語ってください。
_,,..,,,,_ ∩
./ ,' 3 ` ∩
l ⊃ ( ノ =3 プゥ
`'ー---‐''''"
_,,..,,,,_ ミ パタ
./ ,' 3 `ヽーっ
l ⊃ ⌒_つ
`'ー---‐'''''"
3 :
日本@名無史さん:2013/04/03(水) 08:24:19.79
安倍氏の子孫が安倍晋三
は?
7 :
日本@名無史さん:2013/04/03(水) 19:38:30.83
かつて三輪山の麓には大和朝廷より古い中枢があり、彼等を磯城(志幾)氏・族といったらしい。
彼等は三輪山の大物主を崇めていて大物主は蛇神なのでユダヤ人の神ヤハウェを表すから、
磯城氏・族達こそは正統なイスラエルの聖王族で本来の天皇家だったんだろう。
大和王朝も初めのうちはよく大物主に祟られていたので磯城氏・族の女性を娶り血を入れなければならなかったという記述があるようで、
大和王朝に国譲りしたニギハヤヒも当時の磯城氏達の首長だったナガスネヒコの妹と婚姻関係を結ぶ事で大物主の祟りを回避して神器所有者として天皇のような立場になったらしい。
8 :
日本@名無史さん:2013/04/03(水) 20:01:47.94
>>7 神武天皇の東征で磯城(志幾)氏・族の天皇的な人物だった兄磯城は戦死し、
弟磯城のクロハヤは大和王朝の赦しを得て志幾の縣主になる。
ナガスネヒコの兄アビヒコ(安日彦)もこの時に大和朝廷と戦って死んだ、イスラエル聖王家の血を引く磯城の天皇族の一人だった。
この安日彦の血を引く子を大彦命が伊賀で拾い大和王朝の一族に迎える。
これが安倍首相の祖先で父親の命を助ける為に若冠16歳で敵中に飛び込んでって、
獅子奮迅の戦いの末に大和朝廷に父子で容赦なく殺された碧眼白人系美貌親子だったという安倍貞任のそのまた祖先。
工作員から安倍氏を守るために、日本人の力で在日特権を廃止せよ!
注)「在日特権」「在日の正体」「朝鮮進駐軍」「在日枠」で検索してみる。
在日特権廃止されたら、反日活動できなくなるからな。
10 :
日本@名無史さん:2013/04/03(水) 20:17:32.81
>>8 出羽山形県の幾志という地帯から発生したという岸氏達は、
果たしてこの三輪山麓にいた天皇でイスラエル聖王族の兄磯城(志幾)他の末裔で大和朝廷の目を逃れる為に磯城(志幾)の文字を逆にして幾志としてルーツを籠めたものか。
それとも幾志とは磯城(志幾)を呪う為に逆さ言葉にしたもので磯城氏・族の敵側の葛城族やタケノウチスクネの末裔なのか。
>>8 安日彦なんて系譜創作してるのは
安東や藤崎など高橋や土蜘蛛崇拝の連中だけ
安東や藤崎が貞任の末裔かもどうかも、安日彦とか言ってる時点で疑わしい。
東北の阿部氏は、おそらく裏切り者の安倍富忠の末裔、縁者だろうし・・
本来の安倍氏は、安倍氏宗家の土御門氏と倉橋氏に奥州安倍氏生き残りの宗任の末裔の松浦氏族だけ。
>>10 武内宿禰の紀氏は木氏とも呼ぶそうだ。
卜部氏と関わる古代新羅渡来の朴系秦氏姻戚では無かろうか・・
卜部氏と秦氏が結びついてネ、藤原氏
武内宿禰の婿養子に入って・・羽田・八多・八太の古代波多氏
15 :
日本@名無史さん:2013/04/05(金) 09:43:05.52
>>12 戊辰戦争の後に廃藩置県があって江刺県江刺市が置かれた。
江刺県(えさしけん)は、1869年(明治2年)に仙台藩領、盛岡藩領の一部であった陸中国東部を管轄するために明治政府によって設置された県。
のちに県域を広げ、現在の岩手県東部・北西部、秋田県北東部を管轄した。
非表示歴代知事
明治2年8月7日(1869年9月12日) - 明治3年2月5日(1870年3月6日) : 権知事・小笠原長清(元山口藩士)
明治3年2月5日(1870年3月6日) - 明治3年4月28日(1870年5月28日) : 不在
明治3年4月28日(1870年5月28日) - 明治4年3月15日(1871年5月4日) : 権知事・山田信道(前弾正少忠、元熊本藩士)
明治4年3月15日(1871年5月4日) - 明治4年11月2日(1871年12月13日) : 不在
wikipedia
戊辰戦争で抵抗した勢力は北海道に移住した。
後には九州から来た役人たちが江刺県にいた。
16 :
日本@名無史さん:2013/04/06(土) 14:23:26.77
まあ安倍晋三の先祖が安倍宗任って言うのは本人が言ってることだからな。
加えて言えば佐藤栄作と岸信介は奥州藤原氏の武将である佐藤兄弟の子孫。
高橋克彦は中央に虐げられてる東北という構図に執着するけど、
実は戦後の中央を牛耳っていたのは安倍氏と奥州藤原氏の子孫。
これに鈴木善幸と水沢出身の小沢一郎まで加わる。
オカイタイケ
18 :
日本@名無史さん:2013/04/24(水) 09:38:03.43
>>13 古代の紀伊は文字通りの「木の国」だったから、それはないかと。
19 :
日本@名無史さん:2013/05/20(月) 15:31:56.48
>>10 出羽の幾志という地名は当時広い範囲でたくさん館を構えてた国人領主の岸美作守源朝臣義忠が居た所。
木曾義仲の後裔。
義仲朝日将軍に因んでか現在の村山郡朝日町辺り。
この辺の岸氏だと更に上山藩主(現、上山市)の清和源氏土岐頼行家系か。
安倍貞任が造営し貞任・宗任らが前九年の役で使ったと伝承ある庄内の蕨岡館、
そこに居た奥州阿部氏(+岸氏?)は裏切り者の阿部氏ではないものの、果たして貞任一族の安倍引田臣系か大彦命のどちらなのか。
大彦命の末裔に多い違い鷹の羽紋を神紋とする長野県の阿部神社を建てた仁科氏も貞任末裔と本人達は言いながらも近年の研究では実は大彦命の末裔ではないかというし。
貞任らの末裔も鷹の羽紋を使用してるし。
20 :
日本@名無史さん:2013/05/20(月) 16:43:41.11
安倍貞任 美形の武将は実在した
http://blogs.yahoo.co.jp/manase8775/41515973.html とんでも系とされるが、貞任の祖の安日彦はウガヤフキアエズ朝初代公孫度であり、イスラエル十二支族イッサカル族であるという人がいる。
イッサカル族の紋章は驢馬。
ヤコブの息子達の中でも農作物に恵まれる土地に住む事を祝福され、その為に驢馬のように労働に追われ天文に通じる一族。
田んぼを守るのは山田のカガシ。穀物を鼠から守るのは蛇。
イッサカル族の守護神は山田のカガシ=蛇=三輪の大物主。
>>19 朝日町って昭和29年の合併で誕生した
めっちゃ新しい地名なんだけど…
オマイラみんなオカ板逝け
23 :
日本@名無史さん:2013/05/21(火) 00:46:23.34
>>21 だから「朝日将軍に因んでか」ってしといたの。
分かんないよまだ、何故朝日町という町名にしたのか。
朝日将軍に因んで又は因んだ場所を元にそうしたのかも知れない。
24 :
日本@名無史さん:2013/05/21(火) 00:54:10.65
>>20 この「ウガヤフキアエズ」こそ何故か山幸彦と海神の娘である豊玉姫の子として生まれたと伝わる天皇家の始祖の名前。
大物主=ヒコナギサタケウガヤフキアエズ。
26 :
日本@名無史さん:2013/05/21(火) 18:45:50.42
>>25 だからその朝日岳が、東側が開けてて朝日が昇るのが見えるから朝日〜なったんじゃないかという事なってるけど、
実際には朝日岳命名の由来分かんないよね?
実際に木曾義仲の家来が住み着いたから朝日〜なったと言われてる地名あるし。
片や現在知られている地名の起源にまつわる説
片や何の根拠も示されない思い込み
どちらが説得力を持つかはバカでなければ分かる
28 :
日本@名無史さん:2013/05/22(水) 00:41:57.59
清原氏は語っちゃダメ?
>>28 清原って、平氏の御家結構乗っ取ってるよね。
鎌倉の北条とか・・だから、その末代の平野とか川島とかも・・
清原氏って、ウザい
母系清原氏まで、自分の一族かのように吹いてる。
敵対して裏切った奥州安倍氏の生き残り、宗任の母親が清原姫だとか・・
平泉藤原氏の弟筋が清原とか・・
清原氏は、安倍を裏切った素行の悪さで、その実の男系平泉藤原氏の弟自身にも滅ぼされた糞な家柄を誇るな。
精々、枕草紙作者の清少納言でも持ち上げて満足してろやッ
完全父系制になったのが院政期以降なので十分あり得ること。
院政以降だって母系制の遺風はかなり後まで残った。
どこまでいっても生半可な知識と激しい思い込み
それが松浦厨
>>32 激しい思い込みは歴史に興味持つことこそが思い込みの産物。
思い込み無くして歴史は語れない。
生半可上等
追求しても、その時々の学者に介錯変えられて、翻弄されるだけだから・・。
奥州安倍氏と平泉藤原氏にとって、当時の清原氏は敵以外の何者でもないから、男系で騙っても無問題だろう。
・・男系で語っても無問題だろう。
36 :
日本@名無史さん:2013/05/30(木) 21:48:01.95
今まで何回か安倍氏、安藤氏スレがあった。
で、安倍氏の出自に関して
「範国記」長元九年(1036年)12月22日の小除目に陸奥権守に「安倍忠好」とあり
この忠好が、「陸奥話記」の安倍頼良の父忠良のことだろうということで、結局安倍氏も
中央官人だという指摘があった。
時期といい、字が違うが「ただよし」といいかなり説得力があると思うがどうだろう。
>>36 安倍忠好と安倍忠良
99.999%同一人物でしょう。
ただの誤記載
俺も密かに信んじてる
清原氏や安倍氏の出自は俘囚じゃなくて
中央貴族の子孫が土着して豪族化した説
確かな根拠なさそうなんで鼻で笑われそうだが
39 :
日本@名無史さん:2013/06/01(土) 21:21:15.74
これも10年以上も前の安藤氏スレ より
138 名前: 1 投稿日: 2001/06/19(火)08:51
一応。このスレは終了したことになっています。
新情報があった時のためにたまに見てますが、
結論は、
1. 「蓮聖の安東氏」は駿河出身の可能性が高い。
2、 東鏡に頼朝の奥州征伐の際に参陣した安藤氏がみえる。遅くとも
奥州藤原氏末期頃には安藤氏は存在したのではないか?
その頃はまだ福島県下の山民の首領のような存在だったらしい。
3、 「津輕安藤氏」は鎌倉時代初期から北条氏の被官だった。
その頃には津軽に本拠を持つようになっている。
4、 「津輕安藤氏」が長髓彦の兄・安日の子孫という伝説は室町時代ころ成立の
「曽我物語」以降に見られる説であり、「曽我物語」の創作の可能性が高く
江戸初期に編纂した系図も、「曽我物語」の影響を受けているのではないか?
5、 「津輕安藤氏」は藤原系の可能性がある。
6、 安倍氏は前九年役で衰退。「津輕安藤氏」は福島付近の山民首領出身で鎌倉時
代から津軽入り、「蓮聖の安東氏」は駿河出身、だとすると全部別系統の可能性が高い。
コピペ1
日本@名無史さん[] 投稿日:2013/05/30(木) 21:48:01.95
今まで何回か安倍氏、安藤氏スレがあった。
で、安倍氏の出自に関して
「範国記」長元九年(1036年)12月22日の小除目に陸奥権守に「安倍忠好」とあり
この忠好が、「陸奥話記」の安倍頼良の父忠良のことだろうということで、結局安倍氏も
中央官人だという指摘があった。
時期といい、字が違うが「ただよし」といいかなり説得力があると思うがどうだろう。
藤原氏や桓武平氏の一族があの時期
かなり東国に扶植してたの見ると。
安部氏がそうでも別に不思議でもないわな
42 :
日本@名無史さん:2013/06/17(月) 14:05:12.40
中央にいない時点ですでに中央官人じゃないだろう。
中央官人系ということ。
>>36 当時の公家の日記は音が通じて誰のことかが分かれば良いという考え(例.義清→憲清など)で、そんな例はいっぱいある。
それから関東でもどこでも、姓は父方の中央貴族の姓を名乗るも実態は在地の古くからの豪族、という点は同じ。
常陸平氏なんて本当良い標本になる。
藤原経清も中央から藤原氏の子孫だと認められてたみたいだしな
遠征途中で一晩過ごして本人はとっとと京に帰ったとか
そんなの話はいくらでもありそうだ
>>45 奥州藤原氏の祖先
藤原秀郷の出自もそんな感じで、古代豪族説あったな。
>>48 だから安倍氏も清原氏も秀郷も利仁も平氏も源氏もetc…もみんなそういう意味では
>古代豪族
なんだよ。
天津神は東北にも降臨しており
その末裔が俘囚長の安倍氏、もとはアマ姓だと思われる
ニギハヤヒは畿内の前に秋田に住んでいた
その縁が有り物部氏は秋田に逃げた
>>41 てか、11世紀のあの時点では安倍氏も清原氏も、地方有力豪族が己の立場を中央に通すためにはかなり苦しい氏族名となりつつあった(安倍、清原といっても中央に有利同族がいなくなりつつあるから繋ぎがつけられない)。
だから清原氏は桓武平氏を招婿し、安倍氏も藤原経清、平永衡の両人を婿入りさせて、藤・平のどちらかに氏族名を変える過渡期にあった。
関東では同様の過程は11世紀にはほぼ完了していたがね。
>>51 (安倍、清原といっても中央に有利同族がいなくなりつつあるから繋ぎがつけられない)→×
(安倍、清原といっても中央に有力同族がいなくなりつつあるから繋ぎがつけられない)→○
常陸平氏てなんであんなに一族多いんだろ
増殖率半端ない
54 :
日本@名無史さん:2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN
>>53 清和源氏がしゃしゃり出てくる迄は、貞盛(弟、繁盛)の子孫たちが、一定期間、鎮守府将軍や出羽守などを歴任して財を成したから裕福だったからでは?と勝手な想像
常陸國は面積も大きく、上古以来、対蝦夷戦に於いて最前線であったかなり重要な地です。
従って、同地には上古以来、和邇氏族や大氏族など中央から名だたる氏族が駐屯したり土着したりしております。
寛平・延喜の東国乱平定以来、常陸には軍事貴族として嵯峨・仁明源氏がまず最初に赴任、留住してきたと推論されていますが、
彼ら嵯峨・仁明源氏が常陸國にやってきた頃の同国には既にそうした前時代からの中央氏族系豪族たちが割拠しており、嵯峨・仁明系源氏はそれら在地豪族に婿として迎えられて氏族名が源氏になっていったのです。
そのあと更に、高望の平氏がやって来て、氏族名が嵯峨仁明系源氏に変わった在地豪族に同じように婿入りしていったということなのです。
>>54 平貞盛て将門記の影響で将門から逃げ回ってた印象強いけど
八幡太郎が出てくるまでは
将門の乱を鎮めたことでかなり武名高かい武将だたんだよね
同じ理由で藤原秀郷も関東で神聖化されて
自称を含め末裔が関東に多かった
安倍氏の娘は聖徳太子と一緒に入水自殺している。
聖徳太子を殺したのは安倍一族。
>>57 聖徳太子
母・蘇我石寸名(蘇我稲目の娘)
田目皇子(用明天皇の第一皇子)
佐富女王(母は穴穂部間人皇女)
母・穴穂部間人皇女(欽明天皇の皇女)
厩戸皇子(聖徳太子)
来目皇子
殖栗皇子
茨田皇子
母・葛城廣子(葛城直磐村の娘)
麻呂子皇子
酢香手姫皇女
妻子
刀自古郎女(蘇我馬子の娘)
山背大兄王
財王
日置王
片岡女王
橘大郎女(尾張皇子の娘)
白髪部王
手島女王
膳大郎女(膳臣傾子の娘)
長谷王(妻は佐富女王)
三枝王
伊止志古王
麻呂古王
舂米女王(山背大兄王の妃)
久波太女王
波止利女王
馬屋古女王
菟道貝蛸皇女(敏達天皇・推古天皇の皇女)
>>57 何時から安倍氏は、大彦命の末の弟の代の三韓征伐供奉の武内宿禰筋の紀氏の蘇我氏に成ったのか・・?
安倍氏は、桃太郎伝説の四道将軍(しどうしょうぐん)
崇神帝が、派遣したとされる四人の将軍のこと。
日本書紀の崇神九年九月九日には、「大彦命おおびこのみこと(大毘古命)を越の国に、武淳川別命たけぬなかわけのみこと(建沼河別命。
大毘古命の子という)を東海に、吉備津彦命きびつひこのみことを西海に、丹波道主命たにはのみちぬしのみことを丹波に遣わした」ことが記されている。
今の福島県域に多かった複姓阿倍氏(阿倍陸奥臣、阿倍安積臣、阿倍安達臣etc)は、陸奥南部に駐屯した建沼河命系阿倍氏の一派が在地豪族との間で誓約(ウケヒ=招婿婚)していった結果増えていったものでしょうね。
佐藤氏や岩城氏も元はこの一族であったのだと思われます。
一方、大毘古系阿倍氏は阿倍氏の本流であったような気がします。
どうも阿倍氏には北陸日本海の匂いがつきまといます(のちの比羅夫の活躍に象徴されるように)。
元々北陸(越国)を本拠地としていた豪族だったのではないでしょうか?
出羽国は元々越国であったことから、本流阿倍氏は出羽のほぼ北端まで進出し、そこから逆Uターンする形で陸奥側に入り、岩手県域にまで南下していった。
それが奥六郡主・安倍氏の姿なのではないでしょうか?
安倍宗任の末代、松浦氏の松浦党出身、島谷一族の
東宝の代表取締役社長。
14代目:2011年 島谷能成氏は、安倍清明の陰陽師って映画作ってるしね。
奥州の武家安倍氏にとって安倍清明筋は、公家。
兄・阿部火麿筋の阿倍御主人の裔が清明の土御門氏・倉橋氏
弟・阿部歌麿筋の奥州安倍氏の貞任・宗任(嵯峨源氏の松浦氏)の祖。
>>62の件は
公家と言うか・・神職筋の社家かな
陰陽師家系だし
氏神家系に相当する家柄たね。
陰陽師・・修験道(仙道と密教のコラボ)の開祖が
役の行者の役小角
神道の根幹とも言える。
松浦厨はいっこうに日本語が上達しないな
ハイ
揶揄はシカト
まったくシカトになっていない件
日本語能力よりも頭の中身の方が心配w
テスト
べんき
テスト2
従兄弟
テスト3
同級生
テスト4
漁師町在住
テスト5
42
ビンゴったな
帰郷時、覚悟しとけよ
何言ってるのこの人?
蘇我馬子
我孫子
蘇我孫子
千葉県我孫子市
蘇我馬子
蘇我入鹿
馬
鹿
宮本町(宮津市)
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/miyamoto.html 分宮神社
分宮神社は宮本町(文久二年正月旧職人町改称)に鎮座し指定村社にして宮津町東半の産土神なり、(写真参照)その勧請に就いては宮津事跡記に
分宮大明神御勧請之儀京極丹後守高広公府中一之宮に御信仰被爲在毎月御参詣被遊候處雪中
又は、荒等之節御参詣難被遊に付寛永五年丑九月職人町に御勧請同十一月御遷宮其後は一之宮之神主年々祭禮之節神事相勤候處職人町住人に
大兵衝と申者而至而実禮之者に而信仰致侯に付社内之掃除又は宮守に被仰付其後官職可致旨被仰出当社神主と相成御領内神主筆頭に被仰付候
また宮津旧記に
分宮大明神は京極高広公御在城の砌府中一の宮へ御信仰雲中御参詣を御厭ひ今宮津職人町の地へ御引移寛永五辰九月十一日遷宮即ち宮守には
同町太兵衛と云ふ者至って信仰故に宮守となり其後官職の儀は阿部対馬守様御取斗に依って当社の神主となり従六位島谷出雲守と改めらる。
とあれば寛永五年九月十一日藩主京極高広侯籠神社のみ霊を祀られしに濫觴すること明かなり。
→阿部対馬守様御取斗に依って当社の神主となり従六位島谷出雲守と改めらる。
阿部対馬守とは、江戸時代の徳川家譜代家臣の阿部正勝の子孫で、大阪城二代城主の阿部重次の事。
従六位島谷出雲守とは、阿部家従六位なのだろうか・・
奥州安倍氏従六位島谷出雲守とか・・カッコ良すぎる・・
町人の太兵衛が阿部対馬守の斡旋で、神職として従六位島谷出雲守という名乗り与えられたという話だがな
その情報ソース希望
分宮大明神御勧請之儀京極丹後守高広公府中一之宮に御信仰被爲在毎月御参詣被遊候處雪中
又は荒等之節御参詣難被遊に付寛永五年丑九月職人町に御勧請同十一月御遷宮其後は
一之宮之神主年々祭禮之節神事相勤候處職人町住人に大兵衝と申者而至而実禮之者に而信仰致侯に付社内之掃除
又は宮守に被仰付其後官職可致旨被仰出当社神主と相成御領内神主筆頭に被仰付候
また宮津旧記に
分宮大明神は京極高広公御在城の砌府中一の宮へ御信仰雲中御参詣を御厭ひ今宮津職人町の地へ
御引移寛永五辰九月十一日遷宮即ち宮守には同町太兵衛と云ふ者至って信仰故に宮守となり其後官職の儀は
阿部対馬守様御取斗に依って当社の神主となり従六位島谷出雲守と改めらる。
↑
これ、そう読むのか・・分からん・・
84 :
日本@名無史さん:2014/01/05(日) 04:57:13.03
85 :
日本@名無史さん:2014/03/28(金) 07:21:43.85
奥州藤原氏のミイラが出た!おぇーー…。
忠衡は顔だけw
86 :
日本@名無史さん:2014/03/28(金) 15:03:28.32
いや、あの首は泰衡というのが定説。
異説に経清。
87 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 01:35:03.97
>>80 内閣総理大臣 安倍晋三 の方が、もっとカッコイイよ!!!
日本のトップですよ!!! (皇室以外では)
88 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:43:59.41 BE:3834797876-PLT(14000)
創価のコネで東北大のアカポスを狙う吉川裕を殺せ
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89 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 12:44:31.49 BE:4382625986-PLT(14000)
創価のコネで東北大のアカポスを狙う吉川裕を殺せ
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90 :
日本@名無史さん:2014/08/08(金) 16:01:53.12
>>1 奥州安倍氏の出自は、蝦夷説と中央官人説の両方があった。
しかし、安倍忠良が陸奥権守に任命された記録が、近年に
発見された事から、中央官人末流とする説が有力になっている。
安倍忠良とは、前九年の役で有名な安倍頼時(頼良)の父である。
奥州安倍氏の先祖としては、奈良時代に東北や北海道を征服した
阿倍比羅夫説や鎮守府将軍の安倍三寅や安倍比高とする説がある。
91 :
日本@名無史さん:2014/08/08(金) 16:07:20.27
89
創価はキリスト教の下請け宗教団体だろ
そいつら
92 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 11:42:05.42
.
871年〜 朝廷と陸奥国司が、奥六郡の和賀郡・碑貫郡・紫波郡(岩手郡も?)の放棄を決定
927年 陸奥北限国域が縮小南下する。
1013年 平維良が、左大臣藤原道長に膨大な賄賂を贈った事で鎮守府将軍任官に成功する
1018年 陸奥国司 藤原貞仲と鎮守府将軍 平維良が、税金の徴収や蝦夷との交易を巡り合戦
同年 陸奥国司 藤原貞仲の要請により平維良は、鎮守府将軍職を解任される
(陸奥国司 藤原貞仲は、同時に鎮守府将軍職廃止も要請)
1019年 平永盛が鎮守府将軍に任命される。(陸奥国司は、鎮守府将軍職廃止を再要請)
1025年 藤原頼行が鎮守府将軍に任命される。(陸奥国司は、鎮守府将軍職廃止を再々要請)
1027年 陸奥国司の度重なる要請により鎮守府将軍職を正式に廃止し、胆沢城を放棄する
朝廷は江刺郡と胆沢郡をも廃止し奥六郡全てを放棄する
1036年 陸奥権守に安倍頼良の父 忠良(忠好)が任命される
(この記録により奥州安倍氏中央官人末流説が有力となる)
1051年 陸奥国司 藤原登任と秋田城介 平繁成の兵数千が、鬼切部で奥六郡の郡司
安倍頼良の部隊と衝突、藤原登任と平繁成は大敗する。 (鬼切部の戦い)
93 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 17:37:01.02
.
奥州安倍氏の場合、出自に関する問題もあるけど、最近議論になっているのは、
奥州安倍氏の最終的(中長期的と言い換えても良い)な政治目標は何処であったのか?
と言う問題である。
つまり安倍氏は、一体何処まで南下南進するつもりだったのか?
亘理郡や伊具郡の実力者(藤原経清や平永衡)と婚姻関係を結んだ事から、
国府(多賀城)を飛び越えて、陸奥全土を手中に収める事を目指したのか?
それとも奥六郡周辺だけを押えるつもりだったのか?
その点も議論になりつつあると思う。
いずれにせよ奥州安倍氏が、単純な 律令レジーマー であったとは、とても思えない。
94 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 19:35:03.51
1000年前の事だから、もう今とは関係無いですね。
95 :
日本@名無史さん:2014/08/12(火) 20:00:22.77
そうともいえないんじゃないのかい?
96 :
日本@名無史さん:2014/08/31(日) 03:32:31.34
出羽清原氏も語るべきだろう。
97 :
日本@名無史さん:2014/09/03(水) 22:59:08.42
修羅の刻の作者様もどうぞご意見いただきたし、と思ふ
98 :
日本@名無史さん:2015/01/05(月) 03:46:34.49
>>96 出羽清原氏の出自は、清原令望が有力とされている。
をっ
久しぶりに、このスレ上がって来てる・・
宮津藩の島谷出雲氏と大阪城領主と成った徳川家譜代の阿部家の関係は
奥州安倍氏が、平安末期に、滅亡後、安倍家生き残りの安倍宗任が宗像家家臣と成って
国津神の出雲領主とか、安倍清明が兵庫守に成ってたとか、京丹後の宮津藩と関わりがあったからなのでしょうね。
一番明確なのが、国津神とされた頃、出雲臣の千家家・北島家の系譜に安倍家が加わった事なのでしょう。
北島家には、古く、向家と富家が出雲臣北島家と成っていて、そこに、平安末期に安倍家も加わった模様。
そもそもが、天穂日系の千家と北島家とは、向家・富家も先住系で、渡来の天穂日以前の出雲王朝の事代主の家柄。
国譲りとは、この渡来の天穂日が、大国主に寝返って、部下と成って居たが、ニギハヤヒ=(天照軍)の本体に、内通し
出雲の陣構えを教え、道案内し、出雲を滅ぼし、乗っ取ったのが千家の祖・・天穂日だったからだ。
千家の祖に旧出雲大社の杵築大社の東出雲を奪われた、大国主直系、神門家と出雲臣の王、出雲(神門)振根と事代主直系、登美?飯入根
出雲風土記では、兄弟とされて居て、崇神天皇が杵築大社社人の証、神度剣を飯入根を唆し、奪い、弟の飯入根を殺害した容疑で、神門振根を四道将軍の
武渟川別命(安倍氏の祖)に殺害討伐されたと成っているが、実際は、天穂日がニギハヤヒの軍を引き入れた時に、神門振根と登美?飯入根が討ち死にし、近くに、埋葬されている。
生き残った、神門臣家の人々は、向家・富家の居る西出雲の熊野大社に落ちのび難を逃れた。
これが、出雲国譲りの実態。
後に、大国主の神門家の子筋、武内宿禰もニギハヤヒの手の者に暗殺を企てられ、熊野大社の逃げ込んでいる。
この、神門家の子筋で系譜に伝わるのが、志摩(島津)国造家の島(直)氏(島族)で、京丹後の島谷氏が京丹後で最も古い島族で、京丹後周辺の宮司に任官して行ったようだ。
阿部家は、出雲・北島家に組み込まれた関係で、江戸時代の京丹後領主・宇多源氏の京極家の任命、大阪城領主と成った阿部家取り仕切りで島谷出雲氏が任官したのが真相のようだ。
>>99のつづき
因みに、南関東の神門古墳群の謂れは、その、島族を名乗ったものが、南関東の国造家に任命され、古墳群を造ったからだそうだ。
武内宿禰暗殺やニギハヤヒに東出雲の土地を
奪われた事により、暗殺を警戒した、南関東(続出雲王国)の国造家たちは、警戒し、自らを散自出雲と称し、秘密の連絡網を形成し、自らの系譜も
大国主・神門臣家から天穂日千家系譜としたそうだ。
だから、京丹後の島谷氏が、元伊勢なのだそうだ。
元々、元伊勢は、蘇我氏社家の管轄だったそうだから、親戚の島族が任官した形なのだろうね。
蘇我氏は、武内宿禰−紀氏の子筋で蘇我馬子=島大臣まで、島族を名乗って居た関係もある。
因みに、白村江以降に関東へ移住した百済王族も蘇我の親類として渡来した、武内氏族とも言われ、第25代百済王の武寧(武内)王を和名で斯摩王と呼ぶそうだ。
渡来後、島野、島崎、島田、
島村を名乗り、武蔵・千葉の国造に参加し、国造家と成っているそうだ。
松浦厨ウザい
>>99 >>100 読みづらいので・・もとい
宮津藩の島谷出雲氏と大阪城領主と成った徳川家譜代の阿部家の関係は
奥州安倍氏が平安時代に滅亡後、安倍家生き残り、安倍宗任が宗像家家臣と成ってたり
国津神の出雲領主とか、安倍清明が兵庫守に成ってたとか・・京丹後の宮津藩と関わりがあったからなのでしょうね。
一番明確なのが国津神とされた頃、出雲臣の千家家・北島家の系譜に安倍家が加わった事なのでしょう。
北島家には、古く、向家と富家が出雲臣北島家と成って居て、そこに、平安時代に安倍家も加わった模様。
そもそもが、天穂日系の千家と北島家とは・・北島家系譜の向家・富家は先住系で、渡来の天穂日以前の出雲王朝の事代主の家柄。
では国譲りとは、この渡来の天穂日が、大国主に寝返って、部下と成って居たが、ニギハヤヒ=(天照軍)の本体に、内通し
出雲の陣構えを教え、道案内し、引き入れ、東出雲を滅ぼし、乗っ取ったのが千家・北島家の祖・・天穂日だったからだ。
千家・北島家の祖に、杵築大社(旧出雲大社)の東出雲を奪われた、大国主直系の神門家の出雲臣の王、出雲(神門)振根と事代主直系、登美?飯入根
出雲風土記では、兄弟とされて居て、崇神天皇が杵築大社社人の証、神度剣を飯入根を唆し、奪い、弟の飯入根を殺害した容疑で、神門振根を四道将軍の
武渟川別命(安倍氏の祖)に殺害討伐させたと成っているが、実際は、天穂日がニギハヤヒの軍を引き入れた時に、神門振根と登美?飯入根が討ち死にし、近くに、埋葬されている。
生き残った、神門臣家の人々は、向家・富家の居る西出雲の熊野大社に落ちのび難を逃れた。
これが、出雲国譲りの実態。
後に、大国主・神門家の子筋、武内宿禰もニギハヤヒの手の者に暗殺を企てられ、熊野大社の逃げ込んでいる。
この、神門家の子筋で系譜に伝わるのが、志摩(島津)国造家の島(直)氏(島族)で、京丹後の島谷氏が京丹後で最も古い島族で、京丹後周辺の宮司に任官して行ったようだ。
阿部家は、出雲・北島家に組み込まれた関係で、江戸時代の京丹後領主・宇多源氏の京極家の任命された島谷氏を、大阪城領主と成った阿部家取り仕切りで、島谷出雲氏が任官したのが真相のようだ。
>>102のつづき
因みに、南関東の神門古墳群の謂れは、その島族を名乗ったものが、南関東の国造家に任命され、神門古墳群を造ったからだそうだ。
武内宿禰暗殺やニギハヤヒに東出雲の土地を奪われた事により暗殺を警戒した、南関東(続出雲王国)の国造家たちは、自らを散自出雲と称し、秘密の連絡網を形成し、自らの系譜も大国主・神門臣家から天穂日千家系譜としたそうだ。
だから、京丹後の島谷氏が、元伊勢なのだろう。
元々、元伊勢は、蘇我氏社家の管轄だったそうだから、親戚の島族が任官した形なのだろうね。
蘇我氏は、武内宿禰−紀氏の子筋で蘇我馬子=島大臣まで、島族を名乗って居た関係もある。
因みに、白村江の戦いの敗れ、以降に関東へ移住した百済王族も蘇我の親類として渡来した武内氏族とも言われ、第25代百済王の武寧(武内)王を和名で斯摩王と呼ぶそうだ。
渡来後、島野、島崎、島田、島村を名乗り、武蔵・千葉の国造に参加し、国造家と成っているそうだ。
訂正。
東出雲の熊野大社・・向家・富家
西出雲の杵築大社(旧出雲大社)・・神門家
藤原清衡には清原家衡のほかに異母弟、藤原(刈田)経元がいた。
この家系は後に白石氏を名のり、伊達氏の家臣となり、現在登米伊達氏として
続いている。