弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)の邪馬台国
銅鏡祭祀に国を譲る。これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、「和」国は分裂。卑弥呼はその最中に急死する。
-分裂した「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向↑┃ 【神武東征ルート】
...................隅国(鹿児島)
卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隅国(隼人)との三つ巴で肥後狗奴国
(後の熊襲)を滅ぼし、「和」国を再統一する。その男系祖先の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、倭(和)国の
首都を筑紫・博多から(先遣隊長ニギハヤヒが拓いた)奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷。大王に即位し、大和朝廷を樹立した。
※古事記・日本書紀が、日向投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、大和朝廷・天皇家(♂日向投馬国王♀筑紫邪馬台国女王「台与」夫妻の末裔)による系図操作。
漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)国建国の功績を消され出雲に祀られる。
-大和朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂日向(投馬国)系大王
〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王
→(高句麗の南侵に脅かされた)百済・新羅・伽耶への軍事援助で王権強大化
〔後期古墳〕近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王
-継体・安閑・宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→余磐玉穂宮(大和)〕
…継体の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君・磐井の乱」を誘発
-欽明〜♀皇極(斉明)=筑紫系大王〔飛鳥板葺宮〕
…筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々皇后に)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-天智・弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
…「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益を完全喪失。国費大消耗&大増税→「壬申の乱」へ
-天武〜♀考謙(称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京〕
…両系和解の古事記・日本書紀・各国風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-光仁・桓武〜現在=日向系天皇
…筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都
4 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 14:04:21.70
夫余に牛馬はあったしなあ、満州さん。
つ「倭地に牛馬なし」
6 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 14:14:50.65
7 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 14:18:36.59
倭とは、朝鮮でも満州でも沖縄でも台湾でもなく、日本列島だということが判ったかな?
埼玉の大宮あたりが邪馬台国説もあるけど、どうなんだろう。
アラハバキの娘が卑弥呼とも言われる。
184年頃の「倭国大乱」の痕跡があるのは、北部九州だけ!
>>9 痕跡程度のものでしょう。
他でも同じものが上がれば別。
武蔵大乱ともとれるよね、倭国大乱は。
11 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 14:32:57.48
>>9 なるほどね。
確かに纏向や、それに先立つ唐古・鍵は平和遺跡だもんな…
ヒミコの宮殿のイカメシさ(濠、城柵、高楼)の記述と整合しないし、
考古学を振り回す畿内説論者に「倭国大乱」の考古学についてどう考えているのか聞きたい揉んだ。
12 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 17:52:25.56
古墳時代の倭国の大王や、奈良時代の日本書紀の編纂者が朝鮮半島のことを「海北」と言ってるのだから、大和朝廷のルーツは北部九州で確定じゃん。
奈良時代まで朝鮮半島のことを「海北」言っていた。
これは、北部九州高天原=邪馬台国から見て、朝鮮半島が海の北にあったから「海北」と言っていたころの名残なのだ。
宋書倭国伝に引用された478年(神武東征からしばらく後)の「倭王武の上表文」には、「東は毛人、西は衆夷、渡りて海北」を征服平定したと述べている。
日本書紀には、宗像の女神(沖ノ島)は「今、海北の道中に在す」と書いてある。
海北と言えば、戦国〜江戸初期の近江出身の画家・海北友松(かいほう・ゆうしょう)は、朝鮮からの帰化人の末裔かもね。
14 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 18:06:49.35
何言っても無駄
ここでは主観と持論が全てを征す
他人の影響を受けない、持論でカチコチに固めた頭の人が多いので
15 :
サガミハラハラ:2012/12/05(水) 19:29:28.25
というわけで、邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡(サクラオカ)です。
16 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 19:48:00.97
邪馬台国は、
●2世紀後半の「倭国大乱」の痕跡
●3世紀の「環濠・城柵・高楼」の3点セット
が両方揃っている場所にあったはず。
纏向(唐古・鍵)遺跡にはそのどちらもない。
ゆえに、纏向(唐古・鍵)遺跡は邪馬台国ではない。
近江だな
18 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 22:08:21.50
いや淡海だよ
19 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 22:09:57.32
小城公園内桜ヶ岡のは サバ
20 :
サガミハラハラ:2012/12/05(水) 22:13:38.41
小城甘木の前は吉野ケ里に都がありました。240年ころに遷都したのです。
倭国大乱の痕跡、3世紀の3点セットいずれも吉野ケ里でそろっています。
邪馬台国は佐賀県で「決まり」ですね。
21 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 22:19:44.82
吉野ケ里は砦みたいなもの
あそこの本部はブリヂストンの工場の建っているあたりでし
22 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 12:54:04.01
618 :卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 19:57:57.96
おまけに私は倭人伝に書かれているのは日本のことだと前々から言っている。
そこに書かれているのは日本の地理であり日本の風俗なのである、少々南方の資料も混在しているとはいえ。
邪馬台国も大和のことなのである。
ところが後漢時代に倭と呼ばれたのは日本のことではない、と私は言っているのである。
卑弥呼の倭も五王の倭も日本のことではないと主張しているのである。
だから倭人伝の地理や風俗記事をどんなに研究しても無駄ですよ、と言っているのである。
なぜなら卑弥呼や五王の倭は日本ではないのだから。
畿内論者も九州論者も、どんなに記紀その他の文献や考古学を勉強しても無駄である。
百年研究しても無駄である。なぜなら卑弥呼や五王の倭は日本ではないのだから。
23 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 19:19:30.77
危恥害のマン臭は、完全にスレ違い。
以降、出入り禁止とします!
24 :
サガミハラハラ:2012/12/06(木) 22:55:08.01
伊都国は佐賀県多久市中小路庄集落です。
奴国は、行路上の奴国は、佐賀県肥前山口土元で、旁国の奴国は福岡県山門郡です。
なお奴はトと発音するのが正しいのです。ちなみに邪馬台国の都は、当初は佐賀県吉野ケ里でした。
240年代に佐賀県小城市甘木に遷都しました。
243年の貢献はその報告のためでした。
宮崎はどけんかせんとどですかでん
26 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 09:35:24.60
27 :
サガミハラハラ:2012/12/07(金) 14:53:44.45
水行十日陸行一月は総日数です。
投馬国への二十日は、フミの港(小城市大江)から宮崎への日数です。
陸行の一月のほとんどは韓国内陸行です。
水行十日の内、四日は海峡横断です。残りの六日は、郡山から仁川への沿岸航行の日数です。
28 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 15:26:43.74
>>27 投馬国への出発点が不弥国で、邪馬台国への出発点が帯方郡というのは
ちょっとおかしい。
29 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 16:04:16.21
そう、そう、断りもなくいきなり帯方郡からの日数など書くわけがない。
女王国までの距離については、郡より女王国に至る、万2000里とあるもんね。
30 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 17:05:46.57
伊都國は、唐津松浦川河口にあった末盧國から東南五百里の
佐賀市大和町大字久池井小字惣座にありました。
伊都國は、倭國乱の頃に邪馬壹國の圧迫を受け、
倭國王帥升の都であった吉野ヶ里から、この惣座に遷都したものです。
伊都國の名前は、倭(ゐ)の都であったことに由来しているのです。
また、伊都國にいた「世有王」は、帥升王統の歴代の王を指します。
伊都國の東南百里の奴國は、佐賀市城内になります。
不彌國は、惣座の伊都國から東行百里にある吉野ヶ里になります。
帯方郡から万二千餘里丁度の奴國と不彌國から女王國が始まります。
不彌國の南に隣接している投馬國と邪馬壹國も女王國に属します。
水行二十日は、帯方郡から投馬國の狗奴國との戦場まで船で直行する場合の距離です。
水行一日は一日行程の約千里なので、水行二十日は十日行程の約二万里になります。
水行十日陸行一月は、帯方郡から邪馬壹國の狗奴國との戦場までの距離です。
水行十日は、帯方郡から末盧國までの距離で約一万里です。
陸行一月は、末盧國から邪馬壹國の狗奴國との戦場までの陸路距離です。
陸行一月は、陸路約千里です。
31 :
サガミハラハラ:2012/12/07(金) 17:39:41.83
伊都國は行橋、というか京都郡みやこ町
33 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 19:25:56.03
高屋宮もこの地
名残として上高屋小学校というのが残ってる
その上流にあるのが高屋。
地図で確認してみればいい
34 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 19:27:23.34
×上流
○下流
35 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 19:53:32.03
韓伝と倭人伝は稀有な國國列挙とかあることからも一体のぶつ
帯方郡とゆうは倭地の取次ぎをもその業務とするような広域を管轄する支配拠点
華人の読者には広域を管轄する支配拠点の場所が何処にあるのかの理解がある
よって
異常なでかい数値がへんに登場したら
読者周知のその広域を管轄する支配拠点からだよ
とはなりがちなのだろうさ
>>31 あんた本当に元小学校教諭?
小学校の教諭なら生徒のいう事を聞くことも大事な仕事だろ?
しかしあんたは人の意見を全く聞かねーは、資料もろくすっぽ読まねーは、
反論されたらいちゃもんかましすわ、掲示板を荒らすは、
おまけに地震だ津波だで、大騒ぎの時間帯に書き込むは、
とてもまともな思考を持った人間とは思えんわ。
37 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 23:45:27.35
水行二十日、水行十日陸行1月は伊都国からの所要日数。こんな単純なことが
分からないのが大勢いるのが2チャンネルなんだな。
38 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 01:38:11.71
帯方郡から邪馬台国まで1万2000里
帯方郡7000狗邪韓国1000対馬国1000一大国1000末盧国500伊都国100奴国100不弥国
つまり帯方郡から不弥国まで、計1万700里
不弥国〜邪馬台国間は、1300里しかない
1300里は、対馬〜壱岐間に毛が生えた程度の距離
で、水行20日+陸行10日+水行1ヶ月などかかるはずがない
1300里はせいぜい1週間で航行できる。邪馬台国の日数は出鱈目。
南方ということは筑紫平野か熊本方面でありましょう
39 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 02:44:53.63
>帯方郡から邪馬台国まで1万2000里
邪馬台国まで1万2000里などとは書いてない。万二千里は、女王国までだ。
>1300里は、対馬〜壱岐間に毛が生えた程度の距離で、水行20日+陸行10日+水
>行1ヶ月などかかるはずがない
だったら、女王国と邪馬台国とはちがうと気づくべきだろう。
奴国、これ女王の境界がつきる所とあることを知らないのか?
40 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 03:24:53.76
邪馬台国は女王の都する所なりで、女王国は邪馬台国でしょ
41 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 03:28:59.90
女王国の中の女王が都する所が邪馬台国なんだよ。女王国の方が大きな概念だ。
42 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 03:40:05.44
倭国は女王国
邪馬台国は女王国の中の女王国
1万2千里先の邪馬台国は女王国でいいし
43 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 03:58:32.81
倭国は対馬国から始まる。これは帯方郡から八千里だ。
女王国は万二千里から始まる。邪馬台国、投馬国、旁国21国からなる。
邪馬台国までの里数ははっきりしないから日数で示してある。
44 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 04:11:51.49
>帯方郡から不弥国まで、計1万700里
帯方郡から不彌國までは、計1万2千里である。
帯方郡
↓7000
狗邪韓国
↓1000
対馬国400+400
↓1000
一大国300+300
↓1000
末盧国
↓500
伊都国→100→奴国
↓100
不弥国(女王國)→0→投馬國
↓0
邪馬台国
45 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 08:01:47.86
対馬国と一大国の島の周りを足したつもりだろうが、方の意味を分かってないね。
方四百里というのは、面積の表示にすぎず、四百里×四百里とは限らない。
対馬の形からすれば、その島の周りは二百里×八百里、すなわち千里になるんだよ。
46 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 08:07:09.19
対馬の面積は二百里×八百里、島の周りは二百里+八百里ということね。
47 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 08:37:20.25
邪馬台国は 九州にあった。
これは確定でしょ。
だね
49 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/08(土) 09:06:27.97
わびぬれば今はた同じ九州説 嘘をつくしても説かむとぞ思ふ
50 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 09:26:58.04
倭人伝のとおりに進めば伊都国は佐賀市付近。そこから南へ水行するのだから、
投馬国や邪馬台国は南九州に確定だよ。
51 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/08(土) 10:00:13.86
>>50 それくらいのことは初心者でも言えるよ。
そこから先にちっとも進歩しないのが九州論者だ。
倭人伝の方向記事だけを根拠にしてそんな初歩的な意見を述べているのだ。
そんな比定は、地名記事と全然符合しないのである。
52 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 10:26:11.42
ちゃんと符合しているよ。君は考えたことがないだけだろう。
邪馬台国は、奄美か沖縄
どちらも深い森にハブが生息しているので
これまでロクな考古学調査がなされてなかったけれど
近々、歴史を覆すような発見がある予定
54 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/08(土) 13:06:56.00
>>52 ではどう符合しているのか、説明してくれたまえ。
伊都国、奴国、不弥国だけでいい。
それが現実のどの地名と符合しているのか。
こんなの学問でも何でもない、ただの妄想だ。
と言われないような説明を頼む。
55 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 14:09:19.17
56 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 21:58:58.23
>>54 ふーん、予想もつかないってとこみたいだな。問題は国の広さをどう考えるかだ。
女王国は万二千里からだ。それより北の国々といえば、不彌國までの国々だな。
万二千里は熊本あたりだろう。となれば、福岡、佐賀にあった国は、末盧国、伊
都国、奴国、不彌國だけだってことよ。
君らは佐賀平野付近に伊都国や奴国に似た地名がないからいかんというのだろうが
そんなことは問題ではない。磐井の乱だ。磐井の乱の後に肥の君が肥前や筑前西部
に進出していったと考えられている。そのときに、佐賀市付近の勢力は博多湾近くへ
追っ払われたということさ。だから、博多湾あたりにやたらと関係地名が集中して
いるにすぎない。三世紀は違うんだよ。
斯馬國………下関、斯馬の関
己百支國……厚狭
伊邪國………ぃやマグチ
郡支國……… 櫛ヶ浜
彌奴國………
好古都國……岩国、厳島のイツク
不呼國………
姐奴國………
対蘇國………
蘇奴國………
呼邑國………呉、コオ→訓読み化
華奴蘇奴國…
鬼國…………岡山、鬼ヶ島
為吾國………相生
鬼奴國………
邪馬國………
躬臣國………姫路
巴利國………播磨
支惟國………紀伊
烏奴國………津、穴津=安濃津
奴國…………東海・美濃
57………低脳
57………付け加えると、蘇がついてるのは蘇州由来の家船の民のいた地域だろう
60 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/08(土) 23:22:35.17
>>56 人が移動したら地名もぞろぞろ付いていくとは初耳だw
61 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 00:11:43.88
勉強してないな。南九州、甘木周辺、そして奈良と同じような地名が並んでいるって
さんざん指摘されているだろうが。それは人の移動に伴うものだよ。
62 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 04:29:29.09
>>61 筑紫平野と奈良の地名類似は、7世紀の人の移動に伴うものだよ。
63 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 05:38:19.82
移動するなら西から東だよ
神武天皇を実在とするなら、
九州にあった地名を奈良に移植したのは、神武しかありえないのだからね
64 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 06:12:55.05
ニギハヤヒもね。
65 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 07:07:17.31
>>63 地名の移動は筑紫平野から奈良盆地へ。
地名移動を促したのは天武。
672年唐軍の博多駐留がきっかけ。
地名移動は、主に寺社の移転移設に伴う職人等の関係者の移動と思われる。
西から昇ったお日様が♪東に沈〜む♪(元祖天才バカボン)
まさに神武東征(邪馬台国東遷)を暗示しており、実に感慨深いものがある
67 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 09:11:54.96
大宰府から飛鳥への遷都は684年(朱雀元年)
68 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 09:42:36.07
そりゃヨーロッパ人がアメリカに渡ったときに故郷の地名を付けるということはある。
まったく未開拓の土地に渡った場合はそういうこともある。
しかしそれと日本の場合は別だよ。
大和には神武東遷前から人は住んでいた。地名もあった。
いちいち故郷の地名を付けたりはしない。
こんなことを書くと、ではそれを証明してみろ、と言う奴が必ず出てくるが、
地名がいつ頃どのようにして生まれたかなんて分かるわけがないのである。
九州の地名が大和に移動したなどというのも証明のしようがない。それはただの仮説である。
69 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 09:55:02.33
>>60 アメリカの地名にはイギリスから持っていったものが多いらしい。
ヨーク→ニューヨークなど。まあ、イギリス的な地名が多いことは確か。
というわけで、仮に地名の移動があったとすれば、かなり大規模な移動だった
可能性が高い。移動した人数が少なければ、現地色に染まるだろうし。
70 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 11:08:06.56
>>60 >>68-69 >大和には神武東遷前から人は住んでいた。地名もあった。
>いちいち故郷の地名を付けたりはしない。
江戸時代
大阪の佃の漁民が江戸に移り住んだ。
その漁民が住んだところも佃(島)となった。
その江戸で評判になった食べ物が大阪の魚の煮物である佃煮。
明治時代
奈良の十津川村の住民が北海道に移住した。
その北海道の地名は新十津川。
その他いろいろあり。
満州は不勉強
71 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 11:30:41.39
不勉強というか、合理的な思考ができないんだろうね。
72 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 12:28:46.26
そんなのはまったく未開拓の土地に住んだからだよ。
人が誰も住んでいない島に移ったからだ。
そんなことは反論にも何にもならないよ。
そんなことが反論になり得ると思っていること自体が○○の証拠なのだよ。
73 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 12:32:40.21
74 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 12:47:16.38
まあ、とにかく、これで朝鮮満州は少し静かになるだろう。彼は地名は移動することは
ないという説に固執するわけだ。遼東半島に朝鮮があって、それが後に朝鮮半島に移った
などとはけして言わないだろう。
75 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 12:59:56.17
>>74 君は何か勘違いをしていないか?
私は常々古朝鮮とは遼東であって、今の朝鮮半島ではない、と言ってきたのだが。
朝鮮半島の民族が国家名として朝鮮を自称するようになったのはいつかは知らないが、
それ以前の中国史書で朝鮮と書かれているのは遼東のことなのである。
三国志で朝鮮と書かれているのも遼東のことで、朝鮮の東は皆穢である、とは、
遼東の東は皆穢であるということであって、北朝鮮が穢だという意味ではない。
それを学者は単純に誤解して北朝鮮東側のことだと解釈しているのである。
76 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 13:09:57.98
地名の移動がないということは、今の朝鮮以外に朝鮮などと呼ばれた地はない
ということになるんだよ。分からんかなあ。
77 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/09(日) 13:39:56.64
地名の移動はないとは言っていない。
そう簡単にぞろぞろ動くものじゃないと言っているのだ。
日本でも、朝鮮から移り住んだと思われる人が住んでいる所は、それらしき名前が付いている。
日本人が、たとえば北海道に移植したような場合も故郷の名を付けるということがあるだろう。
また国家名などは民族の移動につれて移動する。
北夫余、東夫余、西夫余、南夫余。それぞれ移動している。
朝鮮も檀君の時代は満州全域の称であった。三韓も満州のことだったのである。
それが結局は今の朝鮮半島だけを指す言葉になってしまったのである。
それから君は三世紀には佐賀には伊都という地名は無く、
後から出来たのだなどと苦しい言い訳をしているが、
三世紀になかったのなら佐賀が伊都国と書かれるはずがないのである。
論理的に矛盾している。
78 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 15:55:10.73
満州を応援するのではないが。
>三世紀になかったのなら佐賀が伊都国と書かれるはずがないのである。
三世紀に地名がなかっても佐賀が伊都国と呼ばれる場合がある。
倭の都があった場所は倭都(ヰト)、即ち伊都(イト)と呼ばれても良い。
佐賀には倭国王帥升王統の都即ち倭都があったのである。
その倭都の跡が伊都國なのである。
「伊」とは神の意志を伝える聖職者の意
その意義からしても行程からしても、伊都は宇佐だな
80 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 17:23:48.27
すべて、意見の羅列ではなく、立証を行え。研究ならば。
81 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 18:36:38.86
82 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 19:24:08.01
「倭人字磚」ってのが中国の安徽省なんてところから出土しているけれど、
中国の沿岸からずいぶん離れたところに倭人が集団でいたと記されている事から、
邪馬台国の前身勢力は、中国沿岸部や朝鮮沿岸部までも含めて考えてもいいんじゃないかな?
83 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 19:38:53.76
>>77 >君は三世紀には佐賀には伊都という地名は無く、
>後から出来たのだなどと苦しい言い訳をしているが
誰がどこでそんな主張をしたのかな?
85 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/10(月) 08:38:37.42
>>83 よく読めば、三世紀には伊都、奴、不弥という地名は佐賀方面にあったのだが、
磐井の乱後にそれが福岡方面に移動した、と言ってるのか?
しかしそれなら伊都、奴、不弥という地名が佐賀方面にも残っていなければならないぞ。
地名移動説は九州にも大和にも同じ地名が存在するから唱えられるのである。
佐賀方面に伊都、奴、不弥という地名は存在しないのに、
なぜそれが三世紀には存在したなどと言えるのかな。
86 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 10:52:50.09
>伊都、奴、不弥という地名が佐賀方面にも残っていなければならないぞ。
少しは考えてからものを言うくせをつけた方がいい。
87 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 12:16:22.02
考えてみれば、日本中だいたい似たような地名になっているな。
一部、その地域独特のものがあるが。倶知安とか北海道にはそういうのが多い。
南九州の場合は、読み方と漢字が微妙に異なる。
たとえば、都城は、地元付近の人は「みやこんじょ」と呼ぶらしい。
88 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 12:21:18.98
そういえば、佐賀神崎の櫛田宮
福岡市の櫛田神社の本社
櫛田三柱大神
・櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)正面御座、櫛田大明神
・須佐之男命(スサノオノミコト) 東 御座、 高志大明神
・日本武命 (ヤマトタケルノミコト)西 御座、 白角折大明神
吉野ヶ里から割と近いところにある。
89 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/10(月) 12:36:00.93
>>86 お前の
>>56の投稿を読めば誰だって
>>85のように解釈するだろうが。
違うというならちゃんと説明してみろ。
いちいち人をカチンとさせるようなレスを書くな。
もっと紳士的に人と接する癖をつけろ。
90 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/10(月) 12:39:06.11
まったく
>>86の男は自分を何様だと思ってやがるのだ。
>>56のようなアホ説が通用すると思っているのか、ド低能が。
91 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/10(月) 12:44:14.82
2ch邪馬台国スレ三大名コピー
ジョーカー作
ゴミクズレベル九州説
19才作
こんなことも分らんのか
名無し作
こんなの学問でも何でもない、ただの妄想だ。
92 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 14:37:58.77
>>89 >
>>56の投稿を読めば誰だって
>>85のように解釈するだろうが。
>違うというならちゃんと説明してみろ。
私の投稿についての解釈はそれでいいよ。問題は、「しかしそれなら伊都、奴、
不弥という地名が佐賀方面にも残っていなければならないぞ。」という点だ。
そんな理屈が成立するならば、いったんあった地名、国名は全て残ってなければ
ならんということになる。しかし、地名は残る場合もある、残らない場合もある。
そんなこと常識だろうが。
どうだ、少しは自分の意見の浅はかさに気づいたかな?
>>90 くだらん言いがかりをつけておいて何のざまだ。もっと紳士的に人と
接する癖をつけろ。
93 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/11(火) 09:25:58.99
都合よく 消へてなくなる 地名かな
公平に見れば
伊都、奴、不弥という地名が佐賀方面に残っておらず
北部九州に残っている(不弥は微妙だが)ことは
いくら強弁しても説としては弱点であるだろう
ただまあそんなことを言えば
邪馬台国が満州にあったということは説以前の問題としてありえんし
それを自分でわかっていながらコテ名にしているやつは何だ
ということになるが
96 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/11(火) 12:35:14.45
邪馬台国か…。
これは大和だろうと思ってはいるが、
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮
などという官名を見ると、大和とは全然関係ないような気もするな…。
卑弥呼の倭は馬韓だろうということはかなりあり得ることである。
伊聲耆、掖邪狗らが率善中郎將を拜していて、
馬韓の官に率善とか中郎將がちゃんとあるからな。
まあ、ここの連中もうすうす気づいているが、
私に味方すると村八分にされるから黙っているのだろうなw
朝鮮くんたらまた誤読しちゃってるねえ
馬韓の辰王なるものは多産系のメスの女王様だからして
馬韓の官なるものは
多産系のメスの女王様に種付けできる血筋のパトロン酋長様たちで御座るよ
98 :
日本@名無史さん:2012/12/11(火) 17:22:57.44
>>94 地名がないよりはあった方がすっきりするだろうが、ないからと言って説として
弱いなどという問題ではない。
伊都国の比定で何よりも問題なのは、従来の通説怡土では、末盧国から陸行する
理由がない、それに方角も合わない、南への水行もできないということだよ。
倭人伝どおりに進み佐賀市付近だと考えれば、それらの疑問の全てが解決する。
しかも、南へ倭人伝どおりに進み、記紀がいう我が国の発祥地高千穂に到達する
てことだ。困るのは別の所に比定したいと考える輩のみね。
99 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/11(火) 18:19:30.69
>伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮
などという官名を見ると、大和とは全然関係ないような気もするな…。
そうだろう。卑弥呼の女王国が畿内にないからだ。九州だ。
100 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/11(火) 18:35:29.60
不弥国というのが、どうもおかしい。
馬韓と倭に同じ名前の国があるというのが、変である。
奴国が二回現れるというのもおかしい。
陳寿は資料をよく整理検討せずに載せたのだと思われる。
彌馬升、彌馬獲支。
これはやはり任那(ミマナ)を連想させる名である。
卑弥呼の倭は任那だ、と主張してもいいのだが、私がそうしないのは、
景初二年に朝貢しなければならなかった理由が見つからないからである。
その理由さえ見つかれば、卑弥呼の倭は任那か加耶だと唱えても良い。
美馬なら四国に中国地方だな。
結局邪馬台国は畿内だね。
何が「結局」だよ?
何度言われても分からない馬鹿か?
畿内説で邪馬台国が畿内にありそれが大和朝廷の祖になったみたいなストーリーがあるが
これは間違いだろ
神話にあるようにかつて九州にあった祖先が東征し築いたのが大和朝廷
その九州の勢力の中心だったのが邪馬台国
後の畿内墳墓に熊本の阿蘇溶結凝灰岩の石材をわざわざ運んで石棺にしているのは
自分たちの出自の土地阿蘇に魂を返すためであろう
104 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/13(木) 10:03:02.02
>>101 のレスを読んで実に重要なヒントを貰った。
ところで中国地方に美馬というのはあるか?
捜しても見つからなかったが。
105 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 12:20:08.49
>自分たちの出自の土地阿蘇に魂を返すためであろう
後の畿内墳墓に熊本三角の阿蘇溶結凝灰岩の赤い石材をわざわざ運んで石棺にしているのは
自分たちの出自を明らかに示すためであろう
朝鮮人には美作という地名はやっぱり読めないんだな
107 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 14:00:42.72
>>105 阿蘇の石材を石棺にしてるってことは、熊本、大分、宮崎北部にしぼられるということだね。
ヒント
中央構造線
109 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 15:16:56.59
赤=魔除けだろ。
水銀も赤いじゃん。
110 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 17:15:06.78
>>107 阿蘇の赤い石材を石棺にしてるってことは、
出自が、熊本平野、筑紫平野にしぼられるということ。
赤色の阿蘇溶結凝灰岩は熊本三角以外では殆ど産出されない。
>>109 ベンガラ朱も赤い。
ベンガラ朱は遺体の消臭剤
111 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 21:53:17.92
>>110 阿蘇溶結凝灰岩の分布図を見たけど、熊本平野、筑紫平野もだけど、大分や宮崎北部
にも分布していたよ。
熊本平野、筑紫平野のみにしぼらずに、大分や宮崎北部の可能性も残した方がいいんじゃないかな。
阿蘇では赤色の土が採れるんだよね
名前忘れたけど
水銀朱の代わりに顔や身体に塗るのは想像出来る
倭人伝の火山やそのあたりの記述からみれば
阿蘇を見渡す平野は熊本平野しかないよ
思い出した阿蘇産出の赤土はリモナイトだ
多分これが邪馬台国の朱の原料かと思う
114 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/13(木) 23:32:07.32
以朱丹塗其身體 如中國用粉也
こんなのは南洋の土人の風俗である。
日本の風俗ではない。九州の風俗でもない。
♪ わたしのォ〜 ラバさん〜 酋長のォ〜 娘〜 色は〜 黒いが〜 南洋じゃァ美人〜
赤道ォ〜 直下ァ〜 マーシャル半島ォ〜 椰子のォ〜 葉陰で〜 テクテク踊るゥ〜
踊れェ〜 踊れ〜 踊らぬゥ 人にィ〜 だれが〜 お嫁に〜 ゆくゥ〜 ものか〜
116 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 23:49:03.70
>>111 大分や宮崎北部は、赤色の阿蘇溶結凝灰岩の産出地ではないよ。
長崎でも産出するが。
>>112-113 リモナイトは黄色。
焼いて部分脱水酸化すると赤色のベンガラになる。
なお、リモナイトの産出地は阿蘇カルデラだけでない。
菊池、筑豊でも産出する。
117 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 23:51:25.91
>>113 リモナイト(渇鉄鉱)を焼くとベンガラが出来る。
ベンガラは全くの無害なので体に塗ることも出来る。
>>114 九州はスンダランドから北上してきた海洋民族の名残があるよ
鹿児島の遺跡から出た石器やらはインドネシアから出た石器と類似している
天草には海洋民族の遺跡らしきドルメンもある
古事記の日向神話も明らかに海洋民族との交わりを顕している
南方系の風習があっても何も不思議ではない
天草にあるドルメンらしき巨石群の中には鮫のヒエログリフが彫られたものがあるらしい
古事記の日向神話にも天孫の血統に鮫が入っているよね
鮫を戴いた一族が熊本の天草から鹿児島周辺に勢力を持っていた可能性がある
古事記記載の海幸山幸の話は鹿児島周辺だよね
大和朝廷が邪馬台国の末裔なら古事記に描かれた神話が邪馬台国に重なって見える
阿蘇と高千穂は近接している
阿蘇を見はるかす平野から海洋民族のいる海に臨む土地
中央構造線を通るレイライン
天草のドルメンはその終着点にあたる
邪馬台国の舞台の平野は熊本平野あたりでは無かろうか
120 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 07:19:37.80
神武東遷は空想
邪馬台国は九州
大和朝廷は近畿
両者は元々は別々の国
大和朝廷が全国統一する過程で、
邪馬台国他の国々も滅びた
蝦夷や熊襲も同じ
というのが、一番自然だろう
121 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 10:22:24.05
神武の東遷はなかったが東侵はあった。
2世紀の前半に、九州から瀬戸内海を東に移住する武装難民団は
何次にもわたり繰り返された。
その幾つかを組み合わせたものが神武の東侵としてひとつの伝承となったのだ。
神武の武装難民集団は、帥升に滅ぼされた倭奴國王統の一派である。
漁労民でもある彼らの難民放浪途上に日向で産まれたのが神武なのだ。
>>120 なら何故大和朝廷が九州での神話を持っている?
388 名前:無党派さん[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 12:23:45.94 ID:8XEDPTxF
/´⌒⌒\
/ \
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i / ━ |/|/━ ! | ルーピー橋下
!/ (・ ) ( ・)i/
| u (__人_) | 投票まであと1週間か
_\ ∩ノ ⊃ / 巻き返しできるかな?
( \ / _ノ | |
.\ “ /__| |
\ /___ /
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i / ━ |/|/━ | / ⌒ ⌒ ヽ )
!/ (・ ) ( ・)i!゙ (・ )` ´( ・) i/
| (__人_) || (_人__) |
,-、 \ `ー' /\ `ー' /_
/ ノ/ ̄/ ` ー ─ '/>< ` ー─ '┌、 ヽ ヽ,
/ L_  ̄ / _l__( { r-、 .ト
_,,二) / 〔― ‐} Ll | l) )
>_,フ / ルーピー }二 コ\ Li‐'
私たちに一度やらせてみてください
124 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 11:36:23.04
神武東遷は史実を繁栄した物語。つまり、大和朝廷の期限は南九州にあるのだよ。
ただ、本当に南九州から奈良に都を遷したのは、そんなに古い時代のことではない。
南九州に都を置いて九州を統一した後、本州を植民地とし、畿内に物流センターを
おいたんだね。そこは、東国経営の拠点でもあった。だから、大王の息子とかが
畿内のトップとして赴任してきていたんだろう。そのまま畿内で亡くなった奴も
少なからずいた、それが「僻地で死んでしまうとは可哀想に」ってことででかい墓に葬
られたってことだね。
125 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 12:02:26.74
日本の王権シンボルは鏡である。
その発祥の地=高天原邪馬台国は北部九州なのだ。
卑弥呼・台与=アマテラスから鏡を授かった豪族は多数あるが、その一つがニニギ族。
それが、中国南部からの渡来人と合流して勢力を拡大した。
しかし、高天原との関係が悪くなり、神武の時代に西側へ新天地を求め移住して行き、ついに独立国を畿内に作ったのだ。
126 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 12:12:20.46
大きな古墳が出来る時代は激動の時代と言える。
平和で穏やかな時代は、それぞれが自分の仕事を持っているから大規模な
土木事業をやれる機会は少ない。
しかし、戦争が多発し、征服・被征服が頻繁に行われると、非征服民に
服従の証として大土木事業をやらせるという仕組みができる。
だから、天皇の権威が強くなる7世紀8世紀になると逆に古墳は小さくなると
いう傾向になる。
127 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 12:21:11.61
だから、近畿地方に突然、巨大古墳が出現するのも東征の根拠の一つと言える。
128 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/14(金) 12:26:29.76
そんなの学問でも何でもない。ただの空想だ。
129 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/14(金) 12:27:44.43
空想の 花が咲くなり 2ch
130 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 12:32:26.48
>>128 東征した勢力が、周辺の人々に服従の証として古墳を作らせた。
立派な根拠になりえるだろう。
巨大古墳が作られた理由としてもっと説得力のあるものがあるかな?
>>122 古事記にある神話は高天原系の神が出雲系の神を征服した経緯が描かれている
征服したものが征服された側の神話を利用したわけでもない
つまり大和朝廷の起源は高天原系の神であるといえる
そうでなければ九州に降り立ち東征するまでの物語など削除され伝えられてはいないはずだろう
古事記は自らの出自を誇りとした一族の神話であり
その出自とは高千穂のある阿蘇一帯から日向そして鹿児島である
ウガヤフキアエズノミコト(神武天皇)の父と叔父の山幸海幸の話
海幸の子孫が鹿児島の隼人という神話が描かれていること
神武天皇の母の豊玉姫が海神の娘であったことを見れば
高千穂に光臨した天孫とされる阿蘇一帯の山の民と
鹿児島一帯の海の民が結ばれた、中九州から南九州の広範囲にわたる版図が見えてくる
神代3代の墓が霧島・鹿児島・鵜戸と南九州にあるのもその裏づけだろう
おそらくこの「九州王朝」は交易のある連合国家のようなものであったのではなかろうか
中には交易を結ばず敵対する国もあっただろうが
さて魏志倭人伝の邪馬壱國に比すれば
いわゆるこの交易により結ばれた連合国家のうちの一つが邪馬台国であったのではなかろうか
邪馬台国も大和朝廷の祖も九州である可能性が高い
九州のどこかに火山の見える平野のどこかに邪馬台国は眠っているに違いない
132 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 15:45:36.78
北朝鮮の様な独裁国家が成立し、
その権力を領民及び近辺の国々に知らしめる為に、
巨大古墳が作られた。
一番大きなメリットは近隣他国の侵攻を未然に止めること。
巨大古墳築造に伴う一番の被害者はその領民。
133 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/14(金) 18:55:26.34
>神代3代の墓
そんなものがあるわけがない。
>巨大古墳築造に伴う一番の被害者はその領民
現代の感覚で捉えてはいけない。
民衆が喜んで王のために古墳築造に参加したということも十分考えられる。
君らは何もかも現代の感覚で捉えすぎる。
古代の王は武力で統治したのではないのだ。
王とは偉大な指導者だったのである。
>>133 宮内庁管轄の神代3代の御陵あるよ
無知は恥ずかしいことだね
>>133 こんなバカが偉そうに満州だのほざいてんのかw
噴飯ものだなw
136 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 20:40:10.31
>>巨大古墳築造に伴う一番の被害者はその領民
>現代の感覚で捉えてはいけない。
>民衆が喜んで王のために古墳築造に参加したということも十分考えられる。
それじゃ現代の北朝鮮と全く同じ状況。
137 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 20:42:09.16
>>131 倭人伝には邪馬壱国(やまい・やまいち)なんて出てこないよ。
邪馬壹国(やまと)だよ。
邪馬壹を上古音で読めば、イヤマアルエツトウ。
すなわち、ヤマトと聞こえる。
邪馬壱国はなかった。
138 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 21:33:07.18
>>133 それを言うなら日向三代。神代三山陵とも言うらしいが。
瓊瓊杵尊が可愛山陵「えのやまのみささぎ」。(薩摩川内市)
彦火火出見尊(山幸彦)が高屋山上陵。(霧島市溝辺町)
鵜葺草葺不合命が吾平山上陵(鹿屋市吾平町)
全部、鹿児島県なのは定まったのが明治時代なので、薩摩藩閥の政治力に
よるというのがもっぱら。
宮崎県にも候補地はあったが、結局、定められなかった。
しかし、それぞれ陵墓参考地になっている。
可愛山陵伝承地(東臼杵郡北側町)、高屋山陵(西都市)、鵜戸陵墓参考地(日南市)
などがある。
139 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/14(金) 22:38:12.23
>>134-136 こういう連中をアホというのである。
神代というのは何万年も前なのだから、
陵などが残っているはずはないのである。
また古代が現代と同じだと思っている阿呆ぶりである。
どんなに勉強してもこの程度なのだから呆れるw
常連が阿呆揃いである。
140 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 22:46:33.26
半島北部東岸のくみゃから丹後半島とかのルートは旧石器時代から機能しておっただろ
141 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/14(金) 22:58:11.73
古代史を学ぶということは、単なる謎解きではないのである。
神武が武力で大和を制圧したとか、人民を酷使して古墳を築造したとか、
そんなことしか想像できないようでは古代史を学ぶ意味がない。
142 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 23:37:21.45
もっと面白く書け
>卑弥呼は満州にいた
146 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 02:09:16.37
偽書依存症の精神異常者@マン臭よ。
何万年も前に、矛剣鏡、田んぼがあるわけないだろ。
神代=弥生時代だぞ。
山陵の意味もわからないとか日本人じゃないだろ
148 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/15(土) 09:59:35.06
神代のことを語るにも当時の知識で語るしかないのである。
だから矛剣鏡や田を持ち出して語るしかない。
ごく常識的に考えれば神代とは矛剣鏡も田も無かった時代であることは当たり前だ。
神話に縄文時代や弥生時代の文物が出てくるからといって、
それが縄文時代や弥生時代のことだと思ってはいけないのである。
もちろん弥生時代の文物が出てくるから弥生時代のことだろうと解釈するのは構わない。
学者や作家の中にはそのように解釈する人もいる。
ニニギがどこかの山陵に葬られたという記事があったはずだから、
実際は紀元一万年前以後のことかもしれないのだが、
はたしてそういう記事を信じていいものやら。
なにしろニニギの降臨は179万年前とされているのである。
天照は筑紫で生まれたことになってはいるが、
そういうのを信じていない学者もいると思われる。
君らの中にも疑っている人はいるだろう。
そもそも神話だから古いということはないわな
弥生時代以降にできたのかもしれん
神話の成立時代を問うのは困難だし
成立時代が異なる話が混在している可能性がある
つまり神話を根拠として何かを語ることは難しい
語ってもよいとは思うが、その根拠が神話自体しかないという
循環論法に陥るのが関の山
朝鮮人が歴史を捏造したものをネットで多々見かけるが
これは過去を飾り、現代に利するように作り替えることで
こうやってできていった神話というのは多いのだと思われる
152 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 10:27:29.45
>>148 日本書紀をまともに信じているとも思えないのに、179万年とかとんでもない
数字を信じているのが不思議。
ちなみに、ニニギノミコトよりもずっと前の天照大神のところには鏡が
出てくる。いわゆる八咫鏡。剣や矛、勾玉なんかも出てくる。馬も出てくる。
日本書紀をまともに信じるなら、
卑弥呼=神功皇后で
壹与=神功皇后で、
卑弥呼は日本(当時の名は倭国)に居ただろ
154 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 10:43:06.04
考古学の遺跡の発掘現場をじっくり見学する機会があったが、
それ以来、記紀みたいなあやふやな内容の文献だけで珍説述べてる連中が、
ただの言葉遊びで妄想してるようにしか思えなくなった。
155 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 10:53:24.23
遺跡の発掘現場を見て、そこから邪馬台国が浮かび上がると考えるような
幸せな人がうらやましい。
156 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 10:57:26.47
ただ、いわゆる邪馬台国論争の大半は文献の恣意的な解釈と言葉遊びだからなあ。
地道な発掘作業見てたら、言葉遊びでラリッてる連中がアホらしく見える。
へー(棒
邪馬台国は文献史学上の問題であることは間違いない
しかし新文献の発見などがほとんど期待できない現状では
最終的な決着があるとしたら考古学的な発見によることになるだろう
そもそも考古学は事件主義ではない
このことを理解していない人は多い
考古学の目的は、時代時代の人々の生活の様子
衣食住や田畑、宗教などを明らかにするものであって
学校で習う事件の羅列、例えば 頼朝の挙兵ー清盛の死ー平家の都落ち
といった大きな事件中心として歴史を記述する方法をとってはいないのだ
考古学では釣り針の歴史とかザル(編み方)の歴史とかが詳細に調べられていて
そんなことをやって何になるのかと思う向きもあるだろうが
事件主義的に、例えば応天門の変とか
受験のために言葉だけを覚えても何になるのかという向きもあるだろう
歴史を研究するための方法や考え方は多様なのだ
考古学の発掘現場などを見れば
精密にやっているので感銘を受ける人もいるだろうが
文献史学でも、自分でこつこつと古文書を読んで新事実を発見するのは
考古学の発掘に似ていないことはない
年取って来ると経験値は増えるかもしれないけれど
頭が固くなって何でも決めつけてかかるのは病気みたいなもんだね
>>154 シュリーマンから大笑いされるわ
神話の中にある真実を否定する奴に考古学を語る資格などない
頭が固くなって大事なインスピレーションさえ無くしてるんだろ
そうなったら考古学に携わる人間は終わり
165 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 12:32:16.13
考古学は客観的な資料だけ提供してくれればいい。
インスピレーションはほかの人が働かせばいい。
都合の良いものを都合よく解釈して発表されるようなのは困る。
だが、記紀の記述を恣意的に利用して我田引水的に妄想垂れ流してる連中、
神話と史実の区別のつかないウヨはもちろん、歴史板のコテに多い狂信的なアマチュアやら、
ご当地自慢の観光史学の連中見てたら、反吐が出るわ。
167 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 12:39:19.82
>>158 魏志倭人伝の旅程記事のみから邪馬台国に一歩近づいた説がでてるよ。
長距離旅程は方位が南の法則・・倭人伝の長距離旅程はすべて方位が南になってるよね。
これには理由があったんだよ。
方位時計まわりのずれの法則・・長距離旅程の、狗邪韓国から末盧国への実際の方位は東南だけど、この方位を南と書かざるを得ない。
そうすると、末盧国以降の方位は必然的に45度ずれるんだよ。
「大和朝廷成立の謎」という本に書いてあるよ。
168 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 12:39:39.69
文献は、だいたい全ての人の前に公平に公開されている。
考古学はそうはいかない。どこを掘るか、何が出てきてどう解釈するか、
何をどのように発表するか、すべてブラックボックスで、普通の人は
発表されたものを目にするだけ。あまりにも空しい。
考古学関係者は相変わらず藤村真一さんの事件の本質的な闇を直視してないしな
ゴミ溜めだなお前ら
ジョーカーが出て行くわけだ
172 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 22:39:18.12
>>167 >方位時計まわりのずれの法則・・長距離旅程の、狗邪韓国から末盧国への実際の方位は東南だけど、この方位を南と書かざるを得ない。
>そうすると、末盧国以降の方位は必然的に45度ずれるんだよ。
45度のズレは大きすぎ。
35度〜40度のズレです。
このズレは、星座を基準にした方位決定方法に起因するものと思われる。
つまり、3世紀の星座は、星座を決めた時代の正しい方位から
35度〜40度ズレていた。
これを言い換えると、3世紀の北極星の位置が元の位置から
35度〜40度ズレていたことを意味する。
この仮説は細部をもっと詰める必要あり。
この仮説は間違いない。誰か論証してくれ!
173 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 22:50:02.14
>>167 こんな説は、問題外。最初の前提が駄目。
「狗邪韓国から末盧国への実際の方位は東南だけど、この方位を南と書かざるを得ない。」
なんて前提だが、倭人伝に「 狗邪韓国から末盧国は南の方向」などと
書いてない。適当に前提を作っては、駄目チョ。
174 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/15(土) 23:16:18.52
歳差運動による方位のズレ
sin23.43°=kとし、地軸が中心軸の周りに回転した角度をx°、
そのときの方位のズレをy°とすると、 sin(y/2)=ksin(x/2)
xが90°回転したとき、つまり6480年後の方位のズレは約32°。
これがズレる最大角度であり、それ以上はズレない。
ちなみに12960年までは時計回りにズレる。
その後は反時計回りにズレ、 25920年後に最初と同じ方位に戻る。
175 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/15(土) 23:29:20.81
ちなみに卑弥呼の時代と比べて今の時代は、
北の方位が、時計回りに約10°ずれている。
たった10°である。
176 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/15(土) 23:51:11.88
訂正
方位のずれる最大角度はxが180°つまり12960年後で、
その角度は46.86°である。
46.86°もズレるのか!
屁理屈で一生懸命方向を曲げても、
今度は距離が日本に合わずにベーリング海峡行き。
全体を統一的に修正して日本国内に収まるのは、
距離と距離に準拠する日数の、1/6しかない。
178 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 02:04:39.04
范曄(398-445年)編 『後漢書』
倭在韓東南大海中 依山島為居 凡百餘國
自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統
其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里
其地大較在會稽東冶之東 與朱崖、tan耳相近 故其法俗多同
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王
自女王國南四千餘里至朱儒國 人長三四尺
自朱儒東南行船一年 至裸國 黒齒國
桓霊間倭國大亂 更相攻伐 暦年無主 ※桓霊間(146-189年)
桓霊間倭國大亂 更相攻伐 暦年無主
有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事神鬼道 能以妖惑衆 於是共立為王
179 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 06:36:22.80
>>其大倭王居邪馬臺國 樂浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里
范曄は陳寿(233-297年)の魏書東夷伝倭人の条を見ている。
よって魏書より百年余後年に書かれた後漢書には相当する文が無いが魏書には記されている、
狗邪韓國から對海國、一大國、末廬國の千里、千里、千里、計三千里は有効である。
百余年の間に知り得た情報も加味し訂正等加えた可能性は自ずと想像される。
後漢書によれば拘邪韓國から邪馬臺國まで七千餘里、末廬國から邪馬臺國まで四千里300kmほど。
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種而不屬女王」
わざわざ「其南有狗奴國」を「自女王國東度海千餘里至拘奴國」と変えている。
或いは末廬國から邪馬臺國まで四千里300kmを吉備西端に持って来ることは可能だが、東度海千餘里ができない。
もはや南九州しか有り得なくなってしまうんである。或いは四国か。
180 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 06:56:01.98
中国人が奉公をまちがえたなんてのは考え方として無理。狗邪韓国から末盧国までが
東南なのに南とあるなどというのは、おおまかな表示として正しいとみるべきである。
末盧国から東南五百里はそのとおり東南に進むのが正しい。
となれば、伊都国は佐賀市付近。そこならば、末盧国から陸行したことも合理的。南
水行も可能。必然的に投馬国は薩摩、邪馬台国は日向と言うことになる。水行十日陸
行1月もすっきり。何ら問題がない。
181 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 06:56:43.39
奉公→方向
182 :
172:2012/12/16(日) 08:18:50.92
>これを言い換えると、3世紀の北極星の位置が元の位置から
>35度〜40度ズレていたことを意味する。
上記は間違い。
北極星の位置が角度で5度〜6度ズレるだけで、
一部の星座の方向は30度〜40度ズレる。
北極星というのは相対的な概念だろ
(北点でほとんど動かない星のこと)
大昔の“北極星”が今の北極星とは限らんぞ
184 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/16(日) 09:25:00.78
樂浪郡徼去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里
これは、樂浪郡徼はその国を去ること萬二千里で、
その西北界の拘邪韓國を去ること七千餘里という意味で、
七千餘里というのは樂浪郡徼〜拘邪韓國の距離なのである。
>>179の人は誤読している。
結論ありきで方向や距離ねじ曲げて解釈してもだれが賛同するというのかw
樂浪郡徼去其國萬二千里=自樂浪郡徼萬二千里至邪馬臺國でいいのかな
187 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 10:58:26.68
倭人伝は軍から女王国までが万二千里というわけで、邪馬台国までというわけではない。
後漢書は、自樂浪郡徼萬二千里至邪馬臺國という趣旨のようだが、邪馬台国の都ではなく
やはりその国境までということだろう。
188 :
172:2012/12/16(日) 11:03:59.87
>>183 >大昔の“北極星”が今の北極星とは限らんぞ
ここで言う北極星とは、年間0.0057度移動している天の北極を例えたもの。
天の北極には常に北極星があるとはかぎらない。
現在の北極星(ポラリス(こぐま座α星))も天の北極点とズレがある。
過去の北極星は、
ベガ(こと座α星):紀元前11,500年頃
トゥバン(りゅう座α星):紀元前2800年頃
コカブ(こぐま座β星):紀元前1100年頃
189 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 11:06:40.85
>>189 そうだ帯方郡(の境)≠楽浪郡の境 だね
191 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 12:11:11.85
范曄さんて歴史学するひとのレベルで計測すると無能。
まぬけ読みとか読み込みすぎとかのが多々。
しったかして文字差し替えのも得意。
192 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 13:04:19.87
>>191 そうかな?
ほかの歴史書と比較すると、陳寿の方が文字の違いは多い。
邪馬壹國、壹與、一大國など。
三国志と後漢書と異なるところでは後漢書の方が正しいのかもしれない。
193 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 15:51:48.53
范曄は5世紀初頭の常識に従って、三国志を書き換えている。
壹→臺:::ヰ(倭)→タヰ(大倭)
大→支:::大→支(イキ(壱支)の写し間違いの修正とした)
一大卒の大については判断できない
194 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 16:36:28.40
范曄さんのて陳寿のベースの編纂品
范曄さんのと陳寿さんのを比べて文字の違いがどおたらとゆうのはまぬけ
基本史料は単独で扱うのが歴史学であそぶときの業界のお約束
范曄さんのは派生史料に過ぎないけど、
陳寿さんので漏れてたのをちょっとだけかき集められたのを追加
ばんゆう発してあえておおまかにゆうと
范曄さんのて6割が陳寿さんののぱくりのまんまので
3割のが誤読
1割のが追記の新事実 みたいなふいんき
195 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 17:02:26.82
范曄さんのて文が平易に読めるような志向で書かれているから
読みやすいだけに読んでなかみがよくわかる
そのかわり含蓄ある文だとか曖昧性を持たせた文だとかを
平易に書き換えしたときに発生しちゃってる原文からのずれにはひどいものがあったりする
すなはち ちゃういいかたでゆうとしろおとうけとかするんだよね
それと陳寿/范曄間には中華世界のごっつい断絶があったりして
范曄さんには理解しがたい陳寿さんの時期の常識とかがあるから
范曄さんは脳内の整合性を求めてへんな読み替えとかやってるところもあったりするし
倍暦とか知らずに親切に陳寿の原文書き換えてくれて「桓靈間 倭國大亂」とかで妄想素材を提供
196 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 17:24:24.13
倭人条に関しては范曄は余計なことをしただけだったんかなあ?
どうして其南有狗奴國→自女王國東度海千餘里至拘奴國に変えたんだろうな
197 :
日本@名無史さん:2012/12/16(日) 18:45:18.50
漢代の女王國の南には東鯷人国があったから。
范曄は東鯷人二十餘國が狗奴國に変わったとできなかったから、
拘奴國を倭種の国とした。
198 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/16(日) 20:58:19.22
長々と まぬけな文書く 稗箕狐かな
>>197 會稽海外有東鯷人 分為二十餘國
分為二十餘國按:校補引錢大昭說謂閩本「二」作「三」
仮に二十餘國が三十餘國だとすると、倭国の数と同じである。
199 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 11:53:50.67
今使譯所通三十國だ。三十餘國ではない。ずさんな読みと思い込みだけで
トンデモ説に走ってはだめだね。
200 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/17(月) 12:31:27.09
三十國も三十餘國もたいして違わない。
また私は別に東鯷人国は倭国だと主張しているわけでもない。
二十餘國を三十餘國と書いている異本もあり、
それなら倭国と同じだな、という感想を書いているだけである。
201 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 16:51:01.25
>>174 たしかに正確にいえば、対馬から壱岐までが東南のところを南、壱岐から末盧国までが
東南のところを南ですね。狗邪韓国から壱岐は方向の記載はないですね。
対馬から壱岐までが東南のところを南、壱岐から末盧国までが東南のところを南、
と「長距離旅程は方位が南の法則」が適用されていることは間違いありませんね。
202 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 16:54:10.60
203 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/17(月) 17:22:25.84
対馬−壱岐−末盧国
どれも南といっても差支えない。東南といえるほど東南ではない。
204 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 17:42:12.48
>>172 >>173 「大和朝廷成立の謎」によれば、円を描き東を0度、南を90度とした場合、22,5〜67,5度の東南の方位を
南=90度と読み替えると、90−22,5=67,5度。90−67,5=22,5度。と、22,5度から67,5度の
ずれが生じる。すなわち東南の方位にある国を改竄して「南して」と表記すると、時計回りに22,5度から67,5度の
ずれが生じるということらしい。実際に壱岐から奴国までは定説通りと考えれば、その範囲で方位のずれが生じている。
釜山の入り口付近から、唐津の鏡山のちょっと上流の
川が狭くなりはじめているところまでで、
直線距離で短里で、ぴったり三千里。
正確すぎるが、どうやって測量したのかはわからない。
周脾算経みたいに天測したのかもしれない。
この2点、正確に南北ではなく、30度くらいの角度が付いている。
Cos30°で、計算できなくもないが、詳細は不明。
207 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 17:51:21.75
>>203 南とは67,5〜112,5度の範囲を指す。
倭人伝は明確に東、東南、南と45度ずつで方位を区切っている。
東といえばー22,5〜22,5度。東南といえば22,5〜67,5度。南といえば67,5〜112,5度
を指す。
だから、対馬〜壱岐〜末盧国は南の方角からは22,5度以上東よりの方位だから東南の方位。
208 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 18:04:21.92
狗邪韓國から末盧國へは文献上は真南に進んでいるが、
実際は南よりの南東方向にすすんでいる。
狗邪韓國の出発地は巨済島南端。
海流と潮流の変動からみると出発地は巨済島南端以外存在しえない。
巨済島南端を出発した船は必然的に対馬北端部に流される。
船は対馬沿岸を右回りに進み島を半周して対馬南端に着く。
対馬東岸は南行する潮流に乗り易いので安全に早く着く。
対馬西岸は北行する海流と潮流で南に進むのは困難である。
対馬南端を出発した船は、潮流が北東方向になる時に
南方向に進むと南東方向に流れ壱岐北端に着く。
壱岐を右回りに沿岸航行を半周し、壱岐東南部に着く。
潮流は進行方向に流れていることが多いのでスムーズな航行となる。
壱岐東南部海域から唐津湾最南端の海岸までは南行する
潮流があるので船は順調に進む。
唐津湾の南端にある松浦川の河口に船を進める。
松浦川河口の南には古松浦湾がありその南岸が
末盧國の上陸地点である。鏡山の南西方向になる。
上陸地点には中原遺跡がある。
狗邪韓國出発地(巨済島南端)から末盧國(中原遺跡)は
南よりの南東方向になるから地図で確認できる。
209 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/17(月) 18:25:01.03
釜山から東南といえば山口県である。
釜山から唐津は南である。
また島の方角などはあくまでも島全体の方角である。
出航地と寄港地の方角ではない。
釜山から唐津は、真南に対して30°ほど東に傾いている。
そしてその2点は正確に短里3000里である。
さらに、その直線上に、壱岐と対馬がある。
211 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 18:35:16.59
>>208 倭人伝は公式文書だから特別な注釈がない限り、諸事情は考慮されない。
ほぼ正確な地図または報告書があったことは上述から明らかなので、
ほぼ正確な方位、距離に基づいて記されている。
だから、潮の流れがこうだから舳先をこっちに向けたとか、身を清めるために
日数がかかったとか、そういうことを考慮するのは必要ないこと。
注釈が無い限り公式文書のスタンダードな読み方をすればいいだけ。
212 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/17(月) 18:45:40.07
>正確すぎるが、どうやって測量したのかはわからない。
>周脾算経みたいに天測したのかもしれない。
>ほぼ正確な地図または報告書があったことは上述から明らかなので、
>ほぼ正確な方位、距離に基づいて記されている。
こういうことを考えるのが九州論者の特徴である。
畿内論者はこういうのを見て笑っているだろうw
213 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 19:40:32.37
畿内論者とは洞察力のない人間。
214 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 19:42:38.18
金海(狗邪韓國)〜巨済島南端〜対馬北端〜―対馬南端
〜壱岐北端〜壱岐南東端〜中原遺跡=309km
1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里=4400里=308km
215 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 19:53:38.76
九州論者はいつまでも短里説にこだわっているから、畿内説の00たちに笑われる。
短里説では水行20日、水行10日陸行1月と書かれているかぎり、九州の中に邪馬台国を留めることは
できない。九州の中に邪馬台国を留めるには「旅程距離5倍の法則」を用いるしかない。
水行20日は水行4日。水行10日陸行1月は水行2日陸行6日。これで邪馬台国は畿内までは遠く及ばない。
「旅程距離5倍の法則」は「大和朝廷成立の謎」に書いてある。
216 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 20:07:04.54
くだらん説だな。水行20日、水行10日陸行1月は、九州の中の話だ。
自分でかってな思い込みで進行速度を決めないこと。
宿屋もなければ食堂もない時代の話だ。今の「常識」は通用しないんだよ。
217 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 20:11:40.42
帯方郡〜(天草・島原)〜投馬國=水行20日=1000里×20日=20000里
帯方郡〜末盧國〜邪馬壹國=水行10日+陸行1月(1000里)
=11400里+1000里=12400里
参考:海行1月=1000里(隋書百済伝)
218 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 20:19:05.00
船行1年=船行12月=海行12月=12000里=840km
219 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 21:09:44.98
>>216 中国古代の1日の旅程は、「唐六典」によると、陸行50里、水行45里と定められている。
秦漢以来不変の古制とのこと。注釈がなければこれが用いられる。
すなわち、陸行1日21〜22km。水行1日約19〜20kmということ。
今の常識で話をしてはいません。
220 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 21:14:35.27
>>216 秦漢の1里=415,8m。魏晋の1里=435,6m。ということは当然、知ってるよね。
実際の場所から、公里の約1/6と推測される短里と同様に、
日数も1/6すればよい。
これだけで、完全に解釈できる。
そして、数値や地勢に一切の矛盾はない。
1日約20キロとして、2ヶ月で1200キロ
これを1/6して200キロ
素直にたどれば、筑後川流域の大川辺りから、
200キロ南ということだな。
1日15キロ計算で人吉にたどり着いたが、
1日20キロ計算だと宮崎が視野に入ってくるな
224 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 22:34:03.80
>>221 短里説では、日数を短縮することはできない。
だから畿内説の00たちに笑われるんだよ。
日数を短縮するには「旅程距離5倍の法則」を適用して、旅程距離のすべての数字は
5倍してあると考える。そうすれば実際は書いてある旅程距離の5分の1の日数だとすることができる。
225 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 22:44:19.82
>短里説では、日数を短縮することはできない。
なぜ?
226 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 22:46:34.67
>旅程距離5倍の法則
1/6説の短里と区別がつかないのですが?
227 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 23:12:54.41
>>219 唐六典は8世紀のものだ。3世紀とはまったく時代がちがう。しかも、そこに書かれて
いるのは他国を訪ねた使者の移動速度というわけではない。時代も状況もちがうものは
さしたる参考にはならない。
228 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 23:18:15.16
魏や晋の里に比べて5分の1、6分の1ぐらいの里が使用されているからといって日数を5分の
1、6分の1にする理由にはならない。里の方は、倭人伝においては、魏、晋の単位と違うもの
が使用されている可能性はあるが、日数の数え方がちがうという可能性はまずない。
日数の数え方は、国や地域が異なっても数え方がちがうということはないからだ。
229 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 23:21:37.82
でも隋書百済伝では、240キロくらいのところが、三月だからね。
月表記で1/6に近い距離と想定されるものは、
数は少ないが、いくつかある。
230 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 23:33:34.16
この板は倍暦行使は当然と捉える人多いでしょ
つまり、魏志の十日、二十日、一月というのも実は倍暦で、
実際は半分にしてもいいってことに
アホクサ
232 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 00:03:11.33
>240キロくらいのところが、三月だからね。
どこを想定しているのかな?
>月表記で1/6に近い距離と想定されるものは、
>数は少ないが、いくつかある。
何のことか分からないが。とにかく、倭人伝は普通に読んで何ら問題ないよ。
何分の1の表記とか妙な話は持ち出す理由もなければ、必要もない。
233 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 00:14:40.99
隋書百済伝の済州島から釜山までの距離だな。
234 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 00:18:23.14
釜山は百済ではない。珍島から済州島だろう。
236 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 00:46:25.88
問題は、なぜ6倍にしたかです
237 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 00:50:51.96
してないよ。
238 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 01:01:56.07
全羅北道(百済南部)から済州島までが海行3月、即ち240km
239 :
風の中のゴキブリ:2012/12/18(火) 02:28:33.10
末盧国に着いてからは渡海した記述がないので邪馬台国が九州にあったのは明白ですよね
邪馬台国は九州にはありません。
大体関門を越えるのに海を渡るなんて思う訳がないのですw
奴国は本州に跨る国で、山口の旧国名をナガトなのが証拠です。
241 :
サガミハラハラ :2012/12/18(火) 07:37:53.56
>>236 秦の始皇帝が、度量衡を改革した時、それまでバラバラだったものを統一したのです。
その時、周尺の一里67・5mを6倍したのです。
242 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 08:17:41.69
1尺≒1歩であった互いに独立した二種類の長さ単位(尺・歩)を
6尺=1歩に統合した。
>>242 これは可能性あるね。
というより、いつから一歩と程遠い数値が一歩になったんだか。
244 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 09:25:07.44
東周戦国の頃から秦が度量衡の統合を国内的に始め、
秦の始皇帝が度量衡を統一した。
秦は、度量衡の統一によりその支配地域を固め、全土支配を可能とした。
245 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 10:11:17.39
>>228 >>236 なぜ、旅程距離を5倍したかというと、
魏の首脳が、同盟国の邪馬台国を呉の東方海上に持ってきて、呉を牽制するため。
博多湾東岸の不弥国から実際の邪馬台国までの距離を5倍すると、ちょうど呉の東方海上、すなわち
トカラ列島〜沖縄近辺に到達するから。・・「大和朝廷成立の謎」より。
246 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 10:19:06.37
>>240 たしかに「旅程距離5倍の法則」を用いて日数を5分の1にすると、山口は邪馬台国の有力候補地になるね。
「大和朝廷成立の謎」では邪馬台国は宇佐としてあったけど、「旅程距離5倍の法則」と「長距離旅程は方位が南の法則」
を適用すれば、山口が邪馬台国である線も浮かびあがってくる。
247 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 10:30:31.14
>「旅程距離5倍の法則」
こっちは実測すれば出てくるからまあよしとしよう。
>「長距離旅程は方位が南の法則」
しかし、これはあんまりではないかな?
南にしか行かないならともかく。
248 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 10:58:00.98
>>247 倭人伝の長距離旅程の方位はすべて南としるされているよね。
これは狗邪韓国から呉の東方海上、すなわち トカラ列島〜沖縄近辺に邪馬台国を持っていく
ために必要だから。狗邪韓国からトカラ列島〜沖縄近辺への方位は真南にあたる。
だから、長距離旅程の方位を全て南としるさないと呉の東方海上、すなわち トカラ列島〜沖縄近辺
に到達しないから。
よって、不弥国以降の邪馬台国への方位は東西南北すべての方向が可能性としては考えられる。
>>248 倭人伝の記述では、帯方郡から狗邪韓国までが、もっとも長距離だと思われますが
「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里」
となっていて、南だけではありませんね。
250 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 11:22:45.19
>>249 「長距離旅程は方位が南の法則」は上述の理由の通り、狗邪韓国以降に適用されます。
言葉足らずですみません。
>>250 法則ならば、すべての記述において、統一的に適用できるもののほうが望ましいのですが、
「長距離は南、短距離は東の記述もある」
「狗邪韓国までは、東もある。それ以降は南しかない」
という2つの違う基準で切り分けなければならないことからみても、
法則というには、すこし難しい気がしますね。
つまり、
どこまでが長距離で、どこからが短距離か?
距離で分ける根拠は何か?
狗邪韓国までは適用外で、それ以降は適用となる根拠は?
という問題を解決できなければならないと思います。
252 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 12:12:40.82
狗邪韓国までは適用外で、それ以降は適用となる根拠は?
・狗邪韓国から呉の東方海上、すなわち トカラ列島〜沖縄近辺に邪馬台国を持っていくために必要だから。
狗邪韓国からトカラ列島〜沖縄近辺への方位は真南にあたる。
だから、長距離旅程の方位を全て南としるさないと呉の東方海上、すなわち トカラ列島〜沖縄近辺 に到達しないから。
どこまでが長距離で、どこからが短距離か?
・狗邪韓国から南の方位に邪馬台国を持ってくるのに、方位が東南や東となっていても影響のでないくらい距離が短い旅程には
「長距離旅程は方位が南の法則」は適用されない。
この説の根幹となっている仮定、・・魏の首脳が、呉を牽制するために同盟国の邪馬台国を呉の東方海上に持ってきたかった。
博多湾東岸の不弥国から実際の邪馬台国までの距離を5倍すると、ちょうど呉の東方海上、すなわち
トカラ列島〜沖縄近辺に到達するから。「大和朝廷成立の謎」より。・・の根拠は、魏氏倭人伝文中にも明確に記されている。
「その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし」がそれである。
253 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/18(火) 22:48:26.28
>>230 大陸は当時倍暦の行使はなかったと思いますが?
九州も不明です?
しかし畿内は行使していたということです。
254 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 23:00:32.76
西域伝はものすごく長距離だけど西へ進んでるな。
255 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 15:07:32.94
西域伝はどの史書でも長里で書かれているね。
しかし、史記の地の文の部分は短里で読むと矛盾した記述とならない。
256 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 18:22:18.32
>>243 >いつから一歩と程遠い数値が一歩になったんだか。
秦の始皇帝の支配地域では度量衡の統一時から。
非支配である北狄と東夷では非統一。
東周滅亡後の戦国時代に勃興してきた秦では、
秦の国内的に6尺=1歩等の度量衡統一が始まってきて、
それが秦の全国支配への力となったと思われる。
新たな支配地域へ秦の統一度量衡導入することにより、
税制等安定した支配権を確立されていったと思われる。
孟子の秦に関わる記述においては、
短里ではなく長里に基づいた記述であるとするほうが適切である。
257 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 09:59:05.36
短里説は素晴らしい説で距離はまったく正確です。短里説を実証した方々の英知と努力には敬意を表します。
しかし、短里説では最も肝心なところの、不弥国から邪馬台国までの旅程、水行20日、水行10日陸行1月が解明できません。
短里説では日数を短縮できず、距離的には畿内説に軍配を上げざるを得ないからです。
九州説を盤石なものにするには、「旅程距離5倍の法則」を用いるしかありません。
すべての旅程距離は実際の5倍にしてあると考えるのです。そうすれば、水行20日、水行10日陸行1月は、それぞれ水行4日、水行2日陸行6日
となり、邪馬台国を九州、山口西部に留めることができるのです。
その根拠や「長距離旅程は方位が南の法則」「方位時計回りのずれの法則」などは「大和朝廷成立の謎」に書いてあります。
258 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 10:32:51.75
つまり、短里短日説ですな。
259 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 11:29:06.15
>>258 短日説というのは存在しようがないのでは。
根拠無く日数を短縮することはできないでしょう。
でも、日数も1/5するんでしょう?
次から次へとウスバカが出てくる
邪馬台国エジプト説のほうがよほどましだ
262 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/20(木) 12:37:01.29
こういう資料があるぞ。
晉書
裨離國在肅慎西北,馬行可二百日
養雲國去裨離馬行又五十日
寇莫汗國去養雲國又百日行
一群國去莫汗又百五十日,計去肅慎五萬餘里。
東北輿地釋略
今由農安至白城約三百里而弱四日可至
前者は馬行で一日百里、後者は一日八十里という計算だ。
尚、後者の白城は今の白城市ではなく阿城付近のことである。
263 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/20(木) 12:50:40.47
公里だと馬行一日百里は約40km。
短里だと馬行一日百里は約8km。
いくら何でも馬行一日百里約8kmは短すぎる。
だから晋書は公里で書かれていることが分かる。
264 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 13:39:54.99
>>257 >短里説では最も肝心なところの、不弥国から邪馬台国までの旅程、
>水行20日、水行10日陸行1月が解明できません。
「水行20日」は、帯方郡から不彌國までの航路。
「水行10日陸行1月」は、帯方郡から邪馬台国までの航路と陸路。
水行1日:一日の内水(沿岸)航行の距離≒1000余里。
陸行1月=海行1月=1月行:船が外洋を24時間50分で進む距離≒1000余里
日(SUN)の日の出から翌日の日の出までの時間は24時間。
月(MOON)の月の出から翌日の月の出までの時間は24時間50分。
265 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 13:42:13.69
修正
「水行20日」は、帯方郡から投馬國までの航路。
どうせなら戸数も1/5にしたら
あと使通ずる30国も1/5
出てきた国名は虚妄
267 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 14:15:25.82
「里」というのは、倭人伝に実際の距離が書かれている。
帯方郡から狗邪韓国まで七千里あまり。
狗邪韓国から対馬まで千里。
対馬から壱岐まで千里。壱岐から末盧国まで千里。
これから考えると、一里を100m以上と考えるのは不可能。
少なくとも、倭人伝は50m〜80m程度で書かれていると考えるのが妥当だろう。
>>257 水行一日がどれくらいの距離なのかわからない。1kmかもしれないし、2kmかも
しれないわけで、断定的に言う事はできない。畿内説は方向の「南」を「東」に
しなくてはならないから、都合の良い距離にしただけは話。
だいたい「だから東の間違い」というのがそもそも疑問。
何で東なの、ということになる。
また、陸行一月は畿内説的解釈でもおかしなことになるだろう。
268 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 17:49:59.91
ここは相変わらず推測ばかりですか。
269 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/20(木) 17:50:11.85
>>267 こういのを見ると九州説の人間がいかに○○であるかがよく分るのである。
晋書に肅慎から一群国まで五万余里と書いてある。
これを公里で計算すると2万キロを超えるのであって、地球半周に等しくなってしまうのである。
当時は世界地図も無く地球が丸いことさえ知られていなかったのだから、
中国人は五万余里が実際にはどれくらいの距離であるかも知らず、五万余里と書いたのである。
倭人伝もこれと同じである。一万二千余里がどれくらいかも分らず、そう書いたのである。
九州説の連中は現代の正確な地図を知っているから一里は75mくらいだろう、
と言っているのであるが、陳寿の時代にはそんな地図は無かったのである。
現代の地図を見てあれこれ議論すること自体が間違っているのである。
九州説の連中は、このことが、何度言っても理解できないのである。
271 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/20(木) 18:39:29.08
私が思うに、九州説者にも二種類ある。
1 行程記事から、そう判断する。
2 それ以外の記事から、そう判断する。
で、1の理由で九州説を唱える者は、あまり頭は良くない。
なぜなら水行陸行の記事は、やはり九州説には不利だからである。
それで太国などは行程論争には参加して来ない。
行程記事は九州説にとっては不利だと分かっているからである。
伊作やサガミハラも行程記事は九州説には不利だと理解しているから、
帯方郡起点説を採用しているのだと思われる。
272 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/20(木) 18:41:04.12
行程記事は九州説にとっては不利だと分かってはいない。
どこが不利なんだ?
273 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/20(木) 18:43:34.37
いいか、黒部峡谷の奥地には200m進むのに5日もかかる場所があるそうだ。
陸行1月なんて九州説の不利にはならず、むしろ妥当な時間だろう。
274 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/20(木) 18:48:38.32
南至投馬國水行二十日 南至邪馬壹國水行十日陸行一月
これを見て九州説不利だと思わないのか?
275 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/20(木) 18:54:49.31
思うわけがない。
季候等の悪化による時間の経過、たとえば台風だとか未経験の荒波高波。
おまけに海賊だっていただろう。それと観光目的でどこかを周回、
仲間の病気、道間違いでの後戻りとか前方に行くために何かの障害・・・
考えればこういう事柄が時間をえらく使うのだ。
人間はエイトマンのようなスーパー・ロボットではない。w
単純計算のわけにはいかないんだよ。
276 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/20(木) 18:58:34.33
ある国に至るまでの日数を正史が表記するときは、
そんな特殊な場合の日数を書くのではないよ。
ごく標準的な、一般的な所要日数が書かれているのである。
277 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/20(木) 19:55:53.84
按彭湖東南即今台湾(台海使槎録)
琉球國在泉州之東 有島曰彭湖 水行五日而至(文献通考)
彭湖島在琉球國 水行五日(明一統志)
福州海中有彭湖島 相去三千里 自福州順風而往 不半日至也(玉堂薈記)
琉球國は台湾、彭湖島は台湾の近くの島である。
中国から彭湖島まで水行五日、順風なら不半日至也とある。
地図で見ると中国〜彭湖島は朝鮮〜九州とほぼ同じである。それが水行五日なのである。
そうすると水行二十日水行十日というのが、いかに遠い距離であるかが分かるだろう。
また福州〜彭湖島が三千里と書いてある。朝鮮〜九州も倭人伝では三千里である。
これは短里で書かれているのではなく、それが中国人の地理観だったのである。
278 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 20:22:32.51
帯方郡→→投馬國 水行20日
=帯方郡→一大國→平戸→野母崎→早崎瀬戸→有明海→投馬國
帯方郡→→邪馬台国 水行10日陸行1月
=帯方郡→一大國→博多湾 水行10日
+博多湾→邪馬台国(久留米) 陸行1月
279 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 20:33:17.20
邪馬台国時代は橋などはほとんど無かった。だから陸路を行くにしても相当、
日数がかかった。現代感覚で日数と距離の関連を考える人は物知らずだ。
陸行を解釈しても九州から外に邪馬台国が有ったとはありえない。
280 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 20:47:00.62
>>274 単純に質問するが、水行一日はどれくらいの距離だと思っている?
そして、その根拠は?
どういう船で航海していたのかもはっきりわかっていないのに、速度を
決め付けるのはおかしいと思わないか?
さらに、帯方郡からずっと「里」で来たのに、どうして投馬国や邪馬台国は
「日」に変わっているのだと思う?
281 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/20(木) 21:27:15.49
>>280 そんなことはわれわれが考えて決めるものではないのである。
実際に水行一日がどれくらいの距離で書かれているか、
文献資料で論ずるしかないのである。唐六典とか私が上に挙げたような資料で。
琉球國在泉州之東 有島曰彭湖 水行五日而至(文献通考)
彭湖島在琉球國 水行五日(明一統志)
福州海中有彭湖島 相去三千里 自福州順風而往 不半日至也(玉堂薈記)
彭湖島在國西 水行五日 (使琉球録三種)
これは一例であって、中国〜彭湖島が水行五日と書かれているのである。
こういう資料を探して論ずるのでなければ意味がない。
二番目の質問は深く考えたことがないからパス。
いずれにしろ中国〜彭湖島が水行五日なら水行二十日水行十日なら
九州を完全に通り越してしまうことは確かである。
だからこそ陳寿は倭の位置を会稽の東と想定したのである。
ちなみに福州海中有彭湖島相去三千里の三千里は短里ではない。
なぜなら玉堂薈記の著者は明末清初の人だからである。
そんな時代の人が短里で物を書くはずはないのである。
また昔の文献に中国〜彭湖島を三千里と書いた文献があったわけでもない。
検索してみたがそういう文献は出てこなかった。
282 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/20(木) 21:42:11.71
それから、ある場所なり国なりの位置が里数で示されているとき、
それは、普通、直線距離なのである。
女王国が万二千里ということは帯方郡からの直線距離である。
だから、厳密に言えば、それまでの距離を足して、
残りは千三百里だなどと考えるのは、ある意味、ナンセンスなのである。
泉州之東ってことは台湾のことなんじゃね?
284 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/20(木) 21:47:12.00
>>283 そう。泉州の東に琉球國=台湾があり、
その琉球國の一部として彭湖島がある。
その彭湖島まで水行五日なのである。
そして中国〜彭湖島が三千里なのである。
285 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 21:50:12.60
>>281 日数で書かれたものを実際の距離に直すのは難しい。
船そのものや航路、気候などさまざまな条件が異なるわけだから、ほかの航路を
完全に参考に出来るわけでもない。
畿内説は、これを九州を突き抜ける距離と決め付けたのが間違い。
まあ、そのようにして南を東の間違いにしないと畿内説は成立しないわけだから、
仕方がないといえば、仕方がないのだろう。
帯方郡から狗邪韓国、対馬、壱岐を経て日本にやってきたのは梯儁と張政。
この二人のどちらかが、それぞれの国の間の距離を示したのだろう。
恐らく、自分の距離感だと思われる。数十年経って記録を見た陳寿は
会稽・東冶の東と書いた。これは陳寿の距離感であって、一致する必要は
ないと思われる。
286 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/12/20(木) 21:57:31.63
>>276 朝慢心よ、先ほどは西山の仲間だろうが、一時規制を受けたので書きこみは
出来なかった。
いずれにせよ、時間がかかるのは、危険個所発見による迂回、後退、台風、海賊
なども停留の原因になるし、新天地なのでそういう危険個所と奇勝の発見、新部族
の発見、敵か否かの偵察、仲間の病気、道に迷って戸惑う等々、こういう出来事
があるからだ。九州説に不合理はあるように見えてちゃんと説明が出来うるから、
問題はない。
いよいよ13バクトゥン完了により、マヤ暦の新時代到来となるは〜もうすぐだ。
287 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/20(木) 22:26:31.90
こういう資料もある。
讀史方輿紀要
天津衛府東北三百裏,水行三百五十裏。
南至靜海縣七十五裏,水行百裏。
東至通州寶抵縣梁城所百四十裏,水行百七十裏。
北至通州武清縣楊村驛六十裏,水行七十裏。
通典
餘姚郡東至海中黄公山,水行二百八十里。
南至臨海郡寧海縣,水行一百八十里。
天工開物/雜舟
不遇逆風,一晝夜水行四百餘裡,逆水亦行百餘裡。
水行の場合でも、里数が分かる場合は里数を書いている。
投馬国と邪馬台国の里数が書かれてないのは、
里数が分らないほど遠くだからではないのか。
288 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 22:49:49.47
>>274 >南至投馬國水行二十日 南至邪馬壹國水行十日陸行一月
>これを見て九州説不利だと思わないのか?
これこそ、九州であることを確信させる日数だろう。九州ならば水行二十日で川内
水行十日で八代、陸行1月で都城とすっきりと理解できるが、東へ向かったのでは
絶対に説明ができない。
289 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 23:18:30.22
倭の舟は、風を利用していたとは考えられていないようだ。
朝満があげる例は、役に立たないね。
290 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 23:50:55.32
マン臭は基本的な事が分かってないなw
○里=シナ人が測った
○日=測量を知らない現地人の発言
291 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 23:55:09.28
>>280 >さらに、帯方郡からずっと「里」で来たのに、どうして投馬国や邪馬台国は
>「日」に変わっているのだと思う?
「卑弥呼は満州にいた」氏ならずとも、この板に集まっている洞察力に欠ける諸氏にはこの問いに答える
のは難しいであろう。
不彌国以降、投馬国を経て邪馬壹国に至る記事は正始元年における魏使(梯儁等)初来倭時の記録を基に
書かれたものであろう。その記録は旅行日誌だったであろう。日誌であれば日数が分かる。
また、注意すべき点は投馬国と邪馬壹国は戸数5万餘と7万餘という大国とされていることである。
倭国内において突出した二つの大国であることを考えれば、「水行二十日」と『水行十日陸行一月」は
両国を経巡った日数ではないかと考えられよう。
さらに、この両国が不彌国から遠く離れたところにあるならば里数でその距離を書くのが自然であるが、
里数は書かれていない。末盧國までは船旅でありながら里数で距離が書かれているのであるから、水行
二十日であろうが陸行一月であろうが、距離を示す意図があれば里数で書かれる筈である。
したがって、里数が書かれていないのは「不彌国と投馬国と邪馬壹国は接している」ということであろう。
292 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 00:34:04.06
洞察力云々の以前に漢文の読み方を知らんのではどうしようもないな。
水行二十日」と『水行十日陸行一月は、いずれも伊都国から目的地までの距離だ。
里数がはっきりしないから日数で表示したまでのこと。投馬国も邪馬台国も伊都国から
かなり遠くにある国なんだよ。とは言っても九州の中。つまりは南九州ってことだね。
293 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 05:05:14.12
洞察力云々の以前に漢文の読み方を知らんのではどうしようもないな。
水行二十日」と『水行十日陸行一月は、いずれも帯方郡から目的地までの距離だ。
二国間距離でないことをはっきりするため、里程とは別に日程で表示したまでのこと。
投馬国も邪馬台国も不彌國の南に筑後川を挟んで接している国なんだよ。
目的地は両国と狗奴國との紛争地。
矢部川の南岸の八女立花(邪馬台国)と山門みやま山川(投馬國)ってことだね。
294 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/21(金) 09:30:20.44
>>288-293 この連中は、基本的に頭が弱いw 世間のごく普通の人間以下である。
尚、九州論者に助け舟を出しておくと、
彭湖島まで水行五日と書いてはあるが、順風なら半日足らずで着くとも書いてある。
つまり実際の5〜6倍程度で書いてあるとも考えられる。
三千里というのも実際の5〜6倍だから距離も5〜6倍程度になっている。
わざと5〜6倍にして書いたのではなくて、それが当時の地理観だったのである。
とすれば倭人伝もわざと5〜6倍にして書いたのではなく、当時の地理観のままに書いたのである。
だから、日数も5〜6倍になっているというのは、トンデモ説のようでいて、実はトンデモではないかもしれない。
295 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/21(金) 09:37:05.51
まあ簡単に言えば、陳寿は、倭は、
その首都である邪馬台国が会稽の東にある、
周旋五千里の大島であると思っていたのである。
で、その東にある倭種の島といえば、
これはおそらく北海道のことなのである。
笑いたければ笑ってもいいぞw
296 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 09:53:20.26
>三千里というのも実際の5〜6倍だから
短里と同じだな。やっぱり短里が使われていたと考えるべきだろう。
南至投馬国水行4日 南至邪馬台国水行2日陸行6日
298 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 10:15:02.60
>>294は、基本的に頭が弱いw 世間のごく普通の人間以下である。
>三千里というのも実際の5〜6倍だから距離も5〜6倍程度になっている。
>わざと5〜6倍にして書いたのではなくて、それが当時の地理観だったのである。
その当時の地理観の表現方法を短里と言う。
だからと言って、日数も5〜6倍になっているというのは、トンデモ説
水行1日は、内水を一日に移動できる距離。
海の沿岸航行も岸沿いに移動するので、内水に準じていると見なしていたのだ。
帯方郡→(沿岸航行7,000里)→狗邪韓國→(渡海1,000里)→對海國
→(對海國半周沿岸航行800里)→對海國→(渡海1,000里)→一大國
→(一大國半周沿岸航行600里)→一大國→(渡海1,000里)→末盧國
帯方郡→(11,400里)→末盧國
帯方郡→(水行10日)→末盧國
上記では、水行1日=1,140里となる。
299 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 11:51:16.69
水行を帯方郡からと読むのはトンデモ説。
300 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 12:34:59.03
>>295 畿内説は勝手に方向を変える癖があるらしい。北海道は北だろう。
こういう場合、距離なんてのはどうでもいい、方向が最も重要。
それを勝手に変えるようでは話にならない。
たとえば、子供が居なくなった。1時間ほど前に家を出たらしい。
1時間といえば、2kmくらいか、それともぐるっと回っていて家のすぐ近くに
いるのか、トンと見当がつかない。
人に尋ねるのは、「見かけたか」「どちらの方に向かったか」だけでいい。
それが最も重要な情報となる。
301 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/21(金) 12:41:03.72
>>300 君は昔の好い加減な地図を見たことがないのか?
日本の周囲に実に好い加減な島がたくさん描かれているだろう?
中国人の地理観なんてそんなものなのだ。
方向なんて当てにならない。私は北海道だと考えたが、
扶桑国のことかもしれない毛人国かもしれないし女国かもしれないのである。
四国や本州ではないことだけは、ほぼ確かである。
302 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/21(金) 12:52:12.41
話は変わるが、梁書の倭伝にこうある。
又度一海千餘里,名未盧國;
又東南陸行五百里,至伊都國;
又東南行百里,至奴國;
又東行百里,至不彌國;
又南水行二十日,至投馬國;
又南水行十日,陸行一月日,至祁馬台國
すべて又と書かれていて順次読みになっている。
ここの参加者に宮崎説の男がいて放射読みを唱えているが、苦しい説である。
303 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 12:52:51.39
>>301 当時は地図なんてのはない。地図のない時代の旅はますます方向が重要になる。
方向を間違えたら絶対に目的地には行き着かない。距離なんてのはどうでもいい。
逆に言えば、倭人伝は何故後ろの4か国に「又」の記述がないか?
官や戸数の記載で分かりづらい構成になってしまったが、
もともとは放射式を意識した記述だから。
305 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 13:53:33.95
梁書倭伝は魏志倭人伝の誤読
306 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 14:03:46.27
倭人伝は後ろの4か国が女王國のメンバー国だから。
307 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 14:52:00.79
>>305 都合の悪い事は なんでも間違いだ
というわけね。
始度一海千餘里 至對海國
又南渡一海千餘里名曰瀚海 至一大國
又渡一海餘千里 至末廬國
東南陸行五百里 到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
放射説は放射説にしたいわけでもなく、任意に開始の地点を選んでいるわけでもない。
伊都國までは連続式でしか読めない。末廬國から放射式も不可。
伊都國から放射式を強く臭わせるのは、東南至奴國百里→東行至不彌國百里
二万戸を有する奴國が百里8kmほどで終わるのは不自然すぎる。
南至投馬國水行二十日も○国からと書いて良いはずで、書かなかったのは書く必要がなかったから。
伊都國が当時の沿海で、さらにそこから東〜南東方向のいずれを見ても海など無いのが自明だったから。
二百里10数kmくらい目視できるし現に山地が見えている方向に海などと思わない。
309 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 15:28:51.44
>>302 >すべて又と書かれていて順次読みになっている。
何でそれが順次読みと言えるんだよ?
310 :
ローガン:2012/12/21(金) 15:41:55.27
>>300 >人に尋ねるのは、「見かけたか」「どちらの方に向かったか」だけでいい。それが最も重要な情報となる。
どの方向に向かったか? が最も重要な重要な情報なら…
尋ねられた目撃者は、目視可能な範囲での方向しか答えられない。答えるのは目撃場所を起点として移動を始めた方向。
これと、後に発見された子供の居場所が、目撃地点からみて同一方向であるかは必ずしも一致しない。
ゆえ、この例を挙げた人の主張は
「どの方向?とは、起点と目的地の位置関係ではなく、移動を始めた際の方向の事であり、それが最も重要な情報である」となる。
つまり、この人の主張は、「魏志倭人伝の云う方向とは、移動開始の方向であり、目的地の方向を表したものではない。」 である。
311 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 15:58:41.41
陸路の方角なんて大体しかわからんだろ
直線で行ける訳でもなし
今の地図が発達した世の中でも、関東からみて京都は南とか言う馬鹿も居るし
312 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 20:13:38.84
邪馬台国の時代には測量地図は一枚も無かった。満州氏は直線距離だと言うけ
れど、どうやって直線距離を測ったのさ。
つまり倭人伝の里数や日数は伝聞を記しているわけで、測量・測定したもので
はない。そんな数字を基にして邪馬台国を探すのは無理だろう。
当時の日本列島全体の情勢を考えた時、やはり北九州が文化的にも技術的にも
最も優れ、最強国であったことは間違いない。邪馬台国は北九州に有ったと推
測することが一番合理的である。
313 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 20:27:34.65
>>280 帯方郡からずっと「里」で来たのに、どうして投馬国や邪馬台国は 「日」に変わっているのだと思う? という問いに答えます。
「旅程距離5倍の法則」は東夷伝全体に適用されている。
これは、大月氏国の朝貢と比較してもひけをとらないようにして、司馬懿の勲功をより大きく見せるためでもあろう。
その中で、不弥国から投馬国、邪馬台国までの距離だけが日数で書かれたのはなぜだろうか?
それは、里数で書かれた距離を実測値と照らし合わせて、1里は70〜90m前後に相当するとわかったとしても、いわゆる短里説に気付いたとしても、
日数で書かれた不弥国から投馬国、邪馬台国までの距離だけは5倍されたままで、元の距離に戻せないようにするためだったからだ。
すなわち、邪馬台国を呉の東方海上に持ってきて呉を牽制することが東夷伝におけるもっとも重要なことだったのだ。
少なくとも、魏王に司馬懿の勲功を奏上する報告書が書かれたと思われる240年頃には大国・呉は魏にとって、それほど大きな脅威だったのだ。
「大和朝廷成立の謎」渡部雅史著、を読めば理解できる。
314 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 20:52:35.81
単なるトンデモだな
315 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 21:24:38.71
>>313 卑弥呼が朝貢した時、魏の実権を握っていたのは司馬懿ではなく曹爽。
司馬懿がクーデターを起こして曹爽を殺した時には卑弥呼もすでに死んでいる。
さらに、陳寿が三国志を書いた時にはすでに呉は滅んでいる。
ちょっと時代錯誤があるみたいだな。
呉の滅亡を待って三国志の編纂に着手したんだろ
それ以前から志を持って資料収集はしてだだろうが
318 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/21(金) 22:07:18.17
>>312 測るとか測らないではなく、直線距離で示すのが普通である。
たとえば鹿児島の人が、東京まで何キロあるかと訊かれたら、
東京に行くには色々な経路があるだろうが、そんなことは無視して、
直線距離で○○キロと答えるのである。
帯方郡から女王国までの距離も、南下したり東行したりの距離はどうでもいいことで、
直線距離で示されているのである。それが当然の前提である。
319 :
ローガン:2012/12/22(土) 00:31:53.47
昼間、
>>310で
>>300の言い分を明らかにした。
『つまり、この人の主張は、「魏志倭人伝の云う方向とは、移動開始の方向であり、目的地の方向を表したものではない。」 である。 』と。
しかし、
>>300には
>畿内説は勝手に方向を変える癖があるらしい。北海道は北だろう。
とある。確かに位置関係では北海道は本州からすると北にあるが、
>>300の言い分では、「位置関係ではなく移動開始の方向が最重要情報」なのだから、
彼の主張に従えば、例えば海路での 東京、名古屋、神戸からの北海道は「南方向」。大阪からは「西方向」となる。
言うまでもなく同一レス内にある「北海道は北だろう」とは明らかな矛盾。
もちろん九州説自体が悪い訳ではない。主張が稚拙。
320 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 01:07:44.29
>>319 言っている意味が良くわからない。
単純に、距離を口実に方向を変える畿内説の主張はおかしいということ。
つまり、邪馬台国は「東」ではなく「南」にあると考えるのが妥当。
321 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 02:04:58.51
>>319 >>300は位置関係では北海道は本州からすると北にあるとするのだから、「位置関係ではなく移動開始の方向が最重要情報」
という説だと決めつけてしまうのがおかしいんだよ。
他人の説を言葉の端をとらえて曲解し、稚拙だとかいうローガンの説が稚拙。
322 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 02:24:55.45
>>318 >直線距離で示されているのである。それが当然の前提である。
君がそう思い込んでいるだけで、そんな前提はどこにもない。
末盧国までは区分距離が示されており、その合計は一万里になる。万二千里は
当然その距離を踏まえての話だよ。末盧国から二千里のところに女王国があると
いうのを何とか無視したいというのだろうが、それは無理な話。
釜山−唐津間は直線で、ほぼ短里三千里
角度は30度で、南東方向。
これから考えると、多分
釜山と唐津で天測やってるような正確さである。
324 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 08:57:36.44
正確には唐津は釜山の南南東になるかな。しかし、対馬、壱岐の場合、他にまぎれる
ような島はない。南と言えば、対馬、壱岐と渡っていくことは十分に分かる。
上陸してからは、そうではない。いろいろな方角が可能だ。だから、四分法ではなく
南東と書いたのだろう。唐津から南東方向に進めばいいわけさ。
緊急性が無ければ、海が荒れる冬、爆弾低気圧が通過する早春、
台風が通過する秋は避けたんでないかな。
晩春から真夏は気圧の差が緩やかで安定的。
倭人の薄着の様子が書かれているし、使者が訪れたのはその時期かもしれない。
夏には太陽は北寄りから昇り沈む。南中高度は高くなる。影は短くなる。
出発は朝。日が昇る位置を東としても夏なら実際には北東にずれている。
326 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 09:38:11.01
>>313 >邪馬台国を呉の東方海上に持ってきて呉を牽制することが東夷伝におけるもっとも重要なことだった・・・・・・
東夷伝が、実は史書の仮面を被った一党派の政治的主張を代弁した言説書
だったということですか?
327 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/22(土) 10:11:15.08
>>322 昔も今もAからBへ行くルートというのは大体決まっていて、
それは大体直線的なルートである。だからA至B○○里と書かれていれば、
それは実際的な通行距離であると同時に直線距離でもある。
倭人伝の場合もほぼ南へ進んでいるのだから、
それは実際的な通行距離であると同時に直線距離でもあるだろう。
しかしたとえばAから南へ千里、そこから東へ千里でBに至るとして、
この場合A至B二千里と書くだろうか。
たぶんA東南千四百里至Bとか、B在A東南千四百里と書くのではあるまいか。
とにかく倭人伝所載の距離を単純に足すのは一考を要する問題である。
328 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 11:49:12.94
>AからBへ行くルートというのは大体決まっていて、それは大体直線的なルートである。
直線的に行くことが不可能な場合を考えないとね。帯方郡から倭国へ行くには
半島西側を南下し、更に東行し、釜山あたりから対馬、壱岐と渡ってくる。それが
決まったルートということだろう。だから、それが直線的に行くこととほとんど同じ
趣旨なんだよ。大海をまっすぐなどというのは、当時としては難破の危険が大きく
事実上不可能なんだ。そんな距離を上げてみたところで無意味。
329 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 12:52:40.75
>>328 邪馬台国の朝貢使も使ったルートは、宗像が支配していた。
宗像とは海人。胸の形の山を目印にする「山あて」という手法で船の位置を確認しながら航海する。
山は見る方向によって形が違うし、沖合に出れば、高い2つの山の方向で自分の居場所を確認できる。
問題は、四方海ばかりで陸地が見えなくなった場合だ。
この遠洋航海を可能にしたのが日読み、月読み、星読みの技術。
この技術を有するのは、古代バビロニアからの移民しかいない。
330 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/22(土) 12:54:58.09
>>328 倭人伝所載距離を単純に足すのは問題があるのだよ。
不弥国までが一万七百里になっているからといって、
残りは千三百里だとは言えないのだ。
陳寿が、水行二十日水行十日陸行一月を千三百里と見なしているかどうかは不明なのだ。
331 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 15:14:33.35
そんなもの、水行二十日水行十日陸行一月=千三百里のはずがあるか。常識で考えろ。
万二千里は女王国までの距離だ。邪馬台国ではない。
332 :
ローガン:2012/12/22(土) 15:33:07.19
>>320 >言っている意味が良くわからない。
>>300にある「たとえば」以下の文で言わんとする所は、
目撃地点を起点とした子供の移動方向が、最重要情報だとの主張だ。
この例え話に従えば、東京から海路で北海道へ向かう際、起点で「この船はどの方向に進むの?」と質問されれば、答えは「南」となる。
もちろん北海道は南ではない。
つまり、子供探しにはそれでよくても、例え話としては不適切であるとの指摘をしているんだ。
333 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 15:41:05.86
ローガンの主張は子供が出た玄関がどちら向きかというような話。
しかし、子供が行った先を知りたい人にそんな答えをする馬鹿はいない。
東京湾の船の船員だってどちらへ行くのと聞かれれば、北海道へ行くときは北へ
行くと答えるよ。恥ずかしい言いがかりってやつだな。
334 :
ローガン:2012/12/22(土) 16:32:48.07
>>333 >しかし、子供が行った先を知りたい人にそんな答えをする馬鹿はいない。
いいや、「子供が行った先」とは
>>300は言っていない。
『人に尋ねるのは、「見かけたか」「どちらの方に向かったか」だけでいい。それが最も重要な情報となる。』 と言っているんだ。
目撃者がその地点で認知した方向が最重要情報だと述べている。
だから、
>>310 『尋ねられた目撃者は、目視可能な範囲での方向しか答えられない。答えるのは目撃場所を起点として移動を始めた方向。
これと、後に発見された子供の居場所が、目撃地点からみて同一方向であるかは必ずしも一致しない。
ゆえ、この例を挙げた人の主張は
「どの方向?とは、起点と目的地の位置関係ではなく、移動を始めた際の方向の事であり、それが最も重要な情報である」となる。』
わけだ。
335 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 16:53:04.17
東南陸行 (草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之)
五百里 到伊都國
こうしたレイアウトをとると
全行程が東南方向とは限らないとゆうことにはなる野田。
336 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 19:08:54.18
[ ]内が、
>>335と同じレイアウト
從郡至倭[循海岸水行(歴韓國 乍南乍東)到其北岸狗邪韓國]七千餘里
337 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/22(土) 19:23:59.23
地図を見れば分るが、九州なんて遼西郡と同じ程度の大きさしかないのである。
そして、前にも書いたが、遼西郡の東西の長さは千三百里である。
不弥国まで一万七百里、残りが千三百里。
つまり九州を通り越してしまう。
分かるかな諸君。
338 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 20:07:19.81
>>334 最初に言ってあるだろう。どういうスピードかは問題ではなく、どの方向に
行ったかの方がはるかに重要だと。
畿内説は速度を勝手に決めてしまい、それを根拠に方向を変えようとする。
それは本末転倒だと言いたいわけなのだが。
339 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 20:18:31.30
不彌國で一万二千餘里、不彌國で女王國に到着である。
不彌國は吉野ヶ里。
女王國は不彌國のある筑紫平野にある。
340 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/22(土) 21:44:14.37
そんなところにはな〜い。
341 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 23:07:15.72
伊都國の城郭は惣座遺跡
奴國の城郭は佐賀城址
不彌國の城郭は吉野ヶ里遺跡(倭面土國城郭址)
投馬國:佐賀平野東部+筑後平野沿岸部 5万戸25万人
邪馬台国:北野平野+筑後平野内陸部 7万戸35万人
不彌國:佐賀平野東北部吉野ヶ里遺跡周辺 1千家5千人
奴國:佐賀平野 2万戸10万人
伊都國:佐賀平野肥前国庁址周辺 1千戸5千人
342 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 00:49:44.86
遼西郡のサイズは時代によってひどく大小だし場所もちがうって教えてあげたのに学習障害のエロ爺爺が
343 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/23(日) 09:51:24.93
稗箕狐が悔し紛れに何か書いてるなw
漁陽郡 洛陽東北二千里
右北平郡 洛陽東北二千三百里
遼西郡 洛陽東北三千三百里
遼東郡 洛陽東北三千六百里
ではついでだから右北平郡も入れてやろう。そうすると右北平郡と遼西郡の長さは、
遼東郡から漁陽郡を引けばいいのだから、千六百里だ。
九州なんてせいぜい千六百里なのである。
そうすると不弥国から残り千三百里だから、まあ何とか九州内には収まる。
しかし南九州説しか成立しえないことは確かである。
福岡説、宇佐説、久留米説などは討ち死にだw
>>338 勝手に速度や方角を決めてるのは九州説も同じだろw
345 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 10:25:45.06
>不弥国から残り千三百里だから
不彌國からは残り0里。不彌國で一万二千餘里。
不彌國は女王國の一部分。
不彌國は女王國北端の国。
346 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 10:43:46.52
>>345 >勝手に速度や方角を決めてるのは九州説も同じだろw
邪馬台国筑紫平野説では、勝手に速度距離も方向も決めていません。
以前から言っているが、邪馬台国の城郭と卑弥呼(女王國)の都は別の場所なんだよ。
邪馬台国の城郭は4ヶ所。卑弥呼(女王國)の都はそれらとは別。
邪馬台国の城郭4ヶ所の城主は、それぞれ伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮の4人。
かれら4人の長は伊支馬。
唐津までで推測できる公里の1/6の短里。
そしてそれと同様に日数に相当する距離を1/6するだけで、
あとはなにも修正する必要はない。
最も少ない修正で、倭人伝と最も地勢や距離が一致する読み方である。
これより修正や曲解が少ない読み方はない。
もっとも、それが正しいとは限らないが。
348 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 13:57:46.85
方角も日数もそのままでいいんだよ。それが一番正しい読み方だ。
349 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 14:32:50.74
>>343 そんな計算はまちがっているよ。よく考えてみな。
350 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 15:23:58.61
唐津から水行1月となると、フィリピンあたりじゃないでしょうか?
オーストラリア大陸との説も有望。
351 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 15:52:26.65
速度もわからないのに何処まで行けるかもないと思うが
それこそ、妄想のおもむくまま自由自在
352 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 15:58:39.69
>>343 『後漢書(續漢書)』郡國志五(幽州刺史部)
漁陽郡
【秦置 雒陽東北二千里九城 戸六萬八千四百五十六 口四十三萬五千七百四十】
割注は唐代についかされたものだって教えてあげたのに学習障害なのがエロ爺爺
353 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/23(日) 17:18:45.85
またまた稗箕狐がマヌケなことを書いてるなw
いつ追加されたかなんて関係あるか、馬鹿者。
九州なんてせいぜい遼西郡と右北平郡の二郡程度の大きさしかないのだ。
違うというなら根拠を挙げてちゃんと論じてみろ、詐欺野郎。
九州は大陸と比べれば、確かにそう大きいものではない。
残り1300里余なのも辻褄が合う。
あとは一月行を80キロ程度、つまり千里程度とすれば
すべて解決する。
355 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/23(日) 18:10:42.61
なるほど、よく考えれば遼西郡と右北平郡の長さは、
遼東郡から右北平郡を引けばいいのだな。
そうするとやはり千三百里だ。
九州なんて遼西郡と右北平郡を足した長さしかないのだから、
不弥国から南に千三百里も行けば九州南端に達してしまうのである。
まあ可哀想だからこれ以上は言うまい。
356 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 18:32:27.96
満公いぢっても最近はつまらない
理解力が欠落しているのが痛い
「後漢の遼西郡と遼東郡とは隣接していない」
とか書いてあげても理解とかできないだろうな
つまんないなあ
357 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/23(日) 18:50:02.21
遼東属国のことか? 遼東属国を後漢書の通りに並べるとこうなるぞ。
右北平郡 洛陽東北二千三百里
遼東属国 洛陽東北三千二百六十里
遼西郡 洛陽東北三千三百里
遼東郡 洛陽東北三千六百里
つまり遼西郡と遼東郡とは隣接していることになるぞ。
で、仮に遼東属国を含めても右北平郡+遼東属国+遼西郡
の長さは千三百里であることに変わりはないのである。
分かるか、稗箕狐君。お前も言葉には気を付けろよ。
当時は陸上行程の測量はかなりのレベルだったが、海流という概念はなかったため海上行程に於いてはかなりの誤差が生じていた。
具体的には会稽から真東に進んで日本に到達してるという認識だったが、実際に到達してたのは海流の影響でそれより東北方向にずれた地点。
一方、帯方郡獲得で半島経由で日本に到達する経路が拓けた。
この2つの経路を照合しても、どうしても計算が合わない。
支那の小役人は、日本国内の行程を東から南へ改竄すれば計算が合うことに気付いた。
359 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 19:30:50.60
海流のことを知らんなんてことはあり得ないな。それに、会稽から東にこぎ出して
倭国を訪ねたなどという者はいない。そんな情報はなかったよ。
問題は、帯方郡からどれぐらい南下したところに女王国があるかということだ。万
二千里のうち南へ進まなかった距離を差し引けばいいってことさ。
そうすれば、約一万里、そこから女王国が始まるという計算になる。それが「道里
を計るに」という言葉に表されている。短里で一万里は八百キロ。ちょうど合ってるだろ。
其道里當在会稽東治之東
この一文から計算が合ったぞーって喜びがカンジられるけどな
361 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 19:50:04.74
次に問題になるのが東冶とあることだな。これは会稽から約四百キロ南の地名だ。
つまり、万二千里のところから始まる女王国はそこから約四百キロ南までを領土
としていたということだな。北九州あたりで考えてる連中には想像もつかんことだ
ろうけど。
362 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 20:11:10.44
>東冶とあることだな。これは会稽から約四百キロ南の地名だ。
会稽東冶は現在の紹興である会稽の東にある役所で現在の寧波付近。
363 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 20:14:14.21
魏志はそんな使い方はしていない。魏志の東冶は福州あたりのことだ。
そんな使い方があるというなら、例を出してみろ。
364 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 20:37:07.24
東冶は、夏后少康之子が新しく統治し始めた刺青のある漁労民のいるところ。
寧波の東方海中(杭州湾沖)には漁労民が住む舟山群島がある。
会稽から真東に向かって航行したら種子島・屋久島近辺だ
当時の支那人は会稽の真東に日本があると信じてたわけだ
366 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 21:41:38.75
帯方郡庁(ソウル)の真南12000里850km北緯30度付近
屋久島の南に女王國があったと考えていたのである。
367 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/23(日) 22:15:56.81
東冶とはどこか。
たぶん
>>362>>364が正解だろう。
桓檀古記/太白逸史/高句麗國本紀
倭在會稽郡東東冶縣之東舟渡九千里至那覇而又渡一千里至根島根島亦曰量島
368 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 22:33:47.27
>>326 「旅程距離5倍の法則」は東夷伝全体に適用されている。
これは、大月氏国の朝貢と比較してもひけをとらないようにして、司馬懿の勲功をより大きく見せるためでもあろう。
その中で、不弥国から投馬国、邪馬台国までの距離だけが日数で書かれたのはなぜだろうか?
それは、里数で書かれた距離を実測値と照らし合わせて、1里は70〜90m前後に相当するとわかったとしても、いわゆる短里説に気付いたとしても、
日数で書かれた不弥国から投馬国、邪馬台国までの距離だけは5倍されたままで、元の距離に戻せないようにするためだったからだ。
すなわち、邪馬台国を呉の東方海上に持ってきて呉を牽制することが東夷伝におけるもっとも重要なことだったのだ。
少なくとも、魏王に司馬懿の勲功を奏上する報告書が書かれたと思われる240年頃には大国・呉は魏にとって、それほど大きな脅威だったのだ。
「大和朝廷成立の謎」渡部雅史著、を読めば理解できる。
下から2行目がその答えです。
369 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/23(日) 22:35:45.07
皆從東冶泛海而至東冶 今福建侯官縣 (讀史方輿紀要)
漢武帝名爲東冶 後改爲東候官 今泉州閩縣是 (資治通鑑)
こういう資料を見ると福建省のような気もするが、
莖大如箭方根黄色 或生會稽東冶 (呉普本草)
或以號令,禹合諸侯,大計東冶之山,因名會稽是也。(水經注)
遂引兵渡 浙江 ,據會稽,屠東冶 ,乃攻破虎等. (三國志)
これらを見ると会稽と東冶は近くであるという気がするのである。
370 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 22:35:58.20
倭在會稽郡東東冶縣之東が正しいならば東冶は福州だろう。
会稽のそばに東冶県はないぞ。
371 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 22:41:13.81
短里説では、日数を短縮することはできない。
日数を短縮するには「旅程距離5倍の法則」を適用して、旅程距離のすべての数字は5倍してあると考える。そうすれば実際は書いてある旅程距離の5分の1の日数だとすることができる。
なぜ、旅程距離を5倍したかというと、 魏の首脳が、同盟国の邪馬台国を呉の東方海上に持ってきて、呉を牽制するため。
博多湾東岸の不弥国から実際の邪馬台国までの距離を5倍すると、ちょうど呉の東方海上、すなわち トカラ列島〜沖縄近辺に到達するから。・・「大和朝廷成立の謎」より。
372 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/23(日) 22:41:54.78
資治通鑑
賢曰:東冶縣,屬會稽郡。
太平御覽
會稽東冶縣人有入海
373 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 22:47:02.05
>短里説では、日数を短縮することはできない。
短縮しようなんてことを考えることが間違いだ。
自分が 比定したい所に合わせて資料を読み替えてはだめだよ。
374 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 22:48:57.67
>>372 そこに言う東冶縣というのは、福州のことなんだよ。
375 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 03:41:33.75
>>371 >「旅程距離5倍の法則」
短里説で多く言われているように、里程部分の根拠はそれなりに豊富だが、
日数部分はあまり根拠がない。
短里と違うという前提で、この「法則」が成立する根拠は?
以前伊作も短里ではないと、かたくなに主張していたが、
どうみても短里の一種に見える。
昔から短里短日説ってのがあるが、それとどう違うか
書いて欲しい。
376 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/24(月) 09:42:06.40
淳熙三山志/卷01
高帝五年,封無諸為閩越王,王故地,都冶。
蘇林註《嚴助傳》曰:『冶,山名,今名東冶。』林,魏黃初人,當得之。今甌冶池山是也
晉書/卷015
及武帝滅之,徙其人,名為東冶,又更名東城。後漢改為候官都尉,及吳置建安郡。
通典/卷186
漢五年,復立無諸為閩越王,王閩中故地,都東冶。今長樂郡地。
東冶についてはこういう資料もあるから調べてみては?
377 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 11:46:36.50
だから、何だってのかな? 東冶=福州で問題ないだろ。
378 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/24(月) 12:52:50.66
なるほど、建安郡と長樂郡を調べてみたが、福建省のようだ。
ということは会稽は浙江省、東冶は福建省か。
ということは紹興から福州に至るくらいの大島を倭と考えていたのである。
そのほぼ中心、沖縄辺りに邪馬台国があると考えていたのだろう。
その東にそれより小さい島があり、それも倭種の国で、
大島の倭とその東の小島を周旋すると五千里ということか。
379 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/24(月) 12:59:21.68
あるいは東の小島は無視して大島の倭を周旋すると五千里ということか。
いずれにしろ対馬と壱岐は周旋五千里には含まれていないと見るべきである。
沖縄辺りにあると思われていた邪馬台国を九州と見るか大和と見るかは個人に任せよう。
380 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 13:19:53.78
読み方が雑だな。会稽と東冶の東にあるのは、倭国全体ではなく女王国だ。
女王国はかなり大きな領域だということだよ。
使者は、自分が通ってきた行程から朝鮮半島の南端を塩城の東と考えたのだろう。
そして、上海の東が末盧国、会稽の東が女王国の北界、東冶の東が女王国の南界だな。
つまり、九州を実際よりも少しズリ下ろして南にあると思い込んだということさ。
周旋は九州の大きさだ。末盧国から九州東南までな。
381 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/24(月) 16:54:02.59
会稽東冶の東にあるのは倭国全体だよ。
女王国は邪馬台国。
さて帯方郡治は熊岳城。邪馬台国は沖縄辺り。
その距離は約1600km。これが万二千里だから一里は約133m。
これはどちらかといえば短里に近い。
しかし短里の2倍だから短里でもない。
要するに短里というのは空想。
383 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 19:55:33.59
会稽東冶を福州とするのは間違い。
魏志倭人伝の「会稽東冶」は、魏の前政権である漢の会稽郡東冶縣を指すのではなく、
「而夏后帝少康之庶子也 封於會稽 以奉守禹之祀 文身斷髮 披草萊而邑焉」史記
からの引用であり、呉越に関する史料からの引用と思われる。
「会稽東冶」は、会稽の東の開拓地(冶)を意味しているのである。
夏朝少康の庶子無余の時代では、会稽は紹興付近とし、その東冶(東方開拓地)は寧波付近となる。
夏朝時代の東冶を福州とするには会稽から遠過ぎる。
384 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/24(月) 21:29:33.84
>>383 君の説はおそらく正しい。というのも次のような資料がある。
讀史方輿紀要/卷一百六
後漢建初八年,鄭弘為大司農,舊交趾七郡貢獻轉運,
皆從東冶泛海而至東冶,今福建侯官縣,風波艱阻,沈溺相系。
東冶というのは二箇所あったと思われる。会稽の東冶と福建の東冶。
上の文で前者の東冶は会稽東冶、後者は福建の東冶だろう。
385 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/24(月) 21:33:45.28
尚、南冶というのもあった。
通典/卷027
宋有東冶、南冶,各置令、丞,東冶令、丞各一人,南冶令、丞各一人。
やはり東治が正しいのか
賢い人なら東治・南治ってのは役所名だって解る
387 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/24(月) 22:09:06.15
東冶は鋳鉄所、鋳鉄官である。東治ではない。
啓請東冶鍛工 梁書/卷56
啟請東冶鍛工 資治通鑑/卷161
東冶鑄鐵 陳書/卷6 南史/卷10 隋書/卷22
啟請東冶鍛工欲更營造 南史/卷80
宋書/卷39
東冶令,一人。丞一人。南冶令,一人。丞一人。
漢有鐵官,晉署令,掌工徒鼓鑄,隸衛尉。
江左以來,省衛尉,度隸少府。宋世雖置衛尉,冶隸少府如故。
江南諸郡縣有鐵者或署冶令,或署丞,多是吳所置。
平准令,一人。丞一人。掌染,秦官也,漢因之。
で、海竜の影響はどうなんよ?
389 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/24(月) 22:17:58.95
隋書/卷22
東冶者,陳人鑄兵之所。
390 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 22:25:57.76
あーあ とうとう自演までしてくれちゃってさ とうとう専用の便所の落書き帳かよ
391 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/24(月) 22:56:26.49
書きたいことがあるなら何でも書けよ。
もともとここはお前らチンピラの落書き帳だろが。
392 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/24(月) 22:59:05.85
もしかして
>>390は稗箕狐か?
稗箕狐も落ちぶれたものだなw
だんだん素が出てきたなw
一番熱心に落書きしてるのは卑満野郎なわけだが
394 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/25(火) 09:31:10.08
もう一人いるぞ。
南解次次雄、お前だw
お前の熱心さには負けるよ。
そこまで熱心なのに四国説とはこれ如何にwww
そりゃ朝鮮より四国の方がはるかに可能性高いわw
396 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/25(火) 12:34:12.57
もろともにあはれと思へ四国説 ○○よりほかに知る人もなし
「あはれ」の意味知らんで使ってるだろ
398 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 15:37:38.66
>>384 引用まちがってないか?
建初八年,代鄭眾為大司農。舊交阯七郡貢獻轉運,皆從東冶泛海而至,
風波艱阻,沈溺相系。弘奏開零陵、桂陽嶠道,於是夷通,至今遂為常路。
399 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/25(火) 18:36:45.71
>>398 それは後漢書と資治通鑑の原文だな。
讀史方輿紀要は顧祖禹の作。
顧祖禹(1631年−1692年)江蘇無錫人。
顧祖禹の解釈が入っているので必ずしも信用は出来ないか。
しかし江蘇人だから地元の地理には詳しいのかも。
会稽東冶と書かれているのは福建東冶もあったからではないか?
400 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/25(火) 18:44:54.82
皆從東冶泛海而至東冶,今福建侯官縣
もしかしてこれは
皆從東冶泛海而至 東冶今福建侯官縣
と読むのか?
もしそうなら東冶は福建省か…。
山田異国は九州でいいよ
402 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 20:01:13.35
>>400 皆從東冶泛海而至(東冶今福建侯官縣)風波艱阻,沈溺相系。
だろうな。つまり、東冶が福建だという注釈だ。
403 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 22:51:12.91
>>402 会稽の東にある東冶を知らぬ後世の輩が注釈を入れたにすぎないということだ。
404 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 22:58:48.55
まあ、漢文の読み方を知らない連中の屁理屈よりは信用ができるよ。
405 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 23:08:28.30
治:水をおさめる。治水(水をおさめる)
冶:水でないものをおさめる。冶金(金属をおさめる)
古代中国に於いて、田畑耕作民をおさめることは、水を治めることで、
国を治める(政治)ことになる。
田畑耕作をしない漁労民をおさめることは、水をおさめることではないので
漁労民を冶めるとなる。
406 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 23:25:36.73
[
古田は、間違いだらけだけど「東治」は「治める」の文字で改竄は
するなという点だけは、認める。古田のは、これしかまともな解釈は
ないようだ。古田狂信者は居るようだが。
407 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 23:32:49.97
でたらめだな。冶は氷がとけるという意味の字だ。それが転じて金属を溶かすという
意味で使われている。
408 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 23:40:19.20
倭人伝は確かに「東治」とあるが、後漢書には「東冶」とある。どちらが正しいかと
なれば「東治」などという地名はない。晋書も「東冶」、「東冶」で決まりだ。
そうじゃないだろ。
どちらが正しいかとなれば、判断は難しい。
だろ。それが文献処理の王道。
410 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 23:56:30.92
「治」も「冶」もおだやか(にする)の意味だ。
水がおだやかな場合は「治」
水以外のものがおだやかな場合は「冶」 氷が溶ける状態は「冶」
411 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 00:01:18.36
>>409 正しい判断ができない輩はむずかしいと逃げるのさ。
412 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 07:29:35.78
どちらでもいいだろ。
ほんとこれだから邪馬台国オタクは気持ち悪い。
専門家も邪馬台国とは距離置くわけだわ。
時間の無駄。オタクが好みそうな領域だ
413 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 08:02:29.44
そう思うならば近づかないことだ。
414 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/26(水) 09:48:40.01
或以號令,禹合諸侯,大計東冶之山,因名會稽是也。(水經注)
こういう文献を見ると、まず東冶地方の山があり、
それに因んで會稽という地名が出来たわけで、
明らかに会稽と東冶は近く、あるいは同じ場所にあるのである。
だから会稽東冶とは浙江省だろう。
福建省にも東冶はあったのかもしれないが、
会稽東冶と書くことで会稽のある東冶だと明示したのかもしれない。
それに漢文の通例として、東方海上の島の位置を示す場合に、
二点(会稽と福州)の東として示す、というのはあまり無いのではないか。
普通は一点(会稽)の東として示すだろう。
415 :
近視眼思考の虫メガネ談議:2012/12/26(水) 10:27:50.36
能がないと、どんどんマクロ視野に陥って「治だの冶だの」という一字論議に行き着く。
ここ一連の文章を見わたして、何をいわんとしているのか文意をみてみろ。
ここは、倭人の文身に関する説明だ。
それが、夏王朝中興の英傑「少康」の庶子(正妃以外の女性が生んだ子)である無余が、
会稽の地を封(あた)えられて領主となのり、この地の領民(水人)たちに、
肉食大魚の害を避けるマジナイとして龍の文身をすることを教えた。
『史記』以降の中国文献は、これがこの地方の文身のはじまりだとしている。
〔サメは自分の身長よりも長いものは襲わないというから、
この地の水人は全身にウロコ模様=編み目模様の刺青を施して、自分の体を細長い龍にみたてる。
「文身をもって龍子の象(かたち)をする。よって水害を避ける」というわけだ〕。
ともあれ、この無余が興こしたのが越だ。
『倭人伝』編纂者はそうした歴史的経緯を前提として語ってから、
「倭人の文身のルーツが越にあるのではないか」という推測を、
「倭人の住む島はまさに会稽東冶の東にある」という表現で述べている。
古代越の版図は歴史学的にもはっきりしていない。
おそらく『倭人伝』編纂者は、無余の起こした越の版図を会稽東冶の範囲とみなして、
「まさに無余の興した越の東にある」を「まさに会稽東冶の東にある」と書いている。
これが真相だ。
そもそも中国で「会稽東冶」といえば、かつての越地域をいう代名詞のようなものだ。
ここで『倭人伝』が、唐突に「まさに会稽東冶の東にある」と書いたのは、
古来、このあたりから東の海へ乗り出して大海の中にある島をめざした人たちがいたことを、
知識として持っていたということだろう。
この地が倭人のルーツの一つであることは揺るぎない事実だし。
あっ低能伊作だ
ここは、残念ながら伊作の言う通りだな
越は古代倭人と関連が深いぞ
418 :
2ちゃんねるはレベルが低い:2012/12/26(水) 10:51:20.85
過去の議論を知らない新参者が入れ替わり立ち替わり現れて、
レベルの低い談議をむし返して繰りひろげる。
過去の議論を知っている者もいるが、
知らぬふりをしてレベルの低い言説をくり返す。
>416 の名無し野郎などは、
過去の談議を知ってる野郎だから、正論をいえば発言者が誰かすぐ分かるのだ。
なのに、バカげたレベルの低い談議の中を泳ぎ回っている。
正解などどうでもよく、知ったふりして自分の意見をいうだけ。
結果として「2ちゃんねるはレベルが低い」になるだ。
そういう調子だから、来年も進歩しない。
419 :
2ちゃんねるはレベルが低い:2012/12/26(水) 10:54:48.93
>>417 >ここは、残念ながら伊作の言う通りだな
そう思ったら、それでコンセンサスして、皆の知識として、
その知識を踏み台に「次へ」のステップアップをはかれ。
そうすれば少なくとも、「治だ冶だ」などと、
退化したような話が出る事はなかろう。
おまわりさん、伊作が来てます
2chはレベルが低いというか、2chだからレベルが低い
その最大の理由は、自説に凝り固まった人間の吹き溜まりになっていて
自説に都合の悪い事実は見れども見えず、聞けども聞こえずを決め込んでいるから
もうここでしか訴える場のない人間の集まりであって
虚心坦懐な姿勢は微塵もない
それは伊作もまた同じ
422 :
天才は正論しかいわない:2012/12/26(水) 11:18:02.42
魏の公式尺度でいえば、1万2000里は直線距離でジャワ島までとどく。
その1万2000里と書いた『倭人伝』編纂者自身が、
倭人の住む島までの道里(距離)を机上計算すれば「まさに会稽東冶の東」だといっている。
つまり、『倭人伝』編纂者自身がその程度の距離だと認識していた理屈になる。
では『倭人伝』のいう1万2000里とは何か。
こういう発想循環こそが利口者のすることであり、
2ちゃんねるのレベルをあげることなのだ。
すでに述べたことをいえば。海路距離の「表記法」と陸路距離の表記倍率の問題だ。
@海路距離は正確に測定できないから表記しようがない。そこで実際とは無関係に、
1航海を1000里もしくは1日単位で表記。1日航海を1000里単位で表記するのが、
古代中国における通例であること。
A『倭人伝』の陸路距離は魏の公式尺度の6倍で書かれていること。
(短里説とは資料的根拠を異にする)
理由は不明だが、6尺1歩を1尺1歩で書いているのか3000歩1里を50歩1里としているのか、
そういう計算もなり立つ。
するとまた、新たな議論のネタができたことになる。
そうやる中で、正論は素直に正論とみなして一つ一つ合意を得て行けば、
議論は確実に進歩するはずだ。
10年1日のごとく、レベルの低い会話をー繰り返しているでない。
423 :
2ちゃんのレベル:2012/12/26(水) 11:22:05.56
>>420 >>421 何が面白くて生きているのか知らんが、
来年こそは「中身」のある投稿をしてみせることだ。
>>423 つーか論文書いて専門誌に投稿すすめたらどうだ
ここは便所の落書き
425 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/26(水) 12:25:14.39
で、結局伊作は会稽東冶をどう解釈しているのか。
会稽東冶(浙江省)か、会稽と東冶(浙江省と福建省)か。
それにこういう資料もある。
彭湖島在琉球國 水行五日(明一統志)
福州海中有彭湖島 相去三千里 自福州順風而往 不半日至也(玉堂薈記)
三千里が水行五日だから水行一日は六百里になる。
またこういう資料もある。
不遇逆風,一晝夜水行四百餘裡,逆水亦行百餘裡。 (天工開物/雜舟)
いろんな資料があるのである。
古代に於いては一日航海千里単位表記が通例であると伊作は言うが、
伊作の挙げた資料の中にも百里単位表記があったと記憶するがね。
426 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/26(水) 12:29:37.84
A『倭人伝』の陸路距離は魏の公式尺度の6倍で書かれていること。
こんなことも嘘っぱちである。
帯方郡はソウルに在ったと考えているからこんなことを書く。
伊作がその後全然勉強していないことがこれで分かる。
427 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/26(水) 12:38:04.51
伊作や九州論者がなぜこんなことを書くかというと、
現代の地図を見て物を考えているからである。
当時は正確な地図などなく、
陳寿はただ資料にあったことをそのまま書いただけなのである。
半島南岸と対馬は千里も離れていると思っていたのである。
地図を見て半島南岸と対馬の距離を千里と書いたのではないのである。
あるいはそのような非常に離れている距離に描いてある地図があったのである。
九州論者は、このことが、何度言っても理解できないのである。
428 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 13:41:33.97
429 :
鋭利庵:2012/12/26(水) 14:18:38.72
>>425 >伊作の挙げた資料の中にも百里単位表記があったと記憶するがね。
それが正直な証拠だ。
目測可能な3〜400里程度は、ごく稀に百里単位で書かれていると提示したのだ。
>>426 >こんなことも嘘っぱちである。
『三国志』の記録事実から導き出した事実だ。明確な根拠を提示した。
自論に都合のいい記録はないかと文献漁りをして、
二流・三流、異聞とされる文献の部分的記録に飛びついて、
その文献の資料価値や記録の信憑を検証することなく引用する。
この不正な手法を駆使して、つまらん願望妄想を害宣しつづけるドンキホーテ。
てめえがいるから、ここはつまらなくなったのだ。
2ちゃんでも少ない「まともな奴」はあきれて皆去った。
いっちょ前のツラして、いつまでのさばる気だ? ドンキホーテ
まあ・・・あきれてというか
半分は満州の境遇が気の毒と思って去っていった
本人にはわからないだろうが
431 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/26(水) 17:17:08.42
>『三国志』の記録事実から導き出した事実だ。明確な根拠を提示した。
ほう、面白いじゃないか。
三国志のどこにA『倭人伝』の陸路距離は魏の公式尺度の6倍で書かれていること。
という記事があるのだ。馬鹿じゃないのか、お前は。
帯方郡はソウルだと思っているからお前はそんな計算をしたのだろが。
違うか? なら帯方郡がソウルだという根拠が三国志のどこに書かれているというのだ。
挙げてみろ、馬鹿者。
432 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 18:41:25.09
キムチに触れるとノロ感染で危険
433 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 18:44:08.04
自論に都合のいい記録はないかと文献漁りをして、
二流・三流、異聞とされる文献の部分的記録に飛びついて、
その文献の資料価値や記録の信憑を検証することなく引用する。
この不正な手法を駆使して、つまらん願望妄想を害宣しつづけるドンキホーテ。
んんん 良く書けてるわあ
卑満児が
>>369で引用している、
>莖大如箭方根黄色 或生會稽東冶 (呉普本草)
について、ちょっと調べてみた。
呉普本草とはどうも植物について説明した植物辞典のようなものらしい。
大茶?という植物について説明した件で、
>秦大茶?,生南越山或益州。叶如葛,赤茎,大如箭,方根黄色。或生会稽?冶。正月采。
南越山あるいは益州に生育してて、あるいは会稽?冶にも生育してる、ってことのようだ。
引用部分の区切りも滅茶苦茶だし、どうも卑満児は意味も解らず単語にだけ反応してるみたいだ。
さあー、盛り上がってまいりましたぞ!
436 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 20:31:15.48
やめい!邪馬台国九州説でない者は他のスレへゆけ。ここは九州説板なるぞ。
九州説同士で丁々発止やらんから
いらんカビがはびこるんだよ
何故やらんね?
このスレ的には北部九州説じゃない人が多いんだろ
で、自動的に九州王朝も否定
東遷はあり、と
438 :
鋭利庵:2012/12/26(水) 21:04:47.20
>>437 >このスレ的には北部九州説じゃない人が多いんだろ
>で、自動的に九州王朝も否定東遷はあり、と
その通り。
都は上古音ではtag(タ)、中古音ではdu(トゥ=ツ)。隋の時代は中古音の時代だ。
博多を文字通りに読めば「はくた」で、好古都を上古音で読めば「はくた」になる。
これと同じく伊都を上古音で読めば「いた」になる。
都を「と」と読むのは平安中期の8〜9世紀以降だ。
7世紀に書かれた『隋書』が対馬を「都斯麻」と書いて都を「つ」と読ませている。
都を「と」と読む漢音(唐音)は、8〜9世紀頃の唐代に始まる。
8世紀初頭の当時最新の『古事記』と『日本書紀』が都をことごとく「つ」と読ませている。日本古来の地名・人名もことごとく「つ」と読む事実。
そして、時代ごとに伊斗から怡土へと変遷する「いと」の漢字づかいが「伊都」ではない。
●福岡県糸島の由来となった「いと」に関する文字づかいに伊都と書いた古文献はない。
・伊斗の村『古事記』
・伊覩の県『日本書紀』
・怡土城『続日本書紀』
・怡土郡『倭名抄』
・怡土村 (明治時代)
・糸島郡〜糸島市 (近代〜現代)
●宮崎県西都市の西都原は、古くは斎殿原(さいとのはる)といった。
これが「さいとばる」と詰まるのは江戸時代で、これに西都原の文字を当てた。
だが、西都原以前の子湯の県(あがた)時代からこの地の中心だった都満(都万)という地名は、
現在でも「つま」と読む。
これら事実をみても、3世紀の古代中国人が書いた伊都を「いと」と読む証拠はない。
都を「と」と読むのは平安中期の8〜9世紀以降だ。
この新しい読みで伊都を「いと」と読んで、何の関係もない怡土とくっつける。
こんな詐欺めいた読みでたどる法外な道のりが正しいわけがないということだ。
439 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 21:04:54.31
北部九州説ですが、何か?
博
意義
1.(知識などが)ひろい。
表意によるものかもしれない
博多の名称は、「続日本紀」759年(天平・宝字3)項の「博多大津」が初見
442 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/26(水) 22:08:25.05
>>434 バカな奴だな、どうせ四国説のアンポンタンだろうがw
長文を引用すると嫌われるだろうから肝心な部分だけを引用したのだ。
或いは會稽東冶にも生える、という意味であることくらい、
私が引用した部分だけで分かるだろうに。
そんなことも分らないからお前らは19歳に
こんなことも分らんのか!と言われるのだ。
443 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/26(水) 22:26:02.93
都の上古音や中古音が何かは知らないが、ネットで調べると−
中国音(du)(dou)
日本音(to)(tsu)(cho)
朝鮮音(to)
ところで伊作は伊都国をどこに比定しているのかな。
独自の説があるなら聞かせてもらいたいものだ。
444 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/26(水) 23:28:54.16
伊都国は元は伊蘇国と言ったのである。
伊蘇はイソかイスだろう。
イソが訛ってイトになったのであって、
倭人伝の時代には既にイト国と呼ばれていたのかもしれないのである。
ちなみに土は、ネットで調べると
中国音tu du cha
日本音(do)(to)
朝鮮音(twu)(tho)
445 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/27(木) 09:59:10.19
三国志全文検索というサイトで都を調べると−
一般名詞 都尉 都督 京都 都護
固有名詞 武都氐王楊僕 陽都君 都鄉侯 都許 都亭侯 中都公
成都 山都之山 琅邪陽都人 許都 宜都太守 廣都長 新都郡
で、これらがタと読まれたかというと、どうもそうは思えない。やはりトだろう。
日本書紀に伊蘇が伊覩と書かれていることを見ても、
伊蘇が伊都国であることはほぼ動かし難い。因みに覩は
中国音 du 日本音 (to) 朝鮮音 (to)
絵画連想的には、卑弥呼の背後には煙を吐く火山の背景が欲しいな
満州クンは何でも熱心だね
449 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 13:21:44.34
450 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 15:13:08.06
451 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/27(木) 18:53:43.89
今日、九州説に有利と思われる資料を見つけた。
まともな資料である。中国正史と日本書紀。
ただし倭人伝を、こじつけとも思えるような解釈で読む必要がある。
452 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 19:24:06.34
>>438 >伊都を「いと」と読んで、何の関係もない怡土とくっつける。
同意。
伊都は「いつ」と読む。
伊都は倭都。
女王國成立までの倭の都であったところ。
倭の都にいたのは倭國帥升王統の世有王。
倭の都は怡土ではなく末盧國東南五百里の佐賀平野。
帥升は倭米多國(倭面土國)に都する倭國王
453 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 22:38:39.60
454 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 22:57:20.93
455 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/28(金) 10:20:49.19
新唐書 新羅
國大亂,三歲乃定。於是,歲朝獻。
建中四年死,無子,國人共立宰相金良相嗣。
八世紀の記事だが、倭国大乱とそっくりの記事である。
ネット史等にもこういう記事はしばしば現れる。
倭国大乱を日本のことだと早合点してはいけないぞ、チミ達。
456 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 10:30:42.98
>>455 帯方郡の東南大海中の倭国で大乱なのに?
金印を受けているのに?
三韓は印の授与さえないのに?
457 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 10:38:59.94
この上津天満宮は、大善寺玉垂宮と高良玉垂宮の間にありますね。
大善寺玉垂宮から、上津荒木川が上津天満宮まで伸びており、
ここまでが水路であったと思われます。
地名の「上津」は、おそらく上流の港の意味で、
有明海−筑後川−広川−上津荒木川(大善寺玉垂宮)−上津荒木川(上津天満宮)−
陸路−高良内−御井−高良玉垂宮への道でしょう。
古墳群としては、大善寺玉垂宮の御塚権現塚古墳、
上津天満宮の浦山古墳。
高良玉垂宮の祇園山古墳などは有名どころでしょう。
ところで、トヨ姫さんは玉垂命と結婚したとすれば、
それ以前はどちらにいらっしゃったのでしょうか。
玉垂尊が、景行天皇の説話の元の人物だとすれば、
熊襲退治の際に、大分や宮崎、熊本のどこかから
連れてきたのかもしれませんね。
458 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/28(金) 12:21:51.39
>>456 倭が帯方東南大海中にあると分ったのは陳寿の時代。
倭国大乱の時代の倭がどこかは不明。
三韓が印綬を受けていることは三国志韓伝に明記されている。
459 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 15:03:48.92
それを言うならば、魏の時代だろ。それに倭国乱のときの倭は帯方東南大海中だ。
魏志の文章からして当然そうゆうことになる。
460 :
ローガン:2012/12/28(金) 15:55:10.47
樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云。如淳曰「如墨委面、在帶方東南萬里。」(漢書)
倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑。舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國。(三国志)
どの時代も中国が認識した「倭」は日本。
461 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 16:34:00.90
いずれも九州のことだよ。日本というのは、日本列島全体だということかな?
もしそうならば、それは思い込みにすぎない。
漢時代や魏時代には本州が島だとは認識されていない。そのことは旧唐書でも
みれば明らかな話だ。
462 :
ローガン:2012/12/28(金) 17:21:18.07
>>461 >旧唐書でもみれば明らかな話だ。
倭國一名日本 在中國直東 扶桑國復在倭國之東,約去中國三萬里,蓋近於日出處。
倭国=日本なのは、旧唐書より前の通典でも見れば明らかな話だ。(笑)
463 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 17:48:03.12
通典も旧唐書もかなり後世の書だけどね。
464 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 18:18:10.60
ローガンは「日本」ですべて済ませちゃうのが得意
465 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/28(金) 18:28:26.66
漢書は75年-88年頃に書かれた。その地理志に玄菟、樂浪の説明があり、そこに
樂浪海中有倭人
と書かれている。で、玄菟、樂浪の位置についても書かれている。
自危四度至斗六度,謂之析木之次,燕之分也。
析木はかつての析木県で今の海城市の近くである。
すると樂浪海は今の遼東湾か、あるいはうんと譲歩しても今の西朝鮮湾だと分かる。
その辺りにいたのが倭人である。その辺りから朝貢してくれば、
倭国、倭王が朝貢してきたと書かれるのである。
倭奴国、倭国王帥升もその辺りから来たのかもしれないのである。
如淳 生没年不詳。三国、魏の馮翊の人。 官は陳郡丞。漢書に注す。
如淳が倭を日本に比定しているからといって、卑弥呼の倭が日本とは限らない。
微妙な問題であって、絶対に日本であるとは断定できないのである。
466 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/28(金) 18:36:30.87
その証拠と言っては何だが、陳寿は明らかに南韓にも倭があったと認識している。
実際には南韓には加耶等の国があったのだが、加耶等を倭と認識しているのである。
さらに後漢書に於いても檀石槐が東の倭人を捕らえたとあり、
これは西遼河の東を指していることはほぼ間違いない。
原文は汗人だが、わざわざそれを倭人と書き換えている。
范曄はその辺りにいるのも倭人だと思っていたのである。
467 :
サガミハラハラ:2012/12/28(金) 18:41:04.79
チンジュは倭人伝を記述するにおいてなんにも認識していませんよ。
あちこちの資料を、こここうかな、ぐらいにしか考えずにあわせていっただけなのです。
468 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 21:44:10.43
>>462 >倭国=日本なのは、旧唐書より前の通典でも見れば明らかな話だ。
違いの分からん奴だなあ。扶桑国が東にあると言ってるんだから、通典がいう日本は九州のことだろうが。
私は日本か列島全体のことならばって断ってるだろ。
469 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 23:37:29.96
>陳寿は明らかに南韓にも倭があったと認識している。
無理だって。帯方東南大海之中とあるんだから。
あくまでも主張するならば、倭の国は何て呼ばれていたの?
470 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 23:52:11.21
邪馬台国は久留米から大牟田あたりだろ
狗奴国が熊本北部
471 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 01:04:47.73
邪馬台国は、浮羽朝倉大宰府久留米八女あたりだろう。
投馬国は、城島三潴大川柳川みやま大牟田あたりだろう。
狗奴国は、緑川以北の熊本平野あたりだろう。
472 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 08:41:53.78
古事記によると、九州は
白日別、豊日別、建日向日豊久士比泥別、建日別、であり
肥前国風土記によると、
筑紫国、豊国、肥国、熊曽国
である。
473 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 08:46:08.13
ついでに、景行天皇の熊襲退治は、九州東側の
北九州から、東側に沿って南下し、宮崎で退治を終えている。
その後、数年を宮崎で過ごし、熊本経由で筑紫平野まで帰ってくる。
474 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 08:47:10.24
筑紫からあと、畿内まで帰った記述はない。
475 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/29(土) 09:19:20.51
訂正 謂之析木之次
この析木とは古代中国における天球分割法の十二次の一つ。
地名の析木とは何の関係も無い。
>>469 馬韓も弁韓(弁辰)も南で倭と接すると書かれているだろ?
加耶などの国を倭と誤認していたということだよ。
476 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 09:23:53.47
日本書紀景行紀19年秋9月20日に、天皇は日向から大和にお帰りになった。とありますよ。
477 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 09:31:12.99
>>476 景行天皇は、宮崎で熊襲を退治した後、
熊本周辺を巡幸して、筑紫のハキまで帰ってきてるはずだが、
日向から帰ったということは、
そこから再び宮崎に戻ったということですかね?
478 :
鋭利庵:2012/12/29(土) 09:56:10.60
ついでに。
熊襲は熊本では人吉と玉名だけで、
北部九州(福岡県と大分県)が本場だった事実を認識するといい。
熊本と熊襲は何の関係もない。隈本を熊本にしたの加藤清正だ。
熊本の「熊」と熊襲の「熊」を短絡直結する愚かさを知れ。
熊本は歴代、朝廷側に恭順な土地柄だった。今も尊王の精神が息づく。
479 :
鋭利庵:2012/12/29(土) 09:58:12.74
狗奴国は九州にあったはずだが、
おそらく、球磨の地名を残す人吉盆地が本拠地だろう。
熊本平野と人吉盆地をごっちゃにするな。
480 :
鋭利庵:2012/12/29(土) 10:40:58.91
熊本平野は弥生の鉄器生産の本場だっただけではない。
平地で稲作、広大な台地で畑作、眼下の内海で漁労と、
食料生産でも一等地で、弥生の人口密集地だ。
熊本平野までが女王国の領域だったのだ。狗奴国はその南にあった。
いつまでも「時代遅れの差別史眼妄想」を書き並べるでない。
481 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 11:13:00.61
すくなくとも、熊本は肥国であり、
肥国と熊襲国は別物である。
人吉、都城あたりが熊襲国との境界だろう。
時代によって変わっているようだが、
現在の県境では、人吉は熊本、
えびの、都城は宮崎である。
境界の多くは地勢などで決まり、余り変化しないことがおおい。
従って、人吉は肥国
えびの、都城から先は熊襲国と思われる。
人吉-えびの間が、いわゆる熊襲国との境界線だろう。
玉名から八女の間、だいたい南関あたりは、
久留米あたりを本拠地とする投馬国との境界だろう。
482 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 12:33:22.59
みんな狗奴国に振り回されているようだな。狗奴国というのは、後漢書が書かれた時代には
すでに存在しなかった、だから後漢書は東渡海千里の地に狗奴国を比定するというとんでも
ないまちがいを犯したのだ。
200年もたたないうちに場所もわからなったのは小国だからだよ。倭人伝を読めばどこに
も大国だとは書いてない。官も1人だけ。しかも、その書き方は邪馬台国と狗奴国とが対立
してたわけではない、卑弥呼と狗奴国王とがいがみ合ってたというだけの話しだ。
そこに注目すれば、狗奴国王というのは、卑弥呼共立によってはじき出されたそれまでの倭
国男王だったのではないかということになる。卑弥呼の死亡後に狗奴国は邪馬台国連合倭国の
一員にもどった、それが真相だろうな。
483 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 12:43:44.97
邪馬台国が魏に窮状を訴え救援を求めたくらいに狗奴国は強いか近い
484 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 12:55:57.30
邪馬台国女王の都は宮崎県高千穂町なりの説が新登場したらしいですな
485 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 13:18:01.82
女王國と狗奴國の境は、現在の福岡県と熊本県との県境。
倭奴国は西暦106年に帥升に破れ消滅
女王國は帥升倭國の中心地
狗奴國は東鯷人国の中心地
女王國は筑紫平野(筑後川流域・矢部川流域・嘉瀬川流域)15万戸
狗奴國は熊本平野(菊池川流域・白川流域・緑川流域)推定10万戸
卑彌呼の都は久留米
卑彌弓呼の都は山鹿
486 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 13:29:14.17
487 :
ローガン:2012/12/29(土) 15:20:59.59
>>468 >通典がいう日本は九州のことだろうが。
もちろん九州も日本だが、九州だけが日本じゃない。
通典に先立つ「送祕書晁監還日本國」
安倍仲麻呂の帰ろうとしたのは、日本。
488 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 15:54:42.65
通典がいう日本と「送祕書晁監還日本國」にいう日本は違うんだよ。後者には
扶桑国はでてこないだろ。
489 :
ローガン:2012/12/29(土) 16:37:05.31
>>488 君が勝手にそう思ってるだけ。
扶桑「国」の記述出てくるか否かで、中国が認識した日本を、区別出来るなんて馬鹿げている。
結論先取りと云う以外にないなあ。
490 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 17:26:05.21
通典を表した奴が間違えているだけだよ。倭国=
491 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 17:30:21.10
日本国というのは、7世紀以前にはなかった呼称だ。旧唐書の書くところに従えばそれは
本州のことだよ。そこのところを、通典を表した奴が間違えているだけだよ。
倭国=日本国とするならば倭国の東に扶桑国があるなんて書いてはいけなかっのさ。
492 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 18:33:34.48
493 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 18:39:29.48
494 :
ローガン:2012/12/29(土) 18:48:15.53
>>490 >通典を表した奴が間違えているだけだよ。
了解。都合の悪い記述は 間違いだと云う主張ね。
495 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 19:05:23.92
天孫降臨は大陸からの渡来。船で渡ってきたことから鹿児島県笠沙に上陸し、
大隅半島肝属川河口から再上陸し北上。当時高千穂などの名称はなかっただろうから、
渡来人が最初に目撃した山は野間岳か開門岳、金峰山。それか郷里の山に似ていた
霧島の高千穂の峰のことか。高千穂町の高千穂は単なる山岳信仰か肥の国の影響か?
496 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 19:11:56.88
ひのもとははかたにあったとかしらんのね。。。
日の大将軍
498 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 19:44:40.28
>>494 間違いではないというならば、扶桑国はどこ?
499 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 20:20:18.00
>>498 扶桑國=播磨國
老眼は嘘ばかり。
いや、老眼は嘘を信じ、嘘に心酔しているのだ。
老眼は嘘を真実だと信じ込んでいるのだ。
500 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 21:25:38.86
>>493 ホケノ山古墳は畿内説の象徴のような古墳だな。
ホケノ山古墳は3世紀に作られた最古級の古墳であることが大前提。
ホケノ山古墳を築く際、堂ノ後古墳の周濠の一部を切り崩したような跡が
見つかり、堂ノ後古墳の方が古い可能性が指摘される。
桜井市教委が今年6〜7月に堂ノ後古墳の前方部を発掘したところ、
5世紀後半の円筒埴輪や須恵器の破片などが見つかった。
堂ノ後古墳はホケノ山古墳を作る際に一部が切り崩されたはずなのに、
ホケノ山古墳よりも200年以上新しいことになった。
http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009122101000262.html 畿内説の年代観は、にわかには信じられない。
501 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 21:36:54.81
古墳の年代ってのは、非常に難しいってことだね。従来、古墳の年代は、畿内で古墳が発生し
それが全国に波及したという前提で割り振られていた。そのうえで、畿内の古墳が古くて大きい
からそこに権力の中枢があったことは間違いないって説明していたわけさ。
畿内説を前提に古墳の年代を決めて、古墳の年代から畿内説の正しさが証明できるという循環
論法をとってきたわけだ。少し冷静に考えれば、いきなり最初に大きな古墳ができましたなんて
のがおかしいことはすぐ分かるはずなんだがねえ。
502 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 21:42:48.28
埴輪とか祭祀に使ったであろう土器で年代が最も後のものを推定築造時期とするよね普通は。
503 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 21:49:28.98
>>501 以前の考古学は、実年代を言わなかった。畿内W期みたいな言い方をしていた。
いつからか実年代をいうようになり、また、それを根拠にするようになった。
たとえば、箸墓は3世紀中ごろの古墳だから、卑弥呼の墓であり、纏向が
邪馬台国だみたいな。
考えてみたらおかしな話だな。
504 :
ローガン:2012/12/29(土) 23:59:18.57
>>498 >間違いではないというならば、扶桑国はどこ?
どこかなんてわかる訳が無い。諸説あれど、「解る!」と明言する輩が居れば、そいつは馬鹿。
ゆえ、わからなければ「通典の記述自体が間違いであることを首肯しろ」と取れるような書き込みは、嘲笑以外に無い。
>>499 >老眼は嘘を信じ、嘘に心酔しているのだ。
だが君は、何が嘘で何が真実かを、根拠を挙げて述べることは出来ない。
505 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 00:18:44.38
そうかね。私には分かるよ。倭国の東にある扶桑国といえば、本州以外にあるわけがない。
説が分かれているという大きな理由は、倭国=列島だと思い込んで説明しようとするからだろう。
506 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 01:00:19.44
>>504 >何が嘘で何が真実かを、根拠を挙げて述べることは出来ない。
真実はわからないが嘘はわかる。
倭國=列島は嘘
邪馬台国奈良盆地説は嘘
507 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 01:09:35.76
伊作って死んだの?
508 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 01:32:53.19
森村伊作は死んだのかなぁ?
小生は癌の手術をして死にそこねたんだ。
510 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 12:50:42.14
ローガンが持ち出した倭國一名日本 在中國直東 扶桑國復在倭國之東,約去中國三萬里,蓋近於日出處。という記事と 旧唐書
の記事を対比すると、倭国は九州、日本国は本州ということがよく分かるな。
倭國・・・東西五月行、南北三月行。世與中國通。・・・四面小島五十餘國皆附屬焉。(『旧唐書』倭国伝)
日本國・・・其國界東西南北各數千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山爲限、山外即毛人之國。(『旧唐書』日本国伝)
511 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 13:32:48.11
生きてるなら生きてると一言書いてくれればいいのに
513 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 13:41:36.46
>>510 三国史記の新羅本記には、
670年 12月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、
日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。
と書かれていて、倭国が国号を日本に改めたとある。つまり、倭国と日本は
同じということになる。
唐にはそれがうまく伝わっていなかったのだろう。
九州の場合は、南北の方が長いから、「東西五月行、南北三月行」と
いうことはないな。
倭人伝の「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」
なんてのも見ていて、ちょっと混乱しているのだろう。
514 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 14:03:42.56
>>513 >倭国と日本は同じということになる。
それはいいんだよ。だが、問題はその領域だ。 九州を本拠としていた倭国か、植民地
としていた近畿にその本拠を遷しただけだとしたら? 倭国と日本国は実態は同じだが
領域はちがってみえる。
>九州の場合は、南北の方が長いから、「東西五月行、南北三月行」ということはないな。
そんなことはない。東西の方が山地に遮られているからずっと長い日数がかかるのだよ。
それに、倭国を列島全体だと考えた場合、東西五月、南北三月では絶対に無理だ。
南北といえば、青森から大隅半島までだぞ。
倭の地が周旋五千里というのは、ぐるっと巡って行った距離、それが四百キロ程度だと
いうことだ。末盧国から四〇〇では、本州に渡った場合、せいぜい中国地方までだ。
515 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 14:12:34.61
>九州の場合は、南北の方が長いから、「東西五月行、南北三月行」と
>いうことはないな。
九州の場合は、南北の方が長いから、「東西五月行、南北三月行」と書いたのだ。
旧唐書は隋書から間違えた引用をしている。
>倭国が国号を日本に改めたとある。つまり、倭国と日本は同じということになる。
旧唐書では、日本のいわれについては3説があるので、どれかはわからないと書いてある。
唐にやって来た日本人が変な奴だからと。
516 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 16:20:46.15
九州は東西250キロ、南北400キロ程度。
東西五月行南北三月行をそのままとれば、一月は、50キロから130キロの間といえる。
また、東西と南北が逆だとすれば、ほぼ80キロである。
どちらにせよ、一月行は80キロ程度を示唆している。
なぜなら倭人伝に出てくる倭国の範囲は九州島を指しているのは自明だからだ
519 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 17:44:15.57
帯方郡から1万2000里だって総括してるのだから、1万2000里の範疇。九州しかないよ
ここは九州スレだからそれはそうだろ
問題は九州のどこなのか、だ
これを隙なくガンガンやらんと他国国籍がどんどん入り込んでくるぞ
521 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 18:10:32.85
百済(全羅北道・旧全州)と耽牟羅國(済州島)の距離は海行三月(約250km)。隋書百済伝
故に、一月行は80km程度を示唆している。
とっくに議論されてるんだろうけどそのへんがよく分からない。
>次有斯馬國 次有已百支國…次有奴國 此女王境界所盡
狗邪韓國から奴國まで10600里、1万2000里は邪馬台国の境界までかと思ってるんですけど…。
10600〜12000里の1400里100km余が奴國の領域として、12000里から邪馬壹國?
斯馬國や已百支國はいったい何処へ?
共立王国の内の諸侯みたいな感じでいいのでしょうか。
523 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 18:23:25.04
>>512 お静かに、お静かに。
来る年に備え、いま天の岩戸で大作を執筆中でいらっしゃいますぞえ。
旧著:南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月。
新作:南至邪馬壹国之女王之所都。水行十日、陸行一月。
524 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 18:32:46.25
天の岩戸に御籠りなされたのは♂のおひと。
末廬国や伊都国も奴連合王国内の侯国で1万600里は奴国の都所在地、
12000里は奴連合王国と邪馬台連合王国の境界、
奴国2万戸はそれら候国の総計、邪馬台国7万戸も同様…とかでしょうか?
>>523はヒント?
526 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 19:21:36.35
万二千里で着くのは女王国の入り口だよ。魏志は行程記事の場合には首都など
訪ねた地点を基準に書いているが、国がどこにあるのかを示す場合などはその
領域が始まるところを書いている→高句麗伝など。
万二千里も女王国が始まる所だ。そして、女王国には旁国や邪馬台国、投馬国が
含まれる。斯馬國や已百支國は万二千里よりも遠いところにあるんだよ。
伊作先生って本を出すの?
みまかられるんじゃないか そろそろ
529 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 20:21:24.89
遺作せんせ〜い、遺作せんせ〜い
530 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 21:17:33.00
>>523-526 帯方郡から伊都國まで11900餘里。(對海國と一大國の半周1400餘里)
伊都國の東南100里が奴國、
帯方郡から奴國までが12000餘里で女王國となる。
又、伊都國の東100里が不彌國、
帯方郡から不彌國までも12000餘里で女王國となる。
奴國と不彌國は女王國を構成する国。
伊都國は女王國に含まれないが、奴國と不彌國は女王國の入口の国。
伊都國は女王國への入国許可が出るまでの待機場所。
不彌國の南に投馬國と邪馬台国がある。
投馬國へは帯方郡から水行20日かかる。
邪馬台国へは帯方郡から水行10日と陸行1月かかる。
(「水行1日」と「陸行1月」は距離の単位で其々約1000里)
女王國以北には、斯馬國〜奴國の21ヶ国があるが、
魏使にとっては、遠絶なので詳しいことは不明である。
女王國の南の端には投馬國と邪馬台国があり、
その南には敵対する狗奴國がある。
531 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 22:54:40.11
いくらこじつけたところで、漢文としてありえない勝手な読み方ではだめだね。
邪馬台国は今の奈良付近
九州は現在もそうだが罪人等熊襲しかいなかった野蛮な地域
533 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 03:18:23.19
奈良には弥生遺跡は少ない。
福岡県と兵庫県が同じ程度。
兵庫県に邪馬台国があるという主張なら、
まだ考慮する余地はあるが。
仮に畿内だとしたら、卑弥呼が古墳時代の王だとしても、その伏線として、大乱の痕跡を伴う弥生遺跡が日本列島で一番豊富になければおかしい。
出土している弥生の鉄・絹・銅鏡は、「邪馬台国は北部九州以外にありえない」と言っているのだ。
しかも、畿内の弥生遺跡、池上曽根遺跡、唐古鍵遺跡はともに大乱の痕跡などまるでない平和遺跡。
考古学が畿内説を裏付けている、というのは畿内派による風説の流布に過ぎない。
535 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 08:10:37.12
畿内が駄目だということは寺沢など考古学者も認めるようになってきた。
もはや問題は、畿内へ来た勢力はどこから来たのかということなんだよ。
536 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 08:29:48.90
ゴッドハンド東北にあれば良かったのに
まあ未開人や戦争犯罪人の宝庫蝦夷はシベリアの流刑地に近いからありえんわな
畿内説と九州説の融合を図りたい(どちらも正しい説)
倭王の遣使を見ると57年の漢委奴国王、107年の帥升と来て、その次は239年に飛び、
240年→243年→245年→247年→248年→266年と立て続けに行われている
中原の中華皇帝は朝貢してきた国に対しては、献上品より豪華な品々を下賜しなければならないため、
建国や王朝交代、王様の代替わりなど重要な報告以外は、やたらに朝貢してはいけない決まりになっていた。
それにもかかわらず239年〜266年までの27年間で7回も(4年に1回)の朝貢は異常
よって、東に遷都したため、臨時の報告義務が生じ朝貢したものと思われ、
魏使は九州時代の邪馬台国と大和時代の邪馬台国の両方を記述する必要から、位置情報に混同が生じ、
今日に至る(確証のある何で終結させるのか不明な)九州説と畿内説の不毛な争いの元となった希ガス
偉大な女王・卑弥呼の死後、まず九州で直径100歩の塚に葬られた後、東遷後に箸墓が造営されて改葬され、
そこで改めて行われた台与の即位式が墳丘上で行われたものと考える
【訂正】
そこ(箸墓の墳丘)で改めて行われた台与の即位式が、大和朝廷の前方後円墳築造の原点になったものと考える
539 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 12:30:40.73
親魏倭王の金印とか、その後の軍事支援なんて破格の待遇をみると
卑弥呼は曹操の遠縁だったとかの縁を感じさせるな
540 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 12:41:22.36
>>537 下手の考え休むに似たりという言葉を知ってるかな?
541 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 12:48:31.05
>畿内が駄目だということは寺沢など考古学者も認めるようになってきた。
>もはや問題は、畿内へ来た勢力はどこから来たのかということなんだよ。
畿内に来た勢力は四国阿波から。
ルート
@阿波→淡路→和泉→河内→大和→山代→東摂津(垂仁の畿内統一)
A阿波→淡路→西摂津↗↗河内と合流
542 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 13:07:56.43
考古学者は中立じゃないと、参考になる資料が出てこない。
畿内説にとって都合の良いものばかり出てきても日本のためにならない。
543 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 13:12:41.45
畿内論者も、まもなく白旗だろ
猿から原人、そして人に進化したこと自体が不自然。
ここ5000年はまったく外見的進化してはいないし、昔の気候は今より寒いので寒さをしのぐのにはどうしたのか?
真っ裸で狩りしたり、そもそも服はどうやってつくったのか?というよりも寒すぎて死ぬだろ。
服がつくられる前は真っ裸だったからガチで死んでてもおかしくないだろ。
服つくるにしても動物からでかい動物から革はぎ取らなくちゃあならない。
てか群れて動く猛獣やマンモスみたいなでかい動物を至近距離で手作りの強度の弱い石槍で仕留めれるはずない。
仮にしとめられても絶大な損害をこうむったはずだし、肉も腐った状態の物を食ったりするかもしれないから病気とかでも死ぬだろ
545 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 17:06:28.70
>>544 数千万年前の原種猿が数億分の一の確率で生き残ったのが、
現在の猿であり類人猿であり人類であることを知らないようだ。
原種猿の子孫のほぼ全ては滅んでしまったのである。
546 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 17:17:20.39
その確率は数億分の一どころか、数兆分の一、数極分の一かもしれないのである。
現在の存在は、奇跡の生存と考えるべきだと思う。
547 :
卑弥呼は満州にいた:2012/12/31(月) 17:19:35.36
猿が人間に進化したのではな〜い。
猿が人間に進化したという学説は嘘であ〜る。
ほぼすべて滅んだなら類人猿も滅んだと考えるべき。そんな偶然は無いと思うよ。滅ぶ理由としては猿人すべてが影響される大規模なもの。
そんな大規模的に死亡する要因があったにもかかわらず生き残るのは不可能。当然他の生物にも影響はあったろうから食物とされる動物も減り生き残るのはさらに厳しい
あくまでそう記されてる、言われ続けられているのはもっともらしい過程なだけであって正解では無いもの。正解と仮定されているだけのもの。
死ぬほど寒くて着るものを作成したのに、作成する前はどうやって生き残ったのだろうか・・。てか手足凍傷で使用不能でしょ。
赤ちゃんとかどうやって生き残ったんだ?
進化説は否定する材料がいっぱいある。
人類は一度、絶滅の危機に瀕した
1000人ほどがアフリカの洞窟を根城にかろうじて生き延びた
その時に、疫病?寄生虫で?で体毛を失ったと言われてる
550 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 17:59:10.00
体毛を失ったから今日人類の発展がある
もし体毛が残りせば、いまだ毎日ノミ取りに忙しいからな
551 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 18:25:11.01
人類が得た省エネ長距離移動能力が体毛を失わせたのである。
体毛を失わなかった人類は滅んだのだ。
人類とチンパンとの分岐は470万年前と計算されている。
553 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 19:55:02.74
554 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 20:48:30.87
556 :
日本@名無史さん:2013/01/01(火) 19:14:43.62
スレチは出て行ってくれ!
遺作 倭人伝(距離里数の要点を抜き書きすればこんなんでどうかな)
從郡至倭、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
始度一海千餘里至對馬國、南渡一海千餘里至一大國、渡一海千餘里至末盧國。
東南陸行五百里到伊都國、東南至奴國百里、東行至不彌國百里、
(南至投馬國水行二十日)←時間的な形容描写の挿入
南至邪馬壹國女王之所都(差引陸行千三百里)。
(水行十日、陸行一月)←時間的な形容描写の挿入
自女王国以北其戸数道里可得略載。
自郡至女王国万二千余里。
遺作 倭人伝
(始度一海)
大海の中にある倭への旅の始点はここからである
(南至投馬國水行二十日)←距離里数を伴わない時間的な形容描写の挿入
旅の始点から船二十日で投馬国の港に着く
あえて距離里数を書かないことで、女王国より南にあることを示すものである
南至邪馬壹國(差引陸行千三百里)。
(女王之所都水行十日、陸行一月)←距離里数を伴わない時間的な形容描写の挿入
南に行けば邪馬台国に至る
女王の都は、旅の始点から船十日、そこに船を待たせ、歩いて1月の内陸にある
(自郡至女王国万二千余里)
以上、里数を合計すれば、郡から女王国まで1万2000余里である
遺作 倭人伝
不彌国から南に下れば邪馬台国にいたる
女王の都する所は、末盧國に船を待たせ、
そこから歩いて二千里(約140km)、伊都國からは千五百里(約115km)の地にあるという
古代七万余戸を有し邪馬台国にふさわしい場所は、阿蘇一帯から熊本平野にかけての地域であろう
ほぼ現在の熊本経済圏に相当する
その中で、女王の都はいずこにあったのであろうか
宮崎県高千穂町一帯の古の上高千穂・三田井なるところを挙げるものもいる
しかし熊本市に連なる台地〜湖沼一帯も最有力候補の一つである
ともあれこの広大肥沃な火の国のどこかに、邪馬台の女王は都していたに相違ない
560 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 00:14:05.57
>(南至投馬國水行二十日)←時間的な形容描写の挿入
何を言いたいのか、分からん。
561 :
鋭利庵:2013/01/03(木) 09:28:03.85
>>560 帯方郡から末盧国まで魏の大型船で水行10日。
これが、1日航海1000里単位表記法(1航海1000里単位表記法)で10000里。
末盧国(または博多湾)から投馬国へは、倭人からの聞き取りによる。
「倭人の手漕ぎ船による九州島東回り航路」と大淀川俎上を含めて都城まで水行10日。
むろん、航海手法・航海ルートの違いによって、
両者が10日で稼ぐ距離は異なる。理路整然
562 :
ちはやぶる皇神:2013/01/03(木) 11:25:11.12
>>561 天才
福岡春日市特有の広形銅矛が、宇佐・愛媛からかなり出土しています。
九州北部と関連のある地区と思われます。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
里数が記され、倭種を確認しています。愛媛までは行ったと思います。
愛媛以南の都城(投馬国)までが聞き取りではないでしょうか?
563 :
鋭利庵:2013/01/03(木) 12:29:57.70
たとえば巴利国。
九州には原のつく地名が多く残っている。原の一字では「ハル」と読むのだが、
これはもともと「人の手が入った土地」を意味する。
語源は「墾(は)る」で、新しく土地をきり拓いて田畑・道路・居住地などにするという意味である。
おそらくは縄文言語だと思うのだが、南西諸島や奄美列島でも「ハル」といえば田畑をさすという。
文字通り開墾するという意味だから、「◯◯原」という地名は開墾・治水が行なわれ田畑から居住地・
墓地にいたるまでつけられている。これが、先の斎殿原(さいとのはる)や、
前後につく文字との関係から、前原(まえばる)・平原(ひらばる)といった具合に濁る。
●『播磨風土記』では同じく開く意味をもつ開闢(かいびゃく)の闢の文字を使って「闢(は)り」と書き、
「針間」から「播磨」になったと伝えている。
●四国に今治という地名がある。当初は「いまはり」「いまはる」など呼ばれていたそうで、
13〜14世紀頃の文物に今針・今治の文字が見られる。
今治にもまた新しい開拓地という意味があり、
開拓・治水がなされたという意味で「今墾」とも表記されているという。
●尾張は、伊勢湾から濃尾平野を支配した豪族の尾張氏に由来する。
尾張は古くは「尾治」と表記されていたという。
やはり開墾・治水の意味を持つ「はり」が使われていたわけである。
●『倭人伝』に登場する巴利国は「はる」「はり」に由来か関連するようだから、
極めて象徴的な開墾と治水がなされた国だったと思われる。
ただし『倭人伝』は30ヵ国を紹介したほかに、「女王国の東にまた倭種の国がある」としていることから
『倭人伝』のいう30ヵ国は九州の域を出ておらず、巴利国が四国や本州にあったとは考えられない。
というのが天才的所感だが、巴利国を四国に求める試みでもしてはどうか。
その上で、四国まで行った「と思う」ではなく、四国まで行ったという論拠を構築することだよ。
素人さんのご意見は「論証しようのない推測」「論拠のない空論」が多すぎる。
564 :
ちはやぶる皇神:2013/01/03(木) 12:44:39.50
>>563 >素人さんのご意見は「論証しようのない推測」「論拠のない空論」が多すぎる。
素人説は、「里数の記載」「倭種の確認」で十分でしょう。
行ってない里数は記載できない。
見てもいない倭種は確認できない。
それもこれも聞き取りですか?
>(南至投馬國水行二十日)←時間的な形容描写の挿入
>何を言いたいのか、分からん。
仮にA地点からB地点まで距離(里数)が一千里とする
この一千里は絶対数であり、千年たっても万年たってもかわらない
或は船でも人でも馬でも飛行機でも、旅行距離の一千里にかわりはない
しかし旅行日数は相対時間に属し、
人では1月、船では10日、馬なら5日、飛行機なら30分のごとく変化する
すなわち倭人伝の水行20日なる時間表現は、絶対距離を移動手段によって形容描写したものといえる
別の例で説明したい
距離+距離、距離−距離、は正しい計算式
しかし距離+時間(日数)、距離−時間(日数)、のような計算式はない
すなはち距離と時間は別の概念に属する
同じ数字とはいえ別の概念に属するものを足すことを「木に竹をつぐ」という
千里+10日はいくら??? ←これぞ木に竹をつぐの好例なり
566 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 14:44:45.67
>>563 ハリが原で墾すと同じというのも推測でしょw
567 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 15:10:12.38
>>565 だから、何だって? 時間と距離を合わせて表示することはいくらでもあることだよ。
東京駅まで40分だ。駅からは南へ500メートルだよ。
>>567 な、それは東京通勤庶民の考えよ
国の公文書ではそうは書かぬ
東京駅まで40分といっても、自転車か、都バスか、山手線か、常磐線か、新幹線かで距離はまるきり違う
40分が距離を特定することにはならぬからな
通勤手当も時間でなく、距離で払ってくれるだろ
>>567 言い添えれば、倭人伝はその逆のケース
魏の書記官:
末蘆国から女王国まで2000里はわかったが、倭の道は前に行く人を見ず出そうじゃないか。
で、実際の日数はどれくらいかかるんじゃ?
倭の使い:
はい、まああれこれでひと月くらいでしょうかねえ
魏の書記官:
ふんふん、距離2000里を歩いて一月か、(不便なとこじゃのう・・)
570 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 17:10:25.62
西域伝でも読んでみな。里数と日数は混用されている。
12000里から足したり引いたりして1500里を推測させるより
ズバリ1500里と記した方が簡潔かつ明確。
邪馬台国と女王国を言い分けていることを認識すべき。
> あえて距離里数を書かないことで、女王国より南にあることを示すものである
ここが分らない。
「自女王国以北〜」を解釈させることで、距離里数を犠牲にしてまで
女王国の南にあることを示したということ?
南に有るなら邪馬台国の南に有ると書けばいいだけだし、
より南にあることを示すなら、邪馬台国の後に書くべきでは。
千数百年前、魏の高等官はご覧のとおり書いたわけだ
しかしそれを頼りに邪馬台国をさがしてもなかなかそれらしきところにたどり着けない
それは倭人伝が最的確に書かれていない(或は不都合がある)からに他ならないであろう
ここでいいたいのは、
魏志倭人伝では距離と時間を区別し(或は混用することなく)、併用法で記述しているのではないかと読めば、
天孫降臨神話・史跡のある一つの場所にたどり着くということである
その地がはたして納得いくものか、さらに検証を要することはいうまでもない
573 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 18:27:55.84
從郡至倭
洛陽−帯方郡→倭
@水行 到狗邪韓國 七千餘里
帯方郡→狗邪韓國 七千餘里=水行七日
A度 千餘里 至對海國
狗邪韓國→對海國千餘里=水行一日
B方可四百餘里 渡 千餘里 至一大國
對海國半周八百餘里+對海國→一大國千餘里=千八百餘里=水行一日
C方可三百里 渡 千餘里 至末盧國
一大國半周六百餘里+一大國→末盧國千餘里=千六百餘里=水行一日
C’帯方郡→末盧國
=七千餘里(水行七日)+千八百餘里(水行一日)+千六百餘里(水行一日)
=一万千四百餘里(水行十日)
C”末盧國→投馬國(唐津湾→有明海東岸) 水行十日
574 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 18:29:24.33
D陸行 五百里 到伊都國
末盧國→伊都國 五百里
帯方郡→末盧國→伊都國 一万千四百餘里+五百里=一万千九百餘里
E至奴國 百里
伊都國→奴國 百里
帯方郡→伊都國→奴國 一万千九百餘里+百里=一万二千餘里
F行 至不彌國 百里
伊都國→不彌國 百里
帯方郡→伊都國→不彌國 一万千九百餘里+百里=一万二千餘里
G至投馬國 水行二十日
帯方郡→末盧國→投馬國=C’+C”=水行十日+水行十日=水行二十日
H至邪馬壹國 水行十日陸行一月
帯方郡→末盧國→伊都國→不彌國→邪馬壹國
=(帯方郡→末盧國)+(末盧國→伊都國→不彌國)+(不彌國→邪馬壹國)
=C’+(D+E)+〔吉野ヶ里(不彌國)→邪馬壹國(伊支馬城柵:八女)〕
=水行十日(11400里)+陸行一月〔(500里+100里+400里)
575 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 18:31:38.80
上記の参考事項
@倭奴國の中心地は、春日(須玖岡本)
A帥升倭國の中心地は、倭國乱により吉野ヶ里から大和(惣座)へ遷都
B邪馬壹國は、4地域の連合国家。
久留米(女王之所都)、八女(伊支馬)、浮羽,朝倉,小郡(彌馬升,彌馬獲支,奴佳鞮)が中心地
C投馬國は、三根、城島、大川、三潴、柳川、みやま、大牟田の地域。
576 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/03(木) 18:46:42.34
巴利国をハリ国と読むとは限らな〜い。
巴
上古音 pag
中古音 pa
中国音 ba
日本音 (ha)
朝鮮音 (pha)
そもそも巴利国などの傍国が日本の国々なのかも不明であ〜る。
577 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 19:02:14.84
播磨でしょ
578 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 21:37:25.25
>>572 >しかしそれを頼りに邪馬台国をさがしてもなかなかそれらしきところにたどり着けない
>それは倭人伝が最的確に書かれていない(或は不都合がある)からに他ならないであろう
たどり着けないのは、伊都国を妙なところに比定するからだよ。倭人伝のとおりに比定すれば
おのずから投馬国、邪馬台国も問題なく比定できる。
579 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/03(木) 21:39:57.93
伯利考
按唐征高麗絕沃沮千里至頗黎
遼五國部有博和哩國頗黎博和哩音同字異也
今華人稱伯利二字皆呼波力是與唐遼音同
則俄之克薄諾甫克即頗黎博和哩似屬可據
頗黎、伯利、波力…。これらはみんな巴利と読める。
580 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/03(木) 22:14:52.23
海國圖志/卷014
◎東南洋(海島之國。原無今補)○葛留巴所屬島
其餘各島(中略)一名巴利,又曰小爪哇,在爪哇島之東。
長約二百七十里,ェ約一百六十里,地面積方二千六百一十裏。
スマトラ方面?にも巴利島というのがあったようである。
倭の国々は南洋の島々である可能性すらある。
投馬を尹投馬と書いている文献もあり、これはたとえば糸満に比定できる。
581 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 23:46:02.32
音が似てるというだけで「比定できる」というのは愚の骨頂。
邪馬台国は干潟の中に沈んでます…
『海国図志』魏源、1794年 - 1856年
宮崎康平さんの邪馬台国説ってどうなんすかね?
585 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 13:33:37.21
宮崎康平さんの邪馬台国説は、人口35万(7万戸)を支える経済力が成立しない。
>>584 糸島付近を伊都国に比定した時点でおわっとる
奥さんにクルマを運転させてたから言うんじゃないが、
倭人伝のいうとおり、末蘆からJR唐津線沿いに佐賀平野へ出る方がはるかに楽で安全な道なんだけどね
>>578 新井白石・本居宣長以来、すべての論者は北東の糸島半島へ向かってる、わからん
途中さしたる難所が有るわけでなし、
すなおに東南へ向えばよかった、のご意見には全面的に同意
587 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 14:20:34.94
新井白石は最初に邪馬台国=大和と思い込んで説を立てた。大和説をとる以上、
伊都=佐賀は可能性がない、怡土の地名に飛びついたというわけだ。
本居宣長は、松阪の人間。九州の地理には疎かったので、新井白石に従って伊都
=怡土と思い込み、修正しなかった。当時は、放射説に気づかなかったので、どう
やっても倭人伝の行程どおりに進むことは困難だと思い込んだわけだよ。
今までは、畿内論者・九州論者ともども新井白石の掌で踊ってたってわけね
死せる新井、維新ののちも邪馬台国論者を走らす
やれやれ・・
とまれ東南陸行五百里、佐賀平野にでれば先は明るいぞえ、諸君!
新井白石が晩年には九州説に鞍替えしたのは、有名な話
唐津から佐賀へは、地図を一見すると凄い山の中のように見えるが、
実際には綺麗にずっと谷が続いていて、
自然の間道なんですね。
そして、唐津から糸島までは、当時は道がありそうにありません。
591 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 15:09:13.93
白石はあれこれ考えていたようだが、鞍替えしたかどうかは定かではない。
>>585>>586 ありがとうございます。
真偽はともかく、邪馬台国を一般人にまで広めた人ですから、
それはそれと位置付けて、今度著書を読んでみます。
同郷の方ですしね。
ちなみに、自分は邪馬台国は永遠に謎であって欲しいです。
謎は謎のままで…答えを探し出す過程にロマンが有る訳ですから。
でも、やっぱり邪馬台国は九州に在って欲しい。
九州にあるのは決定したんだよ
594 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 15:26:31.02
宮崎康平の本は、有明海を南下するのにかなり日数がかかるというところは
非常に参考になるよ。
北部九州説もダメだから、スレ的にはもうすぐ結論が出るだろ
南九州がちょっとうるさいけどな
596 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 15:59:46.49
北部九州説はもちろん駄目だよ。水行20日、水行10日陸行1月、これはどうまちがっても
北九州からの所要日数だ。帯方郡からなどという説は、トンデモにすぎない。
となれば、当然かなり南だということになる。佐賀市付近から有明海を南下して水行20日と
なれば、薩摩川内か加世田、どちらかしかない(それ以上ならば単に南ではすまさず、乍東
などと付け加えられたはず)。戸数5万の中心地となればやはり川内だろう。
となれば、水行10日陸行1月の上陸地点は熊本か八代だ。南への陸行を考えれば八代から
球磨川に沿って陸行したということだろう。小林市か都城市、そこが邪馬台国となる。
これならば、倭人伝通りで、何のごまかしもない。
いいかね、倭人伝の行程記事だけをそのまま解析してもダメだよ
何故かというと、誤写・脱字の可能性を留意しなくてはならないから
行程記事というのは、一文字脱字があるだけで意味不明となる。
行程記事を参考に「総合的に」解析しなくちゃいけない
つまり、考古学的出土物(鏡・絹・鉄剣・墳丘・矛など)・記述された風俗・現在に残る古地名など
それらを総合的に考える必要があるんだよ。
いくら行程記事を杓子定規的に引きあてて、邪馬台国を比定してみても、
そこに何ら出土物がないようじゃダメなんだよ
598 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 16:27:14.04
残念ながら、一文字の問題ではないんだよ。投馬国も邪馬台国も南だ。そして、女王国
以北云々、女王国の東渡海千里云々、全部邪馬台国は南という意識で書かれている。しか
も風俗記事はどうみても南国風だ。もちろん、地名も本州に渡るよりも南の方がずっと
それらしい。
出土物?、畿内に何か役に立つ出土物があったかな?木の面だとか桃の種なんぞ何の役に
も立たんよ。南九州は花弁状住居は倭人伝の記事どおりだ。比類なき玉璧は中国から王侯
と認められた者が実在した証拠だ。
599 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/04(金) 18:29:25.09
こういう資料あり。
蓬窗日錄 作者:陳全之 明
日本考略
東南陸行五百裏,曰尹都國,戶千有餘。
又南水行二十日,曰投馬國,戶五萬餘。
又南水行十日,陸行一日,曰邪馬一國,即邪摩維國,大倭王所都。
1 尹都國から水行している。
2 陸行一日となっている。
3 邪馬一國となっている。
>>599 うん、よく知ってるよ。後世そのように読む学者も少なくないね。
でもこの書き方だと、又南水行 の始点は伊都国とは限らんね、いったいどこなん??
601 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 19:12:34.19
また落書き持ち込んでからにかまってもらいたがったりしてもね
602 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 19:51:20.98
距離や日数が水増しされている可能性が高い。おそらくは10倍くらいにされて
いるだろう。
唐津にこだわる人が多いが唐津上陸は現在でも立証されていない。他の上陸地
の可能性を考慮できなければ研究者とは言えまい。
603 :
サガミハラハラ:2013/01/04(金) 20:10:17.24
唐津の上陸地点は、西唐津八幡町の川浪商会の前の海岸です。
川浪商会の所に迎賓館があったのです。
>>602 まず伊万里が考えられる。そこから東南・東南へ行くと佐賀平野。唐津上陸と同じ結果だな。
次に博多。そこから東南・東南へ行くと朝倉〜日田辺りかな。
これだとその次南至るに苦労する、というよりありえぬ。
けっきょく伊都国は佐賀平野が順当、さかのぼって郡へ向かうにも唐津が無理のないところ。
以上、map.gooの航空写真で簡単結論。あの地図検索を見てるかい??
605 :
名無しさん@お腹いっぱい:2013/01/04(金) 20:32:02.69
>>597 旅程記述に間違いありの前提で推理するなら、
邪馬台国が何処にあったなんてことを議論しても
何の意味もないことになる。
方角、所要日数、里数、陸行・水行を勝手に解釈するのは
三世紀頃の中国の古代天文学・地理学・暦学をバカにすることと
同じ。同時代日本には文字もなかったんだから。
地形が当時と現在では変わってると言う仮説は無いのですか?
大幅には変わって無いとは思いますが。
607 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/04(金) 21:15:07.44
洛陽東北五千里に楽浪郡がある。
その楽浪郡(帯方郡)からほぼ東南七千里に狗邪韓国がある。
つまり陳寿は朝鮮半島南岸は洛陽よりかなり南にあると思っていたのである。
そこから更に三千里で倭の本島に着く。
そこから水行陸行で女王国(邪馬台国)に至る。
で、その女王国は沖縄辺りにあると思っていたのである。
行程記事だけ見れば九州説も十分に成立する。しかし、
邪馬台国という国名や七万という戸数を考えると、大和説有利である。
広大な楽浪郡の戸数が六万である。
山門郡や山門郷に七万もの戸数があるはずがない。
608 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/04(金) 21:27:18.89
大和国に大和郡という郡はない。
郡名や郷名は国名とは関係がないのである。
逆に言えば、ヤマトという郡名や郷名があることは、
その国はヤマトという国名ではないということになる。
事実、山門郡や山門郷がある国は古来ヤマトと呼ばれることはなかった。
ここから考えても、邪馬台国は大和と見なすのが妥当である。
ただし末盧国、伊都国、奴国、不弥国などは県、郡、郷、程度の国だから、
山門郡や山門郷が邪馬台国と呼ばれても不思議ではないが。
>>607 おマイ、卑弥呼は満州にいたんだろ、そっちの研究成果はどうなんだ
>南至邪馬台国女王の所都、水行10日、陸行1月
この水行10日を末蘆国までの海行7000里の所要時間にあて、陸行1月は末蘆国からの陸行2000里の所要時間に当てる
これは天才鋭利庵先生の画期的・革新的な解読法。
これで行く先はおおむね火の国に定まる。
大天才陳寿もこのように認識していたに違いない。
満州や沖縄へはみ出してどうするよ
>>608 今度は大和か、いそがしい奴だ。
おマイも、距離と時間をごた混ぜにして棒読みする輩か
凡人に、大天才陳寿の文章は理解できまい
611 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 22:24:22.69
荒っぽい推測だが、
奈良文献の遺跡データベースで、弥生時代の遺跡数を検索すると、
福岡県、佐賀県、熊本県で、全体の1/5の割合となる。
弥生人はまんべんなく散らばっているわけではない。
612 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 22:26:31.01
>>606 海岸線が変わっているのは確からしいが、近畿地方が九州の南にあると
いうことはないなあ。
613 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 23:03:37.36
>>599 これは本居宣長の説に従ったものだろうな。
614 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/04(金) 23:19:05.83
中国正史の地理記事はあまり信用できない。
たとえば高句麗や百済や新羅の位置は後世になるほど無茶苦茶になっている。
三国志の東夷伝でも、馬韓に莫盧国が二つもある。
瀚海という言葉が出てくるが、これも九州の北の海を指す言葉ではない。
馬韓にも不弥国があるし、倭に奴国が二箇所も出てくる。
とにかく、おかしいのである。無茶苦茶なのである。
記事が錯綜している。錯誤があると思って読まなければいけないのである。
615 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/04(金) 23:37:19.78
話は変わるが、私は満州の地理に関する考証本ばかり読んでいるのだが、
意外な拾い物をすることもある。たとえば、
黥面文身は南方の習俗だとばかり思っていたのだが、
沿海州や樺太方面にもそういう習俗があることを知った。
それだけではない。黥面は匈奴にもあった。
漢使王烏等窺匈奴。匈奴法,漢使非去節而以墨黥其面者不得入穹廬。
王烏,北地人,習胡俗,去其節,黥面,得入穹廬。(史記)
漢使王烏等窺匈奴。匈奴法,漢使不去節、不以墨黥其面,不得入穹廬。
王烏,北地人,習胡俗,去其節,黥面入廬。(漢書)
616 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/04(金) 23:53:03.27
このことから何が言えるか。
黥面文身は倭の習俗だと中国人が思っていれば、
黥面文身をした人が朝貢してくれば、
中国人はそれを倭人と見なすだろうということである。
貂皮と人参。これも明らかに北方の産物である。
私は満州源流考と中国正史東夷伝の貂の記事を全部調べた。
穢、百済、新羅、そんなところは貂の記事はない。
貂の記事が出てくるのはそれより北方の民族や国である。
五王の倭は日本ではないことはほぼ確実である。
617 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 06:55:50.80
倭王が北方民族に貰ったものを、中国に差し上げることは無いの?
中原の諸侯が珍重し贈答し合った「玉」も、
中華の産ではないけどな
>>615 だから、そういう話題は世界史板に投稿しろよ
おまえは良識が無さ杉
,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ
R: : : :. : pq: :i}
|:.i} : : : :_{: :.レ′< 君は世界史板に逝きなさい!
ノr┴-<」: :j|
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _
/:/ = /: :/ }! |〕) ))
{;ハ__,イ: :f | /´
/ }rヘ ├--r─y/ \ コツン
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_ '⌒ ☆
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´)
| l i 厂  ̄ニニ¬ ノ ⊂ノ
,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) ) ←満州
/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′
└-' ̄. | |_二二._」」__ノ
あの、吉野ヶ里は何國になるのでしょうか?
それが判明出来れば、吉野ヶ里をキーポイントに
大方の場所を特定出来ないのでしょうか?
622 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/05(土) 09:11:53.37
623 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 09:14:28.95
吉野ケ里の里ってのが、
8世紀くらいに施行された条里制の名残らしいから、
吉野って地名はそのころまで遡れるだろう。
ほか、野目ケ里、小津ケ里、駅ケ里、などが残っている。
旧神崎郡のだいたい中心地に位置するので、
その領域が本来の国の範囲だろう。
周囲をどのくらい支配していたかはわからない。
満州は、もしかして加藤登紀子みたいに満州生まれなのか
もうそろそろ内地に馴れてもいいんじゃないの
九州邪馬台国説に加担しろや
親魏倭王の称号を賜ったくらいだから
卑弥呼のご先祖も元は後漢の貴族家臣あたりで、曹操の家系とも何かの縁があったんじゃないかと思うけどね
その後、戦乱をさけて一族で倭にわたり、鬼道と鉄製武器でとりあえず九州に君臨した
そして魏王朝の樹立を機に里帰りし、曹操の子孫である魏王に手土産を持参してお祝を述べた
方向は逆だが、満州帰りと似たような境遇じゃないの
>>622よ、おまいも泣くことあねえんだ
626 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 10:14:52.49
>>621 吉野ヶ里遺跡は、奴国の可能性も高いんじゃないかな。
いくつかの説があるけれども。たとえば奴国の場合は福岡市付近。
吉野ヶ里遺跡が倭人伝の「自女王國以北、其戸數道里可得略載」の8カ国の
うちの一つだとすれば、自ずから邪馬台国の位置も限られてくる。
九州の中部以南ということになるかな。
吉野ヶ里というのは、呉から来る船団を監視する要衝
当時の吉野ヶ里は、海に臨んでいて、
高楼からは遠く呉王朝方面の海を見ることができた
吉野ヶ里は弥生時代の奴国の軍事拠点だったんじゃないの
作ってたのはせいぜいダイコンか白菜
主食のコメは近隣佐賀平野のクリーク地帯2万戸の村々とか
629 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 11:10:05.61
そういえば、平氏の日宋貿易の拠点って、このへんじゃなかったかしら?
630 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/05(土) 12:39:13.20
>>624 何を隠そう、私は満州開拓で渡満した人間の息子である(笑)
そのことと私の満州説とは何の関係もないが、
自分でも、まさか満州説を唱えることになろうとは夢にも思わなかった。
>>625 卑弥呼は、道術や方士の本場、斉から楽浪に渡った或る人物の子孫である。(推定)
この人物のことは中国正史に○○伝として書かれている。
631 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 13:24:00.16
継体天皇と息子の日本武尊は熊襲の熊襲武尊を討つために大隅半島内之浦より上陸した。
熊襲の本拠地は大隅。しかも日向の国の中心地。熊襲征伐後、大隅、薩摩は日向の国から分離され、
日本書紀が編纂された。
お、間違い探しだな
中国大陸の稲作は長江流域で発達した
とうぜんながら呉の影響で倭の弥生稲作も広まったに違いない
であるならば、そもそも卑弥呼は呉王朝に使節をおくり朝貢してもおかしくない
いっぽう黄河流域の華北は、もともと畑作物のアワ・きびなどを主食にしていた
現在は主に小麦である(満州の息子よ、かっての満州開拓もそうだよな)
その畑作文化の魏王朝に卑弥呼は貢物をしたのであるから、格別のえにしを考えなくてはならない
もしかして、天孫族は彼の地ゆかりの渡来貴族の一族一団かもしれないのだ
とうぜん邪馬台国においても、庶民はコメをたべるが、天孫族はアワ・きびを好み、日常食にしていたこともありうる
邪馬台国というと、われわれは稲作農村を思い浮かべる
しかし華北の魏に通ずる一族であったのであれば、畑作文化を懐かしみ、そうした地に都を築きたかったことも想定できる
九州で畑作地帯といえば、中部〜南部を思い浮かべる
近世まで、その山岳地帯では広く焼畑文化も残っていた
このスレ
>>1から読みましたが…
吉野ヶ里って、これっぽっちも話題に出てなかったから不思議に思ったんです。
既に発掘されてる大規模な遺跡がどの國かも特定されてない状況で、
何処に在るのかも解らない邪馬台国探しって滑稽じゃないすか?
つか吉野ヶ里って目に見えて現存しているモノを全くスルーして、
真偽も解らぬカビ臭い書物に振り回されながら幻想語ってるみたいに思いますよ?
例えばの話、吉野ヶ里から金印と鏡が発掘され、邪馬台国だと確定されれば、
倭人伝の記事なんぞ吹き飛ぶか、大幅な解釈修正をしなきゃならない訳でしょ?
発掘された吉野ヶ里を倭人伝に当て嵌めての解釈ってありましたっけ?
…と、素人は思うのですが。
奴国の一隅とされてる
古墳時代には墓場になっていたらしい
636 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 15:39:30.92
そうはいかんざき
佐賀新聞2012/10
>吉野ケ里遺跡 26年の発掘調査に一区切り
>1986年から26年間続いた吉野ケ里遺跡(神埼市郡)の発掘調査が、9月末で一区切りした。
>工業団地開発に伴ってスタートした発掘調査は大規模環壕(かんごう)集落の発見で注目を集め、
>邪馬台国論争も加熱、国営公園として整備された。
>発掘された出土品は数十万点、国重要文化財は94点に上り、弥生期の集落形成過程の解明など重要な学術的成果も上がった。
>今後は調査結果の整理を進め、2014年度までに報告書を作成する。
佐賀県もそろそろ潮時とみたようだな、深追いはいかんざき
吉野ヶ里遺跡の泣き所は、
文字のある遺物(鉄剣とか)がない点だな
あとは、甕棺主体なので、邪馬台国よりはちょっと古い時代だろう
639 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 16:30:43.99
倭人伝の場所としては、吉野ケ里は一致する場所にありませんが、
出土物は、倭人伝に書かれている邪馬台国像に最も一致する遺跡といえるでしょう。
これほど完全に発掘されたところはあまりありませんが、
北部九州だけでも40箇所の環濠集落が確認されていますし、
南部九州を含めればまだその数は増えるでしょうから、
邪馬台国の位置を決めるのは難しいでしょうね。
しかし、邪馬台国文化圏に「ちかい」のでは無いかと思います。
640 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 16:32:31.69
最も大きい北墳丘墓も甕棺でしたから、
倭人伝の卑弥呼の墓ではないのは、確実だと思います。
邪馬台国文化に近い、で正解だろ
明らかに「そのものではない」からな
末蘆国唐津から東南行して佐賀の小城へは
秘密の回廊みたいな感じになっていて、するりと通り抜けれるんだね、途中のなんとか峠は海抜100mくらいしかない
仮に唐津湾に敵軍10万が押し寄せても、細長〜い行列になってそろり進軍するほかない。
まるで桶狭間だ。
そして佐賀平野の出口に伊都国を置き、平時、戦時の両方に備える。さすが軍事に長けた卑弥呼軍団。
その点、那の津では苦労するわな、後世まさにその危機にさらされたわけだが。
643 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 20:32:09.31
644 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 20:52:58.26
>>638 吉野ヶ里遺跡は倭國王帥升王統の城柵。
帥升の1〜2代後に滅び、その城柵は惣座に移転。
その惣座城柵(倭都)は、卑弥呼女王連合國に支配され、伊都國となる。
あのー惣座は、佐賀県林業試験場とか佐賀大病院なんかのあるあたりですか
僅かに地盤が高くて昔の道筋がうかがえ、航空写真でもそれらしい雰囲気のあるところ?
646 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 21:09:29.77
>>634 まあ、そういうことかな。考古学で邪馬台国がわかるのなら、考古学で
ほかのすべての国もわからなくてはならない。
また、考古学は一つの発見ですべてが覆ることもありえる。
宮室・樓觀・城柵の出ている吉野ヶ里遺跡が、今のところ邪馬台国に一番
近いというのも事実。現に吉野ヶ里遺跡を邪馬台国に比定している人も
いるはず。
しかし、倭人伝の解釈として邪馬台国に比定するのをためらう人もいる、
ということではないだろうか。水行十日、陸行一月。なかなか難しい。
647 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 21:20:57.88
>倭人伝の解釈として邪馬台国に比定するのをためらう人もいる
否定する。
吉野ヶ里遺跡は縮小して不彌國の城柵となる。
伊都国(大和惣座)1000家 → 東南100里奴国2万戸 → 東100里不彌国1000家
これを佐賀平野に当てはめれば、不彌国はどうしても筑後川の岸に到ってしまうと思う。
そこは道海島・城島・三潴(古の水沼)あたり。
649 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 22:56:12.48
>>645 違います。
惣座遺跡の一部が、佐賀大和ICの西にある総座(交差点)の近くの
国道263号線工事の時に発見されたのです。
惣座遺跡では吉野ヶ里遺跡と同じ構造の壕が発見されました。
その墓からの出土品は佐賀県のHPにも載っています。
純銀の指輪が出土しています。
道路になったところ以外の部分は発掘されていません。
肥前国庁跡等周辺には、吉野ヶ里遺跡の様な惣座城柵遺跡が
今も埋もれたままであると予想されます。
発掘報告書は以前にはインターネットでも読めましたが、現在は読めません。
小冊子として売られているようです。
650 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 23:20:53.80
>>648 伊都国(大和惣座)1000家 → 東南100里奴国2万戸
伊都国(大和惣座)1000家 → 東行100里不彌国1000家
伊都國は奴國方向と不彌國の分岐点です。
肥前国庁跡(惣座遺跡)から東へ100里7kmは吉野ヶ里遺跡になります。
651 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 23:25:41.73
なお、奴國の城柵は惣座の南南東7kmの佐賀市城内になります。
652 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 01:30:58.85
>>645 >あのー惣座は、佐賀県林業試験場とか佐賀大病院なんかのあるあたりですか
>僅かに地盤が高くて昔の道筋がうかがえ、航空写真でもそれらしい雰囲気のあるところ?
僅かに地盤が高くなっている場所は、嘉瀬川の自然堤防です。
ですから3世紀にその僅かに地盤が高くなっている場所が既にあったとはいえません。
僅かに地盤が高くなっている場所は、堤防の様に細長く土が盛り上がったところですから、
嘉瀬川の自然堤と見なせるのです。
ボーリングをすれば砂礫層の地層であることで確認できます。
タイだよ
>>649-652 惣座遺跡の件、ありがとうございました。その海抜14mくらい、了解です。
グーグルの地図検索は便利ですねえ。
地図、航空、その重ね合わせ、航空写真を拡大すれば巨木1本まで見えるし、点間距離、海抜表示もあっという間。
PC技術で出現した考古学と並ぶ有力ツールですね。
さて三国をこじんまり見積もれば、仰せの伊都国惣座・奴国佐賀市・不彌国吉野ヶ里であり、
広く見積もっても、伊都国小城・奴国佐賀市・不彌国城島の範囲までといってよいでしょう。
故に魏志のざっくりした距離感からすれば、
とりあえず肥前国庁跡(惣座遺跡)を伊都国に定め、仮に誤差ありとしても四捨五入の範囲でしょうね。
曰く女王国(女王の都するところ?)まで1万2千余里、そのうち伊都国まで1万5百里、
残る里数は南へ1千5百里のおよそ115km見当、
さてその行きつく先は??
655 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 12:53:41.82
ヨイトマケの唄
「土方は差別用語だから、この歌は放送禁止」ということだが、
土方を放送禁止にさせたのは、富豪や政治家、新興宗教や暴力団の傘下にある人権団体だった
むしろ「ヤクザな道は踏まずに済んだ」の部分こそ、彼らにとっての放送禁止な部分。
「ヤクザな道」を通って暴利を貪って来たのは、他でもない、彼ら自身だからだ。
その「ヤクザ」が「土方」にイチャモン付けて、「放送を通した歌の頒布を禁止」させた。
ハイ、つぎ
657 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 13:39:04.30
ひぢかたさん
658 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 14:19:13.50
どかた歳三じゃ洒落にならんよ
660 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 18:37:33.06
>女王国(女王の都するところ?)まで1万2千余里、そのうち伊都国まで1万5百里、
万二千里は女王国に至るだけで、女王の都する所とは異なる
>>660 私もそんな気がするんです。
邪馬台国女王之所都水行10日陸行1月は、明らかに邪馬台国の女王の都する所までを言ってると思うんです。
しかし「女王国」は邪馬台国の別表現のように思えるんです。
たぶん邪馬台国はかなり広かったんじゃないかと。
662 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 21:34:50.66
女王国は邪馬台国の別表現というより邪馬台国を中心としてその周りの旁国なども含んだ
概念だろう。なぜならば、南の奴国が女王の境界のつきる所とされているからだ。
奴国も女王国のうちだというわけだから、奴国よりも前に書かれている投馬国や旁国21国
は女王国の構成国だと思うよ。
邪馬台国比定地(主な熊本県ぶん)
http://inoues.net/waj.html 白鳥庫吉 / 菊池郡山門/
近藤芳樹 / 菊池郡山門/ 九州の一豪族 征韓起源
藤井甚太郎/ 阿蘇郡 / 神功皇后 邪馬台国の所在に就いて
藤芳義男 / 阿蘇郡蘇陽町/ 百襲姫 倭日の国
古屋清 / 玉名郡江田村/ 神功皇后 江田村の古墳
安藤正直 / 下益城郡佐俣町/ 邪馬台は福岡県山門郡に非ず
664 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/06(日) 22:38:46.17
>>663 武智鉄二 南シベリア族の女王
これだけが面白い。これは読んでみたい気がする。
>>662 ・卑弥呼は親魏倭王に任ぜられたわけだから魏からみれば倭王国の女王(王朝?)
・傍の30国はただの国(構成国)
とりあえずこんな感じですかねえ、全文通じて矛盾ないかもう少し勉強してみます。
倭國の南に敵対する狗奴國ってあったんですよね?
日本人のルーツから考えたら、何か見えて来ませんかね?
◆倭國民=大陸・朝鮮半島経由渡来の弥生人がご先祖。
◆狗奴國民=南方(インドネシア等)からの黒潮経由民族がご先祖。
色々書きたいけど、とりあえずこれだけ書いて投下。
667 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 08:09:11.32
曰く女王國(女王を共立する国々)まで1万2千余里。
そのうち伊都國までが1万1千9百余里。
そして伊都國から奴國及び不彌國までが其々1百里。
それ故、女王の都しない奴國と不彌國までが其々1万2千余里となる。
奴國と不彌國は女王の都しない女王國なのである。
668 :
サガミハラハラ:2013/01/07(月) 08:25:59.24
万二千余里と水行十日陸行一月は郡より邪馬台国(都)までの総距離と総日数なのです。
フミ国から邪馬台国までは、直近であったので省略しているという説があります。
669 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 13:00:41.87
万二千里は郡から女王国までの距離だろう。邪馬台国までとは書いてない。
水行10日陸行1月は伊都国から邪馬台国までの所要日数だ。郡からなどとは
書いてないしどう見ても誤読だ。
>水行10日陸行1月は伊都国から邪馬台国までの所要日数だ。郡からなどとは
>書いてないしどう見ても誤読だ。
伊都国からとも書いてないぞ。どう見ても恣意的読だ。
郡から末蘆国まできた外洋船は、現代で言えばイージス艦。
それを兵員ともども唐津港に待たせ、有明海をトロトロ小舟で下るなんざ、ありえぬ。
魏王朝の体面にかかわる。
そんなことするくらいなら、最初から末蘆港経由で有明海めざして乗り込んでくるわ。
672 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 16:32:17.48
>最初から末蘆港経由で有明海めざして乗り込んでくるわ。
邪馬台国への直行経路を書き表している。
里単位距離表記では紛らわしいので別の距離単位表記をしている。
郡から末盧國までの1万1千4百餘里を水行10日とし、
末盧國から邪馬台国までを陸行1月としている。
説明を省略するが、陸行1月=1千餘里であるので、
邪馬台国は不彌國の南方4百餘里(=1千餘里−5百里−1百里)にあるのである。
邪馬台国は内陸国なので郡から水行だけで直行できないのある。
一方、投馬國は不彌國(吉野ヶ里)の南方の有明海に面した沿岸国なので、
郡から水行のみで直行できる。
郡から末盧國まで水行10日、末盧國から有明海まで水行10日、
郡から有明海の投馬國までは水行20日となる。
673 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 17:15:54.29
>邪馬台国への直行経路を書き表している。
どうゆうコースを通って直行するのかな?対馬国、一支国は通らないの?
末盧国で上陸するとしたらそれ以後はどちらへ進むの?
674 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 19:46:38.74
>>673 >どうゆうコースを通って直行するのかな?
[水行]
郡庁→漢江→乍南→半島西岸→韓国→乍東→
→半島南岸→韓国→狗邪韓國→(水行七日=7000餘里)
→度海→対馬西水道→對海國北岸→(水行一日=1000餘里)
→對海國東岸→對海國南岸→渡海→対馬東水道→(水行一日=1800餘里)
→一大國北岸→一大國東岸→壱岐水道→唐津湾→末盧國津→(水行一日=1600餘里)
[陸行]
→玉島川沿い→観音峠→神水川沿い→嘉瀬川沿い→伊都國城柵→(陸行500/1000月≒500里)
→東行→不彌國城柵→(陸行100/1000月≒100里)
→南至→邪馬台国伊支馬の城柵(八女) (陸行400/1000月≒400里)
邪馬台国卑彌呼の城柵は久留米南部
邪馬台国には他に3城柵(彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮)が北野平野にある。
675 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 20:10:01.22
>度海→対馬西水道→對海國北岸→(水行一日=1000餘里)
無茶苦茶。対馬の西から何で対馬の北岸へ行くんだ? 戻っちまうだろうが。
>[陸行]
> 玉島川沿い→観音峠→神水川沿い→嘉瀬川沿い→伊都國城柵→
観音峠は標高450mくらいあるもんな、本気なの?
これじゃまるでトライアスロンのコースだよ。
いや、もっと厳しいかもしれない。
678 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 21:20:27.26
>>675 >対馬の西から何で対馬の北岸へ行くんだ?
「対馬の西」ではなく、「対馬西水道」である。別名「朝鮮海峡」。
>>676-677 >観音峠は標高450mくらいあるもんな、本気なの?
>これじゃまるでトライアスロンのコースだよ
国道323号線は、登り下りの距離が長いので、傾斜角度は小さい。
標高450mの観音峠付近には水田があり傾斜が緩い。
傾斜が比較的急なのは、観音峠西斜面の唐津市七山荒川細川と観音峠の間の700m程。
山越えのサイクリングコースだから自転車で走ってみたら?
体力に自信がない人は自動車でどうぞ。
歩きなら平地と変わらない。
679 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 21:39:59.52
細川から観音峠まで距離700mの高度差は40m。
傾斜角度は約3.3度
>>678 海を行ったり来たりして末蘆国までに1万1千4百里を稼いでおきたいよな
そうすれば邪馬台国は八女・久留米におさまる
狙い通り、うまくいったじゃないかwww
>山越えのサイクリングコースだから自転車で走ってみたら?
ほれみろ、サイクリングのつもりだろ
古代の人は重い荷物を背負ったり、荷車引っ張ったりして、峠越えの重労働したんだ
おマイもリヤカーに母ちゃん積んで観音峠を越えてみろ、死ぬぞ。
682 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 22:06:23.67
>>670 >伊都国からとも書いてないぞ。どう見ても恣意的読だ。
伊都国から放射式に書いているんだよ。そのことは学者によって指摘されている。
つまりは、伊都国からだと書かれているわけだ。
>>682 学者他人の責任にして逃げるか
まあいい、それで水行10日陸行1月かけてどこまで行くつもりなんだ??
ぐるっとひと回りして、また伊都国にでももどってくるのかい
684 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 22:17:27.56
南へ行くだけだ。かってに方向を変えたりせんよ。
そうか、止めはしない
きっと竜宮城へでも行くことになるな
686 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 22:26:55.82
陸上に竜宮城はなかろう。陸行1月だ。九州からは出ていない。
687 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 22:27:41.60
梁書や北史には
又東南陸行五百里至伊都國。又東南百里至奴國。又東行百里至不彌國。
又南水行二十日至投馬國。又南水行十日陸行一月至邪馬臺國
と書いてあって、放射説の成立する余地はないのだが…。
688 :
サガミハラハラ:2013/01/07(月) 22:34:57.89
梁書や北史、太平ギョランの時代になると、中国人もこの文章の解読がうまくいかなかったのです。
結果、水行十日陸行一月が総日数であることがわからなく、更に南に進む行路日数であると
思いこんだのです。
日本人も中国人も同様な解釈となったのはおもしろいものですね。
689 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 22:40:43.19
>>687 >と書いてあって、放射説の成立する余地はないのだが…。
自分の言ってることを良く考えてみろ。梁書や北史の書き方が放射式ではないってか?
それはつまり、書き方によって放射式かそうでないかがあるということを認めている、
しかも倭人伝の書き方は放射式だと認めているってことなんだよ。
梁書や北史が連続式に書いているというならば、何で連続式に書いたのかを考えてみる
ぺきだ。何で書いたのか、分からんのかな?
690 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 22:47:30.72
>>688 >水行十日陸行一月が総日数であることがわからなく、
サガミハラハラの頭ではその程度のことしか考えられんのよ。しかし、断りもなしに
総日数をいきなり出してくるなんて文章はあるものではない。あくまでもそうだという
ならば、そんな文例を探して出してみろ。文例文例という古田だって一つも出せなかった。
そんな馬鹿な読み方はないんだよ。
691 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 23:20:07.53
梁書や北史の編者らは倭人伝が放射式で書いていることは読み取ったんだよ。
だが、彼らは、放射式は誤りで、連続式が正しいはずだと思い込んで改めてしまった
んだ。なぜ、彼らは改めたのか? それは梁書や北史が書かれた時代になると、さす
がに朝鮮半島の南端がどのあたりか、倭がどのあたりからはじまるのか、分かってき
たということだね。塩城の東あたりから倭の地九州が始まるということが。
してみると、会稽東冶の東と言われるところまではかなりの距離になるわけだ。直線
で七百、実際の行程ならば千キロくらいにはなる。そうなると、放射式に読んで水行
十日陸行1月だけでは到達困難と思ったんだろうな。それで、連続式に読むのが正しい
と思い込んで直してしまつたんだよ。
だが、倭人伝が放射式ならば、素直にそれに従って進んでみることだ。倭人伝に勝る資料は
ない。
距離やらは一先ず置いといて、地図(地形も考慮)に倭人伝の
方向だけ合わせ、自分成りに考えると、
>>654と同意見に俺も成る。
有明海沿岸をぐるりと取り囲む様に倭國は広がってたと思う。
車も電車も無い時代、数多の国々を一つの国が統括すると考えたら、
やっぱり舟を使って、有明海を渡り連絡を取り合ってただろうと。
末盧國(唐津)から伊都國へは松浦川沿いに進めば東南に成る。
後は
>>654と同じで、伊都國から南に下って、投馬國、邪馬台国は
長崎の諫早ではないかと考え(絶在海中洲島之上〜の下りが干潟を連想させるし)る。
末盧國から水行20日で投馬國、水行10日で邪馬台国。
水行20日の投馬國まではぐるりと長崎側の西海を回り有明海へ。
水行10日の邪馬台国は大村湾に入り込むと短縮出来る。
陸行1月は長崎の海岸線を舐める様に行けばそのぐらい掛からないか?
脊振の山々を縦にして、有明海沿岸の平野部の奥に統括國が在り、
他の国々を周りに配置した図式が地図を眺めたら浮かんで来る。
末盧國は出城の玄関口。
694 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 06:04:40.04
環有明海文化圏=肥前、肥後=肥国
「やはり邪馬台国はあった」
グーグル考古学のおかげで
白石・宣長以来の伊都国糸島にかわる、新しい東南陸行500里佐賀平野ルートの定着をみたようだ
こりゃ今年中にカタつくな。
696 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/08(火) 18:59:40.65
東三省輿地圖説にこういう記事があった。
東藩紀要由朝鮮慶尚道東萊至日本對馬島水程四百七十里
東藩紀要は1882年の書物。その頃でも對馬島まで四百七十里と見なされていたようだ。
海上航行は距離感がつかめないので、実際より過大に認識されるのである。
倭人伝に千里と書かれているのも、短里でも何でもなく、
単に実際より過大に認識されていたというだけの話である。
九州説諸君よ、いいかげんに短里説などというアホ説を棄てよ。
世間の物笑いになるだけだぞ。
697 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 19:05:57.84
又渡一海千餘里 至末廬國
有四千餘戸M山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之
>草木茂盛行不見前人
上陸してそのような道を歩いているのが明らか。
その先にある伊都国は佐賀平野だ。
航空写真で見れば分かるが、壱岐から唐津の間は波穏やかでそこそこ遠浅で潜水漁に適しているが、
唐津→糸島の海は人が潜って魚介類を捕るような海ではない。
山は海岸まで迫り波は荒い。
698 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 19:47:30.60
699 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 19:48:43.39
ただし街中は、道が整備されていたと思われ
>>696 満州には、独自の満州里というのがあってだな、マンチュリ と読む。
それ同様、九州には九州里という短里があるんだ。
そろそろ内地に馴染めよ。
701 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/08(火) 19:58:01.40
>>700 東藩紀要の作者は清人だ。
中国里か満州里で書いたに決まっているではないか。
そろそろ無駄な悪あがきはやめろよ。
>>701 おぬし、あっちでもこっちでもからかわれてるのがわからぬか。。。
703 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 20:16:04.53
>>697 >上陸して「草木茂盛行不見前人」のような道を歩いているのが明らか。
これは、玉島川沿いから観音峠越えの狭い谷の道を適切に表現している。
>壱岐から唐津の間は波穏やかでそこそこ遠浅で潜水漁に適しているが、
もっと適した海が3世紀にはあった。
それは、虹の松原の南側、鏡山の周囲を南西から北に取り囲む様にあった「古松浦湾」である。
古松浦湾は、現在の京都府京丹後市にある久美浜湾の様な海であった。
>>703 ありえない伊都国糸島ルートをすて、新しいルートに挑戦するのは良いことだ
705 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 21:11:38.33
玉島川ルートの観音峠の標高は約450m
松浦川ルートの笹原峠の標高は約90mだよ
>>703 > もっと適した海が3世紀にはあった。
> それは、虹の松原の南側、鏡山の周囲を南西から北に取り囲む様にあった「古松浦湾」である。
つまり松浦川河口が天然の港として適した形になってたんでしょ?
そのままソコに船泊めて、松浦川に沿って行けばよかたい。
なんで玉島川沿いに行って、キツイ観音峠越えなきゃなのさw
松浦川ルートは、現在で言えばR203ってコトになんだよね。
707 :
703:2013/01/08(火) 21:47:42.11
>>705 峠が標高450mだからといって道の傾斜は急ではない。
玉島川ルートの登りは、15kmで400mのダラダラと長い傾斜の緩い道。
比較的急傾斜は、観音峠手前700mの傾斜角度3.3度だけ。
観音峠付近からは水田もある緩い傾斜。
嘉瀬川の下りは20km余りで430mの下り。
>>706 そのまま古松浦湾に船泊めて、玉島川に沿って行けばよかたい。
708 :
サガミハラハラハラ:2013/01/08(火) 21:53:03.86
あなた地図だけ見て論じてるでしょ。
笹原峠のほうがぐっと楽ですよ。
709 :
703:2013/01/08(火) 22:19:23.18
>>703 笹原峠ルートは広い谷で、「草木茂盛行不見前人」にはならないよ。
又、末盧國から伊都國に至るまで一つの国もない。
もし笹原峠ルートなら、多久市又は小城市あたりに少なくとも
一つの小国があってしかるべきである。
710 :
703:2013/01/08(火) 22:22:54.96
あて先修正
>>708 笹原峠ルートは広い谷で、「草木茂盛行不見前人」にはならないよ。
又、末盧國から伊都國に至るまで一つの国もない。
もし笹原峠ルートなら、多久市又は小城市あたりに少なくとも
一つの小国があってしかるべきである。
>>708 だからといって多久市が伊都国だとか小城市が邪馬台国だとかほざく
サガミの与太話を補完するわけではないぞ。
>>709 ずいぶん頑張ってるじゃないか
通りたいおひとは観音峠でよかたい、実際に通った人も何人かはあったろ
でんあんたがきめちどげすっとね、どちにすっかはあん時代のお人が決めるこっじゃなかとね
とにかく佐賀平野の伊都国に出ること、出さえすればどっちを通ってもよい
オレは楽ちん笹原峠にするけどね
713 :
703:2013/01/08(火) 22:41:55.13
>>712 不彌國と伊都國の間500里に一つの国もないことを、どのように説明できる?
>>710 まず「草木茂盛行不見前人」 これは伊都街道のことではなく、末蘆国内の段に書いてあることだ
次に、多久または小城に宿がほしいなら、伊都国をそのあたりに比定してもよかろ、大きな古墳もあるし候補地もある
その次の東南100里奴国は佐賀市でつじつまが合わないわけでなし
今の国道見てもダメだよ。
ちゃんと切り崩して車でも走れるように
傾きを緩くしてある。
>>713 >不彌國と伊都國の間500里に一つの国もないことを、どのように説明できる?
不彌国は書き損じだろ、誤・不彌国 → 正・末蘆国
他人の心配も結構だが、観音峠なら途中に2つくらい宿場町がいるわな、そりゃどこだい
>>715 太古から人ン通りやすか地形やけん国道も出来たとやろもんw
718 :
サガミハラハラハラ:2013/01/09(水) 00:16:13.39
草木茂生とは草や木という意味ですよ。観音峠では、当時草や木がまじりあっているところはなかったでしょうね。
うっそうとした原生林であったと思われます。
松浦川のあたりは、当時は湿地が多く葦や河柳の生い茂るところなのです。
いまでも河川敷などに葦や柳がおいしげり、その中の道を歩くと、両側から葦などがしだれかかり、前を歩く人が見えないということがあります。
(釣りをしに行った人は経験しているでしょう)
つまり、この草木茂生とは大きな川(日本での)の側を歩いている光景を描写したものなのです。
魏使は河北の地からきた人でしょうから、この光景が珍しく特に記したのでしょう。
松浦川沿いは平坦で今は水田だけど元は湿地だったような感じだね
伊都国は多久市あたりだったりして
山に囲まれて小さな盆地のようになってて、露出した広い平野より防御面では良いかも
720 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 04:44:11.82
倭人伝の行程記事は伊都国から放射式に書かれている。つまり、伊都国は南への水行の出発点だ。
港があったということだ。伊都国は有明海沿岸の地にあったと考えるべきだよ。
721 :
サガミハラハラ:2013/01/09(水) 08:32:44.45
私は放射式をそのまま採用しないのであるが、伊都国(多久市中小路庄)は多久が倭にめんしており、そこからはふねで有明海にでれます。
つい最近まで、石炭船が出入りしていたそうです。
722 :
サガミハラハラ:2013/01/09(水) 09:39:40.77
多久が倭は多久川の間違いです。
>>718 河北は華北の間違いです。よろしくご訂正を。
小城と大和の中間山寄りには全長100m余の船塚古墳もある
古代にはずいぶん奥まで船を引き込めたのだろう
多久から大和まで、どこに伊都国があったとしてもおかしくない地形だ
魏の都であった洛陽は海から600kmも離れてる
貴人でさえ、多くは海を見ることなく生まれ死んだであろう
渡海の恐怖、末蘆湾の平和な景色、海魚、あわび、サザエなぞ、夢のまた夢に等しかったにちがいない
魏志倭人伝は、そうした人たちの目で読む必要があろう
我々が八丈島や小笠原の美女を夢想するように・・
八丈島の美女・・・・
726 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 10:27:14.85
佐賀市図書館大和分館の大和町史によると、船山古墳のある
大和町川上(旧川上村)から嘉瀬川までの山麓にかけて、
大量の小古墳が存在したそうである。
いまはほとんど田畑となっている。
そして、おそらく三日月町から小城方面も同様であろう。
グーグル考古学
伊都国糸島説は、江戸学者白石・宣長の人気にあやかろうとした軽輩のなしたこと
しかも、魏書の方角さえ東北に捻じ曲げた罪は小さくない。
今航空写真を見れば、100人が100人とも東南陸行500里、唐津線沿いの佐賀平野行を支持するであろう。
これぞ、現代グーグル考古学の威力だ。
728 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 13:53:44.48
>>726 ×船山古墳→○船塚古墳
川上の山裾の大量の小古墳は、肥前国庁付近の集落に由来するものであるから、
三日月町から小城方面も同様であろうとの推測はあたらない。
729 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 14:03:31.77
末盧国─伊都国
松浦郡─怡土郡(糸島〜福岡市西部
なにがおかしいの?
第一に方角がおかしい
第二に伊都国の都は、多くの用例からみてトでなく「ツ」、すなわちイツ国と読む
よって怡土郡(糸島)のイトに当てる理由はない
731 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 14:15:01.09
方角が合わない、陸行する理由がない、南水行もできない。
南下するのならば、有明海にでるのが最も合理的である。
732 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 14:17:24.54
>>727 今航空写真を見れば、100人が100人とも東南陸行500里、玉島川嘉瀬川沿いでの佐賀平野行を支持するであろう。
多久と小城には伊都國に値する様な見るべき遺跡がないから。
それに対して、肥前国庁跡付近の久池井、尼寺、川上は遺跡の宝庫である。
733 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 14:21:49.49
734 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 14:23:54.39
土の呉音はツで、怡土はイツだからね
735 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 14:28:23.14
多久小城も弥生遺跡の宝庫だよ。
多久小城を伊都、
そしてそれ以上に巨大な、佐賀大和から佐賀市領域を、
二万戸の奴国としたい。
そして有明海、筑後川方向の城島、大川付近が不弥国。
ここから水行となる。
>>733-734 福岡県怡土(いと)に関連する漢字づかいの変遷
・伊斗の村『古事記』 ・伊覩の県『日本書紀』
・怡土城『続日本書紀』
・怡土郡『倭名抄』
・怡土村 (明治時代)
・糸島郡〜糸島市 (近代〜現代)
記紀の時代までは伊斗・伊覩で、明らかにイト
その後、イトを怡土に当てるようになった、よってイツはない
737 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 15:12:36.54
20スレ使っても、あいも変わらず行程論争
邪馬台国が九州にあったという証拠どころか
該当しそうな古墳を見つける事すら出来ない
いい加減諦めたら
>>732 笹原峠でも観音峠でも里数はさして変わらぬ、好きにしなはれ、問題は平野部に出てからだ、
伊都国あとはこれからさがせばよい、
仰せの通り肥前国庁あとかもしれぬ、別のところかもしれぬ
739 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 15:22:30.44
伊都の別名が伊蘇
発音ですべてが決定しないよ
740 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 16:37:09.68
>>737 行程的に合致しないところに邪馬台国を比定することはできない。
肯定的に合致し、しかも遺跡的にも手交できるところ、そこが邪馬台国なんだよ。
741 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 16:54:10.17
手交→首肯
見知らぬ人がいきなり訪ねて来て、はいどうぞ!って招き入れて、
家の中(間取り)を全部晒すかい?倭人伝は複数回に倭國訪問した総合記でしょうに。
有明海は陸行せず脊振の壁を迂回し、各国々を船で直通出来るルートだよ?
親交を徐々に深めてから、船でも行ける事を教えただろうし、
首都(邪馬台国)も教え、女王卑弥呼にも謁見させた筈だよ。
だから放射式も、水陸起点が二つあるのさ。
水行起点は、ほぼ上陸地点の末盧國(唐津)からだよ。
743 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 17:27:42.72
答えが出る事はないのに
虚しくはなんないの?
延々、行程論争と漢字の読み書きばかり
>>743 だからロマンがあんじゃねーか
卑弥呼のマンコの形が解ったらロマンも終わるw
745 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 18:35:32.30
見知らぬ人がいきなり訪ねて来て、はいどうぞ!って招き入れて、
家の中(間取り)を全部晒すかい?倭人伝は複数回に倭國訪問した総合記でしょうに。
有明海は陸行せず脊振山系を迂回し、各国々を船で直通出来るルートだよ。
親交を徐々に深めてから、船でも行ける事を教えただろうし、
首都(卑彌呼の都)も教え、女王卑弥呼にも謁見させたんだよ。
だから訪倭ルートも、複数あるのさ。
メインルートの距離は「里」で示し、
倭主要大国へのサブルートは「水行、陸行」で示しているのだよ。
だからサブルートの基点もメインルートと同じで帯方郡庁なんだ。
投馬國へは水行のみで行けるが、邪馬台国へは水行と陸行でしか行けないんだ。
つまり、投馬國は沿岸国で、邪馬台国は内陸国なんだ。
投馬國へは、帯方郡庁から舟で10日で末盧國に着き、
さらに10日で九州西岸を回って有明海沿岸の投馬國に着くのさ。
邪馬台国へは、帯方郡庁から舟で10日で末盧國に着き、
末盧國からは陸行(徒歩)で邪馬台国に行くのさ。
746 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 18:38:23.48
>>744 ロマンではなくルーピーだろ
いつまでも同じ事をグルグル考えあぐねている
正確に言えば答えは出てんだけどね
一部アレな人達が出てないと、同じ事を繰り返し叫んでるだけで
そして、いつまで経っても新たな真実は提示しない
>>745 邪馬台国の文字は1回出るだけなのに、卑弥呼を指す女王/女の文字は13回くらい出てくる
姫のもとへ何回も通った末の総合記とはするどい読みだ
それなら矛盾なく頭に入る
>>745 末蘆国から邪馬台国までは2000里だもんね
それを陸行(徒歩)1月なら納得できる日程だね
750 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 19:23:20.36
2000里だろうが、何里だろうが
直線距離じゃないんだから、何処でも行けるだろ
>>750 女王に会えなくていいんでしょ。 どうぞ、ご自由に。
752 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 19:48:09.58
陸行(徒歩)1月は1000餘里だよ。
753 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/09(水) 19:59:11.99
>>752 それを中国史書の例を挙げて論証すればみんな納得するだろう。
「スタートのが東南で陸行、そのあとはおまかせ。」のでよいよ。
755 :
742:2013/01/09(水) 22:14:24.76
>>745 所々同意見なんだが、邪馬台国は内陸とは思わんよ?
投馬國が有明海沿岸(同意見)なら、邪馬台国も沿岸だぞ。
何故なら有明海は東南に伸びた形だからだ。邪馬台国は投馬國の南。
有明海沿岸から南側に下って、内陸に入るトコって何処よ?
まずそれから聞こうか。
ひょっとしたら邪馬台国の場所考えてるの同じかもだし。
756 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 23:35:18.16
倭人伝のあーよめるこーよめるよりも考古学的出土品で当時の日本を浮かび上がらせるべきやろ
757 :
742:2013/01/10(木) 00:42:35.57
>>755 ギブアップか?
俺は投馬國=鹿島付近だと思ってるよ。南に下って内陸に向かう…
…と言うか、陸地がある。五ヶ原岳を超えるか回り込むか知らんが、
出た先は諫早から島原半島の付け根、森山〜吾妻付近。この辺りだろ。
参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千余里
[倭の地を訪問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え、或は連なり、周旋五千余里可なり]
こりゃ干潟を指してる。
有明海の干満で、諫早湾や佐賀平野沿岸に干潟が出来る様子だ。
有明海をぐるりと取り囲む倭國範囲内が、周旋五千余里ってコトでしょ。
倭人伝で、国々の名前が簡素に次々と上がる下りは、邪馬台国側(長崎側)から
対岸の熊本方面を見て、南の國から北に向かって順番に説明されたのを書き記してる。
余りにも簡素だから魏使団は行ってはいない。国名聞いて書いただけ。
んで、ぐるりと一順して再び奴國(佐賀市付近)が記載される…と。
距離らは曖昧だと思うが、方向はまず間違いなく書かれてると思う。
759 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 01:15:11.55
せっかく伊都国=佐賀ということに気づいたのに、その先の日数をごまかして読んだのでは何にも
ならんね。伊都国から先は放射式だ。伊都国から南へ水行二十日で投馬国、となればかなり南へ
いかねば。薩摩川内が投馬国だろう。
そして、伊都国から南へ水行十日陸行1月で邪馬台国、これは川内までの半分すなわち八代あたりで
上陸しそこから陸行1月、都城盆地だろうね。そこは記紀が伝える我が国の最初の王宮があった所だ。
遺跡的にも生目古墳群など日向の初期古墳群が近くにある。
邪馬台国が海岸寄りならばやはり船で行った方が楽だ。1月の陸行をしたところからみてある程度は
内陸でないとね。その点、都城盆地ならばぴったり。
760 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 01:18:40.64
投馬国や邪馬台国を有明海沿岸あたりにちまちまと考えていたのでは倭人伝がいう女王国の東渡海船離
とか南四千里し
761 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 01:21:00.49
投馬国や邪馬台国を有明海沿岸あたりにちまちまと考えていたのでは倭人伝がいう女王国の東渡海船離
とか南四千里侏儒国とか東南船行1年といったスケールの大きい話と整合しない。
周旋五千里というのは唐津からぐるりとめぐって日向南端まで行った距離だよ。それでこそ倭の地の大
きさを示したことになるだろ。
>>761 > 投馬国や邪馬台国を有明海沿岸あたりにちまちまと考えていたのでは倭人伝がいう女王国の東渡海船離
> とか南四千里侏儒国とか東南船行1年といったスケールの大きい話と整合しない。
↓
それは確かに思ったんだけど…
玄海灘方向から船で見た様子で、もう九州を女王國って大雑把に書いたんじゃない?
倭人伝の一番最初の下りで、そんな表現垣間見えるしね。
> 周旋五千里というのは唐津からぐるりとめぐって日向南端まで行った距離だよ。それでこそ倭の地の大
> きさを示したことになるだろ。
↓
対馬〜壱岐〜唐津=全て千余里だろ?
この距離間を基準に×五倍で、有明海沿岸総距離=ほぼ周旋五千余里にならね?
つか例えばの話、九州一円に国々が散らばってたとして、どうやって統括すんのさ?
どうやって綿密に連絡取り合ったりするのよ?
道っつー道も、電話も車も何ーんも無い時代にさ?
763 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 06:29:27.87
>>762 >倭人伝の一番最初の下りで、そんな表現垣間見えるしね。
何のことかな? 船から見た様子ぐらいで判断するはずはない。使者はちゃんと
卑弥呼に会っている。投馬国、邪馬台国まで旅をしているんだ。
>有明海沿岸総距離=ほぼ周旋五千余里にならね?
周旋というのは一周ではない。向こう端まで行き着くことだ。五千里は約400キロ
唐津から日向南端でちょうどだろう。
>九州一円に国々が散らばってたとして、どうやって統括すんのさ?
近畿説は列島全部という。九州全土を統一したというぐらいでびっくりしてちゃだめだ。
九州全土の様子が分かってるから東や南の海のこともでてくる。゜
飛脚、狼煙、連絡方法はいろいろあっただろう。だが、北九州は遠いから一大率をおいた
んだよ。
>>763 ◆〇〇おじさん家
◆東京大田区のおじさん家
◆東京のおじさん家
呼び方は変われど、指してるモノは変わらないだろうと。
広く大雑把に表現するか、範囲内を細かく表現するかの違い。
これなら周旋五千余里も説明がつく。
つかこれ書き手一人か?
書き手が全て訪問した記録か?
若しくは複数訪問した人間の記事纏めてないか?
東方見聞録の例もあるし、全部が全部信じちゃいないが…
765 :
752:2013/01/10(木) 10:18:16.62
>>753 >それを中国史書の例を挙げて論証すればみんな納得するだろう。
陸行1月=海行1月=行1月=1月行で論証済。
ここではその論証を省略
766 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 10:39:56.67
何にせよ、どんな博識学者が論じても今は机上論だしなぁ。
後世、志高き考古学者が掘り当て歴史の扉を開くのか…
はたまた卑弥呼に惚れられた、選ばれし者が偶然見付けるのか…
それとも永遠に謎なのか…
300年議論されたコトだから、あと300年掛かっても良いかもね。
768 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 12:50:55.21
一大率の問題もある。
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國
一大率を伊都国に置いたのは誰かという問題。一大率を諸国が畏れ憚るならば、
置いたものの方がもっと畏れ多いことになる。一大率はその畏れ多いものの
代わりになるわけだから、畏れ多いものは近くにあるわけがない。
畏れ多い女王は目の届かない遠くにいた可能性が高い。
769 :
752:2013/01/10(木) 13:41:50.55
>>755 >>757 >>759-764 周旋五千里
對海國(対馬)から狗奴國までが周旋五千里(350km)
對海國北岸から末盧國の津までが3400餘里。
(=400餘里+400餘里+1000餘里+300里+300里+1000餘里)
末盧國の津から邪馬台国伊支馬城柵までが1000餘里(=陸行1月)。
(末盧國−不彌國は600里、不彌國−邪馬台国伊支馬城柵は400餘里)
邪馬台国伊支馬城柵から狗奴國城柵までが残り600餘里。
故に、狗奴國は熊本平野北部となる。
770 :
752:2013/01/10(木) 14:06:39.90
周旋五千里 その2
對海國(対馬)から狗奴國までが周旋五千里(350km)
對海國北岸から不彌國までが4000餘里。
(=400餘里+400餘里+1000餘里+300里+300里+1000餘里+500里+100里)
不彌國城柵(吉野ヶ里)から狗奴國城柵までが残り1000里(70km)。
故に、狗奴國は熊本平野北部となる。
支那人の共産党員が書いたデマ文書を盲信するのはアホ
>>759 邪馬台国都城はないな、
島津家以前の史跡・伝承に乏しい、シラス・黄ボラの火山灰台地と谷津田で土地は痩せてる。
>都城盆地では、万寿年間(1024〜28)、大宰府の役人であった平季基が、
>荒れはてた土地300町(約300ヘクタール)を開発したといいます。
>季基は、このころ政治の実権をにぎっていた関白 藤原頼通にこの土地を寄進しました。
>これが日本一といわれる大荘園「島津荘」のはじまりです。
>>761-762 周旋5千里は、女王国の東の海の先にある倭種の国々「倭の地」を巡る時の描写。
倭国ではなくて「倭の地」を参問すれば、その果てまで(片道)5千里、あちこち寄りながら行く(周旋する)と船行1年といってる。
>女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種。
>又有侏儒国在其南、人長三四尺。去女王四千余里。又有裸国、黒歯国。復在其東南、船行一年可至。
>参問倭地、絶在海中洲島之上、
>或絶或連周旋可五千余里。
>>772 ずいぶん古い説を持ち出したね。
とっくにお釈迦になった奇説だけど、結局は邪馬台国を八女〜筑後〜山門辺りに比定したいためでしょ。
至対海国、方可四百余里 → タテ400里+ヨコ400里 = 800里
至一大国、方可三百里 → タテ300里+ヨコ300里 = 600里
775 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 18:28:02.87
相変わらず漢語の意味を知らぬ書き込みが多いな。
周旋にはいくつかの意味がある。
人を主語にした場合は「付き合う、相手をする、(敵と)渡り合う、巡回する、巡る」などの意味で用いられるが、
土地や領土などが主語の場合は「周囲」の意味である。おおまかに面積の大きさを示す表現である。
正確な面積が分かっていれば「方1000里」などのように「方」で表現するが、それが出来ない場合に周囲長さの周旋
5000里のように示すのである。片道行だとか往復行の長さなどではない。
>参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里。
この文章の主語は倭地である。
参問倭地を「倭地を参問するに」と訳するとそれ以後の文章の主語が無くなり、不完全な文章となる。
参問倭地は「参問するに倭地は」というのが正しいのである。「(これまでに得られた情報を)総合して
勘案するに」というのがその意味である。
倭地は海中の大きな島の上にあり、国は或は(間に森林や湿地など人間不在の地域で)離れ或は隣接し、
その周囲は五千餘里ほどである。というのが倭人伝著者の認識なのである。
>「倭地を参問するに」
>「参問するに倭地は」
上は昔風の日本語、
下は最近流行の英語・中国語風言い回し、又は日本語のできる外国人
おなじ意味だよ
なお倭地は女王国から海を渡った先の島々を指しており、明らかに女王国は含まれない
>>775 周旋を一周(ぐるりと一回り)に限定して解するのは最近の若者か外国人。
本来は必ずしも一周するではない
周 は あまねく
旋 は めぐる
778 :
752:2013/01/10(木) 20:05:27.85
>>777 同意
その地域の始点から終点まで順次に、あまねくめぐる。
始点と終点はその地域の両端に在る。
>>770 ん?『狗奴國』は倭國の南側にある敵対國だろ?
『奴國』よ?
伊都國の東南に位置する。
数字コテから察するに、文体読むと反論だろうが『奴國』と『狗奴國』勘違いしてね?
里数とか一先ずいといて、白紙に国名書きながら方向合わせて繋げてみ?
ぐるりと半時計回りに輪を描いて繋がるから。
吉野ヶ里は前期邪馬台国。奴国は邪馬台国の外港。3世紀頃に、大和の巻向に東遷。
魏志倭人伝の邪馬台国は巻向が書かれている。当時は中国とも交流があり、文字も入って
きていたから記録ができて後世伝承された。その伝承された記録を基にして古事記や日本書紀
ができた。
国産み伝説は、淀川河口の難波の付近に島が続々とできてきたところからうまれた。
難波宮は現在の大阪城の付近の岬の突端にあった。現在の大阪市は、島ができて繋がって
陸地へと変化した上にできた街。
葦原中つ国も、淀川河口に葦原が広がっていたから。
781 :
752:2013/01/10(木) 21:20:31.54
>>779 >『狗奴國』は倭國の南側にある敵対國だろ?
『狗奴國』は女王國の敵対國であるが、倭の一部である。
*奴國城柵と不彌國城柵の位置
「東南至奴國百里」(位置情報)
奴國城柵(佐賀城内)は伊都國城柵(惣座遺跡)の東南方向に100里
「東行至不彌國百里」(動作情報)
不彌國城柵(吉野ヶ里遺跡)は伊都國城柵(惣座遺跡)から東方向へ行くと100里。
伊都國で奴國方面と不彌國方面に分岐しているのである。
>>781 あいわかった、それで不彌国の南至邪馬台国はいずこ?
>>781 > 『狗奴國』は女王國の敵対國であるが、倭の一部である。
いやいや(笑)
狗奴國は男子を王と為し、女王に属せずとありますがな(^_^;)
伊都國が分岐点で間違い無いけど。
784 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 21:45:07.29
知ったかぶりの書き込みが多いな。
>>776 >おなじ意味だよ
残念ながら全く違う。
「倭地を参問するに」 は参問を(倭地を目的語とする)ひとつの動詞と見なしている。
参問は「問(情報)を参(勘案)する」ことで、例の文章では前提や条件を表すために置かれた副詞節である。
>>777 周旋を人を主語とする動詞として見るのは過ちである。
例の文では名詞として用いられて、「周囲は五千余里ほどである」ということである。
>>784 動詞と副詞節は文法上違うから違う、みたいなのは無駄な論議
そもそも倭人伝では、倭国と倭地を別地区として使い分けているのが肝腎。
卑弥呼の時代、瀬戸内海を挟んで高地性集落を築いて争っていた2つの勢力があった。
九州説だとその2つの勢力についてどんな説明が出来るんだろう?
787 :
752:2013/01/10(木) 22:23:34.92
>>782 >それで不彌国の南至邪馬台国はいずこ?
不彌國1000家の小国家であるゆえ、不彌國の領域≒不彌國の城柵
しかし、邪馬台国は7万戸の大国家であるゆえ、邪馬台国の領域>>邪馬台国の城柵
又、長官が1名と次官(≠副官)が3名それに女王がいるために、邪馬台国の城柵は5ヶ所ある。
長官用城柵が1ヶ所、副官用城柵が3ヶ所、それに女王用城柵が1ヶ所。
長官用城柵は筑後平野の八女、
副官用城柵は北野平野の浮羽、朝倉、小郡、
女王用城柵は筑後平野の久留米南部
なお、投馬國城柵は三潴、5万戸投馬國領域は有明海東岸沿いの
みやき町三根から大牟田に至る筑後平野。
比定地は以上の通り。
奴國は佐賀平野
>>784 君は考古学者だね
考古学の論文はモノを主語にして三人称で書かなければならない。
どうやら常にモノを主語にして読み書きする性癖から抜けきれないようだ。
言い換えれば、ヒトを主語において読み書きすることに恐怖感を抱いているのではないかね。
しかし倭人伝は、王朝の役人の目と筆で書かれている。
国家権力・権威、他国との関係、王朝の主従関係などは、人間関係に始まり、人間関係終わる。
主語はヒトで差し支えない。
というより王朝(今でいえば行政・役人)においては、多くの場合、主語はヒトであり、ヒトを主語において一人称で読み書きしなければならないのだ。
789 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 22:32:21.89
>>785 >そもそも倭人伝では、倭国と倭地を別地区として使い分けているのが肝腎。
そうではないだろう。
卑弥呼が女王として君臨する倭国の土地を倭地と言っているのだ。
>女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種。
>又有侏儒国在其南、人長三四尺。去女王四千余里。又有裸国、黒歯国。復在其東南、船行一年可至。
という記述は狗奴国の記事と同様に倭国のまわりの状況を述べた付属情報なのである。
東夷伝では高句麗にしても韓にしてもほとんど全てにおいて面積が記されている。倭国については島国である
対海国と一大国については方四百里、方三百里と面積が記されているが、本体の面積が記されないのは画竜点
睛を欠くので、測量したわけではないが、調査官の走行記録や(傍国の位置関係などの)倭人からの聞き取り
情報を勘案して周旋(周囲)五千余里と記したのである。
倭人伝はお互い(倭人と魏師団)の立場になって、当時の
情景を想い浮かべながら読めば…何か見えて来るぞ。
余り難しく考え無い方が良いかも。
末盧國が玄関なら、伊都國は応接間だね。
信用得られるまで、伊都國から先には中々進め無かった様だ。
>>782 想定通り、北野平野〜筑後平野を邪馬台国と投馬国に比定してきたな、 >752 の予ねての主張。
>>787 戸数は盛ってる。眉唾だ。
少なく一戸四人家族と見積もっても、七万戸なら×4人=28万だぞ。
当時の日本の総人口(500万だったか?)から考えられない。
輸入無しの時給自足、そんな人数を養える広い耕作地帯なんて無い。
七万人だって厳しい。みんな餓死する。
当時の日本の人口は2、300万とすることが多いけど、最近はもっと過大にする傾向だね。
>>789 それみろ、中途半端に読んでるだろ
>女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種。
>又有侏儒国在其南、人長三四尺。去女王四千余里。又有裸国、黒歯国。復在其東南、船行一年可至。
その次に
>参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。・・・とある。
ここに書いてある「倭地」は、上記の「女王国東・・、復有国、皆倭種」を受けて書かれてる。
ここまで読んで、この段の意味を理解することができる。
795 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 23:07:41.83
>>794 >
>>789 >それみろ、中途半端に読んでるだろ
それはあなたのことではないか。
参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。
という記述で倭国の地理や産物や風俗の記事を締めているのである。決して直前の
「女王国東・・、復有国、皆倭種」の記事を受けて書かれたものではないのである。
奈良文化財研究所で提供されている遺跡データベースによれば、
単純に弥生時代の遺跡数で換算すると、
福岡県だけで弥生遺跡の20%をしめる。
むろん遺跡の大きさなども考慮しなければ、人口は分からないが、
福岡の遺跡が他所と比べて小さいということもないから、
荒っぽく考えて、弥生時代の人口の20%程度いたとかんがえてよいだろう。
弥生時代の人口が60万人なら、福岡だけで12万人。
300万人なら、60万人程度はいたということになる。
ちなみに兵庫県も福岡超える遺跡数である。
つまり、福岡と兵庫で40%と、
非常にかたよりがあるのだ。
これは農業に適した土地との関係であろう。
開発されているからだよ
ほとんど全ての遺跡が開発に伴う発掘調査
>>795 モノを主語において、三人称で読もうとするから
本能的に地理・産物・風俗のほうを主語において理解しようとする癖が出る。
この段の主語はブツではない。倭地を巡るヒトなのだ。
ヒトを主語においてゆっくり読めば私の言う区切りになる。
魏志倭人伝は、常にヒトを主語において一人称で読んでほしい。そうすれば、陳寿の世界が見えてくる。
一例を示そう。
邪馬台国なる語は一度しか登場しない。
しかし卑弥呼、女王、汝、一女、台与など人物を表わす語は数限りない。
ヒトを主語に置かなければ、とうてい読みこなせないではないか。
それがヒトを軸にした魏志倭人伝陳寿の作風なのだ。
>>797 長年積み重ねた結果での遺跡数でしょう?
単年で60万イケる?ないないw
東方見聞録の黄金の国の部分だよ(笑)
801 :
自己レス:2013/01/10(木) 23:35:12.62
> 長年積み重ねた結果での遺跡数でしょう?
↓
つまり木の年輪と同じってコトです。
802 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 23:50:44.63
倭人伝自体が信憑性に欠くからなぁ
三国志が誤記、誤写散見らしいからな
803 :
786:2013/01/10(木) 23:57:48.02
おいら寂しい
つーか見たくないものは見ないことで成り立ってるのが九州説なのかw
>>803 ああ悪いw
九州スレだから否定出来んトコだね。
805 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 00:35:22.13
邪馬台=やまと=大和だろうな
まあ文字の使用がなかったから邪馬台国を特定するのはかなり難儀だ
宮内庁指定墳を掘れば手掛かりが掴めるかもしれんがそれでも特定には至らないだろう
大和が邪馬臺から取ったものだろう
継続性を内外に示すために
鉄器も朱丹も少ない畿内だが大和と称しているだけで邪馬台=ヤマトと一般の多くが思う
民衆への効果絶大なこれを為政者が意図を持ってやることは自然なことだよ
江戸を東京(東の京)って改めたぐらいだからね。
そう考えると、古名の名残が現代まで続いてると考えるのも疑問。
途中でバッサリ改名した可能性だってある。
伊都國が糸島半島とか、単純過ぎるし理屈に合わない。
だから俺は、最初の方は地名をガン無視した。
対馬・壱岐は経路的に間違いない。
離島だから、外の影響を受けず残ったんだろうし。
…ひょっとしたら文字数がヒントになるかも。
イト=タク=オギ(共に二文字)…とか。
809 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 01:40:09.29
大和政権以前に弥生時代畿内に他を遥かに上回る超規模の史跡がある
しかも中国との綿密な関係があった
倭人伝、この天皇期に触れる大国を無視しての記述とは考えにくい
810 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 04:47:11.34
>>789 >調査官の走行記録や(傍国の位置関係などの)倭人からの聞き取り
>情報を勘案して周旋(周囲)五千余里と記したのである。
周囲とするのは間違いだね。
>>778の考え方が正しい。
>>795はそのとおり。
>>809 > 大和政権以前に弥生時代畿内に他を遥かに上回る超規模の史跡がある
> しかも中国との綿密な関係があった
↓
そりゃ九州の後だ。
先ずは着地点の九州から関係を求め、
徐々に東に関係を求めに行ったと考察するのが普通。
>>786-803 >女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種 ←中国地方
>又有侏儒国在其南、人長三四尺。去女王四千余 ←四国地方
>又有裸国、黒歯国。復在其東南、船行一年可至 ←近畿・紀伊半島 と考えればつじつまが合わないか。
>>811 とかく考古学者は、「倭人伝こそは第一級の考古学的学術論文」として読もうとするからな
どうしても大規模な発掘地点をつないで倭国の構図を書きたがる
実際には親魏倭王の女王国をひいきする倭国情勢報告書みたいなものだろ
814 :
752:2013/01/11(金) 09:50:26.24
>>812 >女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種 ←中国地方(周防)
女王國の東にある幅千餘里の海を渡る。
女王國から千餘里に倭種がいるのではない。
>又有侏儒国在其南、人長三四尺。去女王四千余里 ←四国地方(土佐)
倭種(周防)の南方であり女王の居所(筑紫平野)から四千餘里の地点
>又有裸国、黒歯国。復在其東南、船行一年可至 ←相模・武蔵
船行一年=海行十二月≒900km
と考える。
815 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 10:25:16.93
>>813 魏志倭人伝のような倭国情勢報告書みたいなものは第一級の考古学的学術論文になる。
>>814 倭の地の概念概況は、おおむねそんなところでいいんじゃないの、
多くの人は、納得できると思うよ >812
817 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 10:38:36.18
>>815 それをいうなら、
魏志倭人伝のような倭国情勢報告書みたいなものは第一級の考古学的学術「資料」になる・・、だね。
倭人伝は魏王朝使節のいくつかの出張報告書を編集したようなものであり、
まことに貴重ではあるが、今日言う処の学術論文ではないからね。
818 :
752:2013/01/11(金) 10:41:50.04
>又有裸国、黒歯国。復在其東南、船行一年可至 ←相模・武蔵
船行一年=海行十二月=一万二千餘里≒900km
819 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 10:47:41.98
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王
自女王國南四千餘里至朱儒國 人長三四尺
自朱儒東南行船一年 至裸國 黒齒國
その「考古」という語をどういう意味で使ってるのかよくわからんが
考古学は特に古代史の分野においては文献を参考にするのはよしあしだな
文献に邪馬台国の記述があればどうしても予断が生じてくる
白紙状態のままで遺跡と遺物から
当時の生活の様子を組み立てていくほうがいい場合もある
邪馬台国とか卑弥呼とかの文字を刻んだ遺物を掘り出してみろ。
それが出ないのに軽々しく倭人伝がどうのこうのと言うな。
>>820 まことに仰せのとおり
西日本で弥生後期〜古墳時代の大きめな遺跡を掘り当てると、
前後左右を顧みず、卑弥呼うんぬんと宣伝したがる
おまけにマスコミ連ときたら、北関東の遺跡発掘物でさえ、卑弥呼時代うんぬんと注釈するからね
ま、いまもって鬼道の卑弥呼に惑わされてるのかもしれぬ
例えば何でもいいが、ザルの編み方とか釣り針の形や原材料なんか
そういうことが文献に絵入りで出てくるなんて日本ではないわけだから
そういう地道な研究の積み重ねが本来の考古学の役割
>>821 とりわけ公的機関の学者・古代関係者などが軽々に口にするのは好ましくないな。
ねつ造学者への道につながりかねない。
>>812 まさにそれそれ!
俺が言いたかったコトを書いてくれてありがとう。
>>810 > 周囲とするのは間違いだね。
>>778の考え方が正しい。
>
>>795はそのとおり。
何でこの場合の周旋の意味が端から端までになるのかw
漢文の意味の取り方云々に振り回され過ぎてる。
>>826 なんでこの場合の周旋が一周に限定されるのかw
>>827 待ってなさい。
図に書いてアップして説明文添えるから。
余談だが、吉野ヶ里の雪景色をテレビで観た(笑)
829 :
828:2013/01/11(金) 19:28:53.10
書いたが使ってたアップロード先が閉鎖しとる…
誰か使ってるトコのアドレス教えて下さいm(_ _)m
830 :
778:2013/01/11(金) 21:37:23.39
>>826 >何でこの場合の周旋の意味が端から端までになるのかw
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」
倭地は島々が並んで列島状になっている。
この列島をあまねくまわると、端から端まで物理的に進むのが合理的である。
831 :
828:2013/01/11(金) 21:40:05.94
アップロードサイト知らべて使ったが、なんか不調。
つまり、邪馬台国から次々に国々を説明するのに、また奴國が出てくる。
北から南に掛けて(伊都國→投馬國→邪馬台国)と紹介されて行く流れで、
邪馬台国からバラバラに国名紹介するのは話の流れからおかしい。
周旋を『端から端まで』の解釈なら、二回目に出てくる『次有奴國』は要らない。
出て来たらダメだ。その手前の烏奴國で切れて、『此女王境界所尽』に成らないと。
もう一度『次に奴國』が出て、これ女王の境界の尽くる所なり…となれば、
それは一周回ってるってコトだ。
故にこの場合の周旋は端から端まででなく、周回を示唆する。
周回した輪(女王国領域)を境界線とし、その南側に狗奴國がある。
天皇家なら知っているような気がするんだけどなぁ?
九州の宇佐神宮にヒントがありそう
国の呼び名はその土地の人が他国と相談せずにつけるのがふつうだ。
同じ名の国がふたつあってもなんら不思議ではない。
勝手にひとつにしてはいけない。
そんなことをすればスロバキアとスロベニアは同じ国になってしまう。
834 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 22:04:34.75
>>820 古代の考古学では固有名詞は出てこない。
考古学的に邪馬台国は存在しないと言われるのはそういうこと。
わかるんだったら、帥升以前の国名や人名を考古学で出せば良い。
つまり、邪馬台国や卑弥呼は倭人伝から借りて来ざるを得ないということ。
>>831 それは「倭国」のなかに限定する場合のようだね
陳寿が「参問倭地」と述べてるのは以下の国々を加えたとき、
すなわち 倭人の住む地を周旋すれば の意味で使用してるようだけどね、いかが??
>女王国東渡海千余里、復有国皆倭種
>又有侏儒国在其南、人長三四尺、去女王四千余里
>又有裸国、黒歯国。復在其東南、船行一年可至
>参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里
邪馬台国の卑弥呼が天照大神と考えてる
九州から東に流れて行って平安京ができたと考える
金印が発見されたのも吉野ヶ里遺跡も北部九州
837 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 22:38:28.49
奴國は2つある。
倭奴國の流れをくむ福岡平野(須玖岡本)の非女王の奴國A。
上記奴國Aから分国し卑彌呼を共立した佐賀平野(佐賀城内)の親女王の奴國B。
奴國Bは、倭奴國を滅ぼした伊都國(佐賀惣座)を監視する役目もある。
魏使が末盧國(唐津)に上陸するのは、
@福岡平野の奴國Aを避けていること、
A漢代から続く倭國の系統王が伊都國(佐賀惣座)に居ること。
>>835 > すなわち 倭人の住む地を周旋すれば の意味で使用してるようだけどね、いかが??
> >女王国東渡海千余里、復有国皆倭種
> >又有侏儒国在其南、人長三四尺、去女王四千余里
> >又有裸国、黒歯国。復在其東南、船行一年可至
> >参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里
↑
広く日本人列島に拡張すりゃ、ますます周旋五千余里にゃならんでしょ。
『船行一年可至』まで入ってるし。
んで、上記を書かれてる下りは女王國内の説明文の所から飛んでる場所。
あと、皆さん直線的に考え過ぎ。移動すりゃ水陸共に蛇行するモンですよ。
手付かずの大自然であろう、原始日本(九州)なら尚更。
>>833 そうかもとも思いますが、上記の理由で保留し、今は自案で考えて行きます。
>>832 …ひょっとしたらオマエは俺の後輩か?w
>>837 同意
魏志倭人伝は倭国(女王国?)は30国あると述べているが、数えてみると29国しかない
奴国はダブっているからといって一つ減らすと28国に減ってしまう
狗奴國を入れても29だ
やはり、奴国A、奴国Bの二つがあることも想定しておくと良いとおもう
840 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 22:50:59.19
>>835 五千里は倭人伝の尺度では300〜400kmとなる。
周囲300〜400kmだと福岡県の外周距離とさほど違わない。
これでは中国地方や四国など含まれる余地はない。
>陳寿が「参問倭地」と述べてるのは以下の国々を加えたとき、
>すなわち 倭人の住む地を周旋すれば の意味で使用してるようだけどね、いかが??
漢語の意味からしてそれはあり得ない。
参問、倭地絶在海中洲島之上或絶或連、周旋可五千余里
と句読点を置けば正しい読みとなる。
>>838 倭国と倭地を別の漢字にしてるからには別概念であることは当然、
役人の文字使いには其々厳格な意味が込められているもの
倭地については黒歯国まで把握記載してるので、そこまでに限定される
周旋はグルグル回るというより、現代の言葉で言えば「表敬訪問」ととらえればよいと思う
>>840 >参問、倭地絶在海中洲島之上或絶或連、周旋可五千余里
ここに句読点を置いた場合、どう読めばよいのか??
>>838 後輩なのか先輩なのかはわかりませんがw
日本の歴史を紐解く場合は神社なくして考えられませんからね
>>837 ちょいまち!それ倭人伝の何処に記載されてんのさ??
どっかの学者さんの見解から?それとも貴方の想像なり妄想?
倭人伝の記載外から色々持って来るからごちゃ混ぜになって難解するのよ。
理解不能、つじつまが合わない部分を、文体だけでなく当時の人々の立場から
考察しないと、何も見えて来ないし、無理矢理つじつま合わせもする。
だから『七万戸』の部分も誰も疑問に思わなかったんだろ?
誤筆なのか、はたまた故意なのか…故意なら何故人口を盛って魏國に報告(して記録)したのか…?
…そう言う背景も考えて答えを導かないと駄目なのでは?
そして、全部つじつま合わせても、『ブツ』が出ないと正解無き机上論。
>>844 それより先に、奴国は2つありとしなければ勘定が合わない
倭国は30国と明記してるからね
846 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 23:23:36.09
>>841 「表敬訪問」などとんでもない。
以下の文は三国志に出てくる呉の諸葛恪の伝にあるものである。
丹楊地勢險阻、與吳郡、會稽、新都、鄱陽、四郡鄰接、周旋數千里、山谷萬重・・・
これは丹楊の地勢を記述したもので周旋が周囲を意味する名詞(的用法)であることが明白である。
倭人条の「周旋可五千余里」も同じ用法なのである。
847 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 23:31:03.10
>>842 問(情報)を参(勘案)するに、倭地は(大陸から離れて)海中の洲島の上に在り、或は離れ或は接し
ている。周囲は五千余里ほどである。
>>846 なぜに明白か??
魏王朝の高級官僚がポチタマ番組でもあるまいに、グルリと回る のような品格に欠ける漢字を当てるとおもうか
しかも周旋5千里をグルリ回ると解釈すれば、福岡県ほどの大きさと
>>840はいってるではないか
倭国は福岡県内ほどの広さに納まっていたというのか??
849 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 23:41:00.54
>>848 >なぜに明白か??
丹楊地勢險阻、與吳郡、會稽、新都、鄱陽、四郡鄰接、周旋數千里、山谷萬重・・・を見れば明かだがね。
>魏王朝の高級官僚がポチタマ番組でもあるまいに、グルリと回る のような品格に欠ける漢字を当てるとおもうか
周旋の動詞には「旋回する、縁を回る(リング状に回る)」などの意味があるが、これらの意味で用いられても
品格に欠けるということはなかろう。まして周囲という意味の名詞に用いられて品格を欠くこともなかろう。
850 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 23:44:30.02
九州説では倭人伝の頃にあった畿内の中国と交流あった圧倒的規模のクニをどう見てる?
なぜ倭人伝では無視されてる?
>>847 学生か?
魏志倭人伝は、魏王朝の高級官僚の手になる倭国情勢報告書のようなもので、魏王も読んだであろう。
主語は常に「我々使節団(調査団)は・・・」である。
ただし報告書であるから、主語は省略されている。
それを補いつつ読むことで、陳寿の文章の味わい深さを感じとれるのではないであろうか。
大阪にある仁徳天皇の墓であり古墳を調査しないのは都合が悪い事でもあるのだろう
邪馬台国九州説を裏付けられる証拠でも眠っているのかな?
>>849 それで周囲と解すれば、倭国は福岡県ほどの大きさに入る、の件はどうなるのか??
>>848 > 倭国は福岡県内ほどの広さに納まっていたというのか??
そう。
◆ある程度かたまってないと、敵に攻められた時にやられてしまう。
◆広がってると、一つの國が攻められた時応援を呼べない、行けない。
◆ちゃんと狗奴國って敵対國も既存してるから尚更。
◆敵がいなけりゃ堀も巡らす必要ない、獣避けなら城柵要らない。
あと色々。
855 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 23:56:33.82
>>851 >主語は常に「我々使節団(調査団)は・・・」である。
それはまた異な事を!!
倭人在帶方東南大海之中,依山島為國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國・・・
男子無大小皆黥面文身。自古以來,其使詣中國,皆自稱大夫・・・
其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歴年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼・・・
これらを「我々使節団(調査団)は・・・」と補いつつ読めますか?
また漢文解釈に振り回されてるしw
邪馬台国は九州なのははっきりしている
金印が見つかったのも志賀島だ
近畿人は無理やり九州邪馬台国説を近畿にしたいだけ
「中国と交流あった圧倒的規模のクニ」とは何だい?
>>855 そうだ、この場合は、われわれ使節団(調査団)が確認したところによれば・・、を補わなくてはならない。
主語といって分かりにくければ、主体者とでもいいかえて補おう
倭人伝は使節団報告書ではない。
読めばわかるから読んでみなさいよ。
>>861 さらに正確にいえば、いくつかの使節団報告書を元に、
高級官僚である史官(記録官)陳寿が王朝史として編集しなおしたものであろう
ま、観光案内書の類ではない
>>861 読み人次第ですからねぇ…
さて、周旋は置いといて、疑問に思ってるのが一つある。
『何故未開の地に先進国の魏が命掛けで来たのか?』
です。
逆ならわかる、文明を輸入しなきゃですから。
自論はありますが、皆さんの考えや如何に?
864 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 00:20:33.11
>>846 >丹楊地勢險阻、與吳郡、會稽、新都、鄱陽、四郡鄰接、周旋數千里、山谷萬重・・・を見れば明かだがね。
明白だ。
地勢險阻だから四郡の周りをぐるりと回れない。
谷をぬい、峠を越えて、四郡を吳郡→會稽→新都→鄱陽と順次巡っていくのだ。
端(吳郡)から端(鄱陽)まで順次巡っていくのだ。
周旋五千里
松浦から残り二千余里なので、
行って帰って、ちょっと寄り道した程度。
余の部分が五百里あるなら、
寄り道もしなかったかもしれない。
>>858 九州説なんて所詮は何の根拠もない妄想です。
>>866 宇佐神宮を少しは調べてごらん
天照のヒメをヒメコ(卑弥呼)として祭ってあるから
日本の歴史は宇佐神宮にヒントがある
868 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 00:32:33.09
宇佐神社なんて遡って精々6世紀だろう
870 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 00:42:43.65
倭地 周旋可五千餘里
対馬(對海國)→壱岐→唐津→佐賀平野(伊都國)→筑後平野(邪馬台国)→築肥山地→熊本平野(狗奴國)
以上、倭地は、対馬から熊本平野までの五千余里(350km)なのだ。
熊本平野の南は海(緑川加勢川の河口湾)
872 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 00:45:52.80
倭地と言ってるだろ。海は入らないよ。末盧国から周旋五千里なんだ。
南九州までな。
>>868 それを言うなら伊勢神宮はもっと後の時代になる
元伊勢が京都に残っていてるけどな
874 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 00:50:25.40
875 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 00:52:04.42
倭の居るところが倭地
倭種の居るところは倭地ではない。
>>845 >
>>844 > それより先に、奴国は2つありとしなければ勘定が合わない
> 倭国は30国と明記してるからね
倭人在帯方東南大海之中旧百余國漢時有朝見者今使訳所通三十國
[倭人は帯方の東南大海の中に在り山島に依りて國邑を為す
もと百余國漢の時朝見する者有り今使訳通ずる所三十國]
狗奴國入れて三十じゃない?
倭人と書いてあって倭國じゃない。
通訳通じる所とが三十國だから。
877 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 01:00:30.35
>>870 だから直線的過ぎだってのw
唐津から熊本まで真っ直ぐ歩けるの?
879 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 01:17:50.19
人吉市の「伊勢大神宮」はこの数年で立派になったなぁ。
>>877 その神社は多分近年になってできたものでは?
>>867 徳島の天石門別八倉比売神社も調べてみたら?
882 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 01:45:42.12
>>878 >だから直線的過ぎだってのw
>唐津から熊本まで真っ直ぐ歩けるの?
唐津から、背振山地越え、伊都國城柵(佐賀惣座)、不彌國城柵(吉野ヶ里)、
筑後川を渡り、投馬國の津(三潴)、卑彌呼城柵(久留米南部)、
邪馬台国城柵(八代)、矢部川を渡り、筑肥山地越え、菊池川を渡り、
狗奴國城柵(山鹿方保田東原&菊池 台[うてな])と、くにゃくにゃと歩きます。
台[うてな]の南400里(30km)には古熊本湾の海があります。
ここが倭地の南の端。
883 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 01:51:46.29
>>880 >その神社は多分近年になってできたものでは?
非常に古いようです。
時期不明。
明治以降に手入され、近年、石の鳥居を作ったもよう。
宇佐神宮は渡来人の秦氏が建てたのでは?北九州を拠点にしていた秦氏が大阪にたどり着いて
定住した。
辛嶋氏が建てた
前方後円墳が古代日本の権力の象徴。これは、畿内から発生している。
888 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 02:26:08.39
九州説は無数に読み取れる倭人伝の解釈で成り立っている
倭人伝では、果てはエジプトでさえ解釈可能
畿内がどうと言うつもりはないが、倭人伝にこだわりすぎると道を踏み誤るだろう
発掘調査を参考し当時の日本を浮かび上がらせるべき
答えを邪馬台国にするべからず
邪馬台国は、じゃまたいこく
なんてな
八女台国
耶馬台国
八女(やめ)
邪馬(やめ)
「め」はいずれも甲類
891 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 03:03:01.40
892 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 03:35:07.65
津古生掛 全長33m(後円部径29m、前方部長さ4m) 木棺直葬
卑彌呼冢 「大作冢 徑百餘歩」 26m≒76*100/300 たぶん木棺直葬
平原1号墓 方形周溝墓 14*10.5m 木棺直葬
平原2号墓 円形もしくは隅丸方形の周溝墓 木棺直葬
それ以前のは甕棺
893 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 03:47:20.30
日本語Wikipediaは程度低いからな
895 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 03:59:30.19
甕棺直葬→木棺直葬 大酋長さんの血筋に「樂浪人」のが混ざるみたいな
名 國 爲 邦
弓 爲 弧
賊 爲 寇
行酒 爲 行觴
相呼皆 爲 徒
有似秦人 非但燕齊之名物也
名 樂浪人 爲 阿殘
東方人名 我 爲 阿
謂樂浪人本其殘餘人
896 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 07:04:46.65
津古生掛古墳のような今なら確実に保存されるような古い形の古墳を破壊するとは…
しかも有棺無槨じゃないか
こんなバカな議論をいつまでやるつもりか?
警察でいう物証だ
物証が北部九州hから出ているのにくだらん
西日本人のルーツは秦氏
それが大陸に近い九州から始まったのは当然であり
宇佐神宮から籠神社に伝わっていった
秦氏は現在の漢民族とは関係ない
ユダヤの六芒星が伊勢神宮にもある事からして
ユダヤ人と考えられる
898 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 08:00:20.56
新井白石気取りのあの新井白丁先生はどうしているのだろう?
899 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 08:01:55.72
伊勢神宮の六亡星は明治以降につくられたものです。
灯篭の六亡星ですが、刻んだ職人さんが、弁明(頼まれたから刻んだだけだと)している
本をみたことがあります。
そういや佐賀の古名は水江だな
ミズエ←ヌエ←ヌ と訛って行った想像もできる
>>888 間違った解釈を都合よく積み重ねてもダメですよ。
902 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 08:42:58.90
そう、何が合理的かを考えれば、解釈はそういくつも成立しないよ。
末盧国から東南五百里の伊都国は、有明海沿岸の佐賀付近とみるのが倭人伝に
従った解釈。怡土は単なる地名の類似にとらわれた不合理な解釈だ。
あとは、普通に解釈して投馬国や邪馬台国を比定するのに何の問題もない。
903 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 09:01:23.16
結局距離を都合よく解釈してるじゃんw
>>902 松浦辺りを上陸地として選ぶのは距離が合わないし、
地名の類似にとらわれてるのでは?
906 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/12(土) 09:43:20.78
周旋五千里とは
1 一周の距離
2 往復の距離
3 片道の距離
のどれかだろうが、
1だとすると方1250里と同じようなものだから、遼西郡と同じようなもので、
それは九州とほぼ同じようなものだから、九州説有利となる。
しかし陳寿が倭を遼西郡程度の大きさだと考えていたとは思えず、
後代の正史に倭は東西南北数千里と書かれていることを思えば、
或いは3が正解かもしれぬ。
907 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/12(土) 09:47:23.75
いずにせよ於投馬はイズモかアズマだろうから、
邪馬台国は大和で、九州説に勝ち目はない。
しかし邪馬台国の官名は任那を連想させるから、
邪馬台国は大和だが、卑弥呼がいたのは任那かもしれぬ。
908 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 09:52:38.04
はんこもろたおひとが追放刑くらって流されて怨んで祟神になったんじゃろて
909 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 09:55:47.12
910 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 10:06:36.97
911 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 10:10:07.41
>>876 伊都国の次の奴国と、傍国21の最後の奴国がダブってるから、正味は28国
それに狗奴国を足しても正味29国にしかならない
狗邪韓国を足して正味30国かもしれない
奴国をダブらせたのは末蘆国→女王都ルートと傍国群との結節点を明らかにするためだったと考えると納得いく
>>905 ならば、いっそう合理的な上陸地点を述べよ
>>906 朝早いんだな、満州は。
周旋5千里は方1250里のようなもの・・、の例えはわかりやすい。
末蘆国から邪馬台国までは2千余里だから、その1250里よりはみ出す。
たしかに、満州の言う片道5千里の方があってる気がする。
伊達に満州浪人してたわけではないようだ。さすがだな。
それにつけても、九州説をおうえんしてくれ。
卑弥呼は九州の満州みたいな草原崗嶺地帯にいたとな。
>>903 美しい写真だ。
見れば見るほど上陸地点の末蘆港にふさわしいよ。
>>913 距離的にはもっと博多寄りでもよいはず。
海を渡ると描かれてるだけで、「又渡一海千余里」とあるが、
「南」とは書かれてないしな。
917 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 11:19:07.80
>1だとすると方1250里と同じようなものだから、遼西郡と同じようなもので、
んなわけあるか。壱岐の縦、横が4倍だというだけだ。
918 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 11:21:14.01
>「南」とは書かれてないしな。
書かれていないときはそれまでと同様南だと考えるのが素直な解釈だね。
>>916 グーグルの航空写真なら自動車1台まではっきり見える
もっと博多よりとはどこか、具体的に述べよ
>それまでと同様南だと考えるのが素直な解釈だね。
距離を無視した都合のいい解釈ですよw
>>920 都合のいい批判ですよw
ならば、距離的地形的にどこがふさわしいか示したらどう。
>>919 >グーグルの航空写真なら自動車1台まではっきり見える
当時と地形が違うはずなのに何の参考になるのかね?
博多周辺も相当変わってるはずだから特定は困難だろう。
だが志賀島や宗像の本拠に近いというのも重視したい。
日田周辺に伊都だとすれば、宇佐との関連も説明しやすいはず。
>>922 そうならそうと早く言えばすむこと
日田周辺が伊都国で、宇佐が邪馬台国だな、それでよいな。
>>923 違うな。宇佐〜大分辺りは邪馬台国への入り口ですよw
そこから水行で南だね。
>>924 それで水行でどこまで行くの。女王の都は。
>>925 ここでやったらスレ違いになるけどいいのかい?
投馬は宮崎以南だと推定してるが。
まあ、ヤマト=邪馬台国を単純な地名の類似のみと決め付けるに対して
末盧国=松浦は同じ事では?と指摘したかっただけだ。
>>926 宮崎以南か、邪馬台国と狗奴国の行く先はだいたい見当ついたよ
ところで下の地名類似の元レスはどこか、>902 より前の関連が追跡できない
>まあ、ヤマト=邪馬台国を単純な地名の類似のみと決め付けるに対して
波に呑まれて死ぬかもしれないんだから最短距離で行くざんしょ。
◆末盧國(マツロ)→松浦→松浦川に名残。
◆唐津→唐の津→唐(この場合は大陸とかの意味)から入る(入ってた)津として後年命名。
若しくは大陸に近い港とかの意味。
俺が魏使団なら直線的に下り(南)、近くの良港に入りますね。
地名が似ていてけしからんというなら、対馬や壱岐もけしからんのか、と小一時間。
ま、私も命が惜しいしラクしたいし、女王様への答礼品も預かってますから、急ぎ松浦港に入りますけどね。
>>928 それでは千余里と書く意味がないじゃん。
つまり距離表記は当てにしないと言うことか?
地名が似てるだけなら松浦は松山でも松江にでも向かう事出来るなw
壱岐だって隠岐かもしれないよ。
>>930 横レスだが
対馬市から壱岐まで直線で62km、壱岐から松浦港まで直線で45km
倭人伝のざっくりした距離感からいえば、当たらずとも遠からずではないかな、
四捨五入すればいい線だよ。
地名が似てるからココであろうとか、
地名が似てるからおかしいとか、どっちも無駄な論議だわ。
釜山の河口の平地から、
唐津の松浦川河口の平地まで、
ぴったり短里三千里だった。
天測でもしたのかとしれないと思える精度だった。
>>932 ざっくりした距離感なのは当然です。
邪馬台国なんて水行陸行、日数表記だし。
だがこれだけでも九州から出てるのは確実ですよ。
>だがこれだけでも九州から出てるのは確実ですよ。
水行20+10日陸行1月の件だろ。まあそうあせるな。畿内論者は性急だからな。
日数はそう書いてあるが、里数は末蘆国から2千余里(伊都国からは千五百余里)。
畿内論者も九州論者も、お互い、この整合性をどう図るかだな。
938 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 14:09:07.39
>>935 >だがこれだけでも九州から出てるのは確実ですよ。
周旋五千餘里だから、対馬の北端から五千餘里である。
即ち、末盧國(唐津)から1600餘里が倭地の南端(伊都國からは1100餘里)。
倭地の南端は熊本緑川加勢川秋津川(古熊本湾北岸)である。
>>938 おいちゃんなじぶんのつごうのよかごとものごとばねじまげすぎばい
きゅうしゅうにあればよかたいぐらいのきもちでかんがえんねさ
やまたいこくばほかんくにといっしょておもわんね
そしたらがいねんのはずれてみかたのかわるけん
そいがちかみちておもうよ
あればよかたいね
ぜったいあるとやけん
>>937 そう、プールじゃないんだよ。
なので九州へは海流に乗れば博多方面に流れた方が楽。
941 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 14:50:18.38
水行陸行も単に遠方の言い回しかもしれんしな
誤記、誤写かもしれないし
大体正解に計測出来る技術があるなら
当時の東アジアの海図なり地形図が一切残ってないのも変。
>>940 帰る時は壱岐じゃなくて、隠岐の方へ流れ着くだろなww
プールじゃないんだからww
おーい、
ほかに松浦入港が気にくわん奴はおらんかー
そろそろ締め切るゾー
945 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 15:43:10.73
>>864 :日本@名無史さん:2013/01/12(土) 00:20:33.11
>
>>846 >>丹楊地勢險阻、與吳郡、會稽、新都、鄱陽、四郡鄰接、周旋數千里、山谷萬重・・・を見れば明かだがね。
>明白だ。
>地勢險阻だから四郡の周りをぐるりと回れない。
>谷をぬい、峠を越えて、四郡を吳郡→會稽→新都→鄱陽と順次巡っていくのだ。
>端(吳郡)から端(鄱陽)まで順次巡っていくのだ。
自説が否定されて悔しいのでしょうが、こんなへ理屈をこねるのはみっともないと思いませんか?
あの例文は呉の諸葛恪が「自分が丹陽郡に赴けば、3年で武装兵4万人を手に入れられます」と上奏したときに
重臣らが反対の理由として丹陽の地勢や住民の気質などを述べた文の書き出しの部分なのですよ。
原文の調べもしていないでしょう。原文を読んでいれば「地勢險阻だから四郡の周りをぐるりと回れない。
谷をぬい、峠を越えて、四郡を吳郡→會稽→新都→鄱陽と順次巡っていくのだ。 端(吳郡)から端(鄱陽)まで
順次巡っていくのだ。」などとトンチンカンなことを思いつくことはないでしょう。
それから、
丹陽(郡です)は四郡(吳郡、會稽、新都、鄱陽)と隣接しているのですよ。仮に人が丹陽に行くとした場合、
隣接している四郡を順次巡っても無意味でしょう。丹陽の外側を巡るだけでは丹陽には入れませんからね。
「周旋數千里」は人が巡って行くのではないのです。文字通り周囲数千里なのです。
946 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 15:49:27.10
唐津から半島に戻るルート
帰る時は壱岐の南岸と西岸沖を通って、壱岐西方海上に出る。
壱岐西方海上から対馬南端へ渡り、
対馬南端から西岸沿いに対馬西水道を渡って巨済島から釜山に至る。
潮流と海流を使って渡海する方法。
秀吉軍が名護屋に出兵の基地を置いたのは潮流利用の理に適っている。
参考
半島から倭に渡るときは、
巨済島から対馬の東岸を通り、
対馬南端から壱岐北端に至り、
壱岐東岸を南下する。
この時には、唐津方面へでも福岡湾方面へでも渡航可能。
947 :
864:2013/01/12(土) 16:03:41.37
>>945 >隣接している四郡を順次巡っても無意味でしょう。丹陽の外側を巡るだけでは丹陽には入れませんからね。
兵を集める為なら、なお更一郡づつ順次巡っていかなければならない。
丹陽の外側を巡るなんぞとは言っていないぞ。
四郡の中を順次巡るのだぞ。
948 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 16:27:11.92
>>943 なるほど、倭からみて行きが壱岐で帰りが送るで隠岐かもねw
>>945 そのことに詳しいのは認める
しかしだからといって、倭人伝もそうだとは言い切れぬ
丹陽に倭国はなかったのだからな、無理して引っ張ってくることはない
そもそもそれは、倭の傍21国が巡っているかどうかの傍証に援用したところから来てるんだろ
どうやら21国が順巡りになっているらしいことにはオレも同感だ
周旋5千里を持ち出すまでもなく、この件は多くの人もそう感じていると思う
950 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 16:46:34.23
>>906,
>>914 >周旋5千里は方1250里のようなもの・・
それがそうではないのです。五千里を正四角形の辺長の和とすれば方1250里になりますが、歪んだ楕円
の周井長であれば方1250里とは大きくかけ離れる場合もあります。
土地の大きさを(面積がかなり確かな場合は)方○○里で表せますが、面積がはっきりしない場合はそれ
に代わるものとして周囲長で示したのです。
>>938 >周旋五千餘里だから、対馬の北端から五千餘里である。
周旋五千餘里は洲島(対馬や壱岐のような小さな島でなく、もっと大きな島)にある倭国の周囲長です。
つまり、五千餘里に対馬や壱岐は関係ありません。さらに言えば、対馬や壱岐の大きさは既に方四百里、
方三百里と記述されていて読者は知っています。知りたいのは本体の島にある倭国の大きさなのです。
951 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 17:00:39.76
>>947 >兵を集める為なら、なお更一郡づつ順次巡っていかなければならない。
私は「兵を集める為に丹陽に行く」とは言っていませんよ。隣接する四郡を順次に巡っても丹陽には
入れないと言っているのです。
>丹陽の外側を巡るなんぞとは言っていないぞ。
>四郡の中を順次巡るのだぞ。
その四郡は丹陽郡の外側にあるのですよ。
>>950 歪んだ楕円が、極細で超長ければ最大長2500里であることは理屈でわかるけどね。
キミの考えでは、倭国楕円の長いほうと短い方はそれぞれ何里くらいなの。
953 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 17:08:27.46
>>949 >しかしだからといって、倭人伝もそうだとは言い切れぬ
>丹陽に倭国はなかったのだからな、無理して引っ張ってくることはない
確かに丹陽に倭国はなかったですね。しかし、周旋の意味を用例から判断するのは一つの有力な方法でしょう。
まして、同じ陳寿が編纂した三国志の用例であることの意味は深いでしょう。
954 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 17:12:28.14
>>952 >キミの考えでは、倭国楕円の長いほうと短い方はそれぞれ何里くらいなの。
それが分かれば苦労はありませんね。私も知りたいです。
>>954 ならば聞きたいのだが、下記の国々は陳寿のいう倭国に属していると考えているのかね、それとも外かね。
>女王国東渡海千余里、復有国皆倭種
>又有侏儒国在其南、人長三四尺、去女王四千余里
>又有裸国、黒歯国。復在其東南、船行一年可至
956 :
938:2013/01/12(土) 17:54:03.28
>>950 >周旋五千餘里は洲島(対馬や壱岐のような小さな島でなく、もっと大きな島)にある倭国の周囲長です。
「倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連」
倭國の大きさではない。倭地の大きさである。
「倭地は小さな島でない」と書かれていない。
「洲」と「島」には小さなのも含まれる。
「或絶或連」とあるから、洲や島が点々と並んでいるようすを描いているのです。
洲と島が点々と列島のように並んでいるから、
周旋は、列島状の洲と島の端から端までを表しているのである。
なお、倭地を一周する場合は「周匝」を使う。
957 :
938:2013/01/12(土) 18:01:17.54
>>955 横であるが、
>ならば聞きたいのだが、下記の国々は陳寿のいう倭国に属していると考えているのかね、それとも外かね。
>>女王国東渡海千余里、復有国皆倭種
>>又有侏儒国在其南、人長三四尺、去女王四千余里
>>又有裸国、黒歯国。復在其東南、船行一年可至
「倭種」「侏儒国」「有裸国」「黒歯国」は、全て「倭國」でも「倭地」でもない。
958 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 18:03:41.90
1帯方郡から狗邪韓国まで、8000里。海路に線を引いてみなよ。
2その線の長さを測ってみなよ。
3その線で、日本列島を囲ってみなよ。
日本列島どころか、九州も囲めない。5000里?四国すら囲めないよ。
959 :
938:2013/01/12(土) 18:10:32.58
>>950 >方三百里と記述されていて読者は知っています。知りたいのは本体の島にある倭国の大きさなのです。
倭國はない。あるのは倭地と30ヶ国と女王國。
倭國があったのは、倭國乱以前と卑彌呼が親魏倭王になった以降である。
>>957 網走番外地かな、韓国かな、それとも満州かな
961 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 18:16:25.49
じゃま委地國
いち
962 :
960:2013/01/12(土) 18:18:27.57
>>960 >網走番外地かな、韓国かな、それとも満州かな
倭地より遠方にある地域の国々である。
963 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 18:50:32.84
>>909 そこらへんにあらいぶのはへん
到着地近辺の地形はリアス式とか深いところに潜れるのが必須
てか鏡山周辺のこあのところは宇木汲田だろ
卑彌呼さんを遡ること数百年のところで甕棺から多鈕細文鏡・刃物・勾玉
これは吉武高木から出土のと同期で鉄器の武器とかは伴わず
すなはち青銅器の王権の如きものが吉武高木・唐津、そして馬関におったことを示す
甕棺やめて木棺のの卑彌呼さんの親筋のひとのが半島から木棺もちこんだんだろから
唐津の王家のなれのはてのは卑彌呼さんとことはちと毛色がちゃうんだよな
末盧國には戸数が四千餘戸だけど官の記載のがなし
じつは官の記載は王の名に併記でちがうところに記載されておったりするのね
其(奴國)南有狗奴國(末盧國>唐津) 男子爲王
其官有狗古智卑狗 不屬女王
(戸数記載なし)
964 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 18:55:57.05
末盧國 > 大友 -- 女王系の支配下
末盧國 > 唐津 -- 男王系の支配下
965 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 19:08:00.62
おっと 王の名に併記 とではなかったか
後ろのとこに 卑彌弓呼 かあ
卑彌 呼
卑彌弓呼
狗奴國
狗古智卑狗
掖邪狗
これわ壹與のところで掖邪狗との組み合わせで合体しちょるのでし
966 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 19:15:50.65
当時すでに韓国半島南端ー対馬ー壱岐ー北九州だけではなく、韓国半島南端ー
沖ノ島ー宗像あるいは小倉という航路が有ったことが確実視されている。にも
かかわらず唐津上陸に頭が固まっている人はマ○ケとしか言いようがない。
末盧國=怡土 地名が似ているというだけで勝手に松浦半島に決めてはいけないな
広い海原なのにルートは一つと頭が固まっている人はマ○ケとしか言いようがない。
また地名厨か、よしよし言いたいことは十分わかったからな
おーい、
もうほかに松浦入港が気にくわん奴はおらんかー
間もなく締め切るゾー
970 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/12(土) 19:48:34.75
君らは知らないだろうが、末盧国は半島南岸にもあったのである。
倭在會稽郡東東冶縣之東舟渡九千里至那覇
而又渡一千里至根島根島亦曰量島
時狗奴人與女王相爭索路甚嚴
其欲往狗邪韓者蓋由津島加羅山志加島始得到末盧戶資之境
其東界則乃狗邪韓國地也
>>946 参考ヒント1・室内プールではない。
参考ヒント2・乗ってる船は浦賀に現れた蒸気船(黒船)でもない。
参考ヒント3・命は一つ。
以上のヒントを元に、貴方が魏師団となった場合を想像して、
韓国から対馬に渡る所から想像して下さい。
俺なら対馬に渡る決行の日は、バンジージャンプする気分ですよ。
…ええ、もちろん現代バンジーのルーツになった、部族のアレです。
よーし、
2013年1月12日午後8時をもって松浦入港完了。
上陸したら東南陸行だ。
先へ行ってるものはそのまま先へ、オレはしんがりを行く。
>>968 地図広げて、対馬南端から壱岐北間をコンパスで計る。
それが千余里、それを壱岐の南端から九州に向けてみる。
貴方が『入って来て欲しい』所まで行きますかね?
壱岐から九州も同じく千余里ですよね?
>>973 そうか、言いたいことは理解した。そういう考えもあるだろうよ。
>>971 >俺なら対馬に渡る決行の日は、バンジージャンプする気分ですよ。
倭の連中は日常でも買い物で海渡って出かけるとあるけど。
>>975 そうだな、生まれながらに海を自分の庭のように思っている人たちもいるだろうな、理解。
いま九州北部と韓国南部を結ぶフェリーボートが何種類かあるだろ。
そのどれかが三世紀の航路と一致している可能性が高い。
と思って船会社のサイトを眺めてみたがけっこう分かりにくい。
また暇になったら調べてみるが、こういうこと考えるやつはいないのか。
978 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 20:34:41.65
>>970 ちなみに、その文章をどのように訳して末盧国が半島の南岸にあったと解釈してるの?
訳例を示してみて。
とくに末盧戸資之境って何?
朝鮮人犯罪があまり報道されない、そしてテレビが日常的に嘘を吐く理由。(間借りしているだけなどと言う工作員に注意)
韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8
韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6
TBSテレビ 、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6
大韓毎日 、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F
東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13
朝鮮日報 、、、 〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1
日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
倭地にどういう道があったかを考えるのもいまの九州の鉄道路線を調べれば
「魏使が倭人にが薙刀で道を開かせて……」というような大騒ぎをしなくても
どのあたりを通ればいいか、かなりの見当がつくはずだ。
高木彬光がちょっとやってたな。
981 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 21:16:12.78
次スレたのんます
982 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/12(土) 21:34:02.24
>>978 倭は會稽郡の東の東冶縣の東に在り。舟で渡ること九千里にして那覇に至る。
又渡ること一千里にして根島に至る。根島はまた量島という。
時に狗奴人と女王相爭いて、路を索めること甚だ嚴なり。
その狗邪韓国に往かんと欲する者は、蓋し津島加羅山志加島を経由して、
始めて末盧戸資の境に到り得る。その東界がすなわち狗邪韓國の地なり。
末盧は国名、戸資も国名。戸資が何処かはネット史を読めば分かる。
983 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 21:52:49.16
>>982 那覇から北上する話のように読めるのだけれど、
だとすると、「その狗邪韓国に往かんと欲する者」は狗奴人か?とも思える。
訓読では「その狗邪韓国に往かんと欲する者」とは具体的にどの国の人かなどが解らないから、
訓読ではなく現代語に約してみて。
それと、ネット史はわからないので、
津島加羅山志加島戸資を、具体的にどこだと考えているのかもね。
984 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/12(土) 22:04:19.12
あまり思わせぶりなことを書くのも何なので素直に書くと、
戸資というのは、おそらくネット新羅史で古自と書かれている国だろう。
たぶん今の固城郡だと思われる。
固城郡は弁辰古資彌凍国、小伽耶、日本書紀の古嵯に比定されている。(通説)
985 :
卑弥呼は満州にいた:2013/01/12(土) 22:15:19.25
津島は対馬、加羅山は加羅山のある巨済島か。
志加島は金印の出た(ことになっている)志賀島だろう。
会稽山って徐福の出発地である連雲港の北方にもあるんだね
こっちのほうが本家会稽かも
中華人民共和国 日照市 東港区 会稽山があるのはその名も日照市
988 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 22:47:42.10
>>956 >倭國の大きさではない。倭地の大きさである。
重箱の隅をつつくようなことを仰ってますね。
卑弥呼を女王に戴く国々の集まりが倭国ですね。その倭国の土地を倭地と言っているのですから、
「倭國の大きさではない。倭地の大きさである。」などと騒ぎ立てるのは大人げないでしょう。
>「或絶或連」とあるから、洲や島が点々と並んでいるようすを描いているのです。
「或絶或連」の主語は倭地です。洲や島ではありません。倭地は洲島の上に在るのですよ。
その洲島の上に在る倭の国々の土地が或るところでは離れ、或るところでは接していると言っているのです。
>周旋は、列島状の洲と島の端から端までを表しているのである。
>なお、倭地を一周する場合は「周匝」を使う。
周旋も周匝も動詞としては同じ意味になります。ただし、三国志では周囲という意味の名詞としては
周旋のみが用いられています(私は周匝の用例を見出していません)。
989 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 22:52:26.65
>>985 なるほど。
しかし、そのように比定すると、津島加羅山志加島の並びが南北ではなく、ばらばらなのが気にならない?
990 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 23:00:08.46
>>956 >「倭地は小さな島でない」と書かれていない。
>「洲」と「島」には小さなのも含まれる。
洲島を 「洲」と「島」に分けて解釈されたんですね。そして、洲を中州のようなものと思われたのですね。
残念ながらそうではないのです。洲には大きな陸地という意味があるのです。洲島は小島ではなく大きな島
という意味になるのです。
,..-─‐-..、
/.: : : : : : : .ヽ < 君は世界史板に逝きなさい!
R: : : :. : pq: :i}
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ノr┴-<」: :j| ほら逝きなさい! >/ `Y
/:r仁ニ= ノ:.ノ|! _ | {、 |
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{;ハ__,イ: :f | /´ (〔| ヽ__j儿从八_
/ }rヘ ├--r─y/ ☆、 `\ i⌒ヽ ̄ ̄\
/ r'‐-| ├-┴〆 _, 、_⌒☆ \ | | `===ヘ
仁二ニ_‐-イ | | ∩`Д´) ゙と[l ̄| | \
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,ゝ、 \ \ __厂`ヽ (__ ̄) )←満州 | |\ }
_/ /\_i⌒ト、_ ノrr- } し'し′ /{_〆 ̄`ーー=='^┤
└-' ̄ `| |_二二._」」__ノ {| -‐ / | | }
└ー′ └─-二_/⌒Y ̄}
992 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 23:10:10.31
>三国志では周囲という意味の名詞としては周旋のみが用いられています
どこにそんな用例があるのかな?
994 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 00:38:51.51
>>991,994 くび吊ったりしたら責められるぞ
996 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 01:05:47.11
997 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 01:09:31.86
998 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 01:10:58.22
999 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 01:12:05.62
1000 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 01:13:14.30
このスレ完了
1001 :
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。