邪馬台国は九州にあった23

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1日本@名無史さん
 
定説にとらわれず道理にのみ従い真実を論究し続けるスレ第23弾
 
 
前スレ
それでも邪馬台国は九州にあった…22
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1359787894/
2日本@名無史さん:2013/03/06(水) 20:51:08.57
乙 蟹飯
3日本@名無史さん:2013/03/06(水) 20:58:02.49
イチモツ!

アマテラス=卑弥呼・台与  高天原は北部九州・邪馬台国である

朝鮮半島は北部九州から見て「海北」にある。
宋書倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」では、「東は毛人の五十五国を征し、西は衆夷の六十六国を服し、渡りて海北の九十六国を平らぐ」と述べてられている。

日本書紀には、宗像の女神(沖ノ島)は「今、海北の道中に在す」 と書かれている。
これらが書かれたのは、神武東征後の巨大古墳や奈良時代の事だから、倭国の中心は完全に機内ですな。
だけど、高天原邪馬台国=北部九州時代から 朝鮮半島のことを「海北」と呼んでいたので、その慣習から「海北」と書いた。
それは日本書紀の編集時代8世紀にも継承されたのである。

そして、アマテラスの生誕地が筑紫であり、弥生時代の墓から鏡が出るのは、福岡県と佐賀県だけだ。
さらに、古代天皇は100才以上とか、有り得ない記述があるが、 手元の年表では、26継体天皇(507)から載っている。
これに、96後醍醐天皇(1318 )まで71代を計算すると、一代平均11.4 年だな。 26継体天皇(507)から11.4年×25代遡った神武即位は(322)だ。
そして更に、11.4年×5代遡ったアマテラス=台与の即位は(265)。
実際の台与即位は(247)以降近辺だが、十分に誤差の範囲といえるだろう。
4日本@名無史さん:2013/03/06(水) 21:18:39.01
>翰苑 卷第卅 「山に憑き、海を負い、馬臺を鎮め、以て都を建てる」

山の幸、海の富を頼みとし、馬台国を鎮め、以て都を建てる
つまり邪人の馬台国のちからの源は、沿岸平野部から九州山地までを擁していたことによるの意味かと??
5日本@名無史さん:2013/03/06(水) 21:42:59.68
馬台って、倭面土国と関係あるの?
6日本@名無史さん:2013/03/06(水) 22:06:06.88
>>5
倭人伝とは100年くらいの時差ありかな、手がかりみつからないねえ
7太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/03/06(水) 22:22:44.97
>>さらに、古代天皇は100才以上とか、有り得ない記述があるが

宿主は応神が約110歳も生きてたと言ってるそうな・・・。

    ↑ 
 紀違いにホ物 w
8日本@名無史さん:2013/03/06(水) 22:26:33.07
>>5
邪馬台国と倭面土国は同じ国である可能性が高い。
9満州七色仮面:2013/03/06(水) 22:55:12.26
倭面土国

これについてよ〜く考えれば私の満鮮朝鮮説に行き着くだらう(七色の微笑)
10日本@名無史さん:2013/03/06(水) 23:03:34.53
>>9
ここは九州説専用スレだから満州説はすれ違いで荒らし
2chの基本ルールくらい守れよ
「ドンと来いスレ」か「謎の女王スレ」にいればいいだろ
11日本@名無史さん:2013/03/06(水) 23:24:57.86
倭面土國(ヰメト)をよ〜く考えれば倭米多國(ヰメタ)、

即ち「筑志米多國」、「肥前米田郷」、現代地名「米多」、現代地名「目達」等。

倭面土國の城柵は、2世紀前期に衰退する吉野ヶ里遺跡だ。
12サガミハラハラ:2013/03/06(水) 23:38:53.58
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡(サクラオカ)です。
13日本@名無史さん:2013/03/07(木) 03:22:20.24
>>5
吉野ヶ里の倭面土國は新興邪馬台国連合(2世紀末の女王國)に滅ぼされ、
その世々の王統は伊都國に幽閉されました。
14日本@名無史さん:2013/03/07(木) 05:21:24.65
帥升はスサノオかも?
漢人ぽい名前ではあるがw
15満州七色仮面:2013/03/07(木) 09:33:18.59
>>10
馬鹿だな、お前は。
反対意見があるから議論が進歩するんだ。
悪が存在するから善に意義があるのと同じことだ。

九州人がつまらない九州説をわいわいがやがや語ったところで、何の進歩もないんだ。
>帥升はスサノオかも?
こんなことを平気で書いている人間が百人集まったところで何の意味があるというのだ。
16日本@名無史さん:2013/03/07(木) 09:56:25.62
無満善(まん州なくてよか←九州読み)
有差良(さがありてよか←九州読み)
17日本@名無史さん:2013/03/07(木) 10:09:41.23
満州が来るおかげで、
周囲の全員が不快になる
18日本@名無史さん:2013/03/07(木) 10:24:19.75
慢臭は出ていけー
19日本@名無史さん:2013/03/07(木) 16:59:25.17
>>15
このスレがなぜ立ったのかをちゃんと過去ログで読み返せ
そして出て行け
20日本@名無史さん:2013/03/07(木) 17:13:16.70
満州がなぜ嫌われるかというと
説がどうこうというより
「わしにかまってくれ、わしの相手をしてくれ」という気持ちが透けてみえるからだ
2chは寂しい年寄り相手のボランティアではない
21満州鉄仮面:2013/03/07(木) 17:24:25.19
満州が来るおかげで、
周囲の全員が愉快になる
22日本@名無史さん:2013/03/07(木) 18:53:36.23
慢臭は、自分が人格障害だという自覚を持てよ。
23日本@名無史さん:2013/03/07(木) 19:04:25.09
でも満州がいるとスレの雰囲気が明るくなる
24日本@名無史さん:2013/03/07(木) 19:35:24.79
満州は、自分では駆け引き・賑やかしのつもりか知れぬが、
識別できない実不実を織り交ぜるから困るんだよな
25日本@名無史さん:2013/03/07(木) 19:43:40.40
こう書けば満州は当然否定するだろうが
自分でも邪馬台国満州説を信じてはいまい
だから満州説を他人から批判されても痛くも痒くもないはずだ
そのくせ他人の説を一言のもとに批判する
26日本@名無史さん:2013/03/07(木) 20:10:41.33
まあ、人格障害だから、当然、絡んでくるわな。
27日本@名無史さん:2013/03/07(木) 20:57:57.03
大爆笑!!!!www
28日本@名無史さん:2013/03/07(木) 22:49:47.65
慢臭は平気で他人をバカ呼ばわりするくせに
自分がバカと呼ばれると、顔真っ赤にする
29日本@名無史さん:2013/03/07(木) 23:56:55.06
カレーの福神漬けって思えばよかたい
30日本@名無史さん:2013/03/08(金) 00:00:37.89
>>23
>でも満州がいるとスレの雰囲気が明るくなる



他の固定と違い 住民全員が 上から相手できるからな
31日本@名無史さん:2013/03/08(金) 01:15:38.47
爆笑!w
32日本@名無史さん:2013/03/08(金) 02:13:28.50
ここまでぶっ飛ぶとキチガイの域だな
33日本@名無史さん:2013/03/08(金) 08:33:00.54
慢臭は他人の説を貶めてけなすが、
自分の説の根拠・論証は決して書かない
34日本@名無史さん:2013/03/08(金) 08:51:07.04
自己愛性人格障害だから、しかたがないな。
35日本@名無史さん:2013/03/08(金) 09:10:13.84
慢臭は常に2chのことを卑下してやまないが、
自分はその2chが好きで好きでやめられない
いつも2chにまとわり付いてしまう
36日本@名無史さん:2013/03/08(金) 09:34:45.76
満州の本心は畿内説
曰く間違いの多い陳寿を正しいとして読む九州説は間違い
しかし適度に修正しながら読む畿内説は許されるという偏自己厨
37日本@名無史さん:2013/03/08(金) 12:52:34.12
とりあえずネタ変えて、倭國の風土を論じてみよう!

一夫多妻だったのか!?
38日本@名無史さん:2013/03/08(金) 13:33:38.25
女多く男少なし
当然一夫多妻か
39日本@名無史さん:2013/03/08(金) 14:52:29.38
満臭は隠れ九州説なのバレバレじゃん。
で日本人じゃないでしょ、
あまりにも日本の地理や古典に無知すぎる。
40日本@名無史さん:2013/03/08(金) 15:29:50.63
一見、隠れ九州説に見せかけてるけど、
じつは内心、畿内説のトロイの木馬を気どってる
たしかに九州の地理に疎いわりに満鮮には土地勘があるようだ
41日本@名無史さん:2013/03/08(金) 15:31:39.10
たぶん慢臭は、ウリナラ在日コリアだろう。
いまに、
わが同胞=朝鮮民族はアジア全域を支配していた、
なんていう結論を連呼してくるだろう。
42日本@名無史さん:2013/03/08(金) 15:43:19.58
マン臭は日本の土地勘に疎いのが致命的だなw
43太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/03/08(金) 15:57:08.17
>>39>>40
もっとすごい奴がいる。ww

畿内説九州説畿内兼九州説の三つのカードを時と場合によって利害に応じて出し変えるの使いわけをして
いる男〜宿主という  インチキ男=スリー・エース  だ。

http://www.youtube.com/watch?v=AXCe26oL1BM
44日本@名無史さん:2013/03/08(金) 16:17:42.19
>>41
このバカ何を勘違いしてるんだ?
ここは薄汚いネトウヨの来るところじゃない。
出て行け蛆虫!
45日本@名無史さん:2013/03/08(金) 20:17:31.65
>>44
オマエが出て行けwww
ブサヨwwwくっさww
46日本@名無史さん:2013/03/08(金) 20:39:38.72
満州爺様はじめ高齢者は2ちゃんねるに貴重
47日本@名無史さん:2013/03/08(金) 21:34:32.16
そのうち高齢者ばかりになるぞ
48日本@名無史さん:2013/03/08(金) 21:43:09.25
日本史板は後期高齢者が中心
49日本@名無史さん:2013/03/08(金) 22:41:54.19
高齢者は貴重だが、満臭はいらんだろ
50日本@名無史さん:2013/03/08(金) 22:49:51.99
おそらく古田・安本と同年配の人が多いだろう
51日本@名無史さん:2013/03/08(金) 23:01:33.37
徐福が日本へ向けて出発した地は連雲港(山東半島南側の付け根)
山東半島南岸を経由して半島へ渡って日本へ向かったのだろう。
その当時は北京以北は敵対異民族(鮮卑、匈奴)の支配地で、漢江以北も同様。
さて、ここの愚民どもはこの事実から何を感じることが出来るのだろうか?
52満州鉄仮面:2013/03/08(金) 23:05:45.60
ははは、僕は君らが思っているような爺さんではないぞw
ここでは気取って私と書いているが、普段は僕と言っている。
小柄でスマートだから若く見える。なにしろ四十歳くらいのときに、
「兄ちゃん、もう二十歳になったんか?」と聞かれたことがあるw

イメージとしては浅田彰のようなタイプである。
浅田彰よりもっとハンサムで感じが良い。
ときどき学校の教師と間違われる。親戚の葬儀に出たとき、初対面の遠戚の人から、
「おや、これはいかにも学校の教師のようなお人ですな」と言われたことがあるw

君らより若く見えて頭も良いことは間違いない(笑)
53日本@名無史さん:2013/03/08(金) 23:27:30.75
ウソをついても、
画面を160%に拡大して見てることはバレてるぞ
54日本@名無史さん:2013/03/08(金) 23:37:35.05
>翰苑 卷第卅 「邪(馬台)は伊都に届き、傍ら斯馬に連なる」

「邪(馬台)国は、血統を以て伊都国に届き、傍ら斯馬国にも連なる」と解釈すれば、
熊本邪馬台国〜伊都国〜唐津に至る人的交流・物流ルートの要所に、
血で結ばれた伊都国、斯馬国があったと読めます。
この斯馬国の候補のひとつに、
語呂合わせ風ながら福シマ(八女郡中心部の古地名、筑紫磐井本拠地)を挙げることもできるでしょう。
55日本@名無史さん:2013/03/08(金) 23:40:58.50
>>52

× なにしろ四十歳くらいのときに、「兄ちゃん、もう二十歳になったんか?」と聞かれたことがあるw
○ なにしろ八十歳くらいのときに、「爺ちゃん、もう九十歳になったんか?」と聞かれたことがあるw
56日本@名無史さん:2013/03/08(金) 23:58:17.77
>翰苑 卷第卅
>広志いわく、倭国東南陸行五百里、伊都国に到る。また南、邪馬嘉国に至る。

後世の書になるが、伊都国の南に邪馬嘉国ありとしている。これは現在の熊本県山鹿市に当たるであろう。
近辺に広大な弥生遺跡をみることができます。
57日本@名無史さん:2013/03/09(土) 00:42:28.75
熊襲の女大酋長
58日本@名無史さん:2013/03/09(土) 00:45:47.40
最近ネタ切れで満州さん弄りかよ
59日本@名無史さん:2013/03/09(土) 01:09:14.99
「升」のは「のぼる」ちゃん

蚕支落部 蠶支落大加 戴升 ← 「たいしょう」の「のぼる」ちゃん

公孫度字升濟 ← (越海收濟の)「のぼる」ちゃん
「讖書云孫登當爲天子 太守姓公孫 字升濟 升即登也」

度大怒 掘其父冢 剖棺焚屍 誅其宗族
分遼東郡爲遼西 中遼郡 置太守
越海收東莱諸縣 置營州刺史    越海收東莱諸縣 ← 濟
自立爲遼東侯 平州牧 追封父延爲建義侯
立漢二祖廟 承制設壇?於襄平城南
郊祀天地 藉田 治兵 乘鸞路 九旒 旄頭羽騎

官有伊支馬
次曰彌馬升 ← 「のぼる」ちゃん


景初二年(238)六月倭女王遣大夫難升米等詣郡
難升米 ← 「のぼる」ちゃん
60日本@名無史さん:2013/03/09(土) 01:24:32.55
ここで一句

大便を こきたる空に 玉すだれ       川崎てんこす
61日本@名無史さん:2013/03/09(土) 09:20:21.93
唐代には、故事を4文字熟語250例でつづった唐千字文という習字の手本がある
翰苑も、当時の資料から有名かつ関心を持たれていた内容を抜き出し、
4〜6文字の熟語風に書き直したのではないか。
ゆえに倭国について、
唐代の人々ないし日本人はこのように読み書きして、さして不思議でなかったのであろう
62日本@名無史さん:2013/03/09(土) 09:41:56.85
>>翰苑 卷第卅 倭国東南陸行五百里、到伊都国、又至南邪馬嘉国

当時6〜7世紀の人々はこのように書いてあれば、なんの迷いもなく佐賀平野伊都国へたどり着けたのであろう
奈良時代には、唐津松浦港から佐賀方面へ駅家も整備されていたほどの幹線道路
20世紀の衆人はなぜ方角違いの道なき山岳地帯をこえて糸島へ向おうとしたのか、ふしぎでならぬ
63日本@名無史さん:2013/03/09(土) 09:48:20.64
>>62
伊都国を佐賀平野にしたら、畿内説も北部九州説も蚊帳の外になってしまうから。
64日本@名無史さん:2013/03/09(土) 09:59:32.59
翰苑が新資料を元にしてるという根拠もないな
65日本@名無史さん:2013/03/09(土) 10:06:22.24
まぼろしの邪馬台国論争は、
戦後の不安定社会に起こった、あと先顧みない群衆心理的行動とでも理解するほかないのか。。。
66日本@名無史さん:2013/03/09(土) 10:16:40.77
>>63
>伊都国を佐賀平野にしたら、畿内説も北部九州説も蚊帳の外になってしまうから。

佐賀君には申し訳ないが、畿内説では全然蚊帳の外にならないよw
糸島を伊都の津、海上交通の為の島だと解釈すればいいだけだし。
67日本@名無史さん:2013/03/09(土) 10:23:51.15
伊都津比古が山口県の穴門にいた時点で伊都=佐賀説は終了してるだろう。
68日本@名無史さん:2013/03/09(土) 10:34:24.54
翰苑が新資料をもとにしたかどうかわからぬが
少なくとも7世紀ころには邪馬壹国でなく、邪馬嘉国で世間に半分通用してるといえる

邪馬壹国→邪馬臺国に読み替えてよいのなら、もしかして邪馬壹国を邪馬嘉国に読み替えるのもなくはないな、
字体も似てると言えば似てるし??
ま、邪馬台国がその後の政変でさまがわりし大邪馬嘉国の誕生に至ったとか、いろいろありうるので妄想の部類だが。。。
69日本@名無史さん:2013/03/09(土) 10:42:57.91
>>66
佐賀平野と糸島の間には背振山系といって凄い山岳があり実用的な通行不可
しかもむかしから(近世)、その北東は筑前国で糸島を含む、その南西〜唐津は肥前国で別世界
佐賀伊都国の津が糸島はありえない、
今でも地元の人なら言うまでもないこと
70日本@名無史さん:2013/03/09(土) 10:46:33.27
伊都国糸島説の人って線と点だけの地図見て言ってるんだよね
実際行ってみれば弥生末にあのあたりを歩いて行ったとか有り得ないってわかる
71日本@名無史さん:2013/03/09(土) 10:55:32.46
佐賀伊都国の津の役割が糸島だというのは、江戸の津が日本アルプスを越えた富山湾だというようなもの
まあ、そこまで大規模と言わなくとも、
実態としてそのミニチュア版であることは確か
72日本@名無史さん:2013/03/09(土) 11:02:48.96
翰苑のような
信頼できない史料を根拠にしてはならない
73日本@名無史さん:2013/03/09(土) 11:11:42.26
>>69
>伊都津比古が山口県の穴門にいた時点で伊都=佐賀説は終了してるだろう。

これはどう説明するんだよ?
山口県に居て関門の主を主張してるのに佐賀では説明つかないぞ。
74日本@名無史さん:2013/03/09(土) 11:17:17.56
>>71
実際行ってみれば弥生末にあのあたりを歩いて行ったとか有り得ないってわかる

そんなにあの辺りが未開拓なら、何万戸もの集落が
北部九州に集中しないだろうな。
75日本@名無史さん:2013/03/09(土) 11:25:33.93
>>72
根拠というわけではないが、当時の大衆もそれで納得してたというのはたいしたもの
現在の近畿説や北九州説くらいの価値はあるな
76日本@名無史さん:2013/03/09(土) 11:32:04.67
本州山口から北九州を通って、唐津に向かうときには、
筑豊から、冷水峠を通って、原田に出るのね。
この路線は博多を通らない路線。
この筑豊本線で昔は特急が走ってたそうな。

ここから、鳥栖、佐賀を経由して唐津に向かう路線がある。


ちなみに、博多から篠栗を通って、筑豊に向かう
篠栗線はわりと後に開通する。

かなりの長大トンネルが必要で、建設が難しかった。


同じく、博多から唐津に向かう筑肥線も長大トンネルが必要で、
建設が大変だった。
77日本@名無史さん:2013/03/09(土) 11:34:49.87
>>73
山口県の穴門にいたれかが「オレは伊都津比古だー」と名乗っただけで、
古今東西そういうことよくあることじゃないの
78日本@名無史さん:2013/03/09(土) 11:35:37.21
北九州から筑後方面に向かう筑豊本線のうち、
桂川から原田までは、今では相当客の少ないローカル線のはずだが、
かつての大動脈なので、筑豊「本線」という名前で名残が残っている。
79日本@名無史さん:2013/03/09(土) 11:55:16.32
筑豊が栄えて大動脈だったのは明治以降の石炭発掘の為だろう。
80日本@名無史さん:2013/03/09(土) 12:01:22.75
戦後いち早く、伊都国は糸島だー、と大声挙げた人は、
その後、「糸島には天照大神の宮殿があって、その大鳥居の柱穴を掘りあてたぞー、」とか言い出したらしいが。。。
81日本@名無史さん:2013/03/09(土) 12:06:04.71
怡土が伊都じゃないというのはおかしい
82日本@名無史さん:2013/03/09(土) 12:13:56.58
糸島は糸島で重要な遺跡群だが、
肥国連合の邪馬台国との関係は、比較的薄い。

糸島は筑紫国、特に奴国都の関係が深い。
博多湾の入り口に当たる場所だからである。

ひょっとしたら、博多湾の入り口に当たる今宿付近は、
奴国の管轄かもしれない。

いまでも、糸島市は。直接博多湾に面するところにはなく、
博多湾が面するところは、福岡市だからである。

周船寺あたりに糸島市と福岡市の境界がある。

奴国に言わせれば、他国に博多湾の首根っこを押さえられてたまるか、
ということだろうか。
83日本@名無史さん:2013/03/09(土) 12:14:25.06
  【穴門】のは
【阿那門】で
【阿那門】は東の
【邪馬門】は南の【門】ぢゃろて
84日本@名無史さん:2013/03/09(土) 12:25:04.28
鉄製の武器を独占できるかどうかとか
ちゃんとうまいこと鏃の配分ができるかどうか
ここらへんが卑彌呼姉弟王権のパワーの基礎のところ
だから
「壱岐をコアなところとした海峡の制海権」
こいつに考慮が及ばないような國國比定はおこちゃま技だ罠
85満州月光仮面:2013/03/09(土) 12:47:46.67
満州真理教

唐津から 東南五百里 日向国
86日本@名無史さん:2013/03/09(土) 12:48:11.89
ま、地形的に見て糸島は那国の港のひとつで
遺跡としては工房跡の感じが強い、もしかして那国用の鏡など製造してたのかもしれぬ

>84 の言うように、ルートとしては壱岐の方が桁違いに重要だったとおもうね
87日本@名無史さん:2013/03/09(土) 12:50:47.04
大体倭人伝でも対馬の官自体が「ヒコ」だからな。
山口辺りで伊都津比古が王を主張するなら、
糸島辺りに伊都は活動基点を持ってないとおかしい。
仮に伊都は内陸部にあっても港は糸島辺りにないとな。
88日本@名無史さん:2013/03/09(土) 12:54:24.20
>>87
それが、唐津松浦港−壱岐原の辻、というわけだ
89日本@名無史さん:2013/03/09(土) 12:57:33.07
>>88
それはマツラ国じゃないの?
90日本@名無史さん:2013/03/09(土) 13:05:18.05
>>87
近畿、東京目線だとそうなりやすい
しかし洛陽目線あるいは中九州。南九州の目線だと、糸島伊都は地形的に有り得ない
秀吉の朝鮮出兵も佐賀経由
なお古代の「都」はトでなく、ツと読む、都万神社→ツマ神社、菅原都々子→スガワラツヅコ、
伊都国も当時はたぶんイツコクだね
(トと読むのは近世風、もしかして明治以降かも)
91日本@名無史さん:2013/03/09(土) 13:17:48.38
鳥のヒナは生まれて初めて見る動くものを母親(正義)と思うようにできているらしい(刷りこみ)
われわれ人間も鳥類に似たところがある

始めて聞く説(例えば畿内説)が一番正しく、
二番目に聞く説(北九州説)は半分正しく
三番目の(佐賀説)はウソと思う
大いに注意自戒すべし
92日本@名無史さん:2013/03/09(土) 13:33:33.39
>>91
俺は元々九州説だったけどな、
倭人伝=邪馬台国=九州みたいな本ばかりで、
吉野ヶ里の頃はそれで決まりみたいな風潮だったし。
でも今は九州、特に北部だけは絶対有り得ないと思ってます。
93日本@名無史さん:2013/03/09(土) 13:40:01.39
http://goo.gl/maps/6eEgv
多紐細文鏡の分布

卑彌呼から300年とか前にはやったやつ。

これのも初期にはサイズが90mmφあたりのからだんだんでかく成長したのかもしれんよね

多紐細文鏡には鉄の鏃は伴出とかせんよね。

青銅器がはやっていた圏のが北部九州にひろがっておったところに

鉄器もったつおいおひとのおなかまの一団が渡来して

青銅器圏のに受容された結果のなれのはてので

3世紀にあったのが卑彌呼姉弟王権といいつべしだろ。

高木神の娘の女大酋長の血筋は婿はんとろけさせて居付かせがちだとはゆうが。
94日本@名無史さん:2013/03/09(土) 14:01:50.35
【高御産巢日~】之子 【思金~】
           【常世思金~】 ← ちゃんと渡来~だって書いてあるけどな
             次【思金~】者 取持前事 爲政

【高木~】之女 【萬幡豐秋津師比賣命】
      生子 【天火明命】
      次  【日子番能邇邇藝】
95日本@名無史さん:2013/03/09(土) 14:04:40.18
是【高木~】者【高御産巢日~】之別名

わすれものした
96日本@名無史さん:2013/03/09(土) 14:08:43.23
故 其【伊邪那岐大~】者 坐 【淡海】之【多賀】也
      (あうみかみ)    (あうみのたか)
      (あふみかみ)    (あふみのたか)
      (阿~不彌~~)    (阿~不彌~高) ← 【不彌國】の拡張域だわ
                         【高木~】
           是【高木~】者【高御産巢日~】之別名

【伊邪那岐大~】⊂【高木~】 という関係 

【伊邪那岐大~】は【高木~】のうちのおひとり
97日本@名無史さん:2013/03/09(土) 14:20:25.91
>>66
伊都国を佐賀平野に比定するのは佐賀説と決まったわけではない。
むしろ、その南である可能性のほうが高い。
有明海を南下しなくては始まらないと考えているケースが多い。

>>93
多鈕細文鏡は、朝鮮半島に多いがこの鏡だけが特別といえる。
むしろ、二世紀以降の朝鮮半島の鏡文化は日本の影響を強く受けていると
言われるな。
98日本@名無史さん:2013/03/09(土) 14:59:55.60
弥生時代全体を通して渡来人が連続的に来てるのは確かだろうが
そこから神話につなげるのは想像だな
水石里式土器なんかの分布を調べてみるといいだろ
99日本@名無史さん:2013/03/09(土) 15:25:06.34
また、答えの出ないパズルか
新スレだってのに延々と変わらんな
ルーピーってやつか
100日本@名無史さん:2013/03/09(土) 15:33:22.58
>>99
別ブログで落下傘部隊、別スレで先遣工作班が活躍してるよ、だいぶ先まで行った、
ここはしんがりで道を清める役目。
101日本@名無史さん:2013/03/09(土) 16:15:47.21
>>99
「答えを出したら、そこで試合終了だよ。」

「先生!! 邪馬台国がしたいです・・・(涙)」
102日本@名無史さん:2013/03/09(土) 16:17:09.54
國國有市 交易有無使大倭監之

「國國の市」のに派遣される卑弥呼さんのお使いの「使大倭」が「したいわ」とか「したいゐ」
103日本@名無史さん:2013/03/09(土) 16:30:28.95
>高木神の娘の女大酋長の血筋は婿はんとろけさせて居付かせがちだとはゆうが。

邪馬台国でこういうのをみつけろや。
104日本@名無史さん:2013/03/09(土) 17:02:37.71
>>98
それも良いけど 半島内の甕棺墓の分布とかで

背振山系のぐるっと麓のと半島の南側とかのが

共通の文化圏だとか一目瞭然ぢやろがな

黄金の手裏剣状のやつとか

勾玉の出方とか 青銅製の刃物の分布とかでもえろえろおもしろいし

多紐細文鏡の成長の具合なんかでも

海峡挟んで別別に進行みたいなかんじでもないしね

梨花洞のは絵で計って87mmφので最小のクラスのだけどだけど

武帝のセットアップした第一次玄菟郡 東沃沮 玄菟故府 沃沮城 の近場だから

なああんとも感慨深いし。。。

ここは高麗の原点だし 

(BC128)元朔元年秋 東夷薉君南閭等 口二十八萬人降 為蒼海郡 のとこだし

芻牟の爺ちゃんの河伯,河伯の屋斗辰さん(狗加,仙相とも)の父ちゃんの出身地らしいし

ちなみに東明さんのひい爺ちゃんのお名前は、皇祖屋文大王で河伯で狗加で仙相だったんだってさ

南閭之乱のときにはたらいて功績があったらしいけどさ。。。
105日本の名無しさん:2013/03/09(土) 17:24:16.92
音にこだわらず、東松浦半島ではなく宗像に上陸すれば、方角の矛盾は解決する
106日本@名無史さん:2013/03/09(土) 19:25:54.38
>>92
もうそういうのいいよw
107日本@名無史さん:2013/03/09(土) 19:36:01.28
とりあえず、近畿説はもう消えちゃった。
△縁、モモソヒメ、纏向=邪馬台国、全部消えたw
九州説で考えなきゃしょうがないわな。事実上他に選択肢ないんだから。
108日本@名無史さん:2013/03/09(土) 19:52:25.34
モモソ墓立ち入りで専門家からは卑弥呼の卑の字も無しだった
あれで近畿説は消えたな
109日本@名無史さん:2013/03/09(土) 20:02:50.83
>>108
せっかく入れてもらったんだから何か言えよって感じだけどなあ。
110日本@名無史さん:2013/03/09(土) 20:07:05.90
伊都国…原音はイドゥなのかなぁ
伊豆、伊東もこれからの派生だと思われる
崇神天皇が船の建造を命じたのも伊都国に対してだろう
111日本@名無史さん:2013/03/09(土) 20:11:09.36
サイバーアタックというほどでもないけど、
区内庁の2ちゃん対策らしきもあって鎮まったんじゃないの、そんな気がする
112日本@名無史さん:2013/03/09(土) 20:13:11.87
"阿?陀國" これでぐぐると 貢物皆爲馬韓人所奪 で馬韓人ってほんとワルなのね
113日本@名無史さん:2013/03/09(土) 20:14:12.45
"阿隃陀國" これでぐぐると 
114ローガン:2013/03/09(土) 20:18:35.64
>>110
記の建波邇安王の話
各河を中に挟みて相挑みき。故、其地を名付けて伊杼美と謂ふ。
注「今謂伊豆美也」
115日本@名無史さん:2013/03/09(土) 20:34:35.11
>>114
杼というのは表音なのか?表意なのか?
116日本@名無史さん:2013/03/09(土) 20:36:29.44
>>110
伊豆は出雲でしょ、東も同じ。
117日本@名無史さん:2013/03/09(土) 20:50:39.89
伊都国っていうのは、
例えば倭国っていうのに準じる連合国家に対しての呼称じゃないかと思ってる。
海洋国家で、海幸山幸で言うわたつみの国のことだろう
118日本@名無史さん:2013/03/09(土) 20:51:56.75
>>110
伊都国…少なくとも原音はイトではないとおもう、けっこういまの佐賀〜筑後弁的な音かも
イツ、イーッ、イエーッ、イエズゥ、イドゥ、イ−ドゥ、、、、
119日本@名無史さん:2013/03/09(土) 20:53:35.59
だから、箸墓とか西殿塚はどうだったのか聞いているんだが…。
120日本@名無史さん:2013/03/09(土) 21:33:26.68
西殿に対して東殿というのも存在してたんだろうか?
121日本@名無史さん:2013/03/10(日) 02:49:19.31
西殿塚古墳のとなりに東殿塚古墳があるよ
122日本@名無史さん:2013/03/10(日) 08:45:44.86
前スレッドでの、鹿の子は「かのこ」と読むとの意見、そのとおりです。鹿は「か」としか読まないです。
だから、鹿屋は本来、「かの」か「しかや」としか読まない。あなたの意見だと、鹿屋を
「かのこ」と読ませるには「鹿の屋」と表記しないといけないでしょう。

ところで、鹿屋、鹿児島の地名ですが、鹿児島は鹿の産地ではないのにんぜ鹿が付いているか。
鹿とは中国では王を表す言葉で、文字通りなら、鹿児島は王子の国、鹿屋は王子の館の意味にも
取れます。鹿屋は神話に出てくる高屋と同じとの説もあり。朝鮮南部の伽耶説もあり。

また、鹿児とは舵を取る者(漕ぎ手)の意味で、鹿児島には中国、南方より海洋民族が渡来した
ことによるとの説もあります。播磨風土記には、鹿の頭の毛皮を覆った船団が加古川に漂着した
との表記があり、このことから、かこ(鹿児=漕手)の来た川でかこがわとなった説もあります。
真実は定かではありませんが。
123日本@名無史さん:2013/03/10(日) 08:56:06.14
馬鹿の児が住む島 という意味だろう
124日本@名無史さん:2013/03/10(日) 10:26:26.43
「車有馬車 牛車 鹿車 國人養鹿 如中國畜牛 以乳爲酪」梁書東夷諸戎

加古川  鹿子川
鹿児島  鹿子島
125日本@名無史さん:2013/03/10(日) 13:37:10.40
鹿児島神宮が正八幡と称していることから宇佐よりも本家との主張。
宇佐を治めていた辛島氏も宇佐からやって来たとの説があるが
辛島と鹿児島、似ているが何か関係があるのだろうか。
それと、熊本市内の中心街が辛島町だが、これも関係あるのか。
126日本@名無史さん:2013/03/10(日) 13:48:13.92
辛島氏は最初香春神社にいたんだよ
127日本@名無史さん:2013/03/11(月) 00:49:03.16
霧島には韓国岳(からくにだけ)があって高千穂の伝説もある
キリシマもカラシマも音は似てるが

隼人族は大和朝廷に仕えたのもいましたが、大和が隼人を侵略したのではなく、
大和政権の誕生あるいは東遷に隼人の傭兵部隊が関わってたんじゃないでしょうか

種子島の鉄砲伝来、後の薩摩藩をみれば分かるように
南方との往来で武器を手にいれ強大となることは有り得る
南九州も外国との接点は意外とあったのかもしれん
128サガミハラハラ:2013/03/11(月) 07:17:21.56
伊都国の都という字は上古音ではタと発音したという説が有力です。
129日本@名無史さん:2013/03/11(月) 10:00:12.56
何故か誰もヤマダイコクと呼ばない不思議w
130日本@名無史さん:2013/03/11(月) 11:11:18.02
邪馬大黒:
邪馬台国と出雲大社(大黒様)のミックス誕生かとおもうもんな
131日本@名無史さん:2013/03/11(月) 11:19:40.10
ヤマダなら全国にあるぞ!
132日本@名無史さん:2013/03/11(月) 11:27:32.19
ヤマダイ国だ
133日本@名無史さん:2013/03/11(月) 11:39:42.89
ヤマダ電機国
134日本@名無史さん:2013/03/11(月) 11:44:03.58
山本というのはどうだろう。
かつて、熊本には山本郡というのがあったらしい。
135日本@名無史さん:2013/03/11(月) 12:05:39.68
ヤマダ電機発祥の地の群馬がヤマダ邪馬台国であろう
136日本@名無史さん:2013/03/11(月) 12:19:04.99
明治時代初期で、肥後国の郡が14
肥前国の郡が11

肥国全体で25

郡が小国とすれば、三十カ国共立には、良い数値かもしれんな。
合併したところもありそうだし。

ひょっとしたら、肥前国と肥後国の分かれ目の、
筑後国南部を入れたら、ピッタリ三十カ国だったりして。
137日本@名無史さん:2013/03/11(月) 12:26:18.35
熊本の山都町も思いだしてあげてください。
町長さんが大売り出しに必死です。
138日本@名無史さん:2013/03/11(月) 12:33:43.91
>>137
山都町は最近出来たばっかりだし…。
139日本@名無史さん:2013/03/11(月) 12:35:41.45
山田昇は宮崎出身。ある意味現代の神武東征といえる
140日本@名無史さん:2013/03/11(月) 12:36:15.33
上古は火の国、今の熊本の米はひのひかり
これほどふさわしいクニグニはなかろ
141日本@名無史さん:2013/03/11(月) 12:45:31.77
熊本は掘りまくって状況証拠を積み重ねていくべき
熊本の弥生末の状況はただごとじゃない
142日本@名無史さん:2013/03/11(月) 12:49:58.01
”春です! 九州新幹線で邪馬台国の熊本へ行こう〜”、JR九州
143日本@名無史さん:2013/03/11(月) 12:54:59.69
”卑弥呼も歩いた! 肥前〜肥後街道を訪ねる旅〜”、JR九州
144日本@名無史さん:2013/03/11(月) 13:06:37.79
釜山からJR九州連絡船ビートルで出発して、
唐津港からJR九州でずっと行けますね。
145日本@名無史さん:2013/03/11(月) 13:08:23.43
肥 火 日
146日本@名無史さん:2013/03/11(月) 13:52:31.87
>>129

畿内説で生計を立てている詐欺師集団にとって、
「ヤマトコク」に近い発音で読んでもらうことが死活問題。

「ヤマダイコク」とか「ジャバダイコク」などは禁止しないと
生活していけないのです。
147日本@名無史さん:2013/03/11(月) 14:49:46.84
本当はヤマド、ヤマダとか濁音だという説はきいたことがある。
148日本@名無史さん:2013/03/11(月) 19:23:52.94
邪馬台国が自分の住んでる場所、もしくは出身地だと何かいい事あんの?
朝鮮人がよく使う起源みたいな感じ?
149満州ナショナルキッド:2013/03/11(月) 19:49:51.26
あいかわらず中高生のような話題ばかりだ(苦笑)
150日本@名無史さん:2013/03/11(月) 19:55:39.73
邪馬台国がヤマトだと偽装できると
生計が立つ人が大勢いるんだよ。
151日本@名無史さん:2013/03/11(月) 20:55:07.57
>>149
>陳寿だけでなく、中国正史は概ね当てにならない。

みたいな、邪らしい満州トークより、はるかにはるかに上等上品。
152太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/03/11(月) 21:48:59.74
宿主という男は、いまだ 神武元年=41年 の具体的説明をしたことは
なく、毎回抽象的編年文と修飾文多用による書きこみをして、説明を
したポーズをとってはいる。しかしこれは全く具体性がなく、それを奴は
誤魔化すために、回答は抽象的文句と数字の意味不明の説明不足の書きこみ
とかコチラに丸投げでの〜コチラに説明せいとの撹乱言葉であり、容易
ある解説したためしはない。
だからいまだかつて41年とした意味と状況は、まるで何故かは判明しない?
長く奴の書きこみ等から、奴が何を考え、何でこういう主張をするのか検討
研究を重ねて来た。このごろ思うことは、奴のトゥー・フェイス、
スリー・エース的二変三変のクルクル変わる主張換えは、奴の脳内に景行
重視の盲象目論見が奴の利害からの決定すべき不変の史想なのだという
ことだ。その黒幕はホツマ・真理狂絶対からの景行至上主義のエイリアン虫
の奴の脳内潜伏怪物だという者だ。勿論それはイカサマ・デタラメの糞思考である。ww

http://www.youtube.com/watch?v=AXCe26oL1BM

奴の編年観は空年というものだが、これはおそらくは建前であり、その本音
のほうは1年385日とか1年265日のアススとかススとかいう地方田舎暦に
よる集積計算による暦法のほうだろうと観ている。建前は空年注入で論を
張ってはいるが、本音も2倍3倍暦を否定はしてるものの、こういう1年
265日(実際1.4倍暦)が奴の古代日本の真の暦法だったという考えなの
だろう? その詳細を知られたくないための好都合の文句と考えが空年
というものらしいのだ?ww
しかしその1年265日というものを倍暦という言い方は嫌っているに違い
なく、否定のようで肯定の本音はくらましで否定し、空年にしてその秘密
とやらの漏れを防止させていると睨むようになった。だからアススを倍暦
だという言い回しは倍暦肯定だから忌避してるんだろうし、本音のは秘密暦
と考えて保秘を貫いて来たのだろう? コチラはそんなものは大したもの
だとは考えてないから知ろうとも思わないが、奴にとっては莫大が黄金に
匹敵する感覚でいるものなのだろう?ww
153満州ナショナルキッド:2013/03/11(月) 21:55:21.74
陳寿の東夷伝は間違いだらけ。

たとえば高句麗伝。伊夷模とその兄の拔奇のことが書いてある。
拔奇が公孫康に詣って降ったとか、伊夷模が新国を作った、とか。
これはデタラメばかりである。
第一に、拔奇は位宮の兄で、伊夷模の兄ではない。争ったのは拔奇と位宮である。
第二に、拔奇が詣って降ったのは公孫康ではなく公孫度である。
第三に、新国を作ったのは拔奇であって伊夷模ではない。

時代も内容もデタラメばかりである。ついでに言えば、このとき、
國人便共立伊夷模爲王
と、共立という語が使われている。王位継承で兄弟が争って、
臣下が次男の伊夷模(実際は位宮)を立てたので共立と書かれたのである。
共立とはこういう場合に使われるのである。
九州の南と北で戦争状態にあった、とか、高地性集落は倭国大乱の証しだ、
などというのは空想も甚だしい。

どうだ、お前らもせめてこれくらいのことを書いてみろ(微苦笑)
154日本@名無史さん:2013/03/11(月) 21:58:11.87
2〜9代天皇は、神武天皇の東遷に功績あった人々に敬意を表して列挙した気がする。
たとえばだが、2〜3代は宇佐の大王たち、5〜8代は吉備の大王たちとか。
155日本@名無史さん:2013/03/11(月) 22:02:54.70
結局満州の本心は、卑弥呼は神功皇后だった、だろうな。
156日本@名無史さん:2013/03/11(月) 22:35:15.26
>>153
三兄弟で末子のが血筋があしいんだよ。
157満州ナショナルキッド:2013/03/11(月) 23:43:31.07
稗箕狐に指摘されて調べてみたが、どうも複雑でよく分らない。
三国史記を見ると陳寿の記述と同じで、
拔奇が王に相応しくないので伊夷模が共立されている。
で、次にまた弟の位宮が王になろうとしたので拔奇が反乱したことになっている。

ネット史では伊夷模のときは玄太子が伊夷模に王位を譲ったとなっているので、
拔奇と玄太子は別人かと思っていたが、或いは同一人物なのか…。
だとしたら陳寿は正しいわけで、陳寿を誹謗したのは私の誤りであった。
158日本@名無史さん:2013/03/11(月) 23:46:06.34
九州の南と北で戦争状態にあったとか、高地性集落は倭国大乱の証しだという
話と「共立」とは何の関係もないんだが、そのことが分かってないらしい。
159日本@名無史さん:2013/03/12(火) 00:20:13.54
(147)正月 尚后生子 騄
(155)五月 守禮生子男武
(173)正月 五日 宮人朱氏生延優太子   延優≠男武
(175)三月 上以玄太子徒善而好仙 欲立男武太子為東宮
(179)    帝(男武)兄玄太子(拔奇)遂徃海山爲樂仙
  十二月 上(伯固)崩於西都鸞宮 春秋五十九

延優≠男武 ← 井上秀雄が『三國史記』を誤読しちょる。wikiもわやです

延優=宮=位宮=駮位居=灌奴部生子=東川王
160日本@名無史さん:2013/03/12(火) 00:35:59.29
(179-197) 故國川王 或云國襄 諱男武 或云伊夷謨 新大王伯固之第二子

(197-227) 山上王諱延優 一名位宮 故國川王(男武)之弟也

(227-248) 東川王 或云東襄 諱憂位居 少名郊彘 山上王之子
   ↑       母酒桶村人 入爲山上小后 史失其族姓
   ↑
毌丘儉にぼこぼこのひとの「宮」さん


「史失其族姓」というは、「灌奴部生子」を云いたくないんえ。。。
161これ消してちょ:2013/03/12(火) 01:24:37.91
>>159
駮位居=灌奴部生子=東川王
162満州東芝キッド:2013/03/12(火) 12:52:15.36
稗箕狐のおかげで玄太子と拔奇が同一人物らしいと分った。

しかし拔奇が通じたのは公孫度だし、新国を作ったのは拔奇である。
その意味ではやはり陳寿は間違えている。
163日本@名無史さん:2013/03/12(火) 16:02:42.92
斉明陵跡がある朝倉市の山田は候補だと思う
164満州東芝キッド:2013/03/12(火) 18:32:33.81
そうだ、邪馬台国は朝倉市山田だ。
165日本@名無史さん:2013/03/12(火) 19:02:05.95
もっと加筆すれば
朝倉市山田は邪馬台国の一領域。
筑後川対岸の浮羽も邪馬台国の一領域。
朝倉市甘木も邪馬台国の一領域。
小郡、久留米、八女も邪馬台国の一領域。
卑彌呼は久留米に。

上記を合わせて邪馬台国は七万戸。
166日本@名無史さん:2013/03/12(火) 19:05:13.62
そーいや、久留米は松田聖子の出たところ。
卑弥呼も演歌をうたったのかな。
167日本@名無史さん:2013/03/12(火) 20:00:40.67
卑弥呼の墓はどこ?
168日本@名無史さん:2013/03/12(火) 20:20:43.02
祇園山古墳
169日本@名無史さん:2013/03/12(火) 20:36:58.53
四角い
170満州東芝キッド:2013/03/12(火) 21:29:46.90
そうだ、浮羽も甘木も、小郡、久留米、八女も邪馬台国の一領域だ。
卑彌呼は久留米に。卑弥呼の墓は祇園山古墳だ。

まったく正しい。文句の付けようがない。
171日本@名無史さん:2013/03/12(火) 21:40:51.85
172日本@名無史さん:2013/03/13(水) 08:50:23.46
卑弥呼の墓は四角だった
173日本@名無史さん:2013/03/13(水) 09:01:01.85
一書(今どきのブログ)に曰く
古えの九州を
西から見れば倭人伝の世界、東から見れば日本神話の舞台

すなわち伊都国は佐賀、邪馬の国は熊本地方
高天原は阿蘇の雲上にあり、天孫降臨は知保郷高千穂の御台(高千穂町三田井)
174日本@名無史さん:2013/03/13(水) 19:27:19.92
175日本@名無史さん:2013/03/13(水) 19:40:34.66
方なら一辺、径なら直径。
張撫夷(張政?)の墓は四角。
176日本@名無史さん:2013/03/14(木) 07:05:58.85
思金神←渡来神

重い鐘を作る技術が渡来したってことだ
177日本@名無史さん:2013/03/14(木) 07:17:13.02
155
その神功皇后っての多分、存在しないわ
178日本@名無史さん:2013/03/14(木) 08:09:54.20
http://www.fsinet.or.jp/~aichan/toiki/righttoiki02.htm

朝鮮人、お前らほんとに殺されるぞ
179日本@名無史さん:2013/03/14(木) 08:40:27.05
お前らほんとに大勢の日本人から人間として見てもらえるギリギリのところに
いるんだからマジやばいぞ^^
180満州海底人8823:2013/03/14(木) 12:33:45.75
>>178のサイトを読んでいてピンと来たことがある。
スメラミコトのスメラ、スメルの語源に関してである。

実は桓檀古記に須密爾國というのが出てくる。
僕はこれはシュメールと関係あるのでは、と思っていたのだが、
スメラミコトのスメラ、スメルと関係あるのかもしれない。
そうすると日本民族はバイカル湖周辺からやって来たのだろうか。
181満州海底人8823:2013/03/14(木) 12:53:13.72
ブリヤート人の画像を見てみたが、なるほど日本人にそっくりである。
もともと満州人も朝鮮人も中国人も日本人と見分けがつかない。
日本人が満州方面から渡来したことはほぼ確かである。

アトランティス沈没後、人々はゴビ砂漠に集まり、そこから各地方に分散していった。
日本民族もその一である。約一万年ほど前のことである。
182日本@名無史さん:2013/03/14(木) 15:49:13.13
満州人も朝鮮人も中国人も日本人と見分けがつかないのならば、どこから来たのか分からない
という結論になるだろうな。
183日本@名無史さん:2013/03/14(木) 17:54:21.95
九州の地名(字、小字)で都の付いてるところを探してるんだけど、
今のところ「都」は「ト」と読むところの方がはるかに多いね(都農以外はみなト)

大宰府・・・宰都、都府楼南、
宮崎県・・・西都、都於郡、都農(つのう)
串間市・・・都井
高千穂町・・・雲居都(ちなみに此町には、天岩戸、岩戸、岩神、神殿、三田井、田井元などもあるようだ)
184日本@名無史さん:2013/03/14(木) 19:35:03.55
>満州人も朝鮮人も中国人も日本人と見分けがつかないのならば

DNA分布が異なる
185日本@名無史さん:2013/03/14(木) 20:00:57.35
シナチョンは敵対勢力の男は完全に虐殺してきたから、
Y遺伝子では空白が生じてる
186日本@名無史さん:2013/03/14(木) 20:45:03.78
>>185
貝が羊に全部入れ替わる訳ない。
中国は隠蔽してると観るべき。
187日本@名無史さん:2013/03/14(木) 20:46:50.41
Y遺伝子を残す作業が男系天皇制
188日本@名無史さん:2013/03/14(木) 20:48:32.42
高千穂町三田井氏の起りは、
なんと鵜カヤ草葺不合尊の御子であらせられるぞえ

>高千穂古今治乱記には、「抑も(古代)三田井の家系を尋ぬるに、地神鵜カヤ草葺不合尊の御子、太郎の尊の御後胤なり(中略)、
>六代目に男子なく御子孫是迄絶えざりしが、
>此の時に至って尊き御血脈絶えぬること惜しい哉、
>爰に豊後の国大神大太惟基の一男を貰いうけ、育て上げられ嫡男となし、
>家系相続あって太郎政次とこそ申しける」と記されている。

>さて『平家物語』によれば、この中興三田井氏の祖という大神大太惟基は
>高知尾(高千穂)明神の神子となっている。
>一方、『大神氏系図』や『大友興廃記』などには、
>高千穂の北にそびえる祖母嶽の大明神と堀河大納言伊周の女との間に生まれた神子となっている。
189日本@名無史さん:2013/03/14(木) 21:09:24.11
確かに祇園山古墳はあやしいよね。
墓丘の頂上付近に埋葬している。
その下を掘ると何かしらでてくるのでは??
190日本@名無史さん:2013/03/14(木) 22:05:15.70
墓丘の頂上に埋葬しているのは石棺

糸島の女王系のは甕棺から木棺墓

高良宮のに 高木神のところに高良玉垂がきて居座った

高木神のが「鏡の女王」で甕棺木棺系

玉垂命のが「玉の女王」で石棺系
191日本@名無史さん:2013/03/14(木) 22:40:46.79
そういえば、久留米上津の、上津天満宮から松を取って、
高良山」の玉垂宮に植えたというお話があるんだな。

上津天満宮から松を運ぶ神事があるらしい。

あと、高良玉垂宮には、高木神の末裔の武内宿禰も祀られている。
192日本@名無史さん:2013/03/14(木) 22:45:03.87
高木神の末裔を 色仕掛けでたらしこんでるのが 玉使いの上手な 初代の高良玉垂命♀。
193満州海底人8823:2013/03/14(木) 22:54:04.00
高良山隆慶上人傳開山上人傳記御井寺。

上人諱隆慶。世姓紀氏。人皇八代孝元天皇十一世之苗裔。
武内大臣八代之的孫也。父紀護良。母弓削氏也。
自當社垂迹已降。紀氏累代監察九國守禦三韓。 故九州尤重其氏族矣。

紀氏累代監察九國守禦三韓に注目しよう。
この紀氏がおそらく倭人伝に書かれている一大率のことである。

稗箕狐もその他の諸君もメモしておけよ。
194日本@名無史さん:2013/03/15(金) 10:22:34.07
>末蘆国東南陸行五百里、到伊都国(佐賀平野)〜東南至奴国百里〜東行至不弥国百里〜南至邪馬壹国女王之所都。

到伊都国(佐賀平野)〜東南至奴国百里〜・・、ということは海側に寄るの意味なので、
有明海の反時計回り潮流の影響を避け、
クリーク伝いに〜筑後川〜矢部川下流の現在新幹線船小屋駅あたりまで至る。
そして引潮を待って矢部川をくだり、一気に河口の大牟田銀水付近までかな。
あとは南関まですぐそこ。
「邪馬台街道」は人や物資中心の往来なので、佐賀〜大牟田は川船の方が好適だったろうな。
195日本@名無史さん:2013/03/15(金) 10:30:20.01
日数は無視するわけな。
196日本@名無史さん:2013/03/15(金) 10:33:36.39
南関からは南至る、
熊本市水前寺〜八代〜出水方面へ、
および山鹿〜菊池〜大津〜高森〜阿蘇高千穂方面へ陸行自在。
天孫降臨神話の関係から、注目は大津から先の阿蘇カルデラ、雲の上をいく道。
197日本@名無史さん:2013/03/15(金) 10:40:38.80
>>195
今の自動車時代とは違って、
日数は、季節、お天気、月齢、大潮小潮、荷物の積み替え、人夫の多少、道の良否、山賊の出没、その他でいくらでも変わる。
あとから考えることにしよう。
198日本@名無史さん:2013/03/15(金) 10:47:15.91
>195 のつづき
こうしてみると、佐賀〜大牟田は川船だったとして、
運良く水行3日の時もあれば、10〜15日のときもあったにちがいないからね。
199日本@名無史さん:2013/03/15(金) 10:51:56.73
だが、水行二十日、水行十日陸行1月というのは、使者がたまたまかけた日数ではなく、
どれだけかかる行程かを示す数字だ。水行二十日は水行十日の距離の倍、そのことは
考えておかんとね。
200日本@名無史さん:2013/03/15(金) 11:02:27.12
そのとおり
ここの日数はたまたまの駆け足でなく、鉄などの物流経路・日数と考えて推定している
ルートが想定できた段階で、水行、陸行日数と付き合わせて考え直してみるつもり
201日本@名無史さん:2013/03/15(金) 11:23:26.67
>>195
うちのだんなは、よく東京から名古屋に出張するのですが、往復で4日かかると
言います。本当にそんなにかかるんでしょうか?
202満州赤胴鈴之助:2013/03/15(金) 12:42:13.08
君らは末盧国に着いた魏使がてくてく歩いて博多か佐賀方面へ行った、と思っているだろう?
それがそもそもの誤解なのである。

まず第一に末盧に来た人間は魏使ではない。
次に末盧からてくてく歩いてどこかへ行ったわけではない。
いや、あるいは佐賀方面へ行ったかもしれない。
しかし博多方面に行ったわけではない。

末盧から先のことはすべて伝聞情報なのである。
その証拠に末盧から先は倭国探訪ルポ風の記事は一切ない。
東南五百里至伊都国というのは伝聞であって、
実際に伊都国まで歩いて行ったわけではないのである。

分るか? これが分らない限り、君らの議論はいつまでも空想のままである。
203満州赤胴鈴之助:2013/03/15(金) 12:49:36.55
要するに陳寿の倭人伝は、
釜山から末盧まで航海した人間の体験記と、
それ以前あるいは以後に得られていた倭国情報をつなぎ合わせたものである。

巧妙にミックスされているから、
いかにも魏使が末盧から伊都国まで行ったように読めるが、そこが落し穴である。
倭人伝は、この種の、つぎはぎだらけの文献である。
204日本@名無史さん:2013/03/15(金) 12:51:58.82
自分は新横浜まで行っただけで、そのさき名古屋へ行ったことはない。
名古屋のことはすべて伝聞であり、自分にやましいことは一切ない。 >満州より
205日本@名無史さん:2013/03/15(金) 12:52:02.85
倭人伝の行程に従うと自分が意図する所に行き着かないと思うと、倭人伝が間違って
いるんだと言い出す。その理由として、倭人伝は伝聞だとか主張する。
しかし、倭人伝は邪馬台国まで行った使者が残した記録をもとに書かれたもの。伝聞
などではないよ。いわゆる風俗記事は邪馬台国で見た所を中心に書かれている。
北九州での見聞を書いたものではない。
206日本@名無史さん:2013/03/15(金) 12:56:07.54
記紀信者が伝聞伝聞とがんばっております。
記紀も伝聞だからでしょう。
207日本@名無史さん:2013/03/15(金) 15:53:07.72
【都合の語源・由来】
都合の「都」の字には「すべて」といった意味があり、「すべてを合わせる」「合計する」というのが都合の原義である。

「合計」の意味では現代語でも、副詞として「都合百人になる」などと用いられる。

「合計」から「工面」や「やりくり」の意味が生じ、すべて調整した際の事情などから「具合」や「調子」の意味が生じた。

都合が「事情」や「具合」「状況」などの意味で多く用いられるようになったのは、近世以降のことである。
208日本@名無史さん:2013/03/15(金) 16:37:39.27
動詞

すぶ【総ぶ、統ぶ】 すべる【総べる/総べる】
  1.集める(あるめる)。束ねる(たばねる)。
  2.まとめて一つにする。
  3.治める(おさめる)。支配する。統率する。

都合の「都」の字には「すべて」といった意味があり、「すべてを合わせる」「合計する」というのが都合の原義である。

修正案
都合の「都」の字には「すべる」といった意味があり、「すべ合わせる」「まとめて合わせる」というのが「都合」の原義である。
209日本@名無史さん:2013/03/15(金) 16:59:10.70
>>194
>あとは南関まですぐそこ。

大牟田から南関への山越えルートはない。

南関へのルートは九州自動車道沿いだ。
ルートを北から南へ
矢部川河口の州島間水路→山川(山門)に上陸→北関→南関

南関で2方向に分かれる。
東南方向へは山鹿方面
南方向へは菊水玉名方面
南関から西方向の山越え大牟田方面はない。
210満州赤胴鈴之助:2013/03/15(金) 17:32:10.39
わはは、ここの連中は面白いなw
唐津から博多に行くのはとても無理だと地元の人間がいつも書いているではないか。
だから唐津から博多に行ったのではないよ。
行ったとすれば、佐賀方面か、あるいは伊万里方面だろう。
とにかく末盧から先の体験記は無いのである。
あればもっと紀行文風な文章が続くはずだ。ところがそんな文は無い。

ということは東南五百里至伊都国…以下の文はすべて伝聞なのである。
その証拠に対馬から末盧までの紀行文風な文は伊都国以下には全然無いではないか。
一寸考えればこれくらいのことは分るはずだ。
211日本@名無史さん:2013/03/15(金) 19:08:23.86
>>209
そうだねえ、大牟田まで行くと南関へはむつかしそうだねえ
みやま市境界の西鉄渡瀬駅あたりに上陸して、県道782?から県道10号はどうかしらねえ、
航空写真で見ると、上内峠というのはほぼまっすぐだし、切通し程度でらくに南関へ越えられそうだけど?
212日本@名無史さん:2013/03/15(金) 21:41:19.00
>>210
いくら伝聞だといってみたところで、倭人伝が不正確だということにはならない。
倭人伝どおりに進めばいいんだよ。
213日本@名無史さん:2013/03/15(金) 22:38:06.16
>>207

会意形声。「?」(邑)+音符「者」。者は、「煮」の原字で、薪を集め炎を集中させる意。「あつめる」の意から、人の集まった「みやこ」の意味が生じた。
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%83%BD
214満州赤胴鈴之助:2013/03/15(金) 23:13:36.50
金曜の夜なのに閑古鳥が鳴いているではないか。
最近は土日の書き込みも少ない。
さすがの九州人ももうお手上げか?

畿内人もたいしたことは書けないのだし、
2chもそろそろ終わりか。
215日本@名無史さん:2013/03/15(金) 23:38:37.94
おまえが逝けば、また人が集まるよ
216日本@名無史さん:2013/03/15(金) 23:58:24.15
満州もいなくなったら誰もいなくなってダム板状態になる
217日本@名無史さん:2013/03/16(土) 07:46:57.05
では格好の話題を一つ。本日の産経新聞朝刊に載っている記事。
近畿説というのは学術的根拠の無い、プロパガンダでしかない、と出ている。
如何?
218日本@名無史さん:2013/03/16(土) 08:02:02.04
CIAと統一協会礼賛記事しか書かない産経新聞も、たまには真実を書くんだな。
219日本@名無史さん:2013/03/16(土) 09:14:48.28
>>217
庄内スレ(旧巻向スレ)がにぎわってると思ったらそういうことか、来るべき時がきたようだ。
220日本@名無史さん:2013/03/16(土) 09:38:42.45
>>217
畿内説のプロパガンダは最近やばい。
韓国の抗議などで検定がゆるくなったことに乗じて、教科書に進出している。
221日本@名無史さん:2013/03/16(土) 11:01:02.21
<書評 卑弥呼の真実> ←これか?

>しかし、その後「古田理論」は、根拠なき悪意のデマゴギーと毀誉褒貶(きよほうへん)にさらされ、
>ついには学界の「無視と沈黙」が続き、現在では「論争」に代わって
>学問の世界にあるまじき近畿説の一方的な「プロパガンダ」が支配するという惨状を呈している。
  ミネルヴァ書房 代表取締役社長 編集部長 某
222日本@名無史さん:2013/03/16(土) 11:03:54.56
>>221
一般的には、近畿説のプロパガンダが支配するという認識かな。
2ちゃんなんかでは、近畿説は見る影もなく衰退しまくっているが…。
223日本@名無史さん:2013/03/16(土) 11:17:43.44
北部九州説もね
224日本@名無史さん:2013/03/16(土) 11:24:26.09
近畿説も北部九州説も駄目だね。九州に上陸してかなりの日数南へ行く。
南九州であることは間違いないよ。
225日本@名無史さん:2013/03/16(土) 13:10:16.45
末蘆国〜邪馬台国の道を、これまでは魏使がたづね歩いた道と考えてきたわけだ。
しかし卑弥呼台与のときまで、邪馬台国は少なくとも建国100年以上続いていた。
つまり、末蘆国〜邪馬台国の道は、
人物往来のための、東海道五十三次のような街道であったに違いない。

昼夜を駆ける伝令は陸路(佐賀〜八女福島〜南関〜)、
人・物が往来する道はおそらく有明の満ち潮引き潮を利用した水陸併用路(佐賀〜船小屋〜渡瀬〜南関)、
両方とも、後世まで利用に耐えうる街道であったと思う
226日本@名無史さん:2013/03/16(土) 13:44:07.90
>>168>>170
全く同意ですな。
普通考えて、それ以外結論がありようが無い。
そう考えてる人沢山いると思う。御井のあたりガスガス掘ったら
金印出てくるんじゃね?
227日本@名無史さん:2013/03/16(土) 13:49:35.24
多分邪馬台国は
山門(発祥)→御井(卑弥呼のころ)→甘木・朝倉(その後)
と移っていって、最終的に奴国と融合していって太宰府へ首都を
作ったんだと思う。
太宰府の発掘って文化庁から邪魔されてるんだってねw
228日本@名無史さん:2013/03/16(土) 13:56:47.91
山門付近にも、弥生時代の鉄鍛冶遺跡(精錬?、タタラ?)が数か所みつかってるんだってね
229日本@名無史さん:2013/03/16(土) 13:57:35.54
南九州説で、鹿児島にひらきき神社っていうあまてらすおおひるめむち一座が主祭神の神社があるんだけど、ここじゃね
230日本@名無史さん:2013/03/16(土) 14:04:30.82
そこはおいでやすおいくらおもちですか神社(ウソw)で邪馬台国鹿児島支店だから本店所在地はもっと北(ホントw)
231日本@名無史さん:2013/03/16(土) 14:05:44.41
マジレスするとエグザイル神社(マジw)
232日本@名無史さん:2013/03/16(土) 14:09:33.90
南九州説で、鹿児島にひらきき神社っていうあまてらすおおひるめむち一座が主祭神の神社があるんだけど、ここじゃね
233日本@名無史さん:2013/03/16(土) 14:14:57.43
だからそこはイミグレーションオフィスの偉いが祀り事してたお社で重要拠点だが都じゃない
234日本@名無史さん:2013/03/16(土) 14:31:15.81
そう言えばひらきき神社の傍には踪面那珂巳って名物があったな
235日本@名無史さん:2013/03/16(土) 14:43:16.79
すぐに大慌てで変なの湧いてくるから、>>227で多分正しいと思われww
236日本@名無史さん:2013/03/16(土) 14:43:47.76
分かりやすいwwwwwwwwww
237日本@名無史さん:2013/03/16(土) 14:47:28.34
とはいえ、山門は狭すぎる
海岸端にへばりついた感じ、近年でもせいぜいミカン山
238日本@名無史さん:2013/03/16(土) 14:53:45.99
発祥な。
239日本@名無史さん:2013/03/16(土) 15:00:16.77
× 陸路(佐賀〜八女福島〜南関〜)、
○ 陸路(佐賀〜八女福島〜八女立花北山〜菊水〜山鹿)、県道4号ルート
○ 陸路(佐賀〜八女福島〜八女立花兼松〜山鹿)、国道3号ルート

× 水陸併用路(佐賀〜船小屋〜渡瀬〜南関)、
○ 水陸併用路(佐賀〜高田海津(山川尾野)〜山川北関〜南関〜菊水〜山鹿・菊池)、九州自動車道ルート

参考
高田海津の西隣の瀬高太神には「こうやの宮」がある。
高田海津近辺は多様な神社が集中しているところ。
240日本@名無史さん:2013/03/16(土) 15:09:26.24
>>239
いやそういうこっちゃ無くて、単に陸行一月が陸行一日の後代の写し間違いなんだよ。
そもそも卑弥呼の時代に陸行一月して行くところが地理的に存在しないし
(これ本居宣長が言っていること)、
魏志倭人伝をそのままパクって写した梁書は陸行一月日になってるしね。
陳寿が書いたのはおそらく、水行十日陸行一日だったと思われ。
(だから御井でピッタリw)
241日本@名無史さん:2013/03/16(土) 15:17:38.76
多分邪馬台国は
八女(発祥)→御井[八女・瀬高・三潴・浮羽・甘木朝倉](卑弥呼〜多利思北孤)→太宰府(多利思北孤以降)
242日本@名無史さん:2013/03/16(土) 15:19:05.63
だが、それでは投馬国水行二十日が不自然になる。邪馬台国の倍近い日数が
かかる投馬国を記載したのはなぜだってことになるだろ
243日本@名無史さん:2013/03/16(土) 15:25:09.75
>>242
伊都国基点の放射読みでいいじゃないか。
「郡の使の往来して常に駐る所なり。」と有るんだから。
だからここでとどまったんだよ。(そう書いてある。)
ただし、どとまったのは一回目のことだけどね。
二回目は実際に卑弥呼に会っている。
言い換えると、倭人伝に記載されている情報だけでちゃんと邪馬台国へ行けるという
こと。


(因みに至るがどうの到るがどうのって議論はあれはダメな。関係ない。)
244日本@名無史さん:2013/03/16(土) 15:30:03.40
日につられて月を日と誤写する可能性はあったかもしれない。
しかし、月は最後の1か所しかないから逆に日を月と誤写した可能性は低い。
陸行一日程度なら里で表すだろうね
245日本@名無史さん:2013/03/16(土) 15:36:42.82
(我々郡使がとどまっている伊都国から)東南へ100短里で奴国の端に
到達できる。
(我々郡使がとどまっている伊都国から)東へ100短里で不弥(humi)国
=宇美(wumi)国の端に到達できる。
(我々郡使がとどまっている伊都国から)水行20日で投馬(トゥマ)国
=妻国(宮城県西都原)に到達する。(我々郡使がとどまっている伊都国から見て)
南にある。
(我々郡使がとどまっている伊都国から)水行10日陸行1日で
邪馬台国へ至る。(我々郡使がとどまっている伊都国から見て)
南にある。

こういうこと。

んで、真東は反時計回りに20数度ずれている。夏の日が昇る方角を
真東としたから。なぜならこの時代は海で行くのは夏に限るから。
冬に手漕ぎボートみたいな船で行ったら死ぬ。

ピッタリ御井です。

>>244
根拠になって無いw
246日本@名無史さん:2013/03/16(土) 15:37:58.26
何の根拠?
247日本@名無史さん:2013/03/16(土) 15:40:57.49
>>246
何の根拠の話しをしてるか自分で分からないなら、糖質ww
248日本@名無史さん:2013/03/16(土) 15:49:20.77
>>243
放射式に読むというのは結構なことだ。しかし、放射式に読んでも、邪馬台国よりも
投馬国が二倍も遠い国だということになる。そんな投馬国を訪ねる理由はないだろう。
使者の目的地は邪馬台国のはずだからね。というわけで、投馬国水行二十日とのバランス
がとれないってことさ。
249日本@名無史さん:2013/03/16(土) 16:19:14.83
>>245
秦の始皇帝の時代から北極星は皇帝の星とかいって、宮廷も星に合わせて建てたとか言うのに、
方角20度ずれるなんてありえぬ
方向オンチの現代人と一緒にしては古代人が可哀そう
250日本@名無史さん:2013/03/16(土) 16:28:14.55
邪馬台国が東シナ海の真ん中とかにあるわけないから、水行十日や二十日が
そんな距離でないことは確か。畿内説の場合は、『だから南は東の間違い』を
言うための口実に過ぎない。

というわけで、陸行一月なんかを考えると、やはり宮崎にも可能性がある。
しかし、不弥国と邪馬台国の間に投馬国しかないことを考えると、そんなに遠い
ところでない可能性もある。つまり、筑後でもありえる。
だから、筑後と宮崎を両端とする場所に邪馬台国はある可能性が高い。
251日本@名無史さん:2013/03/16(土) 17:18:37.69
>不弥国と邪馬台国の間に投馬国しかないことを考えると、
放射説だと不彌國と邪馬台国との間ではないね。
北九州から直接邪馬台国だ。

>つまり、筑後でもありえる。
論理が飛躍しているね。九州内ということはあり得てもいきなり筑後とは。
それは近すぎるだろ。
252日本@名無史さん:2013/03/16(土) 17:30:09.69
>皆臨津搜露伝送、文書賜遺之物詣女王

邪馬台国までを、てくてく歩いて何日とかは読みが軽すぎる。
搜露伝送とあるからには、伝送方式の物資輸送システムにおいて何日かかる、くらいには重々しく読んでほしいな。
1日100里の伝送だと、末蘆国から2000里伝送には20日、余裕を見ればざっくり1月。
253日本@名無史さん:2013/03/16(土) 17:31:31.17
>>251
放射説は、どこを起点にしても後が続かないから個人的にはパス。
254日本@名無史さん:2013/03/16(土) 17:46:15.43
放射説は、筑紫(北部九州)というか主要国をほぼ福岡県に収めるための苦心の策
手の内が見えてるだけに、せいぜい盛り立て役かな
255日本@名無史さん:2013/03/16(土) 17:52:08.27
>○ 陸路(佐賀〜八女福島〜八女立花北山〜菊水〜山鹿)、県道4号ルート
>○ 陸路(佐賀〜八女福島〜八女立花兼松〜山鹿)、国道3号ルート
>○ 水陸併用路(佐賀〜高田海津(山川尾野)〜山川北関〜南関〜菊水〜山鹿・菊池)、九州自動車道沿いルート

航空と照らしあわせて見たけど、高田海津で上陸すると上り下りともに水行が便利そうだねえ。納得しやした。
256日本@名無史さん:2013/03/16(土) 19:24:21.37
そろそろ話は纏まりそう?
九州の何処に邪馬台国があった事に決定しそうなの?
257日本@名無史さん:2013/03/16(土) 20:03:09.07
>>240
行1月=1月行=1000餘里

海の場合::海行1月=1000餘里
陸の場合::陸行1月=1000餘里
根拠は隋書百済伝俀國伝及び旧唐書にある。

内水航行と沿岸航行(循海岸)の場合::水行1日=1000餘里
根拠は魏志倭人伝にある。

帯方郡〜末盧國(唐津)=水行10日=11,400餘里
末盧國〜邪馬台国(八女)=陸行1月=1000餘里
邪馬台国の官が居る城柵は八女(狗奴國との係争前線地)。卑彌呼の城柵は久留米。

帯方郡〜末盧國〜投馬國(瀬高・山川)=水行10日+水行10日=水行20日≒2万里
投馬國の城柵は瀬高又は山川。狗奴國との係争前線地。
258日本@名無史さん:2013/03/16(土) 20:14:58.15
>>245
>>249
商周代(BC1100年)の星座や北極星を基準にして、3世紀に方向を測定すると、
反時計回りに30度前後ずれる。
259日本@名無史さん:2013/03/16(土) 20:15:50.09
>>256
まとまる訳ないじゃん
ここに居るのはルーピーだけなんだから
クルクルと同じとこ回ってるだけ
260日本@名無史さん:2013/03/16(土) 20:20:56.87
>>252
>>皆臨津搜露伝送、文書賜遺之物詣女王

末盧國の津が大陸との交流窓口、チェック地点。
261日本@名無史さん:2013/03/16(土) 20:36:59.21
>>256
九州の何処を探してもそれらしい古墳はないし
仮に破壊されたのだとしても
永遠に九州には無いとしかならんだけだろうに
何で「23」スレも同じ様な内容で進められるんだろ?
本当に団塊は非生産的に事しか夢中になんれのだろうな
262日本@名無史さん:2013/03/16(土) 20:42:40.93
いい加減、ボクの素直読みと
漢字の語呂合わせはスレの無駄だよな
263日本@名無史さん:2013/03/16(土) 20:49:02.75
しかし、ろくに根拠もないひねくれ読みよりは、
素直読みのほうがマシだからねえ。
264日本@名無史さん:2013/03/16(土) 20:51:49.26
>>258
北極星がずれるというのはNHKテレビでもやってたな
しかし30度もずれるという記憶はないけどな、30度ずれたら日本は冬場北極圏なみ寒冷にならんかな
265日本@名無史さん:2013/03/16(土) 20:53:16.90
23スレも続いて成果が全くありませんってのある意味凄いよな
未だに行程論争、漢字遊び、畿内説批判の3つだけ
266日本@名無史さん:2013/03/16(土) 20:56:17.46
>>261
なんのなんの、歴史を遡れば国内論争300年ですよw

23レスなんかじゃ決着着かないから(`∇´ゞ
267日本@名無史さん:2013/03/16(土) 20:57:29.53
ああ、レスじゃないスレな(`∇´;ゞ
268日本@名無史さん:2013/03/16(土) 21:13:50.01
畿内説がフェードアウトしたという成果はあっただろ。
269日本@名無史さん:2013/03/16(土) 21:27:55.69
>>256
倭人伝記載の距離を足すと佐賀市辺りで1万600里。あと女王之都まで1千400里(約105km)くらい。
邪馬台国は戸数7万で、熊本平野くらいと想定される

そこで女王之都だが、
南限は芦北・八代〜県道443号〜美里町〜県道218号〜五ヶ瀬町〜県道218号〜高千穂町のどこか。
少し手前まで探しても、宇城市〜宇土市〜御船町〜甲佐町〜高森町のライン。
事実上、八代、宇城、宇土、御船、甲佐、高森、高千穂あたりに絞られる。

海岸寄りの古墳群では5世紀ころの女王の眠る古墳が発掘された。高千穂町にはご承知の天岩戸遺跡、天岩戸神社がある。
このうちどちらかだろう。
270日本@名無史さん:2013/03/16(土) 21:30:19.12
考えてみれば、当時は何を根拠に東西南北が決まっていたんだろうな。
北極星だろうか。
271日本@名無史さん:2013/03/16(土) 21:44:11.29
女王が眠る向野田古墳 (熊本県宇土市)

>昭和44年に発掘調査の行われた向野田(むこうのだ)古墳は、
>4世紀後半頃に造られたとされる前方後円墳である。
>主体部は竪穴式石室で、その中には凝灰岩(ぎょうかいがん)刳り抜きの長大な舟形石棺が置かれていた。
>石棺の長さは約4メートルもあり全国で2番目の大きさ。
>棺の中は朱で染められ、30歳代後半とみられる女性人骨一体が北枕で納められていた。
>大型の古墳に女性1名だけを埋葬する例は極めて少ないとされている。

これが畿内で出てたら、卑弥呼か台与の墓に決定してたろうな、文句なしにww
272日本@名無史さん:2013/03/16(土) 21:47:49.00
>>271
なんかのサイトで、熊本に来た大阪大学の学生が、向野田古墳ついて、地元では
台与の墓とかいわれていないのかな? と言っていたなあ。
273日本の名無史さん:2013/03/16(土) 21:53:16.29
結局、投馬国なんだよね。
放射式に読むと、邪馬台国より遠くにあるはずの投馬国が先に記述されてる説明ができない。
その辺を納得できるように書いてくれてるものを読んだことないんだわ。
274日本@名無史さん:2013/03/16(土) 21:54:30.98
この30代の女王が眠っていた向野田古墳は全長約90mらしいから、台与の墓にぴったり。
この近くにはもっと大きい古墳があるらしい。
これが卑弥呼の墓かもしれぬ。
275日本@名無史さん:2013/03/16(土) 21:55:51.54
径100歩なら138mか144mであろう。
276日本@名無史さん:2013/03/16(土) 22:13:14.27
>>273
放射式に読むのは正しいんだよ。ただ、邪馬台国までの行程を水行十日又は陸行1月と
読むのが間違いなんだ。水行十日+陸行1月が正解だよ。それで、投馬国よりは少し邪
馬台国が遠かったのさ。
277日本@名無史さん:2013/03/16(土) 22:30:53.70
女王の向野田古墳(全長約90m)の近くにあるのは天神山古墳
天神山古墳は、現状墳長約110m、崩壊損傷あり正確には不明らしい、
葺き石の前方後円墳で熊本県下では第三位の大きさだが、未調査。

卑弥呼と台与の墓がそっくりそろってる感じ。
278日本@名無史さん:2013/03/16(土) 22:33:47.89
超人的に長生きのばばあの女王なんだね
279日本@名無史さん:2013/03/16(土) 23:52:56.08
土日勉強するなら
なんたって熊本説の森村伊作先生だな
下のリンク先は前篇、後半の邪馬台国編は、ページの一番下にある●邪馬台国へ、などの項目をクリック。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/52dd43e7249aa8b9b4926229898ec2c4
280日本@名無史さん:2013/03/16(土) 23:59:27.55
>279訂正
ページの一番下にある●邪馬台国へ → 続・前人未到の道を行く
281日本@名無史さん:2013/03/17(日) 00:07:44.62
伊作先生はやっぱり伊都国佐賀平野説か
山鹿市のって磐井の墓とされる岩戸山古墳の石人みたいだ
282日本の名無史さん:2013/03/17(日) 00:44:24.70
>>276
それはわかるんだけど、
行く目標は邪馬台国なんだから
同じ方角なのに道順が全然違っている投馬国を先に書く必要はないんじゃないかなぁ
283日本@名無史さん:2013/03/17(日) 01:17:38.72
投馬国へ先に行ったからだろ。
284日本@名無史さん:2013/03/17(日) 04:16:01.25
途中で投馬国にいく必然性のある場所に投馬国はあるはず。
285日本@名無史さん:2013/03/17(日) 05:49:14.96
>>279
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/52dd43e7249aa8b9b4926229898ec2c4

伊作の水行ルートにほぼ同意。
しかし、狗邪韓國から一大國へのルートには誤りがある。

@狗邪韓國から對海國へのルート(オレンジ色ルート)
 狗邪韓國(巨済島南端)から對海國(対馬北端)へ渡海、
 対馬北端から対馬東岸を厳原まで循海岸水行。

A對海國から一大國へのルート(ピンク色ルート)
 厳原から対馬東岸を対馬南岸まで循海岸水行、
 対馬南岸から一大國(壱岐北岸)へ渡海、
 壱岐北岸から一大國(壱岐東岸芦辺)まで循海岸水行。

上記は対馬海峡の潮流変化の観測によって証明された。
286日本@名無史さん:2013/03/17(日) 06:24:00.42
>>264
>>270
>しかし30度もずれるという記憶はないけどな、30度ずれたら日本は冬場北極圏なみ寒冷にならんかな
>当時は何を根拠に東西南北が決まっていたんだろうな。北極星だろうか。

商周代の星座によって方角を決めていると、
三国代までの千四百年間には方角が約30度ずれる星座が出てくる。
BC12世紀からAD3世紀の期間に天の北極は約7度動いた。
この場合天の北極の進行方向の星座の方向にはずれが起きないが、
天の北極の進行方向と直交する方向の星座は、
天の北極の進行方向とは逆方向(後方向)に1400年間に最大約30度ずれる。

シナには同じ星座が約30度ずれた方向の修正暦がある。
287日本@名無史さん:2013/03/17(日) 06:50:39.88
投馬國と邪馬台国は並んであった。
投馬國と邪馬台国には遠近差がないので、
女王が都するより重要な邪馬台国を行程の最後に書いた。
288日本@名無史さん:2013/03/17(日) 08:00:49.83
投馬國と邪馬台国が並んでいたのならば、邪馬台国へも水行二十日+若干の日数
で行けたはず。水行十日陸行1月よりもその方が楽だ。
それを書かずに、水行十日陸行1月としたのは投馬国と邪馬台国とはかなり離れて
いたことを示すと考えないとね。
289日本@名無史さん:2013/03/17(日) 09:19:34.72
投馬國は全行程を船で行けた
邪馬台国は(末蘆国〜佐賀平野から見て)おおむね似たような方向と遠さ感のところにあったが、歩くほかない内陸にあった。
投馬國と邪馬台国は共に大国ではあったが、女王が都する最重要な邪馬台国を行程の最後に書いて締めくくった。
290日本@名無史さん:2013/03/17(日) 09:24:49.10
>289
(補足) 歩くほかない内陸にあった。→ 最後は歩くほかない内陸にあった。
291日本@名無史さん:2013/03/17(日) 09:25:12.68
>>288
投馬國と邪馬台国は隣接しているが、
海岸沿いが投馬國、内陸に邪馬台国。

投馬國は沿岸国で水行だけで行けるから。
邪馬台国は内陸国で陸行が必要だから。
292日本@名無史さん:2013/03/17(日) 09:37:30.25
だが、投馬国と邪馬台国の都が近いならば、投馬国を訪ねてすぐ邪馬台国へ移動する
方が楽だね。
293満州矢車剣之助:2013/03/17(日) 10:13:43.83
君知るや 森村伊作は 過去の人
294日本@名無史さん:2013/03/17(日) 10:47:36.65
星座や北極星がずれたら、その時の北極に最も近い星が北極星になるだけだろう。
たしか、今の北極星と古代の北極星が違っていたという説もあるはずだが。
295日本@名無史さん:2013/03/17(日) 11:32:23.57
誰も知る 卑弥呼も台与も 過去の人
296日本@名無史さん:2013/03/17(日) 11:45:09.23
眺めても星空が見えない現代人と、
日や月や星に命さえ預けてた古代人では根性が違う、方角間違えたなどとは幼稚な言い訳
297満州矢車剣之助:2013/03/17(日) 12:28:09.74
だから方角などは末盧国に来た人間から得た情報ではないのだよ。
末盧国に来た人間から得た情報は末盧国までの体験記だけ。
それ以外の情報は別のルートから得ていたのだ。

少しは学習しろ、九州説の馬鹿者ども。
298日本@名無史さん:2013/03/17(日) 12:33:29.32
帯方郡から邪馬台国までは、近世で言えば東海道五十三次みたいなもの
誰でも知ってるただの往来、
満州世代なら、夜霧の第二国道
299日本@名無史さん:2013/03/17(日) 16:16:41.72
中国人が方角を間違えたなんて説明しかできないんならば、倭人伝を論じることは
やめた方がいいな。
300日本@名無史さん:2013/03/17(日) 16:41:14.98
301日本@名無史さん:2013/03/17(日) 16:45:18.92
当時の日本には方角と言う概念はなく、日数で距離をはかると隋書に書いてある
302日本@名無史さん:2013/03/17(日) 17:17:09.35
里の概念はなく日数で測る、だろ。
303日本@名無史さん:2013/03/17(日) 17:24:39.00
纏向の遺跡の建物遺構が、東西南北に正確な配置だったのシランの
304満州矢車剣之助:2013/03/17(日) 17:26:48.92
お前らは倭人伝しか読んだことがないのか。
百済新羅伝などを読んでみろ。デタラメばかりだ。
高句麗の東に海を跨いで新羅があるとか、南に海を跨いで百済があるとか、
新羅は百済の東北に在ると書いてあるかと思えば、
新羅は百済の東南にあるとも書いてある。

デタラメばかりだ。しかも正史に書いてあるのだ。
中国正史の地理記事なんてそんなもの。
倭人伝もそうだ。東南五百里到伊都国。これがそもそも間違いではないか。
おまけに倭は沖縄辺りにあると書いている。

南と書いてあっても東と間違えているのだ。
それを古田みたいに倭人伝に一字一句の間違いも無いと考えるからおかしくなるのだ。
305日本@名無史さん:2013/03/17(日) 17:27:24.29
>>298
命がけの旅だから、持衰がいて無事を祈り禁欲生活を送った。
航海がうまくいけばたくさんの褒美をもらい、遭難すれば殺された。
そんな大変な旅だったのだ。
306日本@名無史さん:2013/03/17(日) 17:30:40.47
>>304
倭人伝の方向の記述は、帯方郡から狗邪韓国、対馬、壱岐を経て九州に辿り
着くまではおおむね間違っていない。
そこからいきなり、南ではなく東だというのがおかしいのだ。
307日本@名無史さん:2013/03/17(日) 17:31:13.65
距離や方向がでたらめなら、吉野ヶ里が最有力候補だな

俺は距離や方向を重視する立場だから、
吉野ヶ里にはしないが。
308日本@名無史さん:2013/03/17(日) 17:42:00.31
>>299
えっ、でも方角まちがえた地図もあるし、他にも手記でそういう例はたくさんあるよ
309日本@名無史さん:2013/03/17(日) 17:53:38.23
>百済新羅伝などを読んでみろ。デタラメばかりだ。
少なくとも魏書の話ではないな。魏書には百済や新羅は出てこない。
間違ったことが書かれた史書があるからといって、魏書も信用できないというの
は論理的に飛躍しすぎている。

>倭人伝もそうだ。東南五百里到伊都国。これがそもそも間違いではないか。
間違いとみるべき理由は何もない。東南500里というのは極めて合理的だ。

>おまけに倭は沖縄辺りにあると書いている。
そんなことは書いてないな。
310日本@名無史さん:2013/03/17(日) 18:11:50.64
>>304
漢文の読解力がない満州が読み間違えてるだけだろう。
今までにそんな例が腐るほどあった。
311日本@名無史さん:2013/03/17(日) 18:12:23.29
満州人 満人以外は 信用せず
312日本@名無史さん:2013/03/17(日) 18:15:08.91
「会稽東冶の東にある」と書かれている

会稽東冶の位置
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisimap.png
313日本@名無史さん:2013/03/17(日) 18:16:44.46
会稽東冶の位置
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/toya.png

正確な地図だと琉球あたりになる
314日本@名無史さん:2013/03/17(日) 18:17:58.60
>>308
方向が間違いというからには、根拠を探さなくてはならない。
でなければ、ただの言いがかり、自己主張のための方便に過ぎなくなる。
だから、地図を探してきた。
12世紀に作られた朝鮮の混一疆理歴代国都之図。
これで三世紀の陳寿の地理観を云々しようとするわけだから、
完全にピントがずれている。
315日本@名無史さん:2013/03/17(日) 18:27:57.66
>>308
NHKのニュース全国の天気予報の地図を見れ、沖縄が韓国辺りに書いてあるぞww
あれも間違いかww
316日本@名無史さん:2013/03/17(日) 18:35:52.32
「会稽東冶の東にある」とは書かれていないね。道里から推測して「あるべし」と
書いているんだ。あくまでも、推測だな。彼らがそのように推測したことは事実だ
ろう。何も嘘は書いていない。だから、彼らがどうゆう推測をしたのかを考えれば
趣旨は理解できる。
317満州矢車剣之助:2013/03/17(日) 18:39:15.85
>>306
なぜ末盧国までの方角がほぼ正しいかと言えば、
そこまでは末盧国に行った人間の体験談に基づいているからである。

ところがその人間は末盧国から先へは行っていないのだ。
伊都国云々は、その人間の体験談とは別のルートで中国に伝わっていた情報なのである。
だから間違いが多い。極端に言えば、末盧国以下の記事は全く信用できない。
とくに信用できないのは不彌国が出てくることだ。これは明らかに馬韓の不彌国だ。
そう考えれば、投馬国は対馬に比定できるし、邪馬台国を九州内に比定できる。
318日本@名無史さん:2013/03/17(日) 18:42:39.78
邪馬台国まで行っているよ。満州の前提は間違っているから駄目なんだ。
自分が読めないのを倭人伝のせいにするのはやめることな。
319日本@名無史さん:2013/03/17(日) 18:43:00.82
>高句麗の東に海を跨いで新羅があるとか、
そんな記事はどこにもない

>南に海を跨いで百済があるとか、
広開土王碑のことなら正しいよ
正史には書かれていない

>新羅は百済の東北に在ると書いてあるかと思えば、
6世紀では、正しい

>新羅は百済の東南にあるとも書いてある。
6世紀では、正しい

>おまけに倭は沖縄辺りにあると書いている。
そんな記事はどこにもない
320日本@名無史さん:2013/03/17(日) 18:44:40.84
畿内説の目が無くなって、記紀信者が暴走しとるな
どうせ長くはあるまい
321日本@名無史さん:2013/03/17(日) 18:46:59.34
もとのが目なんてものは無いのよ
322日本の名無史さん:2013/03/17(日) 19:15:44.73
>>291
邪馬台国に行く水行ルートと投馬国へ行く水行ルートを途中までは同じと考えていいのかな。
で、10日進んだところで上陸して1月歩いて邪馬台国。そのまま水行を10日続ければ投馬国に着くと。
だけどやっぱりこれだと、目的地である邪馬台国よりも先に記述される意味がわからない。
たとえ魏使が投馬国に行ったとしても、邪馬台国よりも先に行くことはないと思うんだわ。
323日本@名無史さん:2013/03/17(日) 19:36:58.08
この時代の会稽山は、山東半島の付け根、日照市の北方にある会稽山のこと。
徐福が日本へ向けて出立した地が連雲港であることとも整合性がある。
そもそも長江は時代と共に流路を変えていて、
この時代には紹興、南京周辺を流れてはいない。
324日本@名無史さん:2013/03/17(日) 20:31:58.71
琉球はいつごろ史書にでてくるんだ
325日本@名無史さん:2013/03/17(日) 20:32:59.03
>>314
そういう感じの補正じゃないよ、完全に間違えてるのが明らかだから
326日本@名無史さん:2013/03/17(日) 20:36:18.35
>>324
隋書琉求国伝
邪馬台国は琉球ではない
327日本@名無史さん:2013/03/17(日) 20:37:08.95
結論から言えば、東と南をまちがえただけ
畿内が正解
328日本@名無史さん:2013/03/17(日) 20:47:35.80
そう、水行十日は二十日、陸行1月は3日の間違いだ。それで畿内な。
329日本@名無史さん:2013/03/17(日) 20:48:00.49
>>325
今みたいに紙は十分でなかった
そこであの用紙の大きさに収めるため、やむを得ずああいういう形になったと考えられてる
上の >315 に書いたとおり、今でもNHKの天気予報では沖縄が韓国済州島辺りに表示されるようなもの
330日本@名無史さん:2013/03/17(日) 20:52:34.24
鉄製鏃の流通を仕切れる要素を全く欠いた畿内なんてのに比定するのが知恵遅れ。
331日本@名無史さん:2013/03/17(日) 20:53:14.49
>>327-328
畿内説の人間はみみっちいな
おれなら江戸でも、パリでも、ロンドンでも邪馬台国にして見せたるわ
332日本@名無史さん:2013/03/17(日) 20:59:01.41
△鏡詐欺、箸墓詐欺、年輪詐欺など、畿内詐欺はおなかいっぱい。
333満州矢車剣之助:2013/03/17(日) 21:28:14.23
>>319
ふふふ、お前の不勉強ぶりが丸分りだぞw ほら、これを見ろ。

東渡海至於新羅…南渡海至於百濟 (舊唐書高麗)
地東跨海距新羅,南亦跨海距百濟  (新唐書高麗) 

新羅…在百濟東南五千餘里。(南史新羅)
東北至新羅  (舊唐書百濟)

これでも中国正史は正確なのか?(笑)
334日本@名無史さん:2013/03/17(日) 21:35:25.14
高句麗と高麗を混同しているのか?
335満州矢車剣之助:2013/03/17(日) 21:44:47.01
混乱しているのはお前の頭だ。

高麗とは高句麗のことだ。
舊唐書から渤海伝が書かれるが、高麗伝は新唐書でも書かれていないぞ。
336日本@名無史さん:2013/03/17(日) 21:47:37.84
>>329
そんな言い訳が通じるかww
手記でも東と南をまちがえたと思われる記述はいくらでもある
337日本@名無史さん:2013/03/17(日) 22:00:14.61
>>336
>329のことを言ってる人間はオレだけでなく、たくさんいる。
それから、たいていの世界地図では、スカンジナビア、シベリア、アラスカ、グリーンランドや南極大陸は、
実際の大きさよりはるかに大きく書かれている、理由は分かるだろ、
大人の地図は伸びたり縮んだり回転したりするものだ
338日本@名無史さん:2013/03/17(日) 22:12:43.73
この時代には海流の概念はなかった。
そのせいで流れのある海、水路の行程が狂ってる。
339日本@名無史さん:2013/03/17(日) 22:23:13.33
>>337
おまえは原始人か、グリーンランドがでかいのはメルカトル図法だからだよ
古地図ででかさがちがうのは、正確な大きさが分からなかったから
伊能忠敬の日本地図の精緻さを見て、西洋人がおどろいたのは、あれをつくるには
おそろしいくらい地道に天体観測しなきゃならんからだ
ふつう、庶民にはそれほどの正確さより安さと道が分かる程度の正確さ
使者とて同じだろ、来たところから道に迷わない程度の情報であればいいのさ
東南をまちがうことだって重要性はさしてないよ
340日本@名無史さん:2013/03/17(日) 22:40:39.04
>>339
そう言うことよ、地図とは融通のきくものだ
とはいえ、行き先を誤って大海の竜宮城なぞへはまり込んではなんにもならぬぞ
最近の地図は航空写真併用だからな、南を東に書き変えても行けぬところは行けぬ。
諸条件の総合的かつ合理的判断が求められるからなww
341日本@名無史さん:2013/03/17(日) 22:48:28.42
じゃあ、邪馬台国問題も解決だな、畿内説で
342日本@名無史さん:2013/03/17(日) 23:12:28.68
この時代はまだ東海に都があった時代だから、畿内とは言えないんじゃなかろうか
343日本@名無史さん:2013/03/18(月) 02:46:17.56
日本海のことか?
344日本@名無史さん:2013/03/18(月) 04:47:40.66
【脱解齒叱今】:「我本【龍城國】人」 [姓【昔】(鵲)]
          (亦云【正明國】   [【多婆那國】]
.           或云【琓夏國】
.              【琓夏】
.           或作【花廈國】
.              【龍城】在【倭】[【倭國】]東北一千里)(77km)
.      「我父王【含+達婆】娉【積女國】[【女國】]王女為妃」
345日本@名無史さん:2013/03/18(月) 07:26:45.52
距離や方向記事を無視していいならな、
吉野ケ里が一番の候補
346日本@名無史さん:2013/03/18(月) 07:28:29.89
無視したら畿内説と同じだよ。
347日本@名無史さん:2013/03/18(月) 09:06:47.53
今やグーグル航空地図の全盛、距離標高も計れるし、山岳路から街中小路の具合までわかる。
伊都国佐賀説はグーグルの威力だ。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/52dd43e7249aa8b9b4926229898ec2c4

いっぽう畿内説や北部九州説は、あいかわらず中学時代の世界地図帳で距離方角をいじってるようだが、
まさに中二病のレベルにすぎぬな。
348日本@名無史さん:2013/03/18(月) 10:16:41.84
グーグルは関係ない中学の地図帳でも東南は佐賀だ
349日本@名無史さん:2013/03/18(月) 10:48:48.28
>>348
そりゃ、頼もしい
350日本@名無史さん:2013/03/18(月) 21:17:30.08
伊都国佐賀説と放射説を合わせれば、邪馬台国の所在はすっきりと分かる。
351日本@名無史さん:2013/03/18(月) 21:38:34.50
読者の方から、お褒めの言葉を頂きました。

>えらく吹いたもんだが、(熊本説は)おおむね自説と近い。
>細かいところは若干違うが、少なくとも今まで読んだ中では、
>一番無理のない説と考える。
352日本@名無史さん:2013/03/18(月) 21:58:56.20
熊本説は陸行1月を合理的に解釈できないよ。
353日本@名無史さん:2013/03/18(月) 22:25:05.24
短里短日説をどうぞ。
354日本@名無史さん:2013/03/18(月) 22:53:40.06
>>352
そんなことで最初からあきらめてはいけない。
最初は末蘆国から2000里という「距離」を優先して考えればよい。
2000里先といえば熊本平野だ。

いっぽう日数は「時間」だ。
飛行機なら24時間で1万キロを駆ける、亀さんなら24時間で100mしか進まないかもしれない。
2000里を駅伝伝送方式で物資輸送すれば少なくとも20日はかかる。雨も降れば風も吹く、一口に言って陸行1月でおかしくない。
時間とはそういう性格の現象である。
355日本@名無史さん:2013/03/18(月) 23:04:44.92
皆立派な論をぶち上げて、長々と説明しているが、
距離と日数を1/6する短里短日説だと、一行で済んでしまうので、

本なんか書きようがねえ。
356満州笛吹童子:2013/03/18(月) 23:07:42.93
君知るや 末盧〜熊本 三百里
君知るや >>354は 伊作なり(微苦笑)
357満州笛吹童子:2013/03/18(月) 23:10:33.61
君知るや 九州人は アンポンタン
358日本@名無史さん:2013/03/18(月) 23:10:52.07
>2000里という「距離」を優先して考えればよい。
それでたどり着くのは女王国の境界。邪馬台国ではない。
359日本@名無史さん:2013/03/18(月) 23:18:32.82
里程も日数も、総行程の万二千余里も、
また、水行陸行の妥当性も、全て一致するのが、
短里短日説である
360日本@名無史さん:2013/03/18(月) 23:23:50.68
無理して一致させようとするから奇妙な説を述べることになる。
万2000里で邪馬台国ならば、水行10日陸行1月に続いて書くだろ。
自分が作文したらどんな文章を書くか考えてみることだ。
361日本@名無史さん:2013/03/19(火) 00:16:55.73
>>354
末盧國から女王國までは600里だ。
末盧國から不彌國も600里だ。
つまり、不彌國は女王國に属しているのだ。
不彌國の南に邪馬台国があるがその距離は不明。

倭地の南端(狗奴國の南端)は對海國の北端から5000餘里だから、
末盧國から倭地の南端(狗奴國の南端)までは1600里だ。
∴不彌國から倭地の南端(狗奴國の南端)までは1000里になる。
倭地の南端(狗奴國の南端)は熊本平野南部の現在の緑川がある古熊本湾の北岸だ。

以上から、邪馬台国は熊本平野(狗奴國)と佐賀平野(不彌國)間の筑後平野にあのだ。
362日本@名無史さん:2013/03/19(火) 00:20:15.17
>万2000里で邪馬台国ならば

万2000里は女王國である。
仮定が成立しないので議論にならない。
363日本@名無史さん:2013/03/19(火) 00:58:02.10
>倭地の南端(狗奴國の南端)は對海國の北端から5000餘里
ちがうね。倭の領域ではない。倭地だ。ということは、九州に上陸した所から5000余里さ。
君の説では、南九州は倭地ではないことになる。
しかし、九州は全て倭の地だよ。
364日本@名無史さん:2013/03/19(火) 01:32:27.73
秦韓の秦王さんとグルだから倭地なのか韓地なのかは曖昧もこでええのね。

秦韓の秦王さんは居登さといいなさる。

「言」でも「事」でも「琴」でも「筑」でも、表記のはエロエロ。
365日本@名無史さん:2013/03/19(火) 01:56:45.64
>>363
倭地は「海中洲島之上 或絶或連」であるから、
大中小の洲や島が列島か群島の様に並んでいるんだよ。
だから大きな九州島一島だけでなく、中小の洲島もあるのだよ。
大島:九州島
中島:対馬、壱岐 平戸島、(五島) 肥前西沿岸の島々 等
小島:壱岐対馬周辺の島々、有明海沿岸の洲島 等
366日本@名無史さん:2013/03/19(火) 06:17:05.19
 韓国が不法占拠している竹島(島根県)に続き、対馬(長崎県)の領有権まで主張し始めた。


◆対馬を守るために立ち上がるオフ会◆

http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1220261142/
367日本@名無史さん:2013/03/19(火) 08:20:25.40
>>288
《唐津基点》
水行西海反時計回り、有明海奥(20日・投馬國)

水行10日大村湾、陸行一月(共に邪馬台国)
368満州笛吹童子:2013/03/19(火) 09:18:47.48
さあけふも 行程パズルの 始まりだ
369日本@名無史さん:2013/03/19(火) 09:47:39.52
>大きな九州島一島だけでなく、中小の洲島もあるのだよ。
だが、九州の半分までで南は倭ではないなんてのはおかしいだろ。
370日本@名無史さん:2013/03/19(火) 11:25:31.34
>>369
熊本緑川以南は魏王朝の認識外の地
魏王朝に認識が無いことは存在しないこと

後漢王朝の認識は違う
東シナ海の海外の東鯷人20餘國は九州中南部と認識していた。
徐福が佐賀平野に上陸したとするならば、天草灘から有明海に入ってきたのである。
倭國の位置についての認識は九州北岸の地と対馬海峡の島々
371日本@名無史さん:2013/03/19(火) 11:38:45.34
魏王朝の認識、
後漢王朝の認識、
というよりも、それは >>370 の認識というのが正解だな
372日本@名無史さん:2013/03/19(火) 11:56:31.36
>>361
>末盧國から女王國までは600里。末盧國から不彌國も600里。つまり不彌國は女王國に属している。

北部九州説というか、古田安本説としては実質福岡県内に押し込めたいんだろ。それはよくわかっとる。
問題は論理不明確・賛同者僅少ということだな。
373日本@名無史さん:2013/03/19(火) 12:39:36.48
>>369
> だが、九州の半分までで南は倭ではないなんてのはおかしいだろ。

おなしくないだろw
今でさえ県で別れてんのに
派閥的な要素で別れてるなんざ古今有り得る
374日本@名無史さん:2013/03/19(火) 12:47:13.60
>>373
倭と倭地、その意味あいはやや違うけどな
ま、どうせ分からぬだろうし、分かってもそれを認めると福岡県を外れるからな。
いまさら古田安本説は福岡限定で行くほかあるまい。
375日本@名無史さん:2013/03/19(火) 12:52:58.10
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/

宗教哲学心理学から歴史政治経済まで話題豊富な
中杉弘先生のブログです。

ぜひご覧ください!!

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/
376日本@名無史さん:2013/03/19(火) 15:29:34.47
瀬戸内沿岸に大和朝廷政権ができても、隼人は抵抗したんだぞ
江戸時代も薩摩に入ると別国と言われた
いまでも季候風土が違う
377日本@名無史さん:2013/03/19(火) 17:37:23.73
>倭地の南端(狗奴國の南端)は對海國の北端から5000餘里だから、

>ちがうね。倭の領域ではない。倭地だ。ということは、九州に上陸した所から5000余里さ。

>倭地は「海中洲島之上 或絶或連」であるから、 大中小の洲や島が列島か群島の様に並んでいるんだよ。

みなさんは下記の文を誤読しておられるようです。
參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
(これまでの)情報をまとめると、倭地は(大陸から)離れた大海中の大きな島の上に在り、(國は)境を
接するものもあり離れているものもあり、周囲は五千餘里ほどある。
378日本@名無史さん:2013/03/19(火) 18:45:52.96
>>370
>熊本緑川以南は魏王朝の認識外の地魏王朝に認識が無いことは存在しないこと
ならば、九州が島だとすら言えないわけだ。
379日本@名無史さん:2013/03/19(火) 18:53:48.44
>>373
では、九州の中に、倭のほかに何者がいたのかな? それがどこに書いてある?
380日本@名無史さん:2013/03/19(火) 19:32:05.55
大阪 896 459 375 283 219 170 136 153 109 102
――――――――――――――――――――――――
島根.1054 466 598 236 255 262 138 *93 122 131
岡山 931 358 496 295 218 211 104 157 132 *99
――――――――――――――――――――――――
福岡 988 484 414 306 175 183 138 140 105 130
佐賀 990 593 371 278 153 240 135 142 135 128
長崎.1001 512 347 343 193 207 *84 226 129 *92
熊本.1059 528 414 313 164 191 113 129 *77 102
大分 945 322 435 317 174 260 122 166 *63 142
宮崎 894 343 387 368 217 226 104 167 116 113
鹿児 828 338 269 318 168 147 *97 176 168 148
381日本@名無史さん:2013/03/19(火) 19:43:56.88
>(國は)境を接するものもあり離れているものもあり、周囲は五千餘里ほどある。
倭の地の話であって、国境の話ではないよ。
382日本@名無史さん:2013/03/19(火) 20:27:15.61
そうだよねえ
あくまで、參問「倭地」であり、參問倭国ではないからねえ
383日本@名無史さん:2013/03/19(火) 21:05:59.96
>>377
>みなさんは下記の文を誤読しておられるようです。
>參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
>(これまでの)情報をまとめると、倭地は(大陸から)離れた大海中の大きな島の上に在り、
>(國は)境を接するものもあり離れているものもあり、
>周囲は五千餘里ほどある。

誤読しているのあなたです。
@大きな島であるとの表現はありません。
A境とは何と何の境ですか?境の存在を示す表現はありません。
 >>381-382の両氏のとおり。
B「周旋」に周囲の意味はありません。周囲の意味を含む表現は「周匝」です。
  「周旋」は片道行。「周匝」は出発点にもどる意味があります。
384日本@名無史さん:2013/03/19(火) 21:59:24.28
片道五千里380kmですか
385日本@名無史さん:2013/03/19(火) 22:26:19.79
対馬の中央部から鹿児島の指宿までおよそ380kmだわ
あの時代にGPSでも使ったのかというくらい素晴らしい精度!
386日本@名無史さん:2013/03/19(火) 22:39:26.62
秦の始皇帝時代には北極星を神として崇拝していたというし、どこかで誰かが方位磁石もあったと書いてた気がする
すでに天測の技術を有していたと思わざるを得ないなあ
387日本@名無史さん:2013/03/19(火) 22:41:24.52
往復だとその半分で、やはり熊本南部か。
388日本@名無史さん:2013/03/19(火) 22:53:54.72
陳寿先生の筆の切れ味は凄いよ、
熊本までなら最初から2500里と書き、往復なんて未練な記述はしない。
389日本@名無史さん:2013/03/19(火) 22:55:18.67
>B「周旋」に周囲の意味はありません。周囲の意味を含む表現は「周匝」です。

そんな嘘をついてはいけません。
周旋○○里という表現のときは周囲○○里あるいは一周○○里という意味になります。
390日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:03:34.29
周囲五千里ならせいぜい福岡県+佐賀県の範囲内。
要するに古田安本説のための周囲論。
ま、この件は2カ月ばかり前に論争済み、当時の魏書の用例から見ても正解は片道行ということだった。
391日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:18:13.09
>>389
それは最近の使い方。誤用だね。周旋はもともとは一周ではない。
392日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:26:20.14
>>381,>>382
參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里 の前に書かれていることから考えましょう.

女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里 又有裸國
K齒國復在其東南船行一年可至とあります。
女王國の東の海千里を渡ったところにある倭種の国々や女王國から四千餘里離れたところにある
侏儒國や、船行一年可至という裸國やK齒國も倭地に入りますかね?入らないですよね。
倭地と言っても倭人(倭種)の住む地域全体を指していないことは明白です。では何を指しているのか。
それは女王の支配領域(支配下にある国々)です。女王の支配領域(国々)は大海の中の大きな島(洲島)
の上に在り、国々が(境を)接していたり離れていたりという形をしている。大きさ(広さ)は面積で表現
が難しいので1周した距離で示して五千餘里ほどであると言っているのです。
なお、対海國や一大國については既に方四百里と方三百里と示しているので含めていないのです。
393日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:30:42.91
>ま、この件は2カ月ばかり前に論争済み、当時の魏書の用例から見ても正解は片道行ということだった。
またまた嘘をついてはいけません。三国志にある周旋○○里の用例は二つありますが、いずれも周囲、あるいは
1周の意味です。
394日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:33:36.70
>それは最近の使い方。誤用だね。周旋はもともとは一周ではない。
またまたデタラメ言ってはいけません。陳寿の時代にあった用例ですよ。
395日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:35:45.48
>>392 それは女王の支配領域(支配下にある国々)です。

これこそ倭人伝に「倭国」と記述されて居る範囲で、五千里なら実質的に福岡県・佐賀県の範囲となる。
おまいあの時、逃げ出した小僧だなww 舞い戻っていまさら古田安本派かよww
396日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:35:55.31
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種

倭種がたかっておる土地のが倭地だら

半島のはずれの小島とかに倭種がたかっておったら そこのは倭地といいつべし
397日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:40:01.66
>>394
またか、どうせ嘘だ嘘だといって騒ぐのが目的だろ、一周説は聞きあきたわ。
398日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:43:26.02
>>395
>おまいあの時、逃げ出した小僧だなww 舞い戻っていまさら古田安本派かよww
なにをトンチンカンなことをおっしゃるのですか?
逃げたりしてはいませんよ。それに古田安本派でもありませんよ。是々非々派ですよ。
399日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:48:19.26
>>398
その口トンガラかした言い方もそっくり、しかも古田安本派の言い分そのまま。
ま、もう流れは変わった。福岡一周説なぞ誰も納得しない。
400日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:54:37.55
>>398
景行天皇だって九州二万里くらい旅してるのに、一周五千里とかみみっちいことで騒ぐな。
もう少しでっかいカキコに取り組め。
401日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:54:44.31
古田安本派って。古田と安本は犬猿の仲だろう?
402日本@名無史さん:2013/03/19(火) 23:56:29.88
>>396
倭地を文字どおりに解釈すれば倭人の住む土地でいいでしょう。しかしそれだと半島の一部も女王國の
東の海を渡ったところも倭地ということになります。しかし、それでは周旋五千豫里には納まらないで
しょう。
大陸から見て何が重要な情報だったかということを考えましょう。
卑弥呼を親魏倭王に叙したのですから、その倭王の支配領域の大きさは重要な情報です。女王の支配が
及ばない領域まで加えた大きさなど無意味です。
403日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:00:27.44
>>401
犬猿の仲かどうか知らぬ。
しかし北部九州内で主題を展開してることに置いてはほぼ同様なんだから、仲良しなんだろ。
404日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:01:09.83
>景行天皇だって九州二万里くらい旅してるのに、一周五千里とかみみっちいことで騒ぐな。
あなたはご自分の脳を心配されたほうがよいのではありませんか?
405日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:03:37.59
倭地というのは、九州とその周囲の小島だろう。女王の支配が及ばない狗奴国も
倭地の一部だよ。本州や四国は倭種の人々が住んでいても倭地ではない。
406日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:05:07.13
>>402 東の海を渡ったところも倭地ということになります。

陳寿はそれを倭地と区別すべく、わざわざ「倭種」と書いわけておる。正確に嫁、おっちょこちょい。
407日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:12:35.20
>>393 >>394
魏志の用例は、いずれも一周ではない。君がかってにそう思い込んでいるだけ。
学者の説明も読んだことがないのかな?
408日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:17:22.83
>>406
>>東の海を渡ったところも倭地ということになります。
そこは>>396に答えているところですよ。
あなたこそ人のレスを正確に読む訓練をしたほうがよいですよ。
409日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:18:34.57
>>396
「復有國」といいながら、
「侏儒國」のごとくにはお名前を書いてはおらんところのがみそ。

じつはそこののお名前は別途で一括記載されておるのね(5まんこ)
410日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:21:30.91
とゆうことは「復有國」のところも「自女王國以北」のに含まれるとゆうことにはなる
411日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:25:37.27
>>407
丹楊地勢險阻、與吳郡、會稽、新都、鄱陽、四郡鄰接、周旋數千里 (吳書19 諸葛滕二孫濮陽傳第十九)
あなたはこの記事をどう読みますか?

>学者の説明も読んだことがないのかな?
誰がどう説明しているのか示して下さい。もし、周旋・・里を周囲あるいは一周・・里と読むのは間違い
だと言う学者がいたらその人は似非学者です。
412日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:29:38.58
>>396
まああれだわ

「復有國」のところの中心地は鉄器の出方の分布から

これわ出雲では無いとゆうことにはなるが。

すなはち「但馬」(たじま)であり、

ここののまとまりは馬関あたりから発生ので

この時期のは「彌彌」がまとめる「投馬國」の國國連合だら

ここののまとまりは「多婆那」ともゆうただら
413日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:32:11.20
>>412

>>344 のもめえとおしておいたら?
414日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:39:18.12
垂仁天皇三年(甲午214)春三月 新羅王子天日槍来帰焉 (←埋込記事)

阿達羅四年(216)四月多婆那以迎烏カ爲君
415日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:42:38.44
榎一雄が「邪馬台国」で 次の用例を引いている。
陵廻阜転、山高隴長、周旋逶迤、形似書字。
そして、周旋五千余里は倭の領域の始まる地点から、その領域の尽きる所
までの距離を言ったのである、と説明している。
416日本@名無史さん:2013/03/20(水) 00:52:39.73
こんなかんじだら


脱解 「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里 初其國王 娶女國王女爲妻」
 ┃
昔鄒( -209)
 ┣━━━━━━━━┓
伐休(189-256)    天日矛
417referee:2013/03/20(水) 12:14:29.01
>>415
「周旋・・里」の用例でなきゃ駄目だろが!榎一雄もバカだな。それに
「周旋逶迤」は周囲が曲がりくねっているという意味だろが。
418日本@名無史さん:2013/03/20(水) 12:56:36.28
>>411
>丹楊地勢險阻、與吳郡、會稽、新都、鄱陽、四郡鄰接、周旋數千里 (吳書19 諸葛滕二孫濮陽傳第十九)
>あなたはこの記事をどう読みますか?

横レスだが、
険しい地形の「丹楊」と「吳」「會稽」「新都」「鄱陽」の隣接する4郡を
順次巡っていく行程が数千里ある。
五ヶ所を巡るの意味であって、出発地に戻る意味がないから一周ではない。

周旋・・里を周囲あるいは一周・・里と読むのは間違いだと言う学者が当たり前田のクラッカー。
419日本@名無史さん:2013/03/20(水) 13:14:35.21
上記5郡は西北から東南方向に長軸が傾いた楕円形の地域だね。

長軸の長さが短里で数千里(500km)ですね。

グーグルの地形図で見ると分かり易いよ。
420日本@名無史さん:2013/03/20(水) 13:22:24.15
三国志の現場地図
まず目的地の敵方丹楊はすぐそこにあるのに一周はおかしい、
これは前後の文章を吟味すると特殊な軍情を示しており、目的地の背後に控える4郡も巡行追討(周旋)が必要との旨を意味している

(隣接4郡)(目的地)
吳郡、
會稽、 ← 丹楊 ← (出発地)
新都、
鄱陽
421日本@名無史さん:2013/03/20(水) 13:39:32.96
昔々、高校の古文の先生あたりから習った誤・一周説を、
未だ得意げにふれ回ってるんだろな、あの父っちゃん坊やはヨ。
422日本@名無史さん:2013/03/20(水) 13:53:19.77
むかしの国は出先機関があったわけではないから、景行天皇のように時々巡幸しないと、すぐに従わなくなる。
ヤマトタテルとか大彦とか、若いものを使って、まつろわぬ者どもを討つのも大変ですよ。
女王だと自分で何人も生むのは大変だから、
やはり、妾を何人でももてて子を何人でも産ませられる男王の方が統治しやすいです。
423日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:14:10.21
>>248
なんかそれが否定する根拠になると思う頭がイミフw
西都原は九州最大の遺跡。投馬(トゥマ)国=妻国に言及するのに
何の疑問が有る?wwwwwwwww
424日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:15:53.68
>>256
(卑弥呼の時代の)邪馬台国=御井
卑弥呼の墓=祇園山古墳
でほぼいいと思われ。
425日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:18:37.08
>>415
その説はダメ。参問倭地を誤読している。
参問倭地というのは、〜と倭地とを比べてみるとという意味。
〜とは裸国、黒歯国のこと。
周旋五千余里とは裸国、黒歯国のこと。
426日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:20:13.73
>>402
あんたも>>425ね。
ただの誤読。参問というのはAとBとを比べてみるという意味。
427日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:28:43.73
榎一雄は放射読みを広めたという功績があるが、この人それ以外は
結構アレな感じ。
至ると到るの使い方がうんたらかんたらってのデタラメだし。
(そんな使い分けの例は無いw)

このせいで、放射読み自体は正しいハズなのに、まるで
至ると到るの使い分け云々がウソだから放射読みもウソみたいな話しに
なってしまった。

放射読みすべき根拠は、>>243ね。
「郡の使の往来して常に駐る所なり。」と明確に書いてあるんだから。
だから魏の使いも伊都国に駐ったんだよ。
当たり前のことを言っているだけだ。

至ると到るがどうの、何の関係もない。ウソだよ。
428日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:32:14.20
到着を至着と書くバカがいますw
429日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:36:38.44
>>377
つかここが最初か。
それ誤読だからね。
430日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:38:56.61
>>428
さっそく低脳現るwwww
魏志倭人伝のどこに到着という言葉が出てくるw
クルクルパーかオマエはw
431日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:40:55.22
参問倭地の誤読は修正してくれよ。
陳寿はちゃんと書いているのに、勝手に誤読して
やれ倭人伝は記述がおかしいだの、言い分がクソだろ。
432日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:42:39.53
>>430
バカは簡化文字でも読んでなさい。
433日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:43:28.43
>>432
バカはオマエ。低脳なレスすんな。

>>430なアホw
434侮り難い小僧:2013/03/20(水) 15:47:49.62
>>418>>419,>>420
あなた方は吳書19 諸葛滕二孫濮陽傳第十九を読んだことがあるのですか?
「丹楊地勢險阻、與吳郡、會稽、新都、鄱陽、四郡鄰接、周旋數千里」は諸葛恪が「自分を丹陽に赴かせて
くれれば3年のうちに武装兵4万を獲得できます(乞爲官出之、三年可得甲士四萬)」と願い出たのに対し
て重臣らが反対して述べた意見の冒頭部分です。件の文章は丹陽の地勢、地理について述べたものです。
「丹陽は地勢が険しく、吳郡、會稽、新都、鄱陽の四郡と隣接しており、周囲は数千里ある。」と言っている
だけです。あなたの言われるような
>険しい地形の「丹楊」と「吳」「會稽」「新都」「鄱陽」の隣接する4郡を 順次巡っていく行程が数千里ある。
などというようなことはどこにも書かれていないのです。

重臣の反対はあったものの、孫権は恪を撫越將軍、丹楊太守に任じます。
恪は「吳」「會稽」「新都」「鄱陽」4郡の屬城長吏に書簡で「丹陽との境界を閉ざし人の出入りを禁じるように」
命じます。そして、部下を平民に化けさせて丹陽に屯居させ、穀物の収穫期に襲って種苗も残さず奪います。このよ
うな策略で飢えた丹陽の民を手にいれたのです。吳郡、會稽、新都、鄱陽の四郡を順次巡るなど必要ありません。
まして、四郡は呉の支配領域ですから、これらを巡行追討するなどアホなことはいたしません。
435日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:48:15.09
至 zhi
致 dao

発音から違う。
436日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:50:12.55
これは俺がハッケンしたんだっけ?
437日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:52:15.67
名無しの発見じゃ史上に残らんよ
438日本@名無史さん:2013/03/20(水) 15:58:14.62
知らんわ。放射説に基づいて読み込んでたら見つかったんだか。

古い文献では使い分けてあって、より新しい写本では至で
統一されてる。書写生の誤読ってのは文献学では良くある話。
439日本@名無史さん:2013/03/20(水) 16:34:06.50
>>434 「丹陽は地勢が険しく、吳郡、會稽、新都、鄱陽の四郡と隣接しており、周囲は数千里ある。」と言っているだけです。

丹陽の周囲が数千里あるという意味なら、呉から見て反対側にある隣接4郡を登場させる必要は全くない。
要するに、周旋が一周を意味するものでなくては困る古田安本信者の論じゃないのか。
そこで、倭人伝における問題を聞くが、
周旋5千里の外周は、どの道、どの川、どの山で、その中にどれどれの国々が含まれるか、具体的に示せるのか??
440侮り難い小僧:2013/03/20(水) 16:48:54.22
>>439
>丹陽の周囲が数千里あるという意味なら、呉から見て反対側にある隣接4郡を登場させる必要は全くない。

おっしゃることの意味がよくわかりません。
「呉から見て反対側にある隣接4郡」ってなんですか?
441日本@名無史さん:2013/03/20(水) 17:10:18.87
>>440
分かりやすく書いたのだ、それがわからぬか。
まあいい、それより大事なのは、これら4郡だけでは丹陽を包囲しきれてないということだ
包囲郡のうち4郡だけがなぜ登場したのか、また残りの郡はなぜ登場していないのか??
442日本@名無史さん:2013/03/20(水) 17:29:59.94
>>441
建業→吳郡→會稽→新都→鄱陽 時計廻りで全周の65%程度

        丹楊 

建業→→→→→→→→→→鄱陽 反時計廻りで全周の35%程度
443日本@名無史さん:2013/03/20(水) 17:36:07.40
新都郡の場所は http://goo.gl/maps/4HW3c

賀齊字公苗 會稽山陰人也
(建安)十三年(208)
歙凡六縣 權遂割為新都郡
齊為太守 立府於始新 加偏將軍
444日本@名無史さん:2013/03/20(水) 18:04:23.58
鄱陽郡の場所は http://goo.gl/maps/eGKJh

丹陽の場所は ふつうに http://goo.gl/maps/kqomt

ここかとおもったりするけど さにあらず

「四郡鄰接」 「地勢險阻」なんだから

ここいらの山塊のなかのところのことだろ

http://goo.gl/maps/mAU0a
445日本@名無史さん:2013/03/20(水) 18:25:18.86
>>425
南洋の土人の島の大きさを欠いてなんになるってんだ。
446日本@名無史さん:2013/03/20(水) 18:35:00.71
至と到はちゃと使い分けられているんだよ。到は到着するというニュアンスだな。
一応の区切りのところで遣われている。至は着くと同じ程度のニュアンスだ。
だから、特に区切りの所ではない所で使われている。
歴韓国の終わりになる狗邪韓で到る、順次式の終わりとなる伊都国で到るだ。
邪馬台国について至とあるのは、伊都国から各国平等の表現としたもの。すなわち
放射式であることによるものだよ。
447侮り難い小僧:2013/03/20(水) 18:41:20.01
>>441
>分かりやすく書いたのだ、それがわからぬか。
分かりにくいですよ。だって、四郡が吳郡、會稽、新都、鄱陽のことなら呉の領域ですから「呉から見て
反対側にはなりません。『じゃあどの四郡のことをおっしゃっているのか?」となるのですよ。

>包囲郡のうち4郡だけがなぜ登場したのか、また残りの郡はなぜ登場していないのか??
あなた三国時代の地理をご存じないようですね。
丹陽の北側には建業があり、北西と西側には長江があります。これらと四郡で囲まれているのです。
他の郡は隣接していないのですから登場するわけないでしょう。

なお、
私は勉強の合間の息抜きにこのスレを覗いているだけですので直ぐにご返事できないことがありますが、気長に
お付き合いをお願いします。では一先ず失礼いたします。
448日本@名無史さん:2013/03/20(水) 18:53:59.94
建業の南側にある丹陽は「四郡鄰接」でも「地勢險阻」でも無いけどそれでええの?
449日本@名無史さん:2013/03/20(水) 18:59:33.43
南側にあるとゆうよりは東側にあるのが丹陽市だけど

ちょっと小細工して南にずらしたいのの意向?
450日本@名無史さん:2013/03/20(水) 19:17:42.75
>>447
そうかい、分かりにくいというから、補足しよう。
呉(の出発点)から見て4郡の一部の新都、鄱陽は明らかに丹陽の反対側という意味だ。

それはそれとしてまず第一に、周旋とはどこを一回りするのかと聞いているのだ(答えが無い)
次に、建業から丹陽へは他の郡を通らずに行けるのに、なぜ隣接4郡が関係あるかと聞いているのだ(答えが無い)

最後に一番大事なことは、倭人伝のいう周旋五千里の倭の範囲はどこかということを聞きたいのだ(答えが無い)。
451日本@名無史さん:2013/03/20(水) 22:27:50.02
>>447の浅はかな小僧

丹陽と四郡の地域範囲
安徽省の南部、江西省東北部、浙江省北部に跨る標高数百mの山岳地帯。
最大東西500km南北200kmの地域で、
西端は長江に至り東端は東シナ海に至る。

上記地域の一周が数千里とするには短里長里いずれにおいても成り立たない。
上記地域の差渡しが数千里とすると、短里も場合のみ成り立つ。

丹陽だけで周旋数千里であると解釈するならば、
「一周」又は「差渡し」は、どちらも短里でのみ成立する。
452日本@名無史さん:2013/03/20(水) 23:36:41.06
魏志倭人伝、行程斜行式読み(分岐基点の伊都国への経路だけ「到」を使ってる)
   ┃渡一海千余里「至」
   ┃
┏━━━┓
┃末慮国┃
┗━━━┛
   ┃南東陸行 五百里「到」
   ┃        東行 百里「至」 ┏━━━┓
   ┃     ┏━━━┓━━━━┃不弥国┃
   ┗━━━┃伊都国┃      ┗━━━┛
         ┗━━━┛━━┓
     「至」  ┃  ┃     ┃東南 陸行百里「至」
  南 水行十日┃  ┃     ┃
    又は   ┃  ┃  ┏━━┓
  南 陸行一月┃  ┃  ┃奴国┃
          ┃  ┃  ┗━━┛
     ┏━━━━┓┃
     ┃邪馬台国┃┃
     ┗━━━━┛┃
              ┃南 水行二十日「至」
          ┏━━━┓
          ┃投馬国┃

          ┗━━━┛
伊都国から邪馬台国までを並行読みするのは、上陸地点に
全く触れてない点で支持されるって話も覚えておいてね!
453侮り難い小僧:2013/03/20(水) 23:59:59.69
>>450
(答えがない)といわれますが、おかしな事を言わないで率直に聞いて頂けばお答えしますよ。

>それはそれとしてまず第一に、周旋とはどこを一回りするのかと聞いているのだ(答えが無い)
周旋数千里とは丹陽の周囲長のことです。数千里とはかなり大きいということで、正確であるか否か
はわかりませんが、呉の重臣達の認識はそうであったということです。

>次に、建業から丹陽へは他の郡を通らずに行けるのに、なぜ隣接4郡が関係あるかと聞いているのだ(答えが無い)
建業から丹陽へは他の郡を通らずに行けますよ。実際にも丹陽に派遣されていた呉 の役人は建業から直接丹陽に向かった
でしょうね。(丹陽は呉 の敵国ではありません。呉 の支配下領域です。その民は剽悍で兵士にむいているのでここから
兵士を集めたかったのですが、民は言う事をきかず強制的に連行しようとしても山中に逃げ込むのでうまくゆかなかった
のです。そこで諸葛恪が策を用いて民を兵士として獲得できたのです。)
四郡と丹陽の関係は地理的に隣接しているということです。丹陽の地理を述べた部分ですから隣接する四郡の名が登場
したのです。なお、恪はこれら四郡の屬城長吏に書簡で「丹陽との境界を閉ざし人の出入りを禁じるように」
命じていますが、これは飢えた丹陽の民が郡外に逃亡するのを防ぐためです。

>最後に一番大事なことは、倭人伝のいう周旋五千里の倭の範囲はどこかということを聞きたいのだ(答えが無い)。
倭人伝に名前が出ている倭の国々のうち対海國、一大國および狗奴国を除いたもの全てですね。
454侮り難い小僧:2013/03/21(木) 00:13:05.90
>>451浅はかなお爺ちゃん
周旋数千里は諸葛恪が丹陽への赴任を願い出たときの呉の重臣達の認識がそうだったということですよ。
合っているかどうかを論じてもしょうがないでしょう。数千里とは数千里にも及ぶほど大きな数字だと
いうことです。正確な距離が分かっていれば数などとは言わず具体的な数字を挙げるでしょう。
455日本@名無史さん:2013/03/21(木) 00:40:27.84
>>454浅はかな小僧
丹陽一周が少なくとも1万km(二千里)以上であることが前提での解釈は狂っている。

君が短里説であるのなら傾聴に値するが。
456日本@名無史さん:2013/03/21(木) 00:46:28.65
>>453
明確に書いていないから聞いたのだ、
周旋は丹陽一周であり、それが数千里とのことと確認した。
次に丹陽の地理にオレは当然疎いが、呉の重臣たちにとっては常識以前のことだわな。
改まって、丹陽は地勢が険しく吳郡、會稽、新都、鄱陽の四郡と隣接しており・・、などといっても呉の軍議では反対の理由にならぬだろう。

そのほんとの理由は >>453で小僧自ら書いているように、
民は言う事をきかず強制的に連行しようとしても山中(場合によっては隣接4郡の山中)に逃げ込むのでうまくゆかない・・、
このことを重臣たちが心配したからだろ。
(オレはこのことを暗に指し、
 >>420において「目的地の背後に控える4郡も巡行追討(周旋)が必要との旨を意味している」と書いたわけだ。)

たぶんそんな経緯があって、諸葛恪が策を用いて民を兵士として獲得できたのであり、
隣接4郡が記事に登場した理由がここにあったわけだろ。
どこかのブログに、今回同様のやりとりが書いてあったな。今回の結末がどうなるか、オレは前もって知ってたわけだ。

なお周旋五千里(周囲五千里)の倭の国々についても考えは確認した。
(事実上、福岡県+佐賀県にほぼ限定されるということになるだろうけどな)
457日本@名無史さん:2013/03/21(木) 04:10:21.63
倭人伝の周旋は、いずれも一周ではない。しかし、一周だと思い込んだ連中の目には、
いずれの用例も一周を示したものと見えるらしい。まあ、用例を正しく読む読解力が
ないから周旋5000里も一周だと思い込むのだろう。

>>415に示した陵廻阜転、山高隴長、周旋逶迤、形似書字について、山尾は次のように
書いている。
大小の丘陵はどこまでもめぐり、山は高く山なみは長々とうねっている。遠くまがり
くねっているこのさまは、草書の文字を思わせる。このような「うねりつづく」意味で
あろう。
もちろん、山尾は一周などという解釈はしていない。倭地の始めから終わるまでの距離
という解釈だ。榎と同じだな。
458サガミハラハラ:2013/03/21(木) 05:25:27.28
確かに、一周といったら、出発点と終点が同じですが、周旋だと巡り周って終点は違うところとなります。
東京千葉水戸宇都宮前橋さいたま東京とあるいたら、関東一周といいますが、東京さいたま宇都宮福島仙台山形秋田盛岡青森とまわったら
周旋といいます。
459日本@名無史さん:2013/03/21(木) 07:09:43.28
確実にハッキングされてる
460日本@名無史さん:2013/03/21(木) 09:49:53.11
小僧は、「周旋数千里」などの文字列を文章として読むのは大得意の文学小僧らしい。
しかし数千里がどれほどのキロメートルになり、丹陽と比べてどれだけの大きさになるかには全く関心が無いようだ。
つまり文字列のうち「数字部分」を物理量に換算する能力が著しく劣る。
典型的な文強理弱の小僧だろうな。
461日本@名無史さん:2013/03/21(木) 10:02:15.08
中国の周旋数千里は控えめに見ても2〜3千キロかな。
これに対し丹陽は大まかに言って四国か九州くらいだから、3回まわってもお釣りがくるだろな。
462日本@名無史さん:2013/03/21(木) 10:08:29.06
サガミ氏の例は、現住所から故郷に帰る例だったのか。
463日本@名無史さん:2013/03/21(木) 10:33:10.45
どうゆう計算しているんだ? 数千里というのは、千キロぐらいのものだろう。
464○周旋解釈決着正論・しょのいち:2013/03/21(木) 10:33:41.49
何ごとも大ぎょうにいう中国人が、諸葛恪の提案を否定するために、
その道のりを数千里と表現したものだ。文脈としても丹楊郡の外周距離をいう文言ではない。
@丹楊郡までの道のりの遠さ、A丹楊郡の地形の険しさ、B丹楊郡住民(山越族)の剽悍で頑強さを並べて、
諸葛恪の提案に反対する場面である。
ここで、丹楊郡の外周距離を述べたところで何になるというのか。単純な理屈だ。
465○周旋解釈決着正論・詳説:2013/03/21(木) 10:34:54.33
「周旋」の最も妥当な判断材料として『三国志』魏書に登場する用例がある。
・明帝紀に使われている周旋は「天体・五行の運行や循環」。
・曹仁、曹真、崔琰、郭嘉 、董昭、任峻、鄭渾、杜襲の各伝は「征討して回る」「軍事行動による転戦」。
・管輅伝の場合は、「常に馬車に同乗して巡る」と「万物の巡る変化」。

※わが国にも周旋という言葉がある。これは「斡旋する」「仲介する」という意味で、古くは不動産の仲介業者を「周旋屋」といった。『魏書』も一度だけこの意味で使用しており、臧洪伝に「感故友之周旋」(旧友の仲介に感じ)という文章がある。

以上から判断すると、『倭人伝』の周旋は「巡る・回る」と解釈して間違いない。
ただし、天体・五行の運行や循環の場合は「周期」ととれるし、
万物の巡る変化をいう場合は不定期サイクルになる。
また、軍事行動による転戦には迂回もあれば一時撤退などもあるだろうから、
その動き一層複雑である。さらには、出発点と終点が同じであれば「往復」とみなすことができる。
そのようなわけで、周旋の形態については一元的には断定できず、
用いられている状況を加味して判断するべきだろう。
そのためにも、ある程度の幅をもたせて「巡る・回る」と翻訳するのが良いようである。
466○周旋解釈決着正論・しょのいち:2013/03/21(木) 10:37:15.73
この周旋数千里を丹楊郡の外周距離だと解釈した上で、
『倭人伝』のいう周旋5000余里も倭地の外周距離だとする「もぐり」もいる。
これは、「たった一つの不確実性を伴う記録を持ち出して横紙破りな解釈をしておいて、
これを論拠として数多の事例をも否定した上で、
横紙破をゴリ押しせんとする論拠ねつ造」である。
そもそも倭地を隈なく調査して回れなかった魏志に、倭地全体の外周距離など分かろうはずがない。 

韓伝の方4000余里は、三韓の面積を4000余里四方で表現しているが、
これでいけば三韓の外周距離は1万6000余里になる。
朝鮮半島の南部にあった三韓の外周距離が1万6000余里に対して、
5000余里が倭地の外周距離だとすれば、倭地は方1250余里になる。
「三韓の外周距離は1万6000余里」で「倭地の外周距離は方1250余里」
これを妥当な比較数値とするホラ詭弁は絶対になりたたない。
467日本@名無史さん:2013/03/21(木) 10:51:45.23
>>463
数千里は、短里@75mで375kmくらい、長里@435mで2200kmくらい。(もっと長いのもあるにはあるだろうが)
丹陽一周は数字的にこのどちらにも合致しない。

それよりここは >>464 の仰せの通り、たいへんな道のりであるとの形容・表現と思う。
468日本@名無史さん:2013/03/21(木) 10:58:18.67
内周ってことじゃないの?
本人が回った距離
滋賀県の周旋するといった場合、琵琶湖周辺の街道に沿って周回した距離を実測者は周旋距離として表すだろう
しかし、現代人は地図を眺めながら、滋賀県境の外輪部分をもって周旋距離と認識してしまう
よって、周旋距離とは、旅程と解すべき
469○正論ダメ押し:2013/03/21(木) 11:06:28.67
対馬の外周が1600里、壱岐の外周が1200里。合計2800里。
でー?
「倭地の外周距離が1250余里」じゃアホの理屈だろう。

いじょで、この話はちょん。
470日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:07:59.96
琵琶湖の周りを一周するような場合は、周匝というんだよ。周旋とは言わない。
471日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:21:14.76
思うに、なぜ倭人伝に伊都国以降の里程が書かれていないかと言えば
使者は実際には伊都国より外に赴いていないからである
太宰府近辺には鴻臚館があったが、使者はそこで日本の外交代表と打ち合わせをしていた。
日本はあくまで対等の外交を希望していたからだ。
例はいくらでもある。
聖徳太子の使者小野妹子が隋煬帝に親書を渡すことができなかった事例や
秀吉の使者であった小西行長が明使者と対等の交易を結ばなかった事例や
清盛の日宋貿易において、天皇が中国皇帝臣下の国王として扱われていた事例や
南北朝時代の日明貿易において、懐良親王が皇帝臣下として扱われていた事例や
対馬の宗氏が外交文書から日本が中国皇帝しか使わないはずの「皇」の字などを削除していた事例など
常に日本側が譲歩していると解されるかもしれないが
実はそうではない。交渉当事者の使者同士の間では、それぞれ自分たちの功績を最大化するために
互いが互いの主張を尊重する形で譲歩する合意ができていたと思われる。
でなければ、ローマ帝国も含め、中国史書にでてくる西洋のさまざまな大国も中国の臣下であったことになるからだ。
よって、魏の使者はあくまでも自国の主張を尊重するために、卑弥呼に謁見しなかった。
謁見した形をとって、文書を捏造したのだ。
日本では当時、里でもって距離を測ることをしなかったとある。
魏の使者は、倭人からの伝聞によって伊都国以降の距離を記すしかなかったために里程が書くことができなかった。
472日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:22:41.69
>>470
それ以外の表現がなされていない証拠を示せ
473日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:24:05.51
思うのは自由だ。
474日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:31:00.55
伊都国以降の里数だって書いているだろ。奴国百里、不彌國百里とあるわいな。
475日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:31:03.88
>>471のつづき
よって、魏使が記した倭の習俗は実際には北部九州沿岸地域の漁労民のそれである。
そのため、刺青がなされていたり、海女さんの素潜りなど、漁労民特有の習俗が記録されることになった。
それはあたかも江戸時代において、鹿児島沿岸についた琉球人が鹿児島の田舎人の習俗をもって
日本人全体の習俗であるかのような誤解するようなものである。
476日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:32:53.10
>>474
おっと失礼、記憶だけで書いたので不備があった。
不弥国以降には赴いていない、だな
477日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:33:01.45
しょせん、こじつけ。使者は卑弥呼に会っているよ。投馬国、邪馬台国について
里数を書かなかったのは、良くわからんかったからだ。
478日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:36:50.02
>>477
根拠を教えてくれ
479日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:41:47.60
滋賀県を巡る場合は、琵琶湖の周りを進むことになる。
琵琶湖を時計回りで巡るとき、
大津から出発して大津に戻ると周匝であり。
大津から出発して瀬田までなら周旋となる。
480日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:43:48.15
無茶苦茶だよ
対馬〜壱岐が千里
九州一周で五千里?距離感覚がおかしいことが分かるだけ
481日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:44:56.78
>>476
自郡至女王国万二千余里 
というわけで女王国までも里程を書いてるよ(不彌国からは差し引き1300〜1400里な)
おまけに女王の宮室とか美女1000人とか、えらく詳しいけどな。
482日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:50:06.98
金印紫綬を届けにわざわざ帯方郡太守に命じて使者を立てさせたんだ。直接、渡さんでどうする。
そのことは、細かくみれば、倭王に拝仮しなどと会ったことが記されている。
しかも、投馬国、邪馬台国への日数が伝聞に過ぎないのならば、他の旁国について同様に何で日
数を記すことができなかったということは理解できない。倭国の役人が旁国がどこにあるのか日
数がどの程度かかるかを知らなかったなどということはあり得ん。使者は自ら確認したことだけを
書いたわけて、それだからこそ旁国については書かなかったんだよ。
あとは、風俗記事を良く読むこと。木や動物の有無など、直接確かめなければ書けないよ。
483日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:56:06.55
>>481
それは使者の旅程
484日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:56:26.07
>>480
誤読して距離感覚かどうこう言ってはいけないな。使者が上陸した唐津から南旧私有の
端までか五千里だって言ってるんだよ。だいたい合ってるだろ。
485日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:57:39.14
>>482
>>471
使者の捏造。日本の外交代表に渡して、必ず渡してね!って約束して渡したことにした。
結果的に魏も満足、倭も満足。
486日本@名無史さん:2013/03/21(木) 11:59:17.99
>>481 >>483
使者の旅程ではない。女王国が始まる境界までの里数だ。その先が何日もあるから
投馬国や邪馬台国までの里数を書けなかったんだよ。
487日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:04:10.04
倭人伝の部分部分で記載内容に特色があるから、役人レベルから上がってきた資料は10倍とかあったと思う。
それを陳寿様が、加除・添削・編集してドラマチックに仕立てなおしたのではないか。
どことなく司馬遼太郎の「街道を行く」の香り。
488日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:05:31.23
ローマ帝国によるガリア見聞もすべて勝者側による歴史として歴史家からは批判される。
たとえば、スコットランドの歴史とイングランドの歴史は書かれ方が異なるが
古い時代のイングランド側の歴史しか残っていない部分で判断すれば、スコットランドの歴史は成り立たなくなる。
日本は中国歴史書を礼賛しすぎて盲目になっている。
元史と集史の関係も同じ
489日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:09:36.51
中国史書全てを礼賛しているわけではないぜ。後漢書や梁書はあちこち間違って
いる。倭人伝は、そのような間違いがない。読めば読むほどうまくできてる。
490日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:11:17.21
「從郡至倭」において、魏使の第一目的地が狗邪韓國である。
魏使の第二目的地は伊都國である。
魏使は、倭の目的地に到着後も不彌國まで行っているが、
奴國、投馬國、邪馬台国に行ったかどうかは倭人伝には書かれていない。

移動行程を示すもの
水行 到狗邪韓國、始度 至對海國、南渡 至一大國、又渡 至末盧國、
陸行 到伊都國、東行 至不彌國

位置だけを示すもの
東南 至奴國、南 至投馬國、南 至邪馬壹國
491日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:12:29.56
じゃあなぜパズル攻略を試みる命知らずが絶えないんだ?
492日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:15:08.20
だから畿内説と北部九州説が消えたのだ
493日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:16:55.87
>>481
自郡至女王国万二千余里 
というわけで女王国までも里程を書いてるよ(不彌国で丁度万二千余里)
494日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:17:04.82
>>490
このように倭王に会ったと書いてある。その後にも同様の記述あり。
前半の風土・習俗に気を取られがちだが、じつは後半の政治・軍事の記述が重要。

正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王
495日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:21:07.41
>>492
何度でもよみがえるさ、なぜなら
496日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:24:09.84
>>490
日本の外交代表に会ったから、その人物に聞いて、倭人の距離感である日程が書かれているんだろ
政治・軍事の情報も倭人の伝聞。
497満州イガグリくん:2013/03/21(木) 12:37:55.94
さすが伊作だけは鋭いことを書いているじゃないか。
その他の連中はあいかわらずアンポンタン揃いだな。

魏使は日本に来ていないのに、来ているという前提で議論している。
また、魏使が伊都国まで来た、という前提で議論している。

そんなことだから何年やっても進歩しないのだ。
外国の歴史まで良く勉強しているのに、惜しいことだ。
498日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:38:31.87
倭人伝の読み方を知らん奴は、読めない部分を伝聞だとか言ってごまかそうとする。
499490:2013/03/21(木) 12:38:36.36
>>494
どこで倭王と会ったかが書かれていない。
梯儁は不彌國か伊都國から日帰りで往復できるところで倭王に会ったのだ。

倭王は邪馬台国にいるから、不彌國を吉野ヶ里とするならば、
倭王は筑後平野北部にいたと推定できる。
その他情報から、倭王が居たのは久留米付近と推定できる。

邪馬台国の中心地は官伊支馬の居所。
女王國の中心地は女王の居所(邪馬台国内)の久留米付近。
500日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:40:52.15
伊都国から片道40日かかる所で卑弥呼に会ったんだよ。
501日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:44:43.96
厳密にいえば魏使と郡使はちがうが、ちがうから違うなんて、うしろ手をねじ上げるような議論してもしょうがないな
502日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:48:39.50
>>499
古田安本信者かな?? 思うのは自由だ、だが急いで久留米の根拠を探さなくてはな。
503日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:49:22.98
隋書
夷人不知里數、但計以日
504日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:51:39.04
隋書
夷人不知里數、但計以日 (だが俺たち中国人が書く書物はちがうぞ・・、の意味だ)
505日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:53:01.64
じゃあなんで、不弥国以降の里程を書かなかったのか、書けなかったのだよ!
506日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:54:00.79
>>501
「從郡至倭」は、郡を通って倭に至るの意味であるから、
倭人伝の行程は魏使の行程にそって書かれている。
魏使は不彌國に宿泊できたが、郡使が宿泊できるのは伊都國まで。
507日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:56:31.61
>>505
ドラマチックに描いてるわけだ、読者に差し引き計算させて関心を深める。
教養のある中国人貴族ならすぐ計算できるからな。ま、東夷の庶民には無理か。
508日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:57:05.88
そりゃ、ゆかいな歴史書だ
509日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:58:12.24
>>506
想像するのは自由だ。事実かどうかは別。
510日本@名無史さん:2013/03/21(木) 12:59:19.60
不弥国以降の里程を書かなかったのか、書く必要がなかったのだよ。

邪馬台国と投馬國の領域は不彌國の領域と接していたから。
511日本@名無史さん:2013/03/21(木) 13:02:41.74
>>508
魏志倭人伝を読めば、一幅の倭国山水画が描ける。
全体の構図は抜群だし、すばらしく美的に書いてあるな。陳寿の筆は大したものだ。
512日本@名無史さん:2013/03/21(木) 13:03:10.48
里程で書いても紙面は変わらない
それまでの統一性を犠牲にしてまで里程を放棄する合理的な理由が分からない
513日本@名無史さん:2013/03/21(木) 13:06:28.16
ゴッホやピカソを見ても分からない東夷の息子には、陳寿の書の素晴らしさも理解できまい。
514日本@名無史さん:2013/03/21(木) 13:13:42.27
不彌國から先は広大な女王國の一部だから里程で書けなかった。
女王國の中心地は女王の居所であるが、
投馬國と邪馬台国の中心地がどこか魏使には分からなかった。
もしくは両中心地に訪れていないので記載する必要がなかった。
515日本@名無史さん:2013/03/21(木) 13:24:40.11
倭人伝は、登場場面(場所)ごとにテーマが違う。(対馬は荒海、末蘆国は平和な風土、伊都国は歴史、・・・)
またわざと濃淡をつけて書いてある。山水画と言ったのはそのことだ。

仮に不彌国から王都まで里程が明記してあると全体がだいなしになる。
卑弥呼がメザシと味噌汁で朝飯くってるとか、洗濯物が見えるとかな。
やはり王都は霞の向こうにおぼろげに見えるの雰囲気がだいじ。そこが陳寿ならではの筆運び。
516日本@名無史さん:2013/03/21(木) 13:30:43.96
事実より芸術性を重んじる歴史書は資料として参照する価値がないな
三国志演義と同じ括りでいいと思う
517日本@名無史さん:2013/03/21(木) 13:48:55.44
現代学者の合理性で、学術論文として見るにはあれが無いこれが無いと言ってもどうかなとおもうわけ
とはいえ、魏志倭人伝の書誌的というか事実関係の記述はそれでいいんじゃないの
518日本@名無史さん:2013/03/21(木) 14:14:16.00
確かに四六駢儷文のような文章の建て方は別に美的観点のみに重きを置いたものではない。
もともと漢文のように、一字孤立の構造をもつ文章では、相手に意図を伝達するのに
不向きな面があり、同構造の文章を二つ重ねることによって多義的な解釈を避け、
文章の意味を相手に、より正確に伝える実用上の観点もあったと思われるからである。
中国人には哲学ができないと言われるのもそのためである。
学派内では、口語によって文字の正確な定義付けが行えるが、文書にすると途端に意味合いが不鮮明になり
多義的な解釈を許してしまう。よって、ある一門が断絶すると、学派の伝える深い境地が失われてしまい
大雑把な思想しか窺い知ることができないのである。
また、だから中国歴代の官僚たちは史書・経典の語彙に基づいた文章作成能力が求められ
意思伝達が正確にできる簡素明瞭な名文を好んだのである。
519日本@名無史さん:2013/03/21(木) 14:51:12.96
520日本@名無史さん:2013/03/21(木) 16:12:07.45
>>435
だからそれが何?バカちゃんwwww
521日本@名無史さん:2013/03/21(木) 16:13:57.73
>>445
オマエ何にも知らないんだなw
黒歯国は扶桑があるとされる伝説の国だろが。
522日本@名無史さん:2013/03/21(木) 16:19:25.12
>>446>>452
ただのオマエの気のせい。
根拠無しw

至と到とを意味の違いを持たせて使い分けている例は無い。
単に口調上の問題があるだけ。意味の違いは無い。
妄想。
523日本@名無史さん:2013/03/21(木) 16:23:22.30
>>454>>456>>457>>466

的外れな議論はいい加減やめろ猿。

>>425だアホ。

周旋五千余里とは裸国、黒歯国のこと。
524日本@名無史さん:2013/03/21(木) 16:30:48.89
>>492
違う、近畿説と九州説+東征or東遷が消えたの。

-----------------------------------

>>454>>456>>457>>466
以下を参考にするように。誤読を根拠にした的外れな議論をやめなさい。

女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有朱儒國在共南人長三
四尺去女王四千餘里又有裸國黒歯國復在其東南船行一年可
至参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里

倭国の首都邪馬台国の東の方向、海を渡ること千里余り
にはまた国があって、全て倭人が住んでいる。また、倭国の
首都邪馬台国の南方四千里余りには、朱儒国という背丈三、四尺
の人々が住む国がある。さらにその東南には裸国や黒歯国という
国もあるが、これらの国々へは一年もの船旅が必要である。
倭の地と比較してみると、この裸国や黒歯国の所在するところは、
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
海に囲まれた多数の島々からなる国で、島づたいに周廻すると、
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
全周は五千里余りである。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
525日本@名無史さん:2013/03/21(木) 16:33:21.61
>>522
そうだねえ、>>518の解説とも関係するが、
平仄合わせのために、至る、到るを使い分けてるだけのようだね。世間で言われてるような特段の意味はなさそ。
526日本@名無史さん:2013/03/21(木) 17:19:14.95
>>524は誤読をしていないが、妄想読みをしている。

妄想部分は、
⑴倭国の首都邪馬台国 → 女王國
⑵全て倭人が住んでいる → 倭種
⑶倭国の首都邪馬台国の南方四千里余りには → 倭種の南方で女王のいるところから四千餘里
⑷一年もの船旅が必要である → 「船行一年」の距離にある
⑸倭の地と比較してみると、この裸国や黒歯国の所在するところは、
 海に囲まれた多数の島々からなる国で、島づたいに周廻すると、
 全周は五千里余りである。 → 妄想が酷すぎて修正不能
527日本@名無史さん:2013/03/21(木) 18:02:29.72
>>524
どうせ、裸国に特別の感情。
528日本@名無史さん:2013/03/21(木) 18:28:12.08
>>524
完全な誤読だよ。裸国や黒歯国は倭地ではない。周旋五千里は倭地の大きさを
示したものだ。船で一年もかかる所の大きさなんぞ書くわけがあるか。
529日本@名無史さん:2013/03/21(木) 18:33:58.00
裸の王様読みww
530日本@名無史さん:2013/03/21(木) 19:44:07.60
>>524は中国語を知らない台湾人が言い出した説だろう。
531日本@名無史さん:2013/03/21(木) 19:45:17.48
島とか山とかのは

真っ直ぐ進むとごっちんこしてしまって往き様も無いので

逆らわずに素直に避けて逝くのがふつう

この動作をすなはち周旋とはゆうのだ。


島は周旋して避けて航路をとるからにわ

そのときにゃ 

方可四百餘里 方可三百里 のデータを要するのがふつうなんだろ
532侮り難い小僧:2013/03/21(木) 23:14:54.74
>>464知ったかぶりのお爺ちゃん
>@丹楊郡までの道のりの遠さ、A丹楊郡の地形の険しさ、B丹楊郡住民(山越族)の剽悍で頑強さを並べて、
>諸葛恪の提案に反対する場面である。

「@丹楊郡までの道のりの遠さ」を反対の理由にするなどとアホなことを言ってはいけません。
周旋数千里を丹楊郡までの道のりと解釈するのは完全な誤りです。建業から丹陽までは直線距離で100km程度
ですよ。それに呉の役人も派遣されているところですから建業からの行路距離などほぼ正確に分かるでしょう。
そんな誰でも知っているような距離を数千里などと言いますか?

A丹楊郡の地形の険しさ
これは丹陽郡の地勢、地理の叙述の一部にすぎません。こんなことを反対の理由にするなどアホでしょう。

B丹楊郡住民(山越族)の剽悍で頑強さ
これは兵士に適した資質です。このために丹陽に赴いて民を徴用したかったのです。
重臣達が反対した理由は「自前世以來不能羈也」ということです。山越族は束縛を嫌い、こちらの言う事を
きかない。前世以来拘束制御できなかったのだから無理だ。というのです。
533日本@名無史さん:2013/03/21(木) 23:17:50.88
はずかしげもなくおばかさらしてからに
534侮り難い小僧:2013/03/21(木) 23:37:32.40
>>466アホな計算をするお爺ちゃん
>5000余里が倭地の外周距離だとすれば、倭地は方1250余里になる。
数学(幾何学)を知らないひとはよくこんな単純な計算をするようです。
正方形の四辺の長さが5000里であれば一辺の長さは1250里になりますが、例えば楕円や瓢箪のような
形をしたものはそんな単純な計算はできません。それはそれとして、

>「三韓の外周距離は1万6000余里」で「倭地の外周距離は方1250余里」
>これを妥当な比較数値とするホラ詭弁は絶対になりたたない。
なんですかこれは?「倭地の外周距離は方1250余里」って、どうしてこうなるんだろ?
535侮り難い小僧:2013/03/21(木) 23:43:22.86
>>469 :○正論ダメ押しならぬ恥の上塗りお爺ちゃん
>対馬の外周が1600里、壱岐の外周が1200里。合計2800里。
>でー?
>「倭地の外周距離が1250余里」じゃアホの理屈だろう。

「倭地の外周距離が1250余里」って、自分で間違えているだけなのにいい気なもんですね。
536日本@名無史さん:2013/03/22(金) 00:58:32.65
女王と卑弥呼は同一人物か
537日本@名無史さん:2013/03/22(金) 02:38:46.84
>>536
台与も女王だな。

だから、たとえれば、卑弥呼が豊臣秀吉ならば、女王が関白みたいなものか。
というか、卑弥呼は名前ではなく、秀吉を殿下と呼ぶような感じかもしれない。

卑弥呼は下々でも使える尊称。豊臣秀吉を殿下と呼ぶようなもの。
文献など記録に残すときは、関白(女王)を使いたいかもしれない。
どうしても、個人を特定したい時に豊臣秀吉を使う、  とか。
しかし、卑弥呼の場合は、卑弥呼が尊称だとしたら、実名は知られていないだろうから
卑弥呼が名前代わりにもなる。
538日本@名無史さん:2013/03/22(金) 07:43:05.35
日本語で東とはひがし、ひんがし、ひむかし、日向処のことだ。
であるならば、日向の国とは東の国ということになろうか
しかし、太陽の運行を知る現代人が、ひむかいと聞くと南に面している方向と勘違いするのではないか
539○正論ダメ押しやり直し:2013/03/22(金) 07:49:00.71
対馬の外周が1600里、壱岐の外周が1200里。これだけで合計2800里。
でー?  残りは2200里。

「周旋5000里が倭地の外周だ」とは、思考領域の狭い奴のウソ言説。
540日本@名無史さん:2013/03/22(金) 07:58:05.54
総行程万二千余里。
唐津までで、一万里を消化。

残り二千余里を往復して、ほぼ五千里
541日本@名無史さん:2013/03/22(金) 09:32:17.57
総行程万二千余里。
対馬までで、八千余里を消化。

倭地は対馬から五千余里
対馬で八百余里
対馬東水道で一千余里
壱岐で六百里
壱岐水道で一千余里
対馬から唐津までの合計は三千四百余里

倭地の残りは一千六百余里
唐津から佐賀平野伊都国まで五百里
伊都国から不彌國まで一百里
倭地の端まで残り一千余里

一千余里は凡そ80km
不彌國は吉野ヶ里とするとその南80kmは熊本平野

倭地の周旋五千余里は対馬から熊本平野となる
542満州イガグリくん:2013/03/22(金) 09:36:18.79
周旋とは外周なのか片道行なのか、一概には決められない。

伊作の説は一理あるようだが、それはわれわれが対馬や九州の実際の大きさを知っているからである。
しかし倭人伝は対馬を方四百里と書いており、これは明らかに誇大である。
対馬は細長い島で、その長い部分が百里程度で、方に直せば方五十里くらいなものである。
つまり実際の八倍の大きさに書いている。陳寿は対馬をそれほど広大な島だと思っていたのである。
要するに伊作の説は我々が対馬の実際の大きさを知っているがゆえに成り立つ説であって、
必ずしもそれが正解というわけではない。

因みにこの侮り難い小僧という男が、僕が前々から「漢文読みの達人」
と称している男ではないだろうか。この男は正常な理解力を有している。
他の名無し連中より明らかにレベルが高い。
543満州イガグリくん:2013/03/22(金) 09:44:16.07
周旋の用例を僕も以前調べたことがあるが、
殆んどは一周(一周する)の意か、もしくは仲介するの意である。
巡り歩く(片道行)の例はごく稀である。

ただし周旋というのは「あまねく巡る」の意かもしれず、
あまねく巡るというのは必ずしも一周するという意味ではないから、
片道行と解釈するのもあながち間違いではないかもしれないと思われるのである。
544日本@名無史さん:2013/03/22(金) 09:53:57.40
な〜んだ、侮るべき満州小僧だったのか。
どうりで伊作先生のブログから山越族のネタを引っ張ってるからおかしいとおもってたのだ。
545日本@名無史さん:2013/03/22(金) 09:59:18.45
方四百里は方五十里の八倍か?
546日本@名無史さん:2013/03/22(金) 10:03:23.86
違うだろ
547日本@名無史さん:2013/03/22(金) 10:05:23.16
対馬は細長い島で、その広さは800里×200里、16万方里である。
16万方里は方可400里の面積。
1里≒70mであるから、方可400余里は対馬の面積にほぼ等しい。

周辺小島を含めて壱岐も300里×300里の正方形に内接するから、
壱岐も方可300里の面積はほぼ正しい。


満州君も小僧君とどっこいどっこい。
丹楊小僧説も一里が70mで考察するのであれば、傾聴する点もある。
しかし小僧君は誤読しているところがあるので明らかに間違えている。

誤読部分
誤:「周旋数千里」は丹楊について述べたものである。
正:「周旋数千里」は五郡合わせた地域について述べたものである。
548日本@名無史さん:2013/03/22(金) 10:46:38.53
総里程を万二千里と思い込んでいるのは完全な間違いね。投馬国、邪馬台国について
里数ではなく日数にしたのはなぜか、遠すぎて里数がはっきりしなかったからだよ。
ということは、邪馬台国までの総里数表記はあり得ないということだ。
考えてもみろ、万二千里が邪馬台国までの里数ならば、君らが文章を書くときにどう書く?
普通ならば、それまでの里数表記と辻褄を合わせ、まず里数を書く。そのうえで、所要日数
を書きたければ書く。そうするだろうが。
万二千里は、女王国の風俗等を書く前提として、女王国の境までの距離を示しただけの話。
女王国の都の位置とは無関係だ。高句麗についても似たような書き方をしてるよ。
高句麗は遼東の東千里。丸都の下に都すとあるだろ。千里で丸都に行き着くわけではない。
千里で行き着くのは境までだ。
549日本@名無史さん:2013/03/22(金) 11:23:47.84
>>548

>邪馬台国までの総里数表記はあり得ないということだ。

そうですね。万二千餘里は、女王國までの総里数表記です。
邪馬台国ではありませんね。

>考えてもみろ、万二千里が邪馬台国までの里数ならば、君らが文章を書くときにどう書く?
>普通ならば、それまでの里数表記と辻褄を合わせ、まず里数を書く。そのうえで、所要日数
>を書きたければ書く。そうするだろうが。

その通りです。投馬國も邪馬台国も総里数がわからなかったのです。
それで、日数によるおおまかな距離表記をしたのです。
その総距離が、「水行二十日」であり、「水行十日陸行一月」なのです。

末盧國までの部分距離が水行十日、
末盧國から投馬國までの部分距離が水行十日、
投馬國までの総距離が水行二十日となります。
末盧國から邪馬台国までの部分距離が陸行一月、

末盧國から伊都國までの陸行五百里も、陸行一月に含まれます。
邪馬台国までの総距離が水行十日陸行一月となります。

人口5万戸の投馬國や人口7万戸の邪馬台国は、
その領域が広くその城柵が複数あったので、
距離表記が里数で出来ないため大雑把な「行日」「行月」表記にしてあるのです。

他の部分は同意します。
550日本@名無史さん:2013/03/22(金) 12:03:55.89
>>548
じゃあ、邪馬台国って女王の支配地域全体を指す言葉なんだね
551日本@名無史さん:2013/03/22(金) 12:08:42.69
あと、なんで九州にくるまでは海上移動においても里程で記述してきたのに
不弥国以降は里数が分からないってことになるんですかね
遠すぎるってのは一万二千里より遠いってことなのか?
552日本@名無史さん:2013/03/22(金) 12:09:57.51
あと、謎なのは九州であるとすれば、なぜ水行しなければならなかったかだ
敵国があったから、というなら、敵国名が書かれているはずだろう、狗奴国同様に。
553満州イガグリくん:2013/03/22(金) 12:31:58.83
女王国というのは邪馬台国のことだから、>>548の論は不可。

水行が書かれているのは、要するに邪馬台国は九州ではないからだ。

以上。
554日本@名無史さん:2013/03/22(金) 12:35:05.42
邪馬台国が九州なのは動かないが、
当時の水位がかなり高かったのと、
ろくな道路が無かったから仕方がない。
555日本@名無史さん:2013/03/22(金) 12:43:28.86
>>554が○○なのは動かない
556日本@名無史さん:2013/03/22(金) 12:56:02.50
>>551
>遠すぎるってのは一万二千里より遠いってことなのか?
当然、そうゆうことです。考えてみなさい。伊都国から先わずか千五百里ならば
水行20日、水行10日陸行1月もかかるわけはありません。

>>549
途中まで理解できてるのに、その先が滅茶苦茶だね。そんな複雑なことを読者に
読み取れなんて文章を誰が書くかね。
557日本@名無史さん:2013/03/22(金) 13:00:31.95
>>553
満州の頭では理解できないのも無理はない。だが、女王国には邪馬台国以外の国も
含まれるのだよ。奴国について女王の境界の尽きる所とあるだろうが。
558侮り難い小僧:2013/03/22(金) 13:11:04.08
>>539:○正論ダメ押しやり直し
お爺ちゃん。根本的な考え違いに気付いておられないからダメですよ。

>対馬の外周が1600里、壱岐の外周が1200里。これだけで合計2800里。
このように二つの島(國)の外周を足し合わせるのにどのような意味がありますか?
倭地の周囲長さは各國の周囲長さを足し合わせた和になるのですか?

お爺ちゃんにも分かるように例を挙げてご説明しましょう。
いま仮にある連合国を一辺1000里の正四角形だとします。その周囲長は4000里です。
その中に一辺100里の正四角形の國が100個納まります。各國の周囲長は400里です。
100國の周囲長の合計は400×100=40,000となります。
これでお分かりでしょうが、各國の周囲長を足すことは倭地の周囲長を論じる上でなんの意味もありません。
559侮り難い小僧:2013/03/22(金) 14:18:29.42
>>543 :満州イガグリくん
おっしゃるように周旋にはいくつかの意味があります。
動詞として「応対する」、「敵と闘う」という用例は沢山あります。
しかし、「あまねく巡る」という用例はありません。

地理的叙述において周旋は坏繞(encircle)或は盘曲(tortuous)の意味になります。
周旋○○里とあれば坏繞の距離が○○里ということになります。
560日本@名無史さん:2013/03/22(金) 14:25:58.42
>>539氏が言いたいのは、外周説にこだわるならば倭地である島々の全部の外周を
積算しなければなるまいってことだろ。
ま、とにかく、倭地の主要地である九周本島のみでも、外周五千里では到底たりない。
外周説は成立しないことが明らかだ。そこで、倭国の領域を小さく考えてその外周とか
言うわけだが、そんなアホ説ははありえない。
結局外周ではない距離を考えることとなるが、倭地の大きさを示す文章であることは明白。
大きさの示し方となれば、周囲の片道と考えるのが正解だろうな。
561日本@名無史さん:2013/03/22(金) 14:29:46.62
>「あまねく巡る」という用例はありません。
その用例があるのに、君が気がついていないだけね。
562侮り難い小僧:2013/03/22(金) 14:30:13.28
>>524
これを見過ごしていましたが、私のレスも関係していたのですね。
「参問倭地」を「倭地と比較すれば」と解釈されたのですね。でもそれは間違いです。

>倭の地と比較してみると、この裸国や黒歯国の所在するところは、
>^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
>海に囲まれた多数の島々からなる国で、島づたいに周廻すると、
>^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
>全周は五千里余りである。

これが倭地と比較して分かったことですか?どこをどう比較したのですか?
比較するまでもないことが書かれているではありませんか。
563侮り難い小僧:2013/03/22(金) 14:43:25.65
>>560
>>539氏が言いたいのは、外周説にこだわるならば倭地である島々の全部の外周を
>積算しなければなるまいってことだろ。
それが間違いだと説明したはずですが、あなたもお分かりになりませんか?

>ま、とにかく、倭地の主要地である九周本島のみでも、外周五千里では到底たりない。
九州本島の全てではありませんよ。女王(倭王)の支配領域の国々の範囲です。
大陸の視点からすれば倭王の支配領域の大きさが重要な情報であって、倭王の支配の及ばない
地域や人の住まない地域の大きさなど必要ないでしょう。
564侮り難い小僧:2013/03/22(金) 14:47:09.87
>>561
そうですか。私は浅学非才の身ですから知らないこともあります。
よろしければ周旋の「あまねく巡る」という意味の用例を教えて頂けませんか。
565日本@名無史さん:2013/03/22(金) 18:11:09.04
実態から遊離させて言葉遊びしたいおひとがたんたんめんさんなんだろ
566満州イガグリくん:2013/03/22(金) 18:28:24.46
侮り難い小僧君もなかなか頑固というか負けず嫌いだなw
しかし君も間違えていることが一つある。それは、
狗奴国は倭地に含まれないと考えているらしいことだ。
しかし誰が読んでも狗奴国も倭地の一部だろう。

それから周旋についてはこういう例がある−
雲笈七簽/38
玉清經·本起品》雲:道言:昔元始天尊與諸賢聖億億萬眾,處處周旋,
最後下觀棄賢世界,有一國王,名曰コ正直,利根辯慧,為眾生故,而為導首。

この處處周旋の周旋は巡り歩くという意味だろう。一周するという意味ではない。
仲介斡旋するという意味でもないだろう。
567日本@名無史さん:2013/03/22(金) 18:30:22.49
全文検索しても「巡り回る」程度の意味しかないと思われ
568日本@名無史さん:2013/03/22(金) 18:31:41.64
この単語は必ずこういう意味で使用されてるとかこだわるから
暗号解読と言われるんだろ
569日本@名無史さん:2013/03/22(金) 18:45:21.42
たんたんめんさんのよわいところは

「郡」という「絵に描いた餅」かもしれん行政用の装置を

もとより実態のあるブツとして疑わずに信じ込んでいるところ。

切り取り自由だからって支配下に無いところの親方に任命してあげるとかざらだしね。
570日本@名無史さん:2013/03/22(金) 21:53:59.39
従郡至倭、(水行到狗邪韓国)、七千余里
・・・郡を経て倭に至るには、まず(水行して狗邪韓国に到るに)七千里である(?)

自郡至女王国、万二千余里
・・・郡から、ここ女王国までは万二千里であった(?)

同じく距離の前に置かれていても、従郡と自郡では意味合いを変えてあるとおもうのだが。
571侮り難い小僧:2013/03/22(金) 22:11:59.75
>>566満州イガグリくん
大陸(魏)の視点からすれば親魏倭王に叙した卑弥呼の支配領域の大きさが重要な情報です。
卑弥呼の支配領域のうち対海國と一大國についてはその位置も面積も既に述べられているということで
含まれていないのです。狗奴国については卑弥呼の支配領域ではないのでこれも含まれていません。

提示された例文は道教に関するもので、元始天尊とは道教の最高天神ですが、昔はこの天神は多くの賢聖
達といたる所で交際していました。が、下界を見て賢世界を棄て(下界に下りて来)ました。そこにコ正
直という名の国王が居り、これが慧い人物で衆生を友として遇しています。そこでこの王を導主としました。
というようなことが書かれています。ここに出てくる周旋は「巡り歩く」という意味ではありません。
572太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/03/22(金) 22:13:42.82
西遊記っぽいな。w
573日本@名無史さん:2013/03/22(金) 22:29:44.79
>>571
周囲五千里の主張は、すなわち概ね福岡県+佐賀県ほどの範囲に何が何でもに27カ国ほどを押し込めるということだ。
押し込めたいなら押し込めていいんだぞ。誰も反対すまい。
で、ここで念を押しておくが、あとからあちこち範囲を移動したり、広げたりするなよ。
574日本@名無史さん:2013/03/22(金) 22:29:58.16
>>570
「従郡」は、魏の都洛陽から帯方郡を通過しての意味。
「從」の視点は洛陽にあり、距離起点は帯方郡にある。
この行程文は、郡使ではなく、魏使(魏皇帝)の立場から書かれたもの。

「自郡」は、距離起点が帯方郡にあることを意味するだけ。
575日本@名無史さん:2013/03/22(金) 22:34:37.85
たんたんめんさんはせっかくいろいろ書いてあげてもにゃんこにこばんだったりする

>>442-444 とかみても理解しがたいのだろさね

比定ごっこするつもりとかもとから無いみたいだね

まあ

くそなりくつこねまわすのがおもしろいのでしょうね
576日本@名無史さん:2013/03/22(金) 22:37:35.96
>>571
小僧、こりゃどうしようもなくだめだ。
「傾聴に値する」と書いたが、誤読以前の問題を抱えている。前言完全取り消し。
577日本@名無史さん:2013/03/22(金) 22:43:15.29
>>574
「従郡」はなるほどと理解しました。
「自郡」至女王国万二千余里   
は普通に郡を起点とし、終点の邪馬台国までで合計万二千里でよいのですね(そこが女王之都だったかどうかは今後の課題ですが)。
578侮り難い小僧:2013/03/22(金) 22:47:37.37
>>576
そうですか。
しかし、どこがどのようにダメなのか理由を明示せずにただダメだと言うのは幼児の言い草ですよ。
また、「誤読以前の問題を抱えている。」とはどういう問題か明示しないのも駄々っ子的ですよ。
579日本@名無史さん:2013/03/22(金) 22:49:17.98
満州小僧の自作自演かな
580満州イガグリくん:2013/03/22(金) 22:55:12.19
>>571
なるほど、周旋の意味はそれで正解かも知れないが、
狗奴国は倭地に含まれないという解釈は間違いだろう。
そんなふうに理解しているのは、おそらく君だけだと思うが。

ちなみに>>576は僕ではないから誤解しないように。
581日本@名無史さん:2013/03/22(金) 23:03:01.40
>>566 >>571
これは完全に満州の言うとおりだね。
582日本@名無史さん:2013/03/22(金) 23:06:19.43
原文は知らんが、こんなのもあるそうだ。
南中志に曰く:「県の西に高山が相連なり,大泉水がげ有る,周旋すること万歩,名づけて馮河である.
583日本@名無史さん:2013/03/22(金) 23:07:05.73
小僧 ぐるっとまわるつうのはうそだな

http://goo.gl/maps/V6mWF
584日本@名無史さん:2013/03/22(金) 23:09:01.66
>>580
あ〜、>>576 は偉大なる伊作先生かな。
それでなくて、>>571>>578、などが満州=小僧かもの意味??
585日本@名無史さん:2013/03/22(金) 23:26:45.54
616 :日本@名無史さん:2013/03/22(金) 23:01:38.11
作業仮説として
崇~68年 (56歳) (203年度-258年度)
崇~=御眞木入日子印惠命の稼動時期から
大夫難升米=倭難升米 これと同人物かもしれんとおもふのがふつうかもね

617 :日本@名無史さん:2013/03/22(金) 23:20:21.06
えっ崇神天皇が卑弥呼の使いの難升米って言うんですかい。
586日本@名無史さん:2013/03/23(土) 00:20:47.90
伊作先生が復帰されたと聞いて
587日本@名無史さん:2013/03/23(土) 00:29:55.65
>>577
>(そこが女王之都だったかどうかは今後の課題ですが)
女王之都ではなく、女王國と書いてありますよ。
帯方郡と女王國の道程が12000餘里です。
「自郡至女王國萬二千餘里」
女王之都と女王國とは違います。まずその領域広さが違います。

>>578
小僧の意見には整合性がないのが、誤読以前の問題だと言うのだよ。
丹楊小僧説と倭地小僧説が整合していないのに気がつかないのが問題点です。
倭地の範囲は、>>580の満州イガグリくんが正しい。

>>584
あ〜、>>576 は偉大なる伊作先生ではありません。別人の私です。
最近コテハンを書くのはやめています。
588日本@名無史さん:2013/03/23(土) 11:03:02.50
               嫌なら見るな嫌なら見るな
         嫌なら見るな           嫌なら見るな
   嫌なら見るな                        嫌なら見るな
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589侮り難い小僧:2013/03/23(土) 12:34:28.46
>>587
>小僧の意見には整合性がないのが、誤読以前の問題だと言うのだよ。
>丹楊小僧説と倭地小僧説が整合していないのに気がつかないのが問題点です。
そのようなことであればそのように言われればよかったのです。
しかし、私の「丹楊小僧説と倭地小僧説」はなにも矛盾していませんよ。
いずれも周旋○○里という用例で周囲○○里という解釈ですから。

>倭地の範囲は、>>580の満州イガグリくんが正しい。
そうですか?
私は魏の関心事は本体の島にある倭王の支配領域の大きさであるという見解です。
そうすると不属女王の狗奴国は除外されることになります。
また、狗奴国の範囲ははっきりしませんが、・・・次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國
とありますから九州南部でしょう。
その狗奴国を含めたら周旋五千餘里に納まりますか?
なお、私は韓の方四千里、郡から狗邪韓国まで七千餘里、狗邪韓国から末盧國までの三つの渡海
距離が千里という里程既述から東夷伝の1里は70m程度であると考えています。

今日はこれから祖父母の供で桜の花を見て廻りますので、これにて失礼いたします。
590日本@名無史さん:2013/03/23(土) 12:49:17.98
>その狗奴国を含めたら周旋五千餘里に納まりますか?

>>589
陳寿のいう周旋なら対馬から薩摩まで入るのに
頑なに「周囲」と言い張るからそういうレスになる、語るに落ちるだな。
なんとなく満州小僧=周囲小僧のにおいがするな、サクラ満州の自作自演劇場。
591日本@名無史さん:2013/03/23(土) 12:54:01.26
>距離が千里という里程既述から東夷伝の1里は70m程度であると考えています。

今ごろになって得意げに短里説を語るなんて、
長里説からのにわか転向組だろ。(満州も長里説だったし)
592日本@名無史さん:2013/03/23(土) 14:59:31.90
いろんな小僧がでてきてよくわからんわ
593日本@名無史さん:2013/03/23(土) 15:26:58.92
594日本@名無史さん:2013/03/23(土) 15:30:36.00
九州よりでかいじゃねえかwww
俺もやってみたが、もう少し小さかったぞ
何より昔の地理と現在のそれの付き合わせがうまくいかない
境界になってる川も判然としないからさ
595日本@名無史さん:2013/03/23(土) 16:20:05.14
>>590
>陳寿のいう周旋なら対馬から薩摩まで入るのに

がはは。漢文を読めぬ奴が何をほざいても空しいだけだろが。少しだけでも勉強せねば小僧に太刀打ちできんぞ。
596日本@名無史さん:2013/03/23(土) 16:24:44.95
>>593
周旋数千里を巡り歩く距離だと思っているとはお前さんも頭が弱いようだな。
いったい誰が巡り歩くのだ?ん〜。
597日本@名無史さん:2013/03/23(土) 16:41:54.82
じゃあ、古文・漢文板で人気のある漢辞海で調べてやろうか?
598593:2013/03/23(土) 16:52:40.01
>>594
もう少し小さくなるね。
599日本@名無史さん:2013/03/23(土) 17:00:09.62
周:(形容詞)
@緻密なさま、こまやかなさま、ゆきとどくさま
Aあまねし。すべてに広くゆきわたったさま
Bはなはだしいさま
(動詞)
@めぐる。あまねく歩き回る
A合致する。あう。
B団結する。
C固定する。かためる。かたむ。
Dしたしむ。近づく
E救済する。すくう。

旋:(動詞)
@めぐる。まわる。帰る。もどる。
A小便をする。

周旋:
@めぐりまわる。
A互いに追いかける。交戦のたとえ。
B世話する。応接する。
C立ち居振る舞い。
Dうねる。
E救う。
600日本@名無史さん:2013/03/23(土) 17:07:51.77
周旋の熟語の出典はほとんど左伝だったな

包括的に周旋の意味を捉えようとすると、
 相手といっしょにめぐる
って感じだな
魏使は倭人に案内されてたんじゃないか?
601日本@名無史さん:2013/03/23(土) 17:16:17.62
周旋可五千里の可は副詞でおよそ・・・、・・・ばかりという意味だろうね
御可数百歩は御すること数百歩ばかり
だし

周旋すること五千里ばかり

じゃね?
602日本@名無史さん:2013/03/23(土) 18:08:25.14
絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千里

倭地を参問するに
海中洲島の上に絶在し、というのは
半島から絶して、海中洲島の上に在る、ということだろうか
始めて一海を渡ること千余里ともあるから、海に浮かんでいる島國という認識があるのだろう
島はあるいは他の島と絶していたりして、連なりながら点在し、めぐったところ
五千里ばかりとなる。という感じじゃないかね
九州からカウントするか、対馬からカウントするか、半島からカウントするか、そういう問題になるが
倭地の範囲が微妙すぎる。女王国から東に海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、とあるから
女王国の幅がどれほどかわからないが、さらに千里も倭地でなければならない。
対馬も当然倭人の国だから考えていくと、九州から残り三千里であり、
水行二十日もかけて邪馬台国に行き、さらにその先千里も倭地になってしまう
ここの倭地はおそらく、女王国のみの幅であるか、魏使の旅程と解釈するしかないと思う
倭地とあるのだから、女王国のみの幅ってのも無理がある。
俺は、倭は対馬からだと思うから、対馬から九州までで二千里、九州で約一千里、往復で五千里だと思うね

私が倭地を参問したところ、倭は大陸から絶して海中の島にあり、
島々は別れたり連なったりしながら点在している。めぐったところおよそ五千里ばかりである。
という感じではないかと。
603日本@名無史さん:2013/03/23(土) 19:54:36.21
倭は対馬からだと思うから、対馬から九州までで三千四百里、
九州で約一千六百里、熊本平野までだと思うね。
604日本@名無史さん:2013/03/23(土) 19:55:45.72
倭は対馬からだと思うから、対馬から九州までで三千四百里、
九州で約一千六百里、熊本平野狗奴國までだと思うね。
605侮り難い小僧:2013/03/23(土) 20:32:06.01
今日は天気もよくて、桜も満開で祖父母も大いに満足していました。ここに書き込まれている多くの方々は
私の祖父と同様に戦後日本の復興を担われたか、高度経済成長の担い手であられたか、バブル崩壊後の日本
経済の立て直しに尽力されたのでしょう。お疲れさまでございました。

參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
これは郡から倭への行程記事、風俗記事、政治行政記事、歴史的記事、周辺国記事の最後に置かれた結びの
文章です。
それ以前の記事で述べられていなかった重要な事柄は何でしょうか。
それは末盧國上陸以降の記事に述べられた女王支配下の国々の全体像です。そこで、
「倭地(倭の本体のある地域)についての情報(魏の人間が見たこと及び倭人からの聞き取り情報)を勘案す
れば、倭地(卑弥呼支配下の国々を指します)は大陸から遠く離れた大海中の洲島(洲や島という複数の島
ではなく単に島です)の上にあり、或はつながり或は離れている。その周囲は五千餘里ほどである。」と書か
れているのです。
なお、狗奴国は「女王に属さず」ですから含まれません。
狗奴国については男王(卑弥弓呼)が居ること、官に狗古智卑狗が居ること、正始八年の記事で卑弥呼と卑弥
弓呼が不和であることと両者間での争いが報告されたこと以外には情報がありません。戸数や狗奴国への行程
情報が書かれていないのは、魏の関心が薄かったかあるいは狗奴国の大きさを把握できていなかったのでしょ
う。
606日本@名無史さん:2013/03/23(土) 21:36:01.27
>>599. >>600
この漢語詞典で勉強するといいよ。
http://www.zdic.net/cd/ci/8/ZdicE5Zdic91ZdicA8333181.htm
607日本@名無史さん:2013/03/23(土) 23:03:07.56
>>605
途中まではいいんだがね。倭地は大陸から遠く離れた大海中の洲島(洲や島という複数の島
ではなく単に島です)の上にあり、巡って行くと、或はつながり或は離れていて五千餘里ほどである。
倭地を問題にしているわけだから、そこにあ国々が卑弥呼の支配に属しているかどうかは関係ない
んだよ。もともと百余国あったところを問題にしているわけだ。今は30国になっているがね。
608満州イガグリくん:2013/03/23(土) 23:03:46.04
侮り難い小僧君も九州説なのか。可哀そうに(同情してなく)

かなり自信を持って書いているところを見ると、一流大学の学生か?
それにしては短里説とか狗奴国は倭地ではないとか、さほど理解力はないようだ。
僕が「漢文読みの達人」と名付けた男は、あるいは別人か…。
609侮り難い小僧:2013/03/23(土) 23:22:42.52
>>607
>もともと百余国あったところを問題にしているわけだ。今は30国になっているがね。
そうですね。
その30國のうち対海国と一大國については位置も大きさも既に述べられています。簡にして要を旨とする
陳寿の文章では既に読者に与えた情報は再録しません。だから周旋可五千餘里には含まれません。
狗奴国については今使譯所通三十國には含まれないでしょう。含まれていれば戸数など國の大きさに関する
情報を得ることが出来た筈です。
610侮り難い小僧:2013/03/23(土) 23:25:17.92
>>608 :満州イガグリくん
>僕が「漢文読みの達人」と名付けた男は、あるいは別人か…。
もしかしたら私の祖父かも。
611日本@名無史さん:2013/03/23(土) 23:26:27.98
狗奴國
ゐぬ・な・こく
こぅ・の・こく
上の國
~の國 ←←← くま・の・こく とも読める

こぅ・や・こく
狗邪國
狗耶國 ←←← ゐぬ・の・とうさん と読めちゃう
~耶國
~屋楯比賣命

大國主~ 亦娶 ~屋楯比賣命 生子 事代主~

居登さんの父は裔さんの首露王だし、母は許黄玉

許黄玉は女國の姫様ぽいけどね

あれっ 大國主~ って首露王のことぢゃに
612日本@名無史さん:2013/03/23(土) 23:28:43.75
周旋にはご存知のように一周説と距離説があるが、今は距離説が有力だ。しかし、距離説を
とっても、どこからどこまでの距離かとなるとおかしな説が多い。
その最たるものは、狗邪韓国から万二千里までのことだという説。そこに邪馬台国があると
思い込んでそんな説を主張するわけだね。しかし、この説は、二重の意味でおかしい。
狗邪韓国から数えるとなると、狗邪韓国から対馬までの千里も入れてしまうわけだ。しかも
邪馬台国から更に南にも倭地があるはずなのにそれは無視することとなる。
正解は、九州に上陸したところから九州南端までの距離なんだよ。
対馬、壱岐については、方四百里、方三百里と大きさを書いているだろ。九州島そのものに
ついても当然大きさを書くところだ。しかし、九州島については、方何千里とか書くほどには
全体像を把握していなかったから、自分が巡って行った距離をもとに周旋五千里としたわけさ。
613日本@名無史さん:2013/03/23(土) 23:28:51.95
侮り難い小僧君は、どうやら古田/安本信者と同じく北部九州説のようですな。
あのだだっ広い九州なのに、倭地をその面積の数分の一ほどに押し込めようと努力してるのかい。
ま、広い世間をわざわざ狭く渡ろう、っていうんだからご苦労なこった。
614日本@名無史さん:2013/03/23(土) 23:31:55.16
>含まれていれば戸数など國の大きさに関する情報を得ることが出来た筈です。
旁国二十一国だって情報がないじゃないか。それとも二十一国も倭地に含まれない
とする気かね?
615日本@名無史さん:2013/03/23(土) 23:46:14.22
倭地を北部九州に押し込めるというのだから、たぶん伊都国糸島説なんだろ。
侮り難い小僧でなく、倭人伝を侮る小僧だな。
616侮り難い小僧:2013/03/24(日) 00:11:05.87
>>613
>ま、広い世間をわざわざ狭く渡ろう、っていうんだからご苦労なこった。
あらら。倭人伝の解釈には関係ありませんね。

>>614
>旁国二十一国だって情報がないじゃないか。それとも二十一国も倭地に含まれない とする気かね?
旁国二十一国については行程記事の部分にありますが、魏使が自ら行って見ていないので戸数などの情報を
書いていません。しかし、女王の支配領域ですから情報を得ることは出来た筈です。例えば斯馬國は女王の
都から歩行2日の距離にあるとか、已百支國は斯馬國から半日行だとか です。

>>615
>倭地を北部九州に押し込めるというのだから、たぶん伊都国糸島説なんだろ。
あなた方は直ぐに決めつけますね。考えられることはそれだけですか?
617日本@名無史さん:2013/03/24(日) 00:13:23.09
狗邪韓国ってのは倭国に属す土地であるとしても、一応韓地になるんじゃないのか?
じゃあ、どこから倭地かっていうと、倭人の住む島々って感じだと思うのだが
どこから考えるかと言えば、対馬じゃないのか?
でなければ、次にあがる候補は女王国。
でも倭人伝をみるかぎり、女王国内を旅したような描写はないし
文章のつながりとして、倭地を女王国として考えるのはなんとなくおかしい
618日本@名無史さん:2013/03/24(日) 00:17:18.33
>>616
狗奴国だって王名や官名を書いているのだし、紛争の相手国だから、どのあたりに
あるとか戸数がどの程度かとか情報を得ていたはずだろう。
619侮り難い小僧:2013/03/24(日) 00:20:05.54
>>617
>でも倭人伝をみるかぎり、女王国内を旅したような描写はないし
南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月
水行十日,陸行一月を邪馬壹國内で過ごした日数とする斬新な解釈もあり得ますよ。
620日本@名無史さん:2013/03/24(日) 00:20:55.29
韓地と見てるのは中国人だろう
今のような国境のない時代、九州北部と半島南部は言語も相当共通性があっただろう
621侮り難い小僧:2013/03/24(日) 00:28:02.13
>>618
狗奴国の戸数や領域の大きさまで知っていたかどうかはわかりませんね。不属女王ですから女王の側でも
正確な情報を持っていたかどうかわかりませんね。
622日本@名無史さん:2013/03/24(日) 00:57:23.64
数値的には短里短日説が一番よく一致する。
623日本@名無史さん:2013/03/24(日) 00:58:52.53
韓は元々は春秋時代に中原にあった国・民族
それが始皇帝に追われて朝鮮半島に逃れた
それを滅ぼして乗っ取ったのが現在の朝鮮民族
奴らは北からやってきた
韓の南、朝鮮半島南部にあった倭人の地も奪い取った
朝鮮人は朝鮮半島南部を倭人に返して元の居住地に戻れ!
624日本@名無史さん:2013/03/24(日) 09:26:39.75
侮り小僧の横顔
・もしかして満州の自作自演かと思ってたけど別人確定(23日夜のほぼ同時刻に別スレ投稿あり)

侮り小僧の持論
・周旋五千里の倭の範囲は、倭人伝に名前が出ている倭の国々のうち対海國、一大國および狗奴国を除いたもの全て。

侮り小僧の過去
・過去レスの丹楊郡住民(山越族)の頑強さについては、数年前に他氏のブログに詳しく掲載されてたのと同様のことを、数日前にカキコしている。
>これは兵士に適した資質です。このために丹陽に赴いて民を徴用したかったのです。
>重臣達が反対した理由は「自前世以來不能羈也」ということです。山越族は束縛を嫌い、こちらの言う事を
>きかない。前世以来拘束制御できなかったのだから無理だ。というのです。
625日本@名無史さん:2013/03/24(日) 10:51:13.01
■ドラえもん募金が北朝鮮の核開発に使われている件■
公益財団法人東日本大震災復興支援財団 ← NPO支援組織、孫正義40億円募金団体

●登壇者一覧(50音順・敬称略):(※)

荒井優(公益財団法人東日本大震災復興支援財団 専務理事) ← ソフトバンク
大西健丞(シビックフォース代表理事) ← 日本赤軍関係者、ドラえもん募金詐欺
駒崎弘樹(フローレンス)         ← NHK委員
吉岡達也(ピースボート共同代表)  ← 日本赤軍、北朝鮮関係組織


555 :名無しさん@13周年[]:2013/03/13(水) 04:00:23.96 ID:nSHtnY4c0
>>470
ドラえもん募金の約9割を大西健丞氏のNGO経由で北朝鮮に送金ってどう思います?

●【テレビ朝日】ドラえもん募金の約9割を大西健丞氏のNGO経由で北朝鮮に送金か。

「テレビ朝日では、平成16年12月28日から平成17年1月31日まで 「ドラえもん募金スマトラ沖大地震被災者支援」
を行ってまいりました。 皆様から寄せられた善意の募金88,760,300円にテレビ朝日からの寄付金2,500,000円を加
え、 募金総額は91,260,300円となりました。 この結果、寄付先と金額は下記の通りとなりました。

募金総額 91,260,300円
AMDA 3,000,000円 3.28%
日本ユニセフ協会 3,000,000円 3.28%
日本赤十字社 3,000,000円 3.28%
ピース・ウィンズ・ジャパン 82,260,300円 90.13%   ← 要注目 大西健丞
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1451772389
626日本@名無史さん:2013/03/24(日) 12:49:12.99
>>624
>過去レスの丹楊郡住民(山越族)の頑強さについては、数年前に他氏のブログに詳しく掲載されてたのと同様のことを、数日前にカキコしている。
それは誰のブログのどこに書かれているのか教えて欲しい。興味あるから。
627日本@名無史さん:2013/03/24(日) 13:21:08.23
>>626  
そのブログの一部を下に引用した。これを見れば侮り小僧はここか引用したのかもしれない。アドレスは成り行きを見て今夜にでも。

>この周旋については、『三国志』呉書・諸葛恪伝に記録がある。
>丹楊地勢険阻、與呉郡、会稽、新都、鄱陽四郡隣接、周旋数千里。
>(丹楊の地勢は険しく、呉郡、会稽、新都、鄱陽四郡と隣接して、周旋数千里)。
>三国時代のこと、呉の都・建業に近い丹楊という山岳地帯には、山越と呼ばれる勇敢で剽悍で戦いが得意な不服民族がいた。
>丹楊は山が険しく、山越の兵は強く、容易に抑えることができなかった。そうした中で、
>呉の武将たちは山越討伐を軍事演習を兼ねた手柄仕事として、山越族を平定しては呉軍に編入していた。
>こうしたことから、古来、丹楊郡は強兵を出すことで知られていた。
>呉の武将・陸遜は丹楊から数万の山越兵を得たというから、呉は、山越の民を重要な兵力供給源としていたようである。
>そうした中で、諸葛恪が「私を丹楊郡に派遣していただけば、3年で山越兵4万人を手に入れられます」と孫権に申し出る。
>群臣はみなこの意見に反対した。

>表記した一文は、「丹陽の地勢は険しく、呉郡・会稽・新都・鄱陽の四郡と隣接して周旋数千里。
>山谷が幾重にも重なり、その奥地の住民は武器を持って山野に潜んでいる。銅や鉄を算出し、自ら甲冑や武器を生産している。
>勇敢で戦いを好み気力も高く、群がって攻めるかと思えば四散して山奥へ逃げ込む」。
>だから「とても手に負えない」という群臣の発言の冒頭の部分にあたる。
628日本@名無史さん:2013/03/24(日) 13:23:27.77
>>623元の居住地は漢民族に埋め尽くされた中国様の領土
帰る場所場どありゃしない
629日本@名無史さん:2013/03/24(日) 17:16:53.05
「丹陽の地勢は険しく、呉郡・会稽・新都・鄱陽の四郡と隣接して周旋数千里。
丹陽は、東から南は四郡と接している、北は長江だ。問題の周旋数千里は四郡と
接している距離のこと。
630日本@名無史さん:2013/03/24(日) 18:34:12.56
>>626 (それは誰のブログのどこに書かれているのか)

http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/c/b151673ef1177717afd05c8688a8c57d
アドレスは上記のとおり
・ブログ表題:邪馬台国・奇跡の解法(森村伊作著・たぶんペンネーム)
・アドレス先ページのトップ見出し:「倭人伝」原文と読み下し文(この下の方に小見出しあり)
1.倭人伝通読行(1〜4は飛ばして)
ここ→ 5.魏使来訪時の周辺状況(本文を読むをクリック)→ 4スクロールくらい下→ 「周旋5000余里ばかり」のところにある
631626:2013/03/24(日) 18:49:56.73
>>630
ご教示に感謝。読んでみます。
632626:2013/03/24(日) 19:07:16.55
>>629
>問題の周旋数千里は四郡と接している距離のこと。

漢語辞典を見てみんしゃい。周旋にそんな用法はなかばい。
环绕;盘曲の意味の用例として以下のようなものがあるよ。
环绕;盘曲。《列子·汤问》:“其山高下周旋三万里,其顶平处九千里。
”《三国志·吴志·诸葛恪传》:“众议咸以 丹阳 地势险阻,与 吴郡 、 会稽 、
新都 、 鄱阳 四郡邻接,周旋数千里,山谷万重。

なお、环绕はencircle, surroundの意味で、在四周构成圆环;构成弯曲或圆形边界
とあるよ。
どう見ても、周旋数千里は周囲数千里だろう。
633日本@名無史さん:2013/03/24(日) 19:21:13.45
>>632
周囲数千里は、具体的には丹楊郡の境界にそって一周のこと?
634日本@名無史さん:2013/03/24(日) 19:55:56.78
せめて、繁体字に直せよ
環繞だろ、環とは円だし、繞とは囲繞とも言うように、周りをとりまくことだ
635626:2013/03/24(日) 20:08:08.20
>>633
>>632に示した环绕という意味の例に丹陽の周旋数千里があり、
环绕(繞)とは
在四周构成(構成)圆环;构成(構成)弯曲或圆形边(邊)界
「四周に円坏(丸いリング)を構成する(こと);湾曲あるいは円形の邊界(境界)を構成する(こと)」
とあるから、周旋数千里は丹陽郡の境界線の長さということになるよ。周囲長さだね。
636日本@名無史さん:2013/03/24(日) 20:14:45.57
>>606のURL先に
周旋に環繞であるとは書かれていないと思うが
637日本@名無史さん:2013/03/24(日) 20:25:18.69
釈の五に書いてあったか
638日本@名無史さん:2013/03/24(日) 20:31:07.09
しかし、周囲にすると倭地の範囲が異常に狭くなりすぎるんだよなぁ
可は万の書き間違いじゃないか?草書体だと可は万に近いし、かなり初期段階での誤字だと
後代ですら校正しようがないから、間違いがそのまま書写されてきたのかも
639日本@名無史さん:2013/03/24(日) 20:37:02.02
湾曲の邊界(境界)は?
640626:2013/03/24(日) 21:48:02.71
>>630氏に教えて頂いたブログの当該箇所を読んでみた。一部を以下に引用させて頂く。
>そうした中で、諸葛恪が「私を丹楊郡に派遣していただけば、3年で山越兵4万人を手に入れられます」と孫権に申し出る。
群臣はみなこの意見に反対した。表記した一文は、「丹陽の地勢は険しく、呉郡・会稽・新都・鄱陽の四郡と隣接して周旋数
千里。山谷が幾重にも重なり、その奥地の住民は武器を持って山野に潜んでいる。銅や鉄を算出し、自ら甲冑や武器を生産し
ている。勇敢で戦いを好み気力も高く、群がって攻めるかと思えば四散して山奥へ逃げ込む」。だから「とても手に負えない」
という群臣の発言の冒頭の部分にあたる。
 これは三国時代の呉都・建業から見た話のようだから、建業から丹楊まで険しい道のりを巡り巡ったところで、数千里あるか
否かは不明である。何ごとも大ぎょうにいう中国人が、諸葛恪の提案を否定するためにその道のりを数千里と表現したものだろ
う。少なくとも丹楊郡の外周距離をいう文言ではない。(文脈としても、丹楊郡までの道のりの険しさや遠さをいう場面である)。
※この周旋数千里を丹楊郡の外周距離だと解釈した上で、『倭人伝』のいう周旋5000余里を倭地の外周距離だとする意見もある。
これは、「たった一つの不確実性を伴う記録を持ち出して、これを論拠として数多の事例をも否定した上で、横紙破りな解釈を
ゴリ押しせんとする論拠ねつ造」である。そもそも倭地を隈なく調査して回れなかった魏志に、倭地全体の外周距離など分かろ
うはずがないのである。 
というわけで私は、以下のような意味に読むことにした。
「魏の使節たちが訪れた倭地は、大陸から途絶えた海中洲島の上にあって、大小の島々や入り江や半島からなっており、訪問調
査で巡り回ったのは五千余里ばかりである」。<
641626:2013/03/24(日) 21:51:05.87
>>640の続き
諸葛恪伝に於ける群臣の反対意見の部分は抄訳であるが、誤訳もある。例えば
「その奥地の住民は武器を持って山野に潜んでいる。」
とあるが、原文の該当する部分は
其幽邃民人、未嘗入城邑、對長吏、皆仗兵野逸、白首於林莽、逋亡宿惡、咸共逃竄。であろう。
「その奥地の住民は武器を持って山野に潜んでいる。」などとは書かれていない。
642626:2013/03/24(日) 22:04:04.22
>>641の続き
>これは三国時代の呉都・建業から見た話のようだから、建業から丹楊まで険しい道のりを巡り巡ったところで、数千里あるか
否かは不明である。何ごとも大ぎょうにいう中国人が、諸葛恪の提案を否定するためにその道のりを数千里と表現したものだろ
う。少なくとも丹楊郡の外周距離をいう文言ではない。(文脈としても、丹楊郡までの道のりの険しさや遠さをいう場面である)。<
これは強い思い込みによる誤解であろう。
丹楊地勢險阻、與吳郡、會稽、新都、鄱陽、四郡鄰接、周旋數千里、山谷萬重
は丹陽の地勢地理の叙述に過ぎない文章である。

>※この周旋数千里を丹楊郡の外周距離だと解釈した上で、『倭人伝』のいう周旋5000余里を倭地の外周距離だとする意見もある。
これは、「たった一つの不確実性を伴う記録を持ち出して、これを論拠として数多の事例をも否定した上で、横紙破りな解釈を
ゴリ押しせんとする論拠ねつ造」である。そもそも倭地を隈なく調査して回れなかった魏志に、倭地全体の外周距離など分かろ
うはずがないのである。<
「たった一つの不確実性を伴う記録を持ち出して」と言うが、なんの不確実性もない文章である。本人が理解できないだけのことを
もって不確実性うんぬんと言ってもダメである。
643満州イガグリくん:2013/03/24(日) 22:13:31.70
周旋がどんな意味であろうと、九州には邪馬台国はない。
644日本@名無史さん:2013/03/24(日) 22:33:04.17
そもそも三國志には邪馬台国なんてものは掻いてないのだ
645626:2013/03/24(日) 22:51:04.92
>>642の続き
>というわけで私は、以下のような意味に読むことにした。
「魏の使節たちが訪れた倭地は、大陸から途絶えた海中洲島の上にあって、大小の島々や入り江や半島からなっており、訪問調
査で巡り回ったのは五千余里ばかりである」。<
「參問倭地,絶在海中洲島之上,或絶或連,周旋可五千餘里 」
「參問倭地」を「倭地を訪問調査する」というような意味に解釈しているようであるが、それは我田引水の解釈であろう。
「倭地を尋ねれば」であって、「倭地とはどういうものか(を魏使が見たことと倭人からの聞き取り情報によって)考証すれば」
ということであろう。
絶在海中洲島之上,或絶或連
を「倭地は、大陸から途絶えた海中洲島の上にあって、大小の島々や入り江や半島からなっており」と言うのは言い過ぎである。
「大小の島々や入り江や半島からなっており」などとは書かれていない。現代の地図を知っている者が勝手に思い描いている図で
ある。

なお、この箇所の前に
>そもそも倭地を隈なく調査して回れなかった魏志に、倭地全体の外周距離など分かろ うはずがないのである。<
と言っているが、倭地全体の外周距離は倭人からの聞き取り情報から推定したのであろう。周旋可五千餘里と可(may)という
推定表現で書かれている。
646日本@名無史さん:2013/03/24(日) 23:39:29.33
>「大小の島々や入り江や半島からなっており」などとは書かれていない。
そのとおりだね。私は、周旋五千里は九州島の大きさを示した語であり、或絶或連
は九州島の周りの状況(半島や近接する島々)を示したものだと考える。
647日本@名無史さん:2013/03/25(月) 00:25:10.38
>>635
>环绕という意味の例に丹陽の周旋数千里があり、
間違った引用だろうな。
648日本@名無史さん:2013/03/25(月) 07:33:18.30
>>638
んなもんだって。
連絡伝達手段が自分の足か狼煙しか無い時代、
身の回りで移動範囲限界点がどこら辺迄か考えてみ?
649日本@名無史さん:2013/03/25(月) 09:09:59.68
>>638
其余旁国遠絕不可得詳・・、と前の方で書いてる関係上、
宮廷役人の建前としても、可は万の写しあやまりなどでなく、周旋可五千余里・・、と推定表現にせざるを得なかったと思う。

よって周旋五千里を周囲とするなら、およそ方1250里にならざるを得ず、韓国や九州島に比べてあまりにも小さすぎる。
この疑問は上の奇跡の解法ブログ氏もすでに詳述している通りであり、周旋五千余里は九州島の南北長と解するのが最も適当ではないでしょうか。
650日本@名無史さん:2013/03/25(月) 10:08:56.68
828 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 12:16:00.58 ID:pUByzXYn
キャーッ 3年ぶりだって


【社会】 "偽名で宿泊容疑" 革マル派幹部3人を逮捕…大阪府警・警視庁
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1362365622/

50 名前:名無しさん@13周年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 12:05:55.31 ID:iWyU+OZf0
革マルアジト摘発は「3年ぶり」だと
さっきTBSで言ってた
59 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2013/03/04(月) 12:08:41.93 ID:pFeC4OeP0 [2/2]
>>50
wwwやっぱり!!!
67 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2013/03/04(月) 12:10:22.29 ID:Ki8Dbsot0
>>50
わかりやすいねぇw

民主に投票した馬鹿は腹を切れ。
69 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2013/03/04(月) 12:10:39.44 ID:OhEOkH090
>>50
3年ぶり・・・・・・・・・・・あっ!w
651日本@名無史さん:2013/03/25(月) 10:10:04.93
>>649
自説に都合の悪い解釈が出されると実に困ったものですな。やっかいだわこれは。
周旋可五千余里と推定表現になっているのは其余旁国遠絕不可得詳との関連からですか。ふむふむ。
しかし、件のブログ氏は魏使が訪問して巡った距離だとしていますな。其余旁国遠絕不可得詳とは
関係ない解釈ですな。これはつまり、邪馬台国までの距離のことになりますな。
そんなことであれば、つまり実際に行ったのであれば、推定表現にする必要もないでしょうな。
652日本@名無史さん:2013/03/25(月) 10:22:54.02
使者が訪問した先は邪馬台国、一方、周旋五千里は九州島の大きさだから、使者が完全にその九州島の
周りを巡って南端まで行ったわけではない。自分の巡っていったコースとだ倭人から聞いた情報とを
合わせて周旋五千里と推測したということだろうな。
ただ、使者が北九州にいたのではとてもそんな推測は不可能だ。やはり、使者自身、九州の大きさがだい
たい分かるぐらいの旅をしたってことだろうね。
653日本@名無史さん:2013/03/25(月) 10:32:21.49
>>645
おもしろい解釈だな
つまり、倭地≠倭国の全領域ということか
そうであるとするならば、この時期の狗邪韓国が倭国領であったとしても、
倭地の広さとは無関係ということになる。
つまり、魏使は、倭地を、九州島のことだと思っている。

魏使は本州には渡っていないし、邪馬台国と呼ばれる場所にも足を運んでおらず、
九州島が本州島から切り離されていることも知らない。
南に水行二十日と言っても、九州北部のように島が入り組んでいるから距離感が分からないし、
南にどれほどの領域が広がっているかも想像できていない。でも、邪馬台国を倭地(九州島)内の場所だと思っている。
で、倭国領ではなく、倭地(この島)はどれほどの大きさかと聞いたときに、
九州島一周にかかる所要日数から換算して五千里ばかりと答えたと。
もし、倭地が諸列島からなっていると思っていたなら、また別の返事が返ってきたであろうが
魏使の思い込みによって、九州島の外周囲が倭地の広さとして記述されることとなった。

このような伝聞のために、明史の記述同様、記述が正確にできていない可能性は高い。
654日本@名無史さん:2013/03/25(月) 10:44:13.95
そういえば、思ったんだけど、魏書では、
百済国伝、新羅国伝と、あきらかに国と、統一的な政権があったかのように書かれているのに
倭に関しては、倭国伝じゃなくて、倭人伝なんだな。
倭国は、おそらく割拠状態であって、倭人という人たちがたくさん国をつくっているという認識がされている。
一方、狗邪韓国は、たとえ倭人が統治していたとしても、おそらく
韓人や新羅人などたくさんの人たちがいると思われている。
で、倭人はどこから来ている人たちか、その本拠はと探っていった探訪の結果が倭人伝という記録なのかもな。
655日本@名無史さん:2013/03/25(月) 10:49:32.93
すまん、魏書ではまだ百済や新羅はできていないな
656日本@名無史さん:2013/03/25(月) 10:54:15.31
>>651
宮廷役人の建前表現として、 其余旁国遠絕不可得詳・・、のもう一面ですが、
傍国についてかなりのことは分かっていたはずなのに、このように書いたのは、
要するに外様扱いしたということもあるのではないでしょうか。
女王国までの主街道に並ぶ有力な親藩、譜代を書けば用は足りると。(なお周旋五千里がこの街道筋なら、仰せの通り推定表現の必要なし)

ともあれ概観すれば、渡海約3000里、末蘆国〜熊本約2000里、熊本〜薩摩南端約3000里、と見ることができます。
思うに周旋五千里は末蘆国〜薩摩南端が最適であり、それゆえ推定表現になったとおもいます。
しかし片道であれ、往復であれ、一周であれ、各人の想定自体は否定しませんが、
結果として、それと倭国の配置は整合性が要求されるわけですから、慎重に解いてゆきたいものですね。<649
657日本@名無史さん:2013/03/25(月) 10:54:52.92
魏志は東夷の中に、序、扶余・・・とつづき、韓のつぎに倭人の条があるんだな
原文には、それぞれ、韓伝、倭人伝と冒頭に題されているが
倭だけは倭人と人が付けられているのは一応、特異ではある。
658日本@名無史さん:2013/03/25(月) 11:03:06.64
>>656
倭地=女王国、ではないことは確かなのでは?
同じ九州島に住む倭人の国を入れないのであれば、「参問女王国」とすればいい。
倭人の国は、対馬、壱岐にもあるのだから、倭地からそれらを除外するには
倭地を倭人の本拠とするような明確さが存在していなければならないわけで・・・
よって、魏使が本州を考慮していたとすれば、九州を倭地と定義するのもおかしい。
東の海に倭種の国があったと聞いていたとしても、それは対馬や壱岐のような小さな島に住んでいる倭人の国と
考えていたと思われ。
倭地の周囲が五千里では小さすぎるという意見も日数の換算が杜撰だったからと言い訳もできる。
659日本@名無史さん:2013/03/25(月) 11:09:34.55
でも、疑問があがるとすれば、魏使が倭が会稽東治の東にあると記述していることだな
帯方郡から邪馬台国までの距離と帯方郡から会稽東治までの距離を同じと考えているということは、
少なくとも、水行二十日&陸行一月の距離を五千里と考えていないと無理なんじゃないかと思うが
660日本@名無史さん:2013/03/25(月) 11:16:25.94
>倭人の国は、対馬、壱岐にもあるのだから、倭地からそれらを除外するには
>倭地を倭人の本拠とするような明確さが存在していなければならない
倭の領域ではなく、倭地としたことで九州島のことだってのははっきりしている
だろう。倭地には海は入ってないということだよ。
661日本@名無史さん:2013/03/25(月) 11:28:40.29
でも、魏使が本州島の存在を知っていたとしたら、九州島を倭地と定義するのは不可解だろう
倭地西島とでも書いているであろうから。
本州の存在を知っており、九州と本州が切り離されていないと思っていたとすれば
倭地の周囲は当然跳ね上がる。おそらく倭人でも当時本州の大きさは測りかねていただろうし
島だとは思っていなかったかもしれない。
どちらにしても、九州だけを倭地と定義をすることはないはずだ。
魏使は本州を知らなかったか、東と南を勘違いし、東の倭国の大きさを軽んじていたかの可能性はある。
662日本@名無史さん:2013/03/25(月) 11:49:45.34
>>658
対馬は方400里、壱岐については方300里とすでに紹介しているので、宮廷役人の建前から大きさ等に関する記述は再録されない。

倭国とは、魏が信認した親魏倭王卑弥呼支配下の女王を共立した合衆国で、女王の都のあった邪馬台国もその一国。
倭人とは、九州に住む倭人のことらしく、東に海を渡った先に住むのは倭種(東の国々に住む倭人の一種)として区別しているようだ。
倭地とは、倭人が棲む土地のことで、事実上、九州島のことらしく、女王を共立した合衆国+狗奴国のことと見られる。
(対馬、壱岐、東の国々は、上記の理由で例外扱い)

>倭地の周囲が五千里では小さすぎるという意見も日数の換算が杜撰だったからと言い訳もできる。
おいおい、役人の世界では部下の調査資料が杜撰だったからという言い訳は禁句。そのような役人は首を切られる。
あくまで私や部下の調査資料・記述は正しいと言わざるを得ないし、
突っ込まれないよう、古今東西、終始本末、前後左右の体裁を確実に整えなくてはならない(残念ながら君は役人不合格だなあ)。
663日本@名無史さん:2013/03/25(月) 11:55:05.14
じゃあ、女王国は倭国とどう区別されるの?
倭人と倭種は区別するんだから、同じように区別のために分けて書いてあるんだよね?
664日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:15:44.94
>>662
大略において同意。
但し、「女王を共立した合衆国+狗奴国」には疑義あり。
対海国と一大国を除いた倭国(卑弥呼を王とする国々)の大きさを周旋可五千餘里と推定している。
665日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:16:00.53
>>663
女王国とは、親魏倭王に任ぜられる前の共立女王卑弥呼が都する国(邪馬台国)の別称とみられる。

倭国とは、魏王朝が卑弥呼を親魏倭王に任じて金印紫綬を与えた後、女王を共立した国々(合衆国)をまとめて呼ぶときの親魏国家の名称。
(為念: 当時すでに九州島に倭人自前の「倭国」があったのでなく、
あくまでこれは魏王朝が卑弥呼合衆国に与えて誕生した魏側の呼び名と理解される。魏が滅びれば「倭国」の呼び名も消滅する)
666日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:19:30.86
>>663
女王国は邪馬台国のことだろう。邪馬台国の別称。
倭国は卑弥呼を王とする国々の集合体。
667日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:21:08.79
>>664
その考えは大いにありうる。
周旋五千里に狗奴国をふくめるかどうか、正直いえば迷ってる。
668日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:28:54.37
>>665
おいおい、共立は7、80年前の出来事だぞ
669日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:29:48.77
>>666
これは奇遇、ほとんど同じことを相前後してカキコしたわww、全く同意。 < 665
670日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:29:52.38
>>666
そこは別称でいいのかよwww
倭種と倭人は区別するのに・・・
671日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:32:12.99
ホント、おまえの頭は程度が低いな
もっとましな理屈を考えてこい。
俺ならこう反論する。

つまり、倭人=九州に出自をもつ人ということ。
本州の倭種とは九州からの植民者。
だから倭地とは九州島のこと。
倭が日本を意味するようになったのは後代で、この当時は九州程度の範囲を意味する以外の広さはまだ持っていない、
とすれば魏使が本州について考慮しなかったとしても説明がつく
そもそも倭地とは倭人たちの自称だったかもしれないしな
南薩人は明らかに毛並みがちがうだろうが、魏使は見てないし倭人とも書かれていない。
で、わずか100年後、畿内で古墳文化が花開き、九州は侵略され歴史が闇に葬られたと。
ご都合主義だが、おまら好きのする意見だろう
672日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:36:47.93
とりあえず、批判はできるけど、おまえらの意見を待つ
673日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:40:22.57
五千里は、唐津から、卑弥呼のところまで往復して、
ちょっと寄り道した程度の距離

万二千余里の「余」の大きさによっては、寄り道しなくてもいいかも。
674日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:41:00.54
>>668
何年か前に共立があり、それがそのまま続いてきたのだが、卑弥呼の朝貢のあと親魏倭王の「倭国」と呼ばれるようになった、と理解している。

>>670
邪馬台国の単語は1か所しか出てこない。しかも邪馬台国女王之所都と続けられている。
さらにその後はすべて「女王国」の語に置き換えられているとみられるところから、別称で良いと思う。
なお、「女王の境界」や「不属女王」は共立合衆国(のちの倭国)を意味する政治的・抽象的な表現と思われる。
675日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:47:52.05
女王国と邪馬台国は別の概念だよ。史書は正確性を重視する。やたらと別称なんてものを使うことはない。
南の奴国について「女王の境界」とあることを考えれば、女王国には邪馬台国のほかに投馬国、旁国も含まれる。
つまり、倭国は北九州の国々も含んだ概念、女王国は北九州を除いた倭国、邪馬台国は女王が都を置く国だ。
倭国大乱のときに、北九州と女王国が戦ったことから女王国概念を残したのだろう。
676満州イガグリくん:2013/03/25(月) 12:50:31.68
周旋の意味が何であろうと、倭人伝を初めて読む者は、これを外周と理解するだろう。
同様に、狗奴国も倭地に含まれると理解するだろう。

周旋を片道行と理解したり、狗奴国は倭地ではないと理解する者は、
十人の内、一人いるかいないかだろう。
677日本@名無史さん:2013/03/25(月) 13:05:01.47
漢文の素養の問題だよ。
678日本@名無史さん:2013/03/25(月) 13:10:19.17
>>675
>南の奴国について「女王の境界」とあることを考えれば、女王国には邪馬台国のほかに投馬国、旁国も含まれる。
女王の境界が尽きるところというのは女王の支配領域はここまでということだよ。此女王国境界所盡とは書いてない
だろ。こういうところは疎かにはしないよ。
679日本@名無史さん:2013/03/25(月) 13:12:32.84
>>675
>女王国は北九州を除いた倭国、
建前としても、戦った怨念を残したままの分裂含みで親魏倭王になるのは困難だったとおもいますけどねえ。
ともあれ北九州の国の構成内容がよく分からないので、具体的に国名を書いていただけませんかねえ。

なお、女王国を別称というとそのようなご意見もおありでしょう。
そこで邪馬台国女王之所都・・・、つまり「女王の都する邪馬台国」の短縮形とお考えいただければとおもいます。
「女王の都する邪馬台国」 → 女王(の都する邪馬台)国 → 女王国 
680日本@名無史さん:2013/03/25(月) 13:15:09.46
女王の境界は女王国の境界と同じだよ。国を省略することはしばしばある。
支配領域については境界という言葉は使わず、属するとか不属とか書くよ。
狗奴国について不属とあるのがそれだ。
681日本@名無史さん:2013/03/25(月) 13:16:44.64
>>676
狗奴国は九州を北部と南部に分ければ南部だろう。熊本、宮崎、鹿児島が狗奴国の支配範囲だったのでは
ないだろうか。
周旋可五千餘里は卑弥呼の倭国の大きさを示すものだろ。親魏倭王の支配領域の大きさこそ重要な事項だ。
682日本@名無史さん:2013/03/25(月) 13:19:17.81
想定は否定しませんが、
女王 = 女王国、その心は女王国は筑紫平野(筑後平野、北野平野)にあった・・、でしょうか?
683日本@名無史さん:2013/03/25(月) 13:19:47.80
>>679
女王国は万二千里から始まる。したがって、それよりも北の対馬国、一大国、
末盧国、伊都国、奴国、不彌國は女王国以北の国々だ。女王国ではない。

>「女王の都する邪馬台国」の短縮形
それならば邪馬台国と書けばいいだろ。
684日本@名無史さん:2013/03/25(月) 13:22:37.40
>>683
もし私が陳寿だったなら、女王国と書かずに邪馬台国と書いてさしあげたものを。。。
685日本@名無史さん:2013/03/25(月) 13:24:33.76
そうね。邪馬台国を指して女王国と書くようでは史家失格だ。
686日本@名無史さん:2013/03/25(月) 13:29:47.77
>>680
>女王の境界は女王国の境界と同じだよ。国を省略することはしばしばある。
その例を挙げて論じなさいよ。
此女王境界所盡の女王も不属女王の女王も同じ書き方じゃないの。
687日本@名無史さん:2013/03/25(月) 13:40:24.56
>>683
自女王國以北其戸數道里可得略載,其餘旁國遠絶不可得詳
の記述は邪馬台国の記述の直後にある。読者は直前の女王之所都とある邪馬台国のことを女王国と受けとる
のが当然でしょうね。
688日本@名無史さん:2013/03/25(月) 13:42:47.99
匈奴とかって分裂してても、匈奴の王は匈奴全体の王としてシナ皇帝に冊封されるよな
同様に、卑弥呼が倭国王に封じられたとしても、倭国全体の王として扱われるんじゃないのかよ

で、倭地の定義ってのは倭人の国全領域を指す言葉だとすればつじつまが合わないのだから
倭地とは九州島と判断するしかないんじゃないのか
と俺は結論せざるをえない。
689日本@名無史さん:2013/03/25(月) 14:02:09.70
>>538
「ひがし」の語源が日向説は、大間違いだぬ
太陽は西へ向かうもの
690日本@名無史さん:2013/03/25(月) 14:05:11.24
ひがしの語源がひんがし、ひむかしなのは間違いない、鎌倉時代の書にもあるくらいかなり後代でも残っている語形
691日本@名無史さん:2013/03/25(月) 14:05:13.66
奈良県は矛と鉄の鏃が出ないので大変ですよ
邪馬台国は両方共大量に出る場所なのだから
692日本@名無史さん:2013/03/25(月) 14:15:15.12
地中に埋まっているのでこれから掘り返してきます
693日本@名無史さん:2013/03/25(月) 14:47:14.91
>>686
国を省略する例を知りたいならば、東夷伝全体を読んでごらん。

>此女王境界所盡の女王も不属女王の女王も同じ書き方じゃないの。
属するとか属さないというのは、女王国ではない国が女王国に従属するかどうかの問題だよ。
一方、境界内ならば、その国は女王国の一部を構成するわけだ。
694日本@名無史さん:2013/03/25(月) 14:51:01.39
>>687
邪馬台国ではなく女王国に統属すとある記事の女王国と受け取るのが当然だろう。
695日本@名無史さん:2013/03/25(月) 16:11:53.03
>末盧国、伊都国、奴国、不彌國は女王国以北の国々だ。女王国ではない。

しかし、
到伊都国・・・、世有王皆統属女王国 
と言ってるのだから、伊都国も女王国の一部でなくては辻褄があわぬと思うが。
696日本@名無史さん:2013/03/25(月) 16:15:14.06
>>693
>国を省略する例を知りたいならば、東夷伝全体を読んでごらん。
東夷伝で国名が出てくるのは韓と倭だけだけど。どこに國を省略する例があるのよ。
いいかげんなことを言って大きな顔をするのはおやめ遊ばせ。見苦しいだけざます。
697日本@名無史さん:2013/03/25(月) 16:28:51.63
>属するとか属さないというのは、女王国ではない国が女王国に従属するかどうかの問題だよ。
>一方、境界内ならば、その国は女王国の一部を構成するわけだ。
なにをトンチンカンなことを言うひとですかこのひとは。
女王国に従属するとは女王国の支配下にあるということでしょうが。
698日本@名無史さん:2013/03/25(月) 16:35:31.47
>>695
まったくそのとおり。
女王国≠邪馬台国論は矛盾だらけ。
699日本@名無史さん:2013/03/25(月) 16:39:29.80
東夷伝に目を通しても分からないのかね。韓国と韓、辰国と辰、両方使っているよ。
高句麗を高句麗国とか句麗国と言ったらちがう国になるかな? 
同じだろ。そうゆう使い方を見てみろと言っているのだよ。
>>697は何を言っているのか分からないな。従属するとは支配下にあるということ、
そのとおりだよ。支配下にあるけど女王国の境界内ではない。
700日本@名無史さん:2013/03/25(月) 16:42:52.48
>>695
女王国は従属する相手方だ。伊都国は女王国ではない。万二千里までの国々は
女王国ではないんだよ。
701日本@名無史さん:2013/03/25(月) 16:55:25.49
大和朝廷は、国造を認め、ある種封建制のように、国内の自治については裁量を認めている。
しかし、そこに王の存在はない。その一方で、まつろわぬ民と言われる大和朝廷に従わない国もある。

そこで勘案するに、
伊都国は邪馬台国に統属するとはあるが、王が存在する。
周辺国に王がいるとは書かれていないが、女王国に含まれていないとする。
記紀でも、大和朝廷に対して熊襲が反乱を起こしたという記事がある。
熊襲は大和朝廷から遠く、はじめのうちは支配がいきとどかず独立に近い、統御形態を認めていたのかもしれない
そして、九州北部は、かつて倭奴国があり漢と通じ、半島との広く交易し、物流の重要地点であった可能性があり
その利益を得るために、大和朝廷に対して統属されながらも、代々王の地位を許された特区だった可能性もある。
702日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:00:55.85
>>699
>韓国と韓、辰国と辰、両方使っているよ。
女王と女王国のような使われ方とは違うだろ。韓国と韓、辰国と辰じゃ間違えようはないが、女王国と
女王ではそうはゆかんだろ。
だいいち、女王国の女王とは固有名詞か?韓や辰は固有名詞だけどな。
703日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:03:20.50
>>700
>万二千里までの国々は 女王国ではないんだよ。
そのとおり。万二千豫里のところに女王国すなわち邪馬台国がある。
704日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:12:06.99
>女王と女王国のような使われ方とは違うだろ。
同じだよ。境界という言葉が出てくれば、女王個人ではなく、女王国だとすぐ分かる。

>万二千豫里のところに女王国すなわち邪馬台国がある。
伊都国から千五百里しか離れてないのに水行10日陸行1月もかかるわけはない。
女王国=邪馬台国ではないね。百歩譲って女王国=邪馬台国だとしても、万二千里は
女王国の入り口までで都まで行くには更に1月以上かかるってことさ。
705日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:14:15.08
周王が晋・斉・宋・衛らを諸公に封じて周王朝がはじまったが周国は周王直轄地域をもさすだろうが、
同時にこれら諸公の領域をも含む概念でもあるだろう。
彼らの地位は公であるが、晋や斉などの領域は国と表現される。

戦国時代になると、晋はその家臣であった諸侯らがそれぞれ独立してしまい、韓・魏・趙の国ができるが
彼らは周王を無視して王を名乗り始める。そこで周の家臣から解放されるわけだが
のちに秦によって統一されたのち、皇帝という存在が新たに発明され、諸国王は王の地位を失う。
だが、漢が成立すると、秦の強硬な統治を反省して、皇帝を立てながらも、諸国に王を認めることとなった。
これが郡国制とよばれるものであるが、漢は、諸国をたばねる皇帝の地位にあり、漢国の領域は諸国を包含するものであるが
一方で、諸国もまた国として存在する。

国の中に国が存在することはありうる。
706日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:26:03.87
女王国が邪馬台国じゃないとかもう10年くらい前からここで何度も出たネタな気がする(笑)
俺はたまにくる程度だがそれでもちょくちょくみるネタだし、
何回同じこと言ってんだよ?(笑)
707日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:26:57.39
論破求む
708日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:28:36.63
日の国を火国→肥国と名前を変えてミスリードを狙った連中が朝廷に居た
709日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:33:53.37
魏志では
諸国は皆女王国に統属す

後漢書では
倭は30国あり、それぞれ代々王がいるが、大倭王は邪馬台国に居るってある
30国はみんな大倭王=女王に従属するんだよ

そもそも女王に属せずって書いてあるのは狗奴国だけだよ
710日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:35:32.02
木の国を紀国→紀伊国と名前を変えてミスリードを狙った連中も朝廷に居た?
711満州イガグリくん:2013/03/25(月) 17:37:33.38
女王国とは邪馬台国である。
で、万二千里とは邪馬台国までの距離である。

こんなのは文章読解力の問題である。普通の人は上のように解釈する。
712日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:47:41.19
使驛通於漢者三十許國
漢と通じる国が30国ということだな、まだまだ倭が全国を代表して帯方郡に来ることはない
それぞれ自国の思惑によって漢と通商を求めてきたということだ。
しかし、形勢として邪馬台国が一番勢力が強いと思われる文だ。
伊都国の王も漢と通じてきた王の一人だろう
713日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:53:09.90
そういえば、ヤマトタケルが各国のタケルを次々と攻略していった時期というのは後漢の時期に当たるな
後漢書は三国志の後に編纂されたから、その記事がどの年代のことを言及したものか不明だけどな
714日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:53:12.64
隋書には

「倭は30国、それぞれ王がいる、都はヤマトにある、魏志の邪馬台なり」

って書いてあるがな
715日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:57:13.31
「倭は30国、それぞれ王がいる、都はヤマタイにある、魏志の邪馬台なり」じゃなかったかな。
716日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:58:28.59
だから
倭の30国は47都道府県に相当し、
邪馬台国は東京都に相当する
717日本@名無史さん:2013/03/25(月) 17:58:36.56
原文持ってこいよ
718日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:00:47.51
>>711
満州の読解力では仕方なかろう。しかし、もう少し読解力があれば、伊都国からの
千五百里と水行10日陸行1月は合わないと気づくんだよ。
719日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:02:09.07
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
720日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:05:09.71
隋書
魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。

後漢書
自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。

どちらも中国と通交した国が30国ということだな
倭には30国しかなかったとは書かれていない。

で、この通交の記録が
魏(220年 - 265年)のときか、
漢武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼしてから(紀元前108年)か
その両方とも正しいか不明だが

後漢書は編者・范曄(398年 - 445年)により成立。
隋書は656年に成立。

後漢書の方が信頼性は高いかと。
721日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:07:16.23
30国の紹介された後、「ここが女王の境界の尽きる所なり」ってあるということはですよ。
30国目まで、女王国の範囲内なのですよ。
722日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:10:30.46
22国しか紹介されてないぞ
723日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:10:31.61
>>721
そうだよ。万二千里のところから始まってね。
724日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:22:25.45
たとえば、朝鮮による三国史記にはタバナ国なる倭人の国と思われるものがあるが
ここには記載されていない国はもっとたくさんあると思われ。
邪馬台国が女王国の最南部にあってすぐ南に敵対国があるというのも不自然な国家配置だし
魏使はあくまで邪馬台国以北の国についてしか書いてない。

自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
女王国より以北の戸数や道、里は概載することができるが、それ以外の国は遠いから分かりません。

ここから21国が記載されるが、記載後の記述である以下の文

其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王

これは、邪馬台国に狗奴国が隣接しているとは必ずしも言えない。
文脈上、女王国の南に狗奴国があるわけで、邪馬台国の南にあるわけではない。
725日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:31:16.40
水行二十日、水行10日陸行1月
これは距離に直せるようなものではないだろう。換算可能であれば里数で書かれた筈だ。
又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里
この侏儒國は魏使が自分で行ったところではないだろう。倭人から所要日数を聞いて換算可能と判断
して去女王四千餘里と書いたのであろう。このように換算できるところは里数で書いている。
末盧國に上陸してから邪馬台国までの距離は大陸から見れば重要な情報であろう。それが里数に換算
できない日数で書かれるだろうか?そんなアホな話はなかろう。
水行二十日、水行10日陸行1月は距離には関係がないとしか考えられない。
726満州イガグリくん:2013/03/25(月) 18:32:58.06
女王国とは邪馬台国である。
万二千里とは邪馬台国までの距離である。

これが分らない奴は○○である。ちなみに、
万二千里とは帯方郡から邪馬台国までの直線距離を謂うのである。だから、
それまでの行程距離を足しても無意味なのである。
これが分らない奴も○○である。
727日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:35:18.61
女王国以北は記載されているが、女王国を構成する旁国については書けないんだよ。
邪馬台国より北であっても女王国内の旁国については書けないんだ。
つまり、旁国が必ず邪馬台国よりも南というわけではないんだよ。
728日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:37:52.59
>里数に換算できない日数で書かれるだろうか?
正確には換算できないってだけで、だいたいのことは分かるだろうな。
だから、日数の表示はいくらでもある。西域伝を読んでみな。
729日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:40:30.28
私しゃこういうことだと思ってましたよ。


 ────────────倭国────────────────
|                                           |
| ────女王国(首都=邪馬台国)─────   ─────   |
||                            |  |      |  |
||狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国|  | 狗奴国 |  |
||奴国、不弥国、投馬国、斯馬国、己百支国、 |  |       |  |
||伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、    |   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄    |
||不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、|             |
||華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、     |             |
|| 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、|             |
||奴国                        |             |
| ───────────────────               |
|                                           |
 ──────────────────────────────
730日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:40:45.97
>>724
>女王国より以北の戸数や道、里は概載することができるが、それ以外の国は遠いから分かりません。
「分かりません」ではなく「詳しいことは分からない」でしょう。

>文脈上、女王国の南に狗奴国があるわけで、邪馬台国の南にあるわけではない。
邪馬台国に接しているかどうか分からないけれども邪馬台国の南にはあるでしょう。
731日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:43:24.94
伊都国は世々王有るも、いまでは女王国に統属するんだよ
732日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:44:17.07
>>729
女王国は万二千里からだから、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国
を入れるわけにはいかないだろ。
狗邪韓国から女王国ならば、郡から七千里だよね。
733日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:44:24.86
>>725
そうかな、そもそもその記述はおとぎ話じみている
倭人にとっても未知の国として理解され、伝え持っていたものだろう
倭人が日数をもってその国への距離を把握していたとは思えない。
国家間の利害関係をもたない隊商のような人々から聞いた話を
倭人たちが自分たちなりに整理し、想像していた世界の果ての姿だろう
日数よりさらに漠然とした距離感で換算した数字であり
魏使もそう判断した上で書いたものだろう
734日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:44:54.24
伊都国が女王国の傘下ということは
全国監視機関の一大率も女王国の下部組織ということだよ
一大率はすべての国に居たのだよ
735日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:46:58.05
>>732
女王国とは、倭の30国全部を指す場合と
邪馬台国だけを指す場合があるのだよ

女王国まで万に千里とは、後者だよ
736日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:48:03.20
>>732
伊都国も女王国従属って書いてあるので、それは間違いだよ
737日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:51:16.49
隋書百済伝の海行一月は、だいたい短里千里程度に換算できる。
また、周髀算経の計算を実際に行なってみても、同程度となる。

これから、一月を千里と仮定すると、無理の無い旅程での速度、
一日15キロ程度の1/6となる。
また、松浦までの短里を推測すると、これも当時の中国の公里の1/6程度となる。

従って、里程、日数を1/6した短里短日説が推測される。
一月行を短里千里とすれば、日数も里程も互いに相互換算できる。

そして、これで換算した場合、総行程距離は一万二千七百里となり、
万二千余里と一致する。

さらに、これを実際の地図に合わせると、水行や陸行にも、矛盾が出ない。
738日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:52:17.75
わかったぞ。

>邪馬台国は女王国でない。女王国は不彌国よりあとに出てくる邪馬台国+投馬国+傍21国のこと、
>郡より万二千余里は女王国の入り口でしかない。

と、過去10年ほども頑張っているとかいう御人は、どうやら女王の都の位置は明かすつもりがないようだ。
だが、その10年明かさないという想定に思い当ることがある。ほんとうに久しぶり偶然の再会だなあ。
ただし一筋縄では往かない性格なので、ゆっくり時間をかけて対応してゆくことにしよう。
739日本@名無史さん:2013/03/25(月) 18:59:38.38
>>736
だから、女王国に従属するってだけで、女王国の構成国になるわけではないってこと。
君が女王様にかしづくってときに君と女王様は別人だろ。
740日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:02:26.27
>>739
だから斯馬国以降の国も女王国に従属するってだけで、女王国の構成国になるわけではないの?
741日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:12:02.96
>>737
なんか、よくわからん計算と文章だなあ。
(隋書百済伝の海行一月は1/6で5日??、だいたい短里千里の75km程度??に換算できる←これでいいかい??)

それで、南至邪馬台国水行10日陸行1月は、短里短日では何里何日??
742日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:14:15.82
>>740
それだ、おれもそれを >>739 に聞きたかったんだ。
743日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:22:20.84
>>741

不弥国までが、合計一万七百里

連続式で、投馬国まで水行二十日=50km
邪馬台国まで、水行十日=25km、陸行一月=75km
合計で水行一月=75km、陸行一月=75km

一月が千里なので、合計二千里=150km。

合計一万二千七百里。
744日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:22:59.39
斯馬国以降の国も女王国に従属するってだけで、女王国の構成国になるわけではないと考えたいって
ことかな? しかし、それでは旁国はどこにあったの? 万二千里の所から水行陸行で到達する邪馬
台国まで旁国はなかった、旁国は全て邪馬台国よりも南だったと考えるのかね?
旁国がどこにあったか、使者は確認していないんだよ。全部が南だなんてことは言えないはずだ。
それに、女王の境界云々、これも女王国=邪馬台国一国では説明がつかないよ。
風俗記事を読んでごらん。女王国について書いている記事だが、いくつかの国々が所属していことを
前提としている。
745日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:24:05.02
倭国大乱時、倭には主(あるじ)がなかったんだよ
倭国大乱時、伊都国も倭の一部なのに、伊都国王は倭の主ではなかったんだよ
卑弥呼が始めて、倭の主となった、女王となった
つまり邪馬台国の北方の諸国も、邪馬台国より南方の諸国も、同じように邪馬台国の女王に従属した
746日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:25:27.00
>>728
>正確には換算できないってだけで、だいたいのことは分かるだろうな。
だいたいのことが分かるなら可○○里と書けばいいじゃん。
747日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:29:25.92
グーグル・アースで韓国の地名がいつの間にか愚民文字から日本語に変わってる
これは嬉しい
748日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:32:20.77
>>744
>それに、女王の境界云々、これも女王国=邪馬台国一国では説明がつかないよ。
それは君が漢文を読めないからだよ。
此女王境界所盡は女王の支配が及ぶ範囲が尽きるところということだよ。
749日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:33:42.77
そうゆう用法があったら例文を示してみな。
750日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:42:17.30
>>746
三千里か四千里かはたまた四千五百里か分からないときは困るだろ。
751日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:45:59.81
>>744
女王国の従属国、女王国の構成国、この両者の関係の違いはどこにあるの?
例えば、女王国の従属国(王がいる)、女王国の構成国(王がいない)←こんな感じでいいの?

それから傍国と女王国とはどんな関係なの、従属?、統属?、服属?、還属?、特属?、構成?、植民地?
752日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:52:35.88
徐福の出発地とされ徐福祠のある連雲港から山東半島を周り、徐福鎮のある竜口から大連に渡り、
朝鮮半島西岸を沿岸航行して九州に渡るルートだと、約2400キロ、周旋して約5000里ということになる。
753日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:52:51.91
女王国の構成国は、邪馬台国を中心として北九州と戦った国々だろう。
北九州は実質上の敗戦国だ。だから、以北の国々は一大率に厳しく見張られていた
し、女王国諸国はそんなことはない。
754日本@名無史さん:2013/03/25(月) 19:59:49.23
伊都国は女王に統属されてるのだから、女王卑弥呼の国と見るべき
伊都国に諸国監視の中心があったのだから、

女王卑弥呼 > 邪馬台国 > 伊都国・一大率 > ほか諸国

と見るべきでは
755日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:00:29.36
>>750
それが換算できないってことだろ。
そもそも、魏使が卑弥呼に会いに行っているのなら距離が分からないことなどあり得んだろ。
里数で書いていないということは不彌国と投馬国及び邪馬台国は境を接していたということだろう。
つまり不彌国からの距離はゼロ。水行二十日、水行十日陸行一月は両国内であちこち行き来した日数だろ。
756日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:03:07.03
>>753
女王国の構成国というのは倭国大乱の戦勝国で勝てば官軍、以北の国々は敗戦国で属軍という理解か。
だから伊都国は従属で、傍国は同盟国といいたいわけだな。
想像通りだな、爺様の正体は。
757日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:06:35.53
>>737
周髀算経の計算がなんぼのもんか知らないけど
韓国ー九州間を二ヶ月かけて渡るとか常軌を逸しているぞ
海が荒れるのかもしれないのに、30日も海上で停泊するのかよ

それ、行軍計算なんじゃないのか?大人数で河川を移動するとかだとそのくらいの行軍スピードが安定的だが
魏使がいったいどれほどの大所帯で対馬海峡を縦断してきたのか知らんが、あそこを一ヶ月かけるとか
馬鹿げている。準備は流々、渡海は一気呵成でってのがセオリーじゃないのか
机上の計算すぎてとても正気の沙汰だとは思えんぞ
758日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:08:16.14
>>752
周旋可五千餘里の周旋はそんな(片道行路)意味ではない。一周距離だ。
だいたい「倭地絶在海中洲島之上」だぞ。大陸やその陸続きの半島など関係ないだろが。
759日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:09:27.13
>>757

そのとおり、二ヶ月は現実的ではない。
里程と日程を1/6すれば、すべてがぴったり合う。

そして、松浦までの里程は、公里の1/6程度であることが、
実際の距離から推測される。
760日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:13:12.17
>>753
その「女王国の構成国は、邪馬台国を中心として北九州と戦った国々だろう。」という根拠はあるの?
761日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:14:45.55
>>758
そう信じたいのならそう信じてればいいよ
俺にはカルト信者にしか見えないけどな
762日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:15:36.39
>>759
俺が言っているのは短里とか長里とかそういうことじゃなくて
島伝いや河川の移動のような行軍計算と渡海を同次元で計算していいのかってことだ
763日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:22:31.56
>>759
おいおい、自分は分かっているようだが、実に分かりにくい。

不弥国までが、合計一万七百里
以下連続式で、投馬国まで水行二十日(短日3.3日)=約50km
邪馬台国まで水行十日(短日1.7日)=約25km、陸行一月(短日5日)=約75km
合計で水行一月(短日5日)=75km、陸行一月(短日5日)=75km

一月(短日5日)が千里なので、合計二月(短日10日)で二千里=150km。 ←こんなところでいいか??
764日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:25:02.17
北部九州は元は物部氏ですね。
物部氏の祖・ニギハヤヒは、天皇に国を譲ったですね。
伊都国王名はネギだね。ネギハヤヒですね。
そうすると卑弥呼が神武ですね。
神武東征は九州が舞台ですね。
765日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:28:57.81
>>764
>伊都国王名はネギだね。ネギハヤヒ・・、 ←この伊都国はどこにあったの?
766日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:31:16.62
おいおい、だから魏使が直接足運んでたのだとしたらなぜ分かりにくい日数で記述すんだよ
767日本の名無史さん:2013/03/25(月) 20:31:46.48
75kmって近いよ。
一日で十分。
万二千里じゃなく、万二千歩の間違いとでも言いたいの?
768日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:32:58.96
いや、爾支だから、ニギハヤヒそのものかな。

爾支のいる伊都国は 伊都国を 卑弥呼に譲った
ニギハヤヒは      国を    神武に譲った
769日本@名無史さん:2013/03/25(月) 20:55:55.86
漢文の素養とか言っているわりに原文のせても読んでくれないんだけど

>>720に書いたけど
隋書
魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。
魏の時(時代)、中国と訳通(通訳を通して交際)すること、三十余国、みな自ら王を称う

後漢書
自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。
武帝の朝鮮を滅すより、漢に訳通を使わす者、三十ばかりの国、国みな王を称う、世々統を伝う(代々王統を伝える)。

@中国と通好を交わしている国が、三十国ばかりなのであって、倭には三十国しかないとは書かれていない。
A通好を交わしている三十ばかりの国がみな王を自称しているのであって、倭にある国がみな王号をもっているとは書かれていない。
770日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:14:29.86
>>763

その計算で合っていると思う。

一日の歩行距離だが、東海道の最も離れた宿場間で16km
旧日本陸軍の一日の進軍距離の目安が24kmである。
これはトラックや軍馬での、武器や食料を運んでの数値であるから、
倭人伝時代に一日15kmは、それほどおかしな数値ではないだろう。

また、想像を絶する速度で、戦国大名を驚かせた、豊臣秀吉の中国大返しで、一日30km程度である。

あと、船の速度は風や潮によって大きく変わるが、
いくつかの実験によれば、平均的には人の歩く程度である。

夜は沿岸に停泊して休息したとすれば、やはり陸行とそれほど
速度は変わらないと考える。
771日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:14:41.65
記紀だと北部九州はカムヤイミミノミコトからの多氏の根拠地でしょ
772日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:17:45.73
ちなみに、遣唐使南航路では、平均的には一日50km程度の速度であるが、
これは、途中に停泊するところもなく、
昼夜航行した結果であろう。
773日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:17:59.49
>>770
言っておくが、宿場町間は野宿して山賊に身を剥がれないように老若男女を配慮して間隔が決められているのであって
通常人は金の都合もあるし、ふつうにハシゴするぞ
774日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:25:12.97
あと、大名行列の強行軍の記録見てみろ、尋常じゃないスピードだからな
そりゃ、本陣で食事の用意がされてるから、可能なスピードだけど、マラソン選手も顔負けの速さ
健脚の若者なら、一日50kmなんて普通の時代だからな
行軍は軍備と隊列維持、足の遅い輜重も考慮するから、速さとしてはもっとも遅い部類。
775日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:28:47.42
>>774
道がどんんだけ整備されてたかはわからんね
江戸時代は整備されたが、弥生時代はどの程度か
776日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:34:09.90
短日(失笑)
777日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:35:56.01
>>775
魏使の規模にもよるだろうね
襲われる危険もあるし、相手に危害を加える意思がないとしても、遭難だってありうる
食糧は多めにもっていくだろうから結構遅かっただろうな
同様に国家の威信をかけた遣隋使や遣唐使もそれなりの装備をつけてたろうから
民間人がふらっと商売しにいくよりはるかに遅かっただろうね

ただ、邪馬台国への道のりは魏使が直接行ったものではないと思われるから
いったい倭人の役人がどれほどの規模で移動しての日数なのか
それを推し量らないことには距離感はつかめない
778日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:37:58.10
水行や陸行の日数は条件によって大きく異なる。
水行十日陸行一月を距離に換算するなど愚の骨頂だ。換算可能なら里数で書くだろ。換算できないもの
だから日数で書かれているのだ。
779日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:39:05.67
まあ短日説も一理あるな、短里と称して距離を水増ししたのだから、日数の方も水増ししないとな。
ただし、邪馬台国の位置決めに合うかどうかは別だな。
780日本@名無史さん:2013/03/25(月) 21:55:14.62
倭人伝は、少なくとも、
・徐福の時代
・漢時
・卑弥呼の時代
の記述の寄せ集め。

さらに、卑弥呼の時代の記述は、倭国大乱で瀬戸内海を挟んで分裂してた、
・北側勢力との交易の記録
・南側勢力との交易の記録
の、最低4種類の記録から引用してる。

どの記述がどの記録からの引用なのかを見極められなければ真実は見えてこない
781満州イガグリくん:2013/03/25(月) 22:00:17.78
ここの連中の頭は分裂している(笑)
782日本@名無史さん:2013/03/25(月) 22:02:16.14
博多宿と二日市宿のあいだが、ちょうど15km程度だが、
女子供や老人には辛いらしく、中間の雑餉隈宿が後にできている。

宿場間は、最長で16km程度が上限になっている。

もちろん元気な若者であれば、その倍くらいでもいけるだろうし、
私自身高校の行事で30kmを6時間程度で、歩いた(走った)経験はあるが、
荷物を抱えて行く場合は、かなり大変な距離である。
783日本@名無史さん:2013/03/25(月) 22:04:40.12
>>780
知ったふうな口をきいているが、お前さんは分かっているのか?
徐福の時代の記述はどこだ?
漢時の記述はどこだ?

>さらに、卑弥呼の時代の記述は、倭国大乱で瀬戸内海を挟んで分裂してた
そう言う根拠は何だ?
784日本@名無史さん:2013/03/25(月) 22:07:31.73
倭人伝は当然多くの輜重や、文官も抱えていただろうから、
かなり遅い部類になるだろう。

秀吉の中国大返しにしても、途中の村々に炊き出しの礼状が残っているから、
少しでも兵の旅の負担を抑えようとしたことが伺える。
785日本@名無史さん:2013/03/25(月) 22:13:41.29
そうだろうけど、たかが極東の倭国にそれほどの使節を寄こすかなとも思う
かなりの費用がかかるよ?
最悪、10人程度でお忍びで来る方がよくね?金印渡すには軽率すぎるけどさw
極東探検隊兼ねてたかな?
東夷の蛮族を大漢皇帝の威光に服せしめる大業とか銘打ってさ
786日本@名無史さん:2013/03/25(月) 22:16:23.66
あっ魏か。
なおさら余裕ねえだろ
787日本@名無史さん:2013/03/25(月) 22:23:54.08
あと、船旅だから荷物は人足少なくても量運べるはずなんだよね
陸伝いに南下する分には遭難の危険は少ないし。黄河や長江での水軍の技術あるし。
こまめに着岸して距離刻んでいけば、そうそう下手な事故はおこらんでしょ
788日本@名無史さん:2013/03/25(月) 22:34:41.60
なんか軽薄なネズミが一匹湧いてきたな。
789日本@名無史さん:2013/03/25(月) 22:39:38.95
>>769
倭人伝は、旧百余国、今三十国でその三十国がいずれも通交しているということ。
後漢書は、使駅漢に通じるもの三十国とするだけだが、他に通じない国があるとは
書かれていない。隋書も同様だな。いずれも他の国がないとは書いてないが、あるとも
書いていない。
790日本@名無史さん:2013/03/25(月) 22:43:26.12
>>789
漢に通じる国ではなくて、奴(那)国に通じる国が、今三十国
791日本@名無史さん:2013/03/25(月) 22:45:31.95
残りの70国は、倭国大乱で分かれていたもう一方の勢力に通じてたってこと
792日本@名無史さん:2013/03/25(月) 22:55:09.22
だいたい、門司と下関は1kmくらいしか離れてないでしょ。川みたいなもんだから、対馬から唐津に
船で来れるならすぐに本州に渡れるはず。
793日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:05:30.61
>>789-790
待て待て。
ちゃんと原文がネットに散らかってるんだから拾ってこいよ

倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國。
倭人、帯方(郡)東南の大海の中に在りて、山島に依りて国邑を為す、旧(ふる)く百余国(が)、漢の時(時代)
朝見する者有り、今(魏の時代)、使(いである)訳(通訳者)の通ずる所三十国(なり)。

奴国も出て来ないし、昔は百国しか存在しなかったとも書かれていない。
邑というのはもともと村、集落のことで、都市国家のようなもの。日本で村が百しかないというのもおかしな話だろ。
794日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:15:46.39
>>792
そうだな。
でも、宮崎にあるとしても豊後水道使ったほうが早いと思うんだ。

思うに、伊都国が貿易の窓口として確立してて、太宰府のような役割をしてたんじゃないかな
太宰府には鴻臚館があったわけだし、外国大使をそこに留め置いたのは倭国側の都合なんじゃないの?
本来、上意を伝える立場にある使者が、卑弥呼より格上であり、卑弥呼が鴻臚館に馳せ参じなければ
いけないんじゃないの?朝鮮国は代々そんなもんだったはずだし。
まあ、倭国にも体面があったから、使者を通して受け取ったのかもしれんけどさ。
795日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:27:16.72
>昔は百国しか存在しなかったとも書かれていない。
>邑というのはもともと村、集落のことで、都市国家のようなもの。
百余国だったんだよ。邑は一つで一つの国をつくっているわけではない。
都市国家などということではないよ。
796日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:30:46.26
いやあ、文脈的に、
昔、百余国に朝見する者があった、(それ以外のものは存在すら感知していない)
今、通訳をよこして通じているのは三十国だ。(それ以外は知らない、だって分からないんだから)
ってところじゃないかね
797日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:38:09.42
倭国は倭国大乱で分裂してしまった。
そのうちの一方が、自分たちが倭国の正当な後継国だと称して魏に使いを送ったわけ。
魏はその国からの使者を歓待したが、
でも、その勢力は30国しか領してなかったから、後のシナの政権は正当な後継国だと認めず狗とか卑とかいう蔑字当ててるわけ。
798日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:38:39.27
>>794
要領を得ない書き込みだな。何が言いたいの?
それに言葉の使い方があいまいだねえ。
「上意を伝える立場にある使者が」の使者と「使者を通して受け取ったのかも」の使者は同じものを
指すのか違うのか、紛らわしい。
799日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:41:30.29
>>797
はいはいそうですか。
800日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:41:55.49
自分的には倭奴国は九州の国だと思う。
漢に通じてきた倭の百余国も多くは北部九州に居す交易国家郡だと思う
出雲や高志も帯方郡にでかけてたかもしれないけど。
801日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:51:42.64
21ヶ国は下関(斯馬國の関)から鬼國(岡山)、播磨(巴利國)、紀伊(支惟國)、津(烏奴國=穴津=安濃津)を通って、
名古屋(那古耶(那と耶の字が入ってるのは興味深い))に向かってる。
そこが奴国(分裂前)の都だったのだろう。
邪馬台国は、分裂後の片一方の勢力が都とした場所。
そこがどこだったのかは知らない。
802日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:52:35.14
委奴國 だろ
803日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:52:38.60
>>798
すまんすまん。
魏使の方が卑弥呼より立場が上なんじゃないかね。
だから、鴻臚館があるとして、魏使がそこに駐在していた場合、
卑弥呼は本来そこに訪問しなければいけない立場なんじゃないかな、ということ。
ただ、卑弥呼が直接訪れたとは書かれていないし、
かといって魏使が邪馬台国に訪れたようにも思えないから
卑弥呼が魏使に全権代理か実質の権力者を派遣したかなんかで
お互いの手打ちにしたんじゃないかって推測をしてみただけ。
804日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:55:51.55
いぬ の 変換候補のが

犬 居ぬ 狗 戌 射ぬ 鋳ぬ
805日本@名無史さん:2013/03/25(月) 23:57:03.26
いぬ ゐぬ 委奴=狗
806日本@名無史さん:2013/03/26(火) 00:01:16.12
>>800
倭奴国はAD57年に光武帝に朝見して金印を貰った國ですね。
その金印は博多湾に浮かぶ志賀島から出土した漢委奴国王印でしょうね。
倭奴国の所在地は北部九州である可能性が最も高いでしょう。

>漢に通じてきた倭の百余国も多くは北部九州に居す交易国家郡だと思う
百余国が漢に通じていたとはどこにも書かれてはいません。
807日本@名無史さん:2013/03/26(火) 00:03:06.31
狗奴國 委奴奴國 ← 王位簒奪されて本家主張しているようなネーミング

狗邪國 委奴邪國 委奴耶國 委奴父國 ← 父が逃げて成立とかののストーリーも有り得るしね
808日本@名無史さん:2013/03/26(火) 00:07:08.22
またヘンテコリンが沸き出したな。
809日本@名無史さん:2013/03/26(火) 00:08:40.63
>>806
説明したじゃん
>>796
舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國。
昔、(たくさん国があるのだろうけど、そのうちの)百余国に、漢の時代に朝見してきた者がいた。
今、使者を通じてきているところは三十国である。

これ以外の解釈はありえんだろ
810日本@名無史さん:2013/03/26(火) 00:11:28.88
委奴國のおひとが鉄器もったやつらに追われて逃げて成立したなれのはてのが

                        阿委奴
811日本@名無史さん:2013/03/26(火) 00:15:57.43
那国(シナ的には奴国)は、漢時に百余国を擁した連合国家。
倭人伝には◯奴國というのが多数出てくるし、日本各地に◯那という地名が多数残ってる。
812日本@名無史さん:2013/03/26(火) 00:55:25.32
>>806
すまん。
漢書に倭人の記述があったんだな。わずか数十字程度の記事だが
夫楽浪海中有倭人,分為百余国。以歳時来献見云、とある。
これを見るかぎり、朝見にきたのは一国のみだろうな
その倭人に聞いたところ、倭は百余国に分かれている。

それを受けて、魏書では昔、百余国。漢の時に朝見する者ありとしたわけか。
今は、三十の国に通好する国は増えている。
と言ったところか。

百から三十に国が減ったという話を聞いたことがあるが
その場合、使訳所通を、使訳が通訳したところ、と解したものだろうか?
しかし、それだと隋書の、使訳中国、の意味が分からなくなる。
使訳を通じさせている、と訳すところだろうな

そういうわけで
漢書からの魏書までの一貫した中国側の認識では
倭国のうち、三十の国が魏と通じており、
70国はあいからず、魏と通じていない。
百国のうち、女王国を構成している国はいくつかあるだろうことは予想される。
ということが言えるかと。
813日本@名無史さん:2013/03/26(火) 01:25:55.84
旧百余国とあるからには、今は百余国ではないんだよ。で、今はいくつかとなると、
三十国がその答えだな。もし、分からないならば、今、その数不詳なれど、使訳通じる所
三十国などと書くはずだ。倭人伝の書き方からすれば、今は三十国でその全てが使訳通じる
所なのだよ。
814日本@名無史さん:2013/03/26(火) 08:26:33.34
大和朝廷がおいた国造は百三十ほどいたそうだ。
この数は大化の改新までほぼ変わらない。
百余国が国造の原型と言えるかもしれないが
それでもかなり統廃合されたあとでの数であることは否めない。
漢書にある、百余国がいったいどれほど真に迫った数字であるか分からないが、
漢に通じた、倭奴国ですらない、この無名の倭国はやはり
九州の一小国家に過ぎないであろう
とすれば、その国が倭国全体をどれほど把握していたかもあやしいし
当時、倭がどれほど数を数えることができたかもあやしい。
815日本@名無史さん:2013/03/26(火) 08:48:57.53
>>814
「倭国」は魏王朝が卑弥呼を親魏倭王(倭国の王)に任ずるにあたり、
日本列島の一部地域(たぶん九州地方)の卑弥呼支配下の国家群(約30国)に対して付けた呼び名で、魏王朝の消滅とともに消えた国名
816日本@名無史さん:2013/03/26(火) 09:06:26.35
>>815
別に魏王朝の消滅で消えた訳じゃない。
日本が倭ではなく日本だと主張したから、日本と呼ばれるようになていっただけ。
時代を経た後も、倭と言う記載はある。
817日本@名無史さん:2013/03/26(火) 09:22:56.72
>>816
倭人伝にでてくる「倭国」はあくまで魏側の呼び名であるという意味な、このスレで「倭国」といえばこのこと。
おっしゃるとおり、倭国、倭、大倭、大和は皆それぞれ名づけられた経緯、使われる時と場合、意味合いの違いがあって、
日本側には日本側独自の倭の経緯があったんじゃないの(倭→大倭→大和→日の本→とかよく知らぬが)
818侮り難い小僧:2013/03/26(火) 09:42:52.82
久しぶりに覗いて見たら吉本新喜劇を見るような面白い書き込みが目立ちますね。皆さん芸達者ですね。
>>814
>当時、倭がどれほど数を数えることができたかもあやしい。
当時の倭度国は侮り難いですよ。AD56年に後漢の光武帝が泰山において封禅の儀を行いました。これは
歴史的出来事です。その翌年の正月に倭度国は朝賀に出向いているのです。情報収集力の高さ、タイミン
グを逃さぬ判断力、行動力、外交センス・・端倪すべからざるものがあります。
恐らく、大陸からの教養を備えた渡来人などが倭奴国のブレーンに居たのでしょう。
人間の頭脳そのものの力は二千年前も現在もほとんど変わりはありません。現在は知識が増えただけです。
倭度国の庶民は別として高官連中に数の概念がなかったとは考えられません。
819侮り難い小僧:2013/03/26(火) 09:47:16.26
あららミスしました。
>>818の倭度国は倭奴国です。
820日本@名無史さん:2013/03/26(火) 09:53:12.99
>>819
当時の高官連中はそんな軽率はしなかったであろうww
ま、自慢したい気持ちはよーくわかっとる。
だが、自分だってミスすることはある。そう他人を見下したカキコをするな。
821日本@名無史さん:2013/03/26(火) 09:58:46.43
日本は対外的にはヤマトを名乗ったことはない。
あくまでも大和地方の政権に過ぎない。
822日本@名無史さん:2013/03/26(火) 10:06:19.53
文字を持ってない国の人が普段使わない千とか使うかね
せいぜい百ぐらいまでじゃないかね
一月の満数である30日まではかぞえられそうだが
たちまち月とか、もっと身近な言葉があるのだから
それすら日常で使われていたかあやしい。
中国でも万より大きい数は定められていない。
倭でもっとも大きな数は百だった可能性は高いよ
823日本@名無史さん:2013/03/26(火) 10:24:56.48
>大和地方の政権に過ぎない。
政権なんぞあったと思うのが間違い。村長ぐらいはいたかも知れんが。
824日本@名無史さん:2013/03/26(火) 10:54:33.92
吉本興業

株式会社フジ・メディア・ホールディングス 60,000 株 12.13%
日本テレビ放送網株式会社 40,000 株 8.09%
株式会社TBS テレビ 40,000 株 8.09%
株式会社テレビ朝日 40,000 株 8.09%
大成土地株式会社 40,000 株 8.09%
京楽産業.株式会社 40,000 株 8.09%
BM 総研株式会社(ソフトバンク子会社) 30,000 株 6.07%
株式会社テレビ東京 20,000 株 4.04%
株式会社電通 20,000 株 4.04%





┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃┌───┐                ┃
┃│.ワイプ.│        テロップ..  ┃ 
┃│ 画面 │        テロップ.. ┃ 
┃└───┘               ┃  <ナレ:次の瞬間! と、そのとき!
┃  【やらせ・ステマ垂れ流し】   ┃
┃                     ┃ <SEを被せる(ど〜ん、どし〜ん
┃     流れるテロップ・・・・    ┃  どか〜ん、ぴろぴろぴろぴろ・)
┃                      ┃ 
┃       やたらとデカイ      ┃  
┃         テロップ        ┃ <SE:え〜
┗━━━━━━━━━━━━━━┛       ナレ:このあと、○○にスタジオ騒然!(CMへ)
   /\     /\     /\
 SE:え〜  SE:あははは  SE:へぇ〜
825日本@名無史さん:2013/03/26(火) 11:11:47.89
女王国まで万二千里の距離が真実であるとするならば
都する所、邪馬台国まで水行二十日、陸行一月の広さのある女王国は日本では圧倒的な広さをもつ国だろう。
伊都国や不弥国が霞むほどのでかさだ。
そして、名称だけを列挙されたその最後の国は奴国であり、以北の国で挙げた国名と同じものである。
同名異国を記述するわけがないため、列挙は邪馬台国から北に向かって記述されているはずである。
よって、その女王国の北限境界が奴国となる。
しかし、
自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
女王国より以北その戸数道里、略載することを得べきも、その余旁国は遠絶にして詳らかにすること得べからず。
女王国より北の国は戸数道里を略載することができたがその他の国は遠く離れているために(戸数道里を)詳しく知ることはできない。
とあるのだから、
女王国に至るまでの以北について書かれているとも思われない。
ここで、思い当たるに、ここに挙げられた邪馬台国以外の21国は
もともと魏と交際してきた30国で、資料だけが手元にあったものではなかろうか。
女王国との距離万二千里にしても、近くに直轄地である県(あがた)との距離であり、
女王国境界の北限以南に点在していた国を南から列挙していったものと思われる。
826侮り難い小僧:2013/03/26(火) 11:11:52.34
>>822
>中国でも万より大きい数は定められていない。
漢典の京のところに
古代数目名十兆为(為)京,一说(説)万万兆为(為)京。古代数位序列是:万、亿(億)、兆、京。十兆为(為)京
とありますよ。
827日本@名無史さん:2013/03/26(火) 11:24:51.34
>>826
良く勉強しとるな。褒めておく。
828日本@名無史さん:2013/03/26(火) 11:40:26.10
>>826
そうだな。
後漢の徐岳による数術記遺に、載までの単位が記されているそうだ。
前漢代に完成した礼記には「兆」を億の 一万倍として使う記述もある。
少なくとも兆までは漢の時代には存在したみたいだな
日本がどれほど数詞を用いていたかは分からんが。
829日本@名無史さん:2013/03/26(火) 11:42:00.12
>>825
省略が多すぎて文章の意味がよくつかめないなあ、少し補ってくれぬか

>女王国に至るまでの以北について書かれているとも思われない。
→女王国以北についてのみ書かれているとも思われない。??

>女王国との距離万二千里にしても、(○○国の)近くにある(○○国の)直轄地の県(あがた)との距離であり、
830侮り難い小僧:2013/03/26(火) 11:44:19.76
>>820
お叱りを頂きました。反省します。
>>826
お褒めを頂きました。照れくさいです。
831侮り難い小僧:2013/03/26(火) 11:48:00.93
>>825
>もともと魏と交際してきた30国で、資料だけが手元にあったものではなかろうか。
魏との交際は卑弥呼が初めてじゃないですか?
832日本@名無史さん:2013/03/26(火) 11:58:09.32
>>829
21国の記述がな
833日本@名無史さん:2013/03/26(火) 11:59:07.77
>>831
はじめてとは書かれていないよ
834日本@名無史さん:2013/03/26(火) 12:09:47.89
>>832
○○里のように里数を示した国々は女王国より北にあることは言うまでもないな。

里数を書いてない投馬国、傍21国は女王国の北か南かわからない。これは原文からして当然そのように読める。
その記載の正確な位置順番は不明としても、まずは南から北へが順当なところとだれしもおもうだろう。
ただし、長崎方面もあるので完全一筆書きのようにはいかぬだろうが。
835満州イガグリくん:2013/03/26(火) 12:27:21.65
倭奴国は日本の国ではない。

>まずは南から北へが順当なところとだれしもおもうだろう。

そんなことは誰も思わない。
836日本@名無史さん:2013/03/26(火) 12:29:59.85
>>834
いや、女王国より北にあるということが何を示すかを考える必要がある。

郡から伊都国まで万一千里強、女王国まで万二千里であるなら、魏使が駐在している伊都国からわずか一千里で女王国に至る。
しかし、女王が都する邪馬台国は伊都国から南へ水行二十日、陸行一月の距離があるのだから
女王国が異様な広さをもっていることが分かる。
魏使は今、伊都国におり、女王国の北方国境近くにいるというわけだ。
そして、伊都国に至るまでの記述、及び周辺各国は戸数道里を略載している。
が、北方国境以南については詳しく書かれていない。ただ国名が記載しているだけだ。

そこで、注意しなければならないのは、女王国の都である邪馬台国から北方国境までにある国についての考察。
国名が順々に記載された後に奴国とあるが、奴国は伊都国周辺国の記述でもでてくるもの。
そして、奴国をもって女王国の境界の尽きるところとしているわけだから
国名は邪馬台国から北に向かって、南から記述されているのだろう。
そうでなければ、ここが女王国の境界の尽きるところという記述が意味をなさない。
しかし、そもそも邪馬台国より南には狗奴国しか存在していないとするのもおかしな話だ。
そうであれば、矛盾なくそれらの記述をまとめようと思うならば
はじめに、魏は交際のある30国のリストしかもっていなかったのではないだろうか。
そして、邪馬台国の近くにある国から伝聞より順々に列挙していき、その北限を奴国とした。
こう解釈するしかないように思う。
837日本@名無史さん:2013/03/26(火) 12:37:39.26
>>835
意外にまじめで正直な人間だな、
順当とは、それ以外のケースも少なからずありうるので柔軟に考えよう、というヤクザ人間のズル用語だがな。
838日本@名無史さん:2013/03/26(火) 12:42:31.52
魏に使いを出していた30国は外交の独立性を維持しているのだから
仮に女王国に属すにしても比較的自由度の高い裁量を与えられていたと言える。
しかし、女王国には、都するところの邪馬台国があり、また北限境界がある。
伊都国は北限境界より外にあり、奴国は北限境界の内にある。
国と境界と統属と、別の概念の支配領域が存在していたと思われる。
839日本@名無史さん:2013/03/26(火) 12:46:12.53
>>836
傍21国については、記事からしてその想定で良いと思う。
その他の事項については今少し吟味が必要という人もいるかもしれないが・・。
840侮り難い小僧:2013/03/26(火) 12:54:14.15
>>833
確かに初めてという文言はありませんが、公孫康が建安9年(204年)に帯方郡を設置し韓と倭を服属
せしめてから景初二年に公孫氏が司馬懿によって滅ぼされるまでの間は倭と魏の交際はなかったと思い
ます。なお、曹操が魏公になったのは建安18年(213年)のことです。
あなたが「もともと魏と交際してきた30国・・・」というのはあり得ないと思うのですが。
841満州イガグリくん:2013/03/26(火) 12:54:43.26
お前らはほんとに文章読解力がないな。
傍21国は邪馬台国の周辺国をテキトーに書いていっただけだろう。
もし順番に書いていったとすれば北から南に書いていったに決まっている。
なぜなら最後に奴国があり、女王の境界の尽きるところとあり、
その南に狗奴国がある、と書いてある。
もしこの奴国が北端の奴国なら、その南の狗奴国はどこにあるのだ。
バッカじゃなかろか、と言いたいね(笑)
842満州イガグリくん:2013/03/26(火) 12:57:26.81
ただし邪馬台国の周辺国が21国あり、それらの周辺国の南に狗奴国がある、
という意味なら理解できるが。
843日本@名無史さん:2013/03/26(火) 13:04:04.48
>>840
もともと、倭や韓はずっと半島北部と通商してきたのだと思われ、
季節ごとに国家的な貿易も催していた。
ただ、半島の力関係が変わると、お隣さんが引っ越してきたみたいだから挨拶に行っとくか的な乗りで
使者を送ったのだと思う。
魏書記載の「今」というのは魏のときの記録であるのだから、魏に使いがおくった国が30あったのは確かだよ

>>841
別の奴国と言いたいわけね
しかし、平仄のちがう漢字を宛てるなど対処はいくらでもあるよ
844日本@名無史さん:2013/03/26(火) 14:19:40.82
バッカじゃなかろか
845侮り難い小僧:2013/03/26(火) 16:51:56.94
>>843
>魏書記載の「今」というのは魏のときの記録であるのだから、魏に使いがおくった国が30あったのは確かだよ
>>825では「もともと魏と交際してきた30国で、資料だけが手元にあったものではなかろうか。」と書かれてい
ました。「もともと」とは卑弥呼の朝貢以前からという意味だと思われますので魏と交際をしたのは卑弥呼が最初
ではないかと言った次第です。
30國が実際に魏に使いを送ったかどうかはよく分かりませんね.倭国に来た郡使との間で交流があった程度ではな
いでしょうか。それも壹與の時代辺りで。
846日本@名無史さん:2013/03/26(火) 16:56:39.99
ひどい内容だ いくらなんでもひどい過去最低
847日本@名無史さん:2013/03/26(火) 17:12:51.42
>>846
満州がいる間はしかたがない
848日本@名無史さん:2013/03/26(火) 17:24:40.55
>>843
>>845
>倭人在、帯方東南大海之中、依山島為国邑、旧百余国、漢時有朝見者、今使訳所通三十国。

ここは魏王朝(洛陽)でなく、帯方郡(又は郡使、又は伊都国駐在の郡使)との関係とおもわれる。
なおこのあと、最初に魏王朝(洛陽)に達したのは卑弥呼の使いだったのでニュースになったのであろう。
849日本@名無史さん:2013/03/26(火) 17:34:29.96
北の奴国と南の奴国とはまったく別の国だ。そこは満州の言うとおり。
850日本@名無史さん:2013/03/26(火) 17:36:13.27
>848 の追加
曹操の建国以後〜正式な魏王朝が発足するまでをも含む魏の時代
851満州イガグリくん:2013/03/26(火) 17:37:56.63
お前らはほんとに傍21国は南から北に順番に書かれていると思っているのか?

ひどい解釈だ いくらなんでもひどい過去最低
南解次次雄がいる間はしかたがない
852日本@名無史さん:2013/03/26(火) 17:48:24.52
旁国は使者が通ったコースに近い国から書いている可能性がある。つまり、一応は北から
始まるが、南へ行き、また北へ戻るかもな。
853日本@名無史さん:2013/03/26(火) 17:49:27.97
>此女王境界所盡、其南有狗奴国、男子為王、、、不属女王。

傍国記載の順番が、北から南でも、南から北でも、東西に与太っていても大勢に影響ないね。
女王の境界の尽きるところの南に、不属のにっくき狗奴国がありやがる・・、といわんがためさ。
854日本@名無史さん:2013/03/26(火) 18:03:38.95
そうね。ただ、邪馬台国よりも北に旁国があるかどうかは問題だろう。
いくつかの旁国は北だと思うよ。水行10日陸行1月の距離があるのに、旁国
が一つもないとは考えられん。
855日本@名無史さん:2013/03/26(火) 18:43:05.14
水行10日陸行1月は消化済みだろ
856日本@名無史さん:2013/03/26(火) 18:55:21.61
>>851
下関から名古屋にかけての西から東
857日本@名無史さん:2013/03/26(火) 20:07:39.51
>>854
瀬戸内海を挟んで対立していた(高地性集落に痕跡がある)勢力のうち、
南側の勢力が邪馬台国だということを理解できれば、
北に対して警戒する必要があったという事も理解できるはずなんだが…
858侮り難い小僧:2013/03/26(火) 21:59:19.88
>>856
冗談だと思いますが、それでは倭地の周旋可五千餘里には収まりません。
859侮り難い小僧:2013/03/26(火) 22:01:35.32
>>857
全く理解できません。
説明して下さい。
860日本@名無史さん:2013/03/26(火) 22:18:45.56
カルト信者にはいくら説明しても無駄だからw
861日本@名無史さん:2013/03/26(火) 23:15:03.51
卑怯な奴だな。説明できないのだろ。逃げるな。
862日本@名無史さん:2013/03/26(火) 23:17:16.31
俺も説明を聞きたい。
863日本@名無史さん:2013/03/26(火) 23:29:52.90
高地性集落からは石鏃は出ているが鉄簇は出てないな。
九州勢力の侵攻を恐れて備えとしたものだろう。
864日本@名無史さん:2013/03/26(火) 23:37:59.12
高地性集落は倭人伝にある倭国乱の戦闘地域ではあるまい。
倭人伝の倭国は九州だからな。
もっとも、倭国乱ではじき出された一派が新天地を求めて瀬戸内から畿内へ侵入した可能性はある。
高地性集落はその騒動の産物かもしれない。
865日本@名無史さん:2013/03/26(火) 23:53:17.92
鉄器で武装したつおいやつらが来たりしたら

青銅器で武装したおひとたちにしてみたら

逃げるにしかずでしょ
866日本@名無史さん:2013/03/27(水) 00:00:09.56
そこで山幸海幸の話になるわけなんですよ
867日本@名無史さん:2013/03/27(水) 00:14:27.26
伊作無限尿19才名古屋はどこに行ったの?
868日本@名無史さん:2013/03/27(水) 08:59:31.50
日本は青銅器を実用で使っていた時期が無いんじゃなかったか
869日本@名無史さん:2013/03/27(水) 09:03:47.64
銅鏃は実用品の場合が多そうだけどね
870日本@名無史さん:2013/03/27(水) 09:28:30.94
>弥生時代
青銅器が日本(倭)にもたらされたのはおよそ紀元前2世紀であり、生産もその後すぐおこなわれた可能性が高い.
主な青銅器は、鏡・矛・剣・戈(か)の武器類と銅鐸、やりがんな等である.
武器類は、初めごろは実戦に使えるものであった.
日本ではほぼ同時期に鉄器や製鉄技術も伝来しており、武器や実用道具は性能に優れた鉄器にとって代えられた.
871日本@名無史さん:2013/03/27(水) 09:42:32.14
>古墳時代
古墳時代の日本では、銅はもっぱら威信財として使用されるようになり、銅鏡とくに青銅鏡が多数つくられるようになった。
そして武器や実用道具は性能に優れた鉄器に替っていった。

こうした時代背景を織り込むことで激動の邪馬台国と卑弥呼の運命はいっそう良く理解できるのではないでしょうか。
872日本@名無史さん:2013/03/27(水) 12:10:21.35
太宰府周辺や吉野ヶ里から、鉄器ばかりではなく銅器も大量に出ているけど、
実用品も多そうだけどな。
873日本@名無史さん:2013/03/27(水) 12:25:08.44
銅にしろ鉄にしろ、発明の基本ニーズは実用の武器・農具・日用品とおもうね
ともあれ、銅から鉄へ、吉野ヶ里は歴史の証人。
874日本@名無史さん:2013/03/27(水) 12:59:47.92
江戸時代にさ、活版印刷術が輸入されてこれが流行るんだけど
すぐに廃れて、木版印刷にもどる
のちにまた活版印刷が流行ってくるんだけど
これには深いわけがある

はじめの流行は技術を知った人たちによる流行。
しかし、アルファベットの26文字しかない西洋と異なり、日本では1ページごとにいちいち文字をバラバラにして
組み立てて、つくるのは面倒で、すべて木でほっていく方が安く簡単にできた。
つまり、木版印刷のほうが商売として成り立つというわけ。
で、また流行っていくのは、個人が非営利目的で、お金もないので、自分で出版を行うときに
活版印刷を用いたということ。お金はないが、時間はある。こつこつと1ページ200枚なりと決めていけば、
少ない数しかでないが、お金をかけずに出版ができる。そういう個人出版が江戸後期に流行った。
たとえば、幕府によって発禁を受けた、海国兵談なども営業出版は禁止されたが、
個人出版については禁止されることはなかったため、密かに書写も含め全国に情報が広まったわけだ。
こうして、日本の文化が大衆化しているのを見ると、他の東アジアと比べて特異であったことがわかる。

鉄にしてもそうだろう
それが貴重品としての役割程度の存在であるならば
たとえ鉄が多く出土したところで、それが各国の力関係を示すパラメータとなるわけではない。
875日本@名無史さん:2013/03/27(水) 13:15:06.20
何よりも入ってきやすい北九州にあるのは当然。北九州に鉄があるからといって
そこが総合力で強大であったとは決めつけられない。
876日本@名無史さん:2013/03/27(水) 13:26:16.33
明治以降の官営製鉄の始まりのひとつは北九州市だが
卑弥呼当時の輸入鉄・鉄鍛冶・実用鉄器の広がりはどうだったのか、
卑弥呼・邪馬台国の所在と並ぶ(もしかして同等以上に)だいじなテーマと思う、いにしえより鉄は国家なり。
877日本@名無史さん:2013/03/27(水) 13:28:26.51
>鉄にしてもそうだろう
>それが貴重品としての役割程度の存在であるならば
そんな仮定は見当違い。
「量が少ない」という意味での「貴重品」としての役割程度の存在ではない。
鉄が貴重であったことは確実である。多くの武器、工具、農具が鉄製に替わって行った歴史的事実を
見ればその有用性が石や木や銅などと比べて遥かに高いものであったかが分かる。
878日本@名無史さん:2013/03/27(水) 13:43:20.35
邪馬台国・卑弥呼というと、巨大墓・金印・観楼・1000人の美女みたいな世俗に流れがちだった
しかし最近の傾向を見ると、銅から鉄への流れを意識したものになりつつあるように思える。
とりもなおさずそれは九州における鉄の考古学が未熟であったからかもしれないが、
吉野ヶ里発掘を経て邪馬台国論争の視点はかわった、成長したな、と実感する。
879日本@名無史さん:2013/03/27(水) 13:53:24.92
桃太郎は吉備の将軍が山賊を討った伝説だ
ローマのように外部に起源があるのだろうな
880満州イガグリくん:2013/03/27(水) 17:22:49.99
鉄なんてどこでも採れる。どこでも採れるから安いのである。
日本でも採れたに決まっている。
そういうことが理解できないからお前らは…(以下省略)

この前のNHKのアイスマンを見たか。
五千年ほど前に驚くほど精巧な銅?の斧をアイスマンは持っていたのだぞ。
あれにはさすがの僕も驚いた。

ところで南解次次雄はもしかして高校の歴史の先生か?
881日本@名無史さん:2013/03/27(水) 17:42:13.77
満州アイスマン(いつまでたっても変わらぬ)
882日本@名無史さん:2013/03/27(水) 17:57:06.16
>>880
差し支えなければ南解次次雄と命名した理由を教えてくんしゃい。
883太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/03/27(水) 18:24:16.38
884満州イガグリくん:2013/03/27(水) 18:52:48.90
>>882
四国人には可哀そうだが、リクエストなので回答しようw

新羅第二代の王に南解次次雄というのがいる。
一方、神功皇后新羅征伐の話に表筒男・中筒男・底筒男という三神が出てくる。
で、その男は南解次次雄は中筒男だと主張した。その理由は、
南解次次雄はナカツツノオ(中筒男)と読めるから、というものだった(爆笑)
他にも考古学的根拠を挙げてマジに主張した。まるで鉄板の真理みたいに(失笑)。

で、それ以来、その男(四国説の男だと思う)を南解次次雄、もしくは、
中筒男と名付けてからかっているのである。
もしかしたら高校の歴史教師かもしれない。あゝ、生徒が可哀そう(笑)
885日本@名無史さん:2013/03/27(水) 19:04:47.54
地球の中心部は数十%、表面でも数%の鉄を含有している。
水の惑星という前に、地球は鉄の惑星であり、たしかに鉄はどこにでもある。
しかしその酸化鉄鉱を金属鉄と成し、ものの役に立てるには、高度な(脱酸素)精錬技術が必要であった。

溶解炉で千数百度の高温を数日間維持し、酸素を遮断し、水分が入らないようにしなければならぬ。
仮に地下水が上昇して炉に入ると、水分由来の水素爆発を起こして炉は飛び散る
高温を維持するには木炭が必要であるが、串焼き用の木炭などでは温度が上がらない
広い山林から特殊な樹木を集め、大量の高温木炭を製造できて初めて鉄の精錬が可能になった
そのような貴重な木炭は残念ながら寒冷地の満州では入手できなかったらしい。。。
886日本@名無史さん:2013/03/27(水) 19:09:05.13
丹楊地勢險阻
山出銅鐵 自鑄甲兵
俗好武習戰 高尚氣力
887日本@名無史さん:2013/03/27(水) 21:36:18.96
>>884
なるほど。
四国説なんてどんな頭の持ち主が考えるのだろうか?
888日本@名無史さん:2013/03/27(水) 21:47:56.10
「満洲」もすっかり軽蔑語になってしまってるな。
中共とのコラボでだがw
889日本@名無史さん:2013/03/27(水) 21:50:17.51
>丹楊地勢險阻
>山出銅鐵 自鑄甲兵    なるほど丹楊、三国志?の時代にこれはすばらしい。
890満州イガグリくん:2013/03/27(水) 22:10:37.43
>>885
何を言うか。蚩尤の伝説を知っているか。
蚩尤は初めて鉄製の武器で中国を席巻した。
その蚩尤は満州民族だ。
桓檀古記、揆園史話、ネット史、すべて蚩尤を満州民族としている。
891日本@名無史さん:2013/03/27(水) 22:23:17.09
蚩尤ガンダム
892日本@名無史さん:2013/03/27(水) 22:31:37.06
>>889
縣大帥祖郎 とゆうおひとがそこのの土人の親方様なのね
893日本@名無史さん:2013/03/27(水) 22:43:38.62
http://zh.wikisource.org/w/index.php?search=%E7%A5%96%E9%83%8E&fulltext=Search

「祖郎」さんについて調べたいおかたはこちらからどうぞ

丹陽宗帥祖郎
縣大帥祖郎
丹楊宗帥陵陽祖郎
太師祖郎
縣山賊祖郎

「宗帥」「大帥」「太師」 
894日本@名無史さん:2013/03/27(水) 23:21:17.60
>>886 >>890
我祖も100年ほど前まで、冬仕事に木炭を作り、砂鉄を集めては溶かし固める内職程度の小鍛冶場?をやってたらしい。フイゴもあった。
それに比べ、2000年ほども前に製鉄精錬とは、なんと高度で大がかりな技術だったんだろう
末裔も含め満州族、山越族ともに超優秀だったんだなあ、凄いと思う
895日本@名無史さん:2013/03/27(水) 23:29:28.87
ベッカムもロナウドもローマ法王もみんなちょい線民族なんだから、
私有が饅頭族ってことはあり得るな。
饅頭族って女真族のことでしょ?
刀伊の正体なんでしょ?w
896日本@名無史さん:2013/03/28(木) 00:26:54.91
.     (-197) 縣大帥祖郎所襲 幾至危殆(孫策)
(建安二)(197) 袁術遣間使繼印綬與丹陽宗帥祖郎等
          從(孫)策討陵陽,生得祖郎等(孫輔)
(建安13)(208) 歙凡六縣 (孫)權遂割為新都郡(賀齊)
(建安21)(216) 會丹陽賊帥費棧受曹公印綬 扇動山越 為作内應
          (孫)權遣(陸)遜討(費)棧
(景初元)(234) 秋八月 以諸葛恪為丹楊太守 討山越

.     尤突
祖郎 - 費棧 - 黄乱 ← 山越のボス
.     潘臨
897日本@名無史さん:2013/03/28(木) 09:48:46.13
>丹楊地勢險阻
>郡出銅鐵 でなく →  山出銅鐵 

となっているのは、それなりの含みありというわけか、ふむふむ。
すると山越狩りの主目的は、土方・兵卒のかき集めというより、製鉄技師・武器職人の徴用で、
日本風にいえば甲賀、伊賀、雑賀衆を強制的にとりこもうとたくらんだ感じかな?
898日本@名無史さん:2013/03/28(木) 18:29:09.52
倭地ってのは九州島のことだろうな
899日本@名無史さん:2013/03/28(木) 18:34:10.08
いかれた九州脳ならそうなるだろうw
900日本@名無史さん:2013/03/28(木) 18:38:32.66
倭人
倭地
倭国
倭種   矛盾なく区分でき、混乱なく使用するには各々どのように定義すればよいかだが?
901日本@名無史さん:2013/03/28(木) 19:45:47.10
倭地は「倭の地」であるが、
參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
の倭地は倭国本体のある島の「卑弥呼支配下の国々」の領域を指す。
この文までの話の筋から判断して分かることである。
902日本@名無史さん:2013/03/28(木) 19:52:23.66
倭の北岸の狗邪韓國から奴國乃至不彌國までの行程の数値のが5000里なだけでしょ
903日本@名無史さん:2013/03/28(木) 20:20:39.60
>>902
それはすでに記載ズミの数字なんだからダブっては書かない思う
904日本@名無史さん:2013/03/28(木) 20:27:00.34
>>901
さんせい
905日本@名無史さん:2013/03/28(木) 20:55:50.09
>>902
周旋には「或る地点から別の或る地点までの(片道行き)の距離」という意味はない。
周旋可五千餘里は「周囲あるいは全ての國を巡る」距離が五千餘里ほどであるという意味である。
906日本@名無史さん:2013/03/28(木) 20:56:33.83
>>903
景初二年のおはなし始める前の〆のところだから

わざわざ合計した数値を書いてくれているのだよ。

「五千餘里」という数値はここしか書いていないから

陳さんってほんと親切だよね。
907日本@名無史さん:2013/03/28(木) 20:58:00.27
倭地を回ったんなら、邪馬台国へ至る道里も当然書いてあるだろう
また、すぐ上に黒歯国まで四千里といったあてにならない情報が書かれているのも気になる
ここはおおよその情報が書かれている段。
そして、倭地は伝聞から聞いた、使者がいる島の大きさ
908日本@名無史さん:2013/03/28(木) 20:59:23.15
まっすぐ行けないから旋していくだけね。

旋したところの数値のもちゃんと書いてあるしね。
909日本@名無史さん:2013/03/28(木) 21:14:25.51
>>906
アホか?
910日本@名無史さん:2013/03/28(木) 21:15:19.33
>>908
こいつもアホだな。
911日本@名無史さん:2013/03/28(木) 21:19:01.07
周旋可五千餘里 でなくて

周回可五千餘里 と書いてあるのなら ぐるぐるだけど

周回可五千餘里 なら 周回380km未満のだし

いずれにしても 

方100km未満とかなら 筑紫サイズレベルのでしょぼいよ

ごりおしでぐるぐるにしたら なにか良いことでもあるのでしょうか?
912日本@名無史さん:2013/03/28(木) 21:30:08.05
でも、その段て内容がおそろしく杜撰だよな
水行一年、何基準なのか不明だし
913日本@名無史さん:2013/03/28(木) 21:56:07.25
>>911
漢典に用例が示してある。
5. 环绕;盘曲。《列子·汤问》:“其山高下周旋三万里,其顶平处九千里。”
《三国志·吴志·诸葛恪传》:“众议咸以 丹阳 地势险阻,与 吴郡 、 会稽 、 新都 、 鄱阳 四郡邻接,
周旋数千里,山谷万重。
环绕(繞)とは「丸く囲む(こと)」ということである。
周回にも周囲という意味があるが、池だとか庭だとか城だとか比較的小さなものの周囲を示す用例
が多いようである。
914満州白馬童子:2013/03/28(木) 21:59:57.35
>參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
>の倭地は倭国本体のある島の「卑弥呼支配下の国々」の領域を指す。

そんなことはないって。なぜそんな読み方をするのだ。
倭地には狗奴国も含まれているよ。嘘だと思うなら、
高校生百人に倭人伝を読ませて、狗奴国は倭地に含まれるかどうかを訊いてみればよい。
優秀な進学校の生徒なら殆んど全員が「含まれる」と答えるだろう。

含まれないと考えるのはお前らのような木瓜茄子だけである。
915日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:06:21.06
>>911
>方100km未満とかなら 筑紫サイズレベルのでしょぼいよ
方100km未満でも筑紫サイズレベルより大きいだろ。
916日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:11:23.88
基本的なことをお聞きしますが、九州説と畿内説はそのままイデオロギー対立になっているんでしょうか。
よく分かりませんたとえば九州にあったとすれば大和王朝が滅ぼしたことになり日本書紀に信憑性が出る、など。
917満州白馬童子:2013/03/28(木) 22:13:51.39
未だに短里説で物を考えているのだから、救いようがない(泣)
918日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:13:58.61
>>914
魏から見れば卑弥呼支配下の国々が倭国であって、海を渡った東にある倭種の國や不属女王の狗奴国などは
倭国に含まれない。この倭国の地を倭地と言っている。但し、対海国、一大国は既述であるから周旋可五千
豫里には含めていない。
919満州白馬童子:2013/03/28(木) 22:26:52.99
>>918
では今度の日曜日に街頭アンケートでも取って来たまえ。
920日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:32:10.23
>>917
東夷の国々(主として朝鮮半島とその北部)には秦が中国を統一するまでに中原から逃れてきた人々が多く
いた。彼らは周の文化を持ち込んだ。そのため秦以降の中国とは異なる度量衡を三国時代まで使い続けてい
たのである。実際、東夷伝の距離単位の里は魏で公式に用いられたものの1/6である。これは帯方郡あるい
は楽浪郡の役人の多くが地元民であったため周の里で記録を行っていて、郡使や梯儁に随行した官僚も帯方
郡の地元民で同じく周の里を用いていたのだろう。陳寿はそれを修正せず東夷伝を書いたのであろう。
921日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:35:08.84
>>913
周 至也
周 曲也

丹楊地勢險阻 四郡鄰接 周旋數千里 のは周回して云々とは云えないようだし
922日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:35:13.08
>>919
古代史の知識が浅い人達へのアンケート調査をしてもねえ。
923日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:41:34.59
>>921
何が言いたいの?
924日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:44:16.10
http://zh.wikisource.org/wiki/%E9%80%9A%E5%85%B8/%E5%8D%B7182

これのは短里で書いてあるかもしれんね

地図におとしてみればたぶんばれちゃうけどさ
925日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:46:10.36
>>916
>たとえば九州にあったとすれば大和王朝が滅ぼしたことになり日本書紀に信憑性が出る、など。
ははは。今、臍で湯を沸かして茶をいれたところだ。
926満州白馬童子:2013/03/28(木) 22:48:23.50
>>920
陳寿は邪馬台国は沖縄辺りにあると思っていた、ということをよく考えてみるがいい。
そして帯方郡は遼東半島辺りにあったということを。

一万二千里とは短里ではたかだか960kmにすぎない。
遼東半島から960kmといえば九州に届くか届かないかである。
しかし陳寿は邪馬台国は沖縄辺りにあると書いているのだ。
短里説が成り立たないのは歴然としている。

>>922
古代史の知識の有無など関係ない。文章読解力の問題である。
まともな人なら狗奴国は倭地だと解釈する。
927日本@名無史さん:2013/03/28(木) 22:56:21.33
狗奴国は熊の国だろ
928日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:02:50.66
>>903が正しいね。周旋五千里は九州島の大きさを示す文章。九州島に上陸した
末盧国から反対側、すなわち九州南端までの巡った距離。それが約四百キロだと
いうことだね。
929満州白馬童子:2013/03/28(木) 23:08:39.88
五千里は約2200km。
930日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:16:50.09
満州は相変わらずの記紀信者だねえ、
邪馬台国は畿内、卑弥呼は神功皇后と信じてるが決して口には出さない
931日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:26:51.39
陳寿は地球が丸いことを果たして知っていたのであろうか?
変な誤解をしていたならば、南と東ぐらい間違えるかもしれない。
932日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:28:28.58
周旋五千里を
あくまで周囲周回の五千里だといって拘るのは、以下の人あたりかな。堂々巡りの周旋五千里也。
@邪馬台国は北九州説であると主張したい人
A女王国は(対馬〜不彌国を除いた)概ね傍21国+αから成ると主張したい人
933日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:37:38.82
>丹楊地勢險阻 四郡鄰接 周旋數千里 のは周回して云々とは云えないようだし

全くその通り、
そもそも呉の重臣たちが丹楊郡の周回距離を知らぬわけがない、知らなければモグリの重臣、偽者の重臣。
にもかかわらず周旋数千里と発言するからには周回以外の特殊ケースを指してるのは明らか。
934日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:39:33.90
Aは違うだろ。それより、万二千里で邪馬台国へ到達できると信じている人だな。
935日本@名無史さん:2013/03/28(木) 23:53:33.37
>>934
そうか、Aはちがうかもな。
そうするとほぼ、@福岡県に邪馬台国・女王国の人だけかな?
ま、レアケースとして単に周旋の意味だけにこだわる漢文読みの達人もいないとは言えまいが?
それにしても周旋だけに、堂々巡りはなぞだ。
936日本@名無史さん:2013/03/29(金) 00:03:48.91
まあ、九州説の多くは、万二千里にこだわるわけだね。方角が南とあるのに加え邪馬台国まで
万二千里ならば絶対に九州内だからね。畿内説に対抗する手段として万二千里を主張しようと
するわけだ。しかし、これは絶対にだめね。日数と合わないためにごまかしを言うことになる。
937日本@名無史さん:2013/03/29(金) 03:30:35.80
西尾幹二先生が魏志倭人伝は捏造ばかりと言ってたのにそんなものを解読しようとしてる馬鹿ばっかりだな
938日本@名無史さん:2013/03/29(金) 03:44:16.47
誰それ?
魏志倭人伝はドイツ語の解説書でも出ているの?
939日本@名無史さん:2013/03/29(金) 06:04:57.33
>>917 >未だに短里説で物を考えているのだから、救いようがない
魏志倭人伝の道程から通常の里で換算したら収まらないために仮定された考え方だ。
<朝鮮野郎>ごときが根拠なく一蹴できるものでもなかろう。一年以上も同じこと
連呼して馬鹿の一つ覚えだ。

>>919 >では今度の日曜日に街頭アンケートでも取って来たまえ。
出来もしないことで人を煽っているところが民度の低さを感じるな。

>>926 >陳寿は邪馬台国は沖縄辺りにあると思っていた、ということをよく考えてみるがいい。
何を根拠にそう思っていたというのだ。どこかの愚説を引き出してはあれやこれや書きまくって
<朝鮮野郎>の書き込みは常にブレまくっている。

>>937
西尾幹二は古代史は素人だからその発言を鵜呑みに書き込む方が馬鹿だな。
940日本@名無史さん:2013/03/29(金) 08:41:31.06
任那を日本史で教えてください

花._.王 不.買運動
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1364428196/
941日本@名無史さん:2013/03/29(金) 09:15:33.77
魏志倭人伝は捏造ばかりとか言う奴がよくいるが、
じゃ、なんで「おまえは邪馬台国研究してんの?」
と小一時間問い詰めたい

捏造された文書にある国家を研究するほどヒマなのかよ
参考までに「邪馬台国」の初出は倭人伝で、
他の史料はすべてその劣化コピーに過ぎない
942満州白馬童子:2013/03/29(金) 09:34:27.55
>>930
邪馬台国は大和だが、卑弥呼は神功ではないな、たぶん。
編年を研究すると、卑弥呼は神功より前の人物だ。

>>939
お前は九州論者だろうが、邪馬台国はどこか、なんてことを研究しても意味はないのだ。
なぜなら邪馬台国は大和に決まっているからだ。
そんなことより卑弥呼はどこにいたか、を研究しろ。
邪馬台国がどこかを研究するのは時間の無駄だ。短里説も時間の無駄。
そういうことを早く悟れ。
943日本@名無史さん:2013/03/29(金) 09:39:41.78
>>933
>そもそも呉の重臣たちが丹楊郡の周回距離を知らぬわけがない
なにを根拠に言っているのかな。
黃龍三年の時点で丹陽の測量結果がでていたとでも言うのか?
丹陽の境界線を巡って調査した者などいない。しかし、建業と四郡と長江に囲まれているので、
正確な数値を知っていたかどうかは分からないが、数千里と認識していたのだ。

>周回以外の特殊ケースを指してるのは明らか
ではないだろ。
特殊ケースとは何だ?
944日本@名無史さん:2013/03/29(金) 10:00:33.17
>>943
そこで疑問なのだが、重臣たちが丹楊郡に不案内であるから周囲の距離を書いたのなら

>众议咸以 丹阳 地势险阻,与 吴郡、会稽、新都、鄱阳 四郡南接、山谷万重、
>長江北接、水流急濁、周旋数千里。

とかなんとか、長江にかかわる記述もあってしかるべし。
945日本@名無史さん:2013/03/29(金) 10:05:11.94
満州君は言うことがコロコロ変わるな
はやく本書け
有言実行の男になれ
946日本@名無史さん:2013/03/29(金) 10:14:52.72
記紀信者かつネット史信者だから、
朝晩唱えることはできても自ら経文を書くことはできまい、み仏のおそばに至ってもしかり。
947日本@名無史さん:2013/03/29(金) 10:39:55.20
民主党を生み出した『団塊の世代』の面々(現在66〜63歳)
消滅へ向かう化石サヨク思想

加藤千洋(65)・・朝日新聞元編集委員(中国の犬)
安田好弘(65)・・死刑廃止論の弁護士(光市母子殺害事件のDQN弁論)
上野千鶴子(64)・・ジェンダーフリー学者(フェミナチ)
班目春樹(64)・・原子力安全委員会委員長(デタラメ君)
若宮啓文(64)・・朝日新聞主筆(安倍信三を叩くのが社是・「竹島を韓国に譲れ」で有名)
白川方明(63)・・日銀総裁   無能(帰化人説有)
山田伸二(63)・・NHK解説主幹(民主党の熱烈なシンパ)
後藤謙次(63)・・共同通信元編集局長(反日主義者)
テリー伊藤(63)・・全共闘崩れ(民主党シンパ(帰化人説有))


BPO //www.bpo.gr.jp/?page_id=1284
>理事会

>飽戸 弘  理事長(非常勤) 東京大学名誉教授
>岡本 伸行 専務理事(常勤)←NHK
>三好 晴海 理事・事務局長(常勤)
>藤久 ミネ 理事(非常勤) 評論家←元テレ朝
>石田 研一 理事(非常勤) 日本放送協会理事←NHK
>唐木田信也 理事(非常勤) 日本放送協会考査室室長←NHK
>武内 健二 理事(非常勤) 日本民間放送連盟放送基準審議会議長・ 九州朝日放送社長
>木村 信哉 理事(非常勤) 日本民間放送連盟専務理事←TBS
>藤川 英彦 監事(非常勤) 日本放送協会編成局計画管理部経理部長
>山内 弘  監事(非常勤) 日本民間放送連盟事務局次長

こんなんで正しい機能する訳も無く。
948日本@名無史さん:2013/03/29(金) 10:50:55.42
>>944
>重臣たちが丹楊郡に不案内であるから周囲の距離を書いたのなら
こんにゃろめ。丹楊じゃなくて丹陽だ!
丹陽の城邑には呉が派遣した長吏も居る。重臣らが丹陽に不案内なわけがないだろが。
>長江北接、水流急濁 なんて不格好なこと書くわけないだろ。
949日本@名無史さん:2013/03/29(金) 11:38:12.10
>>948
そうだろ、そもそも発端は诸葛恪を丹陽太守に任命してほしいとかしてほしくないとかの話だろ。
重臣たちは丹陽にも長江にも詳しい。
隣接4郡のことだって百も承知、二百もガッテンのはず。そのまま読めば皆不格好極まりない。

なおついでに、
>环绕はencircle, surroundの意味で、在四周构成圆环;构成弯曲或圆形边界
ここの 构成弯曲或圆形边界 の部分はどういう意味かいな???
950日本@名無史さん:2013/03/29(金) 11:51:59.11
倭地周旋が一周でないことは九州島の大きさを見れば明らかだ。
論じるだけ無駄。
951満州白馬童子:2013/03/29(金) 12:26:58.51
コロコロ意見が変わるのは日々進歩している証しである。
邪馬台国問題はどんなに頭が良くても解けない難問中の難問だ。
終始一貫して畿内説とか九州説を唱えている人間は頭がおかしい。

僕も畿内説に傾きかけていたが、神功紀の編年と、
ネット新羅史に現れる野人(倭人)の記事を見ていると、
これはやはり九州かその周辺のことではないか、という気がしてきた。
卑弥呼は済州島か、あるいは山陰の女王ではあるまいか、と思い始めている。
もちろん満州説も捨ててはいない。北方にも野人がいたことはほぼ確かだ。
952満州白馬童子:2013/03/29(金) 12:45:12.68
ちなみに、卑弥呼の時代以前も以後も、倭人は盛んに新羅を襲っているが、
それらの殆んどは倭の海賊である。その賊酋を捕らえたというような記事があるから。
おそらく対馬、壱岐、五島列島、あるいは九州北岸、山陰などの海賊なのである。
卑弥呼もこれらの海賊国の酋長であったかもしれない。

それを陳寿が、大和の神功皇后と間違えているのである。
953日本の名無史さん:2013/03/29(金) 12:53:20.44
えー、満州さんって自分の説を固めてないのに
アレコレうそぶいてたの?
954日本@名無史さん:2013/03/29(金) 12:55:25.88
 
次スレ 邪馬台国は九州にあった24
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1364528953/
955日本@名無史さん:2013/03/29(金) 13:06:04.35
満州に告ぐ。 ネット史も大事だがこういう書も貴重だ↓。時には諸氏の論に耳を傾けられたし。

『新唐書』日本伝・抜粋
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。
彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。

(訳)王姓は阿毎氏、自ら言うには初めの主は天御中主と号し、
彦瀲に至るおよそ三十二世、皆が尊を号として、筑紫城に居住する。
(彦瀲とは神武の父のウガヤフキアエズのこと、筑紫城というからには九州に居住していたのは明白でしょう。)
彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。
956日本@名無史さん:2013/03/29(金) 14:22:25.39
それは明らかに日本書紀と同じ文句を倭人が唐人に伝えたのを書き留めたものだろ
資料価値はないよ
957日本@名無史さん:2013/03/29(金) 14:24:44.09
新唐書は仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立とある。
おそらく天武による記紀編纂後の記録だろう
958日本@名無史さん:2013/03/29(金) 14:51:56.73
しかも神武から天皇号を用いていたとか
唐は書紀作者の意図どうりすっかりはぐらかされてるし
959日本@名無史さん:2013/03/29(金) 20:05:09.49
日立金属・たたらの話
>たたらという言葉は元来ふいごを意味する言葉のようです。非常に古い言葉で、
>日本書紀に神武(じんむ)天皇のお后になる媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずのひめのみこと)のお名前が出て来ます。
>蹈鞴と書いてたたらと読ませていますが、蹈鞴は踏みふいごのことです。
>この姫は出雲の神、事代主命(ことしろぬしのみこと)の姫と言われ、我が国の鉄の主要な産地となる、
>出雲の姫の名前に蹈鞴がついていることは非常に興味がありますね。
960日本@名無史さん:2013/03/29(金) 20:28:38.99
多々良純
961日本@名無史さん:2013/03/29(金) 20:38:18.19
古代日本の鉄利用
>古代製鉄炉(1〜3世紀)の作り方は、これまで朝鮮半島からの導入と推定されていたが、
>近年の研究により、中国北東部から伝わったとされている。

満州のご先祖だったかどうか知らぬが、あのあたりの民族は超優秀なんだな。
962日本@名無史さん:2013/03/29(金) 21:07:01.43
ヒッタイトから、おなじ騎馬民族へと伝わったんだから仕方がない。
963日本@名無史さん:2013/03/29(金) 21:12:16.69
みんな誤解しまくってるんだよなぁ
倭国は瀬戸内海を挟んで分裂して対立してた
南北それぞれ中国と交易があって、中国側にその記録が残ってた(中国も分裂してたからね)。
南側勢力は北側勢力に対して検察する必要があった。
北側勢力の南側には狗奴国(と彼らは呼んでいた)があった。
簡単な論理パズルなんだけどねぇ。
964日本@名無史さん:2013/03/29(金) 21:14:06.26
追加。
中国は、南北の倭国の区別がついてない。
965日本@名無史さん:2013/03/29(金) 21:53:28.46
ありもしない区別をするのはキチガイだけ。
966日本@名無史さん:2013/03/29(金) 22:07:04.95
>>963
そう言うこともあったかもしれないね
でもそれは、魏志倭人伝の舞台とはやや離れた場所で、やや別の時代じゃなかったの
967日本@名無史さん:2013/03/29(金) 22:10:12.82
掲示板では九州説のほうが盛り上がっているな。
968日本@名無史さん:2013/03/29(金) 22:17:19.11
後漢書見ると狗奴国は東だから
969日本@名無史さん:2013/03/29(金) 22:25:54.32
>>968のレスはちょっと悲しい
970日本@名無史さん:2013/03/29(金) 23:21:42.93
>>963
>南側勢力は北側勢力に対して検察する必要があった。
>北側勢力の南側には狗奴国(と彼らは呼んでいた)があった。
ということは南側勢力とは狗奴国のことか。
君の拙劣な文章の論理ではそうなるがね。
971日本@名無史さん:2013/03/29(金) 23:24:41.43
仮説を立てるだけ立てて、あとは投げっぱなしな奴多すぎ
972日本@名無史さん:2013/03/29(金) 23:25:12.31
>>968
後漢書には狗奴国は出ていないぞ。拘奴国なら出てるけどな。
973日本@名無史さん:2013/03/29(金) 23:26:52.04
>>968
これだな。

自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王

女王国より東に海を渡ること千里あまりで拘奴国に至る。倭種といえども
しかして女王に属さず。
974日本@名無史さん:2013/03/29(金) 23:52:24.34
魏書では南に狗奴国があってこれが女王国に属さずとあって
そのあとの文に、東に海を度たること一千里、国有り、皆倭種、ってあるけどな

魏書の編者の推論と、後漢書の編者の推論がちがうのか
どっちの資料が正しくて、どっちかが間違っているか。あるいは両方間違っているか。
まるで分からんな
後漢書の方は、
その編者である范曄が執筆したのは本紀と列伝のみである。
志については、范曄が後に文帝の弟、劉義康擁立の事件に関ったことで処刑されたので書かれていない。
後に南朝梁の劉昭は、范曄の『後漢書』に、西晋の司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を合わせ注を付けた。
このため現在伝わるのは、後述の李賢注と劉昭注の『続漢書』の志を合刻した北宋時代の版本に元づくものである。
らしいな。
続漢書は、西晋・司馬彪撰で、
魏国志を著した陳寿は、三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚で
司馬彪と陳寿はほぼ同年代みたいだけど
資料的に倭人伝のほうが詳しそうだよね
975日本@名無史さん:2013/03/30(土) 00:26:57.45
>>974
>魏書では南に狗奴国があってこれが女王国に属さずとあって
その女王が邪馬台国の女王と同一としていいのかな?
時代も主体も違ってる記述だろ。
そもそも女三国とあるように、女王は三人いたわけで。。。
976日本@名無史さん:2013/03/30(土) 00:53:31.91
>>975
よくわからん。
文脈的に同時代のように思うが?

自女王國東度海千餘里至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國、
人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣

魏国志の倭人伝の記述とかぶるでしょ
977日本@名無史さん:2013/03/30(土) 01:19:37.63
漢書は漢時代のこととして述べている。ただし、ネタは倭人伝。
978日本@名無史さん:2013/03/30(土) 01:22:18.09
狗とか卑とか邪とかいう蔑字が当てられてるのは同一の勢力についての記述と考えたほうがいい
狗古智卑狗というのは、南側の勢力が乱れて相攻伐してた時代の男王のこと
この記述の女王というのは卑弥呼のことではなく、北側勢力の女王のこと
その時代の記録が北側勢力と交易してた呉もしくは公孫氏の記録に残ってたんだろう
その後、南側勢力は卑弥呼に代替わりして、魏に使者を送ることになった
979日本@名無史さん:2013/03/30(土) 02:59:41.12
 
「其(奴国)の南に狗奴国あり」

倭人伝(実際)
┌────┐
│  奴国  │
└────┘
┌─┐┌─┐   ┌─┐
│狗││女│渡 │倭│
│奴││王│海 │種│
│国││国│→ └─┘
└─┘│  │
      └─┘

後漢書の解釈
 ┌────┐
 │  奴国  │
 └────┘
  ┌─┐   ┌───┐
  │女│度 │拘  倭│
  │王│海 │奴=種│
  │国│→ │国    │
  │  │   └───┘
  └─┘
980日本@名無史さん:2013/03/30(土) 03:01:42.12
六ヶ敷いねぇ
981日本@名無史さん:2013/03/30(土) 03:43:05.15
後漢書の拘奴国の箇所は伝聞なりあって加えたの?
南に敵対国がなくなったみたいだから勝手に変えたけど、
少し躊躇するところがあって拘に変えたとかじゃなくて?
982サガミハラハラ:2013/03/30(土) 04:59:44.09
後漢書の拘奴国と魏志倭人伝の狗奴国はべつものです。似た文章なので取り違えるひとがおおいようですが、狗奴国は熊本県北部にあり、拘奴国は山口県にあります。
ちなみに、拘奴国とは倭人がコウトと発音したものに、中国人が当て字したものです。
時代がたっても倭人はコウトと発音していましたが、漢字が入ってくると、コウトに孔門という字をあてはめました。
やがて孔を訓読みにしてアナとよみ、さらにやがてアナに穴の字を当て、穴門としました。
これが長門の前が穴門という地名であったわけです。
983日本@名無史さん:2013/03/30(土) 07:58:08.84
すごいな、サガミさんって。なんでも解決できるんだ!
984日本@名無史さん:2013/03/30(土) 08:07:32.62
別じゃないよ。拘奴国と狗奴国は単に書写の課程で間違っただけ。後漢書を書く頃には狗奴国はなくなっていた。
それで、四国にいた豪族河野氏を狗奴国の末裔と考えて南を東へ書き改めたんだろう。
後漢書にいう東渡海千里の地は四国だよ。
985川柳の達人:2013/03/30(土) 08:51:35.27
>>942 朝鮮 
>お前は九州論者だろうが、邪馬台国はどこか、なんてことを研究しても意味はないのだ。
>なぜなら邪馬台国は大和に決まっているからだ。

バカ丸出し言いっぱなし
「朝鮮野郎」がやっていることは本質的に昔のジョーカーがやっていた事と同じ
次いでに自称名古屋浪人老人やえ〜とあと・無限しっこか?
ま・こんな奴らが「畿内説代表」だから
986日本@名無史さん:2013/03/30(土) 08:53:53.24
近畿の落ち武者と、四国説の諜謀間者が
九州説をかき回してやろうと必死こいてるようだな。この土日は忙しくなりそうだ。
987日本@名無史さん:2013/03/30(土) 08:57:02.33
他にやることはねえのかw
988日本@名無史さん:2013/03/30(土) 08:58:14.63
丹山がある時点で倭地は四国に確定だな。
989日本@名無史さん:2013/03/30(土) 09:07:57.43
四国は倭種だ。曰く亜種。
990日本@名無史さん:2013/03/30(土) 09:15:51.93
新登場の伊都国佐賀説で、九割九分は邪馬台亡者のピーチクパーチクだったことがバレた。
出雲の神様のように早々に国譲りする方が長生きできるぞ。
991満州白馬童子:2013/03/30(土) 09:51:44.10
邪馬台国は九州だと思っているような人間には邪馬台国問題は解けない。
邪馬台国は大和で卑弥呼は神功皇后だと思っているような人間にも邪馬台国問題は解けない。

邪馬台国は大和だが卑弥呼は大和の女王ではないと悟った人間だけが
邪馬台国問題を解くことが出来る。

ざっと見渡したところ、そのような人間はここにはいないようだ。
以てここの参加者のレベルを知るべし。
992川柳の達人:2013/03/30(土) 09:54:53.97
>>951朝鮮
>コロコロ意見が変わるのは日々進歩している証しである。
何言ってんだ、反九州説でイッパイイッパイであれやこれや引き出して
書き込んでいるだけじゃないか。( ´,_ゝ`)プッ 
993日本@名無史さん:2013/03/30(土) 09:55:00.62
ええとだ・・・

丹丹麺だと にいろの麺だな

鐵とか使ったら発色させられるかもな

えろまずそうだけどね


丹楊だか丹陽だか丹徒だかのの土人も赤いのが好物なのかもな

そしたら

丹波臣もまた赤いのが好物なのかもしれんね。

多婆那の土人のもまた赤いのが好物みたいだしね。

そそ

脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里

脱解が生まれた頃の多婆那國のはまだ山口県あたりのがシマだったんだろ。
994日本@名無史さん:2013/03/30(土) 09:58:24.99
ざっと見渡したところ、慢臭の朝鮮説が一番、お馬鹿説だな。
995日本@名無史さん:2013/03/30(土) 10:09:02.80
はじめのころは朝鮮にいたんだって主張しておったけどもさ。。。

ほんきで卑彌呼と半島南部との関連のこと確信してからに満州にちぇんじ。。。
996川柳の達人:2013/03/30(土) 10:10:05.40
>>951 朝鮮
>邪馬台国問題はどんなに頭が良くても解けない難問中の難問だ。
解けてないのは畿内説を主張している頑迷な耄碌爺だけm9(・∀・)ビシッ!! 
997日本@名無史さん:2013/03/30(土) 10:14:58.58
海峡はさんで土人の酋長さんたちが通婚しておったというところはガチだからなあ

記紀の本文に出てくる神様の中にも半島系の神様はけっこうおるだろ

すなおに読みたくないからっぜんぶ列島側にひきつけて理解したがったりする人が多いけどね。
998日本@名無史さん:2013/03/30(土) 10:16:27.89
1里435だとか方角を直すだとかいうから解けないんだな。
999日本@名無史さん:2013/03/30(土) 10:28:57.73
トンデモ畿内説、東遷もなかった満州的畿内説、亡四国説、糸島九州説・・・、
今日はいろいろ残党のワルあがきデーです。
1000日本@名無史さん:2013/03/30(土) 10:55:12.13
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邪馬台国 巨大津波滅亡説
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