館林と甲府は松平だよね?
御三家の諸兄も徳川性を名乗れなかった以外、石高も御三家並以上だし
一概に冷遇されたとは言えないのか?
松平にしないで紀州と館林と甲府で御三家にすれば良いんじゃね。
>>200 頼房に関しては家康に徳川姓与えられてなかった説あるけどな
石高も他の兄弟と比べると少ない
頼房が徳川姓になったのは1636年らしい
徳川政権が確立する家康征夷大将軍主任以前に
徳川姓を名乗れたのは秀忠だけでは?
徳川将軍家誕生以後に元服した家康の男子たちは
徳川姓になってる感じ
206 :
日本@名無史さん:2013/04/26(金) 18:19:14.90
姓与えられなかったか関係ないかも知れないけど
頼房は家康に警戒された逸話あるね。
頼房系統が家康の子孫で一番繁栄してるのは皮肉
繁栄って、それは慶喜や高須四兄弟以降の話じゃないの?
それ以前(つまり江戸時代の大部分)だと微妙だな
千葉の松戸の本土寺(紫陽花寺として有名)に、
武田信吉の母である家康正室・下山殿(通称お都摩の方、秋山氏女
通説として穴山梅雪の養女扱いで家康側室となる)の大きな墓碑があるけど
それを整えたのが水戸光圀なんだよね。
(ごく普通にアジサイ散策路の途中にどーんとあって目立っている。
きちんと案内版も出ている。埋もれてくすんだ墓碑では無い)
家系や血脈としての繋がりこそないが、水戸家にとって信吉の存在が
何かしら意味あったことの証しになると思うが。
頼房と同じ英勝院お勝の方の養子で忠直弟の忠昌が忠輝の屋敷・所領を継承しているのが興味深い
越前国内の分封大名からスタートした直政以下の弟達とは明らかに異色
下妻
頼房→忠昌
水戸
信吉→頼宣→頼房
川中島
忠輝→忠昌
旧華族の血筋調べたことあるけど、
家康の末裔たちの中で一番多く祖先に辿り着いたのは水戸系でした。
尾張は早世養子で義直の血筋は少ない
紀州や吉宗系は一時期隆盛極めたが近年は断絶した家も多いんで
211 :
日本@名無史さん:2013/04/28(日) 11:11:27.11
武田信義が相続していたら、血筋もいいし将軍になれたかもしれませんね
>>211 血筋は圧倒的に頼朝のほうが良いでしょ?
だから勢力が強大だった武田信義も配下になったわけで
>>91 斉昭の子供及び歴代将軍の中で一番長生きだったしな
信義は義光流だからな
義家の血しかも嫡流じゃないと御家人も従わない
義家流というのは源氏棟梁の最低限ルールかと
摂津源氏と河内源氏どこで差がついたのか。慢心、環境の違い
いや頼光流もそれなりに武家として繁栄はしてるんだけどね。
摂津源氏で名高いのはライコウこと頼光と鵺退治の頼政とかか
やっぱりなんか高名な人も幕府成立前の人が多いね。
河内の繁栄、幕府の成立で摂津に影が落ちたのは間違いないだろうね
太田道灌・明智光秀・山県昌景・馬場信房。土岐氏,知恵伊豆
高名な末裔も居るけど
河内源氏に比べると落ちるよな。
219 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 19:59:41.65
俺の脳内小説では帝には中宮腹の4人の息子と6人の同母弟がいるにも関わらず息子を帝にしたい先帝の妾のせいで帝と中宮は殺害された
220 :
日本@名無史さん:2013/05/30(木) 02:12:56.29
おいらも頼政流なんだが。
先祖の通字が「正」なんだが。
正廣、正明、正吉、正由、正成などなど。
地元の一族の皆が、諱の名前の前の方に「正」をつけているんだが。
源頼政の「政(正)」から来ていると言われているんだが。
それが実は源頼政は、頼政ではなくて、頼正だと言われているんだが。
これは本当なんだろうか。教えてほしいんだが。
太田資正の子孫とかじゃ?
>>220 毛利氏の通字は「元」だが家督を継ぐべき嫡長子は下に付けて、それ以外は上に付ける。毛利元就は次男だから
上についてるが息子の隆元は下についている。吉川元春は次男だから毛利元春として上についてる。
そして元春の嫡男は元長で上についている。毛利としては分家だからという事だろう。
ちなみに元就の三男の小早川隆景は小早川に養子に入ってから元服したんで「元」がついてない。
小早川家の通字の「景」を下に、主君に当たる大内義隆の「隆」を上に付けた。
220の頼政ではなく、頼正だったという家伝があるが、どうかという問いに対しての222の回答がそれなのか?
頼政由来にしては一族みんな前に「正」がついてる、の部分だけ。思いつきで書いた。
「頼政」とも「頼正」とも書くという事はあり得る。昔は人名でも当て字を気にしないで
使う事が有るので。
調べると頼政の子は「正」も「政」も全然ついてないので違うんじゃないの。
>>220 頼政の子や孫が政や正を通字にしてないんだから、
別の誰かから始まって何時の間にやらこじつけられてるだけだと思われ。
頼政流というのも相当怪しい・・・
>>222 嫡子庶子本家分家とか言う前に偏諱で説明付くじゃんか。
自分で隆景の例を挙げていながら気づかないのかね?
元就の、父弘元、兄興元、長男隆元、孫輝元、みんな偏諱だ。
元就が家督を継承した時点で某元に改めなかった理由はなんぞ?
武田晴信・信繁しかり、武田義信・信親しかり、北畠晴具・具盛しかり。
偏諱で下の字を貰うパターンもあるね
毛利で言えば『就』とか
さらにその『就』が通字化したり
>>226 上下で論じてもあまり意味がない
普通は家の通字じゃなくて自分固有の文字を与えるもの
元就の場合となれば毛利家の「元」じゃなくて固有の「就」を与えるのは至極当然
足利将軍なんかは「義」字も大量販売してるけど
徳川将軍になると「家」字を与えたのは初代くらいだね
228 :
220:2013/06/01(土) 06:06:50.77
おお!久々に来てみたらレスがあったわ。ありがとう。
で、あの後自分で「源頼政 書状」でググってみたんよ。
そしたら源頼政本人の「従三位源頼政」って書いてある書状を発見したんだわ(笑)
おいらの源頼政流は、メジャーな方の源頼政流じゃなくて。
信長の野望にも出てこない、マイナーな方の源頼政流なんだわ。
旧遠江国の源姓濱名氏の方の源頼政流なんだわ。
源頼氏の子孫の濱名清政が源姓濱名氏の初代らしいんだが。
源貞正入道が源姓濱名氏の初見って資料もあるらしい。
他にも、多田源氏の猪早太の父・太田広政の流れかもしれない。
伊豆韮山多田氏の源頼兼の流れの一部が、源姓濱名氏になったっていう話しもあるらしい。
ま、どちらにしても。源三位頼政の政から正が来ているんだろうなって、思うようにしているよ。
早く信長の野望に出てきてほしいわ(笑)
毛利は、字が足りなくなると『広』も使うようになる
>>228 書状を見つけたからってなんなんだ
先祖の誰かから頼政に肖って正を通字にしただけだろ
典型的な仮冒だと思うけどまあ信じるのは自由だな
>>229 大江広元に肖ったんでしょうな
>>60 虎菊丸の名前が頼宗になって
秀宗は3万石ぐらいで分家
秀頼とのコネで幕府で言う譜代準譜代の扱いで、それなりに各だけあって優遇される。
>>231 三成派主導で噂通りに宇和島へ転封して虎菊丸が相続
秀宗は岩出山10万石で別家
233 :
日本@名無史さん:2013/06/04(火) 00:15:43.76
三代執権・北条泰時
秀宗が伊達家継いだら
虎菊丸が田村家の名跡継いで田村秀顕(もしくは吉顕・頼顕)と名乗る
どっち継いでも史実の一関藩分地とあんま変わらんな
江戸時代って正室の子だからと言って必ずしも家督継がないよね。
むしろ諸長子が嗣ぐ例の方が多いような気がする。
嫡子が世子だったり継承したりするけど結局子無しで庶子が継ぐみたいな方が多いと思う
>>234 秀吉の偏諱で吉を与えるのは豊臣家臣の場合のみ
この場合は秀を与えられて、下の字が変わる
大友吉統「大名なのに・・・・」
秀吉の偏諱の傾向からして
古くからの家臣には「吉」の文字
有力大名の子息なんかには「秀」与えてる感じかね。
大友吉統のケースは元々の義統の義が吉の文字と同音だったからだと推測するが
長曾我部盛親なんか大名の嫡子なのに秀吉どころか
家臣の増田からの
信親の信は信長から?
241 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 19:03:15.47
そう
浅知恵だけど
元親も家臣や内外に盛親を跡継ぎと認めさせるために
権威付けのために秀吉に頼んで盛親に諱貰って秀親にした方がよかったかもな。
242 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN
継体天皇は?
>>242 傍系継承天皇を見ると継体天皇は皇女と結婚して女系で皇統を繋げたけど光仁天皇や光格天皇は側室の子に皇位を譲ったよね。
244 :
日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN
>>243 光仁天皇は先代の血を引く聖武天皇皇女・皇后井上内親王が産んだ他戸親王を皇太子に付けたが
政変で井上内親王と他戸親王を自害に追い込んだ(或いは暗殺)
光格親王も先代の血を引く後桃園天皇皇女・中宮欣子内親王が産んだ温仁親王を儲君に立てたが
温仁親王は生後2か月で死亡
その後側室が産んだ恵仁親王(仁孝天皇)を欣子内親王の実子と公称して儲君に立てた
どちらも先代の嫡女の血を引く女系相続が原則だったのにそれが叶わなかったために
やむを得ず側室の子を即位させたに過ぎない
>>244 光格はともかく光仁から桓武への継承は、側室の子を即位させる
ために皇后とその子を消したという話で、
> それが叶わなかったためにやむを得ず側室の子を即位させた
なんていう消極的なものではないと思うが。
246 :
日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN
>>245 光仁自身が側室の子を即位させるという強い意志を持って
皇后と嫡子を殺したとは思えんぞ
少なくとも光仁が即位できたのは聖武天皇の内親王の夫だったためだし
井上内親王と他戸親王を消したのは藤原氏だろ
井上内親王は藤原氏出身の光明皇后ではなく県犬養氏を母とする藤原氏のライバルだった
248 :
日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
妃腹なのに跡を継げなかった邦芳王は母の利子女王ともどもメンヘラだったらしい
>>248 邦芳王は同世代の王が若く亡くなったことに衝撃を受けすぎちゃったんじゃなかったか
利子女王については知らん
利子女王は日露戦争の頃、軍人の妻としてちゃんと振る舞っているからメンヘラではないね
メンヘラだったら軍人の妻らしく毅然とした立ち居振る舞いなんて無理
251 :
日本@名無史さん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN
公家の家女房をだした家だっていう家伝が残っている家ってありますか?
各種の公家系図などの資料で調べると、多くの公家の母として、家女房が
出てきますが、名前がわかる例は数えるほどしかないように思います。
でも、自分の家の娘が公家の側室となり、公家の子どもを産んだとなれば、
末代まで伝えたい名誉なはず。その家の日記・手紙・古文書や言い伝えと
して残しておいたのではないかと思います。
そういう家の情報が欲しいので、是非ご教示頂けたらと思います。
私が名前などをある程度確認できたのは、
近代の伏見宮系の各宮の生母とか、
徳川慶喜生母登美宮の母(安藤清子)とか、
近衛前子の母(宝樹院・若狭武田氏)とか、
勧修寺晴子の母(粟屋元子)とか、
近衛尚通の母(北小路俊子・加治氏)とか、
中御門宣誠の母(正姫(出自はわかりませんでした)といったぐらいです。
>>251 家女房って要するに女の家事使用人だろ?
公家の側室っていう捉え方は間違ってると思う。
武家みたいに子供を産んだからと言って待遇が極端に変わるわけでもないだろうし。
例示した中で宝樹院や粟屋元子なんかは相当の武家の出身で、
いわゆる家女房の出身階層とは違うから側室と見てもいいだろうが。
家女房を出した家・出せる家という見方も何か違う気がするけど、
極端なことを言えば地下家伝に乗ってるような家は全部そうだろ。
あとは社家とか。
家女房を輩出した階層の様相について研究したいのか。
幸運にも後世に名が残るような子女を儲けた家女房その人とその家系を研究したいのか。
>250
有栖川宮の家系にはそれっぽいのがあるっていうのは田中光顕がいってなかったっけ?
だから栽仁王と富美宮の婚約に反対だって。
あと、外国人が貞愛親王に謁見したとき妃は心の病で謁見できずとか日記に書いてあったような。
両方とも出典が思い出せない・・・
>>253 田中光顕の方は、児島襄の天皇に出てくる話。牧野日記あたりを参考にしたか。
有栖川宮が断絶なので、宣仁親王に名跡を継がせるにあたって、有栖川宮家の血を引く徳川喜久子を娶せようとしている頃、
かつて明治帝が、栽仁王と富美宮の婚約について、有栖川宮に狂人の血統があるから、そんなところへ内親王はやれない、と言って取り止めになったとか、
このことを世間に公表するなんて言って、宮相更迭の脅迫ネタにしたが、明治帝・大正帝の有栖川宮家への信頼もさることながら、
現に栽仁王の薨去まで、内々に内親王との婚約の話があったわけで、明治帝がそういうことを言ったとは思えないし、
動揺した宮中でも関連を確認したようだが、田中以外にそんな話があったと認めた人も居ないみたい。
晩年の田中は、隠退したくせに何やら宮中で策動しようとしており、噂話に尾鰭のついたガセネタくさい。
255 :
日本@名無史さん:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN
>>251ー252
粟屋元子(母は勧修寺家出身)って正室じゃないの?
256 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN
北条義時
257 :
日本@名無史さん:2013/09/04(水) 19:23:07.13
表だって言われると少ないのかもしれないけれど
歴史はほぼ人間の業のようなものでできている。天皇家だって秀忠の息女珠姫が
正室のはずも流されているからね。平安時代なんてほぼその塊位で
崇徳院で三大怨霊と化している。戦国時代に至っては単に正嫡を殺害していった
だけかもしれない。毘沙門天の武将で其処を突っ込めば怪しい事この上ない
歴史を紐解くとつくづくそう思う
面倒だから触らない方がいいなw
東福門院和子
非嫡出子差別は憲法違反だという最高裁判決が出たし、
江戸時代だってもののわかる人にとっては、側室の子の差別は問題外。
もっとも将軍にふさわしい男子が力で跡目を勝ち取るべきだ。
いや、女でも、卑弥呼のような女なら・・・
長子による相続ができたのは、日本の長い歴史のなかでは、つい最近のことだ。
は?
嫡先庶後も長先幼後も原則としてはかなり古くから
明文規定になったのが明治だからって勘違いも甚だしい
この渡来人が何ぬかす。
>>261 現代の価値観でいうならそもそも将軍には男子しかなれないというのもおかしいわな。
現代は、男子も女子も、長男も次男も、嫡出子も非嫡出子も、遺産相続は皆平等。
女性が将軍でもいいわけだ。
そんな事言ってるからあんな映画やドラマが出来るんだ。
平等な遺産分割の果てに零細化して没落するんですねわかります
一橋家なんか正室腹で長男の松平重昌が福井に養子に出されて側室の子で弟の徳川治済が当主になり
将軍家斉の父となる大逆転!
長男はどういった気持ちだったんだろうか?
過去を現代の価値観ではかろうというのがそもそもおかしいわw
270 :
日本@名無史さん:2013/10/16(水) 23:31:34.40
北条義時・泰時は、2代続けて嫡子を差し置いて相続してる
この当時は名家かといわれると微妙な気もするけど
義時は運良く政範が死亡し時政も排除できた
というか時政、伊豆の頃から嫁多すぎ
272 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 10:53:54.86
>>251>>252>>255 粟屋元子は正室だよね。
若狭武田家の重臣・粟屋元隆が、
権大納言勧修寺尚顕の娘を娶って産ませたのが元子。
元子は母の甥にあたる勧修寺尚顕の正室となった。
273 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 20:04:50.59
紀伊徳川家では宗将のあとは側室腹の次男重倫が継いでいるけど
正室伏見宮養女は長男、三男、五男、七男を産んで長男、三男は夭折したけど
五男と七男は成人して五男頼興は部屋住み、七男頼久は桑名藩に養子に行って忠功と改名している(正室は長女、次女、四女も産んでおりその後流産で死んでいる)。
これだけ子供を産んだ正室も珍しいけどこういう場合でも庶兄が優先されたのだろうか?
274 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 21:06:13.84
>>273 江戸時代は末期養子の禁が厳しくすぐに跡取りなしでお取り潰しになるから
庶子であっても育ちそうな男子が生まれれば即江戸幕府に跡取りとして届け出たからじゃないの
他藩でも後から正室に男子が生まれているのに先に生まれた庶子が藩を継いでる例が多いよね
幕府への届け出順が法的な長幼の順?
276 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 02:20:20.41
病弱を理由に廃嫡されることは結構あるけど体が弱いんじゃなくて頭が弱いという事例も結構あるの?
父親への反抗的態度で廃嫡というのも
>>274 初期だけね。慶安事変(由比正雪の乱)で事実上廃止されている。
そもそも、末期養子の禁を前提にすると、鎌倉、室町、江戸のそれぞれの初代将軍の後継ぎは、
島津忠久(結城朝光?)、足利直冬、結城秀康になってしまい、それはそれで問題がある。
279 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 08:33:33.30
>>278 由比正雪の乱後に緩和はされたが、末期養子の禁が廃止されたわけではない。
これがあったせいで、江戸時代は嫡子相続よりも長子相続が多い。
若年の当主が突然死すると、息があるうちに誰それを養子にしていました、などと幕府に届け出て
死後養子ではない体裁を整える必要があった。
そこに上げている例も本末転倒。
そもそも末期養子の禁は江戸幕府特有のもので
それがなかった鎌倉時代、室町時代、江戸幕府開幕前の長子の例をあげて
「ほら、長子が相続してないでしょ?」という根拠にされても…
280 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 08:36:34.65
江戸幕府開幕後は、徳川将軍家すら、
11代徳川家斉の正室広大院が後から産んだ徳川敦之助を押しのけて
3歳年上で側室腹の徳川家慶が12代将軍になっている。
>>278 島津忠久や結城朝光が頼朝の落胤という説はかなり信憑性低いけどな
282 :
日本@名無史さん:2014/05/25(日) 10:26:45.02
藤原内麻呂の嫡男は藤原衛
283 :
日本@名無史さん:2014/05/25(日) 11:58:52.63
>>276 松浦静山の娘婿の鳥羽藩嫡子みたいに、妻に斬り付けて突然失踪した挙げ句に両国橋のたもとで焼き芋食ってる所を保護されのち廃嫡がおもろい。
病弱にせよ奇行にせよ、廃嫡されたほうが長生きって結構あるある
284 :
日本@名無史さん:2014/05/25(日) 14:27:36.42
281
低いもくそもないだろ
そもそも島津は朝鮮惟宗をなのっててなにがよりとも烙印だよ
286 :
日本@名無史さん:2014/05/25(日) 18:12:41.00
松平義昌や松浦静山のように、正室の子が生まれるまでは
内々の扱いで出生の事実を保留扱いにしているケースもあ
るね。松浦静山は他の男子が生まれなかったから世子になっ
たけど、松平義昌は実際は長子なのに「三男」。
で、届けてしまった後は「廃嫡」の理由と届が必要になるん
だろうから、後から正室の子が生まれても簡単には退けられ
ないのかな?
288 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 02:39:58.92
義昌の場合は光友正室が千代姫というのが関係あるかも
それと大名の場合正室も側室も30過ぎたらお褥すべりがあるから側室の子を世嗣に決めてから正室が出産することはあまり無い(お褥すべりが無い公家だと欣子内親王など結構ある)
289 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 08:30:12.76
>>288 大名家もお褥すべりがあったか実態は良くわからん
35歳で徳川慶喜を産んだ徳川斉昭正室吉子内親王とか
34歳で男子(夭折)を産んだ徳川家宣正室近衛煕子とかの例もある
それ以降の出産例が少ないからと言って妊娠しなかっただけかもしれず同衾してたかもしれない
大奥もよくわからない
そんな婆さんと寝るのは苦痛だっただろうな
爺さんと寝る若い女は、主君に対する奉公でしてることだろうが
女だけ若くても男の方も製造される精子が老化によって劣化するからなあ
高齢男性が相手だと孕んだ女性が若くても
子供に障害が出る可能性が増すって統計と研究結果出てるし
>>292 正室のほうが良い家の出であることも多いだろ
主人に対する奉公心は男のほうが強いだろうが
そんな自分イメージで語られましても
>>296 御三家の祖は皆家康50代の時の子だと言いたいんだろうが
家康は後家好みだから正直誰の子か分からんだろw
>>296 確率の問題だろ
高齢なら全て問題ありなわけではない
とはいえ水戸家始祖は影響受けていそうな
299 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 10:36:56.96
有名どころで言えばやはり前田利家じゃないの?
信長の采配によって長子利久を差し置いて前田家当主になり、挙句には
加賀100万石の大大名に上り詰めたからなぁ・・・
信長の寵愛が無ければこうはなってない。
もっとも利久が前田家を継いでいたら織田家家中でもさしたる立ち位置
になれず、信長が死んだ後には生き残れたかどうかも怪しいけど。。。
300 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 10:38:25.39
って、利家は利久と同腹だったな・・・