国の中央が九州から畿内に移ったってのは無いわな
953 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 13:02:49.36
大和朝廷はどうやって誕生したんだったかな。
畿内の勢力(王達が畿内に大王を共立した場合も含む)が統一したんだろ
>>950 まあ、奈良なんぞ、シカと遺跡しか観光ネタがない、ひなびたド田舎。
>>954 薩長が江戸に集結すれば、首都圏の勢力というレベル。
956 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 19:15:32.56
記紀をよめ。
神武は現住所は日向だけど、本籍地は畿内の王族。
だからこそ、神武東征は正統だと言っている。
神武を先導した畿内の豪族たちも、神武の親戚だったりしている。
また、神武東征の三代前にあった出雲国譲りは、畿内と出雲の戦争なので、
そういうところからも、神武の三代前の先祖までは畿内出身で、
だからこそ、神武の親戚はずっと畿内にいたのも分かる。
それを額面通り解釈すれば、すんなり謎がとける。
逆に言えば、神武の一家は、本籍地が畿内なのに
なぜ、三代ほども日向に住んでいたのか?
なぜ、出雲国譲りの後、神武の三代前の先祖のニニギは高千穂へ派遣されたのか?
要するに、ニニギ〜神武の系統は、畿内王権初期には傍系とされた一族で
九州日向の統治を任されてれていたことがわかる。
移住先で権力基盤確立し代重ねれば聖地化するんだよw
血統故地に権威は残せん対立の元になる。まあ、朝廷とハヤトの関係は胡散臭いもんがあるがな。
>>955 その通りだけど?
それが首都の力。田舎にいても政治力も政治力も発信できない。
都心の人間として生まれ変わらないと。
>>956 純粋な侵略者でも記述は変わらんだろ。
「ここはわが父祖の土地。」というのは支配を正当化するマジックワードになるんだから。
>>956 畿内を本拠地にしていたのはニギハヤヒだが?
記紀を読んだ事有るのか?
辺境の騎馬民族が中原取ったら中原を都にして人間も中華化しちゃうが、
中原の民が辺境をとってもそこには遷都なんてしない
文化的な求心力があるのは中原であり日本では畿内
蛮族が戦争に勝つからといって先進国民なわけではない
九州人が畿内に来たら
九州の文化が畿内に反映されるわけではないし、事実その痕跡も考古学にはない
畿内人として畿内の文化に染まって生きるようになるだけ
963 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 23:22:04.83
>>959 そう解釈する人もいるけど、普通に額面通り受け取ればよいよ。
出雲国譲りに関しては、出雲は父祖の土地とは言ってないわけだから。
また、神武の家系が、畿内王権が誕生した初期に
九州日向の統治を任されていた傍系王族ならば
本家本元の王族が別にいたわけで、それが重要なことなんだよ。
神武の一族が日向三代してたころ、畿内本国で大和王として君臨し
そして、神武一族から見たら、宗家にあたる、その一族の存在。
>>925 亀になるが、それを言うなら、
「九州も一度も無いが、山陰はもっとあり得ない」だろ。
九州は、「九州島+α」程度の、半独立在地勢力となることは十分に可能な立地。
例えば、大宰府を首都に、関東東北まで支配する(影響を及ぼす)、ということは、これは無理。
だが、山陰勢は、中国山地を越えて山陽を押さえることすら、地理的に極めて困難なんだ。
海路を掌握して、北陸へ影響をおよぼすことは可能で、実際に遺物も出てくるが、
どうしても、山陰の立地では、山陰拠点のままでは太平洋側へ出られない。
出雲の利点
日本海の海流を使い津軽まで簡単に行ける
帰りは多少時間が掛かるが大陸廻りで楽に来れる
瀬戸内海に出れば近畿四国九州まで船で移動できる、紀伊半島も当然
苦手は関東
水運を考えるとメチャクチャ地理的メリットが有るのが出雲
大黒様(大国主)は船に福を積んでやって来る
分かる気がする
>>966 河村瑞賢を、「超時空太閤ヒデヨシ2号」に仕立てるなよw
瀬戸内海に出ると言ったって、
出雲にしがみついて、いちいち関門海峡をぐるっと廻るくらいなら、山陽に拠点を移すだろ。
または、山陽か四国北岸の在地勢力に負けてしまう。
近世以降、西回り航路・北前船航路が機能したのは、
浪速をキーステーションとし、北海道まで伸びる物流網が、完全に機能していたから。
尤も、その苦手の関東(&東海)に、なぜか「出雲系」と称される神社が集中するのも不思議な話だ。
「出雲」のかなりの部分は、山陰とは直接の関係を持たないものだと思うけどね。
>>967 鎌倉はどこにも出られないぞ
それでも日本を統一した政権が有った
>>968 鎌倉政権の基盤は陸路ですよ。
関東南部の唯一の強みは、
関東平野から阿武隈・北上の構造谷沿いに、東北への直通路を開いて、青森まで一気に睥睨できること。
(だから、軍事的には常に関東>>東北となる。関東に軍事勢力が勃興すると、東北は常にピンチになる)
このサブルートとして、常盤沿いに楽々道を開くことも出来る。
さらに、難易度が少し高いが、碓氷越えで越後と結ぶルートを加えることが出来る。
この3つの放射状ルート(鎌倉街道上中下道)が、鎌倉幕府の第一の基盤。
これに、東海道が加わる。東海道は、山が迫る割に極端な難所が少なく、
最も厳しい難所である伊豆箱根は、ほかでもない、北条氏のホームグラウンドだった。
西国政権の明治政府に、「山陰…地形が厳しすぎ、僻地すぎるので行幸はしばらく無理」とまで言われた
山陰の地理的不利っぷりは、こればかりは否定しようがない。
山陰も川を使った水運を使うと楽なんだよ
瀬戸内側にも川を使った水運が有るしな
紀元前ぐらいの古代は街道が整備されてないんだから、陸路の利便なんて関係ない
水運を使って珍しいものを与えればそれで十分
戦をする意味も無い
神武東征は大部分が船で
陸路は伊勢からだけ
しかも伊勢からは道案内付きw
972 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 14:55:21.01
出雲王権が日本j海沿岸部に勢力が広がっていたのは
誰にも分かる話。
973 :
日本@名無史さん:2012/09/26(水) 15:10:54.52
普通に考えて、陸路よりも沿岸部を海路でいったほうが、
その当時は安全で速くて大量物資もおくれる。
大和も水運よかったしな
船によるだろうな
海人族による兵站輸送
977 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 07:57:35.13
江戸時代でも、水運のほうが、陸路よりも楽。
秀吉も小田原征伐では大坂から水軍で兵站(武器・兵糧・兵員)を輸送したんだよな。
陸路で兵士が重たい武具・兵糧を担いで行軍すれば兵士が疲労するだけだし非常に効率が悪い。
輸送業者がいればいいがそんなのもいない時代だしね。
平清盛が音戸の瀬戸や大輪田泊を整備したことばかりをいわないでほしい。
博多津の原形となる袖の湊を造ったこともいってほしい。
というのも、個別に言ったのでは、単なる港湾整備事業にしかみえないからだ。
だが全体をみると、「関西・九州を結ぶ高速大量輸送ネットワーク」を造ろうとしたのだと思う。
バラマキ公共事業よろしく、当時中継地として要衝だった厳島など沿線の整備にも大盤振る舞いしたから、
「環瀬戸内海海上経済圏」みたいなのができてたようだ。
清盛以降はご褒美を渋るようになったから、水軍の多くが源氏方に寝返ったけど。
都を内陸の京から、港湾都市・福原に遷したのも先見の明があると思う。
ひょっとしたら、「帝も巨大な宋船を見れば気が変わるかも」と思ったのかもしれない。
しかし志半ばにして挫折。わが国が再び貿易に乗り出し、文化の華が開くには、
源氏の流れを汲む足利氏の時代を待たねばならなかった。
そして関東で「文化」という言葉が使われたのは「元禄文化」が初めてのように思う。
980 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 19:30:01.33
源氏に養子として向かい入れた男の子がいました。
その子は孤児で、源氏から家紋と教育を受け、独り立ちしました目出度し
もしかしたら、「源氏の流れを汲む足利氏」かもしれませんw
981 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 05:37:32.11
日本列島は、中国大陸から見たら、細長い島国なんだから
基本的に沿岸部の航路を使った輸送がメインだろう?
そっちのほうが、大量輸送も可能だし、人が旅行するのにも安全。
前近代は、江戸時代ですら、追剥、辻斬りみたいな治安の悪いこともあって、
陸路で行くよりも海路で行ったほうが遥かに安全だよ。
魏志倭人伝でも、同じ北九州の至近距離は徒歩での移動だけど、
投馬国(出雲国?)、邪馬台国(大和国?)では、水行○日だから
外国人である中国人使節からしたら、日本海側沿岸部を船で移動したほうが
速くて安全だしね。
982 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 05:45:39.92
日本は縄文時代から殷と海上貿易してたんだろ?
船での海上輸送なんて御手の物だろ?
983 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 07:14:07.72
瀬戸内海なんて、実質的に
中国でいうところの長江みたいなもんだし。
邪馬台国の頃は馬も牛もないし、そもそも、馬や牛よりも
海上輸送のほうが安全で大量輸送が可能。
日本国内は海上輸送と言っても、沿岸部沿いにそって航海するだけで
西欧の大航海時代みたいに、何も見えない大洋を航海するわけではないので
羅針盤も必要ないしね。
984 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 19:04:36.02
やはり五斗長垣内遺跡は瀬戸内海の海上ルートから
畿内へ進軍するための橋頭堡なのだな。
985 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 03:14:01.05
986 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 08:03:01.64
じゃあ、あの遺跡は何なの?
987 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 08:36:05.57
単なる鉄器製造群落
梅
989 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 08:18:53.10
>>984 なんで、淡路島に
九州が畿内へ侵攻するための鉄器集落作る必要があるんだw?
あれは、どうみても、畿内を中心としたヤマト王権の下の
鉄器工房に過ぎない。
990 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 10:26:53.99
周辺のどこの勢力下なのかは知らんが、
鉄器独占のための隔離工房だろうな。
991 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 12:14:25.02
記紀などをよく読めば、次のことが見えてくる。
神武東征の前も後も、畿内が中心地で、日向は辺境の地。
神武さんらは日向生まれだけど、
本籍地は畿内の高天山(現在の金剛山)の麓にあり
どうも、そこが神武さんの曽祖父のニニギさんの出身地。
神武さんが畿内で戦闘した時に、
道案内した畿内の豪族(ヤマトスクネ、高倉下など)たちは、
神武さんの親戚たちで、いずれも、ホアカリの子孫たち。
ホアカリとは、ニニギの兄とも弟ともいわれており、
神武さんらや、ヤマトスクネ、高倉下さんの先祖は兄弟だった。
記紀では、神武さんが主で、ヤマトスクネ、高倉下が従みたいな扱いだが
各地にある伝承によっては、実は、互いは対等か、あるいは、
高倉下のほうが上位で、神武さんのほうが下位的な扱いだったりする。
などなど。
>>991 末文、そうすることによって
身分と位のバランスを取ったと思うな。朝廷と武家みたいな関係で
応神朝の天皇(倭の五王)は、日本列島に鉄や馬をもたらした日本古代史における一画期ではあるが、
中国南朝皇帝の一将軍に過ぎなかったという事実をいかにとやせん。ということが記紀編纂の動機だったのではないか?
994 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 12:30:11.25
ホアカリ=ホホデミ
神武天皇=ホホデミ
995 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 12:52:25.34
>>993 日本に鉄があるのは紀元前からだよ、たぶん。応神からではない。
馬をもたらしたのは、応神よりもちょっと前からだと思うけどな。
馬は身分の高い人の乗り物で、輸送や軍隊の主力には、なりえない。
日本のように、島国なうえに、国土の8割が山岳部の国では、歩兵が主力部隊。
身分の高い人たちは、歩くのが疲れるから、馬に乗って移動するが
基本、戦う時には、馬から降りて、戦う。
戦国時代、大大名化すると、海岸線沿いに、船で海上輸送するのうが
速くて安価で大量輸送できる。
毛利家とか、豊臣家みたいに、海岸線も抑えたうえで、石高数百万国とかになると
海上輸送が主力になる。
996 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 13:02:37.53
ホアカリこと彦火明命/天火明命。・・・尾張、海部、伊福部、ほか数多の氏族の始祖。
天照国照彦天火明命。
=天照御魂大神。(崇神天皇が宮居から放逐した天照大神)
なぜか、スーパーヒーローのはずの神武天皇(神倭磐余彦穂穂出見命)の御神名で祀る主要な神社が皆無(橿原神宮以前)。
くだらないけどごく解釈。
物=牛+物
牛=神への献上物。
よってものとは神への調え
998 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 16:06:39.45
>>991 なーるへそ
つーか、天皇家が在日だったことを証明している文だった
クレオパトラとカエサルの子カエサリオンが、エジプト王になったようなもんかな?
神武は鮫から生まれた鮫太郎だと記紀に明記されているだろうに。
奈良とは何の関係もないよ。
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