源頼朝の兄弟が可哀想すぎワロタwww

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1日本@名無史さん
義平→Uターンして捕えられ、斬首
後にラーイジングサーンダー♪

朝長→逃げる途中で、お父さんかばって怪
我してお父さんに殺される

頼朝→落馬

義門→学者「本当はいないんじゃね?」

希義→清盛「挙兵したろ!」希義「いや、
して無いっすよ〜」→斬首

範頼→お兄ちゃんに散々こき使われた挙
句、失言で疑われ斬首
お兄ちゃんの雛見沢症候群の犠牲者

全成→お兄ちゃんの雛見沢症候群をなんと
か掻い潜ったが、甥に殺される

義円→ちゃっかり夜襲して、ちゃっかり失


義経→お兄ちゃんの雛見沢症候群の第一犠
牲者ひいきされるほど理
不尽な疑惑をかけられ、日本中を逃げ回り、部下に殴られる
2日本@名無史さん:2012/10/27(土) 22:51:33.83
削除依頼出しとけよ
3日本@名無史さん:2012/10/28(日) 01:08:18.22
源頼朝の子孫も可哀想すぎワロタwww
4日本@名無史さん:2012/10/28(日) 01:13:03.93
源頼朝の先祖も可哀想すぎワロタwww

父・義朝 平治の乱に敗れ朝敵となり逃亡中に横死
祖父為義 保元の乱に敗れ朝敵となり降伏するも刑死
曾祖父義親 対馬守として赴任中反乱を起こし朝敵となり討伐の末横死
5日本@名無史さん:2012/10/28(日) 16:33:07.17
蝦夷の祟りじゃ〜
6日本@名無史さん:2012/10/28(日) 16:46:35.21
公暁は実朝の猶子になってたみたいだけどあとは継げなかったの?
実朝は28歳で子供居ないし、出来てから行動でもいい気はすんだけど
7日本@名無史さん:2012/10/28(日) 17:25:55.57
公暁が犯人ではないってことだな
8日本@名無史さん:2012/10/28(日) 18:50:52.56
そらそうよ
9日本@名無史さん:2012/10/28(日) 19:21:35.31
まさこさまにそそのかされる頼朝
10日本@名無史さん:2012/10/28(日) 21:23:50.64
>>6
実朝が死ぬまで待てなかったんじゃないの?
公暁と実朝って8歳違いだし。
11日本@名無史さん:2012/10/28(日) 22:38:41.64
自民・公明じゃ何も変わらない
「民主」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「みんなの党」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「小沢」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「維新の会」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「石原」ならなんかやるだろ     ←いまココ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「第三極大連合」ならなんかやるだろ 
そんな感じじゃね?
12炎の男系支持者:2012/10/29(月) 20:21:07.92
病気も完治したことだし
一年ドミノの振り出しに戻って安倍ちゃんでいいよ。
13日本@名無史さん:2012/10/29(月) 23:48:27.44
頼朝に限らずこの一族は常に兄弟親類親子で殺し合ってる
14日本@名無史さん:2012/10/30(火) 04:57:28.62
鎌倉幕府って4代目からは確実に
2代目以降でも傀儡といっていいなの
やっぱり、自分の立つ為の基となる地がないとどうしようもないのかね
15日本@名無史さん:2012/11/10(土) 12:51:04.15
血の気が荒いっていうレベルじゃねーな
16日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:59:52.92
>>14
いいなのよ。
言葉が難しくてよくわからないけど、
たぶん、「(将軍として)自立している」「地に足がついている」という
ことかしら。
やっぱり傀儡だから、どうしようもないと思うわよ。
頼朝も傀儡だったかもね。
わたしはDVD借りてきたら簡単に立つから、それが立つ為の基なのよ。
17日本@名無史さん:2012/11/15(木) 18:53:43.54
長男;義平→平治の乱で処刑・六条河原で晒し首

次男;朝長→平治の乱で傷を負い父に殺してもらう・首が掘り出され六条河原で晒し首

三男;頼朝→落馬

四男;義門→多分平治の乱で死亡

五男;希義→兄源頼朝の挙兵に応じた疑いで平氏方に殺害される

六男;範頼→兄源頼朝の命で殺害

七男;全成→甥源頼家の命で殺害される

八男;義円→兄源頼朝の挙兵に応じるが討死

九男;義経→兄源頼朝に攻められ自害

長女;坊門姫→難産で死亡
18日本@名無史さん:2012/11/18(日) 22:14:51.82
厳しい時代だったんだよ
ワロてないで冥福をいのってやれよwww
19日本@名無史さん:2012/11/18(日) 22:25:21.50
これさ、マジ渡来系じゃないかな。
結局北条家(場末の平氏一族)が長者平氏一門を滅ぼすために、源氏という大儀が必要だった。

しかし、義家以降たいした人間はいない。
そこで、渡来系(北方民族出身の騎馬民族系)に源氏を仮冒させ、
戦にたけた渡来人に源氏を名乗らせ、平氏一門を滅ぼさせた。
用済みとなったそれらは、全員皆殺しに。
そして大義名分の必要もなくなった頼朝、そのこまでも根絶やし。

結果、新羅三郎や、義経モンゴル逃亡説、など渡来系疑惑が耐えない。

実際、義経等の当時の戦い方は異常。完全に北方系の戦い方に似てるし。
かなり渡来形が濃厚だと思われるよ。
20日本@名無史さん:2012/11/19(月) 16:35:07.32
>>19
     (´・ω・`)
   /     `ヽ.   お薬増やしておきますねー
  __/  ┃)) __i |
/ ヽ,,⌒)___(,,ノ\
21日本@名無史さん:2012/11/23(金) 23:35:50.84
>>19
妄想がすげー・・・
22日本@名無史さん:2012/11/24(土) 12:53:57.01
ぶっちゃけ、河内源氏の嫡流って本当に為義流だったのだろうか
官位からして、義親の長男義信の気がしてならないんだが
頼朝の実績によって、為義が棟梁であったと推測されてるだけであって、朝廷の認識は違ったんじゃないかなと思う
23日本@名無史さん:2012/12/17(月) 14:29:20.21
実朝の歌なんてマジでネガティブな歌ばっかだしな…
やっぱり平家の呪いじゃね?
24日本@名無史さん:2012/12/17(月) 15:48:41.22
>>17
実は十男もいるんだが。

八田知家=源朝家
25日本@名無史さん:2012/12/17(月) 16:16:29.18
息子のほうが有名だろ

事実上源家粛清の一環で政子存命時に暗殺されんだよ。どんなババァだよw
26日本@名無史さん:2012/12/17(月) 17:41:02.87
>>24
一般論では義朝の子じゃないだろ
義朝が死んでから生まれた子だな
27日本@名無史さん:2012/12/18(火) 09:22:09.48
>>24
>>26
十男?八田知家って頼朝より年上なんだけど。
28日本@名無史さん:2013/03/13(水) 14:18:04.40
しかし、
キン●マ握りつぶされ、未曾有の痛みの中殺された頼家って…
キ●タマ握りつぶされ、未曾有の痛みの中殺された頼家って…
29日本@名無史さん:2013/04/07(日) 02:38:23.36
頼朝の長女もかわいそうだな

大姫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A7%AB_(%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D%E3%81%AE%E5%A8%98)

6歳の時に頼朝と対立した源義仲との和睦のため、義仲の嫡男・義高と婚約するが、義仲の敗北に伴い
義高が処刑されたことに衝撃を受け心を病む。のちの縁談も拒み通し、後鳥羽天皇への入内の話も持ち
上がったが実現する事無く20歳で早世した。
30日本@名無史さん:2013/04/23(火) 20:55:35.01
>>29
でも、この人が口走ったせいで、
義高逃げ出して、死んだんじゃん
31日本@名無史さん:2013/06/19(水) 22:25:59.79
実朝の死後、範頼の子息か阿野全成の子息に鎌倉殿を継がせて欲しかった。
そうすれば清和源氏を主筋とする政権は存続したであろう。
32日本@名無史さん:2013/06/19(水) 23:35:58.10
>>31
どうだろ?
鎌倉のトップに立つには血筋プラス官位と都との人脈が必要だったかも。
右大臣実朝の跡継ぎが
三河守どまりか無位無官の坊さんの子孫じゃ釣り合わない。
つうか、実朝生存中に宮将軍を迎える前提で実朝の官位が上がったんじゃなかったっけ?
33日本@名無史さん:2013/06/20(木) 00:56:45.04
範頼は、範季が天皇の外祖父になった時点で、ランクが上がっただろ
妹が天皇の実母なんだぜ
34日本@名無史さん:2013/06/20(木) 02:15:22.34
>>15
遡ったら源頼義・義家・義綱・義光と血の気荒いやつ等が
さらに遡ったら清和天皇いくつくんだもん
35日本@名無史さん:2013/06/20(木) 07:34:00.04
>>33
範季が外祖父になったのは範頼の失脚後(その後死亡か?)
ついでに範季本人の死後。
範季範頼がいなくなったあとの範頼遺児たちに範季の娘との間に関係性は薄いと思われ。
それに範頼と範季の子供たちとは血縁関係はないから範頼のランクアップには繋がらない。
範頼は公卿になってないしね。
36日本@名無史さん:2013/06/20(木) 08:43:10.50
>>29
それも「吾妻鏡」の美化で持ち上げられている部分はあるがな
大姫は20歳で父母や兄たちより先に病死した通り体があまり丈夫ではなかった
大姫の体調が悪くなると「吾妻鏡」が亡き婚約者義高を想うが故の心理的なものからくる病で
「貞女の鏡也」と大絶賛している。
静が義経を想う舞を舞ったときも怒る頼朝に
北条政子が「夫をすぐに忘れる女など居てよいものですか。
これこそ貞女です」ととりなした話があるし
「吾妻鏡」(というか鎌倉時代の武士)って、生涯ただ一人の男を想いつづける
「貞女」の話が大好き。
37日本@名無史さん:2013/06/20(木) 13:33:15.18
源氏の嫡流だけを考えれば、頼朝実弟の子希望が妥当な線だな。
実在の人物ならばだけど
38日本@名無史さん:2013/06/20(木) 15:52:45.71
>>31
阿野全成の実子の阿野時元というのが
実朝の死の一か月後将軍の地位を欲して挙兵してるな
時元の母は北条政子の妹阿波局だったが
外戚であるはずの北条氏に粛清されている

北条政子は27歳になって正室も側室もいるのに実子に恵まれない実朝のために
実朝正室の姉が産んだ後鳥羽上皇の皇子を将軍として貰い受けるよう
卿局(後鳥羽上皇の乳母)に話をつけている(実朝死後、後鳥羽上皇の大反対で実現せず)

武家源氏じゃあ血筋が弱すぎ、実朝に実子がいないのを幸い、
いざとなったら鎌倉に朝廷が開けるよう天皇の皇子を将軍に欲しいというのが
北条氏の希望だったんだろう
39日本@名無史さん:2013/06/20(木) 19:22:21.96
>>36
大姫に兄はいないだろ
頼家も実朝も弟だぞ
40日本@名無史さん:2013/06/20(木) 21:30:57.50
>>2
為義は兄貴組と母親が違うために対馬いなかった
そのため義家夫妻に引き取られその偏愛の結果、
41日本@名無史さん:2013/06/20(木) 21:39:41.76
完全勝ち組の聖なる地三河国の吉良荘ゆかりの土佐吉良氏かい?w
蒲冠者のあとが希望なら、足利王国は出来ないだろうがw
42日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:12:59.82
北条氏は皇子や摂家のお子さんを主君に立てるのが好都合だったのだろうが、
他の御家人たちはそれで納得いったのだろうか?
蒲の御曹司・範頼の子孫など、頼朝の近親が存命なのだから、近親者に
継がせるのが筋だという思いはなかったのだろうか?
43日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:37:35.46
義氏が三河守護になった時、息子が豊川市で坊さんやっていた
本人に野心がなかったと言う事だ
44日本@名無史さん:2013/06/20(木) 23:43:20.10
三河の熱田大宮司家はトコトン面倒見がいいわな
面倒見がいいはすの三河の熱田大宮司家が、希望を庇護した形跡がないのは、やはり存在自体を疑うしかない
45日本@名無史さん:2013/06/21(金) 04:20:28.71
>>42
一つの家に代々仕えるという発想はもっと後の時代の発想。
この時代は自分たちの権益を守ってくれる主にのみ仕えるし、主を変えたりするのも当たり前の時代。
従って幕府が所領の保証をしてくれる限り、だれがトップに立とうが、だれが実権をにぎろうが、御家人はついてくる。
鎌倉殿が頼朝の身内じゃなきゃやだという発想は無かったと思う。
46日本@名無史さん:2013/06/21(金) 09:08:01.52
>>42
庶子だからだめなんじゃ?
47日本@名無史さん:2013/06/21(金) 09:18:27.69
>>42
御家人たちは幕府が存続し、知行が安堵されることが一番大事
東国武士の大部分は頼朝を神輿として担いだだけで
頼朝に個人的な思い入れがある歴代の譜代たちではなかっただろう
皇族や摂家出身の将軍が来ることで幕府が安泰になるなら
そちらのほうがいい
48日本@名無史さん:2013/06/21(金) 12:11:44.01
やはり希望は空気認定か。
49日本@名無史さん:2013/06/21(金) 16:26:13.77
河内源氏
50日本@名無史さん:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN
>>24
八田さんは頼朝より年上だろう
51日本@名無史さん:2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN
>>48
まず、存在が都市伝説
52日本@名無史さん:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN
頼朝兄弟の墓巡りはだいたい東海道を行けば事足りる(あと親父も)。
ただ、東の義経、西の希義だけは飛び地になっていて、ちょっと可哀相。

もう何年も昔、高知に希義の墓を訪ねて行ったら、役場の人が親切に場所を教えてくれた。
墓標は地元では「希義さん」と呼びならわされ、それなりに親しまれているようで、何だかほっとした。
53日本@名無史さん:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN
地元での知名度があるのが唯一の救い>希義
54風の中のゴキブリ:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN
ひぐらしのなく頃に
55日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN
>>22
通称や母親からして、義親の嫡子は義信だろうな。
通称も対馬太郎とか対馬次郎とかついているのが正室の子供だろう。
義信は対馬太郎だ。

でも、義親の事件で、義親だけではなくて、その正室の実家も
連座して失脚しているんだよ。
よって、義信の立場も悪くなったのかも。
ただし、もともと母親の出自は確かで嫡男だったので
義信の官位はそこそこ高かった。

為義は母親の出自もあいまいで第4子だったので、義親の後継者から外されていたが
そのおかげで、義親の事件から離れられて、
結果的に祖父の義家やその後妻の正室に育てられて、後々有利になった。
5655続き:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN
ただし、義家の子供の中では、母親の出自からみて、
弟の義忠や義国のほうが嫡子ぽいので、義家は早い段階から
義親ではなく、義忠を嫡子と決めていたポイ。

実際に河内源氏の棟梁の地位は、義忠系だったはずで、
義忠の長男は河内源太って通称だったはずで、こっちにが嫡流だったと思われ。
義忠が誅殺された後も、長男は叔父の義国の傘下に入ったけど
その次男が河内の領国を継承していて、ずっと苗字(新田や足利や武田など)を名乗らず
姓の源で通しているのをみると、この系統が頼信以来の河内源氏の嫡流だった。

むしろ、為義、義朝の系統は、河内源氏からの分派で
特に義朝はやり手で、河内源氏から独立して、鎌倉源氏という新しい
派閥を作ったんじゃないの?
河内源氏を継承した義忠系のほうは伊勢平氏の平正盛、忠盛、清盛との婚姻関係を
結んでいて、反平家としての源氏の旗頭にはならなかったので、
武家の棟梁としては、義朝の遺児の頼朝のほうが本流になっていたと思う。
57日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN
>>55
為義って義家の第五子とも言われてるが、実際どうなんだろうな。
58日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN
>>57
為義は、義親の他の子供(異母兄弟)たちとの接点がないんだよな。
幼いころから、義家とその正室(義忠や義国の生母)の下で育てられて
そういう関係で、叔父か兄かは分からんけど
義忠や義国と親しかったぽい。
通称も、為義は陸奥四郎だから、完全に義家の子供として育てられてきた。
59日本@名無史さん:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN
義親の子孫って、系図(尊卑分脈)上はやたら人数がいて繁栄しているけど、
それ以外の史料ではほとんど確認されてないよね?
もし知ってる人いたら教えてほしい。
60日本@名無史さん:2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN
義信の子の延朗上人は有名。
61日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN
延朗上人は、頼朝や義経との交流も深い。
むろん、源氏のよしみで。
62日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
義忠のあと、為義が継いだのが怪しいのだな。

義忠が暗殺されたとき、彼には長男・経国をはじめ数人の男子がいたが、
経国は10歳になるかならぬかくらいで源家棟梁には幼すぎる。

そこで、義家の嫡男であった義親の子にお鉢が回ってくるが、
義親の長男・義信は20歳くらいで後継にふさわしい歳だが、
このころ京都にいなかったのだろうか? 次男三男もなぜか外される。

そして、義親の四男の為義が、義家の遺言を振りかざして後継におさまる。
当時14歳で、能力的にも棟梁に相応しくない為義がなぜ棟梁になれたのだろう?

想像だが、
叔父・義光が、源家の実権を狙い、あえて頼りない為義を神輿として担ぎ上げたのだろう。
能力が低いからこそ、傀儡として扱いやすい。
義光の指導の下、為義は、義忠の仇討ちとして、叔父・義綱を撃つ。

その後、義忠暗殺の真の黒幕が義光であったことが明らかとなり、義光は常陸へ逃亡。
為義は仕事で失敗が続き、平忠盛に出世で追い越され差をつけられ、
源家は低迷し、平家全盛の時代となっていく。
63日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
義光の弟義綱が義忠殺しの冤罪で殺された後に、義光が真犯人だと発覚したとされてるけど
義綱が殺される頃には義光はとっくに死んでるし、そもそも20年も経ってから討伐されるってのも怪しい。
何で義綱は殺されたんだ?
64日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
>>62
義綱追討の大将は為義で間違いないだろうが
義忠の後目相続とは別問題だったんじゃない?
頼朝があとから出てきたからその祖父が嫡流だったと後世勘違いしただっただけで。
(頼朝があえて嫡流主張した結果もあるだろうが)
65日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
>>63
>義光の弟義綱が
義綱が次男で、義光は三男ね。
為義は義綱を捕縛してその子らを殺したんだったか。
たしか、義綱は朝廷の裁断で島流しだったと。

>>64
>義忠の後目相続とは別問題
関係大有りでしょう。
義忠暗殺の首謀者とみなされた義綱の討伐は、
源家棟梁としての初仕事だっただろう。

>頼朝があとから出てきたからその祖父が嫡流だったと後世勘違いした
河内の領地は義忠の子が相続してるようだが、
京都六条の義家の屋敷は為義が相続してるし、
東国の郎党への指揮権も、弱体化してるが引き継いでいる。
為義は、仕事は失敗続きで能力低いなりに、
源家棟梁であろうと努力していたといえると思う。

義信ら兄弟たち、義忠の子供たちは認めなかっただろうが。
彼らは為義ほど、源家棟梁たろうと努力はしてない。
66日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
何にしても諸悪の根源は義光
67日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
>>65
>東国の郎党への指揮権も、弱体化してるが引き継いでいる。
これなんだけど、当時の義家ー為義がどの程度東国を重要視いるかというのも問題になるとおもう。
西系の学者はあまり関係ないといってるが、東系の学者は重視している。

>彼らは為義ほど、源家棟梁たろうと努力はしてない。
源氏棟梁を源氏(近親者に限る)をまとめる棟梁という認識が当時あっただろうか?
親が生きている間は、一族としてのまとまりを見せていたが
親が死ぬとそれぞれ勝手にやっている感じ。
一族をまとめてその上に立つという発想が出てくるのは頼朝以降なのではないか?
68日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
そして一番かわいそうなのは義忠
69日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
>>65
>河内の領地は義忠の子が相続してるようだが、
京都六条の義家の屋敷は為義が相続してるし、
いわゆる分割相続だね。この時代よくあることじゃん。
というか嫡子一人相続はもっと後の時代のことだよね。
70日本@名無史さん:2013/09/01(日) 08:16:30.31
為義と奥州藤原氏基衡との間に、なにかしらの連携があった可能性は。
71日本@名無史さん:2013/09/01(日) 15:02:05.92
>>67
>当時の義家ー為義がどの程度東国を重要視いるか
為義は、幼少の義朝を関東へ下向させた。
地元にいる郎党に養育を任せようって腹だろうし、
在地の武士団も、「上総御曹司」と呼んで義朝を養育した。
義家以来の主従関係が残っていないとできないだろう。

>棟梁という認識が当時あっただろうか
義家は武士の棟梁と仰がれたらしいし。
清盛だって、平家の棟梁から武士の棟梁に登り詰めたじゃないか。

>>69
>いわゆる分割相続だね。
話し合いで分割というよりも、
勝手に占拠されてしまって、手を出しにくいからそのままになってるっぽい。
72日本@名無史さん:2013/09/01(日) 15:23:23.63
>>62
義忠は義家の4男で、上に義親、義国がいる。
長男は早死に、義親は乱を起こして敗死、義国も事件を起こして関東へ逃亡。
そのために、義忠が家督を継ぐことになった。
また、もともと義忠が正妻の子で、後継者であったという説もある。

義忠が源家棟梁であったころは、まだ羽振りがよく、平家とも良好な関係だった。
妻は平正盛の娘であり、義忠は忠盛の元服親である。
この義忠が暗殺されたことが源家没落のきっかけとなる。
いや、優秀な後継者であればあんなに没落することはなかっただろう。

あとを継いだ為義は、義忠の子供らを屋敷から追い出してしまう。
長男は藤原経実、その他は平忠盛が養育する。
こんな奴が部下から信頼されるわけがないし、仕事がうまくいかないのも当然。
73日本@名無史さん:2013/09/01(日) 15:26:13.75
>>72
他に、後継者になるべき候補が複数いたこともあって、源家はバラバラになっていく。
74日本@名無史さん:2013/09/01(日) 15:34:48.50
為義のダメダメさは異常
75日本@名無史さん:2013/09/01(日) 16:40:52.14
>>71
義朝は廃嫡されて東国へ行かされたみたいだけどね。
為朝は九州に行かされた。
為朝は摂関家の荘園繋がりで九州に行かされたらしい。
義朝のいった上総国の荘園も(あびる荘)も摂関家領らしい。

棟梁の定義は色々あるよ。
元木説によると「棟梁」というのは
従来の畿内の累代の少数の郎等をしたがえたレベル(実は義家はこのレベル)から脱皮して
広範囲な規模で主従関係を結ぶようになったのを「棟梁」と規定している。
棟梁になったのは清盛、義朝以降というのが元木評価。
76日本@名無史さん:2013/09/01(日) 16:50:21.95
ちなみに頼義、義家の頃の郎等は畿内の累代の家人が中核。
前九年の役の勝利の要因は奥州出羽の豪族を味方につけたことだし。
後三年の役だって義家が変に介入して事態を混乱させただけだった。
それに両乱とも俗に鎌倉御家人の先祖はあまり参加していない。(相模に少しいる程度)
77日本@名無史さん:2013/09/02(月) 12:26:03.19
義家は東国を中心に広く武士層に支持され、
初めての「武家の棟梁」と仰がれ、
義家にその気があれば、幕府を開くことも可能だったといわれている。
しかし、彼にはその気はなく、藤原・院に臣従する道を選んだ。

義家殿の御子なれば為義殿、為義殿の御子なれば義朝殿、義朝殿の御子なれば・・
と、忠誠を誓った人々もいる。

そうでなければ、10歳そこそこで関東下向した義朝が関東に勢力を伸ばし、
20歳そこそこの義平が関東の諸将を率い、
流人だった頼朝の挙兵に数万の兵が馳せ参じるはずがない。
もちろん、行動の基準は利害が第一だが、一方で、義理人情を重んじたり、
主のために命をかけるのを是とする風潮もあった。

為義、義朝の生き様を見ると、明らかに、
義家当時の源家棟梁の力を復活させようと努力していると見ることができるだろう。
78日本@名無史さん:2013/09/02(月) 12:44:00.09
>>77
>義家は東国を中心に広く武士層に支持され、
実際に義家に従って出陣したのはほとんど相模の武士&畿内重代の郎党ですが。
後三年の役でそれ以外に出陣した武士がいたらおしえていただきたい。

>初めての「武家の棟梁」と仰がれ、
義家にその気があれば、幕府を開くことも可能だったといわれている。
それはだれが言ったんですか?

>義家殿の御子なれば為義殿、為義殿の御子なれば義朝殿、義朝殿の御子なれば・・
と、忠誠を誓った人々もいる。
具体的にどなたでしょうか?

>そうでなければ、10歳そこそこで関東下向した義朝が関東に勢力を伸ばし、
坂東武士は坂東武士の方で当時摂関家に接近していた為義の子という利用価値を見出していたに過ぎない。
それに義朝が実際に従えたのは、房総の一部豪族、相模豪族、武蔵一部豪族、下野一部豪族のみ
しかも武蔵は知行国主が義朝が接近していた藤原信頼、下野は義朝自身が下野守だったという事情がある。

>20歳そこそこの義平が関東の諸将を率い、
それは上記の義朝の事情あってのこと

>流人だった頼朝の挙兵に数万の兵が馳せ参じるはずがない。
当時治承三年の政変などの影響で平氏の家人や平氏方目代に圧迫されて危機感を持っていた
豪族たちが頼朝を担ぎあげただけのこと。
たまたまそこに頼朝がいただけで、担ぎ上げるのは別にだれでもよかった。
それから、反平氏の挙兵をしたのは全国にたくさんいて、頼朝はその中の一つに過ぎない。
(といってももっとも有力なだったけどね)

>為義、義朝の生き様を見ると、明らかに、
義家当時の源家棟梁の力を復活させようと努力していると見ることができるだろう。
具体的にはどんなこと?
79日本@名無史さん:2013/09/02(月) 16:47:34.43
義忠と義国ならば、義忠が兄貴じゃね?
実際に残っている文献や通称から見て
義忠のほうが10歳近く年上らしい。
ちなみに、この兄弟は母親同じで、たぶん正室の子供。
義忠と子供と義国の子供ならば
義忠の子供のほうが、大分年上だし。
80日本@名無史さん:2013/09/02(月) 17:48:19.80
>>79
確かに義忠と義国は同母だね。(藤原有綱娘)
有綱は義家晩年の正室で義家死後後家権力を持ってた。
義忠相続もこの母の後押しあってのこという説もある。
当時相続は親子間だけでなく兄弟間にもあり得る時代だったから
義国も義忠の同母弟として義家流相続の権利があると思っていたかも知れない。
義忠の実子は幼少、為義は猶子だったしね。
海音寺潮五郎『武将列伝』に義国長男新田義重が
「自分は八幡殿の嫡子義国の長男だから自分こそ八幡殿の嫡流。
頼朝など曾祖父(義親)、祖父(為義)、父(義朝)が全て謀反人として処断されてきた家系ではないか」
と言ったと書いてるが(ネタ元不明)
もし、義重がそう発言したというなら、義国こそ義家、義忠の跡をついでいた筈なのに、という意識があったのかも知れない。
(事実ある時期まで義重は自立してたしね()
81名無しさん@実況は禁止です:2013/09/02(月) 20:20:01.96
82日本@名無史さん:2013/09/03(火) 22:15:47.01
>>77
>>78
頼朝、義朝、平家

これ初期から身分の低い落人でアルバイト公務員級の貧しい身分だよ。
・当時ぶちを払ったり、給与を払えないほど貧しい貧民帰属階級で落人同然。
そして姓が武士名、地豪名でないことが佐々木、新田よりも身分が低かった事の証明当時名前が普及ネームならまず身分低い

・かつ関東下向前源家は多数、犯罪などで追悼処分受けていて、最下級の罪人だった。

・そして関東下向とかいうけど、殆ど寄生身分として、扱われて、坂東武士団の寄生身分事実上、義朝なんかは上総が主君同然の身分だった。

ここまで利益の合致で身分の低い源家が、武士にほぼ雇用されたのであって、根本的にイニシアチブも握れなければ、主君的位置づけになれない。
上総、坂東武士の傭兵、雇兵
という身分

そして
・頼朝は→白川嬢夫→落人幽閉
という立場で、後見は駒として使えないので、乱雑に坂東武士総合後見とした
83日本@名無史さん:2013/09/03(火) 22:19:32.70
そして
挙兵はもう見ればわかるけど
・白河の連絡番の頼朝が(゚∀゚)「身分低いのに挙兵連絡キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」
で発狂しだしたが、挙兵は完全に坂東武士手動

あの時点でゼネラルリーダーは上総、千葉氏、そして三浦の御三家であり、
ポジション、イニシアチブとして頼朝が吠えても関係ないの。
84日本@名無史さん:2013/09/03(火) 22:23:03.91
そして
権力にでてきたのわクーデター以後だが、あれ完全30年前の武蔵侵入と同じで主君殺し

、しかも以後も「自称」権力であり、せいぜい正式に坂東武士、白河の二重傀儡になった。

そもそも将軍なるあやふやで支離滅裂な、不座位権、あやふや権があるのわ。

「ウルセー駒頼朝を黙らせるだけ」の形だけのイスなんだよ。
85日本@名無史さん:2013/09/07(土) 23:37:23.21
頼朝って為義のことどう評価してたんだろうな
孫の贔屓目でも肯定的な評価はできそうにないが
86日本@名無史さん:2013/09/08(日) 02:22:13.43
去年の大河で
わが祖父はって嘆いてたな
87日本@名無史さん:2013/09/08(日) 02:23:25.50
ドラマは糞だったけど
結構心情に近かったりして
88日本@名無史さん:2013/09/08(日) 06:21:36.64
摂関家との付き合い方で参考にしたとか
反面教師として
89日本@名無史さん:2013/09/08(日) 07:56:11.05
>>85
父義朝→流刑中も読経写経で念入りな供養
    鎌倉殿になってからは勝長寿院造営など手厚い供養

母由良→挙兵直後に供養
    母菩提のため塔造営

同母弟希義→供養してくれた僧に手厚い保護
      土佐に菩提寺設立

同母姉妹坊門姫→死後手厚い供養

為義→供養関係記事一切見当たらず(吾妻鏡)
   ただし、縁者には手厚い保護
90日本@名無史さん:2013/09/08(日) 11:15:29.66
>>89
頼朝は10歳で祖父と死別しているし
頼朝は母方一族の邸で育ったんだろうから為義とはもともと疎遠だろ
他の武将を見ても供養しているのはせいぜい親兄弟ぐらいじゃないのか
91日本@名無史さん:2013/09/11(水) 20:06:38.67
頼朝って、自分の弟たちよりも
何代か前に分かれた源氏一族のほうを重視していた。
92日本@名無史さん:2013/09/11(水) 20:51:11.15
義経の背後に奥州藤原氏あり、
範頼の背後に藤原範季あり(甲斐源氏との繋がり説もある。)
弟とはいえバックを多少警戒。
一方でいち早く臣下になってくれた源氏はある意味信用できるし
準一族として取り立てる必要もあった。
93日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:04:28.73
平賀氏に対する処遇は厚すぎる。
源氏の中でも別格。
平賀氏は家系自体は、常陸源氏(義光系)の庶流で、
同じく常陸源氏の庶流だった甲斐源氏の弟分的な立場だったんだけど...
94日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:07:13.27
>>91
そら、足利とかは先祖伝来の土地と兵を持ってたからな
無視できない
弟たちに関しては嫡子相続が原則だから
嫡子である頼朝が独り占めして自分の息子の邪魔にならぬよう適当配分で構わない
95日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:40:29.00
源頼隆は厚遇されまくったのにその子孫はぱっとしなかったな。
96日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:45:20.02
>>93
平賀義信は平治の乱の敗走の時最後近くまで義朝についていったし、
いち早く頼朝に臣従した可能性も高い。
武蔵守になったがその国司としての能力の高さが評価されている。
尚且つ、(頼朝の差配だろうが)比企尼の娘婿になっている。
不遇な時期を共に行動した信頼感と能力の高さという
平賀義信個人への評価であって、平賀氏に対する評価の結果ではないと思う。
97日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:47:50.23
>>95
頼隆もその父が義朝の身代わりになって死んでくれた
という頼朝の個人的問題が主眼だったと思う。
98日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:50:16.25
>>91
義経に対しては当初は頼朝は「父子の契り」を結んで
それなりに遇してたけどね。
99日本@名無史さん:2013/09/11(水) 22:06:49.67
>>89
曽祖父の義親に至っては頼朝にとって黒歴史になってそうだな。
義親、為義、義朝、頼家、実朝、公暁と
頼朝の近親者は誰一人まともな死に方してない。
100日本@名無史さん:2013/09/11(水) 22:50:40.66
>>91
足利→母方従兄弟。頼朝に従順ではない藤姓足利の牽制にも必要。
平賀→地理的に甲斐源氏、義仲牽制に必要な場所にいる。義信有能。
加賀美→甲斐源氏切り崩しの為厚遇必要。
山名→新田切り崩しの為厚遇必要。
101日本@名無史さん:2013/09/12(木) 01:16:50.11
>>99
兄弟や叔父、従兄弟連中もそうだけど、頼朝自身の粛清によるものも多いからな。
102日本@名無史さん:2013/09/12(木) 04:57:24.89
義親・為義・為朝・義平・義経・義仲と続く家系(悪く言えばDQN、荒々しい家系)の中で
頼朝みたいな大政治家がでてきた方が、むしろ異例な気もするな
103日本@名無史さん:2013/09/12(木) 07:35:12.54
>>99
いざとなったら泣きつくことのできるボスがいる都の貴族に仕える時代と違って
頼朝の時代は自分たちがボスになろうとしてた時代だった。
しかもそのボスレースに負けたら死ぬ確率高いからみんな生き残るのに必死。
特に頼朝は流人スタートで何も持ってないから、他の源氏と違って、
領地郎等付で他の源氏に従うという選択肢はなかったから
よりドライにならざるを得ない。
104日本@名無史さん:2013/09/12(木) 07:42:03.76
この自力救済の時代、利害を巡って
兄弟親族間で殺しあいするほどの争いするのは
別に源氏だけではなかったけどね。

当時、成人すると各々に独立した行動をして、兄弟といえども一族としてまとまった活動はしたとは限らないし(経済活動は各人独立採算制度)
親が死ぬと一族としての纏まりは自然消滅になることが多い。
105日本@名無史さん:2013/09/12(木) 08:41:13.03
元木信者があらゆる日本史12世紀関連スレで暴れ廻るのは何故だろう?
106日本@名無史さん:2013/09/12(木) 08:52:54.89
元木さん本人が2ちゃんをやってるとは思えない(思いたくない)。
たぶん京大閥かその弟子の院生の犯行。
107日本@名無史さん:2013/09/12(木) 10:23:44.64
>>101
頼朝兄弟殺しのイメージが強いけど実際には大したことがない。
頼朝が殺した兄弟は義経のみ。殺した疑惑のある範頼を入れても
男九人兄弟のうちの2/9。

他の歴史上人物と比べると
足利尊氏 同母弟直義を殺害 (三人兄弟のうちの一人 殺害確率1/3)
徳川家光 同母弟忠長を殺害 (四人兄弟のうちの一人 殺害確率1/4)

で兄弟殺害率は意外と低い。
108日本@名無史さん:2013/09/12(木) 10:30:00.90
>>99>>102
義親ー為義ー義朝と三代続いて「謀反人で死亡」した家系で
「鎌倉殿兼右大将兼日本国惣追捕使」になった頼朝って何気にすごいよ。
しかも本人も「元流人」
実朝は横死したものの右大臣になって
後継者として皇族を迎えるプランまでできたって
謀反人家系としてはすごすぎるかも。
109日本@名無史さん:2013/09/12(木) 11:09:30.22
>>101
叔父さんの件に関して少なくとも義広は
先に自分の方から反旗翻して、反撃食らっただけだもんな。
110日本@名無史さん:2013/09/13(金) 07:41:23.88
>>108
由良御前−頼朝

と八条院さまに仕えてたのが大きいのでは。
111日本@名無史さん:2013/09/13(金) 08:45:37.53
>>110
上西門院の間違いでは?
112日本@名無史さん:2013/09/13(金) 08:53:41.20
>>110
由良御前が宮仕えしていた記録はないよ
由良の姉妹に待賢門院女房と上西門院女房がいたのは事実だけど
(大河清盛で由良自身が上西門院に仕えていたのは創作)
113日本@名無史さん:2013/09/13(金) 15:18:25.78
>>109
反旗というか義広にしてみれば坂東では自分が先輩という意識があったんじゃないの?義朝?頼朝は謀叛人という位置づけだし。

平治物語では義広も上京して義朝に加担したという記述もあるが、信憑性は薄いし。
114日本@名無史さん:2013/09/13(金) 15:43:47.12
希義の息子とされる希望て本当に存在したのかな?
伝承見る土佐吉良氏が権威付のために作った人物臭い
115日本@名無史さん:2013/09/13(金) 15:45:42.89
希望ってなんか今のDQN親がつけそうな名前だな。めちゃくちゃな読み方にして。
116日本@名無史さん:2013/09/13(金) 15:51:23.63
>>95
森可成など輩出した
森氏がいるぞ
117日本@名無史さん:2013/09/13(金) 18:17:51.11
>>113
義広は次兄義賢と同母兄弟で仲がよかった。
義賢を殺した義朝・義平とは敵対関係。
したがって、頼朝よりも、義仲のほうに親近感があったのでは。
118日本@名無史さん:2013/09/13(金) 20:20:41.01
>>112
角田文衛は由良自身も上西門院に仕えた可能性はある
といってる。
いずれにせよ頼朝は母方の人脈で後白河院ー上西門院に近づいた可能性は大きいようだ。
119日本@名無史さん:2013/09/13(金) 20:26:24.45
>>117
志田荘は八条院領。義仲兄も八条院に仕えていた。
>>117の理由に加えてこの八条院人脈もあったかも。
ちなみに、野木宮合戦で負けると義広はすぐ義仲陣営に合流した。
これが頼朝と義仲対立の発火元になるんだよな。
120日本@名無史さん:2013/09/13(金) 23:07:28.55
義平が生きてたら頼朝は義平に従ってのかな?内輪もめしか想像できないが。
121日本@名無史さん:2013/09/13(金) 23:11:30.53
義平は専用スレがあるから
122日本@名無史さん:2013/09/14(土) 00:22:02.56
>>119
八条院人脈スゲえな。行家も彼女のパシリだし、頼賢の遺児が行家の養子になったのもその繋がり臭い。
123日本@名無史さん:2013/09/14(土) 00:40:26.27
>>120
義平が東国で生きていたら、頼朝が伊豆に流されることはなかっただろう。佐渡とかね。
124日本@名無史さん:2013/09/14(土) 01:22:18.35
>>109,>>113
義広は元々頼朝と仲が悪かった。というか、保元の乱で義広は勝者の兄義朝によって
自らの妻子も含む親類縁者を殆ど皆殺しにされ、義広自体が20年以上姿をくらました
尋ね者状態だったからな。(要は福田和子みたいな存在だった。当然だが、義広も
本来は処刑されるはずだった。)

これを考慮すると、義広と頼朝が仲が悪いなどということ自体が愚問。


>>117
義広、義仲とも、頼朝は親族の敵同様で、最初から共に戦える相手ではなかった。
125日本@名無史さん:2013/09/14(土) 02:04:03.38
>>124
>保元の乱で義広は勝者の兄義朝によって自らの妻子も含む親類縁者を殆ど皆殺しにされ

義広自身は、保元の乱に参戦していないのに?
126日本@名無史さん:2013/09/14(土) 06:16:17.50
>>124>>125
義広(義憲)は保元三年(1158年)に河内国で活動していたことが確認されている。
保元平治の後も志田荘が没収された形跡はない。
127日本@名無史さん:2013/09/14(土) 06:20:39.56
ちなみに志田荘は
本所 八条院
領家 池禅尼
現地管理者 志田義広

立荘は保元の乱以前で(当時の本所は美福門院か?)
立荘斡旋に関わったのは当時常陸介だった平頼盛と見られている。
128日本@名無史さん:2013/09/14(土) 06:23:39.27
>>122
以仁王の命旨は八条院の息のかかった(平氏に近いのは除外)武士を
中心に出されたとも言われてるからね。
129日本@名無史さん:2013/09/14(土) 12:51:44.77
・面積最大の八条院は、三河国加茂郡高橋荘、高橋新荘
・寄進者は頼朝曾祖父の藤原季兼(三河四郎大夫)、荘司は季兼の妹の息子、高橋惟康(小田原城築城の大森氏の祖)
・後に高橋荘荘司の足助重長の娘は、頼家に嫁ぎ、生まれた子供が公暁
130日本@名無史さん:2013/09/14(土) 13:10:08.72
>>124
妻子も皆殺しってどこ情報よ?
あと、追討も所領没収もされなかった理由は?
131日本@名無史さん:2013/09/14(土) 15:14:13.68
単に間違えたんだろ
132日本@名無史さん:2013/09/14(土) 16:59:05.31
小山氏が味方してくれると考え、そして見事釣られちゃうだなんて
志田先生はおっちょこちょいだな
133日本@名無史さん:2013/09/15(日) 08:50:12.26
志田義広が常陸から下野に出たのは、藤姓足利氏や義仲との合流を策したんだろうな。
途中の野木宮で小山氏に敗北し、進軍予定ルートがそのまま逃走路になった。
134日本@名無史さん:2013/09/15(日) 14:57:12.59
しっかし、小山朝政って大胆だよな。
志田と藤姓足利に挟まれたエリアで
「志田に味方します」と言ってだましていきなり返り討ち。
弟の長沼宗政の突入で敵を蹴散らしたからいいものの
朝政が負傷するほどの苦戦だったんだよね。
結果オーライだったけど、
実はかなり負け率の高かった戦いだったんじゃないかという気もするんだが。
135日本@名無史さん:2013/09/15(日) 15:46:45.18
>小山朝政って大胆
これが若さか
このとき、朝政・宗政兄弟は20代前半なんだぜ

あと野木宮の戦いは小山党しか出陣してないから
仮に敗れても頼朝としては余裕でリカバリー効く戦だったり
136日本@名無史さん:2013/09/15(日) 23:26:35.41
そう言えば範頼も野木宮合戦に参戦してたんだよね。
かなり終盤になってからだけど。
137日本@名無史さん:2013/09/16(月) 12:30:50.21
源範頼(源頼朝の異母弟、蒲冠者、参州、三河守)の年表


【1150年】父:源義朝、母:池田宿の遊女の間に産まれる

・藤姓大宮司一族(由良御前(源頼朝の母)か?)が密かに京都で養育
・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟(勘解由丞季成(藤原季成))が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育され、蒲冠者と呼ばれる
・乳母父は当麻貞稔(勘解由丞季成の息)夫妻、息に吾妻鏡に出てくる当麻太郎

【1155年】藤原季範(初代熱田大宮司)死去
【1157年】由良御前(源頼朝の母)死去
【1159年】父:源義朝暗殺、異母兄:源頼朝は伊豆に配流
【1161年】藤原範忠(藤原季範の長男、由良御前の兄)周防国に配流
【1161年頃】藤原範季(藤原季範の従兄弟の孫)が養父になる

・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝

【1180年】以仁王挙兵、遠江の甲斐源氏と行動を共にする
【1183年】野木宮合戦に援軍
【1184年】木曽義仲追討軍の大将として、宇治瀬田の戦い、一ノ谷の戦い
【1184年】三河守に推挙される、本拠を形原城(三河国宝飯郡形原)に構える
【1184年】九州進軍の大将として九州平定
【1185〜1187年】吉祥子(安達盛長(三河国小野田荘地頭、後に三河守護)と丹後内侍の娘)を室にする
【1185〜90年】上地八幡宮(三河国額田郡上地)創建、茂松城(三河国宝飯郡茂松)築城
【1193年】伊豆に幽閉、暗殺される
138日本@名無史さん:2013/09/16(月) 12:32:42.29
源範頼と小山氏

・八田宗綱→八田知家→中条家長(猶子、三河国加茂郡高橋荘地頭)
・八田宗綱→宇都宮朝綱→宇都宮成綱→宇都宮頼綱(養父は小山政光)
・八田宗綱→寒河尼(源頼朝乳母)→結城朝光
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円、本證寺(愛知県安城市)開基)
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→女(源為頼の室)
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→女(源為頼の室)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)

■本證寺(愛知県安城市野寺町野寺26)
・創建年:建永元年(1206年)頃
・開基:性空上人(改称:慶円)

性空上人(改称:慶円)は小山朝政の次男(結城朝光の甥)
小山政光(後妻は源頼朝の乳母である寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円)

■裕福寺(愛知県愛知郡東郷町大字春木字屋敷)
創建年:建久2年(1191年)
開基:宇都宮頼綱

八田宗綱→宇都宮朝綱→宇都宮成綱→宇都宮頼綱(養父は小山政光)
1389年(嘉慶3年)に再興されたと伝えられ、室町時代には足利氏の帰依を受け隆盛を極めた
■正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)

正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する
139日本@名無史さん:2013/09/16(月) 14:01:54.81
志田義広って長年常陸にいた割には、北関東の情勢に疎くないか?
小山は寒河尼が頼朝の乳母だし、藤姓足利とはかなり仲悪いだろ
140日本@名無史さん:2013/09/16(月) 15:12:29.32
>>139
小山も親頼朝とはいい切れないんだ。
1180年から1182年当時
当主 政光→在京中で平氏の軍事指揮下にいる。
嫡子 朝政→本領に籠って動かない。
宗政→不明
寒河尼、朝光→頼朝の元に参上

一族をうまく振り分けてどう転んでもいいように様子見している。

1183年2月の段階で宗政は鎌倉にいてそこから出陣しているんだけど
同時に鎌倉から出陣した関政平は途中で志田方についた。

小山氏も八条院領を預かっているから、義広も八条院人脈で
味方してくれると踏んだかも知れない。
141日本@名無史さん:2013/09/17(火) 19:54:14.15
志田先生って夕陽ヶ丘の総理大臣みたいな熱血先生だったのかな?
142日本@名無史さん:2013/09/17(火) 20:11:37.02
>>141
志田先生は熱血過ぎて当時の空気を読めなかったんだよ。
143日本@名無史さん:2013/09/17(火) 20:30:05.58
帯刀先生は?
144日本@名無史さん:2013/09/18(水) 01:33:22.75
銃刀法違反の暴力教師じゃね?
145日本@名無史さん:2013/09/18(水) 12:06:30.66
宗教から歴史、哲学、超常現象、政治経済まで

あらゆる情報の宝庫「中杉弘のブログ」です。

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/
146日本@名無史さん:2013/09/18(水) 19:30:32.96
文治元年(1185年)頼朝の父義朝の納骨堂南御堂勝長寿院供養


■供奉
・星野範信(頼朝叔父、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→星野範信(初代星野氏(三河国宝飯郡星野))

■参列者
・源頼朝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝

・平賀義信(甲斐源氏)
・大内惟義(甲斐源氏、平賀義信の息)
・源頼隆
147日本@名無史さん:2013/09/18(水) 22:47:54.52
頼朝は伊豆に流されて幸運だったな
四国に流された希義は挙兵に失敗してるし
148日本@名無史さん:2013/09/18(水) 23:07:35.55
土佐は逃げ場もないよな
島は追討受けたときに詰む
149日本@名無史さん:2013/09/18(水) 23:36:20.18
>>114>>147

ただの悲劇の人で終わった印象の強い希義に子孫がいた、と知った時は、何とも言えず救われた気がしたもんだ。

まあ客観的に考えれば信憑性は低いと思うけどね。

『系図纂要』では希望の名はなく、土佐吉良氏は、希義−隆盛−貞義−貞範−……と続く系統の子孫ということになっているが、彼に希望という名の子息がいてその子孫が続いたと考える方が、気分的に何となく嬉しい気はする。
150日本@名無史さん:2013/09/18(水) 23:36:26.67
>>148
伊豆も似たようなものだろう。半島に押し込まれているから。
石橋山で生き延びたのがあまりにも強運なだけで。
他の幸運は坂東で平氏方豪族や新知行国主に対する反感が蔓延していて
頼朝が逃げ込んだ先で同意者が多かったことと
甲斐源氏が同時期に挙兵してくれていたことかな。
151日本@名無史さん:2013/09/18(水) 23:52:55.29
希望という名前は実朝と公暁の死で没落してしまった義朝系源氏の
文字通り「希望」だったんだろうな。
152日本@名無史さん:2013/09/19(木) 00:10:50.01
>>149
救いといえば、平成6年になってから頼朝の墓と
希義の墓の土と石を交換した
という話があるね。
墓自体が後世ものだけど
なんとか再会させてあげたい
と願ってた人が850年後にいた
というのはある意味ほっとする。
153日本@名無史さん:2013/09/19(木) 20:00:21.05
伊豆には、伊勢平氏に対して苦々しく思っていた
直方の子孫がいたからな。
154日本@名無史さん:2013/09/19(木) 21:01:45.00
>>153
その系譜信憑性あるの?
155日本@名無史さん:2013/09/20(金) 00:26:44.19
>>152
鎌倉に行って驚いたことの一つだよね。まあ高知側の人から提案したんだろうけど。
156日本@名無史さん:2013/09/21(土) 15:51:58.40
>>152
そんな美談があったのか
討たれた直後は平家の目を恐れてろくに
葬儀もできなかったらしいね
157日本@名無史さん:2013/09/21(土) 17:15:41.94
吉良なんだから三河を調べろよ
兄弟がいて、嫡流は土佐を、希望は三河の領地を貰ったんだろ
高知とかアホか
158日本@名無史さん:2013/09/21(土) 17:30:22.39
>>156
そんな状態で希義を弔った土佐の僧侶に対して頼朝は深く感謝して
色々と恩賞をあたえたらしい。
159日本@名無史さん:2013/09/21(土) 18:57:17.94
同母弟の息子だから三河なんだろ
分からない事があったら、三河を調べなければ駄目じゃないか

■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官(伊勢権守令)として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券、皇室に寄進する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を産む
160日本@名無史さん:2013/09/21(土) 19:52:55.41
>>158
頼朝って意外と身内思いな逸話あるよね
なごむ
161日本@名無史さん:2013/09/21(土) 19:57:03.82
>>160
義門はどうか知らんが、近い肉親でいうと、頼朝は同母弟である希義には凄く優しいよな
162日本@名無史さん:2013/09/21(土) 20:42:15.40
>>160
そうか?
死んだ身内は良い身内なんじゃね?
163日本@名無史さん:2013/09/21(土) 20:45:32.17
同母姉妹の坊門姫とその家族にも厚遇してる。
坊門姫が死んだ後の頼朝の供養はかなり手厚いもので
ダンナの一条能保はそれに深く感謝してるし
坊門姫の息子の元服や娘の結婚には
かなりのお祝いの品を送ったりしている。
164日本@名無史さん:2013/09/21(土) 20:56:59.82
身内じゃないけど、石橋山で死んだ真田余市の事を思って泣いたり
義朝の乳母だった90才くらいの女性と語り合って涙流したり
頼朝って結構涙もろいところもある。
165日本@名無史さん:2013/09/22(日) 01:44:41.96
異母弟の全成、義経と会ったときも泣いたようだ。

政子に亀の前を追い出されたときも泣いただろう。
166日本@名無史さん:2013/09/22(日) 01:50:33.77
貞暁と生涯一度の父子対面をした時はどうだったんだろう。
167日本@名無史さん:2013/09/22(日) 03:34:15.01
>>154
系統が正しかったので
頼朝は、頼義のこと崇拝していて
自分の息子に頼家と名乗らせたのであろう。
168日本@名無史さん:2013/09/22(日) 08:01:16.84
>>167
いや、逆に信憑性がないからこそ
あえて強調した部分があるかもしれないぞ。
第一時政の父親の名前が系図によって違うくらいなんだから
系譜が本物だったとしても坂東武士には受け入れられなかったんじゃないか?
169日本@名無史さん:2013/09/22(日) 11:42:29.89
>>168
話はそれるけど、北条政子の母親もはっきりしないんだよね
血統重視の社会ではけっこうなハンデだわ
170日本@名無史さん:2013/09/22(日) 12:43:59.08
北条氏は桓武平氏とかいっても、
坂東八平氏ではないだろう?
171日本@名無史さん:2013/09/22(日) 13:23:07.49
義経はともかく範頼まで殺したのは余計だったな
172日本@名無史さん:2013/09/22(日) 15:33:51.30
>>171
範頼の場合、追放までは記録に残ってれけど
その後の消息は信憑性のうすいものに「殺された」とあるだけなんだよね。
殺された可能性は限りなく大きいけど。
173日本@名無史さん:2013/09/22(日) 19:15:56.12
義経の戦功を陰ながら支えたのが範頼
温厚で思慮深く義経とは正反対のタイプなんだよな
174日本@名無史さん:2013/09/22(日) 19:17:23.86
そういえば縁戚処分義経と範頼じゃ全然ちがうよな。
義経→舅の河越重頼死亡。 静が生んだ男子殺害。
範頼→舅の安達盛長生存。頼朝死後十三人の合議メンバーになる。
妻生存。息子も生存。
175日本@名無史さん:2013/09/22(日) 21:23:41.70
三河だからだろw三河には甘いんだよ


頼朝の寝室に忍び込んだ範頼家人の当麻太郎、薩摩に島流しの大甘処分だった



・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→勘解由丞季成(藤原季成))→当麻貞稔→当麻太郎
176日本@名無史さん:2013/09/22(日) 21:47:28.07
公然と反乱した人と、言いがかりをつけられただけの人の差かも。
177日本@名無史さん:2013/09/22(日) 22:36:38.69
範頼には曽我兄弟の仇打ち事件への関与
もしくは巻き込まれ説もあるよね。

範頼は養父藤原範季の存在や甲斐源氏との関係の深さ
というあたりが警戒されたのかも知れない。
178日本@名無史さん:2013/09/22(日) 23:16:22.10
>>177
曾我兄弟仇討ち事件は後白河法皇薨去後、1年かそこらで起きているよね。
藤原範季の向こうには、治天の君となった後鳥羽院が透けて見えているわけだから…。
179日本@名無史さん:2013/09/22(日) 23:19:52.14
源希望の親族 藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源希義→源希望(三河国吉良荘の馬の飼場三百余貫)

■源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧侶
藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼→源範円

■藤原忠季:源実朝近習
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季

■寛伝:日光山満願寺19世座主、滝山寺僧侶、滝山寺に惣持禅院建立、本尊に頼朝の歯と顎鬚が埋めこまれた聖観音像
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季

■野田清季:野田城主(三河国設楽郡野田)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季

■足利義兼
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→娘→足利義兼

■藤原範清: 右大将拝賀の先駆
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原範清

■藤原憲朝:駿河守、尾張国海東郡地頭
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原憲朝

■仁憲:滝山寺僧侶
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→三河祐範→仁憲

■源為朝の娘:足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助)の正室、娘が源頼家の室(公暁の母)
・源義親→源為義→源為朝→娘→娘→公暁
■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義親→源為義→鳥居禅尼→行快
■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏
180日本@名無史さん:2013/09/23(月) 00:15:33.36
>>174
義経の件でも河越重頼と嫡男・重房は粛清されたけど、
本領は妻の河越尼に安堵されてるし、次男・重時以下の一族は健在
それでも重い処分だけどね

頼朝はけっこう粛清するけど基本的に族滅まではしないスタンス
181日本@名無史さん:2013/09/23(月) 00:21:58.77
個人的には義経と最期まで共にしたのにまったくといっていいほど無名な郷御前が不憫
静御前なみに評価されるべきじゃね?
182日本@名無史さん:2013/09/23(月) 11:42:18.33
河越重頼って秩父氏系だな。
坂東八平氏の嫡流。
183日本@名無史さん:2013/09/23(月) 14:46:16.77
源希望(吉良希望、三河国吉良荘の馬の飼場三百余貫) の親族 

・源義家→源義親→源為義→源義朝→源希義→源希望
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→由良御前→源希義→源希望


父系

■公暁
・源義家→源義親→源為義→源義朝源頼朝→源頼家→公暁
・源義家→源義親→源為義→源為朝→娘→娘→公暁

■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義家→源義親→源為義→鳥居禅尼→行快

■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義家→源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏

■愛智義成(尾張国愛智郡郡司)
・源義家→源義親→源為義→源義朝→源義円→愛智義成
184日本@名無史さん:2013/09/23(月) 14:51:14.26
源希望(吉良希望、三河国吉良荘の馬の飼場三百余貫) の親族 

・源義家→源義親→源為義→源義朝→源希義→源希望
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→由良御前→源希義→源希望


父系

■源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧侶
・源義家→源義親→源為義→源義朝→源範頼→源範円

■公暁(母は足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助)の娘)
・源義家→源義親→源為義→源義朝→源頼朝→源頼家→公暁
・源義家→源義親→源為義→源為朝→娘→娘→公暁

■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義家→源義親→源為義→鳥居禅尼→行快

■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義家→源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏

■愛智義成(尾張国愛智郡郡司)
・源義家→源義親→源為義→源義朝→源義円→愛智義成
185日本@名無史さん:2013/09/23(月) 14:53:34.03
母系

■藤原忠季:源実朝近習
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季

■寛伝:日光山満願寺19世座主、滝山寺僧侶、滝山寺に惣持禅院建立、本尊に頼朝の歯と顎鬚が埋めこまれた聖観音像
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季

■野田清季:野田城主(三河国設楽郡野田)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季

■足利義兼
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→藤原範忠→娘→足利義兼

■藤原範清: 右大将拝賀の先駆
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原範清

■藤原憲朝:駿河守、尾張国海東郡地頭
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原憲朝

■仁憲:滝山寺僧侶
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代熱田大宮司)→三河祐範→仁憲
186日本@名無史さん:2013/09/23(月) 23:34:00.66
>>182
坂東八平氏の間で嫡流庶流の区別は明確についてないんじゃなかった?

河越氏はあくまで坂東八平氏のひとつ、秩父氏の嫡流
187日本@名無史さん:2013/09/24(火) 04:18:25.71
ああ藤の呪い
188日本@名無史さん:2013/09/24(火) 04:21:06.48
壷を壺を 藤壺を持って参れ
189日本@名無史さん:2013/09/24(火) 04:40:34.67
>>19 渡来系とか言い出したら藤原 物部 平家 橘 秦氏だって渡来系になる。
物部が百済からの渡来人とかいう記事は藤原のデマで、藤原が百済系。物部は秦氏側。
天皇さんはヤストルファンだと信じてるけどね。源氏はアーリアとか騎馬系だろう。
縄文人こそ日本列島古来の住人。
190日本@名無史さん:2013/09/24(火) 22:49:21.25
それにしても武蔵の大豪族河越氏が
頼朝が流刑になった後に都から移り住んでばかりと
言われてる
比企氏と婚姻関係むすんだのはなんでだろ?
191日本@名無史さん:2013/09/24(火) 22:50:40.79
義経の戦功を陰ながら支えたというよりも
範頼自体かなりの名将だからな
何故か凡将扱いされてるけど
192日本@名無史さん:2013/09/24(火) 22:57:04.76
>>191
中途半端かもしれないが、相当有能なことは間違いない。
だからこそ、頼朝に目を付けられ、いちゃもんを付けられ自分の血筋を残せなかった。
193日本@名無史さん:2013/09/24(火) 23:01:07.04
あの疑り深い頼朝も、流石に無能な阿野全成は放置だったしな。
同母弟の義門、希義も生きていたらどうなったか判らない。
194日本@名無史さん:2013/09/24(火) 23:14:19.55
>>193
放置どころか実朝の乳母夫になってましたがwww
195日本@名無史さん:2013/09/24(火) 23:15:48.11
>>192
男子三人残して子孫がいたらしいことは確認されてますが。
196日本@名無史さん:2013/09/25(水) 00:49:09.21
>>190
比企掃部允は郡司とはいえ、都下りの貴族だから中央とのネットワークに魅力を感じたのかも
それに頼朝という貴種との接点を確保しておくのは悪くない
197日本@名無史さん:2013/09/25(水) 13:42:45.64
>>193
阿野全成は悪禅師と呼ばれた男。
無能ならば、真っ先に頼朝に馳せ参じはしない。
198日本@名無史さん:2013/09/25(水) 15:57:33.83
>>197
全成は石橋山の後、山中で敗走中の佐々木一族と落ち合って
その後頼朝と面会するまで佐々木一族と行動を共にしている。
佐々木一族が全成だとわかったのは前から面識があったからだろうか?
(石橋山山中の話はどこまで信じていいか解らんが)
199日本@名無史さん:2013/09/26(木) 00:50:32.22
>>198
わからんけど、
敗走中の佐々木と行動を共にするなら、このときが初対面ではない。
むしろ、かなり親密な間柄と想像できると思う。
200日本@名無史さん:2013/09/26(木) 13:19:22.59
頼朝の兄弟の子孫たちが有力御家人として幕府中枢に残っていたら
足利氏などは源氏末流あつかいされていただろう
201日本@名無史さん:2013/09/26(木) 13:24:03.66
『吾妻鏡』で治承4年(1180年)の参入から建仁3年(1203年)の誅殺まで
阿野全成の所見を調べてみたけど、以下の記事くらいしか見つからなかった。

文治元年(1185年)12月7日条 「阿野公佐は全成の娘婿」(本人登場せず)

建久3年(1192年)8月9日条  「阿波局は全成の妻」(本人登場せず)

全然表に出てこないので、何をしていたのか謎とさえいえる。
202日本@名無史さん:2013/09/26(木) 13:27:40.52
>>200
武田・小笠原と扱いが変わらないレベルだったかもね。
頼朝の義兄弟として多少は優遇されたかもしれんが。
203日本@名無史さん:2013/09/26(木) 16:44:12.83
>>200>>202
「吾妻鏡」の儀式の序列を見ると
平賀義信>安田義定≧源範頼>足利義兼
だね。
範頼はいい位置にいたけど
御門葉一位は平賀義信。
204日本@名無史さん:2013/09/26(木) 17:46:00.50
>>201
治承四年(1180年)11月19日武蔵国長尾寺を頼朝が全成に譲渡し安堵した記事がある。
吾妻鏡における人物の空白で興味深いのが
北条時政が1182年12月に亀の前事件で怒って伊豆に帰ってから
1185年5月に時政が義経を酒匂川で足止めさせるまで時政は吾妻鏡に一切登場しない。
一応時政が書状を出しという記事はあるが、
時政発行推定の元になる文書の署名「平」は時政以外の平氏の文官が発行したのを
時政発行に付け替えたのではないかとの説がある。
あとは、一の谷直後の1183年3月に頼朝が伊豆北条に言った記事があるが時政は登場しない。

時政何やってたんだろ?
205日本@名無史さん:2013/09/26(木) 20:57:38.26
>>204
伊豆でふてくされてたんじゃないのw?
206日本@名無史さん:2013/09/26(木) 21:58:49.22
>>189
もう、おまえのトンデモには興味ない。
207日本@名無史さん:2013/09/26(木) 22:43:57.77
>>205
しかしまあ、空白の1183年は仕方ないとして
治承寿永の乱のクライマックスの義仲戦、一の谷、西国攻め
屋島、壇の浦という時期に
完全スルーされていた時政って一体・・・
鎌倉ではあまり重要人物じゃなかったのかね?
208日本@名無史さん:2013/09/26(木) 23:20:15.29
地道に事務仕事とか豪族間の調整してましただと
歴史書には残れないのかも。
209日本@名無史さん:2013/09/26(木) 23:40:44.33
吾妻鏡なんだからそれでも何らかの記述がありそうなもんだが
なにせ「北条殿」だし。
…ひょっとして時政ハブられてた?
210日本@名無史さん:2013/09/27(金) 16:45:59.00
流人時代の頼朝に賭けて平家に反旗を翻し
最後は牧の方と共謀事件を起こし追放された
波乱に富んだ人物
211日本@名無史さん:2013/09/27(金) 18:19:04.54
>>210
娘が頼朝と結婚したから、仕方なく引っ張り込まれただけの小人物かもしれない。
212日本@名無史さん:2013/09/27(金) 21:31:37.91
石橋山の後の時政の行動
「吾妻鏡」
頼朝と前後して安房に上陸して
頼朝の使者として甲斐源氏の元に赴く
延慶本「平家物語」
負けたら誰にも(勿論頼朝にも)言わず、石橋山から甲斐に直行で逃げる。

もし「平家物語」の行動の方が本当なら、
時政が頼朝から信用されないのも納得。
213日本@名無史さん:2013/09/27(金) 21:40:02.11
時政は相当過大評価されていると思う。
頼朝も後を託したのは梶原景時と比企能員だしね。
梶原景時も比企能員も三族皆殺しになっているが、御家人の集団リンチで必ずしも時政の
意思が一方的に通ったわけではない。

ライバルを滅ぼし、北条氏の繁栄の礎を築いたのは、義時なんだけどね。
214日本@名無史さん:2013/09/27(金) 21:45:45.94
子孫からもまさかの黒歴史あつかい
それが北条時政
215日本@名無史さん:2013/09/27(金) 21:48:53.69
>>211
反対したら駆け落ちされてしょうがないから認めてやった訳だしな。
216日本@名無史さん:2013/09/28(土) 04:38:16.78
敵を皆殺しって日本だと鎌倉期だけじゃね?といつも思うんだが
217日本@名無史さん:2013/09/28(土) 05:30:10.46
皆殺しというより集団自決が派手
という感じ。
梶原氏にしても女性は無事だし
梶原の妻たちが夫の遺領の一部を安堵されたりしている。
218日本@名無史さん:2013/09/28(土) 05:43:41.66
>>217
なる
諦めが良すぎるのかw
219日本@名無史さん:2013/09/28(土) 07:22:26.44
>>216
有岡城、伊丹城
秀次事件
九戸城
天狗党事件

まあ、それ以外にも探せば山ほどあるわな、敵の容赦ない皆殺し。

実際に、皆殺しにしないと、秀次事件で逃げ延びた藤堂高虎がやったような仁義なき
徹底的な復讐が待っている。

そもそも、日本人は楚人の末裔だから、伍子胥や項羽みたいな、粘着質で敵は
徹底的に皆殺し、ということは平気でする。

あと、比企能員の乱だが、比企氏の血を引くということで北条義時の正妻とその間に
生まれた子も殺されている。その影響で、庶子の北条泰時が後を継いでいる。
220日本@名無史さん:2013/09/28(土) 08:10:21.21
>>219
北条義時と比企娘姫の前の間に生まれた子って
朝時だけど
比企の乱の後もきちんと生存してるし
「名越流」という子孫まで残しているよ。
221日本@名無史さん:2013/09/28(土) 08:19:30.38
>>219みたいなことをしてるしと
足利二代将軍義詮も北条の血を引いているから殺されたことになるし(義満以降も存在しなくなる)
平家の女系の血を引く公家も存在しなくなるから
公家の多数も存在しなくなる。

奥州藤原氏も泰衡以外の多くの一族が流刑ですんだのも>>219はご存知ないと見えるし
奥州安定統治の為に頼朝が秀衡未亡人を保護したのも
ご存知ないと見える。
222日本@名無史さん:2013/09/28(土) 08:47:51.95
>>220
殺されたどころか、
承久の乱で朝時は北陸道軍を率いていたんだが。
日本の政権交代の時、フランス革命のような大混乱が起きない要因の一つが
旧勢力の一部を新勢力が取り込むこともあるんだよな。
鎌倉幕府は行政のノウハウを持つ文官を京都から呼び寄せたし、
室町幕府は鎌倉幕府の行政官を登用したし
明治政府は幕府役人を官僚に取り立てた。しかも慶喜を生かして最後は公爵にまでするし。
戦国大名も滅ぼした大名の家族を保護したり側室にしたりして、滅ぼした相手の領地統治に利用したりしている。
223日本@名無史さん:2013/09/28(土) 12:17:36.31
だよね
統治を考えた場合、旧勢力を根絶やしにするとデメリットの方が大きい
(統治機構の消滅、情報の散逸、人材不足、残党の蜂起etc.)
旧勢力の統治期間が長いほどそれは顕著になる
よって、普通はトップのすげ替えと旧臣の取り込みで済む

逆説的に、徹底的な皆殺しがあると珍しいもんだから目立つ
224日本@名無史さん:2013/09/29(日) 02:43:57.38
源実朝暗殺に関しては黒幕が北条義時とか
三浦義村とか言われてるがどっちなんだ
225日本@名無史さん:2013/10/01(火) 17:38:38.27
黒幕は全員
鎌倉武士全ての総意かも知れない
226日本@名無史さん:2013/10/01(火) 18:09:49.96
ああ、確かに
事件の経過とか謎が多すぎる
227日本@名無史さん:2013/10/01(火) 18:30:32.32
頼家の男子も一幡、公暁、某と全てころころされたよね。唯一残った女子の竹御所も流産で脂肪だか
これで頼朝の子と孫は全滅、清和源氏八幡太郎義家の嫡流は断絶
228日本@名無史さん:2013/10/01(火) 19:08:44.73
たださあ、北条の場合将軍の身内であることが
他御家人を抑えて実権を握る要件だったから実朝殺すメリットないんだよなあ。
三浦の場合も担ぎ上げる予定の公暁を実朝殺害の実行犯にすると
リスクとデメリットが大きすぎるんだよね。
229日本@名無史さん:2013/10/01(火) 19:54:26.02
>>213
比企能員は
独裁的で反感を買っていた源頼家の乳母父として
権勢を振るっていたからね
230日本@名無史さん:2013/10/02(水) 02:54:48.34
>>201
義仲が都にいる間に一条能保が鎌倉に来ている。
その能保が鎌倉にいる間の宿泊先が「玉葉」によると全成の邸だったらしい。
ちなみに同時期に鎌倉に来ていた平頼盛の宿泊先は相模国府。
彼等の鎌倉下向は義仲からの圧迫からの亡命だけでなく
後白河法皇からの政治的密命を帯びた使者という意味合いもあった。
当然頼朝は頼盛、能保を厚遇する必要がある。
そんな能保の滞在先になるのだから、能保の妻の異母兄弟の家だから
という理由だけで能保の宿泊先に選ばれた訳ではないかも。
231日本@名無史さん:2013/10/02(水) 19:48:00.95
>>230
「能保悪禅師の家に宿すと云々。頼朝の居を去ること一町許りと云々」

『玉葉』寿永2年(1183年)11月6日条だから『吾妻鏡』の欠文期間か。
これは見逃してた。情報ありがとう。
232日本@名無史さん:2013/10/06(日) 18:42:11.81
『吾妻鏡』に足利義兼と政子の妹の結婚記事はあるけど、
全成と阿波局の結婚記事は見当たらない。推測になって
しまうけど、二人の結婚は空白の寿永2年(1183年)かな?

その場合『吾妻鏡』文治元年(1185年)12月7日条には
藤原公佐は全成と阿波局の間に生まれた娘の婿とあるので
二人は生まれたばかりの娘を公佐と結婚させたことになる。

能保が全成宅に滞在中に、話をまとめたのだろうか?
能保と公佐は、勝長寿院の供養に一緒に列席していて
親しい間柄に見えるけど。
233日本@名無史さん:2013/10/06(日) 23:05:04.56
>>232
能保へ頼朝の庶子貞暁が出家の為に上洛した際も貞暁の身元引受人になっている。
頼朝からみれば都に身内を出す際の身元引受人として
同母姉妹の夫で身分もある能保がもっともふさわしいと考えていたのではないかと推測する。
だから、この娘も都では義理のおじ能保が後ろ盾になっていたのではないだろうか。

この婚姻は全成発起か能保発起か頼朝発起かわからない。
ただ、公佐の養父の滋野井実国とその嫡子公時の系譜を見ると
実国ー上西門院から叙爵される
公時ー妻が吉田経房娘
とあって上西門院と縁があり、頼朝と親しい吉田経房とも縁がある。
能保も上西門院の乳母の孫であり、吉田経房も上西門院に仕えていた。
公佐が能保と親しくてもおかしくはないし、
頼朝か能保が結婚を取り持ってもおかしくはない。
234日本@名無史さん:2013/10/08(火) 19:19:50.99
なるほど。上西門院関係者を中心に朝廷内に親頼朝派を
形成する試みか。ところで、滋野井公時の子に実宣という
名があるけど、これってひょっとして時政の娘婿の実宣?
それなら、時政も一枚噛んでいる可能性が濃厚かも。
235日本@名無史さん:2013/10/08(火) 21:50:59.46
鎌倉は時代としては華やかなイメージだが、源家三代は非業の最期だな。

平家の祟りか義経の無念か?
236日本@名無史さん:2013/10/08(火) 21:53:09.35
>>234
時政婿の実宣の可能性大きいね。
ただ時政娘と実宣の婚姻はもっと後だと思われる。
wiki情報で申し訳ないんだがそこには1203年に実宣は時政娘との婚姻の為平維盛娘を離縁したとある。

この情報が不確なものだとしても時政が都の貴族と縁を結び始めるのは
義経問題の交渉などの為に上洛した後だと思われる。上洛したのは11月25日。
上洛してばかりの頃の時政は「北条丸」扱い。
この年の12月7日には既に公佐は全成の婿になっている事が確認される。
この婚姻に絡むのはまだ無理だったのではないだろうか?
237日本@名無史さん:2013/10/08(火) 21:53:11.94
黒澤の『乱』のイメージはそういう感じか?

戦国時代の設定ではあると思ったが。
238日本@名無史さん:2013/10/08(火) 22:02:31.40
>>235
鎌倉は質実剛健なイメージだろ
それと幕府内の陰湿な権力闘争の繰り返し
梶原景時の変
比企能員の変
頼家暗殺
畠山重忠の乱
牧氏事件
和田合戦
実朝暗殺
239日本@名無史さん:2013/10/08(火) 22:04:58.86
興味深いのは実宣の前妻平維盛娘の母(つまり維盛元妻)は
吉田経房と再婚しているんだ。
吉田経房は1200年に死去。
で、1203年鎌倉で政変が起きて将軍が頼家から実朝に代わり
時政が将軍外祖父として実権を握りつつあった。

もし1203年に実宣の妻交代があったとしたならば
大納言としてそれなりの実力を持ってた義父を失った前妻より
鎌倉の実力者となった時政娘に乗り換えたというように見ることができるかも。
240日本@名無史さん:2013/10/08(火) 22:30:05.25
>>238
>鎌倉は質実剛健なイメージだろ
そうだよな。平安時代の貴族文化に対して武家の質実剛健な文化。
仏教も禅宗だし。鎌倉のお寺は何処も黒い。
241日本@名無史さん:2013/10/08(火) 22:30:07.74
>>238
だから質実剛健と陰湿さが折り合わないから困る。
242日本@名無史さん:2013/10/08(火) 22:34:54.25
鎌倉は源平合戦のイメージで英雄時代とも言われるし、
文化的遺産も多いからな。
243日本@名無史さん:2013/10/08(火) 23:00:57.16
>>241
そうか?質実剛健と陰湿って合わないもんなのか?
細川センセがいうには「ユルさと残酷さが同居していた時代」
不条理とも言えるかもしれんな。

>>242
残念ながら鎌倉時代にあった建造物は現在の鎌倉にはあまり無いと言われてますが。
軍記物も成立が都だったみたいだし。
244日本@名無史さん:2013/10/08(火) 23:15:35.76
叛乱分子となり得る御家人を次々と屠っていったからね
得宗家の力が強まるに対して名越光時の乱のような一族内の
抗争もあったわけだし
英雄時代でもあったし色々なクーデターがあって面白い
始まりも華やかでラストも壮絶極まりないのが鎌倉時代
245日本@名無史さん:2013/10/08(火) 23:20:11.69
平家物語口上の「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現す」
とは、釈迦入滅の時に祇園精舎の沙羅双樹の林が真っ白に花
咲いて、鶴が舞い降りたような様になったという故事を指す
のだな。これを鶴林と言う。
黒澤の『乱』の終わりはそれを踏まえて
るのか、俺は学が足りなくて分からん。
246日本@名無史さん:2013/10/08(火) 23:48:23.95
本当残酷な時代だよな一幡なんか祖母の実家に殺されちゃうし
247日本@名無史さん:2013/10/09(水) 00:23:51.78
比企能員も叛乱自体が北条氏のでっち上げとも
言われてるね
248日本@名無史さん:2013/10/09(水) 00:36:40.66
>>245
>沙羅双樹の林が真っ白に花
双樹だから林じゃなくて二本だと思ったけど。
249日本@名無史さん:2013/10/09(水) 00:51:39.53
>>238
陰湿さにかけては北条親子が一番だけど、他の鎌倉武士と違い武功らしい武功もないしな
勇将の畠山や三浦とは人種が違うんじゃないかってくらい違う
梶原にしても陰湿なイメージはあるけど同時に勇猛果敢な武人でもあるから
250日本@名無史さん:2013/10/09(水) 02:09:20.94
>>249
北条は確かに武の人というイメージは無いな
でも外戚だからといって無能低能が壟断を繰り返すという感じでもなくて
歴代それぞれに出来る人なんだよね
元々が小豪族だったわりになかなか頑張った感じ
251日本@名無史さん:2013/10/09(水) 02:51:57.99
承久の乱や和田合戦のせいか
政略、特に煽動と挑発が上手い一族というイメージがある
252日本@名無史さん:2013/10/09(水) 11:48:17.69
>>248
俺も長いことそう思っていたけど、「沙羅双樹」で木の種類名らしい
253日本@名無史さん:2013/10/09(水) 20:04:57.18
>>250
そして高時というアホが出たらやっぱりあっけなく滅んだ
254日本@名無史さん:2013/10/09(水) 21:54:03.83
権謀術数に長けているイメージ
元々が小豪族だったからこそ成り上がりで
根性を見せたな
255日本@名無史さん:2013/10/09(水) 22:20:20.68
>>252
マジかよ。wikipedia見たら「釈迦がクシナガラで入滅(死去)したとき、臥床の四辺にあったという、
4双8本の沙羅樹。時じくの花を咲かせ、たちまちに枯れ、白色に変じ、さながら鶴の群れのごとくで
あったという(「鶴林」の出典)。」とあるから二本ずつ四組って事じゃね。
256日本@名無史さん:2013/10/09(水) 22:24:40.37
高時は御内人の長崎高資の始末すら満足にできなかったくらいだからなw
257日本@名無史さん:2013/10/09(水) 23:07:14.96
北条時宗が偉大だったからより一層比べられてしまうんだよね
ただ恩賞問題や身内優遇などが積み重なって腐敗が進んでおり
一概に高時一人が悪かったとはいえないような
258日本@名無史さん:2013/10/10(木) 02:05:05.17
時頼以降の得宗は早死したからな、そういうのも関係あると思う
259日本@名無史さん:2013/10/10(木) 18:34:32.24
代々若死にだと統制効きにくくなるよね
幼少の当主とか普通なら傀儡フラグ
260日本@名無史さん:2013/10/10(木) 22:10:12.72
室町時代の足利義勝とかね
スレチだけど
261日本@名無史さん:2013/10/10(木) 23:28:30.76
北条殿は天皇も関白も逆らえない日本の最高権力者だけど私生活は地味
262日本@名無史さん:2013/10/10(木) 23:36:24.09
>>261
末期になると、内管領に逆らえなくなり、政務も顧みず闘犬や田楽三昧
263日本@名無史さん:2013/10/10(木) 23:40:46.17
源氏も平氏もこの辺りで本家筋は途絶えたのか。
264日本@名無史さん:2013/10/11(金) 02:33:33.18
>>263
河内源氏為義流と伊勢平氏は本家筋というより最も有力な一派
265日本@名無史さん:2013/10/13(日) 23:28:04.33
清和源氏の主流は室町時代は足利家だけど江戸時代はどこだ?
まさか徳川家じゃないだろうし
266日本@名無史さん:2013/10/14(月) 01:12:34.99
江戸時代は徳川家が源氏の長者だったような。
267日本@名無史さん:2013/10/14(月) 09:46:29.45
源氏長者は清和源氏だけが対象じゃないからな。
江戸時代の清和源氏の主流は本来なら明治維新後、足利姓に復す事になる高家旗本の喜連川家になんだろうけど、主君たる徳川家が源氏を仮冒してしまった事で清和源氏の主流と言う概念は事実上なくなってしまったんじゃないか?
でなければそもそも足利の名を捨て喜連川なんて名乗る必要も無かったはずだし。
268日本@名無史さん:2013/10/14(月) 10:22:03.96
Wikipediaの源氏嫡流の記事もそうだが清和源氏の主流なんて同時代に無い概念を
後世の物好きが勝手に造作して議論しても意味が無い
269日本@名無史さん:2013/10/14(月) 23:28:42.61
>>268
頼朝も、義朝も、為義も、嫡流を意識していたことは相違あるまい。
270日本@名無史さん:2013/10/14(月) 23:50:10.06
>>269
嫡流とは何の嫡流なのか
意識していたことが疑いないとする論拠は何か

彼らは義家からの嫡流であって清和源氏全体の嫡流ではないだろうし
血統的な嫡流という意識より観念的な武門の棟梁という意識の方が強かったと思えるんだが
271日本@名無史さん:2013/10/15(火) 00:45:48.83
争ってる間はそれぞれが我こそが嫡流って言い張ってて、最終的に勝者が嫡流とみなされるようになった
そんな所だろ
272日本@名無史さん:2013/10/15(火) 12:47:50.10
八幡太郎義家の跡目争いからしてぐっちゃぐちゃ
義朝も長兄・義賢を殺害し、保元の乱により結果的に「そして誰もいなくなった」で一本化
はじめから庶嫡が明確に定まっていたら、ここまでひどくはならないよな
273日本@名無史さん:2013/10/15(火) 13:06:27.66
>>272訂正
義賢は異母弟
274日本@名無史さん:2013/10/15(火) 14:04:32.86
まあでも朝廷の貴族からみたら、河内源氏自体傍流だけどな
275日本@名無史さん:2013/10/15(火) 17:31:28.06
>>267
それは間違い

喜連川家は高家旗本ではなく知行高五千石ながら十万石格大名。
さらに主君は徳川家ではなく、徳川将軍家の客分。
276日本@名無史さん:2013/10/15(火) 20:32:01.15
>>272
義家の跡目は、義家の指名ですんなり義忠に。
ぐちゃぐちゃではない。
義忠の後が疑惑満載だけど。

保元の後、弟たちを処刑したのは朝廷の命令であって、
義朝の意思ではない。
義朝が嫡男だったかは疑問でてるけど、
それが明確でなかったからそうなったということではない。
277日本@名無史さん:2013/10/15(火) 21:25:10.70
そうだな。むしろ義朝以外全員為義の味方をしたから、ああなった。
義朝は鬼っ子か?
278日本@名無史さん:2013/10/15(火) 23:18:48.05
>>277
義朝 東国が院知行国化した影響で院ー美福門院に接近路線を選ぶ
為義 長年摂関家と結びついていたので摂関家から離れることは考えられない
   息子たちも父の縁故と引き継いで摂関家に近い

他の息子たち
 義広 保元の乱以前に池禅尼ー頼盛の斡旋で美福門院領志田荘を立荘
    父とも義朝とも独立路線
 行家 バックに熊野あり。独立路線を歩める地歩あり。
279日本@名無史さん:2013/10/16(水) 15:11:02.93
>>276
義朝は為義の長男で、その母方の祖父は白川院の側近で実力者。
祖父が頼りがいのある存在だったので、幼少時は嫡男あつかいされた。
しかし、その祖父が死んだので、為義は次男を嫡男にして、
義朝を関東へ追っ払った。
庇護者を失った義朝は出世の見込みがなく、
出世しそうな次男を嫡男にしたほうが、家全体の発展に繋がるからだ。

そのとき義朝は11か12歳くらい。関東へ向かう足取りは、
心細く、哀しく、そして悔しかっただろう。
そんな境遇にもかかわらず、義朝はたくましく育ち、
関東の荒くれ武士どもを率いて勢力を拡張していった。
しかしその心には、父に対する憤りや反感が満ちていたのであった・・・。
280日本@名無史さん:2013/10/16(水) 22:52:23.01
大蔵合戦で源義朝に父の義賢を殺されたから
義仲も鎌倉の頼朝に対しては複雑な感情を抱き続けて
いたんだろうな
281日本@名無史さん:2013/10/16(水) 22:54:24.34
大蔵合戦は義平ね。
282日本@名無史さん:2013/10/16(水) 23:58:50.44
源氏みな仇
283日本@名無史さん:2013/10/17(木) 23:25:22.35
>>279
貴族の日記に、『父子仲わるし』と書かれてるね。
284日本@名無史さん:2013/10/20(日) 07:36:07.45
源義光がとんでもない元凶だったな
源義忠暗殺事件といい
この人の暴走に一門が大いに巻き込まれた
285日本@名無史さん:2013/10/20(日) 10:39:55.37
義経とかやってること最低だから報いが来たんだろ
壇ノ浦では非戦闘員の漕ぎ手を殺したりしてるし
286日本@名無史さん:2013/10/20(日) 10:54:00.39
>>285
頼朝は義経以外の弟も殺しているから
義経が武士の戦術さえ無視してなければ
滅ぼされてなかったというのは言い過ぎ

まあ、正攻法で攻めていたら
平家滅亡にもっと時間がかかってたかもね。
287日本@名無史さん:2013/10/20(日) 11:07:40.99
戦功がある上に思慮深く細かな対応をしていた
源範頼も嫌疑をかけられて殺されてるからね
288日本@名無史さん:2013/10/20(日) 11:09:41.86
義経が駄目だったのは外道戦法よりむしろ兄貴の政略をまったく理解してなかったこと
289日本@名無史さん:2013/10/20(日) 11:37:20.02
もともと越権行為が目立った上に
勝手な官位の受諾や平時忠の娘との婚姻は
頼朝を差し置いて平家に代わる立場に立とうとする
野心があると見て取られても仕方がない
290日本@名無史さん:2013/10/20(日) 11:43:51.53
>>287
範頼については、殺すまでやるかはともかく失脚させるのは政治的に必要でしょう。
後鳥羽院と近すぎる。
291日本@名無史さん:2013/10/20(日) 11:50:51.38
義経の非戦闘員射殺については
戦闘のどさくさで双方ありがちなことという見方もある。
292日本@名無史さん:2013/10/20(日) 11:54:35.38
ついでに書くと
一ノ谷は多田行綱の中央突破が決定的
屋島は平氏方に反感を持った豪族の与力も影響
壇の浦は追い詰められて武具等もつきかけていた
平氏に元々勝利の可能性が薄かった
という見方もある。
293日本@名無史さん:2013/10/20(日) 12:02:00.14
『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、
大勢が決した「先帝身投」の段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、
水手や梶取を射殺し、斬り殺したと描かれている。

義経が戦の作法を無視して水手と梶取を射殺した話は安田元久氏が
『日本の武将7 源義経』(1966年)で仮説として提起してるけど
実際の所はどうなんだろう?
294日本@名無史さん:2013/10/20(日) 14:59:24.69
義経びいきの平家物語が殺害自体をスルーせずに、>>293氏ご紹介のような描写を
行ったのは、当時の聞き手には義経の虐殺行為は周知の事実だったのを
義経の命ではないと言い訳しているかもしれないな。
295日本@名無史さん:2013/10/20(日) 15:21:51.24
大将の承諾なしにそんな掟破りするわけないじゃん
296日本@名無史さん:2013/10/20(日) 15:41:20.35
>>293
とりあえず手持ちの本での見解を
上杉和彦
 『平家物語』によると漕ぎ手虐殺は平氏敗戦濃厚になってからなので
 勝敗には関係ない(『源平の争乱』吉川弘文館)
金指正三
 安田説に対して
 源氏が水主・梶取を攻撃したならば平家方も同様に応戦したはず
 (菱沼一憲氏が『源義経の合戦と戦略』(角川選書)で紹介)
元木泰雄
 水主・梶取の殺害は勝敗が決してから、勢い余った源氏軍が邪魔な
 彼らを船に乗り移ってから殺害(『源義経』吉川弘文館)
297日本@名無史さん:2013/10/20(日) 15:49:12.17
壇ノ浦の勝敗の要因
上杉和彦
 義経の周到な準備、阿波民部の裏切り、平氏方の士気の低さ
菱沼一憲
 軍備十分だった義経軍と比べて
 補給もままならなかった平氏軍の軍備が貧弱で(矢の数など)
 なのが主要因。
 漕ぎ手が殺されたのも彼らに十分な装備を与えられなかったのも原因
元木泰雄
 軍勢の数は源氏方が勝っていた。
 海峡が狭いので側面から攻撃などができず数が勝敗を決した
 地形の関係で陸上の範頼軍の援護もあった
川合康
 四国中国の武士たちが雪崩を打って鎌倉方に味方をしたのが最大の要因
 
298日本@名無史さん:2013/10/20(日) 15:51:03.20
>>294
平家物語では義経の容姿をかなり悪いものとして描いている。
かならずしも義経びいきだったとは思えんが。
299日本@名無史さん:2013/10/20(日) 16:30:18.51
上杉は元木は平家びいきの学者だよな
川合は論外w
300日本@名無史さん:2013/10/20(日) 17:23:21.93
>>299
他の学者の見解のUPもお願いします。
301日本@名無史さん:2013/10/20(日) 20:39:51.82
安田氏は阿波民部成良の裏切りを否定して、水主・梶取の射殺が
壇ノ浦の戦局を決定づけた最大の要因と推測している。

『平家物語』を読む限りでは、非戦闘員の射殺が義経の命令か
兵の暴走か確定できないけど、世間的には安田説が何となく
受け入れられている感があるかな。
302日本@名無史さん:2013/10/20(日) 20:58:41.99
>>301
安田説が出たころ
「義経政治音痴論」が出て世間では義経sage時代だったと思う。
司馬遼太郎の「義経」は義経sageモノだったし
永井路子も義経政治音痴説をとっていた。
で、テレビでも義経政治音痴路線を(今でも)とっている。
そんな義経sage路線も安田説受け入れに一役買っている気もする。

あと、東の学者ってわりと義経sageな人が多いような気もするがどうだろうか?
(過去の義経ageは異常だったとは個人的に思っているが)
303日本@名無史さん:2013/10/22(火) 00:08:53.86
希義も夜須七郎と合流できたら助かっただろうに
304日本@名無史さん:2013/10/22(火) 03:36:14.78
希義は蓮池に軍事行動を察知されたのが敗因
一方で、頼朝は石橋山の戦いで敗戦するも
梶原景時が寝返ってくれたおかげで九死に
一生を得るというラッキーな人
305日本@名無史さん:2013/10/22(火) 06:40:10.48
>>304
というか、頼朝の強運が並外れすぎ!

平治の乱 
 戦闘中&逃走中死亡せず(義隆、朝長負傷→死亡)
 戦闘参加者なのに処刑されず(義平処刑)
石橋山
 ボロ負けの大将なのに死亡せず脱出
房総北上中
 途中で襲われるも辛くも撃退、そのうち味方が増える
野木宮合戦
 小山兄弟の活躍で反頼朝勢力撃退(小山兄弟も危なかった)
数回の暗殺未遂
 事前に暗殺者が発見されて事なきを得る

通常ならば上記のどれかで死亡している。特に上二つ。
希義並みの運勢が通常人の運勢といったところだろう。
306日本@名無史さん:2013/10/22(火) 09:47:23.49
近親者の運勢吸い尽くしたんじゃないかという程の強運だわな
307日本@名無史さん:2013/10/22(火) 14:54:24.41
強運だが幸運とは言い切れないだろう。
平治の乱では八甲田山並みの経験の逃亡をした上、
捕まったらいつ処刑されるかわからない長時間の精神的拷問にさらされ
石橋山では数日間の飲まず食わずの生活しながら
敵の捜索かわして逃亡。
きつい状況乗り越えての強運だよな。
精神的に強くないと生存できないだろうな。
308日本@名無史さん:2013/10/22(火) 16:26:20.87
>>307
20年間読経しながら何を考えていたかだよね。
去年のドラマでは描かれなかったところだけど。
309日本@名無史さん:2013/10/22(火) 19:36:26.41
>>308
頼朝が何を考えていたかは本当に想像に任せるしかないんだが
治承寿永の乱直前までは挙兵の意思はまるっきり無かったんじやないかな?
治承三年の政変に伴う変動で挙兵に引きずり込まれたって感じだし。
310日本@名無史さん:2013/10/22(火) 20:21:51.22
>>307
頼朝は女たらしだから伊豆でそこそこ楽しくやってたんじゃね?
伊豆に流された14歳から32歳の挙兵まで一日も欠かすことなく
長時間の精神的拷問にさらされてたようにも見えない。
乳母の一族である比企一族やら、
頼朝の母方が付けてくれた従者たちがいつも傍にいて、けして孤独でもなかったし。
311日本@名無史さん:2013/10/22(火) 22:10:11.10
伊東祐親の娘にも手出してたからな
312307:2013/10/22(火) 22:21:29.77
>>307の長時間の精神的拷問って2月9日の捕縛から流刑決定までの意味で書いたんだが。
長くても1ヶ月未満だが
処刑が決定的な中、何日も処分保留で放置というのは辛かったと思う。

伊豆時代は家族を失った孤独を除くと結構気楽にやっていたと思う。
313日本@名無史さん:2013/10/26(土) 00:10:14.21
>>312
1ヶ月の未決時間は精神的拷問って……
実際に拷問にかけられた藤原経宗・藤原惟方に比べれば軽いもんだよ
長さだけで判断するなら現代日本の刑事裁判のほうがよっぽどキツイわ
314日本@名無史さん:2013/10/26(土) 23:13:38.85
>>313
たしかに経宗・惟方が受けた仕打ちはひどいよね。
ただ、経宗らは実際に乱を起こした側だから自業自得という気がする。
それに逮捕後すぐに処分きまったからね、精神的な苦痛はそんなに深くないと思う。
頼朝の場合は父の義朝が勝ち馬になると踏んだ信頼に乗ったら信頼が経宗らに裏切られて
逃亡→父兄死亡→逮捕→本人流刑
だからある意味不憫。
315日本@名無史さん:2013/10/26(土) 23:46:24.26
>>312
保元の乱の処分
乱終結 7月11日
罪状宣下 7月27日
処刑 7月28日、30日
逃げ回った時間とかを考慮すると逮捕から一週間位で処分決定。

平治の乱
乱終結 12月27日
源季実ら一部武将年内に処刑(3日以内)

当時としては1ヶ月処分保留は長い。
316315:2013/10/26(土) 23:47:36.15
アンカーミス
>>315>>313へのレス
317日本@名無史さん:2013/10/27(日) 14:53:16.88
>>313-314
経宗・惟方は信頼一派に信西を討たせて、
今度は三条公教の誘いにホイホイ乗って清盛を使って信頼を討たせ
二条帝側近として実権を握ろうとした。
自分たちは一切手を汚さずに邪魔者を人に片付けさせたこの乱最大の悪者といってもいい。
どんなに悪辣なことしても戦闘行動をとってないから
死罪にはならない。
しかも流刑になった期間はたかだか数年。
経宗などは二年ちょっとで帰ってきて、その後左大臣にまでなっている。
そんな彼らが拷問うけても全く同情できない。
318日本@名無史さん:2013/10/27(日) 18:40:05.59
>>314-315
なんでこんな内容で白熱するのかよくわからんのだが…

たしかに他の処分例と比べると頼朝の件は長め。それは認める
とはいえ、1ヶ月の処分保留で精神的拷問?
若年で初陣だったとはいえ戦闘民族河内源氏の御曹司だぞ
現代日本人の感覚に引きずられ過ぎちゃいないか
319日本@名無史さん:2013/11/04(月) 19:52:57.39
義門って実在しなかったのかね?
だったらなぜ義経が九郎(九男の意味)と当たり前のように当時呼ばれてたんだろう
320日本@名無史さん:2013/11/04(月) 20:24:18.24
>>319
確実に何らかの形で実在しただろう。そうでなければ九郎が合わない。
平治の乱で死んだか、その後配流されて頼朝挙兵までに死んだか、いずれかだろうね。
配流されたら記録は残るだろうから、前者の可能性が極めて高い。
321日本@名無史さん:2013/11/04(月) 20:30:56.94
>>320
平治の乱以前に病死の可能性も
322日本@名無史さん:2013/11/04(月) 22:47:26.36
>>320
だが、義経はほんとは八男で八郎だが、同じ清和源氏で名高い鎮西八郎為朝に配慮して九郎を名乗ったとも言われてる
九郎というだけで、存在を確定するというのなら、そうでないという可能性もある
323日本@名無史さん:2013/11/04(月) 23:01:27.49
義門は実在はしていたと思う。
けど平治の乱に出陣していたならば『平治物語』あたりになんか出てきても良さそうだし
(義朝の子が戦闘中に死んだとしたならば題材としては美味しい)
『吾妻鏡』あたりに何の痕跡も残ってないのが気になるんだよね。
『吾妻鏡』は頼朝異母兄弟の義円に関しては一言も触れていないから
特に書くことなければ書かないってスタンスかも知れんが。
自分的には、義門は平治以前に死んでしまったんじゃないかと思っている。
324日本@名無史さん:2013/11/05(火) 07:42:25.55
>>321
義門が官職(宮内丞)に任命されたのは、平治の乱の時と言われるから、平治の乱以前に
死んだ可能性はないのではなかろうか。ただ、それ以前に任官された可能性もゼロとは
言えないが。

>>322
為朝に遠慮する理由は何処にもない。義朝とその父為義、及び弟為朝は不倶戴天の
敵同士。また、為朝は朝敵でもある。遠慮、敬意などあろうはずがない。その可能性は
最初に切り捨てられるべきである。
325日本@名無史さん:2013/11/05(火) 14:05:33.46
>>322
配慮というか、、
名高い為朝と同じ八郎を名乗ると、自分が目立たないという考えだったかもしれない。

>>324
不倶戴天というか、、
為義は、乱の直前に、源家重代の鎧・太刀を義朝に送って、嫡男と認めたといわれ、
義朝は、乱のあと、父の助命のために奔走したと貴族の日記に書かれてる。
326日本@名無史さん:2013/11/05(火) 20:22:21.71
>>324
その平治の乱の際の任官説って奥富センセが推測で主張してるだけで
正確な任官時期は一次史料からはわからないだよね。
>>325
源氏累代の武具を義朝に送った話は『保元物語』にしか載ってない。
(しかも成立年代の古い「半井本」にはそのエピは無い)

義朝が為義の助命に奔走した話はどの日記に書いてあるの?
『兵範記』にはなかったと思うが。
327日本@名無史さん:2013/11/05(火) 20:24:19.44
>>325
その八郎エピも『義経記』がソースだった記憶が。
328日本@名無史さん:2013/11/06(水) 01:09:07.75
眉唾なんだろうけど源為朝 初代琉球王説はロマンを
掻き立てられる
329日本@名無史さん:2013/11/06(水) 12:05:55.30
>>328
当時の琉球王朝の人間が、
書物(保元物語?)で為朝のことを知り、
自分の先祖と結びつけたのだろうか?
あるいは、
琉球と伊豆大島と直接海路で交流があり、
親近感を感じて話を作ったのだろうか?
考えると面白いな。
330日本@名無史さん:2013/11/08(金) 02:40:42.78
源範頼も実は生き延びていたという伝説があるからね
そういう伝説が生まれる程、慕われていたんだろうね
331日本@名無史さん:2013/11/08(金) 08:46:54.42
慕われたのは人徳ではなく貴種性なんだろうけどな。
332日本@名無史さん:2013/11/08(金) 17:36:55.52
頼朝兄弟の伝承
義平 青葉の笛(北陸)
墓(群馬新田所領内)
朝長 青墓(岐阜)と静岡に墓

希義 高知県に墓

範頼 伊豆に墓、埼玉県他に生存説

義経 数えきれず

ほかはわからん
333日本@名無史さん:2013/11/08(金) 23:32:06.21
>>829
戦国末期に島津に攻められた時、頼朝の子孫を自称する島津に対する
けん制として為朝子孫を名乗った説は本当かな?
実際は赤の他人だろうけど
334日本@名無史さん:2013/11/09(土) 14:31:00.12
壇ノ浦の後、範頼の存在感の無さは異常
335日本@名無史さん:2013/11/09(土) 14:47:55.15
戦争が終わった後、軍司令官の存在感が薄れるのは普通では?
範頼の場合、平家物語に嫌われているってのもあるかも知れないが。
336日本@名無史さん:2013/11/09(土) 17:42:51.15
優れた名将なのに義経を引き立てる為に活躍を矮小化しているからね
337日本@名無史さん:2013/11/09(土) 18:26:03.81
>>336
それでは、一の谷戦、屋島戦、壇の浦戦 のとき、範頼はいったい何をしていたの?
338日本@名無史さん:2013/11/09(土) 19:33:17.44
>>337
一の谷
範頼 生田口(福原の東側 現在の神戸市中央区)の大将軍
   敵の平氏も主力をそろえていた。
   正攻法で普通に戦っていた。

義経 一の谷口(福原の西側 現在の神戸市垂水区)の大将軍
   『平家物語』では奇襲を用いたとされる

多田行綱 山手口(鵯越口 福原の北側から中央部につながる)の大将軍
    『玉葉』によるとここを行綱が真っ先に突破した
    最近ではこの行綱の突破が勝利に一番貢献したとの見解もある。
339日本@名無史さん:2013/11/09(土) 19:36:40.20
当時としては九州まで遠征軍を引率するのは一大事業じゃないか?
まあ、範頼の才覚じゃ無くて下が優秀だったのかも知れないが。
340日本@名無史さん:2013/11/09(土) 19:39:03.93
屋島壇ノ浦

一の谷の後「三日平氏の乱」の余波で西国に出撃できなくなった義経の代わりに
範頼が西国攻めの総大将となる。
西国に入ると安芸までは順調に制圧を進めるが、
平氏が陣を構える長門に近づくと容易に進めなくなる。

そのため平氏の彦島の拠点を避けて九州に上陸し、
葦屋の浦を攻め落とし、北九州から親平氏勢力を駆逐し、壱岐対馬までを占拠して
大陸と平氏との交易ルートも絶つ。

この葦屋の浦の戦いと近い時期に義経は屋島の戦いを決行。

屋島の戦いによって平氏は瀬戸内海の制海権を失い
彦島に押し込められることになる。

東からは義経が追い込み、山陽道、北九州、関門海峡は範頼によって封鎖され
平氏は袋のネズミ状態となったところで壇ノ浦の戦いを迎えることになる。
341日本@名無史さん:2013/11/09(土) 19:41:16.52
>>339
当時は補給などの問題があって遠征をした場合攻める方が苦戦する
富士川の平氏、北陸遠征の平氏、水島の義仲など。
苦戦をして補給に苦しんだものの、山陽道は安芸まで制圧し、
北九州を占拠したあたり
範頼軍は遠征軍としては平氏、義仲より成功したと見てよいと思う。
342日本@名無史さん:2013/11/10(日) 14:24:10.26
>>341
義仲に京を追われ、西国へ落ちていった平家。
西国(九州)で根拠地を築き、勢力を回復して、京へ帰って来る・・・
というのが、当初の戦略だったはず。

しかし、福原に戻ってきたとき、女子供を連れて、半分は船上生活。
おかしいよね。
西国で根拠地を築いたなら、女子供、特に安徳天皇はそこに残してくるはず。
俺は歴史は詳しくないのだが、
これは、平家が西国で勢力を再建するのに失敗したということでしょう。
在地の反平家勢力が強いために、
女子供を残してくることができなかった。

で、範頼軍が九州に上陸する以前に、中央の情勢を読んだ在地勢力が、
平家軍を追っ払っていたと思う。
ということは、範頼の功績はやっぱりたいしたことないのでは?
343日本@名無史さん:2013/11/10(日) 18:17:07.12
畿内武者はゴミ
344日本@名無史さん:2013/11/10(日) 18:38:50.81
畿内人なら勝てない戦はしない。
大東亜自滅戦争は東京東国人の大罪。
アメポチも倫理道徳の破綻も全てはあの敗戦占領から始まる。
345日本@名無史さん:2013/11/10(日) 18:56:58.05
>>344
崇徳「」
後鳥羽「」
346日本@名無史さん:2013/11/10(日) 19:18:50.92
>>342
少し長文になるが我慢して付き合ってほしい

都落ちの後しばらくの間は確かに平氏は海上生活を余儀なくされていた。
だが、筑紫の原田氏に受け入れられた後は筑紫に安徳天皇の仮御所が設営されていったんそこに落ち着いた。
その後の平氏はというと
1.近隣の豪族(菊池氏、緒方氏)などの攻撃を受けて筑紫にいづらくなる
2.讃岐の田口氏に招かれて屋島に落ち着く
3.瀬戸内海の豪族たちを味方につけて山陽道に勢力を伸ばす
4.義仲撃退
5.一の谷進出

一の谷までずっと海上生活をしていたわけではない。
少なくともその時点では屋島に仮御所があった。
一の谷進出は、義仲の弱体化を見越して都帰還を望む平氏方の強大化に他ならない。
まさに平氏は都に帰ろうとしていた段階ですぐに帰れるように安徳天皇も一緒にいた。
(天皇がいないと単なる賊軍。後白河法皇に対抗するためにも安徳天皇の一緒の帰還が必要)
一の谷の戦いのとき安徳天皇や女性たちが船の中にいたのは
戦を避けるためと、天皇が住まう御所が用意されていなかった為。

一の谷は都に帰る為の仮の場所だったと考えるべきだろう。

決して平氏が弱かったから一の谷の海上にいたわけではない。
347日本@名無史さん:2013/11/10(日) 19:28:00.38
一の谷の後の話をしよう。
一の谷の後、西国進出をかけて土肥実平が備前備中に滞在し、梶原景時が播磨に滞在していた。
だが、一の谷に敗れて屋島に滞在した平氏が再び力を盛り返して
山陽道の土肥、梶原やその配下に収まった豪族たちへの攻撃をして
土肥、梶原が散々敗れて苦境に追い込まれた。
それをみた頼朝は軍勢を山陽道に送ることを決意するが
同時期に畿内で三日平氏の乱がぼっ発する。
その乱の影響が意外と長くて当初山陽道に進出する予定だった義経は畿内の警護に専念することになる。

その代わりに西国に出陣したのが範頼。
範頼が山陽道に入ると、たちまち播磨、備前備中備後安芸までは制圧した。
だが、その先に進めなくなる。

一方九州はというと、緒方、菊池などが平氏を追っ払ったが、親平氏の原田は健在。
また、平氏は壱岐対馬を通じて大陸と交易、もしくは大陸逃亡への恐れもあった。
一気に彦島を落とせない範頼は緒方、菊池などと通じて原田を追っ払い、九州を制圧することにした。
この点については
>範頼軍が九州に上陸する以前に、中央の情勢を読んだ在地勢力が、 平家軍を追っ払っていたと思う。
という指摘は少し近い。

反平氏(というより反原田)の豪族は原田を追っ払いたかったが、彼らだけでは追い払うことはできなかった。
そこの範頼軍が現れたから、協力してもらったというのが正しいところだろう。

遠征軍といっても、在地勢力の協力なしには遠征は成功しないのだから。
348日本@名無史さん:2013/11/10(日) 19:33:00.30
それと最後に
>西国で根拠地を築いたなら、女子供、特に安徳天皇はそこに残してくるはず
という指摘に解答しておきたい。

平氏軍があそこまで戦うことができたのは
「安徳天皇を擁する官軍」を主張してきたから。
そのである以上、彼らの中枢部に安徳天皇が常にいる必要がある。

一の谷の時は主力が一の谷に集結していたのだから一の谷の近くにいるのは当然だし
屋島に主力がいたときは屋島にいるのが当然。
そして、平氏軍の目的は都奪還だったのだから
都に近いところに帝を置いておくのは彼らの常識。
当時都から離れれば離れるほど「ケガレの地」とみなされていたから
清浄であらなければならない帝は少しでも都に近いところにいなければならなかった。
349日本@名無史さん:2013/11/10(日) 19:37:47.95
追記

何が言いたかったのかと言えば
西国にももちろん反平氏の勢力もいたが
一の谷後も平氏は瀬戸内海に強勢を誇っていた。
それを駆逐するためには範頼の出陣が必要だった。

それと重要なことは「葦屋の浦の戦い」が行われたのは
元暦2年2月1日で2月19日に行われた「屋島の戦い」の前に行われたということ
つまり、義経によって屋島が落とされて
平氏が圧倒的な不利に追い込まれる前に行われた戦いだということ。
350日本@名無史さん:2013/11/10(日) 20:09:59.26
義仲滅亡から一ノ谷まで二週間くらいしかなかった。
平氏は義仲と戦うか講和するつもりで
一ノ谷にきてたんだろう。
それが予想外の範頼、義経の勝利。
その後都では範頼、義経より平氏の兵の方が多いと噂され、
源氏が出陣したとき「マジッスか?」
なんて声もあったらしいからな。
351日本@名無史さん:2013/11/10(日) 20:39:38.13
>>344
後醍醐「」
楠木「」
352日本@名無史さん:2013/11/10(日) 21:05:48.82
ここの戦いでの戦術を語っても、藤戸の戦いは
鵯越を凌駕する見事な奇襲じゃないかな。
353日本@名無史さん:2013/11/10(日) 23:40:49.42
>>346->>349
詳しいレスをありがとう
354日本@名無史さん:2013/11/10(日) 23:59:36.24
範頼の場合、采配がどうこうより、自滅しても不思議のない状況で普通に軍を維持できるのが凄いな。
355日本@名無史さん:2013/11/11(月) 00:16:23.46
義経は戦術家で範頼は戦略家
兵站の維持や兵糧や軍馬の調達など
配慮が非常に細か
356日本@名無史さん:2013/11/11(月) 18:00:36.23
>>352
さすがの源範頼も平行盛の軍に兵站を絶たれ苦しんだからね
梶原景時が下準備として工作活動に尽力していたけれども
全体としては準備不足のまま出撃をせざるを得なかったのか
357日本@名無史さん:2013/11/11(月) 20:17:28.87
>>356
その結果、まさかの
「海戦で水軍に騎兵で勝つ」
という源氏マジックが炸裂したか。
358日本@名無史さん:2013/11/12(火) 12:23:17.71
頼朝の場合、倅どもも可哀想すぎ
頼家は実母に殺されたようなものだし、
実朝もしかり
ダメ家族
359日本@名無史さん:2013/11/12(火) 15:10:10.67
頼朝の娘も悲惨だよね
大姫は婚約者を父に殺されメンヘラになって、無理に入内させようとしたら寸前に病死
それならと次女の乙姫入内を計画したら彼女も急死
頼朝はすべての娘に、政子は腹を痛めた子すべてに先立たれた
360日本@名無史さん:2013/11/12(火) 23:11:02.05
>>359
政子は先立たれたというより先立たせたという感じ
けっこう強引に結婚したわりに婚家や子女より実家や兄弟を優先するなんだかなあという人
361日本@名無史さん:2013/11/12(火) 23:47:40.09
頼家はアホなだけ
北条と比企をバランスよく引き立てておけばあんかことにはならなかったのに
362日本@名無史さん:2013/11/13(水) 00:15:55.44
自分より前の代の外戚にまで気を回してたらきりが無いと思うが
363日本@名無史さん:2013/11/13(水) 01:32:15.54
梶原景時亡き後、頼家が頼りに出来たのが比企能員で
能員もまた頼家を後ろ盾にして権勢を振るおうとした
お互い利害が一致していた関係
北条にとっては何とも由々しき事態だな
364日本@名無史さん:2013/11/13(水) 06:42:14.66
>>362
そこを何とか上手くやるのが政治力ってもんだろ
それくらいこなせずして鎌倉殿は務まらないってことだ
365日本@名無史さん:2013/11/13(水) 06:50:49.90
頼家自体
独裁的で敬遠されてたからな
366日本@名無史さん:2013/11/13(水) 11:18:36.29
>>361>>364
北条氏はそもそも頼朝にもあまり重用されてなかったわけだが。
政子本人は鎌倉殿正室なので別
367日本@名無史さん:2013/11/13(水) 11:29:38.68
むしろ頼家時代の方が厚遇されてるな>北条
368日本@名無史さん:2013/11/13(水) 13:05:14.37
>>366
政子も頼朝の生存中は家庭内のことや
静などの女性については発言権はあったけど
政治向きの発言はほとんどない。
369日本@名無史さん:2013/11/13(水) 13:09:22.79
亀の前事件で怒って帰って以来、義経鎌倉入るな騒動まで
時政の出番ほとんどなし。
勝長寿院落成供養の時も時政出席せず。
(牧の方の父?宗親は出席)
御家人仕切ってたのは梶原が多い。
370日本@名無史さん:2013/11/13(水) 13:21:37.68
>>369
なぜ頼家は梶原を呆気なく見捨てたんだろ?
結城小山三浦等の御家人主力の圧力に屈したのか、同じ側近ライバルの比企の意向を組んで排斥に積極的に加担したのか?
371日本@名無史さん:2013/11/13(水) 21:17:08.57
頼家と宿老たちの板挟み状態にある
梶原景時を使うことに必須の周囲の批判を封じ込める力がなかったのでは
372日本@名無史さん:2013/11/14(木) 10:17:05.89
義朝「やっぱり風呂は最高だな」
頼家「そうだね、じいちゃん、風呂はいいよね」
373日本@名無史さん:2013/11/14(木) 19:14:18.04
つ【木刀】
374日本@名無史さん:2013/11/14(木) 20:24:44.61
頼家は安達景盛の妾を寝取って
それに抗議した景盛を謀反の咎で追討しようとしたり
行動に問題があるね
375日本@名無史さん:2013/11/14(木) 20:48:39.49
あの騒動ってほんとに存在したのかね?
実際にあったのは景盛が頼家見限って御家人連合側についたってだけのような気もするが
376日本@名無史さん:2013/11/14(木) 22:20:08.22
>>370
見捨てざるを得なかったというのが正しいだろう。
そもそも梶原景時が、頼家の邪魔になる庶兄の結城朝光及び、朝光の姻族の小山氏を除こうとするのは当然のこと。
腹違いの兄弟の骨肉の争いは、いつの時代も黄金パターンだからな。
結城朝光が先手を打って包囲網を敷いたため、どうにもならなくなったというのが正しい。
377日本@名無史さん:2013/11/14(木) 23:08:09.75
見捨てたというよりは庇いきれなかったのでは
378日本@名無史さん:2013/11/15(金) 15:26:41.60
>>376
おいおい、結城朝光は頼家の庶兄ではないぞ。
小山政光の子で頼朝の乳母寒河尼の息子。つまり頼朝の乳母子。
それから小山一族は姻戚じゃなくて朝光の出身一族で
小山朝政は朝光の兄。
当時乳母が養君の初体験の相手になることがあったから
朝光が頼朝の子の可能性はあるが
(といっても頼朝20歳の時に朝光が生まれていて
その時期は頼朝流刑中だから可能性は極めて低い)
たとえそうだとしても公的には朝光は御家人小山政光の子だから
鎌倉殿になる資格は0パーセント。血筋を理由に排除されることはない。

他の理由で小山結城潰しがあったかもしれないけどね。
379日本@名無史さん:2013/11/16(土) 05:12:03.57
忠臣として敢えて汚れ役を引き受ける一方で
恨みを買いやすく孤立化したのが命取りだったな
380日本@名無史さん:2013/11/16(土) 15:56:51.98
もとは降人なのに今や第一の側近という点も古参御家人たちの嫉妬に火をつけたんだろうね
381日本@名無史さん:2013/11/16(土) 16:42:21.64
私利私欲なしに頼朝のためだけに何でもやった功臣の鑑だよなーこの人
382日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:24:50.67
範頼に妻子はいなかったの?
383日本@名無史さん:2013/11/18(月) 18:58:15.34
>>382
尊卑文脈によれば、妻は安達盛長女で、子供は二人いる
384日本@名無史さん:2013/11/19(火) 00:18:03.83
「吉見系図」ではもう少し詳しく書かれていて
範頼長男は範頼失脚の時殺害されて、二男三男は命は助けられた。
その後数代は男系が続いていたことが記されている。
範頼妻の母は比企尼長女丹後内侍で、丹後内侍は安達盛長と結婚する前に惟宗氏と通じて島津忠久を生んだとも記されている。
385日本@名無史さん:2013/11/19(火) 11:55:51.96
北条義時による源氏粛清ラッシュのなかよく無事だったね
甥の阿野時元すら消したというのに…
吉見には誰か強力な庇護者が付いていたのかな?
386日本@名無史さん:2013/11/19(火) 15:28:16.01
>>385
範頼が消えたのが早かったから逆に誰も存在を気にしなかったんだと思う。
時元は実朝の乳母子、頼家の子は将軍の子だから存在感があって警戒されたけどね。
三河守どまりで頼朝時代に粛清された範頼の子は将軍になる資格なしと見なされたんじゃないのかな?

範頼遺児を庇護する存在としては母方の安達氏あたりかな?
387日本@名無史さん:2013/11/19(火) 21:29:33.80
有力御家人であり源氏である足利家とか北条家に睨まれそうだけど
上手く友好関係を維持できていたんだね
388日本@名無史さん:2013/11/20(水) 00:14:50.60
がっちり結んだ婚姻関係と歴代当主の処世術のおかげです
389日本@名無史さん:2013/11/20(水) 00:39:52.48
>>385-386
範頼の孫・吉見為頼は小山朝政の娘婿なので、小山氏の庇護もあったかもしれない
さすがに北条も安達と小山をいっぺんに敵に回すわけにはいかないよな
390日本@名無史さん:2013/11/20(水) 12:52:18.05
諱だけ見ると
範頼から偏諱を賜った頼朝
の図式がおもしろい
391日本@名無史さん:2013/11/20(水) 18:33:47.05
>>390
藤原信頼「チラッ」
392日本@名無史さん:2013/11/20(水) 20:17:43.98
>>390
普通に考えると頼朝の方が先に元服だろ?
なんで後から元服した範頼から偏諱貰うことになるのかね。
393日本@名無史さん:2013/11/20(水) 21:44:14.68
>>390
つ 源頼義
394日本@名無史さん:2013/11/21(木) 08:21:15.98
>>392
元服時の諱は生涯のものとは限らない。
後の世の上杉輝虎みたいなのはどうするんだ?
足利将軍には、何度も改名している者もいる。
395日本@名無史さん:2013/11/21(木) 18:50:30.38
>>390
どっちにしても、嫡男が庶弟の偏諱をもらうわけがない
396日本@名無史さん:2013/11/21(木) 20:36:00.80
>>394
『山塊記』保元三年2月19日条に
六位蔵人源頼朝の名前が明記されてますが。
上西門院の殿上始の記録なので間違いなく鎌倉初代将軍源頼朝と同一人物。
このとき頼朝13歳。
逆にこの時期推定10歳未満の範頼が既に元服していた記録があれば教えていただきたい。
397日本@名無史さん:2013/11/21(木) 20:37:02.08
>>396訂正
×保元三年
○保元四年
398日本@名無史さん:2013/11/22(金) 13:12:54.64
頭の固い奴らだ。
399日本@名無史さん:2013/11/22(金) 19:12:47.80
むしろ、範頼の方が頼朝から字を取ったと見る方が理屈が通るんじゃないか?

法名の全成を別にすれば範頼は義朝の子で唯一、「義」「朝」のどちらの文字も使っていない。
何故範義とか範朝にしなかったのか、そっちの方が興味深い。
400日本@名無史さん:2013/11/23(土) 20:50:03.42
三河の熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)

系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券、皇室に寄進する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
401日本@名無史さん:2013/11/23(土) 20:50:33.93
■源頼朝・足利義兼と三河の熱田大宮司家


系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)
☆源頼朝、★足利義兼
 
藤原実範
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)  →@へ
・藤原季綱(三河国司)
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
・他多数

@藤原季兼
・藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))  →Aへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)

A藤原季範
・藤原範忠(後白河院上北面、熱田大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)   →Bへ
・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野)) →Cへ
・藤原範雅(後白河院上北面、熱田大宮司)
・祐範(三河法橋祐範、三河国滝山寺僧、頼朝支援者)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介) →足利義氏(足利氏として初めて三河守護)→吉良氏他一門
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条)
・他多数
402日本@名無史さん:2013/11/23(土) 20:55:50.13
B藤原範忠
・藤原忠季(刑部丞、蔵人、源実朝近習)→藤原忠兼(備中守)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏)
・野田清季(野田二郎大宮司、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺僧)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)
・他

C藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、尾張国海東荘地頭、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)→吉良氏他一門
・藤原信綱(駿河守)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・他




源範頼

・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧侶)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡) 、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
403日本@名無史さん:2013/11/24(日) 01:24:39.05
>>399
「頼」だって頼信以来の由緒ある字ですよ
404日本@名無史さん:2013/11/24(日) 03:32:53.63
頼信は道長四天王にして河内源氏の祖だからな
405日本@名無史さん:2013/11/24(日) 07:06:42.05
>>394
全成        一条長成
円成(義円)   円恵法親王+一条長成(義朝+円恵法親王)
406日本@名無史さん:2013/11/24(日) 14:32:21.71
>>405
牛若は長成の養子になってるが、今若と乙若はそのまんま寺に入れられたはず。
407日本@名無史さん:2013/11/24(日) 14:42:35.37
武田勝頼
豊臣秀頼

現在から見ると、「頼」はダメなイメージあるな
408日本@名無史さん:2013/11/24(日) 17:58:08.25
>>406
「平治物語」だと寺に入ったという話はあるけど
時期までは明記されていない。
「平治物語」じたいが文学だから信憑性の問題もあるが他に記録ないからね。
あとは「吾妻鏡」にちらっとあるくらい。
義円は寺に入ったわけではなく円恵法親王に坊官として仕えて、
円恵法親王が園城寺のトップになったから結果的に園城寺に入っただけ。
坊官とは頭だけ坊主になって仕事は実務官僚の貴族とおなじ人のこと。
妻帯も許される。
409日本@名無史さん:2013/11/26(火) 12:11:23.21
>>407
源頼朝
北条時頼

こっちはどう?
410日本@名無史さん:2013/11/27(水) 00:24:01.55
>>409
すごく…名君です…
411日本@名無史さん:2013/11/27(水) 00:34:12.25
>>407
藤原信頼、藤原頼通、藤原頼長、平頼盛
412日本@名無史さん:2013/11/27(水) 02:26:07.45
平頼盛は平家一門でありながら池禅尼の子であるという経緯から
親鎌倉派という複雑な立ち位置だが名将
413日本@名無史さん:2013/11/27(水) 08:48:51.49
頼朝は明君に分類されるのだろうか。
東国の武士にとってはありがたい存在だったろう。
414日本@名無史さん:2013/11/27(水) 10:51:26.16
ts
415日本@名無史さん:2013/11/27(水) 13:46:28.65
>>413
源頼朝も歴代の執権北条家も名君揃いというか
史上最も偉大な為政者
朝廷と着かず離れずの絶妙な感覚を保ちつつ本格的な
武家政権を創り上げた
416日本@名無史さん:2013/11/28(木) 21:30:04.58
鎌倉幕府にはあまり暗君暴君ぽい人居なくない?
417日本@名無史さん:2013/11/29(金) 00:24:25.90
>>416
権謀術に長け叛乱分子となり得る有力御家人を次々と葬る実力主義者である一方
武家としての道理を重んじたのが執権北条家
北条泰時が制定した御成敗式目は後の武家法典全般の鑑となったわけだし
418日本@名無史さん:2013/11/29(金) 01:50:09.19
初の武家政権として北条家がした功績は偉大だと思う
公家未満の誰もが願いつつ実現できなかった悲願を達成したのだから
だからこそ元寇から北条家滅亡までの経緯が感情的に納得いかない
419日本@名無史さん:2013/11/29(金) 04:26:51.91
反執権勢力との抗争などに苦悩しつつも個々の采配が素晴らしい
人間的にも魅力溢れる人が多いよ
420日本@名無史さん:2013/11/29(金) 08:31:34.74
それらは支配層同士の話だな
農民や町民にとっていい支配者であったかは別問題
上杉鷹山は名君、というのとは違うレベル
421日本@名無史さん:2013/11/29(金) 12:59:50.64
>>420
絶対評価することがナンセンスなのだから、そんなこと言い出したらきりないだろうに
422日本@名無史さん:2013/11/29(金) 19:47:46.37
スレタイから少しずれてるけど
鎌倉期の庶民ってそんなに苦しめられたのか?
423日本@名無史さん:2013/11/30(土) 02:12:10.76
平安時代の庶民のほうが生きるのが辛そう
424日本@名無史さん:2013/11/30(土) 11:19:14.14
鎌倉期の政権担当者=武士って、
平安以前の政権担当者=貴族よりも
ずっと庶民に近いだろう。
425日本@名無史さん:2013/11/30(土) 13:34:56.78
悪源太
426日本@名無史さん:2013/11/30(土) 15:48:00.44
>>422
平安末期から天候異常が続いて農作物が不作だったらしい。
少ない農産物を巡って荘園領主と地頭と耕作者が取り分を巡って対立していた
という見方がある。

ただし庶民の中にもしたたかな連中もいて一方的に地頭や荘園領主にやられていたわけではないという見方もある。
427日本@名無史さん:2013/12/03(火) 21:01:39.39
平家政権は畿内惣官職が幕府と類似の性格を持つと
言われているものの結局のところ藤原家の真似事に見えるし
清盛個人の力に依存したあげくに崩壊していった
そういう意味でも頼朝は凄いのではないか
428日本@名無史さん:2013/12/08(日) 16:55:47.14
史実か否か疑わしいけど島津家初代当主 島津忠久が源頼朝の落胤だっていう説もあったな
島津は日本の武家で最も継続して繁栄した名門だな
平家追討や元寇でも活躍している
429日本@名無史さん:2013/12/09(月) 01:27:37.45
僻地だったのが幸いしたね
中央の政争にほとんど絡まなくて済むし
430日本@名無史さん:2013/12/09(月) 04:12:03.84
比企の乱で比企能員の縁者として所領没収されたぐらいか
431日本@名無史さん:2013/12/11(水) 05:39:01.48
父が惟宗なにがし、母が丹後内侍(比企尼長女、安達盛長妻)だっけ、忠久。
比企尼つながりで頼朝がスカウトしたんだろうね。

『山槐記』によると頼朝配流中の治承3年(1179年)には摂関家の家人として
京都で活動しているようだし、頼朝落胤説は限りなくゼロに近いな。
432日本@名無史さん:2013/12/15(日) 14:28:44.01
頼朝よりも年長者ということになるんだっけ
だったら辻褄が合わないよね
433日本@名無史さん:2013/12/16(月) 04:13:08.91
源頼朝は熱田区の生まれだよ。名古屋市出身

尾張国熱田いまの名古屋市熱田区旗屋2丁目。現在の誓願寺。ここ↓
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/nagoya/nag001.htm

境内には源頼朝が使った産湯の井戸も残ってる
弟の源義経も熱田神宮で元服した
頼朝母の由良御前は、熱田神宮大宮司の藤原季範の娘だった
434日本@名無史さん:2013/12/16(月) 18:38:23.76
>>428-432
なんか頼朝に近しい女性の産んだ子はだいたい落胤説あるな
後世の人間、頼朝を種馬扱いしすぎw
435日本@名無史さん:2013/12/16(月) 20:46:54.29
貴種扱いだろ
436日本@名無史さん:2013/12/17(火) 00:34:29.59
島津、安達、結城、大友
落胤説はどれも信憑性に欠けるのがな…
437日本@名無史さん:2013/12/17(火) 04:37:09.50
長年信じられてきた頼朝の肖像画が足利直義だと分かり頼朝の肖像画と目されるものがなくなったな
どんな顔だったのか想像できなくなった
弟の義経は肖像画残ってるに
438日本@名無史さん:2013/12/17(火) 07:43:52.10
>>437
東京国立博物館蔵(元は鎌倉白旗神社蔵)の木像があるじゃない
439日本@名無史さん:2013/12/17(火) 15:26:35.05
>>438
確か同時代ではないんだよね
頼朝が死んでから100年程度たってから造られたもの
440日本@名無史さん:2013/12/17(火) 17:32:33.35
ヒント
・頼朝と面識のある運慶作
・頼朝等身大
・頼朝の歯が埋め込まれている
・落成法要は死後3年後


恐らく頼朝そっくりに作られた仏像があるでつよ
441日本@名無史さん:2013/12/17(火) 17:58:28.02
源義平が「鎌倉悪源太」と呼ばれているけれども
そもそも頼朝が鎌倉に幕府を開く前でしょ?
その頃から鎌倉は有名な街だったの?
442日本@名無史さん:2013/12/17(火) 20:43:46.35
>>440
瀧山寺の聖観世音菩薩像か
運慶・湛慶合作で頼朝の歯が埋め込まれているとされ
X線写真でも何らかの物体が入っていることが分かっているらしいが

瀧山寺のホームページで実物が見れるけど
顔や姿は聖観世音菩薩像の典型的なもので頼朝に似せて作られたものではない

聖観世音菩薩像は174.4cmあるが小柄だと言われた義経の兄頼朝が
そんな大男(鎌倉時代当時)だった伝承もないと思うが
443日本@名無史さん:2013/12/17(火) 22:00:49.27
いや、面影は似せているでしょう
運慶は鎌倉と奈良で何度か面を合わせているだろうし
もちろんスポンサーの寛伝も顔見知り、運慶親子が製作で滝山寺に滞在中は、アドバイスをしたのでは

頭が盛り上がっているからな、盛り上がりを除けば164センチ位だったと言われる身長にぴったり
444日本@名無史さん:2013/12/17(火) 22:14:45.42
興味深いのは、150年以上あとの細川頼之も知っていた事だわな
細川郷から滝山寺は直接距離で5キロ位だから、拝みにも行ったんでしょう
足利尊氏の例は、長寿寺の歯が埋め込まれた木像のことかな

足利将軍の遺髪、仏像の頭部で保存か
http://www.yomiuri.co.jp/otona/news/20121113-OYT8T00500.htm?from=yolsp


>南北朝時代の資料「園城寺文書」では、3代、義満の後見役として知られる武将・細川頼之が1368年、同寺に送った書状があり、そこでは「源頼朝や足利尊氏の先例にならって、義詮の遺髪を納めた地蔵菩薩像を園城寺に奉納した」


>源頼朝や足利尊氏の先例


滝山寺(愛知県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html


>聖観音は頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという
445日本@名無史さん:2013/12/17(火) 23:31:36.39
>>441
平安中期には平直方の居館が有った。直方は平忠常の乱を鎮める追討使に任命されたが
鎮圧に手間取って解任された。後任の源頼信は速やかに鎮圧した。
その手腕に感心した直方は娘を頼信の嫡男の頼義の嫁とし、鎌倉の地も頼義に与えた。
それ以来源氏ゆかりの地である。

頼義は氏神である石清水八幡宮を鶴岡に勧請して、それが後に鶴岡八幡宮になる。

しかし有名な街では全く無い。
446日本@名無史さん:2013/12/18(水) 17:28:18.14
>>443
頼朝に似せて作ったという伝承はないが

だいたい身長が10センチも違うのに
身長同じで造ったはずがないだろ
447日本@名無史さん:2013/12/18(水) 18:02:56.14
似せてつくりましたと、イチイチ記録するかよ
寛伝運慶共、頼朝の実物みてんだから、歯や髭を埋め込んで等身大となると、面影を残して製作するは自然な考え

頭にのっかっているやつを除けよ
頭のてっぺんから足の平まで162〜163センチ位だろ
言われている身長と大体あっているだろう



お前は何か別の理由でケチつけているみたいだな
448日本@名無史さん:2013/12/18(水) 20:10:02.98
http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html
え、これが頼朝に似てるの?
性別不詳でイメージ湧かんな
449日本@名無史さん:2013/12/19(木) 12:27:34.63
だったら別の物を探せ
紹介してもらって、礼の一つも出来ず、ガタガタけちつけやがって
育ちの悪い万年パシリの田舎者め
450日本@名無史さん:2013/12/19(木) 12:48:33.67
>>447
似せて作りましたという記録もないのに
頼朝激似とかいうお前の頭がおかしいわw

頼朝の歯と髭が埋め込まれているというのも瀧山寺に伝わる伝承に過ぎない
451日本@名無史さん:2013/12/19(木) 21:26:34.89
何か肥溜め臭がするな、お前は尾張百姓か?
文句があるなら文化庁に行って、重文取り消せと主張してこい
452日本@名無史さん:2013/12/20(金) 12:18:50.42
>>451
瀧山寺の聖観音菩薩像は鎌倉時代作であることに間違いはなく
だから重要文化財なんだが?

「源頼朝に似せて作ったから」重要文化財なのではない
そんなことを文化庁がいつ言った?
お前が文化庁行って確かめてこい
453日本@名無史さん:2013/12/20(金) 12:33:08.37
頭の悪い田舎者だな
等身大にこだわっているんだから、聖観音像の姿で面影を残して製作したは自然な発想だろ
聖観音像は全部同じかよ、色々違うだろが
454日本@名無史さん:2013/12/20(金) 17:15:18.93
>>453
自分が嘘を言ったのを改めずに基地外だなあ。

だから文化庁に言って聞いて来いって。
瀧山寺の女性的な聖観音像が頼朝の面影を残しているなんてお前だけの説だわ。
455日本@名無史さん:2013/12/22(日) 05:04:04.02
>>449
誰もあんたに紹介しろなんて言ってないだろ
俤が湧かないと自然な感想述べてるだけだろ
一人で何向きになってんのww
精神科受信した方がいいかもね
456日本@名無史さん:2013/12/25(水) 22:44:03.68
>>454
俺がキチガイならお前はクルクルパーだろw

縁起は認めないが鎌倉時代製作は間違いないとかw
塗料が塗りたくってあって詳細な調査はしてないが、縁起の信憑性が高いから重文なんだろが

お前は縁起が眉唾と言っているんだから、重文は間違いなんだろ
だから文化庁に抗議の電話をしろと言ったんだよ

頭の悪い老人め
457日本@名無史さん:2013/12/27(金) 22:28:53.31
北条は平氏の傍流だから最後に勝つのは平氏
458日本@名無史さん:2013/12/28(土) 10:28:12.21
北条の駆引きの上手さや熾烈な闘争は凄いよな
和田義盛や三浦泰村の最期が壮絶
三浦を討つまで外様の有力御家人たちは北条にとって
さぞかし脅威だっただろう
459日本@名無史さん:2013/12/28(土) 13:54:35.46
>>457
あたまを使え!
460日本@名無史さん:2013/12/29(日) 05:19:08.73
霜月騒動で安達泰盛を殺した平頼綱は平家の系統なのか
461日本@名無史さん:2014/01/03(金) 09:07:26.40
三河バカは滝山寺の捏造寺伝書を自慢するなよ
源氏に擦り寄りたいあ徳川が後付で捏造編纂した記述が大半
運慶の仏像についても戦国末期から江戸初期頃
近江から持ち出して
せっせと三河民話を創作しただけ
462日本@名無史さん:2014/01/05(日) 08:30:48.36
文化庁にTELして、重文取り消しを訴えてこいよ
ノロノロするなよ
463日本@名無史さん:2014/01/05(日) 09:03:03.83
>源氏に擦り寄り


イミフだな、縁起に松平は出てこないんだよな
ひょっとして源氏ゆかりが全くないと思い込んでいるのか、この田舎猿は
464日本@名無史さん:2014/01/05(日) 09:08:32.35
甲斐源氏武田を上手く一御家人として丸め込んだのは凄いよね
もともと武田はあくまでも頼朝を対等な同盟者として見なしていたのだから
いつ反旗を翻すか分からず頼朝自身、疑心暗鬼にならざるを得ない
465日本@名無史さん:2014/01/05(日) 09:15:44.09
源頼朝関連史跡

■三河七御堂(西尾市、豊橋市、蒲郡市、豊川市、新城市)
源平合戦で死んだ将兵を弔うため発願し、文治〜建久年間に安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)に命じて造らせた
東三河に集中しているのは、盛長の出自が東三河(現在の豊橋市石巻小野田町)だったからと推測する

一覧
【西尾市】
・光福寺/現在の金蓮寺、弥陀堂
【豊橋市】
・赤岩寺/弥陀堂
・普門寺/観音堂
【蒲郡市】
・長泉寺/弥陀堂、安達藤九郎盛長の墓あり
・全福寺/現在は廃寺、丹野御堂
【豊川市】
・財賀寺/観音堂
【新城市】
・鳳来寺/弥陀堂

■滝山寺(岡崎市)
母方の一族である藤姓熱田大宮司家氏寺、伽藍造営
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像あり
北条政子13回忌に、足利義氏(3代目足利宗家)が源実朝、北条政子の遺骨を分骨
466日本@名無史さん:2014/01/05(日) 09:16:32.07
■その他
【岡崎市】
・光明寺/堂宇を再建
・夏山八幡宮/梶原景時を名代にして参拝、社領寄進

【豊田市】
・平勝寺/元の名は大悲密院(南北朝時代に平勝親王が改名)、寺領寄進
・二井寺(普賢院)/寺領寄進
・猿投神社/藤姓熱田大宮司一族氏神、大社に改築

【知立市】
・牛田八幡社/頼朝の目代(大江氏か?)が鶴岡八幡宮を勧請

【西尾市】
・瀬門神社/1195年に源頼朝が社殿を再建

【豊橋市】
・普門寺/堂舎再興、寺領寄進、化積上人(叔父、藤姓熱田大宮司一族か?)が学頭、頼朝等身と伝わる不動王あり
・吉田神社/社殿は安達藤九郎盛長が造営、天王社勧請
・鞍掛神社/愛馬の鞍を奉納

【豊川市】
・財賀寺/本堂・仁王門再建、寺領寄進
・宮道天神社/安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納
・八幡宮/寺領(1000町歩)寄進

【蒲郡市】
・八劒神社/社殿は建久元年(1190年)、頼朝の命により安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)が造営

【新城市】
・鳳来寺/再興、三重塔造営、寺領寄進
・今水寺/寺領寄進
467日本@名無史さん:2014/01/05(日) 09:17:19.65
足利尊氏関連史跡

■天恩寺(岡崎市)
足利尊氏遺言の寺、3代将軍足利義満建立、4代将軍足利義持の祈願所


■勝楽寺(西尾市)
創建、お手植えの松あり


■その他
【岡崎市】
・滝山寺/足利宗家の氏寺、寺領寄進
・高隆寺/七堂伽藍造営
・真福寺/持地院建立
・満性寺/太子信仰、足利尊氏弓矢の守護神、伽藍造営
・竜泉寺/日静(尊氏の母の弟)開基、元は上野一族(足利一族)の竜泉寺城
・総持寺/高一族屋敷跡に、高師泰(高師直の兄)の娘が建立、足利尊氏と足利義詮の支援あり
・長瀬八幡宮/社殿(火災による消失)復興、板倉氏(足利一族)を神主に
・糟目犬頭神社/庇護(百貫文寄進)、三河鈴木氏ゆかり、新田義貞の首塚あり
・八剣神社/足利尊氏の墓あり、近くに大門屋敷(足利宗家の屋敷)があった
468日本@名無史さん:2014/01/05(日) 09:18:23.15
【豊田市】
・長興寺/三河利生塔、全国66ヶ国2島の利生塔の一つ

【幸田町】
・安国寺/三河安国寺、全国66ヶ国2島の安国寺の一つ

【西尾市】
・実相寺/安国寺(全国66ヶ国2島の安国寺)に指定、尾張国の安国寺の代わりらしい(尾張国にあった記録なし)
・金蓮寺/真言宗光福寺の子院を現在の場所に移転、金蓮寺として再興
・饗庭神社/新田開発し、一宮、二宮、三宮を鎮守、その内の二宮、饗庭命鶴丸氏直(花一揆武士団大将)が関係
・幡頭神社/参拝、弓矢奉納

【豊橋市】
・赤岩寺/阿弥陀如来坐像奉納

【新城市】
・冨賀寺/真応上人(尊氏の従兄弟)が住職、祈願寺として寺領を寄進し、本堂・中堂・護摩堂・阿弥陀
469日本@名無史さん:2014/01/05(日) 22:14:57.99
>>464
加賀美(小笠原)父子、武田信義の子信光などを
切り崩して先に味方につけて優遇
武田信義、一条忠頼などを圧迫or潰すなどの
懐柔と弾圧を両様したのが大きいかな?
470日本@名無史さん:2014/01/06(月) 00:41:44.46
頼朝の手際は本当に鮮やかだよな
切る相手と手懐ける相手の見極めが上手い
加賀美遠光・小笠原長清の親子、石和(武田)信光を忠実な与党にしてしまった
471日本@名無史さん:2014/01/06(月) 02:22:24.03
安田義定の粛清とかハメ殺し感がハンパない
472日本@名無史さん:2014/01/06(月) 14:51:34.23
本人も他人も可哀相とは思ってなかった。

終了。
473日本@名無史さん:2014/01/07(火) 06:47:15.44
源頼朝、武田信義、木曽義仲
源氏の棟梁が三勢力並び立っていたのだから
その中でよく上手く駆引きできたものだな
474日本@名無史さん:2014/01/07(火) 18:25:42.23
>>456
重要文化財指定は文化庁が仏像を鑑定して認定するんだよ。
演起は無関係。

お前、寺が「○○時代のものだと聞いております」
と主張すれば鑑定なしに勝手に演起を信用して認定されると思ってるの?
お前、馬鹿すぎるわ。
475日本@名無史さん:2014/01/07(火) 18:55:14.92
>>474
縁起な
476日本@名無史さん:2014/01/08(水) 15:28:44.24
>>474
縁起の信憑性を考慮しないわけないだろ
縁起が無ければ、仏像の由緒がわからねーんだからよ

縁起の信憑性が高いから重文で、断定出来ないから国宝じゃないわけだ

中から銘札が出てきて、塗装を剥がしたら重文から国宝だ
477日本@名無史さん:2014/01/08(水) 17:18:55.77
303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる


>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)



三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)



当時、殺伐とした内部対立があった中、源頼朝が尾張で生まれるわけないだろうw


源頼朝は劣等感まみれ名古屋田舎者の、オナニーネタじゃねーつーの
478日本@名無史さん:2014/01/09(木) 14:39:04.91
>>476
縁起の信憑性は関係ない
仏像は鑑定されれば縁起などなくても重文や国宝になる


>縁起の信憑性が高いから重文で、断定出来ないから国宝じゃないわけだ
全く嘘。
縁起を否定されたくなくてあえて文化庁に申請していない寺社もあるくらいだ。
つまりどんなにしっかりした縁起があっても仏像の鑑定の結果事実にそぐわないとされれば
重要文化財に認定されない。
逆に縁起などなくても国宝になっている仏像はいくらでもある。
479日本@名無史さん:2014/01/10(金) 20:13:57.57
お前の意見はもーえーわ
俺が電話して聞いてやるよ
480日本@名無史さん:2014/01/24(金) 21:29:28.12
>>470
でも結局北条に幕府乗っ取られて子孫は根絶やし
481日本@名無史さん:2014/01/24(金) 22:47:29.59
>>480
その話と元々同格だった他流源氏を引き摺り下ろしたということは
別の問題でしょ?
その他流源氏より身分が低く領地も狭く動員力もなく
何様?な北条が幕府の実権を握ったということは本当にすごいことだけどね。
482日本@名無史さん:2014/01/25(土) 09:23:15.18
>>481
承久の乱で後鳥羽上皇が北条義時追討令を出したのに対して
北条義時が自ら幕府軍を率いて後鳥羽上皇の院宣に打ち勝ったことで
他の御家人たちは何も言えなくなった
483日本@名無史さん:2014/01/25(土) 15:05:19.38
>>482
血筋は他平氏系豪族とどっこいどっこい(それすら怪しいと言われてる)
豪族の規模としては小さく
軍事力も弱小
当初の経済力も雀の涙だった
北条が頼朝の妻を出したというだけで
後鳥羽上皇から追討対象になるような幕府の実権に登り詰めること自体が凄いことなんだけど。
本来なら熊谷直実クラスの幕府のその他大勢レベルで終わるのが北条。
484日本@名無史さん:2014/01/25(土) 20:52:03.15
北条は政所・侍所を掌握して、将軍の命令を代執行できたからね。
485日本@名無史さん:2014/01/26(日) 04:23:07.87
>>484
だから、元々それを掌握できるような家じゃなかったのに
それを掌握するまでに成り上がったことがすごいんだけど。
486日本@名無史さん:2014/01/26(日) 06:33:16.56
政所掌握は大江広元や二階堂行政などの吏僚層を抱き込めば、
割と簡単じゃないかな?他の豪族級御家人は、細かい事務仕事は
面倒くさがってやらなさそうだし。
487日本@名無史さん:2014/01/26(日) 14:38:37.60
義経って、可哀想なのか?
488日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:11:38.34
>>486
官僚も以外と利に聡いぞ。
北条になんかのメリットを見いださないと抱き込まれない。
彼らを味方につける何かを手に入れた事自体が凄い。
489日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:14:02.23
490日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:16:55.47
>>487
義経の評価は人様々だが
九歳で流刑になって以降肉親の誰にも会えず
20年後兄の挙兵のとばっちりで流刑地で死に
頼朝の兄弟の中で一番忘れられてる希義が
一番可哀想だと私は思う。
491日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:19:05.81
>>483
・頼朝に姉妹が少なく、娘は入内だなんだと言ってる間に早世したため
頼朝自身は有力御家人と姻戚工作することができなかったために
代わりに頼朝の命令で政子の姉妹が畠山・宇都宮・足利・稲毛などの有力御家人と次々婚姻
北条氏の娘を正室として送り込むことに成功した
・源頼家のとき、頼家の外戚として補佐するためとして
十三人の合議制のうち2人を北条氏が占めることに成功
・北条義時が優秀で、姉の尼将軍北条政子の傍で政治を学び精通した
492日本@名無史さん:2014/01/26(日) 17:31:28.64
昔はガキを産み育てる時点で人口調整の大きな関門だったからな。

ヒトは出産リスクがかなり大きい。ピラミッドの相当上だから仕方がない。
493日本@名無史さん:2014/01/26(日) 20:42:40.07
>>492
それ考えると当時としては高齢出産だった時期を含めて子供四人産んだ政子はタフだよな。
そのうちのどこかで政子が産辱死してたら北条の権力奪取はなかったんだし。
(当時産辱死は珍しくなかった。竹御所など)
タフと言えば待賢門院は四皇子二皇女生んで
時代はさかのぼるけど道長の二人の妻はそれぞれ六人位産んだいる。
出産も人それぞれだけどその時に生き延びる母体でいることが周囲に影響及ぼすよな。
494日本@名無史さん:2014/01/27(月) 23:12:16.05
>>447
てか滝山寺の寺伝自体が
江戸初期に徳川によって捏造された創作物語が大半じゃん
普通に源氏ゆかりや足利氏ゆかりの寺で大規模な火災や窃盗あわない限り
真っ当な寄進状や下文やら諸々の国宝級や重要文化財級の古文書や仏像などについての
墨書銘があるはずのに全くない
しかも聖観音菩薩像は徳川が源氏に擦り寄るための手段として
近江から拝借してきた
495日本@名無史さん:2014/02/03(月) 14:51:39.76
>>290
なるほど
源範頼の失脚の原因は
後鳥羽院と接近する藤原範季が危険視されていたということか

もともと甲斐源氏と親しく警戒されており安田義定の粛清に巻き込まれたとか
遠江に影響力を持つ範頼と北条家との間で利害の不一致があったとか色々と
考えられるけど
496日本@名無史さん:2014/02/03(月) 22:00:11.19
>>495
父親:後鳥羽帝の守り役(いわゆる「じいや」)
妹 :後鳥羽帝の乳母
姪 :後鳥羽帝の愛人
本人:鎌倉幕府最強の武将

後鳥羽帝との関係がよほど良好でない限り、危険人物なんてレベルじゃねぇな。
497日本@名無史さん:2014/02/04(火) 01:10:00.69
>>496
その続柄の前に「義理の」ときちんとつけましょうね。
498日本@名無史さん:2014/02/04(火) 01:11:45.03
>>496
でさあ、後鳥羽天皇と接近することが頼朝にとってどんな危険があったんかしらん?
499日本@名無史さん:2014/02/04(火) 22:01:23.77
>>498
朝廷にとって幕府なんて目障りでしかねえだろ
500日本@名無史さん:2014/02/16(日) 02:25:41.79
相手が上皇だろうが蒙古の大帝国だろうが臆することなく
果敢に戦い勝ったんだから鎌倉幕府は凄いよ
タカ派で積極的に攻勢に出たのが士気を高めて良い結果を
出したんだろうけど
501日本@名無史さん:2014/02/17(月) 16:48:48.31
>>471
安田義資は恋文を送ったというだけで梟首にされて
憤慨して蟄居した義定を態度が悪いと誅殺しているからな
可愛そう
502日本@名無史さん:2014/02/17(月) 17:05:12.74
一方、同じように恋文を送った北条義時は
頼朝の応援でめでたく姫の前と結婚
503日本@名無史さん:2014/02/17(月) 17:06:59.33
源頼義・義家の血を引くといえども
母方の縁があり北条を通しても縁がある足利を除いて源氏傍流に対しては厳しい
自分の血筋は嫡流で別格だといわんばかり

もっとも最後には頼朝の息子と孫は尽く抹殺され傍流だけが残ることになるわけだが
504日本@名無史さん:2014/02/17(月) 20:46:04.65
平賀義信と大内惟義は頼朝没年時点で、武蔵守・相模守のツートップで
鎌倉殿に次ぐ位置にいたから、信頼されてたんじゃないかな?
505日本@名無史さん:2014/02/17(月) 20:50:49.55
        iイ彡 _=三三三f           ヽ
        !イ 彡彡´_ -_=={            ヽ
       fイ 彡彡ィ 彡イ/        ・     ヽ ジャムリン・・・
       f彡イ彡彡ィ/      f==ュ  r==‐ォ
       f/ミヽ彡f       、_‐‐tッ,゙ ' r' r tッ‐ァ'
       イイレ、´彡f          `ー 'ノ  !、`ー ' .リ  まるで成長していない・・・
       fノ /) 彡!           . ,イ   'ヽ    l
       トヾ__ら 'イf     u   ゚ ´...:^ー^:':...  ゚ !
       |l|ヽ ー  '/          r ζ竺=ァ‐、  /
       r!lト、{'ー‐    ヽ        `二´  丶 /
      / \ゞ    ヽ   ヽ               ヽ /
      ./    \    \   ヽ          /
   /〈     \                 ノ
-‐ ´ ヽ ヽ       \\     \        人
506日本@名無史さん:2014/02/17(月) 22:08:07.26
頼朝が、落馬が原因で死ぬとか考えられん。
507日本@名無史さん:2014/02/18(火) 22:47:48.64
>>506
水を頻繁に飲んでいたことから糖尿病を患っていたという説もある
乗馬中に不意に脱力感に襲われ落馬したとか考えられる
508日本@名無史さん:2014/02/19(水) 17:14:58.29
頼朝糖尿説は初めて聞くが『飲水の病』(糖尿病の昔の名前)だったのだとしたら可能性は高いでしょうね
インスリンの分泌が減ってくると力が身体に入らなくなってくるから落馬の危険性は高くなるしね
509日本@名無史さん:2014/02/19(水) 21:00:46.38
源氏の食事で糖尿病になるのかな?
510日本@名無史さん:2014/02/24(月) 02:33:46.40
飽食とか甘いものが必ずしも糖尿病の原因とは限らない
インスリンが効きにくい体質の人間もいるわけで
よく糖尿病に悪いとされる、食べ過ぎや運動不足とは無縁の人でも
患う場合もあるらしい
511日本@名無史さん:2014/02/24(月) 23:30:51.83
>>509
平安時代の酒は、製法と保存のために糖度と粘度が高かったんだよ。
512日本@名無史さん:2014/02/25(火) 19:44:41.25
頼朝も出家したんだ
513日本@名無史さん:2014/03/05(水) 15:22:54.62
>>504
平賀義信は源義朝が敗走した際に苦難を共にして
義朝が長田忠致に殺されるまで付き従い
その為、もともと頼朝の信任が厚かった
比企や畠山と円滑な関係を築きつつ武蔵国を幕府の拠点として
確立し、その統治を誉められているね
514日本@名無史さん:2014/03/05(水) 15:48:03.54
頼朝が本当に信頼していたのは平賀義信、大内惟義、源広綱、足利義兼あたりだろうね
515日本@名無史さん:2014/03/07(金) 11:21:54.11
伊豆への流罪以前か、挙兵の初期からのメンバーだね
516日本@名無史さん:2014/03/07(金) 19:23:59.89
早期に参陣した山名義範に対しては御門葉として
かなり優遇しているな
あたかも日和見的な態度をとり続けた新田義重に対する
あてつけのようにも見える
517日本@名無史さん:2014/03/13(木) 17:36:50.19
新田を弱体化させるための分断策でしょうね
里見義成が他の新田一門から一線を画した扱いを受けたのも同じ理由だと思われる
518日本@名無史さん:2014/03/14(金) 19:50:50.67
妻が北条氏とはいえ義経の同母兄の阿野全成がよく頼朝死後まで生き残れたもんだ
519日本@名無史さん:2014/03/14(金) 22:15:29.33
自分は清和源氏の棟梁義朝の子だ、尊貴な源氏武者だというツラをしない
分を弁え頼朝に決して逆らわない
官位を欲しがらない

見逃してもらえたんやな
520日本@名無史さん:2014/03/15(土) 02:24:07.24
範頼と全成
どこで命運が分かれたのか
頼朝の怒るポイントがわからん
521日本@名無史さん:2014/03/15(土) 03:46:12.81
範頼は前線の大将であったし、武力の実績があるしなあ
522日本@名無史さん:2014/03/15(土) 07:44:06.85
>>520
能力の違い。範頼は武功があり、それなりに有能だったから、頼家の脅威となると
判断され、除かれた。全成はただの無能だったので、除く価値もないと放置された。
523日本@名無史さん:2014/03/15(土) 11:14:26.13
範頼も常磐腹の3人も所詮は身分の卑しい女が産んだ子だ
熱田神宮大宮司の娘を母に持つ自分と兄弟だなんて思っちゃいないのさ
524日本@名無史さん:2014/03/15(土) 15:59:01.41
阿野全成は北条時政の娘婿、源実朝の乳父でかなり
信用されていた
頼朝が長生きしていれば甥に殺されることもなかったかも
知れない
525日本@名無史さん:2014/03/15(土) 17:56:02.91
>>520
源範頼は実力の高さ故に警戒され
甲斐源氏や藤原範季の関係で後鳥羽帝とも近かったことも
不信感が募る原因だったとも思われる
曽我兄弟の仇討ちで揺れる中、例の範頼の発言で
憤りに見合うだけの幻影が確かなものになった
526日本@名無史さん:2014/03/16(日) 01:11:57.98
全成は戦の経験はあるのかな。他の同母兄弟の義経は言うまでもなく、義円は墨俣で戦死してるけど
527日本@名無史さん:2014/03/17(月) 22:45:29.03
悪禅師という異称の通り勇猛な人物だったのだろうけど
頼朝の下では専ら事務や儀典を司っていたようだね

阿野全成の妻にして源実朝の乳母の阿波局が梶原景時の追放の契機を作るなど
陰謀に深く関わっている
528日本@名無史さん:2014/03/17(月) 23:32:45.50
>>526
兄弟で最初に頼朝の元に駆けつけたという実績だけ。

能力は他の兄弟に比べて著しく劣っていたが、上記の実績ゆえ評価され、
無能がゆえに頼家の脅威にならないとみなされ、殺されずにいた。

頼朝としては、頼家のためなら庶子の結城朝光こそ除くべきだったと思うがね。
梶原、比企の三族皆殺しにともに深く関わり、結果的に頼家の邪魔になった。
529日本@名無史さん:2014/03/18(火) 01:21:27.15
>>528
全成を無能と断じる根拠が知りたい
530日本@名無史さん:2014/03/20(木) 02:41:45.75
出陣させても支障はなかったのだろうけれども
秀才で有識故実に通じていた為、それを頼朝に見込まれて儀典係として起用されたのだから
有能だったんだろうね

義経に対しては全成は一切の肩入れはしていないけれども
遠征軍として共闘した範頼は義経に対してどう思っていたのだろうか
531日本@名無史さん:2014/03/20(木) 08:38:04.85
「明日は我が身」とは思ってなかったようだな。
殷鑑遠からず。
532日本@名無史さん:2014/03/20(木) 15:06:08.82
全成って頼朝在世中は『吾妻鏡』にほとんど登場せず
何をしていたのか謎じゃなかったっけ?有能か無能か
判断するには材料が少な過ぎる。
533日本@名無史さん:2014/03/20(木) 19:28:34.25
>>530
平家物語にある、義経追討を断ったエピソードが事実なら
それなりに同情していたのかもしれないな。
534日本@名無史さん:2014/03/21(金) 20:12:34.45
>>523
熱田神宮大宮司ではなく三河の藤姓大宮司家な
もっと正確には元大宮司の娘


頭の悪い田舎者こと名古屋人が勘違いするからw



三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)

家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)          ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
535日本@名無史さん:2014/03/21(金) 20:54:17.78
royalty free music
you can use it for free. and
you can put it your own video
and monetize on youtube
https://www.youtube.com/watch?v=mKyiu6IqHaI
536日本@名無史さん:2014/03/31(月) 01:51:26.63
義経はステレオタイプな英雄といった感じだけど
武将としての活躍や性格、悲劇的な最期といい
源範頼には強く魅了されるな
土佐で儚くも散った源希義にも哀愁を誘われる
537日本@名無史さん:2014/04/12(土) 19:32:50.96
>>532
源氏の諸将に無能な人は居ないと思う
弱将の源行家も権謀術数に長け以仁王の令旨を
届ける大仕事を成し遂げたのだから
538日本@名無史さん:2014/04/12(土) 21:55:50.79
>>305
まさに九死に一生
挙兵当初は貴殿が平家に挑むなど
富士山と背比べするようなものと言われたらしい
奇跡の人だな
539日本@名無史さん:2014/04/13(日) 01:35:21.43
雛見沢症候群って何かと思ってググッてみたらアニメじゃねーか。アニヲタかよ
540日本@名無史さん:2014/04/21(月) 21:56:57.07
>>305
平日朝の山手線に乗ったら、その車両に辛うじて1人いるのが頼朝。
あとの全員は希義という感じか。
541日本@名無史さん:2014/05/13(火) 21:35:39.32
公暁は本当に将軍になりたかったのかね?
将軍になりたいなら自ら実朝殺害の実行犯になったりせず
いざという時に切り捨てても問題なそうな適当な奴にやらせるだろうし、
三浦義村が黒幕だったとしても将軍候補に手を汚させたりしないだろう。
542日本@名無史さん:2014/05/17(土) 11:09:05.95
>>536
希義が生きてたら頼朝の同母弟だから
義経や範頼みたいに殺されたりしなかっただろう
543日本@名無史さん:2014/05/17(土) 11:21:39.48
公暁のバックは北条時政じゃなかったっけ?
自分の娘婿の平賀朝雅を将軍にしたかったとかどうとか、、、
この後に息子の義時と娘の政子に出家に追い込まれているはず
それでどうするかー?ってなって頼朝と血の繋がりのある宮将軍
を迎えたはず
544日本@名無史さん:2014/05/17(土) 11:54:46.27
これで幕府内が相克状態になっていい機会だからってんで承久の乱が起きてるんだよな
結局、朝廷側が負けて西国は幕府の守護制度の支配が大幅に進むことになったはず
545日本@名無史さん:2014/05/17(土) 12:04:48.97
鎌倉時代だと北条時宗あたりとか室町にしろほとんど歴史的には無視されてるもんな
546日本@名無史さん:2014/05/17(土) 12:08:09.98
上杉禅宗あたりを大河ドラマの主人公にして放映すれば面白そうなだけどなあ
547日本@名無史さん:2014/05/17(土) 14:00:31.09
>>543
>頼朝と血の繋がりのある宮将軍

迎えられたのは摂家将軍
九条頼経は頼朝の同母妹の曽孫
548日本@名無史さん:2014/05/17(土) 14:02:48.92
宮将軍はもっとあとだっけ?
確か宮将軍望んだけど皇室が嫌がったんだよな
549日本@名無史さん:2014/05/17(土) 15:26:33.54
>>548
最初は将軍源実朝の正室坊門信子の姉が産んだ後鳥羽上皇の皇子を
実朝と信子の養子に迎えて将軍にしようとしたが後鳥羽上皇の反対で頓挫
実朝の死後、九条頼経が迎えられた

摂家将軍が2代続いた後、親王将軍(宮将軍)が4人続いた
550日本@名無史さん:2014/05/18(日) 06:09:44.57
>>1
阿野全成って義経の同母兄で公家の阿野という家を残したのか

日本史好きなのに全然知らんかったわ

まあけど、阿野家は実質的には藤原氏の子孫のようだが
551日本@名無史さん:2014/06/17(火) 03:04:13.89
天野遠景とか私的にも頼朝と親交が深かった割には
戦後は不遇だったんだな
九州惣追捕使はかなりの大任ではあるが
552日本@名無史さん:2014/06/21(土) 17:27:55.14
>>551
天野が不遇か?
伊豆のひしめきあうパッとしない土豪のうちの一人が鎮西探題って大出世だろうが。
それいったら伊豆の中では大豪族で石橋山で命まで落とした狩野介工藤茂光の一族のほうが不遇だぜ。
553日本@名無史さん:2014/06/21(土) 17:32:59.34
ちなみに北条時政は舅のわりに頼朝生前はバッとしない。
都にいって交渉任されたけどそれに対する恩賞やお褒めの言葉なし。
頼朝生存中は任官なし。
幕府の重要ポストへの登用なし。(辛うじて伊豆と遠江の守護にはなった)
任官も幕政への本格的参加は頼朝死後のこと。
554日本@名無史さん:2014/06/21(土) 18:58:48.89
牧氏事件では北条義時と対立
北条家内でも北条時政は謀叛人としてタブー視されているな
555日本@名無史さん:2014/06/21(土) 19:37:03.51
時政って北条氏の祖なのに評価低いな
556日本@名無史さん:2014/06/21(土) 19:45:39.46
北条三代ころまでは尼将軍、北条政子の独裁だからな
557日本@名無史さん:2014/06/21(土) 19:48:34.42
政子から見て評価が低ければ当然、低くなる
558日本@名無史さん:2014/06/22(日) 05:20:02.56
時政が暴走してそれを義時が阻止したという体裁だからね
人望に厚く慕われていた畠山重忠を謀略で陥れて反感を買ったのもある
559日本@名無史さん:2014/07/04(金) 00:00:56.01
>>555
そもそも得宗家という呼び方が、後世の評価だからね。

実は、義時自身は「得宗」とは名乗っていない。
義時のことを尊敬していた子孫の誰かが、送った呼び名。
つまり、初代執権の時政ではなく、二代目の義時の子孫である
ことをに重きを置いていたということなんだよね。
560日本@名無史さん:2014/07/04(金) 05:47:08.59
頼朝を見込んだ先見性と甲斐源氏を勧誘した交渉力は凄い
561日本@名無史さん:2014/07/05(土) 11:17:37.66
得宗は義時の法名
562日本@名無史さん:2014/07/05(土) 13:25:05.12
>>561
「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。
近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に
贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。
563日本@名無史さん:2014/07/05(土) 23:29:11.98
源実朝擁立や和田義盛などの有力諸侯との戦いでは
北条義時と三浦義村は連携を図ってるな
この頃は両者の利害が一致していたんだな
564日本@名無史さん:2014/07/05(土) 23:59:36.79
実朝暗殺は案外公暁の単独犯で、自分は父を殺されて不遇の身なのに
右大臣まで昇進した実朝が妬ましかったのかもな。
少なくとも公暁を擁立しようとしていた者がいたのなら、
公暁を実行犯にすることはありえないし。
565日本@名無史さん:2014/07/06(日) 01:07:04.41
擁立した実朝を殺すメリットが北条義時にも三浦義村にもないから陰謀論は虚偽なんだろうな
公暁が単独犯だった方が腑に落ちる
566日本@名無史さん:2014/07/06(日) 15:21:28.91
公暁を還俗させなかったのはなぜだろう?
567日本@名無史さん:2014/07/06(日) 21:38:19.88
>>565
ある。実朝は朝廷から官位を貰い、幕府を朝廷の下に置くとみなされた。
これは、関東武士には受け入れられなかった。すなわち、実朝は総意で殺されたと思う。
疑わしきもの全員にメリットがある。

公暁はスケープゴートだろ。
568日本@名無史さん:2014/07/06(日) 21:40:49.65
将軍だが、これも問題は全くなかった。頼朝の庶子、結城朝光が存命で、
北条家や三浦家とも仲が良いので擁立に全く問題ない。

ところが、結城朝光が拒否し、全てご破算になって、将軍擁立に混乱してしまった。

なお、頼朝の庶子なら島津忠久もまだ生きていたが、比企氏滅亡とともに没落し、
候補にならなかった。
569日本@名無史さん:2014/07/07(月) 00:29:34.62
>>566
還俗させる必要はなかった。
実朝の生存中に宮将軍を時期後継者に据える計画が着々と進行中だったから。
(実朝も承諾済み。幕府上部もその意思で進行中)
>>567
幕府が朝廷の下にあるというのは江戸時代まで建前上はそうだったよ。
ただ、後鳥羽上皇が幕政に介入して幕府御家人たちが不利益を被るのは
ごめんだったという考え方ならありかもしれないけど
実朝期に後鳥羽上皇の介入で御家人たちが不利益をこうむりそうなことってあったけ?
たとえば、上皇の意思で所領没収されたとか。

>>568
>頼朝の庶子、結城朝光が存命で
結城朝光が頼朝の庶子というのは俗説にすぎんのだが。
第一公的には結城朝光は小山政光の子だから、DNA上頼朝の子であったとしても
頼朝の子としての権利は主張できない立場にある。
>頼朝の庶子なら島津忠久もまだ生きていたが
こちらも俗説。なお、島津忠久も公的には惟宗忠康の子なので頼朝の子の権利は一切主張できない立場にある。
570日本@名無史さん:2014/07/07(月) 04:51:42.05
>>568
結城朝光は頼朝に非常に可愛がられていた乳兄弟。
頼朝への忠義をその子供にまで抱いていたわけではないようなふしはあったが、
流石に頼朝の男系男子を断絶させることに同意するか?

つか島津家の祖が頼朝庶子って、北条政子の嫉妬で隠れたという話だけど
実際には政子との結婚よりずっと以前に生まれているという
相当怪しい与太話のレベルじゃなかったか。
島津が自称源氏を名乗るために創作したんじゃね。
571日本@名無史さん:2014/07/08(火) 09:28:21.67
>>565
源実朝は後鳥羽上皇の従兄妹に当たる公家の姫を娶り、北条氏との縁が薄れていた上、
(後鳥羽上皇の血縁の姫を京都から迎えたのは頼家幽閉を朝廷に咎められたくない政子や北条氏の判断)
和歌を詠み京都かぶれで、後鳥羽上皇からも「弟」と呼ばれるなどして可愛がられ
(頼朝正室の姉が後鳥羽上皇の愛妾であったため、義兄弟にあたる)
完全に朝廷と後鳥羽上皇を信奉しまくっていた。
北条氏にとってはただの朝廷崇拝者の武家・源家将軍を頂点に戴くよりも
いっそのこと本当に血筋の良い宮将軍か摂家将軍に変えたほうが良かったと思われる
三浦は公暁の乳母を出しているので、公暁が将軍になれば三浦一族の娘が正室となり北条氏並みの権力を持てた可能性があり
(公暁の父頼家は頼朝乳母の一族から正室を迎えた)動機がないとはいえない
>>568
島津が頼朝の種だというのは一次史料に全く登場せず
572日本@名無史さん:2014/07/08(火) 12:27:45.63
公暁を将軍にするつもりなら公暁に実朝を殺させるのは失策としか思えない。
いざとなれば切り捨てれる鉄砲玉にでもやらせればいい話で
公暁に将軍殺しの汚名を被らせる必要は皆無。
573日本@名無史さん:2014/07/08(火) 12:57:51.61
>>572
公暁にとって汚名となるか英雄となるかは微妙なところでは
鉄砲玉に実朝が殺されただけでは、北条政子が中心となって宮将軍か摂家将軍が京都から迎えられるだけで
公暁が還俗して将軍になれる確率は0%
しかし、公暁がクーデターを成功させれば公暁が将軍となれる確率はグッと上がる

乙巳の変で蘇我入鹿殺害を鉄砲玉にやらせず、
後に天皇となる中大兄皇子本人が自ら実行犯となったようなもんだ
574日本@名無史さん:2014/07/08(火) 13:12:12.99
征夷大将軍という名前が重要性を帯びてくるのは鎌倉時代以降であってね
朝廷が頼朝に官位で好きなのを選ばせるときにどれにしようかってんで過去の
記録にあり廃止されていた征夷大将軍が選ばれたの
宮将軍だのが持て囃されたのは幕府が皇族将軍を迎えてからだ
575日本@名無史さん:2014/07/08(火) 13:15:59.50
事実、将門は征夷大将軍じゃなく新皇を名乗ろうとしてるしな

そもそめみな、将軍ではなく御所を名乗ってるんだがね
在地の地名をとって御所
576日本@名無史さん:2014/07/08(火) 13:23:58.04
とすれば護良新王が征夷大将軍を求めたのも先例に習い幕府の長として将軍職を求めたとも言える


全て過去の実績の積み重ねの後の話だ
577日本@名無史さん:2014/07/08(火) 13:37:46.44
>>574
少なくとも公暁の頃には征夷大将軍は3代続いた鎌倉幕府の
トップに君臨する者の職業になっていただろ

摂家将軍・宮将軍になってからのほうが実権もなく
大人になれば京都に強制召喚されたりしてて
北条得宗家を中心とする御家人たちのやりたい放題
578日本@名無史さん:2014/07/08(火) 19:28:58.19
>>573
>乙巳の変で蘇我入鹿殺害を鉄砲玉にやらせず、
>後に天皇となる中大兄皇子本人が自ら実行犯となったようなもんだ
鉄砲玉にやらせるつもりだったのにブルって出来なかったから自ら手を下した。
軽皇子(後の孝徳天皇)が首謀者で中大兄皇子は鉄砲玉だったという説も有る。
579日本@名無史さん:2014/07/08(火) 19:38:09.09
>>578
中大兄皇子も刀を構えて狙っていたのだから十分な実行犯だよ
中大兄皇子は舒明天皇の第二皇子で、蘇我氏の世の中が続けば
異母兄で蘇我氏を外戚とする第一皇子の古人大兄皇子が帝位についていただろうから
乙巳の変の実行犯となったことで帝位を手にしたと言える
皇極天皇が弟軽皇子に帝位を譲っていることから
軽皇子も乙巳の変で実行犯として加わっていたのではないかという推測はあるが
軽皇子を即位させるために中大兄皇子が鉄砲玉になったということはない
皇極天皇は最初から中大兄皇子に帝位を譲る気だった
580日本@名無史さん:2014/07/08(火) 20:33:40.53
>>568
あの時点で北条が権力を握ることができたのは「将軍の外戚」というのが大きい。
実朝を失うと外戚の座を失い残り寿命の少ない「頼朝の妻」の実家という立場しか残らない。
実朝の死去は北条とっては困る事態。

一般御家人は所領やその他権利を守ってくれれば将軍が京都文化に傾注しようが(頼朝期に懐古を持って心理的に文句つけたヤツはいたが)、上皇と縁戚になろうが別に気にしない。

実朝が頼朝期と比べて所領問題等で御家人の不利益をもたらしていたか?
581日本@名無史さん:2014/07/08(火) 20:37:45.33
>>577
大人になるとお気に入り御家人を集めて、政治勢力を作り出し、時の執権や得宗と対立を始めた。
その政治対立の敗北の結果が京都へのお帰り。
582日本@名無史さん:2014/07/08(火) 20:46:01.79
>>580
実朝時代の北条氏は「執権」として実質鎌倉幕府を取り仕切る地位にあり
将軍との姻戚関係はそれほど重要ではなくなっている
その証拠に、北条氏は鎌倉時代を通じて初代将軍頼朝の正室を輩出した以外は
一度も将軍の妻を輩出していない
実朝の妻に北条氏はおらず、北条氏が将軍との姻戚関係によってのみ権力維持を図ろうとしていたのならば
いずれにせよ実朝以降の将軍との血縁は切れることになる
実際に実朝以降の将軍は誰一人として北条氏を外戚としていないが
北条氏は鎌倉幕府の実権を握り続けていた
583日本@名無史さん:2014/07/08(火) 22:00:08.18
>>582
>一度も将軍の妻を出していない。
ウソ。五代将軍藤原頼嗣の妻が執権北条経時の妹。

二代頼家は比企に取り込まれていたし
三代実朝は公家の娘。
公卿になれる家柄になった源氏将軍に受領止まりの北条は正室を出せる存在にはなれなかったのが当時の現実。
逆に政子が頼朝の正室で居続けたのが奇跡に近い。

頼朝の正室の実家、将軍の外戚でなければ「その他大勢」に終わったのが北条。実朝期はまだ将軍の外戚地位が必要な時期。

ちなみ四代将軍の正室は頼朝の血筋を繋ぐ意味で頼家の娘竹御所が規定路線。
五代目になってやっと将軍の妻をだしても文句を言われないだけの実力をつけた。

承久の乱の勝利、「外戚になれない悪条件」をクリアし続けた結果が六代将軍以降外戚でなくてもやっていけるようになっただけ。
584日本@名無史さん:2014/07/08(火) 22:05:11.53
補足
平安時代道長期までは天皇の外戚であることが摂関になれる必要最低条件。
しかし、平安末期「摂関家」という家が確立すると外戚でなくても摂関になれた
平安末期の外戚でなくても摂関になれる現象をみて道長以前をも外戚であることを重要視しないという論理と同じだよ>>582は。
585日本@名無史さん:2014/07/08(火) 22:27:34.54
そもそも政子が頼朝の妻になったのも頼朝が流人だったという特殊事情があったからで
本来北条は外戚になれる家じゃなかったしな。
頼朝が公卿になった時点で政子を側室にして公卿の家から正室を貰うことができたのに
それを頼朝がしなかった。だから政子が正室でいられたんだよな。
政子の嫉妬深さは自分の立場の弱さから来てたという見方があるし。
586日本@名無史さん:2014/07/08(火) 22:50:42.70
>>583
>五代目になってやっと将軍の妻をだしても文句を言われないだけの実力をつけた。

あれは執権北条時経が将軍九条頼経を京都に追放して6歳の幼児頼嗣を将軍に据え
翌年、わずか7歳の将軍九条頼嗣に16歳の自分の妹檜皮姫をめあわせた異常事態
当時もこの結婚に大反対があったことが書かれてあるし
北条時経はこの婚礼の9か月後に20歳の若さで急死
檜皮姫もまた婚礼から2年弱で18歳の若さで急死
時経にも檜皮姫にも毒殺説がある
587日本@名無史さん:2014/07/08(火) 22:56:02.14
>>585
それほど低くはなかった。少なくとも、側室の寒河尼(小山政光の妹、結城朝光の母)
亀の前(北条政子との対立で有名)、大進局(貞暁の母)よりは上だった。
588日本@名無史さん:2014/07/08(火) 22:56:43.34
>>586
じゃあなんで結婚させたんだ?
589日本@名無史さん:2014/07/08(火) 23:10:50.63
>>587
為義(六位検非違使)の妻
院近臣 藤原忠清の娘、六位クラスの娘

義朝(従四位左馬頭)の妻
従四位藤原季範の娘
側室 三浦娘 波多野娘

頼朝の妻
頼朝生存当時無位無官北条時政

最終官位&権力&経済力
頼朝>>>エベレスト>>義朝>為義

妻の地位、その他実力
為義=義朝正室>>富士山>>義朝側室>>日本アルプス>頼朝妻
590日本@名無史さん:2014/07/08(火) 23:15:54.79
>>587
寒河尼は頼朝の側室じゃなくて乳母だよ。

ちなみに寒河尼の実家宇都宮氏は都の貴族との付き合いもあり
夫の小山政光は下野の大豪族の当主。

当時の地位、実力は
寒河尼関係者>越えられない壁>北条

ただし寒河尼と政子の関係は良好だったらしい。
591日本@名無史さん:2014/07/09(水) 03:21:00.44
>>588
だから19歳の若い執権北条時経の独断だろ
九条頼経の正室も最初こそ竹御所だったが竹御所が難産で早死にしたため
その後は都から公家の姫が正室に迎えられている
親王将軍には一度も北条の娘が配されていないし
592日本@名無史さん:2014/07/09(水) 04:50:31.48
>>591
独断はわかったが、なぜそんな独断する必要があるのかを知りたいんだが。
593日本@名無史さん:2014/07/09(水) 05:12:57.42
>>591
>その後は都から公家の姫が正室に迎えられている
>親王将軍には一度も北条の娘が配されていないし

そりゃそうだ。北条は摂関家や親王に正室を出せる家柄ではないもん。
北条が将軍の正室を出さなかったじゃなくて「出せなかった」というのが正しい。

だからこそ、政子が頼朝の正室になったのは奇跡中の奇跡で
政子の縁を通じてだけ幕府での地位を台頭させた北条にとって
その政子を通じて縁をつないでいる実朝は最後の貴重な存在。

もちろん実朝以降は縁をつなげないことを承知で縁つなぎなしでの
権力維持の方向を探していただろう。
実朝に子供がいないなどの理由で次期将軍は宮将軍で将軍候補にめどがたちかけたが
将軍も下向していないその時期に北条が縁抜きで権力を維持できる方策をとれていただろうか?
実朝が生存中にそれなりの囲い込み方策をとっていないと北条にとっては危険

>>582
実朝時代の北条氏は「執権」として実質鎌倉幕府を取り仕切る地位にあり
将軍との姻戚関係はそれほど重要ではなくなっている。
執権が権力を維持していた源泉は姻戚ではないとしたら何?
政所別当と侍所別当を兼ねただけというのは理由にならないよ。
何故その地位にい続けることができて他の御家人の反発を招かずにいる理由はなにかね。
594日本@名無史さん:2014/07/09(水) 14:37:23.16
>>592
将軍を京都に送り返すというクーデターを成功させた北条時経は
何でもできる気になってたんだろ
595日本@名無史さん:2014/07/09(水) 14:41:43.41
>>594
なんでもできる気になったというのはわかるが
妹を結婚させる政治的意味は何?
596日本@名無史さん:2014/07/09(水) 14:44:58.47
>>593
>政子が頼朝の正室になったのは奇跡中の奇跡

無位無官の流人である頼朝に嫁が来たのが奇跡中の奇跡
祖父源為義は正室不明で武家源氏はもともとそれほど出自の良い正室を持っていない
将軍源頼家の正室だったとされる若狭局は頼朝の乳母の一族

>将軍も下向していないその時期に北条が縁抜きで権力を維持できる方策をとれていただろうか?

摂家将軍藤原頼経は北条氏の血を一切引いていない
なのに北条政子が実子である頼家や実朝が将軍についていた時期よりも強い権限を持ち
尼将軍として将軍実務を執り行っていた
北条氏が源氏の姻戚であることのみをよりどころとして権力を維持していたのならば
北条氏を外戚としていた頼家や実朝時代よりも権力は落ちるはず

>執権が権力を維持していた源泉は姻戚ではないとしたら何?

実際に北条を外戚とする頼家・実朝時代よりも
北条を外戚としない摂家将軍・親王将軍の時代のほうが北条氏の権力は強かったんだが?
597日本@名無史さん:2014/07/09(水) 15:28:57.36
>>596
>無位無官の流人である頼朝に嫁が来たのが奇跡中の奇跡
確かに流人中はそうだよね。
(一応いっとくが頼朝は無位無官であっても前職ありで叙爵を受けてるからそれなりに身分あるものとされる)
だが、十月宣旨の後は五位に服していてこの時点で無位無官北条の娘にはかなりの格上の夫となっている。
さらに二位の位を受けて公卿になった後では「無位無官の娘」はどうみても公卿の正室には釣り合わない存在となっている。

>祖父源為義は正室不明で武家源氏はもともとそれほど出自の良い正室を持っていない
>>589を読んで欲しいんだが、都の中ではそんなに大した家ではないが
地方の無位無官北条から見ればかなり各上の家から正室を貰っている。
しかも父も祖父と頼朝が手にした最終地位からはかなり格下で終わっている。

公卿になった後の頼朝の正室は本来都の貴族クラスでないと釣り合わない。
北条など問題外

続く
598日本@名無史さん:2014/07/09(水) 15:47:33.45
>>596
>将軍源頼家の正室だったとされる若狭局は頼朝の乳母の一族
若狭局は頼家の後継者候補の男子を生んだとされるが「正室」だったかどうかは定かではない。
「辻殿」の方が格上だったかもとも言われている。
頼家の年齢を考えると失脚がなければ都から正室を迎える可能性がなかったとは言い切れない。

>摂家将軍藤原頼経は北条氏の血を一切引いていない
だ、か、ら、頼経は本来来る人ではなかったんだよね。
当初の計画では親王を将軍に迎えてそれに頼朝の血を引く竹御所(時房が保護)を正室に迎えるはずだった。
それは実朝が生存中の実行される計画で、実朝が元気なうちに北条は新将軍一家を取り込む予定だった(乳母、側近etcとして)
だが、実朝の横死ですべてがおじゃん。

>なのに北条政子が実子である頼家や実朝が将軍についていた時期よりも強い権限を持ち
尼将軍として将軍実務を執り行っていた

当時の「後家」の力は強大。
夫の死後はその代行者ともされ夫の後を継いだ我が子の権力に打ち勝つ時もある。
子供がすべて死んでもそれは有効。
政子はまさに「頼朝の後家」として当時当たり前にもっていた権利を有していたに過ぎない。

私としては
政子は頼朝の後家として幕府内で絶大な権力を有していた。

だから頼家が死のうが実朝が死のうが政子の権限には関係ない。
新将軍頼経が幼い以上その権限を代行できるのは頼朝後家の政子以外にはいない。
頼家実朝が死んだのに政子の権限が強まって北条の権限が落ちないのは何故?という見方は見当違い。
そして政子はまぎれもなく北条の娘。

続く
599日本@名無史さん:2014/07/09(水) 15:50:23.27
>執権が権力を維持していた源泉は姻戚ではないとしたら何?

>実際に北条を外戚とする頼家・実朝時代よりも
北条を外戚としない摂家将軍・親王将軍の時代のほうが北条氏の権力は強かったんだが?

だから、その時点での北条の権力の源泉を教えてくれない?
「執権だから」「得宗だから」という答えは答えではないよ。
何故執権として得宗として権力を保持しえたのかということを聞きたいんだから。

ついでに実朝ー義時期にその時点で持ちえた権力をどの程度北条が有していたかも教えてほしい。
600日本@名無史さん:2014/07/09(水) 15:53:19.68
>>597
>一応いっとくが頼朝は無位無官であっても前職ありで叙爵を受けてるからそれなりに身分あるものとされる

上皇ですら流罪となった後の現地妻は氏姓も明らかではない者であったりするのだから
頼朝程度の妻が関東の豪族の娘で何ら問題はない

>地方の無位無官北条から見ればかなり各上の家から正室を貰っている

頼朝の父以前はキに住み摂関家に近侍していた縁で都で正室を娶った
頼朝は14歳以降都に住まず坂東に住み続けた
坂東には当然公卿の姫など住んでいない
都の大貴族の姫が坂東に嫁入りするなど3代実朝まで待たねばならず
頼朝には所詮無理な話
601日本@名無史さん:2014/07/09(水) 16:03:50.49
>>598
>頼家の年齢を考えると失脚がなければ都から正室を迎える可能性がなかったとは言い切れない。

都から正室を迎える気ならば、それ以前に御家人の娘に男子を産ませているなど言語道断
しかも頼家は将軍在位時に22歳、死亡時に23歳になっており初婚がまだであったとは考え難く
それまでに一幡を含めて4人程度の男子を儲けている
弟の実朝は13歳で都から正室を娶っている

>当初の計画では親王を将軍に迎えてそれに頼朝の血を引く竹御所(時房が保護)を正室に迎えるはずだった。

何か勘違いしているが、竹御所は源氏。
北条氏出身ではない。
権力の源は姻戚関係であるといったのはおたくであって、
北条が乳母や側近になったからといってたいした権力はもてんだろ

>当時の「後家」の力は強大。

話を取り違えてるな。
おたくは北条は実朝に死なれては絶対に困る、なぜなら実朝は北条を外戚としているから、
という主張だったはず。
頼家や実朝の在世中に北条が強大な権力を行使した実例を出してもらわないと困る。
602日本@名無史さん:2014/07/09(水) 16:07:10.84
>>599
>何故執権として得宗として権力を保持しえたのかということを聞きたいんだから

承久の乱で北条義時が後鳥羽上皇をうち破ったことは大きいだろうね
鎌倉幕府初代源頼朝さえせいぜい平家に勝った程度なのに
北条義時は臣下としては史上初となる錦の御旗に勝ってしまったわけだ
その功績は頼朝以上で誰も北条に口出しできなくなった
603日本@名無史さん:2014/07/09(水) 16:15:51.50
>>599
>だから、その時点での北条の権力の源泉を教えてくれない?

君は質問ばかりでこちらからの質問には一切答えていない
北条の権力の源が外戚政策にあったというのがおたくの主張なのだから
摂家・親王将軍時代よりも北条の外孫である頼家・実朝時代のほうが北条が強権を行使していなければならない
おたくは、摂家・親王将軍時代の北条の権力の源は何だと思ってるわけ?
604日本@名無史さん:2014/07/09(水) 16:48:33.84
>>600
>都の大貴族の姫が坂東に嫁入りするなど3代実朝まで待たねばならず
頼朝には所詮無理な話
まあ、そういう理由があったのかもしれんが、それでも無位無官北条の娘が公卿頼朝の正室でいたことは極めて異例のことは事実ですよね。

>>601
>都から正室を迎える気ならば、それ以前に御家人の娘に男子を産ませているなど言語道断
当時は正室を迎える前に身分の低い女性の間に子供を持つのは当たり前の時代ですが。
平重盛なども正室の経子を迎える前に二人以上子供を作ってますよ。
脇腹の子に以上に敵愾心を持った政子の方が異常なわけで。

>北条が乳母や側近になったからといってたいした権力はもてんだろ
いやいや、そうではないんですね当時は
保元平治のころ権力をふるった信西入道は後白河上皇の乳母を妻にして権力を握り
後鳥羽上皇の乳母卿二位は乳母として権力を握り沢山の貴族が上皇への取り次ぎを願いに手土産もっていろいろなお願いに来ていたりした。
あと実朝の乳母は北条氏出身の阿波局。これも外戚と同様に大きな力。
605日本@名無史さん:2014/07/09(水) 16:52:30.21
>話を取り違えてるな
すんませんね。あなたが>>596で政子の事を書いたからついでに書いといたけど蛇足でしたね。

>何故執権として得宗として権力を保持しえたのかということを聞きたいんだから
>承久の乱で北条義時が後鳥羽上皇をうち破ったことは大きいだろうね

ご回答ありがとうございます。
それはそうだと認めます。それが泰時以降にも生きたことは認めます。

>君は質問ばかりでこちらからの質問には一切答えていない
このレス以前にそちらが何か質問しましたか?

>摂家・親王将軍時代よりも北条の外孫である頼家・実朝時代のほうが北条が強権を行使していなければならない
別に強権発動しなくてはならないとは一言も書いた覚えはありません。
「権力を握る手段が外戚であると」だけ言ってました。
権力の種類には様々なものがあり摂関家のようなタイプもあれば信長タイプもある。
実朝期までは摂関家タイプで北条にとっては十分だったんじゃないでしょうか?

>摂家・親王将軍時代の北条の権力の源は何だと思ってるわけ?
承久の乱のお答えはとてもありがたいものでした。
ですが、もう少し経済的政治体制的なお答えをいただきたかったですね。
それと、もともとの議論の開始は「実朝期」には外戚であることをもう必要としていなかったという
あなたの主張につながる義時の外戚以外の政治的基盤を教えていただけるとありがたかったです。


次のレスで自分の考えを書いてみたいと思います。
606日本@名無史さん:2014/07/09(水) 16:59:05.03
まず執権時代の泰時は
初期は伯母の政子の後押しがあったのではないかと考えます。
政子亡きあとは「評定衆」をがっちり押さえることと
有力御家人との婚姻や烏帽子親子関係によって与党を確保して政治を進めていたのが大きいと思います。


得宗時代は御家人の北条家人化が進んだのが大きいと思います。
当時は複数の主を持つことがざらなので
将軍の御家人であると同時にある特定の御家人との間にも主従関係が成立することもあったようです。
また、文官をしっかり押さえていたのも大きいと思います。

それともう一つは「経済的基盤」
権力奪取の中で北条は一族で所領を拡大していきます。
(同時に一族の数も拡大)
鎌倉後期になると経済力ナンバーワンの北条とナンバー2の足利では十倍近い差があったといわれています。

一方義時期はまだ一族の数が少なく
経済的な実力は抜きんでていたものはなかったでしょう。
607日本@名無史さん:2014/07/09(水) 17:08:13.99
>>604
>それでも無位無官北条の娘が公卿頼朝の正室でいたことは極めて異例のことは事実ですよね

鎌倉在住で朝廷に出勤しない頼朝がただの名誉職として権大納言を拝命すること自体異例
頼朝を都在住で朝廷に出勤している普通の公卿と同様に考え同様の妻が必要だとすること自体無謀

>平重盛なども正室の経子を迎える前に二人以上子供を作ってますよ

重盛の嫡男は当初資盛、次いで維盛で、いずれも経子を母親としていない
経子は多くの男子を産んだがいずれも重盛の跡取りとはされなかった
経子が重盛の初婚の正室であったかは疑問(資盛や維盛の母が重盛の最初の正室であった可能性大)

>いやいや、そうではないんですね当時は

源氏であり、比企氏を外戚としている竹御所が親王将軍の妻になったら
なぜ北条氏が乳母や側近に取り立てられるのか不明
そもそもおたくの主張の外戚政策と主張がずれている
608日本@名無史さん:2014/07/09(水) 17:08:42.10
>>573
蘇我入鹿と中大兄皇子は家族ではなく、他人に近い遠縁だけど、
公暁は実朝の養子になってたから義理とはいえ親子。
親殺しの汚名のデメリットの方が多くね?

それに入鹿はいくら権勢家とはいっても臣下、
中大兄皇子は天皇と先の天皇の長男皇子だからまだ名分も立つけど、
公暁と将軍の実朝じゃそうもいかないし。
まあ後者は頼家暗殺の前例あるけど。
609日本@名無史さん:2014/07/09(水) 17:16:24.05
>>605
>このレス以前にそちらが何か質問しましたか?

>>596で問いかけをしているのだが、無視している。

>実朝期までは摂関家タイプで北条にとっては十分だったんじゃないでしょうか?

頼家・実朝の正室も北条から出さなければ摂関家タイプとは呼べない。
まさに頼朝の後家を出しただけの一代限りで終わる家。

>「実朝期」には外戚であることをもう必要としていなかった

実朝の次代に北条を外戚としていない親王将軍を迎えようとしていたことで十分。
おたくの親王将軍に竹御所をめあわせれば北条が重用されるという主張は何?
竹御所は何度も言うが父親も母親も北条無関係。
610日本@名無史さん:2014/07/09(水) 17:22:49.27
>>606
>有力御家人との婚姻

北条と有力御家人との婚姻は頼朝時代から行われており、実朝以降に突然始まったものではない
(頼朝には都の坊門姫以外姉妹がいなかったため、妻の一族である北条氏と
有力御家人との婚姻を推進していた)

>「評定衆」をがっちり押さえることと
>烏帽子親子関係によって与党を確保
>得宗時代は御家人の北条家人化

なぜそのようなことが可能だったと思うの?
北条が承久の乱で勝利したためであって、理由もなしに御家人を北条の家来にできない。

>権力奪取の中で北条は一族で所領を拡大

これも承久の乱勝利に象徴される北条の武力だよね
611日本@名無史さん:2014/07/09(水) 17:27:10.09
>>607
維盛の母 どこかの女房
資盛の母 受領藤原親盛の娘 
どうみても正室になれる柄ではない。

>源氏であり、比企氏を外戚としている竹御所が親王将軍の妻になったら
なぜ北条氏が乳母や側近に取り立てられるのか不明
そもそもおたくの主張の外戚政策と主張がずれている
だから、外戚でいる間に外戚以外の方策を取ろうとしていたんですよ。
その時間稼ぎとしても実朝には死なれちゃ困るのが北条。

>頼家・実朝の正室も北条から出さなければ摂関家タイプとは呼べない
摂関家タイプという言葉が悪かったが、
信長のような独裁者タイプを目指すのではなく、
実朝期は権力者囲い込みで(外戚、乳母)政治力を行使しようとした。
別に強権的なリーダーを目指いしていたわけではないと言いたいだけ。
執権期は調整型リーダーで
強権的になったのは時頼以降だね。

状況に応じて権力タイプを変えている一族だと思う。
612日本@名無史さん:2014/07/09(水) 17:32:00.95
>>609
>実朝の次代に北条を外戚としていない親王将軍を迎えようとしていたことで十分。

だから、承久の乱以前の状態で実朝の外戚を外して権力を得つづけることができる
と北条が確信できた外戚以外の権力の源泉はなんなのかとずっと聞いているんだが。
613日本@名無史さん:2014/07/09(水) 17:37:51.11
>>610
>北条と有力御家人との婚姻は頼朝時代から行われており、実朝以降に突然始まったものではない
そうなんだよね。
だけどそれを継続したというのが大きい。
しかも、勝ち組の足利や安達、三浦(泰時期のみ)と組めたのは結構幸運だと思う。

>北条が承久の乱で勝利したためであって、理由もなしに御家人を北条の家来にできない。
承久だけではだめだろう。時頼期以降の政治的対立や宝治合戦や霜月騒動なんか
を経て徐々に権力拡大した結果もあると思う。

>これも承久の乱勝利に象徴される北条の武力だよね
嘘ではないが北条単独ではなく、北条の与力となった他御家人の力も大きいよな。
北条は潰すのもうまいが一族以外の見方を募るのもうまい。
614日本@名無史さん:2014/07/09(水) 20:34:22.22
>>611
>どうみても正室になれる柄ではない

平清盛の正室だって似たような出自

>外戚でいる間に外戚以外の方策を取ろうとしていたんですよ

具体的に北条は何をした?
「俺だけには北条が何かやろうとしていたのが分かる」という憶測はダメ。

>信長のような独裁者タイプを目指すのではなく

そもそも北条は源氏将軍時代にもあくまでも御家人の一人にすぎず
信長タイプを目指すというのが意味不明。
北条は頼家の囲い込みに失敗し、実朝の正室も出せず、
いったい何をしていたのか分からない。
615日本@名無史さん:2014/07/09(水) 20:38:47.58
>>612
>承久の乱以前の状態で実朝の外戚を外して権力を得つづけることができる
>と北条が確信できた外戚以外の権力の源泉

そもそも北条は承久の乱が起こることを予期していない
承久の乱が起こらないのに北条を外戚としない親王将軍擁立を承認していた
これだけで十分なんだが

北条は頼家時代に頼家若年をもって評定の合議制を持ち込み幕府の主導権を握ることに成功
将軍頼家の幽閉・殺害を実行してすでに権力を持っていた
実朝にとってはいつ自分も兄のようにされるか分からず北条は脅威であったはず
616日本@名無史さん:2014/07/09(水) 20:44:33.24
>>613
>勝ち組の足利や安達、三浦(泰時期のみ)と組めたのは結構幸運

足利との婚姻は頼朝時代からだろう
足利、安達、三浦は北条との姻戚関係によって幕府内で重視されたのだから
むしろ幸運だったのは北条の姻戚たちのほうだろう
安達や三浦は力付けすぎて後に北条氏によって排斥されているし

>時頼期以降の政治的対立や宝治合戦や霜月騒動なんかを経て徐々に権力拡大した結果

承久の乱で北条氏の執権としての絶対的地位が固まったことを言ってるだけ
誰も北条氏が幕府内で政治的単独トップに立つことに意見する者はいなくなった
あとは執権に逆らった奴は制裁を下すで合法的に他氏を落としていける

>北条の与力となった他御家人の力

御家人は幕府から所領安堵を受けており後鳥羽上皇から何かしてもらってるわけではない
相対的に御家人は幕府存続を望んだということだろ
617日本@名無史さん:2014/07/09(水) 20:59:47.86
>>611
>平清盛の正室だって似たような出自

そうか?平時信は堂上平氏としての血筋は使えるぞ。

>具体的に北条は何をした?
親王将軍がその時期誕生していない以上何をいっても憶測にしかならんだろ。
憶測はダメというなら答えられない。

>信長のような独裁者タイプを目指すのではなく
あなたが北条が強権を有する発言したから、実朝期や執権期は決して強権を持って独裁をしていたわけではない
といいたかっただけ。
618日本@名無史さん:2014/07/09(水) 21:07:32.88
>>617
>北条を外戚としない親王将軍擁立を承認していた
これだけで十分なんだが

いやだから、親王将軍擁立を承認しても権力者でい続ける自信があったから承認したんでしょ。
それだけの自信の裏付けとなる政治的経済的基盤を教えてほしいんだ。
だからこの説明では不十分。

>北条は頼家時代に頼家若年をもって評定の合議制を持ち込み幕府の主導権を握ることに成功
いや、梶原比企を倒すまでは主導権握ってないから。
頼家の病気に乗じて比企を倒してやっと主導権を握ったんだよね。
実朝を将軍にするまで主導権を握ってない。

>実朝にとってはいつ自分も兄のようにされるか分からず北条は脅威であったはず
だがしばらくの間は北条が担ぐの玉は自分以外のないから安泰だったともいえる。

>>616
>足利、安達、三浦は北条との姻戚関係によって幕府内で重視されたのだから
>むしろ幸運だったのは北条の姻戚たちのほうだろう

そのあたりは持ちつ持たれつ。数の論理が物を言う評定では味方は多ければ多いほうがいい。

ちなみに宝治合戦は三浦と安達の北条の外戚を巡る戦いとも言われているし
霜月騒動も御内人と安達の争いだから、
執権または得宗に逆らって一方的に誅殺されたものとは違う。
619日本@名無史さん:2014/07/09(水) 21:13:07.39
>>616
>御家人は幕府から所領安堵を受けており後鳥羽上皇から何かしてもらってるわけではない
相対的に御家人は幕府存続を望んだということだろ

別に承久の乱のことだけを言っているわけではない。
御家人が幕府存続を望んだのというのには同意。

頼朝の死以降
梶原排斥、比企つぶし(頼家期)を乗り越えて北条がやっとこさ権力を手にし
その後の権力闘争でも
畠山潰し、時政追い出し、和田合戦を経て義時がやっと安定的な権力を獲得した。

その一連の合戦は決して北条単独でできたわけではなく
北条に味方した他御家人の力があったればこそなんだよ。
そういう意味で書いた言葉。
620日本@名無史さん:2014/07/10(木) 03:14:03.71
三浦家出身の矢部禅尼が離婚したのも何かしらの理由があったのだろうか
北条政村の烏帽子親が三浦義村だったり両家は親密な連携を築いた筈なのに
いつの間にか疎遠になってしまったな
621日本@名無史さん:2014/07/10(木) 18:48:50.46
>>617
>そうか?平時信は堂上平氏としての血筋は使えるぞ

北条も平氏を称している

>親王将軍がその時期誕生していない以上何をいっても憶測にしかならんだろ

おたくが「外戚でいる間に外戚以外の方策を取ろうとしていたんですよ」
というから、北条氏を外戚とする頼家・実朝の時代に具体的に何をしたのか尋ねているだけ。
まさか北条氏を外戚とする源氏将軍も存在しなかったとは言わせない。

>あなたが北条が強権を有する発言したから

どこで発言している?
622日本@名無史さん:2014/07/10(木) 18:52:40.75
>>618
>政治的経済的基盤

615で説明している

>梶原比企を倒すまでは主導権握ってないから

評定衆では主導権を握っている

>しばらくの間は北条が担ぐの玉は自分以外のないから安泰だったともいえる

兄頼家の遺児たちがおり、実朝が北条にとって使えなければ取り換えることは可能
頼家の遺児を北条や政子が忌諱していたという事実はない
現実に竹御所は頼家の遺児であり、父母兄を北条に殺されている
623日本@名無史さん:2014/07/10(木) 19:03:48.50
>>619
>その一連の合戦は決して北条単独でできたわけではなく
>北条に味方した他御家人の力があったればこそなんだよ

幕府存続がかかっていた承久の乱は別格
承久の乱以降の一連の北条による他氏排斥に
他御家人がいちいち関わり承認し味方していた例を挙げてくれる?
他御家人たちはいつ自分が北条の排斥の的にされるか分からず戦々恐々だっただろ
しかも北条は仲良くしてきた自分の姻戚家を滅ぼしてるし
624日本@名無史さん:2014/07/10(木) 20:26:46.85
>>621
>北条も平氏を称している
仮昌ではないかと言われている北条と、平氏嫡流の堂上平氏を一緒にしないでいただきたい。
時信は数代前に公卿まで出した平氏嫡流。
初代から公卿もだせなかった貞盛とは「平氏」の中でも核が違う。

>北条氏を外戚とする頼家・実朝の時代に具体的に何をしたのか尋ねているだけ
頼家時代は頼朝が指名した乳母夫梶原比企ががっちり固めていて北条は
「一応外戚で評定衆に入れてもらえてそれなりに発言力があるけど幕府の実権は握らせてもらえない存在」
この状態を脱するべく、梶原比企を引きずり落とす。
頼家期はまだ実権を握りきれていない。

実朝時代
時政期
外戚であることをタテにそれまで門葉(頼朝が認めた源氏一族)しか認められなかった
受領就任(遠江守)それまで無位無官
実朝の祖父であることをタテに政治参画
やりすぎて追放される(発起人は義時、命じたのは政子だが賛同する北条以外の御家人多数)

義時期
執権として実朝を支える形で政権担当。
625日本@名無史さん:2014/07/10(木) 20:30:56.41
>>615
>北条は頼家時代に頼家若年をもって評定の合議制を持ち込み幕府の主導権を握ることに成功
その時点で合議制を持ち込んだのは北条、幕府の主導権を握っていたのも北条
というソースはどこ?
できれば「吾妻鏡」のどの記事かを引用して説明してね。

> 将軍頼家の幽閉・殺害を実行してすでに権力を持っていた
それを行う経緯を説明して、その権力を行使したのは北条だったというソースをご明示ください。
文献か学説(学者名明記)でお願いします。

>実朝にとってはいつ自分も兄のようにされるか分からず北条は脅威であったはず
「吾妻鏡」を読んでみ。意外と実朝は強気将軍であった実態がわかるよ。
626日本@名無史さん:2014/07/10(木) 20:36:22.47
>>622
>兄頼家の遺児たちがおり、実朝が北条にとって使えなければ取り換えることは可能
頼家の遺児を北条や政子が忌諱していたという事実はない

北条やその他御家人にしてみりゃ因縁のある頼家の遺児を担ぐわけにはいかないでしょ。
それともう一つ、
実朝は北条の娘阿波局を乳母にしている。
乳母一族の梶原比企に取り囲まれた頼家とは違う状態だということは認識していたと思うよ。

>>623
>承久の乱以降の一連の北条による他氏排斥に
他御家人がいちいち関わり承認し味方していた例を挙げてくれる?

おいおい、こっちは「承久の乱以前」をメインに語ったつもりなんでけど。
承久前後を含めて書くけど長くなるから別レスで書くね。
627日本@名無史さん:2014/07/10(木) 20:46:18.44
梶原排斥
結城朝光のある一言を聞いた阿波局が「あなたは梶原に狙われている」と一言いう。
焦った結城朝光は他の御家人に相談すると、それがいつしか「梶原排斥運動」に拡大。
66人の御家人(その中の大多数は北条以外)連判の梶原弾劾状を読んだ頼家は梶原をかばいきれずに
梶原追放に同意。
梶原は都に向かう途中で何らかのトラブルに巻き込まれて合戦となり梶原滅亡。
→ 北条以外の多くの御家人が梶原排斥に同意

比企滅亡
頼家危篤(ほぼ死亡が確定的)の際、北条は次期将軍を実朝にすべく朝廷に使者を送る。
もう一人の次期将軍候補の一万(頼家の遺児)とその後ろ盾比企を倒すべく大江広元の同意を得てから比企討伐を画策。
討伐軍には小山、三浦、畠山、その他の豪族が加わる。
比企滅亡一万死亡、だが直後頼家が息を吹き返した為、やむを得ず頼家を追放。
→ 大江、小山、三浦、畠山などの御家人が協力
628日本@名無史さん:2014/07/10(木) 20:57:13.83
和田合戦
義時が和田義盛を挑発して合戦。
北条に味方したもの
三浦、足利、千葉その他

宝治合戦
得宗家の外戚の座を巡って三浦(時頼祖母実家)を敵視する安達〈時頼母実家〉が北条時頼を焚き付けて
三浦との合戦に持ち込む。
北条方 安達、足利、他
629日本@名無史さん:2014/07/10(木) 21:01:19.05
追記
一応ここは「頼朝の兄弟」を語るスレなんで
北条がどうのこうのを語るのはもうスレ違いな気がする。
できれば別にスレたてしてそっちで話をした方がいいと思うんですがどうですか?
630日本@名無史さん:2014/07/11(金) 06:56:28.49
【鎌倉北条氏】〜門流・子孫・残党・被官〜その2
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1402780639/
いいくにつくろう鎌倉幕府
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1314978337/

新しく立てなくてもこのあたりのスレでやればいいと思う
631629:2014/07/11(金) 19:35:36.60
いいくに作ろう鎌倉幕府スレ
のほうがここのところ書き込みが少ないようなのでそちらはいかがでしょうか?
ご賛同頂けましたらそちらにレスお願いします。
なお、本日明日多忙につきこちらのレスが遅れますことご了承願います。
632日本@名無史さん:2014/07/19(土) 01:57:38.06
ぶちゃけ源頼朝って大したことしなくねw
633日本@名無史さん:2014/07/19(土) 13:29:43.50
ぶちゃけオレのすぐ上の奴、あたま悪くねw
634日本@名無史さん:2014/07/19(土) 17:04:15.14
>>632
釣り針でかすぎ
635日本@名無史さん:2014/08/25(月) 02:59:56.51
源頼朝個人の実力も凄いのだろうけれども
武家にとって伝説的な英雄である源義家の存在や
三浦などとのコネクションを築いた父の義朝の功績も
大きいのだろうな
636日本@名無史さん:2014/08/28(木) 11:47:49.05
>>635
一番頑張ったのは、蒲冠者範頼
最後は気遣いで足元掬われた
637日本@名無史さん:2014/08/29(金) 07:24:56.01
義家は足利時代になって足利の正統性を高めるためにあえて美化されたもので
頼朝時代は頼義の方が持ち上げられてたという見方があるようだ。
638日本@名無史さん:2014/08/29(金) 08:13:27.16
義家は後三年の役の後もろくに恩賞貰えてないし
晩年は弟や息子と対立してるしであんまり活躍してない
639日本@名無史さん:2014/08/29(金) 11:44:04.81
為義は義親の嫡男となってるけど、最近は義家の五男説も有力なんだね。
640日本@名無史さん:2014/08/29(金) 15:29:10.22
つうか、父がはっきりしてない、
なおかつ官位もサッパリで河内の本領も継げたかどうかわかってない
為義が河内源氏の嫡流だったとみるのはやっぱりムリがありそうだな。
641日本@名無史さん:2014/08/29(金) 16:07:48.77
>>636
範頼が源家最高の戦功者なのは確かだよな
粛清の原因は断定できないが甲斐源氏や
養父の藤原範季が後鳥羽院と近かったことで
警戒されていたんだろうな
642日本@名無史さん:2014/08/29(金) 17:17:30.78
源義光が源氏凋落の原因を作った見方があるような
白河院の陰謀もあるのだろうけれども
643日本@名無史さん:2014/08/29(金) 19:01:42.09
>>641
スレタイに従うなら、頼朝の兄弟で一番可哀想すぎ?
644日本@名無史さん:2014/08/29(金) 20:47:10.95
範頼の生涯を知るにお薦めの本を教えてたもれ
645日本@名無史さん:2014/08/30(土) 20:56:41.69
後白河院の護衛任務を義経に譲っていることから
頼朝は京と接点を持つ範頼を警戒していた様に見える。
只、これに対して不満を一切漏らさないのが範頼の処世術の
巧みさを物語っている
646日本@名無史さん:2014/09/07(日) 17:34:31.27
>>645
そこんとこの政治センスっつーか立ち回りは、養父家の育ちの良さで持ち合わせていたんだろうな
一方、義経は東北の山奥でアイヌの奇襲戦法を習っているのであった
647日本@名無史さん:2014/09/07(日) 17:38:48.41
>>641
甲斐源氏が木曾や頼朝みたいに独立した勢力を築かず、頼朝に従ったのは、範頼の功績なのだろうか
648日本@名無史さん:2014/09/08(月) 05:48:40.16
>>647
頼朝が武田を牽制したから
武田は新田と同様に一枚岩ではないから分断させ易かった
加賀美遠光らは頼朝からの信任が厚かったけれども
その一方で、安田義定は後白河院より官位を授かっている上に
独立した大勢力で脅威であった為に粛清されている
西国に遠征している源範頼に対して安田義定に対する不信が募っている
という内容の書状を送っているね
649日本@名無史さん:2014/09/08(月) 20:14:23.79
>>647
> >>641
> 甲斐源氏が木曾や頼朝みたいに独立した勢力を築かず

挙兵した当時は木曽同様の独立勢力だったよ。
少なくとも富士川の頃は頼朝と同等。
その後甲斐源氏に対して懐柔内部分断暗殺侵略を仕掛けて服従させた。
650日本@名無史さん:2014/09/12(金) 19:27:00.82
>>648
そういえば武田義信の次男の板垣兼信は、
頼朝に人事の不満を訴えて不興を買っているね。

土肥実平とトラぶったらしいけど。
651日本@名無史さん:2014/09/14(日) 19:36:29.08
甲斐源氏の面々の行く末
武田信義 頼朝に服従させられる。
一条忠頼 暗殺される
板垣兼信 失脚
逸見有義 頼朝死後梶原景時に担がれたとして失脚
石和(武田)信光 頼朝に可愛がられる。結果的に武田の惣領となる。

加賀美遠光 親頼朝門葉として国司任官
小笠原長清 親頼朝。

安田義定 一番最後まで独立勢力。最終的に潰される。
652日本@名無史さん:2014/09/14(日) 22:11:48.49
>>651
一説には石和(武田)信光は北条時政と仲がよくて、
兄の逸見有義を売ったのは信光だったとか。
653日本@名無史さん:2014/09/15(月) 01:14:54.99
逸見有義は予てより頼朝から面罵されたり面目、求心力も
失っていたからね
惣領を巡って武田信光と反目していたんだろうな

>>649
源頼朝が上位権力として武田家と向かい合うようになったのは
寿永二年十月宣旨によって頼朝の軍事指揮権が東海、東山両道に
及んでからだね
それまでは対等な同盟だから武田の駿河、遠江の実効支配を
守護職補任に置き換えたり武田の対応に苦慮している様子が
伺える
654日本@名無史さん:2014/09/19(金) 23:32:14.17
>>644
人物業書には源範頼はなかったな
平安末期鎌倉初期なら吉川弘文館の鎌倉源氏三代記や戦争の日本史 源平の騒乱が御薦め
655日本@名無史さん:2014/09/20(土) 01:44:03.27
この辺の話は、永井路子の歴史エッセイでかなり取り上げられている。

>>645
実は源範頼も墨俣川の合戦の不手際を責められて
頼朝から叱責を受けているんだよね。
でも、その後は態度を改めて、他の東国の武士たちとも
話し合い、協力関係を築くことに成功している。
ちゃんと空気を読み、危険を察知できる人だったんだろう。
656日本@名無史さん:2014/09/20(土) 04:48:23.06
>>655
> >>645
> 実は源範頼も墨俣川の合戦の不手際を責められて
> 頼朝から叱責を受けているんだよね。

墨俣川の合戦ではなくて、墨俣付近で同行した御家人と闘乱を起こした事件だよ。(「吾妻鏡」元暦元年2月1日条)

永井さんの著作の後に進んだ研究によると
このエピソード実は木曽義仲との合戦の際
同盟軍として範頼に同行した甲斐源氏の一条忠頼と鎌倉御家人河匂実政との間で起こった争いで
範頼が頼朝から叱責されたのは
当時まだ甲斐源氏に気を使わなければならなかった頼朝の立場によるものだったらしい。
ちなみにこの河匂実政は一条忠頼暗殺直後頼朝からの「御勘気」を解かれて(御勘気の理由は従軍上洛時の一条忠頼との争い)
名誉回復された(「吾妻鏡」元暦元年7月20日条)
657日本@名無史さん:2014/09/20(土) 12:24:14.82
>>656
詳しい解説ありがとう。
658日本@名無史さん:2014/09/23(火) 01:40:58.15
>>646
義経は戦術家であっても戦略家ではないからね
御家人達を労う為に遠征軍の運営を優先させようとした
梶原景時の意思を無視して、源義経は独断専行に走って従軍した武士達の
不満が大いに募ったからね

其の一方で、源範頼は名誉と道理に叶った手堅い戦を遂行して絶大な信頼を
得ている
659日本@名無史さん:2014/12/01(月) 00:16:45.66
頼朝の関東制覇に於いては金砂城の戦いが要となる戦だな
佐竹と対立する与党の千葉家との利害関係や佐竹が奥州藤原氏と
提携する事を牽制する目的もあったようだ
660日本@名無史さん:2014/12/06(土) 17:08:11.17
悪源太義平が生きのびていたら頼朝と争いが起きなかっただろうか?
もし争いが起こればどちらが勝つだろうか?
661日本@名無史さん:2014/12/08(月) 19:07:29.40
個々の戦闘なら義平だが、大規模な戦争なら頼朝だろう。
662日本@名無史さん:2014/12/08(月) 19:23:18.14
>>659
その戦いの後も奥州藤原氏かその配下の豪族の支援を受けて
佐竹氏が常陸国でゲリラ的に反抗を続けたという説もあるけどな。
金砂城も大切だけど、坂東支配を決定的にしたのは野木宮合戦だと思う。
663日本@名無史さん:2014/12/08(月) 19:24:41.51
>>660
腕っぷしで押さえつけるなら義平だが
朝廷交渉ルートと折衝術を使える頼朝の最終勝利になると思う。
664日本@名無史さん
>>662
志田義広の敵対的且つ大胆な軍事活動は源義仲を後ろ盾とするもので
野木宮の戦勝は義仲を牽制する効果もあったからね

>>663
政治力は勿論の事、
幾多の死地を脱した強運さが頼朝の最大の武器だと思う