それでも邪馬台国は九州にあった…22

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1日本@名無史さん
かつて宗教裁判に敗れたガリレオ・ガリレイは言った。

「それでも地球は回っている…」

考古学界の権威がこぞって畿内説を支持しようとも、「それでも」真実は九州にあると考える熱い人々のためのスレ第22弾!

前ヌレ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1358004254/
2日本@名無史さん:2013/02/02(土) 16:00:28.81
弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。

 漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)
の邪馬台国【銅鏡祭祀】に国を譲る【銅鐸処分→九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
 これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争となり、「和」国は分裂、卑弥呼は急死(男弟/魏の将軍張政/狗奴国による暗殺説)。

-分裂した「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘

 卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎えた後、旧奴国&隅国(隼人)と同盟を結び、肥後狗奴国
(後の熊襲)を一網打尽に滅ぼし、「和」国を再統一した。
 倭(和)国再統一の偉業をなした男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、五胡十六国の戦乱の影響
から距離を置くべく都を筑紫・博多から、先遣隊長ニギハヤヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷。
 その女系先祖・卑弥呼(アマテラス)・台与以来の【銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始。

※古事記・日本書紀が、日向長官の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。
 銅鐸祭祀をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の偉大な功績を消され出雲に祀られる。
3日本@名無史さん:2013/02/02(土) 16:01:40.00
-「大和」朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(双方の直系男子途絶による)政権交代

4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬国)系大王【四道将軍、ヤマトタケル征東、熊襲討伐、国造任命】
5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王【倭の五王(讃珍済興武)→獲加多支鹵大王】
   →(高句麗の南侵に脅かされた)百済・新羅・伽耶(任那)への軍事援助により「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王


-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
  …継体の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
  …筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
  …「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を完全喪失。国力大幅低下&大増税→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
  …両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
  …筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都
4日本@名無史さん:2013/02/02(土) 16:11:29.16
■NHKの間抜けなツイッター工作発覚■

NHKの24時のニュースは視聴者からのツイッターを流しているが
自民党や日本企業の話題の時には批判コメントしか流さないなど、
以前からNHKによる意図的な反日工作が指摘されていた。

1月31日深夜のNHK24時ニュースの放送開始の頃にツイッターのサーバーが落ちた。
その時ツイッターがずっと使えない、書き込み自体が出来なかったのは、視聴者が確認している。

にもかかわらず、その時画面では
「地震だったの?」とか「あ、○○さんだー」「都会にこんなのがあるのかー」
と番組の流れに沿ったツイートが流れていた。

番組終了時にNHKは
「ツイッターを『表示するシステム』の不具合があったので、事前に来ていたツイートを流した」
と苦しい説明。

当然視聴者からのツイートは放送できるものを選別しているのだろう。
選別なら別にいいのだが、問題は
視聴者からのリアルタイムのツイートと称して
実際には、NHKが事前に用意したインチキ捏造ツイートを流していたということだ。
5日本@名無史さん:2013/02/02(土) 16:27:01.23
N速+で九州説終了のスレが立った
6日本@名無史さん:2013/02/02(土) 16:27:42.68
>1乙
7日本@名無史さん:2013/02/02(土) 17:03:35.39
佐賀平野の10%は伊都國と不彌國の領域
残り90%は奴國二万戸の領域
8日本@名無史さん:2013/02/02(土) 17:08:52.18
魏使が末蘆国に上陸したら、唐津を通って佐賀へ出るほかない

秀吉の時代も
佐賀を通って、肥前名護屋城に移動している。
佐賀城周辺にまで、各国大名が野営している記録が残されている。
大動員体制なので、名護屋城周辺だけでは収まらなかったらしい。
9日本@名無史さん:2013/02/02(土) 17:23:46.93
末廬国が松浦半島なら千余里では近すぎなので無利だな。
戸数的に佐賀辺りが末廬国でもいい位だ。
10日本@名無史さん:2013/02/02(土) 17:27:42.70
吉野ヶ里が境界で吉野ヶ里から東のはむしろ筑紫系の領域だろ

あそこから西のは遺物とか急に希薄になるんだよね

佐賀県が遺跡保存に極端に冷淡だとかもあろうし

記録がピンポイントでできていないとか忘れちゃったとか

博物館に展示すれば良しとかのもあるでしょうが。。。
11日本@名無史さん:2013/02/02(土) 17:31:05.49
新説・末蘆国は佐賀、海もあるし、すばらしいなあ
12日本@名無史さん:2013/02/02(土) 18:30:29.41
残念ながら魏使は唐津には上陸しなかった。国土地理院の地図にコンパスを回
せばすぐ判るよ。
13日本@名無史さん:2013/02/02(土) 18:44:58.38
>>12
ヒント:三世紀にはコンパスが無かった
14卑弥呼は満州にいた:2013/02/02(土) 18:53:51.98
魏使ではない人間が上陸したのは平戸。
15卑弥呼は満州にいた:2013/02/02(土) 19:14:08.50
佐賀市〜熊本市はざっと65km。
一日20km歩いたとしても三日で着く。
水行も陸行も大差ないから、水行でも三日もあれば着く。
水行十日となると鹿児島まで達してしまう。

どう考えても九州説は不利なのに、
ここの連中は小学生のように駄々をこねている。
16日本@名無史さん:2013/02/02(土) 19:26:34.49
女王の都はもう少し先、佐賀から歩いて120kmのところ。

満州の狩猟民は一日二十キロか知らぬが
魏使は御輿に乗せられて1日6km、120kmで20日、土日休みでかれこれ30日。
17日本@名無史さん:2013/02/02(土) 20:03:48.04
殆どが獣道みたいな時代に1日20kmも歩けるかよ
右へ左へアップダウンなのよん直線ちゃうのよん
18日本@名無史さん:2013/02/02(土) 20:29:37.68
邪馬台国が九州にあったなんて言う奴は伊都をかし
19日本@名無史さん:2013/02/02(土) 20:42:45.68
負けムクがそれをいうかww
20日本@名無史さん:2013/02/02(土) 20:56:19.10
佐賀しても無駄だよね
21日本@名無史さん:2013/02/02(土) 21:00:41.98
いったい(一大)とこ突かれたなー
22日本@名無史さん:2013/02/02(土) 21:04:47.16
邪馬台国探しはもうやめたいこく(八女台国)
23日本@名無史さん:2013/02/02(土) 21:07:31.64
彌彌が痛い。彌彌那利がする。
24日本@名無史さん:2013/02/02(土) 21:10:16.68
いくめだか くるめだか やめだか うめだか さめだか
25日本@名無史さん:2013/02/02(土) 21:16:58.13
ひめ は 昼のおんな
よめ は 夜のおんな
うめ は 西のおんな
さめ は 東のおんな
26日本@名無史さん:2013/02/02(土) 21:19:46.49
さね は 女の中心
27日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:04:10.57
神話の神々を祀る日向・高千穂 (阿蘇国知保郷、宮崎県西臼杵郡高千穂町)

記紀神話では地上にないはずの聖地が、ここにひっそりと残されている
これだけの伝説を残す地が、他にあろうか
http://komatsu0513.heteml.jp/takachiho.html
28日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:06:14.71
もう許して狗奴さい。
29日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:07:15.42
前スレ >>994 :日本@名無史さん:2013/02/02(土) 17:18:36.44
>986
>制度史音痴のこが何やらほざいておるのね いさくにわらわれていたこかしら

なんかえらそ〜だが、このレスを書いた人は刺史についてどれくらい知っているのかな。
『三国会要』(清・楊晨)に次の記事がある。
(魏)州には刺史、あるいは牧を置く。魏の13州、刺史は治下の郡国の見廻りをし、囚人を取調べ、(官吏登用)試験を行い、毎年都に計吏を派遣して報告をする。
辺境の諸州では刺史とともに都督を置く。[亠兌]・豫・青・并の諸州では都督を置かない。梁・益州は版図に入っていなかったが刺史だけは任命する。
(州の役人には)治中従事・別駕従事・功曹従事・簿曹従事・兵曹従事・郡国従事・文学従事・武猛従事・主簿・門亭長諸曹・書佐・計吏・大中正一人を置く。

刺史の中には将軍や都督の肩書きを持ったまま任じられた者も居て、行政だけでなく軍権を持つ場合もあったが、刺史の本来の任務は監察などの行政である。
中国においては行政単位である洲に一人配置された。於國中有如刺史は、倭国の行政単位を國と見て、そこの監察官を刺史の如きものと表現したのである。
30卑弥呼は満州にいた:2013/02/02(土) 22:16:52.71
そのレスを書いたのは稗箕狐だよw
そういうエラソーなことを書くのは稗箕狐しかいない。
31日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:19:51.83

はるかに後代の文献ひいてきてなにいってんだかね。。。

刺史の成立から始めて、史的に制度の変遷の大枠が理解できていないと。。。
32日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:26:04.84
>>30
ああそうですか。稗箕狐とはキザな名前ですね。その人だと思いますが、こんなアホなことも書いていました。

「於國中有如刺史」→「於國中有如(州)刺史」→「倭州刺史」=「一大率」=「天率」=「率善中郎将」
この時期の「州刺史」は「郡太守」が兼任するのがふつう。
33日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:27:11.61
倭國の下部の國國に、國の数だけ刺史が星の数のようにあるとかゆうのがわろす。

刺史は州に置かれるのが基本だから

統國の倭國に一人だとか、倭州に一人だとゆうこと。。。  センスないやつだとはおもふよ。。。
34卑弥呼は満州にいた:2013/02/02(土) 22:28:42.25
瀛寰志略
元王ツ《泛海小録》云:由對馬島六百里,逾一岐島。又四百里,入容浦口。

釜山から対馬までの距離は書いてないが、
釜山〜容浦口はざっと千五百里と考えていいだろう。
そうすると末盧国から南へ二千里も行けば九州を突き抜けてしまう。

どう考えても九州説は不利だぞ。
35日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:30:57.46
>>31
>はるかに後代の文献ひいてきてなにいってんだかね。。。

な〜んもわかっとらんわ。
文献は清の時代の楊晨によるものであるが、これは清の時代の話ではない。魏の刺史について述べたものである。
36日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:33:13.78
>>33
倭国に刺史と同じ者はおらんかったよ
「刺史の如き」と書いてあるだろ、「倭國に一人だとか、倭州に一人だとゆうこと。。」はセンスないとおもふ
37日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:33:47.11
州の行政範囲内に複数の郡がある。。。という基本的なことも知らないんだ。。。

三國志でも戦争するときは太守さんたちは刺史に指揮下にやらかしているだろ
38日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:36:30.06
>>33
>刺史は州に置かれるのが基本だから
>統國の倭國に一人だとか、倭州に一人だとゆうこと。。。  センスないやつだとはおもふよ。。。

アホか。
中国で 刺史が州に置かれるのは州が行政の単位だからだ。倭国の場合は構成国のそれぞれが行政単位だと見られ
たのだ。
39日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:37:15.79
「刺史の如き」とはあたかも「刺史」のようにみえちゃうだろ

一大卒のバーチャルでの「刺史の如き」ファンクションのこと述べているのに決まるでしょ
40日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:40:29.55
倭国の「刺史の如き者」は各国一人でFA
41日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:40:40.03
小中華みたいな妄想とかやめたら

半島から列島にかけての「刺史の如き」ファンクション持つ人は一人だろ

視点は中華からに固定できないとだめじゃん
42日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:40:58.44
>>37
>州の行政範囲内に複数の郡がある。。。という基本的なことも知らないんだ。。。

アホか。そんなことは知っとるわい。
倭国の國にも郡に相当する集落があっただろう。中国とは規模が違うだけだ。
43日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:50:39.98
邪馬台国は熊本方面かな。
なにしろ熊本県民歌?まで登場してたからな。
44日本@名無史さん:2013/02/02(土) 22:56:15.76
>>39
一大率が「あたかも「刺史」のよう」だと言うのであれば、於國中有如刺史とは書かないだろうよ。
例えば「常治伊都国如刺史」とか書くだろうよ。
45日本@名無史さん:2013/02/02(土) 23:01:49.61
どう考えても「刺史の如し」は一大率のことではないわ
チャチャ入れてるだけだな、ヤツは。
46日本@名無史さん:2013/02/02(土) 23:05:22.62
>>41
>半島から列島にかけての「刺史の如き」ファンクション持つ人は一人だろ
>視点は中華からに固定できないとだめじゃん

あのね〜。刺史の本来の任務は牧のようなものじゃないんだよ。監察などの行政官だよ。
陳寿が幽州刺史毌丘儉などのような本来の刺史の任務を超えた権限を持つ者を念頭において刺史という
言葉を使うわけがなかろう。本来の任務の刺史を意図して使っているのだよ。
47日本@名無史さん:2013/02/02(土) 23:10:36.52
どうせ分かってて逆らってるんだろ、ヤツは父ッツアンこども。
48日本@名無史さん:2013/02/02(土) 23:13:05.31
>>44
中華側の論理優先でやらねばならぬ。 倭人が文章を編んでいるわけではないのだから。

「晉書地理志上 平州」になると割注のに、縣をいくつか統べた「統縣」というのが出てくる

そこの割注のは後の世の追記ということにはなる。

「統縣」というのは、所謂「大國」というやつだ。 それも郡の支配下の「一國」じゃ

サイズ的に云えば「一國」は「一邑」「一鄙」「一縣」ののサイズだ

サイズ的には大のも並のもある。

「倭國」といったらもう「一國」のサイズからずれて「國國が束になっている状態」だ

たんなる「大國」とはちがう。

むしろ、読者に「倭州」を想起させる目的で「刺史みたいな」が使用されたと考えるべきだろう。
49日本@名無史さん:2013/02/02(土) 23:26:34.91
【結論】
邪馬台国=奈良県
高天原=日高見国
九州の立場=無し
50日本@名無史さん:2013/02/02(土) 23:29:33.06
>>48
なにを血迷っておらすか?
「國國が束になっている状態」は行程記事の・・次有奴國此女王境界所盡までで十分に分かるわ。

>むしろ、読者に「倭州」を想起させる目的で「刺史みたいな」が使用されたと考えるべきだろう。
倭州なんて言うたらまるで倭国が魏の行政単位になったみたいだが、そんな誤解をさせる必要があるか?
51日本@名無史さん:2013/02/02(土) 23:31:35.99
またマケムク信者か。
せっかくだから、新聞記者と一緒に九州観光でもして行ってくれ。
http://www.welcomekyushu.jp/unchiku/?mode=detailtebiki&id=2
52日本@名無史さん:2013/02/02(土) 23:33:15.82
>>49
結論はケツ論の間違いか?
53日本@名無史さん:2013/02/02(土) 23:51:38.17
漢文の読み方を知らん輩が何か言ってるな。「刺史の如し」というのは一大率の説明だ。
54日本@名無史さん:2013/02/02(土) 23:53:14.10
刺史は守護ではなく目付にあたるだろ
55日本@名無史さん:2013/02/03(日) 00:01:17.20
全中華で刺史が何人おるのか、良く考えてみればわかるでしょ。
56日本@名無史さん:2013/02/03(日) 00:05:25.94
「國」自体が外地で使用される場合には「中華の仮想上の行政単位」なんだけどね リアルのだったら「縣」だし。。。
57日本@名無史さん:2013/02/03(日) 00:08:16.05
結果「刺史の如く」振舞っていた「一大率」は中華の意に合わず追放の憂き目に。。。
58日本@名無史さん:2013/02/03(日) 07:32:16.86
刺史は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。
当初は監察官であったが、後に州の長官となった。
59サガミハラハラ:2013/02/03(日) 07:58:41.52
ちょっと見ない間に58まですすんでいたか。
邪馬台国の都は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡です。
60日本@名無史さん:2013/02/03(日) 08:20:05.28
七万戸が北部九州には存在出来る訳がないです。
倭人伝の記述を無視しちゃダメですね。
61日本@名無史さん:2013/02/03(日) 09:52:08.77
関東、関西、博多周辺には、一大率の如く、刺史の如く振舞いたいのが多くてかなわんわ
ところで、唐津−佐賀の先はどうなったんかいね
まだ千里か二千里かのこっとるんじゃろ
62日本@名無史さん:2013/02/03(日) 10:09:06.41
小城公園内桜ヶ岡
大古墳の見取り図あり(頂高40m)
http://blog.goo.ne.jp/taku6100/e/834e2dd562efd3c014871589ae9d8db5
63卑弥呼は満州にいた:2013/02/03(日) 10:29:45.79
>>48
稗箕狐は何か勘違いしてるなw
統縣というのは統べている県ということだよ。
○○郡 統縣三とあれば、○○郡に属している県は三県あるという意味だ。
○○郡 統縣三 △△郡 ××郡 □□郡 などと書いてある。

気色悪い文体を何とかしろ、と言われてから少しはまともな文体になったが、
統縣の意味も知らずに他人をマヌケ呼ばわりしているようでは困ったものだ。
64卑弥呼は満州にいた:2013/02/03(日) 10:34:25.33
於國中有如刺史

これは一大率の形容というのが定説である。
一大率が、伊都国もしくは倭の諸国内に於いて、
刺史のごとく振舞っている、というのが定説。

倭の各国に刺史の如き役人が一人ずついるという意味ではない。
65卑弥呼は満州にいた:2013/02/03(日) 10:40:58.32
○○郡 統縣三 △△郡 ××郡 □□郡 

○○郡 統縣三 △△県 ××県 □□県 に訂正 
66日本@名無史さん:2013/02/03(日) 11:04:56.42
>これは一大率の形容というのが定説である。
>一大率が、伊都国もしくは倭の諸国内に於いて、刺史のごとく振舞っている、というのが定説。

この定説は、伊都国糸島で倭国は福岡+佐賀の範囲とした場合のじゃないのかねえ、この場合はそうなるかも。
例えば伊都国佐賀で邪馬台国は九州を突き抜けるかも説なんかだと、伊都国が端っこにありすぎて困らないかねえ。
67日本@名無史さん:2013/02/03(日) 11:28:27.68
大陸への玄関口というのがどれだけの重要度だったかということもあるな。
実際に公孫氏や魏の部隊が駐留したり来倭したりがあったかどうかはわからないが、
もたらされる文物だけでもその重要度は計り知れなかったはずだが。
68日本@名無史さん:2013/02/03(日) 12:03:42.87
「@自女王國以北 特置一大率 A檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如(州)刺史」
   これを無駄げに ★ありうる可能性から騙ると
「@自女王國以北 特置一大率」 が可能であれば、   真偽を問わずに単純な論理でゆうと
                               「女王國」の南側に「國」が無いという場合を除いて
「@自女王國以南 特置一大率」 も可能であるといえる。

「@自女王國以北 特置一大率」 が虚偽レポートではなかったとして

「A檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如(州)刺史」 でジャイアンぽいことしているのは
  @. 「女王境界」の内側すべてにおいて
  A. 「女王境界」の内側のうち、「女王國」より北側について
  B. なかみのがまるごと虚偽レポート                  の3つの可能性がありうる。
                             もっとも、「女王境界」の内側=「女王國」のは論外

ふつうは、
  A. 「女王境界」の内側のうち、「女王國」より北側について
     ◎「女王國」の南側については除外して
     「@自女王國以北」に「特置」された「一大率」がジャイアンぽいことしている  とみるか。。。


でっ、「@自女王國以北」には「不彌國」「奴國」「伊都國」「末盧國」「一大國」「對海國」「狗邪韓國」 「優由國」「斯盧國」「弁辰瀆盧國」・・・・・・・・・・・・・・・ってある
そのうちの「伊都國」に「一大率」は「常治」なんだけど、
「一大率」の出身地は何処と問われたら。。。「一大國」かも  って脊椎反射で答えそうだったり
「一大率」の守備範囲は何処迄と問われたら。。。「狗邪韓國」までに限定する理由とか無いよ  って答えそうだったり
69日本@名無史さん:2013/02/03(日) 12:10:07.70
>>64
誰がでっち上げた定説かは知らんが、漢文を読めない輩の誤解から生まれたものだろう。
一大率の話は「常治伊都国」で終わっている。
「於國中有如刺史」は「王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王
不得差錯」に関わるものだ。この仕事は事務的(行政的)なもので、諸国が畏憚するという一大率
の検察業務ではない。
70日本@名無史さん:2013/02/03(日) 12:14:36.19
>>68
もう少し頭を整理して、論理的な文章が書けるようになってから書き込め。くだらん。
71日本@名無史さん:2013/02/03(日) 12:21:29.83
http://marigolds732.blog.fc2.com/blog-entry-5.html

大分県の龍神池や高知県蟹ケ池の津波堆積物から3世紀に
過去に例がない大津波が押し寄せていたことが分かっています。
この時期は邪馬台国が滅亡した時期と一致していて日本の歴史
記述が一切ない空白の4世紀の真相が見えてきそうです。

記紀神話に特に津波を連想させるような描写はないよな。
72卑弥呼は満州にいた:2013/02/03(日) 12:35:31.58
>>69
そういう説もあるが、それなら於は要らない。
國中有吏如刺史 とでも書けば良い。

また文頭に於が来る文例はないだろう。
73日本@名無史さん:2013/02/03(日) 12:40:09.71
>記紀神話に特に津波を連想させるような描写はないよな。

津波の被災者は、記紀神話とは無縁の人々だったことにしかすぎない。
74日本@名無史さん:2013/02/03(日) 12:45:28.08
>一大率は、卑弥呼の王権によって任命された・・・倭国の官人である。
>その官名は城郭の四方を守る将軍である大率に由来する(道教の古典とされる『墨子』の「迎敵祠」条)。

つまり、もともと大率は四道将軍として対外的な仕事をこなすための日本で言う征夷大将軍の一人らしい(ただし夷は東担当だが)。
今で言う外務大臣と防衛大臣みたいな存在だから、一人二人ではなく、配下にそれなりの組織を持ってたはず。
一大卒が博多や糸島にいるなら、一人ですべて治めることもありうるけど、
佐賀の伊都国にいるなら
一大率は外交専任で、国内問題は直属部下の刺史達という考えもありうるのでは。
というか、そうでなくてはうるさい博多勢や宇佐方面勢に手が回らなかったと思うが。
75日本@名無史さん:2013/02/03(日) 12:56:31.64
>>71
記紀神話に巨大地震津波を連想させる記述は有名だわな
スサノオノミコトが天照大神に逢いに行こうとした時、山川がゆれ、海原がどよめいたので、
これはスサノオノミコトの仕業に違いないと、天照側が弓矢を構えたとある。
76日本@名無史さん:2013/02/03(日) 13:38:09.59
京都も奈良もやや内陸部だもんな。
77日本@名無史さん:2013/02/03(日) 13:56:55.04
海原を治めよと命令されたスサノオはそれを嫌がって暴れまわり出雲へ行った。
そして、出雲の国を分捕ってナントカ姫と一緒になり平和に暮らした。
日向の宮崎に住まいしていた神武天皇は、そこを捨てて東遷し、奈良で都を興して成功した。
これらの一見不可解な行動の動機が、巨大地震と巨大津波であったと解釈すれば謎がとける

ところで、卑弥呼の末裔はどうしたのか?
卑弥呼の一族は阿蘇を望む高天原・阿蘇国高知保郷に住んでいたので、
いくばくかの火山灰をかぶりながらも、天岩戸神社と高千穂神社を祀りながら、後世まで平和に暮らしましたとさ。
78日本@名無史さん:2013/02/03(日) 14:09:52.79
奈良方面に集団移住したとか。
79日本@名無史さん:2013/02/03(日) 14:34:42.87
烏奴→烏那→うなばる→海原
80日本@名無史さん:2013/02/03(日) 15:28:05.27
>>72
>また文頭に於が来る文例はないだろう。

こんなのがあるよ。
位於句首的語氣詞,無義。《易經•繋辭下》:“於稽其類,其衰世之意邪。”唐•盧肇《漢堤詩》:“於惟餘甿,飢傷喘呼。”
表示感嘆、讚美的語氣。《詩經•周頌•清廟》:“於穆清廟,肅雝顯相。”《史記•卷二•夏本紀》:“皋陶曰:‘於!慎其身脩。’”
81日本@名無史さん:2013/02/03(日) 15:31:29.95
>>71
邪馬台国が津波で壊滅は面白い説だね。
82日本@名無史さん:2013/02/03(日) 15:54:27.51
阿蘇カルデラの入り口の岩戸渓谷ってのはそんな昔からの地名
ではないよな。
83日本@名無史さん:2013/02/03(日) 15:59:13.80
>>72
> また文頭に於が来る文例はないだろう。

またすいぶん大胆なことを言う人だな。シャッポ脱いだ。
84日本@名無史さん:2013/02/03(日) 16:02:47.27
岩戸神社というのが渓谷の半ば辺りにあるな。
いかにも天の岩戸を連想させる立地。
85日本@名無史さん:2013/02/03(日) 16:35:28.69
阿蘇山のどのあたりだ? 北か、南か?
86日本@名無史さん:2013/02/03(日) 16:36:32.08
外輪山の入り口なら西側かね
87日本@名無史さん:2013/02/03(日) 16:41:08.77
「一大率」の出身地は何処と問われたら。。。「一大國」かも  って

「一大率」の守備範囲は何処迄と問われたら。。。「狗邪韓國」までに限定する理由とか無いよ  って
88日本@名無史さん:2013/02/03(日) 16:42:52.20
外輪山の西側、山中に東海大学なんてのが有るぞ
阿蘇地方は東海地方かや??
89日本@名無史さん:2013/02/03(日) 16:43:55.32
昔の九州東海大じゃないかな。
赤間にもあった。
90日本@名無史さん:2013/02/03(日) 16:46:18.43
ちなみに、飯塚には近畿大学、
折尾には慶応大学大学院がある。
たしか
91日本@名無史さん:2013/02/03(日) 16:51:45.55
九州東海大学ならきいたことはある、熊本市内じゃなかったの
こりゃまた、すんばらしいところにあるもんだ
92日本@名無史さん:2013/02/03(日) 16:55:38.83
東海大学といえば、人工衛星の画像解析かなんか得意じゃなかったの
あれで、邪馬台国とか卑弥呼の宮室城柵跡とか古墳とか見当つかないのかしらね
93日本@名無史さん:2013/02/03(日) 17:05:42.93
お、阿蘇山の東南20kmくらいに、天岩戸神社ってのがあるな
近くに神楽酒造ってのもある、テレビで焼酎の宣伝してるあれかねえ、「焼酎・天孫降臨」とか
94日本@名無史さん:2013/02/03(日) 17:14:02.38
西巌殿寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%8C%E6%AE%BF%E5%AF%BA

西巌殿寺(さいがんでんじ)は、熊本県阿蘇市黒川にある天台宗の寺院。
山号は阿蘇山。古くから阿蘇山修験道の拠点として機能し、九州の天台
宗の中で最高位の寺格を持つ寺院のひとつである。

2001年(平成13年)9月22日午後8時40分頃、不審火により麓本堂が焼失
する事件が起きた

同時テロの11日後だ。芸が細かいのぅ
95日本@名無史さん:2013/02/03(日) 17:46:30.05
大津町 岩戸神社
http://www.town.ozu.kumamoto.jp/product/kanko/siseki/nanbu_uchinomaki/iwato.html

創建は比較的新しいな。岩戸は古地名か?
96日本@名無史さん:2013/02/03(日) 18:09:47.96
およそ岩戸神社の場所わかったわ、岩戸の里→畑→南方向の樹林帯の中だね、
写真も見たけどなかなかの岩戸神社
97卑弥呼は満州にいた:2013/02/03(日) 18:34:37.10
雑談で 本題避ける 九州人

一大率がいたのは北九州市。
関門海峡で検閲に当たっていた。
つまり倭の諸国とは本州の国々。
邪馬台国は大和。
卑弥呼は神功皇后。
98日本@名無史さん:2013/02/03(日) 18:41:52.32
記紀頼り 本題避ける 満州人
99日本@名無史さん:2013/02/03(日) 18:49:16.40
満州さん、先にも指摘したでしょう。伊都国が関門辺りならば、当時の国の大
きさから考えて大和に邪馬台国が有ったはずは無いですよ。
100卑弥呼は満州にいた:2013/02/03(日) 18:54:09.61
当時の国の大きさから考えて九州に邪馬台国が有ったはずは無いですよ。
101日本@名無史さん:2013/02/03(日) 18:55:47.55
はいはいわかりましたよ
満州にあったんでしょ
102日本@名無史さん:2013/02/03(日) 18:59:59.88
筑前筑後+αくらいのが邪魔だい
103日本@名無史さん:2013/02/03(日) 19:04:40.83
伊都国はサガン、邪馬台国はクマモン
104日本@名無史さん:2013/02/03(日) 19:05:09.63
【北九州市】のが【周芳娑婆】で【多婆那】で【斯馬國】なんだけど【司馬國】って記すのがほんとくさい。
105日本@名無史さん:2013/02/03(日) 19:06:51.30
>>97に質問。
「卑弥呼は神功皇后」
「卑弥呼は満州にいた」
故に「神功皇后は満州にいた」

これでいいんですね?
106卑弥呼は満州にいた:2013/02/03(日) 19:25:40.91
>>105 回答
邪馬台国は大和。
されど卑弥呼は神功皇后にあらず。

卑弥呼は馬韓か○か△か□か×か………の女王なり。
107日本@名無史さん:2013/02/03(日) 19:45:40.07
        ,----、       ここは御国を何百里〜
      /:  l  /  〜♪  
     /::::::::  | (__      離れ〜て遠き満州の〜
♪  /:::::::::::::::: |.   ,)   .♪ 赤〜い夕陽に照らされて
  /:::∧∧ ̄´l__| __ノ__    友は野末の石の下〜
.´j'j ̄(   ) ̄ ̄´j-j. ̄| | 
f'f===/  `⊃===f f___|┘. 思えば悲〜し昨日まで〜
 ̄| ̄@ 〈川´フ ̄ヽ, / /  真っ先駆〜けて突進し
  |.|三三三ll.|./   l.| ||   ・・・・・・・・・・
  Il /|\Hn 」   I| .''    勇士はこ〜こに眠れるか
108日本@名無史さん:2013/02/03(日) 20:24:59.67
年平均(円/ドル)(円/ユーロ)
2003 116.49 ↑ 130.92 
2004 108.28小泉134.40
2005 109.64 ↓ 137.67
2006 116.25  146.01
      安倍
2007 117.93  161.24
      福田
2008 104.23  152.41
      麻生
2009 93.52  130.19
      鳩山
2010 88.09  116.44
      管
2011 79.97  111.06
      野田
2012 78.71  102.65
  今92円だが126円だが、どこが円安?何か文句ある?
109日本@名無史さん:2013/02/03(日) 20:57:47.57
記紀ではニニギ以前は高天原にいた。
よって記紀及び後世の書物上において、その痕跡は九州にも本州にも満州にもありえない。
神代・高天原といえば聞こえはいいが、まさに日本史の史実(実体)としては抹殺されたからである。

しかし地方民間信仰としてはありうる。村社として代々地方領主などの庇護を受けてきた例などだ。
阿蘇国高知保郷の天岩戸神社や高千穂神社はその典型的な事例である。

これら神社が記紀や延喜式等に記載されたり、格別の国家的庇護を受けていないということは、
むしろ高天原・日向三代にかかわる真実の可能性を残すものといえる。
110日本@名無史さん:2013/02/03(日) 21:03:24.07
くりかえすが、
社伝によれば、宮崎県西臼杵郡高千穂町の天岩戸神社や高千穂神社は千数百年以上続く由緒ある村社だ。
しかし高天原の神々を祀る神社や廟が現存し、それをご皇室や国家が庇護し奉っているとなれば、話がおかしくなる。
高天原神話が誤りか、当該神社等が誤りか、どうなんだ・・、となる。

それを避けるためには、当該神社等はご皇室や国家としては関知ぜずの方法しかない。
おわかりであろう。
111日本@名無史さん:2013/02/03(日) 21:28:42.23
それはすごい
112日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:13:52.70
えーっと、槍で掻き混ぜたら日本列島ができて
目から天照が飛び出して、高天原がなんだって?
113日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:44:52.00
高天原は多賀にあった海人族の土地、すなわち近江
114日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:47:22.53
岩戸なんて地名はどこにでもある
115卑弥呼は満州にいた:2013/02/03(日) 22:51:11.48
中田薫という法制史学者が『古代日韓交渉史断片考』の中で、
天孫が真床追衾に包まれて降臨した、ということに注目して、
天孫民族は寒冷な地方からやって来たのだろうと示唆していたぞ。
となればやはり満州だなw

それから桓檀古記に、檀君王険が降臨した頃、満州には熊族と虎族がいたが、
この熊族の崇拝する神は女神だと書いてあったように思う。
つまり日本民族だけでなく満州民族もその祖神を女神としていたのである。
これまた日本民族満州渡来説に繋がる。
116卑弥呼は満州にいた:2013/02/03(日) 22:54:18.99
祖神を女神とする記紀神話はインチキだと思っている稗箕狐よ、
桓檀古記や揆園史話も読んでみたほうがいいぞ。
117日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:55:55.87
熊族が崇拝するのは熊ではなくて、(自称)熊の子を受胎したビッチなんだろう
118日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:06:07.38
クマモンじゃねーの?w
119日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:07:32.50
>>116
それを読めばぼくも目から天照出せますか?
120日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:08:15.37
   _
   /;;;人
.  /;;/ハヽヽ  わしは「稗蓑狐」で
 /;;ノ´・ω・)ゞ 「ひみこ」ってよめとまでは
 /////yミミ     強要しとうはなかった!
   し─J



稗も蓑も狐も遼東遼西あたりが由来だってよめないおまいのがはくち
121日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:11:46.94
>>120
蓑をミと読む読み方は中国には無さそう
http://hpcgi2.nifty.com/Gat_Tin/fangzi.cgi?kanji=%CC%AC
122日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:15:20.10
   _
   /;;;人
.  /;;/ハヽヽ  でもさ
 /;;ノ´・ω・)ゞ 「箕」も「蓑」も「みの」って
 /////yミミ       よめたりしるんだ!
   し─J
123日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:20:01.76
>稗も蓑も狐も遼東遼西あたりが由来だってよめないおまいのがはくち
これに対して、中国では「ミ」とは読むことはないんじゃないかと言ってるわけだが・・・
はくちなのか?
124日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:23:48.62
   _
   /;;;人
.  /;;/ハヽヽ  とりあえずはれっとうのおはなしだからね
 /;;ノ´・ω・)ゞ 強要しとうはなかった! って
 /////yミミ               よめてないの?
   し─J
125日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:30:08.68
間男に嫁たりしていやだな
126日本@名無史さん:2013/02/04(月) 01:53:55.22
せっかく津波滅亡説出て来たのに話が脱線してしまった。

あんまり3世紀の津波って話は見あたらないな。十勝で
見つかるとか、日本列島壊滅するだろ。
127日本@名無史さん:2013/02/04(月) 02:22:50.78
>>115
>これまた日本民族満州渡来説に繋がる。

満州の熊族は日本語を話していたと言うことになるな。

満州で日本語を話していたのはどんな人々だろうか。
三国志魏書によると、
日本語の祖語を話していたのは、濊・貊・夫餘・高句麗・沃沮となる。
128日本@名無史さん:2013/02/04(月) 02:25:02.41
>>114
ヤマトという地名もな。山門でヤマトはあんまりない。
129日本@名無史さん:2013/02/04(月) 02:33:52.71
熊族・・・濊・貊・・・濊貊・夫餘・高句麗・沃沮・濊・百済・・・日本語族
虎族・・・挹婁・・・新羅・・・朝鮮語族
130日本@名無史さん:2013/02/04(月) 03:18:48.72
「卑弥呼は神功皇后。」 (>>97)
「されど卑弥呼は神功皇后にあらず。」 (>>106)

キチガイ奴!
131日本@名無史さん:2013/02/04(月) 07:06:55.70
◆スレッドに書き込むときの注意◆
 ●荒らし・煽りは『完全無視』+削除依頼しましょう。
   荒らしにはsageでもレスしないこと。無視できない貴方も荒らしです。
132日本@名無史さん:2013/02/04(月) 07:28:45.11
九州説も早く邪馬台国の比定地決めればいいのに
何で、民主党の綱領みたいにいつまで経っても決まらないんだろ
サヨクと朝鮮人が多いからか?
133日本@名無史さん:2013/02/04(月) 08:05:53.43
【社会】卑弥呼の祭祀用建物跡?奈良・纒向遺跡で柱穴100個超出土★3
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1359907557/

稗蓑狐さん、満州さん 博識ベテランの方はどうぞこちらへ↑
134日本@名無史さん:2013/02/04(月) 08:13:24.65
邪馬台国所在地各説マッピング

           【現実】
            ☆九州(東遷)説
.            ↑
【左翼】(非国民)←┼→【右翼】(無知蒙昧)
..           ↓
★九州(王朝)説 【妄想】       ★畿内説
135サガミハラハラ:2013/02/04(月) 08:22:06.96
邪馬台国の卑弥呼都城址は佐賀県小城市甘木なのです。
なんでこれがみんなから認められないのかというと、あまりにも単純なからです。
やはり、古今多くの人が一生懸命探しているのだから、やはりそれ相応のやっとたどり着いたというようなところに欲しいわけです。
それが、なんだこんなところかでは認めたくないのです。青い鳥は幾山川超え艱難辛苦の
末に手にいれたいのです。庭先に飛んできたではつまらないですよね。
研究者にはこの傾向がみられますよね。
たとえば米の原産地にしても中国の雲南の山奥にまで探にしいくわけですよね。
南京のどぶ川の川べりにはえているでは、やはりありがたみがない。
しかい、真実とは意外とあっさり単純なものなのです。
卑弥呼の都にしろ、山奥の神仙郷に求めようとする人もおられるようですが、
戸7万の国の都であるからして、交通至便のところを考えるべきでしょう。
よって邪馬台国の都は佐賀県小城市甘木なのです。
136日本@名無史さん:2013/02/04(月) 08:28:07.71
あの小城公園の丘は一から土盛りして築いたと考えてるんですか?
137サガミハラハラ:2013/02/04(月) 08:40:05.87
いいえ、風化堆積岩の自然丘を、円墳(せいかくには卵型)状に形づくったものです。
岡の北側にはもとの岩盤が露出しています。
138日本@名無史さん:2013/02/04(月) 08:41:47.42
ま、かんがえてみなはれ
古代といえど都のすぐそばに墓は築かなかった、ましてや墓は都ではない、甘木はナイナイ
139日本@名無史さん:2013/02/04(月) 08:54:56.93
末蘆国の東南500里に伊都国、さすれば小城のどこかに伊都国、甘木古墳は世々伊都国王のひとりのもの
小城の東方にはさらに大きい船塚古墳もあることだし・・
140卑弥呼は満州にいた:2013/02/04(月) 09:06:11.99
稗蓑狐という男はやはりただのバカだな。
せっかく満州にも祖神を女神とする民族がいたということを教えてやったのに。

それに「ひみこ」ってよめとまでは…云々など私は何処にも書いていない。
更に>稗も蓑も狐も遼東遼西あたりが由来…云々に至っては何が言いたいのかまったく意味不明。
とにかくキモイ男だ。こんな男は相手にしないほうが良い。
南解次次雄の方がずっとまし。
141日本@名無史さん:2013/02/04(月) 09:37:24.67
邪馬台国につき、西暦660年頃に編纂された類書翰苑には「邪なる馬台国」として書きとめられている
されば、阿蘇山の東南陸行三百里の高知保郷馬台(三田井)こそ女王之都と思われる
よってここに、卑弥呼と台与を祀る神社・神域なり、廟なり、のあるは当然である

古代より現在に到るも、ここには、

天の岩戸にお隠れになられた天照大神を祀る天岩戸神社 西の宮
天の岩戸より御出になられた天照大神を祀る天岩戸神社 東の宮

の二社が祀られて有る、そこここの名も知れぬ古墳なぞよりはるかに説得力を持つ由縁である。
142日本@名無史さん:2013/02/04(月) 10:40:10.45
>>97 :卑弥呼は満州にいた
>雑談で 本題避ける 九州人

オ〜イ 卑満さんよ >>80を読んだか?
返事がないようだが、どうしたン?
143日本@名無史さん:2013/02/04(月) 11:11:21.24
そいつは元はアタマがガチガチで
「諸君は記紀を信じないからだめなのである」と繰り返すだけだったが
その後アタマがふやけてブヨブヨになって、ネットでゴミ拾いをするようになり
自分でも何を言ってるのか分からないまま、手当り次第を書き散らすようになった。
さっき言ったことももう忘れてるんだよ。無知だけは昔のままだけどな。
144日本@名無史さん:2013/02/04(月) 12:11:53.54
人間、根っこが腐ってると何をやっても道を踏み外してしまう。
言葉の一つ一つにドブの臭いがする。まさしく外道の生き様だね>朝満老人
145日本@名無史さん:2013/02/04(月) 12:24:47.07
なになに、記紀を信じるだと?
ならば、
卑弥呼=神功皇后=日本の皇后
じゃないか。

神功皇后が満州へ行った事実は、記紀に書かれてない。
146日本@名無史さん:2013/02/04(月) 12:26:29.69
記紀を信じるなら、

卑弥呼=壹与=神功皇后、だな
147卑弥呼は満州にいた:2013/02/04(月) 12:26:34.04
>>142
そういう文例があろうとなかろうと、於が一大率にかかることに変わりはない。
>>143-144
こういう連中は相手にする必要はない。ただのチンピラである。
148日本@名無史さん:2013/02/04(月) 12:34:39.60
>>143-144
コテハンからして無知と堕落と腐敗臭が強烈なのだが

内容も偽書ひけらかしと語呂合わせの邪推と思索を欠いた思い付きのオンパレード

やはり「名は体を現す」だなw
149日本@名無史さん:2013/02/04(月) 12:43:29.89
君らのような低能チンピラの中傷にももう飽きたw
もっとまともな論者はいないのか。
あほらしくて話をする気にもなれない。
150日本@名無史さん:2013/02/04(月) 12:44:13.46
最近は土建屋の親父の家の神棚に、
親魏倭王の金印が有るんじゃないかと思ってる。
或いは遥か昔に盗掘され、潰されて闇ルートに売られたとか。

1700年の歳月を遡るのは困難を極める。
151日本@名無史さん:2013/02/04(月) 13:55:07.82
>>147
>そういう文例があろうとなかろうと、於が一大率にかかることに変わりはない。

「於が一大率にかかる」などとは言葉の使い方を知らない言い草だな。
いったい「於國中有如刺史」とはどういう意味か理解しているのか?

「於國中有如刺史」が一大率のことを述べたものだと言うだけではだめだ。
理由を説明しなきゃ話にならんだろ。
152日本@名無史さん:2013/02/04(月) 14:27:08.28
元祖山門説もまだまだ捨てたもんじゃないと、思うのだ。
墓の上に民家が建ってたり、未発掘の塚がある。

http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage56.htm
153日本@名無史さん:2013/02/04(月) 17:25:19.59
154卑弥呼は満州にいた:2013/02/04(月) 17:26:32.08
155日本@名無史さん:2013/02/04(月) 17:27:45.76
156日本@名無史さん:2013/02/04(月) 17:29:55.64
157日本@名無史さん:2013/02/04(月) 20:47:10.47
自分でも何を言ってるのか分からないまま、手当り次第を書き散らすようになった。
158日本@名無史さん:2013/02/04(月) 23:25:23.53
>>154
「定説である」では説明にならないよ。こっちは定説を疑っているのだからね。

「於國中有如刺史」の「國中」は「國の中(内)」ということであるが、この『國』は特定の國(伊都国)
を指すものであろうか。もしそうであれば、有如刺史は一大率のことと見ることもできよう。
しかし、そうであれば、「諸国を検察して畏憚される一大率が伊都国内では監察その他の行政事務を行う刺史
のようである」と言っていることになる。そして・・・皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物・・・も一大率の仕事
となる。
それでいいのか?伊都国の官 爾支,副 泄謨觚、柄渠觚の3名は何をするのだ?

一方、國を女王に属する各國を指すものだとすれば、「於國中有如刺史」は「(なんと!)國には刺史のような
ものが居る」という意味にとれる。その刺史のような役人は・・・皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物・・・という
業務を行う。ここには(後進国と軽く見ていた倭国の)中国の駅伝にも似た伝送制度とその管理のやり方を見た
魏の使者の感嘆の気持ちが出ているようにも思われる。

こちらはこういう分析なのだが、どう思いますかな?
159日本@名無史さん:2013/02/04(月) 23:31:24.70
定説は当てにならない
元々日本にあった国(那国(支那的には蔑字を用いて奴国))の都は近江
それが、近江→東海→大和と都を移していった
萬七万戸というのは、近江あるいは東海が都だった時代の話だろう
160日本@名無史さん:2013/02/04(月) 23:35:26.58
近江以前の倭国の都はおそらく越(越後の可能性が高いが越中の可能性もある)
161日本@名無史さん:2013/02/04(月) 23:50:32.98
>>158
「於國中有如刺史」は、国々の中において刺史のようであるということ。となると、「何が」と
なるが、それは直前の文章中の「一大率」しかない。
要するに、一大率は国々の中で刺史のようだと訳すことになるんだよ。
162日本@名無史さん:2013/02/05(火) 00:43:18.88
銀印青綬の「一大率」は「倭國」の軍事を掌るが、これは「委奴國の都尉」の末裔。

「委奴國の都尉」は「委那都尉」で「委都尉」→常駐するところが「伊都」となる。

ここでいう「倭國」とは「倭王」の「一大率」を駆使した指揮命令が直接及ぶ範囲。

「倭國」の下位に「縣サイズの國國」が従属する。

「倭王」が任命権をもつたてまえのが「一大率」ので、

そやつの軍事的なご苦労による勢力圏の拡大縮小により

「倭國」は伸縮自在ということにはなるのだ。
163日本@名無史さん:2013/02/05(火) 00:56:23.29
「一大率」と「倭王」のセットのが後の世に「大宰府」に化けるが

表記の汚染をうけた「大宰府」の正規表記のは【太宰府】で

【太宰】とは【晋のときの時代限定】の官職名らしいよ。

「太師」は中国古代より使われた官職名。天子の師で、

漢においては【金印紫綬】で、

地位は大司馬、大司徒、大司空の三公より上で、「太師」は太師、太傅、太保の中で最高位。

前漢末および新の後は太師は置かれなかったが、

後漢末の献帝代初平2年(191年)に董卓が太師となり、地位は諸侯王より上位とされた。

晋の時代に「太師」の「師」が景帝「司馬師」の諱であることから避けて

「太師」を【太宰】と称した という曰く付き。

【太宰府】という【府】を設けられるのが「倭王」で

【太宰府】長官なのが【太宰帥】でしょ。。【太宰率】【太宰帥】

【太宰】が「倭王」なのね。。。
164日本@名無史さん:2013/02/05(火) 01:25:09.42
265 泰始元 12月曹奐が司馬炎に禅譲。 
景帝「司馬師」の帝号は司馬炎から贈られたヴァーチャルので
司馬師は司馬懿の長子で、
後継者として弟の司馬昭をチョイス。
司馬昭の長子のが司馬炎。
だから、司馬炎が「太師」を【太宰】と称させたというのはわかりやすい。

つまりは
【太宰】のルーツのおひとは壹與タンだろということにはなるが。。。
【太宰帥】のルーツのおひとは腋邪狗さんだろということにはなるが。。。
165日本@名無史さん:2013/02/05(火) 09:19:58.75
>>161
「於國中有如刺史」は、国々の中において刺史の如く 有るということ。
「於國中有如刺史」は、国々の中において刺史の如きが 居るということ。

おまい上の解釈、おれ下の理解
166日本@名無史さん:2013/02/05(火) 10:12:48.92
三国志を読んだオレの感触からすると、
陳寿の「有如」の使い方(結構多用してる)からして、

>>161 が正解と思うぞ
167日本@名無史さん:2013/02/05(火) 10:39:52.25
>>166
その勉学はまこと貴重
ついでと言っては申し訳ないが、いくつかサンプルを示していただけるとなお有りがたい
168日本@名無史さん:2013/02/05(火) 10:43:16.59
サンプルは、どこかで調べてもらいたいが、

陳寿は多くの場合、1エピソードの末尾に
付加するように「有如」を使うことが多いんですよ。
169日本@名無史さん:2013/02/05(火) 12:19:41.03
於邪馬台國中有如九州
170卑弥呼は満州にいた:2013/02/05(火) 12:31:51.43
>>158
>そして…皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物…も一大率の仕事となる。 それでいいのか?
それでいいのだw

漢文の読みからすると>>161が正解となるわけだから、
…皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物…も一大率の仕事となるわけである。

三日前から歯茎の腫れに悩まされていて、憂欝で何をする気にもなれない。
短い返事で済まないが、今はこれだけしか書く気にならない。
171日本@名無史さん:2013/02/05(火) 12:53:34.75
>>166-168
三国志中の「有如」用例

全体で19例、本文中で8例、引用文中で11例

魏書で10例、本文1例、引用文9例
蜀書で3例、本文3例、引用文0例
呉書で7例、本文5例、引用文2例

陳壽だけが「有如」を多用したとは言えない。
「魏略」等の3世紀の文書では、
「有如」を付加するように使うのが一般的であったといえる。
172日本@名無史さん:2013/02/05(火) 12:57:48.49
有の意味は>>165の下の解釈以外にありえない。
漢文法の初歩の初歩の初歩。
173日本@名無史さん:2013/02/05(火) 13:04:07.75
ついでに言えば、皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物とするのも誤りだろう。
私は、皆津に臨みて文書賜遺之物を搜露傳送し、と読むよ。
174日本@名無史さん:2013/02/05(火) 13:07:19.10
>>172
君の読み方ならば、もとの文章は次のようにあるべきだろう。
「於國中有者如刺史」
175171:2013/02/05(火) 13:11:27.29
>>167
>いくつかサンプルを示していただけるとなお有りがたい

自分で探せ
巻1"、2"、5"、8"、8、10"、13"、19"、28"、30、38、40、
巻44、47、52"、52、57、60、61、64".
「"」付が引用文での用例
176日本@名無史さん:2013/02/05(火) 13:23:54.53
とりあえずこれで漢文になっているかどうか、試し読みしたらどうでしょうかねえ

「於國中有刺史」
177日本@名無史さん:2013/02/05(火) 13:26:14.78
>>174
まず漢文の初歩を学べ。馬鹿馬鹿しい。
178171:2013/02/05(火) 13:26:27.35
下記に訂正

自分で探せ
巻1"、2"、5"、8"、8"、10"、13"、19"、28"、30、38、40、
巻44、47、52"、52、57、60、61、64".
「"」付が引用文での用例

全体で20例、本文中で9例、引用文中で11例
179日本@名無史さん:2013/02/05(火) 13:34:54.72
とにかく漢文を知らない奴が漢文をこねくり回すのはやめろ。
180日本@名無史さん:2013/02/05(火) 13:45:03.55
>>170
「於國中有如刺史」の解釈は>>161が正しく、・・・皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物・・・の仕事も
一大率のものだということですな。

では、伊都国の伊都国の官 爾支,副 泄謨觚、柄渠觚の3名はいったい何をしていたのでしょうな。
一大率が刺史のように行政事務的な仕事まで行っていたのなら、彼らの立場はないでしょうな。
また、皆臨津搜露の津が伊都国の津だけでなく各國の津であるならば、各國の官の立場も微妙ですな。
181日本@名無史さん:2013/02/05(火) 14:15:24.36
>伊都国の伊都国の官 爾支,副 泄謨觚、柄渠觚の3名はいったい何をしていたのでしょうな。
爾支は総理大臣、 泄謨觚、柄渠觚は国務大臣だよ。
一大率は、女王国から派遣されて伊都国を含む以北の国々を検察する州の長官というわけだ。
もっとわかりやすく言えば、マッカーサーのような立場さ。
182日本@名無史さん:2013/02/05(火) 14:51:32.50
>>180
>皆臨津搜露の津が伊都国の津だけでなく各國の津であるならば、各國の官の立場も微妙ですな。

皆臨津搜露の津は、伊都國にあるのではなく、官不在の末盧國にあるのだ。

一大率は、不彌國に於いて女王直轄の下で全ての行政をも兼務していたのである。
183日本@名無史さん:2013/02/05(火) 15:02:28.55
>>182
??????? 意味不明 ?????
184日本@名無史さん:2013/02/05(火) 15:15:30.25
>伊都国の伊都国の官 爾支,副 泄謨觚、柄渠觚の3名はいったい何をしていたのでしょうな。
字づらよくよく眺めてみたら
爾支は璽支ではんこの支配人、 泄謨觚、柄渠觚は盃あげてコンサバの土木建設系の大臣だろ。
一大率は銀印青綬ので、女王の弟とかのケースも多々で、女王とセット。
伊都国に居る王家の男のトップ系のおひとで軍事力を総括で倭州の長官というわけだ。
もっとわかりやすく言えば、倭人のお面を被ったマッカーサーのような立場さ。
185日本@名無史さん:2013/02/05(火) 15:22:08.64
皆臨津搜露の津は、伊都國にあるんだよ。伊都国の港を普段管理しているのは伊都国の官だろう。
しかし、一大率は更に上位の立場で、港に赴き、半島から入ってくる物や女王のもとへ運ばれる
物を点検し確認していたんだよ。
末盧国にももちろん港はあるが、それは末盧国の役人が管理していたのさ。末盧国の官が記載さ
れていないからといって、官がいないなどということはあり得ない。国である以上、当然に政治
を行う役人は必要だ。
186日本@名無史さん:2013/02/05(火) 15:34:27.10
末盧国の官が記載されていないのが、これこそあやしい。。。

泥遊びの結果からすると、末盧国に王がおってもべつに不思議とかないけどね。。。
187日本@名無史さん:2013/02/05(火) 15:58:01.12
>>183-185
「從郡至倭」が、何故「自郡至倭」と書かれなかったを考えてみよう。
全ての解く鍵は「從」の理解にある。

水行が陸行に切り替わる津があるのが末盧國である。
末盧國までは全ての道程が水行で、末盧國以降の全ての道程が陸行である。
繰り返すが、末盧國の津から女王の都する城柵までの道程は全て陸行である。
倭人伝の「津」は末盧國にあるだけだ。

「從」を理解できない者は何も理解できない。
倭人伝を読むときの視点は常に魏の都である洛陽にあるのだ。
洛陽に視点を常に置いて倭人伝を読まなければ何も変わらない。
188日本@名無史さん:2013/02/05(火) 16:02:56.28
水行二十日、水行十日陸行1月。いずれも、北九州から水行だよ。
189日本@名無史さん:2013/02/05(火) 16:08:13.97
>>188

視点を洛陽において、「從郡」すれば、
「水行二十日」は郡から投馬國までの距離、
「水行十日陸行一月」は郡から邪馬壹國までの距離となる。
190日本@名無史さん:2013/02/05(火) 16:13:12.32
洛陽に視点を置くならば、洛陽から郡を通って投馬国までが二十日、洛陽から
郡を通って邪馬台国までが水行十日陸行1月とでも言わんとつじつまが合わんだろ。
191日本@名無史さん:2013/02/05(火) 16:23:32.66
>>190
>洛陽から郡を通って邪馬台国まで

「從」の意味を理解しているじゃない。
視点は洛陽にあるが、距離の起点は帯方郡であることに注意。
「從」を理解できているかどうかはこの点にある。
洛陽から見て、倭人伝は「從」の先のことについて書かれているのだ。
192日本@名無史さん:2013/02/05(火) 16:35:17.70
>距離の起点は帯方郡であることに注意。
従の文字にこじつけて郡からだと言うのならば、千里、千里、千里、五百里も
すべて郡からの距離だと言わざるを得ないね。
193日本@名無史さん:2013/02/05(火) 16:37:19.22
>>192
冗談はそれくらいにして、ハイお次。
194日本@名無史さん:2013/02/05(火) 16:54:41.34
というわけで、伊都国まで一万と五百里。
残りは千五百里。これも陸行ということだな。都合、末蘆国から陸行二千里を一月か。
魏の使いは輿にのせられて、賜物は人足どもに担がれて・・・、ん、かかるかも。
195日本@名無史さん:2013/02/05(火) 17:03:44.89
帯方郡から伊都國まで一万と一千九百里。
196日本@名無史さん:2013/02/05(火) 17:07:34.23
韓地陸行は9割がたが河川の船旅。
197日本@名無史さん:2013/02/05(火) 17:09:18.38
>>195
古田信者のおじさん、こんにちわー。
198日本@名無史さん:2013/02/05(火) 17:26:30.76
古田信者ではないが、

「帯方郡から伊都國まで一万と一千九百里」

と考える。
199卑弥呼は満州にいた:2013/02/05(火) 17:35:55.79
細かい分析を楽しみたいのなら−

東南陸行五百里,到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里

伊都国と不彌國には行の字が付いているから、実際に行っている可能性がある。
奴国は方角しか書いてないから行ってないかも。
ということで、水行二十日の起点として考えられるのは、末盧国、伊都国、不彌国。

伊都国は草木茂盛行不見前人と書いてあるから、いかにも実際に行っているように見えるが、
これは倭人がそういう道を歩いている様子を描写したものかもしれず、
末盧国に着いた中国人?は実際には歩いていないかもしない。
200日本@名無史さん:2013/02/05(火) 17:43:09.50
伊都国までは1万五百里だよ。一万と一千九百里というのは、方里の表現がどうゆう意味か
知らない輩の考える間違った説。
方四百里というのは、けして400×400ではない。それに相当する面積というだけのこと
で、200×500とかいろいろあり得る。だから二辺を足して800なんてのは無意味なこと。
201日本@名無史さん:2013/02/05(火) 17:43:26.75
またまた頭脳破綻者が出てきたぞ
お前さんには飽きたよ
葬儀屋の手配でもしてろ
202日本@名無史さん:2013/02/05(火) 17:44:14.02
>>198
信者でないとおっしゃいますと、
もしかして教祖様でいらっしゃいますでしょうか。それはそれは御無礼をば。
203日本@名無史さん:2013/02/05(火) 17:46:01.66
おっと、>>201は<<199へのレスな
204日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:00:23.98
>>181
>一大率は、女王国から派遣されて伊都国を含む以北の国々を検察する州の長官というわけだ。
「州の長官」はないだろう。
一大率が女王國から派遣されたものであることは「自女王國以北特置一大率」という記述から分かる。
だが、その任務は「檢察諸國」だ。不正や犯罪を取り締まる任務だったのだろうが、「諸國畏憚之」と
あるから取り締まりには軍事力を行使して厳しかったのだろう。また、女王國の支配に対する不満や反
抗などの政治的、社会的な動きを摘発したり抑圧するのが裏の(本当の)任務だったとも思える。
これは州長官の仕事ではない。一大率はいわば諜報任務も帯びた武装警察隊の指揮官だと思われる。

>>184
妄想を得意げに語るな。くだらん。
205日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:03:19.57
 
   方角     距離       国
始      度一海 千余里  至 対海国
又 南   渡一海 千余里  至 一支国
又      渡一海 千余里  至 末廬国
   東南   陸行 五百里  到 伊都国

   方角     国         距離
   東南  至 奴国     (陸行)百里
   東行  至 不弥国   (陸行)百里
   南    至 投馬国   水行 二十日
   南    至 邪馬台国 水行 十日陸行 一月

奴国と不弥国は陸行が省略されているだけ
206日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:13:16.59
一大率には統帥権があるんだよね 武装警察隊の指揮官とかわろす ちえおくれか
207日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:18:02.09
一大率なる暴力装置は、鉄ルート独占による鉄鏃で武装した軍団によって成り立つわけですが
208日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:18:29.31
そもそも一大率は、城郭の四方を護る4名の将軍のこと
日本にも征夷大将軍というのがあった
209日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:34:17.05
あ〜あ、ありもしない「州の長官」に見えちゃうよ。

騙りです。許せない。なまぬるい酋長のが良い。潰したい。

もうさ女王死んで王を自称しました。でっ辰韓のボスと連携。

とうとうちがう方の王と「相誅殺 當時殺千餘人」。
210日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:37:30.04
>>206
がはは。妄想だと言われて悔しいんだな。根拠を挙げて書かねば誰も納得させられぬぞ。
君の居うう一大率の統帥権とは具体的に何なのだ?
指揮官ならば配下の者達の統帥権を持つのが当然だがな。
211210:2013/02/05(火) 18:41:01.92
訂正
君の居うう→君の言う
212日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:44:02.07
>>209
気持ち悪い文体をやめろ!この変態野郎。
213日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:44:04.61
さてとおれさま人足だから、相棒と二人、賜物の梱包かついで刺史のあとくっついてでかけますよー
あと千五百里かー、二十日はかかりそーだなー
ま仕事仕事。
214日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:46:45.29
243年 正始4年 (新羅)阿達羅31年3月 阿達羅崩 これが

吏譯轉有異同 臣幘沾韓忿攻帶方郡崎離營
時(帶方)太守弓遵樂浪太守劉茂興兵伐之
(帶方太守)遵戰死 二郡遂滅韓         だろ

辰韓王のが 臣幘沾韓忿たらで 阿達羅だとおもふぞ
215卑弥呼は満州にいた:2013/02/05(火) 18:47:38.42
>>201
>葬儀屋の手配でもしてろ

よくこんな言葉が書けるな。
一体どういう神経をしているのだ。
お前のようなひどい中傷を書く男はいないぞ。
216日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:48:54.90
>>215
しつれいなおひとだよね
217日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:59:10.60
一大率には統帥権がある 実態としてそうだろうし 

一大率は【率善中郎將】で銀印青綬

銀印青綬の【率善中郎將】は純粋な武官じゃなくて

手下設定の銀印青綬の【率善校尉】のが軍隊の実際の指揮官

とすると 馬韓辰國にいらしゃる官の【魏率善邑君】のも

魏の方から一大率の手先認証されてるくさいと読める。。。
218日本@名無史さん:2013/02/05(火) 18:59:51.51
>>215
思った通り、お育ちの良いお方なんですねえ。
(おマイの葬式出してやることになるとは思いもよらなかったよ、すぐ手配してやるぜ)、くらいに切り返せばいいんですよ。

ま、カキコの方もお育ち良くお願いしますけどね。
219日本@名無史さん:2013/02/05(火) 19:08:18.53
陳寿レポートには【率善中郎將】は二人でてくる

いずれも【一大率】なんだけど

後に出てくる【一大率】のおひとは無事生き残った。。。


259年 甘露4年 春正月 駕洛(金官)居登殂 麻品立 で

金官駕洛の狗邪國の王さんも無事生き残ったぽいよ。。。
220日本@名無史さん:2013/02/05(火) 19:25:07.15
あれかねえ 字面よくよく眺めてみたら

もしかして 【阿達羅】って【多羅】の酋長でね 【あたら】 【新】かね。。。


そしたら 【阿達羅】って

もとのが 【多婆那】の酋長さん 絡みだって良く理解できます。。。

だって 脱解さんの御子孫とかなんでしょ。。。

天日矛のも 脱解さんの御子孫だろうしね。。。
221198:2013/02/05(火) 19:39:37.12
>>202
>信者でないとおっしゃいますと、

古田氏と同じ結論に至っただけ。

A:歴韓國をしながら循海岸水行した道程は、七千餘里

@渡った海の大きさが千餘里、3回渡って計三千餘里
A對海國を歴韓國の様に循海岸水行して八百餘里
B一大國を同じく循海岸水行して六百里
B:合計水行距離は、四千四百里

C:伊都國まで陸行の距離は、五百里

D:伊都國から不彌國まで(陸)行の距離は百里

E:伊都國−奴國間の距離は百里

道程の距離=A+B+C+D=万二千餘里

Eは位置関係を示すだけだから道程ではない。
222日本@名無史さん:2013/02/05(火) 19:44:13.74
荷物担いで行くとなるとあれだから、
佐賀平野の内は、吉野ヶ里の南あたりまでクリークを川船で行けばいいよな
棹は三年、艪は三月、
つでに筑後川渡って、大川、柳川と観光川遊び、
瀬高の辺りまで苦労なし
223日本@名無史さん:2013/02/05(火) 19:49:14.55
行程パズルいつまで続けるの?
完成刑が何時まで経っても出来ないよね

後、漢字の語呂合わせ
224日本@名無史さん:2013/02/05(火) 19:58:13.20
>>221
信者でも教祖でもないとおっしゃいますか、ま、承知しときますわ。

ところで、A、Bのぶん、水行とは書いてありませんが。どうしたんでしょうねえ。
書き忘れですかあ?
225卑弥呼は満州にいた:2013/02/05(火) 20:01:14.96
>>201の男は伊都国佐賀説論者だな。
末盧国起点説だと伊都国佐賀説が成立しなくなるので、
あんなことを書いたのだろう。

五年も十年もここに張っていながら、
未だに東南陸行して佐賀に行ったのだ!
しか思い付けないのだから、哀れな男だ。
226日本@名無史さん:2013/02/05(火) 20:06:59.58
つ 多紐細文鏡 ぴかぴか http://goo.gl/maps/LFrlT
227日本@名無史さん:2013/02/05(火) 20:07:15.22
>>225
え〜、お互い5年も10年ものお知合いなんですか?
その間ずーと、満州でがんばってるんですか。なかなか・・
228日本@名無史さん:2013/02/05(火) 20:16:24.48
航空機事故に関する続報
このニュースはテレビでは流れない重要なことなので

【航空】ボーイング787バッテリー問題、米NTSBが内部告発者の情報に関心[13/01/25]
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1359075767/
電池本体=日本
充電器=英系アメリカ工場
過充電防止装置=フランス

内部告発者の1人、マイケル・レオン氏は英メギット傘下セキュラプレーン・テクノロジーズ社が充電装置の出荷を急いでいたと主張。
この充電装置について、仕様と一致せず、正常に作動しなくなる可能性を指摘していた。
229日本@名無史さん:2013/02/05(火) 20:20:07.28
>A對海國を歴韓國の様に循海岸水行して八百餘里
韓国は方四千里、しかし、循海岸水行して七千里にすぎん。
230日本@名無史さん:2013/02/05(火) 20:29:23.52
>B一大國を同じく循海岸水行して六百里
一大国は激しい海流の関係で現在の機械船でも循海岸水行は避けるんだそうですよ。
で、とうぜん当時は入った港からまっすぐ出て、そのまま末蘆港に向かうそうですよ。
231日本@名無史さん:2013/02/05(火) 20:45:54.81
一大率を置いたのが卑弥呼で、諸国を検察するのが目的ならば、いったい
どのくらいの範囲を検察する任務だったのか。
少なくともその範囲に卑弥呼の都する邪馬台国がないことは確かだなあ。
232198:2013/02/05(火) 21:18:07.30
>>229
>韓国は方四千里、しかし、循海岸水行して七千里にすぎん。

韓地が方四千里である。
一辺と3/4辺で7千里となる。

>>230
>一大国は激しい海流の関係で現在の機械船でも循海岸水行は避けるんだそうですよ。

誤った情報です。
対馬西水道の様な速い海流も潮流もありません。
壱岐の東海岸は遅い潮流が動いたり止まったり反転したりの海域です。
壱岐の北海岸は東西方向に速い潮流が干満によって反転してながれますが、
その時間帯以外は穏やかな潮流の海です。

潮流については九州大学の観測データが公表されています。

海流と潮流の区別を正しくしてね。
233日本@名無史さん:2013/02/05(火) 21:28:03.53
>>232
それでは対馬、壱岐とも、具体的に東西南北のどの二辺を半周するのですか?
234198:2013/02/05(火) 21:28:03.89
追加
対馬西海岸の循海岸水行は潮流も海流も速いので危険です。

「激しい海流の関係で現在の機械船でも循海岸水行は避けるんだそうですよ。

と言うのは、対馬西海岸のことです。
235198:2013/02/05(火) 21:41:43.91
>>233
>それでは対馬、壱岐とも、具体的に東西南北のどの二辺を半周するのですか?

狗邪韓國から末盧國へ行くとき
対馬北岸、対馬東岸、壱岐北岸、壱岐東岸

末盧國から狗邪韓國へ戻るとき
壱岐南岸、壱岐西岸、対馬南岸、対馬西水道を北方向に斜めに横断

月齢と月の位置と風向きを見て航海のタイミングを決める必要があります。
潮流の流れ方がそれら3点によってほぼ決定します。
それらを無視すると遭難か日本海方面に流されます。
236日本@名無史さん:2013/02/05(火) 21:59:15.85
適当な数字合わせだなあ。
237日本@名無史さん:2013/02/05(火) 22:09:59.98
>>235
ほう、行きと帰りでちがうのですか、
いまは、その地の漁民でさえ、それだけの技術を持ってる人は少ないでしょう。
月齢、時刻、風、当時の航海技術は相当なものですねえ。
きっと島々に水先案内人みたいなひともいたんでしょうねえ。
238日本@名無史さん:2013/02/05(火) 22:17:58.27
>>217
これは>>210への返答かね?

>一大率は【率善中郎將】で銀印青綬
その根拠は何かね。
一大率は卑弥呼の景初2年(3年かも)の魏への朝貢ののちに置かれたものかね?

>とすると 馬韓辰國にいらしゃる官の【魏率善邑君】のも
>魏の方から一大率の手先認証されてるくさいと読める。。。
文献的根拠でもあるのか?
239日本@名無史さん:2013/02/05(火) 22:36:11.67
240198:2013/02/05(火) 22:48:14.23
>>237
>きっと島々に水先案内人みたいなひともいたんでしょうねえ。

渡海知識技術を持っていたのは、
「乘船南北市糴」をしていた一大國と對海國の人々です。

一大國の人々は海峡の監視人。
一大國の支援なしには半島側も九州側も身動きが取れなかった。

一大國の漁民商人が一大卒の始まりだったと思えてならないのです。
帥升が倭奴國を滅ぼせたのも一大國を味方につけて、
海峡ルートを抑えられたからだろうと推測できます。
又、女王が魏に接触できたのも、伊都國の王を支配下に置き、
女王國が一大國を味方につけることが出来たからだろうと思われます。

末盧國に官がいないのは、一大國出身の一大率に末盧國の検察権だけでなく、
末盧國の施政権も与えたからでないかと。
女王國側が海峡通行の自由を保障して貰えた見返りとして。
241日本@名無史さん:2013/02/05(火) 23:01:21.73
2世紀:倭国大乱、出雲の国譲り→3世紀、卑弥呼を共立して奈良に邪馬台国(吉野ヶ里の勢力が畿内へ移動)→
4世紀、日向にいた天皇家が瀬戸内海を通って大阪の和泉へ進出→奈良の邪馬台国を攻略し、邪馬台国の神である
卑弥呼(アマテラス)を伊勢へ移す。
北九州の宇佐周辺に拠点を持っていた秦氏が大阪の河内へ移住。古事記でいうニギハヤヒとして
天皇家と同盟し、奈良の邪馬台国を乗っ取る。ニギハヤヒは後に物部氏として勢力を拡大。

物部氏の祖先、ニギハヤヒが降臨したとされる大阪交野市にある磐船神社
http://b-spot.seesaa.net/article/109675827.html

高天原と呼ぶにふさわしい風景
http://pds.exblog.jp/pds/1/200908/02/95/e0187395_21301935.jpg
http://jc4.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_a99/jc4/P9270033.JPG?c=a2325

ナガスネヒコ=邪馬台国

河内湖が葦原 葦原中国
http://inoues.net/kawtiko.jpg
242日本@名無史さん:2013/02/05(火) 23:02:35.68
>>240
なるほど長年この地に住んで海峡に詳しい人たちが力をもち、外部の人達はその助けが必要であったろうことは
十分推測できます。
風波は不定期としても、月齢、時刻、潮、海流などから、
実際問題として、渡れる季節と時、及び渡れるコースは何通りかに限定されていたわけですね。
243日本@名無史さん:2013/02/05(火) 23:24:42.13
>>240
酋長さんのおやかたが物部本村にあって川で原の辻から移動できたんだろ。
244日本@名無史さん:2013/02/05(火) 23:33:06.06
息長帶比賣命が初代玉垂命で物部の血筋だと

やっぱり「いきながたらし」で良いのか

壱岐那ヶ渡ひめ  壱岐出身の渡来ひめ
245日本@名無史さん:2013/02/06(水) 00:22:10.14
>>239
なんだやっぱり妄想じゃないか。あほらし。
246日本@名無史さん:2013/02/06(水) 10:17:23.23
証拠に基づかない妄想、空想をいくら述べたところで何の役にも立たない。
問題は、倭人伝に従って邪馬台国の所在を探求したらどこになるか、それが
記紀や考古学資料によって裏付けられるかということだ。
247日本@名無史さん:2013/02/06(水) 11:19:33.79
>>195
やあ、古田教祖のおじさんですか、こんにちわ
渡海の港は、上り下りどこだったか、教えてほしいんですけどねえ

対馬国は厳原、一大国の下りは芦辺・上りは郷ノ浦、末蘆国は呼子、伊都国は前原でいいんでしょうかねえ?
248日本@名無史さん:2013/02/06(水) 12:48:17.51
>>246
倭人伝の記述がすでに怪しいだろうに
249日本@名無史さん:2013/02/06(水) 12:50:31.51
>>248
怪しいところに近づくな!
250日本@名無史さん:2013/02/06(水) 13:37:01.06
>>248
どこがどのように怪しいか教えてください。
251198≠195:2013/02/06(水) 13:49:18.17
>>247
>渡海の港は、上り下りどこだったか、教えてほしいんですけどねえ

>>195に代わって、>>198がお答えしましょう。
南行の對海國の寄港地は、厳原
北行の對海國の寄港地は、豆酘(つつ)又は寄港無し

南行の一大國の寄港地は、勝本又は芦辺
北行の一大國の寄港地は、郷ノ浦又は勝本

末盧國の水行到着地は、古松浦湾内唐津市中原の津

伊都國の城柵は佐賀市大和町惣座及び佐熊
252日本@名無史さん:2013/02/06(水) 14:05:33.15
>>251
相わかりました。ありがとうございました。
当然ながら自由航行でなく、南行、北行ともにほぼ航路は決まっていたということですね。
253198≠195:2013/02/06(水) 14:26:47.88
>>252
ほぼ航路が決まっていました。
北行の壱岐から対馬の航路は潮流によってかなり異なります。
月齢と風向の条件が揃うと、最短2日で渡海できます。

古田氏は、実際の海流を知らずして2日渡海の話をその著書に引用していましたね。
話の元本とその著書が何だったか忘れましたが。
254日本@名無史さん:2013/02/06(水) 15:27:10.50
>>253
昔といっても、大正だか昭和の初めかなんかの話として、
親戚の魚船乗りから聞いた。
対馬の漁民は、カアチャンちょっくら釜山まで買い物に行ってくっからね・・、
といって、小舟で出かけたものらしい。順風に帆を張れば半日かそこいらで着いたらしい。
その知識・技術たるや驚異と賞賛に値する。
255日本@名無史さん:2013/02/06(水) 16:11:45.14
邪馬台国についての記述の中に、ヤップ帝国についての記述が紛れ込んでるような気がする
256日本@名無史さん:2013/02/06(水) 16:37:25.41
>254 ついでにつづき  
ちなみにその漁船乗りは対馬といわず、懐かしそうに、対州・対州(たいしゅう)と呼んでいた。
仁義なき戦いか知らぬが、山陰からはるばる魚釣りに出かけていたそうな。
257日本@名無史さん:2013/02/06(水) 19:47:05.25
匈奴單于は漢の皇帝の義兄扱いで客人だから別格で「匈奴單于璽」。

匈奴の酋長のはんこは「璽」といふ。
258日本@名無史さん:2013/02/06(水) 19:50:22.34
銀印青綬のは亀鈕で、地方の長官や中央官僚のトップクラスのがもらう。
259日本@名無史さん:2013/02/06(水) 20:05:29.57
倭王は列侯の待遇で、西域の烏孫とか大月氏とかと同様に金印紫綬もらう。

これは、中央の丞相・将軍 のが 金印紫綬だから、

倭王とかのも「朕哀汝」で、待遇は「中央の丞相・将軍なみ」だとする脳内ルール。
260日本@名無史さん:2013/02/06(水) 21:34:44.39
刺史が列島内にごろごろとか。。。へん

BC106年 刺史 を設置。 前漢武帝が全国十三州設置と同時に監察官として。
BC  8年   牧 に改称。二千石に改め(郡守と同)、牧が州内各郡県の行政権に介入。
BC  5年 刺史 に改称。
BC  1年 州牧 に改称。刺史と牧の間で何度も変わる。
AD. 42年 刺史 に改称。(光武帝)
AD188年 州牧 に改称。劉焉、劉虞、黄琬等の九卿クラスの重臣を要所の州牧に。
魏晋    州牧がすたり、将軍位を持ち兵権行使も行う「刺史」は「領兵刺史」
魏晋以後、将軍位だけでなく持節・都督により軍権を付与された刺史が地方軍の指揮を行うことが常態化。
261卑弥呼は満州にいた:2013/02/06(水) 21:47:59.67
すたりとは 廃れのことかと 誰か云ひ
262日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:03:47.09
>>248
倭人伝が邪馬台国論のバイブル。
倭人伝がないと考古学は邪馬台国に関しては無力。
鏡百枚にしても、金印にしても、卑弥呼の墓にしても倭人伝からの借り物。
だいたい邪馬台国という固有名詞そのものが倭人伝のもの。
263日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:18:32.30
せめてものことに一片の刺史の基礎知識もどきのでもあればね。。。
264日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:19:34.92
>>260
刺史は各州に置かれ、行政権を持つようになる。
後漢時代には最高の地方行政官となった。
まさに、倭人伝に登場する「官」がふさわしい。
一大率は各国を検察するためのもので行政権があるようには受け取れなし、
刺史のように各州限定の任務でないことは明らか。
265日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:21:42.27
>>260
>刺史が列島内にごろごろとか。。。へん

武帝のもと、各州ごとに刺史で、合計13名いたわけでしょ。
その類似で、卑弥呼帝のもと各国に刺史モドキで合計30名。似たような仕組みじゃないの。数は違うけど。
266日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:23:19.28
訂正: 30名 → たぶん29名
267日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:30:04.68
其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼・・・という詔書は軍事支援承諾宣言だとか
卑弥呼は鬼道の本場からの帰国子女であるだとか
一大率の正体は卑弥呼の男弟だとか
梯儁等来倭時は(女王國と狗奴国との間の)戦時下であっただとか
その他諸々の妄想を披露していた短気な爺様はどうしたのだろう。
268日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:34:07.18
>>264
刺史は各州に置かれ、行政権を持つようになる。

という理解のは誤。

正しくは、

刺史は各州に置かれ、州内各郡県の行政権に介入。
269日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:35:29.90
刺史の話は分かるが、
一体何と戦っているんだ?
270日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:38:56.87
>>263
ハイエナがライオンを批判するの図だな。文体が気色悪いと思ってはいたんだが、ハイエナだったのか。
271日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:43:19.59
>>269
刺史の話が即分かるのはすごい、
刺史は、伊都国の一大率のことだと頑張るおひとが多くて、話が進まなくてねえ。
272日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:21:12.97
>>260
やっと見つけた文献(下記)の抜き書きご苦労。
http://www.weblio.jp/wkpja/content/刺史_刺史の概要
273日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:51:45.19
>>272
wikiのここらへんの項目とか

ちゃんとめえとおしてから、まぬけなことほざけよ。

銀印青綬 九卿 校尉 太守 都尉 刺史 二千石 諸侯王の相 諸侯国の相

これあたりのは必読だろ

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5%3A%E6%A4%9C%E7%B4%A2&profile=default&search=+%E4%BA%8C%E5%8D%83%E7%9F%B3&fulltext=Search
274日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:55:41.73
【尖閣】 防衛省「レーダー照射、以前からあった!民主党がビビって発表しなかっただけw」
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1360148473/

2013年2月6日 水曜アンカー B
http://www.youtube.com/watch?v=ZbqTsl6aoh8
275日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:59:18.11
>>260
>>272
文献拝見しました。感謝します。またぐうぜんにも伊都国のところに一大率も発見しました。
そこには一大率が刺史であるとかいてありました。しかしこれは近畿説に立って解釈したためでしょう。
もし各国に刺史がいたとすると、
関東以西に合計数百名の刺史がいたことになります。
そのため北九州限定の少数名にするためには、一大率が刺史であると解釈せざるを得なかったのだと思います。
でも九州説なら、最大でも30名以内ですから。さほど不思議ではありません。
というか、上の文献の解説からしても、むしろ適切な配置・役割・人数ではないでしょうか。
276日本@名無史さん:2013/02/07(木) 00:02:27.86
>>273
がはは。禄高が二千石で同じだから率善中郎将と刺史は同じ人物だと言うのか?
まさか、一大率の率と率善中郎将の率と同じ字があるから一大率は率善中郎将だと言うんじゃないだろな?
277日本@名無史さん:2013/02/07(木) 00:17:05.80
倭人伝で言ってるのは刺史でなく、刺史モドキ(如刺史)だから、
お給料もそれなりモドキだったんでしょうねえ
278日本@名無史さん:2013/02/07(木) 00:18:21.56
あ、与作だ
279日本@名無史さん:2013/02/07(木) 00:58:38.59
>>275
何を勘違いしているのだか。倭国に一大率は1人だけだ。その一大率が刺史のようだと
いうだけのこと。
280日本@名無史さん:2013/02/07(木) 13:30:03.19
>>279
うえのほうで、一大率は伊都国に常駐して出歩くことはないので、臨津搜露伝送は伊都国の港のみで行った、と主張されるお人があった。
それでは監督不十分であろうから、手下に各国駐在の刺史が必要ではないか・・、となった。

しかし >>260 のように、魏代の刺史は将軍待遇の領民刺史である、となれば
諸国に出向いて検察監督する役目になり、兵も従えているので、一大率 → 如刺史(如領民刺史)で良く、
必要に応じて必要な津に出向き、臨津搜露伝送も執り行う、でよろしいかと思います。 >275 
281日本@名無史さん:2013/02/07(木) 14:53:38.96
>>280
>しかし >>260 のように、魏代の刺史は将軍待遇の領民刺史である、となれば

>>260は自分に都合のよい部分だけを抜き書きしたものだよ。
領兵刺史は将軍が刺史に任じられた場合で兵権を持つが、兵権を持たない刺史もいたのだよ。
282日本@名無史さん:2013/02/07(木) 15:45:05.99
>魏晋では刺史となった(ただし、魏初には曹休、夏侯尚のように州牧位に就いた者もいる)。
>この時代には、刺史が将軍位を持って兵権の行使も行うことがほとんどとなり、「領兵刺史」と呼ばれた。
>しかし寒門の出の刺史には将軍位が与えられないこともあり、こちらは「単車刺史」と呼ばれた
>(将軍としての護衛がつかないので、出駕の際に僚車がおらず一輌だけで移動したのだろう)。
>領兵刺史と単車刺史には官品も差別があり、領兵刺史が四品官なのに対して単車刺史は五品である。
283日本@名無史さん:2013/02/07(木) 17:06:43.16
284日本@名無史さん:2013/02/07(木) 17:25:05.31
トップの「宰相」に次ぐ「諸公」のトップのが「太宰」「太師」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AE%98%E8%81%B7#.E8.AB.B8.E5.85.AC

丞相 : 秦
丞相 : 前漢
太傅 : 後漢
太傅 : 魏
太宰 : 晋
太師 : 隋(煬帝)
太師 : 唐(玄宗)
太師 : 宋
太師 : 元
太師 : 明
太師 : 清



「俀王」「多利思北孤」の兄貴の、天のほうの「俀王」

名「太師」爲利 歌彌多弗利

俀王遣「小徳」阿輩臺 従數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎

「小徳太師」 「阿輩臺」 「歌彌多弗利」 「上宮法皇」
285卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 17:25:40.81
むつかしい 話の続く 2ch(笑)

常識的に考えて、倭の各国に刺史の如き役人がいたはずはないよ。
刺史というのは州に置かれるのだ。たとえば幽州に一人。
で、その幽州がどれほど広大か、分かるか?
遼西郡などはその幽州の中の一郡にすぎない。
その遼西郡が九州とほぼ同じほどの広さなのだ。

分るね? チミ達w
286卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 17:36:35.64
よく学び よく妄想す 稗箕狐かな
稗箕狐タン 学問積めど 九州説
287日本@名無史さん:2013/02/07(木) 17:40:38.07
ミミ萩原
288日本@名無史さん:2013/02/07(木) 17:47:43.06
>>285
あのね。中国においては行政単位として最大のものが州だったんだよ。その最大の行政単位の監察官
として置かれたのが刺史なんだよ。
倭国を中国になぞらえれば、行政単位として最大のものは國になるんだよ。土地の広さが問題ではな
いんだよ。
分かるね?チミw
289日本@名無史さん:2013/02/07(木) 18:03:04.38
大率=太宰という説あり、そうすると諸侯=菅原道真クラスの貴族?にいちづけられるんだねえ
それに対して刺史は地方官で警察署長クラス。
290日本@名無史さん:2013/02/07(木) 18:12:39.21
>>283 「郡」よりあとに設定された「州」のトップのは

州刺史・ 都護→州刺史・都護・都督→刺史→都督都護・節度使・探訪使→牧節度使・都監

みたいなかんじで推移
291日本@名無史さん:2013/02/07(木) 18:21:35.47
菅原道真は過去の高貴の血筋のおかたで「天神」「あまがみ」になったんだよね

蘇我原道真 なああんちゃって

雷さまが鳴ると唱える「桑原桑原」って呪文は道真の領地が「桑原」とかって

ここかな http://maps.google.co.jp/maps?q=33.604683,130.224767
292日本@名無史さん:2013/02/07(木) 18:47:32.21
>>290
隋(煬帝)→ 唐(玄宗) ので
  郡太守→州刺史  刺史がインフレるのは 細かい州が増えたため

wiki 「州」 「唐は郡を州と改名し、州(旧・郡)の上に道を設置した。」
293日本@名無史さん:2013/02/07(木) 18:53:14.54
>>289
>それに対して刺史は地方官で警察署長クラス。

州という地方だけを任地とするという意味では地方官であるが、刺史は中央から派遣された監察官であり、
定期的に中央への報告が義務づけられている中央直属の役人である。その任務は行政事務の監察である。
司法事務の監察も当然含まれるが警察署長的な仕事をする役人は別に居る(警察署長などは監察される側)。
刺史の本分は監察であるが、役人の採用試験などを仕切ったりするなど行政的な仕事に口出しすること
も出来た。
将軍や都督の肩書きを持つ者が刺史に任用されると兵権も持つことになった。魏、晋の時代にはそういう刺史
が多くなったのであるが、兵権は将軍や都督に付属するもので、刺史本来の任務に兵権の行使はない。
294卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 19:04:19.02
>>288
行政単位としての国というものがあったとしたら、
倭国は統一されていたことになる。
日本は大和朝廷で統一されていたから、
長門国とか筑前国…が行政単位として存在したのである。

しかし記紀のどこを探しても、
九州に大和朝廷とは独立した統一政権があって、
九州内の諸国を○○国△△国××国…に分けて支配していたような記述はない。

また倭の諸国が行政単位としての国というものだったとしたら、
諸国の官名がバラバラなのは変である。
つまり倭人伝を信じるならば、倭の諸国は統一されていなかったのである。
それは記紀の記述とは反するが、倭人伝を信じるならそう考えるしかない。
295日本@名無史さん:2013/02/07(木) 19:15:28.35
後漢は3級制を敷き、州・郡・県の3段階の行政区画を置いた。
全国を13州に分けて各州に刺史を置いた。
その後の王朝も3級制を踏襲したが、
隋の煬帝は州を廃止し、郡・県の2級制とした。
http://ccp3.jp/sai/wp-content/uploads/2010/04/gyusei2.gif
296卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 19:22:07.65
諸国の官名がバラバラなのに、それらの諸国が女王に服属している…。
倭人伝の記述は実に摩訶不思議である。

おまけに伊都国に大率という、百済の官と同じ官名の役人が常駐しているという。
どうも信じがたい記述ばかりなのである。

何かの勘違い、錯誤があるのではないかと思わざるを得ない。
但しもしこれが真実だとしたら、記紀に対して深刻な疑問が生じることになる。
297日本@名無史さん:2013/02/07(木) 19:48:24.86
ふるくは全土(天下)を九等分して九州と呼んだ。

秦の国内では紀元前4世紀の孝公の時代に郡県制が実施されていたが、
始皇帝は全国を36郡(のち48郡)に分け、郡の下に県を置き、皇帝任命の官吏を派遣して、中央集権体制の基礎とした。

前漢の地方制度は基本的には秦の郡県制を受け継ぎ、同時に皇族を封国して諸侯王とする並立制を布いた。これを郡国制と呼ぶ。
前漢の郡国制は郡県制と封建制とのミックスで
王都長安の周辺は中央直轄地として郡県制を、地方には一族・功臣を諸侯王、諸侯として封じる封建制を併用した。
その後、諸侯勢力が削減され、第7代武帝の頃に至り、前漢の地方制度は事実上の郡県制へと移行した。

その武帝の紀元前106年に、全国に十三州を設置したのと同時に刺史が設置された。
このころには中華の外延領域の「縣」サイズのまとまりを仮想上の「國」として捉えるような思考が発生していて、
それらの國國をまとめあげる、その大なる首長への印綬の下賜がスタートする。

前109年に前漢武帝からの「滇王之印」プレゼントがその始まりあたりのものでしょうか。
298日本@名無史さん:2013/02/07(木) 20:21:05.54
倭人伝では「刺史の如き」とあるのだから、
刺史そのものと比較する必要はない

例えば、
「一大率の威張り具合が、まるで中国の刺史のようだ」
「一大率の権限が、まるで中国の刺史のようだ」
など、いろいろな意味合いに取れる。
299日本@名無史さん:2013/02/07(木) 21:14:25.15
うん、この書き方では刺史の解釈に深入りはできないね

ともあれ賜物などの伝送について、ルート・物流・秩序・安全等は確保されてると言える
もちろん少なからぬ護衛兵、人足、宿場も含めてね
300日本@名無史さん:2013/02/07(木) 21:43:12.50
>>298
>倭人伝では「刺史の如き」とあるのだから、
>刺史そのものと比較する必要はない
「刺史の如き」がどういうことを意味しているかを知るためには刺史についての知識が必要でしょ。

>「一大率の威張り具合が、まるで中国の刺史のようだ」
>「一大率の権限が、まるで中国の刺史のようだ」
>など、いろいろな意味合いに取れる。
それはあなたの感じ方ですね。
「於國中有如刺史」は一大率とは関係なく、「各國には刺史のような役人がいる」という意味にとれる
と言う人もいます。
301日本@名無史さん:2013/02/07(木) 21:51:20.39
各国に置かれている「官」とは何ぞや。
ということからはじめてもいいんじゃないか。
一大率という高官がいて、各国には「官」が置かれている。
刺史の如きものとは果たしてどちらか。
刺史如きものでない方はどのように定義付けられるのか。
302日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:05:39.41
>>294
実際に倭国が統一国家であったろうがなかったろうが関係ないんじゃないかな。
もちろん、倭国の国々が後の統一国家のように統一されていたというのではない。
各國はある程度の独立性を持っていたかも知れない。しかし、各國は女王に属するという状態であったから、
魏の人間にすれば各國が倭国の行政単位に見えたのであろう。

>また倭の諸国が行政単位としての国というものだったとしたら、
>諸国の官名がバラバラなのは変である。
各國の官名がバラバラなのは倭国が完全な統一国家ではなかったからだろう。しかし、魏の人間には
國が倭国の行政単位に見えたのであろう。
303日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:11:52.37
「各國には刺史のような役人がいる」という意味にとれると言う人のがまぬけなだけ

てか売官で刺史の官職を購うのも可だし 死後に追贈のもあるし

へたれ刺史のではなくて、正調の刺史のことでないと「有如刺史」のがすたるわ。。。
304日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:14:49.69
まあ、畿内説としては「官」も「一大率」も困る存在ではあるな。
緩やかな連合にはふさわしくない。
305卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 22:15:18.70
>>302
橋本増吉は倭の諸国の官名がバラバラだから、
大和朝廷による統一はまだ出来ていなかったと考えた。
そのせいもあって彼は九州説を唱えた。

しかし私は基本的に記紀を信じるという立場だから、
倭人伝の記述には疑問を持っているのである。
ただし倭人伝が正しいとすれば記紀は否定されるわけで、
これは日本古代史に深刻な疑問を突き付けることになるのである。
306日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:15:32.78
誤読する人は確かにいるけどそれに関わっても仕方がない。
307日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:18:09.15
>>305
記紀と倭人伝とは矛盾しないけどな。
308日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:26:05.58
官名がバラバラな状況も加味して 乃共立一女子為王 といってるのでしょうね。
どこぞの連立政権みたいで、まあそれもありかと。
309日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:27:42.54
>>303
こいつの書く事はいつもへたれているな。
310日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:35:43.17
それはそうと、皆臨津搜露伝送 は いずこの津で行うことになったんでしょうか?

王遣使詣京都帶方郡諸韓国及郡使倭国、皆臨津搜露伝送文書賜遺之物詣女王、
311日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:44:34.30
一大率は伊都国に役所を置いているわけだから、当然、伊都国の港だろよ。
312日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:56:09.71
>>310
皆臨津搜露の皆が何を指すかが問題ですね。
313日本@名無史さん:2013/02/07(木) 23:16:28.08
>>312
1.王遣使詣京都 2.王遣使詣帯方郡 3.王遣使詣諸韓国 及び 4.郡使倭国、
この4つのケースは皆・・・、ということではないのですか。
314日本@名無史さん:2013/02/07(木) 23:34:18.87
>>310
末盧國の津・・・倭地の上陸地点、倭地陸行の始点
315日本@名無史さん:2013/02/07(木) 23:48:55.73
>>313
そのように思われますね。
ところで、臨津搜露の「臨津」は「津に於いて」でよいと思いますが、「搜露」とは何でしょうね。
「検査、照合のようなことをする」ようにに思えますが、「搜露」は目的語をとるのでしょうか?
316日本@名無史さん:2013/02/08(金) 00:04:23.02
>>173  は次のように言っていますね。
>ついでに言えば、皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物とするのも誤りだろう。
>私は、皆津に臨みて文書賜遺之物を搜露傳送し、と読むよ。

これだと文書賜遺之物の後に「詣女王不得差錯」とありますから(文書賜遺之物は女王宛のものとなりますから)
4つのケースの内の4.郡使倭国の場合しか当てはまりませんね。
317日本@名無史さん:2013/02/08(金) 07:29:47.81
そうではあるまい。搜露ですむものは搜露ですませ、傳送する必要があるものは傳送する。
その中で女王宛のものは女王のもとへ間違いなく届けるということだ。
318日本@名無史さん:2013/02/08(金) 08:40:24.84
搜露は水引封緘の儀式のことで、その形式が今日の祝儀袋の水引であるとの説あり
傳送は、とうぜんだが駅伝方式の送達と思われる
319日本@名無史さん:2013/02/08(金) 14:20:23.94
   
搜露:さがしむきだしにする。梱包を開け調べ出す

「搜露」の意味は単純に考えれば良い。
「搜露」を動詞とするなら、自動詞で目的語は取れない。
320日本@名無史さん:2013/02/08(金) 14:50:14.99
伝送は、女王国により設置されている「駅」を中継して駅伝配送する・・、と考える
またこの文は、当然ながら魏王朝の視点で読むべきとする。
すると原文は、
4つのケースについて皆を臨津で搜露(海上輸送又は陸上輸送に適した荷姿に包み直して封緘し、駅伝で)伝送する、そして文書(詔書)や賜遺之物については(確実に)女王に詣せ、不得差錯。
321日本@名無史さん:2013/02/08(金) 14:57:26.34
>>317
貴殿は>>173を書いたお方かな?
>搜露ですむものは搜露ですませ、傳送する必要があるものは傳送する。
原文にそんなことが書いてありますかな?
322日本@名無史さん:2013/02/08(金) 15:31:53.10
>>319
>搜露:さがしむきだしにする。梱包を開け調べ出す

搜と露の意味を単純に組み合わせた訳ですな。しかし、
「梱包を開け調べ出す」とは穏やかではありませんな。例えば魏使の荷物の梱包を開けて調べることなど
出来ますかな?
323日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:41:11.88
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324日本@名無史さん:2013/02/08(金) 17:43:59.87
>>322
>「梱包を開け調べ出す」とは穏やかではありませんな。
>例えば魏使の荷物の梱包を開けて調べることなど出来ますかな?

意味不明
「皆」は、「王遣使」と「郡使」ですね。
梱包を開け調べ出すのは、「王遣使」と「郡使」ですよ。
楽浪郡や帯方郡の太守が任命する「郡使」レベルでは一大率の検察下に置かれるのでしょう。
これは「郡使」が公孫傘下にあったことを引き摺っていたからだと思います。
「郡使往來常所駐」の郡使も公孫傘下時代からのものを指すのでしょう。

「魏使」が、梱包を開け調べ出すとは書いていませんが。
魏帝勅命を受けた「魏使」はフリーパスでしょ。
325日本@名無史さん:2013/02/08(金) 17:59:55.95
>>324
梱包の解釈が人によりさまざまのようです。
ここの梱包は、輸送用の防水油紙とかクッション材のことですか?
それとも、賜物をつつんでる包装の封印を外して中味を直接目視するとか?
326日本@名無史さん:2013/02/08(金) 18:17:01.55
>>324
ははあ、貴殿は「臨津搜露」の執行者は一大率だと思うのですな。

>梱包を開け調べ出すのは、「王遣使」と「郡使」ですよ。
これは「王遣使」と「郡使」が「臨津搜露」の執行者ということではなく、両者の場合にという意味ですな。
ところで、一大率は女王(倭王)から派遣された者でしょうが、「王遣使」(倭王が魏の京都や帯方郡や諸韓国
へ使者を遣わす)の場合も荷物の梱包を開けて調べるのですかな?
327日本@名無史さん:2013/02/08(金) 19:16:56.41
>>325
輸送用の梱包です。
封印を外すことはなく、木簡とリストとの照合まですね。

>>326
「王遣使」のリストからの出国前の抜き取りや、リスト外の不許可持ち出しを防ぐ為でしょうね。
つまり、女王に隠れての密通を防止するためです。

伊都國の王や女王以外の諸国の官が半島や魏のと接触するのを防止するためかと思います。
328日本@名無史さん:2013/02/08(金) 20:17:16.95
超偉い人は引き継ぎ式(とまあ一杯)、次の偉い人は木簡/リストの照合/輸送梱包の封印など、
下っ端は輸送梱包の手直し・差替え・縄菰掛け、人足どもはエンヤコラ・・・、

とりあえずこんなところまできましたが・・・、
329日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:02:05.51
>>327
>輸送用の梱包です。 封印を外すことはなく、木簡とリストとの照合まですね。
>「王遣使」のリストからの出国前の抜き取りや、リスト外の不許可持ち出しを防ぐ為でしょうね。
そういうことは当然行ったでしょうね。

>伊都國の王や女王以外の諸国の官が半島や魏のと接触するのを防止するためかと思います。
確認したいのですが、「伊都國の王や女王以外の諸国の官」とは「(伊都國の王と女王)以外の諸国の官」
と言っているのでしょうか、あるいは「(女王以外の)諸国の官や伊都國の王」と言っているのでしょうか?
330日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:10:53.99
@見大人所敬、但搏手以當跪拜。  
A其人壽考、或百年、或八九十年。  
B其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。  
C不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸、  
D及宗族尊卑各有差序、足相臣服。  
E收租賦、有邸閣。  
F國國有市、交易有無、使大倭監之。  
G自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。  
H王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。  
I下戸與大人相逢道路、逡巡入草;傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。

上記@〜Iは倭の社会状況を述べた部分である。
Gでは、刺史の様な役割の一大卒と言う検察官がいて女王が安定した統治をしていると述べている部分で、
Hでは、出入国管理の統制が取れていることを述べている部分である。
331日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:22:00.40
G自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。
H於國中有如刺史、王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

Hでは國には刺史のような役人が居て、使者の出入国を津で管理しており、文書賜遺之物の伝送(駅伝)システムがある
ことを述べている。
332日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:24:09.63
二千石の諸官の中でも、特に

@郡・国の長官である「郡の太守」 や A「諸侯王の相」

の代名詞として「二千石」が使われる場合があった(『漢書』循吏伝)。


A「諸侯王の相」はもとのが

おっぼちゃまとかが王・侯になるときは中央から派遣されたおひとのがふつう


二千石に相当する「率善中郎将」のは「諸侯王の相」にぴったり相当で「銀印青綬」
333日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:26:31.07
>>332
wiki ちょっと まちがってるね  @郡・国の長官である「郡の太守」

郡の長官である「郡の太守」

国の長官である「属国都尉」

がほんとだろ。
334日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:26:59.23
>>332
何が言いたいのだ?さっさと言え。
335卑弥呼は満州にいた:2013/02/08(金) 23:33:21.85
>>330
これは新しい見解だ。
Hは一大率の仕事ではないという見解だな。
なるほど、これが正解かもしれぬ。
336日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:54:44.67
つか、これが定説だろ
337日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:56:51.94
うん、こうしてみると
>331 の Hのように、搜露、傳送は刺史の仕事と割り切って読むと分かりやすいわ
338日本@名無史さん:2013/02/09(土) 00:20:53.88
1968年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘について、韓国の学者が新たな解釈を示した。

西江大学のキム・ヨンドク物理学科名誉教授は1996年の退任後、本格的に百済史の研究に取り組んできた。
このほど、稲荷山古墳出土の鉄剣の銘をもとに、日本の王室が百済王室から分かれたとの見解を示す書籍を出した。

5世紀につくられた鉄剣には115文字の漢字が刻まれている。日本の学界では、ヤマト王権にこの地の豪族が仕えていたとするのが通説だ。

しかしキム名誉教授は、銘を朝鮮漢字音で読むと、高句麗が396年に百済を攻め、
当時百済の領地だった河東の侯王一族が日本に亡命し、百済の侯王として擁立されたという、百済の歴史を示すものと解釈した。

また、5世紀半ばごろ、関東と関西、九州の3カ所に百済の王族が派遣される行政所が置かれていたとし、
稲荷山古墳出土鉄剣の銘は、百済の一つの王室から二つの国の王統へとつながったことを示す貴重な歴史資料だと主張した。

http://m.yna.co.kr/mob2/jp/contents_jp.jsp?cid=AJP20130208001500882&domain=6&ctype=A&site=0100000000&mobile
339日本@名無史さん:2013/02/09(土) 00:34:01.61
それはない
340日本@名無史さん:2013/02/09(土) 03:01:38.99
朝鮮では漢文を音読するから「銘を朝鮮漢字音で読む」のは当たり前。
その名誉教授はアタマが傷んでいる。「畿内説」といい勝負だ。
341日本@名無史さん:2013/02/09(土) 03:32:01.35
そもそも朝鮮漢字音っていつの時代の読み方だよ
稲荷山鉄剣の頃の読みなど再現できないだろ
詳細はわからんが現代音で読んでこじつけたんじゃないか
342日本@名無史さん:2013/02/09(土) 07:14:15.96
どれだけ音が共通するのかの説明がないと何とも言えないな。
343日本@名無史さん:2013/02/09(土) 10:08:53.84
>H於國中有如刺史、王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
>Hでは・・・・・、文書賜遺之物の伝送(駅伝)システムがあることを述べている。

駅伝式の伝送システムというのは、言われてみるとなるほどあっておかしくない。
というか伝令や狼煙網も合わせて、朝貢や国内・属国統治に重要不可欠のシステムだ。
344日本@名無史さん:2013/02/09(土) 17:57:09.21
駅伝式の伝送が行われたことを使者が目撃したということは、使者の荷物が北九州から
かなり遠隔の地に運ばれたことを裏付けているよ。数日でたどり着くところならば駅伝
方式など不要だ。最初の案内係がそのまま運ぶさ。
345日本@名無史さん:2013/02/09(土) 18:01:45.92
延喜式の時代なら、唐津から太宰府まで、狼煙と駅は、
完備されてるようですが、どこまで遡れるかな。
346日本@名無史さん:2013/02/09(土) 19:25:12.79
表題:岐阜県古代の道路図、
半ページスクロールすると全国七道駅路図に九州も載ってる
唐津〜佐賀平野〜基山方面にいくつか駅あり、熊本までは10余駅
http://www.tokyocactus.org/mino/minoroad.html
347日本@名無史さん:2013/02/09(土) 19:58:18.30
>>304
困るってより、アウトだわね。
2世紀中頃なんて時代に、西日本全域を軍事的に統括する勢力なんて
無いんだから。これ一発で近畿説は沈むわなw
348日本@名無史さん:2013/02/09(土) 19:58:51.11
?2世紀
○3世紀
349日本@名無史さん:2013/02/09(土) 20:37:59.17
かくて田島の御社に詣でんとて、島わをつたひ、大友、小友、土器崎(大友、小友は風土記に見えたる【登望駅】にて、昔神功皇后の御鞆を落し給ひし所といへり。
土器崎は同じ折御祭の土器を沈め給ひしところといふ。)などを見さけつつ、辿りつきて、神司平野内麿かりあないをこひ、田島神社に詣でて、神殿の御扉なる太閤のすさび書などを写し、末社なる佐用姫の御形石をも拝みまつれり。
http://www.yoyokaku.com/sub7-55-1.htm
350日本@名無史さん:2013/02/09(土) 20:50:29.03
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou68/furuka68.jpg
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou68/kai06803.html
律令時代になると駅伝制が整備された。肥前国における初期の駅制は明確ではない。
『肥前国風土記』によれば、肥前国の駅路は小路で、養父郡を除く一〇郡に一八の駅家が置かれていた。
そのうち具体的な駅名が判明するのは松浦郡の逢鹿・登望ニ駅にすぎない。
351日本@名無史さん:2013/02/09(土) 20:56:37.04
352日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:04:14.08
353日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:26:59.06
駅伝の高来駅というのは今の多久市のようですが、
ここは長崎方面、唐津方面、吉野ヶ里方面への三差路らしく、長崎方面の懐深さに驚。
佐賀平野は、多久とか小城とか佐賀大倭とか吉野ヶ里とか、伊都国他の候補地に事欠くことはないようで、古くから賑わっていたようですねえ。
354日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:41:06.29
355日本@名無史さん:2013/02/09(土) 22:01:22.17
>>354
マップ勉強してます。
ところで、>>346 の図によると、
唐津−多久間に磐氷と読める駅があるようでが、あれは今の岩屋辺りなんでしょうか、ご存じありませんか?
356日本@名無史さん:2013/02/09(土) 23:01:19.22
上の >>346 によると、唐津から熊本国府まで12駅。
1日1駅として12日かかる。ここまで約千五百里。あと五百里分足して二千里で16日かかる。
これは奈良時代の頃なので、卑弥呼のころにはもう少しかかったとして目やす20日。う〜ん陸行一月??
357日本@名無史さん:2013/02/09(土) 23:38:56.67
いつまでも万二千里にこだわって馬鹿な議論をしているな。万二千里は女王国の入り口。女王の都とはちがうんだよ。
邪馬台国は戸数七万、県が二つくらいは入るかなりの大国だ。万二千里で都に到達する
と思い込んでいるのは完全な誤りで、万二千里から先が長いんだよ。
358日本@名無史さん:2013/02/09(土) 23:39:29.21
359日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:49:09.34
地名は歴史を表すが邪馬台国の名残
耶馬溪が大分にある
掛軸の山水画の風景が広がる
360日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:52:31.66
山国谷か
361日本@名無史さん:2013/02/10(日) 02:05:04.07
嵯峨と佐賀と蘇我と志賀、関係のあるのとないのとどれよ?
362日本@名無史さん:2013/02/10(日) 02:15:23.41
ごく一部の風景だが、こんな山水画のような風景があるのが大分県耶馬溪
もっと良い画像があるのに貼れなくなってる
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/album/lrg/10/62/89/lrg_10628916.jpg
363日本@名無史さん:2013/02/10(日) 03:35:05.81
364日本@名無史さん:2013/02/10(日) 08:09:10.22
>>359
耶馬溪は江戸時代に頼山陽によって名づけられた。もっと勉強して。
365日本@名無史さん:2013/02/10(日) 10:05:12.39
>>358
どうもありがとう。岩屋駅の場所も拝見しました。私的には狼煙台が気にいりました。
この方法は素晴らしいですね、現地の置かれた状況がよくわかります。また全体像も理解しやすいです。>355
366日本@名無史さん:2013/02/10(日) 21:34:51.61
邪馬壹国(シャモイッコク)その東の境界国が邪馬国(シャモコク)で、モーセの国でした。
邪馬壹国はモーセの教理を第一とするイエスキリストの国でした。

お前の頭は大丈夫か! と言われそうですが・・・。

浦島太郎の物語がそれを教えています。
http://saisentannomizude-zennojyunkanwo.blogzine.jp/kagomekagome/2013/02/post_3421.html

浦島太郎、 因幡の白兎、 かぐや姫 桃太郎 鶴の恩返し 一寸法師・・
おとぎ話の中に我が日本建国の真相が語られていました。
367日本@名無史さん:2013/02/11(月) 00:57:48.39
邪馬台国は熊襲の酋長の国
368日本@名無史さん:2013/02/11(月) 09:53:16.30
「世有王皆統属女王国」 の 統 は何を意味するか?

ふつう大統領みたいに、統べる の意味で使うけど、
駅伝・伝送からの連想で、ここは つながる じゃないかと思いなおした。
皇統、王統、一統、血統、などのように系図上または血縁上のつながりを示すと考えれば分かりやすい。
伊都国には代々王がいたけれど、皆女王国に系図上(血縁上)でつながっている、とすれば「(今の)女王国(の中枢)」に属するでよい。
またなぜ伊都国のくだりに世有王や一大率が挿入されているのかも理解しやすい。

さらに、卑弥呼を助けるのは男弟であったし、不属の狗奴国男王は血統でなかったと、
陳寿の 統 に対するこだわりと読めばすっきりする。
なおこの場合、国の数が不足するので次有華奴蘇奴国は、以前から指摘されてるように、次有華奴国、次有蘇奴国、の二国に分けることになるが。
369日本@名無史さん:2013/02/11(月) 09:58:39.44
世有王 皆統屬女王
國郡使往來常所駐
370日本@名無史さん:2013/02/11(月) 10:10:53.13
>>369
なるほど!
371日本@名無史さん:2013/02/11(月) 10:46:34.10
>「世有王 皆統屬女王」
>「國郡使往來常所駐」

おバカな!
「國郡使」ってなんじゃらほい!
372日本@名無史さん:2013/02/11(月) 11:15:00.19
世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
国々には代々王がいる、国々は女王国に統属している、国々は郡使が往来するときに
常に注する所である。
373日本@名無史さん:2013/02/11(月) 11:15:56.00
注→駐
374日本@名無史さん:2013/02/11(月) 11:36:37.21
>国々には代々王がいる、

又も、おバカな!
「伊都國には歴代の伊都國(旧倭國)王がいる」でしょ。

旧倭國王 : 帥升王統の倭國王
倭都 ⇒ 伊都國:昔倭都であった国の意
375日本@名無史さん:2013/02/11(月) 11:41:57.44
>旧倭國王 : 帥升王統の倭國王

旧倭國王 : 女王國の女王出現前の倭國王、即ち帥升王統の倭國王
376日本@名無史さん:2013/02/11(月) 11:44:56.84
平成25年1月27日のドイツ公共放送ZDFの報道

「1月27日のオスプレイ反対デモの参加者は韓国指揮下の日本人のふりをした帰化未帰化在日韓国人であり、
主導者は帰化韓国人の柏崎正憲カシワザキ・マサノリ(通名)である。

この人物も参加者たちも、韓国および人民シナから高額の参加手当てを受け取っている。
この人物は、在日韓国人捏造従軍慰安婦=追軍売春婦による日本国へのタカリ運動、日本国の世界最新原発技術を韓国・人民シナ・フランス・ポーランド・チェコ・ルーマニアへ横流すための日本国内原発全廃運動も主導している。
オスプレイ反対デモの目的は、日本国沖縄県から米国軍を追い出し韓国軍および人民シナ軍を呼び込み日本国沖縄県を乗っ取るためである。」
http://www.youtube.com/watch?v=PW0ueNdIn-Q
377日本@名無史さん:2013/02/11(月) 11:57:03.65
>>374
お馬鹿は君。伊都国についての記述は千余戸有りで終わっている。
伊都国の王のことならば、伊都国の官の前に書くよ。
対馬国から伊都国までの王についてまとめて書いたのが世有王 皆統屬女王國だ。
378卑弥呼は満州にいた:2013/02/11(月) 12:21:59.41
東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。
有千餘戶,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。
東南至奴國百里…

どう見ても「世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」は伊都国に関する記事。
379日本@名無史さん:2013/02/11(月) 12:26:06.74
やあ、満州さん。いつもながら応援演説ありがとうございます。
380卑弥呼は満州にいた:2013/02/11(月) 12:26:50.22
休日なのに−休日だからというべきか−閑散としてるなw
さすがに九州論者ももう降参かw
381卑弥呼は満州にいた:2013/02/11(月) 12:38:06.22
九州論者にお奨めの書

キルケゴール「死に至る病」
382日本@名無史さん:2013/02/11(月) 12:38:08.73
新しい九州説ですからね、近畿勢や北九州勢にはまだまだ負けませんよ。
まあ、なんとなく満州さんだけには降参気配ですが。。。
383卑弥呼は満州にいた:2013/02/11(月) 12:46:59.19
五十跡手奏曰 高麗国意呂山自天降来 日桙之苗裔 五十跡手是也 (筑前国風土記)

伊都国王?五十跡は日桙之苗裔だったわけで、
神功皇后も母系はたしか日桙之苗裔だったはず。
伊都国王と大和の王は親族関係にあったわけで、
君らが思っているように敵対していたわけではないよ。
その意味でも九州説はもう終了している。
可哀そうだが、これが真実。人生は残酷なものだねぇw
384日本@名無史さん:2013/02/11(月) 13:21:36.44
ここまで、満州の自演でした
385日本@名無史さん:2013/02/11(月) 13:26:35.17
>>378
そうゆう句読点を打てば、伊都国に関する記事に見えるよ。しかし、原文に句読点はない。

翰苑の「其国王皆属女王也」は各国の王と読まれている。また、後漢書には、「国皆称王
世々伝統」とあり、これも国々には王と称するものがいて世々統を伝えていると訳されている。
これは倭人伝から作った記事だといわれていることは知ってるかな? 
倭人伝だけが伊都国の王のことを書いているなんてのはおかしいんだよ。
昔の史家はちゃんと倭人伝を読んで国々のことと理解しているんだ。
386日本@名無史さん:2013/02/11(月) 13:26:59.04
>>384
それっぽいのはあるな。
しかしいっとくが自演ではないぞ。コテのないのは >368だ。 文体も趣味も違うじゃろうが。
387日本@名無史さん:2013/02/11(月) 13:47:41.66
>>385
>翰苑の「其国王皆属女王也」は各国の王と読まれている。

原文写と解説本を見た。上のように読む人もあるかもだが、
其国は伊都国を指しているように思え、解説者同様、オレにはどうみても各国とは読めないなあ。
388日本@名無史さん:2013/02/11(月) 13:54:25.40
>伊都国の王のことならば、伊都国の官の前に書くよ。
>対馬国から伊都国までの王についてまとめて書いたのが世有王 皆統屬女王國だ。

「世有王」は伊都國に居る王であって伊都國王ではない。
伊都國は旧倭王の都。

倭人伝の表記順序
@國の名称 
A官の名称 
B戸数 
Cその他事象

「世有王」以降はCその他事象にあたる。
389日本@名無史さん:2013/02/11(月) 14:09:09.95
其南有狗奴國。男子爲王。其官有狗古智卑狗。不屬女王。

これは王、官、その他だよな。「世有王」はその他ではなく王のことだよ。
390日本@名無史さん:2013/02/11(月) 14:17:26.30
>オレにはどうみても各国とは読めないなあ。
学者は、結構「皆」を対馬国以下の各国の王と読んでいるそうだ。総覧の
解説を読んでみな。
391日本@名無史さん:2013/02/11(月) 14:20:07.76
>>389
そうお読みになりたいとおっしゃるお考えは、貴重なご意見として尊重いたします。
392日本@名無史さん:2013/02/11(月) 17:34:04.95
>>369
王遣使詣京都帶方郡             世有王 皆統屬女王
【諸韓國及郡】使 倭國            【國郡】使 往來常所駐
皆臨津搜露 傳送文書 賜遺之物
詣女王 不得差錯
393日本@名無史さん:2013/02/11(月) 17:58:46.04
>>380
>>381
もうそんなしょうもない工作でなんとかなる状態じゃないと思うけどww
394日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:10:40.59
>>385
追い詰められて、まともに引用できず且つ誤字だらけの「翰苑」まで持ち出したか。

翰苑の引用元で考えろ。
395日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:14:32.06
文章の切り方がまったく分かってないね。
王遣使詣京都帶方郡諸韓國  及  郡使倭國  皆臨津搜露傳送文書賜遺之物  詣女王不得差錯

この文章は、魏の役人が書いたものが資料となっている。だから、京都、帯方郡、諸韓国と魏からす
れば重要な順序に並べてあるんだ。そして、次に郡が倭国に使者を送ったときの
ことを述べている。
あなたのように、【諸韓國及郡】と切り取ったのでは、魏からすればどうでもいい諸韓国の方が先に
書かれていることとなる。魏からすれば郡は魏の出先、諸韓国よりも郡が大事なんだよ。
396日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:21:42.24
>>394
追い詰めるも何も「どうみても伊都国だと思う」程度の意見ではねえ。
漢文の読み方を知らず、学説も知らないのでは私を追い詰めることは到底
できないよ。
397日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:36:00.41
とりあえず翰苑では「其国王皆属女王也」 → 「其国王皆属王女也」 でしょ
398日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:38:53.17
>>396
奇遇ですなあ、どこかのスレでお会いしたような気がしますが。
で、今日はこちらですか。
399日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:48:59.53
>>397
翰苑は誤記が多いからねえ、「其国王皆属女王也」が正しいと見た方がいいようだね。
400日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:51:21.46
>>396
「どうみても伊都国だと思う」なんて書いていない。
「まともに引用できず且つ誤字だらけの「翰苑」まで持ち出した」と書いたのだ。

史書文献の読み方や漢文の読み方を知らずに、
糞学説を持ち出すとは、
>>396氏の思考方法は既に破綻していると思うよ。
401日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:55:33.34
どうやら、例のお人のようですなあ。
402日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:56:47.88
あらら、私を追い詰めたというのは君だったの? 何番のことかな?
403日本@名無史さん:2013/02/11(月) 19:05:58.24
ないしょ
404日本@名無史さん:2013/02/11(月) 19:56:52.59
諸韓國からのお使いが、倭國に、なかば定期的に繰り返しやって来ていた。
405日本@名無史さん:2013/02/11(月) 20:10:11.83
諸韓國からのお使いが先方の酋長さんの子だったりして

倭国で子をなすケースもあったったりしたって不思議ではないよね。
406日本@名無史さん:2013/02/11(月) 20:15:16.62
倭国の王女さまとかは、

卵で先方の子を生んであげたりしたこともあったらしいね。

卵で生んであげたことにしたほうが神秘性があったりして

それに出自とかごまかせるから便利なんだろうけどさ。
407日本@名無史さん:2013/02/11(月) 20:18:30.90
あ、おれ酋長の子の末裔らしい。
このあいだ諸韓国へ遊びに行ったら、日本人ビジネスマンに諸韓国語で路を尋ねられたよ。
一緒に歩いてた友人の諸韓国人もビックロ、なんでオレのほうにたずねなかったんだろって。
408日本@名無史さん:2013/02/11(月) 20:34:48.48
諸韓國の酋長さんのおひとりので、三國遺事

以獻帝立安(建安)四年己卯(199)三月二十三日而殂落 壽一百五十八歳矣

これって駕洛國の元君の首露さんのなんだけど倍暦でのカウントのきがす。

(121-199 79歳)
409日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:08:29.41
これの嫁のがやはり倭人くさい。

靈帝中平六年己巳(中平6己巳 189)三月一日后崩 壽一百五十七(155-189 34歳)


建武二十四年戊申(48) (48+120=168)七月二十七日
妾是(あゆだ)阿踰陀國公主也 姓許名黄玉 年二八(14歳:155-168-189:34歳で没)矣

在本國時 今年五月中 父王與皇后顧妾而語曰 爺孃一昨夢中

今年=許黄玉が七月来る前の五月中だからインドみたいな遠いとことかでないのね。
410卑弥呼は満州にいた:2013/02/11(月) 21:09:08.03
(南解次次雄はアンポンタンだから私と名無しを間違えてるなw まあいい、放っておこう)

>>408
稗箕狐よ、これは読んだか?

其人多壽,至百五十、六十歲(舊五代史 党項伝)
411日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:12:07.67
>>410
おまいは親切なんだから3行でよろ
412日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:23:41.11
これか
http://zh.wikisource.org/wiki/%E8%88%8A%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8F%B2/%E5%8D%B7138

党項 其俗皆土著 居有棟宇 織毛罽以覆之。
尚武 其人多壽 至百五十 六十歳 不事生業 好爲盜賊。
党項自同光以後 大姓之強者各自來朝貢。
明宗時 詔沿邊置場市馬 諸夷皆入市中國 有回鶻 党項馬最多。
明宗招懷遠人 馬來無駑壯皆集 而所售過常直 往來館給 道路倍費。
其毎至京師 明宗爲御殿見之 勞以酒食 既醉 連袂歌呼 道其土風以爲樂 去又厚以賜齎 歳耗百萬計。
唐大臣皆患之 數以爲言 乃詔吏就邊場售馬給直 止其來朝 而党項利其所得 來不可止。
其在靈 慶之間者 數犯邊爲盜。自河西回鶻朝貢中國 道其部落 輒邀劫之 執其使者 賣之他族以易牛馬。
明宗遣靈武康福 邠州藥彦稠等出兵討之 福等撃破阿埋 韋悉 褒勒 強ョ 埋廝骨尾及其大首領連香 李八薩王 都統悉那 埋摩 侍御乞埋 嵬悉逋等族。
殺數千人 獲其牛羊巨萬計及其所劫外國寶玉等 悉以賜軍士 由是党項之患稍息。
其他諸族 散處沿邊界上甚衆 然皆無國邑君長 故莫得而紀次雲。
413卑弥呼は満州にいた:2013/02/11(月) 21:29:28.27
そうだ、それだ。全部も貼らなくてよろぴい。

しかし最近は例の時代錯誤愛国老人が出てこないな。
あの老人に見せてやりたいのだが。
まだマヤ語の勉強をしているのだらうか。

無駄なもの。九州説とマヤ語の学習。
414日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:31:20.32
>>404
>諸韓國からのお使いが、倭國に、なかば定期的に繰り返しやって来ていた。

違うだろ。
京都へと、帶方郡へと、諸韓國へと、王のお使いが、なかば定期的に繰り返し出かけ、
また、帯方郡からのお使いも、なかば定期的に繰り返しやって来て、伊都國を常宿にしていた。
415日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:40:40.38
<新九州説・女王之都の御陵>
天岩戸神社
http://takachiho-kanko.info/sightseeing/detail.php?log=1338295932
高千穂神社
http://www.kumaya.jp/atikoti43.html 
416日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:55:01.37
これも なまあたたかく めえとおしておくとよいかも
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%88
417日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:57:20.15
伊都だから糸島?? 伊都国はほんとうに糸島にあったのか? 

魏志倭人伝にいう末蘆国(唐津)の東南500里は、鉄道唐津線沿いに進んだ佐賀平野一帯にあたる。
伊都国・奴国・不彌国はここにあり、南有明海に面していたと考えると倭人伝の記述と完全に一致する。
ここまで帯方郡から1万500里〜1万700里となる。
そしてこの南1500里〜1300里(約100km余)に邪馬台国はあったと考えられる。→距離的には熊本県にあたる
その邪馬台国の中に卑弥呼の都はあったという。
今、史跡を行けば上古の火国臼杵郡知保郷に訪ねあたる。→ 上高知保(宮崎県西臼杵郡高千穂町)

ここには上古より、お隠れになられた天照大神をお祀りする天岩戸神社 西の宮 がある。
また、お出ましになられた天照大神をお祀りする天岩戸神社 東の宮 もある。
さらには、日向三代の神々をお祀りする高千穂神社もある。
しかし記紀によれば高天原・日向三代は天上神話であり、建前としても現世地上に神々の御陵のあるはずはない。
そこで後世、身代わりの現世遥拝所として宇佐に宇佐神宮、伊勢に伊勢神宮の造営をみたのではないか?

なお高知保三社の旧格付けは村社にとどまっており、古くからご皇室・国家の御参詣・御庇護を得ることはなかった。
想像だが、建前として地上に有るはずのない皇祖御陵に、公けのご参拝は憚られたためではないかと思われる。
故に高知保三社は、やむなく村社として火国の土豪民衆らにより祀り護られてくることになったのではないか。
なおこの地の南方海辺には、投馬国とおぼしき宮崎市・西都市があり、雄大美麗な西都原古墳群を眺めることもできる。
418日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:58:40.05
>諸韓國からのお使いが、倭國に、なかば定期的に繰り返しやって来ていた。

訓古の学を超越して、あり得べき可能性を提起のだから へんに否定しても無駄だからさ
419日本@名無史さん:2013/02/12(火) 06:15:02.52
諸韓国へ使いを出していただけで、来ていたとは書いてないね。
420日本@名無史さん:2013/02/12(火) 09:19:00.30
伊都だから糸島?? 伊都国はほんとうに糸島にあったのか? 

魏志倭人伝にいう末蘆国(唐津)の東南500里(35km)は、背振山地を越えた佐賀平野になる。
伊都国・奴国・不彌国はここにあり、帯方郡から1万1千9百里〜1万2千里となる。
伊都國は帯方郡から1万1千9百里となり、奴國と不彌國はそれぞれ帯方郡から1万2千里である。

即ち、奴國と不彌國は帯方郡から1万2千里の女王國の入り口の最初の国々なのである。
不彌國の南の投馬國と邪馬壹國は女王の都する所でもあるから女王國である。

女王國の中心国である投馬國と邪馬壹國は、人口で夫餘高句麗に匹敵する巨大国であので、
帯方郡から直行する場合のそれぞれの距離が、水行20日(約2万里)であり水行10日陸行1月(約1万2千4百里)なのである。
421ピミフは満州にいた:2013/02/12(火) 09:44:47.91
唐津の東南五百里は宮崎か西都なり。
422日本@名無史さん:2013/02/12(火) 09:49:18.07
郡から直行する場合なんてごまかし読みをしては駄目だね。
423日本@名無史さん:2013/02/12(火) 11:36:35.08
「ごまかし読みをしている」とする客観的根拠は何?
424日本@名無史さん:2013/02/12(火) 15:34:13.97
文章的に明々白々。客観性は十分。
425日本@名無史さん:2013/02/12(火) 16:01:19.73
マキムクで重大発表!
http://d.hatena.ne.jp/emiyosiki/20130202/p3
426日本@名無史さん:2013/02/12(火) 17:54:57.22
   
水行20日と水行10日陸行1月が帯方郡からの距離であるのは、文章的に明々白々。客観性は十分。

と言うことだな。
427日本@名無史さん:2013/02/12(火) 18:20:04.40
より正確には、
其々、帯方郡からの所要日数であり、これからおよその距離が推測できる・・、ではないでしょうか。(≠420)
428日本@名無史さん:2013/02/12(火) 18:52:30.72
從郡南至   投馬國          水行20日.       50,000餘戸
從郡南至 邪馬壹國 女王之所都 水行10日 陸行1月 70,000餘戸

「女王之所都」の「都」は「みやこ」ではないのだ。「都督」「都尉」の「都」なのだ。
429ピミフは満州にいた:2013/02/12(火) 18:55:24.50
それは嘘なのだ
430日本@名無史さん:2013/02/12(火) 19:10:59.01
「從郡南至」の「南」は、出発の方向だから、途中で曲がっても良いのだ

                      (特に海路のみのケースとか)
431日本@名無史さん:2013/02/12(火) 19:15:38.14
>>427
>より正確には、
>其々、帯方郡からの所要日数であり、これからおよその距離が推測できる・

より正確には、其々、帯方郡からの凡その距離であるのでおよその距離が推測できる・

帯方郡から末盧國までの距離は、11400餘里である。
これが「水行10日」に相当するから、水行1日=約1200里。
「水行1日」は日数ではなく、凡その距離単位である。
故に「水行20日」は約24000里となる。

「陸行1月」も同様に、凡その距離単位で、陸行1月=1000里〜1200里。

>>428
同意。
だから、「女王之所都」は、「女王の都」ではなく「女王の都(と)する所」である。
432日本@名無史さん:2013/02/12(火) 19:35:04.85
自作自演注意報発令中!
433日本@名無史さん:2013/02/12(火) 19:46:11.49
>「女王之所都」の「都」は「みやこ」ではないのだ。「都督」「都尉

「女王」が「都督」「都尉」に降格とはこれいかに???????
434日本@名無史さん:2013/02/12(火) 20:01:05.98
到伊都国。官、、、有千余戸。世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。

この「世有王皆統属女王国」 の 統 は、ふつう大統領の如く「統べる」の意味で使う。
しかし駅伝・伝送からの連想で、ここは「つながる」じゃないかと思いなおした。
皇統、王統、一統、血統、などのように系図上(血縁上)のつながりを示すと考えれば分かりやすい。
即ち、伊都国には代々王がいたけれど皆女王国と同じ王統である、となる。
435日本@名無史さん:2013/02/12(火) 20:05:22.54
>>431の続き
邪馬壹國に在る「女王の都する所」ではなく、
「邪馬壹國の都する所」は、末盧國から約1000里(陸行1月)にあるから、
不彌國から約400里離れた所に在る。(末盧國〜不彌國は600里だから)

邪馬壹國には、
女王國の女王である卑彌呼の都する所と邪馬壹國の官である伊支馬の都する所、
と、2つの城柵があるのです。
436日本@名無史さん:2013/02/12(火) 20:10:52.81
>>435
うん、その考えは何回も聞いた。よくわかってる。
要するに保険を掛けて、邪馬台国の範囲をなるべく広ーくとりたいようだなwww
437日本@名無史さん:2013/02/12(火) 20:13:23.53
>>434
伊都国の代々王は皆女王国と同じ王統であるとしても、
「属」とあるから、女王國の管理下にある点では「統べる」と同じ意味になる。
438日本@名無史さん:2013/02/12(火) 20:21:24.33
>>437
2.の同類、同じやから、などの意味もある。特に尊属、卑属。

ぞく 【属〔屬〕】
1 付き従う。その範囲に入る。つながる。「属国・属性/帰属・軍属・係属・従属・所属・専属・直属・転属・配属・付属・隷属」
2 なかま。みうち。同類。「金属・眷属(けんぞく)・尊属・卑属」
439日本@名無史さん:2013/02/12(火) 20:32:15.09
>>436
更に追加すると、
邪馬壹國には副官はおらずに次官が3人いる。
「彌馬升の都する所」「彌馬獲支の都する所」「奴佳鞮の都する所」
邪馬壹國にはあと3つの城柵があり、邪馬壹國7万戸は4ヶ国の連合国家なのである。
その4ヶ国連合国のとある場所に卑彌呼が都する城柵があるのである。
440日本@名無史さん:2013/02/12(火) 20:42:49.26
7世紀前半以前(唐体制になる前)の漢籍で、属の2の用法があるかな?
441日本@名無史さん:2013/02/12(火) 20:47:15.76
7世紀前半以前(唐体制になる前)の漢籍で、属の1の用法があるかな?
442日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:52:57.23
7世紀前半以前(唐体制になる前)の漢籍で、属の1の用法はある。
443日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:25:22.74
>>442
それは当方も確認した
問題は統+属の場合になってくるとおもう
444日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:27:13.67
>>441
属の1の用法
「其十二國屬辰王」魏志韓伝
445日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:38:00.02
古代に限らず、同盟を結んだ国間で人質をとるとか、強引に婚姻関係を結ぶとかはよくあることであり
またとりわけ中国では過去から現在に至るまで系図は命と同じくらいだいじにしているそうだ
現に古代中国貴族の家系図だってネットで続々出てくる
魏書もそうしたことを念頭に置いていないわけは無いと思う
446ピラフは満州で食べた:2013/02/14(木) 09:21:17.29
なるほど、柄鏡型住居というのがあるのか。
そのままドンピシャの形ではないか。

難しく考える必要は無かったな。
447日本@名無史さん:2013/02/14(木) 09:38:25.15
あの世でもピラフを食べてもらおうと。。。
448日本@名無史さん:2013/02/14(木) 14:14:07.20
本当に、魏志倭人伝が正確に事物を反映しているの?
449日本@名無史さん:2013/02/14(木) 14:19:56.36
反映してら、邪馬台国論争自体存在しないよ
450日本@名無史さん:2013/02/14(木) 14:45:02.50
どのくらい変形しているか、だな。
451日本@名無史さん:2013/02/14(木) 14:52:46.07
魏志倭人伝は数十年あとに書かれた、我々は千数百年あとに読んでる
どっちの変形が大きいかだなあ。
452日本@名無史さん:2013/02/14(木) 15:32:53.53
変形ならまだ元の形は存在してるのだろうけど
無から創造されてたら、目も当てられん状態だろうな
そして、それが絶対無いとは誰も言えない
453日本@名無史さん:2013/02/14(木) 16:02:02.61
うん、それもありうるから含んでおかないとね
どっぷり深入りはできないね
454日本@名無史さん:2013/02/14(木) 18:17:28.14
倭人伝は何も問題がないよ。現代人がその読み方を間違えているだけだ。
455日本@名無史さん:2013/02/14(木) 18:42:10.30
1700年前の計測技術を過度に信頼しても仕方がないが、少なくとも
地理、気候風土、遺跡(住居)は互いに矛盾することなく九州南部を示している。
456日本@名無史さん:2013/02/14(木) 18:48:59.37
洛陽や帯方郡に比べれば関東以西の平野部はどこでも温暖でしょう
457日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:01:24.62
例えば九州の上陸地点だけとっても読み方に違いが出る。

壱岐からすぐそこの呼子上陸とみる人も少なくないようだけど、距離が合わない。
渡海千里といえば、とうぜん唐津の松浦川を少し入った末蘆港(今の唐津ボート付近)じゃないかな。
とまあ、こんな具合にスタートから差が出ちまう。
そこと次の東南陸行さえ文字どおり読めば、なんてことないと思うけどねえ。
458日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:06:29.18
大親分が北東だー、といえばぜったい北東が正しい。
そんな感じなの、考古学会って?
459日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:08:08.78
倭人伝は何も問題がないよ。
多くの現代人が自身の思い込みに振り回されて、その読み方を間違えているだけだ。
地理、気候風土、遺跡は互いに矛盾することなく筑紫平野を示している。

原文を素直に読めばよいだけだ。
460日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:09:41.18
>>455
気候なんて結構変動しているよ。
明治の頭には、冬場、大阪の淀川が氷結して荷車を引いて渡れたというし。
今、大阪で氷点下になる日なんて一冬に何日も無いよ。
461日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:10:27.30
>>456
それでも海南島を比較に出している。
南九州が他説に唯一負けていると思われるのは「邪馬台」という国名。
連想させる地名が無い訳ではないが、大和に比べると説得力に欠ける。

ただヤマトの名の出現時期、当て字であること、ヤマトタケルの名の由来を
考え合わせるとそれも多少ぐらつく。
462日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:17:37.67
邪馬台国はあれだが、卑字をとって馬台国ならあるよ。
ともあれ名前はあとからでよい。まずは生まれるのが先だ。
463日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:24:24.13
壱岐呼子便は定期便を利用したんだよね

壱岐の
半城湾から出て
的山大島から
馬渡島から
松島から
加唐島よって
呼子に着くやつね。
464日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:29:00.14
だいたいにおいてさ

有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

15000人とか人が住んでいて

食いもの自給とかできないで

おもちこみに頼るとかだったら

定期便のおもちゃみたいな便があったってふつうだろ
465日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:34:17.64
>>463
うん、とうぜん呼子航路はメインだったとおもうけど、ほかに那の津航路などいくつかあるうち、
魏の船は、理由あって唐津に入ったんだと思うね。
466日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:42:41.19
敵対的な姿勢のところが自前の交通手段用意してやって来るなら

品川沖まで直行して世の中をえろ騒がせるとかのもあるだろうけどね

那の津航路なんか隋唐みたいな怖い勢力みたいなとことかでないとふつうはとらんかも

倭国の首都機能的なものが内陸側の他所に移動とかしていれば別だろうけどね

でも

そうなっているときは鉄にも関わる海峡の覇権が喪失しちゃっている時でしょ。
467満州ピラフ:2013/02/14(木) 19:43:16.48
唐津から 東南五百里 日向国
468日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:45:07.73
469日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:45:52.30
満州里 東南五百里 日向国
470日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:49:55.30
帯方郡からずっと短里で来てるのにいきなり公里にするかなあ
471日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:52:34.72
>>468
潮/海流の関係でしょうかねえ、三角に渡るのは?
たいへんだと思うけどすばらしい技術だわ。
472日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:56:38.08
的山大島 ってのがきになった。

しまちゃんは 加唐島で生まれたと聞くし、

馬渡島は まだらしま と読むらしいし

        くだら ってなんじゃい
473日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:58:44.56
筑紫国は博多湾、糸島半島から、
肥国は松浦、唐津から、後には長崎迂回ルート

独立した航路をそれぞれが持っている。
474日本@名無史さん:2013/02/14(木) 20:00:02.96
句麗一派が渡って来て酋長にすり替わったら 句渡 かなとはおもふが。

現実はそれに近似の言い伝えだがね。
475日本@名無史さん:2013/02/14(木) 20:01:13.45
三国史の北狄東夷は皆短里で書かれている。
476日本@名無史さん:2013/02/14(木) 20:09:15.75
末盧國の到着地で定宿のあるあたりは

濱山海居 草木茂盛 行不見前人
好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之

こんなふいんきの所であるべきだから登望駅あたりのがぴったり。

東南に向けて出発したら、600里ほどで 

竺紫 日向 之 高千穗 之 久士布流多氣 くしふるたけ(419.4m)がある。
477日本@名無史さん:2013/02/14(木) 20:09:56.61
筑紫国と肥国(の前身)の平野での境界である、
吉野ケ里から鳥栖は、戦の痕跡を持つ遺体が多く出土している。

肥国が筑紫国の国内を通ることは難しいと思われる。
従って、唐津の港は何としてでも死守すべきだったのである。

だから、松浦、唐津は「肥前国」である。
478日本@名無史さん:2013/02/14(木) 20:15:31.85
>>468
的山大島と壱岐を結ぶ航路は、壱岐側は郷ノ浦である。
壱岐の西海岸は常に北向きの潮流が流れているので、
壱岐→的山大島のルートでは、壱岐西海岸が出航地にはならない。
479日本@名無史さん:2013/02/14(木) 20:28:55.52
>>478
http://goo.gl/maps/xwnXv
これでどお?
480ピミフ@満州:2013/02/14(木) 21:08:20.09
>>474
稗箕狐久々の三塁打
481日本@名無史さん:2013/02/14(木) 21:38:18.47
句麗一派が渡って来て酋長にすり替わったら 「句渡」 かなとはおもふし、

「くだらが」「百済」表記なのは

「百」のやつらが済って来て酋長にすり替わったんだら。

「くだらが」「百済」表記なのは「狛」のやつらが済って来たんだら。

「百済」「貊済」「百済」「狛済」 

「こま」だか「くま」だかのが酋長ののルーツさ
482478:2013/02/14(木) 22:08:19.86
>>479
半城湾から烏帽子崎の西の海を通って南へ行くのも、
北向きの潮流(外洋より潮の速度は遅いが)があるので労多くして益なし。
483日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:23:39.88
岸沿いだと反流とかできない?
484日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:24:16.67
>>482
横からすまん、
三角航路の往復は難しいので、けっきょくは時計回りにグルリすることになるの?
485478:2013/02/14(木) 22:45:21.30
>>483
壱岐沿岸西方沖洋上の常時北向きの潮流と違って、
進月齢と月の位置によっては反流があると思われます。

>>484
時計回り北向き一方通行なのは、壱岐西沿岸だけです。
北沿岸、東海岸、南沿岸は、月齢と月の位置による潮流の反転が常時あります。
486日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:52:45.25
>>485
了解、分かりました。ありがとう。>484
487478:2013/02/14(木) 23:08:42.16
×進月齢
○月齢

>>483
反流があるのは大島と烏帽子崎の間の海峡です。

>>484
壱岐西沿岸の潮流は基本的には北向きですが、
月齢によって沖合いでは西向きの速度の速い離岸潮流も発生します。
この西向きの潮流に乗ると、対馬西水道を対馬に寄らずに一気に巨済島南岸まで渡れます。
488日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:18:49.07
桜井市纒向学研究センター設立記念 東京フォーラム

題名にあるフォーラムが2月10日にあったらしい。
で・にフォーラムに参加した方の感想が書かれていたので紹介します。
Aさん
よみうりホールで聴講してきました。
纒向学研究センターは昨年4月に開設され今回を第一回東京フォーラムとして「纒向出現〜纒向に卑弥呼がいたなら」の題目でした。
今回は邪馬台国近畿説が中心で来年は九州説、次は東遷説と都合3年にわたり日本の始まりをテーマにフォーラムを開催するとのことです。
プログラムはなんと10:00〜16:00丸一日の日程でした。
・・・中略・・・
挨拶、桜井市の紹介、に続いて
基調報告「纒向遺跡の特性と邪馬台国」
講演1 「ヤマトと狗奴国」
昼休み休憩を挟んで
講演2 「卑弥呼とヤマト王権ー初期前方後円墳と邪馬台国」
この後シンポジウム「纒向に卑弥呼がいたなら」
やはりシンポジウムが一番面白かった!
司会のセンター長は講師になんとか纒向は卑弥呼の都との言葉を言わせたかったようですが、「そこまで判断できる材料がないので・・・」
とか「古墳を調査するほどに卑弥呼との食い違いが出てきて・・・」とかどうも司会者の思惑とおりにはいかなかったようです(笑)
もっとも司会者は桜井市のことを慮ってのことかと思いますが、最後には司会者自身が「卑弥呼は邪馬台国の女王ではないと考えています・・・」との発言もあってハテハテこれが古代史の面白いところ(笑)

Bさん
桜井市長と同観光課・纏向学研究センターが
観光でパットしない桜井市を何とか考古学で売り出したい・・・
先ず、東京で >纏向デビュー< の願いが切々と伝わりました^^
でも・・・箸墓は掘れない・・・
   ・・・JR桜井線はどうする・・・
   ・・・あ〜ぁ** お金がない・・・
万一これらがクリア出来ても
   卑弥呼が出てこなかったら!!(恐怖!)
しかし・・・なにはともあれ
講座もオフ会も最高の盛り上がりでした!!
489日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:25:39.84
市長だの市教育委がガセネタふりまくとは完全な犯罪行為だ。
490日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:30:37.42
せっかく市長が裸踊りをしてるのに、天照大神はとんとお出ましにならぬかww
どうやら踊る舞台を間違えてるようだな
古都奈良には似合わぬわ
491日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:38:45.48
桜井市長もいかれとるな
記紀を真っ向から否定することになるじゃないか、
卑弥呼一人のために代々の天皇をオッポリ出してどうする気だよ、次は落選決定。
492日本@名無史さん:2013/02/15(金) 00:02:16.89
桜井は何もない所なんだよね。
三輪そうめんだけの町。

昔は材木の集積地として発展していた時期もあったけれど。
だから、桜井は奈良県最初の女学校が設置されたところ。
郡山中学(大和郡山市旧藩校)、畝傍中学(橿原市)
現在の奈良市は未発展地域であった。
493日本@名無史さん:2013/02/15(金) 00:14:15.82
例えメシが喰えなくても、していいことと悪いことがある、
市長が記紀を否定しては、桜井の全歴史を否定することになる。
多少の齟齬ありとはいえ、そもそも記紀を生んだ奈良〜桜井市じゃないの、それを活用しない手はない。
494ピミフ@満州:2013/02/15(金) 09:22:46.50
>司会者自身が「卑弥呼は邪馬台国の女王ではないと考えています・・・」

この司会者◎
495日本@名無史さん:2013/02/15(金) 09:22:53.91
>>492
君が無知なだけですよw
496日本@名無史さん:2013/02/15(金) 09:35:05.03
発売決定 まぼろしの畿内説 乞うご期待!!
497日本@名無史さん:2013/02/15(金) 10:07:18.89
>>444
>属の1の用法
>「其十二國屬辰王」魏志韓伝    

拝見しました。なおここに属、服属の2用法あり。統属と合わせて魏書に少なくとも三通りの「属」あり、関心深し。
498444:2013/02/15(金) 12:18:44.03
>>497
烏丸鮮卑東夷傳だけで下記12種類の「○屬」があります。
「特屬・并屬・役屬・相屬・特屬・求屬・反屬・本屬・更屬・還屬・服屬・統屬・不屬」

「○+屬」は、単純に、「○」の意味+「屬」の意味で考えたら?
499日本@名無史さん:2013/02/15(金) 20:20:44.15
>>494

「卑弥呼は邪馬台国の女王ではないと考えています・・・」

魏志倭人伝を否定しても意味ないよね。倭人伝には邪馬台国の女王は卑弥呼であると
はっきりと書かれているし。
500日本@名無史さん:2013/02/15(金) 20:47:17.86
>>499
乃共立一男子為司会者。名曰中央支馬。事鬼道能惑衆。
501日本@名無史さん:2013/02/15(金) 20:54:49.90
◎ 都 dū
〈動〉
(4) 率領 [command]。如:都督(統率,率領);都部(統率兵衆)

「南至邪馬壹國 女王之所都」

◎ 「邪馬壹國」は 「女王が command する所」

◎ 「邪馬壹國」は 戸数が70000戸 人口で350000人とか 30ヶ國とかで構成。

◎ 邪馬壹國を command する女王が居る所が ◎ 「女王國」で【女の園】

◎ 「女王境界」は女王の power が正規に届くかどうかの境界線
502日本@名無史さん:2013/02/15(金) 20:57:31.69
ないない
503日本@名無史さん:2013/02/15(金) 21:08:37.38
>>501
邪馬台国・女王国に関しては同意。
ただし家と戸を使い分けてるので、「家」は1家に数人でたぶんOK。
しかし宮崎では、円形住居には1〜2人の推定もあるようなので、「戸」の1戸何人かは仮置きではいかがかと。
504満州ピラフ:2013/02/15(金) 21:18:09.52
南至邪馬壹國 女王之所都

もしこれが完全に正しいとしたら、
邪馬台国は大和、卑弥呼は神功皇后で決まりだよ。
ところがそれでは台与のこととかが説明できない。記紀と矛盾する。
それで論争に決着が付かないでいるわけである。

そこで、次に考えるべきはこういうことだ。
1 陳寿は倭の女王が朝貢してきたという記録があることは知っていた。
2 ただし彼はそれが実際にどこから来たかは知らなかった。
3 のちに陳寿は倭とは日本のことだと知り、その都が邪馬台国にあると知った。
4 それで当然、倭の女王は邪馬台国にいる、と思い、そう書いた。

こういう分析ができないとダメだよ。
こういう分析ができないから、学者も君らも、
いつまでたっても堂々巡りをしているのだ。
505日本@名無史さん:2013/02/15(金) 21:27:42.49
「居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞」

とゆうことは、ちょびっと盛上がった小高いところが居處

http://goo.gl/maps/YMgTv
506日本@名無史さん:2013/02/15(金) 21:34:06.22
>>504
いつもながら、事満鬼道能惑衆
南至邪馬台国とは満州のすぐ南だ、満州里千三百里くらいかな。これで堂々巡りから抜け出た。
507満州ピラフ:2013/02/15(金) 21:59:08.34
一大率というのも陳寿の誤解である。

神功皇后の新羅征伐以後、九州に代々紀氏が常駐していて、
大和朝廷の半島経営の任務を担当していたということが、
どこかの神社か何かの記録に残っている。
以前投稿したが、メモは残してないのでその原文は亡失した。
過去スレを探せば見つかるはずだ。

陳寿はおそらくそれを一大率と誤解しているのである。
508日本@名無史さん:2013/02/15(金) 23:34:48.66
倭人伝が書く一大率は、半島経営の任務などもっていないよ。
509日本@名無史さん:2013/02/16(土) 01:45:54.29
神功皇后の話は広開土王碑のことでしょ。400年頃に朝鮮半島に進出したという。
当時は仁徳天皇陵など超巨大な古墳を作る財力や技術、労働力がいたわけで。
510日本@名無史さん:2013/02/16(土) 01:45:55.90
また陳寿の誤解か
飽きたからやめてくれ(悲鳴)
511日本@名無史さん:2013/02/16(土) 01:49:26.36
>>82

http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B0076ECI5I/777777778888888-22
MicrosoftOffice2010

並行輸入品(=正規品≠海賊版)
インストールはレビュー 参照
512川柳の達人:2013/02/16(土) 08:10:51.28
大和王権の中枢?溝出土…纒向遺跡
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20130202-OYO1T00320.htm

「奈良県桜井市の纒向遺跡で、大規模な施設の外周を巡っていたとみられる
4世紀中頃の溝が東西45メートル、南北7・5メートルにわたって出土し、
市纒向学研究センターが1日、発表した。邪馬台国の時代から約1世紀後の
遺構で、専門家は、この地で成立したとされる大和王権の中枢部だった可能性
を指摘している。」

絵を見る限り、この溝は例の卑弥呼の御殿とか言われる建物跡の下にあるようだが・・・
溝が4世紀のものならば、あの建物跡は5世紀の建物だったてか?
513日本@名無史さん:2013/02/16(土) 09:09:44.51
桜井市の犯罪人どもがどういう詭弁を弄するか見ものだ。
514満州焼飯:2013/02/16(土) 09:32:29.98
>>508
半島経営と書いたのは私の作文である。
要するに倭人伝に書かれている一大率のような仕事である。
たしかこの資料は新泉社の「新・古代学」第4号で見たような記憶があるが…。
>>510
陳寿がいろんなことを誤解しているのは明々白々ではないか。
それを直視しようとしないのが九州人である。

とにかく九州説というのは完全な空想である。いいかげんに目を覚ませ。
515満州焼飯:2013/02/16(土) 09:34:22.88
一日一貼

末盧国 東南五百里 日向国
516日本@名無史さん:2013/02/16(土) 09:44:12.32
と、満鉄朝礼で珍駅長が申しております。
517日本@名無史さん:2013/02/16(土) 10:00:58.02
桜井市&マクムク関係者は、欲張りすぎ、頬張りすぎ
518日本@名無史さん:2013/02/16(土) 10:01:06.83
弁韓辰韓がそれぞれ12ヶ国、馬韓だけで54ヶ国あったんだろ。
九州から畿内ほどの国が30ヶ国程度なのか。
519日本@名無史さん:2013/02/16(土) 10:12:12.35
倭の地は旧百余国、今30余国、少しの時代差で国数はどんどんかわってく
520日本@名無史さん:2013/02/16(土) 10:16:40.74
陳寿は誤解していない。満州が誤解していることは明々白々ではないか。
521日本@名無史さん:2013/02/16(土) 10:20:33.93
>九州から畿内ほどの国が30ヶ国程度なのか。
しかも、そのうち対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌國と北九州
だけで6国あったことは明白だしね。
522日本@名無史さん:2013/02/16(土) 10:35:38.93
江戸時代の旧藩は九州に36藩、そのうち対馬1、唐津1、佐賀平野に3
おおむね、対馬国、(一大国、)末盧国、伊都国、奴国、不彌國 に対応する。
こんな感じじゃないかと思うけどね
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kyushu_map.html
523満州チャーハン:2013/02/16(土) 12:33:15.63
三國遺事にこういう記事があるぞ。

通典云。朝鮮之遺民分為七十餘國。皆地方百里。

方百里といえば北九州市〜中津市を一辺とする正方形だ。
九州ではこれが二十も入らない。二十は入っても三十は入らない。
もちろん朝鮮と倭は別だという意見もあるだろうが。
524日本@名無史さん:2013/02/16(土) 12:36:41.90
>>521
別に明白じゃないでしょ。
二万戸もの奴国が本州に跨る国という考え方も出来るからな。
長門という名はそうともとれる。
525日本@名無史さん:2013/02/16(土) 12:41:43.83
ギリシャとマケドニア
西ドイツとブロイセン
を見れば分かるように都市化してないほうが広い領土を持ち強国となる傾向にある
526満州チャーハン:2013/02/16(土) 12:52:35.56
こういう資料もある。

天子之田方千里,公侯田方百里,伯七十里,子男五十里。(禮記/王制)

公国とか侯国というのは聞くことがあるが、伯国子国男国というのは聞かない。
国と呼べるのは方百里までである。そうするとやはり九州では無理である。
527日本@名無史さん:2013/02/16(土) 12:55:43.88
お昼の満州体操のじかんでーす。
はい、大きく息をすいこんでー、一里は4キロですよー
528日本@名無史さん:2013/02/16(土) 15:16:10.48
>通典云。朝鮮之遺民分為七十餘國。皆地方百里。
これも短里かな。
529日本@名無史さん:2013/02/16(土) 15:42:15.92
結構交流の盛んになった時代、時代にすると、卑弥呼やらから800年くらい後。
北宋の王様が、謁見に来た商船に乗ってきた日本の坊さんに訊くわけよ、「日本って、どんな国?」
「今は政府間の行き来は絶えたし国号も変えたけれど、唐の頃まで使節を送ってきてた倭の国のことで、
 王朝も、大臣やらになる家系も、倭のときから続いて同じですよ」と答えるわけよ。
そしたえら、北宋の王様、えー、そうなん、知らんかった。島国の蛮族と侮ってたら、めっちゃいい政治
しとるやん。羨ましい。とかこぼしたそうな。

結構後の時代にこの有様。
分裂時代の三国時代に、原始時代に毛の生えたような日本の有様が、つまびらかに伝わっていようものかの?
530日本@名無史さん:2013/02/16(土) 16:25:32.91
中国人が直接に観察しているわけだからな。
531靖国参拝、皇族、国旗国歌、神社神道を異常なほど嫌う在日カルト:2013/02/16(土) 17:13:57.80
在日カルト宗教団体は、信者や敵対者に対して組織的な威圧、監視、嫌がらせを行い
マインドコントロールしなければ組織を維持、拡張することができません

そのため証拠を残さず、訴えられないように、集団で威圧、監視、嫌がらせを行う「ガスライティング」という手法が必要なのです

在日カルト教団がどのように信者のマインドをコントロールしているのか知って下さい
[ガスライティング 集団ストーカー カルト]などで検索を!

外国人工作員が隠れ蓑にしているのはカルト宗教団体
10人に一人はカルトか外国人.
532満州チャーハン:2013/02/16(土) 17:20:39.28
君らは末盧国に着いたのは中国人だと思っているだろ。
それがそもそも間違いというか、何の証拠もないのである。

どこにも中国人だとは書いてない。
三韓人かもしれないし、扶余、穢貊、沃沮人かもしれないし、
鮮卑、靺鞨、あるいは呉人かもしれないのである。

九州に常駐している紀氏を見て大率と思ったということは、
末盧国に着いたのは百済人かもしれないのである。
で、その百済人が大率のようなものですよ、と言ったので、
中国人は、ははあ、刺史のようなものだな、と思い、有如刺史と書いたのである。

こういう分析と想像ができなくてはダメだよ。
それができないから君らはいつまでたっても三流なのだw
533日本@名無史さん:2013/02/16(土) 17:31:06.67
後年に百済の王かなんかが筑紫に着いて、
貴伊(倭)国に行くのに、場所がわからないから
道案内が欲しいなんて言ってたけどな。
これだけでも北部九州に倭国中枢がなかった事が判る。
534満州チャーハン:2013/02/16(土) 17:32:02.74
倭人伝の国名にしても、倭人の発音に中国人が漢字を宛てたとは限らない。

たとえば於投馬。
倭人がアズマと発音したのを百済人が聞けば、
ズに投の字を宛てるだろう。投の朝鮮音はthwuで、これはズに近い。
その百済人はなかなかのインテリで漢字もたくさん識っていたのである。

こういう分析と想像ができなくてはダメだよ。
それができないから君らはいつまでたっても三流なのだ(泣く)
535日本@名無史さん:2013/02/16(土) 17:46:12.03
   
×これだけでも北部九州に倭国中枢がなかった事が判る。

○これで玄海灘沿岸に倭国中枢がなかった事が判る。
 (倭國中枢は、海岸平野から背振山地を越えた南方)
536日本@名無史さん:2013/02/16(土) 18:27:44.56
プロが畿内だろうくらいにしか結論出せないものを素人がああだこうだ考えるだけ時間の無駄。
なんでも鑑定団とかでも骨董のプロの鑑定士が、みんなでこれくらいの値段が相場だと結論出してるのに、
素人が自分勝手な思い込みで高く値段見積もってるのと同じ。
まさに素人の邪馬台国論、まして九州説など生兵法すぎる
537日本@名無史さん:2013/02/16(土) 18:37:11.60
あらら、九州説の正しさを理解できないようではまさに素人。
538日本@名無史さん:2013/02/16(土) 18:42:26.19
まったくだ、まれにみる素人。
ま、ここはド素人さんもいらっしゃ〜いではあるがな。
539満州炒飯:2013/02/16(土) 18:46:32.47
プロといってもたいしたことはない。
はっきり言うと、頭の良い古代史学者なんて一人もいない。
だからというわけではないが、私など学者の本を読もうとは思わない。
原典を自分で読んで自分で考える。

昨日「水経注」を読んだが、これを読むと
大遼水とか遼水と呼ばれているものは西遼河(+遼河)のことだと分かる。
扶桑国にしても、中国正史を読めば日本ではないことはすぐに分かるのである。
原典を読まずに他人の書いた物ばかり読んでいるとそういことが分からない。
ここの連中は学者の書いた本やネットばかり読んでいるからダメなのである。
540日本@名無史さん:2013/02/16(土) 18:47:16.38
プロ→海江田
安愚楽やペニオクのヤバさはネットでは数年前から周知の事実だった。

倭人伝に関して考古学者はプロでさえないから
541日本@名無史さん:2013/02/16(土) 18:58:27.38
つーか考古学といっても大学の教授でございというのは一握りで
ほとんどは地方自治体の学芸員や教育委員会勤務
ただのお役人だな

考古学者も文献学者も古代史家ももっと他学問を勉強すべき
ヨーロッパの文明発達論とか経済学とか
古代の交易の実態もわからんようでは話にならん
542日本@名無史さん:2013/02/16(土) 19:00:18.67
キミらは単なる素人と違うの?
あまり表で言わない方がいいよ
キチガイと思われるだけだから
543日本@名無史さん:2013/02/16(土) 19:03:09.12
例えば玉加工品一個に対して米いくらとか
そういう交易のレートの差によって
交易ルートは変わったりしていたはずだが
そういう研究のできるやつがいない
544日本@名無史さん:2013/02/16(土) 19:05:15.76
どっかの社外スタッフかライターみたいな雰囲気の人が出入りしているね
オレは第三者だからいいけどみたいな
545満州炒飯:2013/02/16(土) 19:07:14.66
古代史の裾野は実に広大である。
学者と雖もあらゆる分野の研究をすることは不可能である。
そこに素人が活躍できる余地がある。
素人の書いた古代史本をバカにしてはいけない。
そういう本は学者が未調査の分野を詳しく研究している本が多い。
結構役に立つのである。
546日本@名無史さん:2013/02/16(土) 19:09:12.45
>>539
>扶桑国にしても、中国正史を読めば日本ではないことはすぐに分かるのである。

扶桑國は播磨国のことじゃ。
原典をすっ飛ばし読みするから判らんのじゃ。

播磨は近畿で最初に仏法が伝わったところ。
扶桑國王の乙祁は、大和王権の億計である。
547日本@名無史さん:2013/02/16(土) 19:13:41.79
満州の話は、もういいよ。
ワンパターンであきるよ
548満州炒飯:2013/02/16(土) 19:17:21.05
>>546
ああ、そうですか。ではそういうことにしておきましょう(笑い且つ泣く)

>>547
お前だって同じ。考古学と産業史みたいなことばかり。
549日本@名無史さん:2013/02/16(土) 19:20:50.67
>>501
一般的な用法では、「所都」は、「command する所」ではなくて「みやこするところ」。
ネット上で各種漢文のテキストを検索できるので、自分で検索して確認すると良い。
そのなかで、倭人伝だけ「command する所」と解釈を変えるのは合理的ではない。
550日本@名無史さん:2013/02/16(土) 19:21:09.10
少なくともこのスレは
行程パズルと漢字テストしかしてないな
551日本@名無史さん:2013/02/16(土) 19:21:30.26
>>541
>考古学といっても地方自治体の学芸員や教育委員会勤務

進学高校では落ちこぼれだった連中。
552満州炒飯:2013/02/16(土) 19:26:37.19
私がここに居着いて一年半。
最初は私も、朝鮮でなければ九州だろうと思っていた。
邪馬台国も九州のどこかで、卑弥呼も九州のどこかにいたのだろう、と。

しかし一年半たって、ようやく九州説は空想であると分った。
それが分かっただけでもなかなかの進歩だ。
ところがここには五年も十年もここにいながら、
あいかわらず九州説や四国説を唱えているアンポンタンがいる。
呆れるというより、同情して泣きたいくらいだw
553日本@名無史さん:2013/02/16(土) 19:28:44.26
>>552
ぜひ同情して、九州説にもどってくれや。歓迎するわ。
554日本@名無史さん:2013/02/16(土) 19:51:21.97
>一年半たって、ようやく九州説は空想であると分った。
1里が435だと分かるまでに1年半かかったのか。
555満州炒飯:2013/02/16(土) 20:01:22.29
>>553
残念ながら、今のところ、一発逆転ホームランの材料がない。

>>554
短里など最初から論外。
私が九州派だったのは卑弥呼と台与の話が神功皇后と矛盾するからである。
556日本@名無史さん:2013/02/16(土) 20:16:43.23
九州説じゃないんなら、別のスレッドで話をしてくれるとありがたい。
無駄な文字を読まなくて済むから。
557日本@名無史さん:2013/02/16(土) 20:17:04.18
>>555
え、これから逆転満塁ホームランを打つつもりなん?
ま、千年期待してますわ。
558日本@名無史さん:2013/02/16(土) 20:18:32.02
満州の思考の浅い論理を、繰返し聞かされるのは、正直苦痛だ
559日本@名無史さん:2013/02/16(土) 20:20:41.80
>>549
「高句麗 在遼東之東千里 南與朝鮮濊貊 東與沃沮 北與夫餘接

      都於丸都之下 方可二千里戸三萬」

     「丸都之下で command する」
560日本@名無史さん:2013/02/16(土) 20:21:27.73
そもそも、畿内説は、一点も取れてない気がする。
561日本@名無史さん:2013/02/16(土) 20:25:49.75
>>549
丸都 だか

伊都 だか とゆうことにはなる

それぞれに属國都尉の如きものが居ればわかりやすい

高句麗とかは適性國だから 「みやこ」とか

                   まぬけな解釈やすむに笑。
562日本@名無史さん:2013/02/16(土) 20:42:22.12
>>549
僧都(そうづ)
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%83%A7%E9%83%BD&redirect=no

僧綱の次官 ここにも、「都」=「command」 の用例が残存しておる。
563日本@名無史さん:2013/02/16(土) 20:45:03.38
>>549
>ネット上で各種漢文のテキストを検索 云々

みんなで洗脳されていれば怖くないってか?    まぬけ?
564日本@名無史さん:2013/02/16(土) 20:47:41.45
「都」を 「みやこ」と 読みたがるおひとはえてして

「國」を 「くに」と 読みたがりがち だとゆう 法則が認められそうである。
565日本@名無史さん:2013/02/16(土) 20:57:30.07
そもそも「西域都護」とか「西域都督」とかとゆうやつは

「西域」に兵隊のボスわざわざ派遣させてからに

辺境の地にへんに「みやこ」とか無駄にでっちあげさせるのか?

なんかへんじゃに???  と思惟せんようでは おこちゃまよかまだしただな
566日本@名無史さん:2013/02/16(土) 20:58:54.76
女王之所都
じょうおうのず(つ)するところ?
567日本@名無史さん:2013/02/16(土) 21:01:14.35
大木金太郎の思い出
568日本@名無史さん:2013/02/16(土) 21:18:38.87
>>566
だからああ 「す・ぶ」=「統ぶ」くらいで読んでおけと前にもゆうただろ。
569満州炒飯:2013/02/16(土) 21:19:00.45
>>558
お前の三流の雑学を繰返し聞かされるのは、苦痛ではないが、あほらしい。
570満州炒飯:2013/02/16(土) 21:43:53.66
所都というのは都とする所の意味だよ。
で、都とは王都のことで、王都というのは当然commandする所の意味も、
あるといえばあるが、エラソーに唱えるようなことではない。

まあ稗箕狐という男も、こうして次第に敵を作っていくのである。
他人に攻撃されないように、わざと趣旨をぼかした書き込みをする男だが、
まぬけとかおこちゃまなどと書いているとそのうち総スカンを食うことになる。
世の中甘くない。必ず敵はいるのである。
誰からも嫌われないようにしようと思っても無理である。
571日本@名無史さん:2013/02/16(土) 21:56:17.83
>>559
「都」一字の解釈ではなく、「所都」の解釈の問題。
「都」一字なら「都」=「command」の用例はあっても、
「所都」となると「都」=「command」の用例はない。
僧都を引っ張ってきても、「所都」ではないから意味はない。

>>563
>みんなで洗脳されていれば怖くないってか?    まぬけ?

なに言ってんの?
十三經とか二十四史とか、他にも各種漢籍がネット上で閲覧できる時代になってる。
それらで「所都」を検索して、実際に自分で用例にあたってみろと言っているんだけど、
なんか満州のネット史とかと勘違いしてんのかな。
572日本@名無史さん:2013/02/16(土) 22:35:54.95
訓古くんたら 
>>565
これに関する有効打は出せないんだね 無駄なこと書いてくれてもな

          「所都」=「commandする所」でなんか問題あるの?
573日本@名無史さん:2013/02/16(土) 22:51:08.43
だいたいにおいて

記号は論理に即して使用されるのだろ

史的ローカルルールとか許容できないとかならだめだろ


「都」を「command」と理解できる人は

「伊都」には「卒善中郎将」の「一大率」が常駐していて

女王をサポートで軍事的にも「command」しておった 

って すんなり理解できるはずなのに そうしたらなんか不都合でもあるのか?
574日本@名無史さん:2013/02/16(土) 22:56:50.92
三国志には「女王之所都」の他に1つの所都の用例がある。
正始中 儉 以高句驪數侵叛 督諸軍&amp;#27493;騎萬人 出玄菟 從諸道討之。句驪王宮 將&amp;#27493;騎二萬人 進軍沸流水上 大戰梁口。
宮 連破走。儉遂 束馬縣車 以登丸都 屠句驪所都 斬獲首虜以千數。
575日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:05:46.08
>>573
>「伊都」には「卒善中郎将」の「一大率」が常駐していて
>女王をサポートで軍事的にも「command」しておった

おいこら! 一大率は卑弥呼が魏に朝献したのち(難升米が率善中郎将になったのち)に置かれたものか?
お前の話は根拠薄弱だぞ。
576日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:10:25.67
句麗の「丸都」って、山城にたいなかんじで読める

「下」とか「登」とか「山」とかといっしょに書かれている。

「丸都」が「玄菟」からの変換だという説もひかれちゃうなあ。。
577日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:18:59.29
>>572-573
キチガイの譫言
578日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:19:27.11
>>575
「率」は「帥」でこもんでしょ

これって「夷」のつおい酋長はみんな「率」「帥」自称とかしていてもふつう

「一大率」のはもとのが「天率」なんだから

「あま」からやって来て「伊都」に常駐するようになった

「あま」出自のつおい酋長が「天率」自称しておって

魏にみずから出かけていって工作して「率善中郎将」の官職とはんこもろて

「天率」の自称のところのを装飾したんだろさね
579日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:22:35.67
キチガイを相手にするな
580日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:26:04.29
「率善中郎将」の官職とはんこ二度目にもろたひとがおったけど

もろたのは  正始四年(243年)

このときには俾彌呼の名前で遣使しておるけど これは自分の死亡後のご報告

難升米が男王に化けて 腋邪狗が「天率」に化けたってのご報告

だったとゆうことにはなるがね。。。。
581日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:28:29.87
こもん=command
都は「顧問」だろ
なんか不都合あるの?
582日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:31:47.00
>>578
>「一大率」のはもとのが「天率」なんだから
これも根拠薄弱。

>魏にみずから出かけていって工作して「率善中郎将」の官職とはんこもろて
>「天率」の自称のところのを装飾したんだろさね
帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米
其四年倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人
自称したのは「天率」ではなく「大夫」だろ。
583日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:41:13.43
丸都で調べると

遼西烏丸都督率衆王
遼西烏丸都督王     とかでてきてきもい。



582>> 「大夫」のはずううっとまえからそおだし

後漢のボスからも認証された公称ののなれのはてのだろ。

だいたいにおいて「天率」の自称とかしたら喧嘩売ったことになるしね。
584日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:45:20.97
「天率」の自称のかわりに

「海率」の自称とかして帝のひとのところにご挨拶とかしたら

海賊とまちがわれちゃいそうでこわいね。

まあ「天率」の実態は海賊のとそうそう遜色とかなかろうけどさ。。。
585日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:58:15.75
「大夫」のなかには「金印紫綬」もらえる「大夫」とかもおるからさ。。。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E7%A6%84%E5%8B%B2
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?search=%E9%87%91%E7%B4%AB%E5%85%89%E7%A6%84%E5%A4%A7%E5%A4%AB
586日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:58:24.55
>>534
於は、atとかinとかonに相当する前置詞だろ。
「於投馬」は、「対馬で」「対馬に」だろ。
587日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:01:07.88
>>575
女王をomannkoしたのですかね
588日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:06:27.52
「中郎将」のうちでも比二千石以上の「中郎将」が持つ印綬は「銀印青綬」

いろいろ中郎将の「率善中郎将」の設定のは「銀印青綬」だから「比二千石以上」クラス。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%83%8E%E5%B0%86
589日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:11:25.14
独自研究による妄想としか言いようがないな
590日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:14:47.56
>>588
大尽旗本クラスか。
七万戸どころか七百戸レベルでないかい?
591日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:17:32.34
>>572
「所都」の意味が問題なんだから、僧都が無意味なのと同様、西域都護も西域都督も無意味。
「都」にいくつかの意味があるなかで、都護や都督で「都」が「command」の意味になるのは、
「護」や「督」の文字と結びついているから。
「所都」には「護」や「督」の文字がないから、西域都護も西域都督も「所都」を解釈するための用例としては無意味。

例えば漢書郊祀志「祭地於大折,在北郊,就陰位也。郊處各在聖王 所都之南北。」
       地理志「朝歌,紂所都。周武王弟康叔所封,更名衞。莽曰雅歌。」
これら「所都」は、広い意味では「おるところ」。君主について言っているので「みやこするところ」。
「command する所」では意味じゃない。
592日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:21:54.60
>>591
トオルちゃんが言ってる大阪都も別に遷都しれと言ってるわけではないからね。
自治の形態について言ってる、
西域都もそんなふうじゃあないのか?

邪馬台国九州説には全く関係ないけれど、福岡県の大分県に近い部分に
京都郡なんていう街なのか田舎なのか判りづらい名前のド田舎があるよ。
593日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:39:16.34
>>591
「みやこ」ってよむ必要とかないだけ。。。

「みやこ」ってよむからイメージが勝手に加速して化け物になるってわからんかな。

ただただたんに「大酋長が居る所」のくせに

そこのところから離れて肥大化しがちだから

「と・する」でも「つ・する」でも「づ・する」でも「す・ぶ」でもなんでもいいから

「みやこ」ってよむのは避けるべき。。。

「みやこ」ってよみたきゃ 厳密には そう発声されていたという論証がいるはずだけどさ

少なくとも4世紀以前成立の史料使用してさ。。。

「みやこ」って読むための妄想材料もないのじゃに。。。

「くに」もまた然りだけれどもね。
594日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:43:00.35
>>592
西域都護は「西域都の護」じゃなくて「西域の都護」。
この場合は、「都」は「みやこ」じゃなくて「command」。
「西域でcommandしguardする者」という意味。
「所都」は、「みやこするところ」。
「都」は都護と所都で意味が違うのに、同じ意味に取ろうとするのは間違いのもと。
595日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:45:32.28
>>593
訓読は翻訳。
意味が問題なのであって、発音は関係ない。
王が居る=その場所が都となる
つまり「都=みやこする」
596日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:52:51.61
>>595
そおゆう姿勢でやってくれるのなら許容するに難くは無いけれど

「訓読は翻訳だから 訓読した途端に意味が捻じくれる」

生荻徂徠はそう主張して現地音で読もうという努力をした

先人の知恵をわるれないでほしい
597日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:56:45.55
>>591
>>593
同意

>>594
主旨に同意。
読みは不可。都:ツする、トする
598日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:58:21.09
もう学問じゃない。宗教的な妄想、偏執の域で、
中韓と同じ思考でみっともない。
599日本@名無史さん:2013/02/17(日) 01:04:30.05
「至邪馬壹國女王之所都」

「邪馬壹國」のうちの「女王之所都」に至る


「邪馬壹國」のうちには@「女王之所都」=@「女王國」の他に

A「都支國」とB「好古都國」と ふたつの「都」があったと。。。

「邪馬壹國」とは別枠扱いの王のおる C「伊都」のも「都」があった

王がおれば「都」があってもふつうだろうから

D「狗奴國」にも「都」くらいあるやろ
600日本@名無史さん:2013/02/17(日) 01:24:54.27
要するに
captain(司令官)と capital(首都)の語源が一緒のようなものだろう
601日本@名無史さん:2013/02/17(日) 01:32:43.22
>>596
×そおゆう
○そういう
602日本@名無史さん:2013/02/17(日) 08:06:06.32
不彌 ふみ うみ

f のは消えがちだから

大   おぉ
王   おぅ
     ↑
大夫 おぉう←おぉふ

王の訓の発生はこんなかんじか。。。
603日本@名無史さん:2013/02/17(日) 09:24:55.19
ほんと素人ヲタの妄想だらけだな。
ヲタってのはこれだからいかん。
だいたいプロと違い、発掘もできない、手に入る文献も限られるんだし、
素人の研究などただの妄想に立脚したものになるだけなのもわからんのかね。
604満州炒飯:2013/02/17(日) 09:26:11.18
>>586
その前後の文を読んで御覧。
みんな「至○○国」となっているだろ?
於投馬も至於投馬国となっている。
だから於は前置詞ではないんだよ。
これを前置詞と解したアホな学者の言に従ってはいけない。

自分で読み、自分で考える。
君らはそれができていない。
みんな学者の説を鸚鵡返しに繰り返しているだけだ。
605日本@名無史さん:2013/02/17(日) 09:29:19.44
新九州説も、そろそろ熊本〜阿蘇あたりに女王之所都をぶちあげないとな
3〜4か所あるといいな
八代には天照大神の山稜とかの伝説あり、御船の古墳、健軍神社、それと山都遺跡なんかも所都で良さそうだし。
606満州炒飯:2013/02/17(日) 09:34:48.88
>>591
明らかに君が正しい。

稗箕狐という男は妄想を書いてるだけだから、付き合うな。ほっとけば良い。
この男は妄想だらけだから、いちいち間違いを指摘していたら、際がない。
607満州炒飯:2013/02/17(日) 09:38:25.34
末盧から 東南五百里 日向国

九州人 行程パズルは もうやめろ
いつまでも あると思うな 九州説
608日本@名無史さん:2013/02/17(日) 09:44:31.49
行程パズルは時間の無駄なことは江戸時代から明治大正くらいでもうわかってたこと。
昭和に入ると、らちがあかないから放射説だ、郡からの総日程説だ、気違いじみた流れに入り、
平成に入りさすがに馬鹿馬鹿しくなりヲタ以外はもう考えなくなった。
結局発掘調査から出土したものを科学的に分析して割り出すやり方しかない。
素人なんかお呼びじゃない
609満州炒飯:2013/02/17(日) 09:58:11.22
末盧から 東南五百里 日向国

実はこれは私の考えたことではない。或る文献に明記されているのだ。
私は二回読んだが、(はは、作者は勘違いしてるな)と思っていた。
ところが三回目に読んだとき、ハタと気付いた、なるほど、末盧の東南五百里は日向国だと。

実際の伊都国は九州北岸にあったのだろうが、
大陸や半島の人間は日向国を伊都国だと思っていたのである。
伊都国の別名が日向国で、神武天皇の故郷だと思われていたのである。
倭人伝の記事はその伊都国観をそのまま継承しているのだ。

何はともあれ伊都国は日向国なのだから、九州説は完全にアウトである。
610日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:02:46.84
ふむふむ、よーく読んでみると、こうですね。
何はともあれ伊都国は日向国なのだから、(旧)九州説は完全にアウトである
611日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:07:14.58
畿内の影響力は明らかに九州まで及んでるし、九州説はまずない。
九州説なんかほとんどが専門家に楯突いて通ぶってるヲタがほとんど。
いかにもヲタらしい行動(笑)自分だけの邪馬台国を唱えたいだけ。
612日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:07:33.02
伊都国=日向国にしたら畿内説も破綻するだろう。
613日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:13:02.37
画文鏡がほとんど畿内から出る時点で九州説はないんだがな。
それがわからないかね
614日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:21:07.57
記紀では日向のあと間もなく東へ遷り、
その後に畿内で大発展したといってるから、畿内の影響力うんぬんで九州説否定はできない
まるで明治維新後、東京は大発展したから、江戸末期〜明治以後に京都はなかったみたいな論法。
615日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:24:41.41
さてとお またかくか

都 dū
〈動〉
(2) 聚集 [accumulate]
都部者,都統其衆也。
616日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:27:03.90
記紀の立場に立てば高天原が北部九州の可能性大だろうさ
高天原を攻めているのか?
日に向かって戦うのが良くないと言っているだけ
617日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:27:46.53
太宰府は前身が「筑紫都督府」という名前で書紀に出てくるな
一連の話を考えると面白い
618日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:28:02.09
なんか掘り当てたら卑弥呼だ邪馬台国だと騒ぐ

これが畿内病
619日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:32:24.44
>>609
それって日向峠の日向だろ

「ひなた」とか 「ひなだ」とか

「くしふる」のあたりだぞ

「くしひなだ」ひめ とかも関係するみたいなかんじ
620日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:32:26.20
畿内人は、記紀の時代の人が600年繰り上げの神話を書いたくらいだから、
平成のじぶんたちだって年代を繰り上げるくらい許されると思ってるようだ。
621日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:48:31.93
倭人伝によれば、邪馬台国は人口七万戸。誇張であるにせよ倭で最大の人口数だ。
九州説言うなら考古学的に九州で最大の人口密集地に邪馬台国を比定しないと筋が通らない
622日本@名無史さん:2013/02/17(日) 11:21:37.20
◎ 部 bù
〈動〉

(1) 統率 [command]
漢王部五諸侯兵。-- 《史記・項羽本紀》

(2) 又如:部人(被統率的人);部握(統管,掌握);部率(統率)

(3) 安排,布置 [arrange]

部署諸将。-- 《漢書・高帝紀》。注:“分部而署置。”

(4) 又如:部索(部署搜索罪人)

(5) 管轄 [administer]。如:部縣(所轄之縣,属縣);部領(統轄率領);部事(所属的事情)
623日本@名無史さん:2013/02/17(日) 11:24:55.74
なにしろ傍国21の各人口が書いてないし、国間の込み具合、隣国との接し具合も不明なので
邪馬台国がそうとう大きかったにせよ人口密度最大とは言いきれない
(邪馬台国は人口密度はさほどでもないが、面積だけはとびきり大きかったのかもしれない)
624日本@名無史さん:2013/02/17(日) 11:32:19.79
倭の都が邪馬台国なんだし、邪馬台国が人口数で最も大きかったとみるべき。
ほんとに九州説のヲタは勝手な屁理屈ばかりだな。九州説なら安本の甘木かもしくは一番人気の山門だろう。
ただどちらもまずないが(笑)日向とかあんな奈良時代の大和朝廷の頃でも糞辺鄙な田舎に
邪馬台国があったわけないだろ。
625日本@名無史さん:2013/02/17(日) 11:52:03.08
1戸何名と想定するかはいろいろあるが、
仮に1戸4名ならば、7×4=28で、28万石以上の
地域をせんたくすべき。

それ以下の説は、最初から排除。
626日本@名無史さん:2013/02/17(日) 11:54:42.81
奈良時代は奈良時代で弥生末古墳初頭の情勢を考察するなら弥生末古墳初頭の遺跡を見るべきだろうに。
個人的な感情で語っても誰も納得させられんよ。
同じ感情を抱く者同士でなあなあやりたいのなら話は別だが。
627日本@名無史さん:2013/02/17(日) 11:59:51.50
今の奈良と東京を比してどうなんか。
当時の確かな文献記録と確かな遺跡がなければかつての日本の首都などと思いもしないだろ。
628日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:08:58.34
>>624
卑弥呼が共立される前の倭国の大乱は、
今で言うと、大まかには福岡県筑前+筑後川以北 対 福岡県筑後(筑後川以南)+佐賀県等の戦い。
発掘により、吉野ヶ里はその最前線であったとみられている。
それが魏を背景にした佐賀等の卑弥呼側の卑弥呼共立案で終息に至った模様。

新九州説では、邪馬台国は筑後川+佐賀以南の勢力であり、大陸への航路も佐賀〜唐津〜対馬であった、となる。
これに対して、今の福岡市〜北九州市は古くから開けていたので人口も多かったかもしれない。
しかし、それらの国は倭人伝では傍国扱いとなり、人口が多いにもかかわらず都にならなかった、となる。

旧九州説は博多勢力を中心に置くに対し、新九州説では佐賀〜熊本等を邪馬台国の主力に据えるのが特徴。
邪馬台国は土地豊かな熊本平野から阿蘇にかけての人口7万戸。
こうすることで、倭国の大乱から末蘆国〜佐賀ルートと佐賀平野の伊都国の役割がうまく説明できる。
629日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:09:59.94
本当にヲタらしい屁理屈ばかりだな(笑)
これだからヲタはいかん。絶対に自分の説を曲げないし、自分に都合のいい解釈しかしない。
安本の調査で甘木地域が当時の最大の人口密集地だったらしいので、
九州説とりたいなら彼の説に従え。だいたい卑弥呼の宮殿に千人も奴隷がいたようだし、
卑弥呼のいた邪馬台国が人口数最大と見るのが自然だ。
いい加減ヲタ臭く批判ばかりせず、筋を通せ
630日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:20:34.65
>>629
いいたいのはそのことかww
唐津〜岩屋〜佐賀ルートでは、甘木・邪馬台国説は方角的&距離的に筋が通らず、世間の大批判を受ける。
そうしたくても、できないよねえ。
631日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:21:20.01
人口密集地にこだわって何になる。あほらしい話だ。
日向は古墳時代を通じて繁栄を続けた九州随一の古墳密集地。それだけ
繁栄を続けることができたということは、他の地域から生産物を収奪でき
たということ、すなわち権力を握っていたということだよ。
632日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:29:42.91
天照・卑弥呼説に立てば、
邪馬台国女王之都は、その後、何らかの理由で奈良に移転する。
いささか居心地の悪いところだったのではないかと思える。
それは九州東岸を襲った巨大地震と津波、それに火山の噴火だ。
近年のボーリング調査で250年前後にそのような悲劇のあったことが分かってきた。
邪馬台国女王之都は、100年とか150年とかの儚い命だったのかもしれない、九州のマチュピチュだな。
633日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:34:01.32
日向とか記紀に絡めたいだけだろ(笑)
巻向型の前方後円墳が日向を飛び越して鹿児島でも見つかってるのに、
日向が倭の中心で権力握ってたわけないだろ(笑)
634日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:38:40.83
津波で首都移転とかいい加減妄想もたいがいにしてくれ(笑)そんなん学問でもなんでもないわ
635日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:38:46.21
女王之都が奈良に移転したのちに、巻向→鹿児島と考えれば何の不思議もない
ま、結果的に邪馬台国は仮の住まいだったというわけだ
記紀を真っ向から否定する理由も証拠もないからな
636日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:41:20.89
>>634
そりゃおかしい。
現に学術調査で見つかってるのに否定するのは、その後の天武地震災害も否定するようなものだ。
それこそ、非学術的妄想だよ。
637満州炒飯:2013/02/17(日) 12:41:40.90
>>619
いや、そうではない。日向峠の日向ではない。
ちゃんと日向国と書かれているのである。国である。

とにかく伊都国は日向国なのだから、九州説は完全にアウト。
末盧国から日向国に至るまでに邪馬台国があるなら、
途中に邪馬台国有り、とか、南陸行三百里至邪馬台国と書けばよい。
そう書かずに水行十日陸行一月と書いているのだから、九州ではないと見るべきである。
638日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:41:53.48
日向から一部の氏族が新天地を求めて、
瀬戸内海を北上することがあっても、不思議はない。

そこで古墳と開墾技術が伝えられたのかもしれない。
639日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:44:20.71
地震津波火山噴火で奈良に移転したという決定的証拠が提示できなきゃただのヲタの妄想。
裁判でもそんな妄想だけでは話にもならんし相手にされないよ。
640日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:49:33.56
とりあえず、神武が日向から東征したというのは、
記紀に書かれているわけで、今のところ、
それを否定する理由もない。
641日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:53:28.14
神武東征の日向も宮崎のことかも定かではない。筑紫だという説すらあるし、そもそも神武東征なんて、
作り話だという説のほうが強いし、神話など真に受けるのは史学の学問ではない。
642日本@名無史さん:2013/02/17(日) 12:57:17.11
>>639
考古学者の仲間は、天武地震も貞観地震も記録はあるのに証拠が無いから荒唐無稽といって笑い飛ばしたきた。
それで備えを怠り、今回の東北大震災を悲劇的なものにした。
少なくとも記紀にはそれらしいくだりも書かれているだろ。
それを、またもや一笑にふすのはおかしい。
それが架空であるというなら、君たちの方で架空を証明するのが先だ。
裁判まで持ち出すならその順番になるな。
643日本@名無史さん:2013/02/17(日) 13:24:09.80
地震があったから奈良に移転した証拠を示せと言ってるんだよ。
地震があったからなんなんだ?んなもん関東大震災だって東京直撃したが、今も首都は変わらず東京だし、
地震で奈良に移転したとか馬鹿馬鹿しくて話にならんね
644日本@名無史さん:2013/02/17(日) 13:36:57.53
>>643
記紀は神話であり真に受けるのはおかしい書物だというなら、どこまで神話でどこまで史実か証明してから言ってくれよ。

ともあれ、これでも勉強してみてくれ
当然、これでそうだとは言い切れないが、記紀の記述がまるきり荒唐無稽ともいいきれぬ。
記紀にもそれなりの理屈があって巨費を投じて編纂し、伝えているわけだからな。
はるか後世の我々下々が一笑にふすのは先人に失礼というもの。
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/nankai_trough/5/iin_okamura.pdf
645日本@名無史さん:2013/02/17(日) 13:40:55.21
皆、自分の説が立証できるか否か、考えてレスしろよ。
646日本@名無史さん:2013/02/17(日) 14:03:32.88
炭素年代測定や年輪年代といった科学的分析からも、巻向の年代は三世紀だと言うのがすでに通説だし、
これで九州に邪馬台国もってくのは苦しい。
647日本@名無史さん:2013/02/17(日) 14:38:58.50
>炭素年代測定や年輪年代といった科学的分析からも

西日本では併行的に国づくりが進んでいたわけで、早いから大きいから邪馬台国とは言い切れない。
そこが肝心なところ。
むしろ当時文明の利器である鉄器の使用にどれだけ先行していたかじゃないかと思う。
武力はもちろん、水田等の一次産業の生産力は鉄器の導入で数倍に向上したとみられているそうだからね。
648日本@名無史さん:2013/02/17(日) 15:04:29.66
ホケノ山の小枝のC14の測定では、
4世紀後半ですな。
649日本@名無史さん:2013/02/17(日) 15:08:47.99
ホケノ山内部から出てきた小枝のC14炭素年代法 4世紀後半
ホケノ山の下の切り崩された堂ノ後古墳の埴輪 5世紀
箸墓古墳の周濠の最下層から出てきた馬具 5世紀以降
650日本@名無史さん:2013/02/17(日) 15:10:14.18
畿内説では炭素年代法は重視しない立場を取っている。
651日本@名無史さん:2013/02/17(日) 15:32:58.33
箸墓の布留0式土器は三世紀後半だし、畿内説崩せる論拠が九州説にはない。
つかこんな話題何度もループしてるしいい加減にしろ
652日本@名無史さん:2013/02/17(日) 15:36:24.59
発掘が許可されそうだと急に予防線張り出したのか?
確か九州説は考古学に頼らないんだよなw
653日本@名無史さん:2013/02/17(日) 15:37:42.72
鉄とかも以前何度もみたわ(笑)
鉄があるからなんだというんだ?鉄で食料の生産性が向上するのか?
耕作地は九州は少ないから、鉄があっても食料問題が解決できず衰退しただけだろ。
654日本@名無史さん:2013/02/17(日) 15:39:47.58
伊都国が日向国にあった?w
無理無理。
糸島半島じゃ無いかもしれんが、志賀島の金印王の後継者の国だよ。
655日本@名無史さん:2013/02/17(日) 15:43:38.52
結局のところ、人によって、また時代によって解釈が違う
土器編年しか、畿内説の根拠は存在しない。

布留式が100年ほど引き伸ばされたのは記憶に新しい。
656日本@名無史さん:2013/02/17(日) 15:47:47.51
>>653
石木の鋤・カマと鉄製の鋤・カマでは、作業能率が格段に違うのをご存じないんだな。
家を建てる材木も、屋根を葺くカヤも格段に大量に手に入る。
その程度の農業知識じゃ、一次産業で飯食ってた古代の社会構造には迫れぬな。
657日本@名無史さん:2013/02/17(日) 15:54:02.70
古墳の形態も箸墓は初期型の前方後円墳だし、箸墓から出土した特殊器台も、
吉備型のもので、これを4世紀後半以降にもってくほうが時代が合わなくなる。
3世紀後半、遅くとも4世紀初頭じゃないと、5世紀からの応神王朝との整合性が保てん。
658日本@名無史さん:2013/02/17(日) 15:58:58.01
古墳の形態変化を記紀に合わせると、
6世紀飛鳥朝まで、全部変だといって良い。

なにか根本的な編年の見直しが必要。
あと被葬者の比定も見直しが必要。

むしろはっきりわかっているのは殆ど無い。
659日本@名無史さん:2013/02/17(日) 16:49:01.02
見直したところで九州王朝やら東遷説やらは成立しないけどな。
少なくとも記紀上で古来から倭の中心は阿波。
660日本@名無史さん:2013/02/17(日) 17:09:21.27
倭の5王には仁徳は確実に含まれてるから五世紀初頭の仁徳の古墳は間違いないだろ。
箸墓が4世紀後半以降なら仁徳古墳までに至るスパンが短すぎる。
661日本@名無史さん:2013/02/17(日) 17:10:44.88
えっ?
662日本@名無史さん:2013/02/17(日) 17:11:43.46
神武東征は大隅の宮浦(現霧島市福山)、東串良町柏原のあり、当時は日向(ひむか)の国は
大隅・薩摩半島も含んでいた。日向の美々津は大隅から渡り継いだ場所とも考えられる。
663日本@名無史さん:2013/02/17(日) 17:13:05.30
二世紀末に異常気象で食料難になった九州の難民が朝鮮に助け求めに来た史料があったはず。
鉄があろうがなかろうが現実問題卑弥呼と同時代の九州の人々は飢餓に苦しんでます(笑)
664満州炒飯:2013/02/17(日) 17:28:39.67
19歳(もう二十歳か?)が出てきているようだが、あまり進歩がないなw
記紀をいいかげんな書物だと思っているようでは素人と同じ。
665日本@名無史さん:2013/02/17(日) 18:06:07.77
寒冷化の異常気象で朝鮮半島に逃げるって話があるが、
もっと寒い朝鮮半島に逃げてどうするんだろ。

九州は伝統的に、高温干ばつに弱いが、寒冷化には強い。

源平合戦で、
九州北部を領地にしていた平氏が源氏にやられたのは、
高温化による干ばつで、食料が取れなかったという説もある。

源氏の本拠地は東国だからね。
666満州羅麺:2013/02/17(日) 18:44:30.00
>>665
だからその飢餓で新羅に逃げてきた倭人というのは日本人ではないのである。
日本から朝鮮半島に逃げたのではないのである。

分かるか?
それが分かれば私の満鮮説が理解できるようになる。
667日本@名無史さん:2013/02/17(日) 18:51:15.92
朝鮮南部にあった伽耶、大隅の鹿屋にいたとされる熊襲の首長、厚鹿文(あつかや)。
鹿屋(かのや)は普通かのやとは読まず。かやとしか読めない。なぜ、「の」を入れたのか。
言語的にも大隅の言葉は濁音があり朝鮮語と似ているとも言われるし、鹿屋の笠之原地区は
朝鮮の役で連れて凝られた朝鮮人部落であるが以前より朝鮮人が住んでいたとも言われる。
また、朝鮮人は陶工として連れて来られたが島津義弘の地元の伊集院の近くと義弘の祖父の
忠良が治めていた加世田に住まされたが、島津と関係がなく陶工地にもならなかった鹿屋に
住ませたのは謎だ。
668満州羅麺:2013/02/17(日) 19:02:00.27
>>667
大隅というのは面白いところなんだよ。南沃沮人が住んでいたのだ。

大隅國有始羅郡本南沃沮人所聚(桓檀古記)

さあ興味が出てきたら桓檀古記を読んでみよう!
669日本@名無史さん:2013/02/17(日) 19:18:07.46
>>667
あなたは井上さんを「いうえ」さんと呼ぶの?
670日本@名無史さん:2013/02/17(日) 19:33:48.65
>>633
>巻向型の前方後円墳が日向を飛び越して鹿児島でも見つかってるのに、
>日向が倭の中心で権力握ってたわけないだろ(笑)
笑ってごまかしているけど、どうゆう論理だ?
671日本@名無史さん:2013/02/17(日) 20:52:57.68
>>594
commandoいずみとかomankoとかorangerangeとかわかんねえよ。
672日本@名無史さん:2013/02/17(日) 20:53:41.95
>>604
つしま に いたる
だろ
673日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:12:24.23
日向は狗奴国か投馬国の一部だろうな。
辺境だが辺境のメリットもあるのだ。
674満州羅麺:2013/02/17(日) 21:19:35.67
>>672
だからその前後の文を読んで御覧よ。みんな「至○○国」となっているだろ?
於投馬も至於投馬国となっている。だから於は前置詞ではないんだよ。

倭人伝を見ても「至○○国 」となっていて、「至於○○国」とはなっていない。
於を入れなければならないのなら、すべての国の前に於を入れなければならない。
ところがそうなってはいない。だから於というのは国名の一部である。
前置詞ではない。
675日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:24:45.29
「お」という発音を表すのに「於」の字を使った例を探してみな。
676満州羅麺:2013/02/17(日) 21:37:26.57
於をどう発音したかは問題ではないのである。
於投馬の於は前置詞ではないということ、それを論じているのである。

漢文を読めば、国名や人名に、前置詞などと紛らわしい変な字を宛てている例がよくある。
今すぐ例を出せと言われてもできないが、稗箕狐なら経験があるはずだ。
於投馬の於は間違いなく国名の一部である。
677日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:42:04.73
二次史料の出来損ないのをいぢるのが得意なだけ。
678日本@名無史さん:2013/02/17(日) 21:45:53.73
於が表音文字として使われた事例を探してみなと言っているんだよ。
至於投馬国で一番考えられるのは、倭人伝が書写を繰り返される課程で誰かが
つい前置詞を入れてしまったという可能性だ。
於が表音文字としてしばしば使われているというのならば別だが、私は前置詞と
して多用される文字を冒頭に使うとは思えない、読者は前置詞だと思うからね。
679日本@名無史さん:2013/02/17(日) 22:12:43.33
>>674
置き字は入ったり省いたりするものだ。
680満州羅麺:2013/02/17(日) 22:29:39.48
>於が表音文字として使われた事例を探してみな

ではそういう例は一例もないことを証明してみな
681日本@名無史さん:2013/02/17(日) 22:32:43.75
中国人とか朝鮮人って、ホント悪魔の証明が好きだな
682日本@名無史さん:2013/02/17(日) 22:42:42.16
例も見つけないで主張していたのか? 浅慮だな。
683満州羅麺:2013/02/17(日) 22:56:09.44
>>682
それはお前も同じだ。
於が表音文字として使われていないという例を全部調べてから物を言え。
684満州羅麺:2013/02/17(日) 23:03:19.77
ここの連中の書いていることは一から十まで通説、定説の類ばかりである。
於は前置詞というのが通説定説だからそれに従っているだけ。

九州説者は九州説の通説定説を語り、畿内説者は畿内説の通説定説を語る。
考古学好きの奴も考古学の通説定説を語っているだけ。

あほらしいというか、なさけないというか。
一体何のためにこいつらは邪馬台国の勉強をしているのか。
685日本@名無史さん:2013/02/17(日) 23:44:22.90
満州は文句ばっかだな
どっか逝けよ
686日本@名無史さん:2013/02/17(日) 23:48:19.35
定説にもいろいろあるが、
一応は過去の研究成果だからな。

ここを軽く見ると痛い目を見るよ。

定説を一応頭に入れて、
それを超えるなら超えるような意見を出さないと、

足をすくわれる。
687日本@名無史さん:2013/02/17(日) 23:58:04.72
2chで定説を超えたとか言っても
いったいどこに響くんだ?
688日本@名無史さん:2013/02/18(月) 00:35:51.56
>>683
使われていないよ。全部調べたさ。
689日本@名無史さん:2013/02/18(月) 01:15:07.11
          ,..-─‐-..、
          /.: : : : : : : .ヽ < 君は逝きなさい!
        R: : : :. : pq: :i}
         |:.i} : : : :_{: :.レ′                  , -─弋ヽ、
        ノr┴-<」: :j|    ホレ逝きなさい!> /      `Y
      /:r仁ニ= ノ:.ノ|!           _          | {、       |
       /:/ = /: :/ }!        |〕)       从\ |)   |
     {;ハ__,イ: :f  |       /´   (〔|      ヽ__j儿从八_
     /     }rヘ ├--r─y/ ☆、  `\      i⌒ヽ ̄ ̄\
   /     r'‐-| ├-┴〆    _, 、_⌒☆ \    |  | `===ヘ
    仁二ニ_‐-イ  | |       ∩`Д´)      ゙と[l ̄|  |     \
    | l i  厂  ̄ニニ¬       ノ   ⊂ノ          ̄|  |         ヽ
   ,ゝ、 \ \   __厂`ヽ    (__ ̄) )←羅麺      |  |\      }
  _/ /\_i⌒ト、_   ノrr- }     し'し′         /{_〆 ̄`ーー=='^┤
 └-' ̄ `|  |_二二._」」__ノ                  {| -‐  / | | }
      └ー′                          └─-二_/⌒Y ̄}
690日本@名無史さん:2013/02/18(月) 01:41:44.37
マン臭さんは「定説を覆す俺カッコいい」な人
691日本@名無史さん:2013/02/18(月) 01:52:30.86
>>680
悪魔の証明?
692日本@名無史さん:2013/02/18(月) 01:59:07.88
>>683
>於が表音文字として使われていないという例を全部調べてから物を言え。

それは無茶苦茶や。本当に無ければ、無いという例は提示のしようがないからね。
使われていない例を全部っていったら、表音表記の例を全部提示しなければならなくて、
事実上不可能な要求。

於が表音文字として使われた事例はあるんだから、あると主張する側が具体例を提示しなければならない。

於夫羅(おふら) 後漢時代の南匈奴の単于

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BC%E5%A4%AB%E7%BE%85
693日本@名無史さん:2013/02/18(月) 07:45:53.56
だいたいよ、平仮名「お」も片仮名「オ」も「於」の字の略対からきてるんだから。
694満州羅麺:2013/02/18(月) 09:29:53.10
そら見ろ、於夫羅。於が固有名詞の頭に置かれているではないか。
そうすると>>688の>使われていないよ。全部調べたさ。
というのは嘘なのである。嘘をついてまで人に勝ちたいのか。

人名の頭に於が使用されているなら国名の頭に使用されていてもおかしくはなかろう。
たとえそういう例が一例も無かったとしても、於投馬が唯一の例ということもある。
稗箕狐などは二次資料だとバカにしているが、正史以外でも重要情報が載っていることがある。
たとえば倭面土国。いくら何でも倭国を倭面土国と書き誤ることはないから、
倭面土国という原資料がどこかにあったはずなのである。

>>685
それもお前の文句だろが。お前も私に対して文句ばかり言っている。どこかへ行けよ。
私は>>682の男に腹が立ったからカッとなって書いたのだ。
ついカッとなって全員に対する文句を書いたまでである。
お前だって、ここの奴らはアホばっか、とかそういうことを書くだろが。
695日本@名無史さん:2013/02/18(月) 09:33:42.27
696満州羅麺:2013/02/18(月) 09:38:45.53
さて話はまったく変わるが、隅田八幡神社画文帯神獣鏡銘文の
癸未年八月日十大王年
これを太国やアホ学者は
癸未年八月 日十大王年
と区切って読んでいるが、それが誤りだという証拠を見つけた。これは
癸未年八月日 十大王年
と区切って読むのである。

まあ太国が出てきたら話すとしよう。
太国以外の奴らと話しても面白くないからな。
697満州羅麺:2013/02/18(月) 09:46:27.69
それから三国遺事の中に実に面白い記事を見つけた。
後百濟の創始者甄萱にまつわる話である。

又古記云。昔一富人居光州北村。有一女子。姿容端正。謂父曰。毎有一紫衣男到寢交婚。
父謂曰。汝以長絲貫針刺其衣。從之。至明盡絲於北牆下。針刺於大蚯蚓之腰。
後因妊生一男。年十五。自稱甄萱。至景福元年壬子稱王。立都於完山郡。理四十三年。

百襲姫の話と酷似している。どうだ面白いだろう。
698日本@名無史さん:2013/02/18(月) 12:41:08.46
そこからどうゆうことを考えるかだな。ただ面白いでは何にもならん。
699日本@名無史さん:2013/02/18(月) 14:41:01.03
>朝日新聞(ニッポン人脈記)邪馬台国を求めて:10

これは10で終わったんでしょうか、なんだか尻切れとんぼな気がして、残念なんですけど。
700太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/18(月) 15:03:08.51
朝慢心よ。

そこの大王名は 「日十大王」 と読むべきなんだよ。w

当時の1ヶ月が十日間だった大王の時代があったのさ。

だから扶桑国(日本)では十個の日があったとの伝説が残ってることが
コチラの主張を裏づけている。1ヶ月が10日間とは、たとえば欠史八代日数統計表
からも八代全員が1日〜10日以内で死んでることで、なおも3倍年暦が真であること
が裏づけられておる。
これを後代から先代へ緊密に逆算していくと、230年が開化48年になることは
以前からコチラが主張していたが、例の沖縄の神徳寺保有文書が呉兵沖縄来襲
を開化48年であったことを記しているが、その年が230年だというからこれもコチラ
の主張を1年の狂いもなく真である文証にて拍車をかけている。

オマエが倍暦を否定しようと、厳然として当時同暦の行使があったことはもう
間違いないんだぜ。w

「熊野略記」には

崇神65年に熊野連大斎原にて、大きい檪の木に三体の月が降りて来たのを見て、
不思議に思い、何故天高き月が低い処に降りて来たのか?と訊ねると、真ん中
の月が 「我は証誠大権現、両側の月は両所大権現、社殿を造り祀れ」との
神勅が下された。

との伝説も、文証として3個の月は現今の1ヶ月が当時は3ヶ月だったことを裏付けている。 
701太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/18(月) 15:20:33.04
>>678
於能碁呂嶋(古事記)
702満州焼きそばUFO:2013/02/18(月) 17:34:43.32
おっ、やっと太国が出てきたか、ウヒヒ、おもちろいなw
太国よ、残念だがお前の思惑はハズレだw
というのは三国遺事にこういう記述があるのだ。

郡西資福寺高座之上。有繍帳焉。其繍文曰。統和十五年丁酉五月日餘州功コ大寺繍帳。

そら見ろ。五月日となっているだろう。
こういう繍帳とか金石文では日付は入れないのだ。八月日。五月日。
なぜかといえば繍帳とか鏡とか刀の出来上がる日が未定だからだろう(推測)。

分ったか、どうだ、ギャフンと言え、ギャフンとwww
703太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/18(月) 18:39:11.13
フフンだ。
隅田八幡鏡銘文を書いた者は、ナゾとして 八月十日 とするところを、
わざと逆転して 八月日十 として、「日十大王」としたものだよ。

そこの文献がそうだからといって、鏡のほうもそうだとは限らない。
事実、日が十個ある伝説が大陸にあるんだかから、大王名はこの伝説の意味を
書きこんだものだ。

当時の1年は現今の4ヶ月分だった時代があったのさ。神武紀も八代と
やり方が違うとはいえ1月〜4月までの記事しかなく、5月〜12月の記述が
存在しないのも、神武時の1年がこの四ヶ月だった、つまり3倍年暦を行使
していたからだ。

オマエが否定しても、230年のピタリ一致はコチラの編年が真だと主張して
るの。ここから倍暦で記の崇神没年 戊寅 が 258年 であったことが
分かるのだ。だから橋本増吉、菅政友、那珂博士、原静岡大学名誉教授らの
258年主張が真であったのである。オマエは編年もできないようだしこれでは
全然ダメだな。w
704満州焼きそばUFO:2013/02/18(月) 18:50:46.60
そうか、では太国よ、これを読め。

其人多壽,至百五十、六十歳 (舊五代史 党項)

党項の人は長寿で百五十、六十歳になると書いてあるぞw
日本の天皇が百五十、六十歳になっても全然おかしくないぞ(笑)
705太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/18(月) 19:00:08.31
それはたまには、そういうのはいるだろう。
コチラは半島に百歳以上の王らがだいぶいたことを聞き及んでいる。

古爾王    百済 120余歳
比流王    百済 110余歳
脱解尼師今  新羅 99歳
逸聖尼師今  新羅 100余歳
太祖大王   高句麗 119歳
首露王    駕洛  158歳

等々、まだ知っている。

だから半島もある昔、倍暦をやってた可能性があるということだな。

別に倍暦説が崩れたわけではない。
706日本@名無史さん:2013/02/18(月) 19:11:16.36
すき すき すき すき すきっ すき だっかいさん
707日本@名無史さん:2013/02/18(月) 21:00:24.11
次は満州ペヤングってとこか
708日本@名無史さん:2013/02/18(月) 21:09:44.09
すき すき すき すき すきっ すき いっせいさん
709日本@名無史さん:2013/02/18(月) 22:08:46.90
「日十大王」について

「倭王 以天爲兄 以日爲弟」隋書俀國伝
兄王が「天王(天皇)」
弟王が「日王(日皇)」

「日十大王」は「日+十大+王」
710日本@名無史さん:2013/02/18(月) 22:32:54.23
>>709
ほう〜、面白い
711餃子の満州:2013/02/19(火) 09:54:00.31
ほう〜、キモい
712日本@名無史さん:2013/02/19(火) 10:43:19.46
でも、その場合、
弟王の名を先に記するのは、ないな。礼として。
713日本@名無史さん:2013/02/19(火) 11:22:37.87
斉藤道三みたいに親子の歴史が1代の歴史になったから
神武父60歳没神武本人60歳没を1代の功績にしたから120歳になったと思う。
714日本@名無史さん:2013/02/19(火) 11:31:49.21
>>712
兄王は祭祀王(夜間担当)
弟王は世俗王(昼間担当)

行政軍事外交は弟王の担当

多利思北孤は弟王。
(多利思北孤の「日皇(弟王)」に対応する別尊称は「法皇」)
卑彌呼の「男弟佐治國」は、男弟が弟王であることを示している。
(卑彌呼は兄王)
715日本@名無史さん:2013/02/19(火) 13:52:04.72
>>714
「倭王 以天爲兄 以日爲弟」
倭王の兄は天で弟は日だって、はっきり書いてあるじゃん。

>兄王は祭祀王(夜間担当)
>弟王は世俗王(昼間担当)

これは隋書にはまったく書かれてないけど、誰が言い出したの?
716日本@名無史さん:2013/02/19(火) 14:35:55.90
天(兄)>倭王>太陽(弟)
717日本@名無史さん:2013/02/19(火) 14:51:51.12
>>715
>これは隋書にはまったく書かれてないけど、誰が言い出したの?

隋書に書いてある。
「倭王 以天爲兄 以日爲弟、・・・・。高祖曰此太無義理」
倭王には、天を兄王とし日を弟王とする二人の王がいる。
これが高祖に「此太無義理」と言わしめたのである。

「天未明時 出聽政 跏趺座 日出便停理務 云委我弟」
夜が明け日が出ると理務(祭祀)は終わり、理務(行政業務)は弟王に委ねられる。

又、祭祀について調べてみると、
古式の新嘗祭や大嘗祭は真っ暗な中で夜に執り行われ、
古式の祭祀は全て夜に執り行われている。
灯は小さな灯明一個のみ。人の輪郭が見える程度の明るさ。
718日本@名無史さん:2013/02/19(火) 15:55:25.01
>>717
その解釈を一番最初に言い出したのは誰?
719日本@名無史さん:2013/02/19(火) 16:08:31.42
満州青椒肉絲
720日本@名無史さん:2013/02/19(火) 16:19:54.38
倭国王の上に、天多利思比孤のような天子がいる。
倭国王の下に、日本国、畿内王権がいる。

いまふっと浮かんだ。
721日本@名無史さん:2013/02/19(火) 19:35:21.37
「太師 太宰 2ch」でぐぐると
http://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%AA%E5%B8%AB+%E5%A4%AA%E5%AE%B0+2ch



http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1359787894/
<<163,164,283,284,289,290,291,292,293,295,297
722てへ:2013/02/19(火) 19:36:07.61
>>163,164,283,284,289,290,291,292,293,295,297
723日本@名無史さん:2013/02/19(火) 19:39:53.05
724717:2013/02/19(火) 21:09:49.29
>>718
>その解釈を一番最初に言い出したのは誰?

知らない。
725日本@名無史さん:2013/02/19(火) 22:27:16.36
言い出したもなにも、隋書に書いてあるわけだろ
726日本@名無史さん:2013/02/19(火) 22:52:20.41
満州麻婆豆腐
727717:2013/02/19(火) 22:53:06.07
>>725
>言い出したもなにも、隋書に書いてあるわけだろ

だから、知らない。
他にどんな読み方があるんだろうね
728日本@名無史さん:2013/02/19(火) 22:58:03.12
>>719
満州珍説ルーピー
729日本@名無史さん:2013/02/19(火) 23:17:11.59
>>725
>>727
岩波文庫の訳は、
「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出かけて政を聴き、
あぐらをかいて坐り、日が出れば、すなわち理務をとどめ、わが弟に委せよう、という」
これが通説。
つまり隋書には、倭王は一人で、抽象概念である天を兄とし、天体である太陽を弟としているとしか書いていない。
中華思想からすれば、中国の皇帝こそが天子つまり天の子であり、
野蛮な東夷の倭の王が天の弟であるはずはなく、太陽を弟とするはずがない。
だから、中国側からすれば「此太無義理」ということになる。

>倭王には、天を兄王とし日を弟王とする二人の王がいる。
>これが高祖に「此太無義理」と言わしめたのである。

こういう解釈は、漢文の文法としても成り立ちがたいと思う。
理由の詳説は面倒なので省くけど。
漢文教育がしっかりしていた明治以前には、こんな説は出るはずがないので、
短里を言い出した古田氏のように、こういう解釈を言い出した最初の人物が最近にいるはずなんだけどなあ。
730日本@名無史さん:2013/02/20(水) 00:35:43.24
古田が天兄と日弟の二王であると書いているよ。
もっとも私も隋書はそのような意味だと思うがね。
731日本@名無史さん:2013/02/20(水) 00:49:00.11
「天未明時 出聽政 跏趺座 日出便停理務 云委我弟」っていうんだから、
二人の人間が交代で王の業務をやっているとしか読みようがないだろ。
732日本@名無史さん:2013/02/20(水) 01:14:29.69
>>731
それは漢文を読んでなくて、現代人の常識で意味を想像している。
「天未明時 出聽政 跏趺座」・・・天がまだ明けていない時、というのだから、この天は天空のこと。
人間の兄王が「未だ明けない」というのでは意味が通らない。
ならば「日出便停理務」の「日」は太陽。つまり太陽が出たら理務をやめる。
その直前の「以天爲兄」の「天」は天空としか解せないし、「以日爲弟」の「日」も太陽としか解せない。
抽象概念の天を兄とし、天体の太陽を弟としていると書いてあるのであって、
人間の兄王や弟王がいるとは書いていない。

以上が文脈的な理由なのだけれど、それ以前に、そもそも漢文の句法として、
「倭王 以天爲兄 以日爲弟、」を「倭王には、天を兄王とし日を弟王とする二人の王がいる。」とは解せない。
733717:2013/02/20(水) 01:33:01.86
>>729
岩波本は意味不明な直訳や改竄訳が散見されるね。
あまり参考にならない。
734日本@名無史さん:2013/02/20(水) 08:28:42.61
>>733
兄、弟というのは、それだけで人間を表しているからね。「倭王 以天爲兄 以日爲弟、」というのは、
天を司るのが兄、日を司るのが弟ということだろう。「天未明時 出聽政 跏趺座 日出便停理務 云委我弟」
は天すなわち兄王が未明に出て政を聴き、あぐらをかき、日がでると「あとは弟にまかす」という、ということ
だと思うよ。天が未明の時と訳すと天=空みたいだが、天は兄王を意味しているのではないかな。
735日本@名無史さん:2013/02/20(水) 10:14:53.58
やはり奇説の巣窟と成り下がったか…orz
736日本@名無史さん:2013/02/20(水) 10:27:20.64
満州も箸の墓へいったんかな、お店で割り箸たくさん使うじゃろうからその供養に。
737日本@名無史さん:2013/02/20(水) 10:58:31.39
>>732

その読みでは、「隋書の解釈は意味が通じなくてよい」と言っているようなものだろ。
生身の兄王と弟王を置かないと解釈不能だ。
738満州八宝菜:2013/02/20(水) 12:26:33.74
>>732
詳しく考えたことはないが、これが正解だよ。

その他の連中はアンポンタン(笑)
739日本@名無史さん:2013/02/20(水) 13:50:30.18
三流の満州がそっちへ行ってくれると安心するな。
740日本@名無史さん:2013/02/20(水) 13:57:50.26
満州が支持するようじゃ、ダメだなあ
よし、>>732は諦めるわ
741日本@名無史さん:2013/02/20(水) 14:08:35.50
詳しく考えることもなく結論を出すのが満州の習性
742日本@名無史さん:2013/02/20(水) 14:45:18.89
「使者言、俀王 以天爲兄 以日爲弟、」
 天未明時 出聽政 跏趺座 日出便停理務、云委我弟」

700年の俀國の遣隋使が言うには、
俀王は、天(子)を兄王とし日(子)を弟王としており、

(兄)俀王は、
夜明け迄、政(神託)に耳を傾け跏趺坐をし(祭祀に出でて執り行う事)、
夜が明けるとその理務(祭祀政務)を終え、
弟(俀王)に理務(行政政務)委ねると云う。
743満州八宝菜:2013/02/20(水) 19:14:27.69
けふもまた 漢文読んで 揉めてゐる
2ch 漢文読めぬ 奴ばかり

2ch アンポンタンが 勢揃い
744日本@名無史さん:2013/02/20(水) 19:39:41.04
満州豆板醤
745日本@名無史さん:2013/02/20(水) 20:23:17.13
景行記に出てくる宇佐の女王、これが卑弥呼かトヨで間違いないだろ。
どう考えても九州北部から中部までを治めている。

ちなみに巻向遺跡は景行天皇の時期。
彼が九州を制圧したのははっきり書いてるし、景行の宮は巻向だとも書かれている。
だからマキムク遺跡から九州由来のものが出てくるのは当然。

息子のヤマトタケルが熊襲征伐、そのあと東北制圧、で日本統一。

全部、日本書紀と古事記に書かれている通りだろうが。
746日本@名無史さん:2013/02/20(水) 20:23:36.06
まあ協会としては、当然ながらクールダウンのコメント

>邪馬台国の女王卑弥呼の墓説もあり、一般の関心も高い奈良県桜井市の箸墓古墳(3世紀)で、
>日本考古学協会など15の考古・歴史学系の研究者団体が20日、立ち入り調査を実施した。
>終了後、日本考古学協会の森岡秀人理事は「墳丘の形状もよく分かったし、葺石も見ることができた。
>被葬者問題にかかわる築造年代の研究にも役立つかもしれない」と話した。
747日本@名無史さん:2013/02/20(水) 20:29:29.57
卑弥呼は神功皇后。三韓征伐するために九州にいた。
748日本@名無史さん:2013/02/20(水) 20:32:37.78
神功の三韓征伐は卑弥呼の時代より時期がずっと後なのは確実。
しかも同行者の名前が朝鮮の史書に残ってるんで間違えようがない。
749日本@名無史さん:2013/02/20(水) 20:59:06.24
>>748
ttp://www.youtube.com/watch?v=JvIpRFz2eK4

これはどう解釈するの?
750日本@名無史さん:2013/02/20(水) 21:04:31.93
>>746
もういいわ。考古学者は結局、古墳などの年代はわからないということだ。
箸墓の築造年代もどれだけコロコロ変わったことか。
願望が先にあって、それに合わせているわけで本当に始末が悪い。
751日本@名無史さん:2013/02/20(水) 21:05:28.05
景行と呼ばれる男の東九州遠征と中九州巡幸の物語によると、
最終到着地は北野平野の浮羽である。

これは、景行と呼ばれる男が、浮羽出身の倭國弟王であることを示している。

倭國の都は筑後平野の三潴の近く久留米南部。
752日本@名無史さん:2013/02/20(水) 21:15:19.54
畿内説って、けっきょくのところ大きくてうまそうな饅頭にツバ付けただけか
753日本@名無史さん:2013/02/20(水) 21:26:08.01
>>752
大体、壱岐から九州に上陸してんのに畿内にカッ飛ぶ訳がない。
マジで頭おかしいんじゃないかと思う。
誰でも良いから、はよ九州から金印掘り出して終止符打とうぜ。
754日本@名無史さん:2013/02/20(水) 21:31:17.16
あ、ちなみに卑弥呼の冢である百余歩って、どれぐらいの換算が定説?

75〜80mぐらい?
755日本@名無史さん:2013/02/20(水) 21:37:02.57
23m
756日本@名無史さん:2013/02/20(水) 21:43:10.80
倭人伝の距離から推側すると、ここらのどこかに金印は埋まってるんだろな

熊本県内の遺跡概観 
http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/kumamoto.htm

西弥護免(にしやごめん)遺跡
西弥護免遺跡は、弥生時代の環濠集落で鉄器工房跡、218戸の住居跡。墓地群。それを囲む4重の環濠が出土している。
また、大津町からは、長さ85.6cm、幅12cmの巨大な銅矛が出土している。
大津町を通って東に行くと、宮崎県の高千穂町に達する。

方保田東原遺跡
http://inoues.net/club6/kumamoto_katouda.html

熊本県は遺跡の管理がけっこうずさん。
古墳は荒れ放題だし、
特に西弥護免遺跡、方保田東原遺跡は多量の鉄製品出土で知られるが、
残念な事に西弥護免遺跡は現在埋め戻され、上には建物が密集しており、
現在ではどこが遺跡かも判らない状態だという。
757日本@名無史さん:2013/02/20(水) 21:47:20.83
魏の時代の百歩は約145mくらい。しかし、倭人伝の数字は距離にしろ、戸数に
しろ誇張が多い。たとえば、魏の時代の1里は434m程度とされているが、
そうなると千里は434km。壱岐と対馬の間がそんなにあるわけがない。

倭人伝には、前方後円墳らしき記述はないし、箸墓のように濠の記述もない。
大きな古墳だったら、数年かかるだろうが、そんな様子も見られない。
恐らく、卑弥呼の墓はそんなには大きくなかったんじゃなかろうか。
758日本@名無史さん:2013/02/20(水) 21:51:12.92
初期はこんもりした丘を利用してしつらえて山稜に葬ったということもありうる、それなら145mも難しくない。
事実、九州に山稜伝説地は少なくない。
759満州八宝菜:2013/02/20(水) 22:27:11.73
>>756
卑弥呼の金印がどこに埋まっているか、特別サービスで教えてあげようか。
吉林県鳳凰山の古墳である(莞爾と笑う)
760日本@名無史さん:2013/02/20(水) 22:47:46.45
>>759
石原莞爾か、当時の満州・満鉄はユートピアだったからなあ。
もしかして、いまだ満州もあれが懐かしい、というか悔しいのか。
ま、もう遠い夢だ。時は移る。歳月は人を待たず。ギョウザの満州は社長の手を離れて企業自身の論理で大きくなる。
761満州八宝菜:2013/02/20(水) 23:01:01.90
>>760
私は満州で生まれたのではないよ。
長兄と次兄は満州生まれ。私は内地で生まれた。
親が満州のどこに移植したのかも知らない。
たしか哈爾濱の近くだと言っていたような気がするが。
今にしてみれば、もう少し聞いていたらよかったと思う。
親が生きていた頃は満州などに何の関心も無く、
親ともろくに話もしなかったからな。
762日本@名無史さん:2013/02/20(水) 23:16:22.51
>>761
思うに卑弥呼は、本人かその両親辺りの時代に、後漢の黄巾の乱の余波で倭国へやってきたのではないか。
中国語のひとつもしゃべれて、漢字くらい読めなくては女王は務まらなかっただろう
異国の地で頑張って後世に名をなしたわけだ、以上。
763満州八宝菜:2013/02/20(水) 23:21:00.78
>>762
それは伊作の説だ。
伊作はもう出てこない。たぶん自説に自信を無くしているのだろうw
764日本@名無史さん:2013/02/20(水) 23:36:39.07
>>763
あらそう、似たようなことを考えるお人もいるものだ。このところ伊作は熊本説で大忙しじゃないの。

ともあれ、おれの卑弥呼満州帰り説はたとえ話。
満州にルーツを求めたい満州の心情はそれでいいとして、
卑弥呼の心のふるさと(とオレ達が思っている)新九州説をいじめないでくれよ。
765日本@名無史さん:2013/02/20(水) 23:44:00.48
司馬懿
司馬壹次心
邪馬壹


魏 巍

 山
委鬼
766日本@名無史さん:2013/02/20(水) 23:45:08.34
一大率は鬼です。
767日本@名無史さん:2013/02/20(水) 23:53:59.67
 倭女王
  壹與
   は
 司馬懿
   の
   子かも
768日本@名無史さん:2013/02/21(木) 00:30:17.45
769日本@名無史さん:2013/02/21(木) 03:46:17.59
一大卒ってのは、邪馬台国が置いたんだよ
770日本@名無史さん:2013/02/21(木) 07:54:06.51
4世紀の九州北部の武器類の出土具合は3世紀までと比べてどうか
このへんは九州王朝・東征・東遷説の是非なんかを考察するうえで超重要だ。
東遷どころが防衛するだけで3世紀までと比べて明らかな武装化が必要だからだ。
771日本@名無史さん:2013/02/21(木) 08:22:08.52
時期が確定できないが、
原始的山城の神籠石が、4世紀あたりと言われている
772日本@名無史さん:2013/02/21(木) 08:25:30.04
水城も7世紀ではなく、その下の古水城が発掘されており、
そこから出てきたとされる木樋が、C14では5世紀後半から6世紀前半
となっている。
773日本@名無史さん:2013/02/21(木) 11:00:35.06
どうせ九州の方が圧倒的だろう。
774日本@名無史さん:2013/02/21(木) 11:56:24.29
確かに土蜘蛛の数が多いのは圧倒的だな。
775日本@名無史さん:2013/02/21(木) 12:37:05.07
土蜘蛛は、大和から見れば、戦闘員、戦闘集団だからな。
実態としてはゲリラっぽいが、
広範囲で組織化されていれば、熊襲のような敵対国家になる。
776日本@名無史さん:2013/02/21(木) 15:27:12.11
奈良県の方が土蜘蛛は多いかもしれない。
神武東征の時には四つの土蜘蛛出てくる。

層富県(奈良市・大和郡山市周辺)波多丘岬の新城戸畔。
和珥坂下(天理市和珥)の巨勢祝。
臍見の長柄丘岬(御所市長柄)の猪祝。
そして、高尾張邑の土蜘蛛。
777日本@名無史さん:2013/02/21(木) 15:54:39.66
奈良湖の沿岸だけで、三つの土蜘蛛。
奈良盆地の土蜘蛛密度は非常に高い。
778日本@名無史さん:2013/02/21(木) 16:10:33.79
いつのまにか、土蜘蛛競争になってるw
779日本@名無史さん:2013/02/21(木) 17:04:33.72
刃向かう先住民は土蜘蛛、
協力する先住民が出雲という事だろう。
780日本@名無史さん:2013/02/21(木) 17:50:03.38
半島南端で鉄を取っていた、九州北部が圧倒的なのは常識。
781日本@名無史さん:2013/02/21(木) 17:52:36.43
神武東征では、弟が味方で兄が敵というケースがよくある。
たとえば、弟猾(おとうかし)が味方で兄猾(えうかし)が敵。これは宇陀。
弟磯城が味方で、兄磯城が敵という具合。
また、敵として八十梟帥(やそたける)というのも出て来る。フクロウだな。
782日本@名無史さん:2013/02/21(木) 17:52:52.63
東夷のトレードセンターであった壱岐をおさえておかないと鉄流通の制御とは覚束ないしね。
783日本@名無史さん:2013/02/21(木) 17:54:57.75
土蜘蛛は土雲とも書く
784日本@名無史さん:2013/02/21(木) 17:57:59.72
都知雲
都智雲
都治雲
785日本@名無史さん:2013/02/21(木) 17:59:05.19
都知熊
都智熊
都治熊
786日本@名無史さん:2013/02/21(木) 18:01:15.17
都知~
都智~
都治~
787日本@名無史さん:2013/02/21(木) 19:17:18.86
>>734
>「兄、弟というのは、それだけで人間を表しているからね。」

これは誤り。
神霊にも兄弟があるし、王のような特別な存在は、神霊と親子兄弟というのはシャーマニズムの世界では不思議ではない。

もし「倭王 以兄爲天 以弟爲日」だったら、
>天を司るのが兄、日を司るのが弟ということだろう。
という解釈もできなくはない。
しかし、原文は「倭王 以天為兄 以日為弟」。
これでは、そういう解釈は成り立たない。
「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす」
これをどういじっても、天を司るのが兄、日を司るのが弟とはなりえない。
現代の合理的な理屈に合わないからといって、
漢文の語法を捻じ曲げて解釈してはいけない。
788日本@名無史さん:2013/02/21(木) 19:18:31.48
>>737
>その読みでは、「隋書の解釈は意味が通じなくてよい」と言っているようなものだろ。
>生身の兄王と弟王を置かないと解釈不能だ。

それは現代人のあなたの合理的な考え方に抵触するというだけのことで、
濃厚なシャーマニズムの世界に住む7世紀の倭人には変なことではない。
事実、中国でさえ皇帝の支配権の正当性とは、天帝から地上の統治を命じられたから。それを天命という。
天命を受けた者は「天の子」だから天子という。
あなたのような考え方なら、大真面目に天命だとか天子だとか主張しているのも解釈不能になる。

中国の皇帝は天の子なのだから、倭王が天の弟だと認めると、
倭王は中国の皇帝の叔父ということになってしまう。
ここで「此太無義理。」といっているのは、まさにそのこと。
789日本@名無史さん:2013/02/21(木) 19:58:39.53
>>788
同意。
稲作文化において、雨や風といった天候や日の照り具合ってのは収穫に影響を与える重要な要因であるが
アニミズム的な文化において、これら天候や太陽に人格を与えて、彼らの霊妙な力と、人々との友和的な関係の中で
収穫が決まると捉えてなおしていても別段おかしくはない。
790日本@名無史さん:2013/02/21(木) 20:12:34.58
当時は病害虫の被害も大きかったろうけどな
791日本@名無史さん:2013/02/21(木) 20:29:04.61
>>788-789

それは解釈として全くダメだぞ。
「隋書が書かれた当時の中国側がどう理解したか」が問題だ。
隋側にとって訳の分からないアミニズムがあったら、
隋側の理解できる範囲で書いてあるのだ。

それから以下も大嘘。
>天命を受けた者は「天の子」だから天子という。
穆王が祖先の出身地で西王母に会い、西王母が「天」と自称
していたため、穆王は「西王母の子」という意味で「天子」と
自称する許可を貰ったのが「天子」の語の始まりだ。
天命を受けたから天子と称したわけではない。
792日本@名無史さん:2013/02/21(木) 21:07:47.79
だから、彼らの理解の程度の書いてあるじゃん
793日本@名無史さん:2013/02/21(木) 21:19:35.63
使者を出して倭人に問いただすから、ちゃんと理解してるのだよ。
794日本@名無史さん:2013/02/21(木) 21:39:54.16
>>791
漢書郊祀志「王者父事天、故爵稱天子。」(王者は天に父事(ふじ)す、ゆえに爵は天子を称す)
白虎通「天子者、爵稱也。王者父天母地、爲天之子也。聖人受命、皆天所生、故謂之天子。」
(天子とは爵稱なり。王者は天を父とし地を母とす。天の子たるなり。聖人命を受く。皆天の生ずる所、ゆえにこれを天子と謂う。)

白虎通は、皇帝の命によって開かれた白虎觀会議の記録。
皇帝が天子であり天を父とし地を母とするというのが朝廷の正式な認識。
西王母の子ではない。十三經でも探せば沢山出てくるだろう。

>「隋書が書かれた当時の中国側がどう理解したか」が問題だ。

隋側も、皇帝は天を父とするという濃厚なシャーマニズムの世界なんだから、
倭人の言うとおりに理解している。

ところで、「西王母の子」というのは初めて聞いた。
出典は穆天子傳?

>>793
使者を出したんじゃなくて、倭から来た使者にその風俗を聞いた記録。
795日本@名無史さん:2013/02/21(木) 21:40:18.39
いや、だからその程度の理解なんだろ
西洋人が未開人と名指す人たちの宗教をすぐ理解できたとでも?
796日本@名無史さん:2013/02/21(木) 23:53:14.39
>>788-789
「使者言 倭王 以天爲兄 以日爲弟」

天=天子(天の子=天孫)
日=日子(日の子=彦)

上下関係
兄>弟
故に
天>日

又、
天子:「政」の主(夜の政)・・・天兄王
日子:「政」の従(昼の政)・・・日弟王

上記の様な内容が、俀の使者(600年の第一次遣隋使)の言では隋に正しく伝わっていない。
それで、607年の第二次遣隋使では、日弟王の多利思北孤(日子)が天子を名乗った。
これは俀國側の隋に対する誤認識からきている。
797日本@名無史さん:2013/02/21(木) 23:57:26.97
なんだってー!ΩΩΩ
798796:2013/02/22(金) 00:54:31.05
600年の第一次遣隋使は、俀國のニコイチ王制についての理解が得られず、正式には成立しなかったのである。
倭人が倭の情報を持ってきた程度の隋側の認識。
実質の俀國遣唐使は607年。
799796:2013/02/22(金) 01:49:17.34
×実質の俀國遣唐使は607年。
○実質の俀國遣隋使は607年。
800日本@名無史さん:2013/02/22(金) 02:05:23.22
NHKできている
九州説死亡
801日本@名無史さん:2013/02/22(金) 05:02:41.09
マスコミ各社もお通夜状態
802日本@名無史さん:2013/02/22(金) 05:19:16.27
九州説は基本なので大丈夫
途中からわけわからん近畿がおかしい。
803日本@名無史さん:2013/02/22(金) 09:09:32.60
△鏡詐欺、箸墓詐欺など、国民をいつまでも騙し続けられないだろう。
804796:2013/02/22(金) 09:57:43.05
>>796
×多利思北孤
○多利思比孤
805日本@名無史さん:2013/02/22(金) 11:06:17.03
マスコミの続報見さっぱり当たらんわ、朝日記者の、やっぱし!、くらいだ。
近畿説論者の推定築造年のカキコないし、けっきょく4世紀ものとかなの?
806日本@名無史さん:2013/02/22(金) 11:42:04.05
>>805
箸墓古墳のこと?
あれは立ち入りが許されただけで発掘禁止、研究者は外から眺めただけ。
土器が散らばっているのが分かった程度。
大々的に報道された割に本格的な調査が許されたわけでなし。
勿論、九州説が期待している箸墓は4世紀のもので卑弥呼の墓ではない、
という結論も出てませんよ。
807日本@名無史さん:2013/02/22(金) 11:50:26.96
808日本@名無史さん:2013/02/22(金) 11:55:43.53
>>805
箸墓については、新聞報道で「卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳」のような
記事ばっかりで、宣伝が行き渡っていたせいか、卑弥呼の墓と思っている人も
多いが、実は、専門家の間でも意見が分かれていて、4世紀後半という人までいた。

40年近く前から箸墓を卑弥呼の墓にしようとしていた張本人の田辺昭三氏も
結局は四世紀中頃に落ち着いている。

考えてみれば、調査もされていないのに、年代論だけが一人歩きしていた。
卑弥呼の墓にするために、卑弥呼の年代に合わせようとする人達がいたわけである。
809日本@名無史さん:2013/02/22(金) 12:00:43.38
倭人伝に径百余歩とあるのに、最初から径二百余歩では歩(分)がわるいな
810日本@名無史さん:2013/02/22(金) 12:12:34.30
二月初め、巻向発表の時はニュー速も連日大賑わいだったのに
箸墓調査のあとは、どこのスレも過疎状態、マスコミ各社も息切れだ。
最近は宮内庁も表わざ裏わざ駆使してなかなかやりよるわい。
811日本@名無史さん:2013/02/22(金) 12:22:59.02
畿内病
812日本@名無史さん:2013/02/22(金) 12:34:17.85
これいいかもしれないね
http://tr.im/zw2j
ソースはおいておく
813日本@名無史さん:2013/02/22(金) 12:53:20.51
>>808
箸墓は周辺から出てきた土器の炭素測定、古墳の形状などから
概ね卑弥呼の時代と言われている。
学術根拠は何一つされていないのに卑弥呼の墓にしたい人たちが
勝手に卑弥呼の墓にしているわけではない。

学者によってなぜ3世紀〜4世紀という幅ができるかというと
炭素測定方法に難癖つけてる人がいるから。
いずれも科学技術の進歩を待てばある程度は解決できる。
814日本@名無史さん:2013/02/22(金) 12:57:02.13
明らかにマスコミのターゲットからは外れたな、これでモモソ姫も安らかにお休みになれる。
815太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/02/22(金) 13:02:06.43
百襲媛と卑弥呼はほぼ同時代の女性。
しかし別人である。前者は畿内、後者は九州のお方。
816日本@名無史さん:2013/02/22(金) 13:11:21.90
卑弥呼は間違いなく九州の人物じゃないね。
可能性があるとすれば、両親のどちらかが
九州で産まれたとかそのレベル。
817日本@名無史さん:2013/02/22(金) 13:18:33.25
まあ、どっちにしてももうマスコミは畿内卑弥呼に手を出さぬだろ
818日本@名無史さん:2013/02/22(金) 13:20:17.42
>>817
九州はマスコミに相手にしてもらえないだろ?
九州の自治体レベルでは邪馬台国ネタの催しやっては
必死にアピールするもむなしく
819日本@名無史さん:2013/02/22(金) 13:24:15.76
宮崎や原田のような、オラが村の宣伝をする奴らは、いまは畿内説に集中している。
820日本@名無史さん:2013/02/22(金) 13:26:24.93
さよう、今回にこりて、
全国どこでも、今後数年は卑弥呼ものはできない、というかマスコミから胡散臭く見られるだろ。
821日本@名無史さん:2013/02/22(金) 14:21:09.24
>>813
年代さえ合えば、それでいいと考えるのがそもそも間違っていたと言える。

年代を必死に合わせて、年代が合ったから卑弥呼の墓だというのは、
根本的におかしい。

昔の考古学はあまり実年代に触れたがらなかったが、最近は実年代を
主張しすぎる。実年代を他の地域の根拠の否定材料にすることもある。
そもそも土器に実年代はそぐわないのだが。
822日本@名無史さん:2013/02/22(金) 14:29:03.22
>>821
まことにごもっとも。
年代一致は数ある必要条件のうちの一つでしかない。
現代でも、同・姓同名・誕生日が同じで別人なんてあちこちにあるからね。
823804:2013/02/22(金) 15:34:22.65
824日本@名無史さん:2013/02/22(金) 15:34:37.19
>>821
あれは箸墓は4世紀で決着している(卑弥呼の墓でないこと確定)
と言った808への反論だろ。
卑弥呼の墓ではない決定的な証拠がでたわけではないのに
なぜ九州論者はすぐに頭がカッカとなる?
825日本@名無史さん:2013/02/22(金) 16:05:28.53
>>824
そもそも箸墓が名指された経緯が明確でない
だらがどのような根拠で箸墓だと言いだしたのか????
826日本@名無史さん:2013/02/22(金) 17:28:11.12
卑弥呼の墓ではない決定的な証拠は、邪馬台国があったのは九州だってことだろうな。
827日本@名無史さん:2013/02/22(金) 17:37:17.14
>>824
> 卑弥呼の墓ではない決定的な証拠がでたわけではないのに

何だこりゃwww
こういう白痴は治療のしようがない。
828日本@名無史さん:2013/02/22(金) 17:40:55.68
もともとが、トチ狂った畿内説詐欺師たちが不利を悟って、飛びついたのが箸墓。
何が何でも、これぞ卑弥呼の墓だと言い張って、無理筋の屁理屈を大合唱。

あんなもの、初めから卑弥呼と無関係だと、みんな知ってたけどな。
829日本@名無史さん:2013/02/22(金) 17:55:38.95
我が家の向かいにある小高い山
これが卑弥呼の墓ではないという、決定的な証拠を聞いたことは、未だにない
830満州鶏の唐揚げ:2013/02/22(金) 18:24:16.16
だらがとは 誰がのことかと 誰か言ひ

卑弥呼の墓は吉林縣鳳凰山にあり←ノストラダムスの大予言
831日本@名無史さん:2013/02/22(金) 19:59:18.09
このたび邪馬台国近畿説は箸墓調査の結果、完全に死亡致しました。謹んで
生前のでっち上げ策に感謝を申し上げます。ナムアミダブツー、チーン。
832日本@名無史さん:2013/02/22(金) 21:26:44.97
九州に鉄器が多く出土するのは当時の九州人がそれらを回収する暇もない状態にあったため
つまり、出土する年代に九州の国家群は滅ぼされた
833日本@名無史さん:2013/02/22(金) 22:54:03.91
箸墓は北九州以西の遺跡が集まった集合体であることから大和政権がピークの時代。
卑弥呼の墓はそんな大きなものではないだろう。倭人伝に径百余歩とあることから
30〜50m、最大100m、そんなもんだろう。古墳文化は大和政権樹立後全国に
拡がったと考えるのが自然。
834満州鶏の唐揚げ:2013/02/22(金) 22:57:22.44
だからその大和政権はBC660に始まっているのだがw
835日本@名無史さん:2013/02/22(金) 23:01:12.64
寂しい老人が引っかき回してるな
836日本@名無史さん:2013/02/22(金) 23:34:46.21
だ・か・ら!
壱岐から九州に上陸して、水行したにしろ南側に下ってんのに、
遥か東の畿内に邪馬台国が在る訳きゃないだろがと!
しかも陸行出来るって書いてあんだろーがと!
邪馬台国も卑弥呼も、その存在が解ったのが倭人伝からなら、
その枠からはみ出た場所に在る訳きゃないだろーがと!

『陸行一月』の“一月”が距離なのか時間かなのかは置いといても、
九州に上陸してから陸続きの場所に邪馬台国は在るんだよ!
つまり九州の中に在るんだ!
オマケを言えば水行も出来る場所に在りますよって話だ!

畿内論者って、学者・ファン含めてマジで馬鹿じゃねーのか?
837日本@名無史さん:2013/02/22(金) 23:37:14.34
吉野ヶ里遺跡が、邪馬台国と統一文化圏であるのは明らかだな。
畿内は全くの異文化圏。
838日本@名無史さん:2013/02/22(金) 23:44:37.32
放射読みありきでがなられてもな
839日本@名無史さん:2013/02/23(土) 00:05:57.90
>>838
ほう…納得出来る論説頼むわ。
まさか邪馬台国は『ヤマトコク』で、大和って言うんじゃなかろうなw
悔しかったら金印掘り出してみろ。

『漢委奴国王』が“かんの[わ]のなのこくおう”なのか、
“かんの[いと]こくおう”なのか知らんが、どちらにせよ
倭国も伊都國も九州に存在してたってこった。
親魏倭王の金印が出なくとも、既に決定的な証拠が
遥か昔に掘り出されて確定されてんだよ。

んで、卑弥呼の冢は多分想像より小さいぞ。
840日本@名無史さん:2013/02/23(土) 00:19:00.57
金印は57年くらいのもので、卑弥呼とは関係ないだろ

倭国は九州の一国家を指す概念じゃないよ
841日本@名無史さん:2013/02/23(土) 00:34:31.70
「國」つうもんは前漢で発生した地方の行政区単位だよ。

「沃沮諸邑落渠帥 皆自稱三老 則故縣國之制也」

「縣國之制」といっておるがな

「縣」「邑」「鄙」「國」みたいなのが行政区の単位なのね。

「倭國」のは基本単位のところも「國」だしそれがまとまったのも「國」なんだね。

制度史なんてものは制度自体が妄想の産物だからね。。。

「王」に任命してあげてからに「王」を製造してくれたのも後漢のがメインだしね。
842日本@名無史さん:2013/02/23(土) 01:17:10.56
で、?
843日本@名無史さん:2013/02/23(土) 01:32:56.90
卑弥呼の冢は径23m
844日本@名無史さん:2013/02/23(土) 01:38:13.84
『漢委奴国王』
かんのいとこくおう
845日本@名無史さん:2013/02/23(土) 01:52:16.11
『漢委奴国王』
かんのいぬこくおう
かんのいなこくおう
846日本@名無史さん:2013/02/23(土) 01:52:56.52
古墳文化が大和政権樹立後全国に拡がったと考えるのは不自然
847日本@名無史さん:2013/02/23(土) 02:00:14.27
http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic8CZdic88329567.htm
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%B4
「奴」を「ど」と読むのは稀有な列島方言らしい
「ぬ」「の」なのが主流らしいし
「奴」と「那」通用の想定のも幅広いから「な」のもありっぽいしね。
848日本@名無史さん:2013/02/23(土) 02:07:23.78
奴:ど、と・・・1世紀華北平原の発音
849日本@名無史さん:2013/02/23(土) 02:35:43.74
室町時代の倭寇は日本人と中国人の混成集団だったし
朝鮮にいた倭人も日本から来たというよりは両国にまたがる海賊集団のようなものだったかもしれない

ローマ帝国に侵入したフン族もゲルマン人との混成だったと言われている
850日本@名無史さん:2013/02/23(土) 02:43:49.86
http://www.zdic.net/cd/ci/6/ZdicE5Zdic8CZdic88329567.htm は、
現代北京官話発音。

http://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%B4は、正しい。

魏晋では漢音(一世紀華北平原の発音)だから、「奴」は「ド」音又は「ト」音。
851日本@名無史さん:2013/02/23(土) 05:13:01.31
「ワヌ/わぬ」だといってるプロもいたりするんだなあ
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/infolib/user_contents/repository_txt_pdfs/chugoku11/CB011L001.pdf

「倭奴」は、「ワ/わ-nui」を書き記したもので、「ワヌ/わぬ」と読み、
「倭-大きい」(大きな倭、偉大なる倭)を意味する、と解釈するのが正しい。
前置修飾表現が全国を覆うようになると、
倭奴が後置修飾表現であることすら理解できなくなってしまったが、
「倭」に「奴」を後置する「倭奴」は、
「倭(や和)」に「大」を前置する「大倭(や大和)」の前身形であり、
意味も全く同じなのである。
852日本@名無史さん:2013/02/23(土) 05:34:40.34
>>850
> 魏晋では漢音(一世紀華北平原の発音)……

こりゃまたすさまじい(爆笑でんぐりがえり)
853日本@名無史さん:2013/02/23(土) 06:40:11.84
>>851
そういうものはプロとはいわない。キチガイという。
854日本@名無史さん:2013/02/23(土) 06:55:27.77
プロの意味は、中国の史的地域的音韻変化の研究が彼のプロパーだということ。

とおどおのぢ〜さまがこども扱いされているのが納得だろ。

ぢ〜さまがどれだけ妄想たれ流していんちき漢和でっちあげたかって気付けよ。

倭 wō wēi
從人委聲
於爲切 wéi wèi
烏何切 wé wē wè

委 wěi wēi
於詭切 wuǐ

倭 委 ぅえ ゑ ぅえぃ ぅい ゐ 「ゑ」から「ゐ」に近い音かな?

「ゐぬ」だか「ゑぬ」だかといふことにはなるが。

伊那志許米志許米岐穢國(ゑこく)
855日本@名無史さん:2013/02/23(土) 06:58:14.89
「狗」 これも「ゐぬ」だからね
856日本@名無史さん:2013/02/23(土) 07:26:52.70
 
「大宝律令」は「大砲律令」の駄洒落だった

http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0204/46/301.html
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/C_r2/jre024/0823.html

日本は、その歴史から、最初から、インチキ国家だった。
「絶対正義」が、裏で最悪の犯罪を行うという、想像を超えるトリックは、
人類全体を欺いてきた。
だが、よく考えると、古代の人間は、現代人よりも、はるかに頭がよかった。
人類は進化しているという学説は、ほとんどウソだろう。
ここ、数十年を見るだけで、日本人は確実に「退化」している。
要するに、「文化」は、人類の遺伝子を劣化させる。
だが、このような厳しい現実も、古代の支配者階級は熟知しており、
それなりの対策を講じてきた。それで、人類史は、ますます複雑なものになっている。
(仮説を含む)
( http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0102/4/165.html )
857日本@名無史さん:2013/02/23(土) 07:56:51.99
>>852
あのなあ、ここは2チャンネルという掲示板で、松沢病院じゃないんだよ。
858日本@名無史さん:2013/02/23(土) 08:00:44.13
>>857>>854 へのレスだった。やり直し。

>>854
あのなあ、ここは2チャンネルという掲示板で、松沢病院じゃないんだよ。
859日本@名無史さん:2013/02/23(土) 08:09:18.58
>>858
触るなよ、感染するぞw
860日本@名無史さん:2013/02/23(土) 08:44:28.99
卑弥呼は今も由緒ある御廟に祀られている
その道の神職は一目見てただごとでないことがわかっても決していわない
見てわからない下衆人は読んでも聞いても教えてもらっても小馬鹿にするだけ
861日本@名無史さん:2013/02/23(土) 08:51:34.22
邪馬台国は、魏志倭人伝の邪馬台国人の気候・風土・風習から畿内はなし。
九州南部を思わせる。倭人伝の内容、遺跡等から北部九州が可能性が高い。
中国南部から大隅に上陸した渡来人が北上し北部九州で邪馬台国を創った
可能性大。
862日本@名無史さん:2013/02/23(土) 19:17:22.14
倭人伝の行程どおりで南九州だろう。その南九州から王侯がいたことを示す
璧が出ている。倭人伝の記事に会った住居址もでているし、倭地温暖にも合
致する。南九州で何の問題もないね。
863日本@名無史さん:2013/02/23(土) 19:22:17.20
そりゃそれぞれどこだ
864日本@名無史さん:2013/02/23(土) 19:52:32.52
全て日向、都城付近。ついでに言えば記紀にも合致するな。
865日本@名無史さん:2013/02/24(日) 04:41:05.62
地名が歴史を表すんだよ
866日本@名無史さん:2013/02/24(日) 11:26:34.07
今日は行程パズルの日じゃなくて
地名の語呂合わせの日なの?
867日本@名無史さん:2013/02/24(日) 11:41:28.86
倭人伝の行程どおりで筑紫平野だろう。

その筑紫平野に伊都國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬臺國が、即ち女王國と伊都國があったのだ。

投馬國へは帯方郡から水行だけで至ることが出来る有明海東岸の洲島を含む地域にあった。

邪馬臺國へは水行と末盧國からの陸行で至る筑紫平野の内陸国である。

3世紀の筑紫平野は平地と島々が広がる江戸時代の筑紫平野よりも豊かで広く、14万餘戸の人口を養えるのだ。
868日本@名無史さん:2013/02/24(日) 11:47:35.39
×3世紀の筑紫平野は平地と島々が広がる江戸時代の筑紫平野よりも豊かで広く、14万餘戸の人口を養えるのだ。

○3世紀の筑紫平野は、平地と洲島が広がり、江戸時代の筑紫平野よりも豊かで広く、農業と漁業で14万餘戸の人口を養えたのだ。
869日本@名無史さん:2013/02/24(日) 12:02:12.29
○3世紀の筑紫平野は、干潟と洲島が広がり、とても豊かな自然環境に恵まれていたのだ。
870日本@名無史さん:2013/02/24(日) 12:58:18.05
◎3世紀の筑紫平野は、平地と洲島と干潟が広がり、江戸時代の筑紫平野よりとても豊かな自然環境に恵まれて、農業と漁業で15万餘戸を越える人口を養えたのだ。
871日本@名無史さん:2013/02/24(日) 12:59:17.62
>>866
おい行程パズルよ、何度もしっかり行程パズルして誤りなきを期すべしだ。
畿内説みたいに、いきなり箸墓に着陸してココ卑弥呼ちゃんのハカよ、なんちゃってるから、
久内庁工作員にチョッピリ2ちゃん攻撃されただけであえなく降参するんだ。ハカに点々。
872日本@名無史さん:2013/02/24(日) 13:03:51.07
人口と言う点からすれば、
西暦200年の人口。
北部九州(福岡、佐賀、大分、長崎)…4万人。
南部九州(熊本、宮崎、鹿児島))…6万5千人。
というのは示唆的だな。

http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_P_NJ1.html
873日本@名無史さん:2013/02/24(日) 13:13:21.74
>>872
これか、弥生時代の編年に大いに疑問あり。これでは卑弥呼も弥生人口のうちの一人だ。
炭素年代法も考慮し、西暦200年は西暦前200年とかに繰り上げるべきだ。
当時の書物の数字と、1800年後の腰だめ数字とでは、信頼性が比較にもならぬ
874日本@名無史さん:2013/02/24(日) 13:39:59.39
>>866
主題は以下になってるので、ゴミの日同様間違わないで
月・金曜:地名語呂合わせ
火・土曜:行程パズル
水・日曜:畿内説批判
木曜:フリー
875日本@名無史さん:2013/02/24(日) 13:41:16.85
>>867
東夷伝には「邪馬壹國」であって「邪馬臺國」ではないでしょう

後漢書の「邪馬臺國」を否定する考えはありません
876日本@名無史さん:2013/02/24(日) 13:47:32.34
>>873
同意
この表の弥生時代は、西暦前200年の山裾の扇状地水田時代に見合う人口分布だ。
西暦200年頃なら、低地平野の水田面積増加に見合う人口を加えなければならない。

弥生前記中期後期の気候変化と低湿地水田の発展を知らずして推測した人口である。
弥生中後期の低湿地水田農業の発展については、鬼頭氏が未だ知ることのなかった知識であるからしかたないのであるが。
877日本@名無史さん:2013/02/24(日) 13:55:47.69
>>875
「やまたいこく」が変換ミスで「邪馬台国」にならず「邪馬臺國」になりました。
スレタイに沿わず書くのであれば、当然「邪馬壹國」となります。
878日本@名無史さん:2013/02/24(日) 14:14:04.76
天孫降臨は薩摩半島への上陸、その後の南九州への拡散でしょう。
元々の古墳と最近の東九州道等の工事で出土した遺跡等から
日向(ひむか)神話と符合してきた。景行天皇が日向(ひむか)に住んだ話、
今の宮崎県でなく大隅の内之浦です。鹿児島県霧島市にある高屋山陵は明治に
政府が内之浦の国見山にあった高屋山陵を移したが、江戸時代の本居宣長は
高屋山陵を国見産に比定していました。内之浦(内裏)から国見山、高山(神山)、
吾平山陵と連なり、東串良から大崎、鹿屋へは古墳、遺跡が散在しています。
大隅は邪馬台国でなく天皇家との関わりが大でしょう。
879日本@名無史さん:2013/02/24(日) 14:33:20.68
低湿地開拓以前は、ほんのちょっと標高が高い、
微高地、丘陵地帯が弥生中期の農地。

これは熊本平野や筑後川の久留米より上流域が該当する。
これらより低地は、いわば新規開拓地。
880日本@名無史さん:2013/02/24(日) 18:48:23.82
あんまり邪馬台国が南九州に在ると、その南側に
在るであろう狗奴国の場所が無くなるよね。
881日本@名無史さん:2013/02/24(日) 18:50:39.95
大隅か薩摩半島が狗奴国ではないだろうか。西都は都万国。
882日本@名無史さん:2013/02/24(日) 18:57:17.28
随分狭いエリアの戦いだな
戦国時代で言えば、飛騨内のみの戦いみたいなもんか
883日本@名無史さん:2013/02/24(日) 18:57:30.92
邪馬台国が熊本ということかな
884日本@名無史さん:2013/02/24(日) 19:26:31.68
狗奴國が熊本ということ

薩摩大隅は未だ知られざる地域
885日本@名無史さん:2013/02/24(日) 20:05:12.83
そこでノーマクの長崎が…!
886日本@名無史さん:2013/02/24(日) 20:51:25.39
http://www.youtube.com/watch?v=KWbeLzWmSXI

↑↑↑やっぱり同業他社だけあって、似たような事をやってるね↓↓↓

http://www.youtube.com/watch?v=lq7R_-usgo8
887日本@名無史さん:2013/02/24(日) 20:59:20.14
そうだなあ。邪馬台国関係では全くの空気なのが長崎。
全く候補に上がらないのが鹿児島。
888日本@名無史さん:2013/02/24(日) 22:04:51.99
狗奴国は種子島でもいいんだよ。
889日本@名無史さん:2013/02/24(日) 22:31:08.72
連絡・連携をとる事を考えたら、やっぱり
倭國領内は環有明海沿岸国家だろう。
勿論、内陸國も在ろうけれど、大まか収まる範囲だと思う。
広範囲に考えがちなのは現代人の感覚故。
佐賀から鹿児島迄とか、狼煙も使えんし見えんですたい…

熊本県の菊池川か白川か緑川か、そこら辺が境界線かな?
自説じゃ、邪馬台国(城柵内)は干潟に沈んでますからねぇ…
890満州酸辣湯麺:2013/02/24(日) 22:33:34.51
ちまちまと 物考える 九州人
891日本@名無史さん:2013/02/24(日) 22:37:56.28
言葉から言えば、筑前、筑後、肥前、肥後は同じ言語圏。人吉・球磨も同じ。
鹿児島・宮崎県南部ではありえないくらい異なる言葉が使われる。
東九州の瀬戸内海沿岸あたりも異なる。
892日本@名無史さん:2013/02/24(日) 22:48:40.53
倭人伝に捜露伝送とあるから、
少なくとも末蘆港(唐津)〜邪馬台国間には駅伝伝送方式による鉄などの物資や文書の輸送路が、確保されてたのでは。
よって末蘆国〜邪馬台国間はオール陸路で、鉄の行く先は菊池〜大津の鉄工房(遺跡発掘後埋め戻し)と推定。

この駅伝ルートが奈良時代の馬を常備した駅家に発展したとおもう。
もちろん女王之都は、熊本平野かそのごく周辺に違いない。
地元に詳しい人、いくつか候補地をさがしてくれないか。
893満州酸辣湯麺:2013/02/24(日) 22:55:15.35
候補地を 探せど探せど 見つからぬ
894日本@名無史さん:2013/02/24(日) 23:06:50.77
火の山の方角に 卑弥呼台与一統の御廟と推定される由緒正しき神域あり
しかるべき神職なれば一見してただならぬ格式作法の佇まいを知るべし
凡夫は見ても聞いても説かれても分からぬ由
895日本@名無史さん:2013/02/24(日) 23:07:28.19
すいません、実は長崎なんです(テヘッ
896日本@名無史さん:2013/02/24(日) 23:09:16.16
まあ、長崎もありうる
諫早あたりの船越とか重要ぽいんとだろ
897日本@名無史さん:2013/02/24(日) 23:29:24.14
熊本だったら、菊池川流域か緑川流域だろうなあ。
菊池市あたりと宇土市あたりかな。阿蘇周辺などもあるが。
898日本@名無史さん:2013/02/24(日) 23:30:16.53
>>896
> 諫早あたりの船越とか重要ぽいんとだろ

ああ、そこ『倭國夜話』で邪馬台国の港に設定したトコw
899日本@名無史さん:2013/02/25(月) 00:13:15.36
>菊池川流域か緑川流域だろうなあ。

緑川河口の古熊本湾の北岸が周旋五千餘里の倭地の南限。
900日本@名無史さん:2013/02/25(月) 01:07:59.23
狗奴国の狗って犬っていう意味だよね
後の大和政権で狗吠(犬の鳴き真似)を使った呪術による占いを担当していたとwikiにある
wiki信用すると狗奴国は今の鹿児島かそれ以南の場所のような気がするが
901日本@名無史さん:2013/02/25(月) 01:15:42.24
↑のwikiは隼人ね
902満州海老チリソース:2013/02/25(月) 08:53:37.97
九州に 邪馬台国は ありませぬ
九州に 卑弥呼女王は をりませぬ

九州人 空想ごっこは もうおよし
903日本@名無史さん:2013/02/25(月) 09:04:24.15
↑満州のひん曲がった性格がよく表れた投稿
904満州海老チリソース:2013/02/25(月) 09:11:18.40
では公平に致そう。

大和には 卑弥呼女王は をりませぬ
大和人 空想ごっこは もうおよし
905日本@名無史さん:2013/02/25(月) 11:12:27.91
魏志倭人伝は、魏の役人が邪馬台国を観光旅行して書いたなぞと思っている人はすくなくない
しかしそれは読みが浅いと言わざるを得ない

なぜなら邪馬台国は、魏との政治経済関係の中で弥生〜古墳時代をリードした鉄の国家だったのだろう
さらに注目は、卑弥呼を助けるのは男弟であり、伊都国王を統属つまり血脈の一統と記述している。
都に達し、事細かに面接しなければ、血縁のことまでは分からぬ。
これは魏とのなみなみならぬ関係を示す重要な一文だ。
906満州海老チリソース:2013/02/25(月) 12:18:54.73
そんなこと 伝聞だけで 分りまちゅ
907日本@名無史さん:2013/02/25(月) 12:32:03.32
満州の
九州批判は
愛情の
裏返しとも
とれるかもなり
908日本@名無史さん:2013/02/25(月) 12:51:15.93
長崎は多数の小国か、少数の大国をかかえていたのではないか
温暖で海産物にも恵まれ、後世にもおおくの人口があった、伊都国を佐賀に比定するに当たっては、長崎の役割も大きい、
これにより南北東西交通の要所としての佐賀の意義が高まるからである
糸島なぞ、不便な博多の賀田伊那かにすぎない
909日本@名無史さん:2013/02/25(月) 13:02:51.77
卑弥呼は満州の隠し子だという伝聞だけで、それを真と信じられようか
常識未満の茶々だ
910日本@名無史さん:2013/02/25(月) 16:48:38.34
>>893
あげくのはてに 満州で遭難 (字余り)
911満州海老チリソース:2013/02/25(月) 19:07:52.81
満州説見てののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり
912日本@名無史さん:2013/02/25(月) 19:26:30.34
末蘆港(唐津)から吉野ヶ里・熊本・火の山に至る貴重な遺跡・史跡・駅伝路・御廟を知れば、迂闊は口にできないという
つまり、この画像を見て分からぬのが普通らしい、しかし分かる者には分かるらしい
http://tabiken.jp/contents/special/no_018/
913満州海老チリソース:2013/02/25(月) 19:56:23.33
平成25年度邪馬台国標語大賞受賞作

唐津から 東南五百里 日向国
914日本@名無史さん:2013/02/25(月) 20:42:32.74
           /\
          /   \
        /      \
       /.出没中注意!\   執拗危険種です!
     /            \  エサを与えないで下さい!
    /     ∧_∧      \
  /      <丶`∀´>      \
  \      (    )       /
    \     | | |      /
     \   〈_フ__フ    ./
       \         /
        \ 満州爺. /
          \   ./
           \./
           | |
           | |
915日本@名無史さん:2013/02/25(月) 21:19:02.64
パワースポットとかスピリチュアルとか誰が好んで使うんだ?
江原的な人間以外には逆効果で読む気しなくなる
916日本@名無史さん:2013/02/25(月) 21:47:54.43
最近のミーハーむけの文字面ということはオレにもわかる
しかし画像のほうを見てなにかがわかるらしい
917日本@名無史さん:2013/02/26(火) 08:06:33.81
トンデモ爺さんを相手にしても仕方がないな。
唐津から東南500里伊都国は佐賀市付近だろ。
問題はそこから先だ。伊都国から放射式。異議ある人はきちんと理由を
述べてくれ。
918日本@名無史さん:2013/02/26(火) 08:12:47.42
中国人の書いた地図
http://pub.ne.jp/luckfield/?entry_id=2501546
919日本@名無史さん:2013/02/26(火) 09:12:14.96
>>917
放射式か順次式かは邪馬台国がみつかったときに最終確定する。
先が不確定な現状で放射式と決めつけるのは、せっかく買った馬券の半分をレース前に捨てるようなもの
そういうのを「広い世間を狭く渡る」というんだ
920満州茄子と鶏肉の辛味炒め:2013/02/26(火) 09:22:03.88
唐津から東南五百里は日向国。
そこから東南は海だから、末盧国から放射読みするのである。

そうすると東南百里は佐賀、東行百里は博多だろう。
博多から水行十日陸行一月は大和。

ただし不彌国は馬韓の不彌国かもしれない。
君らは知らないだろうが(気付いているのは私だけだろうが)、
馬韓の不彌国はそのとき既に日本の領土だったのである(ははは、ホントだよ)。
921日本@名無史さん:2013/02/26(火) 09:38:04.54
>>912
神社の賽銭箱に金の菊御紋
922日本@名無史さん:2013/02/26(火) 13:01:54.67
>>919
見つからないんだろ
楽になれよ
923日本@名無史さん:2013/02/26(火) 13:19:56.43
馬韓の不彌國は、倭と馬韓の接界居住地域。

「瀆廬國與倭接界」は、瀆盧國が弁辰と倭の接界居住地域であることを示している。
「循海岸水行歴韓國」の韓國に不彌國が含まれる。
『不彌』は倭語。
924日本@名無史さん:2013/02/26(火) 13:36:32.83
>>919
放射式も順次式も間違い。
分岐式(古田式)が正しい。

分岐式::分岐は二回あり、分岐点は伊都國と不彌國である。
   伊都國では、東南百里に奴國を臨み、不彌國に百里東進する。
   不彌國では、南南西に投馬國を臨み、南南東に邪馬壹國を臨む。
925日本@名無史さん:2013/02/26(火) 17:20:15.97
>>924
まだ解明されつくしたわけではない
佐賀平野説なら、奴国と不彌国の間はわずか100里で、邪馬台国の結論を大きく左右しそうにないんだし、
当面は、放射式、順次式、分岐式の三通り考えられるでいいんじゃないの
926日本@名無史さん:2013/02/26(火) 17:54:36.78
>>924
>佐賀平野説なら、奴国と不彌国の間はわずか100里で

佐賀平野説ではないが、奴国と不彌国の間はわずか77里です。

奴國からは、有明海の対岸の東方向から南東方向に(筑後平野)、投馬國が見えますが、
邪馬台国の南部は投馬國の東側の山の裾野にあるはずですが霞んで見えません。
邪馬台国の北唐部は、不彌國の東の北野平野(筑後川中流流域平野)ですが、遠くて何も見えません。
927日本@名無史さん:2013/02/26(火) 18:07:44.08
>>926
同じ九州説でも、伊都国を糸島方面に置くか
佐賀平野に置くかで内容はまるきり違う、そこんとこ区別できるようにしてほしいね
ちなみに古松浦港(唐津)上陸なら、東南陸行500里は岩屋経由の佐賀平野と見るのが常識的でしょうね。
928日本@名無史さん:2013/02/26(火) 18:10:16.01
>>924
古田というだけで眉唾な感じがする。
929926:2013/02/26(火) 18:45:04.13
>>927
>古松浦港(唐津)上陸なら、東南陸行500里は岩屋経由の佐賀平野と見るのが常識的でしょうね。

古松浦の津(唐津)上陸で、国道323号沿いに東南陸行500里は佐賀平野大和町ですが。何か?


>>928
津軽にのめり込む前の古田氏は的確なことも言う。
930日本@名無史さん:2013/02/26(火) 18:57:29.24
>>929
御説の国道323経由でけっこうですよ
ただし、203の岩屋経由とはやや違いますから、その旨区別できるよう工夫をお願いしますね
931日本@名無史さん:2013/02/26(火) 20:26:12.59
自女王國以北其戸数道里可得略載
[女王國より以北は其の戸数道里を略載し得るも]
其余旁國遠絶不可得詳
[其の余の旁國は遠絶にして詳(ツマビ)らかにするを得ず]

この下りの『遠絶』ってとこがポイントだな。
自分自身は遥かに遠いと言う意味では無く、
『遠いのもあるが、道が絶たれてて行けない』と言う風に感じた。
この一文と、当時の連絡方法や地形を合わせて考えた時、
今の自論を捨て切れないでいる。

あと、伊都國、不彌國、奴國の間が百里。
大体この百里って間隔が、全ての国々にも大まかに当てはまるかも。
932満州茄子と鶏肉の辛味炒め:2013/02/26(火) 21:32:18.91
真面目な人間が九州説と取り組んでいるのを見るのは、痛ましい。
933日本@名無史さん:2013/02/26(火) 21:42:53.76
九州の山中を尋ね歩き、秘境の神社のさい銭箱に
黄金色の菊の御紋らしきを見いだすというのも不思議といえば不思議。
934日本@名無史さん:2013/02/26(火) 21:46:40.08
まじまな話、邪馬台国が九州に合った時期は非常に短いんじゃないだろうか?
魏に助けを求めに使者を派遣したけれど、結局間に合わなかった。
帰ってみればこりゃいかに、もと居た家も村もなく♪
道を行き交う人々は、顔も知らない人ばかり♪
935サガミハラハラ:2013/02/26(火) 21:52:10.34
古松浦湾から、東南五百里ですと、佐賀平野大和町では歩きすぎですよ。
千里は対馬壱岐間からみて70kmぐらいですから、五百里では手前の多久盆地内ですよ。
936日本@名無史さん:2013/02/26(火) 21:57:34.37
>>931
>伊都國、不彌國、奴國の間が百里。
>大体この百里って間隔が、全ての国々にも大まかに当てはまるかも。

倭地百餘國の時代では、国々の間隔が100里〜150里と推定できる。
1国あたりの平均戸数が1000戸として。倭地の総戸数は10万戸。
937日本@名無史さん:2013/02/26(火) 22:11:09.66
>>935
>古松浦湾から、東南五百里ですと、佐賀平野大和町では歩きすぎですよ。

観音峠経由で国道323号沿いに進めば五百里35km程度です。
国道203号沿いのルートだと、伊都國到着前に多久あたりに千戸程度の小国が出てくるはずです。
938満州茄子と鶏肉の辛味炒め:2013/02/26(火) 22:30:19.39
真面目な人間が短里説を信じて議論しているのを見るのは、哀れである。
939日本@名無史さん:2013/02/26(火) 22:35:03.24
>観音峠経由で国道323号沿いに進めば五百里35km程度です

道なりに計るともう少しある、正味40kmくらいかな。
がしかし、そういう考えもありうるだろう。否定はしない。

なお、203経由だと多久+小城に伊都国もありうるな。大和国府は奈良時代で、その前は小城に国府があったらしい。
940日本@名無史さん:2013/02/26(火) 22:38:18.11
多久、小城を伊都国。
佐賀、大和を奴国、に一票。
941日本@名無史さん:2013/02/26(火) 22:42:30.68
小城が伊都國だとしか思えない。
水行で倭船は使わない。
『水行で行ける』の表現は、魏人に対しての文。
ならば(そのまま)魏船で行った事を想像するべし。
942満州茄子と鶏肉の辛味炒め:2013/02/26(火) 22:46:22.93
真面目でない人間が短里説で議論しているのを見るのは、あほらしい。
943日本@名無史さん:2013/02/26(火) 22:49:40.53
水行では倭舟を使ったんだよ。魏船は末盧国に置きっぱなし。
倭舟を何艘も使ってゆっくり行ったというわけだ。
944日本@名無史さん:2013/02/26(火) 22:49:47.33
佐賀、大和から、南東百里(7キロ程度)で、
筑後川。

あとは、水行になる。
945日本@名無史さん:2013/02/26(火) 22:50:15.35
慢臭が連投するので、今夜は異常にクサい。
946日本@名無史さん:2013/02/26(火) 22:50:34.37
多久〜小城は、唐津方面と同時に長崎方面(の傍国)への重要な分岐点でもあるので、
伊都国が置かれたと考えるのは一理あると思う
947日本@名無史さん:2013/02/26(火) 22:53:42.34
出典は忘れたが、小城国府の言葉が残ってるらしいね。

当時の肥前国の中心部がここで、
発展して佐賀、大和に移っていくんだろうな。
948日本@名無史さん:2013/02/26(火) 22:55:35.06
同じく出典は忘れたが、
サガナ国という言葉も残っているらしい。
949日本@名無史さん:2013/02/26(火) 23:09:29.12
>>939
>多久+小城に伊都国もありうるな。

多久+小城を伊都國とすると、伊都國は少なくとも二千餘戸の国となる。
950日本@名無史さん:2013/02/26(火) 23:14:24.83
>>949
うん、その恐れもある。
多久+小城想定の場合、伊都国をどの範囲に設定するかは次の傍国との関係にじゅうぶんな検討を要す。重大な課題だとおもう。
951日本@名無史さん:2013/02/27(水) 08:28:56.39
>>694
場所だと、〜に於いて と紛らわしいから、避けるんじゃないの?
文脈上、それが人名の一部だと明白なら、於誰彼某 が助辞(前置詞)としてつかわれているものではないと
明白だから、使う、と。
952満州茄子と鶏肉の辛味炒め:2013/02/27(水) 09:57:26.61
於能碁呂島という例を太国が挙げていたはずだが。
尤もこれは正確には淤能碁呂島のようだ。

日本人あるいは三韓人あるいは中国人が日本の固有名詞に漢字を宛てるときに、
いちいち漢文の前置詞の於と紛らわしいから於を頭には用いない、と断言できるだろうか。

実際は於投馬なのに魏志の作者がこれを前置詞の於と誤解して、
投馬と書いてしまったということも考えられるのである。
953日本@名無史さん:2013/02/27(水) 11:30:48.58
その前に、九州を満州と勘違いしたのに気づけよ
954日本@名無史さん:2013/02/27(水) 12:34:12.97
中華丼ば一つお願いします
あ、大盛りで。
955満州風坦々ラーメン:2013/02/27(水) 12:36:18.93
今日ふと思ったのだが、太国がジョーカーと名付けた男と、
私が南解次次雄(中筒男)と名付けた男は同一人物ではないのか。
で、たぶんその男が四国説の男である。

もしそうなら、九州説諸君よ、ジョーカーを気にすることはない。
その男はただの中年アンポンタン禿げ親父である(笑)
956日本@名無史さん:2013/02/27(水) 12:54:14.74
まあ、耄碌粘着慢臭爺よりはマシか。
957日本@名無史さん:2013/02/27(水) 13:09:31.83
満州と自称するくらいだから、もっと大物かと思い違いしてたわ。
958日本@名無史さん:2013/02/27(水) 13:12:53.54
満州どころか、九州よりも小粒な男
959日本@名無史さん:2013/02/27(水) 15:41:32.34
>>952
断言はできないけれど、記録なんだから、紛らわしいような表現はしないという感覚が
働くだろうことは容易に想像できる。
960日本@名無史さん:2013/02/27(水) 15:57:37.27
>>952
日本人が日本の文献で使った音写は、用例として意味がない。
三国志は、中国人が書いた中国の文献なんだから、
他の中国人が書いた中国の文献の中での例でないと使えない。
いまのところ於夫羅の1例しかない。
満州、頑張って他を探せ。
961日本@名無史さん:2013/02/27(水) 16:36:53.71
>>960
同意。
しかし、
6世紀以前に華北平原で、中国人が書いた中国の文献の中での例でないと使えない。
唐代以降に書かれた文献は不可。
6世紀以前でも呉越地域で書かれた文献は不可。
962満州風坦々ラーメン:2013/02/27(水) 17:25:34.03
28 KB(6,583个字) - 2010年11月26日 (五) 02:24

人名で良ければこんなのがあるが。
百済の王の称号である。

王姓夫餘氏,號於羅瑕 (周書/卷49)
963960:2013/02/27(水) 19:38:48.58
>>962
周書/卷49も例としては不可。
なぜなら、周書/卷49は後世に北史からコピーして編集した部分だから。
北史が書かれたのは、7世紀唐代であるから。
964961,0:2013/02/27(水) 19:42:19.05
間違い修正:963は961が書いた。
965満州風坦々ラーメン:2013/02/27(水) 21:48:56.51
>>964
>唐代以降に書かれた文献は不可

とする根拠や如何に。
966日本@名無史さん:2013/02/28(木) 00:58:39.55
>>965
>>唐代以降に書かれた文献は不可とする根拠や如何に。

唐代に、語法・発音が大きく変わった。
中華同文としては短期間に急激な変化があったのが、唐代初期に書かれた文献である。
967966:2013/02/28(木) 01:06:15.64
>>965
650年の前後で漢文が大きく変化する。
650年以降の文献は、現在の我々がよく知る漢文として読みやすくなった。
968日本@名無史さん:2013/02/28(木) 09:56:21.23
7世紀半ばの中国は、ソグド人やら北方民族やらが流入し、
唐自体が非漢民族ともいえ、中国≠漢民族となった時代だね。
969日本@名無史さん:2013/02/28(木) 11:13:24.29
五胡十六国時代〜隋成立までが
中国の言語の大動乱期。
発音・文法等が大変動したらしい。
970満州風坦々ラーメン:2013/02/28(木) 12:28:24.59
今日、ネット史の<東襄大帝>紀を読んでいたら、こんな記事が出てきた。

以左部于台<於漱>代之
命<於灌>率輯<臣智>等, 撃殺之.

<於漱><於灌>という人名が出てくる。
ネット史は西暦500年代で完結しているから、その頃書かれたものと思われる。
中国文献ではないが、東夷では於を固有名詞の表音として用いたらしいことが分る。
971日本@名無史さん:2013/02/28(木) 12:37:50.77
誰要作成我求次板

漢文として正しいかわからんけどお願い。
972日本@名無史さん:2013/02/28(木) 20:59:43.99
>>962
人名とあきらかなら、「〜に於いて」と紛らわしくないから使うかもね。
地名なら使わない。
973満州風坦々ラーメン:2013/02/28(木) 21:59:24.11
三國史記 雜志地理に於の付く地名がこれだけあった。
とくに(一云○○)は古名だと思われるので、古い時代の表記だろう。

於斯内縣(一云斧壤)←語頭に於が付くことに注意
屈於岬(一云紅西)
泉井口縣(一云於乙買串)
獐塞縣(一云古所於)
冬忽(一云于冬於忽)
川縣(一云於斯買)
泉井郡(一云於乙買)
竹峴縣(一云奈,生於)

倭人伝の表記が、倭人の発音を中国人が音表記したもの、とは限らない。
三韓人が倭の地名をそのように表記していて、そう書かれた文献を
中国が入手してそれを倭人伝に記載したとも考えられるのである。
そうであるなら、もともと於投馬国と書かれた文献があったとも考えられる。
974日本@名無史さん:2013/02/28(木) 22:02:02.46
ご新造さんえ 女将さんえ お富さんえ いやさお富 久しぶりだなあ

そういうお前は?

与三郎でえ

ええっ
975満州風坦々ラーメン:2013/02/28(木) 22:08:37.73
たとえば對馬國とか一大國。
これはどう見ても倭人の発音を音表記したものではないだろう。
倭人がタイマ国とかイチダイ国と名乗っていたとは思えないからである。
つまりこれはもともとそのように漢字表記されていた島なのである。

そうするともともと於投馬国と漢字表記された地名があったとしてもおかしくはない。
976日本@名無史さん:2013/03/01(金) 01:38:21.79
史記・漢書に匈奴単于の太子、於単という人物が出てくる。
後漢書に匈奴単于の於除?というのが出てくる。
地名では漢が置いた於陵県というのがある。

倭人伝 邪馬壹國 投馬國
太平御覧 邪馬臺國 於投馬國

太平御覧のほうが正しいのだろう。

>>975
>これはどう見ても倭人の発音を音表記したものではないだろう。
>倭人がタイマ国とかイチダイ国と名乗っていたとは思えないからである。

それは早計。
たとえば、McDonald、マクドナルド、麦当労(マイダンラオ)。
全ての音を正確に写すのではなく、鍵になる音だけ合わせて、あとは適当。
外来語を表記する場合、全ての音を正確に写すことはできない。
それと同様、3世紀の倭人のツシマという発音を中国人が對馬と表記しても何の不思議もない。
一大國については、一支國の誤刻だろうという説を支持する。
977日本@名無史さん:2013/03/01(金) 01:54:51.50
>>975
>たとえば對馬國とか一大國

「對馬國」は無い。「對海國」である。「都斯麻國」はある。

「一大國」は錯誤。「一支國」が正しい。音は「イキ」。
978満州風坦々ラーメン:2013/03/01(金) 09:32:15.29
對海國となっている文献もあるようだが、
これも倭人がツシマと発音しているのに對海という漢字を宛てたとは考え難い。

私は必ずしも於投馬が正しいと思っているわけではなく、
於投馬ならアズマ、イズモと読めるだろうと思っているだけである。
投馬ならスマ(須磨)ではないか、とも思ったりする。
投は朝鮮音では thwu で、これはスとも読めるからである。
979日本@名無史さん:2013/03/01(金) 11:41:57.96
3世紀には朝鮮音は未だない。
朝鮮音は唐代統一新羅以降に華北からから流入してきた音である。
980満州風坦々ラーメン:2013/03/01(金) 13:01:59.14
大体、投馬国という国名情報を、誰がどこから得たかは不明である。
私は、陳寿の師の張華が幽州刺史だったときに遼東人から得たのではないかと思っている。
ところで出雲の人は出雲をエズモと発音するらしい。
またサ行とタ行は変転するから、エズモがエドマに変化する。
そして投にはdouの音もあるから、エドマが於投馬と書かれる可能性はある。

また於羅瑕は于羅瑕とも書かれているから、於はウと読むのかもしれない。
於 wu yu jyu o yo e 等々
于 yu jyu u ku wu  等々
981日本@名無史さん:2013/03/01(金) 14:00:06.03
けっこうなお味でした。
982満州棒棒鶏:2013/03/01(金) 18:33:04.52
投馬国というのは、四国ではないのか?

戸数五万ということから考えると、
関東、山陽山陰、四国…。
これくらいしか思い浮かばないではないか。
ところで四国の古語はなんというのだらう。
983満州棒棒鶏:2013/03/01(金) 18:54:09.18
四国の古語は伊予か。
イヨといえば壹与。
壹与は四国の女王か。(冗談)
984日本@名無史さん:2013/03/01(金) 19:12:20.32
いい湯だな はははん
985満州棒棒鶏:2013/03/01(金) 21:56:36.39
たまには九州説の応援をしてやらうか。

例の阿毎多利思北孤。
この阿毎多利思北孤は九州の王だと古田は唱えてゐるやうだが、
その当否はともかく、九州にタリシ、タリが付く人物が二名がゐる。
どちらも続日本紀に載つてゐるやうだ。
教へてやりたいが、私の説とも絡むので教へられない。残念!
986日本@名無史さん:2013/03/01(金) 22:17:09.61
けっこうなお手前でした。
987満州棒棒鶏:2013/03/01(金) 22:52:25.72
アメタリシヒコといふのは、たぶん、
天から降臨した王の意味の普通名詞だらう。

満州も日本も天孫降臨民族である。
始祖が天から降臨したといふ同じ神話を持つ。
ネット史ではちやんと天孫という語も出てくる。
漢民族はさうではないので、
高句麗の王は天から降臨したと妄称してゐる、と馬鹿にしてゐる(笑)
988日本@名無史さん:2013/03/02(土) 01:54:11.57
ぼうぼうどりと書いてばんばんじー

大橋巨泉さんの顔が浮かぶ私はオッサンです
989日本@名無史さん:2013/03/02(土) 02:25:27.72
ハッパフミフミ
990満州棒棒鶏:2013/03/02(土) 09:34:34.99
新羅の赫居世も、あれは王の個人名ではなくて、
単に「王様」という普通名詞なのである。
そう思わせる根拠がネット史にある。

アメタリシヒコも王様、大王、天皇という普通名詞で、
その当時の天皇の固有名ではないのである。
991日本@名無史さん:2013/03/02(土) 11:40:15.66
記紀を正しいものとして教育された戦前・戦中派たちは、
その反動もあって、戦後目新しい精神活動の対象のひとつとして卑弥呼・邪馬台国に走った。

しかし難題に行き詰まると、
結局、かって学んだ記紀の世界である天香具山とか箸墓とか満州帝国とかのような古典に心のよりどころを求めることとなったのであろう。
今回の箸墓、西殿塚騒動は、戦前戦中派の古代史・マスコミ関係者等の終焉を物語るもののように想えた。

しばらくたてば、
吉野ヶ里発掘などの新しい考古学の知見を蓄えた若い世代による新古代観の提案を見ることであろう。期待。
992日本@名無史さん:2013/03/02(土) 12:01:52.82
つーか文献史学会ではもう倭人伝についての論文なんてほとんど出てこない
ネットであれこれやってるのはアマチュアばっかだよな
あと箸墓の墳丘の裾にちょっと入っただけでわかることは少ない
もし発掘してもホケノ山みたいに謎が増えるだけじゃないか
993日本@名無史さん:2013/03/02(土) 12:39:06.74
卑弥呼・邪馬台国に関しては、畿内説・北九州A説・北九州B説で三つ巴の論争・・、といえば聞こえはいいが、
実質外れ組同士で甲論乙駁の無駄な年月を費やしたのではないか
まさに卑弥呼も嘆く1800年前に同じ 

  其国本亦以男子為裸王 住七八十年 倭国乱相攻伐歴年

いま冷静に考えれば、なんといってもキーポイントは佐賀平野。吉野ヶ里大発掘は無駄ではなかったと思う
吉野ヶ里の惨状を見ることで、多くの心に新しい芽生えを生じているのではないか
994満州棒棒鶏:2013/03/02(土) 17:29:13.63
九州人 東南佐賀に 賭けてゐる

共立という語の使用例を探れば(すでにそれを調査した学者がいるが)、
倭国乱相攻伐歴年
が、倭の諸国が相乱れて戦ったのではない、ことが分かるヨ

大抵は、王位継承で、長男が継ぐべきところを次男等が継ぐことになって揉めた、
というような場合に使用されているのである。
で、群臣が共立して次男を王位に立てた、というような場合にネ
995ちはやぶる皇神:2013/03/02(土) 18:06:44.44
平成24年度 福岡市発掘調査 「総まくり」に行って来た。
 福岡市埋蔵文化財センター

元岡G−6金象嵌代刀は大人気だね。
NHKに出演した人が、丁寧に説明してた。
設備が揃ったので、これからは全部九州でやる、と言ってた。

25年度
 5月 後漢鏡の制作と日本列島への流通  岡村秀典(京大)
 6月 権威としての鏡          高倉洋彰(西南大)
 7月 破鏡と鏡の破砕行為        辻田淳一(九大)

来年度は、これくらいかな?
996日本@名無史さん:2013/03/02(土) 18:21:01.85
我求次板
997日本@名無史さん:2013/03/02(土) 19:16:13.71
>669
井上の呼び方と鹿屋の呼び方は意味が違う。まず、井上は、井戸の上の意味で、
それが短縮化され井上となったが読み方はそのまま「いのうえ」となったと
思われえる。鹿屋にもそういう地名があり、そういういわれだ。

一方、鹿屋は鹿を「かの」とは読まず、「しか」か「か」としか読まないのに
「かの」と読むから、「かや」を隠すために「かのや」と読ませたのではないかと
推察するわけです。あなたの意見はただのこじつけですね。
998日本@名無史さん:2013/03/02(土) 19:40:17.23
鹿の子を「かのこ」って言うけどな
999日本@名無史さん:2013/03/02(土) 21:10:14.85
>>976
江戸時代の文書でロシアのことを「おろしや」と書いてる。
中国の少数民族で「俄羅斯族」というが居るけれど、所謂共産革命を逃れてきた白系ロシア人の末裔の
スラブ人を祖をする集団。
この「俄羅斯」(e-luo-si)も、「ルーシ」もしくは「ロシア」が語源。

発音にしにくい音が先頭に来ていたり、聞いたときの語感によって、頭に余分な音が付くこはままある例。

於投馬國もそういうふうなもので、投馬國の礼がある以上、正しいとは言い難いんではないかい?
1000日本@名無史さん:2013/03/02(土) 21:16:33.59
>>990
逆に、人名から普通名になるものもあるよね。
王様っぽいものなら、Julius Gaius Caesar の Caesar から
Kaiserとかkayseriとかцарьとか。
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