♪邪馬台国ドンと来い!♪119

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1親魏倭王卑弥呼
畿内説も九州説も仲良くね!♪(゚▽^*)ノ⌒☆

朝満<ヽ`∇´>ニダッ!老人は来るでない!アッチ(・∀・)イケ!!

前ヌレ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1352841537/
2日本@名無史さん:2012/12/26(水) 15:11:04.48
 弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。

 漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)
の邪馬台国【銅鏡祭祀】に国を譲る【銅鐸処分→九州=銅鏡に鋳直、九州以外=埋納】。
 これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、「和」国は分裂。卑弥呼はその最中に急死する。

-分裂した「和」国と狗奴国包囲網
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑   ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘

 卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎えた後、奴国、さらに隅国(隼人)と軍事同盟を結び、肥後狗奴国
(後の熊襲)を一網打尽で滅ぼし、「和」国を再統一した。
 その男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、倭(和)国の首都を筑紫・博多から、先遣隊長ニギハヤ
ヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷。その女系先祖・卑弥呼(アマテラス)台与伝来の【銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始する。

※古事記・日本書紀が、日向長官の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。
 銅鐸祭祀をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)国建国の偉大な功績を消され出雲に祀られる。
3日本@名無史さん:2012/12/26(水) 15:13:59.33
-「大和」朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂日向(投馬国)系大王
〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王
                    →(高句麗の南侵に脅かされた)百済・新羅・伽耶への軍事援助で王権強大化
〔後期古墳〕近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王


-継体・安閑・宣化=日向系大王
  …継体の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君・磐井の乱」を誘発
-欽明〜♀皇極(斉明)=筑紫系大王
  …筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々皇后に入れ大王の外戚となる)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-天智・弘文=日向系大王
  …「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益を完全喪失。国費大消耗&大増税→「壬申の乱」へ
-天武〜♀孝謙(称徳)=筑紫系「天皇」
  …両系和解の古事記/日本書紀/風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-光仁・桓武〜現在=日向系天皇
  …筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都
4日本@名無史さん:2012/12/26(水) 17:00:58.13
>>1
朝満老人を名指しで排除乙!w

ところで前スレで話題の徐福伝説は気になるな
チュートリアル福田とか福沢ジャストミート朗とか福山雅治とか、福の付く名字は徐福の子孫だとか小耳に挟んだが。。。
5日本@名無史さん:2012/12/26(水) 20:48:32.99
三種の神器について、いろんな学者が推測で書かれてますが。
皇室は、どのように考えているのでしょうか?
また、すべてを見た学者はいるのでしょうか?(見ても、何がなんだかさっぱりわからなく、信ずるしか・・・)

もし、現存するものがあるとして、
科学的に何時の年代に作られたか立証されているのでしょうか?

根拠は古文書に頼るしか無く、立証は歴史学者では無理では?
6日本@名無史さん:2012/12/26(水) 20:56:35.38
スレ違いじゃね?
7日本@名無史さん:2012/12/26(水) 21:06:05.49
ここまで諸説が出て、高名な学者があれこれ論じながら結論が出ないということは、邪馬台国は日本じゃないということじゃないの?

方向や水行の日数から見て、フィリピンやボルネオ、ジャワ島あたりに、ジャングルに覆われた邪馬台国があるのではないかと思う。
海に沈んだ幻の大陸スンダランドの伝説を描いたとするのが最も合理的だろう。
8日本@名無史さん:2012/12/26(水) 21:19:39.45
>>7
それは水行十日と二十日だけに注目してほかの記述は全部無視した論。
古代にフィリピンやインドネシアが九州の国々を統属出来るわけがない。
畿内説の人が九州を突き抜けてしまう、と言ったために、エジプトなどとんでも
ないところが邪馬台国の候補地になってしまった。

邪馬台国論争ではそこそこ結論は出ている。たとえば、畿内説は三角縁神獣鏡
が魏鏡であり、卑弥呼がもらった鏡だとしてきた。これが邪馬台国畿内説の
考古学的柱だとまで言われた。

結局、三角縁神獣鏡は国産で落ち着いた感がある。
畿内説は終わったのか。終わってはいないようで、畿内説は次の論点を
出してくる。箸墓が卑弥呼の墓だとか、纏向が邪馬台国だとか。
まあ、負けを認めないわけだから、きりがない。
9日本@名無史さん:2012/12/26(水) 21:50:49.46
782 :卑弥呼は満州にいた:2012/10/16(火) 21:24:39.30
天照大神 ジャスコでブラジャーと ショーツ買ひ
ワコールの ショーツは高いと 不平言ひ

わっちには アレも付いてゐると 前めくり
ふたなりで セックスに狂ふ 天照大神
10日本@名無史さん:2012/12/26(水) 22:43:34.47
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身
耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に
4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる
自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか
11日本@名無史さん:2012/12/27(木) 02:06:49.84
>>5
三種の神器のうち、宝剣は平家の神宝
大河ドラマ「平清盛」を見なかった?
最後、壇ノ浦に沈めた宝剣は清盛が若い頃から身に付けていた刀だったじゃないか
元々は二種だったんだよ、天照を宿した鏡と天皇の証である璽
天村雲剣は平家が代々継承してきた刀だったものを安徳帝のときに皇室のレガリアに加えた
結局、行方不明となったのは宝剣だけ
璽は平家の身内が保持して後白河法王に返還しているし、鏡は元々持ち出さなかった
だいたい桓武は平氏から出た天皇であって、藤原氏によって平安京の垣の内に閉じ込められて利用されてきた
それを初めて解いたのが院政〜平家政権であったが、それも100年で終わり、源氏を頂く武家どもが幕府をつくる
源氏もかつて清和天皇を出し、その後しばらくは朝廷内で源氏が要職を占めた時期がある
12日本@名無史さん:2012/12/27(木) 07:16:49.93
いや、やっぱりもう邪馬台国論争は終わりでしょう。この人に一票。
http://www.smjsearch.com/yamatai/yamatai.html
13日本@名無史さん:2012/12/27(木) 08:03:47.57
>>12

マルチポストで荒らし確定
14日本@名無史さん:2012/12/27(木) 09:12:13.20
>>13
12は屁理屈を並べているように見えるが、実は論理が閉じている。
確かに辰韓の位置には疑問があり、「渡海作戦」と「馬韓の東」を両立させようとすると平壌くらいまで持っていかないと説明がつかない。
15サガミハラハラ:2012/12/27(木) 09:26:02.01
三種の神器は何度か火災にあっています。
現在皇室が所有する神器はつくりなおされたもの(レプリカ)です。
16日本@名無史さん:2012/12/27(木) 09:37:48.95
>>7
そうじゃなくて、高名な学者は常識がたりない、常識で物事の判断ができないということですよ。
もっとも、倭人伝は継ぎ合わせで編集したということもありますが。
17日本@名無史さん:2012/12/27(木) 09:59:01.10
「はい」と返事していたり、生菜(さしみ、漬物)を食べていたり、偉い人が通ると道端に寄って土下座していたり、
倭=日本列島 であることに間違いないよ
18日本@名無史さん:2012/12/27(木) 11:47:24.66
邪馬台国なんて関東の人間にはまるで関心がない。
なんか西のほうにあった変な国としか思われてない。
19日本@名無史さん:2012/12/27(木) 11:54:20.87
邪馬台国関連スレの住人の七割は在日か半島人
20日本@名無史さん:2012/12/27(木) 14:20:54.49
いいんだよ。トンデモはいくら書いたところで相手にされないんだから。
21日本@名無史さん:2012/12/27(木) 16:12:31.40
>>18
関東は蝦夷の国だったからね。
22日本@名無史さん:2012/12/27(木) 16:38:29.75
蝦夷だけが住んでたわけじゃないよ。環濠集落や3世紀の前方後円墳もあるのだからね
23日本@名無史さん:2012/12/27(木) 16:45:50.17
海老が住んでたんだろ
24日本@名無史さん:2012/12/27(木) 17:24:39.86
宣長さんのゆうとおりで熊襲の女大酋長のが卑彌呼
25日本@名無史さん:2012/12/27(木) 17:55:46.01
毛人共は独立すればいい
26日本@名無史さん:2012/12/27(木) 17:58:26.33
対馬と壱岐と末盧と伊都含む30国が、熊襲の女酋長に従うか
27日本@名無史さん:2012/12/27(木) 18:25:51.59
卑弥呼さんは、「肥国の前身の国家連合」の女酋長
宮崎あたりまで範囲かどうかはわからない。

倭人伝通りなら、のちの肥前国と肥後国に該当するところしか通っていない。

プレ広域肥国の中の小国が三十国。
28卑弥呼は満州にいた:2012/12/27(木) 18:49:40.89
稗箕狐は妄想しか書かない。
この男は根拠を挙げて論証するということをしない。
先天的な詐欺師である。
29病弱公務員 ◆v4jYeyJhQIWI :2012/12/27(木) 22:25:13.11
>>15

サガミ様、スレ違いで誠に申し訳ないのですが、サガミ様は心臓の病気で入院され、
小学校の教諭を辞めさせられたとお聞きいたしましたが、それは本当なのでしょうか?
私も先週、心臓発作を起こして心配停止状態になり、ICUに搬送されました。
現在は退院いたしておりますが、いつまた発作が起きて緊急入院されてもおかしくない状況です。
もし本当でしたら、その経緯を教えて頂けませんでしょうか。
なにとぞお願い申し上げます。乱文ですみません。
30サガミハラハラ:2012/12/27(木) 23:05:50.57
確かに心臓の病気で倒れ入院しましたが。教員をやめたのはそれから23年後で、休職もしておりません。
原因はストレスの蓄積と酒の飲みすぎであったので、酒をやめ職場をかわったことから
かなり回復しました。まだ若かったこともあったのでしょうが。
辞めさせられたわけではなく、自身で体力等の限界を感じたことと動ける早いうちから歴史の研究をしたいということから、やめることにしたのです。
個人個人違うと思いますので参考になったかはわかりませんが、そういった事情でした。
31病弱公務員 ◆v4jYeyJhQIWI :2012/12/27(木) 23:52:40.85
サガミ様、ご返事本当にありがとうございます。
大変安心いたしました。
お礼と言っては語弊があるかも知れませんが、サガミ様の著書を購入させて頂きます。
サガミ様、本当にありがとうございました。
32日本@名無史さん:2012/12/28(金) 00:54:11.46
>>17
むしろ、見大人所敬但搏手以当跪拝(大人の敬する所を見れば、ただ手を搏ち以て跪拝に当つ)と言うくだり。
貴人、あるいは卑弥呼に対してかな、拍手(かしわで)を打つという敬礼容儀が日本的だなぁとは思う。
昔の朝廷には帝拝みとか、朝拝という儀式があったけど、あれは紫宸殿(本来は大極殿)の南庭に朝臣が集まって、2礼(再拝)・4拍手・1礼で天皇を拝むという儀式。
この辺がすごく日本的で、天皇は政権の長というだけじゃなくて、崇拝対象でもあったという事。
高天原から下ってきた神の子孫、現人神(あらひとがみ)だからね。
天帝に任じられて座につき政を行うが、天帝や神の子孫ではないという、中華の皇帝とはまた違う価値観で頂いている存在なんでしょうね。
33日本@名無史さん:2012/12/28(金) 02:28:20.55
Twitter始めました
よろしくお願いいたします
↓↓

雪女(仮名)@slave加入!!!
@r_o_1022.
得意なモノマネは、夏目三久アナの喋り方。音楽/楽器/読書/
34日本@名無史さん:2012/12/28(金) 03:28:18.86
邪馬台国は九州でいいんじゃねーの
つーか関東にはどんな国があったのかそろそろ解明してほしい
35サガミハラハラ:2012/12/28(金) 08:40:15.97
いえいえどういたしまして。
拙の新書は2月末か3月上旬に発行のよていです。
36日本@名無史さん:2012/12/28(金) 08:58:53.43
サガミ先生、もっと日記をカキコしてくれんと
37卑弥呼は満州にいた:2012/12/28(金) 09:27:48.97
拍手を打つというのは日本独自のことでも何でもない。
満州辺りの民族はみんなやっている。
日本独自のことなど、ネトウヨが思っているほど多くは無い。
それどころか、恐らく一つもないだろう。
38日本@名無史さん:2012/12/28(金) 10:27:34.90
神社は日本独自のものだろうなあ。
少なくとも、これが10万もある国は絶対にない。
39唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/12/28(金) 10:42:33.79
>つーか関東にはどんな国があったのかそろそろ解明してほしい

関東の土器を見ればわかるだろ?ワカランか?
日本武尊東征以前の土器は、郡か町村程度の範囲でしか同じでない。 似てはいるが同じではない。
これは 畿内が弥生後期という年代でほとんど同じ土器である以上に細分化される。
つまり”国”という単位にできるほど広い地域で同一にならない。
ただ言えることは、同一ではないが地域名としての”国”の存在は考えられる。
40日本@名無史さん:2012/12/28(金) 10:42:51.40
>日本独自のことなど・・・一つもないだろう
満州クンの偏見が顕著に表れた一言である。

例えば、三種の神器(神宝)を至宝と見なす風習は、
世界広しと言えど倭国以外にはないだろう。
41日本@名無史さん:2012/12/28(金) 10:45:42.12
>>37
単に拍手するだけならアメリカ人でもやってる。
二礼二拍手一礼あるいは二礼四拍手一礼という作法になってるかどうか。
それが重要だと思う。
満州辺りの民族はみんな拍手をやってるそうだけど、
二礼二拍手一礼でやってるの?
42日本@名無史さん:2012/12/28(金) 10:55:18.44
神社は、村の役場的存在。
これに自然信仰と祖先信仰と
血統の記録が合わさったもの。

あ、ついでに政治も。

田舎であれば神社に公民館などが併設されて、
月一の寄り合い集会(飲み会?)があるもんだ。
これが村の議会兼、行政兼、裁判である。

有力者が地方に行くと、その神様を現地の神社に勧請させてもらって、
ルーツを残す。
43日本@名無史さん:2012/12/28(金) 11:05:37.95
昔の記録見ると、神社は政治家の大本営であり、戦争の時には兵隊が集まったりねえ。
44卑弥呼は満州にいた:2012/12/28(金) 12:14:46.20
>>38
三韓には神社に類した蘇塗というものがあった。
>>40
三国でも王位継承のときは印璽と剣の受け継ぎがある。鏡は無いが、
日本では満鮮の古俗がそのまま残ったからだろう。
>>41
その柏手の作法が日本と全く同じなのである。
結婚式でも、たしか三々九度のようなことをやっている。

要するに源流は満鮮にあるのである。満鮮だけでなく、
東南アジア方面にも日本の風習があることは常識である。
45日本@名無史さん:2012/12/28(金) 12:28:37.19
王位継承に宝物受け継ぐのって
中国や中東や欧州でも珍しくないぞ。
そんなもん、世界中、どこでも似たようなことをしている。
たとえば、日本国内でも、皇室に限らず、普通の貴族や豪族だってやっている。
それを何か、特別なことと考えること自体、アホだぞ。
46日本@名無史さん:2012/12/28(金) 12:48:29.18
日帝残滓だな
47日本@名無史さん:2012/12/28(金) 13:28:56.41
>>42
国府府中(県庁)に一宮(いちのみや)が置かれたわけだから、原則として(例外あり)

神社=古墳時代の市町村役場(豪族居館)跡 

というのには同意。
48日本@名無史さん:2012/12/28(金) 13:29:00.06
三種の神器は日本以外にはない。
つまり日本独自の文化。
49日本@名無史さん:2012/12/28(金) 14:09:07.97
「二礼二拍手一礼」は各神社によって区々であったのを、明治の神仏分離に際して統一された
神社が造られ始めた頃はもっと区々だったかもしれない
拍手を打つ、頭を下げるような原始的な動作は石器時代からやってるでしょ
50日本@名無史さん:2012/12/28(金) 18:48:01.05
先祖伝来の品を王位継承の時にわたし(継承)たりするにはどの民族にもあるようです。
ヨーロッパでは王冠をわたされたりするのもその一つでしょう。
数は三つとか四つとか十種とかいろいろあるようですが。
51日本@名無史さん:2012/12/28(金) 21:02:51.20
剣や玉は権力者なら、いくつあってもほしいものだ。
鏡が重要なのだよ。
鏡を王権シンボルにしたり、神社の御神体にするのは昔も今も日本だけだ。
マン臭はこれを無視しているのが笑えるw
52日本@名無史さん:2012/12/28(金) 21:08:26.17
貴婦人なら鏡は何枚あってもいい。
とくに反射率のいい国産鏡がベスト。
寝室用、洗面所用・・そのほかに外出用の小型のもの。
鏡の製造、配布権を一手に握れば、世界を握れる。
53太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/28(金) 21:10:43.72
>鏡が重要なのだよ。

同意。

倭笠縫の日神とその鏡を祭祀した出来事が、239年鏡が畿内から多数出て
来る事由。

鏡銘文の 景初3年=239年 が、この出来事があった 崇神6年近隣 に位置すると
いうことを物語っている。
ここから記の 崇神没年=258年(戊寅) が導き出される。
54日本@名無史さん:2012/12/28(金) 21:24:56.54
起源はなんでも韓国にあり。

ピザの起源は韓国。
http://www.youtube.com/watch?v=a6HG9XtBgFY

イタリアはわが国に謝罪すべきだと…。
イタリア人激怒。
笑える。
55日本@名無史さん:2012/12/28(金) 21:45:10.03
鏡もほとんどが韓国サムソン製に置き換わって、国産鏡は衰退したんじゃないだろうか?
56太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/28(金) 21:56:18.85
臭魔伝 大神男は太陰暦が好きで、鏡に映る(崇神6年=景初3年鏡銘文年(239年)
ことがない。ww とりわけこの大神男は狼男の好きな満月の太陰より 朔=新月 を好む。pp

今夜はまだ現れない。ww
57太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/28(金) 21:57:05.35
(崇神6年=景初3年鏡銘文年(239年)
(崇神6年=景初3年鏡銘文年(239年)
58太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/28(金) 21:59:27.41
>>57 はクリック ミスです。無視願います。

>>56 訂正
×(崇神6年=景初3年鏡銘文年(239年)
○(崇神6年≒景初3年鏡 銘文年(239年)
59日本@名無史さん:2012/12/28(金) 22:09:49.40
阿倍比羅夫は、アベノミックと銘打って、蝦夷や粛慎(みしはせ). 征伐の乗り出して、要するに力による貿易振興に力を入れたのではないだろうか?
そして、白村江の戦で唐+新羅軍に敗れて、再び内政強化に変わったような気がする。
60日本@名無史さん:2012/12/28(金) 22:27:39.62
スレタイに「鮮人お断り」って入れてくれ。
61卑弥呼は満州にいた:2012/12/28(金) 22:37:58.35
満州や朝鮮は中華文明に感化されたから、鏡崇拝も消え去ってしまったのだろう。
満州古族が鏡を崇拝していたことは契丹古伝やネット史を見ても明らかである。
契丹古伝はその冒頭で鏡の意味について説明しているし、
朱蒙の伝記は芻牟鏡という題名である。
以前にも書いたことだが>>51は真面目に読んでいないのである。

日本は大陸と隔離されていたから、満鮮の古俗がそのまま残っているのである。
それを勘違いして、日本は独特だと思ってはいけないのである。
62日本@名無史さん:2012/12/29(土) 00:01:34.80
偽書を論拠にするところが、いかにもマン臭だw
文句があるなら、鏡が多く副葬された日本よりも古い墓をだしてみな。
63卑弥呼は満州にいた:2012/12/29(土) 09:48:24.96
>>62
分らない奴だな、こいつは。
だから日本は満州の古俗が純粋な形でそのまま残っているのだと言ってるだろが。
本場では消えてしまったものが日本では残っているんだよ。

本場でも消えてしまったわけではなく、中国でも朝鮮でも鏡が出ているだろ?
鏡崇拝があった証拠だよ。
伊作などはそれは道教流行後のことだと論じているが、仮にそうだとしても、
もともと鏡崇拝があったから道教がそれを取り入れたわけで、
道教が鏡崇拝を発明したわけではないのである。
64鋭利庵:2012/12/29(土) 10:39:09.71
>>63
何かと伊作を意識しているらしく引き合いにだすが、
お前のはいつも認識不足による不当な引き合いだ。
その認識不足を説明してやる気はないし、まともに関わる意志もない。

質の違いと格の違いにも気づかず、なれなれしいぜ。ゴミ
ま・「身のほど知らず」は、板で跋扈する増上慢の特徴ではあるが・な。
65日本@名無史さん:2012/12/29(土) 12:18:39.50
俺が思うに、邪馬台国は火星にあったんじゃないかということです。
末路国は種子島。宇宙センターからロケットに乗って1月。
卑弥とは火星の意。卑弥呼は火星人だったのだ。
66卑弥呼は満州にいた:2012/12/29(土) 12:38:30.43
プッ、伊作が何か書いてるなw
たしか鏡と剣の二点セット(玉もか?)は道教から始まったなどと説いていたようだが、
そんな説が学界で認められるかな?

契丹古伝や桓檀古記を読めば、もともと巫術などは満州が起源である。
それが中国、特に斉(山東地方)などに広まったのである。
満州族は山西省や山東省にも移動して繁栄したのである。
まあ伊作はこういう文献は読まないだろうから、何を言っても無駄だが。
所詮伊作とはその程度の男である。南解次次雄もな。

稗箕狐などはどんな文献も読んでみようという姿勢があるから、
そのうち利口になる可能性を秘めている。物を読まない人間は利口にはならない。
67日本@名無史さん:2012/12/29(土) 13:21:08.42
卞 《爾雅・釋詁》樂也 或作弁
応用してあげると
卞韓 樂韓也 或作弁韓
ここで
樂 --- 洛 これはコモンかも
弁樂奴國 --- 弁韓の中心でしょうか

「樂浪」と「樂浪郡」の所在地が同処であるという保障は何もありません。

「樂浪」は領域呼称、「樂浪郡」は華の行政呼称だからです。

「樂浪」は「卞浪」とか「弁浪」とかと表示上はコンパチになりますのです
そしてこれは
「洛浪」と表記し直す事の可能性もあながち排除し難いかも。
68日本@名無史さん:2012/12/29(土) 15:40:39.56
69日本@名無史さん:2012/12/29(土) 17:34:14.81
DEがアフリカを出て、アデンからEは地中海沿岸に向かい、Dは一方はチベットへ
もう一方は南ルートで日本に辿り着いたわけだね
Dはアジアで最も古いわけなんだね
70卑弥呼は満州にいた:2012/12/29(土) 17:41:09.02
>「樂浪」と「樂浪郡」の所在地が同処であるという保障は何もありません。
>「樂浪」は領域呼称、「樂浪郡」は華の行政呼称だからです。

これは同感。稗箕狐はよく勉強してるな。

>>68
餅の話には笑った。
71日本@名無史さん:2012/12/29(土) 18:21:03.70
偽書を論拠にするところが、いかにもマン臭だw 文句があるなら、鏡が多く副葬された日本よりも 古い墓をだしてみな。
72日本@名無史さん:2012/12/29(土) 19:04:51.10
>>67
いっこ漢字変換ちがってるけどのおないほせいしてちょ
73日本@名無史さん:2012/12/30(日) 08:22:44.91
>>66 朝鮮
>桓檀古記
桓檀古記(かんだんこき, 朝: 환단고기)は、朝鮮半島の偽書。
超古代からの朝鮮半島の歴史を太白教の桂延壽が編集したものを
李沂が1911年(檀君紀元5808年、光武15年)5月に印刷したとされる。
現行版は1949年に李裕ャが呉炯基に清書させ、1979年に印刷した版である。檀君の神話や古代の檀君朝鮮、倭人のことなどが記述されている。
74日本@名無史さん:2012/12/30(日) 13:10:33.21
日本書紀も現在に伝わるものは偽書。
歴史上の記録に見える書物は日の本(畿内地方)の風土記として編纂され、その他の地方の風土記とともに天武天皇に献上された。
その後散逸し平安時代になって再構成されたが、その際、出雲や筑紫の風土記の内容が借用された様である。
古事記は天皇家に伝わる古伝をまとめた書物であったが、その後散逸し、日本書紀をもとに再構成されたから、これも偽書。
75日本@名無史さん:2012/12/30(日) 16:27:30.69
魏書の意味を知らないようだな。
76日本@名無史さん:2012/12/30(日) 20:34:45.62
まちがえた。魏書→偽書
77日本@名無史さん:2012/12/30(日) 21:02:11.60
魏書と偽書はそう違わないかもしれない
78日本@名無史さん:2012/12/30(日) 22:38:45.03
疑書かな
79日本@名無史さん:2012/12/31(月) 04:29:54.30
>>78
上手い…座布団3枚
80卑弥呼は満州にいた:2012/12/31(月) 09:36:10.86
桓檀古記は偽書ではな〜い。
Wikiに書かれているのは嘘であ〜る。

記は素朴だから割と信用できる。
紀は作為が感じられる。
紀は何か重大なことを隠しているのではないか、
と学者が疑っているのは、無理もないといえば無理もない。
たとえば武烈天皇紀などはあまりに不自然だ。
武烈天皇が実在しなかった、というのではなく、
実在はしたが、実像が隠蔽されているという気がするのである。
81日本@名無史さん:2012/12/31(月) 10:11:19.35
記紀はそのままに信用すれば良いのであ〜る
82日本@名無史さん:2012/12/31(月) 11:45:40.93
桓檀古記は偽書
日韓併合の翌年に編纂された本書の「檀君世紀」や「太白逸史」には中国の清の時代の地名や嘉慶以後
の言葉「長春」や「太白逸史」の引用書「朝代記」に男女平等、父権などの用語がある。また編纂に必
要な引用文献などが明確でなく、不明であるにもかかわらず、古代以来伝えられた真実を記載したとす
るため偽書とされる。この点で日本の古史古伝と似ている。
83日本@名無史さん:2012/12/31(月) 11:59:44.04
>>80
>記は素朴だから割と信用できる。
>紀は作為が感じられる。
>武烈天皇が実在しなかった、というのではなく、
>実在はしたが、実像が隠蔽されているという気がするのである。

朝満老人がウ●チ収集を続ける理由がよく判る
84卑弥呼は満州にいた:2012/12/31(月) 12:35:11.55
桓檀古記は偽書ではな〜い。
Wikiに書かれているのは嘘であ〜る。

紀に作為が無いという証拠はどこにもな〜い。
85日本@名無史さん:2012/12/31(月) 13:02:30.86
偽書の怖ろしさをまざまざと感じさせるレスだな
このように偽歴史に対する執着というのは
人を廃棄物に簡単に変えてしまうのだ
86日本@名無史さん:2012/12/31(月) 13:18:45.98
日本書紀が神代だけなら偽書扱いだったよ
天孫降臨から179万年で神武天皇登場で先祖がワニで空の上に居たんだからね
87日本@名無史さん:2012/12/31(月) 13:26:45.77
この人を見よ!
88川柳の達人:2012/12/31(月) 13:53:03.42
>>84 朝鮮
年の瀬に 必死に言い訳 朝鮮人
偽書片手に 年中害宣

朝鮮にはいい年やってこないぞ。
89卑弥呼は満州にいた:2012/12/31(月) 17:21:35.78
桓檀古記は偽書ではな〜い。
Wikiを信じるのは○○であ〜る。
90日本@名無史さん:2012/12/31(月) 18:34:24.86
偽書マニアのマン臭は、文献批判という言葉を知ってるかな?w
91日本@名無史さん:2012/12/31(月) 21:01:58.35
ウィキペディア自分で書き換えてきたらいいじゃん
92卑弥呼は満州にいた:2012/12/31(月) 23:09:11.16
桓檀古記は偽書ではな〜い。

長春、男女平等、父権…。そんな言葉はどこにも出てこな〜い。
嘘だと思うなら、その言葉が出ている箇所を挙げてみい〜。

寧古塔という地名が清代以後のものだという証拠もな〜い。
要するにWikiに書かれていることは嘘であ〜る。
ここの連中はみんな○○であ〜る。
93卑弥呼は満州にいた:2012/12/31(月) 23:12:30.51
来年もこんな連中を相手にするのかと思うと気が重〜い(笑)
94日本@名無史さん:2012/12/31(月) 23:33:07.18
常時ぼこぼこに罵倒されていて、だれからも相手にされていないかのように見える。
95卑弥呼は満州にいた:2012/12/31(月) 23:45:35.54
父権という言葉は既に舊五代史/卷63に出ているぞ〜。

其製略曰:“侵奪父權,惑亂家事,繼鳥獸之行,畜梟獍之心。”

分ったか〜、バカタレ〜w
96日本@名無史さん:2012/12/31(月) 23:52:12.02
へんなひとには声をかけられても答えちゃだめなのが掟。
97 【ぴょん吉】 :2013/01/01(火) 00:03:18.17
── あけおめ!今年も邪馬台国で論争よろしく!──

     へ、        \    あけまして       /
    /ノ》リ),  、        \おめでとうございます!/
   ///,∞, / ヽ、            ,-‐一‐- 、
   // !^^⌒^^ヽ )          d^     「^qp
  //!(| 《《M从リ _         ' !| l从((lilil |!i! !
  ! !! Y!゚ ヮ゚ノリ |賀|        /\N|l、゚ヮ ゚!レ!)Y
  ノノノ φ!%Y%!つ|正|       ( 辰`⊂\咒\つ
    とノi)兄)) . ̄        ヽ./  |!只!iヽ
   |三三三三三|              しヽ)~
98 【中吉】 :2013/01/01(火) 00:30:11.51
謹賀新年
99日本@名無史さん:2013/01/01(火) 12:23:07.88
ヤクザやなりすましを使い成人式を荒らしているのは広告代理店やテレビ局の自作自演です。
反原発デモでチンドンや太鼓を鳴らし、ソントを行っている在日
街宣車に乗り、騒音を撒く朝鮮人

構図は全て同じです
http://mamorenihon.files.wordpress.com/2011/10/zainichi_seijinshiki_1.jpg
http://4.bp.blogspot.com/-1_jEcAWVs1s/Tm4X2mLBhhI/AAAAAAAABok/MObw2nzMyoI/s1600/IMG_9062-714071.jpg
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/timg/middle_1228711905.jpg

ソント(声闘)・・朝鮮人は、声が大きければ音が大きければ、主張が通る、どんな凶悪犯罪でも無罪になると思い込む。
だから、朝鮮人は大音量で街宣車を走らせる。
原発サウンドデモ=ソント

在日(もちろんテレビや新聞は通名で報道)が凶悪犯罪を起こしたとき、人権派()弁護士が異様に沢山付くのも
弁護士が多ければ=声が大きければ、無罪になると思い込んでいるから。
100日本@名無史さん:2013/01/02(水) 03:47:53.42
サガミさん、世田谷のボロ市でみつかったこの茶碗、現在ほかの博物館から
2億円前後で譲ってくれないかと交渉中なんだって。
http://kishu-bunka.org/toujishi/5.files/image001.jpg

金持っている人はいーなー。
101サガミハラハラ:2013/01/02(水) 07:41:07.17
なんで売れる前におしえてくれなかったの。

ところでボロ壱ではいくらで売ってたの?
102日本@名無史さん:2013/01/02(水) 18:24:00.23
>>101
>なんで売れる前におしえてくれなかったの。
教えるも何も……そんなのが本当に売られているとは想像できないじゃないっすか。

>ところでボロ壱ではいくらで売ってたの?
5000円だったとか。

今年の1月15日と16日(ただし今年は平日なのが……)にまた世田谷ボロ市開催されますから、
いかれたらどうですか?
以前から意外な掘り出しものがあるんでけっこう有名ですよ。
あと、お客さん目当てにおいしいコロッケや特製ハムのほか、安くておいしい中華料理屋が
出店を出しているんで、いろいろ楽しめますよ。
103日本@名無史さん:2013/01/02(水) 23:02:18.19
平日じゃなければなあ・・・
104日本@名無史さん:2013/01/03(木) 09:33:32.80
もう邪馬台国に世間の関心はないな
105日本@名無史さん:2013/01/03(木) 16:09:53.13
やめたい国
106日本@名無史さん:2013/01/03(木) 17:01:17.70
邪馬台国は、ヤマト国と読むが、大和朝廷の起源ではない。
大和はシナの属国ではないからだ。
つまり、九州の熊襲あたりがヤマトを騙ったのであろう。
107日本@名無史さん:2013/01/03(木) 17:26:43.70
大和は他のどこかにあった邪馬台から取り、さらに記紀にて卑弥呼的な天照と称して正当後継を主張している。
108日本@名無史さん:2013/01/03(木) 17:35:21.28
東征を史実と仮定して考えるに、畿内で土着化してアイデンティティが
故地から畿内へ移り畿内中心史観化し、畿内を主としかつての故地を
従としなければならないところに、そう簡単には良しとしない、やっかいな
まつろわぬ者として不当に下げている。それが熊襲である。
109日本@名無史さん:2013/01/04(金) 21:36:50.44
>>108
畿内は道教で選ばれた土地なだけ
天下りは九州に行われたと伝えているし決して故地を蔑視していない
110日本@名無史さん:2013/01/05(土) 10:20:02.24
ジャマダイ王国、殲滅だ
111日本@名無史さん:2013/01/06(日) 12:45:08.68
邪馬台国は秦王国だから、都合が悪くなればすぐに遷宮を繰り返した。
神殿はもともと移動式の神輿だし、天幕を張ればそこが神の社になる。
卑弥呼とはゾロアズター教の火の使い。
魏に使者を送ったころ邪馬台国がどこにあったかということなど、たいした問題ではない。
112日本@名無史さん:2013/01/06(日) 12:54:53.08
ヨイトマケの唄
「土方は差別用語だから、この歌は放送禁止」ということだが、
土方を放送禁止にさせたのは、富豪や政治家、新興宗教や暴力団の傘下にある人権団体だった

むしろ「ヤクザな道は踏まずに済んだ」の部分こそ、彼らにとっての放送禁止な部分。
「ヤクザな道」を通って暴利を貪って来たのは、他でもない、彼ら自身だからだ。

その「ヤクザ」が「土方」にイチャモン付けて、「放送を通した歌の頒布を禁止」させた。
113卑弥呼は満州にいた:2013/01/06(日) 17:38:56.26
卑弥呼。これをヒミコと読むから日本だと思ってしまう。

卑彌呼 piegmierhag ←上古音
卑彌呼 piemieho   ←中古音
卑彌呼 bei(bi pi ban)mi(ni)hu(xiao xu he xii) ←中国音
卑彌呼 pimiho ←朝鮮音
114日本@名無史さん:2013/01/06(日) 18:00:21.96
倭人の発音を、中国人が聞こえた音韻に近い漢字を使ってるんであって
漢字を倭人が読んで発音してるんじゃないからな
外人と会話したことがある人ならわかるが、日本語の発音を他言語圏の人は日本人と同じには
聴き取らないからな
115卑弥呼は満州にいた:2013/01/06(日) 18:30:25.99
いや、だから当時の中国人が、卑をピ、呼をホと発音していたとすれば、
倭の女王ピミホに卑弥呼の字を当て嵌めたということだよ。
116日本@名無史さん:2013/01/06(日) 18:42:46.53
上代の発音にhoはないよ。poかfo。
117日本@名無史さん:2013/01/06(日) 18:58:05.65
中国人がピ、フォに近い発音に聴き取ったから、卑彌呼の漢字を使って表し
中国人は卑彌呼をピミフォに近い発音で読む
倭人がピミフォと発音していたことにはならん
日本人の会話を中国人が全て漢字で書いて、それを他の中国人に読ませても
日本人と同じようには話せん
日本に住んでる日本人が、中国人やアメリカ人のネイティブのように話せないのと同じだ
わからんかな、犬の鳴き声も各国表現が違うだろ
118日本@名無史さん:2013/01/06(日) 19:03:12.83
中国の歴史を考えると、潮州語とか客家語に当時の発音が残ってそうだ
http://hpcgi2.nifty.com/Gat_Tin/ifangzi.cgi?kanji=%88%A4
119日本@名無史さん:2013/01/06(日) 19:07:10.55
120卑弥呼は満州にいた:2013/01/06(日) 20:01:01.35
彌はミだろう。
卑はビ、ピと発音した可能性がある。
最も怪しいのは呼だ。これはフ、ホと発音した可能性が高い。
121日本@名無史さん:2013/01/06(日) 20:10:43.61
今も出雲には f音が残ってる、日常茶fanjui
122卑弥呼は満州にいた:2013/01/06(日) 21:28:55.73
もっと核心的な話をすると、卑弥呼をヒミコと読み、
日の御子、日の巫女、姫皇女などと解釈するので、
モモソ姫説とか>>111のような空想を言う人間が出てくる。

馬韓に卑弥国があり、狗奴国の王が卑弥弓呼。
ここから、卑弥が一つのまとまりのある語であり、
国名か姓を表わす固有名詞であると考えたほうが良いのである。
卑弥+呼、卑弥+弓呼である。
123日本@名無史さん:2013/01/06(日) 21:50:29.59
2音似てるだけなら、オバマと小浜市レベルだなw
陳寿が倭王と馬韓との関係を意識して卑弥の2文字を使ってるなら
そのことに触れるよ
124卑弥呼は満州にいた:2013/01/06(日) 23:10:59.82
陳寿が倭王と馬韓との関係など知っているはずがない。
卑弥呼の朝貢は陳寿の子供時代のことなのである。

>>123は南解次次雄だろうが、この男はたぶん水瓶座か獅子座である。
反抗的なのがこの星座の特徴で、私が何を書いてもこの男が茶々を入れる。
それは別に構わないのだが、反抗的なので、九州説にも畿内説にも不服で、
四国説などに固執しているわけである。
雑学というか知識は豊富なのだが、反抗的なので、
とにかく通説や定説に異議を唱える説に関心を示すのである。
たとえば聖徳太子非実在説などに。たぶんこの男は一生こうだろう。
125日本@名無史さん:2013/01/06(日) 23:25:02.07
126日本@名無史さん:2013/01/07(月) 13:32:41.15
>とにかく通説や定説に異議を唱える説に関心を示すのである。
卑弥呼満州は、まさにそれだな。
127太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/01/07(月) 14:30:05.39
朝松沢よ
そろそろオマエのデタラメに目を覚ますんだな。w
128卑弥呼は満州にいた:2013/01/07(月) 18:29:02.81
私は何ら珍説を唱えているのではないぞ。たとえば、
是後倭韓遂屬帶方
この倭を日本だと思っている人間などいるのか?
どう見てもこの倭は日本ではないだろう。

倭の五王の献上品が貂皮と人参w
これもどう考えても日本の特産物ではない。

私は常識的なことを言っているのである。
頭がおかしいのは君らである。
129卑弥呼は満州にいた:2013/01/07(月) 22:33:58.42
話は変わるが、東三省輿地圖說という文献を読んでいたら、
ウスリースクの古城址で渤海時代のものと思われる銅鏡が出土したとある。
また八面城の遺跡から背面に韓州刺史と銘のある銅鏡が出土して、
八面城付近が韓州だったことは疑い無しとある。

渤海や遼の時代、日本では鏡信仰はとっくに無くなっていたはずである。
しかし満州ではちゃんと鏡を尊ぶ風習が残っていたのである。
鏡信仰の本場が日本より寧ろ満州であったことが窺える。
誰だ、鏡信仰は日本独自だ、などと書いていたのはw
130日本@名無史さん:2013/01/07(月) 22:39:15.75
卑弥呼は満州にはいなかった
日本にいた
終了
131卑弥呼は満州にいた:2013/01/07(月) 22:50:25.14
↑ 現実を直視しようとしない空想家
132日本@名無史さん:2013/01/07(月) 23:19:38.70
あのな、鏡なんてもんは、それこそ江戸時代の遺跡からも出土するんだぞ
生活日常品だからな

問題は、その埋葬法とか一括枚数とかなんだよ
133日本@名無史さん:2013/01/08(火) 00:10:12.99
マン臭は相変わらず、ヨタ咄で自己陶酔してるなw
早く、2千年以上前の満州の王権シンボルが鏡であった証拠を出してみろ!
134日本@名無史さん:2013/01/08(火) 00:42:06.25
「宝鏡奉斎の神勅」吾兒、視此宝鏡、當猶視吾。可與同床共殿、以為斎鏡

奥のほうに大切に収めてあるんだな(今でも)

追伸; >>124は全部ハズレてるよw
135卑弥呼は満州にいた:2013/01/08(火) 09:28:02.35
あのな、生活日常品としての銅鏡が出たのではないぞ。
ちゃんと吉祥句が書かれた銅鏡が出たのだ。

東三省輿地圖説
道光元年吉林將軍富俊赴昌圖廳八面城査弁地畝案件得一出土銅鏡
周篆内清斯外昭明光輝象夫日月心忽揚而顧照雖塞而不泄長毋相忘見日之光三十一字
背面鑄楷書韓州刺史四字是八面城即金之韓州無疑

そりゃ天皇家だけは今でも鏡を大切にしているだろうよ。
しかし一般的には鏡信仰なんてとっくに消え去っている。
銅鏡を贈答するとか埋葬するなんて習慣はとっくに消えている。
ところが満州では残っていたのである。
136日本@名無史さん:2013/01/08(火) 10:58:53.45
だから、鏡なんてのはいつの時代(現代は違うが)でも
吉祥句などの装飾がつきもんだっての
137日本@名無史さん:2013/01/08(火) 12:18:03.40
日本の歴史の話題に参加するなら、まず日本の文化を知らなきゃ

神社の本殿御扉の前(大床)や神棚の御扉の前には、大抵、「御神鏡」もしくは「御鏡」と称される鏡が置かれている
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20071202
138卑弥呼は満州にいた:2013/01/08(火) 12:44:48.14
私が卑弥呼の倭の一候補として想定している地域の古城址に、
石人石馬石碑が清代末まで残っていたという資料を見つけた。

石人石馬というのは磐井の墓にあったはず。
中国にもあるのだろうが、満州にもあるのである。
139日本@名無史さん:2013/01/08(火) 12:54:12.61
だから何?w
140卑弥呼は満州にいた:2013/01/08(火) 13:03:45.74
>>139
お前なあ、こういう資料をバカにしてはいけないということだ。
こういう資料をバカにするなら参加するな。

倭の献上品に丹があるから、お前らは丹は九州で採れるとか四国で採れるとか、
侃侃諤諤の議論をしているのだろうが。
それなのに私が貂皮や人参は日本の産物ではないと書けば、
世界史板へ行け、と叩いたり、石人石馬のことを書けば、
だから何?w などと無視する。

もう少し真面目にやれ。
141日本@名無史さん:2013/01/08(火) 13:06:02.10
いや、バカにしとらんよ
だから何を言いたいのか聞いてるんだよw
142日本@名無史さん:2013/01/08(火) 13:11:42.75
孤独だなあ
143日本@名無史さん:2013/01/08(火) 13:20:11.87
>>128
>是後倭韓遂屬帶方
>この倭を日本だと思っている人間などいるのか?
>どう見てもこの倭は日本ではないだろう。

どう見ても日本だな。

倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏 遣吏將送詣京都。

其六年,詔賜倭難升米?幢,付郡假授。

倭女王卑彌呼與 狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡?相攻??。

何か事あるごとに帯方郡に世話になってる。
中国側から見れば、卑弥呼の倭は帯方郡に属しているということになるだろう。

>倭の五王の献上品が貂皮と人参w
>これもどう考えても日本の特産物ではない。

韓在帶方之南,東西以海為限,南與倭接,方可四千里。
韓は南で倭と接している。韓半島には前方後円墳がある。
倭は、半島に勢力範囲を持っていた。
半島で入手した貂皮と人参を献上したとしても、不思議ではない。
144日本@名無史さん:2013/01/08(火) 13:37:06.21
つか、倭の五王の時代は、
倭国では新羅・百済を自分の属領と見なして
それを南朝に認めてもらおうと熱心に働きかけをしてたわけ。

だから、半島の珍物を献上したのも、その一環なんだな。
ささたる歴史の断片だけを見ずに、時代背景を知らなくちゃいかん
145日本@名無史さん:2013/01/08(火) 13:44:57.26
自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
だもんな。
146卑弥呼は満州にいた:2013/01/08(火) 17:20:29.09
わはは、君らの書いてることは全部屁理屈だw
新羅にも百済にも貂の記事は無いぞ。
穢と新羅には豹の記事はあるが貂の記事は無い。しかも新羅は海豹だ。
嘘だと思うなら東夷伝の全記事を調べてみろ。

それから石人石馬を検索してみて驚いた。

【石人石馬】
日本で古墳の外表に飾り立てた石造彫刻の総称。

日本独特、それも北九州に特有のものだと思われているらしい。
それが私が倭の有力候補地と考えている地域にもあったのだ。
これで満州説にまた一つ有力傍証が加わったぞ。
147卑弥呼は満州にいた:2013/01/08(火) 17:25:18.73
それから、倭の献上品に織物が多いから、それについても調べてみた。

仲哀天皇8年(199年)秦の始皇帝の11世の孫功満王が入朝帰化し天皇に蚕種を献上。
応神天皇十四年(283年)春二月、百濟王貢縫衣工女。曰眞毛津。是今來目衣縫之始祖也。是歲、弓月君自百濟來歸。
卅七年(306年)春二月戊午朔、遣阿知使主・都加使主於吳、令求縫工女。吳王、於是、與工女兄媛・弟媛、吳織、穴織、四婦女。

卑弥呼の時代にはまだ日本に織物技術はない。
148日本@名無史さん:2013/01/08(火) 17:30:02.72
貂なら、毎年我が家の屋根裏で子を育てるよ
149日本@名無史さん:2013/01/08(火) 17:41:45.47
じゃ漢中も倭か?w

http://baike.baidu.com/view/1112983.htm
150日本@名無史さん:2013/01/08(火) 18:11:01.74
>>147
其衣幅,但結束相連,略無縫。婦人被髮屈?,作衣如 單被,穿其中央,貫頭衣之。

織物技術がないのなら、倭人が着てた衣は何なんだ?
倭人は全員、輸入物の衣を着てたのか?
151日本@名無史さん:2013/01/08(火) 18:17:35.07
縫衣工女っていうのは裁縫技術者のことだよ
製糸、製織技術じゃない
152卑弥呼は満州にいた:2013/01/08(火) 18:36:10.52
君らの書いてることは単なるおちょくりだから相手にする必要はない。
東夷のどの国も裸で暮らしていたわけではないから織物技術くらいはある。
しかし倭の献上品に織物が多いということは、それが倭の誇る製品だったからである。
どの国も自国の特産品を献上するものである。
倭の織物技術はかなり進んでいたと見なければならないのである。
で、果たして当時の日本がそれほど進んでいたかということが問題になるのである。

因みに私は白珠と青珠についても調べてみた。
これもいろいろ面白いことが分かったが、ここには書かない。
丹についてもいずれ調べてみようと思っているが、
今は満州の地理の考証に専念しているのでその暇がない。
153日本@名無史さん:2013/01/08(火) 18:49:40.20
班布(麻織物)から5年で倭錦絳縑緜衣帛布に技術進歩している
154日本@名無史さん:2013/01/08(火) 18:54:45.39
満州さん、とうとう末期症状を呈してきてるな
155卑弥呼は満州にいた:2013/01/08(火) 19:15:50.35
班布が麻織物だという証拠はあるか?
156日本@名無史さん:2013/01/08(火) 19:28:20.28
人にものを訊ねるときの日本語を覚えなさいw
157卑弥呼は満州にいた:2013/01/08(火) 19:47:24.04
班に麻という意味はどこにもないぞ。
班布が麻織物だというのは学者のデタラメ説だ。
158日本@名無史さん:2013/01/08(火) 20:06:20.58
満州、南無阿弥陀仏卑弥呼様、どうぞ正気を取り戻しますように、ますように、
159日本@名無史さん:2013/01/08(火) 20:32:23.41
http://plus.yomiuri.co.jp/article/words/%E7%8F%AD%E5%B8%83

奈良県天理市の下池山古墳(3世紀末―4世紀初頭)で見つかった織物は奇跡的に保存状態がよく、
光学顕微鏡でのぞくと青い筋のしま文様が現れた。
これを「卑弥呼の班布」そのものと決め付けるのは早計だが、
邪馬台国の時代に近い古墳から出土し、
鏡を包む最高級の織物だったことから班布の実像に迫るものと研究者は見ている。
160卑弥呼は満州にいた:2013/01/08(火) 21:25:08.71
班布は木綿の布だと分った。

太平御覽
南州異物志》曰:五色班布以絲布,古貝木所作。此木熟時状如鵝毳,中有核如珠句,公後切。
細過絲綿。人將用之則治,出其核,但紡不績,在意小抽相牽引,無有斷絶。
欲為班布,則染之五色,織以為布

本草品匯精要 續集卷之十
木綿有草木二種(中略)結實大如拳實中有白綿綿中有子今人謂之斑枝花←斑枝花
(李延壽南史)所謂林邑之國出古貝花中如鵝毳抽其綿紡為布
161日本@名無史さん:2013/01/08(火) 21:48:54.53
班布は木綿とは限らんよ、班は素材じゃなくて染模様のことだから
倭人伝に素材のことは書いてある
「種禾稻、紵麻、蠶桑緝績。出細紵、縑綿。」
162日本@名無史さん:2013/01/08(火) 22:35:02.15
>>159
近畿地方から出れば何でも卑弥呼に関連付ける傾向があるな。
163日本@名無史さん:2013/01/08(火) 22:45:38.68
近畿には邪馬台以上の連合国家があったんじゃないかと思うがな、記録に残ってないだけで。
164卑弥呼は満州にいた:2013/01/08(火) 22:48:56.64
>班布は木綿とは限らんよ、班は素材じゃなくて染模様のことだから

これが本当なら有難い。班布が木綿なら私の説にとっては不利だからな。
なにしろ木綿というのは暖地の産物だから。
一寸調べてみたが、木綿が日本に入って来たのはずっと後世のようだ。
ただし倭人伝に「以木綿招頭」とある。
しかし「種禾稻、紵麻、蠶桑緝績。出細紵、縑綿。」 とあるから、
木綿の布を作っていたとは思えない。

あ〜、やれやれ、もう少しで墓穴を掘るところだったw
165日本@名無史さん:2013/01/08(火) 22:53:32.59
そこで終わらずに、もっと調べるといろいろわかるよw
166日本@名無史さん:2013/01/08(火) 23:03:41.82
>>164
>なにしろ木綿というのは暖地の産物だから。

木綿程度で不利なら、「倭地温暖,冬夏食生菜,皆徒跣。」はどうなんの?
倭地は温暖で、年中生菜を食って、みんな裸足だってよ。
167日本@名無史さん:2013/01/08(火) 23:04:03.62
以木綿招頭
この木綿は紵麻(ラミー)のことだろ、ラミーは木の一種といっていいからな(見かけは木と草の中間)
168日本@名無史さん:2013/01/08(火) 23:09:12.53
>>167
ラミーって、そういえば親父に聞いたことがあるなあ。

>>152
現代でも再現が難しい高度な織物が作られていたんだってよ。

http://www.asabo.com/ramie.htm

(4)ラミーの歴史

ラミーは歴史的には古くから使われています。
福井県の遺跡からは縄文初期のものも発見されており、
特に弥生時代には現在でも再現が難しい高度な織物が作られていたことが、
遺跡の出土品からも知られています。

万葉集や日本書紀にも多くの歌や記証があり、正倉院に収蔵されている当時の衣料品をみても、
皇族から庶民に至るまで広い階層に使用されていたことがわかります。
最近では衣料品に加え、ファッション素材・インテリア等生活に深く浸透し、広範囲に利用されています。

また、現在、伝統的工芸品に指定されている小千谷縮(おぢやちぢみ)、
近江上布、宮古上布、八重山上布などは上布(じょうふ)と呼ばれ、
各県、各地で「村おこし」「町おこし」の主役となっているものがありますが、これらは苧麻の織物です。
169日本@名無史さん:2013/01/08(火) 23:51:14.82
170卑弥呼は満州にいた:2013/01/09(水) 20:02:22.62
私は書くのを遠慮しているのだから、みんな頑張って書け。
171日本@名無史さん:2013/01/09(水) 20:54:44.59
あっちの邪馬台国スレ見てるけど
満州はなかなか切れ味のいいレスしてるじゃないの、見なおしたよ。
172卑弥呼は満州にいた:2013/01/09(水) 21:53:58.03
実は今日ショックなことがあった。
丹について調べてみたが、満鮮で丹が採れたという資料が出てこなかったのである。
やはり倭とは日本なのか…。

しかしここで挫けるとこれまでの研究が水の泡だから、満鮮説は棄てないつもりである。
もしかしたら卑弥呼の倭と五王の倭は別かもしれない。
織物と、貂皮と人参。朝貢品に差がありすぎる。

そのうちに、たとえば馬韓で丹が採れたというような、
資料か、考古学的発見が出てくることを願っている。
173卑弥呼は満州にいた:2013/01/09(水) 22:03:55.96
ところで鯨面文身というのは何を用いるのだろうか。丹か、朱か。
もしそうなら満州にも鯨面文身の民族がいたのだから、
満州でも丹が採れたという証拠になるのだが…。
174太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/01/09(水) 22:04:44.52
自説に反省をするようになってるということは、オマエの脳が
正常に活動し始めてるということだ。

つねに脳考察の左右確認、バック確認とアクセル、ブレーキ、
ハンドルの適正確実な脳内操作は、オマエの理性をさらに強くさせる。

宿主はアクセル直進の脳内暴走しか持ち合わせていないから、奴は稀代のデ○パなのだ。
175卑弥呼は満州にいた:2013/01/09(水) 22:23:12.95
そういうお前も、もうマヤ語の勉強などやめろ。
目が悪くなるだけだぞw
176太国 ◆yVAs7uaYlY :2013/01/09(水) 22:36:43.09
書を読むのも確かに目が疲労するが、PCほどではない。
PCは前面光輝を放ってるわけで、PCはおおむね2時間が限度だ。
2時間半を越えてPCを眺めていると、翌日目が張れてクマが出て
くる。

書は明るい処で読んでる場合はそれほどでもない。
但し虫眼鏡必須で、これを使って拡大して読んでいる。
書もある程度は疲れるから、休み休みだ。w

今はヒエログリフ 古代エジプト文字を勉強しておる。これなど
碑文はもうかなり読める。ただ通常文書のそれはまだまだだな。
後者は碑文とは違う点が多く、別の勉強が必要だ。ここは始め
たばかりだが、碑文をマスターし始めたから、次第に読める実力
がつくだろう。今年はこれに(朝鮮でないw)挑戦だ。w

まもなく寝るぞ。
177日本@名無史さん:2013/01/09(水) 23:26:56.80
だから、倭王は半島を平定したのだから、貂皮と人参くらいは手に入るのだよ。
178日本@名無史さん:2013/01/10(木) 09:42:06.42
>>172
ついでに、当時は一年中温暖だったことを示す証拠、朝鮮半島が半島ではなく
島だったことを示す証拠も探してみた方がいいぞ。
179日本@名無史さん:2013/01/10(木) 09:44:59.51
満州は邪馬台国に関心はないだろ
古朝鮮を広く古くもという願望
180卑弥呼は満州にいた:2013/01/10(木) 10:03:54.44
おっとどっこい、満州にも朱砂が採れる地域があることを発見した。
ちゃんと中国正史に記載がある。
しかもそれは私が倭の有力候補地と考えている地域だ。

因みに新羅も水銀が採れた。
宋会要新羅地…出人參水銀
諸蕃志新羅地…出人參水銀
朱砂の中には水銀が含まれているらしいから、
水銀が出るなら丹も出る。
181日本@名無史さん:2013/01/10(木) 10:40:41.71
ヤクザやなりすましを使い成人式を荒らしているのは広告代理店やテレビ局の自作自演です。

反原発デモでチンドンや太鼓を鳴らし、ソントを行っている在日
街宣車に乗り、騒音を撒く朝鮮人

構図は全て同じです
http://mamorenihon.files.wordpress.com/2011/10/zainichi_seijinshiki_1.jpg
http://4.bp.blogspot.com/-1_jEcAWVs1s/Tm4X2mLBhhI/AAAAAAAABok/MObw2nzMyoI/s1600/IMG_9062-714071.jpg
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/timg/middle_1228711905.jpg

ソント(声闘)・・朝鮮人は、声が大きければ音が大きければ、主張が通る、どんな凶悪犯罪でも無罪になると思い込む。
だから、朝鮮人は大音量で街宣車を走らせる。
原発サウンドデモ=ソント

在日(もちろんテレビや新聞は通名で報道)が凶悪犯罪を起こしたとき、人権派()弁護士が異様に沢山付くのも
弁護士が多ければ=声が大きければ、無罪になると思い込んでいるから。
182日本@名無史さん:2013/01/10(木) 12:35:12.71
>>180
極寒の満州が、「倭地温暖,冬夏食生菜,皆徒跣。」と矛盾するのをどうして無視してるのかわからない。
貂皮とか丹とか調べる前に、これだけで満州はないよ。
183日本@名無史さん:2013/01/10(木) 13:17:18.44
>>182
トンデモを相手にすんな
184日本@名無史さん:2013/01/10(木) 15:31:22.23
満臭をNGにしたらええだけのことや。
185日本@名無史さん:2013/01/10(木) 17:12:26.17
暖かいとか寒いとか所詮人の感じ方だしな
アホは冬に野菜は出来ないと思ってたりするのかもしれんが
186卑弥呼は満州にいた:2013/01/10(木) 17:37:27.64
君らはあいかわらず私の説の主旨が分かってないようだなw
卑弥呼や五王の倭は日本ではない、というのが私の説だ。

一方、倭人伝に書かれている風俗等は日本のことなのだ。
分かるかな〜。
陳寿は倭とは日本のことだと思っていたから日本のことを書いた。
しかし卑弥呼や五王の倭は日本ではなかった。それが私の説だ。
もう何回説明したことやらw

別に君らに理解してもらわなくてもいいのである。
世間の人はみんな分かってくれるから。
ここにいるのは依怙地な、変な連中ばかりw
187日本@名無史さん:2013/01/10(木) 18:48:36.99
朝鮮半島では倭人(日本人)が自由に鉄鉱石を採掘して持って帰っていたわけだから
そういう意味(日本の自由にしてよい土地)では倭国ではないが、倭地といってもいいかもしれんなw
ま、中国も使ってるから共有地かw
188日本@名無史さん:2013/01/10(木) 19:00:59.86
現代では、草刈り場 というな
昔は、鉄取り場 といったのか、ふーん。
189日本@名無史さん:2013/01/10(木) 19:08:27.57
満州産の本が出たら、このスレは満州産の話で埋め尽くされる
何しろ公然の2ちゃんねらーが作家になるわけだから
楽しみです
190日本@名無史さん:2013/01/10(木) 19:12:56.70
鉄取り場 ね、ふーん。
191日本@名無史さん:2013/01/10(木) 19:13:50.26
そうだな、
「卑弥呼は満州にいた」、はやく本だしてくれ。
192日本@名無史さん:2013/01/10(木) 19:15:53.47
「鉄取り場」のも「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之」のの「諸國」なんよね。
193日本@名無史さん:2013/01/10(木) 19:19:55.64
鉄取り場 の管理人か、満州は。
194卑弥呼は満州にいた:2013/01/10(木) 19:22:40.04
ところで古墳と朱について調べてみたが、
九州の古墳は中国産の朱、畿内や山陰等の古墳は日本の朱が使用されている、
云々の研究が出ていた。

これが本当ならまたまた九州説は分が悪いなw
九州より畿内の方が朱がたくさん採れたということだろう。
中国に献上するくらいだから倭は朱がたくさん採れたのだろう。
195日本@名無史さん:2013/01/10(木) 19:24:32.46
卑弥呼は武器で守られていた
武器が出ない奈良は邪馬台国じゃない
196日本@名無史さん:2013/01/10(木) 19:34:36.34
>>194
卑弥呼は丹(朱)五十斤をもらってるから、朱の出ない国にいたのだ

>特に汝(卑弥呼)には・・ 金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を・・、賜るものなり」。
197水銀厨:2013/01/10(木) 21:07:13.23
鉛丹は加工物ですよ、当時の倭には無いだけの話。

倭人伝記述の時代に丹=水銀朱の産出跡が
確認されてるのは阿波と紀伊半島のみだね。
そこが中国人の目指した倭の中心でしょう。
何度も言わせるないでね。
198日本@名無史さん:2013/01/10(木) 21:18:19.35
>>194
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓の甕棺は紀元前のものだが、剣・玉の副葬品が出土し、
棺の内部は朱で塗られている。このあたりの甕棺は弥生中期あたりから
こんな状態で、中には前漢鏡が収められているものもある。
数百年経つと、畿内でもこれが常態になる。
棺の内部の朱は九州の方がはるかに早い。
199日本@名無史さん:2013/01/10(木) 21:28:09.11
>>198
朱の使用痕で最古の例は紀伊半島の吉野だよ。
吉野川上にある丹生神社の境内から出土した土器だ。
200日本@名無史さん:2013/01/10(木) 21:37:33.35
ちなみに吉野宮の平遺跡で確認された、水銀朱精製痕のある
土器は縄文中期のもので、これが今の所国内最古の
水銀朱精製で最古の例。
産出跡となると、今の所弥生期の阿波が最古の確認例。

どちらにせよ日本で古くから水銀朱を扱うのは
四国・紀伊半島中心で違いない。
201日本@名無史さん:2013/01/10(木) 21:43:10.33
朱はその他に三重、北海道で縄文時代から使われてるな
202日本@名無史さん:2013/01/10(木) 21:52:33.01
土器のやつは化粧品だろうね
203日本@名無史さん:2013/01/10(木) 22:08:15.90
棺の中の副葬品や棺の内部の朱で塗るのは九州の方が先と言ったら、
>>199は朱の使用痕であり、>>200は朱の精製痕というわけか。

まあ、朱は縄文時代の土偶にも使われているわけだから、はるか昔から
あったわけだが、比較に持ち出すもののレベルが違う。
朱の文字を出せばいいというものじゃないだろう。
204日本@名無史さん:2013/01/10(木) 22:14:51.65
>>203
だが倭人伝の記述では倭人は丹を身体に塗ったりする、
倭には丹の山があると記述されてる訳だろう?
記述に合うのは「採掘跡」のある方だよ。
205卑弥呼は満州にいた:2013/01/10(木) 22:20:24.46
>>198
前漢鏡である証拠はどこに?

いや、別に君を否定しようとして書いているのではないのだ。
何しろ私は箸墓も記紀の記述通り紀元前の築造だと主張している人間だから。
ただ、前漢鏡とされてはいるが本当にそれは正しいのかと疑っているのだ。
学者が、単に、前漢鏡の様式と似ている、と判断しているだけではないのか。
たしか前漢の年号が入った鏡などは一つも無かったはずだが。
206卑弥呼は満州にいた:2013/01/10(木) 23:09:49.30
そもそも倭人は丹を何に使ったのか。
埋葬用と化粧、鯨面文身…。

もう一つ、鏡の精製に使用したのではないか。
207日本@名無史さん:2013/01/10(木) 23:10:56.27
鏡と船
208日本@名無史さん:2013/01/11(金) 00:33:41.91
>>205
前漢時代に作られたのが前漢鏡。中国ではたくさん出ているから分類も
出来ている。
九州出土の場合はたとえば、
http://www9.plala.or.jp/na7na/angelic/kagami.html
209卑弥呼は満州にいた:2013/01/11(金) 09:53:35.38
>>208
残念ながら、上のサイトを見てみたが、
そこに出ている鏡が前漢鏡だという根拠は不明だった。
その銘文が前漢期に特有のものだというなら話は分かるが、
その説明は一切ない。
210水銀厨:2013/01/11(金) 09:55:22.56
丹(水銀朱)を鏡を磨く為には使えないはず。
だが鉛丹や自然水銀なら有り得るかもね。
卑弥呼が鉛丹を貰ったのはその為か?
という推測は可能かも知れない。

個人的には研磨剤に使うのはザクロ石=金剛砂だろうと思うが。
大和盆地は自然水銀もザクロ石も全て調達出来る土地だからね。
211卑弥呼は満州にいた:2013/01/11(金) 12:26:29.42
私がなぜ丹と鏡の話を持ち出したかというと、次のような資料があったからである。
朱砂の産地を調べるのが目的なので、詳しくは読まなかった。

天工開物/鏡
朱砂斑點乃金銀精華發現

興味のある人は以下を参照
http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B7%A5%E9%96%8B%E7%89%A9/%E9%8F%A1
212日本@名無史さん:2013/01/12(土) 20:37:13.93
朝鮮人犯罪があまり報道されない、そしてテレビが日常的に嘘を吐く理由。(間借りしているだけなどと言う工作員に注意)

韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8 

韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6
TBSテレビ     、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6 

大韓毎日   、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F
東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13

朝鮮日報   、、、  〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1

日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
213日本@名無史さん:2013/01/13(日) 00:06:24.55
邪馬台国などなく、邪馬壱国だったわけだが
214日本@名無史さん:2013/01/13(日) 00:16:58.83
邪馬壹國は魏志倭人伝だけ、後漢書をはじめ邪馬臺國と書かれて
いるものが多い。
215日本@名無史さん:2013/01/13(日) 08:15:17.51
だから、原本は魏志倭人伝なんだってば
後漢書は魏志の劣化コピーなのよ
216日本@名無史さん:2013/01/13(日) 09:06:47.17
編纂開始年代としては後漢書が早いが
完成は魏志のほうが早い
邪馬臺国(台)と邪馬壹国(壱)、どっちが先にあったかは不明
217日本@名無史さん:2013/01/13(日) 10:52:57.31
倭人伝の最後のほうに、魏の臺に詣で、のむね書かれている。
魏志倭人伝の著者や後世の写本者は、
中華思想の国の建前及び本音として、邪馬台国や台与の台に「臺」を当てることはできなかったのであろう
大夫なら、心情を察してやるべし。
>壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、・・・
218日本@名無史さん:2013/01/13(日) 11:00:17.05
心情を察するなら、後の倭の連中がヤマトになんで
大和(ダイワ)なんて漢字をあてているか?を考えよう。
219日本@名無史さん:2013/01/13(日) 11:03:39.93
壹與も魏志倭人伝だけ。梁書、北史、翰苑は臺與となっている。
ということは、陳寿が書き換えた可能性がある。

ちなみに、後の歴史書が倭人伝をもとに書いたとはいえない。
後漢書でも、倭奴国の金印のことや帥升のことなど倭人伝に書かれていない
事も書かれている。
220日本@名無史さん:2013/01/13(日) 11:12:17.83
>>218
中国の歴史書を見ると、邪馬台国というのはあまり出てこない。
それよりも倭の方がはるかに目に付く。帥升は倭国王、卑弥呼は倭王、
倭の五王もある。おそらく、後の人は倭をヤマトと思った。

記紀的には天皇は九州からやってきたわけだから、場所は特に関係ない。
ヤマトという地名に倭を当てたのはある意味自然と言えるだろう。

倭は後に大倭となる。倭の文字の意味があまり良くないと知り、和に変える。
すなわち大和となる。という経緯ではないかと思う。
221日本@名無史さん:2013/01/13(日) 11:14:27.34
>>218
言ってる意味をよく理解できないな
大夫とは、今の日本の学者大人なら・・、の意味
倭は不味いと気づいて大和とし、その後日本にしたんだろ、日本史によれば。
222日本@名無史さん:2013/01/13(日) 11:36:35.83
大は台、山の意味を持たせている。
山は(色々)豊かでないとダメなのだ。
その最上級の意味が大和。
判る奴には判る言葉だね。
223日本@名無史さん:2013/01/13(日) 13:22:39.63
224日本@名無史さん:2013/01/13(日) 20:40:57.20
邪馬台国の邪馬は山なのは分かる。
台は何なのだろう?
琅?台や銅雀台と関係あるのかな?
225日本@名無史さん:2013/01/13(日) 20:57:28.41
台=俀=大倭(たゐ)
226日本@名無史さん:2013/01/13(日) 20:57:42.70
台地の台
あるいは門
227日本@名無史さん:2013/01/13(日) 21:13:01.71
邪馬台国のほかに、邪馬国もあるよね。
弁韓伝にもなんとか邪馬国があったね。
やっぱり、大きな山がある地域なんだろうね。
阿蘇山とか三輪山みたいな。
228日本@名無史さん:2013/01/13(日) 21:57:00.26
耶馬溪?
229日本@名無史さん:2013/01/13(日) 22:02:39.06
邪馬台国大分説
230日本@名無史さん:2013/01/13(日) 22:22:47.88
>>224
>邪馬台国の邪馬は山なのは分かる。
>>225
>台=…=大倭(たゐ)

デタラメ、無知、あきれるばかり。
せめて漢音と呉音、新仮名遣いと旧仮名遣いぐらいの常識を持て。
231卑弥呼は満州にいた:2013/01/13(日) 22:57:43.34
>台=俀=大倭(たゐ)

こういうことを書いているのは、大概、稗箕狐であるw
232日本@名無史さん:2013/01/13(日) 23:05:54.24
>>227
半島で日本語が使われていたことになるが?
233日本@名無史さん:2013/01/13(日) 23:07:47.51
>>231
台と壱、満州にはあったのはどっちですか?
234日本@名無史さん:2013/01/13(日) 23:31:43.16
邪馬国=八女郡
235日本@名無史さん:2013/01/14(月) 00:52:47.61
>>234
「邪馬=八女」は音が合う。
これだけぴたりと合っているのはあまりない。

現在の通俗読み「ヤマタイ」(新井白石が調べた近代北京音)が広まる前の
普通の読み方は「ヤバタイ」(漢音)または「ヤメダイ」(呉音)。
八世紀にはこのふたつの読み方があったはずだが、呉音「ヤメダイ」の方が古い。
ヤメダイの「メ(馬)」は乙類に属する。女という意味の「め」も乙類。
少なくとも八世紀には「八女」と「邪馬」は同音。
三世紀にも同音だった蓋然性はきわめて高い。
236日本@名無史さん:2013/01/14(月) 00:59:14.99
邪馬台は「やまと」と読むのが正しい、と大野晋が書いてた。
237日本@名無史さん:2013/01/14(月) 01:00:44.89
>>235 だが間違えた!
馬(め)も女(め)も両方とも甲類!
訂正してくれ。スマソ
238日本@名無史さん:2013/01/14(月) 01:03:33.71
>>236
だからそれが正しくないっていうの。何度言ったら。
239日本@名無史さん:2013/01/14(月) 01:12:16.26
大野晋がそんなアホなこというとは俄かに信じられないね。
それとも老年の与太話か?
240日本@名無史さん:2013/01/14(月) 02:34:30.03
東遷説なら邪馬台国がヤマト国でもかまわないのだが。
241日本@名無史さん:2013/01/14(月) 03:20:52.02
悪魔でも、東征だな。
神武が天皇になるのは、奈良を征服してからだ。
それ以前は。邪馬台国系のただの豪族。
242卑弥呼は満州にいた:2013/01/14(月) 09:33:43.26


上古音 mag
中古音 ma(mba)

中国音 ma
日本音 ba me ma
朝鮮音 ma

馬はマだろう。メと読んだとは考えにくい。
243日本@名無史さん:2013/01/14(月) 10:54:01.71
man これでメンとも読むのでmaがマとは限らない、日本人の発音は一方的になりがちなので
244日本@名無史さん:2013/01/14(月) 11:23:21.37
古代九州の方言の発音に漢字をあててるんだから、
今の九州方言の発音とイントネーションもいくらか参考にしたらどう。

いまも、八女はヤッメエ~ 、都万はトゥ~ マ、田島はタッヒマ 、熊本はクマモッツ、鹿児島はカゴッマ みたいに聞こえるよ。
245日本@名無史さん:2013/01/14(月) 13:07:27.27
>>239
岩波の日本書紀を読んだことないの?
恥ずかしくない?
246日本@名無史さん:2013/01/14(月) 13:55:24.70
何ページにある?
247日本@名無史さん:2013/01/14(月) 14:07:10.58
中国で上、中古音が呉音と同音だった蓋然性はきわめて高いと言ってるのと同じことだなw
248日本@名無史さん:2013/01/14(月) 14:19:13.34
東遷があってもそれは二世紀までの話。
所詮邪馬台国とは大和の事だろう。
いつまでも九州説、九州王朝とか夢みてても時間の無駄だよ。
249日本@名無史さん:2013/01/14(月) 14:32:13.52
>>248
東遷・東征にはやはりそれなりの痕跡の認識が必要。
銅鐸祭祀の終焉、古墳の発生、棺の変化、鉄器の普及これらを考えると、
必然的にその時期がわかるというもの。
250日本@名無史さん:2013/01/14(月) 14:40:20.25
>銅鐸祭祀の終焉

これは大きな出来事だったろうな。
俺は以前からこの銅鐸国家に興味がある。
邪馬台国なんて古代史にパッと咲いて消えてった仇花みたいなもんだと思うよ。
九州の、鉄器を背景にした恐怖政治の軍事統制国家だろう。
近畿の人間としてはそれよりもこの豊かで高い文化性を感じさせる銅鐸国家に心惹かれる。
九州から瀬戸内海を東進してきた蛮族に滅ぼされたんだろうな。
251日本@名無史さん:2013/01/14(月) 15:13:54.52
銅鐸
それは青銅器文明の東の終焉
爛熟した青銅技術を結集して造られた形
鉄器を主とする文明が量産した稚拙な銅鏡の類とは比較にならない技
252日本@名無史さん:2013/01/14(月) 16:06:35.09
銅鐸祭祀が行われていた間は九州勢力の東征はなかったということだろう。弥生中期から
後期にかけて徐々に東征が行われた、その勢力が古墳を造ったということだな。
253日本@名無史さん:2013/01/14(月) 16:12:01.28
やらせA 就活中という設定
http://blog-imgs-44.fc2.com/j/a/m/jamjamberry01/dat1327050740953.jpg
やらせB 通勤途中という設定
http://blog-imgs-44.fc2.com/j/a/m/jamjamberry01/dat1327050744931.jpg

街頭インタビューの殆どが、劇団員が台本を読んでいるだけだ。
254日本@名無史さん:2013/01/14(月) 18:06:00.31
銅鐸が使われた時代だけ見るから連続性がわからないんだな
縄文中期から祭祀にはどのような祭器が使われていたか、何が描かれ象られていたか、
どのように使われたか、銅鐸とその後の銅鏡にはどのような紋様が多く描かれ何を表現しているか
新しい技術や信仰が導入されて祭器の形が変化しても、日本人の根底にあった思想文化は現代まで受け継がれているのか
255日本@名無史さん:2013/01/15(火) 08:54:06.24
初期の銅鐸は北部九州で作られて発掘もされている。
なので単純に九州勢力が東遷した訳じゃない。
256日本@名無史さん:2013/01/15(火) 09:35:38.94
> 銅鐸祭祀の終焉

銅鐸の出土が最も多い地域は出雲だな。
その出雲では突線鈕1式を最後に銅鐸祭祀は終焉したようだ。
銅鐸だけではなく銅剣も銅矛も、青銅製祭器自体が放棄された。

その後の出雲では四隅突出型墳丘墓の発達にみられるように
首長層が成長し、祖霊(首長霊)祭祀が盛行するようになる。

吉備もまた突線鈕2式を最後に銅鐸の出土がなく、
それ以降は首長墓の発達とその墳丘上での葬送儀礼が盛んになる。

これらの地域では共同体のマツリが首長の霊を祀る儀礼に取り込まれ
マツリの道具であった青銅製祭器が放棄されたと考えることができる。
257日本@名無史さん:2013/01/15(火) 12:13:01.72
国内最古か…新潟「城の山古墳」から弓の装飾品
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130115-OYT1T00337.htm?from=main2

新潟県胎内市教委は15日、同市内にある古墳時代前期(4世紀前半)の「城の山古墳」から
国内最古とみられる弓の装飾品「両頭金具」が見つかったと発表した。
このほか東日本で出土するのは珍しい「盤龍鏡」と呼ばれる鏡も見つかった。

同市教委によると、両頭金具は約2センチで、鉄製とみられる。これまで、長野市の大星山
3号墳(4世紀前半)から出土したものが国内最古とされていた。
同古墳の年代などと比較し、出土した両頭金具は数十年遡ることが判明したという。

また、盤龍鏡は直径約10センチの銅鏡。中国の後漢(1世紀後半〜2世紀前半)か魏晋代
(3世紀中頃)に作られたものとみられる。近畿地方や西日本で多くの出土例があるが、
東日本での出土は珍しい。新潟大の橋本博文教授(考古学)は「大和政権からもたらされた
可能性が高い」と指摘する。

城の山古墳からは、銅鏡や勾玉など、近畿地方でよくみられる副葬品がそろって出土。
日本書紀の記述より300年も前に、大和政権の影響がこの地域に及んでいたと考えられ、
同市教委などが昨年9月に副葬品を掘り出して調査していた。調査では、ヒスイ製の勾玉や
大刀など計19点が、古墳時代前期の出土品としては本州最北だったこともわかった。
3月3日に同市でシンポジウムを行い、出土品を一般公開する予定。
(2013年1月15日11時04分 読売新聞)
258日本@名無史さん:2013/01/15(火) 13:00:38.69
>>256
出雲と近畿地方は状況が異なる。
出雲の場合は加茂岩倉遺跡で39個がまとまって出土していて、
荒神谷遺跡の6個と合わせて、これで数を稼いでいる。
近畿地方などはまとまって出土することはない。

また、加茂岩倉遺跡の銅鐸は扁平鈕式が最も新しく、突線鈕式は出ていない。
年代としては弥生後期末から中期初め頃になる。
突線鈕式の出ている近畿地方は弥生後期。

つまり、埋められた状況も年代も異なるわけである。
畿内説は出雲と近畿地方を一緒にしたいらしいが、一緒には出来ない。

個人的な考えとしては、近畿地方の場合は、外敵の進入の際に奪われないように
宝物を隠したという状況がふさわしく、出雲の場合は金持ちの隠し金庫的な
性格ではないかと思う。
259ローガン:2013/01/15(火) 15:22:01.85
>>258
>近畿地方などはまとまって出土することはない。

神戸と野洲

さて、荒神谷のは、銅剣制作用資材のストックじゃないかなあ。
260日本@名無史さん:2013/01/15(火) 15:22:22.18
>>258
同意
261日本@名無史さん:2013/01/15(火) 18:27:10.69
日本では祭祀に際して、土偶、埋甕など祭器を破壊して土に埋納する行為は縄文時代からやっている
再生を願うための破壊だな
朝鮮半島にはなかったと思う
262日本@名無史さん:2013/01/15(火) 19:09:35.11
考古学者がよく言いそうな話だけど、結局文献でもない限り意味はわからないよね。
可能性は否定しないし、実際あったのかも知れないけど
普通は壊して捨てたか隠したかでしょ。
263日本@名無史さん:2013/01/15(火) 19:37:25.09
まあ、朝鮮半島視点では理解できないのは無理はない
知識もないのに普通はと言われても、2chレベルならねとしか言いようがない

出雲の青銅祭器の埋納状態については、武器形青銅器と銅鐸が共伴している点が重要
まったく性質の異なる祭器であるならば、一括して埋納されるのは不自然
また武器形青銅器の埋納は、細形段階に中国、四国地方で集団祭祀として祭器化され、埋納が始まり
中細形段階で祭祀の様式が青銅器製作の中心の北部九州に逆移入されている
264日本@名無史さん:2013/01/15(火) 19:51:26.37
こう考えよう
先にいた銅鐸を作った民族
その後の前方後円墳を作った民族
流行ではない
文化や基盤技術を異にする民族がいたのだ
容姿や言葉も違ったろうな
単一民族が次々と異なる文化を受け入れたのではない
もともと違ったのだ
ただ互いに影響はしあった
その痕跡が>>254の言っているように紋様などのモチーフの連続性だ
265日本@名無史さん:2013/01/15(火) 20:07:08.46
九州の住民については、鬼界カルデラの噴火以降の石器を朝鮮半島と比較して調べるのがいい
本州からも縄文後期までにはかなり人が来てるよ
266日本@名無史さん:2013/01/15(火) 20:56:53.55
>>258
> 近畿地方などはまとまって出土することはない。
野洲銅鐸、桜ケ丘銅鐸

> 加茂岩倉遺跡の銅鐸は扁平鈕式が最も新しく、突線鈕式は出ていない。
突線紐1式が出ている。

> 年代としては弥生後期末から中期初め頃になる。
荒神谷銅鐸は中広形銅矛と共伴しており、加茂岩倉ではこれより新型式の突線紐1式がでているから、
埋納の時期は後期前半(以降)になるだろう。

> 外敵の進入の際に奪われないように宝物を隠したという状況がふさわしく、
宝物を隠したというにふさわしい状況とは何?
状況がわかる状態での出土例があるの?

> 出雲の場合は金持ちの隠し金庫的な性格
銅鐸が個人または単位集団の所有をうかがわせる状態で、
たとえば墓などから出土した例はない。
267日本@名無史さん:2013/01/15(火) 21:01:06.53
>>259
> 銅剣制作用資材のストック

そりゃまたどこからそんな発想が?
268日本@名無史さん:2013/01/15(火) 21:14:24.95
戦争になりそうなときは銅鐸を鋳潰して銅剣にし
平時は銅鐸に戻す、みたいな運用はありえないか?
269日本@名無史さん:2013/01/15(火) 21:20:51.87
268 曰く 敵兵を見て 剣を鋳る
故人曰く 泥棒を見て 縄をなう
270日本@名無史さん:2013/01/15(火) 21:26:05.68
おっと旧日本軍の悪口はそこまでだ
271日本@名無史さん:2013/01/15(火) 21:32:59.95
>>268
つい、カキコしてしまった、ごめんね >269
272日本@名無史さん:2013/01/15(火) 21:49:41.19
>>266
そもそも銅鐸の作られ始めた時期自体が後期からじゃね?
型式ごとにはっきりと時期が区分できるような出土状況じゃないし。
273ローガン:2013/01/16(水) 00:38:03.79
>>267
荒神谷銅剣の鉛同位体比が3つに別れる事から の想像。
274日本@名無史さん:2013/01/16(水) 02:04:25.36
さなぎのへんにでかいやつの分布に関しては、

へんにでかくしがちのひとびとが関与しているのかもしれない

しかも青銅のをでっちあげる高い技術をおもちのひとびと

とゆうことは、鏡の技術者のでも後の世に出てくるやつので

「男子繋銀花廣數寸以爲飾」とか

「作矛長三丈或數人共持之」とか

記されているグループのがにおってきたりするんだ
275日本@名無史さん:2013/01/16(水) 02:12:24.70
鉄は鉄てい(延べ板)で輸入されていたらしく、墳墓の副葬品となっている例もある
この頃は銅も半分は輸入品だろう、 剣の姿で輸入されても不思議ではない
荒神谷のは剣といっても板金打ち抜きの短冊みたいな物であって、研いでも大した剣にはならない
それよりも遥に製造が難しく精緻な鋳造物である銅鐸が本国内で作られていたのである、型も出ている
276日本@名無史さん:2013/01/16(水) 03:17:58.35
さなぎ=佐奈伎=(鉄)鐸「古語拾遺」
伊を頭に付けると伊佐奈伎(いざなぎ)
伊は「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。
伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。
277日本@名無史さん:2013/01/16(水) 07:47:20.32
>>272
> 後期からじゃね?

菱環鈕式とみられる石製鋳型が愛知県朝日遺跡で発見され、弥生U期(朝日式)後半の土器が共伴。
京都府鶏冠井遺跡で中期前葉以前の自然流路から菱環鈕2式あるいは外縁付鈕1式銅鐸の石製鋳型が出土。
東奈良遺跡の石製鋳型は中期後半の土器をともなって出土。
278日本@名無史さん:2013/01/16(水) 07:55:23.61
>>273
ぐぐるとこんなのが出てきました。

「銅剣

・・・96%(343本)の銅剣は領域Wに入る。・・・A-26だけが、はるかにとび離れてラインKに乗る・・・。
残りの14本は領域Wからはみ出してラインKの方に近寄った位置にくる。・・・
要約すると、銅剣の大部分は華北の鉛を含むが、朝鮮半島の鉛を含むものが1本あり、
また華北の鉛に朝鮮半島の鉛が若干混ざったと考えられるのが少しあるということになる。

銅鐸

1号鐸だけが領域W(華北)に入り、他はラインK(朝鮮半島)に載る。

馬淵久夫ほか「島根県荒神谷遺跡出土銅剣・銅鐸・銅矛の化学的調査」 」

でも
> 3つに別れる事から の想像
の意味がわかりません。
279日本@名無史さん:2013/01/16(水) 10:01:59.37
神武東征って、あの内容をよく見たら
首都を九州から近畿に移転させたような大規模なものではない。
少ない兵力で、吉備から近畿へ援軍として駆けつけたようなもの。
それも、神武の一族は、近畿にあった王家の九州分家のような一族で
その九州分家の中でも、さらに分家にあたるのが、神武の一族。
神武さんは、お兄さんの五瀬命が西日本の諸国に役人を歴任していたので、
それにつき従って、その下で働いていたようである。
しかし、お兄さんが吉備のほうで知事をやっていた時に
大和本国で、宗家にあたる王家の御落胤を名乗るニギハヤヒ命がクーデターを起こしたので
それを助けるべく、近畿に遠征した。
これを後世、神武東征という。
280日本@名無史さん:2013/01/16(水) 10:16:49.00
>>279
なかなか、うまい説明だね
281日本@名無史さん:2013/01/16(水) 13:43:18.62
>>279
>大和本国で、宗家にあたる王家の御落胤を名乗るニギハヤヒ命がクーデターを起こしたので
>それを助けるべく、近畿に遠征した。

これ、微妙に言い間違い。
神武らは、ニギハヤヒのクーデターを阻止しただな。
ニギハヤヒは、別名を櫛玉命。
天火明命の形見(御落胤)の王子と自称していた。
282ローガン:2013/01/16(水) 14:53:33.37
>>278
>>3つに別れる事から の想像
>の意味がわかりません。

ごく簡単に考えてます。
何本作ろうとしたかなんて、当然わからないけど
見本の1本から多数制作。材料が不足したので、別に調達した材料を使って14本作った。
鉛同位体比が3グループに別れる理由は、こう考えるのが自然。
14本制作後、完了か中断か判らないけど、使用されずに残ったのが、件の矛と鐸だと想像する訳です。
283日本@名無史さん:2013/01/16(水) 15:18:02.35
天火明命(天忍穂耳尊の第三御子と伝わる)と神武天皇は三世代の隔たりがあります。
天火明命の三世孫(要するにひ孫)の倭宿禰命と同時代の人。
(神武天皇を明石海峡に出迎えて道案内、参謀となる云々//少彦名命にキャラ被り?)
(倭宿禰の父、天村雲命(一伝、建位起命・・・五十猛命?)も存命だったかも

ニギハヤヒが天火明命だとするとその末娘と言えども神武天皇からしたらかなりの老婆。
神武天皇(四十代とか)と政略結婚した伊須気依姫は当時二十歳位の乙女。

ここで、ちょっと気になる系譜の記載があります。
神武天皇はふるさとに吾平姫命と御子たちを残してヤマトへ旅立ったそうですが、
同じような御名の阿碑(*人扁)良依姫さまが前出の天村雲命の妃として伝わっています。
これはひょっとして・・・
284日本@名無史さん:2013/01/16(水) 16:07:39.45
ニギハヤヒの正式名称は
天照国照天火明櫛玉ニギハヤヒ命という。

これの意味は
天照国照彦である天火明の形見(御落胤)であるニギハヤヒ命という意味。
櫛玉というのは、奇霊と同義で、形見という意味。

よって、天火明命≠ニギハヤヒ命ということ。

そういうわけで、調停が編纂した新鮮姓氏禄では、天火明命とニギハヤヒは別神とされている。
天火明命の嫡流の子孫である尾張氏も同見解だったようだ。

しかしながら、ニギハヤヒの子孫である物部氏は、
天火明命とニギハヤヒは同一だとした。
285日本@名無史さん:2013/01/16(水) 18:06:52.17
>>282
14本がWとKの混合なのはWが不足したのでKを注ぎ足したという馬淵氏の意見に同意します。
したがって、あらかじめ製作本数は決まっており、それに合わせて用意したWが、足りなくなったものでしょう。

また、制作用資材として用意されたなら、同じKの銅剣があるか、
全体的にWとKの中間にあってしかるべき。

銅鐸を鋳つぶして銅剣にするのは、銅鐸祭祀から銅剣祭祀への転向になるのだろうが、
銅剣の系譜があとに続かないことと、こののち加茂岩倉に銅鐸が埋納されることから、
青銅製祭器自体の終焉であり、銅鐸・銅矛も埋納されたのだと思います。
286ローガン:2013/01/16(水) 21:07:44.01
>>285
>したがって、あらかじめ製作本数は決まっており、それに合わせて用意したWが、足りなくなったものでしょう。

勿論そうかもしれません。もしそうなら、受注し制作開始したものの、事前の原料仕入れの段階で不備があった。
慌てて、追加調達したものが、在庫になった…と。有りがちな話でしょう。(笑)
原料に含まれる鉛の由来なんて、当時知る事は不可能。
さて銅鐸祭祀の終焉…
ちょっとズレますが、私は、銅鐸祭祀とは、韓伝に見える鈴鼓が祖型と捉え、
首長以下、全員参加のウタガキのアイテムだったと考えます。
時代が下り、大首長単独によるインドアの祭祀が始まり、ウタガキ(共婚)と 神事が分離されるようになり、銅鐸は役割を終えたと考えます。
287日本@名無史さん:2013/01/16(水) 21:33:59.08
銅鐸が各地から出るって事は、結構交流があって祭事に使う共通認識があったってこと?
発祥は出雲なのか?
288日本@名無史さん:2013/01/16(水) 23:54:35.42
古い段階の銅鐸は埋納方法が多様だが、荒神谷では銅矛は刃を立てる埋めかた、銅鐸も横位で、鰭を上下に立てる状態で一括埋納
近畿式・三遠式も大半が横位、鰭を上下の埋納方法で、型式が下るにつれ様式が統一されていっている
発祥が出雲かどうかはわからないが、祭祀様式が統一されるような交流はあったと考えられる
西の北部九州も武器形青銅器祭祀の様式が中国四国地方から伝わっている
289日本@名無史さん:2013/01/17(木) 01:46:27.62
では時期的に倭国大乱は同盟集落同士のいわば内乱みたいなもの?
ならば話し合いで卑弥呼を共立の王者にしたのは合点いく
卑弥呼さんが銅鐸祭事を取りやめるよう命じたとかないかな
かわりに鏡祭事に変更と
もらった鏡に偉大さを感じ、銅を無駄にせず鏡の国内産も作らせたとか

博識の方々の意見きかせていただけたらm(__)m
290日本@名無史さん:2013/01/17(木) 02:05:31.62
>>289
素人だが
倭国大乱があったかどうかも解らない
同盟集落というのもどんな姿を想定しているのか不明
内乱を起こしている状況で共立の王など立てるものだろうか
そんな共立で立てた女王が政治の実行力を持ち得るだろうか
銅鐸祭祀をやめて鏡祭祀に変えることで何をどう変革させたと言うのだろうか
もらった鏡に偉大さを感じ今までの銅鐸を廃棄してしまうほどの心境の変化って有り得るだろうか
291日本@名無史さん:2013/01/17(木) 08:14:25.13
ご意見ありがとうございます
やはり物証など発掘などないと解らなそうですね…
卑弥呼が内乱状態からどうやって共立の王になったか
ここが1番想像しがたい
そもそも、これが史実なのかどうか?
292日本@名無史さん:2013/01/17(木) 08:51:52.00
>>289
魏志倭人伝を書いたのは中国人な。

その当時の中国人の価値観では、皇帝や王というものは
先帝や先王が決めることになっている。
しかしながら、まれに決められないことがあって
その場合は、家臣などが話し合って共立するとある。
また、先帝や先王とは家系が異なるものが即位すると
そこから新しい王朝がはじまり、新しい国家が誕生したことになる。

そういう風に考えれば、少なくとも魏志倭人伝を書いた中国人の見解では
卑弥呼の即位前も即位後も同じ国が続いていると解釈している、
つまり、卑弥呼は先王たちと同王朝、同家系のものと解釈されている。
そして、即位は、先王の意思ですんなり決まらず、
家臣たちの話し合いで決まったことになっているので
おそらく、倭国大乱と、同族同士の王位継承争いの側面がある。
後世でたとえるのなら、南北朝の動乱や応仁の乱に近い。
293日本@名無史さん:2013/01/17(木) 09:35:09.99
倭国乱は女王国勢力と北九州勢力とが戦って女王国側が実質的には勝利したが
形としては和睦ということで納めようとしたのだろう。
だが、その際、北九州側はそれまでの女王国側で君臨していた男王は恨み重なる
相手、男王には従えないとごねたのではないかな。女王国側としても徹底的に北
九州を破壊し尽くすのでは何の利益もない、北九州側の顔を立てて卑弥呼を立て、
実質的な利益を確保することとしたのだろう。
294日本@名無史さん:2013/01/17(木) 10:43:26.65
倭国大乱は、のちの南北朝と一緒。
高尾張朝(葛城朝)と纏向朝(山処朝)の戦い。
両家系は、兄弟から分かれた家系。
295日本@名無史さん:2013/01/17(木) 15:08:19.61
倭国大乱の武器大量出土地点がどこか

出雲の武器は邪馬台国従属後の廃刀令みたいなものだろう?
だとすると倭国大乱の武器大量出土地は、九州の北部しかない
296日本@名無史さん:2013/01/17(木) 17:21:38.65
>>286
> 慌てて、追加調達

原料を注ぎ足して製作したのが、銅剣1本約500グラムを14本。
急遽そこらで調達したなら余りすぎでしょう。
注ぎ足したのはスクラップ(馬淵)でよいと思います。

> ウタガキ

ウタガキについてはまったくわかりません。
ただ、青銅製祭器の終焉は、双系社会から構造が転換したせいだとは思います。
297日本@名無史さん:2013/01/17(木) 17:34:10.66
青銅製祭器について、北部九州の場合。

北部九州では中期後半に「王墓」が出現し、後期には中国史書に王の存在が記録されている。

中期前半まで首長層の威信財であった青銅製武器は、
中期後半、銅鏡と鉄刀が採用されるようになって以降、共同体の祭器になった。
そして銅矛は後期後半巨大化し「見る銅矛」ともいえる広形銅矛になる。

つまり、後期の北部九州では権威の増大した首長と
近畿圏での前段階とは異質とみられる「見る銅鐸」と同質な青銅製祭器が並存している。

また、北部九州での青銅器生産は後期から須玖遺跡群に集中し、
中広形銅矛からは須玖での一括生産・一元的配布になる。

しかしながら古墳時代になると、他地域と同じように青銅製祭器は姿を消し、古墳が造られるようになる。

このような現象をどう解釈したらよいのだろうか。
298卑弥呼は満州にいた:2013/01/17(木) 18:47:02.89
考古学なんてデタラメで好い加減で当てずっぽうに過ぎないのに、
よくそんなものを信じて論を張れるものだな。

銅鐸の用途も時期も判明してないのに。
ここの連中はなぜ考古学をこんなに信用しているのかねw
299卑弥呼は満州にいた:2013/01/17(木) 19:05:28.17
>>274
稗箕狐らしい面白い発想だが、穢伝には 
又祭虎以為神
と書かれているが銅鐸には虎は描かれてないだろう。

それにバカデカイといえば前方後円墳もバカデカイわけだから、
バカデカイものを作るから穢人だとは言えない。
300卑弥呼は満州にいた:2013/01/17(木) 19:15:33.36
ローガンはもしかしてこれを読んだのか?

山口五郎
忘れられた神の文化「銅鐸と歌垣」―「ことば」で探る古代日本
301ローガン:2013/01/17(木) 19:15:40.10
>>296
では、逆に質問しましょう。(笑)
鋳つぶし目的でないとすれば、何故、地元に広く分布しない鐸と矛を入手したのでしょう?
また、埋納をもって、それまでの部族社会の終焉と捉えてよいなら、
他所の祭器と考えられる銅鐸と銅矛を、埋納した理由や如何に?
302日本@名無史さん:2013/01/17(木) 20:00:29.00
淡路島の播磨灘側の丘陵地に展開した一大鉄器工廠遺跡
(稼働当時は材料を搬入して製品化まで一貫製造して供給する国内最大規模の今日で言うコンビナート。現在は体験型遺跡公園として整備)は
倭国大乱とか神武東征とかニギハヤヒの東征、崇神天皇の頃あたりによく符合するようなきが。

地政学上、さほど高くはないけれども山陰となり東側の勢力からは全く見えない場所。
反対に西側からは完全に丸見えのバレバレ。
明らかに畿内を攻略するためとしか思えない立地と規模。

太古にはどうやら天火明命の流の海人一族(高尾張、海部?)が淡路島を領有していた節がおぼろげながら有ります。

神武を明石海峡に出迎え道案内、導いて参謀となられたのは倭宿禰命(椎根津彦。珍(うず)彦)。
この方は天村雲命(建位起命(イタテ。どこかで聞いたような・・・))を父に天火明命三世孫にあたり、尾張氏、海部氏ほかの祖。
淡路二宮の大和大国魂神社は大和神社の倭大国魂大神を勧請したものとか。
一伝、磯城長尾市(天火明命の末裔)が創建(崇神朝のころ)。また一伝では倭宿禰命が関わるとも。
古代、神社を創建することはその土地地域を領有したことを意味します。
・・・戦前の日本が創建した海外神社や明治に北海道(蝦夷地。先住民アイヌ達のゆるーい部族連合自治領)や元琉球王国(沖縄県)に神社を設置したのも同じこと。
303日本@名無史さん:2013/01/17(木) 20:06:44.02
全国の青銅武器出土状況と考証がもっとも秀逸な本は何ですか教えてください
304日本@名無史さん:2013/01/17(木) 20:17:39.40
武器形青銅器と銅鐸共伴例

島根:志谷奥で銅剣6口、銅鐸1口
広島:銅鐸、銅剣、銅戈がそれぞれ1口づつ巨石の下から(瀬戸内沿岸は巨石下埋納例が多い)
徳島:銅鐸3口、銅剣1口
神戸桜ヶ丘:銅鐸14口、銅戈7口
長野:銅鐸5口、銅戈8口(畿内製と九州製)
305日本@名無史さん:2013/01/17(木) 21:36:47.92
訂正  島根:志谷奥で銅剣6口、銅鐸2口
306日本@名無史さん:2013/01/17(木) 22:01:15.70
『出雲風土記(大原郡神原郷の条)』

「神原郷 郡家正北九里 古老傅云 所造天下大神之御財積置給處 則可謂「神財郷」 而今人猶誤云「神原郷」耳」

神原郷は郡役所の真北九里にある。古老が伝えるところによれば、天の下をお造りになった大いなる神のお宝を積み置いたところである。
だから神財郷((かむたからのさと)と呼ぶべきだが、今の人は誤って神原郷(かむはらのさと)と呼んでいる
307日本@名無史さん:2013/01/17(木) 22:51:01.03
>>302
おまえ、歴史を作りすぎw
もっと、文献に忠実になれ。

>倭国大乱とか神武東征とかニギハヤヒの東征、崇神天皇の頃あたりによく符合するようなきが。

ニギハヤヒの東征なんて記述はない。
また、神武東征と崇神も世代が10代も違うしw
308日本@名無史さん:2013/01/18(金) 00:22:38.09
銅鐸祭祀を共通に持った各地のクニグニは外敵から散発的に襲われるようになった
北九州で乱争の面影がみられるのはそれ
(倭国大乱が国内の乱争とみるには各地、痕跡が確認できていないらしい)

ついにリーダーを決め魏の後光を借り、外敵に対抗
魏への信仰心から鏡を奉るようになった


とか仮説を立ててみましたが、博識君達の意見をご賜ればm(__)m
309日本@名無史さん:2013/01/18(金) 03:41:38.52
>>299 おまいおれのことすきすぎ。

おまいてそざつなたんさいぼうだからちゃんとよめていない。

おれはテクノロジートランスファーに件の筋のが関与の可能性を示唆しただけ。

すりかわった、おきかわったとかでねえのね。

しんじるしんじないゆうてるクズとはあそんであげない。
310日本@名無史さん:2013/01/18(金) 07:58:48.80
>>301
> 広く分布しない

東方約3キロの地点に集められているから。

> 他所の祭器と考えられる

他所の祭器?
鐸の出土数は全国一。北部九州産の矛は交流の産物だろうか。

> 埋納をもって

埋納自体は一般的な儀礼ですね。あとに続かなくなったことが問題なのですね。
311日本@名無史さん:2013/01/18(金) 10:22:21.14
ヤクザやなりすましを使い成人式を荒らしているのは
広告代理店やテレビ局の自作自演です。

反原発デモでチンドンや太鼓を鳴らし、ソントを行っている在日
街宣車に乗り、騒音を撒く朝鮮人

構図は全て同じです
http://mamorenihon.files.wordpress.com/2011/10/zainichi_seijinshiki_1.jpg
http://4.bp.blogspot.com/-1_jEcAWVs1s/Tm4X2mLBhhI/AAAAAAAABok/MObw2nzMyoI/s1600/IMG_9062-714071.jpg
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/timg/middle_1228711905.jpg

ソント(声闘)・・朝鮮人は、声や音が大きければ、主張が通る、どんな凶悪犯罪でも無罪になると思い込む。
だから朝鮮人は大音量で街宣車を走らせる。
原発サウンドデモ=ソント

在日(もちろんテレビや新聞は通名で報道)が凶悪犯罪を起こしたとき、人権派()弁護士が異様に沢山付くのも
弁護士が多ければ=声が大きければ、無罪になると思い込んでいるから。
312卑弥呼は満州にいた:2013/01/18(金) 12:34:23.39
>>309
せっかく褒めてやったのに噛みついてくるとは。
どこまでひねくれているんだろうね、この男は。

哀れな奴というか、人間が小さいというか…。
313ローガン:2013/01/18(金) 16:32:04.54
>>310
勿論、あなたの言い分が通説だとは承知してますよ。(笑)
では、整理してみましょう。
●朝鮮系鉛のA26を見本に、華北系鉛を使用して中細形C類銅剣を343本作った。
●この他に、14本作ったが、これらは華北系鉛と朝鮮系鉛が混ざっている。
●最古式、菱環鈕式T式の5号銅鐸は、朝鮮系鉛で、かつA26銅剣と組成比が近似。同一材料での制作が考えられる。
●のこりの5銅鐸は、2.3.6号が外縁付鈕式T式 1号銅鐸は独特な外縁付鈕式。4号銅鐸は菱環鈕式T式と外縁付鈕式T式の特徴を合わせ持つ。
●1号銅鐸のみ華北系鉛で、他は朝鮮系鉛使用。
●銅矛16本は、中細形、中広形a類、中広形b類の3種。内10本が華北系鉛使用、3本が朝鮮系鉛使用、のこり3本が朝鮮系華北系の中間域。


元々、あったのは、A26と5号銅鐸でしょう。 華北系材料の用い、1号銅鐸と銅剣343本を作った。
原料不足になり、調達したもので制作したら、華北系鉛朝鮮系鉛の混在したものになった。
勿論、まとめて埋める目的で358本作ったなんて、考えにくい。それに358本で、制作完了とも言い切れず、追加制作の為の原料確保の可能性を考えたいですね。
314ローガン:2013/01/18(金) 16:36:18.87
おっと、抜けてたので追加。
●3種の銅矛の形式と、鉛同位体比分布域は、リンクしない。
315ローガン:2013/01/18(金) 16:46:18.10
ちなみに私は、銅鐸地中保管説。掘り出すつもりがあるから、楽なように鈕を縦にしてある。
横向きなら、取り上げる際、曲がるおそれあり。
連レス失礼。
316日本@名無史さん:2013/01/18(金) 18:20:10.70
>>313
> 他所の祭器と考えられる
理由についてお尋ねします。

鐸の出土数は全国一。銅鐸祭祀が常態だったとみるのがふつうでしょう。
銅剣は後にも先にも系譜が続かない。

ちなみにこんな意見も、いまググっていて見つけました。
http://www.asiacast.sakura.ne.jp/essay.htm

> まとめて埋める目的で358本作ったなんて、考えにくい。

一括してつくられた銅剣が一括して埋納された。
これは特殊な事情を物語っていると思います。

> 銅鐸地中保管説。

旧型式のものを埋めっぱなしにしたまま、新しいものを使用するのは、
埋納自体に意味があったからだと、埋納行為が儀礼だったと考えます。
鰭を立てているのは、矛にも鐸にも両面があり、それぞれに異なる意味がこめられ表現されているため、
という見解もあります。
重留遺跡などは例外とみてもよいのかなと。
317ローガン:2013/01/18(金) 20:57:00.57
>>316
>> 他所の祭器と考えられる
>理由についてお尋ねします。

では、他所由来の祭器と訂正しましょう。加茂岩倉でも、袈裟襷文の有り様から、18.23.35号銅鐸は、畿内系とは異質ゆえ、出雲制作が考えられるのでね。
その加茂岩倉銅鐸 殆どが入れ子でしたね。そして大型銅鐸、小型銅鐸とも大きさがほぼ揃う。しかし、形式はUー1からWー1 とバラバラ。
まとめて大きさの揃う銅鐸を作るなら、形式も揃うでしょ?
ここは、集めたと考えるのがいいと思う。また横型流水文銅鐸は、畿内制作が通説。
他所から「大きさの揃う銅鐸を集めた」と考える訳です。出雲発信ではないと。
318日本@名無史さん:2013/01/18(金) 23:29:00.62
ローガン氏 横失礼します

銅鐸、銅矛が出雲外から集められたことには同意ですが
地中保管説だと再度掘り出すことが前提となります
モデルと製作品と原料を一括同時埋納するということは、一旦製作をストップしていることになります
銅鐸がウタガキ(共婚)の際のアイテムであったなら、次のウタガキの前にまた全部掘り出して
製作を開始するのですか?
製作品の銅剣も地中保管ですか?
319ローガン:2013/01/19(土) 01:21:03.30
>>318
そんなのわかんないですよ。(笑) 地中保管説で全て説明できるとも思えないし…。
ただ、「諸國邑各以一人主祭天神、號為天君。又立蘇塗、建大木以縣鈴鼓、事鬼神。」 この天君が小集落の長であり 春秋のヒロバでのマツリに、繰り返し取り出し使われたのが、銅鐸の始まりと考える訳で。
未使用時の保管は、土中と考えて、差し支えないでしょう。
時代下って、部族社会から「ク二」へと移行する過程のなかで徐々に 必需品ではなくなった。
320日本@名無史さん:2013/01/19(土) 01:35:17.38
>>319
>そんなのわかんないですよ。(笑)

未使用時の保管の時に、モデルと製作品と原料を全部一緒に土中に埋めたら
次の使用時に全部一緒に掘り出すことになっちゃいますよ(笑)
必需品ではなくなった時に土中に埋めるのは、地中保管ではないですね
仮に鈴鼓がルーツであったとして、朝鮮半島に青銅祭器を土中に保管したと考えられる遺物は出てますか?
321水銀厨:2013/01/19(土) 10:24:20.00
銅鐸とは女性を象徴します、矛は勿論男性。
まぁ埋めるのは当然土地が豊になるようにという事ですな。

記紀のオオゲツヒメの逸話ですね。
322日本@名無史さん:2013/01/19(土) 11:36:42.26
朝鮮人犯罪があまり報道されない、そしてテレビが日常的に嘘を吐く理由。(間借りしているだけなどと言う工作員に注意)
(間借りしているだけだ等と言う社員と工作員には注意)

韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
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韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C 
323ローガン:2013/01/19(土) 13:49:31.98
>>320
>未使用時の保管の時に、モデルと製作品と原料を全部一緒に土中に埋めたら
次の使用時に全部一緒に掘り出すことになっちゃいますよ(笑)

あはは、そんなこと言ってませんよ。きっと、私が「非使用」を「未使用」と書き間違えことによる誤解。
銅鐸は各集落(部族)のマツリに使用。 マツリ以外の期間は土中に保管された。って事です。
324日本@名無史さん:2013/01/19(土) 14:25:26.89
>>323

>>282 >>313 >>315の荒神谷の銅鐸と矛の埋納状態の話ですよ?
5号銅鐸がモデルで、1号銅鐸が製作品で、2、3、4、6号銅鐸及び矛が原料
という説じゃないんですか?
325ローガン:2013/01/19(土) 15:34:17.53
>>324
>5号銅鐸がモデルで、1号銅鐸が製作品で、2、3、4、6号銅鐸及び矛が原料

まあ、概ねそんなとこですが、5号銅鐸がモデルとなったかどうかは不明。ただ、A26銅剣と同一材料使用と考えられるので、同時入手と捉え、銅剣制作以前からあったもの。
1号銅鐸が、当地制作と考えていいなら、銅剣より前に作られたものである。
京都、徳島に兄弟鐸を持つ2号、3号銅鐸を含む朝鮮系鉛使用の銅鐸は、他所からの入手したもの。
銅矛は、北部九州の特徴、研ぎ分けしてあるものが多く(中広形b類に7本)
九州から入手したもの。
それぞれ由来は違えど、全ての銅鐸銅矛は、更に銅剣制作が続けば鋳つぶれるものであった。 と考えております。
326日本@名無史さん:2013/01/19(土) 17:53:29.84
邪馬壹国・・・そこには私達のご先祖様達が、
       とんでもないものを造っていました。
       世界中の誰一人として考えもつかないとんでもないものを・・・
 http://saisentannomizude-zennojyunkanwo.blogzine.jp/yamaitikoku/
 女王卑弥呼の墓もそこにありました!
327日本@名無史さん:2013/01/19(土) 19:35:01.53
>>325
銅鐸、矛は >>318にも書きましたように、出雲外から集められたことには同意なんです

非使用期間中の保管方法として、出来上がった製品(1号銅鐸)とモデル(?)及び残りの原料を一緒に埋めていたら
マツリで使用するために出来上がった製品を取り出す時、必要ないモデル(?)及び残りの原料を一緒に掘り出すことになり
また、新たな製品を製作する場合には、取り出す必要のない非使用期間中の銅鐸も原料と一緒に取り出すことになって
非使用期間中の保管方法としては、製品と原料は分けて保管していないと無駄が生じますね

だから、一緒に埋納しているということは、マツリの度に製作も一緒にやっていたか(←考えにくい)
青銅祭器の製作、使用を一旦ストップか終焉したか
原料としてではなく、奉納として土中に埋納しているかじゃないでしょうか
328ローガン:2013/01/19(土) 21:14:44.88
>>327
>マツリで使用するために出来上がった製品を取り出す時、必要ないモデル(?)及び残りの原料を一緒に掘り出すことになり

いえ、出雲で銅鐸使用の祭祀が盛んだったとは、考えていないのですよ。
荒神谷銅鐸は、原料としての土中保管と思う訳です。
>>286のレスに
「さて銅鐸祭祀の終焉…ちょっとズレますが、」以下それに絡めて書いたのは、
銅鐸使用した地域での、小集落(部族)の祭祀の有り様について、思うところを書いたまでで。
荒神谷銅鐸の解釈と分けて読んでもらえれば…書き方が悪かったのは謝ります。
又後程。
329日本@名無史さん:2013/01/19(土) 22:07:33.55
>>328

原料としての土中保管であれば、>>288で私が書いているような他地域と共通するような
矛の刃を立てたり、銅鐸の鰭を上下に立てるような丁寧な埋め方をしていることが不自然なんです

ただ1号銅鐸についてはその特徴の特異性から、出雲近郊での製作の可能性は考えられると思います
330日本@名無史さん:2013/01/19(土) 23:00:01.79
銅鐸は太陽の精を大地(耕作地)に降ろす祭器
精を宿した銅鐸は水源となる山に埋められて耕作地を潤い続ける
331日本@名無史さん:2013/01/20(日) 00:21:31.54
卑弥呼〜〜〜
ヤフオクでバカな商品見つけたったw
ttp://omorolife007.blog.fc2.com/blog-entry-25.htm
332日本@名無史さん:2013/01/20(日) 16:14:13.04
民主党を生み出した『団塊の世代』の面々(現在66〜63歳)
消滅へ向かう化石サヨク思想

加藤千洋(65)・・朝日新聞元編集委員(中国の犬)
安田好弘(65)・・死刑廃止論の弁護士(光市母子殺害事件のDQN弁論)
上野千鶴子(64)・・ジェンダーフリー学者(フェミナチ)
班目春樹(64)・・原子力安全委員会委員長(デタラメ君)
若宮啓文(64)・・朝日新聞主筆(「竹島を韓国に譲れ」で有名)
白川方明(63)・・日銀総裁   無能(帰化人説有)
山田伸二(63)・・NHK解説主幹(民主党の熱烈なシンパ)
後藤謙次(63)・・共同通信元編集局長(反日主義者)
テリー伊藤(63)・・全共闘崩れ(民主党シンパ(帰化人説有))
333日本@名無史さん:2013/01/20(日) 18:20:28.10
>>317
「他所の祭器」と言われたら、「他所で使っていた祭器」だと思うでしょ、ふつう。

> まとめて大きさの揃う銅鐸を作るなら、形式も揃う

型式がちがう、つまり製作時期が違う、したがって使用中の祭器でしょう。それとも在庫が余っていた?

> 集めたと考えるのがいいと思う。

当然でしょう。どこから?

> 他所から「大きさの揃う銅鐸を集めた」

他所で使用中の祭器を集めるんですか? 鋳つぶすために。・・・誰がさし出しますか?
わざわざ出かけるなら原料調達する方がプロパーです。

> 他所由来の祭器と訂正しましょう。

では、
> 他所の祭器と考えられる銅鐸と銅矛を、埋納した理由や如何に?
は、
畿内産・北部九州産の銅鐸と銅矛を、埋納した理由や如何に?
ということですね。

銅鐸は畿内の工房から入手して出雲で使っていたんでしょう。矛は交流の産物として首長の手に。
それを埋納した理由は、・・・ウタガキの廃止でもいいです。
334ローガン:2013/01/20(日) 22:07:02.46
>>333
>「他所の祭器」と言われたら、「他所で使っていた祭器」だと思うでしょ、ふつう。

畿内一円で既に使用されていたマツリのアイテムと言い換えましょうか?もし論点がスッキリするなら。

> つまり製作時期が違う、したがって使用中の祭器でしょう。

何故、使用中と言い切れますか?ポンコツでもいいでしょう。コツコツと長期間掛けて、似た大きさのものが見つかれば収集した…ではなく、
一度に「同じ大きさのものを集めよう」とすれば、優先されるのは、大きさであり形式は横に置かれるでしょう。

>当然でしょう。どこから?

畿内一円。これは、勿論想像。
出雲辺りは、盟主墳的な墓の登場が早いので、出雲自身は青銅器使用の祭祀に固執しなかった地域だと思う。
さて銅剣制作が意図したものは、配布。理由はその数の多さ。武器でない以上、オウによる祭器の配布に他ならない。
各部族により、育み培われた大切なマツリ。そこで使われる祭器をオウが一元配布。支配を既成事実化したい政治的な意図。

>畿内産・北部九州産の銅鐸と銅矛を、埋納した理由や如何に?

数多くの銅剣、整然と方形区画に埋納しましょうと…並べたとすれば、欠けている部分が「?」になる。
ここに並んでないのは出荷済み又は、制作途上での中断。と考えるのが自然。
いずれにせよ、保管。
見つかった現場の状況が酷似する銅鐸銅矛も同様。保管。
当地での宗教的精神性の考慮を除外出来るなら、銅剣制作用の原料。と考えます。
勿論、トンデモは承知。(笑)
335日本@名無史さん:2013/01/20(日) 22:14:59.75
森浩一説は面白い
鉄剣の数が「出雲国風土記」にある神社の数と一致するという話
真偽はともかくロマンがある
336日本@名無史さん:2013/01/20(日) 22:15:30.36
鉄剣→銅剣
337日本@名無史さん:2013/01/20(日) 22:29:27.13
ふむー
338日本@名無史さん:2013/01/20(日) 22:43:43.03
>>335
鉄剣は神社に祭られている神の分霊なのかな
のちに国府の近くに神社を造り、総社(惣社)と称して国内の神社を分祀した社を建てているが
似たような奉幣の仕方があったのかな
339日本@名無史さん:2013/01/20(日) 22:55:28.35
青銅器は大気中での腐食には強い抵抗力があって、緑青と呼ばれている緑色の皮膜(塩基性銅化合物)を生じて
それ以上の腐食の進行を遅らせる効果がある
土中は有機物、塩類、硫化物が存在すると表面に腐食生成物がつき孔食を生じることがある
荒神谷は銅剣の埋納坑の周辺で4つの柱穴が見つかっていることから、
簡易な屋根状のものなど、何らかの施設があったと考えられる
木造の施設を造るのに、配布する予定の銅剣を、わざわざ保存環境の悪い土中に埋めるのは不自然です
また、358本のうち水銀朱が付着していたのは8本、うち7本は凹部にわずかに痕跡が認められる程度
1本だけが両面全面に朱塗りされていた
土中に埋めるのに、防錆処置がとられていたようでもない
340日本@名無史さん:2013/01/20(日) 22:56:33.91
>>338
森説では4列に埋められた銅剣の2列目111本は島根・秋鹿・楯縫3郡の113社
3列目の120本は出雲郡の120社、4列目の93本は神門・飯石・仁多・大原4郡の97社に対応
1列目の34本は「出雲国風土記」に記載のない隠岐島の神社数ではないかとの推測
分霊かどうかはわからないが、森説では各神社の供出ではないかとなっているな
341日本@名無史さん:2013/01/20(日) 23:40:54.87
銅剣は358本中296本をもとに調査した結果、同笵は2本1組(26組)、3本1組(10組)、4本1組(4組)、
5本1組(3組)の合計113本、残り183本は1個の鋳型から1個の製品
最低226の鋳型で製作したことになる
342日本@名無史さん:2013/01/21(月) 10:55:09.60
ふーん!
343日本@名無史さん:2013/01/21(月) 18:41:00.49
>>334
> 畿内一円で既に使用されていたマツリのアイテム
> ポンコツでもいいでしょう

私的には
>>316
> 鐸の出土数は全国一(だから、出雲では)銅鐸祭祀が常態だった
と思います。荒神谷の銅鐸は身内の祭器を集めて埋納した、と。それで
「(出雲ではなく)他所の祭器と考えられる」理由を尋ねたのです。こたえは
>>317
> 他所由来の祭器と訂正しましょう。
でした。それで納得したのですが、・・・荒神谷で埋納されたのは
「近畿一円で既に使用(済みになった)ポンコツ」の銅鐸、ですか。

> 論点がスッキリするなら

論点は、出雲で銅鐸祭祀が盛んだったか否か。

>>328
> 出雲で銅鐸使用の祭祀が盛んだったとは、考えていない

でわ、その理由は? 加茂岩倉の銅鐸は?
志谷奥遺跡、西川津遺跡、青木遺跡、伝出雲・伝熊野・伝木次銅鐸もいちおうありますが。

> 何故、使用中と言い切れますか?

言い切ってはいませんが、少なくとも新造品ではなく、
また、個々の銅鐸の最期は埋納であることが一般的なので、使用済みのポンコツが納屋でほこりをかぶっているとは考えにくい。

弥生時代中期と後期の間には断絶があり、出雲では祭祀形態にそれが表れているとみます。
弥生社会一般にみられる青銅製祭器の終焉、その嚆矢が出雲にみられる。
ということにしたいなと。
344日本@名無史さん:2013/01/21(月) 20:55:16.73
青木遺跡の近畿式銅鐸片は人骨とともに墓壙から出土してますね
古い形式の四隅突出型墳丘墓が検出されてる遺跡
345ローガン:2013/01/22(火) 00:50:38.14
>>343
>論点は、出雲で銅鐸祭祀が盛んだったか否か。

では、その辺りも絡めて。 私が気になったのは補刻の「×」です。多くの荒神谷銅剣に見え、加茂岩倉銅鐸にもあります。
これ、所有の意思表示と思う訳です。所持品に名前を入れるような。
で、未使用の荒神谷銅剣と加茂岩倉の銅鐸、同一の所有との想像を許して貰えるなら、あまりタイムラグを考えなくてよい。
上で書いたのですが、加茂岩倉銅鐸。大きさを揃っていることから、短期間の収集と考えています。つまり、加茂岩倉銅鐸とは、荒神谷銅剣制作と近い時期の収集です。

さて、出雲辺りの銅鐸、その同笵関係から、畿内や四国東部からの招来品…については理解を共有出来ると思う。邪視文は別ですが。
畿内や東部四国発信の祭祀が、遅れて出雲辺りで盛んになったとすれば、その発信地で巨大化する所謂、「見る銅鐸」の痕跡があって然るべきではないかなあと思う訳です。
畿内辺りより遅れて盛んになったが、すぐに止めちゃった…に「?」なんですよ(笑)
それが銅鐸出土が多いにもかかわらず、銅鐸祭祀自体はさほど盛んではなかった、と思う理由の一つです。

で話戻って、加茂岩倉銅鐸の短期間大量入手。見る銅鐸まで経年変化する銅鐸祭祀の盛んな地域に、その仕入れ先を考えるのが、今のところの私の想像です。
346日本@名無史さん:2013/01/23(水) 08:37:59.29
>>345
> 「見る銅鐸」の痕跡があって然るべき

痕跡はわずかにあるようですが。

> 畿内辺りより遅れて盛んになったが、すぐに止めちゃった

型式はU−1からV−2もしくは突線鈕Tまで変遷がみられます。「すぐに止め」たとはいえないでしょう。

> 短期間の収集

であれば、型式の違うつまり製作時期の違うものを集めるには、近畿からであれば
使用中もしくはホコリをかぶっていたポンコツ、ということになります。それは考えにくい。
これについての反論はまだ受けていません。

青銅製祭器の終焉は、遠隔地との交易にともなう新しいタイプのリーダーの出現による祭祀形態の転換によるもの。
出雲ではそれが他地域よりいちはやく始まったと考えられます。
347日本@名無史さん:2013/01/23(水) 08:46:30.35
銅鐸の祀りを行うための宗教的な土壌が
近畿や東海とあまり共通してなかったってことじゃないの
流行ってるようだから集めてはみたものの長くは続かなかった
348ローガン:2013/01/23(水) 16:19:09.77
>>346
>> 「見る銅鐸」の痕跡があって然るべき
>痕跡はわずかにあるようですが。

欠片でしょう。それこそスクラップ、原料では?(笑)

>型式はU−1からV−2もしくは突線鈕Tまで変遷がみられます。「すぐに止め」たとはいえないでしょう。

U-1…太田黒田、辰馬419、上牧、念仏塚、岐阜県鐸、
U-2…下坂、川島神後、桜ヶ丘3号、気比4号、気比2号
V-1…淡路本興寺蔵
W-1の18.23.35号のみ、出雲辺りの制作が推測されています。正しければ、自身で作って利用した期間、長くは想像出来ないでしょう。

>それは考えにくい。これについての反論はまだ受けていません。

何故考えにくいのか書いて貰えないと、反論は難しい。レスをあらためます。
349ローガン:2013/01/23(水) 16:39:41.38
荒神谷の所謂「埋納」。その上限の目安は最も新しい中広形銅矛でしょう。つまり所謂「埋納」は、早くて中期末を遡らない。
ところが共伴銅鐸は、菱環鈕式と外縁付鈕式のみ。突線鈕式どころか、扁平鈕式も無い。
これらがマツリの祭器なら、埋納の直前まで前時代のものを使用していた訳で、ここに畿内などと同じ祭器の経年変化を見ることは出来ない。
言い換えれば、畿内のような銅鐸を使った祭祀が盛んな地域ではなかったのです。
上で書いたように、補刻の「×」から荒神谷銅剣と加茂岩倉銅鐸の所有者は同じ。
銅鐸祭祀自体が盛んでなかった地域の首長が大量に保有する事。
また、大量保有した銅鐸がほぼ同じ寸法にもかかわらず、新旧形式はバラバラ。
ここからいえることは「大きさ」という意図を持った短期収集に他ならない、と考える訳です。
350日本@名無史さん:2013/01/23(水) 17:22:03.89
>>348
> 何故考えにくいのか書いて貰えないと

> 使用中もしくはホコリをかぶっていたポンコツ・・・それは考えにくい
 ↓
>>333
> 使用中の祭器を集めるんですか? 鋳つぶすために。・・・誰がさし出しますか?
>>343
> 個々の銅鐸の最期は埋納であることが一般的なので、使用済みのポンコツが納屋でほこりをかぶっているとは考えにくい。

とりあえず。あとはまたあらためて。
351日本@名無史さん:2013/01/24(木) 09:44:00.47
>>348
> 欠片でしょう。それこそスクラップ

鋳つぶすために他所から集めたのか、自分達が使っていた祭器を集めたのか、を検討しているのであって、
処分の仕方からそれを推定できません。畿内出土の破砕銅鐸片も他所から集めたといえますか?
青木遺跡の新段階銅鐸片を認めるのであれば、
「「見る銅鐸」の痕跡がないから銅鐸祭祀は盛んではなかった」、は却下です。

> 自身で作って利用した期間、長くは想像出来ない

製作地と、「出雲で銅鐸祭祀が盛んだったか否か」はあまり関係ないでしょう。
自身で作らなかったからこそ、畿内製作の銅鐸を長く使用したとも考えられます。つまり
>>349
> 埋納の直前まで前時代のものを使用していた
ということです。銅鐸製作が盛んではなかった、とはいえても
> 畿内のような銅鐸を使った祭祀が盛んな地域ではなかったのです
とはいえないでしょう。

> 「大きさ」という意図を持った短期収集

原料として鋳つぶすのに「大きさ」が関係するのですか。
どこから集めたにせよ短期収集なのは当然として。
352ローガン:2013/01/24(木) 17:05:23.08
>>351
>処分の仕方からそれを推定できません。畿内出土の破砕銅鐸片も他所から集めたといえますか?

では、纏向から出たWの耳飾りは埋納ですか?大福の欠片が埋納ですか?私には再利用目的のスクラップとしか思えませんが。
つまり、埋納だけが 銅鐸の末路ではないわけです。あなたは
「個々の銅鐸の最期は埋納であることが一般的なので、使用済みのポンコツが納屋でほこりをかぶっているとは考えにくい。」と言われましたが、
再利用時の破砕 その前は「不要な完品」つまりポンコツなんですよ。

>製作地と、「出雲で銅鐸祭祀が盛んだったか否か」はあまり関係ないでしょう。

いや、いかに多数出土しようとも、短期間入手なら「銅鐸祭祀自体が盛んだった」とは言えないんです。
制作地から、銅鐸だけが来るのではありません。銅鐸は祭祀について来るんです。
私は、この祭祀の変容に伴う祭器の形式変化が、発信地と同様でないことを重視したいですね。
それと共に、加茂岩倉銅鐸から読み取れる意図から、弥生後期初辺りの短期収集と捉え、
「大量出土するゆえ 出雲は、銅鐸祭祀の盛んな地域だった」を否とします。

>原料として鋳つぶすのに「大きさ」が関係するのですか。

それは誤解です。大きな云々は加茂岩倉銅鐸の事で、原料鋳つぶし予定だったのは、荒神谷の分です。
荒神谷銅剣は、並べられた形状から、ご当地制作と考えるのが自然です。工房と製品が離れていないなら、原料がそばにあって当然です。
353日本@名無史さん:2013/01/24(木) 19:27:17.26
銅鐸出土数と一宮祭神

出雲 51 大國主大神
紀伊 42        ♀丹生都比賣大神
阿波 42        ♀大宜都比売命 ♀天石門別八倉比売命
近江 40        ♂日本武尊  二宮 大山咋神(大年神の子)
摂津 33        ♂底筒男命 中筒男命 表筒男命 ♀息長足姫命
遠江 31 大己貴命
三河 29 大己貴命
大和 21 大物主大神
河内 19        ♂天兒屋根大神 ♀比賣大神
讃岐 18        ♀倭迹迹日百襲姫命 ♂五十狹芹彦命(吉備津彦命)
尾張 15        ♂天火明命
伊勢 15        ♂猿田彦大神 ♂中筒之男命 ♂天椹野命
備前 15        ♂五瀬命
淡路 15        ♂伊弉諾大神 ♀伊弉冉大神
和泉 12        ♂日本武尊 大鳥連祖神
土佐 11        ♂味鋤高彦根神 または 一言主神
播磨 11 大己貴神
伯耆 9         ♂建葉槌命
因幡 8         ♂武内宿禰命
備中 8         ♂大吉備津彦命
丹後 7         ♂彦火明命
但馬 6         ♂天日槍命 出石八前大神
山城 6         ♂賀茂別雷命
越前 5         ♂伊奢沙別命
若狭 5         ♂若狭彦大神(彦火火出見尊)
354日本@名無史さん:2013/01/24(木) 23:15:34.31
>>353
なんの関係が?
神社は土地土地の豪族の祖霊廟であって宗教とはちがう
銅鐸は宗教に伴う祭器
355日本@名無史さん:2013/01/25(金) 00:12:39.43
少子化を是認することは無いと言っても、現実は政府が専任大臣をたてても何の効果も無い。
100歩譲って、仮に今年から決定的な対策が行われたとしても、それで産まれた子供が労働者になるのは20年以上先だ。
だから、少子化を前提にしなければ、財政が持たない。
麻生大臣のチューブ人間発言は真理だろう。
356日本@名無史さん:2013/01/25(金) 08:18:27.51
>>352
> 纏向から出たWの耳飾りは埋納ですか?大福の欠片が埋納ですか?私には再利用目的のスクラップとしか思えませんが。

そう思います。しかし、だからといってスクラップとして他所から入手したと考えますか?
纏向と大福の銅鐸片はその地で使用されたものでしょう。青木の銅鐸片も同様です。
出雲でも新段階の銅鐸祭祀がわずかながら残っていたことを示唆しています。

> 再利用時の破砕 その前は「不要な完品」つまりポンコツ

言葉足らずだったようなので補足します。
「個々の銅鐸の最期は埋納であることが一般的」とは、荒神谷の埋納が行われた時期までのことです。

いずれにせよ、不要なポンコツだったとみられる銅鐸の例がなければ、
これ、不要だから持ってって、と他所から来た廃品業者に引き取らせる銅鐸の存在は考えにくい。
「見る銅鐸」の破砕にしても、否定はしたけど祭器は祭器、ほっといてはおかれないゆえの処置だという気がします。

> 短期間入手なら「銅鐸祭祀自体が盛んだった」とは言えない

埋納するために収集した期間が短期なのは当然でしょうが、
だからといって他所から入手したことを示すものではありません。

発信地の型式変化に沿って、U−1はU−1の段階に移入された。W−1はW−1の段階に移入された。
時期を経るごとに徐々に銅鐸祭祀が出雲各地に広まり、次第に盛んになったと思いますが。
357卑弥呼は満州にいた:2013/01/25(金) 09:21:21.22
やたらと銅鐸祭祀という単語が目に付くが、
銅鐸が祭器かどうかは不明。

まずそういう前提を疑わなければ。
358ローガン:2013/01/25(金) 16:32:00.35
>>356
>埋納するために収集した期間が短期なのは当然でしょうが、だからといって他所から入手したことを示すものではありません。

まあ、いろんな考えがあるでしょうが、今のところ、認識が共有出来るのは下記の通りじゃないですか?
●銅鐸の末路は決して埋納だけではない。
●加茂岩倉銅鐸は短期間の収集である。
●加茂岩倉銅鐸の制作地は畿内、四国東部と考えられる。

ここからは「畿内や四国東部で作られた銅鐸を、短期間で収集した。」としか言えない訳です。
勿論、出雲辺りで、銅鐸使用の祭祀が全くなかったなんて言いません。盛んではなかったと繰り返し述べているのです。
さて、盛んであったとする根拠はなんでしょうか?勿論、大量に出土したからですね。
では「出雲は銅鐸を大量に出した銅鐸祭祀の盛んな地域。盛んだったゆえ、出雲の各地に銅鐸があった。加茂岩倉は、それらを集めた」を首肯されますか?
これ、循環論法ですよね。(笑)
短期間に集めた訳ですから、来歴が明らかでなけは、当地で長年にわたり、盛んに用いられたとは、言えないのです。
わかっているのは制作地だけです。そして所謂「埋納」だけが不要銅鐸の最終処分方法ではないのは上で書いた通り。
加茂岩倉銅鐸の由来に関しては、荒神谷の銅矛と同様に捉えるのが、最も穴が無い考え方だと思います。勿論事実が、そうであったかはわかりませんがね。(笑)

>時期を経るごとに徐々に銅鐸祭祀が出雲各地に広まり、次第に盛んになったと思いますが。

それを言うなら、W-1の可能性のある加茂岩倉18.23.35号が、出雲制作と考えられる訳ですから、
祭器を作るのもマツリの一環。今まで畿内に頼ってきたが、ようやくマツリに自前の祭器を使用し始めるという矢先の廃絶って…(笑)
???です。
359ローガン:2013/01/25(金) 16:42:59.81
>>357:卑弥呼は満州にいた

そんなことより ↓の決着つけてきたら?
「579:卑弥呼は満州にいた 01/24(木) 19:21

中国音 tai
日本音 tai
朝鮮音 thay

中国音 tai
日本音 tai dai
朝鮮音 tay
苔と臺。極めてよく似ている。
苔がトと読まれたのなら、臺もトと読める。 」

まわりに笑われたままになってるよ。
360卑弥呼は満州にいた:2013/01/25(金) 17:34:30.83
おや、ローガンが私にレスしてくるとは珍しいではないかw

決着を付けるも何も、今のところ誰からも反論は来てないがね。
私はネットで調べたことを書いただけ。
苔と臺の上古音と中古音が同じかどうかは知らない。
安本美典がそう言っているらしい、ということもネットで知った。
361日本@名無史さん:2013/01/25(金) 18:42:12.09
>>358
> 「畿内や四国東部で作られた銅鐸を、短期間で収集した。」としか言えない

としか言えない? なぜ?

「畿内や四国東部で作られた銅鐸」を
「発信地の型式変化に沿って、U−1はU−1の段階に(出雲に)移入された。W−1はW−1の段階に移入された」
そして、出雲の各地で使用されていた銅鐸を「短期間で収集した」と言ってます。

逆に、短期間で「畿内や四国東部から」銅鐸を収集して回った、という想定は成り立ち難いと
これまで理由をあげて述べてきました。

> 盛んだったゆえ、出雲の各地に銅鐸があった・・・循環論法ですよね

「出雲の各地に銅鐸があった」ことは志谷奥遺跡、西川津遺跡、青木遺跡、伝出雲・伝熊野・伝木次銅鐸
からも推定できます。

> 来歴が明らかでなけは、当地で長年にわたり、盛んに用いられたとは、言えないのです。

来歴とはなんですか? 「来歴が明らか」とはどういう意味でしょうか。来歴の明らかな銅鐸の例はどれですか。
そしてそれ以外の、各地の銅鐸出土地はどこも「当地で長年にわたり、盛んに用いられたとは、言えない」のですか?

> ようやくマツリに自前の祭器を使用し始めるという矢先の廃絶って…(笑)

それが事実です。社会構造の変化にともなって祭祀形態が変わったと考えます。
362ローガン:2013/01/26(土) 16:02:00.17
>>361
>来歴とはなんですか?

入手経路。どこで伝世したか?ですよ。勿論そんなの判る訳がない。入手元が不明なのに、収集以前からすでに、加茂岩倉銅鐸と荒神谷銅鐸の全て出雲に存在したなんて言えないんですよ。
「出雲からまとまって多くの銅鐸が出たから」→「出雲は銅鐸祭祀の盛んな地域だった」→「盛んだったから地域内各地に多くの銅鐸が存在した」→「それが集められまとまって出土した」
は、循環論法なんですよ。わかっているのは、「畿内辺りで作られたものが大半であること」と「短期間に収集した」こと。

>「発信地の型式変化に沿って、U−1はU−1の段階に(出雲に)移入された。W−1はW−1の段階に移入された」

若干のタイムラグを考慮したとしても、畿内辺りと同様の経年変化を辿った…と?
つまり、新しい形式を随時受け入れていた訳ですな。
ではお訊ねします。貴方の前言を借りれば、加茂岩倉は荒神谷より後ですね。
で、荒神谷は、中広形銅矛拡散時期以降。加茂岩倉の埋納はそれより後。
短期収集に関しては同意いただいているので、加茂岩倉のU-1は随分長い期間の伝世を考えなければなりません。荒神谷のT-1なら尚更。
出雲のマツリの変容が畿内同様なら、この古式祭器の長期間伝世とは齟齬が有るような気がしますが…。
どう考えますか?その根拠を教えて下さい。
桜ヶ丘はUとV 野洲はW 勿論、荒神谷や加茂岩倉との性格の違いは考慮が必要でしょうが、大量埋納であっても出雲ほど形式の散らばりが多くない。
363日本@名無史さん:2013/01/26(土) 21:40:23.52
「日本書紀」神功皇后摂政前紀に「祠を穴門の山田邑に立つ」と見え、
三韓出兵以前に神託に従い、住吉3神の荒魂を山田邑に祀ったというこの祠は、
のちの長門一宮住吉神社のことだ。

この長門の山田邑こそ、かつての邪馬台国だったとすれば、邪馬台国が日本書紀に出ていない謎が解ける。
実は、ちゃんと出てるんだよ。
364日本@名無史さん:2013/01/26(土) 21:51:31.50
佐賀県の安永田遺跡から銅鐸の鋳型が出ていて、それで作られたと見られる
銅鐸が確か出雲で見つかっていたのではなかったかな。
つまり、九州で作られた銅鐸が出雲に渡っていた。
荒神谷遺跡の銅矛には綾杉文があり、これは九州で作られたと見られている。
365日本@名無史さん:2013/01/27(日) 00:15:05.91
佐原編年だけで銅鐸の時代観を語るのは危険だな。
366日本@名無史さん:2013/01/27(日) 01:37:33.97
広域から祭器を集めて、大量に埋納したのには
よほど大きなお願い事があったのだろう
367日本@名無史さん:2013/01/27(日) 01:43:28.29
今でも神社へお札を返しに行くだろ
物を壊したり埋めるという行為も結構行われている
亡くなった家族の茶碗を割るとか
368日本@名無史さん:2013/01/27(日) 02:11:28.18
地鎮祭とかね
経典も経塚に埋めたな
369日本@名無史さん:2013/01/27(日) 10:01:52.91
土中に埋める、土に返すと言う行為は、穢れ払い、邪気封じの基本だよね。
おそらく、災害とか、広域の災いが当時起きて、それを鎮めるため、加茂岩倉が各地の銅鐸を引き受けたんだよ。
370日本@名無史さん:2013/01/27(日) 10:52:25.08
生ごみ処理と一緒だな。
371日本@名無史さん:2013/01/27(日) 11:35:14.74
古代の司祭器なんてものは、霊が宿っている恐ろしきものだから、うかつに処分できない。
現代でいえば、ダイオキシンかPCBの処理施設、もしくは、核燃料の最終処分場みたいなものだろう。
鏡の勢力が台頭し、使われなくなった銅鐸を出雲神の力で清め、祟りから逃れようとしたに違いない。

故人の使った鏡を古墳に埋葬したのも同じ目的だろう。
372日本@名無史さん:2013/01/27(日) 11:51:06.07
▲コーナー拾わんとして生ごみに頭より落ちる
古き嫁を助けんとして伴に死す
373日本@名無史さん:2013/01/27(日) 16:35:38.69
東遷説が真実です。
374日本@名無史さん:2013/01/27(日) 20:58:51.40
朝鮮半島=北部九州から見て「海北」にある。
宋書倭国伝に引用された478年の「倭王武の上表文」では、「東は毛人の五十五国を征し、西は衆夷の六十六国を服し、渡りて海北の九十六国を平らぐ」と述べてられている。

日本書紀には、宗像の女神(沖ノ島)は「今、海北の道中に在す」 と書いてある。

神武東征後の巨大古墳や奈良時代の事だから、倭国の中心は完全に機内ですな。
だけど、高天原邪馬台国=北部九州時代から 朝鮮半島のことを「海北」と呼んでいたので、その慣習から「海北」と書いた。
それは日本書紀の編集時代8世紀にも継承されたのである。

そして、弥生時代の墓から鏡が出るのは、福岡県と佐賀県だけだ。

さらに、古代天皇は100才以上とか、有り得ない記述があるが、 手元の年表では、26継体天皇(507)から載っている。
これに、96後醍醐天皇(1318 )まで71代を計算すると、一代平均11.4 年だな。 26継体天皇(507)から11.4年×25代遡った神武即位は(322)だ。
そして、11.4年×5代遡った台与即位は(265)。
実際の台与即位は(247)以降近辺だが、十分に誤差の範囲といえるだろう。
375日本@名無史さん:2013/01/27(日) 21:13:01.42
>>369
>土中に埋める、土に返すと言う行為は、穢れ払い、邪気封じの基本だよね。

民俗学に見るような具体例は?
基本と言われても正直イメージが湧かんわw
(仮にそうだとしてなんで災害の起きてる自分の地に埋めずに遠方に持って行って埋めるのか?w)

むしろ大地の生産力の復活・向上の祈願の方がピンとくるな。
実際食物起源に関する神話で神や人の死体から様々な物が生じたなんてのは
形を変え世界中にあるし
縄文時代の土偶で砕かれてばら撒かれたものにその思想が伺えそうなものがあったと思うが…

ちなみに縄文時代の土偶は後期に男性の物が出てくるが全体としては
女性をかたどったものが多い。

大地=母・母体 のイメージなんだろうな

しかし銅鐸の埋納に関しても先ず「オレサマ脳内ストーリー」があって
それで語ってる奴が多いな、まあはっきり言ってチラ裏のゴミレスだがwww
376日本@名無史さん:2013/01/27(日) 22:51:42.35
>>375

> >土中に埋める、土に返すと言う行為は、穢れ払い、邪気封じの基本だよね。
>
> 民俗学に見るような具体例は?
> 基本と言われても正直イメージが湧かんわw

”土葬”なんて言う風習はいかがか?
穢れものを土に埋めて封じる、土に返す、もっとも判りやすい例かな。
胞衣埋納とかの風習も含めていいかも。

鎮物や鎮壇具のように、埋納物によって地中を浄化する思想では無く、
穢れてしまったものを、土によって浄化してもらう、そう言う思想を想定して書いてます。
じゃ、何で銅鐸が穢れてしまったのか、
やはり、これは銅鐸信仰を否定しなくちゃならんような大事が有ったと言うことで、仮定の中で辻褄を合わせただけ。

> (仮にそうだとしてなんで災害の起きてる自分の地に埋めずに遠方に持って行って埋めるのか?w)

それは、加茂岩倉の霊験が、邪気封じの権威だったんじゃないの?
核廃棄物と同じ、同じ埋めるにしても、自らの生活圏内では無く、専門的知識に基づいた管理の出来る場所が一番。

> むしろ大地の生産力の復活・向上の祈願の方がピンとくるな。
> 実際食物起源に関する神話で神や人の死体から様々な物が生じたなんてのは
> 形を変え世界中にあるし

うん、だから、それじゃツマラナイでしょw
377日本@名無史さん:2013/01/27(日) 23:20:39.71
中国で、天を祀るときは、供物を高いところで焼いて煙を天に届ける。
地を祀るときは、供物を地中に埋める。
皇帝の封禅では祭文を泰山の地中に埋める。
地中に埋めるという行為は、必ずしも穢れ払い、邪気封じとは限らない。
378日本@名無史さん:2013/01/27(日) 23:32:59.22
古い神社や寺院跡を発掘すれば
方位を考えて埋められた炭が出てくることもある
奈良の興福寺の基壇から鎮壇具として金・銀・水晶などが出てきた
379日本@名無史さん:2013/01/28(月) 00:03:26.75
>>371
「霊魂を抜く儀式」って感じのは行われなかったの?
380日本@名無史さん:2013/01/28(月) 01:34:48.99
胞衣は穢れたものじゃないよw
381日本@名無史さん:2013/01/28(月) 22:35:52.07
単に積み重ねておいたところに土砂が崩れただけって
ことじゃ
382日本@名無史さん:2013/01/29(火) 07:48:29.48
>>362
> 循環論法なんですよ。

「出雲の各地に銅鐸があった」ことは、荒神谷と加茂岩倉のほかに
志谷奥遺跡、西川津遺跡、青木遺跡、伝出雲・伝熊野・伝木次銅鐸をあわせて推定されます。

循環しているのはあなたの思考だけでしょう。
それを持ち出して「出雲に存在したなんて言えない」と言われても、一人芝居を見せられているようです。

> 随分長い期間の伝世を考えなければなりません。
> どう考えますか?その根拠を教えて下さい。

入手が困難なので伝世したと考えます。
入手が滞るようになった後期の北部九州でも中国鏡の伝世が開始されます。
それと同様の現象だと思います。
383ローガン:2013/01/29(火) 16:21:25.73
>>382
>入手が困難なので伝世したと考えます。

おやおや、つい先日は

>発信地の型式変化に沿って、U−1はU−1の段階に移入された。W−1はW−1の段階に移入された。
>時期を経るごとに徐々に銅鐸祭祀が出雲各地に広まり、次第に盛んになったと思いますが。

と言ってましたね。形式変化が同期なら、供給がある程度安定していますよ。
で、今度は入手困難ですか(笑) 一貫性が無いなあ。

>循環しているのはあなたの思考だけでしょう。

理解出来ないようなので、それで結構です。
384sss:2013/01/29(火) 23:04:32.97
荒神谷遺跡からは358本の銅剣が出土している。銅矛が16本に銅鐸も6個。
銅剣はきちんと埋められていて、4本の柱穴があることから、屋根のついた建物の
ようなもので覆われていたらしい。
これは神様に対するお供え物のような感じかも知れない。

近くには神名火山と呼ばれた仏経山がある。戦国時代の武将尼子経久は、
この山に十二の寺を建て、薬師十二体を安置し、山の名も仏経山と改めて、
尼子家の安泰を祈ったとか。なんとなく、通じるものがあるような…。

ということになると、銅鐸や銅剣に特別な意味があるというよりも、大切なものを
神様に対してお供えするという意味しかないのかもしれない。
近畿地方などとはちょっと違うような気がする。
385日本@名無史さん:2013/01/30(水) 00:22:27.80
諏訪上社の御杖柱、小野神社の高鉾に取付ける佐奈伎鈴(鉄鐸)も6個で1セットなんだよな

天鈿女命も天岩戸の前で鐸をつけた矛を持って舞った
386ローガン:2013/01/30(水) 01:29:55.79
>>384:sss
>4本の柱穴があることから、屋根のついた建物のようなもので覆われていたらしい。

意味不明。その4つの柱穴からどんな覆屋が想定出来るの?
387日本@名無史さん:2013/01/30(水) 02:24:29.94
青銅を鋳吹く炉は跡が残らないものなのかな
品物の出土より、工房がどういう地域にあったかの方が気になる
388日本@名無史さん:2013/01/30(水) 05:57:37.55
389日本@名無史さん:2013/01/30(水) 10:00:56.81
>>387
畿内=(野州、神戸)?にあったんじゃないの?
390鋭利庵:2013/01/30(水) 10:12:33.88
>>384  sss
>銅鐸や銅剣に特別な意味があるというよりも、
>大切なものを 神様に対してお供えするという意味しかないのかもしれない。

憶測含みだが、銅鐸は地鎮(集落建設や開墾の際に埋めた)・
銅剣は邪気祓い(破邪・駆邪)・銅矛は疫病退散(無病息災)・矢は魔除け(破魔矢)、
それぞれ祭具・呪具としてこんな機能だったんじゃないか。

整然と埋埋されていた事実からいえば、
「製作した人間たちが自ら埋めた」ということだろう。

なぜ埋めたのかを想像するに、「宗教の一大変革」かな。
それまでの宗教観が一変するほどの変化………銅鏡を祭具・呪具とする信仰が
なかったところへ、鬼道という(当時としては)万能の宗教の登場。なはーんちゃって
391恵苦祖視須徒:2013/01/30(水) 18:08:37.49
>>390
>憶測含みだが、銅鐸は地鎮(集落建設や開墾の際に埋めた)・ (以下略)

>なぜ埋めたのかを想像するに、「宗教の一大変革」かな。(以下略)

矛盾してるだろ。
392日本@名無史さん:2013/01/30(水) 20:21:39.46
銅鐸を一斉に埋めた。または、毎年埋めてまた掘り起こして使っていた。あるとき、
掘り起こすのをやめた。一斉にやめた。
どちらでもいいさ。とにかく、銅鐸勢力にとってはそれまでの祭祀を続けられない
事態が興ったということだ。これが勢力内部で起きるはずはない。外敵勢力の影響
でそうなつたんだよ。
393日本@名無史さん:2013/01/30(水) 21:08:27.61
「敵」かどうか知らんけど、新しい文化と、人々が登場したことは間違いないね by畿内説
394日本@名無史さん:2013/01/30(水) 21:11:39.86
>>392
地鎮のためにとか供物とかで埋めたのなら、掘り返したりしないだろう。
そういうケースなら、宗教の一大変革とは言えない。
395日本@名無史さん:2013/01/30(水) 21:15:59.50
荒神谷の後も畿内、東海は銅鐸を埋め続けとるし、九州は銅矛を埋め続けとるよ
396日本@名無史さん:2013/01/30(水) 22:44:35.90
記紀には銅鐸が重要な祭器としては出て来ない。
ということは、大和朝廷を興したのは近畿や出雲や四国などの勢力ではなかったということだろう。
397日本@名無史さん:2013/01/30(水) 22:49:42.49
当時に銅鐸を祭器に使わなかったし伝承にも無かったからだろう
今(8世紀)の有様で昔を想像するから馬とかが出てくる
398日本@名無史さん:2013/01/30(水) 23:20:17.59
鐸は古語では佐那伎(サナギ)
399日本@名無史さん:2013/01/30(水) 23:21:55.19
>>396
そのとおり
400日本@名無史さん:2013/01/30(水) 23:23:22.93
銅鐸が使われなくなったのは単純に鏡に代わったからじゃないの?
鏡のが生産性や取り扱いに優れてただろうし、恐らく当時の中国は神のように崇められてたろうし、国際化に伴い神鏡文化を取り入れた
401日本@名無史さん:2013/01/30(水) 23:41:17.38
発掘された銅鐸見て、
「妙なもんが出てきた!!」、って書かれてたのは、
奈良か平安の貴族の記録だった筈だが、

その頃には銅鐸の記憶はなかったようだな。
402日本@名無史さん:2013/01/31(木) 01:05:21.58
近江の土木作業員と百済人技師と、後に「扶桑略記」を書いた九州出身の坊さんにはわからなかったんだろ
その後の「続日本紀」では朝廷内に銅鐸の造りと、音色が律呂にかなっていることがわかる人間がいたようだから
403日本@名無史さん:2013/01/31(木) 02:33:49.87
朝鮮半島について、東夷伝には鐸の記載があったっけ?
404日本@名無史さん:2013/01/31(木) 03:00:55.85
仏塔に吊るされている風鐸は風に揺れて涼やかな音色をたてるけど
銅鐸は意外にも鈍い音しかしない
ヒレが振動を拘束するせいだろうな
元々音をたてる物ではないんじゃないかな
405日本@名無史さん:2013/01/31(木) 03:27:23.07
銅鐸と鏡は一緒に出るのが本当らしい

http://www.emuseum.jp/detail/100571
406日本@名無史さん:2013/01/31(木) 03:33:44.23
407日本@名無史さん:2013/01/31(木) 03:37:41.48
408日本@名無史さん:2013/01/31(木) 10:04:22.63
>>404
音出してたのは間違いない。
内側叩いてる跡がわかってるし。
409日本@名無史さん:2013/01/31(木) 11:53:04.29
サイズの小さい銅鐸はそこそこ鳴るけど
大型は鳴らす事を意識した作りでないのでは
寺の鐘などと比べて薄すぎる
薄くて大きい鋳造物というだけで技術的には驚異だけど
たぶん現代でも
410日本@名無史さん:2013/01/31(木) 13:19:54.33
現代の寺の鐘とは鳴らし方も違うし、音色も違う。
今の鐘の形から類推して、当時の使用方法を語るのはあまり意味無い。
411日本@名無史さん:2013/01/31(木) 15:06:24.63
だから銅鐸を鳴らすのは神を降ろすためだろ
琴の埴輪が出たりしているし楽器は少なからず神事に関わるものだよ
大型化して鳴らさなく(鳴らせなく)なった理由が知りたい
412日本@名無史さん:2013/01/31(木) 15:52:10.70
鳴らさなくなった、っていう脳内妄想やめたら?
413日本@名無史さん:2013/01/31(木) 18:02:51.64
>>397
>当時に銅鐸を祭器に使わなかったし伝承にも無かったからだろう

当時というのは記紀が編纂された当時ということだろうが、銅鐸が伝承にも無かったというのは重要な点だね。
銅鐸を祭器として使っていた、また、その祭器を埋めたという先祖のことは記憶としてどれくらいの期間に亘っ
て残るかは計りようがないが、先祖が銅鐸を祭器として使っていなかったら伝承もなにも無いからね。
414日本@名無史さん:2013/01/31(木) 18:29:12.34
大型化した銅鐸は内面突帯が狭く低くなる傾向があり、内面突帯が舌と触れ合って摩耗した痕跡がほとんど確認できない
内面突帯を欠くものもある
後期の舌と見られる石製品も全面が丁寧に研磨され、使用痕が確認できない
見せることに重点が置かれて製作されているとは言える
415日本@名無史さん:2013/01/31(木) 21:22:10.31
銅鐸と銅鏡では技術的に断絶があると思うのだが
大型で薄い銅鐸を作れる技術があったのに、銅鏡の時代になるとレベルが低下している
三角縁なんかを見ると国産品の技術力はかなり低かった感じ
中国製とされる画紋帯は掘りが深いって言うか三角縁より明らかに質が高いよ
416日本@名無史さん:2013/01/31(木) 22:02:30.59
前方後円墳の発掘は博物館の発掘みたいなもので

同じところから出てくるものが同じ時期の作品かどうかの保証は無い

銅鐸製造者は銅鏡製造者であったのにきまるわな
417日本@名無史さん:2013/01/31(木) 22:11:24.32
エコノミーに量産できるというのも、技術の進歩なのだが、
政治がらみになればなおさらだ。
418日本@名無史さん:2013/01/31(木) 22:11:41.58
文書の記録がない時代、二世代も断絶すれば、
技術の継承はなくなっちまいそうだな。
419日本@名無史さん:2013/01/31(木) 23:05:37.16
>>銅鐸製造者は銅鏡製造者であったのにきまるわな
根拠を出せとまで言わないが、何故そう思う?
420日本@名無史さん:2013/01/31(木) 23:13:44.93
>>415
古墳の埋葬の様子では三角縁30面より画紋帯1面の方が大事そうに扱われている
421日本@名無史さん:2013/01/31(木) 23:28:01.49
>>420
資料館で見比べてみて欲しい
できればレプリカであれ触ってみて欲しい
画紋帯は一刀彫のように線刻が深くシャープだけど、
三角縁はプレス加工で作ったみたいに線が曖昧だ
422日本@名無史さん:2013/01/31(木) 23:41:01.34
>>419
BCのときは銅鐸と鏡一緒にしでかしていたし
http://www.emuseum.jp/detail/100571/001
一緒に出てきて当たり前

倭製鏡のこれのはレベルも高いしデザインも異系のだろ
鐸のとコモンだら
http://www.kunaicho.go.jp/culture/shoryobu/img/pr04.jpg
http://www.tnm.jp/uploads/fckeditor/blog/201108/uid000071_20110816151135da967af8.jpg

前方後円墳からは技術的に良いの悪いの二系統で混ざってどっさり出てくる

劣化した鏡どっさり製造させる集団が大量に輸入鏡とか購えるのもへんだし

そんな飯の種にもならんもの買うてくるなら鉄製の鏃でもね。。。
423日本@名無史さん:2013/02/01(金) 00:16:30.66
>>422
そうかなぁ
この倭製鏡は並みの三角縁くらいだと思うけど
あえて言うなら、画紋帯はもっと工芸的で職人の息吹すら感じられるよ
424日本@名無史さん:2013/02/01(金) 11:10:01.92
方格規矩鏡なんかは、緻密に見える物が多いね。
内向花紋鏡は緩いイメージが有る。
425日本@名無史さん:2013/02/02(土) 14:17:00.04
426日本@名無史さん:2013/02/02(土) 15:07:37.84
427日本@名無史さん:2013/02/02(土) 15:17:12.30
向野田古墳 熊本県宇土市松山町向野田 前方後円墳
周濠なし、墳長86m、後円径53.7m・高8m、前方幅3.5m・高4m、葺石あり
第1主体棺内 【内行花文鏡】1+【方格規矩鏡】1+【倭製鳥獣鏡】1
+硬玉製勾玉4+碧玉製管玉82+ガラス製小玉228以上+碧玉製車輪石1+貝輪10以上
第1主体棺外 鉄剣3+鉄刀4+鉄槍1+斧3+刀子78+石室裏込石内に石枕未製品1。
完全女性人骨。
428日本@名無史さん:2013/02/02(土) 16:12:50.64
■NHKの間抜けなツイッター工作発覚■

NHKの24時のニュースは視聴者からのツイッターを流しているが
自民党や日本企業の話題の時には批判コメントしか流さないなど、
以前からNHKによる意図的な反日工作が指摘されていた。

1月31日深夜のNHK24時ニュースの放送開始の頃にツイッターのサーバーが落ちた。
その時ツイッターがずっと使えない、書き込み自体が出来なかったのは、視聴者が確認している。

にもかかわらず、その時画面では
「地震だったの?」とか「あ、○○さんだー」「都会にこんなのがあるのかー」
と番組の流れに沿ったツイートが流れていた。

番組終了時にNHKは
「ツイッターを『表示するシステム』の不具合があったので、事前に来ていたツイートを流した」
と苦しい説明。

当然視聴者からのツイートは放送できるものを選別しているのだろう。
選別なら別にいいのだが、問題は
視聴者からのリアルタイムのツイートと称して
実際には、NHKが事前に用意したインチキ捏造ツイートを流していたということだ。
429日本@名無史さん:2013/02/02(土) 16:24:51.94
>>427
それは4世紀後半てことを根拠と共に覆さないと卑弥呼陵主張は不可
430日本@名無史さん:2013/02/02(土) 16:35:53.25
卑弥呼の塚は天岩戸神社古墳
No.36 平成2年3月14日 発掘出土品
http://www.komisen.net/heritage.htm
431日本@名無史さん:2013/02/02(土) 16:56:22.65
>>429
これって卑弥呼の子孫の女王さまが避難してきたんだろ
432日本@名無史さん:2013/02/02(土) 20:18:45.75
韓信とか卑弥呼より400年も前の人物になるのか
433日本@名無史さん:2013/02/02(土) 21:12:38.04
秦の始皇帝は450年前の人物なのか。
434日本@名無史さん:2013/02/03(日) 07:39:50.99
儀礼的行事では小型銅鐸で音出してたんちゃう?
大型化した後も。

三星堆の巨大化見ても、なんか巨大化するのがデフォじゃね?
銅鐃の埋納の仕方も良く似てるし。
435日本@名無史さん:2013/02/03(日) 09:55:13.57
今から400年前とかまだ江戸幕府ができて間もない頃だよな(笑)
436日本@名無史さん:2013/02/03(日) 13:44:13.14
437日本@名無史さん:2013/02/03(日) 20:27:20.09
年平均(円/ドル)(円/ユーロ)
2003 116.49 ↑ 130.92 
2004 108.28小泉134.40
2005 109.64 ↓ 137.67
2006 116.25  146.01
      安倍
2007 117.93  161.24
      福田
2008 104.23  152.41
      麻生
2009 93.52  130.19
      鳩山
2010 88.09  116.44
      管
2011 79.97  111.06
      野田
2012 78.71  102.65
  今92円だが126円だが、どこが円安?何か文句ある?
438卑弥呼は満州にいた:2013/02/06(水) 12:49:29.85
桓檀古記によると、檀君古列加の元年が丙寅となっている。
で、Wikiを見ると西暦6年が丙寅となっている。
そこで6から300を引くと紀元前294年。

ところがWikiを見ると古列加(紀元前295年 - 紀元前238年)となっていて、
その他の檀君の即位年なども私の計算と一年違っている。

なぜだろう。
Wikiが間違っているのではないのか。
それとも単純に60の倍数を引いてはいけないのか?
439日本@名無史さん:2013/02/06(水) 13:19:20.01
>>438
スレチ
440日本@名無史さん:2013/02/06(水) 13:41:33.02
マジレスすると、紀元0年というのは存在しない
紀元1年の前の年は紀元前1年
441日本@名無史さん:2013/02/06(水) 16:45:11.11
また饅頭がバカを晒したのか
442卑弥呼は満州にいた:2013/02/06(水) 17:29:18.38
そうか、紀元0年は存在しないのか。
紀元1年の前の年は紀元前1年だとは、初めて知ったw
さすが雑学王。○○と雑学王は使いよう。

しかし太国は神武即位は紀元ゼロ年だと書いていたように思うが。
あいつも知らないんじゃないのかw
唐松山も果たして知っているのか?
443日本@名無史さん:2013/02/06(水) 19:31:19.17
誤りを素直に認められるか否かで人の価値は決まる
444卑弥呼は満州にいた:2013/02/06(水) 20:00:15.14
次の誤りを素直に認められるか否かで人の価値は決まる

1 南で倭と接するとは、海を隔てて接することである。
2 弱水とは第一松花江である。
3 東南陸行で佐賀に至る。
4 記紀神話で瀬戸内海が最初で、丹も採れるから邪馬台国は四国である。
5 魏使は日本に来た。
6 倭とは日本である。

その他諸々。
445卑弥呼は満州にいた:2013/02/06(水) 20:02:23.69
満州説を素直に認められるか否かで人の価値は決まる
446日本@名無史さん:2013/02/06(水) 21:09:58.72
この人いくつなんだろう
前は八十過ぎかと思っていたが
近頃の書き込みを見ると十二歳くらいかとも思われる
447日本@名無史さん:2013/02/06(水) 21:19:18.45
子どもに還るんだよ
448卑弥呼は満州にいた:2013/02/06(水) 21:21:10.19
九州説の誤りを素直に認められるか否かで人の価値は決まる
449日本@名無史さん:2013/02/06(水) 21:23:05.66
マン臭は、ミミ萩原のファンか?w
450卑弥呼は満州にいた:2013/02/06(水) 21:31:22.66
次の誤りを素直に認められるか否かで人の価値は決まる

1 短里説
2 倍暦説
3 邪馬台国東遷説
4 記紀はインチキ捏造創作説
5 箸墓3〜4世紀築造説
6 崇神天皇3世紀人物説
7 卑弥呼モモソ姫説
8 卑弥呼天照大神説
9 神武欠史8代非実在説
10 九州説

その他諸々。
451卑弥呼は満州にいた:2013/02/06(水) 22:44:03.74
九州説とは何か

1 古田が言っているから邪馬台国は福岡
2 磐井の墓や高良神社があるから邪馬台国は久留米か八女
3 絶好な台地があるから邪馬台国は熊本(伊作)
4 雰囲気があるから邪馬台国は宇佐
5 古墳がたくさんあるから邪馬台国は宮崎

その他諸々。
452日本@名無史さん:2013/02/06(水) 22:53:38.11
畿内説は、合わない年代を無理やり合わせ、年代が合うから箸墓は
卑弥呼の墓だとか、年代が合うから纏向が邪馬台国だと強弁する説。
すべては、畿内に邪馬台国があった、から始まる都合の良い説。
453日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:09:50.35
畿内説の根拠を教えて下さいとお願いした者ですが、
未だ誰からも納得できるようなレスを頂いておりません。
根拠は無いのでしょうか?
454日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:28:04.22
455日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:30:18.41
>>451
一番大切なことを故意に無視しているな。九州説は、倭人伝の行程記事に忠実に
従った説だ。
456日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:40:26.12
邪馬台国連合に属するクニが、四国、本州にもあったかも知れない。
まあ、東国(関西、東海)は生口(奴隷)調達用としていたのだろうが。
しかし、さすがに満州はない。
457日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:46:07.01
>>455
忠実を主張するなら短里説なんて使うなよw
九州説なんて根本的にでっち上げの解釈で成り立ってる事を理解しとけ。
458サガミハラハラ:2013/02/06(水) 23:53:03.82
畿内説の根拠ですか?
ヤマトとヤマタイの音がにているからですよ。
稚拙な語呂合わせですね。
459日本@名無史さん:2013/02/06(水) 23:56:44.56
【尖閣】 防衛省「レーダー照射、以前からあった!民主党がビビって発表しなかっただけw」
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1360148473/

2013年2月6日 水曜アンカー B
http://www.youtube.com/watch?v=ZbqTsl6aoh8
460日本@名無史さん:2013/02/07(木) 00:54:55.65
>>457
忠実とは書いてあるとおりに読むことだ。倭人伝は普通よりはだいぶ短い里で
書いている。それをそのとおり読まなければだめだよ。
461日本@名無史さん:2013/02/07(木) 11:18:22.28
既出かもしれないが…。

卑弥呼の祭祀用建物跡?奈良・纒向遺跡で柱穴100個超出土
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130202/art13020213480002-n1.htm

邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、
女王・卑弥呼(ひみこ)が君臨した時期にあたる3世紀前半の小型建物の
柱穴が100個以上見つかり…。

辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は「卑弥呼が年に数回、食物の収穫を
感謝する祭祀のたびに建てられ、祭祀後に取り壊された複数の小型建物の
痕跡ではないか」と推測している。

纏向関連の記事は相変わらずの卑弥呼、邪馬台国のオンパレード。
こんな新聞記事を見た素人は纏向が邪馬台国だと思い込んでしまう。
マスコミを巻き込んだ節操のない宣伝記事だな。
462日本@名無史さん:2013/02/07(木) 11:44:40.75
>>460
それを一般的には都合のよい解釈といいます。
また仮に短里だとすると、邪馬台国は北部九州は該当出来ません。
だとすると、南にあるという狗奴国も存在出来ません。
人口、戸数は論外なのは言うまでもない事です。

つまり倭人伝を素直に解釈すると、九州説の成立する余地はありません。
463日本@名無史さん:2013/02/07(木) 12:35:30.68
九州説なんだけど、方位が15度ずれている。
と主張する説のhpを前に見たことあるのを思い出して、もう一度見たいのだが、たどり着けません。
どなたか、教えてください。
464日本@名無史さん:2013/02/07(木) 18:19:44.21
>>462
なんか、妙な日本語だが・・・
倭人伝の1里が435でないのは誰が見ても分かること。倭人伝がどの程度の距離を
1里としているかは、倭人伝を読んで判断しなければいけないよ。
そして、邪馬台国が北部九州だなどとは言っていない。南にあるんだ。
戸数も倭人伝どおりに考える。当然のことだ。何の問題もない。
465日本@名無史さん:2013/02/07(木) 18:35:50.72
公里435mで、帯方郡から出発すると、
行き先はパプアニューギニアかマリアナ諸島である。

畿内論者の言うように、南を東に変えると、
ベーリング海峡である。

つまり、どうやっても、公里の使い所はない
466卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 18:44:05.94
九州人 今の地図見て 物を言ひ
467日本@名無史さん:2013/02/07(木) 18:56:51.97
3世紀当時の朝鮮半島、対馬、壱岐などから考えているんだよ。
468日本@名無史さん:2013/02/07(木) 19:28:12.76
公里じゃないなら短里?を充てる必要性は何もない。
仮に正確に測定出来るなら、何らかの地図が
残ってないのは不自然とは思わないのか?
不確実な行程だと普通は考えるだろう。
九州説論者はただ強引に数字合わせしてるに過ぎない。
469日本@名無史さん:2013/02/07(木) 19:40:36.81
松浦川って、結構な川幅があるんだよね。
末盧国が松浦として、松浦に着いて、そこから陸路だって魏志倭人伝にあるのに、

松浦に着いたあと、船に乗って松浦川を越えないといけないわけじゃない?
470卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 19:48:59.79
倭人伝が短里で書かれていないことは明白である。
以前も書いたことだが、短里で万二千里は約900km。

さて帯方郡は遼東半島一帯であり、その郡治は熊岳城だったという。
熊岳にコンパスを立てて900kmの円を描いてみればよい。
九州に達しないのである。

もし反論したければ、帯方郡が何処にあったかを真剣に考察してみればよい。
471日本@名無史さん:2013/02/07(木) 20:01:38.32
そもそも帯方郡なんてものは華の制度史上の物件であるからして

人が為す脳内作業の産物で、仮想上のもので

場所がちょろちょろ変わるとか、敵地にあったことにしちゃうとか

その実態が伴わないなんてこともじゅうぶんありうるわけだが。
472日本@名無史さん:2013/02/07(木) 20:12:45.62
帯方郡の場所は、通説の場所で十分だよ。
無理に変なところに持っていく理由はないから。

それで短里は十分に成立する。
473日本@名無史さん:2013/02/07(木) 20:14:43.43
逆に1里が何キロなら九州説および畿内説に合うのか?
または、どの数字を使っても合わないのか?
474日本@名無史さん:2013/02/07(木) 20:15:28.37
短里なんて単なる仮説の一つだね。
475日本@名無史さん:2013/02/07(木) 20:21:08.59
帯方郡なんてものは制度史上の物件であるからにして

敵味方でそれぞれの帯方郡があって

場所が齟齬しちゃってるとかのも有り得るしね。
476日本@名無史さん:2013/02/07(木) 20:25:04.45
まあね 

実態があっても仮想上のものでもどっちでも良いけど

魏晋サイドの申告によると 

帯方郡治は韓地の漢の領域にあったことに

公式ではなってるちゅうこと。
477卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 21:00:54.47
>>471-472 475-476
君らはそんなことを考えているからちっとも進歩しないのである。
しかしまあいい。

>>472に言っておこう。
ソウルにコンパスを立てて900kmの円を描いてみたまえ。
屋久島を通り越してしまうぞw
478卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 21:10:42.25
君らがどんなに反論しようが、私はすでに、
百済の領土が鴨緑江以北にもあったという確実な証拠を二三手に入れている。
ネット史ではもともとそのような比定が成されているが、証拠がない。
しかし私は中国正史と三国史記の記述から確実な証拠を見つけた。
韓国の古代史愛好家の中にはすでに気付いている人がいるかもしれないが、
日本でこれに気付いたのは私だけだろうと思う。

とにかく百済の境域が鴨緑江以北にもあったのだから、
楽浪郡や帯方郡が朝鮮半島になかったことは確実である。
479日本@名無史さん:2013/02/07(木) 21:11:26.58
コンパスの前に、南北直線ならともかく東西方向を絡めた距離を
3世紀にどうやって計測出来るんだよ
480卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 21:16:35.67
ある国なり都への距離は直線距離で表わされる。これが常識だ。
東西方向を絡めた距離で表わされているとしたら直線距離よりも短くなるわけだから、
ますます九州には届かない。
481日本@名無史さん:2013/02/07(木) 21:31:25.58
言ってる意味がわからないけど、
南北の距離は星や太陽を使えば計測できるけど
東西はどうやって計測するんだ、ということ。
つまり距離はだいたい適当でいいんだよってこと。
482日本@名無史さん:2013/02/07(木) 21:36:46.38
>>480
紀元0年はないってことを知らなかったバカの戯れ言なんて誰もマトモに読んでないわけだが
483日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:00:54.01
>熊岳にコンパスを立てて900kmの円を描いてみればよい。九州に達しないのである。
北九州から900kmの円を描いてみればよい、帯方郡はその中にあるんだよ。
484卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 22:03:57.98
>>481
この男には特に言いたいことはない。たしかに距離なんて適当でいいのである。
>>482-483
君らはそんなことを言ってるからちっとも進歩しないのである。
485日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:06:41.04
魏志を読まないで偽書ばかり読んでるから進歩しないんだよ。
486日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:12:29.40
>>468
>正確に測定出来るなら、何らかの地図が 残ってないのは不自然とは思わないのか?
何も不自然ではないよ。距離が分かったからといって地図を書くとは限らない。

>不確実な行程だと普通は考えるだろう。
不確実ならば、区間ごとにバラバラの数字になるだろう。
ところが、一定の比率になっている。不確実な数字を書いているわけではないと
分かるね。
487卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 22:19:55.71
一定の比率になっているのは狗邪韓国〜末盧国の間だけである。
帯方郡〜狗邪韓国の七千里は全然実距離と合致しない。
488日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:26:36.52
帯方郡の比定を間違えているからだよ。そんなことも分からないとは困った頭だ。
489卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 22:30:35.90
>>488
君のように帯方郡が何処にあったかを真剣に検討しようとしない人間に
何を言っても始まらない。
490日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:43:33.19
帯方郡の最南端から1万2千里だよ
491日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:46:37.69
帯方郡の所在なんぞ魏志をみれば明らかだよ。
492日本@名無史さん:2013/02/07(木) 22:47:45.96
帯方郡は半島東北の付け根付近
493日本@名無史さん:2013/02/07(木) 23:26:51.90
>>478
満州クンがいかに反論しようが、私はすでに、

帯方郡が朝鮮半島にあったという確実な証拠を二三手に入れている
中国正史と他の文献から確実な証拠を見つけた
これに気づいたのは私だけだろうと思う。が、ここには書かない。

とにかく、帯方郡は朝鮮半島にあったことは確実なのである。
494卑弥呼は満州にいた:2013/02/07(木) 23:30:13.75
或る回想

私が山形明郷の本を読んだのはもう十年ほど前である。
読み始めたが邪馬台国のことなどちっとも書いてない。
漢四郡の位置とか三韓の位置の比定の話ばかりである。
当時は私もそんなことにちっとも関心は無かったので、
何だこれは、と思いながら途中まで辛抱して読んだが、
遂に嫌になって邪馬台国と関係のある部分だけ読んだ。
それはこの本の5%くらいのもので、95%は上述の比定の考証である。

君らが漢四郡の位置に何の関心もないのは、
そんなものは邪馬台国問題と何の関係も無いと思っているからだろうと思う。
私だってそうだったのだ。しかし契丹古伝などを読んで考えが変わった。
卑弥呼馬韓女王説はあり得ることだと思うようになった。

結局君らは契丹古伝も山形明郷も読まないから漢四郡の位置にも関心がないのである。
これらを読むと関心が出てくる。しかし読まない。だから関心がない。
だから結局私が何を言おうと、君らは一生帯方郡の位置について考察しないだろう。
495日本@名無史さん:2013/02/07(木) 23:30:35.03
496日本@名無史さん:2013/02/08(金) 09:25:01.91
伊都だから糸島、理由はたったこれだけ! 伊都国はほんとうに糸島にあったのか? 

魏志倭人伝にいう末蘆国・唐津の東南500里は、鉄道唐津線沿いに進んだ佐賀平野にあたる。
伊都国・奴国・不彌国はここにあり、南は有明海に面していたと考えると倭人伝の記述と完全に一致する。
ここまで帯方郡から1万500里〜1万700里となる。
そしてこの南1500里〜1300里(約100km余)に邪馬台国はあったと考えるべきであろう。→距離的には熊本県にあたる
その邪馬台国の中に卑弥呼の都はあったという。
今史跡を行けば、上古の火国臼杵郡知保郷に訪ねあたる。→ 上高知保(宮崎県西臼杵郡高千穂町)

ここには上古より、お隠れになられた天照大神をお祀りする天岩戸神社 西の宮 がある。
また、お出ましになられた天照大神をお祀りする天岩戸神社 東の宮 もある。
さらには、日向三代の神々をお祀りする高千穂神社もある。
しかし記紀によれば高天原・日向三代は天上神話であり、建前としても現世地上に神々の御陵のあるはずはない。
そこで身代わりの現世遥拝所として、後世、宇佐に宇佐神宮、伊勢に伊勢神宮の造営をみたのではないか?

じつは高知保三社の格付けは村社にとどまっており、古くからご皇室・国家の公式御参詣・御庇護を得ることはなかった。
(想像だが、建前として地上に有るはずのない皇祖御陵に、公けのご参拝は憚られたからではないかと思われる)
よって高知保三社は、やむなく村社として火国の土豪民衆らにより、祀り護られてきたのではないかと思われる。
なおこの地の南方沿岸には、投馬国とおぼしき宮崎市・西都市があり、雄大・美麗な西都原古墳群を眺めることもできる。
497日本@名無史さん:2013/02/08(金) 09:45:13.50
世世王がいたのは昔の話、邪馬台国時代の伊都国は北部九州に睨みをきかせるための軍事拠点にすぎない。
千戸しかないのは兵を駐留させる完全な軍事都市と化していたからでは。
温暖であれほど肥沃な佐賀平野に有力な王がいたのはほぼ確実。
個人的には吉野ヶ里(弥奴国?)の隣にあるところから都支国ではないかと感じているが
佐賀は邪馬台国そのものの所在地の候補にもなりうるほどの土地。
498日本@名無史さん:2013/02/08(金) 10:13:55.73
山形明郷の本を読んでそのいい加減さに気づかないとは気の毒な奴だ。
499日本@名無史さん:2013/02/08(金) 10:47:05.83
>497
純粋に兵が駐留?
いわゆる常備軍が設置されるのは戦国時代も終わりごろ、信長の軍制が初めてだぞ。
尾張の商業利益のお陰で専業戦闘集団を抱えられたのだ。
武田も北条も農兵であり、農閑期以外は出兵できなかった。
平安時代だって衛府の兵すは自営ではない、武士の手弁当奉仕によって賄われており、武士は農民を徴用して戦や警衛に出かける。
普段遊んでいる兵などいないのだ。
500日本@名無史さん:2013/02/08(金) 10:47:10.38
佐賀って‥
何処に七万戸も入れるんだよ?
大体日数標記する距離じゃねーだろw
アホ過ぎて話にならん。
501日本@名無史さん:2013/02/08(金) 11:43:16.92
日本には防人という例もある。663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗
したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防
備の兵。中国同様、任期は3年で諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器
は自弁であった。
502卑弥呼は満州にいた:2013/02/08(金) 12:30:40.66
>>498
そりゃ、山形明郷の比定にも間違いはあるさ。
特に倭の位置に関しては完全に間違っていると思われる。
だからといって(ふん、こいつはアホだな)と思ってはいけないのである。
楽浪郡と帯方郡の比定に関してはほぼ正確だと思われるのである。

古田だって、間違いも多いが正しいことも書いている。
君らだって正しいことも書けば間違いも書く。
他人を即断してはいけないのである。

序でに言うと、桓檀古記は五島昇という男が訳していて解説も書いている。
その解説は超トンデモというべき無茶苦茶なもので、その解説を読んで、
(ふん、こんなあほらしいものが読めるか!)と思ってはいけないのである。
五島昇の解説は一切無視して読むことをお勧めする。
503日本@名無史さん:2013/02/08(金) 12:44:07.52
そもそも洛陽に匹敵する7万戸を擁するクニなぞ、当時の日本列島には無いのである。
むしろ伊都国の千戸が現実的。
504日本@名無史さん:2013/02/08(金) 13:15:23.56
倭人伝は正しいという前提で読まなくてはならない。
間違っているという前提では何でもありになってしまうからである。
しかし、距離や戸数などの数字には明らかに誇張がある。
これを指摘すると、間違い前提派が喜ぶので困ってしまう。
505日本@名無史さん:2013/02/08(金) 13:28:29.81
満州の学説押し売りセールスは、もうイラネ
506日本@名無史さん:2013/02/08(金) 13:41:16.13
距離や戸数もおおむね合致するところをさがし、修正しないで済むところを選べばよいではないか
507日本@名無史さん:2013/02/08(金) 14:30:02.79
行程に距離や向き、風俗や産物において、
選択肢に残るのは四国方向しか無い。
記紀の国生み伝承でも重視されてる。
安本の好きな畿内との地名の相似もあるぞw
508日本@名無史さん:2013/02/08(金) 14:34:55.46
>>506
弥生時代に七万戸は多すぎる。
畿内説の石野氏でさえ、近畿地方全部を一つの国と考えても到底おぼつかない。
といっているくらいで、当時の人口を考えると非現実的。

西暦200年頃の九州全部でも10万人程度と推定されていることを考えれば、
これでせいぜい2万戸くらいかな?
http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/EV_P_NJ1.html

やはり倭人伝の数字には「白髪三千丈」ではないが、中国的な誇張があると思う。
509日本@名無史さん:2013/02/08(金) 14:57:05.13
>>508
おい、年代は BP1800じゃないのか
510日本@名無史さん:2013/02/08(金) 15:05:34.20
1800B.Pというのは、今から1800年前ということ。
このサイトには2000年と書かれているから、1800B.Pはちょうど西暦200年を
意味する。弥生時代と書いてあるだろう?
511日本@名無史さん:2013/02/08(金) 15:06:16.23
>501
防人は東国から徴用されており手弁当だった。
つまり本州の大半を支配して薄く広く動員してこそ可能だったのだ。
手弁当は実際は農民個々ではなく東国の国造が負担した。
防人は遅れて帰順した東国の豪族に人的・経済的負担を強いて疲弊させる意味もあったのだ。
512日本@名無史さん:2013/02/08(金) 15:10:15.98
>>510
そうすると、200年ごろから奈良時代までに10倍ほどになったことになる
その反面、その後明治までに6倍弱にしかなっていない。信用できぬ
513日本@名無史さん:2013/02/08(金) 15:12:35.94
防人は 東国 から徴用

防人は あつま から徴用

防人は 阿投馬 から徴用

防人は あつま から徴用

防人は いつも から徴用

防人は 出雲国 から徴用
514日本@名無史さん:2013/02/08(金) 15:37:17.80
>>508
だから、実際に行ったのは伊都国で、何万戸のクニというのは、誇張した話を聞いたか、
話を作ったということだろう。
そもそも、奴国が2万戸というのは非現実である。
515日本@名無史さん:2013/02/08(金) 15:41:19.23
>512
都となった奈良は特殊だよ、それ前後と比較しても。
あの大路小路と築地塀で区画され金殿玉楼が建ち並ぶ平城京を建設維持したんだぞ。
大工土木や諸工芸の職人、地方から徴用された人夫、それに貴族に役人が住んでいたから人口が莫大だったのだ。
逆に奈良時代はそれだけ非農耕民を抱えるだけの生産余剰があったと言うことだし、その国家の富を集中して維持した特殊な場所と言える。
全国平均と一緒にしてはならない。
516日本@名無史さん:2013/02/08(金) 15:43:44.41
>>514
なぜ非現実的か?
そもそも1戸何人かかいてないのに、4人とか5人とか妄想してるんだろ。
倭人伝では、家と戸を使い分けてる。それぞれなにか意味があるのだ。
どうせ1戸の方は農奴・奴婢の住まいかなんかで、1名とか2名とか・・・、という可能性も小さくない。
517日本@名無史さん:2013/02/08(金) 15:53:24.99
>>510 >>515
この表の弥生時代を200年頃と理解するのは、間違いだろ。
200年ごろはそろそろ古墳時代で弥生の標準にはならぬ。著者が弥生と書くわけない。備考をみてみ。
年代の数字の並びを見れば歴然、1800BP は紀元前1800だ。
518日本@名無史さん:2013/02/08(金) 15:58:34.34
>>517
倭人伝には古墳らしき記述はない。
古墳時代とはいえないな。
紀元前1800年は、BC1800あるいは1800BCだろうに。
519日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:03:01.84
>>515
>>512が言っているのは奈良のことじゃなく全国的な変化だろ。よく読んでレスしないといかん。
520日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:10:18.06
>>517
そのBPはBefore Presentだろ。
521日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:10:54.33
>>518
年数の並びを見れば、奈良時代まで西暦で書いているので、その前を急にBPと称して書くのは不自然。
倭人伝には卑弥呼死す、径100余歩の塚を作り、奴婢100名を殉葬したとある。
当時、もう古墳は珍しくなかったからだろうよ。
>515 で書いている件、近畿で多少その傾向があるが、全国的に見ても似たような傾向だ。200年頃の数字とするには不自然。
そもそも何を根拠に200年頃としたのかさえ書いてないだろ。
引用するなら、著者に確認したらどうだ。
522日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:13:37.33
BCと書くつもりでBPの誤植になっちゃった可能性大だな。
523日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:24:42.07
>>521
確かに弥生時代と奈良時代の人口の差は信じられないほどに大きい。
だが、
>年数の並びを見れば、奈良時代まで西暦で書いているので、その前を急にBPと称して書くのは不自然。
というのはどうかな。
奈良時代以降については人口の推定を文献(文書)で行ったから西暦年代が分かったが、文献資料の無い
それ以前についてはC14年代測定法などで用いられるBP表示になったのだろう。
524日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:28:07.44
>>521
>奴婢100名を殉葬したとある。

「狥葬者奴婢百餘人」

「狥」=「殉」で良いのかどうか疑問
525日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:31:19.17
>>523
同じ表の中にそう言う数字の取り扱いは不自然、
原本の書評を読んだら、1万年間の人口の推移とかを論考論説してるようなことを書いてあった。
この表ではもっとも早い時期で8100BPとなってるが、これをBCに読み替えればほぼ1万年になる。
526日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:41:06.09
>>525
奈良時代から紀元前1800年に、いきなり2500年以上も飛ぶのは不自然。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html
527日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:41:39.43
>525 つづき
立派な論文でも著書でも、単位の誤植とか、けっこうあるものさ。
そこんとこ辺りも含んで読むのはだいじなことだよ。
どうやら、PC書きうつしの時に誤ったんじゃないの。沖縄だかの数字も間違えてたようだしさ。
528日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:43:39.48
>>524 つづき

狥→徇→殉

狥 :「同“徇”」

「徇葬者奴婢百餘人」で、

墓を守る「守墓人烟戸」のたぐいが「百餘人」

        とする別解もあったりしてるよ。
529日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:44:27.98
都合の悪いことは全部間違いにしてしまうというのはどういうものか…。
530日本@名無史さん:2013/02/08(金) 16:47:09.52
>>524
紹熙本では「徇葬者奴婢百餘人」となっている。
531日本@名無史さん:2013/02/08(金) 17:05:42.82
>>526
元本がそうであることは理解した。すまんかった。

ともあれその推計をもって倭人伝に誇張があると主張するのはよしとして、
倭人伝に書いてあることは、今となってはそれとして受け入れるほかない。
九州全体で、20〜30万人程度なら倭人伝九州説は十分成り立つだろう。荒唐無稽とはいえない。
532卑弥呼は満州にいた:2013/02/08(金) 17:38:03.83
今日はいやに書き込みが多いな。
ここの連中はこういう話題が好きだなw
533卑弥呼は満州にいた:2013/02/08(金) 17:40:51.62
どんなに勉強しても、九州説を唱えている間は初心者だよ。
九州説は空想であると見抜くこと、それが第一歩。
まずそこから始めよう。
534日本@名無史さん:2013/02/08(金) 17:41:12.10
鬼頭氏のは縄文・弥生は遺跡数から推計となってるようだが、
近年の炭素年代法で、古墳時代はほぼそのままに、弥生時代の開始が数百年遡ってる。 で、弥生の西暦200年基準はちょっと・・・。
535日本@名無史さん:2013/02/08(金) 18:12:38.75
江戸時代の石高だが、表高と実石高がある。

九州の場合の実石高は、

筑前国 63万石
筑後国 54万石
豊前国 36万石
豊後国 46万石
肥前国 69万石
肥後国 85万石
日向国 42万石
薩摩国 32万石
大隅国 26万石
536日本@名無史さん:2013/02/08(金) 18:25:59.76
表高(自称)で席順が決まったりプライドに関わるってんで過大に自称する例も多く…
そのかわり表高に見合った賦役を負うことになるので領民が苦労することに
逆に表高は低いが実高が高い藩の藩士領民は豊かな生活が可能
537日本@名無史さん:2013/02/08(金) 18:27:08.81
意外なのが江戸時代の九州各国の人口である。

享保6年時

筑前国 63万石 30万人
筑後国 54万石 27万人
豊前国 36万石 25万人
豊後国 46万石 52万人
肥前国 69万石 61万人
肥後国 85万石 61万人
日向国 42万石 21万人
薩摩国 32万石 15万人
大隅国 26万石 11万人

肥前国一国で、筑前筑後を足したものより大きい。
肥後国一国でも、ほぼ同じである。
538日本@名無史さん:2013/02/08(金) 19:21:04.45
>>533
満州さん、関門付近が伊都国で、当時の国が現在の市町村くらいの広さと考え
ると、邪馬台国は九州を出ない。邪馬台国も関門付近に有ったことになる。
九州説以外は有り得ないとまず見抜くこと、それが第一歩。まずそこから始め
よう。
539日本@名無史さん:2013/02/08(金) 19:33:12.02
今更九州説は有り得ないでしょw
540日本@名無史さん:2013/02/08(金) 19:38:25.01
関門付近のは息長垂の故郷でしょ 日矛さんの御子孫でもあるしさ

関門付近の酋長が日矛さんのこと婿にして王になったんでしょ

関門付近の酋長さんの先祖が半島に渡ってその子孫が戻ったのが日矛さんだしさ

半島に渡った絡みの酋長さんの嫁は卵しか生めない女國の姫様だから

博多那庭かいわいの姫様でも問題とかないだろ
541日本@名無史さん:2013/02/08(金) 19:40:52.58
1800年前と現在の居住エリアなんて全く違うわ。
生活様式を同じように考えてどうすんだよ…
だから九州説はとんでもない捏造や曲解をするんだな。
542日本@名無史さん:2013/02/08(金) 19:59:16.13
>>541
まあそうでもないよ、
昔の九州説のように、1800年前をむりやり福岡県・佐賀県に押し込めるとほぼこんな感じになる。
つまり北部九州説は人口の面で難しいと読める。
しかしこの表の数字から類推して、1800年前を九州全体で考えるとまあまあ適切に収まる数字だわな。
543日本@名無史さん:2013/02/08(金) 20:21:50.54
逆に南九州が根拠地とも思えないとも読めるけど
利点は何かあんの?
544日本@名無史さん:2013/02/08(金) 20:28:14.06
うん、熊本・長崎は予想以上だけど、鹿児島・日向が意外に予想以下。困った〜
545日本@名無史さん:2013/02/08(金) 21:16:59.21
>>531
当時の九州の人口は近畿地方の人口とだいたい同じ。
ちなみに、当時の関東地方の人口も同じくらい。
結局、人口を基にした邪馬台国論争はあまり成り立たないということ。
546日本@名無史さん:2013/02/08(金) 21:30:43.34
戸数の2万戸、5万戸、7万戸は別におかしくないよ。対馬国、一大国がそれぞれ千戸、
三千戸だ。その人口密度を九州にあてはめれば北九州に二万戸、熊本以南に五万戸、七
万戸があったというのはごく自然な数字だろう。
学者の見積もりが少なすぎるんだよ。
547日本@名無史さん:2013/02/08(金) 21:34:49.98
肥後は延喜式にも九州唯一の「大国」として載っている。
ランクは大国→上国→中国→下国。
弥生時代の人口も熊本は非常に多いとみられている。
熊本は昔から注目すべき土地だったといえる。

ちなみに、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前は上国。
日向、大隅、薩摩は中国。壱岐、対馬は下国となっている。

あまり関係ないかもしれないが、
江戸時代の天明の大飢饉で、領民を助ける余裕のあったのは、
上杉鷹山の庄内藩、細川幽斎の肥後藩それに徳川治定の
紀州藩だけだったといわれる。
548日本@名無史さん:2013/02/08(金) 21:43:38.63
奈良盆地の面積は人吉盆地くらいしかない。
549卑弥呼は満州にいた:2013/02/08(金) 22:49:45.53
>>538
>当時の国が現在の市町村くらいの広さと考えると

そりゃそう考えると九州説以外はあり得ない。
問題は果たしてそういう見方が正しいか否かということだ。
私の予想では、おそらく糸島半島から関門海峡までが伊都国だったのだろう。
そうすると九州内には収まらない。

大体、律令時代の筑前国とか肥前国とか、
そういう国よりも小さい領域が嘗て国と呼ばれたという資料はあるか?
550日本@名無史さん:2013/02/08(金) 22:53:20.35
対馬や壱岐は小さいよ。
551日本@名無史さん:2013/02/08(金) 22:57:23.00
満州は超大物で、なんでも広大な満州基準で考えるからなあ
仮に九州が一つの国でも不満州だろうなあ
ま、ここは市町村くらいで許してくれい
552卑弥呼は満州にいた:2013/02/08(金) 22:59:28.59
江戸時代の藩にしても、それはあくまで藩であって国と呼ばれたのではない。
肥前国の中にいくつもの藩があったのである。

で問題は、我々が現在肥前国と読んでいる領域内に、
末盧国その他のいくつかの国があったかどうかということである。
おそらく末盧国というのは今の肥前国なのである。
ただし長崎方面には別の国名が付いていたかもしれないが、
せいぜいその二国くらいしか肥前にはなかっただろう。
553日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:03:45.11
>>549
だいたい国というのは時代が下るにつれて統合されて大きくなっていくもの。
漢書・地理志の百カ国あまりから倭人伝の三十カ国余りも、国の統合を
意味するという説も多い。

ところで、この三十カ国というのはかなり少ない。5世紀末の倭王・武が
宋の皇帝に当てた上表文には、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を
服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国」とある。

卑弥呼の三十カ国の範囲はかなり狭いなという印象がある。
10世紀の延喜式に書かれた国は66カ国と壱岐、対馬の二島。
これから考えても3世紀の三十カ国は少ない。

卑弥呼時代の三十カ国が九州内に収まるというのは妥当性がある。
554日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:06:29.40
まんしゅうさんへ

江戸時代に藩とよんだひとは中華にかぶれた気取ったひとで

ふつうは家中とよびます。 お国ともいいました。

肥前国の著名なおひとは家中の歴史のことを国学と呼んでいました

これは特殊なれいかもしれませんが、AD1700年前後のことです。
555卑弥呼は満州にいた:2013/02/08(金) 23:30:07.58
>>553-554
2chには珍しい説得力のある書き込みだ。
こんなことを書ける奴がいたとはw
556日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:56:13.22
壱岐国と対馬国は律令制下から明治維新に至るまで一國扱いだわ。

対馬国は律令制への移行時に上県国と下県国をまとめてできた。
557日本@名無史さん:2013/02/08(金) 23:58:41.14
高島忠平説の根幹がそれだろ
弥生末期で考古学的に想定できるクニが北部・中部九州で少なくとも40以上
だから倭人伝の30国は九州内のものであるという
558日本@名無史さん:2013/02/09(土) 00:00:26.39
佐渡国もほぼそうだし、隠岐国も律令制下から明治維新に至るまで一國扱い。
559日本@名無史さん:2013/02/09(土) 00:05:26.25
「馬韓・弁辰」合計で「75國超過」で「總拾四五萬戸」のだから、國のサイズはおのずと知れちゃうけどね。
560日本@名無史さん:2013/02/09(土) 00:12:13.23
投馬國5万戸で

それ除いた倭國合計のが30國ほどので10万戸 

投馬國5万戸って10万戸の半分だからね

投馬國は4・5万戸の弁辰サイズのから想像してみなきゃだめだろ
561日本@名無史さん:2013/02/09(土) 00:13:58.81
ちなみに律令制の
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/76/Ancient_Japan_provinces_map_japanese.gif
1869年1月19日(明治元年12月7日)の陸奥国5分割および出羽国2分割と、
1869年9月20日(明治2年8月15日)の北海道11か国追加を反映した令制国の一覧。
後に琉球国も令制国と同様に地名として扱われるようになる。
562日本@名無史さん:2013/02/09(土) 01:00:11.89
30ヶ国といっても当時の魏と何らかの繋がりがある国の事だよ。
何が何でも九州に収めようとするのは滑稽だよ。
無関係の国が存在する可能性を考えないのかね。

弥生期の遺跡から出土した貨泉とか無視するなよな。
北部九州〜瀬戸内から河内方面に流れてるのはっきりしてるぜ?
九州中部以南からは出土確認できてるのか?
563日本@名無史さん:2013/02/09(土) 01:18:06.67
今の所弥生期の遺跡で貨泉が出土した地域は‥
長崎、佐賀、福岡、熊本、島根、愛媛、岡山、徳島、大阪だね。
時期が不明なのは他にもあるが、弥生期の遺跡から出ないと意味ないしな。
はっきりと東へ流れているのは判るだろう。
564日本@名無史さん:2013/02/09(土) 02:32:51.09
>>562
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種
というのも書かれているな。
女王国の東に海を渡ったところの国は倭種ではあるが、三十カ国以外と
受け取れる。
565日本@名無史さん:2013/02/09(土) 03:09:31.49
古墳からローマのガラスが出るなら貨泉ぐらいどこからでも出るんじゃね。
566日本@名無史さん:2013/02/09(土) 07:19:26.81
出てから言えよw
567日本@名無史さん:2013/02/09(土) 07:20:39.96
銅鐸の銅は朝鮮から買っていたんだろう。それに伴って貨泉ぐらいはいくらでも
入ってきただろう。それとも、銅鐸の銅は国内産だと考えているのかな?
568日本@名無史さん:2013/02/09(土) 09:21:16.78
ガラスか
カステラに見えた
さすがにカステラは出んだろうよと・・・
569日本@名無史さん:2013/02/09(土) 09:35:15.50
>>568

出てもカステラなら純国産だからw
パン・デ・ロウが出たなら舶来品だろうけど。
570卑弥呼は満州にいた:2013/02/09(土) 09:44:16.76
倭人伝の中で確実に日本の国だと思えるのは、
対馬、壱岐、末盧、伊都、投馬、邪馬台だけである。

奴国と不彌国は日本の国かどうか分らない。
その余の傍国の二十国は満州か朝鮮の国だとしても不思議ではない。
そう思わせる資料がある。ここには書かないがw
571卑弥呼は満州にいた:2013/02/09(土) 09:50:30.28
>>553
昨夜読んだときはなるほどと思ったが、よく考えると、
10世紀の延喜式に書かれた国が66カ国なら、
その半分の関西分だけが書かれたと考えればすんなりと理解できる。

とにかく、たかが九州程度の広さの中に国が30というのは変である。
572日本@名無史さん:2013/02/09(土) 09:52:09.94
>>564
関西説の方位体系では、それに該当するのが佐渡島になってしまう。
573日本@名無史さん:2013/02/09(土) 09:55:46.32
>>567
いくらでも朝鮮半島から買える程、交易し合ってた訳だ。
倭人が頻繁に行き来しあうという倭人伝の記述とも合致するね。
つまり少なくとも河内までは30国エリアだろう。
以東は貨泉が出ても少し新しい遺跡から出てる。
574日本@名無史さん:2013/02/09(土) 10:14:00.59
満州のいうことは(視野の)広いのが取り柄
傍国21国はみんな満州の属国になってしもたな
575日本@名無史さん:2013/02/09(土) 11:12:00.94
笑ってスルー♪
576日本@名無史さん:2013/02/09(土) 11:30:19.07
>つまり少なくとも河内までは30国エリアだろう。
30国エリアは無理。倭種の国に入れてやるよ。
577日本@名無史さん:2013/02/09(土) 12:09:34.87
>576
隋書倭国伝の記述では筑紫から以東が倭国だよ。
つまり瀬戸内が倭国の中心なのは確定してます。
578日本@名無史さん:2013/02/09(土) 12:20:06.68
附庸という意味を知らないんだね。植民地を意味する言葉だよ。
つまり、筑紫から以東は倭の植民地だと書いてあるわけ。
579日本@名無史さん:2013/02/09(土) 12:47:10.14
筑紫に倭の首都があると書かれてないけどな。
ヤマトと明記してあるし。
東へ移動して倭国王に会う時点で九州は出てる。
580卑弥呼は満州にいた:2013/02/09(土) 12:49:18.36
【付庸/附庸】 宗主国に従属してその保護と支配を受けている国。従属国。付庸国。

植民地とは少し違うと思うがw

どちらにしろ隋書という中国人の書いたものを信じて、
記紀を信じないというのは困りもの。
581日本@名無史さん:2013/02/09(土) 12:49:46.02
植民地に都を作るのか?
さすが九州脳、民主党も真っ青なトンでも理論w
582卑弥呼は満州にいた:2013/02/09(土) 12:57:26.82
華奴蘇奴國というのがある。
これは花園ではないかという説あり。

京都と大阪に花園あり。
583卑弥呼は満州にいた:2013/02/09(土) 12:58:21.45
華奴蘇奴國というのがある。
これは花園ではないかという説あり。

京都と大阪に花園あり。
584卑弥呼は満州にいた:2013/02/09(土) 13:00:53.72
ネット史によれば満州に、
桓那國、藻那國というのがあった。

続けて読めばカナソナ国
585日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:02:40.75
東へ進んで海岸へ出たというのは、豊前の海岸だよ。そこから南下して日向に行った
ということ。会ったのは日向にいた倭国王。推古天皇じゃないだろうが。
586日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:03:59.53
大阪の花園?当時ならまだ沼か湖だなw
地理も勉強してから講釈たれろ。
587日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:08:16.67
大和は近畿、東海の産物を集めて九州へ送る物流センターだ。
まさに植民地の基地、そんなところへ隋使が行くもんかい。
588日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:10:54.63
日向の倭王?またトンでも論をw
じゃトンでもに付き合ってあげると、会ったのはアマタリシヒコ。
アワキミだよ、阿波の君だね。
徳島は旧名が海国、聖徳太子の正体は阿波の王でした。
水銀の理屈が証明されちゃうw
589日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:12:51.86
あわくってるな。アマとアワの違いも分からんのか。
590日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:17:01.27
倭国は日本という意味だが、漢書や倭人伝の頃の実質的な倭国は九州を
意味していた。徐々に広がっていったと考えれば納得できる。

7世紀、新羅本記によれば西暦670年?に、日本に改名するまでは倭国だった
わけで、天武天皇あたりまで倭国を使っていたというのが面白い。

>>571
時代が下るにつれて国は統合されて広くなっていくという前提がある。
倭人伝の末盧国から伊都国、奴国、不弥国は百里単位で書かれていて、
対馬や壱岐間の千里からすると詰まっているという印象。
少なくとも、延喜式の筑前、筑後などとは比較にならないだろう。

最初に倭人伝の国々の場所を比定したのは新井白石だが、古史通或問では
投馬国、邪馬台国以外の国は全部九州にあり、外国之事調書では邪馬台国を
含め全部九州内に納めている。
591日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:20:38.11
そう、倭国は白村江で敗れたために本拠を近畿に遷したんだよ。唐と戦うこととなった場合、
畿内の方が地の利がいいということだな。
592日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:25:06.03
倭人伝の頃に倭国が実質的に九州?それはないね。
弥生中期以降、中国人の足は瀬戸内方面へ向いてるのは確実で、
これは考古学的に否定出来る要素がない。
いくら九州説論者がコウコガクガーと叫んでもね。
細かな年代の話ではないから。
593日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:26:02.93
>>583

>華奴蘇奴國

30カ国の中でこれだけ4音節の国名なんですよね。
他と比べてちょっと違和感を感じます。
華奴と蘇奴の間にあった”國次有”が脱落して、
本来は二つの国名だったと考えると30国問題の一つの解決策になるよね。
594日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:27:14.78
聖徳太子は多利氏彦(タリシヒコ)、
『継体紀』にあるように「百済」に賜ったという任那四県(上多利・下多利・娑陀・牟婁)(注.多は口片がつく)の皇子。
一族は、同じ渡来人の藤原氏と血縁関係を結び、清和源氏足利氏の祖となる。
595日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:28:29.43
西暦57年の倭奴国王。西暦107年に後漢に朝貢した倭国王・帥升。
西暦240年の倭王・卑弥呼。5世紀の倭の五王。
このイメージが7世紀まで続いたとすれば、古田説のようなのもあるが、
やはり、記紀にあるように東遷を考えた方が妥当と思われる。
596日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:30:04.76
>弥生中期以降、中国人の足は瀬戸内方面へ向いてるのは確実で
残念ながら、中国が王侯に与える璧は九州から出ているだけで、畿内からは
出ていない。
597日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:31:24.83
>>592
考古学を持ち出す時には、具体的な根拠を述べて欲しいな。
考古学的には…、で全部片付けられてはかなわない。
598日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:33:13.46
記紀は東遷とは言ってないよ。三男坊が東征をしたというだけのこと。
本家は南九州に残っているんだ。
599日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:34:20.42
王族?九州には代々伊都に王がいたのだから当然。
でも女王の国は当然別、遠方なんだから九州ではないだけの話。
600日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:35:06.87
大和朝廷が8世紀にはいったとたん、
凄まじい勢いで国家整備をやっていることからみても、

どこからか経験者集団が大量に流入したであろうことは、
想像に難くない。
601日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:38:28.54
>>597
弥生中期以降なら貨泉、方形周講墓、水銀朱。
北部九州から瀬戸内や日本海ルートで河内へ向いてるのは確実。
602日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:39:51.07
歴代天皇は直属軍を持たない。
これは有力豪族の上に、権威だけの存在を持ってきたからだろう。
いわば、看板である。

普通はこういう存在は長持ちしないものだが、
なぜか天皇家は世界最長の王族の血統である。
603日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:43:31.01
通説が伊都国だというところからは璧は出ていないよ。
604日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:43:49.18
神代の天皇は、みずから刀を振り回し、血路を切り開いた逸話があるが、
8世紀以降、直属軍を持たない天皇が、そういうことをした記録は、ほとんどない。
605日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:45:18.54
>弥生中期以降なら貨泉、方形周講墓、水銀朱。
九州勢力が植民地開拓を始めた証拠だろうな。
606日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:55:04.73
>>605
その九州勢力が弥生末期の2世紀には
河内まで勢力を広げたという事でOKだね。
つまり倭人伝の頃の倭国はそういう事だろう。
607日本@名無史さん:2013/02/09(土) 13:58:28.54
九州勢力の豪族たちが、畿内に東遷すれば、
畿内の地元の豪族たちと戦争になるのは、当然である。

しかし、そんな大戦争の痕跡は残っていない。

白村江で疲弊した九州豪族から、畿内の豪族の上に、天皇家という看板が、
移動するだけなら、それほど大戦争にはならないかもしれない。
608日本@名無史さん:2013/02/09(土) 14:00:44.62
ニュー速なくなって
渡来人が大量流入してきたな
609日本@名無史さん:2013/02/09(土) 14:31:26.05
交易があるからこそ「女王国東渡海千里 復有国 皆倭種」と書ける。
しかし、交易(銅・ガラス・土器)と外交(金印・璧・倭人伝)は別物。
北朝鮮やアフリカの奥地でも日本の中古車を見ることが出来るだろう。
古代ローマはどの程度日本を認識していただろうか。
610日本@名無史さん:2013/02/09(土) 15:08:18.69
>>609その話でいくと、日本と直接交易のない国でも、巡り巡って日本車が入っているわけだし、
日本各地で出土する鏡も、巡り巡って交易がない日本に入ってきたとは考えられはしないか?
611日本@名無史さん:2013/02/09(土) 15:15:50.63
十分考えられると思うよ
612日本@名無史さん:2013/02/09(土) 15:25:50.43
>>607
古事記や日本書紀にその痕跡が残っているだろう。神武東征として。
長髄彦や兄猾、弟猾、土蜘蛛や八十梟帥、兄磯城、弟磯城、饒速日命など
敵や味方がいっぱい出てくる。

物的な痕跡ならば、これは残らないのが当たり前、数十年前に壊滅的な
破壊を受けた戦争の跡だってまず見つけ出すことは不可能。
613日本@名無史さん:2013/02/09(土) 15:33:08.20
関ヶ原も殆ど痕跡がないらしい。
614日本@名無史さん:2013/02/09(土) 15:53:18.72
>>609
>交易(銅・ガラス・土器)と外交(金印・璧・倭人伝)は別物。

成る程、じゃ倭人伝に記述のある丹の山は徳島にあったな。
高知の安芸辺りは冬温暖だもんね、酒好き多いし。
しかも弥生期に全盛を迎えるという点もピッタリだよw
もう徳島が女王国でいいじゃん、アマテラスの墓もあるんだろ?
615日本@名無史さん:2013/02/09(土) 16:03:49.85
>>602
俺の妄想なんだけどね
天皇の元と言うのは天界から下った子孫(仙人と言うべきか)とされた家系だとおもうよ
まあ道教だが、須弥山信仰というのはアジア圏に古くからあって、インドの宗教観にもあって仏教にも入ってるよ
日本列島には道教の道士がつれて来たんだと思うけど、彼らを神輿に乗せて仙人の子だと各地を吹聴して歩いた
仙人の子だから、雨も降らせられる、太陽も月も鎮められる
須弥山への帰り方も知っているから、死人が出たら極楽(須弥山)へ魂を送り届けて欲しいと頼む事もできる
仙人の子が死んだら、須弥山に似せた墳墓をつくるよ、前方後円墳てやつ
死んだら須弥山に帰してあげるって事かな、遺体を須弥山の頂に丁重に葬り、周りには甘露水を受ける皿型の土器を並べる
首長崇拝とはちょっと違う、死んでもなお仙人の霊力を信じて拝む、祈祷所ってとこかな古墳は
甘露というのは須弥山に常に降っているといわれる甘い雨だよ、須弥山に住む者はそれによって飢えから免れるとされた
飢えない、死なない、それが昔の人が想った極楽
これは仏教もそうだね、仏陀は修行により自らの魂を極楽へ導いた、
だから仏陀にお願いして死人の霊を極楽に導いてもらおうと、お願いするのが仏教だ
山岳信仰では先達とか御師(おし)とか呼ばれる人に連れられて山に登るよね、あれも同じ
仏教では仏陀を先達と仰いで日々精進に務め、死んだら仏陀に先達してもらって極楽に赴く
まあつまり、仏教が入ってくる前は天皇の原型と言うか、仙人の子が成仏の鍵を握ってたという事
それを時の権力者が担ぎ上げ、全国を統一して回った、天皇にお伺いをたて、天の命ずる所である、と奉じる形を取ってね
卑弥呼もそういう特殊な家系の人だったと思うよ
616日本@名無史さん:2013/02/09(土) 16:08:37.80
>>614
天照大神は伊勢に鎮座されているわけで、墓のようなものはない、と
いうことになっている。
617日本@名無史さん:2013/02/09(土) 16:11:12.14
璧なんて倭人が持っていたのか?
漢人でしょ。
逆に考える倭人じゃなく漢人の国とも言える。
あまり多いと考え物だよ。
618日本@名無史さん:2013/02/09(土) 16:21:18.74
>>616
天照大神、つまりヤタの鏡を輿に載せて彷徨したあげく、伊勢に落ち着かれたと言う崇神天皇のくだり
あのイメージだね、>>615で仙人の子を連れ歩いたと言うのは
じゃあ、仙人の子を伊勢に運び去り、実権を握ったのが崇神の一族かな?
同じく崇神も仙人の子の血統者かな、仙人の子でありながら実験も握った?
あるいは仙人の子は仙人の子として別に敬い、表で政治を握った?
あるいは崇神は仙人の子として崇拝だけを受け、政治は別の一族が握ったのかな、それが藤原氏?
天皇ってつねに権力者の囲われ人?
619日本@名無史さん:2013/02/09(土) 16:28:51.98
九州には、串間の穀璧、日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡、球磨盆地の鍍金鏡など
珍しいお宝がたくさんある。
620日本@名無史さん:2013/02/09(土) 16:42:32.03
中国と無縁だった畿内しか知らない人間は、>>617のような発想しか
できない。
621日本@名無史さん:2013/02/09(土) 16:50:50.44
そりゃ倭人伝だからな、倭国漢人伝じゃないぜw
所詮九州脳じゃ理解出来ないかな?
622日本@名無史さん:2013/02/09(土) 17:05:13.03
弥生期のお宝なら丹波からも出てるだろ。
所詮九州内で30国なんて成立しないよ。
余程曲解しないと無理。
623日本@名無史さん:2013/02/09(土) 17:25:43.13
大宰府も鍍金の王冠とかでてるしね。
倭国王師升の時代に近いらしい。
624日本@名無史さん:2013/02/09(土) 17:28:22.76
金銀の象嵌の入った太刀なんかも、
九州一円で、ちょこちょこあるね。
625日本@名無史さん:2013/02/09(土) 17:33:39.41
委奴国王金印:
「なんか忘れてないか?」
626日本@名無史さん:2013/02/09(土) 17:37:14.13
そういや、鞍手から出てきた銀の王冠が、
法隆寺の仏像のものと同型だとか。
627日本@名無史さん:2013/02/09(土) 17:39:26.49
こうして見ると、九州には国があった証拠がいくらでもあるが、本州には全く
ないねえ。せいぜい貨泉でこじつけるだけか。
628日本@名無史さん:2013/02/09(土) 17:41:03.30
余り検討もしてなかったが、
金銀製品も九州が圧倒的なようだな。
629日本@名無史さん:2013/02/09(土) 17:49:20.21
貨泉は、作られてた年代が限られるので、
年代の指標にしたくなるのだが、

実際には中国などでは出土量が非常に多く、
また、素人目にも様々な作風がある。

地方で模倣されたものがかなりあるようである。

従って、いつまで作られ、また、出回っていたかは、
あまり正確にはわからない。
630日本@名無史さん:2013/02/09(土) 18:02:50.75
貨泉は真贋より弥生末期の遺跡から出る分が重要なんだがな。
それ以降に出る奴はあまり関係ない。
少なくとも漢人が河内辺りまで来てる事の証明はそれで充分。

九州にいくらお宝が出ようが、まず2〜5万戸以上の
居住区の痕跡、弥生遺跡を探す方が先だね。
そんなの存在する訳ないでしょうけど。
631日本@名無史さん:2013/02/09(土) 18:03:34.83
一貴山銚子塚古墳(糸島地方)から出た
鍍金鏡もお忘れなく
632日本@名無史さん:2013/02/09(土) 18:07:09.91
漢人の痕跡はそんなに要らないよw
そんなに九州を漢人の国にしたいのか?
633日本@名無史さん:2013/02/09(土) 18:09:35.84
岩戸山古墳資料館に、近所の八女丘陵から出た金銀象嵌太刀が、
かざってあったな。
634日本@名無史さん:2013/02/09(土) 18:14:42.38
鍵・唐古遺跡は何万戸ぐらいあったのかな。
635日本@名無史さん:2013/02/09(土) 18:20:27.67
鍵・唐古遺跡は千人規模だよ、倭人伝の記述にある
卑弥呼の世話をする人が居住するには丁度いいな。
近くには鏡作神社もあるし。
636卑弥呼は満州にいた:2013/02/09(土) 18:23:55.97
>>590
対馬や壱岐間の千里というのは完全な誤解なのだから、根拠にはならない。
公里の百里は北九州市〜中津市の距離だということを覚えておこう。

投馬国と邪馬台国だけは九州以外だと認識していたというところが味噌だ。
実際、その余の傍国がすべて九州の国々であったとしても、
投馬国と邪馬台国だけは本州の国である可能性があるのである。
637日本@名無史さん:2013/02/09(土) 18:32:48.81
2〜5万戸の居住区の痕跡なんか無い。
8世紀初頭の藤原京ですら人口3万人。
弥生の7万戸の国の都なら700戸3千人〜4千人もあればじゅうぶん。
当時基準では100戸あたりが都市的性格を帯び始める境だ。
638卑弥呼は満州にいた:2013/02/09(土) 18:37:07.16
君らは何の関心も無いだろうが−

桓那國〈吉林〉
藻那〈尼港〉

尼港は現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ
面白いのは、桓那国の王も藻那国の王も女王だったことである。
ネット史を読むと当時は満州にも朝鮮にも女王がゴロゴロいたのである。
日本に神功皇后がいたからといって、直ちに卑弥呼=神功皇后とは限らない。
639日本@名無史さん:2013/02/09(土) 18:40:22.77
原始的社会で女酋長になるのは珍しくもなかよ
紀伊あたりにもわんさか
640日本@名無史さん:2013/02/09(土) 18:48:36.08
起源大好きな朝鮮人
641日本@名無史さん:2013/02/09(土) 19:00:34.87
ポリネシアンやオーストロネシアン社会では、酋長と言うより族長が女性と言うのは多い。
母性信仰が基盤にあるんだろうが、その家系で最長老の女性が尊啓され、重要事項の決定などを委ねられる。
642卑弥呼は満州にいた:2013/02/09(土) 19:01:23.06
桓那国や藻那国に女王がいたのは朱蒙の時代だから、
卑弥呼の時代より二百年ほど前の話だ。
しかし加耶などは卑弥呼の時代もほとんど女王ばかりが即位している。
他にも女王がいた国はいくらでもある。

九州にも田油津媛などがいた。
その意味では九州の可能性もあるわけであるが、
残念ながら田油津媛は山門郡の女王であって国の女王ではないのである。
643日本@名無史さん:2013/02/09(土) 19:45:56.36
>>630
まあ、奴国の2万戸も、現実にはありえない数字だろうね。
644日本@名無史さん:2013/02/09(土) 19:50:35.59
>>642
郡という概念は古事記以降の概念だ。山門郡も邪馬台国当時は「国」だった。
もっと勉強してからレスしなはれ。
645日本@名無史さん:2013/02/09(土) 19:57:52.62
倭人伝の戸数は大きすぎるとは思うが
九州説にはこれを否定するのを嫌う人が多いな
数字に誇張や錯誤、虚偽があるとなれば
里程の信頼性も失われるかもしれないと考えるからだ
646日本@名無史さん:2013/02/09(土) 20:04:11.97
人口は吉野ヶ里で周辺部も合わせて5000人いくかどうかという感じで
一つのクニが2万人というならわからなくもないが
戸数で2万人×4、2万人×5などになるというのは
何らかの錯誤があるか
さもなければ一つのクニが郡程度より大きいかなのではないか
647日本@名無史さん:2013/02/09(土) 20:05:56.20
>>643
なぜ。8万人くらいなら別にありじゃない?
648日本@名無史さん:2013/02/09(土) 20:11:51.38
倭人伝の行程距離は正しくて、戸数だけは違うなんて
ご都合主義も甚だしいよな。
畿内なら巨大な古墳を造る動員が出来る事で、
周囲に相応の人口がいたことは想像出来るよ。

九州だけに拘るのは無理だし、全く理解出来ないね。
649日本@名無史さん:2013/02/09(土) 20:14:08.19
>>647
8万人のクニがあって、30国も九州内にあるとすれば
九州だけで人口百万くらいになってしまうからな
650日本@名無史さん:2013/02/09(土) 20:23:15.85
江戸時代で実石高450万石、人口300万人だからな。
651日本@名無史さん:2013/02/09(土) 20:23:46.93
長門という位だから二万戸の奴国は山口県に
跨る国と考えればいいじゃないか。
素直に倭人伝を解釈すればこうなるはずだ。

伊都だって一万戸と記した資料もあるんだろ?
652日本@名無史さん:2013/02/09(土) 20:26:21.54
奴国を山口県とする九州説はきわめて珍しいな
653日本@名無史さん:2013/02/09(土) 20:32:42.61
ひょっとしたら、糸島の伊都国は千戸で、
小城国府の伊都国は一万戸では?

小城国府ということばがのこってるくらいに、
中心的だった時代もあったから。
654日本@名無史さん:2013/02/09(土) 20:37:44.69
>>649
いんじゃね?別に。
655日本@名無史さん:2013/02/09(土) 20:53:29.91
>>654
当時倭には牛馬もいないのにどうやって食を確保出来るの?
656日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:00:00.11
意味不明
657日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:02:36.06
牛馬もなく九州だけで100万の人口だぞ、頭悪いのか?
658日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:06:53.09
牛馬は耕作に使役するという意味なんだろう
それはともかくとして弥生末期と奈良時代あたりを比較すれば
耕地面積はかなり違うだろうし、反あたりの収穫量も低いはず
659日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:08:22.78
少なくともハッキリしていることは、小山修三の数字を出すなら
近畿説も九州説も無しという結論しか出てこない。

弥生時代(1800年前)
近畿の人口 108,300
九州の人口 105,100

(同じ位wwww)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88#.E5.9C.B0.E5.9F.9F.E5.88.A5.E6.8E.A8.E5.AE.9A.E4.BA.BA.E5.8F.A3
660日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:24:23.16
牛一頭で一ヘクタールの牧草地が必要ということなので、
大体10反=10人分の土地が必要。

穀物の配合飼料だと1.5dが必要。

むしろ、牛の食を確保できそうにない。
661日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:31:37.97
所謂「元祖山門」 福岡県みやま市
http://goo.gl/maps/CBLo9
662日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:37:12.78
そもそも農耕での牛馬の使役が広まったのは室町以降だろ
663日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:37:37.34
八女から瀬高も遺跡の宝庫で、
鉄器鍛冶遺跡が多く出る所でもある。

一説には製鉄が行われていたとも言われるが、
そこまでは私は取らない。

金銀の装飾品などが、わりと出土する所でもある。
たしか、金の指輪や銀飾りが出てきていたはず。

金銀象嵌の太刀もこの辺りである。
664日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:46:20.92
>>659
このデータでは、弥生時代を西暦200年としているが、
その頃、もう卑弥呼は十七〜十八才くらいなんだから、ちと〜疑問。
近年の炭素年代法で、弥生時代は数百年繰り上がったそうだから、
ここの弥生時代(1800年前)も繰り上げて整合性をとるべきじゃないのかねえ、確かに今のままじゃ両説共に無しとおもた。
665日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:51:20.95
弥生時代の確実といわれる製鉄跡は見つかってないが
あっただろうという意見も根強くある

根拠はこんなとこだな(日立金属のHPから)
・弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が普及する
・ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である
・弥生時代にガラス製作技術があり、1400〜1500℃の高温度が得られていた
・弥生時代後期(2〜3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた

あと広島の小丸遺跡のこともあるし
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page122.html
666日本@名無史さん:2013/02/09(土) 21:56:46.32
倭人が独自に製鉄技術をあみ出したという論点ならそれはわからないが
そういう技術を持った渡来人がきてた可能性はあるだろ
667卑弥呼は満州にいた:2013/02/09(土) 22:03:10.20
>>644
古事記以前に山門郡が「国」だったという資料はあるのか?

>もっと勉強してからレスしなはれ。
こんなえらそうなことを書けるほどお前は勉強しているのか?
大体普段学問に親しんでいる者がこんなチンピラのようなことを書くか?
学問をやる前に人間の修行をしろ、馬鹿者。
668日本@名無史さん:2013/02/09(土) 22:11:03.11
山門郡が邪馬台国だとして
さすがに7万戸は無理だろうから、その郡の範囲を含んだもっと広い地域がクニだった
という意味なのだろう
669日本@名無史さん:2013/02/09(土) 22:18:33.24
奴国が2万戸だから、山門郡を含む7万戸の広い地域というと
筑後平野と北野平野を全部足したぐらいになるね。あそこが邪馬台国でいっぱいいっぱい。
670日本@名無史さん:2013/02/09(土) 22:28:11.85
製鉄が行われていた痕跡は九州にはたくさんある。
製鉄の時に出る鉄滓も大量に見られる。

しかし、弥生時代に九州で製鉄が行われていたとすれば、
鉄器が出てこないばかりか、石器が盛んに作られていた唐古・鍵遺跡など
近畿地方の立場がなくなる。
落差の大きさに邪馬台国畿内説なんて吹っ飛んでしまう。
もともと吹っ飛んでいて当たり前なのだが。

東遷説と製鉄は絶対認めない畿内説。
671日本@名無史さん:2013/02/09(土) 22:43:07.12
そんなものを認めてしまったら完全に終了してしまいますから、絶対に認めません。
まあ、認めようが認めまいが畿内説は終了してしまいましたが。
672日本@名無史さん:2013/02/09(土) 23:20:25.08
何度も言うようだが、対馬国が千戸、一大国が三千戸ならば、北九州の奴国が二万、
投馬国五万、邪馬台国七万は当然の数字だろう。
九州が対馬、壱岐の何倍あるか考えてみたことあるか?
673日本@名無史さん:2013/02/10(日) 00:48:55.83
>>670-671
1〜2世紀最大規模である淡路島の鉄器工房、垣内遺跡はどう説明するの?
それに唐古遺跡の弥生中期以降は銅鐸鍛造工房ですよ。

知識が足りないなら無理するな、九州説でも恥ずかしいわ。
674日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:01:04.47
>>672
九州にそれら何万戸の集落が不可能と推測できる点は
面積だけの問題じゃないぞ。
九州の山中には土蜘蛛が沢山いたはずだけどな。
隣接して居住出来るとも思わないけど。

土蜘蛛連中を魏と交易していた国々と認めるのかな?
倭人伝に書かれた戸数だけじゃ足りないと思うのだが‥
675日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:09:52.52
九州脳は何でも都合よく考えるからなw
676日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:19:23.29
土蜘蛛というのはヤマト王権から見た
まつろわぬ民のことで
盗賊か何かというわけではないんだが
677日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:20:08.94
>>673
その垣内遺跡とやらがどんな鉄器工房か自分で調べてみたらいい。
畿内説の発表やそれから受ける印象を鵜呑みにすると判断を誤る。
678日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:26:27.69
畿内の土蜘蛛認定ってレッテル貼り好きな左翼みたいな思考だ
679日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:35:09.02
垣内遺跡は不思議な遺跡だよな
庄内をほとんど受け入れず前方後円墳もない
また土器の形式には連続性があり
つまり外部から移ってきた精力でもない
680日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:38:43.75
>>676
その場合東遷説というのも消えるよね。
自分達が元々いた場所を土蜘蛛扱いはする事になる。

九州からでるお宝だって、四世紀以降の遺跡から出るのが多いしな。
681日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:41:35.98
九州説なんて結局矛盾だらけじゃないか。
682日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:49:15.32
山門郡にいらっしゃった女酋長さんは他所からやって来た息長垂にやられた という構図
683日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:50:35.10
山門郡にいらっしゃった女酋長さんは

他所からやって来た息長垂にやられたせいで

土蜘蛛にされちゃった  という構図
684日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:56:10.97
所謂「元祖山門」 福岡県みやま市の「山門」のは

「山」の「門」だからして

「邪馬」臺國の南の「門」なのでしょ
685日本@名無史さん:2013/02/10(日) 02:02:02.51
>>679
垣内遺跡は農業がほとんど行われず鉄器加工に特化した遺跡で
その製品はおそらく大阪湾方面ではなく四国内部に運ばれたものと思える
島内の高地性集落は大阪湾方面との抗争の印かもしれない
ただし淡路型甕や淡路型器台は大和にも流れているので弥生末頃には完全な敵対関係ではなく
布留式期に遺跡が潰えるのは纏向の勢力に吸収されたためではないか
686日本@名無史さん:2013/02/10(日) 02:18:20.46
>>681
矛盾だらけなのは奈良説
687日本@名無史さん:2013/02/10(日) 02:21:27.46
>>685
四国内部に運ばれたんなら当時の淡路島は四国に掌握されていたことになるが
何か証拠があるの?
その場合何のために淡路島で鉄器加工する必要があったのか
688日本@名無史さん:2013/02/10(日) 02:25:34.93
>>687
まず出土する鉄鏃の形が畿内の単純な形式ではない
また徳島の鍛冶遺跡との共通性、その他の遺物も関連しているとみられる
石野の話でも香川や徳島との関連が強く指摘されていた
さらに上で書いたように九州まで流れた庄内式土器を受け入れていない点
淡路島島内北部に高地性集落が集中している点などだ
689日本@名無史さん:2013/02/10(日) 02:27:17.97
>>687
>何のために淡路島で鉄器加工する必要があったのか

これは謎 
690日本@名無史さん:2013/02/10(日) 02:37:40.76
四国を再考しなきゃならないかもな
691日本@名無史さん:2013/02/10(日) 03:06:54.87
畿内侵攻の前線基地・・とかか
神武はまず正面の大阪湾から攻めているが撃退される
淡路島に退いて再軍備後に今度は和歌山から山間を行く
東征の主体は四国だったりして
692日本@名無史さん:2013/02/10(日) 03:17:55.16
神武天皇は四国太平洋側も大津波で破壊されてしまった光景を目にして
紀伊半島に辿り着いたが
和歌山に八咫烏が現れ神武天皇を津波と無縁の奈良に案内した
693日本@名無史さん:2013/02/10(日) 05:22:40.98
北部九州と比して、菊池川流域の遺跡は瀬戸内と関連が深い。
邪馬台国連合の圧力によるのだろう。
694日本@名無史さん:2013/02/10(日) 05:28:55.46
しかしまだ近畿説言ってるアホいるのなww
まだ纏向がどうの言ってるの?www
695日本@名無史さん:2013/02/10(日) 05:53:11.80
1.△縁=卑弥呼の鏡、箸墓=卑弥呼の墓、纏向=邪馬台国
全部否定された(事情を飲み込めてないバカがまだ言ってはいるけどね)。
もう近畿が邪馬台国だと考えたほうがいい根拠はほぼ完全にゼロになった。

2.3世紀中頃などと言う時代に、西日本全域を軍事的に統括する勢力
など存在しない。これは学会の定説。しかし、伊都国は九州。だから
近畿説は存在の余地が無い。

3.鉄器は、3世紀またはそれ以前のものは、殆どが九州出土。

4.一番強烈で決定的なのが、神武東征が完全に否定されたこと。学会で
神武東征を支持するものはいない。近畿説は基本バカだから、これは九州
説を否定する根拠だと思っているww。現実は逆。否定されたのは近畿説
のほう。記紀が神武東征という捏造をやったことが明らかになった以上、
ではなぜこういった捏造をやったのかに答えなければならなくなった。
容易に分かるように、これを近畿説で説明することは事実上不可能。
近畿説は完全に無い。可能性ゼロ。

近畿説を言ってる奴は、
1.近畿の狂信的郷土史家。
2.ただの情弱。
3.ただのバカ。頭が悪いヤツ。
4.混乱が好きな連中。混乱してたほうが金儲けになると思っている。
(カスゴミの連中とか)
5.ウソつき。とにかくホントの話しが嫌いでウソが好きな連中。

こういう連中。
696日本@名無史さん:2013/02/10(日) 06:41:10.16
>>695
上にまつろっとかないと道を閉ざされますから面従背反、畿内説のふりをしている私のようなのは無視ですか、そうですか
ま、畿内説など完全に無い、可能性ゼロなのはもう誰もが知っていることですが
私みたいなのも結構いますよ、老人どもがいなくなれば畿内説などという妄想はさっさと捨て去られるでしょうね
697日本@名無史さん:2013/02/10(日) 06:52:00.93
まつろわないと出世できないものなあの業界。
698日本@名無史さん:2013/02/10(日) 07:38:56.47
>西日本全域を軍事的に統括する勢力

船で移動できる場所の植民地なら全部を制圧する必要はない。
オランダはインドネシアを植民地にしていたけど、
本国からインドネシアまでの全地域を植民地にしていたわけではないのと同じ。
699日本@名無史さん:2013/02/10(日) 08:01:03.49
九州説はもう論外として、これからは
四国、畿内を一体として考える説が主流になるんじゃないの?
戸数の矛盾もなく風俗も合致、記紀の東征とも整合する。
水銀さんの主張が正解だな。
700日本@名無史さん:2013/02/10(日) 08:14:16.69
>>667
で、自分もチンピラと同じことをしているわけだね。
701日本@名無史さん:2013/02/10(日) 09:44:20.53
>>680 :日本@名無史さん:2013/02/10(日) 01:38:43.75
>その場合東遷説というのも消えるよね。
>自分達が元々いた場所を土蜘蛛扱いはする事になる。

近畿・畿内にこういう反論をする輩は少なくないが、大錯覚の大典型だ。
東遷物語は地上世界の表現で、過去の現実(史実)として描かれている。
しかし土蜘蛛は、記紀神話に登場する我わらが仮想と考える表現の一部である(現に大きな蜘蛛が九州に生息していたわけではない)
周知の通り、記紀神話によれば、神武のご先祖は九州の地上には住んでおらず、
はるか天上から土蜘蛛らを成敗するために下ってきたのであるから、
九州は故郷ではない。もちろん領地も生家も代々のお墓も九州にはない。あったらおかしい。
敵ばかりという記紀の表現はまったく当然であり、
さらに後世、征伐の対象であって当然なのだ。

近畿説は、箸墓を卑弥呼の墓だといってるようだが、
天上にましました神々のお墓が地上にあるのは建前としておかしいではないか、
仮に有って、それを知っていたとしても、代代の皇統として認めることはできなかったであろう。
つまり公けの御陵墓なるものは、卑弥呼の墓ではありえないのだ。おわかりかな、近畿の諸君。
702卑弥呼は満州にいた:2013/02/10(日) 09:52:11.78
>神武東征が完全に否定されたこと。学会で神武東征を支持するものはいない。

ふ〜ん、そうなのか、初耳だw
要するに学者も君らと同じで○○だということだなw

>>700
カチンと来ればやり返す。
罵倒されたり揶揄されてもカチンと来なければやり返さない。
たとえば君の書き込みにはさほど反感を感じないからやり返さない。
703日本@名無史さん:2013/02/10(日) 09:59:37.69
>>695
1、△縁は国産品である可能性が高いが、紀年鏡は実年代を記したものと見るほうがよい
  これは全国に鏡を配布した勢力がその時代にヤマトにあったということ
  箸中山古墳は布留期なので280年代以降というのがもともと考古学界の定説
卑弥呼の墓ではないだろう
  纏向遺跡は初期ヤマト王権の発祥地で、邪馬台国はそれと関係なく九州であった可能性はある

2、そもそも弥生末に西日本全域を軍事的に制圧した勢力があったなどとは考古学的には
  考えられていない
  大和の近郊でもヤマト王権に従っていない勢力が点在することは昔から言われていた
  弥生時代の戦争は近隣同士が中心で、16世紀の戦国時代でも難しかった
  近畿から九州への長駆遠征(逆もしかり)がこの時代にできるはずがないのは常識
  ヤマト王権と交易でつながりのあった集落が政治的にも関係を持っていただけで
  あえて言えば古代ギリシアのポリス同士のようなものだろう
  ヤマト王権の影響が全国的に広がるのは4世紀からで、これとて軍事的な支配ではない

3、神武東征は九州説が想定するような3世紀代のものは考えられない
  考古学的にそれを示すものはない
  ただし記紀が本来東征として示す前7世紀以降に、それまで東北地方の影響の強い縄文文化が駆逐され
  渡来系の影響を持った弥生文化に切り替わっていったのは間違いない


  
 
  
704卑弥呼は満州にいた:2013/02/10(日) 10:00:41.15
仮にだ、九州の北半あるいはほぼ九州全域を支配していた女王がいたとしたら、
それが記紀に書かれないはずがないではないか。
ところがそれに該当しそうなのは田油津媛だけなのだ。
卑弥呼とはやや時代がずれてはいるが、とにかく田油津媛しか候補者がいない。
だから九州説を唱えるなら卑弥呼=田油津媛説を唱える以外にない。

田油津媛以外に卑弥呼という女性がいたと想像するのは空想である。
705卑弥呼は満州にいた:2013/02/10(日) 10:06:10.71
学者も君らも、記紀を無視して考古学ばかりに頼っている。
愚の骨頂だ。

ちゃんと記紀に日本の歴史が書かれているのに、
それを無視して土掘りばかりしているのだから、小学生の遊びだ。
706日本@名無史さん:2013/02/10(日) 10:22:11.75
記紀と倭人伝の整合性がとれるのは四国説だけでしょ。
モモソだって淡路島に縁のある姫ですね。
神武を先導して大和を実質的に統治したのはウズヒコだし。
707日本@名無史さん:2013/02/10(日) 10:27:05.20
植民地というか、
徳島はテクノロジーの前線基地で、
奈良は生口(奴隷)調達用センター。
708日本@名無史さん:2013/02/10(日) 10:58:15.79
みなさん、吉見の百穴を御存知でしょうか?同じような規格の穴が二百以上もあるそうです。

http://livedoor.blogimg.jp/tabinozasshi/imgs/2/5/25bb2d62.jpg

規模の大小はあるものの、百穴、もしくは横穴墓と呼ばれるものは全国に存在します。
この横穴を墓とする見解が主流の様ですが、これこそ土蜘蛛の住居跡ではないでしょうか?
入口に、竹で編んだ簾をたらせば立派なワンルームマンション。
後にこの地を征服した者たちによって、墓として再利用されたため誤解を受けています。

この百穴と同じような住居は人類発祥の地トルコのカッパドキアでホテルとして使われているものもあります。

http://www.tabitamago.jp/turkey/sights/images/01_01.jpg
709日本@名無史さん:2013/02/10(日) 11:01:13.24
>>704
大毘古 之女
御眞津比賣 = 彌馬津姫 = 卑彌呼

    この説って誰か云ってる?
710日本@名無史さん:2013/02/10(日) 12:01:05.98
日本国内の争いを収めるために、同格の国が集まって連合国家を作った。
という事の方が想像できない。
ギリシャの場合だって、対ペルシャがあって初めてデロス同盟ができるわけだし。
巨大な敵がない場所で連合国家みたいなのができるはずがない。
そして、連合国家じゃなくそれぞれ独立した国でその代わりちょっと濃密な関係があったというならば、
女王国に服する とか、(女王国の)官を置いている とか表記されるわけがないから、
そういう関係性でもないと考える方が妥当。
女王国に服するという国は、絶対的に女王国に武力制圧されている。
711卑弥呼は満州にいた:2013/02/10(日) 12:16:30.26
>>709
誰も唱えてないから、がむばって本を書けw
712日本@名無史さん:2013/02/10(日) 12:39:35.86
>>710
だから連合国家ではなく交易相手でその盟主的な存在も適宜入れ替わっていたんだろう
倭人伝の記述は考古学的には何とも言えない
713日本@名無史さん:2013/02/10(日) 12:46:39.74
ただ完全な武力支配関係があったのだとすれば
それは近隣の場合だろうな
714日本@名無史さん:2013/02/10(日) 12:57:21.25
古代はそんなに戦争は起こってないよ
水争いくらいで死人まで出さない
権力者が他所の土地と民を征服しようとする事はあるだろう
でも民衆を殺したら生産量が減るし反感も買う
結局は権力者間で妥協してしまって婚姻とかでやんわりと委譲される
715日本@名無史さん:2013/02/10(日) 13:02:18.21
>>714
橋口の本を読めばいいのだが
このサイトは間違いもあるが、まあこんな状況だったろう

http://web.joumon.jp.net/blog/2007/08/000290.html
716日本@名無史さん:2013/02/10(日) 13:12:39.92
>>715
環濠集落を防備のものと仮定したり、青銅器や鉄器を武器と見なしての見解のようだな
狩猟や祭器という発想をすれば、一気に見方は変わるよ
717日本@名無史さん:2013/02/10(日) 13:15:27.90
>>716
橋口の研究は戦傷と思われる人骨を中心にしたものだ
弥生時代は人口爆発の時代で、それにともなっての近隣との戦争はあった

あとは観点は変わるが一つの集落内で世襲制の権力があったかどうかもあやしい
718日本@名無史さん:2013/02/10(日) 13:15:58.51
神域を囲む青竹も、先を尖らせるだけで竹槍になる
たしかに一気に見方は変わるよな
719日本@名無史さん:2013/02/10(日) 13:59:04.07
結局なんで畿内説が有力になっていると言われているのか解らん?
720日本@名無史さん:2013/02/10(日) 15:50:01.65
邪馬台国や女王卑弥呼に関する記録が残っていないこと自体、邪馬台国は、文字が伝わるよりずっと前に滅んでいたとみるべきですよ、
古事記や日本書紀として紀元前から続く皇統の記録が残っている畿内が邪馬台国でないことは明白。
なぜそんな当たり前の事実さえ認めようとしないのか?頭おかしいんじゃないのか?
721日本@名無史さん:2013/02/10(日) 15:58:29.30
畿内説は唐古・鍵遺跡や三角縁神獣鏡以来、論争を避けて、ひたすら宣伝に
走っている。嘘も百回言えば本当になるみたいな。
新聞報道では、必ず「邪馬台国の最有力候補地である纏向遺跡」を入れる、
という具合。
722日本@名無史さん:2013/02/10(日) 16:10:27.53
>>720
東大寺山古墳から中平の年号が刻まれた刀が出土した。鏡には、青龍、景初、
正始、元康あるいは呉の年号である赤烏などもある。つまり、卑弥呼時代
前後の年号のあるものがけっこう出ている。

これらは後世に作られた可能性が高く、そうなると卑弥呼時代の記憶が
後世にもかなり強く残っていたことになる。由緒ある年号という意味を持っている
わけである。
そういう意味でも、三角縁神獣鏡などが作られた年代はきわめて重要になるな。
723日本@名無史さん:2013/02/10(日) 16:12:56.62
>>720
卑弥呼の記憶は天照大神伝説として残っていると考えればいい。
724日本@名無史さん:2013/02/10(日) 16:22:55.54
魏の年号を記してあるということは、支配の正当性を主張している。
わざわざそうしているのは、後継ではないということ。
生口(奴隷)調達用の元締めが、やがて王を称し、覇を唱えたってとこかな。
725日本@名無史さん:2013/02/10(日) 16:47:20.53
【歴史】邪馬台国をめぐる論争に終止符。「魏志倭人伝」は17世紀に朝鮮で捏造された書物であることが判明★2

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/curry/1360017714/
726日本@名無史さん:2013/02/10(日) 18:41:21.25
>>676
和気あいあい暮らしていたって言いたいのか?
727日本@名無史さん:2013/02/10(日) 19:47:15.01
ツチグモなんてものを信じるのがどうかしているということだろ。
728日本@名無史さん:2013/02/10(日) 20:12:20.76
土蜘蛛、ワニ、カラス、大蛇、鬼などは、土民(地元民)にかかる卑的枕ことば(卑称)
倭人伝で使われた卑とか邪と同様の用法な
729日本@名無史さん:2013/02/10(日) 20:30:43.99
土蜘蛛=土雲=出雲の勢力のこと
730日本@名無史さん:2013/02/10(日) 20:35:37.01
鬼は畏怖の意味であって、侮蔑の意味じゃないよ。
731日本@名無史さん:2013/02/10(日) 21:28:39.86
♀鬼は






                                        委鬼
732日本@名無史さん:2013/02/10(日) 21:32:04.91
魏は



魏  蘶   やま めす おに
733日本@名無史さん:2013/02/10(日) 21:32:50.94
そうか、鬼は魏からの渡来人たちなのか!
734日本@名無史さん:2013/02/10(日) 21:33:40.30
巍   かんじまちがちゃた
735日本@名無史さん:2013/02/10(日) 21:49:17.87
夷巍寺か?
736日本@名無史さん:2013/02/10(日) 22:40:22.49
>>735
「夷巍寺」 は「いきじ」 かい

「巍」 は「き」 と発声するのか

ぢゃあ

「親巍倭王」のは「しん・き・うぃ・うぉふ」とか
737日本@名無史さん:2013/02/10(日) 22:47:37.81
738日本@名無史さん:2013/02/10(日) 22:54:47.86
それ日本語発音だよね
巍は上中古音は知らないけど、weiじゃない?
739日本@名無史さん:2013/02/10(日) 23:22:12.81
>>720
>頭おかしいんじゃないのか?

頭がおかしくなければ畿内説などやってられません。
740日本@名無史さん:2013/02/10(日) 23:57:47.36
741日本@名無史さん:2013/02/11(月) 00:06:12.03
>>738
穢 wei
巍 wēi
742日本@名無史さん:2013/02/11(月) 00:09:47.39
>>741
伊 那志許米 志許米 岐穢國

伊 難升米 難升米 岐巍國
743日本@名無史さん:2013/02/11(月) 11:45:30.26
平成25年1月27日のドイツ公共放送ZDFの報道

「1月27日のオスプレイ反対デモの参加者は韓国指揮下の日本人のふりをした帰化未帰化在日韓国人であり、
主導者は帰化韓国人の柏崎正憲カシワザキ・マサノリ(通名)である。

この人物も参加者たちも、韓国および人民シナから高額の参加手当てを受け取っている。
この人物は、在日韓国人捏造従軍慰安婦=追軍売春婦による日本国へのタカリ運動、日本国の世界最新原発技術を韓国・人民シナ・フランス・ポーランド・チェコ・ルーマニアへ横流すための日本国内原発全廃運動も主導している。
オスプレイ反対デモの目的は、日本国沖縄県から米国軍を追い出し韓国軍および人民シナ軍を呼び込み日本国沖縄県を乗っ取るためである。」
http://www.youtube.com/watch?v=PW0ueNdIn-Q
744日本@名無史さん:2013/02/11(月) 16:54:25.05
邪馬台国とか、そのあたりって
たとえば戦国時代とか幕末みたいに、ちゃんと歴史観がないものだから
巷の書店なんかでも、トンデモ説のオンパレード。
署名な作家とかなんかでも、平気でトンデモ説をぶちまけまくるし
もうむちゃくちゃw
745日本@名無史さん:2013/02/11(月) 17:15:13.97
邪馬台国って人気あるよね
考えるのが楽しいんだろうね
畿内と九州とか気性が激しい人が多そうだし喧嘩みたいになって盛り上がるし
746日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:00:49.40
>>745
いや気性が激しい云々以前に、近畿説のキチガイ振りにいつも触れてたら
普通の人間なら怒りが湧くよw
747日本@名無史さん:2013/02/11(月) 18:23:44.27
まあ、近畿説は理論も何もないから気の毒な連中だという程度にしか思わないがね。
748日本@名無史さん:2013/02/11(月) 20:41:00.32
で、九州説は候補地決まったのかな?
749日本@名無史さん:2013/02/11(月) 20:52:53.61
箸墓掘ってる連中が、卑弥呼云々とリップサービスをする度に、
ぷち祭になっては、消滅することの繰り返し。

掘っ立て柱に、ももの種に、魚の骨、までは覚えてる。
750日本@名無史さん:2013/02/11(月) 20:53:15.79
>>748
とりあえず >>496 を有力推薦中。
751日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:04:12.93
>>749
物干し柱に台所53か、卑弥呼も所帯じみちゃったなあ
752日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:04:33.48
やっぱり南の方だろうな。
最大限北でも筑後山門まで。
753日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:06:48.07
>>750
なるほど興味ぶかい
私は畿内リードかと考えるが日向の地も興味ある
754日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:10:08.71
他説のことを必死にドキュソよばわりするのって
九州説論者のほうが多い。
とにかく、九州説論者は必死すぎる。

畿内説論者は自分の考えを淡々と述べるだけって感じ。
他説がどうのこうのとか興味ない。
755卑弥呼は満州にいた:2013/02/11(月) 21:13:05.34
伊都国は日向だから宮崎説は消えてるよ。
九州説は全部終了。

興味ある人は卑弥呼スレを見てみよう!
756日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:19:12.45
>>754

必死なあなたは九州説ですか?
757日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:26:11.22
>>755
末廬國から断りもなく公里に変えて末廬國から放射。
東南に公里百里で奴國、東に公里百里で不彌国、
東南に公里五百里で伊都國、南に水行二十日で投馬國。
九州に収まるのはこれだけで邪馬壹國は畿内になっちゃうね。
758日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:28:15.63
>>756
九州説、畿内説がどうのこうのに興味ないよ、もう。
それよりも次のステージに興味ある。
むろん、畿内説というか、邪馬台国=大和国前提でな。
759日本@名無史さん:2013/02/11(月) 21:37:16.78
<新九州説・女王之都>
天岩戸神社
http://takachiho-kanko.info/sightseeing/detail.php?log=1338295932
高千穂神社
http://www.kumaya.jp/atikoti43.html 
760卑弥呼は満州にいた:2013/02/11(月) 21:46:41.44
>>758のような人のために言っておくと、
私は最近、或る重大な資料を発見した。
それは、日本の領土が、畿内説論者の想像以上に、
朝鮮半島の奥深く、もしかしたら鴨緑江以北にも及んでいたと思わせる資料だ。
私が九州説は完全な空想だと悟った一因は、この資料に気付いたことにある。
といっても特殊な資料ではなく、日本書紀と○○○である。

とにかく大和朝廷は通説よりずっと早く深く三韓の奥深くに食い込んでいたと思われるのである。
761日本@名無史さん:2013/02/11(月) 22:21:09.87
イカサマ氏の手口みたいな文章だな
762日本@名無史さん:2013/02/11(月) 22:22:52.88
>>760
こんな意見が好きだな
思うに大和朝廷とか名前のつく政権があらわれる以前は
全体に混沌としていて何処がどの領土かとかは言い表せない状態だろう
例えばローマ領にゲルマン人が流入して行くさなかの状況で
何処から何処までがゲルマンの何部族の国かなど言えないのと同じ
国と言うのは定住が完了して領土の認識が起こって
隣接する別の部族との間で境界の確認が行われて・・・・って手順で固まっていくもの
だから全ては流動的かつ輻輳的であって
色鉛筆で地図を塗り分けられる感じのものではないと思う
「日本の領土が朝鮮半島の奥深く、もしかしたら鴨緑江以北にも及んでいた」としても
同時に「大陸のある国の領土が日本列島の奥深く、もしかしたら関東にも及んでいた」可能性だって有る
いや領土と言うより、民族の分布かな
日本人が大陸の一部に出て行っている、一方で、半島人とかが日本列島の一部に入り込んでいる
という輻輳した状況もあるって事
763日本@名無史さん:2013/02/12(火) 01:14:28.73
もう、トンデモばっか。
764日本@名無史さん:2013/02/12(火) 03:43:15.08
まともな説を書いてやろうか。
魏志倭人伝にいう末蘆国(唐津)の東南500里は、鉄道唐津線沿いに進んだ佐賀平野一帯にあたる。
伊都国・奴国・不彌国はここにあり、南有明海に面していたと考えると倭人伝の記述と完全に一致する。
ここまで帯方郡から1万500里〜1万700里となる。
そしてこの南1500里〜1300里(約100km余)から女王国となる。熊本県からだろう。
その女王国の中に卑弥呼の都・邪馬台国があったという。邪馬台国までは北九州から水行十日陸行1月だ。
となれば、その場所は日向の中と考えられる。
日向はおびただしい古墳、記紀の神話など巨大勢力が存在したことを示すものがあり、まさにその巨大
勢力が邪馬台国であったと考えられる。
一方、投馬国は伊都国から南へ水行二十日、九州南端を回った様子はないから薩摩に比定できる。
765日本@名無史さん:2013/02/12(火) 06:41:33.97
なるほど、日向台国のヒムカ様か。
766卑弥呼は満州にいた:2013/02/12(火) 09:26:24.40
>>763
深夜にそんな凡説を書かれてもw

どこかの名無しがいつも書いているじゃないか、倭人伝の記載通りに進め、と。
末盧国から東南五百里といえば日向だよ。日向が伊都国なのだ。
ということは九州説は全部アウトだ。

末盧国以下の国はみんな末盧国から放射読みするのだよ。
末盧国に着いた人間は末盧国から先へは行っていないのだ。

さあ九州人は今日からキルケゴールを読もう。
「絶望とは死に至る病である」(笑)
767日本@名無史さん:2013/02/12(火) 09:47:02.61
>末盧国から東南五百里といえば日向だよ。
倭人伝の1里は80メートルぐらいだよ。そのことを忘れては駄目だ。
伊都国は佐賀市付近だね。
768日本@名無史さん:2013/02/12(火) 09:53:25.26
>>764
50000+70000戸をクリア出来ると思う?
居住可な遺跡の痕跡の目処をつけないと。
769日本@名無史さん:2013/02/12(火) 10:28:08.31
都城、宮崎平野は弥生時代の集落址がいくらでもある。
ありすぎるから、畿内の鍵・唐古みたいに大騒ぎしないだけさ。
770ピミフは満州にいた:2013/02/12(火) 12:56:32.28
九州人 短里と佐賀に しがみつく
771日本@名無史さん:2013/02/12(火) 13:04:16.55
満州人 物干しざおを 振り回す
772日本@名無史さん:2013/02/12(火) 13:20:32.14
>>748
候補地は筑紫平野のどこかでオケw
候補地が消え去った近畿よりは1億倍マシwwwww
773日本@名無史さん:2013/02/12(火) 13:23:50.04
>>747
近畿説自体が第二のゴッドハンドになりつつある。
モモソヒメ=卑弥呼説は現にそうだったし、今度は纏向でもやろうとしている。

こいつらバカが日本史を壊滅させる可能性すらある。
774日本@名無史さん:2013/02/12(火) 13:34:11.54
涙目九州説は今日も通常営業だな
775日本@名無史さん:2013/02/12(火) 13:35:03.25
後、近畿説の最大の特徴が「自己紹介」。
とにかくすぐに自己紹介が始まる。
776日本@名無史さん:2013/02/12(火) 13:41:51.44
>>774
明日からは24時間営業に拡大だ、近畿キッズにとどめ
777日本@名無史さん:2013/02/12(火) 13:52:23.19
2チャンがターゲットですか?
それとも重大な考古学的発表を学会にもっていくのかな?
778日本@名無史さん:2013/02/12(火) 14:03:21.55
金印を受けた倭の奴国が極南界(最南端)
金印出土地=志賀島
奴国王=福岡


終了。
779日本@名無史さん:2013/02/12(火) 14:11:51.86
魏志倭人伝には、「倭人は鉄鏃を使う」とあるが、福岡の460に対して、
卑弥呼時代の奈良には鉄の鏃は数個の出土例しかない。元歴博の館長もやった
佐原真(www)は、「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていない」と学会で
マジで答え、近畿圏の学者たちも流石に絶句・沈黙してしまった。
そして、モモソヒメ=卑弥呼の捏造をやった春成秀爾は、この佐原真の弟子というオチつき。

近畿説って、こんな感じw
780日本@名無史さん:2013/02/12(火) 14:17:36.26
近畿説ってホント面白い。二言三言交わすと、直ちにスイッチが入って自己紹介が始まる。
781日本@名無史さん:2013/02/12(火) 14:28:51.80
国を譲った出雲大社が今も厳かなたたずまいを見せているというのに、
天照大神に比定しようかという卑弥呼の御廟が泥田の桃カスや物干し竿では情けないではないか。
http://www.izumo-kankou.gr.jp/676
782日本@名無史さん:2013/02/12(火) 14:45:05.28
オマエらそんなに近畿説いじめるなよ。もうこれじゃ弱いものいじめだろ。
(ちょっと歴史学が壊滅するくらい別にいいだろが。)
何必死になってんの?

とか言い出すw
783日本@名無史さん:2013/02/12(火) 15:39:59.92
巻向を掘ってる連中も、卑弥呼と関係が無いことくらいわかってるだろうよ。

ただ単に飯の種に予算貰わにゃならんから、リップサービスしてるだけだ。

それを毎回真に受けて、プチ祭りになっては、消え去るだけのこと。
784日本@名無史さん:2013/02/12(火) 15:53:46.52
マキムクで重大発表!
http://d.hatena.ne.jp/emiyosiki/20130202/p3
785日本@名無史さん:2013/02/12(火) 17:08:51.76
朝鮮人は九州説じゃないと困るからな。
安定の捏造、ご都合主義だねw
786ピミフは満州にいた:2013/02/12(火) 18:54:48.03
溺れる者は短里説をも掴む
787日本@名無史さん:2013/02/12(火) 19:47:58.18
満心するもの ピラフに けっつまずく
788日本@名無史さん:2013/02/12(火) 19:52:08.96
あんびょんのふぃらふ
789ピラフなら満州園へ:2013/02/12(火) 20:37:57.47
いらっしゃいませ!
790日本@名無史さん:2013/02/12(火) 20:50:15.02
マキムクの「卑弥呼の祭殿」掘立柱建物は4世紀に掘った堀で分断されているの?
791日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:04:51.74
>>779
銅の融点は鉄の3分の2ほどで加工が容易なので九州で鉄が主流になった頃でも畿内では銅器文化だった
性能は断然鉄>銅で銅剣で鉄剣と戦おうとすれば折れたりしていた
792日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:18:03.66
満州ピラフ 満州皿に 満杯頼む!
793日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:22:04.81
掘った穴いじるナウ
794日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:36:13.32
結局、考古学的発掘や発表を座して待たなきゃいけないんだな
それでも特定は不可能に近いだろうが、当時の日本を浮かび上がらせることができるだろう
795日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:43:03.10
考古学もこれだけ恣意的な解釈がまかり通るなら信頼性はゼロだな。
素人は信じるかもしれないが、2ちゃんクラスでも信じる人はまずいない。
796日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:46:57.81
脳内論争より現実的だろw
797日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:50:23.67
融点は3分の2ほど とかって恥ずかしげもなく。。。
798日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:55:31.11
石鏃でじゅうぶん殺傷力あるから
吉野ヶ里の戦死遺体に刺さっていたのも鉄鏃でなく石鏃だったんじゃなかったかな
799日本@名無史さん:2013/02/12(火) 21:58:41.94
鍛冶はやっても精錬はまだまだ後
800日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:07:00.26
対外軍事拠点を北九州に置いていたとしたら
防衛に優れた都を畿内に置いていたとしたら
とも考えられるな
801日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:16:30.70
長年の酷使じゃ磐井もそりゃ怒るわな
802日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:23:38.83
磐井は意味深なセリフ言ってたらしいし
風土記は磐井の書き方が少し違う
803日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:39:40.13
遠方からの支配なんて当時の日本人では不可能だろう
804日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:43:36.29
>>783
分かって無いみたいだけどw
805日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:50:46.30
>>800
近畿説はこのレベルだそうです。
空想が学問だそうです。
806日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:51:17.60
三棟が整然と並んでそのうちひとつは238u
こんな遺跡は日本中で纒向しかありませんよ
807日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:54:49.28
今度は長屋が出たから邪馬台国ですか?
808日本@名無史さん:2013/02/12(火) 22:58:18.20
>>805
別に畿内説支持者じゃないんだが…
てかこの論争のほとんどは空想じゃないのか?
809日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:01:51.79
>>807
長屋すら出ない九州説
810日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:06:20.73
九州説は空想ではないよ。倭人伝どおりの行程で、倭人伝に沿った遺跡、遺物を出している。
811日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:10:06.32
倭人伝パズルではエジプトまで比定できるからな
まあ向こう300年はいじって遊べそうだね
812日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:13:12.61
九州説はファンタジーなんです。
813日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:21:51.68
外国の信憑性不明な史書に頼らず、発掘調査で当時の日本を浮かび上がらせればいい
邪馬台国にこだわらずにだ
814日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:23:51.71
そう言えば、畿内の古墳は九州勢力が造ったということが分かってきたな。
815日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:28:15.10
奴隷として?
816日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:30:20.09
湖のほとりの畿内でもとくに遅れた地域にぴんぽいんとあててからに

なんかでてくれば文献使って説明したがるこんじょうのが駄目。

半島とのかかわりは丹後半島あたりのが窓口にきまるのにさ。
817日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:32:33.82
おそらくは畿内の人々を奴隷として使ってだ
818日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:32:47.67
九州からの移民のおひとは鉄製の鏃とか持ってるから怖いよね。
819日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:39:54.31
本州の人々は、武器を持たず、銅鐸祭祀で方策を祈る農民たちだった。そこへ、九州
の鉄製武器を携えた、倭国乱で鍛えられた職業軍人集団が乗り込んできたんだ。
どうしようもなかったろうな。
820日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:40:08.80
罪無く奴隷にすることはない
捕虜、犯罪者を奴婢にしていた・・・と思う
821日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:42:25.54
九州からの移民のおひとは数が少なかったから

一気にやっつけられたりできなくって

僻地にこもってじわじわ成長していったんだよね。
822日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:45:54.83
九州のお人なんて畿内に来た形跡が殆どないのにw
823日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:47:01.26
言っておくが、最初に大和に入ったのは物部氏の祖である饒速日命。
次が神武天皇。
824日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:47:28.69
後の時代に畿内による九州への武力侵攻があったのは確実だが、
前の時代に九州による畿内への武力侵攻があったかどうかは不明です。
825日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:50:27.83
奈良盆地に古墳等を作ったのは讃岐や阿波からの集団だよ。
九州説の連中は無知なのに夢想するから
考古学的には矛盾した事しか言えないんだろう。
826日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:52:25.39
>>825
だって、皇室の歴史書の古事記・日本書紀には九州からやってきたって
書いてあるもん。
827日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:52:32.40
九州が畿内に武力侵攻というのは、なかったでしょう。
神武東征みたいなのがあったとしても、
実際には何世代もかかって、実質は瀬戸内海勢力が
動いていたのでは。
828日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:55:22.28
正始八年(247)の終わりの方で

倭王だったくせに失脚させられたぽいお人がおる。

記によると、失脚させられたぽいくせに皇位は続くみたいので、

「戊寅年十二月崩」だから、これは258年のことになる。

失脚したくせに皇位は続くのは、どっかに追放されてきのこったぽいだろ。
829日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:56:37.45
九州勢力は畿内勢力とはあまり関係がなく、
九州からはじき出された勢力が、
隙間を見つけて、当時人の少なかったところにもぐりこむ程度では?
830日本@名無史さん:2013/02/12(火) 23:59:53.14
古墳が隼人の盾で守られていたことを知らんみたいだな。
831日本@名無史さん:2013/02/13(水) 00:00:19.99
>>808
オマエの頭の中では空想だよw
832日本@名無史さん:2013/02/13(水) 00:00:37.33
>>826
まともに読んでないだろ。
神武軍は直接武力対決では生駒を超えれないで
河内湖でボロボロにされてる。

大和入りするのも謀略を繰り返して宇陀辺りの連中を仲間にしてるし。
また実質大和を治めるのは阿波辺りで合流する、
ウズヒコという海人の長。
九州からの移民なんて皆無だから。
833日本@名無史さん:2013/02/13(水) 00:02:10.28
正始八年(247)の政変で崇~が追放刑喰らって移住とかしていたら

御肇國天皇とかよく理解できるし、

墓制とかの繋がりなんかも理解しやすくなるかとはおもふよ。
834日本@名無史さん:2013/02/13(水) 00:02:47.23
>>812
自己紹介乙w
835日本@名無史さん:2013/02/13(水) 00:04:17.91
>>826
多分、神武だけが招待されて行ったんだと思われ。
東征も東遷も、まず無い。
836日本@名無史さん:2013/02/13(水) 00:04:57.38
御真木入日子印恵命

「御真木」に入植した酋長ではんこもろた「印恵」おひとね
837日本@名無史さん:2013/02/13(水) 00:06:48.39
「御真木」てえのは

「彌馬岐」だろね 「彌馬」の出店さ
838日本@名無史さん:2013/02/13(水) 01:24:47.11
最近は行程パズル発表会開催しないの?
839日本@名無史さん:2013/02/13(水) 01:29:08.00
行程パズルはもうやり尽くして秋田
840日本@名無史さん:2013/02/13(水) 01:39:34.31
途中で説明がつかなくなっておしまいよ。
841日本@名無史さん:2013/02/13(水) 01:46:42.65
狗奴国、投馬国、邪馬台国を全て九州内に持って来るのは難しい・・
842日本@名無史さん:2013/02/13(水) 03:09:06.63
地方名に歴史が残っているのはみなさんご存知かと思いますが
九州のをそのまま持って行ったのが大和朝廷です
843日本@名無史さん:2013/02/13(水) 07:06:55.23
>>842
まだこんな安本の捏造を信じてる情弱いるのか。
逆の可能性は考えないのかね?前方後円墳は畿内が先なのに。
844日本@名無史さん:2013/02/13(水) 07:41:42.50
福岡も博多も後から付けたのがわかってるのになw
845ピミフは満州にいた:2013/02/13(水) 09:11:38.54
延々と 駄論が続く 2ch

陳寿が日向国を伊都国と思っていたことは間違いないのである。
と同様に、沖縄を邪馬台国と思っていたのである。
で、その沖縄だと思われていた邪馬台国が実際は何処かといえば、
距離から考えて、大和と見なすしかないのである。

なんで九州人はこんなことが分からないのか。
846日本@名無史さん:2013/02/13(水) 09:19:56.20
短里説 満州が読めば 満里説 合わないような 合うような (陳
847ピミフは満州にいた:2013/02/13(水) 09:27:10.46
(陳 とは 電子レンジの音かと 誰か云ひ
848日本@名無史さん:2013/02/13(水) 09:58:09.57
>狗奴国、投馬国、邪馬台国を全て九州内に持って来るのは難しい・・
何も難しいことはない。狗奴国なんぞしょせん小国だ。
849日本@名無史さん:2013/02/13(水) 10:11:33.73
近畿説 喉に掛った 桃の種 狗奴国投馬国で 挽回謀る (陳〜ん  
850日本@名無史さん:2013/02/13(水) 10:18:35.20
>>848
倭人伝を読め。戸数を無視するなよw
851日本@名無史さん:2013/02/13(水) 10:27:38.26
南九州は広いな、北九州の五倍はある、今でも人間より牛馬が多い
852日本@名無史さん:2013/02/13(水) 10:37:30.91
>>850
倭人伝を読んだらどうだと言うのかな? 邪馬台国7万、投馬国5万、狗奴国は
戸数は書いてないね。邪馬台国、投馬国は今の県一つよりは広い領域だったかとは
思うがね。
853日本@名無史さん:2013/02/13(水) 11:29:46.90
>>850
九州は広い、関東なら全関東+福島県+新潟県ぐらい、関西なら全近畿+愛知県+三重県くらいある

邪馬台国は熊本県、投馬国は宮崎県、狗奴国は鹿児島県、
その他は大分〜福岡〜佐賀〜長崎で十分入るだろう。
854日本@名無史さん:2013/02/13(水) 11:34:27.68
アホ、現状は七万戸でも九州は一杯だわw
まず最低でも弥生期に居住跡のある、吉野ヶ里級遺跡が
10個以上九州内で確認されてから妄想しろよ。
855日本@名無史さん:2013/02/13(水) 11:49:15.79
確認されていないものは存在しないというわけだな、それこそKK妄想論者
公共工事も少ない、金も乏しいから掘れていないだけだわい
そっちの金まわしてよこせww
856日本@名無史さん:2013/02/13(水) 11:54:55.42
>>854
アホかね。遺跡は今の人が住んでいるところではよほどのことがない限り見つからんよ。
吉野ヶ里クラスの集落はあのあたりだけでもゴロゴロしていたと考古学者が言ってるだ
ろうが。九州全体ならば何十、何百とあったろうよ。
857日本@名無史さん:2013/02/13(水) 12:25:01.65
見発掘?新幹線も高速もバンバン作ってる九州がよく言うわw
四国に出雲、奈良盆地の南部なんて全く手付かずだよ。

高知も少し掘ったら弥生期最大級の田村遺跡が出て来たしな。
淡路島も最大級の鉄器工房とかね。

いい加減九州から離れるないと置いてけぼりだなw
858日本@名無史さん:2013/02/13(水) 12:32:58.74
学習能力がないね。高知に弥生最大級の遺跡がでたということは、全国どこにでも
その程度の集落があったということだ。
859日本@名無史さん:2013/02/13(水) 12:35:29.67
九州なんて開発もそうだが炭坑もあってバンバン掘ってたじゃないか。
地下鉄もあるんだし、四国や山陰なんて未だディーゼルが主力で走ってるよ。
860日本@名無史さん:2013/02/13(水) 12:39:47.07
>>858
でもあっちは物部に海部という重要な集落、
それに丹山もあるしな。
こればかりは推測じゃ説明出来ないよ。
861日本@名無史さん:2013/02/13(水) 12:45:50.87
>>857
どうぞどうぞ、九州からもこのスレからも思いっきり離れてくれ、すっきりするわ。
離れれば離れるほど、卑弥呼と邪馬台国から遠ざかるけどなwww
862ピミフは満州にいた:2013/02/13(水) 12:55:20.27
丹といえば伊勢だよ。
どこかのブログで読んだぞ。
863日本@名無史さん:2013/02/13(水) 12:56:52.36
しかし、それにしても奈良盆地からは弥生時代の遺跡がでないね。
鍵・唐古だけじゃどうしようもなかろ。
864日本@名無史さん:2013/02/13(水) 13:02:39.86
>>861
で、九州説は20年以上前の糞本や資料を頼りに、
やる事ないからまた行程パズルに精をだすと。
時間の無駄遣いも甚だしいなw
865日本@名無史さん:2013/02/13(水) 13:17:06.76
>>864
伊都だから糸島なんちゃって、古だぬき黄泉の古九州説や古近畿説はオワタ。
NHKも、朝日も、毎日も、読売も、サンケイもオワタ。
末蘆国の東南五百里は、小学生が読んでも、中学生が読んでも佐賀平野だ。
伊都国、奴国、不彌国は佐賀平野〜にあったのだ。
866日本@名無史さん:2013/02/13(水) 13:43:28.61
一人くらい四国説を唱える学者センセーはおらんのでしょうか
盛り上げることが必要
盛り上げれば発掘予算や遺跡保存にお金が来やすい
巻向だってふるさと納税とかから一部捻出しているそうじゃないですか
867日本@名無史さん:2013/02/13(水) 13:50:55.88
>>864
九州でもめぼしい遺物はけっこう見つかっているが、畿内説のように
マスコミと結託して味噌もクソも卑弥呼だ、邪馬台国だと言うことはないから、
注意深く見つけなくてはならない。まあ、近畿地方は邪馬台国に関しては
クソだらけという人もいるが…。
868日本@名無史さん:2013/02/13(水) 13:58:48.56
そーゆー姑息なことをやらかすから、国に足元をみられるんじゃよ
2説あるということは、どちらか一つは完全誤りということだろ、信用を失うもと
天網隗かい、邪の道は蛇、うらでしっかりチェック・仕分けされとるのに気付かない

そんなことより近畿勢は、古代奈良の大和王朝成立をしっかりやれ
たかが千数百年前の鬼道の魔女ごときに感けて邪馬台国にのめり込み、
その何十倍もの巨大な国家的課題を放り出すからおかしくなるんじゃ
869日本@名無史さん:2013/02/13(水) 14:00:54.22
おっと 868は → 866へ
870日本@名無史さん:2013/02/13(水) 14:35:32.59
>>867
アホ、元々メディアを最大限に利用してるのは九州説だろ。
映画に小説、はてはJR九州のように社歌にまでw
871日本@名無史さん:2013/02/13(水) 14:40:40.86
>>865
末廬国の位置自体が間違いだね、千余里の位置ではない。
872日本@名無史さん:2013/02/13(水) 14:46:15.40
>>870
どう見ても九州なんだからいいだろ、たかが魔女のことでひがむな、それともストーカーかww

>>871
呼子とまちがえてないか?
873日本@名無史さん:2013/02/13(水) 15:09:15.90
>>872
君は重症ですよw
九州説なんてもはや何も証拠がないのに、まるでカルトだな。
874日本@名無史さん:2013/02/13(水) 15:14:52.17
>>868
その大和王朝の成立には、瀬戸内辺りとの関連性が深い
というのが最近の考古学での動向ですよ。
石野さん辺りは早くから徳島辺りには注目してるはず。
875日本@名無史さん:2013/02/13(水) 16:21:57.43
>>868
畿内説では大和朝廷の成立過程を説明することは出来ない。
876日本@名無史さん:2013/02/13(水) 16:35:07.65
マキムクの前方後円墳は応神天皇(ホムタワケ)が半島で戦死した者を弔うために作らせた古墳で、
半島から連れてきた技術者を含む渡来人や帰還兵達が造営にあたった。模型は高句麗の積石塚である。
877日本@名無史さん:2013/02/13(水) 16:38:52.58
>>875
九州説ではもっと無理だろw
878唐松山 ◆V0F34EbmQA :2013/02/13(水) 16:41:08.78
>畿内説では大和朝廷の成立過程を説明することは出来ない。

崇神天皇 189年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。後漢193年冷夏飢饉。
唐古、鍵 弥生後期後半(大和第Y−3)に大量の土器の投棄をもって、大半の環濠は埋没する。異族多帰は、各地の土器。
209年新羅本紀、加羅に援軍=任那建国。3国遺事=541年時点で建国330年。ホツマ崇神58年ツノガアラシト
216年 任那からの朝貢≒庄内式土器のはじまり
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳=楽浪鏡(公孫氏の鏡)、鉄器、半島式木郭墓、
に田道間守の殉葬。チガヤ・スゲカヤは植物学的に同一、茅原、菅原は漢字の違いのみ。
239年 景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に、土を盛り平す(ひ=乾く、しろ=ならす)日代宮。
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。遠国をまとめる為、魏の政治手法「屯倉」導入。
250年ころ 庄内式土器(纒向3類)が北部九州へ持ち込まれる(九州遠征)
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大和は伊都国に勅使の如きを置き、女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
仲哀天皇 266年〜274年 ≒0章 273年日食(神功元年に注入)一大率を渡海させる。
神功皇后 275年〜343年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山。誉田御廟山までは110年。
326年 神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午
応神天皇 344年〜384年  百済本紀とは、46年の誤差がある。
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。

この数字を百済本紀で説明することはできない。
だから、この数字(百済本紀)上に九州邪馬台国が来るが、考古学の数字とはあわない。
879日本@名無史さん:2013/02/13(水) 16:41:10.33
>>877
東遷説だったら、記紀のとおりでまったく問題なし。
神武東征から大和朝廷は始まる。
880日本@名無史さん:2013/02/13(水) 16:50:04.23
>>879
知らないなら教えてあ・げ・る
あれは紀元前の話だよ。
881日本@名無史さん:2013/02/13(水) 17:00:17.74
ホムタワケは半島に兵を送って百済、新羅を属国とし高句麗を侵略した。しかし、4世紀末から高句麗の
反撃が強まり撤退した。倭軍の撤退により高句麗が半島南部まで進出した。そこで、ホムタワケは本拠を
北部九州から近畿へ移した。そして、半島での戦死者の霊を鎮めるために古墳を造営するとともに、農地
の開発を行ったのである。この事業は多くの渡来人や帰還兵達へ職と食を与えるものであった。
882日本@名無史さん:2013/02/13(水) 17:15:12.73
さあ、ここからは立証できない空論合戦が始まります
883日本@名無史さん:2013/02/13(水) 17:19:09.64
マキムクの前方後円墳はホムタワケが半島で戦死した者達の霊を慰めるために造営したものであるから
墓には遺体(骨)は無い。鏡や剣や朱や食物などのお供えを盛った土器が納められた。
884日本@名無史さん:2013/02/13(水) 17:19:33.32
応~

品陀和氣(ひなた・わけ)
大鞆和気(おおとも・わけ)

で意味わかるかなとはおもふが。。。

日向和氣(ひなた・わけ)
大友和気(おおとも・わけ)大艫,大盧
885日本@名無史さん:2013/02/13(水) 17:23:14.97
品陀腋(ひなた・わき)
大鞆腋(おおとも・わき)のほうが分かり易いかな。。。

品陀涌(ひなた・わき)
大鞆涌(おおとも・わき)でも良いかな。。。
886日本@名無史さん:2013/02/13(水) 17:53:34.13
実を言うと、ホムタワケが築造した古墳群はマキムクのものだけではない。柳本地区の崇神天皇陵とされる
前方後円墳や景行天皇陵とされる前方後円墳もそうである。もちろん、自分の墓である誉田御廟山古墳 (こ
んだごびょうやまこふん)を大阪府羽曳野市に築造している。
887ピラニアはアマゾンにいた:2013/02/13(水) 18:29:02.64
ホムタワケ 君らほどには タワケでなし
888日本@名無史さん:2013/02/13(水) 18:44:27.98
これはヒドイ…
889日本@名無史さん:2013/02/13(水) 19:54:10.70
>>874
瀬戸内でも阿波、播磨あたり。
その辺は、北部九州よりも、熊本の菊池川流域の遺跡と関連が深い。
890日本@名無史さん:2013/02/13(水) 20:21:24.61
畿内説が維持できなくなって瀬戸内などと言い出したわけだ。
しかし、所詮五十歩百歩。
891日本@名無史さん:2013/02/13(水) 20:34:00.91
畿内説と瀬戸内を勝手に絡めるなよ、瀬戸内の方もいい迷惑だわ
892日本@名無史さん:2013/02/13(水) 21:55:29.26
“卑弥呼の墓”調査を許可 宮内庁、研究者団体に
http://www.47news.jp/CN/201302/CN2013021301001912.html

なんて記事が載っているな。卑弥呼の墓ねえ…。
893日本@名無史さん:2013/02/13(水) 22:35:16.55
まず、あの人工の山に、古墳としての埋葬の主体部が有るのかどうか、確認してもらいたいねえ。
894日本@名無史さん:2013/02/14(木) 04:24:31.12
つまり、マキムクは巨大墓の建設のために各地から送られた土方の飯場ですね。
895日本@名無史さん:2013/02/14(木) 06:53:20.85
つまり九州から墓堀の為に土方が遠征したのかw
896日本@名無史さん:2013/02/14(木) 07:30:12.26
生活痕が少ない謎の遺跡ですな。
897日本@名無史さん:2013/02/14(木) 09:24:20.95
 || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
  ||    ★神戸人の特徴★      ||
  || 勘違いの度合いがハンパない   ||
  || 神戸を馬鹿にされると発狂する   ||
  || 田舎なのに都会人的なプライド   || 
  || 被差別部落数ワースト1位     Λ_Λ  テストにでまーす
  || 日本のゴミ、日本の寄生虫  \ (゜ー゜*)
  ||_____________  ⊂⊂ |
  ∧ ∧    ∧ ∧    ∧ ∧    | ̄ ̄ ̄ ̄|
  (  ∧ ∧ (   ∧ ∧ (  ∧ ∧ |      |
〜(_(  ∧ ∧ __(  ∧ ∧__(   ∧ ∧ ̄ ̄ ̄
  〜(_(  ∧ ∧_(  ∧ ∧_(   ∧ ∧  は〜い、先生。
    〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)
      〜(___ノ  〜(___ノ   〜(___ノ
898日本@名無史さん:2013/02/14(木) 10:01:53.53
古墳は東征軍の力を誇示するための看板さ。これぞ高千穂だってな。
たまたま指揮者クラスで死んだ者がいたら葬っただけ。
899日本@名無史さん:2013/02/14(木) 11:02:00.41
>>896
京都御所も生活痕はないぞ
煮炊きは内膳司か進物所でおこなって唐櫃にいれて運んでくる
900日本@名無史さん:2013/02/14(木) 11:45:19.17
卑弥呼の宮殿、実は倉庫という説も聞いたことがあるな。

ところで、箸墓は竪穴式石室かな、それとも横穴式?
901日本@名無史さん:2013/02/14(木) 12:05:13.71
すったもんだで担ぎ出され、在任中は隣と小喧嘩、死んだら死んだでまた騒動、
それにしてはモモソばあさまの墓はりっぱすぎるなあ
902日本@名無史さん:2013/02/14(木) 12:51:45.53
箸墓古墳、西殿塚古墳の航空測量図できてるんだ!
http://www.ajiko.co.jp/news/2012/hashihaka_rittaichizu.pdf
903日本@名無史さん:2013/02/14(木) 14:55:59.39
>>900
伊勢神宮も高床式倉庫そっくりだな
904日本@名無史さん:2013/02/14(木) 16:17:15.80
箸墓の石室って竪穴か横穴かもわかっていないんだな。
そんなんで年代を決めようとしていたんだな。
905日本@名無史さん:2013/02/14(木) 17:02:41.58
マキムクの先駆的墳丘墓のうち、今のところ埋葬の主体部が確認できたのはホケノ山だけ。
もしかしたら、箸墓はただの人工の山というだけでなく、墳墓と確認されるのかも知れない。
いずれにせよ、当初は労働力を利用した造山で、いつ墓にしたのかが問題だろう。
906日本@名無史さん:2013/02/14(木) 17:21:21.29
掘りくずして近道かなんかつけてるんだね。
ひどい扱いだわ。当時は墓守もいたんだろうから、ずっとのちかな。それとも未完成?
907日本@名無史さん:2013/02/14(木) 18:05:37.77
そりゃ1700年位前の遺跡だそ?
目立った古墳なんて皆一通り荒らされてるし。
何処の古墳のお宝だって大抵偶発的に発見されたのが大半だ。
908日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:35:01.48
箸墓は明治の調査では盗掘穴が確認されなかったらしい
神功陵の時みたいにハイキングで終わるなら、せめて盗掘穴の有無を再確認してほしいな
909満州ピラフ:2013/02/14(木) 19:44:32.38
ひとしきり 箸墓談議で 間を持たせ
910日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:50:44.59
箸墓なんてすれちがいそのものだし
911日本@名無史さん:2013/02/14(木) 19:54:50.19
昭和のころ、箸墓を言いだしたのは糸島出身のひと。
912日本@名無史さん:2013/02/14(木) 20:37:11.10
箸墓は崇神陵じゃないのかな?
913日本@名無史さん:2013/02/14(木) 21:02:51.28
曰く、やまのべのみちの まがりがおかのへのみささぎ
まあR169は箸墓のところで大きく曲がっているが
914日本@名無史さん:2013/02/14(木) 21:03:46.21
箸墓で 間を持たせようにも さっぱりじゃ
915日本@名無史さん:2013/02/14(木) 21:04:37.26
おお、ようやく発掘許可が降りそうか
これで大きく動くね
916日本@名無史さん:2013/02/14(木) 21:19:29.89
箸墓は第三代天皇の応神天皇の御陵でしょう
917ピミフ@満州:2013/02/14(木) 21:27:12.50
あんな巨大な古墳を造るのだから、倭の国力たるや三韓を圧倒している。
その意味で、早くから半島に進出していたと考えても良い。

しかし中国に対狗奴国の支援要請に行くとは思えない。
その後の歴史を見ても日本がそんな行動を取ったことはない。

これに反し三国はしばしば中国に泣き付いている。
とくに百済と新羅は弱腰で、中国に頼っている。
その意味で、卑弥呼の倭は、百済新羅っぽい。
918ピミフ@満州:2013/02/14(木) 21:32:46.35
九州人の考える「三世紀は九州の方が国力が上」というのは完全な空想である。
記紀のどこにもそれを思わせるような記述はない。
箸墓は紀元前築造と記紀にあるように、
大和は紀元前から巨大古墳を築造していたのである。
919日本@名無史さん:2013/02/14(木) 21:35:45.78
今夜は畿内説の影がみえんな、箸墓の掃除とかで憑かれたのかな
920日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:04:20.22
畿内説の考古学者→まさか宮内庁が立ち入りを許可するとは…。
発掘まで許可されたらえらいこっちゃ。
921日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:07:01.16
なぜ箸墓から巨大化したのか
モモソ姫はそれだけ偉大だったのか
西殿塚とセットでってことは、やはり狙いは卑弥呼なんだろうな
922日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:12:36.92
古い順に、箸墓・西殿塚・渋谷向山・行燈山 とされる
伝承と合わないのは解りきっている
923日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:19:02.04
うん、言えてるわ
924日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:21:55.52
桜井市纒向学研究センター設立記念 東京フォーラム

題名にあるフォーラムが2月10日にあったらしい。
で・にフォーラムに参加した方の感想が書かれていたので紹介します。
Aさん
よみうりホールで聴講してきました。
纒向学研究センターは昨年4月に開設され今回を第一回東京フォーラムとして「纒向出現〜纒向に卑弥呼がいたなら」の題目でした。
今回は邪馬台国近畿説が中心で来年は九州説、次は東遷説と都合3年にわたり日本の始まりをテーマにフォーラムを開催するとのことです。
プログラムはなんと10:00〜16:00丸一日の日程でした。
・・・中略・・・
挨拶、桜井市の紹介、に続いて
基調報告「纒向遺跡の特性と邪馬台国」
講演1 「ヤマトと狗奴国」
昼休み休憩を挟んで
講演2 「卑弥呼とヤマト王権ー初期前方後円墳と邪馬台国」
この後シンポジウム「纒向に卑弥呼がいたなら」
やはりシンポジウムが一番面白かった!
司会のセンター長は講師になんとか纒向は卑弥呼の都との言葉を言わせたかったようですが、「そこまで判断できる材料がないので・・・」
とか「古墳を調査するほどに卑弥呼との食い違いが出てきて・・・」とかどうも司会者の思惑とおりにはいかなかったようです(笑)
もっとも司会者は桜井市のことを慮ってのことかと思いますが、最後には司会者自身が「卑弥呼は邪馬台国の女王ではないと考えています・・・」との発言もあってハテハテこれが古代史の面白いところ(笑)

Bさん
桜井市長と同観光課・纏向学研究センターが
観光でパットしない桜井市を何とか考古学で売り出したい・・・
先ず、東京で >纏向デビュー< の願いが切々と伝わりました^^
でも・・・箸墓は掘れない・・・
   ・・・JR桜井線はどうする・・・
   ・・・あ〜ぁ** お金がない・・・
万一これらがクリア出来ても
   卑弥呼が出てこなかったら!!(恐怖!)
しかし・・・なにはともあれ
講座もオフ会も最高の盛り上がりでした!!
925日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:24:04.77
崇神天皇陵→行燈山古墳、景行天皇陵→渋谷向山古墳となっているのに、
箸墓古墳だけはいつまでも箸墓(百襲姫の墓)というわけで、特定の個人と
関連付けられているんだな。
箸中山古墳という人もいるようだが、あんまり変わらないか。
926日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:41:27.99
桜井市長も無駄な苦労してるな
図体大きくても古墳はしょせんお墓に過ぎぬ。
それより偉大なる大和王朝の成り立ちを学術的に組み立て、
合わせて世界の古代〜現代王朝を学べる学術都市に仕上げるべきださ、冷たいお墓でなく、人間をテーマにすれば成功する
927日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:45:04.82
文字資料がない以上、墓なり掘るしかないだろう
それでもわからないだろうが…
928日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:45:09.68
神を人間にする訳にはいかぬ
929日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:49:41.64
現人神の前例もあることだし・・
930日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:53:49.54
立ち入り調査だけでも考古学的にはでかい前進だな
発掘調査も許可してほしい
931日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:54:00.19
現人神は神ではなく神の子孫にして
儀式をへて神の憑依体となる
932日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:55:32.95
古墳の池部分で一回泳いでみたいよな
933日本@名無史さん:2013/02/14(木) 22:59:20.79
周溝は灌漑用水として農家の水利権が設定されているよ
宮内庁の立会いのもと秋に水を抜いて整備する
934日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:02:38.71
>>933
どうやって水はるん?
935日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:03:06.22
そうかあ、神だけにかえって現代の俗世に馴染まない面もあるわけかも、
水清くして客寄らず、我がほうの町興しも考え直さなくては・・
936日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:15:46.39
ありがたいことですじゃ
937日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:24:53.79
>>934
例えば行燈山は南東に水の引き入れ口があり、山から引いた水路で給水しています
西側の周囲の土地が下がっていき、水面が相対的に高くなるので、周囲の田んぼに給水できます
西側(前方部の鳥居のある辺り)が土手になっていて、真ん中に墳丘が無ければもろ貯水池の構造ですよ
938日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:46:19.46
>>937
そりゃ重大なことだ
つまり水田灌漑用のため池を掘ったら、土が余って困ったので古墳を作ったとも言える。
ほんとは開田がさきだったのかもしれぬ。
それが大和発展の秘密だったのか。
939日本@名無史さん:2013/02/14(木) 23:58:20.34
>>937
ほう
古墳は今は生活の役にたってるわけですね
>>938
建設当初は空堀だったらしいですよ
940日本@名無史さん:2013/02/15(金) 00:03:31.77
みつしろ古墳てのがあるんだけどそれは完全再現しちまってる
テーマパークみたいなもんよ
優雅だな、近畿の古墳は
941日本@名無史さん:2013/02/15(金) 00:06:59.71
>>939
ため池として使うには、あらかじめ水位勾配を合わせておかなくてはならない
すなわち、水源より低く、田んぼより高くなくてはならぬ
他の池も、水源、水位、水路、灌漑面積を当たってみると意外なことがわかるかもしれぬ
942日本@名無史さん:2013/02/15(金) 00:26:21.07
>>941
おお、農業事情はうといですが箸墓で溜池とは豊饒の神トヨウケ=トヨがリンクしてきそうですね
近年の炭素年代法議論抜きにしてもトヨなら時代被りそうですしね
943日本@名無史さん:2013/02/15(金) 07:10:46.61
何か知らんけど新たな展開だな
某スレは未だにアソコに上陸とか、こっちに上陸で延々ループしてんのに
944水銀厨:2013/02/15(金) 07:33:00.78
あの辺りの西の地名は、実は豊田だったりしますよ。
箸墓なら石野さん辺りはトヨの墓と主張してますね。
私も最近はその説に賛同します。

卑弥呼の墓について、実は他にも候補があります。
945日本@名無史さん:2013/02/15(金) 08:02:39.06
溜池と豊受のオヤジギャクで古代史を解明しようとする阿呆
946ピラフ@満州:2013/02/15(金) 08:19:44.69
名前のごく一部が共通するからと言って
すぐに飛びつくクセは、やめれ
(これ畿内説の悪いクセな)
947水銀厨:2013/02/15(金) 08:35:36.18
勿論名前の一致なんてごく副次的な物ですよ。
だが参考にはするべきでしょうね。
そもそもここが
箸墓に比定されたのも、
大市と云う地名やお市さんという古くからの
伝承にも根拠がありますから。
948日本@名無史さん:2013/02/15(金) 08:56:10.57
副次的じゃなくて、メインの理由だろよ
949水銀厨:2013/02/15(金) 09:10:33.54
まぁ記紀等の文献資料を照らし合わせるのには、
勿論地名は目安の一つになりますよ。
でなきゃ何を元に判断するのか?という話ですね。

奈良に限らず、その土地の伝承や地名を無視して
比定なんて出来る訳がありません。
950日本@名無史さん:2013/02/15(金) 09:16:51.54
桜井市長、桜井市教育委は犯罪人。
951日本@名無史さん:2013/02/15(金) 09:24:58.06
ヤマタイとカメイドとタヒチ
似ているから目安になる。
邪馬台国は亀戸
邪馬台国はタヒチ
亀戸はタヒチ
「でなきゃ何を元に判断するのか?という話ですね。」
低脳!
952日本@名無史さん:2013/02/15(金) 09:28:24.36
なになに古墳の周りの池の水で田んぼを潤すだと
古墳とピラフはまんざら縁がないわけじゃないんだな、はそうだったのか!
953日本@名無史さん:2013/02/15(金) 09:37:21.44
箸墓でどんなゴッドハンドを見せてくれるか、楽しみだw
954日本@名無史さん:2013/02/15(金) 09:45:32.70
桜井市長、桜井市教育委よ、尊ぶべきご先祖が記した記紀をおもちゃにしてはいかんよ
桜井市を再興するには、自分達で新たな記紀を書く覚悟が必要なのだ
955日本@名無史さん:2013/02/15(金) 09:45:51.47
九州説不利になるとゴッドハンド
956日本@名無史さん:2013/02/15(金) 09:48:42.06
>>955
ウスバカ
957日本@名無史さん:2013/02/15(金) 09:58:39.72
とうとう畿内説自滅か、
下心をもって倭人伝を語る輩は久しからず、残るは満州ピラフくらいなものかな。
さて、そろそろ佐賀平野から邪馬台国をめざすとしよう。
伊都国と邪馬台の女王は血脈相通ず、駅伝伝送の道も通ずだ。
958日本@名無史さん:2013/02/15(金) 10:05:32.54
また倭人伝行程パズル大会ですか?
959日本@名無史さん:2013/02/15(金) 11:02:34.41
>>958
お前らの語彙の貧しさにはウンザリだ。
場違いなところに出てこないでゴミ溜めに戻れウスラバカ。
960日本@名無史さん:2013/02/15(金) 11:32:19.57
いつもの佐賀君の発作かw
961日本@名無史さん:2013/02/15(金) 11:56:22.83
佐賀君の悲しい性やね…
962日本@名無史さん:2013/02/15(金) 11:58:34.24
サガのサガか、うん座布団2枚!
963水銀厨:2013/02/15(金) 12:04:20.70
古い地名を頼りにしないと、九州説の人がよくやる
行程地や30国の比定なんて全て出来ませんよね。
964日本@名無史さん:2013/02/15(金) 12:13:07.71
しかし立ち入り調査を許可した経緯はなんなんだ?
段階踏んで発掘調査もしてもらいたいもんだな
965日本@名無史さん:2013/02/15(金) 12:31:12.33
2005年には西都原のニニギ稜をレーダー調査してる。
近年そういう流れじゃないかとおもう。
http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_om/
966水銀厨:2013/02/15(金) 12:38:48.44
まぁ遷都1300年を契機に、古事記編纂も1300年と
奈良時代以前に注目が集まってるのですよ。
私の所でさえ資料提供の依頼が来たりします。

また近年巻向や茶臼山でも新たな発見があったりと、
謎めいた箸墓を色々な観点から解明したいという
機運が高まってるともいえます。
967日本@名無史さん:2013/02/15(金) 14:55:33.26
無悪善(さがなくてよからん(さががいなければいいのに))
968日本@名無史さん:2013/02/15(金) 15:05:32.12
古墳の周濠の水で田んぼを潤す
霊力を宿した銅鐸を水源の山に埋めてそこから引いた水で田んぼを潤す
同じ事か
前方後円墳は須弥山であり皿型の土器類は須弥山に降る甘露を受ける器
969日本@名無史さん:2013/02/15(金) 15:10:58.90
奈良あたりって、溜め池が必要なほど水に困ってないだろ。
970日本@名無史さん:2013/02/15(金) 15:27:05.86
>今は昔、小野篁おののたかむらという人物がいました。
>嵯峨天皇(786〜842)の時のことです。
>「無悪善」と書かれた札が、何者かにより内裏に立てられました。嵯峨天皇は、漢籍に優れている小野篁を早速呼び出しました。
>嵯峨天皇が「これを読め」と言うので、篁は答えました。「読むことは読みましょう。
>しかし畏れ多いことですので、あえて申し上げますまい。」
>それを聞いて天皇は言いました。「かまわず申せ。」
>しかたなく、篁は答えました。「さがなくてよからん」「すなわち、御君を呪い申しているのです。」
>「悪」という文字は「さが」という読みがあるので、篁は、「悪」は「嵯峨」を表していると考えたのです。

もちろん >>967 は、「悪」は「佐賀」を表していると考えたのです。
あれー、今日は座布団が足らんな!
971日本@名無史さん:2013/02/15(金) 15:45:36.28
>>969
>奈良あたりって、溜め池が必要なほど水に困ってないだろ。

溜め池の水は水田の田植え専用と思ってもよい。
水量の多い水源がないので、
溜池の水がないと一時的に多量の水が必要な田植えができない。
田植えの時だけ水不足。
田植えの時期には未だ梅雨に入っていない。
972日本@名無史さん:2013/02/15(金) 15:49:03.74
>>969
gooの航空写真で見ると、奈良盆地にはため池がとても多い。
山際にも平地にもおおい、水・土質・地形の関係か知らぬが、水に悩んできた歴史を感じるね。
973日本@名無史さん:2013/02/15(金) 16:19:09.98
来年の今頃、某スレは反省会だろうな
なんでこんな幼稚の説信じたんだって
974日本@名無史さん:2013/02/15(金) 17:28:29.54
卑弥呼の墓か 研究者が箸墓古墳調査(NHKNEWS)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130214/t10015505051000.html
975日本@名無史さん:2013/02/15(金) 18:58:35.54
これは決まってしまったな
976日本@名無史さん:2013/02/15(金) 19:08:28.37
研究員よ、せめてレーダーくらい持っていけよ
977日本@名無史さん:2013/02/15(金) 19:13:56.62
旧石器捏造の前科者どもが今度は何を捏造するかお楽しみ
978日本@名無史さん:2013/02/15(金) 19:16:38.37
箸墓古墳、西殿塚古墳の航空測量図できてますよ。
これも調査に持っていってくださいね。
http://www.ajiko.co.jp/news/2012/hashihaka_rittaichizu.pdf
979日本@名無史さん:2013/02/15(金) 19:23:39.97
無能者と嘘つきがいくら調査しても無駄だ
お笑い番組にもならない
980日本@名無史さん:2013/02/15(金) 19:55:48.56
マスコミの社外スタッフやライターみたいな感じの人も出入してカキコしてる気がする
なんとなく雰囲気ちがうもんね
981日本@名無史さん:2013/02/15(金) 20:53:55.28
畿内説の考古学者は、定説を変えるからなあ。
絶対に変えるなとは言わないが、せめて議論して、説明してから
変えろといいたい。言ったもん勝ちの世界じゃないんだから。

古墳の編年にしても、いきなり纏向型が最古級になったのには驚いた。
982日本@名無史さん:2013/02/15(金) 21:13:15.20
あれかもな、自分のとこだけ繰り上げて他はそのまんま(繰り上げたきゃ自分でやムニャムニャ)
983日本@名無史さん:2013/02/15(金) 22:34:28.10
定説といっても新たな発見一つで変わるのは仕方ないでしょ。
逆に考古学的には九州説の過去の主張なんて
もはや矛盾が多くて話にならないしな。
984日本@名無史さん:2013/02/15(金) 23:10:00.46
>>983
たとえば、倭人伝には「居處宮室樓觀、城柵嚴設」とある。
吉野ヶ里遺跡からこれらの跡が出たときに邪馬台国ではないかとも言われた。
ところが、畿内説が纏向を邪馬台国時代だと主張し、吉野ヶ里は卑弥呼時代の
前だと言った。
では、纏向から「宮室、樓觀、城柵」が出ているのかというと出ていない。
これは矛盾ではないのかな。
考古学的にも文献史学的にも吉野ヶ里が卑弥呼時代であり、纏向がその後と
考えるのが常識ではなかろうか。
985日本@名無史さん:2013/02/15(金) 23:16:40.33
畿内説に常識を求めるのは酷。原理主義の狂信者みたいなもんだから。
986日本@名無史さん:2013/02/15(金) 23:25:12.95
吉野ヶ里は発掘物から邪馬台期前だと確認できたわけだろ…
別に畿内説論じゃが決め付けたわけではない

九州説のやつらはこんなやつばっかなのか?
987日本@名無史さん:2013/02/15(金) 23:35:43.58
吉野ヶ里遺跡は紀元前から存在する集落だが、問題はいつまで存続して
いたかということ。
988日本@名無史さん:2013/02/15(金) 23:41:05.11
吉野ヶ里が邪馬台国期よりも前だなどと確認できてるか?
ウィキによると、3世紀頃には最盛期とあるな。
989日本@名無史さん:2013/02/15(金) 23:47:30.93
>>988
吉野ヶ里遺跡が3世紀に存続していたとすれば、纏向はその後になり、卑弥呼は
纏向とは関係ないことになる。
したがって畿内説の人はそんなことは書かない。恐らく、そのウィキペディアを
書いたのは九州説の人だろうな。吉野ヶ里発掘責任者の高島忠平氏とか。
990日本@名無史さん:2013/02/15(金) 23:49:42.39
高島が書くわけねーじゃん
高島の著作を参考にしてるかもしれんけどな
991日本@名無史さん:2013/02/15(金) 23:52:20.01
>>990
まあ、たとえばの話だ…。わかりやすいだろう。
992日本@名無史さん:2013/02/16(土) 00:19:11.59
今時吉野ヶ里を邪馬台国だなんていう奴は
九州説でもかなり痛い人だよw
993日本@名無史さん:2013/02/16(土) 00:21:51.22
問題なのは、吉野ヶ里ではなくて纏向の年代なんだけどな。
994日本@名無史さん:2013/02/16(土) 00:33:03.20
マキムクを3世紀始めからにしたくて、それよりも前らしい前方後方墳の
始末にえらい苦労をしているね。
995日本@名無史さん:2013/02/16(土) 00:45:11.21
つじつまの合わないことがだんだん増えていくと思われ…。
996日本@名無史さん:2013/02/16(土) 00:47:30.90
畿内説の場合は、卑弥呼の邪馬台国からどうやって大和朝廷の天皇が
芽生えていくのかを説明できない。文献の裏づけが全くないから。
997日本@名無史さん:2013/02/16(土) 01:48:50.49
>984
中国の都を知っている者が、吉野ヶ里ていどの野暮な建造物を宮室・楼かんなどと称するだろうか
例えば「車輪のついた輸送道具」という記述から、大八車を連想するか自動車を連想する程の違いがある
998日本@名無史さん:2013/02/16(土) 01:51:17.98
現在の吉野ヶ里遺跡は復元だからね。
樓觀にふさわしくないなら、復元の仕方が間違っている。
999日本@名無史さん:2013/02/16(土) 03:00:14.60
あそこよりちょっと東によったぽっぽファクトリーあたりのが盛んなところだし。

http://www.isekiwalker.com/iseki/251817/

こんなのもあるしね

http://watchizu.gsi.go.jp/oldmap25k.html?longitude=130.41861572769&latitude=33.330684030156

前後してずううううとお盛んでし
1000日本@名無史さん:2013/02/16(土) 04:18:24.24
yah matai
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