外泊している間にスレ終わってた
早速質問です
日本の比叡山延暦寺や一向宗の本願寺は平安から戦国時代まで僧兵を保有していましたが、本家大元のインドや中国の寺にもそういう存在が居て王族に強訴してたりしたのでしょうか?
ありです。
というより教団は勢力を維持しようとするなら武力を持つ必要があります。なければ滅びるのみ。
現在の日本が非常に稀な例外であるだけです。
曹洞宗の嵩山少林寺(いわゆる「少林寺」)の歴史を見てみるといいですよ。李世民の援軍になったりしてます。
日ソ中立条約の締結に奔走したはずの松岡洋右は
何故北進論を唱えたのでしょうか?
元々彼、松岡洋祐の主張は欧米列強の排除と亜細亜人による亜細亜統治にありました。
これが地域自決を意味するのか日本人による支配を意味するのかは議論が分かれますが、要するに欧米嫌いで名が通っていました。
欧米列強に対する挑戦者として松岡はナチスドイツに心酔し、ファシズムに迎合し、スターリン型社会主義との同盟を望みました。
要するに彼は欧米資本主義列強が嫌いだったんです。
これに他の日本国内有力者は天皇も含め反発し、列強に対する胡散臭い挑戦者としてのナチスドイツを忌み嫌いました。
逆に松岡を支持したのが、日本の事実上の植民地となっていた満州へ入植した人々、
満州で産業を作った日立財閥、満州へ住民を送り出した東北地方の人々、そして満州で勢力を拡大していた軍部であったわけです。
>>4 ありがとうございました。
確かに教会なども騎士団持ってたりや異端審問官が居たりしますからね。
8 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 11:47:49.77
堀が深い城とかに油流して火矢射てば勝てるんじゃないんですか?
勝てるけど、それじゃぁ後で城を自軍の根拠にできない。
ゲームなんかでただ勝てばゲームセットというのとは違う話。
>>8 当時の油は質が悪い
戦国時代において人が渡れない堀がある城は稀
ほとんどが天守閣石垣なんてない砦みたいなもの
城はそこに住む農民達を守る意味もあるので、
相当な材料がない限り廃城には出来ない
その農民達を支配下に置くものだし、手荒なことは出来なかった
撫で斬りとかはほとんどがただの伝承
11 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 14:24:34.87
戦国時代の最後期頃までは今日イメージするような本格的な天守閣は有りません。
物量戦ができるのが、織田や豊臣の強みだったわけ。
他の戦国大名では農民を戦闘時期だけ動員するもので、農作業に支障が出ない時期だけ、物量も限られた戦闘が展開されました。
あと、堀に水があると誰が決めましたか?
空掘もあれば山谷の切通しのようなものもある。
江戸時代に机上の空論で建った「水の名城」越後長岡城は、実際に戦ってみると外から舟で直ぐ天守へ到達できて戊辰戦争では落城を繰り返しましたが
戦国時代の城はそんな粗忽さはありませんよ。江戸城にしても堀は繋がっているようだけど舟で一周できるようには繋がってはいない。
>>12 > 他の戦国大名では農民を戦闘時期だけ動員するもので、農作業に支障が出ない時期だけ、物量も限られた戦闘が展開されました。
今時こんな大嘘を…
戦国時代の合戦ちょっとでいいから自分で調べてみ?農繁期でも大規模な合戦やってるから。
あと戦国時代の兵は農兵じゃないから。兵農分離なんてのも嘘だから。
もうちょっと勉強してこい
と鈴木をかじったぐらいのニワカが言っております。
>>14 逆逆。鈴木を否定してる話だ。
お前は知識もないのにイメージだけで突っ込み入れるな。
16 :
日本@名無史さん:2012/08/16(木) 09:19:01.28
中央以外ってほとんどが農兵なんじゃないの?
中央とはどこだ
どの板で聞いたらいいかわからないので、ここで質問させてください。
吾妻鏡を読みたいのですが、現代語訳って有りますか?
図書館で探したら読めない(原文?)の、値段が高そうな本しか有りませんでした。
吾妻鏡は現在手に入るものが数種類ありますが、現代語訳ということならハードカバー最新版が一番良いでしょう。
特に解釈に異論もありませんから。
つまり、吉川弘文館から一冊2500円程度で出ているシリーズを読めばよいということです。
全16巻予定で今のところ11巻まで出ています。
吾妻鏡なら漫画も何人か書いているね
面白いのかどうか知らないが…
竹宮恵子は何時か読もうと思っているが何時になるやら(苦笑
質問させて頂きます。
史料の概要と年代、作者等をまとめた一覧の載っている書籍で、お勧めのものを教えて下さい。
調べたい年代にどの様な史料があるか等を知りたい時にいつも困っています。
宜しくお願い致します。
オカルト板の前世スレで前世検非違使であったという人が現れ、語られているんですが、
この板の歴史博士の人々はこれを正しいものであると思いますか?
876:大尉 ◆U7ep55wFBA :2012/07/11(水) 15:53:30.14 ID:Iz2r/DDL0downup
皆さん、レスありがとうございます。
>>875 『検非違使補任』などがありますからね。
実は私も誰だったんだろうと思って多少調べました。
「原」という漢字を妙に書き慣れているのと、親族の長老格に局務頼業がいたので、
中原氏あるいは清原氏であったような気がします。
大夫尉明基殿は搦氓熄繧フ先輩ですよ^^
877:大尉 ◆U7ep55wFBA :2012/07/11(水) 16:04:59.59 ID:Iz2r/DDL0downup
保元(1156)の頃に十歳前後で、信西入道殿をお見かけしている。
その後、十代前半で放蕩無頼。
直後に任官し、蜂起する直前の宰相中将信頼卿を文殿で見知る。
仁安三年(1168)の頃、時忠卿が検非違使別当となられ、それ以前には私も衛門の尉となっている。
というようなことを考えると、生まれは久安の頃(1144〜50)ではなかったかなと思います。
武衛殿(頼朝)とほぼ同年代ですね。
879:大尉 ◆U7ep55wFBA :2012/07/11(水) 16:15:01.68 ID:Iz2r/DDL0downup
ちなみに亡くなったのも武衛殿と恐らく一緒なのですよね。
後白河院が崩御された時(1192年3月13日)には、越し方を振り返って具注暦に収まりきらぬほどの日記を書こうとし、
難渋をしていたところ、数日後に連子が紙を貼り継いで、余白を作ってくれていたのを覚えています。
見込んだ方々を次々に失い、官人としては本懐を遂げることは出来なかったかもしれないが、
一人の夫としてはかくも幸せであったと気付き、その後は分を弁えぬ志を抱くでもなく、黙々と職務をこなし、
妻と過ごす日々を大切にしつつ、武衛殿よりは早くに亡くなったのだと思います。
武衛殿薨去の記憶がありませんので。
>>20 21
情報ありがとうございます。
漫画は現代語訳版を読んだ後にでも探してみます。
27 :
日本@名無史さん:2012/08/18(土) 08:35:22.93
倭の五王についてですが一部諸説はあるものの
この五人の王についてどの天皇を指すか言われていますが
そもそもこの王とはどんな人たちだったのですか?
イギリス王フランス王の王と倭の五王の王は役割や意味が違うのですか?
英語のwikiにはFive kings of Waとkingという言葉を使っていますが。
この当時は天皇=国王だったのですか?
吉川家文書や黒田家譜は、鹿児島だとどこで見れますか?
近所の図書館は小さいのです。
九州新幹線に乗って九州国立博物館まで行ったほうが早い
>>29 マジすか!!交通費がトンでも額ですorz
ありがとうございました。
鹿児島ね
鹿児島県立図書館と隣の歴史資料センター黎明館にないのなら、新幹線か飛行機でしょうね。
あとは明治維新関連ばっかりだから。入来のあたりに渋谷一族の博物館があったっけ。
>>31 ありがとうございました!こっちは明治維新の話や銅像ばっかで、
興味ない俺は鬱です。
お祭りは島津氏由来が多いのですが。
奄美大島への侵略とか、黒糖地獄とか、酷かったのでしょうか…。
仮に京都に住んでいた人間が一人ふらっと消息を断ったとする
その後風の便りで信濃辺りに居るらしいと聞いて、探しに出ることにした
見つけるまでにどの位の期間が必要になると思う?
見つける対象は実際信濃のどこかに居るとして、探す側は成人男性一人
時代は戦国時代くらいで、当初の情報は「信濃に居るらしい」ということのみ
アバウトな質問で申し訳ないけど、憶測込みでいいのでよろしくお願いします
信濃に居るらしい、だけじゃよほど幸運がない限り数年から十数年単位だぞ?
すみません、やっぱり大雑把すぎた
追加で、探される対象が地味に有名(別に良し悪し何でも)で
人に聞けばたまに噂話や反応が返ってきて
対象人物に近付くにつれて反応件数が少しずつ増える状態だとどうだろう
>>35 名前が知れてるなら絞り込みやすいだろうが、それでも京から出発して発見まで数ヶ月単位だと思う
毛利輝元の長所って何ですか?
彼が主人公の小説を書き始めたのですが、
筆才のない自分が描くと、周りの人をいらつかせる人物になってしまいます。
>>33 重箱をつつくレスですみません。
その探される人が、
どんな人かにもよるんじゃないでしょうか?
名古屋なんとかさんみたいな超絶イケメンとか
奇行が立つ行動の人とかなら、早く見つかるかもしれません。
平凡なルックスで、地味ーに暮らしていたら、下手すりゃ見つからないかも。
38 :
日本@名無史さん:2012/08/20(月) 01:43:10.66
>>37 短所と長所は表裏一体だ
おじに頭が上がらない→礼節を重んじる
女好き→野性的でワイルドだろぉ
優柔不断→熟慮を重ねる
>>37 ギリギリの所で確かに指導力を持っている。
あと基本的に良い奴。
道鏡は、天皇の隠し子か何かだったんですか?
その可能性は低い。彼への評価は有徳者ということだった。
天皇の血統としては頂点を極めた孝謙天皇が血統より有徳を重んじ、天皇への適任者として道鏡を推したのだから。
それに反論が表立って出なかったということは、王莽程度には外見上有徳者に見える人間だったことになる。
道鏡にまつわる種々の悪評も客観的に裏付けられたものはなく、一部は全くの嘘と判明している。
つまり道鏡は権力争いに負けたが、人格者としてはボロは一切出さなかった。
道鏡を殺してもおかしくないと思うけど、特殊な例と判断したのかな
>>41 ありがとうございます
もしこの時道鏡が天皇になってたとしても、後のことを考えて天皇の血が流れてるように画策し、一代限りだったでしょうね
天皇家には藤原氏の血が流れていますが、藤原氏には皇室の血が入っているのですか? また、藤原家の正式な嫡流(道長とか忠実とか)は今も続いているのですか?
今でも政治家とか官僚を出す一族とか…
平安と鎌倉時代に摂関家は分裂したので名字は近衛とか九条になってると思いますが
>>44 というか近衛家なんて天皇家から養子が入ってるし
藤原不比等の時点で鎌足と皇族の子だとか、天智天皇の落胤だとかいう説もあるけどさすがに怪しい。
藤原北家初代、房前の正室が敏達天皇の玄孫または来孫で、その後も何代か皇室や源氏の女性を妻に迎えている。
戦前は貴族院議員とかになる人も多かったけど現在はそうでもない。ただし細川首相の母親は近衛家出身。
>>44 山のように残ってますよ。少しググればウジャウジャ出てきます。
男子もたくさん生まれてるのでしばらくは安泰でしょうしね。
今は次期天皇の嫁さん候補さがして大変な時期でしょうねぇ。
細川首相は細川忠興の子孫だけでなく、藤原も祖先だったんですね
皆さんありがとうございました
黒田日出男著「神護寺三像とは何か」(角川選書)はどうですか?
字が小さくて350ページあるから、かなり気合を入れて読まないといけませんね。
足利直義が目指した政治ということに集約されていきそうだけれど、
美術史等にも造詣がないと理解不能ですか?
黒田さんの本は細かいけど論点は明解だから
読みやすいよ。
>日出男著
出版時期が何時も何で今頃?って本ばかりだからなw
論点整理が出来ていないようでは話にならん罠
戊辰戦争で徳川慶喜はもう降伏してるのに榎本武揚や新撰組、白虎隊は戦い続けましたが、もし明治政府に勝利したら誰が幕府を主導することになったのでしょうか?
既に大政奉還した後だから幕府自体が存在しません。もし会津で勝利していたら奥羽越列藩同盟が
輪王寺宮公現法親王を担いで別の政府を作っていたかもしれません。
もし函館で勝っていたら榎本を首班とする別の政府が出来ていたでしょう。
いずれにしても江戸幕府では有りません。
>>53 ありがとうございました。 確かに幕府はもう無いんですね……
江戸開城以降は、東軍勝利の場合といっても、領域としては地方自治領程度ですけどね。
奥羽越列藩同盟は、「朝廷の下の公的機関」を自称し、新政府と互角だと宣言した団体でした。
これは彼等の時局誤認のせいと思われます。
(彼等は摂関政が存続しており、新政府とは彼等の下部団体のことだと考えていた)
たとえ勝利しても朝廷の下であることには何も変わりがありません。
(輪王寺宮を天皇とするもう一つの朝廷だったのだ、とする説がありますが、
輪王寺宮自身が否定しており、その東の朝廷とやらが設立された時間的余裕や物的な形跡がありません)
榎本艦隊に至っては、「朝廷の下での旧幕府遺民による自治組織を承認せよ」と主張しています。
地名についてなんですが、
越前、越中、越後の間に何故
加賀が挟まってるんですか?
越前国から分割してできたから
能登も挟まっています。
ノモンハン事件って規模的にどうみてもソ連との戦争なのに何で事件なんでしょう?
事件だと大した規模の出来事に思えないんだけど
国際的な観点から戦争で負けたとは認めたくないから、小規模な紛争だった事にした。
61 :
日本@名無史さん:2012/08/26(日) 18:22:06.64
きっともう誰か訊いているでしょうが、
長年の疑問ですので、あえてお伺いします。
なぜ清盛は頼朝を源氏の本拠地である板東に流したのでしょう?
監視しやすい京都周辺に置いてたほうが
よいように思うのですが。
中央近くに置くと政治の駒として使われてしまうから、
平氏も板東に基盤があったから
>>61 源氏の本拠地と言いつつ伊東も北条も千葉も上総も三浦もみんな平氏なんですよ。
あっ!伊東は藤原氏だった。
64 :
日本@名無史さん:2012/08/26(日) 22:19:17.17
便乗なんですが、平安末期において
坂東武者=清和源氏
西国武士=桓武平氏
ってイメージを考え出したのは誰ですか?
>ノモンハン事件って規模的にどうみてもソ連との戦争なのに何で事件なんでしょう?
>事件だと大した規模の出来事に思えないんだけど
戦争と呼べる規模だったかどうかは置いといて…
国際的に紛争当事国と認定されると経済とかで色色と不味いんだよ
現在では日中戦争と当たり前のように呼称されているけど
中華民国は米の中立法が改正されるまで、中国と日本が戦争状態にあるとは絶対に認めなかった
多分清和源氏(河内源氏)を武家全体の統領と位置づけた鎌倉幕府ではないでしょうか。(推量だけど)
実際には平将門とかの先祖の頃から関東には平氏が根付き、坂東八平氏とか呼ばれてます。
平氏ばかりでもないですが。
清和源氏は初代源経基が武蔵介として下向して平将門を謀反の疑いで誣告するなど縁が無い
訳ではないですが、本拠は摂津とか河内です。
>>61 当時はいろんな人を流罪にして、ビッグを西に流した
からど〜でもいいガキを順番に関東にしただけでしょう。
後は全部結果論。
68 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 17:22:37.26
>>63 板東八平氏などの平氏は、
伊勢平氏と互いに同族意識があったということですか?
>>67 ありがとうございます。
ビッグを西に、というのは勉強になりました。
61
保元の乱では為朝を伊豆に流しているし、頼朝の同母弟の希義は土佐に流されているので、
必ずしも西イコールメジャーな流刑地じゃないと思いますけど。
最も為朝を西に流したら、九州は元々彼の地盤なんでこまるでしょうけど。
北条時政の後妻牧の方の親族は八条女院に仕えていて、この女院と、それに近い立場の平頼盛とか源頼政が
自分達の力が強い伊豆で頼朝を保護したんだって唱える人もいますね。
後年、平頼盛の一族だけが頼朝にお咎めを受けなかったのも、その恩義のためだと。
>>68 >伊勢平氏と互いに同族意識があったということですか?
伊勢平氏は桓武平氏初代の高望王の子の平国香の子孫。坂東八平氏は国香の弟の平良文の子孫。
河内源氏と美濃源氏くらいに遠いですね。伊勢平氏も元は関東に居て、平将門の乱の原因を作ったり
してる訳ですが。
>>37ですがありがとうございました。
殴るドラえもんと綺麗なのび太路線で書いていますが、ちょっと苦しいです…。輝元主役の小説を読んだほうがいいのかな…。
72 :
日本@名無史さん:2012/08/28(火) 04:53:09.92
>>69 あれあれ、そうですか。
>>70 わたしも同族意識は実際上ないと思いました。
68
>>69 当時の遠流は6カ国。
頼朝執行の当日にツネコレや師房も流刑になって
土佐も当然西国に入る。
どうでもいいガキだから順番に安房とか伊豆を当てはめただけでしょう。
崇徳上皇を見てもわかるように西国に大物が流されてるのは
そっちの方がイザという時に監視しやすいからだろうね。
頼朝保護説もかなり結果論から語ってるからあんまりだなぁ。
74 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 10:37:57.04
私の先祖の墓が能登、輪島の山丸々一つなのですが能登半島にはそういった文化があるのでしょうか
墓石は無く、ちょっとでかめの普通の石が変わりにおいてありました。
それはむしろ白山信仰あたりと関連あり。
あれは山岳信仰・修験道でもあり、歴史的には明治までは神道と仏教の混交したものでした。
76 :
74:2012/08/29(水) 11:08:09.56
庶民の場合、墓、墓石っていつごろから始まったのでしょう
明治以降?
モーツァルトでさえ、共同墓地の穴に投げ入れられただけ、
一人一人の名前が記された墓を残すようになるったのは比較的最近かなと思いました。
>>77 江戸時代。日本の「家」はだいたい江戸時代まで遡れる。
墓石の研究から江戸の庶民の殆どに苗字があったことも確認された。
79 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 20:15:27.15
石の墓が一般的になったのっていつ頃から?
それも江戸時代
>>77 室町時代の墓石、卒塔婆が出たというのを見たことがあるな
一般的ではなかっただろうが
>>79 今の形の墓石なら江戸時代
寺が国や豪族からの資金ではなく檀家システムで食い始めてから出来た様式
「代々之墓」になったのは明治以降と聞いた覚えが。
それまでは個人、個人で別だったとか。
>>77 モーツァルトの場合は当時、薄葬令が出ていたから。
>>78 江戸時代のいつ頃?だったのだろう
(初期、中期、後期、末期)
江戸時代は明治維新から現在よりも2倍以上長いので
85 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 23:20:34.09
鎌倉時代の北条氏は、なぜ将軍にならずに、執権にとどまり続けたのでしょうか?
当時の最高権力者ですから、なろうと思えばなれましたよね?
室町末期や戦国時代、有名に歴史に残らなかったものでも
「戦」と呼べるものを起こすことが出来た最小単位(一番立場が弱い、低い、小さい等)
ってどのくらいからですか?
群雄割拠、下克上とは言え、やっぱり名門家やあるいは名門家の家臣等じゃないと
戦は起こせなかったですか?
農民同士の水争いは抉れるとかなり派手な「戦」になるな
>>87 農民同士の水争いは思いつきませんでした
生活に直結する分酷いことになりそうですね…
戦国期特有の領土を得る為、権力を得る為、防衛の為etc
のようなもののみで考えるとどうなるでしょうか
>>85 最近出た細川重男の鎌倉の本に詳しくいろいろ書いてあるぉ。
要約はしにくいけど、北条氏自身の存続成立理由に将軍という発想や
選択肢がなかったろう、という感じかな。
>>86 答えにくいけど、最少というなら個人でもできたんじゃない?
美濃抗争時には10数人で城乗っ取ったとか、伝承ならそういうのも
いっぱいあるだろうし。
それとも一般論じゃなくて、実例で「最少の戦」ということなのかな。
これだと戦の定義にもよるけど、元服記念にあっちゃこっちゃ騒ぐのも
「初陣」なんて記録には残りますからねえ。
91 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 15:46:13.99
農民の刃傷事件の沙汰をその豪族が裁いてるから
小さいものなら一村同士の「戦」はあったんじゃないかな
落武者狩りの論功でももめてるのもあるし
水を巡る争いなら正倉院文書や多賀城址の漆紙文書にも出てきた気がする
>>90-
>>92 ありがとうございます
10人で城乗っ取りって凄いですね。初めて聞きました
村同士の戦争って割とあったものなんですね。戦レベルにまでなってしまうとは…
>>85 藤原氏はなぜ天皇にならずにというのと同じかも
いろいろできない事情があるのだろうな
>>93 伝承って書いてるから竹中半兵衛の件だと思うけど。
夏休みの質問は今日までですよ〜。
古代の文語は万葉集などからわかりますが、当時の話し言葉も「いとおかし」や「なりにける」などが話されていたのでしょうか?
98 :
日本@名無史さん:2012/09/01(土) 20:58:14.71
言うてました。
少なくとも、奈良や平安朝の初めごろまでの宮廷言葉はそうです。
当時の人が、どんな言葉づかい、どんな発音で話していたか知りたければ、
手近の大学に申込めば、
コンピュータでつくった復元古代会話の録音を聞かせてくれますよ。
「なり」が、漢文「也」を訓読するために作った言葉だと思ってる人があるが、
弥生時代、すでに倭人は「われは、ひめのつかへびとなり」というような話し言葉だった。
「吾は、姫の仕へ人也」
↑「びと」は「ぴと」の誤り。半濁音。
弥生時代??
>>98 >>99 さんありがとうございました。音声の件、大学関係調べてみます。
平安初期は史料が欠けているから不明。(漢文訓読資料は豊富)
そもそも大和と京では単純に比較できないし
江戸時代に例えば1万数千石の小名が長男に8千石、次男・三男に1500石ずつ分与したため藩は廃藩になり大名から旗本になる事例がちらほらありますが
現代を生きる自分からすると大名の身分は何がなんでも守るべきものように思いますが
当時の大名(小名)の格は大身旗本の格と比べたときそれほど重要なものではなかったのでしょうか?
やっぱり重要ですよ
内分分知といって表向きの石高は減らさずに分家を起こす方策が考えられました
>>104 >江戸時代に例えば1万数千石の小名が長男に8千石、次男・三男に1500石ずつ分与したため
こういう場合、実際は大名側からの申し出ではなくて幕府からの何らかの処分の場合もあります。
長男が継いだ本家の格が下がっちゃうという罰なわけです。
森鴎外の小説で有名な阿部一族も(この場合は細川家の家臣ですが)
切腹した前当主の殉死が認められなかっただけでなくて、長男の相続分が減っちゃったことが反抗の理由のひとつとなっています。
自殺した天皇経験者っていますか。
安徳天皇は無理心中ですかね。
弘文天皇あたりか
大友皇子ですね。
退位後に自殺って実際にはありそうですが伝わらないのでしょうか。
110 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 01:24:18.76
質問です。
お笑いのサンドイッチマン伊達いますよね?
あれ、仙台伊達家とどういう関係ですか?
もし江戸時代なら、あのどチンピラ風の伊達は上級武士くらいになってるんですか?
その昔、伊達氏が伊達郡から米沢に所領を広げた時の当主が伊達宗遠で、その息子が政宗です。
政宗と言っても独眼竜ではありません。伊達政宗の乱と呼ばれる戦いで伊達氏中興の祖とされ、
独眼竜はそれにあやかるべく政宗と名付けられました。
政宗の兄弟に宗行という人がいて大条氏の祖となりました。この大条氏は伊達氏の一門として続き、
江戸時代には亘理郡の坂本城主として4000石の所領があったそうです。明治になって大条氏は
伊達氏に復姓し、伊達みきおはその嫡流だそうです。
世が世なら城主様です。
補足。先祖には仙台藩の家老になった人も居るようなのでもしかしたら家老になれたかもしれません。
>>107 弘文帝と同じように明治に追諡された淳仁天皇にもその噂はある
配流先の淡路から逃亡、捕らえられた翌日に亡くなっている
病死や直接的に殺害された可能性ももちろんあるが、「わかってるよね?」ということだと思う
もちろん記録はないが
「もしも世界が128人の天皇だったら」にも自殺した人数は載ってなかったな。
(既出ならスマソ)
【質問】
時代劇などで、旗本や大名などが、その場に居ない貴人(※将軍など)の名を出す時、
一瞬頭を下げて礼をする動作をしますが、
この所作に何か名称はあるのでしょうか?
もしくは、この所作の裏付けとなる礼法上の考え方のようなものがあれば教えて下さい
>>115 時代劇好きで良く見てる方だと
思ってたけど、そんな所作は
見た記憶がないなぁ
迂闊に口に出すのも畏れ多いって
感じの仕草なのかな?
そもそも将軍をどう呼ぶの?
むしろ歌舞伎で見る気がする。それと戦争映画で誰かが「天皇陛下」と言う前に「かしこくも(畏くも)」とか
言ったのを合図に一同、気をつけするとか。
119 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 18:08:53.75
太政官制における太政大臣や左・右大臣、大納言等は現代で言うところの
高級官僚なのでしょうか?それとも国会議員なのでしょうか?
あるいは高級官僚&国会議員の兼務みたいなものでしょうか?
詳しい方、宜しくお願いします。
>>119 詳しい方じゃないから無視してくれて構わんが
律令太政官制にしろ明治太政官制にしろ
議院内閣制ができる前じゃん
乱暴だが、任命のされ方で言うとどちらの太政官制も君的には同じだと思うよ
仕事内容としては同じではないし、議院内閣制下の国会議員の仕事はもっと違う
>>119 大臣は大臣であって官僚ではない。官僚のトップは事務次官。
また、国会議員のような国民の代表は明治の帝国議会開設以前には無い。
今でいえば何に似てるかってことだろう。
太政大臣は衆院議長か?
何で議会になるんだよ。あえて言えば左大臣が総理だろ。全然違うけど。
政府そのものだから内閣だろ
権力がないところ
官僚と政治家の兼務が一番近いだろう
無理に現代の機構に置き換えずに、
そのまま考えるほうがわかりやすいと思いますよ
官職的には早い段階で廃止、統廃合もされているし
(用語的に太政官制とは
>>120の後者 1868-85のわずか20年弱)
あえて言うなら名目的には総理大臣〜大臣を兼務、
実権はそれらの下の参議が握っていました。
選挙か試験か、で前者の方が世襲には向いてるからね。
日本の城は時代が下るにつれ
山の上等の高地から徐々に平地へと
建てられる場所が変わって行きますが
防衛の為に高い所に築城していたのに
なぜそのような傾向があるのでしょうか?
詳しい方おられましたら
回答をお願い致します
鉄砲が普及して攻め方も守り方も変わったから
動員兵力の大規模化で水の確保や域面積の広大化が図られたからかな
山城に登った経験があるなら分かると思うけど
経済活動の活発化や個個の戦国大名の支配地域の拡大で
城主や肥大した統治機関を山頂に置くと往路の拡張・維持管理に莫大な経費がかかることになるし
何よりも山頂は不便だから
だから純粋に軍事目的の小城なら戦国後期でも山頂に在する
元々山城は有事の時に籠るための場所で、普段は麓の館に住んでいることが多かった。
そうなの?
信長は金華山の上にいて、今の人間だと往復はしんどいけど
昔の人は体強いから平気で徒歩で往復したんだろう、とか
聞いたことがある。
そんなに不便でもなかった、って話なんだけどね。
戦国時代と一口で言っても百年程あるわけで
戦国中期の話を「元元〜普段〜」とか言われても
知識の無い読み手は混乱するだけ
元々、鎌倉御家人や室町時代の守護大名屋敷は館作りですが。
大分で大友屋敷が2つ発掘されていて、一つは低い丘の上に他の寺などと共に、
もう一つは平野の市街地にあったことが分かっています。
甲斐武田家の屋敷だった躑躅ヶ崎館は、後に堀をめぐらし裏山に後詰の城を建てます。
島津の城は、防御陣地を作った山と、山の下の屋敷で1セットです。
守護大名屋敷は平野に作るもの、城は山に作るもの、
政務の城が山城から平山城、次いで平城へと変わってゆくのは、
戦乱の世になって屋敷が一旦山の上や堀の中へ、その後防御を強化しつつ再度便利な平野へ帰ってゆく過程なのではないかと思います。
平清盛の時代の日本の人口は約700万人で正しいですか?
>>136 いろいろ発掘してて見つかってるようだけど
そこに信長がいた、とは記録に残ってるんだっけ?
>>129 >>130 >>131 ちがう。山城から平城への転換は、はっきり言えば江戸初期の一国一城令からだ。
軍事施設としての城郭が否定され、「結果的」に、ほぼ平城だけになった。
山城の防御力は戦国後期でも有効だった。信長なんて最後まで山城にこだわっていた。
山城の消滅は軍事的な理由ではなく、政治的な問題。
>>138 それは無いが山上に住んでいた記録も無い。
>>139 あのなぁ、平地の城館や平山城なんか奈良・平安時代からあったんだよ
全く系統の違う城をごっちゃにして「違う」とか言ってんじゃねぃよ
毛利の郡山城のようなタイプを念頭の質問じゃねぃのか
>>133 岐阜城に関して言えばそうですね。
『日本史』をはじめ史料、日記でそのような記述が見られます。
かといって家臣も平気で昇り降りしたわけではなく、往復で一時間半かかるとかw
信長自身も頻繁に下山したようですが。
>>142 今も、あの麓に住む爺婆たちは1日に一回どころか複数回
散歩がてら登ったりしてると20年前に聞いたことがありますね。
もちろん頂上じゃなく自分の散歩コースでしょうけど
思ったより普通に上下は可能と言うかしてたというか。
すごいですなぁ。
>>142 信長の元を京の貴族が訪問したとき、
信長は山上の館にいて、「登ってこられるのも大変ですし、数日後に麓の館に行くのでそのとき会いましょう」って
言われたとの記録が残っているので、麓にそれだけの(威厳と規模を備えた)館があって政治的に使っていたのは確実。
山上にしかそういう施設がないのだったら、山上で応対しないと儀礼上失礼ですからね。
>>144 小田原城にも当主の別邸があって重要な客はそこで迎えていた筈。
論点は、普段は麓か山上かどっちにいたか、ってことだから
普段は記録なんかから山上にいた、ってことでしょな。
どっちかと言うと山上が生活空間で、儀礼?のようなものは
麓にある応接用館ですませた、ってか。
貴族ってのはお爺ちゃん公家さんだったから、信長が気を遣ったと
いうことで、身分の差もあるけど信長が言われてるほど
尊大で傲慢?でもないみたいな感じでは使われる話かな。
日本の皇室が世界的に見てもダントツで歴史が古いって認識が持たれたのは
大体いつ頃からなんでしょうか?
148 :
日本@名無史さん:2012/09/15(土) 16:15:17.13
万世一系との概念が確立したのは江戸時代。
朱子学の日本におけるローカライズであるところの国学による、
「中国は皇系が幾度も途絶えているが日本は途絶えていない、ゆえに日本の天皇の方がずっと高く尊い」
という主張にたどり着くが、
過去には、北畠親房(鎌倉時代末期〜南北朝)の「神皇正統記」で万世一系は語られており、
これを世間に広め日本における主な見解としたのが国学であったということが出来る。
平安時代といい、鎌倉時代といい、庶民は権力者から徹底的に搾取されていたイメージがありますが、
ある程度、庶民が大事にされるようになったのはいつ頃でしょうか?
国人領主が戦国大名化してから?
取り敢えず『万葉集』でも読めば
左翼史観から脱することもできんじゃねぃ
てか、何日後じゃなくすぐに降りろよ
出雲の由来を調べているのですが、
wikiにある、
稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、
その源流とするという説がある。
この説の提唱者がわかりません。
心当たりのあるかたおりますでしょうか?
天地明察に安藤有益という人が出たのですが、この人は安藤昌益の先祖か何かですか?
ラノベ作家の書いた小説はラノベ板へ
155 :
日本@名無史さん:2012/09/20(木) 08:34:41.13
昔の時代劇を見てると、捕り物の時に「御用提灯」というのを持って御用、御用!
なんて言ってるザコの捕り方が出てきますよね
あの人達はどんな身分の人なんでしょうか?
時代小説なんかを読むと、同心というのはほんの少ししかいなかったって書いてあります
あの人達は侍じゃないんでしょうか?ボランティアなのかな?
>>155 旗本ではない御家人身分。すなわち「足軽・中間」階層で、正確には武士身分ではない。
戦国時代で言えば「武士に扶持された給人」という人々。
ついでに言えば奉行所の同心もほとんどは御家人身分であり、実際には武士ではない。
歴史学博士らが答えるスレだから、素人さんが回答してもいいのか・・・・
>>155 各奉行所に与力25人、同心が120人。
南北奉行所があったので、その2倍の人数が江戸にいたことになります。
提灯を持った雑魚wは小者(この場合、同心に奉公。勤めを補佐するというよりも下男)
にあたると思いますが、演出上のものようです。
『江戸町奉行事蹟問答』、『捕物の世界』
同心は三十俵二人扶持の御家人で下級武士。
また「御家人」と「足軽」、「中間、小者」はまったくの別物です。
>>157 でも、たまには大捕物もあったんじゃないんでしょうか
同心とかが指揮官をするなら、兵隊はどんな人たちかなぁと思いまして
同心に従うものには、小者のほかに岡引(時代劇の親分ですね)もいました。
これが一説には300とも400人とも。それぞれが子分を抱えていました。
ただ現実に大捕物というのはどうでしょうか。
奉行所側にも死傷者がでたこともあるようですが。
まぁ、盗賊が越後屋から出てきたらライトがパッとあたり、
「お、鬼平・・・」(盗賊改だけど)みたいなことはなかったかとw
もうちょっと調べてみます。
捕り物の事をおたずねした者です
いろいろ教えていただき、ありがとうございました
>>156 旗本と御家人の区別は石高ではなくて将軍にお目見えできるかどうかの違い。
>>156 そうなんだ
直接幕府や藩からの給料(お米?)支給を受けられる身分が武士で
その武士から給料をもらう身分は武士じゃないのか
>>162 >その武士から給料をもらう身分は武士じゃないのか
違うよ。そういう人は陪臣(ばいしん)と言います。
それに対して将軍や大名からお米やお金を貰っている人は直臣(じきしん)
大名の直臣は将軍からみれば陪臣なのでややこしいけど。
そして、陪臣の中に、武士身分もいれば、足軽、中間・小物もいます。
大きな大名家の家老とかなら1万石以上貰ったりしているので、その陪臣といっても
何百石も貰っていたりする。貧乏直臣より、お金持ちです。
身分上も、同じような給料なら直臣である武士と陪臣である武士ではあまり変わりません。
(同じ階層のものとして、お互いに結婚とか養子関係を結んだりしている)
弥生時代〜に各地の豪族を束ねていったのが大王「天皇」の起源だと言われていますが、
どうやって束ねていったのでしょうか?
武力で征服していったのか、話し合いで統合していったのか、
あるいは、神道祭祠などの宗教的な力によるのか、
その辺は一体どう考えられているのでしょうか?
166 :
日本@名無史さん:2012/09/21(金) 17:05:42.13
武力で従え宗教で因果関係を付け安定させた
そもそも天皇家の起源は全く解っていない。
縄文以来の豪族だったとしても全くおかしくない。
王権の定義(時期、規模)にもよりますが
ある時期までは豪族連合の最大有力豪族という立場であったはずです。
そこに至るまでにはもちろん数々の戦もあったわけですが、
ある程度の規模になってからは、天下分け目といった実際の大規模戦争は起きずに、
小豪族は服従していく形だったと思われます。
宗教的なものも利用したでしょうが、史料からは族外婚や渡来系の技術、知識を
最大限に生かしたであろうことが推測されますネ
かわいい博士が
木戸について質問します。
主要な町に防犯上設けられて明け六ツに開けられ夜の四ツに閉められますが、
木戸以外は出入りできないほど江戸の町は立て込んでいたのでしょうか?
火事になると非常に危険ではありませんか?
171 :
日本@名無史さん:2012/09/21(金) 22:02:28.05
165へのレス、ありがとうございます
追加なのですが、天皇陛下は国家安寧や五穀豊穣をいのる神道の神官という立場ですが、
この立場や役割はいつ頃から定着し、いつ頃から制度化されたのでしょうか?
天皇=神道の神官であることが記されている最古の史料は何になるのでしょうか?
>>170 文字で説明するのは難しいので、図を検索してもらうといいのですが、
江戸の町はすべて表通りには商店が、
その表通りに囲まれた中に長屋が数件建っています。
表通りに対で木戸が設けられたことになります。
その管理、経費は町人が負担。木戸番(木戸番小屋)が木戸の開け閉めや夜の見回りを、
もうひとつ自身番(番小屋。こちらのほうが大きい)というのがあって、
ここには消火の道具が備えられ、大きな町では半鐘が吊るされてもいたようです。
こんばんは。
ベルツの日記について質問です。
明治10年1月1日の日記です。
「国民自身は政府が、かつてはかれらにとって神聖であった一切のものを、
遠慮容赦もなく取り扱うことを知っているので、自発的に身を落として平民になった以前の君主への崇敬の念は失われてしまった」
とあるのですが、
これはいったい何のことかなーと考えてみたんですが、
・神道の国教化にともなう廃仏毀釈
・廃刀令
・元将軍が新政府に参加していないこと
このくらいしか思い当たらないのですが、いったいこれは何の事を言っているんでしょうか・・・?
神風連以降、各地で多発した乱と一揆だろ
ちなみに一揆の多発に閉口した政府は
明治10年1月地租を減額している
あと、(この件の事ではないが)どうでもいいことだけど
ベルツの日記はベルツの主観であって事実じゃないということだけは
念頭に読んだ方がいいよ
171をどなたか宜しくお願いします
週末にもレスがなかったようなので通り一遍の知識しかありませんが・・・
まず神官というより、祭祀の司祭という立場だったと思います。
五穀豊穣=国家安寧と考えていいと思いますから、
その年の豊作を祈るとい意味で2月の祈年祭が天武の時代、、
収穫祭にあたる11月の新嘗祭が皇極の時代に始まっています。
ただし祈年祭には天皇は直接は参加しなかったよう。
また即位の礼と一緒にされがちな大嘗祭も元々は農耕祭祀。
これらが具体的に定められた記録はないようです。
また古事記、日本書紀ともに天照大神が米作りに関わっているという記述や、
崇神が凶作のおり、夢のお告げにしたがってお供え物をしたという話もあるから
それ以前から、もっと小規模なものは行われてきたのでしょう。
関係ないといえばないけれど、
10月から奈良国立博物館で開かれる正倉院展では、
それらの儀式に使われたと思われる鋤(すき)も展示されるそうです。
新嘗祭はその名前の通りその年の収穫をテイスティングする儀式が起源ですね
王としての務めを宗教的な形式で儀式にしたもの
儒教とは違う形で権威付けするのに神道?を用いただけの気がします
なので王と祭祀が一体となっているのかと思います
仏教やキリスト教などの体系化された大きな宗教が、神の前では貴賎を問わず平等だという価値観を生み出してからは王とは別の権威として宗教が独立したが、
日本はそれがなく、宗教と分離しない古代の王の神聖さを保ちつづけたんじゃないでしょうか
180 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 21:45:39.60
長年の疑問なんですが
明治維新後に誕生した新政府は
幕末の基準から考えると開国路線ですよね?
じゃあ幕末に倒幕側にもあれほど沢山いた攘夷論者は
いったいどこへ消えたんですか?
そのために斬り合いまでしていた連中が
明治維新後に急に物分りが良くなったとは
到底思えないんですが
攘夷したよ
開国して西洋の文物、西洋式の軍隊を導入することで
実際太平洋戦争末期まで異国の軍隊が日本に上陸することはなかった
そういう意味じゃないですね
過激分子は要職につけなくて影響力がなかった
天皇自身が開国派になった(代がわりした)から黙った
そんなとこですかね
攘夷のために外国と実際に戦争した薩摩と長州は列強の圧倒的な力を知り攘夷が現実的でない事を知る。
目から鱗の落ちた彼らは諸外国に学び、倒幕・新政府樹立となった。その過程で考えを改めない攘夷論者は
居場所が無くなった。
>>180 ・大攘夷=西洋の文物を容れ、西洋の文明を使って勝て、に移行
・過激派として追討される(神風連の乱など)
・海外への革命の輸出(大陸浪人)への転進
のどちらか
急進的な長州藩尊攘派に対する公武合体派の巻返しが、文久3年8月18日の政変。
孝明天皇と朝彦親王が計画し、醍摩・会津両藩が支援したこのクーデタで、長州藩尊攘派とそれに同調する公縁は京都を追われた。
尊攘派は、政変と時を同じくして大和五条に、10月には生野に挙兵したが、直ちに鎮圧された。
8月18日の政変を境に、尊王攘夷運動は中央政局への影響力を失ってしまった。
京都での勢力回復を目ざした長州藩は、翌64年(元治1)7月、禁門の変を戦って敗れ、ここに尊王攘夷運動はその政治的生命を絶たれた。
尊攘派の拠点であった長州藩自体が、朝敵となって尊王の大義名分を失ったうえに、禁門の変の直後の8月に、4国連合艦隊の下関砲撃を受けて、攘夷に現実性がないことを実地に体験したからである。
尊王攘夷運動は、外国と条約を結んだ幕府を批判しつつ、幕藩体制を旧来の姿に保つことを目的とした政治運動であったが、64年の後半からは、
これに代わって、幕藩権力の頂点に立つ幕府を倒そうとする倒幕運動がおこった。
その拠点もまた長州藩であった。
持明院統や大覚寺統の名前の由来は何でしょうか?
大覚寺統は寺の名前?
>>185 それぞれの上皇が退位後住んで院政を執った場所の名前
大覚寺統=後宇多上皇が大覚寺に住んで院政を執った
持明院統=伏見・後伏見上皇が院御所である持明院に住んで院政を執った
↑ありがとうございます
上の祭司関係のレスもありがとうございました
持明院統と大覚寺統、両統の間で皇位は継承されましたが、
規則正しく交互に、ではなくて不規則な継承におもわれます
何故でしょうか?
時々のパワーバランスによるのでしょうか?
まあ今時の新右翼なんて
殆ど攘夷運動の復活みたいなもんだけどな
小林よしのりの南朝正統論なんて
何の冗談かと思ったよ
みんな自分の息子に継がせたいんだよ。
後醍醐天皇は大覚寺統の次男系列から天皇になったのに、
持明院統はおろか大覚寺統の長男系列からも皇位を継がせず、廃絶排除させようと懸命になった。
その結果、大覚寺統の長男系列は北朝側に属することとなった。
(のちに北朝優位で乱が収束すると、この系列は子供を作ることを禁止されて仏門に入り、そして消えてゆく)
北朝でも、崇光天皇一族が南朝に誘拐監禁されている間に別の系列が天皇になっちゃってて、
救出後も崇光天皇らはずっと冷や飯喰らいだった。この系列に天皇の座が戻ってくるのは、一種の気まぐれに近い深情けによるものだった。
>>188 当時の皇位継承には鎌倉幕府の認可が必要でした
大覚寺統と持明院統から交互に天皇を出す両統迭立を決めたのは執権北条時宗の時ですが
幕府は朝廷を2つに分けておくことで天皇の力を分散することを図ったと言います
朝廷と鎌倉幕府の仲介役だったのが関東申次を世襲していた西園寺家です
大覚寺統と持明院統の思惑、更には鎌倉幕府と強いパイプを持つ西園寺家がどちらに味方するかで
皇位継承はどちらへでも転んだのです
まさにパワーバランスといったところでしょう
192 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 22:35:03.64
奥州藤原氏は、実は地方豪族で、藤原氏ではなかったが、
中央の藤原氏に多大な贈り物をした結果、藤原一門と認知されるようになった
と聞いたのですが、
とすると大河ドラマ「平清盛」、アニメ「うた恋い。」で、
藤原姓の人物がたくさん登場しますが、これらの登場人物も中臣鎌足の子孫というわけではなく、
自称藤原の人もいたのでしょうか?
いえ、奥州藤原氏の場合はとりあえずは中央から派遣された被官の藤原さんなんですよ。
それが現地の豪族の娘と結婚して内部的にも対中央的にもいろいろ負けて処刑されて遺児がその豪族の一人として成長して、
他の義兄弟をみんな殺しちゃってから、元の苗字に戻したといういきさつがありまして
『アニメ「うた恋い。」』が判らないからググったけど、百人一首だと大概素性のはっきりしたお公家さんだろう。
しかし超有名人の藤原秀郷が真っ当な藤原氏じゃ無い説もあるくらいに、自称藤原の人が居ても何の不思議も無いです。
それは源氏や平氏でも同じ事です。特に戦国時代に成り上がった武士などは出自が怪しいです。
奥州藤原氏の場合は以前は唯の自称と考えられていたけど、今は一門の可能性が高いと考えられています。
>>192 >>193 奥州藤原氏の初代は、藤原清衡、この人の父親は藤原経清、
経清さんは奥州在住だけど、、藤原氏の氏寺に残る藤原一族のリストに名前が残っているかられっきとした藤原氏なのは確実。
ただし、この頃は中央では食えなくて田舎で名前を売れているって程度の人です。
莫大な贈り物を贈ったってのは、藤原清衡が鎮守府将軍という中央貴族が就任するような官位を貰ったこととごっちゃにしているのでは?
一応書いとくけど、アニメ「うた恋い」は超訳とタイトルに示されているように
設定を流用しているだけで、作中で語られている話は作者のオリジナルだから。
あれを史実かもしれないという前提での質問はNGつーことで、ヨロシク。
あ、コレ誰かに対するレスじゃないから、独り言ね。
>>トピマス殿
明治天皇すり替え説とか大室寅之助とか、一体どこら辺から出てきた説なんでしょうか?
しかも、岸元首相もそれを公言していたという話もありますし・・・
火のないところに煙はたたぬ、なのか、その煙がたったのか?
いえ、そんなことを言い出して自分は天皇だと一種の新興宗教化してしまった人が山口にいまして、
あまりに偉そうで、自分は偉いと言い張り続けてなりきって死んじゃったので、伝説化しただけです。
あの話に根拠はありません。
その言い出しっぺが大室さんてことですか?
で、本当なら自分が天皇であると言い続けてなくなったんですね
ありがとうございます
先日「三數善宗」という殺し屋が江戸時代にいたと、友人から聞きましたがこれは事実でしょうか?
>>192 >>195 奥州藤原氏が藤原を自称していかどうかというのは諸説ある
軍事貴族である藤原秀郷(藤原北家魚名流)の末裔と称していたが
秀郷自身、自称だという説もあるらしい
当時の公家の日記に藤原氏だと書いてあるから当時の藤原氏長者が
奥州藤原を藤原氏一門だと認識していたことが確認できるだけ
>>202 『吾妻鏡』に書かれていることからも、秀郷流藤原氏であること間違いないと思いますよ
平清盛に出てくる朝廷の藤原氏は藤原摂関家の一族で今出てるのは五摂家や松殿家につながったりする
よくわからないのが奥州藤原くらいか
>>203 「吾妻鏡」は北条を平氏と言ってるくらいだから史料としてどうかと思う
鎌倉時代の奥州藤原氏が秀郷流藤原氏を称していたことを
そのまま載せただけだろう
206 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 13:52:12.65
一つは明治初年頃だから、Syogun→Mikadoを示しているのでしょう。
もう一つは、第二次世界大戦終戦で敗戦国を全てソ連色に一旦塗っているようです。
(ナチスドイツがソ連色なので、そちらに引きずられたと推察します)
第二次世界大戦終了からサンフランシスコ講和条約まで、日本は連合国の占領下にありましたので主権はありません。
他国色に塗られても仕方ないでしょう。但し日本及び朝鮮半島を占領したのは合衆国なので、色は合衆国に変えたほうが望ましい。
>>205 ・梶原景時と由利八郎のやりとり
・秀郷流藤原氏の流れをくむ西行が奥州を目指す件・・・等々から
もう少し勉強してくださいネ
209 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 16:50:44.60
>>208 いやいや、勉強足りないのはそっち
・奥州藤原氏の家臣由利八郎が「秀郷将軍嫡流の正統たり」といった
→奥州藤原氏が鎌倉時代に秀郷流を自称していたことは当然だろう
・西行は「同じ秀郷流」であることを根拠として奥州藤原氏に東大寺再建費用ねん出を頼みに行った
→西行の一族と奥州藤原に代々の親戚づきあいがあったわけではなく秀郷流を称していたので
「親戚だっていうならお金出してよ」と頼みに行っただけだろう
>>200 大室近祐(1904-1996)という山口の庄屋の家の人が「明治天皇は年少の頃にすりかえられてここにいたのだ、僕はその弟の孫だ」
といって一種の新興宗教として活動していたんです。
でも、弟といってもすりかえられたなら血縁はないわけで、それについての説明は
「僕の家は実は南朝の直系なのだ、だからボクは天皇として筋目正しいし本当の明治天皇もこちらなのだ」と、意味不明のことを
話すわけで、熊沢天皇に次ぐ大室天皇として、彼は一生を貴人になりきって生活し死にました。
一種の狂人です。
皇国史観全盛期の明治〜戦前の歴史教育でも、室町〜戦国期に皇室や朝廷が著しく弱体化したことや、
江戸時代には幕府によってがんじがらめに縛られていたこと等も教えられていたのでしょうか?
>>211 教えられていました。(今の考えからしたら偏向バリバリで)
足利幕府が守護大名の統制に苦しんだ弱体政権だったのは、皇室を貶めたからなんだ!とかね。
足利氏の子孫の人が学生時代、「明日から授業が南北朝時代に入って先祖の悪口を言うことになるけど我慢するように」って先生に
言われたとか。
210、212さん
ありがとうございました
214 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 02:24:40.23
北条泰時や足利義満、徳川家康は国内を平定した後、豊臣秀吉のように
海外に版図を広げるというようなことをしなかったのはなぜでしょうか?
日本では政権を取ったらそこで満足するのが普通で、秀吉のほうが特殊だったのでしょうか
215 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 02:36:11.10
>>214 徳川家康が海外に行かなかったのは秀吉の失敗を見ていたからだろう
北条時宗は2度の元寇のあと朝鮮出兵を行おうとしていた(時宗の急死により中止)
家康の時の薩摩の琉球出兵は徳川幕府の許可と支持によるもので、内容も琉球王の将軍への服属であり、
幕府による海外領土拡張と言うことは出来る。
しかし端的に言えば日本の武家政権の時代の、日本を取り巻く東アジアの海上秩序は比較的安定した時代が長く、
日本がわざわざ海外膨張する利益は無かったといっていい。
秀吉のあれは秀吉意外の誰にとっても謎で、秀吉自信北京に天皇を移すだの天竺中華朝鮮にそれぞれ
関白をおくだの日本のひらがなを教えてやるだの、抽象的な目的しか提示できていない。
誇大妄想とケチな貿易利権が一緒くたになって暴走したのが秀吉の唐入りと考えるべきだろう。
そもそも秀吉の唐入りの時代では、日本は国内の海上流通すら一体化出来ていない。
国内海運が一体化するのは江戸初期、東廻り、西廻り航路の確立と港湾の整備によってようやく。
家康などにしてみれば、海外に出る前に国内でやることがいくらでもある、という思いだったのだろう。
祖母が「戦時中の軍部は昭和天皇が戦争反対と言い出したら殺せという態度だった」と言っていたですが本当ですか?
また、そしたら明仁親王が史実より早く即位させられていたのでしょうか?
219 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 15:30:02.29
>教えられていました。(今の考えからしたら偏向バリバリで)
小林よしのりにケンカを売るとは
いい度胸だ
>>218 戦争継続のためクーデターをやろうとしたのは事実。
挙兵に反対した師団長が殺されたり、皇居内へ兵士が入ったりしている。
天皇監禁までは計画にあったと思うけど、殺すつもりはなかったと思うけど。
まさか「日本の一番長い日」が元ネタじゃねぃよな?
>>221 「日本の一番長い日」と同じ事実が元ネタ
まさか近衛師団長殺害とか玉音放送の原盤奪取をフィクションって思ってないよね?
上の命令なしで、命令権がない下が勝手に部隊動かしてんだからクーデターでしょ。
そうじゃなくて映画と同じ事しか書いてないから
ネタ元は映画だろうと思ただけ
何かオリジナルネタ出してみろよ
オリジナルってw
そん時生きてたらいくつだ?
元ネタとなった史料なり書籍なりを出せば済む話だと思う
日本神話の時系列がいまいちよく分かりません
イワレビコノミコトとオオクニヌシノミコトはどっちが古いのですか?
>>226 オオクニヌシです
オオクニヌシの国譲りの相手がイワレビコの高祖父のニニギです
↑ありがとうございます!
イワレビコノミコト(神武天皇)が東征して畿内に初めて統一政権の礎を築いたという事に
なっていますが、さらに古代に出雲地方に大きな政権があったという事を示唆して
いるのでしょうか?オオクニヌシノミコトの国譲り神話は。
国譲り神話はオオクニヌシに代表されるクニツカミが各地に作った政権をアマテラスの末裔たる大和政権が
支配する事の正当化です。
いまどきそんなカビの生えた俗論を…
国譲りの前は、オオクニヌシの領土はもっと広かったけど
国譲りの結果、領土は出雲地方に限定されたということなんじゃないのかしら。
明治時代もいろんな内閣や政権が生まれたけど、一括して「明治政府」と呼ばれます。
今後、同じように「昭和政府」、あるいは「戦前政府」「戦後政府」「平成政府」と
呼ばれるようになるのでしょうか?
江戸幕府との比較として、もしくは近代化黎明期の日本政府という意味で使われるケースが殆どだからないでしょうね
太平洋戦争直後に昭和天皇が崩御されていれば昭和政府なる使われ方もあったかもしれませんが
↑ありがとうございます
となると、政体の大幅な変更があるまでは、「当時の日本政府は〜」という表記がされるんでしょうね
皇統が永く万世一系でつながってきましたが、飛鳥時代や奈良時代に
万世一系や男系などという概念が既にあったのでしょうか?
そういう概念はもっと後生になってからの話で、古代に万世一系が崩れなかったのは偶然と
考えるべきなのでしょうか?
>>236 偶然でしょうね
古代には王朝交代があったとする説もありますし
日本神話における皇祖神は女神である天照大御神ですし
「万世一系」という言葉は明治時代に初めて用いられた言葉です
偶然で二千年近くも建前であっても万世一系が続くわけないと思うけど
>>238 「男系」「一系」という概念でいえば鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府もそうだった
しかし「万世」とはいえず数十年〜数百年で途絶えたり地位を失ったりした
天皇家創設期から「世襲」という概念はあっただろう
しかしこれはほかの豪族たちも同じことだった
世襲に「男系」が加えられたのは律令制度の頃
そして「万世一系」などという概念が整ったのは明治時代
継体や天智、天武あたりも疑いだせば切りがないしな
まあそれでも世界最古なのは間違いないだろ
徳川時代の江戸の特産品って、何がありましたか?
江戸で製造されて、広い地域に出回り、且つ、江戸の産であることが或る程度ありがたがられた物品。
江戸で造られて殆どが江戸で消費されてしまうようなもの、他地域の産のものとの比較で中の上程度以上の評価の無いものは
省いてください。
>>242 浮世絵は今日や大坂まで流通したの?
出版物にしても、逆に、上方から入るばかりで、出てこなかったんではないの?
>>243 浮世絵は代表的な江戸土産
出版物も江戸中期くらいから中心は完全に江戸。
江戸の書物は商人により全国に流通した。
江戸三百年といって江戸時代も長うござんす
錦絵の創始者の一人、鈴木春信は絵は上方で習ったものの、
開化したのは江戸に出てから。
「江戸絵」、「東錦絵」と呼ばれた江戸土産として全国に広がりました。
>>233 「自民党政府」「民主党政府」または「〜政権」って言い方ならあります。
江戸時代を現代に例えた場合、徳川幕府=民主党政権(政府)だと思うけど、
朝廷=皇室&宮内庁であってますか?他にもっと適切な例えがありますか?
皇室というと天皇家とその一族のことだし、宮内庁は政とは関係ないから
用語の解釈としては違いますね
朝廷という定義からして変遷があるし、変に現代に当て嵌めないほうがわかりやすいんじゃないかな
言いたいことのイメージとしてはわかるけどね
250さんへ
飛鳥時代とかなら朝廷=日本政府ってイメージしやすいんだけど、鎌倉以降は幕府=日本政府って感じだから、
じゃあ朝廷はどういう存在になるんだろうかって気になるんです。
幕府がメインとは言え、朝廷も統治機関になるのだろうし、でも県事務所や市役所ではないしね。
適切な例えを教えてほしい。
252 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 00:24:00.36
公家と武家は厳密にはどのように分けるのでしょうか?
平清盛が登場する前でも、上級武士は中堅クラスの公家でしたよね?
身分の低い公家がすべて武士というわけでもないし。
揉め事が起きると、弓刀を持って戦うのが武家、
戦いは他の人間に任せて、自身は絶対に戦わないのが公家ということでしょうか?
生活のあり方は違えど分けることは困難です。土佐に渡って現地の武士化した土佐一条家なんてものもありますから。
朝廷の廷臣として京都に在住し、徴税以外での領地との関係が薄い連中が公家と呼ばれるのでしょう。
>>251 250氏ではないけれども、江戸時代の朝廷はある程度の政治力を持ち、
直属の家臣(公家)を持っていました。
今の天皇家は政治力はありませんし、家臣もいません。
宮内庁職員はただの国に雇われた公務員です。
江戸時代の天皇家は国の執政者の一部分(幕府との力関係はその時次第)でしたが
今の天皇家はただの「シンボル」ですからねえ。
諸大夫などの中下級貴族が次第に軍事専門職化したと考え、
武家を武官系武士とか軍事貴族の末と呼ぶ人もいるけど、
成り立ちを説明してるわけで、そう呼べという決まりごとではないね
ただ武家と武士の呼びわけは、武家は平源藤原といった中下級貴族、
武士と呼ぶ場合はそれらも含め、それに従う者も含めるという感じかしら
>>252 平安時代でも近衛府などは貴族なのに武官で弓矢を携えていました
右近衛の長官である右近衛大将(右大将)なんて、藤原道長の異母兄道綱や
「源氏物語」の主人公光源氏も任じられているのですからバリバリの貴族です
近衛府は宮城守護と天皇の身辺警護が仕事ですから貴族なのに弓矢を使う部署だったわけです
一方で源頼朝もこの職についています
清盛以前の貴族と武士の区別はかなり困難ですよね
>>251 幕府と朝廷の関係は現代には無いので例え様が無いです。江戸時代の人に国会を江戸時代の制度で
説明しようとしても無理でしょ?それと同じくらい無理です。あえて例えると三国志の曹操の魏と漢帝国の
ような感じ。
>>257 >幕府と朝廷の関係は現代には無いので例え様が無いです。
まあ言えば、財閥の経営者と創業家かな
王政復古の大号令って言葉がありますが、江戸時代と明治時代で天皇の
根本的な役割や存在意義が大きく変わったとは思えません
明治になって天皇が国民の前に出てくるようにはりましたが、天皇自ら国を動かしたり
するわけではなく、政府の方針や決定を裁可する役割でした。これは幕府の方針や決定を裁可
していた江戸時代とどんな根本的な違いがあるのでしょうか?
幕藩体制から中央集権へという国家体制の違いはわかります。
>>259 律令時代の天皇だって一人で独裁的に国を動かしていたわけではなく
臣下たちが議定で決めた事案を最終的に認可していただけ
江戸時代の将軍もそうでしょう
江戸時代には政治的なことはすべて江戸幕府が決め江戸幕府将軍が認可をし、
天皇のところに認可を求めて上がってくることはありませんでした(幕末を除く)
それが明治時代にはすべての国の重大事項が天皇の認可を求めて
天皇のもとへ集まってくることになりました
これは大きな違いでしょう
>>259 国家元首にした。尚且つ、国の主権者にした。明治は、ですね。
>>259 >これは幕府の方針や決定を裁可していた江戸時代
幕末を別にすればそんな事はしていない。逆に紫衣事件のように朝廷のやる事にも幕府の裁可が
必要だった。
259へのレス、ありがとうございます
国の重大事案の最終的な認可(裁可)が全て天皇のところへあがってくるというのは
戦後の象徴天皇制でも同じと言うことですかね?
天皇に拒否権はないけれど、内閣からあがってくる書類に署名もしくは印鑑を
押さないと物事が進まないから
帝国憲法では拒否権がある建前じゃないかな。実際に行使する事は無いけど。
>>263 戦前までの天皇は拒否権があったというのが一般的です
(昭和天皇の戦争責任でややこしくなるが)これは大きな違い
それに戦後の天皇の国事行為は限定されていて国の重大事案すべてがくるわけではない
国事行為とは内閣総理大臣や最高裁判所長官の任命、国会の召集、栄典授与などです
例えば、諸外国との条約締結や自衛隊の監督出動命令、大臣の任命罷免などは
内閣総理大臣が最終認可者で天皇のところへはきません
戦前もあくまで立憲君主だから、天皇に拒否権はなかったと聞いた
その意味では戦前も戦後も一緒なのかな
明治期の元老と現在の自民党(他)の長老は実質的には同じようなもんですか?
268 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 23:20:10.71
関が原の戦いは、東軍7万から10万人、西軍は8万人
鳥羽伏見の戦いは、幕府軍1万5千人、薩長軍5千人、
安土桃山時代から幕末までの間に、確か日本の人口は2倍以上に増えたと
思うのですが、軍の規模が小さくなっているのはどうしてでしょうか?
関ヶ原は天下の諸大名の多くが集まってるけど鳥羽伏見は幕府と薩長。その違い。
戦国乱世から唐入りといった戦争続きの時代と長く続いた平和な江戸時代の末では戦闘要員の数も違う。
せんせい質問∩(´・ω・`)
>>268 みたいな兵士の数って、どうやって出すんですか?
戦に参加する前に、持ってこられる兵士数の提出とかあるんですか?
>>266 だったら軍部が天皇の統帥権を盾に内閣の意向を無視できるのはどうしてよ?
軍は天皇に直属するから政府の命令は受けないと言ってる訳だけど。
>>267 元老は天皇の諮問機関であり、自民党の長老のような自民党の為だけに動く立場ではありません。
>>271 それでも天皇には拒否権はないよ。軍部が暴走してるだけで止められなかったんだから。ポツダム宣言の受諾だね天皇のご聖断を受けただけ。
273 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 06:49:37.09
>>266 明治時代は立憲君主制で国会を置き、選挙を行うことは決められていたが、
天皇の統帥権は認められていた。
統帥権を発動するかどうかは天皇の自由だったというだけ。
現在の英王室に近い(国王が国会に口出しできる政治権を持ち、世襲の貴族院がある)
>>272 天皇に拒否権はなかったのならば、ポツダム宣言の受諾にも一切口出しできないはずだがな。
「昭和天皇のご聖断で戦争が終わった」というのは嘘で、
当時の内閣が終戦を決め、拒否権のない天皇がそれを認可し、ラジオ放送したにすぎない。
274 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 07:22:50.44
>>268 鳥羽伏見の戦いって戊辰戦争の戦いの一つにすぎないでしょう
関ヶ原の戦いで家康は秀頼のいる大坂城まで入り天下をとったけど
鳥羽伏見の戦いでは慶喜が住んでいた二条城と大坂城を抑えたぐらいで
徳川将軍家の本拠地江戸城には全然至っていない
戊辰戦争全部で出陣した人の数でくらべたらそっちのほうが明らかに多い
>>268 幕末は既に最新銃器を揃えた数≒兵士の数
槍刀で出てこられても銃の的になるだけで、なんの役にもたたんからな。
>>275 関ヶ原の時には兵農分離が未発達で(一応刀狩はやった後だが)
両陣営ともその時だけ徴収した農民がかなり含まれていた
江戸時代には完全に兵農分離し、幕府方は武士階級しか出陣していない
新政府が四民平等を打ち出し国民から広く徴兵するのは徴兵令の後で
戊辰の頃にはまだ武士階級が戦闘の中心
(長州藩で一部農民出身の志願兵(奇兵隊出身)がいた程度)
支配層である武士階級は人数が限られている
277 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 00:00:26.17
平清盛は日宋貿易で、
足利義満は日明貿易で豊かになろうとしましたが、
江戸時代までの日本の対中貿易は、一時期を除いて
基本的に日本側の貿易赤字ですよね?
貿易赤字なのにどうやって儲けようとしたのでしょうか?
むしろ、貿易赤字だったのは江戸時代位だと思ったが
統計もないのに貿易赤字とか言い出す馬鹿にどんな言葉をかけていいのか解らん
清盛が日明貿易で豊かになる、って意味は、
清盛を始めとした平家一門が明からの輸入品の、日本人への販売利権を独占して儲けよう、って意味だぞ
まさか本気で貿易立国とか信じてるのか?
清盛のも義満のも朝貢貿易じゃなかったっけ?
清盛は途中から向こうも御用達っぽくなるけど
実質は私貿易。
国がどうとか貿易とかいうのはテレビの悪影響だろう。
清盛は金や調度品、木材を輸出
また銅銭を輸入することで、結果的にその後の鎌倉時代の貨幣経済の発達に寄与した。
べつに朝貢ではなく、清盛も義満もこれからってときに死んでるから。
16世紀当初、日本での金銀比価は1:6、
新しい鍛錬法が採用された大森銀山以降の大増産で、
江戸開府の頃には1:12の銀安に。中国はその頃1:8。
全世界の銀産出量の三分の一を占めると言われた銀を背景に江戸も儲けてますよ。
あまりの大銀安で輸出すればするほど損をすると気づくのはもうちょっとあとのお話w
>>277 貿易赤字ではない
足利尊氏の時には天龍寺船の儲けで天龍寺建ててるわけだし
日本国内で中国製品は高く売買されたから(当時の中国製は高級品)
儲けが出る勘定だったはず
>>284 馬鹿かお前は。貿易赤字の意味を理解してないだろ
286 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 22:30:48.97
二国間で為替レートの設定ができてたわけじゃないから
輸入と輸出の割合を比べる作業はいささか面倒そう
朝貢だと、される側は持ち出しだから制限かけたりしてるから赤字なんだろう
明に対しては「形だけのトレードやめて回賜だけよこせ」って将軍もいたしな
287 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 03:06:24.09
>明に対しては「形だけのトレードやめて回賜だけよこせ」って将軍もいたしな
それはまたなんと露骨なw。
相手、怒り出さなかったんでしょうかね?
まあ物々交換の時代に赤字も黒字もないよね
289 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 09:35:47.32
当時の日本は金銀本位制だったこともあり、それらが大量に流出すれば
国内で使用される貨幣の金銀含有量が減少しインフレになる。
新井白石が長崎貿易を規制しようとしたのは貿易赤字が理由だし。
290 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 14:57:19.21
鎌倉時代の地頭と荘園領主の関係は、
現代で言うとヤクザにみかじめ料を払う飲食店オーナーのようなものだったのでしょうか?
公的に任ぜられるものだから。
それと地頭と領主の力関係の移り変わりこそが、鎌倉の歴史。
なんでも現代に例えるのが流行っているの?
雑談ならともかく、本質を見誤るよ。
292 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 16:10:40.59
常盤や江与みたいにあちこちに嫁ぐ人がいてますが
貞操観念はないのでしょうか
>>292 処女を尊ぶなんて変な観念は明治以降から。
基本女性に求められた貞操観念は、「結婚している間」他の男になびかないというもの。
後家は性病もないって意味もあるらしい
男色は大腸菌で腫れるくらいだから安全なんだとさ
推古や額田王の時代からだしな
そんなの気にするのは俺みたいな童貞だけだろ。ほっとけ
それってその時代の男女比率に左右されるってことないの?
男女の数の変動というと、初期の江戸の町や戦乱だろうが、あまり関係ないかと。
仏教的ケガレ観から、差別される女性像だけを描きがちだが、
我々が思うよりはもっと自由な一面もあったようだ。
中世までは商店主はもちろん、都市部、農村部にも女性名主がいたり、
そもそもセックスがそれほど禁忌ではなかった。
ルイス・フロイスもヨーロッパと比べて奔放な日本女性に驚いているw
ならば江戸時代初期に発生したという不倫堕胎ブームは別に
大した騒動ではなかったのでしょうか?
299 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 19:01:48.72
不倫は文化なので
300 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 19:10:35.85
大国主命が素戔嗚尊から奪った三種の神器「生太刀、生弓矢、天詔琴」は現在どこにあるのですか?
301 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 21:35:31.25
キリスト教が日本に着てから、江戸時代にキリスト教が禁止される前の間に
キリスト教の宣教師と仏教の僧侶との対話・論争が織田信長の前で行われたそうですが
どんな風な論戦だったのでしょうか?
>>301 魂の存在についてとか神の存在についてとか
303 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 23:12:48.66
>>300 手持ちの日本神話の本には書いてなかったけど
どこかで見た気がするので明日、図書館言ってくる
>>301 インドでは修行の無意味さを説いたら、仏教にフルボッコされたらしい
304 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 00:54:06.21
>>303 ありがとうございます。
わざわざ図書館まで。宜しくお願いします
305 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 19:00:19.07
>>304 古事記の「根の堅州国」の項以降からは神器のことは書いていないので、
宇迦山(出雲大社東北の御崎山)に奉られたままではないかと思います
オオクニノヌシがスサノヲから奪うが、スサノヲが追いかけてくち
許して欲しければ、そこ神器で八十神を討伐しなさいと
討伐したあとに宇迦に宮を立てて新しき国を
前に調べたときはもっと明確な文献があったと思いますので
また調べることが出来ましたら、ひっそり書いておきます
306 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 19:06:47.20
過去を知って何になるんですか?
現在の判断材料になります。
例えば、今こそ清風をと呼びかけて実際は悪徳を撒き散らした人間がいたとか
知っていれば付和雷同せず慎重になることが出来ます。
でも、バブル退治をやらかした連中を抑えられなかったのは大失敗でした。
過去か!
いいかい、ユリアン、人類の歴史がこれからも続くとすれば、過去というやつは無限に積みかさねられてゆく。
歴史とは過去の記録というだけでなく、文明が現在まで継続しているという証明でもあるんだ。
現在の文明は、過去の歴史の集積の上に立っている。
わかるかい?
309 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 19:39:54.51
よく皇室が歴史上最も衰微したのは室町後期〜戦国期と言われますが、
逆に歴史上最も興隆したのはいつですか?
飛鳥〜平安前期か明治〜戦前のどちらかだと思いますが
維新志士を生み出した吉田松陰と松下村塾の名は数百年経った
現代でも轟いています。今後、松下政経塾出身の政治家の頑張りにも
よりますが、松下幸之助、松下政経塾の名は同じように轟くでしょうか?
松下幸之助の場合、名経営者としては確実に轟くでしょうが、政経塾の主宰者としてはどうか?
松下政経塾は今のところ全然駄目です。小沢一郎チルドレン塾の方が数段マシなくらいです。
まず、出身者が世論に悪い意味で流されてしまった。
増税は経済に悪影響しかなく、その中でも消費税は竹下登がバブル時代の消費を抑制する名目で導入したもので、
著しい消費抑制効果を今のところ発揮してきました。この増税に踏み込むのだという。それは政治責任ではなく無責任の証でしょう。
そして消費が減れば良いと、一部伝統保守と呼ばれる文藝春秋などの雑誌が煽ったのもよくなかった。
彼らは清貧主義の典型として江戸の三大改革を例に挙げましたが、このどれもが大失敗だったことは歴史が示しています。
312 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 21:53:44.43
治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦で平家側が敗れた理由は何でしょうか?
・平氏一門が公家化して、弱体化した。
・富士川の戦いで、水鳥の羽ばたきに驚いて逃げ出した。
・倶利伽羅峠の戦いで、義仲軍が牛の角に松明をくくりつけて放ち、平家軍を崖から突き落とした。
・一ノ谷の戦いで、義経軍が逆落としで奇襲をする。
これらは俗説・フィクションの類で、史実ではないそうですが
とすると、義仲軍、頼朝軍よりも平家軍のほうが兵の数が少なかった、
戦術レベルではどうすることもできないくらい戦力差があったのが敗因としか思いつかないのですが?
結局、平氏政権を支持していたのは平氏一門のみで、それ以外の人は上も下も支持していなかったということなのでしょうか?
>>312 昨今では畿内から東海道を中心に大被害を起こした養和の大飢饉の影響が大きい、ともされる。
>>312 源氏は新しい時代の風だからじゃない?
後世の織田信長みたいな感じだね
公家化して、武将としては無能な今川義元は京で天下に号令するつもりが奇襲で討たれたし
やはり京で天下に号令するつもりだった武田信玄も新戦法の鉄砲の三段撃ちにやられたからね
>>312 平家の政権であっても「平家にあらずんば人にあらず」では平家一門以外誰も付いてきません。
平氏であっても支持できません。当然です。
316 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 22:48:09.61
>>305 わざわざありがとうございました!
機会があれば現地へいってきます
>>314 今川義元が公家化してたってのも後世の俗説。
つーか信長こそ公家成してるし。
信長の参内する時はおしろい塗ってお歯黒付けてたわけだが、
「源氏vs平家の戦い」という固定観念そのものが
後世のフィクションだしな
>>314 今川義元が無能な公家かぶれって
ゲームから入った人?
東海一の弓取りと言われたのは家康以前はこの人のことだった
平氏と平家も違うしな
323 :
日本@名無史さん:2012/10/08(月) 12:17:47.58
義元の公家化や桶狭間の奇襲、ナガシノの鉄砲三段撃ち、これらは史実ではなく、
フィクションなんですか?最初に言い出した学者は何らかの根拠を示したが、
後生にその根拠が否定されたっていう流れですか?
それとも、最初から根拠なんて示さずに言い出したんでしょうか?
上に挙げた三点なんて、いまや一般的な認識として定着してますよね
309はなぜスルーされているのでしょうか?
それらには絵本話や読み物などで定説化していたものが、後の史的研究でありえないと否定されたものが多い。
長篠三段撃ちは戦前の論文にあって定説化したのだが、違うという説が一時圧倒的になり、
その後で三段でもいいんじゃないと少し盛り返している。
どの説も柵で騎馬の勢いを封じたということで共通し、柵と武田側の執拗な騎馬突進が、柵の一方的勝利で幕を閉じたことで説は一致している。
今川義元は絵本話とは異なり、史実上は猛将かつ知将であったことが昔から知られている。軍記でも猛烈な抵抗を受けた記述が明確に残っている。
桶狭間は戦前の軍の説、雨に紛れて谷底への今川義元陣地へ高所から奇襲説が戦後になって激しく変わった。
桶狭間が谷底ではなく近くの丘の上になった。
雨で混乱したのは今川方前線部隊、織田軍は街道を強襲前進することで突破し今川本陣に至ったということになった。
>>324 天皇機関説の扱いが難しいから。
明治から戦前の天皇を実権者とすると、戦争責任があったことになるし、
実権がなかったことになると、そんなのを旗頭にして将軍様を倒しやがってこの野郎、ということになる。
まあ、明治憲法の定める立憲君主制の中で「君臨すれども統治せず」の原則が作られ、
天皇に非常時の実権はあるけど実際上は行使できない環境が出来ていた、と解釈することになるのだが、
それで実際のところ権限があるのかないのか、判断が難しい。
↑サンクスです
仮に天皇に実権がなかったとしても、権威はあったわけだから、それを使って
倒幕するのは有りだったと思います。ところで、やはり飛鳥〜奈良〜平安前期
くらいの天皇は実権を持っていたという認識であってますか?
藤原摂関家をお忘れ?
>>329 本当にそうかもね
平安末期に院政が流行ったのも天皇じゃ実権が持てないからだし
天智天皇や天武天皇あたりは実権を行使したっぽい
後醍醐天皇も権力持ってたんじゃない
実権=武力だしな
334 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 12:44:38.01
平清盛について
日宋貿易が重要なのは分かるのですが、関東から東などの制圧はしなかったのでしょうか
機会がなかった。
源義朝から領土を奪う形で奥州藤原氏が勃興し、源義朝の死で関東の武士の棟梁は空席となった。
平清盛としては、源義朝の死と清和源氏一族の流罪で決着したと思ったんだよ。
336 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 15:14:24.53
河内源氏を倒しただけで、源氏全てを掌握しようとは思ってなかっただけ
清盛の当面の敵は朝廷摂家であって、同じ武士との差別化だけを優先した
清盛の血族が天皇に、そしてそのまま受け継がれたら手出し出来なくなるからね
まあ、頼朝は担がれただけの存在なので、上方武者を潰しても新しいのが出てくるだけ
頼朝居なかったら義経だったの?
それとも他の源氏長者?
頼朝に驚異的な資質があったことは確かだが、頼朝が死んでも範頼が担がれただろう。
阿野全成でもよいし義円でもよい。駒はいっぱいある。
ただし、傑出した頼朝が生き残りの中で最年長だったことは鎌倉幕府にとってとても幸いであった。
>>337 源氏長者ってのは「公家」の源氏を統括する役職だぞ?
>>335 おいおい、奥州藤原氏は義朝じゃなくて八幡太郎義家の時代の後三年の役で奥州と羽州の覇者となったんだ。
義朝の力は関東までしか及ばない。
頼朝の死因はやっぱり暗殺かな。しかし2.3代目も不幸だね。
342 :
日本@名無史さん:2012/10/09(火) 18:51:57.56
藤原清衡、家衡、真衡が結束していたら滅びませんでしたか?
日本の近代史でたとえば東京近郊の
伊藤博文がどこに住んでいたとか
夏目漱石がどこに住んでいたとか
そういうのって一般的に公開されているのでしょうか?
あったら教えてほしいんですが
346 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 00:04:56.05
徳川吉宗は「米将軍」と呼ばれていますが、
吉宗の治世中に既にそう呼ばれていたのでしょうか?
吉宗を「米将軍」とはじめて皮肉ったのは誰なのでしょうか?
347 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 00:08:08.11
平清盛は、関東、東北は支配していなかったと上に書き込まれていますが、
平氏政権の最盛期はどの地域まで支配下においていたのでしょうか?
東は東海北陸、西は中国、四国、九州まででしょうか?
そだね、知行国という意味なら国の半分は手中にしたけど
ググればどっかに一覧あると思うよ。
今の行政区分とは違うけど。
>>346 一般論から。
現代に生きていると錯覚しがちだが、当時は出版物や芝居は検閲されていた。
ましてや御政道批判などもってのほか。
史料として残っているとしたら、非合法なものか、日記などでは?
上米の制に「八木」とあるところと(米の字を分解すると八木八)、
八代将軍であるところを引っ掛けて、米公方、八木公方と
誰ともなしにというところではないでしょうか。
351 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 11:39:09.55
>>347 平氏の基盤は西国で、特に清盛が10年間も国司を勤めた安芸国は
清盛が厳島神社を建てるほどにまでなったけど、関東には平氏の力は及ばなかったわけではない。
特に、治承三年の政変(後白河幽閉)後、平氏の知行国は爆発的に全国に増え、
源頼朝が挙兵したときの伊豆国司(知行国主)は清盛の義弟である平時忠(清盛正室時子の実弟)だった。
ただし、平時忠は都にいて、関東には赴任しなかったけどね。
352 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 16:50:29.54
再来年に大河ドラマになった黒田官兵衛ですが
有岡城に1年閉じ込められていたとありますが、
身動きも出来ないまま食べ物とかは大丈夫だったのでしょうか
>>352 皮膚病で頭髪は抜け落ちた
片足が不具になった
だから秀吉はちんばと呼んだ
355 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 18:22:10.01
関税自主権の勉強をしていたら、いろいろ疑問がわいたので質問します。
疑問の内容は相当ささいなことですが、分かる方は答えて頂けるとうれしいです。
まず、関税自主権というのは、
例えば日本の商品Aと外国の商品B(AとBは同じ食べ物だとする)があるとして、
Aが500円、Bが100円だとすると、
みんなBを買うため、日本国内の農家がつぶれてしまう。
それを防ぐために、Bに400円の関税をかける。このかける関税を決められるのが関税自主権。
一応この理屈は分かりますが、少しクリアーになっていない点があるので質問します。
上記の具体例の場合、
その400円は、「アメリカ」が「日本」に払うんですよね。
つまり日本から見れば「自国産業をまもるためのおこづかい」というイメージでよろしいでしょうか。
でも、100円を払って400円をもらうので実際の利益は300円ですよね。
一方で自国でA製品を売った場合は500円の利益。
この値は完全にずれていますが、いいのでしょうか?
関税自主権についていろいろ調べてると、
上記の例で言うB製品の「100円」に関税400円をかけて、
Aも500円、Bも500円、と同じ値段にそろえることで、
AもBも同じバランスでみんなに買ってもらいたい、としているのだと思いますが、
実際は利益的には、Aが500円、Bが300円、ということですよね。
いずれにせよ、日本の農家が守られることには変わりはないのですが。
>>355 日本史と関係ないけど
あなたは大きな誤解をしている
関税が課税されるのは輸入者
357 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 18:35:30.00
黒田官兵衛の人生のハイライトはどこでしょうか
358 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 18:38:28.42
>>356 ということは、先ほどの具体例だと日本が払う、ということなのですね。
ということは、先述した具体例を用いると、
B商品に対して、400円の関税をかければ、100円+400円で「500円」という値段で店頭に並ぶわけですね。
そうすればA商品とも価格が同じになるので、
日本の農家の商品も、外国商品もバランスよく売れる、ということですね。
それともう1つ疑問なのですが、
関税を設定しないと「無制限に外国製品が日本に流入してくる」んですよね。
これは「勝手に」流入してくるってことですか?
別に、無制限に流入してきて困るのであれば、外国に「ちょっと今は輸入止めてくれる?」と言えばいいじゃないですか。
貿易はそんな甘いものじゃないのでしょうか?勝手に機械的に行われるものなんですか。
>>358 輸出と輸入くらい理解して使い分けないと正しい質問も出来ないぞ。
あと日本と外国って書いておきながら、いきなりアメリカの利益が、っておい。
勝手にとか機械的にとか質問してるけど、上にも回答がある通り、日本で商売してる人が利益を出すために海外から仕入れしてるだけ。
質問の意味がちょっとわからん。
>>358 経済の質問はよそでどうぞ
あともう一つ誤解してるのは貿易してるのは政府ではなく会社や個人
安ければ輸入して売る
他国の輸出を制限するんじゃなくて、自国の会社や個人が輸入するのに必要な金額を大きくすることでメリットをなくすのが関税
>>358 輸入をやめて輸出だけをすれば貿易黒字になりますが他の国からすれば貿易赤字になります
つまり戦争のはじまりです
>>361 「メリット」とは何ですか?
>>362 確かに赤字になりますが、
そのほかの国が「お前の国の商品はもう買わない」と拒否すればいいだけの話じゃないんですか?
>>363 メリット=国内市場より安く購入できる
いいかげんスレ違いだよ
>>357 大友の大軍を大分で破った後で、
中津城内で、加藤清正軍が小西行長の宇土城を陥落させたとか、
宮崎城を陥落させて島津の佐土原城を包囲しているとか、そんな連絡を受けていた頃
>>363 だいたい合ってるよ。
その拒否が嫌だから、関税上げすぎないわけ。
国内産業を保護することだけ考えるなら限りなく障壁を高くすればいい。
その究極が鎖国。それで国内が回るんなら、別にペリー来るまでそうしてりゃいい。
368 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 21:49:39.60
357です。みなさん、ありがとうございました。
もう貿易のことではくんなよww
370 :
日本@名無史さん:2012/10/10(水) 22:52:09.32
戦国時代などの忍者は坊主などに変装していたらしいですが、そんなにみんな口が軽いのでしょうか
>>370 ごめん、口が軽いと坊主の関連が解らない。
もう少し噛み砕いて質問して頂けるだろうか。
戦国時代に忍者はいません。
373 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 00:13:01.66
江戸時代の武士の髪型、ちょんまげですが、
いつごろから武士はちょんまげをするようになったのでしょうか?
平清盛、源頼朝も髪型はちょんまげだったのでしょうか?
374 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 00:23:37.21
>>351 >治承三年の政変(後白河幽閉)後、平氏の知行国は爆発的に全国に増え、
>源頼朝が挙兵したときの伊豆国司(知行国主)は清盛の義弟である平時忠(清盛正室時子の実弟)だった。
>ただし、平時忠は都にいて、関東には赴任しなかったけどね。
とすると知行国が増えたとしてもそれは書類上のことで、実行支配地域は増えていないということなのでしょうか?
鎌倉時代末期の北条氏も支配地域が最大になったそうですが、結局、平家と同様にすぐ滅びてしまいますが、
平家も北条氏も実行支配地域はどのくらいだったのでしょうか?
戦国時代後半以降になると石高で大体、国力がわかるのですがこの時代だとよく分からないのでしょうか?
375 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 00:26:35.06
お答えできる方、教えてください。
戦時中、全ての家で日の丸を掲げてる映像をよく目にしますが
これの法的根拠の政令勅令法律なりありましたら、教えてください。
一体、いついかなるときに、家に日の丸を掲げるのか、その根拠を知りたいです。
戦時中はずっと旗日なんでしょうか?
>>376 戦時中はずっと祝日だったんですか?
調べるので、法令の名称教えてください。
やっぱり法的根拠があったんですね。あの時代、国民運動という名の強制が結構行なわれてたので、それかと思ってましたが。
>>377 何を言ってるのか分かりません
若い方なのかな?
戦前どころかちょっと前まで何処の家も祝日には国旗掲げてましたよ
昭和天皇が崩御された時はポールの先にある金の玉を黒い布で包んで掲げていました
見なくなったのはここ20年くらい
380 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 01:00:19.18
>>379 説明不足で申し訳ありませんでした。
現行法で旗日は決まっていますが
その旗日が知りたいのですが、いついかなるときが旗日なのか。
「戦闘で勝った」→旗日 「軍人さんが戦地でがんばってるから」→旗日
みたいなことを文献で読んだので、これが国民運動なのか、法令で決められた旗日なのか知りたいのですが
後、もう一つ追加補足ですが
左翼関係の文献を読むと、憲兵や警察が戦闘に勝って旗日なのに日の丸掲げてないというので指導や検束が入ると書いてましたが
これらは旗日は法的根拠があるはずですから、知りたいのです。
左翼の妄想だったら知りませんが。
>>380 そうでしたか
私は聞いたことありませんね...
お役に立てず申し訳ない
次の質問どうぞ
>>381 硫黄島からの手紙でも描かれてましたね
市民の思想犯取り締まりには特高警察がいましたし、憲兵は本来軍隊内の警察なので、事実であれば越権行為ですね
戦国時代に『仕官する』と言ったら武家で働くことを指したんですか?
仕官=正社員みたいなもの?
下人や小者は仕官しているとは言わないですよね
仕官できた人、小者や中間でしか雇われなかった人の違いはどこですか?身分?
仕官に至る経緯や仕組みなどを詳しく教えて下さい。よろしくお願いします
>>385 なんでもありの戦国時代について聞かれても
>>385 武家じゃなくても(公家でも)仕官だろう
ただし戦国期には急成長した大名が出て(一方主君が討たれて大量の浪人も出た)
浪人や他の大名から主君替えする武士・商人や百姓でも雇い入れる者がいたというだけ
城持ち土豪の息子あたりが仕官すれば初めからそこそこの地位から始まっただろうし
小者や下人上りなのに大名に取り立てられその後天下を取った豊臣秀吉もいるわけだし
>>373 古墳時代頃は美豆良(みずら)と言って耳の処で結っていた。奈良時代頃から髷(まげ)を結うようになるが
スタイルは時代や身分・地域などで違っていた。もちろん武士に限らない。岩倉具視は公家だけど維新後も
髷で通そうとしたが、岩倉使節団としてヨーロッパに行ったら髷を笑われて断髪の必要を痛感した。
ちなみに普通ちょんまげと呼んでいるあれはちょんまげではない。詳しいことはググれ。
>>374 知行国はそこから収入を得ることが出来るだけで支配してる訳ではない。
>>374 関東に土地を持つ土豪(関東武士)たちが平家全盛期には平家に従っていたけど、源氏の勃興で今度は源氏に従ったというだけだよ。
室町幕府でも江戸幕府でもそうだが、将軍が軍事的に直接実効支配できるのは直轄地(天領)だけで
あとは将軍と主従関係を結んだ大名たちが治め、将軍といえど大名の土地に勝手に軍隊置いたり口出ししたりできない。
平氏や北条氏の全盛期にはこれと主従関係を結ぶものが多かったし、新たな権力者が現れれば保身のために乗り換えるだけだ。
390 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 19:33:26.61
公家についてですが、戦国時代以降は荘園などはなくなり
カンパや娘を嫁がせることで生計を立てていたのは本当なのでしょうか?
武士のように一念発起しようとは考えなかったのでしょうか
>>388 男性の髷は飛鳥時代からでは
まあ中国式の髷だったようですが
月代を剃っていたのかって意味かな
>>390 >武士のように一念発起しようとは考えなかったのでしょうか
そう考えた一部の貴族は、土佐一条氏や伊予西園寺氏のように、残ったわずかな領地に自ら出向いて
戦国大名化しました。
住み慣れた京都を離れて、地方の大名に伝統的な技能(歌や蹴鞠など)を教えて回るってのも
一念発起の例だと思います。 そういう公家はたくさんいました。
>>387 ありがとうございます
仕官というのはどの範囲までが仕官になりますか?
大名の直参まで?それとも陪臣?陪々臣?それとも別の定義が?
そもそも定義などない
西南戦争の「西南」って何ですか
方角
九州を指すと考えられる
似た表現に東北があるが、
こちらは今日でも使用されている
398 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 18:31:39.24
399 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 22:40:58.25
あかぽす就けなかったら、どうやっていきていくのですか?
日本史学って実用的でないからつぶしききませんよね?
山伏のぶしと武士は、同じ言葉ですか
山伏=山武士?
>>400 違いますね!
「山伏」の「ぶし」は、「ふす(伏す)」の名詞形「ふし」の連濁で濁ってるだけ。
「ふし」は、からだを横たへる=寝る、という意味で、
〈山野に寝る者〉という意味で「山伏」。
因みに落武者などは
野伏
のぶし
のぶせ
のぶせり
読み方は様々
意味は
>>401さんの解説を野に変える
>>401 >>402 ありがとうございます。
さっきETVで山伏能を見て思いついたのですが、単なる発音の一致でしたか
足軽もそうだが、野武士も兵種だったり戦術だったり戦法だったりと、同じ言葉でも表しているものが文書や
時代や地域によっていちいち違うので大変面倒くさい
405 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 01:56:37.14
戦国時代や江戸時代の大名は筑前守とか伊豆守とか名乗っていますが、
これは朝廷に贈り物などして、朝廷から許可を得て名乗っているのでしょうか?
それぞれの大名が勝手に名乗っているとすると同じ時期に複数の国司がいたということになり
どの大名のことなのかわからなくなるという事態になると思うのですが?
あと、自分の領地と全然違う地域の国司を名乗っていますが、当時の人はおかしいとは思わなかったのでしょうか?
>>405 百官名(ひゃっかんな)でggると幸せになれる
407 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 12:32:24.17
>>405 ほとんどが僭称です
あまりにも近いとおこがましいから遠いところに、とかあったようです
亀井茲矩みたいにいつか琉球を治めたいからと琉球守を賜った例もありますが
408 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 13:45:26.16
大内義隆のように、
大宰小弐を代々継承した小弐氏へのあてつけに朝廷から正式に大宰大弐に任命してもらった例もあるよ。
豊臣期以降は、大名やその重臣クラスは全員正式な官位な。
江戸期になると武士の官位は家康によって「武家官位制」という、公家とは別個のカテゴリに編成された。
410 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 16:12:12.06
上杉景虎は弾正少弼を名乗っていたが、本物は松永久秀
景勝も名乗っていたが、本物は松永久秀(死んでますが)
関東管領上杉家の弾正台は足利幕府から
松永家の弾正台は朝廷から
織田家の弾正台は朝廷から
保科家の弾正台は私称
高坂家の弾正台は私称
例えば〜衛門、〜兵衛というのも、本来は衛門尉とか兵衛佐とか書く立派な官位であったが、
江戸期くらいから官位の僭称がダメということになったので、ただの「衛門」「兵衛」で官位ではないという
風になった。
413 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 18:27:05.91
農民が○○兵衛っていうのはあり得ないことですか?
幕府という組織がなくなったのは明治維新(王政復古の大号令)の時だと思いますが、
朝廷という組織がなくなったのはいつになるのですか?
後年になってくると上流階級が使っていたものを真似るようになり、名前が陳腐化してくる。
戦国期には武将の名前なのに、幕末には農民の名前としても例が出てくる。
ちなみに太郎兵衛という言葉には「ぐずぐずして実行力の無いのろま」の意がある。
江戸時代には庶民の名前になっていたということ。
416 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 19:00:59.74
“すけ”にも差があるよね
弼、佐、丞は武家官位かと思いきや江戸商人にも使われている
兵衛は“べえ”ではなく“ひょうえ”な
>>414 朝廷が政府に変わっただけではないのでしょうか
朝議は公家などの三位以上の○○公が取り仕切って
閣議は大臣などの任命された人が取り仕切ったと
>>416 すけべえ、どすけべ、エロすけべにグロすけべ
種類は無数にありますね
419 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 20:29:48.95
助平じゃないの?
420 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 23:27:28.97
助は佐に通づる
平は兵衛にたいする憚り
421 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 00:12:38.10
竜馬について質問
寺田屋って今では閑散としていますが昔は一大スポットなんでしょうか?
ドラマなんかを見てると一大港町みたいな描写が多いけど
それと寺田屋と京都市街って歩いていくと半日以上かかりますが
普通に通っていたのでしょうか?
あと近江屋って四条河原町ど真ん中にありますが
身を隠すとしてなんであんなど真ん中にいたのでしょうか?
もっと隠れる場所はほかにあったと思いますが
現存する寺田屋は当時のものではないと結論されてますね
関係ない話でした
寺田屋は京都大阪を繋ぐ港町にありましたから賑わっていました
モノも情報も集まる場所だったわけです
そして重要なのは同じ伏見に薩摩藩邸があったことです
同じく近江屋の近くには長州藩邸がありました
彼にとっては利便性が高かったのでしょう
>>422 ん?
襲撃された時の柱の傷とか、ここに龍馬が止まっていたとか
龍が入っていた風呂桶とかあったりしたけど
あれ全部ウソ?単なるレプリカ?
旅館としてはそもそもかなり狭いから本当なのかとは思ったが
>>423 鳥羽伏見の戦いで消失していたようです
詳細はよく知りません
ググればすぐ出てくると思います
>>421 寺田屋のある伏見と京までは江戸時代初期に豪商角倉了以が高瀬川という運河を開拓して
船で行き来できるようになっていました。
もともとは京の町に物資を送るための水運でしたが人も行き交い、
龍馬も船で京ー伏見間を移動していたはずですよ。
龍馬が京で身を寄せていた酢屋や近江屋も高瀬川のすぐそばです。
何かあれば、すぐに水路で逃げることができるという利点があったようです。
戦国時代の古文書を読んでみたいと思っています。
皆さん学習法はどのようにしたらいいでしょうか。
教えてくださいませ。
現代語訳探して読んでください
1.活字の古典文を読む
2.楷書体漢文を読む
3.行書体草書体を読む
4.手紙などの書式を知る
数に慣れることです。いっぱい見ることです。
仏教について
上座部と大乗仏教のおおまかな違いはわかるのですが
天台宗と真言宗の違いってなんでしょうか?
どっちも大乗仏教だと思いますが本質的なところで決して相容れない考え方の違いってあるのでしょうか?
それとも単なる内容的にはそんなにかわらず派閥が違うぐらいのレベル?
あとほかの仏教の宗派と日蓮宗と創価学会の違いもいまいちわかりません
創価学会は日蓮宗の中の池田グループが大きくなりすぎて好き勝手したので
日蓮宗が我慢ならんと波紋したと思いますが
いかんせん創価学会の数のほうが圧倒的に多いので今の状態になっていると思いますが
日蓮宗にあって創価学会にないものってあるのでしょうか?
誤解を恐れずざっくりいうと、
天台宗は大乗仏教に密教を取り入れたもの
真言宗は密教そのもの
なので天台宗の本尊は釈迦如来
真言宗の本尊は大日如来と全く違います
禅宗系は大乗仏教で禅に重きを置いたもの
日蓮宗は天台宗が元になっていますが、大衆向けに改変されています
難しいことは理解しなくても南無妙法蓮華経を唱えればいいというもの
法華経に帰依しますと連呼するわけですね
浄土宗・浄土真宗は更に分かりやすく南無阿弥陀仏を唱えれば極楽浄土に行けるというもの
こちらは阿弥陀仏に帰依しますと連呼w
本尊は人を救済してくれる役割の仏ということで阿弥陀如来になっています
創価学会については知りませんが、信者間での互助を実社会で活かすことで非常に実利があります
つまり秘密結社のようなものですね
芸能ネタではお馴染みですが普通の経済でも同じでしょう
信心などなくてもそういうメリットに惹かれて入信してる人も多いのでしょうね
417さん
もう少し詳しく説明願います
>>432 417ではありませんが、朝廷=政治を司る最高機関と考えれば、
朝廷=政府って事でいいんじゃないでしょうか?
江戸時代は朝廷と幕府の二元支配でしたが、明治維新で幕府がなくなり、
朝廷に集約され、その朝廷が政府に変わっていったって事で
>>433 朝廷と近代国家は全く性格が違うぞ。
朝廷は官司はあるけれど、あくまでも主体は天皇(家)以下の人もしくは家であって、法的に整備された統治機構と呼びうる組織がなかった。
じゃあ、朝廷って組織がなくなったのはいつになるの?
436 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 23:43:37.29
大政奉還:名義上は幕府消滅、日本国政府としての大義名分を得る(実権は相変わらず旧幕府)
↓
王政復古:摂関政廃止、朝廷の執行機関として小御所会議を創設
↓
戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)によって小御所会議が日本国政府としての実質を得る
(摂政・関白ら旧体制への復帰が見込めなくなり、従来批判的だった公家も挙って小御所会議の設けた下部団体へ配置)
↓
太政官制
↓
内閣制
さてどれでしょう
歴史かどうか微妙だけどまじめな質問です
昔は日本神話が実在の事で天皇=神 日本は人間ではなく超常の神、人外が
治める国だと教えられていたけど人間宣言でしたっけ? だかで天皇は
ただの人間であり神じゃないと宣言してそういう教育なくなったけど
現在の天皇や神話は扱いどうなってるですか?
今でも皇室は『我らの先祖はアマテラスで神の末裔』とか主張ないしはそう発表してるんですか?
それとも本人たちも『あんなのただの昔話だよ』状態?
>>437 天皇は人間であり、神の末裔だという主張は行っていません
ただし、天皇が住む吹上御所の中には現在も宮中三殿があり、
賢所に皇祖・天照大御神(太陽の女神)が祀られてますね
皇族が結婚するときには賢所に祀られる天照大御神の前で結婚の儀が行われます
天皇は人間だけれども伝統的な皇祖を祀る神事は行っているという感じです
439 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 13:04:53.70
神人やら山法師やら
特権階級も人も同じく崇められてたよね
神武天皇以来男系なのはわかるのですが、皇祖神である天照は女神ですよね。この事と男系天皇が即位することには矛盾しないのでしょうか?
そこまで言って委員会でも所さんと竹田さんの議論ですね
皇祖神が女性なのか男性なのかは本来関係ありません
女性天皇は他にも何人もいます
男系で世襲してきたという伝統の問題です
日本にはそもそも女系など存在しないんです
奥さんの家系に入る場合で婿養子になるのも男系継承です
言葉の意味を誤解されているのでは?
>昔は日本神話が実在の事で天皇=神 日本は人間ではなく超常の神、人外が治める国だと教えられていた
徴兵による根こそぎ動因と同じく誤解されているが
極端な皇室史観を教えられていたのは昭和の数年間だけ
明治以降終戦まで「現人神」を強制的に教えられていたのだと思い込んでいる奴を
リアルで目にすると閉口することこのうえない
437のことを言っているんじゃないよ
>>441 いえ、女性天皇はいたが女系天皇は存在しないというのもわかってます。引っかかっているのは、男系をたどると神武天皇に行き着くがその神武は天照から正統性を認められてるという点です。天照が女神というのは不都合にならないのですか?
444 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 22:12:00.19
>>442 その割には、終戦前後の軍人の言動を見る限り、中堅幹部も高級幹部も天皇を「現人神」扱いしているけど?
彼らは明治中後期から大正前後に教育を受けた世代ですけど。
学問的には、いろいろな考えがあったにせよ、教科書的レベルじゃ皇国史観の基づいてたんじゃないのですか?
>>443 日本神話には詳しくないですが、何が不都合なのかイマイチ理解できません
一応初代天皇は神武なので問題ない気がするのですが、もう少し詳しく問題点をお願いできますか?
>>444 横レスですが、
ウチの祖父は明治生まれと大正生まれでしたが、天皇は神だという教育は受けてないと言ってましたよ
上記は岩波じゃねぃわw
徴兵の本と勘違いした
>>445 今上天皇から男系を辿ると神武。その神武から男系を辿ると女神である天照という点が引っかかります。天照は皇祖神だから別と言われればそこまでですが。
あと
>奥さんの家系に入る場合で婿養子になるのも男系継承です
とありますが、仮に愛子さまが皇族から離れず民間から婿養子をむかえその子が即位すると別の系統になるのでは?
天之忍穂耳尊は父親がいないからな
伊邪那岐ー天照大御神ー天之忍穂耳尊
は単為生殖だから男系も女系もない
伊邪那岐の親がいないのはまずいが
男系なんてただの中国からの影響で神話の神なんて関係ないだろ
>>449 それは男系女系の問題ではなく、万世一系の建前が崩れるということですね
大名なんかは徳川家こそ御三家という皇族と同じシステムで万世一系を維持しましたが、他は血縁のない大名家から世継ぎとして養子を取っています
それでも系統が絶えたとは言いませんよね
>>452 >それでも系統が絶えたとは言いませんよね
系統が絶えたとはそら言いませんよ。問題なのは皇室が男系ってことでしょ。
>>453 ?
話がループしてるようですね
天皇家は男系で万世一系
それだけです
何を言いたいのでしょう?
>>454 >>441であなたが
>奥さんの家系に入る場合で婿養子になるのも男系継承です
と書いたので449で
仮に愛子さまが皇族から離れず民間から婿養子をむかえその子が即位すると別の系統になるのでは?
と書いたのですよ。天皇が男系なのは承知してます。あなたが大名家の例を出しごちゃまぜにしてるんですよ。そもそも441では天皇のことしか書いていませんよね。
あなたは愛子さまが婿養子をとっても男系継承と思ってるんですか?
>>455 婿養子の話は日本には天皇家に限らず女系など存在しないという例で書きました
誤解があるようですね
あと愛子様は婿養子など取りません
婿養子を取るのは現皇太子殿下です
婿養子を誤解してるようですが、あくまでも養子です
これは男系ですね
もし現皇太子殿下が養子縁組せず、愛子様が皇族籍のまま一般人と結婚すれば女系になりますね
異常なことですが
>>457 分かりにくてすみませんでした
口論するつもりはないんです
>>443 天照大御神(女神)−○ー邇邇芸命(天孫降臨)ー日子穂穂手見命ー鵜草葺不合命ー神武天皇
日本神話に従えば、神武天皇は女神である天照大御神の子孫です。
神武天皇が神の子孫って、明らかに女系なんですね。
女系でしか神に繋がらないし、天皇家は現在も宮中三殿に
女神である天照大御神を「皇祖神(天皇家の始まりである祖先神)」としてお祭りし、神事を行っている。
日本の天皇家は男系一系だという主張は合わないことになります。
>>451 神話なら何故なおさら男の神にしなかったんでしょうか。
461 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 12:39:44.60
子を産む、これもまた神秘
古事記読み直してこい
天照大御神が身に付けていた勾玉から生まれたのが天之忍穂耳命など五柱の男神で、天照は自分の持ち物から生まれたから自分の息子だと宣言します。
男系とか女系とかいうレベルの話じゃありませんね。この天之忍穂耳命の息子がニニギです。
万世一系というのはあくまでも神武天皇の男系子孫によって皇統が受け継がれて来た (とされる) ことであって神武自身の血統は関係ありません。
皇祖神が男じゃないのは、神話が成立した当時はそこまで男系にこだわっていなかったからでしょう。実際、後の時代には天照は男神だったと解釈されたこともあります。
アマテラスさま論争は明確なんだけど
論点が違ってるから両者不納得の典型ですね。
皇祖神が女性というのを、女系であるまたはそれに近い
または万世一系の不根拠みたいにするのは一理あるようにも
思いますが、それを否定する竹田氏の根拠もまた
「生物学上確認できない」とか思想と科学の差異に持っていったり
論理的ではありますが相手の土俵とは違うところで反論してる感じもする。
結局、おかしいですよね、そうは思わない、といういつもの
落としどころになるのですけど。
>>462 記紀が邇邇芸命は天照大御神の孫であるから国を譲りなさいと血縁関係を強調して書いているのに
「男女生殖によらない血縁は無視していいんだよ」ということにはならないでしょ。
そもそも男系継承の始まりだという神武天皇も実在が確認されない存在であることは神代と変わりなし。
465 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 16:13:23.98
よく観阿弥、世阿弥親子が「能を大成した」と言われ、また、この事は日本史のトピックになっています。
しかし、「能を大成した」と言うことが具体的にどういうことなのか、イマイチわかりません。
誰か分かりやすく教えて下さい!
466 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 16:17:54.33
読み方がわかりません。
源氏長者(げんじちょうじゃ)、藤氏長者(とうしじょうじゃ)ですが
平氏長者(へいしちょうじゃ?)、橘氏長者(きつしちょうじゃ?)
ですか?
>>466 「げんじのちょうじゃ」「とうしのちょうじゃ」
あと平氏には氏の長者はない。
氏の長者があったのは王氏、源氏、藤氏、橘氏、あと菅原氏(北野の長者)
好き嫌いは別としても、宝塚ってある意味市民権を得て、存在を確立しています。
もし、宝塚が今後もずっと続いていけば、後世において宝塚の設立者は能における世阿弥のような存在に
なるのでしょうか?
ならない
能は世阿弥だけでなく、多くの一座と演者と広範な指示が存在した。また一般人も参加しうる芸であった。
宝塚は一つの劇団のごく一部で支持されている演劇形態にすぎない。
たとえ後世に残ったとしてもそれは特異な演劇の一つとしてしか認識されない。
「星組」ができた辺りから見に行かないという「づかふぁん」もいるし
劇団四季のように朝鮮枠ができちゃったら死亡フラグだね
世阿弥には何より時の権力者の後援があったからなあ
そういう面でも宝塚は世阿弥のようにはなれないんじゃないか
今から総理大臣が宝塚狂いになって
国策で支援やら推進やらしていったら別かも知れんがw
>>472 宝塚は民間企業である阪急阪神東方グループが運営
今のところその存続は一民間企業に掛かっています
文楽も大阪市が補助金削減を決めて死活問題になっているみたいだし
日本の伝統芸能も補助金で運営しているところがほとんどのようですね
歌舞伎の劇場なども赤字のようです
歌舞伎役者本人は現代劇もこなすテレビ俳優として活躍することで収入得ているようですけど
474 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 23:14:45.59
剣豪として有名な宮本武蔵は、実は史料が少なく
詳しい動静は武蔵が書いた自伝くらいしかないため、
吉岡一門、佐々木小次郎との決闘が本当に行われたのか、
武蔵が本当に強かったのかは、よく分からないそうですが、
とすると武蔵が歴史に名を残せたのは、剣士として強かったからではなく
作家や絵師として優れていたからなのでしょうか?
あるいは細川藩に召抱えられていましたから、六十数戦無敗が史実かどうかはともかく
それなりに強かったのは事実だったのでしょうか?
能を「大成」するとはどういうことですか?
創始するとは違いますよね?
>>474 武蔵が始めた剣術「二天一流」はそこそこ弟子がついたようですから
弟子たちの間で信仰されたというのはあるのでしょう
武蔵の養子伊織がまとめた武蔵の伝記に尾ひれがついてあのような話になったようなのですが
江戸時代半ばから武蔵と小次郎の巌流島決闘は歌舞伎や浄瑠璃に取り上げられて人気だったようです
あとは昭和に入ってからの吉川英治原作の小説「宮本武蔵」の大ヒットはあるでしょうね
何度も映画化・テレビドラマ化され、大河にも登場、宮本武蔵は現代人にとっても有名人になりました
なに、そのwiki丸写しみたいな文章はw
17世紀に剣豪番付で名前が挙がるくらいだから民衆のあいだでも知名度はあったと思うよ
>>475 それこそ観阿弥、世阿弥親子によって、それまでの猿楽、田楽能の流れから、
舞台芸術として昇華されたという程度の意味でよいのでは?
世阿弥の『風姿花伝』は、風雅とはなんぞ?幽玄美?コンビニでも売ってる?
そんな現代人が読んでも面白いですよ
478 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 13:29:38.22
関ヶ原の頃の徳川って本当に240万石もあったの?
関東は田は少なくて畑中心だったのじゃないか?
江戸時代を通じて米は北陸などからの輸入に頼ってたはず。
プロレス人気が末長く続いていけば、力道山はただの国民的スターというレベルじゃなく、
いずれは日本文化史、スポーツ史の超大物になってた
まあ、今でも大物だけどね
480 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 15:26:04.59
伝仁徳陵について
あの巨大墳墓の築造方法についてですが、
元々そこに存在した山や丘を削り取って築造したものなのか?
あるいは、元々は平地だったが、大量の土砂をあの地に持ってきて築造したのか?
どちらなのでしょう?
そして、もうひとつ、
墳墓に生い茂っている木々は、人工的に植えられたのですか?
この間博物館で見た時は禿山の状態で完成っぽかったから
木は後々勝手に生えてきたんじゃないか?
滅茶苦茶興味あるってレベルなら大阪の近つ飛鳥博物館を見に行くといいかも
仁徳天皇陵の作り方の映像とか流れてたし
元々あった小山を削り取るのではなく、平地に土を盛る形
樹木もわざわざ植えたのではなく、長い年月のあいだにいつのまにかということ
木もそこまで長寿じゃないしね
起源を忘れ去られ、単なる小山扱いされたことも多かったことから
○○山古墳と名称に山がつくことも多いのです
>>477 歌舞伎や浄瑠璃を見て庶民が武蔵は強い、と認識したんでしょ。
実際に武蔵は江戸時代の時代の違う並み居る剣豪たちと決闘したわけでなし
どの程度強いのか庶民が分かるはずもない。
17世紀って武蔵が生きた時代から200年もあとのことじゃん。
う〜〜ん。バカ?!?!
よく、かつての天皇と将軍の関係をローマ教皇とローマ皇帝になぞらえる人がいます。
実権はともあれ、序列は確実に天皇が将軍よりも上ですが、教皇と皇帝の間も確実にそれが言えるのですか?
日本もどうだかわかったもんじゃない、と言うと江戸時代の国学の人々に怒られますね。
天皇と征夷大将軍の上下関係は、
本来は天皇が古代大和時代の大王であり、将軍はその大王の部下である武将なのですけど、
特に承久の乱以降は錯綜し、江戸時代初期には将軍の承認無しには天皇は何もできない状況にありました。
これが天皇が上と定まったのは、割と新しくて江戸時代の中頃以降。
朱子学の日本への移入に伴って、日本古典研究と融合する形で国学者と呼ばれる人たちが
天皇を頂点とする、本来あるべき日本像を提唱し始めました。
この主張は将軍を頂点とする国家像を提唱していた人たちと対立しながら、
尊皇攘夷派であった水戸家出身の徳川慶喜の征夷大将軍就任という形で天皇優位が定着しました。
天皇が国家元首にして、将軍を承認し職務に付かせる上位者であると定まったわけです。
歴史的にはこの後に、薩長尊王攘夷派が天皇を擁し将軍の権威を否定したため、
天皇が偉いと言った張本人の徳川慶喜は言行の一致を問われ、実権まで失ってしまいました。
特に西ヨーロッパ、ローマ世界の場合はカール大帝がローマ教皇の手から帝冠を得た故事があり、
神聖ローマ皇帝も欧州の盟主として帝冠をローマ教皇の手から得ない限り、単なるドイツ王・ローマ王としての扱いでした。
しかしドイツ王・ローマ王のままでも不都合というわけでもないし、
一旦帝冠を得たなら、教皇の方には破門宣告以外皇帝への制裁手段がないのでどちらが上とは言いにくい。
素人の御託よりも、漫画チェーザレを読んだほうが
教皇と皇帝の力関係はよくわかると思います
マンガはちょっと
青銅器って青緑色ですが、作りたてはピカピカの黄金色らしいです。
古墳などから出てくる鏡もそういう状態で使われていたのでしょうか
スズ混ぜる事によって、自然酸化しても茶色くならないようにしたものが青銅。
作りたてはほぼ銅と同じ色でピカピカだけどそれは今の銅を知ってるからで、昔の精錬技術でそこまで純度が高かったかどうか。
>>490 なるほど
今みたいに他に光る物がないから、それでもすごかったのでしょうかね
それでも古墳の鏡をどうして鏡というのか、今でも不思議
>>491 水を貯めて鏡として使っていた物が中国から伝来してるから、
形状が似ている物を鏡と呼んでいるのかも知れない。
ごめん、詳しい人、続きよろしく。
世界最初の金属利用は、自然に単体が出土する金・銀・銅であったとされています。
つまり古代ほど自然銅でしょう。つまり既に金属になっていたものを拾い集めて溶かしていた。
古代にそんな便利なものは利用しつくされ、だんだん何らかの加工を要するようになってくる。
そして精錬技術が生まれる。具体的には炭と一緒に何時間も熱するわけです。
錫はスズ石(SnO2)が出土します。これも炭と一緒に燃やすと錫が出てきます。
そして青銅器文明が始まります。
>>486 実権はともかく序列でしょ?
序列で天皇が将軍より下なんてことあったかな
495 :
日本@名無史さん:2012/10/19(金) 23:13:24.85
>>481.482
480だけど、回答ありがとう
少し前に仁徳陵を見に行って、いろいろと興味がわいてきたので、
博物館にもいずれ行ってみようと思います
496 :
日本@名無史さん:2012/10/19(金) 23:36:03.19
応仁の乱が、関が原の戦い、戊辰戦争のように短期間で決着がつかず、
およそ10年間もだらだらと続いたのはどうしてでしょうか?
>>494 湯武放伐と言いますか、徳がない君主は討伐されて滅ぼされても仕方がないという論理が朱子学の中にはあります。
つまり林羅山らが主導した官学としての朱子学では、天皇家とは、討伐されても仕方ないのに将軍の温情で残されている存在です。
(はっきり明言した文面は見たことがありませんが、湯武放伐を認め将軍を君主とする官学では解釈上はそうなります。)
これに対して山崎闇斎ら水戸学では湯武放伐は絶対に認められず、天皇が君主なのに将軍という下郎に虐げられていると解釈するわけです。
この両者の解釈の中で天皇の扱いは揺れ動くことになります。
江戸時代初期は天皇は無視されるようなもの、徳川綱吉は天皇を尊いものとし、新井白石はそれを更に進めます。
更に水戸学の振興、陽明学の流布、国学の伸展という形で天皇の地位が江戸時代を通じて上昇してゆきます。
>湯武放伐を認め将軍を君主とする官学では解釈上はそうなります
ここが重要じゃんか。
官学の解釈が天皇家を「放伐される前君主」としているんだったら分かるけど
そういう解釈なのけ? おれは違うと思うんだがなあ
あと、くりかえしになるけど、実力じゃなくてあくまで序列の話だから。
そこをはっきり書くと天皇か将軍かを追い出すことになるので、記録上官学の人々は誰も明言しないんですよ。
>序列で天皇が将軍より下なんてことあったかな
誰の言葉だったか忘れたが「天皇を頂点とする官位相当制にかわる制度を誰も発明しなかったことが、天皇制がだらだらと続いた理由だ」というのがあるように
天皇が将軍より下というのは権威付けとして明らかにおかしい
武家にたいして官位を賜る実権が幕府にあっても、その「権威」は「天皇」の名の下に下賜されるのであって「将軍」ではないのだから
曲学阿世と言うと御幣があるが、全く実行力がなく大災害や野党のスキャンダルを待っているだけの官僚のロボットである首相を、
「実行力がある」と誉めそやす大新聞社なんかは今でもいるじゃない
「理屈」と「膏薬」は何にでも付くものなんだよ
>それでも古墳の鏡をどうして鏡というのか、今でも不思議
青銅の色は混ぜ物によって変化するし、混ぜ物の含有率が一定でない事実が古代人の試行錯誤の結果と思われ
ともあれ、一朝一夕で酸化する分けない
>>496 わかりません。当時の人も全くわからないといっています。
ただ、幕府内部の足の引っ張り合い、守護大名内の家督争いなどが重なっており、
しかも実は誰も戦意はなく、圧倒的な勝者(例えば足利義教みたいな人)が出ることを望んでいなかったのです。
そのうちに細川勝元が大内、土岐らの領国を侵し始めて戦いが全国に広がると、だれも収拾できなくなってしまいました。
諸国が疲弊し関係者が死ぬと、疲労に耐えかねた形で和睦が成立しましたが、結局誰も処罰されませんでした。
天皇を完全に無視しさえすれば、山崎闇斎の言う湯武放伐絶対禁止の方が君主は固定されるので
幕府や将軍にとっては都合が良いんだよね。
でもこの思想は結局は歴史上は倒幕に至ることになる。
天皇を無視できなくなると、将軍は簒奪者、良く言って委任者扱いにされてしまう。将軍は打倒されるべき存在と化す。
>>491 江戸時代までは金属の鏡を実際に使っていた。水銀で磨くとちゃんと映る。
>>492 逆です。鏡の部首が金篇であるように元々の鏡は金属製。それになぞらえて水鏡といった言い方が出来た。
>>503 >鏡の部首が金篇であるように元々の鏡は金属製。
中国での歴史はあまり知らないのだけど、南米や北欧、エジプトでは石を磨いた鏡と水を張った鏡の方が古いハズだよ。
青銅鏡の話とはズレるけど。
石を磨くのは知らなかったよ。御影石みたいなの?
黒曜石とかだったハズ。
仮に天皇の役割や存在意義に祭司や神道がなかったとしたら、
やっぱりこれほど長い歴史は続かなかったですかね?
>>507 天皇が神道の頂点になったのは明治時代。
それまでは日本の大部分の神社と天皇の間に因果関係なし。
(伊勢神宮や賀茂大社、宇佐八幡など関係あるものもあったけどね)
日本は幕府を開くには天皇や摂家の子孫であること称する必要があった。
だから本家本元をつぶせなかったんだと思う。
でも天皇は古代から国家安寧や五穀豊穣を祈る祭司王だったんでしょ?
祭司の役割がなかったとしたらどうなってたんだろ?
神獣鏡のような裏面に文様?のある銅鏡は所謂魔鏡のような像は現われるのでしょうか
室町時代中後期の庶民生活や風俗は
南蛮貿易以降の戦国時代や安土桃山時代とそう変わりはないですか?
結構違いがあるイメージなのですが、室町時代の生活を知りたいと思えば
庶民生活については戦国時代のそういう本を読んでもあまり問題無い?
むしろ今の生活の元が室町時代では
>日本の大部分の神社と天皇の間に因果関係なし
律令体制が整えられると、太政官のほかに神梢官が置かれ、神梢官は祈年、新嘗、月次、大祓などの祭りごとに天神地梢に奉幣するものとされた。
神梢官が直接に奉幣する神社は官幣社、地方の神々の社で国司が奉幣する神社は国幣社と呼ばれた。
10世紀の初頭にまとめられた『延喜式』には、全国で2861の神社、3132座の神名が記載されているが、そこに見える神社を後世式内社という。
また式内社以外に六国史に名が記されている神社が391社あり、それらを国史現在社といった。
国司は任国内の神々をまつることを第一の任務としていたが、平安時代には、奉幣に際して、参拝する順序がきまり、一宮、二宮、三宮などのように各国内の神社の社格を示すようにもなった。
さらに平安時代になると、国内の神々を一ヵ所にまつる総社が建てられたりした。
『日本書紀』の編述に際して、用明天皇即位前紀に「天皇、仏法を信けたまひ、神道を尊びたまふ」とあり、孝徳天皇即位前紀に
「(天皇)仏法を尊び、神道を軽りたまふ。生国魂社の樹を駒りたまふ類、是なり。人と為り、柔仁ましまして儒を好みたまふ」
と見えるように、神道という語が、仏教、儒教に対して土着の信仰をさすことばとして用いられている
514 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 22:26:07.41
>>508 日本各地の神社で歴代天皇や日本神話の神々を祀っているところがあり、
その神社の歴史が明治よりももっと古いんだけど、これはどういうこと?
515 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 23:24:08.64
日清戦争直前に、日本と清が朝鮮の内政改革を巡って揉めていますが、
日本はどういう腹の内だったんでしょう。
陸奥宗光の『蹇蹇録』を読む限りではミリタリーバランスを考慮しただけのように
書かれていますが、最近の研究ではどう解釈されていますか?
金星には明星という古語の呼び方がありますが、
江戸時代以前火星、木星、土星はどんな言葉だったのでしょうか
>>516 金星=太白
火星=熒惑星、炎星
木星=歳星、太歳
>>517 ありがとう
五星で調べればいいんだ
歳星:木星・鎮星:土星・辰星:水星でした
>>510 銅鏡は文様が有るのが普通ですが、普通は魔鏡のようにはなりません。
鏡の厚さが極端に薄くなると鏡面を研いだときに肉の薄い部分が微かにしなって
その結果、表面が微かに歪んだ状態で研ぎ上がります。この歪みによって像が現れます。
それが魔鏡です。
>>515 日本の場合、清国軍が朝鮮半島にいるということが嫌で仕方がなかった。そのため
・李朝は独立国である
・李朝の西欧近代化を応援し、中国の影響力を削ぐ
というのが目標だった。
しかし当時から朝鮮半島住民の侮日感情は強く、在留日本人は明治15年・17年と虐殺を受け
李朝内で西欧改革主義を実行していた金玉均等が亡命の末に殺されるに至った。
これにより日本は、
・朝鮮人民の主体性に基く李朝の自立・西欧化と清の影響排除は無理
・日本軍の進駐による日本の勢力圏への編入しか半島における清国の影響排除が出来ない
・それによって清国との戦争になっても止むを得ない
と判断することになる。
そして東学党の乱が勃発する。李朝は宗主国であった清国に救援軍を要請したが、
日本は同等の軍を派遣する権利があるとして、大鳥圭介全権公使と共に軍を派遣する。
大鳥は清国軍の代表だった袁世凱と会談を行い、両軍が共に撤退する方向で検討を行う。
しかし陸奥宗光らは、日本軍を用い李朝内の事大党(親清派)が中心だった宮廷を粛清し西欧式改革政権を立てよと主張、撤兵を認めない。
清国では日本の強硬姿勢に驚き戦争回避を求めるが、袁世凱の上司であった李鴻章は李朝への内政干渉は許されないと言い、
李朝宮廷内の事大党(親清派)を温存せよと主張した。
日本は戦争準備を更に進めてゆく。
平清盛は平家納経を厳島神社に奉納しましたが何故経典を神社に奉納したのでしょうか。お寺ではダメだったんでしょうか。
当時はお寺も神社もごっちゃになってたし
旧巨大寺社に奉納すると特定のとことの
結びつきが強くなるからそれを避けたとか
そういう風には言われるかな。
524 :
日本@名無史さん:2012/10/24(水) 00:57:11.10
鹿ケ谷の陰謀は平清盛によるでっち上げだという説があるそうですが、
事の真相はどうだったのでしょうか?
本当に平家打倒の謀議があったのか、
それとも後白河院政を壊滅させるための清盛の謀略だったのか?
525 :
日本@名無史さん:2012/10/24(水) 06:08:42.63
東北北部が「日本」の一部と認識されるようになったのはいつ頃ですか?
平安末期に十三湊が十三氏(奥州藤原氏の分家とされている)の治める貿易港として文献に登場してくる。
鎌倉幕府が奥州藤原氏を征服後、蝦夷管領に任命された安藤氏が入植し一帯を支配する。
(1229年津軽萩の台の戦 十三氏、安藤氏に敗北)
日本史に入ってくるのはこのあたりが最初。
>>524 河内とか元木とかいろんな説はあるけど
事実としては、みんなで平家の悪口を言うぐらいはあったろうし
讒言したのもいたかもしれない。
それを利用してうまく解決したのをどこまで「謀略」とするかだよね。
清盛自身は歴史に名を残す20年の間に意外と積極的に
何もしてないというかリアクションタイプ。
この事件もたまたま起きたことをうまく利用したというところで
謀略的にあまり清盛自身の意思をさかのぼって強調するのも
どうかとは思うな。
>>523 仏の加護を受けるために納経してるのにそれを神社に奉納すると行為がよくわかりません。
529 :
日本@名無史さん:2012/10/24(水) 17:17:12.60
530 :
日本@名無史さん:2012/10/24(水) 17:19:07.12
>>528 当時は、神社でお経をあげるということが普通に行われていたんです
奈良の春日大社では明治時代の神仏分離令まで興福寺の僧がお経をあげていました
寺には鎮守社があり、神社には神宮司がある
厳島神社は、もともと大聖院という寺の敷地内に建てられたとされ、
大聖院は明治になるまで厳島神社の別当寺でした
531 :
日本@名無史さん:2012/10/24(水) 17:39:36.07
歴史教科書に本地垂迹説ってのが載ってたな
国語教科書の平家物語の扇の的で
那須与一が「南無八幡大菩薩…」とか懐かしい
那須与一が扇の的を射貫いた後お見事と舞を踊った
平家の武士も射殺したなんて話も伝わってるな
室町幕府滅亡から江戸開幕までの間は関白秀吉を事実上トップとした
朝廷統治、朝廷政治だったという認識で良いのですか?
朝廷は事実上機能してないから、そういう表現はどうなんだろうな。
中央集権という意味なら普通に豊臣体制と言う方が
より意味性が明確かもしれない。
実際混乱状態から短期間にあそこまでまとめたのは
奇跡的ではあろう。
それが大部分江戸期にも引き継がれるし。
というわけで朝廷というよりかは秀吉と言う
個人の才能、実績を強調したぐらいの方がいいかもしれない。
でも秀吉が新しい政治組織を立ち上げたってわけじゃないんじゃないの?
五大老、五奉行も秀吉が新しく作った人事制度でもないだろうし、
どうなんだろう?
>>536 混乱してて中央集権システムがないところに
強力な機構を作ったのは特筆すべきとは思う。
大老や奉行システムは今丁度研究が進んでるとこだけど
あまりに革新的で確固としたトップダウンシステムだから
かえって引き継がれにくい面もある。
全国的な組織としては秀吉が新しく作り上げた
とするのが普通じゃないのかな。
>秀吉が新しい政治組織を立ち上げたってわけじゃないんじゃないの?
>五大老、五奉行も秀吉が新しく作った人事制度でもないだろうし
何を言っているんだ?こいつは
539 :
日本@名無史さん:2012/10/26(金) 00:41:28.31
秀吉の統治機関はなんて呼ぶの?朝廷でもなく、幕府でもなく、当然太政官制でも内閣でもなく・・なにかそれらしい統治機関の名前があるはずだ
・武家関白制
豊臣秀吉が自分の部下を朝廷の位に就けて、その位で豊臣政権の執務をさせたから
朝廷で執務を取る人がいなくなってしまった。
>>540 そうでもない。
例えば秀吉政権末期の慶長3年、公卿(参議以上)32人中、
武家は8人(豊臣秀吉・徳川家康・豊臣秀頼・上杉景勝
織田秀信・毛利輝元・松平秀康・前田利勝)で、残る24人は公家。
あまりに武家公卿が増えすぎれば徳川政権のように公家と分けたかもしれんが、
朝廷に出仕する公家が少なくなったわけではない。
それこそ錯誤に人を誘導する文です。
豊臣秀吉の太閤居座りと部下への朝廷の位の授与は朝廷を混乱させました。
なにしろ、朝廷の位として太政大臣・内大臣・左大臣・右大臣とあるのですが、
関白太政大臣は豊臣秀吉であり、他の大臣も公家が存在しないしこれからも存在しない状況となったのですから。
公家の前例主義から、親の代に就けなかった役職未満の地位にしか子孫は就けません。
つまり公家には未来永劫大臣以上の地位がないと豊臣秀吉は宣告したことになります。
豊臣秀吉の死後、徳川家康の手でこれらは一層され、武家と公家の官位は分離され公家はようやく家名を保ったわけです。
政権が京都にあるとロクなことがないということだな
平清盛、室町、秀吉、みんな安定しなかったり短命
鎌倉、徳川、明治の方が直接配慮しなくていいだけ安定していた
544 :
日本@名無史さん:2012/10/26(金) 15:47:56.95
>>543 平安京が開かれてから400年間京都に置かれた朝廷が政を取ってたじゃないか
鎌倉・徳川・明治どれも400年も続いてない
豊臣秀吉の武家関白政の問題は、
朝廷の官位で豊臣政権内の順位をつけたせいで、朝廷内では公家が官位に就けなくなってしまったという所にありました。
だから徳川家康は幕府を作り、官位も公家と武家は別個にあるとし重複を避けたわけです。
>>543 他の例は「政権と朝廷が同じ場所にあったかどうか」なんだから明治を混ぜるのはおかしいだろ。
547 :
日本@名無史さん:2012/10/27(土) 02:28:47.03
寄生地主制という言葉がありますが、「寄生」という言葉を使っているので
かなり否定的な意味がありますよね。
やはり小作料がものすごく高かったのでしょうか?
いえ、単に地主が現地にいなかっただけ。
不在地主として戦後の農地改革時に自分の取り分がなくて、滅んでしまいました。
政治家の評価のされ方が不思議です
例えば、陸奥宗光や小村寿太郎は条約改正を成し遂げたとして
政治家として大変著名です
これは陸奥宗光や小村寿太郎が強いリーダーシップを発揮して
(あるいは粘り強く交渉を積み重ねて)結果を出したからなのでしょうか?
官僚の間で数年前から交渉が続いていて、たまたまある大臣の任期中に
ポッと良い結果が出た場合、それでもその時の担当大臣が評価されるのでしょうか?
あるいは、その担当大臣が果たした役割や影響が大した事ないと判断されたら
任期中に良い結果が出てもその担当大臣は評価されないのでしょうか?
陸奥宗光と小村寿太郎はあくまで分かりやすい例として挙げただけで、
彼らの功績等を貶める意図はまったくありません
実際のところ、その大臣の時に条約等が締結されたならその人の功績です。
過程なんて残りません。
陸奥宗光は本当に有能です。(対中国目的で朝鮮への軍事侵攻を効率的に行ったという点で)
小村寿太郎は、本心はどうあれ停戦条約は彼が締結しました。
本当のところは、彼は国内の停戦反対派の頭目であり、
彼に停戦協約にサインさせることで、停戦を有無を言わせず実行させるという思惑が日本政府にはありました。
例えばある拉致担当大臣が北朝鮮側と粘り強く交渉を重ね、やっと合意に至り、
あとは日を決めて調印するだけとなった折、急に健康を害して交代し、
新しい大臣が就任後早々に調印をして、そのすぐ後に失言で失脚した場合、
それでも調印をした短命大臣の名が歴史に刻まれて、実際に働いた前任の大臣は
調印した短命大臣よりも名前が残りにくいのですか
ちょっと気の毒ですね
年代的な流れは
聖徳太子→玄奘が中国に経典を中国に持ち帰った→鑑真が日本に広めただと思いますが
聖徳太子の時に仏教と鑑真が奈良時代に広めた仏教って
具体的に何が違うのでしょうか?
聖徳太子の時に仏教は独自発展する前の釈迦の教えに近い仏教なのでしょうか?
行ってみれば厳しい修行して悟りを開かなきゃ極楽に行けないみたいな上座部仏教の近い?
いえ、仏教としての考え方ではなく、手続き上の問題です。
仏教僧になる人は戒(自己で守る道徳的な約束事)、律(集団規則)を守る必要があります。
それを確認するため、既に僧侶になった人10人の前で儀式をする必要がありました。
仏教僧へのご入会には会員様10名のご紹介が必要だったわけです。
しかし日本では、それまで仏教があまり伝わっていなかったため、
私は仏典を学んだから僧になることにした、で通用していたわけです。
鑑真と同時に渡来した仏教僧たちが日本国内で戒律を授けて回ったことで、
自分は仏典を学んだから僧になるのだ、ではなく
中国まで行って僧になってきた、ということでもなく、
以後は世界公認の仏教僧が国内に生まれるようになったわけです。
554 :
日本@名無史さん:2012/10/28(日) 22:14:04.31
高師直って渡来系ですか?絶対渡来系だと思うんですが。
555 :
日本@名無史さん:2012/10/28(日) 22:29:11.85
じゃあ、そういうことにしておこうな
秦氏って絶対秦の始皇帝の子孫ですよね?絶対渡来系だと思うんですが。
557 :
日本@名無史さん:2012/10/28(日) 23:08:13.16
>>555
高って、当時存在してたんですか?
558 :
日本@名無史さん:2012/10/29(月) 10:36:02.15
>>554 なんで渡来系だと思うの?
高氏って高階氏の一族じゃなかったのか。
ガセ。
歴代天皇の事績を調べていると、しばしば
上皇が色々な事情で朝廷に「尊号辞退」を伝えていますが
これって「太上天皇の尊号を辞退する」ってことでいいんですか?
辞退が認められた場合、その上皇をその後も「○○上皇」と呼んだら
厳密には間違いなんですか?また、実際に辞退が認められたことってあるんでしょうか?
太上天皇の太上、太政大臣の太政はそれぞれどういう意味があるんですか?
日本の歴史上、明治維新後の数年間と太平洋戦争敗戦後の数年間が
最大の変革期だったと言えますか?
聖徳太子が607年に隋に国書を送ったことが一番の変革だと思う。
565 :
日本@名無史さん:2012/10/30(火) 15:08:47.63
>>564 「隋書」だと第一回遣隋使は600年、これは日本書紀で省かれている。
勿論、国書を送ったのは聖徳太子ではない。
日本書紀に第一回目として載るのは607年の遣隋使、隋の記録では2回目の遣隋使だ。
国書を送った相手は「倭皇(日本側は天子と言ったとする)」であり、勿論、聖徳太子ではない。
有名な「日出処の天子・・・」の文面も、隋書だけに載っている。
>>565 横からですが、それでは倭皇とは誰なのですか?
質問です。日本の国名ですがヤマトという呼び名からニホンと変わったのは何故ですか?ヤマトという音から日本という漢字には繋がらないと思うんですけど。
>>563 明治維新は、確かに日本史上最大級の変革期と言えるでしょう。
敗戦は大きな出来事ではあったが、日本史上最大ではないような感じ。
>>566 まず大和朝廷の自称として「ヤマト」があり、これに中国側の表記である「倭」が当てられた。
「倭」があまり良い字じゃないから変えようという事になって「日本」の表記で「ヤマト」と読む事に決めた。
表記に引きずられる形で「ニホン」の読みが定着した。
という流れ。
569 :
日本@名無史さん:2012/10/31(水) 12:39:33.35
高師直について調べたいんだが一次資料でできるだけ信憑性の高い漢文の資料(日記)はなにがありますか?
570 :
日本@名無史さん:2012/10/31(水) 14:50:25.13
>>569 「園太暦」
南北朝〜室町時代初期の一次史料
ただし量が膨大で高師直以外の記事も多いです(公家の日記です)
571 :
日本@名無史さん:2012/10/31(水) 18:07:39.29
>>566 607年の遣隋使で倭の国王に対して隋の皇帝が与えた称号が「倭皇」です。
倭の五王の時代に与えられた「倭王」の称号から、「倭皇」になったわけです。
>>312 うちところの御先祖様は壇ノ浦の落人だけれど、源融裔の嵯峨源氏だぞ。
>>562がお分かりの博士はいらっしゃいませんか?
>>568 「日本」という漢字の読みがヤマトなんですか?そこがしっくりこないんですよね。ヤマトという音に日本って漢字をあてたことに。
576 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 01:41:34.63
>>575 だってそれを言ったら「倭」がヤマトなのもおかしいでしょ?
この国は『国名は2文字表記にする事にしたから「泉→和泉」とか「上毛野→上野」とかに変更する』って
決めちゃう国です。しっくりこなくても納得してください。
578 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 19:23:33.05
>>570 ありがとうございます
あともうひとつだけお願いします
高氏の祖の高階氏のことが書いてある「高階系図」ってなんの本(資料)に入っていますか?
江戸時代武士以外は名字を名乗れなかったけれど
内々で呼称するものはあったと聞きました
その正式でない名字は誰でもありましたか?
江戸時代以前も農民だろうが名字はあったと聞いた気がするのですが本当?
どの時代辺りから庶民も名字を持ってどういう層が使っていましたか?
逆に本当に名字を全く持っていない人間も居たんですか?
>>577 納得はできないけど、そういうことなんですね。ありがとうございました。
581 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 02:24:59.29
明治以前に改元が行われた時、実際に働いたのって
どういう人達ですか。改元のための役職があったりしたのでしょうか。
また、その手続きが時代によって変遷する事はありましたか。
先生よろしくお願いします。
>>581 文章博士2,3人から2つ3つ年号案を提出させて公卿たちで議論、
概ね1つに絞ってから天皇に年号案と優劣の意見を奏上し、
最終的に天皇から了承を得ていた
583 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 21:39:51.97
自民・公明じゃ何も変わらない
「民主」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「みんなの党」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「小沢」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「維新の会」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「石原」ならなんかやるだろ ←いまココ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「第三極大連合」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
お寺や神社の周りに飲食店等が多いのは何故でしょうか。
縁日とか、羽子板市もやりますよね。
キリスト教の教会の周りには無いと思うので何故だろうと。
お伊勢参りのように遠方から人が泊りがけで集まるわけでもないのに。
徳川幕府の政策だったのでしょうか。
それとも単にお詣りに来る人が居るからお店が出来たのでしょうか。
江戸時代どころか明治になっても江戸の行楽は寺社通いなわけで、
寺社=行楽地という構図があったことを知るべきです。
特に町人の場合、長屋にヒッキーでは精神状態がおかしくなります。
だって家族で六畳一間なんですから。そのため休日は川原や土手、寺社に行くのが通例でした。
当時の主な観光地は両国広小路と上野浅草で、見世物小屋や屋台に通うのが気晴らしでした。
そのうち王子の飛鳥山の桜などに繰り出したりするようになります。
そして寺社自身がイベントに積極的でした。
境内を見世物小屋などに貸し出して寺銭を取り、来た参拝客にはお賽銭を払わせれは一挙両得でしたから。
>>585 早速の回答、ありがとうございます。
神社仏閣を神聖な場所と、堅苦しくイメージしていたのでどうにも解せない事でした。
当時の生活の中の娯楽は銭湯や髪結床等がくつろぎの場になっていて、なので家が狭くてもやっていけたのは何かで読んで知っておりました。
月見が凄く熱心なこと、虫の音を聞きに行ったり、雪見に出掛けたりと今よりフットワークが軽く、結構娯楽していたんだなぁと。
ただ宗教と娯楽が結びつかず、結構神仏を信仰していたので何でだろうと。
真面目に信仰もしていたけれど、ついでに遊んじゃえってとこでしょうか。
今は信仰よりもついでの方がずっとメインになっているようですね。
江戸というか、今の日本が娯楽ありすぎるだけで
この時代を基準に考えてると合わないわね。
江戸の寺社は勧進の許可をもらって、見世物小屋とか出したのだけど
そしたらタコ当たりでべらぼうに寺社も集まった飲食店も儲かった。
なので途中から飲食店の出店料とか公式に決めたり
場所によってショバ代も変化したり本格的になったんだよね。
最初に戻ると、寺社も集客したいから関連でありがたみのありそうな
なんとか仏、とかそういうのを定期的に公開してたんだよね。
地方からの勧進も積極的で、これも普段見られないからタコ当たり。
そうやって大規模になっていって、何日の勧進でいくら寺は賽銭があった
店はいくら儲かった、とかかなり細かく記録が残ってる。
一般書でも出てると思うけどね。
588 :
日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:08:52.13
決定版!やらせブームの作り方!!
1 数の原理
操作可能なランキングは全て操作
売り上げは自社買いで伸ばす
人気の根拠を数値に求め、スポンサーへのプレゼンに使用
動画サイトはとにかく再生回数を増す
それらの数値を総合して「売れている感」をバックに
メディアで煽っていく
1-2白痴の量産
洗脳し易い環境を維持していくため、あらゆる手段を使い、愚民を増やし続けることに努める。合法、非合法は問わない
2 安価主義
極めて安いギャラ、権利関係等の無償提供によりメディアへの敷居を下げ
大量露出による継続的刷り込み作業を可能にする
3 資金調達
税金を毟り取る
政府が出資する文化推進枠などの補助金を全部横取りし、工作資金に使う
(文化推進枠は元々、政府と広告代理店が税搾取の為に作ったオブラート)
589 :
115:2012/11/08(木) 22:48:00.71
亀
>>116 多分そうです
相手と身分に隔たりがある場合、口に出すのは恐れ多いという価値観に基づいていると思われます
>>118 なるほど…歌舞伎などにも…
って事は、ここ何十年の間に映像関係者が思いつきで編み出した演出ではないようですね
ありがとうございました
>>584 欧米の教会も、周囲は商店と歓楽街だけれど・・・・・・・
591 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 22:45:47.41
,、 /7 ,-、
( <. | l //´
ヽ\,.ィ´ .ニニェ‐、//
>、<゜> < 。>) 〈
// ´ ノ( 、_, )ヽ ヘヘ. 嫌なら 見るな!フジテレベ!
| l ノ、 __!!,.、 | l
ヘヘ. ヽニニソ ././
ヽヽヘ、____,,..ィ,ン′
`''‐---‐''´
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>、<゜> <。>) 〈
// ´ ノ( 、_, )ヽ ヘヘ. 嫌 なら 見るな!フジテ〜〜!
イスラムのモスクも
人が集まるとそれ目当ての商売が集まる
天皇家は天照大神 藤原氏(中臣氏)は天児屋命を祖神としていますが、他にも伝説で祖神がある家系はどういうものがあるのでしょうか?
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃┌───┐ ┃
┃│.ワイプ.│ テロップ.. ┃
┃│ 画面 │ テロップ.. ┃
┃└───┘ ┃ <ナレ:次の瞬間! と、そのとき!
┃ 【YouTubeの動画垂れ流し】 ┃
┃ 【やらせ・捏造】 ┃ <SEを被せる(ど〜ん、どし〜ん
┃ 流れるテロップ・・・・ ┃ どか〜ん、ぴろぴろぴろぴろ・)
┃ ┃
┃ やたらとデカイ ┃
┃ テロップ ┃ <SE:え〜
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ ナレ:このあと、○○にスタジオ騒然!(CMへ)
/\ /\ /\
SE:え〜 SE:あははは SE:へぇ〜
室町〜江戸の文化史をざっと説明して
ミスった文化史じゃねえや
江戸時代初期のの農民についてオナシャス
本百姓とか村請制とかごっちゃでわからん
>>593 忌部氏とか。天孫降臨で調べてみるとわかる。
602 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 11:26:17.25
猪瀬氏「ミカドの肖像」を読んでる途中なんですが、
敗戦後の臣籍降下で旧皇族は多額の財産税に苦しんだようです。
これはやはり外圧によるのでしょうが、国内的には
どんな意見が主流だったのでしょうか?
>>597 江戸時代の農村ですか、あまり詳しくないけど書く人がいないと思うので。
最初に、地域差が大きいし、各村で制度も各人の役割もかなりバラバラです。
だから説明で「俺の村はそうじゃない」ということが多数起こりますが、仕方がないので多めにみてください。
地域差の例として、
近畿などでは商品作物からなどの現金収入が多く、
検地も元禄で終わり、それ以降の農地拡大・生産拡大は農家が丸取りして豊かになってますが、
東北諸藩などでは度々検地があり、藩の石高は上昇しますが農民の暮らしはよくならない。
稲作以外の作物の栽培禁止などもあり、近くに都市もないので現金収入もあまりない。
そのため度々飢饉が襲い人口も増えません。
代わりに近畿は農村内の階層化が酷い。近畿では土地の半分近くが一割未満の富裕農民
(後に農業も自分でやらなくなり、不在地主=寄生地主制と化す)で七割近くの農民は土地を持てない。
僻地の田舎だと、逆に本百姓が大部分で土地を全く持たない水呑百姓はいなかったりする。
他の地域はこの両者の中間あたりにあるとお思いください。
さて本題。
まず惣村には、自分の土地だけで済む本百姓と、土地が足りずに他人から借りる小作人、土地を持たない水呑百姓がいます。
これは単に土地の有無での分類であり、貧富の分類とは少し違います。
他に村の鍛冶屋とか職人がおり、農家が質屋・酒屋・味噌醤油屋などの職を兼ねている場合もあります。
場合によっては海運業者や馬方が農地を持たないばかりに水呑百姓に分類されているような例もあります。
あと、普通の百姓も日用品や工芸品などを作って売ることで職人も兼ねていることになります。
農業以外の収入を「野間稼ぎ」といいます。
概して本百姓・小作人・水呑百姓と立場が劣化しますが、農業以外の収入で逆転することは0ではないわけです。
村役人といえば庄屋と組頭、百姓代です。
惣村には一人、庄屋(名主、肝煎とも言う)がいます。本百姓が五〜六人一組(五人組)になって
年貢や村入用の連帯保証人になっていました。この五人組の下に小作人と水呑百姓がいます。
五人組の代表者が組頭(年寄とも言う)で、庄屋は世襲か、組頭の集まりで誰がなるか決っていました。
これとは別に小作人まで含めた代表が二〜三人(百姓代、村目付や横目とも言う)いまして、
彼らも年貢や村入用の割り当てについて発言権がありました。
庄屋・組頭・百姓代が集まって寄合を開き、村のことを決めていたわけです。
年貢は藩や代官の役人が直接村内で集めず、村で庄屋が組頭などを取りまとめて集めていました。村の土木工事や行事も同様です。
これを村請制(むらうけせい)といいます。
課税額決定は、定免法(一定額を予め決定してある)と検見法(出来高に応じて決める)がありますが、
定免法のほうが飢饉時を除いて歓迎されました。
これは過去の課税額決定後に田畑を増やしたりした場合、収入増が課税されなかったからです。
近畿などでは商品作物などへの栽培もあり、幕末には収入の一割未満しか課税されていなかったとされています。
これが時代が下ってくると少数の家への土地の集中が起こってきます。一部の人が他の人から土地を買い上げ、
他の人は水呑に転落していくわけです。
この少数の農民に土地が集まる傾向は、新田開発などでも加速します。
お金に余裕がないと新田開発や新事業に手を出せないわけで、すると更に田畑や新事業を手に入れて富裕化するわけです。
こうして村の中に、自らは野良仕事をしない寄生地主が生まれてきます。
彼らが酒屋・酢屋・質屋(金融業)、地域の特産物などの商店などを興して村の事業家へ発展してゆきます。
これは都市の問丸から転じた問屋・株仲間とは別方向の、農村からの商業資本産業資本形成となります。
平氏に対して源氏、では平家に対して何て言うの?
平氏の中の伊勢平氏の中の六波羅流(六波羅家)が通称「平家」と呼ばれるだけで、
源氏にそれに値する物語で謳われるような滅んじゃった家は・・・ありますか?
清和源氏は滅んではいません。
なんで、「伏見大坂時代」と言わず、「安土桃山時代」なの?
なんで、「難波時代」と言わず、「飛鳥時代」なの?
せんせい∩(´・ω・`)
例えば、 家康=いえやす、家宣=いえのぶ っていう読み方って、なんでわかったんですか?
当時の文献にふりがながあるんですか?
>>609 豊臣秀吉の政務が天王山山頂の山崎城、後に聚楽第、最後に伏見城にあったから。
大阪城は山崎城の次に建てたものの秀吉はあまり住まず、豊臣家が滅んだ際の秀頼の城となった。そして伏見城は現存していない。
>>610 徳川家康の読みは豊臣秀吉が臨終直前に書いている、秀頼をよろしく、「いへやす、ちくせん、かけかつ…」(家康、筑前、景勝)と。
家宣はよく知らない。
>>602も宜しくお願いします。
当時の大衆意識として、「税金に苦しむ宮様が気の毒だ〜」みたいな意識や
「税金払いやがれオラー!」など、どんな意識があったのでしょうか?
足利義満の「花の御所」、豊臣秀吉の「聚楽第」、共によく「御所を凌ぐ」と表現されますが、
この二つはどちらがより広大で豪華だったのでしょうか?
第二次世界戦後の日本の皇室財産はGHQの民政局が財閥解体及び農政改革と同様に没収を推進しましたが、
日本政府及びGHQ内部の参謀部が反共産・安全保障上反対し、結局現在の形に収まりました。
世論はというと、共産党は皇室廃絶を要求しておりますが、他は天皇自身による地方巡幸もあり皇室財産は当然とする
意見が多数に思います。
あと、聚楽第の規模が分かりません(記録が少なく遺跡は町屋の下にあるので、町屋を壊さないと下を確認できない)ので規模の比較は無理です。
花の御所は面積では同時代の御所の約二倍です。
615 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 01:55:21.90
家宣とかは徳川家あたりに口伝で伝わってたんじゃないかな。
617 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 09:01:08.87
>>613 足利義満の花の御所は二町で歴代幕府将軍の御所としては最も狭い
しかし当時の御所は小さく一町しかなかったためこれより広かった
豊臣秀吉の聚楽第は花の御所より広い
しかし、聚楽第も、平安時代の平安宮(当時は荒廃して内野と呼ばれていた)の一角に
建てられていたにすぎず、結局当時の御所が狭かったということだ
>>608 清和源氏の中の河内源氏で良いんじゃね。
619 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 10:28:36.29
>>608 当時、六波羅家は太政大臣にまで登り平氏を代表する家柄だったから
桓武平氏六波羅家を平家と呼び換えていたわけだが
当時の武家源氏(清和源氏河内家)は源氏を代表する家ではなかったからね
源氏の氏長者は公家源氏である村上源氏(久我・土御門など)が独占してた
613へのレス、ありがとうございます
当時の御所はそんなに狭かったのですか?江戸時代後期に再建されたという現在の
京都御所はどれくらいでしょうか?毎年行ってますが、結構広いとは思いますが。
あと、花の御所が歴代将軍の御所として最も狭いというのは意外だし、信じられません。
事実なら他の将軍御所はもっと有名になったり、いろんな話に出てくるのではないでしょうか?
621 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 11:28:48.81
>>613 昭和天皇は「自分の身はどうなってもいいから(A級戦犯として処刑されてもいいから)
国民を救ってほしい」とGHQに話したとかで国民から讃えられたが
どっかの臣籍降下した宮さんは「敗戦になって私の身の上はどうなるのか」と言ったらしいから
国民感情としては厳しいものがあったはず。
国の代表として皇族を税金で養っているのは国難の際に真っ先に国民のために
命を投げ出すためだろう(国会議員や公務員にも言えるが)。
お城では江戸期に造られた徳川の居城、江戸城が一番でかかったと思うのですが、
お城以外の統治者、貴族、武士の居館や政務所でかなり大きかったと
思われるのはどこですか?
625 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 16:46:23.82
>>620 室町時代の天皇の御所は一町(約120メートル四方)でした。
現在の京都御所の原型は光厳天皇の土御門東洞院内裏ですが、
当初は紫宸殿と清涼殿が一つの建物に収まった小規模なものでした。
戦乱の世が終わると、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が内裏を献上して徐々に拡張。
徳川秀忠の五女徳川和子の入内の際に大幅に拡張されました。
幕末には天皇権威の回復により、平安京と同じ大きさの紫宸殿が再建されます。
安政2年の再建による現在の京都御所は東西約250メートル、南北約460メートルです。
>>624 奈良の長屋王邸宅跡とか結構デカかったよね
秀吉が建てた大阪城は信長の安土城を凌ぐと言われたらしいし、家康が建てた江戸城は
秀吉の大阪城を凌ぐと言われたらしい(史実かどうかは知りません)
でも、最近歴史秘話ヒストリアを見たら、家康が建てた名古屋城が一番でかかったとか
言ってたような
>>624 江戸の大名屋敷とか大きかったんじゃないかしら。
中尊寺一帯ってのもあるし、比較は難しいんじゃね。
>>617 源頼朝の政所はもっと小さかったような気がします。
>歴史秘話ヒストリア
あの番組は日本城郭体系に載ってある三十年前の記述を
つい最近の発掘調査で明らかになったかのように演出しているよ
視聴者に媚びるつくりはNHKに限らんけど
632 :
日本@名無史さん:2012/11/18(日) 00:12:36.50
高倉上皇があの時期に亡くなってしまったのは、平家にとって痛手だったでしょうか?
勿論、痛手。
清盛の構想では後白河院を幽閉した後、高倉院に院政を執らせて幼少の安徳天皇の後ろ盾にするつもりだったのだから。
大分前だけど、昭和の妖怪と言われた岸元首相が
「明治天皇はすり替えられた」とか言ってたって書かれてた。
これって、剛椀と言われた小沢元代表が「天皇の祖先は韓国から来た」
「天皇陵を発掘したら解るが宮内庁が許可しない」
とか言ったのと同じようなことですね
無理に証明しなくても、あの細い目を見てると一見はなんとかなんだけどね。
馬鹿な二件のスレ荒らしの主張は発言を歪曲しています。
岸信介の場合は、「出身地の近くに天皇を自称する狂人がいる。
実際の天皇も虚飾を剥げば似た者ではないか」というもので、
単なる天皇の非神聖視です。
小沢も同様で、しかも朝鮮半島の国家としての衰退は李朝以降顕著になったもので、それ以前は表面化していません。
古代に交流があったとしても問題視はできません。
635ですが、誤解があったらいけないので補足します。
それぞれの発言の真偽は分かりませんが、時の有力政治家が
天皇の正統性を否定するような発言をした、という意味において同じですね、
ということです。
個人的に皇室を貶める意図は全くありません。
どちらの発言も正統性は否定していないと思うが。
岸の発言は単に、神聖視を止めたらどうなるだろうということ。
そして古代の朝鮮は現在と比較し少しはマシな部分もあった。古代に朝鮮と付き合いがあっても全く問題ではない。
これを皇室を貶める発言と解釈したことに問題がある。
テロリストしか民族の英雄がいない国って
千年前に血が混じったという理由で自民族認定して呼び込みたがるんだなぁ…
誇るべき文化も歴史もない国民って侘しいね
われは知る、テロリストのかなしき、かなしき心を。
三十年くらい前は将軍は源氏でなければなれない、
秀吉は源氏でないので将軍になれなかった、と
まことしやかに言われていたけど、結局この考え方は
正しかったんですか?
今の学説的にはどうなんでしょう?
今日の日本史の授業で思ったことなんですが
糸割符制度はポルトガル商人の中国産生糸の利益独占を排除しようとしただけで
中国→ポルトガル→日本 っていう輸入ルートは変わらなかったんですか?
そうなると
鎖国体制においても
中国産生糸をポルトガル経由でしか輸入できなかったために
ポルトガル船の来航禁止が スペインよりも遅かった理由が何となくこれっぽいと思うんですが?
取り合えず聞きたいことは
糸割符制度後も中国産生糸の輸入ルートは ポルトガル経由だったのか?です!!
>>642 単に摂政関白の方が偉い
豊臣を摂関家の一つに入れてもらえるくらいなら征夷大将軍程度のものは容易い
織田信長も幕府を開いていない
足利義昭は当時権力を喪失した世捨て人となっており、将軍の権威が低かった
など、単に豊臣秀吉の好みだったように思います。
>>643 生糸の生産国が近隣で主なものが中国でしたので、中国から購入するのが普通だったんです。
持ってくる商人は、ポルトガル商人だけでなく中国の貿易商やオランダの商人にも後に認められました。
戦国期まで衰退しており織物に使えなかった日本の絹は、鎖国期に復興し幕末期には輸出産業へ変わり、
糸割符は江戸中期には有名無実化しました。
家康は関白よりも将軍を望んだのか?あるいは関白を望んだがしてもらえなかったのか?
でも家康は死後に東照大権現っていう神号を与えられてるから、
生前に望めば関白にしてもらえた可能性高くないかな?
家康の場合は、秀吉とは別路線、という意味合いが多かろう。
また頼朝に私淑してたこともあって、武家の棟梁という形が
長期支配政権にはあうということをも意識はしてたんだろなあ。
ということは
糸割符制度以降もポルトガル経由の生糸輸入が続いたということで良いでしょうか?
生前に太政大臣まで登りつめた人と生前は将軍だったけど、死後に神号を贈られた人はどちらが格上になるのでしょうか?
秀吉と家康の比較というわけじゃなく、一般論でお願いします。
死後に神様扱いされた人はちょくちょくいるけど、具体的に神号を贈られた人って
そんなにいないですよね。
>>647 1639年にポルトガル線の来航は禁止されています。そこでポルトガルとの付き合いはお終い。
以後は明・清の貿易商とオランダ船頼みになります。
>>648 豊臣秀吉は豊国大明神です。死後徳川家らによって神社は荒野に変えさせられましたが。
これも単純な優劣比較を避けるためか、徳川家康は東照大権現となりました。
多神教の場合神に上下はあまりつけないものだと思っています。つけると一番上を拝めばよいわけですから、一神教に教理が接近します。
2009年
「小泉に騙された!言ってることはよくわからんが、民主党なら、この閉塞的な社会を打破してくれそう。」
↓
2012年
「民主に騙された!言ってることはよくわからんが、橋下なら、この閉塞的な社会を打破してくそう。」
↓
2016年
「維新に騙された!言ってることはよくわからんが、今度出来る新党なら、〜〜〜」
↓
2020年
「新党に騙された!言ってることはよくわからんが、今度の新・新党なら、〜」
↓
以下無限ループ
649さんへ
あくまでも秀吉と家康の比較ではなく、648の条件ではどうでしょう?
>>648 格上、という定義による。
一般論での格上ってのは、どっちがすごい?
ってぐらいの意味かな。
だとしたら香川もすごいがダルもすごい、って感じだよ。
比較の対象がしようがない。
生前の官位の格付けなら、秀吉、信長、家康の順番?
>>648 征夷大将軍というのは特殊だから純粋な比較はできないよ
それとは別に左大臣や右大臣、内大臣となるケースも多かった
ごく稀に将軍を引退してからバランス上の問題で太政大臣となるケースもあった
足利義満以降はとくにそうらしいが、人によっては大臣まで登る前に亡くなることもある
655 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 13:48:44.49
摂政だけが残り、関白がなくなったのは何故ですか?
>>648 征夷大将軍単独というのはほとんどないから
朝廷での官位の兼務がどうだったかによる
徳川家康は武家官位だが生前に太政大臣になっている
>>655 王政復古の大号令により律令制度の昔に立ち返って摂政も関白もいったんは廃止されました。
しかし、明治22年に発令された旧皇室典範で、天皇が成人に満たない場合、
身体や精神に重患があり国事行為が行えない対策として、皇族摂政を置くことができるとされました。
皇族摂政につくことができるのは、皇太子・皇太孫・親王・王・皇后・皇太后・内親王・女王。
現在の皇室典範にも皇族摂政の記載があります(摂政の範囲は同じ)
生前に将軍からさらに格上の大政大臣になってるのに、そっちの方はほとんど知られていない、
地味な扱いになってるということは、結局当時(江戸時代)は実質的に将軍の方が
格上だという事になるんでしょうか?
>>658 家康の天下を決定づけたのが征夷大将軍という地位だからでしょう。
家康が太政大臣になったのは、秀忠に将軍を譲って立場上隠居し、
更に豊臣秀頼を滅ぼした後の短期間。
家康自身が太政大臣という地位を利用して何かをしたわけではない。
楯突くわけではないですが、秀吉の天下を知らしめたのは関白になった時だと思います。
でも、その後に大政大臣になった事はよく知られてますね。
足利義満が大政大臣になった事も家康よりかはまだまだ知られてますね。
家康はすごいメジャーな歴史人物なのに、最後大政大臣にまで登りつめたって事が
ここまで知られていないのは不自然さを感じます。
って言うか、家康が太政大臣に任じられたのは既に重篤で回復の見込みが無くなりつつあった段階なのだが。
寿命で数カ月の在任で終わることを前提とした上で長年の功績に対する名誉として授けただけ。
>>660 えっと、単におたくが知らなかったというだけでは?
知ってる人は知っている、としか言いようがない。
あと、足利義満や豊臣秀吉は太政大臣となったことで公家社会のナンバー1にもなったわけだけど、
徳川時代は武家官位なので大臣になったからと言って公家社会とは無関係という理由もある。
本能寺の変の黒幕は家康ですか?
諸説ありますがどれも否定したほうが良いようなものです。
信長が軽武装で京都にいたので、下克上の機会として明智光秀が刹那的にやっちゃった説が最も有力です。
あと少しは可能性がありそうなのが、長曽我部和睦案を踏みにじられた斎藤利三(明智光秀の副官)が暴走したという説。
ほとんど無さそうだが少しは考慮してもよいかな的な説に、朝廷無礼討ち説や足利義昭復讐説や上杉氏死亡寸前の反撃説などがあります。
でもこれらは動機はあっても軍などを動かす力がないんです。
一番ないのが「最終利益を得たものが犯人なんだ、証拠はあとで集めればよい、Q.E.D. 証明終了」で豊臣秀吉説を出す人。
毛利が和睦したから駆けつけることが出来たのであって、相手の行動に依存する最終利益者は犯人とはいえない。
それで家康? 本能寺の変から領地に帰還するまでは死の淵からの逃避行でしたよ。
665 :
日本@名無史さん:2012/11/23(金) 03:33:05.49
承久の乱で敗北した結果、後鳥羽院は隠岐で17年間、順徳院は佐渡で21年間、暮らすことになりますが
その間、どのように生活していたのでしょうか?
なにもせず、一日中ボーっとしていたというのでは、精神がもたないので
なにか仕事か趣味を見つけて過ごしていたと思うのですが。
崇徳上皇は、何もしてはいけないというので、ひたすら写経をしてどこかの寺に収めてもらおうとしたら、
後白河上皇に全てつき返されて、
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」
と激しい恨み言を宣言して亡くなったと伝えられています。事実かは分かりませんが。
配流中の和歌は、「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」
後鳥羽上皇は、「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁となることがあれば、この世に災いをなすだろう。
我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。
もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」と文書に認めて亡くなりました。
配流中の和歌は、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」
ということで写経や和歌あたりの生活ということになります。
>>664 たぶん、最近テレビとかでも取り上げられてる子孫説のことじゃないかな。
信長が家康を暗殺しようと光秀に指示、光秀が家康とつるんで信長を殺した
というもの。光秀家康共謀説ってとこかな。
藤本説で黒幕説が成立しないのは、いつ相談したか、漏洩をどう防いだか
という2点なんだけど、光秀家康は例の饗応の時に会ってるし直接会談ということで
漏洩も防げる。
また信長のみならず家康も軽武装で京周辺にいたこと
まさに京に向かう当日の朝起きたこと、出発前に戦準備を命じていたこと
などいろいろ説明できる。
辻妻あわせとしてはなかなかで、だからといって正しいとか主張するわけではなく
なかなかネタとして面白いという話ですけどね。
かつて小泉フィーバーを越えるほど、政治指導者や君主、領主が市民や領民から熱烈に支持されたことって、
長い長い日本の歴史上ありましたか?
民主に政権交代した直後は小泉フィーバー以上に熱烈に支持されてたんじゃね
いやいや、政権交代直後でも小泉フィーバーには及ばんだろう
良くも悪くも、小泉フィーバーはちょっとありえん程のフィーバー振りだったよ
>>668 歴代内閣で言うと、大隈重信、原敬、近衛文麿は国民的な人気が高かったそうだ。
また、戦国時代、北条氏、武田氏、織田氏は領民から大変慕われていたそうだ。
摂政と関白では、幼少の天皇の代理である摂政よりも成人天皇の代理である関白の方が
格上っぽいのに、実際は摂政の方が格上なんですよね
何でですか?
また、関白を譲位した人を太閤と呼んだらしいですが、太閤秀吉以外に太閤って聞きません
他にも太閤と呼ばれた人はいるのですか?いれば、例えば誰ですか?
673 :
日本@名無史さん:2012/11/24(土) 09:29:36.07
太閤といえば、豊臣秀吉が先ず浮かぶが
これは、秀吉=太閤と喧伝され続けてきた経緯があるからだ。
日本史に興味のある者であるなら、秀吉以外に太閤と呼ばれた人物はいないのか?
自らの手で調べるであろうから、当然、知ることになる。
例えば、平安時代、「御堂関白記」で著名な藤原道長は
摂政や太政大臣の経歴はあるものの、関白の経歴がないにも関わらず
太閤と呼ばれていた。
小野宮右大臣藤原実資日記(小右記)にその旨が記載されている。
ということで、必ずしも関白の経歴のない者でも太閤といわれていたことを知ることが出来る。
「&#33708;玖波集」を撰集した南北朝時代の二條良基は
摂政や関白の経歴があるが、彼も「五代帝王物語」の
記載により太閤と称されていたことがわかる。
因みに、秀吉は関白は辞任したものの、太政大臣は薨去まで辞任しておらず
関白就任以降、薨去まで公卿の首座である一座を保った。
674 :
日本@名無史さん:2012/11/24(土) 09:46:27.28
准摂政という地位があった。
「摂政に准(なぞら)ふ。」ということである。
この地位は、摂政を辞任し、
すかさず関白に就任した際、待遇として
准摂政(摂政に准ふ)にしたということである。
藤原道長の子、藤原頼通がその例である。
一方、摂政の経歴はないものの、関白の地位にありながら
准摂政に遇されるといった藤原実頼の例もある。
彼はその後、摂政に就任した。
このように、准摂政といった地位を介して
関白より摂政の方が上位であることがわかる。
>>672 「天皇が幼少または病弱などのために大権を全面的に代行する摂政とは異なり、関白の場合は
最終的な決裁者はあくまでも天皇である。」という事じゃないの。
wikipediaだから信じるも信じないもあなた次第です。
野田さんは衆院解散を宣言しましたが、来月の選挙で新しい与党や内閣が決定するまでは
暫定的に民主党、野田内閣の統治が続きます。
大政奉還で統治権を朝廷に返還した後、王政復古の大号令で明治政府が正式に誕生するまでの
期間は暫定的に江戸幕府の統治下にあったと言う解釈でいいのですか?
明治初期の廃仏毀釈は天皇(神道)の権威を強める以外に何か意図があったのでしょうか?
歴代の天皇にも仏教徒は多いし、神仏習合の長い歴史があった日本でいきなり
廃仏毀釈を行うのは国民の反発を強める気がするし、天皇自身も良い気がしなかったと
思うのですが、その辺はどうなんでしょうか?
昭和初期の数年間は極端な皇国史観教育がなされ、当時の子供たちは
天皇=現人神、日本=神国と思い込んでいたようだけど、当時の
青年や大人、老人たちはどうだったんでしょうか?
また、こういう極端な皇国史観教育が行われていること自体に対して
どんな見解を持っていたのでしょうか?
大正末期生れだった祖母は「天皇陛下を直に見たら目が潰れる」と
言われていたと言ってました。
そういう教育を受けていた当時の子供はともかく、青年や大人はそういう
教育や風潮に対してどう思っていたのでしょうか?
>>676 大政奉還以後王政復古までの日本は、朝廷の統治下にあるが旧幕府に委任されている状態です。
幕府は国家の統治権を朝廷に返して名義上消滅しまったのですから、幕府は名義上存在しません。
権利が朝廷に返還されていたから、王政復古(天皇による直接統治宣言)が成立したわけです。
>>677 当時の寺院は住民登録など行政の末端部でもありました。そして葬儀時には必ず村の僧が実行し戒名代など金品も取りました。
現代の嫌われ行政(手数料・煩雑手続きの強要)を具現する存在であったわけです。
だから、壊してしまえと提唱されると乗ってくる人が大勢いたわけです。
>>678 天皇にかぎらず江戸時代の宿屋の記録を見ると、
摂関家の人が宿に泊まって風呂に入ったら貴人の湯として小分け飲用販売されたり、天魔か神の類として扱われたりしています。
おそらく近代立憲君主としての尊敬より先に、そのような貴人信仰の一つとして世間に流布され、浸透していったのでは無いかと予想します。
つまり、最初から立憲君主制国家としての国民と自覚させることは難しいと判断され、
神の統治する神権国家の臣民として自覚させることの方が(特に成人以上の国民へは)容易であると判断されたわけです。
青年や大人の方が神への崇拝に酔ったわけです。
>>679 1行目と2行目は矛盾する気がします。
幕府が大政奉還で統治権を返上しているのに、王政復古までの期間は
また朝廷から幕府へ統治権が委任されているのですか?
もともと鎌倉以降長きに渡って、朝廷から幕府(武家)へ統治権が委任されてる
状態ですよね
今、日本史関係の番組で
色んな「歴史家」がコメンテーターとして出てきてますけど
みんなちゃんとした見識のある人たちなの?
「こいつは怪しい」って人はいないの?井沢元彦以外で
>>680 大政奉還の意味は、統治権の朝廷への返上です。
これを認めていますから幕府は統治権がありませんし、幕府自体も名義上存在しません。
しかし代わりのものが未だないということで、暫定的に旧幕府に委任されたということです。
矛盾は感じませんし、統治権を朝廷が保持していたから王政復古が成立したわけです。
コメンテーターの発言が怪しいといったら、論敵から見れば全員怪しいに決っています。
発言内容が大抵嘘といえば星亮一とか居ますが、その中では井沢はまだマシなほうと思われます。
>>675 摂関政治であっても、天皇が政治的無力であった訳じゃないからな。
それこそ幼少だったり病弱であったとしたら別の意味で無力の状態が発生する訳で。
_____________
|| |
|| ちょっと待て . . .|
|| . |
|| その無所属は . |
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'"´: : : : : : : : :`丶 . 帰化鮮人|
':.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ______|
/.::.::./.::.::.::.:j.::.::.:|.:ム;ヘ.::.:ハ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,'.::.::.::i.::.::.::.:/|.::.:: l/ `|.::./7
:.::.::.::j:|.:!.:_:/´|_.::_」 くV <|
|:ハ_::_ル'´ /⌒丶 j//V|
|:::::::::i x==ミ _ 〈/.:|.::|
|:::::::::i:'" ´ ゙̄Y}!.::.l.::|
八:::::::圦 、' _ "/_ノ.::,'.::j
/⌒ヽ::::ト{\ _,.ィ__/.::/l:./
/ 丶∧::| 丶 `ニ´ 彡// :厶|∧
{/ 丶ヘ| ノ / |:/ (こ ハ
/ }ヽ、 ∧ / 'x┴〈 }_ゝ、
/ \∨ ∨ / ニW } )
686 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 00:24:22.55
治承・寿永の乱の際、朝廷内で何回か和睦してはどうかという動きがあったそうですが
結局、平家が滅亡するまで戦争が続いたのはどうしてでしょうか?
・上皇は微弱な軍しか持っていなかった
・鎌倉方に平氏を滅亡させる意思があった
平家物語には、梶原景時が源義経の邪魔をしたと書いてありますが、
あれは源義経ヒーロー伝説の引き立て役にしてあるだけで、朝廷や源頼朝の意思を代表して三種の神器の帰還を主張しているに過ぎません。
それに、和睦したいならわざわざ源範頼を山陽道に遠征させ九州に入らせておく、なんてしないわけで、
源氏側には追い詰めて平氏を全滅させる意思はあったことでしょう。
ただ、まず包囲し降伏させて安徳天皇や三種の神器などを手に入れるはずが、その前に戦いになった。
酷い不手際です。
もう少し直接的に朝廷側の和睦というのは
神器をなんとしてでも取り戻したかった、というのはあるだろう。
朝廷側は別に武士の争いには興味がないということもある。
極論だが。
平家が滅亡したのも、源氏の中では最優先は朝廷に貸しを
作る意味でも神器の奪還だったんだが、頼朝と義経の間で
そのあたりの最優先度が異なってたことが大きかろう。
頼朝から見ると義経はアホかになるし
義経から見ると戦での最優先は相手の全滅で
自分が一番正しいことをしたことになる。
何度かの交渉の結果平家は一番最悪の手順で
最悪最強の相手にぶちあたってしまったことだろう。
>>687>>688 一の谷合戦直前の後白河による和平工作は平氏を油断させて源氏を勝たせるための策略説もあり
本当に後白河が三種の神器と安徳天皇を返せば平家追討を放棄して平家一門のキ帰還を認めたとは言い切れない
都ではすでに三種の神器なしで5歳の後鳥羽天皇が即位しており、朝廷の実権を握った後白河法皇が
平氏一門を解官・所領没収しており、今更平氏が都へ戻っても官職なく、
平氏を外戚とする安徳天皇も出家して静かに余生を送るのが関の山。
現に、安徳天皇を西国の海に沈めた源義経に後白河法皇は激怒するどころか、官位を与えて優遇している(頼朝との確執の原因となる)。
岸元首相が明治天皇のすり替えを公言したり、小沢が天皇家の起源が朝鮮だと言ったりって話があったけど、
猪瀬直樹の「ミカドの肖像」を読んだら、猪瀬は孝明天皇毒殺説を事実として書いていました。
著名人によるこういう発言や書き物って多いんですね
691 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 01:19:46.50
東国武士団という用語がありますが、
中央武士団や西国武士団というのはないですよね。
東国の武士は他の地域の武士と違う特色があったのでしょうか?
692 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 03:40:57.45
>>689 後白河院は確か倶利伽羅峠の戦いの前の時期にも、平家に和睦を勧めていなかったけ?
その時は、まさか負けるとは思っていなかったから宗盛は断ったけれども。
>>691 坂東武者は野蛮でムチャクチャ強いと言われていた。
694 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 08:47:04.26
>>692 倶利伽羅峠の頃は後白河は危うく平家一門の西国落ちに連行されるところで、
後白河は一日も早い源氏軍の入京を望んでたでしょ
>>691 他の地域にも武士たちがいなかったわけではないが
関東武士はたびたび団結して朝廷に対して独自行動をとった
(朝廷に対する反乱の拠点となった)
ためにそのような呼称で呼ばれます
>>690 孝明天皇に関しては東大のちゃんとした教授が
認めてるような発言をしてこないだびっくりした。
本じゃなくて口頭だけどね。
天皇に関する陰謀論やとんでも学説を公言した著名人が他にいれば教えて下さい。
比較的最近のものが良いですが。元阿久根市長も今の天皇家はどこかの馬の骨とか
言ってましたよね。公務員厚遇への発言までは賛成だったけど。
今城と言ってぱっと思い浮かべるやつは戦国時代に出来始めたそうですが
室町時代頃までの城は一体どういう構造をしていたんですか?平屋?
守護?地頭?なんかは戦国時代の大名のように城持ちというわけではなかった?
その辺りのことを教えて下さい。
手持ちの資料をスキャンする
↓
ロダを探して加工してからウプ
簡単に済ましても2、30分はかかるんだよね
たった一人の希望のために社会人が平日の夜に時間を割いても「ありがとう」という一言レスすらない
十代の子供とは時間の価値観が違うといえばそれまでだが、この手の質問は三戦板でやって欲しいもんだ
鎌倉、室町の武士は普通は領地に屋敷を持っていました。城が居住場所になるのは戦乱が激化してからです。
といっても、鎌倉御家人の地元での屋敷は周囲に環濠をめぐらしたり防御のことを考えている場合が多く、
これが発展して城になったのだ、と言われたなら、そうかもねと応じることになりますが。
守護は領地に大きい屋敷を持っていました。花の御所の小さいものと考えれば良いでしょう。
703 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 00:32:30.25
田沼意次はワイロ政治家として批判されていますが、当時でも違法だったのでしょうか?
近代よりも前だと、贈り物をもらった見返りに便宜を図るというのは当たり前という時代だったと思うのですが。
>>702 屋敷自体がメイン拠点となっていたということでしょうか
屋敷が防御施設を兼ねているのは初めて知りました
回答ありがとうございました
705 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 00:44:56.58
>>694 wikipediaですけれども平宗盛のページに
源頼朝は後白河法皇に「全く謀叛の心なし。偏に君の御敵を伐たんためなり。
而れども若し平家を滅亡せらるべからずば、古昔の如く、源氏平氏相並び、
召し使ふべきなり」と密奏を行う。
戦乱の長期化は荘園領主にとって年貢納入の激減を意味したため、
後白河法皇は宗盛に和平を打診した。宗盛は後白河法皇が頼朝と独自に交渉したことを咎めず、
その和平案にも「この儀尤も然るべし」と一定の理解を示しながら、
「我が子孫、一人と雖も生き残らば、骸を頼朝の前に曝すべし」という清盛の遺言を盾に、
「勅命たりと雖も、請け申し難きものなり」と拒否している
『玉葉』養和元年8月1日条
ということが書かれているので692はこのことを言っているのでは?
706 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 08:42:06.58
>>705 倶利伽羅峠(平氏と源義仲の戦い)ではなく頼朝挙兵の前後ね
まだキは平氏が制圧・安徳天皇も三種の神器も都にあった頃のことで
平氏の力が強くなり過ぎたことに懸念を抱く後白河法皇が(平氏に幽閉までされた)
源氏もこれから登用していこうと合点して源氏を攻めるな、と宗盛に言ってやったことでしょう。
法皇が平氏と和睦しようとしたのではなく、法皇が源氏と和睦しようとした。
(頼朝は平治の乱で朝敵として流罪になっており、この時点でも罪人のままだった)
707 :
日本@名無史さん:2012/11/30(金) 21:32:54.99
家康、秀吉の他に正式な神号を朝廷から贈られた人は誰ですか?
後の人が神として奉れば日本で言う神様なので、あまり意味のないことかも。
朝廷が正式に認定した人は、古代の横死流刑死した天皇皇族とか、幕末の尊王攘夷派死者とか色々いますが、
別に朝廷が認定しなくても、その後各地で地元の偉人とされる人は社に祀られたわけですから。
>>709 北野天神(菅原道真)987年、一条天皇が神号を贈る
建勲天神(織田信長)1869年、明治天皇が神号を贈る
豊国大明神(豊臣秀吉)は1615年の大坂の役のあと徳川家康によって神号が廃止されましたが
明治維新後復活しています
712 :
日本@名無史さん:2012/12/03(月) 17:20:41.39
488 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] : 投稿日:2012/12/03 09:26:59ID:RC/vqUba0 [1/1回(PC)]
名前:可愛い奥様[] 投稿日:2012/12/03(月) 09:18:26.68 ID:Qt45Fz4s0
16 +4:名無しさん@13周年 ::2012/12/03(月) 02:18:01.01 ID: xm0FnEtg0 (1)
500 名前: イエネコ(西日本)[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 00:21:44.74 ID:9Ejy1hpx0 [2/2]
道路保全技術センター wikiより
財団法人道路保全技術センター(どうろほぜんぎじゅつセンター、英: Road Management Technology Center、現在は解散)は、
日本の国土交通省所管の財団法人。
道路および道路構造物の保全や調査研究、道路管理システムの提供、技術指導や資格制度の運営などを行っていた。
行政刷新会議による2010年5月の事業仕分けにより、2011年3月31日をもって解散[1]、同年11月30日付で清算手続きが終結した。
ちょw
道路保全技術センター
事業
・調査・研究および開発技術の提供
・レーダーを用いた路面下空洞探査、道路の防災管理、トンネルの保全、道路標識や路上工事削減に関する調査・研究などを行った。
トンネルの保全・・・
>行政刷新会議による2010年5月の事業仕分けにより、2011年3月31日をもって解散[1]、同年11月30日付で清算手続きが終結した。
>>711 無知で申し訳ないですが、朝廷から神号を送られたのはその4名だけなのでしょうか?
714 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 00:49:16.17
明治維新の時、古代から幕末までの皇室と尊皇攘夷派の著名非業死者は、根こそぎ天皇から神と認定されてますが。
神号に関するレス、ありがとうm(__)m
ところで、朝廷が与えた豊国大明神の神号を徳川が勝手に
取り消すことができたのですか?それとも、朝廷も納得済みだったのですか?
朝廷は納得はしてませんね。幕府は単に神号を除き仏とすることを通知し、関係者から全てを奪い取り、別の人間に分け与えていった。
朝廷が承認したものではなかったから、幕府が倒れるとあっさり元の神号で神社が建った。
贈られた5人の事情が全然違うのが面白いね。
こんなに前例主義の国なのに。
719 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 23:08:34.85
何故室町幕府は徳政令を出すことが出来たのでしょうか?倉や寺社などの高利貸は幕府から見ても社会悪だったのでしょうか?
720 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 23:24:31.46
以前にここで、出雲の国譲りについて質問したところ、国譲りは天照の子孫が日本を
統治することを正当化する為だとのことでした。
しかし、オオクニヌシノミコトはスサノオの子孫ですね。スサノオは天照の弟。天皇家でも兄弟継承は多いのですから、
オオクニノシが統治してても良いような気がするんですが、誰か説明してくださいませんか?
新田(徳川)と足利の関係を参考にすると分かりやすいかも。
新田《天照》・足利《スサノオ》は源義国の子で兄弟なのだから、
新田に系譜を繋げた徳川氏《天皇家》の時代に
喜連川氏《オオクニヌシ》が統治しても良いではないか、
と言ってるようなもんです。
あくまでイメージですけどw
>>720 スサノオの子孫が治めても良いからこそ、国譲りによって天皇家に統治権が移った事を示して正当化するのだ。
>>719 借金が膨らみすぎてどうにもならなかったためです。
現在も、「自己破産」という制度がありますが、同様の踏み倒しです。
鎌倉幕府も徳政令を出しています。
高利貸は日本の長い歴史であまりいいイメージの職業ではありませんでしたね。
現在、銀行員といえばイメージいいですが、高利貸は銀行の前身です。
725 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 20:26:36.77
>>719 >>724 なるほど、現在の「自己破産」とは、徳政令の制度化と言えそうですね。
室町幕府は、土倉酒屋役として業者に課税して幕政の財源としていましたね。
土倉は、室町幕府将軍代替わりの際の権力の空白期間に、襲撃の対象になりました。
例えば、1428年土民が徳政令の発布を求めた「正長の土一揆」(義持死去)とか、
1441年嘉吉の徳政一揆(義教暗殺)があります。
726 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 21:42:34.49
大国主は一方とは限りません。
字義からは偉大なる国主/大国の主=大王陛下。
となり、いわば天皇陛下と同じ意味あい。
天皇がただの一方とは誰も思わないのと同様に、
その地位は世襲されたと考えるのが妥当。
素戔嗚尊は初代の大国主で在られたと考えるのがこれまた妥当かと。
また、大国主を別な言葉(言語)で言い換えると「オホナムチ/大己貴」となります。
ちなみに、大国主命/大己貴命のベストパートナー、参謀長の少彦名命/少名毘古那神さまの別な表記に
小己貴命というのが稀に使われます(祝詞文中とか)
727 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 22:21:25.50
楽市楽座は経済政策ではなく当時座を支配してた
公家とか寺社勢力の力を弱めるものだったのでしょうか?
728 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 22:31:38.50
(大己貴命と多紀理毘売命の御子が)
始祖。「天火明命/彦火明命」。(ホアカリ)。
またの御名を「天のホホデミの命」(賀茂別雷大神と同神)
/御神号は天照国照彦天火明命と奉り、天照御魂大神とも奉る。
(風土記残欠には天孫降臨伝説が有ります)
と天道比売命(狭依媛命)との御子が
二世、「天香山命」。(又の名を高倉下命)。
后の穂屋出姫命との御子が
三世、「天村雲命」(天叢雲剣(草薙剣)に名前が瓜二つ)。
又の名を建位起手命(五十猛(イタテ)命?)。叉の名を「天押穂命」
(いずれもどこかで聞いたような・・・)
その御子に倭宿禰命。(椎根津彦命/宇豆彦命)
大和国造祖。・・・その御名からは原初のヤマトの王者であったか。
この方は神武記では明石海峡に忽然と亀に乗って現れて神武一行を水先案内なさった事になっています。(サルタヒコやヤタガラスのキャラに被る)
・・・
閑話休題。
サルタヒコさまは海神で船玉神の神格もおありのようです
(神戸市の生田神社の境内社、大海(わだつみ)神社は猿田彦神を祀る)
729 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 23:27:02.49
「解放令一揆について」
1、何故 起きたのか?
2、解放令を出したのは政府なのに、なぜ部落が標的にされたのか?
3、部落民が多数殺戮されたり、家を焼かれたり、したのに一揆を起こした方は何故、お咎めなしなのか?
よろしく、お願いします。
借金棒引きの経済学 現代の徳政令 北村龍行 集英社新書
「貿易は、中国の元と貿易しました」
「元寇は、モンゴルの元が攻めて来ました」
とNHKの教育テレビの同じ番組内で言ってたのですが、
歴史的にはこれが普通の認識なのでしょうか?
日本史における憲法や法律、規律、国家方針の類で一番重要なものはどれでしょうか?
17条の憲法とか五箇条の御誓文あたりですかね
>>727 それもまた経済封鎖みたいな側面はあるから
なかなか分離は難しいところ。
ただ盲目的に、信長は経済重視主義者だった、みたいな
理解ではこの時代を正確に把握してることにはならない
という意味では大事なところだわね。
>>732 現代につながるという意味では大戦後の平和憲法かな。
殺人はよくないこと、を規定しようとした生類憐みの令
なんかも解釈次第では重要度は高いかもね。
>>732 十七条の憲法は推古朝にあったかどうかが疑問視されているし
五箇条の御誓文もこれからこうしたいという理想を述べるにとどまっている
やはり、幕末まで一応朝廷の統制法であった「律令」
そして幕府が定めた武家の統制法である「御成敗式目」「武家諸法度」
明治以降は「大日本帝国憲法」と戦後の「日本国憲法」
これらは司法・立法・行政がまとめられたもので
国民生活に直結する最も重要なものです
一番かどうかはさておき、教育勅語はかなり重要な役割を担ったと思う
明治期においては大日本帝国憲法よりも実質的な価値があったんではなかろうか?
昭和天皇は敗戦後の新国家建設の詔書で、言いたいことは全て五箇条の御誓文の
中に書かれている、という旨の事を言われているんだよね
だから五箇条の御誓文はかなり重要でしょう
近代国家日本の要になる指針だ
738 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 06:30:16.34
近代国家と言っても、敗戦するまでは封建制国家が正解でしょう。
え。
明治以降誰がどこに封ぜられてたの?
教育、軍事、外交、政治など広く影響が及んだ点では廃藩置県とか
五箇条の御誓文に1票
17条件憲法に1票
昔何かの歴史討論番組で、誰かが「日本は国体の変更がなかったが、あえて何度かの変更があったとすれば
その一度は御成敗式目の制定」という主旨の事を言ってました。
御成敗式目の制定ってそこまで大きなことなんですか?
武家の法と呼ばれたように朝廷の権力の下で制定、施工されたものでないから。
将門や奥州藤原氏でもそこまではしていない。
745 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 16:09:13.13
終戦以前まで封建国家び1票
746 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 16:11:48.12
終戦まで天皇は神から言えば、遠からず?
でも御成敗式目ってマイナー感ない?他の有名な法令や条例に比べて
もちろん、この板にくるような歴史好きならみんな知ってるけどさ、一般的に見て
病気の大正天皇に代わり、皇太子だった昭和天皇が摂政に就きました
しかし、病気とは言え大正天皇は当然成人であり、それまで政務をされていたわけで、
この場合昭和天皇は関白に就くのが本来の形ではないでしょうか?
明治期に摂政も関白も廃止されてましたが、なぜ関白ではなく摂政が復活し、
昭和天皇は摂政に就く事になったのでしょうか?
>>748 明治期に天皇親政が決められましたので、
成人天皇を補佐する関白は不要になったからです。
天皇親政とはいっても天皇が未成年だったり病気になっては
国事行為ができないので摂政だけが残りました。
日本の歴史上、摂政には神功皇后や聖徳太子などの皇族が就任した例があるのに対して
(あくまでも記紀上での話ですが)
関白は藤原氏・豊臣氏など臣下しか任じられたことがないという特徴もあります。
750 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 22:22:01.51
封建制と君主制とは違うのですか?
ウイッキーより
天皇主権(てんのうしゅけん)とは、大日本帝国憲法において、天皇が保持する主権。
西洋の君主主権を日本に適用した内容である。
天皇主権を中心として構成された憲法学説を天皇主体説という
立憲君主制や絶対王政は君主制だけど封建制ではない。
752 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 00:08:10.35
君しつこいねw
封建制度でggrks
754 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 03:09:24.52
あの、まじ質問ですが、せんずりって、平安時代の人やってましたか?
戦国時代の人たちもやってたんですかね?
やってました
756 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 03:55:57.92
徳川一門の人が、町中で三ツ葉葵の印籠を見せたら、町人は実際どういう反応をしたと思いますか?
店の饅頭をタダ食いしても店主は何も言えませんか?
>>751 いわゆる秦の郡県制も君主制のうちということですか
>>757 皇帝という君主が頂点に立っているのに君主制ではないと思うのですか?
>>756 後でお屋敷に集金に行く。
自民党の憲法改正案の中に天皇を国家元首と明記するというのがあります。
象徴から国家元首に書き換えた場合、形式的なことを除き、どんな具体的な変化があるのでしょうか?
元首、首相、首長など国家組織のトップに「首」がつく言葉が多いですが、なぜ頭ではないのでしょうか?
人間の体で例えれば、首より頭の方が上にあるし、重要な部分なので、組織のトップには
頭をつけた方がふさわしいと思います
銀行ではトップを頭取と言いますが・・・
なぜ首なんでしょう?
>>760 肩より上の部分を全部ひっくるめて首と言うこともあります。
763 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 17:59:34.21
終戦まで
日本は朝廷制でいい。
天皇帰化人説のほうが面白いし。
うつ病は朝廷では適応障害?もおもしろよ。
764 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 18:04:11.00
いじめるなよ!
765 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 18:13:12.91
精神病の範疇でいいよ。
ここは、歴史版で医学は語らなくていい。
しかし、歴史学博士って浅学だよ。言論の自由の国家だから。
歴史学では、天皇や部落問題はゼニならん。
徳川家康のほうが面白い、自己実現(一族主義)
天下泰平を家康が望んでいたら、関ヶ原なんていらない。天皇も家康も世襲制が大好き。
これが、日本の文化です。橋本がいいこと言った。「政治なんて独裁ですよ」
761、762ありがとうございます
頭がつくトップの名称がいろいろあるのに、国家組織系には首が重用されたんですね
767 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 20:32:10.26
>>766 よく納得できるね?回答になって無いのに。
759は?
769 :
日本@名無史さん:2012/12/11(火) 08:48:36.72
>>768 国王を国家元首としている国はいくつかありますが、
国王が政治・軍事の最高責任者である国から、国民から選挙で選ばれた議会や内閣の支持に従い
国事行為をこなすだけの国まで様々です。
自民が言っているのは国事行為を行うだけの国家元首でしょうね。
天皇が国家元首となっても天皇の役割はほとんど変わらないと思いますが
鷹派が将来的に担がないか心配・国民主権になれた国民の賛成が得られるかが心配・
あと中国・朝鮮は黙っていないー、という辺りでしょう。
770 :
日本@名無史さん:2012/12/11(火) 19:30:21.14
明治天皇が維新の時(旧暦1868年1月15日)体格も思想も背丈もかわってさらに明治天皇は幼少の頃種痘を受けたので
天然痘になるはずないのに維新後の明治天皇はトーソーわずらって口のまわりにあばたがのこって 写真を撮られるこ
とをことさらきらったりたくさんの矛盾点がありますがそれは単に「一部のネットサヨクの願望に基づく妄想」であ
り辞典にのせることは正しいとは思えないのでしょうか。 歴史学界でもまったく取り合ってはもらえない珍説といい
ますが本当に検証し研究しなければ御用学者のいいなり皇室になり政治家に天皇の政治利用される 危険性はないので
しょうか?
771 :
日本@名無史さん:2012/12/11(火) 19:31:52.32
天皇 エタ は 銭にならん。
772 :
日本@名無史さん:2012/12/11(火) 19:45:06.17
>>771 言うこともわかるが・・・君は去れ!
歴史博士はゼニに関係ない。真実を語るだけだ!
773 :
日本@名無史さん:2012/12/11(火) 22:37:58.39
各論には強いが総論には弱い、お許しあれ、
774 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 00:13:05.33
軍事貴族と武士の違いがいまいちわかりません
平清盛、源頼朝はどっちですか
775 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 11:48:51.78
>>774 平安時代の武士の成立過程(いつから軍事貴族が武士化したか)
については学者によって説がマチマチです
少なくとも平清盛や源頼朝は武士と解釈されています
776 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 12:00:07.02
地上波で映画「陰陽師」を見ていたら、心変わりした男に対して女が、
「もうわたくしの唇を吸うてはくれませぬのか」って迫ってたんだけど
平安時代から接吻という性行為があったのですか?
777 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 16:54:09.57
日本の民主化は第二次世界大戦後と言っていいでしょう。
華族制度が無くなったのも、終戦後です。
其の意味で終戦前までは、封建国家と言う説も否定できますん。
778 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 17:13:06.03
公選で無い貴族院の存在が終戦まで続いたのは何故ですか?
男性しか投票権が戦前まで無かったのは何故ですか?
有産者が責任者だから
徴兵従軍が参政権と考えられていたから。
780 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 17:17:49.26
>>777 の回答とうり。終戦まで帝国だったのです。
封建制の議論もありますが維新後、四民平等といいながら、特権階級(大名等の上級武士)は生き残ったのです。それも世襲?
781 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 18:40:04.38
陽成天皇は「殿上で殺人事件を起こしたため退位」したと本に書いてあったのですが、本当でしょうか?
他に、江戸時代以前の天皇陛下の中で、とんでもないことをなさったことで有名な方について教えてください。
回答お待ちしております。
782 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 18:43:23.55
第66代一条天皇
筋金入りのネコ好きで、内裏でネコが出産すると左大臣・藤原道長らに命じて産養の儀を行い、
一人の女房をネコの乳母に任命しています。この行為に右大臣・藤原実資は日記「小右記」に、
「動物に乳母を任命する話など聞いたことがない」と記しています。また中宮・定子の部屋近
辺をうろついていた犬がこのネコに飛びかかり、これを目撃した天皇はネコを懐に入れ、その
犬を島流しにしてしまいました。
783 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 18:52:10.55
大正天皇は知的障害があったと聞いたことがありますが、本当はどうなのでしょう? ...
質問です。
戦国時代の大名達はどんな理由で国を作り、繁栄させたのですか?また、その理由が書かれている当時の史料があれば教えてください。
自分の名前を残すために、はたまた民を思い戦のない世にするために、私利私欲の為になど考えれば考える程悩むのです。
織田信長でも毛利元就でも誰でも良いので教えてください。
785 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 19:44:48.93
私利私欲でいいと思います。
徳川家康がなぜ平和の世を願いながら、関ヶ原の戦いまで持って行ったかが議論になりますが
日本統一後、豊臣家の五奉行として平和を模索できたし、大阪夏の陣まで徹底して自己実現を図ってます。
また、江戸期は世襲制で、一族大事しか考えて無かった独裁者でいいでしょう。
関ヶ原は私利私欲の戦いです。
786 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 19:47:02.63
「貴族あるところ賎族あり」「身分へのいわれの無い差別を生んだ物は皇族へのいわれの無い敬意に他ならない」
といった発言などから、天皇制の確立なかんずく大和朝廷による異民族制圧が賎民層の起源である、と言う考えも
その一種とみることができる。部落の中には、松本時一郎の「神武と戦った」の他、「鬼の子孫」などの伝承が残る部落も少なくないが、鬼とは一般的には縄文人の子孫あるいは蝦夷といった異民族を指すというのが今日の見方である。
787 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 20:05:35.20
日本の歴史で、朝廷は欠かせないのですが、
何故 天皇については詳細な歴史学者がいないのですか?
右翼が怖いのでしょうか?????
>>785さん
ありがとうございます。
あと上杉謙信、武田信玄、織田信長について教えて欲しいです。
789 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 20:20:15.97
他国を攻める理由は、頂点に立ちたかったからでしょう。
たとえば、織田軍 何万人なんて面白おかしく歴史で書かれてますが、武士はそんなに居なく
無理やり、連れてこられた百姓が中心です。ある村では、武将から兵○○人出せと言われて、逆らうと殺されるのでくじ引きで決めた。
(中には秀吉みたいに、一攫千金を夢見た人もいますが)
790 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 21:19:52.05
織田信長
織田勢は素早く比叡山の全ての出口を封鎖した。3万の軍勢で山麓を囲み、退路を完全に遮断したのである。
佐久間信盛や武井夕庵ら臣下の諫止は一切受け付けず、黄金を贈って信長の怒りをなだめようとした山門の
申し出も一蹴、信長は宗徒を根絶やしにする姿勢は決して崩さなかったのである。
合図とともに鬨の声をあげながら、織田勢は攻めかかった。見つけられた者は僧俗、老若男女構わず無差別に殺された。
山頂においても徹底的な破壊と殺戮が行われ、根本中堂をはじめ、4、5百という堂塔坊舎の全てに火がかけられた。殺された者は3、4千人(諸書によって違いがある)にものぼり、比叡山は累々たる死体で埋め尽くされたという。
徳川家康
1569年の遠江堀川城攻めで気賀一揆を老若男女撫で斬りにした。
後で捕らえられ首をはねられた農民も合わせて千七百名が殺されている。
伊達正宗
政宗は大阪夏の陣の時。水野勝成勢の神保相茂隊約300人全滅の味方討ちを実行した。
その理由が「度々我ガ手先ヘ働キ来ル事ヲ口惜ク思ヒケルニヤ、鉄砲ヲ打掛ケル」(『難波戦記』)とある。
つまり伊達隊に割り込んで戦功を立てた事を悔しがって突然味方に襲いかかったのである。これは当たり前の事
ながら諸大名の大ヒンシュクを買い、特に島津家では『薩藩旧記増補』等で散々にこき下ろされている。
松永久秀
度重なる裏切り、将軍暗殺、東大寺を消失させたなどの悪行の限りを尽くした。
年貢未進などの百姓を処罰するにあたっては、蓑を着せ、火を放ち、もがき苦しんで死ぬ様を「蓑虫踊り」と称して、
楽しんで見物したとも伝えられ、彼の死を領内の民は、農具を売って酒にかえ、大いに祝ったとも口伝えられている
791 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 21:20:47.07
日本の歴史で、朝廷は欠かせないのですが、
何故 天皇については詳細な歴史学者がいないのですか?
792 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 21:32:20.74
>>787>>791 朝廷の歴史の研究が、「怖い」とかそういうことはないでしょ。
けっこういますよ。朝廷の歴史を研究している学者、京都の大学の先生など。
京都の方でなくても他にも、天皇論とか朝廷史とか研究して、著書も出している学者さんとか。
>日本の歴史で、朝廷は欠かせないのですが、
>何故 天皇については詳細な歴史学者がいないのですか?
学内でウヨクに出来る事は全くないが
サヨクに睨まれると学校からいびり出されるから
794 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 23:17:31.41
>>792ありがとうございます。
しかし、文献を示してほしいのですが・・・・
795 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 23:20:32.45
江戸期の朝廷の存在意義は庶民にはわかりづらく、権力の象徴でしかなく政治に携わって無く、
遊んでばかりいたとしか言いようがありません。
官位も乱発し、それで利益を得ていたとしか思えません。
796 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 00:14:23.73
>>792です。
自分が知っている限りで思い付くまま挙げれば、
京都の先生では、MY氏MK氏。専門の著書を出している先生は、
IA氏HK氏でしょうかね。他にもいらっしゃるかも知れません。
質問ですがお願いします
日本人の宗教風土の成り立ちについて
日本人の原型については、ますらおぶりとたおやめぶりと歴史教育で教えられるように、元々は落ち着いた自然に育まれ、自然との一体感を重要視するおおらかな風土を持っていた人々とよくいわれていますが
田中元氏のようにその考え方は明治ナショナリズムに影響された見解であって古代日本の自然環境は水稲耕作に決してマッチしたもので無く、けっして古代日本人は現世肯定的とは言えない面もあるという意見もあります
現在ではどちらが有力なのでしょうか?
>>797 益荒男振り=荒々しく自然を征服する男っぽい気質…「万葉集」に代表される
手弱女振り=自然に従順で迎合する女っぽい気質…「古今和歌集」以下に代表される
益荒男振り(ますらおぶり)と手弱女振り(たおやめぶり)はもともと相反する気質です
古代の人にとって自然は驚異であり、人が生きていく上で戦わなければならない相手でしたが
平安時代ぐらいになると貴族などの上層階級は米などの食料がある程度安定的供給されるようになり
自然をめでる余裕ができたという辺りですか
明治〜敗戦までを帝国だったと言いますが、天皇が政治権力を持って国の前面にいたからですか?
もしそうなら、飛鳥〜奈良時代も基本的に同じですよね?
帝国とか帝制の定義はなんでしょうか?
>>799 慣習とか自称とかなので、きっかりした定義は無いよ。
801 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 19:02:11.74
カワタが日本の文明の進歩や技術向上に貢献したのではと考えますが・・・・・いかがでしょうか?
死牛馬は放っておけば、自然に返ります。(疫病にもなりかねませんが)カワタはそれを文明に利用する技術(リサイクル?)をもっていたと思います。
骨や爪はそろばんの桁、櫛、装飾品など。 毛や尾は和紙作りのすのこ、筆。
脂肪は蝋燭材、油。 血液や内臓は薬品
毛皮は武具、太鼓、武具 骨と皮は煮詰めてニカワ
寺や神社に残る日本画はニカワが接着剤に使ってるため保存できてます。西洋の油絵に匹敵すると言う方もいます。
しかし、今の日本では「ニカワ絵」の歴史についてあまり語られていません。日本の精神史にとって無視されてます。
牛の皮を使った和太鼓は、ほとんど部落で作られてますし、その演奏は国際的に好評です。これもカワタの歴史と技術の賜物では?
また、杉田玄白「解体新書」に基づく、日本人初の人体解剖はカワタが行い、殆どの臓器を言い当てたといいます。・・・・「蘭学事始」より
802 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 19:04:08.57
即答してない質問があるのですがーーーー
大正天皇は知的障害があったと聞いたことがありますが、本当はどうなのでしょう? ...
803 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 19:16:31.14
摂政の宮が建てられたことからして、公務に差し障る障害があったと推察されます・・・・
804 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 19:20:02.38
カワタの文明や医術に貢献したのは、それは正解です。
しかし、ケガレ、キヨメから「人の嫌がる仕事」についており、そこから差別が生まれたと思われます。
現代道徳教育では
「人のいやがることは率先してやりましょう」です。
805 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 19:35:18.61
>>798 さんの回答はよくわかりますが、
古文書なんか残せる方は、権力者か其の手下でしかなく文盲が殆どの時代を、
全体感で語るのはいかがなものでしょう。
たとえば、万葉集が編纂された時代、日本の文盲率はいかほどだったでしょう。
一部の権力者やその周辺の書き残した古文書に意味はあるが、自慰的要素も強いのでは?
806 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 20:00:27.94
>>802 旧ソ連では、フルシチョフとかブレジネフの頭がおかしいというのは、
国家機密だったというアネクドートがありますが。
807 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 20:12:45.39
805さん
あなたの言うとおりですが、日本史は古文書や遺跡等に頼らなければ学問として成り立ちません。
歴史学者のジレンマをついてますが、仕方が無いとご理解ください。
時の権力者により、廃棄された古文書もあるでしょうが、無いから語れません。
権力者の歴史、権力者に背かない古文書、隠された古文書もあり、歴史学は中世以前は謎解きです。
文盲の話ですが、耳の痛い話です。万葉集も当時の日本人は存在すら知りません。字が読めないし、印刷技術も無いのですから・・・
其の意味で、御経は耳から入ってきますし、目で仏像や寺院は確認できますので仏教は広がったのでしょう。
朝廷の研究者もいますが、朝廷内部やその関係筋の文献でしか研究できません。文献も後に書かれたものも有り、真実性も疑問視されるのも事実です。
歴史とは今残ってる資料等による謎解きと理解ください。
新たな歴史資料が出てきて、今の説が覆されることも往々にあります。(考古学者の捏造事件もありました・・・わからなければ考古学の歴史も変わったかも?)
私見ですが、戦国大名の文献は捏造が多いと思います(勝てば官軍????負ければ歴史から去るか悪者???)
「歴史学博士があらゆる質問に即答するスレ」も、
「今、私の知識(能力)の範囲内で即答するスレ」と読み替えてください。
808 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 21:48:54.96
臭いものには、フタの資料しかない歴史学です。
809 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 22:29:44.73
天保の改革なんか、参考になりますよ。
捏造の裏がよく見えます。
そろそろ冬休みでここも活発化かねぇ。
812 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 13:51:19.64
>>805 >>807さんも言っておられますが
「ますらおぶり」「たおやめぶり」もまた当時の文献に残る内容でしかない。
つまり、当時の庶民の生活など分からないのです。
「ますらおぶり」「たおやめぶり」もまた、当時の文字を知る
上流階級の話だということです。
けして庶民をさす言葉ではありません。
813 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 15:04:53.46
388 名前:無党派さん[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 12:23:45.94 ID:8XEDPTxF
/´⌒⌒\
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/ ///| .| /ヽ ヾ
i / ━ |/|/━ ! | 橋下
!/ (・ ) ( ・)i/
| u (__人_) | 投票まであと1週間か
_\ ∩ノ ⊃ / 巻き返しできるかな?
( \ / _ノ | |
.\ “ /__| |
\ /___ /
/´⌒⌒\ ノ´⌒ヽ,,
/ \ γ⌒´ ヽ,
/ ///| .| /ヽ // ""⌒⌒\ )
i / ━ |/|/━ | / ⌒ ⌒ ヽ )
!/ (・ ) ( ・)i!゙ (・ )` ´( ・) i/
| (__人_) || (_人__) |
,-、 \ `ー' /\ `ー' /_
/ ノ/ ̄/ ` ー ─ '/>< ` ー─ '┌、 ヽ ヽ,
/ L_  ̄ / _l__( { r-、 .ト
_,,二) / 〔― ‐} Ll | l) )
>_,フ / ルーピー }二 コ\ Li‐'
私たちに一度やらせてみてください
814 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 19:08:45.11
スレ主の責任だと思います。博学か浅学かはわかりませんが。
最近の「理想のリーダー」アンケートで小泉元首相が二位、坂本竜馬が三位でした
現職や比較的最近の政治家はとかく辛口の評価をされるのが世の常
それを考えると小泉元首相のリーダーとしての支持や人気は特筆ものだと感じます
この感じで小泉元首相のリーダー像が口伝で後世に伝わっていき、例えば100年後に今の坂本竜馬の
ようなリーダーとしての高い人気、知名度を保っている可能性についてどう思われますか?
100年後に司馬遼太郎が現れればあるんじゃない
100年後にその時代の大河ドラマや歴史特集に取り上げられてるんだろうな、小泉は
818 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 05:16:30.67
100年後 自民党政権なら・・・・・
今のところ、平成の政治家でまともに歴史にのこりそうのは小泉氏くらいじゃね?
今後、安倍さんがどれくらい頑張るか
百年後のことはだれにもわかるまい。だけれども「大きいことを成し得た」となると小泉氏が特筆されるかもしれない
今後の話はなってみないとわからない
小泉の業績はポピュリズム政治の端緒を開いたことぐらいしかないから
これからの日本史はその影響で右傾化、合理性に反した社会施策、外交という
展開がなければ、教科書には残らんよ。ここで日本人が急にクールダウンして
小泉のコピーの煽動政治家達を退けたら(そんな展開にはならんだろうが)
小泉の評価は「タダの変人」に戻るだろう。
既に民主党政権時代が無かったことにされている件
小泉に関しては郵政民営化はともかく、規制緩和によって良くも悪くも労働市場や雇用制度を大幅に変えたこと、
北朝鮮に乗り込んで拉致被害者を何人か連れ戻したこと、この二点において傑出してるんじゃないの?
サブの要素として、総理就任直前から現職中、さらに引退後も極めて人気が高いことと
前後の総理大臣の任期が短い中で異例の長期政権を築いたことが挙げられると思う
安倍が幾ら厳重に身体検査を行い閣僚を慎重に選んでも
民主党時代とは真逆の姿勢をとるマスコミによって針小棒大に報じられた閣僚の問題によって
短命政権として終わることが、この時代のメディアの異常性として後世特筆されることになるだろう
某週刊誌によると、前回安倍政権時の閣僚のゴタゴタは、安倍が財務省の人事に介入したことによる
財務省側の反撃だとしているが、その週刊誌が正しいのなら今回も同じ事が繰り返されるだろうね
一千万人規模の移民を受け入れる案があるようだけど、それが実現し、移民と日本人の混血が進んだとしても、
長いスパンで見れば、それも全て純日本人になっていくんですよね?
かつて、弥生人が大陸や半島から入ってきて、縄文人と混血したり、蝦夷との混血が進んでも
最終的にはそれらも日本人として位置付けられということですよね?
移民といっても現地と同化しようとする移民もあれば
排他的な共同体を確立させる移民もある
海外の社会学者は日本にはスラムがないと言って驚いているが
無職の移民に無制限に税金を投入し続ける現在の政策が半永久的に続くかどうかも分からない
民主党の移民一千万人計画はどのみち破綻していたと思うが
>民主党の移民一千万人計画
それって、自民党外国人材交流推進議員連盟の計画やんけwww
しれっと嘘つくなよ。
>>824 松岡利勝なんて身体検査していたら閣僚になんかなれるかよw
安倍本人のバックレがすべてを象徴しているのに何を言っているのやら。
そもそもこいつは小泉後のポピュリズム政治家として(824のようなドリーマ-達に)期待されたのに
も関わらず、マダム=スシと官房長官の塩崎の対立、党執行部の
介入を抑えることができないなど、小泉との役者としての格の差は明白じゃないか。
ヒトラーが頂点に立つために身内を粛清しなければならなかったように
ネトウヨが支持していれば簡単にトップに立てるほどポピュリズム政治家は楽なもんでもないよ。
メディアの異常性?文藝春秋社やフジサンケイグループがこの岸信介の孫を持ち上げることをdisっているのですかw
でそれは党の綱領になったの?
宗教右翼への片思いも大概にしとけよ自称日本人の奴隷よw
>>821 まあ、同じように長いことやってた中曽根もまだ歴史上の人物じゃなく現存だけど、
なんだったんだろうなあって印象じゃないの
832 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 12:43:35.32
古事記と日本書記はほぼ同時期に編纂されたにも関わらず、
実在の仲哀天皇の没年が違っていたり、初歩的な食い違いがあります。
当時のそうそうたる学者がなぜそんな初歩的なミスを犯しているのでしょうか?
833 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 17:13:52.92
>>832 古事記や日本書紀は史料を突き合わせて作ったものではなく
ほとんどを口承に頼っています。
つまり、何代も口承されていくうちに人によって内容がずれていった可能性があります。
成立も異なり、日本書紀が舎人親王を首班として複数の官僚たちによる
国家事業として編纂されたものであるのに対して
古事記は稗田阿礼という人物の口承により太安万呂が記録したものです。
日本書紀が朝廷の編纂による国家の正史であったのに対して、
古事記は天武天皇の個人的な勅撰史と考えられています。
834 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 19:19:50.25
>>833 ありがとうm(__)m
しかしながら、当然天武天皇はじめ、学者や公家達も両方に目を通していると思うのですが、
それら初歩的なミスは気づかれなかったのでしょうか?
それとも、気づいたけれどスルーされたのでしょうか?
835 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 21:49:02.85
>>834 日本書紀には「ある書にいわく」等々、あちこちに異説を載せています。
古事記もまた、異説の一つとして受け入れられていた可能性があります。
日本書紀は、その成立過程が続日本紀といった国史に書かれ、平安時代には
貴族の子弟の教科書代わりにもなり、流布していたのに対して、
古事記は長らく日の目を見ず、他の史料に全く記録がないため偽書説まで流れていました。
近代、太安万呂の墓が発掘されたことで奈良時代編纂の信憑性が増しました。
質問なんですが・・・・
綱吉〜新井白石〜吉宗
この期間の江戸時代通史(特に新井白石の活躍した時代を、政治・政策史重視)でオススメってありますかね?
新井白石の治世を中心にしたものを探しているんですが、中々ないのが実情なので
(吉宗以降は、結構概説書でも見かけるんですがね)
よろしくお願いします。
837 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 00:40:53.06
>>836 白石といえば、6代将軍家宣の政治顧問ですかね。かなりの歴史通ですね。
ご存知でしたらすみません。比較的新しいのでいえば、深井雅海『綱吉と吉宗』なんて本がありますね。
Amazonで目次を見ましたら、白石の時代の「正徳の治」の項目もありました。
井沢元彦氏の著作に興味深い説が書いてあり、その根拠の一つとして、
天武天皇の生まれた年が不明であることが挙げられていました。
本当に天武天皇の生まれた年は不明扱いなのでしょうか?
あれだけ有名で事績の多い天皇の生年が不明だとは思えないのですが。
日本書紀時代の人物の生年はまず不明とみて良いです。
律令制確立ないし大化改新以前に生まれ人は特に(皇親制度や記録管理が未成熟である可能性)。
舒明も皇極(斉明)も孝徳も、歴史本とかで見る生年(享年からの逆算)は、
実は平安以降の書物で初めて出て来るものですし、書物によって違いがあったりします。
天智は641年に16歳という文章が日本書紀に出てきますが、これにも異説があり、
その文の書かれ方が異例なので、追書との説まであります。
また、持統も続日本紀に享年はのっておらず、文武も懐風藻で25歳ということが知られますが、
続日本紀には書かれていません。
天皇なら生年(あるいは享年)が分かってて(記述されてて)当然、という思い込みが
>>838のような考えに至らしめてしまうのでしょう。
昭和時代をもし二つにわけるなら、歴史学的にはどちらで分けるほうが適切だと考えられますか?
出来ればその理由も教えて下さい
・ポツダム宣言受諾、太平洋戦争の敗戦、玉音放送の時
・サンフランシスコ講和条約の締結・発効、日本の主権回復の時
どうやっても正答が出ないアンケートは止めろよ
842 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 14:20:30.48
>>840 時代を分ける画期にするなら、
・前者の敗戦(終戦)時(1145年8月)じゃないかな。
戦後日本の出発は、この時からでしょう。
・講和条約の発効(1952年4月)は、
ワタシ的には、その戦後処理期間であり、
国際法的な独立への胎動期間と考えますが。
844 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 19:16:30.11
>>814 以前のスレ主(加護ちゃんファンの博士)は今はもういない
>>839 歴代天皇ファイルって本を見てると、推古天皇以降は生没年がしっかり載っている
天武天皇も一応631年〜686年と書いた上で?を入れ、定かではないと断りを入れている
なんか天武天皇だけ不自然な感じ
正親町天皇はかの暴君織田信長とやり合った天皇だから、かなりやり手のイメージが
あるのですが、在位中ほとんど関白がいたんですね。やり手の天皇に関白なんて必要だったんでしょうか?
>>845 天武に?マークが入っているのは、「史料に基づかないから」だと思われます。
>>839で述べましたが、飛鳥時代の諸天皇の享年は、基本的に日本書紀には載っておらず、
平安時代以降の書物になって初めて現れるのがほとんどで、かつ異説も多く存在します。
舒明・皇極(斉明)・孝徳などはこれらに準拠しています。
天武の場合、65歳説(622年生まれ)と73歳説(614年生まれ)があり、
これだと天智が641年に16歳である(626年生まれ)という日本書紀の記述と兄弟関係が逆転しちゃうため、
"史料には無いのに"近代の学者が天武の65歳は56歳の誤りだろう、とか言って、
「631年生まれ?」にしてしまっているわけです。
なお、天智には享年58歳説(614年生まれ)・53歳説(619年生まれ)というのもありますんで、参考に載せておきます。
848 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 23:13:09.88
>>846 この頃(戦国時代)の天皇・朝廷は象徴的権威はあるものの、すでに政治的実権はありませんでした。
朝廷がそんな体たらくですから、その最重要な役職である関白も摂関家当主が就く象徴的地位になっていました。
849 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 08:50:29.08
この日本史版に
>武家政権時代の公家、朝廷について語るスレ<
なんてのがあります。
>>848 朝廷がそこまで衰微していたなら、逆に関白を出せなかった気もするんですが。
関白就任に際し、何かと費用もかかるだろうし
秀吉以降はともかく、秀吉以前に関白がいっぱいいたのが何でだろ?と思います。
851 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 12:45:13.62
朝廷は、政治的実権がなくなった後でもそれなりに存在意義がありました。
中世以降は公家の家格が固定化して、朝廷内でその家系の就任する役職がほぼ決まっていた、からじゃないかな。
例えば摂政や関白は、朝廷の実権がなくなった戦国期以降でも、
藤原北家御堂流の五摂家の当主が相次いで就任していました。
852 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 13:39:04.31
>>850 関白就任に際して特に費用はかかりません。
室町時代後期の天皇の中には金がないので即位の礼をやらなかった
天皇はいましたが金がないから天皇出すの辞めようとはなりませんでしたし。
私は乗り物に弱いのでバスに揺られるとトイレに行きたくなるのですが
江戸時代、国元との移動の参勤交代や上屋敷と江戸城の移動の際に
トイレに行きたくなったら大名はどのように振る舞うのでしょうか?
あまりにも醜態をさらすと士気にも影響して大変なことになりそうですが・・・
また、大名だけでなく藩士たちもそのような時、どのように対処していたのでしょうか?
藩士のために行列を止めるわけにも行きませんよね・・・
>>853 「小用筒」「尿筒」と呼ばれる竹筒製の簡易トイレが平安時代頃から存在し、
輿の中の大名や御簾中が催すとおつきの者が腰に付けたこの筒を差し出していました。
ちなみに大名行列は国を出るときと江戸に入るときのみ規則正しく編成する必要がありましたが
長い道中はバラバラに歩いてもよかったため、おつきの者は道端で小用を足したそうです。
また、江戸時代の将軍は年に一度菩提寺参拝をしましたが、これは江戸の市中を歩くものでした。
江戸城から菩提寺の上野寛永寺までは一時間ほどであるため、見苦しい竹筒持参もなかったようですが、
障害のあった将軍徳川家重は23か所もトイレを設けたため江戸の町人たちから小便公方と呼ばれたそうです。
>>851-852 そもそも摂政や関白は常設の役職ではなく、臨時の役職ですよね
途中から(ほぼ)常設の役職になってしまったんですか?
皇室の菩提寺と言われる泉にゅう寺に歴代天皇の位牌があるそうですが、
天武系の位牌だけ省かれているようです。
何故ですか?
また、そんなことが許されるのですか?
857 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 16:03:58.76
>>856 天皇は現在の今上で125代目ですが、泉涌寺に置かれている天皇の位牌は52人分です。
つまり、泉涌寺はすべての歴代天皇の位牌を置いているわけではなく
天武系以外にも位牌が置かれていない天皇が多数いるのです。
位牌の習慣自体、早くても鎌倉時代に始まったもので、基本的に
月輪陵に葬られていない天皇の位牌は後世置かれたものなのであまり意味がありません。
ちなみに天智天皇や桓武天皇の位牌が置かれるようになったのは明治時代以降です。
858 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 20:22:41.83
>>855 摂関家成立及びその世襲の流れをまとめますと大体以下のとおりです。
1 摂政も関白も教科書風にいいますと律令制に規定のない官職「令外官」です。
それゆえ最初は、大臣の兼官として出発しました。
2 しかし、御堂関白で有名な藤原道長の父兼家の頃(10世紀後半)から、
大臣の地位から分離され、単独でも摂政・関白に補任でき得るようになりました。
3 その後、道長子孫の藤原忠実の時代(12世紀前半)から天皇の外戚であるかどうかを問わず、
藤原御堂流の嫡流(鎌倉後期に五家になる)が摂関となる慣例が成立したようです。
4 爾後、王政復古の大号令(1868年慶応3年)で、摂関職が廃止されるまで五摂家の世襲が続く。
>>832 仲哀天皇の崩御は、戦中ということもあって、長い期間隠蔽していたから。
摂政皇后と大臣武内宿禰しか知らんから
明治政府が行った廃仏毀釈に対して、明治天皇や皇族はどういうスタンスだったんでしょうか?
歴代天皇の中には仏教徒になったり、出家した方もいるのに・・・
熱心な仏教徒の人もいたはずなのですが、僧門に入っていた人々も含めみんな日本神道に入ることになりました。
自分で仏教を選んだ人はいなかったようです。
国体護持や国体問題で使われる「国体」とは国家体制の略語ですか?
それとも、あくまでも国体という言葉なんでしょうか?
内容的には天皇制や皇室制度の事だと思いますが。
天皇制を廃止(断絶)することと、日本が(天皇制を維持して)共産主義国家へ移行すること、
どちらが日本史的にみて重大な事柄だと考えられますか?
個人の意見ではなく、あくまでも日本史的にみた場合として。
864 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 13:07:41.21
>>855 天皇の代替わりがおき幼帝が即位すると、同一人物が関白→摂政。
天皇が成人すると、同一人物が摂政→関白になったりします。
>>863 そら国家体制が変わる(資本主義から共産主義へなど)のほうが重大です。
日本の天皇はシンボル(象徴)に過ぎず、政治司法立法いずれにも一切関与せず、
存在は国民生活に直結しません。
867 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 13:19:09.90
>>855 摂関常置になったのは平安時代の冷泉天皇からですが
当時の天皇は多くの場合摂関は母方血縁者(外祖父やおじ)であったために
むやみに天皇親政を言いたてて血縁者を排除できなかったという事情があります。
頼通以降、摂関を外戚としない天皇の登場により摂関は往時の力を失い
天皇の父方が政治力を持つ院政期へ移行しますが、これにおいても
摂関と内覧を並立させて摂関家弱体をはかったり摂関と院を対立させ第三勢力(平氏など)が力を伸ばすなど
その摂関の地位に利用価値があり廃絶されるに及ばなかったことが挙げられます。
鎌倉時代の五摂家成立以降は慣例です。
五摂家を外戚とする天皇は数える程度で、摂関といえども
天皇を思い通りに動かすことなどできませんでしたし。
868 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 19:14:10.78
天皇帰化人説をどう思いますか。
帰化人説がどこにあるのかそれを提示してくれ。
870 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 19:27:13.14
日本書紀などにのるスサノオ伝説が天皇=渡来人であることを暗示しています。
スサノオは高天原を追放されて出雲に来ます。
高天原=朝鮮半島だと言われています。
「神武東征」は九州から奈良、近畿地方への遠征だと言われています。
天皇とその側近の貴族達は九州からきたと思われるのでそうであれば、ほぼまちがいなく渡来人の血はひいているでしょう
871 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 19:29:07.48
≫869さん ネットで簡単に調べられます。
872 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 19:29:39.46
873 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 21:31:09.19
渡来説は構わんが、
なんで「帰化」なん?
>>870 >高天原=朝鮮半島だと言われています
だれが?半島のトンデモ説でだろw
単純に高天原=天界だろ。アンサー主は何者?
博士なんかじゃないんだろ?
モンゴル系か中央アジアのサカ族が満州を制し
さらに南下して朝鮮を征服し、
余勢をかって日本に渡ったんだな
帰化ということであれば、中央アジアかモンゴルが祖先の地
イギリスのノルマンみたいなもの
北欧からフランスの一部を征服し、さらにイングランドに攻め込んだ
日本史上で一番権力、財力、軍事力、名声や知名度を手にしたと思われるのは誰ですか?
877 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 23:07:37.52
>>873さんの
疑問が生じますよね。
古い時代のこと、渡来はありえても「帰化」とはいわないでしょうね。
家康もかな、どっちゃも10年以上はその地位にあったし。
アンケートばっかやってるのは文体からして同一人物か?もういい加減勘弁してくれよ。
>>875 昔から中国大陸ではどんどん周辺民族がより遠くに行く傾向はあったみたいだね
遠くというか、温かい場所、エサのある場所、ってとこか。
スレチだけど、狭い日本国内とは違う原理であることはあるだろうなぁ。
海の民の存在を忘れている
フン族は匈奴の一派だという説があるがなんで寒くて食い物の少ない
ヨーロッパに行ったのかさっぱりわからん
アンケートみたいな質問でも、歴史についてのものだったら全然問題ないよ
886 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 01:50:48.64
>>885 答えが一つとは限らないのが歴史学だからね。事実は一つでも。
答えが一つとは限らないって事はあるが、質問スレにおいて正答の出ないアンケをやるのはマナー違反。これを許すと雑談スレに成り果てるよ。
それにこのアンケート君は、 過去の歴史のアンケなら百歩譲るとしても、
何でもかんでも現代に絡めてくる。これは近代史板があるんだから板違いだな。
この二つの反則行為は見逃せないね。
アンケは確かにややスレチ
特に将来どう判断されると思いますかとかは知恵袋とかでやってくれ
889 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 09:38:56.01
支離滅裂になってきました。
秀吉が建てたじゅらく第の石垣が見つかりましたが、そもそもじゅらく第を壊したのは誰ですか?
秀吉が甥の秀次に無謀の罪をきせ、秀次を自刃させると同時に、当時秀次が住んでいた
じゅらく第を破壊させたというのは史実なんでしょうか?
自らが建て、天皇も御幸した天下の名建築を・・・
そういや矢部が秀吉は秀次を殺す気はなかった
みたいなのをちらっと論文で言ってたがその後何か
書いたのかな。
24日聚楽第の現説だ。
質問失礼します
日本の神々の事が分かりやすく載ってる文献、小説などがあれば教えて下さい
大神というゲームで出てくるイザナギ、イザナミ、天照大神に興味があります。
よろしくお願いします。
古事記でも四度け
895 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 20:16:57.27
『堺鏡』には豊臣秀吉が仁徳天皇陵でしばしば猟を行っていたと記されています。
>日本の神々の事が分かりやすく載ってる文献、小説などがあれば教えて下さい
それを特集した雑誌を今年何回も書店でみた希ガス
え〜と、「ナムジ」とか言ったら怒られるかな?
純粋に物語と見れば、面白いし
898 :
日本@名無史さん:2012/12/22(土) 22:00:49.18
>>893 わかやすさで言いますと、児童用の図書。大人が読んでもためになります。
『ナムジ』は読んでいないけど、安彦良和は『天の血脈』でうんざりした
『天の血脈』あとがき
歴史物を書いているので、周囲からは歴史に詳しいと僕は思われちゃっている
↓
全然詳しくなんかないし気分で書いているんだけどさぁ
↓
広開土王碑の研究が近年米で進められ、必ずや日本軍による改竄の証拠を米さんが見つけてくれるに違いない!
僕の思い込みが正しい!!
騎馬民族日本征服説とか日本軍による広開土王碑改竄とか、当人が後書きでこの漫画は作り話だと逃げ道を用意しながら
同時に、新聞の切り抜きを貼り付けて、正しい事実であるかのように糊塗するのは止めてくれ >安彦良和
広開土王碑の現物を見ている中国・北朝鮮が改竄はないと言っているのに、なんで現物を見ていない韓国や米を引っ張り込むのかねぃ老害は…
900 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 08:20:03.53
神話の天皇と実在の天皇の境目はどこですか?
色々な説があるが明らかになっていない。
902 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 18:45:04.75
江戸時代の天皇は何をしていたのですか?
暇だから、いっぱいチョメチョメしてました?
一夫多妻?妾が何人ぐらいいたのですか?
903 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 19:02:01.35
明治天皇
皇后・一条美子(昭憲皇太后)…父:左大臣従一位 一条忠香
チョメ相手 権典侍・葉室光子…父:権大納言 葉室長順
典侍・橋本夏子…父:橋本實麗
権典侍・柳原愛子【大正天皇の生母】…父:権大納言 柳原愛光
権典侍?・園祥子…父:園基祥
孝明天皇
女御・九条夙子(英照皇太后)…父:従一位関白 九条尚忠
チョメ相手 典侍・中山慶子【明治天皇の生母】…父:従一位権大納言 中山忠能
典侍・坊城伸子
典侍・藤原(堀川)紀子
仁孝天皇
贈皇后・新皇嘉門院 藤原繁子…父:関白 鷹司政熙
女御・新朔平門院 藤原祺子…父:関白 鷹司政熙、義父:関白太政大臣従一位 鷹司政通
女院・新待賢門院 藤原雅子【孝明天皇の生母】…父:正親町実光
権典侍・観行院 藤原経子《和宮 親子内親王の生母》…父:橋本実久
典侍・藤原研子…父:甘露寺国長
光格天皇
中宮・新清和院 欣子内親王…父:後桃園天皇
女院・東京極院 藤原?子【仁孝天皇の生母】…父:勧修寺経逸
チョメ相手 内侍:菅原(東坊城)和子
藤中納言局 藤原(葉室)頼子
菖蒲小路局 藤原(姉小路)聡子
小侍従局 藤原(富小路)明子
904 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 19:54:49.44
>>903 生涯にそれくらいの女性を相手にしたが同時期に寝所にあがるのは1人〜2人らしい。
例えば明治天皇の場合、正式な妻である皇后はのぞいて、
1872〜1873 葉室光子・橋本夏子…光子と夏子は1873年にどちらも難産のため死亡
1874〜1879 柳原愛子…1875〜1879年に大正天皇を含む3人出産
難産のため1879年の出産を最後に明治天皇の寝所を辞す
1880〜1883 千種任子…1881〜1883年に2人出産
1885〜1897 園祥子…1886〜1897年に8人出産
学問、芸術、神事、写経、祈祷、朝議うんぬん。
暇だからというのは何が出典?
何をしてたのと聞いてるわりには暇だから、って決めつけてるが。
そもそも天皇にしても公卿にしても将軍にしても大名にしても基本は多妻だから。
厳密に言うと多妻、ではなく側室がいると。
側室を持たなくなったのは歴史的に昭和天皇が初めて。
失礼間違い。大正天皇が初めてだ。
側室の居ない天皇、その前に少なくとも9人
909 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 22:52:03.58
一番 子宝に恵まれた天皇は誰ですか?(側室も入れて)
景行天皇だろ
911 :
日本@名無史さん:2012/12/23(日) 23:00:00.75
大正天皇を詳しい解説書が少ないのは歴史学者の責任なのか、タブー?
需要がない
皇太子時代の記録は纏められつつあるよ。
ただ即位後は病気が重くなられて実質公務をする期間が短かったから天皇としての解説書となると薄くなる。
タブーとかそういうのはもはや都市伝説の類と考えていいと思う。
通りすがりに「かわいいね、こっちゃさ」と手を引くぐらいのことは
天皇さまなら普通なんだってさ、それをとめるのがジジューチョーさんたち。
そもそもどういうわけか大正天皇の事績には不明なところが多いのもまた事実らしいね
プライバシー保護のために人名黒塗りが数パーセントあるとかすさまじい有様
916 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 05:48:17.83
奇行が多かったのは確かですが、現天皇のおじい様ですので、突っ込むのは止めましょう。
現天皇なんて言い方をする人間の書き込みなんて信用に値すらしない
918 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 07:03:01.02
北条時宗は賎民出身説は信ぴょう性はありますか?
919 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 08:53:30.49
×時宗 ○時政
鎌倉幕府を引き継いだ北条時政は、伊豆の賎民で青少年期には六十六部(喜捨を求め歩く巡礼)となり、諸国を行脚した。
920 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 10:25:48.04
初代執権北条時政は、伊豆国在庁官人出身で地元伊豆韮山の小土豪だったと考えられています。
平氏の家系だといわれているが、僭称だとの説もあります。
921 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 11:02:56.78
出自はいろんな説が混乱してます。
家康 賎民説もあり、
火の無い所に煙はたたないので本当かもしれません。
臭いものにはフタで、歴史から葬られた可能性は否定できません。歴史は勝てば官軍ですので・・・・
922 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 11:08:10.90
これはほんとうだろう。
日蓮は安房国長狭郡東条郷の生まれであり、のちに自らの出自を「旃陀羅(せんだら)が子」「片海の石中の賎民が子」と記している
摂政と天皇の臨時代行、天皇の名代、この3つの定義はそれぞれどうなっていますか?
924 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 16:16:46.29
ウイッキーでも調べられる質問スルナ
925 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 17:48:37.74
>>921 のような、回答が好きです。ネットで調べられるような回答は、博士らしくありません。
ところで、何故?直系皇族にブッサイク(私的な感想です)な女人が多いのですか?血筋ですか?
926 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 18:14:48.54
博士=ネトウヨ????
そういえば、即答が無いのも気になるね。
私見だが・・・
>>925 近親結婚が理由かも?また、生まれてきて、今で言うダウン症等々の天皇の子はどうなったか・・・
927 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 18:18:51.03
>>926 即答します。前にも書き込みましたが。
あなたの言うとおりですが、日本史は古文書や遺跡等に頼らなければ学問として成り立ちません。
歴史学者のジレンマをついてますが、仕方が無いとご理解ください。
時の権力者により、廃棄された古文書もあるでしょうが、無いから語れません。
権力者の歴史、権力者に背かない古文書、隠された古文書もあり、歴史学は中世以前は謎解きです。
文盲の話ですが、耳の痛い話です。万葉集も当時の日本人は存在すら知りません。字が読めないし、印刷技術も無いのですから・・・
其の意味で、御経は耳から入ってきますし、目で仏像や寺院は確認できますので仏教は広がったのでしょう。
朝廷の研究者もいますが、朝廷内部やその関係筋の文献でしか研究できません。文献も後に書かれたものも有り、真実性も疑問視されるのも事実です。
歴史とは今残ってる資料等による謎解きと理解ください。
新たな歴史資料が出てきて、今の説が覆されることも往々にあります。(考古学者の捏造事件もありました・・・わからなければ考古学の歴史も変わったかも?)
私見ですが、戦国大名の文献は捏造が多いと思います(勝てば官軍????負ければ歴史から去るか悪者???)
「歴史学博士があらゆる質問に即答するスレ」も、
「今、私の知識(能力)の範囲内で即答するスレ」と読み替えてください。
928 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 18:23:21.44
つまり負けた側の文書は信用できるってこと?
929 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 18:33:44.82
>>928 たぶん、そうでしょう。しかし、勝ち組に歴史改ざんされてます。中国の文化大革命でも、都合の悪い古文書は焼却されてました。
しかし、科学的なアプローチが今の歴史学者で始まってます。たとえば
DNA鑑定でも日本人に朝鮮半島系の人が多いというのは立証されています。
930 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 18:36:41.61
渡来人はほとんどが朝鮮半島から渡ってきた人たちのようです。
中国から渡来したと自称している人もほとんどが朝鮮半島からの渡来人だったというのが歴史学者の見解です。
ちなみに15〜20%という数字の根拠はわかりませんが、これも歴史学者の言葉です。
渡来人が日本創世のときに果たした役割はとても大きかったそうですよ。
日本書紀などにのるスサノオ伝説が天皇=渡来人であることを暗示しています。
スサノオは高天原を追放されて出雲に来ます。
高天原=朝鮮半島だと言われています。(天空と言う方もいますが・・科学的に無理です)
「神武東征」は九州から奈良、近畿地方への遠征だと言われています。
天皇とその側近の貴族達は九州からきたと思われるのでそうであれば、ほぼまちがいなく渡来人の血はひいているでしょう。
931 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 18:37:36.00
「鎌倉新仏教」の広がりは「易行」だったことが理由とみてよいのでしょうか?
932 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 18:45:58.44
933 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 18:48:12.70
ネットで調べられるような、愚問は似非博士に任せます。
何度も言いますが、日本史は古文書や遺跡等に頼らなければ学問として成り立ちません。
歴史学者のジレンマをついてますが、仕方が無いとご理解ください。
時の権力者により、廃棄された古文書もあるでしょうが、無いから語れません
934 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 18:57:20.78
勝者の記録でも、身内の悪口、みたいなのは多くて
そういうのは逆に信用できるというか
前後の関係が興味深いところ。
特に今の感覚だと、悪口、でも当時はそうでなくて
記録に普通に残った、とするとかなり信用度は高い。
こういった細かい解釈の基準というのも面白いのだが
全部ひとからげに史料論争になってしまうからね。
936 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 19:23:50.86
昭和・・・確か二二六の頃だったと思うが内閣書記官だかが拳銃暴発させて事務員を怪我させた事件って誰だったっけ?
>>930 じゃあ、なんで、高天原を追放され、出雲に至る前に、新羅に降り立ってるの?
新羅の地を住むべき土地に非ずとして、そこから出雲に渡ってる。
出雲は住むべき土地だとして天界から携えてきた草木の種を出雲から倭の島一円に植えて回ってる。
記紀には、韓の地が荒地と禿山ばかりで、倭の島に草木の深い理由としている。
高天原が朝鮮半島なら、高天原から移植された草木の話は矛盾するじゃんよ?
939 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 19:57:48.07
史料論争以外は、科学しかないのでは?
たとえば、墳を発掘したら、仁徳天皇と平成天皇のDNAが
家康と吉宗のDNAが違うと言うこともありえます。
これも、捏造の歴史になるかも・・・
940 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 20:03:58.71
神話は神話でしかあり得ないことも理解ください。
だから、古代は難解なのです。
>>939 それはまた次元の違う話。
吉宗が家康の血を引いていないからと言って、
「享保の改革は正統な江戸幕府のもとで行われたものではなかった」
「江戸幕府は260年も続いていない」
なんて解釈をする馬鹿はいない。(一部の血統馬鹿はそういう解釈するかも)
そもそも遺伝子組み換えは普通にあるので十世代以上離れた親族関係の有無の証明はかなり難しい
何度も書くのは嫌だが、
渡来人は大和政権成立以降に大陸から日本に渡ってきた人々のことだ
945 :
874:2012/12/24(月) 20:51:18.39
>>930 >(天空と言う方もいますが・・科学的に無理です)
はあ。何で無理なんだああwww記紀を読んだこと無いんだろ。
普通に天界だよ。高天原描写にに半島の地理描写とかあるとは思えないね。
>>938さんも
指摘する一書に曰くは、無視かよ。半島と天界は別と意識している事は明白。
ていうか同じだと思っている形跡はまったく無いね。『ナムジ』とかいっとる場合でなんちゃって博士だろ。
(『ナムジ』が神話と歴史をごっちゃにしてるだろ。)
>>940> 神話は神話でしかあり得ないことも理解ください。
ならば神代と歴史をごっちゃにするなよ。神話は神話でしかあり得ないことも理解くださいとあなたにそのまま返したい。
わたしは、初めから神代のことが歴史事実とはおもっとらんよ。が高天原=朝鮮半島ってほうが
高天原(半島と言う方もいますが・・科学的に無理です)だなqqq
946 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 20:52:45.38
これも、歴史学者の限界かも。
これからの歴史学は化学分析が進むと思われなす。
骨はDNA鑑定したら、100%当ると思いますが。
947 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 20:59:15.74
文系の歴史学者が存在意義が問われてる?
948 :
日本@名無史さん:2012/12/24(月) 22:15:55.34
古代関係などで、まともな歴史学者はいないです。推論などと述べて
何でも言えるような世界で、言に責任は持たないは、権威主義で、今の歴史学者は
学徒ではなく、長い間、只、歴史らしくものをやっているだけ。
優秀な人間でまともな人間は、戦後には歴史学などに行かない。
今の日本では屑が歴史をやっていても、年功や上に諂えば、
何とか食って行ける。学問でも最低の分野だよ。
ググレカスって回答が付いてるだろ。
>>949 摂政は正式に天皇の仕事や役割を代行する公式な地位
臨時代行は文字通り臨時の代行、名代はその中間だな
iPS森口みたいの病的メンタルが博士やってんじゃね。
>>951 おいおい臨時代行は憲法・法律上の規定だぞ。
臨時代行が内閣総理大臣を任命することはあっても、
名代が任命することはない。
壇ノ浦で草なぎの剣と一緒に安徳天皇が入水されましたが、頼朝は非難とかされなかったのでしょうか。
義経が頼朝に非難されたのは承知なのですが。
理系の書いた本で、文系の歴史の専門家を
かなりひどく言ってたのがあった。
つまり、頼まれたから協力したが都合の悪いデータ
が出たら採用しないとか、勝手に発表しちゃうとか
およそ「学者の常識がない」というのが多いという話ね。
十分心当たってしまう・・
特に問題なのは都合のよいデータだけ採用、というので
都合悪いと「例外だろう」とか切り捨ててしまうというあたり。
これでは協力の意味がないし理系から見たら問題外
だろうねぇ。
石器捏造事件の後にポチポチこういう発言が見かけられて
文系の手法というか専門家がバカにされてるのがちと
悲しかったな。
>>954 現代でもだが、頼朝は天皇を守ろうとしたが
勝手に平家が連れ去り一方的に入水させた、という解釈が
多い。
こうして平家悪者説に利用されたりするのだが
冷静になると、源氏が悪い、ってのも十分に
普通の解釈ではあるかもね。
>>953 あ、そうだったのか?
名代のが格下なのか
失敬
>>956 ありがとうございます。
天皇に刃向かう時点で謀反とはならなかったのでしょうか?
そこはやはり勝てば官軍ということですか?
959 :
日本@名無史さん:2012/12/25(火) 16:49:11.88
勝てば官軍です。
官軍の古文書が多いし美化されやすいのも、否定できないのですが
負け組の史料が乏しいし、改ざんされてる可能性もあります。
歴史学者のツライところです。
>>958 平氏は官軍となるために安徳天皇を連れ去ったわけですが、
キでは、平氏に連れ去られた安徳天皇の代わりに後白河法皇の院宣により
安徳天皇の異母弟が即位して後鳥羽天皇になっています。
キではすでに安徳天皇は先帝と呼ばれ、後鳥羽天皇によって出された新年号が使われていたのですが、
平氏方は壇ノ浦まで安徳天皇を帝と呼び、安徳天皇の時代の年号を使っていました。
安徳天皇を擁した平氏が官軍で、源氏が賊軍であったわけではなく、
源氏は後白河法皇と後鳥羽天皇の命を受けており、官軍だったわけです。
平家が安徳天皇をもっと前面に出して
控えおろ〜、とするのもあったとは思うが
それすらも有効にならないほどの野蛮人みたいな
源氏ではあったんだろう。
実際に先帝とはいえ源氏は攻撃してるのだし。
だから源氏はもう少し日本史上の悪者でも
いいと思うし北条なんかもそうなんだが
あまりそういう朝廷に逆らった反逆者とは言われない。
やはり動乱の混乱中世というのが先にきてるんだろうなとは
思う。
イマドキの源氏ファンとはまた違う意味でね。
962 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 00:41:35.17
安徳天皇側(神器保持)VS後鳥羽天皇側(神器ナシ、治天の君の指名のみ)
どちらの天皇に正統性があるかは、微妙なところ。
少し前の保元の乱でも天皇方と上皇方に分かれて互いに弓引き合ってたじゃん。
964 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 08:50:17.38
戦国時代の俗的なことを勉強したかったのですが(その時信長はこうしたみたいな)、史料を読む勉強ばかりです
やりたいことが違ったとして進路を変えるべきですか?
好きだった日本史の勉強が苦痛でしかたないです
大学院入試も史料よみばかりだし、うんざりです
よきアドバイスを
965 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 09:50:02.32
>>961 平氏は保元の乱で先の帝である崇徳上皇に弓を引いてるぞ
三種の神器はあまりあてにならない
三種の神器ありの南朝が正しくてなしの北朝は反逆者だとは
必ずしもいえない
966 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 13:42:08.01
967 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 19:51:35.12
歴史学は、志す学生にとって、酷です。
上下関係や年功序列的なものがあり、師の説を覆すのはタブーです。
だから、捏造があるのも歪めません。
>>966 この人面白いなwww
所有してる車がかなり俗物ww
969 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 20:20:13.59
970 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 20:45:56.21
三種の神器について、いろんな学者が推測で書かれてますが。
皇室は、どのように考えているのでしょうか?
また、すべてを見た学者はいるのでしょうか?(見ても、何がなんだかさっぱりわからなく、信ずるしか・・・)
もし、現存するものがあるとして、
科学的に何時の年代に作られたか立証されているのでしょうか?
根拠は古文書に頼るしか無く、立証は歴史学者では無理では?
>>956 頼朝、その場に居ないじゃん。
居たのは、義経の方だよ。
奇襲とかやってばっかりで戦い方が汚いと、戦奉行から頼朝に報告がいったりしている。
>964
>戦国時代の俗的なことを勉強したかったのですが(その時信長はこうしたみたいな)、
やればいいじゃん。何でやらないの?命じられた事だけをやることが勉強なの?
>史料を読む勉強ばかりです
>やりたいことが違ったとして進路を変えるべきですか
で、史料は読めるようになったのかい?
史料を読むことが苦痛なら進路を変えた方がいいね。向いていないと思うよ
>>961 後醍醐天皇を島流しにしたり、
禁中並公家諸法度とか出したり、
清和源氏はそういうようなもの。
>>973 後醍醐天皇を島流しにした時は将軍さえ源氏じゃないだろ
三種の神器と言っても神剣の本物は熱田神宮で宮中にある宝剣は形代だし神鏡は伊勢神宮で宮中以下略
神璽以外は安徳帝のとこにはなかったはずじゃないのか
尾張って地名はどういう理由で付けられたのでしょうか?
>>970 いずれも実物を見た人は居ない筈です。当然科学的な分析など、されていよう筈がありません。
>>977 三種の神器についての宮内庁見解は「皇位とともに承継されるべき由緒ある物」。
皇室の見解もこの通り。
//www.kunaicho.go.jp/word/word-sokui.html
宮中三殿に祀られている三種の神器が学者に公開されたことはない。
年代測定もされていない。
しかし、戦前までは、明治天皇〜昭和天皇の一泊以上の行幸の際、
侍従が神剣と勾玉を持って随行するなど、
近代以降は目に触れないようにするものでもなかった。
櫃とか袋に入れて見えない状態でじゃないの?
>>976 the end of territory
日本武尊が攻めて獲るまで、三河から先は大体蝦夷の領域。
伊豆とか安房とか鹿島とかは以前から飛び地で日本領だったみたいだけれど。
越とかオワリとか暗示的だよね
>>980 そんなに近いのなら、逆に蝦夷が奈良に攻めてくることはなかったのですか
ローマ対ケルトみたいに
>>965 保元は自分の意思で天皇に逆らった
というのでもないでしょうしね。
>>971 その場じゃなくて、頼朝の意思が文書として残ってる
ということね。
>>973 よくわからないけど、もう少し直接的に悪役と
なりそうだけど結局は勝ったものの歴史となってるのが
今の日本史なんだろうなってね。
>>982 まぁ、神話に近くて推測100%なんだけど
奈良あたりは強力な勢力があって
逆にエミシ側が攻めてくる前に攻めて勝ってしまった
というところなんでしょうね。
エミシ側が攻めてくる歴史になっててもおかしくはない。
ただ土器とか見るとかなり早くから奈良勢力が関東まで
連絡はあったようだから、エミシ側の勢力がそんなに東北以西にまで
あったというのが少し古代解釈かもしれない。
おおまかにだけどね。
985 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 15:42:02.25
日本の近現代史78年周期説って本当だと思いますか?
>>983 源平合戦も源氏は後白河法皇の平氏追討令に従っただけで
独断で安徳天皇に弓を引いていたわけではないよ
平氏に勝ち都入りした源義経に対して後白河は
よくも孫の安徳天皇を追い詰めてくれたなと激怒成敗するどころか
官位を与えて厚遇しているのだから(後白河主催の雨乞いの儀式で雨乞いの舞を舞った白拍子の静を
義経に与えたのは後白河のおぼしめしという説もある)
>>986 源平合戦を保元と同じように扱うのは
どうだろう、あまりにタテマエ解釈に過ぎないじゃないかな。
具体的には、平氏追討令に従っただけ、というあたりね。
それに、後白河の対応というのはいつもその場限りで
あまり意味がないというか、源平合戦の根拠に用いるのも
少し拡大解釈だろう。
こういう話はすでにさんざんされて来てるのであまり
繰り返したくもないんだが、都合の悪いことを「〜だけ」みたいに
史料通りに解釈するのはそれこそ勝者の歴史で
本来の意味合いとは違ったものになってくる。
まぁ、安徳天皇を殺してもいいような後白河の令なので
悪いのは後白河であって源氏にまったく罪はないとか
そこを助けようとした頼朝はかえって忠臣で悪いのは全部平家とか
そういう意見が多い&強いのは十分承知してる。
後白河の令があったところで、天皇と三種の神器に刃向かった事実は消えないような。
989 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 23:06:56.49
三種の神器、本物が無いのだから・・・学者泣かせです。
990 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 23:39:44.14
>>987 あたかも源義経が頼朝の命により安徳天皇を捕まえて処刑したような書き方だが、
彼は敵の総大将平宗盛すら生け捕りしていて、安徳天皇の命を狙うようなことはしていない。
平時子が入水の道連れにして勝手に安徳天皇を殺しただけ。
一緒に連れていた安徳天皇の弟は源氏によって都へ戻されている。
991 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 00:00:15.96
二位の尼時子の「波の下にも都はございます」だよね。
安徳天皇の弟とは、後の承久の乱後・治天の君となる後高倉院だよね。
安徳天皇って、承久の乱を起こした後鳥羽上皇の兄なんだよね。
オレ的には、幼帝のイメージしかないが。
多分、安徳天皇が捕縛されたら、普通に京都に連れ戻されて六条天皇と同じように放置されていたんじゃないか?
ひょっとしたら承久の乱まで生きていたら、鎌倉幕府によって重祚とかという展開もあり得たかも。
その前に京都で廃帝として行方不明不審死か、隠岐配流か淡路配流途中に急死(謀殺)ですよ、きっと。
後白河は、草薙の剣にはご執心でも安徳天皇の生命には全くこだわらなかったのですから。
かといって自分の孫を自分の手を汚してまで殺すほどの理由がない
建礼門院も放置だし
後白河法皇は頭いいから安徳天皇が死ぬことぐらい承知で源氏討伐の理由にしようとしたんだね
自分で殺したら源氏討伐の理由にならない
殺さずとも何らかの方法で利用はしただろうけど
後白河は基本的には建春門院の子孫には甘くて、他の后の子孫には冷たい。
安徳天皇が建春門院の孫でなければ殺すところだが、建春門院の孫ということで殺すことまでは無いと思われる。
結果的に殺したじゃん
>>995 いくら後白河でも殺しはしないよ
あれほど対立した兄崇徳天皇すら流罪にとどめて殺さなかったんだから
この時代の皇族で処刑された人はいない、ましてや幼帝とはいえ天皇にまでなった人を殺すのは難しい
後白河は建礼門院がキに戻り妹婿らの援助で洛中に住んでいても特にとがめだてしなかった
源氏が建礼門院洛中にあるべからずと上奏するので、やむなく建礼門院は洛外の寂光院に移った
が、公家の妻となっていた建礼門院の姉妹たち(清盛の娘たち)はそのまま洛中に住み平穏無事に生涯を終えている
安徳天皇が都に戻っても後白河は特に処分は言わなかったと思うよ
まあ、鎌倉幕府の手前、安徳天皇は洛外の寺で出家は避けられなかっただろうけど
>>984 蝦夷は一枚板ではないぞ。
東部北部の雑多な連中ひとまとめにしてそう呼んでるだけ。
999 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 22:10:00.45
1000 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 22:10:45.28
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以上次スレでした
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