秀吉の死〜関ヶ原〜大坂の陣、について語り合おう

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1日本@名無史さん
2日本@名無史さん:2012/10/13(土) 05:57:02.81
ほしゅ
3日本@名無史さん:2012/10/28(日) 12:31:42.06
【京都】秀吉時代に流行過熱?三十三間堂の「通し矢」 長岡京市の旧家に保存されていた書状で確認
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1351394698/
4日本@名無史さん:2012/10/28(日) 16:10:29.31
戦国のゲルニカはむごい。
5日本@名無史さん:2012/10/29(月) 01:28:39.86
秀吉の死から関ヶ原の戦いまでの間
日本の実質的な最高権力者って誰なのかね
6日本@名無史さん:2012/10/29(月) 13:14:02.10
最高がいないから、内乱になったわけだが、
このような質問をするのは本域でバカなのだろうか
7日本@名無史さん:2012/10/29(月) 18:39:12.01
この頃の左右大臣は誰なの?
8日本@名無史さん:2012/10/29(月) 18:56:19.94
>>5
家康
9日本@名無史さん:2012/11/06(火) 09:22:43.85
関ヶ原後の大名の配置換えはどうやって決めたのだろう?
福島を福岡にして、黒田を広島にすることもできた。
毛利は取りつぶさない代わりに、東北にでも飛ばせばよかったし、
上杉を九州に飛ばすこともできたのに、しなかった。
10日本@名無史さん:2012/11/06(火) 11:43:28.97
>>9
家康のために東軍に味方してくれた大名に対して
先祖伝来の土地から離れさせると言った懲罰的配置転換はできない
配置転換にあったのは西軍だけだろ
それも東軍大名がすでに占拠している土地には飛ばせないのだから
ある程度空いてる土地はある程度限られる
福島・黒田は東軍だし、毛利は息子が東軍に内通してた

11日本@名無史さん:2012/11/06(火) 15:07:34.09
すごくはずかしいレスを見ました。
12日本@名無史さん:2012/11/09(金) 21:12:49.00
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歴史というのはいつも編集されている。平清盛がとても優しい人だった。
『江談抄』で平安を生きた公家が鎌倉期にそれを階述してる。
でも『平家物語』では悪役にされるんだよ。

http://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&feature=related

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13日本@名無史さん:2012/11/10(土) 08:43:25.19
14日本@名無史さん:2012/11/10(土) 10:13:51.99
>>12
『江談抄』の成立は12世紀初頭と見られるが
15日本@名無史さん:2012/11/11(日) 11:48:01.36
>>7
> この頃の左右大臣は誰なの?

秀吉薨去(1698年)で、唯一の現任大臣が、内大臣徳川家康。
同年菊亭晴季が右大臣還任
1600年、関ヶ原後に九条兼孝が関白還任
16日本@名無史さん:2012/11/14(水) 17:40:12.76
だれか、加賀100万語句のれくちゃー頼む。
たんに政治バランスのためだけに家康が前田家に寄贈したの?
それとも加賀藩って富国だったってこと?
水戸藩でも大した石高ないんだが(茨城県民だれもが最初に思うことだと思う)
17日本@名無史さん:2012/11/15(木) 08:28:13.55
確かに前田ごときに大盤振る舞いし過ぎだ。
本多を始め譜代が可哀想。
18日本@名無史さん:2012/11/15(木) 13:33:52.43
前田は、その本多(正信)の息子を大名並みの高録で抱えていたわけだが。
19日本@名無史さん:2012/11/16(金) 13:57:16.35
だから、なに?
20日本@名無史さん:2012/11/19(月) 13:46:47.42
まだ何を教えて欲しいの?言ってみ?
21金吾秀秋:2012/11/25(日) 20:04:54.79
まったく前田ごときに大盤振る舞いし過ぎだよな(´・ω・`)
22日本@名無史さん:2012/11/26(月) 09:38:21.65
あんたは、わずか2年で死んじゃったじゃないか
23日本@名無史さん:2012/12/01(土) 12:23:57.68
>>18
あっさり潰えた宇都宮本家よりも幕末暗殺されるまでは幸せだった分家の方が栄えたな
24日本@名無史さん:2012/12/05(水) 19:34:14.40
関係ない男だが…
金吾さん、あんた狂わなくて良かったろ…
善性はしいてたわけだし、民にも慕われてたんだし、堂々としてれば良かった
気がする、後で来た池田さん他は確かにえらかったけど、一応は豊臣関係の生き残りとして
のんびり生きてりゃ良かったと俺は思う。幕末でどっちについたかは分からんが
25日本@名無史さん:2012/12/05(水) 21:05:56.46
家臣が相次いで出奔したりしたからねえ。
26日本@名無史さん:2012/12/05(水) 21:22:32.34
この時代のくくりを語るには、司馬の「豊臣家の人々」は必携かも?ただ、豊臣秀次
、金吾秀秋を悪く書きすぎかも?偏ってる感も見えがちだが、良くも悪くもこの本は
議題になりやすいよ、読むべきだと思う。
後井上靖の「淀どの日記」もいいね、まさにこの頃を鮮明に書いてると思う。
27日本@名無史さん:2012/12/05(水) 21:30:04.44
伏見城は攻めたのに、関ヶ原では寝がえりだからな>金吾
28金吾秀秋:2012/12/06(木) 01:22:23.79
佐和山城も攻めたんだぜ(´・ω・`)
29日本@名無史さん:2012/12/06(木) 06:07:28.07
>>24
善政を敷いたとされるソースは備前軍記だけど
備前軍記は一方で秀秋の人柄に愛想尽かして出奔する家臣が
後を絶たなかったと手厳しい評価も下してる。
30日本@名無史さん:2012/12/06(木) 13:09:14.01
>>28
それは関ヶ原の直後だろ
31金吾秀秋:2012/12/07(金) 00:16:04.31
実は岡山市民たちは漏れ様のことが好きなんだぜ(´・ω・`)
32日本@名無史さん:2012/12/07(金) 17:04:37.99
金吾様のコスプレした御当地アイドル作ったら?再評価されそうだし。
何か独特のナイーブなイメージから人気出るんじゃないの?
33日本@名無史さん:2012/12/07(金) 17:23:54.75
小早川秀秋って滋賀生まれで岡山城にいたのは2年だけ
岡山って岡山城築いた宇喜多や岡山藩主を長年務めた池田のほうが有名だからな…
34日本@名無史さん:2012/12/07(金) 17:32:22.22
金吾は家臣団の統制が出来ていなかったんだから過大評価は禁物
35日本@名無史さん:2012/12/08(土) 10:18:06.72
>>34
19,20で、有力な後見人無しに家臣団の統率できてたらそれこそ織田信長や徳川家康レベルだわ。
36日本@名無史さん:2012/12/08(土) 12:54:55.98
金吾は秀吉の押しつけ養子だからな。
毛利本家を継げば面白かったろうになあ。
37日本@名無史さん:2012/12/08(土) 16:34:48.20
石田三成、大谷吉継を歴代の巨人の監督に例えると誰に当てはまりますか?
(理由も書いてください)
38仙洞:2012/12/10(月) 04:02:49.97
フフフ満佑光秀三成は謀反人よ…義満もかの
39日本@名無史さん:2012/12/10(月) 04:10:13.41
なんで徳川を潰すどころか巨大化させたの?
40日本@名無史さん:2012/12/10(月) 05:28:53.17
勘違いしているようだが関東移封は明らかに徳川弱体策だぞ。
家康があまりにうまく纏め上げたのでそう見えないのも仕方ないが、本来なら佐々成政の肥後や
奥州仕置直後の奥州みたいに一揆が頻発して然るべき場所だった。
41日本@名無史さん:2012/12/10(月) 08:18:13.78
↑スレタイと時期が違うしw
>>39は、福島正則あたりの関ヶ原での行動を指してるんだろ。
42日本@名無史さん:2012/12/10(月) 11:08:22.64
そもそも三成なんぞを重用するようになってから秀吉はおかしくなった
43日本@名無史さん:2012/12/10(月) 15:59:22.04
>>42
三成は西軍の責任を取らされただけだろ。
関ヶ原の前戦は、もともとは前田利家VS徳川家康の争い。
しかし秀吉の死の半年後、利家まで死んでしまった。
そのため家康は、後を継いだ前田利長を武力で滅ぼすべく加賀征討を開始。
すると利長は母まつを家康の人質に差し出し、養子の前田利常と秀忠次女子々姫の婚姻を進めて
家康にあっさり服従の誓書を提出したため、残る旧前田利家派の粛清にかかったのが関ヶ原。
石田三成さえいなければ、秀吉の死と同時にすべての大名は家康に服従の誓詞を出したはずもなし。
44金吾秀秋:2012/12/12(水) 01:28:16.07
まったく、豊臣が滅んだのは利長のせいだよな(´・ω・`)
45日本@名無史さん:2012/12/12(水) 09:36:43.55
お前と三成のせいだろ
46日本@名無史さん:2012/12/12(水) 10:20:51.50
少なくとも豊臣家臣団の分裂と関ヶ原の西軍敗北は
三成の傲慢と無能が招いた結果
47日本@名無史さん:2012/12/12(水) 11:33:34.48
>>46
加藤清正や福島正則といった豊臣家の譜代が
家康こそは秀頼を心底後見する
秀吉の忠臣と信じた馬鹿さ加減に問題があるんだろうな
48日本@名無史さん:2012/12/12(水) 11:48:15.70
実際に武断派の選択は正しかったよ?
豊臣政権の癌を取り除いて政治を家康に任せたことで天下は安定したんだから。
秀頼がトチ狂った真似さえしなかったら豊臣家は江戸幕府の元でも平穏無事に暮らせたし
加藤達も豊臣政権の維持より豊臣家そのものの存続を望んだんだから何も間違ってない
49日本@名無史さん:2012/12/12(水) 13:09:25.13
>>48
家康は豊臣を滅ぼす気が一切なかったとか
加藤達は豊臣政権の維持を望まなかったとか

そういうifの話を得意げにされてもw
50日本@名無史さん:2012/12/12(水) 14:41:02.19
秀吉没後、豊臣家には政権を維持する武力も組織も知恵もない。
自分は武力で天下を勝ち取ったくせに、家康の実力行使を否定するのはおかしい。
51日本@名無史さん:2012/12/12(水) 14:55:02.98
>>50
政権も何も豊臣政権の一部だった家康が主家を討ったのが実情

家康は「秀頼さまを守るための戦い」と嘘をついて関ヶ原で味方を募ったり
鐘銘みたいな言いがかり付けて戦仕掛けるのが狸すぎで潔くよくないんだよな

「俺の天下にするために豊臣家を滅ぼす、気に食わん奴はひとつずつぶっ潰す」
とはっきり本音を宣言してやればもっとファンも付くだろうにw
52日本@名無史さん:2012/12/12(水) 15:16:23.74
いやいや、はっきりそんなこと言えるわけないでしょ。
だからこそ、関ヶ原は「石田の謀反を討伐する公儀」だったわけだし
大坂の陣でもあそこまで豊臣に譲歩してたわけだし。
53日本@名無史さん:2012/12/12(水) 15:28:19.98
秀吉は信孝切腹させたの除けば信長の血族を全員生かしてるけど
家康は成り行きとはいえ、秀吉の血縁を根絶やしにしちゃったからじゃね?
せめて鶴松を出家させて生かすなりしてたら、そこまで言われなかったかと。
54日本@名無史さん:2012/12/12(水) 15:40:37.11
ファン付けるためとか、ゆとりさんもびっくりの発想だな
55日本@名無史さん:2012/12/12(水) 15:44:15.62
>>54
ファンはお愛想だよw
真に受ける家康ヲタって怖いなw
56日本@名無史さん:2012/12/12(水) 23:54:06.54
関ヶ原から大坂の陣まで、家康は随分と時間を掛けましたねぇ
他の大名は内心、さっさと決めてくれよ〜みたいな感じだったのかな
57日本@名無史さん:2012/12/13(木) 10:44:22.02
家康自身もいつ死ぬか分からない年齢だったから、
さっさと決めたかったろうねえ
58日本@名無史さん:2012/12/13(木) 12:25:02.74
家康は、長命で、呆けずに晩年まで健康だったのが天下を固めた決めてだな。
ただ、偶然ではなく、そのための努力も怠らなかった。
医学、薬学の本を読み漁り、粗食で心身の鍛練を怠らず。現代人と比べても、かなりの健康オタク。
59日本@名無史さん:2012/12/13(木) 15:32:58.52
>>56
政権自体は豊臣→徳川に移行したっつっても、大っぴらに豊臣滅ぼすのは流石に無理だったんじゃない?
60日本@名無史さん:2012/12/14(金) 06:21:35.92
そもそも家康に豊臣家を滅ぼそうという意思は一切感じられん。
大阪の陣はほぼ秀頼の自滅と言い切っていい
61日本@名無史さん:2012/12/14(金) 08:39:20.33
小牧長久手でも家康は秀吉に負けてないからなあ。
それでも秀吉に臣従した。
秀頼も家康に臣従してれば、滅亡しなかったろう。
茶々のプライドが高すぎた。
62日本@名無史さん:2012/12/14(金) 15:17:40.58
>>61
小牧長久手は負けたでしょ。
家康が先に息子の秀康を秀吉の人質に出してるから。
家康ヲタは家康が臣下の礼をとるために秀吉に会いに行く際
秀吉の母なかが送られたことばかり強調して
「家康は秀吉に勝利したから母親を人質にとった」とねつ造するけど。
家康と朝日姫の婚礼も「家康は秀吉の妹を人質にとった」とか。
関ヶ原後の豊臣家は家康から千姫を人質にとったわけないのに。
63日本@名無史さん:2012/12/14(金) 15:21:08.93
>>60
大坂の役はさすがに生きてるうちに豊臣を滅ぼしたい家康の暴走でしょ。
秀頼が家康を攻めたのではなく、家康が鐘銘にいちゃもんつけるという
無理矢理で秀頼を攻めている。
豊臣を滅ぼす意思が一切なければ、秀頼は殺害しても国松に豊臣家を再興させることはできたのに、
8歳の幼児すら血祭りにあげて豊臣家を根絶やしにしたから。
娘は赦されて普通に嫁ぐ例も多かったのに、奈阿姫も出家させている。
64日本@名無史さん:2012/12/14(金) 21:21:00.31
>>63
> 秀頼が家康を攻めたのではなく、家康が鐘銘にいちゃもんつけるという
> 無理矢理で秀頼を攻めている。

無理矢理ではない。鐘銘はガチの家康への不遜事件。当時の諱の扱いのデリケートさを甘く見るな。

ついでに言えば鐘銘事件自体は大阪の陣の直接の原因ではない。大阪の陣が起こったのは
秀頼が片桐且元を滅ぼそうと武力行使を行い茨木城まで攻め囲んだこと。
片桐且元は秀頼の宿老であると同時に、徳川幕府によって所領を安堵された徳川大名でもある。
且元への攻撃は徳川体制への攻撃にほかならない。

この他にも開戦前から諸大名に合力を求めたり、幕府に完全に無断で家臣に任官させようとしたりしている。
これらは徳川への挑発行為以外の何物でもなく、大阪の陣は豊臣の方から望んだものだと考えるべき。
なおかつ豊臣家における対徳川主戦派は皆、秀頼側近層であり、対徳川戦争を主導したのが秀頼とその周辺だったことも、
ここから裏付けられる。
65日本@名無史さん:2012/12/14(金) 22:55:42.98
若き主君の暴走。火遊びでミサイル飛ばす北の新元帥様と同じだな。
66金吾秀秋:2012/12/15(土) 04:08:59.94
あははは。同じだよな(´・ω・`)
67日本@名無史さん:2012/12/15(土) 11:17:47.96
七将が三成暗殺に成功していればなあ・・・。
68日本@名無史さん:2012/12/15(土) 16:24:42.80
七将の行動によって三成は奉行をやめさせられ、
佐和山で隠居したはずなのに、しゃしゃり出て来て西軍敗北って、
どんだけ豊臣家に迷惑をかけてんだよ。
三成がじっとしてれば、家康は動きようなかったろうよ。
69日本@名無史さん:2012/12/15(土) 18:27:56.52
>>68
じわじわ婚姻関係広げて、影響力強めても大戦を仕掛けるのは難しかっただろうな。

ただ、基本的には大阪の陣開戦に至るような形で孤立化した豊臣家vs徳川・そのシンパの構図に持っていかれたと思う。


前田や上杉なんかはそれまでの過程で小勢力に削られてしまうだろうし、家康を除く五大老や奉行クラスの大名を取りまとめる三成のようなタイプは見当たらないし。


三成にとっても豊臣家にとっても、家康討伐の可能性はやはり関ヶ原合戦の時が一番高くそれ以降は難しくなるばかりだったのでは?

結果負ける可能性もあるにしろ、勝負するタイミングとしては他になかったのでは?

詳しい人の意見求む
70日本@名無史さん:2012/12/15(土) 18:50:37.66
三成がいない方が豊臣恩顧の大名もひとつに纏まる。
71日本@名無史さん:2012/12/15(土) 19:44:56.43
そもそも三成が家康を本当にターゲットにしたのか疑わしい。
三成の正面の敵は、「結果的に」家康を後ろ盾にした正則などいわゆる豊臣武功派大名であり、
それらを排除できれば家康と闘うという選択肢はなかっただろう
72日本@名無史さん:2012/12/15(土) 21:34:06.89
>>70
なるほど、豊臣家で孤立しかかった三成が捲土重来のためにっていう側面があったかもね。

では、三成が関ヶ原(対家康戦)を仕掛けなかったら豊臣と徳川の対立はなかった?
73日本@名無史さん:2012/12/15(土) 21:35:13.28
でも関ヶ原の時の書状見てると正則が寝返ってくれるだなんて希望的観測マックスな書状があるよ。
74日本@名無史さん:2012/12/15(土) 21:35:50.18
>>72>>70>>71に向けたレスということでお願いします。
75日本@名無史さん:2012/12/15(土) 21:39:44.61
>>73
そういうのがあるのか、初めて知った。
その書状からすると三成が敵と想定していたのはやはり正則ら豊臣家中の武断派ではなく家康ってことになるね。

もしくは、家康排除の過程でついでに正則らの勢力を抑え込めればOKぐらいなニュアンスか。
76日本@名無史さん:2012/12/15(土) 22:31:42.12
七将の件で、三成を蟄居させたけど、ちゃんとした隠居にさせて、
嫡男の石田重家に家督継承をさせて、重家をそこそこの待遇で迎え
てやってればよかったんだよ。
77日本@名無史さん:2012/12/15(土) 22:36:37.47
三成いなかったら豊臣がちゃんと纏まるってのも希望的観測だな。
関ヶ原は起こらない可能性は高いが。
78日本@名無史さん:2012/12/15(土) 22:55:57.39
よく分からないのが、何故豊臣家の石高が減るわけ?
内紛という形なら、蔵入地は豊臣家のために残しておくべきじゃないのかな
79日本@名無史さん:2012/12/15(土) 23:16:34.95
>>78
端的に言えば豊臣奉行体制が完全に崩壊して全国各地に分散していた豊臣蔵入地の管理が
事実上不可能になったため。
80日本@名無史さん:2012/12/15(土) 23:28:40.48
関ヶ原後の豊臣家の重臣というと、片桐且元、大野治長と、治長の弟ぐらいかな。
織田信雄、信包、有楽も居たが、客分か。
あと、淀殿の乳母の大蔵卿局が権力者だったいたいだが。
まあ、片桐、治長以外は使えそうにない。
81日本@名無史さん:2012/12/15(土) 23:39:14.54
且元と治長も言っちゃ悪いが、奉行衆と比べると些か見劣りするなあ。
82日本@名無史さん:2012/12/15(土) 23:40:43.27
>>79
それじゃ、関ヶ原でどっちが勝っても豊臣家弱体化だね
83日本@名無史さん:2012/12/15(土) 23:47:21.15
>>82
無論そう。というか豊臣蔵入地というのは大名にとって、管理と責任ばかり押し付けられ、なおかつ年貢量も
保証させられ、あまつさえ領地監視にも使われるという、ものすごく嫌な制度で、
どっちが勝っても解消せざるを得なかったと思う。
84日本@名無史さん:2012/12/16(日) 08:52:03.83
関ヶ原の後、家康は豊臣政権大老の名で、諸大名の加増転封改易をやったのだろうけど、
もちろん独断だよね。御恩と奉公だから、家康になびいちゃいますわな。
85日本@名無史さん:2012/12/16(日) 10:03:30.72
>>84
関が原後の加増や改易に関するものは、家康の側からは井伊直政と本多忠勝、東軍参加の諸将からは
福島正則、黒田長政、藤堂高虎などによって基本的な案が制作され家康によって実地されたらしい。
86日本@名無史さん:2012/12/16(日) 12:29:39.76
>>77
まあ有力大名が前田の件とか上杉征伐みたいな感じで
次々恭順させられてどの道豊臣は詰むね。
87金吾秀秋:2012/12/16(日) 12:54:07.21
>>86
そだね(´・ω・`)

つまり、>>69の言うとおり、
「負ける可能性もあるにしろ、勝負するタイミングとしては他になかった」
わけだから、あの時の一瞬のチャンスを逃さずに戦った三成は、称えられこ
そすれ、非難することはできない(´・ω・`)
88日本@名無史さん:2012/12/16(日) 13:47:25.46
ただ、行動が大きく遅れ美濃をあっさり落とされてしまい
ジリ貧に追い込まれたり味方が内応しまくってるのに
まるで気づいてないわけでやはり軍略面ではド素人だったと言わざるを得ない。
89日本@名無史さん:2012/12/16(日) 14:15:43.84
そうそう、負けてしまっては意味が無い
結果がいちばん大切
90日本@名無史さん:2012/12/16(日) 18:08:23.52
小早川が裏切らずに東軍に攻め込んでいれば三条河原に晒されるのは家康の首だったろうに
91日本@名無史さん:2012/12/16(日) 18:10:56.90
>>90
そういう状況ならそもそもああいう戦場配置にならんよ
92日本@名無史さん:2012/12/16(日) 18:21:24.36
まあそうだよな
10中8、9の確信があったんだろうが1でも裏切りの裏切りで東軍に攻撃してればなあ
93日本@名無史さん:2012/12/16(日) 19:28:59.42
そうなったら、戦乱の世が続くだけ。
西軍、豊臣家に三英傑に並ぶ人材いないからな。
94日本@名無史さん:2012/12/16(日) 20:51:28.24
それもまた短絡的な発想だと思うけどねえ。
まあ室町時代程度にはちょくちょく内紛が起こるような政権にはなってただろうけど。
95日本@名無史さん:2012/12/16(日) 20:51:38.57
石田が黒田福島池田細川藤堂を許さないだろうから、豊臣方も痛手だな
無傷の徳川秀忠隊がいるが、こっちは拠点もなく当面の兵糧が問題だ
96日本@名無史さん:2012/12/16(日) 21:02:12.26
>>95
その辺の大名は利家生きてた頃から既に家康陣営だったからなあ。
97日本@名無史さん:2012/12/17(月) 10:14:08.67
実は関ヶ原以前、最も親徳川だった大名は大谷吉継だった。

三成は吉継の切り崩しに成功した事で、東軍の他の大名もなんとかなると考えたフシがある
98日本@名無史さん:2012/12/18(火) 12:33:17.98
>>97
大谷と家康の繋がりってどこから生まれたんだろう?

三成側に転身した理由は鼻水入り茶以外で明確なのはないのかな?
99日本@名無史さん:2012/12/18(火) 13:25:37.23
鼻水の話は明治期の創作。
むしろ「あれだけ家康寄りだった吉継が西軍についたのはきっと三成と相当強い関係があったに違いない」
という推測から生まれた与太話と考えた方がいい。

吉継の母ちゃんは北政所の側近で北政所は近年では
西軍支持だったとも言われてるから、そっち方面から考えた方がいいかも。
決起自体は2人より北政所の娘婿でもある宇喜多秀家の方が早いし。
むしろ吉継の方から三成を促したのではという見方すらある。
100日本@名無史さん:2012/12/18(火) 15:06:06.97
>>99
福島らは北政所が東軍味方であることを言って小早川を説得したらしいから
北政所が西軍支持だったとも思えない
まあ、北政所が立場をはっきりさせなかったことで、豊臣恩顧たちが勝手に
自分に靡いているように勘違いしたんだろうな
北政所がどちらかに味方していた記録はない
101日本@名無史さん:2012/12/18(火) 20:57:20.29
世継ぎの秀頼が生まれなければ、北政所は大坂城にいたのかな。
そうなら豊臣家はもう少し続いた気がする
102日本@名無史さん:2012/12/18(火) 21:06:27.49
秀頼がいなければ、秀次が存命で、続いたろ。
103日本@名無史さん:2012/12/18(火) 23:01:37.71
>>99-100
北政所はどう見ても東軍シンパ。
むしろ東軍寄りじゃなかった証拠を見つける方が難しい。
ただ、秀吉の妻という立場上露骨に肩入れ出来なかっただけ。
関ヶ原の時点では淀殿と協力して家康を支援したと見るのが妥当だろう。
104金吾秀秋:2012/12/18(火) 23:54:10.10
くつした準備したんだ(´・ω・`)
105日本@名無史さん:2012/12/19(水) 00:53:25.47
なるほど、吉継に限らず東西どちらかにつくのに北政所の影響力はあったか。

肝心の北政所がどちら側だったか、意見が分かれているのが不思議といえば不思議だね。

どちらにも取れるような動きをしていたのかな?


あと普通に考えて豊臣家により良い結果になる側に立つだろうと思われる北政所が家康側につく理由、三成につかなかった理由ってなんだろうね?


イメージ的には秀吉子飼いの三成が勝った方が豊臣家にとっては良さそうに思えるんだけども。
106日本@名無史さん:2012/12/19(水) 01:56:52.58
関ヶ原の戦いからしばらくの間
負けた西軍の武士が野盗と化して
近畿周辺の大名を悩ましたって本当かなぁ
107日本@名無史さん:2012/12/19(水) 10:22:30.13
>>101
>北政所は大坂城にいたのかな
秀吉は晩年、聚楽第に代わる豊臣家の洛中拠点として内裏の目の前に京都新城を作り、
秀頼はここから内裏に入って元服している。
秀吉はゆくゆくは関白となるであろう秀頼のために、
朝廷や公家社会とつながる拠点にしようという心づもりだったらしい。
大坂城を出た北政所が住んだのがその京都新城。
北政所は秀頼の実母でなかったために、淀殿らによって大坂城を追い出されたように思われがちだが、
むしろ、豊臣家の力温存のために朝廷や公家たちの傍に豊臣家の拠点の一つを置くべきとして
秀頼の嫡母である北政所がその意思を持って京都新城に移った可能性が高い。
豊臣家の京都新城を天下を狙う家康がいかに不満に思っていたかは、関ヶ原の際、
家康は北政所がいるにもかかわらず、京都新城を破壊したことからも分かる。
結局家康が関ヶ原で北政所の住まいを破壊したために、後に高台寺を建てて豊臣恩顧大名の
機嫌を取らねばならなかった。
108日本@名無史さん:2012/12/19(水) 10:26:11.71
>>103
北政所も淀殿も東軍寄りならば、関ヶ原で西軍大名を
秀頼のいる大坂城に入れたのはおかしくないか?
北政所が親しい養子が西軍につくのを止めなかったのも不思議だ。
東軍寄りだった証拠って何?
109日本@名無史さん:2012/12/19(水) 12:09:28.85
>>108
増田、前田、長束の三奉行が輝元に上坂要請を出してるから
北政所が内心どう思おうが関係ないだろう
110日本@名無史さん:2012/12/19(水) 18:56:12.16
>>109
それなら北政所の意見は誰も取り上げなかったというのが正しいわけで
北政所が東軍寄りだったというのはますます証拠がない。
111日本@名無史さん:2012/12/19(水) 19:17:09.31
北政所は秀吉死後、政治的影響力はほぼ喪失したとも言われている
112日本@名無史さん:2012/12/19(水) 19:36:44.73
世継ぎの母でも無いので秀吉の死後は単なる旧妾と化した
113日本@名無史さん:2012/12/20(木) 09:54:19.29
もし西軍の残存勢力が大阪城で篭城する道を選んでいたらどうなっていたんだろうな?

史実でも信長は毛利〜石山間の海上補給があったため
石山本願寺を落とすのに10年近くかかっていますし

大阪冬の陣も兵糧が不足したため家康は一時撤退も検討したそうです。

こう考えると天下人になる前の家康が大阪城を
短期間で落とせたとは思えないのだが
その間、家康がどんな計略を仕掛けてくるかとか
クロカンや政宗の動向も気になる
114日本@名無史さん:2012/12/20(木) 11:09:59.12
>>113
関ヶ原の時、家康は大坂城内組を一切罪に問わないと繰り返し使者を送り
(西軍総大将毛利輝元にもこれまで通り所領安堵する)
無血開城させている
もし秀頼の命をかけて籠城されていたらとても勝てなかったはず
家康の策謀にのせられた西軍が馬鹿だったとしか言いようがない
結局毛利は改易させられ豊臣は家康に所領を奪われた
115日本@名無史さん:2012/12/20(木) 12:41:23.90
>>114
そこが大阪方(秀頼周辺)の見立ての甘さだよね。

家康の狙いはあくまで豊臣家からの政権簒奪で、三成討伐は一つのステップだった。

まあ、関ヶ原合戦での様子を知っていて大阪方が籠城しても士気が続かず内通者続出して滅亡というシナリオを想像しそう。

だから敢えて籠城をせず、三成の処分が終わるのを待ったかも。

いずれにせよ、三成決起の時点で豊臣・徳川の並立の可能性はなくなり、関ヶ原合戦によって徳川政権誕生が決まり、あとは豊臣家がどこまで存続し得るかという期間の話でしかなくなっていたのでは?
116日本@名無史さん:2012/12/20(木) 13:05:59.10
>>115
無血開城に福島正則・加藤清正・大野治長らも一役買ったわけだが
このときの東軍方がどれだけ家康の野望を見抜いていたかは疑問。

家康の目的は間違いなく政権奪取にあったわけだが、
家康は大坂城の西軍だけでなく、東軍の豊臣恩顧大名すら出し抜いて、
豊臣家筆頭大老の名のもとに褒賞懲罰を自由に行い朝廷に根回しして
いつのまにか征夷大将軍として君臨していた実体がある。

東軍大名たちがはたして家康一人の天下取りのために力を貸してたのかってこと。
117日本@名無史さん:2012/12/20(木) 13:38:59.56
豊臣家の当主が幼少で、
軍事政権なのに軍事力が無いんだから、
政権維持なんて無理でしょ。
118日本@名無史さん:2012/12/20(木) 15:30:55.36
>>117
幼主でも持ってた例はいくらでもあるでしょ。
家康自身、父が死んだときまだ幼主だったのに
今川家が三河の土地を守り、成人した家康を三河に返してあげている。
家康は桶狭間で今川義元が敗れると恩顧の今川を裏切ってるけど。
119日本@名無史さん:2012/12/20(木) 18:05:34.70
>>118
今川家は、三河を支配するために家康(竹千代、元康)を人質にしていたわけだし、家康が元服したときに、岡崎の墓参は認めても、領地は返していない。
桶狭間で義元が死亡して、今川の家臣が岡崎城から逃亡したので、家康が入場して三河の支配権を回復したのだが。
120日本@名無史さん:2012/12/20(木) 21:59:02.26
西軍残党が大阪城に入ってもどん詰まりになるだけだっつーの。

そもそも淀殿は徳川よりだったし、大阪城にこもったってその籠城衆の本拠地がガンガン東軍に
侵食されるだけで、家臣の領地の保護という責任を果たせない大名は組織が崩壊するだけだ。
大阪城を攻めるまでもなく勝手に崩壊しただろう。

そもそも毛利ですら、大阪城退去の段階で近衛前久が『本当は領地半減だけど表向き安堵ということにして
退却した』と報告している。毛利も領地削減は解った上で大阪城を退去したんだよ。
何故かといえば

全てを失って大阪籠城<<<<<<<<<<<<<<<<超地が削減されても家名安堵

だから。

甘いのは大阪城にこもったら何とかなったなんて思ってる現代人の方だわw
121金吾秀秋:2012/12/21(金) 01:09:14.09
まったく甘いんだよな(´・ω・`)
122日本@名無史さん:2012/12/21(金) 08:40:36.79
>>118
地方の小領主と天下人を一緒にするなよ
家康には譜代の家臣がたくさんいたし、比較することが間違い
123日本@名無史さん:2012/12/21(金) 16:58:11.29
>>105
関ヶ原は東軍西軍いずれも勝手に「正義は我にあり」ってやってた印象。
ただ、淀殿の場合は三成決起当初に家康に討伐するよう書状送ったから
それが最終的に家康が大義名分を持つ上で役にたっただろうね。
個人的には淀殿の行動の方が東軍の結束に影響力があったんじゃないかな。
北政所周辺は結局どっちつかずな感じだし。
124日本@名無史さん:2012/12/21(金) 20:27:28.57
>>123
> ただ、淀殿の場合は三成決起当初に家康に討伐するよう書状送ったから
それが最終的に家康が大義名分を持つ上で役にたっただろうね。
個人的には淀殿の行動の方が東軍の結束に影響力があったんじゃないかな。

淀がそんな書状送ってたなんて初めて聞いた。
淀が家康にそんな書状を送るのは、淀と三成の間に対立があったのかな?



淀が幼主秀頼を家康筆頭の五大老・奉行体制で支える前提なら三成の反家康姿勢はそれを阻害すると考えたか。

うむー
125日本@名無史さん:2012/12/21(金) 20:44:38.07
>>118
今川を美化しすぎだ
今川の松平一党に対する仕打ちは過酷を極めた
元康は今川の好意で岡崎へ戻ったのでなく
元康の策略で岡崎を奪い返したのが真相
126日本@名無史さん:2012/12/21(金) 22:04:31.93
>>124
というより単純に「徳川家康が正規軍として上杉を征伐する」という体裁を取ってたから
それに反する行為を行った三成達を淀殿は「反逆者」と見なしたってだけじゃないかな?
そもそも家康ですら三成達の挙兵があそこまでデカくなるとは読んでなかったみたいだし。
127日本@名無史さん:2012/12/22(土) 01:35:26.87
>>126
あぁ、なるほど。

上杉討伐は豊臣家にとっては、それまでの体制を維持する事になるしその遠征軍を率いる家康は「体制維持派」の旗頭だもんね、一見は。

関ヶ原があること、西軍が負けること、大坂の陣で豊臣家が滅びることを知っていると後世の人と、それらを知らない人にとっては一つの事柄について受ける衝撃や抱く感情は全く違うもんね。

改めて、歴史を知る勉強するというのは難しいと思った。
128日本@名無史さん:2012/12/22(土) 12:41:43.63
大坂城包囲網として、篠山城や伊賀上野城が築城されていく間、
豊臣家は無為無策だったんですかい?
129日本@名無史さん:2012/12/22(土) 14:44:28.19
>>128
そもそも「大阪城包囲網」というのが幻想。
それらの築城に大阪城を包囲する意図も戦略的な意味もない。
130日本@名無史さん:2012/12/22(土) 19:28:20.73
>>123
> ただ、淀殿の場合は三成決起当初に家康に討伐するよう書状送ったから

淀殿はそんなこと要請してないw
関ヶ原を起こす当初、三成は内通を恐れて大坂方に内情を知らせてなかった。
三成が兵を集めているという情報を得た増田長盛・長束正家・前田玄以の在坂三奉行は混乱し、
徳川家康と毛利輝元の両者に対して大坂に来て秀頼公を守るよう手紙を出した。
これに淀殿も署名を加えた。
この手紙によって毛利輝元は大坂城入りしている。
つまり、手紙は東軍徳川家康・西軍毛利輝元の両者に出されたものであって、
淀殿単独の意思で家康にだけ出したものではないよ。
131日本@名無史さん:2012/12/22(土) 23:49:46.20
>>130
ああっ、そういうことだったのか。

それだけ三成の佐和山への退去は波乱をもたらすと、家康からも大坂方からも見られていたわけですね。

奉行達の秀頼・淀への報告の仕方もあまりよくなかったのかな?
132日本@名無史さん:2012/12/23(日) 09:13:21.80
>>122>>125
三河武士が今川の庇護なしで生き残れたとでも?
余程獰猛な武士たちが自治を敷いていたように勘違いしているが
三河武士は貧弱で少数。今川の保護がなければバラバラになっていたもの。
今川が松平を滅ぼさなかったのは好意だろう。
家康を殺して三河を奪うなど簡単なことだったのだから。
武家は軍事政権だから軍事を司らない幼主ならば必ず滅ぼされる、
秀頼が殺されるのは当たり前、なはずはないわけで。
133日本@名無史さん:2012/12/23(日) 09:30:39.46
>>132
いい加減スレ違いなことくらい自覚しようや
134日本@名無史さん:2012/12/23(日) 10:10:42.18
徳川幕府は、将軍が幼くても大丈夫っだったわけで、要は、幼主をサポートする体制が十分かどうかと、競合勢力の実力の有無だろう。
135日本@名無史さん:2012/12/23(日) 10:22:54.62
徳川幕府は家康から家光まで100年かけて、幼君でも大丈夫な体制を作り上げたからなあ。
官僚機構としてはほぼほぼ近代に近いものになっていた
136日本@名無史さん:2012/12/23(日) 15:03:17.18
>>133
秀頼は幼主だったから戦国時代には滅ぼされるのが当たり前だった
ということに対する反論だからスレチではないが?

当然ではなかった、という結論でいいんだね。
137金吾秀秋:2012/12/24(月) 14:34:40.23
ケーキうまうま(´・ω・`)
138日本@名無史さん:2012/12/27(木) 22:32:27.73
>>111
北政所の政治力って秀吉の嫁という立場だけだったんだろうね
北政所に嫌われたら、どう秀吉に伝わり自分への影響を及ぼすか
好かれたら秀吉を通して禄高上げてもらえたりしたりとか
秀吉あっての政治力な感じがするね
だから秀吉の死で、すっかり政治的には廃人になった
その後に北政所に挨拶伺った武将とかもいるだろうけど
それは昔話したりとか、我々が親戚の家に遊びに行くという感覚ではなかろうか?
「あの時に会ったのは西軍に付かせるように北政所が諭しのだ」
と後の世の人が勝手に瞑想して記録に残ったのもあったりするかも?
139日本@名無史さん:2012/12/27(木) 22:49:15.09
>>138
その割に家康は秀吉の死後、北政所を秀頼との二条城対面において
秀頼の保護者として同席させているぞ
ちなみに北政所は大坂城での秀頼と千姫の婚礼にも同席している
大坂の役に際してもなお、大坂城入りしようとする北政所を家康が止めたり
豊臣家の正室としての権限は残っていたとみられるが
140日本@名無史さん:2012/12/27(木) 23:22:15.05
>>139
権限というかあくまで正妻としての格式だけだろ。
秀頼は当時の理論的には正妻である北政所の子であるし。
141日本@名無史さん:2012/12/28(金) 00:07:18.48
>>140
しかし戦国時代の女性がここまで表に出ている例って少ないぞ
北政所は秀吉没後も動向が記録に残り大坂城と行き来して
豊臣家のために心を砕いていたことが分かる
秀吉の死後北政所が秀吉存命中に比べれば政治力を失ったって
豊臣家自体が政治力を失っていたんだから当たり前
将軍御台所かつ将軍生母である江が江戸城大奥にこもり
表の政治に携わらなかったことを見れば
いかに北政所が秀吉没後も動いていたかが分かる
142日本@名無史さん:2012/12/28(金) 23:50:59.67
関ヶ原で東軍が一時的に負けていても
家康の天下は揺るがなかったろうなあ。
東軍ははまだ秀忠軍がいるし、
西軍は未来の党みたいにバラバラだし。

小早川ごときが天下を決めたみたいに過剰評価されすぎ。
143日本@名無史さん:2012/12/29(土) 00:33:24.93
>>142
小早川への評価が高いっていうんじゃなくて、関ヶ原の戦況を変えたのが小早川の進軍だという評価では?

この二つは切り離して評価されてると思うけど。
144日本@名無史さん:2012/12/29(土) 03:08:49.96
でも最近、歴ヲタの間では異様に金吾を持ち上げる風潮が出来始めてるからなあ。
そりゃボンクラじゃなかったろうけど、大器の片鱗を随所で見せた若き逸材ってのは絶対違うと思うw
145日本@名無史さん:2012/12/29(土) 07:32:20.96
逸材ならよくも悪くもあんなふらふらしないわな。
いわゆる西軍に対する「寝返り」が関ヶ原本戦ではなく松尾山城奪取の時だとしても、
やっぱりそこ迄がふらふらし過ぎ。
146日本@名無史さん:2012/12/29(土) 19:18:34.21
描き方でどうにでもなるわ
147金吾秀秋:2012/12/29(土) 19:54:19.01
大器の片鱗を随所で見せた逸材なんだぜ(´・ω・`)
148日本@名無史さん:2012/12/30(日) 12:07:37.51
まぁ歴史上の人物なんて時代によって
必ず良い悪いの両極端に評価が分かれるから
149日本@名無史さん:2012/12/30(日) 13:38:14.16
捕縛された三成に罵倒されたりして、
2年後に死んじゃったから、相当後ろめたい思いがあったのだろう。
幕府ができるまで生きていても、豊臣恩顧だから、すぐに改易だったろう。
150日本@名無史さん:2012/12/31(月) 19:45:38.33
>>149
結局秀吉の子飼い・小姓上がりの大名で江戸末まで続いたのは片桐家ぐらい?

両加藤と福島は子の時代に改易だっけ?
151日本@名無史さん:2012/12/31(月) 20:18:44.33
> 捕縛された三成に罵倒されたりして、

それ完全に後世の搜索な
152日本@名無史さん:2012/12/31(月) 20:21:21.25
>>150
七本槍でいうのなら脇坂がおる。
つーか福島も両加藤も、その改易は豊臣温故関係ねえっつーの
153金吾秀秋:2013/01/01(火) 22:00:48.08
大河の主役になりますように(´・ω・`)
154日本@名無史さん:2013/01/01(火) 22:45:18.12
豊臣家を潰した男
155日本@名無史さん:2013/01/02(水) 09:59:14.32
結局大坂の陣で豊臣方についた浪人どもは、
10年以上ものあいだ、なにをしていたんだ?
徳川は放置していたのか?
156日本@名無史さん:2013/01/02(水) 14:41:47.56
>>155
基本的には就職活動とか色々。
幕府は都市への許可のない浪人の居住を禁止したり、対策はたくさんやっていた。

そもそも浪人問題というのは秀吉の時代から、もっと言えば戦国以前、嘉吉の乱のあたりから
ずっと続いていた問題だった。
157日本@名無史さん:2013/01/02(水) 16:18:55.13
武家の家に生まれても職は必ずしもあるあけじゃないからな。

どこかの被官になって職責に対する報酬得たり、足軽や人足として日雇い・月雇いの単発の仕事で日銭稼ぎ。

それができない時は町の往来で追い剥ぎしたり、街道筋で野盗とか。


元の主と対立して出奔したら、その元の主が周辺地域の領主に雇い止めやらしてなかなか被官にはなれず放浪しながら全く違う地方まで落ち延びるケースもあったみたいだな。
158日本@名無史さん:2013/01/03(木) 07:05:17.58
>>155 >>156
まぁ、いろいろだろうな。
鬱病は現代病と言われるが、「戦場での失敗=死」だった頃の武士たちの
プレッシャーは現代人の比ではなかったろうから、
関ヶ原まではなんとか生き延びたけど、鬱病や引きこもりになったりしたのが
少なくなかったのでは。
仕官できるやつらはサッサと仕官先を見つけられたが、仕官もできなくて野たれ死んだのもいたのでは。
想像するに、大坂の陣で大坂城に入った15万とも言われる浪人たちの大半はメンタルシック患者か元メンタルシック持ちだったのでは。
159日本@名無史さん:2013/01/03(木) 11:31:14.62
ひきこもってたら飯を食えない時代だろ
現代みたいに生保もないし
160日本@名無史さん:2013/01/03(木) 19:16:58.61
親戚や配下だった家に転がり込んでたんだろ
161日本@名無史さん:2013/01/04(金) 01:28:48.60
昨日まで寺小屋の師匠だった人が大軍を率いる武将に返り咲くというのは絵になる
162日本@名無史さん:2013/01/04(金) 01:34:35.73
蘭方のやぶ医者が、突然軍事指揮官になった例もあるぞ。
163日本@名無史さん:2013/01/04(金) 23:02:04.84
そうそう。オレの兄ちゃんなんか高卒後10年間ニートだったけど、去年突然
近所の電気屋でバイトしだしたよ。
164日本@名無史さん:2013/01/05(土) 01:19:33.45
>>163
ニートがバイトを始めたのと同じレブルではないw
165日本@名無史さん:2013/01/05(土) 12:20:02.58
籠城戦だから、大坂方が勝ったところで寸土も増えず、
豊臣家に仕官する道などなかったろうに
166日本@名無史さん:2013/01/05(土) 17:56:48.63
>>161
現代的にいうと、拓殖大教授が防衛大臣になるようなもんだな。
167日本@名無史さん:2013/01/06(日) 14:17:08.81
ひとりふたりの話じゃないだろ
168金吾秀秋:2013/01/14(月) 01:01:10.32
ないだろ(´・ω・`)
169日本@名無史さん:2013/02/02(土) 18:23:11.40
豊臣家宗家は滅ぼされたけど
秀吉の母の親族の小出氏が3万石の大名で
幕末まで存続している
だからあまり悲観的な気持ちにはならない
あの大坂城から出ない秀頼親子がよくない
そこから悲劇ははじまっている…
170日本@名無史さん:2013/02/02(土) 18:41:25.08
つーか豊後日出藩木下氏は幕末まで豊臣氏を称しているし。
171日本@名無史さん:2013/02/17(日) 22:22:56.08
もし千姫が秀頼の息子を産んでたら、果たして家康は殺せただろうか?自分の曾孫でもあるから。
事はそうはいかなかったが、それを秀吉は計算してたのだろうが。そうなっていれば『豊臣(羽柴)松平氏』になってたか、あるいは出家させられたか。
>>169 皇室に秀吉の姉の血脈が継承されてなかったか?
172日本@名無史さん:2013/02/26(火) 18:22:49.94
>>142
家康が死んだら多分徳川内部が全くまとまらなくなってしまう。
173日本@名無史さん:2013/02/26(火) 18:35:25.23
>>171
家康は実の息子でも対立すれば殺すし改易にもする
ましてや敵の血を引く女系の曽孫など殺すのをためらう理由はない

秀吉の姉ともの女系はあちこちに残っている
174日本@名無史さん:2013/02/26(火) 19:59:48.20
秀吉が家康を家臣として抱え込んでしまった時点で、
もう家康の天下は決まったようなもの

逆に家康を潰せる武将といえば、信長しかいなかったのかもしれない
実力、天運、やはり家康は、天下を統一する役目を帯びた人だったんだね
175日本@名無史さん:2013/02/26(火) 20:14:27.42
つかそもそも秀吉の政権構想自体がネオ室町幕府的な、「高貴な」豊臣宗家の武家関白を規模の大きな諸大名が支える、ってものだからなあ。
仮に関ヶ原が怒らなかったら、家康は圧倒的実力者にはなっても豊臣を覆せるほどに成れなとは考えにくく、
その意味で豊臣家にとっては関ヶ原は、余計な戦だったというよりほかない
176日本@名無史さん:2013/02/26(火) 22:29:24.02
>>174
家康が大坂の役まで生きてたのはただの偶然だろ
信長や秀吉の年齢で死んでいれば確実に天下は転がり込まなかった

秀吉があのまま男子に恵まれず、秀次が関白のままだったらどうだったろう
成人関白をないがしろにして天下取り目的の私婚も無理だし関ヶ原も無理だ
やはり家康は天下を取れなかった
177日本@名無史さん:2013/02/26(火) 23:57:38.15
斉藤義龍か死なないで生きてたら信長が美濃取れなかったとか信玄が存命してたら織田なんぞ滅ぼされてたとか
そうなったら秀吉も天下どころか一国レベルの領主にもなれないとかそういうレベルのアホな議論だな
信長なんて分裂してクーデター騒ぎの斉藤・ウルトラ超幸運で戦死した義元・木造などの内訌で分裂の北畠・観音寺騒動と対浅井の敗戦で弱体化しきってた六角など
超幸運に恵まれまくって勢力広げただけだし
どの条件が欠けても勢力拡張なんて到底無理だわw
そうなったら秀吉も一城レベルにもなれたか怪しいし
178日本@名無史さん:2013/02/27(水) 00:05:22.94
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキング
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、
だいたい600人を1年間雇えるくらい

ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。
179日本@名無史さん:2013/02/27(水) 00:05:47.63
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国60万石+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。

超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
180日本@名無史さん:2013/02/27(水) 00:08:30.10
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。

まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国60万石+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
181日本@名無史さん:2013/02/27(水) 00:10:41.50
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてきた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである←【【NEW】】
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと←【【NEW】】
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
182日本@名無史さん:2013/02/27(水) 00:10:59.58
龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
183日本@名無史さん:2013/02/27(水) 08:40:37.19
スレタイを読めない長文連投バカは
読んでもらえると思ってるのだろうか?
184金吾秀秋:2013/02/27(水) 09:54:15.87
まったくバカには困ったもんだぜ(´・ω・`)
185日本@名無史さん:2013/02/28(木) 15:59:41.07
この期間、
自分がいつ死んでもおかしくないのに、
家康はよく15年も待ったよなあ。
直後に死んじゃう無駄の無さw
186日本@名無史さん:2013/02/28(木) 16:10:05.55
そもそも家康に豊臣を滅ぼすという発想はなかった
187日本@名無史さん:2013/02/28(木) 16:54:56.59
>>183
そいつは「だが」っていう歴ゲー板でお馴染みのキチコテだから触っちゃダメ
188日本@名無史さん:2013/02/28(木) 20:27:45.63
>>186
発想がなかったらなぜ滅ぼす?
秀頼だけはどうしても臣従せずどうにも我慢がならないのでやむを得ずなら
8歳の国松を当主として豊臣家を復興すればよかったのに、幼少の国松を殺し、
女子は許されて普通に結婚する例が多かったのに尼にしてしまった
家康も世話になっただろうに秀吉の墓までぶち壊す徹底ぶり
いくら戦でも敵の先祖の墓までぶち壊すなんて滅多にない
189日本@名無史さん:2013/02/28(木) 20:30:08.25
>>188
アホか。秀頼は徳川に対し「謀反」したんだぞ。謀反人の男児を殺すのは武家の習いだ。
そもそも大阪の陣は秀頼の挑発で起こったもの。徳川が仕向けた合戦じゃない
190日本@名無史さん:2013/02/28(木) 21:28:15.90
>>188
>>186が言ってるのはもちろん、大坂の陣が起こる前の段階でのことだろ
秀頼が家康に大人しく臣従してくれれば、高家のような扱いにすることもできた
でも家康に楯ついてしまった以上は根絶やしにするしかない
191日本@名無史さん:2013/03/01(金) 07:08:35.12
織田家も存続してるし、家康に臣従すれば豊臣を滅ぼすまで考えてはいなかっ
たろう。ただ、大阪城と近畿の所領は没収じゃないかな。
192日本@名無史さん:2013/03/01(金) 16:47:16.95
>>189
家康は秀頼に友好的だったのに
秀頼が勝手に家康を殺そうとして牢人たちを集めたから
逆に家康に殺されたと信じてるのかよw
それって家康が鐘銘事件で秀頼にお前を殺すぞと難癖つけた後だろ
193日本@名無史さん:2013/03/01(金) 16:49:21.66
>>192
お前馬鹿だなあ。鐘銘事件は正真正銘の不敬事件だぞ。
秀頼の挑発の一環と捉えるべき
194日本@名無史さん:2013/03/01(金) 16:52:03.56
>>190
186のifはかなり意図的
秀頼が大坂城を明け渡して母淀殿を人質に差し出し家康に臣従の誓詞を出せば
もしかしたら秀頼は出家・息子は小大名として存続できたかもねって
未来予想をさも事実のように書いてもなあ

家康に秀頼を滅ぼすつもりはなかったというのは詭弁に過ぎない
195日本@名無史さん:2013/03/01(金) 19:02:19.85
詭弁なわけねーだろ。家康がどれだけ大阪から退出しろって言ったと思ってんだ
196日本@名無史さん:2013/03/02(土) 00:58:33.01
>>195
家康が大坂から出ろと言ったことは一度もない
大坂から出れば秀頼の命を助け豊臣家は厚遇すると言ったこともない
(逆にもっと早くに殺されていたかも)
大坂城を出て、淀殿を家康の人質にして
どうせ殺されるなら助命嘆願しろと言ったのは片桐且元
史料をよく読もう
197日本@名無史さん:2013/03/02(土) 01:00:03.85
>>193
家康本人は一切気づかず坊主同士の出世争いに任せて
銘を考えた坊主のライバル坊主にいちゃもん考えさせただけなのにw
198日本@名無史さん:2013/03/02(土) 01:18:22.72
>>196
君の糞みたいな頭のなかには冬の陣の講話やその後の交渉のことが全く入ってないようだね
さすが物を知らない人は言うことが違うw

>>197
出た出た司馬史観wwwww
その手の講談をまともに信じられる精神構造って面白いと思うよw
199日本@名無史さん:2013/03/02(土) 12:58:27.70
↑こいつの頭の中が糞に見える
200日本@名無史さん:2013/03/03(日) 09:20:31.69
>>198
さて、まず君が読んだ一次史料と該当箇所をここに上げよう

漫談や軍記物は抜いてねw
201金吾秀秋:2013/03/09(土) 01:21:55.62
もうすぐ春だね(´・ω・`)
202日本@名無史さん:2013/03/09(土) 11:18:30.37
(´・ω・`)日本史板には、いつも春っぽい頭の人が多いです
203日本@名無史さん:2013/03/09(土) 15:03:58.17
あんただけだろ
204日本@名無史さん:2013/03/16(土) 13:21:09.79
布谷陽子「関ヶ原合戦の再検討―慶長五年七月十七日前後」(『史叢』73号、2005年9月30日発行)

宮本義己「内府(家康)の公儀掌握と関ヶ原合戦」(『大日光』76号、2006年3月17日発行)

白峰旬「関ヶ原の戦いに関する時系列データベース―城郭関係史料を中心として」(『愛城研報告』10号、2006年8月発行)

光成準治「関ヶ原前夜における権力闘争−毛利輝元の行動と思惑」(『日本歴史』707号、2007年4月1日発行)

三池純正『敗者から見た関ヶ原合戦』(洋泉社、2007年5月22日発行)

布谷陽子「関ヶ原合戦と二大老・四奉行」(『史叢』77号、2007年9月30日発行)

笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館、2007年11月1日発行)

笠谷和比古『関ヶ原合戦』(講談社学術文庫、2008年1月10日発行)

笠谷和比古「関ヶ原合戦余聞−「三成、家康屋敷に逃げ込む」の嘘」(『本』33巻2号、2008年2月1日発行)
205日本@名無史さん:2013/03/16(土) 13:23:43.56
宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年3月31日発行)

白峰旬「関ヶ原の戦いに関する再検討」(『別府大学大学院紀要』10号、2008年3月発行)

三宅正浩「「秋長」書状の年代比定をめぐって―関ヶ原合戦と蜂須賀家政」(『ヒストリア』210号、2008年6月10日発行)

太田浩司『近江が生んだ知将 石田三成』(サンライズ出版、2009年3月1日発行)

光成準治『関ヶ原前夜―西軍大名たちの戦い』(日本放送出版協会、2009年7月30日発行)

高橋明「会津若松城主上杉景勝の戦い・乾―奥羽越における関ヶ原支線の顛末」(『福大史学』80号、2009年10月30日発行)

林千寿「慶長五年の戦争と戦後領国体制の創出―九州地域を素材として」(『日本歴史』742号、2010年3月1日発行)

水野伍貴「秀吉死後の権力闘争と会津征伐」(和泉清司編『近世・近代における地域社会の展開』岩田書院、2010年3月31日発行)

桐野作人『関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里』(学研新書、2010年発行)

大西泰正「宇喜多騒動をめぐって―光成準治著『関ヶ原前夜』第五章への反論―」(『日本史研究』573号、2010年5月20日発行)

水野伍貴「佐和山引退後における石田三成の動向について」(『政治経済史学』530号、2010年12月22日発行)
206日本@名無史さん:2013/03/16(土) 20:18:18.42
何にしても小早川隆景だな。
もう少し長命していたらおそらく徳川についていただろうし、秀秋の裏切りも毛利の西軍総大将も無かったろう。そうなると加賀藩並みの大藩として毛利が存在し幕末も少し変わった形になっていただろう。豊臣も滅ばされるに至ってないと思う。
207金吾秀秋:2013/03/20(水) 03:54:34.27
漏れ様が長命していたらもっと嬉しかっただろ(´・ω・`)?
208日本@名無史さん:2013/03/20(水) 08:53:56.24
秀吉の遺言で家康と婚姻するはずの淀殿が、大野治長と密通して高野山に逃げてご破算にしたのが悪い
流石にそこまでされたら家康も、豊臣政権を支える立場にならざるを得ない
209金吾秀秋:2013/03/30(土) 09:14:07.98
桜並木が素敵だね(´・ω・`)
210日本@名無史さん:2013/03/30(土) 19:06:27.03
毛利家の人たちは実質毛利家のトップだった小早川隆景の死を嘆いている
家康は隆景がいない毛利家は全然怖くない
211金吾秀秋:2013/04/04(木) 03:29:05.45
でも漏れ様がいるから家康は手出しできないんだぜ(´・ω・`)
212日本@名無史さん:2013/04/04(木) 06:48:18.88
>>188
家康が豊家討滅やむなしの決意を固めたのは夏の陣直前
牢人問題が諸悪の根源と把握したものの、もはや放置できないと諦めたから
もしかしたら夏の陣の最中にもまだ揺れていたかも知れない
213日本@名無史さん:2013/04/04(木) 22:22:51.79
家康はマジで忌々しいやつだわ。
214日本@名無史さん:2013/04/04(木) 23:14:22.10
家康「いい迷惑だね」
215日本@名無史さん:2013/04/05(金) 00:33:43.72
 武田家を信吉に継がせて残そうとしたみたいに、
 羽柴(豊臣家)を、羽柴家ゆかりの息子たちに
継がせて残すって発想は無かったんだね。

 徳川義直(家康の子・正室が浅野氏)
 徳川頼宣(家康の子・正室が加藤氏)
 松平忠明(家康の孫・正室が小出氏)
 結城秀康の子たち(家康の孫・秀康が秀吉の養子)
(武田信吉は、正室が木下氏だけど当時は故人)
216日本@名無史さん:2013/04/05(金) 01:22:03.19
もしかしたら知らんのかも知れんが、「豊臣家」は滅んでいない。
大名である木下氏は幕末まで「豊臣姓」を名乗っている。
217日本@名無史さん:2013/04/05(金) 02:24:41.26
家康さん、名家を復活させるの大好きだよね?何か理由があんのかな?俺の妄想では氏の長者が関係してると考えてる。武田や喜連川は源氏だよね?源氏長者の俺が復活させたんだぞ、言うこと聞けよ、みたいな。あと新田源氏を仮称してた後ろめたさがあったかも
218日本@名無史さん:2013/04/05(金) 02:57:23.50
政権を安定させるには力による格付けよりも生まれによる格付けの方が良いからじゃね
219日本@名無史さん:2013/04/05(金) 03:04:46.59
>>217
> 家康さん、名家を復活させるの大好きだよね

いや全然。せいぜい高家として儀礼担当をさせている程度。
そう言う発想は司馬史観に毒された意見だな。
220日本@名無史さん:2013/04/05(金) 11:25:26.34
名門はたいてい有職故実に精通しているからね
高い家格として扱うけど領地は与えないというやり方は、外様や譜代の大名統制策と同じ
221日本@名無史さん:2013/04/05(金) 20:18:16.16
>>213
家康にしてみたら数万人の牢人かき集めて収拾がつかなくなった親戚の尻拭いをさせられたんだから、
とんでもない迷惑だぞ。それでもギリギリまで我慢してる。
222日本@名無史さん:2013/04/06(土) 22:28:52.79
それは口実だからw
223日本@名無史さん:2013/04/07(日) 05:41:52.00
じゃあそうではないという史料を出せよ。
思い込みを言われても困る。
史料上家康はギリギリまで我慢している
224日本@名無史さん:2013/04/07(日) 09:06:37.92
え?僕ちゃん我慢しまくりですぅ
もう我慢の限界でござる!!

って史料あった?
225日本@名無史さん:2013/04/08(月) 05:19:49.85
俺は
「まだ出しちゃだめよ。我慢するのよ」
「あっ・・・だめ・・・そんなぁ・・・あぁぁ・・・」
っていうのなら持ってる。
226日本@名無史さん:2013/04/08(月) 07:06:11.64
うわー、気持ち悪いわー
227日本@名無史さん:2013/04/08(月) 10:32:58.64
夏の陣の間際ぎりぎりまで大坂退城による和議の打診を続けてたんだから、
家康が平和裏の解決を模索してたことは間違いない。秀忠や政宗がどうせ無駄だからと攻めつぶしを主張してたのを抑えてるのだから
228日本@名無史さん:2013/04/08(月) 13:00:26.19
豊臣秀頼がもし家康に完全に帰順して、一大名として残り、さらにその家が幕末まで続いて、尊王倒幕派で活躍したら面白かったのに
229日本@名無史さん:2013/04/08(月) 22:39:15.99
そもそも「豊臣家」は幕末まで大名として存続しとる
230日本@名無史さん:2013/04/09(火) 02:22:51.69
豊臣家が残ったって、
木下氏の「羽柴少将豊臣勝俊」が豊臣家だって主張するんだろ?

それじゃ、徳川家(松平家本家)も「松平宰相大江慶親」とか
「松平少将惟宗忠義」の軍にやられたわけだから、松平家内の
主導権争いってことにでもなるのか?
231日本@名無史さん:2013/04/09(火) 05:10:18.47
ある意味そうだよ。当初の目的は公儀政体の樹立。ここでは争いなし。
武力討幕の局面になったのは慶応3年の遅い段階だったからね。
慶喜が突っ走ってからだ。
232日本@名無史さん:2013/04/09(火) 08:19:56.76
いや、豊臣の一族 木下 杉原とかではなく、秀頼が降伏して直系が存続すればということだと思うけど。

豊臣性改姓させられて、人質とられて、国替えで大減封だろうね
233日本@名無史さん:2013/04/09(火) 12:28:49.33
豊臣が残ったとか詭弁もいい所だな
木下なんて豊臣と関係ねーわ
一時豊臣を便宜的になのっただけでその後関が原以降徳川政権樹立期に豊臣なんて名乗ってねーわクズ
234日本@名無史さん:2013/04/09(火) 20:20:57.61
>>233
> 豊臣が残ったとか詭弁もいい所だな
> 木下なんて豊臣と関係ねーわ
> 一時豊臣を便宜的になのっただけでその後関が原以降徳川政権樹立期に豊臣なんて名乗ってねーわクズ

お前馬鹿なの?備中足守木下家と豊後日出木下家は江戸時代通じて「豊臣氏」を名乗っておるわ。
武鑑にもちゃんと豊臣氏と出てるぞ?

ははん、さてはお前史料を読めないな?
235日本@名無史さん:2013/04/09(火) 23:08:51.13
普通に秀吉の親族でもない血のつながりもない者持ち出して便宜的に豊臣名乗ったから滅亡してないとか苦しすぎだろ
236日本@名無史さん:2013/04/09(火) 23:10:12.98
そんな者まで持ち出したら滅亡してない家なんか存在しなくなるわなw
237日本@名無史さん:2013/04/09(火) 23:11:36.40
武鑑は後世の編纂史料で信憑性が非常に低い。一次資料類で木下が豊臣なんて名乗った事はない
238日本@名無史さん:2013/04/10(水) 12:52:20.24
もうどっちでもいいわっ!
239日本@名無史さん:2013/04/10(水) 17:15:17.54
つーか秀頼って何で普通に淀殿を江戸に証人として出さなかったんだ?
牢人問題が解決できなくても、普通に大和に国替えするだけで終わり。
秀忠の代でまた上総あたりに呼ばれるかも知れないが御家門待遇では残る。
淀殿も冬の陣の講和の段階でそれでいいみたいなこと言ってただろ。
240日本@名無史さん:2013/04/10(水) 20:52:56.65
実の母親を人質に出してまで生き長らえたくなかったとか再興や家康が憎い浪人を集めまくって抵抗したわけだから、今更降伏することも難しかったのかもね。
241日本@名無史さん:2013/04/10(水) 21:14:09.44
>>237
江戸時代に豊臣氏と名乗っとるんだっつーの
お前のいう一次資料ってなんのこっちゃ?
242日本@名無史さん:2013/04/10(水) 21:21:40.57
当時はまだ公家や諸大名が
大阪にもあいさつに来ていたような状況だからな
そこから一大名に転落するって選択肢は
難しかったんじゃないか


というか難癖つけて攻めてくるような奴に頭下げても
いつ難癖付けて滅ぼされるか分からんじゃん
滅ぼされる側からすれば最悪の事態を想定して決断するわけで
家康がいい人だからという期待で頭下げるのは難しい
福島のように惨めに死ぬくらいなら戦って滅んだ方がマシだろう
243日本@名無史さん:2013/04/10(水) 21:27:30.58
>>242
そもそも難癖じゃないし、家康は豊臣なんぞまるで恐れておらん。
牢人問題が全てだ。
244日本@名無史さん:2013/04/10(水) 21:56:56.74
武鑑は後世の編纂史料で信憑性が非常に低い。一次資料類で木下が豊臣なんて名乗った事はない
245日本@名無史さん:2013/04/11(木) 00:09:38.84
>>244
どの史料にも木下家は「姓・豊臣氏」って出とるわ。
頭おかしいだろお前
246日本@名無史さん:2013/04/11(木) 11:49:39.76
いや書いてない。文盲だろお前。
247日本@名無史さん:2013/04/11(木) 20:15:14.54
>>246
じゃあ何の資料に出てないのか言ってみろ
248日本@名無史さん:2013/04/12(金) 02:20:40.34
難癖付けて豊臣系大名たくさん改易してるじゃねーかwww
249日本@名無史さん:2013/04/13(土) 12:44:10.59
>>248
譜代や御家門も改易している。忠輝、忠直、本多などがその典型
豊臣系大名の改易理由は、福島みたいに幕府の方針を実行しなかったとか、
継嗣問題が発生したとかきちんとした理由がある
もともと成り上がり大名だから当主が没すると後継体制が作れてない所もいっぱい
250日本@名無史さん:2013/04/14(日) 10:11:00.34
ほとんど御家内部の問題だよね
251日本@名無史さん:2013/04/15(月) 07:51:17.92
福島正則の場合も、いったん許されたのに出された条件を誤魔化そうとしたのが
致命的だった。
252金吾秀秋:2013/04/15(月) 18:23:03.45
まったく、正則は裏切り者だし、誤魔化そうとするし、困ったやつだな(´・ω・`)
253日本@名無史さん:2013/04/15(月) 23:29:57.53
かまって欲しいなら素直にそう書けば良かろう
254金吾秀秋:2013/04/16(火) 22:47:53.14
かまって(´・ω・`)
255日本@名無史さん:2013/04/28(日) 09:55:29.77
 
関ヶ原の戦いはイギリスの大戦争のパロディ

http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0204/49/316.html

日本は、平安・鎌倉時代からイギリス征服に
乗り出していた。
(仮説を含む)

( http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0104/42/283.html )
256日本@名無史さん:2013/05/28(火) 20:00:12.45
>>228
まさか尊王の「王」が豊臣氏になったりして。
まあ、“臣”って付いてしまってるが。
257日本@名無史さん:2013/05/30(木) 17:19:14.10
秀吉死後の豊臣政権を維持するって、それ何の無理ゲーだよな
258日本@名無史さん:2013/06/01(土) 10:06:07.01
>>243
家康が豊臣を恐れてなかったら根絶やしにする必要なかったじゃん。
秀頼の8歳の遺児国松を千姫の養子にでもして豊臣家を再興させてもよかったのに
わずか8歳の幼児まで血祭りに上げて豊臣家を根絶やしした。
娘は許されて普通に嫁ぐことが多かったのにこちらも尼にした。
豊臣秀吉をまつった豊国社を廃社とし、秀吉の神号を江戸幕府が勝手に剥奪し(朝廷は納得してない)
秀吉の墓をぶっ壊した。
戦国時代と言えど、滅ぼした家にここまでやったのは(特に墓ぶっ壊しなんて聞いたことがない)
家康ぐらいだ。
259日本@名無史さん:2013/06/01(土) 10:47:33.63
>>258
方広寺の鎮守にするために破却しました>豊国社
260日本@名無史さん:2013/06/01(土) 10:59:01.75
>>259
北政所は豊国社の存続を嘆願しており、豊臣家は神号剥奪に納得していない
朝廷は神号剥奪を命じておらず、江戸幕府が勝手にやったとの立場を貫く
つまり、豊臣家も朝廷も納得してなかった

明治維新後、明治天皇の命令によって豊国神社は復興され、
豊臣秀吉の神号も当時のそのままに復活しましたとさ。
261日本@名無史さん:2013/06/01(土) 12:54:45.37
>>260
神領は豊臣家からのだから、別に幕府が没収しても問題なし
後、北政所が嘆願したというのは岩渕夜話といった後世の書でしか確認できない
神号剥奪も同様
262日本@名無史さん:2013/06/01(土) 13:20:57.32
>>261
神領は豊国社の付随するもの。
豊臣家の所領とは別。
そして北政所が豊国社存続を幕府に願ったことは
「舜旧記」などの同時代一次史料に見えるが何を読んでるの?
263日本@名無史さん:2013/06/01(土) 13:40:44.70
豊臣家は東北あたりに転封して、10万石以下の小大名で存続させてもよかったのに、と思う
264日本@名無史さん:2013/06/01(土) 14:02:31.80
大坂の陣の前に屈服しとけば存続の目は十分にあっただろうな
265日本@名無史さん:2013/06/01(土) 14:58:03.16
>>258
アホか。秀頼は徳川に対し「謀反」を起こしたんだから嫡男は殺されて当然。武士の習いだ。
娘の方は助命するなど、むしろ寛容な措置をしている。

そもそも「豊臣家」は滅びておらん。備中足守木下家や豊後日出木下氏は幕末まで「豊臣氏」を名乗っとる。
秀頼系が滅んだだけだ。
266日本@名無史さん:2013/06/01(土) 15:00:17.30
>>262
与えたのは豊臣家だよ
「舜旧記」あったのは梵舜が北政所に破却を伝えた記述だけだったかと
267日本@名無史さん:2013/06/01(土) 15:09:54.77
>>266
与えたのは豊臣家でも神領は豊国社に付随するもの
豊臣家は豊国社に限らずあちこちの神社に神領を与えているが
徳川家はそれらの神領をいちいち没収する権限はない

豊国社存続を直接家康に直談判しようと家康に面会要請したのはあくまでも梵俊だが
(家康は無視して会わず)
梵俊がこの前後に北政所と何度も面会し、北政所が神領を奪われた豊国社のために
生涯布施を贈り続けていることを見れば北政所が豊国社存続を願ったことは明らか
268日本@名無史さん:2013/06/01(土) 15:15:12.35
>>267
幕府には神領没収の権限は有るでしょう
紀州征伐で秀吉も行なっている

それは推察に過ぎない
269日本@名無史さん:2013/06/01(土) 15:57:48.57
>>268
神社が自分に敵対すれば没収はあるだろうね

>>261 >>266のように豊国社の神領は豊臣家の所領だから
家康が豊臣家を滅ぼして豊臣家の所領没収すれば自動的に豊国社の神領も
徳川家が没収になるというのは間違いということ
豊臣家所領と神社の神領は別
270日本@名無史さん:2013/06/01(土) 16:15:39.18
それは無いな。

土地の所有権なんてものが存在しない中世では権力者の保証か
自己の武力で保てない限り、神領は維持できん。
271日本@名無史さん:2013/06/01(土) 17:12:58.01
>>270
お前中世の文書主義も知らんのか。
歴史を全く勉強したことがないのまるわかりだぞ
272日本@名無史さん:2013/06/01(土) 17:43:15.97
神領没収の理由は秀吉を方広寺の鎮守にするので、豊国社は不要という理屈でしょうね
273日本@名無史さん:2013/06/01(土) 18:19:43.86
発狂するくらいなら議論なぞやめときゃいいのにw
274日本@名無史さん:2013/06/01(土) 18:33:35.30
>>265
もともと家康が主君である豊臣家に「謀反」を起こしたんだがな。
家康が勝ったために主君が家臣に謀反を起こしたなどという
勝者の正義になるだけだ。
275日本@名無史さん:2013/06/01(土) 18:38:35.60
>>265
謀反って家臣が主君を攻めることを言うんだよ。
秀頼は家康の家臣になったことがないのに
謀反などという間違った言葉使ってる馬鹿がいるよね。
一方、家康は間違いなく秀頼の家臣になったことがあるので
家康が謀反を起こしたんだよ。
276日本@名無史さん:2013/06/01(土) 18:59:39.04
>>272
史料読んでないな。
豊国社の廃止と秀吉の神号剥奪が先に決まって
豊国廟ぶち壊しに対する世間の批判をかわすために
申し訳程度に秀吉を仏式に葬るから墓をぶち壊すことを決めただけだよ
方広寺の鎮守の割に大仏殿の廻廊脇の目立たないところに
小さな石塔を一つたてただけ哀れな有様
277日本@名無史さん:2013/06/01(土) 19:26:51.29
>>274
>>275
そもそも例の二条城会見で秀頼は家康に臣従しとるわ。
史学の世界じゃとっくに定説だが、知らないのか?
278日本@名無史さん:2013/06/01(土) 20:36:34.04
徳川に有利な資料は江戸時代に捏造されたものだから
279日本@名無史さん:2013/06/01(土) 20:37:35.28
捏造w
280日本@名無史さん:2013/06/01(土) 20:51:51.19
>>276
駿府記には
「豊国社を毀つ事は本心だが、その事情は大仏殿の裏手に移し、大仏の鎮守にするため云々」
とあり、鎮守が目的となる

それに基壇を含めれば、約3.3メートルある大きい五輪塔なのだが
281日本@名無史さん:2013/06/01(土) 22:02:41.25
>>278
江戸期に徳川が捏造とかデタラメ妄想してんじゃねぇよクズ
282日本@名無史さん:2013/06/02(日) 23:44:38.38
>>280
もとの豊国廟の大きさを調べろ
283日本@名無史さん:2013/06/02(日) 23:46:17.01
>>277
それは史学会の異説だよw
二条城会見は対等会見
座る段に差をつけていない

家康は秀吉・秀頼に臣従の証書を提出しているが
秀頼は家康に提出していない
284日本@名無史さん:2013/06/02(日) 23:47:15.90
>>278
捏造も何も…
秀頼が家康に臣従した一次史料は何もないから。
>>277の妄想。
285日本@名無史さん:2013/06/02(日) 23:52:53.35
>>282
「小さな石塔」と書いたのはあなたですよw

それに家康は梵舜の嘆願を受け入れて神領は没収したが、内苑と神宮寺は残している
梵舜の日記によると家康の遺言でそれらは梵舜に下げ渡される予定だった
秀忠の命でご破算になり、妙法院に渡されているけど

そういう感じなので、神領没収は家康、妙法院に移管は秀忠、放置して破却は妙法院の
それぞれの責任として分割されている
286日本@名無史さん:2013/06/03(月) 00:35:47.89
>>280 >>285
「馬塚」は約2.5メートル

これを建てたのが家康だという史料はない
地元の人が秀吉をしのんでひそかに建てたともいう
江戸時代を通じて豊国廟とも秀吉の墓とも呼ばれず
ただ地元の人が「馬塚」という隠語で呼んでいた

家康は豊国社の破却を決め跡地に新日吉神社を移設
大坂の役の年に方広寺は妙法院の管轄とした
神宮寺は直接秀吉を祀るものではなかったために放置されたが
後にこれも没収された
287日本@名無史さん:2013/06/03(月) 00:43:19.59
どんだけかまって欲しいんだよ
288日本@名無史さん:2013/06/03(月) 01:03:51.46
>>280
「駿府記」じゃあ家康に不利なことは一切書けないよ

「舜旧記」をわざと無視してるね
豊臣宗家滅亡の翌月には早くも板倉勝重から
豊国社の社領を差し出すよう催促の手紙が来ている
289日本@名無史さん:2013/06/03(月) 01:25:05.43
>>283
> それは史学会の異説だよw

それはないw
どこの史学会で異説に成ってるんだよ?異説だっていう研究者行ってみろw
290日本@名無史さん:2013/06/03(月) 11:16:15.59
>>286
基壇含めた値と書いたはずだけど?
後、裏手に移すというのは一次史料に明示されている
馬塚が庶民が建てた云云は、後世の史料にしか見えない

>>288
舜旧記のは神領がいくらあるかの書立の提出を求められただけなのだが
291日本@名無史さん:2013/06/03(月) 11:59:30.32
>>289
主要な学者の本や一次史料では二条城は対等対面
秀頼は大坂の役の直前になっても家康に臣従の書を提出せず

秀頼が家康に臣従の書を提出した、
秀頼は家康の家来だったと言っている学者の名前を挙げてもらおうか?
あと秀頼が家康の家来になった、臣従の血判書を家康に提出した
と書いてある一次史料の提示ね。
292日本@名無史さん:2013/06/03(月) 12:00:18.00
>>289
主要な学者の本や一次史料では二条城は対等対面
秀頼は大坂の役の直前になっても家康に臣従の書を提出せず

秀頼が家康に臣従の書を提出した、
秀頼は家康の家来だったと言っている学者の名前を挙げてもらおうか?
あと秀頼が家康の家来になった、臣従の血判書を家康に提出した
と書いてある一次史料の提示ね。
293日本@名無史さん:2013/06/03(月) 12:47:47.91
>>291
>>292
殆どの研究者は秀頼は臣従したという説をとってるのしらんのか?
代表的な所では本多隆成とか藤田達生あたりの書籍読めばすぐ出てくるぞ?
つーか戦国時代の慣例知らんな、お前w


お前のは10年以上前の古臭い説なんだが、
で、それを未だに唱えてる研究者の名前を出せよさあ早く。すぐ出てくるんだろ?
294日本@名無史さん:2013/06/03(月) 23:28:09.98
>>293
おいおい、引用もなしに都合のいいこと言ってくれてそうな学者の名前を
ウィキから盗んだだけかよw
本多隆成も藤田達生も秀頼が家康に「臣従した」なんて説を書いてない。
お前、両者の論文も著書も一切読んでないだろ。
両者がどういうこと言っているのか、よく読んでみろ。
馬鹿。
295日本@名無史さん:2013/06/04(火) 00:00:50.29
当時は、代が代わるごとに「臣従します」って誓紙か何かで公にしなければならなかったんですか?
296日本@名無史さん:2013/06/04(火) 00:07:00.29
>>294
横からですが、少なくとも本多先生に関しては
秀頼の二条城訪問を「臣従化以外の何物でもない」と著書の定本徳川家康で言っておられますが。
私の読み込みが甘かったとしたら申し訳ありません。
297日本@名無史さん:2013/06/04(火) 00:58:15.03
秀頼のこと、お願い申し候
はいわかりました サイン

これで臣従じゃないのか
298日本@名無史さん:2013/06/04(火) 05:10:15.35
そりゃ秀吉の遺言じゃねーか
299日本@名無史さん:2013/06/04(火) 06:11:29.83
>>294
いやいや、お前その両者の著作を全く読んでないだろw
300日本@名無史さん:2013/06/04(火) 09:16:38.49
形はどうあれ世間の人はあのタイミングで大阪城に引篭もっていた
秀頼が二条城にわざわざ家康に会いに行ったんだから臣従したと
見たんじゃないかな?
301日本@名無史さん:2013/06/04(火) 10:30:14.79
秀頼の立ち位置も微妙なんだよな。

高位の公家なのに、家康と対面する為に上洛して
天皇の譲位はスルーとか一体どうなってるんだか
302日本@名無史さん:2013/06/09(日) 19:16:30.94
当時の臣従儀礼は盃交わしが基本作法だから血判状とか書類の有無云々は無いだろう
303日本@名無史さん:2013/06/10(月) 10:44:15.09
>>300
嫡母であるねねが同席するのでやむなく、だろ。
徳川家に都合の良い編集がされた徳川家の正史「徳川実紀」でさえ、二条城対面は、
家康が、「私は孫の千姫が本当に可愛い。その夫である秀頼殿のことも同様に可愛いと思っている。
それなのに淀殿が私に心の隔てをし、私と秀頼殿を会わせないでいるというのは大変心苦しい。
祖父のところへ遊びに来るような感覚で二条城へ遊びに来ないか」と言ったことになっており、
二条城対面で秀頼を臣従させたとはどこにもない書いてない。
>>302
普通は臣従の血判状を交わすよ
家康が秀吉に臣従したときには上段の秀吉に頭を下げたし
304日本@名無史さん:2013/06/10(月) 10:49:26.01
どこの異世界の話だよw
305日本@名無史さん:2013/06/10(月) 11:14:53.71
頭を下げたと血判状とは繋がりが見えないが
306日本@名無史さん:2013/06/10(月) 11:17:27.79
>>303
あの対面が全くの私の対面だとは考え難いな
もしそうだったら何度も交流があってもいいし、家康が大阪に
行く事だってあった筈
307日本@名無史さん:2013/06/10(月) 11:24:59.78
吉川の智謀と
小早川の武働き

両川は見事に天下取りに貢献した
徳川に
308日本@名無史さん:2013/06/10(月) 11:25:21.64
つーかよくまあそんな本音と建前を本気にしてるな
公式の場に呼びつけてる時点でそれ以外の話にきまってるだろ
会席をただのお食事会だとでも思ってんのか
309日本@名無史さん:2013/06/10(月) 11:46:04.67
極道と同じで正式な場に呼び出されて当主自ら挨拶に出向く
これで立場は決まったと同然。だから普通は家臣が代理で書簡を持って出向く
友人として会いたいのなら非公式での物美優山や茶会が基本
310日本@名無史さん:2013/06/10(月) 18:55:34.04
当主自らが他者の城に呼びつけられてノコノコ出向くのは、当時の常識では臣従以外の何物でもない。
家康が大阪城に行くことが秀吉への臣従を意味したのと、全く一所。
311日本@名無史さん:2013/06/10(月) 19:00:33.58
『臣従しました』を意味する本人署名の一次資料がない限り臣従したとは認められない
歴史上の上下関係をすべて一から見直すべき
312日本@名無史さん:2013/06/10(月) 20:55:58.36
異世界の常識を連呼されてもなぁ
313日本@名無史さん:2013/06/10(月) 21:18:03.73
>>303
家康は豊臣家の城である伏見城に参城していたのだから
相手の城へ呼び出されていくのが臣従なら家康は常に豊臣に臣従している

>>310
家康の場合。大坂城で上段に座る秀吉に対し下段に座り諸大名の目前で平伏した
更に秀吉の陣羽織を所望し私が家臣となったからには今後
殿下(秀吉)が合戦の指揮を執るようなことは申せませんと誓った
314日本@名無史さん:2013/06/10(月) 22:21:39.56
>>313
二条城は徳川の城ですが?頭大丈夫かお前
315日本@名無史さん:2013/06/11(火) 08:35:58.74
じゃあ、家康が大坂城に出向いたら、
大坂方は素直に入れたと思うか?
316日本@名無史さん:2013/06/11(火) 08:58:18.47
もう無茶苦茶だなw
317日本@名無史さん:2013/06/11(火) 09:52:34.91
>>314
伏見城は豊臣の城ですが?
秀吉が建造・太閤になってから住み、没したお城で
家康は秀吉死後も豊臣家の城・伏見城に参城していたんです。
どこに二条城の話が書いてあるの?
頭おかしすぎるだろw
318日本@名無史さん:2013/06/11(火) 09:54:25.19
>>315
大坂方は受け入れただろうね。
実際、関ヶ原までは家康は頻繁に大坂城に来ている。
征夷大将軍になったあたりから家康は大坂城へ出向くと
暗殺されるのではないかという恐れのために
行かなくなったと思われる。
319日本@名無史さん:2013/06/11(火) 10:14:44.00
>>317
関ヶ原後に家康の命令で再建された時点で家康の城だよ
320日本@名無史さん:2013/06/11(火) 10:14:54.99
家康が大阪城にいた頃は豊臣政権の五大老筆頭として
いたわけで、征夷大将軍になり政権を掌握したらわざわざ
大阪に行くこともなく、用があれば呼びつける立場になった
321日本@名無史さん:2013/06/11(火) 11:47:47.46
>>319
伏見城はあくまでも豊臣の城
家康の留守居役がいたことで関ヶ原で攻められ焼失したが
まだまだ利用価値があったために家康が豊臣家伏見城を踏襲した上で
修理再建した

大坂の役で豊臣宗家を滅ぼした徳川家にもはや豊臣の城は必要なく
伏見城は大坂の役後破壊されている
322日本@名無史さん:2013/06/11(火) 11:55:22.78
家康が再建して家康と家康の兵がいる豊臣の城ねぇ・・・
323日本@名無史さん:2013/06/11(火) 11:57:06.30
>>321
天守台の位置も変わっているし、徳川の城だよ
そもそも豊臣家臣のいない城を豊臣の城としたら、鬼も笑う
324日本@名無史さん:2013/06/11(火) 12:42:23.85
家康は豊臣の家臣じゃん
325日本@名無史さん:2013/06/11(火) 12:47:13.31
いつの話をしているのやらw
征夷大将軍就任以後もそんなことを信じているのは、淀殿だけ
326日本@名無史さん:2013/06/11(火) 16:03:55.46
あのなあ建てたのが誰とかじゃなく伏見、二条城は幕府直轄地だ。
つーか豊臣秀頼の所領は摂津河内和泉で山城は入ってない
327日本@名無史さん:2013/06/11(火) 20:57:59.25
1602年くらいに、
加藤、福島、黒田あたりが大坂城に結集してれば、
すごいことになりそう。
毛利のテルさんも来るだろ。
歴史難民板じゃないか、失敬。
328日本@名無史さん:2013/06/12(水) 14:35:46.32
テス
329日本@名無史さん:2013/06/13(木) 01:43:45.90
大坂西の丸にも天守がある西の丸城は家康の城?
330日本@名無史さん:2013/06/13(木) 07:32:56.29
一種の城代だバカ
331日本@名無史さん:2013/06/13(木) 10:18:15.86
もし関ヶ原合戦の時に秀頼公が戦場に姿を見せていたらどう成っていたかな?
332日本@名無史さん:2013/06/13(木) 10:24:24.02
ageてまで振る話題かw
散々言い尽くされている
333日本@名無史さん:2013/06/13(木) 10:44:11.58
家康が大坂に伏見から移動した際にあったとされる、家康暗殺計画
当時の史料には一切無く、あるのは淀殿と大野治長が密通したとか、そういうのばかりなんだが
334日本@名無史さん:2013/06/13(木) 11:05:54.28
かまってちゃんはどうして同じコピペしかできないのか
335日本@名無史さん:2013/06/13(木) 16:20:47.08
家康に手を出せない秀吉のヘタレさが豊臣家を滅ぼした
336日本@名無史さん:2013/06/13(木) 19:45:08.04
>>264
結果論だが、
関ヶ原で秀忠軍が到着してた方が
豊臣家にとっては良かったな。
337日本@名無史さん:2013/06/14(金) 09:58:08.00
>>336
ということは豊臣を滅ぼした遠因は真田だなw
338日本@名無史さん:2013/06/14(金) 10:12:33.10
秀吉が死んで、摂家を中心に公家は喜んだろうな
それを取りこんだ家康
339日本@名無史さん:2013/06/14(金) 11:15:13.40
>>335
小牧長久手で出したじゃん
340日本@名無史さん:2013/06/14(金) 11:54:38.13
>>338
秀吉が死んで得した公家と言えば山科言経だろうな
341日本@名無史さん:2013/06/14(金) 13:14:15.07
>>339
軍事政権なんだから、軍事的に叩きのめさないとダメ
戦で家康に勝てない秀吉という結果が残ってしまった
342日本@名無史さん:2013/06/14(金) 13:14:32.13
>>339
出した結果家康はおろか信雄に135000の大軍で一万人ぶち殺され蟹江前田下市場二重堀
東駒野松ノ木浜田戸木と負け続けて会戦当初から寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら切り取れず
本願寺顕如に必至に取り成しを懇願してやっとこさ和議こぎつけたんだが。
11/10の秀吉書状読むと大阪に納馬するつもりだったのが、信雄がたまたま和議に応じたので終戦になったと言ってるし
翌年には家康討伐計画を着々と進めるが、木曽・小笠原・石川・水野・真田と離反が相次ぎ家康方は譜代の離反により軍事機密が露見し
また天正11年からの徳政連発で領国崩壊状態だったが、秀吉はいざとなったらビビリまくって討伐をやめて母と妹を人質に送ってたし
343日本@名無史さん:2013/06/14(金) 13:49:37.02
小牧長久手をみて秀吉は軍事力ではなくて政治力で家康の
力を削ごうとしたんだけど、政治力でも家康は秀吉に負けて
なかったんだよな
344日本@名無史さん:2013/06/14(金) 13:54:39.08
スレタイに沿って、秀吉死後の話題にしませう
345日本@名無史さん:2013/06/14(金) 17:14:32.13
>>336
明らかな差が付いていれば、
家康も豊臣家を滅ぼさず、
豊臣家も逆らわなかった可能性が高い
346日本@名無史さん:2013/06/14(金) 17:36:06.98
>>345
秀忠が将軍に任官した辺りでさえ、差は明らかだったから
豊臣家に時勢を見る目が無かっただけだろう。
347日本@名無史さん:2013/06/14(金) 17:47:19.32
大坂の陣へ至る豊臣家と昭和初期の日本は同レベルの無能ぶり
348日本@名無史さん:2013/06/14(金) 21:25:34.40
徳川にとって、どういう形で関ヶ原を戦うのがベストだったの?
349日本@名無史さん:2013/06/14(金) 21:35:15.22
もともと徳川が仕掛けた戦じゃないし、史実通りでベストだったかと。
350日本@名無史さん:2013/06/14(金) 21:55:47.65
>>349
でも秀忠が遅れて大損害だったじゃん。
351日本@名無史さん:2013/06/14(金) 22:46:58.98
>>346
秀吉に従い、家康に従った、織田信雄当たりを評価してんの?
家康に従わずに戦って散るも自由だと思うが
なんでさっさと家康に臣下の礼を取って母を家康に人質として差し出し
零細大名として徳川監視のもと軟禁生活送りながら細々と生き残れ、
これ以外は駄目という意見なの?
352日本@名無史さん:2013/06/14(金) 23:11:03.69
秀忠が到着していたら、
徳川家が天皇を任命するスタイルになっていた可能性もあるね。
353日本@名無史さん:2013/06/14(金) 23:35:36.12
>>350
秀忠の遅参は何の影響もなかった。
354日本@名無史さん:2013/06/14(金) 23:37:45.82
>>353
領土配分はもちろんだけど、
秀忠の威信にも影響するだろうと思う。
355日本@名無史さん:2013/06/15(土) 02:31:23.00
家康も三法師も幼くして父親を失った
家康の場合、家臣が懸命に支えたが、三法師の家臣は領地を自分たちで山分けにしてしまった
その身勝手で忠誠心のかけらもない家臣の1人が秀吉だから結果は自業自得
356日本@名無史さん:2013/06/15(土) 05:28:56.26
>>354
連絡の遅れなどが当たり前の時代で急な予定変更に
ついていけなかったくらいで威信など落ちないよ。

当時の史料で秀忠うんぬんとか一切無いしね。

領土配分が豊臣大名に厚かったと言うのは計算ミス。

没収を検地前で計算して、没収後を検地後でやってるから
出目の分だけおかしな話になってる。
357日本@名無史さん:2013/06/15(土) 06:18:50.02
秀頼も毛利も大坂にいるなら大坂で合戦するのは有り得なかった?
358日本@名無史さん:2013/06/15(土) 07:13:17.63
>>357
関ヶ原の後のことか?そもそもあの段階で淀殿は親家康の態度をとっていたし、毛利は全く一枚岩ではない上、
構造的にもゆるい体制で、中国地方の本土が攻められれば崩壊するしか無い。

自殺願望者以外あの時点の大阪籠城はありえないわな
359日本@名無史さん:2013/06/15(土) 08:06:29.36
大坂籠城は戦力不足でどうにもならないだろう
360日本@名無史さん:2013/06/15(土) 09:20:18.51
>>356
でも没収領地のほとんどを
福島たちに配分した
361日本@名無史さん:2013/06/15(土) 09:51:56.77
>>360
一番増えてるのは徳川領だぞ?
362日本@名無史さん:2013/06/15(土) 09:57:24.91
>>360
モノを数えられるようになってから出直した方が良いレベル
363日本@名無史さん:2013/06/15(土) 10:34:45.46
関ヶ原じゃなく、大坂で合戦の意味です
364日本@名無史さん:2013/06/15(土) 13:10:37.91
>>363
都を放棄してる時点で論外かと
365日本@名無史さん:2013/06/15(土) 14:27:52.25
>>361
西国の領地のほとんどは豊臣家臣に分配したじゃん
366日本@名無史さん:2013/06/15(土) 14:31:50.90
>>365
では彼らが移動する前の土地は誰のものになった?
367日本@名無史さん:2013/06/15(土) 14:48:13.00
関ヶ原に徳川軍はほとんどたどり着けなかったから、
福島たちの力で戦う
→福島たちが西国の領地を獲得

だったけか。
368日本@名無史さん:2013/06/15(土) 14:51:12.54
無い無い。

実際、関ヶ原後の公儀には諸大名は含まれず
徳川の独力で成立してる時点でそれは無い。
369日本@名無史さん:2013/06/15(土) 15:53:49.76
そもそも最も大事な畿内の中央部でさえ、京を押さえ近江に井伊を置くなど、ほぼ徳川によって掌握されている。
370日本@名無史さん:2013/06/15(土) 19:49:29.39
慶長8年の正月までは家康は秀頼への年賀の挨拶のために
大坂城に参上しているからな
371日本@名無史さん:2013/06/15(土) 20:23:52.23
関ヶ原以後は公儀そのものを家康に掌握されちまったし、秀頼の権威も
段々落ちていくからなぁ

慶長10年には勅使の訪問順が大坂城より京都所司代を先にするようになり。
慶長12年には秀頼が右大臣を辞任、駿府城の普請役も掛けられた。
慶長13年以降は賀使を駿府に送るようになった。
372日本@名無史さん:2013/06/15(土) 20:50:36.75
>>367
あと、結果的にはどうでもいいことだが、
「徳川配下の兵士に野戦の実戦経験を積ませる機会を失った」はどうか?
373日本@名無史さん:2013/06/15(土) 20:51:17.79
家康が豊臣政権の大老でなくなった時期が分岐点かな
いつなのか知らないけど
374日本@名無史さん:2013/06/15(土) 20:55:19.23
>>368
もし福島らが全く脅威でないなら、
わざわざ豊臣を滅ぼす必要すらなくなるんじゃないの?
豊臣を滅ぼしたのは西国大名の神輿になる可能性が
375日本@名無史さん:2013/06/15(土) 20:56:36.72
家康は頼朝厨らしいから
清盛と同じてつは踏まない
376日本@名無史さん:2013/06/15(土) 21:02:31.29
>>374
そもそも家康は豊臣滅ぼそうなんてしてないじゃん。一旦講和までしたのにまた挑発戦闘行為初めて
もうしかたなく滅ぼしたようなもんだし。
377日本@名無史さん:2013/06/15(土) 21:04:58.36
>>374
大坂の陣を見れば判るが、豊臣家の価値は既に落ち切ってた
378日本@名無史さん:2013/06/15(土) 21:11:31.44
関ヶ原の1年後くらいに対馬の宋氏が朝鮮との講和交渉で出した書状に
「日本は徳川家に政権が変わった。大阪に秀吉の息子はいるが徳川に保護されている存在にすぎない」ってはっきり書いてるな。
379日本@名無史さん:2013/06/15(土) 21:22:31.37
秀頼の母親が淀じゃなく松なら豊臣は残ったかな
380日本@名無史さん:2013/06/15(土) 21:28:00.26
宗の場合、そうでも言わないと貿易再開の目も無いから
少し割り引いた方が良いかも
381日本@名無史さん:2013/06/15(土) 21:35:33.19
>374
前田が覇権争いから下りた様に
豊臣が御輿にならない様徳川に臣従するのを内外にアピールすれば滅ぼされるまではいかなかっただろうね
382日本@名無史さん:2013/06/15(土) 21:36:08.38
淀殿が意地張ったんで豊臣家は滅んだ

もはや豊臣の世ではないことを認めて、徳川に折れるべきだった
大阪城を退去して、どこかの地方大名として生き残る道もあったはず

浪人をいくら集めても結局、大阪城は守れなかったのだから
383日本@名無史さん:2013/06/15(土) 22:22:26.34
いやー大阪城は冬の陣で力攻めでは無理と証明されてる
十数年は持つぐらいの兵糧も有ったそうだし兵糧攻めも無理。
大砲で威嚇しか出来なかったが当時の大砲は本丸天守まで届かなかった。
たまたま何かの拍子で一発だけ当たり、たまたま淀姫の目の前に着弾、
それでビビって講和とか本来あり得ない偶然が重なっただけ
384日本@名無史さん:2013/06/15(土) 22:30:31.73
落ちぬなら
落ちるまで待とう
大坂城

老獪な家康のことだから、豊臣方が折れてくるまで何年でも包囲し続けると思う
385日本@名無史さん:2013/06/15(土) 22:35:04.02
家康は自分の体調を解ってたから、やるからには早期決着を望んでたでしょ
386日本@名無史さん:2013/06/15(土) 22:46:44.45
>>383
冬の陣はともかく、夏の陣で外掘を埋められた大坂城に篭城するのは無意味
城内も有力大名は既になく、カネで寄せ集めた烏合の衆の浪人ばかり
豊臣家を存続したいなら、この時点で徳川方の要求通り大坂城を退去すべきだった
387日本@名無史さん:2013/06/15(土) 22:52:45.43
つか冬の陣も兵糧から弾薬まで枯渇し始めててとても戦闘継続できないから殆ど降伏同然の和睦結んだんだが>大阪方
388日本@名無史さん:2013/06/15(土) 23:03:30.76
そもそも篭城側と攻城側、篭城側が勝った戦などあるのだろうか
389日本@名無史さん:2013/06/15(土) 23:15:52.63
援軍が来ない籠城戦で勝った例はないと思う しかし攻め手が諦め退却は幾らでもある
390日本@名無史さん:2013/06/15(土) 23:24:04.51
冬の陣は攻め手が野宿同然だったため冬の寒さで撤退寸前 特に高齢の家康が風邪を引いてる
391日本@名無史さん:2013/06/15(土) 23:30:54.75
もし家康が病気で死んだら、徳川方は撤退したのか
392日本@名無史さん:2013/06/15(土) 23:31:01.83
(´・∀・`)ヘー
393日本@名無史さん:2013/06/16(日) 00:05:06.29
実は、大坂夏の陣で徳川家康は真田幸村の突撃で討ち取られ、翌年の「死去」まで影武者が代役を務めたと言う異説もある
394日本@名無史さん:2013/06/16(日) 00:26:14.75
>>388
秀忠vs真田
395日本@名無史さん:2013/06/16(日) 00:53:40.88
真田丸の戦いね
そういえば、楠木正成も篭城戦で勝利したことあるわ
幸村や正成のような戦上手だと篭城しても勝てるんだね
396日本@名無史さん:2013/06/16(日) 01:32:13.95
勝ってねえよ
397日本@名無史さん:2013/06/16(日) 01:36:56.65
変態
398日本@名無史さん:2013/06/16(日) 06:33:13.75
>>388
攻城に失敗して大崩れするのは戦国の定番なんだが
399日本@名無史さん:2013/06/16(日) 12:11:22.07
城は当たり前の話だが守備側圧倒的有利 そのために造られてるのだから
故に攻城側は籠城側の三倍は必要とされていた
但し出入り口は攻城側が抑えてるので城から打って出るは厳しい
どの基準で勝ちとするかによる攻城側撤退を負けとするか引き分けとするか
400日本@名無史さん:2013/06/16(日) 12:39:09.74
攻城に失敗して大崩とかそんな戦闘そうそうないだろ
攻城側は不利だと思ったら攻めなきゃいいだけだし逆に守備側はほっといても領土が蹂躙されて物資補給も追いつかなくなるし
援軍なしの篭城は基本負けるしかない。攻め手が攻略を諦めた例なら結構あるにはあるが
401日本@名無史さん:2013/06/16(日) 13:38:31.69
人は城、人は石垣、人は堀
402日本@名無史さん:2013/06/16(日) 15:16:33.92
そして非常食
403日本@名無史さん:2013/06/16(日) 16:08:27.96
>>400
メジャーなのだけでも結構多いぞ。
稲葉山城、吉田郡山城、月山富田城、戸石崩れ、木崎原合戦etc
404日本@名無史さん:2013/06/16(日) 17:09:51.18
>>383
ところが現実には10万人に及ぶ兵の籠城で、大坂方は補給にかなり苦労していたらしく、
徳川方に合力を求めている。さすがに家康は断ったらしいが。落城は必然と見ていい。

家康は冬の陣の初期から城方と和平交渉を行っていて、淀殿が諸大名の離反がないのを見てそれに応じた。
それだけの話。
405日本@名無史さん:2013/06/16(日) 17:20:42.43
あのまま続けていても年内には、坑道戦術で惣構は破壊されていただろうな
406日本@名無史さん:2013/06/16(日) 17:48:25.86
>>403
そんなん日本全国にある攻城戦の数から考えたらほんのごく一部だろ
日本全国に数千くらい城が存在するだろうし。
たまたまそういう合戦が珍しいから有名になっただけで、確率的にいえば全く多いとはいえない
後木崎原の合戦って一次資料での存在が非常に疑わしい戦なんだが。
407日本@名無史さん:2013/06/16(日) 18:09:22.15
稲葉山城攻防で大崩の戦っていつの事だっけ?
408日本@名無史さん:2013/06/16(日) 18:12:36.96
具体的に書かれると一瞬で発狂w
少しは成長しろよ
409日本@名無史さん:2013/06/16(日) 18:22:57.90
籠城=城を枕に一族郎党討死のイメージあるからな
410日本@名無史さん:2013/06/16(日) 19:13:50.09
そもそも寄せてには無理な会戦はせず、十分戦力を整えてから攻め込む事が可能だが
篭城側はそれがなく、戦闘放棄したら領土おわれて滅亡するだけ
実際>>403に挙げられてる城崩れの例は日本全国の城攻めからみればほんの一部にすぎずむしろ一日で数城落としまくってる例のが普通にごろごろ存在する
411日本@名無史さん:2013/06/16(日) 19:15:23.73
そりゃ大坂城のイメージが強すぎるのかもな
412日本@名無史さん:2013/06/16(日) 19:31:36.92
大城郭に大軍が籠城の場合は長期戦のパターンが多い
413日本@名無史さん:2013/06/16(日) 19:48:06.77
大軍の籠城は外部からの補給が無いと短期で終わっちゃうけど
414日本@名無史さん:2013/06/16(日) 20:04:53.89
籠城中はうんこしないお
415日本@名無史さん:2013/06/16(日) 21:55:47.07
>>407
織田信秀が道三相手に
信長時代にも何度か斉藤竜興に負けて
416日本@名無史さん:2013/06/16(日) 22:45:15.64
堅城として知られてた筈がやたらと落城しちゃうのが 岐阜城(前身含む)
417日本@名無史さん:2013/06/16(日) 22:59:40.60
>>415
信秀時代のは斉藤側の奇襲で攻略失敗はしてるがその後大垣攻略成功するなど大打撃は受けていないはず。
信長時代のは別の城で行われた攻防のはずだし、稲葉山で攻城崩れの攻防なんてなかったと記憶してるが
418日本@名無史さん:2013/06/16(日) 23:59:06.48
信秀時代の戦いは2度あって
一回目が木曽川周辺で敗退
2回目が稲葉山まで攻め込んで撤退途中で大垣周辺で敗退だったと記憶してる。

403が言ってるのは多分2回目のことかな?
419日本@名無史さん:2013/06/17(月) 01:42:59.88
まぁ濃尾の豪族争い規模での話だからな、岐阜は
420日本@名無史さん:2013/06/17(月) 08:20:47.72
ここはお前らが知ってることをなんでもいいから書けばいいスレじゃねえだろ
421日本@名無史さん:2013/06/17(月) 08:35:52.10
そもそも大坂の陣で豊臣方の勝利ってどんな条件?
今までどおり大坂城にいるのを許されるくらいかね?
どうなっても徳川幕府体制の一大名でしかないような
422日本@名無史さん:2013/06/17(月) 08:59:48.58
大坂城に留まるのは滅亡フラグそのものに見える

喜連川家的なポジションを確保するか、毛利のようにある程度の
領知を保証する家康の起請文を確保するかだな。
423日本@名無史さん:2013/06/17(月) 10:46:13.85
>>421
すくなくとも秀頼・淀殿存命中は
・太閤殿下の遺言通り秀頼は大坂城に住む
・太閤殿下と秀頼に臣従の血判書を提出した家康は約束を守る
・淀殿と秀忠正室江は実の姉妹であり、かつ、江は豊臣家の養女として豊臣姓を名乗っている
家康が死んで秀忠の世になれば江は正室としてかなりの権限を持つので
自分の実家である豊臣家や姉と甥を無下にするとは思えない
ということだったような。
424日本@名無史さん:2013/06/17(月) 13:04:21.64
かなりの権限って何?
425日本@名無史さん:2013/06/17(月) 14:18:34.62
江の名前を出しちゃうところがドラマ脳
426日本@名無史さん:2013/06/17(月) 18:23:55.14
昭和44年7月、東京・練馬区の選挙投票所(第4投票所=豊玉第2小)において投票立会人四人に集団暴行を加えて流血させた事件が起きましたが、その暴行事件を創価学会関係者が起こしたかのようなデマがネット上に拡散していますが・・・・

世界平和を希求し、人類の幸福を願う創価学会員がそんな事をするわけないでしょ?

ガンジーやキング牧師と肩を並べる池田大作先生の弟子達がそんな暴力行為をするわけないでしょ?

賢明な皆様は決してネット上のデマに騙されないでくださいね。
427日本@名無史さん:2013/06/17(月) 18:31:13.85
関ヶ原合戦は家康を大坂城で暗殺してからだろ
428日本@名無史さん:2013/06/17(月) 19:16:40.24
日本語でおk
429日本@名無史さん:2013/06/18(火) 12:29:22.61
日本史上の主な籠城戦
1333年(約3ヶ月) 千早城(守備側:楠木正成、攻撃側:鎌倉幕府側諸勢、守備側の勝利)
1541年(約5ヶ月) 吉田郡山城(守備側:毛利元就、攻撃側:尼子詮久、守備側の勝利)、吉田郡山城の戦い
1561年(約1ヶ月) 小田原城(守備側:北条氏政、攻撃側:上杉謙信、守備側の勝利)
1597年〜1598年(短期間) 蔚山倭城(守備側:加藤清正、攻撃側:明・朝鮮軍、守備側の勝利)、蔚山城の戦い
1877年(約2ヶ月) 熊本城(西南戦争)(守備側:政府軍、攻撃側:西郷軍、守備側の勝利) 

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%B1%A0%E5%9F%8E&direction=next&oldid=37433534
430日本@名無史さん:2013/06/18(火) 12:42:31.07
>>429
そんなもん戦史上の城攻め全体でいえばほんのごく一部にすぎないし(日本全国には何千と城がある)西南戦争のは武器性能も違うだろうし
他の戦争でも一部は攻撃側が大損害負ったのもあっても大体は大崩とかにはなってなく
普通に諦めて退却しただけ。
謙信の小田原攻めなんか、ただ武田が北信濃の諸城攻略で本土が危なくなったから退却しただけで単独で撃退したともいえないし
431日本@名無史さん:2013/06/18(火) 12:58:46.65
>>403が挙げてる篭城戦も
だいたい攻めてが攻略あきらめて撤退途中に城側と援軍の挟撃での敗退だな

援軍の当てがない篭城戦で
篭城側が勝ったの例はマレ
432日本@名無史さん:2013/06/18(火) 13:24:33.25
で、いつまでスレタイと無関係な話題を続けるんだ?
433日本@名無史さん:2013/06/18(火) 16:08:24.91
>>417-418
正しくは大垣城攻略して
そこを拠点にして稲葉山攻めての大崩だ。
434日本@名無史さん:2013/06/19(水) 00:18:49.99
攻め手が諦めて退却することを
籠城側の勝利という。
435日本@名無史さん:2013/06/19(水) 08:21:52.87
バカしかいないのか?
436日本@名無史さん:2013/06/19(水) 13:22:09.46
なぜ「かまってください」と正直に書けないのか
437日本@名無史さん:2013/06/19(水) 15:15:33.81
自己紹介乙w
438日本@名無史さん:2013/06/19(水) 18:40:15.67
関ヶ原の戦いはイングランド征服のパロディ

http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0203/39/266_1.html

当日は満月だった。

( http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/01/6/79.html )
439日本@名無史さん:2013/06/22(土) 16:12:11.08
豊臣家が存続するには秀吉が生きている間に
徳川家をイチャモンつけて潰すしかなかったな。
それにプラスして秀吉は秀頼様が成人するまで長生きして
スムーズに権力を移行するしかなかった。
440日本@名無史さん:2013/06/22(土) 17:07:02.57
慶長12年、秀頼15のときに秀吉71
慶長17年、秀頼20のときに秀吉76
慶長20年、秀頼23のときに秀吉79

慶長3年時点での体調を鑑みると寝たきり老人じゃね?
441日本@名無史さん:2013/06/22(土) 17:25:44.00
豊臣秀吉の天下統一の過程で渋々豊臣家に服属したに過ぎなかった松平(徳川)家康に、二百何十万石も与えた時点で天下をくれてやったようなもの
442日本@名無史さん:2013/06/22(土) 18:35:23.88
渋々服属というなら統一過程で屈服させた大名はみんなそうだろ
443日本@名無史さん:2013/06/22(土) 18:42:44.97
やっぱり若いうちに子供が出来ないと
権力があっても、逆に恨みを買ってしまうから
2代目はひどい目に遭うのは宿命だ。
444日本@名無史さん:2013/06/22(土) 19:02:21.03
幼君でどうなるかは家臣団次第だな
445日本@名無史さん:2013/06/22(土) 19:11:02.75
十河河野上杉毛利宇喜多佐竹宇都宮結城那須大友木曽小笠原真田石川あたりはしぶしぶ従ったというより
自分の敵対勢力との対立から、自分の敵の敵(=味方)である豊臣に進んで臣従したような感じだけどな
446日本@名無史さん:2013/06/22(土) 19:15:56.99
毛利は秀吉の脅迫に屈しただけだな。賤ヶ岳の後に隆景に送られたアレ。
447日本@名無史さん:2013/06/22(土) 21:51:48.97
豊臣一族の豊臣秀長や、秀吉子飼いの加藤清正、福島正則にこそ大封与えるべきだったのに、豊臣とは縁もゆかりもない三河の一大名・徳川家康に関東八ヶ国二百万石以上も与えるのがおかしい

野心があれば豊臣家を脅かす存在になるのに(実際そうなった)
448日本@名無史さん:2013/06/22(土) 21:58:15.26
秀長は小田原の頃には重病で病臥してたし。その後あっさり死んでるじゃないか
449日本@名無史さん:2013/06/22(土) 22:36:05.60
豊臣家は一発屋
450日本@名無史さん:2013/06/22(土) 22:48:50.00
どこのどいつか分からん奴が天下取るなんて、歴史を知ってる奴がタイムスリップしたとしか思えん
451日本@名無史さん:2013/06/22(土) 22:58:05.93
>>447
>豊臣とは縁もゆかりもない三河の一大名・徳川家康に関東八ヶ国二百万石以上も与えるのがおかしい

秀吉の妹婿なんだが…
452日本@名無史さん:2013/06/22(土) 23:05:43.22
妹婿っつったって所詮は外様中の外様。
元々自分の部下でもなく関係性が非常に希薄な人間に妹やったり人質とったりしても急に関係が埋まるわけでもない
尾張一国時代の頃からのたくさんいる子飼い連中や長浜衆とか秀吉叩き上げ系か
秀次系列か秀長か秀勝系列の人間に大封やりゃよかっただけ
453日本@名無史さん:2013/06/22(土) 23:07:31.44
毛利は自分から進んで秀吉に従ったんだろ
本能寺の変の時とかみりゃ端から戦意なしだし小牧長久手では秀吉方で援軍まで送ってるし
454日本@名無史さん:2013/06/22(土) 23:19:46.68
確かに家康に240万石やるくらいなら毛利とか宇喜多とかのがまだ信頼できそうだ。
執拗に取り成しを繰り返しても中々従わなかった家康と違って毛利なんて本能寺後早々から秀吉の犬になって
銀山の利権なり備中での領土折衝など譲歩しまくってる程だし
一応家康の暴挙に対して総大将として積極的に決起を行ってるし
455日本@名無史さん:2013/06/22(土) 23:27:31.60
家康50万石・上杉史実通り120万石・毛利190〜220万石・福島50万石・加藤50万石
秀次300万石(勿論殺さない)秀家90万石秀秋40万石島津60万石伊達60万石蜂須賀60万石前野40万石
石田100万石、増田40万石、大谷70万石、小西60万石 長束70万石
このくらいのバランスなら絶対豊臣家は安泰だなw
一つの大名家や派閥に異常に国力を偏らせたからあっさり豊臣体制は崩壊した。
456日本@名無史さん:2013/06/22(土) 23:29:28.77
信長・秀吉って気前に領地あたえたり甘甘の統治だな。
言うほど中央政権下してない
457日本@名無史さん:2013/06/23(日) 00:29:06.62
毛利は自前検地でかなり甘く見積もってるから、実際には200万石越えてたと言われてる
458日本@名無史さん:2013/06/23(日) 00:32:15.66
逆に家康の方は表高250万石なのに、入国した当初は秀吉の小田原征伐による荒廃で、80万石ほどしか収入がなかったそうな。
そこから盛り返したのは家康の実力だな
459日本@名無史さん:2013/06/23(日) 01:34:14.07
秀吉は軍人としては優れてたけど、政治家としては無能に近い
460日本@名無史さん:2013/06/23(日) 01:49:50.92
無能ではないな、
軍人としても政治家としても家康のほうが上まってただけのこと
461日本@名無史さん:2013/06/23(日) 01:55:30.27
秀次殺したり朝鮮攻めたり、秀吉が家を滅ぼしたようなもん
462日本@名無史さん:2013/06/23(日) 02:22:38.51
秀吉のときは人治国家
家康のときは法治国家もどき
463日本@名無史さん:2013/06/23(日) 04:33:19.33
秀吉はむしろ政治家としては有能だが軍人としては無能すぎる
雑魚毛利相手に防衛戦で3000人戦死の大敗、備前児島や美作でも敗北
アホ信雄相手に135000の大軍で短期決戦挑んで1万人戦死の大敗・蟹江浜田二重掘河波戸木長久保東駒野
前田下市場神戸など格城郭で敗北(特に二重掘合戦では信雄1000に奇襲くらって叩き出され、前田・下市場・蟹江
長久保・浜田など秀吉方本陣の眼前なのに奪回されたりしてる)
小田原合戦の時にも240000くらい規格外の兵力集めて北条34500相手に
小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない
464日本@名無史さん:2013/06/23(日) 04:35:38.98
秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし
465日本@名無史さん:2013/06/23(日) 04:38:07.61
信長や秀吉って自力で戦に勝ったことないもんなぁ

謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
466日本@名無史さん:2013/06/23(日) 04:42:05.55
天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてるよ
3/3柴田勝家書状・滝川一益事書
大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦
結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても
抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文)
467日本@名無史さん:2013/06/23(日) 04:46:01.53
毛利は上月を攻め落とし雑魚秀吉軍を蹴散らしたのに
安芸からの兵站の長さを理由に退却する雑魚っぷりを披露し
毛利つかえねぇwwwwとみた南条・宇喜多が離反し
毛利は数倍の国力がありながらこいつらに大苦戦。

その隙に織田方は兵糧切れの三木・同じく織田方に裏切ろうとした山名が米を売るなど物資貧困状態の鳥取などを火事場泥棒

この頃毛利は宇喜多に数倍の国力差がありながら加茂崩れ・辛川合戦で大敗するなど苦戦しまくり翻弄されまくり備前はおろか備中・美作でも劣勢だった

この窮地を救ったのが鳥取を火事場泥棒した秀吉が宇喜多方に歩調を合わせ参戦してきた事で
宇喜多は戦闘ゴミレベルの秀吉のせいで忍山・祝山攻防などで大敗し窮地に陥る
備中高松の時も、秀吉は宇喜多単体に翻弄されまくっていた毛利に対し「うわwwwこえぇwwww」と
膨大な金銭や人員や時間を犠牲にし雨が降らなければ失敗していたであろう水攻めという博打に打って出るが
気概0のヘタレ毛利にはこの策が功を挺し廻りが離反だらけで劣勢な中、単独で宇喜多・羽柴を撃退するなど功を上げていた清水宗治を見事に見捨て、高松は落城。
運がよかったな
468日本@名無史さん:2013/06/23(日) 04:50:50.89
日曜だし暇な人はかまってやるように
469日本@名無史さん:2013/06/23(日) 05:09:44.75
まあ本能寺の時とか秀吉は完全に棚ボタだっただけだけどな
毛利軍が秀吉の口から出任せ口述詐欺に見事ひっかかってあれだけの大チャンスに追撃もせず高松を明け渡して退却
普通に考えりゃ熊見川や美作攻防の2の舞で毛利に瞬殺されててもおかしくない状況だったし、秀吉に騙された毛利のアホさ加減と明智軍の兵力分散と
山崎での隘路での迎撃を捨てた恩恵にすぎない
そう考えると秀吉は圧倒的に運がよく、明智は不運だっただけ。何せ摂津の諸侯とか兄弟の契りしてる中川とか
信孝とか丹羽まで秀吉方に参戦して大軍に膨れ上がったのに対して明智は与力格がことごとく不参加、日和見だしな
470日本@名無史さん:2013/06/23(日) 05:13:32.78
秀吉なんて棚ボタと漁夫の利火事場ドロの連続で勢力広げただけだからな。結局本人の実力で勝ったわけじゃないから徳川に大敗して勝手に崩れて滅亡したんだろ
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
471日本@名無史さん:2013/06/23(日) 12:49:24.59
そりゃ秀吉前半生の活躍は竹中半兵衛の物ってぐらいだしな
472日本@名無史さん:2013/06/23(日) 14:23:22.43
秀吉前半生の活躍なんてほとんど講談だしな
473日本@名無史さん:2013/06/23(日) 19:02:43.74
秀吉は戦に自信がなかったのか
はたまた明を征服すれば問題ないと考えていたのかもしれんが
徳川の処置は明らかに失敗だったな
あの当時の状況を考えてもあまり擁護できん
豊臣政権の永続を目標とするならば徳川は潰すべきだった
おそらく秀吉の目標は海外進出だったから軽く考えていたのだろう

普通なら初代がそんな調子でも二代目、三代目がしっかり国内を固めるものだろうけど
豊臣政権にはきちんとした後継者がいなかったからねえ
474日本@名無史さん:2013/06/23(日) 19:21:49.23
確かに家康に240万石やるくらいなら毛利とか宇喜多とかのがまだ信頼できそうだ。
執拗に取り成しを繰り返しても中々従わなかった家康と違って毛利なんて本能寺後早々から秀吉の犬になって
銀山の利権なり備中での領土折衝など譲歩しまくってる程だし
一応家康の暴挙に対して総大将として積極的に決起を行ってるし
475日本@名無史さん:2013/06/23(日) 19:44:35.82
豊臣秀次の一件で、人心は豊臣家から離れた
476日本@名無史さん:2013/06/23(日) 20:09:53.13
>>472
ほとんどでは無いけどな
実話も少なくは無い
477日本@名無史さん:2013/06/23(日) 20:15:32.42
家康は頼朝を尊敬し足利を反面教師にして統治機構をつくった
秀吉は学がないから政権構想を描くこともできなかった
死ぬ直前になって秀頼をおねげーしますだと赤の他人に頼むことしかできなかった
しょせん百姓あがりだわ
478日本@名無史さん:2013/06/23(日) 20:20:49.33
>>476
墨俣一夜城→講談捏造
金ヶ崎→講談捏造
箕浦合戦→軍記捏造

ほとんど講談しかない。領土安堵状出したり奉行を請け負ってるのは何回か一次資料に見えるけど
479日本@名無史さん:2013/06/23(日) 23:13:24.65
>>473
どうなんだろうね
小牧長久手の時も佐竹や東国大名達に送った書状だと。
近々家康踏み潰すつもりだとか徳川への攻撃示唆して宣伝して手紙書いてたけど
単に軍事的に家康屈服できなかっただけか
あえてしなかったのか
480日本@名無史さん:2013/06/23(日) 23:14:39.53
真面目な問題として若いころの初等教育は重要だな
漢籍に触れていれば、明を征服できるなんて妄想は抱かなかっただろう
481日本@名無史さん:2013/06/24(月) 00:13:54.03
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
482日本@名無史さん:2013/06/24(月) 00:19:57.34
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
483日本@名無史さん:2013/06/24(月) 00:23:28.09
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。また秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字。その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と
美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる。また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した。また長久手合戦参加者の家記や家譜、
合戦記などでも同じ数字が用いられている
484日本@名無史さん:2013/06/24(月) 00:28:03.80
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。
485日本@名無史さん:2013/06/24(月) 00:31:46.47
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。その後も秀吉の決戦構想はは秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる。伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、 小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われるし、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている
486日本@名無史さん:2013/06/24(月) 00:37:30.86
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』 とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨 を報じてる。 北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被
仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた 渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。
その後も秀吉の決戦構想は は秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる
伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵 残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、 小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、 加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、 一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。 上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われる
し、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請されている
487日本@名無史さん:2013/06/24(月) 00:41:24.66
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、 小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。 家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。 中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込めそう
地図見ればわかるけど岩清水は小牧山より南に大きく向いた東。 外山、宇多津、田楽も南東部に位置していて秀吉方の二重堀よりも南部に位置していて秀吉方の拠点から小牧山を守る形には位置していない。
小幡城は竜泉寺の南西部にあたり比良はもっとずっと西で外山と宇多津の間
から南にしばらくいった位置にある。どちらも秀吉方拠点から小牧を攻める上では障害にならない。むしろ家康の方が竜泉寺〜楽田までの
秀吉方拠点の網をかぶっている形。 家康軍はおの辺で最も大きな庄内川を渡って小幡方面に移動してるついでに言うと楽田〜柏井、龍泉寺〜長久手ルートでも
五回は川越えしなきゃいけない。岩崎まで来るとまた川があるし秀吉方陣地も少なくなるからハイリスク。
小牧は東はともかく北側は川に守られてない。東も田中、二重堀から一つ川を挟むだけ。 南側は家康方拠点が並んでるが東側が秀吉が固めてるのは変わりない。
そもそも兵力差圧倒的なんだから西を迂回するやら南の拠点を落とすやら色々戦略の幅がある。龍泉寺までの間も秀吉の拠点が
築かれてるわけだし小幡、宇多津あたりを攻撃して連絡を断ち切る方がよほど
リスクが低そう。川については長久手方面への進軍した場合でも同じくある
小牧山や岩崎山は手薄にして(周辺が沼地なら家康も攻めずらい) 主力で竜泉寺やら小幡方向に進軍して小幡城を攻め同時に家康が来たら
迎撃に出られる態勢を整えればいい
488日本@名無史さん:2013/06/24(月) 01:50:28.91
>>480
モンゴルや清といった征服王潮でも三代ぐらいかけて漸く中原征服だから(清は李自成の乱で明が自滅という幸運に恵まれて)
秀吉一代ではどう考えても難しい
489日本@名無史さん:2013/06/24(月) 01:58:51.86
秀吉は織田の一門だから2代目だろ
490日本@名無史さん:2013/06/24(月) 02:02:10.53
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では 前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
だから初等教育がないって事はないな
教育は受けていたがあの結果だったというだけ。
491日本@名無史さん:2013/06/24(月) 02:06:14.70
フロイスは秀吉のついて面白い話を残していて
尾張時代の信長がいろんな家臣に買い物へ行かせるが、商人との交渉がうまくいかず
値段が高すぎたりすると買わずに帰ってくることもあった。
しかし秀吉だけはどんな買い物でもきっちり買ってきたので信長が大喜びしていたが、
実は秀吉は自分の手持ちの金も追加して買い物してきていたって話がある。
そういう交渉能力とかにはかなり恵まれてたんだろうね
だからこそ本能寺後の対毛利や旧織田系諸侯との折衝もトントン拍子にうまくいったんだろうけど
結局そういう能力依存で得た天下だから外様系大名の膨張や暗躍を止める事はできなかったんだろ
492日本@名無史さん:2013/06/24(月) 02:08:32.92
漢字もまともに書けなかったのにな
493日本@名無史さん:2013/06/24(月) 02:34:38.22
漢字書いてるよ
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる


木下秀吉判物写

三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田

…(以下略)
494日本@名無史さん:2013/06/24(月) 06:22:16.50
なんでだがをスルーできないのか
495日本@名無史さん:2013/06/24(月) 11:17:06.19
>>479
朝鮮出兵する軍事力があるなら
家康を滅ぼすことなど赤子の手をひねるようなもんだろ
どういうわけか秀吉は家康を気に入り、気にいるという程度のものじゃなく
たった一人の跡取り秀頼を実甥に託すのではなく外様の家康に託すほどに信頼した

家康が豊臣を滅ぼすことが分かっていれば
朝鮮出兵に向けた全兵力をもってして家康を攻め滅ぼしてただろ
496日本@名無史さん:2013/06/24(月) 12:57:48.93
朝鮮の役の時、肥前名護屋城で秀吉は利家、家康と仲良し三人組ように
毎日遊んでいたそうだ それも子供の遊びの様な事まで。
秀吉も家康は温和で人柄の好いと。多分秀吉の軍門に下って以降は従順に爪も見せなかったのだろ 家康はアマちゃんのお人好しでは無かった
497日本@名無史さん:2013/06/24(月) 18:06:02.20
というか敵対していた勢力でも有用なものは使う秀吉
毛利、上杉、徳川などは同じようなもので、北条も臣従してれば残っただろう
家康や景勝のように上洛して臣従しなかった島津や長宗我部も残しているし
特別に徳川にだけ疑心を抱くわけもない
秀頼の守役(秀頼を掌中にしてる)の利家が控えているかぎり
勝手気ままに振る舞える大老はいないハズだし
498日本@名無史さん:2013/06/24(月) 18:24:01.77
敵対勢力でも使うというより、そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
499日本@名無史さん:2013/06/24(月) 18:33:55.36
>>498
確かにそれはいえてるね。そういう中身のない傀儡的な政権だからこそ本人の死後あっさり崩壊したんだろうね
500日本@名無史さん:2013/06/24(月) 19:28:46.88
>>499
傀儡というか、秀吉は絶対的な権力をにぎっていて
秀吉が潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
性格的にしなかっただけで、家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら
間違いなく滅ぼされていただろう
小牧長久手の場合は秀吉vs信雄の戦いであって家康は只の助っ人(家康を倒すことが主目標ではない)
家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利をしたが、その後秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても
後詰めすら出来ない腰抜けぶりw、その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
秀吉の戦略目標は達成された。(家康は人質を差し出すハメにw)
その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのに
なかなか上洛して臣従しようとしないので
家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
あわてて上洛し、臣従を誓ったというドタバタw
家康は秀吉の生前は、秀吉のご機嫌取りに終始してた
501日本@名無史さん:2013/06/24(月) 19:51:41.41
多分関ヶ原が終わった時ですら家康は自分が将来豊臣を滅ぼすことになると自覚してなかったと思う
502日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:02:15.21
>>秀吉が潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
根拠なし。潰そうと思ったら信雄・家康に135000の大軍で短期決戦挑んで1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れず諦めて納馬予定だったのが、本願寺顕如を介しての必至の取り成しと放火などの示威行為の応酬が実って
信雄がビビッて和議に応じただけ。
>>性格的にしなかっただけで、家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら
>>481-487のように全力の戦力思いっきり投入しても全く歯が立たず
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
小田原合戦は陣立書で全国から215000も動因してる上にこれに佐竹結城里見宇都宮など反北条軍2万
が加わるから235000。 それに対し北条は毛利家文書の北条家人数覚書でわずか34500。 秀吉書状で2、3万。
兵力比7.5〜11倍もあるんだから勝って当たり前 そんな戦闘で一柳や堀尾の子が戦死し、韮山500や忍城1000に大苦戦し 小田原1000程度に手も足も出なかったのが秀吉。
はっきりいって勝てたのは家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが味方で
北条方兵力の集中した上野・下総・北武蔵の諸城を落としてくれたおかげ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
こんな規格外な兵力比と抗戦派和平派分裂状態で重臣連中ともども寝返り自落逃亡の応酬にもかかわらず秀吉方は上記の戦果なので
家康や伊達のどちらかでも味方なら大敗してたのは必定
>>間違いなく滅ぼされていただろう
豊臣家がな
>>小牧長久手の場合は秀吉vs信雄の戦いであって家康は只の助っ人(家康を倒すことが主目標ではない)
>>481->>487のように家康打倒が最終目的なのがわかる
503日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:04:55.05
>>家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利 秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
>>信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下
伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
>>戦略目標は達成
秀吉の戦略は一巻して家康打倒>>481-487なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
504日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:08:47.31
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ。しかもそんな状況で秀吉は母と妹
人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。まあ毎度の事だけど.秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
505日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:10:31.19
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
506日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:14:11.04
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
507日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:17:41.66
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
508日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:33:27.40
>>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は>>481-487のまともによめねー馬鹿だな
509日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:36:07.08
>> 家康は局地戦ではいくつか戦術的勝利をしたが、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>その後秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし
伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
510日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:42:44.57
>>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ
>>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので
>>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)
511日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:51:09.13
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
512日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:55:08.06
6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
などと一貫あいて信雄家康への討伐を意思表明してる
513日本@名無史さん:2013/06/24(月) 20:58:32.64
むしろ1万人くらい死んだとしないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
514日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:00:57.22
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
515日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:08:45.58
秀吉と家康が直接対決やってないことは解った
516日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:18:15.89
日本史上合戦での国内最大戦死数は大阪冬の陣でこれが両軍合わせ1万人のはずだが
本当に小牧長久手の合戦で秀吉軍のみで一万人も戦死してるのか?
517日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:20:32.27
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
518日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:23:21.92
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
519日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:26:40.11
>>517
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
520日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:30:40.83
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる

上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
521日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:34:52.02
わずか10町ほどの距離にいる信雄・家康に対して135000の大軍で
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、 小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと要害として拵え、陣取りした前方には芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付け 家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるような形で陣地を築き
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
大々的に直接決戦挑んで家康どころか織田家で最も無能な雑魚信雄相手に1万人ぶち殺される大敗喫してるのに
直接対決してないとかアホすぎてワロタw
522日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:38:11.41
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
523日本@名無史さん:2013/06/24(月) 21:43:48.62
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
524日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:13:42.82
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ

わずか10町ほどの距離にある自軍の8分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
8倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の30倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の8の二乗×30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
525日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:14:53.39
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
526日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:25:55.97
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
527日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:29:58.76
>>518
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
528日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:33:29.22
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる
529日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:35:40.39
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しいんですかね
で、 11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
なぜ9月時点での懇望を断ったのに11月では容認
明らかにデタラメ
530日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:39:59.67
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
531日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:42:32.49
馬鹿にかまうからコピペ爆撃でスレ自体が灰になっちまったじゃねーか
532日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:43:47.88
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
533日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:46:14.82
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
534日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:48:10.75
元々10倍以上国力差があり木曽小笠原石川水野真田が離反して軍事機密露見した上に天正大地震と天正11年からの徳政連発で
めちゃめちゃになった徳川に対して侵攻計画進めまくっていざとなったらビビリまくって信雄・顕如に取り成しやってもらって
母と妹人質に出したのが秀吉
ヘタレにもほどがある。直接対決で家康はおろか信雄相手に1万人ぶち殺された上に
戸木浜田松ノ木神戸蟹江河波東駒野二重堀と各城郭で蹴散らされまくって寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を7.5倍の兵力で
尾張半国すら切り取れないヘタレっぷりだから当たり前だが
535日本@名無史さん:2013/06/24(月) 22:53:56.57
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
秀吉が広範な版図支配下においたといっても所詮一時期だけだしなぁ
所詮徳川に木っ端微塵にされて滅亡した雑魚でしかない。
536日本@名無史さん:2013/06/24(月) 23:13:13.82
毎回垂れ流される秀吉厨の妄想が例のごとく悉く論破されててワロタw
537日本@名無史さん:2013/06/24(月) 23:19:38.80
【だが】歴史改変事件を考察するスレ 2【Sub】
1 :人間七七四年:2013/06/19(水) 20:52:34.10 ID:qgv7djFx
2013年3月にだがが起こした自作自演事件
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360505139/119

なぜだがは教科書を改変してまで自説を書き込んだのか?
だがが追い詰められた屈指の事件を下に、引き続き歴史の改変の是非を考察しましょう!

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1371642754/l50
538日本@名無史さん:2013/06/24(月) 23:32:20.90
堀や小和田を初めとするアンチ徳川の糞講談本を盲信してる馬鹿がまた暴れてるな
堀のアンチ徳川のアホ本は谷口とか池上とか先人の論文を批判する癖に自分はろくに根拠となる史料も出さず
他者の論文を都合よくひっぱったりするだけで何も論文の体をなしていない講談小説
正直まだ江戸期の講談の方が信憑性あると思うわ
539日本@名無史さん:2013/06/25(火) 03:52:04.72
まあ秀吉は最強なんですけども。
540日本@名無史さん:2013/06/25(火) 04:39:28.23
確かにある意味最強だよな。織田家で最も無能な雑魚信雄相手に135000の大軍で主力決戦挑んで1万人ぶち殺されたり
宇喜多や大友に蹴散らされまくった戦国最弱雑魚毛利相手に防衛戦で3000人も殺されるアホそうそういないだろうし
541日本@名無史さん:2013/06/25(火) 06:13:24.32
大局的に見た場合信長や秀吉は光秀に殺され家康に滅ぼされただけ。

一時動乱の影響で疲弊しきった畿内を先代からの異常な遺産で棚ボタ的に奪っただけでアホみたいに過大評価されてるからね
542日本@名無史さん:2013/06/26(水) 23:24:34.28
>>516
どうでもいいが
冬の陣の戦死者数は京の公家か誰かが真田丸の戦いを聞いた風聞だったはず
正しい戦死者は越前勢で400と井伊勢で300ほどで一万人は見積もりすぎだ
543日本@名無史さん:2013/07/11(木) 19:02:13.69
西軍が勝った場合、
上杉や毛利の領地はもっと増えるのですか?
最大の功労者の真田も領地が必要だし、
恐ろしく不安定な政権になるのでは
544日本@名無史さん:2013/07/11(木) 19:38:16.93
>>543
徳川幕府も外様の前田や島津に大封を与えていたし大したことないだろ
前田や島津の土地を奪って上杉・毛利にやればいいだけのこと
545日本@名無史さん:2013/07/11(木) 20:28:31.70
いいだけのこと(笑)
546日本@名無史さん:2013/07/11(木) 21:24:42.39
>>544
上杉、毛利、真田、島津がそれぞれ二百万石とかになったら
相当危険では?
しかも大老とかになって発言権もデカいし。
547日本@名無史さん:2013/07/11(木) 21:30:19.94
なんか室町幕府みたいな感じだな
548日本@名無史さん:2013/07/11(木) 21:47:51.52
そもそも誰が毛利と上杉に土地やるの?特に毛利。
549日本@名無史さん:2013/07/11(木) 21:55:41.39
上杉、毛利、島津が二百万石以上になったら、それぞれが征夷大将軍とか鎮守府将軍とかになって天下統一以前に戻りそう
550日本@名無史さん:2013/07/11(木) 21:56:59.28
そりゃ毛利が自前で占領した所は与えざるをえんだろう
そういう狙いもあって、輝元は熱心に近隣諸国を荒らしてたし
551日本@名無史さん:2013/07/11(木) 22:03:33.12
「最大の功労者」である真田には、
信濃、甲斐、上野を与えればいいんでしょうか?
あと、徳川家って存続するんですか?
552日本@名無史さん:2013/07/11(木) 22:06:33.43
真田へ出した条件も切り取り次第だから真田が占領してない部分は与えられない
553日本@名無史さん:2013/07/11(木) 22:11:41.80
真田は信幸の処遇もあるし、関ヶ原が一日で西軍勝利で終わった場合はそこまでのびないわな
554日本@名無史さん:2013/07/11(木) 22:12:52.15
>>551
徳川は、仮にも五大老の筆頭だから大減封処分にして存続
555日本@名無史さん:2013/07/11(木) 22:18:33.95
>>552
>>553
でも、「東軍最大の功労者」とされた福島は
安芸と備後を与えられましたよね。
それよりも手柄が大きい真田も結構いくのでわ
556日本@名無史さん:2013/07/11(木) 22:43:00.16
>>555
100%無理。

1. 三成らの権力基板が貧弱にすぎるので自由な領地再配分はできない。
2. 恩賞として与えるだけの原資が見込めない。
3. 真田の功績は大したことが無い。
557日本@名無史さん:2013/07/11(木) 22:58:46.42
しかし功績に関しては
「東軍の主力部隊(しかも全体の事実上半数)をすべて足止めさせた」
というものですから、かなりデカイのでは
領地が無理なら官職や地位では?
558日本@名無史さん:2013/07/12(金) 00:16:02.92
>>546
上杉、毛利、真田、島津にいきなり現在の領地の2〜3倍の知行を与えて
二百万石にする必要はない
もともと豊臣の家来なのだからそこまで媚びる必要はない

家康は自分の天下をモノにするために東軍についた大名に大封を約束して
大判ふるまいする必要があったが
豊臣は関ヶ原でそこまでのことをする必要ないだろ
あと関ヶ原で西軍が勝てば家康+秀忠の250万石は完全没収される
559日本@名無史さん:2013/07/12(金) 04:12:52.99
>>558
実に希望的、楽観的想定のかたまりですなあw微笑ましくなるくらいw
560日本@名無史さん:2013/07/12(金) 06:46:51.37
つーか、西軍は関ヶ原の一戦で主力が壊滅したが
東軍は秀忠が近くまで来てるうえに岐阜、清州を
押さえてるからから再戦可能だしなー

野戦とは言え、あれだけの大軍がわずか一日で
崩壊する方が珍しい。
561日本@名無史さん:2013/07/12(金) 07:25:54.28
名目的に総大将に祭り上げられたとは言え、毛利が全く動かないのが敗因の一つ(宰相殿の空弁当)
562日本@名無史さん:2013/07/12(金) 07:41:46.70
薩摩系の史料やと関ヶ原は開戦から2時間ほどで決着付いているから、毛利は動く間もなくあっという間に敗戦に巻き込まれた模様。

つまり三成が弱すぎたのが悪い
563日本@名無史さん:2013/07/12(金) 08:44:56.90
実際の所、東西両軍に広家や福原が和睦せざるを得ない程の差があったんだろう。
564日本@名無史さん:2013/07/12(金) 11:37:40.50
>>559
現実に家康は東軍についてくれた大名たち一人たりとも
二百万石になどしてないだろw
もともと大封を持つ前田にすら媚びていない

逆に家康は豊臣の削った分をほとんど自分が独り占めして他の奴に分けなかったのに
豊臣は分ける必要があったというほうが徳川贔屓しすぎだろ
565日本@名無史さん:2013/07/12(金) 12:53:16.67
家康一強の東軍と諸大名連合の西軍を同一視するのは無理があるな
566日本@名無史さん:2013/07/12(金) 13:05:41.05
前田は利政西軍で保険かけてるし、だいたいの奴らはどっちに転んでもいいよう
両乗りしてる
ガチで東軍に賭けた奴はそれなりに増えてる
567日本@名無史さん:2013/07/12(金) 15:52:56.04
増えてるように見えるのは検地マジックのせいもあるけどな。
所領替えの直後にやって2、3割の打出しを確保してるから。
568日本@名無史さん:2013/07/12(金) 17:52:11.42
>>558
徳川の領地を削ることはできるんかな?
発言権や威信はそりゃある程度低下するだろうけど。
569日本@名無史さん:2013/07/12(金) 18:58:23.92
そもそも関ヶ原で西軍は日本の合戦の歴史でも例のないほどの大惨敗をしたことをちゃんと認識せんとイカン。
アレだけ軍隊集めて、ほぼ瞬殺。
570日本@名無史さん:2013/07/12(金) 18:58:40.05
秀頼が成人してれば、関ヶ原はなくていきなり大坂の陣か
571日本@名無史さん:2013/07/12(金) 19:32:44.19
>>569
あの瞬殺ぶりを見ると、言うほど軍勢が居たのかどうかが怪しい。

一般に知られてる兵数は参謀本部の推定にすぎない。、
根拠と言えば三成書状と会津陣の軍役からで、伏見、阿野津、岐阜などの
損耗とか計算に入ってないし
572日本@名無史さん:2013/07/12(金) 19:39:36.55
徳川家康(従二位 内大臣 250万石)
石田三成(従五位下 治部少輔 20万石)

官位・領国など、全く勝負になってない。
豊臣家のために挙兵したのに豊臣恩顧の福島、加藤は徳川方に付き、肝心の豊臣家は我関せずで知らぬ顔。
西軍は負けるべくして負けたと言える。
573日本@名無史さん:2013/07/12(金) 21:13:16.02
西軍に豊富な軍勢があればああいう一か八かの決戦なんてする必要ないしね。
数的劣勢ゆえに、大逆転を狙わざるを得なかったと見るべきだろう。
574日本@名無史さん:2013/07/12(金) 22:37:51.08
西軍が家康の着陣をキャッチしたのが9月12日だから
したくて決戦した訳じゃなかったり。
575日本@名無史さん:2013/07/12(金) 22:59:55.42
>>565
福島達は、
自分たちが家康の天下取りの手伝いをしているという自覚は
あったのでしょうか
もちろん福島達にたくさんの領地を与えたのは家康には不本意だったとはいえ
576日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:06:50.00
別に不本意でも何でもないと思うがな。

ぶっちゃけ東海道を全て徳川領にする為に輝元から
取り上げた領地を再配分しただけだからな。
577日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:23:37.93
>>571
お前は本当に馬鹿だな
石田三成人数書立のほかにも慶長見聞集で西軍は畿内方面だけで18万もいるのが確認できるだろうがw
ただ西軍総大将の毛利が馬鹿すぎて大阪に引きこもったり
西軍奉行衆の要請無視して兵力をどうでもいい方面に分散させまくり大敗しただけで、三成がどうこうとか関係ない
578日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:25:14.47
三成はかわいそうだよなぁ
18万の大軍をかき集め絶対勝てる状況作りながら輝元は伊勢湾やら四国やらどうでもいい方向に軍分散させまくり
美濃口を突破されそれでもめげず本戦でも布陣で優位に立ち毛利一族さえ馬鹿じゃなきゃ絶対勝てる状況作ったのに
肝心の輝元は大阪に居座るアホっぷりで秀元秀秋広家も全く使い物にならず大敗
毛利のアホさ加減で努力が水の泡に帰したのが三成
579日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:26:25.64
関が原本戦は輝元が要請無視しまくり軍分散させたせいで起こった戦(輝元が美濃方面にさっさと後詰行ってたら木曽川ラインで
迎撃すれば東軍は進む事すらかなわない)
またその本会戦も毛利秀元や小早川など圧倒的大軍と戦局決定できる圧倒的優位な状況にありながら何もせず大敗を喫し大減封食らったのが毛利
普通に毛利一族がカスじゃなきゃ負けるわけがない戦闘状況だったが毛利一族がカスだったために負けただけ。
関が原本戦で西軍のうち半分ほどが毛利一族の軍でこいつらが使い物にならなかったから西軍に勝つ可能性など皆無。
こんな状態で長期戦を望むも糞もなくただ毛利一族は自分が糞すぎたせいで本戦は短期で終わっただけ
>>繰り返すが、あくまで本命は四国地方への領域拡大
四国方面への拡張とか言ってるけど中途半端に伊勢湾荒らし回ったり伊勢侵攻軍派遣したり
関が原本戦でも一応は軍派遣してるから(全く使い物にならなかったが)
別に戦略というほどの物が輝元にあったか非常に怪しいがな
580日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:27:00.16
8/10三成→佐竹義宣、真田昌幸書状などから三成は毛利勢を加えた軍勢で三河や遠江方面の侵攻を考えていた事がわかる
だが実際には毛利勢の馬鹿な行動によりなされることなく終り逆に美濃口を攻め取られる結果に終わっている
後徳川軍の尾張方面への出兵は西軍方も情報を得ている(8/18戸川→明石、8/19明石→戸川、8/19島津義弘→忠恒、8/20島津義弘→本田正親、8/22有馬則頼→秋田実季
8/22佐々正孝→秋田実季)9/12吉川→祖式でも家康の尾張犬山からの進軍を把握しているのがわかるし9/12三成→増田書状でもわかる
から毛利は動きを把握できなかったのではなく把握した上で関係ない方向に軍進めまくって本戦に大敗している
それに対応した三成は伊勢方面から尾張に転進している(8/27時慶記など)がこのときも毛利勢は相変わらず軍を出さず
的外れな方向にばかり戦力を分散させ、西軍大敗の主要因を作っている
581日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:28:29.71
だがはスルーで
582日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:28:29.93
首謀者は輝元
三成はオマケ
三成は美濃近江ラインの重要性を認識
毛利家は家臣がそれぞれ派閥化して方針が定まらなかったため
アホ輝元は戦略的視点に欠けていた(小早川吉川ら兄弟時代からの派閥確執が余計ひどくなっていた)
そこに家康や長政が和睦詐欺や毛利を敵だと思ってないよ嘘アピの謀略をかけてきて
輝元はとうぶん家康の西上はないわwと多方面へ兵力を分散し
肝心の美濃近江戦線を放置するアホぶり。
家康も福島らが三成包囲したわ詐欺にひっかかり
急いで西上してしまったことで
輝元は腰がひけて、家康は和睦してくれる&毛利を敵だと思ってない発言を盲信して騙される。
そもそも毛利が下手を打ったために大津城が東軍に落ちたのが致命的
毛利の無能さは神
583日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:31:34.37
>>582
同意
光成氏も輝元の迅速な大坂城入りは
事前に準備をし終えて出撃する準備が完了してないと
不可能な速さだと指摘してる。
明らかに毛利が首謀者でなければあんな一大挙兵はできない
584日本@名無史さん:2013/07/12(金) 23:32:40.61
西軍が一日で敗れるような会戦状況作ったのは他でもない輝元。
尾張口に大軍で美濃方面を攻めに来てるのにそれ無視して援軍要請も無視して
伊勢湾とか四国とかどうでもいいところ攻めてるのにその作戦が真っ当とかないわ
戦力下手に分散してその一部隊が敗れたら戦局が大きく傾くなんて普通の脳味噌の人間ならわかることだし事実そうなったし 。
家康との直接対決で西軍方の一部隊が敗れたらもう手遅れで降伏するしかなくなるのが毛利
事実そうなったし自国の領土拡大どうこういうなら総大将としての地位を最大限生かして東軍との主力決戦で勝利し
大将としての権力を確立していけばいいだけ。
長期化するシナリオでも最低限福島やら池田やら東軍方諸侯は確実に美濃口で立ち往生させないとどんどん味方が減るだけだし
さっさと石田ら西軍諸侯の要請通り美濃に大軍送ってりゃよかっただけ

三成ら西軍諸侯は輝元に援軍要請している(8/29保科正光→黒河内長三、9/12石田三成→増田)
が輝元は無視して伊勢湾やら四国やらに軍向けるばかり
また、美濃攻防時三成は織田秀信救援軍として美濃河渡において東軍と戦っているが数が足りず、敗れている
このときも毛利の大軍の後詰が素直に行われていれば簡単に撃退できたはずだが輝元は大阪から足を動かさず
伊勢湾に軍船送って荒らしまわるだけ。
はっきりいって奉行衆がどんな名将でも総大将がここまでのクズだとどんな軍でも勝ちようがない
西軍の中核は毛利軍や小早川軍など毛利一族の軍であり
こいつらが全く使い物にならない以上、西軍に勝つ事なんて無理で三成の能力どうこうの問題ではない
585日本@名無史さん:2013/07/13(土) 00:22:31.83
西軍の体制を考えると、関ヶ原で勝ったとしても一時的なもので、家康が生きてる限りすぐ巻き返えされるわ。
586日本@名無史さん:2013/07/13(土) 07:28:04.79
大谷吉継が渋いよな
587日本@名無史さん:2013/07/13(土) 08:18:14.10
大一大万大吉
588日本@名無史さん:2013/07/13(土) 08:42:03.48
>>575
淀君達にとっては、福島達の領土=豊臣の領土、
だったのかもしれない。
だから、豊臣と徳川の力は互角と考えていたかも。
589日本@名無史さん:2013/07/14(日) 10:20:43.16
>>565
家康一人では250万石にすぎず、家康VS西軍ではさすがに負けてただろ
関ヶ原で家康が勝てたのは西軍にやる気がなかったからに他ならない
家康にとっては天下取りのための大事な戦だったが
西軍は勝っても秀頼を抱えて自分が征夷大将軍になるわけでなしメリットが少なかった
590日本@名無史さん:2013/07/14(日) 10:24:41.17
>>589
全然わかってないな。家康は関ヶ原で天下取りなんか考えていない。
あくまで関ヶ原の勝利で、結果的に天下が取れる状況になっただけの話だ。

結果論で物を考えるな。
591日本@名無史さん:2013/07/14(日) 10:26:27.69
西軍にやる気がないというより、美濃口の防衛要請散々無視したりどうでもいい方向に兵力分散させまくったり
総大将にもかかわず大阪城に居座りつづけるような馬鹿が総大将だから負けただけ。
輝元はむしろ積極的に西軍決起に参加してるし、首謀者の線が濃い。島津もなんだかんだで
6000いる兵わずか50騎に減らされるまで必死に戦ってるし
やるきないというよりやる気あったが、総大将の指揮能力が糞すぎてガチンコ負けしたといったほうがいい
592日本@名無史さん:2013/07/14(日) 10:49:49.75
上杉らが全く役に立たなかったからどうでもいい方向になっちゃったよね
593日本@名無史さん:2013/07/14(日) 11:11:32.01
>>592
直江らは関ヶ原の結果が伝わるまで、岐阜の陥落さえ気づいてなかったからなぁ
594日本@名無史さん:2013/07/14(日) 11:43:23.40
そもそも最近は上杉には、家康と戦う意志が最初からなかった、とすら言われている。
家康の会津征伐の時点で屈服する気満々だったらしい
595日本@名無史さん:2013/07/14(日) 13:13:41.98
>>585
そうおもう
西軍が勝っても
豊臣政権はゆるい体制のまま
徳川家も削減くらで終わりそう
596日本@名無史さん:2013/07/14(日) 14:10:14.85
>>592
上杉が役に立たなかったとかお前は相当馬鹿だな
上杉が西軍決起しなかったら前田や浅野みたいに無理矢理いちゃもんつけられて潰される家が増えていくだけ
石田三成襲撃事件や家康の私婚問題に対する西軍方諸侯の家康の軍事力での排除と家康は好き勝手やりまくってた所に
上杉が決起した上に三成がタイミングよく決起したために西軍は畿内方面だけで18万も集まっただけ。
上杉の背後には伊達最上堀がしっかりひかえている
上杉が南下したら最上伊達堀らが会津領になだれ込んでくるだけだろ
三成はこの点も考慮にいれて三河方面へ毛利軍含めた大軍で侵攻する計画を8月上旬時点で真田や佐竹にあてて書いてる。

南下するなら当然下野で秀康ら2万と衝突するわけだから領国の総軍挙げないと無理
領国からっぽになった状態で伊達最上堀の本国襲撃受けたらひとたまりもねーだろw
とりあえず毛利輝元レベルの馬鹿なお前は戦略の基本くらい学んで出直して来い
597日本@名無史さん:2013/07/14(日) 14:13:56.92
○毛利輝元が家康打倒を考えておらず自領域の拡大のみを見据えていたというのは根拠がない
輝元が家康と戦う気がないならはじめから西軍総大将になんてなるわけないし
伊勢湾、伊勢方面に兵送ったり関が原に秀元広家の大軍送り込むわけもない
つうか仮にお前のいうように自領域拡大が目的なら
関が原本戦に勝利すれば西軍総大将として最も領域も権限も増すし逆に総大将なのに負ければ最も不利な立場になるなんて幼稚園児でもわかる事

○毛利輝元は馬鹿なのは以下の通り史実での実績がちゃんとある
・対織田戦で熊見川で大勝しながら兵站の長さを理由に本国へヘタレ退却する
・天正4年〜7年時点でも織田方が他の方面での戦闘で忙しい時でも中国口を中途半端に火事場泥棒しただけで勝頼やらとの約定反故にして織田を討つ決定的チャンスを逃す
・本能寺の時も秀吉の口からでまかせ口述詐欺(数カ国織田から毛利へ割譲する)にひっかかって騙される
・関が原の後もやはり家康に騙されて大阪城明け渡した
・関が原の合戦に至るまでの間、総大将という最も権限軍隊ある立場にありながら関係ない伊勢湾四国伊勢などに軍分散させ見事大敗する
・総大将なのに西軍諸将からの援軍要請無視しまくり美濃口を突破され、その後も大阪に引きこもり秀元軍も使い物にならず見事大敗する

こんな馬鹿が西軍総大将なのが三成の運のつき
関が原の輝元の目標が自領域拡大であった場合→西軍総大将で本戦に負ければ自領域拡大も糞もなく逆に本戦に勝てば最大限に自領域は拡大
するのにそんな事もわからず援軍要請無視、大阪篭城、伊勢湾やら四国やらに兵分散させまくり18万もいる西軍を見事崩壊させた馬鹿
輝元の目標が西軍の大勝・家康妥当であった場合(関が原に大軍送ったり自分も総大将になった事からこちらの可能性のが高い)
→伊勢湾や四国に兵分散させまくり伊勢方面軍を編成しながら実際には伊勢には中途半端な兵を残したのみで攻められないなど無意味な戦略行動をし
美濃口が攻められた時も三成らからの援軍要請を無視しまくって美濃を突破され
関が原本戦だというのに総大将の自分はなぜか大阪に居座り秀元らに命令出せず見事毛利軍は役に立たず大敗

どちらにしても毛利がクズなのは間違いないな
598日本@名無史さん:2013/07/14(日) 14:14:34.81
上杉が南下したら最上伊達堀らが会津領になだれ込んでくるだけだろ
三成はこの点も考慮にいれて三河方面へ毛利軍含めた大軍で侵攻する計画を8月上旬時点で真田や佐竹にあてて書いてる。
だが毛利馬鹿元はこれを無視して伊勢湾四国に兵力分散させまくったあげく美濃口突破され
関が原本戦でも当の馬鹿毛利軍は全く使い物にならず大敗
そもそも美濃口が東軍諸将に攻め込まれている間奉行衆らから毛利への援軍要請出しまくって
必死に美濃口防衛しようとしてるのにアホ元はそれを無視して伊勢湾やら四国やらで活動続けてる
これにより兵力不足の西軍は美濃口で敗戦を重ね普通に戦えば突破されるわけない状況と兵力差で美濃を突破されて
大垣に引きこもるハメになっている
599日本@名無史さん:2013/07/14(日) 14:15:22.64
毛利は総勢45000くらいの戦局決定できるのに十分すぎる兵力と
西軍総大将であり畿内方面だけで18万もいる絶好の条件で三成ら奉行衆の要請や作戦無視しまくったあげく大敗。
輝元以外の武将が西軍総大将ならまず間違いなく勝てたのが西軍。
8月上旬の三成書状ごとく三河方面に先手を打って侵攻するもよし。
美濃口に来た所を木曽川筋の防衛ライン利用して伊勢方面と美濃方面から一挙になだれ込むもよし。
押し込まれた関が原本戦でも秀元小早川吉川の総動員で負けるはずもない布陣を三成がお膳立てしたから
三方面から徳川軍を大破するもよし。
まず負けるはずもない兵力・国力・総大将の肩書き・状況で常人ではありえない戦略をとることでまずありえない敗戦を
実際にやらかしたのが輝元。
600日本@名無史さん:2013/07/14(日) 14:19:00.72
三成はかわいそうだよなぁ
18万の大軍をかき集め絶対勝てる状況作りながら輝元は伊勢湾やら四国やらどうでもいい方向に軍分散させまくり
美濃口を突破されそれでもめげず本戦でも布陣で優位に立ち毛利一族さえ馬鹿じゃなきゃ絶対勝てる状況作ったのに
肝心の輝元は大阪に居座るアホっぷりで秀元秀秋広家も全く使い物にならず大敗
毛利のアホさ加減で努力が水の泡に帰したのが三成
601日本@名無史さん:2013/07/14(日) 14:19:55.71
関が原の輝元の目標が自領域拡大であった場合→西軍総大将で本戦に負ければ自領域拡大も糞もなく逆に本戦に勝てば最大限に自領域は拡大
するのにそんな事もわからず援軍要請無視、大阪篭城、伊勢湾やら四国やらに兵分散させまくり18万もいる西軍を見事崩壊させた馬鹿
輝元の目標が西軍の大勝・家康妥当であった場合(関が原に大軍送ったり自分も総大将になった事からこちらの可能性のが高い)
→伊勢湾や四国に兵分散させまくり伊勢方面軍を編成しながら実際には伊勢には中途半端な兵を残したのみで攻められないなど無意味な戦略行動をし
美濃口が攻められた時も三成らからの援軍要請を無視しまくって美濃を突破され
関が原本戦だというのに総大将の自分はなぜか大阪に居座り秀元らに命令出せず見事毛利軍は役に立たず大敗

どちらにしても毛利がクズなのは間違いないな
602日本@名無史さん:2013/07/14(日) 16:54:53.08
>>594
討伐軍が引いてからは戦う気満々になったけどね
603日本@名無史さん:2013/07/14(日) 16:59:59.78
>>602
それは状況が変わったしなあ。それでも徳川には一切手を出さず簡単にひねれそうな(しかも後で言い訳の効きそうな)最上を攻めるという気の弱さ。
604日本@名無史さん:2013/07/14(日) 17:09:05.38
一応、最上と伊達を制してから関東に侵攻する積りだったらしいが
最上なガッツリ噛みつかれてThe END。

上方情勢の入手も真田ルートだけっぽいし、後手に回りすぎたな
605日本@名無史さん:2013/07/14(日) 17:14:59.87
>>604
お前は相当馬鹿だな
上杉が西軍決起しなかったら前田や浅野みたいに無理矢理いちゃもんつけられて潰される家が増えていくだけ
石田三成襲撃事件や家康の私婚問題に対する西軍方諸侯の家康の軍事力での排除と家康は好き勝手やりまくってた所に
上杉が決起した上に三成がタイミングよく決起したために西軍は畿内方面だけで18万も集まっただけ。
上杉の背後には伊達最上堀がしっかりひかえている
上杉が南下したら最上伊達堀らが会津領になだれ込んでくるだけだろ
三成はこの点も考慮にいれて三河方面へ毛利軍含めた大軍で侵攻する計画を8月上旬時点で真田や佐竹にあてて書いてる。

南下するなら当然下野で秀康ら2万と衝突するわけだから領国の総軍挙げないと無理
領国からっぽになった状態で伊達最上堀の本国襲撃受けたらひとたまりもねーだろw
とりあえず毛利輝元レベルの馬鹿なお前は戦略の基本くらい学んで出直して来い
606日本@名無史さん:2013/07/14(日) 17:15:43.63
だがの煽りはワンパターンw
607日本@名無史さん:2013/07/14(日) 17:15:57.92
上杉が南下したら最上伊達堀らが会津領になだれ込んでくるだけだろ
三成はこの点も考慮にいれて三河方面へ毛利軍含めた大軍で侵攻する計画を8月上旬時点で真田や佐竹にあてて書いてる。
だが毛利馬鹿元はこれを無視して伊勢湾四国に兵力分散させまくったあげく美濃口突破され
関が原本戦でも当の馬鹿毛利軍は全く使い物にならず大敗
そもそも美濃口が東軍諸将に攻め込まれている間奉行衆らから毛利への援軍要請出しまくって
必死に美濃口防衛しようとしてるのにアホ元はそれを無視して伊勢湾やら四国やらで活動続けてる
これにより兵力不足の西軍は美濃口で敗戦を重ね普通に戦えば突破されるわけない状況と兵力差で美濃を突破されて
大垣に引きこもるハメになっている
608日本@名無史さん:2013/07/14(日) 17:17:19.97
上杉が南下したら最上伊達堀らが会津領になだれ込んでくるだけだろ
三成はこの点も考慮にいれて三河方面へ毛利軍含めた大軍で侵攻する計画を8月上旬時点で真田や佐竹にあてて書いてる。
だが毛利馬鹿元はこれを無視して伊勢湾四国に兵力分散させまくったあげく美濃口突破され
関が原本戦でも当の馬鹿毛利軍は全く使い物にならず大敗
そもそも美濃口が東軍諸将に攻め込まれている間奉行衆らから毛利への援軍要請出しまくって
必死に美濃口防衛しようとしてるのにアホ元はそれを無視して伊勢湾やら四国やらで活動続けてる
これにより兵力不足の西軍は美濃口で敗戦を重ね普通に戦えば突破されるわけない状況と兵力差で美濃を突破されて
大垣に引きこもるハメになっている
609日本@名無史さん:2013/07/14(日) 17:18:13.29
長谷堂城攻撃つっても2週間でわずかに15日24日と退却前の牽制で29日に攻撃しただけで
最上の降伏待ちしてただけだし、庄内軍もがっつり南下してて最上降伏前夜だしな。
背後を固めてから江戸へ向けて南下する軍略がおかしいとは思わないし、
わざわざ南下して、背後を襲われすぐまた北上するところを
徳川に噛み付かれたなんてブザマな行軍は避けるべきだしな。
誰もがあんな簡単にたかが一日で関が原決着がつくなんて思わなかった。
しかも大坂城まで簡単に明け渡すし、三成や輝元の失策だよな。
だいたい慶長4年に家康の方から和議の申し出があったって言うし
慶長5年に家康が景勝や直江を見て、その武功を褒め称えて歓迎したよな。
島津の記録にも上杉主従は少しも悪びれた様子も無く堂々としていたって書かれてるし。
それに講和交渉相手は家康の信頼を得ている要路の重鎮たる本多正信と直接やっていて
宰相殿の空弁当吉川広家みたいに
黒田長政・福島正則・榊原康政・本多忠勝なんてアテにならない人間と交渉してない。
親しくなってきたので慶長7年もしくは8年頃から本多正信の息子を養子にもらう申し出をしていて
慶長9年には兼続は農政に力を入れて郡中百姓相定覚を定めたり
近江国住友村や堺から呼んだ技術者を使って鉄砲密造したり、鉄や薬の研究したりしてる。
慶長9年に養子政重が直江に養子入りしてる。
本多正信により10万石の軍役免除をはじめ、いろいろと便宜を図ってもらってる。
その際たるものは慶長15年の景勝の江戸桜田邸への将軍秀忠の来駕だろう。
ここで景勝の子の玉丸を秀忠が千徳と改名させて上杉後継の安堵がもらえた。
この大仕事を終えた養子政重は翌16年春に、父の岩槻領に帰り17年に前田家へ行き
3万石家老になって政重家臣団形成のため上杉家の人員整理を兼ねて引き取ってくれた。
610日本@名無史さん:2013/07/14(日) 17:19:27.12
他にも佐竹・伊達とともに高田城の普請を命じられたが、
本多正信の好意によって奉行を送り込めば、わざわざ現地へ赴かなくってよいよ!って
言われており、佐竹義宣も現地へ行かない工作に成功したようで
結局、政宗だけが高田城へ赴いてて、帰りがけに米沢を通過した政宗の屈辱感はいかばかりだろう。
慶長11年金鉱採掘政策を発布。 慶長12年京都の要法寺で文選三十冊発行。
慶長13年には9年発布の十五箇法度を修正し農村救済
慶長14年織絹業を興し、桑・青芋・綿・紅花などの強化を打ち出し、
6月4日には信夫地方が干魃気味になりそうだと予想して米の輸出禁止処置をしてる。
兼続の対応は早く6月下旬には幕府から10万石の軍役免除を貰い財政負担の1/3を減少を農村救済に当てた。
12/8には米や大豆高騰に備えて餅や酒や豆腐製造を禁止、米輸出禁止・米殻輸出制限と穀物節約通達。
元和元年に直江嫡男が重態になるや土井大炊頭利勝・酒井雅楽頭忠世・安藤対馬守重信らが
その事を秀忠に告げて急ぎ道三法印を派遣して診療させたが、このメンバーは秀忠側近中の側近で
のちの家光政権でも大いに辣腕を奮っている最重要人物たち。
元和2年の家康や本多正信が相次いで死去する状況による政変でも
政重は言うに及ばず、土井利勝を通じて上杉家は安泰だった。こういう家臣は政宗の下にはいないな
611日本@名無史さん:2013/07/14(日) 17:20:21.69
>>604
つーか伊達を制するような力はないよ、上杉には。
612日本@名無史さん:2013/07/14(日) 17:20:34.78
降伏待ちでしょ。
事実、包囲した後に2回しか攻撃してないし、
そのうちの一回は退却を悟らせない為に攻撃しただけだし。
徳川がすぐ引き返してくるなんて予想してたどころか、
上方の勝利情報とか随時、入ってきていたじゃん。
それに最上が兵力を集中した話は軍記だけの捏造話。
上山城で上杉が負けた話も軍記だけの捏造話。
直江の軍事指揮にマイナス評価される部分なんて特に無いだろ。
三成が呆気なくやられなければ、
奧羽は数週間で上杉配下になっていた可能性は高い。

長谷堂攻撃軍は直江側近以外は言わば「2軍」。
最強部隊「安田とか岩井とか越後以来の上杉本隊」は若松に集結中。

その中であの3方面攻撃作戦といい撤退戦といい直江の凄さばかりが目につく。

最強部隊を使わず直江+蒲生徴兵隊の山形方面軍を急ごしらえした理由は「景勝」を守るため(景勝を戦闘に巻き込ませず直江自ら責任を取るつもりだった)。

上杉家思いの直江。泣ける話じゃないか。

天地人ではそんな話は全く...。
613日本@名無史さん:2013/07/14(日) 17:22:10.06
伊達なんて福島城下の松川の戦いで本庄らに瞬殺されてるしなぁ
614日本@名無史さん:2013/07/14(日) 17:46:05.27
上杉家の記録にある松川の戦いはどう考えてもフィクションにすぎない
615日本@名無史さん:2013/07/14(日) 18:10:20.30
上杉役立たず過ぎだな
616日本@名無史さん:2013/07/14(日) 18:38:00.71
上杉領には旧伊達領がかなり含まれてたからな。政宗にそこでの一揆煽られて手も足も出なかったのが
関ヶ原の時の上杉の現実。
617日本@名無史さん:2013/07/14(日) 18:54:06.88
どこの堀さんだよ
618日本@名無史さん:2013/07/14(日) 20:33:21.00
>>617
同じ事やられてるんだよ、上杉も
619日本@名無史さん:2013/07/14(日) 21:48:04.63
秀吉の時に、宇喜田とかを三河辺りに領地替えしとけよ。
東海道は小者でスカスカだろ
620日本@名無史さん:2013/07/14(日) 21:52:18.31
まあどっちも、結果鎮圧されたけど
自軍損なわず敵撹乱できる有効戦略だよな

堀家をそれで越後に張り付けさせた意味では成功だろ
621日本@名無史さん:2013/07/15(月) 00:57:37.08
光成挙兵がもっと遅くて、徳川軍と上杉軍が白河口で決戦をしていたら
面白い展開に成っていただろうね。
622日本@名無史さん:2013/07/15(月) 00:59:41.45
つまり、後北条氏をあそこまで潰さずに、
相模一国ぐらいの規模で残しておいてそれ以外を徳川にやれば、
徳川領で一揆を扇動される可能性が常に残って良かったってことか。
623日本@名無史さん:2013/07/15(月) 01:10:59.36
>>616
相変わらずお前はデタラメばかりはいてるなw

☆慶長3年、国替責任者直江・石田に続き景勝は3/3に秀吉から暇を賜り6日に伏見を立ち
3/19に会津に入り3/29に直江を介して国替え作業中に会津に侵入した伊達軍を撃退した軍功に対して感状を与える(上杉氏年譜3-150〜152)
☆7月に小手村内大館古城で上泉主水に大敗(覚上公御書集・大河原文書・鶴岡1)
上杉120万石のうち2万石(実高1万6000石)の刈田郡譲渡約束で西軍に内通した政宗
(家康の上杉征伐中止の手紙を聞いて上杉にバレないうちに急いで接収に向かう)
白石城代の甘粕は白石城兵を引き抜いて宇都宮へ着いた秀忠を迎撃する為に白河城へ
白石城はロクに抵抗せずに翌日早朝に明け渡し。
政宗は刈田郡西部の空き家の湯原城を接取する約束を反故にして
突如、福島表の小手村内大館古城に侵攻するも大破され伊達軍106が犠牲に。
また伊達郡の川俣城攻防でも伊達は大敗敗走し刈田郡へ逃走。
結果、湯原城を諦め白石城返還和睦交渉を申し出る。
ついでに最上を中傷&南部領を狙い反乱を起こさせ、家康の撤退を安東や戸沢らにチクり
上杉征伐の米沢口軍を瓦解させ最上を丸裸にして西軍ですよと上杉の忠犬アピール。
その一方で早くも西へ向かい出した東軍に「三成なんてどうでもいいから上杉討伐を先にやってくれと哀願」
この後の政宗は直江の出陣するぞwするぞw詐欺の恫喝に怯え
福島へ一切侵攻せず(8月には政宗は和議を直江に頼む)ひたすら結城に上杉攻めてくれと懇願しつつ
上杉とは戦わずに最上の援助もせず傍観し西軍内通の褒美に空城の湯原城を9/25に譲り受けつつ山形城を奪う悪巧みをする。
☆9月花巻城攻防戦で南部軍の援軍に21日に伊達和賀連合軍が大敗
☆10月に福島城で大敗
関が原西軍は敗報を聞きチャンスとばかり攻める伊達軍。今までロクに東軍に貢献をせずに突如として東軍顔をする狼。
しかし寡兵の本庄軍は国境で薄い防御線を張りつつ偽り敗れて福島城下へ誘引する策を実行。
調子になって背後を扼する梁川城を放置して進軍した政宗は陪臣2人を討ち取られ背後を襲われ
この間わずか2日のうちに敗れ去り伊達の聖地を焼き払われ北目城へ高速の速さで敗走。
624日本@名無史さん:2013/07/15(月) 01:13:06.35
☆11月ついに直江が二本松城へ出陣
政宗は怯えて引き篭もってしまったので、本庄が福島の守備を留守にしても大丈夫になる。

伊達の主張では12月に家康が政宗に和睦するから戦闘するなと命じたのでこれ守り、この月を境に仙台築城準備に忙しく戦ってないと主張w

本庄が徳川首脳と会談。福島表で武勲をあげた本庄を家康の元に派遣し上杉の立場と福島での上杉の圧勝を伝えた。
これで正確な情報を知った家康は来春に上杉征伐をするのを再考し始めた。
☆1月に月夜畑で大敗(奥相茶話記・相馬が西軍として改易になるところを救った証明になった戦い)
福島表で敵わぬと悟った為、相馬と一緒に厳寒期に夜間に迂回奇襲しようと謀るもド田舎の山中で補足され伊達250相馬150の犠牲者を出す大敗。
☆3月に福島表で瞬殺大敗(覚上公御書集)
家康に東軍である南部での謀反の首謀者の和賀忠親を引き渡せと恫喝された政宗は
軍功をあげて、なんとか家康の心証をよくしようと焦り大敗。
☆4月 反撃した南部側の北信愛に花巻城で大敗した伊達和賀連合軍は
捲土重来を期して南部侵略の拠点にした水沢からさらに伊達の増援を送り出し岩崎城に物資を集積。
積雪のため停止していた東軍南部軍は岩崎城奪回のため3月下旬に攻撃開始。
4/4水沢からきた伊達軍を野戦で撃破敗走させ26日には孤立無援の岩崎城を陥落させ、
岩崎が火の海になる中を伊達軍は逃げ惑い伊達領へ壊走した。
625日本@名無史さん:2013/07/15(月) 01:59:49.19
>>621
司馬の小説レベルだな。
そもそも上杉は白河口で戦う気が無い。
626日本@名無史さん:2013/07/15(月) 02:08:35.59
秀頼は秀吉の子でないとカミングアウトしとけば長生きできただろ
627日本@名無史さん:2013/07/15(月) 02:22:34.83
御家騒動フラグじゃねーか
628日本@名無史さん:2013/07/15(月) 02:55:15.31
カミングアウトすると逆に実子説が有力になるだろうな
629日本@名無史さん:2013/07/15(月) 02:59:33.88
☆5月 上杉領長井荘で火をかけるのがやっとw(石川義宗→家康への手紙)
心証が悪化の一途を辿る家康の機嫌をよくするべく必死に戦功を欲する政宗は必死に軍事行動を起こすが
失敗の連続で国境紛争レベルにしか見えず。連敗で戦力ズタボロの政宗が書状で置賜郡長井荘でなんとか放火程度はできましたと
必死に報告したが「早く和賀を上洛さ・せ・ろ!と言われ和賀を切腹させて証拠隠滅を図り南部信直に「水に流してくれ」と哀願。
☆ 7月に徳川・上杉和睦。
上杉が伊達に対して奮闘し撃破したので伊達の聖地たる信夫郡・伊達郡も
自力確保分として上杉に安堵して米沢と合わせて30万石安堵。
会談で家康も兼続の武功をすばらしいと褒め称える&最上義光も兼続を褒め称える。
最上13万石→57万石・蒲生秀行宇都宮12万石→会津帰還して60万石・下総結城家の関ヶ原は何もやってないのに10万石→75万石
政宗は武功ゼロ&オマエ本当は西軍だろ!100万石はなし白石(1万6000石)しかやらん・・・政宗ショック涙目w
630日本@名無史さん:2013/07/15(月) 03:07:46.56
上杉が破竹の勢いで最上領侵攻して風前の灯まで追い込み伊達も瞬殺したのに対して
毛利は伊予攻防でも大損害出して敗戦するなどいい所なしだもんなぁ
味方軍勢の数と敵対勢力の規模の比率でいえば毛利の方が圧倒的に恵まれてるのに
631日本@名無史さん:2013/07/15(月) 03:11:30.92
上杉って役に立たない所か最上12000と伊達15000に結城秀康ら2万に堀秀治8000など敵対勢力をひきつけまくってるんだが

役に立ってないのは毛利だろ。あんだけ大規模な軍勢がありながら空白地帯に近い四国の火事場ドロすら失敗して
伊勢侵攻軍なんて編成したにもかかわらず長島に抑え置いただけでろくに攻められず兵力無駄にしただけ。

散々兵力分散させまくり三成ら奉行衆らの援軍要請も無視しまくって結局西軍は大敗するんだし
632日本@名無史さん:2013/07/15(月) 03:31:54.10
関ヶ原で西軍が勝ったら、伊達なんぞ何事もなかったかのように上杉と一緒に関東を攻めただろうな
633日本@名無史さん:2013/07/15(月) 03:40:54.52
そもそも西軍が関ヶ原で勝つと言う前提がムリゲー
634日本@名無史さん:2013/07/15(月) 04:23:07.36
毛利アホ元が総大将じゃなければ西軍が負ける展開はまずない。
兵力といい布陣といい、畿内での勢力図といい大儀名分といい、西軍の方が圧倒的に優位で
家康が「天下殿」の評判得た後ですら西軍決起によって畿内だけで18万もの規格外の兵力が集まってるんだからな
635日本@名無史さん:2013/07/15(月) 07:49:48.77
※ただしソースはソニー
636日本@名無史さん:2013/07/15(月) 09:41:15.32
そもそも西軍は岐阜城陥落の時点ですでに崩壊過程にあったとされる。
毛利が内通したから負けた、のではなく、
最早負けが確定的だから毛利も内通した、と見るのが正しい。
637日本@名無史さん:2013/07/15(月) 10:09:26.39
岐阜以降の西軍は阿野津を落としたくらいだもんなぁ

犬山は調略され、美濃の小城はポロポロと落とされ
京極高次は大津に立て籠もり、田辺城はだらだらと対陣が続く…

広家が諦めるのも仕方ない
638日本@名無史さん:2013/07/15(月) 13:10:05.57
関ヶ原戦では全く不甲斐なかった毛利と、敵中突破してやっと落ち延びた島津に260年後にやり返えされた徳川さん。
639日本@名無史さん:2013/07/15(月) 13:34:38.03
>>636
それは単に総大将であり、西軍の中で最も中核をなす大軍を持つ毛利が奉行衆らの援軍要請無視しまくって他のどうでもいい方面に兵分散してたからというだけ。

三成ら西軍諸侯は輝元に援軍要請している(8/29保科正光→黒河内長三、9/12石田三成→増田)
が輝元は無視して伊勢湾やら四国やらに軍向けるばかり
また、美濃攻防時三成は織田秀信救援軍として美濃河渡において東軍と戦っているが数が足りず、敗れている
このときも毛利の大軍の後詰が素直に行われていれば簡単に撃退できたはずだが輝元は大阪から足を動かさず
伊勢湾に軍船送って荒らしまわるだけ。
はっきりいって奉行衆がどんな名将でも総大将がここまでのクズだとどんな軍でも勝ちようがない
西軍の中核は毛利軍や小早川軍など毛利一族の軍であり
こいつらが全く使い物にならない以上、西軍に勝つ事なんて無理で三成の能力どうこうの問題ではない
640日本@名無史さん:2013/07/15(月) 13:40:26.15
関が原本戦は輝元が要請無視しまくり軍分散させたせいで起こった戦(輝元が美濃方面にさっさと後詰行ってたら木曽川ラインで
迎撃すれば東軍は進む事すらかなわない)
またその本会戦も毛利秀元や小早川など圧倒的大軍と戦局決定できる圧倒的優位な状況にありながら何もせず大敗を喫し大減封食らったのが毛利
普通に毛利一族がカスじゃなきゃ負けるわけがない戦闘状況だったが毛利一族がカスだったために負けただけ。
関が原本戦で西軍のうち半分ほどが毛利一族の軍でこいつらが使い物にならなかったから西軍に勝つ可能性など皆無。
こんな状態で長期戦を望むも糞もなくただ毛利一族は自分が糞すぎたせいで本戦は短期で終わっただけ
641日本@名無史さん:2013/07/15(月) 13:41:45.11
8/10三成→佐竹義宣、真田昌幸書状などから三成は毛利勢を加えた軍勢で三河や遠江方面の侵攻を考えていた事がわかる
だが実際には毛利勢の馬鹿な行動によりなされることなく終り逆に美濃口を攻め取られる結果に終わっている
後徳川軍の尾張方面への出兵は西軍方も情報を得ている(8/18戸川→明石、8/19明石→戸川、8/19島津義弘→忠恒、8/20島津義弘→本田正親、8/22有馬則頼→秋田実季
8/22佐々正孝→秋田実季)9/12吉川→祖式でも家康の尾張犬山からの進軍を把握しているのがわかるし9/12三成→増田書状でもわかる
から毛利は動きを把握できなかったのではなく把握した上で関係ない方向に軍進めまくって本戦に大敗している
それに対応した三成は伊勢方面から尾張に転進している(8/27時慶記など)がこのときも毛利勢は相変わらず軍を出さず
的外れな方向にばかり戦力を分散させ、西軍大敗の主要因を作っている
642日本@名無史さん:2013/07/17(水) 02:41:48.53
岐阜城陥落の知らせって昌幸に届いてたのかな
643日本@名無史さん:2013/07/17(水) 06:22:15.94
家康へ岐阜の件が伝わったのが27日頃。
敵地が多いとはいえ時期的には届いててもおかしくは無い。

ただ真田は秀忠を退けた件は上杉に報じてるけど、岐阜の件は
伝えてないから上田まで届かなかったのかも知れない。

三成が大垣へと追い込まれたり、上田が秀忠に囲まれたり
してるから、情報がうまく伝わらなかったのかも。
644日本@名無史さん:2013/08/13(火) 09:45:21.03
>>643
>ただ真田は秀忠を退けた件は上杉に報じてるけど、
宜しかったら、出典を教えてくれますか
645日本@名無史さん:2013/08/14(水) 10:28:35.88
 
関ヶ原の戦いは承平天慶の乱と英国征服戦争

http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0204/49/316.html

この二つの歴史的戦いの再現・パロディだった。

あとの枝葉末節は、どさくさに紛れたいじめ。

( http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0103/34/231.html )
646日本@名無史さん:2013/08/14(水) 10:32:27.74
>>644
詳細は忘れたが景勝側近宛直江兼続書状(披露状)
647日本@名無史さん:2013/08/14(水) 11:31:16.31
>>646
ありがとう、と言いたいところだけど、それだけではちと探すのは難しいです
すくなくとも新潟県史や山形県史にはなかったです
648日本@名無史さん:2013/08/14(水) 12:34:07.93
ちなみに兼続が岐阜城の戦いの敗報に接したのは九月二一日、ただし一八日には家康上洛の報を得ていた
649日本@名無史さん:2013/08/21(水) 18:29:08.75
でもさ家康って運が良すぎるんだよね。
秀吉は信長の死はラッキーだったけどそれ以降は自力で天下取ってるし
信長だってラッキーと言えば斉藤義龍の死くらいのもんなのに
家康は秀吉の死から関ヶ原までのわずか2年の間に
宇喜多騒動と利家の死という2重のラッキーが起こってる。
650日本@名無史さん:2013/08/21(水) 18:52:27.41
宇喜多騒動は必然と言ってよいし、利家の死は能力以上の役割を求められた故の過労死とも言える
651日本@名無史さん:2013/08/21(水) 20:50:48.76
超短期間の間に丹羽長秀と池田勝入と森長可の死があった秀吉のほうがよっぽど運がいいだろ。
特に長秀と勝入は秀吉とともに一種の三頭政権を形成していたというのに。

あと信長のほうが何百倍も運がいいぞ、気持ち悪くなるくらい幸運ばっかり。
652日本@名無史さん:2013/08/21(水) 23:05:10.83
>>649
秀吉が天下取れたの100%棚ボタでしょ
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
653日本@名無史さん:2013/08/21(水) 23:06:06.97
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
654日本@名無史さん:2013/08/21(水) 23:07:34.30
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる


圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。

単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
655日本@名無史さん:2013/08/21(水) 23:08:28.45
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
656日本@名無史さん:2013/08/21(水) 23:12:09.99
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
657日本@名無史さん:2013/08/21(水) 23:13:16.00
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太

また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
658日本@名無史さん:2013/08/21(水) 23:13:55.59
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に
十河一存
斉藤義龍
1562年
三好義賢
1563年
細川晴元
細川氏綱
三好義興
1564年
安宅冬康
三好長慶

と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで
死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。
これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
659日本@名無史さん:2013/08/21(水) 23:18:20.77
そもそも美濃は斉藤の元で統一されてるから、
濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。
660日本@名無史さん:2013/08/21(水) 23:19:49.93
各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達

駿河 英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)兄氏輝(〜1536年)の死後に家督争いに勝った
義元は補佐役太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。

越前 英主 朝倉孝景(〜1548年)
息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟に裏切られる。

南近江 英主 六角定頼(〜1552年)
息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し
六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年)

美濃 英主 斎藤義龍(〜1561年)
13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。

跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。

結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田家が商業都市津島や熱田を支配し隆盛拡大発展期に入り
円滑に家督を継いだ信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解。

一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
661日本@名無史さん:2013/08/21(水) 23:31:37.70
信長って自力で戦に勝ったことないもんなぁ
斉藤…幼君で混乱・クーデター騒ぎ、まともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢…北畠木造長野神戸などが内訌で分裂、崩壊
六角…対浅井の敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化
足利将軍家…三好三人衆の決起で 権威が形骸と化し信長に助けを求める
上杉…御館の乱や新発田の乱で崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除

信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
662日本@名無史さん:2013/08/21(水) 23:32:17.84
甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし
663日本@名無史さん:2013/08/22(木) 10:53:44.10
関が原って

 1位 徳川家康  255.0 万石 武蔵江戸  東軍の総大将 しかし主力は来ない
 2位 毛利輝元  120.5 万石 安芸広島  西軍の総大将 家康と吉川に騙されて、弁当食ってただけ
 3位 上杉景勝  120.0 万石 陸奥会津  家康の挑発役 ど田舎で最上と争う
 4位 前田利家   83.5 万石 加賀金沢  家康にビビって恭順 申し訳程度に東軍で戦う
 5位 伊達政宗   58.0 万石 陸奥仙台  上杉の抑え役 ヒャッハーし過ぎて最上を攻めて怒られる
 6位 宇喜多秀家  57.4 万石 備前岡山  西軍で超頑張った まともに戦ったのはこいつくらい
 7位 島津義久   55.5 万石 薩摩鹿児島 ちょっとだけで参戦 戦わず最後に逃げただけ
 8位 佐竹義宣   54.5 万石 常陸水戸  家康にビビって特に何もしない なんかしろよ
 9位 小早川秀秋  52.2 万石 筑前名島  超裏切り者 光秀みたいにかっこいいキャラなら面白い行動だけど、こいつはw
10位 鍋島直茂   35.7 万石 肥前佐賀  知らん なんかしてたの?


こうやって見るとつまらん戦いだなw
664日本@名無史さん:2013/08/22(木) 11:55:52.21
せめて三成ほどの武将がいて、太閤殿も浮かばれるというものよ
665日本@名無史さん:2013/08/22(木) 12:04:44.12
関が原は西軍は畿内方面だけで18万もいたからな。
三成人数書立や慶長見聞集みりゃわかる
666日本@名無史さん:2013/08/22(木) 12:08:01.81
そのうちまともに戦ったのは何%なんだろう
げにおそろしきは家康の口車
667日本@名無史さん:2013/08/22(木) 14:07:51.94
実際そのうち最も大きな軍隊を有する毛利や小早川の軍勢が全く使い物にならなかったからな。
総大将であり首謀者である毛利があそこまで雑魚だといかに西軍に名将がいようと
三成が頑張ろうと全く勝ち目がない
668日本@名無史さん:2013/08/22(木) 15:41:52.98
西軍総大将の輝元の戦略が糞すぎて伊勢湾だの四国だの伊勢だのどうでもいい方向に兵力分散させまくって大敗したからな
三成の構想通り早い段階で三河や遠州に侵攻してたらまけるわけなかったのに
669日本@名無史さん:2013/08/22(木) 15:52:30.99
徳川家の主力は秀忠隊というのは間違えなのだが
670日本@名無史さん:2013/08/22(木) 17:09:30.08
そもそも関ヶ原の時は西軍は既に量的にも負けており、毛利軍を含めても東軍の半分程度だったという説すら今はある
671日本@名無史さん:2013/08/22(木) 17:43:49.13
そんな説ない。毛利軍だけでも4万5000くらいいるし畿内の西軍諸侯は
石田三成人数書立や慶長見聞集から18万もいるのがわかる。
672日本@名無史さん:2013/08/22(木) 18:02:31.82
>>671
それだと関ヶ原の陣系の西軍の縦深の極端な薄さが説明できない
673日本@名無史さん:2013/08/22(木) 18:10:26.97
>>672
そりゃ簡単。総大将の毛利の戦略や戦術がクズすぎたせいでそんな陣構えになっただけ。
しかも西軍は家康西上後の9/12時点ですら伊勢湾での活動をやめてないし
伊勢方面軍も長島に張り付いたままだし四国にも軍は散在してるし
明らかに毛利の戦略眼がなかったせいで兵力が分散化して負けただけ。
674日本@名無史さん:2013/08/22(木) 18:58:54.74
家康を打ち取っても、内紛はなくならない。
秀吉が亡くなった時点で豊臣家は詰み
675日本@名無史さん:2013/08/22(木) 22:57:36.26
>>673
三成や宇喜多の縦深のことだっつーの。
お前日本語読めないだろ
676日本@名無史さん:2013/08/22(木) 22:59:39.86
>>675
だからそれが西軍の戦力不足の説明理由にもならないし
そもそもそれが史実かどうかわからんって言ってんだが
677日本@名無史さん:2013/08/23(金) 00:39:16.56
>>676
わからんやつだな。関ヶ原に参戦した人物の覚書の類見ても三成の所も宇喜多のところも、
前線の備え突破されたらもう本陣が露出してるんだよ。ペラッペラな陣形なの。
これが兵力不足じゃなきゃ何なんだ?

それとも三成や宇喜多が兵はたっぷりいてもその展開の仕方もわからないアホだと言いたいのか?
678日本@名無史さん:2013/08/23(金) 00:59:16.52
>>677
そりゃ畿内にいる軍勢はアホ輝元が兵力分散しまくったせいで
関が原にきた部隊はその中の一部にすぎないし、西軍総大将の毛利輝元も不在。
西軍は広範囲に兵を展開して東軍を包囲殲滅する陣形を取ったんだし石田隊なんてもともと兵力もヘボいし手薄なの当たり前だろ。

なんでそれをもって西軍の畿内方面の兵力の総勢が少ない事の証明になるんだ?
単に西軍の総勢から見て石田隊や宇喜多隊の兵数がしょぼかったってだけの話だろ。
679日本@名無史さん:2013/08/23(金) 01:04:31.53
>前線の備え突破されたらもう本陣が露出してるんだよ。ペラッペラな陣形なの

横だけどさぁ
三成が数倍の兵力相手に何時間戦闘していたか分かってて言ってんのか?
680日本@名無史さん:2013/08/23(金) 02:13:52.43
三成も、毛利や小早川らの布陣を考えてのあの陣形なんだろうけど、東軍の出方を待つつもりが、まさか西軍の腹の中に入ってきた時点で、こりゃマジで内応されててダメだわって思ったんだろうか
681日本@名無史さん:2013/08/23(金) 03:43:58.24
西軍がそこまで見抜けていただろうか
途中から、小早川の裏切りには備えていただらしいが

ただひとつ言えるのは、福島は先陣切る以外はなにも考えていなかったに違いない
682日本@名無史さん:2013/08/23(金) 10:59:13.87
いやそもそもさ毛利は江戸期に関ヶ原の失敗のおかげで改革に着手し始めただけで
この時期の毛利って所詮中国地方の中小豪族の集合体の頭に毛利一族が
乗っかってるだけに過ぎないんだよね。
だからあの大元就でさえ九州進出には全く大友に歯が立ってないし
両川でさえ播磨以東だと全く精彩を欠く。
一つ一つの局地戦は勝っても全く戦略的な動きが出来ていなかった。
これは毛利の構造上の問題でまして大阪以東の関ヶ原で毛利軍がまともに
機能するわけないって言うのが家康の思惑でしょ。
まあ計算通りと言うか。テルや広家が馬鹿だったとかそういう問題ではなくて
あんなん元就本人ですらどうしようもなかったと思うんだけど。
683日本@名無史さん:2013/08/23(金) 11:21:38.15
そもそも当時の日本で、近世大名化していた大大名は徳川家だけじゃない?
684日本@名無史さん:2013/08/23(金) 11:24:26.42
>>679
西軍は、10時に開戦して12時には壊滅しているんですが。
685日本@名無史さん:2013/08/23(金) 11:37:03.39
西軍が12時壊滅とかどうせ薩藩旧記雑録とかの捏造逸話だろ。
確か通説だと早朝会戦で午後3時とかに終戦とかだったはず。
686日本@名無史さん:2013/08/23(金) 11:46:02.23
>>682
>この時期の毛利って所詮中国地方の中小豪族の集合体の頭に毛利一族が乗っかってるだけに過ぎないんだよね。

それはどの大名でも一緒。毛利だけが豪族連合の頭だったという根拠はない。
>>だからあの大元就でさえ九州進出には全く大友に歯が立ってないし

元就でさえって元就を偉人みたいに書いてるのがそもそも間違いで、忍原崩れとか富田城の戦いとか負けまくってるし
厳島の合戦とか敷織畑合戦なんて捏造だし、凄くもなんともない。

>>両川でさえ播磨以東だと全く精彩を欠く。

両川は播磨で秀吉には大勝したけど、むしろ中国地方での戦闘の方がもたつきまくってる。
天正7年に寝返った宇喜多を攻略しようと領国の兵力総動員して備前や美作で軍事行動起こすも虎倉合戦や辛川合戦などで大敗した上にわずか5万石程度の
秀吉の支援もろくに受けてない南条すら攻略失敗。むしろ逆に美作や備中方面で諸城を奪回されるなど、わずか25万石程度の宇喜多に苦戦しまくってるのが毛利。

>>一つ一つの局地戦は勝っても全く戦略的な動きが出来ていなかった。
一つ一つの局地戦を勝ってないから、全体でみても負けてるだけ。

>>これは毛利の構造上の問題

そんなもんどの大名家でも一緒。
>>テルや広家が馬鹿だったとかそういう問題ではなくて

いや彼らが馬鹿だったからこそ貴重な兵力を分散させまくって東軍に大敗しただけ。
豪族連合の主だからといって糞な戦略をとっていいことにはならない。

>>元就本人ですらどうしようもなかったと思うんだけど。

元就自体大友に負けまくり尼子やらにも負ける凡将だから無理だっただけ。
687日本@名無史さん:2013/08/23(金) 11:48:44.99
豪族連合の主だからといってもたつきまくっていいことにはならんよ。
謙信も信玄も信長も北条も伊達も徳川も豪族連合の主だけど
関が原の毛利みたいな馬鹿な兵力分散とか大阪引きこもりみたいな糞戦略は一度もとってないし
皆改革される前でもちゃんと戦ってる。
豪族連合の主だからヘタレたのではなく、輝元や広家など毛利が馬鹿だからあんな絶対勝てる状況で負けただけ。
688日本@名無史さん:2013/08/23(金) 11:57:52.78
毛利輝元が馬鹿なのは以下の通り史実での実績がちゃんとある

・対織田戦で熊見川で大勝しながら兵站の長さを理由に本国へヘタレ退却する
・天正4年〜7年時点でも織田方が他の方面での戦闘で忙しい時でも中国口を中途半端に火事場泥棒しただけで勝頼やらとの約定反故にして織田を討つ決定的チャンスを逃す
・本能寺の時も秀吉の口からでまかせ口述詐欺(数カ国織田から毛利へ割譲する)にひっかかって騙される
・関が原の後もやはり家康に騙されて大阪城明け渡した
・関が原の合戦に至るまでの間、総大将という最も権限軍隊ある立場にありながら関係ない伊勢湾四国伊勢などに軍分散させ見事大敗する
・総大将なのに西軍諸将からの援軍要請無視しまくり美濃口を突破され、その後も大阪に引きこもり秀元軍も使い物にならず見事大敗する
689日本@名無史さん:2013/08/23(金) 12:45:10.66
>>685
家康も伊達政宗に正午に合戦終わったって報告してるんですがそれは
690日本@名無史さん:2013/08/23(金) 12:54:21.71
>>689
正確には「今日十五日の午の刻に、美濃国山中に於いて一戦に及び、」
よってどの時点かは記されていない。
691日本@名無史さん:2013/08/23(金) 13:36:44.78
>>690
常識的に考えれば12時前後なんだけど。
3時までかかったらもう夕刻って書くわ。
692日本@名無史さん:2013/08/23(金) 13:48:23.90
原文じゃ15日の午の刻に一戦に及び宇喜多・島津・小西・石田の人数を全て討ち取ったと
かいてるだけなので合戦開始が午の刻ってだけで終わった時間は何時かわからん。
あと覚書類だと早朝に合戦開始になってたはず
693日本@名無史さん:2013/08/23(金) 16:51:35.49
>>691
早朝から始まり、追撃も含めれば夕方までとするものもあるから
十二時を中心にや十二時に転換点を迎えたという意味とも取れる
694日本@名無史さん:2013/08/23(金) 17:43:53.34
>西軍が12時壊滅とかどうせ薩藩旧記雑録とかの捏造逸話だろ
『関原御合戦進退秘訣』では、勝敗が決したのは未の上刻、敵中突破は未の下刻とあるな。
「二時間で戦闘が終わったと俺が決めたソースはない(キリッ」
「異論は全て否定する!」
では、話にならんよな…言い出しっぺが論拠を提示しなきゃ
695日本@名無史さん:2013/08/23(金) 18:05:44.74
後詰めがいないのはツライ
696日本@名無史さん:2013/08/23(金) 18:18:07.69
島が負傷して前陣が一時的に崩れても、蒲生や三成が立て直したのに、
島が戦死したから、石田隊は鎧袖一触で木っ端微塵と思い込んだか、三成の陣頭指揮による立て直しを本陣が薄いからだと思い込み、
今更後に引けなくて、グズグズ言い続けているのか>>677
697日本@名無史さん:2013/08/23(金) 18:43:31.31
>勝敗が決したのは未の上刻、敵中突破は未の下刻

これじゃどう考えても戦闘時間が2時間という事にはならんわな。
698日本@名無史さん:2013/08/23(金) 19:54:30.95
>>694
>『関原御合戦進退秘訣』
これが薩摩の史料なんだよね・・・
ちなみにこれ、島津は当初は1500人いたが大半が戦死したので残る1000人で突破したとある
書いた奴は算数もできなかったらしい
699日本@名無史さん:2013/08/23(金) 20:06:59.25
たかが戦死したくらいで敵中突破できのうなるようでは
薩摩武士とは言えんでごわす
700日本@名無史さん:2013/08/23(金) 20:10:27.42
そもそも1500とか1000とか言ってるのが捏造だから。
関が原の陣立書とか慶長見聞集とかで5000いるのがわかるし義弘→忠恒書状でも7000つれてきてるのがわかるし
701日本@名無史さん:2013/08/23(金) 20:11:14.13
>>697
http://desktop2ch.tv/sengoku/1264805400/
検索した↑のスレからコピペしただけと疑っているわけじゃないけど
俺の手元にはそんな事書いてないよ?
『日本戦史』は持ってないし…

手間をかけてすまんが、君の言う該当箇所をスキャンかデジカメかスマフォかガラケーか、何でもいいから写してupしてくれんか

それにしても>>677は何処へ行っちゃったんだろうね
ソースだしてくれれば終わる話なのにw
702日本@名無史さん:2013/08/23(金) 20:11:26.54
関原御合戦進退秘訣って信憑性あるの?
題名からしたら薩藩旧記雑録以下の講談に聞こえてしまうんだが
703日本@名無史さん:2013/08/23(金) 20:12:08.17
失礼
>>697

>>698
704日本@名無史さん:2013/08/23(金) 20:48:22.67
戦闘は二時間
→ソース無し 発言者音信普通

二時間じゃないんじゃねぃ?
→絡めてからの駄目だしレス、即食い付き

>>702
二木氏も笠谷氏も『徳川実紀』と併せて引用している罠
識者なら尚良いが、君が積極的に否定する根拠をだせばいいんじゃねぃ?
出せないのに信憑性云々は子供の理屈だよ

何処の誰かも分からん人物の「認めない」発言なんか何の重みもない
関ヶ原に関する専門書を何冊も出している笠谷氏が論拠として明示している以上
否定するなら説得力のある根拠を君が言わないとね
705日本@名無史さん:2013/08/23(金) 20:50:22.20
訂正

二時間じゃないんじゃねぃ?
→搦め手からの駄目だしレス、即食い付き
706日本@名無史さん:2013/08/23(金) 20:56:10.09
>>704
徳川実記とあわせて引用してる時点で
徳川実記と同レベルの講談にしか聞こえないんだが。
707日本@名無史さん:2013/08/23(金) 21:41:06.70
>>701
>>702
『日本戦史』なら近代デジタルライブラリーに載っている
『関原御合戦進退秘訣』も関原役の第二編に該当箇所が載っている
708日本@名無史さん:2013/08/23(金) 22:05:08.15
もうこの駄々っ子の相手をしても無駄だね 二木氏によるまとめ

開戦        辰の刻 『関ヶ原始末記』
『関原軍記大成』
『落穂集』
勝敗が決した   未の上刻 『関ヶ原合戦進退秘訣』
敵中突破     未の下刻 『関ヶ原合戦進退秘訣』
忠吉、直政負傷 申の中刻 『関ヶ原合戦進退秘訣』

史料批判に「講談本」という言葉しか知らない子供の言葉と、識者の言葉。
どちらに真があるかだな。

>>707
いや……こちらが『日本戦史』を持ち出せば、そんなものは講談本で信憑性がないと確実に言うであろう奴のために
目の痛くなるライブラリーを態々確認せなきゃいかんのか?
当該ページをスキャンしてくれ
709日本@名無史さん:2013/08/23(金) 22:23:59.20
>>忠吉、直政負傷

それ明らかに島津の捏造。
井伊年譜とかには全くこのときの負傷記録もないし二人ともそもそも関が原直後から戦後処理で東奔西走してる
9/22毛利輝元、徳川氏との和成り、其本領を安堵せしめられしを喜び、井伊直政・本多忠勝及び福島正則・黒田長政に誓書を致し、大坂城西丸を去らんことを告げる
9/23徳川家康の老臣井伊直政、紀伊高野山に在る前近江大津城主京極高次を招く、尋で、家康、高次の弟同高知・山岡道阿彌を遣し、大坂に來らせる
9/25是より先、肥前佐賀の鍋島勝茂、井伊直政・本多正信・相國寺圓光寺の元佶(閑室)等に頼りて、罪を徳川家康に謝す、家康、筑後柳河の立花親成(宗茂)を攻めて、之を償はしむ、是日、勝茂、家康・秀忠父子に謁し、尋で、龍造寺高房を留め兵を率ヰて歸國す、
10/12土佐浦戸の長宗我部盛親、徳川家康の老臣井伊直政の勸に依り、大坂に至る、尋で、家康、盛親の封を收む
10/17井伊直政、徳川家康の命を受け、鈴木重好等をして、土佐浦戸の長宗我部盛親の諸城を收めしむ、尋で、土佐を與へられし遠江掛川の山内一豐、其弟康豐をして、入國せしむ、
11/13徳川家康の老臣井伊直政、重ねて、島津維新(義弘)・同忠恆をして、速に、家康に其罪を謝せしむ
12/13徳川家康の老臣井伊直政・山口直友、重ねて、島津龍伯(義久)・同忠恆の上京を求む、
12/23是より先、黒田長政、其封筑前に入る、是日、島津維新(義弘)に、徳川家康の老臣井伊直政に頼り、罪を家康に謝せんことを勸む、
翌年も引き続き政務こなしまくってる
井伊なんか死んだの2年後なのになんでこのときの傷が死亡原因にされてんだよwww
710日本@名無史さん:2013/08/23(金) 22:25:56.11
一次資料で5000〜7000いる島津軍が1000とか1500とか捏造されてる時点で
島津の糞講談の関ヶ原合戦進退秘訣があてにならんのはお察し。
711日本@名無史さん:2013/08/23(金) 22:27:26.09
学説をいくらひっぱってこられてもソース元の史料の信憑性が重要なわけで
一次資料でもない糞講談がソースじゃ話にならん。
小説とか仮想戦記がソース元と何もかわんねーよ
712日本@名無史さん:2013/08/23(金) 22:28:01.53
軍記引用とか日本戦史とかほんとレベル低いなw
713日本@名無史さん:2013/08/23(金) 22:31:17.44
「義演准后日記」によれば島津は本多や井伊など寡兵の部隊に悉く兵を討ち取られて薩摩に敗走したとあるよ。
714日本@名無史さん:2013/08/23(金) 22:32:56.17
島津の捏造は酷過ぎるからな。木崎原合戦とか耳川合戦とか明らかに島津は大軍なのに寡兵に捏造したり
沖田畷合戦でも有馬の後ろに隠れただけの島津が自力で勝ったように捏造してるし。
715日本@名無史さん:2013/08/23(金) 22:33:50.65
島津は水俣城攻防戦で115000の大軍を動員したくらい規格外の大軍が動員できたからね
716日本@名無史さん:2013/08/23(金) 23:07:22.57
>>709

>それ明らかに島津の捏造。
>井伊年譜とかには全くこのときの負傷記録もないし二人ともそもそも関が原直後から戦後処理で東奔西走してる

秀吉が生涯で一度だけ負傷したとされる伊勢の陣でも事後東奔西走してるけど?
マジで訳が分からん。負傷=寝たきりの重症なのか?
まぁ草生やして喜ぶ心理も理解できんがw
717日本@名無史さん:2013/08/23(金) 23:24:31.04
>>秀吉が生涯で一度だけ負傷したとされる伊勢の陣でも事後東奔西走してる
どうせソースは太閤記だろ。
そもそも島津の軍記にしかソースがないから論外だし
本当に負傷してたら>>709みたいに東奔西走できるわけないしな
718日本@名無史さん:2013/08/23(金) 23:25:15.03
関ヶ原合戦進退秘訣は軍記ですらない糞講談じゃん
719日本@名無史さん:2013/08/23(金) 23:28:01.24
井伊なんか元々病気気味だったのが一次資料でわかるしそれを島津が自分が負傷させたとかデッチあげてるだけだろ。
720日本@名無史さん:2013/08/23(金) 23:31:22.64
島津の記録だと死因は破傷風とか捏造してるけど大嘘で、普通に病死だからな
721日本@名無史さん:2013/08/23(金) 23:34:43.11
史料批判なんか遣り方も分からない子供と
きちんと史料に向き合う専門家

対等・同価値であるべきだというのは、如何にもユトリ世代のオコサマって感じ
722日本@名無史さん:2013/08/23(金) 23:40:38.65
>>721
お前は馬鹿だな
軍記や講談なんて藩士に提出させた覚書や家譜を下敷きに捏造脚色創作いれまくって作成された物だからはじめからソースになんかならんわw
覚書や家記類ですら一次資料と照らすと捏造が多いのにそれを下敷きに書いた資料なんて何の価値もねーよ馬鹿
723日本@名無史さん:2013/08/23(金) 23:41:39.77
>>721
軍記や講談を史実と考えてるお前の方が仮想小説とかを読んで歴史がわかってる気になってる小学生と同レベル
724日本@名無史さん:2013/08/23(金) 23:43:03.20
軍記や講談が直接ソースになると思ってるどうしようもない馬鹿が一人いるなw
725日本@名無史さん:2013/08/23(金) 23:46:14.52
薩藩旧記雑録とか島津の公式記録も他の資料と照らすと合戦経過が食い違ってて
西軍は序盤から押されまくってる事になってるんだよな
726日本@名無史さん:2013/08/24(土) 00:19:46.56
島津としてなるべく、徳川家に歯向かった事実を無かった事にしようとしている
で、明治になって今度は逆の話を、乏しい史料から組み立てたので無茶苦茶
727日本@名無史さん:2013/08/24(土) 23:12:55.60
関ヶ原程歴史のIFが言われる話もないわけだけどみんなどう思う?
家康に対抗出来そうな人として
丹羽、池田、蜂屋、前田、名人久太郎、蒲生、鬼武蔵、秀長、隆景、秀次
彼らが生きていたら家康に対抗可能だった?
まあ秀長だけは確実に豊臣家の味方でかつ確実に家康を抑え込んでただろうから彼は除く。
728日本@名無史さん:2013/08/24(土) 23:30:30.13
彼らが生きてようが死んでようが大して大勢には影響ないと思われる
彼らが死んだ後に起きた関が原合戦でも西軍には畿内だけで18万も集まったが
総大将の毛利がゴミすぎて大敗したし秀長が生きてようが誰が生きてようが
総大将が毛利や小早川みたいなクズがなれば負けるしそうじゃなきゃ勝てる。
100%勝てる状況と兵力差で大敗したのが史実の関が原だからな
729日本@名無史さん:2013/08/24(土) 23:31:54.54
>>728 秀長が生きていたら秀長が総大将だろ。
730日本@名無史さん:2013/08/24(土) 23:36:11.63
>>729
そうとも限らないんじゃないの。
秀秋とか秀家とか秀吉の養子親戚組もいるし、秀長が生きてたら秀次も殺されてたかどうかわからんし。
731日本@名無史さん:2013/08/24(土) 23:41:15.76
それとさ誰かの寿命が伸びる系は水掛け論になりがちなので
当時生きていた人間によるIFだと
@小早川秀秋が小早川家の養子にならずに越前北の荘に別家を創設して
代わりに毛利秀包が予定通り小早川家の家督を相続していた場合どうなっていたか。

A秀頼が生まれないか、早死にするか淀が早死にもしくは失脚するかして
杉原系の人間が豊臣家の家督を継ぐかして北の政所が大阪城本丸の
実権を握った場合家康に北の政所は対抗できたか?
この辺どう思う?
732日本@名無史さん:2013/08/24(土) 23:44:50.66
史実で絶対勝てる状況で負けたからあ
総大将にまともな武将がくりゃ勝てるだろうけど毛利とか小早川みたいなクズじゃ100%勝てないわな
733日本@名無史さん:2013/08/25(日) 00:02:52.22
>>731
秀頼なくして秀次処刑なしだろうから、こうなったらぜんぜん違う話だよね。
朝鮮情勢が如何なるものであろうと、秀吉の死去により、秀次への政権移譲までは、国内的にはすんなり行くだろう。
問題は、京都の秀次政権のその後の舵取りだが、もうここまでくると壮大な脳内妄想になってしまうw
また、福井は地政学的位置が意外に悪く、秀秋は動きが鈍くなりそう。どうなんだろうな。


それはさておき、俺が>>1の時期で大変に興味深いのは、
家康が、「権力の所在地」を、自らが移動することで、西へ東へとあちこち動かしながら、
豊臣政権本体から、中央権力の要素を上手に絡め取って、自分の手許へ奪っていくように見えること。
秀吉は、織田政権そのものを簒奪して「公儀」にしてしまったが、
家康は、豊臣政権から、権力を徐々に絡め取り、自ら率いる田舎侍集団の掌中に握りしめて「私物化」していったわけで、
その特異な簒奪過程を、征夷大将軍や源氏長者の称号で糊塗していったように見える。
734日本@名無史さん:2013/08/25(日) 01:34:50.08
織田→武>公
豊臣→武=公
徳川→武>公
735日本@名無史さん:2013/08/25(日) 13:38:17.55
>>733 秀次が死んだ場合って事だよ。
秀次が死んだ後に秀頼も病死するとか淀殿が死ぬかして
高台院が秀吉死後大阪城本丸に入っていたら家康の専横に太刀打ち可能だったのかな?っと。
736日本@名無史さん:2013/08/25(日) 18:21:45.57
そもそも家康は専横だったのか、専横だとすれば誰に対して専横だったのか、という議論がある。
少なくとも豊臣家に対して専横というのはせいぜい将軍宣下後だ
737日本@名無史さん:2013/08/25(日) 23:15:44.67
秀長が生きてれば…ってIFだがどの程度有効なんだろうか?
確かに彼が優秀な秀吉の副官だったのは事実だけど
晩年は秀吉との間に溝が出来ていたし
一応武将としての最低限の実績があって信長の同母弟で織田一族内部で
かなり重じんられていた信包が信長死後の政局に全く関われていない所を
見るに絶対家康に対抗可能か?と言われるとかなり疑問が残るよなあ。
まして実家のしょぼい北政所では経済力も軍事力も持ってないから無理でしょ。
738日本@名無史さん:2013/08/25(日) 23:22:04.51
長生きしても意見の合わないし権力持ってるしで粛清まっしぐらな未来しか見えない
739日本@名無史さん:2013/08/25(日) 23:45:12.46
>一応武将としての最低限の実績があって信長の同母弟で織田一族内部でかなり重じんられていた信包
信包が指揮した最大兵力と、秀長のそれを比較すれば、全く意味の無い例だ罠wwwww
740日本@名無史さん:2013/08/25(日) 23:58:39.16
>>735
「ねねの細腕一択状態」ということ?

それなら、IFは簡単だという気がする。
これは、ねね視点で見ればすぐにわかる。鬱陶しい淀もいないが、ねねには無論実子がなく、養子も死んだ。
つまり、ねねから見れば、守るべきものは、旦那秀吉の菩提以外何もない。
1598年段階のねねからみれば、特に守るべき家系も組織も実は無い。
ねねのポジションは、北条政子とは全く違う。尼将軍にはなり得ないし、なるインセンティブも全くない。
豊家は一代限りと腹を決め、次の天下人への禅譲を静かに行うだろうよ。当然家康が名乗り出るだろう。
豊国社が生き残ること、戦いがいくつか減ることくらいで、
徳川への政権移譲の大きな流れそれ自体は、史実とさほど変わらんだろうな。
741日本@名無史さん:2013/08/26(月) 00:05:53.50
信包と秀長だと指揮実績あんまり変わらなくないか。
そりゃ秀長は九州攻め四国攻めでは大動員があったけど、毛利や大友といった同盟者が既に先に敵を侵攻したり勝利したりしてて
最初からほとんど勝ちが決まった状況で兵進めただけだし
逆に戦闘回数そのものでいえば
信包の方がずっと多いでしょ。
742日本@名無史さん:2013/08/26(月) 00:49:15.45
大軍を委ねられる意味を理解できない知障が吠えているスレはここでつか?
743日本@名無史さん:2013/08/26(月) 02:27:11.76
相変わらず大軍を委ねられるとか馬鹿な妄想書いてるな。
大軍委ねられない武将なんていねーっつの。
毛利輝元だろうが徳川秀忠だろうが豊臣秀頼だろうが誰が率いようが一緒
744日本@名無史さん:2013/08/26(月) 02:29:18.15
基本的に大軍を率いられない武将というのは雑魚しかいないよ。
ガチンコで正面衝突すりゃ100%大軍が勝つし寡兵側が勝つには迂回戦術とったり相手の油断をついて
奇襲したり敵を自陣深く釣り込んで周囲から奇襲かけて殲滅したりよほどうまい戦術で釣り込まないと無理
それでも相手が馬鹿じゃなきゃ成功するわけないんだし
745日本@名無史さん:2013/08/26(月) 02:32:11.45
大軍どうこう以前に四国攻めとか九州攻めなんて秀長勢が到着する前に
ほとんど毛利や大友や来島ら味方の活躍で勝ちは決まってる状況だったし
あとからやってくる武将が秀長だろうが一条兼定だろうが100%勝つに決まってる戦だろ。
746日本@名無史さん:2013/08/26(月) 02:32:51.59
秀長厨の頭の悪さは異常
747日本@名無史さん:2013/08/26(月) 02:35:29.10
最初から100%勝ちが決まったお膳立てされた戦で勝っても何が凄いのかわからんな
窮地で粘った武将とか孤軍奮闘して相手を退けた武将のが遥かに凄いわ
748日本@名無史さん:2013/08/26(月) 02:50:00.18
織田信忠とかも同タイプだよな
ほとんど最初から勝ちが決まったお膳立ての戦。
749日本@名無史さん:2013/08/26(月) 08:28:17.00
馬鹿お前ら
勝てる戦をお膳立てするためのお膳立てってもんがあんだよ!
750日本@名無史さん:2013/08/26(月) 09:21:05.25
>>740 だから木下家定の子を養子にもらった場合のIFだよ。
これならねねの立場は実母と余り変わらない。
751日本@名無史さん:2013/08/26(月) 19:16:26.09
>>727 丹羽や池田は能力実績的にとても無理。
丹羽は本能寺時点での所領は中堅所まで落ちてるしな。
文官。池田はアレはむしろ家柄だけのアホだろ。
蜂屋は晩年秀吉から全く領地を貰えてなくて実質失脚してる。
鬼武蔵さんはむしろ武断派の中心にたってヒャッハーしてる姿しか想像つかないから
むしろ三成が不利になるだけだろ。
752日本@名無史さん:2013/08/26(月) 20:48:09.67
>>750
>木下家定の子を養子にもらった場合

小早川秀秋のことか。
ねねはこの実甥で養子に当たる人物にそこまでの寵愛を注いでいない。
関ヶ原でもあのざまだし。
ねねは晩年同じ甥である木下利次を養子にしたが
自分の晩年の世話を頼む代わりに遺言で死後その遺領を与えただけ。
しかし妻の甥じゃあ、秀吉からの愛情はそこまでではなく、
もっと早くに豊臣家臣が離反したかも。
秀吉は我が子だからこそ秀頼の天下を望んだのであって。
753日本@名無史さん:2013/08/26(月) 20:59:23.85
>>752 秀秋はあかんやろ。高台院とも秀吉とも相性が悪い。
しかも相性が悪い理由が出来が悪いからだしさ。
ただ木下家定は秀秋以外にも7人も男子がいるし
高台院は家康に老耄と言われるほど他の甥っこ達の事は可愛がってるし
秀吉側の甥は次々不幸な死に方をしてもう残っていないので
不可能な話ではないと思うんだよね。

と言うか秀頼だって実母の淀がいなけりゃ高台院が大阪城本丸に入ってた気が
するんだけどなあ。
754日本@名無史さん:2013/08/26(月) 21:20:17.15
>>753 前者と後者を一緒にしちゃダメだわな。
前者なら新当主は秀吉の血を継いでないんだから家康も無理に滅ぼす必要ないし
北政所の性格的に考えても豊臣家は徳川に臣従。ただし豊国社は存続。
豊臣家は大阪から僻地に60万石で国替え。辺りで手打ちでしょ。

問題は後者でこの場合は家康は秀頼を生かしておくのは難しいので
結局どこかの段階で全面対立になる。
これが軍事力を伴うものなら北政所には勝ち目はないし
政治的決着でどうにかなるならワンチャンある。って所だ。
但しこの場合の問題点は北政所と三成たちがどの程度提携できるかが
最大の問題。

それとよく前田利家が長生きしたらってIFがあるけど前田利家と
上杉景勝って物凄い不仲だったって知らないんだろうか?
前田利家が反徳川の盟主になった場合上杉が徳川方に付いて
プラマイゼロは下手すりゃマイナスの方が大きくね?
755日本@名無史さん:2013/08/26(月) 22:52:03.02
高家筆頭 豊臣家 八千石
756日本@名無史さん:2013/08/26(月) 23:30:55.82
まあIF話に花が咲いてるようなので一つどうしても思うのは
織田家って物凄い実力主義だったわけだけど
組織は実力主義に走り過ぎると特定の人物や特定のチームばかり重用するようになる。
織田家の場合は勝家、秀吉、光秀の3者ばかり重用してそこに必死に
滝川が喰らいつくってな感じで他の連中は50歩100歩だったわけだけど
本能寺の時に最年少の秀吉ですら50近かったんで世代交代の波が近づいてた。
そのポスト秀吉の世代は堀、蒲生、森の3人だったわけだが
森は狂ってるので天下とか無理だろうが
堀と蒲生は長生きしてれば順当に普通に家康破って天下取ってたんじゃないか?
と思うんだがな。
757日本@名無史さん:2013/08/27(火) 00:10:59.66
堀や蒲生なんて榊原や木造みたいな雑魚に負けたゴミ武将じゃん。
家康どうこう以前に秀忠にも負けそう。
758日本@名無史さん:2013/08/27(火) 00:11:46.63
森が狂ってるとか相変わらず講談馬鹿が暴れまわってるな
759日本@名無史さん:2013/08/27(火) 00:15:43.90
信長や信忠が殺されて光秀が主殺しの汚名負わなかったらとか信雄・信孝、勝家・勝豊が不仲じゃなかったら
秀吉の天下は無かったとか信長が十河一存 斉藤義龍 三好義賢 細川晴元 細川氏綱 三好義興 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死ななかったら尾張一国で終わってたとかと同レベルのアホな議論だな
760日本@名無史さん:2013/08/27(火) 00:18:38.15
織田家ってそもそも実力主義なのか?
秀吉や光秀なんて元々高い身分だったし勝家も佐久間も坂井も森も子飼いではなく譜代系だろ。
むしろ上杉とか武田の方が河田・須田・山浦・鰺坂・直江とか香坂・原・馬場など子飼いの登用を
積極的にやってる気がするんだが
761日本@名無史さん:2013/08/27(火) 00:28:16.12
>>759
信長の場合普通に斉藤義龍が死ななかったら100%勢力拡大はなかっただろうな。
勿論他の条件も幸運だらけだけど。
762日本@名無史さん:2013/08/27(火) 02:26:15.44
秀長前田堀蒲生あたりが優れた将だっての否定しないけど、

こいつらで家康に勝つ見込みあるのかと聞かれたら「?」だろ
763日本@名無史さん:2013/08/27(火) 02:31:32.13
まず彼らが優れた武将という根拠が全くない。
764日本@名無史さん:2013/08/27(火) 02:35:13.31
堀が榊原を破ったというのは明らかに豊臣方の捏造。
同時代史料にはそんな記述全くないどころか本多藤四郎覚書だと
堀鉄砲隊で一時榊原隊は崩れたが、その後反撃して切り崩し堀隊は敗走したと書いてるし当代記でも同様の内容
つうか堀が榊原を破ってたら池田や森隊と秀次敗残兵を含めて家康・井伊隊を蹴散らせるくらいの兵力には十分なるはず

蒲生も木造攻めで敗戦する雑魚でしかないし秀長も友軍の活躍で最初から100%勝ちが決まったお膳立ての戦でしか戦ってない。
前田もそんな目だった実績ない。
765日本@名無史さん:2013/08/27(火) 02:38:04.23
前田堀蒲生とか家康以前に秀忠みたいな雑魚でも勝てそうだな
766日本@名無史さん:2013/08/27(火) 06:42:44.65
なぜだがをスルーできないのか
767日本@名無史さん:2013/08/27(火) 08:43:19.47
学問・日本史板とは思えない妄想レスが大杉
768日本@名無史さん:2013/08/27(火) 19:44:15.91
だがをスルーできる戦国板>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>スルー出来ない日本史板
769日本@名無史さん:2013/08/27(火) 20:09:06.50
>>768
専用スレが立ってる時点でスルーしてないじゃないか > 戦国板
770日本@名無史さん:2013/08/28(水) 10:11:14.84
>>769
※隔離
771日本@名無史さん:2013/08/28(水) 23:33:04.13
秀吉が大阪に残した遺産250万両って現在価値だとどのぐらいなの?
伏見城にあった100万両は家康にネコババされたみたいだけど。
金山銀山と五大都市の直轄支配&海外交易管理収入は関が原まで
豊臣家が掌握できてたの? 五大老なんて外だけに頼るんじゃなく、
五大老五奉行の上に北政所と淀殿置いて垂簾聴政みたいな感じに
しときゃよかったのに。幼いからって外様に好き放題されないように。
太閤正室で当主の嫡母&当主の生母ならば無理ではなかったんじゃ。
両者がダメならどうにもならないけど、余所者に腸を食い破られて
滅ぶよりは母后達の専横で滅ぶ方がマシじゃね?
772日本@名無史さん:2013/08/29(木) 13:19:40.49
>>771
朝鮮撤兵という重大時においてそんな悠長なことできなかったんじゃね?
773日本@名無史さん:2013/08/29(木) 16:02:51.25
>>771
おう、今論文にしている分野や
774日本@名無史さん:2013/08/29(木) 22:18:04.27
>>771 だから北政所なら余裕でこなせるだろうけど淀じゃ無理だろ。
清の西と東は両方とも有能だったからその体制が成立したけど
片方が有能で片方は無能と言うより素人では上手く回ったと思えない。
淀は淀城で北政所と秀頼を大阪城本丸に置けばよかったと思うんだがな。
775日本@名無史さん:2013/08/29(木) 23:46:28.22
>>771
>五大老なんて外に頼る
この発想が、そもそもおかしいと思うんだけどね。
五大老は、豊臣政権的には「外」ではない。それは徳川幕府的発想w
豊臣秀吉は、地方に割拠する諸侯を、各個撃破していくというより続々と臣従させて、
その持っていたローカルなカリスマを、順次手許に回収していき、
最終的に「天下統一」をする、という手法で全国に君臨したのだから、
豊臣家のすぐ下に、全国レベルでの巨大諸侯が連なって、ここが「公儀」の本体になるのは当然の話。

徳川家康は、この諸侯筆頭の地位を使って、豊臣政権の権威を巻き上げて奪い去っていき、
自分が率いる田舎家臣団だけに、全国統治権限を独占させていった。だから譜代と外様がいる。
逆に、この独占が崩壊した時、「徳川的なる公儀」は瓦解した。
ペリー来航時に、老中主席阿部正弘が、全国諸侯に話を聞いた段階で、徳川幕府は実は崩壊していたのだ、と言ってもいいw
776日本@名無史さん:2013/08/30(金) 00:16:45.94
五大老は外様中の外様だろ。
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や、秀吉子飼い系の福島加藤など尾張衆に加え長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見による領国崩壊で
めちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない
つうか外様系でも宇喜多なんてもう直家が死んだ時点で秀吉領との一体化が進められてたし
毛利や上杉も、最初から秀吉に敵対せずに協力した時点で家康よりも遥かに豊臣に忠義的。
僅かな期間で築いたとか書いてるけどそれは別に徳川も織田も細川も三好も大内も何も変わらんからいいわけにならん
織田に仕えてる時点での秀吉は家じゃないのかって話だし
777日本@名無史さん:2013/08/30(金) 00:22:08.54
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、秀頼と家康直孫との婚姻 結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
778日本@名無史さん:2013/08/30(金) 00:24:51.27
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
779日本@名無史さん:2013/08/30(金) 01:05:16.42
>>776
だから、今の歴史学の一般表現で、彼らは「恩顧」というが「譜代」とは言わないだろ?
この表現の差異が、一体歴史的に何を(どんな権力構造を)指しているのか、まずは通説を勉強すべきだろうよw
尾張衆であっても、木下藤吉郎と濃尾平野を一緒に駆けまわった竹馬の友であっても、譜代ではない。
豊臣政権の権力構造というのは、秀吉が織田政権を簒奪した時点から、全く変わっていない。
「内輪勢」を作らないところに、秀吉の政権奪取の秘密がある。まあ、それこそが弱点だったんだけどな。
780日本@名無史さん:2013/08/30(金) 01:41:48.46
恩顧も譜代もかわんねーよ。ようは外様ではないんだからな。
むしろただ家に付き従ってるだけの譜代連中と違って秀吉の叩き上げの子飼いなんだからよほど「譜代」よりも
秀吉との結びつきが大きいといえるだろ。

所詮上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけの棚ボタ政権だから彼ら譜代衆よりも
外様を厚遇するハメになって豊臣はあっさり崩壊しただけ。
781日本@名無史さん:2013/08/30(金) 01:46:53.15
蜂須賀前野加藤ら尾張衆が譜代じゃなく竹馬の友とか凄い妄想だなw
秀吉は領土安堵状に名を連ねたり一軍の指揮官だったり、毛利宛書状でもせがれの頃から高い身分だった事が読み取れるのに
蜂須賀前野加藤なんて全く名前も挙がらないのに
782日本@名無史さん:2013/08/30(金) 02:17:32.80
秀吉家臣団は長浜時代でいうと一門衆が秀長秀勝三好義房浅野長政杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正福島山内蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末伊藤秀盛・尾藤知宣。
これに近江衆と他国衆が加わる感じかな。
783日本@名無史さん:2013/08/30(金) 06:38:07.32
だがはスルーで
784日本@名無史さん:2013/08/31(土) 15:53:36.38
茶々が豊臣家を自滅させただけやん
秀頼を温室育ちにしたら、国を治める能力も身に付かん
785日本@名無史さん:2013/09/01(日) 17:47:49.89
淀殿は北政所よりも上流階級の武家の出なのに、
どうしてああも武家の女の気構えが無いんだろう
786日本@名無史さん:2013/09/02(月) 16:13:22.23
プライドだけは異常に高い嫌な女
787日本@名無史さん:2013/09/02(月) 16:30:53.90
ドラマの見過ぎだ
788日本@名無史さん:2013/09/04(水) 01:33:34.97
秀頼は淀の言いなりだったのか?
789日本@名無史さん:2013/09/04(水) 08:31:02.88
ダメな方向で自己主張した
790日本@名無史さん:2013/09/04(水) 09:27:51.65
淀「そろそろ現実見ようよ、なっ?」
秀頼「だ が 断 る」

ってのが実情だったようで
791日本@名無史さん:2013/09/04(水) 11:47:55.94
ようやく淀殿が丸くなったと思ったら、今度は秀頼が厨二病全開
792日本@名無史さん:2013/09/05(木) 10:03:44.44
茶々はヒステリーなままだろ
冬の陣もあっけなく講和しちゃったし、あれで終了
793日本@名無史さん:2013/09/06(金) 19:08:55.85
ヒステリーじゃないから講和したんだよなあ…
794日本@名無史さん:2013/09/06(金) 22:36:37.27
同じ部署に、加藤、福島、石田、小西がいるけど、やっぱ石田小西が仲良くて、石田福島が仲悪い
795日本@名無史さん:2013/09/14(土) 20:50:34.34
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
796日本@名無史さん:2013/09/24(火) 11:05:48.07
797日本@名無史さん:2013/10/07(月) 14:12:58.84
>>780
>秀吉との結びつきが大きいといえるだろ
福島正則や加藤清正などの尾張以来の子飼の将にしろ、
石田三成や大谷刑部などの近江以来の子飼の将にしろ、
秀吉に対しては強固な忠誠心があったことは確かだと思う。
しかし秀吉亡き後、尾張以来の将が秀吉の次に恩義を感じていたのは
母親代わりであった高台院であって、淀殿や秀頼ではなかったことが原因じゃないかな。
たとえ凡庸であっても、高台院が可愛がっていた秀次が豊臣を継いでいたら
こんな事態にはならなかったんじゃないかと妄想する。
徳川時代だって、所領的には西国の外様の方が優遇されていて、
三河以来の家臣は大した所領は与えられていないが、家臣団は崩壊しなかったしな。
798日本@名無史さん:2013/10/08(火) 12:24:56.27
>>797
秀次は幼少期から三好家の養子に出ていてねねが育てたわけではないし
別に高台院が可愛がっていたわけではないんでは…
秀次が秀吉の養子になったのは鶴松が没した後の秀次24歳の時のことで
それまでは秀吉は実子ができることを期待していた
(淀殿が産んだ鶴松は生まれると同時にあっさり秀吉の後継者になっている)
高台院が秀頼を可愛がっていなかったということはないしそれは違うはず
秀吉が当時5歳の秀頼に送った手紙が現存していて「かかさま(淀殿)」と「まんかかさま(北政所)」
の言うことをよく聞くようにと書き送っていて高台院が秀頼の養育に関わっていたことが分かる
799日本@名無史さん:2013/10/08(火) 12:42:29.58
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。

『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。

文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、

山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。

秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。
800日本@名無史さん:2013/10/08(火) 12:43:31.91
信長公記の著者である太田牛一(秀頼に仕えていた)がデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死です。
秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。
801日本@名無史さん:2013/10/08(火) 12:44:01.88
漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。

南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
802日本@名無史さん:2013/10/08(火) 12:44:48.31
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。
803日本@名無史さん:2013/10/08(火) 14:54:25.65
秀次が関白に就いたままで秀吉が逝ったとしら、やっぱり秀次派と秀頼派との間で御家騒動が勃発しただろうな。
804日本@名無史さん:2013/10/08(火) 15:01:50.53
争いが起こるとしても秀頼が成人してからじゃなかろうか
805日本@名無史さん:2013/10/08(火) 15:46:16.83
>>804
秀頼本人が騒動起こすなら成人してからだろうが
そうでなくても幼主をいただいて家臣が騒動起こすってよくあるじゃん
806日本@名無史さん:2013/10/08(火) 16:05:27.99
>>805
秀次が健在だと騒動を起こす為の名分も立たないし無理じゃないかな
秀吉がイカれた遺言でも残してりゃ別だけど
807日本@名無史さん:2013/10/08(火) 16:08:20.38
本能寺の変の後、信孝と信雄が揉めたために秀吉が付け入った。
秀次と秀頼が揉めれば、家康が大喜び。
808日本@名無史さん:2013/10/08(火) 16:43:38.96
>>806
遺言があったとしても、秀次や秀次の側近が政権を強固に掌握していたら、
秀頼に政権を明け渡すのを嫌がるだろうな。
秀次にも世継ができているかもしれないし。
809日本@名無史さん:2013/10/08(火) 16:49:07.13
>>808
秀次は切腹時点ですでに世継ぎはいたからな
不妊気味の秀吉の家系には珍しく秀次は子種多
三条河原で斬られた秀次の子に四男一女の5人があり
このほか助命された女子が2人ほどいたとされる
810日本@名無史さん:2013/10/09(水) 22:40:06.02
信長公記はデタラメで三河物語は正しいとか
最近長文を書き込む輩って電波さんが多いねw
811日本@名無史さん:2013/10/10(木) 06:40:01.28
>>810
それは「だが」と通称されるかまってちゃんタイプの荒らし。
スルーでOK
812日本@名無史さん:2013/10/10(木) 10:15:39.20
まぁ織田厨が泣きながら否定している現実が哀れさを誘うけどな。
売文家太田の信用性の無さは致命的だからなw
813日本@名無史さん:2013/10/10(木) 16:08:26.95
織田半島人にとっては
絶対に受け入れたくない事実だからなw
814日本@名無史さん:2013/10/12(土) 08:45:06.12
太田が書いた軍記は全て信憑性が低いクソ資料とされているのに、
信長公記だけ例外中の例外で信憑性あるとか言ってる時点で致命的論理破綻してるしな。
815日本@名無史さん:2013/10/15(火) 11:59:46.10
完全に結果論だが大坂の陣で堀の埋め立てが無かったら良かったんじゃないの?
あのまま2,3年籠城してれば家康が死んで仕切り直しになってたと思うんだけど。
816日本@名無史さん:2013/10/15(火) 12:24:05.60
じゃあ、冬の陣で講和するなよ
徹底的に籠城しなよ
817日本@名無史さん:2013/10/15(火) 13:07:01.86
>>815
>あのまま2,3年籠城してれば
2年間も大砲を撃ち込まれ続けたら、大阪城は原形をとどめてないだろ。
そのうち淀殿や秀頼にも直撃する可能性もあるだろうし。
818日本@名無史さん:2013/10/15(火) 13:19:17.24
>>815
補給の当てもないのにそんな長期籠城は出来ないよ
819日本@名無史さん:2013/10/15(火) 18:02:01.51
いやだから完全に結果論だったと言ってるじゃん。
でも家康が倒れたのが1616年の1月だからね。
あと1年ちょっと耐えれば戦況は劇的に変わったと思うんだけどな。
820日本@名無史さん:2013/10/15(火) 18:33:11.37
慶長19年中に坑道戦術で惣構が爆破されて、落城すると思う
821日本@名無史さん:2013/10/15(火) 19:06:28.07
>>820 そっから二の丸と三の丸の攻略してたら家康が倒れるまでに
間に合わないだろ。
822日本@名無史さん:2013/10/15(火) 19:22:30.46
家康が倒れたのは元和2年だし余裕で間に合うんじゃないか
823日本@名無史さん:2013/10/15(火) 19:31:17.51
やっぱり大坂の陣の時点では無理ゲーだよ。
前田利家か秀長が長生きしない事にはさ。
824日本@名無史さん:2013/10/15(火) 19:38:07.11
>>823 このIFもどうかと思うけどね。
利家存命中のあの婚姻の1件見てるとさ家康が明確に法度違反を起こしたのに
誓紙1枚で終わりだよ?
それに利家に関しては上杉景勝という爆弾がある。

秀長も信長死後の信包や北政所のその後を見るにそこまで影響及ぼせたかは
わからないでしょ。
一番はやっぱり秀次だと思うよ。
825日本@名無史さん:2013/10/15(火) 19:42:15.79
>>821
総構を落とされたらオシマイだよ
826日本@名無史さん:2013/10/15(火) 19:43:24.96
総構が無くなったら軍勢を置いとく場所も無いか
827日本@名無史さん:2013/10/15(火) 19:51:28.86
>>824 北政所って東軍側じゃないの?
出ないと西の丸退去の一件が説明つかないじゃん。
828日本@名無史さん:2013/10/15(火) 19:57:42.54
>>827 内府ちかひの条々にはっきり追い出したって書いてある。
北政所の話は徳川史観に司馬史観が混じり合って訳わからない事になってるが
少なくとも彼女は一貫して西軍、豊臣側。
むしろ関ヶ原の段階では淀の方が家康に近い。
829日本@名無史さん:2013/10/15(火) 20:03:07.68
そもそも大野治長が東軍だし、京極家も東軍だしな。
しかも淀は毛利の本丸入りを認めていない。
830日本@名無史さん:2013/10/15(火) 20:16:44.13
結果論で歴史を語るなよ
おまいらは、今から1年後の為替レートや日経平均株価がわかるのか?
831日本@名無史さん:2013/10/15(火) 21:05:30.88
>>819
毎日朝から晩まで大砲を撃ち込まれて1年も持ちこたえられるわけがないだろ。
832日本@名無史さん:2013/10/15(火) 21:35:20.32
>>831 当時の大砲はそんなに破壊力も射程も無かったらしいぞ。
833日本@名無史さん:2013/10/15(火) 21:51:48.78
茶々はじめ女どもを威嚇するなら、
音だけでじゅうぶんだ
834日本@名無史さん:2013/10/15(火) 22:10:16.97
>>832
家康がオランダから導入した大砲は欧州の攻城砲クラス
835日本@名無史さん:2013/10/16(水) 12:16:47.64
>>832
当時の大砲が非力だったとはいえ、15kgの砲弾を5kmも飛ばしたわけだから、
木造建築の柱や梁を貫くには十分すぎる威力がある。
1年間も攻撃にさらされたら持ちこたえられない。
836日本@名無史さん:2013/10/16(水) 14:26:56.12
それ以前に大坂方の弾薬が尽きて総攻撃を食らうだろう
837日本@名無史さん:2013/10/16(水) 18:49:12.78
>>836
大阪城に籠城しているのは統率の取れていない食い詰めた不逞浪人ばっかりだから、
1年も籠城したら悲惨なことになりそう。
城内でベビーブーム!
838日本@名無史さん:2013/10/16(水) 21:09:07.47
やっぱ利家か秀長だよ。
839日本@名無史さん:2013/10/16(水) 21:17:29.51
何の役にも立たんだろ
840日本@名無史さん:2013/10/16(水) 21:28:55.31
>>839 西軍総大将前田利家なら輝元や三成よりマシだろ。
秀長なら家康じゃ手も足も出ない。
841日本@名無史さん:2013/10/17(木) 11:43:14.77
関が原の戦いの時に武断派の意見を取りまとめて家康に付くように誘導したのが
黒田長政だけど、そういう取りまとめ役が家康側に成立しない
この状況下では利家の圧勝でしょう。
利家はかぶき者の武辺者として、旧織田家臣を中心にかなりの支持を得ていたし。
842日本@名無史さん:2013/10/17(木) 12:08:09.75
関ヶ原から10年以上無為無策の豊臣側に、万にひとつも勝ち目なし
太閤恩顧に頼るだけ
843日本@名無史さん:2013/10/17(木) 14:32:11.81
豊臣に協力な突出したリーダーシップを取れる
経験豊富で人格者な指導者が現れない限り無理。
その役目を織田信雄や織田有楽斎ら織田一族にやらせたのが
致命的失敗の最たるもの。
844日本@名無史さん:2013/10/17(木) 14:35:43.29
利家は調整はできても主導はできまい
845日本@名無史さん:2013/10/17(木) 15:31:15.19
しかしソロバン利家にはかなりの金があった。
伊達や細川や堀らに大金を貸してたくらい。
秀次から金を借りていた毛利みたいに財政破綻大名が西軍総大将になるより
はるかにマシ。
そういや黒田如水も蓄財大好きだったな。
846日本@名無史さん:2013/10/17(木) 15:54:44.66
蓄財しても使い方が分からなくては・・・
847日本@名無史さん:2013/10/17(木) 18:49:19.52
>>843
リーダーシップといっても、淀殿を服従させるような指導者ってことだろ?
豊臣家中にあって、淀殿を上回る権力を持ちながらも、秀頼が成人したら
その権力を秀頼に委譲してあっさり引き下がるような人物だよね?
まーありえないな。
848日本@名無史さん:2013/10/17(木) 20:07:03.70
>>847 そもそも淀って別にそれほど猛女じゃないだろ。
片桐かつ元が退去してからの大阪城なんてマジで人がいないんだから
結果的に淀が主導せざるをえなくなっただけで。
849日本@名無史さん:2013/10/17(木) 20:27:28.24
>>847 北政所は?
850日本@名無史さん:2013/10/17(木) 21:38:58.07
もし関が原が長引いたら如水に勝ち目はあったの?
851日本@名無史さん:2013/10/17(木) 21:49:53.39
>>850 ない。遊んでただけだよあれは。
852日本@名無史さん:2013/10/17(木) 23:03:22.55
山名宗全待望論
853日本@名無史さん:2013/10/17(木) 23:12:00.88
>>847 秀長が長生きしてたら決まりだった気がするぞ。
これ以上の適任者はいない。
854日本@名無史さん:2013/10/17(木) 23:42:50.65
>>852
豊国じゃだめか
855日本@名無史さん:2013/10/18(金) 07:09:27.14
>>853
秀次さえ抹殺したからな。秀長が長生きしてもあの時点で殺されてたかも知れん。
856日本@名無史さん:2013/10/18(金) 09:04:16.90
○○が長生きしてたら、
系の書き込みって、全然面白くないね
857日本@名無史さん:2013/10/18(金) 09:20:03.48
>>856
しょせんIFだから
秀長利家が生きてたとして
家康に勝利できた保障もないわけで
858日本@名無史さん:2013/10/18(金) 09:31:08.93
秀吉が家康よりも長生きすればよかった 

終了
859日本@名無史さん:2013/10/18(金) 10:33:11.56
大坂の陣の頃だと秀吉は数えで80くらいになっちまう
860日本@名無史さん:2013/10/18(金) 10:46:40.53
>>859
少なくとも秀頼が元服して関白に就任するまでは
生きていればよかったんじゃないかな
861日本@名無史さん:2013/10/18(金) 13:25:03.17
秀頼は秀吉が生きてる間に元服してるけどな
862日本@名無史さん:2013/10/18(金) 14:33:17.61
秀吉がもう2年生きていただけでも、史実の関ヶ原の戦いは無かったんだけどな
黒田も福島も宇喜多も半島にいたんじゃないか
863日本@名無史さん:2013/10/18(金) 15:59:05.41
あと2年も生きられたら西国大名は疲弊しすぎて立ち直れんだろ
864日本@名無史さん:2013/10/23(水) 20:57:16.17
北政所が西の丸じゃなくて大阪城本丸の実権を握っていたらどうなってたと思う?
淀が死ぬとか秀吉の不興を買うとかした場合で北政所が秀頼の正式な養母になるパターン。
865日本@名無史さん:2013/10/23(水) 21:34:40.79
利家は大坂で秀頼の後見人に、家康は伏見で政務を執れという秀吉の遺言が全ての元凶
なぜ、豊臣政権の全権を家康に託してしまったのか
秀吉の遺言に反するから、ねねですら家康には公然と盾突けない
866日本@名無史さん:2013/10/23(水) 21:57:39.36
真面目な話、当時の日本を統治できるのが家康しかいなかったから
867日本@名無史さん:2013/10/23(水) 22:00:04.29
>>865
問.秀吉死後の政権運営を円滑に行うための最良の案を記述せよ。(15点)
868日本@名無史さん:2013/10/23(水) 23:41:46.49
>>865
秀吉子飼いの五奉行を譜代大名として政治を任せればよかった。
五大老はすべて外様なので、政治に参加させない。

江戸幕府はそれを徹底していたからね。
どんなに大封の大名でも、外様は絶対に大老や老中などの幕府の要職に就かせず、
幕政に一切口出しさせなかった。
869日本@名無史さん:2013/10/23(水) 23:45:25.73
役不足
870日本@名無史さん:2013/10/23(水) 23:51:48.73
役不足の誤用。いただきました!
871日本@名無史さん:2013/10/24(木) 00:20:21.48
>>868
でも正直、武家関白制の下で幕府みたいな組織構築できるのか、って疑問がある
872日本@名無史さん:2013/10/24(木) 00:21:30.11
(っていうか子飼いの五奉行……?)
873日本@名無史さん:2013/10/24(木) 00:23:28.97
秀吉は将軍になりたかったけど、足利義昭が現役将軍で
義昭の養子になろうとしたけど断られて関白就任したんだっけ
874日本@名無史さん:2013/10/24(木) 01:01:46.67
>>873
将軍より関白の方が難度高い時点で俗説な件
875日本@名無史さん:2013/10/24(木) 07:45:04.35
>>868
江戸幕府の組織やルールは時間の経過とともに確立されたもの。

豊臣家は初期の徳川公儀と同じように自家の仕組みを使って全国
支配を始めたばかりだしな。

奉行衆は徳川家だと老中にあたるが、その権勢を維持する為には
秀吉の権力が不可欠だから、それが失われた時点でどうしようも
なかっただろう。
876日本@名無史さん:2013/10/24(木) 10:04:07.56
官位官職を与える条件なんて、
信長の例をみれば、
前例も実績も姓名も時間的制限も
全く関係ないのはあきらかだろ。
三職推任なんて、その最たるもの。
877日本@名無史さん:2013/10/24(木) 10:14:09.56
そもそも江戸幕府の初期は、比較的大領を保持する譜代大名が軍事権限を保持し、いわゆる老中は家政機関に過ぎず、
政権内での格も軍事担当の大名より劣ったものだった。

老中などの家政機関が幕府の最高意思決定機関として前面に出るのは家光の死後くらいからだな。
定着したのは吉宗以降だ
878日本@名無史さん:2013/10/24(木) 10:16:00.31
>>876
三職推任については未だに様々な議論があって定説すら確定してないのに断言するバカって…
879日本@名無史さん:2013/10/24(木) 10:44:09.14
>>871
冷遇されているとされる関ヶ原後の徳川武功派大名も、
大坂の陣では本多・榊原・酒井が一隊の大将を勤めているし
880日本@名無史さん:2013/10/24(木) 11:46:37.04
>>876
あれは朝廷を廃止しかねない
激昂し易い信長の暴挙への不安感からくる
朝廷による諂いなので非常事態の例外事例だろ。
まぁ武力による恐怖を背景にすれば、いくらでも官位官職は自由自在に
手に入れられるのが否定できない事実を信長は証明してみせたのは事実だが
それにしたって女子供例外なく日本人数十万人を残酷な手法で虐殺してまわった信長だからこそ
可能になったのが三職推任だから、そうそう日本史上に現れるたぐいの人物ではないので例外中の例外であり
前例足り得ないと思う。まぁだからこそ信長は自滅して、織田政権は解体されたとは思うが。
881日本@名無史さん:2013/10/24(木) 13:50:49.03
だがはスルーで
882日本@名無史さん:2013/10/24(木) 14:16:28.44
>>873
それは一次史料にないよ
江戸時代の俗説の類
883日本@名無史さん:2013/10/24(木) 21:37:39.28
>>867 秀頼の後見役と政務の代行を同時にねねにやらせれば良い。
後見役としての箔は十分だし、政務の代行も十分実績はある。
それに細かい事はどのみち奉行衆にやらせればいいわけだし
幸い奉行筆頭の浅野家は長政とは二重の意味で義兄弟、幸長は実の甥だ。
三成とは辰姫つながりがあるし出来ない事はない。
大老でも前田、宇喜多とは濃厚なコネがあるしな。
実質家康に対抗するにはそれしかないだろう。
884日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:51:04.68
お前達秀吉の死んだ時って朝鮮出兵の真っ最中だった事忘れてるだろ。
885日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:51:20.46
>>867
幼い関白はいくらでもいたのだから、秀吉はわずか5歳で元服した秀頼を
秀吉が死ぬ秀頼7歳までの間になぜ関白にまで引き上げなかったかだよな。
最低でも家康より官位を上にしておかないと駄目だろ。
関白にするでなく、征夷大将軍にするでなく、
権中納言という中途半端な官位ではすべてが微妙すぎるわ。
886日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:02:29.21
秀頼の官位といい、臣従渋りまくってた潜在的反豊臣の家康に政権丸投げしたり
晩年の秀吉は秀頼溺愛してた割りに政策に穴が目立つな
相当耄碌してたのか?
887日本@名無史さん:2013/10/25(金) 07:46:47.60
>>885
若い関白は居ても幼い関白は居ないぞ。
888日本@名無史さん:2013/10/25(金) 08:27:07.69
>>885
関白は形式だけのお雛様ではなく、帝の顧問であり代理だから、
たとえ帝が幼くても政を預かれる成人である必要がある。
889日本@名無史さん:2013/10/25(金) 09:00:28.44
家康より官位を上げようとすると右大臣、左大臣、太政大臣あたりになるが
あれは一旦内大臣を経由するから、家康の官位をさらに上げて内大臣を
空席にしないといけないというジレンマがあるな
890日本@名無史さん:2013/10/25(金) 09:49:28.24
やっぱり家康が長生きし過ぎたことが
最大の誤算だよな。
元就もそうだが、長生きしてれば地域の顔役になれんだよ。
891日本@名無史さん:2013/10/25(金) 12:59:21.96
徳川家康 享年75
前田利家 享年62
毛利輝元 享年73
上杉景勝 享年69
宇喜多秀家 享年83

早死にではないけど長生きしすぎたと言われるほどでは無いような
892日本@名無史さん:2013/10/25(金) 13:24:01.61
妄想は脳内で完結してくれよ、つまらねえよ
893日本@名無史さん:2013/10/25(金) 15:08:55.13
>>888
元服した時点で成人だよね。
秀頼は5歳で元服している。

征夷大将軍ももともとは幼いのはいなかったが
江戸幕府は慣例やぶって4歳の征夷大将軍なんてやってたから
どうにでもなったんじゃ。
894日本@名無史さん:2013/10/25(金) 15:22:02.51
鎌倉幕府の公家将軍、宮将軍は、傀儡だから、幼かったが
895日本@名無史さん:2013/10/25(金) 15:57:14.54
>>893
公家はそのくらいで元服するし官位も貰うけど、さすがに関白は無理。
896日本@名無史さん:2013/10/25(金) 16:05:25.80
なんというか妄想にひたる人って、現実をスルーしてるよね
897日本@名無史さん:2013/10/25(金) 17:50:46.29
>>895
前例にとらわれていたから豊臣家は滅亡した。
そもそも、秀吉の関白任官がなければ、摂関は皇族か藤原氏の独占で
他姓はけしてなれないものという通説になってたんじゃない?
秀吉は前例を破り摂家豊臣家を打ち立てたのだから、前例を破ればよかった。

そんなこと言っていたら、豊臣家がどうやったら残れたかということを
議論することすら無意味。
898日本@名無史さん:2013/10/25(金) 20:11:03.65
>>893
どうにでもなるなら、羽柴のままで関白になってるだろうし、
秀頼だって秀次を殺したすぐ後に関白にできた。
どうにもならなかったから、後事を五大老、五奉行に託すしかなかったんだろ。
899日本@名無史さん:2013/10/25(金) 20:43:00.52
>>897
出来もしない事を出来る筈だと言い張ると議論にもならない

そもそも関白についてれば助かったはずと言う前提がオカシイ事に気づくべき
秀次がどうなったか知らない訳じゃなかろうに
900日本@名無史さん:2013/10/26(土) 04:49:35.29
武家関白制の権威は秀吉自身がぶっ壊したようなもんだからな。
901日本@名無史さん:2013/10/26(土) 07:13:57.96
確かに秀次を自害させてから関白は空位のままだったし
宗家に変わって関白位を代行するべき分家も軒並み断絶させちゃったしな
902日本@名無史さん:2013/10/26(土) 12:47:48.10
秀吉や秀次の政治に関しては、いまだ大半が軍記からの想像でしょ。
例えば秀次の不行跡は記録が『多聞院日記』や『兼見卿記』にあるあると
2ちゃんで書かれてても実際に調べると
秀次の罪状に関する公家や朝廷の公式な記録は何一つない。

『大かうさまぐんきのうち』の比叡山狩猟の件も信用できない。

文禄2年(1593)の6月8日に女人禁制の比叡山に女人を引き連れ、殺生禁断の地で狩を行い、
止めようとした僧たちの塩酢の器の中に獲った鹿肉を入れたとあるが、

山科言経の日記『言経卿記』では、
秀次はその日に山科らと聚楽第の山里で琵琶法師の平家物語を聞いてる。
(山里町という山里茶亭を由来とする町名があることからおそらく聚楽第の茶亭)
つか、仮に山里が聚楽第でなかったとしてもそういう事実があれば
山科言経が日記に残してない方がおかしい。
秀次の母親の日秀が秀次供養するために建てた瑞龍寺に
村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのは他でもない後陽成天皇だぜ。
そんな不道徳なことを本当にやってたら天皇がわざわざそんなことをするはずがない。
903日本@名無史さん:2013/10/26(土) 12:48:26.65
秀次が「殺生関白」と呼ばれてるのは、『大かうさまくんきのうち』が、
正親町天皇の諒闇中なのに狩りをした秀次を批判する京童の落首を引用しているが初出だよ。
庶民を虐殺したから「殺生関白」と呼ばれてるわけではありません。
しかしこの落書も同時期の記録にその落首が残ってないから信憑性を疑われてる。

信長公記の著者である太田牛一(秀頼に仕えていた)がデッチあげてデタラメを並べて秀次を悪く書いてるだけ。
三河物語で大久保から信長記はデタラメと叩かれた著者の太田は金をもらって捏造する売文家です。
しかし織田チョンは、あれは太田牛一が書いた信長記だけは除いて批判したものに違いないと
なんら根拠なく妄言を吐く朝鮮脳で白昼夢を主張するキチガイ
逆に川角太閤記では秀次に落ち度はなく、秀吉が老いて耄碌して三成の讒言を真に受けて
秀次を殺したと正反対の内容を書いているなど、所属する立場や思想信条から相手を悪く書く対立が見え
とても史実とは思えないデタラメが横行してます。
(実際には秀吉が耄碌していたとは思えませんし、讒言をしたとする三成の介入も一次史料から証明できません)
ちなみに謀反人の場合は斬首であり、自刃のような自害による名誉を守る行為は許されません。
つまり秀次は名誉の死であり、秀吉や秀次の政治に関しては、相手を中傷するために落書など平気でデッチあげてます。


漁夫の利を得た利家の陰謀と考えるのが一番分かりやすいです。
904日本@名無史さん:2013/10/26(土) 12:49:27.73
南部根元記には秀次が奥州の仕置きを終えたので平泉を見た
そして最上へ向かい義光がもてなし奉り息女いこまの方を秀次公に参らせる
と書いていてその記述には平泉に寄っているなど書かれており
後世の研究調査から平泉中尊寺には秀次軍令書などの文書が納められていることが発見され
秀次の平泉訪問も事実と確定され南部根元記の記述が極めて事実に基づかれているとされた。
そのため義光の方から進んで駒姫を秀次に差し出したのも極めて事実に近いとされる(伊達成実記とも合致する)
南部は秀吉からの武装解除の一環としての一国一城の破却令により天正20年6月に
領内48城中→破却36城の上で存置12城が許されたとされる。
戸沢は角館の1城のみを残して33城を城破りをしているため南部は破格の待遇である。
前田や蒲生と入魂していたからであろうか。利家は氏郷亡きのちの蒲生家存続にも尽力して
秀次・利家・蒲生・南部・浅野らが日本海から奥羽に影響力を行使しているのがわかる。
そして利家や氏郷らは南部と組んで津軽や安東を田舎者と名護屋陣でいじめていた。
のちに困り果てた津軽の働きかけで親しくなるように浅野が仲介してきたが拒否し
前田などが津軽を辱めたので浅野なども津軽に関して何も言わなくなったと記している。
前田家文書には秀吉→関白宛の文録元年5/18に
来年正月の2月頃に3万を率いて兵庫より乗船し秀次が朝鮮へ渡海する命令がある。
南部信直→織笠但馬守に年不詳9/20で秀次公来年高麗国へ出陣。暦明け候はば上洛と記され
南部も前田騎下として秀次とともに朝鮮へ行く予定だった。
どうやら何らかのこともあって秀次&前田&南部の朝鮮渡海は中止となったようだ。
秀次と親しくなることで朝鮮渡海しないで済むような状況があったのだろうか。
905日本@名無史さん:2013/10/26(土) 12:49:58.87
ちなみに黒田如水が朝鮮出兵を自ら申し出るように秀次に忠告したと言う。
文禄4年7月秀次自害と同じ頃、津軽が浅利を支援し戦闘開始されており
安東は進退に窮していると知らせがあり、また最上の小野寺侵略の岩崎合戦が開始される。
伊達と最上が秀次と共謀の罪があるとされたので、世上暗澹なこともあり信直は娘が
安東実季の弟に嫁ぐ予定だったが(利家斡旋らしい)安東から連絡もないし延期した方がいいとしている
このことから当時の奥羽がかなりの混乱下にあり秀次との謀反連動の疑いが強い。
(秀次は伊達や毛利に大金を貸していた。また利家も伊達に金を貸している)
奥南旧指録附載には南部利直は前田&浅野と先代以来親しかったので東軍の立場を鮮明し
最上に加勢したが領内和賀一揆のために最上出羽守に相断り帰陣し一揆を討ったと記されている。
利家は柴田を見捨てただけでなく、親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて早世した娘の与免と婚約者だった浅野幸長ばかり擁護、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど
有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
利家は秀次の死によって秀頼後見役にのし上って、秀吉亡きのちは事実上の天下人になっていた。
906日本@名無史さん:2013/10/26(土) 12:59:26.88
だがはスルーで
907日本@名無史さん:2013/10/26(土) 13:14:58.30
お経ですか?
なむなむ
908日本@名無史さん:2013/10/27(日) 10:45:16.15
秀吉の近親者って、秀長と姉の息子たちしかいなかったから、
この連中が全滅したら、もう幼児の秀頼しかいなかったんだな。

もともと氏素性も定かでないし、自分の血筋にこだわらず、
秀康なり秀家なり秀秋なり、養子に継がせてよかったんじゃないのか?
いよいよとなれば八条宮でもよかっただろう。
909日本@名無史さん:2013/10/27(日) 10:54:24.25
>>908
秀頼が夭折したら別の道考えたんじゃね?
多分、最有力はねねの甥である秀秋

実際には秀頼は育っていたのだから
秀頼がいるのにほかの誰かという選択肢は秀吉にないだろ
910日本@名無史さん:2013/10/27(日) 11:15:11.94
信長の子の秀勝が長命していたら、
秀次ではなく、こっちが本命だったんだろうか?
もともと、最初に迎えた養子だし。
911日本@名無史さん:2013/10/27(日) 11:39:05.50
秀秋は秀次が関白になるまでは有力候補だったね
小早川家に養子に出された時点で後継の目が消えちゃったけど
912日本@名無史さん:2013/10/27(日) 12:41:07.69
>>910
信長時代はそうかもしれんが、豊臣政権下で秀次より秀勝が優先されることはないだろう。
もともと養子に迎えられた順番は秀勝→秀康→秀秋→秀勝(秀次弟)→秀次なんだよね。
秀次はずいぶん後から養子になったが関白を譲られている。
秀勝は長生きしても後継者ではなかったと思う。
秀康は名義上養子だが実質人質だったし、5年ほどで結城と養子縁組して結城家に入り婿している。
秀秋はねねに育てられ秀吉に鶴松が誕生しても唯一養子で有り続けていたが
秀頼誕生後にやはり小早川に養子に出されている。
913日本@名無史さん:2013/10/27(日) 13:04:27.44
信長実子の秀勝が長生きした場合は織田に復姓させられそう
914日本@名無史さん:2013/10/27(日) 13:05:01.22
秀康は猶子じゃね?
915日本@名無史さん:2013/10/27(日) 13:15:03.87
>秀勝→秀康→秀秋→秀勝(秀次弟)→秀次
3番目に秀秋がきてる点から見ても、やはり秀秋は重視されてたのかな。
秀吉から見れば姉の子も妻の甥も、どっちも同じような感じだったのかな。
916日本@名無史さん:2013/10/27(日) 14:13:20.67
>>915
秀勝は主君織田信長への忠誠のため
秀康は家康が差し出した人質を厚遇するため
いずれも政治的配慮で養子にしたものだからなあ

秀吉が自分の身内として養子に迎えたのは秀秋と姉の子2人(秀勝・秀次)だけだと思うわ

八条宮は秀吉の猶子だね
羽柴や豊臣は名乗らず皇族のままだった
917日本@名無史さん:2013/10/27(日) 14:46:42.67
秀吉が死ぬ前の話はもういい
スレ違い
918日本@名無史さん:2013/10/27(日) 14:58:27.96
スレタイに厳密にそうと「家康が覇権を確立しました」で終わってしまうような
919日本@名無史さん:2013/10/27(日) 15:20:03.84
白峰旬氏が関ヶ原合戦について色々書いているけれど、皆さんの感想はどう?

後、別府大学図書館の機関リポジトリはよ復旧しろや
920日本@名無史さん:2013/10/27(日) 16:15:06.72
史料は丁寧に調べるのに、集めたデータからなんでそんな結論へ至んだ?と
ビックリする事が多い

実際にはプロなんだから文章に書いてない史料なども検討はしてるんだろうが
正直、目新しい説をぶち上げたいだけに見える。
921日本@名無史さん:2013/10/27(日) 16:51:11.05
白峰さんと同様の分野を論文にすると、どうしても引き合いに出す必要があるけど、
そうするとツッコミだけで半分紙面を食われるw
922日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:11:13.65
例の新「関ヶ原合戦」論はヒドかった。後半黒田家譜のまんまじゃねーかと
923日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:22:35.49
そもそも家康は人質として息子を秀吉に指し出していない。人質として出してたというなら
翌年の両軍の冷戦状態なんてありえないし両陣営とも戦争の準備進めまくってたが秀康は切られず
佐々攻めの際の織田信雄の書状でも秀吉は秀康を人質としては扱ってないと書いてる。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
924日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:23:29.00
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
石川は小牧長久手の頃から秀吉に半分篭絡されつつあったし、小笠原が石川の人質連れて秀吉の元に逃げたから
離反しただけ。翌年も家康は秀吉に従うどころか、諸城普請とか浜松会議とか北条との同盟強化とか対秀吉に備えて動きまくってたし
秀吉も天正13年中頃から天正14年初等まで上杉や真田などに天正14年春の家康討伐計画細かく書いてるが、いざその頃になるとビビリまくって信雄を家康の元に送って仲介させたり、
母と妹人質に出して「ワシに従ってくれ〜」とばかりに土下座してきたから、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
925日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:25:28.92
秀吉は近しい者いまくりだよ。福島も加藤も秀吉の正室の縁者だし
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や、秀吉子飼い系の福島加藤など尾張衆に加え長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見による領国崩壊で
めちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない
つうか外様系でも宇喜多なんてもう直家が死んだ時点で秀吉領との一体化が進められてたし
毛利や上杉も、最初から秀吉に敵対せずに協力した時点で家康よりも遥かに豊臣に忠義的。
僅かな期間で築いたとか書いてるけどそれは別に徳川も織田も細川も三好も大内も何も変わらんからいいわけにならん
織田に仕えてる時点での秀吉は家じゃないのかって話だし
926日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:25:37.50
だがはスルーで
927日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:26:40.62
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、秀頼と家康直孫との婚姻 結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
928日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:27:05.90
秀吉家臣団は長浜時代でいうと一門衆が秀長秀勝三好義房浅野長政杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正福島山内蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末伊藤秀盛・尾藤知宣。
これに近江衆と他国衆が加わる感じかな。
929日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:28:25.69
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
930日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:29:23.96
天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
931日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:30:20.48
跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
932日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:32:54.53
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、秀頼と家康直孫との婚姻 結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、秀吉が認識していて当然。
実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、秀吉の意思に背いた不忠といえる。秀頼・千姫の間の子は世継ぎになるわけで。
徳川の血が、豊臣宗家に組み込まれるわけだけど。実際融合されなかったのは、邪魔をした者がいたから。そしてそのせいで、豊臣滅亡。不忠でしょ。
千姫は正室なので、当然千姫との間の子が世継ぎでしょ。そうなれば、政権における徳川家の影響力が増す
933日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:48:38.69
秀吉がかなり信頼を置いていたと思われる毛利一族が全くといって使い物にならず
また秀吉子飼いで最も恩を受けてると思われる武功派が三成憎しに凝り固まって家康に利用されたのが運のつき。
934日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:51:05.78
三成はかわいそうだよなぁ
18万の大軍をかき集め絶対勝てる状況作りながら輝元は伊勢湾やら四国やらどうでもいい方向に軍分散させまくり
美濃口を突破されそれでもめげず本戦でも布陣で優位に立ち毛利一族さえ馬鹿じゃなきゃ絶対勝てる状況作ったのに
肝心の輝元は大阪に居座るアホっぷりで秀元秀秋広家も全く使い物にならず大敗
毛利のアホさ加減で努力が水の泡に帰したのが三成
935日本@名無史さん:2013/10/27(日) 17:58:01.91
文を短くすればひっかかるとか思ってるのだろうか
936日本@名無史さん:2013/10/27(日) 19:24:09.09
アンチ秀吉コピペ厨は毎日どんだけ暇なんだ
937日本@名無史さん:2013/10/28(月) 00:13:57.59
ご指摘のとおり輝元
はたぶんアホ。

元就の武功ばかり
強調されるが、毛利を
軌道に乗せて中国一の
大大名にしたのは隆元。
938日本@名無史さん:2013/10/28(月) 13:08:08.91
自らの居城を取り囲むように徳川方の築城が進んだのに、無為無策だった豊臣家。
武家で生まれた茶々は、秀頼をどのように育てるつもりだったのか。
秀吉の息子、ただそれだけの世間知らずに、皆が素直に従うと思っていたのだろうか。
939日本@名無史さん:2013/10/28(月) 20:37:28.72
そういう現実は北政所が一手に担っていたから
940日本@名無史さん:2013/10/28(月) 20:49:34.20
北政所って唐入りの時に通行許可だしてたくらいだと思うけど
他になんかしてたっけ?

むしろ関ヶ原の直前に京都新城の堀や櫓を破却すると言う
行動が謎な人だ。
941日本@名無史さん:2013/10/30(水) 09:27:03.11
>>940 朝廷との交渉とかも一手に引き受けていたはず。
まあ何せ彼女に頼めば不可能なことはないとまで言われた権勢を誇っていたわけだからな。
ただ淀の立場って微妙だったんだろうなあと思う。
醍醐の花見の話が本当かどうかはともかく豊臣家の後宮は北政所が圧倒的な
権勢で仕切っているし、秀吉の寵愛が一番深いのは圧倒的に松の丸殿だし
更に京極家は浅井家の主筋、旧織田の方に頼ろうにも信長の娘の三の丸殿だの
同じ信長の姪でも男系の姫路殿とかもいたわけで居心地は最悪そう。
だからこそ秀吉が死んだ瞬間彼の妻たちは北政所含めて
大阪城や伏見城から退去せざるをえなくなったんではないかと。
942日本@名無史さん:2013/10/30(水) 12:34:37.67
松の丸殿のあれはただの人質
943日本@名無史さん:2013/10/30(水) 12:54:18.93
だがはスルーしとこうよ
944日本@名無史さん:2013/10/30(水) 15:09:13.57
まぁ秀吉の室ってのは
その大半が人質だったんだろうね。
その証拠に子供が生まれてないしね。

明確に側室扱いだったのは、長浜城時代に羽柴秀勝を生んだ人物とねねと子を成した市くらいだったんだろうね。
そもそもねね時代の秀吉は信長にコキ使われて外出中ばっかで
子を成す暇はなかっただろうしね。
それは秀長も同様で、結局、男児がおらず養子だもんな。
945:2013/10/30(水) 15:30:36.18
ね、バカでしょw
946日本@名無史さん:2013/10/30(水) 16:03:06.33
豪姫の姉って誰のこと?
宇喜多直家の妻を妾にしたと言う記述は毛利の捏造史料にしか出てこないデタラメ。
毛利は宗麟を女好きと捏造記述したりと毛利の敵だった側をむちゃくちゃ悪く書きまくってる。
しかし実際に幼女をレイプ目で見ていた輝元を危険視して匿った挙げ句に婚姻させたが
それでも諦めずに輝元が隙をみて略奪して子を生ませ
その夫を隆景が暗殺してるのはリアル史実w
残念だが光成氏も寵愛を受けた記述があるのは毛利の捏造軍記である陰徳記のみで
一次史料には無いと否定してるわけだがw
相変わらず在日毛利厨って無知だな。
22:人間七七四年 08/14(日) 15:00 p7pjEErP [sage]
>>11>>19
摩阿姫のことを言ってるようには思えない内容なんだが?
摩阿姫は非嫡出子の可能性が高く普通は利家夫婦の子とカウントしない。
そのため12歳の時に柴田への人質に出され北ノ庄城へ送られ
佐久間十蔵と婚約済みである以上はすでに非処女だし。
その摩阿姫が人質として京へ送られたのは1586年であり14歳の時。
しかも秀吉の側室として関係を持つ可能性があるのは
1587年9月に聚楽第が完成して、そこで摩阿姫が起居してからだから15歳。
しかし摩阿姫は病身であり子供が秀吉との間に出来てないが、
のちに万里小路充房との間に利忠を生んでる。
元々、人質の立場であって秀吉の好みからではないから
秀吉が手をつけたかどうかすら怪しい。
>>妾にした時その娘は数え歳でまだ十二歳
>>現代の年齢の数え方だと11歳
これwikiの1585年に秀吉の側室になったデタラメ記述から盗用した挙句に
秀吉を貶すために悪意ある文章を書いただけだろw
こんなの前田家の保身のための人質なんだから
糾弾すべきは秀吉じゃなくて前田夫妻の方だろ。
在日は無知なだけでなく捏造歪曲までやるから気持ち悪いわ。
947日本@名無史さん:2013/10/30(水) 22:20:57.75
>>944
>まぁ秀吉の室ってのは
>その大半が人質だったんだろうね。
>その証拠に子供が生まれてないしね。

千姫が秀頼との間に子を産まなかったのは
千姫は徳川が豊臣に差し出した人質だったせいか?
相変わらずコピペ馬鹿は暇だなw
948日本@名無史さん:2013/10/31(木) 12:05:10.86
7歳〜19歳の間しか千姫は秀頼と一緒じゃないんだから
まだ子供ができなくても不思議じゃない。
そんなこと言ったら48歳でやっと嫡男を得た上杉景勝なんてどうなるんだw
949日本@名無史さん:2013/10/31(木) 20:37:16.18
そもそも妊娠出産で千姫が死ぬような事態を避ける為に、
キッチリ成長待ちしてたんじゃないかねぇ。
950日本@名無史さん:2013/11/01(金) 09:25:48.21
たしかにそれ重要だわな。
せめて家康死ぬまでは生きてもらわないと都合悪いしな。
951日本@名無史さん:2013/11/01(金) 09:40:43.44
さっさと将軍秀忠の外孫を抱える、しかも男子なら嫡子にしてしまう、
という方法を取れれば、豊臣家の安泰度は上がったろう。
どっちにするかは、賭けだけど。
952日本@名無史さん:2013/11/01(金) 10:07:52.39
当時の平均寿命から考えて、家康はもうじき死ぬから
それまで粘れば、後は秀忠の妻の江がなんとかしてくれると淀も思ってたんじゃない?
だから老いぼれ家康が死ぬ前に千姫が死ぬリスクは避けたいだろう。
953日本@名無史さん:2013/11/01(金) 10:12:57.51
国松の扱いがアレな時点で配慮はあったのだろうな
954日本@名無史さん:2013/11/01(金) 10:46:13.66
家康は織田秀信ですら救う気持ちがなく餓死に追い詰めたほどだし
955日本@名無史さん:2013/11/01(金) 11:22:12.46
ただの病死にイチャモンつけるとか
956日本@名無史さん:2013/11/01(金) 12:14:34.53
改易にしてほしくなかったなぁ。
殺されなかっただけでも御の字か。
957日本@名無史さん:2013/11/01(金) 13:06:48.60
白峰氏の論文を取り寄せたんだが、なんだろうこの史料量に対する分析の薄さは
個々の事象を無理やり、家康が関ヶ原合戦で主導的な立場になったことを隠蔽するために繋げているし
後、軍事作戦を論じているのに、それに対する分析が殆ど無いのは木に竹を接ぐ印象がある
958日本@名無史さん:2013/11/01(金) 15:30:33.20
後、別府大学は論文を分割しても良いらしく、三回に分けて掲載している
それが故に論文が冗長で、論点を掴み難い
959日本@名無史さん:2013/11/01(金) 15:44:32.50
別府に大学なんてあるんだ。
960日本@名無史さん:2013/11/01(金) 16:53:37.03
>>957
史料を収集する能力はあるのに、分析力は歴史作家以下な感じ。
仮説に反する史料はガン無視。

書状も分だけ読んで書札礼を一切検討せず。意味不明な個所はスルー。

白峰氏は自分の紡いだ言葉に囚われて本質を見失うタイプなのかも
知れない。
961日本@名無史さん:2013/11/01(金) 17:14:38.30
当然と言えば当然なのだが、最近は軍事史に触れることも多くなったが、
肝心の教授の軍事に対する理解が低すぎる
正直、在野の研究者の方が百倍まし
962日本@名無史さん:2013/11/01(金) 19:32:30.78
後、白峰氏はフィクションと唱えた後のリアルを提示しないのよね
963日本@名無史さん:2013/11/01(金) 19:50:45.11
いつも徳川史観どうこうで曖昧に逃げちゃってるからなぁ
964日本@名無史さん:2013/11/01(金) 20:07:27.80
小ネタ

清須軍議に井伊直政・本多忠勝は出席していない
965日本@名無史さん:2013/11/02(土) 01:26:50.54
秀秋はねねには可愛がられてなかったけど秀吉からは可愛がられてたよね
実子が生まれるまでは
輝元が秀吉に挨拶に伺ったら忙しくて少し話しただけで奥に行っちゃって
代わりに秀秋が出てきて、秀吉の座ってた場所に座り対応した姿に感じ入ったって輝元が残してるし
なんのかんので世継ぎとしてそれなりの教育は受けてたっぽい
966日本@名無史さん:2013/11/03(日) 09:04:12.34
大衆向け本を出すだけの白峰は浅い。
つか論文書いたこと無いんじゃね?
967日本@名無史さん:2013/11/03(日) 09:05:56.31
いや、別府大学で論文書いているよ
ただ一般的な論文の要件を満たしていない気もするけれど
968日本@名無史さん:2013/11/03(日) 09:43:59.75
三段論法ならぬ三段飛ばし論法だよなアレ
969日本@名無史さん:2013/11/03(日) 09:47:33.35
もう少し、足元固めろと言いたい
970日本@名無史さん:2013/11/04(月) 18:30:08.32
そもそもさ淀の方って大野治長が東軍の時点で家康に悪感情関ヶ原時点で
持ってないでしょ。江の事もあるし、千姫とはすでに婚約済みだしさ。
逆に北政所の方が明らかに家康を警戒してる。
出なきゃ裸足で宮中に逃げ込まない。
この二人の認識の差はイコール経験の差ってことも大きいんだろうけど
やっぱり武士の慣習通り秀吉がねねに秀頼を養育させていれば
とうぜんねねが秀吉死後の大阪城本丸の実権を持ったんだろうし
そうすればもっと一致団結して家康に対抗できたんではないのかね?
971日本@名無史さん:2013/11/04(月) 18:32:30.85
自分が子無しで跡継ぎの養育に関われなかった時点で
秀吉が死んでしまえばただの未亡人に転落してしまうもの。
秀吉も鶴松のことがあったから淀に養育させたんだろうけど
実はそれが一番の大失敗だったんではないかと思ってる。
972日本@名無史さん:2013/11/04(月) 19:27:10.27
初歩的な質問だけど、関ヶ原の合戦のあと、家康の将軍就任までの期間、
全国政権の主は形式上、誰だったの?
誰がどういう地位や資格で形式上トップに立ってたの?
(天皇というのはなしね)
973日本@名無史さん:2013/11/04(月) 19:36:13.25
秀頼が生まれたときは、秀次に関白を譲ったあとで家督争いになりかねんし
捨松みたいに早死にするかもしれないし不安要素が強すぎて
ねねにも「われ等の子はお拾いだけお拾いは淀の子として育てよう」と話してる
長じるにつれて実子に継がせたい欲が出てきて、その配慮を無に帰したまま秀頼の処遇は宙ぶらりんで世を去った
本来なら信長のように庶子でも正室の養子とすることで嫡男として格を与えるべきだったが
秀頼は幼い上に正室の(養)子でもないので
当時の貴人社会で重視される母方からの後ろ盾が得られなかった。
(淀の実家筋である浅井は滅んで、母方の織田も実質滅んでいる)
974日本@名無史さん:2013/11/04(月) 19:40:39.20
大坂の陣で信雄を総大将に任せようとしていたのを見れば
淀が持つ親族の後ろ盾がいかに弱かったかわかる
975日本@名無史さん:2013/11/04(月) 19:44:41.47
いや、だから関ヶ原後、家康将軍就任までの形式的な全国政権の主は誰かって聞いてるんだけど、
話がかみ合ってないな。
976日本@名無史さん:2013/11/04(月) 20:04:06.23
形式なら存在しない
実質なら勿論、家康だけど
外交上なら秀吉死後から家康
977日本@名無史さん:2013/11/04(月) 20:10:10.04
>>973 それでも秀次を殺した時点でやるべきだったけどね。
軍の方はともかく北政所なら政治闘争では家康とある程度やりあえる能力は
恐らく持っている。
利家は家康より5歳も上だけど北政所なら家康より年下だし
マジで秀吉は北政所の無駄遣いが酷いなあと。
978日本@名無史さん:2013/11/04(月) 20:47:09.95
成人するまで居城から出ません、
ではだれも付いて来ない
当然
979日本@名無史さん:2013/11/04(月) 20:53:16.37
最近、徳川史観の名の下に、家康は大したことなかった論がでているけど
どうにも首肯できない
980日本@名無史さん:2013/11/04(月) 20:56:32.84
だがと話が噛み合う訳無いだろうに・・・

ま、それはそれとして形式的には秀頼だろう
家康も伺候してるしな

ただ秀吉死後の豊臣政権は家康が切り回してる状態だったし
関ヶ原後は完全に主体が入れ替わった感じだな
981日本@名無史さん:2013/11/04(月) 21:01:05.69
秀吉は家康の事をどう思ってたんだろうか?信頼できる相手とはとても思えんのだが
982日本@名無史さん:2013/11/04(月) 21:06:40.78
>>979
徳川史観と言うのはちと雑な言葉だと思う。

歴史上稀にみる長期安定政権だったから、それにおもねる連中による創作や
徳川家と対立した事をなかった事にしたい大名家による家譜の粉飾などが
累積して、徳川有利にバイアスが掛かってるのは間違いない。

ただ皇国史観と違って政権自身が史実を粉飾しようとした節は見えない。

まあ何が事実だったのかは成立が新しい編纂史料に頼らず、一次史料を
ベースに模索していくしかないな。
983日本@名無史さん:2013/11/04(月) 21:45:50.06
>>981
現代は狸イメージだけど、同盟相手の信長を裏切ることもなかったし
その息子と手を組んで秀吉と事を構えるほどの気概もあったから
評価はしてたんじゃないか?
"律儀者の内府殿"は強ち間違いではない
984日本@名無史さん:2013/11/04(月) 21:46:21.85
>>981
秀吉「他に任せれる人材いねぇ」
こんなところだろ
北政所や前田利長とて調整役が限界だし
985日本@名無史さん:2013/11/05(火) 00:00:43.00
>>983
だね。
秀吉か死ぬ前までは
ほんとに律儀者だよね。
本能寺後の火事場泥棒が
ちょっとあれだけど。
986日本@名無史さん:2013/11/05(火) 02:55:58.62
家康は外様中の外様で最も信用のおけない大名。散々上洛要求を突っぱねて、信雄などに秀吉が必死に仲介頼んだり母や妹を差し出してきて、やっと応じただけだし
律儀も糞もない。
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や、秀吉子飼い系の福島加藤など尾張衆に加え長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見による領国崩壊で
めちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない
つうか外様系でも宇喜多なんてもう直家が死んだ時点で秀吉領との一体化が進められてたし
毛利や上杉も、最初から秀吉に敵対せずに協力した時点で家康よりも遥かに豊臣に忠義的。
僅かな期間で築いたとか書いてるけどそれは別に徳川も織田も細川も三好も大内も何も変わらんからいいわけにならん
織田に仕えてる時点での秀吉は家じゃないのかって話だし
987日本@名無史さん:2013/11/05(火) 02:57:51.22
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

そもそも徳川が体制ぶち壊したとかいうけどぶち壊されるような体制とか諸将の配置にしなきゃよかっただけじゃん
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、秀頼と家康直孫との婚姻 結んで豊臣継承の名分与えたり自分から家康が天下取りやすい状態作っといて
ぶち壊したも糞もねーじゃん
988日本@名無史さん:2013/11/05(火) 03:03:58.86
家康にやるくらいならあほみたいにたくさんいる羽柴子飼系か上杉毛利宇喜多あたりの早くから親秀吉派の連中に大封やったほうが遥かにマシだわな
989日本@名無史さん:2013/11/05(火) 03:07:48.00
家康は全く忠臣じゃない。上杉や毛利と違って秀吉に歯向かってた上に和睦締結後も
抗戦し続け秀吉方が徳川討伐令を上杉や真田らに出してた天正13年秋でも相変わらず歯向かってたし
決戦の時期(天正14年初頭)になって秀吉方から取り成しの使者の信雄やら
秀吉母と妹が送られてきてようやく上洛に踏み切っただけだし最初から秀吉に協力しまくった毛利宇喜多上杉あたりの方が遥かに忠臣
990日本@名無史さん:2013/11/05(火) 03:08:57.46
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻を進めている。
自分の死後を見据え、最有力大名徳川家との融合を企図したものだ。
秀頼・千姫の間に出来た世継ぎが、徳川家の傀儡になる事は、
秀吉が認識していて当然。

実は反徳川的な行動を起こし、豊臣家を滅亡に導いた輩こそ、
秀吉の意思に背いた不忠といえる。
991日本@名無史さん:2013/11/05(火) 08:17:09.37
まーたキチガイのアンチ秀吉在日が暴れ出してるな。
まじうぜぇ。
992日本@名無史さん:2013/11/05(火) 08:34:31.43
>>985
甲斐、信濃への侵攻が火事場泥棒と言うのは、今や否定された説だよ。

実際には秀吉等と連絡を取り合って出兵してるし、信雄からの援兵も出てる。

織田政権から本格的な増援も送られる筈だったけど、秀吉と勝家の対立で
オジャンになった。
993日本@名無史さん:2013/11/05(火) 08:45:28.38
秀吉存命中のことを書いて喜んでる阿呆
994日本@名無史さん:2013/11/05(火) 22:20:54.00
995日本@名無史さん:2013/11/05(火) 22:21:12.28
tg
996日本@名無史さん:2013/11/05(火) 22:21:53.99
tg
997日本@名無史さん:2013/11/05(火) 22:22:15.97
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998日本@名無史さん:2013/11/05(火) 22:22:50.20
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999日本@名無史さん:2013/11/05(火) 22:23:41.05
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1000日本@名無史さん:2013/11/05(火) 22:24:04.86
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