なぜ没落御家人新田義貞が鎌倉攻めをしたのか

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1日本@名無史さん
新田よりも力のあるのはたくさんいたはず。
なぜ弱小の新田が立ち上がったのか?
足利との談合があったのか、それとも単独で立ったのか。ナゾだ。
2日本@名無史さん:2013/03/09(土) 02:54:30.54
童貞の鎌倉攻めに見えた。オワタし。
3日本@名無史さん:2013/03/09(土) 19:57:49.18
幕府に莫大な借金があったからだよ
倒幕と言うなの踏み倒し
4日本@名無史さん:2013/03/09(土) 22:23:23.02
尊氏が六波羅倒すから鎌倉同時に攻めて欲しいって言う相手って普通なら
関東にいる足利一門に頼まないか?
尊氏から義貞に一緒に倒そうとか、同じタイミングで攻めようってお願いしない
と思うんだけどな。
徴税しに来た奴を斬っちゃったから見切り発車でどうせ死ぬなら戦して死のうって
事で鎌倉攻めを起こしたんじゃ?
それがたまたま足利尊氏と同じ時期に重なっただけ。
しかしどうも分からんことがあるんだが越後の新田勢がすぐ合流しにきたって
事は何日か前には決まっていたんだろうか。
新田義貞がなぜ鎌倉攻めを行ったか分からん。
5日本@名無史さん:2013/03/09(土) 22:43:50.51
新田一族の領内に、得宗が入り込むようになり新田氏は貧困のために
代々受け継いだ土地をも、売ることになってたようだ。
 ちょうど世間は、後醍醐天皇、護良親王らが令旨を名のある武士にだして
義貞のところにも、お誘いが来たわけだ。
 どうせこのまま鎌倉殿に従っても貧しいままだし、一か八かで挙兵したんでしょう。
6日本@名無史さん:2013/03/09(土) 22:54:03.69
>>5
一か八かだと思うが黒沼彦四郎を斬ったのは5月初め頃で、挙兵が5月5日
だか8日でしょ?
それから越後やらの新田勢が1日2日で合流出来るって用意周到すぎじゃね?
7日本@名無史さん:2013/03/10(日) 06:25:14.68
用意周到というか黒沼を斬ったのは黒沼が上野でしばらく民から徴税した後だよ。
黒沼を斬る前に越後やら周辺の新田一族に使い出してるんじゃない?明日黒沼を斬るからみたいに。
千寿王はなんで来たかはしらんが。
まあ勝算があったのかは謎だよね。
8日本@名無史さん:2013/03/11(月) 20:57:31.80
信濃の小笠原が参加していたり、御内人の長崎氏の手下の白河結城が倒幕側につくなど
相当畿内の幕府苦戦の情報が広まっていたのだろう。最大の要因は尊氏が反旗を翻したことだけど、
反幕府を宣言した4月29日以前に決めていただろうから関東の武士に軍勢催促したから
義貞に呼応する勢力が多かったのだろう。

鎌倉陥落後、義貞が千寿王に付けられた細川兄弟との紛争に負けて上京したことからも
義貞を上にいただこうとする武士は少なかったと見ていいだろう。
9日本@名無史さん:2013/03/12(火) 13:19:50.44
黒沼達が来なかったら新田は動かなかったって事かな?
10日本@名無史さん:2013/03/12(火) 21:35:08.90
おそらく足利の指示で動く事で準備中だったのが、思いもかけずに黒沼ら幕府役人が乗り込んできたので慌てて足利の指示を待たずに慌てて決起したんじゃない?
11日本@名無史さん:2013/03/12(火) 23:50:00.78
つまり本来は関東に残ってる足利軍が鎌倉を攻めることになっていて、義貞はその軍に加わる事になっていたと?
12日本@名無史さん:2013/03/13(水) 14:26:53.92
尊氏は同時期に六波羅探題を攻めているけど2万の兵を率いていたらしい
尊氏が鎌倉を攻めるためにそんなに大量の足利軍を鎌倉に残していたとは思えんが
北条家が不審がるだろう
13日本@名無史さん:2013/03/13(水) 15:06:31.17
そもそも新田は、弱小ではない

足利とのツートップだろ
14日本@名無史さん:2013/03/13(水) 21:03:28.40
150騎で出発したけど越後勢が加わるっていうから立ち上がったんじゃないの?
足利勢を抜きにして7000弱集まったらしいが、足利が加わらなかったらこの軍勢だけで
鎌倉を倒せたかね。
15日本@名無史さん:2013/03/13(水) 23:44:20.64
>>14
当時4歳の千寿王が率いる足利軍ってどれだけの数がいたの?

六波羅探題攻めた尊氏の軍には他の御家人の軍勢も交じってるからね。
16日本@名無史さん:2013/03/14(木) 00:03:09.84
西国に大軍を派遣してたから鎌倉は手薄だったんだろ
17日本@名無史さん:2013/03/14(木) 00:12:37.94
>>15
多摩川までは新田系だけで7000。
多摩川越えて千寿王と合流した途端に関東近郊の源氏が集結して数万
に膨れ上がった、と太平記ではなってるが。
千寿王が合流しなかったらこんなに合流してなかったのかね?


>>16
手薄とはいえ、分倍河原の戦いで10万(誇張だと思うが)の兵を繰り出せる
北条だぞ?
18日本@名無史さん:2013/03/14(木) 08:57:29.39
>>17
その源氏軍たちは千寿王が合流しなかったら新田に味方せず
鎌倉を守って新田を攻めていたかは微妙だよね。
尊氏だって、佐々木や赤松らと一緒に六波羅を落としたはいいが鎌倉が落ちなかったら
ただの賊軍で北条氏にうちとられる。
尊氏の軍が京を制圧してから改めて鎌倉へ攻め込み北条本軍と戦っていたら
勝てた保証などない。
19日本@名無史さん:2013/03/14(木) 20:11:29.69
>>18
尊氏は後醍醐を擁してて、光厳も保護してるから賊軍は北条
それに北条軍(幕府軍)の主力は京周辺に送り込まれていて、それが六波羅陥落で瓦解している時点でもう詰みだろ
六波羅陥落の報を聞いて倒幕に寝返った御家人も多かったのでは?
20日本@名無史さん:2013/03/15(金) 00:18:06.37
六波羅陥落の報が東国に伝わったのはいつ?
21日本@名無史さん:2013/03/15(金) 20:39:16.37
>>20
当時だと京→鎌倉は早馬で3泊4日くらい
22日本@名無史さん:2013/03/15(金) 23:34:15.61
六波羅攻防戦が、鎌倉幕府の命運を分けたな。
探題の北条仲時、時益が光厳天皇を引き連れて東国へ落ちようとしていたのか
分かったわ。
楠の足止めによって六波羅の守りも不十分だったに違いないが・・・・。

足利も鎌倉をよう裏切ったものだ、千寿王と赤橋登子が人質になってたはずだが。
23日本@名無史さん:2013/03/15(金) 23:44:39.98
>>22
大河じゃないけど兄の執権守時が逃したんじゃないかな?
24日本@名無史さん:2013/03/16(土) 00:24:29.37
>>23
逃がしたけど逃がす事にはなってないでしょ。
25日本@名無史さん:2013/03/16(土) 19:18:51.02
七里ヶ浜の磯伝い 

稲村ヶ崎 名将の

剣投ぜし 古戦場♪
26日本@名無史さん:2013/03/16(土) 21:10:39.68
>1
歴史詳しくなくてすいませんけど、自分的には、
新田は頼朝のような源氏の本流(嫡流っていうの?)以外では最もそれに近い、言ってみれば「主筋」で、
足利の兄貴であり、本来なら源氏の幕府内では最も尊重されるべき家柄だったのに、
頼朝に嫌われて二流的な扱いを受け、以来鎌倉時代を通じて不遇をかこっていた家だったので、
鎌倉の政治体制に相当反感があったのでは?
鎌倉に乗り込んでのあの殺傷ぶりを見ると、単なる政局とか利害とかによる必要性以上の物を感じる。
27日本@名無史さん:2013/03/16(土) 21:12:12.81
>>26
新田が頼朝に目を付けられた(睨まれた)のは、どこだかに際しての挙兵で軍勢を寄越すのが遅かっただか
寄越さなかったかだよね?
新田家自体には、そもそも頼朝の時代既に源氏の名門としての意識があり、「頼朝何するものぞ」的な
気風があって、頼朝に対してそんなに忠誠心がなかったから、軍勢を寄越すに際してトラブったのかもしれない。
28日本@名無史さん:2013/03/16(土) 21:14:35.91
>>27
司馬遼太郎の「街道をゆく」に出てくるが、少なくともこの著作の発表時点では、
鎌倉市内の小学校とかの校庭の石ころには、多数の人骨が混じっていて(今でも?)、
それはこの新田による鎌倉攻めの時のものとのこと。
女子供含めて皆殺しだったんだよね?死者2万だっけ?この今の時代に残る凄惨さからして
恨みの感覚が混ざっていたとしか思えないw
29日本@名無史さん:2013/03/16(土) 21:16:59.29
>>28
この新田の鎌倉攻めが今の時代に意外に大きな負の影響を与えていると思うのは、
このせいで鎌倉幕府の公式の?著作物(史料)とかが全部燃えちゃったことだよな。
おかげで、鎌倉時代の各地の地震だのを始めとする災害の記録も失われたと思うし、
また、鎌倉時代に各地に派遣された守護・地頭のデータも失われた。
今は吾妻鏡にちょっとしかこれ関連の記載が残ってないらしいし。
結構、とんでもないことをしてくれたと思う。
30日本@名無史さん:2013/03/17(日) 00:09:10.36
>>29
火をつけたのって新田軍なの?
よく負けた軍が何も残らないように火をつけていくっていうのはあるし。
31日本@名無史さん:2013/03/17(日) 12:32:29.07
数万?あの貧乏御家人の新田が?みな頭がどうかしておるのではないか?
32日本@名無史さん:2013/03/17(日) 13:13:35.95
新田勢どこから数マンも集まったんだ?
坂東武者がこぞって勝ち馬に乗るの構図か?
33日本@名無史さん:2013/03/17(日) 15:23:50.33
坂東武者どころか御内人が離反する有様だったよ。

義貞も集まってきた武士たちに着到状を発行したり司令官としてやることはやっている。
34日本@名無史さん:2013/03/17(日) 15:28:50.39
>>33
単なる没落御家人ならば
その辺りのノウハウは不完全だ罠
35日本@名無史さん:2013/03/17(日) 17:44:17.00
>>34
武士ならみんなわきまえているよ。
義貞自身も赤坂城攻めとかで総大将に着到状や軍忠状を提出しているはずだし。
36日本@名無史さん:2013/03/17(日) 19:22:53.89
実際に鎌倉攻めでは各方面を一門の連中を指揮官にしたりと集まってきた武士たち
を掌握しているから新田氏の力はかなりあるよ。
37日本@名無史さん:2013/03/17(日) 21:18:57.79
鎌倉攻めの時に
「新田義貞が総大将なの??」
ってみんな不安にはならなかったのかね。それか足利家から「鎌倉攻めの際は
新田殿を立てるように」とお達しが出てたとか?まさかそんな事はありえん。
けど、鎌倉攻めに対しては恩賞目当てというよりは今の境遇の呪縛から解き放たれたい
という思いだけで皆立ち上がったんだよね?太平記だけを見るとそうなんだけど。
まあ結局戦が終わったらみんな恩賞求めたり恩賞すくねーって文句ばっかだったけど。
38日本@名無史さん:2013/03/17(日) 23:59:01.18
ほとんどは新田は足利千寿の代官だと思っていた
39日本@名無史さん:2013/03/18(月) 07:03:46.00
千寿王が合流したのも討幕軍が爆発的に増えた要因
もう1つは幕府軍の主力を送り込んでいたはずの六波羅陥落で鎌倉が死に体になったこと
40日本@名無史さん:2013/03/18(月) 10:49:54.06
六波羅陥落以前に北条の軍事的ヘゲモニーなんかほとんどないよ。
後醍醐の捕縛や楠木の逃亡から幕府の勝利に見えても、それまでの
東北の安東氏の紛争や播磨をはじめとする悪党海賊の跋扈に打つ手なしなんだから。

後醍醐の綸旨や護良の令旨のせいで足利や楠木は討幕軍やレジスタンスに見えているが
楠木、赤松、名和長年を見てもわかるが新興エスタブリッシュメントや
白河結城、京極佐々木のように力をつけた庶流が参加していることから、弱体化した既成権力に対する
下克上と見たほうが正しいよ。
41日本@名無史さん:2013/03/18(月) 11:19:25.77
>力をつけた庶流

新田氏にたいする足利氏がまさにそれだったな。
42日本@名無史さん:2013/03/18(月) 13:26:47.40
足利が本宗家で新田が庶宗家じゃないのかい?
43日本@名無史さん:2013/03/18(月) 21:15:47.13
その頃は庶嫡の区別なんて曖昧。
実力で成り上がった者が嫡流。
44日本@名無史さん:2013/03/19(火) 08:56:11.04
>>33
>着到状を発行

「それがし参陣いたしました」という上申書にサインするだけだから馬鹿でもできるべ
45日本@名無史さん:2013/03/19(火) 22:26:44.06
着到状はあとで恩賞を請求するときに必ず必要になるから誰でもいいというわけではない。
当時の褒賞は敵をどれだけ殺したかよりも戦死が第一とされているように
結果に繋がらなくても頑張れば恩賞が出るシステムだからこういう働きの証明書
はとても重要だよ。
46日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:17:12.67
鎌倉攻めで新田義貞が花押据えている着到状ってあるん?
47日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:18:54.92
それから鎌倉攻めで新田義貞の名で軍勢催促状出してるん?
48日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:43:26.60
義貞→新田一族→足利一門

って流れで出したんじゃ?
49日本@名無史さん:2013/03/20(水) 07:26:49.26
>>46
存在する

>>47
見たことないなあ
存在しないんだろう
ということは他の御家人に命令できる立場ではなかったんだろう
50日本@名無史さん:2013/03/20(水) 07:46:20.48
六波羅が落ちたことが伝わったことで関東の武士が雪崩のように討幕側に寝返ったってことだろ
51日本@名無史さん:2013/03/20(水) 11:19:31.41
大将首取るとどのくらい恩賞もらえるの?
なんか記録ある?
52日本@名無史さん:2013/03/20(水) 13:39:02.25
蒙古襲来で竹崎季長は地頭職をもらっている。
53日本@名無史さん:2013/03/20(水) 14:13:00.54
緒戦の小手指原の戦いに勝利したのが大きかった。
54日本@名無史さん:2013/03/20(水) 14:52:51.70
新田義貞の肖像画ってあるんだっけ?
55日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:27:43.27
足利千寿王の参加と六波羅陥落って、わりと副次的要因だと思ってる
56日本@名無史さん:2013/03/20(水) 16:19:06.62
副次的じゃねーよ
幕府軍の大半は京周辺にいてそれが瓦解したんだぞ
しかも光厳を捕えられたから朝敵扱い
大局的に見ればその段階でもう鎌倉は死に体、詰みだよ
57日本@名無史さん:2013/03/20(水) 17:32:06.45
義貞の挙兵は5月8日以前。他にも坂東の御家人が相次いで挙兵の動きを見せている
5月11日の小手指原の戦いの時点で六波羅陥落の詳報はまだ坂東の御家人に伝わってない。

千寿王の参加は利根川渡河のあたりだが、その時点で新田一族も義貞軍に合流して既に一方面軍に匹敵する兵力になっており、
六波羅陥落の報を待つまでもなく坂東においても情勢は一変していた
坂東の情勢は泡沫御家人と見られていた義貞の挙兵の初期段階の成功で既に一変してる
58日本@名無史さん:2013/03/20(水) 17:39:46.92
5月11日の小手指原、12日の久米川の戦いで幕府軍が渡河を許したばかりか、
武蔵南部まで後退したことが坂東の反幕側の士気を大きく士気を挙げている。分倍河原の段階では雪崩現象は必然だな
たぶん足利・新田の両一族は挙兵について黙契があったと思うが、
義貞の挙兵のタイミングまでは正確に分からなかったと思うよ
59日本@名無史さん:2013/03/20(水) 17:54:37.60
>>54
江戸時代に描かれたものなら
60日本@名無史さん:2013/03/20(水) 18:24:28.99
六波羅陥落が5月7日、京→鎌倉は早馬で3〜4日だから5月10日頃には東国にも届いてるだろ
しかも足利の謀反や六波羅軍苦戦の知らせはもっと早く伝わっている
61日本@名無史さん:2013/03/20(水) 19:08:38.89
足利高氏が最初に発した島津等への軍勢催促状の日付が元弘3年4月25日だからなあ。
高氏挙兵のうわさは五月初には義貞の耳にも入っていたんじゃねえの?
62日本@名無史さん:2013/03/20(水) 19:19:53.05
天狗って本当にいたの?
63日本@名無史さん:2013/03/20(水) 20:10:13.97
その前に六波羅を足利が攻めるって話はどのレベルまで伝わってたのかな?
新田は知らされてたのかな?
知らされてないで新田が立ったとなれば運が良かっただけかね?
六波羅が陥落してなかったら負けてた?
そもそも足利が六波羅を攻めてなく、北条方として普通に戦ってたらどうしてた?
混乱してきたわ。
64日本@名無史さん:2013/03/20(水) 20:44:57.15
足利はなぜ親族である北条を裏切ったか?
65日本@名無史さん:2013/03/20(水) 23:28:20.01
足利は特別困った扱いをされてたのかね。
66日本@名無史さん:2013/03/21(木) 02:14:20.09
>>60
7日に陥落としても3〜4日かかるのだから小手指原の戦いの段階では分からない
あと新田が幕府に金納を要求されて使者を斬り、所領召し上げなんて事件までは想定外でしょ
だから、挙兵に踏み切ったのは多分予定日より早かった

千寿王の身柄に関しては新田一族(≠義貞)の保証があったのだろうけど、
たぶん岩松が「うちの義貞が金に困って幕使を斬りました、挙兵しますからすぐ来てください」
的な感じで、あわてて参陣したら、既に利根川渡河の段階で一族が加わって大軍になっていたと言うのが実情では
67日本@名無史さん:2013/03/21(木) 02:18:11.34
>>63
新田・足利一族系は暗黙裡に連携して動いてたと思う。
だから当初は尊氏が後醍醐方と連携に成功して六波羅を制圧した時点で挙兵のつもりが、
新田本家が幕使を斬ってしまい、早めの挙兵に追い込まれた
68日本@名無史さん:2013/03/21(木) 06:11:14.96
・北条以外では最大の御家人の足利が謀反
・幕府軍の大半を送り込んでいるはずの六波羅が謀反軍に苦戦
この情報を聞いただけでも関東の武士たちは相当動揺するだろ
69日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:52:17.88
やはり後醍醐天皇はすごい
70日本@名無史さん:2013/03/21(木) 14:57:54.54
動揺しても、東国の情勢は畿内の情勢とはまた別だからね
もし動揺していたなら、鎌倉幕府が新田に厳しい処分を加えない
おそらく新田は怪しいと睨んで一罰百戒的な対応に出た
71日本@名無史さん:2013/03/21(木) 17:47:35.68
御家人の東国偏在
72日本@名無史さん:2013/03/21(木) 20:57:39.66
新田軍相手に北条は10万単位で兵を繰り出してきたんでしょ?
まだこれだけの兵力があるのに簡単に東国の源氏が裏切るとかって考えるのかな。
73日本@名無史さん:2013/03/21(木) 21:07:52.71
忠臣新田義貞
逆臣足利尊氏
74日本@名無史さん:2013/03/21(木) 21:14:03.87
出征兵士を送る歌

わが大君に召されたる 生命はえある朝ぼらけ♪
たたへて送る一億の 歓呼は高く天を衝く♪
いざ征け(ゆけ)  つわもの 日本男児 ♪
75日本@名無史さん:2013/03/21(木) 23:54:26.04
幕府は、新田の決起はないし、決起してもおそらく一族結集のため退守策を取ると予測していて、
まさか真っ直ぐ南進してくるとは思わなんだのだろう。
実際、新田も督促使の黒沼の殺害事件を引き起こしながら、金沢親連は送り返しているしね

幕府としては足利荘に手を出すわけにもいかないから、その与党・周辺を鋳つぶしていこうと思ったんではないかな
76日本@名無史さん:2013/03/22(金) 01:09:50.94
ここまでの話をまとめると
@黒沼を斬ったのでイチかバチか兵を挙げてみた→運よく六波羅陥落
A足利と連携をとっていた→千寿王やら足利等の援軍は確約
B新田一族の間で倒幕の時期はおおよそ決まっていた(なぜ新田かは?)

のどれかかな?
77日本@名無史さん:2013/03/22(金) 05:01:15.67
新田氏系は、本宗家の新田家は衰退していたが
新田の分家は、そこそこ頑張っていただろう?
腐っても、そういった新田氏系の本宗家だから。

あと、足利氏系と新田氏系は、互いを近い同族という意識もあったぽいし。
78日本@名無史さん:2013/03/22(金) 05:16:02.27
高氏自身が名越高家の戦死まで挙兵の意思を明らかにしたとはいいがたい
79日本@名無史さん:2013/03/22(金) 06:55:10.66
幕末の新田は足利にかなり頼って接近している。
おそらくは、千寿王を擁して足利に参陣協力することで話がついていたのだろう。
それに突発的に幕使がやって来て無断帰国の詰問と科料の強制徴収を始めたから、予定を変更して足利の指図を待たずに決起したんじゃないか?
80日本@名無史さん:2013/03/22(金) 09:21:12.67
>>75
ウィキにも書いてあるけど出雲介親連って金沢氏なの?
根拠は?
81日本@名無史さん:2013/03/22(金) 09:38:36.76
新田がどうこうしようが幾内が平定されれば、別にただの地方反乱だよね
82日本@名無史さん:2013/03/22(金) 12:10:27.84
>>78
4月25日に島津に軍勢出すように要請してるんだから
高家戦死の前に挙兵の意思を明らかにしてるわけだが
83日本@名無史さん:2013/03/22(金) 15:34:24.01
しかし高氏が実際に挙兵したのは29日で、
名越が前線に出て戦没する27日までは首鼠両端を持したと見られても仕方ないよ。

手ごたえを得てから挙兵するつもりだったのだろ。
高氏も「今この状況では北条氏は足利家を咎める余裕がない」と言う状況を最大限に利用してる。
東西とも眼前の戦況に応じて挙兵する場合、事前から打ち合わせがあっても守れる保証はない
84日本@名無史さん:2013/03/22(金) 15:39:24.97
>>80
いや、金沢氏とは断定されてないだろ
85日本@名無史さん:2013/03/22(金) 15:42:40.11
>>81
それは逆。畿内が容易に平定されない状況だったから、
足利氏としては首鼠両端を持せざるを得ない状況になってたと見るべき
畿内が鎮圧寸前なら高氏が挙兵したとでも?
86日本@名無史さん:2013/03/22(金) 15:49:09.16
>>83
でも25日の高氏の軍勢催促状には「後醍醐天皇に味方するから
応援頼む」と書いてあるよ
87日本@名無史さん:2013/03/22(金) 19:44:18.76
なるほど、そうなると足利は新田と連携を取っていたって事か。
千寿王との合流も辻褄が合うな。
どうやって千寿王が逃げたのかしらんけど。
88日本@名無史さん:2013/03/22(金) 20:41:57.31
新田から話が逸れちゃうけど、高氏さんてほんとに鎌倉出発時点で挙兵の意思固めてたの?
千寿王や竹若丸の脱出を見る限り後醍醐側と気脈を通じようとしてたのは間違いないけど、
ほんとに様子見なしで挙兵するつもりだったとしたら、義貞の挙兵よりそっちのほうがびっくりだ。
89日本@名無史さん:2013/03/22(金) 21:30:36.71
尊氏はこの北条への反逆で義貞や他の御家人たちのように護良の令旨ではなく
後醍醐の綸旨を手に入れていることからも計画的なことは確実だろう。
そもそも嫁が北条とはいえ母親が上杉の尊氏では所詮北条の世では貞氏の頃から
菩提寺の法事の費用もケチるほど財政の苦しかった足利がお先真っ暗なのは
目に見えているよ。

この元弘の乱の功績で後醍醐からあてがわれた所領の膨大さからも北条を相手に
戦う意味は十分あるよ。
90日本@名無史さん:2013/03/22(金) 21:32:49.24
だって元弘3年4月の機内情勢は赤松円心などの反幕軍が京都を波状攻撃し
六波羅はてんてこ舞い。楠木城はまだ落ちず幕府の大軍は
釘づけ状態で動けず京都の六波羅を応援できない。
奈良では僧兵や悪党どもが広範囲にゲリラ戦を展開し始めていたし、
長門・四国・九州でも反乱がおき収拾がつかず、後醍醐天皇も隠岐
を脱出して山陰を支配下に置いていたから、西日本全体がはハチの巣
をつついた状態だったんだぜ。
高氏が挙兵する環境は十分そろっていた。
91日本@名無史さん:2013/03/22(金) 22:18:59.22
尊氏は息子と嫁が人質になってるけど死んでも良かったのかな。
もしかして直冬を擁立したかったから…
92日本@名無史さん:2013/03/22(金) 23:25:28.91
鎌倉時代の足利氏は他の御家人と同じように京都に屋敷を持って
いただろうから、そこの家来が西国情勢の情報を収集分析して
高氏のもとに逐一報告していただろう。
だから鎌倉を出陣するときには鎌倉幕府打倒の腹は決まっていたと思うよ。
子供の脱出は計画通りだよ。
93日本@名無史さん:2013/03/23(土) 00:19:15.69
人質ってそんなに簡単に出入りできるのかよ。
94日本@名無史さん:2013/03/23(土) 01:02:31.63
後醍醐天皇の寵妃阿野廉子の兄の阿野実廉は元弘3年5月に鎌倉にいて
高時の兵に館を攻められたが逃げてるがな。
また鎌倉滅亡後に多くの北条氏残党が鎌倉から脱出しているしな。
鎌倉の地形は複雑だから逃げやすいんだろう。
95日本@名無史さん:2013/03/23(土) 07:09:13.29
まあ鎌倉なら海から逃げることもできるし
96日本@名無史さん:2013/03/23(土) 09:13:46.49
江戸時代と違って、嫁はずっと鎌倉にいなくちゃならなかったわけでも
なかろうからねえ。

それに妻子がいるからって、それに影響されて倒幕をやめたりはしないだろう。
死んでも良いってわけはないが、死んだら死んだで仕方がない。
そもそも妻子どころか、自分が死ぬかも知れないわけで。
97日本@名無史さん:2013/03/23(土) 09:36:45.23
義貞単独で鎌倉を落とした成功体験が、
東山道軍や顕家の奥州軍を待たずに箱根竹の下での敗戦につながったかね
98日本@名無史さん:2013/03/23(土) 09:41:53.05
あ、時間軸がおかしいか。
顕家軍の奥州出立はそもそも箱根竹の下の敗戦より後だな
99日本@名無史さん:2013/03/23(土) 10:31:05.17
この時はもう足利の前線基地と言っていい三河を突破しているから
いけると思ったのだろう。だけどこの時は本当に直義が異常に弱かったな。
100日本@名無史さん:2013/03/23(土) 12:05:39.78
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101日本@名無史さん:2013/03/23(土) 16:50:20.69
少なくとも畿内の情勢について情報を得てたから、
後醍醐相手に積極的に戦う選択肢はなかったのだろうね

ただ、義貞さんの決起がフライング気味だったのは明らかで、
義貞さんはその失態を挽回するためにも強攻せざるを得なかった
そして「単独挙兵か…」と苦情を言いつつ新田一族が結局兵を出したため、千寿王も五月雨式に参加

鎌倉が六波羅陥落について続報・詳報を得たのは、分倍河原の合戦に泰家の援軍を送り出した前後だと思われる
六波羅陥落を知ってにわかに本気になったのか、それとも新田軍の膨張にやっと危機感を覚えたのかは定かではないが…
でも武蔵北部が席巻された段階で、もう上州・野州・常陸あるいは下総あたりはダメだね
102日本@名無史さん:2013/03/23(土) 17:07:28.75
>>97
成功体験と言うか節刀を賜った責任感とか、
あるいは義貞自身が配下の将兵にまったく抑えが効かず、向背定かならぬまま戦ったとか…
のちの湊川の戦いでも、正成は義貞の指揮命令下に入ってたかどうかあやしい
103日本@名無史さん:2013/03/24(日) 07:11:28.31
本当は六波羅攻め落としてから鎌倉を挟み撃ちしようとしたんじゃないの?
そしたら黒沼が新田に斬られて新田が勝手に立ってしまった。
104日本@名無史さん:2013/03/24(日) 08:43:03.42
>>103
足利は新田を利用しなくても
直接関東の有力御家人に鎌倉攻撃を命じただろう。
はっきり言って足利は新田なんか眼中になかっただろう。
105日本@名無史さん:2013/03/24(日) 12:10:06.57
頼朝時代……御家人最大勢力の上総介を粛清、兄弟の義経、範頼も粛清。義家流源氏の最長老、新田義重をハブる。
北条時代……梶原、畠山、三浦、和田、……綺羅星の如き有力御家人をことごとく粛清。

頼朝の母の姪を妻にした初代・義康、頼朝の妻北条政子の同母妹を妻に迎えた二代・義兼以降、代々北条氏と縁戚関係を結んで
生き延びた足利氏。それも、霜月騒動に関連して自害したとも言われている六代・家時以降は衰運に向かっていた。

生き残りの御家人では最大勢力といっても、はたしてどの程度のものだったのだろうか。
106日本@名無史さん:2013/03/24(日) 14:28:39.65
>はたしてどの程度のものだったのだろうか。

時代の勢いもあるとはいえ、
上手に反乱すれば実際に幕府をつぶせるほどのものだったわけだが。
107日本@名無史さん:2013/03/24(日) 16:14:47.36
まあ岩松が足利新田のつなぎなんだろうな
108日本@名無史さん:2013/03/24(日) 17:11:14.65
確か義貞の爺さんだかが足利が将軍だか得宗だかに献上する馬の口を取って必死アピールしていたはず。
109日本@名無史さん:2013/03/24(日) 18:07:44.08
>>108
具体的に教えてください
110日本@名無史さん:2013/03/24(日) 19:49:34.46
ところで尊氏は六波羅攻略した後はどうするつもりだったのかね。
六波羅攻める前に何を考えてたんだろう。
尊氏が反転して六波羅じゃなく鎌倉を攻めなかった理由はなんだろう。
111日本@名無史さん:2013/03/24(日) 20:02:03.96
手薄になっている六波羅を攻略
→千早城に張り付いている大軍が瓦解&持明院統の光厳天皇を保護
→鎌倉は死んだも同然
112日本@名無史さん:2013/03/24(日) 20:10:51.35
官軍化したほうが話が早いからじゃね
113日本@名無史さん:2013/03/24(日) 22:50:23.43
これ六波羅攻めるきっかけって北条が与えたんでしょ?
お前西にいって北条援護しろやって言われて。
114日本@名無史さん:2013/03/25(月) 00:08:50.04
そりゃ北条もそれ以上西国に出せる兵力は残ってなかったから、なりふり構わず足利を出したんだろう
115日本@名無史さん:2013/03/25(月) 01:08:57.50
妻子もバッチリ人質にとってたしな
116日本@名無史さん:2013/03/25(月) 01:27:47.40
>>69
後醍醐帝なんか何も凄くねぇよ。時流に乗っただけ。後鳥羽上皇はちくしょーと思ってるだろうけどw
117日本@名無史さん:2013/03/25(月) 01:45:50.20
時流に乗るが難しいんじゃないか
118日本@名無史さん:2013/03/25(月) 02:04:02.50
後鳥羽院は非凡だが、後醍醐帝は凡庸な人物のように思う。
乗れる時流があれば後鳥羽院も乗っただろうし、
時流がなくても後醍醐帝は挙兵して、隠岐に流されただろう。
119日本@名無史さん:2013/03/25(月) 06:52:07.20
>>111-112
同意
江戸幕末同様、もう政局の中心が京になってるもんな。義貞が鎌倉陥落後に急いで上洛したのも頷ける
120日本@名無史さん:2013/03/25(月) 10:46:26.18
828 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 12:16:00.58 ID:pUByzXYn
キャーッ 3年ぶりだって


【社会】 "偽名で宿泊容疑" 革マル派幹部3人を逮捕…大阪府警・警視庁
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1362365622/

50 名前:名無しさん@13周年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 12:05:55.31 ID:iWyU+OZf0
革マルアジト摘発は「3年ぶり」だと
さっきTBSで言ってた
59 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2013/03/04(月) 12:08:41.93 ID:pFeC4OeP0 [2/2]
>>50
wwwやっぱり!!!
67 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2013/03/04(月) 12:10:22.29 ID:Ki8Dbsot0
>>50
わかりやすいねぇw

民主に投票した馬鹿は腹を切れ。
69 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2013/03/04(月) 12:10:39.44 ID:OhEOkH090
>>50
3年ぶり・・・・・・・・・・・あっ!w
121日本@名無史さん:2013/03/25(月) 11:53:24.32
>>116

時流とか関係ない
倒幕への決意は異常なほど
戦場を裸足で走りまわった天皇が歴史上何人いる?
抜き身の刀を握って船底に隠れ配流先を命がけで抜け出した天皇が何人いる?
122日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:17:40.11
鎌倉陥落の時って兵士達
による怜衣腐は有ったの?
123日本@名無史さん:2013/03/25(月) 13:42:20.36
>>121
>時流とか関係ないキリッ













腹痛ぇwwwwwwww
124日本@名無史さん:2013/03/25(月) 15:51:44.88
もし後醍醐が時流に乗るのにたくみな天皇だったら
建武の新政も成功したんじゃないか?
時流に逆行したから失敗したんだろうが
125日本@名無史さん:2013/03/25(月) 16:50:37.76
だよな。当時の世論は北条に代わる新しき武家の棟梁を、だもんな。朝廷の政治なんぞ武家からしたら糞喰らえだ
126日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:11:41.22
>>123

天皇親政の政治をすのが時流だと思ってんの?
武士たちがそれを希望してたと思ってんの?
127日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:56:34.78
これは良スレ
128日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:46:48.45
鎌倉幕府を倒すというところまでは時流に乗っている
129日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:49:33.66
しかしその後の日本の中心は京になり、足利以下、三管四職も権門勢家
すなわち公家化しちゃったけどね。既成事実化していた荘園の横領は
かなり抑制されたしね。関東の武士たちも分裂し頼朝以前の状態になっちゃったよ。

結局歴史のエポックメイキングは内藤湖南が言ったように応仁の乱を待たなくてはならない。
130日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:58:47.05
>>129
何か他人の荘園を横領するのが良いことのような言いっぷりだn
131日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:31:51.08
今までのスレの流れでは足利が京制圧後、後醍醐帝or光厳帝のリンジで官軍化、新田と共に鎌倉挟撃でおk?でも新田がフライングみたいな。

あと、この争乱時に尊氏のオカンはどこにいたの?
132日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:15:35.93
後醍醐って狂人だわな
133日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:24:13.48
あ〜これはな北条が平氏だからだよ
平氏の系統が関東を治めようとすると皆殺しの末路になるんだわ
後北条も同じ
134日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:27:32.64
平の清盛も関東に手を出さなければ一族皆殺しにならなかったのにな
135日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:33:44.26
あ〜そういや平の将門もいたな
136日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:48:47.34
>>132
普通の天皇は島流し先から脱出しないし、篭城して頑張らない
ましてや年齢一ケタのわが子を司令官として辺境に派遣したりしない
…なんでこんな武闘派になっちゃったんだろうな
137日本@名無史さん:2013/03/25(月) 22:13:47.49
北条高時前後の幕府ってそんなにダメだったの?ダメになったのって武家が戦ない世の中じゃ生きていけないからダメになっちゃったんじゃ?

赤橋守時に執権が移ったら長崎親子だけ討って鎌倉幕府再建しようってほうが良かったんじゃ?
赤橋ならうまくやってけたんじゃないかな。
138日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:37:32.25
赤橋もお飾り執権だったからな。得宗家のトップがあれじゃあね…。得宗家自体が変わらなければ。

武家が京都に本拠を置くとろくなことないな。やはり武家は東国が似合う。
139日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:39:41.40
長崎親子を討てる可能性があったのは得宗の高時だけ
だが実際は暗殺に失敗
140日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:45:16.38
将軍を傀儡にした執権を、御内人がさらに傀儡にしたのが末期の鎌倉幕府
141日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:47:39.46
失敗後、極秘裏に手打ちしたんだっけ?高時もその後はやりにくいわな
142日本@名無史さん:2013/03/26(火) 00:06:55.98
>>136
次のNHK大河はぜひ後醍醐天皇で、、、
143日本@名無史さん:2013/03/26(火) 00:20:38.79
それだと阿野廉子が主役になります
144日本@名無史さん:2013/03/26(火) 00:44:04.88
新田だから上手くいったのかな?他の御家人じゃ鎌倉倒せなかった?新田と同じようなタイミングで出陣したとして。
145日本@名無史さん:2013/03/26(火) 00:45:34.87
続き。
例えば直義を下国に残して直義に鎌倉攻めさせるとかも。
146日本@名無史さん:2013/03/26(火) 02:25:58.19
残したら怪しさ大爆発やん
147日本@名無史さん:2013/03/26(火) 05:47:07.68
>>143
正直、無理やり女を主人公にするのはいい加減やめてほしい・・・
148日本@名無史さん:2013/03/26(火) 05:49:50.91
>>137
赤橋守時って優れた人物だったみたいによく言われるけど、
そういう同時代の人物評みたいなものって、どこかにあるの?
149日本@名無史さん:2013/03/26(火) 08:01:16.18
これな大后(おおきさき)持統帝の子供たち殺して桓武帝が擁立されてんだろ
女尊男卑国たる東国でその呪われた桓武帝の子孫たる平氏はトップに立っては
ダメなんだわ、
150日本@名無史さん:2013/03/26(火) 08:02:59.70
東国全ての人間を敵に回すことになるからな
151日本@名無史さん:2013/03/26(火) 08:04:59.49
だから平氏は形だけでも大后体制に服従してる形を取らんと殺されるぞ
152日本@名無史さん:2013/03/26(火) 08:14:09.36
関東に根付いた坂東平氏たちもその点だけは守って一族でまとまることを
しなかったんだが北条のときも政子を前面にだしたからこそ皆殺しにされ
ずにすんだの
153日本@名無史さん:2013/03/26(火) 08:20:15.67
関東に江戸幕府を開いた徳川家が存続を許されたのも大奥という絶対的権威が存在してのもんだしな
154日本@名無史さん:2013/03/26(火) 09:35:27.16
>>144
たぶん倒せるよ
155日本@名無史さん:2013/03/26(火) 10:18:54.94
>>139、140
高時による暗殺計画の噂が流れて側近が処分という流れだからおそらくは御内人同士の
紛争だよ。六波羅の大物御内人安藤氏をはじめとする陥落時の御内人大量離脱の伏線
と言っていい事件だよ。得宗被官も元弘の乱以前から相当動揺していたことがわかる。

>>148
本命の金沢貞顕が高時弟の泰家のブチギレにびびって逃亡したあと急遽登板させられた
のだから大した期待はされていたとは到底思えない。
156日本@名無史さん:2013/03/26(火) 11:10:05.98
高時ってバカだったんですか?
157日本@名無史さん:2013/03/26(火) 12:09:08.30
しかし、幕府滅亡の時、北条一族は得宗に殉じてほぼ全員死んだよね?
高時が現在言われているようなアホなら、ここまで庶流が殉じ無かったと思うんだが?
徳川なんか馬鹿正直な会津とか以外は一族皆皆寝返ったというのにw
158日本@名無史さん:2013/03/26(火) 12:09:47.45
北条が族滅したのは得宗に対する恨みが大きすぎて寝返る先すらなかったのか?
159日本@名無史さん:2013/03/26(火) 12:23:36.56
吉本興業

株式会社フジ・メディア・ホールディングス 60,000 株 12.13%
日本テレビ放送網株式会社 40,000 株 8.09%
株式会社TBS テレビ 40,000 株 8.09%
株式会社テレビ朝日 40,000 株 8.09%
大成土地株式会社 40,000 株 8.09%
京楽産業.株式会社 40,000 株 8.09%
BM 総研株式会社(ソフトバンク子会社) 30,000 株 6.07%
株式会社テレビ東京 20,000 株 4.04%
株式会社電通 20,000 株 4.04%





┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃┌───┐                ┃
┃│.ワイプ.│        テロップ..  ┃ 
┃│ 画面 │        テロップ.. ┃ 
┃└───┘               ┃  <ナレ:次の瞬間! と、そのとき!
┃  【やらせ・ステマ垂れ流し】   ┃
┃                     ┃ <SEを被せる(ど〜ん、どし〜ん
┃     流れるテロップ・・・・    ┃  どか〜ん、ぴろぴろぴろぴろ・)
┃                      ┃ 
┃       やたらとデカイ      ┃  
┃         テロップ        ┃ <SE:え〜
┗━━━━━━━━━━━━━━┛       ナレ:このあと、○○にスタジオ騒然!(CMへ)
   /\     /\     /\
 SE:え〜  SE:あははは  SE:へぇ〜
160日本@名無史さん:2013/03/26(火) 12:54:49.63
157
祟り信仰な、当事と江戸期じゃ活火山活動が違うんだわ
山神信仰と結びついてるの
161日本@名無史さん:2013/03/26(火) 13:02:26.66
それが分かってるからこそ北条家だって自ら将軍になろうとしなかったしな
162日本@名無史さん:2013/03/26(火) 13:09:29.41
>>157

天狗と一緒に踊ったとか、弟の泰家が幕府滅亡の時「兄が
馬鹿だから人心が一時離れたが、北条氏は代々すぐれた政治
をしていたのは周知の事実だから、これから挽回できる」
と再起を期して鎌倉を脱出したという話があるが
163日本@名無史さん:2013/03/26(火) 13:41:55.93
実際、関東に入部した平氏の連中、みな苗字を変えてるだろ
変えてないの伊勢の平氏くらいだしな
164日本@名無史さん:2013/03/26(火) 14:14:48.11
>>147
正直、大河で○○天皇ってのは無理だと思う
165日本@名無史さん:2013/03/26(火) 14:55:16.65
>>164
英国のBBC放送ではエリザベス一世を主人公
にしたドラマとか普通にやってるぜ
166日本@名無史さん:2013/03/26(火) 15:03:10.78
そりゃただの人やし
167日本@名無史さん:2013/03/26(火) 20:49:18.39
新田スレは伸びないのが通例だったのにこのスレは勢いあるなw
168日本@名無史さん:2013/03/26(火) 20:56:26.01
>>156
バカとかそれ以前の問題。病弱だったから得宗が独裁的な決定を断行するのが難しくなった。
高時も長崎父子の排除をやろうとしてるが失敗してしまった。
>>157
高時政権じたいは歴代得宗で最も調整型の政権だったから不満が出ようはずもない
さらに高時が病弱で、脱出しての戦いに耐えられないだろうと言うこと、
あとこの時期になると鎌倉が北条氏の本拠になってしまって脱出など思いもよらないことだったのでしょうな
169日本@名無史さん:2013/03/26(火) 21:01:50.18
>>131
新田宗家と足利の連携を「それがなきゃ倒せなかった」みたいに過大視するのもどうかと思う
例えば新田が妻の伝手を活用して幕府に平謝りしてる間に常陸で小田氏あたりの挙兵が成功した場合、
流れで千寿王や新田一族はそっちに雪崩れ参加するだろう
義貞は挙兵の意志について内々漏らされていたかも知れないが、挙兵のタイミングは独自判断だったと言えると思う
170日本@名無史さん:2013/03/26(火) 21:07:26.69
鎌倉のほかに北条一族が他に逃げる場所なんかないよ

鎌倉陥落に前後して六波羅探題も鎮西探題も長門探題もほぼ時を同じくして滅んじゃうような状況だから

まあ軍船は結構持ってたみたいだから海から脱出することはできただろうけど、逃れられたところで逃げた先で同じような目にあうだけ
171日本@名無史さん:2013/03/26(火) 21:12:06.34
ほんと幕府の支配体制に依拠した(同一化した)一族だったんだろうな、北条氏は。
有力者の没年がそろって1333年ってなかなか。
172日本@名無史さん:2013/03/26(火) 22:16:28.24
>>165
できるわけねぇだろ馬鹿。イギリスでできるから日本もできるってか。少しは日本の近現代史勉強しろ。
173日本@名無史さん:2013/03/26(火) 22:17:03.15
実際、平将門なんて怨霊伝説に仕立て上げられちゃうくらいだし
平家は一族全滅、落ち武者狩りまでやられる始末だし、北条の一族
もほぼ皆殺しだろ、後北条氏も家康の口利きがなけりゃどうなって
いたことか・・・
174日本@名無史さん:2013/03/26(火) 22:39:13.40
降伏した大仏高直なんかも結局は殺されたし
175日本@名無史さん:2013/03/26(火) 22:53:03.43
>>170
太平記を嫁
南北朝時代に北条一族の残党が暴れまわっているぞ

それから北条の残党が東北地方に集結してるから注意
せよという命令が建武政権から出るがな
176日本@名無史さん:2013/03/26(火) 23:35:32.14
北海道の高橋はるみ知事(旧姓新田・富山県出身)はこの新田氏と関係あるのだろうか・・・
177日本@名無史さん:2013/03/26(火) 23:43:43.37
北条一族のほとんどが幕府と命運を共にしたのは確かだけど、一部はしぶとく頑張ってたもんな
有名なのは北条時行と北条泰家か
178日本@名無史さん:2013/03/27(水) 00:02:03.52
一番有名なのは北条時行だけど、
次に有名なのは、
幕末に活躍した北条時存こと横井小楠かね。
179日本@名無史さん:2013/03/27(水) 00:17:17.20
小楠とかって、「自分こそが北条得宗家の子孫。古の支配者だ」って
ラピュタ王みたいな感じで思ってたのかね?
見ろ!人がごみのようだみたいな。
180日本@名無史さん:2013/03/27(水) 00:47:27.31
それどこのアメリカ映画
181日本@名無史さん:2013/03/27(水) 01:01:04.14
板部岡江雪斎も得宗流
182日本@名無史さん:2013/03/27(水) 01:08:51.57
仮に真実がどうであれ、横井時存なる人物が、自分を北条時行の末裔だと信じていたことは間違いない。
そしてそうである以上、大楠公に倣って小楠と名乗った彼が、
楠公と同時代に生きた自分の先祖を思って血が騒ぐ夜があったに違いない、
ってのも、それはそれで確かな話。
ロムスカみたいにそれで周りを見下していたりはしなかったろうがw、
内心はロムスカ並に自分の血統に誇りを持っていたのも、きっと確かだろうとは思う。
(だからこそ平姓を好んで名乗ってたわけだし、子供の名にもきちんと時の字をつけている)

ってここは北条のスレじゃなくて新田のスレだww
183日本@名無史さん:2013/03/27(水) 01:37:32.10
楠公に滅ぼされた当主の子孫が楠公を尊敬して小楠ってのも
よくわからんな
184日本@名無史さん:2013/03/27(水) 02:18:44.52
楠木は鎌倉攻めてないし
185日本@名無史さん:2013/03/27(水) 02:56:01.34
倒幕に関してはベストアシスト賞だけどな>楠木
186日本@名無史さん:2013/03/27(水) 03:20:10.97
さあ女帝の時代に戻ろうか^^
187日本@名無史さん:2013/03/27(水) 03:43:12.96
このスレは新田じゃなくて北条が絡むから伸びるんだよ
やっぱり執権北条氏ファンが多いことの証明だなw
188日本@名無史さん:2013/03/27(水) 06:35:06.54
北条は建前上は幕府の一御家人にすぎないからな
ひとたび力を失えば崩れ去るのも速い
189日本@名無史さん:2013/03/27(水) 06:51:49.47
主人公で使えるの北条政子と時宗くらいだけどな
あとは視聴率とれんだろうからなんとも微妙だが・・・
190日本@名無史さん:2013/03/27(水) 06:56:24.24
時が流れて北条高時の遺児・時行と新田義貞の遺児・義興&義宗が協力して
足利と闘うことになるんだから面白い
191日本@名無史さん:2013/03/27(水) 07:09:28.50
新田は鎌倉陥落させた後関東に根を張ったらよかったのにね。財宝もたんまりあったらしいし。千寿王追い出してさ。そこまで頭がまわらなかったのかな
192日本@名無史さん:2013/03/27(水) 07:14:24.01
北条は主君じゃないからね、家臣団のリーダーなだけだもんね。
193日本@名無史さん:2013/03/27(水) 07:22:07.69
191
足利3家(足利、吉良、斯波)のうちの一家にも及ばないから無理
194日本@名無史さん:2013/03/27(水) 07:24:51.66
吉良じゃなくて畠山だった
195日本@名無史さん:2013/03/27(水) 07:34:12.39
だいたい里見くらいで持ってたようなもんだし山名がつきゃまだよかったのにな
196日本@名無史さん:2013/03/27(水) 07:35:44.91
そういや新田義貞って里見からの養子って噂もあったな
197日本@名無史さん:2013/03/27(水) 07:59:05.62
>>191
んなことやったら建武新政初期に袋叩きにされるだろ。
どう見ても鎌倉幕府の後継政権狙いじゃないか。
198日本@名無史さん:2013/03/27(水) 10:23:54.67
>>191
このとき陥落させたのは直義派残党の上杉憲顕が主軍のようなもので
義興や時行はゲリラ活動がせいぜいの状態だからな。義興は新田の縄張りといっていい
上野で文書を出しているが直ぐに尊氏の盛り返しで蹴散らされているから実効支配なんて
無理だろう。
199日本@名無史さん:2013/03/27(水) 10:53:41.36
>>168
>高時政権じたいは歴代得宗で最も調整型の政権だった

初めて聞いた
200日本@名無史さん:2013/03/27(水) 14:46:35.85
>>197
そこは政治交渉で何とかできんの?千寿王は鎌倉に居続けて実質鎌倉の主だったろ?後醍醐に呼び出されたら脇屋や側近を置いておけばよいし。
やっぱり武士どもも最初は建武新政に従うつもりだったんだな。
201日本@名無史さん:2013/03/27(水) 15:08:42.19
里見って足利の家来でしょ
202日本@名無史さん:2013/03/27(水) 15:20:38.61
けど出自は新田の庶流
203日本@名無史さん:2013/03/27(水) 16:18:35.65
朝廷抑えてる相手に政治交渉ねぇ、圧倒的武力があればなんとかなるかもねぇ
味方についてた連中は朝敵扱いされても頑張ってくれるかねぇ
204日本@名無史さん:2013/03/27(水) 17:04:23.67
室町幕府って最低の幕府だな
前半は南北朝の争乱、中期は応仁の乱、後半は戦国時代。
室町時代ってほとんど戦争ばっか。
それに比べ鎌倉幕府や江戸幕府の平和なこと
205日本@名無史さん:2013/03/27(水) 17:05:44.86
>>187
庶民目線から見れば北条時代の方がいいでしょう。室町は内乱につぐ内乱、しかも全国規模の大乱続きなんだから。北条倒したけど数年後にやっぱ北条時代がよくね?と思った武士は多かったんじゃないかな
206日本@名無史さん:2013/03/27(水) 18:12:34.57
>>205
それが伊勢氏が後北条氏を名乗った理由かも
なんとなく納得できる
207日本@名無史さん:2013/03/27(水) 20:13:10.04
>>204
鎌倉時代も数十年に一度は鎌倉市内で合戦が起こってるぞ。
208日本@名無史さん:2013/03/27(水) 20:16:02.49
>>200
無理。
参陣していた武士たちも雪崩をうって足利に軍忠状を提出するようになり、新田はジリ貧になっていたから。
一発逆転狙って上京したんだろ。
209日本@名無史さん:2013/03/27(水) 20:33:58.53
新田がかねてからの約束通り、足利が六波羅を落としてから一緒に挟み撃ちで
攻め上っているっていう事をしていれば新田も足利も後で争わなくて済んだの
かな。
210日本@名無史さん:2013/03/27(水) 20:46:06.94
確かに鎌倉陥落で東国の武士の新しい棟梁に、くらいの色気は義貞や船田は持っただろうが、
細川3兄弟が乗り込んできて劣勢化。こうなりゃ京都に乗り込むしかないでしょという流れだな。

結局、上州に二度と戻れずしまいで、不慣れな西国を転戦ののち討死という哀れな生涯。
211日本@名無史さん:2013/03/27(水) 20:48:44.81
ただ、事実経過を見ると新田が挙兵しないと言う選択肢はちょっと考えられないんだ。
ハッキリ言って足利氏が示し合わせたように東西で幕府をやっつける力なんてない。
かりに新田が隠忍自重しても他の御家人が挙兵に成功したらやっぱり同じこと
212日本@名無史さん:2013/03/27(水) 20:50:50.41
足利一門は北条以外では相対的に大きな力を持っていたとはいえ、サバ読んでも公明党くらいだろw
213日本@名無史さん:2013/03/27(水) 21:15:39.68
宇都宮公綱も立派な武将だが、新田義貞のかわりを務められたかと言えばまた違うような気はするんだよな
まあそもそも鎌倉滅亡時は公綱は上方にいるけれども。
214日本@名無史さん:2013/03/27(水) 21:21:00.34
あと旗頭になりそうなのは武田とか結城とかか
215日本@名無史さん:2013/03/27(水) 22:25:48.21
>>210
政治的には足利に負けたってことですね。
憐れなるかな左中将殿
216日本@名無史さん:2013/03/27(水) 22:32:24.89
>>212
なら新田は今の社民党ぐらいかwいや政党すら無理だなw
217日本@名無史さん:2013/03/27(水) 22:33:14.20
足利一門にとって同時挙兵なんかやりたくないでしょう。
六波羅でさえ落とせるか分からない状態で、鎌倉と六波羅と負けたら完全に
倒幕は無理になるからな。しかも関東に残ってる源氏なんかアテにしてないでしょ。
挟み撃ち作戦を考えてたとして、鎌倉攻めの大将はそもそも新田にしていたのか
は疑問だが…。
218日本@名無史さん:2013/03/27(水) 22:36:41.49
上洛した高氏の軍勢って何千人ぐらいなの?
219日本@名無史さん:2013/03/27(水) 22:52:36.74
それくらいググれよ…
220日本@名無史さん:2013/03/28(木) 00:46:00.97
太平記 足利殿御上洛事
足利殿御兄弟・吉良・上杉・仁木・細川・今河・荒河・以下の
御一族三十二人、高家の一類四十三人、都合其勢三千余騎、
元弘三年三月二十七日に鎌倉を立、大手の大将と被定・・・。

三千騎だとさ
221日本@名無史さん:2013/03/28(木) 00:48:40.35
新田一門っていうのは自前で7千前後の兵は集められる事はわかったけど、
新田・足利一門以外には自前で5000前後集められるのっていたの?
佐々木で自前の軍3000くらいだそうで。(鎌倉時代末期)
222日本@名無史さん:2013/03/28(木) 00:56:04.54
新田は自前で7000も集めれないぞ。他部族の武士が大半。
北条一門以外5000以上はいないんジャマイカ?
223日本@名無史さん:2013/03/28(木) 01:02:24.34
太平記 千剣破城軍事
名越越前守を大将として其勢三千余騎

まだこのとき名越高家は鎌倉にいたから、名越全体ではこの二倍
の六千騎ぐらいの兵力があったんだろう。
北条氏の分家さえこれほど兵力があるのだから北条氏全体ならこの
十倍以上の兵力があっただろうな。
つまり足利の勢力は北条氏の分家の半分ぐらいということかな
224日本@名無史さん:2013/03/28(木) 01:05:24.91
義貞は八幡荘で体勢を整えた。そこに利根川を越えて越後国や信濃国・甲斐国の
新田一族や、里見・鳥山・田中・大井田・羽川などの氏族が合流した。
『太平記』によれば、彼らは山伏から義貞決起の情報を聞かされ馳せ参じたと
される。各地から参集した軍勢と合流して【義貞軍は7,000の大軍に膨れ上がり】、
態勢を整えると鎌倉を目指し一気呵成に進撃した。

となってるが。鳥山とかは新田が宗家となってるから新田系でしょう?
だから新田一門で自前で7000は正しいと思うが。
225日本@名無史さん:2013/03/28(木) 01:11:16.38
7000中、宗家は150〜300とはねぇ…。
226日本@名無史さん:2013/03/28(木) 01:16:51.35
匂当内侍貰って腰降ってるのが関の山
227日本@名無史さん:2013/03/28(木) 01:19:46.66
名越高家が赤松に勝ってたら尊氏はどうしてたのかな。
名越が負けたから寝返っちゃったのかな?
228日本@名無史さん:2013/03/28(木) 01:23:31.59
太平記鵜呑みにしすぎ。なら当時の勢力で足利一門は10万以上は余裕だな。北条一門だといくらになるんだ?
誇張だよ
229日本@名無史さん:2013/03/28(木) 01:35:39.01
>>228
で、お前はどれくらいの兵力だと思う?
230日本@名無史さん:2013/03/28(木) 01:37:15.78
>>209
後でも争っていたでしょう。後醍醐帝と尊氏が湊川合戦後に対面した時も、自分(尊氏)が負けていても義貞が次代の覇者として台頭したでしょうみたいなことを
時代は武門の棟梁による統治を望んでいたのです
足利一門の台頭に対しての対立軸に新田一門が充てられた感じですね
義貞は後醍醐にいいように使われた感じが否めないですね
231日本@名無史さん:2013/03/28(木) 01:41:06.08
>>229
自前で500、里見いれて1500
232日本@名無史さん:2013/03/28(木) 01:45:55.70
>>231
貴方の自前とは?
また、里見いれて1500とは、里見と誰と誰を入れて合わせて1500だと?
その根拠は?
233日本@名無史さん:2013/03/28(木) 01:56:36.37
上野新田一門・世良田一門・上野新田党・上野新田岩松・新田岩松党・越後大新田党・
上野国桃井荘で1500な訳ねーだろうがw
234日本@名無史さん:2013/03/28(木) 02:07:52.56
太平記が誇張だというのは既に知れ渡っている話だが、太平記がその時代を知る
メインな資料であり、そこに書かれている数字をまず出してから、ここのこういう部分
が誇張だからと言うべきである。
ただ単に【太平記って誇張表現ばっかだから】とか言うだけで終わってしまうのは
全くもって話にならない人である。ただ単に批判して終わりという、コメンテーター
な人だ。
235日本@名無史さん:2013/03/28(木) 03:37:50.77
>>216
新田が社民党と言うのはいい線行ってるかも知れないな
なんといってもその前の代の遺産で地方でも数%の支持率はあるが、選挙協力しないと候補擁立も無理
さらに1人1党みたいな感じで党首の統制がまったく効いてない
義貞も強攻を選んで新田一族の巻き込みに成功、鎌倉を落とすのに成功したけど、
統制力の弱さは最後まで付きまとった
236日本@名無史さん:2013/03/28(木) 05:09:33.77
>>233
あれ、すると新田一族は数的にはかなりのものだな
足利の何割かとしても、充分一軍の中核になり得る
237日本@名無史さん:2013/03/28(木) 06:42:46.41
新田一族がちゃんと結束されてればかなりの力はあったでしょ。
ただ宗家が落ちぶれて新田宗家の求心力云々。
宗家が無位無官なのが事の始まり。
238日本@名無史さん:2013/03/28(木) 06:48:04.61
続き。
この頃の官位は結構力あったと思うよ。
長崎よりも官位が上であった事が足利が潰されずにいたのも大きい。まぁ潰そうと思えば潰せたかも分からんがそうさせなかった事にも官位は大事だったんじゃ?
後醍醐が新田にもっと上の官位やらなかったのも、公家を重んじてるのも分かるよね。
結局新田は建武の新政後も公家に頭上がらず官位で苦しめられてる。
ボウモンの件もそうでしょ。舐められて。
239日本@名無史さん:2013/03/28(木) 07:20:02.14
平時家 官位 従四位下・右少将

平家も滅亡するが、頼朝からの信頼は変わらず、
また頼朝の家臣団では最高位の位階を持つ人物として内外からの尊敬を集めた。
鎌倉幕府初期の政治顧問の一人として活躍し、
鎌倉で穏やかな晩年を過ごしたという。

たしかに。
240日本@名無史さん:2013/03/28(木) 08:58:37.62
後醍醐ー自民
北条ー民主
足利ー維新
赤松ーみんな
北畠ー公明
楠木ー国民新
241日本@名無史さん:2013/03/28(木) 10:10:30.29
積極策を薦めた脇屋義助は幕僚としてかなり優秀だったと思われるが(たぶん直義より優秀。尊氏に匹敵する)
箱根竹之下では貧乏くじ引いてるな。義貞が戦没しても彼が長命してればと言うのはうがちすぎか。
242日本@名無史さん:2013/03/28(木) 10:16:52.24
>>226
匂当内侍の話は義貞の戦没シーンがいまいち盛り上がらないので
フォローのために架空の恋愛をくっ付けたと言う有力説が妥当と思われる
243日本@名無史さん:2013/03/28(木) 11:15:19.29
脇屋義助の大演説こそが鎌倉幕府を倒した一番の功績。
しかし新田が起たなかったらどうなってたかね。六波羅倒したから後醍醐を迎え入れてそれから鎌倉に進撃しようとしたのかな。
建武の新政創立当時の足利と新田ってそもそも仲悪かったのかな。
勝手に新田が動いてみたいに。
244日本@名無史さん:2013/03/28(木) 11:20:33.08
仲悪いってか、武士が足利を担いで、後醍醐がこれを抑えるために護良を売ったから、公卿側が足利への対抗上手懐けられて身動き出来なくなったのが新田
245日本@名無史さん:2013/03/28(木) 11:43:16.54
脇屋義助は義貞死後越前から追われて伊勢、吉野からなぜか四国にわたっているがいまだ味方の多い
越後にいかなかったあたり越後にいた庶流の義興よりも一族内で力なかったんじゃないのか。
246日本@名無史さん:2013/03/28(木) 12:34:26.74
>>244
宮方とみられてたなら武士の評判は悪いわな。かといって宮方じゃないと位階もあんなに上がらなかっただろうし。
247日本@名無史さん:2013/03/28(木) 18:24:13.71
箱根で負けて新田の運命も決まってしまった
248日本@名無史さん:2013/03/28(木) 21:16:26.57
足利より先に新田が反後醍醐の挙兵してれば多くの武士が付いてきただろうに。
249日本@名無史さん:2013/03/28(木) 21:59:48.04
いや、足利の方が家勢も冠位も上だから足利の方につくでしょ。鎌倉陥落の時から御家人たちは足利寄り。願わくば新田足利で後醍醐帝を除いた後に勝負を決めてほしかった。やっぱ南北朝に分裂させたら駄目だよ…
250日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:30:00.37
義貞には頼朝から嫌われて没落した新田一族の苦い記憶があるんだろう
後醍醐天皇の歓心を買おうとくっついて離れようとしない
251日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:36:15.75
>>242
それが本当なら義貞さんカワイソすぐる…
252日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:36:23.90
鎌倉街道のあちこちに見張り番、というかスパイわざわざ配置してたんだろ。
ただそのスパイの連中の子孫がのちに○○になっちゃったんだけどな。
253日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:54:54.19
武士として4位中将はかなり高いよ
254日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:56:40.61
>>247
その後、豊島河原で勝ったあたりでは新田株暴騰ですよ
それで北畠さんや楠木さんがめちゃくちゃ警戒しました
255日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:11:10.32
>>254
いやいや、箱根で勝ってれば鎌倉は宮方の手に落ちて足利の落ちる所
もなくなる(三河も落ちてるので)からその後は足利との戦なんかならん
と思うよ。
256日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:13:15.21
後醍醐の深慮遠謀
義貞は従四位上で越後守に任ずる
尊氏は従四位下で左兵衛督に任ずる

義貞は位階は上だが官職は下
尊氏は位階は下だが官職は上
257日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:16:33.97
尊氏も汚いよね。北条を敵に回して、味方についたと思った
後醍醐を裏切り、同族の新田を敵とみなし、そして自分で勝手にエッチ
して出来た子直冬を攻めたりと。
258日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:41:45.60
北条時政でさえ従五位下止まりだったんだね。
足利尊氏がどっぷり北条に浸かってる時が従五位上で北条高時が正五位下で
一個差で北条が上ってくらい足利が高いことが分かる。
これじゃあ北条もうかうか手は出せない。
259日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:51:11.80
北条氏に滅ぼされた三浦泰村も正五位下だったけど?
260日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:54:23.88
建武の新政のときなのに武士で従四位ってすごいな・・
同時代の武士で他に従四位なのは千葉貞胤くらいか・・
261日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:58:54.32
>>259
三浦氏は足利に匹敵する力を持ってたんだがね。だから追い出されたんだけど。
262日本@名無史さん:2013/03/29(金) 00:07:37.68
霜月騒動で消え去ったね
263日本@名無史さん:2013/03/29(金) 00:25:36.21
新田家の可愛そうな歴史を簡単にまとめ
初代-義重 自分の立場を勘違いし、頼朝挙兵の際は参陣が送れて不信感を持たれる。
せっかく頼朝が心を開いてくれて、じゃあ娘を側室にもらおうかと言われたがこれを
拒否。新田家冬の時代の幕開け。

二代目-義兼 親父と行動を共にし、こちらも立場を勘違いして参陣遅れる。
ならばと信頼回復を目指した奥州征伐も功績残せず。

三代目-義房 父より先に死去。

四代目-政義 幕府から預かっていた囚人に脱走される。そんな事もあったのに
2年後、朝廷に勝手に昇殿と検非違使の役職をくれと迫る。当然幕府にバレて
逆切れして出家。妻が足利の出だったので足利家からのとりなしで取り潰しは
免れる。この時点で足利に仮があったのだ。

五代目-政氏 ようやく出来る子が登場。足利氏や北条氏と姻戚関係を作り、世渡り
の基本は出来る人だった。しかし無位無官。

六代目-基氏 母ちゃんが北条一族。そう、源氏の棟梁と北条の血が入った良血なので
ある。しかし幕府からは冷遇されて当時領地争いをした岩松氏に幕府が肩入れ。
岩松氏有利な裁定で進められてしまった。

七代目-朝氏 一族の朝谷氏が悪党として活躍しているのを聞き、こいつらを
仲間に引き入れて優遇した。それくらいしかやらなかった静かな人。逆にこの
静かさは尊氏の父と似たような所があり、尊氏と義貞が鎌倉倒幕を考えるきっかけ
になったのかも。

八代目-義貞 スター誕生。戦中は忠臣、戦後は酷い言われよう。
264日本@名無史さん:2013/03/29(金) 00:27:41.21
>>259
でも三浦の爺さんは六十過ぎてやっと正五位下
265日本@名無史さん:2013/03/29(金) 00:35:51.81
九代目-義宗 6歳で昇殿を許されるエリート。一時鎌倉を奪還して、親子二代に
よる鎌倉陥落を達成してみせた。ただつまらない合戦で戦死。こちらも父に似て
しまった。

10代目-貞方 足利王国信濃で生まれ育った。彼が成人する頃には南朝はもはや
戦力といえる戦力はなく、地下活動を送るしかなかった。そんな中でも必死に
決起を促す書状を作成していたが、それが元で潜伏先がバレて捕まった。そのまま
斬首。
266日本@名無史さん:2013/03/29(金) 00:36:52.11
義重は義朝死後に各地に割拠した源氏系棟梁の一人で、坂東の源氏のなかで平氏側に最も近い。
足利氏は義康の死後、藤姓足利氏との抗争のなかで新田氏の傘下に入るが、源氏同士の抗争の過程で最終的に頼朝が他を淘汰した。
里見、山名、足利は早い段階から頼朝陣営に加わってて新田党から独立。
新田荘は本宗家、世良田、岩松に三分されて、新田氏の没落が始まる。
267日本@名無史さん:2013/03/29(金) 00:40:01.98
なんで義重って娘を側室にやる事を拒否したのかね。
268日本@名無史さん:2013/03/29(金) 00:43:43.79
雅子さまが、いや間違えた、政子様が・・・
269日本@名無史さん:2013/03/29(金) 00:55:19.62
>>267
最後まで頼朝に屈する事を潔しとしなかったんだよ。鎌倉にも行っていないし。
逆に頼朝が狩にかこつけてわざわざ出向いて手打ちとして娘を側室名義の人質というかなり気を遣った提案したのにね。
270日本@名無史さん:2013/03/29(金) 00:56:51.43
頼朝が側室にしろっていった娘は頼朝の長男の妻だったんだぜ。
つまり自分の子に嫁いだ女を俺にくれって事。

現代で言えば、皇太子に嫁いだ雅子さんを平成天皇がくれって言ってるような
もんだ。
そりゃ親父も拒むわ。
271日本@名無史さん:2013/03/29(金) 01:01:55.99
ただ拒み方が良くなかったね。
頼朝が直々に義重に娘をくれと頼み込んできたのに、政子の機嫌を恐れたために
娘をとっとと自分の家臣と再婚させちゃったからね。
そりゃ頼朝にとってみれば面目丸潰れだよ。
272日本@名無史さん:2013/03/29(金) 01:06:31.14
義重が足利を継げなかったのがそもそもの始まりでは?
273日本@名無史さん:2013/03/29(金) 01:38:19.84
>>270
いや、頼朝の長男の妻じゃなくて、義朝の長男の妻
つまり頼朝からすれば兄の未亡人だよ
274日本@名無史さん:2013/03/29(金) 01:55:27.39
こうやってみてみると義貞さんは中興の祖だな。
新田は定期的に起きていた鎌倉の内乱(御家人潰し)で名誉挽回できなかったのかね?承久の乱とかあったじゃん
275日本@名無史さん:2013/03/29(金) 01:59:21.43
>>270
色々突っ込みどころがあって頭がくらくらした
276日本@名無史さん:2013/03/29(金) 02:04:51.93
>>270
知識が間違ってる上に例えが不適切
それと「平成」じゃなくて「今上」天皇だろうがよ
理由は自分で調べてね☆
277日本@名無史さん:2013/03/29(金) 02:15:29.19
よく義貞はこんな先祖の中で一代限りとは言えスターダムにのし上がったな
278日本@名無史さん:2013/03/29(金) 02:19:02.02
>>277
劉備玄徳とかに比べればまだまだだ
279日本@名無史さん:2013/03/29(金) 02:20:38.72
劉備は二代限り
280日本@名無史さん:2013/03/29(金) 02:25:12.57
新田義貞は本来ならば源氏の棟梁となる血筋なんだよね。
足利よりも。
281日本@名無史さん:2013/03/29(金) 06:51:12.17
>>274
本宗家は承久の乱に不参加だったみたい。
参加したのは山名、世良田、里見だけのようだ。上野以外に領地を持っているのはその三家系だけだもの。
282日本@名無史さん:2013/03/29(金) 06:57:58.97
ほんとに頼朝時代に新田氏の冷遇が決定的になったのか?一族はちゃんと挙兵にはせ参じてる
あの時期の新田と足利って長男が大農園を継いで次男が官僚になった同一利益集団みたいなものだろ
義兼だって義重庇護下にあったし、新田の没落は単純にその後の相続や不祥事の連続だよ
283日本@名無史さん:2013/03/29(金) 08:17:45.66
初代足利の嫁の実家が初代新田の嫁より上じゃなかった?もしくは新田足利両初代の実母の家柄が足利の方がよかった?たしか異母兄弟だったはず
284日本@名無史さん:2013/03/29(金) 08:28:15.02
源氏系では佐竹、武田も粛清の波をかぶっている。それに比べれば
新田への処置は穏当だけどね。
285日本@名無史さん:2013/03/29(金) 09:13:23.87
>>281
>承久の乱に不参加だったみたい。

それは無いだろ 参加するのは御家人の義務
286日本@名無史さん:2013/03/29(金) 10:26:09.17
勝手に任官求めるって義経と同じようなことしてるのに宗家を潰さなかった辺りが八幡太郎義家の血の力なんだろうか。
この頃の源氏と平家の関係はよく分からんが、源氏正当の血筋を残しておくことを良しとされた時代なんかなぁ。北条家はあんまり源氏に対しては一種の恐怖感みたいなのはなかったのかね。
この温情が後の新田義貞を生むことになってしまったが。
287日本@名無史さん:2013/03/29(金) 10:35:06.10
>>284
たしかに
頼朝の源氏粛清策をみると新田氏の待遇は優しさに満ちている


↓他の源氏の皆さんへの仕打ち

源義経:逃亡生活の果てに自害
源範頼:誅殺
源義高:娘婿だったが誅殺、大姫がメンヘラに

甲斐源氏
一条忠頼:武田信義長男。宴に誘い出して誅殺
板垣兼信:三男。所領没収&隠岐へ配流
武田有義:四男。宴に誘い出して誅殺失脚
安田義定:所領没収の後、誅殺されて晒し首
安田義資:義定の子。些細な罪で斬首

その他
佐竹秀義:奥州に逃亡。平家滅亡後に帰順したけど奥州藤原氏攻めで怒られる
多田行綱:多田源氏。所領没収&追放
288287:2013/03/29(金) 10:37:50.65
訂正

誤 武田有義:四男。宴に誘い出して誅殺失脚
正 武田有義:四男。失脚
289日本@名無史さん:2013/03/29(金) 10:41:40.52
民主党を生み出した『団塊の世代』の面々(現在66〜63歳)
消滅へ向かう化石サヨク思想

加藤千洋(65)・・朝日新聞元編集委員(中国の犬)
安田好弘(65)・・死刑廃止論の弁護士(光市母子殺害事件のDQN弁論)
上野千鶴子(64)・・ジェンダーフリー学者(フェミナチ)
班目春樹(64)・・原子力安全委員会委員長(デタラメ君)
若宮啓文(64)・・朝日新聞主筆(安倍信三を叩くのが社是・「竹島を韓国に譲れ」で有名)
白川方明(63)・・日銀総裁   無能(帰化人説有)
山田伸二(63)・・NHK解説主幹(民主党の熱烈なシンパ)
後藤謙次(63)・・共同通信元編集局長(反日主義者)
テリー伊藤(63)・・全共闘崩れ(民主党シンパ(帰化人説有))


BPO //www.bpo.gr.jp/?page_id=1284
>理事会

>飽戸 弘  理事長(非常勤) 東京大学名誉教授
>岡本 伸行 専務理事(常勤)←NHK
>三好 晴海 理事・事務局長(常勤)
>藤久 ミネ 理事(非常勤) 評論家←元テレ朝
>石田 研一 理事(非常勤) 日本放送協会理事←NHK
>唐木田信也 理事(非常勤) 日本放送協会考査室室長←NHK
>武内 健二 理事(非常勤) 日本民間放送連盟放送基準審議会議長・ 九州朝日放送社長
>木村 信哉 理事(非常勤) 日本民間放送連盟専務理事←TBS
>藤川 英彦 監事(非常勤) 日本放送協会編成局計画管理部経理部長
>山内 弘  監事(非常勤) 日本民間放送連盟事務局次長

こんなんで正しい機能する訳も無く。
290日本@名無史さん:2013/03/29(金) 10:52:07.97
そうか、考えてみたら新田氏的には義貞さんは一族始まって以来のすごい所領と官位貰ったんだものな
確かに南北朝内乱でも付いてく武士もある程度はいたわけだ
291日本@名無史さん:2013/03/29(金) 11:24:49.40
五代目の政氏が必死に新田を再興させようとしたんだね。
しかし幕府からは変わらず冷遇。
そんな先祖見てたらそら義貞は本来源氏の棟梁となる血なのに親父も何もせずだから勝算考えず北条倒すっていう旗頭になろうってのも頷けるな。まぁ本当は義貞じゃなくて弟の義助がハッパかけたんだけど…
292日本@名無史さん:2013/03/29(金) 11:37:22.82
義貞が越前で戦死しなかったらどうなってたかね。
293日本@名無史さん:2013/03/29(金) 12:04:20.00
まずは何で少人数で行軍してしまったのかって所からだと…
誰も危ないっすよ!って止めなかったのかね。
294日本@名無史さん:2013/03/29(金) 14:51:40.79
>>286
木曾義仲や範頼義経兄弟も八幡太郎の血を引いてるが殺されました。源氏つうか河内源氏は俺が俺が気質で一族内で殺し合いをしてたはず。助け合うとか融和はありません。新田を潰せない現実的な理由があったのでしょう
295日本@名無史さん:2013/03/29(金) 15:54:48.24
この時代の話聞いていつも思うけど
教科書の「悪党」の解説をなんとかしてほしいわ

大英雄楠木正成が随分小物に見えてくる
296日本@名無史さん:2013/03/29(金) 16:05:11.37
楠木はむしろ戦前のような「忠臣」よりもスケールアップしたと言っていい。
悪党という非御家人、元御家人、下司のような荘園の管理人が楠木のように
当時の正規軍といえる幕府軍や尊氏のような武門の棟梁相手に渡り合い、
赤松のように大貴族に成り上がった理由は悪党の研究なしには成立しない。
297日本@名無史さん:2013/03/29(金) 17:05:30.00
「悪党」って響きがなぁ…もうちょっといいネーミングはないのかね。極道とかさ
298日本@名無史さん:2013/03/29(金) 19:34:24.54
>>294
源氏が源氏自身にでしょ?
北条は平氏だけど。
299日本@名無史さん:2013/03/29(金) 20:36:28.93
>>292
じり貧だろうねえ。
越後まで行って越後の新田党を糾合して鎌倉目指すとか壮大なビジョンはあるけれど。
越前時代は青野ヶ原のあとに北畠の吉野転進で機を逸したかな。
300日本@名無史さん:2013/03/29(金) 20:54:45.44
どうも北陸に屯す軍勢は、天下取りに負ける役割になるわなあ
木曽義仲も義貞も朝倉も柴田勝家も前田利家も。
301日本@名無史さん:2013/03/29(金) 21:51:19.78
前田は天下取りに参加したのかな?
302日本@名無史さん:2013/03/29(金) 21:59:29.85
たった50騎で
義貞「藤島城の様子を見に行くぞ」
家臣「(え!?)あ、はい」

って行っちゃったんだよね…。
そんで運悪く敵と遭遇。相手も最初は義貞だと気付かなかったらしいね。
交戦が終わって遺体処理をしている最中に義貞だと分かったらしい。
303日本@名無史さん:2013/03/29(金) 22:04:26.03
高氏age正成age道誉ageで義貞sageで辻褄あわせる
北方謙三風な解釈が史実だと思われると辟易するな
304日本@名無史さん:2013/03/29(金) 22:13:40.66
>>297
当時の文書に「悪党」って書かれてるんだからしようがないんじゃない?
今の語感が悪いからといって麗々しく変えちゃうのはいかがなものかと。
305日本@名無史さん:2013/03/29(金) 22:14:22.55
こんなのを見つけた。頼朝兄弟について。

長男;義平→平治の乱で処刑・六条河原で晒し首

次男;朝長→平治の乱で傷を負い父に殺してもらう・首が掘り出され六条河原で晒し首

三男;頼朝→落馬

四男;義門→多分平治の乱で死亡

五男;希義→兄源頼朝の挙兵に応じた疑いで平氏方に殺害される

六男;範頼→兄源頼朝の命で殺害

七男;全成→甥源頼家の命で殺害される

八男;義円→兄源頼朝の挙兵に応じるが討死

九男;義経→兄源頼朝に攻められ自害

長女;坊門姫→難産で死亡

源氏はこえーよ。
306日本@名無史さん:2013/03/29(金) 22:20:50.95
河内源氏義家流の歴史を紐解いていくと血塗られた歴史がわかる。
307日本@名無史さん:2013/03/29(金) 22:54:09.40
ついでに頼朝の父、源義朝の兄弟についても

長男:義朝→戦に負けて落ち延びる最中に仲間に裏切られて殺された

次男:義賢→義仲の父。身内の争いに巻き込まれ戦死

三男:義広→義仲の相談役。当然頼朝から敵対され戦死

四男:頼賢→保元の乱で源義朝軍と戦い自身は善戦するも味方が敗北。捉えられて斬首。

五男:頼仲→保元の乱で義朝軍と戦い敗北も義朝本人から何と嘆願嘆願。そして叶わず義朝に斬首された。

六男:為宗→保元の乱で義朝軍と戦い敗北。義朝に放火されて負けた。こちらも義朝本人から何と嘆願嘆願。そして叶わず義朝に斬首。

七男:為成→上に同じ。義朝本人から何と嘆願嘆願。そして叶わず義朝に斬首。

八男:為朝→保元の乱で敗れるもこちらは流罪になった。しかし何と流罪先を支配してしまうという後にも先にもない前例を作った。それにより切腹。

九男:為仲→保元の乱で義朝軍と戦い敗北。義朝本人から嘆願嘆願。そして叶わず義朝に斬首。

十男:行家→源氏随一の戦下手。事ある戦いで殆ど負け。頼朝に決起を促しておいて自分は参加せず。それにより不和。義仲の下に入るもそこでも不和。双六ばっかりやってて頼朝に滅ぼされた。
308日本@名無史さん:2013/03/29(金) 23:00:01.46
これまで出てきた河内源氏男子19名のうち、寿命(怪我)と言える寿命で死んだのは
19人中1人。
309日本@名無史さん:2013/03/29(金) 23:25:13.36
頼朝の子
長男:千鶴丸→頼朝が流人時代の子。母は流罪監視人伊東祐親の子。祐親はある日
乳母が可愛らしい子供と花を摘んでいたのをほほえましく見て声をかけ、「そりゃ誰の子ぞ?」
乳母「はい、頼朝と八重姫様の子でございます」と言われ腰を抜かす。そりゃアカン!アカン!
となって千鶴丸を海に流してしまいました。可愛そうです。

次男:頼家→鎌倉二代将軍。新しいものを嫌う老人達には彼が行おうとしている政治は受け入れられなかった。
入浴中に斬られた。

三男:貞暁→何もしなかった。その静かさが逆に政子から疑われて片目を切り取って忠義を立てた。
その後も静かに余生を過ごした。

四男:実朝→公暁によって言われようのないあだ討ち相手にされてしまった。
310日本@名無史さん:2013/03/30(土) 01:32:22.53
八幡太郎義家の跡目をめぐる内紛で衰退し、やっと盛り返してきたと思ったら保元・平治の乱で全滅一歩手前に
懲りない一族である
311日本@名無史さん:2013/03/30(土) 06:27:44.26
新田さん所も足利さんの所も、兄弟仲は良かったのだよな。
尊氏は最終的に弟殺しちゃったけど、新田は脇屋義助の孫の代まで義貞の子孫と協力してやってるし。
312日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:00:39.90
協力しないと宗家が滅びちゃうからね。
313日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:14:22.93
脇屋義助ってどうも、名前が小物感あふれる
314日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:27:32.23
義貞の通称は小太郎です
315日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:39:20.43
>脇屋義助
新田本宗家を「脇」から「助」ける覚悟に満ちた名前じゃないか
316日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:42:29.74
義助は、諱が義助だからね
おい!義助!て感じ
317日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:47:31.55
新田宗家に近い大舘氏がいつの間にか室町幕府の有力幕僚になっていくから面白いもんだ
318日本@名無史さん:2013/03/30(土) 11:57:09.44
江戸幕府旗本岩松家中間、脇屋義助(給金二両部屋住)、生没年不詳
319日本@名無史さん:2013/03/30(土) 19:16:02.29
新田一族は源氏の血なのに身内で殺しあう事はしなかったんだね。
320日本@名無史さん:2013/03/30(土) 21:07:34.64
歴史ものもネタが尽きただろうし、後醍醐の野望とか作ってもいいんじゃね?
時行の逆襲とかシナリオ作ってさ
321日本@名無史さん:2013/03/30(土) 21:07:57.81
小じんまりしちゃったからね
322日本@名無史さん:2013/03/30(土) 21:26:39.13
太平記はPCエンジンだかでゲーム化されてるけどね。
323日本@名無史さん:2013/03/30(土) 21:31:47.06
そのゲームの声の出演で
後醍醐天皇がキートン山田ってのが気になる。
324日本@名無史さん:2013/03/31(日) 14:12:25.10
勢いあったこのスレもキートン山田で終わりか…
325日本@名無史さん:2013/03/31(日) 14:20:14.78
キートン山田とか反応に困るネタ振るから…
326日本@名無史さん:2013/03/31(日) 14:22:51.56
キートン山田って誰?
と思ってググってみたが、結局>>323が何を言いたいのかは
俺にはわからなかった。
327日本@名無史さん:2013/03/31(日) 15:24:25.33
>>323の罪は重いな
328日本@名無史さん:2013/03/31(日) 15:34:57.33
ここは>>323さんに出てきていただいて
後醍醐帝とキートン山田との関係性、
そこに感じられる微妙な違和等について
4レス分くらいかけて、じっくりと説明してもらおうか
この仁義の世界、それくらいの落とし前はつけてほしい。
329日本@名無史さん:2013/03/31(日) 16:28:38.91
こうして、>>323は恒良親王、尊良親王の両親王を伴い、越前へ落ちのびていった…
330日本@名無史さん:2013/03/31(日) 19:17:02.66
キートン山田ってちび丸子のナレーションやってる人だよ
331日本@名無史さん:2013/03/31(日) 23:51:56.79
益田喜頓は往年の名優だった
332日本@名無史さん:2013/03/31(日) 23:54:53.71
完全にキートン山田で終わったな…
333日本@名無史さん:2013/04/01(月) 02:52:45.78
キートン山田も知らない世代なの?
334日本@名無史さん:2013/04/01(月) 04:30:54.30
平治の乱後に平氏に接近して河内源氏内で有力頭領になったのが義重
義国流三代が甲斐源氏の烏帽子親になってることからもわかる
335日本@名無史さん:2013/04/01(月) 19:25:24.52
平氏だって同族争いしてるじゃん
平清盛に反旗を翻した三浦・千葉・畠山なんてみな平氏じゃん
336日本@名無史さん:2013/04/01(月) 19:36:18.97
自称平氏はそこまで平家に思い入れなどありません。
337日本@名無史さん:2013/04/01(月) 22:36:48.22
自称平氏、いわゆる坂東平氏仲悪いよね。平家(清盛一族)は仲良いよね
338日本@名無史さん:2013/04/01(月) 23:29:21.91
戦国時代まで関東は現在のソマリア・アフガンのようなリアル北斗の拳の世界だから。
同族親子だろうが国司守護だろうが平気で殺しにかかる、力がすべての朝廷から「戎夷」
呼ばわりされるぐらいだよ。
339日本@名無史さん:2013/04/01(月) 23:32:16.84
平将門の頃は源氏並みにギスギスしてたけど、伊勢に移った平貞盛の家系は特に揉めることなく団結したね
関東には武士を荒らぶらせる何かがあるのだろうかw
340日本@名無史さん:2013/04/01(月) 23:35:51.20
関東呪われてんじゃね?明治天皇が江戸に行幸してやっと落ち着いたとか?
341日本@名無史さん:2013/04/01(月) 23:45:42.68
伊勢平氏も内輪もめしてなかった?
342日本@名無史さん:2013/04/02(火) 00:02:44.92
>>341
保元の乱の平忠正か
棟梁の座が欲しかったのかね?

しかしあれ源氏が派手すぎて目立たないんだよな
343日本@名無史さん:2013/04/02(火) 00:39:44.93
>>337
清盛さんの所も、頼盛、小松一門とそのシンパ、時子腹で三分される危険があった
実際、都落ちに際しては頼盛が脱落、小松一門も離脱を試みて事後流れ解散に、
時子腹が前線に出た時しかろくに勝ってない
鹿ケ谷も一門分裂の危機が直接の引き金になってる

足利兄弟、新田兄弟、北条氏一門はあれでもかなり内紛が少なかったほうだ。
344日本@名無史さん:2013/04/02(火) 00:43:22.29
重層的な一門をとにかく流血の衝突に至らせなかったのは清盛時代の融和策が奏功したと言えるけど、
最終段階でほとんど離脱者を出さなかった北条一門に比べてどうかと言う疑問は残るな
345日本@名無史さん:2013/04/02(火) 01:00:05.79
実は新田一族も南北・直義派に三分裂して戦ってたのは内緒の話な
346日本@名無史さん:2013/04/02(火) 01:13:12.73
義貞「それトップシークレット」
347日本@名無史さん:2013/04/02(火) 01:24:41.13
足利氏の繁殖力の強さ、支族をつくりまくる力は異常

と昔は思ってたけど、よく考えたら藤原氏も北条氏も支族作りまくってるもんな。
徳川なんかは、源氏でもない奴らに松平姓与えて親族増やしてw、
それから養子強要で男系乗っ取りだもんな。支配階級たるもの繁殖力強くなくちゃやってけんのだろう。
鎌倉将軍家が特殊な例外なんだな。
348日本@名無史さん:2013/04/02(火) 02:10:25.09
鎌倉将軍家は作ったそばから殺してますがな
あと頼朝が一番元気な頃に流人生活してたのが痛い
349日本@名無史さん:2013/04/02(火) 03:42:19.60
しかしわずか2代の間に、頼朝・義経・実朝っていう
それぞれ全く種類の異なる天才を3人も産み出した河内源氏は正直、すごいと思う。
いろんな意味で特殊な一族だね。
350日本@名無史さん:2013/04/02(火) 03:48:36.76
そこでメロヴィング朝ですよ!
351日本@名無史さん:2013/04/02(火) 08:35:08.73
>>344
たしかに一門に関しては最後は番場の宿にしろ鎌倉東勝寺では仲良く腹を切っているが
それまでの内訌が凄まじい。時宗が死んだとき、ろくな容疑もないのに拷問して殺すとか
無茶苦茶をやっている。
352日本@名無史さん:2013/04/02(火) 10:55:47.77
宮騒動では出家謝罪による配流で決着、二月騒動では無辜の殺害と認定されて討手が処刑される
霜月騒動も金沢流以外失脚はなく、あと嘉元の乱くらいだろ。
353日本@名無史さん:2013/04/02(火) 11:25:01.31
>>347
鎌倉殿は繁殖力強いだろ
頼朝は30過ぎてから5人も子供作ってるし、側室も3人は作って政子がキレてる
頼家は23歳で暗殺されるまでに子供が6人
354日本@名無史さん:2013/04/02(火) 12:26:21.07
親父や爺様に比べたら微々たるものだよ。
355日本@名無史さん:2013/04/02(火) 14:31:23.58
頼朝は義朝に比べたら全然少ないよな。

頼朝直系が絶えた時に足利が将軍に推挙されたらしいが辞退したらしいね。その時の当主はビビりすぎだろ。将軍就任して北条と戦えばせいぜい関東くらいで戦乱を抑えられたかもしれないのに。泰氏や家時みたいに無念の人出さなくてすんだのに。
結果論だけど。
356日本@名無史さん:2013/04/02(火) 16:01:09.01
足利が無念になる可能性も十分高いで
357日本@名無史さん:2013/04/02(火) 17:09:31.44
>頼朝直系が絶えた時に足利が将軍に推挙されたらしいが辞退したらしいね。

それホントの話?
358日本@名無史さん:2013/04/02(火) 17:31:06.84
>>354
頼朝の場合作成期間が短い&側室少ないから。
為義 作りはじめは遅いがわりと長寿 推定40人側室多数
義朝 数え17歳から数37歳の二十年(男として一番元気な時期) わかってるだけで子供11人 正室一人+側室五人以上
頼朝 30歳から40代半ばまでの15年(男としてもっとも元気な時期は過ぎはじめてから) 正室一人+側室二人 側室はバレタら即座に追放

むしろ当時としては高齢の三十代半ばまで産んだ政子の頑張りが凄い。
359日本@名無史さん:2013/04/02(火) 21:58:28.48
政子の独占欲が強すぎるように感じるんだけど
この時代の関東ではこれが普通なのかな
360日本@名無史さん:2013/04/02(火) 22:27:23.09
3つの見方があると思う。
一つは政子が単に頼朝を独占したかっただけ。
一つは東国は家を夫婦で共同管理する意識が強かった可能性。
もう一つは北条の血筋と実力が政子を頼朝の正室嫡子の母としての権威を持たすに足りなかった事。
頼朝の死後、政子以外の女性が産んだ子が担ぎ上げられたら政子は母としての権威を失うし、
平家の池禅尼のように、自分の子以外が相続しても先代後家の権威を保つことができなかったと思われる。
361日本@名無史さん:2013/04/02(火) 22:41:48.82
>>360
なるほど
個人的には3つ目の理由が納得かな
血統が良く、実家が朝廷に太いパイプがある池禅尼と違って、北条は伊豆の弱小豪族にすぎないものね
362日本@名無史さん:2013/04/03(水) 11:30:30.03
363日本@名無史さん:2013/04/03(水) 14:36:07.69
>>341>>343

清盛の父忠盛の代でも、貞盛流(伊勢平氏)は、内紛を起こしている。

当時、貞盛流(伊勢平氏)で最も力があり嫡流を自称していた平盛方が
忠盛と対立し、宮中で他の公卿と一緒に忠盛襲撃を企てた。しかし、
この企てが露見し、平盛方は処罰され、盛方の子息は武蔵に没落して
熊谷氏になる。盛方の弟の子の時方もこの処罰の巻き込まれて都での
出世を諦め、国司を勤めた伊豆に移住。国衙のすぐ近くの北条郷に土着
して北条氏を名乗り始める。

伊豆北条氏と武蔵熊谷氏は、平時方が、清盛の父忠盛に
負けた事で時方の子弟が関東に落ち延びて誕生した比較的新しい関東武士。
364日本@名無史さん:2013/04/03(水) 15:07:29.72
清盛が死んでこれから内紛しようかなーってところだったのに
頼朝がでしゃばって滅ぼしちゃった
365日本@名無史さん:2013/04/03(水) 21:12:51.41
北条政子って新田には優しかったんじゃないの?
366日本@名無史さん:2013/04/03(水) 23:19:31.85
どうだろ
頼朝の要請を蹴らずに祥寿姫が側室になってたら排斥したんじゃないかな
367366:2013/04/03(水) 23:26:22.50
新田に対して優しかったのは
あくまでも足利の一門であり、政治的にも無力化されていたからじゃないか
もし新田義重が娘を頼朝の側室として入れたなら、他のケースと同じ運命を辿ったのでは
ってことね
368日本@名無史さん:2013/04/03(水) 23:42:19.74
>>366>>367
当時の新田と北条の家柄と実力差を考えたら
政子が側室になって祥寿の方が新たに正室に迎えられた可能性は無かっただろうか?
369日本@名無史さん:2013/04/04(木) 00:00:28.68
>>368
可能性はあるんじゃないかな
ただし正室としての力を失うことになる政子(というか北条氏)が巻き返しを図りそうだけど
比企能員の乱のように
370日本@名無史さん:2013/04/08(月) 11:35:37.33
今の大河ドラマ見てると
会津と新田が被る
371日本@名無史さん:2013/04/08(月) 19:46:53.14
>>368
頼朝は、その心算だったらしいけどね。 政子の反対で消えた。
372日本@名無史さん:2013/04/08(月) 21:43:24.99
>>371
だけど祥寿姫との結婚&正室化阻止させるだけの力が北条と政子にあったかなあ?
何か別の事情で祥寿姫との結婚がお流れになって、結果的に政子が正室のままでいられただけかも。
373日本@名無史さん:2013/04/08(月) 23:44:51.33
そこは政子、時政や義時を使って謀略の限りを尽くしたんだわさ
374日本@名無史さん:2013/04/09(火) 00:11:25.54
やはり有力御家人として残るには北条氏への対応がネックか
375日本@名無史さん:2013/04/09(火) 04:00:56.16
新田の庶流でメジャーは山名、大館、岩松、世良田あたりだがマイナーどころでは誰が思い浮かぶ?俺は船田と烏丸?烏山?くらい。得川とかほんとにいたのか?
376日本@名無史さん:2013/04/09(火) 07:01:01.44
>>374
安達みたいに北条と姻戚関係結んで残っても滅ぼされることもある。
出る釘は打たれる。
377日本@名無史さん:2013/04/09(火) 07:05:02.40
>>375
世良田は本宗家をしのぐ勢いがあったが、幕府の政争に巻き込まれて失脚して没落。
山名も何かやらかして、一時的に本宗家を頼らなければならなくなるほど落ちぶれた。
堀口が何かのツテを掴んで、美濃守に任命されていた。
378日本@名無史さん:2013/04/09(火) 10:16:36.52
民主党が平気で嘘を付くのは
民主党が元朝鮮人・元中国人で出来た政党だから

こんなことにも気が付かないから振り込め詐欺なんかに騙される


朝鮮の諺
・騙されるほうが悪い
・騙して金を引き出した後は、放火して始末しろ(殺せ)
・営門で頬を叩かれ、家に帰って女房を蹴飛ばす
・川に落ちた犬は、棒で叩いて沈めろ
379日本@名無史さん:2013/04/09(火) 20:08:55.14
>>377
堀口貞満が美濃守に叙任されるのは建武新政のとき
380日本@名無史さん:2013/04/09(火) 20:38:14.15
>>378
自民党が息をするように嘘をつくのは統一教会信者のチョンだから。
それを信じるのば知能が低い。http://i.imgur.com/xAzc5Lr.jpg
381日本@名無史さん:2013/04/09(火) 21:50:57.82
>>377
影武者家康の世良田次郎三郎って考えてみれば名門の生まれだよな
382日本@名無史さん:2013/04/09(火) 22:33:37.37
そこは戦国時代特有の仮称でしょう
383日本@名無史さん:2013/04/09(火) 22:38:52.29
>>379
親父の貞義はなぜか建武の新政以前に美濃守になっている。
384日本@名無史さん:2013/04/09(火) 23:12:04.49
そういや堀口っていたな。湊川で負けて後醍醐帝が義貞残して脱走しようとした時に後醍醐帝に喰ってかかった人だよね貞満
385日本@名無史さん:2013/04/10(水) 17:32:23.19
父の代から美濃守だったとすれば、
386日本@名無史さん:2013/04/11(木) 01:29:49.81
じゃあ堀口は新田庶流でも大族だったのか?
387日本@名無史さん:2013/04/11(木) 01:32:29.92
>>386
いや、たいしたことない。
どこでどういうツテを掴んだのか謎だが。
388日本@名無史さん:2013/04/11(木) 17:08:44.66
里見氏も謎だよな
389日本@名無史さん:2013/04/11(木) 22:29:12.93
美濃といえば誰もが羨む一等国。
突然そこの国司になるなんて奇跡だよ。
390日本@名無史さん:2013/04/12(金) 00:06:55.03
まあ新田と足利が北条政権の中で二大巨頭になってたらどっちか潰されてた
だろうね。
391日本@名無史さん:2013/04/12(金) 01:24:00.57
新田足利は仲良かったとか連絡とりあってたとかの逸話あるけどマジ?逆なんじゃないって逸話もあるけど。実力は違いすぎるけど領土は隣同士で小競り合いも絶えなかったとか?
新田イナゴ、足利トンボってお互い罵り合ってたそうな
392日本@名無史さん:2013/04/12(金) 01:48:24.78
>>391
大河ドラマの話だろ?
393日本@名無史さん:2013/04/12(金) 15:10:37.61
この時代の国司って叙位されることで実効支配してたのか?
江戸期と同じで単なる名称?
394日本@名無史さん:2013/04/12(金) 15:19:04.28
実権は目代を赴任させて旨い汁だけ吸ってた?
395日本@名無史さん:2013/04/12(金) 21:22:15.63
鎌倉から九州まで赴いた御家人いたような・・・・。
396日本@名無史さん:2013/04/13(土) 07:37:36.75
>>391
足利家は鎌倉時代、ほとんど、足利にはいなかっただろう?
足利尊氏も鎌倉に殆ど在住していたんじゃないの?
あと、鎌倉時代の足利家の両国で最大のものが三河国。
だから、足利家の分家には、三河由来の苗字の一族が多い。
397日本@名無史さん:2013/04/13(土) 22:16:33.93
>>31
円喜さん乙w
398日本@名無史さん:2013/04/13(土) 22:40:47.93
上総には分家ないの?
399日本@名無史さん:2013/04/13(土) 23:19:39.53
倒幕前の足利は上総・三河以外にも飛び領地があったよね?
400日本@名無史さん:2013/04/14(日) 15:50:15.11
>>399
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ashikaga-kindai-03-shiryo.htm

これだけ全国に所領がありながら下野は足利荘のみだったことにむしろ驚いた
小山氏や宇都宮氏への配慮かね
401日本@名無史さん:2013/04/14(日) 16:16:14.98
配慮とか関係ないのでは?
下野で旨味のある荘園を取れなかったってこと
402日本@名無史さん:2013/04/14(日) 22:51:11.25
下野国司と守護は小山が押さえてたから、苗字の地をキープするだけ充分と割り切ってたのかもね
403日本@名無史さん:2013/04/14(日) 23:02:10.30
苗字の地も藤姓足利が没落したおかげで保てたようだが。
義国ー義重が広い新田荘を開発し、義康は藤姓足利氏と争いの絶えない足利荘を本拠に在京活動
義康死後は義重の庇護下で義兼が成長して鎌倉へ
404日本@名無史さん:2013/04/14(日) 23:25:21.92
そんな経緯もあって藤姓足利の嫡流には引導渡したらしい、別件で>義兼
足利と新田もそうだけど、繁栄と没落は紙一重だわな
405日本@名無史さん:2013/04/15(月) 22:21:45.39
>>400
九州にもあったのか。足利の筑紫落ちはその筑前の飛び領地の縁かな?それとも建武新政で無くなってた?
406日本@名無史さん:2013/04/30(火) 03:17:53.09
新田小太郎でござる
407日本@名無史さん:2013/05/05(日) 11:40:51.72
おいらは歴史学とは別の分野の研究者なので質問なんだが、
4/25の島津宛書状を、早期倒幕決意の根拠にする指摘があるが、
いわゆる封密命令ではなかったの?

例えば、使者には4/25に作成した軍勢督促状を厳封して持たせて、
九州で待機させておいて
「六波羅軍苦戦の報が入り次第、開封して島津殿へ渡せ。
5月中にその報が無ければ、書状は焼却せよ」とか。

六波羅戦後に大切な書状を持った使者を急行させれば
途中で北条方に奪われる心配がある。
一方、「六波羅軍苦戦の報」を九州方面へ伝えるだけなら、
口頭でもいいし、何人出そうが駅伝方式にしようが問題なく、
速報できる。
408日本@名無史さん:2013/05/05(日) 21:16:13.02
軍勢催促は後の恩賞の約束文書だから口頭なんてありえない。
尊氏に限らず後醍醐にせよ、護良にせよ、それどころか北条も
軍勢催促の書状を出している。ばれるかどうかどころか味方を増やすために手当たり次第
出しているよ。
409407:2013/05/06(月) 00:09:20.70
>>408
俺は書状を口頭で代えるなんて言ってない。

書状の「開封指示」を口頭連絡や開封条件指示等の手段で行うことがありうるのか、
という趣旨の質問をしている。

旧海軍の封密命令はこうした形式だよね。

>ばれるかどうかどころか味方を増やすために
寝返りが早期にバレてはまずいだろうし、
状況次第で寝返りしないという場合もありうる。

封密命令形式なら、趣旨の異なる複数の軍勢催促書を用意することも
できるはずで、そうであれば、島津に手渡された軍勢催促書があったとしても
早期倒幕決意の証拠とはならない。
410日本@名無史さん:2013/05/06(月) 02:56:29.28
新田が北条に「足利は謀反するよ!気をつけて!」ってチクっちゃったら
どうなったかな。
逆に足利に変わって北条政権の中で力をつけるのかな。
それとも長崎に「あそ、教えてくれてありがとう。」で終わりかな?
411日本@名無史さん:2013/05/06(月) 12:26:23.66
>>409
そもそも命令ではない。誘っているだけだよ。仲間集めのための書状
なんだから、島津はそれをもらって応じるかどうか決めるだけだよ。
九州は倒幕に動いた菊池を少弐をはじめとする有力御家人がつぶし、
六波羅陥落後に博多の北条英時をつぶしている様に本領安堵という行動原理を
もつ当時の武士に指図などもともと無理な話だよ。

南北朝の紛争時北畠親房が息子の顕家がトップだった奥州府の検断奉行
の結城親朝に応援要請を何度しても来なかったように見返り(官職、本領安堵、新恩給付)
を用意できなければ最終的には裏切られるのがこの時代の特徴だよ。

尊氏にせよ義貞にせよ軍勢催促には後醍醐から綸旨をもらったことを書いているから
これらの書状を倒幕決意の証拠として専門家は採用しているんだよ。
412日本@名無史さん:2013/05/06(月) 18:41:24.43
そうじゃなくてね
413407:2013/05/07(火) 00:17:01.92
>>411
私は軍勢催促のことを命令とは一言も言ってなくて
「開封するか焼却するかを後で決められるもの」の一例として
旧軍の封密命令を例示したに過ぎません。

>これらの書状を倒幕決意の証拠として専門家は採用しているんだよ
倒幕決意の証拠ではあっても、「決意時期」の証拠には
ならないのでは、というのが407以降の私の主張です。

それから、後醍醐から綸旨をもらったことにより、もう後戻りできなく
なるのであれば、綸旨を求める旨を後醍醐天皇に伝えた日が
倒幕決意の日になるかと思います。
そうであれば、島津宛の書状の作成日は、倒幕決意日よりも後になります。
414日本@名無史さん:2013/05/07(火) 07:51:56.77
言ってることは分かる
本当にその時点で決意したの?と言う疑問は再三出てるよ
415日本@名無史さん:2013/05/15(水) 23:31:27.95
関係ないけど
北方謙三は何か新田義貞に恨みでもあるのか
小説での扱いひどい
416日本@名無史さん:2013/05/27(月) 23:38:21.98
新田どの
417日本@名無史さん:2013/05/28(火) 00:02:10.78
れきしに なだかい にったよしさだ
418日本@名無史さん:2013/05/28(火) 23:25:40.91
義平の子を新田の娘が生んでたら、とても面白かったのに
419日本@名無史さん:2013/05/29(水) 01:30:54.34
足利と新田って遡って姻戚関係になった事ある?
420日本@名無史さん:2013/05/29(水) 13:42:15.56
6/17(元弘3年5月5日) 挙兵 ※太平記では6/20(5月8日)
6/23(5月11日) 小手指原の戦い
6/24(5月12日) 久米川の戦い
6/27・28(5月15・16日) 分倍河原の戦い・関戸の戦い
6/30(5月18日) 鎌倉攻防戦開始、洲崎で赤橋守時戦死
7/03(5月21日) 稲村ケ崎渡渉
7/04(5月22日) 北条一門東勝寺で自害
421日本@名無史さん:2013/05/29(水) 14:15:01.05
将門も11月末に常陸国府を落としてから1カ月程度で坂東を平定しているが、
上流から攻められた時って武相は結構あっけなく陥落するのだよな
422日本@名無史さん:2013/05/29(水) 19:59:27.24
>>419
ある
423日本@名無史さん:2013/05/29(水) 22:18:18.93
問題は、六波羅の軍勢や楠木攻めしている大軍勢が
鎌倉を守っていた場合、新田に勝ち目はあったのかな
424日本@名無史さん:2013/05/30(木) 14:10:33.11
そういう情勢なら新田が決起すること自体あり得なかったし、
そもそも幕府が督促使を差し向けることもなかったんではないかな
425日本@名無史さん:2013/06/01(土) 23:39:38.89
>>424
その場合は足利にわざわざ西に遠征しろと言わないからね。

仮にだがその状況で上野で立ち上がったらどうなってたか。
足利が動くかね?小手指原の戦いの前に越後の新田党から「鎌倉にあんなに
北条軍がいるのに…」と言って兵が集まらそう。
426日本@名無史さん:2013/06/01(土) 23:51:44.12
>>454
北条から軍勢催促があって、新田は鎌倉方として滅亡
427日本@名無史さん:2013/06/02(日) 02:22:34.56
>>426
催促あって楠木攻めしてたけど帰ってきちゃったからそれはないよ。
だから軍出さない代わりに金出せやってきたんじゃない?
428日本@名無史さん:2013/06/02(日) 08:08:44.11
だから、再度、鎌倉防衛のために動員かけられる
429日本@名無史さん:2013/06/02(日) 17:07:28.29
半ば、仕方なく鎌倉防衛するだろうけど病気と偽って
また上野に、帰りそうだな。
430日本@名無史さん:2013/06/02(日) 19:09:23.43
防衛って新田って兵集められるの?
431日本@名無史さん:2013/06/02(日) 23:15:35.95
一応自前の兵200ほどあります。
完全に他頼みですテヘペロ
432日本@名無史さん:2013/06/03(月) 10:45:32.56
大河ドラマでは平塚で尊氏と義貞が北条倒す談合やってたけど実際もそうだったの?
433日本@名無史さん:2013/06/03(月) 12:32:27.53
新田は
源頼朝にとって、長兄の妻の里だから
多少遠慮された・のかな


新田が地方に根付いた大族で
新興勢力に派遣してた大使が足利だとすると
一族の長老にとっては、小倅扱いしていた者に
権勢をしのがれたんだな
434日本@名無史さん:2013/06/03(月) 14:16:34.83
足利義康死後は足利義兼は新田義重の傘下にあったしな
甲斐源氏も加賀美氏・平賀氏は新田義重の傘下にあった
435日本@名無史さん:2013/06/03(月) 20:17:32.85
>>432
実際はああいう談合は持たれてないでしょ。足利が綸旨を欲しがってる程度は内々知ってたかもだけど
だから後で足利が「新田は俺らの指図で挙兵した」、新田は「独断だ」と争う原因になった
436日本@名無史さん:2013/06/03(月) 20:27:42.99
結局最後は汚い奴が勝つんや
頼朝、高氏、家康
437日本@名無史さん:2013/06/04(火) 03:00:26.22
生き残るのに汚いも糞もねえよw
438日本@名無史さん:2013/06/04(火) 09:25:49.48
もとい、生き残れたから歴史が作れた。。。
439日本@名無史さん:2013/06/04(火) 12:18:47.83
汚い奴しか生き残れない
440日本@名無史さん:2013/06/04(火) 16:18:07.83
>>434
母方の大軍事部隊が三河にいるのに、何で北関東までいかなあかんのか?
頼朝挙兵時、義兼は三河にいたに決まっているだろう

同じ北関東に義重は動かず、義兼はいち早く馳せ参じた、
何故だかはっきりとはわからない

当たり前だわな、三河と群馬で歩調がとれるかよ
441日本@名無史さん:2013/06/04(火) 17:02:58.62
尊氏と家康はともかく頼朝は汚くないぞ
だから北条に潰された
442日本@名無史さん:2013/06/04(火) 22:20:32.44
頼朝は神輿ですから
443日本@名無史さん:2013/06/04(火) 23:02:37.48
常識的に考えて、頼朝を救う政治力、援助する経済力があった藤姓熱田大宮司家の血を引く義兼が、三河をスルーして北関東に行くワケない
恐らく、鎌田政清の兄(野間で殺害された政清夫妻の遺体を引き取る)がいた、真福寺あたりにいた
444日本@名無史さん:2013/06/05(水) 00:18:28.08
>>440
熱田神宮って尾張氏だろ
なんで三河w
尾張氏は神官、藤原季範は公家であって大軍事部隊など持ってないぞ
源義朝は尾張で政清の舅に頼らねばならないほどだった(そこで殺されている)
尾張の歴史は三河の歴史ってか
そのうち信長も秀吉も三河出身だと言いかねない
445日本@名無史さん:2013/06/05(水) 01:06:27.37
馬鹿か?藤原姓熱田大宮司家の武士団は三河いただろうが、源氏の家人の三河伴氏もいる


尾張氏と部外者だろ
尾張が足利王国にならなかったのは、足利氏と血縁関係なのは、三河の藤原姓熱田大宮司家だっただからだろ


真福寺には、足利義兼が建てた法華堂(火事で消失)があった
446日本@名無史さん:2013/06/05(水) 01:11:21.24
藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)の年表


1090年、父:藤原季範(三河四郎、季範と三河に住みながら尾張目代を務める(尾張守は父親の従兄弟の藤原資良))、母:松御前(尾張員職の娘)の間に生まれる

藤原保相(三河国司、碧海郡志貴荘立券)→藤原資良(尾張国司)
藤原能通→藤原実範(三河国司)→藤原季兼→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)

1101年、父:藤原季兼死去
1114年、神のお告げで熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
1130年、母:松御前、三河国設楽郡稲木で死去(新城市城ヶ峰の山頂に墓あり)
1137年、神のお告げで大宮司職を五男の範雅に譲る
1140年、夫妻で菩提寺である滝山寺(三河国額田郡)内に蓮華寺建立
1145〜1146年、娘:由良御前が源義朝の室になる
1147年、娘:由良御前が源頼朝を産む(生誕地は京都もしくは三河)
1150〜1152年、娘(養女、実父は長男の藤原範忠)が源養康(足利義康)の室になる
1151年、長男の藤原範忠、菩提寺である滝山寺の本堂を再建(滝山寺として2度目、3度目は足利義氏、4度目は足利義満)
1153年、娘(養女、実父は長男の藤原範忠)が源義兼(足利義兼)を産む
1155年、死去
447日本@名無史さん:2013/06/05(水) 01:14:58.83
滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)
・創建:伝・天武天皇時代(673年 - 686年)
・開基:伝・役小角

12世紀

【1122年】仏泉上人永救、物部朝臣・伴氏女を檀那として再興、最初の本堂を建立し、鎮守として山王・白山社を勧請する
【1130年代】三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)、仏泉上人永救に弟子入り、入山する
【1138年】仏泉上人永救、死去する
【1140年】藤原季範(源頼朝の祖父)、夫婦(夫人は源行遠の娘)で蓮華寺造営、仏性灯油料として額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
【1142年】寛伝(藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟)、生まれる
【1147年】源頼朝、生まれる
【1151年】藤原範忠(源頼朝の母の兄)、滝山寺の本堂(2度目)を建替える、10月8日の供養の時に延暦寺より招いた導師に馬3匹を贈る
【1155年】藤原季範(源頼朝の祖父)、死去する
【1159年】藤原範忠(源頼朝の母の兄)、弟の三河法橋裕範の要請を受け、大檀那として滝山寺の四至を確定し、 田畠1町2反づつを寺へ寄進する
【1159年】三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、姉の由良御前(源頼朝の母)が死去した際、49日の仏事を差配してその菩提を弔る
【1160年】三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、頼朝が罪人として伊豆国の配所に送られる際、郎従を付けて送り出す
【1182年】寛伝(藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟)、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
【1188年】任憲(三河法橋裕範の息、源頼朝の従兄弟)、鎌倉で源頼朝に引見する
【1190年代】源頼朝、寺領412石寄進
【1191年】源頼朝、任憲(三河法橋裕範の息、源頼朝の従兄弟)の熱田社領御幣田をめぐる争いの仲裁をする
【1199年】源頼朝、死去する
448日本@名無史さん:2013/06/05(水) 01:18:54.33
13世紀

【1201年】寛伝(藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟)、頼朝公の3回忌に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を」安置する
【1205年】寛伝(藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟)、死去する
【1222年】足利義氏(3代目足利氏当主)、滝山寺本堂(3度目)を建替える
【1226年】大平惟行(高階惟行)、大谷惟伴(坂上惟伴)と連署で、額田郡阿智波郷名越(愛知県岡崎市阿知波)の田地8反を惣持禅院に寄進する
【1229年】大平惟行(高階惟行)、常行堂の造営にあたり娘と一緒に大檀那となり、足利義氏に相談してこの堂へ料田3町8段を寄進する
【1230年代】藤原俊経(藤原俊継の父)持仏堂を造営、古市場御油畠(愛知県豊田市古市場)を寄進する
【1233年】足利義氏(3代目足利氏当主)、舞童装束などの調進のため150貫文を奉加する
【1238年】藤原俊経(藤原俊継の父)、京都東山一切経の谷で死去する
【1240年代】大谷惟伴(坂上惟伴)、持仏堂(延福寺)を造営する
【1244年】】大谷惟伴(坂上惟伴)、死去する
【1254年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
【1254年】足利義氏(3代目足利氏当主)、死去する
【1255年】藤原俊継、故足利義氏の法華堂(宝幢寺)造営し、藤原俊継は田畠3町3段、足利家氏は壁海郡碧海荘の青野の田2町、宇祢部の畠1町2段を寄進する
【1257年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、一切経蔵を造営する、足利頼氏(5代目足利氏当主)、一切経蔵の経会料所として、額田郡阿知波郷(愛知県岡崎市阿知波)を寄進する
【1261年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、山王社の宝殿を改築する
【1262年】足利頼氏(5代目足利氏当主)、死去する
【1263年】大平惟行(高階惟行)、死去する
【1274年】藤原俊継、鎌倉で死去する
【1283年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、鎌倉滞在中に死去する
【1284年】足利家時(6代目足利氏当主)死去する、足利貞氏(7代目足利氏当主)、故足利家時(6代目足利氏当主)追善の如法堂を造営する
449日本@名無史さん:2013/06/05(水) 05:03:29.78
なんだ、談合はなかったんだ。
じゃあ黒沼が運良く現れて義貞が勝手に暴発しただけか。
450日本@名無史さん:2013/06/05(水) 23:09:59.94
最初に義貞とぶつかった桜田貞国ってどんな人なの?
451日本@名無史さん:2013/06/06(木) 07:42:16.39
>>434
その説唱えたの奥富先生だけど、なんか根拠あるのかな?他の専門のご意見はどうだろう?
>>440
(源姓)足利は八条院との関係が深く、以仁王事件にも相当関わっていた、と見られている。
よって平家には親しくなりがたい立場で反平家につくのは当然。
一方新田は、新田荘の領家が平家縁戚の花山院家でかつ、平重盛に私的に接近していたらしいので平家につく。(頼朝と甲斐源氏の動向をいち早く都に通報)
452日本@名無史さん:2013/06/06(木) 08:11:38.51
>>444
藤原姓大宮司季範の父方は元々三河に何らかの形で勢力を扶持していたらしく
季範自身も額田冠者と称していた(額田は三河にある)
季範流が三河に何らかの繋がりがあったとみてもおかしくない。

当時は公家、神官、武士というのは未分化で
武士であり公家、神官であり武士という存在が多数いた。
諏訪神官の金刺盛澄などは弓の名手で尚且勇者でもあった。
熱田大宮司あたりは大宮司本人の武芸はダメでも、配下に戦闘担当者を抱えこんでた可能性はある。
(保元物語によると義朝に援軍出していた)
453日本@名無史さん:2013/06/06(木) 08:29:41.04
>>452続き
義朝が尾張内海に逃亡した理由の一つは内海から海路で相模を目指したという説がある。
また平治時点では熱田大宮司家当主範忠と義朝の関係が希薄化していたというのが挙げられる。
保元では義朝に援軍を出した範忠は平治では援軍を出さず
義朝死後遺児希義を平家に差し出している。
このようなことから熱田に寄るのは義朝も避けたものと思われる。

>>445
上の話と関係するが、熱田大宮司家には分裂があった可能性があるらしい。
範忠と範雅の相続争い。
季範死後両者の間で大宮司職が何度も交代になった。
範忠は後白河院に接近した後時忠時子に接近。平氏政権時代は主流となる。
一方範雅流は頼朝に取り立てられ頼朝時代はこっちが主流となる。(頼朝を援助した祐憲はこちらと見られる)
義兼母方の範忠はこの間干される。
しかし承久の乱で力関係が逆転。北条縁戚の足利に連なる範忠流が再び主流となる。
454日本@名無史さん:2013/06/06(木) 10:38:52.85
道に迷って急遽、野間に行ったんだろ
本来は普通に三河に入って、矢作川を超えていた
三河には鎌田政清の兄もいたしな


藤姓熱田大宮司家の軍隊は尾張にいない、居たのは滝山寺周辺
寺領を国司に強奪されそうになると、馬を並べて抵抗し、平治の乱で平家が寺に雪崩れこんで来たら追っ払うとか、事実上城みたいなもんだった


行家が矢作川の戦いに負けて逃走すると、平家軍も矢作川を越えて追跡しようとしたが、源氏の援軍来るとの噂を聞いて引き返した
平家は、矢作川の東側には強力な親源氏の軍事部隊がいると認識していたんだろう
455日本@名無史さん:2013/06/06(木) 10:54:52.71
実態は武士だからな、東三河を支配下においた時、家来になったのが小野田兼広で、その息子が安達盛長


◆源頼朝◆父方:源義朝、河内源氏  母方:由良御前、藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券、皇室に寄進する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を産む
456日本@名無史さん:2013/06/06(木) 15:39:20.36
>>454
墨俣の戦いの後、敗走勢力は熱田に入り、そこも破られると矢作川に退いたから熱田の支援はあっただろう。
ただ三河の勢力だけでなくその背後にある遠江の安田義定や、義定の要請を受けて派兵された和田義盛ら頼朝からの援軍の存在も無視できないと思う。
457日本@名無史さん:2013/06/06(木) 21:39:30.32
熱田にいたのは尾張氏の軍隊だろ
遠江は矢作川から70キロあるからな
平家軍が矢作川を突破したら、直ぐ近くの熱田大宮司家軍が来ると聞きつけて退散した

極めて自然


源平時代最強の範頼軍も、三河の国人が主体だっただろう
三河は昔から、つえーんだよ
458日本@名無史さん:2013/06/06(木) 21:40:48.21
三河厨は新田スレへ帰れ
新田と足利4
ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1363689222/
459日本@名無史さん:2013/06/06(木) 22:04:56.72
藤姓熱田大宮司家は熱い
460日本@名無史さん:2013/06/06(木) 22:24:09.28
いいか、ここ間違えるなよ

藤原季兼が尾張氏の娘と結婚したのは、尾張目代になる前、尾張目代だから結婚したのではない
当時相当な経済力と軍事力を持つ武士としての実力者だったから結婚したのだ

その後、息子の季範と三河で田畑耕していたら、父親の従兄弟が尾張守になって目代を頼まれ、三河に住みながらなの条件で受けてワケだ

息子の季範と開発した田畑は、荘園として皇室公家寺社に寄進されたが、一部は手元に残して置いた
この手元に残して置いた一部が、血縁の足利氏に受け継がれ、後に足利王国となる
461日本@名無史さん:2013/06/06(木) 22:41:39.71
三河の八条院領高橋荘・高橋新荘(足利氏母方一族が寄進)の面積は、ほぼ讃岐国の大きさ

足利荘(笑)
462日本@名無史さん:2013/06/06(木) 22:52:48.15
でさ、その広大な荘園では何が生産されてたのかな?
463日本@名無史さん:2013/06/06(木) 23:15:24.42
>>457
頼朝挙兵の頃母方の大軍勢に守られた足利義兼がいたんだろ?
で義兼はいち早く頼朝に合流した。
ということはその三河の大軍勢は頼朝・義兼の味方だよな。
その頼朝方の大軍勢が三河にいたのに「富士川の戦い」では平家は三河スルーで駿河に来たわけだ。
なんで?
464日本@名無史さん:2013/06/07(金) 01:20:24.00
桜田貞国って人はどうして新田の防ぎの大将に選ばれたの?
すごい人なの?
465日本@名無史さん:2013/06/07(金) 07:15:49.18
>>464
北条一門だし、名前に貞がつくから、高時の側近だったんじゃね?
466日本@名無史さん:2013/06/07(金) 08:44:59.39
鎌倉末期って、御家人(層)が窮乏してたんでしょ
対して北条は政権中枢を独占
(北条以外は、全国皆衰運?)

誰かが決起すれば(戦に勝てば)
世直し、不平等改正、将来への展望を賭けて
勝ち馬に乗ろうとするんじゃないの
467日本@名無史さん:2013/06/07(金) 21:11:29.86
>>466
大河ドラマ風に言えば

義貞(根津)「たった150騎でか?」
468日本@名無史さん:2013/06/07(金) 22:51:30.67
まあでも義貞出なかったら新田宗家潰れてたんじゃね?
469日本@名無史さん:2013/06/08(土) 11:47:53.28
>>463
範頼は、遠江の季範の弟が面倒をみていたがな
義兼は裸一貫で鎌倉に馳せ参じたんだろう、あくまでも範忠の娘の子供に過ぎないから

頼朝の挙兵の初期段階は、態度を保留していたのではないの?
その後、行家軍に加わって、愛智義成や加茂重長ら関係者の多くが戦士したわな

聞きたいが、自分が義兼になったつもりで、季範、義康、義国、由来御前が相次いで死んで、義朝暗殺、頼朝、範忠流刑で、母親と一緒に何処に身を隠す?
北関東か?w
470日本@名無史さん:2013/06/08(土) 12:57:26.46
>>465
義貞を甘く見たのかな。
471日本@名無史さん:2013/06/08(土) 12:58:41.55
西国の謀反を鎮圧するために幕府軍の大半は京周辺に送り込まれてて鎌倉はかなり手薄だった
472日本@名無史さん:2013/06/08(土) 15:31:04.99
幕府が整備した鎌倉街道が幕府の命取りになったな
義貞も街道がなければあれほど短期間に鎌倉まで攻めてこれなかっただろうに
473日本@名無史さん:2013/06/08(土) 17:42:55.24
鬼切はどんな由縁で、今は北野天満宮にあるの?
474日本@名無史さん:2013/06/08(土) 18:34:11.18
黒沼がこなかったら動かなかったのかな
475日本@名無史さん:2013/06/08(土) 19:13:26.74
>>469
義兼は八条院蔵人になってたよ。
母方祖母が美福門院女房上総だったから多分その縁。
義兼は義朝一族とは無縁で都で生活できていた。
義康が死んでたのが幸い。
母方祖父が流刑になっても大して影響なかったと思われる。(すぐ流刑解除されたし)

それと範頼が熱田大宮司に匿われてたというソースはなに?
藤原範季に養育されたと玉葉には記載されてるんだけど(範季は九条兼実の家人)それとの兼ね合いは?
476日本@名無史さん:2013/06/08(土) 19:34:59.80
>>475付記
平治の乱は院近臣などの公家の争いがメインで義朝は信頼に巻き込まれただけ。
「源氏」であるというだけで罰を受けるわけではない。
義朝とその子、義朝に同意した重成、平賀義信や行家あたりは身の危険が及ぶが
乱に関わらなかったものは源氏であろうがなかろうが何のおとがめもない。

父義康が死に、兄たちも幼かったから義兼一族は平治の乱とは無関係だった。

よって義兼は母と共に都または在地でだれ憚ることなく普通に生活してたと思われる。

範忠の流刑も時忠らによる憲仁親王(後の高倉天皇)擁立を警戒したとばっちり。
義兼が身を隠さなきゃならない程の事件でもない。
範忠流刑の後、弟の範雅が大宮司になってるから「熱田大宮司家」が家としての処罰を受けたわけではない。

成人後兄義清は上西門院と八条院に仕え、義兼も八条院に仕えた。
多分都をメインに生活してたと思われる。

問題は成人するまでの生活費だが、それはそれなりになんとかなったんじゃないのかな?
477日本@名無史さん:2013/06/08(土) 20:00:02.47
スレチだから他でやれよ
478日本@名無史さん:2013/06/08(土) 22:45:54.90
三河厨荒らすな
479日本@名無史さん:2013/06/09(日) 15:35:28.87
>>475
なったのは1170年代の後半だろ、1160年前後に後ろ楯が相次いでいなくなって、暢気に京で暮らしていたとは思えないな
つーか義重の庇護を受けに、北関東に移ったんじゃないのか?w
その後上京して八条院蔵人、北関東に戻って、頼朝挙兵時に不可解にも義兼だけが鎌倉に


猶子になったのが、養育したと言う意味だろう
寝る食うの実際の面倒をみたのは季範の弟らしいよ
その孫が、頼朝の寝室に忍びこんで捕まった当麻太郎
縁故者だから、薩摩に流刑の異例に大甘の処罰だったんだろう
480日本@名無史さん:2013/06/09(日) 15:44:00.74
>>476
あとからみれば、結果的にそうだわな
リアルタイムの当事者は、周辺環境の激変に遭遇している訳で
481日本@名無史さん:2013/06/09(日) 17:46:52.14
>>479
季範弟養育のソースは?
それと養育者がいた謀反人の子を何で院近臣が猶子にしたのかな?

>>480
義兼の後ろ楯がいなくなってったのは事実だけど
義兼と義朝一族は母方が同じ家、しかも義朝正室は既に死去。平治の時点じゃ外祖父範忠が実の甥を平家に差し出してる位だから
平治は義兼にとってなんの影響もない。
そもそも義朝や由良御前が義兼の後ろ楯と考えることじたいが?だよ。

義兼にとって影響が大きいのは憲仁親王擁立による範忠流刑だろうが
この事件も外祖父が起こしたことだから父系縁座に比べた影響はないに等しい。
ついでに言ってとくが、頼朝同母妹(姉)は1160年半ばに都で結婚してる。
義兼レベルが1160年代に都にいても何の問題もない。
482日本@名無史さん:2013/06/09(日) 17:49:10.14
>>481
×正室が同じ家
○正室が同じだけだという繋がりだけの家
483日本@名無史さん:2013/06/09(日) 18:16:05.39
>>479
>>440>>443によると義兼はずーっと三河にいたようなニュアンスだね。
で、八条院蔵人をしていたのになんで途中でわざわざ北関東に戻る?
484日本@名無史さん:2013/06/09(日) 18:34:05.29
>>480
義兼にとって環境激変と見ること自体が「源平史感で見た平治&熱田大宮司家」にとらわれた後世の見方そのものだな
485日本@名無史さん:2013/06/09(日) 19:43:13.35
>>468
当時新田はどこまで追い込まれてたんだろう?
486日本@名無史さん:2013/06/09(日) 19:56:00.35
>>485
金だけはあったみたいだけどね。

北条政権に変わってからどうして新田はずっと無位無官なんだろ。
源政権だったら無位無官は納得するんだけど北条なんて頼朝の意向なんて
関係ないでしょ?
487日本@名無史さん:2013/06/09(日) 20:18:51.83
考えてみれば北条が新田を冷遇する理由はないよな。
頼朝期に祥寿姫事件があったけど、新田側の処置で祥寿姫と頼朝が結ばれなかったから、政子は救われた。
政子の存在のおかげでのしあがった北条から見ればむしろ新田は恩人。
488日本@名無史さん:2013/06/09(日) 21:02:07.36
厚遇する理由も何もない。
489日本@名無史さん:2013/06/09(日) 21:49:28.25
ところで、北条時代の源氏の官位ってどんなもんだったんだろ?
御門葉扱いの足利、加賀美(小笠原)(山名ってどうだっけ?)とその他源氏(新田、武田、佐竹etc)
490日本@名無史さん:2013/06/09(日) 23:00:29.16
御門葉は初期のみ
以降は摂家将軍・皇族将軍や得宗との関係性重視
491日本@名無史さん:2013/06/09(日) 23:28:23.77
>>489
尊氏が従五位下治部大輔
義貞が無位無冠orz
492日本@名無史さん:2013/06/09(日) 23:34:47.93
新田って義貞を除けば初代以外はみんな無官。
二代目の新田義兼は蔵人、大炊助。従六位に相当するそうな。

仕事内容は宮中での給仕。配膳係って事。
493日本@名無史さん:2013/06/10(月) 00:09:43.72
>>491
時政だって頼朝在世中は無位無官だったんだから
494日本@名無史さん:2013/06/10(月) 00:39:21.14
>>492
義兼の蔵人ってよく誤解されるが、皇嘉門院の蔵人だからね。
崇徳の中宮の蔵人とは、零落者が身を寄せ合ったとしか言いようがないな。
495日本@名無史さん:2013/06/10(月) 01:32:24.58
しかし義貞のスゴイ所は

無官→従四位下

になってる所が凄いよね。
普通は
無官→従五位下スタートになるのに4階級飛び級スタート。

こんな例ってないんじゃないの?
496日本@名無史さん:2013/06/10(月) 03:59:37.09
いきなり従四位下?
497日本@名無史さん:2013/06/10(月) 06:13:16.23
従五位下スタートが普通って?
498日本@名無史さん:2013/06/10(月) 08:10:16.20
なんで義貞そんな高位もらったんだろ?
やっぱり鎌倉攻めの評価?
499日本@名無史さん:2013/06/10(月) 08:14:37.05
>>495-497
そういえば>>493北条時政って従五位下遠江守の前に何か任官してたっけ?
500日本@名無史さん:2013/06/10(月) 10:56:40.12
特宗家は新田軍と
和議を結んで生き残る
事は出来なかったの?
501日本@名無史さん:2013/06/10(月) 14:37:03.88
>>494
皇嘉門院、上西門院、八条院、何でもいいわ

皇嘉門院と言えば、矢田義清の名字の地と言える吉良荘矢田は、皇嘉門院領だったな
吉良荘は九条家領だったから

兵衛佐局は、三河の熱田大宮司出身説があるらしいな
頼之が讃岐守護になると、崇徳院を手厚く菩提したらしいが、三河繋がりか?w
もう一人の妾も三河権守の娘だし
502日本@名無史さん:2013/06/10(月) 15:16:24.17
>>481
熱田文書の異本だったけな、一次史料としては無価値か?w
実は当麻太郎が、頼朝従兄弟の子供だから流刑ですんだ推定は説得力はあるよな
東海にこれだけ縁者がいたワケだ

美濃
藤原憲実(季範兄弟)
藤原仲経(憲実の息)
二階堂行政(季範姉妹の息)

尾張
愛智義成(義円と熱田大宮司縁者の娘の息)

三河
三河佑範(季範の息)
粟田口長?(季範の息)
寛伝(範忠の息)
高橋惟康(季兼の妹の息、八条院領高橋荘荘官)
加茂(足助)重長(八条院領高橋新荘荘官)

遠江
藤原季成(季範兄弟)
源範頼


京いたかいなかったではなく、京を離れたを前提に、北関東いたか三河にいたかの話をしているんだよな

通説では、義清義兼は、義康が死んで義重の庇護を受け北関東で養育され、後に京に戻り蔵人になり、再び北関東に戻ると頼朝が挙兵し、鎌倉に馳せ参じた

色々不自然、頼朝の面倒を三河の熱田大宮司家がみたように、義清義兼の面倒も三河の熱田大宮司家がみたが自然
503日本@名無史さん:2013/06/10(月) 17:06:58.86
>>501
>>494の義兼は足利義兼のことじゃなく、新田義兼のことだからね。念の為。

>>502
一次史料として弱い云々より、どこ所収の熱田文書というような文書の出自がないと苦しいかな?
でもソース示してくれてありがとう。
504日本@名無史さん:2013/06/11(火) 13:09:53.99
由良御前は季範の兄の娘を幼女にした事になってんだよな
由良御前と範忠は血の繋がっていない兄弟姉妹
505日本@名無史さん:2013/06/11(火) 13:32:16.81
>>500
新田に和議をするメリットがなにもない。
現に戦後北条側に肩入れした人物が後醍醐暗殺計画したりしてるからな。
506日本@名無史さん:2013/06/11(火) 14:14:05.70
督促使殺害の一件を荒立てないで様子見すると言う手なら六波羅陥落まで抑えられた
ただ、それだと常陸小田氏などが蜂起に動き、北関東情勢が流動化する危険がある
幕府は@六波羅はしばらく陥落しない、A新田が反抗しても上野領内に立てこもるか信越方面に向かう
と言う前提条件で強硬派が主導したのじゃないか。

督促のやり方については反対意見があったと思う。
507日本@名無史さん:2013/06/11(火) 16:11:50.32
でも小手指ヶ原で決着つけようと幕府も新田とは言え総力を挙げて潰しに来てるんだから、多摩川で敗戦した時点で詰んでるよね。
東国の源氏が新田につくのを織り込み済みで大軍を出したけど、身内から反旗を翻すのがでるのは予定外だったんだろうね。
千寿王が逃げたのも予定外だし。
508日本@名無史さん:2013/06/11(火) 21:13:34.33
小手指の時点で有利な条件を提示していればなあ…
509日本@名無史さん:2013/06/11(火) 21:42:03.57
幕府的には新田の事件を奇貨として大軍を差し向けて一気に叩くことで、
坂東の足利与党へのけん制も狙ったのかな?新田が鎌倉に向かってくると予想したのかな。
510日本@名無史さん:2013/06/11(火) 22:14:33.02
いいやーあの新田が?っていう感じかもよ、まぁ、西の内乱で余裕はなかっただろうに。
東北のほうも内乱鎮圧に手間取って崩壊するまで続いてる。
511日本@名無史さん:2013/06/11(火) 23:38:10.19
高時が「源氏の宗家は足利ではなく新田です」と一言いえば
義貞も納得して鎌倉攻めを思いとどまっただろうに
512日本@名無史さん:2013/06/12(水) 00:06:10.34
それは無い。
鉾を収めたら、後から難癖つけられて潰されるから、背水の陣の思いで立ち上がったんだよ。
513日本@名無史さん:2013/06/12(水) 02:04:17.71
せめて名越勢を鎌倉に残しておけば、鎌倉で長期戦に持ち込めたかもしれない
六波羅は見捨てることになるが
514日本@名無史さん:2013/06/12(水) 06:11:02.39
>>511
今更?
515日本@名無史さん:2013/06/12(水) 06:12:36.30
長崎マゴシロウが一番駄目ね
516日本@名無史さん:2013/06/12(水) 13:12:51.97
当時、実は為朝の子孫と信じ込んでいたから、新田と連枝の意識はないわな
517日本@名無史さん:2013/06/12(水) 16:18:39.04
新田と足利が同時期に攻め挙がったって時点で談合ありでしょ。
新田家と足利家ってのがミソ。
518日本@名無史さん:2013/06/12(水) 16:46:47.31
>>516
それっと、難太平記でも書かれてるけど、そういう認識だったのか?
519日本@名無史さん:2013/06/12(水) 18:01:50.97
足利氏の祖を為朝に求めるの
単なる白付け臭いけどな。
520日本@名無史さん:2013/06/12(水) 20:23:34.89
事実がどうかはどーでもいいわな
当時、宗家以外にも一族が、そう思い込んでいた事実が重要
イマイチ新田に冷たい事や、足利荘に固執しない裏の理由だ
521日本@名無史さん:2013/06/12(水) 20:36:29.41
義貞は座して死すよりもという気概で倒幕に立ちあがった訳で。。。
石油禁輸された大ニッポン帝国が真珠湾奇襲したようなものだ罠。
しかし、義貞は成功し大ニッポン帝国は失敗し滅んだ。
運だわな。運。真珠湾に米空母がいなかった時点で大ニッポン帝国
の運命は決まっていた罠。後は消化試合してたようなもので。
522日本@名無史さん:2013/06/12(水) 22:33:59.72
運なのかたまたまなのか足利との談合があったのか。

新田じゃなくて他の御家人が同じ時期に鎌倉攻めを行なっていたら
どうなってたんだろうね。
新田だから成功したのかな?
523日本@名無史さん:2013/06/12(水) 23:09:41.49
>>520
斯波あたりが反抗的なのは、そこらへんの思い込み?もあったのかもしれない

ひょっとして尊氏なんかは為朝の子孫とか言い出して、九州勢をまとめたのかも
524日本@名無史さん:2013/06/12(水) 23:13:36.82
談合はあったと見る方が自然じゃない?
もし偶然なら日本史上TOP10にランクインする奇跡じゃないか。
525日本@名無史さん:2013/06/12(水) 23:18:35.57
鎌倉陥落の時は新田軍に
よる婦女子への乱暴狼藉
は有ったのかな?
Wikiにも記述が無いし。
526日本@名無史さん:2013/06/12(水) 23:57:51.42
あるわけないでしょ、元々自分達の祖先が開祖した土地なんだから…
527日本@名無史さん:2013/06/13(木) 14:01:04.95
想像すると
義兼が頼朝の従兄弟であるのは周知しているが、父系母系でも従兄弟ではない、何故だおかしいと言うワケだ
義兼の母親は範忠の実子だから、従兄弟の子になる
そこで、義兼の風貌から実は為朝の子で、頼朝従兄弟だという根拠のない話が、尊氏の年代には本当の話と信じられていたワケだな

仮に事実だとすると公暁の母親は、義兼姉妹の子供と言う事になる
黙っていて一族以外に知っている者は少ないの、黙っていての意味は、そーゆー事だ
528日本@名無史さん:2013/06/13(木) 16:39:50.17
>>520
尊氏の時代には本当の事だと信じられていたかどうかは分からない
為朝は「無双の弓矢の達者」と呼ばれた保元の乱の英雄であり
室町時代に沖縄で編纂された「おもろそうし」に取り上げられるほどの有名人
今川一門が弓矢の達人である為朝の末裔であると仮冒したものだろう
足利方の史料がないので足利尊氏がこれを肯定していたものか
今川家だけのものか分からない(「難太平記」だけにある)
ただし足利家系図ではこれを取ってなかったと思う
529日本@名無史さん:2013/06/13(木) 17:24:56.38
http://homepage1.nifty.com/sira/baisyouron/baisyou37.html
梅松論37


宰府に領地を寄進しようと、御文章の参考のために社家の古文書を召し出された中に、昔、鎮西八郎為朝の寄付の文書があったのを御覧になり、「当家の祖神」とまことに有り難く思し召して、御社頭に向かって合掌され、御敬神浅からず見えた。



>「当家の祖神」
530日本@名無史さん:2013/06/13(木) 17:45:50.68
>>525
そういう婦女暴行んなんて
戦場でありきたりの行為はわざわざ書かれないものだ

一般人が日記で「今日、私は朝にご飯食べて夜に寝た」なんてありふれた事をわざわざ書かないのと同じ事
531日本@名無史さん:2013/06/13(木) 18:35:07.99
>>530
木曽義仲の暴行は描かれているでしょ
ありきたりの事じゃなかったから描かれたんでしょうよ
532日本@名無史さん:2013/06/13(木) 20:27:54.71
義仲軍の略奪行為ってデマだったんでしょ?
でっちあげみたいな感じ。
それに略奪を行なったのは義仲軍ではなくて、義仲に帯同してきたほかの
武将の軍だったとなんかで見た。
533日本@名無史さん:2013/06/13(木) 21:20:25.22
義仲軍の悪行は南京大虐殺と被るな
つまり、捏造ということだ
534日本@名無史さん:2013/06/13(木) 22:12:20.97
略奪は新田を追い出して鎌倉に居座った足利党でしょ。
535日本@名無史さん:2013/06/13(木) 22:32:53.78
>>532
何で見たの?
「平家物語」では義仲軍。
536日本@名無史さん:2013/06/13(木) 23:03:08.15
なんで平家物語が出てくるw
あれは創作だろ
537日本@名無史さん:2013/06/13(木) 23:58:05.73
>>535
何で見たか忘れちゃった。でも確か義仲軍は混成軍で、義仲直属の兵は
奪略はやってないっていうのをどっかで見た。
平家物語の義仲の京都の振る舞いっていうのは後から書かれたもんでは
なかったっけ?
538日本@名無史さん:2013/06/14(金) 00:05:18.34
混成義仲軍も義仲直轄兵も京のらには『義仲の兵』には違いない訳で‥
539日本@名無史さん:2013/06/14(金) 00:18:22.20
頼朝軍が富士川での戦勝のまま、上洛したら似たようなことになったのかな
540日本@名無史さん:2013/06/14(金) 00:18:47.35
恨み重なる特宗家お膝元。激しい攻防戦ストレス蓄積防衛線を突破し阿鼻叫喚の鎌倉。想像するのも恐いw
541日本@名無史さん:2013/06/14(金) 00:30:11.66
>>538
そもそも都で義仲軍が暴れたって事実はない訳だが…。
542日本@名無史さん:2013/06/14(金) 04:07:00.60
当時、すべての軍が混成軍だろww
勝つと思う方に参陣する、ただそれだけ
美味い汁が吸えると思うから付いてくるわけで
結果として恩賞を与えられないと瓦解する
543日本@名無史さん:2013/06/14(金) 11:52:49.49
>>518
世にはばかって人に言わなかったと書いているので、系図に但し書きをしないわな
為朝は尾張に多少のゆかりがある、元々の出自は北関東ではなく、東海地方の意識が強かったんだろう
縁故者として、母方藤姓熱田大宮司家ゆかりの地である三河の守護になって領国にしただけでなく、一門の移住の形で三河に軸足を移したのもそーゆー事だ
544日本@名無史さん:2013/06/14(金) 12:05:13.13
尾張に多少のゆかり


・昔あった盗聴事件で有名な鬼頭判事の鬼頭姓は尾張姓で、為朝と妾の子である尾藤義次が祖

・闇之森八幡社、創建は長寛年間。源為朝が石清水八幡宮を勧請したと伝えられる。境内に為朝の甲冑を埋めたといわれる「鎧塚」がある
545日本@名無史さん:2013/06/14(金) 19:42:08.08
>>542
君は何を言ってるんだい?
当時全てが混成軍だからって知恵を自慢したいの?全く話の土俵違いなんだが。
混成軍だが義仲直属の軍勢は略奪は行なっておらずって言っただけだけど。
それを「いやいや、当時はみんな混成軍だから」って言われてもだから何?なんだけど。
546日本@名無史さん:2013/06/14(金) 22:50:34.91
>>545
横レスすまん。
あなたのいう直属とはどの範囲?
義仲軍の構成は
1 今井兼平などの極初期からの軍勢
2 比較的早く従った信濃、西上野の勢力
3 その他の信濃の豪族の配下
4 横田河原以降加わった勢力
5 倶利伽羅峠以降急遽従った北陸や坂東の豪族
6 義仲とほぼ同格で都入りに同行した行家、義広、安田義定、源光長、山本義経などの庶源氏武将とその配下。

どこまでが義仲直属軍と解釈する?
547日本@名無史さん:2013/06/14(金) 23:26:57.31
>>546
スレチ。他でやれ。
548日本@名無史さん:2013/06/15(土) 00:49:56.77
>>546

6以外でしょ。
549日本@名無史さん:2013/06/15(土) 09:42:20.82
>>546
どのみち朝廷は平氏同様義仲にも京の治安、できれば荘園の未進も解決して欲しかっただろうが
それができずその挽回のための平氏追討も水島の敗戦で権威も基盤も築けなければ
滅ぶしかないわな。
550日本@名無史さん:2013/06/15(土) 18:02:40.88
一ノ谷へ向かう追討軍は源氏方1(一、二千余騎・・・『玉葉』)に対して、平家方は10(数万、二万余騎・・・『玉葉』)。
その時の寿永三年の関東は関東飢饉という状況で兵糧調達困難により兵が不足していた。
おまけに地の利、城郭戦という有利な状況があったのにも関わらず、平家は惨敗を喫した。
結局平家の敗因は単に弱いから。
いくら兵力差があったといっても水鳥の羽音(『山槐記』)で逃げ出すとか兵失格だしw
九州でも上陸できずに鎮西武士にシッ、シッと軽くあしらわれた。
すぐに敵前逃亡するわで、やる気なさすぎw

『山槐記』・・・宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走www
『吉記』・・・於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了www
『吾妻鏡』・・・所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒www
『愚管抄』・・・宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwww
551日本@名無史さん:2013/06/15(土) 19:59:34.91
なんで義貞って生きてるうちにもっと上の官職もらえなかったの?
552日本@名無史さん:2013/06/15(土) 21:48:25.18
官職より打倒高時かとおもえば、次は足利といって官職どころじゃなかったのでは。
553日本@名無史さん:2013/06/15(土) 23:37:36.28
後醍醐とも仲悪かったからじゃね?
554日本@名無史さん:2013/06/15(土) 23:50:01.32
そもそも織田の全軍相手にして問題ないなら、浅倉の撤退にヒス起こす必要もないしね。
555日本@名無史さん:2013/06/15(土) 23:50:34.90
すまん、誤爆
556日本@名無史さん:2013/06/16(日) 00:28:33.95
後醍醐朝廷によって、護良×足利の次段階として、新田×足利の構図を仕立てあげられた
武家は官職を上げ過ぎると増長するから、足利と戦い得る最低限の官職しか与えられなかった
20年生き続けていたとしても、中将から大将へ昇進しただろうか?
557日本@名無史さん:2013/06/16(日) 00:30:03.25
金ヶ崎での苦闘も宮方の分裂が一因だよね
後醍醐は貴重な有力武将を粗末にしすぎ
558日本@名無史さん:2013/06/16(日) 01:17:14.93
>>556
右大将だと頼朝=幕府を連想するからやらなかったんじゃ?

駿河の合戦や湊川で尊氏が死んでたら義貞はどういう末路を辿ったんだろうか?

@後醍醐のパシリのまま
A後醍醐から離れ尊氏の代わりに次代の覇者を目指す。

この当時の尊氏の代わりの武家の棟梁って誰かいる?
やっぱ直義か義詮?
559日本@名無史さん:2013/06/16(日) 01:24:17.88
>>558
早期に尊氏が死んだら直冬でしょ。

義貞に征夷大将軍を任命しちゃえば良かったんじゃないの?
560日本@名無史さん:2013/06/16(日) 01:28:10.49
義貞に征夷大将軍はないでしょ?
義貞勘違いして幕府開くかもよ?
この当時は征夷大将軍=幕府の認識だったんだっけ?
尊氏が後醍醐に征夷大将軍を請うたが拒絶されたって話が
561日本@名無史さん:2013/06/16(日) 01:31:33.56
ちなみに直冬はないと思う。
尊氏は今でいう認知してなかったんでしょ?
義詮や正室も黙ってないだろうし。
562日本@名無史さん:2013/06/16(日) 02:44:07.96
いやいや、直冬が黙ってないでしょって事よ。
軍事行動なら義詮より直冬の方が素質あったしね。
あくまで早期に死んだって事前提だよ。
563日本@名無史さん:2013/06/16(日) 10:04:21.17
母親の身分が義詮と直冬では違いすぎて勝負にならんよ。
個人の資質よりも血筋が物を言う時代なんだから。
実際直冬が九州や中国でやったことは軍勢催促状や所領安堵
を発行したのが主で、それこそが求められた事なんだから。

直冬(あるいはその孫の義尊)の人生は九州の少弐や中国の山名のような幕府中枢に反抗した
連中の旗としての役割しかないよ。両方からいらなくなればポイされたこと
からもわかる。大覚寺、持明院の両統並立とは比べ物にならない。
564日本@名無史さん:2013/06/16(日) 16:01:32.41
安達氏(小野田氏)


■三河国小野田荘

平安末期〜室町期に見える荘園名。
寿永3年4月24日の源頼朝下文案に賀茂別雷神社領の荘園として「参河国 小野田庄」とある(賀茂別雷神社文書/平遺4155)。
その後,文治2年10月1日にも頼朝が同社に当荘を安堵した


■小野田盛長(安達盛長)

吉田神社の社殿を造営、天王社勧請


■東観音寺(三河湖渥美郡小松原)

東観音寺所蔵の金銅馬頭観音御正体は、直径34.3cmの円形の光背に約27cmの金銅製半肉彫の馬頭観音坐像を浮き出させたもので、
篭字(二重書きの文字)で彫刻された銘があり、文永8年(1271)に地頭であった安達泰盛によって寄進されたことが記されている


■三河小笠原氏

霜月騒動に安達氏与党として討滅されたものは、安達氏一族とその分流大曽祢一族、泰盛の母の実家にあたる小笠原惣領伴野出羽守長泰一族
長泰の子泰房は、安達氏の旧領三河国小野田荘に逃れて、その地に住んで三河小笠原氏の祖になった
565日本@名無史さん:2013/06/16(日) 16:36:56.19
三河厨 しつこい
566日本@名無史さん:2013/06/16(日) 19:19:57.32
伊勢氏(初代伊勢氏・藤原俊継)

活動を記録した最古・唯一の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(愛知県岡崎市・豊田市)で活動


■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶
・滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去

■藤原俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去

■円辰(****〜****):初代伊勢氏・藤原俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋

■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・藤原俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去
567日本@名無史さん:2013/06/16(日) 19:22:36.21
■蜷川氏

元は物部氏の流れを汲むとされる宮道氏
蜷川氏は、越中国新川郡蜷川郷から発祥した。すなわち宮道式俊・親直父子は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに参じて功があり、越中国砺波・新川の両郡を領した。
室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて3代目の蜷川親当の頃より政所代を世襲することとなった
蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗っており、蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ『一休さん』(1970年-1982年)に足利義満の側近で寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場する


■宮道氏

饒速日命を祖とする物部守屋の後裔(物部氏より分かれる)と称する。ほかに日本武尊系宮道氏
発祥地は三河国宝飯郡宮道郷(現在の愛知県豊川市)と推定される。


■宮道天神社(愛知県豊川市)

源頼朝は上洛の折、小野田盛長(安達盛長)に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納
568日本@名無史さん:2013/06/16(日) 19:53:34.99
三河厨は自分でスレ立てて、そこでやってろや
569日本@名無史さん:2013/06/16(日) 20:26:02.55
直冬っていつから足利政権に足を踏み入れてきたの?
570日本@名無史さん:2013/06/16(日) 20:28:37.15
■上杉氏

上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、
足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か



■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)

鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
571日本@名無史さん:2013/06/16(日) 21:44:09.56
三河厨は相手にしてはならない
スルーが一番
572日本@名無史さん:2013/06/16(日) 23:26:35.81
義詮じゃ若すぎないか?まだ6歳とか7歳でしょ?
573日本@名無史さん:2013/06/16(日) 23:42:40.81
北畠顕家-従二位権中納言
新田義貞-正四位下左近衛中将

うーん…
574日本@名無史さん:2013/06/17(月) 00:08:49.28
>>572
若さは関係ない。

若年でも鎌倉に君臨している。
575日本@名無史さん:2013/06/17(月) 00:12:02.22
義詮も死んだら直冬さん。
576日本@名無史さん:2013/06/17(月) 08:43:21.15
義詮死んだら光王(基氏)

直冬は無理だって
577日本@名無史さん:2013/06/17(月) 18:04:29.69
東三河人の捏造!!!穂の国はインキチ!!
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1331347987/l50
578日本@名無史さん:2013/06/18(火) 01:57:36.69
美川厨は名古屋嫌いの土人だろ
579日本@名無史さん:2013/06/18(火) 20:49:41.97
>>574
新田義貞もあとあとのこと考えたらあそこで千寿王を助けなかったら
良かったのかもしれないw
登子は千寿王がいなくても一人で鎌倉を脱出して尊氏のもとへ辿りつけたかね?
580日本@名無史さん:2013/06/18(火) 21:40:27.98
新田が助けたか、岩松が助けたか
581日本@名無史さん:2013/06/18(火) 21:43:22.97
無理なんじゃね
582日本@名無史さん:2013/06/18(火) 22:15:08.08
もし登子が死んでたら、
義詮と直冬はいい勝負したかも?
583日本@名無史さん:2013/06/18(火) 22:43:49.72
>>582
母親本人あるいはその実家に力がないことにおいてはどっちもどっちだよ。
まだ祖母の上杉清子の方が力があっただろう。

母親が北条じゃない尊氏は同じく母親が北条じゃないために霜月騒動の余波で自刃する羽目になった
家時のことを考えると血筋の微賎な直冬への冷遇も仕方がないだろう。
584日本@名無史さん:2013/06/19(水) 08:51:32.71
尊氏が死んで義あきらも死んだら直義になるんじゃ?
585日本@名無史さん:2013/06/19(水) 09:13:17.94
>>583
母親が北条でない尊氏が北条を敵視して滅ぼして
その上でまだ北条出身の妻を主家の女としていただく意味はまったくないが

北条のおかんむりにあって切腹した家時の時と違い北条は滅んだんだから
586日本@名無史さん:2013/06/19(水) 12:55:22.17
実家が滅びている点が都合よかったんじゃないか
鎌倉の源氏将軍の二の舞は踏みたくなかっただろうし
587日本@名無史さん:2013/06/19(水) 14:22:27.74
>>586
だったら母親の実家に権力がない直冬でよかったんでは?
588日本@名無史さん:2013/06/19(水) 18:44:20.50
千寿王は名目とは言え鎌倉攻めの総大将だったからだろ
なぜ総大将になれたかと言えば名門足利家の嫡男だったから
なぜ嫡男だったかと言えば正室の子だったから
589日本@名無史さん:2013/06/19(水) 19:09:45.97
>>588
足利っていうほど名門じゃないよな(都の公家は御家人出身の下賤者という判断)
「足利さまのお通りじゃ!」というと東国武士がすぐ招集できるほどだったの?
だったら後醍醐天皇の看板使わなくても新田の力借りなくても
尊氏が単独で北条を滅ぼしてるんじゃね?
590日本@名無史さん:2013/06/19(水) 19:25:50.42
腐敗した北条とズブズブで御家人ナンバー2の足利が反旗を翻して動揺してたら、冷や飯喰わされてた新田が挙兵したと聞いて、世の趨勢に乗り遅れるなとばかりに、飛び乗ったんだろうね
591日本@名無史さん:2013/06/19(水) 19:49:59.19
>>589
綸旨って知らないの?
592日本@名無史さん:2013/06/19(水) 20:10:14.36
公家と比べたら格段に落ちるけど
鎌倉幕府の中では名門だろw
得宗家やその支流から何代にもわたって正室を迎えている家柄だよ
593日本@名無史さん:2013/06/19(水) 20:56:42.42
>>592
足利が名門たるゆえんは北条氏の濃い血族であるせいなのに
その本家本元の北条氏に弓引くいてるんだよ?
594日本@名無史さん:2013/06/19(水) 20:57:33.93
>>591
綸旨を貰えばだれでも鎌倉幕府を滅ぼせるなら
何も足利でなくてもよかったわけだろw
新田義貞は千寿王など戴かなくても鎌倉攻めに成功してた
595日本@名無史さん:2013/06/19(水) 21:13:18.27
新田単独では無理だな
596日本@名無史さん:2013/06/19(水) 21:41:36.40
足利が名門たるゆえんは北条家の親戚だからってだけじゃなく
初代頼朝の親戚でもあるからだろ
597日本@名無史さん:2013/06/19(水) 22:07:30.44
西国に主力の大半を送り込んでいて鎌倉は手薄だったらしいけど
598日本@名無史さん:2013/06/19(水) 22:12:37.11
>>596
北条からみれば、都から来た鎌倉殿を担ぐ一方で、足利は敵も少なく、源氏の血胤を身内に取り込んで手懐けるのに手頃だった
599日本@名無史さん:2013/06/19(水) 23:04:37.70
逆だろ?恥を忍んで足利から北条に取り入った。
その良い例が斯波初代の問題。
変なプライドあったら速効新田と同列だわ
600日本@名無史さん:2013/06/19(水) 23:53:38.01
>>587
実家が滅びて無くなってるのと、実家に権力がないのは違うよ
北条だって最初はど田舎の弱小豪族だったのが、将軍正室を足がかりにあれだけの力を持つに至った
そんな例を間近で体験してきた足利が跡継ぎの母方を警戒するのはありえそうな話では?
601日本@名無史さん:2013/06/20(木) 00:10:06.93
赤橋登子の実家は北条氏一族では得宗家に次ぐ高い家格で血筋は申し分ない
普通ならこういうところは嫁ぎ先への干渉が激しいんだけど、都合のいい事にきれいさっぱり滅んでる
つまり箔もあり、係累に乗っ取られる可能性も0の優良物件
602日本@名無史さん:2013/06/20(木) 00:13:27.98
>>594
お前頭悪いだろ?>>589で足利の事言ってたから、足利が立つには綸旨という
後ろ盾、後押しが必要だったってことだよ。
なんで他の御家人の話にしようとしてるの?
603日本@名無史さん:2013/06/20(木) 00:17:36.40
>>599
新田が北条氏の代になっても冷遇される理由がないのだが。
604日本@名無史さん:2013/06/20(木) 00:47:55.21
厚遇される理由こそない
605日本@名無史さん:2013/06/20(木) 00:59:59.22
特に冷遇も厚遇もすることなく現状維持してたら無位無官になってたんじゃ…
606日本@名無史さん:2013/06/20(木) 01:17:21.60
無位無官は普通
607日本@名無史さん:2013/06/20(木) 01:38:47.66
新田で150騎集まったって事が奇跡。
608日本@名無史さん:2013/06/20(木) 07:07:01.45
新田政義の失策のせい。
609日本@名無史さん:2013/06/20(木) 08:36:49.06
>>602
頭悪いのはお前
足利は家伝によれば祖父の代から幕府転覆を狙ってた
綸旨がでなけりゃ北条に勝てない
それも足利単独では無理なんだから
やっぱり足利はすごくない
610日本@名無史さん:2013/06/20(木) 17:35:28.68
>>609
日本史ではコトを起こすには大義名分というのが必要でだな
611日本@名無史さん:2013/06/20(木) 18:12:06.09
後醍醐は笠置退避で綸旨をばらまいたがろくに味方が集まらなかった。
同様に護良も令旨を出しまくったが自分で戦場に立って負傷するぐらい味方が少なかった。
それが急転して六波羅を陥落させたのは尊氏が後醍醐の方に立ち御教書を出したからだよ。
その時点で楠木は天王寺近辺でゲリラ戦で凌ぐ状態で赤松は四国から来た河野通盛に敗れ
後醍醐の形勢は悪くなりつつあった。
この効果は地方でもてきめんで九州では後醍醐側に立った菊池をリンチにした少弐や大友たちが
博多の探題を数で圧倒して滅ぼしている。
612日本@名無史さん:2013/06/20(木) 19:55:16.52
>>609
うん?だから足利単独では動けないから綸旨が必要だったっていう話を
してるんだけど?お前と言ってる事同じやん。
613日本@名無史さん:2013/06/20(木) 21:29:56.85
完全勝ち組の聖なる地三河国の吉良荘ゆかりの土佐吉良氏かい?w
蒲冠者のあとが希望なら、足利王国は出来ないだろうがw
614日本@名無史さん:2013/06/20(木) 22:59:25.25
新田王国はないのかい?
615日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:43:10.04
>>612
だから綸旨なんか必要なかったと言ってるじゃん
必要だったのは新田だけだよ
616日本@名無史さん:2013/06/21(金) 00:37:13.68
綸旨がでなけりゃ北条に勝てない
それも足利単独では無理なんだから
やっぱり足利はすごくない


単独では無理で後ろ盾が必要って話でしょ?
何を言ってるんだろう。
617日本@名無史さん:2013/06/21(金) 01:32:33.07
>>616
足利単独では無理だから綸旨を必要としなかったと言いたいんだろ?
お前頭大丈夫?
新田が綸旨をもらえば済む話じゃん。
618日本@名無史さん:2013/06/21(金) 01:56:03.03
話が噛みあってなさ過ぎw
619日本@名無史さん:2013/06/21(金) 02:47:27.23
綸旨もらっても有効に使えるかどうかの差はあるわな
620日本@名無史さん:2013/06/21(金) 11:03:40.52
綸旨万能主義の後醍醐帝が降臨されましたw
621日本@名無史さん:2013/06/21(金) 20:30:23.68
足利が動くには綸旨という錦の旗が必要なわけ。
戦後処理の事も考えれば当然。
足利の世を作ろうってんじゃなくて北条を倒すってことだけで動いたからね。
622日本@名無史さん:2013/06/21(金) 20:43:32.20
へえ
623日本@名無史さん:2013/06/21(金) 22:44:46.41
そういや後醍醐から離れた後に光厳帝から綸旨と錦の御旗もらったのは日本史上大事件だよな。ついに日輪分裂
624日本@名無史さん:2013/06/22(土) 00:23:30.74
光厳天皇って勝手に立てられたんじゃないっけ?
625日本@名無史さん:2013/06/22(土) 00:29:50.90
これほど長く激しく対立したことは無かったからね
足利にしてみれば朝敵から一転、大覚寺統と持明院統の皇統争いに置き換わったし
この策を出した人は相当優秀だよ
626日本@名無史さん:2013/06/22(土) 00:33:39.73
>>624
新田追討の院宣を出してるしけっこうノリノリだったんじゃない?
後醍醐のもとでは未来が無いわけだし
627日本@名無史さん:2013/06/22(土) 06:08:24.25
この策を出した人=赤松円心
628日本@名無史さん:2013/06/22(土) 07:40:25.99
朝敵でも十分人は集まったけどね
629日本@名無史さん:2013/06/22(土) 10:03:25.65
関東を抑えるだけならそれでいいのだが京都周辺を抑えるには
南都北嶺とその系列の寺社や5摂家以下の公卿を見方にしないといけず、
それには院を味方にして朝廷を形成しないといけないからな。
630日本@名無史さん:2013/06/22(土) 11:24:21.88
>>628
だれがまとめ役やるのか指定したらんと集まったはいいが内紛起こしちゃう
631日本@名無史さん:2013/06/22(土) 22:46:17.47
そりゃあ武士共はごく一部を除いて建武新政にうんざりしてたからな。武家の棟梁に人が集まるのは必然
632日本@名無史さん:2013/06/22(土) 23:09:15.35
ごく一部を除いて大部分の武士は父祖代々の所領を公家とかにとられてるから
633日本@名無史さん:2013/06/23(日) 02:23:14.93
義貞って直江うんちゃらより義の武将じゃない?
634日本@名無史さん:2013/06/23(日) 02:32:03.86
名前がな
635日本@名無史さん:2013/06/23(日) 09:24:18.40
名前が義の武将…なら史上腐るほどいるなw
636日本@名無史さん:2013/06/23(日) 14:32:25.02
よりにもよって河内源氏に集中してるのがねw
637日本@名無史さん:2013/06/23(日) 15:20:57.82
河内源氏って義から一番かけ離れてるよな
638日本@名無史さん:2013/06/23(日) 16:13:32.37
直江は最近では愛の武将らしいが
639日本@名無史さん:2013/06/23(日) 19:03:33.91
直江も政宗に負けず劣らずの極悪人だよな
640日本@名無史さん:2013/06/23(日) 19:40:04.03
忠義を貫き通したのは新田。
新田イラネと言ったのは足利、楠木。
北畠はよく分からん。
641日本@名無史さん:2013/06/23(日) 20:55:19.94
歴代天皇で諱に「義」が付くのは後村上だけか
642日本@名無史さん:2013/06/23(日) 22:41:01.57
>>640
新田も後醍醐と喧嘩別れしてるじゃん
643日本@名無史さん:2013/06/24(月) 01:30:11.76
>>636 637
「義」の始まり
源頼義からして極悪人だからな
644日本@名無史さん:2013/06/24(月) 05:48:34.16
忠臣って脇屋よしすけみたいな人の事を言うんじゃ?
兄弟仲良しって
新田義貞−脇屋義助
豊臣秀吉−豊臣秀長
楠木正成−楠木正季

あと誰かいる?
645日本@名無史さん:2013/06/24(月) 07:17:00.69
徳川慶喜ー徳川昭武
646日本@名無史さん:2013/06/24(月) 10:26:39.72
>>642
喧嘩別れしてないじゃんw
結局後醍醐の皇子2人連れて越前まで逃げてるし
647日本@名無史さん:2013/06/24(月) 11:43:04.55
>>646
正確には義貞一門がな。叡山から京に帰って尊氏と和睦しようとした
後醍醐に怒りを爆発させた件ね。義貞と一緒に北上した恒良親王が
そこで綸旨を発行していることからも義貞一門をなだめるための
手打ちによる譲位が行われたという想像は十分に成り立つと思う。
648日本@名無史さん:2013/06/24(月) 15:30:57.46
>>647
後醍醐が新田を見捨てて足利と和睦しようとしたので
それならばいっそここで新田一門を切り捨ててから比叡山を降り
足利と和睦なされよと迫っただけのことでしょう。
結局、後醍醐は新田の忠義を認め、阿野廉子との皇子で東宮であった
恒良親王を新田義貞に託した。
新田は後醍醐を裏切ったことはないし、後醍醐もまた新田と喧嘩別れした覚えはない。
649日本@名無史さん:2013/06/24(月) 15:51:47.78
てか俺もキレるわ。
散々後醍醐天皇の言うとおり動いて、戦略も公家の言うとおりに動いてたのに、いきなり新田は切りましょうとか言われたら
「え、なんでよ」
と思うわ。
つうか新田は何のために足利と戦ってたんだろ。足利倒したら何をしたかったんだろうか…
幕府なんか後醍醐派にいたんでは開けるわけないし。本当にただ後醍醐天皇の為だけに動いてたんかな。それなら立派な義の武将だよね、素質云々は抜きにして。
650日本@名無史さん:2013/06/24(月) 16:25:45.60
>>649
新田が征夷大将軍を求めた史料があるの?
少なくとも新田は建武の親政に協力していたでしょう。
武力を持たない後醍醐が足利の武力に屈しそうになったので
腹をお決めくださいといった程度で。
結局後醍醐は足利に屈服せず、吉野へ脱出した。
651日本@名無史さん:2013/06/24(月) 16:38:14.57
?俺は一言も義貞が幕府を開こうとは言ってないよ。
新田はただただ後醍醐ラブで従ってたのかな?って聞いただけ。
北畠は公家だし、楠木は悪党から取り上げられてくれたからついて行く理由は分かるんだが。
新田と足利が元々仲悪くてとか?
652日本@名無史さん:2013/06/24(月) 17:03:34.35
>>651
後の歴史を知っているから、武家源氏は全員朝廷からの独立を願っていた、
幕府設立を願っていたという考え方があるけど、そうでもない。
岡野友彦氏の征夷大将軍に関する研究があるんだが、
当時、征夷大将軍と言えば親王が任じられるものだった(80年間親王将軍)。
朝廷との関係は非常に密で、足利や新田のような坂東の御家人如きが任じられる地位では本来なかった。
ちなみに当時親王同等だった征夷大将軍に就任した足利尊氏は、この地位を正当化するため、
配下の武将たちに足利を讃える本を必死に書かせている(「難太平記」「武威集」など)。
(尊氏はまさに頼朝の再来そのものだの、頼朝と比べて尊氏に血筋の劣りは一点もないなど)

新田は北条亡きあとの日本の君主として後醍醐を選んだ、で間違ってないと思うが。
新田庄の被官だった頃後比べれば、新田は相当官位も引き上げられている。
653日本@名無史さん:2013/06/24(月) 18:09:07.39
>>652
新田本宗家は御家人であって、被官ではない
無位無官には違いないが
654日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:00:49.13
比叡山下山のときの一件はクーデタ的要素はあったと思うけどね。

それにしても、フィクションとは言え「太平記」で後醍醐に死に際に
「義貞、義助の忠功を賞して、子孫に不義の行ひがなかつたならば、股肱の臣として天下を鎮めるであらう」
と語らせるほどの信頼はあったんだろうな。
655日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:37:05.97
>>652
難太平記は今川了俊の記録に残らない武士たちの活躍を載せるのが本意で
義満へ恨み満載の了俊にそういうことをする動機がないだろう。源威集は
作者の足利シンパの結城直光の関東で足利に反抗する勢力への自己正当化を
アピールするための著書でしょ。

>>653
ただ当事義貞は御内人の安藤蓮聖の娘を妻にしていたように得宗へ従属しつつあったけどな。

このような状態が続けば、北条一門でも没落して得宗の被官になったものがあったように
得宗の所領の地頭職に成り下がっただろう。それが後醍醐のおかげで上野、越後、播磨などを
もらえたのだから後醍醐に味方し続けるだろう。
656日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:05:35.70
>>649
>つうか新田は何のために足利と戦ってたんだろ。足利倒したら何をしたかったんだろうか…

足利牽制の切札として後醍醐に引き立てられた為に足利にA級戦犯指名されて、後醍醐の手駒としてこき使われるしか道がなくなったから。
657日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:35:59.05
後醍醐が死んでからの新田氏はまるで反乱軍のような扱いだよね。
658日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:51:47.44
千葉氏のような同族争いを抱えてる武士団は別にして
佐々木・宇都宮などの名門の大武士団は、足利氏には一目置くが
新田や楠木みたいな雑魚の命令なんか聞けるか。馬鹿野郎!!!
みたいな鎌倉幕府時代からの家格意識が強く残っていたんだろうね。
659日本@名無史さん:2013/06/24(月) 23:01:50.61
>北条一門でも没落して得宗の被官になったものがあった

それってホント?
660日本@名無史さん:2013/06/24(月) 23:19:37.82
とりあえずさ、

後醍醐って存在がすごい迷惑だよね。
この人いなかったらもうちょっと何事も穏便に事が進んでいたようでならない。
661日本@名無史さん:2013/06/24(月) 23:53:16.39
北条の世の中だと何が駄目だったのかね?
662日本@名無史さん:2013/06/25(火) 00:04:57.98
高時が優秀だったらずっと続いたかも
663日本@名無史さん:2013/06/25(火) 00:07:16.65
>>660
まったくだ
後醍醐が即位してしまったのがすべての始まりだよね
664日本@名無史さん:2013/06/25(火) 00:15:53.21
>>663
それって鎌倉幕府の責任でしょ
665日本@名無史さん:2013/06/25(火) 00:23:33.99
中継ぎがこんなにしぶとく頑張るのはさすがに予想外だろ
島流しにしても泳いで参るし
666日本@名無史さん:2013/06/25(火) 14:10:38.24
穏便というか当事の日本は東北の安藤氏の内紛や
峯相記からわかる播磨の悪党による無政府状態など
物騒極まりない世相だけどね。
667日本@名無史さん:2013/06/25(火) 22:34:28.42
>>666
南北朝の動乱に比べたら、一地方レベルに止まってるだけかわいいレベルだと思う
668日本@名無史さん:2013/06/25(火) 23:19:15.68
結局あれか、新田足利が両立することは不可能なのか?どちらかが隷属または滅亡しか選択肢はないのかっ?
669日本@名無史さん:2013/06/25(火) 23:55:22.17
三河に領地があった(植民地)の考えが間違い

タカちゃんの頭の中は、俺っちの先祖は
・源義家(郎党12は三河国の国人)→源為義(母は三河守源隆長の娘か?)→源為朝→足利義兼
・藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者)→娘→足利義兼

鎌倉殿と父方母方で従兄弟
・源義家(郎党12は三河国の国人)→源為義(母は三河守源隆長の娘か?)→源義朝→源頼朝
・藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者)→娘→源頼朝
元々、今の愛知県出身じゃん、親戚いっぱいいるし、養子で入った足利に、苗字の地以外に愛着ないわwつーワケだ

親戚いっぱいいるの具体例
父方
・源義家→源為義→源為朝→娘(三河国、足助重長室)→娘→公暁
・源義家→源為義→源為朝→尾頭義次(鬼頭義次)
・源義家→源為義→源義朝→義円→愛智義成(母方が三河の藤姓熱田大宮司家)
・源義家→源為義→源義朝→源範頼(三河守、参州)→源範円(三河国、正法寺僧侶)
・源義家→源為義→源行家(三河国、五井城主)→西乗→中野為貞
・源義家→源為義→鳥居禅尼→行快(22代熊野別当、三河国蒲形荘竹谷荘地頭)
・源義家→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏(三河国、初代鳥居氏)

母方
・藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者)→藤原範忠→藤原忠季
・藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者)→藤原範忠→藤原能季(相模守)
・藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者)→藤原範忠→寛伝(日光山満願寺第19代座主 三河国滝山寺僧侶)
・藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者)→藤原範忠→野田清季(三河国設楽郡野田、野田城主)
・藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者)→藤原範信(初代星野氏、上西門院蔵人)→星野範清(三河国宝飯郡星野、頼朝右大将拝賀の先駆)
・藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者)→藤原範信(初代星野氏、上西門院蔵人、)→藤原憲朝(八条院蔵人、駿河守(源広綱の後釜)、尾張国海東郡地頭)
・藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者)→藤原範信(初代星野氏、上西門院蔵人、)→藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者)→三河祐範→仁憲(三河国、滝山寺僧侶)
670日本@名無史さん:2013/06/26(水) 00:28:32.05
>>668
足利と新田は別にはじめから仲が悪いわけじゃなかったんだよね
仲悪かったら連携取ろうなんて考えないはずだし
671日本@名無史さん:2013/06/26(水) 00:30:37.34
岩松義純が畠山義純になったあたりが不幸の始まり
672日本@名無史さん:2013/06/26(水) 01:22:40.32
>>670
鎌倉時代末期では新田は足利の事をどう思ってたか知らないが
足利は新田なんか眼中になかっただろう。
673日本@名無史さん:2013/06/26(水) 01:36:15.48
>>672
眼中にあったから千寿王を足利荘に退避させたんだろう。
岩松を抑えてるとはいえ、新田一族が黙許してくれなければ攻め潰されるのだから。
674日本@名無史さん:2013/06/26(水) 01:44:10.29
了俊に百姓のごとくと馬鹿にされていた
675日本@名無史さん:2013/06/26(水) 11:58:04.40
新田とすれば千寿王を保護したって事で恩を売ろうとしたのかね
676日本@名無史さん:2013/06/26(水) 12:01:17.73
そうだろうね。
けど千寿王が大人気で焦る義貞
677日本@名無史さん:2013/07/03(水) 00:57:23.65
ブランド力って重要だよね
678日本@名無史さん:2013/07/04(木) 12:08:08.59
7/04(5月22日) 北条一門東勝寺で自害

合掌
しかし裏切り者は1人も出なかった
679日本@名無史さん:2013/07/08(月) 01:48:04.25
三浦は裏切りました
680日本@名無史さん:2013/07/08(月) 15:53:52.77
で時行の乱でまた寝返って
681日本@名無史さん:2013/07/09(火) 10:40:43.75
尊氏にボコられると
682日本@名無史さん:2013/07/10(水) 02:06:32.41
超仲が良かった弟と喧嘩おっぱじめた尊氏さん
超仲が悪い弟とも何とかうまくやってた北条氏一門
683日本@名無史さん:2013/07/10(水) 02:31:19.35
高氏と直義の衝突は将軍権力を二等分したからじゃね?
泰時と朝時の場合も朝時が連署になっていたら天下を二分するような激突したかも
684日本@名無史さん:2013/07/10(水) 11:41:41.29
叔父と甥は敵
この河内源氏にとってとても当たり前な関係を回避しようとしただけだよ尊氏は
685日本@名無史さん:2013/07/10(水) 14:16:25.32
親子兄弟も敵だけどね
つまり尊氏の実子かつ甥の直冬はパーフェクトですな
686日本@名無史さん:2013/07/10(水) 22:12:23.50
直義と尊氏も何か配下のせいで仕方なくって感じで対立したような…
義貞と義助は喧嘩せずだったね。
687日本@名無史さん:2013/07/10(水) 22:25:34.53
尊氏は直義に政治を任せたがこれに不満を持つ派閥が尊氏を持ち上げ争わせた。
尊氏は不本意だったんじゃないかなと思う。
内乱が全国規模になってやむなく弟殺害。
しかし手を打つのが遅すぎやしないか
688日本@名無史さん:2013/07/10(水) 23:02:34.79
源氏幕府が実質的に3代で終わり、北条氏が執権で牛耳る体制だったから不平不満が有った
689日本@名無史さん:2013/07/10(水) 23:28:02.75
しかし凄い時代だよね。
義貞の陪臣堀口が天皇に勝手に会えちゃう時代なんだから。
690日本@名無史さん:2013/07/10(水) 23:45:07.42
平和な時代だと絶対ありえないよな
691日本@名無史さん:2013/07/11(木) 00:55:34.59
今の世の中で南北朝に分かれたらどうなるだろう。
692日本@名無史さん:2013/07/11(木) 02:06:57.55
>>691
外国が南北双方を支援してカンボジアのように泥沼化
693日本@名無史さん:2013/07/11(木) 05:36:53.16
美濃国司だけどな
694日本@名無史さん:2013/07/11(木) 16:08:58.84
>永仁5年(1297年)、堀口貞義(従四位下美濃守)の子として生まれる

いったい何者だったのだ。この人は
695日本@名無史さん:2013/07/11(木) 16:21:37.36
10代目-貞方
通字の「義」がないけど、この頃になると義「貞」が開祖的に認識されてたのかね。
696日本@名無史さん:2013/07/11(木) 19:16:53.97
>>692
戦後の占領政策で天皇の権威は低下したからそこまで過激な事態は起きないと思うが
ありえたとすればアメリカとソ連で分割統治された場合じゃね

>>694
何らかのコネがあったらしいが詳細はわからん
目端の利く人物だったんだろうね
697日本@名無史さん:2013/07/11(木) 21:32:02.12
幕末頃の新田は北条氏の家来状態まで劣化してたってホント?
698日本@名無史さん:2013/07/11(木) 21:37:43.13
>>697 新田は、幕府(北条氏)の命により千早城攻めに従軍している。途中で帰っていくけど。
699日本@名無史さん:2013/07/12(金) 21:03:41.74
その堀口が新田にずっとつき従ってることを考えると、案外、評価は高かったのかも知れない。
700日本@名無史さん:2013/07/12(金) 21:33:05.00
大館は何のツテがあって逆賊から将軍側近になれたの?
701日本@名無史さん:2013/07/12(金) 22:00:06.80
足利一門との姻戚関係で
702日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:40:54.62
広く言えば新田も足利一門なんじゃないのかな?
703日本@名無史さん:2013/07/13(土) 01:36:34.23
違う
足利は為朝後裔
ソースは三河厨w
704日本@名無史さん:2013/07/13(土) 01:46:47.72
でも義貞の代って当初はもう新田家って没落寸前だったんでしょ?
そんな中でも義貞についていって、鎌倉陥落させた時は
「ついに日の目を浴びる時がやってきた」って凄い喜んだだろうね。
そんな中で岩松は冷静だったって事かね。
705日本@名無史さん:2013/07/13(土) 01:53:38.66
岩松は足利の与党みたいなもんですし
706日本@名無史さん:2013/07/13(土) 03:20:35.86
>>704
新田宗家が貧窮してたか否かはハッキリしないらしい。
佐竹氏も頼朝に討たれ鎌倉期は不遇だったが、明けて室町の世には常陸守護になるぐらいの実力はあった。
新田もある程度は勢力があったのかも。

義貞が得宗被官安藤氏と結婚してることと、越後は北条氏が守護や国司やってることを考えると、
新田氏は得宗被官か似たようなもんだった可能性もある。

いずれにせよ足利宗家とは格の違いがあったことは間違いないけど。
707日本@名無史さん:2013/07/13(土) 03:33:38.57
>>702
新田氏の定義は「新田義重の男系子孫」だろうから、
「足利義康の男系子孫」である足利氏とは一応別個独立の系統と言えよう。
三浦宗家と和田氏みたいなもんかと
(ただしこっちは明確な嫡庶の別があるが、足利・新田はそういう関係ではないと思う)

岩松は畠山義純と新田氏の子孫なんで男系的には足利氏なんだよね。
新田宗家なんかには何の愛着も無く、まして自分らの惣領とは考えてなかったかも。
708日本@名無史さん:2013/07/13(土) 07:56:40.41
新田が多摩川を渡った事自体が奇跡なのに鎌倉倒しちゃうんだもんなぁ。国府襲った時長崎孫四郎って寝てたのかね?
黒沼斬ったくらいじゃ鎌倉もいちいち新田に兵出さないだろうし、せいぜい出頭命令くらいだろ?
足利六波羅攻め→直後に黒沼徴税〜斬殺→鎌倉が攻めてきちゃう前に出陣!

ってなんか絵に描いたシナリオだよな。鎌倉攻めてこないだろうに…
709日本@名無史さん:2013/07/13(土) 08:02:07.38
>>707
岩松は畠山義純から捨てられた子供が新田本宗家から所領を与えられて成立
新田本宗家逼塞時は新田氏惣領職を世良田氏と分担
室町期には新田惣領家を継承して新田岩松氏を名乗る
710日本@名無史さん:2013/07/13(土) 19:15:10.66
ドラマ太平記だと義貞と尊氏が北条と戦する前に談合してたけどね。
711日本@名無史さん:2013/07/13(土) 21:08:15.19
当時の力を考えると足利が新田に相談とか考えられんが…
実は仲良しで幼馴染とかだったら分かるけどね。
712日本@名無史さん:2013/07/13(土) 22:28:54.13
実は新田は足利の家臣同然だったのかも。
同族が家臣化した例は沢山あるからな
713日本@名無史さん:2013/07/13(土) 23:34:19.07
その理屈だと鎌倉陥落させたらとっとと新田は鎌倉を出るでしょ。
714日本@名無史さん:2013/07/13(土) 23:58:34.86
>>712
家臣(同然)てことはないと思う。
細川、仁木みたいな明確な分家ってわけじゃないから。
715日本@名無史さん:2013/07/14(日) 01:10:35.17
家臣同然なら金の無心しとるがな
借金もできない(担保がない)ほど落ちぶれてた新田宗家でっせ
716日本@名無史さん:2013/07/14(日) 01:59:00.58
足利義康と新田義重が兄弟だったってだけで、この両家を比較する意味なんかあんのか?
摂津源氏、大和〜、河内〜も兄弟から分かれたが、河内源氏が突出したのと同じじゃね?

鎌倉の御家人は源平合戦、奥州藤原氏との戦い、承久の乱で所領を得た者が多い。
新田氏は何故か所領獲得の機会に恵まれなかったようだ。
梶原景時、畠山重忠、山内首藤経俊も頼朝蹶起当初は敵対したのに、その後は厚遇された。
717日本@名無史さん:2013/07/14(日) 02:42:10.87
>>204
>>207
しょっちゅう合戦が起こり有力御家人が次々衰退してった鎌倉幕府こそ脆弱な政権では?
室町のほうがむしろ一定の秩序を保っていたようにも思えてきた。
京都の威光は弱まっても、地方の大名はけっこう長らく戦国期も存続してたからね。
718日本@名無史さん:2013/07/14(日) 02:46:40.59
>>212
>>216
足利は北条に対して、自民党に対する公明党ほども勢力あったかどうかw
鎌倉末の足利家の所領が30強なのに対し北条氏は400以上。
規模の問題があるが、天皇家は800以上とか。
新田は確実なのが新田荘(それも全部じゃない)だけだから、無所属の平沼か幸福実現党?w
719日本@名無史さん:2013/07/14(日) 03:33:22.44
>>716
義貞の先祖が幕府を飛び越して勝手に帝に官位を求めちゃったから、その
時点で詰んでるはずなんだけどねえ。
やってることは義経と変わらないんだから。
720日本@名無史さん:2013/07/14(日) 03:43:01.89
義貞は正一位
尊氏は正二位
721日本@名無史さん:2013/07/14(日) 12:47:19.18
>細川、仁木みたいな明確な分家

それはどうかな


細川氏

菩提寺:隣松寺(愛知県豊田市)
氏神:村積神社(愛知県岡崎市)←初代細川氏・細川義季の弟、戸賀崎義宗が神官


足利宗家
菩提寺:滝山寺(愛知県岡崎市)
氏神:無し


滝山寺の縁起に、細川・仁木・戸賀崎は一切出てこない
義氏に三河に連れて来られて、家来扱いされていた
これは間違い


元々、義氏と無関係の三河の国人(足利一族かどうかは不明)で、家来でもなかった
が正しい
722日本@名無史さん:2013/07/14(日) 22:06:28.16
>>720
死んでからの位階なんぞなんの腹の足しにもならない
723日本@名無史さん:2013/07/15(月) 00:22:04.27
>>720
後醍醐が武士に篤く報いていたなら尊氏は離反してないよ
724日本@名無史さん:2013/07/15(月) 10:42:06.02
>>723
それでも不満を持つ層が出てくるだろ
そいつ等が頼りにするのってやっぱ師直だろうね
ifでもやはり暴走するのが師直
725日本@名無史さん:2013/07/16(火) 05:36:18.52
師直は直義と仲悪いだけじゃない?明確に天下奪っちゃえっていう意識があったか分からんよ。
726日本@名無史さん:2013/07/17(水) 19:31:29.88
なんだかんだで尊氏にずっとついてった師直
727日本@名無史さん:2013/07/17(水) 21:13:58.21
あくまで執事ですから
728日本@名無史さん:2013/07/18(木) 08:44:48.63
足利の家人でライバルの上杉が直義についたのだから尊氏に行くのが当然
729日本@名無史さん:2013/07/18(木) 19:55:49.44
上杉は最初から直義派じゃないかw
730日本@名無史さん:2013/07/19(金) 12:21:25.27
師直の尊氏邸包囲ってマッチポンプかしら?
731日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:47:50.68
師直も尊氏直義の間に入って調整役やってたら何事も丸く収まったのにな
執事の職分を忘れて馬鹿な事するから
732日本@名無史さん:2013/07/23(火) 22:54:36.49
>>731
高兄弟戦に使いすぎだろ
もはや中立は無理
733日本@名無史さん:2013/07/24(水) 20:15:38.49
つうか尊氏が直冬なんて作るからいけないんじゃない?
734日本@名無史さん:2013/07/24(水) 23:39:01.32
出来たのはしょうがないだろ。当時の貴種は子供つくってなんぼ。女は政略結婚の道具、男ならそのまま一族の力になる。
直冬の処遇をきちんとしておけばよかっただけのことさ。
優柔不断の尊氏さんはそれができなかったみたい。
直冬の認知が嫌なら足利一門のどっかの家に養子にやればよかったのに
735日本@名無史さん:2013/07/25(木) 20:42:47.45
え?直冬って結婚する前に出来た子じゃなかった?
736日本@名無史さん:2013/07/25(木) 22:21:20.55
高氏、直義の二頭政治がうまくいくはずがない
維新の橋下、石原の共同代表みればわかる
737日本@名無史さん:2013/07/25(木) 23:51:19.38
>>735
だから何だ?現代の常識で考えてはいけない。昭和以前は婚姻前に別の女に子ができるなんぞよくあること。よくあることすぎて笑っちゃう
738日本@名無史さん:2013/07/26(金) 00:11:56.80
ところでなんで二頭政治なんかやってたんだ?
739日本@名無史さん:2013/07/26(金) 02:50:10.53
鎌倉幕府を真似して
尊氏=将軍
直義=執権
みたいな感じにしたかったんじゃないの?
もしくは直義が政に向いていてうまいことやってたからガチで任せたとか
740日本@名無史さん:2013/07/27(土) 13:27:35.87
将軍権力の主従権と統治権の二元性が原因だろう
741日本@名無史さん:2013/07/29(月) 01:22:23.82
将軍-足利尊氏
副将軍-新田義貞

鎌倉幕府倒した後にすぐ尊氏が幕府を作っちゃえば良かったのに。
尊氏「新田さん、私達と幕府を作りましょう」
義貞「はい、いいでしょう」
ってならんかったのかな。
742日本@名無史さん:2013/07/29(月) 07:27:30.52
後醍醐天皇がそれができないようにしてるだろ
743日本@名無史さん:2013/07/29(月) 23:42:51.15
後醍醐帝を排除しないことには幕府は不可能
744日本@名無史さん:2013/07/29(月) 23:46:03.59
北条を倒した後、光厳帝を立てて後醍醐を入京させなきゃよかったんだよ
745日本@名無史さん:2013/07/30(火) 07:38:04.76
>>744
…尊氏どこにいたか、知ってる?
746日本@名無史さん:2013/07/30(火) 22:24:08.53
>>745
京六波羅
747日本@名無史さん:2013/07/30(火) 23:55:13.64
新田足利の合同幕府ってのは無理がある。主導権争いで必ず対立する。
748日本@名無史さん:2013/07/31(水) 07:11:48.63
>>746
そうだよ。周りじゅう後醍醐派で本拠地から遠く離れて増援も受けられない六波羅だよ。
749日本@名無史さん:2013/07/31(水) 20:19:55.89
しばらく鎌倉に義貞がいただろ?尊氏もさっさと鎌倉に直行してればよかった
んだよ。

尊氏「今回の鎌倉攻めは新田さんのおかげよ」
義貞「六波羅倒してくれたから攻めやすかったよ」

って仲良くなれたのに。
750日本@名無史さん:2013/08/01(木) 04:14:38.47
後醍醐が行かせるわけないだろwそのために京の治安を任せた。
鎌倉には尊氏の分身・千寿王がいるってのにw
751日本@名無史さん:2013/08/01(木) 19:46:34.54
あほか。弟に行かせればいいんだ。
752日本@名無史さん:2013/08/01(木) 23:00:10.07
嫡流の嫡子と嫡流の舎弟では影響力が雲泥の差
アホはおまい
753日本@名無史さん:2013/08/02(金) 01:37:59.68
>>752
何の話をしてるの?
754日本@名無史さん:2013/08/02(金) 20:47:42.45
皇后陛下の実家の正田家は実は新田源氏だとかなんとか
755日本@名無史さん:2013/08/02(金) 23:24:39.85
自称は腐るほどいるだろ
756日本@名無史さん:2013/08/03(土) 10:18:13.86
ウチも自称新田義貞の子孫だ。
どう見ても地侍だったのだが、戦国末期に足利一門の領主が滅亡する時に見捨てて傍観していた言い訳としか思えない。
757日本@名無史さん:2013/08/03(土) 20:39:18.78
実は関東の地侍は関東にはほとんど残っていない。
関東の侍は、ほとんど渡来人の子孫で、新田は新羅系の渡来人。
新羅三郎義光の縁で源氏政権擁立には力を貸したが、
木曾義仲や義経に荷担したものは、奥州に追われた。
多羅系の平氏に裏切られてからは鎌倉幕府で疎まれて三陸に移住した三浦氏や梶原氏、葛西氏。
北条氏に荷担したものは、秀吉の関東仕置き、奥州征伐で追われ、
家康の関東入城で、武士としての役割は失せ、少数は、非人、エタ頭として裏社会を仕切っていく。

浅草団左衛門も、その一人。
頼朝の朱印状をもらっているからな
758日本@名無史さん:2013/08/03(土) 21:20:13.74
はい、あぼ〜んっと
759日本@名無史さん:2013/08/04(日) 16:57:55.29
義貞が後醍醐にもつかず、尊氏にもつかず独自の勢力があったらおもしろかった。
義貞にそんな器量はないが
760日本@名無史さん:2013/08/04(日) 17:24:06.38
持明院統ないし大覚寺統のお墨付きがないと当時はきつかったんじゃね?
完全に朝敵扱いされたら誰も味方しない
761日本@名無史さん:2013/08/04(日) 19:28:35.98
義貞は鎌倉陥落させた時に居座って勢力を扶養したらよかったんだよ、頼朝みたいに。一定の権力が出来上がったら後付けでどうとでもなる。
762日本@名無史さん:2013/08/04(日) 20:32:45.26
>>757
普通、神官、医師、庄屋・名主層になることが多いが
763日本@名無史さん:2013/08/04(日) 21:30:08.44
>>761

お前天災だな
764日本@名無史さん:2013/08/04(日) 21:36:39.57
鎌倉入りした千寿王に付いてた細川三兄弟は義貞が政争の中心が京にあるとみてすっ飛んで行ったことに「義貞プッ」だったとか何とか
765日本@名無史さん:2013/08/04(日) 23:38:22.38
>>761
扶養したくても当時の新田はそんな金も無いわけで。
766日本@名無史さん:2013/08/04(日) 23:50:19.58
金w鎌倉落とした時に北条が貯め込んでた財宝がたんまりありましたが。つか土地を支配したら金の問題は消え失せる
767日本@名無史さん:2013/08/05(月) 00:15:38.61
北条が貯め込んでた財宝がたんまりありましたがってどこの記述だい?
768日本@名無史さん:2013/08/05(月) 03:17:22.41
義貞は尊氏を九州に追い落とした後に北陸に南朝の勢力圏を築くことを構想した形跡がある
越前・越中まで抑えて、新田一族の分布する越後・信濃・上野と連絡
769日本@名無史さん:2013/08/05(月) 10:46:27.15
>>754
額戸経義の末裔で乗ってる
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
770日本@名無史さん:2013/08/05(月) 23:08:40.69
北陸道と東海道ってどっちがより重要?なんか東海道が重要っぽいけど
771日本@名無史さん:2013/08/05(月) 23:55:38.87
海運握ってるのは北陸じゃね?
772日本@名無史さん:2013/08/06(火) 00:09:53.12
あ、忘れてた。あと中山道も
773日本@名無史さん:2013/08/06(火) 00:34:23.41
五畿七道ではなく街道だと!?
774日本@名無史さん:2013/08/06(火) 12:59:55.96
中山道も要所には変わりはない
775日本@名無史さん:2013/08/07(水) 16:12:06.91
いや、環七だろ
776日本@名無史さん:2013/08/07(水) 21:04:51.83
新田が北陸道貫通に成功してたら足利もうかうかできなかったかもね
777日本@名無史さん:2013/08/07(水) 22:52:41.35
777
778日本@名無史さん:2013/08/08(木) 22:16:37.97
>>776

「〜してたら」「〜だったら」は歴史業界では禁句
歴史にifはない。全て必然
779日本@名無史さん:2013/08/09(金) 13:32:38.51
もし〜なら〜であっただろうとか書いてる歴史研究者大勢いるけど
シッタカ乙
780日本@名無史さん:2013/08/09(金) 16:55:39.28
>>776
義貞が死なないと直義と尊氏がケンカをはじめないかもしれず、関東 や伊勢でも指揮系統が一本化されて畿内や関東はもっと安定して吉野は自壊したかも
781日本@名無史さん:2013/08/09(金) 20:33:29.98
>>780
単純に後醍醐天皇が死んだらそこで詰みだと思われ
782日本@名無史さん:2013/08/09(金) 21:12:13.74
>>780
吉野って権力闘争時の緊急避難先として優秀だよね
新田や三木一草などの有力武将公家を喪いながら70年も続いたのはそういう需要があったからだし
783日本@名無史さん:2013/08/10(土) 19:33:00.66
護良が正しかったって事?
足利は幕府を開いて云々と主張してたけど。
784日本@名無史さん:2013/08/11(日) 00:24:58.48
>>779
全部二流の研究者な
785日本@名無史さん:2013/08/11(日) 21:07:26.79
>>784
一流って誰?
786日本@名無史さん:2013/08/12(月) 00:56:55.79
歴史にifをつかうのは愚かだよ。
もし鳩山由紀夫が優秀な総理大臣だったら鳩山内閣は長期政権になっていたかもしれない
と言うのと同じだぜ。
そういう発想自体が意味をなさないだろ?
787日本@名無史さん:2013/08/12(月) 02:27:32.65
年表作るならifはいらんが考察するのには必要だな
788日本@名無史さん:2013/08/12(月) 12:36:17.46
年表作るか、ifで考えるか、そのどちらかしかできないのか?
実態分析という作業ができないのか?
789日本@名無史さん:2013/08/12(月) 12:58:19.58
どうした?どっかで負けてきたのか?
790日本@名無史さん:2013/08/12(月) 13:37:46.44
この世に勝敗なんて無いんだよ
これは歴史哲学の分野だが
791日本@名無史さん:2013/08/12(月) 18:32:14.53
新田氏本宗家に近いところ(義貞のちょっと前に分かれた)の分家に大舘氏ってのがいるが、
いつのまにか足利幕府の重要な役職に登用されて
足利将軍の側室を出せる家になっていたんだな。
早期に新田氏から分家では山名氏が足利幕府
里見氏は鎌倉公方足利氏に登用されていた。
792日本@名無史さん:2013/08/12(月) 19:55:31.04
奉公衆
793日本@名無史さん:2013/08/12(月) 21:37:31.35
足利氏は義康ではなく義国を初代としていたので
そういう意味で新田氏も同族だった。
794日本@名無史さん:2013/08/12(月) 23:42:25.09
時の流れはムゴいよなぁ
795日本@名無史さん:2013/08/13(火) 00:20:52.83
>>791
山名義範は新田の中では軽輩だったが、足利義兼とともにかなり早い段階で頼朝の下に馳せ参じたので重用された
頼朝からも「お前は親父に似ずによく出来た奴だ」と褒められてる
けど本人としては複雑な気持ちだったんじゃないか、これ
796日本@名無史さん:2013/08/13(火) 00:34:15.16
>>793
足利初代は義康じゃないの?
797日本@名無史さん:2013/08/13(火) 01:44:54.61
>>796
そうだよ。ただし、足利氏は義国まで遡って初代としていたはず。
798日本@名無史さん:2013/08/13(火) 11:30:45.57
捏造史観スレ?
799日本@名無史さん:2013/08/13(火) 20:22:19.01
>大舘氏


初代の母親は義氏娘か?どうせ三河つながりなんだろうなw
世良田頼氏の嫁も義氏娘(今川記)で、後の松平の婿養子も義満に黙認され、息子は和泉守になった
三河つながりだと厚遇は約束されるw
800日本@名無史さん:2013/08/13(火) 22:18:39.83
世良田頼氏は三河守
801日本@名無史さん:2013/08/14(水) 01:32:52.81
しかし佐渡送り
802日本@名無史さん:2013/08/14(水) 02:00:20.26
平知度と源範頼も三河守
三河つながりだと厚遇と同時に悲惨な末路も約束されるんだな
803日本@名無史さん:2013/08/14(水) 06:21:27.46
三河幕府wwww
804日本@名無史さん:2013/08/14(水) 13:14:55.86
土佐吉良氏

河内源氏の棟梁・源義朝の五男で源頼朝の同母弟である源希義(土佐冠者)の流れで、希義の次男・吉良希望(源希望)を祖とする。
源希義は平治の乱による流罪で土佐国にいたが、頼朝(希義の兄)挙兵の報を受け挙兵を計画する。しかしながら、養和元年(1181年)[土 1]奇襲を受け敗死する。『吉良物語』によると希義の死後程なく、希義が通っていた平田経遠の娘が男子(のちの希望)を生んだとされる。
この男子は建久5年(1194年)、亡父の旧友であった夜須行宗に伴われて伯父で鎌倉幕府将軍の源頼朝に拝謁した。頼朝はすぐには信じなかったものの最終的には認め、土佐国吾川郡のうち数千貫を、三河国吉良荘(現 愛知県西尾市)のうち馬の飼場三百余貫を下賜した。
男子はこれ以後、「吉良八郎希望」を名乗って土佐吉良氏の始祖となったとされる。


源頼朝
「同母弟の希義の息子か?お前も三河で決定じゃん」


三河つながり重視がうかがえる逸話でつね
805日本@名無史さん:2013/08/14(水) 20:43:47.55
六波羅攻めの時、三河に足利一門が集結したけど、色々と事起こすには三河
が一番良かったんだね。
806日本@名無史さん:2013/08/14(水) 21:46:54.03
三河幕府wwww
807日本@名無史さん:2013/08/14(水) 23:21:18.96
夏だな
三河者が沸いてる
808日本@名無史さん:2013/08/15(木) 01:40:39.97
三河以外にねえのかよ。駿河とか重要そうだけど
809日本@名無史さん:2013/08/15(木) 11:10:07.76
地の利がいいとかよりも、鎌倉殿(頼朝)と繋がっているかどうかが重要なのだよ
頼朝と同じく三河の藤姓熱田大宮司家の血を引く足利氏は、迷うことなく三河に拠点を移した

家康とやらの家臣団が南朝の新田系と仮定すると、新田系も一旦三河に出てきてようやく天下が取れたといえるわな
810日本@名無史さん:2013/08/15(木) 11:51:07.24
吾妻鏡 建久元年(1190)十二月

右大将任命拝賀


前駈(露払いの乗馬)十人
・十人の内八人は院の警固の北面の武士


頼朝調達の二人

源範頼

・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝


星野範C(藤原範清)
・藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者)→星野範信(初代星野氏、星野大宮司、上西門院蔵人、上野介)→星野範清(三河国宝飯郡星野)
 
811日本@名無史さん:2013/08/16(金) 10:48:10.58
>>810
友美じゃなくて友実な。

しかし藤原南家貞嗣流の系図を見ると、友実女=頼政母って、
信西や由良御前(頼朝母)と同世代で、
頼政の活躍時期を考えるとちょっと違和感が…。

友実が余程若い時にできた娘なのだろうか。

完全スレ違いスマソ。m(_ _)m
812日本@名無史さん:2013/08/16(金) 22:50:11.93
義家の嫁は三河守の娘で、郎党No.1の兵藤正経と郎党No.2の伴助兼は三河武士


三河押しが凄まじい
813日本@名無史さん:2013/08/16(金) 22:57:52.57
三河厨は別スレ立ててやってください
ワンパターン過ぎてうんざり
814日本@名無史さん:2013/08/17(土) 00:58:02.07
三河人 背丈は低いが義理堅く命を惜しまず女もけなげ
815日本@名無史さん:2013/08/17(土) 21:04:07.43
三河より近江を源氏が抑えてたのが大きいね。
816日本@名無史さん:2013/08/17(土) 23:20:36.70
三河(愛知県岡崎市東大友町、西大友町り)には大友皇子が逃げてきた伝承があってな(大友皇子御陵、玉泉寺)、園城寺と源氏の関係も多少何からあるのかなと思うね
東大友町の隣町の船越町(昔は長瀬郷)には、源頼義創建の長瀬八幡宮がある
この長瀬郷を本拠にしていたのが奥州吉良氏の祖、長瀬四郎(足利義継)だ
817日本@名無史さん:2013/08/18(日) 01:03:45.36
肥前は重要だよな?
818日本@名無史さん:2013/08/18(日) 10:54:14.23
三河人 背丈は低いが義理堅く命を惜しまず女もけなげ
近江人 世渡り上手
肥前人 義理堅く武勇に優れ命を惜しまない
819日本@名無史さん:2013/08/18(日) 16:14:15.01
北関東を語る価値は一切ない
820日本@名無史さん:2013/08/18(日) 17:57:34.17
釣られてみるけど、湊川以前の足利劣勢時に三河抑えてたら宮方の天下?
821日本@名無史さん:2013/08/18(日) 19:30:57.12
三河抑えられてたらって事で言うと、その時点で足利家は崩壊してる
でしょ。
822日本@名無史さん:2013/08/18(日) 19:48:34.90
大覚寺統の最大の拠点も三河だったが
だから三河に南朝伝説があるんだろ


何回要ったらわかんのや、場所ではなく頼朝に繋がっているかどうか重要
823日本@名無史さん:2013/08/18(日) 22:01:31.30
頼朝は神だな
824日本@名無史さん:2013/08/19(月) 20:35:32.47
大覚寺統の本拠=三河国加茂郡高橋荘(足助荘)


ここの荘官だったのが足助重範だな
この足助氏、初代の重長と源為朝の娘の間の子供が、頼家の室となり、生まれた子供が公暁だ
重長の嫡男である重秀の室は、安達盛長の娘、源範頼の嫁と姉妹

この足助氏は、家康とやらも関係していて、寺部鈴木氏というのが足助重範と楠木正成の娘の間の子供の系統で、松平氏に嫁を出している

家康とやらは、源為朝、安達盛長、足助重範、楠木正成の血がしっかりと入っている
825日本@名無史さん:2013/08/19(月) 22:46:31.74
ふーん、よかったね
826日本@名無史さん:2013/08/21(水) 21:50:57.71
いいや。新田だね。
827日本@名無史さん:2013/08/21(水) 22:13:37.86
三河国厨うぜえ
828日本@名無史さん:2013/08/21(水) 22:40:30.03
三河厨と頼朝厨はどちらが真理なのか?

どっちもガセ臭いけどw
829日本@名無史さん:2013/08/21(水) 22:47:36.22
ドッチモー
830日本@名無史さん:2013/08/21(水) 23:26:34.33
三河様を知れば知るほど、司馬史観はとんでもなくクダラナイと


チミ達は思い始めている、そうだろう?w
831日本@名無史さん:2013/08/22(木) 02:26:31.60
そんなに三河が重要な土地なら何で今は全然栄えてないの?
832日本@名無史さん:2013/08/22(木) 04:54:51.04
発展しにくい土地でも戦略とか儀礼的にとかで重要な場合もあるからねぇ
833日本@名無史さん:2013/08/22(木) 20:07:01.29
何もないのが三河
834日本@名無史さん:2013/08/22(木) 20:23:22.78
三河 けなげなチビ
835日本@名無史さん:2013/08/22(木) 20:36:10.12
明治用水が出来るまで貧困だった三河
836日本@名無史さん:2013/08/22(木) 21:35:13.65
小泉改革は、首都圏一極集中、首都圏だけが繁栄する改革のはずだったが
日本人で唯一、真逆のやり方で、断固阻止したのが西三河だ

東京が唯一、上から目線で物が言えない、今も強者魂が遺伝子レベルで受け継がれる、それが先祖代々優秀の西三河
837日本@名無史さん:2013/08/22(木) 22:47:40.58
上から目線で言えない?
言う必要もない田舎だからだろ。
838日本@名無史さん:2013/08/22(木) 23:22:03.66
マンション売るのに、由緒正しい松平の屋敷跡とか言って売ってんなよw猿
万年パシリのトンキン猿

トンキン猿は、名古屋猿の次の万年パシリだ
839日本@名無史さん:2013/08/22(木) 23:26:52.17
【リーマンショック後の総所得ランキング】
・課税所得額ならびに総所得額の推計を実施。本文中の数字は全て総所得額ベース。

総所得ランキングトップは江ノ電沿線、金融資産トップは京王井の頭線沿線。
リーマンショックで打撃を受けたのは近鉄長野線沿線――。

総所得ランキング
01位 江ノ島電鉄線(神奈川県藤沢市〜鎌倉市)
02位 阪急甲陽線(兵庫県西宮市)
03位 京王井の頭線(東京都渋谷区〜武蔵野市)
04位 東急東横線(東京都渋谷区〜神奈川県横浜市)  
05位 東急こどもの国線(神奈川県横浜市)

06位 東急田園都市線(東京都渋谷区〜神奈川県大和市)
07位 相鉄いずみ野線(神奈川県横浜市〜神奈川県藤沢市)
08位 東急目黒線(東京都品川区〜神奈川県横浜市)
09位 名鉄西尾線(みよし県安城市〜西尾市)  
10位 名鉄豊田線(三河県みよし市〜豊田市)
840日本@名無史さん:2013/08/22(木) 23:28:32.21
11位 東急大井町線(東京都品川区〜神奈川県川崎市)
12位 東急世田谷線(東京都世田谷区)
13位 小田急小田原線(東京都新宿区〜神奈川県小田原市)
14位 名鉄三河線(三河県豊田市〜碧南市)
15位 東急池上線(東京都品川区〜大田区)

ソース:東洋経済オンライン
http://www.toyokeizai.net/life/living/detail/AC/a9f0b48216dc7b01346aec09db603d62/
ソースのソース:株式会社野村総合研究所 第2回全国のエリア別所得・金融資産を推計
http://www.nri.co.jp/news/2010/100330.html
841日本@名無史さん:2013/08/23(金) 00:11:14.48
単純に三河って何があんの?
842日本@名無史さん:2013/08/23(金) 00:18:01.02
味噌
843日本@名無史さん:2013/08/23(金) 00:22:46.68
トヨタの本社だけw
844日本@名無史さん:2013/08/23(金) 00:34:05.59
また、太田道灌が文明12年(1480)に山内上杉氏の家臣高瀬民部少輔に提出した書状「太田道灌状」によれば、道灌は成高を「吉良殿様」と敬称をもって呼び、
「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と武将成高への感謝を記しています。

鎌倉鶴岡八幡宮の供僧だった相承院の快元の記録した「快元僧都記」によれば、快元は吉良頼康を「吉良殿様」「蒔田御所」と敬称を使用、北条氏綱に対しては「氏綱」と呼び捨てにしています。
当時の関東では「足利氏一家衆」という吉良氏の存在が小田原北条氏以上に尊敬を受けていたものと思われます。





>吉良殿様
>御籠城
>御命令



力抜けよw万年パシリのトンキン猿w
845日本@名無史さん:2013/08/23(金) 00:42:59.56
矢作川の戦いで新田に負けたけど、新田は三河の支配スルーしたの?
846日本@名無史さん:2013/08/23(金) 00:53:45.65
北関東に住んでいれば、馬鹿にもなるわなw


2000年以降 公立高校 東大合格者数推移 (*公立全国1位)

        浦和  千葉   岡崎  旭丘  土浦一 宇都宮 都立西 日比谷
2000年 *32   25    30   26    31    21   11    6
2001年   16   21    31   21  *32    18   13    3
2002年   28   19  *36   24    33    17   17    4
2003年   29   23  *38   22    32    15   25    5
2004年   22   23  *31   29    29    23   11    3
2005年   27   20  *28   21    26    21   18   14
2006年   16   23  *36   20    21    28   19   12
2007年 *33   20    26   28    28    24   16   28
2008年   33   19  *40   25    26    29   28   13
2009年   36   27  *42   19    16    26   15   16
2010年   29   22  *41   32    24    11   20   37
==================================
合計    301  242   379  267   298   233  193  141
847日本@名無史さん:2013/08/23(金) 02:47:05.16
>>846
だいたいは私立ですから。
848日本@名無史さん:2013/08/23(金) 20:46:15.19
トンキン(万年パシリ)のケツ舐め係の北関東埼玉は部落が多く、いまだに部落差別があるようだな
西三河に部落は1ヶ所、もちろん部落差別もない

同じと思い込んで、西三河人に相手に話題するなよ
ちんぷんかんぷんで分からないから
849日本@名無史さん:2013/08/23(金) 23:22:13.65
田舎者です三河は(笑)
腐った鯛が作られたことからも、田舎者=三河者っていうのが定説らしい。
850日本@名無史さん:2013/08/23(金) 23:56:31.34
豊橋も三河か?遠江?
851日本@名無史さん:2013/08/24(土) 00:04:45.75
>>842
味噌に限らず、日本最古の造蔵蔵の九重味醂のみりんや、醤油も有名だわな
それを取り扱ったのが、よく言う三河屋さんだ
昔から何やらせても凄いわけだが、
色々調べていたら、日東醸造と言う社長が蜷川さんとわかった
政所代家の蜷川氏が、所縁の三河にもいて驚いたでつよ


蜷川氏

元は物部氏の流れを汲むとされる宮道氏
蜷川氏は、越中国新川郡蜷川郷から発祥した。すなわち宮道式俊・親直父子は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに参じて功があり、越中国砺波・新川の両郡を領した。
室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて3代目の蜷川親当の頃より政所代を世襲することとなった
蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗っており、蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ『一休さん』(1970年-1982年)に足利義満の側近で寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場する


宮道氏

饒速日命を祖とする物部守屋の後裔(物部氏より分かれる)と称する。ほかに日本武尊系宮道氏
発祥地は三河国宝飯郡宮道郷(現在の愛知県豊川市)と推定される。


宮道天神社(愛知県豊川市)

源頼朝は上洛の折、安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納



万年パシリ乙w
852日本@名無史さん:2013/08/24(土) 00:21:33.07
>>851
追記

宮道式俊は、吾妻橋建久3年7月に、右馬允宮道式俊で登場している
853日本@名無史さん:2013/08/24(土) 01:57:36.74
義貞が生前の極官は左近衛中将か。あの没落家からよくぞここまで出世したものよ
854日本@名無史さん:2013/08/24(土) 23:22:55.04
吾妻橋ってどこの橋?
855日本@名無史さん:2013/08/25(日) 00:04:59.66
2ちゃんで誤字脱字を指摘する奴は、頭の悪い田舎者
856日本@名無史さん:2013/08/25(日) 00:15:25.32
三河 チビっ子
857日本@名無史さん:2013/08/25(日) 00:23:07.67
>>804
ウソ苔
土佐吉良氏は南北朝以降に土佐に入国した足利一門だろう常考
土佐はああ見えて細川氏の勢力が強くなった国
858日本@名無史さん:2013/08/25(日) 00:41:14.75
本所吾妻橋
859日本@名無史さん:2013/08/25(日) 00:49:35.85
三河厨のソースは脳内妄想じゃねえだろうな?
860日本@名無史さん:2013/08/25(日) 00:51:22.93
黒羽三河守義隆
861日本@名無史さん:2013/08/25(日) 01:01:23.14
>>859
関東吉良氏が名門だったのは本当。
世田谷と蒔田(まいた。横浜市)に所領があり「世田谷殿」「蒔田殿」と称され、
家格的にも特別高い地位を与えられていた(まあ、関東公方に準ずるぐらいかな?)。

関東吉良氏は、尊氏×直義の争った観応の擾乱で敗れた奥州吉良氏の末裔と伝わる。
862日本@名無史さん:2013/08/25(日) 18:20:41.25
吉良が名門とか常識ww
863日本@名無史さん:2013/08/25(日) 18:37:39.36
吉良くらいだったら御所さまと呼ばれても可笑しくないレベル
864日本@名無史さん:2013/08/25(日) 18:50:06.30
>>851 関連事項

伊勢氏(初代・藤原俊継(伊勢俊継)) 滝山寺縁起(愛知県岡崎市)

■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶
・滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■藤原俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
■円辰(****〜****):初代伊勢氏・藤原俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋
■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・藤原俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去

重要なのは初代伊勢氏の俊継の従兄弟が、坊さんやりながら吉良氏の家人として仕えていた事実だわな、俊継が足利宗家に仕えたのは、従兄弟が関係している
865日本@名無史さん:2013/08/25(日) 19:35:10.15
地方に散ってった斯波の一門ぐらいなら御所と呼ばれていた。
御所の下限は守護か?
866日本@名無史さん:2013/08/25(日) 19:36:19.67
三河?w
木綿も衰え、トヨタ無かったら東海諸国で伊豆の次にショボイ国(ぼそっ)
867日本@名無史さん:2013/08/25(日) 19:59:57.98
>>864

追記


万年パシリ乙w
868日本@名無史さん:2013/08/25(日) 20:03:43.03
>>865

空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」

「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした


永源寺
中世、碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。



万年パシリ乙w
869日本@名無史さん:2013/08/25(日) 20:37:37.39
いい加減な本だと、吉良家は徳川家に系図を売り渡したから、吉良家としか名乗れなくなった、とか書いてある。
どっから出てきた話なんだろう。
870日本@名無史さん:2013/08/25(日) 21:42:31.37
足利流吉良氏と言っても、初代が異なる二系統あるだろう?
有名なのは、義氏の庶長子?の長氏の後胤。
もう一つは、義氏の四男?の義継の後胤。
関東の吉良氏は後者。
でも、どっちも家格高かったのかな?
871日本@名無史さん:2013/08/25(日) 22:38:30.06
西条>東条>蒔田
じゃないの?
872日本@名無史さん:2013/08/26(月) 02:14:23.37
斯波と吉良は仲が悪い
873日本@名無史さん:2013/08/26(月) 02:35:46.33
足利>斯波>吉良>畠山>渋川>今川
874日本@名無史さん:2013/08/26(月) 21:57:55.21
今川って吉良の庶流じゃねーの?
875日本@名無史さん:2013/08/27(火) 07:18:27.07
s
876日本@名無史さん:2013/08/27(火) 07:25:11.47
足利>吉良>斯波>渋川> 畠山>今川

後期。
877日本@名無史さん:2013/08/27(火) 07:34:07.25
>>870
途中で吉良頼氏が義継系に養子にはいってるから途中から血筋は同じ。
でも長氏系が本家だから。
878日本@名無史さん:2013/08/27(火) 11:48:09.66
Yes
879日本@名無史さん:2013/08/27(火) 20:59:52.86
>>878
プリキュアファイブ!(ぼそっ)
880日本@名無史さん:2013/08/28(水) 08:15:47.92
スマイルプリキュア
881日本@名無史さん:2013/08/28(水) 10:42:38.54
スイートプリキュア♪
882日本@名無史さん:2013/08/28(水) 10:53:32.97
ハートキャッチプリキュア!
883日本@名無史さん:2013/08/28(水) 14:05:22.69
吉良尊義−−−−−−−拝郷家嘉−孫十郎−正直−拝一刀(子連れ狼)−大五郎


http://349.teacup.com/gokuh/bbs/1686

http://www2s.biglobe.ne.jp/~gokuh/ghp/busho/oda_042.htm

おもしろい。
884日本@名無史さん:2013/08/28(水) 20:19:01.57
フレッシュプリキュア!
885日本@名無史さん:2013/08/28(水) 20:52:24.45
新田一族の越後よりも三河はダメダメ
886日本@名無史さん:2013/08/28(水) 23:15:30.90
いやさすがに越後より三河がいいだろw
887日本@名無史さん:2013/08/28(水) 23:26:19.17
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)

今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)
888日本@名無史さん:2013/08/28(水) 23:40:54.28
>>886
越後→スキー場
三河→?(何があんの?)
889日本@名無史さん:2013/08/29(木) 00:18:21.12
甘やかすと付け上がりやがるな、万年パシリ田舎猿はよ
自我が崩壊するまでイジメるぞ
890日本@名無史さん:2013/08/29(木) 01:01:43.99
越後新田王国
三河足利王国

田舎臭いのはどちら?
891日本@名無史さん:2013/08/29(木) 08:01:51.37
日本一田舎臭いと言えばw


だぎゃ〜だぎゃ〜エビフライだぎゃ〜
892日本@名無史さん:2013/08/29(木) 11:45:27.80
越後は何となく金持ちなイメージ

三河は田舎のイメージ
893日本@名無史さん:2013/08/29(木) 13:23:27.78
>>888
トヨタ(図々しくも拳母と松平をさしおいて創業者一族の姓を指名にする天理教レベル)
>>890
せめて越後「上杉」王国としてくれよw(新田なんか一部にしか勢力及ばなかったろ?)
>>892
越後=米と亀田製菓と田中角栄
三河=味噌カツ?山本正之?(燃えよドラゴンズとタイムボカンの歌の人)
894日本@名無史さん:2013/08/29(木) 16:06:17.11
>>891
×エビフライ
○エビフリャ〜
895日本@名無史さん:2013/08/29(木) 19:40:13.22
三河って便所みたいな名前
896日本@名無史さん:2013/08/29(木) 19:50:17.92
越後って九州あたりにあんの?自己紹介せな、わからんだろうが
西三河の自己紹介しておこう

日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
897日本@名無史さん:2013/08/29(木) 20:20:28.09
>>896
歴史マニアは三河知ってるけど、一般人は三河より越後だよ。
散々講釈垂れても新田王国には叶わんの。
分かった?
898日本@名無史さん:2013/08/29(木) 20:27:33.64
徳川が清和源氏…だと!?
899日本@名無史さん:2013/08/29(木) 20:35:53.11
自己紹介も出来ないとは、礼儀知らずの万年パシリの田舎者め
900日本@名無史さん:2013/08/29(木) 20:42:27.96
相手が自己紹介したら、まず自分も自己紹介するが常識だ
昔の由緒正しい武士の、やーやー我こそはだな

越後がどこかは知らんが、先祖代々百姓、相当な田舎モンだな
901日本@名無史さん:2013/08/29(木) 21:11:09.76
田舎臭い奴に限って地元アピールするね
902日本@名無史さん:2013/08/29(木) 21:28:06.43
スキー場(笑)とかか?w
発想が斜め上ですわw
903日本@名無史さん:2013/08/29(木) 21:45:15.37
いやあさあ、ぶっちゃけ三河って何あんの?
904日本@名無史さん:2013/08/29(木) 22:38:04.29
>>896
足利系の諸豪族はみんな鎌倉時代に
栃木やその周辺から美川に移住したんだけどな。
905日本@名無史さん:2013/08/29(木) 22:46:21.03
>>904
それも鎌倉末期な
906日本@名無史さん:2013/08/29(木) 22:54:02.11
田舎モンつーの頭が悪いなw
三河と源氏の平安時代からの関係を何回も説明しているだろう


万年パシリの糞カッペめ
907日本@名無史さん:2013/08/29(木) 23:02:12.35
>>905
お前は簡単な時系列ですら頭に入っていないw
お前は頭の悪さで有名な名古屋猿か?

ここも、ある程度のレベルに達しているのは数人だなw
つーか、スキー場(笑)ってなんだよw
908日本@名無史さん:2013/08/29(木) 23:04:21.75
三河ってパクリは上手くても進取の気性はない感じ

イメージだよ
909日本@名無史さん:2013/08/29(木) 23:10:36.41
越後が新田王国とか誰も知らねぇよw謙信王国ならまだ分かるが。

三河って京と鎌倉江戸の中間地点、地政学的な利点あった?
910日本@名無史さん:2013/08/29(木) 23:20:33.33
そもそも新田足利とか関西人だろw
何が移住したじゃ、万年パシリの猿
北関東より、頼義時代からゆかりのある西三河がいいってよw

俺っち、元々関西人だし、ってか?w
911日本@名無史さん:2013/08/29(木) 23:49:52.89
>>910
さすが関西従属体質の三河人w
パクリ体質なのも頷けるw

>そもそも新田足利とか関西人だろw
912日本@名無史さん:2013/08/30(金) 00:03:15.89
>>907
え?スキー場有名なの知らないの??
新田王国越後は有名なお話ですよ。ここに来ている人は。
それに、現代の話で

三河は何となく田舎臭い
三河って何かあんの?

って言ってるだけだけど。何をそんなに熱くさせているのかがよく
分からんのだが。歴史的に見ればそりゃ越後より三河のほうが栄えてる
かもしれんが、平成の世になって三河ってなんだよ、三河安城か?
くらいだろ。
913日本@名無史さん:2013/08/30(金) 00:11:52.48
分かったよ、越後はスキー場な
越後の勝ちだ
分かったから、消えてくれないかな、ここは日本史板だ
すれ違いでも、日本史を絡めてレス出来ない奴は邪魔なんだよ


ハッキリ言って、お前は退屈だ
914日本@名無史さん:2013/08/30(金) 00:18:05.85
甲斐、越後之弓矢天下一
915日本@名無史さん:2013/08/30(金) 00:21:47.90
義貞が鎌倉を火の海にしてなければ
この間の世界遺産登録で
鎌倉は問題なく世界遺産になってた
916日本@名無史さん:2013/08/30(金) 00:23:53.83
キャラ変えて相手してやりゃ、付け上がるからよ、田舎者はよ
越後とやらがどーだとか興味すらないわ
917日本@名無史さん:2013/08/30(金) 00:32:46.26
裏日本同士仲良くしろよ>越後&三河
918日本@名無史さん:2013/08/30(金) 00:33:16.36
>>916
そんな講釈はいいからさ、三河は田舎なの?どうなの?
919日本@名無史さん:2013/08/30(金) 01:11:06.55
昔は重要地点、今は田舎

これで手を打とう

三河って尾張藩できてから衰退かな。名古屋城が派手すぎた
920日本@名無史さん:2013/08/30(金) 01:12:38.78
三河を馬鹿にする者たちへ



これを言わなければならんのか



【三河が世界に誇る圧倒的ブランド】









【赤味噌】
921日本@名無史さん:2013/08/30(金) 01:25:42.83
三河って遊び場あんの?
922日本@名無史さん:2013/08/30(金) 02:02:39.81
>>323
山田俊司(キートン山田)は、テレビまんが「一休さん」では将軍さまだったな。
足利義満の役。
南朝をはじめた後醍醐天皇も、北朝方で南朝を実質的に潰した役も演じた訳か。
923日本@名無史さん:2013/08/30(金) 02:58:39.86
なつかしのキートン山田ネタかw
924日本@名無史さん:2013/08/30(金) 03:30:36.11
堀口「ミカドは新田を捨てて足利と手を結ぶおつもりですか!?びっくり
仰天でござる!」

みかど「うん」
925日本@名無史さん:2013/08/30(金) 03:39:09.09
あのーれんし「左中将殿は鎌倉攻め以来活躍の話を聞かぬなぁ」

よしさだ「むむむ」


ぼうもん「なにがむむむだ!」
926日本@名無史さん:2013/08/30(金) 05:20:28.78
道誉「直冬殿は御舎弟殿にそっくりだな(笑)」


尊氏「ええ!?」
927日本@名無史さん:2013/08/30(金) 06:59:27.36
楠木まあクン「尊氏たんに勝てませヌルポ〜」

ちん毛ボーボーモン「ちょっとの手勢で数万の敵に勝ったじゃんかお〜〜」

朕々たん「まーちゃん僕朕なーんも聞かなかったぞよ〜」
928日本@名無史さん:2013/08/30(金) 07:08:53.58
義貞きゅん「赤松のお城が落とせない〜落とし神の僕ぐゎ〜」

内侍たん「よっく〜〜ん♪楽しいこと…し・よ☆」

後醍醐「ぐぬぬ…あやちゅに内侍たんageるんじゃなかった〜〜〜〜!ぐわしっ」
929日本@名無史さん:2013/08/30(金) 11:26:49.72
道誉「冬子とヤったぞ」

尊氏「ええ!?」
930日本@名無史さん:2013/08/30(金) 11:31:06.34
二条の君「直義殿と寝ましたよ」


師直「なんと!?」
931日本@名無史さん:2013/08/30(金) 11:33:42.02
直義「母上と寝てしもうた」

尊氏「なぜ母上と寝た!」
932日本@名無史さん:2013/08/30(金) 12:56:27.25
もう埋めちまおうぜ
933日本@名無史さん:2013/08/30(金) 19:12:24.03
>>919
尾張(笑)、尾張(笑)とは、これのことかい?w


http://news24.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1211890289/l50

>リポートによると、「一人あたり域内総生産」について、愛知県平均を100とした場合、
1996年度は西三河が112、名古屋を含む尾張は96(笑)で、16ポイント差だった。


>一方の尾張は下降線をたどり、2005年度には西三河が125、尾張は93で、
32ポイント差に拡大した。(笑) 


>さらに、住民の所得水準については、1970年に尾張が西三河を1割程度上回っていたが、
90年以降は西三河が逆転している。


万年不況w

経済力はとっくの昔の30年以上前、給料は25年前にぶち抜かれていたようですな
県庁所在地でありながこの悲惨な体たらく、負けるもんかの気持ちで頑張ってもらいたいものです

さしずめ、名古屋嬢(笑)とかいう田舎臭いメス猿が、必死になってチンポしゃぶるしかないのでわ?
934日本@名無史さん:2013/08/30(金) 19:16:53.06
【リーマンショック後の総所得ランキング】
・課税所得額ならびに総所得額の推計を実施。本文中の数字は全て総所得額ベース。

総所得ランキングトップは江ノ電沿線、金融資産トップは京王井の頭線沿線。
リーマンショックで打撃を受けたのは近鉄長野線沿線――。

総所得ランキング
01位 江ノ島電鉄線(神奈川県藤沢市〜鎌倉市)←相模国
02位 阪急甲陽線(兵庫県西宮市)←摂津国
03位 京王井の頭線(東京都渋谷区〜武蔵野市)←武蔵国
04位 東急東横線(東京都渋谷区〜神奈川県横浜市)←武蔵国
05位 東急こどもの国線(神奈川県横浜市)←武蔵国

06位 東急田園都市線(東京都渋谷区〜神奈川県大和市)←武蔵国、相模国
07位 相鉄いずみ野線(神奈川県横浜市〜神奈川県藤沢市) ←武蔵国、相模国
08位 東急目黒線(東京都品川区〜神奈川県横浜市)←武蔵国
09位 名鉄西尾線(三河県安城市〜西尾市)←三河国  
10位 名鉄豊田線(三河県みよし市〜豊田市)←三河国

11位 東急大井町線(東京都品川区〜神奈川県川崎市)←武蔵国
12位 東急世田谷線(東京都世田谷区) ←武蔵国
13位 小田急小田原線(東京都新宿区〜神奈川県小田原市)←武蔵国、相模国
14位 名鉄三河線(三河県豊田市〜碧南市)←三河国
15位 東急池上線(東京都品川区〜大田区)←武蔵国

ソース:東洋経済オンライン
http://www.toyokeizai.net/life/living/detail/AC/a9f0b48216dc7b01346aec09db603d62/
ソースのソース:株式会社野村総合研究所 第2回全国のエリア別所得・金融資産を推計
http://www.nri.co.jp/news/2010/100330.html
935日本@名無史さん:2013/08/30(金) 22:16:34.23
へぇ〜
936日本@名無史さん:2013/09/01(日) 14:55:39.80
名古屋グランパス所属選手出身地
5人 愛知(尾張)
4人 東京
3人 ブラジル
2人 千葉、神奈川
1人 静岡、三重、長野、奈良、兵庫、沖縄他
0人 愛知(三河)
937日本@名無史さん:2013/09/01(日) 15:17:55.67
南朝方が勝利した場合の室町幕府

新田義貞征夷大将軍

楠木正成室町時代一の外様大名

で、合ってる?
938日本@名無史さん:2013/09/01(日) 15:46:36.83
南朝が勝利した場合、幕府は存在しない
939日本@名無史さん:2013/09/01(日) 18:14:17.36
ようやく、しおらしくなったか?w
今後は西三河に口答えをするなよ
940日本@名無史さん:2013/09/01(日) 21:39:49.90
>>937
義貞は政には全く興味を示さない人だったから、幕府を立ち上げましょう
なんていわないでしょ。
それにそんな事言い出したら北畠が思いっきり怒るよ。
でも北畠も一応正統な源氏と言えば源氏なんでしょ?
941日本@名無史さん:2013/09/01(日) 22:52:15.28
>>940
義貞は数カ国の国司と守護で満足するだろうが、南朝が勝ったなら全国の武士の信望を集めて、否応無く担ぎ出される可能性の方が高い。
また、義貞の子孫がさらなる飛躍を求めて幕府を開く事もあるだろう。
942日本@名無史さん:2013/09/01(日) 23:20:29.89
ごだいご「新田義貞を従三位左京大夫に任ずる」
943日本@名無史さん:2013/09/02(月) 00:16:31.79
で、建武の新政ver.2が始まるわけか
944日本@名無史さん:2013/09/02(月) 00:22:55.32
官位は北畠の方が圧倒的に高いんだから、南朝が勝ったら
新田なんぞ中央政権からは弾かれるでしょ。
945日本@名無史さん:2013/09/02(月) 01:55:24.66
南朝勝利なら間違いなく新田は排斥される。んで武士に担がれて第二の尊氏誕生。
946日本@名無史さん:2013/09/02(月) 10:53:15.43
>>945
義貞のような人望のない人間が尊氏や直義のように
裁判業務とかできるとは到底思えない。雑訴決断所に義貞の与党が
一人もいない時点で行政能力は期待されていないのだろう。
義貞を担ぐぐらいなら北条時行あたりの方がまだ合理的に思える。
947日本@名無史さん:2013/09/02(月) 13:48:11.35
わきやよしすけの大演説
948日本@名無史さん:2013/09/02(月) 23:28:06.36
義貞人望ない説の典拠って足利系の梅松論ぐらいじゃないの
太平記や理尽抄では正成>義貞>>>>尊氏だし
やはり足利寄りの源威集でも義貞=尊氏な評価だけど
949日本@名無史さん:2013/09/02(月) 23:35:38.94
あの頃は出自も人望で実力の内だからね。
外様御家人筆頭だった尊氏の下には寝ていても人が集まる。
無位無官の無名御家人にまで零落してた義貞は、常に最前線で模範を示さないと人がついてこない。
ましてや楠木なんて、守護のくせに動員できたのは一族だけ。
950日本@名無史さん:2013/09/02(月) 23:43:17.45
義貞というか、宮方VS尊氏だからね
951日本@名無史さん:2013/09/03(火) 01:36:49.54
新田の分家は程よいところで
ことごとく足利家に寝返ったな
山名氏、里見氏、大舘氏など。
そこで、足利家と同族ということで、重要な役職任されている。
952日本@名無史さん:2013/09/03(火) 01:38:38.51
義貞は尊氏に勝利したとしたら次の策はあるのか?ずっと後醍醐のパシリ?それとも八幡太郎義家の血が目覚める?
953日本@名無史さん:2013/09/03(火) 07:15:57.62
何もなかったと思う。
恐らく義家の頃に戻る感じじゃない?
貧乏人が急にあぶく銭を掴むんだから、河内源氏のお家芸、一族内の殺し合いが始まるかもしれないが。
954日本@名無史さん:2013/09/03(火) 07:46:53.97
義貞は最後まで宮方の近臣でがんばったろ。寝返らなかっただけ立派だろ。
武士層のトップなんだし。
むしろ全国の武士層が自分の利益になりやすい尊氏側についたのだろ。
武士の利益に配慮したのは尊氏の政策なんだろうし。
義貞は宮型の利益しか政策になかったっぽい。
955日本@名無史さん:2013/09/03(火) 09:25:15.09
>>954
一門にかなり所領を与えることができたから宮方のためだけとも言えない。
北国落ちの際も後醍醐に恒良に譲位させたように単純な忠臣というわけではないよ、
新田一党は。
956日本@名無史さん:2013/09/03(火) 11:22:12.49
梅松論には楠木が義貞を捨てて尊氏につけと進言したという話があるんだけど
理尽抄だったか何かでの解釈では、真の忠臣たる正成は、義貞も征夷大将軍となればみずから幕府をつくる野心家だろうし、相手が義貞となると手強いから、今のところはチョロい尊氏と組んでおいた方がよいと考えたのだという
その本はだいたい戦国時代=足利時代後期に成立した本だったようだから、代々の足利将軍なんてろくなもんじゃないという認識が一般的だったんだろうけどな
そもそも足利時代というけど、絶え間なく日本のどこかで地域紛争が起こっているような時代だった訳だからね
957日本@名無史さん:2013/09/03(火) 11:30:53.95
こんな負けまくってる義貞に幕府は無理だよ。
一応源氏の北畠が幕府作るんだよ
958日本@名無史さん:2013/09/03(火) 12:34:43.73
親王たちを全国各地に派遣しそう。んで群雄割拠になる。一応派遣はしてるけど子供ばっかりだから。成人したら
959日本@名無史さん:2013/09/03(火) 15:44:14.05
>>957
親房は頼朝や泰時を評価はしているが職源抄を見てもわかるように
武家になんかなりたくないだろうな。

>>957
成功したのは懐良ぐらいで宗良は放浪を20年ぐらい繰り返し、
恒良、尊良は死ぬ羽目になるなどろくな最最期じゃない。
地方に行っても協力者がいないとどうにもならない。
山陰に派遣された常陸宮という誰だかよくわからない
皇族は恩賞で味方するように文書を出しているがこの空手形発行レベル
ばかりだから割拠などとてもできない。
960日本@名無史さん:2013/09/03(火) 19:48:51.05
源氏は皆元を辿れば天皇に行き着く
961日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:00:31.47
>>959
懐良が成功したのは現地の武士たちの要望をうまく汲み取れたからだしね
この点で後醍醐の方針とは一線を画するとおもわれる
都から遠く離れた九州で、幼少時から武士に囲まれて育ったからこそできたのだろうね
962日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:07:46.42
あとはまぁ、本州から海を隔てた立地条件のおかげかな
963日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:22:53.38
足利軍が九州落ちした時なんで速攻勢力回復できたの?三河みたいに九州にも飛び領地あったの?
964日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:23:45.62
太平記はもちろん源威集、理尽抄などでは義貞は名将扱いなのに
なんで義貞は負けまくっているというイメージなんだ?
家格で圧倒的に不利だったにもかかわらず北条氏を殲滅し足利氏と互角に戦ったわけなんだが
965日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:30:52.47
>>963
一応あった
966日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:31:45.49
>>964
大局的な敗北が多いからだろう。勝利者としてふさわしいのは鎌倉攻めぐらいで
その後は箱根竹下で敗走し、尊氏の入京を許し、尊氏の西走後に追撃しようとして
赤松に足止めされ湊川、洛中と敗北したなどこれほど頼りにならない大将もいない。

北国で斯波高経を破り、越前の府中を確保したのにその後直ぐに死んだのがな…。
もっともその後高兄弟が出てきたら顕家よりもうまく戦えるとは到底思えないがな。
967日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:43:09.06
ていうか義貞は持ち上げられすぎなんじゃないかと。特に鎌倉攻め。
北条系以外の守護家はほとんど残ったし、彼らは足利でも黙過できない実力を持ってたし、
目立たないだけで、下野小山氏や下総千葉氏も鎌倉攻めをやっている。

新田や楠木がどんなに領地をもらっても、2年や3年で支配が安定してたか疑わしいし、
後醍醐が敗勢になったとたん、諸国の武家があぼーんしちゃったのも当然かと。
968日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:48:30.18
>>963
通説では、九州で鎌倉以来の守護やってた武藤(少弐)、大友、島津が味方したから。
まあ尊氏に味方したから、その後も生き残れたんだろうとも言えるが。
969日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:54:39.79
>>966
ていうか白旗城合戦は義貞の愚劣ではなく赤松円心の名将ぶりを示すものだよなあ?
やったことは正成の千早赤坂城と同じなのだから

あと北畠顕家が何故あんなに強かったのか謎だ
970日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:54:45.37
所領があったとか、筑前にちょろっとだろ
範頼軍みてもそうだが、三河武士は九州に負けた事がない
三河武士に不可能はない
971日本@名無史さん:2013/09/03(火) 23:59:58.37
所領一覧みても、本領の三河以外はカスみたいなもんだ
もちろん飛び地の足利や上総など、面積的にゴミ
972日本@名無史さん:2013/09/04(水) 00:00:17.51
>>969
鎌倉では、平泉の再興を阻止する東北非政治化がその政策の基調であった。奥州総奉行を置きながら、これを単なる中継機関程度にしか扱わず、
やがてこれを鎌倉直轄としたのも、そのことを示していよう。
それともう一つ、鎌倉時代には、地頭の生活の本拠は関東=鎌倉にあったから、彼らが東北武士として働くことはほとんどなかった。

『保暦間記』
「東国ノ武士、多ハ出羽・陸奥ヲ領シテ其力モアリ。是ヲ取放サント議シテ、当今ノ宮一所下シ奉ルベシトテ、
国司ニハ(中略)土御門ノ入道大納言親房息男顕家卿ヲナシテ、父子トモニ下サル。誠ニ関東ノ侍モ多付テゾ下リケル。
(中略)同十二月、主上ノ宮成良親王ト申ニ、尊氏舎弟左馬頭直義朝臣相副テ、関東八ヶ国守護トシテ下向アリ。
鎌倉ノ将軍トゾ申ケル。サレドモ、出羽・奥州ヲ取放サルル間、東国ノ武士、多ハ奥州ヘ下ル間、古ノ関東ノ面影モ無リケリ」

これは非常に大事なことを語っている。鎌倉時代の武士は、東北に所領を持つ関東武士としての勢力が強かった。
奥州に強力な国司制度をしいたのは、その関東武士の勢力の根源を断ち、鎌倉の権威にかわる権威を東北につくるためである。
その政策が成功して、東北に所領ある武士は、大半奥州に下向したので、鎌倉は名ばかりとなった。
そういう意味のことが述べられているのである。
(山川県史シリーズ4『宮城県の歴史』高橋富雄)
973日本@名無史さん:2013/09/04(水) 00:08:49.85
>>972
相馬とか芦名が東北に本拠を移したのは事実だが、関東の所領も全く放棄されたわけでもない。
それに、戦国末まで東北の大名・国人はほとんど関東か甲斐にルーツを持つ人たちだった。
974日本@名無史さん:2013/09/04(水) 01:22:17.80
東国はやっぱ荒れるね
西国は比較的平穏だね
975日本@名無史さん:2013/09/04(水) 10:08:41.78
>>972
まあ直義が成良を奉じて関東に下向すると元に戻ったけどね。
ただ北畠親房が後醍醐に奥州府は裁判権の独立を約束させた
ことが多くの北関東の武士たちを惹きつけることになったのは事実だろう。
奥州府の式評定衆に地元の武士が多いことからもわかる。

津軽安藤の乱ではアイヌも加わって北条も何年も鎮圧できなかったことから
こういう連中を兵士にすれば強いだろうな。
976日本@名無史さん:2013/09/04(水) 19:33:52.39
なかっち 動画
http://www.youtube.com/watch?v=z2qK2lhk9O0s



みんなで選ぶニコ生重大事件 2012
http://vote1.fc2.com/browse/16615334/2/
2012年 ニコ生MVP
http://blog.with2.net/vote/?m=va&id=103374&bm=
2012年ニコ生事件簿ベスト10
http://niconama.doorblog.jp/archives/21097592.html


生放送の配信者がFME切り忘れプライベートを晒す羽目に 放送後に取った行動とは?
http://getnews.jp/archives/227112
FME切り忘れた生主が放送終了後、驚愕の行動
http://niconama.doorblog.jp/archives/9369466.html
台湾誌
http://www.ettoday.net/news/20120625/64810.htm
977日本@名無史さん:2013/09/04(水) 22:19:19.32
このスレも埋まるか、感慨深いな
キートン山田で一時レス止まったのは残念だったがw
978日本@名無史さん:2013/09/04(水) 22:23:29.35
三河厨は三河スレ建てて勝手にやれ
979日本@名無史さん:2013/09/05(木) 00:04:52.51
>>975
白河結城氏もあっけなく寝返ったけどな
980日本@名無史さん:2013/09/05(木) 07:51:05.98
源頼朝・源範頼軍は、元祖三河武士団
昔から平成の時代に至るまで負けた事がない
981日本@名無史さん:2013/09/05(木) 08:31:33.27
三河の藤姓熱田大宮司家との血縁で、三河守護になれた足利氏()は、先祖の地三河を本拠にしたからこそ、天下を取れた
982日本@名無史さん:2013/09/05(木) 11:58:46.65
もう田舎ラブはわかったから
983日本@名無史さん:2013/09/05(木) 12:15:04.30
田舎ラブとは、クダラナイ新田と足利とかを語る、北関東の猿の事か?w

三河は未来指向、グローバル指向のリアリストだからな、昔の事は興味がないからな
やろうと思えば威張りちらかせるが、やらないだろう

大体な、新田と足利など源頼朝がと武田氏と同じだ
984日本@名無史さん:2013/09/05(木) 12:29:49.28
何故レスしているのか未だに分からないとは、やはり頭が悪いわな
俺は関東が大嫌いなんだよ
勘違いしやがる、万年パシリに、身の程を教えてやる
985日本@名無史さん:2013/09/05(木) 13:17:22.85
んじゃ三河に幕府置けよ
986日本@名無史さん:2013/09/05(木) 13:48:44.10
万年パシリの高卒め
トヨタグループと言う幕府を開いているだろ

山名大舘里見が、同門だから室町幕府の幹部になったとか、笑い殺すつもりか?
新田に同門意識などあるわけねーだろ
987日本@名無史さん:2013/09/05(木) 14:12:56.27
>>972
倉持文書で足利氏の所領として陸奥加美が足利に次いで二番目に来ているのも
東北に所領があるがあるということが大事だったからなんだろうな。
ここも新田と差がついている点か。
988日本@名無史さん:2013/09/05(木) 17:26:31.02
山名や里見の独立のみならず、総領権まで奪われちゃったし
最終的に新田宗家のもとに残った所領ってどのくらいなんだろ?
989日本@名無史さん:2013/09/05(木) 19:39:00.63
>>988
新田荘以外の所領は確認されてないらしい。
しかし鎌倉期の新田一族は越後方面に進出してたらしく(ただし宗家の権力は不明)
義貞夫人が得宗被官安藤氏なので北条氏の被官になりつつあったのかも。
990日本@名無史さん:2013/09/05(木) 19:42:41.37
>>986
山名は破格の厚遇で管領並みと言えるかも知れんが、里見・大館はそこまでじゃないな。
関東の岩松氏は上杉氏と通婚するほどの家ではあった。

新田という単位で同族を意識してたかは非常に疑わしいが、
足利の遠戚でもあるので、血統が全く無意味だったとも思えず。
991日本@名無史さん:2013/09/05(木) 19:51:20.92
>>984
>俺は関東が大嫌いなんだよ

関東以外の日本領は全て関東の植民地…
大阪がどうあがいても金融の中枢は東京から動かない…
江戸時代の大阪市も人口は江戸の半分にも達しなかった…
神戸市の人口は横浜市の半分以下…
名古屋など大阪市より更に格下…
植民地の出先都市札幌よりややマシといったところか…
関東と名古屋の植民地に過ぎない三河なんて…単なる交通路?w
992日本@名無史さん:2013/09/05(木) 20:48:40.98
すいません、三河って観光するのに何かあるんですか?
馬鹿にしているんじゃなくて、本当に何か観光スポットがあるのか知りたい
のですが。
それか、三河ならではの特産、名産品でもいいです。
993日本@名無史さん:2013/09/05(木) 21:02:14.67
>>991
また、太田道灌が文明12年(1480)に山内上杉氏の家臣高瀬民部少輔に提出した書状「太田道灌状」によれば、道灌は成高を「吉良殿様」と敬称をもって呼び、
「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と武将成高への感謝を記しています。

鎌倉鶴岡八幡宮の供僧だった相承院の快元の記録した「快元僧都記」によれば、快元は吉良頼康を「吉良殿様」「蒔田御所」と敬称を使用、北条氏綱に対しては「氏綱」と呼び捨てにしています。
当時の関東では「足利氏一家衆」という吉良氏の存在が小田原北条氏以上に尊敬を受けていたものと思われます。





>吉良殿様
>御籠城
>御命令



力抜けよw万年パシリのトンキン猿w
994日本@名無史さん:2013/09/05(木) 21:55:28.02
>>993

「w」を使ってる人って追い込まれてる人の典型なんだよ?
優位勢をアピールしてwを使うんでしょ?
995日本@名無史さん:2013/09/05(木) 22:10:45.49
山名氏
・初代は三河の矢田義清の息子、義範の範の字は三河の熱田大宮司家が関係か?
・時氏の母親は、三河の足利奉公人筆頭の上杉頼重(上杉清子の父)の姉妹

岩松氏
・初代の父親は足利義純


大舘氏が三河の酒井氏の先祖の話は、三河との繋がりを感じさせる



新田に同門意識があって、幹部として登用されたとは言えないわな
結局は三河よ
996日本@名無史さん:2013/09/05(木) 22:42:37.11
三河猿はスレ立てることもできないらしい
だからあちこちのスレに寄生して妄言を垂れ流す
本当に田舎者は「お行儀が悪くて困る」
997日本@名無史さん:2013/09/05(木) 22:53:36.25
>>992
聞いて驚け!
















ないんだな、それが
998日本@名無史さん:2013/09/05(木) 23:03:46.89
お前らよく頑張ったな

    次スレ
     ↓

新田と足利が手を組んだら
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1324421053/

新田と足利4
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1363689222/
999日本@名無史さん:2013/09/05(木) 23:05:36.62
999
1000日本@名無史さん:2013/09/05(木) 23:06:49.55
1000なら征夷大将軍義貞
10011001
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。