1 :
日本@名無史さん:
畿内説=天動説=宗教
近畿説=キチガイ
4 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 01:26:26.39
とにかく満州は九州説じゃないんだからこのスレに来るなよ
満州は九州説じゃないんだからこのスレに来るなよ
満州は九州説じゃないんだからこのスレに来るなよ
満州は九州説じゃないんだからこのスレに来るなよ
満州は九州説じゃないんだからこのスレに来るなよ
満州は九州説じゃないんだからこのスレに来るなよ
満州は九州説じゃないんだからこのスレに来るなよ
満州は九州説じゃないんだからこのスレに来るなよ
満州は九州説じゃないんだからこのスレに来るなよ
満州は九州説じゃないんだからこのスレに来るなよ
満州は九州説じゃないんだからこのスレに来るなよ
満州は九州説じゃないんだからこのスレに来るなよ
満州は九州説じゃないんだからこのスレに来るなよ
ドンと来いと謎の女王だけでやれ
九州は地理的に言って日本国の初めの一歩であり九州から東の列島に文化が広がっていったものと思う。
どんな能書きを垂れようとも難癖をつけられようとも邪馬台国が九州なのは明白であり卑弥呼は宇佐神宮に
御神体として祭られているのですよ。
7 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 02:21:13.47
縄文時代は東北の方が発展していたイメージだなあ
つーか >日本国の初めの一歩 とかこういうことを書くから朝鮮人が来るんだろ
朝鮮人は関係ないです。
関係ないのは伊勢神宮の六芒星で明らかですよ。イスラエル大使が
日本とイスラエルの共通点に驚き調べている番組がみのもんた司会であったはず。
youtubeで見れます。
東北の事は今NHKがBSでドラマやってますね。くだらん…
10 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 02:40:14.53
弥生時代で言うならよく言われるのが畿内から全国へ文化の広がりは出土資料から確認できるが、九州から他方へというのが認められない点
東還説の弱点とも
卑弥呼、天照大御神は宇佐神宮から平安京の籠神社に遷宮されていますからね。
今の三重県の伊勢神宮が本元と勘違いしている一般人も多い事でしょう。
伊勢神宮の元伊勢神宮は京都にあるのです。籠神社です。
何故籠神社から伊勢に遷宮されたのかは知りません。
あと、漢文乱用してピカピカする人は考古学スレがありますので、そちらへ移動してほしいです。
13 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 06:00:38.86
>三国志では周囲という意味の名詞としては周旋のみが用いられています
どこにそんな用例があるのかな?
>>13 横レスだが
よくよく読み砕いたら、周旋の意味は『あまめく めぐる』の
端から端まででもあるし、周回もしてる『形』になる。
どちらも同じ意味と言うコトでなく、してる。
ヒントは九州の地形にある。
あと狗奴國入れても29國だが、記載されてない國が一つある。
足したら三十國。謎が解けた。
卑弥呼を祀る古墳の玄室には、魏志倭人伝が語る巨大な倭国が描かれている
壁画のセンターは卑弥呼と千人の侍女たち
陳寿の世界をたとえていえばそう言うことだ
場所は 宮崎県西臼杵郡高千穂町 天の岩戸稜
親満州と子満州の満州コンビは満州へ戻れ!
17 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 07:52:17.74
かんありてかくなしじゃあなかったっけ。
18 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 07:55:24.67
かんわしんでよし。
>>15 宮崎は高千穂に逃れた平家の落武者の里
その路線で売って行ったほうが儲かる
今さら横槍入れてくるな
伊都国から二千里
それは、
近ければ、阿蘇−菊池−熊本のライン、
遠くても、芦北−甲佐−山門−五ヶ瀬−高千穂のライン内に納まる、このあたりが邪馬台国。
そして、そのどこかに女王の都もあったであろう
訂正:伊都国からは千五百里だった
一里とは約4キロですが
>>19 高千穂町の観光案内に平家落人伝説はなかったぞ
隣の椎葉村だろ
それに、ここは観光案内所ではないしな
>>23 落武者の平家が伝えたというある食品を買っている
高千穂とされているが食品メーカーによって都合よく改ざんされているのかね?
椎葉村なら高千穂でもいいだろ
カリカリすんな
>>19 地元の方ですか?
やはりそうですか、県も天孫降臨の方を優先したいだろうし、吾輩のにらんでたとおりですな。
>>22 里程からみて、倭人伝で使われてる一里はおよそ720〜750mと試算されてる、あしからず。
>>25 違うだろ 短里なら75mくらいだ
通常の一里より長くしてどうする
弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)
の邪馬台国【銅鏡祭祀】に国を譲る【銅鐸処分→九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争となり、「和」国は分裂、卑弥呼は急死する(弟/魏の将軍張政/狗奴国による暗殺説)。
-分裂した「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘
卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎えた後、旧奴国&隅国(隼人)と軍事同盟を結び、肥後狗奴国
(後の熊襲)を一網打尽にし、「和」国を再統一した。
その男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、倭(和)国の首都を筑紫・博多から、先遣隊長ニギ
ハヤヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷。その女系先祖・卑弥呼(アマテラス)台与以来の【銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始。
※古事記・日本書紀が、日向長官の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。
銅鐸祭祀をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の偉大な功績を消され出雲に祀られる(出雲神族へ)。
>>25 行政機関とは全く関係ないです
一儲けしてやろうとしている奴らに楔を打っただけです
あしからずですな
-「大和」朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(双方の直系男子途絶による)政権交代
4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬国)系大王【四道将軍、ヤマトタケル征東、熊襲討伐、国造任命】
5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王【倭の五王、獲加多支鹵大王】
→(高句麗の南侵に脅かされた)百済・新羅・伽耶(任那)への軍事援助により「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王
※
-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
…継体の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
…筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
…「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を完全喪失。国力大幅低下&大増税→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
…両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
…筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都
>>24 そりゃ、お気をわるくさせてすまんかった。
もしかして伝承の豆腐かいね。
ほんとは高千穂町にも五ヶ瀬にも平家落武者はたくさんいて、伝承の立派な食品技術もあると思うよ。
ただ地元市町村は、卑弥呼も落人も積極的には宣伝していない(したくない)んじゃないのかもしれない。そういうことね。
>>30 いえいえこちらこそ…
通販で買っている食品は平家の落武者が保存食として伝えたという
豆腐を味噌に付け込んだものです
ここで商品名を出すのは控えさせて頂きます
>ただ地元市町村は、卑弥呼も落人も積極的には宣伝していない
どうなんでしょうか?
宮崎が邪馬台国と主張するスレッドがありますね…
私は熊本まで統治していた説も否定するのに
>>26 はい、小数点を間違えてました。仰せの通り75mくらいでした。ありがと。 <25
33 :
自己レス:2013/01/13(日) 09:59:31.65
>>14 > あと狗奴國入れても29國だが、記載されてない國が一つある。
> 足したら三十國。謎が解けた。
訂正、やっぱり29だ。この件はちょい保留。
記載されていない國も無い。
有明海を周回した形の倭國を、右側(熊本側)を行ってないから
端から端までって解釈も成り立つってこと。
唐津=末盧國比定派だが、もう一度自分の論理を崩し、
色々な角度から到着点を思案したが、やっぱり唐津しか考えられない。
伊万里、呼子、博多…と比定しても後に繋がら(防衛含め)ない。
それは前レスに書いたように地形が関係してくるのだが、
とりあえずその説明は後に回す。ちゃお! ノシ
対馬中部から鹿児島南端の山川まで図上直線で370km(5千里相当)ほどだ。
よって
前スレ
>>938 の仰せの通り、
倭地周旋は、対馬から南方向5千里であり、実態として熊本平野止まりでよさそうだね。
36 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 14:23:04.30
対馬 一支 末盧 伊都 奴 不弥 投馬 邪馬台国
37 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 16:24:15.76
>>13 以下の2例(「 」内)
(三國志卷六十四/呉書十九/諸葛滕二孫濮陽傳第十九)
恪以丹楊山險民多果勁雖前發兵徒得外縣平民而已其餘深遠莫能禽盡 屡自求乞爲官出之三年可得甲士四萬
衆議咸以「丹楊地勢險阻與呉郡會稽新都鄱陽四郡鄰接「周旋數千里」山谷萬重其幽邃民人未嘗入城邑・・・
(三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十)
參問倭地絕在海中洲島之上或絕或連「周旋可五千餘里」
38 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 18:02:30.53
>>37 四郡の場所を地図上で見よ。
四郡は長江の南、福建省に接する山岳地帯だ。
客家が逃げ込んだところでもある。
「四郡はひと塊に隣接しているが、あまねく巡れば数千里の行程になる」と読める。
四郡を一回りすると数千里であるとは読めない。
39 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 19:02:02.66
朝鮮海峡|對海 一支 末盧 伊都 奴 不彌 投馬 邪馬壹 狗奴|古熊本湾
倭地範囲
41 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 19:26:53.99
>倭地周旋は、対馬から南方向5千里であり、実態として熊本平野止まりでよさそうだね。
南九州は倭地には入らないって考え方ね。
四郡はおおむね南北に並んでいるようです。
周旋五千里は、これをあまねく巡ればという意味ですね。
好都合にも円を描いて並んでいる郡県国等を順巡りした場合は、周旋の結果がグルリ一周もありえますが・・。
そう言うことでよろしいでしょうか。 <40
43 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 19:47:57.44
>好都合にも円を描いて並んでいる郡県国等を順巡りした場合は、周旋の結果がグルリ一周もありえますが・・。
そうゆう場合には、周旋は使わないだろう。
だいたい肥国全域でそれくらいだろう。
>>41 南九州は、鹿児島県+宮崎県と思う方も多いようですが・・、実際はいくらか出入りがあるとおもいます。
熊本平野止まりは邪馬台国までと思って書きました。
でも今は、倭地には狗奴国を加えるべきではと思いなおしています。
なので、宮崎はもちろん、鹿児島の一部も入るかもしれません。
以上、難問解決用イメージトレーニングのための仮置きということでご理解ください。
46 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 20:12:27.09
>>38 >「四郡はひと塊に隣接しているが、あまねく巡れば数千里の行程になる」と読める。
残念ながら、そのようには読めません。
「丹陽は四郡に隣接し、(丹陽の)周囲は数千里(である)」ということです。
>四郡を一回りすると数千里であるとは読めない。
そのとおりです。四郡を一回りするなどとはどこにも書かれていません。
47 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 20:15:49.00
>>46 読める読めないと言われても素人には理解しがたいよ
>40 の三国志地図によれば丹陽は2郡にしか接していない、地図を示してくれるといいんだけどね
49 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 21:07:15.77
>>49 東の呉(三国志時代には、>40地図の呉の南端を與呉郡とも称したらしい)、會稽、新都、鄱陽
これらはいずれも丹陽の東〜南であり、決して4郡で丹陽を取り囲むものではない
地理的な解釈ではどうにも理解が進まない
推測だが、呉から丹陽に攻め込めば、丹陽の将兵どもは仲の良い隣接4郡に逃げ込むので、
険しい山中を数千里にわたって追いかけなくてはならない、というような兵法的な記述ではないのか
ちょうど、アメリカ軍がアフガニスタンに攻め込んでも、
ビンラーデインやタリバンは隣接のパキスタンに逃げ込むので数千キロにわたって追いかけなくてはならない・・
のような、将軍たちのグチ話を書きとめたのではないか?
51 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 21:52:23.25
>>50 丹陽は東と南側に於いて呉、會稽、新都、鄱陽の四郡と境を接していたのです。四郡に囲まれていたのでは
ありません。
>(三国志時代には、>40地図の呉の南端を與呉郡とも称したらしい)
そうではありません。
>>40の地図の呉郡は會稽郡に食い込んでいますが、一時期そういうことがあったかも
知れませんが、諸葛恪の記事の時代はそうではなかったのでしょう。なお、與呉郡の「與」は日本語にすれば
「・・と」(例えば、與困难作斗争:困難と闘う)という意味です。
>推測だが、呉から丹陽に攻め込めば、丹陽の将兵どもは仲の良い隣接4郡に逃げ込むので、
>険しい山中を数千里にわたって追いかけなくてはならない、というような兵法的な記述ではないのか
そうではありません。単なる地理的記事です。周旋は周囲という意味ですから。
>>51 丹陽周旋とはその周囲里数のことである、
したがって倭地周旋もその周囲五千里のことである、
ゆえに倭国のすべては、おおむね佐賀県プラス福岡県程度の範囲に入らなくてはならない、
とおっしゃりたいわけですか、さようですか、相わかりました。
53 :
33:2013/01/13(日) 22:33:07.68
>>43 > >好都合にも円を描いて並んでいる郡県国等を順巡りした場合は、周旋の結果がグルリ一周もありえますが・・。
> そうゆう場合には、周旋は使わないだろう。
ヒント・形が『 h 』。
ヒント・2 『 n 』有明海。
ヒント・3 『 ↓ 』 順路。
ヒント・ひと筆平仮名のとき、周旋でなかったら、どんな言い回しをするんだろうね
「の」の字、「へ」の字、「え」の字、「し」の字、「そ」の字、「ひ」の字、「ろ」の字、「る」の字、
多すぎるわ、もうやめとこ。
55 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/13(日) 22:56:32.06
周旋の意味はさておき、
倭国が佐賀県+福岡県程度だとか、
侏儒国が土佐だとか、
裸國、K齒國が和歌山だとか、
よくそんなアホなことが書けるな。
まさに九州スレというのは、アホの、アホによる、アホのためのスレ。
56 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/13(日) 23:01:51.55
名文句 ゴミクズレベル 九州説
57 :
53:2013/01/13(日) 23:04:29.93
◆平面な九州地図(航空写真含む)を立体的にイメージする。
◆その地図を頭の中で立て(斜めぐらい)る。
◆そろそろと水を上(北側)からイメージし、流す。
水は高い所を避け、低い所に流れようとする。
水が流れ易い低い所は入り易い箇所。
入り易いと言う事は防備が薄い。
しかし、低い所でも避ける場所がある。
避ける場所、詰まりそれは地形を巧く利用した安全地帯。
人は自然とその後ろに安全地帯を求める。
とりあえずここまで。
ほう満州君!
裸國、K齒國が和歌山だとか、
レス書いたアホの本人以上に内容を理解してくれてるじゃないか、ありがとう。
59 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 23:18:46.02
裸國、K齒國は畿内のことである。
ネイティブ畿内人は夏は全裸で暮らし、蛇を食らう習俗があった。
夏には全裸で過ごす習俗が山間部を中心として東日本各所に残っていたのを諸兄はご存知のはず。
これら地域の細部まで官吏が行き来するようになった明治になって消えた。
これら一旦は滅ぼされたネイティブ習俗が後世お歯黒として復活する。
60 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 23:26:41.13
>裸國、K齒國が和歌山だとか、
>裸國、K齒國は畿内のことである。
裸國國、K齒國は相模、武蔵。
61 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 23:36:25.54
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
自女王國南四千餘里至朱儒國人長三四尺
自朱儒東南行船一年至裸國黒齒國
裸國、K齒國はポリネシアやミクロネシアのことである
62 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 00:01:20.88
船行一年=海行十二月=萬二千餘里≒900km
故に、裸國とK齒國は相模と武蔵
63 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 00:15:48.48
>>37 どちらも周囲の意味ではない。周囲の意味の用例だというのは単なる思い込み。
周旋については、学者は次のようにいう。
周旋五千里は、倭の領域の始まる地点からその領域のつきる所までの
距離を言ったもの。(榎一雄 邪馬台国50頁)
64 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 00:19:44.63
船行一年が900kmなんてこじつけてもだめだよ。裸國は裸で生活している国、
K齒國は黒い歯の人々の国だろう。南方だな。
65 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 00:30:23.78
千里をあくまで単里としたくない畿内説は切るところがおかしい。
女王國東渡海千里の倭種の国の南に侏儒國があるんではなく、
又有侏儒國在其(女王國)南人長三四尺去女王四千餘里。
去女王四千餘里で又有裸國黒齒國なんではなく、
東南船行一年復在其(侏儒國)東南船行一年可至。
千餘里は狗邪韓國⇔對海國、對海國⇔一大國、一大國⇔末廬國の距離と書いておきながら
四倍の四千餘里≠船行一年なのは明らか。
それでも4000余里に裸国と黒歯国があって東南に船で一年で着くと言うなら、
同じ千里でも未知の地と既知の地で千里でも距離が違う等としなきゃならない。
66 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 00:41:41.33
違うだろ。女王国の南四千里に侏儒国、船行1年に裸國黒齒國。侏儒国と
裸国黒歯国とはまったく別の話だ。
67 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 01:03:10.96
>>64 >裸國は裸で生活している国、
>K齒國は黒い歯の人々の国だろう
そういう考え方でいくと、投馬国は馬を投げる国だな
68 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 01:17:31.29
倭国内の国名は音を写しただけだよ。
69 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 01:28:27.33
侏儒國は倭種の南で女王の都から4000餘里。
侏儒國は倭種の南へも直線上で、女王の都から半径4000餘里の円弧上の交点。
裸國と黒齒國は侏儒國から東南に船行一年(900km)にある。
(方向は時計回り方向に約35度ずれている)
70 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 01:30:35.91
よっしゃ、末盧國(自己比定確定)入国!
松浦川沿いに東南500里行ってきます。
粗方のルートは解った。
道理がかなえば、後は仮想伊都國であろう多久、小城周辺の古名から
伊都國との信憑性を探って行く。
ちなみに佐賀市付近は『ミズノエ』だった。
たいてい音を写してるようにみえるけど
躬臣國のように何じゃこりゃってのもあるな。
投馬国はツメ国つまり詰国
端部にある国
多久のあたりは山が南北に細長く門のように連なって東と分けてるね。
邪馬台國=日高見國
つまり、東北にあった
オシホミミも東北にいたし
75 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 03:46:06.84
南朝も陸奥国の霊山にいたし。東北だろうね。
ナザレのイエスも青森で亡くなったし
77 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 04:12:09.88
九州説以外はその程度の主張しかできないね。気の毒だが・・
78 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 04:29:43.18
ばかだなあ 九州って世界の意味だぞ
79 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 11:54:05.97
>>63 若輩の私が言うのはおこがましいのですが、
榎一雄氏は東洋史学者として高名な方ですが、漢語の造詣はさほど優れてはおられないようです。
「周旋五千余里」の解釈も邪馬台国に関するご自分の説との都合で考えられたもののようです。
>>37に挙げられている三国志中の例は明らかに周旋を周囲の意味で用いたものです。これらの
用例に関わる文章全体から判断しても周囲の意味でなければおかしなことになります。
>>79 前スレでは、南陽は4郡にとり囲まれており、そこを通過しなければ入ることはできないと書いていたであろう
しかしそれでは足りぬ、さらに北〜西を囲む2〜3郡も必要である
その件はどう説明するのか問う
81 :
79:2013/01/14(月) 12:37:49.27
>>80 >前スレでは、南陽は4郡にとり囲まれており、そこを通過しなければ入ることはできないと書いていたであろう
何か勘違いをされておいでです。私はそのようなことは書いておりません。
82 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 12:50:06.52
>>37が周囲の意味で用いられているとする理由はないよ。
どうしておかしなことになるのかな?
>>81 匿名だからといって世間を甘く見てはいかんよ、
さらに問う、>51では
>與呉郡の「與」は日本語にすれば
>「・・と」(例えば、與困难作斗争:困難と闘う)という意味です。
と書いているが、それでは原文がなにを書こうとしたのかわけがわからぬ。
てっとりばやくgoo辞書でも参照したのであろう。
同じ参照するなら、古文辞書には
> …と一緒に。…とともに。
という意味も書いてある。原文に照らすと、こっちの方が意味深いとおもわぬか。
今更だが、自分の結論に基づいて文献を解釈するのは間違っている。
文献の客観的な解釈の結果、結論が導かれるのが正しい。
80点で良いのである。30点よりもずっと良いのである。
ところが、論争すると80点の人の足りない20点を攻撃するようになる。
なので、一見決着が付いていないように見える。しかし、80点>30点なのだ。
昔の京大の畿内説の論法はめちゃくちゃだが、東大の九州説の論法にも
おかしなところがある。攻撃し合う論争の弊害だな。
周旋について、あまりこだわってもどうなんだか
日本語でも「ぐるっと一周り」と言っても、
@おおまかに外周した
Aくまなく一周して巡った
の両方の意味がありうる。言語とはそんなもの。
数学のように厳密な定義は要求できぬもの
86 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 13:15:51.34
周旋は一周か、こちらから向こう端へ行き着くことかを論じているのだから、
論じる意味はあるんだよ。単に榎がそう言っているだけではない。山田、山尾、
安田なども明確に指摘しており、一周ではないというのはこれまでの通説的な
考え方だ
87 :
79:2013/01/14(月) 14:22:24.76
>>83 >さらに問う、>51では
> >與呉郡の「與」は日本語にすれば
> >「・・と」(例えば、與困难作斗争:困難と闘う)という意味です。
>と書いているが、それでは原文がなにを書こうとしたのかわけがわからぬ。
原文が何を言っているかは明確です。
丹楊地勢險阻與呉郡會稽新都鄱陽四郡鄰接周旋數千里・・・
丹陽は、地勢が嶮岨で、呉郡會稽新都鄱陽の四郡と隣接し、周囲は数千里ある・・・
>>51で挙げた例文 與困難作闘争(困難と闘う)と與呉郡會稽新都鄱陽四郡鄰接 を比べて見てください。
51例分の「困難」に相当するのが「呉郡會稽新都鄱陽四郡」で、「作闘争」に相当するのが「鄰接」です。
88 :
79:2013/01/14(月) 14:36:43.04
>>82 私は
>>37の周旋の例文が周囲という意味の名詞的用法であることを指摘しています。
もし、この周旋が「廻り巡る」などの意味の動詞であるならば、主語はいったい何になるのでしょう。
また、名詞としても「片道行の距離」あるいは「往復の距離」であるならば、何処から何処までという
始点と終点が明示されているべきでしょう。
>>37の例文にはその始点も終点も書かれていません。
89 :
79:2013/01/14(月) 15:03:22.73
>>80 >>81のレスでは愛想がなさすぎました。
私は前スレに於いて、(仮にとしての話で)丹陽に行くとしてもその丹陽の外側にある四郡を順次に巡っても
無意味である(丹陽には行けない)というような内容のことを書きました。
ご存知でなかったようですので、付け加えます。
諸葛恪が丹陽への赴任を孫権に上奏したのは孫権が建業(現在の南京)に本拠を移してからかなりの年月が経った頃のことです。
恪が丹陽に向かうとすればこの建業から出発します。建業は丹陽の北側に位置します。呉、會稽、新都、鄱陽の四郡は建業から
見れば丹陽を間に挟んで東南および南に離れた位置にあります。建業から丹陽に行くのに四郡を巡って行くなど馬鹿なことはし
ませんよね。
91 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 16:22:50.95
>>88 生兵法で品詞など持ち出さないことだ。一周するとか巡り回るといえば動詞的にみえる
かも知れないが、一周すること、半周することといえば名詞的表現となる。周囲と言っても
半周といっても同じことだ。
>>37の文章は、呉郡會稽新都鄱陽の四郡と鄰接するところを呉郡から最後の鄱陽まで巡って
行っても数千里ということさ。
>建業から丹陽に行くのに四郡を巡って行く
何を考えているんだい? 良く読むこと。
92 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 16:28:41.32
倭人伝紐解こうとしてもまた向こう300年さ迷うハメになるぞ
というよりも邪馬台国の確定は、新たな信頼性高い文字資料でも出ない限り未来永劫無理だ
93 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 16:32:15.16
簡単なことだよ。倭人人は後の人に理解できるように書いている。そのとおりに読めばいいんだ。
94 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 16:52:42.11
では向こう300年さ迷ってください
わにんにんって早速さ迷っていらっしゃるようだが
95 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 17:05:45.89
>>67 >>72 巷伯傳曰。投,棄也。<br>
馬→媽,《博雅》母也<br>
投馬國は、うばすて國です。
96 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 17:05:54.21
もう結論は出てるんだけどね
97 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 17:16:28.46
そう。邪馬台国はみなさんの心の中にあるのです
さすがうまいこと言うねえ、女王国の住民たちは。
99 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 18:12:45.24
>>91 79は中国人学者だろ。君の学力では太刀打ちできないよ。
101 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 18:48:54.61
中国人の学者ならば品詞なんて馬鹿なことは言わんよ。
102 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/14(月) 18:54:03.86
周旋が、必ずしも周囲あるいは一周するという意味ではなく、
巡り歩く、というような意味だと思われる用例も、あることはある。
雲笈七簽/38
《玉清經·本起品》雲:道言:昔元始天尊與諸賢聖億億萬衆,處處周旋,最後下觀棄賢世界,
有一國王,名曰コ正直,利根辯慧,為衆生故,而為導首。
晉書
又廣州南岸,周旋六千餘裏,不賓屬者乃五萬餘戶,及桂林不羈之輩,複當萬戶。
103 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/14(月) 19:11:48.12
處處周旋
これは處處を巡り歩くというような意味だろう。
廣州南岸,周旋六千餘裏
これは、もしかしたら、廣州南岸の、周囲六千餘里の地方では、の意味かも。
104 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 19:19:38.02
ふだん何げないが、
ここぞという時の満州の博識には頭が下がる
105 :
ローガン:2013/01/14(月) 19:47:41.09
どくだみさんが来てるようなのでちょっと質問。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」
これ、一つの段落として、「參問倭地」私は「倭の地について複数の資料を照らしあわせて調べれば」と訳しますが、
直前にある「皆倭種、侏儒國、裸國、黒齒國」を 倭地と比較すれば…と、訳すのはおかしいですか?
「比較すれば」がダメなら「交え問うてみると」とでも。
私的には勿論、上の訳なので、これは否定的ですが、可能なのかどうか知りたい。
周旋=書き手の表現の仕方次第。
どげんちゃよかばい。
おいはもう伊都國に着いたよ。
谷間から抜ける間際に、ぱあーっと青空と…湖かな?見えて…
あぁー…稲の、緑の絨毯ば敷いたごと南東に広がっとる…!
美しかぁ〜…。
さて、前担任の郡使と変わらんば。
任期三年(テキトー)やけん、かーちゃんとはいっとき〇〇でけん
けどw、何とか女王に会わんばけんね。
役割役割…お休み〜…
107 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 21:27:02.95
>谷間から抜ける間際に、ぱあーっと青空と…湖かな?見えて…
>あぁー…稲の、緑の絨毯ば敷いたごと南東に広がっとる…!
「湖かな?」ではなくて、「有明海」
108 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 21:39:34.25
よ〜し
おれも虹の松原まわって東南クルマ行で有明海見にいくぞー
109 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/14(月) 21:44:16.94
私は別に博識でも何でもない。
ここで話題になっていることがあれば、それをネットで調べてみるだけである。
>>102で書いたこともネットでチャッチャッと調べただけ。
しかしネットも万能ではないな。
清代の地名が今では検索しても出てこない。
満州と朝鮮の梨の産地についても調べたが、これも情報が出てこなかった。
112 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 22:42:57.62
>>105 >直前にある「皆倭種、侏儒國、裸國、黒齒國」を 倭地と比較すれば…と、訳すのはおかしいですか?
そのように訳すことは不可です。
參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
はその直前にある文章を受けたものではなく、倭国の地理、風土、風俗、習俗、卑弥呼関連、等の記述の
あとの締めとして書かれています。
似たような書き方は「從郡至倭・・・其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王」の後にある
「自郡至女王國萬二千餘里」です。これも直前の文章とは関わりなく、締めの文となっています。
113 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 23:09:44.09
3世紀前後の海水面は現在より3mほど高かったと推定されている。
下記のURLには有明海沿岸に位置するみやま市の遺跡が紹介されているが、その中に弥生時代の地図が描かれている。
港跡など遺跡出土物などから推定して描かれたものである。それによれば、柳川市などは島であり、現在陸地である所
のかなりの部分が島となっている。もちろんこれは満潮時の状態であり、干潮時には大部分が干潟でつながる。
http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage1.htm 有明海の干満による海面差は5〜6mに達し、遠浅の海であるためは干潮時には幅数kmに及ぶ干潟が出現する。
また、筑後川、嘉瀬川、矢部川などの河川では河口から数km上流までの水深も有明海の干満により大きく変化する。
このような地域で大人数の魏使一行が旅行するとしたらどのような状況になるであろうか。
先ず、船が必要であるが、吃水の深い魏の大船では島に近づけない。平底の倭船が用いられることになる。
そして、航行が可能な時間は満潮前後の4〜5時間以内であろう。食事をしたり、用を足したり、宿泊をしたりすれば、
1日に進める距離は数km、下手すれば1〜2kmくらいにしかならないだろう。不彌国から筑後川沿岸地域をまわり、
有明海に出て沿岸の集落に宿泊しながら行けば、二十日でも20〜30km程度の移動距離にしかならないだろう。
114 :
ローガン:2013/01/14(月) 23:58:34.50
116 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 01:29:29.63
>>113 みやまは沿岸と島々に水人の住む投馬國。
有明海の干満を利用して島々を移動。
投馬國は、北はみやき町三根から南は大牟田に至る5万戸の沿岸国家。
少しは九州から離れた方がいいぞw
端からみるとあまりにご都合主義、滑稽で仕方ないわ。
うーん・・・
あくまでも説だからねぇ、有明海干満の所は良いね
しかし何故そのような水面上昇下降があったかの理屈が
書かれて無いね、さらっと見たから読み落としならすまんが
博多が内陸(南側)に向かって海の中って説も確かあったな
まあどちらにせよ、学者・ファンが比定しまくっても
確定させる可能性の有る人間は、土建屋のユンボの親父だろうからなw
自分で納得するまで突き詰めて、自分だけの邪馬台国を見付けりゃ
それで良くね?
吉野ヶ里がキーポイントだな、あれはホントに
デカイ石を邪馬台国論争に投げ入れた
あと、國が狭い小さい言うけど、江戸時代の藩領調べてごらん
周旋5000余里・・・有明海抱いてたとしても、半端無いぞな
卑弥呼=ヒミコ=肥(干潟の意)の巫女(みこ)
ヒメコ(古語・これから転じて上記に)
干潟の女王の意。
文字無き時代、音(倭語)を魏師一行が文字を宛がえた。
漢字には一文字一文字、その意味がある…筈だが…
漢文の先生たのんます!
まずデタラメな思い付きのごろ合わせをやめろ。
121 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 09:58:56.17
>吉野ヶ里がキーポイントだな、あれはホントに
>デカイ石を邪馬台国論争に投げ入れた
吉野ヶ里と邪馬台国を関連付けようとしたことが間違いのもと。
吉野ヶ里が衰退したのは、倭國乱で帥升王系統の倭國が衰退した頃である。
吉野ヶ里は帥升王統勢力が栄え都としたところなのである。
佐賀平野と北野平野を繋ぐ交通の要衝として、
倭國乱以後も吉野ヶ里は細々と続いた。
交通の要衝として機能した城柵が不彌國なのである。
吉野ヶ里の約1km南は有明海もしくは筑後川河口の湿地帯、北は背振山地、
この東西に伸びる地峡に吉野ヶ里城柵があったのである。
ある時は基山方面からの侵攻をくい止め、
ある時には逆に佐賀平野勢力の東進をくい止めたのである。
122 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 10:15:10.80
>>118 >確定させる可能性の有る人間は、土建屋のユンボの親父だろうからなw
確定させる可能性の有るのは地質調査のボーリング会社。
建造物の耐震基礎設計の為のボーリングデータ。
>吉野ヶ里がキーポイントだな、あれはホントに
あれ以降、末蘆国→東南陸行500里→佐賀ルートを唱える人たちが支持を得るようになった気がする
そういう意味でキーポイントになったのかもしれない
>>105 下記位置にも「倭地」が出てくるので、倭地とは対馬国から狗奴国までのことではないかと思えます。
よって、「倭の地について複数の資料を照らしあわせて調べれば」でよいのではないでしょうか。
>其南有狗奴国、男子為王其官有狗古智卑狗、不属女王
>自郡至女王国万二千余里
−中略数行−
>倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣
>>121 殆ど考えてのと同意見だ。
不彌國=吉野ヶ里。
だから、魏師団も不彌國からは先に行けてない筈。
弱点見せる様なもんだしね。関所だね。
博多から南に延びる平原は、大往路みたいなもんだからな。
伊都國から、きっちり『余』を付けて無い里数も、平野部だからだろ。
俺はほぼ比定地が定まったよ。
126 :
ローガン:2013/01/15(火) 15:32:00.54
>>124 >「倭の地について複数の資料を照らしあわせて調べれば」でよいのではないでしょうか。
ありがとうございます。
さて倭地、倭国、倭 全て同じもの。三国志が冒頭で「倭人」としたのは、読者に対する「漢書に出てくる倭人のことを述べる」というメッセージなのでしょう。
127 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 16:31:07.26
>>125 >博多から南に延びる平原は、大往路みたいなもんだからな。
博多付近にあった倭奴國の後継国である奴国は、卑彌呼共立に非協力的であった為、
女王國は魏使が通過することを好しとしなかったのです。
又、共立による女王國成立までの郡使は、帥升倭國の流れである伊都國に派遣されていたので、
女王國成立後も其の流れで、郡使は伊都國(佐賀惣座)経由で女王國に派遣されたのである。
238年の遣魏使は、倭王が帥升倭國系統の王ではなく卑彌呼であることを認めてもらう為に派遣されたのである。
>>127 なっとく。
そうなると以下いささか講談めきますが、
親魏・卑弥呼は、鉄製品造りの技術集団と共に渡来した文字どおり魏の曹操一族ゆかりの人物であった、
なんてことはないものでしょうか??
魏の曹操一族ゆかりの人物なら、倭国くんだりまで来ないで
これから栄光を迎えるべく、魏国内で生きるだろう
敗れた袁紹ゆかりの一族とかなら、泣く泣く倭国くんだりまで来て
細々と生きることを選択するかも(来て見たら大成功という結末もありうるし)
>>129 来てみたら大成功!
なるほど、有りうるとすれば、その方が理解しやすいですね。>128
131 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 19:14:21.77
>>129-130 袁紹ゆかりの一族はない。
卑彌呼が共立されたのは189年頃。
卑彌呼共立に関係したのなら、袁紹ゆかりの一族は189年頃以前に来倭していなければならない。
>>131 後漢時代に不始末をしでかしたとかいう、
夏候氏の縁者なぞは渡来人の候補にはなりませぬか?
>>133 ごもっとも、失礼いたしました。 >132
帯方郡からのトリップがもう少しで10,500里だゾ
そろそろ伊都国のはずだが、見えてきたのは叉加大倭の標識
ヤヤヤいきなり邪馬台国にきちゃったかな?
うんにゃ佐賀大和の肥前国庁跡だわ、ブレーキ強く踏みすぎて8世紀に降りちゃったな
まいいや、とりあえずここで一休みして
明日は邪馬台国行きの準備をしよう
136 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 21:56:49.60
>>135 >帯方郡からのトリップがもう少しで10,500里だゾ
トリップ設定を間違えているぞ。
1.1900里だゾ
後100里で女王國に着くゾ
137 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 22:08:32.82
間違えてんのはおまえだよ。
>>135 おもろかですなw
今度の日曜日に仮想投馬國と、邪馬台国に後輩と行ってくるわ。
女王様の眠る(であろう)トコも…実は早くから目星付けてたんよ。
>>95 サンキュ。 かなりの確信得たよ。
最初の比定場所とは違ったけどね、水行だけだもんな。
…あとね、宝探し感覚とか、自分の『欲』で道理を歪ませる人はさ…
多分、一生さ迷うぜ。上から目線で申し訳ないが。
偉い学者も、デタラメな理論で自分の所に引き寄せようとする。
だから混乱しまくって300年だ。
地元の英雄である大先輩の本はまだ読んでないけどさ、
あの人の理論を(何処に比定したかは(?)証明出来るかも知れない。証明したい。
後でゆっくり本読んで、答え合わせするのが楽しみ(笑)
ま、見つから無くて元々だしね、ロマンを感じながらドライブするけん。
おやす!
139 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 10:20:58.84
>>137 間違えてんのはおまえだよ。
× 狗邪韓國→→末盧國 3000餘里
○ 狗邪韓國→→末盧國 4400餘里
>>139 2〜3日前のTVで、壱岐の原の辻遺跡とやらの景色や復元建物を映してた
なかなか美しいところで、それらしい雰囲気もあり、実感がわいた
あわせて対馬の観光地もドライブすれば、たちまち4400里くらいにはなるだろな
141 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 13:49:59.33
>>101 :日本@名無史さん:2013/01/14(月) 18:48:54.61
>中国人の学者ならば品詞なんて馬鹿なことは言わんよ。
中国や中国人について偏見をお持ちの方が多いですね。
中国でも国語の教育においては文法を教えます。品詞のことは当然教えます。
142 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 14:06:11.43
水上ドライブ 7000餘里
海上ドライブ 3000餘里
対馬ドライブ 800餘里
壱岐ドライブ 600里
山岳ドライブ 500里
山麓ドライブ 100里
水陸両用車積算走行距離 12000餘里
この世には、すごいクルマを持ってる人がいるもんだねえ
ジェームスボンドも真っ青だろうな
144 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 19:46:59.28
>>139 そんな数え方があるというのならば、文例でも出してもらおうか。
そんな計算をする輩は、方 里の意味すら分かってないね。
145 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 19:50:54.41
対馬と壱岐を陸行か沿岸航行のぶんも入れているんだろうけど、
倭人伝に乗ってないから、俺は三千里を支持する。
肥前国庁のぞいたら、ここは8世紀前半の築造で、それ以前は小城市の「乎岐国府(おぎ)」らしいってヨー
んじゃ小城まで引き換えすぞー・・・・、 アチャー、小城にインター出口はないのかー
けっきょく多久まで逆戻り、佐賀はまっタクどうなっとるんじゃー
ま、戻ったついでに、
一番古いのは那・奴みたいな1音の地名、次に古いのは多久・小城・佐賀みたいな2音地名らしいな
大和・神埼の3〜4音地名はもっと新しく、吉野ヶ里みたいに長くてハイカラなのは昭和〜平成の命名じゃないの、よくしらんけど。
147 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 20:10:01.94
今は佐賀市だけど、嘉瀬川西側の旧川上町まで、
小城郡だった時代はあるみたい。
吉野ケ里自体は結構古い。
奈良時代の条里制の名残。
ただし、条里制の区画の一つが吉野ケ里なだけで、
周囲の区画にはまた別の何々里があるから、
吉野という地名は、広域の地名ではない
148 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 20:11:39.52
ちなみに、神崎も平安時代にはあったらしいと、
神崎櫛田神社の由緒に乗っている。
小城市に伊都国や国府があったとすると、
グーグルチェックでは中町あたりが有力候補だな
中町を中心に家並みが同心円状に並び、周旋2km、いやこの場合は明らかに周囲2kmくらいを取り囲む古い畔道が見え隠れする
そして国府の所在は、その右下に接するサッカーコート大の田んぼか、それとも小城中学校の敷地あたりに見立ててはどうかな
ここが伊都国とすると、東100里の佐賀大和が女王国になっちまうな
昨日の
>>136 の翁よ、それでいいんだよな
ほんとだ
周溝でもあったような丸い形が浮かんでくるな
153 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 22:12:00.83
>>144-145 >そんな数え方があるというのならば、文例でも出してもらおうか。
>倭人伝に乗(載)ってないから、俺は三千里を支持する。
君たちは無知だね。
この計算方法は、40年も前に古田氏がその著書で述べている。
この読み方は倭人伝にも載っているし、古田氏が文例も引用して書いている。
帯方郡←→不彌國 12000餘里
>>153 おれはその計算方法の新提案が出た時を覚えてるよ。
著書も買って読んだ。
その知識が今に生きてて、別の解釈にたどり着いたんだけどね。 >帯方郡−佐賀・伊都国1万500里
155 :
136:2013/01/16(水) 22:30:26.95
>>149 >昨日の
>>136 の翁よ、それでいいんだよな
違う。
伊都國の城柵は惣座遺跡(肥前国庁と重なる地域)
>>153の古田読みに従がって、
伊都國の東100里が不彌國で吉野ヶ里遺跡。
156 :
153:2013/01/16(水) 22:39:45.97
>>154 その新計算方法に従がえば、
帯方郡−佐賀・伊都国は、1万1千900里となるが。
古田氏の伊都國奴國投馬國邪馬台国が福岡平野説は間違いである。
愚民の数を判断材料にすんなよ!
鳩山政権の誕生を見てわかる通り、愚民はホント馬鹿なわけで・・・
スマン、誤爆
>>136 あれッ、昨日はあと100里で女王国につくと書いてますよ
女王国 = 不彌国で吉野ヶ里遺跡ですか?
それに古田読みは糸島伊都国でしょうに
>後100里で女王國に着くゾ
160 :
153:2013/01/16(水) 22:50:35.20
伊都國、奴國、不彌國は、佐賀平野
投馬國は、佐賀平野と筑後平野の有明海沿岸部
邪馬台国は、北野平野と筑後平野の内陸部
>>160 ほう、末蘆国から東南陸行500里は
唐津線沿いに佐賀平野に向かうとの新説を支持するとおっしゃるわけですね。
162 :
136.153:2013/01/16(水) 23:04:42.83
>>159 >女王国 = 不彌国で吉野ヶ里遺跡ですか?
以下は古田氏とは全く異なる。
不彌國の城柵は吉野ヶ里遺跡
女王國は4ヶ国連合国家
女王國=奴國+不彌國+投馬國+邪馬台国
邪馬台国は4ヶ国の連合国家
邪馬台国の城柵は5城柵
卑彌呼の城柵、伊支馬の城柵、彌馬升の城柵、彌馬獲支の城柵、奴佳鞮の城柵
163 :
160:2013/01/16(水) 23:10:24.74
>>161 支持しません。
末蘆国から東南陸行500里は、玉島川・嘉瀬川沿いに佐賀平野に向かうのです。
>>162 諸国間の里程計算は古田氏と同じだが、
末蘆国より先の東南陸行ルートは唐津線沿いの新説を採用し、
伊都国以下の国の所在地や女王国連合の内容は、古田氏説や新説とは違うということと理解しました。
以上、必ずしも明確でないので、再確認よろしいでしょうか。>159
>>163 レスがかぶりました。
>>163 の件了承しました。
貴殿の玉島川・嘉瀬川沿い説(観音峠説)は新説のひとつとして尊重します。ご安心を。
166 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 02:04:45.90
>>153 古田のでたらめ読みぐらいは知ってるよ。だが、文例はない。古田が「発見した」
と称してこじつけただけ。古田の方里の理解は全くの素人。誤解も甚だしい。
興味深い記事を発見した。
周知の通り、「卑」や「邪」は、東夷を見下すための語と解されてきている。
仮にこれを除くと、卑弥呼は「弥呼」、邪馬国は「馬国」、邪馬台国は「馬台国(マタイ国)」、と読める。
そこで下の記事だが、
太宰府天満宮の一書には、邪馬台国を「馬台」と記してあるという。
じつは邪馬台国はなかった、倭人達は「馬台国」と呼んでいたのであろう。
>邪馬台国論争の著者、岡本健一氏は、邪馬台国研究 −中略− の業績を紹介しています。
>(4)福岡県筑紫郡大宰府町、大宰府天満宮に伝来する『翰苑』の9世紀写本は、
> 卑弥呼の宗女の名を、「壱与」ではなく、「台与」と記し、その都を記すのに、
>「馬台」と、「台」の字を用いている。これは、12世紀以後の版本と異なっている。
さらに関心を呼ぶのは、
最近、タイラ氏ほかの研究で提唱されはじめた「高千穂町説」の宮崎県西臼杵郡高千穂町についてみると
その中心部は極めて古くから「三田井(ミタイ)」と呼ばれ続けているらしい。
その名の由来の三田井氏はこの地の豪族だったそうであるが、そもそもその氏族名もこの古い地名に由来したのだそうである。
そこに「神殿」という字名も見受けられる。
ミタイとマタイ、ありえなくない類似ではある。
方角と大まかな距離が全てだと思うがのう…
九州着地点が全てを決めてしまうな。
それぞれの
心の中の
邪馬台国
何処よ何処
夢の中か
幻か
169 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 14:22:15.78
伊都国を正しく比定すれば、あとは何の問題もないよ。倭人伝どおり常識的に
進めばよい。
170 :
ローガン:2013/01/17(木) 15:15:05.88
>>167 >その中心部は極めて古くから「三田井(ミタイ)」と呼ばれ続けているらしい。
「mitai」 aiなんで、平安時代を遡れない。
>>170 mitai が平安時代をさかのぼれないのなら、 yamatai だってそれをさかのぼれまいよ。
そうういう理屈になるんじゃないの???
そのレスの前に、三田井氏の成り立ちを調べるほうがよいmitai。
172 :
ローガン:2013/01/17(木) 15:37:02.89
>>171 >mitai が平安時代をさかのぼれないのなら、 yamatai だってそれをさかのぼれまいよ。
そう。ヤマトでok
勿論、邪馬壹 は駄目。
>>172 >大宰府天満宮に伝来する『翰苑』の9世紀写本は
9世紀に「馬台」といってるわけだろ、ならばこれは mato と読むわけだな、
そりゃそれで一向にかまわん、どのみち三田井は卑弥呼の昔からあったわけではないだろうからな
>>172 ついでに尋ねるが
隋使のいわく 都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也 この堆と臺も to と読むわけだな
>>169 > 伊都国を正しく比定すれば、あとは何の問題もないよ。倭人伝どおり常識的に
> 進めばよい。
日曜日は投馬國の港寄って、邪馬台国に行ってきますよ。
176 :
ローガン:2013/01/17(木) 17:48:33.94
>>174 >隋使のいわく 都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也 この堆と臺も to と読むわけだな
魏志所謂なんだから「臺」はドゥくらいか…
堆は、音が変化してますよって 李賢が言ってる。
177 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 17:56:50.00
>>堆は、音が変化してますよって 李賢が言ってる。
これじゃ、いつどの音がどのような音に変化したかわからん。せっかくの文章が役にたっていないな。
178 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/17(木) 18:56:56.69
投馬國の官が彌彌と彌彌那利。
ミミが付く人名は山陰と宮崎に多い。
とすれば投馬国は出雲か但馬だろう。→邪馬台国は大和。
179 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 19:07:06.82
>>175 投馬國の港は何処?
@みやき三根・久留米城島?
A久留米三潴?
B大川・佐賀諸富?
Cみやま?
D大牟田?
投馬國最大の港は、A久留米三潴の可能性が最も高そうだ。
>>178 いゆもながら満州はうまいなあ
出雲だ、但馬だ、と遠くを指差しながら、それとなく宮崎をにおわすところなぞ、どうしてどうして。
凡才の私は、そのような高級・高度な技はつかえぬな
正直いうと、邪馬台国に至る方角・里程の基本は、邪馬台国・奇跡の解法氏のブログで学んだ。
「里数は距離、日数は時間。この根本的に異なる概念を加減乗除してはならぬ」
これが、奇跡の解法氏のかって見ることのなかった斬新な理論だ。
この理論ありてこそ、心あるものは女王の迷宮にたどりつけるのだ。
>180の一部修正:
「里数は距離、日数は時間。この根本的に異なる概念を、安易に加減乗除してはならぬ」
182 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 20:00:42.59
>>180 >里数は距離、日数は時間。
「里」は距離単位、「日」「月」「年」も其々異なる距離単位を表す。
1里≒70〜75m
1日≒70〜75km
1月≒80km
1年≒1000km
183 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 20:12:10.20
>>182 俺は80キロを一日で歩いたことあるんだが
184 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 20:13:11.11
間違った1日で30キロ
明治〜昭和初期のころの標準、
郵便飛脚やってたおれのひい爺ちゃんも、歩きは1日8里といってた。約30kmね。
186 :
ローガン:2013/01/17(木) 20:51:27.67
>>177 >これじゃ、いつどの音がどのような音に変化したかわからん。
「いつ」って…ある日突然、変わるワケないやん。
187 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 20:52:20.92
ううううう みみなりがするううううう
188 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/17(木) 21:34:06.47
桓檀古記にも末盧国と伊都国は出てくる。
九州の玄関口として半島にも知られていたのだろう。
しかし奴国や不弥国は出てこない。
これらはあまり有名ではなく、倭人伝の最新情報である。
投馬国と邪馬台国。
これらは中国にも知られていたのだから大国である。
投馬国はイズモかタジマかアズマ。邪馬台国は大和。
都万などという群小地名が中国に知られていたはずはない。
筑後山門とか肥後山門も同様である。
そんな郡名や郷名が中国にまで知られているはずはないのである。
博多から二日市の宿まで、だいたい16キロ
大人の男性ならば無理なく歩ける距離だが、
老人や女子供のいる旅だと、ちょっとキツイということで、
雑餉隈の宿が出来たそうな。
190 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 22:26:13.97
とにかく、倭国は東西五月行、南北三月行だ。これをもとに考えてみな。
191 :
175:2013/01/17(木) 23:42:03.04
>>179 > 投馬國の港は何処?
んー…今から書くことは、俺の推測・妄想だから信用しないでくれ。
だから場所は控えさせて下さいm(_ _)m
ただ、地図を見たとき『あ、ココだ!』と思った。もう、直感的なモノ。
>>95サンの解読で考えるに、投馬國は國と言うか、砦みたいな感じだろうと。
そして、伊都國から陸路で行ける様な道を敢えて作らなかったと思う。
だから船でしか行けない孤立國。
ひょっとしたら女王國(邪馬台国)からの道はあったかもしれないが…
女王國の様子を各有明海沿岸國に伝え、また、女王國に伝える役目。
遮蔽物の無い有明海は、昼夜問わず対岸に火を焚けば連絡が取れる。
昼は狼煙(ノロシ)、夜は松明の火(光)で連絡を伝える事が出来る。
火の数が三つならこんな事…とか、色々なサインがあったのではと。
実際に私も有明海沿岸民だが、夜は対岸の灯りが良く届く。
女王國を護るみたいに石を落とした様な、そんな山を国領としていたのでは?と。
その山が海に突き出し、灯台と成りうる様な場所と、港に成りそうな場所がある。
間違いないだろうと思うが、実際現場に行って有明海を眺めてみたい。
ちなみに邪馬台国の場所は、投馬國よりかなり前に比定してた。
192 :
ローガン:2013/01/17(木) 23:44:58.65
>>186では愛想無いので…
丙辰、天皇、執高麗表、授於大臣。召聚諸史、令讀解之。是時、諸史、於三日、皆不能讀。爰有船史王辰爾、能奉讀釋。由是、天皇與大臣倶爲讚美曰、勤乎辰爾。懿哉辰爾。汝若不愛於學、誰能讀解。宜從今始、近侍殿中。既而、詔東西諸史曰、汝等所習之業、何故不就。
敏達元年五月の記事
前年漂着した高句麗の使者の文を諸史(もろもろのふひと…東漢、西漢)は、3日かけても読めなかった。
船史祖王辰爾はよく読み釋き奉る。
もちろん、烏の羽云々なんて眉唾。
欽明朝に氏姓を賜ったばかり…つまり来朝して間もない百済人の読める文が、応神代からの史には読めなかった。
中国における字の音の変化、その時期が推測出来る話。
193 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 00:53:27.28
>>190 >とにかく、倭国は東西五月行、南北三月行だ。これをもとに考えてみな。
それで良いのだが、倭國は、南北に長く、東西に短い領域であったことに注意してね。
逆に、耽牟羅國(済州島)は、南北に短く、東西に長い領域であったことにも注意してね。
又、百済と耽牟羅國の距離は「海行三月」で約250kmです。
(海行三月=三月行)
参考文献
「其南海行三月、有耽牟羅國、南北千餘里、東西數百里」
194 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 03:30:21.70
まあ、だいたいあれだわ
たいほおぐん発ので ど〜ん
船で長期間20日もかけて沖を漂う にだ。。。。。。。
ひとたび水上に出てしまえばさ
南に向かおうともややゆくと自然西にどっと流されてしまうわな
しかもだわな、5まんこ つうたら 人口25まんにんだら
んだば、うばすて國つうたら あそこしかねえべさ
すさのをでなくてさ、かあちゃん流したんだよな。
人口の件は信用してない。
なんか、わざと人口を多く書いて、物凄い大国と思わせた観がある。
対馬、壱岐、末盧國と、余りにも多すぎる。
だのに伊都國は一千戸…?
壱岐は戸では無く家で書かれているが、文法的には間違いないのか?
調べてみたら、家を戸で表記するのは中国が発信元みたいだから、
やはり、家が千も万も有ったと解釈出来るのだが、余りにも多すぎる。
計算(一戸五人位)して、倭國の総人口を算出したら…いったい何万人になるのか?
いくら山で獣の肉を捕り、有明海で海の幸を頬張り、平地部で稲を育てても…
完全時給自足の当時の人口数では無い、現在でもそんな人口数の都市は少ない。
196 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 08:10:28.87
>倭國は、南北に長く、東西に短い領域であったことに注意してね。
東西の方が旅するのに日数がかかるというだけのこと。東西の方が長いと思い込んでは
まちがえる。
197 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 08:11:59.48
>なんか、わざと人口を多く書いて、物凄い大国と思わせた観がある。
自説に都合が悪いことは無視するというのでは駄目だろう。
そもそも1戸5人の設定に疑問あり
本土中国では、他国で奴隷狩りして兵隊にしてた時代なのだから、
家族という概念を排除すれば、1戸は一人のことかもしれない、倭国に捕まえに行けば奴国に2万戸=2万人とか
>>150 小城市中町の周溝みたいな円は、意外とはっきりみえるね
中央にある工場みたいのは、もとは中世の館跡にできた大きなお屋敷とかだったのかなあ
やや西に傾いた南北の敷地は、佐賀大和の国庁跡の大きさ傾きとほぼ同じだね
伊都国の役所→小城国府跡とみても全然おかしくないわ
200 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 10:21:02.86
>>194 添削してあげよう
自然西にどっと ×
自然東にどっと ○
202 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 10:57:23.34
小城は平野の先端で、
多久盆地は城塞のように見えなくもない。
地形・道路網・小城からの距離約10kmを考慮して
古代〜近世まで、多久盆地に関所、陣屋、宿場機能があったであろうことを想定できるね
やはり中心は、南北から山が迫る多久市役所付近かなあ
そう思ってみると、中多久駅の南北にとぎれとぎれに森がつながってるね
水城みたいのがあったのかなあ
>>197>>198 私は前レスで
『何故先進国が、命を賭して未開の地に交流を求めに来るのか?』
みたいな事を問い掛けた者なのだが、自分成りに『キリスト布教と同じでは?』と思った。
布教では無く、
>>198氏の言う奴隷では無く、魏國の『属國』とする為。
これを回避する為に、女王は魏王の約束書を取り付けたのでは?…と。
記録に残す部分(魏の国以外から見て)に、人口を多く書く様にと。
であるなら渡航する際の国々の、人口比率が多いのも頷ける。
大船団を組んでも、そこまで戦力となる兵団は乗せては行けない。
魏王も口約束だけでなく、書面に証拠と成るモノを渡したし、
それを破ると卑怯者となり、後々汚名を遺すし権威に関わる。
…と、妄想してみたが想像の域を出ない。
ひょっとしたら女王に魏師団が惚れちまったのか(笑)
とにかく、そこまで人口は絶対居ないと断言出来る。
倭人伝に、邪馬台国なる語は1回しか出てこない
しかし、女王・卑弥呼・女・汝に台与まで加えると30回くらい出てくる
確かに、女王に相当の想い入れようとみた
考えられるのは、只の片思いか? それとも魏王又は陳寿の家系図において何らかのえにしがあったか?
206 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 14:14:39.10
>>204 『何故先進国が、命を賭して未開の地に交流を求めに来るのか?』
「先進国が命を賭して」とはどういうことですかな。意味がわかりませんなあ。
魏が倭国に使者を派遣したのは卑弥呼の朝献に応えたものだが、それは大国の自負の表れであり、
何も魏の命に係るものではない。
命の危険があるとすれば使者一行だろうが、海での不慮の遭難は別として、倭地での旅行の安全
は確認して行くだろう。倭国の難升米らの案内や警護もつけさせるだろう。不用意にはでかけないよ。
当時の中国人から見れば女の王というのは珍しいから
ただ王と言わずに女王と言いたくなるのは不思議でないと思うが。
著者がこの女王に好意的だからといって
わざわざ家系図のえにしだとか当てずっぽうの余計な妄想をする必要はない。
>>206 当時の船(魏の船含む)はそこまで渡航能力無し。
あるなら東に直線“的”な航路で来る。
大陸・朝鮮半島の沿岸を沿う様に来て、対馬に渡ってんのを
考えたら、自ずと船の能力が解る。
>>209 レッドクリフのDVD借りれば何となく解るよ。
211 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/18(金) 17:29:35.04
梯俊や張政が渡海して倭に行った、とはどこにも書かれていないがw
君らは梯俊や張政が渡海して日本に来たと思い込んでいる。
しかし倭人伝を読んでも、どうもそういう雰囲気が感じられないのである。
>>210 レッドクリフは、BS放送かなんかで偽装船を仕立てて矢を集める場面をチラとみたけど、DVD出てるのはしらなかった
近いうちに借りにいってみる
213 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 18:08:21.18
>>211 :卑弥呼は満州にいた
>梯俊や張政が渡海して倭に行った、とはどこにも書かれていないがw
正治元年太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物,
確かに渡海の文字はないよ。
しかし、そんなことを言うなら、「倭国が半島や満州にあったなどという記事は何処にもない」から
貴殿の主張も「根拠無し」と一蹴されるよ。
214 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/18(金) 18:36:09.98
渡海の文字がないだけではない。
倭人伝はいきなり日本に渡る道筋の記述から始まるが、
それが魏使が日本に行った時の見聞による情報だとはどこにも書かれていない。
日本紀行、ルポルタージュ風の文なので、
誰かが日本に渡ったときの見聞に基づいて書かれているらしいと見当は付くが、
その誰かが魏使だとは書かれていないのである。
むしろ方角の記述などに疑問が出されているのだから、
これは魏使の見聞に基づくものではないと見なす方が妥当なのである。
それなのに百人の内、九十九人までが魏志が日本に来たと思い込んでいるのである。
それはちょうど、百人の内、九十九人までが倭とは日本だと思い込んでいるのと同じである。
中華思想からすれば、やってきた使者から聞き取った経路でも中華からの行程として逆に書く罠
1拍手!
218 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 21:58:16.71
>>214 >倭人伝はいきなり日本に渡る道筋の記述から始まるが、
>それが魏使が日本に行った時の見聞による情報だとはどこにも書かれていない。
公孫が支配する楽浪郡の郡使からの情報だから情報元を書けるわけがない。
説明は面倒なので省略。ヒントとして魏使倭人伝で出てくるキーワードを示す。
「從郡至倭」 何故「從」を使ったのか。何故郡名がないのか。
「世有王 皆統屬女王國」 「世有王」は公孫が滅ぶまでの倭王ではないのか。
「郡使往來常所駐」 誰の郡使か。「常所駐」は長年続いていることを示しているのでは。
「伊都國」 伊都は倭都を書き換えただけのものではないか。音がほぼ同じ
219 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 22:37:17.92
魏使のほかに倭国に渡ったものがいたとはどこにも書かれていない。
220 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 22:48:15.92
>>214 :卑弥呼は満州にいた
>むしろ方角の記述などに疑問が出されているのだから、
>これは魏使の見聞に基づくものではないと見なす方が妥当なのである。
方角の記述などに疑問があると思うのは九州説以外の人達だろう。
畿内説などは方角は間違いだとしないと成り立たないからね。
しかし、間違いだということを示す証拠はどこにもないだろ。
221 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 23:10:01.18
>>219 魏使のほかに倭国に渡ったものがいたとは書けなかったんだよ。
魏書なんだから書けないのは当然だ。
郡使が倭國に渡っているが、時期については書かれていない。
222 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/18(金) 23:16:51.16
梯俊も張政も日本に来ていないということは、他にも根拠がある。
しかしそれはここには書かないことにする。
223 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 23:17:36.17
>>221 幼い理屈だな。古来とか漢時とか書けばいいだろ。
224 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 23:19:14.30
「>世有王 皆統屬女王國」「世有王」は公孫が滅ぶまでの倭王ではないのか
例の 漢委奴国王 の金印をもらった(とされる)王のことではないかという説が有るんだね
そう考えると、(金印の真贋はさておき)ここに「世有王」をはさんだ意味が理解できるね
226 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 23:47:25.21
国々には代々王がいる、それだけの話だ。妙な考え方をしないと「世有王」をはさんだ意味が
理解できないというのは漢文の読み方を知らんだけ。
227 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 00:03:40.48
>>218 東夷伝の序文には
公孫淵の父祖三世遼東に有り、天子其絶域となし、海外の事を以て委ね、遂に東夷隔断し諸夏に通ずる得ず。
景初中、大いに師旅を興し、淵を誅し、又軍を潜ませて海に浮かび、楽浪帯方の郡を収め、しかして後海表
謐然、東夷屈服す。其後高句麗背叛し、又、偏師を遣わし到封し、窮追すること極遠にして、烏丸骨都を踰
え、沃沮を過ぎ、肅慎の庭を践み、東大海に臨む。長老「異面の人、日の出所の近くに有り」と説く。遂に
諸国を周観し、其法俗、大小区別を采る。各に名號あり、詳記するを得る。夷狄の邦といえども、俎豆の象
あり、中国礼を失し、これを四夷に求む、猶信あり。故に其国を撰次し、其同異を列し、以て前史の未だ備
わざる所を接ぐ。
とある。
東夷伝には景初2年の公孫淵滅亡後に知り得た倭国情報が書かれているようだ。
その情報は主に正始元年の梯儁および八年の張政ら魏の使者によって齎されたと見るのが自然だろう。
228 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 01:30:00.06
>>227 「前史の未だ備わざる所」とは、公孫からもたらされた知見である。
梯儁および張政はこの予備知識をもって倭に赴き確認したのである。
魏書は、公孫からもたらされた情報から徹底的に公孫を消しているのである。
you tubeで「新唐人テレビ」を検索して見てください。
それを見ると中国人も中国の民主化を望んでいる事がわかります。
新唐人テレビは中国の民主化を望む中国人自身によるテレビ局で、海外に拠点をおき、
中国共産党の圧力に屈する情けない日本のマスゴミよりもよっぽどまともなテレビ局です。
日本語による吹き替えも毎日アップしています。
日本では中国共産党の圧力により報道出来ないニュースが沢山取り上げられています。
新唐人テレビのような勇気ある報道機関を広める事で、中共の圧力に屈し、真実を伝えない
日本のマスゴミのへなちょこぶりを浮き彫りにする事にもなります。
さらに新唐人テレビを衛生放送を使って中国国内に放送する計画まであります。
これはある意味、中国共産党に対する強力な「兵器」です。
新唐人テレビを日本や在日中国人の間に広めて、中共が日本に戦争をしかけてくる前に中共を内部崩壊させましょう!
230 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 02:48:26.69
東南陸行五百里 到伊都國
官曰爾支
副曰泄謨觚
柄渠觚
有千餘戸 世有王 皆統屬女王
國郡使往來常所駐
世有王 伊都國には歴代王家があった
皆統屬女王 王家のは女系で代々女大酋長に仕切られていてきた
國郡使 そこらへんの國の使者、たまには郡の使者も
往來常所駐 やってくると伊都國のを定宿にしてきたとゆう履歴がある
そこらへんの國の使者とゆうのは、
当然のこと半島のほうからのも含むにきまちょるわな
231 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 05:15:21.48
妙な切り方をしているな。世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐 だろう。
そのくだりで伊都国に王家があったということを言ってるわけだが、
そうなると金印をもらったとされる漢委奴国王は伊都国にいて、
佐賀の小城〜大和あたりを王国にしていたということにもなる。
そうすると志賀島出土とされるあれはいっそう#$%&=〜¥?
233 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 10:09:16.23
まちがった読み方をして混迷の度を深める、ってことかな。
そう、国であれば、世々それなりの王がいてもおかしくない
今でも市町村長・区長・自治会長等々、自称王だらけ、まあさらりとながしていいんじゃないかな。
大宰府天満宮に伝来する『翰苑』の解説をよんでみた。
要するに6世紀当時、邪馬台国の「邪」と「馬台」は切り離して用いても不思議でない語であったということらしい。
周知の通り、韓国の大統領府を青瓦台という。
同様に、卑弥呼の官邸/宮室は 馬台 と呼ばれていたのであろう。
魏王朝の高官は、
東夷のクニゆえそれに雅ならざる冠詞の邪を付け加えて「邪・馬台国」と書いた程度のことではないか、と感じた。
(235の続き)
さらに陳寿の場合は、「台」の字までをも「壱」に変えるという手の込んだ筆法をもちたため、
後世の我々を惑わし続けることになったのではないか。
想うに、卑弥呼ともども油断できぬ人物ではあった。
237 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/19(土) 12:30:52.95
到于穴門時、其國有人。名伊都々比古。
謂臣曰、吾則是國王也。除吾復無二王。(垂仁天皇紀)
伊都々比古が、大和王権とは独立して、勝手に国王を名乗っていた様子が窺える。
問題は伊都国の位置である。穴門は関門海峡の古称だろう。
要するに今の福岡県全域が伊都国だったのである。
では奴国はどこか。長門国である。
以前は関門海峡は陸続きだったのである。それが開けたのは仲哀天皇の時代である。
だから北九州市から陸行で長門国に行けたのである。不弥国の位置は未考。
要するに奴国はすでに本州なのだから、九州説は完全に破綻しているのである。
わはは、九州説諸君、可哀そうだが、もう諦めた方が良いぞw
>>237 伊都國王はようかんが好きだったらしいよw
お可哀そうに、平成の御世というのに満州も卑弥呼の妖術に辛目とられてる。。。
酒だ、酒もてこい、いやいや満州は甘党だったんだよな。
240 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 12:59:27.63
>>232 >金印をもらったとされる漢委奴国王は伊都国にいて
漢委奴国と伊都國は全くの別国
漢委奴国は1世紀博多湾周辺の国。
伊都國は佐賀平野の帥升王統国
>>240 いろいろ考え合わせると、やはりそれが順当な見方だねえ
おーい、昼飯も済んだし、
邪馬台国だか、馬台国だかしらんが、そろそろでかけるぞー
先に出発した者たちはそのまま先にゆけー、オレが着くのは1ケ月くらい先だろうけどなー
フツーに読み進めたら九州からは絶対出ないよ。
情報が錯綜して、こじ付け論が余計に混乱を招いてるだけ。
244 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 14:39:40.56
珍寿君は日本語を少し理解したのです
小城から南で投馬國
おー
どうやら小城の牛津あたりから船が出るぞー
船で投馬国行きを志願する者は、弁当用意して乗ってくれー、今日も有明の海はすばらしい眺めだぞー
小城(伊都國)から南(方角)に投馬國だが
小城から船で行く訳ではなく
投馬國は船で行く所なので
この場合(倭人伝で)では
水行基点が小城からでは無く
唐津(末盧國)を基点として考えなければならない
逆に捉えると
投馬國の北側に小城があるのだ
小城から近くて遠い投馬國…
投馬國の
港や美し
有明海
なんちってw
そーいや、郡から乗ってきた大型船を末蘆港に繋いだままだったなあ、あやうく忘れるところだった。
船長に、警備保障に、かじ取り・漕ぎ手なんか合わせて25人ほど、
船に寝泊まりしながら、魚でも取って自炊してるんだろけど、
どうせ、夜は大酒くらって寝て、昼は近くの唐津ボートで遊び呆けてるんだろな
そうだ、末蘆港にもどり、あいつらに郡の船を漕がせて投馬国へ行こう
投馬の港近くにはもっとすげえ競艇場があるかも知れぬ、とでもいえば喜び勇んで漕ぐじゃろうて・・、
249 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 16:42:35.92
.
佐賀南方の堤防がっつし爆破してあげたら
そこいらじゅう水浸しになるのとか理解できるかもな
.
>>248 > どうせ、夜は大酒くらって寝て、昼は近くの唐津ボートで遊び呆けてるんだろな
わろすWWW
投馬國の港近くの見張り台からは
有明海360度のパノラマ絶景が楽しめるよ
カニが旨いらしいw
251 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 17:00:07.55
満州くんはがむばるなあ、こんどは書紀かよ。
弱いとこ克服して読んでみようておもえるのがえろいよな。
おまいさあ、どおせ読むなら
書紀のこと全文一枚のHTMLに納めてからに読むのが良いよ。
世の中昔とちがってさ
労少なくしてしっかりとした読み込みとかできる環境にあるからな。
全文一枚のHTMLに納めてもおれのは616KBに過ぎないしさ。
検索とか色塗りとかサックサクだぞお。。。。
252 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 17:04:32.10
出版まだ〜?
253 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 17:36:28.91
254 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/19(土) 18:22:24.39
稗箕狐よ、私はパソコン初心者だからHTML云々と言われても何のことか分らないのだw
読みたい文献はメモ帳にコピペして、それをプリントアウトして読んでいる。
それはさておき奴国は長門国だから、
九州説者はそろそろ白旗を上げた方が良いぞなもしw
花さそふ嵐の庭の雪ならで 消へゆくものは九州説なりけり
255 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/19(土) 18:37:03.36
私は、九州説は完全に葬り去ったので、今後は畿内説を葬ることに力を入れようと思う。
といってもたいしたことではない。
魏使は日本には来ていないのだから、大和にも来ていないことは明白だ。
魏使が二回も大和に来ていたのなら、晋代以降も大和との交渉を持とうとするはずだ。
ところがそんな史実は一つもない。中国の官吏が日本に来たのは、
小野妹子の帰途に裴世清が同行してきたのが最初である。
それ以前には一度も無いのだ。
これを見ても魏使は日本には来ていないことが分かるのである。
256 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 18:45:50.89
>>237、254
倭人伝の記述から見て、邪馬台国当時の国とは今の日本で言えば市町村くらい
の広さと確認できる。伊都都比古の記事から伊都国とは関門海峡の辺りと考え
るのは私も賛成だが、奴国も不弥国も邪馬台国も関門海峡からさほど遠くない
九州東沿岸の辺りと推測される。これならば「東に千里の海」も適合する。
257 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 19:09:35.42
満州くん おまいさあ、どおせやらかすのだたら
年表くらいつくれよ。
もぞおしとか使用しちゃだめだぞ。
一枚のHTMLに表組みで書き込んでいくとかできるべさ。
世の中昔とちがってさ
労少なくしてしっかりとした私製年表とかでかせる環境にあるからな。
一枚のHTMLに納めても1300年分のでおれのは730KBに過ぎないしさ。
258 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 19:29:36.41
万臭は完全に狂ってしまった。
,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ < 君は世界史板に逝きなさい!
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′ , -─弋ヽ、
ノr┴-<」: :j| ホレ逝きなさい!> / `Y
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _ | {、 |
/:/ = /: :/ }! |〕) 从\ |) |
{;ハ__,イ: :f | /´ (〔| ヽ__j儿从八_
/ }rヘ ├--r─y/ ☆、 `\ i⌒ヽ ̄ ̄\
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_⌒☆ \ | | `===ヘ
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´) ゙と[l ̄| | \
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ  ̄| | ヽ
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )←満州 | |\ }
_/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′ /{_〆 ̄`ーー=='^┤
└-' ̄ `| |_二二._」」__ノ {| -‐ / | | }
└ー′ └─-二_/⌒Y ̄}
260 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/19(土) 21:19:46.92
>>256 君がそう考えるのは従来の通説に囚われているからである。
仲哀天皇紀にも伊覩縣主祖五十迹手が穴門引嶋で天皇を迎えたとある。
つまり北九州市は明らかに伊都国の領域である。
であるなら奴国は博多ではない。長門である。
倭人伝の○○国というのは、恐らく今の県のような大きさなのである。
末盧国というのは佐賀県全体のことだろう。
まあ、とりあえず明日女王様に謁見してくるわ
>>261 道中、気をつけてな
せっかくだから握手くらいしてもらいなよ。
それと、女王さまにお会いたい倭国や満州国や加羅国の国津神がいっぱいいるって伝えといてね。
263 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 22:32:13.09
>>240 どちらにしろ金印の蛇紐を見れば、漢から北部九州は南に位置する(南夷の国)と
思われてた可能性が強いわな・・・
魏からも同じように、北部九州は実際の位置より南にあると認識されてたと考えた
ほうがよさそう。
オレは確定申告すんでからだな、出かけれるのは。
ぜひとも名物の女王焼酎を買い求めてこよう。
265 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 06:07:53.79
確定申告が終わって、暖かくなれば、僕も九州へ出かけよう。
266 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 07:35:12.85
>>263 >漢から北部九州は南に位置する(南夷の国)と思われてた可能性が強いわな・・・
北部九州は、燕地の南部であって、南蛮とは考えていないね。
>魏からも同じように、北部九州は実際の位置より南にあると認識されてたと考えたほうがよさそう。
佐賀平野の不彌國の位置が、熊本平野緑川付近、又は屋久島南西の口之島付近と認識していた。
(帯方郡の南8000餘里、又は南12000餘里)
8000餘里の計算根拠は省略
267 :
T20 ◆Q3Tqm0gFEcSq :2013/01/20(日) 07:47:49.02
うし!出発準備出来た。
今日限りのコテ使う。
俺の中の邪馬台国は完全に決まった。
目星を付けてる女王冢にも行く。
気分で小城まで足を伸ばすかもだが、とりあえず
自己比定してる投馬國を目指す。
道中のレポをするかもだが、馬鹿らしいと思う方は読み飛ばして下され。
見つから無くて元々!
古代のロマンに夢を馳せながら旅してみるけん。
268 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 07:59:26.80
不彌國までは万六百里、そのうち南へ進まなかったのは乍東の約二千里、末盧国から
斜め五百里、伊都国からの東百里だ。
つまり、帯方郡の緯度から八千里余り南が不彌國ということだね。
八千里は短里でいえば、650キロぐらいだろう。蘇州あたりかな。
結局九州説は行程パズルしか無いのか。
行程パズルが出来るだけマシ
畿内説だと、途中の行程は省略して結論オンリーなので。
結論がはっきりあるから行程パズルなんて
レベルの低い遊びをしないだけだね。
少なくとも考古学的に見る限りは、
九州から出ないなんて事は200%無いよ。
中国人ははっきり瀬戸内方面を目指した痕跡がある。
>T20
早い出発だなあ、レポまってるよ
>>269 いいんだよ
じいさんらの暇つぶしにちょうどよし
>>269 当時の都市も最高に便利さを追求してる、そのため主要施設はたいてい現在の市街地の下に眠ってる
発掘ズミは今も不便なところに築かれた墓地とか飯場とかゴミ捨て場とか・・
その点、九州は未掘の宝の山さ
市街地は開発で緊急発掘されることが多いが
厳しいのは田んぼの下とかだな
佐賀県太良町 田古里古墳着。
規模小さくも、中々の石室の造り。
時代は解らないが、自己比地投馬國に古墳があったのは収穫。
展望台目指す。
何故かえらく楽しいw
>>274 >その点、九州は未掘の宝の山さ
それは他の地方も同じ事。
葛城地方や河内平野なんて相当な未発掘がある。
破壊されたのも多いだろうし。
竹崎城展望台着。
有明海一望!今日は少し霞んでるけどw
佐賀平野から筑紫野、熊本、島原半島までぐるりと望める。
左手の漁港が見下ろせ、地理的にもバッチリイメージと合う。
後輩のGoogleマップやらと見比べながら、想像膨らます。
妄想癖過多だな。
>>298 そういうことだ、畿内は発掘ズミが多いからといってそれだけでは何とも言えない
未発掘とか発掘できないものとか、破壊されたものとかの大きな可能性も頭に入れなくてはね
竹崎城降り、漁港そばにまた古墳の看板有り。
名前、道越古墳。
先ほどの田古里古墳と石室の造りが似ている。
田古里より覗き易かったので、入ってみると天井が高い。
案内版での説明では石室の最大高さ4m50らしい。
田古里同様、樹が生い茂ってたら山の一部としか思えない。
多分、発見されてない古墳がかなり眠ってる可能性ある。
有明海の西側はほとんど知識ないけど、古代から開けてたんだねえ、驚。
右手に有明海を望みながら、R207北上中。
時間があるし、小城まで行ってみる事にした。
空気抵抗が凄そうなシートを付けた、半端無い数の珍走団がw
何度も通った道だが、改めて見ると切通の道ばかり。
山からそのまま海に落ち込んだ様な地形多し。
遥か昔に道が海岸線沿いに有ったとは思いがたし。
昼食ポイントのそばにまた古墳看板。
飯終わったら行ってみます。
おれは有明海どころか九州についてもほとんど知識がないけど
倭人伝を読めば九州の三世紀の様子がある程度は分かる。
ところが近畿となると倭人伝よりずっと後の資料しかないから
三世紀ごろどうだったかさっぱり分からん。
土堀りはやってるらしいがその連中が平気で嘘をつくからますます分からん。
せっかく桃の種が大量に出てきても碌に研究もしないで
何一つ関係が証明されていないモモソヒメをいきなり持ち出す。詐欺でなければ知障だ。
ヒミコを持ち出すに至ってはキチガイ沙汰だ。クレオパトラを持ち出すのとなんら変りない。
邪馬台国近畿説などともっともらしいことを言っても、無関係なものを並べただけだから
大英帝国近畿説というのと同じで、そもそも名称としても成り立たない。
大英帝国近畿説の例えには感心したww
>>286 これはテンプレートレベルだな。
このスレッドに常に飾って、肝に銘じたい名言だ。
ローマ帝国畿内説
畿内人はエリート層であり首長層に相応しいのであるから都市国家から世界帝国へと
発展したローマ帝国のローマは畿内のことである。
こういうことを言い出しそうなのばかりだ。
290 :
266:2013/01/20(日) 12:53:54.16
>>268 8000餘里について誤解しているので簡単に説明する。
郡から不彌國までの南行距離ベクトル
@帯方郡庁から狗邪韓國までの水行7000餘里で、
韓が方可4000里であるから、南行ベクトルは4000里
A南渡海が1000餘里が3回であるから、南渡ベクトル合計は3000餘里
B對海國が方可400餘里であるから、南行ベクトルは400餘里
C一大國が方可300里であるから、南行ベクトルは300里
D末盧國から伊都國が東南行500里だから、南行ベクトルは35里
E伊都國から不彌國は東行100里だから、南行ベクトルは0里
@からEまでの南行ベクトル合計は8000餘里
帯方郡庁(ソウル)から南へ8000餘里(約560km)は、熊本平野緑川下流付近。(1里≒70m)
道の駅太良前を、国道を挟んだ前のうどん屋脇から入り込み、
線路渡り暫く行くと伊福湯牟田(イフクユムタ)古墳に至る。
ミカン畑の中にひょっこりと在り、説明書きを読むに複数の
古墳が点在してたらしい。現在保存されているのは此処だけだと。
先ほども書いたが、この太良岳から海に下る裾野山中に、
まだまだ発見されてない古墳が埋もれていると思う。
小城に向かいます。
>>290 ちょいまち!
まず、D末盧國から伊都國が東南行500里だから、南行ベクトルは35里 ←??(350里)
次に、とりあえずとして@〜Dまでの南行ベクトルの里数とkmの関係を求めてからじゃどうなの??
293 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 13:53:07.95
>>260 あんたの認識は間違っているよ。仮に邪馬台国が北九州のどこかとしてもその
地域に国が30ヶ国、南九州としてもやはり30ヶ国、近畿としても30ヶ国
有ったことになる。であれば当時の国とは現在の市町村くらいの大きさで県ほ
どの大きさということは有り得ない。
294 :
290:2013/01/20(日) 13:56:33.43
>>292 Dの35里は書き間違いです。
350里が正しいです。
合計8000餘里は350里で計算されています。
小城着。
小城と言っても広い。目的地は以前このスレに入り込む前に
立ち寄った事のある、県道43号線沿いに在る土生(ハブ)遺跡公園。
竪穴式住居が三つ、高床式倉庫が一つ復元されている。
複数のタイルに焼かれた、弥生時代の説明文が興味深い。
倭人伝からだろうか?九州を『倭』と記載され、百余國に分立…とある。『新しい文化の波』と言う項目で、BC1世紀、漢の時代だと。
Googleマップで、後輩が北側の小山が古墳臭いと 言ってたら、
ちゃんと茶苫塚古墳と言う古墳との説明書きを見つけたw
俺もだが、そこら辺の小山が全て古墳に見えて来てしょうがない。
周辺説明地図を見ると、遺跡、古墳郡点在しまくり。
北に見える脊振の山に、少し雪が掛かってる。
あの山を超えた先に末盧國が在ったのか?
羊羮買って、邪馬台国目指し戻る。
上の方のレスにあった、伊都国王は羊羹が好き、というのはこの羊羹のことか
やっとわかったわww
しかし、車で遺跡探索をしながら、
2chに経過を書き込むなんて、器用な奴だな
ノートPCでも持参しているのか?
まぁ北部九州近辺に邪馬台国なんて探しても時間の無駄使いだよ。
299 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 16:13:09.83
民主党を生み出した『団塊の世代』の面々(現在66〜63歳)
消滅へ向かう化石サヨク思想
加藤千洋(65)・・朝日新聞元編集委員(中国の犬)
安田好弘(65)・・死刑廃止論の弁護士(光市母子殺害事件のDQN弁論)
上野千鶴子(64)・・ジェンダーフリー学者(フェミナチ)
班目春樹(64)・・原子力安全委員会委員長(デタラメ君)
若宮啓文(64)・・朝日新聞主筆(「竹島を韓国に譲れ」で有名)
白川方明(63)・・日銀総裁 無能(帰化人説有)
山田伸二(63)・・NHK解説主幹(民主党の熱烈なシンパ)
後藤謙次(63)・・共同通信元編集局長(反日主義者)
テリー伊藤(63)・・全共闘崩れ(民主党シンパ(帰化人説有))
現地移動レポーターによる実況付きのグーグル観光だな
今日は出費いらずに初めての場所を楽しめてるわ
ま、羊羹の味見はないかもしれぬが
>>296 小城羊羮は有名っすよ。んで旨い。
>>297 ガラケーです(苦笑)
今飯食ってるんで、自己比定邪馬台国の話をあと一回してコテ外します。
302 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/20(日) 18:12:58.31
>>293 たしかに県くらいの大きさというのは誇大であった。
律令時代の国と同じような大きさだろう、長門国とか周防国とか。
今の市町村のような小さいものではない。
とにかく北九州市は伊都国だから、博多は奴国ではない。
これだけは絶対に確実。日本書紀の記述が根拠だから、誰も文句は言えまい。
今日のガラケーは、鹿嶋市、小城市とそれぞれの観光協会に相当貢献したな
個人的には海の近くの道の駅が気にいった、こんど行ったら立ち寄ってみよう
それにつけても時代はかわった。穴掘るだけが考古学ではなさそうだ
304 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 18:20:41.93
>>302 奴国は後に灘(な)県主(福岡市所在)で名前が残ってるよ
305 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 18:59:17.22
>>290 >方可4000里であるから、南行ベクトルは4000里
帯方郡役所
306 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 19:04:34.01
>>290 >方可4000里であるから、南行ベクトルは4000里
帯方郡の役所から帯方郡領域南端までの距離を忘れている。方四千里という意味も
理解できていない。方四千里というのは、四千里×四千里ではない。それの同じ面積
というだけで、形が正方形だと言っているわけではない。
>B對海國が方可400餘里であるから、南行ベクトルは400餘里
>C一大國が方可300里であるから、南行ベクトルは300里
島の大きさなんぞ関係のない話だ。使者は 対馬国、一大国のそれぞれ首都
に上陸し、またそこから船で出ただろう。
>帯方郡庁(ソウル)から南へ8000餘里(約560km)は、熊本平野緑川下流付近。
何のために(
307 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 19:06:21.29
>>290 >方可4000里であるから、南行ベクトルは4000里
帯方郡の役所から帯方郡領域南端までの距離を忘れている。方四千里という意味も
理解できていない。方四千里というのは、四千里×四千里ではない。それの同じ面積
というだけで、形が正方形だと言っているわけではない。
>B對海國が方可400餘里であるから、南行ベクトルは400餘里
>C一大國が方可300里であるから、南行ベクトルは300里
島の大きさなんぞ関係のない話だ。使者は 対馬国、一大国のそれぞれ首都
に上陸し、またそこから船で出ただろう。
>帯方郡庁(ソウル)から南へ8000餘里(約560km)は、熊本平野緑川下流付近。
何のために南行した距離を出したの? 中国人が中国のどのあたりになると認識して
いたかが問題なんじゃないのか? 日本の地理でどこになるなんて無意味だ。
308 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/20(日) 19:07:03.32
>>304 なるほど儺縣か。ということはやはり奴国は儺縣なのか…。
その程度のものが国と書かれているのなら、
邪馬台国が山門郡や山門郷ということもあり得るが、果たして…。
>>308 古代も江戸時代も、移動手段はさして変わりない
この移動手段こそ勢力範囲を決める第一の要素であり、1日で到達できる範囲がおおむね勢力範囲だったらしい
よってクニの大きさは、江戸時代の旧藩くらいに思えば、当たらずといえども遠からずじゃないの
310 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/20(日) 20:04:56.59
>>309 なるほど。試しに九州の藩を数えてみたら36藩あった。
肥前にやたらと小藩がたくさんあるから、それを整理すれば30藩くらいなものだ。
そうすると倭国の30国に一致する。
まさかとは思っていたが、邪馬台国は九州か…?w
帰宅。
昨夜から後輩を自宅に泊め、玄海酒造さんの麦焼酎『壱岐』を
呑みながら、色々な談義を交わし、現地調査の段取りして出発しました。
後輩は古事記、日本書紀にも明るく、現地訪問時の見解も
的を得てたりして心強かった。古墳の造りとかの解説とか感嘆モノ。
小城から日が落ちる前にと、急ぎ比定邪馬台国に行き、女王の墓と
仮定してた場所まで行くが、装備が無ければ中々近付ける場所ではなく、
今日は見送る事にした。どうやら女王様は中々の面食いらしい(苦笑)
今回の調査(?)で一番の収穫は、自己比定地に古墳郡を見付けられた事。
太良町近辺にあれだけの遺跡があるとは知らず、自分の目で石室の内部まで観察出来た事は嬉しかった。
残念なのは殆どが盗掘に遭っており、決定的な物証が現在出来ない事。
しかし後輩曰く…
『古墳が有るって事は、何等かの勢力が…間違い無く居たって事ですよ』
…との言葉は、自分の見解に物凄い自信を与えて呉れた。
俺の中では完全に此処(太良町近辺)が投馬國と認定。
もちろん反対される方もいらっしゃるでしょうが、一度自己比定地に
赴かれ、遺跡等を見付けたらテンション一気に上がりますよ!
古墳見付けた後の竹崎城展望台からの眺めは、ホントに最高でしたから。
長々とスイマセン。後は小城羊羮食べながらROMります(笑) ノシ
なるほど、九州は36藩。これは役立つ新知識だ。
卑弥呼さん、ありがとう。
>>311 おっかれさま
女王さまに近づけなかったのは残念だけど、今日のガラケー旅はgoo
卑弥呼が生きた九州路をゆく古代旅、次回もよろしく願います。
>>310 魏志倭人伝の国々と江戸時代の九州各藩を対比すると、あれー、ビクリしたぞなもし!
まっこと具合よく対応してるわ
対 馬 国 − 壱岐国 − 末蘆国 − 伊都国 − 奴 国 − 不彌国・・・
対馬府中藩− な し − 唐津藩 − 小城藩 − 佐賀藩 − 蓮池藩・・・
>まさかとは思っていたが、邪馬台国は九州か…?w
もちろんそうですよ。
あの、失礼ですが、大丈夫ですか?
ないないw
今日は、さわやかな書き込みが多かったな〜
これで満州さえ来な....(以下略
318 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 22:35:39.80
319 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 22:36:04.19
今時、九州説以外の説があるとは思えんね
30年前から来た人ですか?
321 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/20(日) 22:46:46.69
>30年前から来た人ですか?
と百年前から来た人が申しておりますよ。
本当に九州説なんて成立すると思ってるのかw
妄想するにはいいだけでしょ、結局。
筑紫の方は支藩で、小藩の扱いだが、
薩摩藩は藩の名前がない豪族ってだけで
実質、小勢力が各地を分割して治めている構造は、
あまり変わらないような気がするな。
薩摩藩も豪族、氏族はいっぱいいるでしょ。
卑弥呼の塚は、棺を直接埋めて、室なしなので、
前方後円墳のような、立派な古墳じゃなかろう。
南九州は投馬国ですよ。
>>323 典型的な精薄。
wなんか付けて何のつもりかねえwww
328 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 00:03:58.19
卑弥呼の塚の埋葬者が♂だったりしたらびっくり。
で、結局九州説は何処を候補にして誰を卑弥呼に比定するの?
全く進歩が無いのは流石に端から見ても暇つぶしにしか見えないよ。
330 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 01:12:40.45
誰を卑弥呼に? 卑弥呼は卑弥呼であってそれ以外の何者でもないだろ。
畿内説の妄想かなあ。
その方が九州説の妄想ごっこには都合がいいだろう。
所詮行程パズルしかやること無いだろうし。
パズル大いにけっこう。通常パズルの答えは1つ。
今まで北部九州、近畿説が両立し得たのはパズルどころか、
それが単なる妄想合戦だったから。
予算欲しさの一部の考古学者が引っ掻き回した3世紀の倭国の議論も
ようやく適切な議論が始まるだろう。
>>331 お前よっぽど馬鹿だな。
一度言われたことは憶えるもんだ。
日本語も読めないのか。
334 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 04:26:05.31
>>306 >方四千里というのは、四千里×四千里ではない。
@方四千里というのは、四千里×四千里の正方形の土地面積
A方四千里というのは、概形が四千里×四千里の正方形の土地
>島の大きさなんぞ関係のない話だ。使者は 対馬国、一大国のそれぞれ首都
>に上陸し、またそこから船で出ただろう。
島の大きさが重要である。
「始度一海千餘里」「南渡一海千餘里」「又渡一海千餘里」「東渡海千餘里」
渡っているのは、千餘里の大きさの海である。「千餘里」は「海」を形容しているのである。
目的地から目的地までの距離が千餘里なのではない。
目的地から目的地までの距離が千餘里である場合の表現は以下に示す。
「循海岸水行・・・・到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
「始度一海 至對海國 千餘里」
「又南渡一海・・・至一大國 千餘里」
「又渡一海 至末盧國 千餘里」
「女王國東渡海 復有國 千餘里」
>何のために
別の目的の為の準備
335 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 05:01:48.84
>>306-307 >帯方郡の役所から帯方郡領域南端までの距離を忘れている。
「從郡至倭」の「從」が「七千餘里」の始点が郡庁であることを示している。
尚、此の文の基点は魏都の洛陽である。
都洛陽から見て郡庁の先は、狗邪韓國まで韓地であるから、
南水行行程は、韓地概形方可4000餘里の4000餘里だけとなるのである。
>>318 『佐賀の人達は森も林も開墾して、見渡す限り畑や田んぼにしてしまう』
それぐらい働き者が多い…って意味です。STSのアナウンサーが以前言ってました。
違う意味で言われたのは、自分が思うに、幕末の時に滑り込む形で
官軍(薩摩・長州・土佐・肥前)に加わったので、九州の各藩のやっかみからかと。
藩主の鍋島さんがかしこくて、
明治維新の時に結構うまく立ち回ったからねえ。
>323 :日本@名無史さん:2013/01/20(日) 23:23:09.97
>本当に九州説なんて成立すると思ってるのかw
>329 :日本@名無史さん:2013/01/21(月) 00:45:02.11
>で、結局九州説は何処を候補にして誰を卑弥呼に比定するの?
前スレ読んでないな
それにこのスレの前の方も読み飛ばしてるし・・、不都合は目に入らぬ典型畿内原人、しつこいぞ。
>>318 さがんもん・・、のことはずっと以前から聞いてる
古くから多くの人口を抱え、切磋琢磨というか、競争苦労したことの証でもあろう。
であればこそ、伊都国も奴国も不彌国も、この平野にあったのではと私は睨んだわけだ。
>>338 >前スレ読んでないな
それにこのスレの前の方も読み飛ばしてるし・・
自意識過剰じゃないですかね?
>>340 あ、そうですか、案の定、語るに落ちるですナ。
21スレもありますからね。いろんな人がいろんな九州内比定地を述べてますけどね。
>>339 今は田舎県に数えられますが、一昔前は大藩ですからね。
横浜・神戸なんか、ホントに只の漁村だったんですよね。
事の始まりから考えたら、絶対に大陸に近い九州からな訳で。
倭國は環有明海沿岸国家を形成していたと、昨日確信しましたよ。
彼処(竹崎)から火を焚けば、三世紀当時の真っ暗な夜は…
一体どこら辺まで光が届くのか?吉野ヶ里まで届きそうだった。
俺は佐賀県民では無いですが、一度月夜の有明海を見て欲しい。
鏡の様な、波穏やかな美しい海です。
343 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 18:48:34.77
九州説でも西都原遺跡、平原遺跡、吉野ヶ里遺跡、宇佐神社を挙げるやつはすでに論破対象だろう
344 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 18:53:48.65
何処に有ったか解ってないのに論破も糞も無いだろ
どれも等しく一仮説
345 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 18:59:37.75
台湾説でもエジプト説でも成り立つからな
346 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 19:10:45.45
魏書東夷伝からの手掛かりは方角と距離
まずクリヤすべきはこれだろうねえ
347 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 19:37:10.13
クリヤしようがない
うん、クリヤできない場所はとりあえずざんねーん
349 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 19:45:01.32
方角と距離でながーいこと論争して、いまだに結論が出ない。方角と距離によ
るのではなく、別な尺度を使って邪馬台国を見つける方法を志せ。
原本の方角を修正したりしてはあきまへんわなあ、まずそこでざんねーん
皆が納得する、全てクリア出来る場所はないですからね。
まぁ有明湾沿いじゃないのは確か。
352 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 21:01:56.89
東南のを出発時方向と理解すると何も問題とか無いね
353 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 21:03:55.70
大体倭人伝の記述自体が合ってるかどうかもわからないのに
三国志自体が誤記誤写いくつもある
魏使が正確に把握したのかも解らないし三文した倭人が正しい事いったともわからない
倭人伝の記述は参考に留めておくべきだな
354 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 21:06:25.81
奴國を除いた傍國の戸数の合計のが七萬戸で、まとめて邪馬壹で問題なかろ
355 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 21:09:04.92
>>350 おまえ原本もってるのかよ(笑)
はやく考古学会に出せ(笑)
356 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/21(月) 21:09:08.50
張華は一時期幽州に左遷されていた。
この男は博物誌を書いたほどの人物だから、東夷にも興味津々だった。
当然、倭にも関心があった。
倭に渡った経験のある民間人などから日本の情報を蒐集した。
陳寿は張華から得たそれらの情報を倭人伝に書いた。それだけである。
魏使は日本には来ていない。
陳寿のあの紀行文は日本に来た民間人の体験記である。
357 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 21:10:16.33
聖域の「お山」のクシフルのをまたいで
二萬戸の奴國が広がっていてもなんら不思議とか無いでしょ
358 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 21:11:04.25
359 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 21:16:14.36
斯馬國からぐるっとまわって烏奴國に至るわけだけど、
烏奴國のなごりで烏越の地名が残存しているしね
坂本峠越えて那珂川原流域巡って板屋峠超えると
奴國に戻れちゃったりするけどね
360 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/21(月) 21:18:01.57
伊覩縣−伊都国
儺縣−奴国
この比定は一見不動のようだが、
伊覩縣は果たして奴国より西にあったのだろうか?
日本書紀の記述では北九州市は伊都国なのだが。
>>356 そりゃ当然
海流の影響を考えると松浦→壱岐→対馬→半島という経路は日本から半島へ向かう時のもの
半島→日本の場合には、半島→対馬→沖ノ島→宗像という経路があった
わざわざ海流に逆らって非効率的な経路を使うはずがない
>>355 なかなかお察しの良いお方ですねえw
えーと、私の手元にあるのでは末蘆国から東南陸行八百里となってますねえ、ん、八百里??
>>352 そう。
九州上陸地点の末盧國(唐津比定)を水陸基点にすることで全て符合する。
詳しく書くのは面倒臭いので、畿内論者は前スレ読んでくれ。
んで満州さんは早く九州論者に転じてくれw
あと、宇佐神宮ネタで一つ面白い見方がある事に気付いた。
書けるタイミングに成ったら投下します。
>>363 末蘆国(唐津)の水陸基点は最大のポイントであるに同意
また宇佐神宮の神官も無関係でないようだ、これも投下期待します
365 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 21:38:28.33
所詮無駄な考察だよね
暇潰し以上の価値はない
366 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 21:38:46.00
>>362 いいから早く原本発表してくれ(笑)
出し惜しみするならオークションにでも出せ(笑)
億はつくだろう(笑)
367 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 21:46:51.99
烏奴国はうなぎの蒲焼の発祥地です
満州さーん、そろそろコテ変えていただいてもいいんじゃないでしょうか
さしたる工事ではないとおもいますよ
「満」を「九」に変えるだけでよさそうですから、すぐすむと思いますよ。お願い。
結局ここの連中は行程パズルに戻る訳か‥
370 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 22:28:48.05
邪馬台国は満州〜蒙古にあった・・・
先人は満州蒙古を略して「満蒙」といったが「満古」としなかったのはなぜだろう
国内最古か…新潟「城の山古墳」から弓の装飾品
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130115-OYT1T00337.htm?from=main2 新潟県胎内市教委は15日、同市内にある古墳時代前期(4世紀前半)の「城の山古墳」から
国内最古とみられる弓の装飾品「両頭金具」が見つかったと発表した。
このほか東日本で出土するのは珍しい「盤龍鏡」と呼ばれる鏡も見つかった。
同市教委によると、両頭金具は約2センチで、鉄製とみられる。これまで、長野市の大星山
3号墳(4世紀前半)から出土したものが国内最古とされていた。
同古墳の年代などと比較し、出土した両頭金具は数十年遡ることが判明したという。
また、盤龍鏡は直径約10センチの銅鏡。中国の後漢(1世紀後半〜2世紀前半)か魏晋代
(3世紀中頃)に作られたものとみられる。近畿地方や西日本で多くの出土例があるが、
東日本での出土は珍しい。新潟大の橋本博文教授(考古学)は「大和政権からもたらされた
可能性が高い」と指摘する。
城の山古墳からは、銅鏡や勾玉など、近畿地方でよくみられる副葬品がそろって出土。
日本書紀の記述より300年も前に、大和政権の影響がこの地域に及んでいたと考えられ、
同市教委などが昨年9月に副葬品を掘り出して調査していた。調査では、ヒスイ製の勾玉や
大刀など計19点が、古墳時代前期の出土品としては本州最北だったこともわかった。
3月3日に同市でシンポジウムを行い、出土品を一般公開する予定。
(2013年1月15日11時04分 読売新聞)
373 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 22:48:10.07
>>354 >奴國を除いた傍國の戸数の合計のが七萬戸で、まとめて邪馬壹で問題なかろ
問題あり
邪馬壹國だけで7萬餘戸
伊都國は5萬餘戸
奴國は2萬餘戸
不彌國は1千餘戸(=1千餘家)
合計の女王國は14萬1千餘戸
景初二年(238年)までは倭に女王國はあったが倭國はなかった。
景初二年(238年)に卑彌呼が假金印紫綬で親魏倭王になることにより倭國が成立したのである。
374 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 22:53:45.41
>>373の続き
正始元年(240年)に詔書印綬により卑彌呼は倭國王となり正式に倭國が成立した。
375 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 22:54:12.25
376 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 22:55:27.77
>>363,
>>364 >九州上陸地点の末盧國(唐津比定)を水陸基点にすることで全て符合する。
これまでの主張を見ると、「佐賀県の或る地域に比定する伊都国まで来た魏使一行は唐津に比定する末盧国に
引き返して魏の船で西へ向かい、五島列島の傍らを南下し、天草と島原の間を通り抜けて有明海に入り、佐
賀県太良町に比定する投馬国の港に入った」ということだろうね。
だが、なんでそんな面倒なことをしたのかねえ。
魏船を使うなら、末盧国から投馬国の港に入ったのちに伊都国の近くまで船で行けば往復千里の陸行をせずに
すむだろに。あほかいな。
4世紀前半ならヤマト王権の影響を受けた遺跡はこれからまだまだ見つかる
378 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 22:59:03.80
合計の女王國は14萬1千餘戸
合計の女王境界内にある、女王國以南のは9萬2千餘戸
379 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:03:40.78
もう倭人伝信者は太平洋上に古代国家があったでよくね?
倭人伝のあーよめるこーよめるは時間の無駄無駄
380 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:05:53.47
>>361 >海流の影響を考えると松浦→壱岐→対馬→半島という経路は日本から半島へ向かう時のもの
海流だけでなく潮流の動きがもっと重要である。
魏使の帰路は壱岐と対馬の西岸を通るルート。
半島→対馬→壱岐→松浦川(松浦〜博多湾のどこでも可)の魏使の往路は、
対馬と壱岐の東岸を通るルート。
381 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:12:28.26
>>375 ご指摘の通り
>>373の修正
× 伊都國は5萬餘戸
○ 投馬國は5萬餘戸
邪馬壹國だけで7萬餘戸
投馬國は5萬餘戸
奴國は2萬餘戸
不彌國は1千餘戸(=1千餘家)
合計の女王國は14萬1千餘戸
382 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:12:38.12
景初二年(238年)までは倭に女王國はあったが倭國はなかった。
景初二年(238年)に卑彌呼が假金印紫綬で親魏倭王になることにより倭國が成立したのである。
思いつきとしては悪くはないな
( -225)「男子爲王」
「共立一女子爲王」(225)以降卑弥呼没年(241)まで 「女王國」
(241-247) 「男子爲王」 「男王國」
(247- ) 狗奴國の血筋の子の腋邪狗が夫の「女王國」
383 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:14:23.06
>>379 議論に入り込めないので悔しいんだろ。ボーヤはこんなところに来てはいけないよ。
384 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:17:37.53
>>376 末盧国から東南五百里で伊都国つまり佐賀市、そこから水行二十日で投馬国つまり薩摩川内、
伊都国から水行十日陸行1月で邪馬台国つまり都城盆地あたり。
これが正解だよ。
根拠が全くない妄想比べを議論とは言えないな。
386 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:27:31.78
>>384 ほうそうかいな。
じゃ聞くけど。
「水行二十日」や「水行十日陸行一月」は魏使が行くのに要した日数かね。それとも倭人からの聞き取り
情報かね。
387 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:29:51.13
>>386 使者は邪馬台国を訪ねたんだよ。単なる聞き取り情報ではない。
388 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:39:09.68
>>387 ほうほう。使者(梯儁も張政も)は女王卑弥呼に会うために来たのだから、邪馬台国へは行ったと考える
のが自然だね。
だが、それなら何故一大国なり、末盧国なりから九州の西回りで邪馬台国に直行しなかったのかね。
389 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 23:56:33.21
海流に逆らうのは大変な苦労が伴うし、危険なことだ。末盧国から伊都国までを陸行する
ことで有明海へ出られる。あとは海岸沿いに南下するのがもっとも簡便だ。
390 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 00:36:16.75
>>388 >だが、それなら何故一大国なり、末盧国なりから九州の西回りで邪馬台国に直行しなかったのかね。
投馬國へは九州の西回りでいっている。
帯方郡郡庁から投馬國城柵までが水行20日(1600km)の行程。
邪馬壹國城柵へは帯方郡郡庁から末盧國まで水行10日(11400餘里≒800km)の行程。
あと末盧國から邪馬壹國城柵までは陸行1月(80km)の行程。
391 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 01:48:02.46
邪馬台国の位置特定は、つくづく想像の世界だなあ
392 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 01:52:27.62
発掘調査の成果を待ちましょう
それでも特定は無理だろうけど、当時の日本を浮かび上がらせられるだろう
>>376 引き返すんじゃなくて、魏國から直接行く経路を纏めて書いて有るのです。
末盧國に入国(九州上陸)し、伊都國→奴國→不彌國までの行程は、
まだ初期段階で魏使が行けた範囲内のレポ、許された範囲内ってコト。
後に信用を得て、船で行けるルート(有明海)を教えて貰い、
その事を継ぎ足している。投馬國水行20日、邪馬台国〜…は後の話。
つまり、直接女王國へ船で行ける工程が加筆されてると。
…前スレ読んでくれ…
結局行程パズル、妄想ばっかりじゃないか。
証明する物証を捜さなきゃな。
395 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 09:12:03.06
行程パズルは妙なる表現、
邪馬台国行きのジグソーパズルやすごろく風に読んでは陳寿が泣く。。。
観光案内書の下手なイラストアクセスマップとはちがうもんね
396 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 09:58:16.00
>>393 ほぼ同意
魏國(帯方郡)から直接行く経路を纏めて書いて有るのです。
投馬國は、不彌國(吉野ヶ里)に南接しており、有明海東岸になる。
みやき町三根から大牟田までの有明海沿岸(筑後平野沿岸地域)。
邪馬壹國は、不彌國(吉野ヶ里)に南接しており、
内陸で投馬國の東側(筑後平野内陸部及び北野平野)にある。
末盧國までの水行10日(800km)と末盧國からの陸行1月(80km)。
目的到着地は狗奴國との紛争地(矢部川南岸筑肥山地山麓地域)
>>394 君の家に全く知らない人が訪ねて来て、君の家の間取りやら
教えたり、『俺の部屋見ますか?』に至る迄の工程を考えてみよう。
398 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 10:15:39.67
陸行、水行の基点を末蘆国に置くというのは斬新
理解を進める上でおおいなる進歩と思う
邪馬台国に一歩近づいたようだ
>>395 その下手なイラストマップすら存在しないけど?
正確な計測技術があれば、少なくとも
東アジアの絵図の類が皆無なのは説明出来ないな。
>>398 それが行程パズル。
解釈次第で結局何処へでも行けてしまう。
401 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 11:31:47.36
>>399-400 そのようなメカニカルな双六絵図を期待するからうまく進めないのだ
陳寿の文章というか、筆致をたどれば、一つの特徴がある
分かりやすい例を挙げれば
「国境の長いトンネルを抜けると、外は雪国だった・・」
これば単に文字列の美しさだけではないであろう
読めば、心ある者の目には景色が浮かんでくる、しかも白ではあるが鮮やかな色彩もある
東夷伝の稀有の技はこれなのだ
パズル云々は、どうにも解釈できない畿内説の僻み。
あと、よく陳寿は美文だからとか言うけど、解ってる気になってるだけじゃないのと思う。
正確な文法や発音も分らないのに、少なくとも現代日本人が理解できるわけがない。
403 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 12:26:42.44
つまり東夷伝は、
郡から女王国までの基本行程を川のごとく描いているのだが、その道すがらに濃淡を施している
濃いところ、薄いところ、淡いところ、見る者が想像しておぎなうところ・・
さらに、近く大きく書くクニ、遠く小さく描く風景、
という具合に、遠近法とグラデーションも用いている
またさらに、西方にはかすかに会稽山を配し、東方は船行1年にして至るべし・・、とフェードアウトさせている
万二千余里のかなたにあるはずの女王之都は、微にいり、細にわたって描き、
また、卑弥呼を助けるのは男弟であると出自プライバシーにも言及して、
最大の見どころに仕上げている
魏志東夷伝を、そのまま王朝付きの画員に渡せば
たちどころに一幅の大絵図に仕上げてくれるだろう
お分かりかな、これは中国人の心にしみ込んでいる伝来の山水画の世界なのだ
思い込みでしょう。
いったん景色が浮かんでしまったら単語の順番を入れ替えてもおそらく何も気付かない。
どちらでも良いが、文面を只つらつらと上から読むだけでは理解不能になる。
当時の地理的状況、背景、環境等を考え、意識を三世紀にタイムスリップさせて
読み進めると、意外と難無く解けたりする。現代人からの目線が外れる。
ぶっちゃけると、俺は邪馬台国(倭國)が存在するなら日本の何処でも良い。
只、どう考えても九州から外れるとか無いし、倭人伝を読めば読む程思えない。
406 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 12:47:49.03
>>404 どうだい、今までこんな講釈を述べた者はおるまい
今の世に陳寿ありせば、魏書東夷伝で、紛れもなくノーベル文学賞を授与されたであろう
追いつくには必死の努力がいる >401,403
倭国の風景が目に浮かんでくるようだ、等はよく聞くフレーズ。
ホントかねと思う。
408 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 13:05:29.94
>>407 大きく分けて人間には二種類いる
画像で記憶する人間と、文字に変換して記憶する人間だ
モンゴル人は、通りすがりの風景・出来事をすべて画像として記憶し、大平原の道をまちがえないそうだ
これとは別に、すべてを文字・漢字に変換して記憶する人種もいるそうだ
中国の科挙に合格するにはこの手の人物でなくてはならなかったであろう
私はモンゴル人に近いようだ
しかし君は、科挙に向いてるタイプと見た
409 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 13:09:01.57
倭人伝の行程を実際に体験した行程と伝聞をつなぎ合わせているとか、切ったり貼ったり
するようになったらそれは読めていないという証拠だよ。
>>405 倭人伝を読めば読む程九州から離れて行きますが。
何にせよ証明する物がなけりゃ所詮推測でしかない。
倭人伝を虚心坦懐に読んでその行程をたどったならば
行き着いた邪馬台国はなんと驚いたことに自分の郷里であった
412 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 14:21:15.35
413 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 14:23:45.74
中田力著『日本古代史を科学する』を読め。
宇宙考古学とは何かと思ったら地図見てるだけだった。
416 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 15:15:54.37
>>410 どうぞどうぞ九州から離れてくだせえ
ついでにこのスレからも離れていただくと有りがたいんですけど
九州説は年々ガラパゴス化してるな。
ネタもループだし、進展が無さ過ぎるよ。
418 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/22(火) 19:09:55.90
日本書紀の記述によれば、北九州市は明らかに伊都国の領域なのである。
だから佐賀市が伊都国だとは考えにくい。
こういう資料的根拠も挙げずに、倭人伝の方角だけを根拠に、
やれ東南だから佐賀市に向かった、とか、佐賀市が伊都国だ、
などと空想しても仕方がないのである。
いくら何でも北九州市も佐賀市も伊都国だということはないだろう。
そんな広大な伊都国が戸数千戸なら、戸数二万の奴国はどこになる?
419 :
卑弥呼は九州にいた:2013/01/22(火) 19:18:22.83
(もと〜い)
日本書紀の記述によれば、小城市は明らかに伊都国の領域なのである。
だから佐賀市が伊都国だとは考えにくい。
こういう資料的根拠も挙げずに、倭人伝の方角だけを根拠に、
やれ東南だから佐賀市に向かった、とか、佐賀市が伊都国だ、
などと空想しても仕方がないのである。
いくら何でも小城市も佐賀市も伊都国だということはないだろう。
そんな広大な伊都国が戸数千戸なら、戸数二万の奴国はどこになる?
420 :
卑弥呼は九州にいた:2013/01/22(火) 19:25:59.32
なるほど
>>418 の満州は、
北九州市を、小城市に読み替えれって暗号だったんだね!!
421 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 19:43:26.11
小城市が伊都国なら、佐賀市の北の肥前国庁跡あたりは不彌国、南の佐賀城あたりかは奴国になるんか?
どのくらい陸化しとったんかの
烏奴国の次が奴国だから不彌国から東はまた脊振山地南麓まで奴国か
烏奴丼國
423 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/22(火) 19:54:40.09
宇美が不弥国だという通説も明らかに間違いである。
福岡市と宇美はあまりに至近距離である。
いくら何でもそんなに近い距離が別の国であるはずがない。
では宇美の他に不弥に類する地名があるかといえば、無いのである。
だから不弥国は不明である。
むしろ馬韓の不弥国と間違えているのではないか、という疑いが出てくる。
424 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 19:56:57.96
佐賀市佐賀城近くには、樹齢1400年のクスノキがある神社がある。
その頃には少なくとも集落はあっただろうな。
そして、その神社は嘉瀬川上流のヨドヒメ神社の下社だから、
上流から下流へ、土地が広がってきたことが伺える。
ヨドヒメ神社の大和町から佐賀城付近までの全域を、
個人的には奴国と見ている。
二万戸だから、それなりの面積が必要。
また、佐賀城と大和町のほぼ中間地点に縄文の東名貝塚遺跡があるので、
縄文時代はこの辺りが海岸線だったんだろう。
そして、弥生時代に近づくにつれ、陸地が広がっていった。
不弥国は城島から大川あたりの、筑後川下流域だろう。
城島にもかなり古いクスノキがある神社がある。
もっとも、佐賀も大川城島も、かなり後までまだ水が残っている湿地帯が
あっただろうことも、地層からはわかっている。
小城=伊都國
不彌國=吉野ヶ里
奴國=佐賀市城内付近
結論出てなかったっけ?
426 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 20:01:12.57
福岡市と宇美を不弥国とは取らないが、
福岡市の御笠川、那珂川流域と、多々良川流域は、間に山があるから、
別の集落であっても、問題ないと思うよ。
それに、海岸線をもう少し南に持ってくれば、
福岡市と宇美町はほぼ完全に別れる。
427 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 20:04:28.55
あと、ついでに、
時代的にはのちに福岡の集落と合併するだろうが、
室見川流域も、別の集落だね。
こちらは糸島の集落とも関係が深そうだ。
428 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 20:23:07.34
アマテラスが筑紫生まれで、倭王武と日本書紀編纂者が朝鮮半島の事を「海北」といってるのだから、大和朝廷のルーツは北部九州で間違いない。
さらに、弥生時代の墓から鏡が出るのは、福岡県と佐賀県だけだ。
よって、高天原=邪馬台国は北部九州である。
429 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 20:23:51.14
伊都国城柵は佐賀市の北の肥前国庁跡
伊都國の領域は佐賀市大和町、千戸の領域
431 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 20:27:50.41
一
大
國 ほらさ、天國って読めたりするだろ
>>424-425 もともと山際に集落があって、だんだん海側へ耕地広げていったと見てよさそうだね
そうすると
伊都国は小城市から海岸まで、
奴国は佐賀大和から佐賀市をへて海岸まで、
不彌国は神埼吉野ヶ里から諸富・城島方面まで、 ・・・みたいに、いわばタテ縞模様に連なっていた感じかしら
433 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 20:37:57.28
434 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 20:47:52.61
435 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 21:02:17.34
不彌國領域は吉野ヶ里遺跡の東西周辺地域1000家(5000人)が住むところ。
吉野ヶ里遺跡の南1〜2kmには筑後川河口の海。
筑後川河口の湿地帯の北側の台地に不彌國城柵(吉野ヶ里遺跡)。
筑後川河口南岸のみやき町三根から城島は投馬國の領域
>>432 実は今の町や市の境界が、海や筑後川方向に、
細長くなってますね。
そうそう代わるものじゃないということでしょう。
437 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 21:11:27.97
>>436 理解しました。改めて市町の地図を見てみます。どうもありがとう。
>>432 城柵、環豪で囲った集落(國)を拠点とする以外の、
耕作地帯を含めるとそれに近い割り振りになると思う。
江戸期とかもそうだけど、昔から谷や川が境界線として使われてた。
佐賀平野だから谷は無いから…境界線は川だろね。
>>439 見渡す限りの平坦市街地・耕作地が続く佐賀平野のようなところで生活した経験がないので、
土地の人々の慣習・日常をどう見たら良いのかよくわからなかったけど、多くの場合、境界は川で納得しました。
どうもありがとう。 >432
441 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 21:57:56.33
>>437 海抜5mとかったら確実に水の底になる素性の場所だけど気にならないの?
442 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/22(火) 22:13:07.23
>>426 福岡市と飯塚市の間には山脈があるが、
宇美町はどう見ても福岡市の領域である。
それと儺縣が福岡にあるのに、
それを佐賀方面に持っていくとは、君らは無茶苦茶すぎる。
まるで中学生だ。呆れて話にならない。
443 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 22:16:59.86
>>441 弥生末期では現在の海抜5mは海水位よりも高い。
且つ有明海沿岸は沈降し続けている。
佐賀平野の海抜5mでは弥生遺物が出土している。
444 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 22:22:03.26
>>443 有明の干満差が5mで済むわけないのに かあいそおに 水の底
ちょい補足を入れると、鳥栖はその昔、對馬(対馬)藩の飛び地であった。
まあ、上記は三世紀頃の事には余り関係無いとして、
佐賀県と福岡県の境界線として使われている、筑後川に注目すると面白い。
今の筑後川の流れに沿って綺麗に二分されておらず、
ぐにゃぐにゃと蛇行した形で区切られてる。
佐賀県だと思ってる所が福岡県だったり、はたまたその逆だったり…
詳しくは知らないが、コレは県境を決める際の、明治初期の
筑後川の流れがこうだった為の…その名残なのだろうか?
何を言いたいかと言うと、もしそうなら三世紀頃の筑後川の流れも、
今とは全く異なる流れであった可能性があるよなと。
>>435投馬國は伊都國から南でしょ?
佐賀平野の標高の低いところにも、弥生遺跡や縄文遺跡が出るのは、
沈降前は比較的標高が高かったということでしょう。
というか、いまでも沈降しているところはしてるからねえ。
447 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 22:32:07.43
448 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 22:33:11.63
>>441 追加
東名遺跡では、海抜3mの地中から縄文遺物が出てきた。
これも佐賀平野が沈降し続けている証拠。
449 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/22(火) 22:33:24.16
日本書紀に、都怒我阿羅斯等が穴門に来たとき、伊都々比古という男が、
俺様がこの国の王だ、俺様の他に王はいない、と言ったという話がある。
また仲哀天皇が筑紫に来たとき、伊覩縣主祖五十迹手が、
穴門引嶋で天皇を迎えたという話が載っている。
これを見ると穴門が伊都国の領域であることは明白ではないか。
それなのに君らは伊都国を佐賀に持っていこうとしているのである、年がら年中。
いいかげん中学生じみた空想は棄てなさい。
450 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 22:40:56.10
>>393 >末盧國に入国(九州上陸)し、伊都國→奴國→不彌國までの行程は、
>まだ初期段階で魏使が行けた範囲内のレポ、許された範囲内ってコト。
あほかいなと思っていたけど、やっぱりアホだったみたいだね。
魏使の梯儁は卑弥呼の朝献に応えて詔書や金印や下賜品を届けに来たものだ。
魏に臣下の礼をとった卑弥呼や関係者は大喜びで迎えたはずだ。
魏使が許された範囲内でしか動けず、不彌国辺りまでで足止めを食らうなどというのはあり得ない。
少しは勉強して書き込むことだな。
451 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 22:42:34.46
452 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 22:43:02.60
東名縄文遺跡あたりって、
地元の人間は絶対に住みたくないというくらいに、
標高低くて水はけ悪くてね、
昔はちょいちょい洪水に沈んだそうな。
最近は、高木瀬よりのところが住宅地になり始めているが、
なんだかなあ。
国道34号線や、国道264号線を境に、ちょっと標高や、
水の流れが変わっている。
このへんは昔の海岸線の名残だよ。
でも、古い遺跡がそれより下にもあるのが面白い。
453 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 22:44:34.48
>>451 川副くらいまで行けば、昔の干拓の堤防もわかるね。
454 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 22:53:08.24
>>434 元浜、太郎丸地区あたりは、堤防あけると、
いまでも海水が入ってきそうな、低湿地帯だね。
そこから、糸島半島の反対側まで、湿地か水路があって、
元岡桑原から北が志摩郡、さざれ石神社あたりから南が伊都郡ですね。
>>450 たわけが、そりゃ後の話だろがタコ。
だから不彌國の南側に投馬國もってくんだよ。
もうちっと良く読んで反論しろバカちん。
456 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 23:00:54.82
457 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 23:08:45.64
>>454 後の世で謂うところの「志摩郡/怡土郡」の広がりと
「伊都國/奴國のやまから西の部分」が対応していると考えている。
後の世で謂うところの「志摩郡」は東西に抜ける水路の南北に展開している。
458 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 23:13:26.40
>>455 なんだこの頭の悪そうなレスは。言ってることがチンプンカンプンじゃないか。
>そりゃ後の話だろがタコ。
じゃ、前の話ってなんだ?
>もうちっと良く読んで反論しろバカちん。
どこを読めばいいのかわからんだろが。読んでほしいことがあるなら繰り返せばいいだろ。
459 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 23:22:39.07
>>458 その前に、一番最初から卑弥呼が朝献に応えたと思ってんの?
461 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 23:41:19.16
>>460 >その前に、一番最初から卑弥呼が朝献に応えたと思ってんの?
意味がはっきりしない文章だな。
「卑弥呼が朝献に応えた」とはどういうことだ?卑弥呼は朝献を行った方で、応えた方ではないだろ。
察するに、「魏の方から倭の女王卑弥呼に朝献をするように誘いの使者を出して、交渉の結果卑弥呼が
朝献した」という妄想に囚われているんじゃないかな。あほらし。
>>461 > 察するに、「魏の方から倭の女王卑弥呼に朝献をするように誘いの使者を出して、交渉の結果卑弥呼が
> 朝献した」という妄想に囚われているんじゃないかな。あほらし。
なるほど、魏の船さえやれやれやって来るのに、魏より文化の遅れた
倭國の船が大陸まで行けたと思ってるんだな、あほらし。
それじゃあわざわざ伊都國に郡使を駐留させんでも良いよな、
何時でも魏國から直接女王様に会う事が出来るんだから(笑)
倭地温暖、冬夏食生菜…
[倭の地は温暖にして、冬夏、生菜を食す…]
軽く見積もっても、半年は滞留してはりまんがな。
463 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 00:25:11.08
>>462 そのあいだにこをしこんだおひともいたかもしれんね。
464 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 00:32:11.83
末盧国から東南五百里とあるのに、それを無視して伊都国を比定しようというアホな
奴がいるな。そんなことを繰り返しても無駄、無駄。
465 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 00:53:02.99
伊都が佐賀にある訳ないよな。
あれは南、九州説の肝である方角すら無視かよw
小城は唐津の東南ですが
壱岐から唐津じゃ距離がまだ足りない、
上陸はもっと東だろう。
469 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 01:42:32.71
普段曲げて読んでるとまともな方角すら分からなくなるらしい。
困ったもんだ。
470 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 02:24:45.14
末盧國のあらいぶのは河口とかではないんだ
リアスみたいなタイプのだと
「好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之」とかできちゃうけど
河口で潜ったってろくなものとれねえしぃ。
末盧國のあらいぶのはおおともだし。
471 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 02:27:29.25
佐賀県唐津市呼子町大友 ね。。。。。。。
472 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 08:16:01.44
>>470 末盧國は京都の久美浜湾のような河口湾のあったところ。
「盧」の字が黒く水の淀んだところがあることを示している。
末盧國は、松浦川河口虹ノ松原南側、夕日山柏崎付近の古松浦湾周辺。
弥生から元寇までの港湾遺跡である中原遺跡がある。
近くには初期の前方古円墳である久里双水古墳がある。
>>470 > 「好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之」とかできちゃうけど
> 河口で潜ったってろくなものとれねえしぃ。
水に深浅無く…明らかに河口だろ。
三世紀だぞ?俺の地元に似たような場所があったよ。
鱸とかめっちゃその湾に入って来てて、親父の船に乗って爆釣りした記憶がある。
今は開拓、汚染等で釣れなくなったと思うが。
船を停泊させた時か、伊都國に行く河口辺りを歩く時に見た光景だろ。
深夜にレスする方は、なぜか時代も方角もズレていらっしゃるようですけど・・
伊都国・奴国・不彌国の三国を佐賀平野に比定すると、方角距離戸数まで良く当てはまります。
魏書東夷伝(倭人伝)の作者も良く調べたうえで書いたんでしょう。
この三国佐賀平野説、人気沸騰でスレも盛り上がってきましたねえ。
三国佐賀平野説はいいんだが
そっから邪馬台国を南九州にもってくやつがこのスレには何人かいるな
476 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/23(水) 09:29:30.07
伊都国も 奴国も不弥も 佐賀にある
投馬国 邪馬台国も 佐賀にある
巨人 大鵬 東南佐賀
巨人 大鵬 有明海
九州説 三度の飯より 佐賀が好き
一年中 佐賀だ佐賀だで 明け暮れる
けふもまた 佐賀だ佐賀だと 書いてゐる
また佐賀か やれやれ佐賀か また佐賀か
北九州、中九州、南九州と、いまだ邪馬台国は九州全土に誘致されてますよ。
それがこのスレのエネルギーでしょう。
>いまだ邪馬台国は九州全土に誘致されてますよ。
それじゃダメだと思うけど。
479 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/23(水) 09:35:39.20
倭人伝 伊都国あれど 佐賀はなし
倭人伝 奴国はあれど 佐賀はなし
倭人伝 不弥国あれど 佐賀はなし
倭人伝 投馬国あれど 佐賀はなし
倭人伝 邪馬台国あれど 佐賀はなし
481 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 09:47:45.10
古松浦湾に似た湾は現代にもある。
前述の久美浜湾や静岡の浜名湖である。
汽水なので漁獲も豊富であったであろう。
大阪の河内湾も汽水で漁業が盛んであったと見られる蛸壺等の出土物がある。
482 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 09:57:12.03
伊都國、奴國、不彌國は佐賀平野
投馬國は筑後平野
邪馬壹國は北野平野筑後平野
以上で決まりだ。
伊都國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬壹國、
五ヶ国全部が筑紫平野にあるのだ。
こちら↑のお方は北九州説のようですね
投 馬 国、柳川藩10万石
邪馬台国、久留米藩21万石 石高はこんなところですか
途中でねじ曲げんだよなぁ…
宝の在りかを自分の所にどうしても持って行きたいらしい。
俺は謎解きが面白いんだけどね。
魏書東夷伝(倭人伝)は、
佐賀平野の南1300里〜1500里に邪馬台国女王之都が有る・・、といってるんだけどねえ
筑後平野/北野平野じゃ、どうにもおさまりがよろしくないなあ
方角が合わぬ、川向うでお隣りすぎる、石高が小さい、
486 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 10:28:31.81
>>483 投馬國、柳河藩・蓮池藩・三池藩 17万1千石
邪馬壹國、久留米藩・秋月藩 27万石
>>486 ほほう、そう来ると思っていましたよ
昔の伊都国前原説を、今人気沸騰の佐賀大和経由に振り替えたわけですね
そうすると、投馬国・邪馬台国が方角的にいっそう苦しくなりますよねえ、ま、あとはご自身でご存分に説明を。
全く年代の違う石高を参考にするって‥
流石にこれは冗談‥いや馬鹿だとしか思えん。
489 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 10:49:52.46
>>485 魏書東夷伝(倭人伝)は、
佐賀平野の南に隣接して邪馬台国女王之都が有る・・、といっている。
邪馬台国の領域はもっと広い。
邪馬台国は城柵が5ヶ所ある4ヶ国の連合国家なんだから。
長官1人+次官3人+女王1人、5人其々が5ヶ所の城柵にいる。
>>486 宮崎県西都市の西都原古墳群と川向うの新田原古墳群等の見学をお勧めします。
古墳時代の凄さに圧倒され、あなたの世界観がひっくり返るでしょう。
仰せの筑紫帝国なぞミニチュア庭園に過ぎませんよ。
佐賀に重要な遺跡があったことは認めるが、
絹や鏡の(ろくなものの)出土がないからな〜
やっぱ邪馬臺国は博多方面だろ
佐賀ばっかり言ってる奴って
ただの自意識過剰なだけと思う。
筑紫平野は鉄刀とムチで稲作農業を強制させられていた農奴・労働者の集落だらけ
城柵間で略奪戦闘を繰り返しており、とうてい当時は雅な都といえるような状態ではなかったろ
>>489 吉野ヶ里では、槍が刺さったままの兵士や、首のない兵士の骨も出てきたそうだ
夢を見ていてはイカン
495 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 11:42:00.60
筑紫平野では、卑彌呼の死後でも数千人が殺される戦争があり、倭國乱の主戦場。
そして卑彌呼が共立された。
戦争の痕跡のない平和な福岡平野に邪馬台国があるはずがない。
496 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 11:52:02.47
自分の推測だが、
二万戸の奴国を収められる面積は、大和町から佐賀市
それを上回る5万戸を収められる投馬国は久留米を中心にして、
甘木朝倉から、八女、瀬高のみやま市まで。
7万戸は熊本県全域
江戸時代の石高は目安にはなる。
弥生時代の地域人口が、少なくとも江戸時代の石高を超えることは
ありえないと断言できるから。
佐賀藩の佐賀市から大和町までの該当する石高は、
推測で40万石程度=40万人
二万戸で一戸あたり4人としても8万人で、江戸時代の石高の1/5であり、
無理な面積ではない。
同じく久留米、柳川、三池、秋月など筑後国で約55万石=55万人
五万戸20万人として、1/3程度である。
497 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 11:54:30.22
吉野ケ里から鳥栖にかけて、戦乱の痕跡が強い。
ここは筑紫国、筑後国、肥前国の国境である。
そして、山や川など、明確な国境線となるものがない。
戦乱が多い原因といえよう。
<福岡平野>
福岡平野(ふくおかへいや)とは、主に福岡県福岡市の中心部から春日市・大野城市・太宰府市にまたがる、御笠川や那珂川、室見川、樋井川などの下流域に形成された平野部のことを指す。
<筑紫平野>
筑後平野及び佐賀平野を合わせたもの
<直方平野>
<京都平野>
499 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 12:28:28.82
ここのは
火の土人と 竺紫の土人のせめぎ合いがあって
2つの土人パワーの境がずれる
というモデルが有効かもしれない。
<筑紫平野> をくわしく調べる
筑紫平野(ちくしへいや/国土地理院の場合はつくしへいや)は、
福岡県・佐賀県の南部、有明海の湾奥に面する九州最大の平野で、
南東を耳納山地・筑肥山地、 北西部を脊振山地、 北東を古処山、馬見山などに囲まれている。
面積は約1200平方キロメートル。
九州最大の河川である筑後川および矢部川、嘉瀬川、六角川などの河川により形成された平野である。
地域的には有明海北岸地域の白石地域、佐賀地域、筑後地域の三地域と、(久留米市を境に)、
筑紫平野北東内陸部の北野地域、の計4地域に分けられる。
ここへ来ると九州説のレベルが低いのが良くわかります。
502 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 12:32:59.53
現状の福岡県と佐賀県熊本県の県境を見ると、
肥前、肥後は分断され、筑後国が大牟田まで伸びている。
肥国は、筑紫国に押し負けたといえよう。
久留米を取られたのが痛かったな。
ちくしょう。
>>489 >
>>485 > 魏書東夷伝(倭人伝)は、
> 佐賀平野の南に隣接して邪馬台国女王之都が有る・・、といっている。
は?
伊都國から南って、投馬國同様アバウトな表記ですがね。
隣接って何すか?まるで辻褄合わせの畿内論者と同じ。
始点と終点を強引に結び付け様としてる。
強引さを説き伏せる為、こじつけ資料を持って来て、如何にも無理が無い様に解く。
倭國を城に例えたら、地理的にも本丸(女王國)は最も安全な場所に置きますがね。
504 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 12:35:10.68
吉野ケ里から鳥栖にかけて2つの土人パワーの境がずれずれする
ということは、
鳥栖は火の土人パワーのマキシマム系の突出ライン
吉野ケ里は竺紫の土人パワーのマキシマム系の突出ライン
とゆうことにはなるのだ。
ここは東九州説は勢いがないな
宇佐が邪馬台国と主張する人はおらんのかね
畿内説は、人影まばらで論議もレベルもない、
ローマ帝国説は、相誅伐して争乱状態、
九州説は、ただいま人気沸騰中。
507 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 12:40:06.49
>>502 さんふうにゆうと
鳥栖は火の土人パワーのマキシマム系の突出ライン とはゆうても
もとのが火の土人パワーのは久留米から山門経由でくまもつに繋がっていたのだ
つーかここで畿内説の名前を出すなよ
スレが臭くなる
509 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 12:40:41.57
岩戸山古墳の石人石馬は熊本の文化の色が濃い。
国境線が決まるまでは肥国の勢力圏の時代が
あったと思っている。
ヤマタイはもっこすの国
卑弥呼伝承がおてもやんに反映されている
>>505 宇佐神宮も、そのうち重要人物として登場するんじゃないでしょうか
513 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 12:45:51.86
>>462 >なるほど、魏の船さえやれやれやって来るのに、魏より文化の遅れた
>倭國の船が大陸まで行けたと思ってるんだな、あほらし。
根拠も挙げずに主張してもダメだね。まるで子供の喧嘩口上みたいで見てるこちらが恥ずかしくなるよ。
後漢書に下記の記事がある。
建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。
安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ請見を願う。
建武中元二年はAD57年。光武帝が封禅の儀式を実施した翌年の正月という絶妙のタイミングを捉えて倭奴国が朝賀
を行っている。当時の倭奴国の海外情報の取得や外交感覚が相当なものだったことが知れる。
安帝の永初元年はAD107年。この頃既に倭国と称する「国家群」が成立していたようだ。そして、生口百六十人を
を献上しているが、これを倭国から運ぶとすれば管理、警護を含めれば相当な人数を船で運んだことになる。記録
にあるようにそれが実行されているのであるから、当時の船も航海術も侮れぬものがあったと見るべきだろう。
北部九州には弥生後期の遺跡から多くの楽浪土器の出土がある。朝鮮半島と北部九州の間で人や物の交流が行われて
いたことが分かるが、十分な性能の船と航海術があったからであろう。
このような史書の記事や考古学的事実を基に考えれば卑弥呼の時代に朝鮮半島へ渡る船も航海術も十分なものがあったと
考えるのが自然だ。もちろん、公孫氏が滅亡するまでは中国の王朝との直接交流はできなかったが、邪馬台国も大陸や半
島情報の入手には力を入れていた筈だ。だから、公孫淵滅亡を知るや直ちに魏に朝献の使者を送ることができたのだ。
514 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 12:45:57.15
鳥栖というか基山の基肄城から、
久留米の高良玉垂宮との間に直線を引くと、
ほぼ、佐賀県と福岡県の県境である。
何時の時代かは知らないが、そう決めたのだと思う。
515 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 12:46:56.82
吉野ケ里のはえろごついのが長期間のであったのだとゆうことは
結果、竺紫の土人パワーが火の土人パワーのを押さえ込んじゃって
優勢だったぽいとゆうことにはなるのだ。
九州ー壱岐ー対馬ー半島南岸は日常的に交易の舟が往来してただろ
517 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 12:55:16.44
掘り出されているどお製の刃物の分布からゆうと
くまもつのは火の土人パワーのがやられてにげてからに
ちょいあとで開拓でビルトみたいなかんじにみえちゃったりするのだ
518 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 13:02:22.87
そのころには
竺紫の土人パワーと火の土人パワーのが和解になっていたとすると
くまもつのを開拓でビルトしたパワーのは
なかよしの竺紫と火の土人パワーのごった煮で
ちがうこわいパワーのが北岸から上陸して来ていたのかもしれないのだ。
熊本藩は、支藩合わせて60万石か。
意外や、大邪馬台国7万戸にふさわしいのう。
静岡県掛川市
佐賀県佐賀市 ←いまココ
岩手県大船渡市
栃木県大田原市
愛知県蒲郡市
神奈川県箱根町
島根県大田市
あれ?
熊本県全域数えると、140万石くらいになるが、
なぜ?
>>521 上の >480 をみてくれ
熊本藩54万石、熊本新田藩3万5千石、宇土藩3万石、以上の細川家関係合計で60万5千石也
どっかから80万石くらいもらってくれば増えるけどな
1000年以上後の資料で何を語りだすやらw
行程パズルの次の暇つぶしか?
少なくとも現在平成のデータよりまし
仮に江戸時代の熊本藩が千石であったなら、3世紀とはいえ邪馬台国7万戸の可能性はゼロである
しかしそれよりはるかに大きい60万石の経済規模なので邪馬台国の可能性は残される
ま、こんな具合に可能性ゼロのクニを落としつつ、パズルを解いてゆくわけさ
>>525 とりあえず、なんなの。ヤフー知恵袋??
527 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 17:25:37.81
女王國の南には、女王國が手に負えない大敵大国狗奴國がある。
熊本県は狗奴國、東鯷人20国さ。
>>527 >倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼は素より和せず
お互い大国同士の国家紛争とは書いてないな。女王卑弥呼と男王卑弥弓呼の不仲が素とあるから、ニュアンスの違いを感じる。
529 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 17:47:36.58
>熊本県全域数えると、140万石くらいになるが、なぜ?
プラスあるふぁー分として、天草、八代、水俣、人吉、阿蘇がある。
大分の一部も含まれているのかもしれない。
530 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 17:55:28.88
>>528 古代では、王の对立即ち国の対立である。
>>530 ま、そう結論をお急ぎにならなくとも。
ここは専門家でもいろいろ解釈のあるところ。
人種が違うためか、出身地が違うためか、氏族が違うためか、それらは同じなのになぜかウマが合わないのか、などなどいろいろありうるのでね。
>>529 そこでお尋ねしたいんだけど、今の阿蘇市は熊本藩細川家の領地ではなかったの??
533 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 18:10:26.31
>>533 古代に阿蘇国というのがあったの、まるきり知らなかったわ。
巨大火山のカルデラの中にクニがあったなんて超関心わいたわ。どっかのページに載ってないのかなあ。
535 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 19:27:43.38
536 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 19:33:21.22
くまもつは出土のがほこ弱いしかかみのも弱い
537 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 19:39:58.22
熊本藩の実石高は寛永年間(江戸時代初期?)で74万石あったそうです。
周辺でカウントされていない地域もありますので、
熊本県全域では100万石くらいはありそうです。
カウントされていない地域で、石高が多そうなのは八代ですね。
539 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 20:40:33.78
>>528 娘と母親の後添えの仲があしい みたいな
スサノオってアマテラスの兄?弟?
となりのお姉さんとの仲があしい みたいな
抗議は生きたまま行え、死と引き換えの抗議は無意味だ、って教えるのも教育
誤爆った、スマソ
545 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 22:33:19.87
佐賀説は消えたのか?
うん
547 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 22:40:32.33
>>531 >ここは専門家でもいろいろ解釈のあるところ。
解釈を捻くり回さなくてもよろし。
二王両立せずだ。
「29ヶ国だけの都合成立した卑彌呼共立になんか従えるか。
伊都國の王とはちがう、従うのはそっちだ。」が卑彌弓呼の立場。
548 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/23(水) 22:46:10.80
春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ佐賀説こそをしけれ
549 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 22:51:58.53
"邪馬台国九州説" 254,000 件
"邪馬台国畿内説" 236,000 件
"邪馬台国佐賀説" 827 件
倭女王卑弥呼 vs 狗奴国男王卑弥弓呼 は 29国vs1国
魏書東夷伝が敵方の王名をわざわざ記載してるのは、男王・卑弥弓呼の出自等をある程度知ってたことを示すもの、
まあ、熟女を巡る一種の内部抗争だったんじゃないの
で、次なる問題は女王国と狗奴国を各々どのあたりに設定するかだけど・・、
それはまた明日ね。(佐賀じゃないよ)
( 追 加 )
"邪馬台国高千穂説" 26,800 件
552 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 00:58:03.88
三国志の中に南と東の誤記があるようだ
それが倭人伝にもあるとして邪馬台国のライバルは関東の豪族けぬ国ではないのかとの説も興味深い
発音もなんとなく似てるし
佐賀は小城国府という言葉が残っているように、
過去の中心部は小城の方だった痕跡がある。
後に佐賀大和に移動するようである。
また、熊本も、古くは宇土半島から八代あたりの
南部地方が中心だったようである。
緑川が境界かな。
佐賀は伊都説か奴国説で、
邪馬台国と比定してる人はいないと思うのだ。
邪馬台国は佐賀を外れる
556 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 10:21:46.59
伊都國、奴國、不彌國は佐賀県
その城柵は、
伊都國 佐賀市大和町惣座遺跡肥前国庁跡
奴國 佐賀市城内佐賀城
不彌國 吉野ヶ里町吉野ヶ里遺跡
とするならば、
投馬國と邪馬壹國の城柵は筑後平野
邪馬台国はダントツ西都市説に驚いた、32万6千件もあったぞ。
そのほか地名別でがんばってるのは、意外にも熊本県下の各地と鹿児島県のえびの市、どれも山の中だね。
北九州説や筑後山門説なぞ、声の大きい一部の人間の意見らしい。
"邪馬台国福岡説" 117,000 件(朝倉27,500、山門15,600、八女12,800)
"邪馬台国大分説" 88,600 件(宇佐 41,400)
"邪馬台国宮崎説" 83,100 件(西都326,000)
"邪馬台国熊本説" 77,400 件(阿蘇 32,900、人吉31,800、高千穂26,800)
"邪馬台鹿児島説" 78,000 件(えびの60,200、大隅12,400)
>>556 伊都國の南に投馬國、邪馬台国。
先輩方向感覚めちゃくちゃっすね。
559 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/24(木) 12:33:39.59
邪馬台国は大和だよ。
邪馬台国は何処か、ではなく、卑弥呼は何処にいたか、を論ぜよ。
スレの題名も、「それでも卑弥呼は九州にいた」にすべきである。
邪馬台国という国名に拘ると筑前筑後山門郡か肥後山門郷に限定されてしまう。
邪馬台国は大和だが、実際の卑弥呼は別の処にいたと考えれば、
卑弥呼は宇佐にいた、とか宮崎にいた、とか、四国にいた、とか、
自由自在に論じることが出来るのである。
邪馬台国大和説を認めないのは自分で自分の首を絞めるようなものである。
560 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/24(木) 12:39:03.80
卑弥呼はあくまで倭の女王として朝貢したのである。
邪馬台国の女王として朝貢したのではない。
倭の王都は邪馬台国という国にある、ということが判明したのはその後である。
それで陳寿は、卑弥呼は倭の女王だから、邪馬台国にいるのだろうと考えたのである。
それだけのことである。
実際は卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかったのである。
九州のどこかか、満鮮のどこかの女王だったのである。
邪馬台国を「ヤマタイ国」と読むと、そのゆきつく先は山門か大和になってしまう
しかし先に翰苑から引いたように、「邪・馬台国(邪なるマタイ国)」と読むのが正しい
こうしてはじめて陳寿の呪縛から抜け出ることができる
卑弥呼は九州の「雅なる馬台国」にいたのである
562 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 14:21:06.63
563 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 14:43:46.19
いつまで方角と地名読み遊びしてんの?
結論はでないんだよね
100拍手 ↑
倭の女王卑弥呼 と 狗奴国の男王卑弥弓呼 の名は、ごらんのとおり1字違いなので、
異人種とか蛮族といった無縁者でなく、相互に知己でありながら不仲だったと考えた方がよさそうだ
そこで考えられることは、
卑弥呼が共立される前はたぶん男子の王であり、その男王を退位させ、左遷したうえで卑弥呼の即位に到った違いない
そう考えれば、王名も類似し、不仲で、その後も騒動が続いたわけが納得しやすい
566 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 15:15:57.96
>>565 同じ倭国内なんだから各国の王を似たような名前で呼んでても不思議じゃないだろ
日本書紀に大伴金村を「あがきみ」と呼んだ家臣がいるが、
「きみ」って主君を呼ぶ共通の言葉だからね。
当時の大王(天皇)だって呼び名は「きみ」だった。
さてそこで本題に入りたいとおもふ。
阿蘇山について本州在住の多くの人は、最近まで火山灰を降らせた怖い火山で不毛の地と想うようだ。
しかし阿蘇一帯は、古代より開かれた由緒正しき土地柄であり、御鎮守の阿蘇神社の始まりは神武天皇のころまで遡る。
以下、一書に曰く、
<阿蘇国> 後の肥前・肥後、今の熊本県。
ホオテミは九州の開墾に勤め、北東部は『豊の国』と呼ばれるほどに豊かになったが、阿蘇の国の土地はまだ肥えなかった。
そこでそこに宮を造り、魚を入れて土を肥やしたところ豊かな地となったので『肥国(コエクニ)』と改名する。
ここの国守タケイハタツは娘のアソ姫をユナとしてホオテミに奉る。
後に景行天皇はクマソ征伐の帰路にアソ国に立ち寄り、地つ神のアソツヒコとアソツ姫のために社を新築している。
記紀に頼るなら、基本的に九州は成敗された国だからな。
アメリカが英仏に駐留してドイツと戦ったようなもん。
その前に奈良が侵略されてるけどな。
そこで神武東征神話が登場する
東征した神武後継の景行天皇が征伐したのはクマソであり、
景行天皇の行路を見れば分かる通り、阿蘇より遥か南方、鹿児島県沿いの地を進軍している
そしてその帰途、わざわざ阿蘇に立ち寄り、好意的にも阿蘇の神々には御社を新調してくれたというわけだ
国土として先に形成されたのが淡路島や四国。
つまり記紀ではこの辺りの話がベースなのは否定しようがない。
ほほう、神話に登場する先のお話しは信用できかねるとおっしゃりたいのですか
よって淡路島や四国なるものが、今この日本国に存在するはずがない・・、と。
573 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 17:14:49.05
国生み神話の順番に意味があるんだろうか?
本州は8番目だから、一番重要度は低い?
本州の畿内で国になるのだからトリですな。
まぁ記紀で島の詳細が記述されてるのは
四国と九州だという事は覚えておいた方がいいよ。
575 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 17:29:19.54
ただ単に、小さいのからはじめて、大きいのを順に作っていっただけじゃね?
576 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/24(木) 19:02:24.89
>>562 そのサイトの男はあまり頭が良くない。
臺も台もタイであってトとは読めない。
臺と壹に関する考察も中途半端である。
また山東と書いてヤマト、山西と書いてカワチと読んだということは、
ただ単に山とは生駒山を指すということだけを示唆するのであって、
>「かわち」が先だったから、その山の東にある地は「山東」と書かれ、「やまと」と呼ばれたのである。
などという理屈にはならない。
577 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/24(木) 19:09:14.68
夜摩苔をヤマトと読み、苔と臺は上古音、中古音が同じだというのだから、
邪馬臺をヤマトと読んで何の問題も無いではないか。
578 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 19:12:44.93
>>576 コテハンのくせにホントにタイだと思ってるの?w
579 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/24(木) 19:21:52.33
苔
中国音 tai
日本音 tai
朝鮮音 thay
臺
中国音 tai
日本音 tai dai
朝鮮音 tay
苔と臺。極めてよく似ている。
苔がトと読まれたのなら、臺もトと読める。
・・・、と安本美典氏は書いている。
世間の人々の間では二択では九州説わずかに有利で差が無く畿内説みたいね
いつかそういうアンケートやってるの見た
超ドシロートの音合わせほど馬鹿げたものはない。白痴レベル。
583 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/24(木) 19:35:47.96
と、超ドシロートの白痴が申しております。
「中国音」ときたもんだ(爆爆笑笑)
585 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/24(木) 19:43:05.09
と、超ドシロートの白痴が爆笑しております。
586 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 19:43:41.80
横でみてても、音の一連の議論が、
何に効いてくるのかよくわからない。
マンチュリアンのおかげでめちゃくちゃだな
まだ改めドツボのほうがマシだ
588 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/24(木) 19:45:26.39
と、超ドシロートの白痴が私を非難しております。
満州くんとの仲があしい みたいな
590 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 19:58:39.05
>>528 のが卓見
お互い大国同士の国家紛争とは書いてないな。
女王卑弥呼と男王卑弥弓呼の不仲が素とあるから、
ニュアンスの違いを感じる。
王というのは華から公認されてからに王なのだからして
女王「卑弥呼」と男王「卑弥弓呼」の争いはコップの中の嵐というやつ。
591 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 20:05:20.07
.
卑彌呼の冢のは「木棺直葬」であろうと推測されるけど
卑彌弓呼の冢のはたぶん「甕棺直葬」のであったかも。。。
.
「不仲が素とある」
どこに?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
593 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 20:20:51.87
>582 と >583、 >584 と >585
不仲はこのあたりにあるということさ、わかんねえのかね
↑こいつ誰に何を言ってるの?謎
595 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 20:54:39.73
>>528 >女王卑弥呼と男王卑弥弓呼の不仲が素とあるから、
この素は「以前から」という意味だから、「不仲が素」ではなくて、「以前から不仲」。
>>595 それはわかってるよ
原因は国家間にあるのでなく、元は王と王の人間関係にあったという意味でしょ、PCが「もと」を素に変換しただけだよ
597 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 21:11:35.44
>>596 王同士が不和ということは、国同士が不和ということと同じこと。
漢では、親戚である景帝と呉王劉?が人間関係が不和であったために、
呉楚七国の乱という天下を二分する戦乱が起こった。
これが後々、九州の版図を争う龍造寺(佐賀)と島津(鹿児島)に至るのです。
>>597 原因は王同士で、結果が戦乱
陳寿はそこん所を区別してカッコよく書いたのでは、と読んだのだけどね。私はね。
(ま、おっしゃる通り、結果としての戦乱は同じだが)
>599の修正
原因は(先祖代々の遺恨でなく、卑弥呼と卑弥弓呼という特定の)王同士(の人間関係)で、その結果が戦乱
601 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 22:38:33.52
>>597.
>>599,
>>600 倭国乱の原因が卑弥呼と卑弥弓呼の不仲にあったというのはうがち過ぎじゃないのかな。
倭国乱は卑弥呼が共立されたことによって治まったのでやんしょ。争いの当事者の一方を立てたのでは
相手方は納得できんでやんしょ。
602 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 23:43:03.82
1人を立てるのだから当事者の一方であることは避けられない。しかし、他方にとっても
妥協できる人物、それが卑弥呼だったということだろう。
呆れたね。痴呆そのものじゃないか。
604 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 00:20:59.97
>>603 >呆れたね。痴呆そのものじゃないか。
同意
605 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 00:31:47.95
周旋5000餘里の倭地30ヶ国が、
戦争で混沌とした状態から29ヶ国対1ヶ国にまとまった。
その両者の王と国々が仲良くできるわけがない。
606 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 01:32:05.93
女王「卑弥呼」と男王「卑弥弓呼」の争いはコップの中の嵐というやつ。
607 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 01:33:36.57
男王「卑弥弓呼」は、華に刃向う敵対勢力ではないということ。
608 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 01:35:59.72
ただただたんに卑弥呼共立の時に賛同者ではなくて抜けたみたいな感じ。
もとのが血縁関係とかあってふつうとゆうこと。
卑弥呼と卑弥弓呼がどちらも祭祀を旨とする王なら
呪力比べの意地の張り合いのようなことがあったのではないか
610 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 01:43:47.32
卑弥呼のかあちゃんの後添え
すなはち義父のひとが狗奴國王の卑弥弓呼さんで
出かした子が腋邪狗さんだった
でっ、壹與ちゃんが卑弥呼の子とかだろ
611 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 01:52:51.04
乃至は、
卑弥呼の娘の時の婿はんが狗奴國王の卑弥弓呼さんで
卑弥呼が異父弟の難升米とできちゃって
卑弥弓呼追放のかたちで共立がでっち上げられた。
この場合は、腋邪狗さんの父が卑弥弓呼、母が卑弥呼
んで
壹與ちゃんが卑弥呼と難升米とで出かした子
腋邪狗さんと壹與ちゃんは異父兄妹でこれが夫婦になる。
612 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/25(金) 09:16:41.97
稗箕狐という男はやたらと血縁関係に関心があるようだが、
もしかして複雑な家庭に育ったのか?
両親が離婚した、というような。
613 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 13:54:06.28
壹與ちゃんが、といわれると、なんとなく、伊代ちゃんが・・、と読んでしまいそうで。
ま、同じ一家・家系とはいわぬまでも、
卑弥呼・卑弥弓呼は同族だった印象はあるけどね
後世のクマソ退治の件から、
小林市・えびの市・人吉市辺りを前線基地にしてた鹿児島勢といったところかな
616 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 15:09:17.39
佐賀ってさ〜古代の行政区画だと、肥前国の北半分だよねえ〜
4世紀以降でいえば、伊都国と佐賀が一体化したことは、無かったんじゃないかねえ〜
末盧国も佐賀も肥前国なのだよ
ということは、4世紀以前も、4世紀以降も、佐賀は末盧国の範囲だったかもねえ〜
>615関連
えびの市・人吉市の南には伊佐市もあったわ、以前の大口市(オオクチ)など。
今でも、世界に高品位を誇る金鉱山が操業してる。
618 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 22:01:28.37
卑彌呼さんの女王境界と
壹與ちゃんの女王境界とは
その広がりのがちがう
壹與ちゃんの女王境界のは
その内に狗奴國のも含む
狗奴國は奴國の南にあるのだから
狗奴國のこあのところは末盧国
狗奴國のは肥前の領域の多くを占めていて
その東側の境のが吉野ヶ里の手前までだとみたり。
人口的に有り得ない。
620 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 00:43:20.69
末盧國 有四千餘戸 ので狗奴國の取り分は3000戸15,000人くらいのでも良いよ。
621 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 01:31:50.57
狗奴國は十万餘戸50万餘人の東鯷人20餘國連合。
現状では弥生期の遺跡で最大級の物は土佐にあるそうだけど。
623 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 02:30:38.51
622じゃないけどたぶん田村遺跡のこと
625 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 03:56:59.25
626 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 06:09:42.11
>卑弥呼・卑弥弓呼は同族だった印象はあるけどね
卑弥弓呼は卑弥呼が共立されるまでの男王だろう。名前がにているのはそのせいだな。
627 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 07:06:11.07
卑彌呼は、筑紫平野14万戸4ヶ国を治める女王國の女王
勢力地域は、筑紫平野・対馬・壱岐・松浦・伊万里・福岡平野・糸島
卑彌弓呼は、熊本平野10万戸を治める狗奴國の男王
勢力地域は、熊本平野・三角・天草・八代・人吉盆地・出水・島原・長崎・西彼杵半島・佐世保・平戸
628 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 07:08:46.15
女王国は万二千里から。筑紫平野にはないよ。
卑彌弓呼は、熊本平野10万戸を治める狗奴國の男王などというのは
まったく根拠のない話。
所在地の地形から見て田村遺跡あたりは、西暦ゼロ年頃と天武684年?の巨大津波にさらわれてる可能性大だね、
そのぶん邪馬台国や卑弥呼とは別に、調査結果は超貴重だとおもう
ちら見だけど、弥生の次は中世の出土物が多いようだ、・・ガクブル!
630 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 08:21:25.73
邪馬台国の卑弥呼の都は、
筑紫平野の伊都国から南に千五百里だからねえ
およそ百キロ下るとすれば邪馬台国は熊本県、狗奴國は鹿児島県だろ、どう考えても。
631 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 08:45:52.22
田村遺跡のは土器が弥生系だから弥生の分類だけど
金属器が希薄で石器が伴に出土みたいので
縄文と弥生が混ざりっこみたいなふいんき。
632 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 08:47:54.10
>>627 筑紫平野は、佐賀平野+筑後平野+北野平野、だろ
諸富に渡来した徐福が3000人の中国人男女と共に拓いた田んぼのムラ、卑弥呼は徐福の孫娘かな?
徐福が始皇帝の命を受けて来日したのはBC200年頃。
卑弥呼がAD248年に60歳で没したとすると、卑弥呼が生まれたのはAD188年頃。
約390年の開きがある。
634 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 09:15:00.91
不彌國及び奴國で万二千餘里となり女王國に到着。
不彌國は吉野ヶ里で、その南に投馬國と邪馬壹國がその領域で接している。
故に、不彌國・奴國・投馬國・邪馬壹國の4ヶ国は、女王國で筑紫平野にある。
>>634 卑弥呼は、徐福のひいひいひい孫くらいの年頃にあたるらしいよ、
オジさんのご先祖の呉人の一族かもな
636 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 09:24:11.28
>邪馬台国の卑弥呼の都は、
>筑紫平野の伊都国から南に千五百里だからねえ
邪馬台国の卑弥呼の都(城柵)は、
筑紫平野の伊都國の東100里にある不彌國の南であるが距離はわからない、
637 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 09:32:52.95
>筑紫平野は、佐賀平野+筑後平野+北野平野、だろ
筑紫平野は、佐賀平野+筑後平野+北野平野+白石平野
卑彌呼は福岡平野から筑後平野に招弊され共立されたから、
徐福云々とは無関係。
>>636 陳寿の筆法の特徴は大胆にして、ザックリ、ザックリ
それからすれば、伊都国から放射読みみたいなチマチマした筆法はありえないねえ、歴史の雄が泣くよ。
ここは根拠のない妄想が多すぎだろw
640 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 09:56:29.07
まああれだわ、妄想の雄といえば
雄のくせして雌設定で妄想やらかしている
記の天照のが一番だわな
641 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 09:57:27.20
根拠を書いたら本になる。
福岡平野は漢の渡来人が作ったクニだろ、漢から金印もらったくらいだから奴。
オジさんの見立てによると卑弥呼は漢人の末裔かい、さもありなん。
643 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 10:04:25.19
×招弊
○招聘
偏った本や古い出土資料にばかり頼るから妙な妄想に走るのだろう。
上にも出てた田村遺跡の存在なんてどう説明するんだろう?
弥生期最大規模の集落(現状でも竪穴式住居が500棟以上)が
倭国大乱とされる時期に急速に減少してんだよ。
妄想するにもやはりある程度裏付けがないとね。
645 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 10:08:55.88
そそ倭国大乱のも妄想の雄
646 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 10:09:15.53
>卑弥呼は漢人の末裔かい、さもありなん。
卑彌呼は倭奴國の関係者
倭奴國滅亡80年後に担ぎだされたのだ。
卑彌呼の出自は古田説を支持。
647 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 10:11:21.88
田村遺跡のはじょじょろくさん喰いのしばてんの集落かもな
648 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 10:15:46.43
ごめん じょじょくろさん ですた
649 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 10:16:35.46
田村遺跡は侏儒國の一部
吉野ヶ里遺跡の衰退も倭國乱になり始めた頃
>>646 滅亡した国の末裔が担ぎ出されるわきゃない
睨んだ通り古田説の末裔だったかwww
んなら、伊都国は糸島前原でなくちゃ辻褄合わねえぞ、佐賀伊都国では、今度は古田先生がお泣きになるからな。
>>649 侏儒國も倭国大乱に加わったのか?
相当な航海能力のある船団を組めたんだなw
652 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 10:43:04.26
倭國乱と同様の戦乱が西日本の全ての地域であったんだよ。
倭國乱は弥生後期の温暖期が終わり、
古墳時代の寒冷期に向けて気温が下がり始めた頃。
温暖期に適合した農水産物がしばしば不作不漁になり、
その食料危々が倭國乱の原因。
653 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 10:46:11.18
×危々
○危機
654 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 10:54:18.16
>古墳時代の寒冷期に向けて気温が下がり始めた頃。
農水産物不作不漁の原因は、スポット気温低下に加え旱魃豪雨の多発。
655 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 11:00:34.36
倭國乱の頃に難民団である神武東侵があったと推定される。
>>644 > 偏った本や古い出土資料にばかり頼るから妙な妄想に走るのだろう。
同意。
> 弥生期最大規模の集落(現状でも竪穴式住居が500棟以上)が
当時の日本の人口からして、これぐらいが最大規模だろう。
伊都國千余戸は考えられるとして、万(×4人計算)とかあり得ん。
二千人も居れば、クリスタル・キングが出て来て『大都会』歌う位の規模。
現在はもちろん、江戸期よりも当時は遥かに農業技術は劣る。
つまり、安定した収穫・収量が無いから、必然的に人口の数も決まってしまう。
平均寿命も40歳程(縄文時代で確か35歳)でしょう。
筑紫平野に、伊都国+白石平野の1カ国+女王4カ国連合、以上あわせて6カ国、しかも当時は海が迫ってる
そこに合計で十数万戸の数十万人なんて妄想もいいとこ
ありえんな
常識で考えると、当時の集落規模で北部九州辺りに
ヤマタイや奴国をブチこむのがどれだけ馬鹿げてるかわかるはずだ。
そもそも倭人伝の戸数記述が誇張されてる、と主張するならわかるが、
その場合に行程だけは正確という主張をするのは、ご都合主義と
批判されても仕方ないからな。
クリキンが連続してひしめき合う筑紫平野か‥
大量輸送交通機関が必要なレベルだ。
西鉄はまだ走ってないぞw
660 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 11:44:25.24
江戸時代の支配行政単位での村は、だいたい500石から2000石程度。
だいたい1000石前後。この単位で年貢などを収める。
10石一戸程度が目安のようである。
この旧村は大字、字(おおあざ、あざ)として地名に残っている。
集落を作るなら、ある程度集まったほうが良いが、
田畑まで遠くなって、通勤?が苦痛になるから、
あまり大きい集落は無理である。
もちろん、交易市や国庁などの、生産とは関係のない都市であれば、
いくらでも(限度はあるが)大きくできる。
佐賀藩 佐賀郡 92村というのはこの単位である。
古田説信者のオジさん、八丁牟田あたりで西鉄のって博多の古本屋へ通ってるんだろ
西鉄ないと生きてけんだろww
>>660 なるほどなっとく。
江戸時代、筑紫平野全体で76万石くらいで、その約半分の36万石が佐賀藩。
なので、筑紫平野全体では、92村の約2倍の200村くらいかな
で、1村100戸とすれば筑紫平野全体で2万戸のせいぜい10万人
卑弥呼の時代には筑後川も氾濫し放題で、流路もしょっちゅう変わったにちがいない
そんなところに女王国連合十四万余戸の数十万人なんて、どだい無理
伊都国を1万戸とする資料もあっただろう?
正直これ位が当時の筑紫平野では適正だ。
664 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 12:15:26.72
wikipedia 佐賀藩より
佐賀藩 [編集]
肥前国
三根郡 - 11村
佐賀郡のうち - 92村
神埼郡のうち - 39村
養父郡のうち - 10村
小城郡のうち - 22村
杵島郡のうち - 50村
藤津郡のうち - 18村
松浦郡のうち - 36村
彼杵郡のうち - 6村
高来郡のうち - 39村
蓮池藩 [編集]
肥前国
佐賀郡のうち - 2村
神埼郡のうち - 10村
杵島郡のうち - 8村
藤津郡のうち - 13村
松浦郡のうち - 1村
小城藩 [編集]
肥前国
佐賀郡のうち - 4村
小城郡のうち - 46村
松浦郡のうち - 18村
鹿島藩 [編集]
肥前国
藤津郡のうち - 11村
665 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 12:21:02.66
wikipedia 唐津藩より
唐津藩 [編集]
肥前国
松浦郡のうち - 186村
666 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 12:25:30.74
wikipedia 唐津藩より
肥前国
松浦郡のうち - 186村
唐津藩は表向きの石高は6万石から12万石であったが、
実際の石高は20万石前後だったと言われている。また、
藩主家が中途半端に変わることが多く、長期間による
藩主家の一大支配が無かった土地柄であった。
大体、一村が、千石程度の目安である。
>>663 > 伊都国を1万戸とする資料もあっただろう?
> 正直これ位が当時の筑紫平野では適正だ。
それがねじ曲げだっつーんだ。
邪馬台国を何処に置きたいか、在って欲しいかじゃなく、無理無く
各國々を比定して行き、その先に邪馬台国って一つの國が在るんだよ。
>>664 佐賀藩だけで300余村ね
そうすると約3万戸で、比定される奴国が2万戸なのでおおむね桁はあってるね。
筑紫平野全体では600余村と推計されるから、江戸時代で6万余戸くらいとみればよさそう。
よって >662 は上方修正。
>>668 江戸時代の石高が当てはまると思ってんの?
ちなみに私は九州論者ですが。
>>669 卑弥呼時代に、少なくとも江戸時代の石高・人口・戸数を上回ることはないでしょう。
なのに古田信者のオジサンの説は、明らかに江戸時代を上回ってるんじゃないの、それをいいたいわけ。
いかが??
まぁ戸数を信用するなら、北部九州に邪馬台国を
比定することが無理なのは間違いない。
生活様式の全く異なる江戸時代の資料を
参考にするのは流石に馬鹿げてる。
672 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/26(土) 12:52:17.75
君らは橋本増吉の本を読んだことはないのか。
倭人伝の戸数がいかに誇大であるかは、
橋本増吉がとっくに論証してるよ。
九州説者なら当然読んでいるはずだが。
そうだろ
その馬鹿げてる江戸時代の数字を上回る数字はさらに馬鹿げてるとおもうわけさ。
>>672 橋本増吉!
増吉だけに、増やすのお説はごもっとも。
675 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/26(土) 13:08:41.70
律令時代の筑前国は15郡もある。
そのうち紀に出ているのは伊覩縣と儺縣で、県として出ている。
それ以前は伊都々比古として、国として出ている。
つまり国→県→郡と、次第に細分されていることが分かる。
伊都国が伊覩縣で奴国が儺縣だとしたら、
倭人伝の国名は県名だったかもしれぬ。
そうすると田油津媛のいた山門県が候補として上がる。
筑前と肥後の山門は消える。
尤もこれは邪馬台国という地名に拘った場合の話である。
676 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/26(土) 13:13:01.92
要するに卑弥呼は邪馬台国にいたと考えて、
その上で九州説を唱えるなら、
田油津媛のいた山門県しかないのである。
それ以外の候補地はすべて消える。
満州卑弥呼よ、いちどでいい、巨大華麗な西都原古墳群をみてから世界史板へ行きなされ
680 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 14:48:29.15
畿内説には大変良い事だ。
だから早くコテ戻せと勧めてるんだけどね
「満」を「九」に戻すだけ・・。
684 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 16:31:58.39
ヲタの妄想で延々ループしてるだけだな
685 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 16:38:14.57
>>671 九州説にとって魏志倭人伝は不磨の大典じゃないの?
間違いなぞないって力説してたヤツがいるよ
>>685 九州は間違いない。
只、戸数は信用してない。
地形に行程当てはめると無理無く符合するし。
地形とは、防御は勿論食文化、連絡網も考慮して。
倭人伝を丸飲みせず、無理がある部分を疑いつつ謎解きをする。
687 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/26(土) 17:37:05.50
>>680 卑弥呼は邪馬台国にいたと考えて、その上で九州説を唱えるなら、
田油津媛のいた山門県しかない、と言っているだけ。
私のように、卑弥呼は邪馬台国にはいなかったと考えれば、
どこでも好きな所へ持って行ける。
畿内説は私にとっても目の上のたんこぶである。
何しろ当時大和に神功皇后がいたのだから、無視するわけにはいかない。
卑弥呼が神功皇后だとしたら、任那から朝貢させたのだろう。
それしか考えられない。
こういう説を唱える人間が一人も出てこないのが、
不思議というか、なさけないというか…。
688 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 18:53:04.97
>>687 あいもかわらずこのひとは点としてしか捉えられない
じゃまだいのひろがりとか考えられなきゃね
対馬国の方可四百余里と、一大国の方可三百里の半周分を足して、合計渡海四千四百里、
と無理やり計算する、文字どおり半可通の北九州論者が出没してるようだ。
方可の半周主張はいかにも恣意的でいただけぬ、一周のほうが明らかに道理にかなってる。
ま、一周してしまうと、一大国を出港して二百里ほどで沈没するけどなwww
690 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 19:15:12.50
>>675、676、687
満州さん、伊都国が関門海峡付近で、卑弥呼当時の国の大きさが現在の市町村
くらいであるとすれば、邪馬台国も関門海峡にかなり近い所に有ったと考えら
れるが、理解できますか?。もう一度考えてみて下さい。
691 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 20:09:48.26
九州説では中国と交易し、首都機能を持った他を凌駕する圧倒的大規模のマキムク遺跡をどうとらえてるの?
倭人伝にしても、それを無視した記述に思えないんだが
いまお取り込み中なんでね
邪馬台国が見つかってからにしてもらえまいか
九州説の多くは纏向遺跡は4世紀以降のもので
邪馬台国が東征して築いたと思ってるだろ
694 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 20:33:19.96
東征したかどうかはともかくとしても、
いくらなんでも3世紀はないな。
5世紀前後の痕跡が多すぎる。
695 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 20:37:06.50
>>693 始まりが4世紀以降との主張なんでしょうか?
696 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 20:39:20.59
巻向遺跡にも色々あるが、一般的には4世紀後半が通説。
だれかが土器編年か何かで遡らせようとしているのは聞いているが。
697 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 20:41:00.49
698 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 20:50:06.51
>>691 マキムクは明らかに計画的に造られた計画建設集落だ。なぜそのような町が必
要だったかと言えば、現在の各地方(北九州、四国、近畿、中京など)に形作ら
れた地方政権が、相争い、ともに自滅してゆくことを避けるため、一堂に会し
て外交交渉をする場所が必要だったからだ。今の国連みたいたものだ。
出土する土器から見て、近畿勢力が場所を提供し、尾張勢力が建設したようだ。
近畿に造ったのは九州、北陸、関東なども含めて真ん中に近い所を選んだので
あろう。
マキムクがこのような町で近畿勢力の中心ではなかったことは、一昨年発見さ
れた大型木造館が祭祀に使われていた可能性が高いこと、邪馬台国であれば必
ず有るに違いない漢字を記した石、木などがまったく発見されないことなどか
ら明らかである。
まあ纏向からの九州土器の出土はほとんどないけどな
700 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 20:56:37.55
>>698 マキムクと邪馬台国は同年代とお考えですか?
その前に対馬壱岐と渡って、九州に上陸してんのに…
北部九州に関しては関門海峡から瀬戸内に至る
航路の確保がかかわってくるくらいで
纏向は基本的には東海への通路として開発されたものだろ
703 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 21:24:12.75
おや、えーとーマキマキは、もう終わりかい
704 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 21:50:01.85
マキムクは巨大墓を建設するために各地から集められた、ドカタの飯場だよ。
このころは北部九州邪馬台国勢力は健在なので、九州から行ったドカタは少ない。
それをゴッドハンドで古く見せてるのだよ。
『漢委奴国王』
この金印が福岡から出てるじゃない。
委は倭でしょう、つまり九州が倭の地って確定してるじゃないのさ。
なのに何故いまだに畿内云々とか意味ワカンね。
706 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 21:58:13.54
>>698 畿内説の都合だけで考えられた説だろうけど、あまりにも不自然。
2世紀の日本で国連みたいなのを作る必要もないし、作れるわけもない。
あまりにも不自然な説の上に根拠も土器だけ。しかも、その土器にも
九州のものがないなど無理がある。
一から十まで、畿内説を成立させるためだけの空論に過ぎないな。
そうだよねえ、土方工事で掘ったら何か出ましたじゃねえ
仮にも天照大神に比定されようかという邪馬台国の女王様の都・宮室なら、
もしかして、今も神秘さ溢れるたたずまいの祭祀・祭礼の場でも不思議じゃないからねえ
708 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 22:17:50.58
魏に朝貢してた王なんて次の皇帝に朝貢するにあたって次第に無用の産物になるだろ
九州じゃ王都のすぐそばには古墳は作らなかったんだろ
巻向は古墳に近すぎるねえ
古墳の建設とその後の管理というか草むしりにあたった働き人のマチといったところかな
>>707 神秘の場所?じゃ吉野か四国でいいよ。
卑弥呼ちゃんの好きな丹もあるし文句なしだ。
711 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/26(土) 23:17:01.02
>>690 倭人伝の国は今の市町村のような小さなものではないよ。
紀に伊覩縣、儺縣、松浦縣というのが出てくるから、
それが伊都国、奴国、末盧国なのだろう。
おそらく九州北岸の国としてはこの三国しかなかったのである。
少なくとも今の大都市、中都市ほどの規模がなければ国とは言わないだろう。
712 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 23:26:57.46
>>711 畿内説の弱点として勢力圏の問題がある。2世紀後半、卑弥呼が共立された時に
はたして近畿地方から九州までを支配する勢力があったかどうか。
近畿地方に邪馬台国があったとすれば、当然、東のほうにも広い範囲の勢力圏が
想定される。これは数百年後の大和朝廷にも匹敵するわけで、日本統一にも
等しい。
これが歴史の発展性を考慮しない暴論となるわけである。だから、畿内説は
支配従属ではなく、連合なんてのを持ち出して来ざるを得なくなる。
けれども、「伊都国王の統属」や「一大率の検察」など、それでは倭人伝の
記述と合わなくなってしまう。
国の範囲を大きくして、邪馬台国の勢力範囲を広くするのは困るわけなのだよ。
吉野ヶ里で國の規模も解るでしょうに
714 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/26(土) 23:31:23.08
しかし依然として伊都国=伊覩縣、奴国=儺縣という比定には疑問が残る。
なぜなら紀によれば明らかに穴門は伊都国だからである。
奴国とは長門ではないのか。穴門は奴国の門=奴が門→ナガト。
715 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 23:48:45.12
>>714 がはは。冷静になりなされ。
君は「穴門は伊都国だ」と言う。ところが、
「穴門は奴国の門=奴が門→ナガト」だから「奴国とは長門ではないのか」とも言う。
これはどういうことかと言えば、伊都国=奴国だと言っていることになるのだ。
716 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 23:50:43.30
邪馬台国期にいたハツクニシラススメラミコトは全国統一したよ
717 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 00:10:49.44
崇神天皇はなんかおかしい。四道将軍を北陸、東海、西海、丹波に派遣して
従わないものがいたら討て、なんてことを言っている。
近所もちゃんと支配していなかったわけである。
ところが、朝鮮半島の任那国が朝貢して来たと書かれている。
ちょっとつじつまが合わない。しかし、つじつまが合う考え方もあるな。
718 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 00:28:29.64
ここは九州説を語る場なので天皇の話は他所でやってね
719 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 00:31:31.33
マキムクの話も該当スレでどうぞ
720 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 01:05:35.76
國のサイズだけど
沃沮諸邑落渠帥 皆自稱三老 則故縣國之制也
「縣國之制」なるは漢代の地方制度のやつで
「國」のは「韓地」のも「倭地」のと同で
サイズからゆうと
(馬韓)凡五十餘國 大國萬餘家 小國數千家 總十萬餘戸
100,000/50=2,000 だけど
いっこ12.000の大國があると 88,000/49=1,800戸
にことか 12.000の大國があると 76,000/49=1,550戸 だから
よくあるのは 1500戸 7500人 くらいのコロニーだろ
ここのコロニーは黴菌とか培養したイメージでさ
721 :
しもた:2013/01/27(日) 01:07:10.25
76,000/49=1,550戸 ばつ
76,000/48=1,580戸 まる
722 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 01:23:04.34
對海國 1000
一大國 3000
末盧國 4000
伊都國 1000
奴 國 20000
不彌國 1000
邪馬壹 70000
----------------
〆て100000 ← 馬韓とほぼ同数 まあ筑の前後と肥の前だろな
投馬國 50000 ← 弁辰とほぼ同数 まあ出雲だろな
723 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 01:31:42.18
女王國の10万戸 50万人のグループと
投馬國の 5万戸 25万人のグループとが
ゆるい関係で組んでいたとみるべきかな
その場合近畿の先進地の京都,大阪,兵庫 それに連なる岡山が
出雲から若狭に連なる投馬國の影響下にある
鉄器の輸入もこのルート
こっちのは穢人が往来していたとみるのが妥当かもな
大和は僻地だし湖広いし
でも籠もっていたグループもおった
724 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 08:57:09.65
>>706 私は宇佐説をとる人間だ。宇佐説の立場からマキムクは国連みたいな町だったと
と考えている。
>>699 西暦300年ころ日本全国に北九州連合国、南九州連合国、四国連合国、吉備連
合国、出雲連合国、近畿連合国、尾張連合国、北陸連合国、東海連合国、そ
してまだ連合国にはなっていないが関東諸国や東北諸国が有ったと推測され
ている。
その国々がいつも軍事で争っていたと考えるのは早計で、連盟・提携するこ
とも多かったと考えられる。各地域の連合はまさしくそれだ。
倭国大乱を経験している当時の地域勢力が国連のような会議、外交、連携の
場所を必要としていたのは間違いなく、近畿がそれを造って他の勢力を招い
たのであろう。近畿は自分が主導権を取る積りだっただろうが、吉備、出雲
などは西側に当時、鉄器を駆使して日本最強の軍事力を持つ北九州を無視す
ることができず、北九州の代表をマキムクに招請した。これがマキムクには
九州の土器が少ない理由である。
>>700 マキムクは近畿説の方々がどんなに身びいきな理由を主張しようと、ほぼ間
違いなく西暦300年よりもあとの町であると考えている。上記の中で北九州
から招かれた代表とはイワレヒコおよびミマキイリヒコという親子だった
可能性が高く、北九州の軍事力・経済力・進んだ文化を背景に、各勢力から
押されて盟主になりオオキミと呼ばれた。これがハツクニシラスメスミコト
の二人、後に神武天皇、崇神天皇と贈り名されたオオキミだ。神武東遷神話
はこれに基づいて伝説化されたのであろう。
たしかに邪馬台国を考えるうえで宇佐は重要なポイントだ
なぜか平家物語では宇佐の祖霊に大蛇も登場する
大蛇の血を引くのかな、邪馬台国は?
726 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/27(日) 09:46:53.92
>>715 実は昨夜、投稿した後でふと思ったのだが、
穴門というのは関門海峡だけでなく長門国も意味しているような感がある。
そうすると伊都々比古が穴門にいて「俺様がこの国の王だ」と名乗ったということは、
昔は長門国も伊都国だったのではあるまいか。
何しろ昔は筑前と長門は陸続きだったのである。
福岡市と北九州市と長門国が伊都国だったとしても不思議ではない。
一大率が駐留していたのは北九州市か下関市かもしれぬ。
根拠をつけんで説だけ書くやつが増えた
>穴門というのは関門海峡だけでなく長門国も意味しているような感がある
さよう、穴門−長門は本州から見て大陸への門と備えの国
つまり、記紀の時代をさかのぼる九州卑弥呼の時代には、
それは末蘆国へ向かう多久の穴門と伊都の長門であったわけだ。
だから古代伊都国のニューバージョンが記紀の時代の長門で正解なのだ。
岡山にある弥生時代の南方遺跡から
燕の時代の青銅の鏃が出たんだよな。
紀元前から中国と交流があるのは間違いなく、
倭国が瀬戸内なのは確定的だろ。
730 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 13:38:36.19
何度も出ていると思うが水行10日陸行30日、東渡海千里で倭種の国。
高知で弥生時代で最大規模の集落遺跡を作った人々が邪馬台国当時に移動していたのは徳島だろう。
元を辿れば中国南部、徳島の遺伝子傾向は海人族系の匂いがする。
淡路島と四国を本州や九州より先に持ってきたのはそれなりの根拠があると考えられる。
列島に住んでれば海人血統だよ。
ローカル権力囲い込みで引きこもりになっただけ。ご先祖様はたくましい。
だから北部九州は単なる瀬戸内を中心とした
倭の外交窓口に過ぎない訳です。
岡山の南方遺跡、これだって宗像の縁なのは言うまでもない。
>>731 > 列島に住んでれば海人血統だよ。
> ローカル権力囲い込みで引きこもりになっただけ。ご先祖様はたくましい。
つーか大元はボート・ピープルってのが近いだろうね。
734 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 15:05:01.59
ほんと歴史ヲタって気持ち悪いな。俺も一時期邪馬台国にはまってたが、
ここ見てるとこんな気持ち悪いやつらと同じに見られてたかと思うと恥ずかしくなるわ。
舞もどってくるのは、もっと恥ずかしい
ハイ、お次の方・・、
邪馬台国連合の半島/大陸への門は佐賀伊都国
後世、近畿大和連合の半島/大陸への門として旧伊都国の役割を果たしたのが長門
そうすると邪馬台国女王の都は佐賀伊都国から南へ千五百里(115km見当)
方向・距離・人口規模から見て、邪馬台国は熊本平野・阿蘇高原一帯にならざるを得ないと思うが…。
熊本というと熊襲を連想するが、熊の字になったのは加藤清正からで、かなり最近の命名。
熊本の前は隈本、さらにその前は肥国、そのずーと前は火国と書いたそうだ。
つまり卑弥呼の頃は火国であったらしい。
名前の類似を言うわけではないが、少なくとも熊本と熊襲は縁遠い。
景行天皇の熊襲征伐行は、火国に南接する諸国を目指していたからである。
波間の向こうに末盧國が見える。
船が岸に近づくに連れ波は少し穏やかになり、
やがて末盧國の狼煙台から煙が上がった。
私達がやって来た事を知らせる合図だ。
漕ぎ手を励ましつつ、湾の内部を目指す。
湾内に入り込むと外の波を全く受けず、静かな水面(ミナモ)を
船は滑る様にして、山陰に隠れた入り江の奥深くに投錨した。
此所なら波に船を持って行かれる事もない。
母胎の中に居るような、そんな安心感のある津だ。
暫くすると末盧國の役人達がやって来た。
一通りの挨拶を交わし、女王謁見の趣を伝える。
『だいぶ倭國語の上手にならしたですね』と言われたので、
『通使にかなり習いましたけん』と返したら笑われた。
言葉が通じると言うのは、何にも勝る道具であろう。
役人達は直ぐに伊都國へ伝令を出すと言う。
伝令達が戻って来るまで、暫くは末盧國にて滞在となる。
風で船は少し揺れ、山々には波の音がこだましている。
続く。
10拍手 ↑
ここは結局憶測しか無いんだなw
九州説なんて結局何の根拠もない。
行程パズルとはよく言ったもんだ。
コピペ ↑
足りないにせよ、幾らかは根拠があるからパズルになるんだぜ。
畿内説はパズルにすら参加出来んだろ。
畿内説はハズレ
末盧國の役人によると、伝令は二人一組になって走るそうだ。
途中どちらかに身体の異常があっても、一人が確実に伝える為だとか。
末盧國から伊都國へ向かう途中に伝令者小屋が何ヵ所か在り、
襷を繋ぐが如く伝令を伝え、伝えた者達はそこで帰りの伝令者を待つ。
一昼夜あれば伊都國へは届く筈だと役人は話す。
伊都國へ伝えられた事項は伊都國王含め役人達で吟味され、
内容に応じた狼煙を上げて投馬國へ伝えられ、投馬國を介して女王國へ届く。
やがて同じ様に女王國から投馬國、伊都國へと返事が返って来る。
伊都國から再び伝令者が戻って来たのは、末盧國滞在三日目の朝であった。
『女王様謁見の趣、よかごたるですよ』
と、末盧國の役人がニンマリ微笑んで伝えて呉れた。
急ぎ出航の準備をしなくてはならない。
末盧國の人達の力を借り、船に水や食料を積み込む。
あと、女王國へ行くには末盧國の水先案内人が必要らしい。
潮と風を待ちつつ、末盧國の役人達と別れの挨拶を交わした。
…たぶん続く。
20拍手 ↑
九州説は白紙のパズルを無茶苦茶はめてるだけ、完成後が絵がない。
三世紀以降の東遷説自体が既に証明不可能だからな。
畿内説は瀬戸内辺りとの関係が証明出来れば良かったのだが、
最近の出土傾向は淡路島や阿波との関連性示唆するものばかり。
土佐にも大規模集落が確認されたし。
まぁ九州説の可能性は相当低いとしか言えないよ。
畿内説の焦りはかなりのレベルだな
畿内説は讃岐や四国説に焦ってんだよ、
九州説なんて考古学的には終了宣言されてる。
先に立派な絵を勝手に描いて、根拠を捏造する畿内説。
幾つかの根拠を元に全体像という絵を、
まだ白紙部分が多いながらも、探っていく九州説。
立場の違いをよく表しているな。
とつぜんの九州説「伊都国佐賀平野理論」の登場で、畿内説・四国説は思わずダウン
立ち上がりましたが、目もと足もとふらついてま〜す。
>先に立派な絵を勝手に描いて‥
邪馬台国は大和、中国の歴史書でも証明済み。
基本的に江戸までは疑問視されてないし。
引き潮を狙って船を漕ぎ出す。
いよいよ女王を見れるかと想うと胸が弾む。
末盧國の人達が手を振っている。
私達もそれに応えた。
渡って来た海峡の右手に一支國が霞んで見える。
沿岸伝いに船を進めるが、潮の流れと風の影響で中々進まない。
時折船を陸に寄せ、潮待ち風待ちしながら幾日かを過ごす。
大小様々な島陰が点在している。
末盧國からの水先案内人が、次に進むべき島陰を教えて呉れる。
この人が居なければ、何処が何処やらわからない。
幾日かに狭い瀬戸を抜けると、水先案内人がもう少しですからねと言う。
瀬戸の右手は島なのか陸なのか…左手は倭國領なのだろうが…。
ますます島々は数を増し、潮の流れも変化する。
此処まで来て、あの瀬戸の右手は島だった事がわかったが…。
水先案内人が、急に彼処の岬と岬の間に入れと呼ばわった。
船は袋小路の様な湾内に入る。
水先案内人がニヤリとほくそ笑み、此処からがお楽しみですよと言う。
…行くしか道は無いわけで…私は暫し横になった。
続くかな?
<新発見・開かれた邪馬台国への扉>
秘密の入口は、佐賀ルート伊都国にあった
唐津からの東南陸行は笹原峠越えで佐賀平野へ、
500里さきに邪馬台国への関門、卑弥呼の使いが待つ伊都国があった!!
755 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/27(日) 19:09:46.75
あほらしい 話の続く 2ch
>>755 邪馬台国時代の半島/大陸への門は佐賀伊都国
近畿大和時代の半島/大陸への関門は山口長門
あほらしくない、お互いまあまあの、出来栄えよ
船員達の動きに眠りを覚まされる。
船上に出て見ると、航路は益々狭まり、まるで針の穴を通すかの様だ。
更に進むと、右も左も高い高い…絶壁が切れた様な、その間の狭い瀬戸をくぐる。
海を見ると潮が渦を巻いていて、正直生きた心地がしない。
こんな場所の先に女王國が在るのなら、水先案内人が居なければ
船では絶対に行けない…と言うか、まず解らないだろう。
『こりゃジモッティじゃなからんと解らんですな!』
と、末盧國からの水先案内人に訪ねたら
『だけん、ここは女王様の國に通じる秘密の通路(海)ですたい』
と、先程渦に恐れていた私の様子を思い出したのか、笑いながら答えた。
あの狭い狭い瀬戸を抜けると、拍子抜けするぐらいに穏やかな海だった。
海と言うか…大陸なら河と呼べる程の幅しかない内海だ。
北から南に抜ける追い風が心地よい。
『もう恐ろしか所はなかですけん、寝とらしてもよかですよ』
…と、水先案内人はまた意地悪そうに笑のだった。
続く。
40拍手 !
オレは、毎日「倭國夜話」だけは、必ず読むようにしてるぞ
なかなか面白い。このペースなら女王国につくまでに一冊の本になるな
里程を計測する担当者の話を挟んで欲しいな
760 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/27(日) 19:45:39.94
>>756 佐賀が伊都国ということは、まずあり得ない。
「倭國夜話」は魏使が日本に来たという想定で書いているが、
その想定がそもそも間違い。文章自体はそれほど悪くないから、
頭はそれほど悪くない男だと思われるが。
四国説は論外w
船は穏やかな内海を進む。
末盧國からの水先案内人に、この海は以前投馬國へ行った
魏使が通った海と同じか?と尋ねると、どうも違うらしい。
逆に、この海は秘密の通路だと言ったでしょうにと叱咤された。
投馬國もだが、女王國含め、倭の國々が臨むその海は神聖なるモノらしい。
船は水先案内人より、内海の奥深く迄入り込む。
既に日は西に大きく傾き、辺りは暗くなって来ている。
松明を炊いて呉れと水先案内人が言う。
その松明の灯りに応えるかの様に、先の陸地…
多分女王國の領域からだろうか?火の手が上がった。
その灯りを目指し進み、やがて船は着岸した。
…ここまで書いたら最後迄続く。
50拍手 ↑
パズルの次は創作活動ですか?
板間違えてますよw
吉村作治先生いわく、
タヌキ掘りではいけません。
歴史・風土・美しさに囲まれてこそ遺跡です。
私達一行が女王國(?)に降り立った時、完全に夜の戸張の中に居た。
末盧國からの水先案内人に礼を言い、少々の金銭を渡す。
『んにゃ!チップは規則で頂かれんとですたい〜』
…と言いながらも、しっかり懐にねじ込んでしまった。
まあ新しい投網でも買って、嫁さん子供にたらふく飯食わせてやってくれ。
水先案内人の話によると、この秘密の通路(海)使用で、距離が
差程変わらぬ投馬國への半分近い日数で女王國へ至れるらしい。
『魏からの使節の方々ですたいね、お待ちしとりました』
と、女王國の役人だろうその人達が頭を下げて出迎えて呉れた。
『日も落ちたですけん、今日はこの近くに宿をとり、
明日の朝にでも女王様の元(城柵内)へ行かれるごとしますか』
…と言われたので従う事にした。
早く女王に会いたい気持ちもあるが、久し振りの陸地が嬉しい。
その後出迎えて呉れた役人の計らいで、一席設けて頂けた。
澄み渡る満天の星空を、焚火の炎が揺らす。
火を囲み、酒を呑み交わして語れば、魏も倭も無いな。
お互いの笑顔を肴に、夜が更ける迄楽しい酒を呑んだ。
続く。
60拍手 ↑
60拍手 ↑
二礼四拍手一礼 ↑
翌朝、少しの気だるさを感じながら、朝日と共に目覚めた。
近くの川で顔を洗っていると、他の一行も もぞもぞと寝床から出て来た。
『おはようございます。昨夜は楽しかったですな、良ぉー眠れたですか?』
女王國の役人が尋ねる。
『あぁ、おはようございます。お陰様で…まだちっと頭の痛かですばってん』
…と、自分では流暢な倭國語のつもりで答えるも、少し訛りが変なのか
『?』とした顔をされ、その後通じたのか…
『そら良かった!』と、天高らかに大声で笑われた。
そんなこんなで身支度を済ませ、いよいよ女王へ会いに行く。
『水路(川)ば使って舟で行きますか?』
と言われるが、歩きで行きますと丁重に断った。
一応、女王國視察の命も受けて居る身だしね…言えんケド。
だから、歩きながら女王國内を観察する方を選んだ。
山は少々有るものの、平野部に水田が広がる道を東へ向かう。
続く。
771 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 21:47:30.28
70拍手 ↑
772 :
川柳の達人:2013/01/27(日) 21:58:59.68
>>770 面白れ〜、いいど、がんばれ。
で・現在どこまで到達したんですか?
773 :
夏目鉱石:2013/01/27(日) 22:04:42.69
なんかしらんばってん、セリフの方言がおかしっじゃなかね。
案内を受け進みながらも、私達一行は各々(オノオノ)歩数を数えている。
私達以前の使節団も、そうして倭國の國々を視察し、粗方の距離を計って来た。
もちろん、案内人となる役人に話掛けられれば歩数は飛んでしまうが、
他の従者達も数えているので、休憩時にそれぞれが魏語で話し、平均を取る。
以前の使団の書を見るに、私の行けていない伊都國は末盧國から500厘あるらしい。
暫く進むと、左手に高い山が見えて来た。
『…あん山の麓辺りが女王様の都とする所ですかね?』
そう尋ねると、女王國の役人は少し困惑した表情をした。
『うーん…そうかと言われれば、そうかも知れんですが…』
ハッキリしない。女王國はそんなに広大なのだろうか?
やがて海?が見えて来て…だだっ広い干潟が姿を現した。
その干潟の中に…目指して来た女王の都の城柵が見えた。
775 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 22:34:41.34
80拍手 ↑
776 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/27(日) 22:44:44.56
「倭國夜話」 間違い探し
女王謁見の趣を→女王謁見の旨を
見れるかと→見られるかと
島陰→島影
幾日かに→幾日かで
とほくそ笑み→ほくそ笑みはこういう場合には使わない
松明を炊いて→焚いて
夜の戸張→帳
天高らかに→高らかに
差程→然程
話掛けられれば→話し掛けられれば
500厘→里
女王國の城柵を目の前にして、私達一行は暫し戸惑う。
『どげんして彼処に行くとですか!?』
当然の質問だと思う。
聞かされて来た事が本当ならば、目の前の水は海で、潮が満ちれば渡れない。
いや、現にいま干潟の中の、その一部の硬い場所であろう所に城柵はある。
見るからに干潟は深く足を取られそうで、とても彼処迄行けそうに無い。
『…もう少し潮の引けば渡れますけん』
そう女王國の役人は答え、フフフと笑みを漏らす。
やがて潮が引き切り、海中から石組の通路が姿を現した。
石組の内側(陸地側)に、取り残された魚達が跳ねている。
そんな光景を呆然と見ながら、私達一行は城柵の前に来た。
目の前の女王國の背後に、あの高い山がそびえている。
少し暮れ掛けた空を見ると、ゆっくりと雲が流れていた。
続く。
「倭國夜話」女王の都の城柵探し
候補地は2か所だな
1か所目は熊本市の東南、江津湖〜水前寺公園あたり、これは可能性低し
2か所目はのヒントは、先週のガラケーだな、こちらの方が可能性高し、左手に高い山、右手の有明干潟に小島。
90拍手 ↑
>>776 手直ししながら読んでくだせぇ…
五話位で終わらせるつもりが(T_T)
今日中には完結させますm(_ _)m
>『ここは女王様の國に通じる秘密の通路(海)ですたい』
ここは、松本清張の小説に出てくるトリックみたいな部分だな
土地勘ある人ならではの秘密の海路?
ミ~ ̄ ̄ ̄\
/ ____亅
/ > ⌒ ⌒ |
|/ (・) (・) | えーーーーっ
(6一一○-○-|
| つ | 「倭國夜話」もう完結しちゃうの?
| ___)/
\ (_/ / 一年くらい続けてよ、お願い。
/\__/
/ \><∧ まだまだ、完結しないで欲しいな
/ / V | |
/_/ | | |
⊂ニu\__/L|⊃
| / /
| / /
| / /
(ニフフ
歴史読本ですが、何か?
城内に入り、女王國の人々に歓迎の儀をうける。
やがて日は沈み、夜空に月と星が現れ、再び潮が満ちてくる。
女王國は浮き城となり、他の者達の侵入を完全に防ぐ。
早くから倭國の國々の役人達が集まっていた。
数人乗りの手漕ぎ舟で、聖なる海を渡り集まったらしい。
女王國(城柵で囲った範囲)は小さいが、領地としてはかなりの広さみたいだ。
宴はタケナワを迎え、いよいよ女王様が姿を現すらしい。
ちょっとした小屋程に積み上げられた、木々二つに火を着ける。
この場所で、一際高い望楼からその人影が現れると、みな平伏した。
私達も、軽くそれとない姿勢をとった。
影の主が、私を手招きする。
私ですか?と、身振りで伝えると、頷く姿が見えた。
女王國の役人達も行けと促す。
うわ、続く。
望楼への階段を、一歩一歩登り、その影に徐々に近寄る。
何故に、こんなにも心臓の鼓動が早まるのか解らない。
軽く…その影の主は手を延ばし、私は思わずその手を握った。
握った手の先に、女王の微笑む顔が見えた。
振り返ると、眼下には聖なる海が月に照らされキラキラと輝き、
対岸の幾多の國々からも上がる火が、その輝きを包んでいる。
激しい干満と、鏡の様な美しき穏やかなこの海を見て、
嗚呼、確かにこれは聖なる海なのかもな…そう思えた。
この海は…この干潟は、未来永劫この美しきままなのだろうか?
誰かの手によって、壊されたりしないだろうか?
千年後も二千年後も、あの干潟を飛ぶ魚は居るだろうか?
…何故かそんな想いが脳裏をかすめたが、ハッとして再び女王に顔を向けた。
女王は…静かに微笑んだままだった。
終。
長々とスイマセン。
こんな駄文を読んで下さった方々、感謝です。
一応自分成りに國々を比定して行き、仮説を立てていたのを書きました。
何か、スレも止まり加減だっしたし…書いちゃえ!みたいな気持ちで。
最後は10で終わるつもりが、改行多しでエラーとなり、11まで伸びてしまった…
邪馬台国の比定地は想像にお任せします。
でも、伊都國(小城)から南→投馬國、その南→邪馬台国なら…そうなるんだよなぁ…
で、自分が邪馬台国を比定地した場所付近の、殆ど意味無き
開拓工事等をテーマにし、この作品を書いてみました。
自分の仮説が正解ならば、ある意味昔の姿に『戻されて』いるのかも知れません。
しかし、一度失われた自然が戻って来る事はないでしょう。
干潟は姿を消し
ムツゴロウの跳ぶ姿はもう見えない
卑弥呼は静かに微笑む。
ちなみに先週のガラケー正解w
お休みなさい。 ノシ
120拍手 ↑
冒頭、ノロシと伝令の話はよかった
ノロシ台と駅ごとに最低限の集落拠点を必要とする
連合国に不可欠の組織だけど、これを忘れがちになるな
790 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 13:15:19.51
.
いくめ だか
くるめ だか
いったりきたりで いそがしいね
.
791 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 14:53:11.19
長崎市に女の都(めのと)がある。浦上ダムの近くだ。ここが卑弥呼の館があった場所かな?
>倭國夜話
モンサンミシェル連想した
女の都住吉神社のご祭神をチェックすれば見当つきそう
>>792 おれさまも御同様、モンサンミシェル。卑弥呼の館より人気出そう。
795 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 17:49:02.90
長崎市の女の都の名前の由来は卑弥呼とは無関係だそうだ。
平家の落人のうち女人が多く隠れ住んだという伝承から生まれたそうだ。
んで、有明の モンサンミシェル はどこー
797 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 21:27:44.97
唐津からの東南陸行五百里は佐賀大和付近。これは倭人伝どおりであり、これですべてが解決する。
いくら悔しがっても佐賀説に勝る説はないよ。
798 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 21:32:58.42
唐津から陸行して糸島てのが不自然すぎるんだよね。
全然東南じゃないし、道程は山が海岸まで達する険しい地形で、船持ってるのになんで陸行するの?って。
最初の一歩を誤って踏みだせば、邪馬台国の行く先はローマにもロンドンにもなる
魏書東夷伝の冒頭も読まず、周囲も見ず、われ勝ちに走り出したんだろな
いったい学者たちは何にとり憑かれてたのか。。。
800 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 21:49:13.08
伊都国が佐賀大和ならば、そこはもう有明海沿岸だ。そこから更に奴国や不彌國と
巡ってから南水行の舟に乗るというのはおかしい。ということは、伊都国から舟だ
よ。つまりは、放射説が正しい。
佐賀・伊都国は想定外だった・・、とおっしゃるんでしょうねえ
学者諸氏は。
>つまりは、放射説が正しい。
と断言して、自分以外の人を切り捨てるのが誤りの第一歩。糸島こそ伊都国だ・・、の大間違いと同じ構図。
あらゆる可能性を残しながら慎重に進むべし、ですよ。これ定石。
803 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 22:27:44.09
>佐賀・伊都国は想定外だった・・、とおっしゃるんでしょうねえ 学者諸氏は。
でしょうね。学者は他の者が言ってることを信じやすいからね。
804 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 22:29:44.82
>>802 他の可能性を残したらどうゆう推論ができるのかな? 行き詰まらない推論ができるか
どうかやってみた?
805 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 22:31:41.30
>学界の権威がこぞって畿内説を支持しようとも
と言ってみたところで、学会の権威は九州説を支持しているよ。少なくとも文献史学者の
権威は。
文献史学の権威って誰?
807 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 22:56:28.22
どんな人を知ってるの?
>>804 まず、三カ国の内どこから船に乗ろうが最大で2百里しか違わない
その後の船行十日〜二十日なら、結果としての到着港にほとんど影響ない、よって可能性としては順次読みでもよい。
次に、この書がはたして船に乗った場合の行程かどうかという疑問も可能性として残しておかなくてはならない。
たしかに実際は、魏の使節らは船を利用したかもしれない。
しかし魏書東夷伝は国書のレベルにあり、ここでは国交・外交関係を中心に据えて記載している。
よって、まず倭国内の主要交通路と女王の友好国・官名・世王のことを書きとめ、
その道すがらにおいて傍29国や習俗風物をも併記するスタイルをとろうとしたのかもしれない。
江戸時代の例でいえば、普通は江戸から京へ、船とか新幹線とか飛行機で行き来しているのに、
国民に途中を紹介する目的では、東海道五十三次の浮世絵をもちいたようなケースを想起してはどうかと思う。
よって末蘆国からは、全部順次読み陸行というケースも、可能性としては残されてよいのでは思っている。
なおどちらのケースも、伊都国からおおむね南方千五百里に女王之都が有ると想定されるものの・・、このあたりで今夜は終。
>808 訂正: 29国 → 21国
810 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 23:23:41.63
読んでいるのではないな。妄想にすぎない。
>>798 いや、国家の事情てのがあってだな
例えば、江戸幕府が開港したときに、
品川あたりに江戸港を造らず、東海道に直結してる神奈川村にも造らず
寂れた寒村であった横浜港を造った、という
そういう戦略があるのが国家てもんだよ。
米国艦隊に直接、江戸城近くまで乗り込まれちゃ、かなわんだろ
812 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 23:46:40.18
だが、それでは方角が違うことの説明はできない。
813 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 23:54:06.96
814 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 00:03:31.12
海上の行程の値がでかくなりがちなのは、
流れる水上をどれだけ移動したのか
のを計測していたからだろ
815 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 00:48:25.87
>>813 出発時の方向なんてのがごまかしだってことは明らかだろう。
出発時の方向で方位を決めるなら方角が違えば同じ道は使えないな
特にあの当時道が八方へ広がっているなんてなかったろう
出発時から暫くは一本道だということもあったろうに
倭人伝の方角なんて元々いい加減だろ。
まず狗邪韓国から対馬は南ではない。一支も南じゃなく皆東南だ。
一支からなんて方角すら書かれてないわw
距離からすると唐津では近すぎで博多位が打倒でしょ。
実際そういう航路もあるからね。
818 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 01:54:11.25
>>815 狼煙台の設置位置が糸島から見易い位置にあったのと
深いとこ潜って海女できる景観のと
あわせ技でいっぽん。
倭人伝は、本来現代日本人に読ませるモノでは無いよね。
極端に言えば、読みながらも地図は逆さにして見る感覚が必要かと。
>>819 一行目同意。
二行目も同意。地図を逆さにして、南に向かって坐って
倭国が東南(左前方)にあると想像して読むべきだな。
821 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 15:06:33.02
まさにその通り
洛陽までとはいわないが、とりあえず釜山あたりへでかけて、地図を逆さにして読む練習・・
>>817 当時の中国で、方角を知る手段を色々調べてみた。
A:機械式で常に南を示す指南車(指南役の語源と成る物)。
B:太陽が昇る方角を東、沈むのを西と定めたもの。
C:板に磁石を載せ、水に浮かべると両端が北南を示す。
ちよっと意外だったのが、Cの原理が既にわかって居た事。
Aは水上移動を考えると使えないので削除。
Bが可能性としては有り得る。
これだと西側に30度方角がずれるらしい。
故に朝鮮〜対馬〜壱岐の方角が南と成るから。
ただ、季節によって太陽の昇る位置も違うし、悪天候等で
わからない場合もあるので、水陸兼用で方角を探る
場合を想定すると、この方法も余りよろしくない。
残るはCで、一番これが無難かなと思える。
海峡を渡る水上移動なので、海流を考慮したのでは?
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E6%B5%B7%E6%B5%81 船首を南に向け進めば、対馬海流により船は
流されるから、島伝いの移動にも無理が無い。
霧等の視界不良時にも対応出来るし。
824 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/29(火) 18:27:35.04
伊都国を北九州市と仮定すると、その東南に中津市があるから、
奴国は豊前と考えても良い。
但しその場合も不彌国の位置は不明。
不彌国に比定できる場所は日本のどこにもないのだから、
不彌国というのは陳寿の誤記か、
或いは馬韓の不彌国と見なすのが妥当である。
825 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 18:42:55.30
.
多婆那 が 周芳娑麼 周芳娑婆 沙麼縣 で 戸畑 なのかもしれない
たば さば とばた
すおう すほう
.
826 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 18:49:06.96
筑前国風土記逸文
風土記に云はく、塢舸(をか)の縣。縣の東の側(ほとり)近く、大江(おほかは)の口あり。
名を塢舸の水門(みなと)と曰ふ。大船を容(い)るるに堪へたり。彼(そこ)より
島(北九州市若松區島郷)・鳥旗(とはた・北九州市戸畑區)の澳(うみのくま)に通ふ。
名を岫門(くきど・洞海湾)と曰ふ。鳥旗は等波多(とはた)なり。岫門は久妓等(くきど)なり。
小船を容るるに堪へたり。海の中に両(ふたつ)の小島あり。其の一を河白斗島(かごしま)と曰ふ。
島は支子(くちなし)生ひ、海は鮑魚(あはび)を出す。其の一を資波島(しばしま)と曰ふ。
資波は紫摩(しば)なり。両の島は倶(とも)に烏葛(つづら)・冬?生ふ。烏葛はK葛(つづら)なり。冬?は迂菜なり。
827 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 18:51:20.89
>>819 なわけないじゃん。
中国は西域のほうを常に重視したわけで
その考えでいくと、地図を長安から西域のほうに逆さにする必要もあるってことになる
828 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 18:54:31.99
多紐細文鏡でてる 綾羅木(あやらぎ) とこ こらへん のは目と鼻の先だしね
829 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 19:08:00.63
馬関の方よりこっちのがひとをたくさん養えて豊かそうだな
分馬津 八幡(やわた) 等波多(とはた)
830 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 19:10:14.87
八幡(やわた) って 邪渡 だと 狗邪が渡ってくるとかののふいんき
831 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 19:12:08.84
等波多(とはた) 戸畑 て 門渡 みたいなふいんき
832 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/29(火) 19:16:44.92
馬韓に卑彌国、不雲国というのがあり、辰韓弁韓に不斯国がある。
不彌国と似ている。
陳寿が、卑彌国あるいは不雲国あるいは不斯国と書くべきところを、
誤って不彌国と書いたのかもしない。
そういうことを考えてみるべきである。
833 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 19:17:13.94
八幡(やわた) って 耶渡 だと とおちゃんが渡っていったみたいなふいんき
834 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/29(火) 19:22:59.41
多婆羅 duopoluo ドポロ (taphala)タハラ
多婆
鳥羽
多婆羅
豆莫婁
835 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 19:24:05.87
日矛さんは王女さんのこと追っかけてきて
難波に来ちゃ駄目てお断りされてさ
そしたら
多婆那の酋長さんが喜んで引っ張り込んでからに
婿にして終いには王にしたとかだから
王女さんのとこと多婆那の酋長さんとことは別なとこだとゆう論理的な帰結。
836 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 19:28:33.45
多婆那の酋長さんとことは女國から嫁はんもろて
子ができなんで終いには卵産んだとかって鳥か亀か蚕かしらんけど
嫁はんのとこと多婆那の酋長さんとことは別なとこだとゆう論理的な帰結。
837 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 19:31:13.37
うほっ 気に入った 多婆 娑婆 戸畑
<邪馬台国の可能性・1> 昨夜のつづき808
今回の佐賀・伊都国説では、三か国を佐賀平野に比定している。
しかし現状、魏志東夷伝だけを頼りに女王国の都へたどり着くことは、記載情報不足で不可能と言わざるを得ない。
吉野ヶ里発掘を終えたばかりの佐賀県及び同教育委員会ではあるが、早ければ数年、遅くとも三十年ほどで
伊都国の手掛かりを得るであろう。
その暁には三国の地もほぼ定まり、放射読みか、順次読みかも見当つくに違いない。
ただし南至投馬国云々・・、南至邪馬台国云々・・の出港地・陸行始点・距離換算は、なお推測に留まるであろう。
そこでとりあえず水行・陸行日数から推し計ると、近くは筑後山門、遠くは宮崎県までが邪馬台国の候補地となり、
要するに佐賀−久留米−日田−湯布院−別府ライン以南の中九州〜南九州全体が可能性を残す範囲と推定される。
会稽東冶の東の記述により、沖縄・台湾等は当然除外される。
東夷伝の水行・陸行日数は貴重な情報源なのである。
>>827 視点を“あちら側から”目線で読まないと
との含みを持たせたつもりです。
840 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 19:51:01.05
>放射読みか、順次読みかも見当つくに違いない。
伊都国を怡土に比定する輩すら放射式だと言っているんだ。伊都国が佐賀となれば
放射式に決まったようなものさ。
>南至投馬国云々・・、南至邪馬台国云々・・の出港地・陸行始点・距離換算は、なお推測に留まるであろう。
なことないな。水行二十日で五万戸の国の首都となれば薩摩川内か加世田以外にあるまい。
>近くは筑後山門、遠くは宮崎県までが邪馬台国の候補地となり、
筑後山門は水行十日陸行1月の距離には合わないよ。
841 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/29(火) 20:05:57.42
もう少し中国史書を読んで物を言ってもらいたい。
漁陽郡 戸六萬八千八百二
右北平郡 戸六萬六千六百八十九
遼西郡 戸七萬二千六百五十四
玄菟郡 戸四萬五千六
遼東郡 戸五萬五千九百七十二
樂浪郡 戸六萬二千八百一十二
九州なんてせいぜい遼西郡ほどの大きさしかないのである。
九州全土でせいぜい七万程度の戸数しか入らないのである。
薩摩川内や加世田に五万も入ると思っているのか、○○。
<邪馬台国の可能性・2> 昨夜のつづき808
では、さらに範囲を狭めて特定できないものであろうか。
魏書東夷伝では、帯方郡より逐次里数を記載しており、伊都国まで一万五百余里と特定している。
一方、帯方郡から邪馬台国女王之所都までは、一万二千余里とも特定している。
よって伊都国から女王の所都までは、千五百余里と差引特定される。
これは、すでに何名かの識者により指摘されている件でもある。
とりあえず伊都国を小城−佐賀大和−佐賀市の三角域内に仮置きし、そこから南方約千五百里といえば、
余裕を見ても熊本・菊池・阿蘇・産山・竹田・高千穂・五ヶ瀬・山都・甲佐・八代・宇土などの諸地を結ぶ
概ね四辺形に収まる。
ご承知のように農耕適地も少なからずあり、当時数万戸を擁することもできたにちがいない。
東西約100km、南北約30kmの範囲に、邪馬台国女王の所都はほぼ特定され得るのである。
倭人伝の戸数は全く信じてないけどな
万の竪穴式住居を囲んだ城柵、環豪が存在したとでも?
桁間違ってるとしか思えん
ハッキリ書くと女王國七万戸とか、三世紀の日本のどこ探しても無い
あったらクリスタル・キングの喉が潰れちまう。だからと言って満州だとは思わねぇケドw
♪あっあぁ〜はってっしぃ〜ないぃ〜
♪やまたぁ〜いおぉいかっけてぇ〜っええっえ〜
>万の竪穴式住居を囲んだ城柵、環豪が存在したとでも?
それはないない。
倭人伝には、○○家と、○○戸が出てくる。
たとえば、家は城柵・環濠の中にある王族・役人・兵士の家、戸は田畑の中や谷川のそばに散らばる農奴の掘立小屋、
みたいな区差別を示していると思う。
邪馬台国の7万戸は、多分、農奴の掘立小屋だな。
<邪馬台国の可能性・3> 昨夜のつづき808
あれから千数百年を経た今日、魏書東夷伝(倭人伝)を観光マップがわりにケモノ道をたどるかのような行程探しでは、
目指す場所にたどり着くことは困難といわざるを得ない。
東西約100km、南北約30kmは、われわれ現代人にとってはクルマ行の1日で往復できる広さに過ぎない。
手分けして端から端まで絨毯捜査し、卑弥呼の宮室・楼観・冢にゆかりの遺跡・史跡・神域等を探せば、
意外なところに数々の新発見があるのではないかと思う。
この時代、インターネットとグーグルマップで予習しておくと、いっそう効果的であろう。
すでに探索を開始した人達もいるようだ。
最も海岸寄りには、ガラケー氏のモンサンミシェル城が見つかったらしい。
阿蘇高原の雲上には、もしかして天空の城ラピュタがあるかも知れぬ。
古代径百余歩の冢の眠りから卑弥呼が目覚める日も近い・・、そんな予感がしてならない (終わり)
虚構の飾り好きなのは朝鮮の血の為せる業だろう。
それも棄民された後期渡来人。
847 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/29(火) 21:18:32.53
>>842 万二千余里というのは帯方郡からの直線距離だから、
それまでの里数を足しても意味がないのである。
東南に行ったり東に行ったりしているのだから。
九州北岸の末盧国までの倭人伝の行程距離は一万里だが、
帯方郡から末盧国までの直線距離は一万里以下なのである。
邪馬台国までの距離も同様である。
それはあくまで直線距離である。
直線距離で万二千余里の沖縄辺りにあると言っているのである。
>>846 元を辿ればアフリカの一匹のメス猿に行き着くらしい
貴方も私もスレ住民もオバマもレディガガも毛沢東も陳寿も北の将軍(故)様も
そのメス猿の遺伝子を持っているのだとか
夢ロマン妄想よかやっか こまいこといいなや
849 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 22:27:47.65
>万二千余里というのは帯方郡からの直線距離だから、
直線距離が分かるわけがない。それこそ○○だな。
女王国は伊都国の南千五百里ぐらいから始まるんだよ。
>薩摩川内や加世田に五万も入ると思っているのか、○○。
読解略がないとそんなくだらんチャチを入れる。川内または加世田といったのは
あくまでも首都の話。その領域は広大だ。
850 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 22:44:37.58
>>849 >直線距離が分かるわけがない。それこそ○○だな。
>女王国は伊都国の南千五百里ぐらいから始まるんだよ。
その千五百里も直線距離じゃないわな。直線距離だったら五百里くらいかも知れんわな。
851 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 22:46:54.10
伊都国からは南というだけだからな、基本的には直線だ。
しかし、伊都国までの区分距離には余があるから千五百が千里ぐらいのことは
あるかも知れん。
852 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 23:10:59.41
>伊都国からは南というだけだからな、基本的には直線だ。
そんなことは分からんだろ。南へ一直線の道や水路を通ったのか?
853 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/29(火) 23:11:09.39
常識の 無い奴多い 九州人
854 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 23:15:29.38
>南へ一直線の道や水路を通ったのか?
有明海だよ。
海に出たり岸に戻ったりはしただろうが、距離は直線で考えるんだよ。
855 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 23:17:02.77
>常識の 無い奴多い 九州人
満州に常識があるとは誰も思ってないだろうな。
856 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 23:26:49.62
>>835,836 とゆうことは
多婆 娑婆 戸畑 あたりは日矛さんの子孫の息長垂の故郷じゃろて
万二千余里は、よく使われる常套句だから、
もちろん、東夷伝にも書き込まれている。
858 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 11:33:45.93
常套句? そんな数字そうそう書かれてはいないよ。嘘だと思うならば
実例を探してみな。
常套句であるということは、世間の多くの人がそれを知っていることを意味するから、
ここで万二千余里を使ったことの重要性をも意味する
つまり、最初から万二千余里で締めくくる予定で、
その間の行程を振り分けた(循海岸歴韓国七千里−渡海三千里−陸行二千里)と考えるとわかりやすいな、なっとく。
860 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 12:18:06.48
常套句ではないと言っているのだよ。
>>860 おれのことか? >859 は >857への駆け引きでいってみただけだ。すまんすまん。
高貴なお方となれば、いつもの癖でつい筆が滑ったなんてことはありえない。
とうぜんだが、万二千余里は合理的な裏付けあってのこと。
862 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/30(水) 12:48:30.40
九州人 おらが国さの 九州説
万二千余里で沖縄辺りにあると言っているのだから、
九州ではないなw
>>862 九州の文字が3回も入っとるわい
悪名も有名のうち、いやよいやよも好きのうち
遙か遠いとする所は、「万二千余里」と記すパターン。
>>864 それはよく分かった、んでその用例はどこにあるか?? それを示せ。
866 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 16:42:47.67
>>844 >農奴の掘立小屋
農民漁民の掘立小屋
倭には農奴がいない。
勉強不足だ。
「農奴」を使うなんて、君は中共かぶれのシナ人か?
867 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 17:21:04.93
>>865 横からだけど、漢書・後漢書に、萬二千○○里という距離が、いくつか出てくるよ。
康居國とか大夏とか西域諸国までの距離。
東も西も、はるか遠くは萬二千○○里だと見なされてたんじゃないの。
868 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 17:23:23.19
>>847 万二千余里というのは帯方郡から不彌國までの道程だから、
それまでの全ての行程里数を足すことが重要である。
九州北岸の末盧国までの倭人伝の行程距離は一万一千四百餘里である。
そして末盧國から不彌國までの行程理数は四百里である。
行程里数の内訳
@韓地の循海岸水行は、七千餘里
A三回の渡海は、三千餘里
B對海國と一大國の海岸水行は、一千四百餘里
C陸行は、六百里。
D伊都國⇔奴國の行程でない距離は、一百里
>はるか遠くは萬二千○○里
問題は、その際の内訳の数字が有るかないかと、あればどのような内訳数字かということ
東夷伝の陳寿の場合は内訳数字を伴ってるので、単にはるか遠くの意味かどうか、その妥当性の判断に必要だからね
870 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 17:48:52.42
×そして末盧國から不彌國までの行程理数は四百里である。
○そして末盧國から不彌國までの行程理数は六百里である。
871 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 17:55:29.92
理数は苦手だな。
落語の時そば・・、とかいうやつの勘定場面を思い出したわ。
873 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/30(水) 18:31:14.59
>>867 こんな話は無意味だと思いながらも書くことにしよう。
地図で見ると半島南岸の東西の距離と、
釜山から末盧国までの距離はほぼ等しい。
釜山から末盧国までの距離は三千里だから、
半島南岸の東西の距離は三千里ということになる。
そうすると帯方郡から半島南西端までの距離は四千里ということになる。
そうすると帯方郡から九州北岸までの直線距離は約七千里ということになる。
ということは末盧国から五千里のところに邪馬台国はあるのである。
875 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/30(水) 18:42:52.10
末盧国から五千里といえば、
君らの大好きな短里で計算すると約380kmだから、
九州を突き抜けてしまうぞw
むしろ大和にほぼ近いw
877 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 18:51:30.34
,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ < 君は逝きなさい!
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′ , -─弋ヽ、
ノr┴-<」: :j| ホレ逝きなさい!> / `Y
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _ | {、 |
/:/ = /: :/ }! |〕) 从\ |) |
{;ハ__,イ: :f | /´ (〔| ヽ__j儿从八_
/ }rヘ ├--r─y/ ☆、 `\ i⌒ヽ ̄ ̄\
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_⌒☆ \ | | `===ヘ
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´) ゙と[l ̄| | \
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ  ̄| | ヽ
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )←満州 | |\ }
_/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′ /{_〆 ̄`ーー=='^┤
└-' ̄ `| |_二二._」」__ノ {| -‐ / | | }
└ー′ └─-二_/⌒Y ̄}
878 :
日本@名無史さん:2013/01/30(水) 20:16:21.09
末盧国までが一万里なんだよ。女王国はそこから二千里だ。
しかし、女王国=邪馬台国ではない。万二千里で女王国が始まり、そこから都
すなわち邪馬台国まではまだ延々と進んでいかなければならんということさ。
>>867 昔から普通に知れてる程度のことを、いまさらまぜっかえすのは疲れる。
2chに対する熱意に不足しているのかも知れないが・・・
一月千里
年に萬二千里
“遥か彼方”の形容詞…
詩的表現かもだねぇ
詩的表現ながら、計算はしっかり合ってるな。
万二千里=千里×12カ月
自郡至女王国万二千余里 が優れた詩的表現であるためにも、内訳はしっかり合っていなくてはならぬと思うな。
882 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 00:25:04.50
883 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 01:18:31.46
そもそもなんで倭人伝の記述が正しいこと前提なんだ
版重ねた誤記誤写、参問したやつの正確性
倭人伝からじゃこれ以上の解釈は難しいだろう
発掘調査の進展で当時の日本を浮かび上がらせ考察すべき
884 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 01:29:48.96
885 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 08:00:26.02
発掘調査の進展ほどいい加減なものはないよ。
箸墓の年代ひとつ確定できない。
886 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 08:04:12.94
遥か遠くの裸國、黒齒國・・船行一年=海行十二月=海行一月×12=千餘里×12=万二千餘里
>>885 だがそういう主張は九州説にも帰ってくるけどな。
888 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/31(木) 09:39:14.08
讀史方輿紀要という文献を読んでいたら次のような記事があった。
又有平山嶺,在開城府西一里,其土色皆赤。
土色が赤いということは丹が採れたんじゃないのか?
考古学者が土を掘れば出てくるような脆く儚いものと決めつけるのはいかがなものか
今も由緒正しい神社・神域として祀られ、護られているかもしれないではないか
<日向風土記逸文を読む>
(梅原猛著 天皇家の"ふるさと” 日向をゆく・新潮社刊)
>「ニニギノミコトは天の八重雲を押し分けて日向の二上の峯に天降ってきたが、
>ときに天は真っ暗で昼も夜も分からなかった。天つ神が困っていると、忠告する土蜘蛛があった。
>名をオオクワ、コクワというこの土着の民が、稲の霊力によってこの闇は晴れるというので、
>千穂の稲を籾として投げたところ、天は晴れ、日月も輝いた」という記述である。
>『風土記』は和銅六年(七一三)の詔に応じてできたものである。
>奈良時代において、ニニギノミコトが降臨されたのは臼杵郡内の智鋪(知保)の里、
>今の宮崎県西臼杵郡高千穂町であると考えられていたことはまず間違いない。
掘れば出る、卑弥呼の宮室はオレ様の足の下にある
などと公言するのは、考古学者の思いあがりである
891 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 10:20:31.05
>>887 九州説は文献を主として考古学的資料は従とする。したがって、間違いが少ないよ。
第三者に近い人が書いた文献が主な姿勢が正しい
>>891 文献解釈が偏ってたり、間違ってたならば無意味だよ。
例えばの話だよ
墓どかして調査とか出来ないでしょ
遺跡なら尚更ってこと
898 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 15:16:43.52
899 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 16:27:01.51
また古そうな古墳の形だな
前期も初めの貴重な古墳ではないの
900 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/31(木) 17:21:37.22
九州人 本題避けて 考古学
かうなれば 古墳の話で 逃げ切らう
901 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 17:24:28.34
文献的にはほとんど九州で確定だもんね
>>899 これが滅茶苦茶怪しいんだよ…
大きさといい造られた年代といい。
載ってる墓も古いのがあって、古墳と
解らぬウチに墓が築かれた気がする。
墓の上に墓が建つ、摩訶不思議な光景。
903 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 17:25:10.76
もう文献でも九州説はダメだろ。
鉄の優位性とか捏造がバレてるし。
905 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 17:37:37.78
>>899 本古墳は、島原半島北西部に位置し、田内川の河口から約600mほどの平野に立地し、独立した小高い丘のように存在する前方後円墳である。
南西16mほどに、隣接して円墳の丸塚古墳が存在する。
現在、本古墳の墳丘は共同墓地として利用されており、墳頂部から裾まで石塔が立ち並んでいる状態である。
昭和27年(1952)頃には、後円部から箱式石棺が1基発見されたといわれているが、出土遺物は知られていない。
昭和52年(1977)には、県立島原工業高校郷土部が墳丘の測量が実施しされている。
平成2年(1990)には、県教育委員会が測量調査を実施し、主軸方位は北から86度東に傾いており、現存長66m、後円部径45m、高さ7.2m、前方部幅15m、高さ2.5mを測る。
墳丘の形状は、後円部に対して前方部が短くバチ形に開く古式の形態をもっている。
測量調査の際に、壺の口縁部破片が採集され、これを実見した佐賀県教育委員会の蒲原宏行氏は、4世紀初頭に位置づけている。
現在、県内で確認されているなかでは最も古い古墳で、旧高来郡地域を治めた首長の墓と考えられる。
http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/ruin.php?id=3263 箱式石棺
壺の口縁部破片
バチ形に開く古式の形態
サイズ
津古生掛古墳 より後
三国の鼻1号墳 より前 みたいなかんじ
906 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 17:38:30.38
畿内はゴッドハンドだからなw
ゴッドハンド?便所紙の御大は九州説だよw
908 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 17:51:50.21
畿内説の根拠は皆無だろ。
909 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 18:02:21.54
これは民間人のお墓のようだけど、
古墳の上に別表神社とか建ってたら調査不可能だよねえ、一万二千年くらいは。
お墓は移転可能だろ。
寺院だって移転するんだし。
明治時代あたり、東京の有名どころは郊外に移転してるの多いよ。
914 :
卑弥呼は満州にいた:2013/02/01(金) 09:32:07.54
讀史方輿紀要にこんな記事あり。
釜山《志》云:在朝鮮東莱縣南二十一里,西北去王京千四百里,濱大海,
與日本對馬島相望,揚帆半日可至
釜山から対馬まで、帆を上げれば半日で着く、とある。
そうすると釜山〜末盧国は一日半。
その四倍かかったとしても六日。
末盧国から水行二十日水行十日では九州を突き抜けてしまう。
分かるかな、九州説諸君w
諸君が一日も早く真人間にならんことを心より望んでおります。
915 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 09:59:51.69
鬼の首でも取ったような勢いで戯言を。有明海に行ったということは、倭の舟に乗ったということだよ。
当時の倭の舟は
916 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 10:00:37.78
鬼の首でも取ったような勢いで戯言を。有明海に行ったということは、倭の舟に乗ったということだよ。
当時の倭の舟は帆は使わないだろう。帆船の速度など何の参考にもならんよ。
>>914 これは素晴らしい資料だ。
韓国岸から対馬まで半日なら、
水行のうち十日は、帯方郡から末蘆国までのこと
残りの十日は、末蘆国から投馬国まで、すなわち唐津から宮崎の西都(斎都)港までの日数できまりだ。
西都原古墳の出土船に見るように、当時の郡の外洋船は帆船だもんね。
さすが満州さまの博識には感服つかまつり候。
918 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 10:57:49.86
な〜んだ
順風なら渡海三千里はたった一日半か
十日というのは郡から末蘆までの日数で妥当なセンだな
やれやれ、満州のおかげで九州説の人間はみな真人間になれたわい
残りの陸行一月は、末蘆国から歩いて二千里の所要日数か、ふむふむ
919 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 11:18:38.13
>>914 >>917 >濱大海,與日本對馬島相望,揚帆半日可至
>そうすると釜山〜末盧国は一日半。
これは、巨済島南端から対馬島北端まで対馬西水道(朝鮮海峡)を渡るのに
半日かかるとと書いてあるのだ。
海流と潮流が北東方向に流れ、北西の風が吹いたときの最短渡海時間が半日となる。
対馬東岸南下航行+対馬東水道渡海航行
+壱岐北岸東岸航行+壱岐水道渡海航行+唐津湾航行
潮流海流風向きのベストコンデションで、
上記五回の航行巨済島南端〜末盧國に二日は費やすから、
釜山〜巨済島南端の航行半日を加えて、
釜山〜末盧國の航行には三日は必要。
昼夜ノンストップの航行で、釜山〜末盧国は一日半が可能。
920 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 11:26:17.08
>>918 >残りの陸行一月は、末蘆国から歩いて二千里の所要日数か
残りの陸行一月は、末蘆国から歩いて一千餘里の所要日数である。
(陸行一月=海行一月=一千餘里)
末蘆国から歩いて一千餘里は八女市又は、みやま市付近である。
921 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 11:42:47.22
ふむふむ、狗邪韓国から末盧国までは海行3月か。
922 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 12:13:33.74
>>921 >ふむふむ、狗邪韓国から末盧国までは海行3月か。
そうだ。狗邪韓国から末盧国までは海行3月の距離だ。
但し、沿岸航行があるから海行3月と表現できない。
だから、狗邪韓国から末盧国までは水行3日と表現するのが適切だ。
(陸行一月=海行一月=水行一日=一千餘里)
狗邪韓國から末盧國までの道程を積算すると、
1000餘里+400餘里+400餘里+1000餘里+300里+300里+1000餘里=4400餘里
故に、
水行3日=4400餘里
水行1日=1467餘里
この場合、
水行1日≒100km
となる。
安定のパズル馬鹿だなw
讀史方輿紀要
明末清初の顧祖禹の編
おまえら満州の出してくる文献は年代確認することを習慣づけろよ
925 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 12:28:21.99
古田信者のはいつも勘定合わんな
レスするたびに百文づつ損しよるわい
この資料は三世紀当時のか?
当時の船は、帆を高々と揚げれる代物では無かった筈だぞ。
高いマストを立てれば、構造的にひっくり返ってしまう。
それぐらいまだ船舶技術が未熟な時代なんだ。
帆はオマケ程度の物で、動力源は殆どオールでの手漕ぎだぞ。
大体そんな船なら、東シナ海突っ切って渡って来るだろうに。
>>925 卑弥呼のころも、明末清初のころも、吹く風の速さにそう違いはあるまいよ
>>926 レッドクリフの映画みたか?
曹操軍なんかが使ってるのはすげえマストにすげえ帆だぞ、三百人くらい乗れるわな
929 :
卑弥呼は満州にいた:2013/02/01(金) 12:40:42.08
釜山《志》云
この《志》がどういう文献を指すのかは不明。
因みにこういう資料もある。
蓋登、莱度金州六七百里,至旅順口僅五百餘裡,順風揚帆一二日可至。(明史)
山東半島の登州、莱州から遼東半島の金州、旅順口まで順風揚帆一二日可至。
>>926 帯方郡の使いが東シナ海突っ切って渡ってくるわけなかろ
あの人も遂に頭がばらばらに分解してしまったようだな。
もともとはガチガチで金槌ぐらいではひびも入らなそうに見えたが。
2chの魔力恐るべし。
932 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 13:09:20.52
3世紀海域航行の動力
潮流海流>風>人力
風の影響は大きい。
準構造舟で竜骨様構造のない舟は横方向の風でも流される。
平底舟は使い物にならない。
933 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 13:14:00.37
中国は帆船を使っていたが、倭の舟は帆を使ってはいないよ。
船があれば帆を使うことくらい誰でも思いつくさ
西都原古墳から出た船形埴輪は12丁櫓の帆船、船の前後の計4か所に帆綱を掛けるフックもある
935 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 13:38:30.89
倭の舟は小型だから帆が不要。
帆を張ると瞬間の突風で転覆しかねない。
でも竹製大型風呂敷位のスピンネーカー機能の様な簡易な帆は張ったと思われる。
日本の考古学者という人種は、
日本の古墳時代をひどくみすぼらしい姿に想定し、
その反作用で、自らは優越感に浸りたがるんだろな、だから間違うんだよ、きっと
937 :
日本@名無史さん:2013/02/01(金) 14:00:16.72
日本の歴史学者考古学者という人種は、理数系論理に弱い自然科学音痴なんだよ。
>>928 内陸(大河用)船だろ?
外洋船には使えない。
>>938 とうぜん映画のは大河川とか湖用でしょうね。
しかしそれだけ巨大な物を作れる時代で、数十万人を動かして戦える組織力もあったということは重要。
爆薬も、巨大投石機もあったし、外洋船だって用に耐え得る立派なものを作れたんじゃないの。
そんな魏に朝貢し、張政らから指導も受けてたんだし、鉄製武器用具もあっただろうし。
当時、中国や倭は産業革命(鉄革命)のまっただ中にあったんじゃないの。
レッドクリフをみれば、縄文人の親戚レベルとは格段にちがったとおもうけどね。
>>938 どっか別のHPに書いてあったのだが、当時の外洋船は100人乗りくらいの大きさだったらしいよ。
941 :
卑弥呼は満州にいた:2013/02/01(金) 18:32:19.32
お望みなら、こういう資料もありまっせ。
瀛寰志略(作者:徐繼畬1795年—1873年)
日本古稱倭奴,其國在東海中,平列三大島。北曰對馬島,與高麗南境相直,一夜可達。
一夜可達は一昼夜かかるということか。そうすると末盧国までは三日。
弥生時代はその三倍かかるとしても十日もあれば着く。
そうすると例えば佐賀から水行十日も行けば九州を突き抜けてしまうと思うがw
ところで郡から邪馬台国まで萬二千里ということだが、起点は帯方郡からでいいのか?
陳儒が記したのは実地検証無しの過去の文献の寄せ集めなんだよな
都のある郡からの距離なんじゃないのか?
>>942 自女王国以北、特置一大率、檢察諸国、、、常治伊都国。
於国中有如刺史、、、皆臨津搜露、伝送文書賜物、、、。
津に臨んでだから伊都国の玄界灘方面の港、と無理無理考えなくてもいいんじゃないの
一大率みたいな偉い人が手荷物検査をするわけないから
末蘆国にも刺史のごときあり、その部下が末蘆の津に臨みて皆捜露、の方が自然な読みだと思うけどねえ
>>943 >都のある郡からの距離なんじゃないのか? ←都って洛陽のこと??
洛陽の戸数は7万戸、
そこから1万2千余里で7万戸の邪馬台というのがきっとあるハズ。
>>942 さらに意訳してみよう
末蘆国の港で、送付状と文書賜物などの現物を照らし合わせつつ女王国側の役人に引き渡せば、
あとは彼らが間違いなく女王の元へ届けてくれるので、
魏使は目録だけだいじに持って都へ向かえばよい、安心できる奴らだ。・・という意味だろな。