではねーかな? 
40年ほど上げてある(古くしてある)んではねーかな。

そすたらむしろネットの新羅史や百済史の編年の方が正しいんでねーかな?
そすたら神功出兵も40年か60年下げた方がいいんでねーかな。
もすかすたら大変な発見かも知んねーど。
694日本@名無史さん:2013/06/23(日) 17:30:12.36
こおれんさんの仕業だろ

じぶんのところの元号も用意すればよかったのに

やっぱそこまではてえまわらなかったのか
695日本@名無史さん:2013/06/23(日) 19:26:27.42
>>664 下のでぐぐれ

大公彡胡 彡尼今 彡尼師今 愛后 愛禮 彡今 逸聖 彡公 site:http://history-backup.tistory.com
696日本海ルート論者:2013/06/23(日) 19:26:54.54
>>675 婆さん
タカミムスヒからアマテラスへの交代は事
実でしょう。検証方法から文句無しかと。
記紀以外からの論証というのがイイですね
。今はpcとかあるから系譜を細かくデー
タ化とかしたら、なんか違う発見があるか
もな〜とか思いました。西日本の神社の祭
神と縁起のデータと合わせてね。膨大です
けど(笑)

交代時期の確定は難しいと思いますが、幅
がありそうです。仮に8世紀だとしたら、
それはもう(5)と言えない気もする。
アマテラスへの交代と、(5)の文化伝播と
は、切り離して考えた方が今は近道かも。
で。母系については、違う切り口で一つ。
697日本@名無史さん:2013/06/23(日) 19:29:37.88
     伊利生♀┳尹公♂(大公彡胡,彡尼今,彡尼師今)(多婆那王)
           ┃
愛后♀(愛禮)┳彡今♂(F逸聖)
         ┃
       彡公♂(三公)(189.02- ) → 天之日矛 ?
                       阿達羅四年(216)四月多婆那以迎烏カ爲君


只珍内禮生 昔鄒子伐休 彡今(逸聖)臨洗 賜米
昔伐休(189-243-256)
698日本海ルート論者:2013/06/23(日) 21:11:44.27
武烈に跡継ぎがなく、初め丹波の倭彦王に
白羽の矢が立てられたが、継体が迎えられ
た(まず河内。大和入りは19年)。疑問は
「なんで、血のストックが大和にない?」

理由は、血の輸出をしてたからですよね。
月並みな言い方をすれば、政略結婚。
大和で独占していないから、血が尽きる。
平安時代に、皇統を近江やら丹波やらに
出すことは基本ない。だから、尽きる。
ハノーヴァー朝もドイツから招き(戻し
た?)系統から始まっている。
島国日本はまだ統一されていないから、母
系という名の傍系が至る所にいた筈。
でも、その国々では自分を傍系とは思って
ない。継体だって越前王だった訳で。だか
ら、大和に招かれるなんて、不測の事態。
まあ皇統と家来とは、血とは別に分別され
ていたと思うけど、こういう場合の境界は
微妙。筑紫にも近江にも血があった筈で、
世が世ならって話は色々ありそうです。
699日本@名無史さん:2013/06/23(日) 21:16:45.76
まあ五世孫なら将門だってそうだからな
しかしこのあたりの記述は怪しさ爆発だよな
700日本@名無史さん:2013/06/23(日) 21:21:31.16
武烈天皇の暴虐記事の内容考えたのはお雇い中国人じゃねえか
701日本@名無史さん:2013/06/23(日) 21:28:05.49
(繼體)天皇親操斧鉞 授(物部)大連(麁鹿火)曰 長門以東朕制之 筑紫以西汝制之 専行賞罰 勿煩頻奏
702夏バテ満州:2013/06/23(日) 21:59:35.26
>>697
>尹公♂(大公彡胡,彡尼今,彡尼師今)(多婆那王)

この資料はどこに? 例のファイルでは

日光(閼英)−次雄(火元)−尹公

となっており、尹公が多婆那王と呼ばれる理由が不明だが。
もしかして母の火元が多婆神女なのか?
703日本@名無史さん:2013/06/23(日) 22:38:53.28
704日本@名無史さん:2013/06/23(日) 22:44:52.31
705夏バテ満州:2013/06/23(日) 23:06:59.33
だから稗箕狐タンよ、おめーの上げてくれたネット新羅史くれーは
おらも読んどるだが、どこにも彡尼今、彡尼師今の説明はねーだ。
ところでおめーの上げてくれたサイトでこんなの見つけただよ。

伽倻山神正見母主(天神夷毗訶之)−大伽倻王惱窒朱日・金官國王惱窒裔

この天神夷毗訶之つーのは例のファイルの天神と同じかの?
706日本海ルート論者:2013/06/23(日) 23:37:31.01
>>婆さん。民俗学はまった(笑)
(4)は邪馬台国、(5)は邪馬台国後?

倭人伝文中。
「其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦」
倭人は多婦制。後代と連続性があると仮定
するなら通い婚の形態。
つまり、夫も妻も、基本その母の実家にいる(母系)。金があれば、家を持って独立し
妻子を呼ぶ(勿論、一組だけ)。金が無くな
れば、妻は離婚して家に戻れば良い。
近親相姦をせず、経済的にも人間関係的に
も無理がなく、優秀な血を重ねられる。

「有屋室父母兄弟卧息異処」
当然、父系のように、父母兄弟が一緒に
住むことはない。異母兄弟は違う母の元で
暮らす。父と一緒に暮らせない母子もいる。あと、母は(現役なら)、通い婚の父を
待つ為に、ジジババや子とは別に寝る。
よって、父母兄弟は違う場所で寝る。
707夏バテ満州:2013/06/24(月) 08:29:35.94
夷毗訶之考

夷毗は飯、意冨で、大きいの意味。
訶之はカシハラ、クシフルのカシ、クシで霊妙、偉大の意味。

ゆえに夷毗訶之は大霊、大王の意味だろう。
夷毗訶之→大加耶となったと思われる。

扶余の五加、大加の加も加耶の加と関係あるか。
加葉原と加耶も関連ありそう。

あ、ごめん。高尚すぎてチミらには不向きな話題だったな。
708夏バテ満州:2013/06/24(月) 08:37:25.96
ネット史を読めば新羅は女系社会だったと分かる。
加耶の王もほとんど女帝。

一方、日本神話も祖神がアマテラスで女。

ゆえに新羅も加耶も倭も同じような民族だったことが分かる。日韓同祖。
709日本@名無史さん:2013/06/24(月) 08:43:52.80
満州の顔面はコンプライアンス違反だ。
710日本@名無史さん:2013/06/24(月) 11:03:59.60
元々新羅は倭人の国だろ。
それに女王の国は四国だしな。
記紀にもイヨの二名島と明記してあるじゃん。
711日本@名無史さん:2013/06/24(月) 19:24:06.98
大元夫人宝美薨 壽八十二 葬于美海陵
宝美者 多婆那王女也 從美海王 入我
得寵于老王 生子女十二人

宝美者 多婆那王女也
712日本の@名無史さん:2013/06/24(月) 20:27:04.52
新羅は親魏からきてる
713日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:18:55.38
◯那国ってのは中国的には◯奴国のこと
21ヶ国の行き着く先が◯那(奴)国の首都で、それは近江もしくは濃尾平野
714夏バテ満州:2013/06/24(月) 22:28:16.38
>>711
やっとそれに気付いたか。
だからポクは以前に書いたのだ。
多婆那国とは大和ではないのか、と。

血統に人一倍関心を持っているお前がなぜ気付かないのかと不思議だった。
715日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:30:04.14
716日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:31:59.32
田母神って徳島の出身なのか
717日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:38:45.71
多婆那 多波那 は時代とともに移動したりするから

仁徳のころとかは玄界灘沿岸にあったでも良いのか

逃げるところの船使うストーリーからは玄界灘沿岸でなければ不可

これってきたきゅうしゅうしからまつろの間でしょ

もとからいた王家しいたげられていなければ良いけど
718夏バテ満州:2013/06/24(月) 22:58:39.08
>>717
それは古田的な考え。
多婆那国が日本のどこかだとすれば、但馬だろう。
堤上の妻が山に登り東に向かって泣き叫んだという記事があるし、
訥祇天王紀の末尾に東征野人という表現がある。

倭は東にあるのである。
719日本@名無史さん:2013/06/24(月) 23:01:58.11
故 其天之日矛持渡來物者 玉津寶云而
  珠二貫
又振浪比禮
  切浪比禮
  振風比禮
  切風比禮
又奧津鏡
  邊津鏡
并八種也 【此者伊豆志之八前大~也】

http://www.motoise.jp/main/houmotu/kagami.html
息津鏡・邊津鏡

子孫だって意識してお名前名乗っているしね
720夏バテ満州:2013/06/24(月) 23:03:36.56
ついでにいうと、多婆那国=投馬国=但馬だろう。

三国史記地理志の地名表記を見ていてピンと来た。
ここには書かないが本には書こうかと思っている。
721日本@名無史さん:2013/06/24(月) 23:08:22.33
奧津鏡 → 息津鏡  なまっちゃっている

なまりを解消してあげると

奧長帶比賣命 ← 息長帶比賣命

この女大酋長が熊襲の卑彌呼の御子孫をやっつけて

玄界灘沿岸をも支配下においたというシナリオにはなるがな
722日本@名無史さん:2013/06/24(月) 23:21:43.24
多婆那=玉名(旧玉杵名郡)
723日本海ルート論者:2013/06/24(月) 23:37:47.48
まとめに向けて。次は古墳と銅鏡。

銅鐸祭祀の終焉(という言葉):
巨大化銅鐸こそが「終わりの始まり」。
畿内東海連合は、銅鐸圏の盟主ではない。
圏内にあった物を巨大化させ、珍品として
配っただけ。でもこれは序列の再構築に繋
がる行為そのもので、後代の朝廷や幕府な
ら、武力介入してでも止める筈。ただ、そ
ういう巨大な武力は当時どこにもない。
だからこそ、穏健な形で仲間を増やした。
結果、畿内が盟主に。新時代の幕開けと、
新たな権威とを象徴する商品へと変わる。
直後旧盟主が従ったか離脱したか?
記紀ではどっちにも取れる。
724日本@名無史さん:2013/06/24(月) 23:50:10.44
本質が継承されつつ銅鐸が銅鏡へと変化した件
725日本@名無史さん:2013/06/24(月) 23:57:14.79
珍品として配ったわけではないけどな
はっきり各集落において祭祀に使われた跡が残ってる
具体的には水源に近い山の斜面などに埋納して掘り出して祀りに使うとか
鏡は墳墓以外からは基本的には出ないから葬具
726日本@名無史さん:2013/06/25(火) 00:02:52.29
勾玉→絵画土器→銅鐸→銅剣と倭国の威信財が変遷してったんだろうな
727日本@名無史さん:2013/06/25(火) 00:45:34.91
銅鐸は集落祭祀の共同所有物で環濠外での祭祀に使われたもの
集落そのものの住居跡から見つかることはほとんどなく個人の墓から見つかったことは一例もない
環濠集落の解体とともに銅鐸を用いた祭祀も放棄された

勾玉は日本海側の特産品で縄文時代からある
絵画土器は近畿に多く、銅鐸は近畿から東海にかけてが主流
しかし出雲で大量埋納が発見された
銅鐸と同時に銅剣の祭祀も終わり副葬品としては剣を含む鉄製品が多くなる
728日本海ルート論者:2013/06/25(火) 00:57:48.83
古墳:大きな土の墓ブーム。各地の土着王
の間に交流があったからこそ流行となる。
農業は一日中一年中休みなく行う訳ではな
いので、労働力確保は意外と難しくない。
問題は技術力。施工計画力とか測量技術と
か。これは気合や見よう見真似で乗り切れ
るものではない。なのに、量産している。
九章算術(Wiki「古墳」古墳の体積あたり)
と古墳、そして魏使。偶然の訳がない。

要は、古墳とはプロ集団による商品。
渡来人か、彼らから学んだ職能集団が出張
している。嫌味でも恫喝でもなく穏健的に
文化の格の違いを知らしめるという寸法。
加えて、埴輪だの須恵器だのは吉備やらに
あえて任せて、仲間内で利益を分配するパ
ッケージ商法。客は客で巨大な墓を作って
自国内での権威を高められ大満足。盟主に
担ぐだけで領土は安堵、自己権威も向上。
誰も損しないから流行。同盟圏は拡大。

銅鏡は次で。さすがに寝ます。
729日本@名無史さん:2013/06/25(火) 01:09:04.63
古墳の築造に関しては渡来人の技術が関連している可能性が高いのはそうだろう
土を盛る技術は纏向の大溝を見てもわかるように掘る技術と一体
これは水稲耕作における灌漑技術の進歩を意味する

巨大前方後円墳の発生と環濠集落の放棄もセットで考える必要がある
環濠が廃棄されたのは分散居住したほうが耕作の利便性があるというのが一つの理由
それだけ耕地が増えているのだろう
もう一つは首長が環濠内に一般民といっしょに住むという形から
祭祀の形態が変化したため
首長は自らの豪族居館内で祭祀を行うようになり、巨大古墳は集落統合のシンボルとして
分散居住した各戸から見えていることが重要
730顔面マヒ満州:2013/06/25(火) 09:25:06.87
>>728-729
当時の日本は大陸や半島よりも劣っていたという典型的な日本劣等史観。
こんなことを書くのは非国民。日本は大陸や半島よりも優れていた。

さて今朝ふと思い出した。そういえば記紀に兄猾、弟猾というのがでてくるな、と。
猾ウカシと夷毗訶之イヒカシ。カシが共通している。
そうすると夷毗訶之は大和から来た倭人か。

あ、ごめん。チミらにはラベルが高すぎたな。
731日本の@名無史さん:2013/06/25(火) 20:14:02.23
満州さん、語呂合わせやって楽しんでるだけのように見えますよw
732日本@名無史さん:2013/06/25(火) 21:45:53.84
愚鈍な満州の書き込みは愚昧なヘイトスピーチだ。
733顔面マヒ満州:2013/06/25(火) 23:09:12.96
こうなれば日食で絶対年を突き止めるしかないと思い、
ネット史の日食記事と、満州朝鮮方面の日食データを調べてみた。

が、全然合わない。一体どうなっているのだろう。
「日食・月食・星食情報データベース」というサイトだが、
このサイトのデータは本当に正しいのか?

200.9.1 新羅
201.3.1 新羅?

276.8.27/0.91 咸興
277.2.20/0.92 咸興

なんとかこれらが対応していると言えば言えるが。
(僕は新羅の都は咸興市だろうと思っているので咸興市のデータを取った。
慶州の食分は上の数値よりかなり低い。)
734顔面マヒ満州:2013/06/25(火) 23:13:46.83
ネット史に太白(金星)が月を犯したという記事があるので、
金星による月食のデータを探したが見つからなかった。

それが分かればネットの高句麗史と新羅史のどちらの編年が正しいか分るのだが。
735日本@名無史さん:2013/06/25(火) 23:22:04.07
現在の韓国の考古学は三国史記などの文献に年代観の強い影響を受けていたが
考古学的な方法だけで年代を考えるという方法論が少しずつ受け入れられつつあるな
736日本@名無史さん:2013/06/25(火) 23:28:36.41
暗黒の朝鮮半島は支那の盲腸だ。
737日本@名無史さん:2013/06/25(火) 23:29:10.98
顔面マヒってどうしたの?
交通事故に遭ったんか
738日本@名無史さん:2013/06/26(水) 00:03:16.05
銅鐸は個人の威信財ではない
特定個人が生前使用して死後墓に副葬されるという性質のものではないのは
個人墓からの発掘例がないことでわかる
この意義としては銅鐸が出土する広い領域で類似の祭祀が営まれていたことだ
ただしこれらの地域が統合されて一つの権力下にあったというわけでもないだろう
クニを超えて祭祀の形態が流行するのは四隅突出墳や銅矛、銅戈を見てもわかる
重要なのは銅鐸そのものではなく
そこから当時の宗教の実態を推察することであるのだ
739日本@名無史さん:2013/06/26(水) 04:03:38.95
709 :日本@名無史さん:2013/06/24(月) 08:43:52.80
満州の顔面はコンプライアンス違反だ。

この↑カキコは、そのことだったのか。
事情を知る知人ありということだな。
740日本@名無史さん:2013/06/26(水) 04:05:52.87
ま、お大事にしてくだされ。
741寝不足満州:2013/06/26(水) 09:35:21.14
名前は冗談で書いているのだから気にしないように。

于老の死は三国史記列伝では沾解王七年癸酉となっている。これは253年か313年である。
しかしネット新羅史はこれを味鄒王七年とし、331年としている。
一方ネット高句麗史は249年としている。バラバラである。

話変わって、伊西国が攻めてきたとき、謎の竹葉軍が救ってくれたという話が、
三国史記にもネット史にも載っている。
何のことか分らなかったが、昨日、ピンと来たことがあった。
ポクの考えが当たっていれば、ネット新羅史の編年が正しいということになる。
742寝不足満州:2013/06/26(水) 09:56:12.56
<羅>, 以<真忠>為一伐飡․參國政. 七月, 霜雹殺穀, 太白犯月.AD205<山上大帝>紀
<濟>, <古爾(一六)>, 正月, 甲午, <太白>襲月.AD249<中川大帝>紀

金星による月食記事の一部である。
誰かこれが正しいかどうか分る奴はいないか。
743日本@名無史さん:2013/06/26(水) 13:34:25.01
金星による月食w
金星が地球と月の間に入り込んで来たのかよwww
744今日は寒い満州:2013/06/26(水) 17:19:19.79
おめーはパカでねーのか。
太陽と月の間に金星が入って月食になるだ。

いや、おらもよく知らねーがのw
745日本@名無史さん:2013/06/26(水) 17:23:40.59
月が金星を隠すだけだろアホらしい
746今日は寒い満州:2013/06/26(水) 17:37:21.43
違うわい。金星の影が月を隠すんじゃ。
747日本@名無史さん:2013/06/26(水) 17:47:00.88
地球から見た太陽と金星の大きさの相対比と、月から見たそれはほとんど同じと見なしていいだろう
ところで地球上に金星の影って出来るのかい?
748今日は寒い満州:2013/06/26(水) 18:17:35.96
そら出来るべよ。

太陽−金星−地球−月

こげな並びになったときにゃー、金星の影が地球や月に落ちるでよ。
(ハヤシもあるでよ)
749日本@名無史さん:2013/06/26(水) 18:26:10.98
750日本@名無史さん:2013/06/26(水) 18:36:53.55
>>747
出来ないね。
光源としての太陽は大きすぎるし、距離との関係で金星は小さすぎる。
751日本海ルート論者:2013/06/26(水) 20:22:32.24
ちと一旦腰を据えて詳細レス。
>>652が隠れテーマ。

>>725さん
圏内には珍品として配る必要があったと思
います。祭祀に使われたからこそ、厳格に
反発する国々があった筈で、そうした反発
を見越しあえて珍品と自ら卑下したという
表現です。これ確信犯なら相当腹黒。

銅鐸は祭祀に使われてますが、各集落にお
ける扱いには誤差があります。その誤差を
含めて、銅鐸圏がある。銅鐸あってこその
文化圏で、銅鐸を制すれば銅鐸圏を制す。
でも、最初に銅鐸商売を始めたのは、日本
海か淡路島あたりだと思います。要は、海
から持ち込んだ国、畿内より西側。
彼らがまず祭祀の道具としての意味付けを
してると思います。ですが、その祭祀の詳
細については当初から各国で誤差があった
筈です。でなければ、大型化しないし、し
たところで受け入れる国は殆どない。
752日本海ルート論者:2013/06/26(水) 20:27:05.00
つづき。

銅鐸は他の方の意見同様、自分も共同祭祀
の道具だったと思います。つまり、持ち込
んだ側も、リベラルな志向性を持っていた
んでしょうね。
その後、内陸の畿内に伝播。なぜか1世紀
末に東海と共に急に大型化。そして独占。
その後も様子を見ながら更に大型化してい
く。鳴らす機能が退化する程にね。これ、
祭祀の変化じゃなく、銅鐸の変化による祭
祀の変化です。銅鐸を制した畿内は銅鐸圏
の文化・経済を制したという寸法。あとは
政治ショーがあれば、全てが交代する。
その後はむしろ、銅鐸は過去の遺物として
邪魔なだけ。畿内やその腹心にとっては特
に。勿論誤差はあって、割り切れない国も
あったとは思います。
753日本海ルート論者:2013/06/26(水) 20:41:47.54
補足。

銅鐸はベル。華南越人の鐸が原型だと思い
ます。青磁を青銅に変えたか、青銅製の物
もあったか。音は青磁の方が良いかも?
ただ、青銅だから商売が成り立ったかと。
「持ち込んだ側」という表現は、厳密には
「商品として持ち込んだ勢力」或いは、「最初に商品化した勢力」ですね。
754今日は寒い満州:2013/06/26(水) 22:27:55.13
今日もつらつら日食データを眺めていた。

73.5.晦 (三国史記)
87.8.晦

三国史記のこのデータはネット高句麗史の

127.7.1
141.9.晦

と対応しているのだろうと思っていたが、これらの絶対年が不明だった。
しかしつい先ほどそれらしきデータを見つけた。
サイトに問題があり、日食図としては出てくるが、
局地情報としては出てこないので発見できなかった。
しかし日食図を見ると明らかに満州で皆既日食を起こしている。
同様に、もう一つ対応例を見つけた。しかし部分的には対応しているが、
全体がすべて対応しているわけではないのが残念である。
755今日は寒い満州:2013/06/26(水) 22:51:59.94
于老 (  )はネット高句麗史と照合して補正

277(216) 生まれる。
306(244) 伊伐飡
313(250) 倭使に暴言を吐く
331(268) 倭人に殺される。

これがネット新羅史による于老だが、
ネット高句麗史で補正しても生まれが216年。
そうすると神功出兵を200年とすると于老はまだ生まれていないことになる。
ということは神功出兵は260年か。
756日本@名無史さん:2013/06/26(水) 23:51:42.00
満州の頭を銅鐸の中に入れて「ゴ〜〜〜ン!」とやりましょう。
757満州カルロス・ゴーン:2013/06/27(木) 12:37:53.17
こうなれば三国史記の日食記事を調べてみようと思い、まず新羅本紀を調べてみた。
奈勿帝までに18回の記事がある。

七月,太白犯月.AD205<山上大帝>紀

これに相当するのが

秋七月 太白犯月 AD205奈解紀

だろう。ネット高句麗史と三国史記の編年は一致している。
問題はこれの絶対年はいつかということである。
758満州カルロス・ゴーン:2013/06/27(木) 17:48:19.18
三国史記の百済と高句麗の日食記事も調べてみた。ああ疲れた。

秋七月 太白犯月 AD205 百済本紀

百済本紀でもこうなっている。一応、出来事の編年は一致させてあるようである。
ただこれが、三国史記やネット高句麗史では肖古王の時代となっているが、
ネット百済史と新羅史では仇知王の時代のことになっているのである。
759満州カルロス・ゴーン:2013/06/27(木) 19:43:54.40
三国史記の日食記事を調べていて、面白い記事を見つけた。

秋九月 日無光 經三日復明 (640年 榮留王紀)

神功紀の記事とそっくり。
日食でなくてもこのようなことが起きるのだろうか。
760婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/27(木) 20:19:08.17
>>753
そういえば土鐸もあるよね。「銅鐸形土製品」とか、いかにも代用品か
おもちゃみたいな扱いをされてるけど、あれが本家筋かも知れない。

それはさておき、>>756を読んだからというわけじゃないけど、銅鐸の音色が
気になってきた。「チリン」なのか「リンゴン」なのか「ゴーン」なのか…。

俺は「ガランガラン」という、雷鳴を模したものじゃないかと思う。
理由は2つあって、1つは古今東西、金属の民は風神と雷神を祭っていること。
前者は野ダタラに風が不可欠なことによるもので、後者は金属の光沢と落雷を
誘発することによるものだけど、これはユーラシア大陸全土に広がっている。
もう1つは、銅鐸に描かれた動物で一番多いのは、稲の霊獣であるシカだということ。
もちろんその他のイノシシや魚、鳥などもあるから狩猟もやってたんだろうけど、
稲作民族でることは間違いない。「稲妻」という言葉のとおり、稲作民にとっても
雷は神なのだ。

ともあれ、音の祭器である銅鐸から、光の祭器である鏡への交代ってのが
面白いと思うのよ。そしてそれは古墳の出現も伴っている。もしかしたら、
「歌う神話」から「語る神話」への変換点だったかも知れないなと。
761婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/27(木) 22:46:19.36
>>759
火山の噴火かも知れんよね。
年代的に640年にドンピシャはないけど、近そうなのは
榛名山かジャワのクラカタウかといったあたり。
762日本@名無史さん:2013/06/27(木) 23:18:56.71
噴火なら3日じゃすまない
単純に、雨の日が3日続いただけだろう
763婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/27(木) 23:33:36.99
>>726
だけど、「ここんとこ天気悪いよねえ…」だけで記事にしてたら、
とんでもない量になるぞ。噴火かどうかはさておき、少なくとも
人の一代を超えるスパンの事象があったと考えるべきじゃないかと。
764婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/27(木) 23:34:07.27
↑あ、>>762でござった。
765日本@名無史さん:2013/06/27(木) 23:41:35.93
銅鐸圏とかいう言葉も昔から使われてるが
銅矛、銅剣、銅戈の各文化圏、それから日本海沿いの四隅突出墳の文化圏もあるが
これらの地域が宗教的な儀礼を共有するとしても
必ずしも一つの影響力の統率下にまとまってるわけでもない
それぞれの宗教文化圏において小さなクニごとに首長がいて
争っていた様子が発掘からうかがわれることも珍しくない
766満州カルロス・ゴーン:2013/06/28(金) 12:15:13.32
>雨の日が3日続いただけだろう

プッ、ケラケラ、ゲラゲラ
767日本@名無史さん:2013/06/28(金) 13:14:14.15
満州は、顔面もマヒ、心の鏡面もマヒ
768日本@名無史さん:2013/06/28(金) 20:12:55.52
>>663
一週間前のレスなんだけど、ネット史の

>八世主爭立 國中大亂

世主の意味がわからなくても、問題ないよ。
「争立」は、例えば史記では注もふくめて13例。
1例を除いて、みな君主が死んで、弟や子供が位を争っている状態。
残りの1例は越が楚に大敗して分裂した例だけれど、
これも争立したあとに分裂したのであって、最初から複数の国があったわけではない。
わかりやすいのは漢書の「匈奴内亂,五單于爭立」。
五カ国があったわけではなく、ひとつの匈奴のなかに五人の単于が並び立って、
オレこそが正統の単于だと争っていた状態。
「争立」の使い方から、ネット史の文も、世主が王であっても、
召文国のなかに八カ国あったわけではないことがわかる。
769日本@名無史さん:2013/06/28(金) 20:17:38.94
>>663
>歴年主無しに当て嵌まるのは仲哀崩御から神功摂政までの約一年間である。

約一年は、歴年ではないよ。
たとえば邪馬台国には卑弥呼以前にも君主がいた。
でも邪馬台国の主であって、倭の30国をまとめていたわけではないから倭王ではない。
これは、邪馬台国に主がいても、大陸から見れば倭は無主の状態。
卑弥呼が30国をまとめて、はじめて倭国に主がいるとみなされた。
同様のことが記紀にもあてはまる。
記紀に○○天皇の御世として書かれていても、
その天皇が倭をまとめきれておらず、列島内に複数の勢力が存在していれば、
それは大陸から見れば無主ということになる。
ヤマトタケルの時代にヤマトに天皇がいても、
実質、列島内にヤマトに敵対する勢力が複数存在して争っていたのだから、
卑弥呼以前の男王と同じく、大陸から見れば、その天皇は主とはみなされず、
倭は無主ということになる。
だから、記紀に歴年無主に相当する記述がないとするのはあたらない。
770婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/28(金) 22:00:19.55
このスレ的にはどうでもいい話だが、天皇不在の時期といえば、
天武が死んでから持統が即位するまで4年くらいあった気がする。
771日本@名無史さん:2013/06/28(金) 22:36:55.80
九州で唐傀儡政権樹立の動きがあったから、
それを制圧するのに専念したんじゃないか?
772日本@名無史さん:2013/06/28(金) 23:12:32.09
磐井の乱で敗れた磐井は壊滅状態。
しかし、一部の人は東国に逃れて、東京の新小岩とか、福島県のいわき市、岩手の小岩井辺りでひっそり暮らしている。
大伴氏や毛野氏に追われたことを今でも恨んでいるようです。
773日本@名無史さん:2013/06/28(金) 23:18:21.16
小岩井は、明治24年に小野、岩崎、井上の頭をとって名付けた地名で、
それ以前にはない。
774日本@名無史さん:2013/06/29(土) 02:29:18.85
>>770
卑弥呼・台与の男弟である天皇の空位期間は有りだと思う。
775日本@名無史さん:2013/06/29(土) 05:44:33.26
>>770
天皇不在のケースはけっこう多い。
一番長いのは、14代・仲哀天皇が死んで、15代・応神天皇が即位するまでの69年間。
まあ、神功皇后摂政の期間となるわけだが。
776日本@名無史さん:2013/06/29(土) 08:06:29.18
>>767
東遷したからだよ
戦いもあったから東征でもいい
ヤマトタケルが更に東をまとめに行ったし
邪馬台国が全国政権に躍り出た瞬間だな
777日本@名無史さん:2013/06/29(土) 08:08:30.89
誤記
>>776>>769へのレス
778日本海ルート論者:2013/06/29(土) 15:54:19.05
久々。疲れるのにできるだけ軽く。
>>727前半
ですです。
環濠集落は防御施設として環濠を有する集落で、
防御の必要性が減ったことで、環濠が無くなっていく。
「交易関係」は利益分配が不均等であれば乱の要因とはなるけど、
原則的に敵対関係とは対極にある、友好関係と考えて良い。
だから、交易関係が拡大すれば、環濠集落の必要性は減少する。
一方で、銅鐸は共同所有物。
これはリベラルな社会構造が必要な訳で、
言い換えれば原始共和社会寄りというか、
皆で耕作し、皆で村を守る社会な訳です。
だから、準備が整えば、両方放棄される。
これは偶然じゃなく必然的にね。

ただほぼ同時期ってのは人的な契機があるだろうと。
準備が整ってる上で、ホイッスルを鳴らした誰かがいる訳です。
779日本海ルート論者:2013/06/29(土) 16:15:03.97
pcで打ち込むと楽だな〜

>>730
日本は大陸や半島より優れていたと思いますよ〜
倭人伝に描かれる日本は長寿で和やかで理想郷のようですし。
でもこれフィクションではない。
倭人の社会は、かなり法が厳しかったようで、
その論及を見れば、魏人の記述にリアリティを強く感じる。
初めて中原入りした高祖が三法にしたのだけ見ると、
法治よりも徳治の尊重とも感じられるけど、
基本中国は法治こそ文明国という思想があるしね。
ただ、でかい個人墓というイノベーションが
当時の日本にはなかった訳で、その吸収というのは
逆に文明人としての順応性を感じますね。
ついでに言うと、
倭人伝には刺青文化が形骸化してきていることを示す記述がある。
生活拠点が沿岸から内陸へ移り、主体が陸人となっていけば、
自然と刺青文化は消えていく。
個人的には刺青文化は好きで蛮風とも全く思わないんで残念ではありますが。
780日本@名無史さん:2013/06/29(土) 16:17:09.27
>>778
環濠集落は朝日遺跡のように防御設備が目立つものもあるが
防御だけではないとするのが現代の考古学の基本的な理解
そうではなく環濠内および環濠外との身分秩序の別を強調するためのものであったろう
さらにはその地域の拠点であることを強調する役割とかも

環濠は洪水を防ぎ、ゴミが捨てられ糞便が流されたりしていることも発掘からわかっている
小規模な環濠で中に集落をもたず貯蔵穴があって非常食のドングリ類が貯められているものもある
それに弥生時代全体を通して、環濠を持たない集落跡も多い
環濠=防御と見るのはわかりやすいが
それだけとは考えられない集落跡も多々発掘されており
一面的な見方をする考古学者は少ない
781日本海ルート論者:2013/06/29(土) 17:30:54.15
>>780
考古学は実証学であって、細かい所に目を向けすぎると、
誤差こそ事実とする間違った認識を持つようになってしまうと思いますよ。

メソポタミアの昔から、防御対象は都市民であって、都市の衛星的な農村と
そこに住む農民は防壁外に住む。そうでなきゃ防壁が大きくなって仕方ない。
つまり、防壁の有無は最初から、身分秩序の前提に成り立っている訳です。

環濠には洪水を防ぎ、ゴミが捨てられ糞便が流されていたとする。
なら、環濠が無くなった後で、それらの機能はどうなったのか。
元よりそれらの機能の為に、環濠が存在したという仮説は成り立ち難いでしょ。
ましてや、「環濠=防御ではない」と結論を出していたら、堂々巡りになる。
確かに常識を覆すのは世間的にキャッチーだけど、考古学がそれじゃ困ります。
定説がある。誤差が出る。定説を全否定する。新説が出る。誤差が出る(困)。

まず、環濠=防御がある。防御の必要が無くなったのに、まだ環濠がある。
そして、とうとう環濠が無くなった。

この変遷を説明することの方が重要じゃないですかね。
交易圏があるのに、なぜか環濠集落がある。それが論点だと思いますけどね。
そういう考古学上の論議が成されないようじゃ、困る。
782日本@名無史さん:2013/06/29(土) 17:45:25.31
>>781
実証学だから遺跡ごとに細かい差異を比較し常に考えを改めていく
実際に戦傷人骨が環濠の内外に見られない戦闘の痕跡のない遺跡も多くあるのだ
環濠=防御という一面的な考え方は2chで自説を広めるためには都合がいいだろうが
それ以上にはいかないだろうな

さてメソポタミアはともかく列島の環濠のルーツと考えられているのは現在の内蒙古自治区、
それから黄河中・下流域で日本で言えば縄文早期頃のものだ
これらは壕に基本的には水をたたえない
それとはまた別に長江の中流域あたりだったか壕に水を貯める環濠が発達していた
これらが北方ルートと半島ルートを通して列島に伝わったと考えられているが
自生のものもあっただろう
783日本@名無史さん:2013/06/29(土) 17:57:49.90
一つ面白い例を紹介しておこう
島根の田和山遺跡、これは遺跡保存について裁判になったので知ってる人もいるだろうが
弥生前期と考えられる環濠だが集落ではない
50m弱の丘の周辺に厳しい三重環濠を巡らしているが環濠内に集落はなく
どうやらある種の神殿があったらしい
石つぶてが約3000と銅剣型の石剣などが発掘された
石剣は実用に堪えるものではなく明らかな儀式用で
模擬戦闘を含む何らかの祭祀が行われていたとしか考えられない状況だ

http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/17481281.html

ちなみにこの遺跡の保存をめぐって反対派の市長と市議ら4人が
3ヶ月程度のうちに急死するという出来事があり
オカルト月刊誌で報道されたww
784日本海ルート論者:2013/06/29(土) 18:02:47.39
>>782
しばしお待ちを。先に2つ書き込んで夕食やら何やら(涙)
仮に日本の考古学を代表するのであれば、他国に失笑されない程度に、
環濠の機能と放棄の要因について論及を。


>>738
名文だと思いました。

要は、銅矛でも銅鐸でも何でも良いんですよね。
各国を結びつけるものがある。
その準備を経て古墳時代の統合がある。
個人的には社会構造の変遷の方が切り口としては組し易いけど、
宗教もその一つだと思う。確実に連続性があるでしょう。

例えば、銅鐸で言えば>>725後半にある埋める場所からの推測もできる。
山の頂上じゃない訳ですね。シャーマニズムって所からも、
山頂は神域で人が入り込めない地だったんじゃないかと想像する(山岳信仰)。
だから、人は山頂には入り込まず、山から神が降りてくるのを待つ。
山なら何でも、ってことはなくて、何となく崇高な特別な山ね。
(そういう山頂に迷い込む浮浪者もいる訳で、麓に下りてきたら、
特別な職につく。これ人外の存在。倭人伝の持衰も似たようなもんでしょ。
ギリシャにも同じような浮浪者がいるけど、要は生贄。
そりゃ共同体が面倒見る=共同所有するんだから、最後殺されても仕方なし)
でまあ、古墳ってのは人工の山な訳ですよ。これ何が重要って、
個人墓という社会構造の変化も勿論そうだけど、

「特別な山に縛られないで自立できる」訳です。
785日本海ルート論者:2013/06/29(土) 18:05:57.32
つづき。

例えば出雲に、九州に、他どこでも良いけど、特別な山があったとする。
そこから植民してコロニーを各地に作った人たちは、いつまでも下に見られる。
移住者たちの国がいくら大きくなっても、山のある母国の方が上になるから。
だから、三輪山の大物主みたいな、現地の山の格上げ作業が必要になる。
で、そういう特別な山を苦労して持つようになった畿内とかが自ら古墳を作り始めたら、
他の国は非常にやり易くなる。同じように古墳という山を作り出せば良い。
(後代、山と神は切り離されて、神が必要になれば、祠を創って分祀する。
○○神社とか、××神社とか、日本全国同じ名前の神社が作られていく訳です)

勿論、上記が全てではなく、そういう側面もあったという意味です。
一つの切り口で、社会構造の変遷やら何やらを説明し切るつもりは無いですよ。

ps.
>>729
>首長は自らの豪族居館内で祭祀を行うようになり、巨大古墳は集落統合
>のシンボルとして分散居住した各戸から見えていることが重要
というのには本当同意します。
786日本@名無史さん:2013/06/29(土) 18:15:06.40
これは自分の考えというより現在の考古学界の主流意見を紹介しているのだが
ただまあ所詮は考古屋の推測なのであてにならない部分も多いだろう
考古学は極めて学際的な分野であり、理化学系はもちろんだが
人類学や比較宗教学などの専門家に参入してもらいたいところ
それから経済学、社会学もだな
交易でモノがどこからどのように動いたかはつかめても
当時の交易のレートなどはまるで不明だ

しかし悲しいかな予算の潤沢な分野ではない
787日本@名無史さん:2013/06/29(土) 21:16:09.75
BS-TBS 天孫降臨の高千穂峡をON-AIR
788日本@名無史さん:2013/06/29(土) 21:16:13.61
>>783
八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を
神の子を宿した娘は神殿にこもって生むのだ
789日本海ルート論者:2013/06/29(土) 23:09:48.47
お待たせしました。スマホから。
>>782
言葉や文字というのは曖昧なものです。
「環濠=防御という一面的な考え方」は、
1 「環濠=防御+他機能」
2 「環濠=防御ではない(他に主機能がある)」
の2通りに取れる訳です。ですから、本来
は1か2かを表明する必要があるかと。
しかし、その表明がないので文感や
>>780の>「そうではなく(中略)あったろう」
「さらには〜かも」から察して、2だろう
と自分は捉えた訳です。
仮に1ならば相当失礼な書き方ですしね。

東京スカイツリーはランドマーク的機能を
持っている。でも、主機能は電波塔です。
江戸城は攻められたことがない。でも、主
機能は城という防御施設です。
自分の認識では、考古学で環濠集落の防御
性の否定が主流になったことはないです。
>>781のように変遷を論証する必要はある。
でも仮に今の主流が違うなら困りますね。
もう少し詳しく聞きたいところです。
790日本海ルート論者:2013/06/29(土) 23:25:18.28
続き。

南は水が潤沢だから水堀で、北は空堀。
空堀がどれだけ防御性があるのか、疑問に
思ったことがあります。今は一応解消。
カエサルのガリア戦記にあるものとか、
騎馬とか戦車を想定すれば意味あるかな?
戦車はまあ、会戦用だけど、周囲を回られ
て矢を打ち込まれるのを防げるかもと。
敵もね。別に外敵じゃなくても、犯罪者や
ら奴隷が逃げ出せば、賊になる。賊になら
ず自立できるほど甘い時代じゃないから、
都市を狙う。ローマの建国だって、ならず
者集団としか思えないしねえ。

もし、環濠集落が大陸からもたらされて
いたとするなら、他村を攻めるという文化
そのものを持って来たのも彼らということ
になるでしょうね。有難くない来訪者ですね。
791日本@名無史さん:2013/06/29(土) 23:27:57.85
>ならず者集団

いきなり勃興して小国家群を自身の配下に従えた邪馬台国にも同じ匂いを感じる
彼らが何処から来たのかは定かではないが
792日本@名無史さん:2013/06/29(土) 23:36:24.29
>>789
むろん外敵や害獣を防ぐための防御的性格は否定されるということはないが
これは遺跡一つ一つについて見ていく必要がある

まず環濠が現れたのは一部東北をのぞけば北部九州、福岡県が早く縄文晩期からあり
これは半島から伝播してきたものと考えられている
半島では環濠の内部に住むものと外部に住むものとの階級差が明確であり
福岡の早期の環濠集落である板付遺跡などでは二重環濠の内部と外部、さらに外壕の外に住むものという
身分差を明確にするための役割が大きかったと思われる(寺沢)

水稲耕作の伝播の速度に比して環濠が西日本に広まる速度は遅い
これはおそらく北部九州以外の地域では身分階層意識が未だに発達していなかったためではないか
しかしその後各地で首長権力が急速に拡大し、環濠集落も広まってゆく

そして人口の増加、耕地の拡充にともない戦争が始まり
各地で戦傷人骨などが発見されるようになるが
これと環濠の防御的機能を重ね合わせて戦争ー環濠という
短絡的な認識を持つ人は本職の考古学者では少ないだろう
また弥生末の環濠の解体についても戦争が収まったというより
首長権力の構造の変質という観点から語られることが多くなってきている
793日本@名無史さん:2013/06/29(土) 23:40:18.37
それから戦争については大陸からもたらされたと基本的には考えられているが
何も戦争をしたくてするわけではないし
人口増加とそれにともなう耕地の拡充ということとつながりがあるだろう
794日本海ルート論者:2013/06/29(土) 23:48:53.36
ああミス。ひどいなコレ(涙)
騎馬、戦車は殷周とかのイメージ。
ガリア戦記は逆茂木とかの有効性。
日本で騎馬、戦車とかじゃないです。
戦車の文化は日本には無いし、
騎馬遊牧民には結局有効なのは長城だし。
なんか文を短く切ったら、訳わかめ(涙)
795日本@名無史さん:2013/06/30(日) 00:00:50.10
初期の戦争は石の投げ合い弓の射かけ合いからスタートしたのではないかな
それが集落内の帰属意識のようなものが高まるにつれて白兵戦なども現れてくる
796日本海ルート論者:2013/06/30(日) 01:03:29.78
PCから。
>>792
防御的性格は否定しない訳ですね。ふむふむ。
噛み合せはし易いと思いますよ。
そもそも自分は大して大きな戦争なんて無かったと思っているし。

要するに弥生時代ってのは、皆で生産して、皆で守る社会。
しかも、国家がない。土着王だけ環濠やら柵の中で守られていたら、
誰がお前なんて守るものか!ってなるでしょ?ただ、それだけです。
銅鐸やら銅矛やら文化圏が色々ある。それはまだ区別があるってこと。
ただ弥生末期ぐらいになると準備が整ってきているから防御性が曖昧になる。
そして、古墳時代になれば、防御性は必要なくなる。
民は土着王のお陰だと言うし、土着王は俺の家をヨコセ!となる。
誤差は各地であるだろうけど、全体から見れば大体同じ時期に集中すると。
797日本@名無史さん:2013/06/30(日) 01:06:22.58
>>796
しかし古墳時代になって鉄製武器や鎧の出土は増えるんだよ
自分の脳内だけで考えては限界がある
古代史の理解は客観的な資料をいくつ咀嚼するかで
これがトンデモと学問の境目
798日本海ルート論者:2013/06/30(日) 01:20:37.87
>>796
俺の墓をヨコセ!に訂正しときます(涙)

>>797
覇権国家が生まれれば、そうなりますよ。

土着王の役割も変わっていく。
軍事的職能集団が必要となるしね。
畿内を中心とした連合体から、
畿内が支配する国家へと変わる訳で。
各地の土着王は基本平和ですけど、
畿内の覇王やら官僚の思惑次第では、
非もなく罰せられる。序列の再構築。
いきなりじゃなく折を見てチョコチョコと。
799日本@名無史さん:2013/06/30(日) 02:03:50.32
馬の利用としては二種類ある
馬の背に乗ったのが騎馬民族
馬に車を牽かせたのが黄河文明やギリシャ文明
秦の兵は騎乗していない、戦車に乗って弓を射た
後漢末から三国時代になってやっと北方騎馬民族の傭兵による騎兵が使われ始める
魏の使者は日本に馬はいないと伝えたが、騎兵など想像してはいけない
中国ですら馬を戦力とする時は騎馬民族の傭兵をもちいた
中国史上で強力な軍を持ち得た勢力は、内部に騎馬民族を抱えている場合が多い
つまり騎兵とは専業化された特殊部隊である
鐙(あぶみ)は馬に乗れない中国人が発明した
日本には戦車は入って来ていない
鐙が発明された頃、騎馬とセットで入って来たのだ
騎兵と言うよりは貴人の騎乗用である
馬の利用は調教技術と繁殖技術がセットで伴わなくてはいけない
日本で馬が使用され始めた頃、馬の技術を持った専門技術集団も渡来したのだろう
彼らが牧(まき)を開き、朝廷に馬を献上した
主に東日本、大牧などの地名に名残をのこす
日本では馬より先に水軍である、こちらがお家芸
日本列島を移動しようとすれば、数十キロごとに大河を渡る
陸を行っても結局渡しの舟が要る
いっそ海上を行った方がはやい
西海道、南海道、東海道などは海の道というのが本来かも知れない
日本の地形では海洋民族系が断然強い
山がちで照葉樹林の生い茂る地勢では馬は役に立たない
馬は草原の動物であり、用いても精々大陸の平原地形でなければ効果を発揮しない
日本列島を騎馬民族が征服するなど有り得ないのだ
800日本@名無史さん:2013/06/30(日) 10:40:52.18
→ 日本列島を騎馬民族が{馬力で}征服するなど有り得ないのだ
801日本海ルート論者:2013/06/30(日) 16:31:10.06
>>792さん いるかな?
ちと色々と調べてみたけど、
戦傷人骨と環濠集落との分布が必ずしも一致しない。
外土塁の存在
ここらから、環濠集落の機能について、意見があるということね。
なら、アバウトで良いから、結論を出したいかな。

>>786
考古学は予算の潤沢な分野ではない、というのはそうでしょう。
一方でかけられている予算は実際は少なくない。
なにせ、全国各地で発掘しているんだから。
博物館の維持費とかを含めたら、総予算は結構なもんでしょう。
その上で潤沢な予算を加えるというのは無理な話。
税金で潤沢な予算を得るというのは虫が良すぎる。
あとは、スポンサーをつけるってことですよね。
スポンサーをつけるのは大変、どこの世界でも同じだけど。
一方で、日本の弥生時代とかは文献がないから大変。
外国でもトロイとかは結局文献あってこその発見だし、
西欧でもローマ文献がない時代になると四苦八苦してる。
ただまあ、外土塁関連の文書をネットで読んだけど、、、
何とも焦りがないんだよなあ。お役所というか大学的というか。
答え出さないと、会社潰れる!って感じがない(笑)
802日本@名無史さん:2013/06/30(日) 16:40:04.99
海抜の高い所は環濠が早くに消えて、低い所は長く残ったイメージ

治水的な面の方が大きそう
803婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/30(日) 16:41:34.70
おりょ、なんかスレが進んでる。

いまさらだけど>>738>>784
俺は別に柳田信者じゃないけど、春に里に降りてきて秋に山に帰る
「田の神」は元は祖霊信仰らしいね。佐渡では今でも、田の神を
迎える榊のデザインが家々によって違うんだと。>>760で書いたように
銅鐸が稲作民の祭器だとすると、もともとは部族ごとに先祖を祀るための
アイテムだったのかなと。

これが鏡になると、専制っぽさがグツとあがる感じ。
804日本@名無史さん:2013/06/30(日) 16:44:19.23
銅鐸の時代にアンティークブームがあったんだよ
土に埋めて古色を出すというのは常套手段
805日本@名無史さん:2013/06/30(日) 16:45:18.68
>>801
博物館の予算などはあるけれども
全国の発掘のほとんどは開発にともなう緊急発掘で特に貴重と認められたものは残るが
おおかたは埋め戻しか記録して破壊となる
計画発掘なんてのはごくわずか
発掘の主体は地方公共団体や教育委員会だから現在の住民のケアが最重点で
現存の田地や家屋を立ち退かせての発掘などはまずできない

これが先端物理学などなら研究成果が産業や軍事に役立つため
膨大な予算の量子加速器がつくられたりもする
スポンサーはまずつかないだろう
これはいろいろ理由があるが一つには天皇陵などは発掘に反対する勢力があるからだ
最近天皇陵の立ち入り調査を宮内庁が認めたが、表に出ないところでたいへんな反発がある

あんたは自分が話して意味のある相手ではないようなのでレスはこれが最後
806日本海ルート論者:2013/06/30(日) 16:54:32.88
例えば、家を買う。
隣の家との境界にはステンレスの柵とかあって、
これが本当かなり重要。家持ちの人は凄く分かる話だと思いますが。

予算がもっとあったら、豪邸みたく塀を建てる。
これステータスが主目的なんだけど、
機能で言えば、やっぱ防御性と言わざるを得ないと思う。
デザイナーが入ったものは装飾に走ったものもあって、
防御性は形骸化する。これ時代にもよると思う。
平和なら守る必要はそんな無い訳だから、形骸化する。
個人的にはコレ、入植者のコロニーだと思うね。
守る必要があるから防御施設をつけたけど、
平和になったから形骸化した。北九州なら人種差もあるかもね。
要するに渡来人と先住民とを隔てる垣根とかね。
(垣根なら盛り土な訳で、土を掘るところに意味があるだろうけど。)
そう考えれば、西日本に伝播していく速度が緩やかなのにも意味がある。
多分、最初に環濠集落に住んだ人達は広域侵攻せず土着している。
そして、その集落形態のみが人を介して伝播しているんじゃないかな。
渡来人による東征はなかったってことね。

地域差と時代差、外土塁のある環濠に逆茂木とかがあったのか、
細かい資料がないから何とも言えないけど。
807日本@名無史さん:2013/06/30(日) 16:54:36.33
柳田國男か
この人の功罪は大きい
明治の時代に民俗学を学問として成り立たせるために
この人はその研究範囲から農村の性風俗と差別の問題を切り捨てた
これによって民俗学の論文は臭いものに蓋をした文学作品のようになってしまった面があるな
最近は差別の面から歴史を追った民俗学の流れも盛んになってきてはいるが
808日本海ルート論者:2013/06/30(日) 17:18:53.27
>>805
学生時代の知人に、
市町村職員になって発掘やってるのが沢山いるんで、
分かりますよ。

自分が言いたいのは、環濠集落の話だけで。
外土塁が防御性からは逆効果だから、
身分差を明確にする意図だった。
それだけで納得する人は多くないと思いますね。
2重3重と大掛かりな環濠を作る労力に見合う、
納得できる説明にまで漕ぎ着けないとダメでしょ。
せめて方向性まではね。
学会やら何やらあるって言うなら、
それこそココで書いたら良いと思うんです。
そうでなきゃ魅力を感じないと思うんだよなあ。
歴史好きって、潜在的にはかなり多いと思いますしね。
809日本@名無史さん:2013/06/30(日) 17:19:12.41
古代の宗教の理解は難しいので話半分と思って聞いてもらいたいが
縄文時代は精霊信仰、アニミズム的な要素が強かったと言われている
万物に霊性を認めるという形
また家族の埋葬事例などから祖霊信仰もあったのではないかとも言われる

弥生時代になって万物の霊の中でも穀物の霊の地位が上がった
また水稲耕作にかかわりがある動物霊も尊重されたようで
銅鐸や絵画土器に見られるシカ、サギ、トンボなどは稲作に関係が深い
祖霊信仰も発展して、祖先の霊が穀霊に働きかけて豊作を成就させると考えられるようになる

さらに集落の統合が進み首長の権力が強くなると
偉大な首長の霊が祖霊をまとめる役割を持ち、集落の守り神的な存在となる
そして新しい首長は古墳の上で共飲共食の儀礼をして首長の霊を継承する
古墳時代になってからは首長は豪族居館において独自に祭祀を行うようになる
発掘結果からは導水に関する祭祀が多いようだ
ただこれは宗教でありながらも首長が一般民を支配する理由付けの装置のようなものでもある
810日本@名無史さん:2013/06/30(日) 17:26:16.84
もうひとつの流れとして
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡、これらは国産か舶載かで大きな議論があるが
それはひとまずおいて、弥生末から古墳初頭において
東王父、西王母などの神仙思想的な図柄が列島で好まれていたということは言えるだろう
この初期道教的なものをどう位置づけていくかは大きな課題である
考古学者の中にも初期道教が導入されていたとする人もいるが
はたしてどうか
811婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/30(日) 17:46:18.68
>>809
付け加えると、税制とも絡んでるよね。
初穂を神にささげて、その霊の加護を得た籾を翌年に播くことによって
豊作を得る。その効果を保証するために、神の力を強める必要があると。

二月の祈年祭における中臣氏の祝詞。
「皇神等の前に申さく、今年二月に御年初めたまはんとして、皇御孫の命のうづの
幣帛を、朝日の豊逆登りに、称辞竟えまつらく、と宣る。
…皇神等の依さしまつらん奥つ御年を、手肱に水沫かき垂り、向股に泥かき寄せ
千穎八百穎に奉り置きて、…」
812日本@名無史さん:2013/06/30(日) 18:02:13.76
>>811
唐松山がそういう考え方をしていたな
最近みかけないが

自分としては道教の教義が一般民に完全に受け入れられていたとは思えない
道教はその元となった神仙思想もそうだが
個人救済の現世利益という側面が強い
三角縁鏡の銘文を見ても、長生長命、子孫繁栄、位が上がるといったものが多いが
はたして当時の列島が個人の現世利益を願うような社会の発達段階にあったか
かなり疑問である
813婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/30(日) 18:49:24.22
>>812
念のために書いとくけど、別人だからなw

道教というか神仙思想は、東アジアに共通の基盤宗教みたいなもんの
気がする。もちろん朝鮮半島にも日本列島にも別の民族宗教が
あったわけだけど、たとえば日本の神道と道教とは分離しがたい
ほどに交じり合っているよね。OSで言えばカーネルのレベルで
混ざってる感じ。後にやってきた普遍宗教である仏教とはファイルシステムの
統合といったレベル。

なお、個の救済という機能に関しては、やはり仏教まで待たなければ
いけなかったという見方に賛成だな。(道教の影響を受けた)日本の神々に
個の救済の機能がなかったからこそ、神々は自発的に仏教に帰依したと
(義江彰夫「神仏習合」岩波新書)。
814日本@名無史さん:2013/06/30(日) 19:04:30.59
>>813
本来の神道の形は不明だが現在言われる復古神道とは相当に別物だな
815日本海ルート論者:2013/06/30(日) 21:48:01.28
>>771
当時の外交状況は目まぐるしいですからねえ。
667年 唐、熊津都督府から「筑紫都督府」へ白村江の捕虜を送ってくる
670年 羅唐戦争勃発(鶏林州都督府、実質消滅)
671年 筑紫大宰府に名称変更?
676年 羅唐戦争、新羅勝利
686年 天武没
継体持統から名を貰ってることからも持統天皇の評価は格別ですかね。

>>783
石つぶてが約3000と銅剣型の石剣って。
模擬戦闘も確かに有り得そうな感じ。
場所も出雲の(海から行くと)思い切り懐だし。
てか、画像検索した時の景観図が凄いもんな〜
弥生時代のSASUKEかと。クリアできないでしょコレ(笑)
真相が分かり難いだけに、景観図は分かり易くてイイ。
作った人ナイス!
816日本海ルート論者:2013/06/30(日) 22:20:25.36
>>799
名文。全面的に同意します。
騎馬遊牧民は滅茶苦茶強いと思うけど、
日本列島を征服することはないと思いますね。
むしろ、渡海してこようとも思わないでしょうし。
船に10匹乗せたとして、10艘で100匹。100艘で1000匹。
女子ども乗せて、テント乗せて、挙句に牧草が。山川森ばっかだし。
>日本列島を騎馬民族が{馬力で}征服するなど有り得ないのだ
全く異論なしです。同様に、
>日本の地形では海洋民族系が断然強い
も、まるで異論なしです。

海洋民族系の移動速度、伝播距離は桁違いかと。
無論、海やら河川沿いやら、水辺限定ですけど、
日本の地形は水だらけですからねえ。
内陸浸透していく気があれば別ですけど、
基本漁民だろうから、魚を売る相手、交易対象を探して、
港を開拓しながらネットワークを広げていったと思います。
後代には内陸民から押し出されることもあっただろうけど、
そこは手堅く土着化して、職能集団として生き抜いたんじゃないかと。
この人たちが各地方の横の繋がりを作る根っこの役回りをしてる、
そしてこの水繋がりのネットワークと内陸浸透との誤差が、
日本の成り立ちを上手く説明してくれるんじゃないかなあとか思います。
817日本海ルート論者:2013/06/30(日) 22:54:50.54
>>802
治水は排水かな。
治水というとどうしてもドーラビーラを思い出してしまう(恥)
http://www.sgiquarterly.org/assets/images/Apr2002/8c.jpg
なんかスケールが桁違いだけど。イメージって怖い。

環濠もどうしてもアレシアの戦いを連想しちゃう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
これもスケールが妙にデカイ(恥)

ただまあ、ローマ兵とかって戦う前にまず陣営地を作る。
作っておけば負けた時に逃げ込めて大敗する確率が減るから。
環濠集落やら高地性集落もそういう連中が作ってる気がするんだよなあ。
まあ、作る以上は大抵負けないんだろうけど。相手が作ってないんだし。
負けないなら作る意味ないだろ!って突っ込みが通用すりゃイイけど、
そういう輩じゃない気がするんだよなあ。負けられないから作る訳で。
仮に渡来人なら陸人系だし。陸人系なら、どうやって渡海したか不明だけど、
母国には戻れないんだろうしね。戻る気あるなら、対馬にもある筈でね。
で。この連中が持ち込んだものは、旧来土着王も真似るでしょうね。
そういうギラギラした感じが銅鐸圏にはあるし、銅鐸圏は逆にノドカ。
イメージだけどねえ。
818日本@名無史さん:2013/06/30(日) 22:59:46.26
竪穴式住居は、雨が振って地下水面が上がると水が湧きでてしまう。
それで、周囲に排水用の溝を掘って排水したのが始まりだろう。
だから、基本は空堀。水を貯めたら、その水が染みこんで、
住居が洪水になる。

やがて、「ついでに」防御の役目も持つようになる。
819日本海ルート論者:2013/06/30(日) 23:25:53.54
日本の宗教は案外偶像化していないですよねえ。
それこそ井戸の神とかカマドの神とか、そういう像が沢山あっても良いのに。
なんとも精神的というか言霊、依魂。生霊とかもある訳で。
弥生期はやっぱ豊作、初穂の祭りは欠かせないでしょうねえ。
皆で拝んで、皆で祝う。
>>809さんのには前面同意。
その中の銅鐸や絵画土器に見られるシカ、サギ、トンボなんかは
グッと心に響いた気がしますよ。絵だと文字読めなくても分かるし。

そういう共同祭祀から古墳のような個人墓の時代に移るには、
土着王たちに対する英雄崇拝の時期が挿入されていると思います。
それを担う重要アイテムが鏡だったんじゃないかなあ。
巨大な銅鐸は共同祭祀の目玉となり易い一方で、重くて持てない。
鏡は持てるし、光と墓を利用すれば、個人崇拝にもって行きやすいかと。
英雄崇拝は武力と直結させるのが一番早いから、
普段は武具をまとって人外の存在、現世の守り神と化したんじゃないかなあ。
viva la vidaの「誰が王になどなりたいものか」への道ですがね。
無論、現世の守り神には、賊の征伐以外に、治水やら交易もあったでしょう。

そう言えば、婆さん銅鐸の音はyoutubeで。割と普通。銅っぽい。
これ青磁の聞きたかったなあ。まあ青磁だったら祭祀方法も全然違っただろうけど。
銅鐸を土中に埋めるのは、緑青と関係あると思うなあ。
820日本海ルート論者:2013/06/30(日) 23:54:32.91
>>818
なるほど〜。単純明快。
つまり、居住集中における公共排水施設な訳ですね。
しかも、特権階級向け。
で、定期的にやり直すから外面に土を盛る。
家で区別していくから、貴族階級ができて、
血が尊重されていくという具合かな。

で、環濠集落が無くなっていくには、
そもそもの家の構造変化や、居住集中がなくなる、
或いは、排水構造なり排水請負業の存在が出てくる?
821日本@名無史さん:2013/07/01(月) 08:18:58.48
環濠集落も、吉野ヶ里みたいになれば特権階級の住居でしょうが、
佐賀市大和町だけで環濠集落が6箇所見つかっています。
おそらくはもっと存在することでしょう。

そういう小規模の環濠集落は、ただ単に村の集落という程度のものでしょう。

その後、集落に入りきれなくて、外に作られた住居も多数あるので、
階級があった可能性はありますが、特権といえるほどの
階級差があったような感覚ではありませんね。
822日本海ルート論者:2013/07/01(月) 21:35:43.68
ふむふむ。これは良い例示、助かります。

大規模なものは言うなれば「環濠都市」で
都市機能として排水以外に防御性が付与さ
れる。市もできるでしょうし、とできる。
こっちはまあ、面白味はあまりない。

その前段階とも言える、小規模の、
言うなれば「環濠村落」が面白い。
時を経て、集落に入り切れない外住居が多
数できる。人口増加かな。
でも、人口増加しても環濠を広げない。
これは不思議ですね。排水の必要は内も外
も同じ筈なのに。それが身分差と言えば、
そうでしょうが、なぜだろう。
土壌の新旧?居住集中度の差もあるかな。
この村落が更に壕を増やしていくのなら、
何の問題もないのですが。
823日本@名無史さん:2013/07/01(月) 21:50:16.39
第二拡張工事、第三拡張工事と、
既存の環濠集落を拡張しているところもあるようですよ。
824日本海ルート論者:2013/07/01(月) 21:54:56.04
そうですか。それなら安心です。
いつか環濠都市になって欲しいなあ。

そうか。弥生の初めには、都市国家など、
日本のどこにもないのダ、とかシミジミ。
825日本海ルート論者:2013/07/01(月) 22:10:43.88
ん?ああ、拡張ですか。
環壕を増やすのではなく、大きくするんですね。
それなら、皆で耕し皆で守れますねえ。
すると、部族集落ではない訳か良かった。
(いや部族じゃないってことでなく、分家
を押し出す血の重ね方をする集落とも一時
は思ってみたのです)
826日本@名無史さん:2013/07/01(月) 23:55:47.66
都市とは文物の交流スポットだと言えるが
環濠集落に他と交流した形跡はあまり無いのでは
むしろ閉鎖的だと思うけど
827日本@名無史さん:2013/07/02(火) 06:27:44.79
まあ、そんなに難しく考えることもないのでは。
828日本海ルート論者:2013/07/02(火) 21:17:01.84
>>826
ふむふむ。
吉野ヶ里や池上曽根などはそうでもないよ
うですが、興味深いですね。
そのように思われる環濠集落群には、
なにか傾向的なものがあるのでしょうか。
時代、地域、規模、内陸・海川沿いなどの
829日本海ルート論者:2013/07/02(火) 22:58:56.83
>>827
環濠集落は結構面白いかも知れないとノリノリ(照)。
元々、弥生に大戦争無しが持論なんで、
防御性のない環濠の方が都合は良いんですが、
これは切り離せないと思う。ただ事実は違うかも。

それより興味あるのは環濠集落をモデルとすることで、
集落の拡大や社会構造を推し量る方法が一つ増えるかもと。
環濠集落は時代だけで言えば弥生の初めからありますから。
推移を量り易いかもな〜って。

付け加えると、
矢は平行には飛ばず上から降ってくる訳で、
外土塁は全然利敵にならないと思います。
面白味を感じていなかったら、これで終わりですが、
それじゃ今までと同じで、糸口を増やせないなあと。
830日本@名無史さん:2013/07/02(火) 23:27:38.84
マンション建てるために埋められるけど
福岡市の西、前原に近いとこにある五郎江遺跡の環濠もかなりの規模
近くを流れる瑞梅寺川からはちょっと離れてるな
内陸にあるが海は見える位置かな
伊都国が建国される前段階での中心集落ではなかったかという感じもする
831婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/02(火) 23:28:46.23
そういや、最近うちの近所(新潟県上越市)でも弥生後期−古墳時代前期の
環濠集落(釜蓋遺跡)が発掘されたんだが、建物が焼けた状態で、倉庫の
焼け跡からは炭化した米も見つかった。

火事を契機に放棄したのか、あるいは襲撃されて生口・奴婢として連れ去られたのか
現時点では不明だけど、水田のインフラ整備にかかるコストを考えたら、
おそらく後者じゃないかと想像する。
特に根拠はないんだけど、なんか弥生時代って、けっこう殺伐としてた気がするんだよね。

それはさておき、>>819
おお、ありがとう。小さいせいか、けっこう澄んだ音なのね。
ガランゴロンじゃなくて、ちょっとがかkりw
832日本@名無史さん:2013/07/02(火) 23:50:32.88
弥生時代はやはり殺伐としてただろうね。
833日本海ルート論者:2013/07/03(水) 01:04:36.05
>>830さん
前段階の中心集落という説はあり得そう。
今宿小ならfloodmapの3mでは完全に海岸
沿い。1mでもほぼ同じなので舟の往来に
足る水深として十分と言えそうです。
半農半漁っぽいので、人口増加に伴って新
しい集落を海岸沿いに作るか、内陸に向か
うかの選択がある訳ですが、これは周囲の
データ次第ですね。近くにより古い環濠集
落があれば、そこから移動してきたか。
より新しいのがあるなら、親子集落かも。
移動後に人口減ってるなら行き先は新拠点

中途半端ですが寝ます。また明日(涙)
834日本@名無史さん:2013/07/03(水) 01:19:36.56
環濠が防衛設備だと考える人は籠城戦を想定しているのかな。
籠城は負け戦の終盤戦だよ。
攻められて囲まれているんだから。
ヨーロッパの中世都市がなぜ城壁で守りを固めていたか?
答え、守るべき財産が中にあったから。
教会や領主館をはじめ町づくりには多くの資産が投じられている。
領民にとって治安が保障されるのは壁の中だけ、そのメリットを得るために中の住民や市を利用する商人は税を払う。
つまり城壁都市そのものが儲けを生む装置であったからこそ、奪われまいと益々防備を固めたわけだ。
はたして弥生の環濠集落は?
835日本@名無史さん:2013/07/03(水) 01:49:24.27
1年分の食い物を奪われたら飢え死にするじゃん
今の時代にだってチンピラやホームレスや泥棒がいるんだから昔だっていたでしょ
国と国との戦争は滅多になかっただろうがコソ泥とか日常茶飯事じゃないの
おまわりさんがいない時代なんだし
836日本@名無史さん:2013/07/03(水) 02:32:14.92
不盗竊少諍訟
盗みはせず訴訟は少ないなら防御設備としての環濠の役割は低下
近隣の集落を襲ったりできる時代は過ぎた
やれば厳罰
治安維持の裏付けになる軍事力を持っていた邪馬台国
卑弥呼の居所には宮室樓觀城柵を設けているが
837日本@名無史さん:2013/07/03(水) 16:32:15.17
そもそも邪馬台国っていくつの国の連合体だったんだ?
今のロシア(ロシア連邦)や旧ソ連(ソビエト連邦)みたいに
いくつもの国が連合しているんだろ、それともアメリカ(アメリカ合衆国)みたいに合州なのか?
邪馬台国が本国として属国が大量に周辺にあるんだろ。
ロシアで言うところの、ロシア共和国が本国でサハ共和国(マンモスが発見された)がロシア連邦内部にあるみたいな感じか。
この国は邪馬台国連邦の味方、この国は邪馬台国の敵と陣営を記せばわかりやすいんだけどね。
国力がどれぐらいかとか
838日本@名無史さん:2013/07/03(水) 16:45:25.77
銅鐸文明を銅矛文明が滅ぼしたとされているけど
当時は銅はレアメタルやレアアースで希少金属や希土類に他ならないわけで
いくら文明が違っても加熱の燃料は苦労しないだろうし技術力は一緒でも
材料の銅が非常に少なく貴重なんだから
もし敵を滅ぼして手に入るなら、銅が手に入るなら敵の銅資源を奪い取るのが当然だよな
銅鐸を溶かして銅矛にするのが普通だよな
今ならエネルギーのほうが重要視されているけど。
敗戦で死んでも敵に渡すかという敗者側の焦土作戦の可能性もあるけど

アルミ缶なんて瓶みたいに水と洗剤で洗って再利用でリユースすればいいのに
わざわざ潰してリサイクルするぐらいだもんな、それぐらい技術の進化で銅の価値は下がったと言えるが
足尾銅山みたいに大量に取れるけど環境も汚染するというわけじゃないからな。
839日本@名無史さん:2013/07/03(水) 18:27:42.04
どっちにしても統一されてなかったら周りは敵だらけって発想は子供じみてるよ。
糸魚川の翡翠が九州に運ばれてる、逆に鉄は九州から運ばれてる。
云わずもがな内陸部への塩の流通、沿岸部への米の流通、そんなもん太古からある。
だから塩なしでは生きられない人間が海から離れた土地に住んで耕して来たんだろ。
他人は敵である前にまず交流の相手だよ。
逆にそう言う物流を支配できる人間が権力を持ち得るわな。
小さい権力は地域経済を支配するだろうし、大きい権力はそうした地域と地域の単位を束ねてネットワークを築くだろう。
その姿が30余國という言葉に現れている。
ネットワークを維持している絆としての道が、拠点間の距離や日程に現れている。
銅器から鉄器へと生産手段が変わって行くにつれ、日本がより大きなネットワークを必要としたと言うことだろうね。
稲作はどこででも出来るけど、鉄は半島経由でしか入らない。
邪馬台国が魏へ調貢したのも、鉄を入手するうえで他を圧倒する優位に立ちたかった為だろうし、結果として諸国は鉄のために服従せざるを得んわな。
それが当時の日本だよ。
840日本海ルート論者:2013/07/03(水) 20:51:56.99
>>830
つづき。
環濠都市は個体差はあったと思うけど、
水辺が多いのかな?
吉野ヶ里も朝日もfloodmapの3mだとそう。
水辺は交易民がいるし、補充も容易、内陸
には金ばらまけば和平を保てる。しかも、
海からは攻められ易いし(笑)
841日本海ルート論者:2013/07/03(水) 21:18:54.82
>>831 婆さん。
自分も後者だと思います。後方の斐太遺跡
へ逃げこんだかもですが。
農耕定住生活が始まるまでは、
「食物は他人に見つかる前に食べる」が
できたけど。腹減れば奪われるでしょね。
仮に同じ交易圏同士でも、あり得る訳で。
ここは弥生末以降だから、生産性は低くな
いと思うけど、糸魚川の東だから何とも。
越では西でも同じ感じなのかな?
当然、地域差もあったでしょうからね

しかしまあ、どうみても竪穴式住居って、
火に弱い構造。ヒモでも付ければ簡単に登
れて、矢は打ちやすそうだけど。松明投げ
られたらオワリかも。
米倉は、米ごと燃えたのかな?米を持ち出
した後で燃えてるんですかね?前者なら、
勿体無い話です。

巨大銅鐸はどうでしょうねえ。特に移行期
のものの音は自分も聞いてみたいです。
842日本海ルート論者:2013/07/03(水) 23:14:23.93
>>834さん
自分は「環濠集落って何だろう?」という感じですね。
防御性は無視できないと思うけど、
それは上記の答えにはならないかと。
仮に拠点と定義するなら、その分布で地図が作れるんですが、
規模の違いによる分類もないぐらいだから、
環濠集落というくくり自体に無理があるのかもなとか。
843日本@名無史さん:2013/07/04(木) 00:58:19.14
環濠集落が弥生期の普遍的な住居パターンだなんて出ていないのでは
見付かった例が少ないのに拡大解釈しすぎ
844日本@名無史さん:2013/07/04(木) 01:02:41.45
環濠のない集落のほうがはっきり多いだろ
845日本@名無史さん:2013/07/05(金) 00:01:03.48
キリスト教やユダヤ教の国々がエルサレムやローマを聖地とたたえるように、日本人であれば京都・奈良を日本の特別な都・聖地としてたたえる。

・日本仏教の総本山や本山も大半が京都・奈良、畿内に存在する。
ちなみに、日本仏教の聖地は高野山と比叡山である。

・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。
二十二社は畿内の神社から選ばれ、国家の重大事の時に朝廷から特別の奉幣を受けた。

・兵庫県淡路島の伊弉諾神宮には、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が祀られている。

・天皇陵も京都の泉涌寺など京都や奈良、近畿にそのほぼすべてが集中しており、歴代天皇が眠る畿内、近畿はまさに日本の聖地

・日本の世界遺産もその多くがこの地域に存在している。
846日本@名無史さん:2013/07/05(金) 02:04:39.05
聖地って昔に遡るほど当たり前だけど。
“東に良き地あり、往きて知らしむべし”と進言されて畿内にやって来たけど、それは道教によるものだし。
道教を敬った唐を模倣して平城京も建設した。
平安京はやはり風水によって選ばれた場所だし、その中核に仙人の末裔である天子様を住まわせている。
まさに京都は聖地であって、各地の神々・祖霊をまつる神社や菩提寺が集まる。
江戸時代の大名は、国本と江戸のほか京都にも菩提寺を持った。
現代の日本にも京都に分骨する風習を持つ。
847日本@名無史さん:2013/07/06(土) 09:44:37.59
test
848ぐったり満州:2013/07/06(土) 12:47:42.00
漸く書き込めるようになったようなので、とりあえず>>768-769に反論しておこう。

世主がそのような意味であり、召文大乱がそのような意味なら、
つまりは倭国大乱もそのような意味であり、各国が争っていたのではない。

日本は大和朝廷が治めていたのであり、
東北や九州の一部にまつろわぬ者がいたとしても、歴年無主だったわけではなく、
戦国時代のような状態にあったわけではない。

そもそも歴年無主というのは中国が倭を長年観察した上で書かれた言葉ではなく、
朝貢してきた倭人から聞いた倭の状態だと思われる。
で、日本には歴年無主という時代は無かったのだから、倭とは日本ではない。

しかし最近やたらとアクセス規制にひっかかる。五月以降で三回目だ。
849ぐったり満州:2013/07/06(土) 12:58:59.33
倭国大乱が、通説のような意味ではなく、単に王位継承を巡る王族間の争いにすぎないことは、
日本書紀の次のような記事によっても分かる。

是歲、高麗大亂。凡鬪死者二千餘。
百濟本記云、高麗、以正月丙午、立中夫人子爲王。年八歲。
狛王有三夫人。正夫人無子。中夫人生世子。其舅氏麁群也。小夫人生子。其舅氏細群也。
及狛王疾篤、細群・麁群、各欲立其夫人之子。故細群死者、二千餘人也。
850ぐったり満州:2013/07/06(土) 13:09:21.35
>>779
この男にも言っておきたいのだが、前方後円墳の発想を中国から得た、と
この男は考えているようだが、中国のどこに前方後円墳があるのか。

前方後円墳という日本独自の巨大な墳墓。
そんなものは中国にはないのに、その発想を中国から得たというその根拠は何なのか。

暴論以外の何物でもない。
日本人が中国人より劣っていたという史観の現れである。
851日本@名無史さん:2013/07/06(土) 17:26:07.00
「それでも邪馬台国は九州に有った」スレが無くなったということは、
九州説の人達は諦めたってことだな。
852日本@名無史さん:2013/07/06(土) 17:41:42.19
単に立てるのが面倒いんだろ
853日本@名無史さん:2013/07/06(土) 18:03:51.74
>>851
オレ立てられんかった。
ほかに立てるひとがいないようだから、お願いするわ。よろしく。
854日本@名無史さん:2013/07/06(土) 19:04:27.74
もともと、九州説を隔離するのが目的だったが、
九州説が常識になってきたんで、
とくに隔離する理由もなくなった。

畿内説もほぼ消滅したしな。
855日本@名無史さん:2013/07/06(土) 19:21:33.12
学会などで今のコンセンサスはどうなってるのですか?
支持してる人の割合みたいなのわかりますか?
1.畿内説
2.九州説(大和朝廷とは別)
3.九州説(東遷説)
4.九州南部説
5.九州王朝説
6.その他
856日本@名無史さん:2013/07/06(土) 19:46:26.33
>>855
俺は濃尾平野説だから何れにも属さない
そもそも史学なんてのは学問界の落ちこぼれがやってる訳で、
見落としてることが多々ある
そういうのをフォローしていくと濃尾平野説に落ち着く
857日本@名無史さん:2013/07/06(土) 20:15:54.09
九州説なんて今や2chのネタスレでしか存在出来ないからなw
858日本@名無史さん:2013/07/06(土) 21:29:15.93
859婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/06(土) 21:57:14.51
つか、いくつかある邪馬台国スレの棲み分けがわからん。
ひとつで良くね?

>>855
そもそもアカデミズムな学者さんの中で、邪馬台国専門家って
何人いるんかな?
860日本@名無史さん:2013/07/06(土) 22:26:36.47
>>858
グッドジョブ、おつかれー
861日本@名無史さん:2013/07/07(日) 13:32:34.45
660年(斉明6年)百済滅亡
663年(天智2年) 白村江の戦い
668年(天智7年)高句麗滅亡後
669年(天智8年) 10月16日藤原内大臣(中臣鎌足)が死去 
           郭務宗(宗は小が付く、以下同じ)はこの年にも来日
671年(天智10年)11月『大唐、郭務宗等二千余人を遣せり』

しかし、郭務宗一行は筑紫の半年間も滞在し、その間、日本国天皇と倭国王宛に2通の国書を送っている。
郭務宗の来日の目的は何か?連れてきた2000人は何者かという疑問に仮説を唱えたい。
この時期、日本に渡来した百済そのほかの国からの難民は、記紀に百済難民東国へ安置などの記事が残っている。
こういった難民とは別の人たち、つまり、朝鮮半島や中国本土にいた倭人を集団避難させたということだ。
今風にいえば、満州開拓団の引き上げ。

これで、大陸や半島にあった倭国の植民地(屯倉)はすべて消滅、大和朝廷の中でそれなりの地位を占めていた倭国が、
既得権を失い、事実上消滅したということだ。
862日本海ルート論者:2013/07/08(月) 01:55:07.71
仕事が忙しい(涙)

さて、環濠集落、ちと個人的まとめ。

排水機能:環濠の起源の説明にはなる。
でも消滅の説明にはならない。
防御性:垣根じゃなく堀ってのがミソ。
柵だけでなく、環壕まであえて持つ意味は
より距離を保つことによる放火防止かも。
防御施設なら念には念を入れたオプション。
高地と低地:高地の方が防御性が高い。
でもそれは山城と違う発想も必要。
要は、人が少ないんだから防御性が高い。
これ山岳地帯の洞穴から低地、川沿いへと
移動し、それ故に住居を発明し定住生活を
始めたという歴史に逆行する訳ね。
そりゃ山に住めば安全性は高いダロと。
個人的には高地性集落も同じ見方で、
人口集中し易い低地、しかも川沿いで生活の
利便性が高い所に住んでる連中こそ本当の富裕層。
ただ、富裕層が逃げ込み別荘を高地に作ることもあるか。

殺伐:古代はなにせ生産性が低いから(涙)
ただ、中国の春秋戦国で言えば、
日本の弥生は春秋で戦国ではないと思いますねえ(正確には古墳が春秋?)。
地方飢饉程度でムラの相攻伐は余裕に生じたかと。
国家がないから、七人の侍のようなことが日本中で起こる。
かと言って、覇権を目指すクニの影はない。
覇権国家が生まれたら戦国時代になるから殺伐になるだろうけど。
ああ、殺伐の定義・印象の違いだけかも(笑)
863日本海ルート論者:2013/07/08(月) 02:09:11.45
>>850
前方後円墳の発想は日本独自だと思いますよ。
中国は観念論に強い官僚ほど出世する。
算術に強いのは、単なる技術家扱い。
理屈っぽさのベクトルがギリシャローマと中国では、
まるで違う訳でルネサンス以降の西欧躍進は
個人的に物凄くうなずける所があるんだけど、
当時の日本はまだ中国輸入の観念論の
悪影響はあまり受けておらず、
だからこそ、中国系の技術家を上手く使い
こなしたと思いますねえ。
前方後円墳の主体は当然日本人ですよ。
発想も建築を命じたのも作ったのも。
効率性を高める技術家を使いこなしたのもそう。
864日本海ルート論者:2013/07/08(月) 02:53:44.52
>>861
このあたりは国際関係が複雑で各国の腹
芸、探り合いを推測して楽しめますね。
この前年670年には羅唐戦争。
白村江以降の郭務悰の出世ぶりが素敵。
865ぐったり満州:2013/07/08(月) 09:26:28.54
>国家がないから

おいおい、日本は紀元前660年から天皇家が支配しているのだ。
記紀を無視して勝手なことを書くな、馬鹿者。

お前らは倭人伝と考古学だけで物を考えるからダメなのだ。
日本が西暦200年に新羅を支配下に置いたということをよく考えてみろ。
竪穴住居に住んでいる原始人にそんなことができるか?
お前らは弥生時代をまるで原始時代のように思っているのである。
新羅出兵で神功皇后は沢山の船を造らせた。
木で船を作る技術があるなら木で家を作る技術もあるに決まっている。
つまり一般民衆も木の家に住んでいたのだ。
竪穴住居に住んでいる原始人ではないのだ。
こういうことをよく考えろ。
866日本@名無史さん:2013/07/08(月) 22:37:04.06
神武が大和へ出立した一百七十九萬二千四百七十餘年、
これをユリウス通日の10792470日とすると、西暦180年代になるんだよね
867ぐったり満州:2013/07/09(火) 09:04:59.11
そんなことは天孫降臨が西暦元年だと証明してから言え、ウスバカ。

まったくイライラする。中高生は来るな!
868日本@名無史さん:2013/07/09(火) 19:53:45.60
元々の記述が太歳記年法だったってことは日本書紀を見ればわかる
その太歳記年による記述を太陽太陰暦に変換する際にどういう手法を用いたんだろうね?
満州には訳ワカメだろうが
869訳ワカメ満州:2013/07/09(火) 21:56:34.43
おめーは訳ワカメの味噌汁呑んでろ(カラカラ)
870日本海ルート論者:2013/07/09(火) 23:32:35.60
スレの本流は他の方に任せて、ちとスレチ。PCから長文。
>>861さん
671年の2000人は抑留者引渡しには同意。強制抑留者で捕虜の類かと。
既にご存知かと思いますが、袮軍墓誌。袮軍はつまり、書紀の注にある
「等というのは右戎衞郎上柱国百済禰軍(と)朝散太夫柱国郭務悰」。
上柱国より下の柱国である郭務悰がなぜ倭唐交渉で一貫して登場したか?
それは袮軍と同じ旧百済人であり、かつ倭語も使える外交技能からかと。
そして、多分一番困難な任務は旧百済王家の引渡し交渉だったと思います。
自国を頼った亡命者を敵国に渡すことは国家として到底受け入れ難い訳で。
ましてや660百済滅亡、熊津都督府設置。663白村江で唐・新羅に敗北。
667筑紫都督府で倭人捕虜引渡し。668高句麗滅亡、安東都護府設置。
その上、唐は同盟相手の新羅を鶏林大都督府とする。この流れの中では無理。
前は百済と新羅の利権を高句麗と争ってた。今やその国々は全て唐の支配下。
白村江はあくまで代理戦争。倭地での戦争ではなく、唐の東の大国は倭だけ。
大宰府を都督府と自ら改名しながら、戦争になろうと百済王家は渡せない。
渡せば、自動的に、大国の地位も国家の主体も失う「大敗北」となるから。
筑紫君らが捕虜のまま死のうと国家としては無理。捕虜達も理解してたかと。
670羅唐戦争開始。多分この時、都督府は大宰府に戻り、国号も多分日本へ。
671新羅、旧百済地域を占領。10月には唐の水軍が新羅水軍に敗れる。
そして、671年11月に筑紫君薩野馬ら4人が唐から来て、郭務悰ら総計2000人
が対馬の手前で待っていると伝えに来る。全抑留者引渡しという最後のカー
ドを切っても止む無しの状況。なにせ唐本土から来たとは考えられないタイ
ミング。多分、彼らは百済の泗沘城にいて、新羅軍から逃げてきたかと。
そして、長年の交渉相手の天智が死ねば、もう郭務悰らは帰国するしかない。
でも、唐と日本は敵対関係にはならなくなった。
私見ですがそういう話だと思ってます。参考になるか怪しいですが。

新羅が泗沘城を落とし設置したのが所夫里州。「ソフリ」。スレ戻るかな。
871訳ワカメ満州:2013/07/10(水) 10:48:22.59
禰軍。初めて聞くのでネットで調べてみた。百済人の名前か。
ところで禰軍墓誌に次のような記述がある。

日本餘噍據扶桑以逋誅

日本の餘噍が扶桑に據り、以て誅を逋る、と読むのか。
これを見ても扶桑が日本ではないことが分かる。
扶桑とはおそらく沿海州方面を謂うのである。
872満州:2013/07/10(水) 23:13:08.08
満州の歴史余話 泗沘とはどこか。

通説では扶余とされている。しかしネット史では泗沘水を礼成江、
所夫里を豊コ(北朝鮮開城市豊徳郡)としている。

しかしこれはどちらも間違いである。泗沘は開城市より北にあったのである。
熊津は泗沘より北であるから、熊津も開城市よりずっと北にあったのである。
ちなみにネット史で熊津がどこに比定されているかといえば三箇所ある。
1 坡州臨津
2 坡州市長湍郡
3 平安道三登
つまり泗沘や熊津がどこであったかさえ分かっていないのである。
873日本@名無史さん:2013/07/10(水) 23:17:14.17
そうかな?
俺は、倭は日本にも扶桑にも朝鮮半島にも拠点があったと思う。
要するに、ローマ帝国が地中海沿岸各地に衛星都市と作っていったように、
倭国も日本海岸各地に拠点となる湊町を建設し倭人を住まわせていた海洋国家だと思う。
白村江の戦いに敗れ、海外の拠点をほとんど失ったことで倭は事実上消滅した。
倭王は天皇家と血縁関係を結んで生き長らえた。
そして、最後の倭王が・・・
874満州:2013/07/10(水) 23:21:52.44
ちなみに雄略紀に、百済に久麻那利の地を与えたとあり、
久麻那利とは熊津であることが韓史と照合すれば分かる。
とすると坡州臨津や長湍あるいは平安道三登は倭の領土だったということになるのである。

どうだ、少しは驚いたか。
韓史を研究すればこういう重大なことが分かってくるのだ。
卑弥呼は朝鮮にいたというのが冗談ではないと分かってくるのだ。
875満州:2013/07/10(水) 23:28:51.88
>俺は、倭は日本にも扶桑にも朝鮮半島にも拠点があったと思う。

おめーは偉えど。けっぱって勉強しろや。
876日本@名無史さん:2013/07/11(木) 01:12:50.50
>>871
白村江の戦いに敗れた後、水城を築いて防衛に当るわけだから、
それをこの文と照らせば、扶桑は水城が築かれた九州北部ということになる。
つまり、日本国と扶桑国の関係は、
倭国と邪馬臺國や伊都國などの関係と同じではないかな。
倭国は30国の総称で、そのなかに邪馬臺國などの国がある。
同様に、日本のなかに幾つかの国があり、その一つが扶桑国ということ。
877日本@名無史さん:2013/07/11(木) 03:49:17.36
満州は夢幻如
878日本@名無史さん:2013/07/11(木) 08:11:31.93
夢幻如は働き者だったからなあ
満州は暇々爺だしな
879満州:2013/07/11(木) 08:44:41.49
>>876
水城が築かれるのはもっと後の話だべ。
扶桑が九州北部なんつー説は一つもねーべ。

もそっと勉強しろや、お兄たんw
880日本@名無史さん:2013/07/11(木) 09:12:42.52
>>879
白村江の敗戦 663年
大宰府に水城を築く 664年
禰軍死去 禰軍墓誌 678年

この年代に何か問題あるの?

>扶桑が九州北部なんつー説は一つもねーべ。

満州がどうの卑弥呼が朝鮮にどうのと、一つもねー説を唱えてる男が何を言うwww
禰軍墓誌の全文を読まないとなんとも言えないけれど、
文脈次第では、扶桑が大宰府周辺である可能性が出てきたってことだろう。
881日本@名無史さん:2013/07/11(木) 10:30:18.79
水城の木樋のC14年代では、西暦400年から430年と、
5世紀初頭となっている。

水城は何回かの改築が行われている形跡があり、
内部に埋まっている古い痕跡を古水城と呼ぶ。

この木樋は太宰府観世音寺で古くから保管されてきたもので
古水城のものと推測されている。

福岡県小郡市の九州歴史資料館に展示されており、
いまでも若干の木の匂いがする。
882日本@名無史さん:2013/07/11(木) 10:41:33.44
海上保安庁の巡視船「みずき」は
奄美沖で北朝鮮の工作船を自沈に追い込んだり
尖閣沖で中国漁船に体当たりされたり活躍が良く知られている「奇跡の巡視船」
その名のごとく、支那や朝鮮からの侵略から日本を守ってくれている一隻
883満州:2013/07/11(木) 12:29:22.11
>>880
據扶桑以逋誅
つーのは扶桑に拠って抵抗した、つーことだど。
日本に帰還した兵のことではねーど。

もそっと勉強しろや、お兄たんw
884日本@名無史さん:2013/07/11(木) 16:15:56.90
>>883
説文その他によれば、「逋、亡也」
廣雅「逋、竄也」
逋は抵抗したんではなくて、のがれた・かくれた。

據は、「固く守る」
餘噍は「生き残り」

「抵抗した」のと「逃れた・隠れた」のでは、ずいぶん違う。
據扶桑以逋誅という表現は、
白村江で負けて、唐の攻撃範囲の外に逃れ、
なおかつ水城を築いて固く守ったという状況と
ぴったり一致するように思えるよ。
まあ、全文を読まないと憶測の域を出ないけれどね。
885満州:2013/07/11(木) 16:53:47.99
>>884
おめーは文章理解力つーものがねーど。
逋誅つーのは唐から見た表現だべ。
日本餘噍は抵抗したけんど、中国人は、
抵抗したとは書かずに逋誅と書くのだべさ。
それが中華意識つーもんだべ。
中国文献を読むときにゃー、そげんこつを注意して読まんといけんとよ。

それからよ、日本餘噍が逋誅したのは660年のことらしいど。
660年にはまだ水城はできてねーど(カラカラ)
http://www.d3.dion.ne.jp/~mkpo/02.pdf
886日本@名無史さん:2013/07/11(木) 22:01:08.98
>>885
>抵抗したとは書かずに逋誅と書くのだべさ。

抵抗したのなら、叛とか抗とか書く。現に旧唐書や新唐書はそのように書いてある。
やはり逋は、抵抗したのとは意味が違う。

>それからよ、日本餘噍が逋誅したのは660年のことらしいど。

紹介してくれたページの記述が正しければ、660年のことだね。
そして、「日本」は国号ではなく「東の方」という方角のことで、
「餘噍」は百済の君臣の残族で「扶桑」が日本のことで、
「時に、東方にいた百済の王族やその臣下達は、日本に守られ、罰をのがれた。」
という訳になるという主張だね。
結局、>>871
>これを見ても扶桑が日本ではないことが分かる。
のように、安易には結論付けられないことが分かるね。
何をいうにも全文を読まないとね。
887満州:2013/07/11(木) 23:19:21.88
おめーは未熟だなや。
日本餘噍が頑強な抵抗を続けて、時には唐が負けることがあっても、
中国人は逋誅と書くのさ。

それからそのサイトの男の結論は間違いなのさ。
その男もあまり頭の良い学者じゃねーのさ。
888日本@名無史さん:2013/07/12(金) 01:59:46.72
>>887
日夲餘噍拠扶桑以逋、風谷遺甿負盤桃而阻固。

遺甿は遺民ということだから、
日本餘噍と風谷遺甿
扶桑と盤桃が対になってるね。
風谷って何かわかる?
盤桃って蟠桃のことかなあ。
889風の中のゴキブリ:2013/07/12(金) 02:27:52.37
満州は夢幻如
890夢幻如満州:2013/07/12(金) 09:21:30.32
風谷も盤桃も何のことか分らないが、丹念に調べれば分ると思う。
当てずっぽうで言うと、風谷は国名、盤桃は山岳の地名だろう。

そもそも拠というのは、そこを拠点にして抵抗するというニュアンスを含んでいるのであって、
単に扶桑に逃げたのなら拠という語は使用しない。
日本に逃げ帰らず満鮮に留まって抵抗した倭兵がいたわけで、
その倭兵が拠点としたのが扶桑というわけである。
891日本@名無史さん:2013/07/13(土) 13:54:11.69
漢や魏からみたら朝鮮半島中部以南は全部倭に見える
だからいくら里程をたどったって九州や畿内に邪馬台国なんて
ありゃしない
帯方や楽浪から半島を里程通りに辿ってみろ
また当時使いを送っていたという事は、倭はすでに漢字を知っていたし、
言葉も話せる奴もいたというアタリマエのことが、なぜ解からんのか?
だから韓国や中国から、歴史をちゃんと認識しろやと言われるのだ
全ては歴史学などという似非学問を専門にする連中がいるのがいかん
892日本@名無史さん:2013/07/13(土) 14:17:31.09
前方後円墳などから一片の漢字も出ないのがおかしい
時代を下げるほどおかしくなる
893日本@名無史さん:2013/07/13(土) 19:24:50.07
だから、邪馬台国の有力な候補になるような遺跡はまだ見つかっていない。近
畿説も九州説もその他説もすべてトンデモ説。さあ新しい遺跡を発掘せよ。
894日本@名無史さん:2013/07/13(土) 19:54:32.28
古墳から漢字は出まくってるぜ
ワカタケル剣や青銅鏡にな
知ってるからありがたく埋めたりしてるのだ
魏から漢字の旗だってもらってる、錦の御旗の始まりだ
895日本@名無史さん:2013/07/13(土) 22:59:26.88
日本で制作された金石文や銅鏡の銘は、
古い時代の隷書体の影響下で刻まれている。

また、書の基本的な手順を踏んでおらず、
参考にしたものや、帰化系中国人の書いた書から、

文字の理解できない職人が制作したため、
文字の体をなしていないものが多く見受けられる。

木簡の発掘は7世紀終盤のものが一番古い。
この頃には下級役人も扱えるレベルには広まっていた。

帰化人だけでなく倭国人が、文字を読み書きできるのは、
5世紀くらいの遡りが限度だろう。
896日本@名無史さん:2013/07/13(土) 23:01:16.42
文字資料の発掘数は弥生末〜古墳前期で見れば極めて少ない
897日本@名無史さん:2013/07/14(日) 03:12:51.42
倭人は出来事を記録・伝達する手段としての文字を持たない民族だったのか
渡来人に漢字を操ってもらう以前に、自国語を表記する手段が全くない民族ってよっぽどレベルが低いよ
その辺が記紀にのこる神代部分の曖昧さに現れているのかな
神話として口伝えで漠然と伝わってきたからああなのか
少なくとも漢字以前の伝承だとは言えるな
稲荷山鉄剣の銘文みたいに漢字があれば残したい記事を正確に残せたわけだから
898日本@名無史さん:2013/07/14(日) 09:07:46.36
891さんの言うように、卑弥呼の時代にすでに漢字が読める者、書ける者が
いたはずだ。その痕跡を探し出さないと邪馬台国は見つからない。
899日本@名無史さん:2013/07/14(日) 09:12:35.66
卑弥呼の朝貢後、使訳通ずる国が30カ国となっているが
これらの国にはそれぞれ漢字を解する渡来人系の人がいただろう
900夢幻如満州:2013/07/14(日) 09:27:18.15
弘仁私記の一説に
開化天皇御宇大伽羅人帰化而以来既有文字 云々

開化天皇は在位BC158-BC98

>>899
だからその30カ国は日本のことではねーっつーの。
901日本@名無史さん:2013/07/14(日) 09:54:14.97
漢字という文字が伝わったのは帰化人によるものだったかもだけど
日本固有の文字はあったかも知れないよ
英語が伝わったのが幕末だって言っているようなもの
902日本@名無史さん:2013/07/14(日) 10:00:22.36
文字というのは秦の始皇帝がやったように統一しなければ各地でバラバラになるし
それほど各地に文字が広まってたのなら土器や木版に刻んだものが出てるはずだ
903日本@名無史さん:2013/07/14(日) 10:34:47.90
文字=帰化人
朝鮮半島北部は文字があって、中部以南倭には文字が5世紀までない
んなことあるかい!
発掘されないから、無かったというのは考古学の陥りやすい傾向だ
漢や魏に使いして、漢字を目にしても全く興味すら示さなかったのか?
んなことあるかい!
常識で考えったって、あるわけないだろう
朝鮮半島から帰化人によって文化が伝えられたなんて
本当に信じてるのか?
日本列島の歴史が4世紀まで不文明なだけだろう
904日本@名無史さん:2013/07/14(日) 11:55:39.82
>>890
対句なんだから、日本が国名なら風谷も国名ということになるけど、どうかなあ。
風谷国なんて聞いたことないから、国名じゃないかもしれない。
すると日本も国名じゃないということになる。
盤桃のほうも、「負う」っていうから山岳と思うのもわかるけど、
そうすると扶桑も山とか川とか自然の地形をさす言葉で、扶桑国のことではなくなるよ。

この文章の解釈は、まだ定まってないようだし、
これをもって日本と扶桑は別の国のことだとは、とても言えないよ。
905提灯持ち満州:2013/07/14(日) 12:58:11.06
風谷という地名は中国にはあるようである。盤桃は未調査。

北夢瑣言/卷十八
及宮車晏駕,存渥與劉皇後同奔太原。至風谷,為部下所殺…
晉書/卷055
既乃瓊巘層崚,金岸崥崹,右當風谷,左臨雲溪…
906提灯持ち満州:2013/07/14(日) 13:02:12.01
一件見つけた。

隋書/卷04

周發成文王之志。永監前載,屬當朕躬。
粵我有隋,誕膺靈命,兼三才而建極,一六合而為家。
提封所漸,細柳、盤桃之外,聲教爰暨,紫舌、黃枝之域,遠至邇安,罔不和會。
907日本海ルート論者:2013/07/14(日) 13:14:16.57
扶桑は国じゃないかと。以下、意訳。

(白村江の水戦で勝ってるから攻めろって?
その島がただの島ならやってますよの意味を込めて)
日本の生き残りどもは扶桑に立て籠もっている。
捕虜どもは堅牢でとても落とせないと強弁する。
そこでデイ公が登場です。
908日本@名無史さん:2013/07/15(月) 12:43:06.49
群馬県の多胡碑も栃木県の那須国造碑も宮城県の多賀城碑も渡来人の手によって建てられたもの。
それまで日本には文字はなかった。先進国の文化を知る者はあったと思われるが、その使用は厳しく禁止されていた。
日本は古来から言霊の国だから、言葉を文字にすると魂が奪われると恐れられたのだろう。
909日本@名無史さん:2013/07/15(月) 12:57:16.15
馬鹿言え、卑弥呼の鬼道は漢文が読めないとできない宗教だ。
910日本@名無史さん:2013/07/15(月) 13:27:02.35
へぇー、卑弥呼の鬼道の具体的な有り様が判っているの?。初耳だ。教えて。
911日本@名無史さん:2013/07/15(月) 14:32:13.61
へえ、漢文が読めないでどうやって太平道・五斗米道をやれるわけ?
912日本@名無史さん:2013/07/15(月) 15:10:08.57
卑弥呼の鬼道が太平道・五斗米道とは決まってないぞ。
913日本@名無史さん:2013/07/15(月) 15:19:37.62
三国志の同時代人が読んだら、「鬼道」といえば太平道・五斗米道以外にない。
914日本@名無史さん:2013/07/15(月) 15:24:42.50
誰も、遠い倭国に太平道・五斗米道が伝わっているなどと思いはせんよ。
915日本@名無史さん:2013/07/15(月) 15:32:49.58
魏や呉の人間が、海を越えて半島・列島までうろちょろしているので、
中国で爆発的に大流行した鬼道が列島に伝わって当然。
ちょうど明治維新以後のキリスト教布教のような状態。
916日本@名無史さん:2013/07/15(月) 15:46:44.22
>魏や呉の人間が、海を越えて半島・列島までうろちょろしているので

で、距離を間違えた、方角を間違えたっておかしくないかな。
917日本@名無史さん:2013/07/15(月) 16:20:42.91
時代は前後するかもしれぬが古代の鬼道にはいろいろあった
天師道・五斗米道・巫鬼道・太平道・道教
918日本@名無史さん:2013/07/15(月) 17:29:12.74
>>915
だな。
争い合っていた国々がなぜ一女子をたてることでまとまったのか。
卑弥呼は王統の正統な継承者ではなかったのではないか。
大陸から渡ってきた鬼道をバックにしていたからだというのは可能性のひとつとして充分考えられる。
919婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/15(月) 19:36:36.73
>>912とか>>913とか>>914とか>>917とか
俺も>>914に賛成。
広義の「鬼道」というのは、漢代以降のアカデミックな思想である
儒教から見て「なんか胡散臭いもの」くらいのもんだと思う。
倭人伝の「事鬼道 能惑衆」も、胡散臭さ全開の書き方だもんね。

ちなみに後漢書東夷伝の倭人の項では「鬼神の道に事え、
能く妖を以て衆を惑はす」と、胡散臭さ度が増しているw
920日本@名無史さん:2013/07/15(月) 19:55:03.04
北部九州は、仏教公伝以前の金属製仏像も出る。
中国由来の米も極めて古くから入っていた。
鬼道も当然、入っていたと考えるのが自然。
921日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:05:01.65
『三国志』中、「鬼道」という語がどの箇所で使われているかで考えないとね
922日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:18:07.90
>>915
明治政府は徳川幕府の政策を引き継いでキリスト教は禁教とした。しかし維新
の後押しをしたイギリス・アメリカなどが猛然と抗議し、やむを得ず明治6年
(だったかな)に禁教を廃止した。キリスト教側はそれから聖書の日本語訳を始
め明治10年ころより布教を開始した。けっして爆発的布教ではない。

卑弥呼の鬼道とは五斗米道などではなく、霊感占いのようなものだった可能性
が強い。
923日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:18:56.84
>>918
鬼道でまとまったと何故解釈できぬ
卑弥呼を倭王に任じておいて、その血筋の正統性について殆ど触れてない
しかも共立により鎮まったという、中国的な絶対王権の国からすれば脆弱すぎる根拠を卑弥呼の即位のいきさつとして挙げている
続く男王にしてもトヨにしても共立なのだ
国中が纏まる纏まらないと書いてある
強い王権、絶対的な王統ではないのだ
ローマ法王みたいな元老(枢機卿)による推任だった事を伺わせる
924婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/15(月) 20:24:50.41
>>921
たしかに。
「鬼道」「鬼神」は烏丸、馬韓、高句麗、弁辰あたりに出てくるけど、
弁辰のところの「ここの鬼神の祀り方はほかのところと違う」という
記述が手がかりになるのだ。
つまり、五斗米道や太平道などという特定の宗教を指した言葉ではないと。
925日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:28:35.05
>>922

鬼道が爆発的に広まったのは中国本土。
呉や魏の人間が時々半島や列島に出没していて、
交易でもしていれば、大流行中の中国鬼道の導入は自然。

キリスト教が帝国主義とともに「世界で」爆発していたのと、
江戸の初期に封じていたキリスト教が、再度日本に流入した
ことに異論はないだろう。この話、「明治の日本で爆発」したか
どうかは関係ない。別に卑弥呼が爆発的に鬼道を世界へ布教
したわけじゃない。
926日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:29:55.38
>>924

で「鬼道」が使われている箇所は見てみたの?4箇所
927日本@名無史さん:2013/07/15(月) 20:30:31.69
>>924

「今に生きている自分にはそう感じられる」というのはダメだろう。
三国志の時代に中国人に「鬼道」といえば
「五斗米道や太平道などという特定の宗教を指した言葉」だよ。
928婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/15(月) 20:38:10.60
>>926
いや、見てない。
つか、いま手元には武光誠「邪馬台国と大和朝廷」しかないの。

>>927
いや、そしたら>>924に書いた弁辰伝の記述は出てこん気がする。
ついでに書いとくと、>>919の魏志と後漢書の記述から、
「鬼神を祀る」=「鬼道」だということはわかるよね。
929日本@名無史さん:2013/07/16(火) 19:54:02.45
鬼に委ねる=魏
人が委ねる=倭
人と鬼=傀儡
930日本@名無史さん:2013/07/16(火) 20:03:44.97
邪の道は蛇
931日本@名無史さん:2013/07/16(火) 22:00:46.48
儒教以外はすべて鬼道。
特定の宗教や信仰を指すと勘違いしているのは相当のアホ。
932日本@名無史さん:2013/07/16(火) 22:29:31.10
当時の中国人が指す鬼道といえば、一連の特定宗教。
そうでなければ正史として真っ当に記述したことにならない。
933日本@名無史さん:2013/07/16(火) 22:40:51.98
焼き物して占うのが亀道
934日本@名無史さん:2013/07/17(水) 00:35:23.49
都合がわるくなると「正史だから」というが、はやっているね。
935日本@名無史さん:2013/07/17(水) 01:01:36.70
第唐帝国は道教の国である
唐に倣って建設した平城京も道教で選ばれた場所である
936日本@名無史さん:2013/07/18(木) 08:24:20.32
唐は隋と同じく鮮卑族の建てた帝国
元は蒙古族、清は女真族
なを、当時の儒教、道教、鬼道などは宗教ではない
思想、哲学であり、初期仏教などもそうである
937日本海ルート論者:2013/07/18(木) 23:45:06.82
毎度、流れと関係なし(汗)

「新月か満月の日=大潮」
「大潮の引き潮=昼と夜の12時頃」
「大潮の満ち潮=朝と夜の06時頃」

大潮の日、「朝の日本海」で満ち潮が引き
始めたらそれに乗って船を漕ぎ出す。
(時間は朝の6時過ぎ。方角は北向き)
かなり漕ぐと眼前に黒い海が見えてくる。
海中の川のように左から右へ流れている。
境目をキープしながら流れに沿って漕ぐ。
(対馬海流に乗る。船の方角は東向き)
そうやって漕ぐと初め太陽が右前にある。
太陽が更に傾きついに右側面まで来たら、
次は太陽に向かって漕いで黒い海を出る。
(東向きの船の右側面は南。時間は昼頃)
太陽に向かって漕ぐ内に満ち潮が強まる。
満ち潮に沿って漕ぎ陸が見えたら一安心。
(12時過ぎから引き潮が満ち潮に変わる)
938日本海ルート論者:2013/07/18(木) 23:56:14.73
つまり、航行に絶対方位など必要がない。
しかし、陸国の華夏人には絶対方位が必要。
下手にこの両者が話せば錯誤が生じる。

下記参考
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1313428633
939日本海ルート論者:2013/07/19(金) 01:53:55.00
満潮時刻の確認したら間違いだった(照)。
月と時刻は合わない。
帰りは太陽基準だと思うけど、
行きの基準が見えない。う〜ん。
対馬の重要性が益々高まってしまう。
月と太陽と潮流に季節?
940日本@名無史さん:2013/07/19(金) 13:22:17.93
漢民族なんていない
漢文を読み書きできる人間を漢民族と自尊しただけだ
歴代の中華王朝は諸民族がかわるがわる漢字という共通言語・文化を使って大陸を治めた歴史である
941日本海ルート論者:2013/07/19(金) 20:39:28.62
調べれば調べる程、自分の素人振りに(驚)。
私は日本海の釣り人になりたい。

日本海や地中海は潮位差が低いのが有名で
逆に有明海や瀬戸内は潮位差が高い。
同じ日本海でも玄界灘はそれなりにあるが
出雲は殆どない。この地域差は面白い。
潮位差がないのは交易時に安心かも。
でも対馬海流を使う前提だと困る。
早朝の引き潮に合わせて漕げば方位確定、速度もアップ。玄界灘なら使えるかも。
しかし、潮位差がない出雲では、
北方位の目印が太陽しかないってことに。
当然直視を避けたにしても、さすがに盲目
になってしまう(笑)
そこで持衰? いや海国日本面白い。
942婆 ◆HKZsYRUkck :2013/07/19(金) 23:41:07.27
>>941
そいや、瀬戸内海は潮で海流の方向が変わるから、出発時刻が大事だよね。

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
                                  額田王(万葉集)

対馬海峡は次の島が目視できるから、基本は昼に航海してた気がする。
琉球弧の場合は宮古島と沖縄本島の間が謎だけど。
943日本海ルート論者:2013/07/20(土) 15:10:21.66
>>942 婆さん
海それぞれで特徴あるのが面白い。
安全を期せば末盧国上陸も頷けます。

瀬戸内は漂流はないけど、
潮流が複雑なので個々に分散し易いかと。
阿讃吉備が一領域としてまとまっていたら
畿内の出る幕もない訳ですが。
基本昼だけど風があれば夜でも。
仮に晴れなら月明かりでもok。
広域領域連合ができれば瀬戸内が楽。

広域連合からこの広域領域連合への過渡が
邪馬台国の時代っぽいと思ってますよ。
で、個人的興味はその前段階の日本海広域
連合形成。日本海の交易方法が鍵かと。
944日本@名無史さん:2013/07/20(土) 15:29:50.32
広域連合という形は瀬戸内海にぴったりですな。
婆さんは意外なところに目を付けてくれるなとは思っていたが。
はっとさせてくれることを言ってくれる。
945日本@名無史さん:2013/07/21(日) 15:23:59.84
「鬼道」とは後漢光武帝が国教とした正道(儒教)の対義語で、「異端」の意。

後漢の正統な後継者を目指して争っていた三国時代は必然的に(後漢末に林立し消滅していった)五斗米道や太平道を指したが、
国外的には周辺異民族が信仰していた迷信や異教も「鬼道」と表現された。

倭国の「鬼道」の詳細は不明だが、おそらく銅鏡を用いた太陽黒点(八咫烏)活動観察(暦作り)と、
歴代倭国王の祭祀(神格化)を併せた原始神道と思われる。
946日本@名無史さん:2013/07/21(日) 15:28:51.11
では、中国以外の全世界は鬼道だったのか。
それをわざわざ、卑弥呼は鬼道と書き残す馬鹿三国志?
947日本@名無史さん:2013/07/21(日) 15:33:03.39
中華思想とはそういうものだ。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1113621001
948日本@名無史さん:2013/07/21(日) 15:50:55.51
実は、関門海峡は人工的に掘らせたのではないかと思う。
これによって、九州と本州が分断されて、この海峡を制する者が日本を支配することになった。
それが可能だったのが秦の滅亡によって新しい仕事を探していた万里の長城を築いた石工集団の力によるもの。
一度、海峡が開通してしまえば、潮流によって谷は少しずつ削られ深く広くなっていった。

同時に、潮流が激変して、瀬戸内海では大異変が起きたはず。
949日本@名無史さん:2013/07/21(日) 15:52:23.85
世界の首長は鬼道に仕えている。
だったら、いちいち卑弥呼が鬼道に仕えているなどと
書くことないだろう。
950日本@名無史さん:2013/07/21(日) 15:56:13.65
>>948
あんた、関門海峡見たことないだろw
951日本@名無史さん:2013/07/21(日) 16:04:33.04
関門海峡を人工的に掘らせたのなら
痕跡は土木工学で簡単に見つけられるよな
952ネタ切れ満州:2013/07/21(日) 16:42:29.33
おめーらはほんに無知だなや。
関門海峡は新羅出兵に備えて仲哀天皇が掘らせたものだど。
神社の記録にいっぱい残ってっど。

日露戦争のとき関門海峡の海底を調査した技官の証言が残ってっど。
それによるとだなや、往古に人工的に開鑿されたものであるらしい、ということだど。
953日本@名無史さん:2013/07/21(日) 17:00:58.07
ネタだけでなく余命も尽きそうだな
954ネタ切れ満州:2013/07/21(日) 17:19:39.62
おめーらは九州人でねーのけ?
なら関門海峡は近いべ。関門海峡の近辺の神社に当たってみれや。
そういう言い伝えが残されてるべよ。

日露戦争の時にだな、関門海峡をもっと広く深く開鑿しよう、つー計画が持ち上がったのさ。
そこで土木技官が海底調査をしたところだな、往古に人工的に開鑿された痕跡がある、つーこった。

ま、べつにおめーらに信じてもらわんでもえーど。
おらはおめーらは相手にしてねーからの(カラカラ)
955日本@名無史さん:2013/07/21(日) 17:33:47.98
偽書風説マニアの朝満老人様、そろそろ病棟にお戻りください。松沢病院
956日本@名無史さん:2013/07/21(日) 18:15:57.07
あれは壇ノ浦の合戦のあと三種の神器探すため海底の土まで掘ってしまったためだよ
957日本@名無史さん:2013/07/21(日) 18:21:15.67
『古事記』の国産みで筑紫島になってるから、記紀を信頼する立場なら海峡が存在していたのだろう
現在の関門海峡の最深部は水深47m、航路水深は12〜13mくらいらしい
少し練習すれば素潜りで特別な道具は必要なく、水深20mくらいは行けるそうだから
水深10m程度の掘削可能な小さな岩礁程度は取り除いた可能性はなくなない
958偽書マニア満州:2013/07/21(日) 18:25:29.49
そんなことを言ーならよ、関門海峡の近辺の神社に当たってみればえー。
近くの市町村の図書館の郷土資料室で調べてもえーど。

いっぺんやってみれや。そしたらおらの言ーことが嘘でねーと分かっど。
959日本@名無史さん:2013/07/21(日) 18:46:29.15
んじゃ記紀は嘘っぱちだな。
満州は二度と記紀からの比較をやらぬ事だ。
960偽書マニア満州:2013/07/21(日) 21:10:08.49
>>959
おめーはパカだど。
アトランティスの大洪水が終わって海水が引いたから関門地峡が現れてきたんだど。
それ以前は関門地峡は海水に没していたから九州は島だったんだど。

やっぱりおめーはパカだなや(ケラケラ、プッ)
961日本@名無史さん:2013/07/22(月) 07:59:34.29
wikipediaによると、分断したのは6000年前だそうな。
思ったより最近だったな。

縄文時代くらいなら、言い伝えくらい残っていたかもね。
思ったより深いから、地殻変動によるものかねえ。
962伊都縣主満州:2013/07/22(月) 08:52:01.65
仲哀天皇が筑紫に来られたときによ、岡県主と伊都県主が出迎えた、とあっだろが。
あれはよ、開門海峡の開通と橿日宮の竣工のお祝いに来たんだど。

開門海峡の開鑿は岡県主、橿日宮の築造は伊都県主が担当したんだど。
963日本@名無史さん:2013/07/22(月) 11:49:04.72
それ、対馬の大船越、小船越の話じゃないの。
964ザックリ満州:2013/07/22(月) 11:54:43.36
じゃないよ。
965ザック満州:2013/07/22(月) 21:49:27.19
要するに関門海峡が開かれたのは新羅出兵直前で、それ以前は、
大陸や半島から日本に来る人間は、日本海ルートを通るか、
末盧から長崎、鹿児島と迂回して大和に向かうしかなかったのである。

であるから投馬国とは出雲か但馬であることは間違いなく、邪馬台国は大和なのである。

日本海ルート論者という男がいるが、日本海ルートを取ったことは間違いないのである。
966日本@名無史さん:2013/07/22(月) 21:58:56.03
大型の重機がなかったという点では、縄文次代から昭和初期まで土木技術大きな進歩はなかった。
川の付け替えのような大工事は古代からおこなわれてきた。
鴨川は人工的にまっすぐにされたし、利根川の付け替えも人力だ。
地下鉄銀座線だってシールドマシンがあったわけではなく、人の手で掘られたのだ。
大きな権力があれば、関門海峡の掘削だって可能。
万里の長城や大規模古墳の工事に比べたらむしろ容易い事業ではないだろうか?
問題は、九州南部にそれだけの権力者がいたかどうかだ。
967日本@名無史さん:2013/07/22(月) 22:16:00.94
埋め立てならわかるが、古代に海を掘るのは無理だろ。
968日本@名無史さん:2013/07/22(月) 23:04:04.35
畿内捏造マジック、もしくは満州ゴッドハンドを使えば可能
969日本@名無史さん:2013/07/23(火) 00:14:45.80
息長氏は潜水を得意とする一族で神宮ちゃんの実家だけど
970日本@名無史さん:2013/07/23(火) 00:15:45.89
ああ誤記、神功
功績の功か
971日本@名無史さん:2013/07/23(火) 00:32:43.11
伝承はあるらしいけど
神社も商売だから話盛らないと人寄ってこないし、食ってけないからね
972日本@名無史さん:2013/07/23(火) 01:07:30.74
神社の創建というのもよくわからんものだからな
社伝だとなるべく古くしたいし、権威ある神や天皇との関連を深くしたい
ただ記紀が書かれてから記紀に書かれている事跡の場所に
後付けで作られた神社も実際は多いと思われる
973日本@名無史さん:2013/07/23(火) 02:49:16.72
神社ができるのは、神蹟地、祖神祭祀、勧請(分祀)などだろう
宇佐八幡から石清水八幡が勧請され、さらに石清水から鶴岡八幡が勧請された
これは河内源氏が八幡を崇敬しており、いちど都近くに勧請したあと、幕府を開くにあたって鎌倉に再度勧請したもの
これは祭祀または崇敬している一族が移動したのに伴い神社も移動した例だろう
神蹟地は神そのものの事績が伝説として残る土地に建てられたもの
祖神祭祀の例では中臣氏(藤原氏)が祖神とあがめる千葉の鹿島大社から奈良の春日大社に勧請したのがある
中臣鎌足はなぜか東国の生まれだし、朝廷で地位を得るに伴い祖神も移動したと言える
このように神社が増える或いは移動するのは人間の動きとの連動があるようだな
各地における祭神の分布も、なにか歴史的な人間の移動を現しているのではないか
勢力範囲とか、征服とか、移民とか
まあ、お稲荷さんの様に民間で信仰されて伏見稲荷からお金で勧請される例もあるし
農村では豊穣の神としてスサノオや大歳神が祭られる例も多い
これらは一種の流行であって歴史的な根拠は無い
神社はもともと、その神を祖神と信じる一族が氏神として祭ったものだと思うが、いつの時代までその原型をとどめていた事か解らん
でも後になると民間では産土神(うぶすながみ)の土着信仰が起こり、村で生まれた子は氏素性に関わらず、その村の鎮守さまの申し子であるという発想が持たれた
自分の氏素性も解らなくなった後世の人たち、或いは氏も持たぬ底辺の農民の疑似氏神と言ったところかな
人が神との関わりを求めている証拠だと思う
古代に置き換えれば、氏神すら後付けかも知れないと思えてくる
高天原をルーツとする神の系図、それに一族の祖神を繋げたいという発想は無かったか
更に言えば、我が家系を天皇家の系図に繋げたいという発想は無かったか
だとすれば源氏も平家も出自は怪しく見えてくる・・・etc.
長く書き過ぎたが、後付けの神社でも意味がないとは言えないと思うんだけどね
974ザック満州:2013/07/23(火) 09:08:12.40
ごく稀に まともなこと書く 雑学王
975日本@名無史さん:2013/07/23(火) 21:31:44.48
源平も怪しいものだ。
権力を握ってしまって氏素性が分からないでは治安上良くないから後付する必要があった。
天皇と繋げることを天皇側も氏素性がはっきりしない権力者側も共に欲した。
確かに間違いないと確信できるのは本当に本当に一握り。天皇家すら…
系図は10代以内程度ならともかくそれ以上は自己満のためのものでほぼ意味を持たないと思っている。
遺伝子検査で共通部分の多寡なんかを調べたうえでのものじゃないと信じない。
976日本@名無史さん:2013/07/24(水) 13:09:00.44
どっとはらい
977日本@名無史さん:2013/07/24(水) 22:15:30.69
神攻皇后の子は、戦いのなかで生まれた武神として、絶大な信仰の対象になったのだろう。
しかし、それだけではないのだ。
神攻皇后が関門海峡を掘削し、古代の勢力図を一変させたことは全く知られていない。
978日本@名無史さん:2013/07/25(木) 14:23:53.51
神功だってば
979日本@名無史さん:2013/07/25(木) 14:26:07.38
はずかしぃ〜
980日本@名無史さん:2013/07/25(木) 23:02:10.41
神宮と誤記するのなら、まだ許せるんだが
981日本@名無史さん:2013/07/25(木) 23:24:13.15
しんこうって読んでるんだろう
982日本@名無史さん:2013/07/25(木) 23:36:53.11

自分のは じんぐう で 神宮or神功 と変換されるが、IMEによっては変換されないのかもしれないな。
かみ→神、こう→功、と変換させるつもりが、こう→攻と誤変換させてしまった。
俺のも狗奴国も辰韓も変換出来ない馬鹿IMEだからな。
日本語IMEのくせに日本の歴史知識皆無の人間が作ったと思われる。
983日本@名無史さん:2013/07/26(金) 00:23:39.54
おれはめんどいけど、ヤフーでひらがな入力して検索
漢字が出てきたらそれをコピペしてる
984日本@名無史さん:2013/07/26(金) 00:44:39.52
>>983
それも使うな>検索してコピペ
卑彌呼(not卑弥呼)とか帶方とか魏志倭人伝原文のページからコピペ
985日本@名無史さん:2013/07/26(金) 07:34:29.86
俺も「しんこう」皇后って打ってたなあ。
986日本@名無史さん:2013/07/26(金) 13:28:52.28
サヨクが悪いんだな
>>977は犠牲者だ。
987日本@名無史さん:2013/07/26(金) 13:37:26.29
用語(単語)登録すればいい。
僕は出てきた用語はそのつど登録している。
だから、何だって一発で出てくる。難升米だろうが、掖邪狗だろうが、
瓊瓊杵尊だろうが、鵜葺草葺不合命だろうが一発。

まあ、神功皇后くらいは登録しなくても出てくるかもしれないが。
988日本@名無史さん:2013/07/26(金) 13:37:43.92
俺は、小さいときから父親が、
ジングーコーゴーって言ってる発音から知った。
それから、小学校低学年で切手のカタログ本を見て
神功の漢字の書き方を知った。
だから、コウという読み方より、一般的ではないグウという読み方
の字なんだと「間違って」覚えたくち。珍しいとおもう。
 
989日本@名無史さん:2013/07/26(金) 13:52:42.18
神社でよく見かける八幡様が、応神天皇だと知ったのは随分後のことだ。
俺の地域で「お亥子」(おいのこ)という祭りがある。
むかし神功皇后が九州から戻るとき、山の中で賊徒に襲われた。
そのとき猪の集団が現れて皇后の味方をし窮地を救ったという。
それ以来、猪にお餅をささげてお祭りする習慣が出来た。
昔は御所で天皇自らが餅をついたという。お亥子餅という。
990日本@名無史さん:2013/07/26(金) 22:50:04.12
実は、奈良時代以前の天皇の諡号は後付けだ。
神功でも神宮でも神攻でもなんでもよかったのだ。
神祇官もジンギスカンも実はスンダランドにあった幻の帝国の言葉で、神に仕えるものの意。
「じんむ」でも「じんぐう」でもどっちでもよかったのだ。
991日本@名無史さん:2013/07/26(金) 23:19:25.04
猪が力をかすのは、香坂王の反乱のときと和気清麻呂の配流のときか
摂津、吉備のあたりにいそうやね
992日本海ルート論者:2013/07/27(土) 00:28:42.75
久々です。
>>965
邪馬台国は大和で投馬国は出雲でしょね。

当時は日本海の方が豊かでないかな。あと
不作・不漁による食糧難の解消には、
遠い地域との交易が一番平和的。隣の村を
襲い合ってもいつか共倒れだし。この交易
圏。どうみてもまずは日本海で成立かと。
その後なぜ瀬戸内へルートが移るか?
生活が安定すれば人口は増える。渡来人と
言う名の漂流者も相変わらず流れ着くから
日本海の連中は陸路、海路で南下してく。
無人の地でなく、先住者のいる地へ、ね。
その一つが瀬戸内。
大和は、東海と瀬戸内を結ぶ中間にある。
そして、日本海とは近江、若狭で繋がる。
まず日本海から交易圏が広がったなら、大
和は位置から見て新参者。その新参者が
共立王を維持しようとするなら、次第に瀬
戸内ルートにシフトさせていくでしょう。
その意味で、台与時代は画期かと。
993日本@名無史さん:2013/07/27(土) 10:55:53.87
>>992
この頃、神功皇后の功労で、ついに、関門海峡が開通。
瀬戸内海貿易新時代の幕開けです。
994日本@名無史さん:2013/07/27(土) 14:20:26.73
関西弁で「やね」と書かれると何がいやなのかと思ってしまう。
995日本@名無史さん:2013/07/27(土) 18:09:00.56
そんなことはないでしょう。関東弁でも林家木久扇が「やーねー」。
996日本海ルート論者:2013/07/27(土) 19:22:52.33
来週からまた忙しくなるので、幾つか。

少し遡って、
>>895の文字使用について。
ここからは幾つかのことが分かる。
なぜ倭人が文字を使わないか?
まず1 必要性がないからですね。
次に2 文字を使用する漂流渡来人が支配体
系の主体的立場とならないようにする必要
があったからでしょうね。

1 は文字使用の必要が交易記録から生じて
るということで、これはトークン及びブッ
ラで検索して下さい。隋書には仏教伝来ま
では木を刻むか縄を縛って代用してたとあ
るから、交易記録はそれで行ってたぽい。
なら、文字はいらない。外交などの重要な
ものは文字よりも外交官が証人になる方が
必要だし。ギリシャの有名人も「文字は記
憶力が落ちる」と嘆いてる位ですから。

2 は説明するまでもないけど、まあ少なく
とも支配の主体が文字使用の文化を持って
いたなら、日本の古代史はもっと楽に解明
できたでしょうね。スパルタとかは特殊な
例だろうけど、異民族支配というのはどこ
でも大変な訳です。日本では縄文人が漂流
渡来人を助け受け入れてきたっぽい。良い
所は吸収したけど主体は明け渡さなかった。
その証が文字使用の偏在かと。お雇い渡来
人が命ぜられて作ったもののみに現れ、主
体としては「文字なんてイラナイ」な訳。
997日本海ルート論者:2013/07/27(土) 20:11:52.38
縄文人は豊かな食事情に支えられて、移動
狩猟生活でなく、定住採取生活をしていた
集団もいたっぽい。でも、火山やら寒冷化
のお陰でジリ貧となる。
そういう時に浜辺に漂流者が打ち上げられ
る。腹ペコだし、衰弱している。
選択肢は2つ。1 殺す、2 生かす。
2を選べば、稲作を得れたかも知れない。
ただ、この漂流者は大抵、男ばかり。
だから、この村が男女比が同じなら1。
逆に素潜りじゃなく舟で漁をする村だった
ら2を選ぶ。船漁で男が減ってるから。

元気な漂流渡来人もたまにはいたかも。
でもこれも対馬に人が住んでる以上、対馬
から追い出された人々な訳で。
人に見つからず体力を回復できたとしても
下手に出なきゃやはり殺されるでしょ。
仮に大船団でも海流でバラバラ。少人数。
ならお互い共存が最良の選択肢でしょう。
998日本海ルート論者:2013/07/27(土) 21:30:17.98
998かあ。これが最後の書き込みかな。

関門海峡は開いてたとは思うけど、
半島から畿内に近付くなら日本海経由が、
早いし安全。対唐国防の近江遷都とかもそ
の現れ。近江には当時日本海の道主がいた
だろうし。奈良から退いたのではなくね。

少なくとも魏人は関門海峡を知らない。
そもそも邪馬台国にも行ってないかと。
邪馬台国から僅か千里で、伝承の地である
侏儒国の北辺に行けるのに、その詳細情報
すら載せてない。あの侏儒国なのにね。
伊都国に留まり、ただ情報だけで推測する
なら、邪馬台国と同じ島と錯誤する筈。
一方で、対馬からでも玄界灘からでも、沖
に出れば舟は勝手に列島を東に進む。関門
海峡なんてわざわざ通る危険もない。ただ
沖には何の目印もないから、昼(朝夕の間)
には太陽を目指し陸に辿り着く必要がある
(ミスれば漂流。男が減るから多婦制)。
これを南と解釈するのは陸国の魏人なら当
然かと。対馬海流は現在でも不明な点があ
り、当時の海流など更に不明。これが明ら
かになれば、邪馬台国が畿内と確定するか
と。少なくとも海流はもっと早かった筈です。

結局、まとめには行けず(笑)
では、いつかまた。
999日本@名無史さん:2013/07/27(土) 23:41:50.16
大化の改新以前の文字の記録がほとんど残っていないのは
主に宗教上の理由による。
言霊を文字にすると魂が盗まれる。
そういう縄文時代から続く迷信が原因だ。
高松塚古墳と同じ鏡が埋葬されている中国の同時代の古墳には碑文が残されている。
1000日本@名無史さん:2013/07/28(日) 01:58:20.44
1000なら邪馬台国は北海道
10011001
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。