1 :
日本@名無史さん :
2012/12/28(金) 22:09:35.80
井沢元彦氏が著書の中で言っていた説なんですが、 農耕民族の弥生人が狩猟民族の縄文人を駆逐していった その駆逐されていった縄文人の末裔が後々賎民身分になっていき、 部落問題に繋がっていった・・というのはどれくらいの説得力が ありますか?
井沢元彦氏の脳内には縄文人と弥生人の二種類しか存在しないってことじゃねぃ 正確になんと氏が言っているのか知らんけど
なんと氏が ↓ どういう風に、氏が
5 :
日本@名無史さん :2012/12/29(土) 06:32:43.71
>>2 実際には駆逐したんじゃなくて混淆したようです。
7 :
日本@名無史さん :2012/12/29(土) 20:55:50.78
そもそも尾張一帯は川の流路が不安定でしばしば国境が変わっているだろう
この図は明らかに間違いですが、元々尾張の国は現在一般に考えられるより西側に広かった。 洪水による流露変遷や河川改修の結果、尾張のいくばくかが川の西側に入り、現在の形になります。 (岐阜県の境川を参照) これを考えずに書かれているのが「武功夜話」で、これを偽書とする根拠のひとつになっています。
11 :
日本@名無史さん :2012/12/30(日) 07:50:09.62
>>5 『後漢書』高句麗伝に「質帝と桓帝の間(146年−167年),度々遼東の西安平県を侵犯し,帯方令を殺害、楽浪太守の妻子を誘拐した」
と書いてあるから、本当は遼東にあったんだよ。
12 :
日本@名無史さん :2012/12/30(日) 09:44:29.06
>>5 そのページの主張は恐らく真実だろう。
これほど探しても邪馬台国が見つからないのは本質的な間違いをしているはずだ。
13 :
日本@名無史さん :2012/12/30(日) 09:51:56.37
少なくとも戦中の敵性言語(英語)の禁止とか「欲しがりません、勝つまでは」とかは 当時のマスコミが言い出したことらしいよ。軍隊は普通に英語も使ってた。
15 :
日本@名無史さん :2012/12/30(日) 11:13:32.87
>>14 そうですかありがとうございました。戦前の日本は正しかったんですね。
新学期が始まったら、学校の歴史の先生を論破してきます!
くれぐれも日教組に凹られないで下さいね
自由があったのだとしても、マスコミが昔もマスゴミだっただけだ 日本人はこれと言って変わっていないよ
>>13 天皇制、格差社会、軍部による内閣の流産に疑問を抱かん奴隷には自由に見えたんだよw
>>9 戦国時代に秀吉が国境移した話ですかね?
>>10 たしかに山城の国無いですね
この図は間違いなのですね。ありがとうございました。
20 :
日本@名無史さん :2012/12/30(日) 19:37:27.81
>>13 質問自体板違いなんだよな。厨房にはわからないだろうが。
22 :
日本@名無史さん :2012/12/31(月) 01:22:28.51
以前、別の板で質問をしたのですが超絶過疎のため返答がなく、申し訳ないですがこちらで同じ質問を致します。 1956年に亡くなった曾祖父の写真が一枚だけ実家に残されています。 親父に聞くと当時は家に電話も無かったみたいですが、写真と電話、それぞれ一般人にまで普及したのはいつ頃でしょうか? 生活への密着度で言うなら電話の方が早そうなので、何か意外でした。
写真は幕末から存在し、勤皇の志士などの写真が残っています。 これが一般に普及したのは日露戦争の頃。なぜかと言うと、徴兵された人々の遺影に使うためです。 兵士は入隊の時、戦地に赴く時、何度となく自らの写真を写真館で撮り肉親に郵送しました。 西南戦争時も佐賀の乱の時も、現地の写真や標的とされた討伐されるべき首魁の写真などは量産され残っています。 しかし一般兵士個人の写真はめったにない。 日清戦争の頃の犠牲者を祭った神社には、彼らの人形が祀られている例があります。時代が兵士の遺影を求めていたわけです。 電話は戦前には家庭にはあまり普及していません。官公庁や商店等が主で、一般に普及したのは戦後間もなくからでしょう。
想像すれば判ると思うが、電話は相手先も加入してないと役に立たないのである程度普及するまでは 時間がかかる。元々無かったものだから生活に密着などしてはいない。
箱根、湯河原周辺の山岳信仰について勉強したいのですが良書を教えてください
26 :
日本@名無史さん :2012/12/31(月) 09:14:44.07
>>23 カラー写真が使われるようになったのはいつごろからですか?
韓国の夢と現実という写真の対比で、全員白装束の朝鮮人一般庶民のカラー写真を見たから、日韓併合直後ぐらいですか?
27 :
日本@名無史さん :2012/12/31(月) 16:28:24.71
サンカについて、江戸期の身分がはっきりしませんが何故ですか?
>>26 写真を見ないと分からないけどそれはカラー写真じゃなくて複数色フィルムを合わせた写真だと思う。
韓国併合の少し前にアメリカで野口英世が日本人で初めてカラー写真に撮られたというから、日本あるいは朝鮮に伝わるのはもっと後になった筈。
版合成より、モノクロ彩色のが一般的じゃね?
30 :
日本@名無史さん :2012/12/31(月) 22:33:24.74
サンカについて、江戸期の身分がはっきりしませんが何故ですか?
山窩だからじゃね
32 :
日本@名無史さん :2013/01/01(火) 09:27:22.03
>>18 287 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2013/01/01(火) 01:45:36.95 ID:EOJP4ueb0
>>247 第二次世界大戦の戦時中は世界中の国が民主主義じゃなかったよ、日本だけじゃない。
戦時=特殊な状況だからどの国も統制社会になっていた。
統制無しでは戦争なんて出来ないからね。
そして戦争に突入する前の日本は「大正デモクラシー」との言葉もあるように自由で民主的だった。
若い情弱は、終戦までの日本=強権的政府に管理統制されまくりの国民
戦後GHQが入ってきて始めて「民主主義」を知った
という構図を刷り込まれてんの?
これも自虐史の一部?
>>32 どんだけの内閣が軍部の横槍で流産死産に追い込まれたかすら知らん情弱が何を言うか?
発禁、伏字だらけの新聞、悪名高い治安維持法、一体どこが民主的なのか?
21世紀になってあらわれた小林よしのりをはじめとする歴史修正主義者の嘘を素直に信じれるような輩
はニュー速+で自慰史観にふけっていなさい。
35 :
日本@名無史さん :2013/01/02(水) 00:05:06.90
はじめまして。 早速質問なんですが、先祖は村役人でしたが、名前に、 「OO弥兵時忠」というように、いみながある先祖が数人います。 その先祖の代は、墓も、傘付きだったりしているのですが、 これは郷士となったときと考えていいのでしょうか? ちなみにすべての代でイミナがあるわけではなく、数人です。 あとは、百官名が4人、あとの数十人は「OO兵衛、OO左衛門」です。 ちなみにほとんどが、院居士です。 わかる人教えてください。
37 :
日本@名無史さん :2013/01/02(水) 21:45:06.94
豊臣秀吉は、関白・太政大臣の宣下を受けたが、 更に、何故、准三宮宣下はなかったのだろうか?
実質的には秀吉の方が強くても、関白就任までは秀吉よりも公家、公卿の方が格上だったんですよね? 関白就任など、どうやって圧力をかけたんでしょうか?圧力をかけるまでもなく、公家、公卿の方から「ぜひ」「どうぞ」という感じだったんでしょうか?
ある歴史本を読んでたら、太政大臣よりも関白が格上と明記されていました。 しかし、秀吉は関白になってから、太政大臣になりました。とすれば、これは降格になるんじゃないでしょうか?
@太政大臣は関白と兼務なのだからプラスアルファなので左遷になりようがない。 Aそもそも太政大臣と令外官である関白には明確な上下関係はなく、職権などから関白が上だと認識されているに過ぎない。
41 :
日本@名無史さん :2013/01/03(木) 02:16:42.62
ジャニーズに含まれるんじゃないでしょうか
42 :
日本@名無史さん :2013/01/03(木) 02:21:04.03
サル抜きでやろうぜ。
関白は左大臣右大臣内大臣が兼ねることも多かったし、 太政大臣とは特段分けて考えるような職ではない
乃木希典に関する本を買おうと思うのですが どの本が真実というか、実際に近いものでしょうか?
>>38 武家の世になってから力は武家が上
官位は公家が上(例外有り)の慣例が続いていた
摂関は鎌倉時代以降五摂家の持ち回りになっていたが
次は誰が摂関になるか、いつ交代するかで絶えず争いがあった
秀吉は五摂家の争いに乗じて関白になった
とはいえ、無縁のところから出て行ったわけではなく、
秀吉は五摂家の一つ近衛家の養子になっている。
当時、近衛家当主の近衛前久は、本能寺の変で光秀内通の噂をたてられ洛外逃亡、
秀吉の許しを得て帰洛したものの蟄居の身であった。
秀吉は前久の養子として関白となり、前久の娘前子を秀吉の養女として
後陽成天皇に入内させるなど、前久のために便宜を図ってもいる
>>40 >>43 サンクスです
ただ、教科書や歴史本の記述は、○○年に関白就任、翌年には太政大臣に登りつめた、
みたいな書き方だから、知識がないと太政大臣〉関白だと思う
江戸と蝦夷と語源は同じ?
時代は違うけど、幕末の尊皇攘夷運動も戦後の学生運動も政治的主張やイデオロギーを持って 現体制と戦ったという部分では同じような国民運動だったと言えるのでしょうか? それとも決定的に違うものですか?
>>47 蝦夷を「えぞ」と読むのは鎌倉時代の後半からでアイヌを意味していたと思われる。
もっと以前の古代には「えみし」と読んでいた。
江戸は平安時代後半に発生した地名と考えられていて、「江」が川とか入り江、「戸」は入り口の意味で
隅田川の河口とか日比谷入り江にちなむものと考えられている。
つまり全然別。
>>48 尊王攘夷が国民運動かと言われれば違う。何故なら当時は「国民」というものは存在しなかったからだ。
>>48 それ言いだすと今の反原発デモも同じだよね
いつの時代も何らかの反体制運動ってあるのかも
51 :
日本@名無史さん :2013/01/06(日) 10:52:54.47
明治維新当初はごく少数のリーダーが合議で国の政策を決めていたと思うのですが、 神仏分離や廃仏毀釈などを考案立案した人物は誰だったのでしょうか? また、国のトップたる歴代天皇の中にも複数の仏教徒や出家者がいますし、 祖先崇拝の強い皇室からすれば、廃仏毀釈はご先祖様を否定することに なってしまうのじゃないのでしょうか?
ある本を読んでいましたら、皇族以外の人間がなれる最高位が関白であると明記されていました しかし、関白よりも上の摂政に皇族以外の藤原氏がゴロゴロなっていたような気がするんですが、 この辺は一体どうなっているのでしょうか?
真意はその本を書いた人にしか判りませんが、江戸幕府に例えると最高位は老中だけど 必要な時だけ臨時に老中の上に大老が置かれたのと同じ事かもしれません。
摂政と関白は同時に存在しない以上、上下関係はつけられないのでは
摂政は天皇の名代だからなぁ 天皇=摂政だけど、天皇≠関白
>>53 の例でいくと、老中=太政大臣であり、大老=摂政・関白、そして摂政〉関白であると言うことになる
だから、皇族以外の人間がなれる最高位は摂政である、という結論になるべき
57 :
日本@名無史さん :2013/01/06(日) 14:40:27.70
ヨイトマケの唄 「土方は差別用語だから、この歌は放送禁止」ということだが、 土方を放送禁止にさせたのは、富豪や政治家、新興宗教や暴力団の傘下にある人権団体だった むしろ「ヤクザな道は踏まずに済んだ」の部分こそ、彼らにとっての放送禁止な部分。 「ヤクザな道」を通って暴利を貪って来たのは、他でもない、彼ら自身だからだ。 その「ヤクザ」が「土方」にイチャモン付けて、「放送を通した歌の頒布を禁止」させた。
58 :
日本@名無史さん :2013/01/06(日) 15:36:48.67
>>52 基本的に摂政と関白の地位は同等
天皇が元服したので摂政だった人が関白になったからと言って
それは降格に当たらない
女帝がたったのでそれまで関白だった人が摂政になった、
それを昇進した、ともいわない
59 :
日本@名無史さん :2013/01/06(日) 17:59:14.33
すみません…源氏と平家の詳しい質問をしたいのですが答えて下さるかたいらっしゃいますか 自分では調べても意味がわかりませんでした
とりあえず質問内容書かないことには答えようもないだろう
61 :
日本@名無史さん :2013/01/06(日) 19:42:41.35
あの、釣りではなく真面目な質問なんですが。 家系図もあり、岩城一族の中のものなのですが、源氏か平家かわかりません。ずっと平家かなと勝手に思っていたのですが詳しい方いらっしゃいませんか? よろしくお願いします
>>59 誰が釣りと言った?てかあんたが
>>59 ?
ちょっとは順序立てて分かりやすく質問しろよ。
真面目な質問だとかいう書き出しが既に茶化してるようだ。
64 :
63 :2013/01/06(日) 20:12:46.95
>>62 まず廃仏毀釈は政府が企図したものではなく、神仏判然令の結果としての風潮が生んだ社会現象。
ゆえに直接的に政府は関係ない。
そして神仏判然令、いわゆる神仏分離令は津和野藩の影響が強い。
具体的に言えば法令の起草者は福羽美静。彼は平田篤胤の流れを汲むゴリゴリの国学者。
そしてその背後には津和野藩主亀井茲監の影響が強い。
津和野藩は新政府では神祇省関係の職に大きな影響力があって、もともと神仏分離のモデルケース
として行われていた津和野藩の政策をそのまま国家の政策に拡大したと考えていいのではないだろうか。
66 :
日本@名無史さん :2013/01/06(日) 21:25:43.44
>>63 さんへ
59も61も自分です。説明不足ですみません…
私もよくわからなくて。ずっとずっと辿ると、桓武平氏ー岩城一族の分家とありまして。確かに苗字もありました。
亡き親からもそれは聞かされていましたが、今は両親もいないので全くわからずです。
平氏と書いてあったので、平家なのかなと思っていたのですが、源氏の可能性もあるのでしょうか?どちらかわかれば、ゆかりの地に行ってみたいがゆえ質問致しました。
ご迷惑おかけしてすみません。
質問の意味が分からない。 桓武平氏であるところの岩城氏の一族で、かつ家系図もあるなら平氏で問題ないんじゃない? なぜそこで源氏の可能性もあるのかという疑問を持ったのかが分からないので答えようもない。
68 :
日本@名無史さん :2013/01/06(日) 23:32:21.71
>>65 どうもありがとうございます
廃仏毀釈は政府が企図したわけではないとのことですが、
結果として皇室が仏教から離れたのはなぜでしょうか?
祖先崇拝の強い皇室としては、祖先否定にならないのでしょうか?
>>66 一般論としては平氏です。源氏の可能性は多分無いと思いますが、古代の岩城国造の末裔説は有るようです。
70 :
日本@名無史さん :2013/01/06(日) 23:39:31.41
>>67 さんへ
うまく説明できずごめんなさい。ありがとうございました。日本史が苦手なもので…助かりました。
>>68 仏教は祖先の追善はするけど崇拝はしないので神道が正しい。
72 :
日本@名無史さん :2013/01/06(日) 23:45:26.29
>>69 さんへ
ありがとうございました。今度、平家と縁の深い所に行ってみます。親切な皆さんありがとうございました。
>>68 明治天皇は最終的に洋服着たし、髷も切ったし、洋食も食べた。
これは天皇自らの決断でもあるけれど、その決断に至るその背景は新政府成立以降の国家感に対応している。
ゆえに、先祖の祀り方が変化するのも決して特殊ではないのではないか。
皇室と仏教の繋がりも時代によって様々に変化しているし、少なくとも江戸時代の場合、
学問的要素(写経)、政治的要素(天台座主や門跡寺院の存在)、慣習的要素(例えば泉涌寺に葬られる)が
強くなっていたと言えるし、それ以前のような例えば院政期の仏教信仰とかそういうのと比較しても全く異なるものだから
その形態が明治になって変わったとしてもさほど違和感もないんじゃないか?
それほど明治維新というのは大きな変革だったわけだし。
74 :
73 :2013/01/06(日) 23:55:34.52
国家感→国家観です。すみません。
75 :
日本@名無史さん :2013/01/07(月) 12:29:13.26
>>68 明治天皇が明治新体制を作るにあたって現人神となり、
それまでの天皇家の仏教傾倒から新たな神道の教祖になったとみるべきでしょう。
神仏分離も南朝正統と同様、江戸時代から水戸史学などで言われてきたことです。
なぜ北朝系の明治天皇が伝統を捨てて南朝を正統としたのかというみたいなもんです。
76 :
日本@名無史さん :2013/01/07(月) 16:43:57.82
自己保身の朝廷と見るべきでしょう。
>>55 > 天皇=摂政だけど、天皇≠関白
そうとも言い切れない。
強いて言えば摂政も関白も律令に定められない地位であり、
実体を伴うのは天皇家の姻戚関係においてのみ。
少なくとも中世(平安時代)では名誉職に近い。藤原実頼は日記で
関白なのに誰も相談に来ないと嘆いていた。
ついでに。 征夷大将軍といえば坂上田村麻呂以降では、源氏の頭領であった頼朝がその地位について 以降は武家の棟梁の代名詞となったが、頼朝は自ら望んで征夷大将軍の地位に就いたわけではない。 朝廷の貴族らが頼朝に気を遣っていくつかの地位を挙げた中に征夷大将軍の地位があった。 それまでは大した地位ではなかったが、鎌倉幕府(この呼称も後になってからのもの)が 実質的に守護地頭を束ねたため高い地位とみなされるようになった。 摂政や関白も同様だが時代や功績によって地位の実態は異なる。
>>56 老中で官位持ってても、四位とか五位ばっかじゃん。
太政大臣て従一位以上だよ。
>>75 壬申の乱〜桓武即位についでも天智系と天武系との正統性が問われたこと無いじゃん。
皇統は皇統、即位すれば正統。
軍閥を率いた臣下によって皇統に干渉した事態(要は、徳川幕府)を嫌って、
干渉を強く受けた北朝と、干渉の少ない南朝なら、そりゃ、イデオロギー的に
南朝のありようが正統だわな。
>>79 多分、対比としてなんじゃない?
それも絶対的な対比じゃなくて相対的な感じでさ
それが乱暴に過ぎるかどうかはともかくね
>>80 それは違う。
徳川幕府が南朝を正統としていたのではなく、
御三家の一つ水戸家がお家事業として研究していた「大日本史」で
南朝が正統とされていたにすぎない。
天智・天武系を出して北朝南朝に例えるのも誤り。
壬申の乱で天武系が天智系を破り皇統は天武系に変わったが
称徳天皇を最後に天武の直系は絶えた。
天武系断絶により聖武天皇の娘婿が担ぎ出されたのであって
(称徳天皇の異母姉である井上内親王の夫として、光仁天皇が担ぎ出された)
政変がなければ井上内親王の子他戸親王によって天智系と天武系は一つになり
女系によって天武の血は続いていくはずだった。
>>82 何的外れなこと言ってるの?
中宮源和子の血統を皇統から排するために明正践祚による
後水尾院政あたりの流れを知らんのかいや。
>>83 的外れはそっち。
徳川の血をどうしても歴代天皇に入れたいなら何も和子一人で諦めずに
歴代将軍の息女を代々の天皇に入内させればよかった。
しかし幕府創設期に徳川家の地位向上のために息女入内が行われたのみで
以降の将軍は娘の入内に興味なし。
鎌倉幕府・室町幕府もやはり初代将軍だけが自家の地位向上のために
娘の入内を試みただけで(頼朝や尊氏の娘は早世で実現せず)
以降の将軍は天皇家に自分の血を入れることに興味なし。
受験を控えた中学生の受験に関する質問なんだけどおk?
88 :
73 :2013/01/10(木) 20:29:05.17
歴史学に関することならば。
ありがとう 先生に受験の時問題に好きな偉人とかの問題出るかも知れないって言われたんだけど 歴史をまったく覚えてないオイラにはどう回答していいかわからんから無難な回答とかおしえてくださいお願いします
ミス 好きな偉人だゴメン
あ、間違ってなかったほんとゴメン・・・
それ質問じゃなくて模範解答を教えてくれってことだろ? 例えばこれこれこういう人物が好きで、こういう風に答えようと思ってるんだけどどうですか? っていうならアドバイスもあるだろうがね。 そもそもここは日本史板なんで、そういう宿題の答えを考えてくれなんていう舐めた要求は ヤフー知恵袋にでも行ってしてきなさい。
すいませんでした・・・ 素直にヤフーの方行ってきます・・・
めでたしめでたし
殿様と参謀は役割や求められる能力が違い、殿様は決断や行動力、人望が求められ、 参謀には戦術や戦略の立案、様々な知識、知恵が求められる。要は広い意味での頭の良さ 天才と言われた信長の参謀を秀吉が務め、秀吉の参謀を竹中半兵衛が務め、 竹中半兵衛の参謀を務めた人もきっといたのだろう
『三河国宝飯郡誌』を省略していると思いつきで言ってみるテス 三河山本氏とか 『三河国志』とかでググるとか試してみるのもいい鴨
98 :
日本@名無史さん :2013/01/11(金) 23:40:20.77
奈良時代には女性天皇が何人か出ましたし、しかも二回天皇に返り咲いた女性天皇も二人いました。 これは日本史上でもかなり特異な出来事です。 理由として当時の皇位継承候補者が幼かった事が挙げられますが、 普通に幼い皇位継承候補者に皇位を譲り、女帝や他の誰かが摂政を司るという選択肢は なかったのでしょうか?
藤原氏にとって都合のいい駒が存外少なかったからだよ。
101 :
96 :2013/01/12(土) 01:14:53.52
>>97 レスありがとうございます
三河国宝飯郡誌を見てみたのですが、明治24年に作られたものらしく
1814年成立の甲斐国志に引用されることはなさそうです
念のためざっと目を通しましたが、甲斐国志に引用されそうな箇所はありませんでした
三河国志も著者の三宅友信は甲斐国志成立時点で7歳のため、これも残念ながら違うようです
>>100 ありがとうございます
ほかに甲斐国志で「三国志」が引用されている箇所がないか調べていたら、古跡部の天目山の箇所に
「本朝三国史」とありましたので、それで間違いないと思います
(
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764916/360 の左ページ真ん中あたり)
大変助かりました。ありがとうございました。
102 :
日本@名無史さん :2013/01/12(土) 09:50:08.80
>>98 奈良時代はなるべく律令に忠実にやろうとした時代で天皇親政。
政治を執れない幼帝に出る幕はない。
摂政という制度は藤原氏が天皇の政治力を廃して藤原氏のための政権を作るために編み出したもので
律令にのっとった制度ではない。
尚、女帝は政治というものが取れないので別の男性皇族が政治を行っていたという
摂政聖徳太子の存在は懐疑的。
推古以外の歴代女帝は摂政を置くことなく(摂関常置の江戸時代を除く)
男性天皇と同様に政治を執っていたし、推古天皇もまた聖徳太子が死んでも代わりの摂政を置くことなく
何の混乱もなく政治を執っていたから。
聖徳太子は中世の上宮信仰をベースにして出来た仏教のヒーローだから、 その名残が今も残っているんだよね。中世では日本書紀より古い聖徳太子が書いた という歴史書(当然偽書)が流布していたことからも厩戸皇子のネームバリューが 今の信長龍馬を彷彿とさせるな。
現在の皇室典範で重そって事はあり得るのですか?
>>104 現在の皇室典範ではそもそも天皇の生前退位を認めていない。
天皇は死ぬまで天皇。
退位した天皇が存在しないので当然重祚もありえない。
ちなみに天皇が病気や老齢で国事行為ができなくなったら皇太子や皇后、
その他親王・内親王が摂政について天皇業務を代行することになっている。
行方不明である場合も摂政がおかれることになっているため、 生死が確認できない状態でも退位は原則としてない、はず
107 :
日本@名無史さん :2013/01/12(土) 20:38:50.04
朝鮮人犯罪があまり報道されない、そしてテレビが日常的に嘘を吐く理由。(間借りしているだけなどと言う工作員に注意) 韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8 韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6 TBSテレビ 、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6 大韓毎日 、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F 東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13 朝鮮日報 、、、 〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F 毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1 日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1 韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
大学のレポートの関係です。 安政五カ国条約の内容が、幕府から地方(藩・天領)、一般庶民へと布達されていく過程を調べたいんですが、良い史料ありますか?
>>102 斉明天皇の時代の政治の実権は中大兄皇子が握っていたのではないですか?
>>108 図書館活用しろよ。大学生になって図書館も活用できないカスは大学やめろ。
111 :
日本@名無史さん :2013/01/13(日) 02:52:13.25
信長とか秀吉とか世俗的なこと勉強したくて大学の日本史コースに入ったのに、訳の分からない史料読んでるだけでつまらないです 大学院には進まず、法律系の資格を取ろうと思います どう思いますか?
いいと思います
江戸時代の旗本の所領がどこにあったかというのを調べる簡潔な手段を教えていただけたら幸いです
無理です。 江戸幕府の財務統計は、江戸幕府側が明治新政府への引継ぎに意欲がなく(例 松平太郎)散逸しており、 江戸時代当時の様子を知るには、明治新政府が苦慮して聞き取り調査した断片的な覚書などに頼っています。 ゆえに網羅的な詳しい史料がありません。各々の旗本家の伝承などに頼ることになります。
ありがとうございます。高家や大身のたぐいでも同様でしょうか?
無理ってこともないような
>>115 高家や大身なら、寛政重修諸書家譜をみると最初に徳川家から所領を与えられた人の履歴に
どのあたりにその所領を与えられたかだいたい記載してあるから、
あとは当該地域の自治体史なんかをみれば、おおよそ調べがつくのではないかしらん
まぁ寛政譜の記載はまちまちで
所領の位置が細かに村まで書いてある人と、国しか書いてない人、場所は書いてない人などいろいろだから、
網羅的に簡潔に、ってわけにはいかないだろうけど
>>116 ×寛政重修諸書家譜
○寛政重修諸家譜
失礼、タイプミスです
>>111 法学部行った素人でも、「は?」というレベル。
史学科というのは個人を研究する学科ではなくて、それを支えた背景を勉強するから古文書と格闘していくものだと思ったのだが。
それに法制史やるならともかく、院で法科にといっても法律の基礎もやっていないのにそう簡単には入れないと思うのだが。
蒸し返すなよ
120 :
日本@名無史さん :2013/01/13(日) 19:29:16.99
だから・・・・・ 前スレでも、書いただろ! 歴史は捏造ありきだと。 今ある文献・古文書(これも、多分に捏造もある) しかし、歴史は今ある時の権力者の捏造しか手に入らないんだ!君もだ! 真言宗もしかりだ、空海が女人と交わるなとか、殺生はダメだと古文書に載ってるが、 いまでは、「有り難く頂け」と変わってきてるんだ。 僧侶も、SEXすれば、肉も喰う。・・・・歴史は今のいる我々に問い掛けてるんだよ。 好きなように生きろとね! 現天皇も過去の天皇陵の墓から骨を掘り起こし、 DNA鑑定すれば、捏造の歴史とわかるはずだが? 歴史学者も手を出せない。 勝てば官軍の古文書しかないのが残念だ! 中国文化革命で貴重な古文書が無くなったんだ。だから、今の中国も権力者による捏造された国家だ。
121 :
日本@名無史さん :2013/01/13(日) 19:34:48.13
わかるか! 青森の古墳捏造事件、これも捏造がわからなければ歴史になっったんだ。
122 :
日本@名無史さん :2013/01/13(日) 19:55:20.34
>>121 さん 切れてないですか?
でも、よくわかります。
私の恩師の某考古学者も・邪馬台国がどうのこうのはもういい、
と言って、朝鮮・中国に行ってます。
日本には材料が無い、権力者の歴史だと。
海外から日本に記述された古文書等が
日本の歴史を解き明かすと
サヨクってわかりやすいねw
124 :
日本@名無史さん :2013/01/13(日) 20:39:37.01
大政奉還、坂本竜馬が発案者みたいに言われてるけど、 違うでしょ。いつも違和感覚えてきた。「竜馬がゆく」 でもちゃんと、書いてるのだがね。幕臣の一部が発案者 だっての。
125 :
日本@名無史さん :2013/01/13(日) 21:12:43.33
126 :
日本@名無史さん :2013/01/13(日) 21:18:04.98
>>122 さん ご意見わかりやすいです。
北朝鮮の真実味ある歴史は、日本や韓国の方が詳しいかも・
>>120 具体的にどの天皇の時に古代の天皇から系統が変わったのですか?また、それを証明、もしくは示唆する
材料はなんですか?非常に興味があります
>>109 斉明天皇が握っていたと思うよ。
乙巳の変孝徳天皇主導説が出てるから尚更。
白村江の戦いのとき、斉明天皇は68歳にして筑紫まで出陣している。
お飾り天皇だったら飛鳥にいて構わなかったと思うんだよね。
中大兄皇子が斉明天皇に命令できたことがあったとは思わない。
132 :
日本@名無史さん :2013/01/15(火) 23:41:13.65
滋賀県北部の田舎に敏達天皇の陵があるのですが、 敏達天皇はもともと近江の国の豪族出身なのでしょうか?
息長氏の出身なんだよね確か
>>132 現在の敏達天皇陵は河内磯長中尾陵で大阪府にあります。
敏達天皇皇后廣姫の息長陵は滋賀県米原市にあります。
廣姫は近江の豪族息長氏の出身。
敏達の祖父継体天皇も父方は息長氏ですから、
その縁で娶ったとみられます。
>>132 へのレス、ありがとうございます
敏達天皇と皇后の御陵だったと記憶していますが、皇后だけの御陵でしたか?
名前はまさに息長陵でした。
>>136 息長陵は皇后廣姫だけの陵墓です。
敏達天皇の河内磯長中尾陵は、
敏達天皇とその母石姫(宣化天皇皇女・欽明天皇皇后)の合葬陵ですが。
おおかた宮内庁の看板に 敏達天皇/皇后広姫/息長陵 と3行書きされていたのを 敏達天皇と皇后広姫の息長陵と勘違いしたか 地図なんかの 敏達天皇皇后広姫息長陵 という1行の表記を 敏達天皇&皇后広姫の息長陵と勘違いしたってところだろう
どっちにしろ後代になって比定されたもので、ほんとは誰の墓だったかなんてわからないんでしょ。
日本の政治体制の歴史って大まかに言うと下記のような流れであってますか? 重大なミスや抜けている要素があれば指摘してください 天皇親政 ↓ 摂関政治 ↓ 院政 ↓ 幕府政治(執権政治含む) ↓ 天皇親政(建武の親政) ↓ 幕府政治 ↓ 政治体制の麻痺・混乱(戦国乱世) ↓ 織豊政権 ↓ 幕府政治 ↓ 明治政府 ↓ 政党政治 ↓ 議院内閣制
141 :
日本@名無史さん :2013/01/18(金) 12:38:10.27
論評する立場にないが、総じて正解でしょう。 ご提示例だけでなく、色んな表現のし方があるでしょうね。 摂関期の前の朝廷って、けっこう公卿制が機能していましたし。 鎌倉時代は幕府優位といえども、公武二元支配かな。 明治特に前半期は、薩長の「藩閥政治」なんて言い方もしました。 議院内閣制も広い意味では、政党政治を前提にしていますしね、 その議院の多数党で内閣を組織するという感じかな。 以上もまた、一つの見方にしかすぎないのでしょうね。
143 :
日本@名無史さん :2013/01/18(金) 13:52:52.82
>>140 合っているかどうか、わかりませんね。
ある一視点からだけなら、そういう見方になるのかも知れませんが、軽重の差が大き過ぎるように思えます。
その基準なら、
>>141 の指摘もありますからね。
「建武の親政」なんて、歴史事項としては大事であっても、「政治体制の歴史」ってほどのものではないし、
室町幕府「政治」だって、実質二十年間もなかったんだから、今の感覚でも、歴史上の「政治体制」と言えるかどうか。
144 :
日本@名無史さん :2013/01/18(金) 14:55:18.40
「氏」(ウジ)と「姓」(セイ)の違いは何ですか?
145 :
日本@名無史さん :2013/01/18(金) 15:20:12.04
>>144 後の時代には同一のものとして扱われるようになりましたが、
氏=先祖伝来代々受け継がれる家の名
姓=朝廷に服属した証として朝廷から受けるもの
氏は地名などからとった素朴なものが多く(葛城や蘇我など)
姓は例えば「八色の姓」で見られるような真人、朝臣、宿禰、忌寸などです。
藤原朝臣道長と言えば藤原が氏、朝臣が姓、道長が名。
平朝臣清盛なら平が氏、朝臣が姓、清盛が名です。
>>145 あなたの説明している姓は「かばね」で
姓(かばね)と姓(せい)は違うものだから、
質問と答えに齟齬があるのではないかしらん
147 :
日本@名無史さん :2013/01/18(金) 19:11:13.26
斎藤道三の「美濃のマムシ」って異名について。 少し調べた限りでは、同時代に既に呼ばれていたわけではなさそうなんですが、初出はいつ頃か分かっていますでしょうか?
148 :
日本@名無史さん :2013/01/18(金) 19:17:11.32
149 :
日本@名無史さん :2013/01/18(金) 19:18:51.30
>>145 カバネではなくセイについて知りたいです。
氏と姓は血縁集団を表しているんですよね?
「美濃のマムシ」って言葉遣いは知らんなあ。 「蝮の道三」ってのなら、『常山紀談』に有る。
151 :
日本@名無史さん :2013/01/18(金) 19:29:35.22
>>147 さん
>>150 さん
私も浅学ですいません。マムシは美濃国の川の蛇行や暴れからきてると思います。(木曽三川)
道三がマムシと言われたのか、後日付けられたはわかりませんが、美濃国で名をはせた以降は確かです。
岐阜県出身の大野伴睦さんも異名「マムシの伴睦」と呼ばれていました。
今グーグルからきたが 平安時代の行尊が詠んだ「もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし」 って歌があるだろ。百人一首にも取り上げられた有名なやつ。 これの解釈が山桜、おまえも私を懐かしんでくれ、思ってくれ、山奥にはおまえくらいしか私を知る人もいない というような意味合いで言われてるのよな。ググッたら。 ただ何となく無理にこじつけてる感じもある。 んでこれについて昔保立道久って歴史学者の本で後冷泉天皇の死を悼んだ歌と書かれてるのを読んだことがある。 後冷泉天皇は在位は長かったが目立った業績は何もないだろ? だからそれについて「せめて山桜、おまえくらいは私と一緒に悼んでくれ、私達の他に天皇を気にする人もいない」 というような解釈を書いてたと記憶してる。 するとなるほど意味は通る。妙な一人話しかけをやってるよりずっと。 ただ今調べると後冷泉天皇と行尊の時期が微妙に違うのよな。天皇が死んだ時には行尊はまだ若すぎる。 これについて詳しく教えてくれんかね?
>>152 行尊大僧正は後冷泉天皇が死んだときまだ14歳だ。さすがにこの歌を詠んだのはもっと後だと思うし、
後冷泉天皇の死を悼んだ歌だというのは無理があると思うぞ?
ちなみに行尊大僧正は敦明親王の孫。
祖父の敦明親王は三条天皇の第一皇子で、後一条天皇の皇太子だったんだが、
外戚が有力でないことから藤原道長に遠慮して辞退し、小一条院の院号を受けた。
このとき敦明親王に代わって皇太子に立てられたのが
道長を外戚とする後朱雀天皇で、例の後冷泉天皇の父に当たる。
ちなみに行尊の姉源基子は後三条天皇の寵妃であったことから、
むしろ後冷泉の後で即位した藤原氏を外戚としない後三条と親しかったと思われる。
というわけで保立道久氏の著書を読んだことはないのだが、
後冷泉天皇を悼んだ歌だとは考え難いがどうだろう?
>>153 そうだよなあ。その年じゃ若すぎだろうとは思う。
やっぱ違うんだろうな。昔図書館で借りて読んだ「日本の歴史 平安時代」みたいな本だったけど
何か間違って記憶してるのかもしれん。
なるほど流石に詳しいわ。血縁までは考えもせんかった。
共通点も少ないならわざわざ行尊が悼む理由も薄いしな。
ありがとう。多分通例が合ってるんだと思う。
後冷泉天皇以外の人を悼んだとすれば辻褄が合うのではないか。
156 :
147 :2013/01/19(土) 00:52:43.16
>>150-151 ありがとうございます!!
「常山紀談」、江戸中期ということなのでほぼ初出かもしれないですね。読んでみます。
>>155 存在感が薄いのでってことだったからな
続くのがあの後三条と白河だから当て嵌まらんし。それに「冷泉」だった気はする。
まあまた今度詳しく調べてみる。
>>140 です
レス下さった方ありがとうございました
自分で書いてても微妙だったんですが、
織豊政権や明治政府っていうところは政権の主体を
表していますが、所謂「政治体制」ではないですね
>>159 こういう話は、定義、によってくるんだよね。
論議しながらでもそういう定義を明確にしておかないと
結局先に進まない。
鎌倉でも二つの国家論と権門体制論とあって
主体や体制でも立場によって違ってくる。
自分なんかはそういう違いを考えるのが好きだから
どっちつかずで細かい話には入ったりはしないのだけどね。
>>158 周防内侍(平仲子)は後冷泉天皇に近侍していた女官だね。
後冷泉天皇を想い起こす歌を多く詠んでいる。
「後三條院、位につかせたまひての頃五月雨ひまなく曇りくらして、
六月一日まだかきくらし雨の降り侍りければ、先帝(後冷泉)の御事など
思い出づる事や侍りけん、よめる
五月雨(さみだれ)に あらぬ今日さへ 晴れせぬは
空も悲しき ことや知るらん(後拾遺集和歌集)」
「後冷泉院うせさせたまひて、世のうきことなど思ひ乱れて篭り居て
侍りけるに、後三條院位に即かせたまひてのち、七月七日にまいる
べきよし仰せ言侍りければ、よめる
天の川 おなじながれと 聞きながら
わたらむことの なをぞかなしき(後拾遺和歌集)」
質問させてください 現在高3の受験生です 歴史が本当にすきなので歴史系の学部のある大学に進みたいと考えています センターも終わり周りが志望校を決めていく中 自分だけが二次の出願でどこに出願しようか迷っている状況です そこでみなさんにお聞きしたいのですが どこの国公立大が歴史を学ぶ上で学びをより深められるでしょうか? 自分の学力は熊大、広大くらいです 今のところ熊大の歴史学部を志望しています また大学では考古学と奈良、平安あたりの文化について学びたいとおもっています
女子なら無問題だが男で文学部卒は就活で苦労するよ
男です 就職が厳しいというのはよくわかっています それでも やりたいことがなくて適当に大学に通うより 本当にしたいことに一生懸命取り組むことのほうが大事だと思っています
歴史系の学部をでたという方でもかまいません どなたか教えてください
>>164 心から興味を持っていて、そこに価値があると信じる事があるなら、絶対それをすべきだよ。
とりあえず、目星付けてる大学の先生達を調べてググってみたら?
就活で苦労か・・・ 俺も文学部だが自分も含めて周りはそうでもなかったがね。 ちなみに氷河期まっただ中だけど。 自分は大手新聞社に入ったよ。 周りは広告代理店もいるし、院に行って学者やってるのもいる。 俺は何の因果か新聞からテレビに行って、それをやめていまは研究者だ。 ○○学部だから就活が云々なんてのは気にするな。 やりたいことを一生懸命やってる奴はかならず成果が出るよ
>それをやめていまは研究者だ お勧めの大学・教授の御教授を是非!! シラバスの的確な見方だけでも教えてください!
>>162 です
自分で調べてみましたが
明治、国学院が有名なようです
国立の情報がなかったのですが
国立大はどこもあまり歴史学に力を入れてないのでしょうか?
んなこたない 国立もピンキリだけど国立大ってのを一緒くたに考えてる?
大学時代に歴史の勉強しかしていなかったら、そりゃ就職活動苦労するだろうな。 何かやっていて、しかも熊大なら就職活動恐れるに足らず。
>>171 やはり歴史学部、もとい文学部の男は就職活動で苦労しますか?
3流私大の史学科卒業の氷河期世代ですが、歴史と全然関係ない仕事してます 歴史がらみの仕事に就こうとすると、ポストが少ない分厳しいでしょうね まあ本人次第だけど
>>173 将来は研究員もしくは教職に就こうと考えています
私大の史学科は厳しいのですか?
一応立命館を受験するつもりなのですが・・・・
葬儀の時,五三の桐使ったら葬儀屋に「五三の桐で良いんですか?」って聞かれたけど なんで?
五七桐を使いたがる家が多いからだろ 自家の家紋なんか今や正確に伝承している家が稀少だから、五三桐なんかじゃなくて、どうせなら五七桐を使えと親切心だと思われ 言い換えれば、「あんたの家は五三桐を使えるような家ではない」という前提があるのか、もしくは葬儀屋が格式というものを軽く考えているから 俺が葬儀をだしたときも、葬儀前後に頒布する文章の行頭・行末に使ってよい言葉と使ってはいけない言葉で随分揉めた 何が正しいのか判断する知識もないのに、自分の思い込みが正しいと強硬に主張する馬鹿は匿名掲示板ではうんざりする程いるけど リアルで接したのは葬儀屋の若造だけ しかしまぁ、自称研究者だの自称文学部卒がワラワラと湧いてきたのに、具体的なアドバイスが誰もできないってどういうことだ?
>>172 だから文学部だろうが何だろうが俺は就活にはそこまで影響しないと考える。
研究員、もしくは教員になりたいという人と同一人物ならばそれこそ気にする必要もない。
>>176 それぞれにはそれぞれの背景があるわけで、ましてやこれから受験するという人の、
詳しい素性やパーソナリティも分からないのに具体的なアドバイスなんて出来るわけないだろう。
それでも貴殿は出来るのか?あくまで抽象的な一般論か、自己体験に基づく無難な経験譚に終始せざるを得ないのでは?
偉そうなことを言うのは簡単だが、それではあまりにも無責任だ。情報が少なく過ぎる。
>>178 俺は163ね
ちなみにバブル期
俺からみれば自己体験じゃなくて、門外漢の妄想を助言と称しているようにしかみえんけどね
熊大・広大卒程度でも可能性なら無限にあると俺も思うよ
だけど、現実ではなく夢を他人に押し付けるなら、発言に具体性が必要なんじゃねぃ
それができない方が無責任だ
180 :
日本@名無史さん :2013/01/26(土) 16:23:01.13
基本を教えてくれる大學いいと思います。 推論を正論と教える有名大学より、基本をしっかり教えてくれる大学をお勧めします。 派閥に洗脳されにくい大學がいいです。 歴史学は、今ある古文書・遺跡等の謎解きで結論付ける大學は??????
ちょっと前にどこかのスレで自称現役史学生が愚痴を零していたけど、大学ってのは自発的に学ぶとこ 入学が決まれば、入学前に読んでおくべき史学概論の書籍一覧ぐらいの案内や、某大学のように入学前に史学に向き合う姿勢を原稿用紙五十枚ぐらいで述べるように指示される場合もあるが、 学生がこういうことを学びたいと申し出なきゃ、教授は何もしてくれないよ 推論か正論かは学生が判断することで、客観的には推論でも当人は自分の主張が正論だと思っているのだから、学生側にそれを見分ける学識が必要なの あと、派閥云云ってどっから引っ張ってきた知識なのかしらんが、自分の論をきちんと主張できるなら余程愚昧な教授でもなきゃ好意的にうけいれてくれるから、気にするな 俺なんか二年の頃には、初対面の教授でも向こうは俺の名前を知っていたから、俺に対する要求が常に過大で閉口したもんだ
教員免許持ってなかったので、 面接で「なんで教職とらなかったの?」とはよく聞かれた。 文学部=教員志望という思い込みは一部にあるだろうな
私大で取った教員免許なんかコネがなきゃゴミですと言ってやればいい
でも、とりあえずみんな保険みたいにしてとるよ。
本気で歴史関係で生きていきたいなら、せめて学芸員も取っておいた方がいいんじゃないかな
>>174 実社会の情報があふれていてその希望に満ちた活況に誰もが胸ふくらませるこんにち、
高三まで来て「実業志向じゃ無い」「関心の有る学問分野で進学したい」というなら、
どこの大学でもいいでしょう。あそこがダメでここがいい、というようなことはない。
立命館が、気持の中にあるのならそれがいいのではないでしょうか。
いい大学だし、学生は明るく活気のある学風だし、良い先生を次々と呼ぶし、
学部の充実は言うまでもないことですから。
勉強は、学生の研究熱心かどうかによるのみです。
熱心な上位成績の学生のレベルは、立命館であろうが京大や阪大あるいは同志社あっても
東大であっても、あまり変りが無いでしょう。いや、現にあまり変らないということです。
それよりも、立命館のように環境の良さそうな大学を選ぶことのほうが大事でしょう。
史学系の某学術誌、京大にあるのは当然として 史学科のある立命館になくて、史学科のない同志社にバックナンバーが揃っているのは検索していて ちと笑たのは学生時代の微笑ましい思い出 >とりあえずみんな保険みたいにしてとるよ そんな軽い気持ちで取れるから、国公立大文学部や私学系の歴史科教員免許が、採用する側からは無価値だと思われているんじゃねぃ
雑誌といえば、「大正史学」て大正大学にしかないのか? 検索しても、国会図書館含めて全くヒットしないのだが
標題および責任表示 大正史学 / 大正大学史学研究室||タイショウ シガク NCID AN00100294 巻次・年月次 創刊号(1971.3)-32(2001.3) 出版・頒布事項 東京 : 大正大学史学研究室 著者標目リンク 大正大学史学研究室||タイショウ ダイガク シガク ケンキュウシツ <> 本文言語コード 日本語 Japanese 史学科無くなったのかと検索したが違ったw
冬、庶民、貧乏人はどんな服装で寒さをしのいでいましたか 手袋や足袋(靴下)に相当する物はいつの時代に普及したのでしょう その前に裸足でなくわらじや靴を履いていたのでしょうか
>>174 >>186 あと個人的には京都で学生生活を送れるというのも非常に有意義だと思う。
当方も院も含めて京都で10年近く学生生活を送ったわけだが
歴史に携わる、と言えば大袈裟だけど、歴史に触れるという点においても大変刺激のあることだと思う。
>>190 着物の重ね着。着物の中に藁などを詰めて分厚くする。蓑をかぶる
布製の足袋は確か江戸中期に普及した
それまでは皮製だが基本金持ち用
戦国時代では庶民は履き物なしの裸足で出歩くことも普通
みなさんありがとうございました 大学選び、進路の決定の参考になります
>>192 ありがとうございます。
南の国ならともかく、寒い日本の冬に裸足は大変そう
中国、モンゴル、朝鮮はもっと寒いか
196 :
は ◆Ziw47yA.LM :2013/01/31(木) 18:16:27.53
スレ主さん他 回答してる方へ かじった程度の回答はいかがなものでしょうか?
197 :
日本@名無史さん :2013/01/31(木) 18:26:22.52
古代には頻繁に遷都が繰り返されました。この時、天皇や公家達はどのタイミングで新しい都に移るのでしょうか?新しい内裏や政庁が出来たら すぐ移るのでしょうか?あるいは街がある程度出来て、人口も増えてきてから移るのでしょうか?
中世の偉い人がボロい服を着ていると、正体知らない人からぞんざいに扱われて 立派な服に着替えると扱いが変わったので 「自分じゃなくて服が偉いのか?」と皮肉をいう逸話があったとおもうのですが 誰の逸話でしょうか?
一休
>>197 古代の具体的にどの時期を差しますか?
日本で初めて恒久的なキができたのは藤原京です。
それまでは天皇の宮は原則一代限りでした。
建築技術によってあまり長持ちしなかったためだと思われます。
そのため、先の天皇が死ぬと新たに即位した天皇が住まいを新築し、
新たに○○宮と名付けたのです。
藤原京→平城京(途中聖武天皇が難波京や恭仁卿遷都)→長岡京→平安京
への遷都はそれぞれ当時の史料によります。
内裏と政庁ができたら移る場合がほとんどで、都の完成は遷都後であることが多いようです。
SSS アメックスセンチュリオン SS ダイナースプレミアム アメックスプラチナ S JCB the Class Visa Infinite 東京大学卒業生カード ―――――――――――――――――――――――――――― 高ステータスカードの壁 ―――――――――――――――――――――――――――― AAA 三井住友・JCBプラチナ SBI World Card World Master Card AA ダイナース Citi・SBIプラチナ JGC・SFCゴールド 医師協・弁護士カード A アメックスゴールド MUFG・エポスプラチナ JCB Gold the Premier 楽天ブラック ―――――――――――――――――――――――――――― ステータスカードの壁 ―――――――――――――――――――――――――――― BBB 三井住友・Citiゴールド アメックスグリーン 蔵前・如水会カード BB 銀行系ゴールド JCBゴールド JGC・SFCカード 学士会カード B 一般のゴールド KKR・私学・公立・法人ゴールドカード 名大・北大カード ―――――――――――――――――――――――――――― 入門ステータスカードの壁 ―――――――――――――――――――――――――――― CCC 低価格ゴールド(含イオンゴールド) 銀行系・航空系・JCBカード 慶應・早稲田カード CC 信販系・電鉄系・百貨店系カード ICU・桜友会・上智カード C 流通系カード SBI・KC・楽天カード 明大・立教カード ―――――――――――――――――――――――――――― 人前で使えるカードの壁 ―――――――――――――――――――――――――――― サラ金系カード デビットカード
>>197 遷らないよ。
みやこは、「宮」と「京」とがあるけれど、まず、「宮」の方ね。
宮は、即ち、御屋。天皇のお住まいなのが、即ち、御屋であり、宮であり、宮があるから宮処で「みやこ」。
古代は母系継承的な側面があって、通い婚で、子供は母親の家で育つわけよ。そこに父系的な族長制が乗っかっていて、
その族長制の頂点が天皇制なわけ。
少し端折るけど、要は、強い部族が天皇にすり寄って、或いは、皇族のなかでも自分の一族の娘の腹から生まれた子を
天皇にすることで部族の力が増すわけだから、その皇子を一族総出で支援する構造になる。
どこに宮が置かれるかというと、大抵、国母の一族の勢力圏の真ん中なわけ。天皇はずっと生まれたところかその近傍に
いて、天皇になると、その場所が宮と呼ばれるようになるし、権勢があがるからそのあたりも開発される。
もう一つのみやこ「京」の方は、訓のあてかたが難しいくらい、飛鳥時代の日本にはなかったもの。
ぶっちゃけて言うと、恒久的な都市。村落ではなく、いろいろなところからひっきりなしに人が集まって出入りの激しい、街。
普段は宮にいて使いっ走りがときどき来るくらいの天皇も、状況が緊迫してきたり、外国から賓客が来ると、京に出張って
臣下に召集かけて、面倒ごとを一気に片付けるわけよ。
要は、宮で在宅勤務、会社というか役場があって、それから市場が集まってるのが京で、仕事が立て込んでると出張って
行く必要が出てくるというわけだ。
京は、しばらくは、交通の便の良い浪速(今でいう大坂)にあって、聖武天皇の時代に権勢家・藤原不比等が強引に京の
移転を図って造らせたのが平城京。立地が興福寺と春日大社の真ん前という藤原一族の領地の真ん中。
ところが、奈良盆地の東端という立地の悪さ(交通が不便)で振るわず、「陪都」という名目で難波京が存続。
東日本・北陸の開発が進んで、琵琶湖・淀川・東海道への交通の必然性から京都盆地に京を遷し、且つ、弱小氏族の
母親から生まれた(帰る宮が無い)桓武天皇という存在があって、ようやく京と宮が一致した。
204 :
日本@名無史さん :2013/02/01(金) 14:58:41.22
>>203 電波なのか?
都とは天皇の住まい。市などもそこにある。
そうでないと天皇のための物資が調達できないからね。
難波に恒久的な京などないよ。
考古学的にも6世紀とみられる孝徳天皇の難波宮跡、同じ場所に
8世紀になり聖武天皇の難波宮(難波京)跡が発掘されて
以降の上からも第一次難波宮跡、第二次難波宮跡と呼ばれているが、
継続的にここが「キ」であったことはない。
(尚、仁徳天皇の難波宮はまだ発掘されていない)
せいぜい、難波には、大和国へ向かう前に長旅の疲れをいやすため
(遣唐使などでは瀬戸内海を船で渡るため、難波が船旅の終着点だった)
外国使節の休息所とみられる迎賓館とみられる小規模な建物が
あったとみられる程度だ。
日本最初の都は藤原京。
それに、平城京に遷都したのは聖武天皇ではなくその祖母に当たる元明天皇だ。
聖武天皇は藤原広嗣の乱の後、恭仁京、紫香楽宮、難波京などを転々とし遷都命令を出したが
結局また平城京に戻ってきている。
205 :
質問 :2013/02/01(金) 15:14:33.56
回答の途中ですみません。 文学部の学生です。 史料の翻刻についてお尋ねします。 史学の場合一般には助字はひらがなに直すのですか? 例えば 「人越呼びければ」→「人を呼びければ」 「これとなん言ひけ里」→「これとなん言ひけり」 という感じで。 文学部、とくに国語学だと基本的に字母を残すのですが、 史学ではどうなのかと思いまして。
206 :
質問 :2013/02/01(金) 15:16:05.65
ちなみにいま翻刻してるのは近世の史料です。
>>35 ご先祖が1189年の源頼朝の行った「奥州征伐」に参加したのでは?
208 :
日本@名無史さん :2013/02/01(金) 19:57:40.94
>>207 大丈夫どう転んでも名門でもないし
名家でもないから気にしないでええよ。
ただの頑張り屋さんだから。
>>204 当時、恭仁・紫香楽は県犬養氏・橘氏の勢力圏だね。ぬっちゃけて言うと、橘諸兄の私領。
ここが県犬養氏の勢力圏になったのは、壬申の乱の功績。
県犬養氏の出の女官の県犬養三千代が一代賜姓で橘姓を授かって、これを葛城王が
継承を許されて臣籍降下したのが、橘諸兄。
で、この人が数少ない藤原不比等・藤原房前らに対抗できる存在で、聖武天皇の信も篤かった。
大造営を行った平城京も立地が悪く、首都都市としては機能せず、殆ど離宮のようなもり。
恭仁京はなんぼか造営したフシがあるけれどもとても京というには程遠いものだった。
立地としては、東日本の開発を見据えて、奈良よりはマシ。
ここで藤原一門の力を排して親政を行おうとしていたらしい。
信楽の方は完全諦めモードだな。どうにもならんから、引きこもってしまった。
下手な場所に引きこもると連れ戻されるから、橘諸兄の私領なわけ。
>>209 藤原氏を外戚とする聖武天皇が藤原氏排斥を図った形跡はないよ。
そもそも恭仁京遷都の頃、聖武天皇の伯父叔父にあたる藤原四兄弟はすでに死んでおり、
聖武天皇は天皇親政を執れる状態にあった(藤原不比等などもっと以前に死んでいる)。
それに、聖武天皇と橘諸兄を繋いだのは光明皇后だ。
聖武天皇の皇后光明子は藤原氏出身だが、異母兄に当たる藤原四兄弟が亡くなったことから、
異父兄である橘諸兄を取り立てた(光明皇后と橘諸兄の母は橘三千代)。
後に権力を握る藤原仲麻呂はこの段階ではあまり官職は高くなく、
事実上朝堂を率いていたのは右大臣の橘諸兄だった。
非皇族である藤原氏を生母に持つ聖武天皇にとって、外戚である藤原氏が没落することは自分の首を絞めるのと同じだった。 だから、皇后を藤原氏から迎え、更に別の后も藤原氏から取る位、藤原氏の地位安定化に協力してきた。 ただ、藤原四兄弟の突然の死のために世代交代が変則的なものになってしまい、事態打開のために更なる協力者が必要になった。皇親系でかつ血縁的に無関係ではない橘氏の浮上はその過程の出来事。
>>210 藤原氏による専横が目に余る状態で、なんとか皇室中心の政治をとりもどそうとあがいていた。
参議に複数を送り込んだり、臣下から立后、内親王の立太子と、異例尽くし。
皇孫勢力の巻き返しに、長屋王、橘諸兄、舎人親王を重用するも、最右翼の長屋王は謀殺されるし、
舎人親王は藤原方に取り込まれるし、唯一心許せる公卿が橘諸兄だけという状況。
長屋王抹殺の黒幕は他ならぬ聖武自身 正確には長屋王本人よりも妃である吉備内親王を抹殺する必要があった。 女性であったから皇位を継げなかったけど、皇位継承の正統性は聖武よりも上だからね。
>>212 長屋王、舎人親王なんて聖武天皇は重用してないよね。
重用したのは元明天皇と元正天皇。
元明天皇にとって長屋王は娘婿、元正天皇にとっては妹婿。
元明天皇は吉備内親王の子を二世王に格上げして藤原氏を外戚とする聖武天皇と競わせた。
舎人親王も重用されたのは元正天皇時。
元正親王は舎人親王を聖武天皇の補佐役に任命、藤原氏の力を抑えようとした。
聖武天皇によって藤原氏は自分の帝位を保証してくれる唯一の味方。
聖武朝になると長屋王は攻め滅ぼされ、舎人親王は光明皇后立后に尽力して藤原氏配下に入った。
橘諸兄は藤原氏出身の光明皇后の異父兄であることから勿論光明皇后立后にも大賛成で、
あくまでも光明皇后の身内として出世したにすぎない。
豊臣秀吉の墨俣一夜城ですが 史実でないとした場合には なにか元ネタはあるのでしょうか? 例えば中国の小説とか、インドの伝説とか? いわゆる伊達騒動について 原田甲斐は伝統的には奸臣、また最近の小説・テレビでは忠臣となっていて そのいずれも仙台藩取り潰しの陰謀が存在することを前提としていますが そもそも陰謀は存在したのでしょうか?
幕藩体制を山口組に例えた場合、 徳川宗家=山口組本家 雄藩といわれた薩摩藩や長州藩=山口組傘下の有力団体である山建組 この例えはそれなりに妥当なものと言えますか?
217 :
日本@名無史さん :2013/02/06(水) 15:53:13.95
妥当と言えば妥当
>>215 石垣山の伝説なら、益富城に関する伝説が近いんだけど、
墨俣だと、源平物や南北朝物でも元ネタっぽいのは記憶にないな
強いてなら、三国志での曹操が対馬超戦で凍った土塁を一夜で築いた話があった気がする
位階が高くて官職の低い人と、 その逆で位階が低くて官職の高い人は 一般的にはどちらが偉いのですか?
220 :
215 :2013/02/09(土) 09:09:08.21
>>218 木下藤吉郎が織田信長の草履を懐で暖めた話の元ネタは中国だとか聞いたことがあり
では墨俣一夜城のほうはどうなのか? と思って質問しました
毛利元就の三矢の教えはモンゴルなどに類話が存在しますし
>>219 ケースバイケース、としか答えようがないけど
実際に席次なんかでそういうモメごと?はよくあった。
暗殺された信西はそういうモメごとを
前例もってきて裁決したりするから身分が低くとも
出世できた、ような部分もある。
ただ自分に有利な判決だと「あいつはつかえるでおじゃる」と
好かれるが逆にウラミを買うことにもなる。
これが後の乱の遠因でもあるわね。
ちなみに、ある時は「年齢優先」ある時は「官職になった順番
優先」とまさにケースバイケースの判決出したりしてて
結局自分に聞かないとモメごと解決できないよ、みたいに
操作?してるな部分もあって、そのあたりもいかにも
朝廷内のドロドロっぽくて面白い。
残念なのはこのあたりの記録なんかがほぼ失われていて
残ってたらさぞかし参考にはなったろうなと。
223 :
は ◆Ziw47yA.LM :2013/02/09(土) 20:54:12.04
224 :
日本@名無史さん :2013/02/09(土) 22:32:51.92
京都もいいのですが・・・天皇(外来語と思いますが・・) ある、博識者?学者?の下記、意見をどのように解釈すべきでしょうか? 古代の歴代天皇の陵墓を発掘すべきです。エジプトまで行って発掘するなら天皇陵も同じように扱われていいはずです。 それによって、日本史の本当の姿が見えてくる可能性は多いと思います。 もし倭人でなく大和民族?、が、古墳時代あたりから平安初期ごろまでに日本列島に新たに進出した征服民族としたら、 「ゲルマンの大移動」や「ノルマンによる征服」と同時期であり、民族移動による倭国の征服かもしれません。
225 :
日本@名無史さん :2013/02/09(土) 22:40:30.46
>>224 私も、実は疑問に感じてたのです。尖閣や竹島問題では、
歴史を遡れば日本にとって、不利になるのではと?条約でしか勝てないのではと思います。
倭寇についても、不思議なのです。倭国から日本国名への変更は7世紀あたりですが、
倭寇は室町まで続きます。
歴史学博士よろしくお願いします。
226 :
日本@名無史さん :2013/02/09(土) 23:17:58.61
>>224 >>225 スレ主では無いですが、現在歴史学では触れられない聖域と言うことです。
つまり、触れてはいけない現代歴史です。
身を滅ぼしてまで、否、カネにならない、否、・・・・触れてはいけないのです。
中国四千年です。千年の古都と言う日本です。
エジプトについては日本国内では●×さんも有名ですが
海外では、相手にされてないも事実です。
227 :
日本@名無史さん :2013/02/10(日) 07:44:38.94
古墳時代に海外から来た勢力が列島を征服したような痕跡は見つかってない 奈良県で生まれ発達した前方後円墳が、規模を大きくして河内に進出したのは、半島進出・経営に本腰入れだした為 この頃から沖ノ島の祭祀が始まっており、玄界灘の航路が重要になっていた 5世紀には半島南部にも前方後円墳が造られ半島経営の拠点になっていた可能性が高い 大王の血筋が途中で代わったと考える研究者は多いが、墓制などの文化を同じくする氏族間でのこととされ、海外からの征服民族を考える人はもう殆どいない 古墳から大陸製の副葬品が出土したからといって、被葬者も大陸から来たとは限らない 例え中国製に囲まれて暮らしていても、決して中国人という証拠にならないようにね
>>222 もちろんそうだけど、家柄とか長幼の序でその
決まりが守られないのも多々あった、ということが
よくわかるという例で信西を出したのだけどね。
席次があったから偉さも決まっていた
なんて解答だとそれこそ勉強が足りません、だね。
>>224 天皇陵発掘に関してはそう主張する専門家は
昔からいた。
公でそれが主張出きるようになったのは戦後もかなり
たってからだろうけど。
実際に発掘すれば様々なことがわかるだろうし
古墳時代以前の謎も解けるかもしれないが
このあたりは学問的探求を越えている分野
でしょうしねぇ。
だからといって「発掘できないのは都合の悪いことを
隠しているからだ」みたいなオカルト論に結びつけるのも
多いけど、それはまた別の話だから博識とか学者とか
いうのもあまりストレートに受けいれるのもなんですわいな。
>>228 そもそも、中世以降は越階が起きないような叙位・除目を行っていたので、質問自体に大した意味がないのだがな。
摂家以外の人間に越階されるとすぐに蟄居してしまうのが公家の豆腐メンタルだし。
>>219 に対するレス、ありがとうございます
例えば、維新三傑は維新後に明治政府の要職に就きましたが、
元上司である元藩主と比較した場合、一般的にどちらが偉い(格上)
扱いになるのでしょうか?
公式の場では三傑が偉い扱い、私的な場では元藩主が偉い扱い、
みたいな感じですか? 気になって仕方ありません
>>229 だけど宮内庁の主張もどうかと思うよ。個人の墓だから暴くような行為は認められないみたいな言い分だろう?
だったら尚のこと間違って比定している方が問題じゃないかって突っ込みいれたくなるw
>>232 間違っていることが明らかになったら、「税金の無駄遣い」がなんたらと批判されるからむしろその事実を隠蔽するための口実でしょ?
エジプトなんかは古来の信仰は絶えてるし埋葬者と現代の誰とも血縁が不明確になってるけれど 天皇陵はそうじゃないからなあ。血筋も信仰も続いてる。 何か珍しい者が埋まっていそうだから、おまえんちの墓、掘らせろ。とか、よくも品の無いことが 言えたものだ。
>>231 >公式の場では三傑が偉い扱い、私的な場では元藩主が偉い扱い、
>みたいな感じですか?
そういう事です。
>>234 増上寺徳川将軍家霊廟や瑞鳳殿のような「なにかのついで」がないと発掘は無理でしょうね
基本的には天皇陵はそういうことがないと思われるのでその日は来ないだろうとしか
>>231 橋下市長が高校時代の恩師に会った場合、
公式の場では橋下市長>恩師、
私的な場では恩師>橋下市長、
こういうことでしょう!
>>236 去年当たり、どこかの陵で雨で崩れたか何かのついでに学者に公開したのが有ったよね。
観察する程度で掘る事は出来ないけど。
>>232 宮内庁は税金で構成されるし稜を公開してはいけない
というような法律はないそうな。
だから国会とか民間でもそういう会は作られてるけど
正式に主張したら建前上はかなりがんばれそう。
別に日本人のルーツとかはどうでもいいんだが
まさに歴史を変えそうな遺物とか壁画とか
もしかしたら碑まで出てくるかもしれない。
比定が違うから正確にしよう、ぐらいをタテマエに
論が進めば部分的にこっそり見たりはしたいなぁ。
240 :
日本@名無史さん :2013/02/12(火) 16:18:59.55
右翼が凱旋したりして、妨害するかもね。
我が国最高の専門家集団が、自分の家と先祖のことを詳しく調査して本に書いてくれる しかも費用は税金から出て、個人負担は全く無し こんな良い話はなかなか無いと思うけどな
民主党の迷走の副産物で学術研究への助成金はでるとこはでてるけどね まぁ私立とアレ系は蚊帳の外だがw
>>232 個人の墓だから暴いてはいけないんではなくて
神である天皇の墓を暴けば皇室の神聖さが失われるという考えなんだろ
だいたい陵墓なんて江戸時代までは出入り自由だったんだよ
盗掘もされてるし
明治時代になって天皇が神格化されたとたん
宮内庁が全天皇の陵墓を比定して柵で囲い入れないようにしたの。
決まりはなくて、各先生の訳し方によるんじゃないの? 国文では正確になるだろうが史学のほうでは あまりこだわってないんじゃないかな。 というか、あまり詳しくない、というと怒られるかもしれないが。
247 :
日本@名無史さん :2013/02/13(水) 19:53:05.03
天皇陵の墓守は天皇個人の財産で管理してる?国の税金? 天皇陵は、個人で建てた?租税で建てた?
249 :
日本@名無史さん :2013/02/13(水) 21:52:31.08
>>248 少し前進だと思いますが。協会のどなたが立ち入り調査されるのですか?
発掘までされるのですか?
7代孝霊天皇の皇女の墓とは知っていますが、皇女の位置づけがよくわかりませんのでお教え頂けますか。
250 :
日本@名無史さん :2013/02/13(水) 22:02:28.07
249 君馬鹿じゃないの? 皇女は今では常識だけど、これも現代風アレンジ・・・古代は、妾の子かもしれないんだよ。天皇に妾(失礼) 妻子が古代天皇にいくらいたかも不明なんだよ。 タブーでいいのだよ。
251 :
日本@名無史さん :2013/02/13(水) 22:12:44.98
>>249 あなたに質問してません、スレ主さんへの質問です。
あなたの論で行くと、すべて捏造の天皇史になってしまいます。
歴史学を学ぶ者として、感心しません。
252 :
日本@名無史さん :2013/02/13(水) 22:15:06.44
失礼しました、
>>249 =
>>251 です。間違えました。
>>250 あなたに質問してません、スレ主さんへの質問です。
あなたの論で行くと、すべて捏造の天皇史になってしまいます。
歴史学を学ぶ者として、感心しません。
253 :
日本@名無史さん :2013/02/13(水) 22:22:12.19
252 ば^^^か 大正天皇の具現化くらい勉強してろ!
徳川将軍で政治ではなく軍事最高指揮官として戦地(勿論戦場では無く1番後ろに控えていると思いますが)に赴いた人は長州征伐の家茂と戊辰戦争の序盤の慶喜しか知らないんですけど他には居ましたか? 家康と秀忠が出陣したのは戦国時代の時だけの話だと思うんですけど将軍になってからも戦いの場に行ったりしたのですか? よろしくお願いします
255 :
日本@名無史さん :2013/02/13(水) 22:48:02.99
横からすいません。 天皇について 明治天皇が大政奉還の勅書を出したのは15歳の時です。 やはり、天皇はすごいのですか? スレ主さんもお忙しいでしょうが「即答」でお願いします。
大坂冬の陣・夏の陣の時は秀忠が将軍じゃないか? 豊臣滅亡までが戦国時代といわれたらそれまでだが…
>>254 家康が将軍になったのは関ヶ原の後の1603年。1605年には秀忠に将軍職を譲って大御所になった。
大坂冬の陣はそれより後の1614年(夏の陣は1615年)だから秀忠は将軍として参戦している。
大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼして徳川の天下が定まったので、それ以後は将軍自ら出陣するような戦は無い。
>>252 =255
スレタイも読めんのかハゲが。
歴史博士「ら」だ。お前みたいなハゲのために一人が無償で常駐してるとでも思ったか。
おれ優しいから一つだけ教えてあげる。
訊いてる立場のくせに上から「即答」しろとか言っちゃうおバカには、たとえ答えを知っていても教えたくなくなるもんだよ?
どうしても分からなかったら、逆の立場で考えてみよう。分かった?
259 :
日本@名無史さん :2013/02/14(木) 18:26:09.07
無能な、スレ主であることは理解できました。
>>259 院試で落とされたとか、なんか怨恨でもあんの?
>>256 >>257 大坂の役は秀忠が将軍になった後でしたね
失念していました
回答ありがとうございました
一向宗って信長にやられた後どうなるんですか?
鎌倉時代の浄土宗の僧・一向俊聖が創めた仏教宗派。江戸幕府によって時宗に強制的に統合され、 「時宗一向派」と改称させられた。 という事で一向宗の一派になりました。
264 :
日本@名無史さん :2013/02/16(土) 06:10:32.97
東征とは、どこから東というのですか?奈良?
265 :
日本@名無史さん :2013/02/16(土) 06:25:31.96
神武東征(じんむとうせい)は、日本神話において、 初代天皇カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、 大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した説話。
266 :
日本@名無史さん :2013/02/16(土) 06:36:38.65
天皇は九州出身?中国?
267 :
日本@名無史さん :2013/02/16(土) 06:46:33.45
朝廷は渡来人でいいよ思う。
268 :
日本@名無史さん :2013/02/16(土) 17:31:30.81
スレタイが 一言主神みたいやな。
269 :
日本@名無史さん :2013/02/16(土) 22:33:04.63
家斉とお美代の方との間に生まれた娘・溶姫が婚家先の前田家廷に「女歌舞伎」と称して 女装した陰間たちを招き入れていたところ、陰間が立ち小便するのを、警護の者に見付けられて 騒動になったという幕末期の史譚がありますが、この逸話の出典は何と言う書物なのでしょうか? 何卒よしなに頼みいります。 他所でたずねても回答を貰えなかった故、歴史学博士にお願い致します。
270 :
日本@名無史さん :2013/02/17(日) 00:53:46.54
答えたいんだけど……俺、修士だからやめておくわ
271 :
日本@名無史さん :2013/02/17(日) 01:25:28.45
以前、小沢さんが新羅・百済と日本との交流の中で、通訳の記録が無い。 よって朝鮮語と日本語の基は同じなのだと言ったそうです。 朝鮮語は新羅語がベースとなっているようなので、日本語と新羅語が別言語なのは分かります。 しかし百済語は朝鮮語とは別の言語です。 日本書紀や古事記などの日本の資料に百済語と日本語が別の言語であることを示す箇所はあるのでしょうか? もしあるのなら、教えて頂きたいです宜しくお願いします。
小沢さんってどちらの小沢さん?
273 :
日本@名無史さん :2013/02/17(日) 01:57:41.26
小沢一郎です
274 :
日本@名無史さん :2013/02/17(日) 03:24:04.69
>>271 新羅や百済の使者が日本語を話しただけです
何しろ当時、交流はいくらでもあったし、わざわざ日本語をしゃべれないやつが日本への使者になるわけない
275 :
日本@名無史さん :2013/02/17(日) 14:21:33.89
家斉とお美代の方との間に生まれた娘・溶姫が婚家先の前田家廷に「女歌舞伎」と称して 女装した陰間たちを招き入れていたところ、陰間が立ち小便するのを、警護の者に見付けられて 騒動になったという幕末期の史譚がありますが、この逸話の出典は何と言う書物なのでしょうか? 何卒よしなに頼みいります。 分からないのであれば、分からないと素直にお答え下さいましな。
分からん。 よっしゃこい
大河を見ていて保科正之に興味を持ちました。 歴史学者の書いた伝記を見つけられず、出版されている伝記は出典が明らかになっていないものばかりなので、 自分なりに史料をあたって諸逸話の信憑性を確かめてみたいのですが、論文を探して註から辿っていくしかないでしょうか。 この時期の大名ならこれだろう、という一次史料はありますか。 また、江戸前期の史料案内的な本をご紹介いただけると嬉しいです。 他地域の史学は少しかじりましたが、日本史に関しては門外漢で、どこから手をつければいいのかわかりません。
信憑性というなら注釈からさかのぼってくのが 一番だわね。 江戸前期といっても範囲が広すぎるから 具体的に、保科に関する一次史料、という ようにククって、それならネットで大まかなとこを ググったほうがいいかもしれないね。 伝記みたいなのの参考資料あたると 大体いろいろ出てくる。
>>278 ネットはググっても幕末ばかりで保科正之に関して史料的な話はあまり出てきませんでした。
伝記は個々の逸話の出典までは書いていないので、使いづらいと思ったのですが、やはり参考資料リストからあたるしかないのですね。
ありがとうございました。
281 :
日本@名無史さん :2013/02/17(日) 21:47:40.94
江戸時代の公知衆っていうのはどのようなものですか
>>279 近世の人物なら、『人物逸話辞典』とか便利なものがあるだろ。
あれなら出典が全部書いてある。保科が載ってるかは知らん。
>>281 そう書いて「おめみえしゅう」って読むんだが、
将軍にお目見え出来る身分。
>>280 真に受けてはいませんが、ちょっと疑問に思ったので質問させていただきました。
高句麗語の数詞三・五・七・十が日本の数詞と音韻の共通性が認められるようですし
また、高句麗語と百済語は同じ言語を話していたようなので、百済人と会話する際に
通訳を介す必要があると日本の資料に書いてあれば別言語だと言い切れるのではないかと思いました。
285 :
日本@名無史さん :2013/02/17(日) 22:21:14.42
当時の往来に通訳なんぞ必要としなかったし、 言語は、半島であれ列島であれ異国人との意思疏通はみんな中国語だよ。 なお、百済の人種は列島人の半島残留組。
286 :
日本@名無史さん :2013/02/17(日) 23:50:24.12
>>285 百済人というのは典型的な征服王朝だから貴族層と庶民層は別系統の民族
よって百済人というまとまりは国籍の問題。
百済人種とか百済語というのは複数の要素の総称であって
単一の百済人種とか単一の百済語ってのは存在しない。
個別にいえば
貴族層は「夫餘人」だし庶民層は「馬韓人」。別系統。
>>282 ありがとうございます。
そのような基本的な書物を知らないので、ご教示いただけるととても助かります。
早速調べてみます。
288 :
日本@名無史さん :2013/02/18(月) 06:29:03.93
桓武天皇の聖母は百済のブネイ王の末裔です。
関ヶ原の西軍のトップって三成とは記憶してるんだけど、 旗頭が毛利ってのはこれは何を意味するんでしょうか?
290 :
日本@名無史さん :2013/02/18(月) 23:58:50.41
豊臣政権での三成は「五奉行」の一人で、「五大老」の一人である家康より格下だった。また三成の性格からいって、彼自身がトップに立っても周りがついてこないと親友の大谷吉継に忠告されたこともあり、家康と同じ五大老の輝元を名目上のトップとして担ぎあげた。
>>289 もともと、秀吉の死後勃発したのは、徳川家康VS前田利家の2大老の争い。
天下を狙う家康と太閤の遺言を理由に咎める利家との大老同士の対立だった。
しかし、秀吉の死の半年後、前田利家までが死んでしまう。
家康は利家の後継者・前田利長を武力で滅ぼすべく、加賀征討を計画するが、
利長は母芳春院を家康の人質に差し出し、あっさり家康に服従した。
これに対して家康の専横に納得がいかない旧利家派の上杉景勝や石田三成が計画実行したのが関ヶ原。
具体的には上杉景勝の家老直江景勝が、家康の秀頼さまへの不忠を記した「直江条」を家康に叩きつけ、
怒った家康が上杉征討に出かけたところを三成が背後から突いた。
毛利輝元は三奉行の催促で大坂城入りし、説得により西軍についたが、実際には兵は動かさなかった。
三成は西軍敗戦の責任を取らされただけという感じはある。
三成の共謀者である五大老の一人上杉景勝は、減封されたものの命は助かり、上杉家も存続している。
豊臣・徳川体制が出来つつあったところに失脚した石田らがクーデター起こして失敗 事態の収集に無力だった豊臣が凋落した
>>291 簡単でわかりやすくてありがたいです。
>>291 すいませんこの答えで思ったんですが、
幕末の倒幕活動家が山口に多いのってまたここから繋がるんですか?
>>287 『日本逸話大事典 第6巻』の末尾のほうにいくつか載ってた。
296 :
日本@名無史さん :2013/02/26(火) 18:53:34.11
外部サイトの引用ですが、例えばこの左右近衛府に
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kani82.html 右近衛大将があり、田中が右近衛大将になれば「田中右近衛大将」と呼ばれるとおもいます。
では鈴木が府生や使部になれば、その人は「鈴木府生」「鈴木使部」と呼ばれるのでしょうか?
また、下の方には籠持ちの「丁」というのがありますがこの場合は「鈴木丁」と呼ばれるのですか?
もし「鈴木丁」などと呼ばれないのであれば、そう呼ばれるものと呼ばれないものとの簡単に区別が付く方法も教えてください。
質問ですが、 華族の次男以下が他家への養子にも行けなかった場合、 分家して士族になることが出来たのですか、 それとも下の爵位を受けて引き続き華族身分のままだったのですか?
爵位を相続するのは嫡男だけで次男以下は相続できない 養子行きも婿入りも無理だった場合には爵位がないまま軍人などになった
あとは親の事業の一部を引き継ぐとかかな
>>298 華族が必ずしも爵位を持っている訳ではないという理解で宜しいのですか?
301 :
日本@名無史さん :2013/02/28(木) 07:02:29.59
戦前の国柱会という宗教団体の影響力はどんなものだったの?
江戸時代の天皇と将軍朝廷と幕府の関係の変遷について卒論を書こうと思っているのですが 参考文献としておさえておいた方がいいと思われる文献を教えてください
中公だったかの日本の近世とかに 基本的なことは載ってるからそこから 参考文献調べればいいかもね。 ただ変遷をなぞるだけだと それこそ本の丸写しになっちゃうから 自分なりのテーマを決めた方がいいだろね。 重要点は最初と最後だし。
>>302 ゼミの担当教授に聞け
教授が好評価下して読み込んでる史料をぶっとばしたりすると評価が下がるぞ
日本に来てまだ間がありません。 日本の人は、国を誇る会話をあまりしませんね。 わたしなどを相手にすれば、日本の自慢をたくさん話しても普通ではないでしょうか。 天皇が古くからずっとおられ皇室が永く続いているのは、すばらしいことではありませんか。 それを言っても、あまり反応がありません、会話が続きません。 だれも、このようでしょうか。
>>305 日本では政治と宗教(と野球w)の話は表立って他人としないのがマナー
天皇関連はその政治宗教に分類されるから話題にするのを避けるし
(だから会話が続かない。早々に切り上げようとしてる)
避けるからあまり深く考えない所がある
匿名のネット上か、リアルなら歴史文化的なことくらいなら会話になるかもな
仏壇下から見つかった刀(別スレで小さ刀と判明)があるのですが 小さ刀はどのような時に用いられたのでしょうか? 普通の脇差と用い方の面で何が違ったのでしょうか? よろしくお願いします
X 日本では政治と宗教(と野球w)の話は表立って他人としないのがマナー
○ 韓国人などの例外はあるが、外国で他国の人間と政治や宗教という話題に深く立ち入らないのは
第三世界を含め世界共通。
>>305 一般的な日本人は自分たちが特殊で、他国人からは理解されないと考えている。
また、一般的な日本人は自国を語れる程、自国についての知識もないし、上手に説明できる自信もない。
お訊ねの件については、日本には街宣右翼と呼ばれる集団が存在し「天皇・国土・軍隊」について自らの認識を語ることは、
所属する集団から街宣右翼と同列の危険な人間として認知され、社会から受け入れられなくなる可能性がある。
だから日本人同士であっても親しくない人間同士で「天皇・国土・軍隊」について語り合うことはない。
>>305 Where are you from? I'll translate all of them if you wish.
>>303-304 ありがとうございます
図書館で『日本の近世』借りてきました
先行研究の問題点や論点を整理した上でテーマを絞っていこうと思っていたので
これから考えていきます
細かい所まで気を使っていただいてありがとうございます
>>306 >>308 ありがとうございました。
>>310 すみません。
英国です。
東京の大学院で学んでいます。
文字と言葉は大体わかります。
会話で始めた日本語なので、文章を書く能力が不十分です。
日本の、あらゆる文化は、日本の人の誇りではありませんか。
いちばん目立つのがたとえば天皇と皇室ではないですか。
宗教と右翼ではありませんと思います。
英国の王室は誇りです。英国のあらゆる文化は自慢です。
日本の人は自慢をしません。
質問しても反応をしません。
個人の経験だけど外人さんは 飲み屋とかでも政治の話は普通にすると思う。 タブーみたいにするのはやはり日本の特質というか 争いごとを好まないというか、そういうのがよく 現れてるとは思うな。
他国人に自国を批判されて、喜ぶ人が多数なのは日本人だけ。
>>312 誇りではあります。しかし、国の事にしろ個人の事にしろ、他人に自慢する事は恥ずかしい事と見なされています。
そういう文化なので理解してください。
外人さんに、日本の政治はどうだ?、みたいにいきなり聞かれて まぁまぁ、みたいに言うと変な顔されるんだよね。 つまり、誰を支持してるんだ、支持政党はどこだ、というのは あいさつがわりというか普通のことなんだよね 決して主張とかじゃなくて。 無宗教です、というと変な顔されるように 政治的なものも普通の成人なら持ってて当然というか。 英王室は、国民と同格でロイヤルデューティーっていうのか おかしなことすると普通に叩かれる。 王室としての義務は明確なんだよね。 でも、日本の皇室は根本的に立ち位置が違ってる。 これは、日本人の文化論というよりは 存在基盤が両者は違う、というような理解をしないと 平行線で意味のない会話になるようには思う。 歴史スレからはどうしても逸脱してしまうんだけどね。
>>312 >日本の、あらゆる文化は、日本の人の誇りではありませんか。
>いちばん目立つのがたとえば天皇と皇室ではないですか。
>宗教と右翼ではありませんと思います。
WWU後の日本では、先鋭的な天皇批判を新聞等が迎合し、保守的な思想は排斥されたのです。
その結果一般日本国民は、声は大きいが数は少ない革新政党系に同意できず、心情的には同意できるが街宣右翼の活動の下品さに耐えられず、“天皇”について考えることを止めてしまったのです。
G.H.Q.によるWar Guilt Information Programによって「日本の歴史・文化」の優秀性を強調することは、日本軍国主義的思考につながるという決めつけが敷衍したことも一因と言えるでしょう。
ここで発想を変えましょう。
Boer War,First Anglo-Chinese Warにおいて貴国が敗戦国となり敵軍の進駐を許し、もしくはGreat Famine (Ireland)後Irelandに占領され、
貴国の新聞が恥ずべき行いを掣肘できなかった王室の存在は、形骸化ないしは制度の廃止を、自国民には一方的な贖罪意識を求めることを百年間主張していれば、
貴方も外国人と王室についての話柄を語り合うことは避けるのではないでしょうか。
webの世界と異なり、実社会で“天皇と皇室”について積極的な発言を行う者は“思想的に危険な人物”と看做されるのです。
それは欧米で【racist】の烙印を捺される事と同じぐらい致命的な失策となります。
>>315 > そういう文化なので理解してください。
江戸時代に、目立つと幕府からにらまれるために出来た
生き残り策が、あまりに長期間だったため文化と化したものですかね
そういう話かなぁ。「ウチの愚妻が」とか言って嫁の自慢話とかしないのと同じレベルでの文化(風土性?)の 話だと思うが。
319は317へのレスです。
>>318 狭い島国(ムラ社会)で自慢する人間はうざい存在と見なされたからだと思いますが。
日本では謙遜が美徳とされるのだから仕方ない。 ただ欧米人の態度をアジア人がとると、横柄に感じる不思議。 欧米人なら許せるのにね。
>>312 日本の皇室はイギリス王室との相違点が数多くあります。
まず、天皇が主権を執っていた時代は短く、
将軍などが統治者として政治を執っていた時代が長いということです。
天皇は長らく京都で軟禁状態に置かれた高貴な人であり、
国民との接点はあまりありませんでした。
また、先の第二次世界大戦では日本国内で天皇は「神」と崇められ多くの国民が
「天皇万歳!」と叫んで戦争に行かされたためにそれに対する抵抗もあります。
江戸時代では将軍や藩主の後継者教育をどのように行っていたのでしょうか 藩士の子弟とともに藩校で学んでいたのですか
将軍とか大きなとこでは個別で ちゃんと教育してたみたいね。 これは一般教養という意味で。 後継者としての教育はやっぱり 各藩で独自にするしかないだろね。 小さいとこは藩校なんてのもないし これも午前は読み書き、午後は体育、みたいな 感じでしてたんじゃないかな。
つー『徳川慶喜家の子ども部屋』
326 :
323 :2013/03/07(木) 15:05:21.76
>>324 もっと詳しく知りたいのですが
江戸時代の後継者教育というのはあまり研究されていない分野なのでしょうか
>>325 江戸時代のことにまで触れているのでしょうか
>>326 将軍家だけならともかく、大小
何百も藩はあるから研究というのも
なんというか。
それにきっちり時間割的に記録が
残ってる例も少ないだろうし、時代が長いから
統一された分野にはあまりならないんじゃないかな。
もと具体的に何藩の何代目のお殿様の
教育係、とかそういうのは地元郷土史なんかでは
各藩にあるのかもしれないけどね。
これは、うちの先祖が弓を教えてた、とか
そういう話でたまに見かけたりする。
それと、江戸の数学事情については
いろんな本が出てるけど、そこにも各藩の
ことが出てきたりしてるよね。
こっちのほうが参考になるかもしれないな。
源満仲の子が河内(源頼信)・大和(源頼親)に拠点を移してそれぞれに勢力を強めましたが、 なぜ河内や大和だったのでしょうか? 元々地縁があったのか、関係の深い藤原の某や権門の荘園がたまたまそこにあったのか、 そういうことなしに地域的重要性をみて意図的に選ばれて派遣されたのでしょうか?
もともと関連者がいた、だと思ったけど 具体的にはググらないとわからない。 手抜きでごめん。
>>327 なるほど
藩主の思想とその形成というのは藩政を考える上で重要なように思ったのですが史料がないのなら仕方ないですね
>>330 あ、そういうことか。
各藩に伝わるお家事情とかしきたりとか
そういうのをどうしてたかということね。
これは各地区にそれなりにあるんじゃないかな。
特に明治維新の時に女中さんたちの話とか
家老の家の口伝とかそういうのは個別であるとは思うよ。
有名なのだと、お殿様の残した「心得」みたいなのは
たまに見かけるよね。
そういうのの一覧とかまとめみたいなのは
すぐには思いつかないなぁ。
あまり役に立てなくて申し訳ない。
>>328 源満仲
『2度国司を務めた摂津国に土着。摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)の住吉大社に参籠した時の
神託により、多田盆地(後の多田荘、現在の兵庫県川西市多田)に入部し、所領として開拓するとともに
多くの郎党を養い武士団を形成した。』
満仲は国司を勤めた地縁で摂津に所領を切り開き、それを長子の頼光に継承した。
この頃は摂津源氏が清和源氏の本流。
源頼親
『当初の地盤であった摂津の国司任官を果たせなかった経緯もあり、頼親はその生涯で三度大和守を
務め、同国内における勢力の扶植に邁進する。』
摂津の国司にはなれなかったので、国司になる事の出来た大和に所領を切り開いた。
源頼信も同様に河内の国司をつとめた縁で河内に所領を切り開いた。
>>326 まず藩主の嫡男は江戸の上屋敷で産まれます
藩主になるまでの間江戸で育ちますので江戸で教育を受けます
それぞれの藩によりますが、余裕のある藩で武術は
剣術指南役、砲術指南役などの、その藩で代々専門職として仕えてきた
家の者が次期藩主に指南します
学問は学問の素養のある養育係である藩士や奥女中が教えます
余裕のある藩は学者を招いたりもしていました、また自藩内で遊学をさせて
学者を養育していました
藩にもよりますが、江戸詰めの藩士の子弟から有能で器量のある者を選び
遊び相手や勉学相手をさせて幼少の頃から共に過ごさせて競争心や協調性を
養わせたりしました
相手に選ばれた後に次期藩主の側近になる例も多いです、他の藩士とは違う
絆や信頼関係があると言えます
334 :
日本@名無史さん :2013/03/09(土) 11:22:39.61
「八重の桜」で、 ョ母が殿様の前で胡座かいて座ってたんですが、 あれが普通だったんでしょうか?
普通だったんです
336 :
日本@名無史さん :2013/03/09(土) 12:20:47.23
正座は本来、すぐに立ち上がって応戦できるという臨戦態勢からきています。 桃山時代にそれを茶の湯に取り入れて一般化していくのですが すなわち、正座して主君の前に座るのは「いつでもお前に飛びかかれるぞ」という脅しのようなもので 本来は大変失礼な座り方であったそうです。 逆に、入り口付近で警護してる若衆は、臨機応変のため常に正座しています。 また、江戸時代の写真を見ると主君と藩士がおなじ高さの位置で車座になっていたりして 雰囲気としては大学のサークルのような感じがします。 彼らの関係性は我々が時代劇でみるような堅苦しいものではなく 普段はかなりフランクであったようですね。特に薩摩藩はその傾向が強かったといいます。
337 :
日本@名無史さん :2013/03/09(土) 12:28:29.38
>>336 ありがとうございます。
勉強になりました。
立て続けの質問で恐縮です。
あれは確か江戸時代の絵だったかと思いますが、
大石内蔵助の切腹の場面で、大石が胡座でした。
こういう作法もあったと考えるべきなんでしょうね?
334
338 :
日本@名無史さん :2013/03/09(土) 20:48:49.82
古代の布の単位である「反」と「端」と「常」は全て同一と考えて良いのですか?
質問です。 中世史では黒田先生の「権門体制論」が有力説で、本郷先生などから疑義を呈されているというのが現状認識で宜しいでしょうか。
>>339 大まかに、西の先生は権門論、東の先生は二つの国家論、で
権門論の方が古くて広まってるので、東の先生がそれに
各個別に疑義を呈す、という感じになってますね。
疑義を明確にしているのが本郷氏で、東の先生でも
権門論を全て否定しているわけではないので、
そのあたりを見ていくとこの時代の理解がより
深まる、というのはあるでしょうね。
東西どちらも先生ー弟子という関係がはっきりしているので
そのあたりもまた面白いところです。
>>340 ありがとうございます。
調べてみると確かに黒田先生は西の京大、本郷先生は東の東大ですね。
なるほどという感じがしました。
そう言えば中世史の天皇論では独自の「網野史観」を持つ網野先生も東大でした。
網野先生の「東と西の語る日本の歴史」は凄く面白かったです。
>>341 日本史を越えて考古の邪馬台国でも
東西の大学で論が別れているように
こういった例は非常に多いですね。
理系の方でもあるようです。
ちょ〜おおざっぱですが
西は人重視、東は状況重視
みたいには感じてます。
これは史観とか根本的な問題で
いろいろと思うところはありますね。
>>342 > 日本史を越えて考古の邪馬台国でも
そのうち韓国人が邪馬台国は韓国だった説を言ったりして
344 :
日本@名無史さん :2013/03/11(月) 20:35:47.54
宝治合戦に関する資料についての質問です。 先日受けた模試に、宝治合戦に関する資料(調べたところ葉黄記と いうものでした)が出題されました。以下がその内容です。 関東より飛脚到来し、重時子細を申す。去る五日前の若狭の守 泰村(三浦これなり)すでに旗を揚げ打ち立つ。 仍って時頼将軍家に参る。また打手等を遣わす。 合戦等放火風吹き掩うの間、泰村落ちをはんぬ。 各々頼朝卿の墓堂に止入し自害す。 この中で最初の方に「重時子細を申す」という部分が ありますが、これは「(宝治合戦の顛末について鎌倉幕府が) 重時に子細を伝えた」という意味でしょうか?当時重時は 六波羅探題の職にあったようですので「重時が子細を申した」 という意味ではないと考え、そうなると助詞「に」を補って 考えるのではないかと思いました。お分かりの方が いらっしゃいましたらよろしくお願いします。
院近臣の葉室定嗣の日記だから重時が関東からの情報を院に説明したのだろう。 「去る五日前・・・」以下がその説明なんだろ。
346 :
344 :2013/03/11(月) 21:30:04.08
>>345 なるほど、そういうことなったんですね。
納得がいってすっきりしました。
回答頂きありがとうございました。
>>343 ありますよ。
トンデモ学者さんだけど
中国か韓国かあのあたりの地名を
細かく精査して、何冊かそういう本出してますね。
348 :
日本@名無史さん :2013/03/13(水) 13:33:18.43
お願いします 戦国時代の大名や江戸時代の藩主が転封する時、配下の武士階級を 全員連れて引っ越しするのですか? 連れていくのはある程度上の者だけですか?
349 :
日本@名無史さん :2013/03/13(水) 13:54:00.24
>>344 こんな細かい話は初めて伺いましたが、一般的な感覚で解するなら
重時子細を申す=時を重ねて(長時間費やして)詳細を報告した
で良いのでは無いかと思いました。
差し出がましいながらこれまで
350 :
日本@名無史さん :2013/03/13(水) 14:16:42.40
>>348 武士階級は皆連れて引っ越しです
そのため転封で石高が下がると家計は火の車でした
351 :
日本@名無史さん :2013/03/13(水) 14:50:02.81
>>350 ありがとうございました
引っ越しする時は前もって殿様の居宅や幹部の屋敷などを作って、引っ越しと同時に
そこへ入るのですか?
それとも前の領主の居宅にそのまま入るのですか?幹部達も既にある屋敷へそのまま入居?
352 :
日本@名無史さん :2013/03/13(水) 15:01:06.51
>>351 殿様の居宅は前の藩主が使っていたものにそのまま入居です
城はいちいち建て替えず城主が何度も入れ替わるのが普通です
武家屋敷もそのまま使われたものと思われます
353 :
日本@名無史さん :2013/03/14(木) 17:05:49.31
初心者にわかるように日本史の流れを簡単に詳しく覚えられる本とかってありませんかね?
354 :
日本@名無史さん :2013/03/14(木) 17:11:13.49
ふと思ったんですが、戦国時代以前の日本では 時計や機械がなかった時代の 昔の人の時間や日付を認識する術はなんだったんでしょうか? それと現代のように時間や日付を正確に司る機関があったのでしょうか? 新聞や鐘・立て札?などがある地域の人たちはだいたいどう知っていたか 想像できるのですが、極端に人が少ない地域の人たちはどうやって 情報を仕入れていたのかが気になっています。
355 :
日本@名無史さん :2013/03/14(木) 18:39:26.00
>>354 百姓たちには正確な時間の把握は必要なかったと思われます
明るくなれば起きて田畑に出、暗くなれば寝ていたのですから
時間や日付を管理する機関としては朝廷の陰陽寮において、それぞれ暦博士(暦の管理)
漏刻博士(時刻の管理)・天文博士(天体異常の観測)・陰陽博士(占術)が置かれていました
天体博士が月の動きを観測し(明治以前の日本は中国に倣った太陰暦)
それに基づいて暦博士が具注暦を作成していました
また時刻の管理をする役人を漏刻博士というのは機械時計が普及する以前、
時間を図るのに水時計が用いられていたためです
武家の世になっても将軍徳川吉宗が幕府に天文方を置くまでは暦は朝廷が作成していました
356 :
日本@名無史さん :2013/03/14(木) 19:52:05.53
>>355 おお大変詳しいレスありがとうございます。
現代人は日付や曜日を知らないだけで自己嫌悪におちいったり、
社会生活をするに当たって時間の情報を必要としてますね。
そうですよね。時間に縛られていないのなら、それを知る必要もないと。
目から鱗でした。
歴史書などに記載されてる年号年数なんか本当に正確なんかいって思っていたので
実際そうゆう機関が設置されていたのなら納得です。
ご説明ありがとうございました。^^
>>356 一応、正確な時間レベルでは知る必要が無くても、
農作物を作るにも宗教儀式を行うにも正確な日付が分からないと不便だから日付レベルまでの知識は必要としていた。
正確な時間の必要性もないし 把握もしてなかったのは確かだけど それと、実際の生活がそうだったかは また少々別問題でもある。 うちの山奥の実家は今でも鐘がなるようなとこだったけど ガキの頃じいちゃんが、畑仕事から返ってきて 「家に入れよ、鐘がなるぞ」と言うとものの数秒後に 鐘がなってた。 その頃は不思議と思わなかったけど 今思うと体内時計というかかなり不思議には感じる。 天気の予報も、翌日どころか「この雲だとあの神社まで 走ればそこで降って来る」とか近所のじいちゃんにも よくいわれたもんだ。 なので、時間認識に関しては現代人がわからないだけで 実際は生活に必要な部分でかなり正確、ただ体内時計とか 非科学的とか記録に残らない、または「勘違いだろう、たまたまだろう」とか そういうように説明される部分もあって それが「昔の人は〜」的に語られていて、実際は人間の感覚というのは 自然と共生してればかなり鋭敏で正確なものだった というようには思ってる。 上の人が言われてるように、これに農作物の知識や経験則はかなり 必要で重要だったから、生活レベルの分単位、日付、季節、どの 単位をとっても思われてる以上に正確、ある意味時計に頼らなくても だいじょうぶ?な田舎の昔の人たちの方が よほど時間に関する感覚もしっかりしてたかもしれない。 これは、学問とは少し違う話になって申し訳ないのだけどね。
聖徳太子創設の平林寺では、境内に鐘が置かれてあって、ちゃっかり賽銭箱が 逐一の毎度通りに 置かれている。1回鳴らす度に10円よこせだって(何でやねんwww)。 大学の卒業式などでは、お金持ちの坊ちゃん・嬢ちゃんは 袴を購入して 着てくる(こういう時に家の品格や組織対応力が表れ出る)らしいけど、 寺の息子や娘なんかは、100万単位の服なんかを着てくるとか。 なるほど、寺(特に大寺院)の坊主共は、ああやって人々から賽"銭"を 募ってボロ儲けしてるのかw って実感させられた。来迎寺(八尾)のような 小さな庶民寺のお住さんですらベンツ乗ってたぐらいだし。。。いいなあ坊主共は。。。
>>361 そうですよねえ
昔は肥満が少なく筋肉質で体重が少なかったから大丈夫だったんかしらん
ところで正座って日本だけなの?
アジア、アフリカ、欧州はどうなんだろ
363 :
日本@名無史さん :2013/03/18(月) 19:04:33.21
初心者にわかるように日本史の流れを簡単に詳しく覚えられる本とかってありませんかね?
>>362 日本は基本的には男女とも立膝、胡坐文化だった
立膝や胡坐をするから中身が見え難いよう昔の着物は身幅が広かった(江戸時代に狭くなったが)
江戸中期頃に正座文化が広まったらしいがよく聞くのは明治以降だな
江戸時代ではまだまだ横胡坐立膝が多かったらしい
韓国は今も立膝文化。中国は椅子文化。他も椅子文化の所が多いんじゃないか?
ミスった ×横胡坐立膝 ○横座りや胡坐立膝
>>364 ありがとうございます。
すごい詳しい方がおられた。
正座は日本独特なんだ
イスラムやインド、インドネシアも胡座だったような気がする。
30代半ばからでも博士号を取得し学者になることは可能でしょうか
>>367 不可能な理由なんてあるか?
結果出せばどうにでもなるだろ
ただし、入る大学はちゃんと吟味しろよ
現実問題として、プロジェクトや研究職の公募が30歳未満を対象ってのはよくあるけどね。 まあ学会でコネ作れば有能な人なら引く手数多な業界だからなんとかなる。
胡坐の文化、みたいな本がちょっと前に 出てた。
>>368-369 クルスス・ホノルムみたいなものがあるのかと思ったので質問させていただきました
ありがとうございます
>>368 大学については研究分野が近い教授が所属している所をいくつか見つけているのでそこから絞っている所です
細かい所まで気をつかってくださってありがとうございます
古代史の諸説一覧を知ることのできる書籍、サイトってありますか? 例えば記紀関連なら、藤原不比等関与説や古事記偽書説、聖徳太子○○説、蘇我氏○○説のように数限りなくありますよね 一つの学説を詳しく述べたものではなく、これまでに挙げられた学説にどのようなものがあるか出来るだけ多く見たいのですが
学説、というかトンデモ説ばっかりあげてるようだけど そのあたりから少し答えていったほうがいいぐらいなのかな。
日本の封建時代の「民」[百姓」「農民」は、ヨーロッパ史に出てくる「農奴」とは別なの? 移動の自由が無く領主からみると土地のオマケのような扱い、武装や政治参与は不可、 、婚姻や家族を持つことは自由、財産は住居や農具や幾分かの家畜の保有が認められる、 というところが全く農奴そのもののように思えるのだけれど。
>>374 自治組織化されていたところが欧州の農奴との違いであると説明されてます。
また、近世以前は武装もしており足軽として出兵しています。
信長以降、戦が武士の専任となり農兵分離は秀吉の時代の刀狩りにより完成を見ます。
376 :
日本@名無史さん :2013/03/23(土) 11:27:46.22
>>352 亀レスですが、質問!
殿様が城に入るのは分かるのですが、家臣団は人数やその家族構成がてんでバラバラなのに、どうやって既存の武家屋敷に上手く割り振って
入居させたのでしょうか?現在のような情報伝達手段がないのに・・
あらかじめ、「こんな間取りの屋敷が何棟あります」みたいなやり取りがあったのでしょうか?
>>942 ありがとうございました
つまり、言い方は悪いですが、障害者枠や同和枠と同じような弱者保護の観点による優遇措置
ということですね
>>376 家族構成は問題にならない。肝心なのは家格だ。それに見合った屋敷を割り振る。
情報のやり取りは多分無いと思うが、適当な者を担当者として先乗りさせて調べさせれば済む。
そもそも、家族だけじゃなく家臣も連れての移住だから、そのあたりは家臣を犠牲にして調整するとか……
>>375 スパルタのヘロットも足軽みたいに使われてるけれど・・・・
>>378 こういう国替えの時って財産目録的なものを作って引き継ぐってことはなかったんですかね?
武家・侍屋敷等が藩の所有物であればそれで割り振りも出来そうに思うのですが。
>>380 足軽にたいに扱われていたかどうかではなく、重要なのは組織的な自治が行われていたかどうかです。
実例として農民らの強訴によって封建領主がすげ替えられたということもありました。
強訴は自治ではないだろ。
>>381 もちろん武家屋敷は主君から与えられるものであり、何かの理由があれば召し上げられる事も有る。
改易になった場合は目録を作って引き渡すけど、国替えではしないんじゃなかろうか。目録を作る目的は
引き渡すべき財物を隠し持ってない事を示す為で、引っ越しの場合は財物は全部持って行くものだから。
>>383 逆だよ。自治機能があったから強訴することができたってこと。
はぁ? 自治があるなら、自前で解決できるじゃんよ。 強訴なんてするのは、領主のやりたい放題に耐えきれなくて、領主のそのまた主君に訴え出てるだけだろ。 強訴と、今の市町村長やら知事が政府や省庁へ詣でる陳情と、ゴッチャにしてるんだろ。
町内会長「・・・・」 団地自治会長「・・・・」 生徒会長「・・・・」
>>386 自治の意味が分かってないんだね。
これほど頭が悪いと説明する期がなくなるよ。
春休み季節かあ。 言に窮して 自分は知ってる、けど、説明はしない ってのが通用するのは中学生同士のときだけだよ。
農民の自治なんて中高の日本史レベルの話なんだけどなあ。
自治ってのはなぁトップ取るって事なんだよ
>>389 そうかぁ?
厨房だと自慢したくてなんでも話すが
大人ほど説明なんてしないもんだが・・
説明できないことを稚拙な虚勢で誤魔化しきれてると思ってるところがガキなんだよ
United Nationsは直訳だと連合国になってしまい、第二次世界大戦の戦勝国群というイメージが強いため、本当は"国際"に相当する語はないけれど国際連合という訳をあてた、と何処かで読みました。 しかし、それなら何故第一次世界大戦後の日本政府はLeague of Nationsの訳を国際連盟にしたのですか? これもどこにも国際の要素が無いと思うのですが、何か政治的な意図があったのでしょうか? 回答よろしくお願いします。
充分説明されてるのに理解できないレベルの人にまで理解させる義務はありませんので。
何処かで読みました 充分説明されてるのに 中学生ばかりかよ
別に自治の定義について云々じゃなくて 自治があったから強訴できたという論理について説明すりゃいいじゃん そんな頑なに虚勢張らないでさ
だいたいこのスレの趣旨からして「十分説明されてる」なんて返しが意味を持たないということを自覚すべき 問うてる者が「知らない」「間違っている」という前提込みで「あらゆる質問に答える」スレなんだから。
2ちゃんでよくあるパターン ・誰かが何かについて説明する ↓ ・誰かがその中の一つを批判する ↓ ・最初に説明したヤツにとって当たり前のことなので呆れる ↓ ・説明できてないと更に批判を加える ↓ ・最初に説明したヤツは「もいいいや」って気分になり黙る
日本でヨーロッパやアフリカという地域が知られたのはいつの時代ですか。 インド天竺は仏教伝来と同時だから、飛鳥奈良時代なんだと思いますが。
>>401 多分南蛮人がやって来た戦国時代じゃないか。信長に地球儀をプレゼントしたとか
南蛮人の連れて来た黒人を信長が家来にしたとかの話が有るのでアフリカも同時期かと思う。
>>401 唐の時代に景教(ネストリウス派キリスト教)が布教に訪れたという文献があり、
日本にも伝わったとする説がある。仮にその説が正しい場合、おぼろげながらも
飛鳥時代に欧州の存在を知っていた知識人が存在していた可能性はある。
※但し上述の説には所謂トンデモも数多いので(日ユ道祖論など)注意が必要
>>402-403 ありがとうございます。
遣唐使や正倉院の品などから、一部のエリートは知っていたかも知れないが、
庶民レベルでは宣教師が歩き回った戦国時代以降ということなんでしょうね。
庶民レベルというのもどうだろう。 異なものとして妖怪、カッパレベルの普及なら 口コミであったかもしれないが、世界の地域、という 認識は明治になってからだったりして。
3種の神器には草薙の剣が含まれていますが、スサノオの命がヤマタのオロチを成敗した時に オロチの尾から出てきたという剣はなぜ3種の神器には含まれなかったのでしょうか? 両方とも神話だとしたら、時系列でスサノオの方が古いし、日本武尊よりもスサノオの方が 格上だと思うのですが
>>406 その二つは同じ物です。オロチの尾から出て来た天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)は後にスサノオが
アマテラスに献上し、さらに天孫降臨の際に三種の神器の一つとしてニニギに渡されます。
その後ニニギの後継者である天皇家が所持していましたが、垂仁天皇の時代に倭姫命が伊勢神宮に
移します。
倭姫命が日本武尊に渡すのは更に後の事です。
三種の神器は天皇家が天孫(アマテラスの子孫)である証なので、いずれも日本武尊よりずっと古い物ですよ。
というか、天叢雲剣、の通称?を 草薙剣という、のほうがわかりやすくねぇか。 ピンチの時に、草を薙いで脱出した、という逸話から 草薙剣という、って初心スレみたいで悪いが。
質問のポイントはそこじゃない。 まあ、言いたいことはわかるけど。
>>407 その2つは同じ剣だったのですか。納得しました。
ありがとうございました。
皇室の菊の御紋とか徳川の三つ葉葵とか、 いわゆる家紋というのはいつ頃成立したのですか?
>>408 初めその方向で書いてたんだけど、実は草薙剣の方が本来のものっぽいようだから
どうしようかとか迷って、あんな形で書き込んでしまった。
>>411 平安時代の公家が牛車に目印として書かせたのが起源と言われているけど、この時代はまだ家紋ではなかった。
源頼朝が挙兵した時、常陸の佐竹氏は源氏の血筋だけど平家に味方して頼朝に討たれた。のちに奥州藤原氏を
討伐する時には名誉挽回を期して源氏の白旗を持って駆けつけた所、「無地の白旗を使えるのは源氏嫡流の
頼朝の血筋だけ」に決めたから、白旗に扇を付けて目印にしろと言われた。この時点ではまだ戦場での目印だけど、
これが佐竹氏の家紋の由来。
そんな感じで源平合戦の頃から鎌倉時代に掛けて戦場での目印として旗や幕に印をつける事が武家の間で
行われる様になってやがて家紋になって行く。
眞子様の菊の御紋に(ry
414 :
日本@名無史さん :2013/04/04(木) 06:50:03.53
>>神話と歴史を区分すべきとおもいますが、いかがでしょうか。 時の権力者の捏造と神話は見るべきではないでしょうか? 北朝鮮の金一族の偶像化もしかりです。 SFの世界みたいです。
なんで河内国はあんなに狭いのに、大国で郡の数が15〜18もあったの? 面積規模の殆ど同じ和泉国は小国で郡は3〜4。
>>412 頼朝の時代、源氏の嫡流は河内源氏ではなかったろ。
村上源氏の源師房の系統が嫡流で、清和源氏に取って代わられるのは、足利義満で初めてだ。
>>415 人口が多かった=水利のよい耕作面積が多かった
のでは
418 :
日本@名無史さん :2013/04/04(木) 19:46:57.49
>>416 源氏長者じゃないですよ。清和源氏(より正確には河内源氏)の嫡流は将軍になった頼朝の血筋という話。
でも調子に乗って筆が滑った感も確かに有ったね。すまん。
>>408 最近放映されたささみさん@頑張らないというアニメで
天之叢雲と天羽々斬がキーアイテム
として登場したからと思われ。
>>418 もともと和泉国は河内国に含まれていたのを分離して出来たくらいだからそうなんでしょう。
《『続日本紀』によれば、河内国から和泉郡・日根郡・大鳥郡を割き和泉監(いずみげん)が
建てられた。元正天皇の離宮がこの地に造営されたことが、国司ではない監という特別な
官司の設置の理由であると見られる。その後、和泉監は廃止されて和泉国が設置された。》
河内国から3つ分離して和泉国を作ったんだから始めから3郡なんだよ。
鎖国で日本に帰れなくなった連中が 故郷と手紙や物資のやり取りをしてたけど なんでそんなことが可能なの? オランダ船も中国船も積荷検査受けるんじゃないの?
1639年以降の話です じゃがたらお春の手紙で、1670年代になっても故郷と手紙と物資のやり取りをしていたらしくて そんなことが可能なのかと思って
>>425 東インド会社の船に手紙をたくした、という話でしょかね。
貴重な海外の情報源なので、風説書が訳して江戸に送られたように
もちろん検閲はされたでしょうが、日本に届くのはそんなに不可能では
なかったかもしれませんね。
ただ現存するお春の手紙等は創作という説もあるので
これはこれでまた別の話になるでしょうか。
>>426 レスありがとうございます
お春はともかく、他にも似たような事例があるので
鎖国ってずいぶんと穴があるもんだなと思いました
海外追放された日本人や帰国が適わなくなった日本人は、
幕府から見れば罪人ですよね
その罪人が検閲済みとは言え、故郷と手紙や物資の交換をするなんて
特に後者は私貿易じゃないですか
石器時代の人は、爪をどうやって切ってたんですか?
>>421 いや。さ。なんで、その部分には3つしか郡が置かれなかったの?
河内国に残った部分が16郡で、和泉監・和泉国に割いた部分は面積の割に扱いが小さいの?
摂津職・摂津国も河内国から分けたが、面積は大きくて、郡は13〜14もあった。
>>429 だから
>>417 が書いてる様に人口が少なかった。というか他の地域が人口が多くて細分されていたと見るべきだろう。
現代だって岩手とか面積の大きい県は山が多くて人口が少ない。
朝廷がアテルイといった蝦夷の過激派を潰せなかったら 東北、北海道はイギリスのIRAみたいになったのでしょうか?
蝦夷の反乱みたいにイメージしてるようだけど、まだ朝廷の支配下に入ってない最前線なので、 朝廷が蝦夷征伐をやめていれば戦争にはならず、岩手以北は別の国だったかもしれない。 アテルイに先立って乱を起こした伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)は国府の有った多賀城の 西、後の栗原郡あたりの人で朝廷に服した後で乱を起こしたのでこれは反乱ですが。 続日本紀によれば呰麻呂の乱は道嶋大盾に見下された恨みに依る突発的な犯行で、蝦夷の 組織的な反乱とは書いていない。 しかし呰麻呂の乱が呼び水となって各地の蝦夷の抵抗が活発になって蝦夷征伐が大事業となる。 征東大使、征夷大将軍が何度も派遣される中で蝦夷の指導者としてアテルイが登場します。 アテルイは強かったが坂上田村麻呂はもっと強かった。最終的には田村麻呂が胆沢に胆沢城を築き 現在の岩手県のあたりまで朝廷の支配下に入りました。
>432 >岩手以北は別の国だったかもしれない 坂上田村麻呂の征伐がなくても、そのうち自主的な開拓団が勝手に東北に進出していったんじゃないかな。 そんで現地のエミシを無理やりしたがえるなり、首長一族と婚姻関係を結ぶなりして勢力を築く。 朝廷の方でも陸奥や出羽の延長上にそういった開拓地ができたことに気づき、特産品目当てに臣従を呼びかけるが 現地勢力は「この土地は俺たちが切り拓いたんだ!遠くの土地の人間にとやかく言われたくない!」ということで拒否。 それに激怒した朝廷は、都でくすぶっている軍事貴族や浪人たちに討伐の大義名分を与えて東北に送り出す…… まあ、こんな感じで史実通りになったのでは?
>>430 岩手県のような超ド田舎ではなくて、畿内だよ。当時の首都圏だよ。
和泉国の北端は、住之江津から歩いて三十分くらいのところだよ。
和泉国一宮の大鳥大社は天児屋根命で藤原氏とも関係の深い社だったり、
藤原不比等やら橘三千代の私領があったり光明皇后やら行基が生まれたり
聖武天皇の勅命で池を掘らせたりというようなところだよ。
>>433 一度は別の国になってもいずれはそうなったでしょうね。
史実でも胆沢城を拠点に一度は朝廷が支配したものの次第に緩んで来た隙に
現地勢力の安倍氏が支配して国司の命令を聞かない様になった。
それで鉄砲玉として送り込まれた源頼義と息子の義家が前九年の役で安倍氏を滅ぼす。
だがしかし、安倍氏の跡目はやはり現地勢力である羽州の清原氏のものとなり、
その清原氏を滅ぼす為に再び源義家が乗り込んで行った。
だがしかし、清原氏が滅んだ後は奥州藤原氏が支配して朝廷の支配は及ばないのだった。
朝廷は藤原氏が送ってよこす貢ぎ物で充分という考えだった。
436 :
日本@名無史さん :2013/04/08(月) 01:36:42.99
寺と神社って、どっちが格上なんですか?
歴史的には、一体化してどっちが上とか下とか言うようなもんではなかった。
438 :
日本@名無史さん :2013/04/08(月) 08:08:44.87
質問です 壇ノ浦の合戦の頃、平家は讃岐も九州も失って もう彦島しか拠点が残っていない状態だったはずですが 源氏としては強攻せずに 兵糧攻めにして降伏を迫るという考えはなかったのですか?
>>427 鎖国、というのはなんというかそんな固い
政策というか施行の仕方も完璧を期するものでもなかった
というところはあるんだよね。
もしかして徳川暗黒史観?の悪影響もあるのかな。
国内統治のためのキリスト教追放というのから
始まった鎖国なんだけど、要は日本侵略防止のためで
外人さん自体を嫌ったり排斥したりするものではない。
このあたりは重要で今のおかしな差別主義にも関係
してくるんだよね。
話戻すと、国策のために罪人扱いしたとはいえ
その人たちにはそんな罪はないし幕府もそのぐらいはわかってる。
海外の情報や物資は貴重なものだから
こっそり入ってくるぐらいはお目こぼしというか
逆に欲しがったぐらいだろうし
個人の楽しみなら今だって、ある程度は融通利かせて
認められてるところがある。
ま、鎖国ってもポルトガルとの国交を断絶しただけで
オランダ、中国、その他の国とはそれなりにつながってた。
というだけの話なんだけどね。
平安時代などは天皇が早く譲位し、まだ小さい子どもが即位するケースがありましたが、 天皇の一番重要な役割である祭祠はどうやっていたんでしょうか?
>>439 長崎奉行の黙認の下に手紙や物資のやり取りをしてたってこと?
キリシタンの秘密文書や蜂起の指令書が暗号化されて荷物の中にあるかもしれない
そんな事例が一つでも露見して、過去の黙認の事実が発覚したら大事件だよ
そんなリスクを負うくらいなら黙認なんてしないだろう
元の質問した人間だけど、未だに納得できないんだよなあ
納得のいく答えは「やり取りしていたというのは全て後世のねつ造」という所かな?
アマテラス、スサノオ、オオクニヌシ、神武天皇等に比較し、ニニギの知名度が極端に低い気がします。 ニニギは天孫降臨の張本人であり、もっと有名でもおかしくないと思うのですが・・・
しょうがないよ。天孫降臨の話自体がアマテラスの孫の何とかいうのが天孫と称して天下った、 程度にしか知られてないんだから。
>>441 そんな大げさに考えられても困るけど
基本的にジャカルタから送った文書や荷物は
全部没収でしょ。
送る方も命がけだしムダなことはわかってるだろうし
もらう方もそのぐらいのリスクはわかってるから
それなりの対応はしてたわけだし。
最初に、文書や物資のやりとりの記録がある、
というのが前提なんだけど、ここから先はその具体的例で
回答していくしかないでしょね。
捏造、創作の可能性も高いのだけど
そうではない、という真実?のやりとりの記録があるかどうか
というところからはじめないといけない。
ジャカルタだけではなくて中国とかのやりとりだと
かなり詳細な記録も残ってるのだけど
その中には本来禁止されてるはずのキリスト教の
書物とか技術書がだんだん緩くなって
いっぱい入ってくるようになった。
そちらの言い方をすると、秘密や蜂起指令書があったらどうするんだ
ということになるけど、実際に入ってきて江戸にも送られてる。
さらに、出島の役人や担当者のやりとりは「接待してあの秘密を聞き出そう」
なんてのもあって、結構融通がきいてるのだよね。
だから、そちらの言うことも正しくてそちらが幕府や出島の要人だったら
「一切許さない」という方針だったかもしれないけど
実際の記録はそうなってはいない、ということを話してる。
納得してもらおう、とか思ってないから後はそのあたりの
本なんか読むと面白いですよん。
ジャカルタ→日本はまだ分かる でも日本→ジャカルタなんて想像がつかない この荷物と手紙を送りたくても、誰に頼むんだ? 在所の村役人に相談したら何とかしてくれるのか?
そうだわな。 秘密文書を向こうが受け取ったかどうかも 確認できないんだからどうしようもないもんな。 運良くジャカルタまで連絡ついても そっからまた何ヶ月もかけてやりとり・・
便乗して質問しますが、イギリス側との交通が断絶したのはイギリス東インド会社の一時撤退のせいで、 その復活ができなかったのはむしろ英蘭二国間の都合があったんでしたっけ?
ちげーよ。 チャールズ二世のお妃がポルトガル王女だからだよ。
ただ、その情報を誑し込みしたのはオランダだけどな
451 :
日本@名無史さん :2013/04/10(水) 05:56:26.39
仏教についてお教えいただけますか。 仏教とろいわけ真言衆等は戒律で殺生の禁止や(精進料理にみられる肉食の禁止等)、女人と交わる事を禁止されてましたが、 現在では、僧侶は肉も喰うし、婚姻もします。 なぜ、何時頃からこのように方向転換したのか、よくわからないのと、仏教の教えが間違っていたのか。 僧侶が勝手に解釈をかえてしまったとか、よくわかりません、 お教えいただければ幸いです。
>>451 大ざっぱに言うと鎌倉仏教くらいから変わってきた。
親鸞は女も抱いたし肉も食った。
453 :
日本@名無史さん :2013/04/10(水) 08:53:40.34
親鸞は「勝手に解釈をかえてしまった」というより、そういう宗派を作っちまったけどな
大衆に身近なものにするため、というよりは 自分の勝手、とかも言われたり。
まあ、批判もあるが朝廷や武家らが占有していた仏教を 爆発的に普及させたのは事実だからな。
仏教の教え自体も解釈の問題なんだよねだから何が正しいとはっきりいえない
浄土真宗はやりすぎたと思う 神も仏もあの世も否定して現世利益のみを追求する思想は 仏教とはかけ離れ過ぎている
仏像を作ったり、苦行をやってみたり、経文を読むことが呪文みたいになったり、 墓を建て位牌を拝んだり、伝わった時点で既に釈迦牟尼の教えからかけ離れてる。
他の宗教、キリスト教やイスラム教も似たようなもの。 宗教で生活する集団(教団)が出てくるとそうなるのは必然。 デブの宗教権威は信用しないことにしている
偶像崇拝の禁止とかモーセの十戒にも書いてあるのに、旧約聖書の時代から守られてないからなぁ。 預言者が「神の怒り」を説いても王と民衆が偶像崇拝をやめなかった。
461 :
日本@名無史さん :2013/04/10(水) 22:06:53.42
親鸞は僧侶じゃなくて、単なる愚かな禿という整理なのでセーフ。 よって、ご同行はいても弟子はいない。
>>461 天皇の祭祀は今ほど多くなく時代によっても違うから、
現代のイメージで受け取るとだいぶ違ってくる。
三種の神器を持ってるだけで皇位継承者として認められたこともあったし、
大嘗祭を行わなかった時期もあった。
すみません。 石器時代の人は、爪をどうやって切ってたんですか? それと、平家はなぜお寺じゃなくて厳島神社に納経したんですか? 孫に聞かれて困ってます。助けてください。
>>464 >石器時代の人は、爪をどうやって切ってたんですか?
切らなかった、切る必要がなかった
素手で土を掘ったり、植物を採取したり、木に登って実を取ったり、
素手で道具を作ったりしているうちにすり減った。
お猿さんが爪を切らなくても大丈夫なのと同じ
>>464 昔は神仏習合と言って仏も神も一緒くたにしていて区別が無かった。
お寺と神社を区別するようになったのは明治の廃仏毀釈令が契機で、それまでは渾然一体になっていた。
だから全然普通の事だったのよ。
>>463 ありがとうございます
しかしながら、いくら祭祀が今ほど多くなかったとは言え、
小さな子供にはほとんど出来ない事ですよね
つまり、祭祀は上皇や他の神官が代理でされていたのでしょうか?
>>464 常識で考えれば噛んでた人もいると思う。
>>464 食糧事情、栄養状態がよくなかったから、いまほど爪が伸びなかったのもあるかと
>>470 マジですか?
摂政(多くは藤原氏)が天皇に代わって祭祀を執り行っていたんですか?
祭祀なんてしょせん長らく廃れてたから 明治以後天皇制の権威が復活しただけ
>>470 俺は天皇幼少の時は祭祀は執り行わないと聞いたが。
反対に古代天皇は祭祀は必須だから、一定の年齢にならないと皇位を継げないとおい暗黙のルールがあったとも。
初歩的な質問ですが、織田信長と豊臣秀吉と徳川家康の3人が ひとつの現場、例えば城や戦等で揃ったことってあるのですか? また、この3人のみでの話し合いをしたことってあるんですか?
>>475 例えば有名な所では金ヶ崎の退き口。朝倉を攻めるつもりが浅井が背後から攻めてくると知って
信長は脱兎のごとく逃げた。配下の秀吉と同盟軍の家康が後に残って朝倉の追撃を防いだという。
パッとは思いつかないけど他にも有るだろう。でも3人だけでってのは多分無い。
477 :
日本@名無史さん :2013/04/14(日) 10:28:16.83
どんな話か判らんけど、いつの間にかじゃなくて最高額紙幣の顔の座を諭吉に取られた時からと はっきり判っている。
479 :
日本@名無史さん :2013/04/14(日) 23:05:43.42
松平家の菩提寺は岡崎の大樹寺ですが、建立は1475年に松平親忠が建立してます。 由緒ある松平家の菩提寺は1475年前どこに有ったの? また、家康は家紋は受け継いだが、何故 松平家康にしなかったの? 家康が天下をとってから自らの出自を知る賀茂神社の関係者を皆殺しにしたといいますが本当?
480 :
日本@名無史さん :2013/04/15(月) 01:12:11.34
幕末の将軍家について3つほど教えてください。 慶喜には実子がいたのに、何故田安家から養子をもらう必要があったのでしょうか?また、何故田安が選ばれたのでしょうか? 慶喜は何故華族になれなかったのでしょうか? お願いします。
慶喜の長男が生まれたのは明治になってから。 徳川宗家を継いだ家達は15代将軍候補だったが幼少を理由に慶喜が将軍になった経緯があり、彼が慶喜の後を継ぐのが順当だったのだろう。 明治35年に公爵に叙されて華族になっている。維新直後に叙爵されなかったのは、そりゃ朝敵だからでしょ (本人は恭順の意志を持っていたようだけど)。
482 :
日本@名無史さん :2013/04/15(月) 19:52:25.79
ほっとけ
484 :
日本@名無史さん :2013/04/15(月) 20:08:49.87
質問です 単刀直入に書きますと軍事貴族(平安以降の)と武士、どっちがどう違うんでしょうか? 調べれば調べるほど違いがあるようなないような感じでわからないです
485 :
日本@名無史さん :2013/04/15(月) 22:05:00.05
>>481 早速ありがとうございます。
じゃぁ慶喜は華族になるまでの35年間どうやって食ってたんですか?
東大のディープな日本史を読んでの疑問です。 ・平安時代、律令制の郡司は、地方豪族が任命されたとの 記述がありましたが、平安時代の郡司と、、 鎌倉時代の惣領に連続性があったのでしょうか? ・平安末期 院政、武士の出現は、実力世界の移行のためとの 記述がありましたが、律令制度の権威的?世界から 実力世界に移行した社会的背景は何なのでしょうか? (墾田が当時の技術では限界に達し、田んぼの取り合いが 生じたからかか?とか、平氏による宋との貿易が盛んに行われた ことから商業がさかんになったからか?想像したのですが) 専門家の方いらっしゃいましたら、教えて頂きたく。
>>485 徳川宗家自体は存続を許されたから、先代当主である慶喜の隠居手当もそこから出ている。旧幕臣との接触を避け、趣味三昧の生活を送っていた。
後に本人が公爵になったのは、宗家とは別の「徳川慶喜家」初代当主として。
488 :
日本@名無史さん :2013/04/16(火) 02:22:10.59
私も興味有るので
教えてください。
>>481 の
松平家の菩提寺は岡崎の大樹寺ですが、建立は1475年に松平親忠が建立してます。
由緒ある松平家の菩提寺は1475年前どこに有ったの?
また、家康は家紋は受け継いだが、何故 松平家康にしなかったの?
家康が天下をとってから自らの出自を知る賀茂神社の関係者を皆殺しにしたといいますが本当?
>>488 >また、家康は家紋は受け継いだが、何故 松平家康にしなかったの?
『この年、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、徳川氏に改姓した。この改姓に伴い、
新田氏支流得川氏系統の清和源氏であることの公認を図る』
徳川を名乗る事で清和源氏の血筋であると主張して、将来の将軍の座を狙っていたというけど、
ホントかなぁ?
>>486 >鎌倉時代の惣領に連続性があったのでしょうか?
惣領は「惣領息子」という風に使って跡継ぎの意味。鎌倉時代の惣領制というのは惣領が親の
遺産の大部分を継承して他の兄弟たちも含めた一族全体を率いるとともに養って行く体制の事。
公的な役職である郡司とは全然違う。郡司に当たるのは地頭とか守護でしょう。
例えば代々、ナントカ荘園の地頭に任じられていて、親が死んで惣領たる息子が地頭職の継承を
認められるという事は有ったでしょう。
>実力世界に移行した社会的背景は何なのでしょうか?
朝廷の威光が通用しないから。実際問題地方では朝廷の威光なんて通用しないから平将門に
代表されるような反乱が繰り返され、それを鎮めるには藤原秀郷のような軍事貴族の武力が必要
だった。平安中期でも既にそんなですよ。
490 :
日本@名無史さん :2013/04/16(火) 08:46:50.27
隠居手当と言うのは財源はどこですか?
隠居手当を出す人の財布
>>472 藤原氏は、鎌足の代に中臣氏から分出した氏族。
中臣氏は神祇官で祭祀を行う氏族で、鎌足・不比等の系譜のみが藤原姓と太政官の就官が許されるとされた。
つまりよ、太政官の官職についていようと、もともと、朝廷の祭祀を補佐する一族なわけよ。
>>484 重なる部分は多い。大名なんてものは軍事貴族だよ。
軍事貴族でない武士は、東百官(官位官職のようなものを勝手に自称)したり、
誰かの使用人で単に武装してるだけだったり、それすら無くて刀を佩いてる夜盗だったり。
>>489 回答ありがとうございます。
>>実力世界に移行した社会的背景は何なのでしょうか?
>朝廷の威光が通用しないから。実際問題地方では朝廷の威光なんて通用しないから平将門に
>代表されるような反乱が繰り返され、それを鎮めるには藤原秀郷のような軍事貴族の武力が必要
>だった。平安中期でも既にそんなですよ。
でしたら、なぜ最初から軍事政権が日本を司らなかったのでしょうか?
平安貴族も最初は武力集団だったのが平和ぼけして、
次の軍事集団に主導権をにぎられただけなのかな?
>>494 朝廷が蝦夷征伐をしていた平安初期は桓武天皇が坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して、
朝廷の命令で兵を集めていた。この時代はまだ朝廷が軍事力を持っていた。
でも各地にある軍団を維持するのはお金も掛かるしだんだんやらなくなって、その一方で平氏や
源氏に代表されるような、地方に新天地を求めるような連中が独自の軍事力を伸長させて行っ
たんでしょう。平和ぼけと言えば平和ぼけだな。
軍事力で覇権を握った平家が貴族化して源氏に取って代わられるのも同じようなもんでしょ。
>>495 回答ありがとうございます
>平氏や源氏に代表されるような、地方に新天地を求めるような
新天地を求められるようになった技術的発展があるようにおもうのですが、
ご存知ないですか?
497 :
484 :2013/04/16(火) 21:38:12.01
>>493 回答ありがとナス!
でも重なる部分は多いけど違うから呼び方が分かれてるんですよね?
>>496 別に技術的ってことじゃないよ。例えば桓武天皇の孫の高望王は平姓を与えられて臣籍降下して平高望になった。
臣下になったから朝廷は養ってくれないので自分の食い扶持は自分で何とかしないといけない。
上総介に任官した際に息子たちを一緒に連れて関東に下った。そして任期が終わっても帰京しないで、婚姻などの
手段で在地勢力との繋がりを強め上総、下総、常陸辺りに勢力を拡大していった。在地勢力にとっても都に縁のある
貴族と繋がりを持つのは何かの役に立つし。
平高望の三男、良将が死ぬと兄の国香らが所領を奪ってしまった。良将の子の将門が京に上って不在の隙を
ついての事だ。それが将門の乱のそもそもの始まり。兄弟の間でもそんな生き馬の目を抜く厳しさだ。
ちなみにライバルの清和源氏の初代、源経基も高望王と同様に武蔵介として関東に下り、いろいろ有った末に
将門の謀反を朝廷に報告した功績で出世の糸口をつかんだ。
>>497 上に書いた平氏や源氏のように都から下って来た貴族と、在地勢力の武力が結びついたものが軍事貴族って感じかな。
貴族と言っても身分が低いので公家からは見下される。そして貴族もそうで無い者もひっくるめて武士と、後に呼ばれる
ようになる。
499 :
日本@名無史さん :2013/04/17(水) 15:21:42.63
すると、大和朝廷関係者以外は賎民?
>>498 全員やしなえなくほど皇族、貴族の数が増えた。
死亡率が急減した何かがあったのでは?と
死亡率が急減したんじゃなくて好き放題に子供を作ったんだろ。
>>501 では好き勝手に子供を作れるようになった風習の変化は何か?
>>500 平安時代、子供は母方で育つが子供の出世はすべて父親の官位次第
当然、日本で一番身分が高い天皇は大勢の貴族たちが娘の婿にしたがった
天皇は自分が大勢の妻や子や孫を養えるかどうかに拘わらず
生活費全部実家持ちで入内してくる娘がいればすべて受け入れる
結果大勢の子ができるが天皇になれるのはせいぜい1人か2人
残りは1代目2代目はキで官僚やってたりするがそれ以降は没落
そんな没落貴族も地方へ行けばまだまだ貴種で
ぜひ娘婿と願う地方豪族がたくさんいるわけさ
天下人となった後の秀吉の本拠地として、大阪城、ジュラク第、伏見城が挙げられますが、 時代名として何故伏見桃山が選ばれたのでしょうか? イメージ的にはやはり秀吉=大阪が強いです 安土大阪時代にならなかったのは何故でしょう?
むしろ、近年の研究では秀吉が大坂城を拠点にしていたのは3年位で、 1587年に関白政庁として聚楽第を、1593年に隠居城として伏見城を築いてからは、秀吉の生活上の根拠はそっちになって必要な時だけ大坂に出ていた。
>>503 鼠算的に子孫が増えて、どこかで相転換がおこったってことかなぁ。
過去の中世〜の戦などで死亡する武士(兵隊)の数 中世では国内、世界中で常に戦が繰り返されてましたけど、ひとたび戦が始まると、どのぐらいの武士(兵隊)が死んでしまったのですか? 僕は歴史に全然詳しくないので素朴な疑問を感じてたんですけど、戦のたびごとに殺しあいをして兵隊が次々に死んでいったら、どんどん男子が減っていってしまいませんか? 今の少子高齢化なんかまるで比較にならないくらいのペースで人口が減っていって、国が成り立たなくなってしまわないのですか?
戦闘の規模も総人口に対する戦闘員の総数も時代や場所によってまちまちだけど、1回の戦闘での死傷率は通常1割から2割。 昔は子供が沢山生まれて沢山死ぬ (病気や飢餓などで) のが当たり前だったから、戦死が死因のトップになるような事態はほとんど起こらない。
天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の合戦が両軍合わせて15万から20万人、戦死者は約8千人(もっと多いという説もある) 当時の日本の総人口は推定1000万から2000万人
死因で少し思うのだけど 飢饉とかの話題で死亡者が多かったようには 言われるけど、自然死とかの区別はどうつけるのだろう。 江戸期になると各藩で申告してる実数があるようだけど これは多めにとか少なめにとか諸説はあるが やはり自然死との区別をどうしてるのか。 それ以前だと死者多数みたいな感じで 実数がほとんどないようだけどそれだと さらに区別がつきにくいようには思う。 要は飢饉とかの死者増で日本は悲惨な国? みたいな論が出るたびに疑問には思ってたのだけど。 江戸時代に死者数ー想定自然死数が飢饉による 直接死、みたいな話題があればいいけど 藤木ですらそういうのには言及してないようだし 飢饉で死者多数ーという言い方は少し 誤解を招くというか正確さを欠くようには思うのだよね。
>>496 ずっと遡って、記紀の日本武尊の話。九州へ行って熊襲をシメてこい、東国の蝦夷を平らげて来い、と言われて、
大王は息子の私に死にに行けと言ってるのか、と嘆いて叔母に泣き付く場面がある。
実際にそういうふうに、皇子の口減らしに、未開地の統治に当たらせるような発想があったわけよ。建前上は、上級の
皇族だからむげにはできず領地を与えて統治をさせる、実際には、失敗して帰ってこないことを期待している。
結構遅い時代まで関東地方なんて中央からは事情のよく解らない辺境で、上総国常陸国上野国みたいに親王任国を
置いて、そういう口減らしをしていた。
でも親王任国の場合は遥任で現地には行かないでしょ。
>>510 飢饉と言うのは、食糧不足によって死亡率が急激に上昇した状態を指す。
飢饉が無くても自然死は普通にあるし、貧困その他で食料が得られなくて餓死する人も現代先進国を例外とすれば人類史上よくある事態で自然死に含めて差し支えない。
514 :
日本@名無史さん :2013/04/22(月) 05:18:27.58
第二次世界大戦で韓国は戦勝国ですか? お教えください。
516 :
日本@名無史さん :2013/04/22(月) 16:39:23.21
では、朝鮮民族は解放されたと、言う理解でいいでしょうか?
武士が例えば100石取りの身分なら 米を100石支給されるのか、知行が100石なのかどちらですか? 後者なら年貢が五公五民の場合、懐に入るのは50石ですよね
知行100石の場合と扶持米100石の場合と両方有るので、それだけでは判断出来ない。
地方知行制と俸禄制の違いって事?
蔵米取りか知行取りかで違ってくるから一概に「100石取り」というだけでは何とも言えんと言ってるのだろ518は。
そういう事だ。支給方法は「知行取り」と「蔵米取り」と両方有るから100石取りだけでは どっちか判断出来ないのだ。
知行取りって、お前にどこそこの土地を与えてやろう(安堵してやろう) 税はお前自身が百姓から取り立てろって解釈でおk?
523 :
日本@名無史さん :2013/04/23(火) 01:31:33.14
切米は褒美と理解していいですか?
524 :
日本@名無史さん :2013/04/23(火) 01:41:57.20
>>522 名目はそうだけど、実際にはいろいろ規制がかかっていた。
恣意的にやられて一揆の種を捲かれたらたまったもんじゃない。
>>523 給与
>>522 知行が小さい場合は代官が一括管理して、上がりだけ貰ってたりするらしい。
越前守のような官職(官名?)って同時に二人以上存在するんですか? 時代小説読んでいて武士はたくさんいるのに ○○守は国の数しか無いはずなのに、なにかの役についた武士に与えていたら 足りなくなるんじゃないのかなと思うんですが
529 :
日本@名無史さん :2013/04/23(火) 18:37:03.61
>>534 家康賎民説は、スルーします。
同和問題は歴史学博士にとってタブーかも・・・・・
研究しても世に名をなせない?
自分の生活に寄与しない?
しかし、信用度は高いと個人的には思います。
530 :
日本@名無史さん :2013/04/23(火) 18:37:44.03
失礼
>>524 家康賎民説は、スルーします。
同和問題は歴史学博士にとってタブーかも・・・・・
研究しても世に名をなせない?
自分の生活に寄与しない?
しかし、信用度は高いと個人的には思います。
531 :
日本@名無史さん :2013/04/23(火) 18:53:53.74
>>530 よくわかります。神話の世界や、古代天皇の出自もタブーです。
ご質問されてる方へ
大和朝廷以降や、その仕組みにはお答えできますが・・・・・
それ以前は、よくわからないと言う事で・・・・・
家康しかり、勝てば官軍と言う事でお許しください。
時の権力者により、抹殺された歴史や、燃やされた古文書等も多いと思いますが、
ないので?????
自演乙
533 :
日本@名無史さん :2013/04/23(火) 20:20:43.56
>>532 勉強してください。
君はここに来る資格なし。歴史板です。
このスレのレベルが下がります。
愚問かも知れませんが、十訓集と古今聞集とは2年ほど創作年が違いますが、
内容は殆ど十訓抄に似ています、少し差異と付けたしが見られますが、何故ですか?
古今文集は十訓集のベース(疑似?)とした書物と理解していいですか?
同意 せっかくまともに機能してるところにまで来るな
またおかしなのが湧いてきたなぁ
>>527 古代はともかく、平たく言えば複数可
いわゆる戦国時代なんか濫発乱立だし
江戸時代にはルールさえ守れば複数可って感じ
むーん
ルールってなに
>>536 何、言ってるの!国名の官称が複数あるわけ無い。
与えられゝば尊称ともなり、その大名を官称で呼ぶ慣わしなのに。
五万五千石以下の外様大名には、国名官称は与えられない。
赤穂藩の浅野長矩は、外様で五万三千五百石だから、「内匠頭」でしかなかった。
実際には、六万五千石とか七万五千石辺り以上じゃなかったか。
そうすると、充分、国の数は足りるよ。
戦国時代の国名は、あれは私称だ! 正式のは、常に一人だけ。
それ質問した人間だけど 藩士で○○越前とか名乗ってる奴いるじゃん あれは勝手に名乗ってるわけですよね でも私称の自覚があるから、守をつけずに越前と名乗ってるんだよね
それは違うぞ。大岡越前とかの事だろうが、あれは正式には大岡越前守忠相だ。省略してるだけ。
>>542 江戸時代の越前守などは、幕府で一括して受取ってから役職持ちに配給されるの?
それとも各人が、京都まで行って、越前ならいくらと決まったお金を払って
使用料を得るものなの?
京都朝廷の出張所みたいなものが江戸にあってそこでも手続きできたのでしょうか。
544 :
日本@名無史さん :2013/04/25(木) 16:12:28.55
人情奉行の小田切様って土佐守だったと思うんだけど、 同時期の加賀騒動で、敵の親分だったか、親分の息子だったかが土佐殿だったよね 期間的にかぶらないように叙任されてたんだろうか?
こいつらイライラしてくる んあこと分かってんだよ あえてアンカーはつけない
546 :
日本@名無史さん :2013/04/25(木) 18:46:07.07
失礼します。 日本の戦前の教育を教育学的に分析した著作を何かご存知でしょうか(特に修身)。 卒業研究の参考文献として使いたいのですが、如何せんイデオロギーの強い著作 が多いので(左右問わず)、中立の立場から分析しているものを探しています。
547 :
日本@名無史さん :2013/04/25(木) 19:47:37.68
家康を調べれば調べるほど、出自は賎民なのですが・・・・ おかしいでしょうか?
武士の官途名についてはややこしくて書ききれないので武家官位でググれ。
>>539 松の廊下で斬りかかられた吉良義央は、上野介だよ。
上野国は親王任国だから、伝統的に「守」はなくて、「介」。
で、吉良義央は、大名ですらない、4500石の旗本。
大岡越前も旗本だな。最後には大名になるけど。
551 :
日本@名無史さん :2013/04/25(木) 21:41:19.94
それは当然。 国名の官名は、外様大名用以外の大部分を幕府役職者のために奏請する。 親藩の藩主に、国名官職は無い。 親藩の大名は、もっと高位の官職。
同じ位階の中でかぶらなければいいんじゃなかったっけ? 大藩が占有してる国の守は遠慮しろとか、 江戸幕府の拠点である武蔵の守なんかはダメみたいな例外はあるだろうけど
553 :
日本@名無史さん :2013/04/25(木) 21:51:46.23
京都の朝廷からの任命(幕府の奏請に基づく)は、 あくまで同時期一人だけ。そうでないと国名官職の意味がない。
国名の官名が朝廷任命だったのは鎌倉幕府終了まで。 以後は全部私称です。 室町幕府盛んなりし折は、室町将軍が命じて私称を許した。 信長の時代は信長が、豊臣の時代は豊家が私称を命じた。 江戸幕府においても同じ。もはや、「官名」ではありません。 私称と言っても、個人が勝手に名乗るのでなく、時の権威が私称を許したんです。
>>551 会津の松平肥後守は親藩より格下ですか。
556 :
527 :2013/04/26(金) 07:49:12.10
やっぱりお前ら使えない
>>554 みたいな極端なことを言い出す奴も出てきたし
もう来ないよ
礼は言っておきますね
ありがとう
>>554 家康なんかの三河守は朝廷にもらってるよね。
558 :
あ :2013/04/26(金) 12:22:05.56
質問があります。武陽隠士は元気でしょうか?
割腹しました
武陽は派遣先に切られて、なけなしの貯金を崩して去年まで食いつないでいた。 今年になって、実家に戻ってヘルパーの資格を取って、養護施設でアルバイトしている。 年寄りの排泄物を処理するのがつらいって言っていたな。
戦前の数年間の天皇神格化教育は極端だったらしいので、当時の子供がそれを信じることは容易に察しが付きますが、大人たちはどうだったのでしょうか? もちろん明治の頃から天皇の権威は相当に高まっていましたが、それでも戦前の数年間はかなり極端だったようなので、 大人たちは温度差を感じたり、「俺の子供の頃と大分変わったな」とか 感じていたのでしょうか?
そらそうだろ うちのじじばばも「朕、思わず屁を垂れて、汝、臣民、臭かろう」とか 教育勅語のパロディとかやってたがな
延長線上にあるからそんなに温度差は 感じなかったかもね。 情報量も少なくてそこにあるものだけで ずっと生活してたわけだから。
>>562 そのパロディーは戦後にやってたのかな?
戦前や戦中にやってたのと、戦後にやってたのではまた解釈が違ってくるように思う
>>563 そんなに温度差はなかったのですかね
子供は学校で教えられることを信じやすいと思うけど、大人はどうだったんだろうね
どちらにしろ、お2人ともありがとうございました
>>564 明治から戦後までずっとあるんだよ
おおっぴらに言えない時期はあったが
天皇だけじゃなくて キリスト教圏でも神とか信じてないインテリとか多いが 社会的な不利益があるからはっきりそう口にしないだけで
567 :
日本@名無史さん :2013/04/28(日) 23:37:42.11
>>527 名字が異なればいい
大岡越前守と松平越前守は同時にいてもかまわない
松平氏は大名にも旗本にもたくさんいたから、人気の国守を名乗るのは難しかった
568 :
日本@名無史さん :2013/04/29(月) 03:39:07.47
守護地頭と豪族の違いを教えてください。
569 :
日本@名無史さん :2013/04/29(月) 03:40:27.23
これホント? 後世の徳川氏・松平氏の系譜によると、徳川氏の祖となる松平親氏は清和源氏の新田氏の支流である得川義季(世良田義季、得河三郎義秀とも) {上野国新田郡得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)が本拠地}の後裔と称する時宗の僧で、松平郷の領主松平太郎左衛門少尉信重の娘婿となって その名跡を継ぎ松平親氏を名乗ったという。親氏とその弟(叔父とも)あるいはその嫡子とする泰親の代には松平郷近隣に勢力を拡大したらしいが、 同時代の史料にその名は見えない。おそらく親氏以前の記録は、家康が系図を整える頃にはすでに失われていたものと見られる。 つまり家康は親氏以前を抹殺し、自ら家系図を捏造した。
すでに失われていた物を、どうやって抹殺するんだ?
>>568 守護とか地頭は鎌倉幕府の公的な役職だから幕府から任命される必要が有る。
572 :
日本@名無史さん :2013/04/29(月) 19:20:55.27
豪族とは、わかり易く言うと、地域と融和したヤクザ(暴力団では無い)。 一定の地域で縄張りを持ち、武力をもち、地域の秩序を守ったり、外敵から地域を守った一族。 幕府には、逆らえないし、幕府と利害は一致していた。 幕府が山口組とすれば、その傘下の地方の○×組のようなもの・・・少し飛躍しすぎですが、わかりやすいので、
573 :
日本@名無史さん :2013/04/29(月) 19:22:16.36
家康は群馬県のヤクザの家系です。 江戸とのかかわりも深いのです。
歴史については、ド素人ですが質問させてください。 3年前に、纏向遺跡から桃の種が2000個見つかったそうですが、 モモソ姫との関連は無いのでしょうか?
>>574 モモソ姫という名は纏向遺跡で祭祀に使われたとみられる
桃から来ているということでしょうか?
はっきりしたことは何もわかりません。
ただ、一つの説として「倭迹迹日百襲姫命」という名は
倭(やまと)=大和
迹迹(とと)=父
日(ひ)=と
百(もも)=母
襲(そ)=祖
姫(ひめ)=日女
命(みこと)=(尊称)
大和に住み、父母や祖先の霊に仕え、太陽を崇める巫女、と言った意味があるという説があります。
確定しているわけではないので参考までに。
577 :
日本@名無史さん :2013/04/30(火) 18:51:40.76
桃は中国が原産地で、ヨーロッパや日本に広められました。
神話の世界は捏造?創作?であり、物語として解釈すべきでしょう。
学者は無理やり解説しようとします。
>>575 の言う、はっきりした事はわかりませんが正解でしょう。
578 :
日本@名無史さん :2013/04/30(火) 18:57:11.93
日本神話は渡来人である朝廷が、日本を治める為に創作したと言う学者もいます。 モモソヒメも渡来人かも????? 失礼、文献が朝廷主導の古事記、日本書紀しか無いのが残念です。
579 :
日本@名無史さん :2013/04/30(火) 19:08:39.20
>>578 さん
無いものは無いの理解でしょうか。推論で理解するしか・・・・・・・
むつかしいでしょうが、天皇陵は発掘できないですよね。
580 :
日本@名無史さん :2013/04/30(火) 19:15:29.42
>>577 高松塚古墳壁画を世に出したのは学者が勝ち取ったものです。
古代はタブーとの戦いでもあります。
581 :
日本@名無史さん :2013/04/30(火) 20:46:33.86
考古学はロマンです。 しかし、発表にロマンを入れてはいけません。 似非学者はロマンを史実と置き換えます、
なにこの自演連投
583 :
日本@名無史さん :2013/05/01(水) 02:04:30.32
藤原氏の本姓は中臣ですか?
藤原は氏じゃなくて姓ですから本姓は藤原です。
585 :
日本@名無史さん :2013/05/01(水) 04:31:36.88
>>582 ????
私も自演のようなきもするが、そんなの問題じゃない中身が大事だと思う。
また、自分の意見を述べたり、質問をカキコムのがこのスレです。
>>581 青森の古墳の捏造事件もバレなければ史実となったと思います。
くだらない質問と思われるかもしれませんがこれからの研究の指標にしたいのでさせてください 歴史学者でもなんでもない「西尾幹二」などの人物がよく日本は中国から影響を受けていないし日本は独自の文明圏であるとおっしゃいます それを西尾幹二のような人だけが言っているのなら無視すればいいだけですが、「津田左右吉」や「白鳥庫吉」や「本居宣長」のような偉大な学者も同様のことを言っています 西尾氏は中国は漢以降は何の変化も成長もない劣った国だと言いたいようです、上古にはあるいは皮相的な影響を受けたかもしれないがそれはいずれ消えたといいます 日本は「日本だけ」で完結した文明圏だといいたいそうですが、近隣国との影響を無視してそのような史観は成立するのでしょうか? 私にはむしろ中国の影響は宋代明代清代と無視できないものがあると思います 西尾氏は他にも日本語が系統不明言語らしいことを根拠にしているようですが、そもそも系統が同じであれば同じ文化圏、違えば違う文化圏とはいえないように思います インド人とイラン人とフランス人は共通の系統の言語を持ちますね、しかしキリスト教とイスラム教とヒンドゥー教を信じるこれらの国が系統が同じであるから文化も同じとはとても言えません 西尾幹二という人は、歴史学者の努力を侮辱しているんでしょうか?
587 :
a :2013/05/01(水) 18:32:10.57
質問があります。人間の恥部の呼び名を固定し定めたたのは日本史上いつからでしょうか? タラチネの母とあるようにそっちは解ります。つまり、ここでの質問は男性器、女性器であります。流石に和歌や俳句にも無いでしょうか?
588 :
日本@名無史さん :2013/05/01(水) 20:32:12.96
英語では 恥部はthe genitalsであり性器等を指すのですが、 恥部は、ひらがなでも書かないし、日本が生んだ言葉で大陸から来た言葉でしょう。 朝鮮はハングル文字と言いますが、本来は漢字文化であったが、漢字は上流階級しか使用を許されてなく、 庶民がハングル文字を生みだし、多数を占めるハングルが今の朝鮮の公用文字になったのはわかりますが いつ頃、恥部が日本に入ってきたかは、わかりませんが漢字が伝来した時とおなじではと思います。 今では、日本では性器のみならず、恥ずべき部分という解釈みたいです。「中国の恥部」とか「○×企業の恥部」とか 意味不明のカキコミお許しください。
589 :
日本@名無史さん :2013/05/01(水) 20:33:01.31
訂正 日本が生んだ言葉で(無く)大陸から来た言葉でしょう。
590 :
日本@名無史さん :2013/05/01(水) 20:40:30.86
では、具体的に男性器を何と言っていたのですか?一物で通じたのでしょうか? 古事記や日本書記から、我輩は猫であるの時代まで「いちもつ」でしょうか?
591 :
日本@名無史さん :2013/05/01(水) 20:41:39.02
続けます。 詳しい方がお答えいただければと思いますが、憶測ですが 恥部の文字が伝来した時、日本人は誰もわからなかったのでは?恥ずかしい部分ていど理解???
592 :
日本@名無史さん :2013/05/01(水) 21:14:57.48
もう、辞めましょう一物の戯れは、 私はお手上げです。
>>587-
>>591 なんというか…本当に初心者なんだね。
「古事記」に女性器を指して「ほと」と言っている箇所がある。
この時代には男性器も「ほと」と言っていた。
平安時代、10世紀に編纂された「和名類聚抄」に女性器は「つび」
12世紀頃編纂された「類聚名義抄」に「くぼ」とあるようです。
平安時代の男性器の呼び名は「日本霊異記」「類聚名義抄」「本朝文粋」などに「まら」とあります。
「和名抄」などでは「はせ」と呼んでいます。
いずれにしても、
>>587 「人間の恥部の呼び名を固定し定めたのは」
人間の恥部の呼び名は、固定化し定まってはいない、ということですね。
現在の学術用語だと陰茎(ペニス)、膣(ワギナ)というのが「定まった」言い方かも
しれませんが、、、
「恥部」という名詞の起源(伝来)を探るなら、言語学とか性を真面目に研究してる
板で聞いたほうがいいかも
ネタで言っててもつまんないから一応突っ込んどくけど 「恥部」という単語の起源を聞いてるんじゃなくて「恥部」を称する言葉の起源を聞いてるんだろ こんなこと書いてるのも馬鹿らしいわ
596 :
日本@名無史さん :2013/05/01(水) 23:46:18.47
>>593 勉強してください。私もですけど
597 :
日本@名無史さん :2013/05/01(水) 23:47:39.80
598 :
日本@名無史さん :2013/05/02(木) 01:21:13.12
奈良時代にも天皇の住居が何度も替わっいますが、前の住居は別荘か何かにしたんですか?さら地にして放ってたんですか?
>>586 内藤湖南は日本文化ということを考えると頼りない気がすると言ってたな
文明は伝播するに決まってる
600 :
日本@名無史さん :2013/05/02(木) 09:14:24.16
>>598 奈良時代の平城京は恒久的なキです
一代ごとに宮を変えていたのは藤原京以前ですね
当時は邸の耐久年数が低かったので前の住居は放置して
新しい天皇が即位すると宮殿を新築していました
現在も一般家庭の家の耐久年数は50年と言われていますよね?
同じ場所に新築するとか建て直すとかいうことをしなかったんです
>>598 昔は木材も使い回し。必要なところに建てるためにバラして運ぶ。
宮が転々としているけれど、その場所は、どういうところかというと、生母の氏族の所領だったり、
お気に入りの臣下の邸宅だったり、太子時代の所領の屋敷だったり。
宮が遷るときには、外戚が変わるわけで、もともと生母の氏族のものだからそこらの氏族の者で
再配分。
>>600 平城京は藤原不比等が自分の所領に京(恒久的な首都都市)を置く目的で作ったけれども、結局は
宮(平時の在所、別荘)としての機能しか持てなかった。
農業生産性が高く貴族の所領としては申し分ない土地だが、奈良盆地の北東端で如何せん
交通の便が悪い。陪都の名目で難波京を存続させ、実質的な首都都市は交通の便の良い難波に
置かれていた。
京と宮とが一致するは平安京から。こっちは、淀川を介して瀬戸内海方面、交通至便で、東日本・
北陸の開発進んだ時期なので琵琶湖を介して北陸や濃尾平野〜東海道への連絡の良い立地により、
難波の京としての機能を廃止することができた
602 :
日本@名無史さん :2013/05/02(木) 14:46:31.20
>>601 (*_*)
奈良時代には天皇が住んだのも平城京、政治機能が置かれていたのも平城京ですよ
首都機能も平城京です
難波京は飛鳥時代の孝徳朝に宮が置かれたのを最後に放置されて荒れ果て
奈良時代には何も置かれていませんよ(難波津で船を降りた外国使節を
都へ向かう前着陸地点でもてなすための迎賓館がぽつんとあった程度)
聖武天皇が一時期難波京に住んだときには住むところがないもんで
昔孝徳天皇の宮があったらしい場所に難波京を一から新築しています。
第一次難波宮跡(孝徳朝)、第二次難波京跡(聖武朝)って、隔絶しています。
最近、自演しったかがひどいな
604 :
598 :2013/05/02(木) 16:09:06.47
>>600 さん、
>>601 さん詳しいご説明ありがとうございます。
今でいうと、自分の土地の畑を宅地にしたり、その逆であったりした訳ですね
606 :
日本@名無史さん :2013/05/02(木) 19:09:45.24
以前のやり取りで転封の時は全部の侍が移動とありましたが、足軽はどうだったんでしょう?
607 :
あ :2013/05/02(木) 19:41:26.04
>>593 ありがとうございました。現代での通称である〜コにも程遠い言葉だったんですね。「マラ」ぐらいしか現代では通用しませんね。
ありがとうございました。
608 :
日本@名無史さん :2013/05/02(木) 20:54:08.79
おひさしぶり・・・・・ 酔狂。酔狂・・・ 飲みすぎで吐きそう。 大分県の有名な温泉・・・飲み過ぎでは掃くきそう。限界かも・・・・ 大分県の有名な温泉=ゲップ温泉かな? もう一軒行きま〜す・・・・ 酔狂、酔狂・・・・ 質問です。別府温泉の由来を教えてください。 歴史で無くすいません。
609 :
日本@名無史さん :2013/05/02(木) 21:01:50.55
天皇陛下 ばんざい!万歳!!!!! 万歳。。。万歳。。。。 天皇陛下、漫才、漫才! 漫才、漫才!
610 :
日本@名無史さん :2013/05/03(金) 06:50:36.25
ウチの先祖は源平の戦いの頃、戦から逃げて農村に逃げ込み帰農しました。 友人にその話をしたら、証拠を見せろと言うので困りました。 何分、昔の話なので証拠なんかあるわけありませんよね。 爺さんのウチが、小さいけど山を一つ所有しているので 単なる庶民ではなかったはずだと思います。 山林を所有してるのは、やっぱり地域の有力者に違いないですよね?
山持ちのどん百姓なんていっぱいいるわな。 普通に薪炭林くらい持ってたよ。
612 :
日本@名無史さん :2013/05/03(金) 14:00:50.30
でも持ってない人達よりは資産家なんだから、地主階級以上ではないかな?
つまり
>>610 が言いたいのは、
「俺の家系は直近じゃ農家だけれども大昔は武士だったんだど!偉いんだど!」
>大昔の武士の家来なんて農家と区別できんわな
「でも土地持ってたんだから小作農より偉いんだど!」
あっそう、、、、、てな感じ?
田んぼ持ってる百姓あたりまえ。田んぼよりも価値の低い山林を持っていたからって地主階層ではないわな。
そもそも、戦から逃げて農村へ向かうのは、農繁期の農民兵だというのが歴史の常。
616 :
日本@名無史さん :2013/05/04(土) 17:09:53.59
この日本において、いわゆる「朝廷」がなくなったのはいつになるのですか? 明治時代の内閣制度導入時?それとも終戦時?
政体書の発布だな
>>615 ポエニ戦争が秋になると自然休戦になってたとかいう、あれか。
東大のディープな日本史をよむと 古代の租庸調のうち実質的に意味があったのは庸(労務の提供) だけだとありました。 中世〜近世は、年貢にみられるように、農作物が税金として 納められました。 税金が労務の提供から農作物へと変わっていったのは何故でしょうか?
古代は運搬そのものが困難だし、 人に対して資源が余ってる状態だから。 中世以降は、人に対して資源が不足している状態。 人の価値が相対的に低い。
621 :
日本@名無史さん :2013/05/05(日) 05:49:31.92
質問があります。 仏教では僧侶の男女の交わいを禁じられてましたが、僧侶が一代限りはいつ頃まででしたか?
>>620 ご回答ありがとうございます。
人に対して資源があまっているのなら、なおさら資源を人が使って、
現地で仕事をするのでしょうか?(墾田とかにいそしむといった)
逆に資源に対して人があまっているから、人の労務を税金として
徴収するのではないでしょうか?
>>621 すくなくても日本の坊主は妾は古くからもっていたようです。
正式な伴侶を持つようになったのは鎌倉新仏教の坊主のころからかと。
624 :
日本@名無史さん :2013/05/05(日) 12:10:50.45
>>617 ありがとうございます
その政体書発布はいつなのでしょうか?
明治時代の前半は朝廷と明治新政府の二元統治?それとも朝廷=明治新政府なのでしょうか?
いやいや小御所会議で摂関停止が決まって既に「旧来の」朝廷の組織はほぼ無くなってるわけよ。 とは言えその決定の主催が朝廷なものだから小御所会議の段階では朝廷の改編と言える。 政体書発布は明治元年閏四月だけど、この発布は「太政官」名目で出されていて 小御所会議における三職体制はほぼ解体されて、司法権の独立など新しい政治体制になったわけだ。 すなわちその段階を以って朝廷の消滅と見たわけだけど、小御所会議から太政官制に ある種の連続性を見てとることができるなら、その太政官制すら解体された内閣制度の発足が 完全に朝廷の消滅とすることができるだろう。 これはあくまで個人的な考えで間違っていたら申し訳ないが、朝廷がこの時点を以って解散しました、 という瞬間がないので朝廷という組織が自ら改編をしていく仮定で自然消滅をしたという見方でいいんじゃないかな。 明治新政府というのは従来は便宜上の呼称であるわけで、その新政府なる新体制は朝廷を基盤にしているわけよ。 だから二元統治ということには当たらないのでは。(朝廷内に不満分子がいたというのはこの際無視して)
626 :
日本@名無史さん :2013/05/05(日) 14:39:42.58
詳しい解説ありがとうございます ちなみに内閣制度と太政官制度の決定的な違いとはなんでしょう? イメージ的には太政官制度は世襲制、内閣制度は選挙で選ばれたり、 能力をかわれて登用される感じですが? 質問ばかりですいません
いやいやさすがにそれくらいは調べようよ そこまで聞いてたらもはや何を知りたいのかという根源的な部分に疑問が生じる
政体書の発布がいつか? のような調べりゃ1秒で分かるようなことすら聞いてるということはGWの宿題かなんかか?
それともう一つ、
>>626 の質問自体は悪くないがイメージがあまりにもひどい。
内閣制度が選挙で選ばれるって何言ってんだよ。
もうちょっと基礎的な事項を勉強してから大局的な質問をしてくれ。
630 :
日本@名無史さん :2013/05/05(日) 16:01:43.52
>>606 です
まだ答えていただけないのですが…
私は足軽というのは今で言うところの非正規なので転封の際連れていかなかったんじゃないかと勝手に考えていたのですが。
631 :
日本@名無史さん :2013/05/05(日) 17:26:22.51
藤田達夫の研究によると、 秀吉の出自をセンミン的非農業民だとしている
632 :
日本@名無史さん :2013/05/05(日) 17:46:44.73
>>630 戦国期
足軽はチンピラ
天皇が代紋頼りの世襲制の山口組 組長
足利は落ちぶれたと言え、若頭
豪族は、傘下の組長
例えもあれだし、回答にすらなってない
>>630 連れては行くけど、根こそぎ全員かどうかまでは不勉強でわからん
地元の人間を新規採用するメリットと、気心(家風?藩の制度?)に乗っかってる人間を継続採用するメリットの天秤で、
折衷してそうだけれど、調べてみないとわからん
…回答じゃなくてゴメンな
635 :
日本@名無史さん :2013/05/05(日) 23:01:01.33
>>634 様
ご回答ありがとうございました。なるほどと思いました。主と足軽といってもその人間関係や経済的事情はさまざまでしょうから連れて行った家もあれば連れて行かなかった家もあると理解しました。ありがとうございます。
636 :
あ :2013/05/05(日) 23:35:11.24
土着の半農半侍みたいな奴は行かなかったろうな。 ましては足軽なんてほぼ農民だろう。兵農分離してたらば違うだろうが。 しかし上杉家みたいな例もある。
637 :
日本@名無史さん :2013/05/06(月) 00:26:34.66
>>630 です
徳川は関八州へ転封の時どうしたんだろう山内一豊は掛川から土佐へ転封の時どうしたんだろうと色々興味があったんです。井伊直政の彦根への転封も石田三成の後に入った訳で興味があります。
638 :
日本@名無史さん :2013/05/06(月) 02:24:26.40
>>632 わかり易い解説有難うござます。
勝てば官軍ですよネ!
>>637 山内一豊は大増封だったのに現地の旧長宗我部家臣だった連中を採用しなかった。
増やす分は牢人を新規採用している。足軽でも希望者は連れて行ったんじゃね。
三条サネトミは本当に気が弱く、政府高官の板挟みにあって失神してしまったのですか?漫画日本の歴史に そういう描写がありました
征韓論の時に西郷らと岩倉らの板挟みになって心労のあまり倒れて、岩倉が太政大臣代理になった。
642 :
日本@名無史さん :2013/05/06(月) 22:07:40.35
西南戦争は、大義名分だけが欲しかっただけで、 権力争いの内乱と言う見方が正しいと思う。
643 :
日本@名無史さん :2013/05/06(月) 22:51:09.27
征韓論の西郷隆盛が明治政府の主流となるか、 反征韓論の伊藤博文や大久保利通が明治政府の主流となるかの争い。 穏健派の三条実美は当初西郷のほうに肩入れし両者が分裂しないように仲を取り持っていたのだが 西郷の強硬論にとうとう匙を投げ、伊藤や大久保に近い反征韓論の岩倉にたいして辞表を提出した というのが筋書だろうと思う。 三条実美の仲介工作が決裂したことで、西郷は明治政府から下野せざるをえなくなった。
三条がトップなのに岩倉に辞表を提出するのかよ。
岩倉はやり手で有能だったと思うけど、幕末では下級公家だったんですよね 当時の上級〜中級公家は維新後どうなったんですか?三条以外
646 :
日本@名無史さん :2013/05/07(火) 11:31:56.58
>>644 当時、岩倉は右大臣の地位にあり、三条の次位にあった。
次の太政大臣を任せるという意味での辞表提出ね。
>>645 明治新政府での役職は幕末までの家格とはあまり関係ないですね。
太政大臣として新政府のトップに立った三条実美ですら
江戸時代は清華家で、五摂家の下でした。岩倉家は江戸時代には羽林家です。
摂家>清華家>大臣家>羽林家=名家>半家です。
岩倉具視は同じ羽林家の堀河家に生まれましたが三男坊であったため家を継げず、
跡取りのなかった岩倉家の養子に入りました。
ちなみに、公家たちは明治維新後は華族になりました。
カッコ内は大まかな江戸時代の家格。
公爵(摂家)・侯爵(清華家)・伯爵(大臣家)・子爵(羽林家・名家)・男爵(半家)。
江戸時代の家格が低くとも、明治新政府における役職につき認められれば
実際より上の爵位を与えられました。
例えば、岩倉具視は羽林家出身なのに、爵位としては最高の公爵を与えられています。
>>646 >次の太政大臣を任せるという意味での辞表提出ね。
次を決めるのは御上の意思であり、臣下が勝手に任せるのはおかしいです。
実際には天皇の意思じゃないにしても形式上おかしいでしょう。
648 :
日本@名無史さん :2013/05/07(火) 12:22:37.03
現代でも議会の議長が辞職する時には副議長に辞表を出したりするから 自身辞職後の職務権限代行者に出すという意味合いではなかろうか
649 :
日本@名無史さん :2013/05/07(火) 13:02:38.86
>>647 明治天皇に辞表を提出するということはないよ
西郷ら下野する人間が辞表を提出したのも太政大臣(太政大臣代理)に対してだから
日本では律令制度のときから人事の取りまとめ役は天皇ではなく臣下のトップ
天皇は臣下のトップから事情を聴いて可否を判断することしかしない
この場合、臣下のトップは当初は太政大臣三条実美であり、
実美が辞表する際には次に臣下トップとある右大臣岩倉具視が人事の取りまとめ役になる
>>646 ありがとうございます
上級〜中級公家は華族として安泰ではあるものの、
新政府の中枢には入っていかなかったんですね
その際、格下の岩倉が新政府の中枢に入ることに対して、
特に反対とかはなかったんですか?
>>650 岩倉の討幕の密勅という名の完全な偽文書の作成などの功績を
考えれば反対者など(特に薩長は)おらんよ。
>>646 幕末時に公家のトップでもなかった三条実美はなぜ維新後に新政府のトップになったんでしょうか?
岩倉のようなやり手でもリーダーシップが強いわけでもないのに(むしろその逆っぽい)
幕末時の五摂家はなぜ明治新政府に入っていかなかったのでしょうか?
また明治当初の太政大臣(三条や岩倉)と明治期に成立した内閣総理大臣(伊藤博文)、
現在の内閣総理大臣(安倍氏)では実権の強さや権限の範囲などどういう違いが
あるでしょうか?
>>651 ありがとうございます
岩倉の討幕の密勅は完全に偽物だったと証明されたんでしょうか?
>>652 明治政府は薩長土肥政権。
薩長土肥でも下級武士出身の20〜30代の若い奴らが中心にいたのだから、
それまでの身分や常識を覆す政権だったことが分かるでしょう。
三条実美は、長州藩士たちと孝明天皇を取り持っていた公家で、
一時は薩摩や会津に恨まれて洛外追放され、長州藩に亡命しています(七公卿都落ち)。
その後、長州藩が勢いを盛り返すと、再び政権に復帰、明治天皇のもとで活躍しました。
五摂家は討幕に関してそこまでの働きがなかったということです。
これは明治新政府に下級武士が参加できたのにその主君である藩主たちが
一切参加できなかったのも同様です。
明治期の太政大臣(薩長土肥政権のもとでの名義上のトップ)
明治期の内閣総理大臣(「大日本帝国憲法」下、天皇統帥権のもとでの政治のトップ)
現在の内閣総理大臣(「日本国憲法」下、天皇の政治関与を完全否定し、
国民からの選挙で選ばれた国会議員の中から選ばれる実質的な日本国のトップ)
の立場も違います。
詳しい解説ありがとうございます 説明を読む限り、その三択では現在の内閣総理大臣が 一番実権があるようですね
公家って今で言うとどういう存在なんだろう?一番ふさわしい例えはどうなりますか?
生活保護受給者かな
>>656 相応しい例えは無いでしょう。
朝廷、華族制度が解体された今の時代と少なくとも飛鳥時代から天皇家の周囲において
その家格を維持してきた家を比較するのはほぼ不可能かと。
政治的機能を失った江戸時代の公家ならば無理矢理例えるとして三千家とかね。
そういう伝統的な技能、文化、芸能を継承してきた高貴な家という意味で無理矢理ですけどね。
実際千家は戦後皇室から降嫁を受けたり、家元の立てるお茶には総理、首長レベルが嗜むという点でも。
金を持っている、という意味では江戸時代の公家とは違いますが。
>>656 一応朝廷に雇われ税金で生活していた官僚たちだから現代でいう公務員だろうね。
幕府に雇われた公務員と朝廷に雇われた公務員がいた、と。
江戸時代になると徴税権は江戸幕府が完全掌握していたため公家たちは
江戸幕府から給料もらっていた(自分たちは朝廷に出仕するが、給料もらう先は幕府)んだが。
地位は世襲でどこまで出世できるかは家柄次第という違いはあるが。
公務員なんて持ちだしたら武家だって公務員だわ。
この質問は無しでってことでいいんじゃないかな。 それこそ公家をどういう視点で捉えるかによって上のレスのようにそれぞれ異なってくるし、 ではかと言って全体像で捉えようとすれば当然現在に擬えることの出来る存在はない。 それこそ歴史時代の存在として(各時代によって公家自体も位置付けはことなるが) 公家を捉えようとするというのがいいのでは。答えにはなってないが、そう答えるしかない。 それだけ特異な存在なわけで。
>>660 だから、「幕府に雇われた公務員と朝廷に雇われた公務員がいた」と書いている。
幕府に雇われ幕府に出仕した公務員が武家。
幕府に雇われ(給料もらい)朝廷に出仕した公務員が公家。
それが「公家」を現代社会でイメージしたい人の問いの答えになってるとでも?
656ですが難しい質問してすいませんでした また、いろいろなレスをありがとうございました 公家って今ではもう存在しないものだから、現代社会で例えるのは難しいだろうけど、どんな存在だったんだろうって凄く気になります 武士は大まかに言ってしまうと自衛隊や警察のイメージです
武士をそういうイメージでとらえてるのだとしたら公家を現代社会でとらえるのはかなり無理あるよ 現代感覚で歴史を捉えること自体ある意味でよくないことだし、たとえられないものだからこそ歴史に向き合ってみたらいいんじゃないかな
どういう形になっていたのかってのは捉え方によっても言い方が変わるから一言で言うのは難しい 「一つの国の中に「幕府」と「朝廷」の二つの政府があった」ということも一応できるわけだし
>>664 >武士は大まかに言ってしまうと自衛隊や警察のイメージです
そういう面も有るけど暴力団という面も有る。だから現代のものに例えようとする事自体が無理が有るし、
するべきではない。
現在は国、都道府県、市町村とありますが、これを三元統治とは言わないですよね? 都道府県も市町村も国に含まれるから 朝廷と幕府の関係はどうなんでしょうか?幕府は朝廷に含まれるのでしょうか? 朝廷と幕府の二元統治という言葉がありますが、つまり含まれないというこでしょうか?
幕府と朝廷のパワーバランスで変わるので、時代によって違う。例えば江戸幕府の初期には 幕府が「禁中並公家諸法度で朝廷を縛っていたのに、幕末には開国するのに朝廷の勅許が 必要なんて事態になっていたりする。
670 :
日本@名無史さん :2013/05/09(木) 03:29:48.22
松平家の出自は? エタだろ?
671 :
日本@名無史さん :2013/05/09(木) 03:36:16.61
封建制度そのものの回答有難うございます。 痛く賛同します。 戦国期 足軽はチンピラ 天皇が代紋頼りの世襲制の山口組 組長 足利は落ちぶれたと言え、若頭 豪族は、傘下の組長
公家を敢えて例えれば特定郵便局長かな。
>>672 世襲だから?
でもあの時代は幕府に属する武家もまた世襲なので
武家も特定郵便局長になるぞ。
公家=貴族ってイメージはだいたいあってる? もしこれがだいたいあっていれば、現在に当てはめても 比較的イメージしやすいんじゃないかな
>>674 あっている。しかし一口に貴族と言っても時代や国によっていろいろ有るからなぁ。
>>672 厳密にいえば、直系意外の皇族だが、
世襲国会議員や
働かないでもぜいたくざんまいできる金持ちのぼんぼんか
鳩山由紀夫などぴったり
公家をただのボンボンなど笑止千万
>>674 貴族は政治権力を持っているが(国会議員や大臣)
公家は政治権力を武家に引き渡した天皇のおつき
今でいう宮内庁職員じゃないの
前近代では、政府は統治者の私的機関。 今の社会に当てはめるのは無理。 どうしてもというなら、国も藩も私企業になぞらえて、公家はなんとなく上位の役職を縁故で貰ってる 創業者一族のようなもの。
>>679 いや、私企業(商家)と政府(国民からの税金運営)は根本的に違う
前近代の朝廷や幕府は国民からの税金で運営しており現在の公務員が一番近い
私企業が1500年も続くことはまずない
聖徳太子が四天王寺を建てた時に始まった金剛組はどうすんだ。578年創業だけど。
かつての朝廷や幕府は現代でいうところの 精度を悪くした国会、内閣、役所、裁判所の複合体 それだけの役割を果たしていた
立法はするけど国民の代表である国会とは違う。そこは誤解の元になる。
律令国家って今風に言えば法治国家という事? だとすれば奈良・平安の頃から ・天皇制 ・律令国家(法治国家) という国家の根幹を成す2大要素は大きく変わっていないということになるのですか? なんか凄くないですか? それとも律令国家と法治国家って全くの別物なんですかね・・
685 :
684 :2013/05/09(木) 20:39:39.08
もう一つお願いします 古代においては神官は神祇官という国家公務員的な存在だったと思います 奈良時代の頃に朝廷は仏教を国家統治に使い、いわゆる仏教による鎮護国家を目指しました。 これだけ仏教を国家的に重んじていたのに、僧侶を国家公務員的な存在にはしませんでした (朝廷が個別に僧侶を重用したりはありましたが、神祇官のような制度にはなりませんでした) これはなぜなんでしょうか?
法治国家の意味を貴殿はどう捉えているのか?
>>685 僧侶というのは世俗を離れた形式的には枠外の存在だから。
道鏡政権は例外的だな
>>686 法治国家とは字の如く「法によって治める」国家という事ですよね
意味的には律令国家とほぼ同義と見て良いんですね
>>687 そのカキコからすると神官(神祇官)は世俗の存在というわけですか?
古代日本における神道と仏教、神官(神祇官)と僧侶の扱いの差がもう一つ分かりません
できればご教示下さい
>>684 律令国家とは当時の中国が律令を元に国づくりしたのに倣って、律令を作って国づくりする
国家の事だ。歴史上の特定の事例を指すものだ。
律令国家が法治主義かというとそれは微妙。近代的な意味での法治主義では法が王より
上位に置かれるが律令国家では皇帝とか天皇は法より上位だろう。
>>689 僧侶には氏も姓も苗字もないことから考えたらいい。
神官との違いというのもその辺から分かるんじゃない?
>>689 律令国家が法治国家と同義って、そもそも言葉の意味や概念の認識がおかしくないか?
律令国家というのは法治国家の一形態ではあるだろうが明らかに同義ではないだろ?
では現代のほとんどの国家が法治国家として、それを律令国家という言葉で置き換えられるのか?
歴史の勉強の前に言葉の勉強をしようぜ。
幕府が仕切っていた時代、朝廷に出仕した公家達は毎日毎日何をしていたんですか? 幕府成立後は朝廷の公家達もリストラされて数が減ったのでしょうか?
幕府との関わりがある職(摂関、武家伝奏、議奏、例幣使、勅使、院使など)はその職務。 それ以外は勤番と言って交替で御所に詰めて事実上の警備員。 時間があるのでその間に写本や日記つけ。(歴史的には意外とこれが意味を持った) 職務以外では家業がある者は私的にそれに従事、もしくは関連した諸事。 例えば蹴鞠の家なら武家と蹴鞠の会を催してお金を得て免許を発行する。 芸能ならその稽古にも時間を費やす。 それでも時間余りの者は内職、時に不良行為に及ぶ者あり。 ちなみに公家の数は意外かもしれないが江戸幕府開闢当初より最終的には1.5倍に増えている。
付け加えると儀礼や祭事も多いので、それに関連する諸々の諸事に時間を取られることもある。
アマテラスは三兄弟であり、アマテラスとスサノオは有名ですが もう一人はあまり有名じゃないですよね? なぜここまで極端に知名度に差があるのですか?
なぜ知名度に差があるかと言えば、月読尊には他の二人のようなお話がないから。 なぜお話がないかというのは知らん。日本における月という存在と関わりがあるのかもしれん。
>>697 ありがとうございます
アマテラスやスサノオ、あるいはアマテラスの直系やスサノオの直系には
いろいろな話がありますが、月読尊にはほとんど話がないですよね
日本神話自体どういう流れで出来たのかよく分かっていませんが、
三兄弟の月読尊だけほとんど話がないって言うのも不自然な気がします
>>694 >ちなみに公家の数は意外かもしれないが江戸幕府開闢当初より最終的には1.5倍に増えている。
戦国時代に経済的困窮で多くの公家が没落・断絶したために“減り過ぎた”のを修正した結果とも言える。
>>699 幕末に公家の家の数は約二百家。
公家が豊かだった平安時代の摂関全盛期と比べても、どれだけ増えたか分かるだろう。
ちなみに戦国時代に公家は没落はしたかもしれないが、ほとんど断絶していない。
(跡取りがないなら、他から養子をとる)
室町時代と戦国時代では、戦国時代のほうが公家の数は増えている。
没落したとはいえ、水飲み百姓をやるよりはずっとおいしい職業だものな
公家の話が出ると
>>701 のようなのが必ず出てくるが
そもそも公家は身分であって職業じゃないから。
その辺の根本的なところも理解してないのにいちいち書き込もうとする動機が分からん。
703 :
日本@名無史さん :2013/05/14(火) 21:36:49.89
石原慎太郎の最終的な知名度やネームバリューは中岡慎太郎を超えるでしょうか? 百年後の日本で慎太郎と言えば、どちらが先に名前が出るでしょうかね?
>>703 中岡慎太郎は今でも龍馬のオマケみたいな扱いだからなあ
石原のほうが知名度有るんじゃないの
漫画の手塚治、アニメの宮崎駿、映画の黒澤明、歌謡曲の美空ひばり、 このあたりは日本のある文化ジャンルの創成期を支え、結果を出したビックネームですが、 将来的に茶道の千利休、俳句の松尾芭蕉、能の観阿弥世阿弥父子あたりと 並び称されるのでしょうか? もし並び称されない場合は、その文化ジャンル(漫画やアニメ、映画、歌謡曲)が 一段低いと認識されているということでしょうか?
>>700 室町後期から戦国時代にかけて相当数の家が絶家しているぞ
鷹司家みたいに数十年後に再興された家もあったが。
>>706 マジレスすると、そいつらは別に創始者じゃない。
日本にウォルト・ディズニーが日本人だったら同列かもな。アニメが茶道のように数百年滅びなかったら、だが。
千利休も松尾芭蕉も観阿弥も創始者そのものではないでしょう そのジャンルを代表する偉人だけど アニメや漫画、歌謡曲は確かに茶道、俳諧、能に比べると 歴史も浅いし、なんとなく軽い存在だけど、日本はこれから 国を挙げてアニメや漫画などを外国へ売り込む方針 これが上手くいって日本のポップカルチャーが世界を席巻し、 多額の外貨を呼び込む事が出来れば、後世に大きな名を残すんじゃないかな
>>709 その新興のジャンルじゃ映画がやっぱり強いだろうな
そして黒澤明の名前は日本史に確実に残されていくと思うな
歌謡曲だけは分からないけど、映画も漫画もアニメも社会におけるウエイトは
変わっても、廃れて滅びるなんてことはないと思う
>>709 千利休は息子たちが分家して裏千家・表千家・武者小路千家となり
現在も日本で有数のお茶の家元になっている
観阿弥・世阿弥も能の家元として継がれ現代にまで残っている
この辺りは芸術の創始者そのものではないものの現在まで続く家元の祖だ
松尾芭蕉の正風俳諧は現代まで続いてはいないものの江戸時代の一時期
大勢の弟子たちを抱えて一世を風靡した
宮崎駿、黒澤明、美空ひばりはどうだろう
宮崎駿はジブリを息子が継いでいるので何代も続くアニメの名家となれば名が残るかもしれない
黒澤明・美空ひばりは若い世代にはもう分からなくなってしまっている気がする
713 :
日本@名無史さん :2013/05/17(金) 04:33:28.43
山形県中世の鳥屋ヶ森城主の岸美作守源朝臣義満は、 源義仲から15代目のその末裔と云われてるらしくて、 そう云うには、地元の有力者が有り難がって土地を譲ってそこに城まで建てて迎えてて、 また、木曾義仲=朝日将軍に因んだ朝日町という地名が付けられる等していて、 それなりに信憑性あったんだと思える節があるのに、 一方では義仲末裔が美作守やってる筈がない。 岸義満(源氏)に関係ありそうな美作守相当の人物として、当時の美作守やその少し前には、 確かにその岸姓に派生の可能性がある佐々木源氏系古志氏や、 清和源氏山名氏がいる。 でもどちらも源義仲とは関係ない。 これはどういう事ですか? この源義満という人物の祖先は誰なのですか?
>>713 源義満ったら、金閣とか建てたり一休さんと親交があったり蜷川新右衛門さんを困らせたりしてた、
室町将軍だろ。
王政復古の大号令によって日本の国家体制は大きく変わりましたが、 なぜ将軍だけでなく摂政、関白までなくなってしまったのでしょうか? 五摂家などの有力(上級)公家を無力化するためなのでしょうか? 大正時代に摂政は復活しましたが、明治当初は天皇が病気、怪我その他でまったく 任務を果たせない時はどうするつもりだったのでしょうか?
>>712 明治の作家、夏目漱石や森鴎外、昭和の作家、太宰治や三島由紀夫などは
歴史の教科書に載っているし今でも知名度は高い
これと同じような感じで今後、黒澤明とか美空ひばり、手塚治、宮崎駿などが
歴史の教科書に載っていけば、未来の子供たちは授業で習い、知名度は残っていくんじゃないかな?
子孫や弟子がその名前を継いでいくって感じではないけど、あくまで個人の名前は大きく残っていくんじゃないだろうか?
甘い?
>>715 大正の摂政に関しては、制度を復活したら、たまたま天皇が病気になったわけじゃないよ
仮に似た状況が明治にあったとて問題はないと思うけど
718 :
日本@名無史さん :2013/05/18(土) 02:27:30.67
ここで聞いていいものか分かりませんが、 家紋について質問があります ● ― 一つ星に一文字という言い方になると思うのですが この家紋の言われや経緯が分かる方はいらっしゃるでしょうか? 上下反対の物は見つかるのですが、上に●の物が見つかりません どうかよろしくお願いします
720 :
日本@名無史さん :2013/05/18(土) 13:48:56.54
>>717 明治新政府はいざという時に天皇の代理になる職を用意しないまま、
摂政関白を廃止しちゃったの?
不用意すぎないか?
721 :
日本@名無史さん :2013/05/18(土) 14:23:24.26
>>715 >>720 明治22年に制定された「皇室典範」で、天皇が成人ではないときや
天皇が病疾などにより職務に従事できなくなったときには、摂政を置くことを定めてるよ。
摂政になれるのは
1.皇太子・皇太孫
2.親王・王
3.皇后
4.内親王・女王
明治以前の摂関は藤原氏の世襲だったが、明治以降は皇族が任命されることになった。
現在の「皇室典範」にもこの規定がある。
>>715 >>717 当時摂関は幕府の代理人のような位置にいたからな
職務がどうのこうのじゃなくて幕府とともに消す必要があった
だから小御所会議で「幕府摂関の廃絶」となったわけだ
詳しい解説ありがとう ただ気になるのは王政復古から皇室典範まで結構なタイムラグがあること
>>723 天皇の譲位が否定されたのもまた、明治22年制定の「大日本帝国憲法」なんだよ。
王政復古で摂関が廃止された時点ではまだ、譲位は否定はされておらず、
天皇は病を理由に退位する自由が残されていた。
天皇の崩御を持ってのみ新たな天皇が即位することが定められた
「大日本帝国憲法」とセットで出されたのが明治時代の「皇室典範」。
疾病で政務が執れなくなっても譲位ができないシステムになったために
皇族摂政制度が不可欠となった。
もともと明治以前の摂関制度は藤原氏が天皇から政治担当権を奪うことを目的とするものだったから、
病気や怪我になった天皇の代理として置かれていたわけではないしね。
(平安時代中期以降、天皇が成人だろうが健康だろうが常に置かれていた)
>>724 >>天皇は病を理由に退位する自由が残されていた。
退位しても、もし皇子皇孫が子供であれば実際の政務は取れない
そういう場合に天皇の代理をどうするかってことは
想定されてなかったのでしょうか?
>>725 太政大臣三条実美以下、明治新政府があったのだから、たとえ天皇が子供でも政務に影響は出ない。
大政奉還時、明治天皇は若干15歳で、名目上のトップではあったが。政務を自分で見ていたわけでもない。
摂関常置になったのは平安時代中期からで、そもそも摂関がいなくても政治は廻るようにできている。
藤原氏が政治の最終決定権を得るために設けたのが天皇の仕事を代行する摂関だった。
「大日本帝国憲法」で初めて、明治天皇が行うべき仕事が明示された。
その同時期に「皇室典範」も定めた。
>>718 自信ないけどスルー状態なんで…
相成又ハ国内
ではなかろうか?
できればもっと前後を示してくれたらありがたい
728 :
日本@名無史さん :2013/05/19(日) 18:59:09.70
すません。質問があります。 江戸期?以前は手帳とかあったのですか? 筆記具は筆と墨なら、侍はいつも持ち歩いていたとか?相当、記憶力が良かったとか?
729 :
日本@名無史さん :2013/05/19(日) 19:59:09.89
730 :
日本@名無史さん :2013/05/20(月) 14:23:36.25
>>728 今のように紙がふんだんに手に入る時代ではないので手帳はないです。
日記帳は平安時代頃からありましたが。
筆と墨を持ち歩いても字は書けないので(墨を水で擦って墨汁を作らないといけない)
意味がないでしょう。
紙は、庶民には高価すぎてふだんは使えないものだっったかも 墨と筆は今でいうとパソコン
733 :
727 :2013/05/20(月) 22:02:23.00
>>718 改めて調べたらてんでだめでした…orz
ごめんなさい
中世以前はまだ高級品だったので、いわゆる公卿の日記も裏紙を使うことが多かった 言継卿記とかも大半が書状の裏を再利用して書かれているくらい 今のメモ帳のようにふんだんに使うことはなかったんじゃないかな
石田三成ならあるいは
>>728 江戸時代には矢立(やたて)という携行筆記具があった。紙は巻き紙か懐紙に書いたのかどうか?
時代は違うが、木簡に書いていた時代の役人はベルトに筆と小刀をぶら下げていたので
「刀筆の吏」と呼ばれた。小刀は間違えた所を削って書き直す為。
ちなみに木簡も貴重品だから用済みになると表面を削って再利用した。遺跡から出土する木簡は
削りかすの方である事が多い。
737 :
日本@名無史さん :2013/05/21(火) 20:11:08.97
いろいろ有りますが、時代劇では殆ど侍が筆記具は持ち歩いてません。 武士が常に持ち歩いてたのは、刀だけでしょうか? よろしく、お願いします、
現在の日本では国のトップどころというと内閣の閣僚や与党自民党の要職にあるもの、 自民党の長老連中など、結構な人数になると思います 明治政府当初は岩倉や三条、維新三傑などかなり小人数と言えると思います そんな小人数であれだけの大胆な改革を断行したのは凄いですね それとも国のトップどころが少ないから出来たと考えるべきですか?
739 :
日本@名無史さん :2013/05/21(火) 20:48:37.70
>>738 明治新政府はそんなに少人数ではないが
そもそも国のトップってどこまで入ると思ってる?
>>739 >>国のトップってどこまで入ると思ってる?
厳密な定義は分かりません、あくまでイメージです
よく日本史の本とかに明治政府の中心メンバー数人(10人未満)で
議論してるシーンとか出てくるので、そのイメージのまんまです
明治政府も正式な人数だとそれなりに多いでしょうが、その中で
実権を持っていた中心メンバーとなるとかなり少ないのじゃないでしょうか?
今の日本は何だかんだで実権を持ってる権力者が結構多い気がします
(表に出てる人以外に影で力を持ってる人とか)
話合ったり根回しするのは時間が掛かるので少人数で決める方が早いというのは有る。
>>737 例えば懐紙と言う紙は懐に入っていた筈。腰に印籠を下げてる人も居ただろう。
商人や町人だと帯に煙草入れを下げてるけど、侍はどうだろう?
江戸時代はポケットが無いから色々と帯にぶら下げた。その為に使うのが根付(ねつけ)。
矢立ってウツボやなんかみたく具足のオプション的なもんじゃなかったっけ? 元来が武士ガジェットだからか知らんが、時代劇でも旅装束の役人とかが携行してたりするよね 「常に」ではないかもしらんけど
>>743 それは矢を入れる物だろう。名前は同じでも別の品だ。
>>744 言い方悪かった
矢立硯の事な
矢立に付属してなかったっけか?
それは筆記具の方か?矢立の付属品だったの?
俺の友達が日本は100年前に朝鮮半島を侵略して その時に命からがら日本に逃げてきた人が今の在日とか言ってる。 侵略してる側の国に普通逃げるか?俺だったら大陸側に逃げるんだがw 友達の言ってることは事実?
>>746 俗説臭がプンプンなんだけど、
筆記具としての矢立は、武士が辞世の歌を詠む時のために鎧の裏に忍せて携行してたとかなんとか
辞世は平時に作っておいて、戦場に行く時は書いた物を身につけて行くんじゃないの。
でもググると「中世には箙(えびら)の中に入れて陣中に携行した細長い硯箱を矢立の硯と称したが, 江戸時代には硯にかわって墨壺をつけるようになり,腰にさして携行した。」と出た。付属品じゃないけど 矢立(=箙、靫)に入れていたから『矢立の硯』という事のようだな。おかげで勉強になった。
廃藩置県の以前から道府県や市、町という言葉や行政単位はあったのでしょうか? それとも廃藩置県の時に作られたのでしょうか? また、皇居は以前、宮城と呼ばれていましたが、いつから皇居になったのでしょうか?何か理由があったのでしょうか?
行政区画としての「道」「府」「県」は古代中国発祥。日本でも五畿七道 (東海道とか) があったし、その下位の区画である「国」の中心地は「国府」と呼ばれた。 「市」を行政区画の意味で使うようになったのは明治からだけど、「町」「村」はそれ以前から
それ以前からあった、だな。 「宮城」が「皇居」になったのはGHQ時代。理由はわからんけど宮城ってのはもともと天皇の住居と天皇が政治を司る役所を併せた呼び名だからその辺が不味かったんだろう。
754 :
日本@名無史さん :2013/05/24(金) 18:51:31.91
>>753 では、仙台市がある宮城県はなぜ「宮城」なんですか?
>>754 国府多賀城が置かれたことから「宮宅(みやけ)」と呼ばれたのが、
それがなまって「宮城」と代わり、宮城郡や宮城野となり、さらにその名前が県の名前に採用された
新選組にいた、とか噂になってる谷右京、このスレの人たちから見てどうなの。
758 :
日本@名無史さん :2013/05/24(金) 21:28:24.49
>>755 ありがとうございます。腑に落ちました。
759 :
日本@名無史さん :2013/05/25(土) 13:21:26.49
ザビエルが日本に来た時、 どういうルートを通って、何日がかりで日本に来たのか…という記録はあるでしょうか? イギリスから日本までアフリカ喜望峰経由だと26000kmほどあり、 夜を日に継いで平均4ノットで進んだとしても160日以上かかるので、気になりました。
ゴア→マラッカ→広東→薩摩
即答して頂きありがとうございます
ついでにゴアを発って鹿児島に到着したのはちょうど4ヶ月後。
わたしがゴアだ
764 :
日本@名無史さん :2013/05/25(土) 18:25:21.09
マグマ大使だろ
766 :
日本@名無史さん :2013/05/25(土) 21:11:36.06
ザビエルは船で何食べていたの?旅費はどうしたの?水もいるよな?
>>722 王政復古って言ってんじゃん。
幕府も、摂政関白も、臣下に丸投げ。
その丸投げをやめて、親政を行うってんじゃねの?
何言ってんの?
>>737 日本の江戸時代というのは、世界的に見ても特殊な世の中で、
支配階層よりも、庶民の方が賢く教養があった。
>>759 どうでもいいがザビエルはイギリス人じゃなくスペイン (バスク) 人。
>>766 大航海時代の船内食といえば乾パンと塩漬け肉か干し魚。旅費つうか、ゴア派遣はポルトガル王の要請だから経費も出してくれたんじゃないかな。
>>767 太政大臣を置くなら本来形式的には問題がなくて、
そもそも幕府の規定によって幕府マターで任じられる五摂家の権力が強くなりすぎたってのもあるわな
五摂家のうち鷹司家以外は幕府に近い立場を取り続けて、鷹司家も薩摩からは好かれてなかった
772 :
日本@名無史さん :2013/05/26(日) 10:01:25.34
昨日、友人から「大化の改新なかった説」が結構有力な説に浮上してきたって 聞いたんですが、本当ですか? 近い将来、教科書から消えるとか?
嘘です。そういう事を言い出した学者が居るけど、自分でも、今の所トンデモに近いと言ってます。
もうちょっと説明すると「あったという確実な証拠が無いからなかったかもしれない」と言う話で、 作業仮説の段階だな。
跡部良弼は人間のクズですか?
>>774 サンクス
根本的な疑問だけど、これといった証拠もないのに、何故今まで史実の如く言われていたの?
あと、大化の改新絡みの記述はコジキや日本書記にあると思うんだけど
(記述はあるけど信用ならんてことかな?)
そういう事。日本書紀などに有ったと書いてあっても実際に施行されたという証拠が見つかってないという話。 でもそれだけでは「まだ見つかってない」というだけの事で、大化の改新が無かったという証拠にはならない。 だからトンデモ説。
聖徳太子はなぜ天皇にならなかったのですか?
>>778 単純に、「天皇より先に死んだから」
もちろん生前に譲位してもらうこともできるんだが、
推古天皇にはその気が無かったということだろう。
780 :
日本@名無史さん :2013/05/28(火) 09:13:29.42
両統迭立と南北朝の違いを教えて下さい ちなみに両統迭立って現代に例えれば、皇太子の系統と 秋篠宮の系統が交互に皇位に就くような状態?
天皇の権威は奈良から平安時代と明治から戦前にかけてだとどちらが強かったのですか?
暗殺説とかすり替え説、実在しなかった説など、歴史におけるトンデモ説や陰謀論はいろいろとありますが、 情報伝達技術や記録媒体などが急速に発達した昭和後期以降の事柄でも100年後200年後の日本ではトンデモ説や陰謀論になり、一定の信憑性があったりするんでしょうかね? 例えば小渕首相が亡くなる→密室で談合→森首相誕生の流れがいつの間にか森首相(の配下)が小渕首相を暗殺した説になったり、小泉純一郎と小泉進次郎は血縁関係にない説がでたりとか・・・ いろいろ考えると歴史って本当に奥が深いな〜と思う
>>777 だが、西暦645年前後に発生したいろんな事象を最初に1つの歴史的事象として認識した最初の書籍は、実は伊達千広(陸奥宗光の実父)が書いた『大勢三転考』が初めてだったりする。
それは大化の改新の歴史的意義を初めて高く評価したのが、という話ではないの?
>>780 両統迭立は、後深草天皇と、その弟である亀山天皇の系統ですから、
正しく例えの通りですね。
両統迭立と南北朝の違いは、
交互に両統が即位する体制と、一方だけが即位する体制の違いですかね。
例えていえば、
両統迭立→与党内で誰が総理総裁になるか
南北朝→与党と野党の政権争い
って感じでしょうか。
>>781 明治から戦前でしょうね。
古代社会の天皇の方が権力や権限はあったでしょうが、
近代の天皇は権威だけで成立してるようなものなので・・・
「改新の詔」で一気に変わったというわけではないとしても、 言うなれば施政方針演説か何かというか、そういう方向性へと転じていったって解釈でいいのかな
敗戦によって軍部は解体されました これって数十万の軍人が失業した状態ですよね?まして敗戦直後の焼け野原 まともな仕事も少なかっただろうし・・・ どうやって生活が成り立ったんでしょうか?
788 :
日本@名無史さん :2013/05/29(水) 10:36:47.65
>>785 南北朝は同時代に二人の天皇が並び立った事が最大の特徴じゃない?
信長、伊井ナオスケ、犬養の暗殺と比較して、大久保、伊藤博文、原敬の暗殺ってあまりにもマイナー過ぎませんか? 特に大久保の件は明治新政府が内政に力を入れている真っ最中に、 内政を取り仕切る内務卿でかつ最後の維新三傑が暗殺されたわけで、影響も大きかったはず なのに、紀尾井坂の変なんて一般人は全然知らないよ せめて五一五事件くらい有名じゃなきゃおかしくないかな?
昔は女の天皇もいたそうですが、皇后が天皇になったりして、天皇家の血を引いていない人もいたんですか? もし女の天皇全員がなんらかのかたちで天皇の血を引いていたのなら、 最大で何親等離れていたのが最も遠いケースで誰ですか?
>>787 職業軍人は数十万人もいませんでしたから、大半の方は本業に戻られたり
再就職されたりしていました。
>>790 天皇家の血を引いていない天皇などいない。そもそも天皇の正統性に反する。
女性天皇のうち皇極天皇(斉明天皇)と元正天皇以外の六名は天皇の皇女。
元正天皇が天武天皇の皇孫、皇極天皇が舒明天皇の曾孫。
付け加えると「何らかのかたちで天皇の血を引いていたのなら」という表現はあまりにも無知過ぎる。 天皇が天皇である根源は男系で天皇の血統であること。 理屈ではなくそういう正統性のもとに天皇は継承されてきた。
>>789 その疑問には共感します
しかし、なぜ紀尾井坂の変が有名じゃないかを
論理的に説明する事は無理かと思います
伊藤博文、原敬の暗殺にいたっては「〜の変」「〜事件」という
名称さえ付いてないですよね
正直、何ででしょう?
ほとんど名前を知られていない足利将軍の暗殺でさえ、なんとかの変って名付けられていたのに
>>784 その意義に関心が持たれなかったのだから、議論自体が存在しなかった。
797 :
日本@名無史さん :2013/05/29(水) 23:01:47.87
昭和天皇は即位後に元老の西園寺からある事で激しく叱責されたことが あるみたいたけど、激しい叱責ってどんなレベルの言葉使いなんでしょうか? 苦言を呈するとか讒言とは違って、激しい叱責って・・・
>>792 皇極天皇は敏達天皇の曾孫で、舒明天皇の皇后
799 :
792 :2013/05/30(木) 19:53:09.47
失敬
>>781 明治の方。
奈良時代・平安時代は藤原氏の専横の時代だし、東北・北海道は治下に入ってるとは言い難い状況だったし。
801 :
日本@名無史さん :2013/05/30(木) 23:19:12.85
天皇の権威について回答ありがとうございます もう一つ質問です 明治以降も取り巻きが天皇の権威を利用して政治をやってるように感じられますが いつの時代も傀儡にすぎないのでしょうか? 天皇の権力はいつの時代が絶頂だったのですか?
>>785 根本的におかしい気が
両統迭立→与党と野党の政権争い
南北朝→野党の党首も総理を称する
じゃないのか?
>>797 会話の記録が無いので分かりません
叱責の比較に苦言や讒言を例示する意味も分かりませんし
叱責するからといって言葉遣いが変わると決め付けているのも根拠不明です
西園寺の叱責って確か柳条湖事件のことでしょう。 田中義一を叱責して逆に西園寺から窘められたっていうやつ。 西園寺としては天皇が政治の主体になることを恐れていて、 できるだけ関わらないよう配慮したんだよね。
>>802 古墳時代 とくに応神天皇ー雄略天皇
朝鮮半島北部まで進出した形跡がある、倭の五王として中国の歴史書に記述されている
仁徳天皇陵を代表とする巨大な前方後円墳を多数築いた など
>>804 両統迭立時代は、どちらも正統の皇室であって、
皇室内での継承順の争いにすぎない
つまり、どちらかが野党というわけでなく、与党内の派閥争いみたいなもん。
南北朝は「勝った方が正統」という争い。
「どちらも総理を自称している」って点はご指摘の通りです。
808 :
792 :2013/05/31(金) 20:04:55.85
>>785 君、南北朝がどういう状態か知ってて答えてるの?
あまりにもおかしすぎるだろ。
>>807 「勝った方が政党」って…君ほんと馬鹿なんだな。
勝った負けたは結果論であって「どちらも正統を主張している」状態が南北朝だろ。
同時に二人の天皇がいて、二つの朝廷が存在してたんだよ。
加えて天皇は勝ち負けの勝負をしているわけでもない。
歴史に対する認識が素人未満過ぎるわ。
>>805 内容はその通りなんだけど、西園寺が昭和天皇に政治の主体にならないように
注意するのは「苦言を呈する」とか「諫言する」ということじゃないの?
それをわざわざ「激しく叱責した」ってなると上司が部下の失敗を強く叱りつけたってくらいのイメージ
当時、いくら昭和天皇が若かったとは言え、そんな言い方が可能なのかな?
もちろん、正確な会話内容も映像もないわけだから真実は分かりようがないけどね
811 :
785 :2013/05/31(金) 23:38:42.84
>>809 >「どちらも正統を主張している」状態が南北朝
そのぐらい知ってますよ。
両方とも正統だからこそ、勝ち負けでしか結着がつかなかった。
南朝が和睦に応じたのは、「軍事的に勝ち目が無くなった」からであって、
他に理由は無いでしょ。
>天皇は勝ち負けの勝負をしているわけでもない
この場合は「正統と認めさせる」ことが「勝利」でしょ?
後醍醐は自分の皇子を各地に派遣して戦わせてますし、
軍事的にも充分勝ち負けは争ってますけど。
>>776 大化の改新の記録があるのは唯一「日本書紀」にだけ。
「古事記」は推古天皇の代で終わっているのでこの時代の記載はない。
「改新の詔」は後世の文言が多く同時代のものと認められない。
大化の改新は改新の詔によって天皇中心政治が行われるようになったとされることから
改新の詔が後世の作なら大化の改新もなかったということになる。
尚、入鹿が暗殺され、蝦夷が自害し、蘇我宗家が滅んだ事件は史実。
「乙巳の変」と呼ばれている。
>>778 史料上、日本に確実に皇太子制度が始まったとされるのは天武朝であり、
推古朝に皇太子制度はなかったと言われている。
推古天皇には実子があり、これを退けて厩戸皇子を継嗣に定めることは考え難く、
聖徳「太子」であった可能性は低い。
>>779 推古天皇の時代に生前譲位はない。
よって、天皇は死ぬまで天皇。
日本史上はじめて生前譲位したのは皇極天皇。
アンサー付けている割に知識がないな。
>>811 あんた例え自体がブレてるのにいくら何言っても説得力無し。
815 :
日本@名無史さん :2013/06/01(土) 00:59:19.49
歴史博士、歴史に造詣の深い方、
>>789 >>794 に対する意見、所感をお聞かせ下さい
長年の疑問なのです
ちなみに私は789です
>>789 >>794 >>815 あくまでも感想だけど、変の前後で大きな政治的変革が起きたか否か、という観点はどうだろう。
本能寺の場合、信長・信忠が亡くなったことにより織田政権が瓦解して豊臣政権へ移行する契機となった。
桜田門の場合、大老が暗殺されて幕府の権威が失墜し、朝廷や雄藩の発言力・存在感が増して維新への流れが進んだ。
五・一五の場合、軍人が実力行使で政府要人を襲撃したことで、軍部への恐怖心が現実のものとなってその跳梁を許し、内閣や議会は否応なく萎縮した。
いずれの場合も、変の前後で政治の潮流が大きく変わっていると見ていいだろう。
大久保の場合、政府の柱石が殺されたとはいえ、それを契機に明治政府の体制や方針が激変したわけではない、
木戸や岩倉が死んだこと、江藤や西郷が叛いたこと、板垣や大隈が去ったことと、等に比べても際だった差異があるともいえまい。
伊藤の場合、元勲が外国で殺されるという大事件だが、それで朝鮮政策が大きく変わったわけじゃない。
原の場合も、政党政治の揺籃期に貴重な人材を失ったが、それで議会や官界が機能不全になったとかでもない。
これらの場合は、確かに国家的損失といえる悲劇ではあったが、前者三例のような大きな変化は起きていないのでは?
例えば、内閣総理大臣で言えば、浜口が現職中に暗殺されたが、原以上に知られていない。
足利将軍では、義教と義輝が暗殺されたけど、義教の方が有名なのは前後の変化と影響の大きさからだろう。
鎌倉将軍では、頼家より実朝の方が知られている気がするけど、鎌倉殿の傀儡化と北条得宗家の支配へ移行する契機だったからと思う。
陽成院の強制退位や崇峻天皇の弑逆なんか筆舌に尽くしがたい大事件のような気もするけど、政情が変化していないから注目されることもない。
大化の改新ごろから大きく制度改革が行われたのは事実なような気はするけど、 乙巳の変や中大兄皇子(天智天皇)称制から文武天皇の代の大宝律令制定まで、 むしろ長いことかかってるようにみたほうが自然なように見える気がしてくるんだけど、 その辺どうなんでしょうね
>>789 >>794 >>815 実際どの程度メジャーで、どの程度マイナーなのかということは置いておいて…
後者は事件を起こした人間が単体でかつ名も無きに等しい者というのもあるんじゃないかな。
つまり極端な話で言えば単なる通り魔に襲われたようなもので、そこには「死」という事実があるだけ。
515ってのは犬養がうんぬんじゃなくて、事件を軍部の人間が起こしたということと
それによって憲政の常道に終止符が打たれ、軍部主導の時代の嚆矢になったという意義があるし。
神功皇后は昔は天皇とみなされてたけど、明治時代に天皇から除外されたのはなぜですか?
>>819 神功皇后は「日本書紀」に天皇と同様の一代記が載せられてはいるが
明治以前も称号は皇后であって天皇として代数が数えられたことは一度もない
むしろ過去に天皇として扱われたことがある女性は飯豊皇女
清寧天皇の没後執政をとったと記紀に記され
「日本書紀」では飯豊皇女が没したとき天皇と皇后にしか使われない「崩」の文字を使い
飯豊皇女の墓を天皇と皇后にしか用いられない「陵」と記している
尚、飯豊皇女は生涯未婚だったので皇后でないことは明らか
平安時代頃の史料では「飯豊天皇」と一時期天皇だったと認識されていた時期がある
なぜちょんまげが流行ったのか 昔の東アジアの風俗では成人男子は髷をゆうのは必須で 烏帽子や冠などは髷にゆいつける形で被るものだから 髪をのばして髷をゆうことは、今で言うネクタイをするような礼儀上必須の身だしなみだった。 しかし、戦国時代に事件が起こった。 長髪の上に手ぬぐいをかぶり、さらに兜をかぶると頭が蒸せる。 しかも、長時間の戦闘を行うと頭が痒くてたまらない。 そして、長時間ボウシを被る者が例外なくハゲてしまうという呪いによって 歴戦の武者たちも呪いに負けハゲた。これでは髷がゆえない。 しかし、側面に残った長髪をなんとか頭頂部に集め髷をゆうことで、 大名や公家たちが集う公式な場での交流に粗相をきたす事を回避したのである。 これが、ちょんまげスタイルの黎明である。 (実際には、痒いので毛抜きで抜いていたらしい) しかし、江戸時代、このちょんまげが武士は言わずもがな町人にまで広まり一気に全国区にのしあがる。 なぜだろうか?
思うに、さかやきてのは、綺麗に維持するのはなかなか手間のかかるもので 一週間もすれば毛が5mm程度も伸びてきて、とても見れたものじゃなくなる。 髪を伸ばしっぱなしにするよりむしろ気をつかわないといけない。 ちょんまげとはそこまでして維持しつづけなければならないほど美しいものなのだろうか? そうは思わない。髪型を変えると、新鮮な印象になるという効果はあると思うが そのためだけにちょんまげが流行るとも思えない。 思うに、まずハゲ隠しだろう。ハゲてないよ、ちょんまげだよ、というわけである。 しかし、これではあまりに悲しくないだろうか。 そこで、本命であるが、正直髪のばすのがうざくなったのではなかろうか。 江戸時代の写真を見るにみな綺麗に頭を剃って写ってはいるが、あれは写真用であろう。 実際はけっこう伸ばしっぱなしで、スポーツ刈りくらいには伸ばしていたのかもしれない。 長髪にしたことがある人は共鳴してくれると思うが、髪を伸ばすとシャンプーの使用量が跳ね上がる。 たとえ洗わなくとも、手入れが短髪より大変であることは確かである。 東アジア人の身だしなみとして、髷はゆうが、なるべく手間はかけたくない。 そうした江戸時代人の要求を満たすために、かつての戦国時代の英雄が開発した 新しいスタイルを活発に取り入れった結果の習俗なのではないだろうか?
ここはいつから一人語りするスレになったんだね
「即答」より早く、訊かれる前に答えるんじゃね。
その割にはだろうかだろうかの思いつきでしかないけどな
Wiki見て答えてるような博士が多すぎる まあ、ただの学士様なんだろうけど
まあ本職の博士に聞かなければならないような質問も無いし
日本の新石器時代は農耕や牧畜がみられないそうですが、 新石器時代にあたる縄文時代は尖石遺跡、板付遺跡など、農耕の遺跡が見つかってますよね? 結局縄文時代に農耕はあると捉えていいでしょうか?
>>830 文字の無い時代のことをなぜ日本史板で聞くのか? まあ考古学板は激しく過疎ってるけど。
質問の意図が今一つかめない。
>日本の新石器時代は農耕や牧畜がみられないそうですが、
新石器時代をどう定義するかで変わります。
普通、新石器時代って農耕や牧畜が始まっていると思いますが、日本の場合は問題にしないというのは誰の論なのでしょう。
>結局縄文時代に農耕はあると捉えていいでしょうか?
現在では縄文時代に農耕が開始されたと見る方が優勢だと思いますが、学界で決着がついたわけではないです。
どう捉えるかは結局あなた次第です。
仁徳天皇陵(大仙古墳)を世界遺産に!という動きがありますが、皆さんはどう思われますか? 歴史的文化的価値の部分と世界遺産としての適性の部分、両面あると思いますが
仁徳天皇陵を というよりも百舌古墳群と古市古墳群全体を世界文化遺産に登録しよう という話しだよね 天皇陵が未調査で実態が良く分からないという問題はあるが そこをクリアして 学術調査出来たら世界文化遺産の 適性も問題ないし、考古学的な研究が大きく進展する 現状のまま調査を拒否しつづけて 登録推進てのは虫が良すぎというか、「いつの時代の誰」かもはっきり分からない古墳っては 国内で通用しても世界では難しいと思うな ちなみに中世での天皇陵の扱いは、今みたいに宮内庁が厳格に一般市民から拒絶、管理ではなく 野放しに近い扱いを受けてた。 感覚としては「大昔の王様の巨大な土盛り墓」 現在のような管理体制になったのは明治時代以降 政治的に天皇制を利用するようになってから。
>>813 えー。
この時代の践祚、兄→弟とか、叔父→甥とか、多いじゃん。
聖徳太子の父の用明天皇も、推古天皇、次の崇峻天皇だって、兄→弟の継承に則ってるだろ。推古天皇は女帝だけど。
或る程度、天皇もしくは先帝との血縁が濃いことが大前提でも、、年齢や実務経験や人望やなんかで十分な力量があることの方が、
現天皇の子であることより重要だったんではないかい?
女帝は出ても、ずっと後まで幼君は無いだろ。
それと、この時代の皇族の人名でナンチャラ大兄王とかナンチャラ大兄皇子とか出てきて、決まって有力者で、皇位継承争いに関わってる。
大兄ってつくのは、この時代の太子号ではないんかいな。
>>833 西大塚みたいな農民が家建てて住んでたりみたいな例外もあるけれど、
概ね、祟りを恐れて手を出さず結果的に大切にされていたんでは?
>>835 墓なんで祟りを恐れるっていうのはあると思うけど、
古市古墳群だけでいっても、誉田御廟山古墳 (応神天皇陵)は江戸時代まで後円部の頂上まで一般人が参拝してたり
高屋築山古墳(安閑天皇陵)は室町時代には城の本丸が築かれていたりした
天皇陵ではないが津堂城山古墳にいたっては室町時代は城を築くため掘削されたりしてる
ちなみに野中宮山古墳の堀は平安時代のゴミ捨て場で前方部は現在幼稚園になってる。
>>835 管理されなくなった墳墓なんて余程の謂われでも無ければ他の空き地同様に利用されただけだろ
従前の土地利用を気にするのは現代人の感覚だと思う
838 :
日本@名無史さん :2013/06/05(水) 19:51:53.47
839 :
日本@名無史さん :2013/06/05(水) 20:06:31.16
>>834 言っていることがおかしい。
欽明天皇の嫡子は敏達天皇。
敏達天皇の嫡子が竹田皇子。
一方、厩戸皇子は敏達天皇の弟用明天皇の子にすぎない。
聖徳太子はあの時代誰もが認める究極の天才だったんだよ、
弟の子であっても天才なら即位できたんだよ、って過信しすぎ。
聖徳太子の政策の多くは蘇我馬子と推古天皇のものだし、
厩戸皇子は後半生推古天皇の宮がある飛鳥から離れた
斑鳩に引っ込んでて政権で冷遇されてた可能性すらある。
>>839 竹田皇子は早くに薨ったし、田村皇子は皇女腹だった。
蘇我氏を外戚とする厩戸皇子が太子だったとしても不思議はないんじゃ?
>>839 嫡子とか言うの? 太子制度が無かったとか言いながら。
>>839 どうも、魏志東夷伝の卑弥呼を前例として扱ったような形跡があるんよね。
大昔に女王が立って御簾の向こうで姿も見せず、一人の男子だけがが取次ぎをした。
こっち側で仕立てた記紀では、神功皇后称制の武内宿禰として、前例踏襲で、推古天皇と聖徳太子
魏志では女王号だったのでこれまた前例踏襲の名目で。
祭祀王と、政務を行う摂政。冷遇どころか、お伺いをたてるフリすら不要で、好きな場所で好きに
手腕を振るってたんではないんかい。
843 :
日本@名無史さん :2013/06/05(水) 21:23:56.74
>>840 >>841 天皇と大后の子は嫡子でしょ。
天皇と大后のヒメ・ヒコ政治は否定されていない。
そして推古天皇が即位した時点では竹田皇子は生きていた。
そして何より、厩戸皇子が死んだあと、推古天皇は皇太子を立てていない。
皇太子制度が完備していたならこんなバカな話はない。
結局、推古天皇が死んだあとはじめて皇位継承問題が起こり、
田村皇子と山背王が争って田村皇子が帝位についている。
>>842 なんか例えが無茶苦茶な気が…
神功皇后は応神天皇の母后なんだから、推古朝で比較するなら竹田皇子、その薨後は田村皇子とか厩戸皇子、山背大兄王が比較対象では?
武内宿禰は皇別氏族だけど継承権あったの? どう見積もっても重臣としか思えないので、推古朝なら蘇我馬子に対比するものかと。
卑弥呼の、佐けて国を治めた男弟と、辞を伝え居処に出入した男子一人とが、ごっちゃになってるようにも思う。
>>843 なんで竹田皇子の薨後に田村皇子じゃなくて厩戸皇子が立ったのさ?
てか厩戸皇子が推古天皇より長命だったら即位したってこと?
論旨が分からん。
845 :
日本@名無史さん :2013/06/05(水) 22:08:15.16
まぁ、竹田皇子亡き後、男性皇親で推古天皇に一番近い血縁だったのが厩戸皇子だったのは事実。
847 :
日本@名無史さん :2013/06/06(木) 18:04:19.94
>>844 竹田皇子は皇太子にたっておらず「太子」の称号ももっていない。
なのに竹田皇子より帝位に遠かった厩戸が皇太子で「太子」号を持つのはおかしい。
>>846 舒明天皇と推古天皇の皇子は竹田皇子のほかにも
尾張皇子や葛城王がいたとされる。
それぞれいつまで生きていたかは不明。
敏達天皇にはほかにも皇子が多く、厩戸皇子が一番有力とは言えない。
ちなみに敏達天皇は欽明天皇とその大后石姫皇女(宣化天皇皇女)の子。
それに対して厩戸皇子の父用明天皇は欽明天皇と蘇我氏の娘の間に生まれ、
血筋では異母兄敏達天皇にはるかに劣る。
>>847 話が変わってる。あんたが考えておかしいかどうかは問題にならない。
厩戸皇子が太子だったか、推古天皇の後継者だったか、が問題なので、
他の皇子との優劣を後世の視点で論じてもしょうがない。
制度としての「太子」を否定するあまり、厩戸皇子の位置も見失ってるような感じ。
理屈は複雑じゃないだろ。 推古は先后の子である押坂彦人では無く自分の子である竹田に継がせたかった。当然、継母である推古と継子である押坂彦人は不仲となる。 勿論、推古と同母兄弟である用明の子・厩戸との関係は押坂彦人に対してとは異なってそれなりの親しみがあったと考えられる。 ところが、竹田が急死してしまい、押坂彦人は当然次の皇位を要求する。だが、押坂彦人と対立する推古は自分に一番血縁が近い男性皇族である厩戸を後継に立てて対抗する。 厩戸にそれなりの支持(蘇我氏含め)があったので生きているうちはその地位について問題にはならなかったが、没後に欽明-敏達系が正当な皇統と考える連中が敏達系による皇位継承を掲げて押坂彦人の遺児である田村を擁立。 推古の本心は用明系の山背大兄であったと思われるが、田村擁立が正論であるがゆえにそれを抑えることができず、蘇我氏も田村を擁立せざるを得なくなった。 蝦夷が山背を退けて田村を立てたので両者が不仲のように考える人が多いが、 推古崩御後に山背がわざわざ蝦夷に支持を要請していることや入鹿が厩戸一族を滅ぼした時の蝦夷の激怒を考えると、 推古崩御の段階の蝦夷は今反対派と争って山背を立てても蘇我氏も山背も潰されるだけで時期が悪いと判断しただけで、皇極擁立も巻き返しのための時間稼ぎであった可能性がある。 だが、古人推しであった入鹿は山背と仲が悪く、大臣の冠を譲られると、山背の抹殺を図ったといったところでは?
>>849 というわけで、厩戸皇子が太子だったとしても、相応の推測は成り立つのだから、
書紀の記述を否定するなら、より強力で納得しやすい論証が求められるわけだ。
後世に規格化・様式化された太子とは趣を異にしただろうことは想像に難くないが、
推古天皇の後継者として政権にあった皇子を、後世の述作が多分に含まれるにしろ、太子と称するのがそんなに嫌かねえ。
遺子の山背大兄王が滅ぼされてしまったのも、厩戸皇子が相当の継承権を保持していたからと考えた方が理解しやすいでしょうに。
平安時代の藤原氏を見るまでもなく、権勢を得た外戚が継承問題に関わってくるのは当然のことで、
>>842 のような論法をするなら、蘇我氏の、弑逆とか、傍系皇子の立太子とか、女帝とか、強引な遣り口を、
後代の藤原氏が踏襲しているような気がするけどね。
>>836 野口王墓古墳(天武・持統天皇陵)に至っては、
鎌倉時代の盗掘の調査記録が治定の決め手になったそうだね
>>836 中世以降はむしろ陵墓は「穢」だったから
853 :
849 :2013/06/07(金) 08:11:55.56
849ですが、多少推測も交えてしまいましたが、 太子の呼称はあったかどうかは別として、 先妃の子である押坂彦人と後后かる継母・推古とその子竹田の間で皇位継承をめぐる対立があり、 その後の竹田の急逝を受けて押坂彦人に対抗するために、厩戸を特に後継者に指定することはあり得たと思います。 ただ、敏達系の押坂彦人に対して、用明系の厩戸ではどうしても立場が弱く、本人在世中は皇位継承者としての地位は保てても、死んだの子孫にまでは反映できず、 結局、押坂彦人の子孫が皇位を継いだと考えました。
死んだの子孫×→死んだ後の子孫○
855 :
日本@名無史さん :2013/06/07(金) 13:10:58.34
>>848 ほうほう、「皇太子」という地位がなかったのは認める、
だが、推古天皇の後継者は厩戸で間違いない、というわけか。
847を読んでもまだ分からないかね?
>男性皇親で推古天皇に一番近い血縁だったのが厩戸皇子だった
これが明らかに事実と異なることは明白。
それにもかかわらず、厩戸が実子を押しのけて推古の後継者についた
というなら理由は何?
856 :
日本@名無史さん :2013/06/07(金) 13:17:52.09
>
>>849 推古が夫敏達天皇の先后に激しく嫉妬し、押坂彦人の登位を拒み、
どうせなら同母兄用明天皇の子厩戸に譲位したいと願っていたというなら、
自身が死ぬ時に厩戸の遺児山背王を次の天皇に推挙すればよかった。
しかし、推古は山背と田村を呼びながらどちらにも明確な帝位の譲位を告げなかった。
そのために双方は自らこそが推古から譲位を受けたのだと主張し争った。
結局、蘇我氏の後押しもあり、田村が即位する。
推古が押坂彦人系を排除した形跡は全く見られない。
それどころか、田村皇子は推古天皇の娘・田眼皇女と結婚している。
田眼皇女は田村皇子より8歳以上年上であり、田村皇子が若い頃に結婚した妃であったことが分かる。
ただし、舒明天皇が即位した際にたった皇后は女王に過ぎない宝なので、田眼皇女はすでに死亡していたとみられる。
推古が押坂彦人系の排斥を図っていたならば、押坂彦人の嫡男に自分の娘を嫁がせない。
857 :
日本@名無史さん :2013/06/07(金) 13:53:42.32
歴史の勉強を一から始めたいんだが どの本を読めばいい? できるだけ事実が書かれていてるやつで
>>855 上宮系を後継にすることと、押坂彦人大兄系の排除が、セットじゃないとおかしいというのが、極端で勝手な考え。
臨終に際して、田村皇子と山背大兄王の双方に思わせぶりだったあたりをみても、女帝がそういう性情じゃなかったことくらい分かりそうなもの。
書紀をどこまで否定するんだろう。
厩戸皇子が有力な皇位継承者だったからこそ、山背大兄王も臨終に際して呼ばれたのだろうが、その記事は造作かね。
山背大兄王は、父も自分も皇位継承には遠い位置だったのに、覬覦して滅ぼされたのかね。
上宮王家の怨霊対策で、贈位のように太子と持ち上げて造作したとするなら、
大友皇子、大津皇子、長屋王なんかも、もう少し持ち上げられてもいいのに。
皇位やら太子やら立后やら、いつの時代も原理原則に忠実だったわけじゃないのに、
なんで聖徳太子にだけ固執するんだろうね。
恒貞親王、敦明親王、重仁親王、いくらでも例はあるのに。
>>857 まずは高校の教科書や副読本をちゃんと通して読むといいよ
860 :
日本@名無史さん :2013/06/07(金) 22:33:19.63
>>858 聖徳太子が持ち上げられるのは遣隋使・冠位十二階・国史編纂といった
蘇我馬子や推古天皇の功績を置き換えるためだろ。
大化の改新を持ち上げるためには蘇我氏の政治が悪徳であったことを
印象付ける必要があった。
怨霊対策とか馬鹿すぎ。
怨霊対策なら大友皇子、大津皇子、長屋王が政治を執ってたことにしないと
聖徳太子に釣り合わんだろ。
飛鳥時代に怨霊事件は起こってない。
少しは日本書紀を読もうよ。
>>860 女帝の功績まで置き換える必要があったのか?
三種の神器って実物を見た人いるんですか? 天皇は見られるのですか?
>>850 外戚が強かったのは、事実だろ。
実際に「宮」の立地は天皇の生母の氏族の勢力圏にある。
天皇の代替わりごとに遷ったのではなく、天皇の外戚の入れ替わりごとに遷ったという方が適切なくらい。
>>853 山背大兄王を皇位に立てるために、成務→仲哀を先例としてでっち上げた形跡も。
>>862 現代においてはいずれも見る事の出来る人は居ません。天皇も含めてです。
剣については明治時代にこっそり箱を開けて見た人の話が残っています。
>>864 ただの推論でしょうに形跡とかいうなら根拠を示せよ
>>858 >>860 本来は馬子の功績だったのを悪逆で無能な印象にするため厩戸皇子に置き換えたというのは分かるにしても、
書紀編纂の前後は女帝が多かったにも拘わらず推古女帝の功績をも厩戸皇子に置き換えたと言うならそれは何故だね?
怨霊という単語が気に入らないなら鎮魂でも追慕でも慰撫でも何でも宜しいが、
上宮王家への同情や哀悼があったればこそ後世の造作になったと思うが、そうではないのかね。
君主制である以上、政権の安定のためには、後継者が定まっている方が望ましいし、
当代や政権枢要の意中の人物や、衆目の一致する人物が居てもおかしくはない。
後継に擬せられた者を想定するのも、それを厩戸皇子とすることも、聖徳太子と尊称することも、
当時、太子や東宮といった制度がかっちりしていなかったにしても、そんなに無理な話ではない。
後代の持統系やら藤原氏やら権力を握り続けたい者は皇位を恣意的に継承したいと思うのは当然のことだろうが、
推古朝の蘇我氏と厩戸皇子についてだけ、それを認めようとしないは、ナンセンスとしか言いようがないんだが。
敏達系の男子が何人居ようと、推古女帝から厩戸皇子が男系で遠かろうと、そんな原理原則にいつも忠実だったわけじゃないでしょう。
他にいくらでもあるけど、わざわざ例示した、恒貞親王、敦明親王、重仁親王に言及されないのは、都合が悪いからですか、そうですか。
ところで、造作だとするなら何故「太子」とせねばならなかったのだろう。
功績著しいけど皇位継承に与る立場では無かった皇族など他にいくらでも居るだろうが、
日本に限らず中国・朝鮮でも良いが、儲君でなかった者に太子・世子と追贈された例があるのだろうか。
幕末の孝明天皇崩御は、当時の世相、朝廷の権威、崩御の突然さ、等相当な衝撃があったのでしょうか?
>>867 そりゃ当時の力関係やら誰を大王に立てたら自分や氏族に得かということだろうに。
随分後の関ヶ原だって対峙してみるまで誰が江戸方で誰が大坂方になるか判らなかったろ。
その立場になってみないと判らんことは多いわな。
871 :
日本@名無史さん :2013/06/13(木) 13:51:49.91
>>867 なぜ推古朝の聖徳太子だけが政治に携わったと書かれるかの説明になっていないが?
おたくの意見では古代においても後継者は決まっていたほうがやりやすく
皇太子という名前でなくてもそういう人物はいた
そして聖徳太子のように天皇の治世に携わっていた、というのだろう?
ならば、古代の歴代天皇に○○太子は存在していなければならず、
天皇に代わって皇太子が大きな政治活動をしていなければおかしい。
しかし、他の天皇にはなく推古朝の聖徳太子だけが
推古天皇や蘇我馬子を抑えて政治を一手に行っていたと描かれる。
これはおかしいとしか言いようがない。
日本書紀編纂の命令を出したのは女帝ではなく男帝の天武天皇だよ。
天武天皇は中国に倣って万世一系、男系継承を常としたから日本書紀はその意向に沿っている。
女帝の治世は頼りなく、しっかりとした男性皇族が補佐するというのも
天武の母斉明女帝ー天武の兄中大兄皇子の関係に似せている。
場所はどこでもいいんだけど、江戸時代に 例えば三多摩の百姓が、お伊勢参りに行く場合 どのような手続きを取る必要がありますか? 通行手形を菩提寺に発行してもらうだけでおk?
>>871 古代の歴代天皇の後継と目され廃されなかったけど結局登極しなかった人って例えば誰ですか?
書紀や伝承を全部鵜呑みにしないまでも相応に優秀な人物が居たと考えて何かおかしいのでしょうか?
造作するのならなぜ傍系の厩戸皇子にする必要があったのでしょう
田村皇子が政治を執っていたことにしたって問題なかったと思いますが
天武天皇の意向とやらと後継の天皇や編纂した官人がそれに忠実だったとする根拠はなんですか?
874 :
日本@名無史さん :2013/06/15(土) 01:19:36.11
>>872 往来手形
江戸時代の旅行者の旅行許可書で,名主や所定の役人が発行した。往来手形には旅行者の氏名・年齢・居住地のほか,
所属する旦那寺や旅の目的などが記され,関所手形と兼用できるしくみのものもあり,
なかには旅行中の死亡事故に際しての葬り方にまで言及している場合もある。とくに旅先の旅籠屋での宿改めに利用された。
往来手形を持たないものを抜参りと称し,とくに伊勢参宮者に多かった。
抜参り
近世の伊勢参りの一形態。初見は《寛明日記》の慶安3年(1650)3月14日の条。近世初期には村役人の許可を得ない伊勢参宮を抜参りと呼んでいたが,
しだいに主人や親などの許可を得ずに奉公人や子どもなどが参宮することを呼ぶようになった。
また慶安3年のほか,1705年(宝永2),71年(明和8)のお蔭参りも抜参りと呼ばれることがあった。近世中期以降になると,
抜参りを阻止した主人などが神罰を受けたなどということが信ぜられ,しだいに黙認されるようになった。
関所の手前には、関所抜けを手引きする村があり、お金でなんとかなったらしい。
天海=明智光秀説をどう思いますか? 俺は信じてる側なんですが。 しかしいまいちゆらいでいたりもします。 そんな俺を論破してくれませんか。
876 :
日本@名無史さん :2013/06/15(土) 01:47:15.88
>>875 その説だと先日亡くなった木村次郎右衛門(116歳)さん
と同様な長寿記録に並んだはずでは?
年齢のことは考えてなかったです。 照らし合わせるとその年齢ですか。。。 初めてこの異説を聞いた時は飛び跳ねるくらい ビビったんですが、やっぱり無理があったんですかね
最近は親子2代説もあるなぁ。
879 :
日本@名無史さん :2013/06/15(土) 19:19:43.85
>>873 天皇家は世襲
父方と母方の血筋で決まる
優秀かどうかで天皇が決まることはないよ
聖徳太子以外で、帝位から遠い血縁だったのに「優秀」というだけの理由で
あまたの自分より血筋の良い皇子たちを退けて登位した例を挙げてくれるかい?
>古代の歴代天皇の後継と目され廃されなかったけど結局登極しなかった人
これは誰に聞いてるの?871のどこにもそんな主張は書かれてないが。
君の主張だろ?
>>879 満足に議論するつもりが無いようなのでもういいです
戦国時代に、仁徳天皇陵とかに城を築いても良さそうなのに、当時の人もこれは天皇の墓だと認識して遠慮してたんですか?
>>881 そういえばそうですね
山城にしては低すぎるからなのかなあ
2,300メートルの山に築くから、10〜20メートルだとアカンのかも
そういう認識はあったみたいだし、堺近辺は戦国時代にはそれほど城を作る意味がなかったのでは 京兆家の混乱のころの誉田城は応神天皇陵を使ったという説もあるし、 いわゆる百舌鳥古墳群の中にも城として使用されたものもあるようだけど
ここの
>>836 にも実例がありますね < 古墳を城に
みなさんありがとうございます。 古墳って町や街道と離れてることが多いから、城を築くとしても砦のような感じだったんでしょうね
壇ノ浦で平氏は滅亡ってことになってますが、 平氏上位の北条家がいながらなんで平氏滅亡なんですか?
滅亡したのは平氏じゃなくて平家。ここで言う平家は伊勢平氏の清盛に連なる一族の事。 平氏上位って何だ?
桓武平氏だからかな? 平氏の中でも格が上ってことなんでしょう
北条家が平氏上位ってのも意味わからん
北条が平氏というのも厳密には 確認できないというとこまで話が戻るか。
飛鳥浄御原令はなぜ飛鳥浄御原令と呼称するのでしょうか。 例えば飛鳥令と呼称しても後続の令との区別に問題はないと思います わざわざ浄御原を加えて呼称する必要性とはなんなんでしょう
俳優のえなりかずきさんが、 幕末の三舟の一人である山岡鉄舟の名言を番組で披露していました。 「基礎を100%身に付けた後で、個性というものは自然と醸し出されるものだ」 というような主旨のものでした 山岡鉄舟は書家としても有名なので、 名言にあたるものも数多く残していますが、 私はこの内容に相当する山岡鉄舟の発言を知りません。 元ネタがあるなら元ネタを教えてください。それとも、えなりかずきの創作なんですかねえ?
>>891 近江宮で出されたから近江令
飛鳥浄御原宮で出されたから飛鳥浄御原令
他に何かある?
スレチならすいません 質問です 鉄竜海上人、即身仏について質問です。 私が昔みた子供向け学習漫画で、即身仏になった人で 1人を殺して出家 2日本中を旅してまわり人々を助けまくった 3目の病気が流行っていた町で自分の目をくりぬき奉納した 4即身仏になって死ぬ直前に『私は死んだ後も人々のためにありたい』と言った という人がいたはずなんですが、ぐぐると、鉄竜海さんが1と3にあてはまるんですが 日本中を旅して人助けをした という記述がなく、また、即身仏ではなく病死で、死んだあと墓を掘り返して ミイラになる処理をされた、とネットに書いてありました。 1〜4があてはまる即身仏になった人は他にいますか? それとも私が読んだのは鉄竜海さんであってるのでしょうか?
>>894 南岳寺の鉄竜海上人ではなく、注連寺の鉄門海上人であれば、おおむね1〜4の逸話にあてはまるかと。
(即身仏となった経緯については異説もあるようですが)
江戸幕府の行政文書、中央地方を合わせたものをまとめた全集はありますか? そもそも残っているんでしょうか?もし無ければ、作ったら何冊くらいになりますか?
大宝律令によって定められた刑罰を総称して何と言いますか? また大宝律令によって定められた位階制 の最上位と最下位を教えください
700年〜ぐらいの当時、 金と銀と銅と石油を産出した国 また銅を産出した国朝廷に献上されたことを祝って改められた年号を教えてください さらに 石油を産出した国は日本書紀で何と記載されていますか?
藤原仲麻呂政権によってつけられた四文字の年号を何といいますか? 退位した天皇が再び皇位につくことをなんといいますか?
宿題は自分でやれ。ググればすぐ出て来るだろ。
授業の宿題を歴史学博士に聞こうという時点でお門違いも甚だしい
授業の宿題なんだからてめーのノート見ろって話だ
>>898 や
>>900 の内容なら教科書、図表見りゃすぐ分かるだろうが
戦国時代板の範囲かもしれないけど、こちらで。 武田信玄や上杉謙信は、なぜ出家したんですか? 出家すると、なにかメリットがあったのですか? 信長・秀吉・家康が出家しなかったのは、キリスト教徒との貿易をしたかったからですか? 素人丸出しの質問ですいません。
信仰心のある人は出家すると精神の安寧を得る事が出来ます。 信長は自分が神になったから仏は要りません。
信長が神になったとか博士の見識は素晴らしいですねw
>>905 神になったとか言ってて恥ずかしくないの?
>>904 出家するもしないも本人の自由というしかない。
出家させられたケースを除けば本人の信仰心というのが一番だろう。
戦国時代の人間ではないが、足利義満のような打算的な理由もあるけど。
軍人として著名な下記軍人を歴史上の重要度で格付けして下さい 山県有朋 東条英機 東郷平八郎 乃木希典 石原莞爾
>>908 現代人の教養として一般的に知らないと恥かしいという点からは
東条英機>山県有朋>東郷平八郎>乃木希典>石原莞爾
日本の政治的進路に与えた影響の大きさという点からは
山県有朋>石原莞爾>東郷平八郎>東条英機>乃木希典
軍事面のみでの功績としては
山県有朋>東郷平八郎>乃木希典>石原莞爾>東条英機
どうもありがとうございます 山県有朋、評価高いですね何故か自分の中ではメジャーになりきれないイメージ なんだけど、やっぱ強いですね 軍事面に特化した場合、東郷平八郎がトップかと思いました 石原莞爾は満州事変〜日中戦争の頃の日本軍のキーマンて認識で良いですよね?乃木将軍は人間的に立派なイメージですが、軍人としてはこのメンツのなかじゃ、 やや格落ちしちゃうのかなとにかくありがとうございます
>>910 山県は当時から人気が無いけどw陸軍創設の功績は第一だろう
戦闘に於ける功績という意味では東郷が上だろうけど山県は軍そのものを作ったわけだから
石原については満洲事変をやらかしたおかげでその後の陸軍の暴走を招いた元凶
石原自体が陸軍で大活躍したり歴史を動かしたんじゃなくて流れを変える契機を作った人
そういう意味で東郷の影響というのも日本海海戦での大勝利自体よりも
その栄光と薫陶によって海軍の進路を硬直化させた負の面が大きいと思う
乃木は昭和天皇や同時代人が心酔するくらいの人格者だし作戦面でも必ずしも愚将ではないけど
歴史上の人物として重要度が高いかという視点ではこんなもんだと思う
ありがとうございます 軍隊創設にあたり、山県の前段階として大村益次郎の 功績も大きいと思いますが、大村をリストに入れた場合の相対的評価は如何でしょうか? 大村は靖国神社創設にも深く関わっていますが、知名度的にはやや劣るかな?
>>912 大村か…
日本陸軍の青写真を作ったのは大村だろうけど道半ばというかかなり早く斃れてしまったからなあ
長生きしたら山県以上に活躍したことは間違いないだろうが山県以上に狷介だった気もw
軍制を整備しながら自らも指揮官として前線経験のある点で山県と似てるけど
やはり長く生きて務めた山県の方が大きいんじゃないだろうか
先の五人と比べるに大村だけ近世の人物なことと対外戦争でなく内戦の経験しかないので
端的にどの位置に挿入するかは悩ましい
余談だけど
近代史板って過疎ってないならそちらの方が詳しい人が居るんじゃないだろうか
山県は政治家としての方が有名じゃないかな いくやまいまいの山県 軍人としての知名度では東郷が1番で次は乃木さんしりとりで有名な乃木将軍かな りくぐんの・のぎさんが・がいせんす・すずめ・めじろ・ろしや・やばんこく・くろぱときん・・・ あくまで知名度ですがね
知名度じゃなくて重要度の話では?
>>906-907 この場合の「神になった」は「神を自称した」って意味だから恥ずかしいのは信長だけだろ。
>>916 例の日本史にしか根拠が無い上に、フロイスの記述を全面的に盲信する必要もない。
918 :
日本@名無史さん :2013/07/02(火) 07:40:02.28
日本の朝廷の行政組織とかは、中国の律令政治を学んだときに中国モデルで作ったのかななんて想像できますが、 鎌倉幕府の行政組織ってモデルがあったんですか? ひょっとして奥州平泉に先進的行政組織が運営されていて、頼朝が義経から伝え聞いてたとか? でも、その場合、平泉のモデルは? お答えよろしくお願いいたします。
大塩平八郎ってかなり有名だし、ネームバリューもあるけど、 貧民の為に豪商を襲ったりして、1日かからず平定された乱の割りには ネームバリュー高過ぎませんか? 貶すつもりはないし、立派な人だったとは思いますがね
920 :
日本@名無史さん :2013/07/02(火) 13:03:40.63
鎌倉幕府の行政組織のモデルになったのは藤原摂関家に置かれていた「政所」 藤原摂関家では多くの家人や多数の荘園管理のために 政所という独自の家政機関が置かれていた (摂関の正室を北政所と呼ぶのもここから来ている) 源頼朝は貴族のこの組織を学ぶために都から大江広元を呼び 広元を鎌倉幕府の政所別当に当てて組織を作らせている
薩摩長州とか薩長とかいつも薩摩の方が先にきますが、 幕末〜明治〜の流れを見ると長州の方が人材に恵まれ、 実質的にも国を動かしていたと思われます それなのに何故長州薩摩ではなく、薩摩長州なんでしょうか? 維新三傑の二人が薩摩だったからですか?
>>921 「ちょうさつ」より「さっちょう」の方が言い易い
>>919 死んだあとも檄文が回し読みされたり、実は生きていた説が出たり、
影響力があった。
>>919 陽明学者で幕末志士に影響与えたからかね
>幕末〜明治〜の流れを見ると長州の方が人材に恵まれ 人材に恵まれというのは語弊があるから、そこは「途中で寝返った薩摩より首尾一貫反幕だった長州」の方がいいんじゃねぃ。 逆に言えば薩摩が寝返ったから倒幕を成せたとも言える。 長州の影が薄いのは明治新政府のグランドデザインを成したのが大久保で、一寸前のレスにもあるが「法王」と呼ばれた山縣は当時から人気がなかったからな。 薩摩長州という言い方に俺は疑問を感じない。まぁ主観の話になっちゃうから正解なんてもんは無いと思う。 大塩平八郎ってよく分かんない人物なんだよね。何を考えていたんだか… >軍人として著名な下記軍人を歴史上の重要度で格付けして下さい いや…ここは受験板でもゲーム板でもないんだから、歴史学板としては人間のレイティングなんかできないよ。 他四名はレッテル厨が湧きだしそうなので東郷平八郎を例に挙げると、 日本海海戦のみに着目するなら、彼は無能ではないし運だけは良かったといえるにすぎない。 日露戦争全体を敷衍するなら上村と交代していた方が良かったんじゃねぃという「イフ」がつきまとう。 戦後の海軍に精神論を注入した元凶で、大正〜終戦迄の概括としてなら功績より悪影響の方が遥かに大きい。 >武田信玄や上杉謙信は、なぜ出家したんですか メリット・デメリットを勘案した結果じゃねぃ 浄土真宗と結びつく利点と距離の置き方をみていると、謙信より武田信玄に宗教との結びつきには一日の長がある。 こんな事を書くと、謙信はそんなこと考えていねぃと厨に食いつかれそうだがw
博士はアンカーも知らんのか
乃木は無能じゃない!!!
歴史教科書や歴史本を読むと例えば「倭寇」や「悪党」などその時代その時代の 民衆に災いをもたらす者やアウトロー的勢力の単語が出てきます 同じように今後は「広域指定暴力団」とか「カルト的宗教団体」ていう単語が 教科書に太字で出てくるのでしょうか? 前者の「倭寇」「悪党」などと後者の「広域指定暴力団」「カルト的宗教団体」に 本質的な違いや教科書掲載の是非に関しての違いはあるのでしょうか?
>>919 大塩が幕府の役人だったということも大きい。
その元役人が明確な大義を掲げて反幕府の反乱を起こしたという点。
単なる一揆と幕府が軽視できなかった理由のひとつ。
それと一日で平定されたとは言え、幕府直轄の大坂市街地が掻き乱されたという点も幕府としてはダメージが大きかった。
実際、200年間の平和ボケもあってか大坂城代軍と大坂町奉行との連携すらまともにとれなかった。
あと、彼の行動が一瞬にして全国に伝わり、その義挙に影響を受ける輩が少なくなかったこと。
大塩の乱だけでは留まらない動きに対して幕府は更に同様した。
後の天保の改革の失敗や、幕末に向かっていく反幕府的な風潮の嚆矢になっているという点からもその意義は大きい。
931 :
日本@名無史さん :2013/07/03(水) 22:34:15.96
大塩はもともと幕府の与力だったんだよね 与力って今で言うならそこそこの警察官僚とかかな?
大塩は幕府の方針には誰よりも知悉していた なのに、何故か、落し処について何の施策も検討した形跡がない 現代なら病名を付けられて無罪になれる罠
三週間前に行われた大隈重信の「国民葬」と比べるとあまりの落差で、 国葬が「民抜きの国葬」って揶揄されるほど存命中から山県有朋は不人気だったんでしたよね
徳川家康の本名って、 松平竹千代? それとも 源家康?
>>929 何が言いたいのか、訊きたいところは何なのか、相手に伝わるように書きましょう。
>>936 ほらよ
人別支配が実効性を伴って可能になった現代と、形式的とは言え人別支配が試みられた律令時代が崩壊し 各地の土豪に地域の統治が部分的に委任されるようになった平安末期やその延長である室町戦国時代とを同一の俎上で 論じることは危険だと思います。また土豪といっても、古代からその地で信頼を受けている勢力であったり、 中央から地方へ派遣された人たちが顔を務める勢力に委任されていますから、その点から言っても その権力的な性質だけを抜き出して同一視するのは危険と言えます。 悪党とは、国衙から委任された地方行政機構どうしがその管轄領域をめぐって争ったときに相手を罵倒して言う言葉であって 暴力団と同義の言葉ではありません。言うなれば、警視庁が神奈川県警を指して、悪党と言うようなもんです。 また当時は中央政府による実効支配性がゆるみ自力救済が認められていましたし、三権分立の概念が存在しなかったので 行政警察と司法警察の区別もありませんでした。よって、かなり統治機構によって一般人の自由が制限されるようなケースがあったでしょうが だから、現代の暴力団やカルトと同じ違法組織ということにはなりません。当時としてはそれが普通の組織のあり方です。 また鎌倉時代に日本では世情が乱れ、多くの新宗派が勃興しましたが、これも現代のカルト的宗教団体とは異なります。 そもそも当時において、現代のような政教分離はなされていませんでしたし、信教の自由も認められていませんでした。 もちろん、桓武天皇以来仏教教団が政治に介入することはなく、また政治権力が仏教教団内のやり方を決定することはなかったという意味 において政教は完全に分離されていましたが、仏教の僧は国家が認定していましたし、世俗における身分差がそのまま仏教教団の序列に 反映されていました。この国家に認定された、かなり位が高い学僧たちによって鎌倉時代の新宗派が起こされたという点で、 現代のカルト的な宗教団体とは異なります。むしろ、現代の新興宗教の多くは、江戸時代におこされた金光教や天理教、黒住教と 比した方がよいと言えます。
律令国家の時代って経済に関しては共産主義と基本的に同じですか?
山口組やオウムくらいになるといつかは歴史教科書に出るんじゃない?
>>934 何が言いたいかよくわからんが
竹千代=幼名
松平→徳川=苗字
藤原→源=姓
>>940 学生運動の頃の極左組織とかも出るんじゃね?
右翼はどうだろ?
藤原とかは、氏、のほうがわかりやすいと 思うのだけどね。 初心者には、苗字と姓とどうちがうの? というのもあるし。 「せい」じゃなくて「かばね」だよ、というとまたその説明も いるしね。 だから細かく言うと、氏=本姓、と説明したりね。
山県有朋は実力者だったのに何故そんなに人気がなかったのですか? 豪椀と恐れられながら、一般国民からの人気がパッとしないおざーさんみたいな感じですか?
>>944 人気と実力が正比例しない端的な例を知っているのに何が疑問なんだ
>>939 律令国家の時代に経済という概念は無いので論じる事が出来ません。
>>945 それはつまり、小沢一郎は政治家として間違いなく実力者だということ?
>>947 小沢の例を挙げたのは
>>944 なんだけど
山県と同等とまでいかなくとも実力者と言えないならなんで例示したの?
小沢一郎って故三宅氏が「平清盛の再来」とか言ってたけど、本当にそれくらいの大物感、存在感、実力があるのだろうか
みなさん、
>>782 に対して何か意見、所感をお願いします
映像等の記録媒体が進化した現代社会でも陰謀論、暗殺説、トンでも論などは
続いていくのでしょうかね
>>951 革命がおこれば、以前から歴史認識を継承してきたエリート階層がさまがわりするので
自分たちの革命を正当化するために陰謀論や当時のプロパガンダなどを真に受けた歴史観が成立する可能性は高くなるでしょうね
でも、無から歴史が生まれることはないと思います。
あくまで当時の記録から証拠を探し出した上で、当時の感覚が分からない同時代人をあざむくべく
情報操作するという形をとると思います。
だから、もしあなたがあなた自身それが明らかにトンデモと理解してトンデモ論をブログに書いたとしても
200年後の人がそれを事実として悪用する可能性はあると思います。
あなたが今のあらゆる世界情勢を自分の目でたしかめ記憶し 500年間冷凍睡眠することができたなら、あなたは500年後の世界の人に重宝されると思いますよ もちろん正直にすべてを語る必要はないです。
>>952 >>816 見落としていて申し訳ないです
仰るように事件がその後の社会や時代の動きに与えた影響の大きさによる部分はあるでしょうね
でも、それを差し引いたとしても、大久保暗殺などはもっと有名な歴史上の事件として扱われても良いと思うんですよね
>>953 ありがとうございます
どんなに科学技術が発達しても、長い時間が経てばいろいろなとんでも論が生まれますね
自然法則は裏切りませんけど、人は裏切りますからね
>>955 なるほどね
他人の見解を率直に聞きたいんじゃない
自分に心地よいお墨付きが欲しいだけか
>>782 トンデモ説や陰謀論なんてのは歴史学の範疇ではない
信憑性を感じてしまうのは自身に学問的態度が備わってないから
それでもなんでも学問的に考察したいのなら社会心理学でも学べ
記録映像が捏造されてるなんてのは陰謀論者の常套句だしな。
編集は可能 それにゴンゾームービーが必ずしも真実ではないという批判はいくらでもあるよ
山林の土地の所有権はいつ頃からどのような形で認められるようになったのでしょうか?
>>963 明治より前の私有地はどうでしょうか?それぞれの村で独自に土地を分配したのでしょうか?
回答を必要としている質問者は一言礼を書き込む手間すら惜しんで質問に質問を重ね、 回答する側にはどれだけ手間を掛けさせても当然なのだという風潮が改まる事はないんだろうなぁ… 荘園時代からクドクド書き連ねたら無言で立ち去るんだろうけど、 なんか釈然としないね。
質問する側のレベルが低いのは昔から変わらんが、頓珍漢なリンク貼ったりと回答者の質も下がってるな
博士の質の低下は今に始まったことではないと思いますがね
民主党が与党になって三年経っても、反権力を口にすればマスコミや選挙民に喜ばれるとか、評論家のように批判さえしていれば与党議員の義務を果たせると考えていた民主代議士のように、 代わりに回答するわけでもなく、「アレは駄目、コッチも駄目」俺様の目線だけが正しいのだという評論家サマは昔から居たねw 文句さえ言っていればいいのは小学生迄という、基本的な社会常識を学習する機会がなかったんじゃねぃ。
小学生乙
南雲忠一ってなんで第一航空艦隊の司令長官になったんだろ? 水雷屋さんだって話だけど。
wikipediaによると 「この人事は海軍大臣吉田善吾と連合艦隊司令長官山本五十六によって決められた。候補には 小沢治三郎(37期)もいたが、慣例により年功序列で南雲に決まった。松島慶三は山本が 扱いづらい小沢より航空参謀をつければ制御しやすい南雲を司令官に選んだと指摘する。」 だそうだ。これが間違ってる場合は誰かが訂正してくれるだろう。
>>971 さすがにそれは読んだけどw
慣例と年功序列ってことね。
ありがと。
いや年功序列と、一説には山本五十六が操縦し易いと判断したから、という事だろう。
>>973 >>971 のwikiにも記述ありますね。
要するに神輿には向いてそうって事ですか。
誰がやっても大差無かったのかも。
対抗馬の小沢治三郎も水雷屋のようだから大差なかったかもね。 wikipediaの記事を読むと航空参謀だった人が「飛行機の知識が絶対的に不足している」と 評しているらしい。
問題は世渡り上手な参謀 源田實 が付いたこと
日本史上三大女傑と言ったら誰だろう? 俺的に候補 神功皇后 橘三千代 和気広虫 北条政子 日野富子 ねね 江 春日局 それから、卑弥呼と巴御前は実在しないだろうから省いた。
チラシの裏でやってくれ
wiki無断転載の自称博士
前方後円墳って言葉ですが、方形を前として円墳を後ろとしたのはなぜですか? 方形が前ってことは入り口がこちらにあるってことでしょうか?
>>980 特に理由なくそうなったと読んだ記憶があるなあ
>>980 構造としては円墳に祭司の場としての方形の部分が付いてる形になってます。
墓室は円墳の方に有ります。入り口は横か上です。
横穴が本来の形ですが巨大化した結果横穴に出来ないので竪穴になったらしい。
>>982 先に竪穴で後から横穴じゃないの? 箸墓古墳の近くの桜井茶臼山古墳や
黒塚古墳は前期の竪穴式だよね。それとも前方後円墳になる前の話?
でも確か弥生時代の墳丘墓も上から掘る竪穴だし、そもそも構造的に言って
横穴の方がめんどくさいと思うんだが。
面白い説があって、下に方形、上になにか、という 普通のどこにでもある墓の形を文献かなんかで 勘違いして、3次元を2次元に間違えたのでは、というのがある。 あの形は確かに不自然極まりないしね。
>>980 「前方後円」って言葉を初めて使ったのは江戸時代の儒学者であり尊皇家であった蒲生君平
彼は、前方後円墳の形状は車を模したもの、
すなわち、後円部=車の本体、造出=車輪、前方部=車を引く取っ手
と考えたことから、方形側を前としたもの
近代以降の考古学的な研究成果とは何ら関係ない
>>984 中国の「天円地方」思想のことを言いたいのか?
>>980 最初期の前方後円墳(箸墓古墳等)を地上から観察すると前方部分からでないと全容が見れないから
前方後円墳という名称もあながち間違いではないと考えられる
ちなみに後円部からみるとただの円墳
Wikipediaを胡散臭いと思うのに2chをそう思わないのは奇異としか言いようがない
>>988 リンク先の記事に載ってる画像の右下にある数字なら、その史料を収蔵している国立科学博物館が管理のために打った番号と年月日だろ。
歴史学博士って、情報をかき集めて過去の物事を総合的に判断してる人達? それとも過去の情報を得るための科学的な手法を確立してる人達?
回答に値する質問かどうかを判断する人達
>>993 そんなレスする暇があるなら答えてやればいいのに