出雲国譲り・ニニギ降臨〜神武東征〜崇神治世★2

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日本@名無史さん
出雲国譲り・ニニギ降臨〜神武東征〜崇神治世という
ふうに流れて行った日本の創成期。
これを語ると、日本創世記の真相が見えてくる!?
語れ。

前スレ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1338802868/
2日本@名無史さん:2012/07/04(水) 09:27:17.73
・大陸に近い出雲と筑紫がまず発展し、互いに覇権を争っていた。
・筑紫の分家である神武一族が大和を攻略して新たに国を打ち立てた。
・後発の新興国家である大和が、本州の中心という地の利を生かして四方を制圧し、
かつての大国出雲や旧本国の筑紫を飲み込んで統一を果たした。

・卑弥呼は倭国=筑紫の女王であり、記紀に登場するどの人物でもない。

3日本@名無史さん:2012/07/04(水) 09:51:25.55
九州北部から邪馬台国が移動してきた、それが神武天皇の物語に反映しているという人がいるが、
それだったら、記紀神話の中で筑紫がもっともっと重視されなければならない。
ところがその筑紫が神代の巻では宗像の女神のほかは、まったくとりあげられていない。
大和政権は、畿内勢力の発展と見るのがよい。
4日本@名無史さん:2012/07/04(水) 11:35:13.20
応神天皇は筑紫の出身となっている。
神武天皇は日向の出身。
5日本@名無史さん:2012/07/04(水) 11:39:48.83
神武天皇はイワレ(桜井市)の土地神。
日向の出身であるわけない。
6日本@名無史さん:2012/07/04(水) 13:33:31.70
>>5
日本の正史である日本書紀に、神武天皇は筑紫の日向出身と明記してあるが?
あるわけないとかまるで根拠無しだなwww
7日本@名無史さん:2012/07/04(水) 13:34:45.19
日本書紀なんかによると、仲哀天皇は熊襲征伐で九州にやってきた。
山口や福岡に宮を築いてそこで暮らしていたらしい。
しかし、熊襲なんかほっといて新羅を攻めよという神のお告げを無視したために
急死した。だから、妻の神功皇后は新羅を攻めた。これが三韓征伐。

応神天皇は、仲哀天皇が死んでから筑紫で生まれている。
神功皇后が三韓征伐を終えて畿内に帰ると、香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を
起こして戦いを挑んだ。しかし、神功皇后はこれを平定した。

妙に複雑な筋になっていて、裏がありそうな感じもする。
8日本@名無史さん:2012/07/04(水) 14:30:51.10
>>6
日本書紀に神武天皇が筑紫の日向出身などと書いちゃおらん。
嘘つくな。
9日本@名無史さん:2012/07/04(水) 14:53:01.22
考古学者でも歴史学者でもいうこと全然違うしな。
たとえば、いわゆる邪馬台国畿内説の学者でも
学者によって、いうこと全然ちがう。
10日本@名無史さん:2012/07/04(水) 15:06:57.06
魏志倭人伝の中に、帯方郡から出発して邪馬台国へやってくるまで、
どういう方角をとり、どの程度の距離を通ってきたのかという記述が延々ある。
畿内説をとる人にとってぐあいが悪いのは、南と書いてあるのは実は書き違いであって、
ほんとうは東なんだというふうに、無理をしないと、魏志倭人伝に書いてあるとおりに
なかなか畿内にやってこない。
邪馬台国畿内説にはこういう弱点がある。
11日本@名無史さん:2012/07/04(水) 15:15:25.67
>>8
おいおい
だから良く読めw

神武天皇の父はどこで死んだの?  → 西洲之宮(九州)で死んだ
どこに祀られたの?        → 日向の吾平山上陵に埋葬した
神武天皇の最初の妻はどこ出身だ? → 日向国の吾田邑の吾平津媛(アヒラツヒメ)と結婚した
神武東征で最初に寄った場所は?  → 筑紫国の菟狭(うさ、大分県宇佐市)、それから筑紫へ
ニニギ降臨の場所はどこ?     → 筑紫の日向

親と妻が日向、東征出発地も日向(古事記には日向を出発したと有り、内容も日本書紀と矛盾無し)
日向以外が出身であると言う根拠を聞きたい
12日本@名無史さん:2012/07/04(水) 15:30:54.35
シャーマン的な力を用いて、国を納めていた 卑弥呼
(あの卑弥呼とは限らない、卑弥呼的な人?)亡き後 権力争いが起こっていた
ヤマトを統治する為、ナガスネヒコのもとに「マスオさん」としてやってきたニギハヤヒ。
このニギハヤヒは大変優秀で人望もあり、あっという間にヤマトを纏め上げた。
そこですでに日本の中心であった「ヤマト纏向」の地に
各地にある王国の代表・首都的機能「大和朝廷」を作ろうと考えた。
本来なら初代天皇になるはずだったのだが ニギハヤヒは早くに亡くなってしまう・・・
どうしようかと慌てたヤマト纏向側は、古くから交流のある(元は同じ出自の)
九州・出雲・丹後・琉球・その他の王国に相談をする、
すると日向に良い人材がいるという。 そこで派遣されて来たのが神武。

でもニギハヤヒの義父であるナガスネヒコはそれを認めず神武を拒む。
生駒から入れなかった神武は ナガスネヒコに見つからないように
グルっと迂回して 地元の協力者(ヤタガラス)の力を借りて何とかヤマトに入ることができた。
ナガスネヒコは「大和朝廷設立準備委員会」に抗議するが政権闘争に敗れてしまい
「ヤマトではやってられん」とばかりに兄のいる青森へ引越し。
残されたニギハヤヒの息子であるウマシマジは 神宝を神武に託し、
自分も政権中枢に入る。 ここに神武を初代とする大和朝廷の楚が成立。
これが神武東征の真実。

少し補足したが>前スレ994が書いてた通りだ。 記紀に書かれた神武東征はフィクション。
でも100%ウソは吐けないので事実を元に都合の良いように書かれた創作。
神武をヒーローに仕立て神格化することで
ニギハヤヒの系統よりも 「自分達のほうが正統だ」「格上だ」とするためのもの。
神武より以前に日本を統治していた者がいては都合が悪いのだ。
だからニギハヤヒは日本の歴史から消された・・・

でも奈良にはちゃんと残ってる。  表向きは何もないようになってるけど、
その真実を伝えるものが今でも数多く密かに残ってる。
ナガスネヒコ・ニギハヤヒの時代、それ以前から人が住み
これらに関係したその子孫が、今もずっと同じ地域に住んでいる。
13日本@名無史さん:2012/07/04(水) 17:09:45.60
>>12
纏向は崇神‐景行朝の都だろ? 神武は橿原。
100年以上時代観がずれてる。全然ダメだ。やり直し。
14日本@名無史さん:2012/07/04(水) 17:28:34.14
神武天皇は武力東征ではなく雇われ天皇であったのは同感。年代的には紀元前1世紀から紀元後1世紀の間。
15日本@名無史さん:2012/07/04(水) 18:12:43.30
そいつはやっぱり畿内で奈良からだけ銅鐸が出なくなる時期と関係があるに違いない
と踏んでるわけですかい?
16日本@名無史さん:2012/07/04(水) 19:35:07.87
>>13
まだ都と呼べるものではなかったが
大和朝廷成立以前から、
纏向をはじめ、三輪山の麓一体は政権の中心地としてあったよ。
でもそれだと都合が悪い神武派の系統の人達によって
歴史は変えられたのさ。

>神武は橿原
なぜ橿原に行ったのか?
三輪山の麓一体は本家本流正統であるニギハヤヒ派のお膝元。
神武派にとっては都合が悪いわけだよ。
だからそっち方面に行ったワケ。 
それで大和朝廷成立以降は
飛鳥や橿原近辺が政権の中心地になる←この辺は教科書に乗ってるよな
17日本@名無史さん:2012/07/04(水) 19:38:22.47
>>13
記紀を丸呑みして
教科書に書かれた日本の歴史をそのまま信じちゃいけないよwwwww
18日本@名無史さん:2012/07/04(水) 19:53:44.12
>>17
毎日、必死に書き込んでるけど
記紀よりも、お前の妄想の方を信じる人間は誰もいないぞ
19日本@名無史さん:2012/07/04(水) 20:19:33.19
こんな便所の落書きで持論を展開したところで、
説得される奴なんぞいないから安心しろw
もし自論を書きこんで共感を得ようなどと企んでいるのなら無駄だからあきらめろw
自論を書いて満足するだけのオナニースレで、
アンカーつけて自論を述べるほどバカげたことはないw
20日本@名無史さん:2012/07/04(水) 20:19:53.86
神武東征はいわゆる倭国大乱の時期に起こったと考えればすべて辻褄はあう。

卑弥呼を共立したという倭国は、やはり筑紫だ。
あるいは神武は、この共立王になれなかったので新天地を求めたのかも知れない。
21日本@名無史さん:2012/07/04(水) 20:27:42.00
景行天皇の九州遠征の中にも卑弥呼的なものを髣髴とさせる共立女王的なのがいるな。
福岡から大分にかけての九州北東部に。
22日本@名無史さん:2012/07/04(水) 23:00:58.96
熊襲に手を焼く景行天皇が、29カ国を従え、魏から倭王と呼ばれた卑弥呼に
簡単に勝てるとは思えない。
23日本@名無史さん:2012/07/04(水) 23:19:10.67
景行天皇の話で出てくる卑弥呼的な人物は本当に共立という感じで実権は無く、
共立王国軍みたいな軍に勝利したんでなくて、各個撃破したような感じだ。
24日本@名無史さん:2012/07/04(水) 23:20:02.83
>>22
熊襲と景行天皇が戦ったのなら
卑弥呼はどこに居たんだよw
25日本@名無史さん:2012/07/04(水) 23:38:16.77
>>21
あの九州遠征譚が本当に景行天皇の事績だったかどうかは疑わしいよな。
基本、記紀の片方にしか見えないエピソードは信用が置けない。

内容的にも、古墳時代前期にしてはちょっと古めかしい印象がある。
神武と同時代かそれ以前の九州内部の歴史伝承を、まとめて貼り付けたような感じ。
26日本@名無史さん:2012/07/05(木) 00:16:14.19
大和朝廷の統治の正当性を主張するために書かれたものということは常に留意して読まなきゃならないね。
27日本@名無史さん:2012/07/05(木) 00:48:03.92
佐賀の武雄は武雄心命で景行天皇本人だろ
28日本@名無史さん:2012/07/05(木) 02:25:37.32
記紀はハッタリばかり
正史が書かれてあるのは先代旧事本紀。
29日本@名無史さん:2012/07/05(木) 03:33:19.31
>>28
記紀からの劣化コピペと妄想ハッタリが大部分で、
貴重な伝承はごくわずかってのが正当な評価だろ。>旧事記
30日本@名無史さん:2012/07/05(木) 03:38:12.59
>>29
いやいや先代旧事本紀は天火明命の系図としては重要よ
海部氏勘注系図とも符合するし
>>28のようにハッタリ説には同意しないけどな
31日本@名無史さん:2012/07/05(木) 03:49:07.14
>>30
それらの部分を指して言ってるわけよ。>貴重な伝承はごくわずか
32日本@名無史さん:2012/07/05(木) 03:56:04.30
ああ、野党びこ野党美目になりたかったわまじ・・・
月命星射手座であの神後ろに陰野に俺はなにやってんだろう・・・
東京博多弾丸バス乗ったわ・・・

普通卑弥呼いたら神社になってんだから宗像杉だろ・・・
当時の中央政府かな?
33日本@名無史さん:2012/07/05(木) 03:58:06.39
>>31
貴重な部分はごくわずか?
お前読んでないだろ
34日本@名無史さん:2012/07/05(木) 03:58:01.19
嗚呼ごめん、卑弥呼じゃなくて三韓征伐のほうか・・・
いやしかし埋蔵品の年代は・・・
35日本@名無史さん:2012/07/05(木) 04:04:54.99
なんか全国の開運神社案内(¥2900)読んでるとよくわかるよ。
おすすめ杉
36日本@名無史さん:2012/07/05(木) 04:07:00.05
魏志倭人伝にでてきて魏の三角出てきたのか。
でもサイト原なのか、よくわからん・・
37日本@名無史さん:2012/07/05(木) 05:42:35.52
いま、日本で農耕で始まったのは、当初言われていたよりも古かったという説が
考古学界で有力になってきたんだろう?
だったら、卑弥呼のいた3世紀なんて、日本で農耕が開始されて千年以上
経過した時代だから、そのことを考えると
その当時も近畿を中心として国家統一したことは
およそ想像がつく。
38日本@名無史さん:2012/07/05(木) 05:48:11.30
宗像の遷座先厳島・・・で国宝ざっくざくの島々
木々の枝一本も持ち出し不可だった、その詳細も一切口外禁止・・・
で宗像の言霊解釈が・・・
39日本@名無史さん:2012/07/05(木) 05:52:54.02
オカルト板に負ける学問板・・・
もう一回言うよ
本を読むからわからなくなるのよ(愛子)
字というのは罠(オカ板コテハン)
40日本@名無史さん:2012/07/05(木) 05:55:26.01
オカ板コテハンを実名で上げる人皆無・・・まあいいや
41日本@名無史さん:2012/07/05(木) 06:01:53.21
経済板とかいろいろいんのね



すまん、考古学スレの白馬青牛たたきとまちがえたわwww
すまん、謝るわ。学術を広めてくれみんな
42日本@名無史さん:2012/07/05(木) 09:38:27.39
>>11
記紀読んでも間違いだらけ

>ニニギ降臨の場所はどこ?
43日本@名無史さん:2012/07/05(木) 14:14:05.99
>>29
事実を基に朝廷側に都合の良いように脚色されたものが「記紀」
正史が書かれてあるものが「先代旧事本紀」

なぜ旧事紀が偽書とされるのか?
朝廷側が捻じ曲げた都合の悪い事実が書かれてあるから。
44日本@名無史さん:2012/07/05(木) 15:16:06.96
>>1
旧事本紀は偽称だよ。条文の聖徳太子云々の話も嘘だし。
しかしながら、その当時、物部氏がどのような見解を持っていたのか
非常に注目に値するともいえる。
また、国造本紀に登場する行政区分も、かなり参考資料になる。
45日本@名無史さん:2012/07/05(木) 18:04:40.55
>>44
ニセにされたんだよ。なぜニセとされたか?
ホントのことが書いてるからだよ・・・
先代旧事本紀だけじゃなく
他の偽書とされたものも全て同じ理由。
46日本@名無史さん:2012/07/05(木) 20:47:38.75
旧事本紀は序文の本文の内容が時代的に乖離するから偽書
と言われるだけで、本文はかなり資料的な価値は高い。
47日本@名無史さん:2012/07/05(木) 20:52:36.06
記紀の劣化コピペだけど記紀に記述が無い部分だけは参考にはなる
48日本@名無史さん:2012/07/05(木) 21:40:36.06
俺不思議に思うんだが、一級記紀同士がなんで整合性ないんだ?
古事記日本書紀ですら一致しないんだろ?
49日本@名無史さん:2012/07/05(木) 21:42:06.30
司馬遼太郎の短編で海族と出雲族が戦争するみたいな神武の話があるけど
実際、海族とか出雲族とかの別れ方してたの?
50日本@名無史さん:2012/07/05(木) 22:47:48.02
>>49
あれは司馬遼太郎のファンタジー小説みたいなもん。
たぶん、司馬遼太郎が今、生きていたら、喜ぶと思うよ、
纏向遺跡の研究の発展とかに対して。
51日本@名無史さん:2012/07/05(木) 22:54:40.89
旧事本紀は、序文で、聖徳太子の時代に書かれたことになっているが
それはどう見ても嘘。
なぜなら、本文で登場する漢字名は、日本書紀に書かれているものであり
それよりも前の古事記に書かれているものと違うから。

しかしながら、中には参考になるものもあって、国造本紀のところとかそう。
あそこに、古い時代の行政区分があり、全部で約110か国ほどある。
これは、倭王武の上奏文に登場する国の数にほぼ比例しているから参考になる。

先代旧事本紀の世界 国造本紀
http://mononobe.digiweb.jp/kujihongi/kokuzou/index.html
52日本@名無史さん:2012/07/05(木) 23:28:41.30
>>48
伝承が方言の様に変化したのだろう
あとは立場と知識の違い
秋田のナマハゲはどうみても鬼だがナマハゲと呼ぶ
違いを調べる事で真実に近づけるのだ
53日本@名無史さん:2012/07/06(金) 00:00:14.25
>>52
それダイダラボッチと俗話される出羽一宮の神ですお
三瓶なんたらかんたらっていう長くて変わった名前の神社だよね
54日本@名無史さん:2012/07/06(金) 02:17:32.42
何これ?

127. 名無しさん
2012年07月03日 23:04 ID:IrWzXgrE0
霧島 鹿島 日光 霞ヶ関 アメノコヤネの正体

スカイツリーはカラクニダケ

http://oo77986455645.wordpress.com/
55日本@名無史さん:2012/07/07(土) 12:17:21.14
結局、纏向遺跡の研究の進展で
古代史の研究も大きく動き出したんだよな。
56日本@名無史さん:2012/07/07(土) 17:24:33.82
>>55
>研究の進展はあるが、それとともに混乱も生まれている。
纏向遺跡をどうしても邪馬台国、卑弥呼と結びつけたい、
研究グループとマスコミが存在するから。
マスゴミの方は何でも卑弥呼、卑弥呼と言っていれば、
一般大衆が興味をかきたてられると考え、
研究者グループは自らの妄説を証明しようとやっきだから。
仮に纏向遺跡が邪馬台国の遺跡だとしても、
それの裏付けになる仮説すら成立していない。
だから妄説になる。
57日本@名無史さん:2012/07/07(土) 17:42:28.25
五世紀以降の馬具やら、箸墓に壊された五世紀以降の古い古墳の件は
どうなったのかね?
58日本@名無史さん:2012/07/07(土) 20:56:07.30
書紀を読めば、纏向遺跡や箸墓古墳は崇神、垂仁の時代のものだと
ちゃんと記載されている。
それを疑うのは学問的には悪いことではない。
しかし、否定するのであればちゃんとした学問的根拠を示さねばならない。
考古学的な年代と書紀の紀年が合わないというのは
もはや常識レベルの話で、それによって否定するというのは
素人より劣るものになる。
まず否定ありきという風潮が奇妙な妄説を生む。
59日本@名無史さん:2012/07/07(土) 21:20:16.36
纏向遺跡は3世紀前半のものだ。
崇神、垂仁の時代であるわけがない。
60日本@名無史さん:2012/07/07(土) 21:51:17.19
本当にいた世界の巨人族って本買ってきた。
出雲巨大神殿って巨人族がいたからだとかだったりしてな
61日本@名無史さん:2012/07/07(土) 22:14:21.25
>>59
>纏向遺跡は3世紀前半のものだ。
その考古学的根拠は?
ある考古学グループによる編年設定?

>崇神、垂仁の時代
とはいつ?
その根拠は?
62日本@名無史さん:2012/07/07(土) 22:24:13.36
>>61
>纏向遺跡は3世紀前半のものだ。

根拠
纏向遺跡現地調査説明会資料 桜井市教育委員会

>崇神、垂仁の時代
とはいつ?
その根拠は?

根拠はwiki
崇神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
垂仁
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%82%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87
63日本@名無史さん:2012/07/07(土) 22:51:26.30
64日本@名無史さん:2012/07/07(土) 22:58:11.66
ここで書いてる出版関係の人の本より
ほんとうにいる世界の巨人族の方が売れると思うんだがww
巨人骨の写真そのままのってるよ?
65日本@名無史さん:2012/07/07(土) 23:34:19.72
66日本@名無史さん:2012/07/08(日) 00:53:07.80
やっぱ天つ神と国津神はどっから来たんだっていうながれになるなww
67日本@名無史さん:2012/07/08(日) 00:57:53.96
すると民主党員は吉本かワハハ本舗にいくことになるのか。
俺見るお?無料地上波テレビ番組でならねーw
68日本@名無史さん:2012/07/08(日) 01:01:59.76
そして法律も別に善に使う場合に限りだがやぶってもいいおっていう法律ができるなかな?
法治国家思想考えだした中国かなんかの奴はまあまあの頭のやつだったんだな・・・w
69日本@名無史さん:2012/07/08(日) 03:01:58.52
記紀を正史として考証すると
色んな所で辻褄が合わなくなってくる。
しかし
偽書とされてしまったもので考証すると
「あら不思議」ピタリと符合する事が非常に多い・・・

70日本@名無史さん:2012/07/08(日) 03:23:25.27
辻褄が合わない箇所があるのが普通だろ。
合わない辻褄を合わせちゃうから偽書なんだろ。
71日本@名無史さん:2012/07/08(日) 04:46:03.91
だってファンタシースターオンラインの方が正確なんだろ?ww
72日本@名無史さん:2012/07/08(日) 04:48:10.37
国書も聖書も読んじゃいけなかったんですねよくわかりましたw
73日本@名無史さん:2012/07/08(日) 04:49:47.57
ねえ体育の時間ってスーパー大事じゃね?
74日本@名無史さん:2012/07/08(日) 05:13:12.45
神話というのは、普通の人間を超えた者、神とか英雄とかを扱い、
そういう神や英雄を媒体にして国家、あるいは民族を描く文学といえる。
そういう大きなものの象徴として人間が描かれるわけだから、ギリシャ神話のばあいであれ、
日本の神話のばあいであれ、そこに出てくる主人公は、普通の人間の心理構造とか感情とか性格といったものを持っていない。
彼らは思いがけない惨酷なことをやってみたり、想像もつかない大らかな感情を持っていたりして、
それがまた神話の魅力にもなっている。
その神話について、正確不正確を論じるほど馬鹿げた話しはないな。
75日本@名無史さん:2012/07/08(日) 05:30:01.39
>>74
民族の歴史を語らない神話は存在しない。
神話の中に埋もれている歴史を発掘し、復元することは、ある程度までは可能である。
76日本@名無史さん:2012/07/08(日) 05:44:23.80
スター・ウォーズは正確ですw
指輪物語も正確ですw
ハリーポッターも正確ですw
77日本@名無史さん:2012/07/08(日) 05:53:11.97
うーん、会津磐梯山はどっこいショーかなんか忘れたけど江戸時代の危機を見越して作られ会津藩民を救ったとなると、
ファンタシースターの未来像のそのまた未来への応用となると、
そのうち9次元の更に上にいる絶対神がいる清涼殿に対応する星に行けるのかもしれない。
78日本@名無史さん:2012/07/08(日) 05:55:15.35
あーそういや初代ガンダムって
なんとかっていう神様が作者にかかって作られたとすると、
とにかくおれは各女性陣とエッチするぞー
79日本@名無史さん:2012/07/08(日) 05:57:16.08
そういう未来が自然速と人の行いで作られていくと書いとく。
やっぱ絶対神−1のところまでおれは行くつもりだ。
80日本@名無史さん:2012/07/08(日) 06:00:00.18
半人類って凶神に祈ってるんですか?
81日本@名無史さん:2012/07/08(日) 06:03:08.40
とにかくさしあたって
初代ファンタシースターもう一回渡航。
エベンキ族とか出てきて、北朝鮮住民がものすごくいいやつで描かれてたぞ?
82日本@名無史さん:2012/07/08(日) 06:05:41.85
記紀は正確ですw
83日本@名無史さん:2012/07/08(日) 06:40:10.73
>>82
どーせ宮内庁だろうが

宗教法人 記紀教
84日本@名無史さん:2012/07/08(日) 06:53:17.76
先代旧事本紀は正確ですw
85日本@名無史さん:2012/07/08(日) 07:25:01.67
>>83
最後にwと書いてあるのが読めねえのかなあ?
86日本@名無史さん:2012/07/08(日) 09:10:31.89
記紀は世界一正確な神話
神代を正確に語った歴史書だよ
87日本@名無史さん:2012/07/08(日) 09:20:54.72
>>66
天つ神は、ヤマト王権の親藩や譜代の豪族。
国つ神は、ヤマト王権からみたら外様の豪族。

徳川時代に例えるのなら
天つ神は、徳川家、松平家、水野家、本多家、井伊家みたいなもん。
国つ神は、前田家、毛利家、島津家、伊達家、上杉家みたいなもん。
そういうこと。
88日本@名無史さん:2012/07/08(日) 09:43:07.84
>>87
じゃあ、自然科学的にも神史道理ってことでしょうね。
神様のご新婚ってあるんですかね。なんか変な文章になってしまいましたが。
89日本@名無史さん:2012/07/08(日) 09:44:58.38
必死チェッカー使うにしても
流れ読んでんですかね?
90日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:16:16.30
>>62

一応上げられているのもにはすでにざっと目を通している。
特に記紀と矛盾するものはない。(書紀紀年は除く)
崇神、垂仁の時代は3世紀から4世紀。
問題になるとしたら、
>纏向遺跡は3世紀前半
ということになるだろう。
というのも崇神の時代は3世紀前半というよりも後半ではないか、
というのが多くの見解。
この調査による、
>3世紀前半
という根拠が曖昧。
遺跡から出てきた册を年輪年代法で鑑定できたとしても、
木を切り出した年=使用年ではない。
また土器による鑑定によるものだとしたら、
土器編年は学者によって、+−50年くらいの差が生じている。
(邪馬台国、ヤマト論者はできるだけ卑弥呼の活躍年代にまで下げようとしてる、
という批判もある)

細かい点には諸説あるが、いずれにしても、
纒向遺跡と箸墓古墳が崇神、垂仁の同時代に存在していた、
ということは否定できない。
91日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:47:18.81
程よく砂糖が加味された炭酸飲料っていうのがあったら買いたいが、
どんな味するかなあ・・・
92日本@名無史さん:2012/07/08(日) 10:53:28.45
絶対新て何飲まれてるんでしょうね。

うーん、絶対新っていう変換もまた味わい深い。


きっと、レブタリアンやうんこの粉末もふりかけられた
ココア風コーヒーとか飲んでることだろう。
93日本@名無史さん:2012/07/08(日) 11:43:07.39
>>90
ダラダラ書いてるが、結局、根拠はないが、
「纒向遺跡と箸墓古墳が崇神、垂仁の同時代に存在していた、
ということは否定できない。 」ということだなw
94日本@名無史さん:2012/07/08(日) 12:35:34.17
記紀に古墳と作ったとか
人の代わりに埴輪を埋めた書いてある
実際に古墳も埴輪もある

問題は年代だ、記紀は年代が変だ、これだけだ
内容は大体正しいだろう

出雲は記紀では重要視されていたが日本史ではほぼ無視されていた
だが大量の銅矛や銅鐸が出た事で注目される様になった
記紀は正しかったのだ
95日本@名無史さん:2012/07/08(日) 12:38:36.43
>>90
まあ、もともと、明治に決められた土器編年自体、
徐福伝説を膨らませて決めたというぐらい
怪しいものらしいから。

土器編年自体、絶対年代が分からないもので
纏向編年云々というよりも、これまでの考古学の通説自体
不確かで怪しいものというのが本当のところだと思う。
96日本@名無史さん:2012/07/08(日) 12:46:46.56
天つ神とは、ヤマト朝廷が地方王権(近畿地方限定の王権)だったころから
ヤマト朝廷の王族や家臣からの発祥した豪族たちのことで、
新撰姓氏録では、天神、天孫、皇別に分けられる。

一方、国つ神とは、ヤマト朝廷が地方王権だった時代に
それとは独立した全国各地の豪族から発祥した豪族たちで
新撰姓氏録では、地祇として分類されている。

このへんは、徳川幕藩の親藩、譜代、外様という分類に似ている。
97日本@名無史さん:2012/07/08(日) 13:14:43.92
ヤマト政権の前にハヤト政権が有ったんだよな?
98日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:06:08.82
すみません、大馬鹿なんだが
大和朝廷以前は天津神も国津神もいなかったんですか?
99日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:11:39.26
聖徳太子(厩戸皇子)・・・
あの祝詞考えたらとかんがえていたら、
せいんと・徳を西洋訳するとなんになります?
100日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:22:04.14
>>98
いました
http://ja.wikipedia.org/wiki/新撰姓氏録

神武天皇以後に分かれたのが皇別
天孫はニニギから分かれた氏族
天神はニニギと同時期に来た別の神の氏族
地祇はニニギ以前から居た神の氏族
諸蕃は中国や朝鮮やそれ以外の渡来系
101日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:28:29.68
平安時代でも、藤原や中臣は神別の天神系
皇別や渡来系でないとされてる
102日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:56:31.83
>>101
じゃあ反映するのも当然だろう、と書く
103日本@名無史さん:2012/07/08(日) 14:57:41.79
日本語中国語が優れているのか
google GJ!なのかな・・・
104日本@名無史さん:2012/07/08(日) 16:01:05.91
新撰姓氏録は正確ですw
105日本@名無史さん:2012/07/08(日) 16:26:09.96
12支
やっぱ元初にほんから渡っていった国順じゃね?
ネズミの考え方と韓国そっくりと思わんか?
先文にこだわらず色々考えようよみんな
106日本@名無史さん:2012/07/08(日) 18:27:59.92
>>100
それ、少し違うな。
天孫は、ニニギ以降ではなく
天照大神の子供からはすべて天孫だよ。
出雲国造家は、ニニギ命の叔父の天穂日命の末裔で、これも天孫とされている。

要するに、大きく三つにわけると

天神、地祇、諸蕃に分けられ

さらに、天神を細かく分けると
天神、天孫、皇別に分けられる。

アマツ神とは、葛城の高天地方周辺から発祥した豪族たちで
ここには、高天とか、高鴨とか、高尾張とか、天の香久山とか、
天神、天孫の発祥地と思われる地名が多く残っている。
徳川幕府でいうところの、三河の松平郷とか、岡崎とか、そういうところにあたる。
107日本@名無史さん:2012/07/08(日) 18:34:56.53
徳川幕府でも、足利幕府でも、家系によって
大名たちの分類を分けて差別化していただろう?

どちらも、自分たちが天下を統一する前、つまり、
自分たちが地方大名の一つだった時代の身分によって、
各大名の分類をしている。

つまり、徳川家や足利家の親族は特別扱いし
その次に自分たちの家臣から出世して大名たちにも大きな役割をあたえた。
逆に、自分たちとは最初から別個の独立大名は、あくまでも余所者扱い。
まだ、足利幕府の場合は、その辺は緩かったけど
徳川幕府なんて、かなり厳密に分けている。

ヤマト朝廷の新撰姓氏録も、そのへん、厳密に分けている。
108日本@名無史さん:2012/07/08(日) 19:14:00.38
ただ、新撰姓氏録では地神系が少なすぎると研究者には言われている。
本来地神系なのに天神系に入れ込んだ氏族は多いはず。
時代が飛ぶが、桓武天皇の生母高野新傘が百済武寧王の十代の末裔
という系譜が怪しいのと同じ。
どこの馬の骨とも知らない先祖を持ってくるわけにもいかないから。
皇子の嵯峨天皇の命によってできたというのも象徴的だ。
109日本@名無史さん:2012/07/08(日) 20:25:18.72
日本書紀の系図一巻と新撰姓氏録との関係を考えてみたい。
奈良時代も半ば頃になると、藤原氏がトップの座を占め、旧来の伝統的な氏族はだんだん衰える。
こうした氏族の新旧交替がすすむ情勢の中で、平安時代になると新撰姓氏録という本が作られる。
そういう社会情勢のもとで作られた新しい氏族志ができてくると、それ以前の日本書紀の系図一巻は、
むしろ邪魔な存在になったのではないかと思う。
一世紀前の社会体制にもとづいて始祖注を書きこんだ系図などは、ないほうがいいと考えた人がいたはずで、
藤原氏などはそうではなかったかと思う。
もっとも藤原氏は神別だから日本書紀の系図一巻にはでてこないが、藤原氏にしてみれば、自分の家の出てこない系図など、
保存に値しないと考えたに違いない。
新撰姓氏録の撰進が、日本書紀の系図一巻の滅びるべき原因をなしたのではないかと考える。
110日本@名無史さん:2012/07/08(日) 21:26:43.82
>>106
だーかーら、、、、ニニギまで血縁が無いって言っているんだーよー

23代 天之忍穂耳身光天津日嗣天日天皇(アメノオシホミミ)
24代 磐長姫(のちに猿田彦の婦人となる)
25代 天仁仁杵身光天津日嗣天日天皇(ニニギ)
  ↑
これが歴史上の時系列

契約の箱(アーク)は、第23代目の時に持ち込まれた
しかし、国王が不在の為、鶴のような遺跡に収納され、刻印が掘り込まれた
俺だって23代目しか接見した事がないのに、他の人が天照大神を拝める事は不可能
記紀は、嘘吐きが国家を乗っ取った時に書かせたもので、竹内文書が正真正銘日本史だ

ニニギの時代にアララトス山(富士山)から国民を降ろし生活を営んだら人口が約3倍に増えた
111日本@名無史さん:2012/07/08(日) 21:29:00.93
飛鳥昭雄系のトンデモ説はいらん
112日本@名無史さん:2012/07/08(日) 21:48:40.20
>>111

残念だねw

契約の箱(アーク)を用いて、竹内文書を肯定しているので、キミの否定は却下だよ
113日本@名無史さん:2012/07/08(日) 22:01:06.81
>>112
それは宗教的な考えだ
学問じゃない
114日本@名無史さん:2012/07/08(日) 22:16:21.64
竹内文書とか、オカルト系はどうでもよい。
115日本@名無史さん:2012/07/08(日) 22:20:09.19
ムー系の輩が紛れ込んでるから気をつけろw
116日本@名無史さん:2012/07/08(日) 22:29:22.80
>>109
律令体制以降、藤原氏は、貴族社会で唯一の勝ち組というぐらい繁栄する。
平安以降なんて、日本の貴族社会は、ほとんど藤原氏か皇別かというぐらいになる。

しかしながら、もともとの彼らは、天神系でも微妙な家柄だった。
祭祀の上では、忌部氏とともに、重要な役割を与えられていたみたいだが
政治的には中級貴族だよな。
記紀を見ても、新撰姓氏録の系図を見ても、さえない平凡貴族ってかんじ。

天神系の中では、
高皇産霊尊系とされる大伴氏が、
徳川幕府でいうところの大老や老中になれる酒井家や水野家みたいな立ち位置だとすると
津速産霊尊系の中臣氏は、微妙。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/029/02900.htm
117日本@名無史さん:2012/07/08(日) 22:37:19.99
記紀は藤原不比等が実質朝廷のNO1だった時に作られたものだから、
中臣氏が大きく取り上げられている。
そもそもタケミカズチやフツヌシが中臣の祖神というのが怪しい。
118日本@名無史さん:2012/07/08(日) 23:23:18.35
>>117
建御雷神は鹿島神宮の祭神だよ
中臣は鹿島神宮の宮司の家系だよ
先祖が天神という裏付けになる

ただ天皇から見れば主流の家系ではないし
関東からの移住であれば
中流以下の貴族の扱いだったのも当然
119日本@名無史さん:2012/07/08(日) 23:50:09.70
>>117
>そもそもタケミカズチやフツヌシが中臣の祖神というのが怪しい。

これ、大きな誤解。中臣氏は鹿島神宮でこれらを祭っていたこかもしれないが、
これらは、中臣氏の祖神ではない。
中臣氏の祖神は、津速産霊尊。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/02.htm
120日本@名無史さん:2012/07/08(日) 23:55:55.93
>>119
中臣氏は、もとは畿内豪族だけど、途中、鹿島に所領をもったものがいて、
鎌足の家系は、そこの支流だったはず??

【中臣氏/大中臣氏】 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02109.htm
121日本@名無史さん:2012/07/09(月) 01:25:04.71
記紀は巻末に
こう書いておくべきだったんだよ。

『この物語は事実をもとに再構成されたフィクションです』
122日本@名無史さん:2012/07/09(月) 01:28:11.15
この物語は事実をもとに
時の権力者が自分の都合の良いように
さも自分達が正統であるかのように見せる為に
再構成したフィクションです

このほうが正しいなwww
123日本@名無史さん:2012/07/09(月) 01:37:52.88
事実の断片を組み合わせたんだと思うけど、誰がやったとか何時やったとか、
そういうところは自分達が正統であるかのように見せる為に再構成したんだろうな
124日本@名無史さん:2012/07/09(月) 03:07:01.26
・神武より以前に日本を統治していた人物が居ては困る&都合が悪い
・皇祖神がアマテラスで尚且つ女神でなければ困る&都合が悪い
だから

本当のアマテラスの正体やニギハヤヒ
それに関係すると思われる
月読や瀬織津姫が歴史から消されたんだろうな・・・
125日本@名無史さん:2012/07/09(月) 03:31:23.64
素神が正しいのは絶対である。心せよ。
126日本@名無史さん:2012/07/09(月) 03:34:57.81
創価学会の見解はどうなんだろう。
見解を!!
127日本@名無史さん:2012/07/09(月) 03:36:08.44
創価学会は観念論を唱えているのだろうか・・・?
128日本@名無史さん:2012/07/09(月) 03:44:02.54
在日のDNA,一応わかってる医師はいるはず。
タバコ耐性があるかなしかなどで、普通の医師でもDNAの把握は一部可能である。
129日本@名無史さん:2012/07/09(月) 03:50:09.04
半人累計の生殖細胞がバレると不味いと看護師が言ってます。
130日本@名無史さん:2012/07/09(月) 14:47:20.44
>>12
>>122
>>124
概ねその通りだろうな。
131日本@名無史さん:2012/07/09(月) 15:38:03.07
>>130
かなり違うと思うよ
アシハラには大国主が居て国を強制的に譲ってもらったと明記してるし
畿内には同じ天孫のニギハヤヒがいるとも明記してる
神武天皇以前に王が居たと明記してる

都合悪い事は書かなかっただけだろう
欠史八代の様にな
あとは細部の変更ぐらいだな
捏造なんかしたら、くそみそに非難する記録が各地に残る
132日本@名無史さん:2012/07/09(月) 16:09:47.28
>>131
何を言ってるんだよwww
奈良にはちゃんと残ってるんだよ(その事実は一切伏せられてるが・・・)
133日本@名無史さん:2012/07/09(月) 16:20:47.76
>>131
>畿内には同じ天孫のニギハヤヒがいるとも明記してる
>神武天皇以前に王が居たと明記してる
だからその神武東征のくだりがフィクションなんだよ。
事実は>>22の言ってることが大体あってる。

>捏造なんかしたら、くそみそに非難する記録が各地に残る
だから正史が書かれてる他の文書は
全て偽書扱いにしたんでしょ? 都合が悪いから。
134日本@名無史さん:2012/07/09(月) 16:35:36.00
>>133
記紀が偽書で正史が書いてあるのが他に有るなら
記紀以外は同一の内容になるはずだが?
事実を書いてある古文書って何?
135日本@名無史さん:2012/07/09(月) 16:37:49.87
ニギハヤヒが天孫だとは、記紀に書かれてないぞ。
ニギハヤヒは、天つ神だとは書かれているが。
これは、凄い大きな違いだ。
天つ神とは、天神のことで、
更に、その天神の中でも、天照の後胤が、天孫。
136日本@名無史さん:2012/07/09(月) 16:46:56.00
>>156
正確には天つ神とも書いてない
「厥飛降者」飛び降りた者だ
137日本@名無史さん:2012/07/09(月) 16:47:55.04
>>136
>>135のレス
138日本@名無史さん:2012/07/09(月) 17:40:56.44
>>131
>>134
神武東征の真実を知ってる人からすれば
記紀なんて週刊誌のネタみたいなものなんだよwww
「よくそこまで都合よく事実を捻じ曲げられるねぇ・・・」てな感じ。
139日本@名無史さん:2012/07/09(月) 18:25:32.74
>>138
オマエの信じてる真実は完全な間違いだぞ
証拠はオレが知っている
反論どうぞ
140日本@名無史さん:2012/07/09(月) 19:27:33.07
記紀ではニギハヤイは出所不明の天神。
旧事本紀で実は天孫だった、と新たにくけ加えられたもの。

神武東征は、
>都合よく
河内で負けて、
>都合よく、
兄のイツセが死んで
>都合よく
ヤマトにいた勢力をだまし討ちし
>都合よく
物部がナガスネヒコを裏切って
>都合よく
ヤマトに建国した。
141日本@名無史さん:2012/07/09(月) 19:34:15.30
そりゃあ後から勝者の事跡を見れば都合よく、になりますわな。
旧事本紀ってのは記紀を見てから書いたわけでしょう?
偽書とまでは言わないけど重要度信頼度で記紀を上回ることはないのは当然じゃないんですかい?
142日本@名無史さん:2012/07/09(月) 20:22:39.49
釣り針を無くして虐められたり
流れ矢に当たって兄が死んだり
前妻の実子が反乱したり
祟りを畏れて出雲や三輪を祀ったり
ヤマトタケルが親を恨んで死んだり
歴代天皇の数々の愚かな行為が書かれていたり
記紀を読めば読むほど天皇賞賛の書でない事が分かる
唯一の誇りが天神の子孫、天孫だってことだけ
143日本@名無史さん:2012/07/09(月) 20:30:42.46
目弱王って凄い名前だよね、なんでこんな名前なんだろう。
144日本@名無史さん:2012/07/09(月) 20:38:14.03
記紀って天皇にとって都合が悪いことも書かれてるよね。
全体としては正当性を主張する流れだけど。
145日本@名無史さん:2012/07/09(月) 23:22:25.17
亀レス。
菅原天神っていう場合はどうなったことを指すんですか?
おれの知識では、本当に天神になったのであり、
つうことは天津神系の人で神上がりしたってことでいいのかな?
146日本@名無史さん:2012/07/10(火) 00:47:29.91
記紀で明らかに修正加えているのは、大化の改新のところ。
漢文のプロの森博達先生が指摘していただろう?
彼曰く、日本書紀は、正しい漢文を書くために、中国系1世の学者を招いて
書かしていて、そこは正しい漢文で書かれているのだが
その修正を加えたところだけ、
その当時の日本人のよく間違う漢文の臭さが出ているんだと。

そりゃ、そうだな。もともと、改革派は蘇我氏で、保守派が天皇家と中臣氏だったのに。
よって、大化の改新の功労者は蘇我氏なのに、いつのまにか、
天皇家と中臣氏の手柄にされ、しかも、彼らは蘇我氏の嫡流を滅亡に追い込んでいるわけだから。
そりゃ、バツが悪いだろう?
147日本@名無史さん:2012/07/10(火) 00:58:05.15
藤原氏が記紀で正直だと思ったのは、藤原氏の先祖は
ヤマト朝廷の中でも中流クラスの貴族だったツーことかな。
その後の繁栄ぶりでは想像もつかないレベル。
ただし、政治的には無力でも、祭祀の上で重要な役回りだったので
中臣氏は、天皇家の近づけたんだな。
148日本@名無史さん:2012/07/10(火) 01:02:31.64
>>145
本当かウソかは知らんけど、Wikiによると

天神信仰(てんじんしんこう)は、天神(雷神)に対する信仰のことである。
特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。
本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり
特定の神の名ではなかったが、
道真が死後火雷天神と呼ばれ雷神信仰と結びついたことなどを由来とし、
道真の神霊に対する信仰もまた天神信仰と称するようになった。
149日本@名無史さん:2012/07/10(火) 01:04:14.43
修正ではなくて、書き手が中国人から日本人に変わっただけだろ。
それに、蘇我氏が外国を利用して天皇家を脅かすまでに成長したから
入鹿誅殺に至ったわけで、何も隠してないやん。蘇我の改革なんか誰も横取りしていない。
そもそも、改革と改新は言葉の意味が違うけどごっちゃにしていない?
150日本@名無史さん:2012/07/10(火) 01:22:29.23
日本書紀の謎を解く―述作者は誰か (中公新書) 森 博達 (新書 - 1999/10)

日本書紀 成立の真実 - 書き換えの主導者は誰か 森 博達 (単行本 - 2011/11/9)
151日本@名無史さん:2012/07/10(火) 02:15:02.72
ここのスレを奈良のとある地域に住む
末裔の人達が読んだら大笑いするだろうな。
「記紀に書かれた神武東征を信じてるよ・・・」とwww
152日本@名無史さん:2012/07/10(火) 02:16:51.62
>>145>>148
天神様の天神は武塔天神とか牛頭天王とかと同じで、
後世新たに中国や半島から伝来した神観念だから、
日本古来の天津神とは意味合いが違う。

そもそも天津神・国津神のことを、中国由来の用語で
天神地祇と訳して言うのも、本来あまり好ましくない。
153日本@名無史さん:2012/07/10(火) 02:26:38.01
>>152
どこが音読みなの?
天津神・国津神なんて中国に無いぞ
154日本@名無史さん:2012/07/10(火) 02:37:36.49
ああ天神地祇が中国由来ね
それなら同意
あと牛頭大王は習合だと思うが
155日本@名無史さん:2012/07/10(火) 02:52:19.24
>>151
イワレ?
156日本@名無史さん:2012/07/10(火) 02:57:20.07
奈良にイツセは有るのか?
157日本@名無史さん:2012/07/10(火) 04:45:52.68
「欧州最古 アルタミラ洞窟壁画 4万年以上前と判明も 須(すめら)も判明」

oo77986455645 .wordpress.com/about/

「まず尖閣諸島について皆さんに知っておいて頂きたい / 
国生み神話で有名な淡路島と天の橋立のラインと文化で守り管轄しているからこそ日本の領土であると言えるのです」
158日本@名無史さん:2012/07/10(火) 08:05:34.97
天津神と国つ神は、日本由来だが
それを漢語の天神地祇で表しただけだろう?
159日本@名無史さん:2012/07/10(火) 08:11:05.68
神武東征の意味を後世の人間が間違えてとらえているのが真相だと思う。
記紀の書き方だと、九州日向の王朝が東征して、近畿に移転したみたいな
イメージがわきやすい。
でも、実際は違うんだな。
ワカミケヌ(神武)が、東征する前も後も
倭国の中心地は近畿にあって、倭国の首都の位置はかわってない。
また、ワカミケヌは九州日向の出身だけど、彼の祖先はやはり近畿の出身で
彼の家は九州南部で分家していたんだけど、ワカミケヌの代で
ニギハヤヒのクーデーターの鎮圧を機に、再び近畿に引っ越ししただけなんだよ。
160日本@名無史さん:2012/07/10(火) 11:01:06.15
要するに、地方から成り上がり者。
161日本@名無史さん:2012/07/10(火) 12:02:26.88
>>159
>ニギハヤヒのクーデーターの鎮圧

これが大間違い
神武が大和に入った時点でニギハヤヒはすでに亡くなっている。
ニギハヤヒが初代天皇になるはずだったが
早くに亡くなってしまったから、その代わりに神武が派遣されたんだよ。
162日本@名無史さん:2012/07/10(火) 12:52:53.00
自分たちで親戚だって言ってるしな。

むしろ、神武東征から見えてくるのは
現代に生きる人間にはちょっと理解できない血統主義への執着だな。
163日本@名無史さん:2012/07/10(火) 13:00:28.66
狩猟・牧畜社会は比較的身分の階層構造が単純で、トップは選挙制が多い。
古代ギリシャ・ローマや草原系の中央アジア諸国は帝国成立以前は選挙だった。
一方でナイル流域のように農耕社会は血統主義が古代から強い。

そして農耕社会は太陽神(火神)を頂点とする多神教社会を構築する。
インドや南米も同じ。
これはどういう理由があるんだろうな。
164日本@名無史さん:2012/07/10(火) 14:04:58.54
>>162
親戚だからこそ、疑問符が付く。
出雲国譲りから三代経過して、天皇家の先祖は辺境の日向にいたけど
その天皇家の親戚筋は、豊かで繁栄した畿内にずっと住んでいた。
165日本@名無史さん:2012/07/10(火) 14:30:48.38
>>164
>天皇家の先祖は辺境の日向にいたけど
>その天皇家の親戚筋は、豊かで繁栄した畿内にずっと住んでいた

逆だよ逆。
正統本流が畿内 親戚が日向・出雲・丹後
畿内に居たニギハヤヒが亡くなって
親戚の神武が日向から派遣されてきた。 でも
ニギハヤヒの義父であるナガスネヒコは
「正統本流であるニギハヤヒの系列から出すべきだと」と反対。
しかしニギハヤヒの息子であるウマシマジはまだ幼かったので
結局神武になってしまった。 これが神武東征の真実。
166日本@名無史さん:2012/07/10(火) 14:38:22.99
>>165
なら、なんで天孫降臨を高千穂にしたんだろうね…
初めから近畿にすればよかったものを
167日本@名無史さん:2012/07/10(火) 15:57:23.74
>>165
ニギハヤヒの正式名称は
天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命。略して櫛玉命。
櫛玉=奇霊(くしたま)=形見であり、

要するに、
天照国照彦天火明の形見のニギハヤヒ命
という意味。

天照国照彦天火明とは、皇祖ニニギの兄弟とされている者で
ニギハヤヒ命は、その人物の形見の者だと自称してたことになる。
だったら、ニギハヤヒは天孫になるはずだし、
ニギハヤヒの末裔の物部氏もそう自称してたが

皇室が編纂した新撰姓氏録では、ニギハヤヒや物部氏は天神とされ
天孫と認められていない。
168日本@名無史さん:2012/07/10(火) 15:59:30.91
>>166
だから、近畿から高千穂へ送り込まれた分家筋だったんだよ、皇祖ニニギは。
江戸から和歌山や尾張に送り込まれた徳川御三家みたいなもん。
169日本@名無史さん:2012/07/10(火) 17:01:15.33
>>168
そうなってくると、なぜ分家を皇祖にする必要があったのかな?
神武の前の代を皇祖にしてもよかったんじゃ?
170日本@名無史さん:2012/07/10(火) 17:19:49.09
というか、天孫降臨を近畿にして、降臨した人を皇祖にすりゃよかったんじゃ?
天孫降臨じたいは、天皇が神の子孫にするための物語だしね。
近畿に初めから勢力があったんならなんで回りくどい物語にしたんだろう?
171日本@名無史さん:2012/07/10(火) 17:25:54.00
権威搾取だろw
南九州に何がしか関連付ける必要が在ったんだろう。
172日本@名無史さん:2012/07/10(火) 17:32:33.64
出雲を屈服させるほどの勢力が他の権威を欲しがるとも思えないが…
173日本@名無史さん:2012/07/10(火) 17:44:20.57
穿った見方をせずに単純に考えれば良い。
他の畿内豪族にも知れ渡っていたから隠しようがなかったんだろう。
畿内から派遣して数代後にまたやって来た。そのまま。
174日本@名無史さん:2012/07/10(火) 17:49:55.35
>>173
分家作るほどの勢力なら、なんで、分家を皇祖にしたのかがわからない。
素朴な疑問さ
175日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:40:41.76
本来なら神武イワレヒコはヤマトで生まれ育って、
ヤマトで王になったという方がより正統性を持たせられる。
日向から来た事実が尊重されたはずだ。
隼人がそのキーになりそうだ。
176日本@名無史さん:2012/07/10(火) 21:41:30.89
ということは、
近畿vs出雲で勝利して日本全域を制圧。
出雲領地の日向にニニギを派遣
畿内でクーデター発生
神武天皇が救援に駆けつけて長脛彦を倒し即位

って感じなの? で、畿内でクーデターが起こったソースはあるの?
177日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:04:08.62
>>162
だねえ
ともかく異常とも言える執着が有る
権力を失っても血統さえ残ればおkみたいな感じだ
三種の神器がとてつもない物だったのかな
178日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:09:44.83
ソースは知らないけど考えたりするよ。
クーデターで畿内本家滅亡→分家の神武が…ってストーリー。
ソースが無いなら空想だけど。
179日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:33:14.50
分家でも何でもないから、というのが常識からしても記紀の記述からしても妥当。
180日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:41:35.12
>>178
ごめん、非難するつもりじゃないよ。よく目にする話だから、ひょっとしてそういう古文書があるものかと。
181日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:01:29.12
そんな謝らなくていいよw
こっちこそごめん。
そんなつもりじゃないから。
ソースがあったら知りたいな。
182日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:04:05.85
記紀を読む限りでは、確かにヤマトには有力な勢力として
ナガスネヒコ(及び物部連合)がいたが、他にも部族がいて、
神武に抵抗したという話になっている。
さほど強固な王権が存在してわけではない。
183日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:04:15.10
稲持って船に乗って来ましたな
184日本@名無史さん:2012/07/11(水) 01:57:39.83
>>167
>皇室が編纂した新撰姓氏録では、ニギハヤヒや物部氏は天神とされ
>天孫と認められていない

皇室が編纂←ここがミソ
自分達にとって都合が悪いから天神とされたんだよ・・・
185日本@名無史さん:2012/07/11(水) 02:28:31.03
>>184
天神の方が格上だと思うぞ
意外だろうが古事記だと天孫と言う言葉は全く出てこない
ニニギは天神の御子になってる

日本書紀だと天皇も天孫と書かれているので
天神ニニギの家系が天孫になるようだ

>>183
伊勢神宮には、米は斉の御田から天照大神が持ってきたという伝承が有る
でも記紀だと稲を持って来たのはスサノオみたいだ
稲の伝来はかなり古そう
186日本@名無史さん:2012/07/11(水) 05:20:13.84
>>187
違う。もともとは、天神、地祇だけの分け方だったけど
そのうち、天神の間でも差別化され、
天照の子孫は天孫、その中でも神武以降は皇別というふうに
さらに細かく分類されたのが本当。

>>184
だから、ニギハヤヒは、自分は天照国照彦の櫛玉命(御落胤の皇子)と自称して
義理の兄のナガスネヒコとクーデターを起こしたので
神武、高倉下、ヤマトスクネらに鎮圧されたんだろう?
187日本@名無史さん:2012/07/11(水) 05:57:28.93
>>186
は、>>187ではなく、>>185な。
188日本@名無史さん:2012/07/11(水) 06:06:37.18
>>174 :日本@名無史さん:2012/07/10(火) 17:49:55.35
>>173
>分家作るほどの勢力なら、なんで、分家を皇祖にしたのかがわからない。
>素朴な疑問さ

だから、どこでヤマト朝廷が始まったのかが問題なんだろう?
詳しく言うと、誰が初代天皇だったのかが問題。

たとえば、徳川幕府を例に出すと

徳川将軍は、8代吉宗や、15代慶喜が、遠い分家出身の将軍だった。
しかしながら、彼らはいくら遠い分家出身の将軍でも
正統性について問題ないわけだ。
なぜなら、二人とも、初代将軍の徳川家康の男系子孫だから。

しかしながら、徳川幕府の初代将軍が、家康ではなくて
秀忠や家光からだったら、どうなるかだ?
その場合、吉宗や慶喜は、秀忠の弟の男系子孫ではあるが
秀忠自身の男系子孫ではないので、微妙に正当性が揺らぐわけだ。
189188続き:2012/07/11(水) 06:19:56.41
つづいて、足利幕府を例にだすと、

足利家の分家について考えてみると、足利家の分家の間にも
差別化があって、いつ、分家したかが重要だった。

鎌倉時代には、足利家の分家の中でも、
尾張足利家(斯波氏)、三河足利家(吉良家)は
足利宗家に次ぐ格の高さであり、
足利宗家に何がある場合は、宗家を継ぐ有力候補とされていた。

しかしながら、室町時代になると、
尾張足利家(斯波氏)、三河足利家(吉良家)も、
格下の足利分家の細川家と殆ど同列のように扱われる。
それは、足利尊氏が初代将軍になり、足利幕府を創設したからだ。
それによって、足利家の中でも、初代将軍の尊氏の男系子孫とそれ以外の間に
大きな差別化された。

よって、よく、足利将軍家が絶えれば、吉良家、それが絶えれば今川家みたいな
話が伝わっているが、実際は、吉良も今川も足利将軍家を継承する可能性は
限りなくゼロだった。
なぜなら、室町時代を通して、足利尊氏の男系子孫である多くの公方家が存在していたからだ。
堀越公方家、古河公方家、平島公方家などだ。
これらを差し置いて、吉良家や今川家、斯波家が継承することは、
微妙に足利尊氏による足利幕府の王朝交代を意味するので、無理だった。

190189続き:2012/07/11(水) 06:27:55.03
じゃ、天皇家の場合はどうなのか?だ。
出雲国譲りで真の初代天皇が誕生したとして、
神武はその九州分家だったとする。
だとしたら、神武は初代天皇ではなく、5代天皇だとか、8代天皇で
まずかったのか?だが、まずかったのだろう。
その出雲国譲りの時の初代天皇が誰だったのか?って問題。
その時の神武の祖先はニニギだけど、ニニギはその時、辺境の日向に左遷された。
だから、ニニギは初代天皇になれなかったのだろう。

では、誰が初代天皇になったのか?
それが全ての謎の真相。
191日本@名無史さん:2012/07/11(水) 07:14:54.15
>>190
ふむ。何となくわかった。
ニニギは近畿勢力の覇権争いに負けて高千穂に落ち延び、その孫の神武が覇権奪って大和政権樹立した。
こう考えたほうが、まだすっきりくるな。分家で後継ぎに呼ばれたって考えるより。
記紀には最近興味もって、色々な本読み漁ってる。貴重な意見ありがとう。
次は、九州発展設についても調べてみます。
192日本@名無史さん:2012/07/11(水) 09:00:51.55
オマエら駄目だなw
真相はこれだ
アマテラス軍は国譲りで日本を支配すると、次は中国に挑み征服したんだよ
だから九州を前線基地にした

その証拠に中国にも似た神話が有るだろ
そして中国を征服するとインドも征服した
インドと古代中国と日本の神話は似ているところが有るのはこういう訳だ

ニニギは日向の高千穂に降臨した後、さらに西に宮を構えている
日本はもう眼中に無かったのだ
193日本@名無史さん:2012/07/11(水) 09:50:55.57
九州分家の神武皇統が天皇になるということは、
足利将軍家の将軍職に、
分家の吉良家や斯波家から将軍を出すようなもの。

足利将軍家の将軍職に、堀越公方家や古河公方家から出すのなら
足利尊氏による足利幕府は一応、継承されたとみるべきだが
初代将軍の尊氏よりも前の代に分かれた吉良家や斯波家から将軍を出したのなら
そこで微妙に足利王朝が交代したことになる。
194日本@名無史さん:2012/07/11(水) 10:10:19.56
その割に日向って大和朝廷の支配下に入った時期が遅かったよね?
従わない異民族という認識で差別されていたものに北の蝦夷と南の隼人がいるが
日向の一部も隼人と認識されていた
195日本@名無史さん:2012/07/11(水) 10:38:29.46
>>194
明治維新の時に東北と鹿児島が反乱したのと同じ
大和新政権が気に入らなかったんだよ
196日本@名無史さん:2012/07/11(水) 10:52:09.15
>>194
だからよハヤトはどう云う差別受けてたんだよ?それを挙げてみろと散々質問してんだが挙げる奴が一人も居ない。

大和朝廷の記録に在るハヤト差別の記録を誰か出してくれ。
197日本@名無史さん:2012/07/11(水) 11:00:20.70
>>196
兄貴分なのに弟の下になった
酒宴で滑稽な踊りを踊らされた
198日本@名無史さん:2012/07/11(水) 14:00:17.15
>>186
>ニギハヤヒは、自分は天照国照彦の櫛玉命(御落胤の皇子)と自称して
>義理の兄のナガスネヒコとクーデターを起こしたので
>神武、高倉下、ヤマトスクネらに鎮圧されたんだろう?

まだそんな与太話を信じてるのかい?
記紀を丸呑みしたらダメだよ。 
記紀に書かれてる神武東征はフィクション。
事実・真相は違うんだよ。
奈良にいる末裔の人達には口伝やその他で
真実がちゃんと伝わってるんだから。

もちろん公にはできないけどね・・・
199日本@名無史さん:2012/07/11(水) 14:00:53.33
隼人といっても、為政者はヤマト朝廷と同族だが
被支配階層は、現地の異民族だろう?
200日本@名無史さん:2012/07/11(水) 15:09:18.47
何も難しく考える必要はない。
記紀の記述はある程度の史実をもとに編纂されている。
九州の神武が畿内の原住民を征服して大和朝廷の基礎をつくりあげた。
新唐書にも書いてあるだろ?
201日本@名無史さん:2012/07/11(水) 16:04:23.92
>>196
隼人は大王が死ぬと喪の際にしのび泣きをさせられた
エタ・非人が陵墓の管理や死体運びに従事させられてたように
死人にかかわる仕事は差別の対象だった
202日本@名無史さん:2012/07/11(水) 16:32:20.78
このスレ、無限ループだなw
203日本@名無史さん:2012/07/11(水) 16:35:31.99
そういう感じでドンドン挙げろw具体的な文面が好ましい列挙してくれや。
204日本@名無史さん:2012/07/11(水) 16:41:27.98
>>200
史実は違う・・・
神武が来る以前から政治の中枢がヤマトにあった。
その中枢に居たのは先にヤマトに入っていた同族。
この同族はヤマトで各々に散らばっていた豪族をひとつに纏め上げて
「朝廷の前身」のようなものを作っていた。
しかし中枢を仕切っていた人物が亡くなったのを境に、
統率が崩れ、纏まりを失い跡目争いの内乱が起こる。
その内乱を収め、再び纏め上げ、
きっちりとした朝廷を作る為に派遣されたのが「ニギハヤヒ」
ニギハヤヒは見事に仕事を成し遂げる。
初代に決まっていたが朝廷設立直前に急死。
そこで急遽代役を立てた。 それが「神武」

神武東征は武力制圧でも何でもない。
205日本@名無史さん:2012/07/11(水) 17:02:40.59
記紀神話の最初のころは、筑紫は九州全域を指したり
日向は鹿児島と宮崎の両方を指していたりと
地名における領域が後世と大きく違う。
ちなみには、ヤマトとは、最初のころは
桜井市と天理市あたりだけの狭い地域の地名を言っており
葛城市のあたりは、高尾張、
御所市のあたりは、高天といった。
206日本@名無史さん:2012/07/11(水) 17:06:02.88
>>204
ニギハヤヒはクーデターおこしただけであり
ニギハヤヒの前に、天火明命と天香語山名と二代続けて、倭王がいたけど
ニギハヤヒが自分は天火明命の御落胤だといってクーデターをおこしたので
天村雲命がこれを鎮圧しなければいけなくなった。
207日本@名無史さん:2012/07/11(水) 17:43:38.47
>>206
キミは勉強しなおして来たほうが良い。
言ってる事がメチャクチャだ・・・
208日本@名無史さん:2012/07/11(水) 17:45:36.49
>>206
なんだよクーデターってwww
209日本@名無史さん:2012/07/11(水) 18:10:13.91
>>206 キミのレス見て奈良の人は大爆笑してるぜw
210日本@名無史さん:2012/07/11(水) 18:25:27.74
ニギハヤヒ≠天火明命なんだよな。
物部氏は、ニギハヤヒ=天火明命と自称しているけど
皇室などは、ニギハヤヒ≠天火明命としている。
211日本@名無史さん:2012/07/11(水) 18:44:38.43
>>204
それは想像?
212日本@名無史さん:2012/07/11(水) 18:46:32.03
隼人系がいたのは南九州だけじゃないからね
213日本@名無史さん:2012/07/11(水) 20:20:15.06
平仮名がわからない
214日本@名無史さん:2012/07/11(水) 20:26:15.88
もやし。栽培。で、うまい。
215日本@名無史さん:2012/07/11(水) 22:44:24.32
天火明命=天火々出見命=ホスセリ・・・要するに三位一体。同神。

神武天皇は神倭磐余彦ホホデミノミコト


天照国照彦天火明命=天照御魂大神。・・・天照大神
尾張氏、海部氏、伊福部氏ほか天火明命を始祖と仰ぐ数多の同族のお祀りするのは天照国照彦天火明。天火明命。彦火明命。
また、天火明命は別雷神(上賀茂神社)=天神の神子。
ニギハヤヒの命は別神として殆どお祀りはしていません。
片や物部系では天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と天火明命とニギハヤヒをフュージョンさせて同一視させるのに躍起のようなニホイが・・・

あと、まず神武天皇記と崇神天皇記を並べて読み比べをして下さい、
神武天皇が吉野からヤマトへ攻め上る記述と崇神天皇が何者かに侵攻されて防戦する下り。
明らかに同じ戦記を攻め立てた側と防戦抗戦した側に分けて記述しているとしか・・・
216日本@名無史さん:2012/07/11(水) 22:52:51.18
(始祖)彦火明命ー(子)天香山命ー(孫)天村雲命・・・
217日本@名無史さん:2012/07/11(水) 23:46:16.33
>>205
記紀の初期に
九州に山門(やまと)県があったぞ
218日本@名無史さん:2012/07/12(木) 00:47:28.44
発音が違う
219日本@名無史さん:2012/07/12(木) 01:29:12.66
やまたいだっけ?
220日本@名無史さん:2012/07/12(木) 01:29:42.24
>>215
神武と崇神を分けて書いたという説は無理がある。
なぜなら、欠史八代なんて言うけど
二代目の天皇の記述はそこそこあるし
7代目から10代目のかけての天皇の子供や兄弟の記述も多く出てくる。
あれみて、神武と崇神を分けて書く必要などない
221日本@名無史さん:2012/07/12(木) 01:33:35.03
九州の山門と、桜井市発祥の大和(=倭=山処)とでは
本来は発音が少し違うでしょう?
また、記紀の初期にも、九州の山門と大和を分けて書くぐらいだから
両者は異なることを認識できている。
222日本@名無史さん:2012/07/12(木) 08:16:55.81
天皇家自身が祖先は九州から来たって仰ってるんだから信じていいんじゃない?
問題はその時期だけど鏡や剣、勾玉などが出てくる時代といったら弥生時代。
しかも畿内で出土するのはほぼ古墳時代。
銅鐸が消えた後だね。
223日本@名無史さん:2012/07/12(木) 10:43:19.67
天皇家は九州から来たとは言っていない。
高天の原から来たと言っている。
そして、高天の原から九州高千穂へ降臨し、
再び高天の原に向かって東征したといっているわけ。
224日本@名無史さん:2012/07/12(木) 11:47:08.62
>>222
いや、天界から来たと言ってるんだよ
高千穂は単なる中継地点
最初から目的地は大和だったから
225日本@名無史さん:2012/07/12(木) 12:06:32.79
天界じゃなくて高天原
そこには田んぼも有るし糞もあるし
ストリップもある
226日本@名無史さん:2012/07/12(木) 12:30:49.21
馬もいるな
高天原とはどこなんだ
227日本@名無史さん:2012/07/12(木) 12:32:37.00
高天原がどこかは分からないけど、皇祖神が生まれたのは筑紫。
その5代後の神武も筑紫の日向から東征してる。

神武が大和を攻める際に皇祖神は高天原から大和へ援軍を送ろうとしている。
でも天界から援軍は出せそうにないね。
228日本@名無史さん:2012/07/12(木) 13:10:23.76
筑紫はタカヒムスビの本拠地だろう
タカヒムスビは娘をアメノホシホミミに差し出し二二ギの外祖父になった
つまり二二ギの母方であって父方ではない
229日本@名無史さん:2012/07/12(木) 13:17:45.06
もう、このスレ、無限ループだなw
まあ、仕方がないw

タカミムスビの本拠地は、高天。
現在の奈良県御所市高天周辺。
皇祖ニニギも、御所市の出身で、出雲国譲りの直後
九州高千穂へ地方官として派遣された。
230日本@名無史さん:2012/07/12(木) 13:18:49.56
却下
231日本@名無史さん:2012/07/12(木) 13:23:57.90
地名の範囲って、たえず変わっている。
記紀の最初のころの筑紫とは、九州全域のことを表し
また、日向とは、宮崎と鹿児島の両方を表す。
また、ヤマトとは、桜井市周辺の狭い地域だけの地名で
葛城市のあたりは高尾張、御所市のあたりは高天といった。
232日本@名無史さん:2012/07/12(木) 13:31:02.36
>>226
銅鐸がない所だということははっきりしてる。
233日本@名無史さん:2012/07/12(木) 13:46:28.27
>>229
近くに土蜘蛛の穴が有るだろ
高天原なら土蜘蛛は居ないはずだ
234日本@名無史さん:2012/07/12(木) 13:56:33.06
例外的に銅鐸が出なくなる時期が早い奈良。
銅鐸云々で高天原所在地としてあまり不適にはならないし、
不自然に出土しない事は却って有利になる部分がある。
高天原は奈良だろう。
235日本@名無史さん:2012/07/12(木) 14:32:34.45
天皇の出自が奈良だと主張するのは、
徳川の発祥が江戸だと言い張るくらいバカげたことだ。
236日本@名無史さん:2012/07/12(木) 14:41:52.65
そら九州と奈良では文化が全然違うからなあ
4世紀には大王が畿内(大和・河内)にいたことにしないと都合が悪いわけで
九州から来た大王が九州から何も持ち込まなかったとかありえないでしょ
土器の形も全然違うのに
237日本@名無史さん:2012/07/12(木) 16:07:03.93
九州では弥生時代の早い時期から鏡や勾玉、剣などを副葬する習慣があった。
同じ弥生時代の畿内ではそのような埋葬の形式は殆ど見られない。
しかし古墳時代になると突如として九州に見られるような副葬品が出土する。

確かに弥生時代の土器は奈良と九州では違うね。
でも土器だけでなく青銅器も全く違う。
弥生末期になると銅鐸などは叩き壊されて捨てられる。



238日本@名無史さん:2012/07/12(木) 18:02:05.01
奈良県南部は弥生時代に入るとは遺跡の数がめっきり減る
神武天皇は奈良県南部から始まったと思われるが
それは過疎地だったから選ばれた地だろう
元から居た人は水田適地を求めて移住済みだったと考えられる
奈良県南部は古墳時代に一気に発展する

記紀によれば、神武天皇は東征後にあちこちで土蜘蛛を退治している
かずらの網で捕らえた事も有った
その地は葛城と名付けられた
つまり
高天原がこんなド田舎で土蜘蛛がどっさり居る訳ねええ
239日本@名無史さん:2012/07/12(木) 18:13:37.87
ニギハヤヒと銅鐸は関係あるのだろうか
240日本@名無史さん:2012/07/12(木) 18:30:43.36
>>239
饒速日命は銅鐸というより唐古・鍵遺跡あたりと関係あるんじゃない?
241日本@名無史さん:2012/07/12(木) 20:56:57.97
銅鐸を祭祀に使用してたのは大和の原住民だろう。
242日本@名無史さん:2012/07/12(木) 21:54:31.76
2,3世紀の頃に銅鐸が使われていたことは間違いないとして、
近畿地方を中心として銅鐸が分布している。
これに対して九州では、戈・剣・矛という三種類の武器の形をした青銅器が分布している。
戈・剣・矛が九州を中心に中国・四国に及んでおり(銅矛銅剣文化圏)、近畿を中心に銅鐸が分布している(銅鐸文化圏)。
記紀には銅鐸が一切あらわれてこない。
しかし、剣・矛・刀とかはひんぱんに出てくる。
このことから、九州の勢力が、つまり、銅矛銅剣文化圏の人びとが、
銅鐸文化圏の畿内を征服して、畿内を中心として日本の国を統一したと推測できる。
243日本@名無史さん:2012/07/12(木) 22:06:54.43
古すぎるw
244日本@名無史さん:2012/07/12(木) 22:34:12.47
高天原には矛や鏡や勾玉、絹なんかがあったんだろ?


奈良県じゃないのは確かだな。
245日本@名無史さん:2012/07/13(金) 01:23:24.84
九州からも銅鐸(しかも鋳型まで)出たって話なかったっけ?

北九州の甕棺の墓制はどうして広まらなかったんだろう。弥生中期〜後期の日向の墓制はどんなんだったのかな?
246日本@名無史さん:2012/07/13(金) 02:32:27.03
ごく少数だけど北部九州で出てるよ銅鐸。
247日本@名無史さん:2012/07/13(金) 02:46:04.03
邪馬台国以前に天皇の痕跡は無い
空白の世紀に天皇等は天下りした
その頃日本に渡ってきた集団だと黄斤賊の残党の可能性がある
鉄器を持っていて天主を崇拝する集団、宗教と軍事組織がミックスした漢字文化の集団
「土蜘蛛」「隼人」日本人を異民族と見下して蔑視し、日本の神を討伐する集団
248日本@名無史さん:2012/07/13(金) 02:59:18.88
>>247
あるよ
『新唐書』日本伝
『自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。』
249日本@名無史さん:2012/07/13(金) 03:04:25.03
>>233
その高天原の伝承地には、土蜘蛛の伝承地もある。

250日本@名無史さん:2012/07/13(金) 03:06:23.52
関連スレ

【妖怪】 土蜘蛛 【国巣】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1325574407/l50
251日本@名無史さん:2012/07/13(金) 03:08:16.22
『新唐書』日本伝とか、あのへんの時代になると
日本の使者とか外交官も言うことに一貫性がないというか
言っていることバラバラなんだよね。
252日本@名無史さん:2012/07/13(金) 03:09:11.22
>>247
ツングース北方騎馬系か早いとこ決めんと東シナ海が沸いてきたぞ日本学者も早く結論出さんとな。
253日本@名無史さん:2012/07/13(金) 03:10:48.27
254日本@名無史さん:2012/07/13(金) 03:12:04.03
>>252
おまえの言っている意味が分からないw
おまえ、もしかして、朝鮮人かw??
255日本@名無史さん:2012/07/13(金) 03:16:46.93
256日本@名無史さん:2012/07/13(金) 03:18:31.74
>>254
大和民族が何者か早いとこ決めや。
中国の基地外レベルが上がってる。
257日本@名無史さん:2012/07/13(金) 03:21:26.13
>>238
というか、高天原が実在の地ならば、普通にど田舎の地域だろう?
徳川氏の発祥地の松平郷だって、凄いド田舎だし、
足利氏の発祥地だって、ド田舎だしな。
258日本@名無史さん:2012/07/13(金) 03:23:17.56
>>256
ヤマト民族は、ヤマト民族だろうがw
中国の文献でも、普通に倭人ってなっているし、
大陸諸民族から、言葉も通じない異民族として記してあるしな。
それ以上でも、それ以下でもない。
259日本@名無史さん:2012/07/13(金) 03:29:17.47
高天の原って、御所市あたりでも山側の麓あたりで
ド田舎だけど
徳川家の発祥地の松平郷同様
彼らが発祥した地点では、普通に山の麓のド田舎地域
しかしながら、結果的に、彼らの子孫が天下をとったので
そこの神話やら伝承が、日本全体の神話になった。

http://takama.sakura.ne.jp/index.html
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/97.htm
260日本@名無史さん:2012/07/13(金) 03:35:37.81
>>153
中国?
天津甘栗?
261日本@名無史さん:2012/07/13(金) 06:53:10.75
神武は自身の神を捨てることを選択したんだよ。
262日本@名無史さん:2012/07/13(金) 09:36:24.53
>>260
明の時代の 天津戌(1404年)が後の天津市だから関係無いね・・失礼。
263日本@名無史さん:2012/07/13(金) 09:39:04.33
>>259
国譲りが有るからド田舎ではダメw
国譲りは神武の前だしニニギの前
264日本@名無史さん:2012/07/13(金) 09:42:04.31
>>260
それ天津(てんしん)という地名
265日本@名無史さん:2012/07/13(金) 09:42:10.87
弥生時代の奈良は田舎だから無理だな
266日本@名無史さん:2012/07/13(金) 09:46:42.49
>>265
そもそも、田舎か都会かなんて、考古学上の土器編年で
どうやって分かるんだよw
267日本@名無史さん:2012/07/13(金) 09:53:45.92
古代で場所として重要なのは薬や珠が採取できる鉱山。
それと災害の少ない場所が重要ですよ。必然的に山になってくる。
268日本@名無史さん:2012/07/13(金) 10:05:39.72
>>267
それは縄文時代まで
弥生時代から水田適地が発達してる
奈良県南部は弥生時代の遺跡が少ないので
弥生時代に過疎地だった事が分かる

神武天皇は葛城と言う過疎地に移住したと思われる
どうもニギハヤヒに勝利したと言うのは怪しい
勝利していればすでに発展していた奈良県北部が拠点となるはず
開拓者として先住民から移住を容認されただけかも
269日本@名無史さん:2012/07/13(金) 11:22:31.30
>>268

> 神武天皇は葛城と言う過疎地に移住したと思われる


古代のことだから、霊的なパワーがあると思い込まれていた場所をおさえることも
権威確保のために重要だったと思う。
270日本@名無史さん:2012/07/13(金) 11:34:43.00
>>266
土器編年じゃ何も分からない
土器の年代さえもほぼ個人の感覚で決めているのが現状
それだけ奈良では何も出ないってこと
銅鐸などの青銅器は作れたが鉄器はまだ使用されていない
出てくるのは土器や木片ばかりで遺跡の数も少ない
遺跡数や出土品からも弥生時代の奈良は北部九州と比べると全てに於いて後進的
畿内が九州を凌駕するのは4世紀以降
271日本@名無史さん:2012/07/13(金) 12:12:18.05
奈良県南部の遺跡が少ないも何も
たまたま発掘できてないだけと違うか?
というか、いま、大発見されているところも、
もともと遺跡なんてないと言われていたところだし。

とにかく、発掘調査しようと思ったら、金がかかるのよ。
なぜなら、それらは私有地になっていて、勝手に掘ることもできないような
ところだったりするし。

>>270
>遺跡数や出土品からも弥生時代の奈良は北部九州と比べると全てに於いて後進的
>畿内が九州を凌駕するのは4世紀以降

またまた出ました、邪馬台国九州説論者の詭弁です。
たぶん、外国との交易品とかは、そりゃ、九州のほうが出るでしょうよ。
でも、それと首都があったところは、必ずしも一致しない。
たとえば、鎌倉時代、日本で一番大きな都市は、九州の博多。
でも、その当時、日本を支配していたのは、京都だとか
圧倒的に辺境で田舎だったりする鎌倉だったりする。
272日本@名無史さん:2012/07/13(金) 12:31:31.01
>>271
君のは詭弁というより無知だな
273日本@名無史さん:2012/07/13(金) 14:24:43.51
>>270
しかし北九州から発掘されるのは奴国の遺跡だ
奴国は中国や朝鮮との交易の中継地として栄えいろんなものが手に入っただろうが
ここが邪馬台国ではない
邪馬台国の人々は顔面刺青で縫いもしない布を身に着けた原始人として記録されている
274日本@名無史さん:2012/07/13(金) 14:36:47.89
別に奈良県の弥生時代の遺跡は少なくはないよな?
纏向遺跡
唐古遺跡
布留遺跡
坪井遺跡
275日本@名無史さん:2012/07/13(金) 14:47:40.73
>>274
中央から北は有るよ
奈良県南部はどう?葛城とか飛鳥地方とか?

>>273
古事記によれば神武天皇の使いのオホクメの命は、目に刺青をしていた
それをイスケヨリ姫に質問されてる
日本書紀ではこの記述は無い
276日本@名無史さん:2012/07/13(金) 14:58:56.16
>>274
少ないじゃん
纒向遺跡や布留遺跡は弥生末期というか古墳時代だろ?
唐古・鍵遺跡は立派な弥生遺跡だけどね
277日本@名無史さん:2012/07/13(金) 15:05:43.23
>>275
鴨都波遺跡(奈良県葛城市)
秋津遺跡(奈良県御所市)

この辺りか
278日本@名無史さん:2012/07/13(金) 15:07:20.14
>>276
布留遺跡は縄文時代から現代にいたるまでの複合遺跡
当然、弥生時代のものも出土している

纏向は九州説の人が無理に古墳時代にしようとしてるが
通説では弥生時代の遺跡
279日本@名無史さん:2012/07/13(金) 15:08:32.71
>>276
狭い奈良盆地の中だけなんだから多いほうだよw
北九州の遺跡なんて別々の独立国のものでそれぞれが離れすぎ
280日本@名無史さん:2012/07/13(金) 15:17:48.37
>>278
そうじゃなくて弥生遺跡でもクニと言えるような遺跡ね
唯の生活の跡なら日本全国どこにでもあるよ
281日本@名無史さん:2012/07/13(金) 15:21:09.68
>>279
つまり狭く大陸からも離れた奈良盆地は後進国だったってこと?
282日本@名無史さん:2012/07/13(金) 15:25:56.37
>>280
布留や纏向も弥生時代の倭国のどこかの国に所属する遺跡だろう
国に所属しなかった遺跡だととらえてるの?
283日本@名無史さん:2012/07/13(金) 15:33:05.97
>>282
纏向は倭国というより大和朝廷
モモソヒメの墓でしょ
284日本@名無史さん:2012/07/13(金) 15:42:11.90
>>282
纒向遺跡には崇神朝の古墳があるでしょ?
だとしたら神武の時代はもっと昔の遺跡じゃないとだめ
その頃の奈良に鏡や勾玉を有する遺跡ってある?
285日本@名無史さん:2012/07/13(金) 16:33:29.10
>>277

> 秋津遺跡(奈良県御所市)


ここがあやしいと思っている。
286日本@名無史さん:2012/07/13(金) 16:37:07.77
このスレのバカ:
自説と考古学的事実との整合性がとれない>「考古学はインチキ!」

邪馬台国畿内説のバカ学者:
自説と魏志倭人伝との整合性がとれない>「倭人伝はデタラメ!」

やり口がまったく一緒
稚拙にして無能
287日本@名無史さん:2012/07/13(金) 17:28:08.35
>>285
それ古墳時代だよ
孝安でしょ?
纒向より後、4世紀
288日本@名無史さん:2012/07/13(金) 17:28:18.42
韓国に滅ぼされたんやろ
289日本@名無史さん:2012/07/13(金) 17:42:33.86
>>287
秋津遺跡は縄文時代〜古墳時代の遺跡
祭祀遺跡も発掘されている
考安一代だけの宮跡ではないよ
290日本@名無史さん:2012/07/13(金) 18:12:18.19
もともと何か由緒があった土地だから、孝安天皇が住み着いたということも考えられる。
291日本@名無史さん:2012/07/13(金) 18:52:55.81
>>289
秋津遺跡は弥生が無いはず
古墳時代の下を掘ったら縄文時代で
クワガタが見つかったと話題になった

その南の中西遺跡からは2400年前ごろの水田跡が見つかってるが埋まってたし
傾向として弥生時代に山沿いから中心部に移住してる
たぶん奈良湖が干上がって広大な水田適地が出来て
災害の多い山沿いを放棄した可能性有る
292日本@名無史さん:2012/07/13(金) 19:01:07.31
>>287
孝安って弥生時代の大王でしょ?
5世紀初頭の仁徳の10代前の大王なんだから2〜3世紀になるはず
293日本@名無史さん:2012/07/13(金) 19:38:03.68
>>292
10代じゃせいぜい100〜200年だな
294日本@名無史さん:2012/07/13(金) 19:40:56.62
>>293
仁徳以前の大王はすべて父子継承なんだけど?
100年で10代も交代するのは兄弟継承主流の場合でしょ?

そもそも崇徳天皇から始まる三輪王朝が4世紀だというのに
それより前の孝安が4世紀なわけないでしょ?
295日本@名無史さん:2012/07/13(金) 20:58:47.08
ID出ない板で横レスするもんじゃないな
296日本@名無史さん:2012/07/13(金) 21:34:22.85
孝安天皇は六代目
孝霊、孝元、開化と続き
第十代崇神となる。
従って秋津遺跡というか、秋津宮は
纒向の前。
297日本@名無史さん:2012/07/13(金) 21:49:12.92
纏向を卑弥呼の時代に合わせるために
年代繰り上げようとしてる考古学者いるけど無茶だよな
298日本@名無史さん:2012/07/14(土) 01:44:45.98
このスレって
史実を知る地元民の俺からすれば
貴方達のレスは見ててホントに笑けてくるよ。
見事なまでに歴史の教科書に誘導されてるんだもの・・・www

まともなこと言ってるのはごく一部。
>12>122>124>132>133>151>161>198この人達だけ。
299日本@名無史さん:2012/07/14(土) 02:01:43.83
>>298
その史実は本当に正確なんですか?
近畿発祥にねじ曲げられた史実じゃないですか?
なぜ正確な史実を公に出来ないんですか?
ほんと、近畿発祥説の人は都合が悪くなると、他を偽書って言いますね。
300日本@名無史さん:2012/07/14(土) 02:22:21.99
まともにやりあうなよ
301日本@名無史さん:2012/07/14(土) 02:58:14.57
>>298
ご当地の説なんてあてにならん
地元民のバカ丸出しで捏造するしw

神社によっては由緒が参考になるかな
神社にはなんて伝わってるの?
302日本@名無史さん:2012/07/14(土) 03:06:41.31
>>220
「同じ人の事績を神武と崇神に分けたという説は無理」と言ってます?

>>215 が言っているのは、「神武記と崇神記は同じ戦いについて
それぞれ責める側と守る側の視点で書かれている」という意味では?

勘違いしてたらごめんなさいね。
303日本@名無史さん:2012/07/14(土) 05:49:46.41
最近の考古学だと、東北地方ですら
2400年前ぐらい前の水稲農耕あとの遺跡って見つかってなかったか?
304日本@名無史さん:2012/07/14(土) 06:56:55.63
ゴッドハンド?
305日本@名無史さん:2012/07/14(土) 07:49:42.30
土器編年で基準が変わったんだろう?
というか、植物学の先生の話だと
日本で水稲農耕が起こったのは、3500年前って話だし
農耕自体は6000年前ぐらいだろうという感じになっている。
306日本@名無史さん:2012/07/14(土) 09:01:37.43
>>296
結局纏向の年代が間違ってるんじゃない?

秋津は4世紀の遺跡なんだから
307日本@名無史さん:2012/07/14(土) 09:04:51.02
何話してるの?これのこと?
昭和だよ

砂沢遺跡 2300年前
http://www.komakino.jp/tyomei-iseki/sunazawa.html

垂柳遺跡 656面の水田跡
http://inoues.net/family/tareyanagi.html
308日本@名無史さん:2012/07/14(土) 09:22:47.95
纏向遺跡で出土された土器は伊勢・尾張系土器が過半数を占める。

伊勢・尾張系土器の代表土器、S字甕(がめ)・パレス壺など。
309日本@名無史さん:2012/07/14(土) 09:36:28.98
>>306
日本書紀の「孝安の宮」という前提で行くと
孝安は三輪王朝纏向の前なので秋津は弥生時代の遺跡でないとおかしい
しかし考古学的には秋津は4世紀なので纏向の前だろ

三輪王朝は4世紀末に成立した河内王朝の前の王朝なので
纏向の年代を下げるのは適当でない
仁徳天皇陵を飛鳥時代の古墳にでもするのか?
310日本@名無史さん:2012/07/14(土) 09:41:29.50
>>309
仁徳天皇陵は5世紀だから問題ないでしょ?
311日本@名無史さん:2012/07/14(土) 10:07:16.36
>>310
そうなると三輪王朝は3〜4世紀になるということだよ
神武王朝はその前だ
312日本@名無史さん:2012/07/14(土) 10:11:22.24
>>311
2世紀の畿内にクニといえるような遺跡ないだろ?
313日本@名無史さん:2012/07/14(土) 10:27:51.03
>>312
奈良盆地の中央部に唐古・鍵遺跡がある
吉野ヶ里より古い
314日本@名無史さん:2012/07/14(土) 12:12:14.89
クニというより、近畿地方の盟主的な集落だな。
315日本@名無史さん:2012/07/14(土) 12:19:26.56
唐子鍵遺跡は、沖積地だったから、偶然、遺跡が残ったんだよな。
そうではないところだと、そこそこ町でも遺跡として
残ってない可能性が高い。
316日本@名無史さん:2012/07/14(土) 12:24:12.47
池上曽根遺跡とかは画期的
317日本@名無史さん:2012/07/14(土) 12:37:58.31
武庫庄遺跡
南方遺跡
318日本@名無史さん:2012/07/14(土) 13:09:06.98
>>314
ニギハヤヒか
319日本@名無史さん:2012/07/14(土) 14:47:38.92
吉野ヶ里遺跡、唐子鍵遺跡、池上曽根遺跡?
おい、三内丸山の建造物の方がデカイぞw
しかも高層建造物もあるし
弥生って対した事無いな
弥生以前に権力者がいて、まとまった集団が出来てた可能性が高い
320日本@名無史さん:2012/07/14(土) 15:52:36.49
>>319
弥生時代ってのは、明治以降の考古学者が勝手につけた名前。
そもそも、土器編年によって年代のずれがあるし
そもそも、土器の種類で歴史を図るのは無理。
なぜなら、弥生土器か縄文土器か判別しようがない土器もあるし。
321日本@名無史さん:2012/07/14(土) 16:10:42.67
>>319
大規模な住居群であることは認めるが三内丸山遺跡では稲作がおこなわれてなかった
(栗などの樹木は植えられていたが)
狩猟収集の時代には貧富の差は生まれず世襲の王などは存在しなかっただろう
村の長程度はいただろうけどね
322日本@名無史さん:2012/07/14(土) 17:06:45.25
>>321
王は居なかったかもしれんが巫女や神官は居たと思われる
世襲だった可能性も有る
巫女の命令で社会が動くのは天皇が生まれる前の日本社会だ
323日本@名無史さん:2012/07/14(土) 17:23:15.31
西欧人は稲作なんてしないけど、農耕社会や封建社会があったぞ。
324日本@名無史さん:2012/07/14(土) 17:55:32.37
弥生時代というぐらいだから、弥生式土器の使用をもって
そういう考古学区分が決まったのに
今では、水稲時代の始まりによって、弥生時代というらしいw
しかも、水稲農耕がおこなわれた当初は、縄文式土器だったとかw
だったら、弥生時代というネーミングはまずいだろうw?
325日本@名無史さん:2012/07/14(土) 18:36:02.53
>>319
三内丸山は特別な遺跡でもないし
それほど巨大な遺跡ではないという
地元民がホームページ上で指摘している
三内丸山は発掘が進んでいるから(地元自治体の商業主義と観光目的のため)
巨大に見えているだけで
他の遺跡が未発掘なだけで規模自体はもっと巨大なものがあるそうだ
326日本@名無史さん:2012/07/14(土) 18:38:06.32
崇神って、3世紀から4世紀くらいの人物だと思われ。
だとしたら、孝昭、孝安、孝霊、孝元という漢風諡号がつく
4代の天皇の時代がだいたい、2世紀中ごろの倭国大乱の時期と重なる。
327日本@名無史さん:2012/07/14(土) 18:42:36.86
その最初の孝昭天皇の奥方が天忍男命の娘なんだよね。
そして、その間に産まれた第一皇子の天足彦国押人命に、
天忍男命の名跡を継がしているぽいのに気になる。
この天足彦国押人命の男系の直系の子孫に和邇氏がおり
この和邇氏関連の古墳から、倭国大乱終結時期の西暦184年に
中国から貰った中平刀が発掘されている。
328日本@名無史さん:2012/07/14(土) 18:58:39.42
>>322

> 王は居なかったかもしれんが


村長というかプチ郡司というかそういうのはいたと思う。
329日本@名無史さん:2012/07/14(土) 19:42:33.84
王と村長の違いなんてないよw
たとえば、伊達正宗は仙台の戦国大名だけど
欧州人から見たら、仙台国王だしな。

村長ってのは、王の始まりみたいなもん。
村長なのか、王なのか、村なのか国なのかは
社会科学的なことなので、明確な区分なんてない。
330日本@名無史さん:2012/07/14(土) 20:41:37.89
よく縄文時代は身分制度の無い平等社会と言われてるけど
これは間違いだと分かって来てる

三内丸山は「環状配石墓」が発見されている
ttp://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/2a5a16e6f2fbded0ed13735e6690e6fd
>これまでの調査で、墓からは矢尻や赤色顔料が見つかっており、上位階層の人物を埋葬したとみられている。
一般的な土坑墓
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz2/k-jda1/k-jcj1/k-jsj2/IPA-san0600.htm
環状配石墓
ttp://www2.edu.ipa.go.jp/gz2/k-jda1/k-jcj1/k-jsj3/IPA-san0610.htm
しかも環状配石墓にも差がある

王のような存在は縄文中期には存在していた可能性がある
しかも司祭中心だった可能性も有り
日本人の起源論争にも影響するだろう
331日本@名無史さん:2012/07/14(土) 21:42:33.15
纏向遺跡で出土された土器は伊勢・尾張系土器が過半数を占める。

伊勢・尾張系土器の代表土器、S字甕(がめ)・パレス壺など。
332日本@名無史さん:2012/07/14(土) 22:06:31.45
>>329
王=国内に固定された身分の上下があり次の王は王一族の中から選ばれる
村長=村で一番の物知り高齢者などがなり、世襲ではない

アフリカの部族などでは村長はいても王はいない
村長と村民の間に上下差もなければ世襲制でもないからだ
王と村長は明らかに違う
333日本@名無史さん:2012/07/14(土) 22:15:45.23
庄屋は世襲制
334日本@名無史さん:2012/07/14(土) 22:23:03.76
神主は世襲だな
巫女は違うみたいだけど
古代のシャーマンも世襲で、これが王でね?
335日本@名無史さん:2012/07/14(土) 23:10:08.82
>>332
王は別に世襲じゃないよ。ローマの皇帝は軍人から選ばれていた場合が多い。
彼らは確かに良家の出で、王の親戚であった場合は多いが必ずしも血統は絶対条件ではなかった。
王の定義は一番偉い人、支配権を持つ人。それだけ。
人間が3人いて一番強い奴が俺が王様といえばそれで成り立つ。

むしろ村長の定義の方が難しい。
母体である村というコミューンはその境界がまず示されなければならない。
どこからどこまでが村で、どこからが違うのかという概念が必要。
この概念は「別の村」が存在せねば成り立たたない。
即ち、村長は他コミューンとの競合関係が大前提になっている、極めて封権的な思想だといえる。
その発生はむしろ人口が密になって衝突が起き始めた以降、つまり王の発生より後だろう。
その選定条件はそれまでの単純な支配権ではなく、村人全員の安全保障や権益の守護者、
代表交渉者でなければならず、極めて政治的な選定法が行われたはずだよ。
336日本@名無史さん:2012/07/14(土) 23:38:44.81
>>335
ローマの皇帝も特定の皇帝家による世襲だよ。
特定の皇帝一族の中から元老院が皇帝指名するという方法だった。

ただし、日本と違って王朝交代がある。
悪帝が出れば、元老院が別の貴族の一族に皇帝家を変え、王朝交代する。
しかし同じ王朝であるうちはずっと同じ皇帝家の中から皇帝が選ばれる。
337日本@名無史さん:2012/07/14(土) 23:50:29.22
つか、世襲しようとしたけど全然駄目だったって印象しかないわ
ほとんどがせいぜい2代目で滅亡だろう
338日本@名無史さん:2012/07/15(日) 00:11:07.36
歴史的に見ると王は単純な権力者というより祭祀権の名目的保持者、
つまり祭司階級と民衆という権力構造の上に設けられた節がある。

祭祀権は家長→シャーマン→祭司階級→王という具合に発展継承されていき、
権力構造の進化に伴って社会も発展していく。
339日本@名無史さん:2012/07/15(日) 00:42:11.93
日本の場合、権威者と権力者が分かれていて、それぞれが世襲なんだよ。
340日本@名無史さん:2012/07/15(日) 02:58:00.14
>>336
ガルバもウィテリウスも一族じゃないぞ。
5賢帝も元老院議員から選ばれた養子だし。
341日本@名無史さん:2012/07/15(日) 03:26:37.84
>>299
>その史実は本当に正確なんですか?
>近畿発祥にねじ曲げられた史実じゃないですか?
記紀が編纂される以前からの口伝・古文書なんだから捏造する理由がない。
捻じ曲げる必要もない。

>なぜ正確な史実を公に出来ないんですか?
できる訳がないだろ・・・
もし公にできるのなら宮内庁はとっくに
天皇陵や陵墓参考地の発掘をさせてるよ。
342日本@名無史さん:2012/07/15(日) 04:35:54.70
>>341
意味が通じてないs
公開できない=ねじ曲げてるだぞwww
343日本@名無史さん:2012/07/15(日) 05:10:17.55
お花畑の住人相手にまともなレスを期待してどうする
344日本@名無史さん:2012/07/15(日) 13:33:25.90
これはどうだろ?
文字を持たない山の民、サンカは吾々よりも歴史を知っていた?
ttp://blog.goo.ne.jp/momosuketen/e/a40f49db609f556739292d3f8d65a908
345日本@名無史さん:2012/07/15(日) 13:37:33.16
口伝は少しづつ話しに尾ひれがついて変わっていくからな。
346日本@名無史さん:2012/07/15(日) 13:42:02.97
>>344
なんというか電波の匂いがプンプンする。
347日本@名無史さん:2012/07/15(日) 13:44:58.11
普通の地政学的にみると、高天の原って、近畿の某地域だよ。
じゃないと、説明がつかない。
出雲国譲りさせたのは、近畿の勢力であり
その後、この近畿の勢力の者が各地に地方官として派遣され
その中で九州高千穂へ派遣されたのが、皇祖ニニギだろう?
348日本@名無史さん:2012/07/15(日) 14:03:40.87
× 普通の地政学的にみると、
○ 俺様の妄想地政学的にみると、
349日本@名無史さん:2012/07/15(日) 15:19:01.38
出雲国譲りさせておいて、なんで、わざわざ
九州高千穂へ引き篭もらないとダメなのか??

しかも、なぜ、それから三代たって、日向は貧乏だから
豊かな近畿へ東征するとなるのか?

また、出雲国譲り戦争の時、高天と出雲の激突地が
日本海側以外は、播磨国で、そこで両者が激突したことが分かっている。
つまり、出雲と高天の間に播磨があった可能性があるので
高天とは、出雲や播磨よりも東にあったことがわかる。

そして、宋書や旧唐書だったかによると、ヤマト朝廷には東征したのではなく
東に西に勢力を拡大させたとあり
ヤマト朝廷の前の覇者(出雲??)よりも東にあったことが
旧唐書では分かる。
350日本@名無史さん:2012/07/15(日) 15:34:14.77
高千穂のある日向なんて長年まつろわぬ隼人の国だったんだから
あんなところから畿内へ東遷してくるわけがないだろ
河内王朝が日向髪長媛を娶ったあたりでようやく日向が臣従して
娘を采女として大和王権に献上するようになった
そのときに日向王の伝承が取り入れられただけだろ
351日本@名無史さん:2012/07/15(日) 15:38:40.73
>>350
>娘を采女として大和王権に献上するようになった
>そのときに日向王の伝承が取り入れられただけだろ

意味が分からない。
すげえ、面倒くさいw
とりあえず分からないので、取り入れましたみたいなw
なんつーか、そんなこと誰でもいえるよ。
352日本@名無史さん:2012/07/15(日) 15:39:57.25
>>349
旧唐書を信じるなら新唐書も信じるよな?
「王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、
大和州に移って統治する。」
353日本@名無史さん:2012/07/15(日) 15:55:44.76
>>349
高天原は歴史から消えた大帝国で
倭を征服して九州を征服して
そこを拠点にしてさらに西の中国に向かったと言うのはどうだ?

日本を無条件降伏させた米軍の最大拠点が沖縄のように合理的だ
そして中国に先史時代の王朝を作り、日本と中国も衰退して消えた
これが中国に伝わる黄帝かどうかは分からんが
中国にも古代王朝の神話は有るんだ

ニニギから三代と言うが日本書紀で神武天皇は、ニニギ降臨から170万年余も経ったと言ってる
神武天皇も良く覚えていないから神代なんだよ
354日本@名無史さん:2012/07/15(日) 16:17:41.60
>>350
日向の古墳文化は、隼人や熊襲のような異文化と言いきってしまうには
ちょっと疑問が残る。
355日本@名無史さん:2012/07/15(日) 16:30:15.11
>>352
おいおい、新唐書なんて信じてないよw
唐が独自の調査で天皇家を調べたわけでもなんでもなく
遣唐使が唐へ行って言ったことを(すでに記紀の原案となる天皇記や国記はすでにある)
そのまま記述してるだけだからな。

東遷なんてあるわけがないんだよ。
ずっと後まで九州地方は大和朝廷に逆らってたんだから。
356日本@名無史さん:2012/07/15(日) 16:31:06.78
あまり深く物事を考えない人が漫然と思い込んでいる、
 真理・真実・現実・事実・史実は一つだけ
 怒り・憎悪・悲しみ・嫉妬は自然な感情
 戦争・テロ・犯罪・虐め・差別は無くならない
 学校を何度変わっても虐められるのは、虐められる側に原因がある証拠
 死刑には殺人の抑止力がある。死刑を廃止すると殺人が増える
 自己チューな人間ほど自己愛が強い
などの論理的間違いをビシッと解説ちう m9(`・ω・)ビシ
義務教育では教えない 感情自己責任論
357日本@名無史さん:2012/07/15(日) 16:43:57.14
唐の使者が、日本の使者たちの言うことを怪しんだと
はっきり書いているからなw
言うこと、ころころ変わるかららしいw

実際に、旧唐書、新唐書の中でも、日本人たちが言った
いろんな説をいろいろ乗せている。

ただし、後からできた新唐書ほど、記紀にあるイメージ通りの内容になっているんだなw
つまり、現代人にも人気が高い九州からの東遷みたいな内容。
おそらく、時代が経過するにつれて、過去の記憶が薄れてきて
徐々に現代人が記紀を解釈するようなことを言うようになってきたと思われ。

逆に古い中国史書ほど、近畿を中心に東に西に勢力を拡大させたような
内容になっている。

まあ、どちらが正しいのかな。
自分は古い史書に書かれているほうが、日本人たちにも過去の記憶が多く残っていた
とみるべきだと思うよ。
358日本@名無史さん:2012/07/15(日) 16:50:24.02
>>355
筑紫って、「尽くし」から来ているという説もあるな。
ヤマト朝廷に尽くす存在が、九州の位置づけだろう?
こんな存在で、九州東遷説なんてありえんw

神武が九州から近畿へ行ったのは、
神武「東征」であって、神武「東遷」ではない。
359日本@名無史さん:2012/07/15(日) 16:55:42.22
>>357
> 唐の使者が、日本の使者たちの言うことを怪しんだと
> はっきり書いているからなw
> 言うこと、ころころ変わるかららしいw


大阪市長の橋下みたいなもんだな。
古代から関西人はああいう感じなんだろ。
360日本@名無史さん:2012/07/15(日) 17:05:33.97
>>357
信頼に付いては国名変更に付いてだろ
だから色んな説を書いてある。極めて重要だからな

あと旧唐書でも「その王姓は阿毎氏」と書いてあるから
新唐書それ以降のくだりは信頼できる
何しろ「記紀に書いて無い事」だから直接聞かなきゃ書けない事
361日本@名無史さん:2012/07/15(日) 17:17:11.82
阿毎ってのは、神話に登場するのが
天〜ってあるからだろう?
天忍穂耳命とか、天火明命とか。

あれを姓として認定したんだろう?
中国では姓を名乗る文化があったけど、
倭では当初は姓を名乗る文化がなかったから
とりあえず、あれを姓とした。

しかしながら、後に姓を、姫とかしているんだよw
たぶん、姫というのは、魏志倭人伝にある
倭人は太白の後裔ってのが元ネタだと思う。

まあ、それぐらい、日本の使者は言うこと、ころころ変わった。
おかげで、後世の人たちに、まったく信用されてないw
362日本@名無史さん:2012/07/15(日) 18:30:55.09
>>361
>しかしながら、後に姓を、姫とかしているんだよw

これ何に書いたんの?
363日本@名無史さん:2012/07/15(日) 21:06:44.66
>>362
横だが、梁書、晋書に「倭とは、自らは太伯の後裔だという」とある
太伯の姓が姫だ
あと東海姫氏国というが出てくるが、これは古代のノストラダムスの予言書だ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/野馬台詩
ttp://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/text9.htm

天皇の姓が姫とはたぶんどこにも書いていない
中厳円月という僧が天皇が太伯の後裔という本を書いて、皇室が激怒して焚書になったぐらい

太伯の後裔を自認する倭人や倭王が居たかもしれんが天皇は違うだろう
卑弥呼以前に多くの倭王が中国に使いを出したし
戦国武将に太伯の後裔を自称するのが居た気がする
364日本@名無史さん:2012/07/15(日) 21:21:35.87
>>363

> 戦国武将に太伯の後裔を自称するのが居た気がする


長宗我部元親は始皇帝の子孫と称していた。
365日本@名無史さん:2012/07/15(日) 21:41:15.75
鹿児島に太伯を祀る神社があったw
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/鹿児島神宮
>隼人町内
>句呉の太伯を祀る唯一の神社である。
366日本@名無史さん:2012/07/15(日) 22:05:56.40
>>364
始皇帝は太伯の子孫じゃないけど
367日本@名無史さん:2012/07/15(日) 22:15:26.03
中巌円月って、室町時代の人なんだな。
このころは、もう、記紀の真相は
完全に忘れ去られていたんだなw
368日本@名無史さん:2012/07/15(日) 23:18:41.30
聖徳太子・蘇我馬子らが書いた書を焚書にして反故にしたあげく、
当時の政体の意向に沿って書き直したのが日本書紀。

未だ文字文化移行の過渡期にあったこの時期、国記・天皇記は人の口承・記憶を併用していたはずなのに、
改定とせずわざわざ全面的に書き直している。
369日本@名無史さん:2012/07/16(月) 00:02:35.64
蘇我氏と一緒に燃えてしまったから作り直したんでないかな?

古事記と日本書紀の違いを見ると天皇の意図は明白
・大国主の存在 → 削除
・出雲の存在  → 削除
・女性の政治参加 → 男に変更
・下品な記述 → 削除
・年号の追加 → 年紀らしく体裁付け
・皇族の活躍 → 増やしてかっこよく

出雲王朝も、ニギハヤヒ王朝も、記紀を読むとうっすらと書かれている
神話としてもかなりマトモで常識的な範囲
370日本@名無史さん:2012/07/16(月) 00:52:56.61
口承文化がまだ生きている時代に書を燃やしただけでは旧書の抹殺はできないんだよ。
371日本@名無史さん:2012/07/16(月) 01:12:02.36
>>370
すべては
公開してからだな

おれも記紀が正しいという証拠知ってるぞ
公開できないけどw
372日本@名無史さん:2012/07/16(月) 01:24:21.13
当時の文字への信頼性は今の電子書籍に対する信頼性以下のものなんだよ。

意思・観念として伝わってきた口承伝承を舶来のへんてこなマークを使って書き写したところで、
それが数百年後どのような理解をされるのか、時代を超えた意思の伝達がそんなものでそもそも可能なのか。
文字文化に接して日が浅いから、その疑念はソクラテス以上に強い。
373日本@名無史さん:2012/07/16(月) 02:46:28.52
>>342
捻じ曲げてるから公にできないのは神武側のアチラのほう。
真実を知らないこの国のほとんどの人間は
アチラ側が捏造した記紀やウソの歴史を信じ込んでしまっている。
こんな状態・状況で真実を公にできる訳がない・・・
記紀より古い文書や口伝があると
公にしたところで捏造・偽書・ウソの口伝などと言われ
明治大正戦前戦中なら不敬罪で逮捕。
今の世のなら電波と呼ばれキチガイ呼ばわりされるだけだからな。
本当の事だからこそ公にできないんだよ・・・
374日本@名無史さん:2012/07/16(月) 03:38:01.57
>>373
それは嘘だ
その確固たる証拠をオレは知ってるぞ
375日本@名無史さん:2012/07/16(月) 03:39:57.25
と主張する電波基地外であった
376日本@名無史さん:2012/07/16(月) 03:42:18.87
>>373
と主張する電波基地外であった
377日本@名無史さん:2012/07/16(月) 03:46:49.63
えーと
記紀神話の信憑性は、出雲から高層神殿跡の柱が発見されて
がぜん注目されてる訳だが
記紀神話は嘘だなんて言ってる電波気違いなんて実在するのか?
378日本@名無史さん:2012/07/16(月) 07:45:18.31
考古学の成果と記紀の記述は、年代以外、矛盾しない。
年代も系譜はおおよそ正確だろうとして計算すると、これまた考古学上の成果と矛盾しない。
379日本@名無史さん:2012/07/16(月) 08:00:46.62
>>378
ほう、例えば?
皇紀2500年を裏付ける考古学的成果なんて聞いた事無いけど。
380日本@名無史さん:2012/07/16(月) 08:34:36.47
>>379
お前、馬鹿だろ。日本語勉強しろw
381日本@名無史さん:2012/07/16(月) 08:51:08.34
>>379
年代は矛盾が有ると書いてあるぞw

ただし初期が倍年だとそれもほとんど矛盾が無くなる
神武東征が2000年ぐらい前になり
畿内での遺跡状況と一致する

古墳の編年が古くなり記紀と一致する様になった
会津にも前方後円墳が有り三角縁神獣鏡も発見されており
4世紀には会津に畿内勢力が進出していた証拠になっている
これも記紀の記述と一致してる

記紀を裏付ける考古学的成果は数多いが
記紀を否定するような考古学的成果は聞いた事が無い、何かあるの?
382日本@名無史さん:2012/07/16(月) 09:54:52.85
考古学をありがたがる人は、ここ数十年の畿内説の考古学の歴史を
振り返ってみたらどうだろうか。
383日本@名無史さん:2012/07/16(月) 11:31:58.61
>>382
畿内の重要度が増し出雲も注目され始めた
弥生の立ち上がりで九州が注目されてるが相対的に沈下した

一番変化したのは縄文時代の捉え方
稲作は縄文中期には有ったし水田も紀元前10世紀頃の
弥生と言うより縄文末期の開始になってる

記紀を否定するような発見は無かった
逆に出雲の様に記紀の信憑性を高める発見が多かった
これでいいか?
384日本@名無史さん:2012/07/16(月) 13:40:06.20
記紀はウソではないんだよ。
事実を都合の良いように書いたフィクション。

神武は実際にやってきたけど
「神武東征」と呼ばれるような事はなかった。
385日本@名無史さん:2012/07/16(月) 13:42:06.88
>>374
じゃあその確固たる証拠とやらを言ってみろよ。
386日本@名無史さん:2012/07/16(月) 13:57:56.88
神武東征戦争のあくまでも主戦場は
畿内での内戦だから。
そこへ、九州から援軍として駆けつけたのが、神武。
神武軍は脇役。
なんでも、神武の家系は、もとは畿内の貴族の家系らしい。
387日本@名無史さん:2012/07/16(月) 17:23:26.37
天火明命とニギハヤヒは別神だと思うけどね。
でも、皇室は、それをやんわりとしか否定できない。
なぜなら、ニギハヤヒ以上に、天火明命の存在のほうが
目の上のたんこぶだから。
388日本@名無史さん:2012/07/16(月) 17:52:07.39
記紀は物部氏の事をなんとかして隠そうとしてる。
また朝鮮半島の記述は多いが、その背後の最大勢力中国は無視。
東アジア全体に巨大難民団を放出し、それが故に大戦乱時代になったのに
その大本の中国に触れないなんて事はありえねえの。
その時点で十分ねじ曲げられてんだよ。
389日本@名無史さん:2012/07/16(月) 18:34:52.84
>>388
>東アジア全体に巨大難民団を放出し、それが故に大戦乱時代になったのに

それ自体、疑問だな。
長期的に断続的に人の交流はあっただろうが、
ある時期に急激に人の移動があったとは思えない。

物部氏のことは隠してはいない。

中国に関しては、倭国は朝貢していたのが問題だったんだろう?
倭王は、中国皇帝の外臣の地位を与えられていたから。
一方、半島諸国に対しては、倭王は優位な地位にあった。
390日本@名無史さん:2012/07/16(月) 19:24:49.77
>>389
>倭王は、中国皇帝の外臣の地位を与えられていたから。

そう。つまり倭王は周王朝の封建制度の一部、封建将軍兼部族王として扱われていた。
その後の朝鮮半島からの撤退や、
国譲りどころか古墳後期になっても独自の文化圏を作り上げようとしていた出雲族との関係など
都合の悪いところは全部すっとばかして、空隙を穴埋めできずに適当に年代を伸ばしてごまかしてる。

お前は生まれも経歴も人間関係まで全部嘘で塗固めているような与太話のどこに
「信憑性がある」と感じるんだ?



391日本@名無史さん:2012/07/16(月) 19:38:08.33
>>385
こんな所で言えないな
近いうちに日本史がひっくり返るよ

>>390
全部間違い
392日本@名無史さん:2012/07/16(月) 19:55:22.61
>>391
>こんな所で言えないな
>近いうちに日本史がひっくり返るよ

始めたての初心者が、ふとアイデアを思いつくと、
みんなそう思うんだ。
おれも以前はそう思って突っかかっていったもんだ。


393日本@名無史さん:2012/07/16(月) 20:42:39.06
出雲に関しては、皇室は出雲国譲りの真相を知られたくなかった。

詳しく言うと、大国主は、誰に国譲りをしたか?
天津神の誰に国譲りをしたのか?
そういうことだ。

ここが、記紀でも曖昧だろう?
皇祖ニニギ??でも、皇祖ニニギは、出雲国譲りの直後
辺境の九州高千穂へ降臨したよなw
そんなもんが、天津神のリーダーのわけがない。
394日本@名無史さん:2012/07/16(月) 20:43:42.71
ニニギは、天津神の脇役。
大国主は、天津神に降伏したけど、
その時の天津神のリーダーはニニギではない。
395日本@名無史さん:2012/07/16(月) 21:47:08.17
天津神のリーダー。3000年の秘密がついに次のレスで明かされる。 ↓
396日本@名無史さん:2012/07/16(月) 22:43:41.47
残念ながら天津飯は日本オリジナルの食べ物だ
中国にはそんな物は無い
397日本@名無史さん:2012/07/16(月) 23:29:43.17
天津飯ってのはどこにでもある食べ物じゃないよなあ。
398日本@名無史さん:2012/07/17(火) 00:20:14.29
三つ目だしな
399日本@名無史さん:2012/07/17(火) 01:02:00.22
>>393
古すぎて覚えていなかった
天孫降臨=縄文草創期

>>395
1万5千年の秘密だw
証拠はあるから
来年ぐらいにはまとめて発表したいな
400日本@名無史さん:2012/07/17(火) 06:48:49.55
>>399
縄文は違うだろう。天孫降臨はせいぜい2000年前。
最近の考古学だと、農耕自体は6000年前、
水稲農業は3000年以上前に開始されていたらしいから
天孫降臨は完全に弥生時代の話だな。
それも、縄文から弥生に移行しはじめて千年以上、
日本で農耕が開始されてそれ以上の時間が経過していた話。

401日本@名無史さん:2012/07/17(火) 06:53:38.47
天津神のリーダーって、天火明命だろう?
古事記によると、
皇祖ニニギの兄にあたるらしい。
通称を、天照国照彦という。これって、天津神と国津神の両方の支配者って意味だから
出雲国譲りの立役者って意味だな。

しかも、天火明命の妃は、大国主の娘。
大国主は、娘婿(義理の息子)の天火明命に国譲りしたんだな。
これが、出雲国譲りの真相。

皇室が隠したかったのは、このこと。
402日本@名無史さん:2012/07/17(火) 09:17:34.21
神道は弥生人の風習ではなく
縄文人の物だろう
403日本@名無史さん:2012/07/17(火) 09:34:45.63
弥生人って、縄文人の子孫だろうがw
Y染色体でみると、縄文から弥生でも
さほど変わってないらしいから。

というか、そもそも、縄文人、弥生人っ区別を作ったのは
近代人な。

もう、そろそろ、新しい考古学区分とか考えたほうが良いぞ。
404日本@名無史さん:2012/07/17(火) 09:42:54.58
>>403
縄文時代のD2型遺伝子を持つ日本人は弥生時代にも存在したというだけで
弥生人=縄文人ではないよ
縄文時代末期にはO2b、O3という型を持った新たな人種が中国や朝鮮から流入している。
これはY遺伝子のみの区別だが、当然、女性の遺伝子の特徴も子供に引き継がれるため、
縄文人型男性+弥生人型女性、弥生人型男性+縄文人型女性の混血が生じ
弥生人が誕生した 
405日本@名無史さん:2012/07/17(火) 10:40:23.53
>>404
いや、だから、弥生人=渡来系という概念が間違い。
縄文+渡来=弥生なわけで。
406日本@名無史さん:2012/07/17(火) 10:42:37.88
>>402
神道は、縄文とか弥生とか関係ないだろう?
407日本@名無史さん:2012/07/17(火) 11:28:11.19
>>405
だから、そう書いてるだろ。
403の言うY染色体で縄文と弥生に変化はないというのは間違い。
弥生人には縄文人と別系統のY遺伝子が含まれている。
408日本@名無史さん:2012/07/17(火) 11:37:25.19
>>403
間抜けなんだよな日本の学者。
東シナ海の危なさ理解して無い。
409日本@名無史さん:2012/07/17(火) 15:16:42.50
>>407
そもそも、縄文人、弥生人って分け方自体が間違いだろう?
これ、土器の種類で区別しているけど、どうなん?
そもそも、縄文土器を使用していた人の
Y染色体がどうなのかも分かってない。
古アジア人種と新アジア人種という風にわけるのなら
実はアイヌとか沖縄人にも、その両方が混じっているというはなし。

410日本@名無史さん:2012/07/17(火) 15:31:43.67
>>383
この意見が、一番よろしいと思う。
よって、出雲国譲りとか神武東征の話に
縄文と弥生みたいな話は適切ではない。
最近だと、紀元前10世紀以前に水田なり農耕なりが開始されていたとみられているわけだから。
出雲国譲りなどは、実在のことだとしても、紀元前1世紀から紀元後1世紀くらいの話。
411日本@名無史さん:2012/07/17(火) 16:31:29.35
稲作なり鉄器なりの技術がもたらされれば良いわけで、渡来人が必要なわけではない。
事実、後の方の渡来人は罪人のように未開部へ強制移住させられた。
もちろん混血は起こったけれども。
412日本@名無史さん:2012/07/17(火) 17:10:23.00
>>409>>411
縄文時代末期〜弥生時代の間に一定数の渡来人が来たことは間違いがない
何人の渡来人が来たかについてはこんな研究がある(別の人のサイトです)
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_10.html

>後の方の渡来人は罪人のように未開部へ強制移住させられた

これはどんな根拠に基づいて言ってるの?
413日本@名無史さん:2012/07/17(火) 21:09:05.29
縄文、弥生は考古学の話なので、微妙にすれ違い。
414日本@名無史さん:2012/07/17(火) 21:46:57.16
縄文人・・・おそくともBC1000年には日本列島に住んでいた人。アイヌ人の祖先かもしれない。
江南人・・・揚子江周辺の人。BC1000年〜AD300年ぐらいに日本や朝鮮半島南部に移住。高度な水稲文化。
       春秋仙谷時代の呉(BC473年滅亡)、越(BC334年滅亡)、楚(BC223年滅亡)あたりがクライマックス。
弥生人・・・縄文人と江南人の混血。母系DNAは2:8程度(実人数を表す)、父系DNAは4:6(力関係を表す)という研究があり、
       すでに縄文人が国を経営していて、そこに、渡来人が平和的に婚姻したとみられている。
       縄文人の父系が強いのは一夫多妻制(縄文人の男が金持ちで嫁をたくさんもらいY遺伝子を残しやすい)の影響。
三韓人・・・江南人の末裔だと思われる。縄文系のY遺伝子を持たない。
       北部から異民族(扶余→百済・穢貊→新羅)の南下に押されて日本に移住。(AD400年以降、奈良時代がピーク)
現在の朝鮮人・・・中国華北、扶余、穢貊、モンゴル、女真などの混血
415日本@名無史さん:2012/07/17(火) 21:53:17.49
中国がすっとぼけてるだけでYーD系が何がしかの意味持ってるじゃ無いか?
416日本@名無史さん:2012/07/17(火) 22:15:06.16
>>412
記紀には高句麗の渡来人が関東に移されたと有るな
実際に高麗神社もある
当時の関東は未開の地が多かった
朝廷も扱いに困って最終的には渡来人の永住禁止にしている
417日本@名無史さん:2012/07/17(火) 22:19:30.10
>>414
中国も朝鮮も水をためるだけの水田だから
水口が有って高度な技術なのは日本の水田のほうだぞ
水田技術は中国からも朝鮮からも入っていない可能性が高い
道具も違うし技術も違う
418日本@名無史さん:2012/07/17(火) 22:24:33.10
技術は、使う条件と状況があるから、
まあ、慎重に。
419日本@名無史さん:2012/07/17(火) 22:35:53.33
どんどん、すれ違いの話になっているなw
ここは、出雲国譲りとか、神武東征の話だぞw
420日本@名無史さん:2012/07/17(火) 22:41:37.57
考古学者って、やたら絶対年代出したがるなw
でも、土器編年では、大まかな相対年代しか出せない。
だから、農耕の始まりについても、考古学者と植物学者では
年代が大きくずれまくっていた。
たとえば、長年、考古学者は、日本での水稲開始時期を紀元前3世紀としていたが
植物学者の意見だと、紀元前15世紀前後には、日本で水稲農耕がおこなわれても
不思議ではないという意見だった。
それが、ここにきて、考古学者が徐々に、それに歩み寄っていて、
紀元前10世紀までにしてきている。
421日本@名無史さん:2012/07/17(火) 23:05:17.43
朝鮮の水田は、日帝時代に作ったから日本と同じだよ。
江戸時代に李朝から依頼を受けて米を作ろうとしたけど上手くいかなかった記録がある。
中国は、2000年前の技術をそのまま続けているから今では見劣りするけど、当時、水田は高度な技術だった。
422日本@名無史さん:2012/07/17(火) 23:08:53.37
一見変な風習でも、数千年の歴史を経て、
実は合理的ってことが時々あるからねえ。
423日本@名無史さん:2012/07/17(火) 23:28:25.61
高度経済成長の時に大規模水田の計画があって実験水田が作られたんだが
見事なまでに大失敗したんだよな。
畝、畦が無いとちょっとした風で波がおこり簡単に稲が倒れる、害虫が大量発生する、
土の質が一定に保てず品質が安定しない、波が消えないないため酸素過剰でpHが下がりすぎる、など。

結局、一見不細工な曲がりくねった変形楕円のクリーク状の田んぼが一番性能が良い事がわかり、
あれは開墾技術が不足していたわけではなく、わざとあの形に曲げていた事が解った。
現在はトラクターの作業効率の問題で全部方形になったけど。
424日本@名無史さん:2012/07/18(水) 04:28:30.17
伊勢神宮には
「米は斉(山東省)の御田から天照大神が持ってきた」という伝承が有る
意外な事に、この伝承は最新の考古学的成果と全く矛盾してない

少なくとも2300年前には青森で水田稲作が有った
こんな稲作技術は当時中国朝鮮には無かった
つまり当時の日本の稲作技術はアジア最高だったのだ
425日本@名無史さん:2012/07/18(水) 08:24:14.21
>>424
伊勢神宮のその伝承は
後世、作り出された伝承だろう?
昔からの伝承とは違うと思うけどね。

実際に、記紀が編纂されてからも、日本全国各地に
色んな伝承が新しくできているのよ。
現代人が神話時代について、いろいろ想像するように
古代人や中世人も、いろいろ想像して、神話時代のことを想像していたわけで。
京都朝廷ですら、平安時代から中世にかけて、いうこと変わってきているからな。
時代の変化によって、過去の記憶が薄れてきて、いろんな説が考え出されてきたと思われ。
426日本@名無史さん:2012/07/18(水) 08:26:06.56
それと、まじで、ここ
すれ違いの話題になりつつある。
水田の話は、考古学か植物学や農学系の板でやってくださいよ。
427日本@名無史さん:2012/07/18(水) 08:43:24.49
これだけ、考古学年代が遡らせて考えるようになってきたら
もう、神話の話と、縄文弥生の話は関係ない話になってきているよ。
428日本@名無史さん:2012/07/18(水) 10:51:29.79
>>426
水田と神武東征の関係は深いよ
日本史を理解する上で稲の特性や古代の気候は重要

陸稲を水田に植えても収量は増えない
あの時期に水田に植えると収量が数倍になる品種が誕生し広まった
これが日本で水田が普及した一番の要因
水が多く狭い国土の日本にぴったりだったのだ

渡来人が稲と水田を持って来て
渡来人が日本で勢力を拡大したという形跡は無い
これは神武天皇の先祖が縄文系だったと言う事につながる
天孫=縄文人である
429日本@名無史さん:2012/07/18(水) 11:00:42.86
>>428
神武東征と縄文弥生の話は千年以上、時間に差があるので、
基本的に無関係だよ。

誰も、織田信長の時代と縄文弥生の話を並立して語らないと一緒。
430日本@名無史さん:2012/07/18(水) 11:01:49.91
このスレ、無限ループになっている。
古い知識で考える人も多すぎて。。。
431日本@名無史さん:2012/07/18(水) 11:23:57.70
古い知識
渡来人が稲を持ち込んで、渡来人が日本で勢力を拡大した

正しい知識
縄文人が水稲に適した種子を手にいれ、九州から西日本と日本海側に水田が一気に拡大した
この水田拡散は戦いを伴わず平和的に行われている

これは縄文末期の日本人の交流が活発だった事を意味している
戦いが目立ちだすのは弥生時代、神武東征もこの時期だろう
432日本@名無史さん:2012/07/18(水) 13:05:14.67
>>414

>縄文人・・・おそくともBC1000年には日本列島に住んでいた人。アイヌ人の祖先かもしれない。

当時、ハワイ諸島周辺に南極があり太陽風の影響で氷が解け、大量の海水が太平洋を襲った
ノアの箱舟で何を逃れ、現在某山に逃げ込んだユダヤ民族
しかし、津波の恐怖から山の麓に降りられなくなり
山頂に約二万年近く住み着いた
これが縄文人であり、ユダヤ民族、旧約聖書では北イスラエル王国と言う
山頂は、生活環境が悪く寒い、食料栽培ができず、人口は約700人前後
下界で転生したニニギにより、縄文人は麓まで降ろされ、人口は急増した
国づくりと言われたのは、イザナギではなく、ニニギだったw
ニニギは、現在築西市猫島周辺で馬から転落するような経緯で死亡
日本王国=北イスラエル王国は、エルサレムを後に筑波山周辺に移動した
エルサレムは封印され、第二のエルサレムを中禅寺湖周囲に確保、一部はそこに住み着いた

そして、エルサレムの封印は解かれ、契約の箱(アーク)は持ち主へと渡された
開発したメーカーは、目をウルウルしながら爆弾発言
結果、無視wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
433日本@名無史さん:2012/07/18(水) 14:37:13.93
あのう、、すびばぜん。
大きな括りでは弥生時代はついこの間、機械化農法が本格的に導入される以前の昭和中期頃まで。
基本的な農耕や民の暮らしなどに大きな変化がないため。
434日本@名無史さん:2012/07/18(水) 14:47:37.42
>>433
明治維新で結構変わったぞ
435日本@名無史さん:2012/07/18(水) 18:51:53.32
もう、このスレ、無茶苦茶w
すれ違いの話、大杉w
考古学年代が大幅に遡るようになってきたので
日本神話と縄文弥生の話は直接的には関係ないよ。
たとえば、織田信長の話と縄文弥生の話が直接的に関係なのと一緒。
436日本@名無史さん:2012/07/18(水) 19:15:41.03
>>435
出雲神殿 復元予想図
ttp://www.eonet.ne.jp/~yamauo2005/fig181.jpg

鳥取県で見つかった弥生式土器の図形
ttp://www.eonet.ne.jp/~yamauo2005/fig1a1.jpg
437日本@名無史さん:2012/07/18(水) 19:24:46.35
出雲大社の中には天皇は入れない
天皇を拒否できる唯一の神社
神話が今も生きているんだよ
438日本@名無史さん:2012/07/18(水) 19:39:52.11
>>437
いや、天皇・皇后両陛下が出雲大社参拝してるんだが
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/h15/photo1/godousei-1003ph.html
439日本@名無史さん:2012/07/18(水) 19:40:26.11
出雲大社の偉い人は
今でも選挙は全て棄権するそうだ
倭の政治に関わらない、という昔の約束を今も守っていると言う

諏訪大社には2つの社が有る
出雲から逃げて来た神と、元々地元に居た神の社だ

これらが神話が史実だったと言う裏付けになる
2千年以上前の約束を守る国、日本
440日本@名無史さん:2012/07/18(水) 19:43:51.06
>>438
境内だけじゃないかな
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/出雲大社#.E7.94.B1.E7.B7.92
>現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。
441日本@名無史さん:2012/07/19(木) 04:51:35.03
出雲大社の人は、天津神の人。
天穂日命の後胤ということになっているので、
天皇家とは兄弟で別れた家系。
天皇家の先祖は、天忍穂耳命が最初で、
その天忍穂耳命の弟が、天穂日命。
442日本@名無史さん:2012/07/19(木) 05:32:30.85
考古学の区分については、もうそろそろ
時代を遡る云々以前に、新しいネーミングを考えたほうが良いと思うよ。
縄文弥生では、言い表せなくなっているから。
443日本@名無史さん:2012/07/19(木) 06:01:18.85
縄文弥生を人種論にまですり替えたからな間抜け学者がメリケンや中共につけ込まれてるの認識してんのかよ?
444日本@名無史さん:2012/07/19(木) 08:10:08.47
弥生時代ってのは、弥生土器の使用をもって、そのように言っていたのが
のちに農耕の開始によってに意味が変わり
最近では、水稲農業の開始に意味が変わってきている。
しかも、水稲農業の開始時期ってのは、まだ縄文土器の時代だからなw
なのに、弥生時代っていうわけだからw
また、地域によっては、縄文とも弥生とも判別がつきようがない土器も出ているし。

よって、縄文時代とか弥生時代というネーミング自体、
無理が出てきているんだよ。
新しい時代区分名を考えるべきだな。
445日本@名無史さん:2012/07/19(木) 09:10:28.94
弥生時代は変えた方がいいよな
弥生人の渡来と弥生土器と水田開始が一致してないから
何がなんだか分からなくなってる
特に弥生時代が遡ると言われ始めてからずれが大きすぎて話しにならん
学問用語として不適切

古墳時代も遡ってしまったからこれも微妙だが
446日本@名無史さん:2012/07/19(木) 09:14:28.52
渡来系弥生人は呉越の難民で間違いないだろう
時期がズレて数回大量の渡来が有り
しかも仲が悪かった
弥生時代に戦争が増えたのは、水田が原因だけで無いと思う
447日本@名無史さん:2012/07/19(木) 09:21:05.61

太陽神・稲作神=天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
448日本@名無史さん:2012/07/19(木) 09:28:54.93
>>446
実際は縄文時代から戦争はあったんじゃね?と言われているし
また、一時期に大量に来たのではなく、千年以上をかけて徐々にきて
原住民と混血していったのでは?とも思われている。
だからこそ、日本で文字が流通していないわけで。
449日本@名無史さん:2012/07/19(木) 09:49:30.16
>>440
天皇家が偽者って理解している証拠じゃん

>>444
弥生時代って、西暦300から600年頃の狭き時代のことになりませう
450日本@名無史さん:2012/07/19(木) 09:50:25.35
>>448
というかその頃文字なんて中国でも一部の官吏しか知らんだろう
451日本@名無史さん:2012/07/19(木) 09:52:46.52
>>449
西暦300から600年頃って古墳時代なんだけどな
452日本@名無史さん:2012/07/19(木) 09:54:16.68
>>448
それこそ弥生時代の渡来人が日本に飲み込まれた証拠
渡来系が先住民より優位に立った場合は言語が入れ替わる
南北アメリカやアフリカがいい例
フィリピンやインドもね

文字は縁起が悪いと禁止されたのかもしれん
古代日本でも占いに使っていたみたいだし

海流の影響で長江河口から数日で日本に流れ着くから来るのは簡単なんだよね
浮かんでるだけで何とかなる、最悪でも青森には上陸できる
帰りたくとも帰れないけど

でも逃げて来たのは貴族が多いはずで、農民は少ないと思うんだよな
稲作農民が日本に逃げて来る理由がまったく無い

弥生時代の渡来人は上陸しても食料調達が不可能だから
縄文人の助けが無ければ生きる事は不可能
まあ難民は普通非戦闘員が多いし
戦いを挑んでも縄文人は弓の名手が多いからバカは全員死亡だ
453日本@名無史さん:2012/07/19(木) 10:00:52.57
>>452
> でも逃げて来たのは貴族が多いはずで、農民は少ないと思うんだよな
> 稲作農民が日本に逃げて来る理由がまったく無い

中国の戦乱なめちゃいかんよ
農民平気で殺すから
454日本@名無史さん:2012/07/19(木) 10:11:34.09
>>453
それは農民が反乱起こしたからでないの?
普通に皆殺ししてたけど
農民は雑魚だから少し逃げると大丈夫
貴族は最後まで探され国を追われるから長距離を逃げる
455日本@名無史さん:2012/07/19(木) 10:41:18.78
そもそも弥生時代なんて存在していたのか?

縄文時代と云われているのは、遺跡文明なので稲作やら土器、
船舶にいたるまで持っていた

弥生時代を象徴するものとして、高床式住居しかない
今までいい加減な学者の論説に振り回されてきたことは云うまでにない
456日本@名無史さん:2012/07/19(木) 10:49:41.95
弥生時代の始まりはともかくとして、
古墳時代の始まりは、古墳つっても、
方形周溝墓みたいなのもあるからな。

前方後円墳の開始時が、古墳時代の始まりとでも、
定義しとくか?
457日本@名無史さん:2012/07/19(木) 11:25:00.67
後世と同じ様に王朝で区切った方が良く無いか?
崇神から大和時代が始まりそれより前が出雲時代(仮)とか・・・

神武天皇は大和朝廷の起源では有るが国王では無いからここは出雲時代
それより前はとりあえず縄文でいいな
縄文から出雲時代の変化は良く有る斜線でw
国譲りは意見が分かれるのでシカト
458日本@名無史さん:2012/07/19(木) 11:40:03.37
>>457
それは文献がないから、はっきりしないだろう?
本来、弥生時代、縄文時代なんて、考古学の上での便宜上でしかなかったんだけど
それが戦後、大きくなりすぎて、縄文文明、弥生文明なんて、
おおげさなモノになってしまったからな。
まとめて、先史時代ということにすりゃ良いんだけど、
農耕の有無が重要なのなら、陸稲時代、水稲時代というぐらいな分け方と
並立させて、区分したほうが良いと思う。
459日本@名無史さん:2012/07/19(木) 11:43:08.93
>>455
ゴッドハンド藤村は批判されたけど
実は、考古学者の大半が、あれと大差がないんだよw
これまでの考古学上の通説も、ゴッドハンド藤村と大差がない。
しかし、藤村ぐらい、適当なことを言わないと
考古学って、学校の教科書に記載されるような大したレベルのことは
本来は分からないことだ。
460日本@名無史さん:2012/07/19(木) 13:04:39.58
という事は
ウルのギルガメッシ叙事詩とかアララト山のノアの箱舟とか
レバノンの古代ローマの2千トンの切り石とか殷の製作方法謎の
青銅器とか・・・あれも適当な事?
461日本@名無史さん:2012/07/19(木) 14:34:01.67
土器編年とか、農耕の後とかに
それに関しては、何もわからんな
462日本@名無史さん:2012/07/19(木) 17:45:07.76
>>454
負けた国の農民は、男で働ける奴は奴隷になった。働けない奴や奴隷が多すぎる場合は、殺されて食肉にされた。
少し逃げると大丈夫っていうけど、その後の生活はどうするの?
当然、理にかなう行動をする農民は、その少し離れた土地の農民を殺して土地を奪っただろう。だから、民族ドミノ移動なんかが起こるんだけど。
463日本@名無史さん:2012/07/19(木) 18:21:53.98
紀元前5000年 畑作農耕開始
紀元前4000年 陸稲開始
紀元前1500年 水稲農耕開始

紀元元年前後 出雲国譲り

こんな感じでしょう?

出雲国譲りとか、神武東征というのは、日本で農業が開始されて
数千年たった時代の話。
水稲農耕が開始されても千年以上たった時の話だよ。
464日本@名無史さん:2012/07/19(木) 18:52:07.14
>>462
山に逃げてるだろ
海に逃げたヤツもすぐ南の陸に上陸した
その国が越
日本にも越が有るから同じかも

>>463
神武東征が紀元ごろ
国譲りはす〜〜〜〜と前
神武天皇によると170万年前w
年表には無理だぞ
465日本@名無史さん:2012/07/19(木) 19:35:36.60
>>464
山に逃げても田んぼがなくて何食っていくのよ。
466日本@名無史さん:2012/07/19(木) 20:18:58.17
>>465
もちろん
山に田んぼを作る
467日本@名無史さん:2012/07/20(金) 02:43:39.83
>>466
あほか。
むこうの荒野と水の豊かな日本を一緒にすんなよ。
山に逃げた奴は山賊になる。それ以外の生き残る道はない。
468日本@名無史さん:2012/07/20(金) 02:56:38.43
469日本@名無史さん:2012/07/20(金) 03:29:35.85
国譲り以前の国生み、つまり倭人そのものの形成過程と時期についての議論と思えばいいのかな?>スレの現状
470日本@名無史さん:2012/07/20(金) 04:05:40.24
>>468
こんな奇観が中国中にあるのか?
ないから観光地になってんだよ。
こんな特殊例持ってきて何がしたいの?
471日本@名無史さん:2012/07/20(金) 04:13:41.57
>>464
その年表も無理。神武は紀元頃ではなく、紀元前600年だろう?
しかも、みんな寿命が異様に長く、神武以前は、さらに長い。

そんな馬鹿なという話で、もっと適正年齢でみたら、
神武は紀元1世紀の人物で、それよりも三世代前の出来事として
出雲国譲りで、紀元元年前後くらい。
472日本@名無史さん:2012/07/20(金) 05:04:14.57
473日本@名無史さん:2012/07/20(金) 05:08:34.10
>>471
国譲りは神話の時代
神武東征は人の時代
崇神が3世紀頃
古代は倍年だった、これで矛盾無し
474日本@名無史さん:2012/07/20(金) 06:20:07.15
神武は卑弥呼より少し後の時代だったんではないかと想像したりもするんだけどな。
国譲りが倭国大乱の時期とか。
475日本@名無史さん:2012/07/20(金) 06:42:32.23
卑弥呼は、神武の7代後の子孫だよ。
倭国大乱は、欠史八代の中ごろの時期。
476日本@名無史さん:2012/07/20(金) 06:50:51.43
紀元前5000年頃 畑作農耕開始
紀元前4000年頃 陸稲開始
紀元前1500年頃 水稲農耕開始

紀元元年前後 出雲国譲り 天火明命が倭王に即位(高天王朝=前ヤマト王朝建国)
紀元1世紀後半 神武東征
紀元2世紀中頃 倭国大乱勃発
紀元2世紀後半 卑弥呼(モモソ媛命)共立(ヤマト王朝建国)
紀元3世紀中頃 卑弥呼死去
477日本@名無史さん:2012/07/20(金) 07:57:51.05
ベトナムの棚田すごすぎるw
これ見ると日本の棚田百選は上品だね
478日本@名無史さん:2012/07/20(金) 11:51:42.06
国譲りを紀元辺りだと思うのは
普通でもっともだ
でもそれが誰でもはまる落とし穴

国譲りが書いてあるのは記紀だけど
その同じ記紀には国譲りは遥か昔であり神代だと書いてある
曲解したらダメだぞ
479日本@名無史さん:2012/07/20(金) 12:15:39.81
>>449
だから、その頃の最後の大規模に渡来してきた豪族が、百済人なのだろう。
弥生系とは、=百済人=高句麗人の事。
480日本@名無史さん:2012/07/20(金) 12:58:53.62
>>479
中国の文献を読め。あれを読んでいたら、どうみても、そのようには解釈できない。

倭人というのは昔から存在していて、それが、そのまま存在している。
どれくらい前かというと、中国で周王朝が健在だった時代からであり
その時代から倭と周は外交関係にあった。
その後、漢、魏と外交関係が受け継がれている。

一方、朝鮮半島では、馬韓、弁韓、辰韓という三韓人がいて、
そこへ比較的に新し時期に満州から扶余人が南下して
三韓人を征服し、百済という国を建国し、もう一つは満州あたりにとどまり
高句麗という国を建国した。
百済も高句麗も多民族からなる新興国家なんだよ。

一方、倭のほうは、基本的に殆ど倭人主体の国家が
魏志倭人伝に時点で1000年近く続いていたよう記述になっているな。
481日本@名無史さん:2012/07/20(金) 13:11:34.83
>>480
百済も高句麗のは、和氏和人
倭人は、新羅秦氏側。
秦は、元の始皇帝の時代は、チベット四川辺りの国家で、スサノオもチベット方面から来た訳だしね。
482日本@名無史さん:2012/07/20(金) 13:12:42.01
>>480
周代の倭は、後の倭とは異なると思うけどね。
どちらかというと、周代の倭は中国南部やベトナムのほうだと思う。
そもそも、同じ倭でも、漢字の発音が違うしね。
ただし、前漢のころの倭は、すでに日本のこと。

魏志倭人伝みても、楽浪郡の時代にすでに
倭国は中国に使いを出しているよ、国家として。

483日本@名無史さん:2012/07/20(金) 13:19:30.60
「わ」って日本人が自分のことを言う言葉だよな
中国人が決めたんでなくて
古代の日本人が自分たちで「ワ」を名乗ったんだと思うが
それを中国人が変な字をあてはめた
484日本@名無史さん:2012/07/20(金) 13:50:02.52
古代日本の国名
わ、き、ひ、お、う、えつ

古代中国の国名
か、いん、ご、そ、しん、しゅう、かん、ぎ、しょく、えつ、かん
まとめると(か、い、ご、そ、し、え)

なぜか、エツを除けば重複しない
これは偶然なのか?
中国には華人も呉人も居る、倭人は日本人を指す
〜人とは大きな勢力を持つ人達
古代の中国南部に日本人と同じ奴らが居たんだよ
倭人は縄文人を指し、のちに日本人を咲く様になったのかも知れん
485日本@名無史さん:2012/07/20(金) 14:20:21.80
>>479
在日韓国人が、時間を遡る前に住んでいた付近を地図上で指し、側近の藤原が百済と提言した
その後、日本から遠征で百済に入り国家を大きくした後、戦乱で日本に起居した
と考えれば、嘘吐き天皇と母国百済説が繋がる
元々百済には人が住んでいなかった

朝鮮半島は、現在南北と別れているけど、当時は高句麗一色で、中国外交官は
歴史通りに高句麗に兵を差し向けるように朝廷に指示したと

中国、始皇帝は、もしかしたらユダヤ十二支族中二部族なのかも知れない
ユダヤ十支族は、それぞれピラミッド周辺で暮らしていたと考えるべきでw

>>441
宮内庁らしい言い分だが、天皇家の祖先は在沖韓国人だ
そのうち、天皇家御先祖様が歴史通りに日本史改竄するよw
そのとき、貴方がたは、何を考えるのか?
486日本@名無史さん:2012/07/20(金) 14:52:58.89
>>485
古代の朝鮮半島南部は倭の領地だよ
魏書馬韓伝
「韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。」

朝鮮半島南部は元々倭人が住んでいた(紀元前)
中国の難民の流入が多くなる
倭の領地は北から押される形で小さくなる(任那)
神功皇后が三韓成敗し新羅を属国化し、百済を建国する(3〜4世紀)
高句麗がたびたび南下し、倭が出兵する
この状態が数百年続く
新羅が高句麗と組み百済を滅ぼす(660年)、百済に住んでいた倭人と貴族が日本移住
新羅が高句麗も滅ぼし朝鮮半島を統一する(668年)
487日本@名無史さん:2012/07/20(金) 14:54:44.78
>>486
>新羅が高句麗と組み百済を滅ぼす

もちろん高句麗じゃなくて唐の間違い
488日本@名無史さん:2012/07/20(金) 15:08:04.83
>>472
はい?
お前、中国の話してんだろ?ベトナムは緯度も気候も全く違うし、
そんなんが通用するなら日本やらインドネシアの棚田だっていいってことになる。
たんに馬鹿晒してる事だって気づけ。
489日本@名無史さん:2012/07/20(金) 18:20:48.49
490日本@名無史さん:2012/07/20(金) 18:22:12.95
491日本@名無史さん:2012/07/20(金) 18:34:43.33
492日本@名無史さん:2012/07/20(金) 18:48:03.09
〜日本語の起源から日本人を考える〜
http://www.jyoumon.com/blog/2010/11/001162.html
渡来人の出自
http://www.jyoumon.com/blog/2010/11/001160.html
「倭人」とは華南の「越人」のことである
http://www.jyoumon.com/blog/2010/11/001164.html
倭国大乱からはじまる同類闘争圧力の上昇
http://www.jyoumon.com/blog/2010/11/001165.html
493日本@名無史さん:2012/07/20(金) 18:54:31.02
>>488
ベトナムを昔「越」て言ったけど
長江付近に居た百越人や越が起源との説が有力
越人や百越人は戦いに追われ中国南部の山地やベトナムの山地に逃げ込んだ
中国と関係大有り
494日本@名無史さん:2012/07/20(金) 18:56:39.87
現ベトナム人と日本人の下戸遺伝子の多さから越人が共通の祖先だったことが伺える
495日本@名無史さん:2012/07/20(金) 19:01:44.05
もう、日本神話の話と、考古学の話は、徐々に離れてきているよ。
なぜなら、考古学上の年代が大きく変わってきたから。

紀元前5000年頃 畑作農耕開始
紀元前4000年頃 陸稲開始
紀元前1500年頃 水稲農耕開始

紀元元年前後 出雲国譲り 天火明命が倭王に即位(高天王朝=前ヤマト王朝建国)
紀元1世紀後半 神武東征
紀元2世紀中頃 倭国大乱勃発
紀元2世紀後半 卑弥呼(モモソ媛命)共立(ヤマト王朝建国)
紀元3世紀中頃 卑弥呼死去

496日本@名無史さん:2012/07/21(土) 02:48:52.96
記紀は全部肯定するか全否定だ
常識的に信じられないとか言って
記紀の一部だけ抜き出し、他は否定して説を作るのは
オカルト信者や韓国人と同じだ
497日本@名無史さん:2012/07/21(土) 08:57:17.75
否定するのではなく、解釈変更の違いだろう?
たとえば、記紀では、ワカミケヌ(神武)が東遷したような記述だけど、
実際は、東遷いたのではなく、ただ単に東征しただけだとか、
その東征は、畿内内戦の援軍として駆けつけただけだとか...
これだと、否定したというよりは、解釈違いだけになる。
498日本@名無史さん:2012/07/21(土) 10:22:31.51
>>496
やっぱり宮内庁だったんだw ざまー

>オカルト信者や韓国人と同じだ

竹内文書は、「契約の箱」を前面に押し出して正当性を主張する。

オカルトはやっぱり「記紀」だねwwwwwwwwwwwwwwww
499日本@名無史さん:2012/07/21(土) 17:15:31.55
なんか小学生みたいな奴が居着いてスレを壊しちゃったな。
いいスレだったのに残念。
500日本@名無史さん:2012/07/21(土) 17:22:07.67
出雲国譲りはニニギやその子孫に関係ない与り知らぬところで行われたことですよね?
501日本@名無史さん:2012/07/21(土) 22:03:28.18
国譲りとは文字通り神話。
王権の神聖性、正統性を高めるために、
太安万侶及び書紀制作ブレーンが考え出したフィクション(神話)。
502日本@名無史さん:2012/07/21(土) 22:18:23.21
>>500
出雲の国譲りを主導したのは、高皇産霊尊と天照大神。
ニニギノミコトよりも前の時代かも。
503日本@名無史さん:2012/07/22(日) 01:27:26.57
>>501
それじゃ、なぜ、出雲という特定の地域が指定された?
記紀が誕生した時代は、出雲が特別、強かったようには思えないし。
504日本@名無史さん:2012/07/22(日) 01:30:08.95
>>503
違うだろう?
天忍穂耳命や天穂日命の代では、出雲国譲りは無理だったとあるし。

高皇産霊尊と天照大神というのは、
天忍穂耳命や天穂日命やニニギ命が崇拝していた神様というだけじゃないの?
505日本@名無史さん:2012/07/22(日) 01:35:32.36
>>503
8世紀の編纂者の立場で考えると、案外分かり易い。

1 昔々繁栄していた地域として、知られている
2 今は衰微している
3 交通の要衝で無い、むしろ陸の孤島である

2と3の条件があるから、話を盛っても、調子こいた在地勢の叛乱は気にならず、人畜無害。
1の条件があるから、話を盛っても、尤もらしく聞こえる。
だから、先住民関連ネタを「出雲」という名詞に集約して、123を満たす島根県をその故郷とした。

ちなみに、同じ論理は、おそらく皇祖の故郷「宮崎」についても言えるはず。宮崎も123を綺麗に満たす。
皇室の故郷は、本来は宮崎では無かったのではないか?
506日本@名無史さん:2012/07/22(日) 01:55:35.46
記紀を根も歯も無い完全な作り話と捉えれば、そのような推もありえる。
でも普通は完全な作り話などとは見ないもの。
というか誰もが考えてみるだろうが…火の無いところに煙は立たない、
皇室自らの出自に関わるところでそんなことを広めるわけがないだろう
と考え、少なくとも何らかの関わりがあったと見るに至るのが普通の考え
というものだろうな。
507日本@名無史さん:2012/07/22(日) 02:12:04.87
解釈は最小限であるべきだ
時期と人と場所を変えたのなら、それは解釈でなくて捏造だ
508日本@名無史さん:2012/07/22(日) 03:08:28.05
>>505
皇室は宮崎を故郷とはいっていない。
皇室にとっての故郷とは、高天の原のこと。
わけあって、出雲国譲りの直後、
高天の原から、九州高千穂へ降臨したことになっている。

では、高天の原とは、どこなのか?
記紀によると、ワカミケヌ命(神武)の水軍が
河内へ上陸しようとした時に、自分たちは高天の原の出自なのに
高天の原にむかって攻めるのは、縁起が良くないといっている。
つまり、大阪湾から大阪平野に向かって、その向こうに高天の原があったことになる。

そことは、金剛山であり、そこは、古来、高天山と言われた場所であり
その高天山の麓で、御所市側のあたりを、高天の原といっていたことが
分かっている。
509日本@名無史さん:2012/07/22(日) 03:40:44.32
やっぱり奈良が故郷だったのか
宮崎は赴任先に過ぎなかったと
510日本@名無史さん:2012/07/22(日) 05:58:41.15
>>508
朝鮮人化を起こしたんじゃないか?
故地、起源地ルーツのすり替えw
511日本@名無史さん:2012/07/22(日) 06:43:06.45
>>508
相手しない方が良いんだとは思うけど…
高天原ではなく、太陽に向かって戦うのは良くないと言って、太陽を背に戦った…な
512日本@名無史さん:2012/07/22(日) 10:06:38.09
皇室は宮崎に愛着を持っていると思われ…。
宮崎神宮には明治天皇は寄付金を出し、交通事情が極悪の中、大正天皇も
参拝。昭和天皇は7回も8回も参拝している。

今の皇太子も小学生時代に宮崎の綾で夏休みを過ごしたとか。

昔、夷守台という山の中の公園みたいなところに行ったら、昭和天皇両陛下の
植樹のほか、皇太子夫妻(現両陛下)の植樹、さらに常陸宮夫妻の植樹まで
揃っていた。
513日本@名無史さん:2012/07/22(日) 10:45:49.83
>>512
今の皇室は、皇室神話の意味、理解してないでしょうに。
もう、南北朝時代の北畠親房の神皇正統紀をみても
皇室神話の意味が忘れ去られてしまって、それについて
いろいろ思いを巡らせているかんじ。
514日本@名無史さん:2012/07/22(日) 10:47:04.77
延喜式の内容を見ても
畿内中心で、九州の価値は落ちるかんじ。
515日本@名無史さん:2012/07/22(日) 10:51:45.95
>>513
昭和天皇までは明らかに宮崎に愛着を持っていた。
しかし、今の天皇にはそれが感じられない。
本当に愛着がないのか、それとも自粛しているのか。
ちょっとわからないな。
516日本@名無史さん:2012/07/22(日) 10:58:55.39
皇室に今も秘密の伝承とか有るのかな?
実は・・・みたいな
517日本@名無史さん:2012/07/22(日) 11:30:45.84
イザナギ、イザナミ、天照、スサノオなどは、西暦に入ってから登場したようだ
イザナギ、イザナミが出雲の国の王と皇后
ニニギは紀元前二世紀から一世紀にかけて

記紀は時系列を歪めた節がある
518日本@名無史さん:2012/07/22(日) 11:57:05.75
kwsk
519日本@名無史さん:2012/07/22(日) 12:06:47.82
今の皇室系図では、神武以前と神武以降を分けている。
しかしながら、これは日本書紀によって、
神武を基準に、神代と人代に分けられたからだ。

しかしながら、これは、かつては違っていた。
記紀を注意深く読むと分かることであり、
また、新撰姓氏録の分類を見ても分かる。

もともとは、天照やスサノオの話が神話の話であり
そこから誓約で刀から誕生したオシホミミやホヒの誕生後の話からが
実在の話だった。
アマテラスという神様を信仰する豪族が、オシホミミとホヒだった。

そして、ヤマト朝廷の創始者は、イワレヒコこと神武天皇ではなく、
それよりも以前に、出雲国譲りによって天下を平定した人物こそが
真の初代ヤマト朝廷の倭王であった。
彼の本名は、ホアカリといい、オシホミミの嫡男であり、
通称を天照国照彦(天つ神と国つ神の両方の支配者)といった。

卑弥呼の遺跡と噂される纏向遺跡の真ん中にも、天照御魂神社があり
ここには、ホアカリが祭られている。
もともと、ヤマト朝廷の初代倭王アマテルとして崇拝されていたのは、彼だった。・

このホアカリには、ニニギという兄弟がいた。
彼は、ホアカリによって出雲国譲りされ天下統一されると、
ホアカリの命令で、九州高千穂の地方官として派遣された。
これを後世、天孫降臨と言い、このニニギが現在の天皇家の、先祖である。
520日本@名無史さん:2012/07/22(日) 13:54:34.40
先代旧事本紀かな
これにもニニギ降臨は太古と書いてある

先代旧事本紀から引用
「我が天祖(あまつみおや)の彦火瓊瓊杵尊(ひこほににぎのみこと)に授けられた。
天の戸を開き、雲の道を押し別けて先駆けを遣わし到達された。この時は世は大昔に属し
蒙昧な時代だった。その曚中を正しく養い、この西の端の地域を治められた。
代々の天皇は神であり聖であり、慶びを積み暉を重ね、多くの年月を刻まれた。
天祖が天下られてより今に及び百七十九万二千四百七十年あまりで有る。遠く遥かな地は、
なお未だに王の恵みに潤わない。邑に君が居て、村に長が居て、それぞれが境界を争っている。」
ttp://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/sendaikuji_6.htm
521日本@名無史さん:2012/07/22(日) 15:43:00.28
>>515
昭和天皇までは、じゃなくて、明治・大正・昭和の3天皇が、でしょ。
歴代天皇が宮崎神宮に何くれと参拝してたわけでなし。
522日本@名無史さん:2012/07/22(日) 15:45:35.40
先代旧事本紀は、序文で聖徳太子のころに書かれたと言いながら
使ってある名詞は、日本書紀からのモノであり
古事記からのモノではない。
よって、偽書だろうと言われる所以である。
しかしながら、国造本紀にある行政単位などは、
元ネタになる参考資料を推測する上で価値が高いものである。
523日本@名無史さん:2012/07/22(日) 16:02:07.31
>>515>>521
明治帝と昭和帝、だろうな>宮崎へのこだわり
今上にてこだわりあそばしているのは、どうやら京都。
皇太子殿下はおいておいて、秋篠宮殿下もどうやら京都。

今上は、即位礼を「トンキンでやらせられた」のが一生の不覚だったと
お思いなんじゃないかと、邪推ながら推測してしまうような発言をされることがある。
先帝の「東京ラブ」とは、考え方がかなり違う。
昭和帝は、2回帝都が焦土になったのを目の当たりにしているからか、
東京に対する思い入れが強く、逆に、京都へのこだわりがほとんど無かった。

>>513
神皇正統記は、「神道カルト本元祖」だからなあ。都から遠い茨城で、妄想に浸って書かれた書物に近い。
茨城には、伝統的にこういう原理主義的な妄想を誘う風土がある。
水戸学が暴走して、水戸藩が内ゲバのテロ集団に成りはてた時、その主力を担っていたのは、
徳川家臣というより、茨城在来の郷士だった。茨城武士の上層部は、佐竹が秋田に連れて行ったが、
久保田藩もまた、平田国学中毒に陥ることになる。
524日本@名無史さん:2012/07/22(日) 16:50:20.82
国学思想は、江戸時代に誕生した日本神道の邪教みたいなもん。
始末が悪いのは、近代の皇室はこの思想に感化されてしまったということ。
旧皇族の竹田さんが、いろいろ皇室本を出しているけど
彼の皇室観は、もろ国学思想の影響を受けてしまっている。
だから、うれしそうに、なんども宮崎に行っている。

でも、どうみても、皇室の祖先は、近畿地方発祥であり
なかでも、現在の奈良盆地の高台にある場所が、その発祥地。
現在の奈良県御所市高天であり、ヤマト朝廷の本拠地は
高台の御所市周辺(高天)から、現在の葛城市(高尾張=葛城)に移転し
やがて、現在の桜井市・天理市(纏向、山処)に移転していった。
この桜井市周辺の狭い地域、三輪山の麓を、山処(やまと)といい、
それが、後世、この王権の名前になった。

現在の皇室の祖先であるニニギは、
この高天王権(後のヤマト王権の前身)が出雲国譲りなどで天下を統一した後
この高天から九州高千穂へ地方官として派遣された一族。
その高天王権の倭王であった天火明命と、皇祖ニニギ命は、兄弟にあたる。
525日本@名無史さん:2012/07/22(日) 18:13:05.28
>>524
その頃に、大和政権が九州まで治めていたとは、とても思えないがw
九州に派遣はない
526日本@名無史さん:2012/07/22(日) 20:37:47.60
>>522
先代旧事本紀は、何らかの学者が本文を書いていて、その後、
別の政治家か豪族が勝手に序文と表紙を付け足したもの。
だから、本当の書籍名もわからないけど、本文はまともな本だよ。
527日本@名無史さん:2012/07/22(日) 22:10:23.72
>>525
すくなくとも、前漢の時代から、倭国は中国に使いを出している。
なかでも、朝鮮半島に漢の四郡が設置されていた時代に
倭国は中国に使いを出している。

また、漢書王莽伝には、西暦5年に、大海により東夷の王が
朝貢してきたとあるが
この大海と、日本海のことであり、これは、おそらく倭王のことである。
実際に、王莽の時代の中国の通貨が
岡山から出土している。
528日本@名無史さん:2012/07/23(月) 09:01:52.79
>>527
そうだね。出雲というでっかい国があったね。
天孫降臨次期の大和政権なんざ弱小の一豪族にすぎない
529日本@名無史さん:2012/07/23(月) 10:04:54.43
出雲の勢力圏は広い
ほとんど古日本と言っていいくらい
中国で言う夏をもっと大きくした感じ
530日本@名無史さん:2012/07/23(月) 11:00:29.26
秘密結社「竹内神道」と出雲族のエイリアン・クラフトの謎
http://mujaki666.seesaa.net/article/167764630.html

>また、竹内氏も「宿禰は天皇家の側の人間ですから、原日本人にとっては侵略者です」と語っている通り、
竹内宿禰と嘘吐き天皇家は、21世紀の住人と解釈している
嘘吐き天皇家の先祖は、韓国人
竹内宿禰は、竹内巨磨の転生体

>「侵略者が日本人が守ってきた秘儀、歴史、記憶も取り込み、
>あたかも太古よりこの地の支配者であった、といった新たな歴史を改竄創作したわけです。
>その意味では竹内文書はもとより、天皇家の正史とされる紀記すらも同様の史書といえるでしょう」
事実だす

>しかし、竹内家自体は代々皇室と深い関係にはあったが、
>民間人である氏が世界天皇を名乗り出たところで世間は相手にしないだろうし、
>現天皇家が「この方に天皇家をお譲りします」といって、国民に竹内氏を紹介するいうのも非現実的だ。
531日本@名無史さん:2012/07/23(月) 11:01:14.31
スメラミコトのルーツを握る古代オリエントのスサノオ
http://mujaki666.seesaa.net/article/169408483.html

神代の古文書である富士文献(宮下文書)によると、日本人のルーツは中央アジアに住んでいた民族で、
その後、秦の始皇帝の命を受けて、85隻の船で3000人が日本列島に移住し、
「富士高天原王朝」を興したことが記されている。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
王仁三郎は、富士高天原に住んでいた天孫民族が、世界を統治すべく各地に広がったと語り、
セム族とは天孫民族のことだと述べている。
セム(SEMU)をアナグラム(換字変名)で解くと、「S・U・M・E=スメ」になり、スメラやシュメールに通じる。
偶然であったとしても、恐らくそれが真相であることはほぼ間違いない。
532日本@名無史さん:2012/07/23(月) 11:18:45.07
シュメール語で母親をアンマというんだけど
沖縄方言と同じなんだ
それ以外にも色々似ている点が有る

シュメール語→タミル語→日本語
可能性は高い
ニライカライが高天原ってのはどうだろうか
533日本@名無史さん:2012/07/23(月) 11:22:25.31
>>530-532
トンデモ説には興味なし。
534日本@名無史さん:2012/07/23(月) 11:23:56.67
出雲方言は東北の方言に似ている
これは有史以前の影響と考えられる
もともと日本は出雲方言のような言葉を話しており
呉語の影響を強く受けたヤマトが東方を侵掠しやがて日本の覇者となった
ヤマトと沖縄は意外と始祖が近いと思う
535日本@名無史さん:2012/07/23(月) 11:25:05.82
>>529
出雲の勢力圏は、その婚姻関係から見て
せいぜい日本海沿岸部ぐらいだと思うけどね。
そこから徐々に領域を広めようとしたところで、
畿内王権とぶつかり、最終的には潰されてんじゃないの?
大国主は、娘の天道日女命を
畿内王権の王である天火明命に嫁がせ、和睦を願っていたみたいだが。
536日本@名無史さん:2012/07/23(月) 11:28:49.94
>>534
もう、よいよ、そんなのw

出雲もヤマトも、日本土着の勢力だ。

あと、ヤマトについて、神武東征が大きくクローズアップされすぎて
多くの人が勘違いしているけど
神武天皇ことワカミケヌ命は、九州の日向の出身だけど、
彼の曽祖父のニニギ命は、畿内の御所市の出身。このあたりを高天といった。
ヤマト王権が出雲を倒したのは、ニニギ命の時代であり
その時のヤマト王権の王は、天火明命。ニニギ命とは兄弟の関係。
537日本@名無史さん:2012/07/23(月) 11:30:52.30
>>533
古代史なんてトンデモが常識になる繰り返しなんだがw

これでも読んで暇つぶしどうぞ
日本語・エトルリア語同祖論
http://giappone-etrusco.rejec.net/GiapponeEtrusco.pdf

マダガスカルの歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/マダガスカルの歴史
>2005年に発表されたマシュー・ハールスによるDNA研究により、1世紀前後、ボルネオ島から
>航海カヌーでインド洋を横断してマダガスカルに移り住んだことがほぼ確実視されるようになった。

>なお、ボルネオ系のDNAはボルネオとマダガスカル島の間のインド洋沿岸では見つかっていないため、
>ボルネオの人々は直接マダガスカル島まで航海した可能性が強い。この2つの島の間は4,500海里(8,300km)も離れている
538日本@名無史さん:2012/07/23(月) 11:35:18.41
日本史に興味が有る人って日本史しか読まないから
視野が狭すぎる
神話の時代にはすでに国際交流が可能だった
もちろん中国朝鮮だけでない、もっと遠くとも可能だった
539日本@名無史さん:2012/07/23(月) 11:38:42.24
有史以前に太平洋を挟んで南米とも日本は繋がりが有る

レトロウイルスHLTV-1
http://www.nig.ac.jp/labs/AnnualRp/AR99ja/research/E/Ec4.html
>以上の結果は,HLTV-Iが,アンデス地方が植民化される以前に,
>古代のモンゴロイドによりアンデスへと運ばれたことを示している.

寄生虫
ttp://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=97111
>北からの移動ルートとは別 に、温暖な太平洋ルートで南米へ到達した
>モンゴロイド集団がいたということになる。
540日本@名無史さん:2012/07/23(月) 11:46:39.04
>>538
邪馬台国あたりの歴史とか、神話のあたりなんて
もろ中国の文献資料との整合性で考える問題なんだが...
この出雲国譲りとか、その後の神武東征の話とかをする前に
邪馬台国論争が大きな問題なんだが。
これが、近年、崇神時代の話という結論に近くなっているのだが
いまだにそれを否定する人が多いので、いっこうに話が前に進まない。
邪馬台国九州説なんて、完全に地元との商業化が起こっているから
彼らは必至。
541日本@名無史さん:2012/07/23(月) 12:49:51.29
>>536 は、>>533 だw

宮下家は、天皇家に惨殺された一族
542日本@名無史さん:2012/07/23(月) 13:41:42.55
紀元前5000年頃 畑作農耕開始
紀元前4000年頃 陸稲開始
紀元前1500年頃 水稲農耕開始


紀元元年前後 出雲国譲り 天火明命が倭王に即位(高天王朝=前ヤマト王朝建国)
紀元1世紀後半 神武東征
紀元2世紀中頃 倭国大乱勃発
紀元2世紀後半 卑弥呼(モモソ媛命)共立(ヤマト王朝建国)
紀元3世紀中頃 卑弥呼死去
543日本@名無史さん:2012/07/23(月) 14:38:39.94
>>540

邪馬台国畿内説の連中も同じじゃんwww
邪馬台国は女王の国。天皇が国家元首の大和朝廷が邪馬台国だとは思えない。
女性天皇もいたけど、もっと後の時代だしな。
モモソが巫女で、裏で実権握ったとしても、表向きは天皇がすべて取り仕切ってる。
そんな国が女王の国か?

仮にモモソが卑弥呼だとして、崇神時代前にも天皇がいたのに、何で崇神時代だけ巫女たるモモソが実権握るんだ?
矛盾を無理矢理整合させて、邪馬台国は大和朝廷って言ってるから他に矛盾が一杯出てくる。それが邪馬台国畿内説。
544日本@名無史さん:2012/07/23(月) 15:31:24.35
>>543
大和王権は大王の姉妹や妻が巫女だよ

中国史書の影響を受けて大王のほうが圧倒的力を持っていたように書いてあるが
それでも国家の大事に姉妹や妻の神託に左右されていた話はあちこちに出てくる
545日本@名無史さん:2012/07/23(月) 21:31:55.98
アマテラスはわがまま女王
546日本@名無史さん:2012/07/23(月) 22:01:29.68
ここで記紀を主張しているモノは、OkWave掲示板で TANUHACHI を名乗っています。
547日本@名無史さん:2012/07/23(月) 23:00:19.63
卑弥呼はモモソ媛命でOK
548日本@名無史さん:2012/07/23(月) 23:03:06.37
臺与が神功皇后でおk
549日本@名無史さん:2012/07/23(月) 23:28:15.25
何これ

14 名前:名無しさん :2012/07/23(月)23:19:18 ID:qPRUzOFGR
吸血 カラクニダケ「献血運動推進全国大会」血を「消費税」

http://oo77986455645. wordpress.com/about2/
550日本@名無史さん:2012/07/23(月) 23:36:36.28
卑弥呼は、モモソ媛命
トヨは、豊鋤入姫命
卑弥弓呼は、武埴安彦命
551日本@名無史さん:2012/07/24(火) 01:38:15.15
臺与は混乱を収め日本を支配した女王
よって神功皇后しか該当者が居ない
つーか卑弥呼も臺与も崇神の後の女王の気がする
552日本@名無史さん:2012/07/24(火) 08:35:59.14
卑弥呼なら俺の隣で寝ているよ
553日本@名無史さん:2012/07/24(火) 09:09:29.36
モモソヒメとか大物主とか畿内の伝承はどれも陰気くさくて如何にも辺境っぽい。
天孫降臨以前の筑紫を舞台とした神話の晴れやかさと明らかに違う。
554日本@名無史さん:2012/07/24(火) 10:55:25.78
自説 (国譲り〜神武東征まで)

出雲国は大国主の下小国が連なったもので、旧大和王権も出雲国の傘下の一つだった。
大国主の死をきっかけに、小国がそれぞれ独立、旧大和王権も出雲国から独立する。→国譲り

出雲国から独立後、旧大和王権内で権力争いが起こり、ニニギが敗退日向へ逃走。→天孫降臨

復権のためニニギが日向で戦力を集めるも死亡。その野望を神武が引き継ぎ、旧大和王権を撃破。新大和王権を樹立→神武東征

記紀を元に考えてみた。もちろん机上の空論。
555日本@名無史さん:2012/07/24(火) 17:44:26.01
>>554
ニニギと神武の時間軸の違い、推定約300年違う
556日本@名無史さん:2012/07/24(火) 17:47:15.34
天孫降臨とは、ニニギ一族が北部九州から発して隼人の地である南九州を平定する事業であった、と読むのが遥かに自然。

この事業の前提となるのが国譲りで、出雲と筑紫の対立関係が解消したことにより、筑紫の王は南進に注力することが可能となった。
一方、出雲も本州内陸への進出に注力し、畿内は神武東征より前に出雲の勢力下となる。
このとき活躍したのが、筑紫から去って出雲の王に臣従するようになった別系統の天孫族であり、ニギハヤヒはその首長である。

このように、天孫族は筑紫においても出雲においても、いわば武装開拓団を率いる軍事氏族であったのであり、本来は王ではなかった。
神武が日向を去って武力で畿内に侵入し、領土を得た後はじめて「王」となったのである。
557日本@名無史さん:2012/07/24(火) 18:00:06.56
>>556
追記。
国譲りとは、出雲王スサノオによる北部九州・新羅征服という事業が放棄され、
出雲は本州、筑紫は九州島をそれぞれの領土として互いに安堵し合った、相互不可侵条約のことである。

だから九州島を「譲られた」筑紫の王は南九州平定のため天孫を派遣する。

国譲りを、出雲がその段階で西日本全部を支配下におさめていて、
それをそっくり天孫に譲り渡した、などと解釈するのは非現実的である。
558日本@名無史さん:2012/07/24(火) 19:03:21.74
王様が死ななきゃいけない不可侵条約って何だ?
高天原勢力が武力で脅して、あるいは戦争して、
出雲の王から支配権を奪ったとしか解釈できません
559日本@名無史さん:2012/07/24(火) 20:09:29.85
磐井「天皇?元は俺の先祖と同じ釜のメシ食ってたやつだろ」
磐井「お前などに媚びてられるかよ!九州男児舐めてんじゃねーよ」
少し違うけどたぶんこういうことだよね?
560日本@名無史さん:2012/07/24(火) 21:11:00.22
>>559
磐井「もともとはウチの分家じゃねえかーー!」
561日本@名無史さん:2012/07/24(火) 21:22:56.90
んだ。
本家筋の磐井は無礼とか言われても無礼はお前だろ…と思ってたのかもしれないな。
562日本@名無史さん:2012/07/24(火) 21:29:50.53
本家筋は高天原。
記紀には高天原=奈良であることを臭わせる記述あり。
563日本@名無史さん:2012/07/24(火) 21:56:49.79
そんな記述どこにも無いよ
564日本@名無史さん:2012/07/24(火) 23:26:42.92
>>562
高天とは、御所市。
高尾張、後の葛城とは、葛城市。
山処(やまと)とは、桜井市。
565日本@名無史さん:2012/07/24(火) 23:35:11.07
出雲国譲りとは、戦国時代の斎藤道三が娘婿の織田信長に
美濃を譲ったのに似ている。

出雲国譲りでは、出雲の大国主が、娘婿の天火明命に国を譲った。
よって、出雲に代わる初代の高天の王は、天火明命のこと。

だからこそ、天火明命の通称は、天照国照彦。
天照国照彦とは、天つ神と国つ神の両方の支配者という意味。
出雲国譲りによって、天つ神と国つ神の全ての支配者になったからだ。

そういう風に考えたら、ヤマト朝廷の初代天皇は、天火明命にしないといけないが
それだと、現在の天皇家にとって、まずいのだ。
現在の天皇家は、この天火明命の兄弟にあたるニニギ命の後胤。
彼は、出雲国譲りの直後、九州高千穂に地方官として派遣されることになる。
このニニギ命の曾孫がワカミケヌ命であり、後にイワレヒコ、神武天皇と後世よばれるのである。
566日本@名無史さん:2012/07/25(水) 00:50:48.46
国譲りは太平洋戦争に似ている
無条件降伏、マッカーサー降臨、そして沖縄や日本各地に駐留
アマ=アメ
歴史は繰り返す
567日本@名無史さん:2012/07/25(水) 00:56:00.66
国譲りは明らかな侵掠を表現している
日本を侵略して拠点を西にするのは
高天原が太平洋勢力だったから
アマテラスは太平洋の先に居た
だから日本人は東の海の日の出を拝む
568日本@名無史さん:2012/07/25(水) 01:05:48.38
出雲国譲り戦争は、日本海側の戦い以外では
播磨国で両者がぶつかっているんだがな。

戦国時代に、織田と毛利がぶつかったのも播磨国。
中国地方の勢力と近畿地方の勢力が衝突する時
播磨国を境にすることが多い。
569日本@名無史さん:2012/07/25(水) 01:14:22.38
>>568
なに言ってるか分からないですw

東はアマテラスが生まれた方向
始皇帝が仙人の国が有ると信じた方向
よって高天原は日本から見て東に有った
570日本@名無史さん:2012/07/25(水) 03:39:40.17
暑い所で生まれた宗教を除いて
ほとんどの宗教は太陽を拝むだろ
571日本@名無史さん:2012/07/25(水) 04:37:14.15
>>569
わからないのは、あなた。
普通に高天原は、近畿地方の地域。
572日本@名無史さん:2012/07/25(水) 05:57:55.42
>>562
「富士」高天原が所在不明なので、奈良県に「名無し」高天原を儲け捏造した
在日天皇に惨殺された宮下文書に記述あり、「富士」高天原が
573日本@名無史さん:2012/07/25(水) 08:12:27.08
>>570
日の出を拝む習慣は
中国、キリスト教、イスラム教には無い、仏教にも無い
ほとんどの宗教ってw
574日本@名無史さん:2012/07/25(水) 08:55:32.48
宮下文書とか竹内文書とか
そういうトンデモの偽書には興味ないよ。
偽書の中でも、せいぜい旧事本紀までだよ、参考にするのは。
575日本@名無史さん:2012/07/25(水) 09:03:01.00
高天の原とは、現在の御所市高天。
ここ発祥の王権は、出雲国譲りで天下統一が達成された後
首都を、高尾張に移転した。現在の葛城市のあたりだ。
初代倭王は、ホアカリ命といい、通称を天照国照彦と言った。
彼は各地に地方官を配置し、九州高千穂には兄弟のニニギ命を派遣した。
このニニギ命が九州で分家を起こす。

その後、この王権で、王家の御落胤と自称する貴族ニギハヤヒの反乱があったものの
王家の九州分家などの援軍などもあって、鎮圧される。これを後世、神武東征という。

やがて、王権内部で王位継承争いで戦いが起こり、それを後世、倭国大乱と呼ぶ。
その結果、モモソ媛命を女王に祭り上げて鎮まった。
このモモソ媛命は、元は九州分家の出自であり、
これにより、それまで倭王であった畿内本家は尾張に追放になった。
576日本@名無史さん:2012/07/25(水) 09:12:54.98
577日本@名無史さん:2012/07/25(水) 13:13:09.34
>>573
ギリシャ神話の神々ティターン神族や古代メソポタミヤの遊翼親族、中南米の神々などが日本のアマテラスと同じ太陽神。
578日本@名無史さん:2012/07/25(水) 13:14:20.06
>>577
古代メソポタミヤの遊翼神族
579日本@名無史さん:2012/07/25(水) 16:11:19.01

古今和歌集は初代安倍晴明が約24歳で没落した日、歴史に組み込まれた預言書
その頃、源氏開祖安倍晴明は和歌山市まで来ていた
580日本@名無史さん:2012/07/25(水) 21:16:43.09
キリスト教も本来は太陽信仰
581日本@名無史さん:2012/07/26(木) 14:10:14.29
>>436
> >>435
> 出雲神殿 復元予想図
> ttp://www.eonet.ne.jp/~yamauo2005/fig181.jpg


これは震度5弱で倒壊すると思う。
582日本@名無史さん:2012/07/26(木) 14:13:50.06
>>424
> 伊勢神宮には
> 「米は斉(山東省)の御田から天照大神が持ってきた」という伝承が有る


黒岩重吾さんは「卑弥呼はもともとは中国に住んでいて、戦乱から逃れて日本に来た。
鬼道=原始道教を知っていたので台頭した」
という設定で小説を書いていた。
583日本@名無史さん:2012/07/26(木) 14:14:33.52
小説の話か。。。
584日本@名無史さん:2012/07/26(木) 14:16:09.44
伊勢神宮の伝承は最近作った伝承だな。
あの神社は、もう、なんでもあり。
日本ユダヤ同祖説を広めるために
戦後になって、神社にユダヤのマークいれて
昔から、そのように伝わっていたとデマながしていただろう?
585日本@名無史さん:2012/07/26(木) 14:16:45.02
卑弥呼はモモソ媛命だ。
586日本@名無史さん:2012/07/26(木) 15:12:08.11
>>585
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/倭迹迹日百襲媛命
倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと、生没年不詳)は、孝霊天皇の皇女。
巫女的な性格をもつ。紀元前92年に崇神天皇に頼まれて、災害がつづく理由を占うと、
三輪山の大物主神が神懸かりして、我を祀れば国は治まるといった。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/孝霊天皇
孝霊天皇(こうれいてんのう、孝安天皇51年(紀元前342年)- 孝霊天皇76年2月8日(紀元前215年3月27日))は、
『古事記』『日本書紀』に記される第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日(紀元前290年2月19日) - 同76年2月8日(紀元前215年3月27日))。


時間軸が照合不能
587日本@名無史さん:2012/07/26(木) 15:12:41.54
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)→神武東征>>瀬戸内海>>大和
....................隼人(鹿児島)

日向投馬国王と筑紫邪馬台国女王「台与」との婚姻後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国(後の熊襲)を滅ぼし、
その男系子孫であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東遷(東征)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。

大和朝廷における、投馬国(日向)系大王と邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代

【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王(天皇)


-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系「天皇」、筑紫系「天皇」の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都
588日本@名無史さん:2012/07/26(木) 15:16:08.30
>>582
> 天照大神?

天照大御神と聞き慣れてる俺には、大神は、違和感有り有り。
589日本@名無史さん:2012/07/26(木) 15:18:48.95
>>584
籠目=ダビデの星だろうと言う奴だな。
590日本@名無史さん:2012/07/26(木) 16:21:02.01
狗奴国ってのは、許乃国のこと。
以上。
よって、熊本なんかではない。

卑弥呼はモモソ媛命
卑弥弓呼は武埴安彦命
591日本@名無史さん:2012/07/26(木) 19:56:05.23
狗奴国とは伊勢湾北部沿岸、大河(木曽川)から恵みを得た
高天原・広大な開墾地、今の愛知県一宮市萩原遺跡群を中心とした
濃尾平野一帯である。彦尊。

592日本@名無史さん:2012/07/26(木) 20:10:08.67
狗奴国の卑弥弓呼とは、許乃国の武埴安彦命のこと。
狗奴国の副官の拘右智卑狗とは、河内彦のこと。
武埴安彦命の生母や奥方の実家が、河内彦の家系。
593日本@名無史さん:2012/07/26(木) 20:10:16.01
天照と共に降臨した高木神は佐賀の高木の人
594日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:07:59.51
>>581
強風で何度も倒壊している。
595日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:14:11.80
いや
急風で倒壊した
地震で倒壊した
何も無いのに倒壊したw
596日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:27:42.65
>>595

> 何も無いのに倒壊したw


それは耐震偽装だったからだよw
597日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:37:13.31
ともかく
高層建築だったのは明確だなw
598日本@名無史さん:2012/07/26(木) 22:45:40.77
出雲大社の想像図は、あれって反対側にもおなじように
長い階段作れば、バランス取れたんじゃないかね?

前だけだと、前の方に陥没していくだろうし。
599日本@名無史さん:2012/07/27(金) 11:50:38.68
出羽辺りで倭健を信奉する国人領主の岸氏のルーツに関係ありますか?
600日本@名無史さん:2012/07/27(金) 15:13:45.04
>>599
岸氏は、奥州安倍氏分流。
黒澤氏や白鳥氏、小松氏とほぼ同時期。
萩本氏も・・
そして、松浦氏。
601日本@名無史さん:2012/07/27(金) 15:22:02.30
>>600
岸氏の語源関係は、紀氏から拝借だと思う。
奥州以前の安倍氏の発祥地が紀州で、紀氏のルーツが支配層貴族だった蘇我氏も同族で
始祖の親筋が武内宿禰で、安倍氏と大彦で繋がる、同じ血族ルーツ。
602日本@名無史さん:2012/07/27(金) 16:22:01.01
>>600、601
わざわざありがとうございました、お手数おかけしました。
603日本@名無史さん:2012/08/01(水) 02:54:57.49
中井の敗因は、メンタル面だな。
生涯の屁垂れ顔だから、柔道家には、向いていないな・・
604日本@名無史さん:2012/08/01(水) 02:57:10.51
実況版と間違えた。
>>603は、ココと無関係です。
失礼。
605日本@名無史さん:2012/08/01(水) 02:59:23.53
ここにきて、レスの頻度が落ちているな。
五輪の影響か?
606日本@名無史さん:2012/08/02(木) 12:22:49.96
とりあえず保守
607日本@名無史さん:2012/08/05(日) 06:19:02.21
夏休みに九州に行く予定ですが、
天孫降臨地=福岡説について諸兄のコメントを願います。
また、この説に関する良いHPがあったら教えてください。
608日本@名無史さん:2012/08/05(日) 08:37:35.67
>>607

博多周辺は上古からそれなりに賑わっていただろうから、いきなりそこへは降臨できなかったような気もする。
609日本@名無史さん:2012/08/05(日) 09:52:01.38
>天孫降臨地=福岡説について

でっちあげ乙
610日本@名無史さん:2012/08/05(日) 10:27:30.74
というか、天孫降臨の時には「先遣の調査隊」とか「下見」があったと思うね。
611日本@名無史さん:2012/08/05(日) 10:43:48.30
>>603
蝦夷の出羽山形岸氏なら『幾志』という地から発祥した人達。
この幾志が紀氏ルーツにせよ吉士ルーツにせよ、中丸薫が「古代天皇と日本正史」著書で言ってる古代天皇伽耶王族に違いない。
○母親が伽耶王族の聖徳太子が蜂子皇子を出羽の地に逃がした
○阿倍比羅夫がわざわざ出羽との戦いを避けて通り過ぎた
○平将門が吉士(キシ)ゆかりの四天王寺にちなんだ五重の塔を出羽の地に寄進した
○三種の神器ぜんぶの地名が出羽にはある
「紀氏は大王だった」燃焼社
612日本@名無史さん:2012/08/05(日) 11:18:05.36
>>611
間違えたごめん603へのレスじゃなくて>>599
伊勢神社の神体のヤタノカガミより前に作られた鏡が納められた紀氏の神社である日前・国懸神宮にはヤタガラスの旗がはためいている。
(紀氏…強力な水軍を擁した謎の古代豪族)
http://park18.wakwak.com/~teramoto/yacht/yimp51b.htm
(九州王朝と伽耶連合に関する引用 中丸薫著 古代天皇と日本正史より引用)
http://trakl.exblog.jp/17826739/
(出羽国のなぞ)
http://park17.wakwak.com/~gassan/Mystery.html
613日本@名無史さん:2012/08/05(日) 11:46:41.91
>>600>>601
蝦夷の地で最初から喜志姓や岸姓だった人なら安倍貞任の子孫引田臣系で大彦命の子孫だったりするけど、出羽幾志(キシ)ルーツ岸氏は違う系統。
幾志氏が吉士ルーツなら10代崇神天皇の皇子の五十狭茅宿禰の子孫。
7代孝霊天皇血統の吉備族で、その吉士吉備族の8代孝元天皇が養子にし吉士吉備族の兄弟になったのが大彦命。
この時点では吉備族吉士と安倍氏は孝元天皇を親とする血の繋がっていない兄弟。
吉備族には、孝霊天皇第3皇子で四道将軍の彦五十狭芹彦命(桃太郎=大吉備津日子命)や日本武尊(倭健)がいて、だまし討ちされた忍熊皇子や五十狭茅宿禰も吉備族。
吉備族はスサノオウから天叢雲剣を与えられたとも云われている古代神話英雄一族。
614日本@名無史さん:2012/08/05(日) 17:05:50.84
>>613
>安倍氏は孝元天皇を親とする血の繋がっていない兄弟
情報ソース出して無いから疑わし過ぎる
土御門氏の系譜や有名サイトにも、
孝元天皇の皇子と語られているし、上記のような話を聞いたのは
ネット調査でも26年間で初めて観た。
詐称ならば、いい加減止めにしとけ・・
>吉備族はスサノオウから天叢雲剣を与えられたとも云われている
その経緯のソース有ったら見せて欲しいが・・
普通なら、宗像氏族が天皇家ヘと考えてしまうけど・・
因みに、松浦氏は、天皇家と血が大彦だけで繋がってる訳じゃないしね。
安倍氏滅亡後、唯一の生き残りで、義家配下の宗像氏配下と成り
その、数代後、嵯峨天皇の18皇子、源氏始祖の源融〜渡辺綱の孫の松浦久の娘婿養子
で、松浦氏族だからね。
明治天皇にも、松浦愛さんの外祖母の血受け継がれてるしね。
615日本@名無史さん:2012/08/05(日) 17:11:48.33
>>614ミス訂正
視力良すぎたせいで中年期で老眼と最近言われたばかりだ・・スマン
ネット調査でも26年間×
ネット調査でも16年間○
616日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:47:47.37
>>611-612
もう、トンデモ説のオンパレード。
617日本@名無史さん:2012/08/05(日) 20:17:59.46
>>614
へ?一寸検索すればすぐ出て来るよ??16年てw…確かに大彦命は孝元天皇の皇子だと私も書きましたよ?(ちゃんと読んでくれてないのね)
ごめんなさいワロタ、面白い、なんか久し振りにぼのぼのした。

>>616
>とんでも説のオンパレード。

×とんでも説

○非主流説
なら、分かるけど、著者とか学者に言ってみて。
618日本@名無史さん:2012/08/05(日) 20:30:45.71
ネットでよく見る在日が謎解きした日本古代史みたいになってるな
容量の無駄だからやめてほしい
619日本@名無史さん:2012/08/05(日) 22:31:27.08
「たま出版史観」だな。
620日本@名無史さん:2012/08/05(日) 22:36:41.45
>>614
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/源頼国
源 頼国(みなもと の よりくに、生年未詳 - 天喜元年(1058年)?)は、平安時代中期の武将・官人。源頼光の長男。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/源頼光
生誕  天暦2年(948年)
死没  治安元年7月19日(1021年8月29日)
------------------------------------------------ この辺、時間が可笑しいw
>明治天皇にも、松浦愛さんの外祖母の血受け継がれてるしね。
血縁関係なら、私とLINKできるのだが、なぜ出来ないどうして?
折角、安倍晴明が転生しているのに
滋賀県内に滞在している方とLINK出来た

新約聖書のように劣化複製なのか?明治天皇はw
621日本@名無史さん:2012/08/05(日) 22:49:44.84
電波が強すぎてつまんなくなってきてる
622日本@名無史さん:2012/08/06(月) 00:30:57.68
>>620
源氏違い
それ、清和源氏なっ
嵯峨源氏こそが、正当な、最初の源氏。
正当、清和源氏の源頼光の四天王が源綱=渡辺綱
623日本@名無史さん:2012/08/06(月) 00:38:21.58
>>614
確かに大彦命が伊賀で拾った捨て子(父親が安日彦で安日彦はイスラエル王族という話も)が阿倍氏の祖系という話をつい勘違いしていた。
以下のような類を見て文殊院の大彦と混乱してしまってた。
(狭狭山城君)倭女王卑弥呼 発見なる!
http://blog.livedoor.jp/nanamihantaro/archives/3608129.html
http://blog.livedoor.jp/nanamihantaro/archives/cat_117127.html
中丸薫氏は明治天皇の孫とか云われてるし、反証も挙げずにたま出版とんでも説系云々なんて思考統制どうでも良い、進歩と真相究明を妨げるだけ。
松浦氏については異議なし。
624日本@名無史さん:2012/08/06(月) 00:39:58.81
>>609
天孫降臨地=福岡(九州北部)説は、私の記憶が確かならば、門脇・田中卓・上田・辻・丸山・古田・奥野が述べている。
でっちあげ と一言で決め付けるのは普通に考えて無理があるね。
625日本@名無史さん:2012/08/06(月) 01:36:12.95
>>624
それらの説だと「どこから」降臨して来たことになるんだ?
626日本@名無史さん:2012/08/06(月) 02:03:11.21
記紀を普通に読めば福岡説ってのは出て来ない。
日本書紀では福岡説は100%不可能だし余程恣意的誘導的に読まないと無理。
福岡説は朝鮮に起源を求めることと親和性が高いんだよね。
そもそも作家じゃなくて考古学者なら普通は邪馬台国がどこかだとか口にしないものだよ。
627日本@名無史さん:2012/08/06(月) 02:07:39.87
>>614
吉備族はスサノオ尊からの神剣を与えられた。↓
(吉備・笠・賀陽・上道・日奉部・和気)
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kibi.htm
気比大神はスサノオ尊の神剣「草薙剣」を賜った、倭建命ではなかったか?
とある。↑普通に考えてもスサノオ尊が吉備族に手渡すのは時代考証上無理があり、そもそも神器を形代とするスサノオ尊の御霊が許可し与えたと解釈すべきと理解できる筈なんだが…
桃太郎の大吉備津日子命はもちろん吉備族だし、倭建も吉備氏族↓
(阿倍氏・安倍氏・膳氏・安東氏・高橋氏)
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/abe.htm
忍熊皇子と同様に吉備族の五十狭茅宿禰は吉士の祖↓
(武内宿禰)古代史へのいざない)
http://blog.livedoor.jp/nishikoiwa4/archives/53450967.html
628日本@名無史さん:2012/08/06(月) 04:15:30.66
>>614
○キシという地名のつく所は吉士がいた所
「名草の神々と歴史 その四」
http://kamnavi.jp/kinokuni/majime-rekisi4.htm

○聖徳太子ゆかりの四天王寺が元々は吉士の氏寺であったと云われ吉士と聖徳太子は縁が深い。
http://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/4322c6fe42d8dc57d677732ab27ddb63

○出羽へは吉士氏水軍で日本海沿いを行って出羽に居ついて幾志という地名を付けた可能性が高い。
http://www.kitohan.sakuraweb.com/hivun-data/arima-ouji-setwumei-002.htm
629日本@名無史さん:2012/08/06(月) 04:21:28.54
>>628
○吉士は伽耶出身であり、聖徳太子ゆかりの四天王寺や従兄弟の蜂子皇子を託す等、出羽吉士(幾志氏)は聖徳太子と並々ならぬ関係が窺われ、同族である線もある。
中丸薫女史によれば聖徳太子は母親が伽耶王族の古代天皇族であり、出羽水軍吉士は建国や国譲りに特に大きな役割を果たした可能性がある。

○神話時代について既存の資料内できっちり考察しても恐らく真相とはかけ離れていて新たなる発見を待つしかないが、
その前に人生が終わるのでむしろ作家を参考にした方が真相に近い認識を持って死ねるのではないかという可能性を誰も否定できない。学者と素人も違う。
630日本@名無史さん:2012/08/06(月) 06:27:33.21
アマテラス生誕地&天孫降臨地=ツクシノヒムカと言う口伝があったのは間違い無い。
しかし、日向と言う地名は景行天皇の時代に熊襲を倒してから付けられた。と紀に書いてあるし。
仲哀天皇時代には空しい国とか呼ばれてるし、全く聖地感が無いね。

ツクシノヒムカは九州の日向国なのか? 筑紫国のヒムカなのか?


631サガミハラハラ:2012/08/06(月) 07:41:13.26
高天原は佐賀県の脊振山地です。地形的にぴったりです。そこから降臨すると、福岡湾沿岸になります。
天孫降臨福岡説でピッタシです。
考古学者ならば邪馬台国はどこかとか口にしない、といいますが、邪馬台国畿内説は考古学者が広め、今でもメデアに流している人がおられる。
632日本@名無史さん:2012/08/06(月) 08:09:46.95
>>624
本当の天孫降臨地は、漢字一文字が伏字になっている
例えば、新エルサレム市に近い町とか
      ↑
これ、特定の人しか判らない
633日本@名無史さん:2012/08/06(月) 20:26:18.49
エルシャローム=平安京?
634日本@名無史さん:2012/08/06(月) 20:36:35.21
たま出版史観
635日本@名無史さん:2012/08/07(火) 01:30:02.92
高天原は阿蘇山の麓の盆地
636日本@名無史さん:2012/08/07(火) 07:55:18.72
>>635高千穂盆地のことですか?阿蘇山の西にも南にも北にも盆地はありませんので。
637日本@名無史さん:2012/08/07(火) 08:29:36.79
カルデラのなかじゃね?
638日本@名無史さん:2012/08/07(火) 08:44:15.83
倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼なのは確定だろ。
幼少から聡明で吉備〜讃岐辺りに逸話を多く残す、
母親がオオヤマトクニアレヒメで淡路島の出身だ。
海人族のエリート娘だよ。
639日本@名無史さん:2012/08/07(火) 10:19:22.44
どこをどう読んだら、畿内に辿り着くんだよw
640日本@名無史さん:2012/08/07(火) 10:36:18.89
普通に畿内に辿り着くよ。
太平洋経由で阿波に着けばいいだけで。
641日本@名無史さん:2012/08/07(火) 11:48:36.70
>>640
なんで瀬戸内海を通らずに遠回りして太平洋側に迂回する必用があったの?
642日本@名無史さん:2012/08/07(火) 12:23:45.85
倭国大乱の舞台が瀬戸内だと、海賊や水軍崩れのいるので危険だからな。
それに中国人の興味は倭の資源、鉱山だ。
丹の山=阿波の水銀鉱山だとまず四国の東南部に向かう事になる。
そこには海部の里があるし記述の気候風土もピッタリだろう。
643日本@名無史さん:2012/08/07(火) 12:34:50.66
阿蘇のカルデラ盆地はけっこう広い。
古墳などが多いのは北部の方。
中通古墳群には12基の古墳が残っている。
大切にされてきたので、古墳は未発掘のものが多い。
狩尾遺跡、小野原遺跡など鍛冶遺跡も多い。
644日本@名無史さん:2012/08/07(火) 13:59:56.72
五斗長垣内遺跡の存在は非常に重要である。
645日本@名無史さん:2012/08/07(火) 14:02:25.30
>>642
丹の山=阿波の水銀鉱山に沿って東進するなら、やはり瀬戸内海を通る方が自然。
中央構造線は瀬戸内に沿って通っている。
しかも、それは松山から徳島に向かう見事な一本道と重なる(陸路でもOKということだ)。
倭国大乱など卑弥呼を共立して以後は収まっているのだし、土佐を経由する理由は全く無い。
646日本@名無史さん:2012/08/07(火) 14:23:26.56
>>644
味噌と糞は区別しないとな。
647日本@名無史さん:2012/08/07(火) 14:26:31.21
海洋民(海士族)が新天地を求める際の手法は
いきなり所望する目的の大きな島や陸地には往かず、
まず手前の小さな小島に拠点を構えてから所望する本島や陸地を巡視、場合によっては占領してのち安全保障がなされたらそこに移動。
これを繰り返します。

もし、太平洋岸の四国沖から船舶で畿内(中つ国)を窺う場合、
まず、伊島(剣山と熊野本宮大社の東西線の中間点)に海流の関係で自然と漂着します。
橋頭堡を此処、伊島に確保して次に向かうのは沼島や友が島。
沼島や友が島が確保出来たら、
淡路島本島を確保に当たります。
いわゆる、オノコロジマ、ないしは天浮橋に該当しそうな場所。

淡路島は現在もそうですが小さいながらも完全に自決自立できる自然環境と食料事情(必要最小限なものは全て揃う)を有した天賦の島
現在も食料自給率は全国最高クラスの106%?(日本全体の現在の食料自給率は実質的に30%台)
淡路島を掌握出来ると、瀬戸内海東部の交通の要衝を全て掌握したと同じこと。
記紀神話で淡路島から四国瀬戸内九州へと国生みしていく由縁がこのあたりにも窺えるかと

アワ=天地(あ・わ)。治=ぢ・・・あわぢ
648日本@名無史さん:2012/08/07(火) 14:48:22.21
淡路島の五斗長・垣内(ゴッサ・カイト)遺跡は一世紀〜三世紀にかけて稼働した当時の国内では類例を見ない最大規模の鉄器鍛冶遺跡。

ここの立地(西側に見晴らし良好でバレバレ、東側からは山地に阻まれ一切隠匿)を観ると、
明らかに現在の畿内河内、ヤマト方面を攻略するための工廠(コンビナート)、秘密基地と考えるほうが自然。

栗村山(伊勢森山、常隆寺山。遺跡のある山地)、久留麻/来馬などの
クル、クリは鉄器製造に関連した古名ともいわれます。
649日本@名無史さん:2012/08/07(火) 14:59:56.66
淡路島は畿内へ進軍するための橋頭堡として重要な拠点だったのだろう。
650日本@名無史さん:2012/08/07(火) 15:12:38.27
速い時代の鉄器製作跡が、畿内周辺では淡路島にしかないというのは、
あきらかに隔離占有しているわけだが、

それをやったのはどこの勢力だろう。

651日本@名無史さん:2012/08/07(火) 15:27:02.27
>速い時代の鉄器製作跡が、畿内周辺では淡路島にしかないというのは、

[要出典]
652日本@名無史さん:2012/08/07(火) 15:30:18.42
>それをやったのはどこの勢力だろう。

阿波の海人族だろう。
阿波→伊毘・沖ノ島→五斗長・垣内遺跡という海上輸送ルートがあったのかも知れない。
653日本@名無史さん:2012/08/07(火) 15:34:48.34
根拠を示せ。
でなければ単なる妄想憶測である。
654日本@名無史さん:2012/08/07(火) 16:06:10.57
>>645
当然太平洋を回らなくてもいいんだ。
水行と陸行どちらでも行けるとも解釈出来る。

だが瀬戸内海は一番便利だから当然覇権争いも
起こりやすいので海賊は多いよ。
卑弥呼死後やトヨ擁立後も決して安定した訳ではない。
655日本@名無史さん:2012/08/07(火) 16:13:49.10
根拠を示せ。
でなければ単なる妄想憶測である。
656日本@名無史さん:2012/08/07(火) 17:46:24.31
根拠は1〜3世紀の阿波や瀬戸内の各遺跡だろ。
各年代別高地性集落の存在や向きから
瀬戸内が緊張状態だった事を確認出来る。
また若美杉遺跡を始めとする水銀朱鉱山の存在。
矢野遺跡や淡路島垣内遺跡の存在その他。
高知なら海部にある弥生期の芝遺跡だな。
ここは畿内や瀬戸内、阿波と非常に結びついておる。
水銀朱の入った痕跡のある土器も確認されとるしな。
657日本@名無史さん:2012/08/07(火) 20:52:29.58
>>638
俺と同じ出身地か・・
658日本@名無史さん:2012/08/07(火) 20:57:47.18
>>647
俺、淡路島洲本市由良出身だけど
親父から沼島住人は、朝鮮人と聞かされてきた。
659日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:08:39.74
>>658
沼島住人は梶原景時の変で追放された梶原氏の残党の末裔だよ。
南北朝時代まで海賊やってたけど由良の安宅氏に退治された。
660日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:11:39.12
古代渡来人ルーツなのだろう。
古代畿内人のルーツも出石民族だから余り代わらないかもだが・・
大和人には新羅の出石民族や百済民族、サンカが混ざってるから、古代渡来を一概には、別民族とも言いきれないのも事実。
古代渡来は、別だろうね。
首都圏民みたいに古代渡来否定は、自己否定するに近くなリそうだしね。
661日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:14:14.70
>>659
ヘッ・・マジ?
梶原氏なら当時の身内かも・・
家は、松浦氏分流筋みたいだから・・
662日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:16:33.05
親父ィィィ・・つつつ
663日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:18:42.87
祖父は、広島尾道出身だったからな・・
親父の浅知識だったのかも・・
664日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:22:57.65
南淡町には、造船ドッグ在るから、水軍の土地柄なのは知ってた。
665日本@名無史さん:2012/08/07(火) 21:59:40.96
確か平安時代位まで、兵庫の水運で一番荷扱い量が
多かったのが、対阿波の海部だったはずだよ。
666日本@名無史さん:2012/08/07(火) 22:06:42.13
丹後から阿波にかけて海部ルートです。
667日本@名無史さん:2012/08/08(水) 01:30:40.79
>>2をちょっと改変してみた
・大陸に近い出雲と筑紫・邪馬台国=高天原がまず発展し、互いに覇権を争っていた。
・ニニギは邪馬台国から北部九州の某国に派遣された代官。(弥生時代の北部九州は鏡を王権シンボルとする)
・邪馬台国の分家であるニニギ一族が中国南部から渡来のワニ族と合流して勢力を拡大して大和を攻略し、新たに国を打ち立てた。
・後発の新興国家である大和が、本州の中心という地の利を生かして四方を制圧し、 旧本国の筑紫・邪馬台国を飲み込んで統一を果たした。
・卑弥呼・台与=アマテラスである。
668日本@名無史さん:2012/08/08(水) 06:59:09.63
6300年位前に火山の爆発で九州の縄文文明は滅んでる
669日本@名無史さん:2012/08/08(水) 15:36:38.59
>>663
豊臣秀吉が捕虜として連れ帰った朝鮮人は、瀬戸内海各地の島々に居留させられたらしいが…
670日本@名無史さん:2012/08/08(水) 21:27:33.51
>>669
ソースは?
671日本@名無史さん:2012/08/11(土) 07:05:43.84
弥生時代末期、
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)国も、跡継ぎを巡る「大乱」で卑弥呼(アマテラス)に国を譲る。

奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向→神武東征≡瀬戸内海⊇≡大和
....................隼人(鹿児島)

筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国(後の熊襲)を滅ぼす。
その男系末裔であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東征(東遷)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。

※記紀が投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の叔母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
台与の子孫である大王家の時間軸操作。

-大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代

【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王


-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>>>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇、筑紫系天皇の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都

一白
大王家
672日本@名無史さん:2012/08/11(土) 13:56:41.28
高天原とはアトランティスの事だよ
673日本@名無史さん:2012/08/13(月) 10:23:01.52
地震の次は何をお見舞いしましょうか?
http://www.youtube.com/watch?v=AKeH9lRIG4M
674日本@名無史さん:2012/08/14(火) 16:56:32.54
高天の原とは、現在の奈良県御所市高天。
このあたりは、長い間、高天村といわれていたし、
ここには、日本神話の高天原の伝承地がある。
皇祖ニニギは、出雲国譲りの直後
この高天原から、九州高千穂に派遣されたことになっている。

古事記・日本神話の伝承地〜高天原史跡ガイド奈良県御所市から
http://takama.sakura.ne.jp/index.html
葛城の 高間の草野 早知りて
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/97.htm
675日本@名無史さん:2012/08/14(火) 17:07:52.27
676日本@名無史さん:2012/08/16(木) 03:18:36.28
アマテラスは九州生まれだし、
奈良県は弥生時代の遺跡から鏡が出土しない。
何か強力な状況証拠でもあるのかな?
677日本@名無史さん:2012/08/16(木) 16:12:22.40
>>676 :日本@名無史さん:2012/08/16(木) 03:18:36.28
>アマテラスは九州生まれだし、

そもそも、そんな証拠ないだろうw?
678日本@名無史さん:2012/08/16(木) 19:15:00.38
イザナギが筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で
禊ぎ祓いした時に生まれたのがアマテラスだからな
679日本@名無史さん:2012/08/16(木) 20:10:18.69
イザナギとイザナミって淡路島とかの話だろう??
680日本@名無史さん:2012/08/16(木) 20:10:19.26
それに従えばアマテラスもツクヨミもスサノヲも九州生まれということになるんだが…
681日本@名無史さん:2012/08/16(木) 20:12:30.36
>>679
国産みもしたけど神産みもしたんだよ
682日本@名無史さん:2012/08/16(木) 20:15:01.12
でも、それだと、高天原と、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原は
あくまでの別の地名ということになっている。
イザナギとかイザナミのはなしは、淡路島、出雲、紀伊の話だというし
出雲から紀伊の途中に高天原があるんだよな。
683日本@名無史さん:2012/08/16(木) 20:18:12.34
かなり古い時代から
日向、出雲、畿内をまたにかけた話になっているんだな、日本神話って。
神様が互いを行き来しまくっているというか。
684日本@名無史さん:2012/08/16(木) 20:26:07.67
韓国教授(88)が告白 「殺される覚悟で言う。韓国人は強制従軍慰安とか歴史捏造をやめるべきだ」
http://yeoksa.blog.fc2.com/page-0.html
韓国の88歳の大学教授がハングルで書いた文章です。日本語訳します。
"私は88才です。 もう事実を話したいと思います。" [チェ・キホ伽耶大学客員教授]
朝鮮末期の私は1923年の生まれです。 もう韓国のためでも、日本のためでもなく「事実」を話したいと思います。
それは相当な覚悟が必要です。 生命の危険も覚悟しています。 しかし、これは私の使命であると信じています。
私はソウルに住んでいました。 そして、時々、平壌や東京に行きました。 その当時の韓国人は「日本人以上の日本人」でした。
「親切でやさしい日本人」という印象を、必死に消すために「反日」を指導者はそそのかしてきました。
韓国と日本の歴史教育を比較すると、日本が10%の歪曲といえば、韓国は90%が歪曲です。
朝鮮末期の正常ではないで政治腐敗を教えず、日本が関与しなければ独立ができたことのように使われています。
韓日合邦によって「教育」 「医療」 「工業」 「社会インフラ」が整備されました。近代国家の基礎が出来たことは明らかな事実です。
685日本@名無史さん:2012/08/16(木) 20:28:18.64
その実績を「日本帝国主義の侵略政策の産物だ!」と糾弾する韓国にはあきれます。 より一層「日帝が民族産業を停滞させた!」
という主張にはコメントする気持ちもなくなります。
民族産業を殺したのは、朝鮮王朝です。 近代化を主張する先進的な思想家は反逆者とし、親族までも処刑されました。
韓国人は「日帝の虐待! 性奴隷!」と叫んでいますが、私は信じることができません。 歴史の真実を知っているためです。
朝鮮語でキウン「地獄」でした。 それは大韓帝国時代になっても同じでした。
1904年、日本は朝鮮の惨状を救うために、財政支援を決断します。
例えば1907年度、朝鮮王朝の歳入は748万円だったが、歳出は3000万円以上でした。
その差額は日本が負担していました。 1908年にはより一層増加し、3100万円を支出しています。
現在88才の老人の絶叫です。 どう思われますか?
686日本@名無史さん:2012/08/16(木) 20:32:59.16
各地の話をまとめてくっつけた感があるな
大元をイザナギイザナミに集約することでその後裔の天皇の正当性を上げてる
687日本@名無史さん:2012/08/16(木) 20:48:45.38
>>684
むしろその教授以外は死んだ方がいいと思う
688日本@名無史さん:2012/08/16(木) 21:37:42.76
神代は高天原の他はほとんどが日向と出雲の話だろ
高天原が畿内だとぬかすアホがいるが
じゃあ神武は高天原に向かって東征したのかよ?って話だ
689日本@名無史さん:2012/08/16(木) 22:26:22.88
今我は是日~の子孫にして日に向いて虜を征つは、此天道に逆る也。 
若かじ、退き還りて弱きを示し、~祇を禮び祭りて、背に日~の威を負い、
影の隨に壓い躡まん。 如此なせば、則ち曾て刃に血せずして、虜必ず自ずと敗れん。
690日本@名無史さん:2012/08/16(木) 22:40:07.50
>>688
神武が河内上陸戦争するときに、自分は天津神の出自なのに
天津に向かって戦うのは良くないと言っているだろう?

また、畿内でもどこでも地名は絶えず変わっている。
神武が東征した時は、畿内王権の首都は、高尾張にあった。
691日本@名無史さん:2012/08/16(木) 22:41:35.09
>>688
そんなこと言ったらw たとえば、高天原が北九州にあっても
非常にまずい結果になってくるw
神武東征の途中で高天原を通過したことになるからw
692日本@名無史さん:2012/08/16(木) 23:38:04.67
神武は太陽に向かって戦うのは良くないと言ったのであって
高天原に向かってとは言っていない
「天津に向かって」ってどっから出てきたセリフだよ?

>神武東征の途中で高天原を通過したことになるからw
何か不都合でも?
693日本@名無史さん:2012/08/17(金) 00:24:08.69
近畿には天津神の貴族がイッパイいた。
この意味を考えるんだな。
出雲国譲りとは、播磨国風土記にもあるように、近畿と出雲の戦争。
その結果、近畿が勝利し、天下を統一した。
その直後、九州高千穂に飛ばされたのがニニギ。神武の曽祖父にあたる。
694日本@名無史さん:2012/08/17(金) 00:30:55.65
播磨国風土記によると、出雲の王だった大国主と
高天の王だった火明命が、播磨国で戦い、大国主が火明命に降参したとある。
播磨国は古来から、近畿地方と中国地方の緩衝地帯にあたる。
ちなみに、火明命の正室は、天道日女命で、大国主の皇女にあたる。
つまり、大国主と火明命は、義理の親子の関係だった。

この火明命の兄弟がニニギ命であり、出雲国譲りの直後
九州高千穂に派遣される。
このニニギ命が現在の皇室の祖先であり、その曾孫がワカミケヌ命こと神武天皇である。

皇室にとって、何が不都合な真実だったのか、およそ見当がつくだろう?
695日本@名無史さん:2012/08/17(金) 00:45:14.61
まず、東遷すれば近畿に天津神がイッパイいるのは当たり前。
次に、播磨国風土記に出雲と大和が戦争したなどという記事は無い。
そして、「皇室にとって、何が不都合な真実だったのか」見当がつかない。
696日本@名無史さん:2012/08/17(金) 00:46:48.60
不都合って
傍系(弟ニニギ系)による直系(兄ホアカリ系)の簒奪の可能性…ということ?
697日本@名無史さん:2012/08/17(金) 02:50:33.04
古代の日本は末子相続だから、弟のニニギが始めから正統な継承者
698日本@名無史さん:2012/08/17(金) 04:32:05.39
古事記では、火明命が兄で、ニニギ命が弟ということだけど

国宝海部氏系図では、ニニギ命が第一皇子で、火明命が第三皇子ということになっている。
また、名前を忘れたけど、第二皇子と、第四皇子の名前まで出ている。

どちらの記述が正しいかは分からないけど
おそらく、兄弟の順番は別として、火明命が嫡男であとを継承して
ニニギ命が兄か弟かは分からないけど、傍系になったのだろう?
火明命の場合、正室が、大国主の娘だし。
699日本@名無史さん:2012/08/17(金) 04:35:54.66
>>696
そういうこと。
よく、ヤマト朝廷は、もともと女神アマテラスではなく、男神アマテルを
始祖として崇拝していたという説がある。
この男神アマテルとは、天照御魂神社に祭られている神様で
通称を天照国照彦(天つ神と国つ神の両方の支配者=出雲国譲りをした人物)といい、
諱を火明(ほあかり)という。
皇祖ニニギの兄弟にあたるのが、この火明
700日本@名無史さん:2012/08/17(金) 09:53:26.43
天火明命/彦火明命(天照火明命、天照御魂命)、
天忍穂耳尊(又の名、天香語山命)の第三御子。
一伝、穂瓊瓊杵尊の御子。
又の名、穂々手身之命/彦火火出見命(ホホデミ)。


ホホデミ命を名乗る御方がもう一人。なんと神武天皇その人。
701日本@名無史さん:2012/08/17(金) 11:45:57.12
>>694
邪馬台国時代はいくつも国があったんですけどwww
ニニギの時代に既に統一されたんですかwww?
702日本@名無史さん:2012/08/17(金) 14:50:29.28
俺は出雲系と九州系の国家群の対立だと思うが
九州系列は稲作の発展で早い時期から近畿に植民していったんじゃないの?
でも、別に九州の国家的な植民政策じゃなかったために九州に出自をもつ国家群が林立したというだけ
出雲系は九州より歴史が古く日本に定着していた人々で日本海を中心に貿易活動をしていたが
瀬戸内での九州系譜の国家群の成長して対立した。
その象徴表現と思ってみたらどうだろうか?
703日本@名無史さん:2012/08/17(金) 15:11:31.41
出雲国風土記には、新羅に杭をつちこんでひっぱる話あるよね
新羅王家が日本人て話があるように、出雲系は日本海でひろく貿易をしていた勢力だと思う
704日本@名無史さん:2012/08/17(金) 17:13:31.97
>>647
阿波への途上にある島、阿波路、淡路じゃないのか
705日本@名無史さん:2012/08/17(金) 17:14:44.23
淡海から近江へ
706日本@名無史さん:2012/08/17(金) 17:53:49.31
アワシマは子の数に入れません。
707日本@名無史さん:2012/08/17(金) 19:48:29.92
普通に、近畿VS出雲の戦いという認識だよ。
で、近畿が勝利し、天下を統一した後、
全国各地に司令官を派遣。
その中で、九州高千穂へ派遣されたのが、皇祖ニニギだった。
708日本@名無史さん:2012/08/17(金) 19:53:20.47
>>707
その考えだと邪馬台国は存在しなくなるよ?
後々の史実とも全く一致しない!
709日本@名無史さん:2012/08/17(金) 20:20:39.31
イザナギ、イザナミ神話はもともと淡路島の海人族の神話だね。
だから、国産みの一番最初に出来た正式な島は淡路島。
記紀神話というのは日本各地にある神話を寄せ集めて
律令国家に都合のいいようにまとめられたものだから、
神話事態をもろに解釈したらデンパ説になる。
その後にできた旧事本紀や海部氏系譜なんてほとほどに解釈しないと、
もろデンパになる。
710日本@名無史さん:2012/08/17(金) 20:37:32.28
というデンパなんだろ?
あくまでそういう説があるというにすぎない
そういう推理だけじゃ逮捕には至らないな実効性のない話さ
711日本@名無史さん:2012/08/17(金) 20:46:24.11
旧事記は物部系の作だから都合のいいような改変があるとは思うのだが
記紀をベースとして、神話の部分を皇室より有利な内容にしたものだろ
思うに、物部も九州から植民してきた同郷の系譜を引く国家群のひとつだったのではないかね
婚姻やのちの国家連合で、旧来の皇室との関係性をつかって優位な立場を維持していたが
白村江で、中央集権的な国をつくる段となったとき、皇室と決定的な差をつけられるに至った。
そのことを根に持っての旧事記だと思うが
712日本@名無史さん:2012/08/17(金) 21:06:08.70
神なんていったって、
大和守とか、日向守とか、
その程度の意味合いでいいんだよね?
713日本@名無史さん:2012/08/17(金) 21:13:45.56
かみ すけ じょう さかん
このかみはあくまで上という意味じゃないかね
かみのけ、しものけ、髪(かみ)でしょ
かみつけ、しもつけ、上野(こうずけ)でしょ
714日本@名無史さん:2012/08/18(土) 01:55:59.81
>>708
なんで、そうなるんだw?
十分、史実に一致するだろう。
卑弥呼はモモソ媛命。
ニニギ命よりもずっと後の子孫が卑弥呼。
715日本@名無史さん:2012/08/18(土) 09:42:27.06
>>714
邪馬台国時代は、いくつもの小国が有りましたし。
ニニギの時代に統一されたんならこれらはどう説明すんのかね。敵対国もあったし。これはどこに有ることになるんかね。
また、統一されてたんなら、卑弥呼以前の巫女の系譜とかあるのか?トヨ以降巫女が出てこないのは何故?
破綻しすぎで突っ込みどころ満載www
716日本@名無史さん:2012/08/18(土) 10:18:50.82
草をはやすな
馬鹿に見える
717日本@名無史さん:2012/08/18(土) 10:52:48.49
>>715
あなたは、魏志倭人伝の読み方、分かってない。
邪馬台国、投馬国ってのは、今でいうところの、
東京都、神奈川県、大阪府みたいなもん。
中世以降も、武蔵国、尾張国、駿河国って、あったように。
卑弥呼の地位も、邪馬台国の女王ではなくて、倭国の女王なわけで
彼女が住んでいた場所が邪馬台国だったというだけ。

統一、分裂、対立なんて、そんなもん、歴史が明確な時代でも絶えず
繰り返しているだろう?
律令時代以降から現在まででも、天皇の最高位の時代は続いているけど
その間、政治体制はめまぐるしく変わっていたし。

718日本@名無史さん:2012/08/18(土) 10:56:44.38
>>715
卑弥呼は臨時の女王であって
卑弥呼以前は、この王統は建国以来、男王によって継承されていたと
魏志倭人伝には書かれている。

卑弥呼がモモソ媛命ならば、その前の倭王にいたのは
欠史八代の中ごろ以前の天皇たちが、
あるいは、それらと同時代にいた別の貴族たちでしょう?
自分はその王統は、火明命の嫡流の子孫である尾張氏の先祖によって受け継がれてきたと思うけどね。
719日本@名無史さん:2012/08/18(土) 11:51:04.98
>>717
いやいやwwwあなたの書き方だと、大和王権が出雲国譲りで、近畿から九州まで統一したことになってるよwww
ニニギが九州派遣されたんだもんねwww
だから、史実に合わないんだよwww

あなたのは、畿内説のただの願望なんだよwww
720日本@名無史さん:2012/08/18(土) 12:35:07.75
>>719
ムキニなるなよ。

まあ、あなたが邪馬台国九州説だということは分かった。
史実に合わないのではなく、あなたの独自解釈に合わないだけだろう?
721日本@名無史さん:2012/08/18(土) 12:53:26.83
>>720
あなたの独自解釈も相当ぶっ飛んでるよ!
722日本@名無史さん:2012/08/18(土) 16:09:09.03
邪馬台国九州説にはウンザリw
723日本@名無史さん:2012/08/18(土) 16:13:43.16
邪馬台国は阿波です。
724日本@名無史さん:2012/08/18(土) 16:24:08.07
邪馬台国阿波説にはウンザリw
近畿説はそれ以上にウンザリw
725日本@名無史さん:2012/08/18(土) 16:38:57.78
726日本@名無史さん:2012/08/18(土) 16:49:32.02
古事記・日本神話の伝承地〜高天原史跡ガイド
http://takama.sakura.ne.jp/index.html
727日本@名無史さん:2012/08/18(土) 22:54:38.00
高天原から葦原中国に天下った天孫の曾孫が再び高天原に攻め入ったってか?
そんでその高天原がいつの間にか葦原中国になってるってか?
大爆笑だわ
728日本@名無史さん:2012/08/18(土) 22:55:18.11
前方後円墳体制の成立=統一大和王権=崇神朝以降

これは記紀と考古学的事実が一致してるので動かせない。

このスレで高天原統一政権の実在を主張している人は、
弥生時代の遺跡からそういう事実が読み取れるということを証明しないと駄目。
729日本@名無史さん:2012/08/18(土) 23:02:40.20
>>727
神武東征の説話を素直に読めば、奈良の原住民は土蜘蛛だの何だのばっかりで、
天津神の住む高天原としての描写なんぞ、これっぽっちもないんだよな。
730日本@名無史さん:2012/08/18(土) 23:28:55.29
東征時に大和を統治していたニギハヤヒも天から下った
ニギハヤヒ=ホアカリ(ニニギの兄)、
ニギハヤヒ=大国主の子、大国主の娘婿、スサノオの子なんて説もあって
とにかくこのあたりはかなり議論の余地がある
ニギハヤヒの方が畿内の統治正当性は上っぽい
731日本@名無史さん:2012/08/19(日) 01:27:54.85
>>727 :日本@名無史さん:2012/08/18(土) 22:54:38.00
>高天原から葦原中国に天下った天孫の曾孫が再び高天原に攻め入ったってか?

そんなこと、どこにも書いてなかろうがw
高天原って、御所市の中でも、あの高天周辺の地域だろう?
今でいう奈良県御所市の高天と北窪のあたりだけらしい。
葛城市のあたりは高尾張といって、ここが近畿王権初期の中心地で
葛城とも言った。
卑弥呼と噂されるモモソ媛命の時代あたりから近畿王権は中心地を三輪山の麓
現在の桜井市のあたりに移し、ここの地名の山処(やまと)がこの王権の名称になった。

山側の高天のほうは、出雲国譲りの後は、近畿王権の中心地から外れていただろうしね。
あんな山側の高台の地域は、軍事上は責められにくい地域で良いけど
この王権が天下を取ってからは、より経済性を重視して、川下の
高尾張(葛城)や、山処(やまと)へ移したんだろう?
732日本@名無史さん:2012/08/19(日) 01:28:51.86
ちなみに、こらい、あのあたりを高天村と言って
平安時代でも、京都朝廷では、高天原の地とは、
高天彦神社のあたりとされていた。

でも、南北朝時代の神皇正統紀が書かれた時代には、すでに
近畿王権創世記のことは、京都朝廷内ですら忘れ去られていた。
記紀で、出雲国譲りの時代のあたりをオブラートに包んだのが成功したんだろう。
733日本@名無史さん:2012/08/19(日) 03:13:25.59
へー
高天原の住人て土蜘蛛だったのか
734日本@名無史さん:2012/08/19(日) 08:43:41.75
>>732
ちなみにその情報の根拠は何?
書籍名あるいは論文があれば教えてくれ
自分で調べたっていうんなら、その平安時代の書籍の名でもいい
735日本@名無史さん:2012/08/19(日) 10:26:45.65
土蜘蛛の墓はあるけどな
736日本@名無史さん:2012/08/19(日) 10:49:12.91
土蜘蛛って、なによ?
高天原の住人が土蜘蛛とは書いてないけどな。
高尾張(葛城)のあたりで土蜘蛛と出くわして戦っただけで、
高尾張にいた連中が全員、土蜘蛛だったわけではない。
そもそも、神武と親戚の高倉下は、ずっとそのあたりにいたんだけど
土蜘蛛とはされてないわけだし。
737日本@名無史さん:2012/08/19(日) 12:52:48.45
>>727
だから、渡来説で高天原は、大陸の満州か秦の始皇帝の時代の四川省の辺りとか言われたりしてるのだろう
738日本@名無史さん:2012/08/19(日) 12:53:52.66
渡来説は、日教組らだが・・
739日本@名無史さん:2012/08/19(日) 13:25:58.23
【妖怪】 土蜘蛛 【国巣】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1325574407/l50
740日本@名無史さん:2012/08/19(日) 14:56:33.15
>>726
それは神武天皇が土蜘蛛を退治してそこに住んだからだよ
葛城って地名も
葛(かずら)で網を作って土蜘蛛を捕らえた事に由来する
その説だと
神武天皇は高天原の住人を退治した事になってしまう
741日本@名無史さん:2012/08/19(日) 21:35:39.77
移民した人が移民先に移民元の地名をつけることは
よくある
742日本@名無史さん:2012/08/19(日) 23:52:29.37
扶余
743日本@名無史さん:2012/08/20(月) 00:21:16.42
>>741
ヤマトを大和と書くのも元々は大倭(オオヤマト)=倭国の分家ってことだもんな
744日本@名無史さん:2012/08/20(月) 00:37:47.03
>>740
いやいやw 神武が土蜘蛛を退治する前から
畿内には天津神が多く住んでいるのだが。
つまり、神武が東征する以前から、大和盆地には
神武の親戚などの天津神が居住していて、
同時に土蜘蛛たちもいた。
それだけのこと。
また、高天とかいっても、狭義の高天とは、現在の御所市高天や北窪のあたりだけで
神武東征で土蜘蛛を退治した場所は高尾張で、現在の葛城市のあたり。
745日本@名無史さん:2012/08/20(月) 00:39:18.35
神武が日向から畿内へ移住するのは、
徳川吉宗が和歌山から江戸へ移住するのと一緒。
746日本@名無史さん:2012/08/20(月) 07:17:43.69
>>744
>畿内には天津神が多く住んでいるのだが。

例えばどういう天津神がいた?
それは何に書かれている?
思いつくのはニギハヤヒしかいないが、
彼は天磐船で大和へやってきたと書かれているんだよ。
御所市高天からどうやって船で来るの?
747日本@名無史さん:2012/08/20(月) 22:13:47.66
べつに俺は744をいちがいに糾弾するわけじゃないが
どこの部分は何に根拠をもつもので、どこの部分は自分の推論ということを
はっきりしてもらわないとこっちも共通の土台で話できない。
せっかくおもしろそうな意見なのに、もったいないよそういうの
748日本@名無史さん:2012/08/21(火) 01:59:13.62
>>746
高倉下命、倭宿禰など。
いずれも、天火明命の男系子孫。
つまり、ワカミケヌ命(神武天皇)とは親戚同士。

>彼は天磐船で大和へやってきたと書かれているんだよ。

その前に、高天原を出発して、天磐船にのって天野川を下って、
河内へ降臨している。
http://agua.jpn.org/yodo/amano/amanob.html
749日本@名無史さん:2012/08/21(火) 19:26:00.12
ヤマトを大和と書くのは、後付けだよな、律令体制前後くらいからの。
ヤマトの意味の正しい漢字は、山処だよ。

大和は、あくまでも、倭(和、日本全体)から転じた言葉。
中国でも、大漢、大隋、大唐というふうに、国の名前の前に大をつける。
日本も中国に対抗して、和の前に大をつけて、大和といった。

和を統一したのがヤマト(山処)王朝であり
やがて、和とヤマトが同義語になり
大和とかいて、ヤマトと呼ぶようになった。
750日本@名無史さん:2012/08/21(火) 19:53:40.42
いわゆる枕詞からの転というやつだ
飛鳥と書いてあすかとよむ
倭の中でもっとも勢力があった国がヤマトだったのか知らないが
倭と言えば、ヤマトとなって、大和と書いてヤマトとよむようになったんだろうな
751日本@名無史さん:2012/08/21(火) 20:34:17.35
九州の筑紫平野のそばに山門郡てのが有った
もちろんヤマト郡
752日本@名無史さん:2012/08/21(火) 21:36:51.13
洋々閣ー女将のご挨拶12
http://www.yoyokaku.com/sub7-12.htm

末羅=末盧国である。のちに、松浦の文字をあてる。
釜山付近にあった加羅・・
三国以前の朝鮮南端の小国家(部族国家)群には、阿羅(あら)、多羅(たら)、草羅(そうら)などといった国名がある。
それに、古代朝鮮においてかすかに朝鮮本土に対し別国をなしていたかの観のある済州島は、耽羅国(たんらこく)
とよばれていた。
これら古代朝鮮の「羅」のむれに対し、玄界灘をへだてて、肥前沿岸に末羅国があったことをおもうと、唐津湾はその時代ではよほど重要な土地だったにちがいない。

大羅国 邪馬台国 下関-ウェブリブログ
http://44051510.at.webry.info/201102/article_58.html

宇久町の神浦と飯良にある小字の「大羅」(だいら)は大羅国という国名だと思う。
「羅」は韓人が好む字で、加羅・安羅・新羅や倭の末羅国などがある。
Google で「大羅国」を検索すると 摂津国住吉郡大羅郷 がみられる。
平も「たいら」とよむので、大羅に通じるものを感じる。

753日本@名無史さん:2012/08/21(火) 21:44:15.57
人の姓にも同じ法則が見て取れる。
林・小林・大林
西・小西・中西・大西
谷・小谷・中谷・大谷
島・小島・中島・大島

754日本@名無史さん:2012/08/22(水) 01:01:01.69
>>751
山門と、ヤマト朝廷のヤマトは
発音が違うと言われている。
ヤマトと同じなのは、山処。山の麓という意味。

三輪山の麓の地域を山処といい、それが、王朝の名前になった。
755日本@名無史さん:2012/08/22(水) 01:24:45.22
>>754
なんと読むんだよw
756日本@名無史さん:2012/08/22(水) 02:52:32.79
「山門」の「ト」は甲類
「大和」の「ト」は乙類
発音違う
757日本@名無史さん:2012/08/22(水) 07:01:09.69
>>756
畿内説必死ダナwww
758日本@名無史さん:2012/08/22(水) 08:46:07.38
松平の語源も、末大羅と言う意味かも・・
759日本@名無史さん:2012/08/22(水) 08:55:31.76
>>730
書店に販売している「竹内文書2」には、ニギハヤヒ=ニニギ と記述してある
ニギハヤヒは、即位する前のニニギの旧名、ニニギとは国王として君臨した際に名付けられた国王名とある
天の磐船とは、UFO=タイムマシン=次世代エネルギー炉
http://www.youtube.com/watch?v=EsOgapHSVV4
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai09.html
760日本@名無史さん:2012/08/22(水) 09:37:31.39
おそらく大和族は事前に戦争を予期して準備を整えていたのでしょう。
出雲族は次第に劣勢となり、東へ東へと追いやられ、諏訪から東北へと敗走します。
こうして大和族の神武は出雲族を追い出して、「初代天皇」として大和政権を樹立するわけです。
同時に歴史を改ざんし、本来は(おそらく連合政権の)初代天皇であったニギハヤヒの役割を大和族に都合のいいように変えてしまうんですね。
http://plaza.rakuten.co.jp/yfuse/14000/
761日本@名無史さん:2012/08/22(水) 12:00:51.95
「ヤマト」は「山人」ではないだろうか?
762日本@名無史さん:2012/08/22(水) 12:49:48.68
でも、結局奈良県の人たちのことだろ
あそこ和歌山といい、伊賀といい、山ばっかだもんな
山城は元々やまのうしろという意味だったともいうしな
763日本@名無史さん:2012/08/22(水) 15:23:23.02
>>761
ヤマトとハヤトは元は対義つい、なにがしかの関係性がありそうだな。
764日本@名無史さん:2012/08/22(水) 15:41:04.56
>>760
創作が激しすぎる。
出雲国譲りをしたのは、神武ではないぞ。
神武よりも三代くらい前の話。
あと、ニギハヤヒは高天原系の貴族で、出雲とは無関係。
765日本@名無史さん:2012/08/22(水) 20:15:51.73
天皇家の前身である天孫族が渡来系であるのは間違いない。
どこかというのは神話上では高天が原。
歴史学的にはかつては朝鮮半島ないし北方からというのが
通説のようになっていたが、
今は中国南部、長江流域にいた江南の種族だろうというのが有力で、
それは弥生人といわれる種族の渡来と同じだと考えられる。
ただし、ヤマトに建国したニニギの四代目神武になる母方はすべて土着、
在来の主に海洋族だから、実際には弥生人より土着の血の方が濃くなっている。
それにもかかわらず、高天が原神話が残ったというのは、
やはり遠い先祖は渡来してきたという伝承が強く残ったためだろう。
766日本@名無史さん:2012/08/22(水) 21:00:40.44
天皇家はY染色体D2
767日本@名無史さん:2012/08/22(水) 21:23:47.16
藤原氏はY染色体D2
768日本@名無史さん:2012/08/22(水) 21:36:34.61
おれはそうは思わんな
弥生人が着始めたのは紀元前1000年ぐらいから少しずつらしいから
神話ができるなら、同じような話が出雲系の神話の中にあってもおかしくない
というか、触発された在来人が自分たちもどこから来たか考えたときに
日本中の人がおなじような神話をもつにいたっていてもおかしくないことになる
それを同じ高天原という抽象的な次元に高めたとしたら、
高天原は、日本に降り立って日本を中心とした物語をするための端緒という装置以外の
意味をもたないのではないかと思うが。

また水田稲作が本格的にはじまるのが紀元前500年ころかららしいが
これは、あきらかに太陽神信仰を暗示させる。そしてそれは九州が先鞭を切ることになるが
それによって人口の増大とその東漸がおこったとなると、高天原がどこかはさておき
天孫族の母地が九州にあるのではないかという推論を記紀の中に求めて良さそうと思う
769日本@名無史さん:2012/08/23(木) 02:35:26.93
>>765 :日本@名無史さん:2012/08/22(水) 20:15:51.73
>天皇家の前身である天孫族が渡来系であるのは間違いない。

間違いないわけないw
記紀では、外国のことは諸蕃とかいって一段低い位置においているのにw
そこが高天原なわけないw
770日本@名無史さん:2012/08/23(木) 02:41:57.95
何度も言うが、高天の原とは、
高天という地名の場所があって、そこの原野という意味。
では、その高天とはどこかというと
現在の奈良県御所市高天や北窪のあたり。

では、ヤマト王朝の名前にもなった
狭義の意味でのヤマトとはどこかというと、
現在の奈良県桜井市・天理市のあたりの地域を、
ヤマト(山処)といった。

現在の奈良県御所市高天や北窪にいけば分かるけど
ここは、現在の奈良盆地の西南部の高台の地にあたる。
771日本@名無史さん:2012/08/23(木) 05:57:41.70
アマテラスが筑紫生まれ。
弥生時代の墓から鏡が出るのは福岡と佐賀だけ。
もちろん半島からは出ない。
772日本@名無史さん:2012/08/23(木) 06:43:33.71
日本人はアフリカから来た渡来系だぞ
773日本@名無史さん:2012/08/23(木) 10:07:41.19
高天原だけ、枕詞じゃないんだな
774日本@名無史さん:2012/08/23(木) 12:09:36.56
>>766 >>767

ステマ
775日本@名無史さん:2012/08/23(木) 13:14:09.90
>>774

ステマ
776日本@名無史さん:2012/08/23(木) 13:32:06.89
>>772
それ、今の中国人の妄想で倭は黒人とかぬかすこじつけだろう。
安室なみえデビュー当時のアホなシナ人のガキの先入観。
777日本@名無史さん:2012/08/23(木) 19:17:42.92
>>771
その場合の筑紫は九州って意味で、天照大神は日向の生まれだろ?
778日本@名無史さん:2012/08/23(木) 19:25:00.46
筑紫という表記が、筑紫島(九州)、筑紫国、地名の筑紫、
どれを指すのかわからないことはよくある。
779日本@名無史さん:2012/08/23(木) 20:46:17.48
>>770
まだ言ってんのかよ?
どうやって山の上から船で来るんだよ?
780日本@名無史さん:2012/08/23(木) 20:51:44.36
今でも、生駒山系から天の川が
磐船神社のあるところを添って流れている。
781日本@名無史さん:2012/08/23(木) 20:55:27.56
筑紫って、尽くし
から来ている説があるw
ヤマトに、尽くしたから、筑紫だなw
そんなところが、高天原のわけなかろう。

また、アマテラスは筑紫で生まれたことになっているが
居続けた場所は、高天原だよな。
筑紫と高天原を分けて考えている。
よって、筑紫が高天原のわけなかろう。
782日本@名無史さん:2012/08/23(木) 21:14:13.90
うん、説得力がない
783日本@名無史さん:2012/08/23(木) 23:45:38.31
こんな小ちゃな川を船で?
ギャグでしょうか?
http://agua.jpn.org/yodo/amano/amano.html
784日本@名無史さん:2012/08/23(木) 23:57:27.54
高天ってむしろ海人族の入植地じゃね?
紀ノ川遡ってさ。
785日本@名無史さん:2012/08/24(金) 12:26:05.55
つーか、高天が古代からたかあまだった証拠てあるの?
786日本@名無史さん:2012/08/24(金) 22:06:42.70
そういえば、天照大神は日向の生まれか。日本書紀によると、
「筑紫日向小戸橘之檍原」でイザナギが禊払いしたときに生まれた。

で、天照大神は、伊邪那岐命から高天原を治めるように命じられる。
で、孫の瓊瓊杵尊がまた日向に降りてくることになる、ということか。
787日本@名無史さん:2012/08/25(土) 02:29:43.08
高天原の「高」っていうのは「遥か遠く」という枕詞であって「あまのはら」が本当。
万葉集にはあまのはらの記載はあるが高天原は無い。
これは後世、律令制が導入されたころに
中央集権的縦社会が構築され付加されたのは間違いない。

では、あま、とは何かというと海(あま)の事だよ。
遥かな海、つまり海外の事。
おそらくは黄海沿岸のどこかの土地、「辰」の事だろう。
788日本@名無史さん:2012/08/25(土) 06:38:38.34
>>787
天照大神は海外を治めるように言われたってこと?
789日本@名無史さん:2012/08/26(日) 01:34:36.87
高天の原とは、現在の奈良県御所市高天。
このあたりは、長い間、高天村といわれていたし、
ここには、日本神話の高天原の伝承地がある。
皇祖ニニギは、出雲国譲りの直後
この高天原から、九州高千穂に派遣されたことになっている。

古事記・日本神話の伝承地〜高天原史跡ガイド奈良県御所市から
http://takama.sakura.ne.jp/index.html
葛城の 高間の草野 早知りて
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/97.htm

高天の原
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&aq=hts&oq=&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGNI_jaJP451JP452&q=%e5%be%a1%e6%89%80%e5%b8%82%e9%ab%98%e5%a4%a9
790日本@名無史さん:2012/08/26(日) 01:51:45.20
>>789
神世の時代は、都だったが、今では、寂れた村と成った訳ですね。
791日本@名無史さん:2012/08/26(日) 07:13:17.01
>>789
それ信憑性あるもんなの?
もっとまともな一次資料はないの?
792日本@名無史さん:2012/08/26(日) 12:19:40.60
まともな資料も考古学からのアプローチもなく、高天、高天言ってる人。妄想が強すぎ。
793日本@名無史さん:2012/08/26(日) 14:43:43.92
飛騨説が一番しっくりくるんだけど、どうなん?
794日本@名無史さん:2012/08/26(日) 17:10:04.02
思うに
結果的に神々の深奥の場所として高天原が設定されてはいるが、当初はそんなものではなかったと思う。
まず三柱神(正確には太陽神と出雲の神+α)の対立があって
後世、日本が合意の下の統一がされたのちにその三柱神の上位統合概念としてイザナギナミが設定された。
それ以前において、アマテラスが高天原を治めるという意味は、太陽が天にあるという比喩にすぎなかったと思われ。
そして、大和政権が権威をもつ以前は、国譲りの神話が指し示す通り、出雲に圧倒的な権威があった。
国つ神が出雲に集まるのとは反対に、太陽神の化身はいったいどこに顕現されるのか、
天上の神々が普段どこにいるか?ということが問題になったとき、権威のために
地上で、たとえば山、山岳信仰にかぶせるかたちで設定する必要があったのではないかと。
そこで、大和で霊験あらたかな場所がこれに選ばれた。
葛城氏が活躍したのは4、5世紀の古墳時代、大和政権が始動し始めた時期。
同じアマテラス系の神話を奉じていたということもあり、皇族と懇意にしていたのだろう。
そして、だからこそ、彼らの氏神は皇族と関係し、古い歴史を有していたとは思う。
だが、彼らとて、稲作と太陽神の神話体系からしてやはり本籍地は奈良ではないのだと思う。
仮に、奈良に根源的に地盤をおく勢力であったとしたら、建国神話であるニニギ・神武の話が、
まず地元のニニギが縁もゆかりもない九州にとばされ、息子の神武がまた戻ってくるという、意味不明な神話になってしまう
日本書紀では日向で数百年単位の年齢をかさねるニニギを、現実の歴史と相似に論じることに無理があるだろう。

高天原の設定は、太陽神の顕現場所として求められたものであり、
ニニギの天下りの説話は、太陽神を奉ずる人たちの植民の歴史の比喩。
大和へ移り住んできた人々の伝承を、後世王朝の長さの誇るために、伝説ではなく、史実として記録しようとしたため
欠史八代の不正確さが生まれたのだと思う。
795日本@名無史さん:2012/08/26(日) 17:30:28.17
こういった神話体系の創作は、6世紀後半、朝鮮半島での均衡がやぶれ対外からの圧迫で危機感がおこり
中央集権的な国造りが希求されはじめて以後、日本中の合意の結果であると思われる。
たとえば、ニニギの嫁であるコノハナサクヤヒメなどは大山積神社の系統であるが
本来、摂津にあったのを大三島にうつしたようだ。
神話の内容からして、ニニギの一族は稲作文化を担って、大分あたりの海岸にうつりすみ、
日向の海辺の民と交わる形で植民し、その後瀬戸内へと出ていったのだろうが、三男のホオリは兄たちが
早く畿内への植民に動いたのに対して、長く日向に留まっていたのだろう。
よほど日向の民と交わりすぎたために文化的に海辺の民のものが多くまじわり、ニニギのその他の子孫からは
太陽神を奉ずる末裔なのか疑われた。しかし、海辺の民の文化を活用して、稲作と交易の両方を武器に
勢力を拡大していった、というのが海幸彦山幸彦あたりの説話かと。
で、畿内に土着した神武の国がやがて、兄の子孫たちと提携しつつ勢力を拡大し、出雲の権威にまけない瀬戸内の交易を
中心とした勢力を築いていくことになるが、連合国家であったために基本的に祭祀の場所は直轄勢力範囲内につくった。
そのため、友好を築いていた大山積神社の系譜の民にも、勢力内にあるものに一番の権威をおいていたのではなかろうか。
それが、のちに中央集権体制になったおり、神話体系に沿ったかたちの神社設置場所を決定していった、ということでは。
796日本@名無史さん:2012/08/26(日) 18:08:12.88
遺伝子見りゃ分かるじゃね
日本人と中国朝鮮の遺伝子に結構違いがある
神武東征が縄文人征伐なら中国朝鮮の遺伝子で塗り替えられていたでそ
たぶん内乱の可能性が高い
797日本@名無史さん:2012/08/26(日) 18:37:12.75
そもそもヤマトってなんだ?
山?
山が濁って、いや神格化されてアマ=天
天孫降臨の降臨は下山でおkじゃね
798日本@名無史さん:2012/08/26(日) 18:47:05.73
そもそも漢字で読み書きしちゃってるからややこしい
訓読みってなんだよって話
元からあった和語だろ
799日本@名無史さん:2012/08/26(日) 19:58:52.42
>>789
その地図見たら分かるけど、

ヤマト王権ってのは、
現在の奈良盆地の中でも最も南端で高台の
高天(現在の奈良県御所市高天や北窪)から出発する。
地方王権時代は、そこが最も軍事的に守りやすいからだ。

しかしながら、やがて、出雲国譲りで全国制覇を達成すると、
当然、王権の首都も、安全保障よりも、もっと経済性を重視する。
そこで、高尾張(後の葛城=現在の奈良県葛城市)に移転する。

そして、倭国大乱などを経て、さらに王権が肥大化し、
それに伴い、より経済性を重視して、
三輪山の麓の山処(ヤマト=現在の奈良県桜井市、天理市)に移転するわけだ。
800799:2012/08/26(日) 20:02:20.05
ヤマト王権は、首都を、
高天(御所市)→高尾張(葛城市)→山処(桜井市)へと
徐々に移転させていった。

その途中で、ニニギの天孫降臨とか、神武東征が起こった。
801日本@名無史さん:2012/08/27(月) 00:16:33.41
天皇家は鏡を王権シンボルとするのだから、弥生時代の墓から鏡が出ないところは高天原ではない。

これは常識だろ。
802日本@名無史さん:2012/08/27(月) 01:06:46.12
>>801
鏡を王権のシンボルとかいうけど、そんなのいつからかも
分からんし。
ちなみに、丹後の籠神社には日本最古の伝承鏡がある。
あれは、紀元前1世紀からのもの。

御所市高天の地理を見たら分かるけど
ヤマト王権の拠点が、あそこにあったころは、また、この王権が
地方の田舎王権に過ぎなかった時代の話だろう?
あんなところに、大きな都を作ることはできない。
ただし、群雄割拠の時代に、地方王権を本拠地を構えるとしたら
あそこは、安全保障上、もっとも適した地形なんだわな。
803日本@名無史さん:2012/08/29(水) 11:30:48.45
>>801
それじゃ〜♪
富士高天原から鏡の出土は一生ないだろう。
804日本@名無史さん:2012/08/29(水) 11:41:31.69
>>802
ニニギはアマテラスから鏡を授かっているから、それ以前から鏡が王権シンボルだろ。
805日本@名無史さん:2012/08/29(水) 15:23:28.30
銅鏡て太陽神とあんまり関係ないよな、どう考えても
天岩戸の神話はあるけど、あれナルシスト的な話だし
弥生中期から北部九州では銅鏡が発見されるらしいが、
稲作の繁栄で人口が増大する時期と一致するのかな
高価で祭祀で用いられていたらしいね
806日本@名無史さん:2012/08/29(水) 16:03:47.42
>>804
一応、丹波の籠神社には、紀元前1世紀の前漢鏡が収められていた。
その時代に、すでに、そういう文化があったわけで。
しかも、土の下から発掘されるようなものではなく、
ちゃんと神社の伝承鏡として、2000年以上、収められていたわけで。・
そこが重要なんだよ。
卑弥呼よりも300年前に既に、そういう文化が近畿地方のある場所にあった。
807日本@名無史さん:2012/08/29(水) 16:08:44.20
出雲国譲り戦争とは、おそらく、紀元前1世紀から紀元1世紀ぐらいにあったのだろう?
それは、出雲を中心とした勢力と、近畿を中心とした勢力の争い。
これに近畿を中心とした勢力が勝利した。
その時の近畿の王が、天火明命。
彼の奥方は天道日女命(出雲の大国主の娘)であり、
出雲国譲りとは、出雲王が母系継承で高天王(近畿王)に領国を譲渡した意味合いもあった。

この天火明命には、ニニギ命という兄弟がおり
出雲国譲りの後、九州南部の高千穂へ地方官として派遣される。
これを後世、天孫降臨と呼び、このニニギ命こそ、現在の皇室の祖先だ。
808日本@名無史さん:2012/08/29(水) 16:24:08.82
>>806
何年か後に俺が死んだら、墓に前漢鏡を入れてもらおうかな。
紀元前の墓だと勘違いするものがいるかもしれない。
809日本@名無史さん:2012/08/29(水) 21:18:33.69
>>808
何年か後はないな。何十年か後に訂正しとこ。
810日本@名無史さん:2012/08/29(水) 21:37:59.53
ホアカリさんはいつ下ったんですか?
811日本@名無史さん:2012/08/30(木) 17:06:56.55
>>806
神社に古い鏡があるのは普通でしょ。

それ以前に丹波の神社に古い鏡があると、何で高天原が奈良になるのかな?
籠神社に高天原=奈良という伝承が?
812日本@名無史さん:2012/08/30(木) 18:33:26.24
おそらく邪馬台国は畿内だろうけど、畿内古墳群の2世紀ごろから魏由来の銅鏡の権威が
どれほど神話に影響を与えているのか気になるな
北九州の鏡のほうが由来は古い、しかしニニギのもらった鏡がどちらの権威によっているのか
813日本@名無史さん:2012/08/30(木) 18:45:14.71
最新の研究によると邪馬台国は吉備っていうのが真実らしいよ
814日本@名無史さん:2012/08/30(木) 18:47:21.26
【トンデモ史観】小沢一郎・韓国講演[桜H21/12/17]
2:11〜 騎馬民族征服王朝説-東京大学名誉教授 江上波夫
http://www.youtube.com/watch?>v=uX7xFMvCly8&feature=BFa&list=PLDB4AFB4236E2B442

姜尚中もだが、昨日南海トラフ地震の件で朴進午とかいうのが東大准教授としてコメントしてたぞ
国立大学がこんなんで大丈夫?
815日本@名無史さん:2012/08/30(木) 19:51:05.82
>>807
ホアカリは何もしてないよ、マサカツアカツの名前からしてオシホミミが勝った。
直接手をくだしたのもミカヅチ
出雲に対抗するには瀬戸内の交易確立が背景にあるはずで
国譲りのはじめのうちは多くが大国主の勢力下にあり、やがて力の逆転がおこったように
九州からの移民が分布し交易網が整備されるにつれて九州の稲作中心文化の移民が勢力を有した。
これをオシホミミに代表させているのであり、あくまで象徴表現にすぎないと思う。
ニニギはそういった瀬戸内vs日本海の主導権争いが終わった後に畿内へ移民してきた九州系。
ホアカリは単にニニギより先に九州から植民していった集団で、摂津などの豪族が氏神にもっているのだろう
ニニギの息子たちの名前にもホアカリがあるのもそうした背景では?
DNA的にも弥生系が瀬戸内を中心とした西日本に多いのは北九州系の植民が理由なのだと思う。
816日本@名無史さん:2012/08/30(木) 22:05:12.38
考古学者の森浩一いわく、
伊勢神宮に伝世されている三種の神器の鏡は
北九州の弥生遺跡から出土した鏡と同范の可能性があるそうな。
817日本@名無史さん:2012/08/30(木) 22:14:28.84
八咫鏡については、実際に見た人はいないようだが、入れ物から
直径40cm後半くらいではないかと言う説もある。
これから、平原の大型内行花文鏡との関連が言われることもある。

しかし、その入れ物の中にはもう一つの入れ物があるらしい。
つまり、八咫鏡は意外に小さい可能性がある。
個人的には、銅鏡ではなく鉄鏡ではないかと思うのだが…。
818日本@名無史さん:2012/08/30(木) 22:37:50.70
当時の海上交通レベルを考えれば渡来人が九州で勢力を作るには無理がある話
先住の縄文人もいたし大陸より先に本土縄文系が九州に勢力を伸ばしているだろう
そこに渡来してきた大陸文化が徐々に合流したと考える方が自然
海洋国家が侵略され難い特徴を考慮すべき
819日本@名無史さん:2012/08/30(木) 23:53:09.35
そうだろうね、にもかかわらずなぜ弥生系がそれほど多くDNA比に食い込んで西日本に分布したかといえば
稲作による人口増加であると思う。
人口が少ないときに弥生系が入り人口が増大しそこから全国に移民すれば、必然的にその集落の割合がそのまま全体の割合になる。
弥生系が紀元前1000年くらいから長江下流から、半島や北九州沿岸に渡ってきつづけたそうだが
それなら、平安時代以降も人口の移動があるはずで希釈はすすんでいるはずで、DNA分布は絶えず変動されているはずだが
D2比率の高さの維持を考えれば、人口増加時の影響で比率が変わったというほうが理屈がたつと思う
820日本@名無史さん:2012/08/31(金) 00:22:53.17
神武天皇の母方はワニだからね。
今でも長江にはワニがいる。
821日本@名無史さん:2012/08/31(金) 01:00:10.92
>>820
ヘッ・・
玉依姫がか?
822日本@名無史さん:2012/08/31(金) 05:12:07.32
>>815
おまえ、頭の中がぐちゃぐちゃw
高天の原とは、どうみても、近畿の奈良県御所市高天とその周辺。
823日本@名無史さん:2012/08/31(金) 05:16:15.84
出雲国譲り戦争とは、出雲と近畿の戦争。
近畿が勝利し、近畿王が全国各地に地方官を派遣した。
その中で、九州高千穂に派遣されたのが、ニニギだった。
現在の皇室の祖先が、ニニギで、
このニニギの曾孫がワカミケヌこと神武天皇。

では、その時の近畿王は誰だったのかというと、ホアカリ。
通称を天照国照彦という。
出雲国譲りによって、天津と国津の両方の勢力者になったので
天照国照彦。
824日本@名無史さん:2012/08/31(金) 05:31:29.27
縄文とか弥生ってのは、日本神話の話とは無関係だよ。
825日本@名無史さん:2012/08/31(金) 06:02:28.46
最近の考古学というか、年代が大分、繰り上がってきているだろう?
農耕時代自体は、5000年以上前、
水稲農耕自体は3000年以上前で
これは、どれも、さらに年代が遡るかもしれんが

いずれにせよ、卑弥呼が登場する1000年以上前の話で、
日本神話とは、直接的には関係ない話になってきている。
826日本@名無史さん:2012/08/31(金) 08:47:20.41
なかなか、2ちゃんの掲示板に
文字情報だけ書いても分かりにくいよ。
827日本@名無史さん:2012/08/31(金) 09:23:46.25
>>823
ニニギの子にホアカリ、としている日本書紀もあるよ
その場合、ニニギには兄はおらず、ニニギと海の民との子の兄弟に、ホアカリ(海幸)、ホオリ(山幸)がいる。
で、山幸が海の民とまた結婚することで、海幸に勝つ。
その場合も、皇室の祖であるホオリの兄としてホアカリが存在する。
ただし、天孫降臨の後、日向でホアカリが生まれることとなる。
ニニギの兄としてホアカリが生まれる場合、
ニニギの子にホアカリなるものは存在せず、ホデリやホスセリなる兄が皇室の祖ホオリにいる。
国譲りで勝ったのはマサカツアカツのオシホミミでホアカリは下界の支配を混乱しているからと断っている

この場合、ホアカリの共通点は皇室の祖先の兄として存在する点。
国譲りにおいて、勝ったのはオシホミミであること。(兄ホアカリが存在しない日本書紀もあるのだから)
ホアカリを祖としているのが、海部氏であり、元摂津の豪族であること。海と関係している点。
旧事本紀では、物部氏の祖であるニギハヤヒと同一視されていること。
ホアカリやニギハヤヒを祖とする豪族は皇室より早く畿内にいたということ。

これらを勘案すると、ホアカリが実際の皇室の家系の家族構成員だったというより、神武以前の伝説において
皇室の祖より先に畿内に到達していたということを表す九州を祖にもつ移民団の一つだったのではないかということ。
国譲りとは実際の戦争があったのではなく、おそらく勢力争いで、実際は少しの戦いで終わり、
瀬戸内交易圏の優位性を表すにすぎない。ホアカリが関与していなかったというのはそういう意味かと。
播磨国風土記には出雲の大国主の子としてホアカリが存在するのは、交易圏確立以前、出雲支配下にいたということ。
古事記においても、皇祖とされないがワカヒコらは大国主に懐柔されている。
旧事記をみても畿内に出雲系の豪族がいることが分かる。
たしかにアマテラスクニテラスの名前からして、ホアカリが国譲りにおいて瀬戸内の雄として出雲を撃退した可能性はあるかもしれない。
だが、実質、畿内大和政権の考古学的資料からして、連合は紀元後であるのは明らか。あくまで象徴表現だと思う
ホアカリがとりこまれた他の天津神系と異なり皇別にされているのは単にのちに皇室と懇意になったからと推測する。
828日本@名無史さん:2012/08/31(金) 09:29:10.94
>>825
プラントパールだっけ、あれから推測したら3000年前かららしいね
つまり紀元前1000年くらいから、そのへんから弥生人が渡来してきた。
でも全国的な遺跡が確認されるのは紀元前600年くらいかららしいよ
とくに壱岐での計画的な水稲作が紀元前500年くらいらしいからね
200年くらいで東北にもつたわったよう。
組織的な稲作づくりとクニの形成は北九州が先鞭をつけたのではないかと思う
稲作って暦もさることながら、苗づくりにしても手間はかかる
自然発生的につくるのと人工的につくるのはかなりちがうと思う
829日本@名無史さん:2012/08/31(金) 09:35:48.88
>>823
>現在の皇室の祖先が、ニニギで、
違うって昭和天皇が自ら証明しているけどw
高天原を求めて皆神山へ行った昭和天皇。
記紀が正しければ、奈良県高天が原へ行く筈だが、どーして長野県に入植したのだ?
830日本@名無史さん:2012/08/31(金) 09:55:01.80
青森で1万6000年前の土器が出土してるんでしょ?
弥生期に渡来人により農耕が広められたとか不自然すぐる
831日本@名無史さん:2012/08/31(金) 09:57:59.84
>>828
東日本は水稲農耕に適さない環境だったという話も
832日本@名無史さん:2012/08/31(金) 12:47:01.82
>>827
ニニギとホアカリの関係は、日本書紀の諸説や古事記、海部氏系図など
文献によって記述が異なる。
一応、正史である日本書紀の本文では、ニニギの子供がホアカリということになったけど
日本書紀があげている諸説には、別のものがある。
古事記では、ホアカリが兄、ニニギが弟、
海辺氏系図では、ニニギが第一皇子、ホアカリが第二皇子になっていたり、
ニニギの兄弟と息子に同名のホアカリが二人いたりする。

>播磨国風土記には出雲の大国主の子としてホアカリが存在するのは、交易圏確立以前、出雲支配下にいたということ。

旧事本紀や海部氏系図などでは、ホアカリは大国主の娘婿ということになっている。
つまり、播磨国風土記の記述、大国主の子がホアカリというのは
大国主の義理の息子(娘婿)がホアカリだったという意味になると思う。

あと、何度も言うが、高天原とは、御所市高天。
>>829 昭和天皇が皇室の古い歴史など知ってわけなかろうw
律令体制国家後の皇室の文献でも、彼らの言っていることは二転三転しているw
つまり、彼らも自分たちの家の古い歴史など分からなくなっていたわけで。
833日本@名無史さん:2012/08/31(金) 12:55:40.09
ホアカリの嫡流の子孫は、熱田社の尾張氏。
海部氏は、その傍流。
834日本@名無史さん:2012/08/31(金) 13:09:27.47
>>832
>あと、何度も言うが、高天原とは、御所市高天。
肯定する証拠が無い。
835日本@名無史さん:2012/08/31(金) 13:33:12.10
>>832
だから、俺の考察は794-795の通り。
高天原はのちにつくられた場所であると思う
もともと太陽が天にあるという意味で、アマテラスが高天原にいるとしていたが
出雲の権威に対抗した大和政権が本格始動する時期に比定地がつくられたと思う
その時期皇室と密接な婚姻関係にあった一族を皇別のホアカリ、皇室より先に畿内に来た現在皇室と親族関係にある一族とし
物部氏のように直接婚姻関係はないがもともと九州系でつながりを感じるものたちを天神系神別とした。
しかし、物部氏にしてみたら、もともと尾張、海部氏とはまったく変わらない移民団の一つであったし
実際、出雲より瀬戸内の交易を拡大してきた象徴表現に含まれる一族であると自負したためにホアカリとニギハヤヒを同一視した。
と見る。
836日本@名無史さん:2012/08/31(金) 13:47:01.92
それと皇室のいう事が二転三転しているのは理由があると思う
そもそも移民するということを考えると、九州の王族系ではありえないからだ。
だから、皇室と九州との接点が交易路上の拠点にしかないのだと思う。
本来のルートを考えれば、筑紫平野から熊本へ抜けて高千穂野を通って日向へぬけ、そこから瀬戸内交易圏を形成するほうが
理に適っているが、のちに大和政権が成り、出雲を吸収し、大陸をも考慮にいれた交易圏を形成するにつれて
大和に高天原を設定する必要はなくなり、
筑紫の九州豪族との関係を考える必要がでてきたが、おそらく筑紫には旧知の一族が見つからなかったかで
日向の南、高千穂峰から天下ったとすることにしたのだと思う。
これが二転三転の始末なのでは
837日本@名無史さん:2012/08/31(金) 13:59:58.06
高天原が九州だと無理ありすぎなんだよ。
この説が好きな人もいるんだけど。。。

播磨国風土記に、播磨国で出雲と高天が激突したとあるが
その意味を考えようや
838日本@名無史さん:2012/08/31(金) 14:11:38.92
オシホミミの意味は稲穂が多いという意味らしいぞ
太陽神アマテラスの子オシホミミ
海原の神スサノオの子大国主
稲作文化と海洋文化の衝突のようにも解釈できるな
実際、国譲りで争ったのはオシホミミでも大国主でもなくその子たち。
またアマテラスの孫、ホアカリは大国主の子でもある
また天津神のワカヒコは中津国平定のため使わされるがかえって婿となって懐柔される。
懐柔された天津神の中で、ホアカリは播磨国風土記で大国主に反抗したような説話がある。
ホアカリが海部の民の祖とされるのは、稲作と交易の中間であったためとも思われるが。
839日本@名無史さん:2012/08/31(金) 14:21:33.04
結論を言うと、高天原は、九州でも畿内でも朝鮮でも無い
残るのはあれとあれだ
840日本@名無史さん:2012/08/31(金) 16:52:56.72
俺は邪馬台国は大和だと思う
だけど後漢からもらった志賀島の金印は九州にあった政権のものかなと思う
紀元前5世紀ごろから移民がはじまり、瀬戸内で勢力をもち畿内が出雲を統合するのは紀元前後であり、
九州半島間交易路に手を伸ばすまでの一世紀のころは九州が主に大陸とやりとりしてたのではなかろうか
それで、奴国名義の金印となった。
841日本@名無史さん:2012/08/31(金) 19:42:05.77
縄文と弥生の対立って、近代人が言い出した話だ。
そんなもんは存在しない。
そりゃ、数千年をみれば、徐々に縄文的なものから弥生的なものに変化したんだろうが
(そもそも、土器の区別でしかない縄文と弥生を、そんなに過大評価して良いものなのか?)

最近の考古学や植物学の話だと
少なくとも5000年以上前には日本でも農耕が開始され
3000年以上前には水稲農耕が開始された。

日本神話にある出雲と高天が争っていたのは、おそらく2000年前ぐらいの話なので
縄文と弥生とかいう話とは、直接的には無関係な話だ。

日本で農耕が開始されて3000年以上、水稲が開始されても1000年以上
時間がたってから、出雲と高天による出雲国譲り戦争があった。
842日本@名無史さん:2012/08/31(金) 19:49:11.27
漢書王莽伝によると、西暦5年に、大海を超えて東夷の王が
中国漢王朝に朝貢してきたらしいから。
この大海というのは、現在の日本海のことだから、この東夷の王って、倭王かもしれんしな。
実際に、紀元前から、中国の楽浪郡に倭王が施設を送ってきたらしいし。

ただし、何度も、この王権は、地方への統制力を失うこともあって
それが、西暦57年の漢の倭の奴国王の金印だろう?
この奴国について記述について注目されるのは、漢の奴国王ではなく、
漢の倭の奴国王であり、奴国よりも上のカテゴリに倭国の存在があること。
843日本@名無史さん:2012/08/31(金) 20:59:26.02
>>841
DNAで明らかになってるよ
D遺伝子は日本人とチベット人しかもっていない特殊なもの
半島にも入っていない
これに江南からのものであろうO2が流入してくる、これは半島にもある。
漢族系遺伝子O3が入り込んでいない。
弥生人を考える場合、記紀神話やシナ正史、朝鮮史で補完すれば、
半島南部と北九州の人的交流が見られることからすれば
DNAに影響がないはずがない、とすれば弥生系はO2系だったのではという推測が成り立つ。
人骨の形とかは関係ない。

プラントオパールの研究で陸稲、水稲の年代がくりあがっていっているのは確か
しかし、現在確認されている水田遺跡は2500年前が最古のもの。
沼地でたねもみを蒔き、自然発生的に稲が育つのは難しい
当然蒔いたすべてが育つわけではない。そんなあやふやな生産方法では
食べる分のたねもみは減るし、収穫をたのみすぎるのも危険だ。
大規模な水田跡が見られるということは、それだけ多くの人が投資しても見返りが期待できるほど
収穫方法が確立してきた、ということを示しているのではないか?
まあ、もっと水田遺跡が繰り上がる可能性はあるが、炭化した種もみから調べただけの
おそらく3000年前は明らかにある程度自然発生にまかせたものも含むのであるから
クニの発達の背景が認められた上限として認められないだろう

それにしても福岡の水田遺跡が2500年前というのは神武の建国と重なる年代であることは注目に
あたるかもしれない。神武は伝承・伝説のたぐいであろうが、おおよそあっていたのかもしれないな
844日本@名無史さん:2012/08/31(金) 21:16:03.46
>>842
いや、邪馬台国も倭国の女王国のひとつだけど?
倭人という人種が国家群をつくっている中の一つが奴国だろ
そしてそれは明らかに九州にあったと思うがな
魏志でも奴国がでてくるがそれは九州にあるし。
畿内説で説明すればそれは博多あたりに比定される。
つまり、そのころ邪馬台国の覇権が瀬戸内に限られたということだけは確かだ。
ただ、使者との都合のため博多に金印をとどめおいた可能性もあるから
筑紫の王権が無関係だったとも思わん
845日本@名無史さん:2012/08/31(金) 21:42:01.76
>>843
そもそも、その遺跡の年代が正しいのか、どうかすら分かってないけど。
土器編年で学者のさじ加減で相対年代を割り出したのに過ぎないしな。

>>844
西暦57年の時点では、倭国の混乱期で
結果的に、倭の大陸との玄関口だった奴国が交易権を握ったのであろう。
ただし、籠神社の伝承鏡とか、岡山で見つかった王莽銭をみるに
それ以前から、倭の広範囲、少なくとも近畿地方、日本海沿岸部では
中国との間に交易権が広がっており、近畿にも中国の情報が入っていたように思うけどね。
自分は、西暦5年の東夷の王は、近畿王か出雲王かのどちらかと思うけどね。
古代の中国の文献では、日本海のことは大海と表現しており
大海韓やってきた東夷の王は、倭王であり、それは、近畿王か出雲王だと思っている。
846845修正:2012/08/31(金) 21:43:06.18
>大海韓やってきた東夷の王は、倭王であり、それは、近畿王か出雲王だと思っている。

大海からやってきた東夷の王は、倭王であり、それは、近畿王か出雲王だと思っている。

847日本@名無史さん:2012/08/31(金) 21:59:11.37
アマテラス=卑弥呼・台与でスッキリするね。
848日本@名無史さん:2012/08/31(金) 22:24:54.94
>>847
アマテラスの弟のスサノオも説明してから言え
849日本@名無史さん:2012/08/31(金) 22:25:36.13
>>845
少なくとも邪馬台国を畿内に比定するなら、神獣鏡は3世紀前半であっていることになるよ
魏志との整合性が合う
それとの相対年代ならあたらずともとおからずになりそうだけどな

倭国大乱は2世紀だよ?
魏志が底本だろうから、現地でのききとりで情報としても可能性は高いな
伝説化していたものを漢人がいらぬ補正をしてなければだけど

それと中国との貿易は古来から博多を通して行われてきたことを考えれば
半島と密な関係にあったのは対馬経由の九州人の可能性の方が高いとおもうな
島根と半島の新羅側との関係性も海流的に考えられるだろうが、
人為的に交易とまでは技術的にいかないと考えた方がいいよ
日本海貿易はあくまで越や勢いあまって奥羽あたりまでだろうねえ
850日本@名無史さん:2012/08/31(金) 23:02:58.34
>>848
スサノオノミコト=狗奴国。
851日本@名無史さん:2012/08/31(金) 23:27:47.19
狗奴国=許乃国(コノ国)の男王とは、武埴安彦命。
卑弥弓呼とは、彦命(ひこみこ)のこと。

魏志倭人伝の西暦240年代とは、日本書紀や古事記の崇神時代前半の記述と一致する。
卑弥呼=ヒメミコ=モモソ媛命、トヨ=豊鋤イリ姫命、
難升米=梨迹臣命、
狗奴国王・卑弥弓呼=許乃国王・彦命、副官の拘右智卑狗=河内彦

だとしたら、卑弥呼(モモソ媛命)擁立の切欠になった倭国大乱とは
欠史八代と同時期になる。

それと、卑弥呼の王統は、倭国大乱以前に、一人の男王によって建国されたとあるが
自分は、これはイワレヒコ(ワカミケヌ命、神武天皇)のことではなくて
天照国照彦(天火明命)だと思う。
それは、出雲国譲りによって達成されたと思い、それは西暦紀元前1世紀から
西暦紀元後1世紀だと思い、
漢書王莽伝の大海(日本海)よりやってきた東夷の王は
天照国照彦(天火明命)か、
その嫡男の天香語山命(生母は大国主の皇女の天道日女命)だと思う。
852日本@名無史さん:2012/08/31(金) 23:34:21.28

ヤマタノオロチはどうしたw
853日本@名無史さん:2012/08/31(金) 23:51:27.12
>一人の男王によって建国されたとあるが

書いてねーよ
854日本@名無史さん:2012/09/01(土) 00:00:27.39
>>853
この国は、もともは男王によって建国されたとある。
その後、数十年続いて、倭国大乱が起こり
卑弥呼を擁立して鎮まったとある。
魏志倭人伝を書いた中国人から見て、卑弥呼は建国者ではなくて
中興の祖くらいの認識。
これを間違って、考えている人が多い。
855日本@名無史さん:2012/09/01(土) 00:10:08.41
漢字そのまま日本語化してもあまりあてにならないんだよな

インド 日本
ヴァスバンドゥ ばずばんず 
イッチャンティカ せんだい
ニルヴァーナ ねはん 
チャンダカ しゃとく
シャーリープッタ しゃりほつ
マウドゥガリヤーヤナ もくれん
クマーラジーヴァ くまらじゅう 
アスラ しゅら
チナスタン しんたん
856日本@名無史さん:2012/09/01(土) 00:39:30.05
>>854
其国本亦以男子為主住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為主名曰卑弥呼・・・

これの解釈には異同があるそうだよ
後漢書には倭国大乱の年代を特定した記述があるが、それがちょうど卑弥呼の時代から7,80年前らしい
だから、後漢書に合わせて、住を往の誤字としたり、
文章解釈で、住の前で文が終わっているとしたり、意見が分かれている。
少なくとも男王によって建国されたとはかかれてないのは確かだね
大和政権の連合の形態に変化があったか、ほんとに70年の治世だったかの可能性もあるし
康熙帝の在位が60年だし

俺は後漢書の70年前の意味というのに賛成だな
857日本@名無史さん:2012/09/01(土) 00:45:55.85
ハプロタイプ頻度
A-B-DR  福井 奈良 大阪 島根 岡山 宮崎  中国 韓
24-52-15 10.70 10.08  8.96. 10.54  9.31  8.94  0.21 2.5
33-44-13  5.81  5.43  4.59  4.66  3.58  3.43  1.30 3.9
24-07-01  4.73  3.88  3.75  5.98  4.96  3.87  0.10 2.6
24-54-04  3.60  2.77  2.83  2.36  2.95  3.68  0.40 1.5
02-46-08  1.64  2.05  2.19  2.55  2.18  2.17  0.90 2.0
26-61-09  1.17  1.11  1.70  2.62  2.11  2.26  0.10 0.9
11-62-04  1.34  1.19  1.36  1.38  1.04  1.04  0.60 1.9
24-61-09  1.49  1.72  1.53  0.93  1.57  1.67  0.70 0.5
24-59-04  1.50  0.97  1.09  1.22  1.32  1.16  0.60 1.0
11-54-04  1.07  1.34  1.02  1.31  0.99  1.13  0.30 0.4
N数     1221 1229 7758 1379 3463 1062
Analysis of HLA gene frequencies and HLA haplotype frequencies for bone marrow donors in Japan
Moriyama Y, Kato K, Mura T, Juji T.
Japanese Red Cross Society
858日本@名無史さん:2012/09/01(土) 01:30:46.98
なんのハプロだよwww
一応今世界の主流はY染色体遺伝子だよ
859日本@名無史さん:2012/09/01(土) 01:32:03.06
>>856
易姓革命だと、王朝が交代して、違う国が誕生するわけ。
ここが重要。当時の中国人的な価値観ならば。
現代人の価値観で考えてはいけない。

卑弥呼の国も、卑弥呼よりもずっと前に男王によっての国も
同じ国、同じ王朝と理解している、
魏志倭人伝を書いた中国人は。
860日本@名無史さん:2012/09/01(土) 01:35:19.00
後漢書を書いた中国人はどうした
861日本@名無史さん:2012/09/01(土) 01:40:07.41
其国本亦以男子為主住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為主名曰卑弥呼

男王による国=卑弥呼の国
同じ国=同じ王朝

王朝が交代すると、異なる国が建国されたとなる。
862日本@名無史さん:2012/09/01(土) 01:45:05.40
魏志倭人伝が書かれた当時は、現在の
日本国、中国、韓国、ベトナム、モンゴルなどの
アイデンティティや国家観は存在しない。

日本でも異なる王朝が建国されると、前の国は亡び、異なる国が建国されたとなる。
少なくとも、魏志倭人伝の作者の中国人は
卑弥呼擁立前も後も、同じ国のままだと認識していることから
基本的に同じ王朝が継承されていて、その中で王位継承争いがあって
家臣の話し合いで、王家の中から卑弥呼を擁立したという解釈。
普通、皇帝や国王は、先代の皇帝や国王が決めることになっているが、
なかなか決まらなくて争いが起こる場合が、家臣が共立して決める。
魏志倭人伝の中国人も、卑弥呼もそれと同じように選ばれたと解釈している。
863日本@名無史さん:2012/09/01(土) 01:45:10.83
いやだから、後漢書が年代特定できたのはなんでだ?って聞いてるんだけど
言ってる意味分かる?
後漢書のほうがあとに書かれてるんだよ
魏志は倭人伝を参考にしている風がある
にもかかわらず、年代を限定できたのはなぜか?
後漢書書くには相当な資料があったはずで
そうそう適当なことは書かない
864日本@名無史さん:2012/09/01(土) 01:48:16.38
>>863
魏志(魏書)は、元ネタになった外交文書があったはず
後漢書も同じでしょう。
後漢書が書かれたのは、魏書よりも後だけど
元ネタになった資料というのは、当然、後漢があった時代にリアルタイムのものが
後漢書が作成された時代にも継承されていたはず。
865日本@名無史さん:2012/09/01(土) 01:54:00.33
で、倭国大乱が卑弥呼共立から7,80年前なのは偶然か?
866日本@名無史さん:2012/09/01(土) 04:30:46.54
男王の時代が7,80年続いて、それから倭国大乱があって
それで、女王卑弥呼を共立して鎮まったということだろう?
ちなみに、卑弥呼が新しい国を建国したのなら
卑弥呼を共立したとは、中国人の作者は書かない。
卑弥呼は、それ以前にあった国のまま継承していると解釈しているわけ。
867日本@名無史さん:2012/09/01(土) 04:36:41.73
その時代の中国の文献を見ればわかるけど、
普通、皇帝や国王は先代の皇帝や国王が決めることになっている。
でも、たまには決められないこともあり、その場合は、家臣たちが共立して決める。
また、国家の始まり終わりは、王朝の始まりと終わりと同じだと考えられ
違う王統によって革命が起これば、それ以前の国家は滅亡したとされ
新しい国家が建国されたとなる。

劉氏によっての漢も、途中、王氏によって簒奪されると、新という国家が誕生したとなり
また、劉氏によって再興されると、再び漢が再興したとなった。
そして、劉氏が曹氏に禅譲すると、漢は滅亡し、魏が誕生したとなった。
そして、その曹氏が、家臣の司馬氏によって乗っ取られると
魏が滅亡し、晋が建国されたとなった。

魏志倭人伝を書いたのは中国人であり、彼らの思想からみて、
卑弥呼の共立の前も後も、同じ国が存続したと解釈しており
卑弥呼は建国者ではなく、中興の祖くらいの位置づけ。
868日本@名無史さん:2012/09/01(土) 04:55:08.63
卑弥呼は相談で決まった王だよねえ
869日本@名無史さん:2012/09/01(土) 06:07:20.84
なんとなく、卑弥呼共立というと
現代人の発想から、民主的なイメージで選出されたように思うが

卑弥呼が共立されたと魏志倭人伝に書いたのは、
西暦3世紀の中国人の官僚なわけで
彼らの思想でそう書いたことを忘れてはいけない。
その当時の中国人官僚たちの思想が凄く反映される。

その当時の中国人の国家観でいうと、王統が変われば
それ以前の国家は終了し、新しい国家が建国されたと解釈される。
また、王は先代の王によって決められるとされ、それが不測の事態で無理だった場合は
家臣たちの話し合いで王家の一族から王を決める。
このケースは、これをその当時の中国の文献では、共立したとされる。

これらを総合してみると、卑弥呼は新国家を建国したのではなく、
あくまでも、それ以前の王統とは同族であり、その国家を継承したに過ぎない。
王家内部で王位継承争いが起こり内乱が起こり
結局、家臣たちが、王家の中から卑弥呼を共立した。
卑弥呼は中興の祖という位置づけ。
870sss:2012/09/01(土) 07:14:04.23
いわゆる「倭国の大乱」は王の後継者争い。皆が納得できる王が出ず、
争いが起きるが、卑弥呼が王になることにより、皆が納得し、争いが収まる。

これは、卑弥呼亡き後に台与が王になった経緯を見ると一目瞭然。

卑弥呼が死んで男王が立ったが国中が不服、大きな争いが起こり、当時
千人が殺された。そこで卑弥呼の宗女・台与(壱与)を王にすると
国中がついに定まった。と倭人伝に書かれている。

>>869
卑弥呼時代は停滞の時代だと思う。
台与が王になると、男王が立ち、男女の王が共存・並立する。
この男王の出現により、日本は大きく動き始める。

記紀において、天照大神が岩戸を出ると、高皇産霊尊が登場し、
出雲の国譲り、天孫の日向降臨など勢力が周辺地域に向かって
拡大する様子がうかがわれる。
871日本@名無史さん:2012/09/01(土) 13:05:03.61
>>841
>徐々に縄文的なものから弥生的なものに変化・・・・・・・・
まるで大豆が味噌に発酵変化したかのような言い様だが、海外から弥生的なものを
携えた異人が流入したからというのが、発掘人骨相違から判っておるがね。

>土器の区別でしかない縄文と弥生を、そんなに過大評価して・・・・・・・
おいおい縄文時代・弥生時代というのは、夫々の時代の差を夫々の金属器等の文化差を
示す代表例の土器仕様を代名詞にして差別表現しておるのであって、土器仕様差の話
ではないぞ。明治時代・昭和時代という呼称が、年号違いだけの表現とでも言うのかね?
872日本@名無史さん:2012/09/01(土) 13:29:23.49
>>866
いや、だから後漢書と魏志との整合性をどうするか?って聞いてるわけだが

>>867
そんぐらい知ってるから
例外は六朝の斉梁交代ぐらいだからな

それにシナで共立というのは存在せんだろ
そもそも王が後継者を決めるし、決められず死んでも有力な王族間で争いがあるだけ
王族がいない場合は諸侯間でバトルロイヤルがはじまる
あるいは力をつけた諸侯が王を弑逆、あるいは無理矢理禅定させることもある
ただ、後漢のようなものは、王族がたくさんある中で勢いがあった光武帝に諸侯が集う形になったから
元王族の権威を利用した形で、諸侯がこれを助ける政権であったから
中央集権体制のシナといえど諸侯が力をもってしまった例だな

共立というのは、大和が連合国家だったからだろ
魏志の記述を見れば煩瑣なことをわかるが
倭国、女王国、邪馬台国、女王国に属する国の四パターンがでてくる
倭国は、倭種がつくる国家群全体
邪馬台国は女王が都する国
女王国は、邪馬台国を盟主として多国家連合した国
女王国に属する国というのは、連合国家の一員ではないものの、中立あるいは親和的に接する国
のことだろうな
だから男王が立ったと言った場合でも完全な征服がおこっているわけでなくいわば盟主として
利益調整者として君臨したわけで、それがつまり建国ということにはならない
7,80年というのは後漢書と魏志の整合性を考えないならば
その国家体制か、あるいは一人の統治期間ということになる
873日本@名無史さん:2012/09/01(土) 14:57:53.03
>>872

>それにシナで共立というのは存在せんだろ

存在する。
以下は史記晋世家にみえる晋のお家騒動のくだり。この短い中に“共立”の語が2度出現している。
どのようなシチュエーションで“共立”が使われているか?
後継を決めないまま先君が死去してしまった際に、
国人が相談の上後継を決めたことを“共立”と書いているようである
“共立”とは臣下が相談の上でそのボス(君や王)を決める事

ttp://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/bunken.html#siki2

>共立というのは、大和が連合国家だったからだろ

だから、それは現代の日本人のイメージ。
よくよく考えたら、徳川政権も足利政権も、諸大名の連合政権。
卑弥呼の邪馬台国も似たようなもんだと思われ。
卑弥呼の政権も、徳川政権や足利政権と同じような連合政権
だからと言って、共立したとは言わない。
共立とは、先代の王が後継を決められなかった際に、臣下たちが話し合いで王を決める場合を言う。
とにかく、緊急事態。
また、王統が完全に変われば、それは共立ではなく、建国になる。
874日本@名無史さん:2012/09/01(土) 16:27:42.52
>>873
まあ、古い時代にはあったろうな
とくに晋は三つに分断されたことを考えると王族が弱体化しており
かつ三諸侯も一人では王族を推戴するほどの力をもっていなかった。

徳川政権は連合政権ではないだろう
そもそも封建体制が連合政権なら、周の時代はずっと連合政権だったことになる
徳川の世継ぎを他の大名が決めるというようなことはない

一方、大和政権は朝廷に値する存在がそもそもいないから、
連合国家すべてがひとつの世界観の中に集結していたわけじゃない
仮に倭種で一つの世界観を形成していたとしても
そのすべてを統合する国家がまだ存在していない時期にある
その中で邪馬台国が盟主となってその他の国々を一つにすべているのが女王国で
他の国の圧倒的多数が盟主の方針に反対するなら、
それを曲げざるを得ないほどの政治権力しかもっていない。
男王の治世は安定せず、諸侯が相別れて争ったが、仲直りしたか、連合国家の中で合意ができたので
一人の王を推戴できたということだろう。ちょうど推古天皇のときのようにな

だから、なんで後漢と魏志の整合性について考察がないのか疑問なんだが
875日本@名無史さん:2012/09/01(土) 17:23:13.56
>>871
それが古い知識で間違っている
水田は平地でなく、縄文人縄張りだった山沿いから始まっている
初期の水田から見つかるのは、縄文土器が変形した土器だ
青森の水田跡が2300年前だから、この伝播は絶対に大和朝廷じゃない

つまり水田を導入し普及させたのは縄文人で
その後に弥生人が渡来し、結局吸収されたって感じになる

弥生時代と言う区切りは消滅させるべきだと思う
とにかく意味合いが曖昧で定義も適当すぎる
876日本@名無史さん:2012/09/01(土) 18:23:19.47
>>875
その情報は知ってるよ
紀元前3世紀は弥生中期、そのころには弥生人が全国に水田をつくっていた
>>828>>843に書いた通り
俺が考えるのはそのころには移民は完了していた。
だが、瀬戸内で混成した弥生縄文のハイブリットが東北に伝えたために
DNAが薄くなったと考えている
877日本@名無史さん:2012/09/01(土) 20:32:40.85
>>843
>福岡の水田遺跡が2500年前というのは神武の建国と重なる年代であることは注目に
>あたるかも・・・・・・・・・
戦前教育の神武建国BC660年を史実視しておるとは、いやはや。当時の先進地
北部九州で稲作生産に伴う富とムラ権力発生を示す埋葬遺跡が出だした言わば
村邑首長割拠時代に、間を置かずヤマト王権による国家が大和盆地に樹立されたと
いうつもりなのか?
878日本@名無史さん:2012/09/01(土) 21:58:07.12
奈良県の中西遺跡で約2400年前の水田が約2千枚も発見されてる
これは大規模な集落があった証明になる
しかし九州以外でこの時代に戦争した形跡がない

戦争無しで水田は全国に広まったと考えるしかない

渡来人は海岸沿いに居住するはずだが、福岡の板村遺跡は海岸から離れ丘陵に近い
丘陵は縄文人のテリトリーなので、なぜ敵の近くに村と水田を作ったのか
しかも住居は完全な竪穴式住居である
渡来人が水田を広めたと言う説は全く成り立たない
879日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:07:29.85
丘陵や山地の麓みたいな傾斜があるとこは水が得やすいからね
880日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:13:05.43
縄文時代から日本各地にクニと呼ばれたまとまりが有って
すでにリーダーが存在しカミと呼ばれていたと考えられる
縄文時代はクニは争う必要も無く全国的に交流していた

しかし水田稲作が始まった事で争いの種ができてしまった
特に九州北部では渡来人の上陸が多くなり、縄文人は山沿いに環濠集落を作り対応した
渡来人と縄文人の争いは九州北部では有った様だが、
渡来人が負け縄文人に吸収されて落ち着いた

渡来人は縄文ネットワークにより全国のクニに分散移住させ弥生人になる
戦い慣れした九州北部のヤマトのカミは、もっと豊かな地を目指し東征を開始した
これは後の神武天皇になる
遺跡の年代と状況から見て、こんな感じかと
881日本@名無史さん:2012/09/01(土) 23:25:36.95
古代の天皇が長寿なのは、暦の数え方が違っていたかららしい。
魏志倭人伝にも、倭人が長寿なのは、暦が違うからと匂わす記述がある。
そういうふうに考えたら、神武天皇に比定されるイワレヒコが実在の人物だとしても
2600年前の人物ってことはない。

882日本@名無史さん:2012/09/01(土) 23:27:12.44
もう、縄文と弥生という話からは卒業しようや。
まじで、日本の創成期の話は崩壊してしまっている。
これも何も、日本書紀という不完全な史書を無理して作ったから。
883日本@名無史さん:2012/09/01(土) 23:58:22.28
日本ってお上の顔を見せない見てはいけない風習があるよね
その辺にヒントがありそうだな長寿の理由
884日本@名無史さん:2012/09/02(日) 02:44:27.89
日本書紀を無理して作ったのは、中国との外交に使うから。
その場合、編年体で書かないとダメだった。
何年に何があったと詳しく。
でも、日本書紀を作ろうとした時代には、
過去の出来事の詳しい年代など分からなかった。

過去の中国の文献の日本関連の記述と整合させないといけないのだが
それが、うまくいかず、日本書紀の編纂者の彼らなりの解釈で無理して
実年代を創作したのが、そもそもの、後世の研究家たちが大混乱する元になっている

一方、日本国内向けの古事記などは、無理に年代など書いて無く
それこそが、その当時の本当のところ。
年代など分からないのなら、
古事記みたいみたいな書き方をしてくれていたら
後世の人間たちが、変な情報に惑わされずに、古代史研究できたのだが。。。
885日本@名無史さん:2012/09/02(日) 02:48:05.08
>>883
違う、要するに暦の数え方が違っていた。
これは、学校の教科書に書いてよいレベルだと思うぞ。
春耕し、秋に収穫したところで、1年と計算していた。
つまり、半年で1年と計算していた。
そんなわけで、古代人の年輪感は、温かい年と寒い年が
一年ごとに交合にやってくるようなイメージだったと思う。
886日本@名無史さん:2012/09/02(日) 06:01:39.54
年代の記録がない場合、伝承されてきた事項あるいは人物がどれくらい前の
ものなのかわかりにくい。

たとえば、年号知らずに織田信長や豊臣秀吉の時代を特定するのはまず不可能。
彼らの年齢を知ることも難しい。しかし、全くの想像はありえず、なんらかの
根拠を元にしていると考えられる。

たとえば、初期の天皇の年齢が長寿なのは、倭人伝の「其人壽考或百年或八九十年」
を参考にしているのだろう。
887日本@名無史さん:2012/09/02(日) 06:51:54.65
>初期の天皇の年齢が長寿

こうは考えられないだろうか。
一つの国が繁栄し滅びるまでの長さ(経歴)、天皇の名前とするものは呼び名だった。
888日本@名無史さん:2012/09/02(日) 10:01:11.07
神武天皇に関する伝承が残っていたとしても、年代の記録がなかったら、
神武天皇の年代を特定するのはけっこう大変な作業になる。

神功皇后の場合は、倭人伝の卑弥呼と同一視することによりあの年代に
なったのかもしれない。
889日本@名無史さん:2012/09/02(日) 11:23:53.31
>>887

188 :日本@名無史さん:2012/08/30(木) 08:07:58.08
「君が代」はヘブライ語?
http://tsukioto2011.blog65.fc2.com/blog-entry-59.html

これによると
●神武天皇の和風諡号「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は「栄光の神を奉る、
ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」の意味

●応神天皇の諡号「誉田天皇広幡八幡麿」(ホムタノスメラミコト・ヒロハタ・ヤハタマロ)とは、
ヘブライ語で「ユダ族が豊かに住む王国の丘陵にて、都を立ち上げ、栄光の神を奉れ!」という信仰を宣言し、
人々を激励する言葉だった。
890日本@名無史さん:2012/09/02(日) 22:30:43.72
>>888
そう。日本書紀の編纂者にとって、一番、大変なのは年代を割り出すこと。
古事記みたいな国内向けの歴史書は、過去の出来事を大まかに書けばよいが
中国の外交官に見せるための史書である日本書紀は編年体で書かないといけないので
こまかく何年の何月に何があったのか書かないといけないが、その当時
そんな詳しい年代まで何もわからなくなっていた。
しかも、中国側は、中国側の史書の倭人関連の記述と日本書紀を見比べる可能性高い。
なかでも、中国側の女王卑弥呼の記述は、日本側にとって理解不能だった。

そこで仕方がないので、比較的に年代が近かった神功皇后を卑弥呼に比定するしかなかった。
しかも、卑弥呼と台与の二人の女王を、神功皇后一人にあてるという
無理なことをしている。独身と未亡人という違いもある。
神功皇后と卑弥呼は経歴が違いすぎることから、神功皇后はおそらく実在の人物なのだろうが
神功皇后と卑弥呼は明らかに別人だと思われ、年代を改ざんして、
同じような年代の人物にしたのだろう。
891日本@名無史さん:2012/09/02(日) 23:17:32.91
古事記にも神功皇后はでてくるし
卑弥呼と台与を神功皇后一人にしている時点で中国人を意識してない気がする
892日本@名無史さん:2012/09/03(月) 00:17:01.52
古事記は意識してない
だからオリジナルに近いと言える
中国に読ませる事を意識したのは日本書紀
893日本@名無史さん:2012/09/03(月) 00:58:58.99
>>891
日本書紀の編纂者は、当然、魏志倭人伝をみており、
女王卑弥呼の記述にも注目しているはずである。
日本側としては、国内向けには天皇が中国の皇帝に朝貢した事実が問題だったのだが
その一方で、中国側の外交官にもみられるので、まったく無関係というのも苦しいので
卑弥呼の記述を無視しながらも、やんわりと、神功皇后と卑弥呼と台与を同年代に
する必要があったのだと思う。
ただし、神
894日本@名無史さん:2012/09/03(月) 00:59:43.22
>>889
それは、とんでも。
895日本@名無史さん:2012/09/03(月) 01:12:06.27
「中国に対する意識」を過大に評価すべきではない。
日本書紀は、資料からの引用、異説、異伝の併記など中国史書とは記述が大きく異なる。
それに「倭の五王」時代の中国との外交もあちらが朝貢してきた様に記述してある。

年代に関しては、編纂者たちも疑問を感じながらも、天皇家や各豪族に伝わる伝承がそうだったこと、そして
有力な反証もなかったので伝承どおりに記述した、ということではないだろうか?

暦に関しては、「倭の五王」あたりから中国式の暦が不完全ながら(数学や天文学の知識が不可欠だが、当時の日本では当然ない)採用されたと思う。
中国との外交上も便利だろうしね。
実際、履中天皇から在位年数が「常識的」になっている。それ以前は、独自の「地域暦」でそれらは記紀編纂時には忘れられていた。
だから修正しようもなく、伝承どおりに記述した(せざるを得なかった)と思う。


896日本@名無史さん:2012/09/03(月) 01:20:19.34
過小評価をしてるつもりはないが、
言ってることがおかしいから納得できないだけ
シナ史書と記紀が一致してないのに、意識していた根拠にしているのが意味不明
897日本@名無史さん:2012/09/03(月) 12:40:46.50
>>896
それは、とんでもw
898日本@名無史さん:2012/09/07(金) 21:01:00.85
朝廷の成立が崇神朝で、神武はその基になった大和の王だろ?
ニニギが大和の統一を果たし、崇神の時代に大和朝廷の基ができた
その後も何世代に渡り、領土の拡張を続けて
最終的に、桓武の時代に本州、九州、四国を支配したってことだ
899日本@名無史さん:2012/09/07(金) 21:11:55.80
間違えた。イワレビコだ。朝廷の元になったヤマト自体の成立は
紀元前6世紀から紀元前3世紀の間頃だろ?
900日本@名無史さん:2012/09/07(金) 21:52:26.15
>>899
もうちょっと後だと思う
初期天皇を倍年として臺与に神功皇后を合わせると、神武天皇即位が紀元前160年ぐらいになる
まあ紀元前2世紀ぐらいかな
901日本@名無史さん:2012/09/08(土) 04:30:24.25
もっと後だろうね。
アマテラス=卑弥呼・台与だから。
902日本@名無史さん:2012/09/09(日) 10:28:57.92
系譜から考えて、神功皇后は4世紀半ば、崇神天皇が3世紀中頃。
卑弥呼の没年は、240年代とされ、崇神天皇はその後継者である台与とほぼ同時代人。
903日本@名無史さん:2012/09/09(日) 12:22:05.38
日本書紀で卑弥呼は神功皇后かもと書いてあるから
大和朝廷は魏志倭人に書いてある事はオレたちしか居ないって
分かってたんだと思うが
904日本@名無史さん:2012/09/09(日) 12:31:27.84
神功皇后と呼ばれる人物が実在していたとするならば、よくわからない
神功皇后の年代を、明確な年代の記録がある卑弥呼に合わせたのかもしれない。
905日本@名無史さん:2012/09/09(日) 12:42:07.10
>>898
妄想だ、根拠を示せ

>ニニギが大和の統一を果たし
906日本@名無史さん:2012/09/10(月) 00:45:05.61
日本書紀が神功皇后と卑弥呼を同一視した理由は2つ考えられる。

1、編者たちは、魏志倭人伝の卑弥呼の記述に戸惑い、神功皇后のこととしてしまったので、とってつけたように
 魏志倭人伝の記述を引用した。また年代も無理にあわせた。これが、日本書紀の年代記述を大幅に狂わせた原因となった。

2、伝承どおりの年代を尊重した。そうしたら中国史書の卑弥呼の記述に該当する人物が神功皇后だった。
 

いずれにせよ、中国史書では、卑弥呼は「男王」より存在が大きく記述されている。日本書紀の編者たちは、皇室の人物で
卑弥呼のように存在感の大きな女性は、神功皇后しか考えられなかった、ということだ。倭迹迹日百襲媛命とは考えなかった。

907日本@名無史さん:2012/09/10(月) 15:05:07.20
>>906
例えば、全ての流れを知り得た在日が関与していたならば、今現在存在している記紀の記述
に沿った主旨になると考えられませんか?
908日本@名無史さん:2012/09/10(月) 16:12:53.62
近畿地方というか、奈良盆地には弥生時代後期からのめぼしい遺跡がない。
唐古・鍵遺跡がもてはやされた時期もあったが、なんとも時代遅れの遺跡で
吉野ヶ里遺跡が発掘・発表されるとあまりにもみすぼらしいということで、
まったく振り返られなくなった。

代わりに邪馬台国として持ち出してきたのが、それまで4世紀になってからの
遺跡と思われていた纏向遺跡。

纏向の年代にはいろいろあるようだが、要するに、これよりも前には奈良盆地に
それなりの遺跡がなかったことになる。つまり、畿内説的に見ても卑弥呼時代
よりも前にはほとんど何もなかった地域と考えられる。
九州説的に見れば、卑弥呼時代にも何もなかったということになる。
909日本@名無史さん:2012/09/10(月) 17:18:50.57
関西の連中はゴッドハンドでヤリタイ放題だからなw
910日本@名無史さん:2012/09/10(月) 20:23:49.64
弥生時代の倭の中央は明らかに朝鮮半島。
九州もその出先機関にすぎなかったのだろう。
やがて、中国の後押しをうけた新羅との抗争に屈し、九州に撤退。
それが天孫降臨で、やがて政情の安定化のために畿内に拠点を移す。それが神武東征。
911日本@名無史さん:2012/09/10(月) 20:56:49.14
それじゃあ記紀との整合性がないな
チョンの妄想でなけりゃ
912日本@名無史さん:2012/09/10(月) 21:15:19.38
だったら何で記紀は檀君(何故か変換できる)神話とか朝鮮神話と酷似して無いのだろう?
真床追衾が卵の殻という訳?
913日本@名無史さん:2012/09/10(月) 21:47:15.53
遺跡と古文書の引用が無いので、よくあるキチガイ朝鮮人の妄想ですさねw
914日本@名無史さん:2012/09/10(月) 22:11:35.30
>>910
新羅の建国は西暦356年。
天孫降臨がその後で、神武東征がさらにその後としたら、
年代がひどいことになる。
915日本@名無史さん:2012/09/10(月) 22:15:52.09
高麗人の書いたお話を信じる朝鮮人w
916日本@名無史さん:2012/09/11(火) 08:17:45.54
なんでおまえらは卑弥呼って彼の国の当て字をそのまま利用してるわけ
日巫女だろ?
917日本@名無史さん:2012/09/11(火) 09:18:32.91
日巫女は近年、神社に通う巫女に当てられた名称。

檀君神話は、創作された創造歴史に過ぎず。
日本が古墳時代に、高句麗=中国人の祖先 により建造された遺跡。
精々約1700年しか経過していない新しい古墳。
918日本@名無史さん:2012/09/14(金) 20:34:52.23
3.11の津波のとき、出雲系の神社はほとんど無事だったらしい。
出雲系は災害対策の神なんだなー
919日本@名無史さん:2012/09/14(金) 22:37:10.51
wikipediaの古事記が変だぞ
920日本@名無史さん:2012/09/14(金) 23:16:23.27
どこが?
921日本@名無史さん:2012/09/14(金) 23:23:33.47
お、直ってるな


>>920
ただ一つ海賊旗が見えてた
このページの下のが履歴
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=古事記&diff=44170846&oldid=44053034
922日本@名無史さん:2012/09/14(金) 23:31:26.45
本屋に行くと、古事記関係の本がいっぱい並んでいるなあ。
今年は古事記誕生1300年。
923日本@名無史さん:2012/09/15(土) 18:53:25.53
>>920-921
中国人のしわざじゃね?
924日本@名無史さん:2012/09/18(火) 12:39:26.34
富雄地方についての話題は出ました?
925日本@名無史さん:2012/09/23(日) 04:20:38.54
日本の政体としては、九州が中心になったことは一度もないと思うぞ。
地政学的に見て、日本列島の中では、九州が中心地にはなりえず。
九州の地位というのは、畿内や中部地方を中心とした王権の出先機関でしかなく、
大陸貿易の玄関地でしかない。
しかしながら、だからといって、神武東征がデマなのか?というと、そうではない。
それは、あとあとに話す。

邪馬台国はヤマト国のことでしかなく、卑弥呼とそれを補佐していた男弟は
モモソ媛命と、孝元天皇〜崇神天皇だと思われ。
西暦2世紀後半の卑弥呼即位の時点では、モモソ媛命と異母弟の孝元の体制で
卑弥呼の死の直前の西暦3世紀中ごろでは、モモソ媛命と孝元の孫の崇神の体制だったのだろう。
926日本@名無史さん:2012/09/23(日) 04:27:29.39
邪馬台国九州説に拘る人には、それぞれ、様々な思惑があり
一つでくくるわけには、いかないのだが。。。

その中に、神武東征伝承を、どう消化したら良いのか、
それを消化するために、邪馬台国九州説を主張する人が多くいる。

でも、邪馬台国ヤマト説だとしても、または、日本の政体が
畿内と濃尾平野を中心に統一されたとしても
宮崎からの神武東征との間に
十分に整合性は取れるのである。
927日本@名無史さん:2012/09/23(日) 04:39:55.50
ヤマト王権の最初は、出雲国譲りであり、
出雲王から、その支配領域を譲渡することによって
ヤマトの王は、事実上の日本全域の王になったと思われる。
だからこそ、日本の天皇家は長い間、出雲の神様だけを特別視していた。
自らの天下の正統性に、出雲国譲りがかかわっているからだ。

しかしながら、日本書紀では、この出雲国譲りを
それらは神代のこととされているのである。
それから数代後の神武東征からが人代のこととされ、
そこからがヤマト王権の始まりとし、その後、欠史八代とされ、記述が少なく
崇神の時に、神武に次ぐ初めての天皇のような記述になっている。

これは、何を意味するのか?
928日本@名無史さん:2012/09/23(日) 11:51:58.89
そういう妄想する人ってあたかも神武以前から日本に統一王朝があったみたいに夢想してる
929日本@名無史さん:2012/09/23(日) 12:12:16.16
統一政権とかいっても、東北地方とか関東あたりは
統制力なかったかもしれんしな。
記紀などを見て、せいぜい、中部地方から九州ぐらいまでの領域だろう?
関東はギリギリどうか、あと、東北地方でも日本海側とかは
かなり統制力あったかもしれん。
930日本@名無史さん:2012/09/23(日) 12:20:28.43
日本の神社とか、記紀の内容を見ても、ヤマト王権の始まりは、出雲国譲りからで、
それを王朝の正統性のよりどころにしている。

中国の王朝でも、前王朝から禅譲されたことを重要視していて
日本の天皇家の場合は、それが、出雲王朝からの禅譲なんだよ。
まあ、禅譲とか言っても、出雲王朝の支配領域は
せいぜい、日本海沿海部中心だとは思うけど
それでも、当時の中国との外交を考えたら
日本海側を制しているほうが、日本の玄関口を制しているともいえ、
日本の代表として出雲が外交していたかもしれんので
心理的な意味で、出雲が日本の形式的な中央政権だったかもしれん。
931930続き:2012/09/23(日) 12:25:50.20
ただし、最終的には、大きな平野部や人口でまさる太平洋側の勢力に
呑み込まれるのは必定なんだけど。

戦国時代でも、毛利家や大内家などの日本海側の勢力が
当初は相対的には最大の勢力だったんだよ。
日本国王の勘合を保持して、日本国王として中国と外交していたし。
ただし、相対的に最大であっても、そこからは、地理的に、なかなか勢力が伸びにくい。
大内も毛利も150万石前後で頭打ちだったし。
絶対的にはなれんのだよ。

逆に畿内や濃尾平野の勢力は、戦乱初期は、複数の勢力に分裂していて
50万石前後が複数いて、互いを牽制しあっているが
いったん、どこかの勢力が抜けし統一してくると、その勢力は、あっという間に
500万石近くになって、
日本の他の勢力を圧倒しだす。
932日本@名無史さん:2012/09/23(日) 16:01:30.31
中国に使いを送ったからって日本そのものでも日本を代表しているわけでもねえよ。日本の最大勢力であるとさえ断定できない。
奴国でさえ金印もらってんだぞ。
933日本@名無史さん:2012/09/23(日) 19:11:58.87
>>928
あったと思うよ
出雲に日本中の神(上)が集まったと言う伝説が有るしな
記紀も出雲から譲り受けたと言ってる
日本の多くの伝説が暗示してるし縄文人の交易は半端じゃない
逆に否定の根拠は、有る分け無いという思い込みだけ
934日本@名無史さん:2012/09/23(日) 20:01:26.66
>>930
出雲は縄文ではなく弥生の話だと思うけどね。
というか、縄文とか弥生という概念は近代人が
勝手に作り出した話だし。
935日本@名無史さん:2012/09/23(日) 20:05:40.76
最近の考古学だと、農耕自体は5000年前以上からで
弥生土器とか使い始めたのは3000年前ぐらいかららしいな。

出雲国譲りなんて、せいぜい2000年前くらいだろうから、
どちらにせよ、農業が開始されて3000年以上、
弥生土器が使用され始めてから1000年以上たってから
出雲国譲りが起こったことになる。
936日本@名無史さん:2012/09/24(月) 22:23:32.42
>>925
何時からを「日本」と考えるかだろうねえ。
「日本」という概念が芽生えれば、列島の拠点は関西にするだろうねえ。
九州の交易国家群が、東のコントロール下に置かれる歴史の画期は、
中国、半島の動乱、張政の逗留あたり、
あとは空白の4世紀に何が起こったか?
937日本@名無史さん:2012/09/24(月) 23:25:40.67
アシハラが日本だとすると
始まりは山陰なんだけど
938日本@名無史さん:2012/09/24(月) 23:59:57.56
大国主という名前が付けられた以上、記紀編纂者も、
旧支配者であることは、認めていたのだろうか?
939日本@名無史さん:2012/09/25(火) 00:23:12.98
出雲が狗奴国だった可能性もある。
940日本@名無史さん:2012/09/25(火) 02:26:40.54
東征つっても、九州から近畿への大規模な移民や文化の移動があった痕跡は
考古学発見には無いよ
逆方向はあるけど
941日本@名無史さん:2012/09/25(火) 06:22:05.26
記紀の内容だって、神武東征って少数の軍隊の遠征で、
河内上陸戦闘で、神武軍は大負けして
和歌山側から少数の軍隊で侵攻したら
運よく勝ちましたって話でしょう?

そこからは、大規模な首都移動などは連想できない。

しかも、神武が遠征する前も後も、畿内のほうが豊かで
日向のほうは狭くて貧しい地域って前提だし

神武の畿内での戦闘は、
ずっと畿内に住んでいた親戚筋たちの案内での戦闘だしな。
942日本@名無史さん:2012/09/25(火) 06:24:47.65
>>939
出雲国は投馬国(ヅマ国)だよ、どうみても。
狗奴国は、許乃国のことだと思う。
943日本@名無史さん:2012/09/25(火) 07:56:31.06
>>840
水田稲作が九州から広まっているのに
考古学的に無いのか?
944日本@名無史さん:2012/09/25(火) 09:05:36.01
文化の伝播は畿内→他の地域
しかないからな〜
埋葬や祭祀の形式も、古墳も形も
945日本@名無史さん:2012/09/25(火) 09:23:51.87
>>940
考古学は結局は推定だからな。
どんな推定でも可能だから、都合の良い人たちがいる。
946日本@名無史さん :2012/09/25(火) 09:59:27.19
列島の統合を考えれば、関西地方が、物流、交通のセンターになる。
列島の統合を志向する条件が、どのように出てきたのかが問題だが。
947日本@名無史さん:2012/09/25(火) 10:51:45.01
>>945
文献の検証はなおさら救いがないな…
948日本@名無史さん:2012/09/25(火) 11:05:54.09
>>944
最古の縄文土器は青森だし
最古の水田は九州だし
畿内が始まりだなんて妄想だぞ
949日本@名無史さん:2012/09/25(火) 11:21:20.56
>>943
長い年月(数千年)で見たら、農耕は九州からだけど、
短期間(数年から数十年)で大規模な人的移動は、九州からはない。
畿内から各地への伝搬はあってもだ。
950日本@名無史さん:2012/09/25(火) 11:22:01.63
始まりが畿内かはおいておくが
青森、九州と田舎で遺跡が残りやすかったのでは
951日本@名無史さん:2012/09/25(火) 11:23:36.14
>>950
まあ、それはあるかも。
952日本@名無史さん:2012/09/25(火) 12:40:47.30
国の中央が九州から畿内に移ったってのは無いわな
953日本@名無史さん:2012/09/25(火) 13:02:49.36
大和朝廷はどうやって誕生したんだったかな。
954日本@名無史さん:2012/09/25(火) 13:24:45.35
畿内の勢力(王達が畿内に大王を共立した場合も含む)が統一したんだろ
955日本@名無史さん :2012/09/25(火) 19:01:37.21
>>950
まあ、奈良なんぞ、シカと遺跡しか観光ネタがない、ひなびたド田舎。
>>954
薩長が江戸に集結すれば、首都圏の勢力というレベル。
956日本@名無史さん:2012/09/25(火) 19:15:32.56
記紀をよめ。
神武は現住所は日向だけど、本籍地は畿内の王族。
だからこそ、神武東征は正統だと言っている。
神武を先導した畿内の豪族たちも、神武の親戚だったりしている。
また、神武東征の三代前にあった出雲国譲りは、畿内と出雲の戦争なので、
そういうところからも、神武の三代前の先祖までは畿内出身で、
だからこそ、神武の親戚はずっと畿内にいたのも分かる。
それを額面通り解釈すれば、すんなり謎がとける。

逆に言えば、神武の一家は、本籍地が畿内なのに
なぜ、三代ほども日向に住んでいたのか?
なぜ、出雲国譲りの後、神武の三代前の先祖のニニギは高千穂へ派遣されたのか?

要するに、ニニギ〜神武の系統は、畿内王権初期には傍系とされた一族で
九州日向の統治を任されてれていたことがわかる。
957日本@名無史さん:2012/09/25(火) 19:27:54.02
移住先で権力基盤確立し代重ねれば聖地化するんだよw

血統故地に権威は残せん対立の元になる。まあ、朝廷とハヤトの関係は胡散臭いもんがあるがな。
958日本@名無史さん:2012/09/25(火) 19:31:47.45
>>955
その通りだけど?
それが首都の力。田舎にいても政治力も政治力も発信できない。
都心の人間として生まれ変わらないと。
959日本@名無史さん:2012/09/25(火) 19:42:58.38
>>956
純粋な侵略者でも記述は変わらんだろ。
「ここはわが父祖の土地。」というのは支配を正当化するマジックワードになるんだから。
960日本@名無史さん:2012/09/25(火) 20:31:14.56
>>956
畿内を本拠地にしていたのはニギハヤヒだが?
記紀を読んだ事有るのか?
961日本@名無史さん:2012/09/25(火) 21:02:05.58
辺境の騎馬民族が中原取ったら中原を都にして人間も中華化しちゃうが、
中原の民が辺境をとってもそこには遷都なんてしない
文化的な求心力があるのは中原であり日本では畿内
蛮族が戦争に勝つからといって先進国民なわけではない
962日本@名無史さん:2012/09/25(火) 21:05:10.90
九州人が畿内に来たら
九州の文化が畿内に反映されるわけではないし、事実その痕跡も考古学にはない
畿内人として畿内の文化に染まって生きるようになるだけ
963日本@名無史さん:2012/09/25(火) 23:22:04.83
>>959
そう解釈する人もいるけど、普通に額面通り受け取ればよいよ。
出雲国譲りに関しては、出雲は父祖の土地とは言ってないわけだから。
また、神武の家系が、畿内王権が誕生した初期に
九州日向の統治を任されていた傍系王族ならば
本家本元の王族が別にいたわけで、それが重要なことなんだよ。
神武の一族が日向三代してたころ、畿内本国で大和王として君臨し
そして、神武一族から見たら、宗家にあたる、その一族の存在。
964日本@名無史さん:2012/09/25(火) 23:54:24.93
>>925
亀になるが、それを言うなら、
「九州も一度も無いが、山陰はもっとあり得ない」だろ。
九州は、「九州島+α」程度の、半独立在地勢力となることは十分に可能な立地。
例えば、大宰府を首都に、関東東北まで支配する(影響を及ぼす)、ということは、これは無理。

だが、山陰勢は、中国山地を越えて山陽を押さえることすら、地理的に極めて困難なんだ。
海路を掌握して、北陸へ影響をおよぼすことは可能で、実際に遺物も出てくるが、
どうしても、山陰の立地では、山陰拠点のままでは太平洋側へ出られない。
965日本@名無史さん:2012/09/25(火) 23:59:18.39
>>964
鎌倉幕府が荒唐無稽だと言うつもりかw
966日本@名無史さん:2012/09/26(水) 00:41:01.18
出雲の利点
日本海の海流を使い津軽まで簡単に行ける
帰りは多少時間が掛かるが大陸廻りで楽に来れる
瀬戸内海に出れば近畿四国九州まで船で移動できる、紀伊半島も当然
苦手は関東

水運を考えるとメチャクチャ地理的メリットが有るのが出雲
大黒様(大国主)は船に福を積んでやって来る
分かる気がする
967日本@名無史さん:2012/09/26(水) 00:48:42.10
>>966
河村瑞賢を、「超時空太閤ヒデヨシ2号」に仕立てるなよw

瀬戸内海に出ると言ったって、
出雲にしがみついて、いちいち関門海峡をぐるっと廻るくらいなら、山陽に拠点を移すだろ。
または、山陽か四国北岸の在地勢力に負けてしまう。
近世以降、西回り航路・北前船航路が機能したのは、
浪速をキーステーションとし、北海道まで伸びる物流網が、完全に機能していたから。

尤も、その苦手の関東(&東海)に、なぜか「出雲系」と称される神社が集中するのも不思議な話だ。
「出雲」のかなりの部分は、山陰とは直接の関係を持たないものだと思うけどね。
968日本@名無史さん:2012/09/26(水) 00:51:53.23
>>967
鎌倉はどこにも出られないぞ

それでも日本を統一した政権が有った
969日本@名無史さん:2012/09/26(水) 01:06:24.37
>>968
鎌倉政権の基盤は陸路ですよ。
関東南部の唯一の強みは、
関東平野から阿武隈・北上の構造谷沿いに、東北への直通路を開いて、青森まで一気に睥睨できること。
(だから、軍事的には常に関東>>東北となる。関東に軍事勢力が勃興すると、東北は常にピンチになる)
このサブルートとして、常盤沿いに楽々道を開くことも出来る。
さらに、難易度が少し高いが、碓氷越えで越後と結ぶルートを加えることが出来る。
この3つの放射状ルート(鎌倉街道上中下道)が、鎌倉幕府の第一の基盤。
これに、東海道が加わる。東海道は、山が迫る割に極端な難所が少なく、
最も厳しい難所である伊豆箱根は、ほかでもない、北条氏のホームグラウンドだった。

西国政権の明治政府に、「山陰…地形が厳しすぎ、僻地すぎるので行幸はしばらく無理」とまで言われた
山陰の地理的不利っぷりは、こればかりは否定しようがない。
970日本@名無史さん:2012/09/26(水) 01:13:53.36
山陰も川を使った水運を使うと楽なんだよ
瀬戸内側にも川を使った水運が有るしな

紀元前ぐらいの古代は街道が整備されてないんだから、陸路の利便なんて関係ない
水運を使って珍しいものを与えればそれで十分
戦をする意味も無い
971日本@名無史さん:2012/09/26(水) 01:25:33.19
神武東征は大部分が船で
陸路は伊勢からだけ
しかも伊勢からは道案内付きw
972日本@名無史さん:2012/09/26(水) 14:55:21.01
出雲王権が日本j海沿岸部に勢力が広がっていたのは
誰にも分かる話。
973日本@名無史さん:2012/09/26(水) 15:10:54.52
普通に考えて、陸路よりも沿岸部を海路でいったほうが、
その当時は安全で速くて大量物資もおくれる。
974日本@名無史さん:2012/09/26(水) 17:19:59.78
大和も水運よかったしな
975日本@名無史さん:2012/09/26(水) 17:20:54.37
船によるだろうな
976日本@名無史さん:2012/09/26(水) 18:31:03.77
海人族による兵站輸送
977日本@名無史さん:2012/09/27(木) 07:57:35.13
江戸時代でも、水運のほうが、陸路よりも楽。
978日本@名無史さん:2012/09/27(木) 13:28:36.62
秀吉も小田原征伐では大坂から水軍で兵站(武器・兵糧・兵員)を輸送したんだよな。
陸路で兵士が重たい武具・兵糧を担いで行軍すれば兵士が疲労するだけだし非常に効率が悪い。
輸送業者がいればいいがそんなのもいない時代だしね。
979日本@名無史さん:2012/09/27(木) 14:06:39.42
平清盛が音戸の瀬戸や大輪田泊を整備したことばかりをいわないでほしい。
博多津の原形となる袖の湊を造ったこともいってほしい。
というのも、個別に言ったのでは、単なる港湾整備事業にしかみえないからだ。

だが全体をみると、「関西・九州を結ぶ高速大量輸送ネットワーク」を造ろうとしたのだと思う。
バラマキ公共事業よろしく、当時中継地として要衝だった厳島など沿線の整備にも大盤振る舞いしたから、
「環瀬戸内海海上経済圏」みたいなのができてたようだ。
清盛以降はご褒美を渋るようになったから、水軍の多くが源氏方に寝返ったけど。

都を内陸の京から、港湾都市・福原に遷したのも先見の明があると思う。
ひょっとしたら、「帝も巨大な宋船を見れば気が変わるかも」と思ったのかもしれない。

しかし志半ばにして挫折。わが国が再び貿易に乗り出し、文化の華が開くには、
源氏の流れを汲む足利氏の時代を待たねばならなかった。
そして関東で「文化」という言葉が使われたのは「元禄文化」が初めてのように思う。
980日本@名無史さん:2012/09/27(木) 19:30:01.33
源氏に養子として向かい入れた男の子がいました。
その子は孤児で、源氏から家紋と教育を受け、独り立ちしました目出度し
もしかしたら、「源氏の流れを汲む足利氏」かもしれませんw
981日本@名無史さん:2012/09/28(金) 05:37:32.11
日本列島は、中国大陸から見たら、細長い島国なんだから
基本的に沿岸部の航路を使った輸送がメインだろう?
そっちのほうが、大量輸送も可能だし、人が旅行するのにも安全。
前近代は、江戸時代ですら、追剥、辻斬りみたいな治安の悪いこともあって、
陸路で行くよりも海路で行ったほうが遥かに安全だよ。

魏志倭人伝でも、同じ北九州の至近距離は徒歩での移動だけど、
投馬国(出雲国?)、邪馬台国(大和国?)では、水行○日だから
外国人である中国人使節からしたら、日本海側沿岸部を船で移動したほうが
速くて安全だしね。
982日本@名無史さん:2012/09/28(金) 05:45:39.92
日本は縄文時代から殷と海上貿易してたんだろ?
船での海上輸送なんて御手の物だろ?
983日本@名無史さん:2012/09/28(金) 07:14:07.72
瀬戸内海なんて、実質的に
中国でいうところの長江みたいなもんだし。
邪馬台国の頃は馬も牛もないし、そもそも、馬や牛よりも
海上輸送のほうが安全で大量輸送が可能。
日本国内は海上輸送と言っても、沿岸部沿いにそって航海するだけで
西欧の大航海時代みたいに、何も見えない大洋を航海するわけではないので
羅針盤も必要ないしね。
984日本@名無史さん:2012/09/28(金) 19:04:36.02
やはり五斗長垣内遺跡は瀬戸内海の海上ルートから
畿内へ進軍するための橋頭堡なのだな。
985日本@名無史さん:2012/09/29(土) 03:14:01.05
>>984
関係ない。
986日本@名無史さん:2012/09/29(土) 08:03:01.64
じゃあ、あの遺跡は何なの?
987日本@名無史さん:2012/09/29(土) 08:36:05.57
単なる鉄器製造群落
988日本@名無史さん:2012/09/29(土) 23:25:20.99
989日本@名無史さん:2012/09/30(日) 08:18:53.10
>>984
なんで、淡路島に
九州が畿内へ侵攻するための鉄器集落作る必要があるんだw?
あれは、どうみても、畿内を中心としたヤマト王権の下の
鉄器工房に過ぎない。
990日本@名無史さん:2012/09/30(日) 10:26:53.99
周辺のどこの勢力下なのかは知らんが、
鉄器独占のための隔離工房だろうな。
991日本@名無史さん:2012/09/30(日) 12:14:25.02
記紀などをよく読めば、次のことが見えてくる。

神武東征の前も後も、畿内が中心地で、日向は辺境の地。
神武さんらは日向生まれだけど、
本籍地は畿内の高天山(現在の金剛山)の麓にあり
どうも、そこが神武さんの曽祖父のニニギさんの出身地。
神武さんが畿内で戦闘した時に、
道案内した畿内の豪族(ヤマトスクネ、高倉下など)たちは、
神武さんの親戚たちで、いずれも、ホアカリの子孫たち。
ホアカリとは、ニニギの兄とも弟ともいわれており、
神武さんらや、ヤマトスクネ、高倉下さんの先祖は兄弟だった。

記紀では、神武さんが主で、ヤマトスクネ、高倉下が従みたいな扱いだが
各地にある伝承によっては、実は、互いは対等か、あるいは、
高倉下のほうが上位で、神武さんのほうが下位的な扱いだったりする。

などなど。
992日本@名無史さん:2012/09/30(日) 12:22:57.71
>>991
末文、そうすることによって
身分と位のバランスを取ったと思うな。朝廷と武家みたいな関係で
993日本@名無史さん:2012/09/30(日) 12:29:25.33
応神朝の天皇(倭の五王)は、日本列島に鉄や馬をもたらした日本古代史における一画期ではあるが、
中国南朝皇帝の一将軍に過ぎなかったという事実をいかにとやせん。ということが記紀編纂の動機だったのではないか?
994日本@名無史さん:2012/09/30(日) 12:30:11.25
ホアカリ=ホホデミ

神武天皇=ホホデミ
995日本@名無史さん:2012/09/30(日) 12:52:25.34
>>993
日本に鉄があるのは紀元前からだよ、たぶん。応神からではない。
馬をもたらしたのは、応神よりもちょっと前からだと思うけどな。

馬は身分の高い人の乗り物で、輸送や軍隊の主力には、なりえない。

日本のように、島国なうえに、国土の8割が山岳部の国では、歩兵が主力部隊。
身分の高い人たちは、歩くのが疲れるから、馬に乗って移動するが
基本、戦う時には、馬から降りて、戦う。

戦国時代、大大名化すると、海岸線沿いに、船で海上輸送するのうが
速くて安価で大量輸送できる。
毛利家とか、豊臣家みたいに、海岸線も抑えたうえで、石高数百万国とかになると
海上輸送が主力になる。
996日本@名無史さん:2012/09/30(日) 13:02:37.53
ホアカリこと彦火明命/天火明命。・・・尾張、海部、伊福部、ほか数多の氏族の始祖。
天照国照彦天火明命。
=天照御魂大神。(崇神天皇が宮居から放逐した天照大神)

なぜか、スーパーヒーローのはずの神武天皇(神倭磐余彦穂穂出見命)の御神名で祀る主要な神社が皆無(橿原神宮以前)。
997日本@名無史さん:2012/09/30(日) 13:10:39.18
くだらないけどごく解釈。
物=牛+物
牛=神への献上物。
よってものとは神への調え
998日本@名無史さん:2012/09/30(日) 16:06:39.45
>>991
なーるへそ

つーか、天皇家が在日だったことを証明している文だった
999日本@名無史さん:2012/09/30(日) 16:27:03.00
クレオパトラとカエサルの子カエサリオンが、エジプト王になったようなもんかな?
1000日本@名無史さん:2012/09/30(日) 16:51:15.91
神武は鮫から生まれた鮫太郎だと記紀に明記されているだろうに。
奈良とは何の関係もないよ。
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。