指摘したことがまるで分かってないんだな
>>939で正体不明とぬかしておきながら
>>949の記事はみんな記紀からではないか
系譜や神社関連の記事は肯定する
近畿が本拠地だったことは否定する
古事記は信じられるが日本書紀は疑わしいとか
書紀のここは良いけどここはダメとか
ある史料の記事を取捨選択するのは構いませんけど
その弁別なり分析なりを教えてくれないと話にならないの
>神功皇后の母が〜
桓武天皇は朝鮮人か
>応神は立太子の〜
新羅三郎義光は朝鮮人か
単純に伽耶マンセーな色眼鏡で偏ってるだけだね
>>951 >歴史学じゃのうてオカルトの世界じゃ。
今月のおまえが言うな大賞に決定w
>筒形銅器と筒状銅器は違うし、筒状銅器を起源としたい意図は、
筒状銅器は筒形銅器の前段階だ。
>大福遺跡の年代すら大本営発表の2〜3世紀を羅列しよる処
地層や土器から判別できるのだろう。
反論があるなら、何世紀なのかはっきり言え。
てめぇが汗流して掘ったこともないくせに偉そうにほざくな、下郎。
>>949 つぬがあらしと
完全な大和名じゃん、加羅や新羅が倭人によって統治されていた裏付けにしかならない
957 :
白馬青牛 ◆8mr41B7alChB :2013/07/21(日) 01:54:13.56
958 :
白馬青牛 ◆8mr41B7alChB :2013/07/21(日) 02:05:00.16
>>957 金銅冠帽など東アジア全般にある普通の文化。
今で言うなら日本でベンツに乗っててもドイツ人でないのと同じ。
>>958 一方、生贄を持ち出すのなら、
おまえが伽耶系という継体王朝をはじめ、
何で日本に生贄がないのか答えろ。
たった2レスで矛盾してるじゃないか。
こんな妄想アホウも珍しい(笑)
>>958 >16才と推定されるこの伽倻少女像は背丈153cm,胴回り21.5インチで8頭身に近い美人像だ
あれ?当時の16歳の女性で153cmもあるなら長身じゃん。
しかもスラッとした8頭身。
おまえが言う縄文系って低身長でずんぐりむっくりなんだろ?
8頭身って部分をごまかしてるんだね卑怯者。
女の腐ったようなやつだなw
961 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 08:55:43.88
>>952 >系譜や神社関連の記事は肯定する
>近畿が本拠地だったことは否定する
では君は「系譜や神社関連の記事」を否定し、
神功皇后の新羅征伐説話を肯定するのか?
>>956 >つぬがあらしと
>完全な大和名じゃん、加羅や新羅が倭人によって統治されていた裏付けにしかならない
日本書紀の垂仁天皇条には大加羅王子・つぬがあらしとの三つの名前が書いてある。
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)
蘇那曷叱智(そなかしち)
干斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)
これでも「倭人」の「大和名」か?
>>961 疑問に疑問で返すのはまともに議論できない奴の典型だな
他人に聞く前にまずは自分の取捨選択を説明しろ
なぜ神功・応神の近畿制圧は本拠地の回復ではないのか
母親が伽耶系だとして何だというのだ
桓武帝は朝鮮人か
成人の時に参拝した神社が伽耶系だとして何だというのだ
源義光は朝鮮人か
>>961 百歩譲って、崇神時代に朝貢に来た蘇那曷叱智(そなかしち)が、
加羅国に帰らず、敦賀に留まったとして、
そして神功皇后の母方の祖先になったとして、だから何なんだ。
何を言いたいのか意味が分からない。
それでもって皇統が加羅系に変わったとでも言いたいのか?
男系が変わってないのに意味がないだろ。
964 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 11:32:47.47
>>962 >なぜ神功・応神の近畿制圧は本拠地の回復ではないのか
少なくとも応神は本拠地の回復ではない。なぜなら九州で生まれた応神はまだ近畿へ
行ったことがないからだ。
また、軍勢ぜんたいとして言えば、西日本の豪族たちにとっては本拠地の回復ではない。
神功は近畿で大王妃になったかもしれないが、それも仲哀が実在したとしての話だ。
これで質問に答えた。そっちも答えよ。
君は「系譜や神社関連の記事」を否定し、神功皇后の新羅征伐説話を肯定するのか?
>>964 俺は>962氏ではないが、
九州で生まれた応神が母に連れられ畿内に行った事が東征なのか?w
>それも仲哀が実在したとしての話だ
仲哀陵は「『日本書紀』に「河内国長野陵」、
『古事記』には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」とする。
同陵は大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳(前方後円墳)に比定される。」
ということだが、岡ミサンザイは埴輪の編年などから5世紀半ばとされ全然時代が違う。
また「長江」つまり川のそばではない。
河内王朝開始期の大王陵で川のそばにある古墳と言えば、
津堂城山古墳しかない。
これが真の仲哀陵だろう。
また古事記に11代垂仁、12代景行の没年干支は書かれてないのに、
前後の10代崇神、13代成務、14代仲哀の没年干支は書かれてる。
これは強く記憶できていたから書いたということなので、仲哀は実在したということだろう。
(かといって垂仁や景行が実在しなかったということではない。
単に記憶できなかったということだろう)
>>964 ほう
父も母も近畿の人で偶々九州で生まれた者が近畿へ戻ることは帰国ではないのか
生地主義をとるのか血統主義をとるのか統一してもらいたいんだが
応神は生地をとるのに神功は母の血統をとるのでは御都合主義すぎるだろう
主語を軍勢の統率者ではなく構成員とするのかね
だったら応神も神功も関係ないじゃん
南北朝の頃でいえば北畠顕家の奥州からの南下は南征で足利尊氏の九州からの西上はやはり東征となるのか
暑さのせいではないと思うがもう少し丁寧に論理を組み立ててごらん
あと端的に例示したものについて無視するのは何故だ?
桓武と義光のことは時代が違いすぎて知識が無くて論じられぬか
>>961 神功皇后が三韓(半島南部)を征伐、征服したのは
他国史書、金石文、考古物から判断して否定仕様の無い史実
未だに拒絶しているのは歴史捏造主義のアノ国籍だけ
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、「倭人」の「大和名」だよね
しかも韓族がつぬがあらしとなどと云う和風名を持つ蓋然性は皆無
>>965 津堂城山古墳のそばを流れているあの川は、江戸時代に付け替えられたんだが…
>>968 江戸時代に大和川を付け替えたとはどういう意味だ。
だいたい津堂の津で川の傍だと分かるだろ。
970 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 20:40:34.85
>>966 >南北朝の頃でいえば北畠顕家の奥州からの南下は南征で足利尊氏の九州からの西上はやはり東征となるのか
それでいいじゃないか。なにがいけないのか?
>父も母も近畿の人で偶々九州で生まれた者が近畿へ戻ることは帰国ではないのか
前にも言ったが、なんであれ西から東に大移動して戦えば東征だ。
違うと言うのならまず君の考える「東征」を定義せよ。
>主語を軍勢の統率者ではなく構成員とするのかね
>だったら応神も神功も関係ないじゃん
私ははじめから応神・神功を実在と前提して話しているわけではない。
「応神・神功」の名前で語られる、この時期に起こった内戦」の話をしているのだ。
応神・神功の伽耶つながりのことを言ったのは、それがこの内戦の性格に関係する
と考えるからだ。
ところで君は私の質問
>>964に答えないが、答えないわけを教えてやろう。
それはじぶんでも取捨選択していることが明らかになるからだ。 違うか?
971 :
日本@名無史さん:2013/07/21(日) 20:43:15.61
>>970 訂正:
「応神・神功」の名前で語られる、この時期に起こった内戦」
→「応神・神功の名前で語られる、この時期に起こった内戦」
応神・神功の名前で語られる、この時期に起こった内戦って忍熊王?
何か問題でもあるのか?
>>969 >江戸時代に大和川を付け替えたとはどういう意味だ。
まじに知らんのか?
目の前の箱に聞いて見たらどうだw
>>970 神武東征という使い慣わされた言葉がある所に
わざわざ応神についても東征という語を使うことは
余計な主張をするのでなければ普通の感覚なら避ける
「征」の字の「うつ」という意味の他に「ゆく」の意味を考えれば応神に東征は合わない
まあ史書の読み方が恣意的な人に漢字の使い方を期待した方が間違いだった
>君は「系譜や神社関連の記事」を否定し、神功皇后の新羅征伐説話を肯定するのか?
神功の母の系統が何であろうと
応神がどこの神社に参拝しようと
伽耶系云々といったような曲解には至らない
回答するほどのことでないのが分からないのは情けない限り
顕家と尊氏には言及したのに桓武と義光は徹底して無視するのは何故だろうね
他の人のレスも見てごらん
自分の考えが独りよがりの妄説だということを認識できないのなら残念だ
>>974 補足
「故郷に征く」「本国を征つ」という表現に疑問を感じずしっくり来ると言うのであればこれ以上議論することはない
残念な言語感覚を憐れむだけだ
母の祖先が百済人だから桓武帝は百済系なのか
新羅から勧請した神を元服時に拝礼した源義光は新羅系なのか
神功・応神に見る思考回路のおかしさを他の端的な例で問うているのだ
難しいことはないだろう
>>973 残念ながら柏原の手前なので大和川の改修とは関係ないのだが。
大和川の柏原〜堺は江戸時代に新しく開削されたものなんだが…
まともにググることすらできないのか?
ええい、やかましい。
津堂の津だから川のそばでいいのだ。
やいやい言うな、ハゲ。
>>978 そもそも問題となるのは「津堂」じゃなくて「長江」の方だろハゲ
だから津堂は長江でいいだろうがボケ。
>>980 津堂の地名はどこまで遡れるんだ
大和川開削以前にどんな川が流れていたのかも示せないボケが
石川は流れてるだろがハゲ。。
あのあたりで4世紀後半の大王墓は津堂城山しかないのじゃ。
ごたごた細かい事言うなボケ。
>>982 石川は柏原で大和川と合流して北流していたんだよハゲ
そんな雑な比定じゃ誰も納得せんぞボケ
最初につまらん細かいこと言い出したのはおまえだマヌケ
あのあたりは恵我之荘の近くだろ。
河内の恵賀(えが)の長江なら津堂城山しかないだろ。
大塚山古墳は6世紀後半なんで除外。
津堂城山とは違うというなら何古墳か言えボケ。
最初につまらん細かいこと言い出したのはおまえだろが。
批判するのに対案が必要だとは知らなかったわ
古墳が全て伝世しているという保証も無いのに消去法で決め付けられるんなら簡単でいいね
さすが唐突にハゲだのボケだの罵詈雑言を繰り出すだけのことはある
石川からでも2km離れている場所を川のそばで長江と称したと言い切るなら
これ以上言うことはないから好きにしてちょ
しかもだ。
津堂城山古墳の西を流れる東除川は、Wikiによると、
「落堀川と合流してしばらく大和川左岸と平行する部分は、
江戸時代の大和川付け替えの際に北へそのまま合流させていた東除川を、
大和川との落差が十分ではなかったことによる増水時の対策として、
1984年に西へ水路を掘って水害を防ぐことができる地点まで導いたものである」
ということだ。
つまり昔はそのまま北に流れてたという事だ。
したがって恵賀(えが)の長江なら津堂城山しかない。
ムフフフ…
俺の勝ちだ。
>>986 なんだよ後付の補強かよ石川とか言ったのはどの舌だよ
東除川だと1.5kmくらい離れてる
もっと川のそばっぽい古墳はいくらでもあると思うがそれらを差し置いて川のそばと称したのかね
古事記を信頼しているようだけど書紀と延喜式が誤ってるとするなら根拠はなんだね
長野が正しくて長江が誤りだという可能性もあるんだが
>>987 1.5kmじゃないな1.2kmくらいだ
ところで東除川との距離は大和川の改修と関係なくないか
>なんだよ後付の補強かよ
そうだ。
>石川とか言ったのはどの舌だよ
石川だと思っていたが、東除川を発見したのだ。
つまり両川に囲まれてるので長江の「江」であり津堂の「津」だ。
これにて一件落着!
>>989 東除川からの距離で判断するなら大塚山の方が近いんだけど
遠い方を長江と称したのは何故だったのかね
川に挟まれてる土地の意味なら「挟」とか「内」とかだと思うがね
>東除川からの距離で判断するなら大塚山の方が近いんだけど
その通り。
恵我にあり川のそばに近いなら大塚山だろうが、
上記の様に6世紀であり全然時代が違う。
津堂という地名はいつからかは分からないが、
川に面してた「津」が語源であることは間違いないだろう。
したがって津堂城山で決定だ。
まぁ不満はあるだろうが、決定だ。
あきらめろ。
そもそも河内って鎌倉の頃までは江戸時代以前の関東と同じく
河川の錯綜する水郷地帯だから大和川の改修以前に
何度も河川改修しまくってるよ
>>991 古事記が撰述された頃に「長江」と呼ばれていたということは
近在の古墳に比べて「長江」と呼ぶに相応しい場所だったということだが
大塚山やミサンザイと比べて「長江」と呼びわけるに相応しい場所とは思えないが
>古事記を信頼しているようだけど書紀と延喜式が誤ってるとするなら根拠はなんだね
これはあえて無視するんだな
>>992 それは主に八尾あたりから下流の話では?
藤井寺・松原・平野あたりの古い川筋は概ね南から北へと流れてそれほど大きく流路が変わっているとは思えないが
>大塚山やミサンザイと比べて「長江」と呼びわけるに相応しい場所とは思えないが
だから恵我、長江という条件では当てはまるかもしれないが、
両古墳とも時代が全然違うっちゅうのに。
津堂城山の津堂の「津」は明らかに江があったからだろう。
全部の条件備わってるのは津堂城山古墳だろうに。
>>994 川のそばという名前に着目して選定を始めて
途中から編年に切り替える手法に何の疑問も感じないならついていけない
津堂城山より川のそばにある古墳を古事記が長江と呼ばなかった理由はなんだ
古事記の長江のみを信じて書紀や式の長野を無視する根拠はなんだ
>川のそばという名前に着目して選定を始めて
>途中から編年に切り替える手法に何の疑問も感じないならついていけない
最初から地域性と編年と両方が揃ってると言ってるが。
>津堂城山より川のそばにある古墳を古事記が長江と呼ばなかった理由はなんだ
川は流れてても津が出来るような江がなかったからだろう。
したがって長江とは呼ばれなかったのだろう。
>古事記の長江のみを信じて書紀や式の長野を無視する根拠はなんだ
長野ってどこだ。
分かりもしないではないか。
4世紀後半の大王墓が川に挟まれ江があったであろうから「津」堂となってる。
証拠として充分ではないか。
>>997 長江の実在を証明できず場所も特定できないなら長野がどこだか分からないのと大差ない
津堂城山が江や津の傍にあったという証拠が無ければ思いつきの推論にすぎないのが分からないか
古墳の編年など知る由も無い古事記の時代に近在の古墳と区別してわざわざ長江と呼んだからには
当時そう呼ばれるべき理由があったことを何かしらの方法で説明するべきなのに
現代の編年知識を援用して自分好みの結論を導いているだけではないか
東除川と石川に挟まれた土地に古墳が幾つあると思っているのか
多くの川が流れ治水工事が繰り返されたこの地域にあって津堂が必ず長江に遡る保証がどこにあるのか
書紀や式の長野を採るなら却って川の傍ではおかしいことになる
古墳が湮滅している可能性もあるのだから消去法による選定は蓋然性でしかない
999 :
日本@名無史さん:2013/07/22(月) 17:21:23.92
>>998 >長江の実在を証明できず場所も特定できないなら
>古墳の編年など知る由も無い古事記の時代に近在の古墳と区別してわざわざ長江と呼んだからには
>当時そう呼ばれるべき理由があったことを何かしらの方法で説明するべきなのに
疲れるやつだな。
同じ事を何度も繰り返し言ってるのが分からないか?
2つの川に挟まれてる「津」堂という地名にあるのだから、
長「江」があったのではないかと言ってるのだ。
しかも恵我だ。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。