また、Yahooのtextreamで投稿不能処分になった投稿を、
申し訳御座いませんが、こちらに転写記録させていただきます。
(○とは倭の事です。)
また空をつかむさんへのお返事です。
>>670年を境にして、だんだん大和の勢力下になったんだろうね。<
>:中国の資料で初めて日本が出てくるんは禰軍墓誌の石版(678年)だよ(678年は禰軍が没して年)
:禰軍墓誌内容660年に百済は滅んだけど「日本」の残党が扶余に立てこもって唐による誅罰を逃れてる状態だったんで唐皇帝は禰軍を使者として「日本」に派遣した(日本が2箇所に登場)
:日本書紀の天智4年唐からの使者・禰軍が来たって記述されてるよ<
この墓碑の記載の根本的な問題点は、列島と思われる記載に「○國」の文字が見えない事だろうね。
そして、「百済」という国名も避けている。
墓碑という「亡き人を褒め称える」文であるからなのか?、何か?、悪い意味の文字を避けているようなんですよ。
そして、列島に関しては、660年頃に、「日本」とその中にある「扶桑」、という区別した呼び方をしており、
日本という呼び方は、はるか以前から○國が別称した名前でもあるし、
大和が、用明の頃から自称し、○國を(670年に)併合した後の国名でもあるんですよ。
そして、「扶桑」という呼び方は、梁書の記載では、○國とは区別された大和付近の呼称になっており、
墓碑もそれを踏襲しているようなのですよ。
しかし、旧唐書では、白村江の戦いの相手は、「○国」及び「○衆」とはっきり書いているし、
禰軍も戦後の665年頃に筑紫にやって来ていて、事情は知っている。
だから、「日本」という国名は、墓碑の筆者は、「○國を代表とする列島国」の意味で使っており、
大和などは、扶桑国と呼んでいるようなのですよ。
>:白村江の戦(663年)で上毛野稚子は前将軍として出兵してるよ:ってことで670年以前から毛野国は大和朝廷の配下だよ <
それは無理だろうね。
唐が戦ったのは、○國と○衆だから。