♪邪馬台国ドンと来い♪117

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1卑弥呼
畿内説も九州説も、仲良くね

前スレ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1347058166/
2日本@名無史さん:2012/10/24(水) 05:03:31.95
邪馬台=やまと=大和=大和朝廷でもうよくね?
3日本@名無史さん:2012/10/24(水) 05:49:17.76
史学科は池沼とはなんのことだ。
あんた。
4日本@名無史さん:2012/10/24(水) 06:04:10.06
弥生時代末期の筑紫、博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)の
邪馬台国に国を譲る。これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、「和」国は分裂。卑弥呼はその最中に急死する。
【分裂した「和」国】
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)・筑紫/宇佐→安芸→吉備→「大和」
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)・日向↑ 【神武東征ルート】
....................隅国(鹿児島)
卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隅国(隼人)との三つ巴で
肥後狗奴国 (後の熊襲)を滅ぼし、「和」国を再統一する。その男系子孫であることを示すため、神武は投馬国(日向)から出航し、
「和」国の首都を筑紫・博多から「大和」へ東遷。「大王(おおきみ)」に即位し、「大和」朝廷を樹立した。
※記紀が、投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(投馬国王と台与の末裔である)大王家の系図操作。漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は建国の功績を消され出雲に祀られる。

【大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代】
〔前期古墳〕…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂投馬(日向)系大王
〔中期古墳〕…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀邪馬台(筑紫)系大王(百済へ軍事援助で王権強大化)
〔後期古墳〕…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂投馬(日向)系大王

-継体・安閑・宣化=日向系大王。継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君・磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王。筑紫系大臣、蘇我氏による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」へ
-天智・弘文=日向系大王。「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益を完全喪失。王権弱体化→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」。両系和解の記紀編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「道鏡事件」へ
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇。筑紫系天皇の奈良・平城京から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの平安京に遷都
5日本@名無史さん:2012/10/24(水) 09:20:52.23
妄想はいくら詳しく述べても妄想にすぎない。考古学者の論みたいなものだ。
6日本@名無史さん:2012/10/24(水) 09:37:33.38
>>2
漢委奴国王(1世紀)から帥升(2世紀)までの日本古来の銅鐸祭祀から、
中国伝来の銅鏡祭祀を共有する邪馬台国と大和朝廷がどう繋がっているのかは全く不明だが、
>>4のように女系で繋がっていたと見れば一応説明はつくような希ガス

いずれにしろ女王を戴いていたのだから男系直結でないことはたしかだと思うぞ
7日本@名無史さん:2012/10/24(水) 10:20:59.23
後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身
耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に
4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる
自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか

8日本@名無史さん:2012/10/24(水) 10:54:03.47
漫画の筋でも考えているの?
9日本@名無史さん:2012/10/24(水) 19:50:06.19
お前らいつまでやってんだよ?
さっさと結論出せよ。
10日本@名無史さん:2012/10/24(水) 19:51:08.52
結論言うと爺さん連中が発狂するから言いずらい
11日本@名無史さん:2012/10/24(水) 20:03:19.67
結論って何の結論?
12日本@名無史さん:2012/10/24(水) 20:04:01.01
今日の読売新聞(朝日だったかな)に、
民間の邪馬台国研究熱が高まっている
という記事がのってたね
13日本@名無史さん:2012/10/24(水) 20:09:54.60
>>11
分ってるくせに
14日本@名無史さん:2012/10/24(水) 21:58:39.56
↑ワロタw
15卑弥呼は満州にいた:2012/10/25(木) 09:11:28.19
慢性の 人材不足 2ch
16川柳の名人:2012/10/25(木) 09:38:34.14
>>7
>一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察

戦争で決着がつかないから、共立された。


「更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喻壹與。」

再び戦争で決着がつかないから、共立された。

だべ?
17日本@名無史さん:2012/10/25(木) 12:06:40.34
卑弥呼は血統による「王朝」女王ではなく、「共立」女王という点を強調する向きがあるが、
どこの馬の骨とも判らない巫女を女王に据えるわけがない。
卑弥呼は漢委奴国王や帥升の血を引いていたからこそ、「共立」されたと考えられる。

ひょっとすると九州内の他国、狗奴国や奴国(2万個)、投馬国(5万個)の王や官も、建国の神々(漢委奴国王・帥升)の血を引いていて、九州島を分割統治していたと思われる。
帥升の死後、各国の王(官)が輪番制で倭を代表する王となっていたが、なんらかの理由(能力か、直系か)で王位継承問題がコジれて最初の「倭国大乱」に至ったと思われ。
18日本@名無史さん:2012/10/25(木) 12:20:01.83
>>どこの馬の骨とも判らない巫女を女王に据えるわけがない。
>>卑弥呼は漢委奴国王や帥升の血を引いていたからこそ、「共立」されたと考えられる。


馬鹿が考える典型だな
飛躍が凄過ぎるわ
さすがモウロクじじぃ
19日本@名無史さん:2012/10/25(木) 12:28:14.59
↑鼻から脳みそが流れ出てるよw
20卑弥呼は満州にいた:2012/10/25(木) 12:33:00.55
2ch 名無し同士で 殴り合ひ
21日本@名無史さん:2012/10/25(木) 12:37:07.82
↑脳みそが腐ってるよw
22日本@名無史さん:2012/10/25(木) 12:41:53.83
朝鮮君の脳内にはキムチがいっぱい詰まってるからなw
満州君になってから大分発酵が進んだ模様www
23卑弥呼は満州にいた:2012/10/25(木) 12:47:50.53
発酵は 八紘一宇の ことでない
24川柳の名人:2012/10/25(木) 13:09:02.80
>>17
飛躍・妄想も場合によっては面白いが、これは方向が悪い。
25日本@名無史さん:2012/10/25(木) 13:16:19.14
耄碌じじぃ発狂wwww
26日本@名無史さん:2012/10/25(木) 13:27:14.33
>>22
キムチって密閉空間で発酵させると爆発しちゃうって前にテレビでやってたけど…
27日本@名無史さん:2012/10/25(木) 13:43:11.65
いつもセットで書き込んでるけど、川柳の迷人ってキムチ君?
28日本@名無史さん:2012/10/25(木) 13:50:39.43
唐太みたいなもんじゃね?
29日本@名無史さん:2012/10/25(木) 22:40:08.45
前方後円墳は、実は前方後方墳の方が古いのかもしらんな
前方後方墳は方形周溝墓の前方祭壇が
墳丘とつながったと考えるのは不自然ではないし
それを見た対抗勢力が墳形を円にして作ったという可能性はあるんじゃないか
30日本@名無史さん:2012/10/26(金) 12:56:44.42
もすかすて海の民のホタテをトーテムとする酋長さんのお墓のがスターターだったのかもしれない。
31日本@名無史さん:2012/10/26(金) 13:01:07.51
首ちょん切られたかあいそおな瓠酋長さんの姿をめもりあるのでかたどったものかもしれない
32日本@名無史さん:2012/10/26(金) 13:03:13.25
てるてる人形さんの影をかたどったものなのかもしれない
33日本@名無史さん:2012/10/26(金) 13:49:37.19
前方後円墳か前方後方墳かで勢力が分かれると考えるのは無理だろう。
同じ勢力の中で、設計担当者がちょっと違ったのを造っただけだろうな。
34日本@名無史さん:2012/10/26(金) 22:39:27.34
そんな形の墓なら、縄文時代からあるし。
列島民的には、何となく落ち着くんだろうね。
35日本@名無史さん:2012/10/26(金) 23:52:34.32
倭国の乱が収まった時期にはまだ古墳は始まらない。ということは、その時期はまだ銅鐸の
時期だってことだ。畿内が九州を征服したのならば、当然、自分たちが使っていた銅鐸を広
めただろう。ところが九州には銅鐸はない。九州に銅鐸がないってことは、畿内勢力が九州
に進出したなんてことはないってことだよ。
36唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/27(土) 00:37:55.97
銅鐸が畿内から消えるのは2世紀末。
ここから、巻向の発展が始まる。
そして、箸墓に先行する前方後円型墳墓が作られ始める。
庄内式土器が九州に上陸するのは、箸墓直前であり、箸墓は最初の大王墓。
37日本@名無史さん:2012/10/27(土) 01:38:43.95
巻向は三世紀後半だろう。それまでは銅鐸があったんだよ。
38唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/27(土) 03:38:19.19
纒向は2世紀後半 後漢193年冷夏。飢饉。
これにより、弥生後期後半は終了する。
この回復に成功したのが纒向であり。失敗したのが倭奴国である。
だから、卑弥呼共立は九州倭奴國。
成功した畿内邪馬臺國に倭王。

銅鐸祭祀の終焉は。この飢饉が発端となり。モモソ姫の葬儀からが古墳祭祀。
このモモソ姫の崇神世が引き下げられるのは、百済王家を正しいとする編年である。
しかし、百済王家は広開土王碑とは整合しない。
39日本@名無史さん:2012/10/27(土) 19:23:55.07
庄内式土器が九州に上陸するというのは、
関西が目をつけられるようになってきたということ。
西新や方保田東原にも、半島系の他、関西式その他の土器が集められる。
40日本@名無史さん:2012/10/27(土) 19:53:08.78
上陸って言い方も集められるってのも、ちょっと違うな
41日本@名無史さん:2012/10/27(土) 20:04:28.80
庄内式は優秀だから伝播したんだろ
もちろん関西勢力が持ち込んだものもある
42日本@名無史さん:2012/10/27(土) 22:02:43.67
土器の出土から、半島の「勢力」、瀬戸内の「勢力」、出雲の「勢力」、関西の「勢力」等が持ち込んだとするのは、
無理がある。いまどき奇特な解釈だ。
43日本@名無史さん:2012/10/27(土) 22:07:50.28
庄内式が地元九州でマネされたのは優れてたから
あと古墳時代初頭に関西風の豪族居館ができたところや
前方後円墳ができたところ(東九州とか)には
関西から人が入り込んでるのは間違いないだろ
44日本@名無史さん:2012/10/27(土) 22:10:55.06
ああそれから古墳時代始めには河内に
九州人の集落もできてただろ
人の交流があったということだ
45日本@名無史さん:2012/10/27(土) 22:21:31.50
西新の炉を設置した住居は、古墳時代になって、関西でマネされるようになった。
優れているから、すぐにマネをするということでもない。
46日本@名無史さん:2012/10/27(土) 22:28:26.23
>>45
大陸風かまどは先進文化だからな
なかなかすぐにマネできないこともあるだろ
ところでお前が何が言いたいのかぜんぜんわからんぞ
47日本@名無史さん:2012/10/27(土) 22:49:34.82
もし関西の人間が九州に入植していったとかの話なら
そんな事実はないだろ
48日本@名無史さん:2012/10/27(土) 23:44:19.41
弥生後期の流通圏は北部九州〜四国東部・畿内・長野にまで及んでいることは
最近の発掘、遺物の比較研究結果で確認されてるからね
49日本@名無史さん:2012/10/27(土) 23:47:56.37
天候不順等で米など農作物の収穫がままならない時代にあっては
交易はある種の保険の面があるから
50唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/28(日) 03:11:37.45
>もし関西の人間が九州に入植していったとかの話なら そんな事実はないだろ

前方後円墳に足はない、当然図面も文字もない
であるならば、畿内の人間が脳みそに叩き込んで持っていったということになる。

51日本@名無史さん:2012/10/28(日) 11:36:39.74
自民・公明じゃ何も変わらない
「民主」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「みんなの党」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「小沢」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「維新の会」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「石原」ならなんかやるだろ     ←いまココ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「第三極大連合」ならなんかやるだろ   
そんな感じじゃね?
52日本@名無史さん :2012/10/28(日) 12:41:21.17
>>48
ずいぶん前から、九州中〜南?部の遺跡で、各種鉄製品や桃の種などど瀬戸内、畿内式?土器が報告されている。
53日本@名無史さん:2012/10/28(日) 19:56:01.44
正倉院展行って来たわ。
大和のことを大倭って書いてたし、畿内説でOKでしょ。
54日本@名無史さん:2012/10/28(日) 20:46:51.25
なんか、自分の都合のよいように捏造している感じがして吐き気がする。
55日本@名無史さん:2012/10/28(日) 20:51:37.43
まともな根拠が何もないからやってんだろ。笑っておけばいいんだよ。
56筑紫の民:2012/10/28(日) 22:29:43.29
ふふ・
57日本@名無史さん:2012/10/29(月) 00:13:11.71
邪馬臺=やまと=大和
58日本@名無史さん:2012/10/29(月) 02:39:25.07
>>54
邪馬台国候補地は100箇所以上もあるんだよ。残念ながら、魏志の邪馬台国は一箇所であって、99%は間違ってるんだよ。間違った説を主張してるのは作家・歴史家だよ。だから素人の意見が間違ってて当然だよ。正解は1%しかないのだから
59日本@名無史さん:2012/10/29(月) 04:02:41.18
まあ、だから面白いんだけど。
私は、太宰府の下か、磐井が逃げ込んだという伝承の、英彦山から山国川の流域あたりを妄想する。
60日本@名無史さん:2012/10/29(月) 07:41:13.64
磐井は追い詰められて南山の曲で死んだといわれています。
ここは求菩て山のことといわれ、麓に南山という焼き肉レストランがあります。
61川柳の大御所:2012/10/29(月) 07:44:02.15
>>59
その辺は、裴世清の時代だろう。
62日本@名無史さん:2012/10/29(月) 10:18:23.58
説が正しいか、どうかは、専門家でなくても分かるよ。
末盧国から東南500里の伊都国が怡土だなんてのは、どうみてもおかしい。
怡土へ行くのに陸行するか? 怡土から先が訳がわからんじゃないか?
素直に佐賀市付近に行けば、それからの南水行もばっちりだ。
63日本@名無史さん:2012/10/29(月) 16:30:51.01
混一疆理歴代国都之図
仮に当時の中国でそう思い込んでたとしてだ

この土地規模でわざわざ軍事顧問送るかね?
当然日本と中国の間には海があるし
とてもじゃないけど、呉の牽制にはならんと思うけど
64日本@名無史さん:2012/10/29(月) 17:21:59.42
混一疆理歴代国都之図

この地図見たら、みんな南九州に行っちまうんだが。
この地図では、東に国はない。
65日本@名無史さん:2012/10/29(月) 23:12:15.30
混一疆理歴代国都之図なんて何の役にもたたんだろう。
66日本@名無史さん:2012/10/29(月) 23:36:46.26
孫呉の滅亡が280だが、その前からかなり衰退していた
一方三国志の成立は280以降で、その前から編集が続けられていたとしても
呉牽制論というのが成り立つかは微妙な気がする

混一図の成立は後代だがそれ以前の地図を見ても
九州を上にして北から南に延びる日本列島の認識は中国人にはあったと思われる

http://iup.2ch-library.com/i/i0774372-1351521022.gif

上の地図は11世紀頃のものと言われるが
北から 倭奴(倭の奴国)ー日本(平安京か)ー毛人(関東か)−蝦夷(それ以北)
となっており、琉球をのぞいてこういう認識はあったと思われる
ただし混一図などの地図は前代のものを参考にする場合が多いだろうから
この地理認識がどこまで遡れるかはわからない

67日本@名無史さん:2012/10/29(月) 23:41:56.78
可能性としては、倭人伝の元資料に地図はなく
道程は比較的正確に書かれていたとしても
もし陳寿の頭の中に南に延びていく日本列島という認識があれば
その誤解に基づいて倭人伝を書いてしまい
実際と整合しなくなったということは考えられなくはないと思う
しかしこれは何とも言えない
68日本@名無史さん:2012/10/29(月) 23:44:25.21
混一疆理歴代国都之図は、
李朝官僚の金士衡が、明朝から持ち帰った中国地図に
自分で朝鮮と日本を書き加えた地図(1402年)。

その時、倭人伝を参考にして日本を書き加えただけの話。
彼には短里という概念はなかった。
69日本@名無史さん:2012/10/30(火) 00:01:51.15
短里は戦後からの概念
70日本@名無史さん:2012/10/30(火) 00:11:54.07
呉牽制論はつまり陳寿の見たであろう元資料が呉を意識して
里数や戸数を誇大に記載してあったということだろうけど
記録というものを重んじたこの時代の中国人がそこまでするとは思いにくい

一方短里の場合は、同一の著作では同一単位が基本なので
短里があるとすれば、陳寿はその存在を知らずそのまま書いたということになるか
知っててごまかしたということはないだろう
短里といっても、ある時期以前は短里とか、三国志全体が短里とか
東夷伝だけ短里とかいろいろあるが、これも何ともいえない
あと伊作説はどう考えてもこじつけだろう

71日本@名無史さん:2012/10/30(火) 00:21:41.56
三国志の成立は280年以降だから、考えられるのは
司馬氏の功績と、征呉派と関係が深かった陳寿が280年以降に政治失脚しはじめた征呉派への擁護かな
72日本@名無史さん:2012/10/30(火) 03:28:23.02
東夷伝の序文にあるように九服之制の世界観で書かれているから
距離的にも方位的にも合わなくなったんでしょ
73日本@名無史さん:2012/10/30(火) 10:18:15.82
倭国へ来た使者にとって世界観も何もないよ。方角も距離もまちがうはずはない。
74日本@名無史さん:2012/10/30(火) 10:22:08.49
別に測量にきたわけでもあるまい
75日本@名無史さん:2012/10/30(火) 10:43:11.27
測量なんぞしなくたって方角や距離は分かるよ。
76日本@名無史さん:2012/10/30(火) 10:53:11.69
三国志全体を通読して、その他の漢籍にも触れれば
当時の中国人の考え方がなんとなくわかってくる
卑弥呼への答礼品を持った魏使はおそらく大人数で来たと思われる
倭国に対する示威行動として
大船で数百人規模の軍を従えて来たのではないか
答礼品が途中で奪われたとしたら大変だからな
当時の帯方郡には兵団もいたし船もあった

中国人の考え方なら蛮夷の倭人は信じないで
なるべくまとまって行動するだろう
自分らの船でいけるところまで行く
宿泊も船の中でするという形ではないか
準軍事行動として方位なども計測し素早く動いたのではないかと思う
ただしこれは推測であって根拠はないけどな

77卑弥呼は満州にいた:2012/10/30(火) 12:48:32.47
だから魏使が日本に来た、などとはどこにも書いてないだろうが。
いいかげんに馬鹿な前提は捨てろ。

それと呉牽制論は確か白鳥庫吉が思い付きで言ったことだったな。
白鳥庫吉という学者がいかに阿呆であるかをまざまざと語っているものだ。
78日本@名無史さん:2012/10/30(火) 13:04:22.14
と他人の考えを否定する人も、考えを披露すると他人から否定されるのだ
79日本@名無史さん:2012/10/30(火) 13:04:23.15
日本に来たとは書いてないが、倭国に来たとは書いてあるよ。それに呉牽制論
はそれなりに合理性がある。
80日本@名無史さん:2012/10/30(火) 14:24:44.52
海越えて、呉まで進軍か?
仮に占拠出来ても維持出来るとは思えんが
その前に攻撃するのも大変そうだけど
81日本@名無史さん:2012/10/30(火) 14:40:55.48
現実的にはむろん倭人がボロ船で呉に攻めていったとしても
どうにもならないほどの力の差があるんだが
呉の背後海上に大きな国家があると思わせて動きを封じるというのが呉牽制論

ただし三国志が成立するのは呉の滅亡後なのは間違いないから
もしそれがあるとすれば陳寿が参考にした資料に
誇大な数字が書かれていたとかの場合だよな
それから司馬懿の功績を大きく評価するための修飾論というのは依然成り立つだろ
82日本@名無史さん:2012/10/30(火) 15:04:35.63
倭国が呉を攻めるなんてことは誰も考えていないよ。呉が倭国で食料や水を補給できるかどうか
といった話だ。魏はそれを考えて倭を魏側に引き込むべく厚遇したというのが呉牽制論であって
それ以上のものではない。呉の牽制のために不自然な里数を書くなんてことはないよ。
83日本@名無史さん:2012/10/30(火) 15:19:54.09
たしかに「邪馬壹國」のは

「司馬懿」さんのにちなんで文字織り込んでうまいことよいしょしているからなあ

やっぱ「耶馬壹次心」のは「4馬懿」の倍付けとかなんかなあ

これわあはるかなるとおちゃんの血筋のがコモンとかいいたいのかなあ

そそ 「巍」のも 「やま」&「委」&「鬼」の組み合わせで

「魅惑」の「俾彌呼」さんのイメージとかうまく表現出来ていたりするしね

「壹與」タンいにたってはあたしはあなたのものよ みたいのおりこみ企画なんかな
84唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/30(火) 15:22:21.25
>卑弥呼への答礼品を持った魏使はおそらく大人数で来たと思われる
>倭国に対する示威行動として

卑弥呼にあったという記事はない。
239年 其年十二月詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王彌呼 女王卑弥呼は詔書にむくいる。この時点で認められる。

正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔賜金帛錦刀鏡采物 倭王因使上表荅謝詔恩
梯儁等が詔書を捧げて会いに行ったのは、邪馬台国の倭王だ。

女王卑弥呼は239年時点で認められている。その認めた女王に詔書を捧げるのか?
女王卑弥呼は239年時点で詔書にむくいる朝貢だよ。
女王を訪ねたのでは、話が逆転してしまう。
85唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/30(火) 15:36:06.99
倭国は、倭奴國卑弥呼と邪馬台国倭王の2王体制である。
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
 其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔。

北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。

東倭とは、倭奴国に対する言い回しであり、統一倭国を大倭と表記する魏書。
南に至邪馬臺國,即倭王所都。は、東に書換えねばならない。
歴年無主。←3世紀初めの前原王墓を最後とする。←考古学のいう巻向年代と整合した数字である。
考古学はさらに、3世紀半ばに畿内庄内式土器が北部九州に持込まれる、とする。
次の時代、布留式期(纏向5類)には、半島の土器やカマドと共存する。~功渡海はこの時代である。
86日本@名無史さん:2012/10/30(火) 16:26:30.96
そもそも1つの資料で単位の意味が2つに分かれるってのがありえないんだよ
自称知識人又は文明国の人間であれば尚更の事な
バカならある意味わからんが
でも、バカなら他も間違ってても不思議ないからどうしようもない

短里厨は宗教でもおがんでろよ
87日本@名無史さん:2012/10/30(火) 16:29:44.22
>謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
>だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
唐松が「其國亂」の「其国」を倭奴國と読んでいるのは完全な誤読。
靈帝光和中其國亂という表現は梁書によったものであり、其国は倭国だね。
88日本@名無史さん:2012/10/30(火) 16:33:09.20
>そもそも1つの資料で単位の意味が2つに分かれるってのがありえないんだよ
ならば、三国志は全て1里=80メートルぐらいで書かれているんだろ。
89日本@名無史さん:2012/10/30(火) 16:44:22.25
約430メートルだボケ
90日本@名無史さん:2012/10/30(火) 16:48:52.75
_
91日本@名無史さん:2012/10/30(火) 16:49:26.39


たこ
92日本@名無史さん:2012/10/30(火) 17:05:46.75
>>88
百歩譲って、それが正しいとしよう
そうすると、キョチョやテイイク等の将の身長が約40pになるが本気で言ってるか?
本気言ってるなら、悪い事言わん病院いけよ
93日本@名無史さん:2012/10/30(火) 17:20:40.42
身長40pの許?か、護衛されてもかなり不安だな
本当に強いのか
っていうか、逆に護衛の必要性がありそうだな

武器は小さくて済むから経済的か?
馬とかどう乗りこなしたんだろう

典韋とか虎と戦ったけど、この時代虎も小さかったのか
すげぇー大発見
2chは凄いなぁー
wwwwwww
94日本@名無史さん:2012/10/30(火) 17:46:56.58
短里派は短里諦めて他の方法でボクの邪馬台国見つけなよ

魏志倭人伝の著者は単位を揃える事もしない低脳で
周りの確認した識者もそれに同意してしまう低レベルな人達
魏志倭人伝はとてもまともとは言えない低レベルな資料とするか

短里なぞ存在しないと認めるかだね
95日本@名無史さん:2012/10/30(火) 18:07:24.67
公里で絶対に合わないことは明白なんで、
公理でないことだけは確実。

ただ、短里に相当する「名前」がないのは確実なので、
編纂の過程で、情報をぼかす意図か何かで、
6倍相当に書き換えたと見る。

里と日数を1/6すれば、非常に矛盾なく収まる。

1/6換算で考えれば、魏志倭人伝、隋書倭国伝、隋書百済伝が、
矛盾なく説明できる。

そして、その1/6も適当というわけではなく、周髀算経で現れるように、
限定的な場所で使われていたものを借りてきたものだろう。
96日本@名無史さん:2012/10/30(火) 18:35:52.58
>>95
百歩譲って、何故か知らんけど1/6にしたとしよう
そうすると、その他の部分においても変えてる可能性は否定出来なくなるよ
要は信用デキン資料ということになる
97日本@名無史さん:2012/10/30(火) 18:39:47.59
魏志倭人伝、隋書倭国伝、隋書百済伝では、距離の単位において、
一律に1/6換算して大丈夫だ。

朝鮮半島から日本の、いわゆる東夷に関しては、まとめて良い。
98日本@名無史さん:2012/10/30(火) 18:43:46.21
キョチョやテイイク等の身長って何里と書いてあるんだ?
99日本@名無史さん:2012/10/30(火) 18:47:48.53
>>97
だから、そこは譲ってあげるよ
他の部分において変えてないという根拠にはならんだろ
ボクの素直読みに都合がいいからとしか思えんが
100日本@名無史さん:2012/10/30(火) 18:55:48.19
ちなみに、秦以降、魏や隋など、いわゆる中国本体は、たびたび単位の統一令があったから、
公里であることを否定はしない。

短里は、あくまでも中国外の、統一令が通用しない東夷の国に関しての話だ。
101日本@名無史さん:2012/10/30(火) 19:04:17.15
色々考えんだな
アホの論点ズラしで

じゃー東夷では、短里以外もなんかの統一令で変ってるかもしれんし
そもそもどうでもいい、或いは自分達の意図を持って変更されてる可能性もあるだろ
102日本@名無史さん:2012/10/30(火) 19:09:36.86
早いとこ、三国志の将は身長30センチと発表してね
あと、虎や象も小さかったと発表しろや
もしかすると、手乗り鹿とやらも実在すんのかもなwwww
103日本@名無史さん:2012/10/30(火) 19:09:44.03
統一令というのは、中国の支配地内のことだ。外国の地について中国が統一令を
出すことはできない。
104日本@名無史さん:2012/10/30(火) 19:37:23.51
ていうかどうやって里を測っていたのか
105日本@名無史さん:2012/10/30(火) 19:38:03.70
ふつうに歩いてだろ
106日本@名無史さん:2012/10/30(火) 19:41:27.01
壱岐の島なんぞ、海上から見ただけでもだいたいの大きさは分かるだろ。
107日本@名無史さん:2012/10/30(火) 19:43:11.20
300歩で里
6尺で歩
だっけか?
108日本@名無史さん:2012/10/30(火) 19:45:50.35
里と里の距離で測ってたって方が現実的だと思うけどな
それだけで倭に特殊な里を適用する説明になるだろ
109日本@名無史さん:2012/10/30(火) 19:50:39.30
そういえば、一歩が144cmってのは、どういう経緯で決まったんだろうか?
歩く一歩なら、30cm程度、足がよほど長くても60cm程度だろう。

ゆっくり力を入れずに歩くと、人体構造上は、肘から手先迄の長さと、
一歩歩く距離が、だいたい同じ長さになるものである。
110日本@名無史さん:2012/10/30(火) 19:53:36.78
ちょっとおもしろい記述を見つけた。


wikipedia 尺

しかし、民間の尺や公定尺とは別に、大工が使用していた尺は長い間たってもほとんど変化しなかった。

これが曲尺(かねじゃく、きょくじゃく)である。曲尺とは元々は大工が使用する指矩(さしがね)のことであるが、
それに目盛られている尺のことも指すようになった。曲尺がほとんど変化しなかったのは、
建築技術は師匠から弟子へと伝えられるもので、政治の影響を受けなかったためである。

公定尺は税の取立てや商取引のために制定されるものであり、職人の使う尺に干渉することはなかった。

曲尺は、面積の単位でもある歩を元にして作られたものである。

当初の歩は、日本語で言う2歩分(両足を前に踏み出した長さ)を1歩とし、
1歩四方を面積の1歩としていた。その1歩の半分を曲尺の1尺とした。

すなわち、曲尺の1尺は日本語で言う1歩分(片足を前に踏み出した長さ)ということになる
(なお、その後1歩の面積は大きくなってゆき、現在の1歩は曲尺で6尺四方となっている)。

曲尺の尺は西洋のフィートと非常に近い長さであるが、どちらも足を基準にしているためであり、偶然ではない。
111日本@名無史さん:2012/10/30(火) 20:00:22.63
六尺為歩・・・やれやれ河童の得意技を知らない人が増えたんだな
112日本@名無史さん:2012/10/30(火) 20:05:34.73
覚えてなくても実生活に何も困らないだろ
今時、尺なんてほぼ使わないだろうし
113日本@名無史さん :2012/11/01(木) 21:00:42.86
大工はまだまだ使ってるとこ多いぞ
まあ一般人には関係ないかw
114日本@名無史さん:2012/11/01(木) 21:32:10.75
呉服屋さんとかもまだ使ってんじゃね
115日本@名無史さん:2012/11/01(木) 21:43:00.88
1歩はおっきしたちんちんほぼ1本半分、粗なるは2本分
116日本@名無史さん:2012/11/02(金) 02:07:24.88
尺が今でも一部日本で使われてるからといって
短里が存在した事にはならんだろ
諦め悪過ぎ

短里派の今後は下記の1〜3で選ぶしかない

1.短里なぞ存在しなかった

2.魏志倭人伝は信用おけない資料で何処が間違ってるか分らない
   理由はA〜Cのいずれか
     A.著者や周りの確認する人達のレベルが低く、
      同一資料で単位の意味を変えるというありえない事をしているから
     B.著者や周りの確認する人達はアホではないけど、政治的にそうする必要があった
      故に他の部分においても変更を加えてないとはいえないから
     C.政治的にも変えてないけど、基となる資料が間違っていた
      故に他の部分も間違っている可能性がある

3.三国志に出てくる将はのきなみ身長40センチ以下だった
 虎や象も成獣になってもかなり小さい
 (骨等で無理だろうけどな)


短里は諦めることだ
117日本@名無史さん:2012/11/02(金) 07:44:43.91
逆に魏志倭人伝、隋書百済伝、倭国伝では、
公里こそ、ありえない。

それは昔から分かっている事で、
畿内説では、何もかも正確ではないという立場で、
取り扱っている。
118日本@名無史さん:2012/11/02(金) 07:56:17.96
単純に短里も公里も違うなら、魏志倭人伝が間違ってるんじゃね
何らかしらの理由で、重要な箇所が間違ってるいじょう
他の部分も間違っている可能性がある

別に論的に難しい話ではないと思うが
何かすぐに論点を変えたがるけど
論点を絞らないと何を論じてるかボケるよ
学校とかでも習わなかった?
119日本@名無史さん:2012/11/02(金) 07:59:45.43
短里では、わりと正確。

短里が公里の1/6であることから、
日数も1/6すれば、ほぼ完璧に読解可能。
120日本@名無史さん:2012/11/02(金) 08:05:44.89
資料って自分の都合に合わせて読む物じゃないから
あと、上の方でも何度も書かれてるようだけど
他の部分で間違ってないって根拠が全くないだろ
自分の都合に合うから以外は

プラス、短里だと将の身長が40センチ以下になる
絶対ありえないの
理解できる?

いい加減論点をズラしてる事を理解しなよ
121日本@名無史さん:2012/11/02(金) 08:08:10.75
>>120 のほうが、論点をずらすのに必死な印象。
122日本@名無史さん:2012/11/02(金) 08:14:25.16
行程論は過去に何度もやり尽くされていて、
九州説の優位は変わらない。

だから、経験のある畿内説論者は、
行程論にはあまりちかづかない。
123日本@名無史さん:2012/11/02(金) 08:17:09.88
最後に書きこめば論戦勝利ってか?

朝鮮人みたいな発想だな

何で短里は間違ってる、公里も正しくなさそうでは不味いの?
で、そんな重要な箇所が間違っているいじょう
魏志倭人伝の信憑性は低いでおかしくないだろ
或いは短里はありえないでもいいけど

それとも将の身長は40センチ以下とするか?

その論点のズラしかたは9条教信者か?
124日本@名無史さん:2012/11/02(金) 08:19:50.91
ファビョったか......
125日本@名無史さん:2012/11/02(金) 08:25:37.23
身長40センチの将が多数実在
爆笑wwwwwwww
126日本@名無史さん:2012/11/02(金) 10:22:46.77
足が短かったんじゃないか
127日本@名無史さん:2012/11/02(金) 11:08:55.70
身長を里で表した例はあったかな?
128日本@名無史さん:2012/11/02(金) 15:15:11.25

自民・公明じゃ何も変わらない
「民主」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「みんなの党」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「小沢」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「維新の会」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「石原」ならなんかやるだろ     ←いまココ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「第三極大連合」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
129ローガン:2012/11/02(金) 15:32:06.83
>>122
>九州説の優位は変わらない。

短里とやらが、公定の里とともに魏で用いられた事。
かつ、一つの私撰の史書内に二種類の「里」が混在する事。
が一般的に認められるなら、確かに九州説有利だ。

>だから、経験のある畿内説論者は、行程論にはあまりちかづかない。

「経験のある畿内説論者」ではなく「まともな常識人」は
まず、現実のルートに適合しない。と考える。
だからといって、ルートに合う数字を発明したりしない。理由はいかなる「度」とも適合しないから。
机上で作られた数字が結論。
130川柳の常識人:2012/11/02(金) 16:08:39.87
>>129
>机上で作られた数字が結論。

 OH YEAH !
131川柳の見習い:2012/11/02(金) 18:15:22.13
>>129
>「まともな常識人」は
>まず、現実のルートに適合しない。と考える。

素人にわかりやすく説明して下さい。
132日本@名無史さん:2012/11/02(金) 19:06:48.61
>>131
言語にはルールがあるからこそ、誰が読んでも、意味が通じる。
漢文には句読がないから、句読の切り方で意見が別れる文章もあるが、
基本は漢文も言語であり、ルールがあることには変わりない。
倭人伝、なかでも行程記事は、それほど句読の切り方が問題になるような文章でもない。

ところが、行程記事は現実の日本列島には当てはまらない。
そこで、常識人は、漢文のルールは変えようがないから、
倭人伝の記事は、方角が間違ってるか、距離に誇張があるんだなと考える。

別の人は、倭人伝の記事は間違っていないと考え、なんとか現実と倭人伝を適合させようとする。
そのひとつが、漢文のルールのほうをいじろうとする人たち。
これが、「自分なりの読解」とか「倭人伝の本当の正しい読み方」として主張される。
先に邪馬台国に興味を持ち、後から漢文を勉強した人に多い。
先に漢文の素養がある人は、こういう主張はあまりしない。

もうひとつが、距離の単位が違うんだと短里を主張する人たち。
暦も度量衡も皇帝が定める中華世界で、
三国志に複数の単位が登場するのはおかしいだろうと常識人は考える。
そこで、短里の人は、三国志全体に短里が使われていると論証しようとするが成功はしていない。
133日本@名無史さん:2012/11/02(金) 19:17:02.91
1歩はおっきしたちんちんほぼ1本半分、粗なるは2本分。
134ローガン:2012/11/02(金) 19:31:58.35
>>131:川柳の見習い

関係ないけど、こんなんも面白いかも…
》》》今でこそ邪馬台国九州説を救え
http://www.google.co.jp/gwt/x?gl=JP&wsc=tb&u=http://desktop2ch.org/history/1281697816/&ei=0J-TUInYMMK0kgXM5YH4AQ&ct=pg1&whp=30
135川柳の達人:2012/11/02(金) 20:16:03.18
調子に乗るなローガン

魏志倭人伝に示された邪馬台国への道程(距離・方向・手段・日程)を
間違えたあるいは嘘であった証拠はあるのか。

素人相手にいい加減な自説を並べ立てるな。
136日本@名無史さん:2012/11/02(金) 20:49:27.87
>>135
もし>>132のことを言っているのなら、それはローガン氏のレスじゃないよ。
自分のレスです。
137日本@名無史さん:2012/11/02(金) 20:59:02.60
ぷろのひとなぬ
138日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:04:22.90
みんな素人w
139唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/02(金) 21:09:51.69
倭国は、倭奴國卑弥呼と邪馬台国倭王の2王体制である。
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
 其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、・・・倭王因使上表答謝恩詔。
12月 詔書にむくいる倭女王。
正始元年 詔書をささげて倭国にまいる。
ここ、倭王因使上表答謝恩詔。→晋書 正始元年 東倭重譚納貢。になる。
“東倭”を畿内ヤマトにすれば、方角に誤りがある。
しかし、東倭という以上、南に下ることもできない。
140日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:11:07.68
ぷろのひとがまままぬけぞろいだったりするのは

さいきんがっつしばれちゃったりしたよな
141日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:23:16.32
>>135
証拠ということではなく、3種類の仮説の確からしさの問題。

ごく普通の漢文のルールに則って読むと、現実の日本列島に合わないというのが出発点。
それに対して、
1、間違いがある
2、本当の正しい読み方がある
3、短里だ
という考え方がある。

邪馬台国の位置が確定していないのだから、どれも仮説であるという点では同じ。
どれを取るかは、論者の考え方次第。
しかし、おのずと仮定の程度に差がある。
一番、仮定の程度が小さくて、常識的なのは「間違いだろ」というもの。
常識が常に真実というわけではないけれど、
個人的には、特殊な読み方を追求したり、短里を持ち出すより、
「間違い」のほうが一番ありえるなと考える。
142日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:23:32.80
もともと倭人伝の里程や日程に疑問を持つ人はいなかった。
明治末期の内藤湖南が、距離を自分で勝手に決め付け、はるか南の海に
出てしまう、だから南は東の間違いであるとのたまった。これが畿内説の登場で、
畿内説の登場により、文献は間違いだらけにされてしまった。
143日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:32:32.06
>もともと倭人伝の里程や日程に疑問を持つ人はいなかった。

ホントかいなw
144日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:34:48.65
>>141
で、おまえはそれと同意見なのか?
ただコピペしてるだけってことは、同意見と言う事だな。
糞だな、おまえ。
本当に糞。

145日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:37:25.59
>>144 ← 佐賀県人=火病患者
146日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:43:03.44
>>145
納得
147日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:50:09.16
>>145 は佐賀県人にひどくやられたことがあると見た。
148日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:53:30.04
>>147 ← これも佐賀県人w
149日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:55:11.02
>>148
了解
150日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:55:47.86
もう、被害妄想が過ぎて、周りが全部敵に見えてるようだな。

お気の毒に。
151日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:57:15.74
魏志倭人伝の原点に立ち返ろう。
「倭は帯方の東南」
これを元に、帯方郡の郡治を沙里院として、そこから線を引いてみよう。
沙里院から東南を指すラインは北九州ではないか。

次に後漢書の原点に立ち返る
「倭は韓の東南」
韓は馬韓か弁韓だろう、そこから東南に線を引くと、やっぱり九州じゃないか。

これが結論ですよ。
152151:2012/11/02(金) 22:01:30.30
奈良は韓から見ると、完全に東じゃないですか。
倭の中心地が奈良にあったなら、「倭は韓の東」だったはず
153日本@名無史さん:2012/11/02(金) 22:02:30.10
「行程も風俗も、畿内と合わないから間違い。
でも、邪馬台国という名前の国は畿内です」

これでは、反論されてもしかたあるまい。

畿内と邪馬台国を繋げる根拠は一切ない。
154日本@名無史さん:2012/11/02(金) 22:05:39.22
>韓は馬韓か弁韓だろう

なりふり構わず恣意的w
155日本@名無史さん:2012/11/02(金) 22:06:22.11
>>148

これが畿内説論者の末路。

全部論破され、壊れて狂ったことを書き始める。
何度見てきた事か。
156日本@名無史さん:2012/11/02(金) 22:07:50.87
行き詰ったら毎度おなじみ行程論w
157日本@名無史さん:2012/11/02(金) 22:10:03.43
行程論は、畿内説では語れないからねえ。
158川柳の達人:2012/11/02(金) 22:18:41.36
>>141
畿内説も九州説も、対馬・壱岐・松浦(現唐津)、までは間違いないというみたいだが?
どういうことかな?
159唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/02(金) 22:26:43.63
>次に後漢書の原点に立ち返る 「倭は韓の東南」

後漢時代の倭国は倭奴国。
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。どこだ?


160唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/02(金) 22:42:07.47
景初3年 女王卑弥呼は詔書にむくいる朝貢。
つまり、それ以前に魏使が倭奴国までは来ているが、邪馬台国には行っていない。
つまり、魏志に書かれた、倭奴国以遠は聞き書きである。
そして、正始元年、梯儁等は詔書をささげて邪馬台国を訪れる。
その時の邪馬台国のアクションが、『東倭重譚納貢』になる。
であるから、邪馬台国は、『東倭』で説明できる場所でなくてはならない。
この場合の『東倭』とは、『女王倭奴国』に対する方位認識となる。
161川柳の達人:2012/11/02(金) 23:32:33.05
ほら、唐津で止まっちゃった。

唐津から 根拠がないの 嘘だから

「畿内説」心の川柳・・・あと一部の九州説の心
162俳句の名人:2012/11/02(金) 23:44:05.68
ありゃ、ローガン説も弱いんだね!

「多久の道 東南陸行 五百里」
163日本@名無史さん:2012/11/03(土) 03:46:36.34
完璧に読み解いた先に何も出て来ないって、
そもそも単に間違ってるだけだよな。
164日本@名無史さん:2012/11/03(土) 04:27:07.96
っていうか、短里なぞ存在しない、魏志倭人伝もところどころ間違ってるかもしれない

けど、私はコレコレこういう理由で○○が邪馬台国だと思うじゃ不味いの?
コレコレこういう理由は検証できないと不味いけど
165日本@名無史さん:2012/11/03(土) 04:29:56.16
どう考えても間違ってるであろう魏志倭人伝に何故そこまでしがみつくの?
今迄の人生まで否定されそうだとか?
166日本@名無史さん:2012/11/03(土) 04:44:15.91
関西説=「ゆるやかな」思考停止といったところだな。
167日本@名無史さん:2012/11/03(土) 06:31:12.52
短里派=三国志の多数の将の身長が40センチ以下
象や虎も成獣になってもとても小さかった
大爆笑wwwwwwwww
168川柳の達人:2012/11/03(土) 07:03:40.03
>>141
>邪馬台国の位置が確定していないのだから、どれも仮説であるという点では同じ。
>どれを取るかは、論者の考え方次第。

これで、魏志倭人伝の読み解きは、九州説も畿内説も差異はないと思わせようと
しているのは見え見え。必死なのはどっちやねん。


>一番、仮定の程度が小さくて、常識的なのは「間違いだろ」というもの。

ならば、魏志倭人伝の道程が、間違って書かれた可能性を言ってみ?

169日本@名無史さん:2012/11/03(土) 07:17:07.54
なに、そっちはたくさん間違ってる、こっちは少しだって言いたいの?

もともと資料が間違ってたら、どっちにしろ真実にはたどりつかないだろ
道程通りなら遥か南の海上だしな、それとも台湾にするか?

まぁ、九州説にしろ、畿内説にしろ、その他の説にしろ
素人ジジィのボクの素直読みで邪馬台国が発見できるくらいなら、とおの昔に発見できてるだろ
170日本@名無史さん:2012/11/03(土) 07:52:48.02
文献からも、考古資料からも、畿内説の根拠は皆無。
畿内説は大和朝廷に影響された幻想でしかない。
171川柳の達人:2012/11/03(土) 08:00:04.32
>>169
口の臭そうな耄碌爺が無脳絞って吐き出した言葉がそれか( ´,_ゝ`)プッ 
172日本@名無史さん:2012/11/03(土) 08:06:14.08
>>171
朝鮮人みたいな発想だな

竹島と尖閣諸島が何処の国の領土か言ってみろよ
クソサヨクがwwwwww
173日本@名無史さん:2012/11/03(土) 08:10:49.90
>>172

畿内説のアホが、壊れて狂っているところ
174日本@名無史さん:2012/11/03(土) 08:12:50.95
>>173
管連れて朝鮮帰れや
175日本@名無史さん:2012/11/03(土) 08:27:25.67
畿内説の言うとおりに、
公理を使って、東に行けばベーリング海峡
畿内に行く事はない。

まさか、松浦までは九州説と同じ短里を使うってことはないよね。
176川柳の達人:2012/11/03(土) 08:36:08.01
ま、お笑いはこの辺にして、畿内説は
魏志倭人伝の道程は松浦までは正解で、
松浦から間違っているとする「根拠」
教えてほしいですね。
177日本@名無史さん:2012/11/03(土) 08:41:03.21
1日で海を渡るのは測れない事もあって一律千里にしてんじゃね?
まぁ別にベーリング海峡とやらでも構わないけど

要は魏志倭人伝は正しくないって事だよね?
50歩100歩をどっちのが間違い少ないはずとか不毛だろ
元々間違ってたら何の意味も成さない
0からは何も生まれん
178川柳の達人:2012/11/03(土) 08:50:18.63
達人は 天気がいいので お出かけだ

川柳下手ですまんな、じゃ・な。
179日本@名無史さん:2012/11/03(土) 08:58:20.17
>>178
管連れて朝鮮帰れや
180テン:2012/11/03(土) 09:07:20.75
邪馬台国の所在地はほぼ決定的だよ。
邪馬台国が会稽東冶(呉)の東方海上に位置する規定、旅程距離5倍の法則、長距離旅程は方位が南の法則、方位時計まわりのずれの法則、水行10日陸行1月の新解釈、
からほぼ推定されてる。
「大和朝廷成立の謎 古代出雲王国から邪馬台国へ」っていう本だよ。
181日本@名無史さん:2012/11/03(土) 09:25:43.80
なんやかや言い出したらもうだめだろ。
182日本@名無史さん:2012/11/03(土) 09:48:37.50
邪馬台国とか個人の妄想領域がでかすぎて手を出しても不毛だろうに。
183日本@名無史さん:2012/11/03(土) 09:59:38.17
鳥取で患者の絶対数が少なくて暇だとか?

この手の本って何で自分が住んでるとこ、もしくは出身地に比定したがるんかね?
別に邪馬台国が存在したとこが出身地でも何も変らんと思うのだけど
観光業従事者くらいだろ影響あんのは

小学校の時、40歳過ぎの佐藤四郎って先生が居たんだけど
いい歳して名前コンプレックス持ってたんだ
それに通じるのかな?
184卑弥呼は満州にいた:2012/11/03(土) 10:38:13.68
ここに集まっている連中は、本に書かれていることを信じようとする傾向がある。
素人が書いた珍説でも、それが本になって出ていれば、それを評価しようとする。
近江説の本が出た後に、ここでも近江説が出た。
宇佐説の本が出れば、ここでも宇佐説が出てくる。
出雲説の本が出れば、ここでも出雲説が出てくる。

明治以降、ありとあらゆる珍説が登場した。しかも素人が唱えたのではない。
本職の学者が唱えたのだ。その本質を一言で言えば、記紀否定だ。
ここの連中はそれを一生懸命勉強して、それらの珍説に乗っているのである。
本に書かれているから、学者の書いた本だから、それを信じようとしているのである。
しかし本当に偉い人間は、学者の書いた本より、記紀を信じるのである。
津田左右吉が何を言おうと、偉い人たちは記紀をそのまま信じていたのである。
185日本@名無史さん:2012/11/03(土) 11:11:30.54
                    Λ_Λ
                    < `∀´ > トンスル飲むニダヨ
                   \    /   
                    |⌒I │
                    (_) ノ
             ______ _..レ__    ___
            /r''''''i i'''''ヽ|`i i'''ヽ`'i  i'´r.⌒ヽ|
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186日本@名無史さん:2012/11/03(土) 13:30:09.14
>>175
自郡至女王國萬二千餘里

このうち狗邪韓国までで七千餘里
狗邪韓国→對馬國→一大國→末盧國で
千餘里×3=三千〜四千里

一万二千余里の残りは二千里弱くらいしかない。
一里434mでも、2000里は868km。北部九州からベーリング海峡には届かない。
直線距離でも関東まで。南に進めば、まさに会稽東冶の東。

でも、郡から九州につくまでに一万里って、長すぎ。
短里に説得力を感じない者は、距離が間違いか誇張と推測するしかない。
ならば、末盧國以降の距離も、そのまま信用するわけにはいかない。
根拠があって間違いと断定するんじゃなくて、
消去法で間違いじゃないかと推測するだけ。

厳密に正確を期すなら、一大國までしかわからない。
後は推測。これが文献の限界。
187日本@名無史さん:2012/11/03(土) 14:41:09.08
帯方郡から狗邪韓国まで7000里
公里なら3000キロ程度

帯方郡から3000キロのところの、
狗邪韓国って、どこのこと?

南を東に言い換えるなら、反時計回りで90度
南東を90度言い換えれば北東。

狗邪韓国は樺太(サハリン)の先ってところかな。

唐津までは短里を使い、正常方位で、
唐津からは、公里で、90度曲げるなんて、
ご都合主義は取らないよね?



188日本@名無史さん:2012/11/03(土) 14:57:09.59
>>186 名無しのローガン
ふ、はまったな。
189日本@名無史さん:2012/11/03(土) 14:58:33.35
水行ってなってね?
190日本@名無史さん:2012/11/03(土) 15:14:05.05
短里派でHP作成してるやつは
これからは三国志の将の身長は40センチ以下のが多数いたって併記してね
wwwwwww
191日本@名無史さん:2012/11/03(土) 15:27:01.65
短里派の一部って、短里派が気の毒になるくらい、短慮なんだな
192ローガン:2012/11/03(土) 15:45:44.60
>>176:川柳の達人
>魏志倭人伝の道程は松浦までは正解で

私見を書くと、道程ではなく地誌。
一大国の「南北市糴」の対岸としては、「濱山海居草木茂盛行不見前人」の末廬国より、
原の辻同様の、楽浪滑石混和土器を出す三雲、つまり糸島の潟港が相応しい。
ゆえ、交易ルートつまり航路が既に存在し、中国人の居住が考えられる糸島が使者来倭時の上陸地点。
地誌として複数の資料をもとにまとめられたのが、倭人伝のテキストとなった。

魏代の認識では、金印の奴国まで一万里。
この概念にすぎない一万里を、3渡海と水行に按分という机上での操作により、実際の地理と比べ、極端に伸長されたものになった。
これに対し陳寿は、既に記録のある「洛陽から交趾郡まで南一万一千里、楽浪郡へは東北五千里」から
寸法を取り、会稽東冶の東という感想を述べた。
端折って書けばこんなもん。
勿論言うまでもなく、魏晋朝短里なんてない。
張華博物誌「始皇帝陵在驪山之北高数十丈周廻五六里」
193日本@名無史さん:2012/11/03(土) 16:06:01.82
糸島まででも、唐津まででも、距離的には大差はないが、
そこまで、何度も行くほど航路が確立していて、
それが一万里なら、

それは、短里の保証になるのでは?

いくらなんでも、6倍の差があれば、いつの時代かおかしいと気づいて、
修正がされるだろ。
それがないということは、一万里に誤差があるにせよ、
ほぼ正確だったということだ。
194唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/03(土) 16:10:37.91
六十五年秋七月。任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也。任那者。去筑紫國二千餘里。北阻海以在鷄林之西南。
ミマナクニ ソナカシチして ミツギなす そのミチノリは ツクシより キタえフチノリ
ウミへだて シラキのツサぞ


任那と筑紫の距離は、2千里程度。これがみまな建国当時の認識になる。
任那建国は、魏・晉が半島を管理する前の211年。
これと比べて倭人伝ではかなりな誤差となる。
よって、倭人伝の距離・方角からでは割り出せない。
195ローガン:2012/11/03(土) 16:27:06.52
>>193
>そこまで、何度も行くほど航路が確立していて、

それ南北市糴ルートの話。公的な使者については、
「而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不得通於諸夏。」
淵を斬り、位宮を追うまで絶域。
196日本@名無史さん:2012/11/03(土) 16:40:47.31
>>188
ボクが書き込むと、なんだかローガン氏のレスと間違われるな。
昨夜もそうだったような。

>>187
>南を東に言い換えるなら、反時計回りで90度
>南東を90度言い換えれば北東。

それは倭人伝全体が、地図を反時計回りに90度回転させた間違え方をしていると想定してるでしょう。

でも、對馬國→一大國では南渡海だし、對馬國と一大國では南北市糴となってる。
對馬國は対馬、一大國は壱岐と考える限り、ここは方角は正しい。
すると、倭人伝全体で90度回転して間違えてるという考え方は成立しない。

それよりも、どこか一ヶ所でも方角を間違えて記録していると、
結局、正しい場所には行き着かないわけだし、
間違え方としても、90度回転よりも、よほどありそうだと思うよ。
一ヶ所か複数ヶ所かはわからないけどね。
197日本@名無史さん:2012/11/03(土) 16:40:52.79
わからん
198日本@名無史さん:2012/11/03(土) 16:59:24.49
>>192
末盧國な
199日本@名無史さん:2012/11/03(土) 17:01:51.05
うぃきちょっとてえいれておいてあげたお
200俳句の名人:2012/11/03(土) 17:36:47.42
>>196
>間違え方としても、90度回転よりも、よほどありそうだと思うよ。

天子の命令で来た軍人が、方向を間違えることはないと思う。
冬至、夏至の日の出入り位は十分理解してただろう。
吉野ヶ里の北内郭の明堂の様な建物は、1度の狂いもないらしい。

方向は信用する。
201日本@名無史さん:2012/11/03(土) 18:08:25.47
朝鮮半島では中国の里とちがつた単位が使用されていた。それは当時の
人たちにとっては常識だった。それだけのことだろう。
202日本@名無史さん:2012/11/03(土) 18:09:07.15
倭人伝の方位が正確だとする仮説なら、最後まで正確に南に進まないとだめだよ
途中からちょろまかして東とか東南とか東南東とかに進んじゃw
方位が正確なら、「水行十日、陸行一月」もきっちりそのくらいの日数を要する距離進まないとね
資料を読んだ陳寿が「計其道里、當在會稽、東治之東」と想定したわけだから、
実際の位置が郡からそのくらいの距離でなければ、地理的には役に立たない資料でしかないね
203日本@名無史さん:2012/11/03(土) 18:22:12.64
本当にそのぐらいかなと思ったんだろう。だが、実際にはそれほどは南下して
いなかった、ということだな。
倭人伝の記事からすれば、会稽東冶も十分になっとくできる所だよ。
帯方郡から南へどれだけ下がるのかという問題だ。半島の西側を南下して乍東
し、あとは南下、末盧国から伊都国までは南東、それから更に南下だ。
南下しなかった部分は乍東だけと言ってよい。ということは、帯方郡から南へ
一万里ぐらいで女王国だってことだよ。それが会稽さ。帯方郡の緯度から会稽
の緯度まで八百キロ、ぴったりだろうが。
204俳句の名人:2012/11/03(土) 18:27:35.40
>>202
>「水行十日、陸行一月」もきっちりそのくらいの日数を要する距離進まないとね

 裴世清の来倭記事読んだことあるのか?
205日本@名無史さん:2012/11/03(土) 18:30:24.73
國國列挙のはひとまとめにして読まなきゃ駄目だろ

無駄にちょん切って読むのがちょんぎらいなのらろ
206日本@名無史さん:2012/11/03(土) 18:35:31.54
>>192
>私見を書くと、道程ではなく地誌
私見は勝手ですが、魏志倭人伝には郡から邪馬台国への行程が書かれています。

>一大国の「南北市糴」の対岸としては、「濱山海居草木茂盛行不見前人」の末廬国より、
>原の辻同様の、楽浪滑石混和土器を出す三雲、つまり糸島の潟港が相応しい。
解釈は勝手ですが、魏志倭人伝の行程は壱岐から水行千里で末廬国に至り、以降陸行し
邪馬台国に至っています。

勝手解釈で邪馬台国までの道程を捻じ曲げないように
207日本@名無史さん:2012/11/03(土) 18:37:56.26
俗に新羅の王子さんとかのも

新羅なんて國あったわけでもなしで

多婆から北に向かった倭人のお孫さんとかであってからに

あそこらへんのは甕棺とかぴかぴか手裏剣とかコモンなんであって

半島の南の方のも倭人の生息域なんだから

むしろ逃げてこれなくて居残った御子孫のこと同情してあげるべきでしょうね
208日本@名無史さん:2012/11/03(土) 18:46:04.44
>>202
>方位が正確なら、「水行十日、陸行一月」もきっちりそのくらいの日数を要する距離進まないとね

「水行十日、陸行一月」は総日程です。

郡から邪馬台国まで万2千里
〇郡から末廬国まで水行で万里を費やした
〇残り2千里中、末廬国→伊都国で5百里・伊都国→奴国で百里・奴国→不彌國で百里
〇上記の残りは千3百里、これは「言わずもなが」なので省略して邪馬台国までの日程を明記した。
その他
〇邪馬台国の直前に書かれて投馬国は、邪馬台国の属国で有力国だが訪問に至らなかったので日程のみ記載した。
209卑弥呼は満州にいた:2012/11/03(土) 18:51:01.00
そんなに南に拘泥して読みたいなら、素直に読めば、
投馬国とは奄美、邪馬台国は沖縄だろう。

沖縄から江南あたりに渡った倭人から情報が伝わり、
それが倭の位置、倭の風俗として記録されたと考えれば良い。

それとは別に倭の首都は邪馬台国という国だという情報が伝わっていたので、
陳寿は沖縄を邪馬台国だと勘違いして記録した、ということだろう。

卑弥呼の話もそれと同じで、卑弥呼は日本とは何の関係もないのだが、
倭の女王なので邪馬台国にいるのだろうと陳寿は勘違いしたのである。

ああ、ここに書くのが惜しいような見事な分析だ(笑)
210日本@名無史さん:2012/11/03(土) 18:53:47.58
南至投馬國水行二十日でもいいから進んでみろよ
南は台湾、東は小笠原諸島か伊豆諸島、北は函館辺りまで行けるから
211卑弥呼は満州にいた:2012/11/03(土) 19:02:38.57
そんなことはない。
百済から台湾まで海行三月だから、
奄美、沖縄で丁度合う。
212日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:04:27.78
>>210 
畿内説思考力零耄碌爺の答え方ですね。
213日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:08:46.40
熊襲の土人女王に執着して様々な努力
214日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:13:37.94
沖縄から台湾は宮古島が遠いからちとどうかと思うが
鹿児島から沖縄の約2割り増
20日あればいくんじゃね?
行き来だけなら、沖縄から畿内まで来てる痕跡もあるし
っていうか、縄文時代からかなりの範囲行き来してる
215日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:23:32.82
>>208
その仮説の場合
まず10日でソウル付近から呼子か唐津に当時の船で来れることを証明しないとね
そして「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
〜至の場合の方位は幅があるってことね、つまり正確ではないと
水行に対して3倍日数陸行して1/5の距離だから、船は歩行の15倍の速度というのが当時の認識かな
陳寿は「計其道里、當在會稽、東治之東」との想定と大幅に違ってくるから
当時の中国人は現在我々がGoogleEarthで見るような地理感はなかったということだね
216日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:26:23.81
>>212
サヨクは日本人が交易してたりすると気に入らないのか?
そんなはずない土地に縛られてるとか
もうそんな教育はしてないよ
217日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:33:55.06
>>216
どして、そこで、サヨクと思うのかが、意味不明です。
老人臭漂わせる呆け老人のクッサクサの書き込み臭いですね。
218日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:38:24.18
>>217
サヨクのせいで左翼が差別用語になってるから反応したくなる気持ちも分るよ
早く中国でも朝鮮でもいいから帰りなよ
中国の文献に間違いがあるはずないと言ってさ
あと竹島と尖閣諸島は何処の国の領土か言ってみろよ
219日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:44:52.85
>>215
仮説ではない、このとおりなのだ。

魏の使節は倭国の首都邪馬台国に至っている。
だから、その道程は正しいのだ。

距離に疑問があるのなら、その理由を考えるのが本筋だ。
220日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:47:05.42
>>218
畿内説らしい程度の低い書き込みですね。
221日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:53:21.11
>>220
短里をありとすると、大好きな中国の三国志の武将(多数)が身長40センチ以下になるけどOKなの?
wwwwwwwwwwww
222日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:57:00.32
海行三月、約240キロ

一月で、80キロだ。
223日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:59:27.31
>>221
なんのこっちゃ?わけわからん┐(´ー`)┌  
なんか間違ったところに粘着してませんか耄碌爺さん
224俳句の名人:2012/11/03(土) 20:01:44.97
>>219

yes sir !
225日本@名無史さん:2012/11/03(土) 20:02:23.67
対馬から朝鮮半島って60キロくらいじゃなかったけか
場所は違うにしろ

あの航路って約ひと月かけて進んだの?
対馬から壱岐は半月?
226日本@名無史さん:2012/11/03(土) 20:12:27.58
朝鮮半島の形状からすると「循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里」だと
半島南岸の真ん中くらいがやっとこさって感じかな
「始度一海、千餘里至對馬國」方位は省略されてるけど、ほぼ真東だね
「又渡一海、千餘里至末盧國」同じく方位が省略されてる末盧國の港も呼子、唐津以外の場所の可能性もあるね
考古無視すればね
227日本@名無史さん:2012/11/03(土) 20:19:40.52
無視できねえだろ ボケ
228日本@名無史さん:2012/11/03(土) 20:23:18.27
>>227
私は無視してない立場なんでねw
229日本@名無史さん:2012/11/03(土) 20:48:39.84
>そんなに南に拘泥して読みたいなら、素直に読めば、
>投馬国とは奄美、邪馬台国は沖縄だろう。
まったく素直じゃないな。倭人伝が伝えるところでは陸行1月できる陸地でなければ
いけない。ということは、九州島を出ることはない。
素直に読めば南九州以外にはないんだよ。
230日本@名無史さん:2012/11/03(土) 20:52:40.91
>投馬国とは奄美、邪馬台国は沖縄だろう。
連続説で読んでるようじゃ駄目だ。放射式だよ。
水行二十日で投馬国。水行十日陸行1月で邪馬台国。投馬国までの半分のところで
上陸しなければ邪馬台国には行けないんだよ。
231川柳の達人:2012/11/03(土) 21:21:03.66
魏志倭人伝には
〇邪馬台国に至る道程が記録されている
〇郡から邪馬台国まで万2千里と記録されている
〇邪馬台国までの総日数水行10日陸行1月と記録されている
〇魏国と倭国間は使節等が何度も往来したと記録されている
これで方向を間違える要素は0%に等しい。あとは距離の問題だけだ。
どうして公式尺度ではなかったのかを考えるのかが正当な邪馬台国論争だ。
232日本@名無史さん:2012/11/03(土) 21:23:15.89
>>231
正当かどうかはオマエの考え方だな
人に強制するなキチガイ
233日本@名無史さん:2012/11/03(土) 21:44:10.46
>〇郡から邪馬台国まで万2千里と記録されている
そうは書いてないよ。万二千里は女王国までだ。

>〇邪馬台国までの総日数水行10日陸行1月と記録されている
総日数ではない、北九州からだよ。 嘘読みをしちゃいかん。
234唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/03(土) 21:50:53.76
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、・・・
この記録は、「晋書 正始元年 東倭重譚納貢。」である。
235日本@名無史さん:2012/11/03(土) 22:02:28.13
海行3月240キロより、一月は80キロ

倭人伝の水行二十日と、水行十日陸行一月より、計二月で、距離は160キロ。

これはほぼ短里二千里である。

不弥国までの一万七百里にこれを加えて、
一万二千七百里。

つまり、総合計、万二千余里である。
236日本@名無史さん:2012/11/03(土) 22:04:26.36
>>235
発狂すんなキチガイ
237日本@名無史さん:2012/11/03(土) 22:17:12.61
ある程度街道が整備された状態での、
一日の旅行距離が16キロ位。

30日歩けば420キロ、
これは公里の千里とほぼ同じ一月行である。

これを1/6したのが、短里の一月行であり、
やはり、80キロ弱となる。
238日本@名無史さん:2012/11/03(土) 22:21:04.70
つまりは、里程と日数を1/6すれば、
短里として、すべてが矛盾なく収まる。

やっていることは、統一的に1/6しただけである。
239正統派論客:2012/11/03(土) 22:37:04.16
>>236
>発狂すんなキチガイ

このような発言は論理的思考のできない人間に特徴的である。
相手をキチガイと言い、その相手に発狂するなと要求しているのであるから馬鹿げている。

240卑弥呼は満州にいた:2012/11/03(土) 22:57:56.13
初心者ならいざ知らず、行程記事を何年も考えてきて、
それでも邪馬台国は九州だ、などと考えるのは、よほど頭がおかしい。

投馬国は但馬、邪馬台国は大和だろう。それで何の問題もない。
日本海航路が主流だった時代の情報が中国に伝わっていたのである。

ただし、邪馬台国は大和だが、卑弥呼はそこにいたのではない。
これが分らないと邪馬台国問題は解けない。
君らは卑弥呼は邪馬台国にいたと思っている。
そこが最大の盲点である。
241日本@名無史さん:2012/11/03(土) 23:18:59.90
>>238
「水行二十日」と「水行十日」は6倍される前の元の日数は何日だったの?
242日本@名無史さん:2012/11/03(土) 23:32:11.88
倭人伝のああ読めるこう読めるで騒ぐ馬鹿ってまだいたんだね
243川柳の達人:2012/11/04(日) 00:02:16.74
新井白石・本居宣長ともに、当初は畿内説であったが、魏志倭人伝が示す行程が
どうしても九州以外にないと判断し、最後は「邪馬台国は九州にあった」とした。

別に現在の我々だけが九州説を唱えているわけじゃない。論争の総元締とも言うべき
両名からして「九州説」なわけだ。
244日本@名無史さん:2012/11/04(日) 00:07:37.72
>>238

これ、時々見るけど、
これが出ると行程論の論争がピタッと止まるのが面白い。
245日本@名無史さん:2012/11/04(日) 06:53:47.53
>>244
バカバカしいからだろ
結論はわかってるし
朝鮮半島や日本では1/6にした資料はない
故にどう贔屓目に見ても肯定する根拠がない
根拠が無い物をひたすら合ってると言われて信じるほど低脳はいない

無い物をあると言わない
ある物をないと言わない

ただそれだけ
246サガミハラハラ:2012/11/04(日) 07:52:11.63
半島や日本では箕子朝鮮の文化の影響で、周尺(箕子朝鮮は周制をおこなっていた。)を
使用していたのです。周尺は1里67.5mなのです。
秦の時代に始皇帝は度量衡の統一を行い、それまでの1里を6倍したのです。
しかし、箕子朝鮮ではそのまま周性を維持し、周尺を使いつづけたのです。
247日本@名無史さん:2012/11/04(日) 08:18:20.21
>>246
始皇帝が「それまでの1里を6倍にした」というよりも
「各地バラバラだった里を一本化した」という感じだろね。

春秋左氏伝なんか読んでると、
周代でも長里を採用してる国(魯)もあったみたいよ。
248日本@名無史さん:2012/11/04(日) 08:30:17.54
周の時代の尺って、1尺=約24センチだけど
何処から4センチってなるの?

ちなみに、漢が約23センチ、魏が約24センチ
いきなり1/6になったりせんよ
249日本@名無史さん:2012/11/04(日) 08:33:58.71
もしかして、短里派の一部の人達は単位換算とか単位の関係とか知らんの?
250日本@名無史さん:2012/11/04(日) 08:55:28.17
距離の尺度については下を参照

http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/212ad78074b77887fe416fe2b1bf305c
251日本@名無史さん:2012/11/04(日) 09:12:17.82
>周の時代の尺って、1尺=約24センチだけど何処から4センチってなるの?
そんなことは誰も言っていないだろう。
一里が何尺か、周時代は魏とちがう単位が用いられていたんじゃないかということだよ。
魏時代には朝鮮半島には軍が派遣されていたんだ。韓国の大きさなんぞ、誰だって知って
いるはずだ。それを方四千里などと魏の里には全く合わない距離を書いていて誰もとがめ
ない。朝鮮では魏の里とちがう里が用いられていたことを皆がしっていたからにちがいな
い、ってことさ。
252日本@名無史さん:2012/11/04(日) 09:18:22.16
>>110 で書かれているように、
一尺と一歩が、ほぼ同じで、
一尺一歩だった可能性がある。

公里では、一歩6尺なので、6倍の差になる。

一番単純な仮説だ。
253日本@名無史さん:2012/11/04(日) 09:41:34.15
それは無理だろうな。尺は腕からきている、歩は歩幅からきている、それが同じに
なるわけはない。学者は三百尺=一里とか三百六十尺=一里とかいう制度があった
んじゃないかと考えているよ。
254日本@名無史さん:2012/11/04(日) 09:56:57.84
歩が歩幅から来てるのはよいが、
普通の一歩は40センチ程度。
二倍を一歩としても、長くても1メートル行かない。

それが4倍近い150センチでは、もはや歩幅からでたものではない。
255卑弥呼は満州にいた:2012/11/04(日) 10:02:09.46
短里説や放射読みなどは九州説者が苦し紛れに考え出したものである。
江戸時代の学者はみんな邪馬台国は大和だろうと考えた。
しかし魏に朝貢したとか台与が跡を継いだ等の内容が記紀とは異なるから、
あるいは九州の女酋ではないかと考えただけであって、
行程記事から九州と判断したわけではない。

太国なども記紀の内容から判断して九州説を採用しているのであって、
行程記事から九州説を採用しているのではなかろう。
古田、伊作、サガミハラ等も行程記事では九州説不利なので、
起点を帯方郡にしたり、半島内斜行説を採っているのだろう。

冷静に考えると、行程記事からは大和だと考えるのが正当なのである。
256日本@名無史さん:2012/11/04(日) 10:10:15.09
始皇帝は度量衡の統一をした、というのが
逆に言えば、
それまで度量衡がバラバラであったという証拠だな
257日本@名無史さん:2012/11/04(日) 10:14:33.79
>>255
行程記事からは大和へ行けないから、近畿説学者が苦労してるんだよ
行程記事から大和へ行けるのなら、京大に教えてやれよ
258日本@名無史さん:2012/11/04(日) 10:15:31.52
1歩はおっきしたちんちんほぼ1本半分、粗なるは2本分。
259日本@名無史さん:2012/11/04(日) 10:17:21.78
歩幅は足の大きさ(長さ)も入れるから70cm近くなるだろ
中国の古代の歩はその2歩分だから140cm弱だな
それがだんだん長くなっていった
260日本@名無史さん:2012/11/04(日) 10:19:14.22
ならんよ
261日本@名無史さん:2012/11/04(日) 10:23:03.10
@寸→尺→丈
A歩→里
@とAは、測定対象が習慣的に異なる体系で、混在使用されないもの。
Aがが変化しても@はそのまま、という事態がありうる。

三国志の尺は、漢代の尺とほぼ同じだろう。身長の記述からして分かる。
三国志東夷伝の里は、明らかに漢代とは異なる。「韓、方四千里」から明らか。
262日本@名無史さん:2012/11/04(日) 10:25:16.00
>>260
お前が言ってるのは踏み出したときの
つま先から着地したかかとまでの長さだろ
263卑弥呼は満州にいた:2012/11/04(日) 10:31:44.28
短里か公里かはどうでもよい。

水行二十日、水行十日、陸行一月。
この記事が九州説にとって決定的に不利である。

南を東の誤りだと見なしさえすれば、
水行二十日で但馬、水行十日で敦賀、陸行一月で大和。
これで何の問題も無いのである。
264日本@名無史さん:2012/11/04(日) 10:38:34.58
>>263
>南を東の誤りだと見なしさえすれば、

 軍人の復命報告書だぜ
 改竄するなよ
265日本@名無史さん:2012/11/04(日) 10:43:18.61
>>254
ちょっと自分の歩幅を測ってみろよ。
身長170cmに足りない俺でも70cm以上有るよ。
266日本@名無史さん:2012/11/04(日) 11:08:42.94
>江戸時代の学者はみんな邪馬台国は大和だろうと考えた。
無知も極まれり。江戸時代は南九州説が通説だよ。

>放射読みなどは九州説者が苦し紛れに考え出したものである
有力な畿内説論者が放射式に読んでいることを知らんのだろう。
九州説の榎が有名だが、最初に言い出したのは畿内説論者だったね。

>水行二十日、水行十日、陸行一月。
>この記事が九州説にとって決定的に不利である。
何も不利ではないね。連続説で読めばおかしなことになるけど。
放射式て読めばぴったりだ。


267日本@名無史さん:2012/11/04(日) 11:12:49.21
平均的な一歩の長さは身長の0.37だそうです。
268日本@名無史さん:2012/11/04(日) 11:22:21.63
江戸時代は記紀の120年ずれが発見されるまでは
卑弥呼=神功皇后という認識が多かっただろ
説というようなものではないが
269日本@名無史さん:2012/11/04(日) 11:36:15.20
卑弥呼=神功皇后と考えるかどうかは関係ないんだよ。魏使がどこを訪ねたのか、
それが問題なんだ。偽僭説というのを聞いたことがあるだろ。本当の卑弥呼=神功皇后は
大和にいた。使者はその名をかたった南九州の女酋長にだまされて南九州を訪れた。宣長
はそう解釈したわけだ。行程記事は明らかに南九州を指している、あとは記紀との折り合いを
どうつけるかって苦労していたってことさ。
270日本@名無史さん:2012/11/04(日) 11:39:52.88
本居宣長は国学的な考え方で
中国に朝貢して外臣扱いとなった卑弥呼を
神功皇后にしたくなかったから偽僣説で
卑弥呼は熊襲の女酋という説を唱えた
ところがこれが時代を超えて
古田の九州王朝説につながってくるから皮肉なもの
271日本@名無史さん:2012/11/04(日) 11:43:16.61
実は当時の国学者の一派で本居宣長につらなる者が
大和朝廷とは関係のない九州王朝の偽系図のようなものを作っていて
それが現代の九州王朝一派に証拠としてとりあげられていたりするわけだ
272日本@名無史さん:2012/11/04(日) 11:47:31.14
ただし本居は記紀の120年のずれに気づいていたから
神功皇后と卑弥呼は根本的に時代がずれることに
思い至ってもよさそうなものだが
このあたりは不思議で
調べてみる価値がありそうだ
273日本@名無史さん:2012/11/04(日) 11:49:06.68
もすかすて分身パージ企画した某氏は倭人の末裔ではないのかもしれない

とおやまの金さんは倭人の末裔ぽいけどさ
274日本@名無史さん:2012/11/04(日) 11:49:56.78
神功皇后にしたくなかったから偽僣説を称えたわけではないぜ。行程記事が九州
を指していたからだ。使者が大和へ来たっていうのなら、宣長は、中国が卑弥呼
の名声を聞いて通交を願い使者を派遣してきたって説明しただろうよ。
275日本@名無史さん:2012/11/04(日) 11:51:19.42
遠山金四郎の入れ墨は女の生首という説があるな
桜吹雪ではなかったようだ
276日本@名無史さん:2012/11/04(日) 11:52:58.28

大和みたいな近畿の僻地にシフトして根拠を置いたとゆうのは

それはそれなりに理由があるにちがいない
277日本@名無史さん:2012/11/04(日) 11:53:48.58
>>274
本居は確かに行程の検討をしているが
その動機というかきっかけは神功皇后と卑弥呼を切り離すことにある
278日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:02:25.13
銅鐸を駆逐した勢力が北部九州とかから移動してきたものでないとすると

あるいは朝鮮民主主義人民共和国江原道元山市あたりから直で移動してきたものかもしれないことになっちゃうが
279日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:05:28.73
銅鐸を駆逐した勢力は北九州から来たけど、移動してきたってことではないだろう。
本拠は北九州のままだ。植民地を広げるべく本州に出てきたってことだよ。
280日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:17:43.80
きない説のおかたは本拠がどうたらはみえててもみないふりしたいのがふつう
281日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:20:38.16
記紀の酋長さんのはおおかた九州方面のおひとだってきづいているくせに

なんとしてもむだな音あわせで田舎にもっていちゃいたいとゆうご希望なのがきない説のおかた
282日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:23:09.04
九州方面から近畿、それ以東への人の流れは何波もあったろう
そもそも縄文末あたりの大和は
東日本の土器を用いる東北との関係の深い集落が点在していた
283日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:29:34.16
植民地というか、単に人口が増えすぎて食えないから、
新地を開拓にでていっただけのようなきもするな。

そういう人たちは、国家なんて概念はあまり関係なかろう。
284日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:31:28.67
種籾とかもって訪問すると貴人待遇とかで受容されて種付けもできちゃうとゆう構図
285日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:39:59.25
考古学的にも弥生時代の畿内には何もなかったと言うことが明白になってきた。
白石みたいな畿内がいきなり北九州を支配下に置いたなんていう説がまちがいって
ことは明々白々だ。
286卑弥呼は満州にいた:2012/11/04(日) 12:44:21.39
秋風にたなびく雲のたえ間より 漏れ出づる九州説の空しさ
287日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:47:53.49
チョコレートとかもって訪問してばら撒くと
大量に非戦闘員焼き尽くして被爆させてくれたのとか
すかりお水に流してしまって
貴人待遇とかで受容されて種付けもできちゃうとゆう構図
288日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:51:46.30
朝鮮説が相手にされないので畿内説にすりよっておこぼれをもらおうって構図
289日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:59:01.80
ちんじゆさん

東夷伝の韓伝以降のは

ほんとは倭州ってタイトルつけようかなって思ったけど

やっぱりおおげさだからやめとこ

するどいひとがよめばわかるだろうからさ

にぶいやつは嫁なくてもしらんわ

こんなかんじ
290日本@名無史さん:2012/11/04(日) 13:22:10.08
>>288
はっはっは
それでもダメなら、近江説でもっと近ずく
いくらボケでもロシアまでは???
291日本@名無史さん:2012/11/04(日) 13:29:02.72
植民地というと、弥生時代に九州北部中部で日本独自に発展した文化って何かあるかな?
青銅器は朝鮮半島のものを忠実に作って、祭器として『どこかの神』に感謝と祈りを捧げてるようだし
唯一、糸島は朝鮮半島にないものを作ってるけど、あそこは漢代から中国人がたくさん住んでたところだし
日本の九州北部中部だけを切り取ってみると、朝鮮半島の楽浪郡と韓族の関係にちょうど似てるね
292日本@名無史さん:2012/11/04(日) 14:17:40.68
    ,、    /7       ,-、
    ( <.    | l      //´
    ヽ\,.ィ´ .ニニェ‐、//
      >、<゜> < 。>) 〈
     // ´ ノ( 、_, )ヽ ヘヘ.  嫌なら  見るな!フジテレベ!
     | l  ノ、 __!!,.、 | l
     ヘヘ.   ヽニニソ  ././
       ヽヽヘ、____,,..ィ,ン′
         `''‐---‐''´
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     // ´ ノ( 、_, )ヽ ヘヘ.  嫌なら  見るな!フジテレベ!
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     ヘヘ.   ヽニニソ  ././
       ヽヽヘ、____,,..ィ,ン′
         `''‐---‐''´
293日本@名無史さん:2012/11/04(日) 15:15:54.89
>>238 を否定する反論がないか注意深く見ていたけど、
明白な反論ってなさそうだね。

なかなか興味深い説だ。
294日本@名無史さん:2012/11/04(日) 15:19:38.03
じゃなんで最初から正確な数値(1/6)を倭人伝に書かなかったの?
295日本@名無史さん:2012/11/04(日) 15:48:13.04
>>293
明確な肯定がまずないだろ
基本、だった「はず」だけなんだから
296日本@名無史さん:2012/11/04(日) 15:58:33.03
>>293
これ、逆なんだ。
距離を矛盾なく説明するために、1/6の短里を想定した。
つまり、距離を説明するために作られた仮説が短里。
だから、距離を説明できるというだけでは、短里の存在証明にはならない。

科学の分野で、仮説は実験によって証明されなければだめなのと同じ。
297日本@名無史さん:2012/11/04(日) 16:05:49.71
>>296

その仮説で、距離はもちろん、地勢も方向も説明できてるよね?
298日本@名無史さん:2012/11/04(日) 16:30:07.42
加ドル、濠ドル、香港ドルを区別せずに、そのまま「ドル」として転記してしまうミスは
十分考えられるが、日数まで1/6にする論理が全く理解できない。
299日本@名無史さん:2012/11/04(日) 16:57:30.90
実際の距離(日数も)を6倍に誇張して記録した場合くらいだろ
300日本@名無史さん:2012/11/04(日) 17:26:24.01
>日数まで1/6にする論理が全く理解できない。
単に都合がいいと思ったまでさ。
301日本@名無史さん:2012/11/04(日) 17:36:54.12
日数は関係ない
里数だけだよ
302:2012/11/04(日) 17:51:15.98
一日航海=千里→郡から松浦まで万里=水行10日
松浦から邪馬台国まで2千里=陸行1月

ぴったり合うじゃありませんか
畿内説はこの現実を認めたくないから必死に逃げているのだ
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
303:2012/11/04(日) 18:32:21.29
1月=4週=5勤2休=20日陸行
2千里÷20日=百里/1日
1日の徒歩行進可能距離=道程の事情・行進組織の状況にもよるが6〜8km
=1里60m〜80m
304:2012/11/04(日) 18:42:47.99
2千里=120km〜160km
松浦から魏志倭人伝が示す方向に120km〜160km進んだ所に
邪馬台国は存在した。(`・ω・´) シャキーン 
305日本@名無史さん:2012/11/04(日) 19:11:34.56
昨日協力者として加筆

なお東松浦半島北端にある呼子には律令制下においても登望駅が置かれ大陸との交通の拠点になっていたが、
ここには支石墓から支石甕棺、甕棺墓、箱式石棺を経て配石墓に至る、推定前8-7世紀から2-4世紀の連続した遺跡が残されており、
抜歯を伴う縄文形質の人骨が出土した点でかっては話題になった。

東松浦半島北端にある呼子大友が末盧國のはじまりのところの上陸地点であることを暗示
ここからは東南陸行からスタートして伊都國を経て奴國・不彌國まで600里
東夷世界の標準尺として広範に生き残った周里600里は46km程に相当
これは道程(みちのり)のでのディスタンスだから
女の園が都地あたりにあったのにも整合してしまう。

標準尺と謂ったのはほんとうのは標準里とか標準歩とか謂ってあげるのがより正解
なぜならば
里とか歩とかで身長や山の高さやちんこの長さを表現してあげるのは土人ルールにもとるとゆうこと
306日本@名無史さん:2012/11/04(日) 19:24:19.50
神回www

1/3【討論!】中国の「日本直接・間接侵略」の実態[桜H24/11/3]
http://www.nicovideo.jp/watch/1351829143
2/3【討論!】中国の「日本直接・間接侵略」の実態[桜H24/11/3]
http://www.nicovideo.jp/watch/1351822521
3/3【討論!】中国の「日本直接・間接侵略」の実態[桜H24/11/3]
http://www.nicovideo.jp/watch/1351822869

パネリスト:
 梅原克彦(前仙台市長・国際教養大学教授)
 河添恵子(ノンフィクション作家)
 砂澤陣(工芸家・ブログ「後進民族アイヌ」管理人)
 坂東忠信(元警視庁刑事通訳捜査官・外国人犯罪防犯講師)
 三井田孝欧(新潟県柏崎市議会議員)
 鳴霞(月刊「中国」編集長)
 惠髞V介(ジャーナリスト・拓殖大学客員教授)
司会:水島総
307日本@名無史さん:2012/11/04(日) 19:29:22.18
>>305
潜水艦

並の下
308サガミハラハラ:2012/11/04(日) 19:39:23.94
周尺では、1里は50歩であったそうです。
50歩100歩の諺は、1里にげたものと、2里逃げたものとの違いということになるわけです。
秦の時代から、1里は300歩となったのだそうです。
309:2012/11/04(日) 20:12:24.75
九州説で一件落着
310サガミハラハラ:2012/11/04(日) 20:58:09.69
ご明察です。
311日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:03:14.14
近畿説の論客がいないから面白くないな
電信柱の影に隠れて、小石投げるような奴ばっかり
312卑弥呼は満州にいた:2012/11/04(日) 21:11:31.17
九州説は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ
313日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:24:21.38
畿内説とかどうでもいいつーか
朝鮮説をいまのうちにちゃんと叩いとかないと
そのうち手をつけられなくなるぞ
314日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:24:28.24
君子は矜にして争わずって言うからなあ。
315日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:27:46.58
邪馬台国が半島にあったつーのはいかにも無理だが
卑弥呼は半島の血をひく人間で
九州から大和へ東征したとか
ソウル大の教授が発表しても何の不思議もない
316日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:31:49.24
何も肯定できる資料を提示出来てないのに
何で短里派は喜んでるの?
自分の考えはこうですと言ってるだけだけど
317日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:47:48.88
各単位の換算比は漢書ではっきりしてるし、
尺については物差が出土してるから
そもそも彼ら短里派の主張が介在する
余地が無いんだよな。
318日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:54:19.43
>>312
満州は文学の才能はゼロだな
それじゃ、九州説をほめてる短歌じゃないか
319日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:54:50.83
どうかな?
320+:2012/11/04(日) 21:59:47.23
>>316 >>317
それはチミらが (∩゚д゚)アーアーきこえなーい してるから理解できないの
321日本@名無史さん:2012/11/04(日) 22:01:05.54
>>320
楽でいいな。知能が無いと
322日本@名無史さん:2012/11/04(日) 22:03:19.83
若者の畿内説離れ。
頑迷な老人どもが死に絶えれば
畿内説など恥ずかしくて
まともな神経では唱えられないものになる。
323+:2012/11/04(日) 22:04:26.14
>>321
くやしいか?アッヒャッヒャ!ヽ(゚∀゚)ノ dj! dj!
324日本@名無史さん:2012/11/04(日) 22:04:46.47
行程論は、畿内説では全く語れない。
325+:2012/11/04(日) 22:08:00.04
そうそう、だから>>316 >>317 が イッパイ イッパイ
326卑弥呼は満州にいた:2012/11/04(日) 22:08:01.35
み吉野の山の秋風さ夜更けて ふるさと寒く九州説説くなり
327日本@名無史さん:2012/11/04(日) 22:47:28.33
短里説じゃ論理的な説明が出来ないから
最後は煽るしかないよな。
328日本@名無史さん:2012/11/04(日) 23:15:30.30
行程記事を根拠にするなら、せいぜい鹿児島南端かトカラ列島しかなかろうね
他は方位をちょろまかすか、倭人伝の記述「計其道里、當在會稽、東治之東」を間違いとするしかないから
倭人伝の記述には誤りがあるという説になるな
鹿児島県おめでとう
329サガミハラハラ:2012/11/05(月) 00:07:43.38
あなたは、フミ国以降が里数から日数に変わったことをどう思いますか。
330日本@名無史さん:2012/11/05(月) 00:10:23.25
畿内説と九州説では日本の古代史が全く違ったものになる。
なので、ちゃんと決着をつけなくてはならない。
畿内説は、論争を避け、宣伝、啓蒙に走っているが、これは後の時代から
きつい評価を受けるに違いない。
331日本@名無史さん:2012/11/05(月) 00:13:59.40
>>330
啓蒙はまずかったかな。洗脳にしておこう。
332日本@名無史さん:2012/11/05(月) 00:27:22.46
まあ、>>327 >>328 のたぐいは、
畿内説ですらない知能障害のたぐいだから、
スルーするに限る。
333日本@名無史さん:2012/11/05(月) 00:28:13.53
畿内説か九州説かというより、重要になるのはプロセスだろうな
渡来人が弥生時代に大きく関わっていることは間違いないが
弥生期の渡来人が日本建国の主体であったのか、原日本人が渡来人を取り込んだのかだろう
まあ初めから立場ははっきりしているのかもしれんが
334日本@名無史さん:2012/11/05(月) 00:54:00.34
少なくとも行程論に関しては、九州説の圧勝で、何度も繰り返してきたこと。

今回もまともな議論すらできずに、畿内説論者は、煽り、荒らし、になっただけ。
最後に壊れて狂った書き込みを始めるのも、いつものパターンだったな。
335日本@名無史さん:2012/11/05(月) 00:57:59.52
九州説も何も鹿児島以外はちょろまかしてるだけだからなw
336日本@名無史さん:2012/11/05(月) 01:01:59.40
>>315
日本の古代史オタクは如何にも保守的すぎるね。
倭人の歴史といえば、日本列島内のことしか考えないのだから
大陸にも倭人居住地があったのに
337日本@名無史さん:2012/11/05(月) 01:12:21.67
吉野ヶ里墓場跡の掘り出し作業も終了したが
15000を越える甕棺の掘り出しは1/5くらい完了か
それにしてもすごい数だな
処刑場かもしれんな、または渡来人がもたらした伝染病の線もあるのか
青谷上寺地遺跡の人骨は脊椎カリエスが2体に見られるが
338+:2012/11/05(月) 20:57:50.44
行程論が九州が有利であることは証明できた。次のお題

<国内最古級の前方後円墳の可能性>    毎日新聞 2005年5月18日        宮崎県西都市

の国特別史跡「西都原古墳群」にある81号墳が、3世紀中ごろに築造されたと見られる国内最古級の前方後 円墳の可能性が高いことが宮崎大の調査で確認された。
81号古墳から土器の中に遺体を納める土器棺の一部が見つかった事が2日わかった。
土器棺は弥生時代に用いられた埋葬形式。
宮崎大学柳沢一男教授は「81号墳が国内最古級の前方後円墳である可能性がさらに高まった」としている。宮崎大学グループは遺物の発掘状況も加味し、81号墳は卑弥呼の墓とされる奈良県の箸墓古墳より古い3世紀前半の古墳とみている。

別に、邪馬台国西都原説ではないが、九州の先進性・東遷説を語る上で、この
古い古墳を無視してはいけない。
339日本@名無史さん:2012/11/05(月) 21:07:30.65

自民・公明じゃ何も変わらない
「民主」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「みんなの党」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「小沢」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「維新の会」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「石原」ならなんかやるだろ     ←いまココ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「第三極大連合」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
340日本@名無史さん:2012/11/05(月) 21:08:39.28
341日本@名無史さん:2012/11/05(月) 21:59:30.11
>>338

>行程論が九州が有利であることは証明できた

ドサクサに紛れて九州説にしちゃいかんよw
行程重視で比定できるのは鹿児島南端とトカラ列島だけだから
途中から東に進んでいいなら、比定地特定できないからw

西都原の81号墳は甕棺だったかな
甕棺埋葬の文化は西都にあったっけ
342日本@名無史さん:2012/11/05(月) 22:28:53.25
>>341
方角を変えるのはインチキ。方角を変えたらどこでもありになってしまう。
距離を自分の都合の良い距離にしたら、ますます何でも有りということになる。
畿内説の登場で、ありとあらゆる場所に邪馬台国候補地ができてしまった。

西都原の場合は甕棺とは言わず、土器棺と呼んでいるな。
実物を見たわけではないから良くわからないが。
343日本@名無史さん:2012/11/05(月) 22:34:57.16
>>341
方角を変えるのはインチキ。方角を変えたらどこでもありになってしまう。
距離を自分の都合の良い距離にしたら、ますます何でも有りということになる。
畿内説の登場で、ありとあらゆる場所に邪馬台国候補地ができてしまった。

西都原の場合は甕棺とは言わず、土器棺と呼んでいるな。
実物を見たわけではないから良くわからないが。
344日本@名無史さん:2012/11/05(月) 22:37:04.11
そういえば、吉武高木遺跡の歴代王墓と思われる墓で、一本ずつ鉄器がおさまってたそうな。

正確にはあの辺は、吉武XX遺跡がいくつかあって、
その中の遺跡群の一つ。

剣埋葬のはじまりかな。
345日本@名無史さん:2012/11/05(月) 23:11:12.48
吉野ヶ里や宇木汲田でも銅剣を出土してるぞ
346日本@名無史さん:2012/11/05(月) 23:29:59.17
赤漆玉鈿装鞘銅剣のがすごいよ
347唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/06(火) 00:55:52.19
>方角を変えるのはインチキ。方角を変えたらどこでもありになってしまう。

正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、・・・倭王因使上表答謝恩詔。
倭王因使上表答謝恩詔。→晋書 正始元年 東倭重譚納貢。

邪馬台国は東倭に書き換えられている。
348日本@名無史さん:2012/11/06(火) 05:31:43.71
東倭重譚納貢
 東、倭が譚を重ねて貢を納む。中国の東にある倭が朝貢して
きたというだけのこと。方角を変えたわけではない。
349日本@名無史さん:2012/11/06(火) 06:03:00.20
1/6が元々自分の都合だろ
伊作はそのまま消えとけよ
350日本@名無史さん:2012/11/06(火) 06:05:00.43
>>342-343
くやしくて二重投稿?アッヒャッヒャ!ヽ(゚∀゚)ノ dj! dj!
351日本@名無史さん:2012/11/06(火) 06:27:14.43
伊作=俳句の○○=+

最近はコテ2つで出没中wwww
352日本@名無史さん :2012/11/06(火) 08:54:32.26
東へ渡海して、千余里で狗奴国というのもあったな。
353俳句の王様:2012/11/06(火) 09:58:00.79
>>351wwwww

 説としては伊作氏に近い所もあるが、違う人間だ。
 一緒にするな。
 文面や内容をみて判断できないのか?   
354日本@名無史さん:2012/11/06(火) 10:10:44.37
畿内説は伊作氏にボコボコにされた恐怖から、何を見ても伊作氏に見えるのだろう。
355日本@名無史さん:2012/11/06(火) 10:17:24.33
未だにオマエだけだよ議論が出来ないのは
356日本@名無史さん:2012/11/06(火) 11:18:19.87
決定版!やらせブームの作り方!!

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極めて安いギャラ、権利関係等の無償提供によりメディアへの敷居を下げ
大量露出による継続的刷り込み作業を可能にする

3 資金調達
税金を毟り取る
政府が出資する文化推進枠などの補助金を全部横取りし、工作資金に使う
(文化推進枠は元々、政府と広告代理店が税搾取の為に作ったオブラート)
357日本@名無史さん:2012/11/06(火) 13:07:03.83
魏志倭人伝の方角は、夏至の日の出方角(62度)を基準としている。
対馬から壱岐に渡る際の記述は「又南渡一海」。上陸して
この基準を変えてはならない。URL地図は152度の南を厳密に
表示した。狗奴韓国の比定地金海から高千穂峰、更には串間に至る
直線を確認できる。ニニギもこのことを知っていた.

http://www.mapion.co.jp/m/route/33.745631326834854_130.0650695392086_2/?env=0000&dist=aTg608vQV9469Ww707xoM7299IA957xKU5279jx941ypW9889RD274xwz560aeE791xw1532ar9845xvU582auD055xy4902bon891w6G560aPn341x0w383aN6064wX4125aPn358x0w398

ふきだし表示のチェックをはずす。
358日本@名無史さん:2012/11/06(火) 16:03:01.33
伊作は無理矢理レスの行数を増やすから内容が薄まる上に読みにくい
行数が多ければ偉いとか単純に思ってるんだろうな
359ローガン:2012/11/06(火) 16:03:39.59
>>206
>私見は勝手ですが、魏志倭人伝には郡から邪馬台国への行程が書かれています。

誰の行程?主語はどこに書いてますか?

>解釈は勝手ですが、魏志倭人伝の行程は壱岐から水行千里で末廬国に至り、以降陸行し邪馬台国に至っています。

「差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。」田畑を耕せど食するに足りない島の人々の市糴の相方が
「草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。」人気の無い、素潜り漁中心の民…なんて変でしょうに。(笑)
交易ルートは原の辻⇔糸島。存在する航路を使うのが常道。まして、上陸地点は小チャイナタウン。
360俳句の大統領:2012/11/06(火) 16:19:54.27
>>359童顔
>上陸地点は小チャイナタウン。

冷泉津、草ヶ江、ともに遠浅の砂州である。
当時の交易の良港は、今津湾である。 今津湾の隣に「生の松原」「壱岐神社}があり
その奥に壱岐団地が広大な広さで、現在も存続している。
福岡市西区壱岐団地周辺では、壱岐と同じ中国の通貨も出土している。

>交易ルートは原の辻⇔糸島。

 OH YEAH!
361筑紫の民:2012/11/06(火) 18:03:28.25
糸島には古代に集落はあっても都市などない。地政学上も栄える要素はない。だから交易などない。糸島に出土物があるとしたらそれは交易都市からの
お流れ者の所持品。
北部九州で弥生時代発展していたとすればやはり博多。根拠は、現博多駅一帯
から那珂川沿いに多数出土している建物郡。現在、建て替え工事などでちょっ
とした発掘をしただけでそちこちで何かしら出土するわけだから福岡平野一帯
が大都市遺跡とみて間違いない。そんな中でも、那珂川中流域が最も栄えていたようであり、交易をするならその地域だろう。ところが、魏志倭人伝には、
福岡平野のような大都市についてなにも書かれていない。
つまり、魏の使節が上陸した場所は、交易港とは限らない。
362日本@名無史さん:2012/11/06(火) 18:28:46.92
>>361
人口が書いてあるよ
福岡平野は奴国で二万戸
投馬国5万戸
邪馬台国7万個
363筑紫の民:2012/11/06(火) 18:39:52.71
奴国は佐賀平野です。福岡平野ではありません。
364日本@名無史さん:2012/11/06(火) 18:41:21.07
じゃ、福岡平野は何?
365日本@名無史さん:2012/11/06(火) 18:43:26.31
いや、博多のあたりは昔から灘(ナ)ですよ。
366日本@名無史さん:2012/11/06(火) 19:00:11.58
ここでいう都市や国の定義をはっきりさせとかないと、
都市のある無しを議論してもどうしようもない。

ある程度の集落を都市としてもいいのでは?
367筑紫の民:2012/11/06(火) 19:01:14.63
魏志倭人伝では
「女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は
遠絶にして得て詳らかにすべからず。・・・次に好古都國有り・・・」
もしも、比定できるとしたら「好古都國」
368筑紫の民:2012/11/06(火) 19:05:36.08
好古都には 人がいっぱい 住んでたと

川柳下手ですまんな、じゃ・な。
369ローガン:2012/11/06(火) 19:06:06.06
>>361:筑紫の民
>地政学上も栄える要素はない。

へえ〜詳しいんやね。面白そうだから、敷衍してくださいな。
370日本@名無史さん:2012/11/06(火) 19:21:56.52
糸島の国道202号周船寺から海側は今でも砂地やね。
202号線沿いの平地は、当時は海というか、
怡土と志摩に挟まれた水路だった模様。

細石神社のところまで海だったらしい。

細石神社のところから南側の、瑞梅寺川と雷山川の間が、
当時の集落。遺跡もほとんどはここから出てくる。

ちなみに、今でも集落。
371日本@名無史さん:2012/11/06(火) 19:23:12.12
この当時の一つのクニは現在の郡より少し小さいくらいだな
遺跡から見れば北部九州だけで3世紀前後には
40くらいのクニがあったという研究もあるな
372日本@名無史さん:2012/11/06(火) 19:24:49.25
国道202号線沿いが海で、瑞梅寺川、雷山川周辺が集落だから、
今の人口の多いところはほとんど当時海。

当時、人口千戸程度なのも妥当な所。
373俳句の大統領:2012/11/06(火) 19:29:14.86
>>361筑紫の民
末廬國(九里双水、中原)から、東南陸行五百里だと佐賀県小城市になる。
3世紀の頃は、佐嘉国であった。 その他、鳥栖・基山の基イ国。
神崎を中心とした三根国。 杵島郡の杵島国が推定されている。

三世紀に存在していた「国」が、五世紀には「県(あがた)」につながり、
原始的国家の王が「県主」に任命されている事実が多いことから考えるると、
佐賀県に倭人伝の国名がまったく残っていないのは、おかしい。

伊都国(糸島)と奴国(春日市)はよく合う。

374日本@名無史さん:2012/11/06(火) 19:35:24.12
考古知識がなさすぎやねw
375日本@名無史さん:2012/11/06(火) 19:37:21.10
仮に糸島を伊都国にすると、
日向峠を通って、室見川流域、早良付近が奴国になってしまう。

そこから、春日や大宰府まではまだ遠い。

室見川流域は、また別の独立した国だと考えられているので、
色々と矛盾が出る。

ので地名を単純に合わせるだけでは、矛盾が多すぎる。
名前を合わせるか、距離と方向を合わせるか、の違いやね。
376日本@名無史さん:2012/11/06(火) 19:39:53.03
室見川流域、早良付近といえば吉武遺跡群だが、いわゆる早良王国である。

春日は、那珂川御笠川王国であり、大宰府につながる大国に所属するものであろう。
377日本@名無史さん:2012/11/06(火) 19:43:11.72
距離と方向は明らかに佐賀方面で、地勢的な矛盾もない。
伊都や奴という名前は福岡を暗示しているが、地勢的には全く一致しない。

さあ、どうすべ。
378日本@名無史さん:2012/11/06(火) 19:49:10.47
好古都を博多という説があるが、
当時海がかなり陸側まで来ていることを考えると、

福岡空港くらいまでは明らかに海やね。

福岡空港から南側には、金の隈遺跡や板付遺跡など、
たくさんの遺跡がある。

海に近いところにも遺跡があるが、島や低湿地地帯が広がっていたんじゃないかな。
そういうところに、いわゆる大国があるかどうか。

大国があるとすれば、それこそ、春日から大宰府あたりが、集落中心だと思う。
379日本@名無史さん:2012/11/06(火) 19:52:25.91
>>367
>女王国より以北の国

つまり邪馬台国以前に名の上がった諸国(奴国・不弥国・投馬国)は、邪馬台国の北にあるわけで、
邪馬台国は九州しかありえない
380日本@名無史さん:2012/11/06(火) 19:55:06.53
好古都は鹿児島。
381日本@名無史さん:2012/11/06(火) 20:09:14.30
卑弥呼の記憶が遠くはるかに伝承されておてもやんになった
382日本@名無史さん:2012/11/06(火) 20:13:41.65
おてもやんはほっぺに丹を塗っている
383日本@名無史さん:2012/11/06(火) 20:16:56.05
糸島の三雲・井原からは漢代から楽浪土器が出土する
弥生後期になると糸島の曲り田〜福岡の今宿の範囲で出土するようになる
現在は邪馬台国時代の伊都國の中心は今宿と考えてる学者が多いな
多量に出土するのは対馬と壱岐と糸島、他は久留米、築上郡、博多からそれぞれ1個づつ
九州以外では島根で海底から1個、岡山から模倣品が出土

倭人伝では一大國から末盧國への方位は記載されてないから
末盧が松浦に比定されるのは、糸島からの楽浪土器の出土状況からやね
佐賀説のように考古、地名無視なら末盧國は比定できんな
384日本@名無史さん:2012/11/06(火) 20:19:22.05
熊本は武道の国 代表選手は内柴、正代
385日本@名無史さん:2012/11/06(火) 20:24:34.63
末盧国の比定は伊都国とは無関係だね。壱岐から南へ千里、良港の地、末盧国と松浦郡の地名の類似、
考古資料、それらを総合して比定するんだよ。
386日本@名無史さん:2012/11/06(火) 20:25:03.95
>>383に追加
古墳時代になると壱岐、糸島に加えて博多湾岸から出土するようになる
387俳句の大統領:2012/11/06(火) 20:26:39.91
>>361筑紫の民
>地政学上も栄える要素はない。だから交易などない。

博多湾の河口は年々堆積物で浅くなる。 反対に船は大型化していく。
卑弥呼の時代、最も適していた外国交易の港は「今津」と思われる。
現に冷泉津、草ヶ江は陸地化していってる。
今津湾は、現在でも水深を誇っている。 周船寺があるのは当然。

今津から那珂川へと倭船が頻繁だったことは、荒津から見た
光景が万葉集にたくさん詠われていることでも想像できる。

荒津の古代の海岸線に「黒瀬神社」がある、20以上の神社が
一纏めにして祀られている。

今津湾が、この時代の倭国の玄関である。
388筑紫の民:2012/11/06(火) 22:25:38.26
筑紫の古代妄想家乱入・楽しかった?

筑紫わね 古代史いっぱい 楽しいよ

川柳下手ですまんな、じゃ・な
389唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/06(火) 23:11:14.87
>今津湾が、この時代の倭国の玄関である。

今津湾の”今”って何時?
390日本@名無史さん:2012/11/06(火) 23:37:11.59
「今津」「今宿」の「今」は、弥生前期に北部九州から菊池、宇土半島に流通した「今山産の石斧」の「今」だろう
今山にある熊野神社の由緒には「今山を昔は、夷魔山と書いたが、それは昔彦火々出見命が、この山上から弓で夷魔を
射平らげたからだという、また別名を弓張山とも言った」とあるが
まあそんな作り話はどうでもいいとして、「今」は何時の「今」じゃなかろう
391日本@名無史さん:2012/11/06(火) 23:46:05.97
今津湾か 
湾岸沿いは開発されまくってて何かあれば出ていそうだけどね
そもそも弥生末の海岸線はどのあたりだったか
392日本@名無史さん:2012/11/06(火) 23:55:10.02
今山遺跡、今宿五郎江遺跡、大塚遺跡
海岸線は現在と大して変わらんだろう
393日本@名無史さん:2012/11/07(水) 00:20:11.52
>>389
「今」は「伊馬」。
このあたりは半島からの渡来人によって建国された伊都国に併合されるまで
伊馬国といったのではないか。

ちなみに伊都国は千戸。軍事・外交基地として機能していた伊都国は
住民を奴国に移住させ、完全な城砦国家ではないか。
一大率や将軍、外交官の一族しか住まないといった感じの。
394筑紫の民:2012/11/07(水) 00:20:23.63
まだやってたんか。
おれは、宴会行ってたぞ。
弥生時代の墓しかない糸島一帯に何を求めるのかな〜?
南にいけば山に阻まれ、北に行けば山に阻まれ、国内で交易できない僻地に
何ができたのかい?面積もない、これといった特産物もない、こんな僻地興味わくかいな?これ、単純な地政学だわ。

海岸線などどうでもよい、要は・弥生時代の・物が・出土・したか否か。

灘=航海が灘・・・奴国と関係なし

博多湾が浅くなった→だからどうした?行くところまで行って、小舟に
移し替えて運べばいいじゃないか。長い陸路人力でせこせこ運ぶより
効率良いじゃないか?

だから・魏志倭人伝に・博多に行った形跡は・全く無い。
よって・交易港だのなんだのという「地理誌」などというものは「無い」。

筑紫には 邪馬台国は 無かったの
川柳下手ですまんな、じゃ・な。

395筑紫の民:2012/11/07(水) 00:29:59.46
あ〜酔いが回ってきた。
396川柳の達人:2012/11/07(水) 00:57:02.32
じゃ・な。
397日本@名無史さん:2012/11/07(水) 01:50:05.45
俺も一つ。

アマテラスとは わちきのことかと ヒミコ言ひ

字余りすまんな、じゃ・な。
398日本@名無史さん:2012/11/07(水) 02:35:58.58
倭人伝は東渡海千里に倭種の国があったと書くだけで関門海峡のことは一言も
書いていない。これも伊都国が玄界灘沿岸だったらありえんことだな。
399日本@名無史さん:2012/11/07(水) 03:34:13.00
関門海峡を通らなければ、関門海峡のことを書く必要はなかろう。
本州に渡るなら、かならず関門海峡のことは記録されているだろう。

今山-今津湾ラインは、どっちかといえば志摩郡の領域。
今宿は一応伊都側だが、どっちだろうか。

九大伊都キャンパス、製鉄遺跡の元岡遺跡群は志摩側にある。
400日本@名無史さん:2012/11/07(水) 07:13:03.80
伊都国の商港、軍港は今津にあったんだと思うよ。
筑前五ヶ浦のひとつ。今山は天然の城砦、見張り塔といった感じだし。
東行至百里、の不弥国(香椎付近)に行くには東へまっすぐ船を出せばいい。
401日本@名無史さん:2012/11/07(水) 09:25:39.26
放射説か?
402日本@名無史さん:2012/11/07(水) 09:44:48.87
今津湾から船の視点だと、

志賀島、能古島、玄海島はエリア内のご近所。
金印が伊都から運ばれて、志賀島に埋められたという説も、
たまに見ることがある。
403日本@名無史さん:2012/11/07(水) 11:24:32.24
今津湾の古称はアワキガハラ。
404日本@名無史さん:2012/11/07(水) 11:31:14.18
関門海峡は、海路で瀬戸内海に抜ける場合も、
陸路で、海峡を渡海する場合も、

かなり印象的な場所だから、
通過したら記載されているだろう。

記録されていない以上、
ここを通ったとは考えにくい。
405サガミハラハラ:2012/11/07(水) 18:31:47.13
倭人伝の、女王国の東、海を渡る千余里と、後漢書の女王国より東、海を渡ること千余里、拘奴国にいたる。
ここに現れる拘奴国はコート国とよみます。(奴はトと発音するのです。)
コート国のひとびとは、漢字が入ってきた時代にこれに孔門と漢字をあてました。
やがてこれを訓読みにして、アナトとしました。やがてアナトに穴門という字であらわすようになり、定着しました。
穴門とはいまの下関の辺りです。
406日本@名無史さん:2012/11/07(水) 18:44:11.60
えー肛門だろ 
407俳句の大統領:2012/11/07(水) 19:30:28.60
>>400
同見解の方が居られた。 嬉しいね!
私の不彌國は、名島です。(殆んど同じですが)
よろしく
408俳句の大統領:2012/11/07(水) 19:40:05.48
>>404
>記録されていない以上、
ここを通ったとは考えにくい。

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
里数が記載されてる。 行ってるんだろう。
皆倭種を確認してるでないか。

投馬国を見に行ったんじゃないのかな?
409俳句の大統領:2012/11/07(水) 19:47:56.81
>>394 :筑紫の民
>弥生時代の墓しかない糸島一帯に何を求めるのかな〜?

伊都国は、国ではない。
親方とは、かなりの差が見られるな。

客観性を要求する。
410筑紫の民:2012/11/07(水) 21:38:52.11
@郡を出て朝鮮半島の南端まで7千里航海したと
A朝鮮半島南端から海を渡って1千里で対馬についたと
B対馬から海を渡って1千里で壱岐についたと
C壱岐から海を渡って1千里で松浦についたと
ここまでで1万里かかったと、あと2千里で邪馬台国につくと
D松浦から「南東」に5百里で伊都国についたと
E伊都国から「東」に1百里で奴国についたと
F奴国から「東」に1百里で不彌國についたと
あと千3百里で邪馬台国につくと
411筑紫の民:2012/11/07(水) 21:44:11.94
これくらいのこと、新井白石も本居宣長も知っていたんやなかと。
だから「邪馬台国は九州にあった」って言ったんやろ。
412筑紫の民:2012/11/07(水) 21:48:38.99
魏志倭人伝も、九州説やったら、すぅ〜っと・スポンジが
水を吸収するように・脳に入ってくるわ。
413川柳の達人:2012/11/07(水) 21:50:48.63
九州に すっぽり収まる 倭人伝
お後がよろしいようで、じゃ・な。
414日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:06:16.20
>>405
出雲が拘奴(狗奴)だったら面白いですね。元祖「熊野」ですし。
415俳句の皇神:2012/11/07(水) 22:07:29.71
「佐嘉国に すっぽり収まる 伊都の国」

方向、距離、戸数とも納まりが良いようで、本日これまで・・・
416日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:13:39.61
九州説はやっぱり伊都国だよな
ここが大きな分かれ目
 
糸島に行くのか

それともきっちり東南に行くのか

はっきり決めなはれ
417日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:15:36.31
佐賀方面に一票
418日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:21:22.25
糸島説 長所 半島に近く郡使の通交・滞在に便利
          楽浪土器、三韓土器が出土し大陸人の滞在が認められる
          平原王墓がある

      短所 倭人伝の行程にある東南とはいえない
          松浦半島から陸行する意味がわからない


こんなとこか
419日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:25:10.60
遺跡の有無なら、唐津周辺からも腐るほど出るしな。
420日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:33:11.39
豊臣秀吉も朝鮮出兵時に名護屋城造ってるし、
古代はあの辺が都合が良かったんじゃね?
421日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:33:41.59
唐津→糸島は東南でなく東北、唐津〜糸島間は陸行のメリットゼロの断崖が海岸に迫る難路
末廬國が糸島で伊都國が大宰府近辺なら東南になるし、陸行で当然というか陸行しか不可
422日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:38:52.42
河口の汽水湖みたいなところに着いても深く沈沒して好捕魚鰒のは_

好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之
423日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:39:46.98
大陸に渡るのは唐津のほうが、実績あるからね。
だいたい、博多湾から出る船も多くは
唐津に一度寄ってから出発してる。

遣唐使船北路とか。

そもそも、地名からして「唐津」だ。
424日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:40:58.22
鏡山の麓には王がいてもふつう
よって
末盧國(まつろこく) には 【官記載なし】
425日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:51:05.08
登望駅のとこすなはち大友の地が末盧國ののはじまりで上陸地

草木蔦もにゃもにゃで前がみえねのも

あさのおたちは東南方向に徒歩でのもここので解消
426日本@名無史さん:2012/11/07(水) 23:22:21.03
帶方郡〜狗邪韓國  7,000里 從郡至倭循海岸水行韓國乍南乍東到其北岸
狗邪韓國〜對海國  1,000里 始度一海
對海國〜一大國    1,000里 又南渡一海
一大國〜末廬國    1,000里 又渡一海
末廬國〜伊都國     500里 東南陸行
伊都國〜奴國      100里 東南至
伊都國〜不彌國     100里 東行至
伊都國〜投馬國   水行20日 南至
伊都國〜邪馬壹國 水行10日陸行1月 南至

帶方郡〜女王國 12,000里
427日本@名無史さん:2012/11/07(水) 23:47:12.57
>>418
伊都国が怡土ではそこからの南水行が理解できないってことを忘れているな。
428日本@名無史さん:2012/11/07(水) 23:49:35.79
>>427
それは放射説をとった場合だろ
忘れたわけではなく中立に書いた
429日本@名無史さん:2012/11/08(木) 00:08:40.47
連続説でも理解できないな。怡土から東南百里で奴国、更にその東百里で不彌國では
内陸だ。
430サガミハラハラ:2012/11/08(木) 00:28:59.58
邪馬台国行程、フミ国が内陸になるという時点で間違いに気付けよ。
まちがったところから先に進もうとしてもますます間違い、箸墓についてしまうよ。
431日本@名無史さん:2012/11/08(木) 00:44:07.50
どこに着いてもいいんだよw
トカラ列島以外は五十歩百歩だろ
432日本@名無史さん:2012/11/08(木) 01:21:26.86
仮定
末廬國=糸島
伊都國=博多
奴國=大宰府以南筑後平野
不彌國=宇美

伊都國まで行ってるなら博多伊都國からは南に連なる山々が見えるはずで、
にもかかわらずなぜ南至投馬國水行…、南至邪馬壹國水行…としたのか
奴國域の宝満川→筑後川と下っていくことも可能か知らないが
433日本@名無史さん:2012/11/08(木) 05:13:25.04
現代人でもこんな認識なのだから、古代人の地理的知識の正確性を
疑う余地もなく、完全に受け入れるとかどうなの
http://www.chakuriki.net/images/vakachizu_030930.gif
434日本@名無史さん:2012/11/08(木) 06:27:39.55
昨晩までのまとめ

伊都国=糸島 否定根拠
●進んだ方向が違う
●伊都国が糸島なら「陸行」などせず「水行」できた
●糸島に発展する要素なし

奴国=博多 否定根拠
●進んだ方向が違う
●奴国が博多なら「水行」で直接行ける
●博多は弥生遺跡から質・量ともに当時の大都会であったにもかかわらず
 その特徴が倭人伝に描かれていない
435日本@名無史さん:2012/11/08(木) 07:24:52.51
【総括】
倭人伝は参考程度に
436日本@名無史さん:2012/11/08(木) 07:55:19.25
地名は参考程度に。やね
437日本@名無史さん:2012/11/08(木) 08:57:39.78
>>433
琵琶湖は今でも、滋賀県内で湖の面積のが大きいって思ってる人は要るな
438日本@名無史さん:2012/11/08(木) 10:04:30.92
>>435
倭人伝の原資料は、中国の知識人が倭国を実際に訪れて書いた報告書だろう。
内容は十分に信頼できるよ。
439日本@名無史さん:2012/11/08(木) 12:22:44.52
   
440ローガン:2012/11/08(木) 15:23:20.74
>>438
>倭人伝の原資料は、中国の知識人が倭国を実際に訪れて書いた報告書だろう。

なるほど。当時の中国人達が共有した常識的な「度」で書かれた訳だ。
441日本@名無史さん:2012/11/08(木) 16:58:30.19
中国人がみんな知識人だとか、知識人は常識的な度しか使わない
と思ってるのかな。
442ローガン:2012/11/08(木) 18:05:53.12
>>441
>中国人がみんな知識人だとか、

さあね?知らんな。

>知識人は常識的な度しか使わないと思ってるのかな。

思っている??
複数のしかも、6倍差の度が同国内に同時存在しない。という常識を述べたまで。
この常識を覆したければ、詔なり、志の記述なり、遺物なり… 出せば良いだけ。
443日本@名無史さん:2012/11/08(木) 18:11:29.85
しかしなあ、
官製の発表(詔、志、官製遺物)だけを見てても歴史の真実はつかめんぞ。

それはちょうど、現在の共産党政府の公式発表だけを見て
中国一般民衆の風俗・生活実態を論評するようなもんだからな。
444日本@名無史さん:2012/11/08(木) 18:14:41.31
6倍差の度、ってなによ?
ローガンがなんか新しい体系発明したんか?
445日本@名無史さん:2012/11/08(木) 18:55:18.87
末盧國 :: 虹ノ松原の南、鏡山の西にかって存在した古松浦湖(汽水湖)の周辺
        上陸地点は古松浦湖南岸の中原遺跡

伊都國 :: 嘉瀬川が背振山系から佐賀平野に流れ出るところの扇状地
        伊都國の城柵は惣座遺跡

不彌國 :: 吉野ヶ里遺跡周辺
        不彌國の城柵は吉野ヶ里遺跡
446日本@名無史さん:2012/11/08(木) 19:07:17.99
>>445
>>422 深くは潜れないから却下
447ローガン:2012/11/08(木) 19:27:23.81
>>443
>それはちょうど、現在の共産党政府の公式発表だけを見て中国一般民衆の風俗・生活実態を論評するようなもんだからな。

大本営発表と実態の乖離ね。
それと皇帝の専権事項である度を同様に語るのは、ちょっとなあ。
まして、九州説の言い分では、皇帝配下の官吏が皇帝の詔を携え訪れた事を、本国宛てに報告した単一資料なんだから
公式の度を用いない理路は、あまりにも不自然。
448日本@名無史さん:2012/11/08(木) 19:29:04.05
>>442
>さあね?知らんな。
ならば>>440のようなことは書けないはずだ。

>6倍差の度が同国内に同時存在しない。という常識を述べたまで。
君のいう常識が正しいとはかぎらん。それに私は同国内に同時存在したとも書いていない。
449日本@名無史さん:2012/11/08(木) 19:36:16.19
>皇帝配下の官吏が皇帝の詔を携え訪れた事を、本国宛てに報告した単一資料なんだから
>公式の度を用いない理路は、あまりにも不自然。
頭が固いな。いくらでもあり得ることだ。
450ローガン:2012/11/08(木) 19:53:28.23
>>449
>頭が固いな。いくらでもあり得ることだ。

では、例証してごらんなさい。勿論、出典の明記は必須。
451日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:00:18.74
しかしなあ、
倭人伝が「対馬から壱岐を1000里」「壱岐を1辺300里」としているのは動かせない。
しかも、この縮尺で倭人伝全体を書いているらしい、ということ。

一方で魏の時代の「公式の里」はこの6倍ほどなんだろ?
この事実から目をそむけることはできないよな
452日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:04:58.52
海路は航海の困難さや実測のし難さからどうしても長く見られがちだからな
15世紀の「海東諸国紀」はおろか明治初年の「道中記」でも
釜山ー対馬間、対馬ー壱岐間は実際の距離の3〜4倍で記録されている
453日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:16:50.84
>>450
>例証してごらんなさい。勿論、出典の明記は必須。
倭人伝が「対馬から壱岐を1000里」「壱岐を1辺300里」としているのは動かせない。
この事実から目をそむけることはできないよな。
だが、これをみても度はひとつだと言い張るローガンに何を示しても納得はすまい。
頭が固すぎるってことよ。
454日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:20:38.88
つーかローガンとか無視して九州説を展開すればいいよ
455日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:23:51.94
魏の黄海を横断できるような大型帆船は松浦川河口には入れんだろ
小型の倭船だけだろ、あんな水深が浅いところ
今でも狭くて浅いけど、当時は海への河口も違うし更に浅かろう
呼子だろな
456日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:25:23.64
呼子では歩く距離が長くなる、不合理だね。
457日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:26:11.30
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458日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:28:12.81
近畿説って途中行程に出てくる国に対比させた現地名が九州説みたいに出てこないのはなんで?
459日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:29:01.67
白痴の量産・・畿内説論者のことか?
460日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:31:04.88
>畿説って途中行程に出てくる国に対比させた現地名が九州説みたいに出てこないのはなんで?
倭人伝とまったく合わないからだろ。
461日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:33:49.31
>>456
>呼子では歩く距離が長くなる
どこまでの?

末盧國は官名も記載されてないし、唐津は通ってなかろう
末盧國の一部をちょろっとかすめたぐらいだろう
462日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:35:27.08
畿内説って北部九州を含めた範囲だろ
463日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:36:41.21
>>461
おれがかいているみたいな らくちんだなあ どもね
464日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:38:47.03
あれだね、畿内説だと、帯方郡まで辿り着くのに2ヶ月、天候によってはもっとはかかるね
使いを帯方郡に送ってる間に、狗奴国が攻めてきたらどうなったんだろうね
やっぱり九州北部の大陸に一番近い場所(筑紫)に卑弥呼の都がないと、
魏志倭人伝の狗奴国との非常時の対応は無理なのだよ。
筑紫から帯方郡まで1ヶ月もかからないだろうから、北部九州説しかないよ。
465俳句の皇神:2012/11/08(木) 20:39:28.25
>>451
>一方で魏の時代の「公式の里」はこの6倍ほどなんだろ?
この事実から目をそむけることはできないよな

大月氏まで、万一千六百里。 邪馬台国まで万二千里と記載されている。
実際は、8倍ほど大月氏の方が遠い。

短里は捨てるべきだ。 状況の説明手段に過ぎない。

里数は、ローガン説で十分だと思う。
466日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:41:42.19
1100年ほど前の10世紀平安時代の地名が字も読みもそのままor字面を変えor
読みも一部変わっているが他状況から推定される比定地と読みの共通性が認められる
率は7割といったところ
1800年前の3世紀なら半分程度はそういう形で残っていても良さそうなもの
467日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:47:49.20
>>464
そんなちっちゃな倭国、韓よりも日本内でも何時つぶれてもおかしくない程度じゃんw
468日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:49:02.43
まーそこそこ残ってるとは思うが、倭人伝のは中国人が聞き取って
さらに漢字の音を借りて表記したものが多いからな
469日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:50:06.28
>>467
西日本一体が卑弥呼の勢力圏、首都は情報伝達を優先し大陸に近い所
そういうことではないか
470日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:51:19.92
近畿説はないよね。頭悪すぎ。
問題は九州のどこにあったかだけど、どこが一番有力?
471日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:52:20.85
「鬼奴國」などの「○奴国」というのは倭人が「○の国」と言ったのを
聞き誤ったという説もあるくらいだし
472日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:59:46.49
>実際は、8倍ほど大月氏の方が遠い。
邪馬台国の位置を知らずに比べてるのかい?
473日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:59:49.59
>>465
確かに短里説だと解読は無理だけど、仮に旅程が全部5倍してあると
したら?
474日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:02:06.65
五倍するなんて理由はないな。
475俳句の皇神:2012/11/08(木) 21:04:19.03
>>472
>邪馬台国の位置を知らずに比べてるのかい?

日本国中の何処に存在しても、同じ位の比率だろう。
476日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:06:14.94
>>461
東南の伊都国まで陸行するんだろ。呼子で降りて歩くより唐津で降りた方が
ずっと楽だ。
477ローガン:2012/11/08(木) 21:11:15.55
>>453
>倭人伝が「対馬から壱岐を1000里」「壱岐を1辺300里」としているのは動かせない。

壱岐の方可三百里「1辺300里」が動かせないなら、
対馬の方可四百餘里「1辺400里」も動かせない(笑)。
面積比1:1.7
実際の面積比は1:5.2

>この事実から目をそむけることはできないよな。

せやな。
478日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:12:17.63
旅程が5倍にされているっていうことは、戦前から九州説の学者がいってたらしいよ。
最近読んだ本にもでてた。短里は短里だけど、結果的にそうなったのであって
旅程を5倍にしたからそうなったらしい。
確かにそれだと邪馬台国は北部九州で決まりだなって思ったよ。
479日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:13:57.92
それは結果的に五倍になっているってことだよ。五倍にして書いたってことではない。
480日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:19:04.82
1/5や1/6で換算しなければ、
狗弥韓国にもたどり着けない。
481俳句の皇神:2012/11/08(木) 21:19:26.43
>>476
唐津で降りて歩くより、伊都国まで水行のほうが
ずっとずっと楽だべ。

唐津から陸行しか方法がない場所が、次の目的地と
考えるべきではないのかな?
482日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:20:06.49
>>469
うん、そういう視点での九州説は否定しない
483日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:22:39.35
倭国まで何度も行くほど公知の場所なのに、
修正もされなかったというのは、

東夷の里程が1/6程度というのが常識だったからだろ。
484日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:25:32.49
唐津から糸島に陸路で行くのは大変だよ。
国道202号は海の上の崖っぷちに作られてるところも多い。
485日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:28:07.63
>>484
唐津行かないから
486日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:31:24.01
>>481
>唐津から陸行しか方法がない場所が、次の目的地と
>考えるべきではないのかな?
そのとおりだろうな。
487日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:31:34.95
>>479
じゃあ、何の結果で5倍になったの?
この前、読んだ本では意図的に5倍したって書いてた。
邪馬台国が呉の近くにあるように見せかけるためだって。
488日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:33:00.92
唐津なんかかすめないとぼこぼこにされちゃうよな
489日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:35:20.10
>>487
そうゆう馬鹿な説に引っかかってはいけない。万二千里をいわゆる公定里で計算すれば
赤道あたりに行くはずだ。それを会稽の東と言ってるわけだ。わざわざ5倍してしっぽを
だすような記述をするか? 東夷では中国とはちがった里が使われていた、それを皆が
知っていたから使ったということだろうな。
490日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:36:00.76
これわあ
鏡の女王墓のが甕棺から木棺にすりかわちゃっているのがヒントだよな
491俳句の皇神:2012/11/08(木) 21:36:49.36
>>487
>じゃあ、何の結果で5倍になったの?

証明できないから、捨てるべき。
他の考察の足かせになる。
492日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:36:53.51
日本の植物見てまわったおじさんは呼子で魏船降ろされたんじゃね
「お前この辺りちょっと見てこいよ、俺達先行っとくから」
493卑弥呼は満州にいた:2012/11/08(木) 21:39:54.53
(毎日毎日アホな議論が延々と続く。
なんでこいつらはこんなにアホなんだろう。
しかしまあ黙っていよう。
これが今の日本のアラフォー世代のレベルなのだから仕方ない。)
494日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:40:43.32
>証明できないから、捨てるべき。
そうすると、方四千里の韓国は九州も含んでいた、倭国というのは沖縄のことだと
でも言わんとつじつまが合わんね。
495日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:46:11.94
朝鮮が劣化すると満州に化けるとゆう法則
496卑弥呼は満州にいた:2012/11/08(木) 21:51:18.86
(特に九州説者のアホさは度し難いな。
日本にやってきた魏使の報告書だとか、
本気でそんなこと考えているのか、
バッカじゃなかろか。
しかしまあ黙っていようw)
497俳句の皇神:2012/11/08(木) 21:52:05.03
>>494
後漢時代以前の博多湾沿岸の萬里が、基準だろう。
三千里を引いたのが、方四千里の韓国だろう。

里数には興味ない。
万二千里の占有率としか考えていない。
498卑弥呼は満州にいた:2012/11/08(木) 21:55:31.38
(いつまでも5倍だとか6倍だと言っている奴も度し難いな。
なんでいいかげんな修辞だということが分からないのだろう。

しかしまあ黙っていよう。
どうせ同じことを百回言っても理解しないような連中だから。)
499日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:58:23.66
似たり寄ったりという言葉もあったな
500俳句の皇神:2012/11/08(木) 22:02:09.55
>>498
たま〜〜〜には、見解が合うね。
501俳句の皇神:2012/11/08(木) 22:05:15.12
>>486
ん! ひょっとして10才殿かな?
間違いだったら、失礼。
502日本@名無史さん:2012/11/08(木) 22:12:51.42
今井とは、今居、つまり今来た渡来人という意味。今の付くのは、ほとんどが渡来人。常識ですよね。
503日本@名無史さん:2012/11/08(木) 22:15:09.54
韓地はほぼぴったり短里、方四千里の面積。
釜山から唐津まで、直線でほぼぴったり短里三千里。
504日本@名無史さん:2012/11/08(木) 22:17:54.10
帯方郡から女王国まで12000里、伊都国までに10500里使用、残り1500里≒114km。
伊都国から東南100里(7.6km)ほどから奴国の領域で1500里(114km)で奴国が尽き、
女王国に入る。邪馬壹國=女王国=熊本。
505日本@名無史さん:2012/11/08(木) 22:19:39.34
>>502
駿河の今川家とかもそうなの?
506日本@名無史さん:2012/11/08(木) 22:22:52.86
>>465
万二千里の慣用的な用法は、昔から指摘されてきた筈。
507日本@名無史さん:2012/11/08(木) 22:34:10.49
>>491>>498>>500>>503>>504
旅程を5倍してあるのは修辞とかじゃないよ。
これが解けないと邪馬台国の場所は永遠にわからない。
旅程は意図的に5倍してあるっていっている本は大和朝廷成立の謎っていう本
だよ。これを読んだら邪馬台国は北部九州以外考えられないことがわかるはず。
508俳句の皇神:2012/11/08(木) 22:37:01.17
>>504
三世紀の九州勢力図は、鉄、人口とも福岡平野と熊本平野。
どっちかだろう。

熊本北部付近に一票。
509日本@名無史さん:2012/11/08(木) 23:38:02.83
熊本北部、というか玉名付近は魅力的な地域だな。
ここには有力な王が居たと思う。
古名は玉杵名郡。倭人条に出てくる鬼奴国だったんじゃないか。
今つきあってる女友達がここの出身。その親父さんは考古学ファンで
玉名こそ邪馬台国だったと言ってる。
510日本@名無史さん:2012/11/09(金) 03:56:01.99
>>477
對海國のことをいわれたら短里厨はすぐ黙りますな
511日本@名無史さん:2012/11/09(金) 04:56:46.22
>>510
>>477
>對海國のことをいわれたら短里厨はすぐ黙りますな

對海國の方四百里は短里説を裏付ける証拠である。

對海國方四百里=400里×400里=16万方里=200里×800里=対馬の面積
512日本@名無史さん:2012/11/09(金) 07:09:51.49
そうね、正しくは、一大国は方二百里、対馬国は方四百五十里ぐらいだね。一大国は
少し大きくみてしまった、対馬国は少し小さくみてしまった、ということかな。
しかし、方二百里と方三百里ならば観測の誤差として十分なっとくできる。
測量したわけではないのによく見ているものだと感心するね。
513日本@名無史さん:2012/11/09(金) 08:00:06.51
>>506
松本清張が言い出したこじつけのことかな。そんな駄説を信じているようじゃ駄目だね。
514日本@名無史さん:2012/11/09(金) 08:41:28.57
壱岐や対馬も、目検討つけてる程度なら、
短里で妥当な値だな。

これが公里だと、どうやっても合わないが。
515日本@名無史さん:2012/11/09(金) 08:55:40.33
発想が逆。
一辺400里なら、対海国は今の対馬全体ではなく、
今の下県郡の部分(南端の部分ね)だろう、と推定するんだ。

どっちにしても、倭人伝に千里・千里・千里と3回出てくる里
はおおよそ安定した長さを表しており、この単位で倭人伝全体が
書かれているらしいことは否定できない。

ローガンの対馬の反論は屁理屈の類に過ぎない。
屁理屈で理路論全体を覆すことはできない
516卑弥呼は満州にいた:2012/11/09(金) 09:25:41.75
陳寿は日本の位置や形について何も知らなかったのである。
百済でさえ、中国史書では、西に海を渡れば越だと書いてある。
凡その見当はついていたが、正確なことは知らなかった。

たしかに釜山〜対馬間は5〜6倍の数値になっているが、
帯方郡は遼東半島にあったのだから、
狗邪韓国までの数値は5〜6倍にはなっていない。
たまたま釜山〜対馬間だけが5〜6倍になっているのである。

短里説者諸君も、いいかげんそれくらいのことには気付け。
いい年して、いつまでもアホな短里説など唱えるんじゃない。
517日本@名無史さん:2012/11/09(金) 09:33:38.48
>たまたま釜山〜対馬間だけが5〜6倍になっているのである
対馬から一支国は? 一支国から末盧国は? 
518日本@名無史さん:2012/11/09(金) 09:34:34.11
下県郡の部分(南端の部分ね)だろう、と推定するんだ。
519日本@名無史さん:2012/11/09(金) 09:35:48.83
まちがえた。↑

>下県郡の部分(南端の部分ね)だろう、と推定するんだ。
対馬は上と下で一つの島、半分を無視する理由はない。
520卑弥呼は満州にいた:2012/11/09(金) 09:38:56.26
クラスの中に、一人か二人、出来の悪い生徒がいるとする。
その生徒に合わせようとすると、授業の進みが遅れる。
邪馬台国スレはそういうクラスに似ている。

九州説者の中に、行程から判断して、
どうしても大和説を認めようとしない人間が数人いる。
そいつらのせいで議論がいつまでも初歩的なものに留まっている。
短里説、放射読み、韓国内斜行説…。
こういうバカげた議論が延々と繰り返されている。
どうせ九州説を論じるなら、別の視点から論じよ。
邪馬台国は大和だと認めた上で、しかし卑弥呼は九州の女王だ、と、
どうしてそういう議論ができないのか。なぜ視点が変えられないのか。
521日本@名無史さん:2012/11/09(金) 09:47:42.12
>陳寿は日本の位置や形について何も知らなかったのである。
根拠なき妄想

>百済でさえ、中国史書では、西に海を渡れば越だと書いてある。
「中国史書」なんて曖昧な概念では話にならん。
陳寿の「三国志」から例を出して議論せよ

>凡その見当はついていたが、正確なことは知らなかった。
根拠なき妄想

この生徒は、レベルが低すぎて話しにならん
522日本@名無史さん:2012/11/09(金) 09:50:41.73
満州は宗旨替えをしたのか?
523日本@名無史さん:2012/11/09(金) 10:08:21.98
>>520
邪馬台国畿内説は日本古代史におけるガン細胞なのだ。
これ以上増殖したら、日本の古代史は死んでしまう。
早いうちに治療しないと大変なことになる。
524日本@名無史さん:2012/11/09(金) 11:00:21.51
520 :卑弥呼は満州にいた :2012/11/09(金) 09:38:56.26
クラスの中に、一人か二人、出来の悪い生徒がいるとする。
その生徒に合わせようとすると、授業の進みが遅れる。
邪馬台国スレはそういうクラスに似ている。


こいつが一番出来が悪い
しかも自覚症状がないのな
525卑弥呼は満州にいた:2012/11/09(金) 12:20:30.96
あほだらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたるぺーぺーの九州説
526卑弥呼は満州にいた:2012/11/09(金) 12:28:22.51
九州説で遊べや能の無い名無し
527卑弥呼は満州にいた:2012/11/09(金) 12:35:32.47
まあ、畿内説の人間にも大した奴はいないのである。
邪馬台国は大和だということまでは当たっているが、
それから先がちっとも進まない。

どちらかといえば九州論者の方がよく勉強しているかもしれない。
毎日毎日必死で考えているのは九州論者の方である。
ただ、あまり優秀な奴がいないので、レベルは低いままである。
528日本@名無史さん:2012/11/09(金) 12:38:09.61
句を吐いてもひとり
529日本@名無史さん:2012/11/09(金) 13:58:07.43
┌─────────────┐
│ 朝日新聞. 東京本社編集局. │
└─────────────┘
    .  .   ┌──人_从_人_人_从_人人_从_人_人_从_人人_从_人_人_
.  .  .  .   |彡 ) おるぁ!!2ch対策室!! アク禁解除されたぞ!!
.   .  .∧,_,,∧  | Y⌒YY⌒) 徹夜じゃ!! 気合い入れていくぞっ!!!
      (=@Д@) ..|   .|   Y⌒YY⌒YY⌒YY⌒YY⌒YY⌒YY⌒YY⌒
      ( O   ).つ|)  |
 ̄ ̄ ̄ ̄し―-J  |  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 国策だ!!            ヒキコモリニートが!!        ウヨ氏ね! ウヨ氏ね!
    なぜこのタイミングで!!             陰謀だ!!          ニート部落民が!!
 カタカタ ∧_∧    カタカタ ∧_∧     カタカタ ∧_∧    カタカタ ∧_∧ 
     <`Д´l|;>.        (@∀@l|)        (@∀@=)        (@∀@jl) ハァハァ…
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 | しゃっきり.. |三|/  | 過剰演出 |三|/  .| アサヒるw |三|/ . | 編集局員(49).|/
                 政権交代!
   ネトウヨ! ネトウヨ!        政権交代!    謝罪セヨ! 賠償セヨ!   私は悲しいのです・・
 カタカタ ∧_∧    カタカタ ∧_∧     カタカタ ∧_∧    カタカタ ∧_∧
     (@∀@l|)        (@∀@l|)       (・∀・l|;)=>       <゚ ー ゚#> ハァハァ…
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 |   K Y  .|三|/  .| フルタチるw |三|/  .| NYTオオニシ |三|/  | アジここ. |三|/
530ローガン:2012/11/09(金) 15:09:16.94
>>453を再掲。
>>450
>例証してごらんなさい。勿論、出典の明記は必須。
倭人伝が「対馬から壱岐を1000里」「壱岐を1辺300里」としているのは動かせない。
この事実から目をそむけることはできないよな。
だが、これをみても度はひとつだと言い張るローガンに何を示しても納得はすまい。頭が固すぎるってことよ。』

こちらは例証を求めているんだが、無理と判明。

>>515
>一辺400里なら、対海国は今の対馬全体ではなく、今の下県郡の部分(南端の部分ね)だろう、と推定するんだ。

に対する>>519氏の
「対馬は上と下で一つの島、半分を無視する理由はない。」

指摘の通り、対馬は一つの島だ。ゆえ>>453は幼稚なチェリーピッキング以外の何物でもない。しかも例証は不可能…
稚拙な投稿で、まともな九州説者の足を引っ張っているだけ。
531日本@名無史さん:2012/11/09(金) 15:39:51.14
>例証を求めているんだが、
文意が理解できていないようだな。東夷伝の里はその実例だって言ってるんだよ。
韓国の方四千里、対馬国の方四百里、一支国の方三百里、全部その実例だ。

>指摘の通り、対馬は一つの島だ。ゆえ>>453は幼稚なチェリーピッキング以外の何物でもない。
指摘したのは私だよ。>>453と何ら矛盾はない。
あなたは方四百里の意味が分かってないようだ。
>>511 >>512を良く読んで勉強してね。
532ローガン:2012/11/09(金) 16:51:07.35
>>531
>東夷伝の里はその実例だって言ってるんだよ。

東夷伝の里??
おいおい、魏の里と違うんかいな?(笑)
上で書いたが、九州説的には、テキストは使者来倭時の単一資料だろうが。 皇帝配下の官吏が皇帝の詔を届けた際の報告書に、皇帝の定めた度を無視したって?
もう滅茶苦茶やね。(笑)
「東夷伝の里」ついでに訊くがこれも短里?
ユウ婁在夫餘東北千餘里
夫餘在長城之北、去玄菟千里
高句麗在遼東之東千里
因みに、毋丘儉は河東郡、王キは東莱の出身だ。
533日本@名無史さん:2012/11/09(金) 17:06:08.49
東夷の周里のは永い実績があったけど
華の長里のは統一酋長さんのが勝手にでっちあげたのだから
やや劣等感抱き気味で
「中國失禮 求之四夷 猶信」のつぶやきが出てくる

郡県制みたいな統治システムも
燕のが本家ので始皇帝がぱくったのは当時は周知なんだろうし

龍のシンボルなんかも東夷に相当する領域からぱくったものだし

口に出してはいけないルールだったけど
匈奴のボスのお人は劉さんとこのおにいちゃんである契約を天に誓っておるんだし

だいいち天なるもの自体のが北のお人のところからのぱくりもの
534日本@名無史さん:2012/11/09(金) 19:54:20.64
短里とかよそ様の国にまで多大なご迷惑をかけずとも、畿内説も不彌國までは北部九州内に比定しとるなら
あんまり邪馬台国論争に関係なかろ
535日本@名無史さん:2012/11/09(金) 20:06:24.82
燕乃遣將秦開攻其西方取地二千餘里(154km)至滿潘汗爲界
燕亦筑長城自造陽(上谷)至襄平(遼東)
536日本@名無史さん:2012/11/09(金) 20:37:09.66
>>481
唐津に上陸したと考えると邪馬台国は永遠に見つからない。他の上陸地の可能
性を検討なさい。

>>496
中国の皇帝の使者が訪問国の女王に謁見せずに帰国するものか。命令違反で帰
国直後、すぐに死刑にされてしまうのだぞ。
537俳句の皇神:2012/11/09(金) 20:52:40.55
>>536
唐津上陸は不動と思います。
再考の考えはまったく有りません。

「奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王」
使者が卑弥呼に会ってないなどといった愚考は持っていません。
古代の中国の天子の巨大さを理解できないのでしょうね。
古代史には不向きな人達です。
538卑弥呼は満州にいた:2012/11/09(金) 21:29:08.05
番朝鮮というのは今の大同市辺りまであった。
箕子がその後を継いだとすれば箕子朝鮮もその辺りまであったのである。
少なくとも&amp;#28772;河辺りまではその版図だった。
滿潘汗というのは大凌河か遼河の河畔である。
仮に大凌河とすれば、&amp;#28772;河〜大凌河は約400kmである。
これが二千里だから一里は約200mとなる。
これはどちらかといえば公里に近い。
西を張家口とすれば約350mとなり、公里に極めて近くなる。
539卑弥呼は満州にいた:2012/11/09(金) 21:32:35.77
↑ 上の&amp;#28772;河は灤河。
540唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/09(金) 22:10:16.29
>使者が卑弥呼に会ってないなどといった愚考は持っていません。

だから〜
「其年十二月、詔書報倭女王」 詔書にむくいる朝貢
「正始元年、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王」詔書をささげて倭国をもうでる。

話が逆転してしまう。
541日本@名無史さん:2012/11/09(金) 22:12:49.92
公里を使えば、自動的に、釜山、対馬、壱岐は通らないことになる。
542日本@名無史さん:2012/11/09(金) 22:16:30.66
邪馬台国九州論者は短里説をいつまでも言ってると自分の首を絞めることになるよ。
短里説では邪馬台国の所在地はみつからないよ。なぜなら、水行20日や水行10日、陸行1月
の解明が短里説では不可能だから。
正解は短里ではなく、すべての数字が本来の数字の5倍にしてあるということ。
これなら、水行20日や水行10日、陸行1月は、本来は水行4日や水行2日、陸行6日となり、
邪馬台国が北部九州にあることを無理なく説明できるんだよ。
543日本@名無史さん:2012/11/09(金) 22:23:20.65
私は里程日数1/6説だが、
これだと万二千余里も説明できる。

公里を1/6したのが、短里である。

また、これより一月行=ほぼ千里となる。
544ビールのつまみ:2012/11/09(金) 22:26:38.74
>>540 :唐松山
>「其年十二月、詔書報倭女王」 詔書にむくいる朝貢

なんちゅうアホな読み方を!!
原文は下記だ。
其年十二月,詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王卑彌呼・・・
その年12月、詔書(が)倭女王に報じて曰く 魏倭王卑彌呼と制詔する・・・・・ だろが。
何回同じことを言わせるのだ。少しは勉強しろ。
545ビールのつまみ:2012/11/09(金) 22:30:36.31
>>544
あらら脱字があった
魏倭王卑彌呼と制詔する⇒親魏倭王卑彌呼と制詔する
546日本@名無史さん:2012/11/09(金) 22:31:06.13
そして、この距離とほぼ同じ距離が、
周脾算経に乗っている。

また、一月行短里千里を推定させる数値が、
隋書百済伝にある。

そしてなにより、魏志倭人伝がこの数値で一致する。
547日本@名無史さん:2012/11/09(金) 22:33:07.76
>>542

このネタを出した本があれば教えてほしい。
自分とほぼ同じ考えで興味深い。
548日本@名無史さん:2012/11/09(金) 22:54:19.35
周髀算経によれば誤差勘案して1里=70〜80m
伊都国までの○里は魏側の経験に寄り、
奴國不彌國は伊都國の少し高いところにでも登って案内を受けたのだろう
あちらに見えますのが奴国、あちらは不彌国となります、と説明を受けて100里くらいか…で100里
水行20日と水行10日陸行1月は倭人の倭船や徒歩による経験を聞いてのもの
注意すべきは萬二千餘里は女王國の入り口までであって、女王之所都は水行十日陸行一月(倭人談)なのである
549俳句の皇神:2012/11/09(金) 23:17:36.27
>>540
今津湾を知らない輩が、私にレスつけるのは
1億光年はやい!

それにしても、短里病は蔓延してるんだね!
日数まで減らすとは?
550日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:19:31.99
ただ単に、統一的に1/6しただけの話である。
それ以外に一切の修正を必要としない。
551日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:23:24.55
公里1/6の短里を使わなければ、唐津に到着することはできない。
552日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:26:48.27
>>547
旅程距離5倍説は戦前の九州説の大家、白鳥庫吉先生から言われていて、
最近の本では「大和朝廷成立の謎」渡部雅史著に書いてあるよ。
553俳句の皇神:2012/11/09(金) 23:29:48.66
>>550,551
理由は何?
何んで天子に対して、公里1/6で報告したの?
それが解明というものだろう。

説明はできても、納得はさせられない。
捨てろ!
554日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:30:31.10
狗邪韓國〜末盧國間の各千餘里の実距離はそれぞれ違う
1/6になってない
555日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:30:38.82
>>536
唐津上陸でいいんだよ。東南五百里の伊都国は佐賀市付近だ。そこから南へ水行二十日で
投馬国、伊都国から水行十日陸行1月で邪馬台国、何ら問題ないよ。
どこも修正することなく南九州へ到達する。そこが記紀の伝える所でもある。
556日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:32:48.96
>>552

ありがとう。
自分は1/6説だが、こんなシンプルな説が出てないはずはないと
常々思っていた。
機会があったら探してみようと思う。
557日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:38:01.32
>>555
伊都国から陸行1月としたら、1日約20KM進むとして、20KM X30日=600KM
奄美大島より南になってしまうよ。
558日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:38:27.16
>>554

まず説明ができなきゃ、納得させられるはずもない。

あきらめろ。
559俳句の皇神:2012/11/09(金) 23:39:06.47
>>545
殿!
直りませんなぁ。
82みたいに、投稿前の確認をつけなきゃね!
560唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/09(金) 23:41:42.08
>その年12月、詔書(が)倭女王に報じて曰く 魏倭王卑彌呼と制詔する・・・・・ だろが。

詔書がしゃべるのか?
それはさておき
魏倭王卑彌呼と制詔する・・・・・ だろが。

景初3年時点で卑弥呼は倭女王が認められているのだ。
だから正始元年に対応しない。
対応させたければ、
ここ、北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。

ここ、倭王因使上表答謝恩詔。→晋書 正始元年 東倭重譚納貢。になる。
「倭王因使上表答謝恩詔」は、詔書にむくいる朝貢といえる。
561日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:42:32.03
>>532
>おいおい、魏の里と違うんかいな?(笑)
こちらこそ笑うね。魏の里で七千里、狗邪韓国をどこに比定するつもりかね。
その説明をごまかさずにやってみな。
狗邪韓国を動かさず、使者が嘘を書いたとか、5倍の距離に間違えたというなら、そんな
使者は死刑を免れんぞ。

>「東夷伝の里」ついでに訊くがこれも短里?
どうでもいいことだな。私は誰かみたいにすべて同じ単位のはずだなんて
決めつけてはおらん。
562日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:42:46.79
一日15キロ程度が、歩行の一日の旅行距離だ。
ひと月なら450キロになる。

これを1/6した。7〜80キロが、短里での一月行である。

水行と陸行を合わせれば、全部で二月行である。

つまり150キロ程度である。
563日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:43:16.32
伊都国は板付遺跡の近辺・・とか
564日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:44:31.61
>>558

標準里の1/6にもなっていないのに、ただ連呼してるだけだろw
565日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:45:54.62
狗邪韓国ふぁ満州にありますですよと代筆してみるてすと
566俳句の皇神:2012/11/09(金) 23:47:07.33
>>558
じゃ、短里で説明から始めてくれ!
短里での伊都国は何処だ?
伊都国は、本当にあったのか?
「世王有」は、何処の国の王だ?

よろしく
567日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:49:53.02
>>566

では、そちらも公里の方で説明をよろしくね。
568日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:51:18.23
>>558

まず狗邪韓國の比定地からだな、遺跡名も忘れずに
569日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:51:45.37
>>566

公里の行程をまともに説明したものを
見たことがないから、この際勉強させてくれ。

正直、どういう考えで短里を拒否するのか想像もつかんので。
570日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:54:03.26
公里とか主張してる説は見たことないぞw
571日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:54:33.65
>>562
短里説では水行10日や陸行1月を1/6や1/5に縮めることはできないよ。
短里説では里数で表わしてある部分しか縮めることはできない。
短里ではなく、すべての数字が本来の数字の5倍にしてあるということ。
これなら、水行10日、陸行1月は、本来は水行2日、陸行6日となり、
邪馬台国が北部九州にあることを無理なく説明できるんだよ。
572日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:56:03.06
>>568

>まず狗邪韓國の比定地からだな、遺跡名も忘れずに

そちらもよろしくね。まってるよ。
あと、そこに至った根拠もね。
573日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:59:36.85
>>572

行程なんぞ根拠にしてないからw
標準里の1/6になっているといいながら、説明もできないのか?
574日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:01:03.19
>>571
水行十日陸行1月はごまかさずにそのままでいいんだよ。
北九州にしようなんてのがまちがいだ。
575俳句の皇神:2012/11/10(土) 00:01:48.25
>>567
君が、私にレスをつけたんだよ。

>>569
岡田英弘を読めば?
他にも沢山いるだろうに。

何度もいってるだろう。
後漢時代以前の萬里が基準となっている。(ローガン説)
この萬里を踏襲したに過ぎない、って。
576日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:01:57.86
>>573

なんだ、行程ガン無視かよ。
それで、一体どういう根拠でどこにたどり着くつもりだ?

世界中どこでもいいことになっちまうぞ?
ムー大陸にでも行くかい?
577日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:02:17.29
里程と日数をなぜ確信的に5倍6倍にしたのか説明せんと
578日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:05:19.83
都合がよい、ただそれだけだろ。
579日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:08:53.72
>>576

倭人伝ちゃんと読んでんのか?w
行程記事は「計其道里、當在會稽、東治之東」に行くための行程
文献に精通した3世紀の知識豊富な陳寿は元資料を読んで「當在會稽、東治之東」だと想定した
当時の知識人が行程記事を読めば皆「當在會稽、東治之東」と想定する
実際の位置が倭人伝の想定位置と異なる説なら、元資料は邪馬台国を比定するに十分な内容ではなかったことになるだけ
そんなものあーだこーだちょろまかし解釈してもしょうがない
580日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:11:54.96
里程1/6の根拠は、いわゆる定説の松浦までの実距離や、
韓地、方4000里からだね。

そして、隋書百済伝の三月行の記事は、
距離を月の表現で書いている形跡がある。
実距離は240キロほど。

これから、一月行短里千里と仮説をたてると、
合計距離は万二千余里で収まる。

また。地勢も水行すべき所で水行となり、
陸行すべきところで陸行となる。
581日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:14:28.10
>>579

その説明でどこに着くの?
582俳句の皇神:2012/11/10(土) 00:17:47.79
>>579

ま、そういうことでしょうね。
583日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:20:01.81
>>580

『隋書』を信頼するなら

「夷人不知里數、但計以日」『隋書』倭国伝

魏の役人が標準里以外で測量せんわけがなかろう
聴き取りなら里数はわからんはず
584日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:21:43.44
>>583の訂正

魏の役人が標準里以外で測量するわけがなかろう
585日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:22:44.14
>隋書百済伝の三月行・・・実距離は240キロほど
一ヶ月海に浮かんでて80キロなんてことあるわけないだろ。
3月行は三日行の誤写とみなけりゃいかんだろ。
586日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:24:01.77
行程論では、畿内に比定するまともな解釈は存在しない。
トンデモならいくらでもあるが。
587日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:26:53.16
>>586

畿内説で行程を根拠にしてるサイトにいって議論したらいいんじゃないのか
588日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:28:23.13
そんなサイトないだろ。
589日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:29:23.44
>>585

それもひとつの解釈だが、私は月を、
距離の表現の1つとみたんだ。
そして、80キロを、一日で行くのも、
当時の船では難しい。

だから、個人的には一日の解釈は破棄した。
590日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:31:24.65
半島の南から済州島までは100キロぐらいのものだよ。
591日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:35:13.10
>月を、距離の表現の1つとみたんだ。
こんな解釈は、辞書にでも載ってない限り通用しないよ。
592日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:35:28.04
いくつか、古代船で海を渡る実験が行われたりしているが、
だいたいどの船も、平均速度は歩くくらいの速度だ。

二ノット以下といったところ。

これからかんがえると、夜間は停泊していれば、
陸上の歩行距離と大差はないことになる。
593日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:37:40.37
公里の行程論、だれも書き込まないね。
594唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/10(土) 00:41:09.46
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
倭王因使上表答謝恩詔。→晋書 正始元年 東倭重譚納貢。

「東倭」とは、西の女王倭奴国に対する位置関係であり、
「邪馬臺國」は、「倭奴国」の東に位置する。
これは、梯儁等の記録である。
595日本@名無史さん:2012/11/10(土) 00:56:05.29
実は畿内には「ヤマト」と読める音を持つ地名は存在しない。

「大和」は、「ダイワ」である。
いつの時代かしらないが、関係ない漢字に
「ヤマト」音を当てたに過ぎない。
596日本@名無史さん:2012/11/10(土) 01:05:24.67
ふむ、万葉仮名とかで「矢真登」みたいに音を表したものってないんかね?
597日本@名無史さん:2012/11/10(土) 01:12:02.44
>>582 俳句の皇神 さんの説明はまだかい?
598日本@名無史さん:2012/11/10(土) 01:14:01.54
北史や晋書は七世紀とかの後世解釈や
599日本@名無史さん:2012/11/10(土) 01:21:17.29
ざっとみてみたけど、倭や大和を「ヤマト」と読み替えたのはあるけど、
「ヤマト」音が確実な奴って、意外と見つからんな。

案外倭人伝だけだったりして。
600俳句の皇神:2012/11/10(土) 01:26:40.78
>>597
何の説明かね?
601日本@名無史さん:2012/11/10(土) 01:35:42.50
>>600

>>566を公里でよろしくね。
行程論や公里を使わないなら、伊都国をどういう根拠で比定したか、もね。
602日本@名無史さん:2012/11/10(土) 01:36:32.65
あ、あと畿内に行くつもりなら、
畿内に決めた根拠も。
603俳句の皇神:2012/11/10(土) 02:02:11.05
>>601
陳寿が短里を使用したのならば、序文、注に必ず記載があると考えるから。
陳寿の時代は、まだ前史の記載内容を覆す状況ではなかったと思うから。
後漢以前の萬里を踏襲していると思う。

伊都国については順序よく主張したいし、長くなるから。
機会があれば、やります。
糸島伊都国「世王有」は、奴国王が自説です。

邪馬台国の所在は、八女市〜熊本北部付近とすでに主張します。

もしかして貴方は、専門的に研究している人ですか?
単なる好奇心旺盛な方ですかね?
604日本@名無史さん:2012/11/10(土) 02:11:30.18
>>599
zuisho ni aruyo
605ローガン:2012/11/10(土) 02:24:17.18
>>561
>その説明をごまかさずにやってみな。

同じコテで結構長い間書いてる。その話も一度や二度じゃない。しりたけりゃ過去ログ漁ってくれ。

>狗邪韓国を動かさず、使者が嘘を書いたとか、5倍の距離に間違えたというなら、そんな使者は死刑を免れんぞ。

なるほど。では百歩譲って、命により詔を届けた使者が出したその報告書とやらがあったとして、その中で、
目的地に至る距離の記述にある誤りがもとで、死刑になった例を挙げてくれ。

>どうでもいいことだな。同じ単位のはずだなんて決めつけてはおらん。

了解。察するに、魏で使われた度の中には魏の公定里以外にも、
皇帝配下の官吏が、皇帝の詔を届けた記録を本国宛てに提出する際に使う「東夷伝の里」(笑)
なるものがあって
その「東夷伝の里」自体も、他の東夷伝に出てくる度とは「同じ単位のはずだなんて決めつけてはおらん。」と。

もう滅茶苦茶やね。
606日本@名無史さん:2012/11/10(土) 05:39:05.04
>しりたけりゃ過去ログ漁ってくれ。
それこそごまかしだ。書き慣れてるなら簡単に書けるだろうに。

>目的地に至る距離の記述にある誤りがもとで、死刑になった例を挙げてくれ。
そんな馬鹿なことをする使者はおらんだろう。やったが死刑にならんかった例を
知ってるなら教えて欲しいな。

>察するに、・・・
何を言いたいのか分からん。東夷伝の資料は同じ使者の報告書だとでも思って
いるのかな。
607日本@名無史さん:2012/11/10(土) 07:13:43.18
>>555
その場合、東に有る千里の海はどこになるのかな。
608サガミハラハラ:2012/11/10(土) 07:49:38.82
チンジュは倭国にいったこと、いや、倭人伝をかくために現地調査をしたことはないのです。
彼は、晋の図書館にあった資料をもとにかいたのです。
その資料が、中国の里より小さいことに気がつかず、修正せずそのまま採用してしまったのです。
609日本@名無史さん:2012/11/10(土) 07:53:02.49
要はバカ、マヌケって言いたいの?
610日本@名無史さん:2012/11/10(土) 08:14:30.12
短里を想定できない奴は、今すぐ邪馬台国研究を辞めろ
「魏の公定里(これが何とも怪しいのだが、それは置いといて)」を5、6倍にして
報告してるような文書は研究する価値はない。アホらしい。時間の無駄だ。

倭人伝の研究を今すぐ辞めろ!「邪馬台国」は捨てろ。
古代史研究は「記紀」だけで充分だ。そしてこのスレには二度と来るな!


・・・・って何で思わないのかなぁ。畿内説諸君は。
611日本@名無史さん:2012/11/10(土) 08:21:06.37
>>577>>578
旅程距離を5倍にした理由は魏が、同盟していた邪馬台国を呉のすぐ東方海上に持ってきて
呉に圧力をかけるためらしいよ。
だから、邪馬台国の位置も大きさも誇張、曲筆されたものって書いてあった。
本当は北部九州にあったということは間違いないと思うよ。すべての数字が5倍
してあるとすれば北部九州しかあり得ない。
612日本@名無史さん:2012/11/10(土) 08:37:39.87
魏志倭人伝をどうしたいのだろ?
中国の知識人達が編集したから間違いないと言ってる一方で
単位のミスにすら気付かない間抜けで馬鹿な連中って
矛盾してるだろ
単位なんて文章を書く上で基本中の基本
613日本@名無史さん:2012/11/10(土) 08:49:16.96
うむ、東夷は別の体系であったことは、
常識だということだ。

全部数値がでたらめとか論外。
全員首はねられて終わり。
614日本@名無史さん:2012/11/10(土) 08:59:58.97
常識だろうと史書には残るだろ
いい加減詭弁ばっかり言ってないで
証拠を見つけてくればいいのに
615日本@名無史さん:2012/11/10(土) 09:02:39.98
>>611
北部九州じゃ距離以外に気候風土や産出物が合わないので有り得ない話。
倭人伝全否定するなら話は別だがw
616日本@名無史さん:2012/11/10(土) 09:09:13.36
今や九州説は朝鮮人のファンタジーだからな。
617日本@名無史さん:2012/11/10(土) 09:10:45.95
北九州は1年中温暖って想像の域だろ
618日本@名無史さん:2012/11/10(土) 09:35:12.99
5倍だとか、馬鹿なことを言ってるな。そんなことをするわけがない。
倭人伝はちゃんと書いてあるとおりに読めばいいんだよ。
619日本@名無史さん:2012/11/10(土) 09:38:15.09
>>607
>その場合、東に有る千里の海はどこになるのかな。
大分の東の海だろう。東にある倭種の国というのは四国のことだ。
620日本@名無史さん:2012/11/10(土) 09:46:27.48
女王国は万二千里から始まる。だから北九州は女王国以北の国だよ。その北九州は女王国から派遣された一大率が
厳しく検察していたわけだ。国々は一大率を非常に畏れ憚っていた。
そんな北九州に邪馬台国があるわけがない。邪馬台国は女王国の中心として、また、倭の乱の実質的勝者として
他国を畏れることなく堂々と存在したんだよ。
621日本@名無史さん:2012/11/10(土) 09:50:55.07
5〜6倍説というのは、陳寿が参考にした原資料が何かの理由でそう書かれていて
陳寿がそのことに気づいてない場合だけだろう
三国志は「呉」の滅亡後に完成しているので、陳寿が意図して呉の牽制をしている
という説は成り立たない
622日本@名無史さん:2012/11/10(土) 09:51:54.07
>>618
倭人伝を書いてある通りに読めば、邪馬台国は赤道を越えてニューギニア
あたりになってしまうよ。
そこが邪馬台国だっていうの?
それはありえないから短里説がでてきてるんだけど、短里説では、水行10日、
陸行1月を読み解くことはできない。旅程距離5倍説しかそれを解明できないんだよ。
すべての数字が5倍してあると考えるしかないよ。
623日本@名無史さん:2012/11/10(土) 09:56:35.34
>倭人伝を書いてある通りに読めば、邪馬台国は赤道を越えてニューギニア
>あたりになってしまうよ。
頭が固い奴は度しがたいね。倭人伝は郡から狗邪韓国までを七千里、それから千里、千里と
書いているだろうが。倭人伝がどの程度の距離を1里としているかは当然分かるわけだ。
それにしたがって読めばいい。それが倭人伝どおりに読むということだよ。
624日本@名無史さん:2012/11/10(土) 10:20:11.32
>短里説では、水行10日、陸行1月を読み解くことはできない。
そんなことはないだろう。倭人伝は一日の進行距離がどの程度かは書いていない。
まず、南水行二十日の投馬国を考える。佐賀から南下してかなり行ったところ、五万戸
の国の首都があったところとなれば、加世田か川内ぐらいしかあるまい。
そして、水行十日はその半分、しかも上陸してから南下できるところとなれば八代だな。
八代から球磨川に沿って南下、1月歩けば小林市か都城あたりとなるだろうが。
625日本@名無史さん:2012/11/10(土) 10:25:17.46
そして帯方郡から倭までは万二千余里。
郡から狗邪韓国までは七千里そして千余里、千余里、千余里で九州に上陸。
伊都国まで陸行五百里。邪馬台国まではざっと千五百里。
末蘆国から伊都国までの距離の約三倍の距離。

邪馬台国は九州北部ではありえない。
九州中部、肥後か肥前あたり。
九州南部は狗奴国。
626日本@名無史さん:2012/11/10(土) 10:25:46.62
海路はどうしても実際の距離よりも長く見られがちになる
これは航海の困難さから渡海にかかった時間で距離をわりだそうとするせいだろう
例えば15世紀の「海東諸国紀」や明治初年発行の「道中記」(江戸の旅行ガイドのようなもの)
でも釜山−対馬、対馬−壱岐間は実際の距離の3〜4倍
627日本@名無史さん:2012/11/10(土) 10:44:04.52
中国の公的文書では水行1日45里、陸行1日50里と定められている。
ということは、水行1日17〜19km、陸行1日21〜23kmになるんだよ。
628日本@名無史さん:2012/11/10(土) 10:48:47.41
何日か前に宇佐神宮あたりを掘れば邪馬台国の位置ははっきりすると書いてた人がいたけど、
俺も同意。
ネタ本知ってたら教えて。
629日本@名無史さん:2012/11/10(土) 10:54:58.09
水行のほうが、一日の距離が短いのか。
630日本@名無史さん:2012/11/10(土) 10:57:24.25
>>627
それは「唐六典」の記述で、それ以前の古代に通用するかどうかはわからないだろう
ただし三国志全体を読んでも、行軍ならば進行速度は速い
倭人伝に書かれている10日や一月の行程がどのような意図の元に行われたかで
1日の進行速度は考える必要があるだろう

>>628
ネタは鷲崎という人のホームページと、高木彬光「邪馬台国の秘密」かな
631日本@名無史さん:2012/11/10(土) 10:59:49.43
「唐六典」水行

>水行之程、舟之重者、泝河日三十里、江四十里、余水四十五里、空舟泝河四十里、
江五十里、余水六十里、沿流之舟、則軽重同制、河日一百五十里、江百里、余水七十里
632日本@名無史さん:2012/11/10(土) 11:05:47.35
高木彬光の「邪馬台国の秘密」では
宇佐神宮の亀山が前方後円墳でこれが卑弥呼の墓であると書き
上宮の三之神殿の手前の白砂の中に卑弥呼の棺らしきものがあったと書かれている
この元ネタは知らない
633日本@名無史さん:2012/11/10(土) 11:07:28.34
ただし宇佐神宮の亀山は地形図を見ても前方後円墳とは考えにくい
頂上部は神宮創設にともない平削、整地されてはいるんだろうが
634日本@名無史さん:2012/11/10(土) 11:12:54.96
卑弥呼の墓を前方後円墳と考える必要はないと思うが。
宇佐を邪馬台国というわけでもないが。
635日本@名無史さん:2012/11/10(土) 11:14:23.63
>>634
そもそも古墳でも墳丘でもなく自然の山だなあれは
636sss:2012/11/10(土) 11:23:02.48
まあ、謎が多くて魅力的な比賣大神自体が、宇佐神宮の由緒書きでは
宗像の三女神となっている。

宗像の三女神は、宇佐神宮、宗像大社、厳島神社で祭神になっていて、
神武東征に係わらせた航海の神様という位置づけなのかもしない。
637日本@名無史さん:2012/11/10(土) 11:30:31.55
宇佐とか素人ヲタすぎる。
考古学的には邪馬台国は畿内で決まり。
それ以上踏み込んでも妄想になるだけ。無意味
638日本@名無史さん:2012/11/10(土) 11:31:38.24
639日本@名無史さん:2012/11/10(土) 11:40:05.59
>>630
高木彬光の「邪馬台国の秘密」だね。ありがとう。
高木彬光の本は違うのを読んだけど、魏志倭人伝の旅程記事から宇佐に
したわけじゃなかったよね。俺の読んだ本は旅程記事だけから宇佐だっていってたから
邪馬台国宇佐説は可能性あるかも。
640日本@名無史さん:2012/11/10(土) 11:57:46.56
宇佐神宮は何度か行ったけど古墳とは思えないけどな
641日本@名無史さん:2012/11/10(土) 12:00:30.65
宇佐の比賣大神については
新羅系の辛嶋氏が香春で祀っていたものが地元の女神と融合したものと
考えていいと思われる

>>639
旅程記事なら富来説が有名だが、これは水行を河川航行としてるものだな
鷲崎説は水行すれば10日、陸行すれば一月という解釈だったか
642日本@名無史さん:2012/11/10(土) 12:03:16.19
あと宇佐の石棺の元ネタはこれかなあ
なかなか面白い

>宇佐八幡の本殿下にある石棺を見た、という中津市上官永三丁目、無職山木聴治さん(83)を招き、
 現地で石棺の話を聞いた。
 山本さんは宇佐八幡の三之御殿の前に立ち、建設公団の若看たちの質問に「私は地下の石棺を
 はっきり見た」と証言した。
 山本さんの話によると、明治四十年の式年造営のときで、まだ十歳ぐらいだった山本さんは父に連れられて
 お参りしたが、御殿は修理中ということで囲いをし、見られなかった。山本さんは本殿裏手の囲いのすき開から
 中に入ったところ、三之御殿の斜め左前約五b弱の地点が大きく掘られ、その穴の中にりっぱな石棺があったと言う。

 「巨大な石を長さ一・五bから二b、幅一b弱、高さ1b弱の箱型に削ってあった。上から厚さ十五aほどの一枚石を
 フタにしてあり、黒く変色した朱がにじみ出ていた。そのときは石棺と知らなかったが、あとになってわかった」という。

http://sky.ap.teacup.com/applet/sinyamataikoku/msgcate2/archive
643日本@名無史さん:2012/11/10(土) 12:10:44.64
まぁ倭とは瀬戸内海が中心だよ。円墳だって讃岐辺りが発祥だし。
宇佐が重要なのは瀬戸内東部に位置するからだ。
淡路島が重要地なのは日本人なら誰でも理解出来るはず。
九州説?そんなの既に終わった話。
644日本@名無史さん:2012/11/10(土) 12:13:01.49
>>641
俺の読んだ本では水行では博多湾東岸から関門海峡をとおって投馬国が行橋あたり、
邪馬台国が宇佐あたりになると。
陸行では甘木、日田をとおって宇佐だと書いてたよ。
ちなみにその本は渡部雅史の「大和朝廷成立の謎」だよ。
645日本@名無史さん:2012/11/10(土) 12:20:21.65
宇佐が邪馬台国かはおいておくけど
船と陸、二通りあっても不思議ではないかなって気はする
646日本@名無史さん:2012/11/10(土) 12:35:33.85
確かに水行と陸行が違う道筋でもいいかなって気はする。
647日本@名無史さん:2012/11/10(土) 12:50:58.87
ただもし「水行なら10日、陸行なら1月」という意味で書いたとすれば言葉が足りない
という気はするな
「魏略」には「水行半?、風疾時一月到 」という部分があって
水行は通常半年だが、風が強いときは一月で到着するという意
こう書かれてれば意味はわかる
648卑弥呼は満州にいた:2012/11/10(土) 12:59:54.63
放射読みに関しても、東南百里に奴國が在る、という意味なら、
奴國在東南百里
と書くはずである。

要するに放射読みや、水行すれば、陸行すれば、
という読み方は自然ではない。
649卑弥呼は満州にいた:2012/11/10(土) 13:06:17.46
行程が全部5倍にして書いてある、と誰かが書いていて、
それは白鳥庫吉が説いていた、と書いているが、
またしても白鳥庫吉だ。

卑弥呼アマテラス説、呉牽制説、行程五倍説…。
これらはすべてこのバカ学者が唱えたことなのである。
で、それをここの一部のアホ連中が真剣に議論しているのである。

ああ、なんとアホらしいことよ。
2chの連中の、なんとアホなことよ。
650日本@名無史さん:2012/11/10(土) 13:15:12.00
>>595
大和は大倭。
倭の代表は邪馬臺國。

大和=大倭=邪馬臺國=ヤマト国

むしろ、邪馬臺をヤマトと読まなければ、大和をヤマトと読む理由が無くなる。
651日本@名無史さん:2012/11/10(土) 13:17:26.13
>>649
あんたが82へ行けば?
あっちはレベル少し高いよ
652日本@名無史さん:2012/11/10(土) 15:01:16.96
病(やまい)が国名なんてないでしょ
653日本@名無史さん:2012/11/10(土) 15:21:12.93
大和=大倭(日本書紀) ???  邪馬臺國=ヤマト国(魏志倭人伝)

???の部分にイコールが成立するのか?
654日本@名無史さん:2012/11/10(土) 15:29:50.46
>>647
たしかに水行なら10日、陸行なら1月はないらしい。
水行1日45里、陸行1日50里と唐六典でさだめられてるから
距離に差がありすぎるかららしい。
ここの解明はポイントだね。
655日本@名無史さん:2012/11/10(土) 15:34:57.58
陸行で日速20kmオーバーは、かなり早い部類だな。
大戦中の関東軍が、それくらいを基準にしてたはず。
貨物トラック随伴で、日速24kmだったかな。

まあ、最速では秀吉の中国大返しで、
日速30kmの記録がある。
656日本@名無史さん:2012/11/10(土) 15:45:07.52
そのあたりの部分は倭人伝の行程がどのような基準で記録されているかによるだろう

まず魏使が踏破した実地記録なのか
それとも誰が行ってもこれくらいで着きますよという地誌的な記載なのか

魏使の実地記録だとしても、魏使の人数、部隊規模はどれくらいなのか
準戦闘行為として進軍したのか、それとも外交使節として進んだのか

本来はここらあたりの考察がなければいけないのだが
657日本@名無史さん:2012/11/10(土) 16:17:03.57
>>653
金印もらうまでは、邪馬臺國は倭の諸国の中の一つだけど、
親魏倭王の金印もらってからは、倭王=邪馬臺國王。
そのための朝貢だったと思うよ。

邪馬臺國は、中国人の勝手な当て字。

たとえば、鳥のタカという和語に中国語の鷹という文字を当てて「たか」と読ませる訓読みができたように、
ヤマト(当時の正確は音はわからんけど)という国名に、
大倭という中国語の文字を当てて、「やまと」と訓読みする習慣ができたのだろう。
658ローガン:2012/11/10(土) 16:26:57.17
>>631
>「唐六典」水行

この数字は使えんでしょう。流遡10里差で、流順が50里差なんて。

>>622
>すべての数字が5倍してあると考えるしかないよ。

勿論、短里なんか無いので、「考えるしかない」ってのはわかりますけどね。
でも、肝心の「なぜ5倍?」に答えられないでしょう。
659日本@名無史さん:2012/11/10(土) 16:43:10.56
>>630
漢書に「臣聞古者師日行三十里,吉行五十里。」というのがある。
行軍が、一日一舍で三十里というのは先秦の文献にもある。
何か良いことがあって旅をする場合は、急いでいくという意味で、一日に五十里。
先秦から漢の時代の、礼の規則みたいなもんだろう。
実際の戦闘での行軍は、規則どおりではないだろうけど、
正史で行程を記録するなら、やはり規則から大きく逸脱することはないだろう。
660日本@名無史さん:2012/11/10(土) 16:53:51.18
これはもちろん公里の話だろう
661日本@名無史さん:2012/11/10(土) 18:46:07.16
>勿論、短里なんか無いので、
その論証を聞いたことがないな。
662日本@名無史さん:2012/11/10(土) 18:54:13.75
>>661
>その論証を聞いたことがないな。

「有」の方が論証すべきでは
納得できるのを聞いた事ないな
663日本@名無史さん:2012/11/10(土) 19:01:31.73
>>619
大分の東の海を書いているのならば、邪馬台国は大分の近くだったと判断した
方が良いのではないかい?
664日本@名無史さん:2012/11/10(土) 19:08:19.19
>「有」の方が論証すべきでは
論証はできないってことだね。
665日本@名無史さん:2012/11/10(土) 19:12:06.94
>>663
大分が女王国に含まれるということです。しかし、女王国は広大ですから邪馬台国が
大分の近くとは言い切れません。
666日本@名無史さん:2012/11/10(土) 19:19:35.46
>>664
必要度の問題だよ
「有」が論証できれば、有
「有」が論証できなければ、それは「無」
「無」の論証の必要度は「有」より低い
667日本@名無史さん:2012/11/10(土) 19:28:41.86
>>664
何か主張したいのなら、すれば?
笑わないから
もしかして昨日から同じことばかりしてんじゃない?
一行さん
668日本@名無史さん:2012/11/10(土) 19:30:43.85
>>664

バイト?
669日本@名無史さん:2012/11/10(土) 19:32:28.67
何が真実かという問題では、「有」が論証できなければ「無」だなんて決めることは
できないんだよ。分からないことは分からないとしておかねばならない。

それにいわゆる短里は、究極的には制度の有無をの問題ではないんだ。現実に短里で書かれている。
それは倭人伝の記載上明白なわけで、倭人伝がどの程度を1里と書いているか、それにしたがって
考えようということね。制度の問題は、ある程度は推測がつくが、決定的な証拠はでていないって
ところかな。
670日本@名無史さん:2012/11/10(土) 19:41:30.70
公里が使われていないことは、割と簡単に証明できるが、
短里が使われていない証明は難しいな。

反論がいくらでも出てくる。
671川柳の皇神:2012/11/10(土) 20:04:56.53
>>669 正常な青
>決定的な証拠はでていないって ところかな。

出る可能性があると、お考えですか?
私の様に「出ない」と判断すれば、「捨」の精神となる。

>現実に短里で書かれている。

拘らない。
672日本@名無史さん:2012/11/10(土) 20:12:42.55
短里の概念をつかわないのは自由だが、
まず、狗弥韓国までの理論を構築するのが難しい。
673ローガン:2012/11/10(土) 20:18:52.02
>>664
>論証はできないってことだね。

ん?簡単だが。
短里とやらは、いかなる度量衡の体系とも適合しないから
「無い」

論証終わり。
674日本@名無史さん:2012/11/10(土) 20:20:07.81
宇佐なんかに当時の最大人口七万戸もあったわけないし、
素人ヲタの典型的傾向の考古学軽視と学術的根拠が乏しいのを妄想領域で補う代表例が宇佐だ。
邪馬台国がトンデモ領域だと専門家から忌避されるのもあたりまえ
675日本@名無史さん:2012/11/10(土) 20:30:07.12
吉野ヶ里だって○百戸とか言われるけど同時に建ってたのはせいぜい数十戸くらいのものだし
七万戸とか…
676日本@名無史さん:2012/11/10(土) 20:30:14.59
女王国の中に邪馬台国があるだの短里長里だの何百回同じ話題でループしてるんだと。
いい加減懲りたらどうだ?
677日本@名無史さん:2012/11/10(土) 20:30:39.12
八幡神の総本社である宇佐神宮は大和朝廷のルーツ。
神武東征の日向とも関係が深い。

だが、筑紫、肥の九州勢力とは距離がある。
678日本@名無史さん:2012/11/10(土) 20:32:27.69
うさぎ(宇佐)は、ワニ(和邇)に身ぐるみはがれてしまったところを大国主(出雲)に助けられ、
延命したものの、その大国主もニニギに国を譲って杵築国に隠れたわけだし、
この時期、勢力の中心は目まぐるしく変わったのだろう。

神武東征といった単純な構造ではないようです。
679日本@名無史さん:2012/11/10(土) 20:37:16.67
宇佐も日向も瀬戸内海勢力の端に位置する。

福岡佐賀熊本は有明海、玄界灘勢力。

更にそれ以前は、筑前玄界灘勢力、佐賀熊本有明海勢力とわかれていて、
鳥栖から吉野ケ里付近で激しい戦いが繰り広げられていた。
680日本@名無史さん:2012/11/10(土) 20:53:37.37
久留米から八女付近が投馬国
南関の山で区切られて、このへんが境目か?

熊本全域が邪馬台国。
熊本は、筑紫と違い、比較的標高が高く、
初期の農業生産に適している。

筑後に多い低湿地帯は、ある程度灌漑技術が発達しなければ、
有用な土地にならない。
681日本@名無史さん:2012/11/10(土) 21:04:31.35
    ,、    /7       ,-、
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682卑弥呼は満州にいた:2012/11/10(土) 21:13:27.28
短里説というのを一体誰が言い出したのかは知らないが(古田か?)、
それが珍説であることくらいは常識で分りそうなものである。

白鳥庫吉が思い付きで書いたいいかげんな説も、
常識あるまともな人間なら珍説だとすぐに分かるはずである。

それを分らない、ごく一部の、非常に頭の悪い数人の連中が、
邪馬台国スレの常連なのである。困ったことだ。
句読点を打たずに文を書いている人間が何人かいるが、そいつらのことである。
結構よく勉強していて、知識はあるのだが、如何せん、判断力が無い。
683日本@名無史さん:2012/11/10(土) 21:17:08.32
>>682
お前が言うなw
684日本@名無史さん:2012/11/10(土) 22:08:26.41
>いかなる度量衡の体系とも適合しないから
ては、倭人伝の短い里はどこからでてきたのかな?
685日本@名無史さん:2012/11/10(土) 22:18:05.11
実際より長距離の表記になっているってだけでしょ
それ以上の事はわからんが
686日本@名無史さん:2012/11/10(土) 22:33:26.85
どのぐらい長距離の表記になっているか、見当はつくはずだね。
687日本@名無史さん:2012/11/10(土) 22:33:40.91
実際、筑紫国と肥の国は気候も大きく異なるし風景というか土の色が全然違う。
倭国大乱というのは筑紫と日の国の争いだったのかも。
で日の国(邪馬台国側)が筑紫国(伊都国側)を配下に置いたんでないかな。
688日本@名無史さん:2012/11/10(土) 22:41:23.54
妄想すぎるし、もはや学問でもなんでもない
689日本@名無史さん:2012/11/10(土) 22:42:44.12
土の色って ああた
690狂歌の皇神:2012/11/10(土) 22:42:53.16
>>687
同説です。
戦場は、筑紫野市筑紫辺りと想像してます。
691日本@名無史さん:2012/11/10(土) 22:46:01.71
秦の始皇帝が天下統一に際して、文字とともに度量衡の統一を図ったことからもうかがえるように、度量衡というものは流通・交易などの
価値の交換において、非常に重要な意味を持っている。この度量衡を定める・改正するという行為は、暦法を改める事と同様に権力の象徴
であり、古代より近世に至るまで、権力者たちによって様々な改訂が行われてきた。
その詳細は、残念ながらほんの一部しか記録に残っておらず、分からない部分が多い。
したがって、ローガンがいうような「いかなる度量衡の体系とも適合しない」などという決めつけは到底できない。
692日本@名無史さん:2012/11/10(土) 22:58:18.40
    ,、    /7       ,-、
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693卑弥呼は満州にいた:2012/11/10(土) 23:35:16.10
短里説者は本当に馬鹿だな。
五倍とか六倍とかいうのは正確な地図があっての話だ。
現代の我々は正確な地図を見ているから五倍だとか六倍だとか分かるのだ。
陳寿の時代にそんな地図は無かったのだから、陳寿が正確な地理を知るはずがない。
地球の広さもろくに分かっていなかったのである。
万二千里がどの程度の距離かも正確には把握せずに、
大体万二千里くらいだろうと見当を付けて書いたのである。
万二千里は会稽の東くらいになるのだろうと思って書いたのである。
勿論、釜山〜対馬間も千里くらい離れた非常な遠距離だと思っていたのである。

何で君らはこんな簡単なことが分からないのだ?
日本に来た魏使の報告に基づくなどと本気で考えているから、
こんな簡単なことも分らないのだよ。
誰かが伊都国まで来ていることは確かだが、それは魏使ではないのだ。
あの行程記事は民間から採取した情報なのだよ。
いいかげんそれくらい理解しろ。
694ローガン:2012/11/11(日) 00:04:45.51
>>691
>その詳細は、残念ながらほんの一部しか記録に残っておらず、分からない部分が多い。

「分からない部分が多い」という主張を持つ者が、短里はあった!短里なんだあ!
っていくら言った所で笑われるだけ。

>したがって、ローガンがいうような「いかなる度量衡の体系とも適合しない」などという決めつけは到底できない。

無いものは無い。無いものをあるとは私は言えない。
有ると云うなら提示すれは良い。合致する「度量衡の体系」を示す資料を。
695日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:07:36.29
九州説の総本山だった東大自体が
九州説を放棄してるのだから
九州説に芽は無いよ。
696日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:08:13.23
>>658
なぜ旅程距離が5倍してあるか?ということだが、その答えは、
魏と同盟していた邪馬台国が呉のすぐ東方海上にあるとみせかけて、呉に圧力を
かけるためらしい。呉に圧力をかけるためには邪馬台国が非常な大国でなければならないから、
7万戸という数字も誇張されたものだよ。本当は邪馬台国はとても小さな国だったかも
知れない。オーストラリアのキャンベルもアメリカのワシントンも比較的、小さな町だよね。
 本当の報告書にあった不弥国から邪馬台国までの距離を5倍すると、ちょうど博多湾から呉の東方海上
(トカラ列島から沖縄付近)に達する距離となるから、5倍という数字が導きだされた。そして、
すべての数字は5倍にされた。大和朝廷成立の謎という本に書いてあるよ。
 
697日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:09:31.10
言えるのは倭人伝の行程の実際の距離は当時の里と合ってないということだけだな
その理由はいろいろ考えられるが短里説もその一つだというだけの話
実際に公里と合ってないから短里があったというのは
どこまでも推測でしかない
698日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:11:46.27
>短里はあった!短里なんだあ!っていくら言った所で笑われるだけ。
倭人伝は短い里を書いている。これは正しく短里にほかならない。
否定しようがないやね。

>無いものは無い。
無知なる者の単なる思い込み。願望だね。
699日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:13:52.95
>>691
そう
度量衡というのはそれ程重要なもの
だから魏で短里なるものを使用していたとしたら必ず記録に残るハズ
700日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:19:39.48
>なぜ旅程距離が5倍してあるか?ということだが、その答えは〜、
でたらめな説ぐらい見分ける力をつけんとね。
とにかく、旅程距離が5倍してあるとか言う以上、倭人伝に書かれている里から実際の
距離は分かるということだ。実際の距離が分かれば、倭人伝の短里がどうゆう性質のも
のかなんてことはまあどうでもよいことだよ。
701日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:21:18.25
東夷の周里のは永い実績があったけど
華の長里のは統一酋長さんのが勝手にでっちあげたのだから
やや劣等感抱き気味で
「中國失禮 求之四夷 猶信」のつぶやきが出てくる

郡県制みたいな統治システムも
燕のが本家ので始皇帝がぱくったのは当時は周知なんだろうし

龍のシンボルなんかも東夷に相当する領域からぱくったものだし

口に出してはいけないルールだったけど
匈奴のボスのお人は劉さんとこのおにいちゃんである契約を天に誓っておるんだし

だいいち天なるもの自体のが北のお人のところからのぱくりもの
702日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:22:43.01
対馬と壱岐の実際の面積差は5倍くらいあるが、倭人伝では対馬が方四百里で壱岐が方三百里と約1.3倍の差しかない
倭人伝の数字はかくもいい加減なのである
703俳句の皇神:2012/11/11(日) 00:25:44.56
>>700

OH YEAH !
704日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:29:52.89
江戸時代でも対馬−壱岐間は実際の距離の3〜4倍で記録されてる
それが載った本が発刊されたのは明治に入ってから
測量技術のない時代はそんなもんだろ
705日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:31:29.13
日本で尺貫法を使い、アメリカでヤードポンド法を使ったように、

中国では公里を使い、東夷は短里を使っただけの話。

もっとも、倭国内では、短里が通用するのさえ不弥国までで、
そこから先は日数表記になっちまうから、

度量衡ってなに?、って状態だわな。
706日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:32:26.03
>>695
畿内説が誹謗・中傷に走ったから嫌気がさして係わらなくなった。

皇国史観が日本を戦争に導いた。邪馬台国東遷説は神武東征神話の亡霊であり、
皇国史観であり軍国主義だ。東遷説論者は軍国主義者だ。
畿内説はまともな論争をせず、こればっかりを繰り返した。
当時、軍国主義者と言われるのは、非常につらかったといわれる。

おかげで、東大は係わらなくなり、東遷説は影を潜め、古田九州王朝説の
ようなものが広く普及する。松本清張なども同じ系統。

皇国史観?何それ。軍国主義?古〜。というような時代になって東遷説は復活した。
707日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:40:34.15
比較的大陸に近い肥前国や筑紫国は、
古くからの大陸の交易で、古い短里は
なんとか通用したが、

そこから先は短里ですら、里が通用していない。

公里の度量衡が通用するのは中国内のみ。

東夷で通用していないのは、倭人伝自体がそれをよく示している。
公里が使われていないこと自体は、
誰も異論はないだろ。
708日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:41:23.98
東遷説とか言ってる学者は
最近では森浩一の奠都説と柳田の伊都国東遷説くらいだろ
あと在野のトンデモ古代史家で吹いてるやつは多いが
709日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:41:42.92
>>705
日本とアメリカは別の国だから、度量衡が違ってもおかしかあない。
でも、アメリカ人がアメリカ大統領に報告するのに、日本の尺貫法では報告せんよね。
まして、日本で使われてるヤードはアメリカのより五分の一短いけど、
そのことには触れず、そのまま短ヤードで報告書だしました。
なんてあるかい。
710日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:44:41.92
>>707
距離表記の話なのに通用するとかしないとか意味不明なんですが
711日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:45:31.85
日本に報告するアメリカ見聞記で、
マイル表記を使うのはよくあること
712日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:47:01.99
でも1マイルの長さは何処でも同じだよね
713日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:48:44.84
倭国には里程がなくて日数で示さなければならん、
と、里に変換せずに日数で書いたのは、倭人伝の作者そのものだな。
714日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:53:15.66
距離がわかんなかったから日数で表記するしかなかったってことでしょ
715日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:55:05.47
しかし陸行1月は長いな
716日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:56:39.49
これは畿内説でも大阪湾に入って大和まで1月かかるわけがない
日本海航路でも丹後あたりから1月はかからんだろう
717日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:56:49.50
日数で書くのも不満そうな倭人伝の作者が、
平然と5倍も6倍も狂った数値を書くってのもおかしな話。

しかも、筑紫、肥前くらいまでは比較的交通も多いとすれば、
一時的に間違っても、修正されなければおかしい。

それが修正もされていないのは、短里相当の換算は常識だったと考えて良い。
718日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:57:50.59
九州はエヴェンキ族に征服されて、無理やり短里を強制されてしまっていたのだろうか
719日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:59:36.94
作者が実際に日本に行った訳じゃないんだから修正しようがない
720日本@名無史さん:2012/11/11(日) 01:01:07.31
陳寿は地理勘があったわけじゃないし
資料のとおり書くしかなかったろう
721日本@名無史さん:2012/11/11(日) 01:03:07.55
5倍、6倍、も違えば、もはや修辞という言葉さえ虚しい。
これは間違いといえるレベルですらない。

意図的でなければ、ここまで違うはずはない。
722日本@名無史さん:2012/11/11(日) 01:09:13.58
>>707
中国人が中国国内で中国人読者のために書いた三国志が、
なぜ東夷の固有の里で記述しなければらなんのだ?
723日本@名無史さん:2012/11/11(日) 01:15:43.71
>>709
確かに、初めて朝鮮の事情を報告するときには、朝鮮の里は中国とちがい1里はこの程度
とか、朝鮮里で報告するとか注意書きをしただろうよ。しかし、中国が朝鮮に楽浪郡など
を設置してから魏時代までには数百年がたっているんだ。回数を重ねるうちに、いちいち
朝鮮の里で報告するとかその朝鮮の里がどの程度の距離かといった説明は省かれるだろう。
とくかく、中国本土の里とはまったくちがうのだから、少し知識のある者が報告書を読め
ば朝鮮の里で書いているなということはすぐ理解できる、そんな状態だったんじゃないかな。
724日本@名無史さん:2012/11/11(日) 01:20:39.15
朝鮮の里を強制されていたんだね、九州
725日本@名無史さん:2012/11/11(日) 01:20:51.65
今気づいたが、倭人伝中で、「里はなく日数のみ」、
と書かれていて、日数表記になるのは、
ほかならぬ「現地単位表記宣言」、ということだ。

これは、特に換算せず、現地の数値をそのまま表記すると言うことではないのか?
726日本@名無史さん:2012/11/11(日) 01:21:53.03
>>702
>倭人伝では対馬が方四百里で壱岐が方三百里と約1.3倍の差しかない
算数の勉強からやり直せ。
727日本@名無史さん:2012/11/11(日) 01:35:38.71
400÷300≒1.3だけど
728日本@名無史さん:2012/11/11(日) 01:40:42.92
>>727

面積……
729日本@名無史さん:2012/11/11(日) 02:18:13.92
「方」だから二乗しないといけなかったな
それでも400×400=160000、300×300=90000で差はおよそ1.77倍
いい加減な数字であることに変わりはない
730日本@名無史さん:2012/11/11(日) 02:40:23.06
>>725
じゃあ「萬二千余里」はどうなんの?
731日本@名無史さん:2012/11/11(日) 02:44:52.76
「周施可五千余里」も
732日本@名無史さん:2012/11/11(日) 04:44:16.59
邪馬台国が畿内だったとしたら銅鐸文化圏の国てことでいいんだよね?
733日本@名無史さん:2012/11/11(日) 05:02:07.37
>>696
文書成立は呉が滅亡した後
734日本@名無史さん:2012/11/11(日) 06:33:43.43
>>730 >>731

そう、現地単位である日数で表記しても、
全体の里数はわかっていた。

つまり日数-里数換算ができていたが、
あえて現地単位で表記したということ。
735日本@名無史さん:2012/11/11(日) 07:02:29.87
いい加減、短里は実在したスレでも作ってそっちでやれよ
同じ話延々ループしてんだろ

スレ建てる能力もないってなら、オレが立ててやるから
そっちでやってろ
736日本@名無史さん:2012/11/11(日) 07:28:39.05
>>729
では、正しい数字は何かを考えてみろ。一大国は方二百里、対馬国は方四百五十里ぐらい
が正解かな。ということは、一大国は少し大きくみてしまった、対馬国は少し小さくみて
しまった、という程度の話だ。しかし、一大国が方二百里か方三百里かは、観測の誤差と
して十分なっとくできる範囲だろう。
737日本@名無史さん:2012/11/11(日) 07:34:21.08
>>735
では、短里は存在しなかったという前提で論を進めるとどうなるんだ?
倭人伝が書いている里はどうして短い? 万二千里というのはどのあたりになる?
周旋五千里は何キロぐらいでどこからどこまでの距離?
738日本@名無史さん:2012/11/11(日) 08:34:51.74
んなもんわかるわけがない。推測するしかないんだし不毛な議論だアホらしい。
マニアはこれだから糞なんだよ
739日本@名無史さん:2012/11/11(日) 08:54:48.47
そう、短里、あるいは短里相当を認めなければ、
畿内説すら成立できない。
740日本@名無史さん:2012/11/11(日) 09:39:08.74
倭人伝の距離表記はいい加減
それだけの話だよ
741日本@名無史さん:2012/11/11(日) 09:46:17.71
そんな事は認められない。
なぜなら短里説の論拠が失われるからだ。
事実として正しいかは問題ではない。
742日本@名無史さん:2012/11/11(日) 09:50:47.51
いい加減という主張では、
別の根拠を持ってこないと、
松浦にすらたどり着けない。
743日本@名無史さん:2012/11/11(日) 09:52:52.01
短里説なら、松浦まで容易に辿り着けるが、
短里を捨てると、松浦まで行くための、
別の論理構築が必要。
744日本@名無史さん:2012/11/11(日) 09:54:12.35
もちろん、公里などを使ったら、絶対に行けない。
745日本@名無史さん:2012/11/11(日) 10:10:35.11
倭人伝の距離表記はいい加減→日数表記もいい加減→その他の記事もいい加減→邪馬台国があったというのもいい加減

以上、畿内説でした。ん、何が畿内なんだっけ。
746卑弥呼は満州にいた:2012/11/11(日) 10:24:32.07
日中間に通交が頻繁にあって、日本の地理が十分に把握できていたのだとしたら、
あんなルポルタージュ風の文は書かない。日本の主要都市の位置を簡単に書くはずだ。
ところが倭人伝だけあんな紀行文風な文が書かれている。
ということは日中間に頻繁な通交はなく、
日本の地理もろくに分かっていなかったということなのである。

一大率云々が書かれているが、一大率は百済の官である。
伊都国に一大率が置かれていたと書かれているが、それも怪しいもので、
実際は朝鮮半島の光景を伊都国の光景と誤解しているかもしれないのである。

中国史書にも誤謬は多々ある。満州源流考を読むと、たとえば、
遼史のここは誤謬も甚だしい、等の指摘が頻繁に出てくる。
747日本@名無史さん:2012/11/11(日) 10:26:44.65
>>736
壱岐島の実際の面積は約140平方km
方三百里を短里換算すると約500平方km
3.6倍が誤差の範囲か?
748卑弥呼は満州にいた:2012/11/11(日) 10:36:08.17
ではその満州源流考の考察は正しいかというと、これもあまり信用できず、
比定を間違っていると思える箇所がかなりある。
たとえば渤海の鉄利府の位置を、遼史の記述を参考にして、鉄嶺付近と比定しているが、
これはおそらく間違いである。
Wikiではウスリー江以東としているが、これも恐らく間違い。
私には見当は付いているが、ここには書かない。

とにかく版図や河川や都市の比定は非常に難しいのである。
百済や新羅の版図についても、実際は誰も知らないのである。
倭も然り。倭というのは日本だけではないのである。
749日本@名無史さん:2012/11/11(日) 10:48:51.76
>3.6倍が誤差の範囲か?
面積の誤差というのはそんなものなんだよ。 島の大きさを十キロ四方とみるか
二十キロ四方とみるか、島をみただけで判断するのは非常にむずかしい。
十キロとみるか二十キロとみるかで4倍の差があるわけだけどね。
750日本@名無史さん:2012/11/11(日) 10:50:01.58
倭人伝の内容に一番合致するのは四国東南部ですよ。
また阿波や讃岐は巻向周辺とも関連性が深い。
ヤマト政権の母体になったのは今更言うまでもない。
つまり倭とは阿波が中心の話、記紀とも一致しとる。
今更九州説に朝鮮説?寝言は止めとけw
751日本@名無史さん:2012/11/11(日) 10:54:52.11
纏向は阿波、讃岐、播磨、吉備、河内だろ
それが東海と結んだ
752日本@名無史さん:2012/11/11(日) 10:55:45.57
あまり信用できないという満州源流考を読んで「中国史書にも誤謬は多々ある。」と
結論づけるのは乱暴な話だね。
753日本@名無史さん:2012/11/11(日) 10:58:21.43
>>750
根拠の欠片もない。
近畿説論者は、論理を知らない。
要するに、頭が悪い。
754日本@名無史さん:2012/11/11(日) 11:00:25.99
倭は瀬戸内東部、畿内が中心だな。
入り口が宇佐、卑弥呼、もしくは伊予がモモソで矛盾は殆どない。
755日本@名無史さん:2012/11/11(日) 11:10:46.14
やっぱりトヨ又はイヨは若くて可愛いから国名にして残したけど
ヒミコはババァだから国名に残さなかったんかね
756日本@名無史さん:2012/11/11(日) 11:12:55.52
倭人伝の距離表記は余りあてにならない
これが常識的判断
五倍だ短里だと無理矢理法則性のような物を見出だそうとするのはナンセンス
対馬・壱岐と壱岐・唐津じゃ倍くらい違うがどちらも千里表記だからね
757日本@名無史さん:2012/11/11(日) 11:30:55.00
>対馬・壱岐と壱岐・唐津じゃ倍くらい違う
そうでもないね。厳原と勝本、勝本と唐津ならば同じくらいだ。
758日本@名無史さん:2012/11/11(日) 11:33:31.80
>>753
こんなの日本人なら誰でも理解出来る。
九州説なんて頭が悪いか妙な意識を持った朝鮮人だけだよw
759日本@名無史さん:2012/11/11(日) 11:40:20.65
>>758
伊都国は、何処にあるの?
近畿説!
760日本@名無史さん:2012/11/11(日) 12:02:27.06
>>758
伊都国で一大率の検閲を受けた荷物はどうして
近畿まで運んだの?
761日本@名無史さん:2012/11/11(日) 12:16:25.29
>>750
呼子まで、また持ってかえったのか〜〜〜?
玉島川、松浦川を再び渡ってか〜?
762日本@名無史さん:2012/11/11(日) 12:24:35.17
壱岐と糸島には楽浪人=漢人が住んでいたから、漢尺か標準里になるだろう
糸島との副葬習慣の共通性から奴国も同じと考えられる
では、朝鮮半島の支配を受け短里を強制されていたのは九州のどこだろうか

チャンスンやソッテの痕跡を捜すのが短里証明の近道なのかもしれない
http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/mura/contents/mid/Img2075m.jpg
http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/mura/contents/mid/Img2087m.jpg
763日本@名無史さん:2012/11/11(日) 12:26:57.43
>>758
ネトウヨ、人間のクズ、場違いなところにツラ出すな
764日本@名無史さん:2012/11/11(日) 12:29:58.10
つーか短里というのはトンデモ古代史の必須アイテムだから
2chではやるのは当然だな
まともな議論がしたい人はもっと質の高い掲示板に行けばいいよ
765日本@名無史さん:2012/11/11(日) 12:44:16.66
>>764
どこにあるの? おしぇ〜て。
82はあかんぞ! 病人の巣だ。
766卑弥呼は満州にいた:2012/11/11(日) 12:44:46.56
満州源流考にこんな記事があった。

本朝康熈十六年寧古塔章京薩布素以繩量道里兩度為丈百八十丈為里
自寧古塔西&amp;#38359;門量至吉林東&amp;#38359;門凡九萬八千丈為五百五十里
後分八站作六百三十里雖古今里數未必盡同然正約畧可見耳

百八十丈を里と為し、寧古塔西&amp;#38359;門から吉林東&amp;#38359;門までを計ると五百五十里だったという。
寧古塔から吉林までは直線距離でざっと260kmだ。
これが五百五十里だから一里は約470m。
因みに中国の度量衡というサイトで清代の一里を調べると576mとなっている。
767卑弥呼は満州にいた:2012/11/11(日) 12:47:11.11
上の&amp;#38359;門は関門。
768日本@名無史さん:2012/11/11(日) 12:48:03.44
>>763
ネトウヨなんて言葉は在日さんか朝鮮人しか使わないよw

伊都?北部九州でなんの問題もない。
だが倭とは瀬戸内を本拠地とする海人族だ。
だから中継点である宇佐や関門(ナガト、奴の処)が重要な訳だ。
769日本@名無史さん:2012/11/11(日) 12:54:12.05
国生み逸話で女神名が付いてる国は何処にある?
女王国で重要なのはここだ。
瀬戸内にしかないよ、九州にあるのかねw
770日本@名無史さん:2012/11/11(日) 12:54:32.83
>>768
>伊都?北部九州でなんの問題もない。

北部九州のどこ?
有千餘戸の小さな国だ。
特定しなきゃ、ね!
どうぞ
771日本@名無史さん:2012/11/11(日) 12:56:51.25
>>770
万という資料もあるけどな。
それはどうする?
772卑弥呼は満州にいた:2012/11/11(日) 13:01:47.31
倭人伝を素直に読むと、不弥国から水行しているのだから、
不弥国とは九州の北岸か東岸の国である。

ただし水行二十日云々の記事は、不弥国までの記事とは別の原資料があって、
それを不弥国からの記事に繋げたのかもしれないという疑いがある。
たとえばこの不弥国とは馬韓の不弥国かもしれないのである。
773日本@名無史さん:2012/11/11(日) 13:18:04.16
>>771
倭人伝が千だから、千で特定して
774日本@名無史さん:2012/11/11(日) 13:25:34.25
>>772
なかなか乙な意見です。

では投馬国=対馬国と
775筑紫の民:2012/11/11(日) 13:33:57.36
魏志倭人伝には「郡(帯方)より女王國に至ること萬二千余里」
「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし」と書かれている。
郡(帯方)から邪馬台国までの道程も日程(水行10日陸行1月)も
書かれている。

と・いう事は・魏志倭人伝は魏の公式尺度以外の尺度を用いたという事だ。

それを単里と呼ぶかは知らないが「魏の公式尺度以外の尺度」を無視すれば、畿内説も成り立たない。
776日本@名無史さん:2012/11/11(日) 13:45:28.92
邪馬台国は気球温暖化による海面上昇と、地震による地盤沈下で海に沈んだ幻の大陸スンダランドにあった。
邪馬台国の末裔は、ジャワ島に生き残っていたのだ。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8c/Borobudur-Nothwest-view.jpg/800px-Borobudur-Nothwest-view.jpg
777日本@名無史さん:2012/11/11(日) 13:46:25.02
ジャワ台国のスレ行ってください
778日本@名無史さん:2012/11/11(日) 14:04:56.24
ちょっと前までは、こういう下りだったのに、

>九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!

最近は、このスレも保守的になりましたね。
779日本@名無史さん:2012/11/11(日) 14:07:11.36
>>773
結局ご都合主義じゃないか。
でも畿内説では伊都が千でも何の問題がない。
奴国で二万戸の国、北部九州なんてこれだけで充分過ぎだわ。
むしろ奴国は山口県に及んだ位でいい。
780777:2012/11/11(日) 14:26:02.77
>>778
どんと来いジャワ台国
781日本@名無史さん:2012/11/11(日) 14:26:38.27
例えばある文章に「東京〜大阪の距離は3000kmである」と書いてあったとする
これに対し「この文章では公式のメートル法以外の尺度が用いられている」なんて結論になるか?
普通に考えようよ
782日本@名無史さん:2012/11/11(日) 14:33:59.53
>>781
倭人伝の距離と日数は間違ってると普通に考える
783日本@名無史さん:2012/11/11(日) 14:48:42.56
>>779
>でも畿内説では伊都が千でも何の問題がない。

で、伊都国はどこに比定するの?

>奴国で二万戸の国、北部九州なんてこれだけで充分過ぎだわ。
むしろ奴国は山口県に及んだ位でいい。

漠然とし過ぎじゃねぇ?
結局「北部九州」しか表現できないの?
「北部九州」ったって、いささか広ろうござんすよ。
近畿説!
784日本@名無史さん:2012/11/11(日) 15:46:39.10
ん〜、糸島には、3世紀前半の平原古墳群がある
1号墳は奈良の纏向古墳群と同時期の方墳
785日本@名無史さん:2012/11/11(日) 15:54:40.68
平原は一世紀から二世紀じゃなかったかな?
まあ、その後もしばらくは続いただろうけど。
786日本@名無史さん:2012/11/11(日) 16:03:15.99
>>784
そこのが甕棺から割竹形木棺に切り替わるトランジッションのところで

被葬された女王に軽度のすり替わりが疑われちゃうからちょっとこわい

列島内での割竹形木棺のルーツのとこなんだろうけどさ
787日本@名無史さん:2012/11/11(日) 17:08:20.57
>>779

やっぱり、近畿説はしょーもない!
788日本@名無史さん:2012/11/11(日) 17:14:42.04
http://blog-imgs-46.fc2.com/z/a/r/zaru3386/0712_IMGP6466.jpg
これってベトナム産の舟形木棺
1961年に発見された(2450±100年前)らしいよ kwskしらんけどさ
789日本@名無史さん:2012/11/11(日) 17:20:28.79
保存状態いいなぁ
790日本@名無史さん:2012/11/11(日) 17:20:56.53
伊都国は翰苑が引用する魏略では「万余戸」だが
代々王がいたことを考えればこちらが正しいんじゃないか
それから平原1号墓の年代は土器から見れば2世紀末頃だろう
791日本@名無史さん:2012/11/11(日) 17:35:18.43
近畿説が正しいってわめいてる連中も、近畿説の中身がどうゆうものか分かんないんだよ。
ころころ変わってるからね。今の近畿説が伊都国や奴国をどう説明するのか分かってないんだろ。
792日本@名無史さん:2012/11/11(日) 17:38:11.80
http://www.mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?corner=6&page=16&subpage=1186
これって高霊からちょい南の慶尚南道昌寧郡出土のクスノキ製木棺
九州産でしょうと理解するのがふつう
500年ころとの現地で判断
793卑弥呼は満州にいた:2012/11/11(日) 17:38:59.60
不弥国の不は豊前の豊と音が共通しているから、
不弥国というのは豊前ではないのか。
不弥国の弥が何かは知らんがw

不弥国を宇美とするのは奴国と近すぎて無理な気がする。
まあ私は満州説だから、こんなことはどうでもいいのだが。
794日本@名無史さん:2012/11/11(日) 17:41:46.30
畿内説は論外だが短里説も論外
795日本@名無史さん:2012/11/11(日) 17:44:28.05
とか言って、万二千里や周旋五千里をどう解釈するか答えられないんだろ。
796日本@名無史さん:2012/11/11(日) 17:46:40.86
邪馬台国の場所が仮になんかの拍子に特定出来たとして
札幌の時計台並みにガッカリ名所になんのかね?

基本出てくるのって、古墳、棺?、銅鏡、錆びた鉄剣くらい?
797唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/11(日) 17:54:28.19
>畿内説は論外だが短里説も論外


当然 邪馬台国九州説も論外なんだろ。
798日本@名無史さん:2012/11/11(日) 18:00:19.36
>>795
倭人伝の距離表記はあてにならないってだけだ
変に距離表記を正当化しようとするのは愚の骨頂
799日本@名無史さん:2012/11/11(日) 18:16:11.21
>>797
ホツマなんとかも論外
倍暦も論外
800太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 18:22:47.24
>倍暦も論外

なぜ?
801日本@名無史さん:2012/11/11(日) 18:27:07.04
同じ書物に倍暦と倍暦でない暦を何の断りもなく混在させると思うか?
802日本@名無史さん:2012/11/11(日) 18:27:07.22
そういや、クスノキ自然林の北限が福岡市付近となってたな。

それより北にあるクスノキは、
植えられたものである可能性が高いそうだ。
803日本@名無史さん:2012/11/11(日) 18:29:55.14
記紀編纂の時に、元資料が倍歴で記録されていたとしても、
倍歴に気づかなければ、頭をひねりながらも、
そのまま書くしかあるまい。
804太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 18:32:49.36
>>801
思うね。
そのいい事例がある。

古代マヤ暦がそれだ。

同暦は2倍暦たる太陰暦とイニシャル・シリーズの長期暦、1.4倍暦の
ツォルキン暦に通常暦といえるハアブ暦等々とが混在となっている。
これが石碑などにマヤ神聖文字の文面で書かれているわけだ。

それに断らねばならぬというとりわけ根拠もないだろう。
805太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 18:33:44.52
>>803
まぁそれはそうだろう。
806日本@名無史さん:2012/11/11(日) 18:35:19.35
一年の長さが倍に変わるなんて大事だよ
そんな大事をスルーするかっつーの
これは短里にも言えるが
807日本@名無史さん:2012/11/11(日) 18:41:51.06
まあ倍暦も短里も可能性はゼロではない
だがこれはあらゆる仮説(邪馬台国=エジプト説とか)において言えること
常識的に考えたら可能性はゼロに近い
808太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 18:43:14.28
>>807
0に近い根拠の説明がない。

事例があるんだから、古代日本でもそれが存在した可能性は充分いえる。
809日本@名無史さん:2012/11/11(日) 18:53:54.20
>>808
複数の周期の暦を使用していた事と
複数の暦があった事は違うよ

前者は自分達の意識の基に使用してる
後者は複数の暦があったとしかいってない
810太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 18:59:31.52
なかなか細かいね〜。w

言いたいことは〜〜
だから古代の当時、畿内朝廷は複数の暦を並行して使用していたという
ことだ。
朝廷は2倍暦を使いながら、あるとき暦法変更して3倍暦を主体として
換え、また戻したり通常暦もそうしたりして暦を編んでたということだ。

単純に考えら事例では、現今のグレゴリオ暦に旧暦を並行して使用して
いたようにだ。とにかく単暦ではなかったということよ。
811日本@名無史さん:2012/11/11(日) 19:02:05.11
>>810
それを裏付ける資料が出てくるといいけどね
仮説はもうおなか一杯
812太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 19:05:42.86
訂正
× 単純に考えら事例では

○ 単純に考えられる事例では


この朝廷の並行暦法はもっぱら天皇に関してのものだったようで、それが
次第に天皇でないことでも使うようになったことも否定できるものでは
なく、年代の経過によってその使用範囲が広がった可能性は
あるだろうと考えている。
813日本@名無史さん:2012/11/11(日) 19:09:19.46
仮説は立証出来なければ、いつまで経っても仮説
短里にも言えるけど
814日本@名無史さん:2012/11/11(日) 19:15:27.02
何もかもわからない、信用できない、は答えを出すことを、
放棄してるのと同じこと。

仮説ながら、辻褄の合う答えが用意できるなら、
その方が信頼できる。
815日本@名無史さん:2012/11/11(日) 19:16:47.41
>>810
それを示す根拠が何にも無い
だからゼロに近いとしか言いようがない
古代日本では異なる暦を併用していたと言う文献なりなんなりを提示してみなさいよ
あなたの推測以外でぬ
816太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 19:18:09.95
>>811
編年という論はべらぼうに長くなり随分と頁を使うもので、逆算して
倍暦使用の説明のことは数年前行ったものだが、疲弊するし充分な説明
は今やれといってもなかなか完全にはできないから、個別の質問を受けて
対応したいから、質問があればこれに答えたいと思っている。

そこでおおざっぱな裏づけは先月も見つかり、ここあたりのスレに説明
をしておいた。

これは倍暦逆算ですでに年表を提示してるのだが、

 開化48年=230年

を逆算で得ていたが、

沖縄所在の神徳寺文書(八幡愚童訓 甲本 上)に

 呉兵来襲が開化48年に沖縄にあった

という件を把握していた。

ところが無名さんから、230年(黄龍2年)に呉兵来襲があった事実が
Wikiに説明がある旨書きこみがあり(呉主伝)

 開化48年=黄龍2年=230年

であることが判明し、倍暦逆算が1年の狂いもなく整合していたことが
分かったのだ。これは重大なことだ。

これから 景初元年=237年=崇神即位元年 が真であることが分かる。
817日本@名無史さん:2012/11/11(日) 19:25:52.80
>>814
であれば公定里とは異なる「短里」なるものがあったという根拠、或いは五倍だか六倍で距離表記されているという根拠にも言及しなければなるまい
それは無視?
818太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 19:25:57.32
>>815

>>816はコチラのいう朝廷の暦変更混在をしていたという仮説での逆算結果
だ。五輪でいえば金メダルものだよ。1年の狂わずピタリだ。

たとえば紀の雄略4年の記述と大成経の雄略4年の同記事とでは、丁度
半年のズレがある。当時の1年は現今の半年というのが2倍暦だから、
文句あるまいが?w

紀は同年2月のところ。大成経では8月だ。
このことは雄略の時代、通常暦に加え2倍暦を並行行使してたということ
になる。
819太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 19:29:04.27
【開化崇神 編年表】

皇紀西暦 干支 倍暦紀皇年
510 -151 庚寅 210  7
511 -150 辛卯     8
512 -149 壬辰     9
513 -148 癸巳 211  10  崇神誕生⇔御名に因み任那成立
・・・・・・・・・・・・・
530 -131 庚戌 220  27
531 -130 辛亥     28  崇神立太子
・・・・・・・・・・・・・
550 -111 庚午 230  47
551 -110 辛未     48←→開化48年 呉兵20万3千人沖縄襲来 黄龍2年
552 -109 壬申 231  49
553 -108 癸酉     50
・・・・・・・・・・・・・
562 -99 壬午 236
563 -98 癸未     60  開化60年 開化崩御
564 -97 甲申 237  元  崇神元年 崇神即位
・・・・・・・・・・・・・
569 -92 己丑 238  6  崇神6年 倭笠縫 鏡祭祀 鏡作神社鏡改鋳
570 -91 庚寅 239  7  景初3年
 
820日本@名無史さん:2012/11/11(日) 19:29:18.65
>>818
全部が全部当てはまる訳じゃ無いでしょ
胸に手を当てて考えてみなさい
821日本@名無史さん:2012/11/11(日) 19:37:54.86
>>816
何か「八幡愚童訓」って文字をどっかで見たなと思ったら
モンゴル兵ってのは止めて、呉兵にしたの?
それとも相変わらずモンゴル=元が攻めてきたって話なの?
あいも変わらず20万の大軍で渡海
822太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 19:41:22.25
>>820
論より証拠でしょ。

文証で、はっきりしてるじゃないかね。w →>>816

他にも倍暦の証拠はいろいろあるから逐一出すかね?

このことから時代を降下させると

 崇神没年=259年

を得る。

このことで、古事記の崇神没年の戊寅が1年違いで258年だたということが
明確になったということだな。

1年違いは五輪でいえば銀メダルものだぞ。
823日本@名無史さん:2012/11/11(日) 19:43:35.82
古代史三連単

  満州、唐松山、太国

     別名、場違い三連複
824日本@名無史さん:2012/11/11(日) 19:49:54.44
>>822
だからさ、「今までは6ヶ月=一年だったがこれからは12ヶ月=一年とする」みたいな文献を出してよ
そんなもん無いだろ
あんたの推測だけやん
それに当てはまらない事例もあっただろ?
胸に手を当てて考えてみなさい
825日本@名無史さん:2012/11/11(日) 19:53:30.39
唐松山と太国ってやっぱり同一人物だな
826日本@名無史さん:2012/11/11(日) 19:56:12.61
最近はあまり唐松論争はしないなとは思う
827日本@名無史さん:2012/11/11(日) 19:58:43.91
つーか唐松山太国は終止符スレから出るなよ
828日本@名無史さん:2012/11/11(日) 20:08:55.61
>>817

魏志倭人伝
後漢書東夷伝
隋書倭国伝
隋書百済伝、
周脾算経
829日本@名無史さん:2012/11/11(日) 20:13:25.13
>>817

あなたの比定地が分からないが、
その比定地の根拠も提示してほしいな。
830日本@名無史さん:2012/11/11(日) 20:18:58.52
>>828
そんなもん根拠でも何でも無いだろ
胸に手を当てて考えてみなさい
>>829
九州のどこか
それ以上は不明
分からない事を無理矢理説明しようとするのは愚かなことさ
831日本@名無史さん:2012/11/11(日) 20:22:39.03
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃┌───┐                ┃
┃│.ワイプ.│        テロップ..  ┃ 
┃│ 画面 │        テロップ.. ┃ 
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┃  【YouTubeの動画垂れ流し】   ┃
┃     【やらせ・捏造】       ┃ <SEを被せる(ど〜ん、どし〜ん
┃     流れるテロップ・・・・    ┃  どか〜ん、ぴろぴろぴろぴろ・)
┃                      ┃ 
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 SE:え〜  SE:あははは  SE:へぇ〜
832日本@名無史さん:2012/11/11(日) 20:34:38.92
>>830

九州説畿内説関係ない、ただのゴミだったか。
833日本@名無史さん:2012/11/11(日) 20:34:48.24
邪馬台国は東北にあった
834日本@名無史さん:2012/11/11(日) 20:40:09.62
>>832
いや、>>830は、歴史板にいる価値のないゴミと言うべきであろう。
835日本@名無史さん:2012/11/11(日) 20:45:05.24
>>830

つーか、こいつは何しに出てきたんだろ?
胸に手を当てて、って言葉を使いたいだけの荒らしか。
836日本@名無史さん:2012/11/11(日) 20:54:32.07
>>832,834,835
確かだと思われる情報を積み上げただけだ
馬鹿な仮説を振り回したところで何処かで論理が破綻するんだよ
837日本@名無史さん:2012/11/11(日) 20:58:29.75
馬鹿は直ぐに答えを欲しがる
しかし世の中には答えが不明な事象が五万とある
838日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:01:55.80
つまらない
839卑弥呼は満州にいた:2012/11/11(日) 21:08:32.68
太国の話は看過できない重要な真実を含んでいるかもしれないから、
一応検討してみる必要がある。

まずその八幡愚童訓の原文を確認する必要がある。
近いうちに図書館で調べてみようと思うが、
太国よ、できるならおぬしがここに上げてくれ。
開化48年に呉軍が来襲したという箇所だけでいい。

昔から中国のことは呉と呼んでいたので、果たしてその呉軍が、
三国時代の呉であるかどうかは何とも言えないのである。
また三国の呉が某二州に軍を派遣したというのが事実であるとしても、
それが沖縄あるいは日本のことであるかどうかは検討の余地があるのである。
840太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 21:22:14.12
>>830
立派な根拠だろうが。ww
しっかりしてくれよ。ちゃんと文献を探して、これを見つけたわけだぜ。

た〜だ話だけで、史料根拠を出してないで言ってるんではないんだよ。
的のど真ん中を射てるんだから、文句がないはずだ。それを言うならば、
君もそうでないという根拠を出しなさい。

1年が365日でやってたのは、どうやら神武のときからすでにそうだったと
いうことよ。それが特段の事情があって、神武が倍暦行使を持ち出したの
さ。倍暦の終わったのは佛伝のころだよ。このとき大陸からの暦法が
伝わって、その暦法にとって変わられたのさ。だから倍暦の終焉は宣化の
代のへんだな。しかし終わっても現今でも旧暦が残っているように、微かに
息を残して後代まで残っていた少しの可能性までは否定できないが、表見的
には佛伝を境に終わりとなる。
841日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:26:36.61
鬱陶しい
842太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 21:28:14.33
先だって、2ちゃんの名無しさん氏の情報から、230年
に呉兵が沖縄来襲をしていた話を聞き及んだ。このことがWikiに出ていると
の話であり、Wikiならば充分信用度が大の情報である。
それがしはかねてから神徳寺文書に 開化48年 に呉兵が沖縄来襲の記述があることを把握していたが、
2ちゃんのこの情報とこれとの双方の年代から、呉軍が沖縄来襲した年代が

 黄龍2年=230年=開化48年

だということを確認したわけである。
開化48年から後代に2倍暦で降って数えると、当時の皇暦は2年分で現今の1年になり、
開化47年〜開化48年が230年に当たることから 開化47年 230年 で、当然翌開化48年も〜

開化48年 230年
開化49年 231年
開化51年 232年
開化53年 233年
開化55年 234年
開化57年 235年
開化59年 236年
開化60年 236年

と、開化59〜60年がともに236年 に相当し、翌年の崇神即位は 236年+1から

崇神元年=237年

となることが判明した。
崇神の代は3倍年暦を行使していたので、ここから後代
に数字を当てていくと、 崇神没年=259年 となること
が確認できる。このことは古事記の崇神没年戊寅が1年違いの258年で
あったことが分かって来たのである。
これは那珂博士、原静岡大学名誉教授らの主張がほぼ真であったことを
物語る。
843日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:31:22.52
夷洲と亶洲の話か
しかし沖縄とはかぎるまい
844太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 21:33:21.20
http://www.eonet.ne.jp/~temb/12/zyohuku.htm

これの ↓

 三国志呉書呉主伝第二(三国志の著者、陳寿は晋の人)
……(黄龍)二年……遣将軍衛温諸葛直将甲士万人浮海求夷洲及亶洲亶洲
在海中長老伝言秦始皇帝遣方士徐福将童男童女数千人入海求蓬莱神仙及
仙薬止此洲不還世相承有数万家其上人民時有至会稽貨布会稽東県人海行有
遭風流移至亶洲者所在絶遠卒不可得至但得夷洲数千人還

 「……黄龍二年……(呉王孫権は)将軍、衛温と諸葛直を派遣し、兵士
万人を率いて海に浮かび夷洲と亶洲を求めさせた。亶洲は海中に在り、長老
は、秦の始皇帝が方士、徐福を派遣し、童男と童女数千人を率いて海に
入り、蓬莱神仙と仙薬を求めさせたが、この島にとどまり帰らなかった。
代々受け継がれて数万家がある。その島の人民が時おり会稽の貨布(漢代の
銭名、後漢書を参照すると市のことか)にやって来た。会稽東(冶)県の人
で、海に行き風にあい流れ移って亶洲に至ったものがあると言い伝えて
いる。その所在はきわめて遠く、ついに得ることはできなかった。ただ、
夷洲数千人を得て還った。
845日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:33:49.50
スレチ
846太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 21:37:18.63
>>843
くやし涙か〜〜?ww

じゃぁどこだというんだね?

1年も違わず一致するということは、こうこれで決まりさ。
間違いでこんなにうまく具合よく、一致するものなのか?

それともまだほかの時代だとかほかの国だとかで頑張る〜?
それならそうすればいいだろう。しかし蜘蛛の糸同然の心細い可能性
だと思うがね??ww
847日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:37:37.35
つーかだな
夷洲は台湾とも考えられていて孫権の軍はここにはたどり着いて捕虜を得たが
亶洲(日本かも)にはたどり着けなかったと
はっきり呉書に書いてるだろうに
848日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:38:57.77
>>846
わからんやつだな
お前の引用にたどり着いてないと出てるじゃないか
849日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:40:13.47
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃┌───┐                ┃
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   /\     /\     /\
 SE:え〜  SE:あははは  SE:へぇ〜
850太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 21:42:33.89
呉書陸遜伝……(孫)権遂征夷州得不補失
「……孫権は遂に夷洲を征服した。得たものは失ったものを補えなかった。
……」 捕虜として連れ帰った数千人以上の犠牲を出し、戦利品以上の出費
があったようです。

 後漢書倭伝(後漢書の著者、范曄は南朝宋の人)
……又有夷洲及澶洲伝言秦始皇遣方士徐福将童男女数千人入海求蓬莱神仙
不得徐福畏誅不敢還遂止此洲世世相承有数万家人民時至会稽市会稽東冶県人
有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往来
「また、夷州及び澶州がある。秦の始皇帝は方士、徐福を派遣し、子供の
男女数千人を率い海に入り蓬莱神仙を求めさせたが、できなかった。徐福は
処罰されるのを畏れあえて帰らず、ついにこの島にとどまった。代々受け
継がれて数万家がある。その人民が時おり会稽の市にやって来る。会稽
東冶県の人で海に入ってゆき風にあい流されて澶州に至ったものがあると
言い伝えている。その所在はきわめて遠く往来することはできない。」

>>847
それはそうだろう。来襲とは地上に着いたではないからな。
来襲したが神風あたりにやられ沈没したとか、そのへんだろう。
こういうのも来襲というんだよ。来着ではなかろうが。w
851日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:46:21.72
どっかいけよもう
852日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:47:22.32
ただこれは呉の話ではあるが
この夷洲と亶洲のことも南越の話と並んで
倭国に来た魏の冊封使の規模を考える上での参考にはなるかもしれない

>>850
亶洲の位置は東海海上
徐福の話からその位置が想定されているだけで沖縄という確証はないな
853日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:51:45.11
「青丘国」はどこ?大連のこと?朝鮮のこと?日本のこと?
854日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:51:55.88
>>351

まともな反論もできずに一行レス。

情けない奴もいたもんだな。
855日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:53:30.06
>>854

>>351>>851の間違い。

だが、偶然にも似たような一行レスだった。
856日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:56:47.23
あとこの話は南に延びた日本列島の認識が当時の中国人の認識に
あったかどうかとも関連してくる
だからまあスレチでもない
857太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 21:57:23.27
>>852
なければ、どこの国で、その230年に呉が来襲したという文があるのか?

それを出してから言ってくれ。ヘヘ、エジプトか〜?ww
エジプトにて230年に呉兵が行ったか〜?ww
冷静に考えたほうがいいよ。
858日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:59:18.90
大国がリンク貼ってるサイトの亶洲=済州島の方が説得力あるな
このサイトの方は漢籍をよく研究してるよな
859日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:59:45.88
>>857
あほか
たどり着けなかったのに記録があるわけなかろう
夷洲はおそらく台湾で大きな間違いはない
三国志呉書の呉主伝にたどり着けなかったとはっきり出ているので
それ以上の話はトンデモだな
860卑弥呼は満州にいた:2012/11/11(日) 22:01:20.04
太国よ、>>839への返事がないぞ。

どうも呉の夷洲亶洲への兵士派遣の話は、
沖縄への呉軍来襲の話とは違うような気がするが。
第一兵士の数が違うし、亶洲へは辿り着けなかったとある。
それに沖縄に徐福が来たという伝承はあるのか?

とにかく沖縄への呉軍来襲の原文を上げてくれ。
861日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:03:54.13
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃┌───┐                ┃
┃│.ワイプ.│        テロップ..  ┃ 
┃│ 画面 │        テロップ.. ┃ 
┃└───┘               ┃  <ナレ:次の瞬間! と、そのとき!
┃  【YouTubeの動画垂れ流し】   ┃
┃     【やらせ・捏造】       ┃ <SEを被せる(ど〜ん、どし〜ん
┃     流れるテロップ・・・・    ┃  どか〜ん、ぴろぴろぴろぴろ・)
┃                      ┃ 
┃       やたらとデカイ      ┃  
┃         テロップ        ┃ <SE:え〜
┗━━━━━━━━━━━━━━┛       ナレ:このあと、○○にスタジオ騒然!(CMへ)
   /\     /\     /\
 SE:え〜  SE:あははは  SE:へぇ〜
862太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 22:04:18.23
>>859
辿りつけなかったというのは大勢がそうだということをいうのであり、
ほんの僅かは着いてる可能性は充分ありうる。
だから沖縄の神徳寺の文書に残っておられたわけだ。

こういうのも少しは着いてることを看過して、たどり着けないかったという
言い草にするものなのだよ。完全に着かないと決めこむのは頭がかたすぎ
て失敗だな。w
863日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:08:22.47
>ほんの僅かは着いてる可能性は充分ありうる

呉兵来襲じゃなかったのか?w
ほんの僅かだったらほとんど漂着だろw
864卑弥呼は満州にいた:2012/11/11(日) 22:10:46.21
>>853
青丘国というのは、恐らく、今の吉林省、遼寧省辺りのことである。
要するに満州中央部〜南部のことである。
865太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 22:11:16.68
朝満男よ
少しはこういう場合、抜けてたどり着いてるものだぜ。
しかも来襲というのは来着ではない。
殆ど到着前に神風でやられ、失敗したということだよ。
100%全員が着かなかったというものでもないはずだ。少数着いても、
大勢が着けないならば、着かなかった式の書き方を文書はするだろうが?

ほかにそれとも呉兵が230年に来襲したとか、そのへんの記述の文が
あるのか? ないと思うぜ? だから沖縄来襲と観てもう間違いないね。
しかも金的を射ている。完全ではないか?

ただし人数はかけ値があったり誤算があるのは、大人数からしようも
あるまいが。
866日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:14:17.09
これと同じ土俵で話すのは時間の無駄だった
867太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 22:14:53.66
神徳寺(じんとくじ)は沖縄県那覇市字安里38番地に位置(外部リンク)
する真言宗寺院です。八幡宮の別当寺として建立され、建立年・開山はとも
に不明です。山号は高明山、本尊は不動明王。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 もとより神功皇后の三韓征伐説話に付随して、応神天皇こそが八幡神と
見なされ、八幡神は外敵調伏の神とされていた。例えば鎌倉時代に成立
した『八幡愚童訓(甲本)』上によると、日本に襲来した外敵は、
開化天皇48年に20万3千人、仲哀天皇の治世下には20万3千人、神功皇后の
時代には3万8千人、応神天皇の治世下には25万人・・・・・

Wiki

230年に呉は海を渡って夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に兵を出し
たという記録があり(夷州には辿り着いたが、亶州には辿り着けなかっ
た)、これは台湾(夷州)と沖縄諸島(亶州)ではないかと考えられて
いるが、日本ではないかとも考えられている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

兵を出した→沖縄来襲:神風で、来襲したが壊滅でもしたということだ。
868日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:16:47.71
>>866
うんwww
思い込みが激しいんだよなw
教科書が『ムー』だからw
869太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 22:21:01.82
>>863
あんたはわけの分からんこというね。w

だから万の大群が大船群で押し寄せたんだから来襲だろうが。
攻撃しようとして渡航したんだろうから、これを来襲と記載したと観て
いい。しかしおそらくは神風にやられて沈没したとか帰船せざるを
得なかったという事情になったわけであり、来襲の本懐は遂げられな
かった。しかしその中で少数が生き残って沖縄に漂着した運のいい兵も
いたということだな。そのへんだよ。

まもなく寝るぞ。明日もよろしく。
870太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 22:24:57.85
>>860 朝満男よ
    ↓ これか?

http://www.kagemarukun.fromc.jp/page121b.html
871日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:25:33.18
>>869
なんか勝手に妄想してるが神徳寺文書(八幡愚童訓 甲本 上)には神風によって
呉軍が壊滅したと記録されてるのか?w
872日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:26:43.45
短里を示す証拠はあるわけだ。>>828が示したとおりにね。
しかし、その短里がどうゆうものなのか、正確な長さ、由来などを示す証拠がない。
それだけのことなのだ。ところが、畿内説論者はその区別が分からないらしい。
分かっていても認めたくないのかも知れんが。
873地家ヤスマサ:2012/11/11(日) 22:27:32.46
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。

1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
  尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
  9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
  邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
  これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
  人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。

朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされているが、
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決する。
しかし、そうなるまであと少なくとも50年はかかるだろう。
それまで俺に情報を独占させてくれ。
874卑弥呼は満州にいた:2012/11/11(日) 22:28:18.12
>>867
太国よ、八幡愚童訓に開化天皇48年に呉軍が来襲したと書いてあるのじゃないのか。
それとも神徳寺の書に書いてあるのか?
それとも開化天皇48年に呉軍が来襲したと書いてあるが、
沖縄に来襲した、とは書かれていないのか。
とにかく開化天皇48年呉軍来襲の原文を上げてくれなければ判断できないのである。

呉というのは、春秋時代に呉という国があったから、
国名であるだけでなく地名でもあるのだ。だから、
呉軍といっても呉の地方の軍隊という意味かも知れないのである。
とにかく開化48年が230年だなどということは信じられないのである。
それが真実なら古代史上の大発見である。
875日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:33:01.38
最近朝鮮民族の工作活動が活発になってきたな
876太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/11(日) 22:33:21.29
記録されてなくても、当時は気候観測用の人工衛星なんぞないんだから、
現今の中国船の接近では神風から逃れられるのと異なり、もうこれだよ。
元も神風つまり当時の台風だろうが。w

いいかい刑事裁判のやり方じゃぁ、いつまでたっても真の年代を拒否
することになろうぜ。
刑事裁判じゃぁ、当然被告人の無実が絶対あってはならないから、もっと
もっと厳格性が必要だが、古代史論はこれくらいで心配ない。
もう間違いないな。 230年=黄龍2年=開化48年 だったんだよ。

これから古事記の崇神没年戊寅は258年だったことが、倍暦計算から
確定だ。那珂博士、橋本増吉、改め氏、原静岡大学名誉教授の主張が
ほぼ真であったのだ。

zzzzzzzzzz・・・・・
877唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/11(日) 22:33:56.92
『八幡愚童訓(甲本)』
作者は、”愚童”を認ずる人物だろ?
読み物以上のものでないと作者がいっている。
878日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:40:25.25
太国は言ってることはめちゃくちゃだが、なんか憎めんなw
879日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:41:14.91
ちゃうと思いますよ
愚かなわらわべにもわかるように易しく八幡神の功徳を説いたという意味じゃないかな
この本は蒙古襲来の資料にもなってるね
880卑弥呼は満州にいた:2012/11/11(日) 22:41:20.92
>>870
なんだ、こんなものを見て言ってるのか。
単に開化48年に外敵が来襲したと書いてあるだけではないか。
どこにも、沖縄に来襲したとも、呉軍だとも書かれていない。

要するに太国が勝手に、沖縄に来襲した、来襲したのは呉軍だと言っているだけではないか。
あほらしい。真剣に考えた私が馬鹿だった。
881日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:48:45.00
馬鹿はどこまで行っても所詮馬鹿やね。
チョンはさっさと失せろや。
882唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/11(日) 22:49:08.84
>この本は蒙古襲来の資料にもなってるね

それを”呉”にまで広げたから誤なのである。
883卑弥呼は満州にいた:2012/11/11(日) 22:54:35.30
>>881の男は誰に向かって書いているのか。私か?

文を見ただけでお前がド低能であることは明明白白だ。
お前こそさっさと消えろ。お前のようなチンピラの来るところではない。
884日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:55:54.64
>>872
だからね、短里なるものがあったとするならそういう度量衡があったという文献なり出土品なりを提示しなさいよ
それだけの話
885日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:57:54.69
ただ太国の問題提起は多少は意味があるかもね
亶洲が徐福の来た島でありもしそれが日本であると考えられていたとしたら
会稽の東にある日本列島という当時の中国人の認識の傍証になるかも
886卑弥呼は満州にいた:2012/11/11(日) 22:58:48.00
忍ぶれど文に出でにけり低能は お前はアホかと人の問ふまで
887日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:59:57.22
>>876
>古事記の崇神没年戊寅は
>258年だった

はんこもろたおひとの没年のはおれがゆうたとおりじゃん

そしたら

崇~68年 「壹佰陸拾捌歳 戊寅年十二月崩」のの没年齢のは

168/2=84歳でええのかなあ

崇~(177年生-258年没)ならへんに天日矛にかぶちゃうけどそれもよしかな
888日本@名無史さん:2012/11/11(日) 23:02:05.29
>>872
>>872の表現でいうと「その短里がどうゆうものなのか、正確な長さ、由来などを示す証拠」を提示しなさいってこと
「証拠がないってだけだ」って、証拠がないから絵空事だって言ってんだよ
889日本@名無史さん:2012/11/11(日) 23:04:47.53
やはり朝鮮人みたいな品のないのが居座ると、スレも殺伐としたものになりますね
890日本@名無史さん:2012/11/11(日) 23:14:15.67
>>888
由来が分からなくてもいいんだよ。存在さえ分かれば。
いわゆる公式里だって実は公式だなんて証拠はないよ。
891日本@名無史さん:2012/11/11(日) 23:16:38.91
「正確な長さ、由来などを示す証拠」

そんなものは公里にもない。

各時代の尺や歩から、推測しているのに過ぎず、
それと連動している証明もない。
892日本@名無史さん:2012/11/11(日) 23:27:06.55
>>864
ありがとう〜
893日本@名無史さん:2012/11/11(日) 23:48:39.09
wikipediaの度量衡を見ると、時代によって尺は、
20〜30cmの間で変化している。

これは二割三割違う数値である。

ふと気づいたが、尺の変化に合わせて、
里程の記録は変化しているのだろうか?

例えば、今まで五千里と記録されてたのが、
四千里に変わったりしないのだろうか。
894日本@名無史さん:2012/11/11(日) 23:59:10.04
一里の長さがある日から1/5?になったら社会は大混乱だよ
短里説は現実的じゃないね
895唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/12(月) 00:03:31.35
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2009_12_12.htm
、『令集解』(りょうのしゅうげ)という880年頃書かれた「養老令」の解説書で、田の
測量法として「高麗法」という言葉があり、「今の大尺は高麗の5尺になる」と記載されて
いるという。

新井氏作成の表では、・・・次に示された古韓尺(26.7cm)の場合と比較すると、
圧倒的に後者の適合度が高い。こうした分析の結果、纒向遺跡の建物や建物配置には
古韓尺が適用されていたと、新井氏は力説される。

古韓尺による計算値は歩(26.7cmx6尺=1.60m)で示してある。

http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/osirase1.htm
天平六年(734)七道検税使算計法では、3様に指し分けられています。
2700寸(東海・山陽道)2800寸(東山・北陸・南海道)3200寸(山陰・西海道)
天平尺(29.7cmほど)1尺、曲尺(30.2cmほど)1尺、古韓尺(26.8cmほど)1尺2寸
896日本@名無史さん:2012/11/12(月) 00:07:06.55
>>733
遅くなってごめん。意識が無くなった。
陳寿が書いたのはたしかに呉の滅亡後だが、そのネタ本が呉の滅亡前に書かれていた
はず。そのネタ本をもとに陳寿は倭人伝を書いたのでしょう。なにかで読んだけど、詳細は忘れた。
897日本@名無史さん:2012/11/12(月) 00:27:13.48
>>894

強い権力で統一令が出されたといってもしばらくは混乱しただろう。

ましてや統一令と関係がない、東夷の国々では、
いつまでも古い短里が使われていたのは当然だといえる。
898日本@名無史さん:2012/11/12(月) 00:27:32.69
>>894
幼い思考だな。
899日本@名無史さん:2012/11/12(月) 01:45:09.03
「短里だとうまく説明できる」という主張は別に構わんが、
「短里の実在」を証明した気になってるのは論理的とは思えんな。
900日本@名無史さん:2012/11/12(月) 05:52:31.73
>>867
どこまで本当かはともかく
開化から元寇まで(元寇含まないかも)まで11回、外国勢が攻めてきたって書いてあんだよね
さすがに3世紀に20万の軍勢で沖縄に来たとは思えないけど
只、石垣島あたりなら1万可能かな?
901卑弥呼は満州にいた:2012/11/12(月) 08:47:52.54
>>889、これも私のことか?
>>881のようなふざけた書き込みが私に対して為された。
それで私はカチンと来て>>883を書いた。
それでも私が悪いのか?>>881は正しいのか?

日本人のすることは何でも正しいのか。
朝鮮人のすることは何でも悪いのか。
私は別に朝鮮人ではないが、朝鮮人差別には反感を感じるのである。
>>889の男は礼儀正しい文を書いている。
礼儀正しいが朝鮮人を差別しているのである。
>>881に馬鹿にされたからカッとして乱暴な文を書いた私と、
礼儀正しいが朝鮮人を差別している>>889と、
どちらがよりまともな人間であろうか。
902日本@名無史さん:2012/11/12(月) 08:52:57.81
キーワードは、 脱北 日本人になりすまし 在日特権 生活保護費不正受給 などか?
903日本@名無史さん:2012/11/12(月) 08:53:44.39
>>873
波多国である都佐=土佐を忘れないでね。
西とはそこから取ってる可能性もあるしな。
倭人伝の気候風土条件に最も合致する場所だし。
904日本@名無史さん:2012/11/12(月) 08:57:04.09
>>873
邪馬台国うんぬんはともかくw宮崎平野に関する貴重な情報サンクス!
905卑弥呼は満州にいた:2012/11/12(月) 09:02:07.93
徐福の話が出た序でだから、桓檀古記にこんな記事があるのを紹介しておこう。

至於徐福、韓終,亦以淮、泗之産,素有叛秦之志,至是入海求仙爲言,仍逃不歸。
日本紀伊有徐市題名之刻,伊國新宮有徐市墓祠云。徐福,一稱徐市,市、福音混也。

徐福はもともと叛秦之志があったので、求仙と偽って逃げたと書いてある。
通説とは随分違うのである。
906日本@名無史さん:2012/11/12(月) 09:54:51.22
>>901

 発 者 同         . 。_   ____           争
 生 同 .じ     .    /´ |  (ゝ___)          い
 .し 士 .レ      .__/'r-┴<ゝi,,ノ   ro、      は、
 .な で .ベ      ∠ゝ (ゝ.//`   ./`|  }⌒j     
 .い し .ル        } ⌒ /`ヽ、_∠l,ノ ・ヽ´
 .! ! か の       /  ´..:.} >、、___,  .r、 ソ、`\
             /   ..:.:.}   /   |∨ ` ̄
            /   ..:.:./    |   丶
           / _、 ..:.:.:.{    .{.:.:.   \
          {   ..:Y  .ゝ、   {.:.:.:.:.    ヽ
          |、  ..:/ 丿 .:〉   >.- ⌒  .  ヽ
          / {. ..:./ ソ ..:./  .(    ..:.:.:`  ..:}
         ./..:.:}.:.:./ ヘ、 ..:./   .\ ..:.:r_,ノ、.:.:}
        ./..:.:/|.:/   {.:./     X.:.:}.}   X X
        /..:.:/ .}.:|    }:/       .Y丶ヽ  Y.:Y
  . __/.:/ { }  《.〈、     _,,__>.:》丶   Y.:\
  /.:.:.:.:.::/   !.:.:ゝ  ゝ.:. ̄ヾ ´:.:.:.:.:.:.:.:.:ヾゝ   \.: ̄>
907太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/12(月) 11:01:35.23
20万人余というのは当時の沖縄の連中を震撼させるために、1万人
ばかりのところ、呉がはったりで20万人だと情報を出したんだろう?
はったりでも勝利に影響するだろう。勝つためにはこういうオーバー
に情報を流すのも作戦として必要だろうが。

これが軍事だろうよ。
908日本@名無史さん:2012/11/12(月) 11:57:46.22
こんな匿名掲示板でも、みんなから尊敬される者と、品がなく軽蔑され続ける鮮人の差が出るんだね。
909卑弥呼は満州にいた:2012/11/12(月) 12:31:14.74
太国よ、だからどこにも、沖縄に来襲したとも、呉軍だとも書かれていないではないか。
おぬしが勝手に、沖縄に来襲したとか、来襲したのは呉軍だと言っているだけなのである。

資料というのはもっと正確に読まないといかんぞ。

>>908
あいかわらずしつこく私への当てこすりか。
そんなに朝鮮人が嫌いなのか。そんなに私が嫌いなのか。
910日本@名無史さん:2012/11/12(月) 12:58:03.98
>>908
ゴミ溜めへ帰れと言われたろ蛆虫、日本語も読めないのか白痴!

>>909
こう言ってやればいい、人間扱いしたらだめだよ。
911日本@名無史さん:2012/11/12(月) 13:02:01.00
>>909-910
自作自演でもキムチ臭さは抜けないもんだねw
912日本@名無史さん:2012/11/12(月) 14:02:09.57
                    Λ_Λ
                    < `∀´ > トンスル飲むニダヨ
                   \    /   
                    |⌒I │
                    (_) ノ
             ______ _..レ__    ___
            /r''''''i i'''''ヽ|`i i'''ヽ`'i  i'´r.⌒ヽ|
                 | |    | L,丿丿 ヽ、_`''ヽ,
                 | |    i i'''ヽ`''i i、  `ヽ`}
                 j l、    j L,丿.丿 i、ヽ.,,ノ,ノ
             朝鮮総連 ブロードキャスティング システム
913太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/12(月) 15:50:08.41
>>909
じゃぁ、仲哀の時世のほうの20万3千人のほうなのか〜?w
呉兵が230年に日本襲来してるんだから、開化でない後代だというなら、
もう仲哀のこれしかないぞ? それより先代ならばあんたの調べた孝霊の
代の月支の襲来ということになるが、これも呉国じゃぁないだろう?
だから孝霊のではなかろう?
仲哀あたりは、記紀は欠史でなかろうから、載るべく然りだが、これも
載ってないだろうが?
否定するなら、開化の20万余人の来襲はどの国からの兵で大陸の文書で
何年にあったというのを持ってきなよ。そうなればコチラも取り下げるが
ね。w
だからもうこれ(開化48年の)だよ。
開化なら欠史だし、九州支配は当時なかろうから記紀に無いのは当然だろうし、
呉兵来襲はこれになるしかあるまい。
あんたは刑事裁判的に考えてるから厳正だが、それは古代史論では厳正
すぎるということよ。そのやり方での否定じゃぁ〜真を葬ることになる。
刑事裁判ではやばいことをやってようとやってなかろうと、厳正な証拠証拠
の羅列でせねばならぬわけで、証拠がだせなきゃぁやってないことで犯行
の否定となるということよ。

まぁ今日政治家の無罪判決が出たそうだが、そのとおりに真にやって
ないとそちらは観ねばならないがね。
とにかく開化48年の20万3千人来襲というのは当時の沖縄に呉からの
はったりの情報が届いて、実際は1万人のところ脅かす軍事作戦のため、
沖縄に勝てないと思わせるためで、20倍大のインチキのラッパ呉の軍帥ら
が流したものだな。だから沖縄のこの寺のは20万3千人となってるわけで、
実際は1万人ばかりだったということだな。

これが来襲途中に神風にやられて撤退沈没したのが実際のところだろう。
そして少人数は沖縄接岸となり、捕縛されたのか殺害されたのかそのへん
になろうし、このため沖縄にこういう情報が後代まで残っていたと観て
よい。
914ローガン:2012/11/12(月) 16:00:34.14
>>775:筑紫の民
>魏志倭人伝には「郡(帯方)より女王國に至ること萬二千余里」「その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし」と書かれている。

そう。洛陽からハノイまで南11000里。洛陽から楽浪郡まで東北5000里。これから寸法取りすれば
帯方郡から福州閔越辺りが12000里だという机上計算だ。
915日本@名無史さん:2012/11/12(月) 16:02:56.59
太平洋上ってことで沖縄説が出てるらしいよ
沖縄は丁度、カイケイ・トウヤの東だし
916太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/12(月) 16:10:27.60
金メダルと銀メダル

皇紀    倍暦
504甲申  207丁亥  開化天皇 即位
513癸巳  211辛卯  @崇神誕生⇔崇神の名にて任那成立(垂仁)【金】
531辛亥  220庚子  崇神立太子
550庚午  230庚戌  A神徳寺書の開化48年 呉兵20万余人沖縄襲来(八幡愚童訓 甲本上)【金】
563癸未  236丙辰  開化60年 開化天皇崩御

564甲申  237丁巳  崇神天皇即位 【景初元年】
569己丑  238戊午  B鏡を倭笠縫祭祀 崇神6年=景初2年 鏡作神社鏡改鋳【銀】
570庚寅  239己未  畿内多出 景初3年鏡 銘文年
592壬子  246丙寅  垂仁誕生
611辛未  252壬申  垂仁立太子
627丁亥  258戊寅  C古事記での崇神天皇没年 倍暦1年違い【銀】
631辛卯  259己卯  崇神天皇 崩御

632壬辰  260庚辰  垂仁天皇 即位



注 皇紀627〜629年が倍暦での258年戊寅
   皇紀630〜631年が同259年
917ローガン:2012/11/12(月) 16:42:33.59
>>737
>では、短里は存在しなかったという前提で論を進めるとどうなるんだ?

短里とやらは初めからないから、そういう仮定は不要。

>万二千里というのはどのあたりになる?

金印の奴国まで萬里、そこから道のりで約900kmくらいのとこ。

>周旋五千里は何キロぐらいでどこからどこまでの距離?

金印の奴国まで萬里。その内7000里は韓地。
残り3000里に、使者来倭で付加された2000里を加えた机上計算。
918日本@名無史さん:2012/11/12(月) 16:50:02.46
>>913
検察審査会への申立人は山際澄夫
919日本@名無史さん:2012/11/12(月) 17:27:54.76
>>889
>>909-910←まさに「類は友を呼ぶ」だね 
920太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/12(月) 18:42:24.92
2ちゃん
皇室がある国はカッコイイ 第九代 開化朝

127 :日出づる処の名無し:03/07/05 13:04 ID:8nzKFGw9

八幡愚童訓そのほかの中世の伝説では、開化天皇の時、異敵襲来3万3000(人)という。
これは弘仁私記の「開化天皇48年、加羅人来たる」が元ネタと言われている。
この場合の加羅は韓国南部の「加羅」ではなく外国一般をさす普通名詞と思われ。
おそらく中国からの難民だろう。

開化天皇48年は仮に日本書紀をそのまま信用するとBC110頃となるが、
日本書紀の年代は、古事記と齟齬をきたしていることから、誤っていることがわかる。
しかし、上古の天皇の生存年代を一方的に引き下げる理由にはならない。
日本書紀の年代は間違いであるというだけで、それだけでは
実際より引き上げられているのか引き下げられているのか決まらない。
後述するが崇神天皇即位元年の甲申はむしろ1運ひきあげてBC157として、
記紀には治天下年数と宝算を取り違えている例が多いことから
開化天皇の宝算の日本書紀の取り上げている逸書の古伝115歳を治天下年数とすれば
開化天皇48年はほぼBC220年代となり、秦の始皇帝が戦国七雄のうち六国を
次々と滅ぼしていた頃になる。
921卑弥呼は満州にいた:2012/11/12(月) 18:55:15.89
太国よ、おぬしは資料を誤解しているのである。
神徳寺と八幡愚童訓は何の関係も無いのである。

開化48年に外敵の来襲があったと八幡愚童訓には書かれているが、
それは神徳寺とは何の関係も無く沖縄とは何の関係も無いのである。
また呉軍だとはどこにも書かれていないから、呉とは関係ないのである。
また呉軍は到りつかなかったと書かれているのだから沖縄にも来ていないのである。

すべておぬしの勝手な誤解なのである。
230年といえば神功皇后の時代だが、呉軍は到りつかなかったのだから、
神功紀にもそんな記事は無いのである。
922卑弥呼は満州にいた:2012/11/12(月) 19:12:33.74
さて私は、ほんの遊びで、次のことを試してみた。

一里を75mとすると万二千里は900kmになる。
帯方郡は遼東半島にあり、その郡治は熊岳であった。
そこで熊岳を中心としてコンパスで地図上で900kmの円を描いてみた。
すると、残念ながら日本には届かない。対馬と壱岐の間である。

これで短里説が成立しないことは決定的である。
短里説諸君の反応や如何に。
923日本@名無史さん:2012/11/12(月) 19:13:34.38
>>917
倭人伝の解釈に何で「金印の奴国」が出てくるのかな? その奴国は倭人伝の奴国とは
別の国かい? 同じ国ならば郡から万600里のはずだが、万里というのはどこからで
てきたの?
924日本@名無史さん:2012/11/12(月) 19:16:41.95
>帯方郡は遼東半島にあり、その郡治は熊岳であった。

こらこら(笑)
925日本@名無史さん:2012/11/12(月) 19:18:19.36
>>923

詐欺師ローガンは、そのようにさらっと嘘を入れるから、
放置しといたほうが良い。
926万葉集の皇神:2012/11/12(月) 19:25:37.38
>>917 :ローガン
>金印の奴国まで萬里。その内7000里は韓地。
 残り3000里に、使者来倭で付加された2000里を加えた机上計算。

本年度の書き納め。 私は見納め。
さて、来年度は何回書くやら?
927太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/12(月) 19:30:38.78
朝満男よ

関係ないのはどうしてなのか? それが書いてない。
他の神社だということはすでに知ってるが、そこのサイトにあったから、
そう書きこんでるものよ。そのくらいのことはどうでもいい。

それに弘仁私記に来たとあるそうだから、あんたの来てないなどと否定
することは不充分極まりない。

神徳寺のこの文書に20万3千人とあることは呉主伝の1万人より桁違いの
大数字なのだから、1万人の記載があることは、当然20万3千人のほうの
来襲事件の出来事をそのへんの大陸古文書が記載漏れで記載を落とすわけ
がなかろう。

だから否定するんならば、どこにその20万3千人の記述が大陸古文書に
在るのか? なけりゃぁ、1万人のは当然今回の開化48年という20万3千人
来襲のこととする以外にないこととなる。

その存在文を示してから否定をするんだな。

なお八幡愚童訓は群書類従と続群書類従に載ってるそうだが、残念ながら
それがしは続々の一部しか持ち合わせがないので、図書館等で原文が
どうなのか調べるほかはなかろう?
928太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/12(月) 19:37:35.77
朝満男よ

えらそうなことを言うんなら、根拠、史料、証拠等で編年をしてみろ。

あんたは編年の書きこみ人の中では門外漢だよ。つまり大した年代研究を
してない男、編年を出来てない番外男があんたなわけさ。w

ただし時間はうんとかかるだろうから、長くかかってもいいから、
〜出してからえらそうなことを言え。
929卑弥呼は満州にいた:2012/11/12(月) 19:41:43.03
太国よ、だからおぬしは誤解しているのだよ。
開化48年外敵襲来のことは神徳寺の文書に書いてあるわけではないのだ。
八幡愚童訓に書いてあるのだ。

神徳寺と八幡愚童訓は何の関係も無いのである。
930日本@名無史さん:2012/11/12(月) 19:53:59.64
太国は中世の文書でも何でも書いてあれば信じるつー人だからな
まったく文献批判というものがない
931万葉集の皇神:2012/11/12(月) 20:34:50.54
>>917 :ローガン
>金印の奴国まで萬里、そこから道のりで約900kmくらいのとこ。

これは、異な事を!
そんな所で、畿内に持って行かないように。
短里などはないが、倭人伝では実際の理に相当する。

残り二千里は、150kmと考えるべきと思う。
熊本市を指している。

「乍南乍東」を考えれば、鞠智城が相当する。
932日本@名無史さん:2012/11/12(月) 21:17:08.19
>>931
熊本はたしかに博多湾周辺から陸行6日(1月)の距離にあるから
邪馬台国の候補地だけど、「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり」
はどう解釈するの?熊本の東にあるのは阿蘇山だけど。海はないけど。
933万葉集のビリケン:2012/11/12(月) 21:24:34.67
海はなくとも熊本にはおてもやんがいる最強!
卑弥呼の遠い伝承がおてもやんのキャラに反映されているのだ
934日本@名無史さん:2012/11/12(月) 21:36:06.81
>>932
卑弥呼は倭王だから、倭国も立派な女王国になる。
倭国の東と解釈すればよい。
935太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/12(月) 21:45:26.21
朝満男よ
そんなことは大したことではない。
この書がどこかの神社関係だということは知っていると言ったろうが。
確か有名神社だったはずだから、この書はなおさら権威があると観ていい。

とにかく呉主伝の1万人という来襲記述と20万余人が別のものだと言い張
るなら、後者のほうが数字が大きいんだから、大陸古文書が後者のそれを
書き落とすわけがないだろう。

だから後者の出来事がこの1万人のではない別の時代のどこそこの国の
来襲記事で、西暦年がいついつとなりしかも人数も近い記述が向こうの某書
にあるからコチラの主張は否定されると、こういうふうにあんたは反論
するんだよ。そうすればコチラもこの件は白旗を揚げよう。
それがなければ、これ以外にないだろう。

それができないで、た〜だ人数が違うとか関係ない寺だとか、こんなんでは
完全な否定反論にはならない。

人数はこの前の尖閣に漁船が大量に押し寄せるという情報がありながら
これが日本への脅し圧力で実際はこんなに現れなかった事例のようにだ、
当時も沖縄へ脅しをかけるために1万人という人数をべらぼうに大きく
はったりをして20万人だとかに虚の情報操作をして沖縄を脅かして勝利を
得ようとするその国の戦法であって、人数の違いは不合理にはならない。

そして来襲途中に神風にでもやられて、本懐は遂げられず、一部少数のみ
沖縄に行けたろうが、あとは沈没、帰船とかでおしまいになったという
ことよ。
936太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/12(月) 22:04:17.41
年違わず一致は金メダルもの
1年違いの整合は銀メダルもの
【開化崇神 編年表】

皇紀西暦 干支 倍暦紀皇年
510 -151 庚寅 210  7
511 -150 辛卯     8
512 -149 壬辰     9
513 -148 癸巳 211  10  崇神誕生⇔崇神の御名に因み任那成立【金】
・・・・・・・・・・・・・
530 -131 庚戌 220  27
531 -130 辛亥     28  崇神立太子
・・・・・・・・・・・・・
550 -111 庚午 230  47
551 -110 辛未     48←→開化48年 呉兵20万3千人沖縄襲来 黄龍2年【金】
552 -109 壬申 231  49
553 -108 癸酉     50
・・・・・・・・・・・・・
562 -99 壬午 236
563 -98 癸未     60  開化60年 開化崩御
564 -97 甲申 237  元  崇神元年 崇神即位 天津神算木と一致【金】
・・・・・・・・・・・・・
569 -92 己丑 238  6  崇神6年 倭笠縫 鏡祭祀 鏡作神社鏡改鋳【銀】
570 -91 庚寅 239  7  景初3年鏡銘文年(鏡祭祀と1年違い)
・・・・・・・・・・・・・
627 -34 丁亥 258  64  倍暦戊寅年=古事記崇神没年(259年崩御と1年違い)
628 -33 戊子     65
629 -32 己丑     66
630 -31 庚寅 259  67
631 -30 辛卯     68  崇神崩御【銀】
 
937唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/12(月) 22:32:15.13
>呉兵が230年に日本襲来してるんだから、
>大陸古文書が記載漏れで記載を落とすわけ がなかろう。

大陸古文書に記載のない「呉兵が230年に日本襲来」は誤りであると。
自分で否定する太たぬき殿であった。
938ちはやぶる皇神:2012/11/12(月) 22:36:39.52
>>932
邪馬台国の東ではない。
倭人伝は其餘旁國を含め、九州全体が書かれていると思う。
939ちはやぶる皇神:2012/11/12(月) 22:46:46.25
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
里数が記載され、倭種が確認されている。
実際に(調査隊)が行ったと考えるべき。

目的として当てはまるのは、「南至投馬國、水行二十曰」
「可五萬餘戸」の宮崎県だろう。
「可」があり、参問してはいないと考える。
940日本@名無史さん:2012/11/12(月) 22:50:32.14
2倍歴とか3倍歴とかの計算見るのがすごく苦痛なんだが
そういう計算ずくめの歴史研究本書いてる人の本は
あんまり読みたくない
941唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/12(月) 22:53:18.95
>邪馬台国の東ではない。

正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、・・・倭王因使上表答謝恩詔。
ここ、倭王因使上表答謝恩詔。→晋書 正始元年 東倭重譚納貢。になる。
「東倭」とは、倭奴国女王卑弥呼の東の意味がある。
その「東倭」とは、北史のいう「至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。」
なのである。
九州に2王は無理がある。たとえば、半島においては 辰国に馬韓人の王を置く。よって馬韓には王がいない。
つまり、倭奴国から1ヶ月の旅程で行き着くのが、邪馬台国なのである。
942ちはやぶる皇神:2012/11/12(月) 22:53:25.46
邪馬壹國の卑弥呼と壹與の国が同じとは、限らない。
壹與倭王後、豊前に素環頭太刀の出土が増えている。
熊本、豊前が女王国であっても、不思議ではない。
943日本@名無史さん:2012/11/12(月) 23:18:29.50
>>941
晋書のどこに「正始元年 東倭重譚納貢」と書かれているんだい。
944日本@名無史さん:2012/11/12(月) 23:22:53.94
945日本@名無史さん:2012/11/12(月) 23:26:06.55
946日本@名無史さん:2012/11/12(月) 23:33:19.43
なるほど、

(魏)正始元年春正月、東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國、弱水以南、
鮮卑名王、皆遣使來獻。天子歸美宰輔、又増帝封邑。

というわけか。どうして「東夷条」に書かれていないんだろうな。
焉耆というのは、東トルキスタンのことらしいが。
947ちはやぶる皇神:2012/11/12(月) 23:40:54.58
高祖曰「此太無義理。」於是訓令改之
(これは大いに義理のない事だ。と言って改めさせた。)

中国天子が、一国二王を認めない。

東西南北の基軸は、京師だ。
948ちはやぶる皇神:2012/11/12(月) 23:51:33.36
末廬國の王墓とされる桜馬場遺跡は、柏崎や双水、中原、宇木汲田遺跡とは、
場所が離れている。
また奴国特有の「広形銅矛」が出土しており、奴国王統系かも知れない。
一時的にでも、奴国に制圧された可能性がある。

末廬國に、王、官がいない。
949ちはやぶる皇神:2012/11/12(月) 23:58:30.03
倭乱の原因は、奴国の交易独占にあると思われる。
覇権主義の奴国に近い「糸島」が独立できていた可能性はない。

使者からは国に見えたかもしれないが、おそらく奴国の一部だろう。

本日、これまで。
950日本@名無史さん:2012/11/13(火) 00:02:07.72
>>946
東倭というのが日本だったら、魏志倭人伝に書かれていないのはおかしい。
951日本@名無史さん:2012/11/13(火) 00:03:12.96
末廬國でなくて
952唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/13(火) 00:19:34.21
>東倭というのが日本だったら、魏志倭人伝に書かれていないのはおかしい。

倭人伝に書かかれたのは、まず 238年の記録だ。
この時点では、倭奴国に大王がいない。よって、朝貢のために女王卑弥呼を共立する。
それが、239年の朝貢であり、梯儁等は、その帰国に付いて来て、邪馬台国を訪れ、倭王位を授与する。
だから「東倭」とは、梯儁等の認識になる。
238年の記録は、卑弥呼を共立するところまでであり、邪馬台国を訪れていない。
だから、聞き書きであり、日数表記となる。
ところで、里程や方向の間違いがどこで発生したかである。これが不正確であるから倭奴国に行き着くのも大変なのである。
953ローガン:2012/11/13(火) 00:21:10.66
>>926:万葉集の皇神 >本年度の書き納め。 私は見納め。さて、来年度は何回書くやら?

話が深化せず、1000でリセットされるからねえ。
さておき貴方は本物の九州説者ですな。

>>931:万葉集の皇神
>そんな所で、畿内に持って行かないように。短里などはないが、倭人伝では実際の理に相当する。

まあ、ちょっとした「九州説的思考」で言えば…ってとこです。 どうでも良い話。(笑)

>>939:ちはやぶる皇神
>「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」里数が記載され、倭種が確認されている。実際に(調査隊)が行ったと考えるべき。

なら「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。」
その理路なら、これも調査隊の踏査により、里数が記載され三四尺の朱儒の民が確認されたとなるんじゃない?
三四尺って80cm位か
それとも倭人伝らしく、 さらに五分の一?(笑)

>「可」があり、参問してはいないと考える。

参問と訪問ごっちゃになってない?
954日本@名無史さん:2012/11/13(火) 00:25:49.34
西域に「東倭」があったのかえ
955日本@名無史さん:2012/11/13(火) 07:00:16.58
>>931:万葉集の皇神
>残り二千里は、150kmと考えるべきと思う。
>熊本市を指している。
女王国とある、邪馬台国ではないね。女王国が熊本あたりから始まるということですよ。
956日本@名無史さん:2012/11/13(火) 07:25:19.49
邪馬台国と女王国は同じですよ。
イギリスのことを女王国ともいうでしょ。
957日本@名無史さん:2012/11/13(火) 08:29:55.02
邪馬台国熊本説は、こちら↓でどうぞ!
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316716114/l50
958日本@名無史さん:2012/11/13(火) 08:35:43.79
オキチの伊作先生の著書「大和の揺籃」はどこで読めまつか?
959日本@名無史さん:2012/11/13(火) 09:24:42.70
文脈から判断すりゃ女王国とは邪馬台国の事だろ
女王国が邪馬台国じゃないならなんなの?
960卑弥呼は満州にいた:2012/11/13(火) 09:32:20.96
(魏)正始元年春正月、東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國、弱水以南、
鮮卑名王、皆遣使來獻。天子歸美宰輔、又増帝封邑。

この文章から判断すると、東倭というのは日本のことではなく、
東夷諸国という意味だろう。もちろん日本が含まれていてもおかしくはないが、
東夷諸国を含め、東西南北周辺国が新年の祝賀のためにやってきたという意味だろう。
961卑弥呼は満州にいた:2012/11/13(火) 09:38:52.23
ところで、短里説を採用して、万二千里を900kmとし、
帯方郡をソウルと仮定して、ソウルを中心にコンパスで900Kmの円を描いてみた。
そうすると屋久島を越えてしまう。

帯方郡を遼東半島とすれば九州に届かないし、
ソウルとすれば九州を越えてしまう。

さあどうする、九州説諸君w
962卑弥呼は満州にいた:2012/11/13(火) 09:53:39.58
太国に一言。
開化48年といえばBC111年だから前漢の時代である。
その時代に日本に大軍を送ったというような記事があるのかないのかは知らない。
無いのなら、開化48年外敵来襲の話は嘘かもしれない。
その種の寺社縁起にはえてして荒唐無稽なことが書かれていることが多いからである。

しかし嘘と決めつけることもできない。
本居宣長がもしかしたらその辺りのことは調べているかもしれない。
20万という大軍を考えると、朝鮮半島からの来襲と考えた方が現実的である。
963日本@名無史さん:2012/11/13(火) 10:24:52.04
>>956
史書はそんないいかげんな使い方はしないんだよ。
邪馬台国と女王国は別の概念だ。
964太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/13(火) 10:37:46.11
大陸古文書に記載のある「呉兵が230年に日本襲来」は誤りでないと。
自分で肯定する空年多ぬき殿であった。
965日本@名無史さん:2012/11/13(火) 11:59:53.82
>>963
では「女王国」とは何?
966日本@名無史さん:2012/11/13(火) 12:04:48.95
珍読に餌をやるなよ
967卑弥呼は満州にいた:2012/11/13(火) 12:33:25.74
県立図書館に依頼して、満州帝国時代の満州の分省地図のコピーを入手しているのだが、
地図の片隅に日本里と満州里の比較表が載っている。
日本里は約3.9cmが10里、満州里は3.6cmが70里となっている。
これで大雑把な計算をすると満州里の1里は約510mである。

古代の満州朝鮮の1里がどれくらいだったかは知らないが、
満州帝国時代の満州里は中国とほとんど変わらないことが分かる。
968日本@名無史さん:2012/11/13(火) 13:09:57.61
イザベラバードによれば、
李朝時代の朝鮮里は、1里=約400m
969日本@名無史さん:2012/11/13(火) 14:50:50.87
>>961
ところで、短里説を採用して、万二千里を900kmとし、
帯方郡をソウルと仮定して、ソウルを中心にコンパスで900Kmの円を描いてみた。
そうすると屋久島を越えてしまう。・・・すごく正しい考え方だね。その通り。

その理由は魏の首脳が、敵対していた呉を牽制するため、邪馬台国が会稽東冶(呉)のすぐ
東方海上にあるようにみせかけるよう、倭人伝の種本の作者に命令したから。
そして、その作者は邪馬台国の位置が記してある報告書の旅程距離を5倍して
邪馬台国が会稽東冶(呉)のすぐ東方海上にあるように、机上で操作、改ざんしたんだよ。
実際の邪馬台国の位置は当然、その位置ではないよ。
詳しくは「大和朝廷成立の謎」という本に書いてあるよ。
970太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/13(火) 15:21:16.90
>>940
それがしはまだそういう編年の書は出しておりません。
971太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/13(火) 15:29:45.06
朝満男よ

だから自分で編年してみな。
B.C.111年をまともに信じているのか?
その意味は、通常暦だけだとした場合のこの年代でのことだ。

そういう選択肢をしてどこにも該当の20万3千人の来襲記述が大陸古文書
にないとなれば、ここの1万人の呉の来襲の記事と観るのが相当である。
難となれば1万人より20万余人来襲の記事を大陸側が落とすわけがなか
ろうが。その記述が全然ないとなれば、もう 黄龍2年=230年 のこれだよ。

とにかく、コチラの年代と1年も違わない重みを軽視するんでないぞ。
972太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/13(火) 15:36:37.26
>>971 訂正
× 難となれば
○ 何となれば

朝満男よ

そういえば、この前あんたは倍年暦法を肯定した書きこみをしていたが、
いまもその通りか?
そうならば、それで編年を研究して出してみな。
973卑弥呼は満州にいた:2012/11/13(火) 18:14:17.50
>>971-972
太国は○○だな(笑)
おぬしの倍暦説を揶揄した川柳だということが分からないのかw

それから、大陸(中国)が襲来したとは限らないと言ってるのに分らないのか。
朝鮮半島から襲来したのだよ。
B.C.111年の頃のことは三国史記にもネット三国志にも記載がないから不明なのだよ。
桓檀古記などにはそれらしき記事もチラホラある。

孝霊天皇61年月支国の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す、という記録があるのだから、
開化天皇の時代にも朝鮮半島から襲来したとしてもおかしくはない。
とにかく中国が襲来したのではないのだ。
974卑弥呼は満州にいた:2012/11/13(火) 18:20:57.63
話は変わるが、陳寿が公里で書いたと仮定して、
不弥国まで10700里だから残りは1300里だ。
1300里は約560km。

さて不弥国を宇美と仮定して、宇美〜大和は約500kmである。
560kmと500km。差は殆んどない。

つまり邪馬台国を大和と見なして何の問題も無い。
九州説者よ、まだ何か言いたいことはあるか。
975太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/13(火) 18:31:21.31
>B.C.111年の頃のことは三国史記にもネット三国志にも記載がないから不明なのだよ。
だからそのへんの年代は、書紀の皇紀からでは見かけだよ。
当時は2倍暦等を行使してたから、その年代ではないぜ。

ウソを書くのはやめろよ。ここは古代史論での真を把握したいための皆の
書きこみ場所なんだから、故意にウソを書くなら消えてくれ。

>孝霊天皇61年月支国の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す、
でもこれは開化年代ではないから、これじゃぁないね。20万3千人のことは
開化年代じゃなきゃあダメじゃないか。w
976太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/13(火) 18:33:40.21
その大和とはどこを言うのか?
977日本@名無史さん:2012/11/13(火) 18:36:15.96
>>974

>不弥国まで10700里

10700里は公里で、4650km

スタート地点はどこ?
978日本@名無史さん:2012/11/13(火) 18:36:55.17
距離表記は出鱈目だからこれを元に比定するのは無意味
それよか方角が違うから畿内は無いでしょ
979日本@名無史さん:2012/11/13(火) 18:41:52.68
>>974

今、ググるアースで調べたら、4650kmで、南東の反対で北西に進んだら。
ロシア北方の北極圏に達しました。

帯方郡って北極圏だったっけか?
980卑弥呼は満州にいた:2012/11/13(火) 19:11:03.79
>>975
太国は○○だなw
B.C.111年頃は倍暦だというのはおぬしの主張で、学界はそんなものは認めていない。
なんでおぬしの主張に合わせて話をしなけりゃいけないのだ?

孝霊天皇代の襲来は島根?の神社に記録されている。
開化天皇代の襲来は八幡愚童訓に記録されている。それでいいではないか。

>>977>>979
不弥国までのことはどうでもいいよ。陳寿が間違っていただけの話だ。
ところが不弥国から先は公里で合っているのだ。
981ちはやぶる皇神:2012/11/13(火) 19:12:25.37
>>953 :ローガン

大先輩にお褒めいただき恐縮しております。
「萬里」有効に使わせてもらってます。
982日本@名無史さん:2012/11/13(火) 19:14:14.25
>不弥国までのことはどうでもいいよ。陳寿が間違っていただけの話だ。

またあ、ご都合主義ですなあ。

>ところが不弥国から先は公里で合っているのだ。

不弥国まで間違ってて、なぜそこから先が正しいとわかるのかな?
ご都合主義じゃない説明があるといいね。
983卑弥呼は満州にいた:2012/11/13(火) 19:25:26.00
要するに短里でも公里でも間違っているのだから、
陳寿が正確に把握していなかったということが分かるのだ。
ところが九州説者、短里論者は倭人伝は正確だと言い張っているのだ。
君らの態度が変であることがこれで分っただろう。

君らが短里説で九州内に比定するのは構わない。
それと同じく、畿内論者が公里説で大和に比定しても構わないのである。
984日本@名無史さん:2012/11/13(火) 19:28:48.13
いや、公里で畿内までたどり着ける理屈は何もないし。
985卑弥呼は満州にいた:2012/11/13(火) 19:39:37.32
短里では、ソウルからでは屋久島を越えてしまうぞ。
遼東半島からでは九州に辿り着けない。
仮に1里を80mとしても九州北岸がやっとだ。
つまり九州北岸説しか成立しなくなる。
つまり水行陸行は帯方郡起点と考えるしかない。

それでもいいなら構わないがね。
しかしそれでは北岸説以外の諸君が黙ってはいまい。
986日本@名無史さん:2012/11/13(火) 19:42:48.32
短里公里以前に方角が違う
987日本@名無史さん:2012/11/13(火) 19:45:40.65
>短里では、ソウルからでは屋久島を越えてしまうぞ。

あなたは直線にしてるからね。
みちなりルートならピッタリだよ。

>遼東半島からでは九州に辿り着けない。

これは、誰も支持していないだろ。
988卑弥呼は満州にいた:2012/11/13(火) 20:00:22.74
>>986-987
私は方向やルートなど計算に入れていないのである。
なぜかといえば、ある場所への距離を記述する場合、
普通は直線距離で表記するからである。
中国史書の記述は皆そうである。
○○郡が洛陽からどれくらいの距離があるかを示す場合、
それは洛陽からの直線距離で表記されているのである。

女王国の位置が帯方郡から万二千里と書かれているということは、
直線距離で万二千里だということである。
そこでソウルを中心にコンパスで万二千里の円を描くと、
屋久島を越えてしまうのである。

因みに帯方郡はソウルではないことは、
君らがどんなに抵抗しようと、ほぼ確実なのである。
倭人伝の距離は厳密ではないから、起点を遼東半島にすれば、
何とか九州内に収まるのである。ただし水行陸行は帯方郡起点としなければならない。
そうすれば九州説は成立する。そうしなければ九州説は成立しない。

短里説で、しかも九州説を成立させようとすれば、
1 帯方郡は遼東半島だとする。
2 水行陸行は帯方郡起点とする。
これしかないのである。
989日本@名無史さん:2012/11/13(火) 20:03:09.67
勝手な前提条件作って、それで合ってないと言われても、
「それは前提条件が間違いですよ」

としか、いえないよ。
990日本@名無史さん:2012/11/13(火) 20:21:03.73
2012/09/18(火) 株式会社ガーラバズ(電通バズリサーチ)の2ちゃんの工作が大々的にバレる



2012/09/28(金) 株式会社ガーラバズの汚名を打ち消すために株式会社ホットリンクに統合させて社名を消滅

■ 狼の工作で有名な電通バズリサーチ(株式会社  ガーラ バズ   )が狼を監視しすぎでバーボン行きまくりのお知らせ ■ Part.4
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【話題】 AKB、虚像の人気★2
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やっと気付いた「AKBに電通が絡んでる」ではなく「AKBの正体が電通」な件 その145
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1352679417/
991卑弥呼は満州にいた:2012/11/13(火) 21:03:57.83
面白いことを発見した。
短里説を採用して、万二千里を900kmとして、
ソウルを中心にコンパスで万二千里の円を描く。
そうするとほぼ大和の真上に来るのである。
嘘だと思うならやってみたまえ。

つまり短里説はむしろ大和説に有利なのである。
ただし帯方郡はソウルではないから、
この試みは結局はお遊びではあるが。
992日本@名無史さん:2012/11/13(火) 21:09:03.68
ゑろれべる低下をきたしちゃっているからいぢるきにもなれない
993日本@名無史さん:2012/11/13(火) 21:12:39.01
そもそも郡がソウルのは某氏は否定しておったはずだが
994日本@名無史さん:2012/11/13(火) 21:14:35.27
結局はお遊びとゆうよりもあらしさんそのものではあるのだが
995日本@名無史さん:2012/11/13(火) 21:27:58.13
邪馬台国論争はなんでこうも珍説奇説のオンパレードなんだろうか
996卑弥呼は満州にいた:2012/11/13(火) 21:28:54.38
それが稗箕狐の精一杯の反論かw
例によって無内容のレスだな。

お前のお得意の魏志全編短里記載の証拠でも上げればいいのに。
997日本@名無史さん:2012/11/13(火) 21:43:40.87
996のがみえね
998太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/13(火) 21:53:48.27
>>980
神武が7人もいるだというのはおぬしの主張で、学界はそんなものは認めていない。
なんでおぬしの主張に合わせて話をしなけりゃいけないのだ? w

オヌシはエンタメの古代史を七色仮面のつもりでいるのか?ww
デンデ○パラリコ やっつけろ  か〜〜?pp

七つの顔のおじんむさんの ホントの顔はどれでしょう〜??♪

それとも七つの顔の男か〜〜??bb
あるときは片目の運転手、あるときは手品師、あるきは大道芸人・・・

そしてその実体は〜〜??ハハハ・・・


孝霊天皇代の襲来は島根?の神社に記録されている。
開化天皇代の襲来は八幡愚童訓に記録されている。それでいいことはいい。
999日本@名無史さん:2012/11/13(火) 21:55:27.34
埋め
1000日本@名無史さん:2012/11/13(火) 22:09:17.37
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