嫡子が成長したにも関わらず、側室の子が家督を相続した例って結構あるらしいけど
具体例を挙げていくスレッド作ってみました。
2 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 14:25:14.66
井上内親王の皇子を廃嫡して皇太子になった桓武天皇とか?
3 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 14:41:45.44
>>2 正室腹の嫡子が失脚したから
側室腹の庶子が跡取りになった例というのはいくらでもあると思う。
松平信康が切腹させられたので跡取りになった徳川秀忠とか、
武田義信が切腹させられたので跡取りになった武田勝頼とか。
そうではなくて嫡子がいたのに廃嫡もされず側室の子が家督を継いだというのはなあ。
ちょっと思いつかないが。
北条泰時は側室の子だったが得宗を継いだ
大友宗麟は廃嫡されそうになってたな
江戸時代は長子相続で正妻の子と関係無く最初に産まれた男子が嗣ぐ習慣が出来たと何かで読んだ気がする。
将軍に島津の娘が正室として嫁ぐとき、仮に男子が産まれても継がせない前提だったとか
7 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 15:36:49.06
>>4 北条泰時の異母弟で、正室腹の嫡子であった北条朝時は、20歳の時、
将軍実朝御台所に仕える女房の局に忍び込んだことが原因で
源実朝の怒りを買い、父義時から廃嫡された。
朝時の母は義時の正室だったが比企氏の出身であり、
義時が比企氏を滅ぼした際に離婚し、公家と再婚して死別、
父のもとにおらず外戚も滅んでいたことも影響したとみられる。
>>6 江戸時代も嫡子相続なんだが、後継者を早く決めたいがために
側室腹に男子が生まれると先に跡取り認定してしまうことがあった。
薩摩藩主島津重豪の娘茂姫は、徳川家斉が将軍になる前に婚約・結婚したが、
結婚してから9年間子がなかった。
そのため、結婚6年目で側室が産んだ家慶が家斉の跡取りと定められ、
茂姫が結婚9年目で産んだ一人息子の敦之助は一橋家に養子に出された(結局敦之助は早世)。
ただし、嫁ぐ前から正室に男子が生まれても継がせない前提ではなかったよ。
たまたま側室が先に男子を産んだ場合、早めに跡目認定されることがあっただけ。
>>7 政村は正室の子でしかも外戚は健在だったが
泰時はそれを差し置いて家督を継いでる
>>9 泰時は伊賀氏の乱で政村の外戚を葬った上で執権に就任している。
義時は急死であり生前に執権を譲った形跡はなく、
義時の死後、有力外戚を持つ政村の登板を拒んだ北条政子らの意向をうけた泰時が
伊賀氏を滅ぼし、政村の母を幽閉して政権を執った。
11 :
10:2013/01/18(金) 16:47:10.56
伊賀氏を滅ぼし→訂正。
滅ぼしたのではなく、流罪にとどまっている。
政村の叔父が流罪。
光仁天皇って婿養子とは違うかも知れないけど井上内親王の配偶者だったから天皇になれたようなものなのに
あの仕打ちは無いよな。
やっぱり天智系皇族は天武系に深い恨みでもあったのかな?
>>12 天智系の光仁天皇が天武系に恨みを持ち天武系の消滅を狙って
女系で天武の血を引く他戸親王を葬ったというより
光仁天皇を擁立した藤原氏に反抗できなかっただけでは?
藤原氏にとっては藤原氏を外戚としない他戸親王を擁立して
県犬養氏を外戚とする聖武天皇の遺児井上内親王が皇子を後見して
政治の表舞台に出てこられては困るわけだし
他戸親王は、乙巳の変と手伝った蘇我倉山田石川麻呂の系統だけど、
蘇我の血を引いている。持統まで辿れる。
天武-持統が強いので天武系は蘇我の血を排除できなかった。
持統は天地の娘だけど。
藤原百川がそれに便乗して政争に勝利。
呪詛がどういうものであったか分かれば面白いのに。
実際やたかどうかはともかくどういう呪詛をしたと言われたのか。
>>14 別に藤原氏は蘇我の血を排除するために他戸親王を葬ったわけじゃないと思うよ。
なぜなら、当時の藤原氏もまた蘇我の血を引いていたから。
藤原不比等の妻に蘇我娼子という人がいてね。
この娼子が蘇我氏の出身で、蘇我馬子の曽孫、蘇我石川麻呂の孫にあたる。
蘇我娼子と藤原不比等の子が武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)。
京家の祖の麻呂だけは不比等の異母妹五百重が母だから違うんだが、
藤原氏のうち南家・北家・式家の3家はいずれも蘇我の血を女系で引いてる。
桓武天皇を擁立したのは藤原式家だと言われているけど、いずれも蘇我氏の血を引く。
蘇我の血は他戸親王廃嫡にかかわったとされる藤原百川らにも流れてたってこと。
16 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 22:34:06.18
>>6 島津継豊には既に男子がいたのに無理矢理竹姫を押し付けられたからね。
結局女子しか生まれなかったからよかったが。
江戸時代の嫡子の廃嫡理由ナンバーワンは病弱なんだよね。だが、廃嫡された方が長生きがなぜか多い。
ストレスが無いからかな?
>>16 竹姫は継室だろう?
竹姫は別の男性と2度も縁組しながらいずれも輿入れ前に相手が早世、
不吉だとして諸大名から倦厭され、婿探しが難航していた。
ようやく先室を亡くしていた島津継豊の後室として
側室腹の男子を嫡子とすることを条件に輿入れ。
不吉な女性を受け入れたとして不本意な条件でも飲んだらしい。
竹「病弱な奴らが悪い!」
19 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 20:49:02.55
竹姫―菊姫―屋世
で筑前黒田家の血統が断絶してしまった(´д⊂
20 :
井伊直澄:2013/01/24(木) 03:21:53.40
わが家彦根藩も、嫡子直勝ではなく、側室の弟直孝が家督を相続し、あわれ直勝は、掛川藩さらには与板藩に敬遠され申した
>>19 いや、筑前黒田家の男系断絶は黒田重政の男子の夭折と重政の弟たちの早世が原因。
菊姫は男子も産んだが夭折し(育ったのは女子の屋世ただ一人)、
家督は重政の弟が継いだが重政の弟たちは皆嫁を娶ることなく早世した。
ただし、黒田家の女系は残っている。菊姫の系統じゃないのがね。
重政には姉妹が多かったし。
>>20 井伊直政が死んだ時に井伊家の家督を継いだのは、あくまでも嫡子の直勝。
直勝の母は直政の正室で、かつ徳川家康の養女だ。
しかし、病弱な直勝は軍役が得意ではなく、
異母弟で側室腹の直孝は大坂の役で顕著な働きを見せたため、
家康が直孝に功労恩賞を与えて取り立て彦根藩主とした。
関ヶ原や大坂の役といった戦によって弟が勝ちに乗じて恩賞にあずかり
兄を越えて嫡流となった例はあるよ。
23 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 12:54:40.49
黒田直候は継高の孫なんだから、久留里藩なんて継がずに筑前藩に来ればよかったのに。
>>23 黒田直候は継高の女系の曽孫。
黒田継高の娘為姫(出羽庄内藩主酒井忠温室)が直候の祖母に当たる。
筑前福岡藩黒田家の男系男子が絶えた1763年、その後一橋家から迎えた養子の治高にも
子がなく断絶した1771年に黒田直候はまだ生まれていない。
直候が生まれてから久留里藩を継ぐまでは一橋家から迎えられた斉隆とその子斉清が
福岡藩主を勤めていたため、以前の黒田家の血を女系で引くからといって養子に行くわけにはいかなかっただろう。
筑前福岡藩主はその後も断絶を繰り返し島津を経て藤堂の系統になって明治維新を迎えている。
25 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 20:06:43.88
>>24 斉清は斉隆の子じゃない説があるが、斉清誕生時まだ斉隆は生きてたよね?
何でそんな説が出るの?
26 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 03:24:15.78
>>25亡くなる直前にできたのが女子だったから、同じ年頃に生まれた斉清とすり替えたって説だよね。
すり替え説を取ると、以下のように、系図がつながる。激しく女系だけど、執念を感じるな。
黒田孝高ー黒田長政ー黒田長興ー黒田一貫室ー鶴子(野村祐春室)ー黒田長貞ー秋月種実室ー秋月種茂ー黒田長舒ー黒田斉清ー純(黒田長溥室)ー理玖(黒田長知室)ー黒田長成ー黒田長礼ー黒田長久
>>26 それは何の史料にあるんだっけ?
斉隆が早世したとき、斉隆には生後8か月の一人娘しかおらず、
同年齢の黒田長舒の四男であった斉清とこの娘を取り換えたという話だが、
取り換えられたほうの斉隆の実娘はどうなったんだろう?
斉清の妻に迎えてもよさそうなもんだが。
この取り換え話に該当しそうな斉清と同年生まれの長舒の娘って見当たらないよね。
29 :
日本@名無史さん:2013/02/02(土) 14:18:43.79
継高は息子たちが死んだあと長女藤子(池田宗政正室)の次男(のちの相良長寛)にあとを継がせたかったらしいが一橋家から養子を押しつけられて叶わなかった
ちなみに重政など息子は全員側室腹だが藤子や前述の為姫は正室腹である
30 :
日本@名無史さん:2013/02/02(土) 17:33:32.60
>>28 違うだろw
戦で勝った者が嫡流になっただけのことだから
31 :
日本@名無史さん:2013/02/02(土) 20:32:01.17
鳥羽藩嫡子の稲垣長興が廃嫡されたのは表向き病弱としているが、気が狂ったらしい。
妻を切り付けた後出奔し、両国橋のたもとで芋を食っている所を家臣に取り押さえられたと何かで読んだ
内藤忠勝といい、鳥羽藩はいろいろあるな
紀州分家の西条だったか?
宗直の兄貴、正室の子なのに廃嫡されてるよね。
大河の西田吉宗では切支丹だから廃嫡されたってトンデモな設定だったがw
松平頼雄(寺泉哲章)は、柄本明に暗殺されました
35 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 00:25:28.34
>>32 アメリカの銃乱射には及ばないものの、日本刀という武器を常に携帯している分、狂人に刃物は怖すぎる。
徳川家慶の時代だっけな、松平外記という旗本が苛めに耐えかねて大量殺人した事件とか
松平外記忠寛は家康の四男の子孫か。旗本はつらいなー
それ松平忠吉違いじゃないか
家康の男系子孫で、300票の下級旗本までは落ちないんじゃね?
家康の男系子孫って意外なほど少ないからなあ
そうすっと、家康の妹で松平忠吉に嫁いだ多劫姫の子孫かな?
41 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 22:31:27.68
男系子孫残せたのは宗家、御三家と越前のみでしょ?
しかも幕末まで本家で男系残せたのは紀伊と水戸だけ。
側室孕ませ放題でも男系維持って割りと大変だよね。
大昔の皇族なら臣籍降下させて3代も経つと物凄い勢いで
繁殖したのに武家の繁殖力の弱さは異常。
賜姓皇族なんか初代で5位、二代目以降で地下埋没とかザラだろ?w
結城宰相は真実、家康の子なのか
>>43 違う可能性も高い(家康が4歳になるまで認知せず)
越前松平家は途中で将軍家や田安家からの養子の系統に代わっているので
幕末の福井藩主松平春嶽は家康の男系ではある
しかし春嶽の後をついだ養子の茂昭が藩祖秀康の分家系統だ
ちょっと訂正。
松平茂昭は秀康の分家筋だが秀康の血は引かず、久松松平氏だった。
久松松平は松平に違いはないが、家康の異父弟の系統で(男系を辿ると久松氏)、
家康の子孫ではない。
となると、越前も家康の男系子孫は幕末まで残らなかったってことだな。
てことは家康の男系子孫は頼宣と頼房の男系子孫だけ?
47 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 16:23:16.69
越前庶流の永見とかは?
>>47 繋がってないはず
徳川家康ー結城秀康ー松平忠直ー永見長頼ー松平綱国ー安藤国近ー安藤近倫ー(系図不明)−松平国忠
松平忠直改易後の庶子である永見長頼は異母兄高田藩主松平光長の厄介となり、
その子頼国は後継のいない叔父光長の跡取りとなるが、光長改易により果たせず。
その子国近は津山藩松平家に仕えて安藤を名乗り、以降、幕末まで津山藩家老。
幕末の津山藩家老松平国忠(明治維新後、安藤から松平に復す)は子孫だというのだが、
この間の系図が分からん。
しかし秀康の系統は初期はたくさん男子がいるはずなんだが
本当に全部それが断絶してるのか?
系図資料も持ってなければ系図を丹念に追う気力もないから自分では調べないが。
50 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 22:00:33.43
>>46-49 明石藩は結城秀康の、下総高岡藩は徳川義直の男系じゃないか
51 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 22:03:00.68
つー事は附家老の竹腰家も男系守れた?
52 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 22:04:32.81
竹腰は幕末に養子入ってるよ
53 :
日本@名無史さん:2013/02/05(火) 00:58:53.57
西園寺公一はゾルゲ事件に連座し廃嫡された。
弟の不二男が嫡男になった。
54 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:25:13.18
岩瀬忠震が伊達正宗の男系とは初めて知った。
どう繋がってるの?
てことは、鳥居甲斐守も伊達政宗の男系か?
君島ブランドの腹違いの弟
57 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 20:42:11.78
>>55 鳥居耀蔵と岩瀬忠震は母方で繋がってるから鳥居と伊達は無関係
58 :
日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:42:13.92
上杉治広はなぜ同母兄の勝煕を差し置いて米沢藩の世子になったの?
59 :
日本@名無史さん:2013/02/08(金) 08:32:09.06
>>58 勝煕は生まれてすぐ上杉鷹山の養弟になった
それに対して治広は上杉鷹山の養子だった
養子が養弟に優先するので養子だった弟のほうが米沢藩主になった
伊達秀宗は庶長子だか、豊臣政権が続いてたら家督相続してた可能性が高いかも
>>60 秀宗が秀吉の猶子になってるから?
でも徳川家も秀吉の養子になった秀康は徳川家家督を継がず
秀吉存命中から秀忠が次期家督継承者だったから(秀吉の養女江と結婚)
秀吉の養・猶子だからって関係なさそう
62 :
日本@名無史さん:2013/02/09(土) 22:48:05.50
>>53 公一も不二男も正室西園寺新の腹でそ
2人の母親の新は公望の庶子だが
>>61 猶子は、相続に影響なし、格だけ上がる。
養子は、他家へ出て他家を相続する代わり、実家の相続権がなくなる(離縁して復籍すれば別だが)。
猶子と養子じゃ、相続については大きな差がある。
伊達の場合は、徳川への遠慮が大きかたのではなかろうか。
もっとも、明治になると宇和島が侯爵、仙台は伯爵。
秀忠は朝日姫の猶子だったかと
秀康は秀吉の養子から結城の養子に。
家康の息子で養子に出されなかったのは信康、秀忠、義直、頼宣、頼房のみ。
65 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 14:27:28.31
細川内膳家は現在まで忠隆の血筋を受け継いでいる?
66 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 17:07:10.48
細川内膳家は、忠隆の男系で継承されていたはず。
一方、熊本の細川宗家は、忠利の男系は断絶し
忠興の四男で庶子だった立孝の男系子孫に入れ替わって
現在にいたる。
67 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 17:12:43.19
よく調べたら、細川忠利の男系は少なくとも幕末までは断絶していない。
が、細川宗家は、細川立孝の男系子孫に入れ替わった。
68 :
日本@名無史さん:2013/02/11(月) 22:56:10.89
その細川なんだけど護久長男護成は護久結婚前の誕生で
その後護久正室の宏子は5人の娘を産んだあと3人の息子を産んでいる(娘の順番からして宏子と護成生母が重複して夜の相手?をしていた時期がある)
しかし宏子の最初の息子護全は護久弟の護美の養子になったあと戦死して次の息子護晃は分家して、
最後の息子護立は当初早死した護晃の跡を継いだが護成妻孝子(戸田極子似の美女)が英子しか産まなかったため護立が跡を継いでいる
>>63 秀宗が豊臣秀吉の猶子になったのは勿論秀吉存命中のことなので
徳川に遠慮したということはないだろう
(伊達政宗が五郎八姫と徳川忠輝を結婚させ徳川家の姻戚となるのは秀吉死後)
しかし、秀宗が猶子になったときにはすでに秀頼の存在があり、
秀吉は秀頼が生まれて以降誰一人新規の養子を取っていない。
秀吉は鶴松・秀頼が生まれる以前はたくさんの養子を取っていたのとは対照的。
秀宗を養子ではなく猶子としたのは秀頼との差別化であり秀吉の意思だろう。
>>64 秀忠は朝日姫の猶子にはなっていない
朝日姫は一年半ぐらいで家康のもとから聚楽第に逃げ帰り
(表向きは母大政所の看病という理由ではあるが)
そのまま家康のもとへ帰らず聚楽第で没している
71 :
日本@名無史さん:2013/02/13(水) 20:10:22.21
秀吉が最も可愛がった養子って誰だろう?
宇喜田秀家かな
72 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:23:10.90
血統の近さと愛らしさで小早川秀秋
73 :
日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:42:56.56
マジレスすると羽柴秀勝
於次?小吉?
75 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 00:33:44.17
於次さ
秀家は猶子だから養子ではない
「名家」っていうから、堂上公家のうち日野家とかごく一部の家限定か?
えらい射程の狭いスレだな・・・
と思って開いてから勘違いに気がついた記念パピコ
78 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 17:57:00.10
貧乏公家でも家女房という側室ちゃんと飼っているもんなあ。
鎌倉期以降の皇族、公家の相続は妾腹のほうが圧倒的に多い。
武家が妾腹メインになったのは無嗣断絶が横行した江戸期以降。
有名な戦国武将の母親は正室が多い。
>>78 戦国武将は成り上がりが多く一夫一妻が多いためだよ。
日本は明治以前まで一夫多妻だったというけど、
実際、複数の妻が持てた男は人口の上位3%程度で、大部分は一夫一妻。
天皇や公家は1000年以上上位3%に入り続けてた人たちだし、
武士も江戸時代に入って上位3%に入る大名が増えたというだけ。
公家でも正室がいなくて、実質的な正妻の家女房がいる家もあるけどね。
81 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 20:31:17.48
ところで正室が少ない=他家に嫁に行く娘が少ないということだけど皆尼や女官になっていたのだろうか?それとも尼にも女官にもならず行かず後家の姫も結構いたということ?
相手が誰であれ他家に嫁ぐということは何かと物入りだからおのずと正室が少なくなる?
82 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 20:37:23.26
大奥では30越えると褥すべりで、現代に生きる俺からすれば勿体ないなとは思うが
その当時の出産環境や結婚年齢考えれば、現代で言えば40ぐらいだもんな。
死産も含めて58人も子を産ませた家斉はバケモンだわ
>>81 江戸時代には公家の姫が結構大名に嫁いでいた
公家の側は娘の婚家から援助して貰え、大名側では名門や京文化への憧れがある
公家間での結婚が少なくなったせいで公家に正室がおらず
身分の低い家女房しか持てなくなったというのが少なからずあると思う
>>82 徳川慶喜は母親が35歳の時の子だし
徳川家宣の妻近衛煕子は30代後半で子を産んでいるからそれもよくわからん
側室が年齢不詳であるというだけで徳川家斉の側室には
最初に産んだ子と最後に産んだ子の年齢差が13〜14歳ある側室が複数おり
褥すべりが本当にあったかどうかは分からん例も
>>84 >徳川家宣の妻近衛煕子は30代後半で子を産んでいるからそれもよくわからん
その子らは夭折してるからむしろ高齢出産は宜しくないという例になろう。
褥すべりはあったにはあったんだろうけど、
夫と正室の関係性で融通できたんだろう。
元服や隠居だって年齢のばらつきがあるしな。
>>85 上杉鷹山の10歳年上の側室・お豊の方が38歳で出産した息子も夭折したね。
ちなみにその子の兄にあたる顕孝はお豊の方36歳の時に出産した子だが、
疱瘡により19歳で死去。
>>86 >褥すべり
大奥と大名家だけでも厳密さはかなり違っていたと思う。
近衛煕子の出産は夫が将軍になるよりずっと前の話だし。
89 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 09:52:16.94
田安家では宗武正室森姫が36歳で7人目を産んだり斉匡側室の篠崎氏が35歳で慶頼、同じく木村氏が41歳で慶臧を産んでいるけど御三卿の扱いはどうだったんでしょう
>>85 江戸時代は妻妾が若くても夭折した例は多いしなあ。
しかも側室の大半が年齢不詳で側室が何歳まで寝所に侍り出産していたか不明。
ちなみに江戸幕府将軍の正室で大奥入りしてから出産した例は
2代将軍徳川秀忠の御台所江(35歳まで7人の子を出産・全員成人するまで育つ
35歳で最後に産んだ子の徳川和子は72歳まで生き、江が産んだ子の中で最も長命)と
11代将軍徳川家斉の御台所茂姫(26歳で産んだ男子一人のみ・夭折)の2人の例しかない。
91 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 07:35:42.72
そう考えると正室の吉子女王が高齢出産で産んだ慶喜は存在そのものが驚異的すぎる
340 名前:日本@名無史さん :2013/02/26(火) 14:50:17.90
>>338 じゃあ、江戸時代の大名が30歳を超えた女を寝所に召していた例ね。
側室は年齢不詳が多いので、なかなか何歳まで寝所にいたか分からないけど。
・徳川秀忠…御台所・江は35歳で徳川和子(後水尾天皇中宮)を出産
・徳川斉匡…側室・りをは35歳で徳川慶頼(田安家当主)を出産/側室・連以は41歳で徳川慶臧(尾張藩主)を出産
・徳川斉昭…正室・吉子女王は34歳で徳川慶喜(15代将軍)出産
・保科正之…継室・於万は33歳で保科正純を出産
など
まあ、慶喜は、存在事態が公武合体、菊と葵の狭間に産まれた子だからな。
武田なんとかってモデルが武田信玄末裔を詐称してるって芸スポニュースのスレで一人登場したぞ。
仮冒してるだけの○○末裔が
代を重ねることによって仮冒してることを本人たちも忘れてしまい
あたかも本当に○○の子孫であるかのように振舞ってしまい恥をかくことになる
96 :
日本@名無史さん:2013/03/08(金) 02:25:47.70
>>76 宇喜多秀家て養子じゃなくて猶子だったのか
豪姫とは養子養女同士の夫婦だったことから秀吉から一番寵愛されてたて聞いたけど
「人口の上位3%程度で」
現代の日本人はその少数派や少数派の風習を
一般的な日本人だ、一般的な日本の考え方だと誤解している
>>96 秀吉の養子
於次秀勝
小吉秀勝
秀次
秀康
秀秋
秀吉の猶子
池田長吉
宇喜多秀家
八条宮智仁親王
伊達秀宗
近衛前子
江も秀吉の養女だな
豊臣など徳川の敵なのに江戸後期に書かれた徳川家の正史「徳川実紀」では
江が浅井氏であることより関白豊臣秀吉の養女であったことが強調されている
徳川和子が養源院に置いた江の位牌は
豊臣家と徳川家と天皇家の紋が入っている(なぜか浅井が入っていない)
>>98 この中で後継者として考えられたのは於次秀勝と秀次と秀秋かな?
秀秋については明確ではないけれども。
小吉秀勝は何のための養子だったんだろうか。
政権内で重責を担わせるための箔付け?
於次の遺領継承のためなら必ずしも秀吉の養子になる必要はないし。
>>101 秀次は一応姉の婚家の長男なので遠慮して次男を養子にしたんだろう>小吉
弟の小吉のほうが秀吉の養子になった時期が早く、
後に関白を譲る秀次が秀吉の養子になったのは鶴松が死んだ後と非常に遅い。
養子の一人としては弟の小吉で十分だったんだが
豊臣家を譲るとなると兄を差し置いて弟にというわけにはいかず
兄の秀次を改めて養子にしたとか
>>54 亀レスだけど系図だと、こう
政宗━忠宗━綱宗━宗贄━村年━青木一貫━設楽貞喬━設楽貞丈━岩瀬忠震
>>98>>
>>101 池田長吉は養子との話も
でも養子になった時期見ると清洲会議の後の政治的な要因で養子に迎えただけで、
あまり一門として優遇されてた訳じゃなさそうだ(藤堂高吉も同上)
名張藤堂家は不憫だな
>>103 池田長吉や徳川秀忠は、本来、人質として秀吉に差し出されたものを
秀吉がそれじゃあ角が立つと養子と言い換えただけのような気がする
すぐに家康は小牧・長久手の戦いで秀吉に勝利した、
その証拠に秀吉は母と妹を家康の人質に差し出したが(秀吉妹は人質じゃなくて正室なんだが)
家康は我が息子秀康を秀吉の養子(後継者)にねじ込んでやった、と言い出す奴が出るけどな
>>105 >すぐに家康は小牧・長久手の戦いで秀吉に勝利した、
>その証拠に秀吉は母と妹を家康の人質に差し出した
嘘を書くな!!
>>60 秀吉が長生きして後押ししてくらたらありえるけど
秀吉居ない限り豊臣政権続いても無理じゃないの
秀頼が、そこまで肩入れしてくれるかどうか判らないしさ
>>107 秀吉存命中には伊達政宗には秀宗一人しか男子がなかった。
だから当時の秀宗の扱いは伊達家の庶長子ではなく嫡男に近い。
政宗の正室愛姫は嫁いでから16年間子がなく、文禄3年、結婚16年目にようやく産んだ子も女子だった(五郎八姫)。
後に仙台藩を継ぐ忠宗は愛姫33歳の時の子で、生まれたのは秀吉の死後。
秀吉が無理に庶長子に家督相続を要求したかは眉唾物。
109 :
日本@名無史さん:2013/03/11(月) 00:24:30.28
>>38 昔し日本史板で家康の男系子孫で一番身分低下したのは(?)みたいなスレあったと思うけど、
それによると
すでに男系曾孫の代で餓死した奴(越前騒動の余波)
水戸藩や伊予西条藩の小藩士に落ち着いた奴までピンからキリだったよ
藤堂高吉で思い出したけど
秀秋か秀康に絶家と成っていたに大和豊臣家再興させても良かったのでは?
これなら藩屏ができて秀頼の跡目相続問題ないし
駿河大納言みたいになりかねん。
御家騒動にならないように配ってまわった2人が。
>>110 どちらも秀吉との血縁関係は一切ないからなあ
秀康に大和をやればそのままその実父家康に大和64万石を
そっくりそのまま呉れてやるみたいなもん
まあ秀頼が生まれてなければ秀保の実甥である秀次の次男以下の誰かが継承するのが自然だっただろうけどねえ
それか秀頼が生まれているかどうか関係無く鶴松が生きていれば
秀次が平和的に後見人的なポジションに収まるだろうから
やはり秀保の跡目は秀次の次男以下が継承できた可能性はあるだろうなあ
確かに。
秀次の子どもたちを秀吉が快く認めて重用するような度量があれば、家康につけ入れられる隙はずっと少なかっただろうにな。
本家 …秀吉=秀次=秀頼ー国松
秀次家 … 秀次ー仙千代丸
秀長家 …秀長ー秀保=百丸
秀次家分家… 秀次ー十丸
秀次家分家… 秀次ー土丸
こんな感じになってれば、秀頼とその父でもおかしくない年齢の秀次、秀頼と同世代の秀次の男子4名がいたことになる。
織田家のような激しい内部対決さえなければかなり安泰だったろう。
藩屏なんか作っても秀吉いないと機能しないじゃねえの?
秀吉に比較的血縁近くて準一門と言っても良いほど可愛がられてた正則でも、家康に良い様に騙されてさ
金吾にそんな野心あったかは定かではないけど秀頼に取って代わりたいと思うかもしれん
秀次一族を殺したの失策に看做されてるけど
秀次だって何するか判らんよ
権力欲で秀頼に本家譲らん可能性だって
惜しむはやっぱ秀吉の寿命だろ。
秀吉の寿命って言ったって秀頼が政務執れるようになるまであと10年かかるんだが
当時の人間に70過ぎまで生きることを期待するのはやや酷じゃないか。
秀次をすんなり分家兼後見人として収めるためには鶴松生存しかありえない。
家康は74歳まで生きたから天下とれたんだが
秀次が生きていれば秀頼にすんなり政権移譲はいかなかっただろうね
秀次は男子が多く実子に政権を譲りたい
秀次の娘と秀頼は婚約していたがそんなことで秀頼に政権移譲しなかっただろう
秀次VS秀頼で戦になれば晩年は自ら茶や薬の調合までして天下取りのために長寿の準備に余念がなく
虎視眈々と天下を狙う家康に付けいれられていたかも
>家康は74歳まで生きたから天下とれた
だからすごいんじゃないか
人生五十年の時代の74歳、しかも政治判断力を維持したままでなんて例外だろう
>>119 だから惜しむは秀吉の寿命なんだろ
秀吉と家康の寿命が入れ替わっていたならば
秀吉は秀頼が成人するまで生きられたし
家康は天下の夢さえみれずに死んでいた
>>120 家康並みに判断力を維持したまま、という条件付きでならそう思う
ただそれでも秀頼は苦労しそうだね
徳川家を上手く分割相続に持ち込めればあるいは…という気はする
秀康
秀忠
忠吉
信吉
この4人は秀吉の偏諱?
忠吉と信吉は違うんじゃないか
賜った諱を下には付けないはず
忠康1581→忠吉1592
信義1582→信吉1592
避諱せずに改名してるんだね
>>124 秀次から家臣への偏諱は「次」を下に付けてるから
そう一概にも言えないのでは。
時代は相当戻るから比較対象にならないかもしれないけど北条時宗なんか
皇族である宗尊親王から上の字を貰って下に付けてる。
それに比べたら下の字を下に付けるくらいなんてことないとも言える。
豊臣賜姓は秀康と秀忠のみか。
128 :
日本@名無史さん:2013/03/18(月) 22:20:58.75
一種の外交儀礼みたいなもんで
秀忠秀康には与えてるから
忠吉信吉には与える必要なかったんだろ。
129 :
日本@名無史さん:2013/03/23(土) 12:26:15.82
斯波氏の例はちょっと違うか?
正室の子だったけど
父が得宗家から妻を貰ったため母が側室に
秀吉のハシバとはつまり斯波氏の端っこのこと
131 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 00:05:49.28
豊臣秀長と正室との間にできた3人の子のうち嫡男小一郎と毛利秀元室は早世したが、豊臣秀保室は秀保死後どのくらい生きたの?
逆に嫡子相続のみで続いた名家があるなら知りたい。
133 :
日本@名無史さん:2013/04/03(水) 12:06:14.65
天皇家にも側室の子が○○代○○天皇になってますw
134 :
日本@名無史さん:2013/04/03(水) 12:43:42.69
>>125 どう考えても偏諱を賜ったのでしょう
>北条時宗なんか 皇族である宗尊親王から上の字を貰って下に付けてる
足利義満が偏諱の授与を整理したと どこぞで読んだような
135 :
日本@名無史さん:2013/04/03(水) 21:38:52.24
足利氏満もそうか
下に付ける
136 :
日本@名無史さん:2013/04/12(金) 05:49:55.34
このスレ読んでいると、今の人達はみな名家の生まれだな。橋下を同和叫ん
だ人は人は橋下と縁戚関係があるのと違うの。自分の先祖が殺人者 強盗
詐欺師であったから今の人生があると思っているし、相当な名家 武将で
あったと思っていますが。間違いでしょうか。
日本語でOK
津島家って家康の養女満天姫の生んだ次男差し置いて、側室扱いの石田三成娘たつ姫の生んだ子が継いでたな。
満天姫も前夫が福島家なんで徳川的にはどっちもどっちだったんだろか
そりゃ津島家なんてありもしない家なんて徳川はどうでいいだろ
真田幸村なんて人物は居ない
意味が通じりゃええやん
津軽のこと言ってるんだろうが、知ったかにもほどがある
津軽家ってぽっと出じゃね
144 :
日本@名無史さん:2013/04/16(火) 18:42:42.41
一応血筋は義光流南部氏の流れなんだけど
歴史は浅いか
あれか・・
源融の陽成天皇降任阻止された話から八代後の安倍氏の婿養子が平家時代に松浦氏姓と嵯峨領と共に家督を相続した話か・・
血統は確かでも
源氏は庶流多すぎて、
末端の末端だとあまり名家て感じしないか。
足利泰氏なんかは最初に娶った正室をのちに退けて、後妻を正室にしてその子に家を継がせたよね。
その際長男の家氏を廃嫡にしたり結構苛烈なことしてる。
斯波、吉良とか北条庶流正室が得宗からNEW正室貰って廃嫡された足利の元嫡子の分家は格が高いよね。
既に北条分家から正室貰ってるのに何故、本家にあたる得宗が分家の嫁を追い込むような縁組するんだろ?
149 :
148:2013/04/17(水) 14:57:46.95
ごめん、吉良家祖の生母は元正室じゃなくて、ド側室だった。
元嫡子は斯波だけだね。
庶流の娘をやって唾を付けといて、勢力を増してきたら本家の娘をやる。
シンプルな婚姻外交なんじゃない?
これで嫁貰う側の家で家督騒動が起きて弱体化すればよし、しなくても身内になってよし、みたいな。
斯波初代の家氏は超が付くやり手だったらしいし、有力一門の足利を継がすのはマズイと思ったのかもしれん
足利はある時期から北条の有力一門みたいなものだからね
北条一門にしては官位は段々落ちている気がするけどね、後期なんか従五位下ばっかっじゃん。
後期っていう程、将軍家以前の足利氏は長くないけどな、八代くらい?
途中北条氏の娘を母に持たない家持とか家時だったかは官位貰ってないはずだし
北条氏のテコ入れはほぼ確実にあったと見て良いんじゃない?
それに従五位も律令の末席とはいえ諸王格だし当時の武家としては破格でしょ
最後の行、言い方が悪かった
それに律令の中でも諸王格として末席の従五位は当時の武家としては破格、に訂正で
上級武士としては普通じゃない?>従五位下
超上級武士になると得宗を初め、鎌倉時代でも四位の官位は貰っている。
156 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 06:35:25.87
斯波家て高経の時代までは
足利の分家じゃなくて別家扱いで格式高かったて聞いたな
>>155 義氏か泰氏だったかは確か四位まで貰ってるから個人の実績で振れ幅があったんでしょうね
>>156 政治的理由で廃嫡され家を継げなかった兄の家系だからな斯波氏は国史的にも異色の存在
他の分家と違って鎌倉幕府の御家人株を持ったもう一つの足利として命脈を保ってたし
他にも足利は庶兄筋の家があるけど廃嫡までされたのは斯波だけだから
文字通り足利一門の中で別格と言って差し支えないと思う。
>>156 でも斯波は管領になることによって幕政参加の実を得、有力守護大名になったは良いけど格下の吉良今川よりも家格的には下の存在になった哀れな家だよね
その上、嫡流は滅びるし、庶流の最上も改易。
結局近世まで家を残せなかった。
最上は交代寄合で存続したんだっけ?
>>157 斯波が御一家に含まれなかったのは当然と言えば当然だですね、初っぱなの高経がやらかしましたし
初期の所領みてもあんなでかい家に将軍継承権を与えるのは幕府側としては恐すぎではありますねw
御一家も実態は宮廷貴族同然でまともな所領も持ってなかったですし、バランスを取ったイメージでしょう
>>156 実力的にも斯波氏は莫大な所領を背景にした軍事力と経済力をもって権勢を揮ってますし
初期の頃は所領が飛び地なのも助けて全土に勢力を築いて影響力も高く、応仁までは無敵でしたね
応仁以降は飛び地なのが裏目に出て各地独立の憂き目にあって落ちていって
最後は信長爆誕に巻き込まれて爆死って感じですね、斯波を名乗るのが忍びないと言って
氏を改めて津川を名乗るようになって謂わば家ごと切腹するような有様に。
161 :
160:2013/04/18(木) 19:09:01.28
>>159 交代寄合で5000石だったか?
まあ消えたも同然。
163 :
日本@名無史さん:2013/04/18(木) 20:18:36.35
大名で残ったのだと堀氏系奥田家も斯波氏の末裔自称してたよ
足利家って後世の徳川みたいに御三家、御連枝以外の松平に落ちたら将軍継承権無し!みたいなルールあったの?
吉良も今川も斯波も尊氏以前の分家でとても正式な継承権あったとは思えないけど将軍家は将軍家で関東公方以外の
分家輩出しないで庶子はことごとく出家させてたし意味わからん。
庶子は一門の分家に養子に行かせればいいのにw
まぁいざとなったら還俗させてくじ引きするからいいんだよw
関東公方だけでもあんなに邪魔臭いのに他にも有ったら大変でしょ。
足利将軍家は皇族みたいなもんだから
この時代は新宮家を立てないで門跡に入れるんでしょ?
足利の分家はプライドが高いというか、感覚としては足利もそれ以外の家も源氏の分家として在るのであって
足利の分家ではない、みたいな精神的な建前があった感じなんだよね。
三管四職もだいたい足利を継げなかった兄方の家だし、足利宗家としても無碍には出来ない背景があったと言える。
それに公方クラスは宗家に近い力があったし、なんというか政治的にバランスがヤバイから
あえて滅茶苦茶にして逆にバランスとってる感じがするよね。
関東公方は御三家なんてもんじゃないからなあ。。。
所領自体は大したことないケど東日本全体を統治していたわけで。
170 :
日本@名無史さん:2013/04/19(金) 23:53:27.03
今川了俊がそんなこと書いてたな
庶家の殆どが、あんまり足利一族としての意識がないって
足利本宗家が得宗家の一門化した段階と足利将軍家が権門化した段階の二段階で本宗と庶家の乖離が拡がってる
ですね、特に前者で三管四職、後者で公方御一家の下地が出来たように感じます。
173 :
日本@名無史さん:2013/04/20(土) 16:27:59.80
174 :
日本@名無史さん:2013/04/20(土) 16:28:54.69
すまん盛大な誤爆
175 :
日本@名無史さん:2013/04/20(土) 16:48:45.82
足利将軍の娘って他家に嫁がず尼になっているね
176 :
日本@名無史さん:2013/04/20(土) 18:26:58.08
例外は、以下の4名の室だけ?
崇光天皇(夫人:足利尊氏の女(鶴王)※許嫁状態で没)
六角満綱(正室:足利義満の女)
武田義統(正室:足利義晴の女)
三好義継(正室:足利義晴の女)
自分らが南北朝の時に女院を使って南朝を追い詰めたからね。
完全なとんちではあるけれど女系の悪利用を思いついた足利は
逆に自分たちが追い詰められることのないよう手を打ったんでしょう。
178 :
日本@名無史さん:2013/04/21(日) 23:22:39.53
家康いわく
足利分家の斯波より
新田系山名の方が格式は上
新田の祖と足利の祖は兄弟で新田が兄ですから当然と言えば当然ですね。
良い勝負だとは思いますが、山名は新田分家の中でも古い家系ですし
足利の廃嫡された兄を祖とする斯波でも純粋な源氏系としての家格では適わないでしょう
斯波は足利将軍家の先祖の兄の家系という将軍ブランドが付いてこそのものですね
>>179 > 新田が兄ですから当然と言えば当然
それを「当然」と言ってしまうと、足利と新田の嫡庶争いという
微妙な問題が全くわからなくなる。
鎌倉時代を通じて足利の方が権力が大きかったことは事実なんで、
議論はあり得るにせよ、少くとも「当然」ってのは有り得ないだろう。
> 山名は新田分家の中でも古い家系ですし
古い分家の方が格上ってのはよくわからん。
十八松平の方が尾張・紀伊より古い分家だが、格上なのか?
> 斯波は足利将軍家の先祖の兄の家系という将軍ブランドが付いてこそのものですね
んなこと言ったら、山名は新田の分家という、新田ブランドが付いてこそのもの。
ブランドって意味もよくわからんが、普通に考えたら
将軍ブランド>>>新田ブランドだろう。
足利氏は征夷大将軍、太政大臣、准三后を排出しているが
新田氏は近衛中将どまり。
兄の家系が一番だと
新田の中でも里見が最高の家柄になるな
家康が嫡子相続、長幼の序の確立を目指すために歴史的経緯を無視した
それを言い出したら河内源氏より摂津源氏という事になってしまう。
>>180 自分は勢力的な上下ではなく、源氏の家系図を見たとき、宗家の縦線にどれだけ近いかという意味合いで話しました。
また古い家系が強い理由は分家として独自に結婚する機会が多いのでその分政治的にリードすることが出来る面が大きいです。
例として十八松平を挙げられましたが徳川御三家を見れば分かるとおり、幕府にとっては家康の血を引いているかが肝心であり
それ以前の分家はそれに劣る扱いというのは室町幕府でも公方とその他に見れるように伝統的な様式と言えます。
重要なのは将軍と成った者の血を継いでいるかどうかで、それ以前ではないと言うことです。
ブランドの話は家康が言った意味合いを補遺する形で語れば、斯波、というか足利一門の将軍ブランドは江戸幕府の成立で死んだ
という意味合いで語られたのが妥当であろうということで上記のように述べました。
最初の源氏の直系の縦線の近さという意味と家が勢力を保ったまま続いたた事が評価されたのだと思います。
>>181 斯波は廃嫡の長子が祖という稀有な例ですので庶長子を祖とするその他分家と一線を画しますので一概には言えませんね
庶長子の分家と、正室から生まれた2番目の子による分家の格というものはそういえば聞いたことがありません、勉強不足ですね。
>>183 前述した徳川御三家、公方の話と繋がりますね、河内源氏が将軍を輩出する前は摂津だと思いますが、以降は河内でしょう。
河内と摂津の両源氏の関係は簡単に言えば足利と新田みたいなもんだと思えばわかりやすいです
>>184 >幕府にとっては家康の血を引いているかが肝心であり
しかし家康の血筋でも徳川を許されたのは将軍家の血筋と御三家だけだ。他は武田の名跡を継いだ
信吉を別にするとみんな松平。御三家は男兄弟の中では下から三人だし。
186 :
日本@名無史さん:2013/04/22(月) 14:44:55.45
忠吉は東条松平、忠輝は長沢松平。
御三家は下から3人ではあるが、失脚した忠輝以外に存命していたのがその3人だっただけで、
さらに水戸は紀州の分家筋として徳川改姓を許されたにすぎない。
>>185 下三人と上の兄弟は結構歳が離れてるますからね、間に入る子息は幼くして亡くなってますし。
家康は婚姻外交しまくりで側室とかわけわかめな状況ですし、一概には言えませんが
下の三人は江戸幕府が成立した直後の子ばかりですから戦国を知らぬ子である故、一門に残したのでは
逆に上の子らは戦国末期とは言えそれなりの活躍があり、他家との繋がりがあり、自立しているが故に
それなりの警戒もされていた、と考えるのが妥当ではないでしょうか?
正直な所、家康は側室も養女も無数にいて史料も多いですので専門でないと語れない部分が多いですね
戦国以降の複雑な時代を研究している方々には本当に頭が下がります。
>>186 簡潔な答申、すごくわかりやすいです、勉強になります。
松平三河守家は秀康ー忠直ー光長から津山家が、
徳川右大将家は秀忠ー家光ー家綱が継承した
忠直、光長の2段階で御一門払いで粛清された
福井家も粛清され、将軍家の血胤プールとされた
家康の男系男子の中で続いたのは御三家と越前だけ。
越前が弟の家である御三家より扱いが低いのは結城秀康が他家へ養子に行ったから。
一応兄の家系ということで初期には正外の家と言われていたみたいだけどね。
越前家は秀康が家康に自分の子か出生疑われたるので冷遇されたんでしょ。
>>191 冷遇された結果、秀忠じゃなくて秀康が養子に行ったとも考えられるよね。
大河ドラマとかで家康が嫡男を泣く泣く秀吉の養子に差し出したみたいな
描き方する事も多いけど嫡男じゃない諸長子だから養子に行ったが正しいわな。
なんとなくイメージだけで語るけど
家康が真に可愛がって愛してた息子は晩年に生まれた末っ子3人だけの印象がある
忠輝や信吉だったかの家系が続いたら松平と武田つーことで越前同様、御三家よりも格下?
>>194 東条松平忠吉の家系が存続したら尾張徳川義直の家系がかわる
武田信吉の家系が存続したら水戸徳川頼房の家系がかわる
長沢松平忠輝の家系が存続したら越前松平家の家系がかわる
196 :
日本@名無史さん:2013/04/24(水) 09:21:03.08
>>195 武田信吉の後継は紀伊頼宣じゃないかね?水戸頼房にも影響は及ぶだろうけれど。
家系は変わらないんじゃね?
領地所在地は変わるだろうけど
駿河大納言家が続いたらなあ
同母弟ということで調子こきすぎたかw
忠吉→尾張松平家
信吉→常陸武田家
忠輝→越後松平家
紀州に頼宣の変わりに義直入れて
頼宣と頼房どうする
伊予西條か高松?
秀忠の同母弟の松平忠吉が越前みたいに臣下落ちで末っ子が徳川名乗れるのって
何かがおかしくないか?
館林と甲府は松平だよね?
御三家の諸兄も徳川性を名乗れなかった以外、石高も御三家並以上だし
一概に冷遇されたとは言えないのか?
松平にしないで紀州と館林と甲府で御三家にすれば良いんじゃね。
>>200 頼房に関しては家康に徳川姓与えられてなかった説あるけどな
石高も他の兄弟と比べると少ない
頼房が徳川姓になったのは1636年らしい
徳川政権が確立する家康征夷大将軍主任以前に
徳川姓を名乗れたのは秀忠だけでは?
徳川将軍家誕生以後に元服した家康の男子たちは
徳川姓になってる感じ
206 :
日本@名無史さん:2013/04/26(金) 18:19:14.90
姓与えられなかったか関係ないかも知れないけど
頼房は家康に警戒された逸話あるね。
頼房系統が家康の子孫で一番繁栄してるのは皮肉
繁栄って、それは慶喜や高須四兄弟以降の話じゃないの?
それ以前(つまり江戸時代の大部分)だと微妙だな
千葉の松戸の本土寺(紫陽花寺として有名)に、
武田信吉の母である家康正室・下山殿(通称お都摩の方、秋山氏女
通説として穴山梅雪の養女扱いで家康側室となる)の大きな墓碑があるけど
それを整えたのが水戸光圀なんだよね。
(ごく普通にアジサイ散策路の途中にどーんとあって目立っている。
きちんと案内版も出ている。埋もれてくすんだ墓碑では無い)
家系や血脈としての繋がりこそないが、水戸家にとって信吉の存在が
何かしら意味あったことの証しになると思うが。
頼房と同じ英勝院お勝の方の養子で忠直弟の忠昌が忠輝の屋敷・所領を継承しているのが興味深い
越前国内の分封大名からスタートした直政以下の弟達とは明らかに異色
下妻
頼房→忠昌
水戸
信吉→頼宣→頼房
川中島
忠輝→忠昌
旧華族の血筋調べたことあるけど、
家康の末裔たちの中で一番多く祖先に辿り着いたのは水戸系でした。
尾張は早世養子で義直の血筋は少ない
紀州や吉宗系は一時期隆盛極めたが近年は断絶した家も多いんで
211 :
日本@名無史さん:2013/04/28(日) 11:11:27.11
武田信義が相続していたら、血筋もいいし将軍になれたかもしれませんね
>>211 血筋は圧倒的に頼朝のほうが良いでしょ?
だから勢力が強大だった武田信義も配下になったわけで
>>91 斉昭の子供及び歴代将軍の中で一番長生きだったしな
信義は義光流だからな
義家の血しかも嫡流じゃないと御家人も従わない
義家流というのは源氏棟梁の最低限ルールかと
摂津源氏と河内源氏どこで差がついたのか。慢心、環境の違い
いや頼光流もそれなりに武家として繁栄はしてるんだけどね。
摂津源氏で名高いのはライコウこと頼光と鵺退治の頼政とかか
やっぱりなんか高名な人も幕府成立前の人が多いね。
河内の繁栄、幕府の成立で摂津に影が落ちたのは間違いないだろうね
太田道灌・明智光秀・山県昌景・馬場信房。土岐氏,知恵伊豆
高名な末裔も居るけど
河内源氏に比べると落ちるよな。
219 :
日本@名無史さん:2013/05/29(水) 19:59:41.65
俺の脳内小説では帝には中宮腹の4人の息子と6人の同母弟がいるにも関わらず息子を帝にしたい先帝の妾のせいで帝と中宮は殺害された
220 :
日本@名無史さん:2013/05/30(木) 02:12:56.29
おいらも頼政流なんだが。
先祖の通字が「正」なんだが。
正廣、正明、正吉、正由、正成などなど。
地元の一族の皆が、諱の名前の前の方に「正」をつけているんだが。
源頼政の「政(正)」から来ていると言われているんだが。
それが実は源頼政は、頼政ではなくて、頼正だと言われているんだが。
これは本当なんだろうか。教えてほしいんだが。
太田資正の子孫とかじゃ?
>>220 毛利氏の通字は「元」だが家督を継ぐべき嫡長子は下に付けて、それ以外は上に付ける。毛利元就は次男だから
上についてるが息子の隆元は下についている。吉川元春は次男だから毛利元春として上についてる。
そして元春の嫡男は元長で上についている。毛利としては分家だからという事だろう。
ちなみに元就の三男の小早川隆景は小早川に養子に入ってから元服したんで「元」がついてない。
小早川家の通字の「景」を下に、主君に当たる大内義隆の「隆」を上に付けた。
220の頼政ではなく、頼正だったという家伝があるが、どうかという問いに対しての222の回答がそれなのか?
頼政由来にしては一族みんな前に「正」がついてる、の部分だけ。思いつきで書いた。
「頼政」とも「頼正」とも書くという事はあり得る。昔は人名でも当て字を気にしないで
使う事が有るので。
調べると頼政の子は「正」も「政」も全然ついてないので違うんじゃないの。
>>220 頼政の子や孫が政や正を通字にしてないんだから、
別の誰かから始まって何時の間にやらこじつけられてるだけだと思われ。
頼政流というのも相当怪しい・・・
>>222 嫡子庶子本家分家とか言う前に偏諱で説明付くじゃんか。
自分で隆景の例を挙げていながら気づかないのかね?
元就の、父弘元、兄興元、長男隆元、孫輝元、みんな偏諱だ。
元就が家督を継承した時点で某元に改めなかった理由はなんぞ?
武田晴信・信繁しかり、武田義信・信親しかり、北畠晴具・具盛しかり。
偏諱で下の字を貰うパターンもあるね
毛利で言えば『就』とか
さらにその『就』が通字化したり
>>226 上下で論じてもあまり意味がない
普通は家の通字じゃなくて自分固有の文字を与えるもの
元就の場合となれば毛利家の「元」じゃなくて固有の「就」を与えるのは至極当然
足利将軍なんかは「義」字も大量販売してるけど
徳川将軍になると「家」字を与えたのは初代くらいだね
228 :
220:2013/06/01(土) 06:06:50.77
おお!久々に来てみたらレスがあったわ。ありがとう。
で、あの後自分で「源頼政 書状」でググってみたんよ。
そしたら源頼政本人の「従三位源頼政」って書いてある書状を発見したんだわ(笑)
おいらの源頼政流は、メジャーな方の源頼政流じゃなくて。
信長の野望にも出てこない、マイナーな方の源頼政流なんだわ。
旧遠江国の源姓濱名氏の方の源頼政流なんだわ。
源頼氏の子孫の濱名清政が源姓濱名氏の初代らしいんだが。
源貞正入道が源姓濱名氏の初見って資料もあるらしい。
他にも、多田源氏の猪早太の父・太田広政の流れかもしれない。
伊豆韮山多田氏の源頼兼の流れの一部が、源姓濱名氏になったっていう話しもあるらしい。
ま、どちらにしても。源三位頼政の政から正が来ているんだろうなって、思うようにしているよ。
早く信長の野望に出てきてほしいわ(笑)
毛利は、字が足りなくなると『広』も使うようになる
>>228 書状を見つけたからってなんなんだ
先祖の誰かから頼政に肖って正を通字にしただけだろ
典型的な仮冒だと思うけどまあ信じるのは自由だな
>>229 大江広元に肖ったんでしょうな
>>60 虎菊丸の名前が頼宗になって
秀宗は3万石ぐらいで分家
秀頼とのコネで幕府で言う譜代準譜代の扱いで、それなりに各だけあって優遇される。
>>231 三成派主導で噂通りに宇和島へ転封して虎菊丸が相続
秀宗は岩出山10万石で別家
233 :
日本@名無史さん:2013/06/04(火) 00:15:43.76
三代執権・北条泰時
秀宗が伊達家継いだら
虎菊丸が田村家の名跡継いで田村秀顕(もしくは吉顕・頼顕)と名乗る
どっち継いでも史実の一関藩分地とあんま変わらんな
江戸時代って正室の子だからと言って必ずしも家督継がないよね。
むしろ諸長子が嗣ぐ例の方が多いような気がする。
嫡子が世子だったり継承したりするけど結局子無しで庶子が継ぐみたいな方が多いと思う
>>234 秀吉の偏諱で吉を与えるのは豊臣家臣の場合のみ
この場合は秀を与えられて、下の字が変わる
大友吉統「大名なのに・・・・」
秀吉の偏諱の傾向からして
古くからの家臣には「吉」の文字
有力大名の子息なんかには「秀」与えてる感じかね。
大友吉統のケースは元々の義統の義が吉の文字と同音だったからだと推測するが
長曾我部盛親なんか大名の嫡子なのに秀吉どころか
家臣の増田からの
信親の信は信長から?
241 :
日本@名無史さん:2013/06/08(土) 19:03:15.47
そう
浅知恵だけど
元親も家臣や内外に盛親を跡継ぎと認めさせるために
権威付けのために秀吉に頼んで盛親に諱貰って秀親にした方がよかったかもな。
242 :
日本@名無史さん:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN
継体天皇は?
>>242 傍系継承天皇を見ると継体天皇は皇女と結婚して女系で皇統を繋げたけど光仁天皇や光格天皇は側室の子に皇位を譲ったよね。
244 :
日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN
>>243 光仁天皇は先代の血を引く聖武天皇皇女・皇后井上内親王が産んだ他戸親王を皇太子に付けたが
政変で井上内親王と他戸親王を自害に追い込んだ(或いは暗殺)
光格親王も先代の血を引く後桃園天皇皇女・中宮欣子内親王が産んだ温仁親王を儲君に立てたが
温仁親王は生後2か月で死亡
その後側室が産んだ恵仁親王(仁孝天皇)を欣子内親王の実子と公称して儲君に立てた
どちらも先代の嫡女の血を引く女系相続が原則だったのにそれが叶わなかったために
やむを得ず側室の子を即位させたに過ぎない
>>244 光格はともかく光仁から桓武への継承は、側室の子を即位させる
ために皇后とその子を消したという話で、
> それが叶わなかったためにやむを得ず側室の子を即位させた
なんていう消極的なものではないと思うが。
246 :
日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN
>>245 光仁自身が側室の子を即位させるという強い意志を持って
皇后と嫡子を殺したとは思えんぞ
少なくとも光仁が即位できたのは聖武天皇の内親王の夫だったためだし
井上内親王と他戸親王を消したのは藤原氏だろ
井上内親王は藤原氏出身の光明皇后ではなく県犬養氏を母とする藤原氏のライバルだった
248 :
日本@名無史さん:2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
妃腹なのに跡を継げなかった邦芳王は母の利子女王ともどもメンヘラだったらしい
>>248 邦芳王は同世代の王が若く亡くなったことに衝撃を受けすぎちゃったんじゃなかったか
利子女王については知らん
利子女王は日露戦争の頃、軍人の妻としてちゃんと振る舞っているからメンヘラではないね
メンヘラだったら軍人の妻らしく毅然とした立ち居振る舞いなんて無理
251 :
日本@名無史さん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN
公家の家女房をだした家だっていう家伝が残っている家ってありますか?
各種の公家系図などの資料で調べると、多くの公家の母として、家女房が
出てきますが、名前がわかる例は数えるほどしかないように思います。
でも、自分の家の娘が公家の側室となり、公家の子どもを産んだとなれば、
末代まで伝えたい名誉なはず。その家の日記・手紙・古文書や言い伝えと
して残しておいたのではないかと思います。
そういう家の情報が欲しいので、是非ご教示頂けたらと思います。
私が名前などをある程度確認できたのは、
近代の伏見宮系の各宮の生母とか、
徳川慶喜生母登美宮の母(安藤清子)とか、
近衛前子の母(宝樹院・若狭武田氏)とか、
勧修寺晴子の母(粟屋元子)とか、
近衛尚通の母(北小路俊子・加治氏)とか、
中御門宣誠の母(正姫(出自はわかりませんでした)といったぐらいです。
>>251 家女房って要するに女の家事使用人だろ?
公家の側室っていう捉え方は間違ってると思う。
武家みたいに子供を産んだからと言って待遇が極端に変わるわけでもないだろうし。
例示した中で宝樹院や粟屋元子なんかは相当の武家の出身で、
いわゆる家女房の出身階層とは違うから側室と見てもいいだろうが。
家女房を出した家・出せる家という見方も何か違う気がするけど、
極端なことを言えば地下家伝に乗ってるような家は全部そうだろ。
あとは社家とか。
家女房を輩出した階層の様相について研究したいのか。
幸運にも後世に名が残るような子女を儲けた家女房その人とその家系を研究したいのか。
>250
有栖川宮の家系にはそれっぽいのがあるっていうのは田中光顕がいってなかったっけ?
だから栽仁王と富美宮の婚約に反対だって。
あと、外国人が貞愛親王に謁見したとき妃は心の病で謁見できずとか日記に書いてあったような。
両方とも出典が思い出せない・・・
>>253 田中光顕の方は、児島襄の天皇に出てくる話。牧野日記あたりを参考にしたか。
有栖川宮が断絶なので、宣仁親王に名跡を継がせるにあたって、有栖川宮家の血を引く徳川喜久子を娶せようとしている頃、
かつて明治帝が、栽仁王と富美宮の婚約について、有栖川宮に狂人の血統があるから、そんなところへ内親王はやれない、と言って取り止めになったとか、
このことを世間に公表するなんて言って、宮相更迭の脅迫ネタにしたが、明治帝・大正帝の有栖川宮家への信頼もさることながら、
現に栽仁王の薨去まで、内々に内親王との婚約の話があったわけで、明治帝がそういうことを言ったとは思えないし、
動揺した宮中でも関連を確認したようだが、田中以外にそんな話があったと認めた人も居ないみたい。
晩年の田中は、隠退したくせに何やら宮中で策動しようとしており、噂話に尾鰭のついたガセネタくさい。
255 :
日本@名無史さん:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN
>>251ー252
粟屋元子(母は勧修寺家出身)って正室じゃないの?
256 :
日本@名無史さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN
北条義時
257 :
日本@名無史さん:2013/09/04(水) 19:23:07.13
表だって言われると少ないのかもしれないけれど
歴史はほぼ人間の業のようなものでできている。天皇家だって秀忠の息女珠姫が
正室のはずも流されているからね。平安時代なんてほぼその塊位で
崇徳院で三大怨霊と化している。戦国時代に至っては単に正嫡を殺害していった
だけかもしれない。毘沙門天の武将で其処を突っ込めば怪しい事この上ない
歴史を紐解くとつくづくそう思う
面倒だから触らない方がいいなw
東福門院和子
非嫡出子差別は憲法違反だという最高裁判決が出たし、
江戸時代だってもののわかる人にとっては、側室の子の差別は問題外。
もっとも将軍にふさわしい男子が力で跡目を勝ち取るべきだ。
いや、女でも、卑弥呼のような女なら・・・
長子による相続ができたのは、日本の長い歴史のなかでは、つい最近のことだ。
は?
嫡先庶後も長先幼後も原則としてはかなり古くから
明文規定になったのが明治だからって勘違いも甚だしい
この渡来人が何ぬかす。
>>261 現代の価値観でいうならそもそも将軍には男子しかなれないというのもおかしいわな。
現代は、男子も女子も、長男も次男も、嫡出子も非嫡出子も、遺産相続は皆平等。
女性が将軍でもいいわけだ。
そんな事言ってるからあんな映画やドラマが出来るんだ。
平等な遺産分割の果てに零細化して没落するんですねわかります
一橋家なんか正室腹で長男の松平重昌が福井に養子に出されて側室の子で弟の徳川治済が当主になり
将軍家斉の父となる大逆転!
長男はどういった気持ちだったんだろうか?
過去を現代の価値観ではかろうというのがそもそもおかしいわw
270 :
日本@名無史さん:2013/10/16(水) 23:31:34.40
北条義時・泰時は、2代続けて嫡子を差し置いて相続してる
この当時は名家かといわれると微妙な気もするけど
義時は運良く政範が死亡し時政も排除できた
というか時政、伊豆の頃から嫁多すぎ
272 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 10:53:54.86
>>251>>252>>255 粟屋元子は正室だよね。
若狭武田家の重臣・粟屋元隆が、
権大納言勧修寺尚顕の娘を娶って産ませたのが元子。
元子は母の甥にあたる勧修寺尚顕の正室となった。
273 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 20:04:50.59
紀伊徳川家では宗将のあとは側室腹の次男重倫が継いでいるけど
正室伏見宮養女は長男、三男、五男、七男を産んで長男、三男は夭折したけど
五男と七男は成人して五男頼興は部屋住み、七男頼久は桑名藩に養子に行って忠功と改名している(正室は長女、次女、四女も産んでおりその後流産で死んでいる)。
これだけ子供を産んだ正室も珍しいけどこういう場合でも庶兄が優先されたのだろうか?
274 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 21:06:13.84
>>273 江戸時代は末期養子の禁が厳しくすぐに跡取りなしでお取り潰しになるから
庶子であっても育ちそうな男子が生まれれば即江戸幕府に跡取りとして届け出たからじゃないの
他藩でも後から正室に男子が生まれているのに先に生まれた庶子が藩を継いでる例が多いよね
幕府への届け出順が法的な長幼の順?
276 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 02:20:20.41
病弱を理由に廃嫡されることは結構あるけど体が弱いんじゃなくて頭が弱いという事例も結構あるの?
父親への反抗的態度で廃嫡というのも
>>274 初期だけね。慶安事変(由比正雪の乱)で事実上廃止されている。
そもそも、末期養子の禁を前提にすると、鎌倉、室町、江戸のそれぞれの初代将軍の後継ぎは、
島津忠久(結城朝光?)、足利直冬、結城秀康になってしまい、それはそれで問題がある。
279 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 08:33:33.30
>>278 由比正雪の乱後に緩和はされたが、末期養子の禁が廃止されたわけではない。
これがあったせいで、江戸時代は嫡子相続よりも長子相続が多い。
若年の当主が突然死すると、息があるうちに誰それを養子にしていました、などと幕府に届け出て
死後養子ではない体裁を整える必要があった。
そこに上げている例も本末転倒。
そもそも末期養子の禁は江戸幕府特有のもので
それがなかった鎌倉時代、室町時代、江戸幕府開幕前の長子の例をあげて
「ほら、長子が相続してないでしょ?」という根拠にされても…
280 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 08:36:34.65
江戸幕府開幕後は、徳川将軍家すら、
11代徳川家斉の正室広大院が後から産んだ徳川敦之助を押しのけて
3歳年上で側室腹の徳川家慶が12代将軍になっている。
>>278 島津忠久や結城朝光が頼朝の落胤という説はかなり信憑性低いけどな
282 :
日本@名無史さん:2014/05/25(日) 10:26:45.02
藤原内麻呂の嫡男は藤原衛
283 :
日本@名無史さん:2014/05/25(日) 11:58:52.63
>>276 松浦静山の娘婿の鳥羽藩嫡子みたいに、妻に斬り付けて突然失踪した挙げ句に両国橋のたもとで焼き芋食ってる所を保護されのち廃嫡がおもろい。
病弱にせよ奇行にせよ、廃嫡されたほうが長生きって結構あるある
284 :
日本@名無史さん:2014/05/25(日) 14:27:36.42
281
低いもくそもないだろ
そもそも島津は朝鮮惟宗をなのっててなにがよりとも烙印だよ
286 :
日本@名無史さん:2014/05/25(日) 18:12:41.00
松平義昌や松浦静山のように、正室の子が生まれるまでは
内々の扱いで出生の事実を保留扱いにしているケースもあ
るね。松浦静山は他の男子が生まれなかったから世子になっ
たけど、松平義昌は実際は長子なのに「三男」。
で、届けてしまった後は「廃嫡」の理由と届が必要になるん
だろうから、後から正室の子が生まれても簡単には退けられ
ないのかな?
288 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 02:39:58.92
義昌の場合は光友正室が千代姫というのが関係あるかも
それと大名の場合正室も側室も30過ぎたらお褥すべりがあるから側室の子を世嗣に決めてから正室が出産することはあまり無い(お褥すべりが無い公家だと欣子内親王など結構ある)
289 :
日本@名無史さん:2014/05/27(火) 08:30:12.76
>>288 大名家もお褥すべりがあったか実態は良くわからん
35歳で徳川慶喜を産んだ徳川斉昭正室吉子内親王とか
34歳で男子(夭折)を産んだ徳川家宣正室近衛煕子とかの例もある
それ以降の出産例が少ないからと言って妊娠しなかっただけかもしれず同衾してたかもしれない
大奥もよくわからない
そんな婆さんと寝るのは苦痛だっただろうな
爺さんと寝る若い女は、主君に対する奉公でしてることだろうが
女だけ若くても男の方も製造される精子が老化によって劣化するからなあ
高齢男性が相手だと孕んだ女性が若くても
子供に障害が出る可能性が増すって統計と研究結果出てるし
>>292 正室のほうが良い家の出であることも多いだろ
主人に対する奉公心は男のほうが強いだろうが
そんな自分イメージで語られましても
>>296 御三家の祖は皆家康50代の時の子だと言いたいんだろうが
家康は後家好みだから正直誰の子か分からんだろw
>>296 確率の問題だろ
高齢なら全て問題ありなわけではない
とはいえ水戸家始祖は影響受けていそうな
299 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 10:36:56.96
有名どころで言えばやはり前田利家じゃないの?
信長の采配によって長子利久を差し置いて前田家当主になり、挙句には
加賀100万石の大大名に上り詰めたからなぁ・・・
信長の寵愛が無ければこうはなってない。
もっとも利久が前田家を継いでいたら織田家家中でもさしたる立ち位置
になれず、信長が死んだ後には生き残れたかどうかも怪しいけど。。。
300 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 10:38:25.39
って、利家は利久と同腹だったな・・・
301 :
日本@名無史さん:2014/06/27(金) 21:38:26.41
利常はまつの腹ではない
302 :
日本@名無史さん:2014/06/28(土) 05:22:10.66
保元の乱の原因になった崇徳天皇退位→近衛天皇の譲位がそうだろ。
結局は後白河になった訳だが。
303 :
日本@名無史さん:2014/06/28(土) 17:30:01.46
譲位後とはいえ皇后になった得子は側室かと言われると?である
>>302 あれは崇徳天皇の出自まで考慮しなければ公平でない。
崇徳天皇は白河法皇の不義の子だからな。
江戸時代は正妻があまり子供を産んでないよね。
明治以降、昭和までの元華族等の血縁関係はおもしろい。
欧州の王族のようなかんじ。
306 :
日本@名無史さん:2014/07/02(水) 19:42:05.89
それでも平民が生母になるパターンが多い
久我なんて明治以降も大名や公家の姫君が生母の当主なんて皆無じゃないか?
307 :
日本@名無史さん:2014/07/09(水) 18:43:07.04
>>302 嫡男が一度は家督を継いでいるので「差し置いて相続」とは言えんかも
正室腹嫡男が失脚して側室腹庶子が家督を継いだ例では
・松平信康(徳川家康嫡男)→徳川秀忠(徳川家康庶子三男)
・武田義信(武田信玄嫡男)→武田勝頼(武田信玄庶子四男)
なども
嫡子が廃嫡されて庶子が継いだ例を挙げればいいのか?
徳川アツノスケみたいに最初から庶長子が後継だった例もあるな
310 :
日本@名無史さん:2014/07/11(金) 16:16:44.25
江戸時代以降って側室所生の長男が正室の次男以降をさしおいて普通に相続していないか?
廃嫡などの特別な例を除けば戦国以前は正室所生が側室の子を優先して相続するのが普通だったが
311 :
日本@名無史さん:2014/07/11(金) 16:42:52.55
江戸時代は長幼の序が重んじられてなかったか
先に輿入れして正室扱いだったのが、身分が高い人が後から輿入れして来て側室に追いやられた
江戸時代の大名に必要な資質は突然死なないことと若いうちに男子を作ること。
藩主が死んだとき、庶流の長子が17歳超えていて嫡流の子が17歳未満なら庶流の長子が後を継ぐのは当然。
いつ藩主が死ぬか分からんから長子をとりあえず嫡男として届けるってのもあるだろうし。
とにかく無嗣断絶だけは避けたいし。
314 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 07:26:53.03
戦国時代までは結婚って、お家存続のための外交だったわけで、
それによって嫁実家の協力や取り込みを見込んでのことだった考えればそうなるよな。
江戸時代は安定したんでそこまで考える必要がなく
別に優先しなけりゃならない事情ができたのは
>>313のいうとおり。
>>314 津軽家じゃね?
石田三成の娘が正室だたけど家康の養女が来て側室に格下げ。
@は斯波家の祖も元正室で得宗から新しい正室が来て諸長子になったよね。
317 :
日本@名無史さん:2014/07/12(土) 20:38:28.34
平維盛
父の平重盛もそうだね
庶長子だけど家督継いだ
319 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 04:24:45.10
井伊直孝
前田利常
320 :
日本@名無史さん:2014/07/18(金) 06:33:22.18
>>318 重盛母が側室かどうかは微妙じゃないのか
重盛母が清盛の先室だった可能性も
321 :
日本@名無史さん:2014/07/19(土) 21:31:43.39
>307
武田勝頼はそもそも家督相続したと言えるかどうか微妙
勝頼自身は、後見人というか微妙な立場だよな。
322 :
日本@名無史さん:2014/07/20(日) 05:48:27.28
>>321 勝頼は家督相続している
義信廃嫡後、勝頼は世子として諏訪から父信玄の本邸に迎えられた
信玄の後継者としての認識はあったと思う
324 :
日本@名無史さん:2014/07/21(月) 14:28:44.06
陣代説って支持してない人も多いしなー
327 :
日本@名無史さん:2014/07/24(木) 08:59:05.29
>>325 「甲陽軍鑑」の信玄の遺言、信勝が元服したら勝頼は後見となれ
から陣代説が来てるのでしょ
「甲陽軍鑑」が正しかったとしても信勝が元服するまでは
勝頼が家督相続者ということで間違いはない
信玄は室町幕府に対して武田勝頼に対する偏諱と任官を求めている
勿論、信玄が勝頼を武田家の家督相続者として文句なしの地位に就けたかったためで
ただの陣代ならば信玄すら受けていない偏諱と任官を求める必要もなかった
>信玄すら受けていない偏諱と任官を求める
こんな知識しか無いくせに日本史板で語るとか大丈夫か?
信玄は足利義晴の偏諱を貰って大膳大夫に任官しているのに対して勝頼は死ぬまで無位無官だぞw
義信が死んでから織田と関係悪化するまで8年近くあるのに勝頼は偏諱任官出来なかった理由っって何なのだろうか?
偏諱貰ったら武田昭信?w
義信も無位無官だったよな
信長の上総介も自称だったし、正式に任官するのは大変なんじゃないかね
332 :
日本@名無史さん:2014/07/25(金) 17:33:40.15
謙信とかわざわざ上洛して御礼言いに行ってるし。面倒だし金はかかるし
>>332 正式に貰ったら上総守なんて間違いを犯す筈が無い。
上総介は自称 初めて正式任官したのが義昭と京都に入った後で従五位下弾正少忠
>>335 考えてみりゃ結構低いつうか「えっ?」てな扱いだよね
「弾正台」の少忠って、位階からしたら地下家(六位以下)じゃなかったっけ?
(錯誤であれば失礼)
338 :
日本@名無史さん:2014/07/28(月) 21:23:18.38
>>329 勝頼は信長の圧力で偏諱任官できなかったらしいが
勝頼の子武田信勝は昭勝と名乗ったとも言われてるし
謎だな。
339 :
日本@名無史さん:2014/07/29(火) 09:12:49.48
勝頼は庶子で他家相続してと家督相続権皆無だったからなぁ。
義信が本当に謀反企てたならともかく親子の不仲で殺したとしたのなら信玄は本当に愚か者だよね。
自分が父親追放しているから疑心暗鬼になってたのかな?
340 :
日本@名無史さん:2014/07/29(火) 09:17:18.38
家督相続において信玄は暴君とされる信虎以下の事やってる。
信虎は同母弟の信廉をかわいがったらしいが信玄は子沢山にも関わらずスペアのいない状態で
廃嫡という愚行をしでかした。
結果、没後勝頼の能力はともかく家臣団が結束しなくなった。
この件に関して信玄は人間としても政治家としても最低。
341 :
日本@名無史さん:2014/07/29(火) 09:34:59.40
信玄を師と仰ぎ、嫡男を廃嫡どころか殺害までした
人間としても政治家としても最低だった徳川家康は
天下を取ってるんだが
> 結果、没後勝頼の能力はともかく家臣団が結束しなくなった。
もともと義信が生きていたら家臣団が分裂しかねないという状態に
なっていたから廃嫡したんだろ?
反主流派が後継者候補を担いで云々なんて話は、世の中にいくら
でもある話なんだから。
武田家滅亡の責任の半分は信玄にある
没後10年で家が滅亡するほどの愚行を犯した愚将って滅多に見当たらない
今は版図を広げただけで人気武将になっているだけ
尤も甲斐武田家の場合、特に南北朝期以降はずっと統派構想
内輪揉めばかりしてるって印象w
それをやっとこさまとめたのが信虎、と思いきやまたもドーンって感じの家w
甲斐の格式高い守護のままでいたら名門武家として生き残れたと思う。
信濃だけならともかく今川領まで手を出したから周りは敵だらけになってしまった。
信玄が生きていたら武田滅亡がもっと早まった可能性すらある。
346 :
日本@名無史さん:2014/07/30(水) 17:22:02.39
信玄は何がやりたかったのかわからんな
今川・北条と三国軍事同盟で嫡男義信の正室に今川の娘を迎え、自分の長女を北条に嫁がせる→
突然三国軍事同盟を破棄して織田信長と結んで今川領侵攻→
嫡男義信の廃嫡・自害により正室の今川家息女は今川へ返され、北条に嫁いでいた長女は武田に返される→
信玄は新たに織田家との縁組に乗り出す。跡取りと定めた四男・武田勝頼と信長養女を結婚させ、
信長養女が産で死ぬと、信長嫡男信忠と自分の六女松姫を婚約させる→
でもやっぱり足利義昭の命令で上洛するわ、で信長との協調破棄。信忠と松姫の婚約も棚上げ
織田も今川も北条も、昔から敵だった上杉も、皆敵
逆に勝頼は上杉や北条と和睦同盟したり仇敵の織田にすら和睦を探ったりと信玄時代に四面楚歌状態だったのを何とか改善しようと努力していた。
しかし周囲の大名が武田との同盟はあてにならない事を信玄時代に身に沁みて体験したため、まともに取り合ってくれなかった。
信玄に限らず
勝頼や信虎も結構行き当たりばったり外交だよな。>武田
349 :
日本@名無史さん:2015/02/23(月) 08:00:11.77
桂広澄は嫡子なのに分家を立てたな
350 :
日本@名無史さん:2015/02/23(月) 12:12:52.54
>>346 遠山夫人は没年が2年繰り下がったから彼女が亡くなって
信忠と松姫が婚約したのではなく生存中からの二重婚姻。
遠山夫人と勝頼は東美濃、信忠と松姫は織田家中と
それぞれへの政策と思われる。
351 :
日本@名無史さん:2015/02/23(月) 14:07:21.20
>>350 遠山夫人の死が2年繰り下がった一次史料って何?
>>350 お松を織田へ輿入れさせなかったのも幼いからという親ばか以上に
彼女が生きていたからというのが影響していたのかもな。
輿入れに向けて具体的に動いたと推測される土御門文書の
信長暦進令が71年頃とされているからこっちも時期的に合うか。
>>351 横だが平山あたりの著書や山梨県史だよりや信濃史関連を
あされば見つかると思われ。
お前さんお好みの一次史料となると難しいかもしれんがな。
353 :
日本@名無史さん:2015/02/23(月) 16:08:12.27
クレクレばかはうざいな
>>352 向嶽寺関連の文書は一次でいいんじゃなかろうか?
向嶽寺及び関連のものは焼き討ちくらっていない関係上基本一次扱いだよ
ただあそこは今は修行道場の寺でもあるから非公開かつお固いのも相まって
公開されいる文書以外の調査が進まず調査検証不十分として
一次とするのを嫌う人も少なくないのが実情。
戦国時代だと真里谷信隆(庶長子)と信応(正室の子)の内紛がその例だな。
父親の晩年になって正室に子が生まれた為に父親が死ぬと遺命通り庶長子が家督を継いだにも関わらず、重臣たちが反乱を起こして当主交代を目論んだ。
そこや隣国の小弓公方や里見氏が正室の子が継ぐべきだと後押ししたために、庶長子は北条氏の元に亡命して国府台合戦の一因になる。