古田史学および古田武彦について語るスレ6

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770zarakoku
また転写です。
またJOMON FEDERATION さんへのお返事です。

>畿内では4世紀に崇神は本州の4道をおさえ5世紀にはピラミッド以上の表面積をほこる超巨大古墳が複数筑られる。・・・<

 大和州は、531年までは、○國の別種の(倭種の)旧小国であり、地方の市を監督する「大○」職で、○國の附庸国であっただけだよ。

>としか中国には知られていなかったのだろう。<

 いや、志賀島の金印の○奴國はアマイ氏であった、という事は、中国史書では何回も強調されているし、 
 記紀にも、天照の生誕地を姪浜の小戸大神宮付近に指示しているし、天孫降臨も怡土(委奴、伊都、糸島)付近のクシフルであるし、
 (大和王のアマイ氏の祖である)神武の親族の伝承を持つ古跡が、糸島付近にいくつも残存しているし、
 倭人伝や書紀や風土記にも伊都国に王家があった事を記載しているし、隋書も竹斯國を記録している。

>>531年以降は、○國のキ氏が(大和のアマイ氏に)倒されて<>証拠は?<

 記紀や、『日本書紀』に引く「百済本記」や、松△野連家系図や、日本書紀私記の東海キ氏國の記録など。

>>臣下になり、<>証拠は?<

 松△連家系図や、隋書の「イ妥王姓阿毎、字多利思北孤」。

>君の最大の欠点は古田氏の盲従するだけで九州南東部にいた天皇家に関係する情報を認識していないこと。・・・◎神武の東征の出発点は日向(宮崎県)は常識。・・・<

 キミも最大の欠点は、大和一元列島支配主義で書かれた半分×書である書紀などの記載を、全く、史料批判せずに、盲従している事だ。

>伊都国のアマイは伊都国にいたアマ筑紫野風土紀に全く出てこないから 北部九州に大昔からいた人間ではないはずだ。
 南九州東部から北上した天皇家本流と考えられよう。南九州西部の紀氏系ではないぞ。<

 火の国山門から北上したらしいキ氏は、出雲に国譲りをさせて倭人の中心となった糸島付近の(アマイ氏を中心とする)天孫族と、合同王朝を作ったようなんだよ。
 神武らは、キ氏の勢威に負けて、東征を選択しなければならなかった敗残的流民集団であったんだろうよ。