古田史学および古田武彦について語るスレ6

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814zarakoku
申し訳ございません。転写ミスをしましたので、またやり直します。

>>キミは、チクシの出土が最も多い、という出土実態を認めたようだな。それなら、鏡片は、チクシの「鏡の王」からの下賜品であった可能性が高い、という事になってしまうんだよ。<

>●どうして?スクラップ鏡を使ったペンダントが貧乏人に流行したら、九州に貧乏人が多かったって事には、なってしまわないの?<

 漢鏡的な内向花文鏡がスクラップ的にはなるものではないし、
 きちんときれいに成型されているからスクラップ様ではないし、
 那珂八幡には三角縁の完鏡が副葬されているし、
 祇園山でも、出土地が不明だが、三角縁が出土したらしい。
 要は、鏡片と完鏡は、必要に応じて使い分けられたらしい、というだけですね。
 
 問題は、チクシでは、三雲の前期庄内と那珂八幡の後期庄内に別れ、
 その後期庄内と河内や大和の庄内が同時期だ、と言うことですよ。
 
 つまり、大和における庄内副葬墓が、(祇園山よりも新しい)那珂八幡の時代まで(3世紀末以降?)遅くなるんであり、
 大和の布留や三角縁副葬墓は更にそれらよりも新しく(4世紀?)なる、という事ですよ。
 だから、三角縁のチクシ先行も明確になり、
 那珂八幡よりも古い弥生墳丘墓的な祇園山は、ますます卑弥呼の時代の墓になって行く、
 と言うことですよ。