邪馬台国 巨大津波滅亡説

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1日本@名無史さん
3世紀頃にメガ津波で消滅しました。
日本列島に生きる者の宿命です。
皆さん、諦めましょう。
2日本@名無史さん:2013/03/29(金) 13:09:57.78
万世一系の皇国史のイメージが崩れるんでタブーになってます。
3日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:27:45.18
このたびの大分県佐伯市・竜神池の津波堆積物調査で、
西暦200年頃、東日本大地震を上回る超巨大津波が九州東海岸を襲ったことが分かった。
およそ卑弥呼の時代である。

http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/nankai_trough/5/iin_okamura.pdf
(pdfのp6〜p7、No.3の堆積物黒バンドは西暦684年の天武地震、No.4のバンドが卑弥呼時代のもの)

天照神話には、スサノオノミコトが高天原へ上がる際、山川が揺れ海原がとどろいたので、
アマテラスはスサノオが攻めてきたと想い、弓矢を構えたという。
打ちつづく巨大地震と大津波で皆々が疑心暗鬼になっていたことがうかがえる。
巨大津波に慄いて東に新天地を求めた邪馬台国、
しかし2000年後に再び東日本巨大地震、さて皇国の命運やいかに・・・、
4日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:31:24.14
邪馬台国は、富士山の噴火で溶岩流にのみこまれて消滅した。
幻の富士王朝こそ邪馬台国。
5日本@名無史さん:2013/03/30(土) 14:42:14.61
筑後川一帯なら湾内だから、まともに波かぶることはないかな?
6日本@名無史さん:2013/03/30(土) 15:13:52.02
雲仙岳の噴火の火砕流で対岸への肥後津波はあったらしいけど
地震津波に有明海は強いらしい
もっとも邪馬台国筑後平野なら、神武東遷はなかったかもの意見あり
7日本@名無史さん:2013/03/30(土) 15:17:08.49
吉野が里が遺棄されたのは3世紀後半だな。
高地性集落もこの時期か?
8日本@名無史さん:2013/03/30(土) 16:15:55.79
吉野ヶ里は縮小しながらも、9世紀までは集落があった。
9日本@名無史さん:2013/03/30(土) 20:48:44.53
現場を見たことないので、航空写真での印象だが、
発掘された吉野ヶ里区域は小高い丘でなかったのかな
もともと水が得にくいので住む人はなかったが、大乱抗争勃発でやむを得ず城柵内に避難生活するようになった。
しかし間もなく平和が訪れたので徐々に元の定住地へ戻った。
ただし一部は水も得られたので細々と9世紀まで使用された・・、とか?
10日本@名無史さん:2013/03/31(日) 10:48:34.28
吉野ヶ里は9世紀の木簡が出ているから、
権力が他に移ったあとも、役所機能などが残されていたのだろう。
11日本@名無史さん:2013/03/31(日) 10:54:31.20
吉野ヶ里は8世紀の集落跡。
年代測定が間違っているんだよ。
12日本@名無史さん:2013/03/31(日) 10:58:11.36
典型的な弥生中期の吉野ヶ里が8世紀なら、
日本中の弥生遺跡が800年程新しくなりそうだな。
13日本@名無史さん:2013/03/31(日) 11:11:30.48
縄文文化は江戸時代まで続いていたし、
コンクリートで石の代替品を作る技術によって石器文化は今も続いている。
鉄器時代は繁栄を極めていて、東京スカイツリーは鉄器文化の頂点だろう。
稲作文明を守るためにTPPの例外品目にしようと躍起になっている。

人の営みなんて、昔とちっとも変わっちゃいないのだ。
14日本@名無史さん:2013/03/31(日) 14:09:35.20
自然災害で争乱状態になることも考えられるからな。
15日本@名無史さん:2013/03/31(日) 16:24:17.90
古代気候と社会の共振現象 年輪酸素同位体比法による古代推定降水量の変動
(西暦初頭はpdfの13-16ページ参照)
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf
16日本@名無史さん:2013/03/31(日) 18:57:46.61
邪馬台国が東九州を襲った大津波で壊滅したとしたら宮崎海岸か志布志湾岸。
大陸から薩摩半島、大隅半島へ上陸し宮崎へと北上した熊襲が邪馬台国か。
17日本@名無史さん:2013/04/03(水) 00:48:14.82
日向ってのは神武天皇のふるさとだから、邪馬台国とは限らない。
だから、巨大津波は神武東征の理由にはなりえても、邪馬台国の滅亡理由にはなりえない。
と思う。
18日本@名無史さん:2013/04/05(金) 19:01:38.68
魏志倭人伝の邪馬台国はライバル「呉」の牽制の為に「魏」が東南海上に造り出した幻の国である。
同時代に存在した国は大和地方にあったものだけ。これが邪馬台国と言えば邪馬台国と言えなくもない。
従って九州に求めても所詮無理な話しである。
19日本@名無史さん:2013/04/06(土) 09:30:37.53
弥生時代(BC400年〜箸墓築造AD250年)の鉄器出土量は 北部九州>>>>>>>>>>近畿 なのをどう説明するんだ?
20日本@名無史さん:2013/04/06(土) 09:33:24.59
弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。

 漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【∩銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により
卑弥呼(アマテラス)の邪馬台国【○銅鏡祭祀】に国を譲る【銅鐸一斉処分:九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
 これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争になり、倭「和」国は分裂し、卑弥呼は急死する(男弟/魏の張政/
狗奴国による暗殺説)。

-分裂した倭「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘

 卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は、投馬国長官♂を婿として迎え、旧奴国&隅国(隼人)とも同盟を結び、肥後
狗奴国(後の熊襲)を一網打尽にし、倭「和」国を再統一した。
 「和」国再統一の偉業をなした男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、中国大陸
における五胡十六国の戦乱の影響から距離を置くべく、都を筑紫・博多から先遣隊長ニギハヤヒが拓いた奈良・三輪
山麓(纏向)へ東遷し、その女系先祖・卑弥呼(アマテラス)&台与以来の【○銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始する。

※古事記・日本書紀が、日向長官の先祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑
弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の
末裔)による系図操作。
 ∩銅鐸祭祀をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の功績を消され出雲に祀られる。
21日本@名無史さん:2013/04/06(土) 09:34:18.38
-「大和」朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(双方の男系男子途絶による)政権交代

4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬国)系大王【四道将軍派遣→国造任命→ヤマトタケル九州平定】
5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王【神功の三韓征伐→倭の五王(讃珍済興武)】
   →(高句麗の南侵に脅かされた)金官伽耶(任那)・百済・新羅への軍事支援により「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王【仏教伝来→白村江の戦い→律令国家】


-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
  …継体大王の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
  …筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
  …「白村江の戦い」完敗→百済・任那滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を喪失。国力低下→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
  …両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
  …筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都
22日本@名無史さん:2013/04/06(土) 18:51:28.04
津波、火山の爆発で神武は行われたでしょうね。
神武天皇の東征の碑が大隅半島の霧島市福山宮浦神社、
東串良町柏原にあります。
当時、火山も活発で生活に支障が出たのでしょう。
23日本@名無史さん:2013/04/06(土) 19:40:23.01
>>18
魏も呉も滅亡してから魏志倭人伝が書かれた。そのような狙いが有る訳が無い。
24日本@名無史さん:2013/04/07(日) 17:06:45.63
この写真は佐賀平野で海抜+3m想定だけど、これを宮崎まで持って行き、
写真モードを地図モードに戻し、口地形にチェックを入れ、
さらに巨大津波の想定で、海抜を+20mにすると宮崎県は凄いことになるな。
約2000年前の卑弥呼のころ、こんなことが起こったんじゃないかな、そのまんま滅亡だ!!

http://flood.firetree.net/?ll=33.2198,130.3140&zoom=11&m=3&type=satellite
25日本@名無史さん:2013/04/07(日) 18:00:02.80
>>22
津波、火山の爆発で神武は行われたでしょうね → 津波、火山の爆発で神武東征は行われたでしょうね
でした。
26日本@名無史さん:2013/04/07(日) 21:07:42.98
違うね。地球温暖化に伴う海面上昇が原因だろう。
有明海が海になった。
27日本@名無史さん:2013/06/12(水) 00:16:24.93
大雨と洪水に伴う土砂崩れにより山上の集落は川に流れました。
この時被害に遭ったのは卑弥呼と娘婿の天稚彦です。
この事があって、妻、卑弥呼を亡くした大国主は出雲に出ました。
幸いなことに、裕福で権力のある親戚の計らいで出雲という土地を確保出来ました。
28日本@名無史さん:2013/06/24(月) 17:55:02.13 ID:zGzJcVlM!
邪馬台国は朝鮮半島にあったんだよ。
大和は裸国か黒歯国のどっちかだろうね。
29日本@名無史さん:2013/06/24(月) 23:01:42.97
沖縄の海底遺跡が邪馬台国じゃないの?
30日本@名無史さん:2013/06/25(火) 08:24:33.19
>>29
違うよ。あれ人工物じゃないよー
31日本@名無史さん:2013/06/25(火) 21:53:31.05
邪馬台国は、やっぱり江田船山古墳に近い菊池川沿いの環濠集落だったと思われます。
大雨で、全部流され川の底。掘っても痕跡を探すのは難しそう。
32日本@名無史さん:2013/06/25(火) 21:56:30.70
氾濫で埋められたようなところの方が残りやすいけどな
台地とか堆積と侵食がどっこいどっこいのとこは後の耕作で削られて消えてしまいやすい
33日本@名無史さん:2013/06/25(火) 22:32:55.97
川底掘ってみろよ。何か出てくるかもよ。
ただし、自己責任でね。
34日本@名無史さん:2013/06/25(火) 23:29:22.27
>>30
止めてよ! 観光客が来なくなるじゃないか。
35日本@名無史さん:2013/06/26(水) 07:15:17.15
邪馬台国は信濃にあったんだよ
36日本@名無史さん:2013/06/26(水) 21:09:31.47
邪馬台国は、会津にあった。
耶麻郡こそ邪馬台国そのもの。崇神天皇の時代、諸国平定の任務を終えた四道将軍大毘古命と建沼河別命の親子が、この地で合流したことに由来するという。
会津美里町の伊佐須美神社縁起にも同様の伝承がある。
その時、邪馬台国は滅んだものの、邪馬台国の女王卑弥呼の血すじは今も引き継がれている。
「八重の桜の」の山本八重、やまとの名と、女王としての風格が備わっている。

薩摩の西郷隆盛、会津の西郷頼母、この地で間接的に戦うことになったのも因縁を感じる。
37日本@名無史さん:2013/06/26(水) 21:53:43.03
"邪馬台国会津説" 約35件
38日本@名無史さん:2013/06/26(水) 23:15:00.16
すげぇ、さすが会津だ。35人も基地外がいやがる。
39日本@名無史さん:2013/06/27(木) 08:21:35.39
山本がなんで邪馬台やねん
40日本@名無史さん:2013/06/28(金) 23:26:38.98
ならぬものはならぬのです。

この頑なさこそ、邪馬台国の伝統ではないでしょうか?
41婆 ◆HKZsYRUkck :2013/06/29(土) 00:35:20.97
>>40
つまり邪馬台国が西遷してナラ(奈良)になったと!
42日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
しかし、そうは奈良ないのです。
43日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN
おーい、山田くん、>42に奈良づくしを
44日本@名無史さん:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN
奈良っていうのは平らなってことだから、まあ、要するに盆地のことだよ。
山門も山に囲まれた盆地のことだし、
邪馬台国の候補地は盆地でなければ奈良ない。
45日本@名無史さん:2013/09/22(日) 11:02:22.33
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
46日本@名無史さん:2013/11/30(土) 23:06:23.65
http://www.youtube.com/watch?v=wuDOebvhhe0
南端の北に南端はある
47日本@名無史さん:2014/04/15(火) 20:10:04.16
ふむ。じゃ邪馬台国は三陸にあったんだなw
48日本@名無史さん:2014/04/15(火) 20:13:17.13
だから邪馬台国ってのが本当にあったの?
49日本@名無史さん:2014/04/15(火) 20:19:58.23
あったこと前提で言ってるんだもんなあ
日本の記録史には残っていないから中国の文献に頼るしかないんじゃん
まあ平仮名もカタカナもできる前の話なんだろうが
50日本@名無史さん:2014/04/15(火) 20:57:36.84
ここで神代文字
51日本@名無史さん:2014/04/16(水) 09:25:06.42
書けよ神代文字

あるなら
52日本@名無史さん:2014/04/16(水) 10:15:28.48
神代も知らず竜田川
53日本@名無史さん:2014/06/22(日) 02:42:31.50
神代もきかず じゃないと意味が通じんな

千早に振られて神代もいうことをきかず
54日本@名無史さん:2014/06/22(日) 10:41:27.68
神代にも知らんぷりされたから、水をくくったんだってば竜田川
55日本@名無史さん
『ホツマツタヱ』は高天原は日高見国(宮城県の仙台)にあったとし、天照大神の宮殿
「ヤマテ宮」が存在したという。これにヒントを得て、ヤマタイを東北弁で訛らせる
と「ヤマデェ」に近くなることから、邪馬台国は仙台にあった、ということもできる。
実際には仙台の語源は「千体仏」説が最有力で、その他にも諸説あるが、みな仙台は
当て字であって読みはセンダイかそれに近かったとする説ばかりであり、ヤマト・
ヤマタイ・ヤマデェ等の読み方とかかわりそうな説がない。『ホツマツタヱ』に
至っては江戸時代の偽書であり「ヤマテ宮云々」は問題外。ただし日本書紀に出て
くる日高見国(ひだかみくに/ひたかみのくに)が今の仙台平野のことであるのは
通説通りで問題ない。また仙台の東北に位置する「本吉郡(もとよしぐん)」は
宮城県の東北部の三陸海岸だが、古代では今の気仙沼市の全体・南三陸町の全体・
登米市の一部・石巻市の一部まで含んでいた。千田俊文は、縄文時代の文化的
中心地が三陸海岸地方であること、古代から全国どこにも祀られることがないと
されてきた開闢の神々(「別天つ神」や「神世七代」の神々)を祀る神社が、なぜか
本吉郡に多く存在すること、延喜式の中臣祓の祝詞に出てくる日高見国の考察、
などから本吉郡こそ日高見国であり高天原であるという説を立てた(この千田の説は
『ホツマツタヱ』とは無関係)。天照大神=卑弥呼とし、高天原=邪馬台国とする
かつてありがちだった電波説を援用すれば、その千田俊文の「本吉郡=日高見=
高天原」説の上に、さらに邪馬台国でもあったと付け加えることも可能だろう。
ただしその千田俊文本人は邪馬台国に関しては九州説だったが。またこの地域は
古来津波で有名であり、ムー大陸の沈没とはここにあった文明が津波で滅んだこと
である、というムー大陸説もすぐできる。これは木村政昭の「琉球=ムー大陸説」
のパクリであったりなかったり。