それでも邪馬台国は九州にあった19

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1日本@名無史さん
かつて宗教裁判に敗れたガリレオガリレイは言った…

「それでも地球は回っている」

学界の権威がこぞって畿内説を支持しようとも、「それでも」真実は九州にあると考える熱い人々のためのスレ第19弾!

前スレ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1344468690/
2日本@名無史さん:2012/09/26(水) 07:48:40.53
弥生時代末期の筑紫、博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)の
邪馬台国に国を譲る。これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、「和」国は分裂。卑弥呼はその最中に急死する。

【分裂した「和」国】
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐→安芸→吉備→「大和」
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向↑ (神武東征)
....................隅国(鹿児島)

卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隅国(隼人)との三つ巴で
肥後狗奴国 (後の熊襲)を滅ぼし、「和」国を再統一する。神武は男系祖先の本拠地投馬国(日向)から船出し、
首都を筑紫・博多から「大和」へ東遷。「大王(おおきみ)」に即位し、「大和」朝廷を樹立した。

※記紀が投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(投馬国王と台与の末裔である)大王家の系図操作。漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は建国の功績を消され出雲に祀られる。

-大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代

【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島へ軍事介入で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂投馬(日向)系大王

-継体・安閑・宣化=日向系大王。継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王。筑紫系大臣、蘇我氏による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」へ
-天智・弘文=日向系大王。「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」。両系和解の記紀編纂(日向系イリ三輪王朝の活躍>筑紫系ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇。筑紫系天皇の平城京から本拠地・近江(琵琶湖)近くの平安京に遷都
3日本@名無史さん:2012/09/26(水) 13:06:35.82
とにかく宗像神社の詳細頼む。
天皇の胸方、宗方、旨方。
アマテラスオオミカミが卑弥呼だって言うんでしょ。もうここだろどう考えたって。多分祭事場、政治の中枢。
4日本@名無史さん:2012/09/26(水) 13:10:04.69
神武が筑紫の次に立ち寄った宇佐八幡宮は台与の墓で決まり!だろ。
5日本@名無史さん:2012/09/26(水) 13:23:49.70
>>4
じゃあ、和気清麻呂のときの宇佐八幡のご神託ってとよ(いよ?)かあ。わあ!!
6日本@名無史さん:2012/09/26(水) 13:30:03.11
神武東征ルートを観察すれば、天皇家が天孫降臨の日向と宇佐の両方にルーツを持っていることが判る。
これは後世に残したメッセージではないだろうか?
しかしそれは邪馬台国の卑弥呼の宮殿が宇佐八幡宮ということを意味しない。
墓は生前いた宮殿とは離れたところに作る可能性があるからだ。
7日本@名無史さん:2012/09/26(水) 13:36:27.04
宇佐八幡はちょっと田舎にある気がする。
ちょっとしつこいが宗方のほうが地理的にも大事でしょう。
8日本@名無史さん:2012/09/26(水) 16:26:30.78
香椎のご近所にある「筑紫國 菟狭」のことか
9日本@名無史さん:2012/09/26(水) 16:30:20.93
甕棺ごっこしていた頃には「豐」と呼ばれる「縣」サイズのコロニーが那珂川沿いとかにあったのでわ
10日本@名無史さん:2012/09/26(水) 17:15:49.94
卑弥呼の冢の埋葬設備(有棺無槨)はどうなっていたんだろう?
11日本@名無史さん:2012/09/26(水) 17:37:04.67
卑彌呼はんは

惜しげも無い人選で男妾と爺婆チョイスしてからに

死にぎわに道連れでりすとらを実現するエロい熊襲土人の女酋長さま
12日本@名無史さん:2012/09/26(水) 17:42:54.07
朝鮮野郎はいい加減来ないで欲しい
13卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/26(水) 23:00:39.77
ここは誰も来ないなw
14卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/26(水) 23:03:49.92

邪馬台とは 俺のことかと 大和云ひ
15サガミハラハラ:2012/09/26(水) 23:15:14.08
邪馬台国は九州で既に発見されています。
佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡です。
16朝鮮は卑弥呼にいた:2012/09/26(水) 23:42:32.25
寝ては夢 寝言で卑弥呼 妻激怒
17日本@名無史さん:2012/09/27(木) 00:09:16.47
ちょおせんくんひまそおねねたぎれかな
18日本@名無史さん:2012/09/27(木) 00:31:40.97
19卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/27(木) 09:04:07.13
九州説 地名なんぞは 気にかけず
九州説 なにがなんでも 南へ行き

魏使一行 そろりそろりと 道を行き
佐賀からは 船頭ゆっくり 舟を漕ぎ

字地名 必死に探す 九州説
九州に 邪馬台国が 五ツ六ツ

福岡だ 久留米だ八女だ 熊本だ いやいや宇佐だ 宮崎だ
世の中に 絶へて大和のなかりせば スレの心はのどけからまし
20日本@名無史さん:2012/09/27(木) 09:04:16.75
畿内説もこれらの事実は認めるわけだろ?
-「漢倭奴国王」の金印が志賀島から出土したこと
-弥生時代の鉄は北九州が、古墳時代の鉄は大和盆地が中心に出土すること
つまり倭国の中心政権が北部九州から大和に移動したことに関しては、畿内説も同意しているってことだよね。

だとすると畿内説と九州説って、結局、東遷の次期の違いでしかないんでないの?つまり、

畿内説(卑弥呼以前)vs九州説(卑弥呼死後)
21卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/27(木) 09:06:05.22
九州説 困ったときは 考古学
22日本@名無史さん:2012/09/27(木) 09:10:15.17
>>20
慧眼!

このスレ限定で、畿内説を【(卑弥呼)以前東遷説】、九州説を【(卑弥呼)死後東遷説】と言い換えることにしよう。
そのほうが解りやすいyao!
23日本@名無史さん:2012/09/27(木) 09:17:19.75
>>22
北部九州から大和への東遷時期

1世紀 漢委奴国王
2世紀 帥升(すいしょう)←畿内説
3世紀 卑弥呼死後    ←九州説
 
24日本@名無史さん:2012/09/27(木) 09:24:38.27
卑弥呼を弥生時代の女王と見る(九州説)か、古墳時代の女王と見る(畿内説)か、の論争であって、
いずれにしろ、朝鮮俳句野郎の出番は永遠にないってことだNe!
25日本@名無史さん:2012/09/27(木) 10:07:08.12
だから、畿内説は卑弥呼と天照大神を同一視することに拒否反応を示す。
卑弥呼と天照大神が同一人物ならば、邪馬台国は九州にあり、卑弥呼の後に
神武東征があるわけだから。

しかし、卑弥呼(+台与)と天照大神の類似点は非常に多い。
26日本@名無史さん:2012/09/27(木) 10:41:29.26
>>23
北部九州から大和への東遷時期

1世紀 漢委奴国王後   ←畿内説
2世紀 帥升(すいしょう)←畿内説
3世紀 卑弥呼死後    ←九州説
5世紀 応神       ←九州説
6世紀 欽明       ←九州説
7世紀 白村江敗戦後   ←九州説
684年 天武       ←九州説
27日本@名無史さん:2012/09/27(木) 12:08:48.47
>>26
GJ&THX!

北部九州から大和への東遷時期による諸説一覧

1世紀 漢委奴国王   金印捏造説   
2世紀 帥升(すいしょう).___↑【畿内説】_________
3世紀 卑弥呼・台与死後    ↓【九州説】
5世紀 応神       騎馬民族征服王朝説(江上波夫)
6世紀 欽明       二王朝並立説(林屋辰三郎)   
7世紀 白村江敗戦後 九州王朝説(古田武彦)
684年 天武       「壬申の乱」九州説 
28日本@名無史さん:2012/09/27(木) 12:30:45.70
>>25
>卑弥呼(+台与)と天照大神の類似点は非常に多い。

卑弥呼+台与=天照大神、ということはない?
天の岩戸隠れが248年9月5日に北部九州で起きた日食を意味しているとしたら、
隠れる前が卑弥呼で、出てきた後が台与とか。
29卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/27(木) 12:32:34.59
九州説 嘘でもいいから 東遷した
九州説 あったことにする 東遷説

無いものを 有ると言い張る 九州説
30日本@名無史さん:2012/09/27(木) 12:37:18.94
>>29
朝鮮説に入れ替えれば桶
31日本@名無史さん:2012/09/27(木) 12:52:13.84
>>28
期待してるのに水を差すようだけど
日食があった可能性があるな
日食が起きたとは確定していない。地球の自転速度の低下による影響があるので
32日本@名無史さん:2012/09/27(木) 12:59:28.36
何の理由もなくある日突然東遷すると思ってるのだろうか?
33日本@名無史さん:2012/09/27(木) 13:07:43.45
>>28>>31
こんなん見つけますたので置いておきます
http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-1-4.htm
34日本@名無史さん:2012/09/27(木) 13:11:56.80
東遷するにはかなりの理由が必要。それが白村江の敗戦だ。
それ以前に東遷したと考えると、倭国王が男性だったとする隋書は理解できない。

白村江以降だとすれば、旧唐書が倭国と日本国を分けて記載していることも当然となる。
35日本@名無史さん:2012/09/27(木) 13:18:39.13
>>33
当時の自転速度はわかってないけど
基本、ソフトが考える自転速度によればってことだよ
伊勢神宮に当時の日食の記録がありましたってなら別だけどね
あったら大発見じゃね?
36日本@名無史さん:2012/09/27(木) 13:22:55.47
>>28
>卑弥呼+台与=天照大神、ということはない?

当然ありえるけど、日食についてはあまり考えたことはない。
卑弥呼がいなくなって、跡継ぎが定まらずに争っている状態を
真っ暗な世界という比喩的な表現にしたということも考えられるし。
37卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/27(木) 17:05:36.19
卑弥呼とは わちきのことかと 神功云ひ

卑弥呼とは わちきにあらずと 百襲云ひ
卑弥呼とは わちきにあらずと 天照云ひ
38卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/27(木) 17:22:33.62
日食説 本気で論じる 九州脳
天照説 本気で論じる 九州脳

愚かさも 無限大なり 九州脳
39日本@名無史さん:2012/09/27(木) 17:40:48.15
まあ、ずいぶんと被害妄想がひどいな。
九州説の人間は、朝鮮説はあまりきにしていないよ。

九州説スレで書き込むからうざったいだけで、
ほかで書く分には、触らないから、そっちで書いてくれ。
40日本@名無史さん:2012/09/27(木) 17:57:40.47
邪馬台国は、卑弥呼以前の歴史があるクニということだが、
卑弥呼の墓を従来の邪馬台国に作ったとも限らんし。
41日本@名無史さん:2012/09/27(木) 18:02:44.92
一般的に逝って

必要も無さげなのにやたらと威張って頭ごなしに恫喝かませたりする政治家は偽物

乃至は内に劣等感抱え込んでいて手前を優れものに見せかけて褒めてもらいたい俗物さん

まああれだわ だれとゆうことでは無いけどさ
42日本@名無史さん:2012/09/27(木) 18:08:18.29
かくのごときなまぬるい一般を使用してからに

古事記の本文に炙り出しをかけてあげると

ああらふしぎ

挙動不審なへんな神さまがおるのが浮き出てきたりするよ
43卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/27(木) 19:33:34.21
九州説 なにがなんでも 記紀否定

都合良く 東遷をする 邪馬台国
無いものを あったことにする 東遷説
 
44日本@名無史さん:2012/09/27(木) 19:44:02.84
>>43
おーまーえーはーあー○ーか。
言いたいことが有るなら、きっちり論証してみろ。論証ができなくてグレてん
のか。
45名無しさん@お腹いっぱい:2012/09/27(木) 19:44:11.01
日向灘であり、高天原=邪馬台国、卑弥呼=天照大神
天孫降臨神話は全て事実に裏付けられている。
46日本@名無史さん:2012/09/27(木) 20:06:50.16
朝鮮が壊れてる
47日本@名無史さん:2012/09/27(木) 20:18:27.59
ぐれてるw
48日本@名無史さん:2012/09/27(木) 20:40:31.42
長雨とそれに伴う唐子鍵の水没、琵琶湖の水位上昇。長雨を解決するために祈祷をしたのがアマテラス。
長雨が解消した時期と偶然に一致したために名声を得たのがアマテラス。
卑弥呼の時代もこの年代で、奇妙に一致している。

なぜ琵琶湖が出てくるんだと思った人も居ると思うが、多賀大社の主祭神はアマテラスの息子たち。

そして、「お伊勢参らばお多賀を参れ、お伊勢お多賀の子でござる」という伝承。

さらに倭人伝の21ヵ国も何故か、近江・美濃へと向かってる。
49日本@名無史さん:2012/09/27(木) 21:09:05.64
>>43
近畿地方にある時期、劇的な変化があったことは昔から言われている。
銅鐸は大型化・精緻化した後に地上から姿を消す。代わりに鏡が大量に
普及し、巨大古墳が突然出現する。

一方で、記紀に目を転じると、大和朝廷の成り立ちの一番最初の出来事として
神武東征が語られている。
まあ、邪馬台国東遷かあるいはそれに類似する出来事を想定するのが
もっとも合理的といえる。
50思金 久延毘古:2012/09/27(木) 22:49:19.57
158年 7月13日 皆既日食 日没直前(長夜(日本書紀))
琵琶湖 京都 大津 津
元伊勢(籠神社)、伊勢遺跡、伊勢神宮 のライン
(日食・月食・星食情報データベース、NASA 等)(ΔT= 8042.58 等)

天岩戸隠れの時の宮
天照(男)、瀬織津姫(妻)、イサワ宮 伊勢(伊雑宮 志摩)
ヒルコ(天照の姉)、思兼(夫)、ヤス川宮(野洲川宮)近江
(ホツマツタエ 7アヤ)

天安河=野洲川 説 
近江高天原説

滋賀県守山市 伊勢遺跡
弥生時代後期 二世紀初めから半ばが最盛期
東西750メートル、南北400メートル
大型建物が半径約100メートルの円周上に並んでいる


-------------------
158-166 ハタレの乱
51日本@名無史さん:2012/09/27(木) 22:55:20.03
日食の時間はせいぜい5,6分。
天照大神の場合は、天の岩戸に隠れて高天原も葦原中国も真っ暗になり、
天の岩戸から出てくると明るくなったというのだから、
暗くなっている時間はぜんぜん違うけどね。
52日本@名無史さん:2012/09/27(木) 22:57:16.51
自転速度ときたか
トンデモスレが加速してきたな
53思金 久延毘古:2012/09/27(木) 23:01:16.07
皆既日食 日没直前(長夜(日本書紀))

皆既日食の後、夜になる
54日本@名無史さん:2012/09/27(木) 23:08:11.96
ここのの構造は

知能の低いまぬけな書き手が

太陽神が男神だとゆう過去に関する常識を欠落させてからに

無駄に女神を造作しておるのね
55卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/27(木) 23:14:37.48
自分だけ エライつもりの 馬鹿稗箕狐
56日本@名無史さん:2012/09/27(木) 23:26:08.00
日が刺すと雌が孕むという構図はそこいらじゅうにころがっていたりする

卑彌呼は彼女自体が太陽であるわけではないのね

そもそも太陽であれば鏡なんつう武器なんか不要だろ

卑彌呼のは日光に対して受身だけど鏡使用して跳ね返してあげるのがお仕事

卑彌呼が洞あなにお隠れあそばしても世の中真っ暗とかは無いよね
57日本@名無史さん:2012/09/27(木) 23:29:32.61
神話が史実の反映とか
絶対証明できないことをやってると
死ぬまでこのスレでおんなじことをつぶやいてなくちゃならんわな
58日本@名無史さん:2012/09/28(金) 00:12:40.73
>>57
天照大神は伊邪那岐命から高天原を治めるように命じられる。
その後、天岩戸に隠れるまでの筋を知っているのかい。
これが作り話の神話だとしたら、作った人は何が言いたいのやら。
59日本@名無史さん:2012/09/28(金) 00:25:30.56
天照は独自で決断とか命令とかできない神様であって

いつも保護者さんの了承の下に行動しているでしょ

ここのは主役がすりかえられてたり

ポジションが入れ替えされたりしているから不自然なことがたくさん起きるんだわ

記の本文読んでそれが読み取れないとか

疑問が発生して来ないようなひとのがまぬけ
60日本@名無史さん:2012/09/28(金) 00:32:33.85
君 ウザイから 早く消えてくれないかなあ  >>59
61卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/28(金) 09:07:41.62
日食で 卑弥呼を殺す 九州説
無遠慮に 格下げされる アマテラス

記紀よりも 古墳が好きな 九州説
記紀よりも 鏡が好きな 九州説
記紀よりも 銅鐸が好き 九州説
記紀なんぞ 知らぬ存ぜぬ 九州説

けふもまた 仲間割れする 九州説
62日本@名無史さん:2012/09/28(金) 11:16:35.02
>>49
九州勢力が東へ進出し、銅鐸勢力が敗れたということはそのとおりだろう。
しかし、直ちに東遷と考えるのはどうかな。九州からみれば、東は毛人ら
が住む未開の地だったはずだ。そんなところに特段の理由もなく都を移す
とは思えない。九州に都を置いたままで、吉備、あるいは近畿に更に東を
目指す拠点をつくったと考えるべきだろう。
それが記紀かが伝える神武東征だと思うよ。記紀はけして九州を捨ててき
たとは書いていない。三男坊が近畿へきたと書いているだけだ。長男やその
系統の主力は九州に残っているという趣旨にも読める。
63日本@名無史さん:2012/09/28(金) 11:31:54.07
天変地異で元の国が壊滅したとかの事情がなければ、
長年開発してくた国を捨てて、よそに移るはずはない。

神武東征は、元の国はそのままで、国の拡張や開拓だろうな。
64sss:2012/09/28(金) 11:57:49.74
>>62-63
拠点を移した例は、源頼朝の鎌倉幕府、徳川家康の江戸幕府などがある。
天皇が京都から東京に移った明治維新の例もある。
そんなに珍しいことでもないし、ありえないことでもない。

朝鮮半島を重視すると九州は便利な土地だが、日本全体を考えると
近畿地方の方が有利と言うのもある。
こういうダイナミックな動きは、晋の中国統一などの影響もあるのかもしれない。
ある程度の日本統一が完了することにより、4世紀終わりくらいからの朝鮮進出が
始まったと考えることができる。
65卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/28(金) 12:39:25.15
東遷を したことにする 九州説
東遷を したはずだがと 誰か云ひ
東遷を したのだらうと 誰か云ひ
東遷を 記紀を無視して 論じをり
東遷を 古墳と鏡で 論じをり

東遷を したのは俺だと 神武云ひ
66日本@名無史さん:2012/09/28(金) 12:57:12.02
乞食みたいな鉄器で武装した黴菌さんがちょびっと転移してからに

銅鐸圏のまんなかのもとのが銅鐸が希薄だった後進地のところに巣食って

ぽっかりと穴を開けちゃてドーナツ状になってしまっただけだろ
67日本@名無史さん:2012/09/28(金) 13:08:52.37
騙して殺したりしてからにドーナツ状で銅鐸圏に穴あけ

やたらウドな泥遊びでさほど技術とか必要のない大○□墓嗜好

低品質△の大量生産による卑彌呼ストーカー

何故か高品質な銅鏡とかも混ざって○□墓からどっさり出土
68卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/28(金) 17:25:58.23
銅鏡を 手土産にして 東遷し
東遷し 銅鐸壊す 乱暴者
東遷し 古墳を造る 九州説
69卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/28(金) 17:38:24.07
けふもまた 考えあぐむ 九州説
けふもまた 行先決まらぬ 九州説
けふもまた 空しく暮れる 九州説

九州説 出し尽くしても 草臥れず
70日本@名無史さん:2012/09/28(金) 17:59:56.26
>>64
ロシアも西欧近代化を目指していた時はサンクトペテルブルクに、革命政府はモスクワに遷都。
西ドイツも再統一後、ボンからベルリンに遷都。
遷都は古今東西、普遍的に行われている。

古代中国も【長安(現在の西安市)⇔洛陽】と遷都が繰り返され、
日本も古代から【筑紫→大和→飛鳥→奈良→京都→東京】と遷都してきた。
遷都は国家的な巨大公共工事だから、前方後円墳築造同様、失業対策も兼ねていただろう。

台与の死後、凶作など食糧事情の悪化で、非漢民族が中原に一斉に進入してきて司馬氏の西晋が建康(南京)に亡命し、
五胡十六国の戦乱となった国際情勢から、倭の神武もその影響から逃れるために、筑紫から大和に遷都したのだと思われ。
中国に大型船で攻めてこられても、中小の島々が密集している瀬戸内海なら、小回りの利く小型船でゲリラ戦を仕掛けることができ、
撃退のチャンスがある。

大阪平野に首都を置かなかったのは、西晋→東晋の政府亡命の例を参考に伊勢方面への亡命も考えて造った首都だと思われ、
当時の緊迫感と警戒感を表している。中国艦隊の戦闘力を瀬戸内海でできるだけ削ぎ落とした後で、最終決戦を大阪平野で
行うためで、奈良盆地なら首都は時間を稼げる。

応神朝から、中国情勢が安定したのを見計らって、大和朝廷は河内平野の難波に遷都できたのだろう。
71日本@名無史さん:2012/09/28(金) 18:05:13.62
低品質△の大量生産による卑彌呼ストーカー って

よほどのことに景初とかって年号に愛着があったりするのでしょうか

もすかしたら 追い出された男の王さまが祟っているのかもしれない
72日本@名無史さん:2012/09/28(金) 18:09:29.09
そしたらそのうちに

率善中郎將のはんこが毛人の里から発掘されたりするかもしれない
73日本@名無史さん:2012/09/28(金) 18:11:27.32
まちがって率善中郎將のはんこが毛人の里から発掘されたりしたら

おばかなひとたちが大喜びでしょうな
74日本@名無史さん:2012/09/28(金) 18:17:31.35
印惠命さんとかがあやしいよね
75日本@名無史さん:2012/09/28(金) 18:29:19.21
もすかすて印惠命さんがはんこ貰ろたおひとなら

記では【戊寅年十二月崩】とかって掻いてあるから

この年を258年の戊寅の年にひきあててあげると

追い出されてから寿命が10年ちょぼちょぼあるから

ひと仕事できちゃったりする時間とかあるよね

もっとも毛人の里のところまでとか到着できていたかどうかはしらんけどさ
76卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/28(金) 18:38:56.06
神武東遷 東晋の頃とは 無茶な論
毛人を 東北と思ふ パカ稗箕狐
77日本@名無史さん:2012/09/28(金) 18:50:15.11
朝鮮くんてちょおおばか

10代のひとのこと騙ってるのに

初代のひとがどうちゃらって

どんな涌いたのおみそしてるんかな
78日本@名無史さん:2012/09/28(金) 18:53:09.59
 ___
/ || ̄ ̄|| ∧_∧  ←朝鮮くん(ヒマ)
|.....||__|| (     )  今日はどの川柳貼ろうかな・・♪
| ̄ ̄\三⊂/ ̄ ̄ ̄/
|    | ( ./     /
79卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/28(金) 19:23:07.35
毛人を 日本と思ふ パカ稗箕狐
80日本@名無史さん:2012/09/28(金) 21:52:42.76
伊豆は配流地だし、鎌倉はちかいだろ
家康にしろ強制的に関東に移されたわけだし
九州から畿内に比べればめちゃ近いだろ
明治天皇にしろ、一番栄えてる江戸に行っただけだろ
確か正確には遷都はしてなかったような気が
81日本@名無史さん:2012/09/29(土) 02:21:37.25
>>31
卑弥呼の時代と現代じゃ自転速度は変わらないよ
地球の自転速度は地球と月との関係で遅くなってるが
1億年前はもっと速かったという話しだぜ
これからも自転速度は遅くなるが千年、二千年程度じゃ目に見えて変化することはない
82日本@名無史さん:2012/09/29(土) 07:30:17.09
現在でも、月は地球から1年で4p離れており、今後は皆既日食は自動的に金環日食になるらしい。
248年9月5日早朝の皆既日食時は、1764年経った本日2012年9月29日より、
(2012−248=)1764×4p=7m56p 月が近かった計算になり、
古代においては現在より皆既日食は頻繁に観測されたと思われ。
83卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/29(土) 09:21:26.43
けふもまた 書くことなゐが 何か書き

おもしろうて やがてかなしき 九州説
過去スレや 九州説の 夢の跡

秋風の そぞろ身に染む 九州説
84日本@名無史さん:2012/09/29(土) 10:04:29.45
九州勢力が東征し、近畿に根拠地を気づいたとすれば、必要となったときにいつでも
そこに遷都することができるわけだ。で、白村江の敗戦時に遷都したということだろう。
85日本@名無史さん:2012/09/29(土) 12:35:24.44
九州生まれの応神天皇にはどういう意味があるのか。
これまた、いろんな解釈ができるな。
86日本@名無史さん:2012/09/29(土) 12:39:37.51
>>84
ほぼ同意。
しかし、
九州王朝が遷都したのは684年。
又、東征は武力によるものとは限らない。
87卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/29(土) 12:49:13.87
けふもまた 東遷説で 喰ひつなぎ
けふもまた 東遷説で 場を保たせ
けふもまた 東遷説で 延命し

東遷説 九州説の お家芸
88日本@名無史さん:2012/09/29(土) 13:53:04.03
誰ということでは無いが、よだれ鼻汁垂流して毛を毛嫌いするのが禿とか無毛症のおかた
89日本@名無史さん:2012/09/29(土) 14:15:48.60
ああ、思い出した。
アマテラスオオミカミのご一柱アマテラス大ひるめムチは、
さつまの国枚聞神社の御祭神。ってことは卑弥呼の墓はここじゃねえかと思うんだが
90日本@名無史さん:2012/09/29(土) 14:17:39.89
もう九州説で決まりだな。古墳といい神社といい
91日本@名無史さん:2012/09/29(土) 14:42:50.08
へんなうそ読みマジ顔でご指定してくれてからにわらかしてくれるのが記
92日本@名無史さん:2012/09/29(土) 14:53:38.74
>>91
これ真光じゃねえww
田んぼ横領さんww
93卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/29(土) 16:44:05.00
九州説 苦し紛れに 断定し
終いには 決まったことにして 茶を濁し
94日本@名無史さん:2012/09/29(土) 17:06:51.77
末期的な感じだな 
95名無しさん@お腹いっぱい:2012/09/29(土) 17:36:05.87
前方後円墳と思われる、墓が近畿にあると推定出来るので、
邪馬台国は近畿であるとの説。
倭人伝の記述にある、<径百余歩>の墓の大きさ形が何故、
前方後円墳と断定出来るのか。納得出来る説明を
聞いたことがない。近畿説の根拠としてはあまりにラフ過ぎる。
96日本@名無史さん:2012/09/30(日) 04:39:53.56
><径百余歩>の墓の大きさ形が何故、前方後円墳と断定出来るのか。
径百余歩といえば百数十メートル、円墳などでそんな大きな墓はないから前方
後円墳以外にはないということ。
そして、前方後円墳とした場合、箸墓など280メートルもあり具合が悪いので
後円部のみの直径だと主張することとなる。
97日本@名無史さん:2012/09/30(日) 07:39:03.03
箸墓の全長は278m、後円部の径は156m 

一歩が75pとすると200歩余り 

ちょうど倍あるNe!
98日本@名無史さん:2012/09/30(日) 08:12:15.79
昔の一歩は左右の足を進めた距離、つまり今の二歩なんだよ。
99日本@名無史さん:2012/09/30(日) 08:49:31.40
「卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬(じゅんそう)する者、奴婢百余人」

この一文から、以下の3つの情報が読み取れる。

@国家事業で、盛大に築造したこと。
A「径」という単位により、卑弥呼の「冢」は「円」墳であったこと。
B奴婢約100人を徇葬したとあるから、埴輪(殉死者の代替品)は巡っていないこと。

「径百歩」というと、成人男性の歩幅を0.6(ゆっくり歩く)〜0.8m(駆け足)として、約60〜80m。
箸墓の大きさを表現する場合は、円墳ではないからまず「径」とは書かず、横から見た最大長を記すはずで、
そのばやい、280mの墳丘は350歩〜460歩となり、もはや「歩(幅)」というチマチマした単位ではなく、別の単位で記すはず。
また箸墓には墳丘を(殉葬者の代替品である)特殊器台埴輪が巡っていたことが判っており、殉葬者はいないことが明白。

よって少なくとも箸墓は、魏使がその築造の様子まで目撃した卑弥呼の「冢」でないことは明白。
100日本@名無史さん:2012/09/30(日) 09:00:58.04
>>98
ソーヌきぼんぬ!
101日本@名無史さん:2012/09/30(日) 09:08:34.73
しかし、歩の距離が、実際の歩行距離とかけ離れていったのはなぜだろう。
102日本@名無史さん:2012/09/30(日) 09:13:38.68
>>99
墳丘280mなら、短里(約75m)で「4里」、長里(約435m)で「半里」と記したんジャマイカ?
103日本@名無史さん:2012/09/30(日) 09:29:27.44
学者の本でも読めば指摘されているよ。漢和辞典にも「歩」は「ふたあしの長さ」とある。
なお、今の一歩を表す文字は「跬」だ。
104日本@名無史さん:2012/09/30(日) 09:33:22.11
>>103
サンクス!
じゃあ、やっぱり箸墓は卑弥呼の墓で間違いないね!
前方部は後から付け足したと思われ。
105日本@名無史さん:2012/09/30(日) 09:37:51.57
前方部と、特殊器台型埴輪も後から付け足したと思われ。

発掘すれば、後円部のみから大量の人骨が出土するはず!
106日本@名無史さん:2012/09/30(日) 09:40:07.23
箸墓は最初から前方後円形だとされているよ。
それに、径はけして円形についてだけ用いる語ではない。どんな形の図形でも
その「さしわたし」という意味で使う語だ。
だから前方後円墳の場合、その長さが「径」なんだよ。
107卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/30(日) 10:05:52.54
身勝手に 歩長を決める 邪馬台スレ
箸墓とは わちきの墓かと 卑弥呼言ひ
108日本@名無史さん:2012/09/30(日) 10:57:41.63
>>103
学者と官僚の話はうそばかり。
わが身の利益と保身にそった発言しかしない。

一歩は足の長さ。歩=止+少
男性モンゴロイドの足(脚ではない)の長さは、約23cm。

参考:一尺は手の長さ(親指と人差し指を広げた時の長さ)、約15cm
   尺=親指+握りこぶし+人差し指

109日本@名無史さん:2012/09/30(日) 11:30:39.01
と言っても、そんな解説をした文献はないというんだろ。
あなたが考えただけでは、世間では通用しない。
110日本@名無史さん:2012/09/30(日) 11:31:21.92
>>107
日本語使えねえならジャマイカ語でいいYO!!
111日本@名無史さん:2012/09/30(日) 11:32:26.16
今日の判明
真光教段ヨコタさんジャマイカ由来
112日本@名無史さん:2012/09/30(日) 14:27:37.79
数字的にいえば、西都原古墳群の男狭穂塚のサイズ合うかもしれないが、
実際には卑弥呼の墓はもっと小さかったと思う。
倭人伝を見る限り、造るのにそんなに時間がかかったようには思えない。
113日本@名無史さん:2012/09/30(日) 14:58:12.96
関西や東海の人達には気の毒だったが、あの土木事業の労働の意味は、
征服者が酷い奴らだったってこと。
114日本@名無史さん:2012/09/30(日) 15:04:46.32
漢代の1歩は1.38mよって百歩は138m程度
前方部含めた全長にしろ、後円部のみにしろ、それと
3世紀後半築造という条件を加えれば、全国に拡大
しても数はかなり限られるね
115日本@名無史さん:2012/09/30(日) 16:34:25.10
前方後円墳のような無用の長物が作られた理由って、必ずしも強制労働ではなかったような希ガス

弥生時代の高地性集落=倭国大乱の争乱エネルギーを、古墳築造エネルギーに変換して平和な世の中を造るためだったと思われ
ちょうど、戦国時代の国盗りエネルギーを、築城エネルギーに転換した徳川幕府のように、
取り潰された豊臣方の大名の浪人(農閑期の農家)の失業対策も兼ねていたんジャマイカ?
116日本@名無史さん:2012/09/30(日) 16:44:45.86
当時は集団農耕で私有地を持った農家などほとんどないだろ
117日本@名無史さん:2012/09/30(日) 17:00:42.34
>>112
径百余歩が墳丘だけなのか、周りの溝なども含むのかという問題もあるよ。
まあ、100メートル以上の古墳は候補に入れて考えるべきだろう。
118日本@名無史さん:2012/09/30(日) 17:06:34.24
墳墓は高さが埋葬者の権威を示す基準となるので
倭人伝に高さが書いてないのがちょっと不自然
このあたりはローガンの説も一考の余地はあるかな
119水銀厨:2012/09/30(日) 17:11:19.02
大いに塚をつくる=大(市)に塚を作ったのだよ。
よって卑弥呼墓は箸墓で正解です。
120卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/30(日) 17:29:58.90
前方は これから造ると 台与が言ひ
張政は 前方造るの 見物し
古墳とは かういふものかと 張政言ひ

殉葬は むごいからおよしと 台与は言ひ
121日本@名無史さん:2012/09/30(日) 19:38:01.33
ネット朝鮮史なんて
元の壁の色が気に入らないからといって
捏造のペンキを塗ってごまかしてるようなものだ
122日本@名無史さん:2012/09/30(日) 19:40:31.40
宮内庁書陵部こそっと家捜ししたらお買い上げした原本が出てくるかも
123日本@名無史さん:2012/10/02(火) 01:09:00.09
このスレ最大の功績は、「朝鮮<丶`∀´>クソ野郎」の精神を破壊したことだね!
124卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/02(火) 09:02:04.45
けふもまた ネタがないので 悪口言ひ
125日本@名無史さん:2012/10/02(火) 10:41:08.11
横田と朝鮮はぐるなんですねえwww
126日本@名無史さん:2012/10/02(火) 12:37:06.74
九州説 最近ちょいと おとなしい
智恵がつき しをらしくなる 九州説 
慢性の 人材不足 九州説

けふもまた 一から出直す 九州説
けふもまた 無い知恵しぼる 九州説
127卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/02(火) 12:45:30.44
radio氏が教えてくれた「菊露秋寫」という文書に次のような記事がある。

脫解本是多婆野國人 [多婆野國在倭國東方二千里]

これも、倭國を九州と解すれば、大和のことと考えても良い。
128日本@名無史さん:2012/10/02(火) 13:54:56.53
「徑百余歩」の「冢」。
「東西曰廣」なら「徑」は南北。
「百余歩」は「古法六尺為歩三百歩為里」より
六尺×百歩=六百尺。
一尺≒24cmなら、六百尺は
六百尺×24cm÷100≒144m。
となり、
「徑百余歩」の「冢」は南北に144mの大きさと言うことになるだろう。
129卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/03(水) 09:39:50.93
けふもまた 閑古鳥が 鳴いてゐる
130日本@名無史さん:2012/10/03(水) 10:03:55.79
説文とは関係ないな
131卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/03(水) 10:22:04.10
変換を よく間違へる 名無し哉
132日本@名無史さん:2012/10/03(水) 13:13:50.99

又《廣雅》徑,袤也。の
廣雅 【こうが】は前述の『爾雅』の体裁にならい三国魏の張揖が編纂したもの。
ですから、
説文:一曰南北曰袤,東西曰廣。から
「徑」を南北と長さとするのは有効でしょう。
133日本@名無史さん:2012/10/03(水) 13:58:12.10
徑,袤也とあるからと言って百%同じというわけではないんだよ。
同じ意味の部分もあるというだけのこと。長さという意味では同じと言えるだろう。
しかし、径に南北の長さという限定的な意味はないよ。
134日本@名無史さん:2012/10/03(水) 14:17:37.42
>径に南北の長さという限定的な意味はないよ。

では、
君は、ここでの「徑」をどのように解釈しますか?
135日本@名無史さん:2012/10/03(水) 14:49:41.02
円墳ならば直径、前方後円墳ならば長さだろう。どちらの方向をむいているかは
関係ないな。
136日本@名無史さん:2012/10/03(水) 18:43:32.29
>>135
>円墳ならば直径、前方後円墳ならば長さだろう。どちらの方向をむいているかは
関係ないな。

その逆じゃないの。
「大作冢」なら、1〜2ヶ月では作れないでしょうから
その外形をみて円墳だ前方後円墳だとの判断は難しいだろう。
秦の末裔なら方墳の可能性もある。

徑は南北の距離と見るのが妥当な見解であろう。
137日本@名無史さん:2012/10/03(水) 19:42:59.98
パレードの鼓笛隊の歩幅は洋の東西を問わず、62.5pだそう。

ということは1歩(125p)×百歩で、直径125m程の円墳か、全長125m程の前方後円墳と思われる。
138日本@名無史さん:2012/10/03(水) 19:52:45.02
佐賀大和の船塚古墳がだいたい114m前後だった筈
139日本@名無史さん:2012/10/03(水) 19:56:41.28
佐賀大和といえば、金立の方に銚子塚古墳もあるな。
外堀からだと、120m位だった
140日本@名無史さん:2012/10/03(水) 22:37:24.14
前方後円墳と埴輪は結びつくけど、奴婢100人の殉葬(生き埋め)とは結びつかないような希ガス

やっぱり卑弥呼は弥生時代の女王で、その冢は直径120〜140メートルの円墳だったと思われ
141卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/03(水) 22:39:39.35
まったりと 古墳論議で 暇をつぶし
142日本@名無史さん:2012/10/03(水) 22:46:10.62
>>141
朝鮮<丶`∀´>クソ野郎にしては上手いな。座布団1枚!

ただ「暇つぶし」より「油売り」の方が、汚米らしいがなw
143日本@名無史さん:2012/10/03(水) 23:22:41.23
そもそも奴婢を殉葬した墳墓って発掘されてるのか?

卑弥呼の冢に殉葬者があったということは、漢委奴国王や帥升の冢にも殉葬者がいたハズだと思うんだが…
144日本@名無史さん:2012/10/03(水) 23:38:21.89
漢委奴国王や帥升の冢は半島側にあったのかもしれない
145日本@名無史さん:2012/10/03(水) 23:51:52.11
大量の殉葬者何て、
今のところ、日本中どこからも出てないからなあ。
146日本@名無史さん:2012/10/04(木) 06:02:55.36
陳寿は人形埴輪を埋めたことを「殉葬した」と表現したと考えられる。常識。
147日本@名無史さん:2012/10/04(木) 07:57:05.58
垂仁天皇記に殉葬について詳しく書かれている。いわゆる「埴輪の起源」のこと
なのだが、生きたまま埋めるというあの描写が想像であるとは考えられないから、
殉葬は本当にあったものと考えられる。

問題は年代だろうな。卑弥呼時代にあったことは確か。形象埴輪まあ人物埴輪
といってもいいが、これが誕生するのが垂仁天皇の時代とすれば、
考古学的な埴輪の時代と文献的な垂仁天皇の時代を考える上で参考になるのかも
しれない。
148日本@名無史さん:2012/10/04(木) 08:12:34.56
人物埴輪の登場は古墳時代中期(西暦400年代)で、卑弥呼(西暦300年代中頃死去)とは100年の開きがあるよ!
149日本@名無史さん:2012/10/04(木) 09:37:11.15
何をもってして卑弥呼の時代にあったのは確かなんだ?
魏志倭人伝に書いてあるからのみ?
150日本@名無史さん:2012/10/04(木) 09:39:31.40
卑弥呼の墓に使われたかはともかくとして
埴輪は3世紀中頃からだった気がしたけど
151日本@名無史さん:2012/10/04(木) 11:27:27.80
>>143
石棺の中に入れて土かぶせて雨風凌いでも骨が残ってることは稀なのに、
野ざらしにされた遺体の骨などまず残らないだろ
>>149
「魏志倭人伝」と「日本書紀」垂仁天皇記だよ
殉死を強要され古墳に生き埋めにされた人々が数日間泣き叫び続け
その後はカラスが食い荒らすのを見て垂仁天皇が
代わりに土で人の形を作って埋めよと命じた話
152日本@名無史さん:2012/10/04(木) 11:28:30.68
>>150
人物埴輪は5世紀からだよ
153日本@名無史さん:2012/10/04(木) 11:54:00.03
>>151
仮定に過ぎないな
現物がない以上あったとは言えない

それに垂仁天皇の殉葬の話は嘘臭いって説のが有力では?
数人(多くても10人以下)程度なら個人的なしがらみ等であるかもしれないけど
日本において100人以上のは発見されてないという事実を重く見るべきだと思う
実際見つかってないんだから
多分魏志倭人伝に載ってなかったら気にも留めないんだろ
154日本@名無史さん:2012/10/04(木) 11:57:52.51
殉死が卑弥呼時代にあったことは確か。倭人伝や日本書紀の記述から明らかだろう。
となれば、考古学的に殉死の形跡がない畿内は邪馬台国とは無関係。
分かりやすい話だ。
155卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/04(木) 12:38:57.35
垂仁は 紀元前の 生まれなり
156日本@名無史さん:2012/10/04(木) 13:12:16.52
プッ
157日本@名無史さん:2012/10/04(木) 14:26:33.23
北朝鮮<丶`∀´>クソ野郎が壊れていく…将軍様、マンセー!
158日本@名無史さん:2012/10/04(木) 14:36:09.12
朝鮮人犯罪があまり報道されない、そしてテレビが日常的に嘘を吐く理由。(間借りしているだけなどと言う工作員に注意)
(間借りしているだけだ等と言う社員と工作員には注意)

韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8 

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韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
159日本@名無史さん:2012/10/04(木) 16:33:14.45
いずれにしろ、せめて30人以上の殉葬がある古墳を見つけてからだろうな
日本に殉葬があったと言えるのは
まずは見つける。でないと妄想にしか過ぎない
160日本@名無史さん:2012/10/04(木) 16:35:25.14
殉死って下手したら儒教バリバリの江戸時代のが多かったりするのか?
日本の歴史的には
161日本@名無史さん:2012/10/04(木) 17:18:45.40
>>159
2000年近く前の野ざらしの遺骨が残っているわけがない。
石棺の中のものでも残っているものは少ないのに。
162卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/04(木) 17:33:46.59
生年は BC29だと 垂仁言ひ
B29に 爆撃されたと 垂仁言ひ
163卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/04(木) 18:09:00.93
くじびきで 殉死者選ぶ 卑弥呼かな
くじびきに 当たつた奴は 蒼ざめる

じゃんけんで 島崎遥香 優勝し
164日本@名無史さん:2012/10/04(木) 18:29:38.07
       ノヘ⌒ヽフ   ←朝鮮くん
      (  ・ω・)∩))  「あーあヒマだ。川柳も飽きてきたしなぁ」
      /    ⌒ヽ
      (_人____つ_つ
165日本@名無史さん:2012/10/06(土) 18:59:35.11
とし老いた酋長がしぬると連れあいのが吊ったりとかのも散見したりするよな
166日本@名無史さん:2012/10/06(土) 19:05:17.67
所畜嬪妾 千有余人 生子女七百人 不能盡知 自神以來 初有之事也

倭人の脱解大酋長さんたらオットセイなみなのね 700人とかまぢゆるくないよね
167卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/07(日) 21:07:37.64
畿内説が われよりえらく 見ゆる日よ パソコン眺めて ひとり落ち込む

東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 九州説とたはむる

たはむれに 九州説を唱へて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず
168卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/07(日) 21:22:32.00
生駒山の長い坂道を抜けると、そこは邪馬台国であった。
169日本@名無史さん:2012/10/07(日) 22:02:59.13
生駒山って九州だったね。
170サガミハラハラ:2012/10/08(月) 08:41:15.33
九州には笠置山もありますよ。
171日本@名無史さん:2012/10/08(月) 10:19:33.82
香具山も九州にありますね。
172日本@名無史さん:2012/10/08(月) 10:52:46.43
七夕神社「媛社(ひめこそ)神社」は、七夕伝来の地、九州福岡県小郡にあります。
173日本@名無史さん:2012/10/08(月) 11:01:01.33
七夕といえば「鵲の 渡せる橋に」なんちゃら。。。
174日本@名無史さん:2012/10/08(月) 11:05:16.53
三輪山もだろ。
175日本@名無史さん:2012/10/08(月) 11:14:59.11
九州の三輪山近くの大己貴神社と奈良の三輪山の大神神社。
176卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/08(月) 12:42:50.95
九州説 負けるな古田 ここにあり
177日本@名無史さん:2012/10/08(月) 20:13:58.38
いまさら「九州説」とか看板懸けるのとか自体が無駄だから

ただただたんたんと「倭王朝」ののなかみりさあちするのだけので良いよね
178サガミハラハラ:2012/10/08(月) 22:01:07.36
中国から承認された倭王朝とは九州王朝のことです。
179日本@名無史さん:2012/10/08(月) 22:28:53.29
倭王朝は時々刻々その勢力範囲を変化させたりするから九州にこだわらないのが良いよ

しまいにはあべさん経由で噴火湾の酋長さん動因でけるののところまでに至るよ
180日本@名無史さん:2012/10/09(火) 08:47:02.92

           【現実】
        九州(東遷)説
.            ↑
【左翼】(朝鮮系)←┼→【右翼】(無知蒙昧)
 九州(王朝)説  ↓  畿内説
           【妄想】
181日本@名無史さん:2012/10/09(火) 09:12:37.21
表1つ満足に貼れない知能しかないんだ
182日本@名無史さん:2012/10/09(火) 09:49:50.50
確かに九州王朝説は、東大阪を中心とした在日の巣窟だからな…

たしか市民のなんとかっていう在日集団が、古田に便乗してゼロからのなんとかっていうインチキ本を出してたけど、
ブログ割引とかしてもまったく売れずにワロタ
183卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 17:34:51.96

見渡せば 山もと霞む 水無瀬川 邪馬台は筑紫と なに思ひけん
184日本@名無史さん:2012/10/11(木) 05:38:22.17
王がいるのは伊都国・倭国・狗奴国.20の旁国についてはわからない.
「女王之所都」は「都せし」と過去(完了)形に読む.
つまり、当時、邪馬台国には王はいない.
王だった卑弥呼が国を離れ、
倭国王となり、首都が置かれていた伊都国に住んでいたからだ.
倭国には直接の国民・領土がないことが倭人伝解読のポイントだと思う.
185日本@名無史さん:2012/10/11(木) 09:38:20.72
隋書倭国伝

倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。
三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。
東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。

 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。
その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、?耳と相似するという。


というわけで、三十余国が皆王を自称したそうである。


186日本@名無史さん:2012/10/11(木) 14:15:56.90
>>185
後半がダメ
下記に変更

 その国の境は南北に五月行(400km)、東西に三月行(250km)の距離で、各々が海に至る。
その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似するという。
187日本@名無史さん:2012/10/11(木) 16:40:31.57
随書の編纂者は畿内説派だな
188日本@名無史さん:2012/10/12(金) 00:33:59.18
かつてに書き換えてはいけないな。もとのままでいいんだよ。
東西の方が日数はかかったということだろう。
とにかく、東西に五カ月、南北に三カ月の島が一つ、それが倭国だ。
九州しかありえないよ。
189卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/12(金) 09:42:44.32
九州だ なにがなんでも 九州だ
190日本@名無史さん:2012/10/12(金) 09:47:54.81
九州の外側には化外の人が分布しますですね。
191日本@名無史さん:2012/10/12(金) 12:42:34.91
>>188
>とにかく、東西に五カ月、南北に三カ月の島が一つ、それが倭国だ。

誤訳しているよ。

東西に三月行(250km)、南北に五月行(400km)の群島、それが倭国だ。

東西:豊後水道〜五島福江島  南北:大隅〜対馬
192日本@名無史さん:2012/10/12(金) 17:07:20.63
君こそ誤訳。各々海に至るとあるんだからその間は陸地だけ、群島ではないよ。
193卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/12(金) 17:36:34.90
群島だ なにがなんでも 群島だ
194日本@名無史さん:2012/10/12(金) 22:46:55.00
>>188
>>192−193

距離の単位について

1日行=(船が潮流の影響を受けず)24時間(太陽が地球を一周する時間)に進む距離・・・内水沿岸航海

1月行=(船が潮流の影響を受けて)24時間50分(月が地球を一周する時間)に進む距離・・・海洋航海

「其南海行三月 有耽牟羅國」隋書百済伝

百済(錦江河口沖)→耽牟羅國(済州島)の距離が3月行(約250km)

故に、1月行≒80km


「東西」と「南北」の表記方法の違い

「耽牟羅國 南北千餘里 東西數百里」隋書百済伝

耽牟羅國(済州島)は、東西70km(千餘里) 南北50km(數百里)である。
195日本@名無史さん:2012/10/12(金) 23:05:03.81
× 内水沿岸航海
○ 内水沿岸航行

× 海洋航海
○ 海洋航行
196卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/13(土) 10:01:20.78
あいかわらず境東西南北の意味を理解していない男がいるので、満州源流考から引用しよう。

境東西約九百里南北約一千八百里(按舊唐書云東西千里南北二千里新唐書云横千里縱三千里…)

新羅の境についての記述である。東西は横、南北は縦と解釈されている。常識である。
それから百済が中国南部に進出していたことについては、

後周書百濟者馬韓之屬國夫餘之别種有仇台者始國于帶方
其地界東極新羅北接句麗西南俱限大海王姓夫餘氏自晉宋齊梁據江左…

自晉宋齊梁據江左とある。晉宋齊梁の時代から江左に據る、とある。
江左とは揚子江の左(東)で江蘇浙江省あたり、あるいは南北朝時代の南朝のことである。
つまり耽牟羅國とは台湾である可能性があるのである。
197日本@名無史さん:2012/10/13(土) 11:13:49.42
あいかわらず境東西南北の意味を理解していない男がいるので、少し解説してみよう。

東西と南北の使い方が現代と逆転しているのは、「隋書」までに編纂された史書である。
隋書編纂の後に編纂された史書は、東西と南北の使い方が現代と同じである。

つまり、「南史」以降は東西と南北の使い方が現代と同じである。
唐代7世紀650年代以降に編纂された漢籍(類書政書等を含む)は、東西と南北の使い方が現代と同じである。

650年以前に編纂されたのに上記に一致しない史書がある。
それは「周書」である。
なぜならば、636年に成立したところの「周書」の大部分は散逸し、
後世にその散逸部分を659年成立の「北史」より補われているからである。
両者を比較してみると「周書」が「北史」のコピーであることからそれがよくわかる。


「東西」と「南北」の用法を論ずるときに、
編纂が650年以降の漢籍を引用することが無意味なのである。


よって、>>196の論は成立しない。
198卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/13(土) 12:43:00.57
>>197
では隋書以前の史書に於いては境東西南北の東西と南北が、
現代と反対であるという実例を上げてみたまえ。

それが君の言う通りなら、君の言い分を認めよう。
199日本@名無史さん:2012/10/13(土) 12:51:31.13
>>184
かって指摘してあげたけど「みやこ」と読むようなまぬけなことしちゃ駄目だぞ

【都】 率領 [command]。如:都督(統率,率領);都部(統率兵衆)


【都】には現状有効な訓がみあたらないから代用として【統】の訓のを援用してあげて

「す-ぶ」,「おさ-む」と訓じてあげるのが良いかとはおもふが

すなはち 「南至邪馬壹國女王之所都」のは

「女王」が[command]するところの「邪馬壹國」の領域に突入しました  だわ
200日本@名無史さん:2012/10/14(日) 06:35:08.15
東にも倭種がいることを、ちゃんと書いている。
関西説なら、佐渡あたりになるだろう。
201日本@名無史さん:2012/10/14(日) 07:42:50.98
東渡海千里でまた倭種の国があると書いてるからな
畿内にすると伊勢湾とか琵琶湖とかものすごく無理がある
女王国の南四千里に侏儒國というのも畿内では無理な話だ…
202卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/14(日) 09:14:03.73
九州説 東渡海千里だけが 頼りなり
203日本@名無史さん:2012/10/14(日) 09:37:51.33
畿内説南が東という無茶苦茶な解釈だけが頼りwww
204卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/14(日) 09:38:31.94
つひに負ける 説とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを
205日本@名無史さん:2012/10/14(日) 10:18:27.94
既存の世界観に無理矢理倭を当てはめたから
帳尻あわせで妙な事になっただけだろ。
206日本@名無史さん:2012/10/14(日) 11:51:55.41
>>東渡海千里でまた倭種の国があると
たんに国土は広いよってハッタリかましてる可能性もあんじゃね?
全て正直に話す方がどうかしてるだろ
基本的に潜在的敵国だぞ
無防備マン全開で外交するやつなんていねーよ
鳩山は除く
207日本@名無史さん:2012/10/14(日) 12:08:55.02
ちなみに朝鮮半島から対馬まで一海千餘里で100キロ
次に対馬から壱岐で、又南渡一海千餘里で60キロ
次に壱岐から唐津付近?で、又渡一海千餘里で30キロ
全て一海千餘里だけど、100キロから30キロと様々
ちみなに津から知多半島まで30キロ
海を渡る=千里としてるなら十分ありえんじゃね?
208日本@名無史さん:2012/10/14(日) 13:00:18.36
九州説の人って地図や歴史年表を見たりしないの?
透視とかしてるつもりのオカルト脳と一緒の感じだな
209日本@名無史さん:2012/10/14(日) 13:09:56.58
年表なんて当てにならない。
九州暦は1年が365日じゃないし。
210日本@名無史さん:2012/10/14(日) 13:36:29.98
いまだに○○はあーよめる、こーよめるとか××は誤植とかで一喜一憂する馬鹿まだいるんだな
211日本@名無史さん:2012/10/14(日) 14:23:58.55
>>207
ちなみに朝鮮半島から対馬まで一海千餘里で55キロ
次に対馬から壱岐で、又南渡一海千餘里で48キロ
次に壱岐から唐津付近?で、又渡一海千餘里で45キロ
全て一海千餘里で、55キロから45キロである。
ちみなに行橋から防府まで60キロ
海を渡る=千里としているから適切な距離である。

地図を見ると上記のようになる。
212日本@名無史さん:2012/10/14(日) 14:38:51.49
>>211
何が言いたいの?
あと古代でも港ってあるのと違うの?
213日本@名無史さん:2012/10/14(日) 14:46:59.01
邪馬台国なんて国はなかったんだよ
魏略には邪馬台国なんて出てこないしね

チンジュの勘違いだな
214サガミハラハラ:2012/10/14(日) 21:29:57.83
魏略って、逸文しかなかったと思いますが。      
215卑弥呼は満州にいた:2012/10/15(月) 09:18:47.80
吾輩は九州説である。勝ち目はもう無い。
216212:2012/10/15(月) 12:20:40.55
>>212
>>211
>何が言いたいの?
>あと古代でも港ってあるのと違うの?

疑問の内容がわかりません。
>>207-208へのメッセージです。

古代でも港はあるよ。
唐津の港は古松浦湾の南岸にあった津。

217卑弥呼は満州にいた:2012/10/15(月) 12:37:58.43
久方の 光のどけき 秋の日に しづ心なく 九州説の散るらむ
218日本@名無史さん:2012/10/15(月) 12:42:01.67
ヨコだけど
>>201
>>何故か東渡海千里でまた倭種の国があると書いてるからな
と書いてるからじゃね?
朝鮮半島からの一海千餘里は気にならないけど
東渡海千里はおかしいってのが矛盾してんじゃね?

故の
>>207
>>海を渡る=千里としてるなら十分ありえんじゃね
になると

だからまず最初に地図を見ろと
219卑弥呼は満州にいた:2012/10/15(月) 18:44:55.39
マウスとめ 読み入るひとの 影もなし 九州スレの 秋の夕暮
220日本@名無史さん:2012/10/15(月) 19:01:20.78
「女王國東渡海千餘里 復有國」の「復有國」って

  安岡の綾羅木の梶栗遺跡ののとこのことで

    「多婆那」「多遅摩」「多羅」のことかもしれんよね
221日本@名無史さん:2012/10/15(月) 19:29:06.94
渡海500里〜1500里くらいなら一緒くたで千里にしたんだろうな
とにかく見えてくる陸地目指して渡れってことで
222卑弥呼は満州にいた:2012/10/15(月) 19:31:17.85
稗箕狐という男は、下手に褒めると噛みついてくるようなところがあるから、
あまり相手にしたくないのだが、実は私も、多婆那国とは周防の娑婆ではないかと思っているのだ。
ネット新羅史を読むと、多婆那国とは大和だと思えるのだが、
大和が多婆那、多婆羅、多婆野と呼ばれたことは無いので、
音が似ている地名を探すと、娑婆が浮かんでくる。
サはタに転じうるし、娑婆というのは宮が置かれた?ところで、
天皇が滞在した場所である。新羅の人質が娑婆にいたとしてもおかしくはない。

まあ、これは本に書こうと思っていたことだが、ここに書いておこう。
223日本@名無史さん:2012/10/15(月) 19:34:49.11
海面基準にして歩数カウントしたりすると

漕いでも漕いでもメーターのカウント数が上がるだけとゆうのもあるよ
224卑弥呼は満州にいた:2012/10/15(月) 19:36:55.38
更に言えば、邪馬台は多婆那で娑婆のことである可能性もある。
邪馬台と多婆那は音変化をする可能性があるのだ。
225日本@名無史さん:2012/10/15(月) 19:49:57.79
渡海だから、荒っぽい計測にならざるを得ず、誤差が大きいのは仕方がないが、
三渡海のトータルとしては、それほどおかしくない誤差に収まっている。

釜山と松浦で、天測でもしたのかもしれないね。
226卑弥呼は満州にいた:2012/10/15(月) 19:50:08.46
ちなみに娑婆は娑麽が正しいのだそうである。
娑麽はサマと読む。
そうするとますます邪馬に音が似てくる。
227日本@名無史さん:2012/10/15(月) 20:06:03.24
娑婆酋長のことぱくって
婆娑尼師今(126-158)のをでっちあげてくれたのかもしれんしね
228日本@名無史さん:2012/10/15(月) 20:26:13.26
満州の 音に頼るの バ○まぬ○
     論理も何も 無しにしてから
229日本@名無史さん:2012/10/15(月) 20:50:15.16
まともに騙っても大和にとかもっていきにくいの気付いちゃっているから

しかたがないから目先変えて

無駄に朝鮮に誘導してからに解析の詳細化の進行妨げる企画だろ
230日本@名無史さん:2012/10/15(月) 20:53:38.29
でっ ふと気付いたら

へんに韓に誘導されちゃったりしちゃったもんだから

こりゃまずいとおもふて満公に化けるのの宣言
231卑弥呼は満州にいた:2012/10/15(月) 21:03:23.24
幼児語で 人に噛みつく 稗箕狐かな
232卑弥呼は満州にいた:2012/10/16(火) 09:20:37.47
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。
世の中にある畿内説と九州説とまたかくのごとし。
233川柳の努力家:2012/10/17(水) 21:47:44.81
青によし 北の卑弥呼は 赤によし
234テン:2012/10/19(金) 12:39:56.87
藤原不比等は「日本書紀時空間操作の法則」を操り呉服、呉音の伝来を改竄し
、三国時代の呉の国と冊封・同盟関係にあった、弥生時代最大の国家である
古代出雲王国の存在を日本古代史から消し去った。
呉の滅亡に伴い古代出雲王国は邪馬台国との合併を選択し大和朝廷が誕生した。


235テン:2012/10/19(金) 12:43:04.69
古代出雲王国の王家であったスサノオの尊〜ニギハヤヒの尊の家系は大和朝廷の
皇后家となり、その実権を握った。大化の改新の際、天皇家の外戚となる資格が
なかった藤原氏がスサノオの尊の子孫であり外戚となる資格があった蘇我氏を滅ぼし、
大和朝廷の実権を簒奪した。このことを隠すために日本書紀は編纂されたのだ。
蘇我氏こそスサノオの尊の直系の子孫であることは出雲大社からも知ることができる。


236テン:2012/10/19(金) 12:45:12.97
さらに魏志倭人伝の記述 「郡より女王国に至る、万二千余里」に隠された邪馬台国の所在地に辿りつく鍵を見つけ出したと言う。
「邪馬台国が会稽東冶(呉)の東方海上に位置する規定」「旅程距離5倍の法則」
「長距離旅程は方位が南の法則」「方位・時計回りのずれの法則」などを導き出し
適用することにより、景初3年・西暦239年当時の邪馬台国の所在地が「宇佐」であった
ことを明らかとしている。


237テン:2012/10/19(金) 12:46:50.97
本の名は「大和朝廷成立の謎 古代出雲王国から邪馬台国へ」です。
全国各書店にて発売中。幻冬舎ルネッサンス刊 1260円
ネット販売も電子書籍もあるから是非読んでください。

238日本@名無史さん:2012/10/19(金) 15:51:07.30
正解じゃない
239日本@名無史さん:2012/10/19(金) 16:04:19.90
宣伝に2chを使ってはいかんのだが
240卑弥呼は満州にいた:2012/10/19(金) 17:33:57.50
蘇我氏とは 孝元天皇の 子孫なり
記紀系図 勝手に変へる 似非学問
241日本@名無史さん:2012/10/19(金) 20:55:32.06
蘇我氏 渡来人説
242日本@名無史さん:2012/10/20(土) 08:01:43.71
蘇我氏・・蘇民将来・・秦氏・・ユダヤ
243日本@名無史さん:2012/10/20(土) 08:02:25.08
蘇我氏 蛇頭人説
244日本@名無史さん:2012/10/20(土) 10:06:58.13
昔は、馬子や入鹿という名前が悪口だという説があったが、
高麗、韓子、蝦夷の方が悪口な気がしてきた
245日本@名無史さん:2012/10/20(土) 10:49:04.44
九州の福岡、佐賀、長崎、熊本が領土だっただけで邪馬台国自体は奈良と下関

夏と冬で住む場所を変えてた
246卑弥呼は満州にいた:2012/10/20(土) 11:25:22.03
入鹿、蝦夷、高麗、韓子。

これらはいずれも悪名ではない。好名である。
入鹿はいわば神獣、蝦夷は強い民族、高麗、韓子は、
昔は朝鮮人とのハーフであることが高貴であることの誇りだったのだ。

247日本@名無史さん:2012/10/20(土) 11:53:40.04
蘇我の俵万智
248日本@名無史さん:2012/10/20(土) 12:14:27.92
>>246
>入鹿はいわば神獣

鹿は近畿地方の神獣
入鹿は近畿地方にちなんだ名前。
入鹿は近畿地方にやってきたの意味かな

春日大社の鹿
扶桑國の鹿



高麗、韓子、蝦夷は近畿地方の地の人ではないことを強調している
249卑弥呼は満州にいた:2012/10/20(土) 12:49:02.89
指摘されて一寸調べてみたが、
どうやら入鹿というのは地名のようだな。
てっきり海のイルカのことだと思っていた。

あゝ、恥をかいた。
250日本@名無史さん:2012/10/20(土) 17:01:26.76
イカルでね
251日本@名無史さん:2012/10/20(土) 17:56:16.32
>>249
脱北電波野郎が何を今さら…
252卑弥呼は満州にいた:2012/10/20(土) 18:50:03.73
入鹿が地名だというのも、確証はない。
もしかしたら海のイルカのことかもしれない。

>>250-251
朝鮮人差別者は朝鮮人を差別するスレに行ってくれ。
253日本@名無史さん:2012/10/20(土) 19:19:42.99
這い這い
254日本@名無史さん:2012/10/20(土) 19:26:07.41
>>250
各地に様々な聞きなしが伝わる。
比志利古木利(ひしりこきり)
月日星(つきひほし)

月・日・星と囀ることから三光鳥とも呼ばれている。
255日本@名無史さん:2012/10/21(日) 00:32:34.18
九州説は比定地をまとめてはからにしてはいかがですか?
256日本@名無史さん:2012/10/21(日) 00:57:42.46
遺跡、出土物が多すぎて無理。
どこでも比定しようと思えばできてしまう。

知っている範囲では、佐賀大和周辺だけで
環濠集落が6箇所ある。

無論他の場所でも同様。
257日本@名無史さん:2012/10/21(日) 01:20:37.90
当時の環郷集落あれば比定できてしまう現状だからな
日本全国どころか台湾やエジプトまで
倭人伝てか三国志自体誤植だらけだから倭人伝もあてにならない
今世紀に発見は難しい
258日本@名無史さん:2012/10/21(日) 01:24:41.28
逆に、纒向しか比定しない畿内では、
ほかにめぼしい、比定できそうな遺跡はないのか?

といつも考えているのだが。
259日本@名無史さん:2012/10/21(日) 01:35:29.09
マキムクがはんぱなすぎだからな
畿内説支持てわけでもないが魏と交易してた超巨大遺跡無視して倭人伝書くかとも思う
まあ小国の邪馬台国を書き記したとも考えられるけど
260日本@名無史さん:2012/10/21(日) 01:48:38.40
九州説では、遺跡が多すぎるので、
吉野ケ里級の遺跡が出ても、
候補の一つが増えただけにすぎない。

邪馬台国はここだああ!!!、
と言い切れる人物はあまり多くはない。

正直何処かわからない。
261日本@名無史さん:2012/10/21(日) 01:49:36.29
巻向がぁーとか言ってないで
九州スレなんだから、九州の比定地を語るべきでは
今は九州の否定地になってるよな
262日本@名無史さん:2012/10/21(日) 01:52:02.71
吉野ヶ里、西都原は時代が合わないだろうから九州説では他どこが比定地なの?
平原遺跡は伊都国だろうし
263日本@名無史さん:2012/10/21(日) 01:53:28.84
倭人伝を素直に読むと平原遺跡が伊都国とも限らない
264日本@名無史さん:2012/10/21(日) 01:55:18.96
ふーむ、九州説ならやはり伊都国問題だろ
伊都国を糸島近辺にするか、それとももっと東南方面にとるかで
違ってくる
あと九州島を船でどっちにまわったか、それとも水行はまさかの河川航行
かでも違ってくるな
265日本@名無史さん:2012/10/21(日) 01:56:32.05
まあ、素直に読めるってだけで、武器になるからな。
素直に読めないところは、どうしても一歩落ちる。
266日本@名無史さん:2012/10/21(日) 02:01:36.41
まあ倭人伝なんか参考程度にして出土物から当時の日本を浮かび上がらせることに考古学は専念すべき
267日本@名無史さん:2012/10/21(日) 02:06:33.43
>>259
伊都国と緊密な関係があり、魏、晋の臣となり、狗奴国と戦闘状態にあったのが、邪馬台。
268日本@名無史さん:2012/10/21(日) 02:06:34.10
考古学の役割は基本的には二つあって
一つはその時代の生活の衣食住や宗教、政治の様子を浮かび上がらせること
これはけっこう進展してきている
しかしその時代の広範囲の地政的状況を浮かび上がらせるのは
けっこう難しい
ただそれでもどこどこの遺跡が交易関係にあったとか
少しずつ明らかになってはきているが
まだまだ時間がかかるだろう
269日本@名無史さん:2012/10/21(日) 02:19:07.69
とにかく箸墓はとっとと掘れやと言いたい
270日本@名無史さん:2012/10/21(日) 02:26:22.77
箸墓を掘って邪馬台国の証となるものが何か出てくるだろうか
ホケノのようなことになんないかねえ
271日本@名無史さん:2012/10/21(日) 02:32:40.16
箸中山古墳については実は畿内説でも明確に卑弥呼の墓であると
主張する人は多くない
一つ言えるのは築造法に迷いがないということだな
幅広く周壕を掘って土を採り
段築や葺石などの築造法にも試行錯誤の様子が見られない
272日本@名無史さん:2012/10/21(日) 07:10:35.75
全部 倭人伝の帯方郡から邪馬台国までの日程に誤りがあるのが悪い!方角?日数? 迷惑な話だな!
273日本@名無史さん:2012/10/21(日) 10:41:03.13
魏の皇帝の威光は、東海三千里の蛮国まで及んでいたということを強調せんが為に誇張して書いたんだろう?
それを真に受けて、その通りの位置にあると考えたとしたら、相当間抜けだ。笑うしかない。
274日本@名無史さん:2012/10/21(日) 11:05:05.77
ならば 方向を重視して 距離を誇張したのならば やはり 九州説が正しいって事かな。
どちらにしても 迷惑な話だ!
275日本@名無史さん:2012/10/21(日) 12:13:07.45
東夷伝というからには、東になければならないわけで、南では都合が悪い。
まあ、南東だな。
276日本@名無史さん:2012/10/21(日) 12:35:45.63
東と南を違えるのは許容範囲だ
東南、南、東と使っている中での整合性は考えねばならん
女王國東渡海千里復有國皆倭種
千里は遠くない場合によっては見える距離だ
九州から見た四国、中国地方から見た四国、畿内から見た四国しかあり得ない
女王國南渡海千里復有國皆倭種として吉備
277日本@名無史さん:2012/10/21(日) 12:39:22.55
箸墓古墳環濠内碑石墓碑銘に、
「倭母母曾毘賣命墓、戊辰年十月廿日薨、御年八十四歳」
って刻まれている。
278日本@名無史さん :2012/10/21(日) 13:05:26.00
列島を南北に位置づければ、
東は日本海側だろう。
まあ、列島を途中で屈曲させる「古地図」や「新説」があらわれるかも知れないが。
279日本@名無史さん:2012/10/21(日) 14:12:44.45
平凡社の「世界大百科事典」を読んでみろよ。
アメリカやヨーロッパなどの主要国はよく調べて書いているけれど、
中南米や中近東、アフリカ諸国のことなんてとんでもないことを描いている。
そんなところは、編者は行ったこともないし、
担当者のいいなりなんじゃないのか?

魏志倭人伝の付録の東夷伝の中のさらに僻地の倭人伝なんて、まともに調べちゃいない。
あたりまえジャマイカ。
280日本@名無史さん:2012/10/21(日) 15:18:03.58
魏略には邪馬台国は出てこない
伊都国までの記述しかない
つまり倭国の首都は伊都国だったということなのだ
邪馬台国なんて存在しなかったのだ

纏向にあったのは邪馬台国ではなく大和朝廷だ
281日本@名無史さん:2012/10/21(日) 16:47:04.54
巻向が大和朝廷だったらそれはそれで大発見だ
282日本@名無史さん:2012/10/21(日) 17:17:13.59
脱解のまごの日矛と日矛の子の怨のタタリ~が

247年 正始8年の後半期に 伊都國から所払いの~夜良比夜良比岐で

御眞岐に入日子とかならいろいろ枝葉付で騙れちゃったりしちゃうけどね
283日本@名無史さん:2012/10/21(日) 19:28:24.34
最近、ある学者が魏志倭人伝の距離、日数はほぼ十倍に書かれているのではな
いかと発表している。もし当たっていればーーーーー。
284日本@名無史さん:2012/10/21(日) 19:33:41.83
短里があったとするより
倭地を広大に見せるために誇張して書かれてるとするほうが
説得力がありそうではあるな
285日本@名無史さん:2012/10/21(日) 19:38:27.87
帯方郡から狗邪韓国を経て、不弥国までずっと「里」で書かれていて、
そのあとは投馬国、邪馬台国まで日数というのはやはり不自然。
隋書の「夷人不知里數但計以日」ということで、郡使は不弥国までしか
行っていないと解釈すべきだろうな。
286卑弥呼は満州にいた:2012/10/21(日) 20:14:49.88
入口で うろうろうろうろ 九州説
287日本@名無史さん:2012/10/21(日) 20:18:54.82
>>283

このスレでよく出てくる、里程日程1/6説はいかがですか。

地勢も、万二千余里の総里数もよく一致しますよ。
288日本@名無史さん:2012/10/21(日) 20:29:13.68
卑弥呼はとっくの昔に死んでいて、通訳の男王が実質的に操っていた。
そういう状況だから、魏の使者といえども合わせるわけにはいかない。
邪馬台国ははるか遠くにあって常人には行くことができないと言いくるめられて帰ってきたのだろう。
魏の使者は、ガキの使い扱いにされて怒ったことだろう。

卑弥呼が死んだことになって、男王が建てられて、トヨが立つまで国が荒れたのは、
政権の交代があったからに違いない。
289日本@名無史さん:2012/10/21(日) 21:08:11.09
全国統一したすじん天皇は巻向にいたんじゃない?
はたまた遷都したのか?
290日本@名無史さん:2012/10/22(月) 05:29:03.00
ボクの邪馬台国に都合が良ければ、何分の1でも構わないんだろ
291サガミハラハラ:2012/10/22(月) 08:01:30.45
>>285 これは倭人伝の行程記事の二面性にあるのです。
もともとは行程記事は、箕子朝鮮の影響にある周尺でかかれていたのですが、邪馬台国が吉野ケ里の都から西方の小城甘木に遷都したために、行路がみじかく(フミ国まで)
なった(魏の時代)のに、あたらしい都までの行程が記述されていないのです。
つまり、魏使はフミ国から新都までの距離をはかっていなかったのです。
そこで日数で記録したのです。
292日本@名無史さん:2012/10/22(月) 09:28:56.05
遷都? ならば、使者はまっすぐ新しい都へ行けばいいだろ。
それに距離をはかってなかったって? 100、500、千なんて大雑把な
数字を使ってんだろ。小城までならどのぐらいか分かるだろ。
293サガミハラハラ:2012/10/22(月) 09:35:02.22
遷都は吉野ケ里から西の方の小城甘木です。
行路は唐津から東南へ、多久盆地に入りそこから東が小城甘木です。吉野ケ里にへも唐津から東南にすすみますから、小城甘木は吉野ケ里への途中になります。
魏使は倭人伝をよんでいません。よって距離数はわからないのです。日数はわかったようですが。
294川柳の名人:2012/10/22(月) 09:52:47.64
>>293
末廬國(九里双水、中原)から、東南陸行五百里だと佐賀県小城市になる。
3世紀の頃は佐嘉国であった。 その他、鳥栖・基山の基イ国。
神崎を中心とした三根国。 杵島郡の杵島国。 以上五カ国が推定されている。
考古学的には、末廬國と三根国が強大であったとされる。

三世紀に存在していた「国」が、五世紀には「県(あがた)」につながり、
原始的国家の王が「県主」に任命されている事実が多いことから考えるると、
佐賀県に倭人伝の国名が末廬國以後まったく残っていないのは、不自然である。

295日本@名無史さん:2012/10/22(月) 11:10:23.09
壱岐、対馬間の間の距離が割とバラバラだが、足して平均すると割といい値になる。
釜山と唐津で天測が行われ、途中の島は時間や日数でアバウトに計測したのではないか。

古田史学スレで周髀算経と測量の話が行われているが、
釜山付近と、唐津松浦付近で、天測が行われていたのではないかと、
ふと思い立った。

天測場所の指定がなんとも難しく、場所によってが我田引水になってしまうことは、
ご容赦願いたい。

一寸千里の前提としては、北緯35度付近の二点間の夏至南中時の太陽の傾きから、
距離を求めるものである。このとき北緯に換算して、「約0.69度で76km」(短里千里)

釜山の一点を、北緯35.12度、唐津を北緯33.34度とした。もっと詳しい比定点をご存知なら、
その北緯に入れ替えていただきたい。

さて、この二点間の角度の差は、35.12-33.34=1.78
この間は三千里だから、千里あたりは0.59度である。ちょっと短いのが気に食わない。

この二点、正確に南北の位置関係にはない。唐津から見れば30度ほど、西に向かった角度になっている。
そこで、cos30度の傾き分長さを長くすると、2.06 となる。千里当たりなら、0.69度程度の距離となっている。
つまり、かなり正確に短里三千里であると、言えそうである。

ふと思いついた試算である。



296日本@名無史さん:2012/10/22(月) 11:11:33.68
磐井の乱のどさくさで肥後君が筑紫の一部を切り取った。そのため、そこにいた
伊都や不弥のゆかりの者は怡土や宇美に押し込められたという考え方もあるよ。
297日本@名無史さん:2012/10/22(月) 17:23:21.32
>>287from283
わたしは魏使は皇帝の命を遵守して邪馬台国まで行き、卑弥呼女王に謁見した
と考えている。ならば倭国の内で魏使が行けそうな地域はどこであったかを考
えれば北部九州しか有り得ないと思う。ずばり宇佐であろう。距離も日数も解
釈次第でどうにでも成る指標でしかないのではないですか。
298日本@名無史さん:2012/10/22(月) 17:44:46.18
末廬国は港から、東南方向に広がり
その範囲は歩測で五百里の距離。
その向こう側に伊都国
299日本@名無史さん:2012/10/22(月) 18:20:58.13
末廬国でなくて
末盧國だからな原文改定とかしたらだめだぞ
300日本@名無史さん:2012/10/22(月) 18:31:26.12
邪馬台の「と」の字が変換できません
301日本@名無史さん:2012/10/22(月) 18:32:10.53
>>299
ここでは国と國の違いに意味を成すわけじゃないからええんじゃないの?
302日本@名無史さん:2012/10/22(月) 18:33:01.89
末廬でなくて
末盧だからな原文改定とかしたらだめだぞ
303日本@名無史さん:2012/10/22(月) 18:39:59.30
臺=だい
304日本@名無史さん:2012/10/22(月) 19:42:28.69
>>302
だから、ここはそんな細かな事をこだわって語っているレスじゃないだろ
末盧であろうが末廬であろうが、国であろうが國であろうが
どうでもいい話し。
305日本@名無史さん:2012/10/22(月) 19:48:20.99
まったく別な漢字のくせにフリーハンドで差し替えても良いとかおっしゃるのでつか
306日本@名無史さん:2012/10/22(月) 20:04:59.60
>>305
じゃあ、ここでの末廬と末盧では
何がどう違うか説明してみてよ。
307日本@名無史さん:2012/10/22(月) 20:09:43.21
末廬とかありもしないものの説明しろとかおばかか
308日本@名無史さん:2012/10/22(月) 20:10:04.98
字が違う
309日本@名無史さん:2012/10/22(月) 20:20:13.46
なんだ?今のここは?
揚げ足とっての時間潰しが趣味のサロンスレかいな。
数年前とは大分参加者も様変わりしたようで
310日本@名無史さん:2012/10/22(月) 20:37:49.28
まぁまぁ とにかく もちつけ!
311日本@名無史さん:2012/10/22(月) 20:50:34.18
もちつけって何だよ
ちゃんと「落ち着け」と書け
312:2012/10/22(月) 20:52:26.26
うわっ、馬鹿の癖にジョークの通じない最低な香具師!
313日本@名無史さん:2012/10/22(月) 21:04:24.76
又渡一海千餘里 至末盧國

盧 (ろ)
艫 (ろ,とも) 船尾 stern

上陸地で宿泊施設があったところはたぶん 呼子町大友

登望驛  http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou68/furuka68.jpg
       http://maps.google.co.jp/maps?q=33.542128,129.913781
大友遺跡 http://www.asahi-net.or.jp/~xn9h-hysk/godhand/c14/ootomo.htm
314日本@名無史さん:2012/10/22(月) 21:34:52.14
九州説は比定地を一つにおまとめになってはいかがですか?
315日本@名無史さん:2012/10/22(月) 21:46:14.47
316サガミハラハラ:2012/10/22(月) 22:18:02.81
>>314 小城甘木にきまっていますよ。
317卑弥呼は満州にいた:2012/10/22(月) 22:38:49.12
常識だ 邪馬台国は 小城甘木
318日本@名無史さん:2012/10/22(月) 22:44:50.44
又渡一海千餘里 至末盧國

盧 (ろ) 水がよどんで黒くなっているさま

水がよどんだところは 古松浦湾:虹の松原の南の湾
上陸地で宿泊施設があったところは 唐津市中原 中原遺跡
319サガミハラハラ:2012/10/22(月) 23:01:13.46
満州さん、ありがとう。
君は僕の心の支えだ。
320湊昌子:2012/10/22(月) 23:32:27.59
>>319
日夜、小城説の赤軍的地下暴れにて、色欲のトリコじかけの明け暮れです
321日本@名無史さん:2012/10/22(月) 23:45:09.17
以前だったら河童さんが登場し場を盛り上げてくれたのに、今では違い一つ答えられない
連中ばかりになってしまったってわけか?



もういいや。
322日本@名無史さん:2012/10/23(火) 08:32:59.76
>>321
何時代の話してんの?
323日本@名無史さん:2012/10/23(火) 17:49:31.74
河童さん伝説
324日本@名無史さん:2012/10/23(火) 19:27:38.55
>>306
>じゃあ、ここでの末廬と末盧では
>何がどう違うか説明してみてよ。

廬≠盧の場合
@「末廬」は、先ちょの草庵

廬≠盧の場合
A「末盧」は、先ちょの黒くなったもの(葦や蒲が密生して黒くなった水辺)

廬=盧の場合
B「末廬」と「末盧」は同じ
  この場合「廬」に草庵の意味はない。
325日本@名無史さん:2012/10/23(火) 21:03:17.52
324がもうプンプンだからあやまっとけ>306
326日本@名無史さん:2012/10/23(火) 21:12:54.52
>>324

説明にいまいちキレがないな。
327日本@名無史さん:2012/10/23(火) 22:35:49.57
河童伝説かあ。
伝説にするにはちょっと勿体ない気がする。
328日本@名無史さん:2012/10/24(水) 13:26:43.72
倭人の北限は瀆盧國だったな。
329日本@名無史さん:2012/10/24(水) 14:29:14.80
対馬だろう
330日本@名無史さん:2012/10/24(水) 15:43:49.35
>>329

「其(弁辰)瀆廬國與倭接界」魏志韓伝

接界:弁辰人界(瀆廬國)と倭人界の繋がっている状態
331日本@名無史さん:2012/10/24(水) 16:58:13.46
>>330
瀆廬でなくて
瀆盧だからな原文改定とかしたらだめだぞ
332日本@名無史さん:2012/10/24(水) 17:18:28.55
>>329
んだな、所居絶島と書いてあるし。

>>331
あんたは何でも盧じゃないと気が済まないのか?
少しは影印ぐらいはミロのビーナス。
333日本@名無史さん:2012/10/24(水) 17:33:43.17
334日本@名無史さん:2012/10/24(水) 17:54:29.68
九州説のみなさんは後の大和朝廷との繋がりはどうお考えですか
335日本@名無史さん:2012/10/24(水) 18:14:20.89
>>333
その影印は、紹煕本か紹煕本を参照したもののようだが、それを見るかぎりでは
どちらとも取れない文字のようだ。
固有名詞的な余り本文の内容に影響しなそうな文字まで原文を重視するのなら、影印の通りの文字を再現しないとな。
336日本@名無史さん:2012/10/24(水) 18:16:03.86
>>334
それは別なスレでやれ。
337日本@名無史さん:2012/10/24(水) 18:19:26.08
めくらかな むりゆうなよ

それよっか 瀆廬 のの影印だして星
338日本@名無史さん:2012/10/24(水) 18:24:45.12
ヨコだけど
連なる、連ならないはあるとおもうけど
そんなにタブーな質問なの?
339日本@名無史さん:2012/10/24(水) 18:30:00.24
んなことはない
九州邪馬台国軍団がギラギラの鉄器を持って畿内に進攻し
大和朝廷を築いた
東征が歴史の真実だよ
340日本@名無史さん:2012/10/24(水) 18:42:54.73
>>337無理言うなよ!
>>332は俺じゃないぜ!
341日本@名無史さん:2012/10/24(水) 18:47:34.06
そっかあ 失礼しますた

>>332さんは現在調査中かもね

廬 の表記のは馬韓のほうにたくさん転がってるから

前からちょっと木になっていたんだけどさ
342日本@名無史さん:2012/10/24(水) 19:30:36.75
>>341
別に気にしていないしさ
以前だったらここに河童が居て、かなりしつこく付き合ってくれたけれど、今じゃそんな香具師もいなくなった。
343日本@名無史さん:2012/10/24(水) 19:32:03.09
邪馬台国の頃はある程度日本は統治下にあったのだろうから平和的遷都だったのでは?
344日本@名無史さん:2012/10/24(水) 20:18:28.86
九州方面のからギラギラの鉄器を持って畿内に進攻したみたいだけど

きものギラギラの鉄器のサプライ.sysがうまく組めなかったのが残念
345日本@名無史さん:2012/10/24(水) 20:21:05.25
そういえば九州北部に
ギラパンツ北九州ってのがあったな
346日本@名無史さん:2012/10/24(水) 20:23:39.12
鉄器軍団復活かぁ
胸熱だな
産業革命に匹敵すんだっけかwwww
347日本@名無史さん:2012/10/24(水) 20:30:04.69
石器や棍棒で立ち向かってくる畿内土人を
先進の鉄器でブッ刺し、切り伏せ
無敵九州軍団が畿内の地を短期制圧したんだ
348日本@名無史さん:2012/10/24(水) 20:31:38.23
マキムクにはスジン天皇がいたんだろ?
天皇家をのっとったのか?
349日本@名無史さん:2012/10/24(水) 20:37:52.01
>>347
無敵鉄器軍団じゃないの?
名前変ったの?

早く論文が見たいもんだ
産業革命に匹敵する無敵鉄器軍団とやらをwww
稲作が日本から朝鮮半島に伝わったと、テコでも認めたくない≪朝鮮人≫という、特異な下等生物がいる。
---------------
近年、炭素14年代測定法という最新の年代測定法の成果で朝鮮半島の稲作より日本の方がかなり古いことが分かってきている。
日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。
これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、
水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。支那政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ている。
韓国の学界には古代朝鮮人が遺伝子を見分ける何らかの術を持っていて、仕分けをした上で日本に米を伝えた!!≫とする説を唱える「学者」がいる。
願望というか発表の際に興奮気味に意地でも朝鮮半島から日本に米が伝わったことにしたいようだ。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=239502
351卑弥呼は満州にいた:2012/10/24(水) 21:50:59.30
2ch 朝鮮嫌い 日本好き
2ch 朝鮮下等 日本高等

2ch 朝鮮よりも 江南好き
352日本@名無史さん:2012/10/24(水) 22:55:19.07
近畿邪馬台の統治下、対朝鮮中国の為に北九州に軍事拠点を置いたのだろう
軍人も多く居着いたであろうから集落遺跡も多いのでは
353日本@名無史さん:2012/10/24(水) 23:06:29.74
テンノーとかウヨっぽくてキモい
テンノーは他所でやれ
354日本@名無史さん:2012/10/24(水) 23:10:03.52
>>353
サヨが良いのか?
355日本@名無史さん:2012/10/24(水) 23:37:25.98
支石墓
356日本@名無史さん:2012/10/25(木) 01:35:58.29
>>354
サヨ?
九州説では奨励事項ですけど?
357日本@名無史さん:2012/10/25(木) 02:40:29.65
>>343
九州の交易国家群から、列島全体を統括支配しようという欲望が発生したのは、
中国との政治的関係の影響だろうね。
358日本@名無史さん:2012/10/25(木) 05:23:08.30
久しぶりに来た。
4ヶ月くらい前にいた畿内君はもういなくなってしまったの?
359日本@名無史さん:2012/10/25(木) 06:28:52.29
天皇山ってのがいぱいあるよ
http://map.konest.com/ssearch/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%B1%B1
360卑弥呼は満州にいた:2012/10/25(木) 09:08:41.11
石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に九州説の アホは尽きまじ
361卑弥呼は満州にいた:2012/10/25(木) 12:41:59.93
瀬をはやみ 岩にせかるる 九州説の 割れてもうすでに アカンとぞ思ふ
362日本@名無史さん:2012/10/25(木) 13:07:32.70
  .∧ ∧.
 ( ´ン`) プッ
363日本@名無史さん:2012/10/25(木) 14:28:53.79
身はたとひ 玄界灘に 朽ちぬとも 九州説の 魂魄永遠に(たましひとはに)
364日本@名無史さん:2012/10/25(木) 14:30:36.03
   /^^ヽ
  (。・-・) ワオーー!
   ゚し-J
365卑弥呼は満州にいた:2012/10/25(木) 19:24:47.52
九州説 説きつる方を ながむれば ただありったけの 嘘ぞ残れる
366日本@名無史さん:2012/10/25(木) 19:28:44.19
あれっひとつ豚だなうんちくさい満公かな?
367卑弥呼は満州にいた:2012/10/25(木) 19:40:57.71
九州説よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
368日本@名無史さん:2012/10/25(木) 19:45:18.03
ここはおまえの日記帳じゃないぞ
369日本@名無史さん:2012/10/25(木) 22:00:55.83
九州説 想像力は たくましけり

俺も創ってみた
370日本@名無史さん:2012/10/25(木) 22:17:29.14
『古事記』では思金神、常世思金神
『日本書紀』では思兼神
『先代旧事本紀』では思金神、常世思金神、思兼神、八意思兼神、八意思金神と表記する。

事代主(言代主神)は、日本神話に登場する神。別名 八重言代主神、八重事代主

八意と八重のは同じのの訛だら

いずれも半島の南の方のの酋長さんだよな
371日本@名無史さん:2012/10/25(木) 23:41:59.10
                /::::::::シ': : : : : : : : : : : : : : :'、::::::::ヽ
                 /:::::::::::::,'  : : : : : : : : : : : : :  ',::::::::::ヽ
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 ,. --z==、______l_::::::::::l  ヘ't苙ミ,`':  :'´ft苙=ミ,  l::::::::::l
'´;:;:;l´ f´: : : : : : : : : : : :`l:::::::::l   `"""´ ;  ; `"""´   l::::::::,:' 愚か者めが!
-―l ,--!_:九:州:説:★:__ト、:::::l        ,..i  i.、       l::ィ´
   lL_ノ:::::::: ハ,,ハ :::::::::::l―'、:l       ,:'、r;__;ュ.〉、     l' l  この紋所が目に入らぬか!!
、  `´、!::::: ( ゚ω゚ ) : :::::::|  ,ノ:'、     /  : :   ヽ    ,l!ノ
:;\〈 ̄ソ:: /    \:::::::| /l、^、     '、_, =ニ=ニ= 、_ ,' .:  ,'´
(⌒丶((⊂  )   ノ\つ)).!/ リ、丶 ヽ  `` ー‐一 '´    /
`丶、,r‐ト:::: (_⌒ヽ :::: :::|  /:.:ヽ ヽ '、 ':、     ,:' /,イ
、   `~|:::::: ヽ ヘ } ::::_,」 /:.:.:.:.:.:\\丶、___,ノ/ ト、
 ` .ε≡Ξ ノノ `J ::: :::lト、:.:.:.:.:.:.:.:\\`'  、__, '"  ハl l
  ノ | |::: ::: :::::: :::::: :: :: :::::l lミヽ、:.:.:.:.:.:.:.\\      /::::l ト- 、、
372日本@名無史さん:2012/10/26(金) 09:11:34.15
大和政権というのは、畿内説に基づいて作られた概念で、教科書によっては
これが書かれているものもあるらしい。
しかし、まじめな高校生はこの大和政権をどのように考えたらいいのか
かなり迷っている。大和朝廷との違いもわかりにくい。
畿内説は、唯我独尊の韓国的な歴史観を持っているとしか言いようがない。
373日本@名無史さん:2012/10/26(金) 09:24:33.71
九州説の教科書ってどんなになるの?
短里はどう説明すんの?
自説に必要なら捏造を厭うなって説明すんのかwww
374日本@名無史さん:2012/10/26(金) 10:10:43.02
>>373
九州説の歴史観ってのは特にない。
もともとは記紀に基づく歴史観。
畿内説は記紀の重要なモチーフである神武東征からひたすら目を背けてきた。
その結果、文献に基づかない歴史観を作ってしまった。
375日本@名無史さん:2012/10/26(金) 11:03:55.27
歴史観はないけど、鉄器軍団が産業革命に匹敵すんだよなwww
376ローガン:2012/10/26(金) 15:24:30.37
>>374
>もともとは記紀に基づく歴史観。

神武東遷=邪馬台国東遷なのかなあ?
だとしたら、いつ頃のこと?
26代継体帝の503〜531年 は、半島の買地券絡みでまず動かんでしょう。
仮に、在位平均約20年としたら神武即位は紀元頃。 所謂「欠史八代」をすっ飛ばして神武即位は2世紀半ば。
合いませんなあ。「記紀に基づく」と。
あと150年ほど縮めたいね。
377日本@名無史さん:2012/10/26(金) 15:32:55.57
>>373
倭人伝の里は、東夷伝全体を読めば明らかなように1里7、80メートルで書かれて
おり、435メートルではない、と説明するんだよ。
それが当然の読み方。南とあるのを東と読み替えてはいけないってことも付け加えた
方がいいかな。
378日本@名無史さん:2012/10/26(金) 16:02:43.82
>>377
病院行って、薬飲んでから書き込めよ
ありえると思うのか無能
379日本@名無史さん:2012/10/26(金) 16:06:22.79
いくらでもあるだろう。今の日本の里は四キロだ。知ってるか?
380日本@名無史さん:2012/10/26(金) 16:10:27.71
倭人伝に限らず、公里では説明の付かない文書は多い。
381日本@名無史さん:2012/10/26(金) 16:11:40.71
ただし、短里ではなく、公里の半分程度とかが目に付く。
382日本@名無史さん:2012/10/26(金) 16:21:03.97
短里なんてのは言葉の問題にすぎない。要するに、倭人伝の里は倭人伝の記述から
割り出すしかないんだよ。客観的に分かる距離が何里と書かれているか、そこから
計算すれば1里のだいたいの長さが分かる。
383日本@名無史さん:2012/10/26(金) 16:23:23.23
>>376
>神武東遷=邪馬台国東遷なのかなあ?

神武東遷≠邪馬台国東遷

神武は、2世紀初頭に九州から畿内に入った武装難民小集団。

倭國の東遷の始まりは白村江敗戦のとき。(百済難民の畿内への受け入れ)
倭國の皇帝(天皇)の東遷は684年。
384日本@名無史さん:2012/10/26(金) 16:41:46.07
簡単に書くと、邪馬台国が何処に存在してようが、学校の授業には全く影響は無い
現状わかっている事をありのまま説明すればそれでよし

アホが距離がぁ方角がぁとか騒ごうが、元々立証不可能な魏志倭人伝も持ち出す必要はない
せいぜい、中国の史書の別伝のほんの数行に紹介されてはいるけど立証できていないで終了
それ以上誰も説明できないのにあえて踏み込むのは只の馬鹿
385日本@名無史さん:2012/10/26(金) 16:44:18.69
まーわからないことは資料不足でわかりまへんと言うのが
まっとうな歴史学だわな
ただしこのスレにいるのは偏向したアマチュアの爺さんだから
386日本@名無史さん:2012/10/26(金) 16:49:18.21
邇藝速日命をいぢると日子番能邇邇藝命ができる
387日本@名無史さん:2012/10/26(金) 17:05:56.19
淤母陀流~をいぢると天照~ができる

ただし淤母陀流~は天照~とちがって♂である

淤母陀流~は(烏母陀流~)(烏母帶~)(烏母垂~)(烏母渡~)と変換可能かと察せられる
388日本@名無史さん:2012/10/26(金) 17:18:43.43
淤母陀流~が♂であるのは

相方のが 「次 妹 阿夜訶志古泥~」かいてあるから♂だとゆうことになる

ちなみに 阿夜訶志古泥~ のは (あやか・しこめ)とよんだりするのかもしれない

ところで 阿夜訶志古泥~ の 阿夜訶は地名くさいかとみるのが良くある手

一寸検索をかけてあげると

「猿女君(さめきみ)等 負猿田毘古之男(おふさだびこのを)~名而

女呼猿女君(めこさめきみ)之事是也

故 其猿田毘古(そのさだびこ)~ 坐 阿邪訶(あやか)」

とゆうのが拾えたりする

なにか猿女君の先祖は阿夜訶志古泥~でござると書いてある気がしないでもないがどおなんだろう
389sss:2012/10/26(金) 21:05:15.97
>>376
普通は神武東征といわれるが、神武東遷でもいいかもしれない。

宋史日本伝にある王年代紀には、「凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
彦瀲の第四子を神武天皇と(号)す。筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」
とあるので、東遷も在り得る一つの説ということか。

平均在位20年は長い。徳川将軍でも17年程度。古代の天皇ならば12年程度か?
しかし、徳川将軍にように万全の体制でも世継は途切れる。紀州などから世継が
やってくる。
ということになると、初期の天皇がほとんど父子継承というのはちょっと疑問。

神武東征は時期としては4世紀になってからだと思う。
390日本@名無史さん:2012/10/26(金) 22:51:44.24
>>372
元々は近江政権だからな
  近江で前方後方墳が発生
→東海で前方後方墳が発展
→大和で前方後円墳が派生

これが真実
391日本@名無史さん:2012/10/26(金) 23:41:15.32
大和も近江もだめだな。倭の地は周旋五千里。大和も近江も、末盧国から五千里の範囲に
入っていないよ。
392ローガン:2012/10/27(土) 00:27:17.11
>>389sss
>普通は神武東征といわれるが、神武東遷でもいいかもしれない。

それ、私は使い分けないので。

>初期の天皇がほとんど父子継承というのはちょっと疑問。神武東征は時期としては4世紀になってからだと思う。

同意出来ないとはいえ、まともな意見だと思う。しかしこの見解と

>>374
>もともとは記紀に基づく歴史観。

てのは、相容れないので、九州説同士で議論すればいいんでない?
393日本@名無史さん:2012/10/27(土) 00:31:11.87
つーか中学校の社会科教師レベルなら
3世紀頃から記紀のとおりに万世一系になってるとは
だれも考えてないよ
そんなことを言うのはネット掲示板くらい
394日本@名無史さん:2012/10/27(土) 00:41:23.38
このひとのは神主ヘッドだからいたしかたない
395日本@名無史さん:2012/10/27(土) 00:47:42.67
>>393
>>374:10/26(金) 10:10
>>373
九州説の歴史観ってのは特にない。
もともとは記紀に基づく歴史観。
畿内説は記紀の重要なモチーフである神武東征からひたすら目を背けてきた。




の馬鹿馬鹿しさを言いたかったんじゃないの?
396日本@名無史さん:2012/10/27(土) 05:44:24.74
九州説の歴史観って
無敵鉄器軍団が産業革命に匹敵するってやつじゃねーの?
wwwwww
397卑弥呼は満州にいた:2012/10/27(土) 09:09:35.72
休日だ けふも妄想 てんこ盛り
398日本@名無史さん:2012/10/27(土) 09:16:09.23
歴史を学んだものなら
いろんな機構や制度が一朝一夕に進歩するものでないことはわかる
徴税や統治、輸送、軍事・・・これらの機構は奈良時代になっても
中国と比べると相当にしょぼい
これから遡って考えると、3世紀頃に長距離の軍事遠征や
広範囲の占領統治などができるはずもない
せいぜいが交易でつながった拠点集落の首長の
話し合いによる協力程度のものだろ
399日本@名無史さん:2012/10/27(土) 09:21:33.41
神武が四世紀の実在の人物って噴飯にもほどがあるだろw
400日本@名無史さん:2012/10/27(土) 09:29:37.34
卑弥呼=天照大神の九州説なら
神武天皇は4世紀の人物にならざるをえないんだけどね
401日本@名無史さん:2012/10/27(土) 09:44:27.99
記紀の系譜を信頼し根拠として、卑弥呼=アマテラスと推定する仮説は、よいとして。
その結果、神武=四世紀となり、
神功皇后(四世紀と推定される)や倭の五王(五世紀と推定される)の年代と矛盾が出る、という。

これは「記紀の系譜は信頼できない」という結論に結びつく
これは自家撞着というもんだろ。
あっさり「卑弥呼=アマテラス」説を捨てるべきだ。
402sss:2012/10/27(土) 09:59:21.43
>>401
好太王の碑文によると、倭兵が海を渡りやってきて新羅・百済を破り臣民と
するが辛卯年(391年)。日本書紀における神功皇后の三韓征伐がこれに
該当するとすれば、神功皇后の時代は4世紀終わり頃と考えるのが妥当。

天照大神=卑弥呼+台与とし、日向三代を加味すると、神武東征は早くても
3世紀終わり頃、その他もろもろを考えると、やはり4世紀になってからと
いうのが妥当。

この二つの年代を頭に入れてその間のことを考えるしかないな。
403日本@名無史さん:2012/10/27(土) 10:57:25.32
そうすると、神武〜神功皇后までの15代ほどを、70〜80年の間に押し込めるのか?
そうすると、最初の「卑弥呼=アマテラス」を仮定した
根拠「一代=○年間」と矛盾するじゃないのよ

こういうの、自家撞着て言うんでしょ?
404日本@名無史さん:2012/10/27(土) 10:59:18.13
神武東進は2世紀初頭だ。

倭奴國は108年頃に、帥升に滅ぼされた。
倭奴國の支配層の一部は、帥升によって160人の生口として安帝に献上された。
倭奴國滅亡寸前にその支配層は、九州東海岸に武装難民として逃れた。
その武装難民の長が神武の父親である。
その避難地日向で生まれたのが神武である。AD110年〜AD115年頃。
以上から、神武の大和侵入は、倭國乱直前のAD130年〜AD140年頃と推定される。
405日本@名無史さん:2012/10/27(土) 11:05:39.39
全体的な流れ

パターンA
1.九州説の人が珍説発表
2.同じ九州説の人の場合もあるが、相手に窘められる
3.何故か畿内説はと発狂
4.スレが過疎化
5.1に戻る

パターンB
1.九州説の人が畿内説批判
2.九州説の例を参考に相手に窘められる
3.めちゃくちゃな論理で畿内説はと発狂
4.スレが過疎化
5.1に戻る


どちらかだな
406日本@名無史さん:2012/10/27(土) 11:14:06.81
結局、アマチュアのやる古代史だからね
まず 天照大神=卑弥呼+台与なんてこれが正しいとはどうやったって証明できない
証明できないところから説を組み立てているから土台があやふやで
全体が蜃気楼の城のようなものになってる
ただまあアマチュアの楽しみでやるにはそれもまたよきかな、だな

戦前は資料も不足だし、記紀の内容も批判的に読まれることは少なかったから
一代の碩学がこのような形で大きく論を展開するのはままあることだったし
拝聴すべき見解も多かった
ただし現在の史学は実証の考え方が定着して
わかることを1mmずつ積み重ねていく形をとっている
これは韓国などの、現在に有利なように歴史を捏造する姿勢に比べて
たいへん正常だと思うね
407sss:2012/10/27(土) 11:36:42.39
>>403
一代が○○年というのはあくまで平均的な仮定であって、実際がそのように
なるというものでもない。現実に在位1年の人もいれば、30年の人もいるわけで。
なので、確実性の高い部分を足がかりにして、不確実性の部分を考えるのは
良い方法だと思う。

>>406
皇祖の天照大神と魏の属国の王である「親魏倭王」の卑弥呼を同一視するのは
けっこう革新的なことになる。こういう考えは年代的にもけっこう新しい。

根拠は、三国志の卑弥呼の記述と記紀の天照大神の記述が酷似していることにある。
これほど似ているのに頭から否定するのはどうかと思うが…。
408日本@名無史さん:2012/10/27(土) 11:39:24.92
>>407
否定するというより実証できないと言ってるんだよ
実証できないことは教科書に載るレベルの定説にはならない
409日本@名無史さん:2012/10/27(土) 11:46:57.30
もちろん教科書に載ってる古代史の部分が
すべて実証されているというというわけではないが
確からしさ、大きな間違いの少なさというのは年々高まってきているとはいえるだろ
それは聖徳太子その他、いろんなところに表れてきてる
410日本@名無史さん:2012/10/27(土) 11:59:43.61
もちろん畿内説にしても
例えば倭迹迹日百襲媛命が実在というのが確定してるわけではない
箸中山古墳を発掘して
百襲媛の墓誌が出てくる(ありえないと思うが)などのことがあれば
実在の可能性が高まったとはいえるだろう
そういう意味で稲荷山鉄剣のオホヒコを含む銘はいろんな波紋を投げかけた

もし百襲媛が実在とするなら
蛇を妻としたのは実話か、箸で女陰を突いて死んだのは実話か
たいへん解釈が難しく恣意的になる懼れがある
だからそういう考え方は現在ではまずとられない
411日本@名無史さん:2012/10/27(土) 12:00:51.35
あ、蛇を夫だな
412日本@名無史さん:2012/10/27(土) 12:53:27.33
倭迹迹日百襲媛命はまたの名を木花咲耶姫といい、なんだ、ニニギの妻ではないか。
木花咲耶姫とニニギは薩摩半島の笠紗の御前で出会ったのに、
富士山の浅間神社の主祭も木花咲耶姫だという事実からして、
大山紙神は、当時、日本の広い範囲に支配していたことが分かる。

その娘が卑弥呼なのだから、邪馬台国は九州から関東にまで及ぶ大帝国だったことになる。

邪馬台国九州説、大和説、どちらもスケールが小さすぎて話になりませんわ。(笑う)
413卑弥呼は満州にいた:2012/10/27(土) 17:24:59.20
一般の、まともな、良識ある社会人の感想−

神武東遷が四世紀だとか、
天照大神が卑弥呼だとか、
木花咲耶姫の娘が卑弥呼だとか、
あほらしくて話になりませんわ。(泣く)
414日本@名無史さん:2012/10/27(土) 17:35:31.52
sssのは、反論になってない
こういうのを自分都合の妄想という
415卑弥呼は満州にいた:2012/10/27(土) 17:43:55.26
私はここで九州説をからかってはいるが、
それは九州説の方がからかいやすいからそうしているだけで、
べつに畿内説に味方しているわけでもないし畿内説を信じているわけでもない。
はっきり言えば、邪馬台国は大和だろうが、卑弥呼は畿内とも九州とも関係は無いのである。
私の予想を確率的に書くと−

邪馬台国は
大和   90%
それ以外 10%

卑弥呼はどこの女王か
満州朝鮮 70%
大和   20%
九州   10%
416日本@名無史さん:2012/10/27(土) 18:28:48.91
>>415
キミの確率なぞ誰も聞いてないから
チラシの裏にでも書いとくように
417卑弥呼は満州にいた:2012/10/27(土) 19:52:06.77
君らが百年研究しても卑弥呼は突き止められないぞ。
なぜなら記紀には九州に日本を代表するような、
あるいは九州を代表するような女王がいたとは書かれていないし、
大和にも、卑弥呼にピッタリ合うような女王はいなかったからだ。
つまり記紀を否定しないと畿内説も九州説も成り立たないのである。
事実畿内説者も、邪馬台国は大和だという点では自信を持っているようだが、
卑弥呼や狗奴国の比定に関しては四苦八苦しているのが実情である。
視点を変えないかぎり、>>416のように十年もここにいても何の進歩も無いのである。
418sss:2012/10/27(土) 21:19:51.24
>>408
日本書紀では、神功皇后のところに魏志倭人伝の記述などを引用している。
だから、日本書紀は、神功皇后が卑弥呼であることを暗に示しているなどといわれる。
神功皇后の年代(201年〜269年)にもそれが表れている。

しかし、神功皇后と卑弥呼は全く似ていない。たとえば、卑弥呼は人前に出てくる
ことはほとんどないのに、神功皇后は自ら朝鮮半島に渡っているほど活動的。

つまり、記紀には、創作の意図が全く感じられない。
記紀は誰かによって創作されたものではなく、伝承や記録に基づくものであることが
わかる。

というわけで、魏志倭人伝の倭国の記述と記紀の高天原の記述が良く似ているのは
同じ事象を中国側から見たものと日本側から見たものであるといえる。
419日本@名無史さん:2012/10/27(土) 21:32:08.53
>というわけで、魏志倭人伝の倭国の記述と記紀の高天原の記述が良く似ているのは
>同じ事象を中国側から見たものと日本側から見たものであるといえる。

よくは似てないな。
例えば、
一方には馬が活躍するが、他方には馬は存在しない。
一方には魏使が活躍するが、他方にはその片鱗もない
420日本@名無史さん:2012/10/27(土) 21:43:33.02
ほとんど似ていないな
ただ一つ似てる点は、物語りの主人公が巫女的な女性だというだけ
あとはほとんど違うと言ってもいいんじゃまいか
421sss:2012/10/27(土) 21:49:17.33
>>419
たとえば、中国の歴史書に日本の女王が登場するのは卑弥呼と台与だけだろう。
記紀においても、最高位が女性なのは、天照大神と神功皇后くらい。
女王的観点からも注目すべき。

その巫女的性格や夫がいないことなども注目すべき。

馬については2000年位前の骨が見つかっていて、弥生時代から日本に馬がいたことは
わかっている。倭人伝に「其地無牛馬」とあるのは、たまたま見ていなかったのだろう。

魏使(郡使)が記紀に登場しているかどうかは不明。けっこういろんな神様が登場して
いるわけで。
422日本@名無史さん:2012/10/27(土) 21:49:33.09
そもそも、北中部九州や、関西の歴史なんぞ抹殺されている。
その代わり、出雲や南九州の話が強調される。
423日本@名無史さん:2012/10/27(土) 21:52:53.23
話はちょっとずれるが梯儁や張政が来倭時に船で馬を持ち込んだ
可能性がありそうだけどな
424卑弥呼は満州にいた:2012/10/27(土) 21:53:01.90
このsssという人は、文章はまともだから、人間としてはまともな人なのだろう。
>>418も、最後の二行以外はまともなことを書いている。
しかし最後の二行が、この人の変なところである。
人間がまともであるだけに、惜しいことである。
425sss:2012/10/27(土) 22:00:46.10
>>420
天照大神=卑弥呼+台与で特に興味深いのは、天照大神が岩戸から出てくると
それまで全く登場していなかった高皇産霊尊が登場すること。そして、
主導権は天照大神ではなく、高皇産霊尊に移っていること。

一方で、卑弥呼が死んで台与が王になると、また男王が立ち、共に中国の
爵命を受けていること(梁書)。

つまり、どちらも男女の王が並存するというきわめて珍しい状況に
なっている。

ほかにも天照大神にはスサノオノミコトという強敵がおり、卑弥呼には
狗奴国という強敵がいることも共通している。
426日本@名無史さん:2012/10/27(土) 22:13:09.29
天照とは、もともとは男神で、
歴史上の都合で女神化させたものだ。
427日本@名無史さん:2012/10/27(土) 22:30:24.64
>>425
ほとんどこじつけと思うんだが、
sss氏がそう思ってはおられない様子であることに、むしろ興味がある
428日本@名無史さん:2012/10/27(土) 22:36:37.85
二つの物語りが似ていると立証するためには、
@主な登場人物の人名が同じ、もしくは似ている
A主な地名が同じ、もしくは似ている
B周囲の人名が同じである(難升米、都?牛利など)

このような類似点がないと、同一物語りとは言えんだろ
429日本@名無史さん:2012/10/27(土) 22:43:43.90
「反映する」とか極めて便利な言葉なんだ
「卑弥呼の事績が天照大神の伝承に反映している」とかこんな使い方だな
これで何かを説明した気になってしまう
しかし何ら実証ない
現在の史学はそういうことに対する反省もあって
方向性を変えつつあるんだがな
430sss:2012/10/27(土) 22:46:03.87
>>427
これについては、白鳥庫吉以来の東京帝国大学の主流となる説と言っていい。
白鳥庫吉も倭女王卑弥呼考の中で、「その状態の酷似すること何人も
これを否認する能わざるべし」と述べている。

要するに、似ていると思うのが普通ではないかと思う。

もし、どうしてもこじつけと思うのなら、これよりも良く似ている例は
ほかにはない、と言い換えてもいい。
431卑弥呼は満州にいた:2012/10/27(土) 23:19:05.92
まあ、はっきり言うとだな、白鳥庫吉なんてのは大阿呆なのだよ。
神話と史実の区別さえついていないのだ。
江戸時代の人間なら、こんな阿呆なことは言わない。
明治以降の人間がいかに阿呆になったかを示しているのだ。
天下の東京帝国大学の教授たる者が、
神話と史実の区別さえつかなくなっているのである。
432日本@名無史さん:2012/10/27(土) 23:28:36.42
2chにかかると白鳥庫吉の権威もカタなしだわな
433日本@名無史さん:2012/10/27(土) 23:32:34.10
まあ、だいたい
過去の学者の権威を借りようとした段階で負け
そうしないと、人々を説得できない訳
434川柳の鉄人:2012/10/27(土) 23:36:22.71
>>431
>神話と史実の区別さえつかなくなっているのである。

おや、マトモな事も言うんだね。
435日本@名無史さん:2012/10/27(土) 23:44:41.31
白鳥庫吉とか昔の碩学の学識はすごいけどね
ただまあ俺が弥生時代から古墳時代をすべて論じてやるとか
その手のことは論文ではもう無理なんだよ
せいぜい退職した後に一般向けの本を書く程度
436日本@名無史さん:2012/10/28(日) 07:30:48.79
>>425
>つまり、どちらも男女の王が並存するというきわめて珍しい状況になっている。
男王の次に女王が立つ(又はその逆順)なんてのは、古代の王朝では結構ある話
(中国はないかもしれんが)朝鮮、日本、その他では珍しくもない

>ほかにも天照大神にはスサノオノミコトという強敵がおり、卑弥呼には狗奴国という強敵がいることも共通している。
近くに強敵が存在するなんてのは、古代王朝ではありふれた話

つまり論証にはなってない。こじつけに近いだろ。
437川柳の大将:2012/10/28(日) 08:09:08.27
>>425
>つまり、どちらも男女の王が並存するというきわめて珍しい状況に
なっている。

「並」並んでじゃなく、「並びに・みな」で皆、全員の意味だろ。

 並存じゃねえだべ。
438日本@名無史さん:2012/10/28(日) 08:18:40.89
似ているとか似ていないとかいっても水掛け論にしかならんだろ
それからこの説のさらに困難なところは神武東征が前提になってることだな
九州にあった邪馬台国の女王卑弥呼の記憶が
記紀に天照大神の神話として記載されるには
邪馬台国が大和に移ってこなくてはならんわけだ
439sss:2012/10/28(日) 09:05:26.39
>>436 >>437
梁書には、「卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命」とある。
中国の爵命を並び受く。というわけで同時に受けていることがわかる。

時系列から言っても、日本からの使者の記録があるのは西暦266年の一回だけ。
「泰始初、遣使重譯入貢」(晋書)
「武帝泰初二年十月。倭女王遣重訳貢献」(日本書紀)
この時に、台与と男王が一緒に爵命を受けたことがわかる。
440日本@名無史さん:2012/10/28(日) 09:19:55.28
>>439
そうすると、卑弥呼は誰と「爵命を並び受け」たんですか?
卑弥呼は「共には受け」ていない?
アマテラスは?

いずれにしても、アマテラス=卑弥呼+台与という勝手な前提を作っておいて
卑弥呼か台与のどちらかにあてはまる点をアマテラスと対比する時点で、恣意的。
441卑弥呼は満州にいた:2012/10/28(日) 09:33:02.88
並受中國爵命

この並は「どちらも」という意味で、
台与も、その後に立った男王も、という意味だよ。

同時に、という意味ではない。
442日本@名無史さん:2012/10/28(日) 09:35:55.57
まー台与の後に男王が爵命を受けたが
その記録が晋書に載ってないとみるのが一般的な解釈だろう
443sss:2012/10/28(日) 11:25:31.94
>>440
卑弥呼は一人で、台与と男王は二人で並び受けた。

>>442
西暦266年の遣使に台与が係わっていることはほぼ確実。
この時に男王と同時に爵命を受けたと考えるのが妥当。

これ以降、中国の歴史書に倭との外交記録は残っていないわけだから。
台与の後に男王がやってきて爵命を受けたとすれば、まず記録は残る。
444日本@名無史さん:2012/10/28(日) 11:30:57.85
>>443
中国は一国に二人の王は認めないだろ
別の国の王が二人来たか、あるいはどちらかが下位の位を受けているか
しかしそれだと 其後復立男王 の記述と祖語をきたすな
晋書に記録がないと解釈するのが最も無難
445日本@名無史さん:2012/10/28(日) 11:31:40.12
『梁書』諸夷傳(東夷条)  唐  姚思廉(557-637)撰(成立貞観十年(636))

正始中(240-249) 卑彌呼死(241後期 正始2)
     更立男王(241後期-247後期) 國中不服 更相誅殺
復立卑彌呼宗女臺(壹)與爲王(247後期 正始8-)
     其後復立男王 並受中國爵命(壹與の後継の王のこと 死んでなくても良し)
晋安帝時(396-418) 有倭王賛
     賛死 立弟彌 彌死 立子濟 濟死 立子興 興死 立弟武
齊建元中(479-482) 除武持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎭東大將軍
高祖即位(494) 進武號征東(大)將軍
446日本@名無史さん:2012/10/28(日) 11:35:15.10
自民・公明じゃ何も変わらない
「民主」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「みんなの党」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「小沢」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「維新の会」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「石原」ならなんかやるだろ     ←いまココ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「第三極大連合」ならなんかやるだろ   
そんな感じじゃね?
447日本@名無史さん:2012/10/28(日) 11:42:45.38
台与から倭王賛までは間があきすぎてる気がするが
梁書自体がかなり後代の書だから
たんにまとめ書きしてるのかもしれんな
448川柳の若大将:2012/10/28(日) 11:45:12.27
>>443
>卑弥呼は一人で、台与と男王は二人で並び受けた。

並受 「受ける」を「並べる」

統属 「属する」に「統べる」

いずれも、中国の爵命を受けた。

「並び受けた」日本語だべ。
449日本@名無史さん:2012/10/28(日) 12:39:54.82
いずれにしても、
天照大神と高皇産霊尊は「並びに爵命」されてないんだから、
いまの話題の流れでは、なんの意味もなし
450日本@名無史さん:2012/10/28(日) 15:20:54.55
てか邪馬台(やまと)が大和朝廷になったんだろ
遷都したかどうか関わらず畿内説は確定なんじゃ?
邪馬台(やまと)を語った集団が大和朝廷を作ったとは考えづらいし
451日本@名無史さん:2012/10/28(日) 15:55:53.37
>>450
おまえは、お呼びでない
このスレではな
452日本@名無史さん:2012/10/28(日) 15:59:27.55
>>450
折角レベルアップして来たんだから、引っ込んでろよ
2ch以下なんだよ
453サガミハラハラ:2012/10/28(日) 16:17:24.49
邪馬台にはヤマトという発音はないのですよ。台はタイまたはトイなのですよ。
邪馬台国を大和朝廷に結び付けたい人が、ヤマトとこじつけたのですよ。
454日本@名無史さん:2012/10/28(日) 16:34:29.18
どっちに加担するつもりもないが
中国の昔の発音だから何とも言えんのでは?
455日本@名無史さん:2012/10/28(日) 16:50:14.75
日本書紀で神代の時代から、都は大和(やまと)でしかないのだから、邪馬台もやまとなのだよ。
456日本@名無史さん:2012/10/28(日) 17:07:09.76
>>455
アホ
457日本@名無史さん:2012/10/28(日) 17:24:20.82
トヨではなくトイヨなのか?
458日本@名無史さん:2012/10/28(日) 17:30:56.20
そう、臺与ならトヨとも読めるが、台与はトヨとは読めん。
これ古代史の豆知識な。

臺と台は別字。同じになったのは最近の日本での出来事。
459日本@名無史さん:2012/10/28(日) 17:40:13.95
邪馬臺はヤマトじゃねーか
460日本@名無史さん:2012/10/28(日) 17:47:24.47
「巫女的な女性」というのは、
日本の古代においてはどの時代にもいた訳で

それを根拠に卑弥呼と似ているなんて云うのは、トンデモだな
卑弥呼=アマテラスもそうだし、卑弥呼=モモソもそうだし
461日本@名無史さん:2012/10/28(日) 17:48:19.67
>>458
しまった、読みが逆だった
462日本@名無史さん:2012/10/28(日) 17:50:10.49
>>卑弥呼=アマテラスもそうだし、卑弥呼=モモソもそうだし
これはともかくとして

>>「巫女的な女性」というのは、
>>日本の古代においてはどの時代にもいた訳で
>>それを根拠に卑弥呼と似ているなんて云うのは、トンデモだな
そんなトンデモでもあるまい

すくなとも突拍子も無いということはないよ
463日本@名無史さん:2012/10/28(日) 18:17:57.48
卑弥呼は富巫女、富士王朝の巫女に決まっているだろうが?
木花咲耶姫(何代目かは不明)に決まっているだろう?
九州でも畿内でもなく、富士王朝ですからね。
富士山の噴火で溶岩流に埋まった幻の富士王朝の遺跡が
発掘されればすべてが明らかになる。
464日本@名無史さん:2012/10/28(日) 18:18:29.77
モモソ=アマテラ説もあるしな
465日本@名無史さん:2012/10/28(日) 19:06:24.30
>>463
ボケ!
466日本@名無史さん:2012/10/28(日) 19:10:56.37
卑弥呼について、九州説では九州在地勢力の女首長とするが、大和説では記紀にみえる人物に結びつける傾向がある。
モモソヒメは実在の人物ではない。三輪山のオオモノヌシ神の妻になったという物語に過ぎない。
467日本@名無史さん:2012/10/28(日) 19:45:01.77
アマテラス=卑弥呼とか言っちゃってる人いるけどな
468日本@名無史さん:2012/10/28(日) 19:51:25.88
正直言って、アマテラスも、神武も、モモソヒメも、神功皇后も、
邪馬台国につながるとは思えない。

そういう意味では、神武東征否定派だな。

大和朝廷の遥か過去に、ご先祖様の誰かが、
宮崎からやってきたとか、宇佐からやってきたとか、
伝承が残っていた程度だろう。

アマテラス神話も、なんとなーく、卑弥呼っぽいかな?
って程度の話だろ。

そもそも、文献的にも、考古学的にも、
繋がりといえるほどの根拠はまるでない。
469日本@名無史さん:2012/10/28(日) 21:00:51.51
神武や欠史八代なんかは創造の産物だろう
それこそ神がみの血統を受け継いでいるから支配者として相応しいとの宣伝であろう
事実、神武はその後の天皇の軌跡をいいとこどりして現されている
それに九州の聖地から先祖は畿内にやってきたって事を示しとかないと九州豪族は納得しなかった
470日本@名無史さん:2012/10/28(日) 21:22:04.96
木花咲耶姫は首長でもないし鬼道も使わないし巫女でもないふつうの豪族の娘
引きこもってもいないし弟もいないし子供も産んでるし卑弥呼のはずがない
471日本@名無史さん:2012/10/28(日) 21:50:45.85
アマテラスと言えば伊勢神宮だが九州にも格式あるアマテラス神社ありますの?
472日本@名無史さん:2012/10/28(日) 21:59:55.47
>>471
あることはあるよ。高千穂町の天岩戸神社。
473日本@名無史さん:2012/10/28(日) 22:43:39.42
記紀に書かれてたからアマテラスが生まれたんであってアマテラス神社ってのは8世紀以後の代物だろ
474日本@名無史さん:2012/10/29(月) 00:01:57.81
伊勢神宮ならスジン期〜弥生時代に建立されたらしい
アマテラス思想が奈良飛鳥時代のものとしたら、何か神のような女神が祭られたのだろう
後のアマテラスを称せるカリスマ的な女神…
475日本@名無史さん:2012/10/29(月) 06:45:42.27
ただ女神を祀ってるのなら佐賀や福岡に沢山ある
476日本@名無史さん:2012/10/29(月) 07:33:02.59
そういえば、糸島の主要神社の、さざれ石神社が、木花咲耶姫とイワナガヒメ。
高祖神社が、高祖姫。
477日本@名無史さん:2012/10/29(月) 07:34:57.78
久留米では豊姫神社があって、周囲に広く分社があるな。
478日本@名無史さん:2012/10/29(月) 07:37:30.69
佐賀、よど姫神社は、肥前国一の宮
479日本@名無史さん:2012/10/29(月) 09:36:50.43
女神を祀るなら九州だけじゃないしな。阿波にも紀伊半島にも多くある。
480日本@名無史さん:2012/10/29(月) 09:43:49.48
女神が多いところは、広域支配以前の文化かな。
ある程度、支配を強めていくと男王の武力が必要になる。
481日本@名無史さん:2012/10/29(月) 09:46:47.46
宇佐神宮も、一応応仁天皇だが、
三柱の中央は、比売大神。

何時の時代か知らんが、男王主義者がこじつけたかな。
482川柳の大御所:2012/10/29(月) 10:28:30.42
神社は新しい。
邪馬台国時代には、関係がない。
また神奈備の時代だろう。
483日本@名無史さん:2012/10/29(月) 18:13:25.05
邪馬台国とアマテラスは まったく繋がりがない。
484日本@名無史さん:2012/10/29(月) 18:41:11.53
>>483
だとすれば、記紀に「邪馬台国」を記載してない理由も判明するな
485日本@名無史さん:2012/10/29(月) 19:03:20.40
何でアマテラス=卑弥呼と思うのだろうか
卑弥呼自体魏志倭人伝にしか出てこない
その魏志倭人伝では、卑弥呼以前にも70〜80年男王が居たといっている
アマテラスはイザナギの子なんだし違うだろ

アマテラスの親であるイザナギ
70〜80年を1代とは思えないからかなりの確率で複数
違うじゃん
それとも魏志倭人伝での長寿は許せるが、記紀の長寿は許せんとする?
486日本@名無史さん:2012/10/29(月) 19:07:41.69
あいもかわらず長大のところのおこちゃま読みかね
487日本@名無史さん:2012/10/29(月) 19:12:36.38
事実だろ
別に、卑弥呼は別王統でもいいよ
その場合、2代目の新興勢力の子女を女王にしたことになるけど
逆に不満が出そうだが、あんな成り上がり野郎の娘なぞとなり
488日本@名無史さん:2012/10/29(月) 19:57:19.75
狗奴國と邪馬壹國は相攻撃し合っているが魏に窮状を訴えるほど狗奴國は強い
壹與の時代に頼みとした魏は滅びたと思われ邪馬壹國がどうなったのか誰も知る者はいない…
489日本@名無史さん:2012/10/29(月) 20:31:05.74
「梁書」列伝によれば、
卑弥呼→倭王台与→倭王賛という流れがあって、
王朝が断絶したとは記されていないので、

王の系譜は続いただろう。ただし、倭国は続いたが「邪馬台国」という
名称はなくなったと推測される。
490日本@名無史さん:2012/10/29(月) 20:51:24.96
卑弥呼は天照大御神の時代の人ではないにせよ
崇神天皇の頃(三輪王権)の人だというのは有力な畿内説の一つ

倭迹迹日百襲姫命=崇神天皇の治世で神託を受ける巫女。ひめのみこと=卑弥呼
豊鋤入姫命=初めて天照大御神を宮中の外で祀った巫女。台与(とよ)と名前が同じ。
491日本@名無史さん:2012/10/29(月) 21:10:27.34
・モモソはスジンの姉ではない。叔母。
・モモソは結婚して子供がいる

はい終了
492日本@名無史さん:2012/10/29(月) 21:10:27.88
旧唐書では、このあとついに途絶えた、
と書かれてるな。

倭国の系譜がここで終わったということだろう。

それからは、日本伝の時代だ。
493日本@名無史さん:2012/10/29(月) 21:24:24.89
倭国の系譜が終わったのと、だいたい入れ違いに、
大和朝廷が台頭してくる。
中国の文書と整合性が取れるのは、だいたいここから。

聖徳太子は整合性が取れない。
494日本@名無史さん:2012/10/29(月) 22:17:03.95
>>491
・当時叔母や甥という概念が乏しく弟等混同した
・宮中に引きこもるに当たって名を変えそれまでの軌跡を抹消した

なんてな
495日本@名無史さん:2012/10/29(月) 23:13:11.37
>>491
百襲姫は大物主神と結婚した=卑弥呼は神の妻だったから生涯未婚だった、でいいでない?
それに、百襲姫は子供いないよ。
496日本@名無史さん:2012/10/29(月) 23:33:46.78
>>495
だから、そういうのをこじつけと言うんだよ

モモソは王にはなってない。
はい、終了。
497日本@名無史さん:2012/10/29(月) 23:38:28.15
巻向にいたであろう百襲姫は倭(やまと)を冠する名前を持っている
とうじ巻向がやまとと呼ばれたからだろう
498日本@名無史さん:2012/10/30(火) 00:09:18.10
邪馬台国には多分箸はないから
箸墓は卑弥呼の墓では無いだろう
499日本@名無史さん:2012/10/30(火) 02:02:15.63
日本書紀に「女のまじない師が初めて天下とりました」とか書きたくなかった
男系の王に花を持たせたかった
魏史に曰くの神功皇后を作り出した
または無理に当て嵌めた
500日本@名無史さん:2012/10/30(火) 02:17:43.01
卑弥呼を無視したのは卑弥呼とは別系統だから明確に無視する意図を持って無視したんだろう
卑弥呼の邪馬台国は後の朝廷に繋がる系統に滅ぼされたものと思われる
501日本@名無史さん:2012/10/30(火) 05:15:36.04
魏志倭人伝自体が何処まで本当かわからんだろ
502日本@名無史さん:2012/10/30(火) 05:44:55.30
女王っていうのが中国人の勘違いっていう可能性はあるな
実権は持ってても、あくまで明白上はただの巫女
皇后ですらないから、皇統を記す歴史書では無視されると
503日本@名無史さん:2012/10/30(火) 09:11:23.84
まあ「天皇」なんて看板のは後付けのでもとのは「王」か「大夫」かなんかなんだろうけど

基本が女系で宗族の女酋が連綿と繋がって行くわけだから

編纂物に「天皇」の看板付加されて残存している個体のは

女酋に種付け要求させられる男妾か婿様かせいぜいそんなたぐいのところだな

女酋に種付け奉仕させられるひとのは本人が死亡するとその弟とか子とかが

おかわりで自動的に出てきてけいぞくして女酋に種付け奉仕するのがルール
504日本@名無史さん:2012/10/30(火) 09:15:35.74
共産党が一番ってか?
サヨク全開だなwwww
505日本@名無史さん:2012/10/30(火) 09:20:42.58
色々解釈をねじ曲げないと保てない畿内説ってwwwwww
506日本@名無史さん:2012/10/30(火) 09:25:15.81
>>499
日本書紀では「女のまじない師(アマテラス)が天皇家の祖先です」
という雰囲気で書かれてるぞ
507日本@名無史さん:2012/10/30(火) 09:28:48.66
日本書紀が成立した頃にはマジで邪馬台国とか卑弥呼の記憶はなかったんじゃね
ただ参考にしようとして漢籍を読んだら卑弥呼の名が出てくるので
しかたなく神功皇后かもしれないという注釈をつけた
508日本@名無史さん :2012/10/30(火) 09:35:00.09
天照とは、もともと男神だが、
女神化させたのは、卑弥呼、邪馬台を一括して消すことも出来るからだろう。
509卑弥呼は満州にいた:2012/10/30(火) 09:44:46.52
見渡せば愚説珍説こきまぜて スレぞ阿呆の溜まり場なりける
510sss:2012/10/30(火) 10:01:20.51
>>445
もし、台与の後に男王が立ったのだとしたら、「並受中國爵命」の一文は
いらない。
復立卑彌呼宗女臺與爲王 其後復立男王

で十分に意味が通じる。わざわざ「並受中國爵命」の一文を加えたのは、
同時であることを強調する意味があった。

とにかく、巫女的で人前にほとんど出てこないような女王では何も始まらない。
日本書紀では、高皇産霊尊が登場して、出雲の国譲り(出雲征服戦争)、
天孫・瓊瓊杵尊の日向降臨があり、世の中が大きく動き始める。

中国の文献的にも、台与の時に男王が立ち、積極的に動き始めたのだろう。
狗奴国はこの時に屈服したと考えられる。卑弥呼や台与では何も起こらない。
倭国内部の調停・仲裁・調整ができるだけである。

男王が先頭に立つことにより、軍事力を発揮することができる。外向きに力を
発揮することができる。
511卑弥呼は満州にいた:2012/10/30(火) 12:55:51.13
sss君よ、君は高皇産霊尊、出雲の国譲り、 天孫・瓊瓊杵尊の日向降臨、
これらをいつ頃の出来事だと思っているのだ?

紀には天孫降臨は179万年前だと書いてあるんだぞ。
仮にそれがアトランティス崩壊以後の事だったとしても、
一万年くらい前のことだ。
君の思っているような紀元前後のことではないぞ。

アマテラスは卑弥呼だなどというのは、
ゼウスはシーザーだ、とかヴィーナスはクレオパトラだ、
と言うのと同じくらい滑稽なことだ。
512日本@名無史さん:2012/10/30(火) 13:09:40.66
ssくん 満州だけは 避けて居り
513ローガン:2012/10/30(火) 19:19:24.79
>>510:sss
>中国の文献的にも、台与の時に男王が立ち、積極的に動き始めたのだろう。

物語としては面白いけど、読み過ぎじゃないかなあ。
冊府元亀「晋武帝泰始元年倭人国女王遣使重朝献」
通志「晋泰始初遣使朝献臺與死其国復立男王」
「中国の文献的」には、泰始初の朝献者は臺與だし、男王が立ったのは臺與の死後。
514川柳の大御所:2012/10/30(火) 19:58:13.56
>>513
sss氏は、頭固いね。
515日本@名無史さん:2012/10/30(火) 20:04:16.72
一国に二人同時に王を立てるなんて中国はやらんだろ
常識でわかりそうなもんじゃないか
516日本@名無史さん:2012/10/30(火) 20:30:31.10
卑彌呼が生きておった時には王なるものは卑彌呼いれて約3名だと読めるけどね

倭州すなはち倭國の拡張域

これの一つの弁辰には居登さんが金官駕洛主でおいでだったし

辰韓のは反抗して殺されたぽいのが阿達羅さんので

鵲脱解の子の子の伐休さんが卑彌呼死亡後に王さまクラスので登場とかしておる

ご存知の通り鵲脱解さんは倭人で

そこいらじゅう訪問して貴人待遇のお客でおもてなしうけてからに700名ぽろぽろのひとで

そのお孫さんのが倭人系のカチガラスの伐休さん

天の日矛と兄弟なのかもしれんかもとおもえたりするけふこのごろ
517sss:2012/10/30(火) 21:34:19.69
>>511
天照大神=卑弥呼+台与。その境目は天岩戸に隠れる前とその後。
高皇産霊尊は天照大神が岩戸から出た後に登場するから、台与の時代になる。
したがって、その年代は3世紀後半。
出雲の国譲りと天孫降臨は高皇産霊尊が主導する。

まさか、日本書紀の高天原の出来事が180万年前のことと思っているわけでは
ないだろうが、人類が登場しているかどうかわからないような、そのような
年代はありえない。つまり、あてにならない。

記紀の記述が比較的現実味を帯びるのは、天照大神と素戔鳴尊との軋轢の時
なので、卑弥呼の時代あたりからの記憶が伝承として残り、いつしか記録と
なって受け継がれて来たのではないかと思われる。
ちょうど、倭人伝に書かれていた3世紀前半頃の時代になる。檄などの文字に
触れたということもあるのかもしれない。
518日本@名無史さん:2012/10/30(火) 21:37:41.82
卑彌呼が生きておった時には王なるものは卑彌呼いれて約3名 とかいてあげたけど

なかみのは「卑彌呼」と糸島の「なしこめ」と掖邪狗の父の狗奴の「卑彌弓呼」ののことね

これは魏のお客側の情報だから 最低限のが3名とゆうことで

多婆那の関係とかのも1個カウントしてあげて当然だろうし

みみさんのところもサイズが弁辰サイズのでかい統國なんだから

かなりなハイレベルの王さん相当のとかんがえるべきかなとはおもふが

まあここいらへんのは厳密には「王」の定義をどうするかでその数は変化しちゃうけどさ
519日本@名無史さん:2012/10/30(火) 21:46:29.85
sssって古事記読んだことないの確定だな

高御産巢日~ しらんのかよ 寝だら
520sss:2012/10/30(火) 21:49:09.78
>>513
それには矛盾がある。泰始初めに台与が使者を晋に送る。しかし、この後に
誰かが遣使した記録はない。つまり、台与が死んだことも、その後で男王が
立ったことも記録がない。

女王が使者を送ったのは良いとしても、その後のことは確かではない。
台与の場合は、倭人伝に書かれているように、張政を送って使者は
中国の都(詣臺)まで行っているから、台与の場合は女王として認められている
わけなのだろう。

12世紀に書かれた通志の場合は、鄭樵の勝手な解釈と考えた方が良いと
考えられる。

男王の事の書かれた文献はたくさんあるのに遣使の記録はない。そのように
考えると、やはり朝貢は泰始初めの一度だけであり、この時に「並受中國爵命」
というわけなのだろう。
521sss:2012/10/30(火) 21:51:32.30
>>519
日本書紀では高皇産霊尊となっているのだよ。
http://j-texts.com/jodai/shoki2.html
522日本@名無史さん:2012/10/30(火) 22:09:36.18
いずれにしても

あたまから2番目に出てくる酋長さんだってしらんのかよ

とゆうておるのだ
523日本@名無史さん:2012/10/30(火) 22:13:17.92
>>522

   てくる(ようなれべるの古層の)酋長
524日本@名無史さん:2012/10/30(火) 22:16:04.03
言っとくけど、記紀の神話部分と歴史部分って同時進行だお
期日が特定されてるのが歴史部分、期日が特定できないのが神話部分に書かれてるだけだからね
525sss:2012/10/30(火) 22:21:01.29
>>522
いわゆる造化三神というやつだな。
確かにその二番目に出てくる。古事記では天御中主神・高御産巣日神・神産巣日神。

しかし、その後は登場しない。イザナギ・イザナミの時にも、天岩戸に隠れる前の
天照大神の時にも登場しない。天照大神が岩戸から出てくると登場し、活躍する。
日本書紀には、皇祖と書かれている。どうも本来はそうだった可能性もある。
526サガミハラハラ:2012/10/30(火) 22:56:04.25
>>520 都までいって貢献するのは特別で、普段は帯方郡に貢献するのです。
ですから、帝室の記録にはないのです。
527卑弥呼は満州にいた:2012/10/30(火) 23:09:52.44
>>517
179万年前と言えばアトランティス時代である。以前にも書いたが、
ニニギとウガヤは恐らくアトランティス時代の話である。

それ以前をレムリア時代といい、アダムとイヴの話はレムリア時代のことである。
アマテラスとスサノオも恐らくその頃の話だろうが、
あるいはアトランティス時代の話かもしれない。

ついでに言うと、ギリシャ神話の神々はアトランティス時代の話である。
528ローガン:2012/10/30(火) 23:31:53.18
>>520:sss
史料が少ないので、隔靴掻痒と捉えるか、翼を広げるの違いでない? 因みに私は前者。

>12世紀に書かれた通志の場合は、鄭樵の勝手な解釈と考えた方が良いと考えられる。

もとより承知。では「通志の記述は編者の主観。しかし梁書はそうでは無い。」とする根拠は何?
私の云わんとする所はそこ。

>やはり朝貢は泰始初めの一度だけであり、この時に「並受中國爵命」というわけなのだろう。

冊府元亀朝貢「晋武帝泰始元年倭人国女王遣使重朝献扶南国亦遣使朝。 二年十一月倭人来献方物。」
些細な事だけど こんなのもある。
529日本@名無史さん:2012/10/30(火) 23:35:29.25
sssは始めに結論ありきで考えが固まってるから
ずっとこのままやろ
530sss:2012/10/31(水) 00:43:29.78
>>528
梁書の「並受中國爵命」は皇帝もかかわってくる外交的な記述なので
信頼性も高いと考えるのが普通。年代も梁書は7世紀で、通志は12世紀。

梁書には台与が死んだとは書かれていないわけで、
500年もあとの文献に違うことが書かれていたら、後の方を疑うのが自然。

>冊府元亀朝貢「晋武帝泰始元年倭人国女王遣使重朝献扶南国亦遣使朝。 
二年十一月倭人来献方物。」

これは、あとの文章は武帝記のものだな。要するに、同じ出来事を言っている。
つまり、同じ出来事を二度重ねて書いている。冊府元亀も11世紀のものだが、
かなりいい加減なものだ。
531卑弥呼は満州にいた:2012/10/31(水) 09:23:33.83
邪馬台国論争なんてものは、趣味の問題だから、まあ、どうでもいいのである。
それより人類の歴史の大略をきちんと理解することの方が大切である。

アダムの話はレムリア時代だということ、
カインとアベルの話はアトランティス時代だということ、
ノアの方舟の話はアトランティスの沈没から逃れた話だということ、
ノアの方舟がアララト山に漂着したのは一万年ほど前だということ、
アトランティスから逃れた人々が世界中に散らばったのだということ、
日本民族もその一人であったということ…。

民族の神話や伝説として語られているのは、
概ね、レムリア時代やアトランティス時代のことなのである。
記紀神話も例外ではない。
532sss:2012/10/31(水) 10:16:46.22
>>530
補足しておくと、冊府元亀の泰始元年は、晋書などの泰始初を勝手に
書き替えたものと思われる。というのは、司馬炎が魏の元帝から禅譲された
のは西暦265年の12月で、泰始元年は一ヶ月もない。

一ヶ月弱で、晋の建国が倭に伝わり、倭が使者を派遣するのは無理と考えられる
からである。
533日本@名無史さん:2012/10/31(水) 10:54:44.21
「父子兄弟、並受殊恩」という表現があるように、
「並受」は、同時でなくても使われる。

もちろん、同時の場合でも使われる。
534ローガン:2012/10/31(水) 14:43:13.74
>>530:sss
>梁書には台与が死んだとは書かれていないわけで、500年もあとの文献に違うことが書かれていたら、後の方を疑うのが自然。

とはいえ、その部分、冊府元亀の編者は「晋武帝泰始元年倭人国女王遣使重朝献」とし、
通志の編者は「晋泰始初遣使朝献臺與死其国復立男王」と理解した訳だ。
また、神功紀六十六年「是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云、武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」
何故そこに書かれたかはさておき、出典を明記した上で引用している。
さてさて、先人の残した記録と、君の「読み」果たしてどちらが支持を獲るんだろうかね。
535日本@名無史さん:2012/10/31(水) 21:12:45.00
>>527
>179万年
これを179万日として基準日をユリウス通日とすると、あら不思議。

ユリウス通日は七曜から計算されたものだけど、これは時間までも含んだ概念。

日本書紀の記述からすると、当時は太陽・月に加えて木星の運行も参照してたことは明らか。
七曜からTIMEを除いたものと太陽・月・木星の運行から計算された日付が一致したとしても、何の不思議もないんだよね
536日本@名無史さん:2012/11/01(木) 07:10:57.64
>>535
179万2470年だよ

なんで179万年を日にするの
2470年は?
537sss:2012/11/01(木) 17:34:47.00
>>534
まあ、ずっと後の中国人には二人の王が並立するという状況は全く頭になかったのだろう。

しかし、記紀では「天照大神と高皇産霊尊は」あるいは「高皇産霊尊と天照大神は」
という風に対で語られることが多い。高天原に同格の主宰者がいたことは確かである。

また、梁書を見ると、「卑彌呼死」「賛死、立弟彌」「彌死、立子濟」
「濟死、立子興」などと書かれているのに、台与が死んだとは書かれていない。

卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命

しかも、通常では必要のない「並受中國爵命」の一文まで付け加えてある。
梁書的には、台与と男王の並存が書かれていたと考えるのが妥当。
538日本@名無史さん:2012/11/01(木) 17:43:01.90
同格の主宰者とは読めない

むしろ天照は嫁か若い妾のようなたちどころ
539川柳の世話役:2012/11/01(木) 19:04:06.01
>>537
【俀王以天爲兄、以日爲弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。】

【高祖曰「此太無義理。」於是訓令改之。】

 天子は一人。
540日本@名無史さん:2012/11/01(木) 19:07:41.74
「あまご」と「ひこ」だか「ほこ」だかのことだら
541sss:2012/11/01(木) 20:42:11.70
>>538
それは言えるかも知れない。
重要な事項は高皇産霊尊主導なのだろう。
日本書紀には、皇祖・高皇産霊尊と書かれている。
これが本来の姿だったという説もある。
542 【豚】 :2012/11/01(木) 21:36:53.87
大吉が出れば、邪馬台国は九州に決定!
543日本@名無史さん:2012/11/01(木) 22:17:13.90
ふーん。じゃ高皇産霊と天照は、神武東征を、日向のモニタールームで見つつ、指示を出してたんかい?
544sss:2012/11/01(木) 23:43:03.99
>>543
高皇産霊尊と天照大神は高天原を治めていた。
この二柱の神の命により、天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は日向に天降った。
瓊瓊杵尊は天照大神の孫であると同時に高皇産霊尊の孫でもある。

瓊瓊杵尊が日向に降りて以降、高天原が記紀の舞台になることはない。
瓊瓊杵尊以下三代が日向で過ごし、四代目の神武天皇が東征の旅に出る。
神武天皇が東征すると、記紀の舞台は近畿地方に移る。
545日本@名無史さん:2012/11/02(金) 00:49:15.54
>>544
天孫降臨直前、天つ神は出雲や大和(奈良)や伊勢や紀伊や美濃など、本州を収めていたのですよ
なんで天孫降臨で日向の辺境へ引き籠ったの?
神武東征で本州再征服って、二度手間じゃない?
546sss:2012/11/02(金) 09:09:36.68
>>545
高天原は本州ではないと考えられる。
まず、出雲の国譲りがある。次に天孫の日向降臨が書かれている。

恐らく、この後に饒速日命がヤマトに降りている。
饒速日命は、天津神の一族で神武天皇と同族であり、天磐船に乗って(高天原から)
やってきたと日本書紀に書かれている。

日本書紀などから窺われるのはこれだけであるが、高皇産霊尊の登場により、
勢力が出雲、日向、ヤマトと各方面に拡大しているのがわかる。
饒速日命のようなことがもっと他にあったに違いない。

高天原がどこだったかは、これらの出来事から推定できると思う。
547sss:2012/11/02(金) 09:11:10.27
ちなみに、東遷説的には高天原=邪馬台国となる。
548卑弥呼は満州にいた:2012/11/02(金) 09:31:59.53
高天原は、常識としては天界、霊界のことであるが、
あるいは、アトランティスのことかもしれない。
549日本@名無史さん:2012/11/02(金) 10:38:32.04
>>547,548
笑えるな
ここは一応学問板でカルト板じゃないぞ
550サガミハラハラ:2012/11/02(金) 10:49:14.96
高天原についてであるが、これは佐賀県脊振山中の盆地であるということに間違いはないであろう。
ただし、高天原という名は中国の神仙思想の影響を受けた名であって、
記紀編纂の時代あたりから使われたもののようである。
551日本@名無史さん:2012/11/02(金) 11:01:20.48
>>550
高天原廣野姬天皇
場所のことじゃないだろう
あほか?観念の世界の話だろう
552sss:2012/11/02(金) 12:43:38.44
高天原は実在する場所の反映。
観念の世界なんて畿内説に思いっきり洗脳されてるな。
553日本@名無史さん:2012/11/02(金) 13:06:11.33
          ヘシオドス      日本書紀
原初の生成  まず混沌が生じた  陰陽の別もない混沌があった
最初の神   ガイア(大地)     国常立、国狭槌(国=大地)
神の住まう地 オリュンポス山    高天原
太陽神     ヘルメス       大ヒルメ
多頭竜退治  ヒュドラとヘラクレス 八岐大蛇と素盞鳴
554日本@名無史さん:2012/11/02(金) 13:10:19.22
記紀はギリシャ神話を取り入れたといえる
555日本@名無史さん :2012/11/02(金) 13:11:18.64
東遷があるとすれば、狗奴国が関連する。
唐古・鍵で、すでに巴型銅器が出ており、マキムクも全体像を明らかにすることは、体制側が憚るだろう。
出自を明らかにするのは憚れるので、より南方の神話を利用したということ。
556日本@名無史さん:2012/11/02(金) 15:14:17.64

自民・公明じゃ何も変わらない
「民主」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「みんなの党」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「小沢」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「維新の会」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「石原」ならなんかやるだろ     ←いまココ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「第三極大連合」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
557日本@名無史さん:2012/11/02(金) 16:24:00.52
>>552
九州・近畿説には関係ねぇだろ
なぜ、孫が降りるんだ
草壁が死んじゃったから?

>高天原は実在する場所の反映。
実在の理由は?
558お得♪:2012/11/02(金) 16:55:49.64
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559日本@名無史さん:2012/11/02(金) 17:03:43.53
>>554
ユング風に言えば、取り入れたというより、
集合的無意識からくる神話的元型ということになるんだろう。
560sss:2012/11/02(金) 21:06:55.57
>>557
古事記によると、葦原中国平定後、天照大神の子の天忍穂耳命に葦原中国を治めさせる
つもりであったが、身支度をしているうちに邇邇芸命(ニニギノミコト)が生まれ、
こちらの方がふさわしいということで、孫の邇邇芸命が降臨した。

日本書紀では、天照大神の息子と高皇産霊尊の娘との間に生まれたのが
瓊瓊杵尊(邇邇芸命)で、高皇産霊尊はこの孫をことのほか可愛がり、この孫を
葦原中国の主にしようと考えた、とある。

というわけで、高皇産霊尊の血を受け継いでいることが重要だったのだろう。
特に、日本書紀には高皇産霊尊を皇祖と書いているわけで、天忍穂耳命だったら、
天照大神の血筋だけを受け継いでいることになって困ったことになる。

ちなみに、持統天皇が孫を即位させたことに絡める説については、

神話的意味を無視した門外漢による乱暴な想像といわざるをえない。
最初から創作されたものという前提で考察しているかぎり、歴史学者の意見は
いつまでも僻事のままである。

という意見もある。

……
記紀の主要な舞台は、高天原と出雲それに日向となっている。
出雲と日向の間にあるのが高天原だと思う。
561日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:31:03.81
>最初から創作されたものという前提で考察しているかぎり
誰かが作ったんじゃないんでしょう
562sss:2012/11/02(金) 21:40:16.17
>>561
記紀は、いろんな伝承や記録を元に編纂されたものというのが一般的だが、
記紀編纂時に誰かの圧力で創作されたという意見もある。

たとえば、天照大神は持統天皇がモデルで、持統天皇が孫を即位させることを
正当化するために、天孫降臨を創作したなど…。
563日本@名無史さん:2012/11/02(金) 21:48:50.82
>>562
天武・持統天皇以外の歴代の天皇が、天照大神を参拝されない
事について、どう解釈されてますか?
564日本@名無史さん:2012/11/02(金) 22:40:12.13
えっ
565日本@名無史さん:2012/11/02(金) 22:40:23.55
sssは弱いな
高皇産霊尊と天照大神が「並受」か?
566sss:2012/11/02(金) 22:53:43.14
>>563
持統天皇の場合も伊勢参拝には猛反対があった。
天照大神が伊勢に祀られていることや高皇産霊尊を祀る神社が少ないこと、
天皇の参拝がないこともそれなりの理由がある。

つまり、崇神天皇の時代の大きな災いが理由と考えられる。
民の半数以上が疫病で死に、反乱するものが後を絶たないというあの状況。

崇神天皇は困り果て、倭迹迹日百襲姫の助言により、出雲の大物主神を祀る。

災いが出雲の祟りだと考えられたからである。すなわち、出雲の国譲りは
大規模な出雲征服戦争であり、出雲に大きな災いをもたらした。その祟りが
崇神天皇の時代に起きたわけである。

大物主を祀ることにより、災いは収まる。それ以来大物主神は皇室の守り神
になる。そこで処遇に困ったのが、出雲征服の主導者である高皇産霊尊と
天照大神。二人の皇祖は、これを境に宮殿を離れ、違う場所に祀られる。

同時に、天皇の参拝も憚られるようになった。変わりに斎宮制度が生まれ、
皇女などの斎王により、天照大神は祀られるようになる。
567日本@名無史さん:2012/11/02(金) 23:05:28.69
まぬけ

崇神天皇なるはたたり神ご本人ぢゃろが

たたりで被害こうむった酋長さんに崇神のネーミングはふつうにへんだろ
568sss:2012/11/02(金) 23:09:04.53
>>567
おいおい、「崇」と「祟」は別の文字だぞ。
569日本@名無史さん:2012/11/02(金) 23:16:29.19
今度は「祟り」かい
学問版だぜ
後の天皇は、伊勢神宮に行っても天照大神の参拝はなしだろう
ちがう?
570日本@名無史さん:2012/11/02(金) 23:20:15.01
宮中の賢所には、アマテラスが祀られてるんだが
571sss:2012/11/02(金) 23:23:15.46
日本の歴史で「祟り」はけっこう大きな意味がある。
たとえば、西暦720年に大和朝廷は大規模な遠征を行い、隼人を壊滅に追い込む。
このとき、隼人の首を百人ほど持ち帰った。そこで、大きな災いが起きた。
これが隼人の祟りだと考えられ、その霊を慰めるために宇佐神宮が整備された。

また、大宰府に左遷された菅原道真が死んだ後、京では災いが多発した。
これは道真の祟りだと考えられ、道真の霊を慰めるために太宰府天満宮が
建立された。
572日本@名無史さん:2012/11/02(金) 23:27:10.70
まちがったふりしてへんな読みに誘導したり文字すりかえるのは古事記の得意技だからなあ

原型のが「祟」なのか「崇」なのかの証明なんてだれもできっこないんだよね
573日本@名無史さん:2012/11/02(金) 23:28:29.73
ああ古事記ではたんなるはんこもろたおひとだけどもね
574日本@名無史さん:2012/11/02(金) 23:35:46.45
>>570
明治天皇以後だろう。
神道事務局の祭神をめぐって、伊勢と出雲が「殺す、殺さない」の
騒動を起こして、明治天皇の判断で最高神に位置付けされたんだろ。

その間の天皇達は、何故知らん顔なの?
575ローガン:2012/11/03(土) 00:13:58.96
>>566:sss
話としては興味深いけど、その前に
>>401氏の指摘に反論して貰えればと 思いますな。
576日本@名無史さん:2012/11/03(土) 11:12:00.66
                    Λ_Λ
                    < `∀´ > トンスル飲むニダヨ
                   \    /   
                    |⌒I │
                    (_) ノ
             ______ _..レ__    ___
            /r''''''i i'''''ヽ|`i i'''ヽ`'i  i'´r.⌒ヽ|
                 | |    | L,丿丿 ヽ、_`''ヽ,
                 | |    i i'''ヽ`''i i、  `ヽ`}
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             朝鮮総連 ブロードキャスティング システム
577卑弥呼は満州にいた:2012/11/03(土) 18:58:56.92
九州スレは冬ぞ寂しさまさりける 人目もwも枯れぬと思へば
578日本@名無史さん:2012/11/03(土) 20:16:42.87
>>574
宮中には賢所(平安時代ごろからある。名称は温明殿→内侍所→賢所と時代により変化)
というのがあって、中には「天照大神の依代としての八咫鏡の分身(模造神鏡)」が奉安されている。
代々の天皇は、行事等で常々これを拝礼しており、

>>563
>天武・持統天皇以外の歴代の天皇が、天照大神を参拝されない事
というのは間違い。
「代々の天皇が伊勢参りされない」と言うならば、あるいはそうかも。
579日本@名無史さん:2012/11/03(土) 20:37:59.62
ヤマトタケル、景行天皇は伊勢参りしてる。
孝明天皇は伊勢神宮を「遠くから遥拝」してる(伊勢神宮に行幸予定だったが、事情により中止した)。

基本、天皇は幕府から遠出を禁止されており、希望しても伊勢まで行けなかったらしい。
(隠密で行っていた可能性はある)
580sss:2012/11/03(土) 20:59:51.37
>>575
記紀の記述を前提にしているからこそ、神武天皇や神功皇后などの
固有名詞が出てきてこれを参考にすることができる。

したがって、記紀に登場する人物の名前を使いながら、記紀の系譜を
信頼できないという>>401の方が自己矛盾に満ちていると思う。
記紀の系譜は信頼できるということを前提として、その上で矛盾点を
正していくべきだろう。記紀に登場する人物名を使用するのならば…。

日本書紀の三韓征伐の記述と好太王の碑文が同じことを指していると考えれば、
神功皇后の時代は西暦390年代くらいになる。14代・仲哀天皇が380年代くらいか。
台与が西暦266年に生きていたことはまず間違いないので、この時代は高天原の
天照大神の時代になる。

この二つの年代が正しければ、その間に日向時代や神武東征などを織り込んで
行くしかない。入らないだろうといわれても困る。むしろ、入れなくてはならない
と思う。

つまり、130年くらいで、日向三代を含め仲哀天皇まで17代が存在したことになる。
記紀が初期の年代を引き延ばしていることは明らかなので、欠史八代を
除く考えも可能かもしれない。

それとも他に何か言い知恵があるかな?
581sss:2012/11/03(土) 21:02:07.69
>>580
>それとも他に何か言い知恵があるかな?
良い知恵の間違い。
582卑弥呼は満州にいた:2012/11/03(土) 21:29:29.05
残念だがsss君の推理は外れている。
というのはネット高句麗史の永楽大帝紀に次のような記事があるのである。

時, <倭>寇<帶方>. 命<朋連>移攻<倭>船斬獲無算.
此皆海賊之徒, <仁コ>之所不知者也. <仁コ>遣使謝罪, AD404

四月, <宝金>斬<倭>寇三百於<獨山>, 去年之餘寇也.
<倭>地, 多大島異類, <仁コ>之化不能盡, 及故如是, 云. AD405

広開土王碑に書かれているのは倭の海賊である。
仁徳が謝罪したと書いてあるから仁徳の時代である。
583sss:2012/11/03(土) 21:47:12.22
>>582
その「仁徳」というのは、仁徳天皇のことではなく「じんとく」、要するに
情け深い心、みたいな意味だろうに。
584日本@名無史さん:2012/11/03(土) 21:51:29.04
このひとも原文読むの面倒だってゆうひとなのか?
585日本@名無史さん:2012/11/03(土) 23:42:13.65
>>582
仁徳の諡号は8世紀の後付だぬ
586日本@名無史さん:2012/11/04(日) 08:12:35.14
国家事業として立てた記念碑に、
「海賊にヒドイことされたんで、仕返ししました」

なんて書くか?恥ずかしい、言わせんな。
587卑弥呼は満州にいた:2012/11/04(日) 10:09:08.32
誰に向かって怒っているのか知らないが、ネット史にそう書かれているのだから仕方ない。
それに海賊であろうとなかろうと、仁徳の時代であることに変わりはない。
sssの考えているような神功皇后の時代の話ではないのである。
588sss:2012/11/04(日) 11:08:15.38
>>587
長寿王が残した好太王の碑には、「そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民で
あり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・
新羅を破り、臣民となした」と書かれている。

これに対応すると考えられる日本書紀の記述は神功皇后の三韓征伐しかない。
「神功皇后が朝鮮半島に行くと、新羅は神の兵がやってきたと地図と戸籍を
差し出して戦わず降伏し、朝貢を約束した。新羅が降伏したと聞いて百済と
高麗も降伏した」とある。

仁徳天皇は神功皇后の孫であり、倭の五王(讃・珍・済・興・武)に比定される
ことが多い。讃は413年(東晋)から430年(宋)あたりまで、珍は438年。
このあたりじゃなかろうか。
589卑弥呼は満州にいた:2012/11/04(日) 12:41:51.50
>>588
好太王碑のその部分の読み方については異説がある。

また三韓征伐に対応すると思われる記事は他にもある。
三国史記にもネット新羅史にも書かれているが、
倭人が襲来してきたという噂で民衆が避難したという記事だ。
その噂は嘘だったと書かれているのだが、おかしなことに、
翌年倭と講和しているのだ。あるいはこれが三韓征伐なのかもしれない。
新羅は、征伐されたと書きたくなかったので、こういう変な記事にしたのかも。

倭の五王は日本の王ではない。それは武の上表文を読めば分かるのだが、
ここで教えるわけにはいかない。
590日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:45:28.36
そりゃ日本の王ではないだろう。倭の王だよ。倭国=九州、そんなことも知らなかったのか。
591sss:2012/11/04(日) 12:54:52.30
>>589
まあ、新羅や百済が倭の臣民になるという記録を韓国が素直に受け入れるわけが
ない。なので、当初は、好太王の碑文は、日本の軍部が朝鮮支配を正当化する
ために捏造したものだと言っていた。最初は、記述を認めていたわけだ。

ところが、中国の学者が本物であることを確認すると、今度は碑文の内容に
異議を唱えて、臣民としたのは倭ではなく、高句麗であるという異なる解釈を始めた。

邪馬台国論争みたいだといえば、そう言えるかも知れない。
592sss:2012/11/04(日) 12:58:37.91
武の上表文には、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること
六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国…」との記述がある。
これはどう見ても九州ではない。近畿地方を拠点とする大和朝廷的な観点だろう。
593日本@名無史さん:2012/11/04(日) 13:25:39.80
毛人とはだれかというのが気になって調べたことがあるのですが、
毛無山という名の山は全国にあって、
ウィキペディアによれば、西は、 岡山県真庭市から山梨県南巨摩郡身延町、北海道小樽市にまであります。
実は、九州にもあります。

毛人とは、山の民。日本の原住民の総称のようで、毛人の国というだけでそれが東日本とは言えないようです。
594日本@名無史さん:2012/11/04(日) 13:50:11.72
それと、毛無は焼き畑と関係があるのではないかと思われます。
京都大文字焼も焼き畑農業の名残ですし、毛野氏は焼き畑の民ではないでしょうか?
しかし、水田稲作を持ち込んだ弥生系の移民と居住地が接近すると、衝突が起きたことは容易に推測できます。
595日本@名無史さん:2012/11/04(日) 14:18:14.65
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596日本@名無史さん:2012/11/04(日) 15:02:56.90
>>593
昔から蝦夷のことを毛人と言ったのだよ
597卑弥呼は満州にいた:2012/11/04(日) 16:04:12.83
>>592
蝦夷や毛人というのはアイヌのことではない。
それは山形明郷が詳しく考証している。つまり、

東征毛人五十五国 西服衆夷六十六国 渡平海北九十五国

この記事に該当するのは日本だけではないのである。それはどこかは教えないが。
ついでにいえば海北とは伝統的に渤海の北を指す。

卑弥呼に関してはネット史の阿達羅紀に次の記事がある。

五月 倭女王遣其弟狛比古等 獻其土物 請交易物貨 乃立倭典 與之通聘 A.D.232  

A.D.232 といえば神功皇后の在位期間中だし、卑弥呼の生存中である。
だから神功皇后が卑弥呼だと見なして何の問題も無い。
598日本@名無史さん:2012/11/04(日) 17:14:48.22
卑弥呼    247年没
応神の母  370〜         ←神功皇后
応神か仁徳 413年頃の倭王讃
雄略     477年頃倭王武
599日本@名無史さん:2012/11/04(日) 17:21:38.52
満州に エサをやるなと 何度言い
600日本@名無史さん:2012/11/04(日) 17:23:23.67
>海北とは伝統的に渤海の北を指す。
そんな資料ないよ。
601日本@名無史さん:2012/11/04(日) 17:25:25.99
海の北は半島でしょ
602日本@名無史さん:2012/11/04(日) 18:09:43.14
高天原は弥生時代の墓から鏡が出る、福岡か佐賀だ。
アマテラスは筑紫生まれ。
アマテラス=卑弥呼、台与
603日本@名無史さん:2012/11/04(日) 20:24:52.99
>>593
大和朝廷から見た敵対勢力はだいたい変な名前になっている。
熊襲、土蜘蛛、蝦夷、兄猾、八十梟帥なんてのもある。
毛人も特に意味があるとも思えないけど。
604日本@名無史さん:2012/11/04(日) 20:26:22.68
まあ、同じ部族でも、仲間になった一派とならなかった一派とでは呼び名からしてまったく違うからねえ。
605日本@名無史さん:2012/11/04(日) 20:51:20.75
マン臭の言う、ネット何とか史とは何ですか?w
606日本@名無史さん:2012/11/04(日) 20:54:22.25
半島人による工作です
607日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:04:01.64
宮内庁書陵部が半島占領下にゲットして隠匿しているとされる一連の半島系の古代編纂物で
なかみ読み込むと記紀の成立期にでかしたぶつとかがメインのだと理解しているよ。
記紀の漫画スタイルのとはエロちがってなかみ編年体のちゃんとした記事がぞろぞろで大量。
608日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:14:28.51
んでも捏造だけどね
ただ韓国だとあれを資料として論文を書く大学教授とかそのうち出てくる
609卑弥呼は満州にいた:2012/11/04(日) 21:33:37.18
>>605
ネットで公開されている朝鮮古文献である。
高句麗史、新羅史、百済史がある。
高句麗史には別に芻牟鏡というのもある。
高句麗史、新羅史は500年代で終わっている。
新羅史は婆娑尼師今以前は欠けている。
高句麗史も明治大帝紀が欠けている。
百済史は温祚王から古爾王までしかない。

公開しているサイトは数種類ある。たとえばここ。
ただしここでは芻牟鏡や百済史は一部しか見れない。
http://www.coo2.net/bbs/zboard.php?id=con_1&page=2&sn1=&divpage=1&sn=off&ss=on&sc=on&select_arrange=headnum&desc=asc&no=140
610日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:51:15.38
なんで掲示板なんかでしか公開できないの?
611日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:52:30.74
なんで写真版や書籍で公開できないの?
612日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:54:31.80
古墳発掘させないのと似たようなところかな
613日本@名無史さん:2012/11/04(日) 21:56:26.73
芻牟鏡では

芻牟さんが親子孫三代ならべておいて孕ませたとか

のもあるし恥ずかしいとゆうのもあるかも
614卑弥呼は満州にいた:2012/11/04(日) 22:01:47.10
原書の写真はサイトに出ている。
ただ韓国でも活字本としては出ていないのかもしれない。
そのうち活字本も出るだろうし、
そうなれば日本でも活字本が出版されるだろう。
あと十年か二十年もすれば、
これを読まずに古代史を論ずるものは相手にされなくなるだろう。

ここでこのネット史を捏造だと言っている奴は、
いわゆるネトウヨと呼ばれる男だから気にする必要はない。
615日本@名無史さん:2012/11/04(日) 22:13:44.17
朝鮮説と戦うには伊作あたりが適任なんだが
10年後の存命は怪しいか
616正統派論客:2012/11/04(日) 22:41:09.95
ほほ〜い。天才を忘れないでいてくれたか。
朝鮮説などは相手にもしないぜ。あれは素人相手のお遊びだ。
617卑弥呼は満州にいた:2012/11/05(月) 09:03:15.35
天災は 忘れた頃に やってくる
618日本@名無史さん:2012/11/05(月) 09:44:07.96
ちっ、ざぶとん一枚やれ
619日本@名無史さん:2012/11/05(月) 09:47:26.12
しかし、あれだな
ネット朝鮮史は、ちゃんとした著者名や書名がないとこ見ると、かなり怪しいな
王に「帝」という用語を使ってるとこ見ると、大韓帝国以降に作成が濃厚だし
620卑弥呼は満州にいた:2012/11/05(月) 12:29:24.27
高句麗史は表紙 : <高句麗史>抄 內容 : <高句麗>史略
著者は第二十三世<安原大帝>紀の巻末に[南堂 朴昌和 先生 遺稿] とある。

新羅史は不明。金天大帝法興眞王紀の巻末に《大尾》とあるから続巻はないことが分かる。
どちらも六世紀に書かれたものであることが予想される。

百済史には百濟書記と百済王紀の二書がある。著者は不明。

雛牟鏡は原題である。ネット高句麗史に雛牟鏡〜巻が完成したという記事がある。
621唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/05(月) 13:06:32.34
ネット朝鮮史は、正しい奈勿王に3国史の記事を書き加えたものである。
味鄒泥師今 262~284 金 慶州金氏の始祖金閼智6代孫。母は朴伊?の娘朴氏。妃は光明夫人昔氏。沾解王が息子無しに死んで大臣たちの推戴で王になった。
儒禮泥師今 284~298 昔 助賁王の長男。母は朴氏。
基臨泥師今 298~310 昔 助賁王の孫や次男という説がある。
訖解泥師今 310~356 昔 奈解王の孫。母は助賁王の娘命元夫人昔氏。基臨王が息子無しに死んで貴族によって推戴された。
奈勿麻立干 356~402 金 味鄒王の甥であり婿。母は休禮夫人金氏。妃は味鄒王の娘保反夫人金氏。新羅の古代国家を整備し以後金氏が王位を世襲した。
實聖麻立干 402~417 金 母は昔登保の娘伊利夫人昔氏。妃は味鄒王の娘 阿留夫人金氏。

奈勿は干支の示す年代で古代へ移動する。 317年奈勿元年。
高句麗は動かない。
百済王家は120年差から74年差へと46年古くなる。
622唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/11/05(月) 13:15:50.49
奈勿大聖神帝紀
307年(367年)丁卯 赤土(赤兎:精妙)二月先今儒礼崩 九月以康世女千康妻夫余太子吉须 近仇首(吉须)
☆329年己丑 神功55年(木狗:乙亥)十一月近肖古殂谨须立遣发亥吊之
317年 元年丁丑五月受禅于桃卽位于明宫大赦天下尊父末仇角干为帝
十一月加耶君守克殂慕诃立以宣失为太后时加耶与倭相通不遵朝廷之令
至是以倭王女为妻而不听宣失之言遣使责之
318年 二年苪寅正月行虎祭   この年女系から男系への変換を決める。
323(AD383)癸未・神功四九己巳・7年正月里子(水羊=癸未)祭を行った。千熊長彦
326年丙戌 神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)
☆338戊戌・神功六四甲申・8年(AD384)正月牧神(木神=甲申)祭を行った。夫余谨须殂
枕流立其母阿尒执政遣千世吊之
☆345乙巳・応神二辛卯・白土(白兎=辛卯、AD391)年 十一月辰斯卒于狗原阿尔乃立阿莘为君
☆印は差込記事とする。
その理由
神功49年=倭臣熊彦=千熊長彦とする。
七支刀が369年銘で372年にもたらされたとすると、神功50年に百済の使者が領土分与の確認に
来ているから、神功50年以前の銘は刻めない。
そして、阿花王は年“年少”で辰斯に王位を奪われる。阿花王の年は年少(5歳以上15歳以下)とみる。

近仇首が嫁をもらうのが307年(367年) 翌年枕流が生まれたとして、その20年後に阿花が生まれる
338戊戌・神功六四甲申時点で、10歳の阿花となる、年少である。
(367年)に嫁をもらって、(AD384)では、阿花はよくて乳幼児か?年少にならない。

奈勿王を引き上げて世継ぎの成立をはかれば、百済王家も引き上げられ。
百済本紀の数字は、日本書紀の数字を使用したものとなる。
623日本@名無史さん:2012/11/05(月) 15:22:57.98
>>620
朴昌和でググッたら、こんなん出てきた。

ttp://okwave.jp/qa/q6472830.html

>韓国の新聞、朝鮮日報ではドラマ『善徳女王』が放送されていた頃、「原作の朴昌和氏は性愛小説家」と書かれていました。

とあるけど、「南堂 朴昌和 先生」と同一人物?
624日本@名無史さん:2012/11/05(月) 16:28:48.72
うん
625日本@名無史さん:2012/11/05(月) 16:29:41.91
つかおまいら九州説を語れ
626日本@名無史さん:2012/11/05(月) 16:30:25.25
語ってるのは可能性の低い南九州説のSSSだけじゃないか
627日本@名無史さん:2012/11/05(月) 16:31:03.22
語らんのだったら博多山笠スレにしてしまうど
628日本@名無史さん:2012/11/05(月) 16:33:52.57
満州は 鈴木に騙され 昌和にも
629日本@名無史さん:2012/11/05(月) 16:42:56.83

朴昌和は戦前に宮内庁書陵部にあったやつを写したと主張しているけど

実はこれは自分が売国行為をしていましたといっているのと等価なのね

だいたい朴昌和さんは宮内庁書陵部にあったやつを写して泥棒したのか?

国内にかろうじて生き残っていた国宝級の史料を日本に持ち出したのが彼だろな
630日本@名無史さん:2012/11/05(月) 17:28:12.38
>>620
六世紀に朝鮮半島で作られた書物が、王に「帝」を使うことはあり得ない。

何故なら、523年に作られた百済の武寧王陵の墓碑の先頭に
「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳・・・」とあるように
当時の東夷諸国は、中国王朝の冊封下にあることを互いに誇っていた時代なので。

ちなみに、日本書紀の作られた八世紀(唐代)になると、話は別。
隋・唐自体が異民族出身なので、日本でも天皇名を使えるようになった。
631日本@名無史さん:2012/11/05(月) 17:36:34.57
半島土人ルールの「帝」はNO1の謂いとかではないのね

「摩帝爲聖父(許婁)私臣」 これって138年 戊寅 の記事ね
632日本@名無史さん:2012/11/05(月) 17:46:54.76
半島土人ルールでは若い嫁もらったら兄貴にも味見させるとゆうのもあるよ
633卑弥呼は満州にいた:2012/11/05(月) 18:32:13.53
稗箕狐が、どこで調べたのか、宮内庁書陵部云々と書いているから、
日本から持ち出された、或いは筆写されたものなのだろう。
それに比定地を書き込んだのが朴昌和だと思われる。
北沃沮〈猶太人自治州〉
沃沮〈浦鹽斯コ之尼古里 高麗之吉州也〉
こういう比定地が書かれているから、二十世紀前後に
誰かが注釈を書き込んだのだろうと思っていたが、これで謎が解けた。

原文を読めば分かるが、こんなものが後世の人間に創作できるはずはないのである。
原書は本物、比定地を書き込んだのが朴昌和である。
634日本@名無史さん:2012/11/05(月) 18:51:13.82
どっから見ても100%捏造だけどな
ただ古朝鮮の位置をどんどん中国寄りに持ってくのはよい
将来的に中国に征伐されそうだ
635日本@名無史さん:2012/11/05(月) 19:48:29.31
朝鮮というのは、李朝時代ですら中国に気を使って
「万歳」という用語は皇帝用としてこれを使わず、
「王様、千歳!」と唱えてたお国柄だからな。
636日本@名無史さん:2012/11/05(月) 20:18:02.02
倭人系のひとたちが半島から~夜良比夜良比岐された後のことはどおでも良いのね
637日本@名無史さん:2012/11/05(月) 21:08:59.59

自民・公明じゃ何も変わらない
「民主」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「みんなの党」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「小沢」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「維新の会」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「石原」ならなんかやるだろ     ←いまココ
そんな感じじゃね?

民主・自民じゃ何も変わらない
「第三極大連合」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
638sss:2012/11/06(火) 09:35:49.42
>>626
何度も書いているが、天照大神=卑弥呼+台与。
天照大神は高天原を治めていた。日向に降りたのは天孫・瓊瓊杵尊。
つまり、卑弥呼は日向にいたわけではない。

高天原→日向→大和という遷都あるいは勢力の移動を想定しているわけで、
南九州説を採っているわけではない。南九州説を完全否定するものでもないが…。
639日本@名無史さん:2012/11/06(火) 10:28:56.68
sssて、案外レベル低いな
640日本@名無史さん:2012/11/06(火) 10:48:02.83
素直に、狗奴国東遷としないのかねえ。
ヤマトタケルが象徴的な人物で、
神后の当場は、日本海勢力との結びつきを意味する。
近親憎悪から、本宗のクマソタケルをしつこく、つけ狙ったわけだが。
641日本@名無史さん:2012/11/06(火) 11:18:53.34
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(文化推進枠は元々、政府と広告代理店が税搾取の為に作ったオブラート)
642日本@名無史さん:2012/11/06(火) 19:53:34.33
邪馬台国ってそのまま大和朝廷なんじゃないの
ヤマトって発音にシナ人が適当に漢字当てはめて邪馬台(やまたい)になったんじゃないの
発音的にヤマトとヤマタイって似てるじゃん
643日本@名無史さん:2012/11/06(火) 19:58:06.28
うん、うん、そうだよ
644日本@名無史さん:2012/11/06(火) 20:27:36.81
畿内のヤマトという地名は、七世紀以後のものだってね。
645日本@名無史さん:2012/11/06(火) 21:13:11.31
ヤマトというのは、盆地というより、山と山に挟まれた門。言葉のイメージとしては山門に近い。
それで思い当たるのが大野城ー水城。これが山門(やまと)であり、その東側が邪馬台国。
佐賀平野が最有力。

http://www.city.onojo.fukuoka.jp/library/guide/rekisi/sitei/img/01mizukiato1.jpg
646日本@名無史さん:2012/11/06(火) 21:26:17.35
>>642
いつまでたってもこういう馬鹿が後を絶たない。
本を読めとは言わないが2chくらい読め。
647日本@名無史さん:2012/11/06(火) 23:07:00.77
この時代には、◯那・◯羅、◯耶という国名が多く出てくる。
前半の◯というのが個別の国の名称で、後半の那・羅、耶というのは連合国家としての名称、
宗主国の名前といってもいい。

海幸山幸の話で言うと、兄弟の国・兄弟が戦ってた国・綿津見の国がそれらに相当する(順不同)

ヤマトというのは耶国の街、つまり都という意味。
648日本@名無史さん:2012/11/06(火) 23:10:29.15
ヤマと言えばインドの閻魔大王の別名だぬ
649卑弥呼は満州にいた:2012/11/06(火) 23:32:21.23
怪しげな 説がぞろぞろ 2ch

素人に 怒り心頭 九州説
馬券でも 初心者買えば よく当たり
650日本@名無史さん:2012/11/06(火) 23:42:14.44
おまいがいちばん怪しげ 
651日本@名無史さん:2012/11/07(水) 00:20:18.49
>>649
初心者に 素人と言われた 俺哀れ(字余り)
652日本@名無史さん:2012/11/07(水) 06:40:57.91
怪しげな説という点では、
満州氏にかなう奴はおらんでしょうな、やはり
653日本@名無史さん:2012/11/07(水) 11:08:42.87
怪しげと 言う当人や 怪しげぞ
654日本@名無史さん:2012/11/07(水) 11:09:24.43
怪しげと 言う当人ぞ 怪しげに
655647:2012/11/07(水) 19:57:22.53
レスが止まっちゃったな
本質を突きすぎてスマン
656日本@名無史さん:2012/11/07(水) 23:14:40.21
心配すんな。
おまいのせいじゃない。
657ローガン:2012/11/08(木) 15:34:34.37
川柳で 荒らして稼げ プロ固定
658日本@名無史さん:2012/11/08(木) 19:51:46.37
ここ行ってやれ
http://kohada.2ch.net/tanka/
659日本@名無史さん:2012/11/08(木) 20:26:45.89
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660日本@名無史さん:2012/11/09(金) 14:21:11.15
│イジメで名高い熊本県..三 ┃|
│   _  !  _     .三 ┃|
│  (O>――<O)    . 三 ┃| 
│  /( ・ ) ( ・ ) ヽ     ┃|
│  ○ /▼\  ○   .. ┃| ガラッ.
│  |( ヽ二フ )  |   三 ┃|
│  /   ̄ ̄ ̄  ヽ    (┃|
│ f           ヽ_/  ┃|

県のキャラクターが率先してイジメを実践する、
麻原彰晃と幼女レイプ殺人のまち、熊本へようこそ
661サガミハラハラ:2012/11/15(木) 22:30:43.30
そうですか。
私熊本の町結構気にいっているのですよ。
662日本@名無史さん:2012/11/15(木) 22:32:19.66
熊本と言えば内柴、正代
663日本@名無史さん:2012/11/16(金) 07:50:34.46
そういえば、私の知っている女性が熊本の町を歩いていきなり胸をつかまれたといっていたっけ。
664日本@名無史さん:2012/11/16(金) 14:10:23.20
そんなことは、東京でもある。
何年か前ある女性タレントが渋谷をあるいていて、胸をさわられたという騒ぎがあった。
665日本@名無史さん:2012/11/16(金) 22:20:55.34
あのー、ちょっとすみません。
あなたの胸、とても素敵ですね。
ちょっと掴んでもいいですか?

と聞かれて、どうぞどうぞ、私のでよろしければお好きなように。
と答える女性はいないから、
やむを得ず、いきなり掴んだのは、ある意味、仕方のないことでは?
666日本@名無史さん:2012/11/16(金) 23:06:24.80
あなた、もの分かりの良い方ですね。
667日本@名無史さん:2012/11/16(金) 23:32:14.98
田園都市線でもあったのかな。
騒ぎになってるね。
668日本@名無史さん:2012/11/17(土) 00:19:39.31
誹謗・中傷は畿内説の得意技。
669日本@名無史さん:2012/11/17(土) 00:21:15.47
ひょっとしたら福岡県の得意技かもしれん。
670日本@名無史さん:2012/11/17(土) 07:46:49.04
森本さんって、埼玉出身のようですよ。
671日本@名無史さん:2012/11/19(月) 02:13:58.26
俀國の都は邪馬台国と同じ所。
故に、俀國が九州だから邪馬台国は九州。
672花のこルンルン:2012/11/19(月) 12:34:51.14
倭人伝に古代中国王朝と同じ長さを用いらない理由は、
東夷である日本が前王朝からの引き継ぎ支配下(直接支配地)ではないからです。
王朝は禅譲によって引き継がれるもの、当然度量衡も引き継がれ、長さの基準も六尺為歩としなければなりません。
しかし日本はその限りではないので、長さは別とする事で蛮夷の地と位置付けられるのです。
673日本@名無史さん:2012/11/19(月) 12:44:27.14
一万二千余里って、よく使われる表現なんだけどね。
あと、大月氏国への行程の里数から、単位の換算もしてみないと。
674日本@名無史さん:2012/11/19(月) 13:07:58.69
>>672

周里商里等の短里が使われているのは倭人伝だけではない。
短里は「東夷」や「北狄」にも使われている。

「南蛮」「西戎」にも使われいたかも知れないが、未確認。
商周代の中原から遠い「南蛮」「西戎」では、たぶん使われていないと思う。
675日本@名無史さん:2012/11/19(月) 13:32:17.29
>>673
大月氏国は長安を去ること1万1600里
グーグルで、
長安〜玉門関〜天山南路〜カシュガル〜ワハン回廊〜バクトラ(大月氏首都、現バルフ)
まで測ると、だいたい5000キロになった。
1万1600里が5000キロということは
676日本@名無史さん:2012/11/19(月) 13:34:56.01
邪馬台国はハワイだった
677日本@名無史さん:2012/11/19(月) 13:46:11.01
帯方郡から九州まで、実測で600キロもないのに、1万2000里だからね〜
つまり倭はとてつもなく遠いと思い込みで、適当に1万2000という数字を付けたっぽい
なぜかというと実測5000キロ離れた長安〜バクトラを11600里と書いているから
魏志倭人伝の里と日数は、まるっきり出鱈目なのだよね
678日本@名無史さん:2012/11/19(月) 15:50:18.65
>長安〜バクトラを11600里と書いているから魏志倭人伝の里と日数は、
>まるっきり出鱈目なのだよね
別の単位で書いてるだけだよ。その証拠に、万二千里といったところで、一
方では会稽と言ってるじゃないか。
679日本@名無史さん:2012/11/19(月) 15:56:00.90
そうじゃなくて、
大月氏の場合は、魏の時代に魏使が言って計測してないわけ
つまり、前代(前漢)の記録を基にして記述してると推定される
そうすると、これは当然長里になるわけですよ

倭国の場合は、魏の時代に魏使が何度も往復してるわけ
かつ前代には誰も行っていない
そうすると、当然魏使が行程を計測し、その資料と基に記述するわけよ
だから短里にわけです
680日本@名無史さん:2012/11/19(月) 16:16:12.42
魏志高句麗伝「高句麗は遼東の東千里」

遼東半島から高句麗の丸都まで千里
対馬から壱岐まで千里

これは同じ千里なのですが、実際は同じですか?
681日本@名無史さん:2012/11/19(月) 16:54:20.44
距離の単位は同じだと思うけど、高句麗の丸都まで千里とは書いてないよ。
国境までだろ。
682日本@名無史さん:2012/11/19(月) 16:57:24.69
>>680
同じ千里。

遼東と高句麗は接していない。
遼東の東端と高句麗の西端が千里約70kmであると書いてある野田。
683日本@名無史さん:2012/11/19(月) 19:40:25.16
満州基地外が効率良く釣れそうな餌ですねえ
684日本@名無史さん:2012/11/19(月) 20:40:38.99
>>677
帯方郡から女王國まで、実測で850kmで、それが1万2000里だ。
又、
帯方郡から会稽東冶の東まで、実測で800kmで、それが1万2000里だ。
これらは1里が約70mであることを示している。

洛陽から大月氏まで、実測で4000km〜5000kmで、それが11600里だ。
これは1里が340m〜430mであることを示している。
685日本@名無史さん:2012/11/19(月) 22:09:38.08
魏の勢力は遼東半島や朝鮮半島のくびれ部まで及んでいるので
この場合は国境から丸都まで千里だったんではなかろうか。
そして千里76kmで問題ない。
686日本@名無史さん:2012/11/19(月) 23:20:59.23
>>685
>朝鮮半島のくびれ部
変だよ。

高句麗の領域
 鴨緑江流域中流下流の2万㎢=方二千里
 千山山脈の南東側

遼東の東端
 千山山脈の北西側の平野

千山山脈の山地地域が遼東でもない高句麗でもない空白地帯の千里70km
687日本@名無史さん:2012/11/20(火) 11:55:49.48
>>686の補足
夫餘は、千山山脈以北、松花江以西、長春以南の吉林省西南部の
梅河口市のある平原で、其の面積は2万㎢(方可二千里)である。
千山山脈東北部(吉林省南西部)で高句麗と接している。

夫餘に対して、高句麗は面積は2万㎢(方可二千里)で、
その領域は、千山山脈東南部と鴨緑江流域の山間部である。

夫餘と高句麗の領域は共に2万㎢(方可二千里)ではあるが、
平原を領域とする夫餘が8万戸に対して、
山間を領域とする高句麗は3万戸しかない。
688卑弥呼は満州にいた:2012/11/20(火) 12:38:32.62
国の境域、版図というものを比定するのは実に難しいのである。
それで満州源流考でも彊域という巻を設けて各国の彊域を考察している。
>>687の男が書いているようなことは、通説とも全然違うし、
満州源流考、ネット史、桓檀古記等の見解とも全然違うのである。
上の男がどうしてこのような見解に至ったかは知らないが、
真剣に彊域を考察する気があるなら、もっと勉強する必要があるだろう。
689卑弥呼は満州にいた:2012/11/20(火) 12:51:37.62
研究裏話

渤海の鉄利府をWikiではウスリー江以東としている。
満州源流考では遼東の鉄嶺付近と解釈している。
しかし私は諸々の記事から判断して、第一松花江付近だと思い、
黒竜江省の鉄力(旧称鉄驪)だろうと判断した。
で、Wikiで鉄力市を調べたら、あっさり渤海鉄利府の地だと書いてあった。
がっかりした。最初からネットで調べておけばよかった。
690日本@名無史さん:2012/11/20(火) 13:30:20.71
>>689
Wikiに書かれている内容にはバイアスが掛かっているから、
参考程度にして、信用しては駄目だよ。

つまり、Wikiには、正しいとされることもあるが、間違っていることもある。
691日本@名無史さん:2012/11/20(火) 13:55:34.77
そのとおり。
満州さんがウィキの卑弥呼のページを
「卑弥呼は満州に居た」と書き換えかねないw
692687:2012/11/20(火) 15:36:35.20
>>687の修正
>夫餘は、千山山脈以北、松花江以西、長春以南の吉林省西南部の
>梅河口市のある平原で、其の面積は2万㎢(方可二千里)である。
>千山山脈東北部(吉林省南西部)で高句麗と接している。

 夫餘は、千山山脈以北、第二松花江以西、長春以南の吉林省西南部の
 梅河口市のある第二松花江の支流である輝発河流域の平原で、
 其の面積は2万㎢(方可二千里)である。
 千山山脈東北部(吉林省南西部)で高句麗と接している。
693卑弥呼は満州にいた:2012/11/20(火) 17:43:49.06
満州は檀君王険の国だったが、何代目かに大夫余と改号した。
解慕漱のときに北夫余と改号。
高句麗が勃興してからは吉林や長春は高句麗の版図となった。

夫余とは広義には満州北部及び西部だろう。
狭義では伯都訥以北以西だろうというのが目下の私の見解である。
伯都訥のすぐ近くにその名もずばり夫余市があり、チチハルの北に富裕市がある。
渤海の扶余府は農安市に置かれた、とネットに書いてあった。
694日本@名無史さん:2012/11/20(火) 18:00:12.67
夫余市とは近年名付けられた
695687:2012/11/20(火) 20:52:21.59
>>693

夫餘には「北有弱水」(弱水=松花江)とあるから、
(「北在弱水」でも「北接弱水」でもない)
長春市中心部の少し北が夫餘領域の北限と考えられる。
696日本@名無史さん:2012/11/20(火) 21:09:38.54
違いますよ。
夫余の城はワイ城で、黒竜江省のハルビン市内ですよ。
697日本@名無史さん:2012/11/20(火) 21:14:16.80
現在の朝鮮族のルーツは、エベンキではなくて刀伊
698日本@名無史さん:2012/11/20(火) 21:42:45.81
2009年
「小泉に騙された!言ってることはよくわからんが、民主党なら、この閉塞的な社会を打破してくれそう。」

2012年
「民主に騙された!言ってることはよくわからんが、橋下なら、この閉塞的な社会を打破してくそう。」

2016年
「維新に騙された!言ってることはよくわからんが、今度出来る新党なら、〜〜〜」

2020年
「新党に騙された!言ってることはよくわからんが、今度の新・新党なら、〜」

以下無限ループ
699日本@名無史さん:2012/11/20(火) 22:24:48.26
>>696
>ワイ城
哈爾濱の「ワイ城」????

鮮卑は「東接夫餘濊貊為東部」(魏書)だから、
哈爾濱に「濊城」があったとするならば理解できる。

西から東へ流れる第一松花江沿いの地域は濊であるから、
第一松花江南岸の哈爾濱には「濊城」があったとしてもおかしくない。
700卑弥呼は満州にいた:2012/11/20(火) 22:32:06.82
>>695
弱水というのは、通説では、黒龍江なのだが。
>>699
ワイというのは、通説では、もっと南方なのだが。
701日本@名無史さん:2012/11/21(水) 03:36:50.06
痛切では1里435mにするから、大興安嶺の北に弱水をもって来ざるを得なくなってしまったんだよ。

濊は吉林省北部から朝鮮半島中部東海岸まで広く分散して生息していたのですよ。
702日本@名無史さん:2012/11/21(水) 03:42:52.32
通説は痛説
703日本@名無史さん:2012/11/21(水) 06:28:01.18
慶華古城がワイ(なぜか変換できない)城
704日本@名無史さん:2012/11/21(水) 07:09:48.01
高句麗の方二千里を435で考えたらほかの国々が存在する余地はない。
705卑弥呼は満州にいた:2012/11/21(水) 09:28:59.21
>夫余となる集団が、松花江上流の弱水(奄利大水、現拉林河)を渡河して南へ移り建国する以前の、
>史書に名前が見える「濊城」(慶華古城、周囲約800m、前漢初期以前の築城、黒龍江省浜県)が発見されている。

確かにWikiにはこんなことが平然と書かれている。
しかし弱水が奄利大水で現拉林河という証拠はどこにもなく、
慶華古城が濊城だという証拠もないのである。
これらこそ考証を要することなのに、何の根拠も明示されずに、
いいかげんなことが平然と書かれ、
電波と称される連中はそれを簡単に信用してしまうのである。

通説やネットに書かれていることだけで事足れりとするなら、
学問などやる必要はない。学問とは考証である。
通俗的な解説書をたくさん読んで、それについてペラペラと喋ることではない。
2chで語られていることの多くは後者に属する。
参加者は結構よく勉強しているのだが、結局はお喋りで、考証が欠けているのである。
706日本@名無史さん:2012/11/21(水) 11:57:20.16
>>705
卑弥呼は満州にいた証拠を提示したことあった?
707卑弥呼は満州にいた:2012/11/21(水) 12:30:14.73
>>706
それはこれから書く本で提示するのである。
ここに書けば、誰かが剽窃して自説として発表するかもしれないからな。

それはさておき朱蒙は南下して奄利大水を渡ったとたいていの文献には書かれている。
ということは奄利大水とは東西に流れている河である。たとえば第一松花江など。
拉林河というのは南北に流れている河であるから、おかしいのである。
もし拉林河を渡ったというなら、朱蒙はどこに定着したのだろうか。
拉林河流域にはたいした都市はないのである。

また朱蒙は東夫余で生まれたのであり、東夫余から逃げたのである。
で東夫余とは明らかに哈爾濱より東なのだから、奄利大水が拉林河であるはずがない。
因みに陳寿は東夫余と東沃沮を混同している。

奄利大水が拉林河だということなど、初めて聞く珍解釈である。
708日本@名無史さん:2012/11/21(水) 13:09:33.62
5時以前の書き込みだから、こいつはニセモノか〜
709日本@名無史さん:2012/11/21(水) 17:51:23.80
>>707
>ということは奄利大水とは東西に流れている河である。たとえば第一松花江など。
>拉林河というのは南北に流れている河であるから、おかしいのである。
>もし拉林河を渡ったというなら、朱蒙はどこに定着したのだろうか。

拉林河は黒竜江省と吉林省(哈爾濱市と松原市)の境界で、東からに西に流れている。
拉林河の南の第二松花江も東から西に流れている。
奄利大水は拉林河もしくは第二松花江と推定可能。

拉林河を渡った南側には夫餘県がある。
第二松花江を渡った南側には徳恵市があり、70km南には長春がある。

夫餘には「北有弱水」とあるから、長春が夫餘であるとすれば、弱水が第二松花江と考えられる。
710卑弥呼は満州にいた:2012/11/21(水) 19:24:19.49
>>709
おそらく君の書いていることは君独自の解釈なのだろう。

肅慎氏一名挹婁 在不咸山北 去夫餘可六十日行 
東濱大海 西接寇漫汗國 北極弱水 其土界廣袤數千里  (『晋書』粛慎伝)

肅慎の界は非常に広大で満州北部全域と考えられている。
その北極弱水なので弱水は黒龍江だと見なされているのである。

拉林河は東南から西北に流れる河で、どうも朱蒙伝の記述とは合わない印象なのである。
また朱蒙は卒本に至るのだが、夫餘県付近が卒本だという説は一つもない。
711日本@名無史さん:2012/11/21(水) 21:52:54.51
>>710
>朱蒙は卒本に至るのだが、夫餘県付近が卒本だという説は一つもない。
卒本は長春またはその北部地域にある。

>拉林河は東南から西北に流れる河で
拉林河と第二松花江は、哈爾濱と長春の間では、東から西に蛇行して流れる河。

>肅慎の界は非常に広大で満州北部全域と考えられている。
>その北極弱水なので弱水は黒龍江だと見なされているのである。

肅慎氏一名挹婁 在不咸山(白頭山)北 
去夫餘可六十日行(二月行 約2000里 150km) 
東濱大海(沿海州南部) 西接寇漫汗國(内モンゴル東部のモンゴル族の国)
北極弱水(第一松花江) 其土界廣袤數千里(約600km)

肅慎の分布範囲は東西600km南北100km〜200kmの
満州平原中部から沿海州南部に至る地域。
712卑弥呼は満州にいた:2012/11/21(水) 23:13:22.33
>>711
>卒本は長春またはその北部地域にある。←そういう説は初耳。
>哈爾濱と長春の間では、東から西に蛇行して流れる河。←そんな区間は50km程度。
>六十日行 ←六十日で至るのであって南北の広さではない。
>數千里(約600km) ←公里では約2000km
713日本@名無史さん:2012/11/22(木) 10:05:05.05
>>712
>>六十日行 ←六十日で至るのであって南北の広さではない。

六十日行≠行六十日
  「行六十日」が六十日で至るの意味
  「六十日行」の「日行」は距離の単位(1日行≒2.5kmか?)
  六十日行=2×三十日行=2×一月行≒2×1000里≒150km

「去夫餘可六十日行」は、肅慎は夫餘から約150km離れているの意味。
「六十日行」に南北の広さの意味は全くない。
714日本@名無史さん:2012/11/22(木) 11:57:06.69
弱水は松花江のことだろ。
715日本@名無史さん:2012/11/22(木) 12:41:45.91
>>714
>弱水は松花江のことだろ。

「弱水」が「第二松花江」か「拉林河」か「第一松花江」か「黒竜江」かの論議です。
716卑弥呼は満州にいた:2012/11/22(木) 12:54:42.54
>>712
二千里といえば約900kmである。
>>714
弱水を松花江などと考えていると笑われるぞ。
北極弱水
北は弱水に極まる。北の果ては弱水であるという意味だ。
松花江が弱水だというなら、その北にはどんな民族が住んでいたのかな?
肅慎や挹婁は黒龍江の外にも住んでいたと考えられている北方民族である。
717日本@名無史さん:2012/11/22(木) 13:30:03.35
弱水は中華人民共和国吉林省輝発河

方二千里といえばわずか150kmかそこいらである。
718日本@名無史さん:2012/11/22(木) 13:37:03.24
北極弱水というのは、挹婁の北の果てが弱水だということだ。
その先にどんな民族が住んでいるかはどうでもいいこと。
中国人にとってそこまでの知識はなかったんだろう。
719日本@名無史さん:2012/11/22(木) 15:49:16.81
弱水をなんで固有名詞・地名だと思うんかね?
水の流れの弛い場所、で充分に意味が通じると思うが、、、
720日本@名無史さん:2012/11/22(木) 16:08:31.96
拉林河とか輝発河なんて小川をいうわけないね。第一松花江だろう。
721卑弥呼は満州にいた:2012/11/22(木) 17:30:18.13
これだから2chの人間は笑われるのである。
肅慎や挹婁は最北の民族という認識なのに、弱水が松花江であるわけがない。

黒水靺鞨という言葉があるように、靺鞨は黒水=黒龍江付近にいたのである。
それとは別に白山靺鞨というのがあり、これは通説では長白山付近であるが、
白山が長白山であるとは限らず、興安嶺かもしれないのである。

肅慎や挹婁は黒龍江の外にも住んでいたと考えられているので、
弱水は黒龍江より更に北の河ではないか、とも考えられているのである。
722太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/22(木) 18:10:56.91
西遊記にも黒水河が西遊の途中に出くわす河だ。
ここには確か鯰様の化け物だったかがいて?、これが難をもたらす。
723日本@名無史さん:2012/11/22(木) 18:45:42.46
西遊記ってそもそもフィクションだけど
実在の人物の名を使ってるだけでしょ
724oshii:2012/11/22(木) 18:47:53.87
筑波大学付属駒場中・灘中・開成中・麻布中・武蔵中・栄光学園中・聖光学院中・浅野中
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725日本@名無史さん:2012/11/22(木) 20:30:27.03
>肅慎や挹婁は最北の民族という認識なのに、弱水が松花江であるわけがない。
東は大海に沿うとあるが、その大海はどこだと思ってるのかな?
726日本@名無史さん:2012/11/22(木) 20:51:07.33
エロい人、>>719の解釈だとなんか矛盾点が出てくるの?
727卑弥呼は満州にいた:2012/11/22(木) 21:59:31.54
>>725
沿海州の東の海だよ。
君も弱水を松花江だと思っているのか?

中国、朝鮮、日本、どこの史学者も弱水を松花江だと考えている学者など一人もいないよ。
そんなことを考えているのは2chのごく一部の人間だけだ。
728日本@名無史さん:2012/11/22(木) 22:33:41.83
学者の本は読んでないみたいだな。
729卑弥呼は満州にいた:2012/11/22(木) 22:48:36.95
学者の本など読まなくても分かるではないか。

弱水を松花江だと唱えている学者はいるか?
もしいるとすれば、その学者は2chの住人以上の阿呆である。
730日本@名無史さん:2012/11/23(金) 02:02:21.02
肅慎や挹婁は満州平原の最北の民

満州平原の北には大興安嶺等の南北200km幅の山岳地帯があり、
その山岳地帯の北に黒竜江がある。

満州平原の北部を東西に流れる河が第一松花江。
第一松花江は渤海湾から遥か600kmを流れる河。
第一松花江は満州平原の北の極みを流れる河なのだ。


満州氏は中共の領土拡張プロパガンダの先棒を担ぐバカ。
731日本@名無史さん:2012/11/23(金) 08:33:42.58
>>729
弱水は魏志の扶余伝に出てくる。扶余は南は高句麗、東は邑婁、西は鮮卑と接す
北に弱水あり、方は二千里。そこで、学者は扶余の中心を農安か、阿城か、吉林省扶余か
などと考える。弱水=第一松花江だからこそそうなるんだよ。
732日本@名無史さん:2012/11/23(金) 09:29:31.28
「旧唐書」「新唐書」「冊府元亀」などに記されている、
黒水靺鞨に隣接?していた流鬼国や夜叉国などについて、
満州氏に是非とも説明していただきたい。
733日本@名無史さん:2012/11/23(金) 09:37:39.35
そろそろ、
スレ違い、いや板違いに気づいてくれんかな

ここは日本史板なんで
世界史板にでも逝ってくれんか、満州さんよ
734卑弥呼は満州にいた:2012/11/23(金) 09:42:04.80
挹婁在夫餘東北千餘里、濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。

肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行。
東濱大海,西接寇漫汗國,北極弱水。其土界廣袤數千里

挹婁は未だその北の極まる所を知らずと書かれているほど遥か北方にまで広がっている。
ロシア圏にまで達しているのである。
一方、肅慎は一名挹婁で、北極弱水、其土界廣袤數千里と書かれている。
廣袤というのはたいていの場合、とてつもなく広いという意味で使われる。

それで満州源流考は弱水の比定をしていない。なぜかといえば、
弱水は黒龍江より更に北方ではないかと考えたからだろう。

九州論者というのは、短里という観念が頭にあるせいか、
物事をちまちまと狭く小さく考えがちである。
弱水を第一松花江などと考えているのは上の二人くらいなものである。

>>732 
それらについては未考。
735卑弥呼は満州にいた:2012/11/23(金) 09:56:45.99
また挹婁在夫餘東北千餘里と書かれている。
夫餘の東北千餘里に在るのである。
扶余を農安とすれば、その東北千餘里は第一松花江を越えてしまうこと必然である。
で、その挹婁=粛慎の北は弱水に極まるのだから、
弱水が第一松花江の遥か北方にあることは理の必然である。

>>733
卑弥呼は満州にいたのだから、ここで語っても良かろう。
それとも何か、邪馬台国スレでは満州のことも朝鮮のことも
中国のことも語ってはいけないのか。
どのスレでもお前ら九州論者が中心になってあれこれと語っているではないか。
それなのに九州スレで九州説以外のことを語ると文句をつけるとはどういう神経なんだ。
736日本@名無史さん:2012/11/23(金) 11:06:00.24
>扶余を農安とすれば、その東北千餘里は第一松花江を越えてしまうこと必然である。
一つの記事しか読まずにこじつけるからいかんのだよ。扶余については、東は邑婁と接する
とあるだろうが。豆満江を越えたらそこは邑婁だ。ウラジオストクからウスリー川沿岸あた
り、つまり邑婁は松花江の南なんだよ。
737卑弥呼は満州にいた:2012/11/23(金) 12:39:21.45
夫余というのは元は満州北部全域を指していたのである。
東に邑婁と接するというのは黒龍江以東は邑婁だということで、
邑婁とは沿海州を含めてアムール河黒龍江以北全域のことなのである。
未だその北の極まる所を知らずと書かれているではないか。

但し後世の文書では満州中南部にもいたと思われるような記事もある。
たとえば渤海の始祖が邑婁の東牟山に拠ったと書かれていて、
これを通説では敦化と解しているのであるが、私は疑問を持っているのである。
邑婁とは普通そんな地域を指す言葉ではないからである。
桂樓の東牟山と書かれている文献もあり、むしろそれが正解ではないかと思えるのである。
738日本@名無史さん:2012/11/23(金) 12:46:25.44
>後世の文書では満州中南部にもいたと思われるような記事もある。
ごまかしても駄目だ。魏志が扶余を方二千里と書いている。これは高句麗と同じ
大きさだ。満州北部全域などという話ではない。
未だその北の極まる所を知らずというのは、松花江あたりまでいっているのかどう
かすら分からなかったというだけのことだ。
739卑弥呼は満州にいた:2012/11/23(金) 12:55:08.26
>>738
そうか。ではそう思っていなさい。君と話しても無駄だ。
もともとスレチなことを書いているという意識も私にもあるから、
ここで弱水や夫余のことを延々と語るのは止めにする。
議論を続けたいなら別の場所でしよう。

とにかく君はちまちまと考えすぎだよ。
もっと視野を大きくして考えないとダメだよ。
740日本@名無史さん:2012/11/23(金) 13:13:02.77
満州さん、作家になるんでしょ
2ちゃんねるに入り浸ってると公になっても良いのか
2ちゃんねるは世間的には評判悪いぞ
741日本@名無史さん:2012/11/23(金) 13:17:56.28
>>735
だから世界史板逝って
「卑弥呼は満州にいた」ていうレスを立てろや

おまえは日本の話題がゼロだろや
朝鮮・満州の話題100%だろ
うぜーんだよクソが
742日本@名無史さん:2012/11/23(金) 14:12:35.54
満州、本当に迷惑だよ
743日本@名無史さん:2012/11/23(金) 14:16:10.25
>>737
今では、ほとんど使われなくなった「牟」という字が扶余族の渡来地を探る重要なキーワードです。
福岡県大牟田市、徳島県海部郡牟岐町、和歌山県東牟婁郡、愛知県豊橋市牟呂町・・
室町幕府とは扶余族の打ちたてた政権だ
744日本@名無史さん:2012/11/23(金) 15:28:39.48
120 :サガミハラハラ:2012/11/16(金) 23:33:23.84
満洲さん、あるがとう。あなたはわたしのこころのささえです。
745日本@名無史さん:2012/11/23(金) 15:34:16.02
120 :サガミハラハラ:2012/11/16(金) 23:33:23.84
満洲さん、あるがとう。あなたはわたしのこころのささえです。
746日本@名無史さん:2012/11/23(金) 17:26:54.11
商周の短里は、倭人伝だけでなく7世紀前半までの東夷北狄で使われていた。
と書こうとしたら、満州スレになってしまった。

鴨緑江の北西にある千山山脈の東南山中に、方可二千餘里(150km四方)の高句麗がある。
高句麗に北接して、千山山脈東部の北に方可二千餘里(150km四方)の夫餘がある。
すると、夫餘の北限は長春付近となる。
夫餘の北には弱水がある。
一方、長春の北には松花江(第二松花江&第一松花江)がある。
よって、弱水は松花江である。

松花江以北にいるのは粛慎であり濊狛である。
(粛慎・濊狛は匈奴・鮮卑に東接)
満州平原北部にあったのは粛慎濊狛である。
747卑弥呼は満州にいた:2012/11/23(金) 17:44:24.81
>>741
私は満鮮説なのだから満鮮について語るのは当たり前である。
しかし君らは何の関心も持っていないだろうと思って、
邪馬台国スレで語るのは控えてきたのである。
ここ最近私がまともな投稿をしていないのはそのためである。
これでもちゃんと気を使っているのである。
そしてお前のように、私に罵倒されたわけでもないのに、
>うぜーんだよクソが
などというチンピラ低能丸出しの書き込みはしたことはないのである。
お前がチンピラの低能であることはその文を見ただけで分るのだ。
以前にもまったく同じような文で私に悪態をついていたな。
そんなに私が憎いのか。
>>742
君にも言いたいのだが、
私は別に君らに迷惑をかけようと思って書いているのではないのだ。
君らもいつかは満鮮について考えなければならない日が来るのだ。
邪馬台国問題は日本について考えているだけでは解けないのだよ。
748日本@名無史さん:2012/11/23(金) 17:59:48.13
もう解けているよ。
749日本@名無史さん:2012/11/23(金) 18:32:42.44
>>743
正しい。でもあとひといき足りない。
750日本@名無史さん:2012/11/23(金) 18:47:10.71
>>うぜーんだよクソが
>などというチンピラ低能丸出しの書き込みはしたことはないのである。

と書いちゃってからに自演しているのをごまかしたりしてるんだね
751日本@名無史さん:2012/11/23(金) 18:54:42.06
世界史板でやればいいんじゃない?
752日本@名無史さん:2012/11/23(金) 20:00:25.47
>>746
短里が使われるようになったのは、箕子伝説だろうね。殷、周の流れをひく箕子が
朝鮮の始祖だ、以後の中国の各王朝は偽者、そんな連中が定めた度量衡は使えない
周の制度に戻ろうってことだったのだろう。
753日本@名無史さん:2012/11/23(金) 20:14:13.96
満州クンのネタは、明らかに世界史板だろう
この九州スレッドで話をするのは場違いだ
754日本@名無史さん:2012/11/23(金) 20:18:33.68
※世界史板にあるスレ(他にもいっぱいあるよ)参考

【伽耶】任那日本府【倭国】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1332073255/
【高句麗・百済】夫余系総合スレ【渤海・日本?】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1327411004/
ツングース系民族・ツングース諸語圏の歴史
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1331650455/
【甘粕】満洲国の歴史【関東軍】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1333265592/
〜韓国の真実〜 2万年目
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1336138083/
755日本@名無史さん:2012/11/23(金) 20:23:25.18
あるいは、こっちでやれよ

それでも卑弥呼は朝鮮にいた
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1343518216/
756日本@名無史さん:2012/11/23(金) 21:03:23.99
大牟田の牟の字の意味はなんでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1134263496

>>743を見て納得がいった
757卑弥呼は満州にいた:2012/11/23(金) 22:32:44.97
こういう地名もあるぞ。

吉林省白城市トウ南市野馬図村
内モンゴル自治区フフホト市新城区野馬図村
内モンゴル自治区フフホト武川県野馬図
内モンゴル自治区包頭市トゥムド右旗野馬兎村

四川省成都市崇州市邪馬台
青海省海南チベット族自治州興海県野馬台村
吉林省通化市東昌区清真路野馬台球庁
758日本@名無史さん:2012/11/23(金) 22:51:22.95
野馬台国
馬を放牧している台地がある国
馬を軍事に活用したのだろう
其地無牛馬虎豹羊鵲などと書いているが行程で見なかっただけのこと
759日本@名無史さん:2012/11/23(金) 22:57:01.02
邪馬臺=耶馬臺=野馬臺
760日本@名無史さん:2012/11/23(金) 23:01:26.88
そういった中国の地名に対して、由来を調べてから言ってるの?
761日本@名無史さん:2012/11/23(金) 23:02:54.92
それくらいはちゃんとやらないと話にならん
762日本@名無史さん:2012/11/24(土) 00:13:07.96
763日本@名無史さん:2012/11/24(土) 00:20:55.23
483 :日本@名無史さん:2012/11/23(金) 01:18:30.92
古事記にはアマテラスは筑紫生まれだと書いてある。
弥生時代の墓から鏡が出るのは、福岡、佐賀だけである。
いうまでまなく、日本の王権シンボルは鏡だ。
高天原=邪馬台国は北部九州に決まってる。

485 :卑弥呼は満州にいた:2012/11/23(金) 09:59:12.84
>古事記にはアマテラスは筑紫生まれだと書いてある。
どこに?

487 :sss:2012/11/23(金) 14:23:30.73
>>485
お前は何にも読んでいないんだな。ただの想像だけで語っているのか?
天照大神は黄泉の国から帰ったイザナギが禊払いし、左目を洗った時に誕生した。
その場所は、古事記では、「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」
日本書紀では、「筑紫日向小戸橘之檍原」となっている。
これくらい常識で知っとけ。

489 :日本@名無史さん:2012/11/23(金) 17:34:10.25
マン臭は根本テキストである古事記すら読まないで、偽書ばかり読んでるのが、バレてしまいました!w
764日本@名無史さん:2012/11/24(土) 00:33:24.51
筑紫の日向の〜と言ってる
日向峠周辺では狭過ぎるにしても全国的に山地の東側(ヒムカ)や南側(ヒナタ)の広域を漠然と日向と呼んでいた可能性は排除できないね
765日本@名無史さん:2012/11/24(土) 01:59:46.10
【竺紫日向】之【橘小門】之【阿波岐原】
【竺紫日向】之【高千穗】之【久士布流多氣】
766卑弥呼は満州にいた:2012/11/24(土) 09:21:38.02
>>762
なるほど、こういうことを研究している人もいるのか。参考になった。

私の場合はお遊びで書いただけで、満鮮に邪馬台国があったなどとは思っていない。
邪馬台国は大和だろう。しかし卑弥呼は大和の王ではない。

私は昨日、帥升は辰韓の王だろうという証拠を得た。
卑弥呼も辰韓の王だろうという証拠も既に得ている。
767日本@名無史さん:2012/11/24(土) 09:53:02.14
>>766
>私は昨日、帥升は辰韓の王だろうという証拠を得た。
卑弥呼も辰韓の王だろうという証拠も既に得ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E8%A8%80%E7%99%96
768日本@名無史さん:2012/11/24(土) 10:21:08.69
最初から人を疑ってかかるのは良くない態度ですよ。
批判するのは、その証拠とやらを見せてもらってからでも遅くはありません。
まあ、期待して待ちましょう。
769日本@名無史さん:2012/11/24(土) 10:32:26.64
書くわけないじゃん
770日本@名無史さん:2012/11/24(土) 11:54:38.19
>>766
後漢書にも疎いらしいな。
辰韓のことは、後漢書・韓伝に書かれている。
帥升の事が書かれているのは倭伝。
帥升が辰韓の王というのはありえない。

だいたい、倭奴国の王が、光武帝から印綬を与えられたという文と同列に
書かれていることからも帥升が倭国(日本)の王であることがわかる。

卑弥呼も同じ。書かれているのは魏志の倭人伝、韓伝ではない。
771日本@名無史さん:2012/11/24(土) 12:22:24.22
卑弥呼は、景初3年(239年)、曹叡の死に伴い魏の皇帝に即位した斉王曹芳(即位時8歳)の姉か叔母だろう。
邪馬台国は、山東半島にかつて存在した斉の国と姉妹国だったのだ。
斉は、「いわい」と読める。つまり、祭祀を司る巫女の国。
日本では「磐井」という当て字を使うことのほうが多い。
邪馬台国は九州北部にあり、白村江の戦で唐や新羅に通じているとして大伴・毛野連合に滅ぼされた磐井こそ邪馬台国だろう。

なぜ、今までこんなことに気づかなかったのか?不思議なくらいだ。
772卑弥呼は満州にいた:2012/11/24(土) 12:40:55.23
なぜ、それがトンデモであることに気づかないのか?不思議なくらいだ。
773日本@名無史さん:2012/11/24(土) 12:47:02.41
磐井=邪馬台国説は昔からあるよ。
論拠に斉を挙げた例は知らん。
774日本@名無史さん:2012/11/24(土) 13:20:46.63
満州やろうは、他スレへ池
ここは九州説論者の論争場なのだ
775卑弥呼は満州にいた:2012/11/24(土) 15:55:37.53
奥山に紅葉踏みわけ九州説の 声きく時ぞ秋は悲しき
776日本@名無史さん:2012/11/24(土) 16:24:13.50
わかったぞ
777日本@名無史さん:2012/11/24(土) 18:55:21.00
なにがよ
778日本@名無史さん:2012/11/24(土) 22:30:55.15
なぜ、邪馬台国は、卑弥呼は、三国の呉でも蜀でもなく、魏に朝貢したのか?
それを考えれば、卑弥呼と斉王曹芳との関係にたどり着かざるを得ないと思うのだけれど、
今まで論ずる人がいなかったことのほうが不思議だ。
779卑弥呼は満州にいた:2012/11/24(土) 22:41:11.76
778
それは要するに魏が一番近かったからである。
なぜ近かったかというと、卑弥呼は満州にいたからである。
780日本@名無史さん:2012/11/24(土) 23:24:15.45
山東半島の斉の国と磐井は姉妹国だったんだよ。
それ以外に考えられない。
781日本@名無史さん:2012/11/25(日) 00:13:38.25
南回りは危険すぎたから、大陸方面へ行くには朝鮮半島西回りが一番確実だった
遣唐使も新羅が優勢になってからは南回りにせざるを得ず、事故が多発したそうな
782日本@名無史さん:2012/11/25(日) 01:01:41.24
>>778
地理的に蜀は無理。
ひょっとしたら、狗奴国が呉と結んでいた可能性があるかもしれない。
卑弥呼が魏から親魏倭王の称号を与えられても、狗奴国は構うことなく
戦争を仕掛けている。
783日本@名無史さん:2012/11/25(日) 01:19:53.86
世継ぎの掖邪狗は狗奴國の王の血筋をひく合いの子と考えるのが素直読みだわね

これわあ はんこもろたおひとの次代の酋長に比定してあげるとおはなしが素直に解けちゃうよ
784:2012/11/25(日) 02:11:48.30
邪馬台国が畿内にあったのならば、記録に絶対残っているはずだ
785日本@名無史さん:2012/11/25(日) 07:45:06.70
纏向が邪馬台国なら、狗奴国は和歌山か?
786日本@名無史さん:2012/11/25(日) 19:56:16.64
>>784
邪馬台国が畿内にあったのならば、記録に絶対残っているはずだ

そうだよね。
邪馬台国が畿内にあって、大和朝廷になったのなら、箸墓は卑弥呼の墓だって
記録に残ってるはずだ!
すなわち、箸墓が卑弥呼の墓であるはずはない!
787日本@名無史さん:2012/11/25(日) 21:40:48.02
広開土王碑では、百済は百殘という字を使っている。
これはどういうことか解説頼む。
788日本@名無史さん:2012/11/25(日) 22:58:11.38
蔑視用語だろ
今で言えばジャップみたいな
789日本@名無史さん:2012/11/25(日) 23:02:36.53
JapはJapneseの略から、悪態に転じた言葉だろ
じゃあ、百殘という悪態は何に由来するのか、という質問じゃないの?
790日本@名無史さん:2012/11/25(日) 23:19:15.75
そりは分からん
なにしろこの文面は広開土王碑にしか残ってないから
791日本@名無史さん:2012/11/26(月) 01:39:16.57
>>787
夫余が「余す」を使ってるだから
百殘で「残す」を使ったのだろう
792卑弥呼は満州にいた:2012/11/26(月) 09:09:48.26
↑ なかなかの名珍解答ではあるw
793日本@名無史さん:2012/11/26(月) 09:27:18.10
                    _____________
                    ||                      |
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                    ||    その無所属は  . |
                    |l -――-               |
                     '"´: : : : : : : : :`丶 . 帰化鮮人|
                 ':.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ______|
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                 八:::::::圦   、' _   "/_ノ.::,'.::j
             /⌒ヽ::::ト{\   _,.ィ__/.::/l:./
               / 丶∧::| 丶 `ニ´ 彡// :厶|∧
            {/  丶ヘ|     ノ / |:/ (こ ハ
                /       }ヽ、 ∧ /  'x┴〈 }_ゝ、
           /         \∨ ∨  /  ニW }  )
794日本@名無史さん:2012/11/26(月) 13:00:54.88
箸墓はでかすぎる。卑弥呼の墓はそんなに大きくなかったはず。
畿内の古墳が大きいのは中央集権化が進んだから。
邪馬台国最近、宮崎説が有力。多分、宮崎市の生目あたりではなかろうか。
そして、大隅が狗那国、西都が都万国、邪馬台国も含めて中国南部(呉など)
からの渡来民だろう。全然場所が、違うが川内川上流、宮之城に虎居地区が
あるがこれも中国から川内に上陸、川内川を北上したかもしれない。
795太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/11/26(月) 13:12:20.02
箸墓≠卑弥呼の墓
796日本@名無史さん:2012/11/26(月) 13:22:28.12
径百余歩というのは、前方後円墳の場合ならば全長百四、五十メートルという
ことだろうね。円の部分だけをいうのは、完全な誤り。
797日本@名無史さん:2012/11/26(月) 21:40:41.69
径百余歩というのは、円墳又は方墳の場合ならば、
差渡し径23メートルということだろうね。
円墳だけと限定するのは、完全な誤り。
798日本@名無史さん:2012/11/26(月) 23:35:07.63
古代日本では約109mは1町(=60歩)
100歩は181.6m
後円部は、そんなものだろう。
799日本@名無史さん:2012/11/26(月) 23:38:18.67
100歩≒144m(魏)
100歩≒138m(漢)
100歩≒25m(周髀算経)
800日本@名無史さん:2012/11/27(火) 20:48:47.44
1.朝鮮族には、他民族に寄生して成りすます習性がある
2.朝鮮族には、自力で文化を生み出す能力はない
3.朝鮮族には、エベンキの風習が残ってる

1.2.3.から解ることは、朝鮮族はかつてエベンキに寄生して成り済ましてた時代があったということ。

さて、その朝鮮族が寄生してたエベンキの国とはどの国のことなのでせう?
801日本@名無史さん:2012/11/27(火) 21:43:28.80
稲作が入ったころ中国江南の民が九州北岸と朝鮮南岸に住み着いた?

民族的には倭人に同化したんだろう
802日本@名無史さん:2012/11/27(火) 23:56:37.79
             
          夫余
         / | \高句麗 
       /   |      |
     /     |      |
   /       |      |
  |        |  辰韓 |
  |      馬韓 弁韓| |
  |     / 倭/  | |
  |   /   |   |  |  
 呉越 /     |   |  |
 百越─────倭(日本列島)

もっとつながってる?
803日本@名無史さん:2012/11/28(水) 00:08:39.47
>>802
秦に滅ぼされた韓 (戦国)と半島の韓(三韓)の関係
804日本@名無史さん:2012/11/28(水) 09:35:59.42
朝鮮南岸に倭がいたなんぞという時点で漢文の読解力がないことが分かる。
805日本@名無史さん:2012/11/28(水) 09:46:16.30
朝鮮南岸に倭がいなかったという時点で漢文の読解力がないことが分かる。
806卑弥呼は満州にいた:2012/11/28(水) 12:50:58.01
あの倭は、朝鮮南岸のことではないのである。
瀆盧国も、朝鮮南部の国ではないのである。
807日本@名無史さん:2012/11/28(水) 13:13:49.29
もういいよ
808日本@名無史さん:2012/11/28(水) 13:15:59.67
>>805
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。
朝鮮南岸は東南大海の中の山島ではないね。
809日本@名無史さん:2012/11/28(水) 13:26:03.98
瀆盧國は洛東江中流にある韓国南部の国
810805:2012/11/28(水) 13:51:59.16
>>808
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接。
韓の東西は海であるが、韓の南は海ではなく、韓の南は倭と接しているね。
811日本@名無史さん:2012/11/28(水) 17:37:24.55
>>805
このひとのゆうとおり
812日本@名無史さん:2012/11/28(水) 18:03:58.83
>韓の南は海ではなく、韓の南は倭と接しているね。
海ではないとは書いてないね。海があっても韓は倭と接していると言うんだよ。
813日本@名無史さん:2012/11/28(水) 18:16:48.28
言わないよ

海の向こうの場合は「大海中」
接しているなら「接」

ちゃんとわけてある
814日本@名無史さん:2012/11/28(水) 21:06:01.88
>>813
>海の向こうの場合は「大海中」、接しているなら「接」ちゃんとわけてある
「大海中」と「接」は相反する語ではない。学者は次のように述べているよ。

「A国はB国に界を接す」とかいう表現は、必ずしも常に両者の境域が文字通り
接続していることを意味しない。
「南は倭と接す」とあるのも、韓と倭とが接壌しているというのではなく、海を
隔てて接している意に解すべきである。
815日本@名無史さん:2012/11/28(水) 21:10:31.14
引用するなら、出典まで書こうよ
816日本@名無史さん:2012/11/28(水) 21:20:40.70
大海中にありゃ領土紛争なんておきないんだよね
817日本@名無史さん:2012/11/28(水) 21:34:00.99
ありゃ、当然読んでいるものと思ったが・・・・榎の「邪馬台国」ね。
818日本@名無史さん:2012/11/28(水) 21:47:09.03
学者や榎では信用できんな。
三国志(あるいはその近辺の書籍)の中から実例を出してくれんと。
819日本@名無史さん:2012/11/28(水) 21:49:20.58
『接』
「(夫餘) 南與高句麗 東與挹婁 西與鮮卑接 北有弱水」夫餘伝

夫餘地域の外側で、高句麗と挹婁と鮮卑の地域が繋がって(接して)いる。


『接界』
「其(弁辰)瀆廬國與倭接界」韓伝

瀆盧國の地域内で、弁辰地域と倭地域が互いに繋がって(接して)いる。
820日本@名無史さん:2012/11/28(水) 21:54:04.77
だから百済の古墳が倭人風な理由の説明がつく
元々朝鮮半島の南方は、倭人の土地、倭人の国だったということ
821日本@名無史さん:2012/11/28(水) 21:55:32.93
君は近接するって言葉を知ってる? 
822日本@名無史さん:2012/11/28(水) 22:03:36.07
「接」の漢和辞典の第一義が「くっつく」だ
823日本@名無史さん:2012/11/28(水) 22:04:52.65
>>820
風習が隣りの国に伝わるってことはいくらでもあるんだよ。
824日本@名無史さん:2012/11/28(水) 22:05:01.80
>瀆盧國の地域内で、弁辰地域と倭地域が互いに繋がって(接して)いる。

「弁辰與辰韓雜居」
弁辰人社会(地区)と倭人社会(地区)が繋がって(接して)いる。
弁辰人と辰韓人は混在して同一社会(地区)を形成している。
825日本@名無史さん:2012/11/28(水) 22:06:43.46
>「接」の漢和辞典の第一義が「くっつく」だ
だが、近接という意味もある。これはくっついてはいない。
826日本@名無史さん:2012/11/28(水) 22:12:07.49
>>819
「(夫餘) 南與高句麗 東與挹婁 西與鮮卑接 北有弱水」
扶余の南は高句麗と、東は邑婁と、西は鮮卑と、接している。北に弱水がある。
高句麗と邑婁と鮮卑がつながっているという意味ではない。
827819:2012/11/28(水) 23:01:48.17
>>826
書き間違いね。
826さんの指摘が正しい。

夫餘地域の外側で夫餘地域は、南側で高句麗と東側で挹婁と
西側で鮮卑とそれぞれが繋がって(接して)いる。
828日本@名無史さん:2012/11/28(水) 23:15:42.34
周書百済伝
東極新羅、北接高句麗、西南倶限大海
829日本@名無史さん:2012/11/29(木) 00:37:50.98
>夫餘地域の外側で夫餘地域は、南側で高句麗と東側で挹婁と
>西側で鮮卑とそれぞれが繋がって(接して)いる。
必ずしもつながっているという意味ではない。「ある」という程度だ。
扶余の地と高句麗の地の間には山があるんだよ。
山とか、海とか、砂漠とか。そうゆうものがあっても第三の国があいだに
ない場合には接というんだ。
830日本@名無史さん:2012/11/29(木) 00:55:02.53
じゃあつまり朝鮮半島に倭があって良い
実際崇神天皇は加羅を任那と言っている、これは朝鮮半島南端が天皇領ということで
日本書紀と「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」はよく整合する
なぜ強情に否定する
831日本@名無史さん:2012/11/29(木) 01:15:39.79
「桓、靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。建安中,公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡,
遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓濊,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方」

半島に倭はありましょう
832日本@名無史さん:2012/11/29(木) 01:25:08.68
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。
朝鮮南岸は東南大海の中の山島ではないね。これにきちんと答えられるかな?
833日本@名無史さん:2012/11/29(木) 01:33:08.98
>崇神天皇は加羅を任那と言っている、これは朝鮮半島南端が天皇領ということで
全くのでたらめだな。朝鮮の国が朝貢してきたというだけの話だ。天皇領だなんて
話ではない。
834日本@名無史さん:2012/11/29(木) 01:34:26.75
でも狗邪韓国は倭人伝なのだよ
835日本@名無史さん:2012/11/29(木) 02:07:08.89
帯方郡だって倭人伝だ。
836日本@名無史さん:2012/11/29(木) 02:24:50.67
帯方郡が倭人の国など誰も言わんよ
狗邪韓国は朝鮮半島の倭人国
837日本@名無史さん:2012/11/29(木) 03:51:42.93
>>829
>必ずしもつながっているという意味ではない。「ある」という程度だ。

「(夫餘) 南與高句麗 東與挹婁 西與鮮卑接 北有弱水」 夫餘伝
「つながる」の場合は「接」、「ある」の場合は「有」が使われている。
   「弱水」は、第一松花江以北、嫩江下流流域とそれ以東の湖沼地帯
   長春付近を夫餘の北限とすると、夫餘と弱水は約100km離れている。
「高句麗 在遼東之東千里、南與朝鮮、濊貊、東與沃沮、北與夫餘接」高句麗伝
   「在」も「つながる」ではなく、単に「ある」場合に使われている。

>扶余の地と高句麗の地の間には山があるんだよ。
「(高句麗)多大山深谷 無原澤 隨山谷以爲居 食澗水 無良田 雖力佃作」
高句麗は急峻な山岳の民族で、平野が無い。
「(夫餘)多山陵 廣澤 於東夷之域最平敞 土地宜五穀 不生五果」
夫餘は、緩い丘陵と平野のある平原の民族である。

北の平野(輝發河流域盆地)は夫餘で、南の山岳地帯(千山山脈東北部)が高句麗で、
夫餘と高句麗の領域は千山山脈東北部北側山麓で接している。
838日本@名無史さん:2012/11/29(木) 04:16:38.95
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。
これは倭人の主力についての説明でしょ。
839日本@名無史さん:2012/11/29(木) 07:15:14.05
>>837
接触も近接も「接」だ。近接の場合はつながってはいない。「北有弱水」は扶余の中に
あるのか外にあるのかが必ずしも明らかではない。
なお、弱水は第一松花江のことで、湖沼地帯のことではない。河の名前だ。

>高句麗は急峻な山岳の民族で、平野が無い。
高句麗が山岳民族だとしても山岳部は全部高句麗の支配下というわけではない。
扶余の領域と高句麗の領域を考えた場合、その間にどちらとも言えない地域が
できるのだよ。現代のように境を決める境界線が考えられているわけではない。

>夫餘と高句麗の領域は千山山脈東北部北側山麓で接している。
君がかってに接触線を考えてもだめだね。何か具体的にそれに言及した資料が
あるかな?
840日本@名無史さん:2012/11/29(木) 07:18:43.93
>これは倭人の主力についての説明でしょ。
倭人についての説明であり、主力についてというわけではない。
そんなことを言わざるをえないというのは、君の考えではつじつまが合わないことを
認めてるってことだね。
841卑弥呼は満州にいた:2012/11/29(木) 09:55:50.91
高句麗 在遼東之東千里 南與朝鮮&amp;#28618;貊 東與沃沮 北與夫餘接

この朝鮮も古朝鮮のことで、遼東のことなのである。
当時の文献で朝鮮と書いてあれば、それは古朝鮮のことなのである。
満州南部が朝鮮&amp;#28618;貊で、高句麗はそれより北で、夫余は更に北なのである。
何度も言うが、弱水を第一松花江などと思っていると笑われるのである。
弱水は黒龍江だというのが定説である。私は定説を語っているだけなのである。

輝發河流域盆地は穢か高句麗か、あるいは辰韓に属するのである。夫余はもっと北である。
842日本@名無史さん:2012/11/29(木) 11:16:37.64
>>839
>接触も近接も「接」だ。近接の場合はつながってはいない
「近接」は、繋がっているような近さ。

>「北有弱水」は扶余の中にあるのか外にあるのかが必ずしも明らかではない。
「北有弱水」は夫餘との位置関係を示す文節に書かれているから夫餘の内部ではない。

>弱水は第一松花江のことで、湖沼地帯のことではない。河の名前だ。
その通りだが、第一松花江とその支流である嫩江の流路が、
3世紀には湖沼地帯のどこを流れていたのか不明である。
第一松花江と嫩江の流路は、3世紀には湖沼地帯のどの位置であったのかである。

>扶余の領域と高句麗の領域を考えた場合、その間にどちらとも言えない地域が
できるのだよ。
夫餘と高句麗の二国間衝突を避ける為の緩衝地帯のことをいっているのだね。
幅数十メートルから数キロメートルの地帯は繋がる範囲の隙間だね。
現代でも国境線はそのようなものだよ。

>君がかってに接触線を考えてもだめだね。何か具体的にそれに言及した資料が
あるかな?
夫餘の領域は「多山陵、廣澤」な平地。
高句麗は「多大山深谷、無原澤。隨山谷以爲居、食澗水。無良田、雖力佃作」な
山の斜面や谷。
境界線は山地と平野の境目である千山山脈東北部北側山麓とならざるを得ない。
843日本@名無史さん:2012/11/29(木) 11:52:04.10
>夫餘と高句麗の二国間衝突を避ける為の緩衝地帯のことをいっているのだね。
それもあるだろうが、それだけではない。満州あたりにはいろいろな部族がいた。
いずれの国にも属さない部族の地域もあるのだよ。
844卑弥呼は満州にいた:2012/11/29(木) 12:49:57.98
輝発河

通考契丹時自咸州東北至粟末江中間所居之女真謂之輝発(満州源流考)

契丹時、輝発河周辺には女真が住んでいた。
845日本@名無史さん:2012/11/29(木) 12:53:37.58
>>841
>私は定説を語っているだけなのである。

私は、中国共産党の領土拡張プロパガンダに毒された定説が
間違っていると語っているだけなのである。

「高句麗在遼東之東千里 南與朝鮮濊貊 東與沃沮 北與夫餘接」
遼東の東千里は千山山脈の山中で高句麗の西端にあたる。
鴨緑江南岸流域の南に朝鮮と濊貊がある。
鴨緑江上流の東に沃沮がある。
千山山脈の北に夫餘がある。
遼東以外の4ヶ国は全て高句麗と接している。
遼東と高句麗の間には千山山脈の70km(千里)の山地があり、
この地域は遼東でも高句麗でもない地域である。
遼東は千山山脈西麓の平野部分以西。
846日本@名無史さん:2012/11/29(木) 13:38:35.87
>遼東の東千里は千山山脈の山中で高句麗の西端にあたる。
遼東はどこ? 郡役所、それとも領域の端?

> 遼東以外の4ヶ国は全て高句麗と接している。
>遼東と高句麗の間には千山山脈の70km(千里)の山地があり、
>この地域は遼東でも高句麗でもない地域である。
高句麗と4カ国の間だってどちらでもない地域があるのでは?
847日本@名無史さん:2012/11/29(木) 14:34:14.95
>>
「(鮮卑)從右北平以東至遼 東接夫餘濊貊爲東部」
遼東部の東千里(70km)には高句麗がある。
鮮卑東部の南地域の東は夫餘(南高句麗接)に接している。
鮮卑東部の北地域の東は濊貊に接している。
「乃分其地爲中東西三部」であるから「罔羅山川 水澤 鹽池甚廣」は、
中部:罔羅山川、東部:水澤、西部:鹽池甚廣で、
鮮卑東部は水澤地域である。
鮮卑東部の南地域の東は夫餘に接しているから、南地域は水澤ではない。
故に北地域が水澤となり、夫餘の北の弱水のある湖沼地帯と一致する。
鮮卑に東接する濊貊は、弱水のある湖沼地帯即ち現嫩江の東の湖沼地帯に居たのである。

弱水は、満州平原北部即ち満州中部にあったのであって、
満州平野北端大興安嶺の北側にある黒竜江ではない。
848日本@名無史さん:2012/11/29(木) 14:49:40.73
遼東の領域の東の端

高句麗と4カ国はそれぞれ緩衝地帯を挟んで接していた。
しかし、空白地帯がなかったとはいえない。
849卑弥呼は満州にいた:2012/11/29(木) 17:30:02.66
>>845>>847
君は遼東の意味を完全に誤解しているよ。
遼東の意味も変遷してきたが、大雑把にいえば、大凌河以東は遼東なのだ。
遼東とは遼河の東という意味ではない。
遼河は遼東を流れている代表的な河だから遼河と呼ばれているのだろう。
遼東とは君が思っているよりも北部をも含んでいるのだ。

ちなみに
>(鮮卑)從右北平以東至遼 東接夫餘&amp;#28618;貊爲東部
これは正しくは
(鮮卑)從右北平以東至遼東 接夫餘&amp;#28618;貊爲東部
ではないのか。
850日本@名無史さん:2012/11/29(木) 18:09:25.15
「amp;」をカットしな
851卑弥呼は満州にいた:2012/11/29(木) 18:29:45.76
遼東の東千里は千山山脈の山中で高句麗の西端にあたる。 ←×
鴨緑江南岸流域の南に朝鮮と濊貊がある。 ←×
千山山脈の北に夫餘がある。 ←×
遼東は千山山脈西麓の平野部分以西。 ←×
70km(千里) ←×
千里(70km)  ←×

罔羅山川 水澤 鹽池甚廣
これは鮮卑の地は山川水澤を網羅しており、塩の取れる湖沼は甚だ広い、の意。
852日本@名無史さん:2012/11/29(木) 19:01:29.42
「與」ってどういう意味に解釈すればいいの?
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/cj/33706/m0u/%E8%88%87/
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%88%87
↑とか見てみたけど意味が広すぎて特定できない
853日本@名無史さん:2012/11/29(木) 19:21:30.58
「と」と訳せばいいんだよ。
854日本@名無史さん:2012/11/29(木) 19:32:55.28
もっと賢い人の意見を聞きたい
855日本@名無史さん:2012/11/29(木) 20:06:38.82
>>849
「從上谷以西至敦煌 西接烏孫爲西部」であるから、
同様に、
「從右北平以東至遼 東接夫餘濊貊爲東部」となる。

「從右北平以東至遼東 接夫餘濊貊爲東部」ならば、
「從上谷以西至敦煌西 接烏孫爲西部」となる。
これでは、文意が成り立たない。
「敦煌西」って何処だ?
856日本@名無史さん:2012/11/29(木) 20:27:03.80
>>852
簡略化したのが「与」では
857日本@名無史さん:2012/11/29(木) 20:32:28.71
>大雑把にいえば、大凌河以東は遼東なのだ。
>遼東とは遼河の東という意味ではない。

「遼河」は遼の中央を流れているから遼の河の意。
遼河の東は「遼東」、遼河の西は「遼西」と呼ばれる歴史的な地域名。
大遼河は、遼河が渤海湾に流れ出す三角州にある枝流のひとつで本流であった。
858日本@名無史さん:2012/11/29(木) 20:47:29.74
【土器】9世紀後半の土器にひらがな
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/wildplus/1354157186/
859日本@名無史さん:2012/11/29(木) 20:47:50.80
「南與高句麗 東與挹婁 西與鮮卑接 北有弱水」
この区切り方は変だな
「南與高句麗 東與挹婁 西與鮮卑 接北有弱水」
こう区切ったほうがわかりやすい
860日本@名無史さん:2012/11/29(木) 20:52:19.35
>>851
「×」だと思うなら、勉強して調べ直せ。


もしかして「鹽池甚廣」を敦煌の西にあるロプノール塩湖と思っているのでは?
これは大きな誤り。
「鹽池甚廣」はモンゴル東部のドルノド県にあるサンギダライ塩湖を代表する大小の塩湖群である。
現代ほど乾燥化していない3世紀には、その大小の塩湖群は7世紀のロプノールの様に
広大なひとつの塩湖であったものと考えられる。
861日本@名無史さん:2012/11/29(木) 21:04:57.11
>>859
「接北有弱水」は、動詞が2つあり漢文の文節として成立しない。
日本語で考えると解り易いが、漢文でなくなる。
862日本@名無史さん:2012/11/29(木) 21:15:30.45
>>840
何をそんなに力んでいらっしゃるのでしょうか。
倭人の多数は列島にいて、しかもどの程度かはわからないが
半島南部にも存在したというのはつじつまの合わない解釈ではないと思いますよ
863卑弥呼は満州にいた:2012/11/29(木) 21:20:12.11
>>857
だから遼東遼西は遼河の東西の意味ではないんだってば。
無慮県は医巫閭山の近くの県。これが遼東郡に入っている。
>>860
君こそ調べ直した方が良い。特にひどいのは、
>千山山脈の北に夫餘がある。
こんなことを思っているのは君くらいのものだよ。
千山山脈の北、これがまさに遼陽や瀋陽がある遼東の中心部ではないか。
そんなところを夫余だと思っている人は一人もいないよ。
864日本@名無史さん:2012/11/29(木) 21:30:01.11
>>861
っ副詞
865日本@名無史さん:2012/11/29(木) 22:00:36.20
短いサイズの里が忘却されるに伴い巨大化した妄想読みが発生してしまった野田。

それを丹念にコレクションして楽しんでいるお馬鹿なぢいさんもおったりする野田。
866日本@名無史さん:2012/11/29(木) 22:01:51.37
>>862
正確な文章を書く習慣がないようだね。朝鮮半島南部に倭人の国があったのならば
史家は、必ずそのことを書くものだ。半島南部及びその東南大海中の山島とかね。
867日本@名無史さん:2012/11/29(木) 22:19:05.19
○ 遼東遼西は遼河の東西の意味ではない

前漢武帝の時に、遼西郡と遼東郡の広がりは医巫閭山のところを南北にはしる山なみのが境界線

後漢に至ると現地人勢力にやられて遼西郡は後退して右北平郡の一部を割いてそこで存続

現地人勢力にやられた武帝遼西郡の領域は現地人勢力が跋扈 ここは領域的区分で遼西と呼ばれた

遼東の呼称はもとのが遼河の東の地で良し。

遼河の東に治所をおいた郡が武帝の時にもあったわけだが、その広がりのが遼東郡と呼ばれ

遼東郡のシェイクダウンのは燕代の秦開さんの時だって書いてあるけどBC290年頃だよ
868日本@名無史さん:2012/11/29(木) 22:31:09.56
>>866
半島に倭人勢力があったという論に対して、
しきりにそうではないということを言いたいがためか何度も同じような
書き込みがあった。それは大海中の山島というものであった。
それは論拠に乏しいのではないですかということ。
歴史家は必ずそのことを書くなどという思いこみなんぞを吐露せずに
半島のを倭を批判してあげてください。
それから、大海中の山島なんて表現はちっぽけな小島を連想しますよね。
歴史家は日本列島を措定してかつ正確な表現をしたんでしょうか。
869日本@名無史さん:2012/11/29(木) 22:32:49.01
>>863
>>千山山脈の北に夫餘がある。

説明不足だった。

千山山脈東北部の北に夫餘がある。
因みに
千山山脈中部の西及び西北は遼東地方
千山山脈西南部は遼東半島
870日本@名無史さん:2012/11/29(木) 22:40:43.38
>>869
ってことは黒竜江省のあたりなのか?
871日本@名無史さん:2012/11/29(木) 22:50:48.77
だからおまえら、世界史板いけよ
872卑弥呼は満州にいた:2012/11/29(木) 23:00:51.38
短いサイズの里が存在すると巨大化した妄想読みを稗箕狐はしている野田。

それを丹念にコレクションして楽しんでいるお馬鹿な稗箕狐もおったりする野田。
873日本@名無史さん:2012/11/29(木) 23:02:26.12
>>868
大海中の山島は、学者も指摘している重要な論拠だよ。それに私は、接の意味も説明している。
それは、かなりの賛同を得ていると思うよ。半島内に倭があったなどという説の論拠こそきわ
めて乏しい。更に述べれば、次のような理由もある。
@狗邪韓国という国名自体、倭の国ではなく韓国であることを明示しているよ。
狗邪韓国は韓伝にいう弁辰狗邪国だ。
A倭の国は三十国と指摘されている。対馬国から狗奴国までで三十国だ。狗邪韓
国を入れては数が合わない。
B女王国以北の国は戸数道里が書かれているはずだ。しかし、狗邪韓国には戸数
が書かれていない。
874卑弥呼は満州にいた:2012/11/29(木) 23:11:39.41
大体、千山山脈というのは鞍山市辺りまでを謂うのではないのか。
吉林の辺りは吉林哈達嶺という名前が付いている。
その中間の山脈にはこれといった名前が付いていない。

それから稗箕狐は一生懸命勉強した上で、
>遼東の呼称はもとのが遼河の東の地で良し。
などとエラソーに書いているが、これはこの男の勝手な判断だから無視してよい。
何の根拠も示さずに、あたかもそれが既定事実であるかのように書くのがこの男の特徴である。
まるで詐欺師のような男だ。オレオレ詐欺でもやるのが似合っている。
875日本@名無史さん:2012/11/29(木) 23:13:42.20
>歴史家は必ずそのことを書くなどという思いこみなんぞ
思い込みではないよ。書かなければ不正確な文章になるということだ。
876日本@名無史さん:2012/11/29(木) 23:21:12.13
ばかだなあ

周知の事実は史料として残りにくいというのは業界の常識なんだけどね
877日本@名無史さん:2012/11/29(木) 23:22:56.35
思い込みとはそうゆう意見に対していう言葉だ。
878日本@名無史さん:2012/11/29(木) 23:24:05.10
半島で弥生土器作っとるしの
半島の倭は倭国じゃあなかろ
879日本@名無史さん:2012/11/29(木) 23:35:12.41
あまり追い詰めるとシベリアにいたとかいいだしそうだから放置
880日本@名無史さん:2012/11/29(木) 23:37:03.60
>>870
>ってことは黒竜江省のあたりなのか?

夫餘は吉林省西南部の平野丘陵地域。

千山山脈は、長白山脈の支脈で、吉林省から遼東半島大連まで。
千山山脈西南部は山脈と言うより丘陵状態に侵食されている。
881卑弥呼は満州にいた:2012/11/30(金) 09:28:14.03
>>873
1 狗邪韓国が倭の国であるか韓の国であるかは陳寿も知らないのである。
陳寿はただ単に狗邪韓国と呼ばれる国から対馬に渡ったという史料があったからそう書いたまでの話である。
狗邪韓国が弁辰狗邪国なのかどうかも陳寿は知らないのである。
2 倭の国が三十国と書かれていても、それが日本であるとは限らないのである。
3 狗邪韓国の戸数道里が書かれていないのは、ただ単に資料が無かったのである。

われわれは正確な地図を知っているからやれ短里だの何だのと議論しているが、
当時は正確な地図は無かったから、すべて凡その見当で書かれているのである。
洛陽から○○郡への距離にしても、凡その見当で書かれているのである。
それが理解できない稗箕狐のような阿呆が短里で書かれていると盲信しているのである。
882卑弥呼は満州にいた:2012/11/30(金) 09:36:40.75
瀆盧国は南で倭と界を接すると書かれているが、
それはそのような資料があったからそう書いたまでの話で、
その瀆盧国なるものがどこにあったかは陳寿は知らないのである。

後世のわれわれはそれは朝鮮半島南部だろうと理解しているが、
そうとは限らないのである。

とにかくわれわれは現在のわれわれの知識と常識で倭人伝を解釈しようとしている。
それがそもそもの間違いの源である。
陳寿はただ資料にあったことをそのまま書いただけなのである。
883日本@名無史さん:2012/11/30(金) 09:49:52.10
維新の会は第二民主党+新自由主義の反日政党です(右翼{保守}を装う反日{革命}政党)

維新の公約
最低賃金の廃止(企業は時給1円で雇える←新自由主義の柱・セーフティネット無し)解雇規制緩和(時給1円が嫌なら首に出来る)
相続税100%・遺産全額徴収 消費税11%

橋下は人権擁護法案推進 (解同が作った団体役員に就任) 在日地方参政権賛成
・地方分権推進(在日に地方を乗っ取らせるため)
大口後援者 ・マルハン、電通、博報堂(カジノ利権目当て)・ソフトバンク(電力利権目当て)・パソナ ←在日朝鮮人の会社

・今井豊  (大坂維新の府幹事長)元自治労東大阪役員、元同和利権組織ティグレ生野所長
・井上哲也 (元社会党) 社会党副委員長で同和利権ボスの井上一成の甥
・谷畑孝  (元社会党・外国人参政権賛成) 同和利権組織ティグレの候補 部落解放同盟 ハンナンから支援
・小沢鋭仁 (元民主党・外国人参政権賛成) 小沢一郎支持★ 「脱原発して、韓国から電力の直接輸入を行う」
・松野頼久(元民主党) 小沢系★ 鳩山内閣のブレーン TPP反対(維新はTPP推進w)
・今井雅人 (元民主党・外国人参政権賛成) FX情報会社会長 芸名マット今井
・柳ケ瀬裕文 (元民主党) 東京都都議 「蓮舫」公設第一秘書
・石関貴史 (元民主党) 小沢系★ 習近平の特例会見を擁護 丸刈り白スーツ
・富山泰庸 (元吉本芸人)(株)アベブ(パチンコ店向け人材派遣会社)取締役

在日朝鮮人「我々は合法的に日本を侵略する」「どうせデモの1つもできやしない」
大阪人は頭空っぽだから、ドラマや映画を見る感覚で選挙に行く。
我々は、有権者が幾度と無く騙される事は既にあらゆる詐欺を通して実証済みである
884日本@名無史さん:2012/11/30(金) 16:43:44.84
>瀆盧国は南で倭と界を接すると書かれているが、

そんなこと書いていない。
漢文が読めないようだな。

「其瀆廬國與倭接界」
その瀆盧国は倭と界で接する

「接界」の訳文に方向を入れているのは単純ミスではない。
満州は「接界」の状況が解らないないようだ。
誰か上方のレスで書いていたが、満州は理解できなかったようだ。
885日本@名無史さん:2012/11/30(金) 17:17:09.83
虚言癖が無いだけ
はしげよりまんしゅのがましかもしれん。
886日本@名無史さん:2012/11/30(金) 17:19:19.54
虚言癖に関してゆうと
天照のがはしげよりずっとすぐれているらしいよ。
887日本@名無史さん:2012/11/30(金) 17:21:40.44
古事記でえらそおに振舞う天照は劣等感の裏返しで威張り散らす某前知事になんか似ているしね。
888日本@名無史さん:2012/11/30(金) 17:37:49.30
>>887
どこがどういう風に偉そうなのかを言わないとわからない。
889日本@名無史さん:2012/11/30(金) 18:07:54.69
界で接する ってどういう意味?
どういう形で接してる状態なの?
890卑弥呼は満州にいた:2012/11/30(金) 19:35:12.73
其瀆廬國與倭接界

なるほど南で接するとは書いてないが、
北には辰韓があるのだから、論理的には南で接する。
891日本@名無史さん:2012/11/30(金) 21:16:51.97
瀆廬國とは巨済島のことらしいな。倭とは海を隔てて接しているわけだ。
892日本@名無史さん:2012/11/30(金) 21:20:39.64
   
界:田と田の(すきま)

「其瀆廬國與倭接界」

弁辰瀆盧國は倭と区分して接している(直訳)
瀆盧國では弁辰社会と倭社会とに分かれている。(意訳)
瀆盧國では弁辰人と倭人は分かれて住んでおり混住していない(具体訳)

瀆盧國では弁辰人居住区と倭人居住区に分かれているのだ。
(弁韓人と辰韓人は混住している)
893日本@名無史さん:2012/11/30(金) 21:31:18.18
>瀆廬國とは巨済島のことらしいな。

瀆盧國は洛東江中流の大邱付近と比定できる。
894日本@名無史さん:2012/11/30(金) 21:31:26.27
瀆盧國と倭国は交流がない(対立してた)って意味じゃね?
895日本@名無史さん:2012/11/30(金) 21:50:56.79
>瀆盧國と倭国は交流がない(対立してた)って意味じゃね?
逆だよ。漢和辞典をみな、接はまじわるという意味だ。
896日本@名無史さん:2012/11/30(金) 21:57:33.05
接は隣接してに存在してるという、状態を意味してるだけなんじゃね?
897日本@名無史さん:2012/11/30(金) 21:59:49.33
接は隣接して存在してるという、状態を意味してるだけなんじゃね?
で、どんな状態で隣接してるのかというと、界な状態で隣接してると。
898日本@名無史さん:2012/11/30(金) 22:04:44.48
>>897
そうです
899日本@名無史さん:2012/11/30(金) 22:07:45.91
で、界の意味は?
900卑弥呼は満州にいた:2012/11/30(金) 22:23:12.93
界で接するじゃないよ。
そんな言葉は日本語には無い。
界を接するだよ。

弁辰界と倭界が接しているということだよ。
界とは境域とか範囲ということだ。
ウラジオストク界といえばウラジオストクのある辺りという意味だ。
楽浪郡界といえば楽浪郡のある地帯ということだ。
界とは漠然たる表現なのである。こんなことは常識ではないか。
901卑弥呼は満州にいた:2012/11/30(金) 22:28:36.36
瀆廬國は巨済島でもないし、大邱付近でもない。
そんな比定には何の根拠も無い。
但し瀆廬國を巨済島として描いている古地図はある。
902日本@名無史さん:2012/11/30(金) 22:40:45.17
益軒さんのに「接して漏らさず」とゆうのがあるけど「接」とはそおゆうことだわな
903日本@名無史さん:2012/11/30(金) 22:46:46.55
>で、界の意味は?

>>892の冒頭を読め
隙間をとって、一線を引いて、区分して、はっきりと区別して、等
904日本@名無史さん:2012/11/30(金) 23:00:38.25
>>903
その隙間は物理的な海なのか?川なのか?それとも政治的なものなのか?
905日本@名無史さん:2012/11/30(金) 23:09:37.81
>>901
瀆廬國が巨済島はありうるな。
しかし、瀆盧の意味と合致しない。

狗邪韓國は、伽耶山のある巨済島とするほうが似合いだ。
906日本@名無史さん:2012/11/30(金) 23:15:48.82
至滿潘汗爲界

及漢以廬綰爲燕王朝鮮與燕界於浿水

界のはつっこみどころでないしね
907日本@名無史さん:2012/11/30(金) 23:57:03.90
>>904
>その隙間は物理的な海なのか?川なのか?それとも政治的なものなのか?

民族的な文化的な民俗的な言語的な隙間だろう。
908日本@名無史さん:2012/12/01(土) 00:13:46.49
根拠は?
909日本@名無史さん:2012/12/01(土) 00:29:04.70
もはやわけわからん議論になってるな
910日本@名無史さん:2012/12/01(土) 01:07:19.67
件のわけわからんくしたいおひとがおるだけ
911日本@名無史さん:2012/12/01(土) 07:54:00.36
782 :卑弥呼は満州にいた:2012/10/16(火) 21:24:39.30
天照大神 ジャスコでブラジャーと ショーツ買ひ
ワコールの ショーツは高いと 不平言ひ

わちきには アレも付いてゐると 前めくり
ふたなりで セックスに狂ふ 天照大神
912卑弥呼は満州にいた:2012/12/01(土) 10:48:01.37
>>905
伽耶山は巨済島には無いのだが。
913日本@名無史さん:2012/12/01(土) 10:53:00.33
単に加羅山のまちがいだろ。
914日本@名無史さん:2012/12/01(土) 11:06:06.63
「其瀆廬國與倭接界」 瀆廬國だけが倭と界を接すと書かれているということは、
南鮮に倭があったとする見方を粉砕するね。
915卑弥呼は満州にいた:2012/12/01(土) 12:29:56.27
韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接
方可四千里 有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓

韓全体が南で倭と接すと書かれている。
916日本@名無史さん:2012/12/01(土) 12:39:28.00
海を隔てて倭と接するとは言わないだろう。
倭は朝鮮半島南部にあった。
その後、九州、岡山と移って、最後は畿内で消滅、伊勢神宮に祭られた。
こういうシナリオだな。

神輿に載せられて遷都。自由自在ですよ。
917日本@名無史さん:2012/12/01(土) 12:43:18.63
消滅はしてない
倭と日本は併合したと旧唐書にあるから
918905:2012/12/01(土) 13:01:11.63
>>912-913
指摘通り、加羅山の書き間違いです。

>>914
>瀆廬國だけが倭と界“を”接すと書かれているということは、
>南鮮に倭があったとする見方を粉砕するね。

違う
「其(弁辰)瀆廬國與倭接界」
瀆廬國は倭と界“で”接すである。
瀆盧國では、弁辰と倭が雑居せず界で接して共生していたである。
南鮮に倭があったことを踏まえての記述である。
919日本@名無史さん:2012/12/01(土) 16:46:37.84
920日本@名無史さん:2012/12/01(土) 23:52:20.94
>海を隔てて倭と接するとは言わないだろう。
沃沮伝でも読んでみたらいい。水で隔てられていても接するという。

>瀆廬國は倭と界“で”接すである。
学者でそんな妙な読み方をする人はおらんようだな。
921日本@名無史さん:2012/12/02(日) 01:11:24.00
狗邪韓国が倭の北岸なのだから、倭は半島にあっていいんだよ
922日本@名無史さん:2012/12/02(日) 06:58:37.42
>狗邪韓国が倭の北岸なのだから、倭は半島にあっていいんだよ

狗邪韓國は乍東して水行した海の北岸にある

狗邪韓國は倭と呼ばれる地域にあるであって、
倭國と呼ばれる地域にあるのではない。
923日本@名無史さん:2012/12/02(日) 07:20:58.74
>倭の北岸なのだから、倭は半島にあっていいんだよ
倭が半島にあるというわけではない。倭は方角の基点を示しただけだ。岸まで倭だとは
言っていない。倭の北方にある朝鮮半島の岸に狗邪韓国があるというだけのこと。

>乍東して水行した海の北岸にある
苦しいこじつけだな。

>狗邪韓國は倭と呼ばれる地域にあるであって、倭國と呼ばれる地域にあるのではない。
何を言ってるのか分からんぞ。狗邪韓国は韓国である以上、韓の地にあるんだよ。
924日本@名無史さん:2012/12/02(日) 07:38:15.99
>>瀆廬國は倭と界“で”接すである。
>学者でそんな妙な読み方をする人はおらんようだな。

君はアホ学者の言うことを信奉しておればよろしい。

「接」は自動詞で目的語をとれないし、(「扱る」の意味の時には他動詞となる)
「界」の原義は「田と田の(すきま)」 なんだから、「接」の目的語にできない。

「接界」の用例
「楚魏與秦接界」史記
この場合「境が続く」の意
925日本@名無史さん:2012/12/02(日) 07:39:12.37
新唐書地理志には次のような記事がある。
「又五日行して海zに至る。蕃人これを質という。 南北百里なり。北岸は即ち羅越国、南岸は即ち仏逝国なり。・・・又西して
zを 出ず。三日にして葛葛僧祇国に至る。仏逝の西北隅の別島に在り。・・・其の北岸は則ち箇羅国なり。」

葛葛僧祇という島国からみた北の岸に箇羅国があるというわけ。もちろん、葛葛僧祇国と箇羅国はまったく別の国だ。
926日本@名無史さん:2012/12/02(日) 08:38:39.40
>>924
>「接」は自動詞で目的語をとれないし、(「扱る」の意味の時には他動詞となる)
うちと山田家は境を接している。何も問題ない文章だね。文章がまともに
読めなくなるような文法はまちがっているな。

>「境が続く」の意
境は続くものではないだろう。「界」の原義は「田と田の(すきま)」 なんだろ。
すきまは元々あいてるものだ。
927日本@名無史さん:2012/12/02(日) 09:26:29.31
百歩譲って「接」を「海を隔てて接する」の意味にも取れると考えてもよい。
だがその場合でも「接」の本義は「陸上で接する」の意味であり、
倭が韓と陸続きである可能性を否定できない。

「接」が「陸上で接することではない」という意味で無い限り、いくら頑張ってもムダ。
928卑弥呼は満州にいた:2012/12/02(日) 09:49:49.60
界で接す、そんな馬鹿な読み方をする人間はいない。
界を接す、だ。

とにかく、基本的な学力も無い人間が一人いる。
定説に敢然と挑戦しようという姿勢は買えるが、
接すと書かれていても海を隔てて接しているのだ、とか、
弱水とは第一松花江だ、などと言っているようではダメだ。
尤もこういう人間がいるからスレが続いているのであって、
物分りの良い優秀な人間ばかりならもう話題は尽きている頃である。
929日本@名無史さん:2012/12/02(日) 10:02:05.72
定説って誰が言ってるのと聞かれて答えられなかったっけな。
海を隔てて接しているというのは、それこそ定説だよ。文献史学者の本でも
読んでみな。そう書いてあるから。
930日本@名無史さん:2012/12/02(日) 10:08:35.14
考古学的には半島南部の一部は倭と文化を共有していたでオッケー
931日本@名無史さん:2012/12/02(日) 10:19:28.61
今、座標平面上に、二つの円が離れて存在する。

先生「この二つの円は、空間を隔てて接している、と言うんだよ」
生徒「へー、そうなんですか」
932日本@名無史さん:2012/12/02(日) 10:21:36.15
じゃ、地球と月も接しているわけだ
933日本@名無史さん:2012/12/02(日) 11:37:38.97
>境は続くものではないだろう。「界」の原義は「田と田の(すきま)」 なんだろ。
>すきまは元々あいてるものだ。

「すきまを接する」とはどう言うことだ?
「すきまで接する」「すきまを介して接する」のだ。

「楚魏與秦接界」の場合は、
「すきまを続く」のではなく、
「すきまで続いて」いるのだ。
934日本@名無史さん:2012/12/02(日) 11:49:07.66
以下は満州文の添削

界で接す、そんな馬鹿な読み方をする人間はいない。⇐⇐「接」は自動詞。
界を接す、だ。⇐⇐「接」は他動詞ではない。

とにかく、基本的な学力も無い人間が一人いる。⇐⇐それは満州の思い込み
定説に敢然と挑戦しようという姿勢は買えるが、⇐⇐定説は論理的矛盾だらけ
接すと書かれていても海を隔てて接しているのだ、とか、⇐⇐人物A
弱水とは第一松花江だ、などと言っているようではダメだ。⇐⇐人物B
935日本@名無史さん:2012/12/02(日) 12:21:15.83
生徒「じゃ、地球と太陽も“空間を隔てて”接しているんですか?」
先生「そうだね。えらい学者が言うんだから、間違いないよ。」
生徒「はーい、わかりますた」
936卑弥呼は満州にいた:2012/12/02(日) 12:29:40.31
>>934
接すには自動詞サ行変格活用と他動詞サ行変格活用がある。
界を接すは後者の用法である。
937日本@名無史さん:2012/12/02(日) 12:33:32.20
だんだん河童のレスみたいになってきたな
南朝鮮に倭人がいたかどうかは言語・習俗・文化面から見るしかないだろ
938卑弥呼は満州にいた:2012/12/02(日) 12:45:33.77
今問題になっているのは、南鮮に倭の国があったか、倭人がいたか、ではなく、
漢文解釈の問題である。

海を隔てて接しているのだ、と言っている男は、漢文の解釈をしているのではなく、
現実の状況を頭に入れて実際問題として解釈しようとしているのである。

陳寿はどのような状態で接しているかについては何も知らず、
ただ瀆盧国は倭と界を接しているという資料があったからそれを書いたまでなのである。
939日本@名無史さん:2012/12/02(日) 12:50:05.41
>接すには自動詞サ行変格活用と他動詞サ行変格活用がある。

これが漢文解釈とはおそれいる。
日本語解釈だろ。
940日本@名無史さん:2012/12/02(日) 13:33:55.71
手元にマウスとペンを「接」してみなよw

マウスとペンを「隔」ててみなよ

どのれべるで「接」と「隔」を別けるか
やっぱりマウスとペンをくっつけることが「接」なんじゃないかな
941卑弥呼は満州にいた:2012/12/02(日) 17:24:12.76
接界

これを日本語で意味が通るように読むとすれば、
界を接す、なのである。
境を接す、と普通に言うではないか。それと同じである。
境を接す、という意味なのである。

界で接すと読むためには、たとえば於という前置詞が必要だと思われる。
接於界
これなら界で接すと読めるかもしれない。
942卑弥呼は満州にいた:2012/12/02(日) 17:30:31.63
そもそも漢字には自動詞も他動詞も無い。
ゆえに日本語で意味が通じるように読むためには、
自動詞として読んでも他動詞として読んでも良いのである。
943日本@名無史さん:2012/12/02(日) 17:47:20.73
>>938
>今問題になっているのは、南鮮に倭の国があったか、倭人がいたか、ではなく、
>漢文解釈の問題である。
そのとおりだね。

>海を隔てて接しているのだ、と言っている男は、漢文の解釈をしているのではなく、
>現実の状況を頭に入れて実際問題として解釈しようとしているのである。
接には接触もあれば少々離れている場合もあるといってるんだよ。文章を読んだだけでは
そのどちらかは分からない。漢文解釈としてはそこまでだ。
そして、南鮮と九州とは接と言える、南鮮に倭があったなどと断じるわけにはいかないと
言ってるのさ。

>陳寿はどのような状態で接しているかについては何も知らず、ただ瀆盧国は倭と界を接
>しているという資料があったからそれを書いたまでなのである。
陳寿がどの程度の知識を有していたかは分からんね。かなりの知識人ではあると思うが。
とにかく、彼は信用できるとみた資料に基づいて倭人伝を書いたのだろう。
我々は、倭人伝の内容自体から原資料を書いた人物もかなりの人物だ、信用できると思
って読んでるわけだよ。
944日本@名無史さん:2012/12/02(日) 18:04:36.69
>朝鮮南岸に倭がいたなんぞという時点で漢文の読解力がないことが分かる。

だったのが、なんか言ってることがかわってきたね
漢文解釈の議論になるとだいたいいつも途中からかわってくるんだよな
945日本@名無史さん:2012/12/02(日) 18:10:43.24
接の解釈だけならば、943のようになると言うことさ。しかし、倭人伝全体の記事を
みれば朝鮮南岸に倭がいたとか倭の国があったなんてことはまったく書かれていない。
倭の国があったなどという読み方は誤読だよ。
946日本@名無史さん:2012/12/02(日) 18:22:36.98
倭人伝は全体じゃなくて2行でよかろ
韓伝のほうだろ
947日本@名無史さん:2012/12/02(日) 18:46:53.59
まあ、韓伝もそうだが。倭人伝だけでも、韓国を歴るに・・とか、女王国以北・・
とか、関係するところはいろいろあるよ。
狗邪韓国という国名、対馬以下とちがって国情の記載がないところなども重要だろうな。
948日本@名無史さん:2012/12/02(日) 19:42:15.04
韓伝中に公孫康が韓・濊を討ってより後、倭・韓遂に帯方に属すようになったとあり、朝鮮半島に倭があったと考えられることから
接しているのが海を隔てた倭国ではなく、半島内の倭であろうと読めるんだよ
半島内の倭人の存在は近年考古的にも半島内で弥生土器が作られていたことや、9割弥生土器が出土する遺跡で裏付けされている
倭人伝の記事内容からは半島の倭は倭国の構成国ではないであろう
949日本@名無史さん:2012/12/02(日) 19:42:41.24
奈良時代まで朝鮮半島のことを「海北」言っていた。
これは、北部九州高天原=邪馬台国から見て、朝鮮半島が海の北にあったから「海北」と言っていたころの名残なのだ。
宋書倭国伝に引用された478年(神武東征からしばらく後)の「倭王武の上表文」には、「東は毛人、西は衆夷、渡りて海北」を征服平定したと述べている。
日本書紀には、宗像の女神(沖ノ島)は「今、海北の道中に在す」と書いてある。
950日本@名無史さん:2012/12/02(日) 19:50:46.51

上の田は国の領域を表している。

ノ|は隔たり、隙間があるということ
∧というのは限りがあるというわけだ

これらからすると、

   | ?盧国  | 
―――――――――――
    倭

こんな状況が想像される
951日本@名無史さん:2012/12/02(日) 21:06:38.28
>倭・韓遂に帯方に属す
こんなことで倭が朝鮮にあったとは無茶読みだな。
それでは、対馬以南の倭国は帯方に属したとはいえないとなるね。
952日本@名無史さん:2012/12/02(日) 21:12:07.76
倭国が公孫康の帯方郡に属していたなど倭人伝には書いてない
953日本@名無史さん:2012/12/02(日) 21:25:02.06

 動詞
  1.(ゾク)団体や組織の一員となる。所属する。また、部下として付き従う。
 2.(ゾク)ある種類や範囲の中に含まれる。
 3.(ゾク)ある事柄が、ある分類と同類のものと認められる。
  4.(ショク、ゾク)依頼する。託す。嘱する。
 5.(ゾク)文章を書く。
954日本@名無史さん:2012/12/02(日) 22:11:47.52
南面も海なら、韓の「東西南以海為限」て書けばよかったのに
南は入ってないのだね

実際には「東西以海為限」
「南與倭接」

そこから疑問が出たわけでしょ?
955卑弥呼は満州にいた:2012/12/02(日) 22:32:26.27
倭韓遂属帯方
この倭が日本ではないことは明々白々である。
だから、倭とは必ずしも日本のことではないのである。

海北
日本書紀に海北と書かれていれば、それはなるほど朝鮮半島を指すのだろう。
ところが中国や朝鮮の文献で海北と書かれている場合はそうではない。
倭王武の上表文に書かれている海北は後者である。

倭とは君らが思っているような日本ではない。
956日本@名無史さん:2012/12/02(日) 22:35:44.64
界の話はもう終わりなの?
957卑弥呼は満州にいた:2012/12/02(日) 22:44:35.69
われわれは現実の地理を知っているので、
そして瀆盧国は南韓のどこかだと思っているので、
界を接すとはどういうことかという議論が始まる。

ところが瀆盧国は南韓にあったのではないのである。

もういいよ、という声がどこからか聞こえてきそうだが(笑)
958日本@名無史さん:2012/12/02(日) 22:46:43.36
東西以海為限(東も西も海で限られる、南が入っていない)
南は倭、つまり半島南端が倭
959日本@名無史さん:2012/12/02(日) 22:49:11.26
>>957
後の多羅国ではないか
960日本@名無史さん:2012/12/02(日) 23:47:49.40
満州は危恥害だ。

邪馬台国は満州だ! スレでも立てて、そこで存分にヤれよ。
961日本@名無史さん:2012/12/03(月) 00:12:57.10
>>954
東西は海をもって終わり、交わる国はないってことだよ。
しかし、南は間に海はあるが倭国と隣接している。だから海をもって
限りをなすなどとは書けないわけだ。
962日本@名無史さん:2012/12/03(月) 00:36:38.86
「韓在帶方之南,東西以海為限,南與倭接,方可四千里」
韓の範囲について説明しているのだから、海を挟んで隣接しているところは、ここでは書く必要がないんだよ

「又有州胡在馬韓之西海中大島上」
海を挟んでいるところは、別に書いている
倭国のことは倭人伝で書いている
963日本@名無史さん:2012/12/03(月) 00:39:35.00
その解釈だと、
「西は間に海はあるが魏と隣接している」と書かれていないとおかしい
964日本@名無史さん:2012/12/03(月) 00:58:38.20
遠すぎるからだろ。
965日本@名無史さん:2012/12/03(月) 01:05:50.72
>>962
海を挟んでいようが山を挟んでいようが、基本的には同じことだ。

>海を挟んでいるところは、別に書いている
女王国の東渡海千里・・海を挟んでいるところも書いているだろうが。
966日本@名無史さん:2012/12/03(月) 01:21:53.13
>>965
「女王國東渡海千餘里〜船行一年可至」は韓の範囲のような倭国の範囲の説明の部分ではない
倭人の風俗、倭地の特色諸々の説明が終わって、女王国の外について書いている
基本的に文章の流れが読めないみたいだな
967日本@名無史さん:2012/12/03(月) 01:32:03.22
韓の範囲? 隣国の有無は範囲だけの問題ではあるまい。それにどこに何を書くかは
書き手の勝手だ。範囲に続けて隣国を書こうが倭の地の説明に続けて隣国のことを書
こうが何の問題もないね。
968日本@名無史さん:2012/12/03(月) 03:31:30.47
後漢書馬韓伝
「北與楽浪南與倭」
與は組みするという意味があり、これは接続していること
969日本@名無史さん:2012/12/03(月) 08:09:25.17
韓と倭が接していると、何か都合が悪いのか?

日本人の祖先は、大陸から朝鮮半島経由で日本列島に移動してる。
どこかの時期では、朝鮮半島に住んでいて当たり前なんだぞ
970卑弥呼は満州にいた:2012/12/03(月) 09:56:26.45
>>959
この投稿は鋭い。当たっているかどうかは別にして。
>>969
この投稿もまともなことを書いている。
971日本@名無史さん:2012/12/03(月) 11:59:16.79
>>969
どう読むのが正しいのかという問題だよ。それにそこを間違えると、周旋五千里は
南朝鮮からの距離だとか変な解釈をしだすわけだ。
972卑弥呼は満州にいた:2012/12/03(月) 12:42:06.60
韓在帶方之南東西以海爲限南與倭接
其瀆盧國與倭接界
倭韓遂属帯方

これらの倭と、周旋五千里云々の倭は別なのである。
分かるかなあ。
陳寿は、日本ではない倭と、日本の倭を一緒くたにしているのである。
前者の倭は日本ではない。後者の周旋五千里云々の倭は日本である。
973日本@名無史さん:2012/12/03(月) 13:55:58.70
半島南部の種類
@馬韓
A辰韓
B弁韓
C倭(韓)
D州胡

倭人伝の「歴 韓國」「到 狗邪韓國」は倭韓人の国
瀆盧國は、辰韓人弁韓人社会の国の中に倭韓人社会がある。
両者は言語が異なるので混住していない。
瀆盧國に倭韓人タウンがあるってところかな。
974日本@名無史さん:2012/12/03(月) 14:29:43.39
488 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] : 投稿日:2012/12/03 09:26:59ID:RC/vqUba0 [1/1回(PC)]
名前:可愛い奥様[] 投稿日:2012/12/03(月) 09:18:26.68 ID:Qt45Fz4s0
16 +4:名無しさん@13周年 ::2012/12/03(月) 02:18:01.01 ID: xm0FnEtg0 (1)
500 名前: イエネコ(西日本)[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 00:21:44.74 ID:9Ejy1hpx0 [2/2]

道路保全技術センター wikiより

財団法人道路保全技術センター(どうろほぜんぎじゅつセンター、英: Road Management Technology Center、現在は解散)は、
日本の国土交通省所管の財団法人。
道路および道路構造物の保全や調査研究、道路管理システムの提供、技術指導や資格制度の運営などを行っていた。
行政刷新会議による2010年5月の事業仕分けにより、2011年3月31日をもって解散[1]、同年11月30日付で清算手続きが終結した。

ちょw


道路保全技術センター
事業
・調査・研究および開発技術の提供
・レーダーを用いた路面下空洞探査、道路の防災管理、トンネルの保全、道路標識や路上工事削減に関する調査・研究などを行った。
トンネルの保全・・・

>行政刷新会議による2010年5月の事業仕分けにより、2011年3月31日をもって解散[1]、同年11月30日付で清算手続きが終結した。
975日本@名無史さん:2012/12/03(月) 14:34:35.03
倭韓人? わからんじんやなあ。
976日本@名無史さん:2012/12/03(月) 14:48:30.24
倭韓人=韓地が本拠地の倭人(韓地に住む倭語を話す人々)
977日本@名無史さん:2012/12/03(月) 15:03:18.91
古墳時代の倭国の大王や、奈良時代の日本書紀の編纂者が朝鮮半島のことを「海北」と言ってるのだから、大和朝廷のルーツは北部九州で確定じゃん。
978日本@名無史さん:2012/12/04(火) 15:32:57.54
凄まじい。既成政党を打破とか言ってるけどお前のとこが一番独善的
共産党やナチスより酷い妙ちくりんな集団
前科者も複数紛れて、いかにも大阪らしい

無党派さん[] 投稿日:2012/12/03(月) 21:55:03.05 ID:3W6Dp3GZ [11/13]
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012120300800

維新 比例名簿の登載順位は次の通り。
(丸囲み数字は順位。同一順位の重複立候補者名は省略。前=前職、元=元職、新=新人。敬称略)
 【北海道=4人】(1)重複候補3人 (4)米長知得(新)
 【東北=11人】(1)小熊慎司(新)=福島4区 (2)重複候補2人 (4)重複候補8人
 【北関東=18人】(1)上野宏史(新)=群馬1区 (2)石関貴史(前)=同2区 (3)重複候補14人 (17)植竹哲也(新)(18)仲田大介(新)
 【南関東=20人】(1)小沢鋭仁(前)=山梨1区 (2)松田学(新) (3)重複候補16人 (19)田中甲(元) (20)横田光弘(新)
 【東京=22人】(1)石原慎太郎(元) (2)今村洋史(新) (3)山田宏(元)=東京19区 (4)重複候補18人 〔22〕上村昭徳(新)
 【北信越=10人】(1)中田宏(元) (2)重複候補8人 (10)堀居哲郎(新)
 【東海=14人】(1)藤井孝男(元) (2)今井雅人(前)=岐阜4区 (3)重複候補11人 (14)近藤浩(元)
 【近畿=40人】(1)東国原英夫(新) (2)西村真悟(元) (3)重複候補8人 (11)三宅博(新) (12)重複候補28人 〔40〕喜多義典(新)
 【中国=8人】(1)重複候補6人 (7)藤井昇(新) (8)谷本彰良(新)
 【四国=7人】(1)重複候補4人 (2)重複候補2人 (7)大内淳司(新)
 【九州=19人】(1)松野頼久(前)=熊本1区 (2)重複候補17人 (19)黒仁田典之(新)

マスコミに踊らされる前に、中身見たほうがいいな
979日本@名無史さん:2012/12/04(火) 20:10:47.04
接見、接吻、交接。あう、あわせる。
韓の東西には海しかなくて合わせる国はない。南にのみ続く(接く)国があってそれは倭なのである。
境は川か山か人為的な関や壁や柵かわからない。平原の木や草の一群かもしれない。
ただ南に倭があると書いている。接だから近場だ。
対馬と半島程度ならば接界すと書かれていても不思議ではないと思うが、
倭人組織が半島にあってもいいのかもしれない。
しかし、北岸とは対岸である北の岸辺と解釈すれば倭は海峡以南。
上唇は下顎の最上部にある唇ではなく上顎の唇、おいらは上唇が好きだが北岸は好かぬ。
涜盧國は倭韓の人で倭か韓か区別できないので、お前らはどっちだ聞かれてわからぬと答えた。
どちらにしても、ついには倭も韓も郡に属したとあちらさんは認識していた。
980日本@名無史さん:2012/12/04(火) 20:18:14.31
韓では倭人が鉄を取る

かなり大きな組織でなければ、鉄も取れまいし、守りも固められまい
981卑弥呼は満州にいた:2012/12/04(火) 22:05:14.59
だから涜盧國は南韓にあったのではないのである。
鉄が取れたのも南韓の話ではない。
982日本@名無史さん:2012/12/04(火) 22:22:24.17
北岸狗邪韓国とは、狗邪韓国の岸ではない、岸に狗邪韓国があるということだ。
朝鮮半島と九州が描かれている地図を眺めるような大きな視野での説明だ。
岸とは朝鮮半島の岸なのだよ。
983日本@名無史さん:2012/12/04(火) 23:16:42.83
>岸とは朝鮮半島の岸なのだよ。

だったら、南岸と書くんじゃね?
984日本@名無史さん:2012/12/04(火) 23:26:14.94
倭を基準に書いているらだよ。倭からみたら北の方角にある朝鮮半島の岸だ。
朝鮮半島を基準に書けば南岸だが、倭人伝は倭を基準に書いているから北岸だ。
985日本@名無史さん:2012/12/04(火) 23:44:00.28
又西出z,三日至葛葛僧祇國,在佛逝西北隅之別島,國人多鈔暴,乘舶者畏憚之。其北岸則箇羅國。箇羅西則哥谷羅國
986日本@名無史さん:2012/12/05(水) 02:12:10.57
だから、任那と呼ばれる所が倭でいいし。
987日本@名無史さん:2012/12/05(水) 06:51:04.51
つ「倭地に牛馬なし」
988日本@名無史さん:2012/12/05(水) 07:59:03.56
>>984
>倭を基準に書いているらだよ。倭からみたら北の方角にある朝鮮半島の岸だ。
>朝鮮半島を基準に書けば南岸だが、倭人伝は倭を基準に書いているから北岸だ。

基準は倭ではない。基準が倭ならば、其北岸は対馬の北岸又は九州の北岸になる。
循海岸水行している航路の海から見ての北岸である。
乗船している船の北側の岸の意味になる。
989日本@名無史さん:2012/12/05(水) 08:19:09.82
そもそも、畿内は倭国ではないのだから、邪馬台国の所在云々が言える立場ではない。
990卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 09:19:48.34
>畿内は倭国ではない

その根拠は?
そんなことが証明されているのなら、邪馬台国論争はとっくに終わっているはずだが。
991日本@名無史さん:2012/12/05(水) 09:24:18.43
倭の地は周旋五千里。唐津から400キロの範囲内出なければならない。
しかも、倭人は大海の中の山島にいるとある。3世紀当時、中国人は、我が国の
本州が島であるということは知らなかった。
となれば、倭=九州しかありえないね。
992日本@名無史さん:2012/12/05(水) 09:36:10.09
「毛人の国」と生駒酋長「長脛彦」ってイメージが重なるな

倭は元々弥生時代の最先端地域である北部九州にあって、
古墳時代の最先端地域である畿内(毛人の国)を征服して王都となした、
という神武東征(東遷説)にも叶う
993卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 09:53:01.83
隋書倭國
其國境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下

旧唐書倭国
在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行

旧唐書日本
其國界東西南北各數千里 西界南界咸至大海 東界北界有大山爲限 山外即毛人之國

後世の資料だが、これだけ見ればやはり倭国とは日本(北海道を除く)のことと思える。
ただし旧唐書日本伝の記述は日本の地理とは合わない。

>倭の地は周旋五千里。唐津から400キロの範囲内でなければならない。
これの意味不明。
994卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 10:17:23.44
其國界東西南北各數千里

と非常に広大と目されていることに注意しなければならない。
これは中国人の感覚では満州全域に匹敵する広大さなのである。
周旋五千里
これも非常に広大という認識である。
九州論者が思っているようなチマチマした領域ではない。
995日本@名無史さん:2012/12/05(水) 10:23:20.05
>>993
>>倭の地は周旋五千里。唐津から400キロの範囲内でなければならない。
>これの意味不明。
倭人伝は、韓方4000里、狗邪韓国から九州島まで3000里、対
馬方400里、一支国方300里などから1里=約80メートルで書か
れていることがわかる。ということは、周旋5000里は約400キロだ。
996日本@名無史さん:2012/12/05(水) 10:36:03.40
>>987の一言で、跡形も無く粉砕論破される朝満人www
997日本@名無史さん:2012/12/05(水) 10:43:48.61
>>996
ワロタw

このスレ最大の功績は、脱北電波野郎の低能ぶりを誰の目にも明らかにしたことだね!
998日本@名無史さん:2012/12/05(水) 11:04:42.04
次スレ立てる人へ

↓これをテンプレに入れて
「満州の話題は禁止です!」
999日本@名無史さん:2012/12/05(水) 11:14:38.01
次スレ立てる人へ

↓これもテンプレに入れて!

「倭地に牛馬なし」
1000卑弥呼は満州にいた:2012/12/05(水) 12:19:39.05
996-999
九州論者がいかに低能であるかをまざまざと示しているw
10011001
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。