鎌倉執権北条氏専用スレッドです。
多くの門流が派生し、同族間の争いも絶えなかった。
このスレッドでは出自、幕府内での各門流の動向
幕府滅亡後のその各門流の子孫の動向や
御内人・被官についても同じように語るスレッドです。
2 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 21:41:37.13
2
時行子孫は横井氏だっけ。
ていうかそれ以外に北条末裔はいるの?
4 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 01:09:59.06
やっとちゃんとしたスレタイで立ったな。向こうは後北条スレにすれば。
ルーツ、信ぴょう性、確実性があるのは
・元は官僚であり、事実上の下級官僚であった。
・元は所在もあり、坂東武士系有力者との血縁もあった。
・下級管理として監視職につくが政治は中立だった
・ほぼ奥州征伐以後まで活動記録が出てこなく、下級らしく別段役職はなかった。
・政子縁石以外はほぼポジがなくいわばコネ のみ
・以後はっきり言ってコネのみで一切働きがない。完全に形だけの役職で雅子同様術数権現だけである。やること小さいんだが、
じじつじょう出頭してくるのは二代にして初代執権、名実執権の義時だけである。
事実上の対源氏派クーデターで親もろとも失脚させ、武士団とともに武士の政治を構築させる
この時も登場は大きいものの軍功はなく判断、知性においてすぐれ
実質 魔王討伐、幕府成立、御成敗式目を成立させた張本人
正し、残党はなくて縁石の縁石以外は滅んだはず。主流は壊滅したろ。
そして、信長などになると伊勢系であり別系統
7 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 08:59:49.11
もともとの家格が高くなくて、勢力も大きくなかった北条氏が
多くの武士を抑えることができて、権力の中心でい続けられたことが不思議でならない。
他の武士たちは「何こいつら? こいつらがなぜ権力持つの?」とは思わなかったのだろうか?
挙句の果てには得宗家の重臣にすぎず御家人ですらない長崎高資あたりが実質的な最高権力者になっちゃうしな
>>8 身内人は平頼綱が幕府最高決定機関の寄合のメンバーだったように
その後も長崎一門から何人も寄合メンバーになっているから
成上がりというほどのことはない。
鎌倉幕府は得宗の家政機関が幕府の機関として機能しているように
家政のトップが重鎮になるのはむしろ当然だろ。足利の高や上杉のようにな。
あれだけ一世を風靡したのに、子孫が大手舞台に出て来る事がないのは、族滅したに等しいんだろうな。
室町時代の守護大名と違って所領に赴かず鎌倉という都市に住んで
いたから所領の掌握力が弱くて鎌倉が滅ぶと消滅せざるを得なかった。
(少数だが規矩や糸田のように地方に土着した一族もいたが、南北朝の争乱で
いつのまにかいなくなった。)
確かに六波羅も長門探題や鎮西探題も出張役人みたいなもんだよね
ちなみに俺の友達は旧家の出なんだがまったく歴史に興味がなく
俺が日本史キチで骨董とか好きなんでいろいろ古文書とかを安値で売ってくれたんだが
その中には規矩高政自筆軍忠状、北条英時や長門探題・北条時直の自筆書状
(いづれも友人の亡くなった父が某大学機関で鑑定証明済みの新出資料)や
少弐、波多、松浦etc...のおそらく所領訴訟に関する案文?(写しか控え)などがあってビビッたw
その父はその資料群は絶対に新出資料として発表しないことを条件に鑑定させたらしい。
絶対にこちらの先祖は鎮西探題に出仕していた武士だと思うのだが。
あと史料等があるわけではなく家伝レベルの話なんだが
その友人の父の残した聞き書きみたいな研究メモによれば
規矩高政の一子は落ち延びて豊後境あたりで帰農したらしいとのこと。
江戸の終わりまで続いていたけど明治の初め頃に
山口県のほうへ引っ越してからはわからないそう。
名字は規矩から変えていて系図だと「顕」「高」を通字にしている。
高政の一子・顕英は糸田貞義が討伐された後、
身内の生き残りを探したらしいが結局見つからなかった。
糸田貞義には一女がいたらしい。
まあこんな言い伝えがあると参考程度に。
14 :
日本@名無史さん:2012/11/13(火) 13:57:44.18
同族争いの匠たち
15 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 16:47:39.70
>>12 >規矩高政自筆軍忠状、北条英時や長門探題・北条時直の自筆書状
新出史料とか眉唾だなあ〜 写のまた写だべえ〜
いつの日付の軍忠状や書状かな?
16 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 20:16:37.08
そもそも高政が自筆で軍忠状を書くなどありえんよ
17 :
日本@名無史さん:2012/11/19(月) 19:22:56.73
妬み乙w
18 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 19:36:32.61
英時
19 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 10:25:48.37
種時
やる夫は鎌倉幕府の成立を見るようです
を読んで初めて、時政が公家から「北条丸」だの蔑まれて呼ばれていたことを知った。
21 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 15:24:57.07
あれだけの門流が全て族滅したとは考えられないな
ハブられていた支流とかが幕府に殉ぜずにどっかで生き残ったとか
でも史料に書き留められるほどではなかったろうから
それを明らかにするのは大変だと思う
岡野氏は得宗家の末裔
>>21 族滅は武家社会では普通。族滅したら、綺麗に消え去るのもまた普通。
中国の三族皆殺し並に、日本の滅びた武家は綺麗に消え去っている。
例えば、平清盛、武田信玄、豊臣秀吉、陶晴賢、菊亭晴季など、綺麗さっぱり
族滅された系譜は少なくない。
あと、日本は残党の追捕も非常に厳しい。源義賢みたいに、息子だけでも
逃がすことに成功した(源仲家、義仲)のは非常に稀有な例。むろん、義賢
自身は妻、娘、父、弟、甥、姪らとともに処刑されている。普通はそこで終わる
のが、日本、というより三族皆殺しが当たり前の東アジアでは常識。
平家の落人伝説は日本各地にありますが
>>25 義経のジンギスカン伝説と同じ。平家関係者が余りにも徹底的に掃討された
ため、そういう伝説が残ったということ。怨霊信仰の強い日本らしいが、逆に
そう言う伝説が残るぐらい何も残らなかった証明でもある。
27 :
日本@名無史さん:2013/01/23(水) 09:10:58.63
>>23 平清盛・・・・頼盛の池流
武田信玄
弟の河窪信実・・・・子孫は旗本
次男・海野信親・・・子孫は高家
五男・仁科盛信・・・子の信基・信貞の子孫は現存
七男(六男とも)・信清・・・上杉家に仕える(上杉家一門・高家衆筆頭)
陶晴賢
祖父・弘護の弟、弘詮の孫・元弘は毛利氏に仕える
系譜関係は不詳なれど一族の隆満も毛利氏に仕える
菊亭晴季
子の季持以降、明治維新まで今出川は公卿として続く
なにドヤ顔で「綺麗に消え去るのもまた普通」とかw
お前が無知なだけやんwww
28 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 09:09:34.13
南北朝に北条氏の残党がたくさん反乱起こしてるじゃん
29 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 09:18:22.82
>>23 菊亭晴季は族滅させられてないw
晴季自体、流罪になっただけで殺されてないし
子孫は今でも生きてるよ
30 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 14:02:11.06
>>23 直接血がつながっているわけではないが、
秀吉の正室ねねの兄弟の系統は小大名として明治維新を
迎えているが?後、秀吉の養子の系統で秀勝(何人目か忘れた)
の系統も生き残ってるぞ。つうか母親が江だから大河ドラマにも
そのエピソード出ててだろww
31 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 18:09:57.65
>>30 羽柴秀勝(豊臣秀次の弟)は女系が残っている
豊臣秀次も女系は残っている
平清盛だって女系は残ってるんだよな
23は男系が絶えた一族と言いたいのか?
それにしたって菊亭は現在まで男系が残っている
現在の当主は男系女子だが
32 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 20:05:35.24
族滅・・・一族をすべて滅ぼすこと。
>>23は一族全てが滅んだと言ってるが無知なだけw
33 :
日本@名無史さん:2013/02/02(土) 09:34:01.32
鎌倉北条氏って時政以前の系図なんかは良く判らないらしいが、
案外伝承どおり、平直方流じゃないのかな?と思える。
平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流であり、
従五位下の京の軍事貴族として公卿の警護みたいな仕事をしていた。
平盛方が活躍する時代は、同族伊勢平氏(貞盛流)の平忠盛(清盛の父)が台頭
し活躍し始める時期でもある。当然、平盛方と平忠盛はライバル関係に有り
新興勢力の忠盛は、平貞盛流の嫡流の座を狙い始めていた。
平盛方の子供と言われる熊谷氏の伝承によると朝廷で平忠盛襲撃事件があり、
その一味に同族である平盛方が加わっており、その罪により処刑されてしまう。
事実、平忠盛は当時は異例の高待遇である内昇殿を許可された。
『平家物語』では武士である忠盛が殿上人となったことを憎んだ公卿たち
による闇討ちが企てられるが、忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す
機転によって彼らの襲撃を防ぎ、鳥羽上皇から賞された事(殿上闇討事件)が有った。
それ以外でも武士でありながら出世を重ねる忠盛に対して公家による襲撃事件が多数あった。
この平盛方処刑により盛方流は没落、これで貞盛流嫡流だった直方流の都での評価は地に
落ちたと思う。盛方流は、都に居られなくなり、盛方の弟である阿多美聖範の家筋に平直
方流の当主の座は移ってしまう。そしてこれが伊豆北条氏の直接の家祖として考えても良
いのではないだろうか。
34 :
日本@名無史さん:2013/02/02(土) 09:35:03.19
(
>>33の続き)
処刑された盛方の弟の阿多美聖範は伊豆阿多美郷に土着し開発領主としてこの地域を開発した。
阿多美四郎を名乗り伊豆北条氏の通字である四郎が始めて登場する。罪人となった平盛方の
実子は聖範が引き取り、阿多美郷の領主を引継ぐ。
聖範の実子である平時方は、当初は阿多美郷和田里に居住して和田太夫四郎と名乗っていたが、
処刑された盛方にかわって直方流を継いで都に上がり宮仕えを始める。
平時方は、処刑された盛方とは違い、順調に出世し上総介や肥後守を勤めた。そして晴れて
伊豆守に任命され伊豆の国司となる。この時期の国司は国元には赴任せず代理人を派遣して
国司業務を代行させたが、平時方は父の聖範や盛方の子らが居る伊豆に赴任して在国の国司
として三島の国府庁舎で国司業務をこなした可能性が高い。またその方が地元の事情が判り
国元での影響力を行使し易く、国司業務がはかどる、という事もあったであろう。
国司任期終了後の平時方は、都に帰らず三島国府庁舎の直ぐ近くにある北条郷に土着し氾藍原の
開発領主となってしまう。俗姓も平から北条に改め、都での平直方流軍事貴族としてのキャリア
を捨て東国武士として伊豆北条氏の歩みを始める。また、平忠盛の意向を呑んだ可能性もある
もっとも自分の故郷の近くであり、任国として実際に数年間統治し、父や盛方の実子が居る伊豆で
のんびりやっていた方が、都での軍事貴族として出世競争にあせくせするよりマシだ。 と言う判断が、
時方に有ったのかもしれない。
また平直方-平維方-平盛方の直方流三代は、貞盛流の嫡流の地位を継承してきたが、
盛方の忠盛襲撃事件関与により直方流の没落が決定的となり、忠盛-清盛流が貞盛
流の嫡流の座を引継ぐ事になった。
その為に盛方処刑後に直方流を継いだ時方は、貞盛流の嫡流の座を忠盛に明け渡し
平の姓ではなく北条を名乗り伊豆に土着し東国の御家人としての歩を始めたのだろう。
阿多美聖範が引き取った平盛方の実子の諱や子孫は伝わっているの?
「平時方が伊豆守に任命された」という典拠は何ですか?
どなたか教えてたもれ
36 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 16:53:40.61
>>33>>34 いい線いってるんじゃないの?
典拠明示して論文書いてみたら?
ただ一つ疑問がある
それは、そんなに由緒正しい家柄ならはっきり系図に明記すればいいのにね。
時政以前のは系図が何であんなにぐちゃぐちゃんなんだ?
時政の父親さえ系図によってバラバラ。いやしくも鎌倉幕府執権の父親がだぜ。
37 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 21:17:35.99
38 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 21:19:22.87
河内源氏のほうでも、源義家以降の家督相続は
直系ではすんなり継承されていない。
39 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 21:41:34.56
武家なんてそんなもんだろ
長男が家督を継ぐなんて江戸時代以降の話だべ
40 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:17:47.14
平貞盛の嫡流は長男の平維将
この子孫の嫡流が平直方流であり、
そこから熊谷氏、北条氏が出ている。
ちなみに、熊谷氏の系統が平直方流の本来の嫡流だったが
>>33であるように、同族でライバルだった
伊勢平氏六波羅流の平忠盛(清盛の親父)に敗れ衰退、
かわりに直方流で傍流だった北条氏の系統が嫡流になる。
平貞盛の三男の維衡の子孫が伊勢平氏になり、
平清盛を生み出した六波羅流は、伊勢平氏の中でも本来は傍流に当たる一族だった。
41 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:22:06.96
大仏、金澤、赤橋、名越
他にある?
42 :
日本@名無史さん:2013/02/03(日) 23:29:35.61
猿飛びサスケとか
43 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 09:29:45.87
それにしても、鎌倉北条氏の桓武平氏仮冒疑惑がネットにでまわっているなw
でも、この説をぶちまけた人って、あのオッサンだけで
かなり偏った見方をする人なんだけどな。
44 :
日本@名無史さん:2013/02/04(月) 17:27:49.11
仮冒じゃ無いの?
45 :
日本@名無史さん:2013/02/05(火) 00:21:46.73
仮冒の根拠が弱すぎると思う。
>>37や
>>33>>34あたりが真相だと思う。
北条氏の家系も直系で継承されてはいないから
系図に混乱が出ているんだろう。
あと、北条氏は自身の家の初代の人物に熊谷氏の先祖である平維方を入れている。
そこから、代数をカウントしている。
北条氏自体は、平維方の弟で僧籍に入っていた阿多見聖範の男系子孫なんだけど。
熊谷氏の自身の家の初期の伝承でも、同族としての北条氏とのことや
伊勢平氏六波羅流(平家)との対立についても、詳しく残っている。
46 :
日本@名無史さん:2013/02/05(火) 00:34:19.98
>>45 勘違いなのだが、平直方を初代にすれば問題ないね。
北条氏は、平直方を自身の家の初代にしている。
で、直方、維方、盛方と直系で継承されていたが
盛方が、伊勢平氏六波羅流との抗争で不祥事を起こして処刑され
あわてて先代の維方が、弟で僧籍に入っていた聖範の子の時方を養子として
家督を継承させたと。
時方−時家−時政と北条時政までつながる。
一方、盛方の遺児たちは本流を外れ
その中では嫡流だったものが熊谷氏になった。
47 :
日本@名無史さん:2013/02/05(火) 13:26:30.27
盛方って殺されたのではなくてふつうに病死だお
貴族の日記に出てるお
それから盛方が死んだのは忠盛の活躍するずっと以前だお
時代が合わないお
48 :
日本@名無史さん:2013/02/05(火) 19:51:38.45
332 :日本@名無史さん:2012/03/27(火) 13:55:41.39
大和国大神氏の一族とかを伊豆北条氏の出目にしている人が居るが、関係ないと思うな。
土着したのはそう古い年代ではなく、系図でも時政で伊豆土着をして三代目に過ぎない。
また幕府内での世渡りの良さに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にあったのだろう。
初代伊豆北条氏と言える時方は、伊豆国司だが、
その子の時家も伊豆介・伊豆権守に就き国司に次ぐ地位で伊豆国府に関与している。
時家の弟に当るのが、時兼で彼も伊豆介となっており在庁官人である。
この様に伊豆北条氏は、伊豆国府では上級の地方行政官職を確保し続けた比較的官位
の高い武士であるが、その割には北条氏の領地は北条郷しか確認出来ておらず、高い
官位に見合った領地を確保出来ていない武士だった。この様な事から伊豆北条氏は、
開発領主としての性格よりも伊豆国府の行政執行を実質的に担う在庁官人としての性
格が強い地方官僚的な武士だった。
平安時代後期からは律令制が動揺を始めており、在庁官人は国司の従順な部下である
だけではなかった、在庁官人はの実態は決してそうではなく、元々現地有力者(大規
模開発領主)でもあり、中央の国司に対峙する地元利益代表としての顔も持っていた。
しかし伊豆北条氏は、伊豆に土着する時期が遅く、当時の農業土木技術では
もはや開発余地が少なく開発領主として伊豆で田畑を開発し北条氏の領地を
拡大する事が出来なかった。その為に伊豆国府での勤務や地方行政上の実務
に注力する地方官僚色の強い在庁官人業務に注力した武士となったのであろう。
常世を召し出したその人こそ、前執権で幕府の最高実力者(最高会議幹部会議長)の北条時頼(戸浦六宏)だったのである。
吉川弘文館の人物叢書「北条時頼」はいつ刊行ですか? 待ち遠しくて身悶えする。
51 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 01:45:42.53
>>47 世代的には、盛方と忠盛って同じくらいだろう?
時政と重盛が同じ年だしな。
52 :
日本@名無史さん:2013/02/06(水) 11:36:56.11
忠盛は1096年生
盛方は1080年死去
53 :
日本@名無史さん:2013/02/14(木) 03:45:31.69
伊豆北条氏は、領地・兵力共に弱小な割には、
官位(伊豆介・伊豆権守)だけが、代々異常に高い。
しかも京の公家とも独自のパイプがある。
これを見ると伊豆国衙に寄生する、
地方行政官的な存在であり、京武者由来であろう。
伊豆に土着して、まだ三代目でしかない時政には、
京武者志向が残っているが、義時になると完全に関東武士としての行動になる。
時政と義時の間には、意識と行動の面で相当な断絶がある。
時政の失脚の背景には、これがあると思う。
フランク王国=鎌倉幕府
メロヴィング朝=源氏将軍家
カロリング朝=執権北条氏
>>7 そういう不満がくすぶってたから、あんなにあっさり滅亡したんだろうね
大夫判官になる御内人も出てくるのに、無位無官のままの御家人も普通にいるからな
新田義貞も鎌倉攻めの時は無位無官じゃなかったっけ
55 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 05:04:24.19
清和源氏でも、本来の嫡流だった摂津源氏系は
京武者的な存在として官位は高いけど
地方には大きな基盤が構築できず動員力が弱い。
逆に傍系だった河内源氏は、京での出世よりも地方の関東で大きな基盤を構築した。
桓武平氏でも同じで、傍系だった坂東八平氏は、地方の関東で大きな基盤をもったが、
嫡流的だった平直方流とか、伊勢平氏らは、官位の上では有利だったが
地方で大きな基盤は構築できなかった。
56 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 12:48:53.17
>>51-52 盛方と忠盛は、ライバルで同世代で年も近いだろう。
>>54 ポスト争いの末に北条氏が滅亡したわけじゃないだろう。
むしろ経済的な変動が、北条氏滅亡の原因では無いか?
つまりこの時期に貨幣経済が進展し始め、徴税が農作物ではなくて金銭徴収になり始めた。
しかしこの当時の日本は、自国での貨幣鋳造は行なっておらず、宋銭に頼る経済だった。
つまり自国でマネーサプライを調整できない為に、極端なインフレやデフレに成り易い経済だった。
(民主党政権と白川日銀総裁を見ればよく判る)
そして都市部では貨幣経済が進展し、田舎では、それ程ではなかった可能性がる。
その為に、幕府が地方の御家人に金銭納税を命じると、手元に現金の無い御家人達は困る事態に成っていた。
最悪の場合、先祖代々の土地を取られてしまう可能性があり、その挙句の御家人の反乱だったと思う。
単なるポスト争いの挙句に鎌倉幕府が崩壊した訳ではない。
>>46 伊豆北条氏三代目の時政は、介や権守に就いていない。
時政の年齢が若く、叔父の時兼が、まだ介や権守に在任中と言う事もあるが、そもそも時政の叔父である
時兼が伊豆介や権守に就けたのは、伊豆知行国主平時忠やその子の伊豆守平時兼の支持よる可能性が高い。
(それ以前の伊豆国司の源頼政の判断の可能性もある)
そして1079年には、山木兼隆が伊豆に流され、伊豆目代に就く。その直後から伊豆の武士達は、山木兼隆を
伊豆の武士団の棟梁と見なすようになっていた。そのよう情勢下で時政は、伊豆介や権守には任官出来なかった。
時政は、伊豆北条氏の嫡流であるが、傍流の時兼が、伊豆介や権守に就いており、この事で時政と時兼の間
に対立があった可能性もある。時政が山木攻めを行なった背景には伊豆北条家内部の対立もあった可能性もある。
57 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 13:19:42.80
>>56 あと元寇で恩賞を与えられなかった不満と分割相続による御家人の困窮かな
58 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 18:52:33.77
>元寇で恩賞を与えられなかった
恩賞出てますけど
59 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 21:41:00.10
>>58 十分ではないってことだろ
いちいち些末なことで上げ足獲るなよ
60 :
日本@名無史さん:2013/02/16(土) 23:42:05.13
>十分ではない
十分満足するような恩賞などこの世にありませんけど
61 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 00:10:37.28
>分割相続による御家人の困窮かな
パパの給料が増えずに子供が増えれば貧乏になるのは当然なんですけど
別に分割相続とか関係ないんですけど
62 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:03:30.33
平直方は、平忠常の乱を収束できなくて、面目をうしない、中央での勢力を無くし、その系統は歴史の面舞台から姿を消したと思ってた。
正盛流の伊勢平氏の隆盛と入れ違いに没落してゆくほうが、流れとしてすっきりするのだが。
わざわざ直方流の子孫が中央で活躍したかのような印象操作は要らない気がする。
伊豆の土豪として、勢力が小さく、頼朝挙兵当時の時政の子飼いの郎党たちが、名のある武士が皆無で、半分農民みたいな名前の連中しかいなかったことを考えると、直方以降の子孫が勢力あったと考えるのは、不自然すぎるな。
63 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 10:19:02.92
俺の先祖が平家一門の残党だったらしい(笑)
64 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 15:11:30.03
>>62 >わざわざ直方流の子孫が中央で活躍したかのような印象操作は要らない気がする。
平忠盛と平盛方が、平貞盛流の嫡流の座巡って対立していたのは事実でしょう。
で、平盛方が「殿上闇討事件」やら、なんやらで負けたんでしょう。
平忠盛(清盛)流が、盛方と入れ替わる形で、出世していったのは、間違いないと思う。
盛方流は、没落して熊谷氏として武蔵に土着。
盛方の弟の聖範流(時方)も、都での出世を諦めて、北条氏として伊豆に土着した。
しかし細川重男は、左翼でダメだな。日本辺境論なんて言っている。
パックス・チャイナを受け入れる心算かね? 網野喜彦一派は左でダメだね
65 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 17:17:41.53
細川重男が左翼だったら日本人の九割が左翼になっちまうwww
66 :
日本@名無史さん:2013/02/17(日) 17:40:33.01
こんだけバラバラだと何を信じて良いのやら。。。
貞盛-維将-維時-直方-聖範-時直-時家-時方-時政尊卑分脈
貞盛-維将-維時-維方-直方-時方-時家-時政前田本
貞盛-維将-維時-維方-直方-時方-玄承-時忠-時家-時政前田本イ
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政群書類従
貞盛-維将-維時-直方-雲範-時直-時家-時方-時政野津本
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-聖範-時家-時兼-時政野辺本
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時範-時直-時家-時兼-時政野辺本イ
貞盛-維将-維時-直方-維方-聖範-時家-時兼-時政中条本
貞盛-維時-直方-維方-俊則-時家-時方-時政山門本
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時兼-時政入来院
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政入来院イ
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時政桓武平氏
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時家-時政系図纂要
貞盛-維将-維時-直方-雲範-時直-時家-時方-時政古系図
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時方-時政正宗寺本
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時兼-時政内閣文庫
貞盛-維将-維時-中方-聖範-時方-時兼-時家-時政内閣文庫イ
貞盛-維衡-政度-維時-直方-維方-時方-時家-時政 熊谷氏系図
貞盛-維将-維時-直方-維方-盛方-時家-時兼-時政 妙本寺本
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時兼-時家-時政 指宿氏系図
貞盛-維時-直方-維方-時方-時家-時政 延慶本平家物語
貞盛-維衡-維度-維盛-盛基-貞時-時家-時方-時政 平闘諍録
貞盛-維将-維時-直方-維方-時方-時家-時政 千葉大系図
67 :
日本@名無史さん:2013/02/19(火) 02:15:48.21
>>66 盛方が抜けている系図が多い。
やっぱりナンカ有った感じがする。
それと熊谷直貞の位置づけで、系図が混乱している感じがする。
直貞は、盛方の実子では有るが、
熊谷家祖なので、そもそも北条家の系図に入れるのはオカシイ。
それで直貞の位置づけを如何するかで混乱している感じがする。
68 :
日本@名無史さん:2013/02/22(金) 11:34:22.25
北条氏は、あくまでも直方系、いや、平貞盛系の嫡流を自称している。
それが彼らのプライド。
しかし、この家系の当主には、当初は熊谷氏の先祖のほうにいっていた。
それが、途中で脱落、弟の家系の北条氏のほうに嫡流がいった。
だから、北条氏としては、盛方の位置づけに困っている。
一応、自身の家系の歴代当主なのだが、自分たちの先祖ではなく、
熊谷氏の先祖だから。
69 :
日本@名無史さん:2013/03/29(金) 23:02:05.32
>>33>>34 >忠盛は、平貞盛流の嫡流の座を狙い・・・・・・・・・
継承すべき父祖伝来の身分も領地もない平安期に嫡流・庶流という意識が、
そもそもあったのかね?
摂津源氏,河内源氏,大和源氏と枝分かれした当人たちが己が才覚で勢力拡大を
図った際に、嫡流・庶流なんぞの区別はなかったろ。
嫡流・庶流という家格は、才覚無用の太平の世の江戸期以降の代物だろうな。
>>69 >嫡流・庶流という家格は、才覚無用の太平の世の江戸期以降の代物だろうな。
織田信秀の嫡男は織田信長であり、長男は織田信広である。
足利尊氏の嫡男は足利義詮であり、長男は足利直冬である。
源頼朝の嫡男は源頼家であり、長男は島津忠久である(結城朝光、という説もある)。
嫡子、庶子の区別は昔からあるし、厳密に区別されているよ。
71 :
日本@名無史さん:2013/03/30(土) 15:40:03.24
>源頼朝の嫡男は源頼家であり、長男は島津忠久である(結城朝光、という説もある)。
これはちがうだろ 島津忠久も結城朝光も 頼朝の子としては認められていない したがって庶子ではない
72 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 00:11:14.49
>>69 >嫡流・庶流という家格は、才覚無用の太平の世の江戸期以降の代物だろうな。
いや、鎌倉時代からあるお
>>69 有名な例だと
嫡子だった源頼朝は13歳で右近衛将監(平治の乱直前の段階)だけど
長兄の源義平は関東に置かれていて無官
次兄の源朝長は任官していたものの頼朝よりも昇進が遅い
74 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 05:22:28.20
平安時代に武家社会にも嫡流と庶流があったと思う。
だからこそ、源頼朝は、多田氏の所領を欲しがったのだろう?
武家源氏の清和源氏である以上、源満仲以来の本拠地は多田であり
多田氏こそがその嫡流だったから。
でも、政治的には、必ずしも縛られてはいなかった。
75 :
日本@名無史さん:2013/03/31(日) 07:26:33.63
76 :
日本@名無史さん:2013/04/01(月) 19:29:09.73
北条氏の極楽寺って家格的には得宗の次?
それとも名越が次?
時政は嫡男政範が亡くなった後義時の嫡男の朝時を本家の後継者に決めてたんだろう
朝時が時政失脚後に名越邸を譲り受けてるところを見ると
時頼就任前までは名越の方が極楽寺より上だったと思う
78 :
日本@名無史さん:2013/04/01(月) 23:48:46.81
1.得宗
2.名越
3.極楽寺
4.常葉
5.金沢
こんな順番かなあ
でもこれじゃ兄弟の年齢順になっちゃうから意味ないか?
79 :
日本@名無史さん:2013/04/01(月) 23:58:59.21
朝時より弟の重時のほうが早く守(駿河守)になったのは何故だろう
80 :
日本@名無史さん:2013/04/02(火) 05:16:47.60
家格的に、得宗の次が名越流だったけど、
この家は得宗に反抗的だったから
極楽寺流のほうが優遇された。
81 :
日本@名無史さん:2013/04/02(火) 11:11:30.44
>>80 いや義時生存中に重時は朝時より早く守(駿河守)になっている
82 :
日本@名無史さん:2013/04/29(月) 17:06:00.38
>>80 親の馴れ初め真似たら従兄の逆鱗買っちまったからじゃないの
>>40 維将は次男、維衡は四男
長男は維叙だけど彼は養子だったというし
三男の維敏は994年に任地で亡くなっている
自分の母親の実家は今は没落したが庄屋だった。(江戸時代は天領)
鎌倉幕府滅亡の時に、鎌倉を脱出して、領地に戻って一族で武士を捨てたそうだ。
お蔵にはいろいろ残っていたらしいんだけど、売り払ったそうだ。残念。
まあ在地でうまいこと室町幕府をやりすごして、そのまま庄屋になったらしい。
関東の庄屋の家ってかなり、鎌倉御家人の子孫とか多いと思う。
自分の同級生にも、やはり御家人の子孫で庄屋ってのがいた。
みんな北条の滅亡の時にちゃっかり逃げる→追っ手はかかるほどの家ではない。
もとの土地に戻って田畑を耕した多数。
と言うか、たいていは室町時代まで御家人だったんじゃないの?
>>82 義時は若い頃の、姫の前にラブレターを送り続けた純朴さと
後年の和田義盛を挑発して滅亡に追い込んだ冷徹さのギャップが
激しいな。途中で人格が豹変でもしたのだろうか。
87 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 16:11:02.51
>>66 なんかこれだけ見ると
系図の混乱はあるけど
北条氏が貞盛流に祖を求めるのはそれなりに裏づけ理由あってのことなんじゃないかと思えてくる
88 :
日本@名無史さん:2013/10/12(土) 17:59:48.86
極楽寺流は重時の子孫の総称でしょ。
その嫡流が赤橋家
90 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 22:34:11.50
>>7 政治手腕があって御家人たちから敬意を払われてたというのが大きいと思うよ
足利氏が建武式目で、北条義時泰時父子を手本にする、といってるぐらいだし
時頼もあれこれ逸話が語られるぐらいに尊敬された人物だった
生まれ変わり伝説もあるこの三代が強力で、その余韻であと半世紀もった、という感じだ
元寇がなければもっともったろうが
91 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 22:47:55.07
>>53 でも時政は娘の嫁ぎ先が御家人と公家と半々だけどさ
義時なんて、娘はみんな公家と婚姻だぞ
やっぱ京色残ってんじゃねーの
大江や三善、二階堂らの官僚との方が仲よさそうだし
ただ、政治的行動では関東武士の利害代表者という意識が強いのはあるが
92 :
日本@名無史さん:2013/10/17(木) 23:02:46.95
>>86 その熱愛した女の実家を自分の手で討って、離婚したわけだから
そこで人格変わったんじゃねーの
変わってもおかしくない出来事だと思うよ
北条と比企の争いに夫婦が引き裂かれたわけだからな
朝時が北条家で浮いてるのも、比企との戦いが子どもの心理に影響与えたからだろうし
重時はまだ幼かったが
>>77 細川重男氏は、朝時が時政の名越邸を継承→時政は朝時を後継に考えていた
と推測しているけど、名越邸相続が時政失脚後なら時政の意向は全然関係なくて
義時 「丁度空家になってるから、お前に名越邸を与えよう」
朝時 「ははー、有難く頂戴いたしまする」
という流れもあり?和田合戦や承久の乱での朝時の活躍を見ると
義時・朝時父子の関係がそれほど悪かったようには見えないんだよね。
朝時がハブられるのは泰時の執権就任後じゃないかな。
94 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 22:56:44.56
>>93 和田の乱では泰時と朝時の仲の良さが鏡に載ってるね。
怪我した朝時を泰時が支えてあげたり。
それから盗賊が朝時の屋敷に押し入った時に救援に駆けつけたり。
あれって鏡の潤色なのかな?
95 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 21:52:47.64
義時が自分の跡継ぎとして泰時をおいてたなら、江間の跡継ぎが泰時で
北条の跡継ぎとして養子の朝時が・・ ってえーいややこしい!
朝時が北条の後つぎがどーのはあんま考えなくてよさそうな
泰時と朝時って別に衝突した気配はないよな
単に、日頃疎遠なるに、といわれてたぐらいでさ
朝時って、泰時死去前に出家したり、なんだかんだと律儀なとこが
のちの名越の当主ぽい
96 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:02:46.42
名越の読み方はナゴエかナゴヤかどっちなの?
97 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 22:35:35.48
そういえば名越の切通しは、いまも、通行禁止か?
98 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 23:42:43.27
朝時の名越の屋敷はどこにあったのだろう
>>94 なんかの本の受け売りで申し訳ないんだが
都の貴族の日記をみると泰時と朝時の仲の悪さがよくわかる
と書いてあった。
>>91 とりあえず時政の娘を羅列すると
政子、阿波局、足利義兼妻、畠山重忠妻、稲毛重成妻(東国系)
宇都宮頼綱妻、平賀朝雅妻 (東国都両系)
坊門忠清妻、三条実宣妻 (都系)
河野通清妻 (西国系)
意外と都系は少ないし明らかに都系と思われる二人との婚姻は
(坊門忠清は少なくとも1187年生まれの兄より年下、藤原実宣との婚姻も1200年以降ともいわれる)
時政が初上洛した1185年よりもかなり後に成立したもんだと思われるが。
>>93 朝時は比企家が管理していた北陸の権益を引き継いでいた可能性は無くはないか?
承久の乱では北陸軍担当だったし。
そんで、時政義時も朝時を完全無視はできなかったのではないかと。
102 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 08:32:52.85
>>101 >朝時は比企家が管理していた北陸の権益を引き継いでいた
どうして引き継ぐことができたの?
103 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 08:50:50.21
>>102 北条朝時の母親が比企朝宗の娘だからだろ
104 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 09:40:00.95
母親が比企朝宗の娘だから引き継ぐことができる。。。
というのが分からない。
母親が「おじいちゃんの守護国お前にやるよ」と朝時に与えたわけか?
105 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 10:09:09.28
北条が没収して自分のものにする口実に使ったんだろ
義時が息子に遠慮するはずない
106 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 11:09:48.04
>口実に使ったんだろ
そんなことが口実になるのか?
「北陸は朝時の母親の実家が守護職してますんで朝時に引き継がせます」
と義時が言ったら「なあるほど、さようでございますか」と御家人は納得するんか?
107 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 12:45:08.01
御家人はもちろん納得するだろ
分け前しっかりもらえば
比企と正面衝突したのは北条だしとるなら朝宗んとこもらうわ、舅だし、みたいな
義時が生前息子に分け与えたのがはっきりしてるのは、泰時への山内の別邸だな
あのあたりの所領を泰時に与えるつもりだったなら、やっぱ跡継ぎは泰時のつもりだったんでね
108 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 12:58:09.79
>>104 比企氏そのものが比企の乱で滅亡している。
外祖父朝宗は消息不明、朝時母は義時と離縁。
そのときに、比企氏の所領を没収した義時が
理由をつけて自分の息子に分配することなど簡単な事だろう。
109 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 14:01:37.10
>比企氏の所領を没収した義時
問題はそこですよ。
義時が没収できる権限を持っていたかどうかですよ。
当時の義時にそれほどの政治的権限があったかどうか疑問でつ。
110 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 14:03:02.39
>>109 現実に比企氏が持っていた北陸の所領は北条氏の管轄になってるよね
111 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 14:28:04.09
えっ、朝時は比企から守護職だけでなく所領までもらっちゃったの?
112 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 15:03:12.04
>>107 >義時が生前息子に分け与えたのがはっきりしてるのは、泰時への山内の別邸
初耳だがそんな史料あったっけ?
113 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 19:17:02.46
吾妻鏡に記述があったはず
北条家の鎌倉での館を分析した本にのってた
承久の乱の前には譲られてた
114 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 19:55:24.99
秋山哲雄の本じゃね?
あれは間違ってるお。
115 :
日本@名無史さん:2013/10/25(金) 20:52:17.97
義時の権限というか北条の権限では
政子や時政も含めたさ
もっとも、実際に比企をうった軍を指揮してたのは義時だからそれなりのパワーはあったんじゃあ
時政の失脚が元久2年(1205年)閏7月で、朝時の元服が(朝の字は実朝の朝?)
建永元年(1206年)10月。元服前の幼児を守護に任じるとは思えないから、朝時が
北陸方面の守護になったのは父の義時による人事だろうね。ただ、比企氏がかつて
北陸地域を管轄していたからといって、引き継ぐのに有利に働いたというのは
どうだろう?
比企氏は御家人から総スカンを食って族滅した訳で、御家人の憎悪の的になった
比企氏の血統というのはハンデにしかならないような気がする。
117 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 13:45:36.22
北陸の正守護は義時。朝時は守護代的な存在だろ
基本比企の乱は北条と比企の私闘だろ。
時政が比企を名越屋敷で謀殺したことといい、比企が頼家と北条追討
を画策したことと言い、仁田が義時を襲ったことといい、御家人そっち
のけで頼家乳父の比企と実朝乳父の北条が権力闘争繰り広げただけ。
ひと昔前の歴史学者が将軍独裁派対執権派の戦いとか屁理屈つけていたが。
118 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 14:00:08.12
頼家が全成とっ捕まえた時に、まとめて北条を始末すべきだった
その力がなかったともいえるが
119 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 14:40:15.54
>>118 道灌
おれもそう思う。
頼家や比企にはいざと言う時に死に物狂いで突進する覚悟が無かったんだよ
その点、北条はいざとなるとすごいよな。
坂東武者さえ真っ青になるくらいの武闘派だ。
普段は文筆官僚みたいに冷静なエリートって感じなのに。
その辺が北条氏の族的性格の複雑なところだな。
120 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 15:07:15.93
>>118 >>119 頼家のよりどころであった比企一族には北条を始末するだけの武力がなかった。
北条氏はこの頃すでに完全に頼家を見離し、実朝擁立で動いていた。
頼家は、実朝の乳母を妻とし実朝擁立に傾く叔父阿野全成を突発的にひっとらえて処刑したものの、
このとき母北条政子に対して全成の妻阿波局(北条政子の妹で、源実朝の乳母)の引き渡しを求めると、
政子にきっぱり拒否されている。
比企+頼家VS北条+実朝の武力闘争では、後者に軍配が上がったというだけのこと。
121 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 16:17:05.17
>比企一族には北条を始末するだけの武力がなかった。
そそそれは・・・。
比企には河越とかいるじゃん。
それに将軍が味方だからこれ以上の後ろ盾は無い。
将軍の命令に反したら謀反人になっちゃうし。
所詮在庁官人上がりで頼朝死後執権になって三年余りしかたってない
時政が膨大な軍事力を持ってたなんて信じられん。
>>120 北条時政は真っ向からやりあったら勝ち目が薄く、時間が経てば経つほど不利になるから、
頼家が昏睡状態になったことを幸いに比企能員を暗殺、混乱する比企一族を一幡もろとも葬り去るという暴挙に出たわけで
123 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 17:36:36.59
>>121 頼家は将軍を辞めさせられて幽閉されてるんだが。
将軍頼家の命令に誰も逆らえなかったのならば
なぜ頼家の将軍廃止と幽閉が可能だったの?
>比企には河越とかいるじゃん
河越重時の妻が比企氏だったってこと?
河越重時は比企氏との間に儲けた娘の郷が義経の正室だったために、義経が頼朝に討たれると、
比企氏との間に儲けた息子とともに頼朝によって殺されている。
跡を継いだ重時の次男重時は比企氏の子ではなく、比企能員の変の時には若かったのか記録もない。
その後の戦いでは北条義時に従っているため、比企氏に組しなかったのは確か。
124 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 18:04:28.55
>>122 この時期の御家人は、頼家の命令ではなく、北条政子の命令で動いている。
北条政子が比企氏の嫡男比企三郎を謀反であるとして弟義時を大将とする追討命令を出すと、
北条義時の追討軍に多くの御家人が参加している。
その直後、頼家は政子の命令で出家させられている。
将軍頼家のもとに参じて、その判断を仰ぐまでは兵を動かさない、
頼家の出家など認めない、などという者はいなかった。
125 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 19:17:23.22
梶原景時だったら全成だけでなく、因縁つけて北条もうったろう
だから梶原は危ないってんで真っ先に始末された
比企はそこまでじゃなかったというか、義時は比企の婿だったし
ちょっとのんびりした家だったのかもな
126 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 19:40:32.56
梶原景時なんて在地武士に殺されてるんだが
北条なんて討てるわけないだろう
127 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 20:59:29.78
御家人は勝ち馬に乗るだけだよ
勝ちたければ一か八か先手を打って初戦を勝利で飾る必要がある。
北条氏はそれで成功した。
景時も比企も頼家も重忠も和田もその覚悟がなかった。
ぼやぼやしているうちに破滅するか、追い詰められて決起するかだ。
もうその時は勝負がついていた。
128 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 21:04:09.90
先手を打ったのは和田だろ
うたされたという見方もできるが、先制攻撃かけたから、戦況によっては義時は死んでたよ
>>116 奥州合戦の後、頼朝は秀衡未亡人を保護して在地勢力の反発を回避しようとしている。
戦国大名も滅ぼした相手の家族を保護したりする占領政策をとる場合もある。
もし比企氏と北陸豪族とつながりがあったとしたら
その縁者朝時を押し出すのが北陸豪族を北条反発させない効果的戦略だったのでは?
>>123 比企ファミリーの状況
安達(長女) 景盛側室問題で反頼家、北条寄り
河越(次女) 昔日の勢いはなし
平賀(三女) 息子の朝雅は北条の婿
さらに言えば比企三姉妹と能員は実の兄弟ではない。
131 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 21:51:58.72
比企と北陸ってなんか関係あるの?
朝時にも従わなくて、従えー、と幕府がわざわざ言ってたけど
132 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 21:57:38.47
>>127 頼家が阿野全成を捕えた時他の御家人は乗ってこなかったしなあ
和田が先制攻撃かけたときも他の御家人は乗ってこなかった
それどころか和田は味方の三浦泰村が裏切る始末
>>131 義仲壊滅後、比企能員が頼朝から北陸勧農使に任ぜられて
北陸のほうに進出していった。
奥州攻めの時比企能員が北陸軍を率いていたから
その時点ではある程度北陸に影響力を持ち始めていた可能性がある。
>>132 三浦義村はもうしょうがない
承久の乱でも弟をバッサリ切り捨ててる
135 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 22:29:23.27
雅子様も政子様くらい気丈夫だったら良かったんだが。
女官にいじめられたくらいで引きこもりとは情けない。
136 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 22:30:40.69
実朝暗殺の黒幕は三浦かなとか思ってたが
やっぱ北条が怪しいと思う今日このごろ。。。
>>136 じつは北条と三浦の夢の狂宴だったりして
138 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 23:13:31.77
>>136 けどさあこの時点の北条ってまだ「源氏の外戚」という事実はまだ重要だったんじゃないのかな?
それに当時の政子の年齢を考えると
政子に頼るのも危険すぎるし。
逆に実朝を殺して北条が得ることができるメリットって何?
140 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 23:28:36.00
梶原は人望なく
比企は人望なく
より家は人望なく
三浦は人望なく
結局、頼朝死後、一番人望あったのが北条だから仕方ない
141 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 23:49:11.20
>>139 宮将軍を連れてくるのに邪魔だったから。
源氏将軍じゃ北条氏の地位は上がらない。
なにしろ在庁官人の出でだから源氏一門にさえ頭が上がらない。
宮将軍の執権になることで北条氏の地位は相対的に上がる。
源氏一族とも対等以上のお付き合いができる♪
>>141 そのレベル北条が宮将軍の側近になれるとでも?
源氏将軍の外戚になるより難度が高いと思うが?
143 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 00:19:38.48
実際に政子が京都へ行って話をつけてきたわけだが。
その時は実現できなかったが、時頼の時代には実現できたしな。
144 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 01:35:00.99
北条に実朝を殺す理由はないわな
両者の齟齬はほとんどないし
実朝には北条だけが頼りで、それ以外にバックアップの勢力はなかった
実朝にこどもがいないんだから、宮将軍も実現することは確実になってる
だから、当時から近年にいたるまで、北条黒幕説ってなかった
頼家殺したのは北条、と当時からいわれてたのと大違い
実朝暗殺は事件だったが、暗殺されてもされなくても大して歴史に変化なさそうな
承久の乱に対処したのが泰時になったぐらいでw
>>143 宮将軍は内定したけど実朝の横死のせいで、都側から宮将軍拒否されたんだよな。
実朝の死亡は宮将軍実現の為はマイナス方向にしか働かない。
146 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 09:20:15.91
>当時から近年にいたるまで、北条黒幕説ってなかった
いや以前は北条黒幕説が流布されてたんだよ。
それを永井路子や石井進が批判して三浦黒幕説を主張したんだが。
147 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 09:39:37.20
>>141 さすがに政子は実朝まで殺してはいないだろう。
頼家を見放すことができたのももう一人の実の息子・実朝がいたせいだろ。
政子は実朝が死ぬと追善供養のためにあちこちの寺に寄進をしたり、
十分悲しんでいるように見える。
政子が後鳥羽天皇の親王を鎌倉に迎える話をつけてきたのは事実だが
それは27歳になる実朝に結婚して15年になる正室も側室たちもいたのに
一人も子供が誕生していなかったため。
実朝に実の息子がいても、宮将軍の話をつけていたとは思えない。
迎えるはずだった親王も、実朝の御台所・坊門信子の甥であり(信子の姉が後鳥羽天皇との間に産んだ子)、
実朝と信子の養子ないし猶子とするつもりだったのだろう。
政子は摂家将軍・九条頼経に、頼朝と政子の実の孫娘である竹御所をめあわせており、
宮将軍を迎えたら当然その御台所は竹御所になるはずだっただろう。
実朝暗殺の実行犯だが、恐らく御家人全体が絡んでいる。
理由だが、実朝は朝廷から官位を積極的にもらっており、鎌倉幕府が朝廷の
強い影響下に置かれることがこのままでは避けられず、それを嫌った北条、
三浦などの共犯だと思われる。
>>147 年齢を考えたら、竹御所は親王将軍の奥さんだろうね。
>>148 北条が実朝を暗殺するなら、他にいくらでも機会があるだろうし
三浦が実朝を暗殺しても、幕府の実権を掌握するのは無理だろう。
単純に実朝が警備手薄な儀式を鶴岡八幡宮で行うと知った公暁の
単独犯行じゃないかな?公暁は鶴岡八幡宮の別当だから
自分の庭のようなものだし、好機到来のような感じで。
150 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 10:33:16.33
唯一の生き証人である大銀杏も倒れてしまったし
これで永久に謎だな
151 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 10:40:34.48
義時が白い犬を見て頭がくらくらして小町亭に逃げ帰ったとか
実朝は拝賀に出立する時に髪を広元に遺品として与えたと言う
けどあれは作り話か?
152 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 10:47:44.40
実朝が中国に行くとか言い出したりして、かなり精神不安定な状態。
「こんな危なっかしい人間があと何十年も将軍やってたらかなわんわい。
早いとこ殺してしまえ」というわけでバッサリ。。。
153 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 12:03:38.23
>>150 まあ、あの銀杏も、当時のものの子孫なんだけどね、
154 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 12:46:15.02
>>148 天皇の息子なんかを将軍に貰ったら
もっと朝廷が口出ししてくるだろうが
155 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 13:59:25.94
実朝に子供がいないから、頼家の息子、とならないあたり
宮将軍には北条義時の意向が強く出てるだろ
政子的には頼家の息子でもいいわけでさ
でも義時は絶対ノーだから、妥協の産物として八幡宮の別当に
それが仇になったわけで
156 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 14:12:55.74
実朝の官位昇進のハイスピードは異常だ罠
>>154 そのつもりはないだろう。実際に、新鎌倉の公家から将軍をもらうだろうし、
現実的にそうした。更には、その目処がついたから、実朝をみんなで除いた、
とも言える。
なお、宮将軍になったのは、承久の乱で朝廷が幕府に対する権威を失ってから。
実際に、宮将軍をを通じて朝廷が介入するのは皆無に等しかったし、最後の
守邦親王に至っては、東勝寺で北条氏、御家人らとともに自害し、幕府と運命を共にした。
>>156 結果的には、早い出世が死を招いた、としか言いようがない。
158 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 14:27:13.63
>>155 頼家の息子は皆出家させられている。
後鳥羽天皇の乳母卿局に話をつけて親王を貰い受ける約束をしたのは北条政子なので
政子が頼家の息子でもいいと思っていたとは考え難い。
勿論義時の考えは入っていただろうが、政子が何が何でも頼家の息子に継がせると言い切れば、
義時にそれを押し切って、政子に親王を迎える折衝を強要させることができたとは思えない。
政子的には、宮将軍と竹御所の子が女系で源家将軍を継続してくれればいいと思ってたのではないか。
>>157 史料読んでる?
政子は、後鳥羽上皇の乳母・卿局藤原兼子に話をつけて
兼子が養育していた後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を鎌倉に貰い受ける話をしている。
実朝没後、後鳥羽上皇の反対でとりやめになった。
(このいきさつは九条兼実の実弟・慈円が記した「愚管抄」に詳しい)
親王が駄目なら摂家から、ということでまだ2歳だった九条頼経が候補に挙がったのはその後だよ。
頼朝の妹の曽孫にあたるが、最初から本命だったわけではない。
>>156 宮将軍に来てもらう為の家格上昇の為の任官だった
という意見をどっかで見た気がする。
>>148 官位を貰っている過程で実朝が朝廷の言いなりとなっていた事実があった?
実朝は御家人の権限は守ろうとしていたようだが。
162 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 15:05:08.27
>>158 政子が、義時の反対をおしきって何が何でも、という気持ちがないのは当然だ
彼女自身は別に頼家の息子でもいい、という程度でさ
ただ、息子を見殺しにした罪悪感と、頼家の子にひきつがせられない負い目があるから
公暁を無理にひきたてたんだろ
竹御所だって、無理無理に赤子と組み合わせるぐらいだから
相当やましかったんだろう
後鳥羽院が実朝死後に宮将軍を許可しなかったのは、義時に利用されるのを警戒といってたな
義時は宮将軍派だったと思うよ
だから交渉がうまくいかなくても義時はあきらめきれず、政子と三浦義村は
さっさと九条でいいじゃん、となったわけで
政子からすれば、竹御所が御台であれば、相手は摂家将軍でもいい、てなとこだろな
御家人は自分の権限(主に所領)が犯されなければ将軍はだれでもいいし
たとえ朝廷が多少口出ししようが
将軍の官位がどんなに上がろうが気にしなかったと思う。
164 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 15:14:45.48
御家人は実朝が気に入らなければ堂々と文句いうよ
長沼宗政みたいにw
公暁とつながりがあるのは御家人は三浦ぐらいだな
三浦は自分が疑われるから、とっとと公暁のクビをさしだして潔白を訴えたわけだ
畠山を殺しておきながら、とっとと稲毛をうって身の潔白を証明したのと同じ
あの稲毛討伐なんて私闘だぜw 本来なら許されない行為だ
165 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 15:20:43.75
>>162 >彼女自身は別に頼家の息子でもいい、という程度でさ
だから、政子が頼家の息子でもいい、と言った記録がない
>後鳥羽院が実朝死後に宮将軍を許可しなかったのは、義時に利用されるのを警戒といってたな
これは根拠は何?
「愚管抄」によれば後鳥羽上皇は自分の息子が京都と鎌倉にいては日本を二分する
という理由で断っている。
>公暁を無理にひきたてたんだろ
別に引き立ててないだろ。
実朝の猶子となり鶴岡八幡宮の別当にはなっていたけれども。
政子が頼家の子の擁立を図ろうとしていたなら公暁を還俗させるだろう。
宮将軍の交渉の場にも政子は出てこない。
>だから交渉がうまくいかなくても義時はあきらめきれず、政子と三浦義村は
>さっさと九条でいいじゃん、となったわけで
宮将軍擁立を主体的に進めていたのは北条義時であって、
政子と三浦泰村は九条でいいじゃんと言った、という根拠がない。
北条義時が宮将軍の交渉を行った記録はない。
>>148 北条義時は娘多数を都の公家に嫁にだしているんだが。
そのあたりをスルーして実朝の官位上昇が朝廷の介入につながると理由で北条が反発というのはいかがなものかと。
167 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 15:48:14.69
>>157 >守邦親王に至っては、東勝寺で北条氏、御家人らとともに自害し、幕府と運命を共にした。
知らなかった
2ちゃんねるは勉強になるわあ
169 :
日本@名無史さん:2013/10/27(日) 20:44:26.06
>>165 君がいったい、何をムキになってるかさっぱりわからんのだがw
日本国を二分する、といったのは、義時に宮将軍が利用される、ということだろ
だから、後の義時追討の院宣の中身になったわけでさ
義時が宮将軍を交渉したんでなかったら、なんで時房がわざわざ都にいってんだよ
公暁の沙汰を三浦があおいだのは義時にだぜ
執権は将軍後見職なんだから当然なんだがな
公暁を鎌倉によびよせたのは政子だろ
京にそのままおいておけばよかったんだ
女の感情に流されたのがそもそもの間違いってなとこだな
170 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 04:00:47.17
>>151 あれは確か吾妻鏡の捏造
実際は実朝に外で待ってろと置いてかれただけ
野外放置がみっともないと二階堂さんは思ったんだろうけどこんな疑惑となるなんてな
171 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 09:38:52.43
>>170 義時が安全圏いた時に事件が起きたと言う事は
やはり実朝殺害の黒幕は義時か?
172 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 20:51:20.15
もし義時が実朝暗殺計画を予めつかんでいたとしたらなんで全力で止めなかったんだろ?
実朝いなくなったら北条が一番困っただろうに
173 :
日本@名無史さん:2013/10/28(月) 21:18:14.93
公暁は仲章を義時だと思って殺したと愚管抄に書いてある。
ということは義時が御剣役をする予定だったのは確実だ。
つまり義時は野外放置されていたのではない。
174 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 10:13:57.89
将軍の御剣役は武士の名誉。
仲章のような文人にはふさわしくない。
175 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 22:19:31.29
>>172 >実朝いなくなったら北条が一番困っただろうに
しかし実際は何も困らなかった。
逆に北条氏に有利な情勢になった。
176 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 22:41:14.78
177 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 22:41:34.88
源頼家と頼家を後ろ盾とする比企能員を牽制する為に
推戴したのが実朝だから
頼家と比企亡き後は用済みっていうことなんだろうか
178 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 22:50:26.91
>>175 まあ 結果論かも
実朝は北条の傀儡だったし、北条だって後継者がきちっときまってない状態で
実朝が亡くなるのは困っただろう
事実 承久の乱だって頼朝直系が絶えたから御家人が動揺してるだろうと後鳥羽院がしかけたものだろうから
結果として幕府は勝利したけど 下手すりゃ朝敵として北条家滅亡だったし
179 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 23:20:02.67
実朝は頼家と違って政子や義時の言いなりなんだから北条側に殺すメリットなんかない
メリットがあるとすれば三浦だろ
180 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 23:23:14.96
181 :
日本@名無史さん:2013/10/29(火) 23:32:51.16
>>180 しかし人は未来を見れない
現代人は結果を知ってるから
なるべくしてなったと思ってしまうが
現実はさまざまな偶然が突飛も無い結果を生んだりする
北条氏が未来を知ってたのなら実朝を殺したといえるだろうがw
182 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 00:11:44.33
>>181 歴史は必然だろう
歴史が偶然の連続なら歴史を学ぶ意味が無い
183 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 01:36:25.51
殺す理由がないんだから殺さなくて良い
実朝が誰か御家人とつるんでたらやばかったがそれがないからな
頼家は比企とつるんだからやられた
実朝死後は不安定になったかえあ、時元やら禅暁まで殺さねばならんかった
九条と西園寺は動かなければミトラもこなかった
そんなあぶない手を北条がうつとは思えない
しかし。実朝暗殺後の鎌倉統制ぶりは大したもんだ
と感心する
184 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 10:27:33.71
>殺す理由がない
しかし殺した結果北条氏に有利な流れになったのだから
「殺す理由」があったんじゃないの?
185 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 10:44:49.34
殺さなくても有利な状況にかわりなかった
186 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 11:52:29.40
>殺さなくても有利
具体的にどんな展望があったの?
>>186 横レス失礼
北条が執権でいられたのは実朝の外戚だという権威があったのが大きい。
実朝生存中から宮将軍を迎えることは北条にとっても規定路線。
宮将軍に竹御所を妻にめあわせるのも規定路線。
竹御所は時房が後ろ楯になっていた。
だがこの竹御所縁だけでは実朝外戚に匹敵する権威を北条は受け継ぐことができない。
将軍夫妻の子を取り込む、など抱え込みをはからなければ北条の権威は後退する。
その為にも実朝が元気なうちに新将軍の取り込みを完了しなければ北条アウト。
実朝横死の為宮将軍擁立は失敗し、竹御所は高齢出産を余儀なくされ難産死。
藤原頼経の取り込みに失敗して
最後は将軍都返却となった。
政子の存在と承久の乱がなかったら北条は権力から転がり落ちる可能性さえあった。
ちなみに摂家将軍は西園寺押しで、西園寺に三浦が近かったとの説もある。
188 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 15:45:33.37
>政子の存在と承久の乱がなかったら北条は権力から転がり落ちる可能性さえあった。
「政子の存在がなかったら」という仮説は成り立たない。
だって現実に存在したのだから。
また承久の変が起きるのも義時にとって想定内だったろう。
したがって政子の存在が有り、かつ承久の乱も想定内だから
北条氏が権力から転がり落ちる可能性はゼロ。
>>188 >「政子の存在がなかったら」という仮説は成り立たない。
だって現実に存在したのだから。
そういうことではなく、実朝の死後承久の乱も何もないうちに
政子の死が来たら北条はやばかったということ。
政子は当時いつ死んでもおかしくない年齢だったからね。
>また承久の変が起きるのも義時にとって想定内だったろう。
そう思う根拠は?
190 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 17:52:30.74
>政子は当時いつ死んでもおかしくない年齢だったからね。
しかし、現実に死んでなくて生きていたわけだし。
また朝廷側が攻勢をかけてくるのは当然予想していたと思うよ。
義時はバカじゃないんだから。w
坊主の慈円でさえ予想してたんだし。
当時の情勢から見るに、実朝が死ねば朝廷との対立は避けがたかったわけだろ
で、その対立が武力紛争にまで発展するまでの時間は読めなかった
そこまで対立が大きくなる前に政子が死去する可能性は小さくなかっただろ
後鳥羽上皇の速決指向が政子の死を待たずに挙兵という選択につながったから幕府が勝ったものの、
上皇の我慢がもう少し続いてたら幕府が終わってた可能性は小さくないだろ
189が言ってる
>政子は当時いつ死んでもおかしくない年齢だったからね
とは、そういう意味じゃないのか。
192 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 19:01:08.52
>>182 大きい流れは必然だ 武士が力を持ち、武家政権ができ、それが発展していく
しかし その流れをだれがどのように担うかは結構偶然が左右したりする
頼朝死後の推移をみたって必ずしも北条が幕府を担っていくと決まっていたわけではないし
政争で頼家や比企が勝利する可能性だってあったわけだし
193 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 20:26:32.62
>上皇の我慢がもう少し続いてたら
何故後鳥羽はもう少し我慢しなかったの?
194 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 20:43:41.31
>>191 政子が死んでいたら御家人は皆北条義時を見捨てたとは言えないんじゃないのか
自分の土地を守ってくれるのは後鳥羽上皇ではなく鎌倉幕府だったわけだし
吾妻鏡で政子が実際には征夷大将軍に就任していないにもかかわらず
頼朝らと同様「尼将軍」として一代記を作るほど政子の政治力は強かったとはいえ
政子が死んでいたら鎌倉幕府が崩壊したかといえばそうとも言えない
大江親広、三浦胤義、佐々木経高まで京方だったからなあ。
後鳥羽上皇の院宣は「幕府を潰せ」ではなく「義時を討て」。
大江広元もぐずぐずしていたら武蔵武士団の気が変わるかも
と言っているし、一歩間違えたらどうなったことか。
196 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 22:28:10.79
確かに実朝の死後に次の将軍を出すのを、京都側がずっと渋り続けて、
政子の寿命を迎え、皇族、摂家のような貴種の確保ができなかった場合、
義時たちはどうする気だったんだろうね。
仕方なく、北条家に身近な中では出自が良くて源氏とも近い足利義氏あ
たりを担ぐのかなぁ?
197 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 22:28:20.75
>>195 大江、三浦、佐々木らは在京であったために
やむなく後鳥羽上皇に従っただけだろ
後鳥羽上皇の院宣は関東武士には無意味で全く動員できなかった
>>193 ずっと我慢し続けてきたのが、ついに限界に来たって事だろ
もう何年か我慢を続けてたら情勢が変わったかもしれないが、
そんなのは結果論だしな
199 :
日本@名無史さん:2013/10/30(水) 23:10:30.41
三浦義村あたりまで宮方についていたら鎌倉も危なかっただろ
200 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 00:10:17.59
自分も北条はかなり他の武士との間に差がつきすぎて、権力から
ころがりおちることはなかったと思う
時政追放、実朝暗殺、承久の乱でもまったく揺るぎがない
執権政治はすでに確立していて、だから、実朝の渡宋なんてものが平気で語られた
本来なら将軍不在だから大騒ぎになるはずだ
だからこそ、実朝暗殺なんて必要ない
暗殺したことによる不確定要因の方があぶない
暗殺されて北条に有利なことなんてなんかあったっけな? 九条がでかい顔しただけだろ
201 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 00:14:46.76
>>191 政子を過大評価しすぎ
政子がいなかったら、竹御所なり他のかついでうやうやしくやるよ義時は
鎌倉を支えていたのは北条であって政子じゃない
政子の演説だって安達の代読なんだから、誰か御簾の内にすわらせとけばすむ話だしな
202 :
日本@名無史さん:2013/10/31(木) 08:27:49.05
>>198 >ずっと我慢し続けてきたのが、ついに限界に来たって事だろ
何故限界にきたんだ?
>>201 実朝亡きあと竹御所以外にだれかいるの?
204 :
日本@名無史さん:2013/11/01(金) 15:36:59.38
北条氏にとって源実朝の暗殺は痛かった。
自身の権力の源だったから。
205 :
日本@名無史さん:2013/11/01(金) 16:57:43.80
だったらなんで北条氏の権力は巨大になったのか?
やはり摂関将軍の方が良かったからではないか
初代頼朝の外戚で、邪魔な御家人な排除済みで、婚姻も結びまくりで
坂東武士たちも生き残る為には北条と縁付いて安泰を選んだからじゃない?
戦国時代もそうだけど、忠誠よりも御家の繁栄が優先されたりしたし
頼朝自体が坂東武者に担ぎ上げられた傀儡説もあるが
生きてた頃は頼朝が絶対的な存在だったし
実朝の代になっても、和田が謀反疑惑をかけられたとき
「自分が憎いのは北条であって、上様(実朝)に含むところは無い」と弁解してるしね
>>205 この時点になると将軍が誰か?という問題より
頼朝時代から北条が積み重ねてきた既得権(特に実朝期)の問題と
承久の乱の勝利の実績による問題だと思う。
既得権を得たのは「将軍の外戚」によるもんだったから
どちらかと言えば実朝の方が都合がよかったとは思う。
209 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 12:08:39.34
北条の既得権、思いつくままに並べてみると
頼朝将軍期
伊豆・駿河・遠江守護職
頼家将軍期
遠江守任官、比企の乱後に信濃・大隅守護職獲得
実朝将軍期
政所別当就任、相模守・武蔵守任官、
越後守護職(承元年間?)
和田合戦後に侍所別当就任、美作守護職獲得
政所・侍所を掌握して将軍の命令を代執行できる権限は
大きい。ただし権威の不足は否めないから、実朝・政子・
竹御所といった将軍一家の保持は必須だろうね。
211 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 14:27:03.59
>既得権を得たのは「将軍の外戚」によるもんだった
それらの既得権益が得られたのは「将軍の外戚」だったから
と言うけどその根拠は?
比企の乱や和田の乱で得られた権益は勝利したから得られたのであって
「将軍の外戚」だから得られたのではないと思うけど。
受領任官については源氏将軍の姻戚(準一門)という立場が
大きかったんじゃないかな。和田義盛は上総介任官を希望して
一般御家人の任官は、頼朝の意思に反するとか政子に言われて
断念させられてる。ただ、その数年後には三浦義村が駿河守に
任官しているけど。
213 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 17:53:47.64
>>212 頼朝時代に時政や義時が受領どころか左衛門尉とかにさえなってないのは何故だろう?
御家人の中にはなってる武士も結構いたようだけど。
214 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 19:47:52.11
>>213 頼朝時代は北条氏の地位がそう高くなかった証左でしょうな
215 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 21:41:41.13
>>205 摂家将軍の方が北条は不安定だったろ
名越やら三浦やらを側近にして、京では九条道家が動いててさ
だから経時や時頼が強引に力技で摂家将軍をのぞかなければならなかった
216 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 21:49:04.92
>>207 和田義盛は、頼家から北条討伐命じられながら、そのまま北条にたれこむようなヤツだからなw
ま、でも当時の武士ってそういうもんだよ
頼朝や実朝はそれをよくわかっていてうまく身を処していた
217 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 22:07:52.93
218 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 22:10:15.27
平氏だからじゃねーの
219 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 22:11:58.09
>>215 外戚だから安定してるとか言えないのじゃないか。
藤原氏だって外戚になっても安定してなかったようだが。
>>211 でもその乱争いの場合
単なる一御家人北条じゃ当事者の中心になることもできなかったわけで。
>>217 壇ノ浦スレで話題になっていたんだが
本来北条は頼朝の外戚にすらなることのできない
弱勢力で地位の高くない存在だったのが
頼朝流刑中の婚姻という特殊条件と
その後頼朝が鎌倉殿の正室に釣り合う家の女性を新たに妻に迎えなかったから
政子が正室になったに過ぎず
その結果北条が源氏三代の外戚になった、ということ。
頼朝の正室は悪くて六位の娘、普通では四位五位の娘、高望みすれば公卿の娘がなるのが相当。
北条は頼朝の父義朝が側室にしたとされる三浦や波多野より本来は格下。
222 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 22:58:45.72
>>217 比企の乱として生じる 頼家と北条を中心とする御家人達の対立で北条が勝利したからでしょう
北条が中心となったのは 頼朝正室の実家だった故
>>221 そう 北条はもともとその勢力が弱かったため 政子個人の資質もあるだろうが 頼朝の浮気にうるさかったと推測できる
牧宗親の髻が切られた一件で時政が伊豆へ引き上げるなんて大人気ないことしてるのも危機感の表れだったかも
223 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 23:39:14.24
頼家の妻みても頼朝の妻が政子なら上出来だと思うがw
本来云々なのに迎えられなかったとしたら、そんだけ頼朝の力が弱かったということだし
224 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 23:42:24.41
外戚というだけで権力の座についたのなら
御家人の反発を招くだろう。
しかし反発を招いていないのはなぜ?
225 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 23:49:27.59
巧みに多数派工作を仕掛け、梶原、比企、和田、三浦、安達…と徐々に有力御家人を滅ぼしていったから
ただし最後の有力御家人足利だけは潰し損ねた
226 :
日本@名無史さん:2013/11/02(土) 23:59:06.52
実力者だったから
足利すら、北条義時泰時親子を手本に政治する、といったぐらい
227 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 01:54:08.23
足利の正妻が時子なんだから、頼朝の正妻も政子でいいんだよ
この二人は多分同母姉妹だろうし
>>224 ライバルは潰したけど、ライバルにはなりえない一般御家人の利益は守ったから。
一般御家人は自分の権益が守られれば誰が幕府権力者になろうが知ったこっちゃないから。
>>224 >頼家の妻みても頼朝の妻が政子なら上出来だと思うがw
頼家の妻って誰の事?
妻の一人は為朝の血をひいてるし、若狭局は頼朝の乳母比企尼の孫娘。
比企一族も頼朝の身内と多数婚姻関係を結んでいるし
北陸に勢力を扶持しつつあった勢力だから北条に劣るとは言えんわな。
むしろ頼家の乳母を出せたことから見ても頼朝時代は比企の方が北条より一歩リードしている。
それともう一点肝心なこと。
若狭局も為朝の孫も正室であるとは明記されていない。
個人的な考えだが、頼家の年齢を考えると
都からしかるべき女性を正室に向かえる可能性がなかったとは言えない。
>>227 足利義兼の場合、源姓足利は藤姓足利との微妙な関係を抱えている時に
都でおきた以仁王事件に深くかかわったために
自力で自領を守ることもできなくなり、他地域で挙兵した頼朝を頼るか(義兼)
義仲を頼らないと(義清)やっていけない存在になっていた。
その時点で義兼は自分が親分にすることに選んだ頼朝には逆らえない存在になっていた。
その義兼ならば頼朝が選んだ義姉妹をありがたがっていただき
親分頼朝の妻以上の存在を妻に迎えることができなかった状況なんだわな。
↓壇ノ浦スレから
207 :日本@名無史さん:2013/10/26(土) 20:18:23.09
>>202 頼朝の地位
1183年10月 従五位下(諸大夫)
1184年3月 正四位下
1185年4月 従二位(公卿)
それに対して北条時政は頼朝が死ぬまで無位無官
従五位下遠江守になったのが実朝期。
1183年時点の五位の正室に見合うには五位もしくは侍品(六位)
位でないと釣り合わない。
この時点で頼朝と同格と言えるのが
国司である安田義定、従五位を有していた東胤頼(千葉常胤の子)あたり。
少し格下で六位だった新田義重。(娘に頼朝が艶書を出していた)
この時点ですでに時政は頼朝の外戚と胸を張って言える地位を獲得していない。
ましてや公卿になった頼朝の正室に無位無官の娘というのは極めて異例。
実朝については結婚した時点ではまだ公卿にはなっていない。
壇ノ浦スレから
208 :日本@名無史さん:2013/10/26(土) 20:22:54.23 ついでに書いとくと
為義の妻 院近臣藤原忠清(国司)の娘&六条判官(侍)娘
為義自身は侍身分の人生が長く晩年やっと五位
義朝の妻 正室 藤原季範(散位四位)の娘 諸大夫
義朝は国司レベル
それに対して
頼朝の妻 正室?北条政子 頼朝生前中は無位無官北条時政の娘
頼朝は諸大夫→公卿
父、祖父の妻と比べると明らかに政子の地位は低すぎる
>>223 頼朝が政子以外の妻を迎えなかったことについては、未だに学問的理由は出されていない。
(政子を妻にする政治的、軍事的メリットが一切見いだせない)
結局学者は学問的理由にならない「頼朝の個人的心情」に理由を求めてあえて深く触れない状態。
現時点では政子が頼朝の唯一の妻でいたのは何故かと件は学問的には疑問のまま。
ただし政子が頼朝の「正室」だったのか?ということについては永井晋が疑問を呈している。
(政子の実家の脆弱性から政子は頼朝の「夫人」であるが「正室」ではない、と)
234 :
233:2013/11/03(日) 07:56:53.89
>>233訂正
×政子を妻にする政治的、軍事的メリットが見いだせない
○政子だけを妻にして他有力な妻を迎えない政治的、軍事的メリットが見いだせない。
捕捉
北条の軍事力は頼朝挙兵初期には多少の頼りにはなったが、(石橋山の主力は土肥)
鎌倉入りのあとは他豪族に比べると到底対抗できる勢力ではない。
北条は都との繋がりがあるものの、それが他坂東豪族の持つ都の繋がりを上回るものは不明。
都との繋がりならば頼朝自身が母方や自身の在京だったころの人脈を有しており、それは北条の人脈を遥かに上回る。
235 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 09:29:32.03
>>225 >巧みに多数派工作を仕掛け
頼朝死後の時政の政治力はすごいということ?
伊豆の在庁官人出身の北条時政がどうして
そんな政治力を身につけることができたのだろうか?
時政の政治力には頼朝も一目置いていたんじゃないの。
だから政子を正室にしたんじゃないの?
236 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 12:26:38.28
北条は軍事力で劣るだけで、政治外交力は御家人の中でトップだったよ
時政は武田との交渉に始まって渉外担当だし、ほうじょうどののほかに知る人なしという
軍事力だけで見るから北条の勢力を見誤る
義時も軍事力だけで見るから間違いで、西海遠征の時に九州渡海の先頭だったから
緒形との交渉のリーダーだったんだろうし軍師的なポジ
そういう性格の家というの御家人もわかってたろうな
237 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 13:31:19.31
>北条は軍事力で劣る
頼家政権誕生当時は幕府開創から20年もたってるから
北条氏もかなりの軍事力を持つようになったんじゃないかしらん
238 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 13:58:05.98
頼家の頃は他の有力御家人と組まないと軍事力で圧倒することは難しいだろ
三浦を滅ぼしたときだって安達の助け借りてるんだから
>>236 武田との交渉について。
『吾妻鏡』では頼朝から委託されて武田と交渉したとあるが
延慶本『平家物語』だと頼朝にも誰にも言わないで真っ先に甲斐国に逃げ込んだとの記載。
どっちが正解かわからんが『吾妻鏡』は北条寄りの書き方するし
、石橋山逃げてる最中の時政がダイレクトに甲斐に逃げ込もうとする描写が何回かある。
以外と『平家物語』に近い行動をとっていたのが
『吾妻鏡』の修正加筆で普通に交渉したとなった可能性もある。
>>236 ↑の続き次の渉外担当は義経没落後の交渉だが
これは確かに成果を出したが、短期で鎌倉に戻り
その後の恒常的な鎌倉側の窓口は頼朝の姉妹の夫一条能保となる。
時政は臨時雇用的な使われ方しかしていない。
たまたまやらせたら上手く行った程度のものじゃないかな?
それから聞きたいんだが、義時が緒方との交渉のリーダーだった事が読み取れる史料はなに?
九州に渡ったのは義時だけじゃないし、
『吾妻鏡』にはこのあたり義時の活躍は一切書かれてないんだよね。
他の御家人が甲冑を差し出して船を確保した話何かは載ってるけど。
>>235 頼朝の父義朝は三浦の娘を妻に迎えたとも言われ、
妻の実家三浦は義朝の勢力拡大の力となったが
三浦娘は側室で義朝が正室として迎えたのは藤原季範娘。
他に正室を迎えたからといって三浦と義朝が疎遠になったわけではない。
北条も同様。
たとえ時政の政治力が優れて
頼朝にとって必要な人物であったとしても
政子を正室にしておく理由にはならない。
他から正室を迎えて政子を側室にしておけばいいんだから。
北条は自分の家から頼朝の側室を出すのも有難いと思う程度の家。
>>238 細かいことだが、北条の外戚の座を確定させたい安達が
かつて外戚だった三浦を追い落としたくて
安達主導で宝治合戦に突入したんじゃなかったっけ?
>>241 当時は都人と地家人の格差が激しかったし、
仮にも都で官に就いたことのある頼朝は関東の武士たちの大多数と比べて雲泥の地位だったのはたしかだよなあ
国庁の役人にすらなれない北条氏の、おそらく嫡流じゃなくて傍流だったとまで言われる時政の格式では、
政子が頼朝の正室どころか側室でも、そりゃあ有難いよなあ。
244 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 18:27:11.84
外戚だって頼家をコントロール不可能だった件
外戚の地位なんて軽い軽いwwwwwwwwww
245 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 18:49:39.83
九州渡海で先登にたったのは義時で、下河辺は甲冑売って船手にいれて先登を果たした
つまり、船を手に入れたものがその権利を与えられたわけで、船を差し出せと
緒方に交渉したわけだから、そこで主導したのが義時だったんだろう
後の活動みても、彼は多数派工作が得意だ
>>244 頼家の頃は頼家は梶原、比企のコントロール下だったからなあ。
外戚とはいえ北条では支えにならないと頼朝が判断したからだろう。
それだけ頼家生誕時の北条が軽い存在だったこと。
逆にいうと政子が頼朝の妻にならず、頼朝の子を生まなかったら
歴史に名を残すどころか、「吾妻鏡」に一、二回時政の名前が書かれるだけのその他大勢でおしまいな一族。
その後の幕府内政争に一切関わらない名もない一族となる。
政子がいたから政争参加権を得たようなもの。
247 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 18:58:10.06
頼家誕生時の頼朝の力いれ具合をみると、頼朝には他に正妻迎える気はなかったと思われる
だからずっと妻一人だった
側室すらおけないとは思ってなかったロウがw
妾に産ませた息子を遠い京の寺にいれるんだぜ
普通の気の使いようじゃないよ
頼朝は政子に頭があがらなかった
後の尼将軍の強さの一因もそこにある
>>245 義時が緒方と交渉したとすることを明記する史料があるの?
北条持ち上げ文書の吾妻鏡なら少しでも義時が関わっていれば
下河辺より義時の功績を大々的に書くでしょうが。
吾妻鏡の持ち上げを考慮しても、
頼朝が政子を大切にして妻一人路線を維持しようとしたことは読み取れる。
だが、なぜ頼朝がその路線を選択したのかが謎なんだよね。
頼朝の個人的心情以外の理由がみいだせないんだよね。
あと政子がいかに強気に出ても他の妻を迎えるかどうかの主導権は頼朝の側にあったと思う。
>>247 政子にも正室の危機が一回あった。
義姉の義平未亡人に頼朝がラブレターを書いた時。
この恋が成就していれば正室義平未亡人、側室政子になっていただろう。
でも嫡子は頼家になっていたと思う。
義平未亡人は子供を産める年齢を超していたと思うので。
貞暁の処遇は頼家の地位安泰の為の頼朝自身の判断だと思う。
下手に俗体のまま鎌倉においておくと貞暁を担ぐ勢力が現れて頼朝後継者を巡る争いが起きることを懸念してのことだろう。
政子にとって貞暁の誕生は不快極まりないし、北条の危機だから
政子側からなんらかの働きかけは当然あっただろうが
政子の意思で貞暁の処遇が行われたというのは
吾妻鏡の拡大解釈書きだと思う。
251 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 19:14:52.65
実朝が徐々に頼家化した可能性はあるのかな?
外戚北条氏の手に余るようになったとか。
時政は頼家の母親の父親つまり祖父だったのに頼家をコントロール
できなかった。
義時の場合は実朝にとって母親の弟だからもっとコントロールが
難しかっただろう。
>>251 和田合戦までに鎌倉内における北条のライバルはほとんど消えたからね。
三浦足利は姻戚だし、小山千葉などは幕府権力争いに深く関わらないし。
実朝は結構強気将軍で、御家人と実朝の間を義時がとりなすといった場面もあったらしい。
253 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 19:24:55.48
長沼に面と向かって罵倒されてたじゃん実朝
御家人も気が強くて、簡単にへいこらする連中じゃないからな
頼朝はそれをわかってうまく操っていたが、頼家はわかってなかったかもな
254 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 19:32:32.40
>>248 吾妻鏡は別に大々的に書いたりしたりするような本じゃないよ
ただ、当時は先陣というのは大層な名誉であって、船の場合は限られてるから
他の御家人でなくなぜこの人が、というには理由があるはずだ
そして、当時の人なら当然、そういう発想になるだろうよ
下河辺のエピがその手がかりで、船を手に入れたら先登ととげられた、ということは
義時が船を手に入れる上で何らかの貢献を果たした、と考えるのが論理的だろ
渋谷もいたっけな
255 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 19:41:00.00
そら、八重姫との悲劇を経験して、もうオレに嫁はないのかー と覚悟してた頼朝のとこに
家出してやってきた政子は、頼朝にとっては特別だよ
彼は不遇時代の自分によくしてくれた人はとても大事にする
他に女をおいたら、政子の気性なら離縁ということになりかねない
当時の関東武士って離縁多いし
>>250 自分が理解できないのは、なんで実朝の乳母に阿波局をおいたかということだよ
次男の側に母方一族おくなんて、お家騒動ひきおこす最たるものだろ
戦国時代だって次男と母親がつるんで云々ばっかじゃん
歴史があーなったのは頼朝に責任があるよ
>>248 『吾妻鏡』の記事
1/26条 豊後に渡った御家人総勢37名の名前
2/1条 最初の上陸者
北条義時、下河辺行平、渋谷重国、品川清実
確かに最初に上陸したメンバーの中に義時はいる。
ただし、下河辺行平が船を手に入れたのは豊後国でしかも自分が乗るための小舟を手に入れただけ
(1/26日条)
行平が自分の船を手に入れるだけのことに義時がなんか貢献したとでもいうの?
そしてそれが論理的に考えると義時が緒方との交渉役になったというということになるの?
義時が緒方と交渉したという事実が史料に残らず、
それをうかがわせる状況がない以上、それはあくまでも脳内の推論にしか過ぎないんじゃないのか?
257 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 20:02:43.90
>>255 >なんで実朝の乳母に阿波局をおいたか
オレの想像だが、長男の乳母をはずされ北条が
せめて次男の乳母をやらせろと駄々をこねたらからでは?
258 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 20:04:44.13
>>256 でも軍議で緒方に催促の使者を送ろう、となったわけで、誰かがそういう議論を
リードする必要があるだろ
もう帰ろう帰ろうといってたヤツも多かったわけだしさ
そんで、先登の義時がその可能性が一番高いということだ
脳内だろうがそれが論理的と自分が思うがね
ま、範頼がリードして、一方的に義時に先陣を命令した、ということもあるかもしれんがw
>>253 そういう話も確かにある。
だが、
東重胤という千葉一族の御家人が本領に帰ってなかなか鎌倉に戻らなかったところ
実朝が激怒し、重胤が鎌倉に帰った後、実朝は重胤に謹慎処分を食らわせた。
そんな重胤が義時に実朝へのとりなしを頼んで
義時の計らいで実朝に許してもらったというエピソードもある。
実朝と御家人の関係って、全部同じようなもんじゃなくて
御家人の性格や所領の規模、年齢なんかによっても対応の仕方が違っていたんじゃないかな?
>>255 次男の乳母って誰にやらせても難しいポジションだと思うよ。
徳川時代の家光忠長にしても
忠長の乳母は実は土井利勝の妹で土井兄妹が兄弟の確執に
関わっていたという見方もあるし。
261 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 20:16:11.53
梶原や比企ににらまれるのがわかってるからな<実朝乳母
誰もやりたがらなかったのかもしれん
そんで全成がひきうけた、という可能性もあると思う
本来ならにらまれるはずの北条が母親一族だったから、梶原や比企をかえりうちにしたが
262 :
日本@名無史さん:2013/11/03(日) 20:29:00.73
>>259 二階堂か誰かが院に奉公したい、といって実朝が激怒したって話もなかったっけ
そんでやっぱり義時がなだめ役、実朝の許可がおりた、と
執権殿になだめられたらいうこと聞く実朝も結構かわいいかw
義時って結構おだやかなタイプだったのかも・・
猜疑心深い頼朝の信頼もあついし、気性の激しい政子とも相性いいし
息子の泰時も重時も政村も穏やかな感じだし
頼朝死後幕府が混乱した最大の要因は頼朝の年齢だと思う。
当時は40才で長生きのお祝いをする時代。
当時の40才は現代の60才に相当すると思う。
無理やり頼朝の年齢に当てはめると
34才 挙兵 現代に換算すると約50才
36才 嫡子頼家誕生 現代に換算すると50代前半
(父義朝が36才の時嫡子頼朝12才 頼朝はこの年元服済みで初任官)
39才 平氏滅亡、守護地頭設置 現代に換算すると50代後半 頼家4才
(父義朝が39才になったと仮定すると嫡子頼朝15才)
43才 奥州合戦終結 現代に換算すると 50代前半 頼家頼家8才
(父義朝が生きていたと仮定すると嫡子頼朝19才)
44才 上洛右大将権大納言就任辞任 現代に換算すると60代半ば 頼家9才
(父義朝が生きていたと仮定すると嫡子頼朝20才)
46才 征夷大将軍就任 実朝誕生 現代に換算すると60代後半 家11才
(父義朝が生きていたと仮定すると嫡子頼朝21才)
47才 富士の巻き狩りで頼家を後継者披露 現代に換算すると70目前 頼家12才
(父義朝が生きていたと仮定すると嫡子頼朝 22才)
54才 頼朝死去 現代に換算すると70代
(父義朝が生きていたと仮定すると嫡子頼朝31才)
後継者に引き継がせるまでの寿命が頼朝には足りなかった。
義時といえば亀の前事件で鎌倉に残ってたら
頼朝に呼ばれて誉められたとか
姫の前との結婚エピとか
頼朝時代の話は微笑ましいものが多いな?
貞暁も誰も乳母のなりてなかった、といわれてたね
政子の嫉妬のせいにされてたけど、ほんとにやりたい人いなかったのかも
なんか、源家の争いに巻き込まれたくない、という感が御家人たちからすけてみえる
義経や範頼が頼朝にやられたときも、御家人が巻き添えくったりしてたし
>>241 三浦と北条は違うよ
三浦は源家の家人
北条はまったく関係ないいわば外様
結構、これによる意識の差って大きかったんじゃないかなあ
時政なんて、少年時代の頼朝を20年間、流人として見てきたわけでさ
心のどこかに「流人ふぜいが」というのがあったと思われる
だから微妙に二人の仲はよくない感じする
義時は伊豆時代はまだ若かったからそんな感じないが
政子は「あたしのおかげでしょ」というのがあって、でかい態度とってたような
やっぱ、最初にいちかばちかで旗揚げしたというのが大きいよね
ただ外戚というだけででかい顔したら嫌われそうだが
頼朝が公家出身の嫁を迎え入れなかったのは、単に朝廷の影響力をなるたけ排除したかったからではないの?
>>266 確かに意識の差があったかも知れないが
ここで問題になっているのは無位無官(頼朝生存中)、で武力も他豪族に劣る北条の娘が
従五位→公卿&鎌倉殿の正室には家柄的に釣り合わないということ。
これは家柄の問題だから以前からの家人かどうかは関係ないし、
他の妻が現れて政子が側室扱いになっても北条も文句は言えないし、周囲も当然視するだろうとのこと。
政子が怒って離縁という可能性はあるだろうけどね。
>>267 朝廷からの影響って何のこと?
武士たちの願いは自分たちの所領が保全されて、
恩賞貰えて、できれば地位も手に入れたいってことでしょ?
それを叶えたから頼朝は支持された。
朝廷の方は、東国から年貢がきちんとくれば文句言わない。
朝廷と幕府って当時は対立関係ではなかったと思うよ。
朝廷が幕府の何に介入しようとして、幕府は朝廷のどんな口出しを嫌がるというのかね?
270 :
日本@名無史さん:2013/11/05(火) 20:43:46.28
>朝廷と幕府って当時は対立関係ではなかったと思うよ。
当時の朝幕の関係は重要だと思う
実朝期は対立してたのか協調してたのか
実朝なんか親朝廷的な和歌も残してるが
一般的には協調的だったという意見多いよな
でも僕は結構対立していたと思うんだよ。
東夷が勝手に関東を支配しおってけしからん、
みたいな空気が朝廷にあったんじゃないのか
>>270 当たり前だけど朝廷にだって親幕派と反幕派がいたよ
公家の嫁を迎えると言うことはそのまま正室になることを意味するわけで、男子を産めばその子が次期将軍になるんだよ
これほど朝廷側にとって有利な状況はないと思うんだけど
>>270 そう思う根拠を教えてほしいなあ。
別に反論したいからとかじゃなくって
そういう意見を持っている人もいるからそういう意見の元になる考えを聞きたい。
>>270 >東夷が勝手に関東を支配しおってけしからん、
みたいな空気が朝廷にあったんじゃないのか
つ奥州藤原氏
274 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 00:22:23.23
東北は遠いし金を貢いでくれてたから黙認してたんだろ
275 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 02:58:04.63
関東武士の中で浮いてる頼朝が公家の嫁なんて無理無理w
彼はそういう見る目を持ってるから鋭いんであってさ
時政は娘を御家人にばしばし嫁がせて、これを敵に回したら厄介
実朝は公家の嫁もらってしっかり浮いてたが、北条には悪くなかったな
頼家みたいに御家人が外戚になるよりまし、みたいな
276 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 03:09:36.33
頼朝は長い流人ぐらしで崩壊した直属の家臣団を作りたかった気配は感じられなくはないよね
あの、謎の家子てやつ
挫折してたけど、義時が筆頭だったとこみると、姻戚関係をてこにしたかったのかも
公家の嫁なんて、関東では何の役にも立たんw家柄?それおいしいの?状態
だから頼家にも公家の嫁もらわせる気はなかったと思うよ
ただ、後継体制をどう考えていたかは、どーも見えないのも言える
自分に刃向かうもの粛清して、鎌倉殿の地位を固めたとこで
人生終わっちゃった感じ
277 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 03:28:45.06
守護地頭のポスト権は握りたかったろ朝廷は
帝のいうことに従わないで関東のいうこと聞くわけだから連中は
>>275 豪族に娘嫁がせたのは時政だけではないが。
それに鎌倉殿の縁戚になったから豪族たちも娘貰ってくれたんだろう。
>>276 当時の家柄はとっても美味しいよ。
坂東の武士にとってもね。
>>276 義時が家の子筆頭扱いなのは、
後世に編纂された吾妻鏡編者の'配慮'では?
>>274 十月宣旨+義仲追討まで東国の年貢が届かなかったのが
それ以降きちんと届くようになったし、
地頭と荘園領主がトラブル起こしても、地頭側に問題があれば
頼朝は地頭に注意している。
奥州藤原氏よりけしからんものでもないよ。
>>276 北条では家柄は釣り合わないが
強いて公家の娘をもらう必要までは無かったてことじゃないか?
頼朝はそれなりに都との人脈をもってたし
政子が頼家産んだから跡取りもできたし。
むしろ公家の娘もらうと後継者問題がややこしくなったかも。
283 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 11:42:13.28
公家の嫁と言ってる人は頼朝が京に住んでると勘違いしてんじゃ
284 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 11:56:19.71
時政ってきょうだいが全然出てこないよね
幼い時に父親死んだのかも
そんでじーちゃんに育てられたとか叔父さんに育てられたとかさ
あそこの系譜で親子逆になったりしてるのあるの、そういう可能性もありそう
時定が嫡流なんでなくて、一時期そっちにうつってた、ということも考えられる
285 :
日本@名無史さん:2013/11/06(水) 13:24:23.22
外戚より乳父のほうが権力あるんだろ?
>>280 うーん、そんなに吾妻鏡を疑うような内容じゃないと思うけど
門葉以外では外戚だし筆頭にきてもおかしくないというか
時政でなくて江間なところみると、なんか親衛隊みたいなノリ?よくわからん
頼朝最初の上洛のとき、拝賀で随兵7人ていたよね
あの7人が御家人のトップランクメンツと見られてたんじゃないかな
北条、小山、和田、比企、梶原、畠山、土肥だった
覚えやすいのは、北条がぶち殺したのが皆このメンバーだったからw
行列では、先陣畠山、最後尾が梶原、和田、というパタンでこの人らがやられた
生き残った小山は北条と同じく、頼朝の側近くにいる親衛隊ポジが多かった
小山は建久2年(1191年)の歳首おう飯で、千葉・三浦に次いで
三日目の担当だから御家人の中でも別格。野木宮合戦でも
志田義広を撃破しているし、簡単には叩き潰せないだろう。
この面子を見ると、自前の動員兵力という点では北条と比企が
意外と分が悪いような気がする。
時政がそれぞれの時期にどれほどの権力を持ってたのかがホント分からないな
京都出張
梶原・比企の変
畠山討伐
政子の実父って事で御輿のように実体以上に丁寧に扱われてただけ?
でも比企・畠山討つあたりでは比較第一位の存在にはなってそうだし
自前の兵力が弱い北条と比企が、頼家派と千幡派のリーダーとして激突するとは
政治力と兵力とは反比例の関係でもあるのか
>>287 小山は北条にとって叩き潰す必要のない存在だったからでしょ。
領地や兵力は強いけど、幕府の政権参加に意欲をもっていたわけではないし
ライバルの後ろ楯だったわけでもないし
領地は下野で鎌倉から離れていたわけだし。
(北条が潰した相手は相模、武蔵の豪族がほとんど)
>>290 上手く北条と迎合したのが大きい。
ちなみに、小山氏は結城朝光(頼朝の庶子)の母方の血縁であるため、地位としては
不安定だった(し、事実梶原景時に結城朝光ともども除かれかけている)が、結城朝光が
控えめな性格だったのが結果的に幸いして生き残っている。
>>291 おいおい、小山(朝政)と結城(朝光)をいっしょくたんにするな。
兄弟だけとさあ。
それから朝光は頼朝の庶子説もあるけど
実際には乳母子だから。
頼朝の乳母寒河尼(朝光母)は89才まで生きて政子に大事にされていたしな。
>>291 結城朝光が控えめな性格…?
周囲を巻き込んで梶原景時を弾劾したり、足利義氏からの喧嘩を高値で買ってたりしてるが
義時はその兄弟二人のどっちとも仲がいい
朝政とはお揃いの格好して行列に並ぼうといったり
朝政が宇都宮弁護したら受け入れてる
朝光とは同じ伺侯衆で嫁さん同士が姉妹だ
三浦義村は朝光と親友で、義時の従兄弟、子供同士が夫婦
ここらがつるんで梶原追放した
政治に関わらないと言えば小笠原だな
比企と同じく頼家側近だったが、距離をおいて武の道一直線
○○が潰すの免れただの、
なんとかを潰し損なったなんていうけど
北条はやたらめったら豪族潰ししたわけではなく
潰す理由のあるところしか潰さないから。
梶原 頼家側近&侍所所司&相模に所領
(頼家追い出したい&侍所の実権欲しい&相模から追い出したい)
比企 頼家側近&武蔵に所領
(頼家追い出したい&武蔵にいると目障り)
畠山 武蔵にいると目障り
平賀 武蔵守の息子 武蔵にいるの目障り
和田 侍所別当&相模に所領
(侍所の実権欲しい&相模にいると目障り)
この連中を始末ながら義時は侍所別当に就任、
義時、時房兄弟が相模守、武蔵守に就任。
ちなみに宝治合戦は得宗外戚の座を巡る安達vs三浦の戦い。
>>288 そういえば「執権」の定義って
「侍所の別当と政所の別当を兼ねること」
って聞いたことがあるんだけど
これが執権の定義だとしたら、時政は該当しないよね。
本当の所の執権の定義はどうなんだろ?
それから「得宗」の初代は義時であって時政じゃないみたい。
>>295 え?
比企って、北条を追い落として取って代わろうとしているとの嫌疑で滅ぼされたんじゃないの?
追い出したいとか目障りとかいうレベルじゃなく、北条が自家の存亡の危機と認識したからだって思ってたよ
>>297 この時点じゃ将来性は比企>>>北条
比企は頼家の乳母の家でなおかつ娘の若狭局の生んだ一幡という子がいて
その子が頼家の跡取りになる可能性があった。
北条は頼朝一代限りの外戚で終了予定。
外戚の地位を失うと北条はなーんにも残らないから
頼家危篤という千載一遇の機会を狙って比企追い落としに出たと思われる。
千幡の乳母夫の全成を排除していたから比企側が警戒していなかったわけではないと思うが
能員が無防備でのこのこと北条屋敷に出かけたということは
この時点では比企は北条をそんなに意識していなかったのかもしれない。
>>297 『吾妻鏡』の公式見解はそうなってるけど、そのまま鵜呑みにするのは危険。
『吾妻鏡』は北条氏に関して曲筆が多いけど、この時期が一番信用できない。
>>298 >>299 比企当主がたやすく討たれてる点から見ると
比企が北条を討とうとしたのではなくその逆なのは間違いないし
当時の比企氏が何かの理由で完全に油断してたとしか思えない
でも疑問なのは
梶原滅亡したあとに千幡乳母夫:阿野全成を殺した事で比企は明らかに北条一族に喧嘩を売って勝っている
阿野全成亡きあと時政が千幡の乳母夫になる
頼家が倒れ将軍継承問題では比企は時政に一幡>千幡の序列を認めさせている
時政も負けじと千幡の数十ヶ国の地頭継承を比企に認めさせた
この経緯を見る限り、比企がバチバチにやり合ってる北条に対し油断する要素がないようにも思える
じゃあなんで楽観視してたのか?
比企は梶原追放という有力御家人による頼家側近狙い撃ちも見ている(真意不明だが弾劾状に署名までしてる)
逆に将軍後継でライバルとなる阿野全成を殺してる
仮に頼家が死んで一幡が3代目になった後ですら千幡がいる限り梶原・阿野のごとく排斥される恐れは十分にあるよね
とてもじゃないが油断できる展開とは思えないんだよね
阿野全成殺しのところで北条一族と書いてしまったけど
そこに時政は含まれていないんだよね
北条一族内でも「時政・牧の方・政範ライン」と「政子・義時・阿野全成・阿波局ライン」は対立してるし
比企が狙ったのは阿野全成・阿波局の殺害、それにより北条政子の千萬への影響力を斥けることで
逆に時政が乳母夫についた事で時政となら一時的に協調してもいいという奇妙な連帯感を
比企能員は持ったのかなぁ?
>>296 その執権の定義は違うと思う
幕府の役職につくことが執権じゃない
義時も、途中で侍所の別当をやめてるし
執権は後見役、ということになってる
実にあいまいだが、そこが執権職の強みになってる
時政が執権とみなされてたかは疑問だが、一応後見やってるし吾妻鏡にも出てるしな
ちなみに、貞時時代の幕府の文書では、御後見6代目、と書かれていて
義時、泰時、経時、時頼、時宗、貞時がそれにあたる
だから、幕府の連中の頭では、義時が始祖となってたかも
ちなみに、その文書では元久?以来、てな書き方されていて、義時が時政に
とってかわった時が御後見の始まり、みたいな感じだった
303 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 00:03:18.56
なんで比企が油断してたのかまじわかんない
後に時頼が対立してた三浦館にのりこんで、とっとと抜け出したのとくらべたら・・・
あのときは、下手に時頼を殺すと北条と合戦になり、兵力では勝てないか
という計算が三浦にあったのかな
とすると、比企も、北条はまさか自分に手は出すまい、そしたら謀反人扱いされて
北条が逆に討たれるから、とでも思ってたのかも
まさか政子の命をかかげて、和田や三浦や小山や畠山まで一斉に
比企を攻撃してくるとは予想してなかったとかさ
全成と頼全は殺したけど、阿波局の息子は助命してんだよね
だから、比企としても北条とは手打ちできる、と考えてたかもしれない
304 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 04:00:24.87
よく北条は外戚関係だけが頼りといわれるが、真に外戚関係頼みだったのは
比企の方だったな
味方がいない
305 :
日本@名無史さん:2013/11/09(土) 09:32:36.78
自問自答
比企は時政とは一旦手打ちをしたんだろうね
政子は阿波局の命は何とか守ったものの全成を失い、比企はもう政子には何も出来ないだろーと安心しちゃったのでは?
たからこそのあの呆気ない殺され方
結局政子が時政口説いてシナリオひっくり返した
307 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 00:13:48.86
鎌倉幕府の御家人佐野氏についてなのですが、佐野氏は素戔嗚尊等の子孫、新羅系ではないでしょうか?
雪の降る日に旅の僧(実は北條時頼)に宿を貸したという謡曲の『鉢の木』にある佐野源左衛門常世の話は、蘇民将来の話をモチーフにしていることはすぐにわかります。
素戔嗚尊を北条時頼に、蘇民将来を佐野源左衛門に置き換えただけの作話です。
実は『鉢の木』には、原作があって、それは、『吾妻鏡』の中で、頼朝が伊豆国の流人であった頃、頼朝の部下の面倒を見た毛呂 季光(もろ すえみつ)という武士がいました。
季光は大宰権帥藤原季仲の孫。武蔵国入間郡毛呂郷(現在の埼玉県入間郡毛呂山町)の住人とあります。
当時の武蔵と言えば、新羅や高句麗など朝鮮半島からの渡来人が開拓した土地。
北条氏も渡来系だったことはまず間違いありません。
その辺のことは、また書くかもしれません。
308 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 00:21:31.24
・関晃『古代の帰化人』(吉川弘文館)
帰化人たちは、そのほとんど全部が奈良盆地、大阪平野、京都盆地と、その周辺地域である播磨平野、紀ノ川流域、近江盆地あたりに根をおろしたといってよい。
この点はこののちずっと古代を通じてたいしてかわらない。
大化改新(六四五)以降には、未墾原野の開拓のために、計画的に帰化人の集団を東国各地に移植した例も少なくないが、それでもめぼしいものはたいてい中央に置かれた。
したがって、近畿地方と古代の帰化人というものは、最初から最後まで、深い関係をもっていたのである。
309 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 00:53:51.43
北条は大江や二階堂抱き込んで行政機構掌握していたからな
310 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 01:24:59.88
>>301 「時政・牧の方・政範ライン」と「政子・義時・阿野全成・阿波局ライン」
後では表面化するけど、この段階ではちょっとそこまでいってないようにも思う
千幡支持ということで、時政と全成・阿波局がまとまってるというか
義時は比企の婿だけあって、頼家が義時の家いったり側室の子供にお祝いおくったり
そこそこ交流あるように見える
呼び捨てにされてむかついててもさw
時房は頼家の蹴鞠仲間
つまり、時政のが千幡擁立に必死で、息子2人はどっちでもいいような立場では
これは、時政は千幡には祖父だが、一幡となると外祖父の地位がとられるのに対し
息子たちは千幡の叔父でしかないから、そもそもそれほど影響力ないということもありそうだ
311 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 11:16:21.20
北条氏は、新羅三郎義光と関係のある新羅系、傍流。
源氏は、八幡太郎義家に繋がる百済系、嫡流。
結局、新羅系の傍流が百済系嫡流の頼朝を担いで鎌倉幕府を興し、それを乗っ取ったということだろう?
もちろん、歴史とはもっとその時代の複雑な力関係で動くのだけれども、流れとしてはそういうことだ。
312 :
日本@名無史さん:2013/11/10(日) 21:56:03.20
>>299 『吾妻鏡』は怪しい記述や編纂された時代の権力者によって
事実が曲げられている箇所か結構あるからね
>>310 だとすると時政と義時・政子の対立が表面化するのはどのタイミングなんだろうか?
政範病死後?畠山重忠の乱?実朝廃嫡未遂の時?
時政が強引に事を急いだのが最大の原因なんだろうけど
政範病死から数ヶ月間の義時の手のひら返しが見事すぎて何が真実なのか全然ピンと来ないんだよね
特に畠山重忠の乱
時政の命に逆らえずに嫌々畠山を討って、その直後に父親引退させて平賀を討つって
どこまでが策だったのか想像もつかない
そもそも時政が実朝廃嫡して平賀朝雅を擁立しようとしたって話もどこまで本当なんだろうか
あの2年間はいろいろありすぎていろんな可能性があるからどれとはいえないだろう
吾妻鏡を信じるという前提で、確実なことは
・時政と義時はもともとそれほど一致した行動をしていない 江間は独立気味
・時政と阿波局は、比企事件のすぐあとからすでに離反ぎみ 実朝を一度引き離してる
・義時が畠山討つ前にすでに、畠山との戦端は開かれてる 重保誅殺がそれで
これには三浦が動いてる
・政子は実朝ひきとる時に顔をだすだけで、完全に義時が表にでて動いてる
一つの解釈として
時政と義時・阿波局の対立が先に表面化して、それは元々あった北条と江間の
主導権争いの延長のようにも見える
政範が死んでしまって、その立場を引き継いだのが平賀婿どの
平賀と畠山が対立してたので、それが北条父子の対立と重なって、義時時房は
畠山を弁護した
しかし、重保が殺されてしまってこのまま収まりそうもないんで、義時時房は
畠山と合戦、問答無用で平賀を誅殺 父親を追放
実朝があぶない云々はかなり怪しい・・父親追放よりもむしろ平賀誅殺の口実ぽい
政子は、頼朝側近だった義時に味方して、父親追放に荷担
やっぱ、畠山んとこがちょっと苦しいかな
三浦が義時と通じて動いたのか、それとも単に時政の命を受けて動いたのか
そのあたりもわからんし
ただ、三浦が稲毛を討ったのは義時の承認あってだろう
私闘なのにおとがめなしだったから
ちなみに、あの稲毛誅殺もいくつかの意味があると思う
時政は案外、伊豆以外の自前の兵力がない
義時が比企を討った時の主な討伐軍の中で、小山は義時と仲がいい、平賀は不在、畠山は滅亡
残りは和田三浦稲毛兄弟で、頼りにするとしたらこのメンツ
三浦が北条父子のどっちにつくかだが、結局、時政婿で時政側の兵力だった稲毛を
三浦が討つことで義時側にたつことをはっきりさせた
畠山重保を討って時政側?とみてた他の御家人にも
三浦も義澄が死んで代替わりしたしな
泰時と娘の婚姻もあったし
稲毛兄弟を討たれた時政はもう、頼りにする兵力ないも同然だ
だからあっさり実朝を奪われ、さくっと追放された
ただ、重保誅殺の段階では、まだ時政のが兵を動かせたから、義時はまず
自分の身の安全を確保する必要があり、それで父の命に従ったということも考えられる
なるほど
三浦がかなり影響してるのね
誰かが動いちゃうと不本意ながらも勝ち馬に乗らざるを得なかった、というのは確かに真相に近い気がする
あの数年は敗者側だけでなく御家人全員が薄氷を踏む思いだったんだろうね
>>315 >時政は案外、伊豆以外の自前の兵力がない
意外なことなのか? むしろ当然な気がするんだが
北条は時政と義時がそろって謀略なんでもござれで、かつばらばらに動くからわかりにくい
梶原事件は、出てくる名前が阿波局、三浦義村、結城朝光と義時人脈だから義時の策謀
比企事件は、頼家急病から名越暗殺まで、時政が活躍してるから、時政の策謀
畠山事件は時政の策謀で、牧氏事件は義時の策謀
時政のが力わざ的で、義時のが根回し的
イメージでは政子と阿波局が一心同体の動きなんだけど
実際は義時と阿波局って感じなの?
義時と阿波局は同母のきょうだいとみられてるからな
政子は母親が別、というのはまず間違いない
ただ、時房も母親が違うが政子義時と一緒に動いてるから、あんま関係ないかもしれん
321 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 00:12:01.31
義時は謀略家というよりは、いつも襲撃受けてるおっとり君だよ
仁田、和田、公暁、後鳥羽院と襲われぱなし
頼朝に穏便といわれたぐらいだし、父親のいうことに従っても不思議じゃない
御家人が安心感もつのもわかるし、政子もかわいがると思う
ただ、やられたら10倍返しで落とし前つけるけど
>>320 単に時政・牧の方嫌いで固まってただけかもよ
323 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 01:58:50.70
義時が根回し的というか、単に時まさほどガツガツしてないからだよきっと
頼朝側近で、頼朝政子夫妻に溺愛されてんじゃん
ヤス時は立派な元服式してもらうし、自分の片思い女性嫁さんにしてくれるし
小町大蔵と御所防衛の要の地に館もらうし
恵まれた次男坊だから、まあまあそんなガツガツしなさんな、てなノリなんだよ多分
324 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 23:43:59.77
北条丹後守(上杉家家老、越後戸中城主)「五畿内・中国の町人によく似ている侍ども」(『甲陽軍鑑』品第54)
325 :
日本@名無史さん:2013/11/14(木) 23:47:10.92
誤爆った
>>296 初代は義時だろうね
思うに、義時と時政は単に本家分家、というだけでなくて、江間は鎌倉にはいってから
大きくなって、時政や北条本家とまったく関係ない家人たちが多かったんだろう
後の有力な得宗被官の顔ぶれも、義時に直接家人化した連中がほとんどじゃないかな
だから、感覚的に時政が初代、というのが家人たちにもなかったろうし
家がそんな空気だと、義時も時政に反抗しやすかったろう
327 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 12:12:07.30
328 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 14:22:43.64
せめてなりたやお殿様の、山形 本間家
は、佐渡と厚木にも領地があり、日蓮は、幕府につかまり、厚木で留め置かれ、後、佐渡に流された
>>327 義時大絶賛の吾妻鏡ですら江間義時って書いてある数の方が多い
330 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 21:49:04.88
>>329 江間は呼び名であって家ではないんじゃね?
江間は義時から分家という形だったんでないかな
多分、鎌倉入り前に
鎌倉では義時と時政はばらばらに館構えてるし
頼時は江間頼時とはよばれても、北条頼時とはよばれていない
義時は通常は江間四郎だが、合戦やら上洛やらは北条小四郎と記されるから二つの顔があるが
332 :
日本@名無史さん:2013/11/18(月) 23:58:18.07
>>331 江間頼時も通称で家とは関係無いんじゃね?
大江広元の嫡流が長井を名乗ったのと同じだろ。
大江家から分家して長井家になったわけじゃないし。
いや、時政と義時はばらばらに北条殿、江間殿、とあれこれの会議で出てるんだよ
普通は父が出てたら息子は出ない
多分、独立して別家になってたんだろう
三浦と和田はばらばらに出てたが、あの両家みたいな感じだったんでないかな
そもそも分家と通称の違いって何?
>>334 大体大雑把な言い方をすると
当時の「三浦」だの「千葉」だのという呼び方は「住んでる場所」や所領のある場所をさす。
現代でいうと「名古屋の叔父さん」だの「仙台の叔母さん」という呼び方に近い。
ただ、「三浦」が義明ー義村ー泰村と呼ばれていたのに象徴されるように
本領や伝来の家を相続したものが父親と同じ呼ばれ方をするが
本領を相続しなかった子が別宅を構えたり離れたとこに所領をもったりすると
「和田」とか「佐原」などという呼ばれ方をするようになる。
ちなみに北条氏も子孫が増えて枝分かれすると
北条氏の中でも
「名越」「大仏」「極楽寺」「赤橋」などという呼ばれ方をするようになる。
義時は石橋山前にすでにある程度の年齢になってたから
江間の所領をうけついで江間殿になってたんじゃ
北条は宗時がつぐということで
時房はまだ所領を分けてもらってなかったから北条五郎だった
次男の義時だけ呼び方が違うのはそのあたりでは
兄貴が死んだんでややこしくなって両方の呼び名が出てきたが
頼時が江間だったのは義時の息子だったからで、義時が北条を継ぐことになったら
泰時も北条になった
338 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 02:32:25.01
実朝時代に義時が伊豆以来の郎党を御家人に準ずる云々で実朝に拒否られてたが
あの伊豆以来の郎等ってのが、時政んとこにいた連中じゃねーの
義時配下には金窪や尾藤や御家人がいたから、家中がごたついてたのかも
あの頃は家令もいなかったし
てか、義時は幕政と家政と両方やってたんかなー死にそう
泰時が手伝ってたかもしれんが
あんだけ細かく書いてある吾妻鏡があるのに義時あたりの肝心なとこは全然わかってないのね
340 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 09:59:59.88
>>333 義時が江間家を独立させたんだったら、子孫の北条五郎時頼も
江間五郎時頼になるはずじゃん。なんで北条五郎時頼なん?
江間は名越流にいってるよね
江間は次男の系統にいく、てな考えなんじゃないかな
義時の伊豆の墓は江間にあるから、彼は江間の人、という認識があったと思うんだけど
時頼の伊豆の墓は北条にあるから、本家は北条
342 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 11:57:38.62
北条の家督は牧の方所生の政範が継ぐ予定だったと言う説もあるよね
官位も若くして高かったし
その政範が晴れ舞台で急死して、棚ボタで義時が北条を継いだわけだ
時房はまだ官位低いし
344 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 12:16:15.58
>>314 >江間は次男の系統にいく
だったら江間朝時かよw
でも朝時の長男は江間光時じゃん
自分は義時の孫だけど時頼は曾孫にすぎんだろ、とか偉そうにいってたけど
346 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 13:56:55.17
>>345 江間義時→江間泰時→江間光時と江間の家系が続いたと言うのかえ?w
義時が北条ついだんだからそこでいったんちゃらだよ
家産が合体したわけだから
義時がつがなかったらそのまま江間家だったけどさ
頼時が江間なのはそういうことでしょ
348 :
日本@名無史さん:2013/11/19(火) 22:37:14.82
江間が北条を吸収すればいいじゃんかえ?
適当な書籍読んでるだけの素人なんだけど
分家(この表現が適切なのかも自信ないんだか)が跡継ぎいなくなった本家に入るのって自然なことに思えるんだか、何が不自然に思えるのかな?
江間はただの通称であって分家ではない
っていう主張はかなり興味あるんだけど、何か積極的な根拠がもしあるのなら是非教えて欲しいです
本家分家の役割やら関係が確立されきっていなかった鎌倉初期ぐらいだと、
分家が成り上がって本家より強くなったら立場が本当に逆転してた気がする
藤原一門の中でもっとも有力な者が藤氏長者、源氏一門でもっとも高位高官なのが源氏長者ってのと同様に。
義時や政子が時政と争って勝ったことで、それまでの義時が仮に分家だったとしても本家に取って代わることになる
というかさ、時政が北条一門の中でどういう立ち位置だったかという点とも関係しそうなんだが。
時政の立場って本当分からんよね
そもそもが本家当主なんだけど頼朝夫人、頼家母の政子あっての存在だし・・・あっさり実朝を政子に奪われてるし
そのへんの特異性が様々な謎の根っこなのかな?
352 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 10:03:42.58
>>349 大江の長井や藤原の二階堂と同じ。
あと安達の城介とか。
所領や住所や官職を通称にしてるだけ。
分家とか関係ないぉ
じゃあ分家の定義ってなに?
354 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 13:45:49.15
本家から嫡男が分家するって?
義時が嫡男だって?
で、分家の定義って何?
356 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 14:56:43.48
義時が嫡男じゃないってててw
じゃあ誰が嫡男よぅ????
>>351 時政自体が伊豆では北条傍流だったという説もあるな
358 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 16:40:20.47
誰か分家の定義を教えてくだちゃい
分家?はぁ〜?
って言い出した人がいつまで経っても定義を答えない件
360 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 17:19:48.86
最初に義時が分家だと言い出した人が
まず分家の定義を明らかにするのが当たり前田のクラッカー
361 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 17:50:57.60
で時政の嫡男は誰だったのよんよんよん?
朝時じゃなかったっけ?違ってたらゴメン
つまり義時は嫡男だからたとえ江間姓であっても分家ではないってことかな
364 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 18:53:22.91
>>361 >>342のように政範だったんじゃないの?
十三人の合議制に時政 義時 2人が入ってるから別家扱いだったんだけど
政範の死 牧氏の変で 義時が北条を受け継いだってとこなんじゃないの?
365 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 19:19:15.65
>>364 >政範だったんじゃないの?
でもそれって義時の分家とは関係ないよぅ〜
だって義時が江間と呼ばれた最初は 寿永1.11.14(1182年)だんべ。
政範が生まれたのは文治5年(1192年)だよん。
嫡男が生まれるかどうかも分からないのに、義時を分家させるもんですかね?
まあ、時政が義時をよっぽど嫌っていたなら有り得る話かもしれませんがw
366 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 19:44:24.70
>>365 >嫡男が生まれるかどうかも分からないのに、義時を分家させるもんですかね?
牧氏は若かっただろうし生まれるものと思っていたことはあるんじゃない?
>時政が義時をよっぽど嫌っていたなら有り得る話かもしれませんがw
後妻が前妻の子を疎ましく思うことはあるんじゃない?
なるほど
確かに一理ある
でも母親の身分が低くて長子でも嫡男扱いされないまま
たとえ異母弟が生まれてなくても庶子のまま成人した人っていないの?
牧の方が時政のところに来たのって結構前だよね
寵愛が深く結果的に義時を江間分家にしたっていうなら
時系列としては合うかな
後の時政と牧の方、政範、朝雅との関係考えてもあり得るかなとは思う
ただの推測だけどね
369 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 20:06:44.09
亀の前事件(寿永元年1182年)のときにはもういたんだから
旗揚げ前からかな?
牧の方所生の政範が嫡男だったけど亡くなったから時政は義時の次男の朝時に本家を継がせるつもりだったのでは
時政失脚後に朝時が名越邸を継いでるのを見ると
371 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 20:43:30.35
経営体を別にしたら分家
義時は別に家を構えて父と別行動
もはや別家の当主
だから父追放してもあまり非難されてない
初代が義時扱いなのもソレ
時まさにきずがついたからーなんてないないw
>>365 政範は1189年生まれじゃなかったっけ
1192年だと子供で任官したことになるよ
ただの通称だったらなんでその時期にいきなり呼び始めて、しかも弟の時房は
いつまでたっても北条だったんで?
嫡男ってあらかじめ決まってるというより、ある時に父親の鶴の一声で決まるような
感じだから、息子たちにどんどんどっかの所領まかせて通称にする、てのはあるけど
一人だけ通称でそれ以外の息子は北条っておかしいわあ
江間って八重姫が嫁いだ先だったよね
そこが途絶えたか滅びたかして、そんでその所領を義時がもらったというのもあり得る
頼朝は、義時を側において時政とはちょっと疎遠な感じするから
江間をバックアップして義時と頼時をひたすらひいきしてる感じ
頼時の烏帽子親はひきうけたのに政範はスルーだから時政は面白くなかったろうね
八重姫は江間小四郎だか江間小次郎だかに嫁いだんだよ
そんで、伊豆の義時の墓には江間小次郎と刻んである
つまり、八重姫はまだ少年だった義時に嫁いだわけで
義時の母親が八重姫の姉だから、伊東のじーさんがキズもんの妹を嫁がせる先として
長女に頼ったわけだ
374 :
日本@名無史さん:2013/11/20(水) 23:51:47.36
総領から分家するのは聞いたことあるけんど
父親から分家するとか聞いたこと無いよん
笑わせてくれるじゃないのwww
375 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 00:01:23.63
>>372 ごめ〜んちゃい
文治5年は1189年でつた
376 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 00:05:57.28
>>371 義時が江間の別家をたてたのなら
江間家は義時→泰時→光時と継承されたんでつね?w
377 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 00:30:49.17
八重姫とか物語の世界にどっぷりつかった住人さんは
古典文学のスレにど〜ぞ
378 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 06:46:46.89
義時が分家したの頼朝も喜んで援助してるよね
江間家びいき半端ない
379 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 07:57:19.50
>>370 >時政失脚後に朝時が名越邸を継いでる
キミ、ウソはいかんよ。ウソは
380 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 09:19:18.07
>義時が分家したの頼朝も喜んで援助してるよね
ほんとかいなw
381 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:23:08.79
頼朝の江間びいきは彼お得意の分断統治
382 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:35:17.72
小山朝光、三浦義連などは傍流筋から頼朝にピックアップされて
後に結城、佐原として本家から独立してるよね。義時の立場も
似たようなものだったのかな?
>>374 和田と三浦
義明は随分と長く生きてたぞ
和田のが三浦より幕府で重いポジをしめてたのは長男の系譜というのがあったんでないかな
次男の義澄がなんか遠慮してるよな
義時で忘れがちなのは、彼は兄貴を失って長男になるのと母親の一族を失うのと同時だってことだ
おまけに、泰時母がどこの誰かもわからない
つまり、妻、母どちらの一族のバックアップもない、ぽつんとしてたってこと
時房のが母親一族があるからまだまし
当時、義時みたいな立場のやつはとっとと家から出されるか
跡継ぎからはずされるもんだ
彼が鎌倉で大きな顔ができたのは、ひとえに頼朝のバックアップがあったおかげ
亀の前事件で、彼がひとり鎌倉に残ったのは、頼朝の厚情というのがあったのでは
頼朝が江間を大事にしたのは、分断云々より、単に義弟を信頼してかわいがったからだろう
そして、義時が同じく母親のバックアップのない泰時をずっと大事にしてたのも
自分の経験からだろう
元服で頼朝に後ろ盾になってもらい、三浦女との婚姻を約束させる
泰時が離婚すると、今度は足利義氏と泰時の娘と結婚させたからな
386 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 19:12:02.82
>>385 泰時は義時の長男で10年以上一人息子だったからだろ
朝時が生まれても泰時は出家させられていないし
それどころか源頼朝が烏帽子親となって元服をあげ
かなり頼朝から可愛がられている
387 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 19:12:32.36
矢部禅尼はなんで離婚したんだろうな?
>>386 泰時元服は、姫の前との再婚、朝時誕生のあとだ
比企からすれば、前妻の息子に派手な元服式ってのは面白くなかったろうよ
そういえば、泰時うまれてから姫の前との再婚まで9年間あって
その間、多分?やもめ暮らしが長かった?のも不思議だったんだよなあ
姫の前との再婚だって頼朝のお声掛かり
北条というか時政は、義時の再婚にずいぶんと無関心な気配を感じるというか
389 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 19:50:22.46
>>388 姫の前との結婚は義時にとってとってつけたようなもので(義時はすでに結婚時に30歳になっている)
妾はいたのだろうし長男泰時も育っていたので特に正室は必要なかったのでは
泰時は長らく義時の嫡男として認知されていた感じはする
姫の前は正室として嫁いできたのだろうけれども比企氏だって泰時のことは承知の上だろうし
比企氏というのも頼家に若狭局を差し出しながら頼家には御台所が不在だったようだし(若狭局は側室)
鎌倉幕府内での地位は微妙なんだよな
まあねそうかもしれない
>>389 当時は結構のんびりしてるというかおおざっぱなとこあるし
それに比企氏自体、結構おっとりしてる印象あるしw
足利義氏は政範と同じ年だから、年齢からすれば本来は義時の娘のが釣り合うんだよな
ところが泰時の娘と強引に?結婚させてるというか
つか、泰氏の誕生年から泰時娘は何歳で嫁いで子供うんだのか母親は誰なのか
さっぱりわからんというか
391 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 21:34:52.43
>>384 >時房のが母親一族があるからまだまし
時房の母親って誰なんじゃ?
後北条氏は伊豆に生き残っていた鎌倉北条氏の家督を継いだって聞いたけど本当ですか?
>>390 北条泰時…1183年生
足利義氏…1189年生
義父と6歳差か
北条義時は娘を御家人には嫁がせていないんだよね
姫の前所生の娘は母と共に都に出て公家の妻になっているし
義時のもう一人の娘は源頼朝の妹の婚家である都の一条家に嫁いでいる
泰時の娘から御家人に嫁ぐようになったのは政策転換があったのかもしれない
394 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 17:07:03.96
395 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 20:12:13.59
>>393 承久の変で朝廷を打ちのめしたから
貴族に娘を差し出してご機嫌取る必要が無くなったんじゃね?
396 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 21:10:25.51
>>395 北条泰時の外孫に当たる足利泰氏は建保4年(1216年)に誕生している
つまり、北条泰時は承久の乱よりも前に娘を御家人に嫁がせているよ
397 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 22:13:34.55
398 :
日本@名無史さん:2013/11/22(金) 23:20:07.73
>>389 比企は当然、朝時が跡継ぎ、と思ってたんじゃないか
姫の前は権威無双といわれた女房だ
泰時は頼家と仲が悪い、比企は頼家のとりまき
泰時と朝時の対立は生まれたときからずっとあったよ多分
義時の江間家は泰時が継ぎ時政の家は朝時が継ぐ
朝時の義絶とか関係なく泰時はずっと義時の嫡男だったのではないかと思う
>>397 足立遠元の娘という説が
母親の妹が嫁さんだったりする
もしそれが本当なら、母親の実家とかなり行き来してたんだろう
足立は頼朝にも近いし
>>399 義時は比企の思惑無視して、泰時を側において離さない感じだな
泰時も父親とは良好な関係だ
どーもあの父子、ふたりでぽつんと小町館で暮らしてたイメージがw
時政の方は、妻やら息子やら娘やら牧氏やらでにぎやかでさ
朝時は父とも兄ともうまくいってない
やっぱ比企と合戦したのがショックだったのかなー
>>395 義時の娘、一条氏に嫁いだのは承久のあとでなかったっけ?
西園寺公経の息子にも嫁いでるが、これもおそらく承久のあとでないかな・・・
だから、義時の娘が公家に嫁いだのは、西国の鎌倉派公家と手を結ぶようになったからだろう
あとは鎌倉の官僚機構をおさえるために大江やらと縁組み
403 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 11:17:14.93
比企だって比企尼には実子の比企朝宗がいるよね、姫の前の父。
なんで甥の比企能員が後を継いだんだろう。
404 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 13:23:15.78
>>400 >足立遠元の娘という説
ソースを教えてください
>>403 比企朝宗って比企尼の子だっけ?
比企一族なのは確かだけどどういう間柄なのかまだ分かっていないのでは?
丹後内侍(安達盛長室)、河越重頼室、伊東祐清室→平賀義信室の
三人の娘は比企尼の実子だというのは確定だけど。
>>392 後北条氏が北条という苗字を使うに当たっては、真偽は不明ながらも、そういう手続きはとったんじゃないかと思ったが、
調べてもそれらしい来歴は見つけられんかった
気になるならお前さんも探してたもれ
>>401 当時の北条氏って、
・本家
・時政たち
・義時たち
の3系統に割れてたんじゃない?
時政は本家から離れて牧氏やらの館に入り込んでたとかさ、すでに北条という苗字すら使ってなかったかもしれん
時政とその子孫以外の系統の北条氏って何か記録に残ってますか?
408 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 11:03:47.23
>>400様
時房の母親が足立遠元の娘という説のソースを教えてくだちゃい
渡邊晴美氏の「北条時房について」(『政治経済史学』500、2008年)によると
『足立系図』の、足立遠元の女の傍注に「修理権大夫平時房朝臣遠江守時直等母也」
という記述があるのが根拠らしい。ただ、横のもう一人の女の傍注に「畠山次郎平
重忠妻也六郎重保小次郎重末等母也」と書いてあるのを見ると、時房朝臣の後に
「妻也」の語を書き漏らしたという感じがする。
時房の妻が足立遠元の女というのは『関東評定衆伝』の資時・朝直の項にあるから
確定だけど。
410 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 15:36:21.41
411 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 15:44:34.55
>>405 家にある百科事典にはそう書いてあった。
でもウィキでは不詳になっている。
諸説ありってことなのかな?
412 :
日本@名無史さん:2013/11/29(金) 21:28:07.45
唐揚
413 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 13:10:08.15
矢部禅尼と泰時の離婚は、当事者事情でしょ
北条と三浦同士には離婚する理由はないし
泰時が他に女ができて、プライド高い三浦の大姫が離婚したか
三浦の姫が恋人ができて、出て行ったかわかんないけど
泰時の再婚相手が、地味な家の女性なのと
矢部禅尼の再婚相手が、一族の人間つまり子ども時代からよく知ってる人
ということから、どっちのパタンも考えられるね
ただ竹殿が大江息子と離婚して土御門と再婚したのは、竹殿の浮気か家出の可能性高いと思うw
だって、大江息子が上京した翌年には土御門の子どもうんでんだもん
土御門は当時は後鳥羽院とそこそこ近かったろうから、敵のところに
いったようなもんだよね
414 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 22:01:52.98
竹殿って誰?
415 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 22:37:40.69
義時の娘だよ 姫の前との間の
あの一家は
義時:恋文事件&離婚
泰時:離婚
朝時:レイプ事件
竹殿:離婚
とまあ、この親にしてこの子あり、みたいなエロ派手な一家なんだわ
まあ、あの叔母様政子の血筋だもんね
足利に嫁いだ時子にもエロネタ伝説ができるし
416 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 22:45:12.00
で、この竹殿がうんだ土御門顕親がイケメンだったらしく
御所に出たときには、女官たちがきゃーきゃーいってのぞきにいった
という話が、なんかの物語か日記かにあったんだけど、出典忘れちゃった
あれ?これ竹殿がうんだ息子じゃん、やっぱ姫の前の血筋だから美形だったのかなー
と思った記憶がある
417 :
日本@名無史さん:2013/11/30(土) 23:59:19.07
顕親って若くして出家したらしいけど理由は何かな?
三浦の乱の直後みたいだがなんか関係あるの?
418 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 00:20:21.75
>>413 矢部禅尼の浮気の可能性が高いと思う>泰時との離婚
矢部禅尼は泰時との間に長男の時氏を建仁3年(1203年)に産んでるけれども
建仁4年(1204年)には佐原盛連との間に蘆名光盛を産んでいる
泰時に女ができたからって正室の地位を追われたわけじゃなし
矢部禅尼が離婚する必要もない
時氏はずっと泰時の嫡男であり続けたし(ただし時氏は離婚後早世)
>>415 時子はエロネタ伝説というよりもグロネタ伝説…
悲しい事件だったね
421 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 11:25:12.12
>建仁4年(1204年)には佐原盛連との間に蘆名光盛を産んでいる
ソースはなんですか?
422 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 05:59:07.00
竹御所の婿、泰時の嫡男北条時氏でも年齢的には釣合いがとれるんだがな
北条政子の猶子ということにして竹御所と結婚させられなかったのかな
423 :
日本@名無史さん:2013/12/04(水) 17:46:27.40
>>422 竹御所は当時、源頼朝と北条政子の唯一の直系孫
将軍の後継者の正室にしなきゃ意味がないじゃん
北条時氏が源氏将軍直系の娘婿として
将軍になるならともかく
424 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 01:03:29.02
頼朝と、あと政子の血筋が鎌倉殿には必要だった感じだよねあの頃は
禅暁は殺されたのに貞暁は放置された、てのが面白い
自分が後鳥羽院なら頼朝の息子をかつぎだしてトップにすえて義時討伐させたけどな
425 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 02:17:57.07
>>423 もちろん北条時氏を鎌倉殿にして正室に竹御所ってことにするんだよ
三浦胤義の日本国惣追捕使をエサに兄義村を取り込むようにとの進言で
後鳥羽上皇が使者を送ったものの相手にもされなかった
北条氏による他氏排斥は進んでおり、宝治合戦で三浦氏を粛清で終わる
この時点では三浦は北条方で三浦義村は北条時氏の外祖父
三浦が日本国惣追捕使でいいならなおのこと北条時氏で問題ないだろ
宮将軍を断られた段階で尼将軍の猶子として時氏を鎌倉殿に推戴
承久の乱で時氏の下、上皇軍を倒せば誰も文句は言わないだろ
北条時房が三位を望んで大江広元からそれぐらいにしとけって言われて断念
これで北条氏の極官が定まったとされるが、この時点ではまだなので
承久の乱の論功行賞で時氏の官位を三位以上に引き上げておく
この後に晴れて征夷大将軍に任命してもらうということで、
フランク王国のカロリング家がやった宮宰→国王のパターンを実現
426 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 07:07:48.87
北条氏って、実は桓武平氏の高望王流の嫡流なんだよな。
熊谷氏もという説もあるけど、熊谷氏の先祖の平盛方の失脚で
平直方流の嫡流は北条氏の先祖に移って
盛方の子孫は、北条氏の先祖に保護されているし。
427 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 10:18:20.43
>>425 平賀朝雅を粛清しておいてそれはないw
当時、北条氏は単独で朝廷からの独立を確立するほどの力を持ってなかっただろ
そのための摂家将軍であり親王将軍なんだから
>>426 長子相続原則が確立したのは鎌倉時代に入ってからで、
平安時代には、最も昇進したものを結果論的に嫡子扱いするような状況だっただろ
親によるバックアップ(出世競争に助力)の強さ以外には嫡庶の区別は薄いじゃないか
つまり、伊勢平氏が最大勢力となった以上は北条氏は庶流に落ちたと言わざるを得ないわけ
429 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 18:55:18.42
>盛方の子孫は、北条氏の先祖に保護されているし。
ソース教えて
430 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 21:46:29.83
>>426 頼義と直方の娘の間の子供が義家
頼朝と政子の間の子供が頼家
ちょっと意識してるよね
431 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 22:08:50.24
>>427 平賀朝雅と北条時氏を一緒にはできんだろ
あの頃は実朝というれっきとした頼朝の子がいただろう
頼朝男系が絶えた(貞暁は残ってるが)んだから事情が違う
北条単独じゃなくて外祖父の三浦にも協力させるし、
政子の猶子とすれば御家人たちも承知するんじゃね
432 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 22:40:32.28
>>431 北条時氏は源頼朝の血を引いていない
源頼朝と仲の良かった同母妹坊門姫の直系が生きてるんだから
そっちにいっただけのこと(摂家将軍)
いくら北条政子が尼将軍と呼ばれて吾妻鏡で一代記が作られるほど幕府の中枢にいたとはいえ、
あくまでも頼朝未亡人として頼朝の正統な後継者として信頼されていただけのこと
頼朝からの将軍位簒奪者、北条将軍家初代として信任されていたわけではない
当時の北条では朝廷に征夷大将軍を認めさせるには官位が低すぎる
執権時代の泰時並みに義時に人望があっても、他の源氏の血筋が黙ってないし無理だろうな
434 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 23:48:58.68
長子系で見たら、平直方には同母兄の平中方がいて、
この子孫たちが京都で文官として活躍していたので
高望王流の嫡流は、この平中方のほうかもしれんが、
京都には、桓武平氏全体で嫡流にあたる高棟王流がそこそこの公家で
より上位で成功していたし、中方の末裔は存在感薄かった。
武家としては、平直方のほうが総領だったと思う。
鎌倉に居を構えたのは、この直方だし、源義家の外祖父にもあたるし。
435 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 00:10:33.13
>>431 北条は将軍を関東の王として飾りたかったんだから自分がつくはずない
頼朝も頼家も征夷大将軍だったのは短期間のみ
最初から最後まで将軍だったのは実朝だけ
頼家は頼朝の長男だから鎌倉殿になれたが、次男の実朝が頼家を追放して
鎌倉殿となることを正統化するめに、征夷大将軍なる肩書きをうやうやしくたてまつっただけ
北条氏は、格の高い人物をもってくることで、征夷大将軍とかいうかびのはえた職を
飾り立てて、関東の王としたかったわけで、そんで理想は皇室だった
普通、跡継ぎといったら縁者をもってくるのがパタンで、いきなり皇室をー
なんて思うのは、そういう意識がないと無理ぽ
436 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 12:24:35.92
北条氏は自分が鎌倉の棟梁になるつもりはなかったと思う。
というか、北条氏では、権威が弱かった。
北条氏にとっては、河内源氏の当主の外戚になることが
権威のよりどころだった。
それは、彼らの先祖の平直方が、源義家の外祖父だったころからのこと。
よって、北条氏は、頼朝系が三代で絶えたあと、
同じく義家の末裔である足利氏に接近している。
437 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 18:54:30.11
>>436 北条泰時は足利だけでなく三浦にも娘を嫁がせている
まだ北条時氏以降、代々得宗の正室は安達氏から迎えられることが多かった
粛清されるまで幕府内で北条一族の次に重んじられていたのは北条の外戚である安達氏
室町幕府を開いたのが足利だからさぞかし足利は鎌倉幕府内で主導的立場にあったと誤解されがちだが
大したことはなかった
438 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 19:27:43.66
江戸時代の高家織田氏も桓武平氏に分類されてるな。自称らしいが。
439 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 19:29:25.18
>>437 足利は御家人筆頭だが平家北条が圧迫してたからな。
440 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 19:31:33.58
平家の世ってのはモンゴルが攻めて来たりでロクなことがない。
441 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:04:36.22
源家足利幕府の求心力が低下したから、次は平家だって信長が
名乗りを上げた。子分格の秀吉もその路線を継承した。
その二人とも続かなかったから、家康が源家を称して天下平定に
成功した。
442 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:10:12.82
奢れる平家も久しからずや。
>>437 ていうかあの時代の足利氏って仕事出来るイメージがないんだが
安達や三浦はちゃんと北条をサポートして組織の安定化に努めてただろ
444 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:44:05.64
>>439 足利は鎌倉幕府の主要役職に一切就いていないし御家人筆頭ではない
例えば政所別当・大江広元、侍所別当・和田義盛(後に梶原景時)のような主要役を与えられていないということ
北条氏は源頼家の時代になってから主要政治は十三人の合議制となったが
この十三人の中に時政・義時の2人を送り込み主導権を握った
この十三人の合議制にも足利からは一人も出ていない
つまり初期の鎌倉幕府では足利は大して力を持っていなかった
しかし比企・安達・梶原などが随時粛清されていったため
鎌倉時代末期には最終的に北条氏の姻戚として残ったというだけ
しかし幕府内での役職はなく政治に口出しできなかった
445 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 20:46:06.37
>>443 だから、足利は鎌倉時代を通じて幕府内での役職を与えられていない
ただ北条氏の娘の嫁ぎ先としてのみ存在意義があった
446 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 21:15:33.14
足利が要職についてないのは門葉だからだろ
武家の場合 連枝は老職につかないのがきまり
447 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 21:57:59.54
>>437 歴代得宗の正室(早世した経時を除く)
北条義時:比企朝宗の娘
北条泰時:三浦義村の娘
北条時氏:安達景盛の娘
北条時頼:北条重時の娘
北条時宗:安達義景の娘
北条貞時:北条宗政の娘
北条高時:安達時顕の娘
ちなみに高時生母は貞時側室で安達泰宗の娘
三浦は宝治合戦で没落して以降かつての地位を奪還できなかったけど、
安達は秋田城介の乱で没落してからまた得宗家外戚によく復活できたな
>>446 室町幕府の三管領は足利氏の庶流だろ
>>447 三家とも足利氏の支流ではあるが、足利一門と言えるレベルは斯波だけだろ
細川は分家とは言っても一門じゃなく家人だったし、
畠山は幕府がある程度安定してから、家人に近い立場になってから管領家になったわけで。
449 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 22:29:47.30
>>444 御家人制つうのは幕府中央の役職と違うだろう。
中央集権でしかアタマの回らん奴が多くて。
450 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 22:31:08.24
言わば自民党の地方支部で役職やってる地元ボスみたいなもんだ。
451 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 22:35:36.19
平家じゃ駄目だ源家だってんで二代秀忠の時に足利三家を幕府に
迎えたのが高家の始まりだな。
452 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 22:45:28.00
源家鎌倉はたった三代で平家北条に呑まれちまって、後は得宗専制で
北条の身内中心体制だから源家御家人の足利が外様扱いなのは
当たり前だって。
453 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 22:52:48.31
頼朝もなまじ融和策に走って北条政子なんか嫁にしたのが
短期間の源家没落の原因になったわけだな。
454 :
日本@名無史さん:2013/12/06(金) 23:52:38.31
>>453 融和策に走って北条政子を嫁にしたんじゃなくて、藁にもすがる思いですがった藁が政子だったんだ
>>444 13人合議制に時政と義時がいたように三浦義澄と和田義盛がいたことを考えると、
この当時は三浦一門と北条は互角だったって考えられるか
455 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 00:11:20.28
鎌倉時代の足利家のイメージは、結城とケンカしては、両家は同等だからな
という頼朝の言質をとられてしまったことかな
おまいら仲良くしろよ
456 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 00:29:35.35
単純に人数なら、比企、安達、足立のコンボもいる。
(比企能員・安達盛長・足立遠元)
比企がやられて、範頼・義経、平賀もやられてるのに、
近い血縁でありながら安達が残ったんだから、
安達は北条に匹敵するぐらい処世術が上手かったってことだよな。
457 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 00:35:44.40
安達は三浦とガチバトルして勝ったからな
安達泰盛はやられたが別の家が残ったりがんばった
458 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 01:43:46.19
足利が要職についてないのは門葉だから。
また、門葉だったので、領地も当初は狭かった。
足利幕府においても、継承権を認められた
吉良氏や石橋氏は領地は狭かった。
>>455 頼朝の頃の足利氏は、有力御家人たちの一員って程度だわな
同程度の有力な御家人なんて十人以上は居たんじゃないかって程度かな?
>>458 当初はともかく後半にはかなり多くの領地があったんだよなあ
特に多かったのが三河で、それ以外でも丹波にも所領が多かったんだっけ?
460 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 04:08:54.62
頼朝自身が他の源氏を粛清する中ででかくなったんと違うん?
そんで、頼朝のいとこで政子の妹を妻にもらった足利氏も便乗して
大きくなったとかさ
源氏詳しくないんでわかんない
461 :
忍法帖【Lv=4,xxxP】(1+0:5) :2013/12/07(土) 04:32:29.68
ゲホ!
462 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 06:01:51.52
>>447 >室町幕府の三管領は足利氏の庶流だろ
斯波は管領を輩出したから
「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」のように継承権がない
鎌倉時代は斯波のほうが一門として吉良より上だったのに
畠山は別家扱いだし、細川は鎌倉御家人ですらなかったから家人扱い
足利は北条にとって、意のままに操れる門葉源氏という
位置づけだったんじゃないかな。宮将軍の実現で不要に
なったけど、頼朝の血統が断絶した場合のスペアとしての
意味もあったかもしれない。北条にとって本当に足利が
目障りなら、三河守護にせず新田みたいに干していたと思う。
464 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 08:25:09.68
地方支配の基盤もないのに鎌倉だけで威張り散らしてても仕方ないだろ。
もともとはその基盤が御家人制だった。
465 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 08:27:42.69
そこに北条が落下傘を落として中央集権を確立させようとしたが
最後に尊氏に逃げられた。
466 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 08:55:46.15
この時代は中央集権体制に服従しない悪党が地方にはびこった。
楠木正成なんかももともとはそういう手合いだろう。
467 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 11:44:45.73
源平を軸にすると中世以後現代に至る日本史てな実に分かりやすいのに。
北条が少なくとも自称平家ってことすらほとんど言われない。
信長は平清盛を尊敬してたんだな。「信長 清盛」で検索すると
大河で清盛やった奴らの腹積もりが良く分かるし、同じ理由で
視聴率も低迷したろうし。
468 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 11:53:08.50
伝統の厚みを乗り越えられなくて視聴率も壇ノ浦だったというw
469 :
日本@名無史さん:2013/12/07(土) 11:56:25.05
いや、倶利伽羅峠じゃね?w
471 :
日本@名無史さん:2013/12/08(日) 12:01:26.96
楠木はただの悪党だろ
472 :
日本@名無史さん:2013/12/08(日) 16:02:58.00
>>446 吉良や石橋は室町幕府で評定衆に任じられていた
門葉だから役職が貰えないということはない
むしろ門葉だから重用するんだろ
足利の場合、源家将軍が絶えれば足利から将軍を出すなんて
誰も思ってなかったし
473 :
日本@名無史さん:2013/12/08(日) 18:08:31.64
吉良って直義派の人間だろ
尊氏と吉良は犬猿の仲だろ
474 :
日本@名無史さん:2013/12/08(日) 20:55:01.41
尊氏と直義も挙兵前から犬猿の仲だったらしい
475 :
日本@名無史さん:2013/12/08(日) 21:49:39.47
尊氏と直義って建武の新政以降高師直がらみに険悪になったんでないの
476 :
日本@名無史さん:2013/12/08(日) 23:44:35.56
足利兄弟はもともと仲が悪かったと思われる史料が最近発見されたらしい。
一般には高師直がらみだと言われてるけど違うらしい。
そう言えば性格が全然違うしね。性格合わないよね。
観応の擾乱まで
お互いに支え合う微笑ましい兄弟というイメージが大きく崩れるな
>>472 源家は三代であっさり北条に権力を譲ったろ。それから後醍醐の時代に
尊氏が寝返って六波羅探題を落とすまでかなりある。
>>476 わざわざ仲の悪い弟に頼み込んで政務を分担して貰ったのか。
黒澤の『乱』に登場したおっかない姫様は北条政子だな。
シェークスピアを下敷きにしてあったり、いろいろ換骨奪胎して
あるが。
481 :
日本@名無史さん:2013/12/09(月) 01:51:02.00
観応の擾乱で直義が形式的に南朝に降伏した時に、
南朝が直義を征夷大将軍にしたら面白かったのに
天皇が2人に将軍も2人
482 :
日本@名無史さん:2013/12/09(月) 01:58:21.41
>>476 どういう資料か説明してもらわないと困る。
もし単に兄弟喧嘩とか悪口言い合ってるってだけなら、自分の兄弟のことを考えてもらえばわかるが、
いくら熾烈な喧嘩してても、仲が悪いってことにはならないから。
元の来寇に鎌倉北条は勇ましく戦って国難を乗り切ったのか、
元の来寇によって北条の専制支配が倒されたのか?
元寇後に北条時宗が死去した後、次の貞時の時代に平頼綱なる
重要家臣がライバルの安達泰盛を、こやつは源氏の子孫を名乗って
将軍を狙っておりますと貞時に吹き込んで、泰盛を誅殺してる(霜月
騒動)。
この平頼綱の手で北条支配が恐怖政治にまで高まった。
北条平家は仮冒にするのが習わしらしいが、東国には平将門なる
ビッグネームもあるからな…
霜月騒動は御家人の家督争いにも絡み
少弐景資が安達盛宗とともに挙兵するも
平頼綱方の少弐経資に討たれているな
487 :
日本@名無史さん:2013/12/09(月) 10:56:30.85
>>482 権力者の兄弟喧嘩は普通の家庭の兄弟喧嘩とは違う。
権力闘争がからんでくるから
霜月騒動後に鎌倉で地震が起きて大津波があって、その混乱に
乗じて貞時は頼綱を討ったんだと。
夕べ深夜からの群発地震はそのせいか知らん?
世の中変わらんね。
地質学では1200年頃に南海・東南海・東海巨大地震があったことが
予測されてるな。丁度、頼朝の死去間際で吾妻鏡に記録がない時期だ。
吾妻鏡は地震の話ばかりだけど、あんまり巨大過ぎると記録に
残らないもんか?
>>483 元寇対策で権限と権力が拡大されすぎて、北条氏の手に余るようになっただけだろ
北条氏の専制が確立するきっかけだったかもしれんって程度で、それが原因で倒されたにしては時間差が長すぎる
>>476 >>482にもあるけど、具体的な資料名(ニュースのリンク程度でもOK)がないと、
評価できない。
一般的に、尊氏のような感情の起伏が激しい人と、直義のような冷静沈着な人って
むしろ相性が良いんだけどね。互いに持っていないものを尊重しやすい間柄として。
494 :
日本@名無史さん:2013/12/10(火) 14:02:39.08
>>493 価値観が違うから相性悪いんじゃないの?
495 :
日本@名無史さん:2013/12/10(火) 15:00:09.56
>>494 尊氏と直義の二頭政治は途中まではうまく行っていた
しかし嫡男義詮の成人と共に、全権力を愛する我が子に移譲させたい尊氏にとって
弟直義が邪魔になった
天智と天武にしろ、兄弟政治って途中まではうまく行くけれども
結局弟よりも我が子第一になって決裂する
496 :
日本@名無史さん:2013/12/10(火) 15:03:35.23
蒙古を撃退するも恩賞問題等の課題が山積みのまま時宗が死去してしまい
安達泰盛は体制の立て直しに尽力していたんだけどね
497 :
日本@名無史さん:2013/12/10(火) 15:14:48.33
>尊氏と直義の二頭政治は途中まではうまく行っていた
どうしてそう言えるの?
全然うまくいってないが
498 :
日本@名無史さん:2013/12/10(火) 15:21:03.29
499 :
日本@名無史さん:2013/12/10(火) 23:39:26.23
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券、皇室に寄進する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
500 :
日本@名無史さん:2013/12/10(火) 23:41:06.48
■源頼朝・足利義兼と三河の藤姓熱田大宮司家
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司) →@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令) →Aへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
@藤原季綱
・藤原友実→女子→源頼政
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数
A藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡)) →Bへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)
501 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 00:01:24.42
B藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総) →Cへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野)) →Dへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司) →Eへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条)
C藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
D藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)
502 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 00:10:24.56
E藤原範雅
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司、藤原範忠に養子入り)
・藤原範経(大宮司)
503 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 12:57:38.13
504 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 13:42:51.33
>>503 うまく行ってないのに二頭政治なんてやるかよ。
で、初期にうまく行っていなかった史料は出せないんだな。
505 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 17:13:26.57
>>504 うまくいってないから二頭政治になんたんじゃないの?
506 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 17:15:41.77
>>505 うまく行ってなかったら弟などさっさと粛清して政治に参加させない
兄弟を殺した将軍や大名の例などいくらでもあるじゃん
507 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 18:06:07.97
>>506 尊氏はさっさと直義を殺さなかったから後で酷い目に会うわけだが
508 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 18:17:32.37
>>507 最初はうまく行っていたのだから殺す必要なかったでしょ
そうじゃなくて最初からうまくいってないのならば
最初から殺すでしょって話
509 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 20:00:17.06
>>508 最初はうまくいっていたという証拠を見せてよ
510 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 20:44:25.59
>>509 室町幕府を開く辺りまでは兄弟喧嘩してないが?
していたという一次史料をあげてというのに。
511 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 21:13:06.50
いつの間にやら足利スレになってる
512 :
日本@名無史さん:2013/12/11(水) 21:29:49.52
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■その他
【三河国】安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
【三河国】足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
【武蔵国】比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
【相模国】和田氏(相模国三浦郡和田)
【相模国】二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
【下総国】結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
【常陸国】八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
【伊豆国】北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
【京武者】一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
【京武者】大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
【京武者】三善氏
513 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 11:31:12.29
>>510 「兄弟喧嘩してない」という証拠をあげてよ
514 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 14:24:32.99
>>513 「梅松論」「難太平記」
で、兄弟喧嘩していたという史料は?
515 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 14:57:08.84
>>514 「梅松論」「難太平記」 に兄弟喧嘩まで書くわけないだろw
権力闘争にまで発展して始めて書くわけで。
516 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 16:24:46.56
>>515 じゃあ、兄弟喧嘩していたという根拠は何?
君の妄想でしょ。
517 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 16:26:55.39
>>515 「梅松論」も「難太平記」も尊氏にかなり近い人物が書いているから
兄弟仲が悪かったらそう書くよね。
それなら、兄弟仲が悪かったというのは誰が言ってるの?
自分は史料出せないのに相手にだけ史料出せと言ってるの?
518 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 17:37:56.32
>>517 はやく史料出してよ。
反論する人間が最初に史料出すべき
519 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 19:22:31.95
■源頼朝・足利義兼(2代目足利当主)と三河の藤姓熱田大宮司家
家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数
A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)
・他多数
520 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 19:23:30.61
B藤原範季
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数
C藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Dへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)
D藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Eへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Fへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Gへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条
521 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 19:24:16.28
E藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
F藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)
G藤原範雅
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司、藤原範忠に養子入り)
・藤原範経(大宮司)
522 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 21:04:28.58
>>518 出したじゃん。
あなたが「梅松論」も「難太平記」も嘘だと言って
反論したいんだから、相応の史料出さないと。
523 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 21:09:26.63
尊氏と直義がお互いにチューしあうような仲むつまじい関係だったなんて
誰も思ってないだろ。
524 :
日本@名無史さん:2013/12/12(木) 21:11:43.07
>>522 南北朝遺文(関東編)の第一巻を読んでみてください。
そうすれば必ず分かります。
「今生の果報をば直義にたばせ給候て、直義安穏にまもらせ給候べく候」という尊氏の願文が石清水八幡宮に奉納されている。
>>524 そこに収録されてるってことは、既知の史料の一つなわけだよな
史料そのものの名前はないの?
「南北朝遺文」って、資料を網羅的に集めた出版物でしょ、史料そのものの名前じゃないよ。
527 :
日本@名無史さん:2013/12/13(金) 03:07:07.46
武家であれば武威に頼るより他はなく、武威に頼めば専制的に
ならざるを得ない。北条、平家は正しい。正しいから道を誤る。
528 :
日本@名無史さん:2013/12/13(金) 08:29:37.65
>>526 とにかく労を厭わず一冊全部読んでみてください。
そうすれば必ず分かります。
>>528 そういう言い方をするや釣ってデムパが多いから信用できないな
ホツマツタエ信者の某氏も旧事本紀大成経信者の某氏もみんなそういう言い方をする
530 :
日本@名無史さん:2013/12/13(金) 15:11:15.37
>>529 でも歴史研究って史料を一つだけ出して「事実はこれだ」というほうが変だろう。
全体の史料を俯瞰して論ずるのが普通でしょ。
研究論文はみんなそうだよ。
参考資料が一つだけの研究論文なんかみたことない。
531 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 04:03:21.19
北条氏はもともと名乗るほどの値打ちもなかった伊豆在庁なので、
名乗らなくなっただけでは?
532 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 06:26:48.42
北条家の当主の地位にあったのは
北条時政の叔父のほうで、官位も時政の叔父のほうにあって
時政は無位無官だった。
でも、北条時政の父親は、先代の当主で、
そういう意味で、北条家内部で家督相続の争いがあったように思われる。
533 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 06:34:03.58
桓武平氏高望王流にしても、清和源氏経基王流にしても、
長子系のほうは、京都での出世に重きをおいて
京都で中級公家として細々としていた場合が多い。
いつの時代も田舎よりも都会で成功したいんだよな。
地方で軍閥として成長したのは、どちらかというと傍系一族たちのほう。
北条家はその出自から見て、どちらかというと長子系に近い一族なので
地方で軍閥としては弱小勢力で、むしろ京都中央政界で
中級公家としての栄達に拘っていた可能性が高い。
そういう意味で武士団としては、同族で末流の良文流の
坂東八平氏(千葉氏、三浦氏など)に比べたら、動員力も小さい弱小勢力だった。
皇族系の落胤(落とし種)とかが生活保護廃止!とかナマポがどうの!とか
小生意気にやらかしていたかどうか!?を国民レベルで調査しないとイカンぞ。
もしそういう悪事をやっていたならば大問題だ。
日本人として日本の天皇皇族制は完全廃止しないといけない。江戸時代じゃないんだから(怒)
>>518 反論の前に、論を立てる者が自分の論拠を出すのが
先だな。出せないなら、それは「論」ではなく単なる妄
想。
>>533 長子の子孫でも、親が早死にしたときの幼少の子息は都での出世が難しくなることが多いので地方に活路を求めがち
武家の棟梁4家の初代とかが、典型的にそれ
>>535 うん。
518が先に通説否定の話題を出したんだから、どういう根拠があって否定するのか、論拠を最初に示さないと始まらないよな
史料集の名前ではなく史料そのものを紹介して、そこからはじめて論戦にはいれる
現状では、518がデムパを放射しただけで終わってるんだよな
537 :
日本@名無史さん:2013/12/16(月) 00:01:11.14
>>533 それは地元で動員力の小さな弱小勢力だった説明にはなっても系図すらあやふやな無名勢力だった説明にはならんな。
仮にも桓武平氏の流れだというなら尚更のこと。
やはり出自はどこの馬の骨ともわからん土着の小豪族で、平氏は仮冒と考えた方がもっともらしい。
539 :
日本@名無史さん:2013/12/16(月) 01:34:57.28
昔は早死にが多いから孫が息子になったり弟になったり複雑だからな
系図があやふやというより系図は平氏ではっきりしててそれ以外は存在しない
間がパターンがいくつかあるというだけの話だ
時政はきょうだいの気配ないからオヤジはすぐ死んだんだろう
母親はわかってるわけだからな
そんで叔父の系譜が北条家当主になったとしても、時政がすんなりまた当主に
おさまったわけだろう
時定は時政の指示で動いてる気配あるしな
540 :
日本@名無史さん:2013/12/16(月) 01:45:19.33
北条氏、平直方の子孫っていうのは同じで代数が違ってたりするだけだろう
だから仮冒ってことにはならないんじゃないか
他に藤原秀郷の子孫とか惟宗氏の子孫とかいう系図があるなら別だが
系図があやふやっていうんなら河内源氏嫡流もあやふやだろう
源為義は源義親の四男ってことになってるけど八幡太郎が実父って説もある
541 :
日本@名無史さん:2013/12/16(月) 04:17:28.27
542 :
日本@名無史さん:2013/12/16(月) 12:49:41.21
303 :名無しさん@京都板じゃないよ:2012/03/23(金) 09:35:38.83
尾張國造家は、単なる外戚の藤原南家に「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われるも、神宮寺の愛染院(真言系)とスクラムを組んで対抗し、
藤原季範を締め上げた。季範の息子の代には、館を社僧に取り囲まれて外に出ることもできなくなり、頼朝に泣きつき、頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる
>「天皇の夢」というワケのわからんムチャクチャで大宮司職を奪われる(笑)
>頼朝の発案で天台系の神宮寺を作って愛染院に対抗させやがる(笑)
三河(源頼朝、三河の藤姓熱田大宮司一族、天台宗系神宮寺)vs尾張(尾張氏(田島氏、馬場氏)、宗徒、真言宗系神宮寺)
当時、殺伐とした内部対立があった中、源頼朝が尾張で生まれるわけないだろうが
543 :
日本@名無史さん:2013/12/18(水) 00:21:47.63
足利将軍を産んだ赤橋登子
544 :
日本@名無史さん:2013/12/18(水) 03:54:53.32
そういう意味では足利尊氏は歴とした相模人w
545 :
日本@名無史さん:2013/12/18(水) 04:26:47.39
関東は直義ではだめで、北条を母にもつ基氏でないと治まらない
と誰かいってた
ほんとかどうかはしらね
546 :
日本@名無史さん:2013/12/18(水) 12:31:30.02
>>545 だったら直義と同父同母の尊氏でもだめじゃん
直義は母親こそ尊氏と同じ側室の上杉氏だがもっとずっと遡れば北条の血入ってるし
547 :
日本@名無史さん:2013/12/18(水) 16:01:00.23
尊氏は嫁さんが北条だから
548 :
日本@名無史さん:2013/12/18(水) 16:44:59.63
でも関東管領はずっと尊氏の外戚・上杉だよね
549 :
日本@名無史さん:2013/12/18(水) 17:12:59.84
■上杉氏
勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
550 :
日本@名無史さん:2013/12/23(月) 15:01:14.38
551 :
日本@名無史さん:2013/12/23(月) 23:21:57.75
17代執権は北条(金沢)貞将という説は興味深い。
「太平記」記述から「沙汰未練書」の記事を引き合いにして
北条高時から執権を委ねられたというもの。
552 :
日本@名無史さん:2013/12/25(水) 12:45:21.70
なんで吉良家のひとは正三位までのぼれるのよ?
553 :
日本@名無史さん:2013/12/25(水) 18:45:04.90
吉良家は従四位上までじゃなかった?
鎌倉時代には任官してなかったはず
室町時代に将軍一族として位を受けるようになった
江戸時代には高家として朝廷への使者を勤める家柄であり
昇殿して天皇に会う機会もあるため
家督相続と同時に従五位下となり従四位上程度まで昇進した
いずれも鎌倉時代のことではない
家の姉の亭主の平野氏が北条氏直系だろう。
川嶋氏も北条氏と聞くがぁ・・
555 :
日本@名無史さん:2013/12/25(水) 21:01:31.68
意味不明
556 :
日本@名無史さん:2013/12/26(木) 10:15:49.26
元祖の熱田神宮宮司家の尾張氏は
元祖の大和朝廷の王家という説がある。
神武皇統にあたる天皇家は、一時期、九州南部で地方官していた
傍系王族だったとか。
天忍穂耳命の第一皇子の天火明命の直系が尾張氏。
天忍穂耳命の第二皇子のニニギ命の直系が天皇家。
557 :
日本@名無史さん:2013/12/26(木) 11:17:21.16
吉良満貞? 正三位 左兵衛督
なにかのまちがいか?
せいぜい正四位下で日本を仕切っていた北条氏
歪だなぁ
559 :
日本@名無史さん:2013/12/26(木) 18:46:37.59
>>551 そんな論文読んだことあるけど
太平記って事実なのかしら?
560 :
日本@名無史さん:2013/12/28(土) 19:23:22.93
>>558 鎌倉末期にはその北条氏すら傀儡化して内管領の長崎親子が実権を握ってる。
将軍-執権(得宗)-内管領と権力が下に流れすぎ
長崎親子の官位は?
平頼綱の恐怖政治が凄まじい
この人ほど悪役が務まる人はいないだろう
平左衛門地獄の逸話を残すほどの苛烈さ。
得宗専制体制の確立に寄与したけど、御内に利益誘導しすぎたな
564 :
日本@名無史さん:2013/12/31(火) 11:38:39.20
嘉元の乱とはなんだったのか?
宗方が連署時村と執権師時を排除して執権になろうとしたとも、
貞時が宗方を使い北条氏長老の時村を排除して
得宗専制を強化しようとしたとも言われてるけど
貞時は政治への関心を失い、時村の後任で連署次いで執権になった宗宣も
長崎円喜の傀儡になり、結局誰も得してない。
嘉元の乱については、頼綱に滅ぼされた御家人たちの残党が
息を吹き返したことから安達一族の逆襲とも言える、このあたりから幕府崩壊のシナリオが
始まったのか・・・・。
566 :
日本@名無史さん:2014/01/01(水) 20:24:12.17
結局北条の子孫はいないの?
567 :
日本@名無史さん:2014/01/01(水) 21:42:38.34
岡野氏が得宗家の末裔
568 :
日本@名無史さん:2014/01/02(木) 17:10:55.34
ところで北条高時の跡継ぎ問題で北条邦時を推す長崎父子と
高時の外戚安達氏が対立した嘉暦の騒動だけど
邦時の生母って五大院氏で長崎氏の娘じゃない
邦時が成長した時に五大院氏に内管領職を乗っ取られるかも
って危険性は円喜も高資も考えなかったのか
569 :
日本@名無史さん:2014/01/02(木) 21:34:36.04
飛騨江馬氏 飛騨の戦国大名
播磨淡河氏 室町初期に養子により赤松一門化。別所と共に滅亡
下野北条氏 宇都宮氏改易の原因となった北条松庵がいる
常陸江間氏 佐竹氏奉行人
岡野氏 板部岡江雪の子孫
尾張横井氏 尾張藩家老。平野長泰も同族
義時と時房って兄弟仲良かったの?
571 :
日本@名無史さん:2014/01/03(金) 18:50:21.96
572 :
日本@名無史さん:2014/01/12(日) 03:43:35.11
仲良かったみたいだよ
義時の意をうけて動いてるし泰時とも仲いいし
でも時房の息子はちょっと頼りない感じするなあ
兄弟仲といえば北条時宗と時輔
時頼自身が嫡子ではなかったからこそ
正統性を重んじ扱いにあからさまな差をつけたのか
しょ、庶子だから
575 :
日本@名無史さん:2014/01/12(日) 18:08:45.16
北条宗頼の年齢がよくわからん。息子兼時の生年が1264年だから
1251年生まれの時宗の弟なら13歳以下の時の子供になってしまう。
宗頼も時輔と同じく庶兄じゃなかろうか。
嫡流と傍流で差をつけるのは武家では当然の慣わし
特に時頼が時輔を冷遇したというわけではない
只、時輔の心境がどうだったのかは気になるが
>>575 >宗頼も時輔と同じく庶兄じゃなかろうか。
ボクも同感。
吾妻鏡の建長2年12月23日に「相州妾三河局。これ二男若公の母なり。」
とあるし、吾妻鏡巻首に「時宗三男」とあるから時宗には兄が二人いたことは確かだろ。
群書類従の桓武平氏系図も時輔・宗頼・時宗の順になってるしね。
579 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 14:15:30.43
財政破綻 →衆院解散 →小沢政権 →マイトレーヤ世界演説 →UFO着陸 →アメポチ残党掃討作戦
財務省HP
ビフォー「国債は政府が責任を持って償還いたしますので、ご安心ください」
アフター「国の円滑な資金調達が困難になり、政府の様々な支払いに支障が生じるおそれがあります」
絶対に破綻するはずがなくて自国建て通貨で発行して破綻しようと思ってもできない(西田昌司)
国内から借りたら大丈夫って話がよくありますけどほとんどの財政破綻は国内で起ってる(池田信夫)
浜矩子・同志社大教授
「日銀が国債を買い続ければ、通貨の番人としての信頼を失い、円も暴落する。日本発の世界恐慌です。
安倍晋三はまた病院に駆け込むつもりかもしれませんが、心中させられる国民は大迷惑」
生活、25日に党大会
小沢一郎代表があいさつし、非自民勢力の結集に向けた決意や通常国会への対応などを示す。
間もなく日本から始まる世界的株式市場の暴落によって、世界経済全体が破綻します。
株式市場崩壊後に出現する新しい政権は日本国民の側に立つものであろう。
マイトレーヤはテレパシーで私たちがパニックにならないよう、テレビに出演され語りかけるでしょう。
Q マイトレーヤのインタビューはまだロシアでのみ行われていますか。A はい。
Q UFOの着陸は世界中で起こるのですか。A はい。
Q テレビに出るでしょうか。A いいえ。
Q 日本の近海から採れた食料を食べることは安全ですか。A それほど安全ではありません。
Q 放射能の有害な面は、いつ明らかにされるのでしょうか。
A それを口から摂取すべきではありません。実際、一切摂取すべきではありません。
Q 新しい光のテクノロジーが実施されるのにどうしてそれほど長い時間がかかるのですか。
A 新しいエネルギーは原子爆弾よりも強力な武器を提供することができます。
私たちすべてが永久に戦争を放棄するときにのみ、 そのエネルギーを任されることができます。
Q 世界平和の脅威である国はどれですか。A イスラエル、イラン、アメリカです。
スノーデン「アメリカ政府は地底人に攻撃されることを恐れている」
http://www.youtube.com/watch?v=CGin8uVnjLA
580 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 14:52:05.82
>>578 おそらくそうだろうね。兄弟の序列が時宗、宗政、時輔、宗頼の順ってことは、
時輔の弟で時宗の兄ってことになるな
宗頼の「宗」は時宗からの偏諱か、それとも宗尊親王か
時宗は宗尊親王からの偏諱だけど宗頼も同じとは考えがたい
元服を時宗より後に遅らせて時宗から偏諱を与えられたか、
元服は先だけど、時宗からの偏諱で宗頼に改名したのか
>>573 時頼が嫡子でなかったって、経時の実弟なんだから
庶兄の時輔とは立場は全然違う
正室所生の嫡出子だけど兄がいるから惣領じゃない
宗政と同じ位置づけ
>>580 宗頼の元服の時の名は宗長といったらしいね。
それから宗頼の元服は時宗の後だと思う。
宗頼は弘安二年六月四日に廿一才で死んだと言う史料があるけど
建長元年生まれだと仮定すると卅一才で死去したことになるから
「廿」と「卅」は似てるんでその史料が書き間違えたんだと思う。
そうすると子供の兼時は宗頼が16歳の時の子となるから変ではないと思う。
と言っても現代からみれば早いよね。w
582 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 20:00:59.37
若狭の武田信豊と子の義統は、満12歳違い
武田信豊1514年生まれで武田義統が1526年生まれ
もし仮に宗頼が時宗の弟だとしても、
時宗が1251年生まれだから宗頼が1252年生まれとしたら
兼時が1264年生まれで武田父子と同じく12歳差
可能性はゼロに近いが、まったくありえないとまでは言えない
歴史上最も年齢の近い親子って何歳違いなんだろうか?
583 :
日本@名無史さん:2014/01/14(火) 20:30:24.81
芳春院は12歳で前田利家の長女を生んでる。
あと、松平家もかなり早婚で家康は祖父と31歳差しかなかったり。
有り得ない話ではないかも。
でも建長三年だと吾妻鏡に出生の記事が出てもよさそうだが。
時輔のときは出てるし。
建長元年誕生ならその年は吾妻鏡の欠巻の年だから記事が無くてもおかしくない。
585 :
日本@名無史さん:2014/01/15(水) 04:25:50.97
親子の年齢差は最短でも12歳ってことか
10歳とか一桁はさすがに無理か
586 :
日本@名無史さん:2014/01/26(日) 00:11:57.50
親子の年齢差の最高齢は何歳か
有名なのは毛利元就で、九男・秀包は元就71歳の時の子
世界を見渡してみると、96歳のインド人男性に子が出来たらしい
588 :
日本@名無史さん:2014/02/16(日) 01:11:54.45
>>566 北条氏が幕府滅亡で一気に衰退した一方、
御内人の子孫が近世までしぶとく繁栄してるのは興味深い
589 :
日本@名無史さん:2014/02/16(日) 02:14:24.30
得宗専制を確立した北条時頼は執権職を長時に委譲しながらも
実権を握り続けたわけだけども
それは長時の執権としての器量に不信感があったからなのかな
590 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 12:25:27.63
591 :
日本@名無史さん:2014/02/17(月) 17:00:06.15
諏訪なんか中先代の乱の首謀者で相当な損害が出たろうに
よく信濃に勢力を維持できたもんだ
平、長崎、尾藤は幕府とともに滅んだのかな?
鎌倉が陥落したときに高時らと一緒に切腹(?)した中にいたんじゃない?
594 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 11:55:10.54
高倉健は名越の子孫だとWikipediaに書いてある
595 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 16:27:45.03
長崎氏は陸奥秋保氏と畠山尾州家家臣丹下氏がほぼ確実な生き残り
尾藤氏は系譜は不明だが戦国期の宇多頼忠一族が末裔じゃないか
初期の有力者、南条氏と金窪氏は系譜も末裔も殆ど知らない
596 :
日本@名無史さん:2014/02/22(土) 16:45:43.86
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ところでここの住民さん達はやっぱり日本史専攻だったの?
御内人の平氏は宗綱以降どうなったんだろうね
長崎氏に吸収されたのか
599 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 07:32:26.14
足利氏は室町幕府滅亡後も、小弓公方・平島公方のような地方の支流が
存続することができたのに、北条氏は何も残らなかったんだね。
鎮西探題や金沢文庫だけ存続することはできなかったのか。
600 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 08:01:58.48
名越氏の子孫が生き残ってただろう?
たしか今川氏との婚姻関係のおかげで生き残ったはず。
今川那古野家。
安土桃山時代の武将で歌舞伎の祖とされている名古屋山三郎はその子孫。
601 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 08:02:22.19
金沢文庫は神奈川県立で存続してるだろ
602 :
日本@名無史さん:2014/03/02(日) 11:59:03.79
昔、日本史板でさんざん話題になった平頼綱の名字だけど、
結局、結論はどうなったんだ?
平が名字でよかったの?
あと、平頼綱って清盛流の平氏と関係あるの?
長崎氏の祖と考えていいの?
>>602 >平が名字でよかったの?
名字でも苗字でもなく姓。ってか、これが議論されるレベル?
>あと、平頼綱って清盛流の平氏と関係あるの?
清盛と同じく平氏だが清盛の親族の子孫じゃないだろ
>>602 >あと、平頼綱って清盛流の平氏と関係あるの?
平頼綱は清盛の直系の子孫。(小松家の平資盛の子孫)
ちなみに、内管領長崎氏も同じく平資盛の子孫で、祖父平盛綱で別れている。
その他、伊勢の関氏や織田信長なども平資盛の子孫だが、これ以上は脱線になるので
ここまでにする。
605 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 19:39:28.06
>>603と
>>604の見解が正反対なんだが・・・
結局、平頼綱って清盛の親族なのか、そうじゃないのか、どっちなんだ?
606 :
日本@名無史さん:2014/03/06(木) 20:10:55.36
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確かボスが回想で、私タイガーザグレートがって言っていた。
608 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 00:26:00.39
平盛綱が資盛の子孫なのか馬の骨なのか次第だな。本当のところどうなんだろう?
609 :
日本@名無史さん:2014/03/07(金) 18:36:44.04
関氏の子孫じゃね?と言われている。
この一族も伊勢平氏(平維衡の後胤)の一族だったはず。
この一族は古い時期から
同族だった伊豆平氏(平維将の後胤)の北条氏につかえていた。
どこの国も家柄あっての立身出世なのね
ところで日本で最初の成り上がりって誰かな?
道鏡とか?
611 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 00:47:56.50
道鏡にも物部守屋後裔説と施基皇子後裔説がある
612 :
611:2014/03/08(土) 01:26:51.43
訂正、施基皇子後裔説じゃなくて施基皇子落胤説だった
613 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 08:39:26.39
614 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 08:43:28.40
道鏡が、皇位を欲したのは、施基皇子落胤説も
からんでいるのかもね。
まあ、道鏡の出身である物部氏自体が
その始祖のニギハヤヒが、天照国照彦(火明命=皇祖ニニギ命の兄上)の櫛玉(形見=ご落胤)の皇子だと自称して
クーデーターをおこして、イワレ彦(神武天皇)に鎮圧されたんだけどねw
かなりレベルが低いところから成り上がった例としては行基がいる。
おそらく良くて有力農民クラスの家で生まれて大僧正までいけば上出来。
616 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 09:38:29.34
北条得宗の被官の平氏は、
北条氏が天下とる前から、北条氏につかえていたんだな。
その出自は、伊勢平氏の流れをくむ関氏。
たぶん、同じ平貞盛の子孫同士ということの関係で
つかえたのかもね。
617 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 11:36:54.58
北条氏が天下とる前って言っても平盛綱の代からだろ
618 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 19:41:12.76
なんで資盛の子が北条なんかに仕えたんだろう?
619 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 20:23:27.28
仮冒だろ。
620 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 10:03:39.78
たぶん、伊勢平氏の後胤だとは思うが
平家(平正盛系)じゃないと思う。
伊勢平氏の一族は意外に多く
平家は、そんな伊勢平氏の中でも庶流だった。
621 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 11:27:40.23
>>620 歴代嫡流に相応しい官位を貰い、桓武平氏で圧倒的に栄えた正盛流が庶流だと?
622 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 16:45:48.89
まあ、北条氏が仮冒で、どこの馬の骨かわからない伊豆の土豪あがりなのは確実だけどね。
623 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 19:46:59.69
北条も盛綱もデタラメか。でもなんでどちらも坂東八平氏でなく伊勢平氏を称したんだろう?
だって有力御家人にはれっきとした坂東八平氏がゴロゴロいるもの
仮冒してもすぐバレる上、系図の上でも彼らの庶流の末端になってしまう
625 :
日本@名無史さん:2014/03/10(月) 01:06:11.67
織田の平家末裔が仮冒なのは織田親真の没年からほぼ確実なのだが、
北条は仮冒ではないという説もある
626 :
佐藤 歩:2014/03/10(月) 16:35:49.52
627 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 09:32:21.39
>>621 元々は庶流だっただろう?
でも、途中で官位の面でも
嫡流たちを逆転している。
628 :
日本@名無史さん:2014/03/11(火) 18:41:56.92
桓武平氏の嫡流って貴族のままだった時忠の系統?
629 :
日本@名無史さん:2014/03/12(水) 08:34:49.94
>>628 桓武平氏全体ならば、高棟王流のほう。
こちらは中流公家として発展していて
源平の時も、命は助けられている。
でも、武家として発展した高望王流では、
平直方流の北条氏だろうね。
630 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 19:10:26.64
>>623 伊豆北条氏は、直方流で盛方血統になる。
基本的に武蔵の熊谷氏と同根であり、北条と熊谷は親戚。
ただ長崎氏は、如何かな?
北条の隣地に長崎と言う場所があるから、伊豆の国司を勤めていた
時方が、北条郷に土着する時に近所の土豪が北条館に出入りする様になった。
主達という北条家の家人達に御家人の位を
授けるように義時が、将軍の源実朝に頼み込むが、断られてしまう。
それだけ主達の地位は低かったのだろう。
でも長崎氏(平氏)は、この主達のリーダー格だったと思う。
御内人でも、尾藤氏や諏訪氏は、名門の御家人であり、長崎氏(平氏)とは異なる。
631 :
日本@名無史さん:2014/03/13(木) 21:36:52.56
北条時政と熊谷直実が近い親戚というのも、北条が平氏の子孫というのも、
ぶっちゃけ眉唾もので、どちらも仮冒にすぎないと思う。
632 :
日本@名無史さん:2014/03/14(金) 04:01:19.99
>>631 その説を言ったのは、眉唾物の学者で
それが、なぜかネットで出回っている。
熊谷家でも北条家を同族として扱っているので
同族なのは事実だろう?
第三者による裏付けを得られない情報はすべて疑うのが現在の作法
三国志の倭人条(魏志倭人伝)とか日本書紀でさえ、それぐらい疑った上で、ここだけなら信用できるって部分だけしか信じてもらえなくなってるぐらい。
特定一家の祖先伝承も、第三者による裏付けなしには信じてもらえないわけ
634 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 12:57:34.98
>>631>>633 系図も読めん馬鹿か?
それとも全部捏造のチョソか? シネば?
平忠盛襲撃事件を起こして処刑された
盛方の息子が、武蔵に落ち延びて熊谷氏になってる。
盛方の弟の聖範の血統が伊豆に土着して北条氏になる。
北条(平)時方なんて、国司なんですけど。
その子供の時家(時政の父)は、伊豆介だし。
635 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 14:03:48.63
>>634の一部修正
平忠盛襲撃事件を起こして処刑された
盛方の息子が、武蔵に落ち延びて熊谷氏になってる。←×
平忠盛襲撃事件を起こして処刑された盛方だが、
その息子が、武蔵に落ち延びて熊谷氏になってる。←○
636 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 14:35:26.63
まあ、熊谷や北条は赤の他人で、名もない土豪の出というのが真相だろう。
>>634-635 子孫が伝えている系図は外部者による第三者的証拠とは言えないからな。
子孫のどこかの世代に捏造された可能性があり、信憑性に疑問がある
638 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 16:00:13.63
系図は、子孫だけじゃないし、
細かい点は、異なるが、基本的には似たり寄ったりの系譜になっている。
それをウソ呼ばわりするお前の方が、おかしい。
639 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 16:38:52.59
長崎(平)氏の出自は、如何なんだろうね?
640 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 11:19:05.49
北条氏が平氏説は疑い深いといった在野の学者さんの説って
けっこう、論破されているけどな。
要するに、その疑い説の理由は、
北条時政の勢力が小さかったとか、無位無官なところか。
だから、嘘くさいとか。
でも、これには、それなり突っ込みがあって
北条時政は無位無官だったけど、北条時政の叔父は官位があった。
よって、その当時の北条家の当主は叔父さんのほうだったのでは?とか。
北条氏の所領は小さいと言っても、伊豆の中心地であり、
北条氏が由緒ある在庁官人だったことは容易に想像つくし。
この時代のエリート街道は、あくまでも首都の京都で宮仕えして
出世することだから。
むしろ、地方で武士団を経営するというのは、エリート街道から外れた連中。
でも、そのほうが結果的に、後世に武士団の町として躍進した。
桓武平氏高望王流の嫡流筋は、京都での出世をめざして
逆に地方の武士団では小勢力だったのは、何もおかしくない。
平直方の兄貴の平中方は中央政界での出世を目指して、武士団としては成長しなかったし。
むしろ、桓武平氏の中で武士団として大成したのは
無位無官とか官位が低かった末流の平良文の後胤たちだが
彼らが結局、坂東八平氏として大成した。
平家の元の伊勢平氏も、桓武平氏の庶流だったし。
清和源氏のほうでも、本来の嫡流の源頼光の長子系は、京都での出世をめざして
中級公家の文化人としての活躍であって、武家としては大成しなかった。
源頼光の系統の庶流が摂津源氏として武士団を率いたが、
それも、ずっと庶流の源頼信の後胤の河内源氏のほうが
ずっと武士団として成長したしな。
641 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 21:29:09.33
伊豆北条氏が、平直方流なのは、
北条郷は、伊豆国衙の直ぐ目の前だし、大体定説になっている感があるけどね。
むしろ最近は、御内人の長崎(平)氏の出目の方が、議論になっている感じがする。
伊豆北条氏は、関東武士というよりも中央志向の京武者でしょうね。
土着して三代目の時政ですら、牧氏の従者になるなど、まだ中央志向な感じがする。
この時代は、京都大番役が三年もあったから、仕方ない面もあったが。
スレ違いだが、河内源氏と言う称呼は、何とかならないモンかね?
義朝五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、もうほとんど河内と関係ない。
特に頼朝-頼家-実朝の三代は、河内に行った事も無いんじゃないのか?
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、むしろ 『鎌倉源氏』 と称するべきだと思う。
642 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 06:50:18.49
今でも、エリートは首都の東京で出世したいでしょう?
そうではないのが、地方にとどまることが多い。
桓武平氏はもちろん、清和源氏だってそう。
桓武平氏全体の嫡流は、高棟王流だけど、これは京都で中流公家をやっていた。
出世できなかった高望王流のほうが、関東に落ちて武士団を形成した。
そんな高望王流のほうでも、長子系のほうは、再び京都で宮仕えしたがるのよw
平貞盛の嫡子系の曽孫の平中方もそうだし、
その弟の平直方は鎌倉に拠点を移したけど、その直方流の嫡流を受け継ぐことになった
北条氏のほうも京都指向が強い在庁官人になっていた。
平貞盛系の庶流だった伊勢平氏も、成功したら、京都に拠点を構え
やがて平家になったからな。
清和源氏のほうでも、嫡子系である源頼光系は、京都指向が強かった。
源頼光の長子系も、最終的には、京都の中級公家になっていた。
庶流のほうが、地方の所領だった摂津の多田に所領をもって武士団として成長。
でも、武士団として一番成功したのは、もっと庶流だった
源頼光の弟の源頼信の河内源氏。
その河内源氏のほうでも、源義忠の子孫が河内の所領で小さな京武者として存続。
643 :
日本@名無史さん:2014/03/21(金) 01:31:04.22
長崎(平)氏の出自は、如何なんだろうね?
644 :
日本@名無史さん:2014/03/21(金) 13:41:59.38
>>643 平資盛血統説
北条氏血統説
伊勢平氏系関氏説
伊豆北条館の近所(長崎郷)の土豪(主達)説
etc
645 :
日本@名無史さん:2014/03/21(金) 14:42:49.13
北条氏自体がどこの馬の骨かわからない伊豆の土豪だしな。
646 :
日本@名無史さん:2014/03/21(金) 20:44:47.11
>>644 北条氏血統説なんかあったっけ?
詳細きぼんぬ
647 :
日本@名無史さん:2014/03/22(土) 04:09:27.11
>>646 細川重男が言ってるだけだよ。
以前は、伊豆北条館の近所(長崎郷)の土豪(主達)説だったのに、最近急に言い出した。
まあ〜細川重男は、日本を“シナの周辺文明”としているトンでもブサヨ系だからね。
648 :
日本@名無史さん:2014/03/22(土) 07:07:20.39
北条氏は平直方の後胤で間違いない。
649 :
日本@名無史さん:2014/03/22(土) 13:03:19.93
それはない。
650 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 02:12:10.85
平盛綱は、内管領(家令)になる以前は、
義時の右筆(奥右筆?:秘書官?)みたいな感じだったと思う。
651 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 04:31:57.47
642
荘園性が崩壊してからのことからのこと知らないのかい?
652 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 16:11:21.37
>>650 右筆なら、デスクワークと言うか、
読み書きソロバンは、出来たんだろうね。
wikiを見ると、平盛綱が北条得宗家の家令となり、
伊豆国田方郡長崎郷の地を得て長崎氏を称したのに始まるという。
もともと長崎郷に居たのか、それとも家令になってから、
長崎郷に所領を得て土着したのかで、全然違ってくるな。
どっちなんだか?
653 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 16:57:01.16
長崎県
654 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 23:37:22.73
>>652 さてさて、長崎(平)氏の出自は、ドレだろうね?
平資盛血統説(自称)
北条氏血統説
伊勢平氏系関氏説
伊豆北条館の近所(長崎郷)の土豪(主達)説
etc
655 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 12:50:16.85
長崎氏が北条氏の被官になったのって、いつぐらいなの?
出自を誤魔化せる位置にはいないと思うけどね。
656 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 21:10:35.16
>>647 >細川重男は、日本を“シナの周辺文明”としているトンでもブサヨ系
歴史的には事実じゃん
今は違うけど。
ロシアだって昔は欧州の周辺文明国だったが、旧ソ連時代は
欧州の方がソ連の周辺文明国になっていたし。
657 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 21:17:59.10
>>645 >北条氏自体がどこの馬の骨かわからない伊豆の土豪
北条氏が平直方の子孫だという史料は多数現存するが、
それを否定する史料は見当たらない。
現存史料を無視し自分勝手な想像で否定したら歴史学は成り立たない。
慰安婦と同じで、存在を肯定する史料が存在するのに
想像で強引に否定する右翼と同じ発想。
658 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 23:19:36.78
直方は頼信のときだよw
義家の生母が直方の娘だっけか?
北条氏はそれにあやかったというのが通説
むしろ在地から考えて三浦氏の方が臭いけどな
659 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 01:58:37.46
>>655 義時でしょうね。
尾藤氏も確かそうだった記憶がある。
諏訪氏は、泰時の頃からだったかも。
尾藤氏や諏訪氏は、名門で御家人出身なので出目が判る。
長崎(平)氏は、資料的には、関氏であり、北条氏とも姻戚関係がある。
でも、平資盛流とも言っていて、この辺が、良く判らない。
>>656 日本文明は、シナ文明から影響を
受けているが、孤立文明にカウントされている。
邪馬台国(初期大和朝廷)が、シナの属国であった訳ではない。
660 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 07:53:25.91
>>658 北条氏の所領は伊豆の国衙のそこだし、
北条氏の官位やら何やらで、京都指向の強い在庁官人で間違いないだろう?
北条氏は平直方の子孫で間違いない。
でも、この場合、武士団としては小規模だよ、殆ど公家みたいなもんだから。
>>659 周辺文明ってのは属国って意味じゃないぞ
支配を受けることなどなくても、従属することなどなくても周辺ってカテゴリに含まれる事例は多い。
その一例に、日本も含まれてるだけだろ
662 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 18:14:41.31
平氏→源氏のあと、伊勢平氏に比較的近い血筋の北条氏の時代になるって、
なんかできすぎなんだよな。
やっぱり北条は有象無象の氏族の出の土豪が平氏を仮冒してるんじゃないかな。
663 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 20:59:00.06
仮冒するなら源氏では?
664 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 02:41:30.93
桓武平氏高望王流の中でも
高望王の長男の国香と次男の良兼の家系は
在庁官人の趣が強くて
地方と京都を絶えず行ったり来たりしてきた一族なので
どこの馬の骨か分からないということはないわな。
戦国時代に下剋上をおこしてきた戦国大名とは根本的に違う。
あえて疑うのなら、高望王の末のほうの子である良文の子孫である坂東八平氏だけど
それでも、平忠常は官位をもらっていたし、
これも間違いないと思うけどね。
北条氏の場合は、前者であり、高望王の長男の国香の長子系だから
地方武者というよりは、京都にいることが多かった在庁官人で
武士団としては小さくて、どちらかというと京武者って感じだった。
だからこそ、京都の情勢にたけていたのだろう。
665 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 11:30:36.91
だとすると時政後妻牧の方の父ないし兄とされる牧宗親が
池禅尼の弟であるとする説も現実味を帯びてくるな
時政が牧の方を継室にできたのは頼朝の舅になったからだ
という説もあるが、元々京とのコネを持っていたともいう
時政と牧の方の結婚がいつなのかよく分からんから
666 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 13:05:42.96
>>665 池禅尼の弟であるとする説かどうかは分からんけど
牧宗親は平頼盛につかえていて
池禅尼の子どもである平頼盛の所領と北条氏の所領が隣同士。
平頼盛は、関東にいた源氏の保護をしていて、
何か困りごとがあったら、彼が相談を受けていた。
そして、北条氏も頼朝を保護していた。
池禅尼は平忠盛の正室で、本来ならば、彼女の子供の家盛と頼盛が嫡子。
しかし、庶長子だった平清盛と年齢が近かった家盛が若死にし、
もう一人の正室の子供だった頼盛が若かったので
清盛の家督相続が決まった。
667 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 13:11:46.29
北条氏と伊勢平氏は想像以上に近い。
同族同士のよしみがあったかどうかは知らんけど。
平家の本来の正嫡だった平頼盛(池禅尼の息子)と
北条氏や源頼朝は近い関係。
たぶん、京都の公家人脈が影響している。
北条氏の祖先の平直方は、源義家の外祖父。
一方、平家のほうも平正盛が娘を河内源氏の正嫡の源義忠に嫁がせ
源義忠の名前の忠の字は、正盛の嫡男の忠盛の名前の一字になっている。
668 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 13:26:21.81
どうでもいいけど義賢を稚児にするのやめなさいよ
義賢加担も新田尼あたりの意向がかなり強くでてるあと伺えるし
669 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 13:31:17.91
新田が海野(佐久)と加賀美(小笠原の祖、武田一族)を配下にしてたなら
義賢に付くの当たり前だわな
670 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 13:34:56.17
源氏が一統だと思ったら大間違い
671 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 19:31:31.88
>>667 逆に、それが胡散臭く感じられるんだよなあ。
北条氏に都合よすぎで、いかにも作為的な感じがする。
672 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 20:29:44.63
「胡散臭い感じ」では反論になって無い
673 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 20:42:25.22
北条が平直方の子孫なんてのは、徳川が新田氏の末裔というのと同じレベルだろう。
674 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 21:35:31.46
北条がもし源氏を仮冒してたら門葉に入れられて、無用な戦乱もなく、鎌倉時代も長く続いてかもしれんぞ。
675 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 22:07:19.70
北条氏が家系を捏造するとしたら清和源氏にするわな。
それだと門葉に入れられるから。
平直方なんて、北条時政のたかが五代ほど前の先祖だし。
最近の人物すぎて、家系を捏造するのに無理があるし。
しかも、京都との往復が激しい在庁官人だったしな。
徳川家康が世良田氏の無名の落武者の家系を捏造して
十数代前の先祖を無理やりくっつけるのとは、わけが違うぞ。
武家平氏の中でも、平国香と平良兼の後胤は、ながらく京武者をやっていた一族で
捏造するのは難しい。
676 :
日本@名無史さん:2014/03/29(土) 06:31:47.85
>>660 伊豆北条氏は、実質、京武者だよね。
京都大番役が三年もあったにせよ、時政にしても京都志向が物凄く強い。
国衙に勤務する地方官に近い。
でも義時になると関東武士としての性格が強くなる。
>>661 細川重男は、網野善彦一派で完全なブサヨ。
左翼コスモポリタニズムによる日本解体論者だから、外交史的には、シナポチ。
単に日本をシナの属国に導きたいから、シナの周辺文明と言っている。
しかも日本の単一性や独立性を全く無視しているのが、網野善彦一派。
シナの周辺文明国には、台湾、朝鮮、韓国、ベトナム、シンガポールが分類されている。
現在の台湾は、シナの一部だったし、ベトナムもかつてはシナの属国だった。
それ以外は、シナの属国か、漢人の国だ。シナ文明周辺国は、属国みたいなモノだよ。
だから日本をシナ周辺文明国にしたがるんだよ。
ハンティントンの「文明の衝突」を読めば、
日本文明は、独自かつ単一の文明である事が直ぐに判る。
朝廷の文語は維新の頃まで漢語が公用語で、それ以降も国名、君主号は未だに漢語のままだよね。
北条の名字や地名も漢語だし、スレタイの漢字の部分も鎌倉以外全部漢語だね。和製はあるかもしれないけど。
細川重男と網野善彦は名前に関しては全て訓読みで感心。
戦前に日本の公用語を外国語にするという主張があったけど、維新までは漢語が日本国の公用語だったんだからそう突飛な発想でもないんだな。
>>677 庶民は別にして、公人なら江戸時代以前は仮名(けみょう)と実名(じつみょう)があったんだよ
けみょうの方は音読みが多いのかな? じつみょうは訓読みが多いよね。
ただ、正しい読み方が分からなくなった人については、便宜的に音読みで読むようになってるんだけど。
明治初期に、けみょう・じつみょうの使い分けを廃止して一元化させられたんだよ
>>678 知ってるけどそれがなんなの?文章読めないの?
680 :
日本@名無史さん:2014/03/29(土) 23:26:27.81
>>678 知ってたんだ?
文章から無知なんじゃないかと思ったよwww
>>680 どの辺りからそう思ったの?
名前に関しては北条が漢語、細川と網野が訓読みだとしか書いてないので、誤爆したようにしか見えないよ。大丈夫?
682 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 01:24:35.71
.
さてさて、長崎(平)氏の出自は、ドレだろうね?
平資盛血統説(自称)
北条氏血統説
伊勢平氏系関氏説
伊豆北条館の近所(長崎郷)の土豪(主達)説
etc
683 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 10:02:12.29
>>680 で?680は知ってるというそのソース示したのか?
え?
684 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 10:17:27.19
678
音と訓か、日本語の構造上そうなるわな
685 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 10:19:54.33
どうみても仏教がからんでるな
まあ寺ってもともと学問所だし不思議じゃないわな
686 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 10:24:16.04
680
なにびくついてるの?
687 :
日本@名無史さん:2014/03/31(月) 06:12:04.17
>>682 平資盛-平盛国-平盛綱
と言う系図になっているが、どうなんだろ?
殿下乗合事件で、資盛が13歳の頃から6年間伊勢に流されていたのは
事実だが、この間に一人の男子が出来てそれが盛国だと言うのには、疑問が多い。
古い時代とは言え、子供が出来るのには、少し早すぎる感じもするし、
平盛綱が、別名で盛国と言われていたとwikiにはあるから、盛国が、
資盛の子であったとの説には信憑性が薄い。
関氏の祖とされる関実忠は、平実忠とも言われ御内人で平盛綱と異母兄弟にあたる。
伊勢の「瑞光寺」や「加太氏系図」などによれば、実忠は、
盛国の子国房の長子となっているから、余計にワケがわからない。
平実忠と平盛綱は、共に吾妻鏡に北条氏重臣として記述されており、
当時、鎌倉にあって、北条氏の重臣として活躍してたのは事実だろう。
承久の乱でも活躍している。
平実忠は、北条時政の娘と結婚しており、それで北条氏との姻戚関係が出来たらしい。
これらの史実では、実忠は、伊勢の関に所領を得て、関氏になり、
平盛綱は、伊豆の長崎郷に所領を得て、長崎氏の祖になった事になる。
688 :
日本@名無史さん:2014/03/31(月) 07:24:47.97
>>676 >シナ文明周辺国は、属国みたいなモノだよ。
スレチガイだけど、ベトナムは、基本的に反シナでしょう。
ベトナム共産党も含めて、反シナだと思いますけどね。
台湾は、今の馬政権は、親シナでしょう。
でも独立派のガンバリ次第では、反シナ派の政権になると思います。
689 :
日本@名無史さん:2014/03/31(月) 17:52:27.03
.
さてさて、長崎(平)氏の出自は、ドレだろうね?
平資盛血統説(自称)
北条氏血統説
伊勢平氏系関氏説
伊豆北条館の近所(長崎郷)の土豪(主達)説
etc
>>687 盛綱がそのまま資盛の子になっている系図もあるしな。
後世の織田氏といい、兄弟の中でも資盛ばかりがたかられるのは何故だw
691 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 02:35:04.15
桜梅少将は富士川、倶利伽羅峠と惨めな大敗連発だから先祖ということにしたくないんだろう
692 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 04:09:26.34
将門の乱はなぜ起こった?
693 :
日本@名無史さん:2014/04/02(水) 01:04:01.29
>>690 盛時は、居たと思う。
そうしないと平(関)実忠の説明が付かない。
ただ資盛の子ってのは、どうだろう。
盛時は、源平合戦の一環である
三日平氏の乱に加わっており、源氏に敗れて、捕虜になっている。
694 :
日本@名無史さん:2014/04/02(水) 02:12:19.17
>>693 同姓同名のがいるだろう?
平資盛の子孫ではなくて、同じ伊勢平氏の一族で。
世代はちょっとずれているが。
頼朝の祐筆とかいう民部丞の含め平盛時大杉だわなww
まあ
>>694が触れるちょっと後世代の平盛時含め、同性同名はいくらでも居ただろうけど
696 :
日本@名無史さん:2014/04/02(水) 10:09:30.53
.
>>693を一部修正
盛時 ← × 盛国 ← ○
697 :
日本@名無史さん:2014/04/02(水) 10:18:14.67
一応、系図では「平資盛-平盛国-平盛綱」となっている。
しかし、平盛国の架空の人物説がある。
でも盛国が居ないと、平(関)実忠や平盛綱に繋がらないからね。
もしかすると平盛国が、三日平氏の乱に加わり、
北条時政の捕虜になった事を隠す(ボカス?)為に、
後の内管領時代になってから、長崎氏が、平資盛血統説を言い出したのかも。
長崎氏は、得宗とも戦争しているしね。
当時は血統がはっきりしていたはずのケースでも、
今となっては不明という例は多いんでしょう。
興世王や源経基といった人たちも正式に官人とし
て任命され赴任している以上、当時はどういう家系
かわかっていたんだろうし、源経忠のように、間違
いなく「清和源氏」だけれども誰の系統かさっぱり
わからないような例すらあるわけだから。
699 :
日本@名無史さん:2014/04/02(水) 23:09:09.09
>>697 平家一門で諱に「盛」がつく場合、清盛・重盛・宗盛と上じゃなくて下になっているはず
一方平家家人で「盛」がつく場合、平○盛でなく平盛○と上に「盛」が来る
長崎氏の系図に出てくる平盛綱や平盛時は資盛じゃなくて平家家人の子孫じゃないの
ところで長崎が得宗と戦ったってそんなことあったっけ?
700 :
日本@名無史さん:2014/04/03(木) 01:43:12.20
>>699 平禅門の乱で得宗の北条貞時と内管領の平頼綱が、戦ってますヤン。
北条高時も長崎円喜とその嫡男高資を討とうとしてますし。
701 :
日本@名無史さん:2014/04/03(木) 02:26:31.19
>>699 伊勢平氏でも、平家(平正盛の後胤)以外の家系は
同族である平家の家人になっていて、盛の字は前に来ている場合が多い。
702 :
日本@名無史さん:2014/04/03(木) 02:37:31.91
>>700 平頼綱は長崎氏じゃないだろ
北条高時は円喜の弟に円喜父子を討たせようとして失敗したので
戦うには至ってない
703 :
日本@名無史さん:2014/04/03(木) 03:49:18.19
>>702 長崎氏と内管領平氏は、同族だろうが。
それに高時も円喜を討とうとしただけ、と書いた。
704 :
日本@名無史さん:2014/04/03(木) 10:37:52.49
実は平家(六波羅流)は、伊勢平氏の中でも庶流。
705 :
日本@名無史さん:2014/04/03(木) 18:22:23.99
>>687 平盛国は、源平合戦の三日平氏の乱の首謀者の平信兼の親族っぽいけどね。
源頼朝のまず最初の標的である伊豆の山木兼隆の
父親が、平信兼だから、源氏にしてみれば結構大きな敵。
平氏が都落ちした後の戦とは言え、
かなり大きな戦闘になっており、伊勢と伊賀の平氏が参加。
源氏側も当初は、鎮圧に失敗し、近江まで戦闘が拡大している。
それと系図によっては、平盛国が居なくて、平資盛-平国房-平盛綱になってるのもある。
国房と盛国の親子説、盛国=国房説や盛国=盛綱説や国房不在説など色々あるが、
この辺がアヤフヤなのは、資盛と無理やり血統を結び付けたから、と言う感じがする。
706 :
日本@名無史さん:2014/04/03(木) 18:38:56.24
平国房って一体何者?架空の人物なんだろうけど、平家の通字「盛」が入ってない
架空の人物をはさむんならもっと資盛の子っぽく見える名前つけろよ
707 :
日本@名無史さん:2014/04/03(木) 19:44:58.69
>>706 実在の可能性もある。
でも資盛血統では無いんだろ。
708 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 00:14:19.59
平維衡の後胤である伊勢平氏の一族は、
平家(平正盛の後胤=六波羅流)以外の系統の大半が
平家の家人になっているんだよな。
よって、伊勢平氏一族として、かなり一体感があったもよう。
もともとは、平家は伊勢平氏の中でも庶流だったみたいだけど、
平正盛が登場して出世して、事実、この系統が伊勢平氏の嫡流に昇格して
他の伊勢平氏一族を統括するようになっていたのかも。
709 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 00:55:12.45
>>708 三日平氏の乱の首謀者である平信兼は、清盛の侍大将だった。
だから信兼は、徹底的に源氏に潰されている。息子達も殺されている。
>平正盛が登場して出世して、事実、この系統が伊勢平氏の嫡流に昇格して
それまでの伊勢平氏嫡流の盛方が、
アボンして、実子が武蔵に逃げて、熊谷氏になる。
盛方の弟の聖範の子の時方が、伊豆に土着して北条氏になる。
710 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 04:39:53.33
>>709 それ、間違い。
熊谷氏と北条氏は、伊勢平氏ではない。
伊勢平氏とは、平維衡の末裔。
熊谷氏や北条氏は、平維衡の兄の平維将の末裔。
711 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 13:39:06.75
熊谷や北条が平氏なんて詐称、僭称だろ。
712 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 13:42:43.10
>>709 平信兼は、関氏の祖と言われているから、平国房や盛国は、その親族だろう。
平盛綱と平(関)実忠は、盛国の子供で異母兄弟。
二人とも義時や泰時の家臣で初期の得宗被官。伊賀の変でも泰時に従っている。
>>710 ウルサイ!馬鹿!間違いじゃネーヨ!
熊谷氏(盛方流)や北条氏(聖範流)は、直方流で問題ない!
713 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 14:12:25.26
>>712 間違いだ。あほかw
伊勢平氏とは、平貞盛の三男の平維衡の末裔だ。
北条氏や熊谷氏は、平維衡の末裔ではない。
平貞盛の長男の平維将の末裔だ。
よって、北条氏や熊谷氏は、桓武平氏ではあるが、断じて伊勢平氏ではない。
714 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 14:26:16.59
北条氏や熊谷氏は平氏でもなんでもない在地の土豪だろ。
715 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 18:59:31.87
通い婚で在地の土豪が娘に嫁がせて
生まれた子供を当主にして平氏になったんだろ。
716 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 04:40:32.51
平信兼の父は、平盛兼と言うらしい。
なんか平盛国と関係有りそうな、名前。
717 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 09:31:11.57
北条と熊谷の血縁関係が近かったり、
伊勢平氏との血縁関係が比較的近かったりするのが怪しい。
どう見ても作為性を感じる。
718 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 18:43:36.14
熊谷直実と北条時政の系図上の関係があまりに近すぎて、
ああ、これはウソだって直感したわw
719 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 20:22:09.23
北条氏ネタ、飽きた。
720 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 20:52:31.50
721 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 21:15:00.10
鎌倉時代も熊谷氏は北条氏族名乗ってたの?
722 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 20:29:10.94
>>716 平信兼には、兄弟が居ないのかね?
信兼は、関氏の祖と言われているから、
平盛綱や平(関)実忠は、どこかで繋がっているだろう。
723 :
日本@名無史さん:2014/04/07(月) 03:28:31.56
<日本人ノーベル賞受賞者> ※19人中17人が西日本、ちなみに関東人と韓国人は0人
1949年 湯川秀樹(京都府出身) 1987年 利根川進(愛知県出身) 2008年 南部陽一郎(福井県出身)
1965年 朝永振一郎(京都府出身) 1994年 大江健三郎(愛媛県出身) 2008年 下村脩(京都府出身)
1968年 川端康成(大阪府出身) 2000年 白川英樹(岐阜県出身) 2008年 益川敏英(愛知県出身)
1973年 江崎玲於奈(大阪府出身) 2001年 野依良治(兵庫県出身) 2008年 小林誠(愛知県出身)
1974年 佐藤栄作(山口県出身) 2002年 田中耕一(富山県出身) 2010年 鈴木章(北海道出身)
1981年 福井謙一(大阪府出身) 2002年 小柴昌俊(愛知県出身) 2010年 根岸英一(満州出身)
2012年 山中伸弥(大阪府出身)
皇族を含む日本人(近畿や西日本の人間)は弥生系であり、縄文系の関東人や東北人は異人です。
724 :
日本@名無史さん:2014/04/07(月) 08:14:27.73
>>723 弥生系も縄文系もないよ。
あほかよ。
DNA、とくにY染色体の勉強しろや。
金沢貞将もココで語ってもいい?
726 :
日本@名無史さん:2014/04/08(火) 22:27:04.23
728 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 00:14:47.40
高倉健は本当に名越の子孫なのか?
729 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 00:19:47.17
そもそも本当に日本人なのか?
そもそも本当に人なのか?
731 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 17:46:18.70
北条氏ってやたら若死にが多いな。
得宗で長生きしたのって時政、義時、泰時くらいだろう。
それでも、特別長生きってわけでもないし。
(鎌倉や京都も含め)都市部では流行病(疫病)による若死にも珍しくないのが前近代のデフォだからなあ……
奈良時代の皇子たちの若死に率も高かった
733 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 18:02:23.53
734 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 18:03:30.75
>>727 その画像は若いね。
貞将って何歳で戦死したの?
735 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 18:13:13.89
>>734 33歳くらいじゃないか?
幕府滅亡と同じ年に戦死。
新田義貞軍に果敢に立ち向かい、最期は満身創痍だったとか。
737 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 20:30:37.69
738 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 15:56:36.45
鎌倉北条氏の明確な生き残りっていないの?
もしかして、鎌倉幕府の滅亡時に大半が死に絶えたの?
まるで、平家と同じじゃん。
足利氏も徳川氏も、そういう目には合わなかったのに。
739 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 16:21:21.49
赤橋あたりが足利とつるんで後醍醐に寝返っとけば、室町幕府で羽振りが良かっただろうにな。
740 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 18:51:34.19
旗本、紀州藩家老連綿の岡野氏が北条得宗家の末流
741 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 19:20:35.85
742 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 20:00:00.90
北条氏みたいな評判の悪い一族を仮冒する理由がわからない。
北条氏は平家の血筋なの?
744 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 22:18:56.70
それこそ仮冒。
745 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 23:07:25.72
Naitou1980>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
Freetrashbox>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
海獺>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
Colocolo>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
氷鷺>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
Holic 629W>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
ぱたごん>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
Ks aka 98>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
謎の魔人X>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
篠岡>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
Blue-comet>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
馬屋橋>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
cpro>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
Akatsuki444>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
アイザール>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
朝彦>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
>>738 >もしかして、鎌倉幕府の滅亡時に大半が死に絶えたの?
ちがう
幕府滅亡時には多少の生き残りがいたが、建武年間に北条氏の遺児を担いで叛乱蜂起する事件が多発したんで、
そのたびに、鎮圧時に遺族死亡でオワタはず
ただ、全滅までは行かなかったんじゃなかったか? よくわからん
747 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 00:21:48.14
馬鹿で生きる価値のない汚物
それがゴミクズ『元都民』
748 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 00:57:41.77
京都貴族「鎌倉の御殿は帝釈天の宮殿かいな・・・東夷の田舎者のくせにナマイキやなあ・・・我々は衣装も体躯も貧弱や(とはずがたり他)・・・悔しいニダ」
749 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 00:58:14.59
>>743 違うらしいね
後北条は鎌倉北条の家格に乗かったから益々凄いw
>>738 90%以上が東勝寺で、守邦親王や有力御家人一族とともに死に絶えた。
新田義貞は北条家は三族皆殺し、という厳しい姿勢で臨み、有言実行
したため、残りも1年以内に殆どが新田義貞の厳しい残党狩りで死に絶えた。
ただ一人生き残ったのが北条時行で、これも1353年処刑され、完全に滅亡した。
但し、新田義貞も流石に足利尊氏の正室だけは手を出せなかった。
後醍醐天皇経由で、足利尊氏の正室と嫡男(足利義詮)を差し出すように
要求したが、足利尊氏が拒否し、南北朝では別れて戦う原因となった。
752 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 08:16:29.40
>>750 新田一族は鎌倉陥落後の早い時期に上洛したはず
753 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 10:00:08.85
754 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 10:59:53.11
守邦親王は東勝寺で自害していない。
北条一族が自害したあと出家して、数ヶ月後に病死。
タイミング的にかなり怪しいが。
755 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 18:37:32.50
表向きは病死だが、本当は暗殺されたんだろうな。
756 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 19:24:59.62
>>738 普音寺友時など中先代以降も少しは生き残りはいた。
ただ裏切り者尊氏がよっぽど憎かったのか、地盤が北畠顕家・宗良親王など南朝側になったからなのか、
そろいもそろって南朝側につき、運命を共にしていった。
757 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 09:42:19.16
守邦親王が病死だとして、もしも摂家やその前の源氏が傀儡の名ばかり将軍でも助けてもらえたのかな
それとも皇族だったから命は助けてもらえたのか
758 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 09:50:10.24
同族の他の親王や源氏や摂家の連中に聞けばいいだろ
そういうやつらの主導権争いが地方の混乱の元なんだからさ
仙台平野の争いなんて鎌倉時代に定着した葛西氏と室町時代
に定着した斯波氏の一門、大崎氏の争いだぞ
貴種分裂という現象
759 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 09:53:19.33
神社の元ってあれ戦国時代だろ
元は山城や砦なんかで祀ってたたものを廃城令のころに
移転したって謂れのものが多い
760 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 09:55:24.00
関東なんてやたら源氏が多すきたものなあ
これがなにを表すのか?
761 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 10:02:21.04
757
だいたいその地場に縁故のあるものがいる場合とかを除いて
ほとんど無理
越後なんかだってなー、上杉が守護とはいえ新田氏族が多か
ったから初期は血みどろの抗争
そのあとだって阿賀北は鎌倉以来の名門てことで謙信だって
直接の支配はできなかったからな
762 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 10:09:05.25
江戸時代ってのはな
そういったものを一切、潰した時代とも言えるんだよな
その名残りみたいのでコトワザ関係に残ってるのも多い
>>758 大崎氏は幕府の手先として送り込まれたって意味もあるから、
それ以前からいた旧族は「地元の有力武士」扱いで、幕府から見ると「抵抗勢力」だな
もっとも、東北だけじゃなく関東にも旧族大名は多かったはず。
(東北ではなく)関東の東半分諸国の守護はだいたい、室町幕府成立以前から現地にいたはずだ。
764 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 10:29:30.75
守邦親王の死のタイミングは不自然だが、
鎌倉幕府が擁立した光厳院が処刑も遠島もされなかったのだから、
傀儡の宮将軍も処刑されることはないだろう。
ただ、幕府が滅亡して数ヶ月後に病死ってのは、本当に不自然すぎる。
>>764 守邦親王が、(少し時期は違うし下手人も異なっているとは言え)護良親王と同じ扱いを受けただけの可能性もあるじゃん
少なくとも護良親王は病死じゃなく本当に殺されてるよね。
そう考えれば、病死じゃない可能性を否定はできんのでは。
766 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 16:42:46.91
新田氏って北条氏のこと嫌ってたのか?
新田は頼朝の勘気を被って以来、
冷遇され続けたからね
>>767 頼朝が勝手に新田を嫌ったんじゃなくて、新田が頼朝に従おうとせず対立的だったからだろ
むしろ、滅ぼされずに済んでよかったねって言うべき。
早期に参陣した山名義範は御門葉として
かなり優遇されているね
770 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 03:51:59.02
北条政子は、新田義重を源氏の最長老として敬っているけどね。
でも、新田氏は頼朝の下は嫌だとか言って、非協力的だった。
でも、息子の山名氏とか里見氏とかは、早い段階から頼朝に従っていた。
たぶん、新田氏側の保険だよな。
新田一族は鎌倉時代を通じて、冷遇されていたけど
なぜか、新田宗家に近い分家の堀口貞義が
足利氏どころか、北条得宗家と同格の官位を貰っている。
771 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 08:26:55.00
>>770 里見は平賀、山名は足利の縁者だから早期に頼朝に従った
新田は孤立していた
772 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 17:39:14.94
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Naitou1980
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ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>篠岡
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ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>馬屋橋
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>cpro
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Akatsuki444
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>アイザール
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>朝彦
773 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 18:02:48.45
770
つうか宗家は貞氏のときに絶えたんではないかと
義貞の勢力って里見系列か足利系でも在地が近かったり
嫌ってたようなのが多い
桃井なんてわざわざ直義派についたからなw
774 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 18:05:42.40
山名氏みたいのがいる一方でそんな単純な問題でもない
775 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 18:08:26.01
つか新田義貞の勢力ってほとんど里見氏の勢力だ
776 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 18:49:42.39
777 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 18:55:50.30
誰でしょ?
778 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 20:40:05.12
足利尊氏の父か?
足利も清和源氏でしょ
780 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 05:12:40.59
桃井は足利家の分家。
781 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 06:41:14.36
だったらいいけどなw
782 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 06:49:28.48
良く調べてみたら、新田氏と足利氏の初代って義重と義康の兄弟ではなくて
その次の代の新田義兼と足利義兼ぽいな。
よって、それぞれの兄弟である
新田氏側の里見氏、山名氏、世良田氏
足利氏側の簗田氏?(仁木氏、細川氏)ってのは、
新田氏の分家や足利氏の分家というよりは、
最初から独立した家系だったんではないのかな?
いや、場合によっては、足利氏のほうが、簗田氏?(仁木氏、細川氏)から分家したとも。
結局、足利義兼が源頼朝の縁者だったおかげで、彼の家系が
源義康の家系の嫡流となり、さらにさかのぼって、源義国の家系の嫡流となったと。
783 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 08:12:06.21
仁木氏や細川氏って、足利氏の親族というよりも
最初から譜代扱いだったもんな。
このことからも、足利氏の初代は、義康ではなくて
義兼からだった可能性が高い。
細川氏や仁木氏は、足利氏から見たら
新田氏、山名氏、里見氏などと同等だったのかもな。
南北朝の後半も
尊氏vs直義の兄弟喧嘩に加えて
足利一族の家族喧嘩の様相だな
785 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 11:59:34.06
内管領の長崎(平)氏の出目は、なんなんだろうね?
786 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 14:30:20.13
782,783に納得
787 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 14:35:32.26
785
なんだろね?
:::::::: ┌─────────────── ┐
:::::::: |ジャムリンが氷鷺に殺られたようだな…
::::: ┌───└───────────v───┬┘
::::: |フフフ…奴はウィキペディア編集者四天王の中でも最弱 …
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| 氷鷺ごときに殺られるとは │
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789 :
日本@名無史さん:2014/04/25(金) 20:41:24.64
>>785 伊豆の北條近辺に長崎って地名があるんでしょ?
古くからの家人なんじゃないの?
790 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 02:06:10.78
>>770 新田は政義がやらかした影響の方が大きいからな
世良田なんかは名越と縁組できるくらいだし
791 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 07:29:11.14
>>790 新田政義の孫でもある堀口貞義(従四位下美濃守)なんて、
足利氏や北条得宗家も顔負けの官位を貰っているからな。
それをみたら、新田氏は言われているほど、冷遇されてないな。
792 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 10:17:30.73
母系が北条氏
793 :
日本@名無史さん:2014/04/27(日) 11:13:24.63
北条って坊主くさいのばっかりな
北条氏自体が従一位太政大臣の平清盛と同族の桓武平氏にしては官位が低すぎるよね。
やはり仮某で当時からバレてた?
795 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 22:26:16.21
>>794 坂東土着の桓武平氏なんてみんな官位低いぞ。
伊勢平氏だけだろ、官位高いのなんて。
796 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 22:34:27.35
三浦一族とかは本物の平氏だろうけど、北条とか熊谷は仮冒。
>>795 確かに伊勢平氏は、清盛は当然として、維衡、正度、正衡、正盛、忠盛、
坂東平氏と共通の祖でもある貞盛も含め全員、歴代北条執権と同ランクの
従四位以上の官位をもらってるね。
798 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 22:50:02.51
伊勢平氏も最初から官位がたかったわけではない。
他の坂東平氏と同レベルだよ。
でも、平正盛あたりから飛躍的に昇進しはじめた。
799 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 22:54:13.12
院のボディガードになったからだね。
摂関家の源氏に対抗するべく白河院が積極的に正盛らを盛り立てたからな。
この一族は伊勢に居たのがよかったんだよな。
坂東に居たままだったら登用されなかったろう。
800 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 22:57:30.73
801 :
日本@名無史さん:2014/04/28(月) 23:00:03.10
平良文系は、平忠常の不祥事がすべて。
そこから、官位の面で一族が不利になった。
熊谷氏・北条氏は、平維方の不祥事が響く。
平直方は京都でも名の通った武人で、その子の維方も由緒正しい坂東平氏である
ことは疑いないが、熊谷や北条は直方の子孫を自称しているが、直方からの系図は
諸説ありはっきりしていない件。
803 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 01:00:58.65
>>802 諸説はっきりしないといいながら
北条氏に関して、どれも、平直方の後胤とされている。
時政は親父が速く死んだので
北条氏の家督や官位を叔父の時兼に奪われていたという説が有力だけどね。
804 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 03:16:40.85
>源頼朝の岳父として挙兵に参加、やがて鎌倉幕府の初代執権となった
>北条時政の出身については、不明な点が多い。
>平安時代末期の北条氏が、父祖代々北条介を名乗る伊豆国在庁宮人の
>家柄であったのは事実として認められようが、
>同じ介クラスの有力在庁といっても、武士団・領主の規模としては
>狩野・工藤一族には遠くおよばず、伊豆国内でもせいぜい二線級の存在だったと考えざるをえない。
>
>しかも時政には、北条氏本来の家督ではなかったふしがある。
>彼が国衙に出仕していたのは確かだとしても、
>それは介などよりもっと下の、たぶん雑任(ぞうにん)の職としてであろう。
>
>たとえば挙兵直前、時政は43歳の壮年に達しており、
>北条氏の家督であれば当然「北条介」と称しておかしくないのに、
>単に「北条四郎」とだけ史料にみえる。
>いまだ名乗るに価する官位をおびていなかったからに相違ない。
>
>加えて、鎌倉幕府の正史ともいうべき『吾妻鏡』の本文は、
>時政の父親にはまったくふれるところがないのに、
>どういうわけか北条時定なる人物については、
>その父を「北条介時兼(ときかね)」と明記している。
>時兼が北条介であれば、同時に彼は北条氏の惣領であったに違いない。
>子息の時定は、時政からみると七つ年下の、おそらくは従弟にあたるが、
>官位昇進において、はるかに時政に先行した。
>
>結局、これらの事象から導かれる結論は、北条氏本来の家督は
>時兼---時定の系統に属し、時政は庶流の立場に甘んじていたということだ。
>この時期の彼に約束されていたのは、伊豆でも第二線級の武士団の、
>しかも家督の地位さえおぼつかない生涯にすぎなかった。
http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/sh26_yoritomo_kyohei/sh26_yoritomo_kyohei.htm
805 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 03:28:27.20
806 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 08:44:59.55
北条とか熊谷は仮冒
807 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 10:32:20.22
>>806 宝田とかいう在野の研究者が
主張しているだけで
彼が言っている論は、他の人にかなり論破されているけどね。
北条も熊谷も、平直方の末裔で正解。
808 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 17:00:09.63
まあ、いまとなっては真相は闇の中で、
否定も肯定もできないってとこだろうな。
いわば言ったもの勝ち状態。
でも、仮冒だろうな。本当は。
809 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 19:56:46.22
DNA鑑定すればわかるんじゃね?
810 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 20:46:26.35
平直方の系統の嫡流は、平盛方が失脚して斬首になって
そこで一度、没落したんだな。
この盛方の子孫が熊谷氏。
それで、盛方の父親の平維方が慌てて
弟で出家していたた熱海聖範の孫の時方に家督を相続させた。
これが北条氏の先祖。
一方、盛方の遺児たちは、熱海聖範に保護されて、一度、熱海姓を名乗っていて
やがて熊谷氏を起こしている。
811 :
日本@名無史さん:2014/04/29(火) 22:23:09.59
妄想
812 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 01:41:27.01
鎌倉幕府の正史である吾妻鏡に「平三直宗」って熊谷直実の孫が出てくる
直実の本流と看做され勝ちな芸州熊谷のほうは名前すら出てこないのに。
この「平」が仮冒だとしたら、平盛方から代数が近すぎないか
盛方ー直貞ー直実ー直家ー直宗
直実の段階でどこの馬の骨とも知れぬ血筋ってみんな知ってたなら
直宗になっていきなり平氏ですって公認されんだろ
直実は盛方の孫だよ、捏造するならもっと遠い子孫にしないとバレバレだろ
813 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 19:43:53.59
執権北条氏自身が仮冒なんだから、その北条氏と近い親戚筋を自称してる熊谷なら、
インチキくさい仮冒であっても同族と認めざるをえないだろう。
814 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 20:14:11.81
横江北条氏ってなに?
815 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 05:37:45.96
>>814 横井氏のことだろう?
江戸時代に有名な横井小楠の出た横井氏。
横井家は桓武平氏北条氏嫡流得宗家に発する。
北条高時の遺児・北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住し、
時行4世孫にあたる横江時利の子が、
横井に改めたのがはじまりとされている。
時利の子は横井時永といい、その子孫は時勝、時延、時泰、時安---と続いた。
北条氏の子孫として代々祖先の通字であった
「時」の字を名乗りに用いる。
>>812 熊谷氏の祖(熊谷直貞)のwiki読んだら、北条時政以上に仮冒っぽいね。(熊退治とか)
大体、孫じゃなくて熊谷直実自身が平氏として名前が残っていないのがおかしい。
817 :
日本@名無史さん:2014/05/04(日) 09:45:00.08
wikiなんて誰でも編集できるだろう?
極一部の在野の学者のオッサンがいった話が
そこらじゅうに言及されまくっている、なぜか。
818 :
日本@名無史さん:2014/05/04(日) 13:47:29.89
ウィキなんてなかった頃から北条が仮冒なんて、よく言われてたことだろうに。
いや、最近までいわれてなかったと思うぞ
鎌倉時代はおろか江戸時代もいわれてなかったような
江戸時代までは北条氏も評判よかったからあまりおとしめようとする人が
いなかったんだな一部の儒学者のぞいてさ
820 :
日本@名無史さん:2014/05/04(日) 21:34:34.83
武家政治の創始者は頼朝だけど、武家の公家に対する優位を確定させたのは北条が指導した承久の乱だからな。
そら武家全盛期の江戸時代は評価高かったろうよ。
北条滅ぼした南朝や足利がカスだったから余計にな。
北条を滅ぼした足利ですら、北条の政治を手本にする
といってたぐらいだからな
もちろん、家系について文句もつけなかったし
822 :
日本@名無史さん:2014/05/05(月) 07:10:16.19
本物の桓武平氏の名門、伊勢新九郎が北条氏を詐称する皮肉。
823 :
日本@名無史さん:2014/05/05(月) 14:21:09.52
室町幕府が滅亡するとき、足利氏はそれほど劇的に滅ぼされた印象はないが、
北条氏は一族の大半が一気に滅亡してしまった。
この違いは何なのか?
貞盛系の家系なんて腐るほどいるから
その内の一つぐらいが熊谷や北条ってことで良いだろ
>>823 足利氏後胤を担いで秀吉なり江戸幕府に反旗を翻した人はいない、
その頃には足利氏の権威は低下してて、叛乱の神輿にできなかった
一方、北条氏は叛乱の神輿に担ぎ出されまくったから次々と処刑されて終わった
中先代だけじゃなかったからな。
北条守時や集団自決した北条高時の最期はあまりに壮絶
827 :
日本@名無史さん:2014/05/05(月) 22:07:02.74
北条は滅亡する直前まで強大だったからな。
そういう政権が崩壊する時はどうしても壮絶になるんだろうな。
足利の場合終始グズグズだったし、特に応仁の乱後は馬糞の川流れみたいにだらしない崩壊の仕方したからな。
最後なんでいつの間にかなくなった感じで誰も幕府の滅亡なんて思わなかったしそもそも世間がもはや足利にそこまで関心すらなかったからなら。
将軍追放なんて15世紀の日常茶飯事で世間もなんとも思ってなかった。
後から振り返ったらあれが滅亡だったんだって感じ。
確かに足利将軍はろくな死に方していない人が多い
義教は暗殺
義勝は幼少且つ病弱
義尚は遠征先で酒色に溺れて病死
鎌倉執権北条家は最期まで武士らしかった
名君揃いだし
829 :
日本@名無史さん:2014/05/06(火) 01:43:54.89
足利幕府の場合、最後はボロボロだったから、
次の権力者たちも、足利家を駆逐しようとまで思わなかった。
もう、足利家は脅威ではなかったから。
でも、北条氏の場合、名君だらけで
滅亡するまで強力だったので
次の権力者たちは、北条氏を駆逐する必要があった。
830 :
日本@名無史さん:2014/05/06(火) 01:48:12.21
しかしながら、北条氏も一部、落ち延びていた者もいたんだけどな。
でも、それらも最後まで天下の奪還を諦めなかったので
殆ど滅んでしまった。
足利一族なんて、次の権力者たちに媚を売って
生活保護してもおうと必死。
831 :
日本@名無史さん:2014/05/06(火) 02:44:06.50
まあ、後半の足利将軍家は、近江だの越中だの阿波だの堺だの越前だの色んなところに放浪した将軍や将軍近親がいたのが周知だったから、
鞘に義昭がいても、そのうち畿内の勢力が崩壊すれば、ちゃっかり戻ってるんだろうとみんな思ってたんだろうな。
832 :
日本@名無史さん:2014/05/06(火) 08:39:27.65
滅亡寸前の鎌倉幕府の人事を見てみると、要職の大半を北条一門が占めているんだね。
「北条氏(+身内人)+大江・三善・中原などの実務官僚」といった構成になっている。
これは義時や泰時の時代とは大きく違う。
滅亡直前の北条氏は、ほぼ権力を独占し、権力の頂点を極めていたのではないか。
北条氏の権力は確かに強大だ
鎌倉時代を通じて、反乱てほとんどなかったんでないかい
初期に城氏の反乱があって、承久以外だと、幕末の安東氏ぐらい?
今からすると、板東平氏というとなんか血筋的に立派なイメージあるから
仮冒と思うのかもしれないが、あの当時は、平氏や藤原氏が関東にうやうやいるから
その一つが北条で何もおかしくない
むしろ、うやうやといた中で、何の背景もない北条氏があの中伊豆で官人やってた
と考える方が無理がある
835 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 08:52:42.27
そう思う。
時政が傍流だったのは間違いないと思うが平氏じゃないと考えるのは不自然だわ。
836 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 09:23:15.85
朝鮮だ韓国だって話まったく関係なくなってきたな
>>833 頻繁に兵乱が起きてて、そのたびに勝者として北条氏の力が増大した印象
平均して十年に一度ぐらいは兵乱があった気がする、大きな兵乱に限っても30〜40年に一度ぐらいは起こってないか?
838 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 16:43:21.77
兵乱なんてないよな
鎌倉の中でごちゃごちゃ勢力争いはしてたが、諸国では乱がないというか
839 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 16:45:50.90
東北くらいか?
840 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 19:43:26.76
>>833 宝治合戦や二月騒動、霜月騒動に平禅門の乱など、結構賑やかだったような。
841 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 19:47:05.74
>>840 全部館を襲撃する程度のもんだよな。
承久の乱以後は、安東の乱まで兵乱と呼べるようなもんはなかったと言っていいよ。
842 :
840:2014/05/07(水) 19:47:15.50
あ、諸国となると、霜月騒動で九州が荒れたくらいかな。
建仁の乱もあった。まあ鎌倉時代の最大の乱は承久の乱に間違いないが。
わずか140年のわりにはいろいろあったんでない。
室町時代ほどでないのは認めるが。
各地で所領争いの紛争は起きてるがな、中央の政局と連動してはいないよな。
>>840 それらもどっちかというと得宗側から相手の館を襲撃しました、てな感じで
反乱をおこした、てな感じではなかったからな
得宗が襲われたことなんて・・
和田の乱の義時と承久の義時ぐらい?w
北条家は策略により挑発するのが上手いからな
北条義時に対して和田義盛はあまりに愚直過ぎたのかも知れない
三浦泰村も好戦的な弟、三浦光村との齟齬があったり
穏健派の北条重時の召還を拒んで墓穴を掘っている
北条家の挑発を潜り抜けることに成功できたのは三浦義村だけだな。
和田義盛の乱、実朝暗殺、承久の乱、義時死後の跡目争い、
いずれも実に際どい状況だったが判断を誤らずに最終的に果実を手にしているのが凄い。
義時は襲われすぎだ
仁田、和田、公暁、後鳥羽院と主なところで4回も襲撃うけてる
こんだけ襲われて、かつ襲撃されたときにはその場にいない権力者
というのも珍しいぞ
849 :
日本@名無史さん:2014/05/08(木) 21:38:58.77
>>846 あれは北条というより安達と三浦のNO.2争いだからな
>>848 義時って不思議な人だよね
畠山討伐までは全然目立ってないし
それ以降急に動き出すし
人物像が掴めない
851 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 01:40:05.81
>>850 通常いわれてるイメージと違って、あんまガツガツしてなくて
おっとりしてんじゃないかな
頭はいいから、やるとなったらがしっと動くから落差激しいけど
つまり、怒らせなければ安全、怒らせるとやばいタイプ
頼家とその息子たちは全員ぶっ殺したからな
政子ですら阻止できないんだから
853 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 03:07:50.78
>>851 三浦も時氏の外戚を他氏に譲ったらやばいとか思わんかったのか
地位を保つには三浦一門の娘を時氏にくっつけるべきだったな
泰時と矢部禅尼の離婚がなかったら、三浦は命脈を保てただろうか
854 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 16:47:59.32
景盛は政子にひっついてたんだろ
泰時は政子のお気に入りだから、その婿に政子が景盛の娘をあてがったんでは
だから、北条の外戚になろうと景盛が画策して思う通りにすすんだて感じ
義時は政村の烏帽子親に義村をそして自分は泰村を猶子にしたように
かなり三浦とのつながりを大事にしてたが
泰時と三浦の疎遠さが命取りになったな
時頼や時宗はそれぞれ将軍から一字もらったけど、貞時や高時はそうじゃないよね。
守時は将軍からもらってるし、得宗は皇族将軍から一字もらったりしなくなったのかな?
856 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:34:16.97
高時の嫡男邦時はもらってるよ
857 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:50:45.03
タイミングじゃね?
858 :
日本@名無史さん:2014/05/09(金) 21:55:50.56
簡単なことよ
仏教側なら天子、神道側なら天皇、そんだけ
中国の皇帝を天子と認め王号をもらうってこと
↑何これ?頭が不自由な人?
>>854 安達景盛も妥協を決して許さない人物だからね
安達家自体がもともと家格が低い方だったから
より一層のこと三浦家をライバル視していたのかも知れない
三浦義村は北条義時と接近して協調していたのに対して
和田義盛とは総領を巡り反目していたのかな
ならば和田合戦でのあの行動はごく自然な流れだな
861 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 12:40:05.46
北条氏は比企・和田・畠山・三浦など、有力豪族は次々に倒していくけど、
大江・三善・中原・藤原などの実務官僚たちとはおおむね仲良くやっている
ように見える。
北条氏と実務官僚たちの間には、一定の信頼関係があったのか?
戦略上の情報収集や京との交渉で文官達が大いに貢献したのは確か
源頼朝も執権北条家も彼らを重用し利用した
官僚系で政争に巻き込まれて死んだ人っていないの?
大江広元の息子世代だと武士化してるか
865 :
日本@名無史さん:2014/05/10(土) 19:05:13.19
阿野全成は文官として頼朝や北条からの信任が厚かったな
梶原景時の追放など陰謀劇に深く関わり兄弟と同様に悲劇に見舞われた
阿野全成は生き残ってたらかなりの立場になってたんだろうね
義時・政子とも利害一致で協調行動取れるだろうし
脳筋義経の実兄とは思えぬ賢さを感じる
大物になり過ぎたら義時に粛正されるかもしれんけどw
そういえば全成の息子
追い詰められて殺されてたね
>>861 実務官僚は頼朝の死後政子の下についた。
それが政子の死後泰時に継承されてそのまま得宗家に受け継がれて行ったようだね。
>>860 義時と義村は従兄弟だよな。
年齢も近くて古くからの知り合いで相性も良かったんだろう。
協調することが非常に多かったよな。
和田合戦と承久の乱は終始一貫して協調したように思う。
きな臭いのは実朝暗殺と義時死後の騒動だな。
実朝暗殺は色々二転三転して手打ちした感が強い。
義時死後の騒動も政子が出向かなければかなりきな臭い事になってたよな。
三浦と北条は一緒に旗揚げしたから、鎌倉以前から交流あっただろう
頼朝の嫁に政子がなったあたりから
義時の烏帽子親が三浦では、説がでるのも納得
和田義盛も頼家の命令をそのまま時政に流すぐらいだったし
871 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 04:36:46.69
承久の乱で三浦義村が胤義に同調して、上皇方に付いていたら勝機はあったか?
宝治合戦の時、三浦泰村が光村の進言通り腹をくくって積極的に戦っていたら
得宗家を打倒できた可能性はあったか?
承久の乱の時は義時すら動揺してたから義村が胤義に同調してたら御家人は三浦側についた可能性は高いと思う。
幕府の主導権争いより幕府の存続を優先させた義村の冷静な判断は大きい。
その上で政子のあの演説が奏功した。
873 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 08:05:45.88
承久の乱において、都では幕府方の拠点は攻略されて、上皇方に制圧されたんだよね。
だから、関東で三浦の切り崩しに成功していたら、上皇方にかなり勝機が出た
のではないか?
三浦を中心とした反北条勢力の挙兵・院近臣を中心とした中央での挙兵の二正面に
対応するのはかなり苦慮すると思う。義時の動揺はさらに大きくなる。
義時自身が動揺したくらいだから、他の御家人・北条一門の動揺はさらに大きいだろう。
史実のように、結束できないかも知れない。
三浦に御家人がつくって?
考えづらいな
鎌倉内で北条に対抗できるようなコネクションを御家人に対して築いてるとは思えない
義村もそれをわかっていたから義時に味方したんだろ
院に挙兵するな、と摂関家ら公家が反対したのも、今は京にいるから
院方にいるが、鎌倉にいたら鎌倉方にはせ参じるといった武士がいたのも
鎌倉の動員体制がすでにこのときには確立していたからだろう
考えづらくはないよ。
武家なんていったん流れが傾いたら雪崩を打ったように動くことがあるのは幕府滅亡時を見ればわかる。
そもそも幕府草創期がそうだった。
ただ、言うように坂東では畿内のように一挙に公家方一色になるかどうかは微妙だ。
だから義村からしたら賭けになるんだよ。
賭けの成算の確率や勝った場合に公家方に対抗していけるのかとかいろんな要素を冷静に判断した結果、鎌倉方につくのを選択したんだろ。
いずれにしろ、義村は従兄弟の義時の影に隠れた存在だが、傑物であると思うよ。
1200年(正治2年) 十三人の合議制開始。梶原景時の変
1201年(建仁元年) 建仁の乱
1203年(建仁3年) 比企能員の変 、頼家が幽閉され源実朝が将軍に就任
1204年(元久元年) 頼家暗殺される
1205年(元久2年) 畠山重忠の乱 、牧氏事件
1213年(建暦3年) 和田合戦
1219年(建保7年) 実朝、公暁に暗殺される
この状況で鎌倉が北条義時を中心にまとまるとは後鳥羽上皇でなくとも思わんだろw
義時が執権になってから和田の乱だけじゃん
後鳥羽院の問題は、義時討伐の理由がないってことだよ
御家人たちに、上皇のいうこときかないから討伐しろ、つったって
はあ?となるわな
三浦が、他の御家人誘うにしても同じこと
義時側が、上皇が幕府を攻撃してきた、と主張したらそっちのが勝つってもんさ
それが理解できないのは院とそのとりまきぐらい
義村はすぐ義時のとこにいって忠義をみせるしか方法はなかった
もたもたしてたら、頼家んときの仁田と同じ目にあう
北条側にどんな情報がいってるのかわからないわけで、すぐ対処しなかったら
自分のとこに幕府の軍がおしよせてきかねない
だから仁田でなくて和田の方法を選んだ
和田の乱だけじゃないよ。
実朝暗殺があるじゃないか。
政子や大江や三善が危惧してたように坂東に引きこもっていたら御家人が動揺してた可能性が低くない。
朝廷に真正面から立ち向かって勝った例がないからギリギリだったと思うよ。
義村はいちかばちかの時にヤケクソの決断を絶対にしないよね。
この辺が他の御家人と異質だし後世にもこういう人材はあまり多くない。
881 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 16:41:08.08
九条頼経、三浦氏、名越流の連携が完璧だったら得宗家を
権力の座から放逐することは不可能じゃなかった気がするんだけど
というか頼経って仮にも鎌倉殿なんだから泰時を罷免して
三浦泰村ないし名越朝時を勝手に執権に任命とかできなかったのか
882 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 16:49:09.27
そのためには三浦氏が得宗家に対して反乱起こさなきゃ厳しいでしょ
つか北条家からして仏教の勢力がこのころから強くなってる気がする
のは気のせいか?
和田義盛も公暁も三浦胤義も三浦義村を最もあてにしていたのに、
義村は身内を見捨て、北条義時の犬に徹しきったね。
でもなんで打倒北条の大将格になってくれるとあてにされるんだろうか?
第三者としてみると義時と義村はうまくいってるようには見えなかったのだろうか?
見えなかったんだろうな。
義村は義時に対抗する存在とみられるなにかがあったんだろう。
実際実朝の変と承久の乱では義時と義村が一貫して一致していたとはとても思えん。
名人同士の対局みたいに本人同士しかわかり得ない読み合いがあったんじゃないの?
885 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 20:54:37.74
実朝が存命中に後継問題が出てきた段階で、三浦が公暁を押すという手はなかったのか
886 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 21:07:41.31
三浦が北条氏(得宗家)に対して蜂起する前提条件として、「御家人たちの
間に反北条の感情が潜在的にあり、三浦蜂起のような大きなきっかけがあれば、
一気に爆発する空気がある」ことが必要だと思う。
鎌倉初期の北条氏って、大部分の御家人からそれほど反感を買っていたのだろうか?
案外人望があって、大部分の御家人は消極的にせよ「北条でまあよい」という
雰囲気だったのでは? だから、三浦義村は冒険をしなかった。
そうだろうな。
反北條の機運が高かったら元弘みたいになる。
義村はその辺の空気感の判断が的確だったのだろう。
ただ、和田合戦の場合は相当な御家人が和田側についた。
あれはかなりヤバかったよな。
ただ、あの時は義時と義村とで和田を潰す点で完全に利害一致してたからな。
>>881 それができるぐらいなら、後に将軍職を譲位させられたりしなかったろうよ
帝が誰になるかすら決められる北条家が将軍家より下になるはずない
藤原摂関家がなんで鎌倉殿やん、という気持ちは関東武士にはあるだろうしな
北条の支持がなかったら都に送り返されるという
>>883 義村は弟から愚か者よばわりされてるけどさ
自分の目からみても、そんな策謀家ではなくて、わりと単純な感じするんだな
親友の結城朝光とわりと似た感じの
難しいことはやらなくて、義時を基本支持することで一貫してる
義時死後も同じで、特に三浦安泰のためにあれこれ動いてる様子もない
公暁や禅暁を関わりあるが、結局二人とも北条に殺されてそのまま
案外、素朴な関東武士だったんじゃないか
まあ、北条が特異なんだが
次に特異なのが安達かな
三浦義村:同族の和田氏、若君の善哉、弟の胤義
まさに身をきって一族の繁栄をはかった感じ
北条義時:身をきったのは、比企の奥さんと実父ぐらい
義時は義村にくらべて犠牲を出してないよね
京都守護だって、北条がにらまれてるときは泰時も時房もおくらないで
義兄やらをおくって対処してる
結果、義兄はあっさり殺されてしまった
北条が都で安泰になったら、息子と弟を派遣する
冷徹なやり方するな、と思ったよ
891 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 07:01:17.43
平賀朝雅の後の京都守護・中原季時って義時の娘婿だね。後任の
伊賀光季と大江親広も義時の縁者だし、ここは息のかかった者で
押さえておきたいポジションだったんだろうな。
>>891 そりゃ当然じゃん
後鳥羽上皇だって、挙兵の準備を感づかれないよう、喉元のような要所にいる地頭を自分の息のかかった人間に交替させるよう幕府に要請して断られてるしな
893 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 18:03:30.00
北条氏の政治的なセンスって
東国武士というよりも
京都の狡賢い公家そのものだけどな。
地方武士団としては小規模勢力だったけど
京都の政界を熟知していた立ち回りのうまい貴族そのもの。
894 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 19:06:23.20
坂東武者ってみんな脳筋って感じだけど、その中で北条の政治的嗅覚は異質
河内源氏も脳筋ばっかりの中で冷徹な政治家だった頼朝は例外的存在
頼朝と北条って脳筋ぞろいの中で例外的に政治家だって共通点があるな
頼朝が時政を京都守護にして守護・地頭設置を朝廷に呑ませる交渉役に
したのは適任であったな
895 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 21:29:51.29
足利?
頼朝は京育ちだし、北条は明らかに京の公家と関係が深いからね。
時政の後妻関係もそうだし、時政の娘も公家に大勢嫁いでいる。
伊豆の国府周辺から駿河にかけてが時政の元々の地盤だから普通の坂東武者とは政治感覚も違うだろうな。
伊豆の国府周辺なんて土地からの上がりは大したもんは期待できんから、交通の要衝と在庁官人って立場を利用した商売の上がりが相当あったと思う。
そしてそれらの利益に基づいて京の公家と密接に繋がってたんだろうな。
897 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 22:11:23.88
鎌倉時代も熊谷氏は直方流主張していたの?
京都で大番役を務めるなどして、院御所ないし公家との、一定程度のパイプをもつ、ちょっとばかりの人脈をもつ地方武士なんて、
平安時代後半期にも数多くいるだろうに。
その意味で、北条も突出してなどいない、ありふれた地方武士だろ
足利も、(鎌倉幕府成立前後の時代には)似たようなもん
少しとはいえ異質なのは頼朝だけだろ。
人脈が京都限定だったから、挙兵当初には直臣が全くいない。
頼朝を神輿扱いするような在庁系の武士たち(北条も含む)に、むしろ翻弄されてたんじゃないの?
899 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 00:16:09.49
頼朝こそが異質な存在だっただろうな。
晩年になって、娘を入内させようと熱心に運動を始めたとき、御家人たちは
かなり冷めた気持ちだったのではと思う。
頼朝が急死した後、北条氏を含む13人の合議制を要求して、頼家から
実権を取り上げたのも、頼家だけではなく、むしろ頼朝の体制に対する
反発があったからではないか?
関東でも、武蔵の奥の方とかいまの北関東あたりと
伊豆やら駿河やらは違うんじゃないかな
伊豆や駿河は関東じゃないけどさw
北条は伊豆で都との関係もあるからそっち方面の脳みそももってる
でもやっぱ関東武士だと思うのは、あのリアリズムだね
承久の乱やら御成敗式目なんかは関東のリアリストでないとできなかったろうよ
その部分が御家人たちに支持されて、将軍いなくても執権殿が天下の後見役
みたいなポジになったんだろう
実朝が鎌倉離れて宋にいく、とかいいだしてまかり通るぐらいだからな
>>899 あれ、梶原も比企もはいってんだよな
梶原は御家人おさえて鎌倉殿独裁体制の支持者かと思うんだが
比企は外戚だから頼家独裁支持者でいいはず
ところが、頼家をはずされた宿老体制つくるのに賛同している
このあたりが梶原や比企は主に忠義はつくすが、鎌倉体制確立には無頓着な
東国武士で
北条はある程度のプランをもってる政治脳武士という違いを感じさせるんだな
北条の狡猾さがもっとも出てるのが景時弾劾だよな。
弾劾状に北条が名を連ねてないのが凄いわ。
景時放逐でもっとも利益を得たのが誰か、
そして景時を討ち取ったのが北条傘下の連中である点などから主犯は明確に北条なのにな。
このあたりが他の御家人とは一味もふた味も違う点だよ。
>>886 北条家は他の諸侯と協調しつつ
ある程度、賛同を得た上で行動している
逆に孤立して失敗したのが梶原景時や比企能員などの将軍派
梶原は忠誠心に厚いものの、汚れ役を請け負うことが多く
疎まれたからね
比企はせめて景時とは協調しとくべきだったな。
頼家と一幡を握ってたんで過信したのかな。
冷静に考えたら、武蔵で畠山、頼家の後継で善哉を擁する三浦が、
そして頼家との悶着で安達が確実に反目だったんだから実に危険な立場だったんだよな。
905 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 03:24:59.02
埼玉やグンマーと静岡県
うん、違うなw
静岡県と神奈川県
まあ、いいんじゃないか
906 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 07:50:19.20
>>900 東山道
都ー近江ー美濃ー信濃ー上野ー武蔵ー下野
東海道
都ー近江ー伊勢ー尾張ー三河ー遠江ー駿河ー伊豆ー相模ー安房ー上総ー下総ー常陸
907 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 08:51:50.99
武蔵ははいらない
そのまま奥州へ抜ける
そして、蝦夷沙汰職・蝦夷代官安藤氏の君臨する北州(北海道・樺太)へ
一足先に、日持上人が樺太でお待ちです
909 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 09:11:03.68
本は売れてますか〜?
910 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 11:14:01.61
北条は三島からほーんとすぐだからな
モノや情報は入ってたろう
あの近さはびっくりだ平野だし
911 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 11:22:50.33
海外の情報がはいるのは沿岸部
都市ができるのも沿岸部
912 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 11:42:27.02
近世日本文化が南方方面の影響が色濃くなおかつ遊郭文化の痕跡が強いということは
なんらかの繋がりがあるってことだ
913 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 12:21:53.25
>>907 新田駅からそのまま南下して武蔵国府へ至る
914 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 12:29:21.04
古代武蔵はな〜んにもないとこ
915 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 12:35:54.31
ほとんど人が住んでなかったんだろ
開発なんかかなり後世になってからだぜ
916 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 12:40:07.71
調べてみな
縄文だの弥生だの遺跡がでるわけがないからさ
平野部に遺跡があるわけがないのさ
917 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 13:42:52.87
なるほろ
今の感覚だと上野下野って北で遠いという感じだが
東山道的にはそうでもないんだな
むしろ武蔵のが不便で田舎度強いというか
だから武蔵の武士は脳筋でやられちゃうのか
さいたまのダサさもわかるw
918 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 14:18:01.25
平野部の利点は水田耕作
水田が発達しなければ人間が住めるわけがないもん
対し山間部は畑作中心だったからな
東山道で上野経由と東海道(海路)から河川遡上(舟運)の両方の経路が併存したとは言え、
武蔵の場合は舟運の方が少し近かったんじゃなかったか。
畑作に関しては、平野も山間も大きな差は出ないだろ
平野より山間の方が畑作に向いてるというわけではない
>>896 足利も娘を京の貴族に嫁がせたり、北条家から妻や側室を迎えたりして
色んな所と縁故作ってなかったっけ
921 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 21:35:43.48
関東で言えば、利根川水系、鬼怒川水系、荒川水系の氾濫原の耕地開発は徳川氏が関東入部後に低湿地の排水を行なうまでなかった
それまでは葦や蘆が生い茂る湿地
耕地は丘陵部の畠地と谷戸の田地が主流
922 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 21:57:25.30
919
実際に湿地帯でやってみな
それと武蔵野は赤土だよな
泰時が武蔵野の開墾に率先してどーの
と吾妻鏡に書かれてたな
武蔵国は北条が独占したから重く扱われてるが実際は
どの程度のポジだったんで?
武蔵は全国に13しかない大国の1つ。
坂東だと上総、下総、常陸、武蔵が大国。
秩父、比企、横山党という大武士団が居たことからもわかるように重要な国であることは間違いないでしょ。
特に幕府を鎌倉に置いた場合は後背地として非常に重要。
925 :
日本@名無史さん:2014/05/15(木) 07:46:33.31
大国のうち最上級の上野、上総、常陸が親王任国
これからもわかるように、古代豪族・国造の力の大きさに影響されるのであって、令制国制度が制定された当時に、武士団があった訳ではない
926 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 18:37:37.18
鎌倉時代以前、伊豆国府のあった三島を支配してたのはどこ?
伊豆介狩野氏?南家の伊東氏?近所の北条氏?
927 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 22:06:58.57
■有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
平安時代〜鎌倉時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は愛知県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
■家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖に源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼
万年パシリのカントン猿w
928 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 22:39:37.06
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義時がなぜ後継をはっきりさせなかったのか
それだけはどーもわからん
932 :
日本@名無史さん:2014/05/21(水) 05:45:54.24
1 嫡男の朝時は廃嫡
2 長男の泰時は母親の身分が低かったか族滅の可能性が高い。何故なら泰時の周囲に母親の実家系統の人間らしき存在が見当たらないから。
3 朝時の同腹は、族滅した比企の系統なわけだから嫡男にしづらい。
4 現正妻の子の政村はまだ若年。
これじゃ義時と言えども決めにくい。
こう見ると実は義時は政村を嫡男に決めてた可能性すら感じる。
急死ってことはまだまだ生きるつもりだったわけだから。
親父の時政は70過ぎても元気だったしね。
そのもろもろを政子がひっくり返したか、そもそも政子が政村を嫡男にするのに同意してなかったかとかじゃないか。
じゃあ伊賀氏の変の真相は如何に?
実体のある計画を政子がファインプレイーで防いだのか
政子の焦りからくる冤罪なのか
義時が政村を嫡男に考えてた気配ってゼロじゃね
なんか根拠あるか?
泰時は、烏帽子親が頼朝、許嫁が三浦、離婚したけど娘婿が足利
従五位上の武蔵守、侍所別当職をつとめ、承久の乱では東海道軍の大将で六波羅探題
他方で政村は、烏帽子親が三浦で、諱に時の字なしの無位無冠
なんか比較にならんのだが
なんで政村は政村なんだろう。
三浦義村が烏帽子親っていったって、時村か村時でいいじゃん。
936 :
日本@名無史さん:2014/05/22(木) 00:25:21.75
意外と北条政子の政だったりしてな
937 :
日本@名無史さん:2014/05/22(木) 00:36:47.09
時がついていないから格下ってわけでもない
時宗実弟の宗政は異母兄時輔より上の扱いだった
義時はめいっぱい泰時を保護してるよな
普通なら庶子に追いやられそうな立場だが、元服から何から気くばってるし
比企の嫁もらって息子できたのに、泰時には三浦をバックアップにつける周到さ
それとも、比企にはうちのことに口出させんから、みたいな意識でもあったか
939 :
日本@名無史さん:2014/05/22(木) 03:53:14.56
口出しするも何もすでに比企は滅んでる
940 :
イタクァを作らないか?:2014/05/25(日) 07:59:50.15
このスレの感想を歌にしてどうぞ
義時と泰時は北条家庶流の江馬家の人間という立場。
北条家嫡流は、時政、政範、朝時へと移行する予定だった。
だからこそ、義時は泰時を可愛がった。
が、結果的には江馬家のものが北条家の嫡流に昇格した。
>>942 というか、そもそも時政自身も嫡流じゃないよな
後の得宗家は義時を初代扱いしてるしな。
得宗家って名前自体が義時家って意味だし。
後の歴史だと
細川京兆家も宗家ではないんじゃないか
和氏-清氏が宗家になるのか
>>945 そうだよ。
ちなみに、畠山家も宗家は二本松家だからな、本来は。
管領になったほうの家は庶流。
948 :
日本@名無史さん:2014/06/05(木) 06:54:24.93
松平家も…
織田家も、毛利家も、島津家もw
分家筋が宗家になりかわる例の方が普通に感じてしまうねw
950 :
日本@名無史さん:2014/06/05(木) 10:30:37.15
実は足利氏すらそうらしいな
951 :
日本@名無史さん:2014/06/05(木) 10:31:12.70
越前松平もそうだな
織田信長の家は、守護代になった織田家の中でも
庶流も庶流なんだよな。
対外的にはどうってことないが、織田家内部では微妙な家ぽい。
まず、守護代織田家の初代にあたる織田常松の男系子孫ではない。
その弟の織田常竹の男系子孫。
しかも、その中でも庶流。
>>951 それ、ずっと庶流のままじゃん。一度も本家になったことのない家を混ぜるなよ
>>949 本家分家の別が確立されたあとから本家に成り代わった例と、
嫡子になるはずだった人物に成り代わってその兄弟が本家を継いだ例は少し違うよな
時政や元就、長尾景虎・上杉景勝あたりが後者かな
織田信長や島津は前者だな、あと熊本の細川氏も。
足利義澄の場合は少し違う気もする。
>>952 織田常松の男系子孫ではないのは事実だろうが、それ以外の点、系譜関係は不明だろ
ひょっとしたら織田常竹の男系子孫でもないかもしれん。
それに、常松と常竹の関係だって明確にはなってないだろ。
954 :
日本@名無史さん:2014/06/05(木) 18:27:41.25
>>953 オマエ越前松平をしらないのか?
秀康 - 忠直→改易・高田で再興・嫡家 - 改易 - 光長→改易・津山で再興
忠昌→福井へ転封し宗家格に- 光通→改易・再興
955 :
日本@名無史さん:2014/06/05(木) 23:55:01.15
>>952 斯波武衛家の守護代、織田よりも織田信長を輩出した織田の方が日本史上の名門じゃないか。
今となっては守護代家の子孫が信長と同族を名乗るレベル。
時政は嫡流じゃねーの
ただ、オヤジが早世したから、叔父の方に嫡流が一時いっただけでさ
時定は時政に使えてる感ばりばりで、とても逆にはみえない
時定の子孫って、どうなったの?
>>958 いや、織田信長の実家は、
織田常松の弟の織田常竹の男系子孫の可能性が高い。
959 :
日本@名無史さん:2014/06/06(金) 20:05:09.83
まあ、北条は伊豆の土豪で、本当は平氏でもなんでもない自称平氏の田舎武士だから、
嫡流かどうかなんて意味ないけどね。
織田家の場合、織田常松が最初の守護代だったが、
主君の斯波家に従って、京都にいることが多かった。
そこで、弟だと思われる織田常竹が、守護代の代官として尾張にいた。
つまり、守護代々なw
このことが、織田家の分裂をもたらした。
前者の本来の嫡流は岩倉織田家、弟のほうが清州織田家。
織田信長は清州織田家の庶流の楽田織田家だと思われる。
しかしながら、本来の岩倉織田家は早々と衰退し、
分家の清州織田家から養子をとらないといけなくなった。
このことが織田家の系譜を混乱させている。
つまり、織田家内部でも下剋上が二回起きたわけだな。
よって、織田信長のいた時代の宗家である岩倉織田家は既に
清州織田家からの養子が当主をしていた。
岩倉織田家、清州織田家の両方共が、弟の織田常竹の男系子孫になってしまていた。
961 :
日本@名無史さん:2014/06/06(金) 20:52:32.03
伊勢氏(初代・藤原俊継→伊勢俊継(天照大神のお告で姓を伊勢に変える))
藤原俊経→伊勢俊継→盛継→貞継(政所執事、烏帽子親は足利貞氏、足利義満は貞継の屋敷で生まれた)
■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・藤原俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺(三河国額田郡)僧
・滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・滝山寺に三河国古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■藤原俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
■円辰(****〜****):初代伊勢氏・藤原俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋
・滝山寺(三河国額田郡)僧
■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・藤原俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・滝山寺(三河国額田郡)僧
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・三河国吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去
>>960 最初の2行はともかく、途中の経過がデタラメだぞ
応仁の乱の時に守護代と又代がどう行動したかを見たら、
時間の経過じゃなくて乱への対処のしかtらが原因だったと分かるはずだ
それと、信定信秀らを含む三奉行家と両守護代との血縁関係も詳細不明、
誰がどこの分家かは、信憑性の不明な曖昧史料しかないだろ
土豪なんてどこの誰だよw てなぐらいに思い入れ強すぎる気がするがw
そういう存在があの時代にいて、何らかの形で平氏のポジションを確保した
というのも考えるのは楽しいからいいが
三島のすぐ側の所領で周囲からクレームこない程度にやりとげるってのは
相当な難度だろうな
964 :
日本@名無史さん:2014/06/06(金) 22:14:07.68
>>961 伊勢氏って伊勢平氏の庶流じゃなかったっけ
時政に至る血筋の流れが不明確なのは、義時以降の得宗家が時政を排斥する意図があったからかな。
別に隠すつもりはなかったろうけど、時政に関してはサラッと書いたんだろうな。
結果的に後世からみたらよくわからなくなってしまったと。
966 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 00:37:48.10
直方5代目てのははっきりしてんだろ
あの時代、孫が弟になったり弟が息子になったり意味不明な世界なんだから
間があれこれあっても別に不思議ではない
北条時政は将軍暗殺に加わっていたから北条家からしたらタブーなんだよ。
それで、実際に息子や娘の義時や政子によって
失脚させられた恥ずべき親父なわけ。
969 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 10:18:43.18
>>967 あくまで自称5代目。
本当の子孫ではない。
>>969 本当の子孫だろう。
北条時政は、ただの北条四郎だったけど
叔父や従兄弟は官位を受けていたし。
牧氏事件で北条時政は超えてはいけない一線を越えてしまった
相当な野心家ではあるが
なんで嫁さんに荷担して娘とその婿さんの方に肩入れしたんだろうな
政範が生きてたなら義時との対立はわかるが、死んだわけだし
よっぽど折り合いが悪かったんかね
973 :
日本@名無史さん:2014/06/07(土) 22:47:38.21
もっとも新しい妻が正妻として振る舞うから
974 :
日本@名無史さん:2014/06/08(日) 02:18:40.12
北条は伊豆の土豪にしては周囲に同族が全くいないよな。
後にあれだけの家になったんだから、執権になる前の初期の別れと仮冒する家があってもおかしくないのにそれすらない。
975 :
日本@名無史さん:2014/06/08(日) 02:43:23.41
時政のきょうだいがいないからな
父母とも出てこないから早死にの系譜か
>>972 後妻と先妻の子が対立する構図は当時のオーソドックスなパターンだよ。
そして親父は若い後妻のいいなりってのも。
今でもそうだろ。
権力者の家だからその構図がたちまち政争にまで発展してしまうんだよ。
義時と阿波局は伊東入道の娘だから一体。
そしておそらく終始義時や阿波局と一体の政子も母親は伊東入道の娘だったんだろうな。
977 :
日本@名無史さん:2014/06/08(日) 16:11:38.83
>>975 鎌倉中期まではそれなりだが得宗家当主も鎌倉後期には早世している例が多い
978 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 00:31:18.44
政子は母親が違うんでなかったっけ
政子が母親の供養する時に義時の姿がないとかで
母親が違うにしちゃ政子、義時、阿波局は行動が一体なんだよな。
980 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 00:53:05.82
そうでもない
政子は公暁に肩入れしてるが義時の意向とは違うだろう
>>980 そりゃ生き残った唯一の男孫だからせめてもの身びいきだろ。
義時にしてみりゃ甥の子に過ぎないから温度差があるのは当然だよ。
政子は家族のほとんどを失ってたわけだし。
肩入れといっても後継ぎのいない実朝の養子にするようなことすらしてないじゃないか。
唯一の男孫じゃない
禅暁もいる
義時は実朝に子がいない鎌倉に頼家の男子を入れるのは反対だったろう
公卿は実朝のゆうしだったし
政子と対立したろう
>>974 伊豆に入植したのが、そんなに古くないから。
坂東八平氏は、平貞盛の叔父の平良文の代から
広い関東平野に子孫が散らばったので、同族が非常に多い。
一方、平貞盛の末裔たちは、畿内、東海、関東などに
チリチリバラバラなので、互いに一体感がない。
そのなかで北条氏は、平貞盛の曽孫の平直方の子供の代に
伊豆に本拠を構えた一族なので、伊豆の豪族としては歴史が新しいので
そりゃ、伊豆周辺に同族が少なくて当たり前。
985 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 13:58:10.34
もし頼家が反抗せずに大人しく時政たちのロボットに納まっていた場合、
実朝の処遇はいったいどうなったんだろうか
やっぱ御家騒動を避けるために出家させられたんだろうか
986 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 14:06:50.81
いやだからあれは頼家が北条氏じゃなくて比企氏と結びつこうと
したから北条氏自体の存亡って話だろ
987 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 15:40:56.79
そうじゃなくて頼家が比企にくっつかずにあくまでも北条を尊重し続けていたらってIFなんだけど
988 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 16:22:02.44
あ〜そりゃ暗殺とか起こらないだろね
ただ女房になった実家の力って大きいからねえ
北条氏が独占的な力を持ったのは時頼のときで
やっとだし波乱はあるでしょ
だから結婚先はみんな気を使ってるもの
比企わり納豆
北条氏からしたら、あくまでも、鎌倉源氏における外戚の地位を独占したかったんだろう?
つまり、皇室における藤原氏のような地位。
だから、鎌倉源氏を滅ぼすつもりなんてなかった。
自身の家系の拠り所が、源義家の外祖父である平直方にあるわけだから。
だから、源頼朝も北条氏も、その故事をすごく意識している。
源頼朝は、鎌倉に最初に居を構えた源頼義を尊敬していたし、
その外戚になっていた平直方を北条氏は崇拝していた。
だからこそ、頼朝と政子は、自分たちの長男を頼家と名づけた。
これは、頼義と直方の娘の間の長男が、義家だったことを意識している。
ただし、たとえそうだとしても、その頼家が比企氏と組むとなると
話が別だということ。
だから、北条氏は頼家を消そうとしたわけ。
また、北条氏からしたら、何も源頼朝の子孫に拘っていたのではなく
源頼義の子孫ならば、別に他の源家の家系でも構わなかった。
だからこそ、北条時政は平賀朝雅を担ごうとしたし
北条義時は、足利義氏を担いでも構わないと思っていた。
結局、足利氏は警戒して乗らなかったけど、その後、足利氏と北条氏は
政略結婚を重ねることによって、強力な門閥を築くことになる。
北条政子も、新田義重に対して、源家の重鎮の義重公って態度だし。
>>990 比企との争いに関しては、外戚の地位を独占したかったからと言うよりは、自衛って側面が強いだろ
あのまま比企を放置してたら滅ぶのは北条の側だったとしか思えん。
>>991 普通の政治力学から行ったら滅ぶのは前の外戚だからな。
北条の必死さが比企の乱を発生させたといえる。
窮地に陥った敵ほど怖い存在はない。
比企はちょっと甘かったね。
>>991 比企との戦いは、頼家との戦いだったのでは。
頼家が比企を頼って北条を除こうとしたから、北条が先手を打ったわけ。
そして、一幡、北条朝時を含む頼家の妻子、義時の妻子ごと、比企氏の三族を葬った。
武蔵で比企のライバルである畠山が北条につくのはわかるが、
三浦を仲間に引き入れたのが大きいよね。
善哉を擁する義村を抱き込んだ形だな。同床異夢をうまく利用したわけで、義時の手腕の匂いがする。
それと比企からは安達を切り崩してと。
いや、比企との戦いの北條の手練手管は凄まじいよ。
頼家という現役将軍を敵にしてんだからな。
政子の力でもあるな。
大江や三善等という官僚は全部政子配下になっていたし。
比企一族は退き際を見誤った。
比企一族は引きこもっているべきだった
997 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 22:21:43.15
畠山は北条から嫁を迎えてるな
北条氏の躍進は、平貞盛の嫡流の復活劇ともいえる。