1 :
日本@名無史さん:
当時の日本最大の国難であった元寇に対応した北条時宗と鎌倉幕府
について語ろう!!
18歳で執権になって国を守ったのは見事だ
今の野田にはできまい
3 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 15:35:27.16
行き当たりばったりでなく首尾一貫した姿勢は良かった
4 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 17:54:12.91
頭の中で和泉元彌に自動変換される
5 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 18:47:21.37
元寇スレの新スレ?
6 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 19:16:37.23
日本史上では類を見ない国難
モンゴルからすれば口減らしの為の辺境戦
天皇・将軍家・公家・寺社・北条を良く思わない有力御家人・
北条一族の反主流派と内憂が多い中で国をまとめた力量はすげーよ
8 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 19:34:32.95
9 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 21:47:06.08
>>6 なんで口減らしなら大成功したはずなのにフビライさんは怒って
三度目を計画してるんでしょうかね?しかも予算の関係で断念せざるを得なくなってるし。
10 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 22:17:26.79
口減らしというか宋の不満分子を日本に移住させようという
魂胆はあったんじゃないの?
秦の始皇帝も北方辺境や南越に罪人を強制移住させている
11 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 22:25:51.57
時宗と安達泰盛の関係ってどうなんだろう?
弘安徳政(時宗死後の安達主導の幕政改革)は時宗の遺志だという説もあるが、
時宗の政策は得宗専制の強化だから全然違うと思うんだが
12 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 22:52:55.65
>>10 どうだろう?
元々南宋の兵士は志願制だったから、日本遠征においても
江南軍を編成する上で華南で兵士を募集したことが元史には書かれてるが
宋人以外にも蒙古人や色目人も対象にしていて
少なくとも
「南宋兵は奴隷や囚人或いは農民ばかりだった」と言うのは間違いだと思う。
鋤や鍬にしてもどちらかと言えば長期スパンでの侵攻計画だったのを匂わせるものだし。
可能性があるとしたら、最後まで元に抵抗し続けた
張世傑の部隊の生き残り達が江南軍に含まれてた点くらいか?
13 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 22:55:35.47
>>11 霜月騒動は安達さんに恩賞貰えなかったから
って理由で得宗家側についた御家人も割といるみたいね。
14 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 23:29:56.73
元寇に関しては軍板に分析スレがあるし
こっちは向こうではあんま語られない北条家周辺を語ろうぜ
15 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 23:58:13.05
二月騒動で得宗被官5人が斬首にされた経緯もわからん
政村は時輔討伐の幕命に署名済で、
安達泰盛は名越が受け継いでいた肥後守護になっている
16 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 00:06:46.78
17 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 15:39:58.43
つべに出てたか
18 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 21:37:31.03
鎌倉時代の歴史は出来事がわかっても、その背景がわからんことが多い
二月騒動でも宗尊親王の出家とのつながりがどこまであるのかがわからない
一時得宗家に逮捕された公家の中御門実隆もどうなったかわからない
しかし中御門が出世したとは聞かないから左遷されたのはガチだろ
20 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 01:34:09.60
時宗は朝廷不信になって後深草と亀山の兄弟で争わせて
朝廷を内輪もめに持ちこんで討幕の余裕をなくそうとしたのかも
>>10 実際はまったく逆だけどね
モンゴルに協力的な連中に美味しい汁を吸わせてあげようと日本遠征させたら全滅しちゃって、
国内には宋の不満分子だが残ったという
22 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 18:51:06.89
時宗に追随して出家した主な評定衆の御家人
安達泰盛
佐々木氏信
宇都宮景綱
23 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 18:52:46.50
おっと忘れてたぜ
名越公時(名越時章の子)
24 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 21:32:36.06
父の敵の冥福を祈って出家とは本人の心中や如何にだな
25 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 00:47:46.37
名越も骨抜きやな
名越家が得宗家を恨んだ形跡はないね。
27 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 16:31:23.06
YouTubeにある時宗が面白い
28 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 22:31:23.17
ただ第三の道とか開かれた幕府とかNHKの独断で史実を捻じ曲げすぎだ
そもそも時宗は得宗専制を強化して、権力を集中させたから、むしろ開かれた幕府の反対だろう
29 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 22:52:23.18
>>26 教時は宗尊追放に反対だったから時宗を恨んでいたんじゃないの?
30 :
蘇我入鹿:2012/06/27(水) 23:21:14.09
31 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 23:43:19.54
赤橋長時が謀反に加担していたというのも笑止千万だったな
32 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 01:30:06.02
日蓮聖人が予言していた。
あんなの予言でも何でもないでしょ
当時はモンゴルが高麗や南宋を荒らし廻っていてすぐ隣の日本だって現実的にいつ攻め込まれても
おかしくない状況だったわけで
35 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 23:15:10.21
北条一族を得宗家のもとに一枚岩にしたのは時宗の功績
蒙古襲来のときに一族内部で主導権争いの余裕はない
36 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 01:19:48.96
中御門実隆って何者?
素性がわからん男だな
>>8,9
モンゴルが本腰を入れて攻め込む際にはモンゴル皇族か彼らの部下の歴戦のベテランの将軍を送り込む
南宋攻略が大ハーンを初め皇族のオンパレードなのは当然として、アイン・ジャールートのキトブカ、ホラズム攻撃及び追撃のジェベやスブタイ
アッバース朝攻略のフレグ・郭侃、南方遠征のトガン、などなど
逆に他の戦争の片手間の服属要求と侵攻を繰り返していた高麗には大した指揮官や本格的な侵攻軍ではなく、結果として征服に数十年かかっている
日本も同様で、1度目はまず南宋攻略が最優先でこの時は南宋周辺の東アジア諸国に片っ端から南宋包囲網の為の服属要求を出してる状況、
2度目も同様で、このときは征服した南宋の統治に加え、西方のカイドゥの乱などの対応が最優先
送り込まれたモンゴル人指揮官忻都もこの日本遠征以外には特に軍功や戦歴もわからない人間
そのため両方とも主力も準備も高麗及び南宋兵(2度目)、特に高麗は兵力供出に加え船建造に膨大な負担がかかり、一度親モンゴルの国王が追い出されている
さらに南宋兵を厄介払いしようとしていたのは、彼らに農機具など移住に必要な用具も持たせていたことからも明らか
宋はもともと兵の社会的地位がかなり低かったのもあり、兵士の質はお世辞にも良いとはいえず、ただでさえ滅ぼした国の兵士ということもあって消え去ってくれるのは大賛成
ただしフビライの構想としては日本を服属させ、これら社会不安の兵士を移住させることであったので、日本服属に失敗して怒ること自体は不思議ではない
しかし遠征の指揮官忻都は、文永の役失敗後も失脚や罰せられず再び日本遠征を主張して指揮官に任じられている
一方の南方遠征で同じく現地の抵抗に遭い失敗した息子トゴンは、兵を多く失わせたとして怒りをかって失脚しているにも関わらずだ
よって遠征そのものがモンゴルが本腰になっての征服事業とはとても思えない、むしろ南宋包囲(1度目)や高麗の忠誠心の確認あるいは疲弊など裏に隠れる主目的が見え隠れする
>>37 中途半端な知識で書いたから言ってること全部間違ってるよ。
まず、モンゴルは対日戦に超本腰入れてたから、高麗国王に娘を嫁入りさせてモンゴルの皇族の地位に
引き上げてるんだわ。
つまり元寇は立派にモンゴルの皇族による戦争なの。
あとね、元寇には世界各地の戦場で軍功上げた名将が大量参加してる。
参加した将軍の顔ぶれ見ただけでも、フビライがどれだけ日本戦を重視してたかわかるね。
それから、南宋兵は武器なら大量に持っていたけど、農機具なんて持ってないし。
元寇に参加した将軍の一例
ナンギャダイこそ、多大なる戦績により昇進し、この家の地位を高めた人物といえる。
世祖クビライの時代の彼の履歴は次のとおりである。彼は若くから父マチュとともに従軍したが、
父の死後、「都元帥府の経歴」となった。この後、襄陽攻撃にアジュにしたがって参加していることから
都元帥アジュの麾下にいたことがわかる。襄陽戦の功で「漢軍千戸」となり、バヤンの南宋遠征に従う。
そして南宋朝廷への使者となり賈似道との交渉にあたり、さらに臨安の無血開城に活躍する。
バヤンの命により宋の玉璽をクビライに齎らし、帰途には南宋の君臣をクビライのもとに送れとの
密命を伝えた。この際に安撫司ダルガチとなり、ブジェク家のアラカン、董文炳とともに浙江・福建平定を
担当した。至元十五年以前に「蒙古軍副都万戸」、江東宣慰使となり、さらに江東按察使に昇進した。
ふたたび江東宣慰使となった際も以前どおり「万戸」であったという。至十八年に「都元帥」として
第二次日本遠征軍を率いたが、”未だ至らずして還った”という。この「都元帥」は日本遠征に伴う
一時的なものであったらしい。日本遠征失敗後、「もと管したる出役軍」とボロミルなる人物の軍団と
合体して、「万戸」として健康に駐屯した。その後一時雲南行省平章政事として金歯、緬国の征討に
むかうが病のため召喚され、南京等路宣慰使、河南道宣慰使を歴任する。至元末年には
”父の職を襲って”、「蒙古都万戸」となっていたこと、「探馬赤軍」が彼の管轄下にいたことが確認できる。
「元代華北のモンゴル軍団長の家系」堤一昭
>>39 杉山正明氏によれば弘安の役のモンゴル側の兵の多くを占めていた江南兵は多くが武装していなかった
宋を滅ぼして得た軍のうち、精鋭部隊は当時最もフビライが注力していた対中央アジア(カイドゥ)に送られ
次点が東南アジア(陳朝やパガン朝)である
日本に送ったのは南宋兵の中でも弱兵かつろくに武器も持たせていなかった
勿論フビライとしては日本を服属させたかったというのもあるが、南宋兵の口減らしと言うのも大きな目的だった
これは杉山氏の中国史やクビライの挑戦からの要約な
おまけにモンゴルの皇女娶ったから皇族扱いというのもかなり無理があるな
あくまで関係を持つのが目的であって、高麗側(高麗に限らず公主を下賜された属国)、モンゴル皇族として本国に参画できたわけでもない
>>40 一度目に壊滅状態に陥ったにも関わらず、指揮官の顔ぶれは変わっていないし、総大将忻都も勿論罰も受けず更迭されてもいない
同じく環境に苦しんで兵を失ったベトナム遠征軍の指揮官への待遇と比較すればわかること
…中途半端な知識で書くから言ってる事ことごとく間違ってるよ
>>41 杉山の本は学術書の体をなしてない。
だって根拠が一切提示されてないじゃん。
試しに江南兵は多くが武装していなかったとか、精鋭部隊は対中央アジアに送られ次点が東南アジアとか
の史料的根拠をこのスレに提示してみろよ。
ここは学術板なんだからさ。
杉山は大好きなモンゴル帝国が日本にボロ負けしちゃったのが悔しくて、口から出まかせを
書き連ねただけなのに、学問とは何かを理解していないお前はまんまと釣られちゃったというワケ。
43 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 17:34:57.20
まず、口減らしが目的ならなんで二回目が失敗した後も
晩年までフビライは日本攻めにこだわったんだ?
大体、口減らしが目的の日本攻めより他の作戦の時のが軍勢が少ないのは何故?
あと精鋭も糞も南宋って確か徴募制で、日本遠征の際に
江南軍を編成する際にも日本遠征用の軍勢を現地で徴募かけてたろ。
それも南宋人だけでなくモンゴル人や色目人や漢人も含めて。
最後まで元に抵抗を続けた張世傑の兵達も日本遠征に加わったのが若干匂わせるくらいか?
でもこれもモンゴルの軍事作戦では別に珍しいことじゃないしな。
鍬や鋤を持ってたのは上陸後、長期作戦になるのを見込んでのことじゃないか?
口減らしが目的ならむしろ犠牲度外視で博多湾から強引に上陸を計るだろ。
でもって一度目と二度目の東路軍の顔ぶれが被ってるのは当たり前だが。
ただでさえ渡海作戦を経験してる武将なんて貴重なのにな。
あと江南軍見捨てて逃げ帰った武将に関してはキッチリ処罰されてますが何か?
ついでに言えば東路軍と同じ顔ぶれの武将達がナヤンカアダンの乱鎮圧してますが何か?
これでも参戦武将の能力がどうのこうの言うならチン4でもやってろ糞ガキとしか。
>>41 >杉山正明氏によれば弘安の役のモンゴル側の兵の多くを占めていた江南兵は多くが武装していなかった
は?農耕具を積んでいたと聞いたことはあるが、武装していなかったとは?根拠は何?
>宋を滅ぼして得た軍のうち、精鋭部隊は当時最もフビライが注力していた対中央アジア(カイドゥ)に送られ
>次点が東南アジア(陳朝やパガン朝)である
>日本に送ったのは南宋兵の中でも弱兵かつろくに武器も持たせていなかった
あれ?弘安の役の南宋兵って主に志願兵じゃなかったっけ?
しかもこの「南宋軍」の中には万単位の漢人の他ナンギャダイ配下のモンゴル人・ウイグル人も含まれてるわけだが
あと南宋兵の中からわざわざ使えない人材を選抜して日本に送った、などと書いてある文献があるなら是非教えてくれw
>一度目に壊滅状態に陥ったにも関わらず、指揮官の顔ぶれは変わっていないし、総大将忻都も勿論罰も受けず更迭されてもいない
えーと、もしかして文永の役も棄民だったとか言い出すつもりか?そうだとしたらマジで正気を疑うぞ
お前中途半端というか、本物のバカだなw
>>42 早速発狂か
中身で議論できない人間に限って、研究者個人攻撃しか出来ないんだよな
>>43 日本服属「も」フビライの目的だったから
モンゴルはわざわざビルマやインドネシア、樺太にいたるまで大軍を送り込んでいる、要するに服属しなかった周辺国全てにだ
かと言ってそれぞれの国全てに全力で軍事力を傾けたかといえばそんなはずはない
特に元寇の南宋滅亡後は中央アジアの情勢がかなりキナ臭く、実際長期にわたって争いが起こっている
モンゴルにとって現実には日本は必ず征服しなければならない対象ではなかった
>>44 まず参考文献読もうな
農機具を積み込んでいたのは八幡愚童訓にもある話
>弘安の役の南宋兵って主に志願兵じゃなかったっけ?
そもそもの宋兵が徴募制だったのに?おかしな話だな
弘安の役なんて遠征軍14万のうち江南兵は10万人、残りも高麗軍と元軍(この元軍もモンゴル人以外の民族も混ざっている)の混合で、実際のところモンゴル人の割合はかなり低い
逃亡兵が罰せられるのは当たり前、作戦失敗した指揮官が罰せられないのはおかしいな?いいからベトナム遠征軍の例と比べてみよう
なんか基本的な知識からしてないんだな…
棄民説を何回繰り返せば気が済むんだ。少しは人の迷惑も考えてくれ
あと軍事的な問題は軍事板で、政治外交史的な問題は日本史板でやろうと言われてるじゃないか
お前の疑問はすべて前スレで解決済み、それで不満があるなら軍事板で揉まれてこい
殺された筈の北条時輔が東路軍に助言したり
服部某と大陸に渡るエピソードが史実だと思ってた13才のあの日
48 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 18:43:43.49
>>46 反論出来ないから話を逸らすんですねわかります。
>>1が元寇と言ってる以上スレ違いではないな。
悔しかったら反論してみ
>>45 >>農機具を積み込んでいたのは八幡愚童訓にもある話
ひょっとして「農耕具を積んでいた=武器を持っていなかった」ていう理屈?意味がわからん
>>逃亡兵が罰せられるのは当たり前、作戦失敗した指揮官が罰せられないのはおかしいな?
え?文永の役は棄民説が成り立たないからともかく、弘安の役の敗戦を知ったクビライは激怒して
阿塔海を除くすべての将校を解任してるんですが・・・阿塔海には再戦の命を下してるし
>>弘安の役なんて遠征軍14万のうち江南兵は10万人
その十万人の中には一万人の漢軍やモンゴル人・ウイグル人の部隊も含まれるわけだが
あと弘安の役の南宋兵が役立たずの在庫処分品みたいに思ってるみたいだが、
この南宋兵は新附軍、つまり南宋滅亡後に降伏した兵の中からクビライの親衛軍に選抜された精鋭だぞ
(志願制云々は俺の思い違いだったみたいなので、それは謝る)
「通説ではモンゴル人の将官の下江南より徴発された兵員が従事したと言われている江南軍の実態が、
南人である范文虎の指揮の下江南平定に従軍した漢軍と選抜された新附軍の混成部隊であった(中略)
新附軍に選抜された兵は精鋭であり、諸路に分属した兵も十分に兵役に適すると判断された兵である以上、
江南軍に属した新附軍も十分な戦力として配属されたと考える方が自然であろう」
堤一昭氏は「弘安の役の江南軍について」でこう指摘してる
つまり「日本に送ったのは南宋兵の中でも弱兵」どころか、選抜された精鋭だったということ
てか日本攻めで消耗しすぎたせいでチャンパ攻めに思いっきり支障来してなかったか?
文永の元軍指揮官らが失脚せず、弘安でも引き続き遠征軍を率いたのは
貴重な渡海作戦の経験者だから、ということで説明できるんじゃないかな
そもそも忻都が司令官に抜擢されたのも三別抄討伐で渡海作戦の経験があったからだろうし
(洪茶丘も金方慶も三別抄討伐に参加してるしな)
52 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 23:42:34.69
油断したとか許しがたい失態でもない限り、
一度の敗戦で失脚はさせないのが常だ
家来に厳しい織田信長ですらそうしている
勝負は兵家の常
53 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 00:07:47.47
で、結局一番弱い兵を日本に当てたというソースはないわけか
確か元史に江南軍の内訳を書いた記述無かった?
宋王朝自体は募兵制だったお
>>45 史料的根拠を提示しろっていうののどこが研究者個人攻撃なの?
根拠がわからなくちゃ杉山の書いてることが正しいか検証しようがないじゃん。
史料的根拠を提示出来ないから話を逸らすんですねわかります。
悔しかったら提示してみ。
まず、農機具を積み込んでいたのは八幡愚童訓にしかない話なんだわ。
元軍の装備について日本の神社関係者の記述にどれほどの信憑性があるかって問題があるな。
それに八幡愚童訓だって元軍が武器を持ってなかったなんて書いてないし。
で、元史には日本遠征軍に武器を供与してる記述があるし、鷹島沖に沈んでる元船の遺構からも
武器類が多数発見されてる。
つまり江南兵の多くが武装していなかったなんて事実な無いんだよ。
あと元史読めば分かるけど、南宋征服後真っ先に編成されたのが日本遠征軍だし。
南宋の精鋭軍といえばモンゴル軍相手に5年間も抵抗した襄陽守備隊か、最後まで戦い抜いた
張世傑の水軍だけど両方とも日本遠征軍に組み込まれてる。
その上、江南軍にだってモンゴル兵がかなり参加してたんだぜ。
だって蒙古軍副都万戸のナンギャダイが参加してるじゃん。
つまり、南宋征服後真っ先に精鋭軍によって編成されたのが日本遠征軍なんだよ。
棄民、軍板に突撃してボコボコにされてるな
なぜあの子は鎌倉武士勝利必然≠右翼だと分からないのか
俺なんて左翼だよ…
60 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 11:05:24.47
むしろ神風と玉砕戦法と「武士達は正々堂々と戦ってた」論を
真っ向から否定してるんだから右翼とは真逆だよなw
61 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 14:45:41.90
日蓮聖人が蒙古調伏で拝んだから
蒙古退散できた。
62 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 14:50:12.87
いやいや上皇様の敵国降伏の御祈祷のおかげやで
63 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 14:53:20.40
でも大河ドラマで亀山上皇が書かれた「敵国降伏」では「国」が新字やったw
64 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 14:54:49.90
そりゃ大河の時代考証なんてそんなもんさ
65 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 15:34:26.88
末法のご本仏日蓮大聖人が日本にいらっしゃったから。
モンゴルのゴミ処理遠征を認めたくない連中の必死の抵抗かw
日本に来たのは精鋭軍ニダ、フビライは本気だったニダ
67 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 16:36:29.17
棄民説唱えてる奴は何百回ボコられたらあきらめるんだろうw
当時世界最強の日本の武士団が南宋の自称精鋭軍と雑魚モンゴル人・高麗人をボコボコにしただけ
棄民説にこだわる奴こそ杉山をはじめ
「偉大なるモンゴルがジャップ如きに遅れをとるわけない!これはきっと作戦のうちなんだ!」
って史実を認めずに電波飛ばしてるだけだろうがw
いいから早く杉山の電波本以外で棄民説のソースあげてみろよ。
杉山は言ってることが適当過ぎる。
開戦前⇒「元の目的は南宋。日本侵攻は南宋を孤立化させるための側面作戦に過ぎない」
文永の役で元が負けると⇒「文永の役は威力偵察。弘安の役が本番」
弘安の役でも元が負けると⇒「弘安の役は旧南宋兵の棄民。挙句に旧南宋兵は弱兵で武器の代わりに
農器具を持っていた」
これ、言ってることが全部矛盾してるじゃん。
だって弘安の役は南宋滅亡後に行われてるわけで、南宋侵攻と同時に行われた文永の役が弘安の役の
ための偵察だとしたら、元の目的は南宋孤立化なんかじゃなくて日本征服そのものにあったってことでしょ。
それに弘安の役の目的が旧南宋兵の棄民だったら、わざわざその前に偵察する必要無いし。
そもそも旧南宋兵はほっとくと危険だから棄民するって話なのに、武器を持たず農機具持った弱兵なんて
言い出したら、棄民の必要性無くなっちゃうじゃん。
さらに凄いのは、こうした説に史料の裏付けが皆無なこと。
結局、日本の勝利を認めたくない一心で口から出任せを書き連ねただけなんだよね。
70 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 23:32:16.16
>>61 >日蓮聖人が蒙古調伏で拝んだから
>蒙古退散できた
元寇の折、日蓮が蒙古調伏した記録があんのか?
日蓮遺文から示してみろよ。
こいつ、有史以来の国難の時も何にもしてないだろが。
日本は鎌倉時代から戦国時代まで世界で一番強かったからな
仮に大陸と陸続きだったらモンゴル撃退どころか中国を征服していた可能性が高い
72 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 00:10:02.18
一応蒙古調伏旗曼荼羅という本尊が日蓮宗寺院にある。
日蓮遺文等は日興らが保存収集するまで散乱状態だったようなので
伝説はともかく記録の有無は分らない。
当時の日本軍の強さは後の山田長政(真田幸村?石田光成?)の
スペイン艦隊撃退でもわかる。
73 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 00:15:34.73
創価創価
74 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 00:22:15.60
>こいつ、有史以来の国難の時も何にもしてないだろが。
貴方末法のご本仏日蓮大聖人の仏罰被りますぞ。
75 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 01:15:37.29
時宗は禅宗を信仰して、無学祖元を尊び、忍性の慈善事業をよく支援し、
一遍の所にも訪問したエピソードがあるが、日蓮とはいいエピソードはないね
76 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 01:17:43.12
>威力偵察
というだけで論理破綻なんだよ。
何万もの兵で遠征しているのにそんなこと戦略上ある得るわけがない。
奥州藤原氏(元寇時はすでに滅んでいたが)との交易によって、
ジパングは黄金の国という認識があった。
こんな美味しい国をほっとくわけがない。
それにモンゴル帝国の野望は東西南北を支配することだった。
東とはジパングのこと。
鎌倉幕府も朝廷も宋との関係のほうが圧倒的に深い。
大陸情勢も宋人を仲介して情報分析するわけだから、親宋政権と見ていい
黄金の国はさすがに誇張表現だが
当時の日本は実際に銅や硫黄、それに銀や金や鉄を多く産出し
さらには刀をはじめ鋼製品や工芸品も多く宋に輸出していた。
当然、それらの情報はフビライの元にも入ってるわけで
これらを手に入れる為に・・・ってのは侵略する理由としては十分だ。
日本より遥かにド田舎で何もない高麗やパガンやチベットにさえ兵送って征服するような連中だしな。
少なくとも棄民説なんぞよりはよっぽど説得力がある。
79 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 09:04:28.67
何を思ったか樺太にまで出兵しているからな
黄金は奥州藤原氏の影響もでかいかと
80 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 10:54:01.13
琉球やジャワまで征服しようとしてるしな。
日本の時だけ侵略の意図は無かったとか有り得ねえだろ
81 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 11:34:31.85
大河ドラマでは謝国明が大陸の情報を時宗に教えていたが、
実際にはどうやって大陸の情報を集めていたんだろう?
弘安の役に関しては襲撃時期を予測して当たっていたから
鎌倉幕府って半島からも情報得ていたよ。
三別抄とも密接に交流してるし。
あと、文永の役直前に南宋と同盟も結んでる。
鎌倉幕府も実はいろいろやってたんだよ。
83 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 12:05:49.43
>>83>>84 当時の日本側の史料って朝廷の残した記録が中心じゃん。
でも、元寇の時って鎌倉幕府が朝廷無視して独自に外交展開してたから日本側には記録が残ってなくても
元や高麗には記録が残ってることって結構あるん。
例えば1272年に大都まで使節団派遣したこととかね。
鎌倉幕府が三別抄とも密接に交流してたり、南宋と同盟結んでたりしたことは、元側の対日交渉担当だった
趙良弼関連の史料に記録されてること。
86 :
【大吉】 !:2012/07/01(日) 12:34:14.14
>>72 蒙古調伏旗曼荼羅って最教寺にある江戸時代作と言われる旗曼荼羅のことですか?
87 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 14:10:05.86
幕府が1272年に大都に使節団
どの史料で、あるいはだれが何年のどの論文で言ってるか詳しくどうぞ
88 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 16:15:25.02
どっかの番組が昔
元寇の蒙古船の錨が出たといってたけど
やらせだったような?
>>87 元史にも高麗史にも書いてあるよ
元史 巻七 世祖 至元九年
二月庚寅朔,奉使日本趙良弼遣書狀官張鐸同日本二十六人,至京師求見。
高麗史 巻二十七 元宗三
元宗十三年、丁丑、趙良弼還自日本、遣書状官張鐸、率日本使十二人如元
90 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 17:43:02.82
>>88 やらせとはどんな意味か知らないが、元寇の錨の研究は多いよ。
ぐぐればすぐ出て来る。
91 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 19:28:33.59
12名は水先案内人だろ
幕府の使節は大げさだよ
92 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 19:29:13.57
ただ時宗の指示なら偵察の意図はあったかもな
94 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 22:04:00.06
あまり知られてないねえ
何でだろ?
95 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 22:16:12.13
「国際情勢がまるで見えていなかった脳筋の鎌倉幕府は愚かにも元との交戦に踏み切ったのです。
この辺りのお馬鹿で野蛮なところは軍靴の音高らかにならした近代日本に通じますね^^」
っていうプロパガンダをする上で、鎌倉幕府が大陸の情報を正確に掴んでいた事実があると何かと不都合だから。
96 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 23:00:13.18
何故時定はあんなド田舎に満願寺を建てたんだろうか?
阿蘇の地盤を固める為?
97 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 00:27:09.17
ド田舎とは失礼な
98 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 08:16:09.16
趙良弼が連れていった日本人は何したんだろ?幕府や朝廷の記録にもない
>>98 クビライに謁見申し込んだんだよ。
でもクビライも軍事偵察目的を警戒してるから拒否られて、適当に歓待されて帰ってきた。
100 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 12:35:57.72
でその十二人は誰だよ?w
>>89 これは…、関東パトリオットの網野善彦がネタにしなかったのが不思議なくらいのアレだな
これで文永の役の構図が全く変わってしまう
102 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 14:09:43.58
>>101 高麗史によれば日本人26人は大宰府の発案だな。
「京都に人を送って国書を催促しているが、遠いからなかなか大変だ。
その前に(国書のない)使節を蒙古へ送ってはどうか」
と大宰府の役人が言ったと言う。
26人は大都まで行ったが、フビライは疑って、会わなかった。
恐らく大宰府は国書については時間稼ぎすると同時に、蒙古の事情を偵察
できたら儲けもの、と考えたのだろう。
正式の使節でない、あるいはひょっとすると大宰府の独走だから日本側の
記録には残らなかったのだろう。
103 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 16:28:50.82
大宰府の独走?少弐資元がそこまでするかな?
朝廷抜きに外交やろうとすれば日本から派遣されるのは正式な使節以外ってことになる。
幕府と南宋との外交は瓊林という禅僧がやっていた。
趙良弼が日本に最後通牒を突き付けてる最中に帰国し、南宋との同盟成立を報告。
それを受けて幕府は最終的に元の要求拒否を決定した。
ソースは元朝名臣事略「野斎李公撰墓碑」
105 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 17:47:29.34
弘安の役の時
博多辺りに石塁築いているけど
もし元の軍船が鹿児島とかに上陸されたら
かなりやばかったよね?
鹿児島から太宰府まで遠いがな
道知らんし
九州に上陸した元軍なんて幕府軍から見ればまな板の上の鯉みたいなもんだろ
108 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 20:14:39.47
>>105 この手のレス見る度に思うんだが、兵站という概念無視してないか?
109 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 21:33:56.08
1301年に薩摩の離島に元軍?の軍船が出現し、交戦している
元は琉球を攻めている時期だから、その余波と考えられるが解明されてはいない
>>108のようなレスを見るたびに思うのだが、
当時の"兵站"の実際を現在に当てはめ過ぎじゃないか?
それに旧南宋地域からだと、九州北部も南部も対して距離は変わらないぞ?
元軍は九州に上陸しようと思えば伊万里湾から簡単に上陸できた
何日も伊万里湾に停泊していたわけだし、対岸付近に日本軍もいなかったし
でも全く九州に上陸試みた形跡無いわけで、「上陸したらヤバい、海上にいた方が安全」という認識だった
としか考えられない
「たとえ順風を得て海岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、わが師に後援はない」
上陸できてもその後の勝算は皆無という国をどうやって征服するん?
112 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 02:40:38.55
>>74 >貴方末法のご本仏日蓮大聖人の仏罰被りますぞ。
ここは宗教板ではなく学術板だ。記録はないが罰があたるからあったことにしろなどという態度は通用しない。
元寇の折、日蓮が蒙古調伏の祈禱をしたというのならその史料、特に一次史料である日蓮遺文から示せばよい。
勝海舟だっけ? 誰か忘れたが
九州の武士に防衛させておいて、本人は鎌倉で悠々としてたのだから
大したものだ、てなこといってたの
かなり余力があった、という見方をされていたな
114 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 05:48:12.45
元軍の爆弾(てっぱう)は絵巻なんかでも描かれているが
石弓機(かいかい砲)はどうなの?
>>114 投石器って基本的に城攻めで使うもので野戦には不向きなんだよね
てつはうは重すぎて投げれないし、恐らく使用法は導火線に火をつけて置いて逃げるみたいな感じ
116 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 14:19:00.79
大河ドラマでは投石機で海岸の物見やぐらを壊されてたな
117 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 14:22:13.97
>>113 時宗は出陣しなかったというけどさ、
近代戦争でも首相や陸相や参謀本部総長は前線へ出陣しないよ
出陣万能論者は、昭和天皇が沖縄へ親征しなかった理由でも考えとけばよい
118 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 15:05:28.27
日本軍「やあ、やあ、我こそは〜」
元軍「ジャン!ジャン!ドドドドド!」
文永の役は当初こんな感じでカルチャーショックで押され捲くり
だったろうね?
>>118 まったく逆だよ
元軍は赤坂まで進軍したところで日本軍に蹴散らされ、そのまま押され捲りで逃げ帰っちゃった
>>117 自分でなくて勝がそういってたという話でさ
余裕綽々だった、みたいな
>>118 九州の武士はそれまでも異賊警護をしてるから、そんなバカなことはしない
122 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 19:28:56.84
そもそも関東の武士もそんなバカなことはしない
壱岐対馬では現地の守備軍玉砕後に凄まじい虐殺強姦が起き或いは奴隷として連れて行かれた
かつて刀伊の入港とかあったし、悠長に名乗る程武士も馬鹿じゃない
そもそも異人に名乗る奴なんて居るか?
125 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 22:25:20.30
そもそも時代が近い承久の乱や宝治合戦で名乗りを上げるなどの律儀に戦ったような記録はどこにもない。
126 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 23:47:30.87
軍板から来たのですが、このスレではnhkの高校講座に書かれてる記述が一番正しいと見なされてるのですか?
なんか撤退理由として高麗史の記述挙げたら否定されたんですけど
高麗史の記述が無くても、蒙古襲来絵詞や同時代の各種書状を読めば
元軍が現地で武士団に苦戦して継戦不可能と判断して撤退したのは明らかだと思うんですが。
127 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 23:53:32.46
>日本軍「やあ、やあ、我こそは〜」
元軍「ジャン!ジャン!ドドドドド!」
むろたにつねぞう等「マンガ日本の歴史」の記述を
信じ込み過ぎ。
そういえばこの頃の武士はまだ野蛮だったな
男衾三郎曰く
「我が家の前を通る乞食や修験者は捕まえて切ってしまえ。
屋敷に生首の絶える事があってはなるまいぞ」
129 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 00:32:55.59
博多って当時は鎌倉や京都に次ぐ都市だったよな?
そんなデカい街が焼かれたら八幡蒙古記以外に元寇の記述がある
日本側の記録にもっと書かれててもいいと思うんだが。
130 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 00:33:20.20
131 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 00:44:41.31
>>129 当時の博多の人口は1万人ぐらいだしまだ平泉とかのが大きかったと思われる
132 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 01:12:41.68
平泉は元寇当時はないべ
133 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 01:39:43.72
134 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 01:50:30.70
本格的に警戒令を出したのは1271年だろ
135 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 02:02:59.09
136 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 02:12:44.06
>>132 いや平泉は奥州藤原氏滅亡後は奥州総奉行葛西氏が入って引き続き奥州中心地だったよ
>>104 南宋との同盟(実効性はともかく)を受けて幕府が断交を宣言した状況が確認されるとなると、
文永の役の把握が全く変わってしまうね。文永の役後の高麗遠征論もそれで説明できる。
二月騒動を対モンゴル戦争準備で説明できるかも知れない
>>134 正嘉年間にも九州御家人に軍令を布告してるようだけどね、まだモンケの時代
139 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 04:12:10.66
軍令を出す前はどうだったのでしょうか?
建長年間(1249〜55)に密偵の取締をしたり、また
>北条時頼の廻国伝説が信濃に多いところから、
蒙古襲来を予想した時頼がひそかに
牧場の視察に出かけたのではないかと推定する郷土史家もある。
との説もあるところから、かなり長い年月をかけて対蒙古の準備をしていたとは
考えられませんか?
140 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 10:40:56.61
土地台帳である大田文の調査命令、寺社本所領の非御家人への動員、
異国警固番役や長門探題の設置は時宗政権からだよ
141 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 14:39:03.75
蒙古が友好的に通商を呼び掛けてきたのに
無視したから戦争になったと学校の先生が言ってたよ
142 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 14:42:35.81
じゃあ中国や朝鮮は蒙古と戦ったから頭が悪い国ですねと言ってやれ
>蒙古が友好的に通商を呼び掛けてきたのに無視したから戦争になった
無視されたら戦争するって一体どこにあるんだよ、そんなドキュン国家w
朝鮮も中国も蒙古に従ったじゃない。
それなのに最後までガン無視して世界の趨勢を読まなかったのは、日本だけですよ?
そりゃ辺境なんだから多少趨勢に疎いのはしょうがないから、親切に国書まで送って来てるのに...
蒙古としては、やろうと思えば国書も送らず、いきなり奇襲することも出来たのだから、
当時としても礼節を弁えていないのは日本側。
世界の趨勢=傲慢無礼者蒙古が撃退された サヨウナラ
1268年1月 元側第一次使節、大宰府に到着
同年8月に帰国 10月に元朝に報告
蒙古國牒状
「古より小国の君は隣国であり〜(略)
朕が即位したことを日本は未だ知らないゆえに使節を送る。願わくはこれ以降、通交と親睦を深めたい」
⌒|/⌒ヽ、_ノ⌒ヽ、_ノ⌒ヽ、_ノ⌒
ヽ ____
/ |::⌒\
/ _ノ|::(●)\
表 / o゚⌒ |ヽ__)⌒::::\ 裏
|::. (__ノ|r-|:::::::::::::::::::|
\::. ´ |ー´::::::::::::::/
フビライ ∧
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄\
高麗史 1268年5月29日条
「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ。今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。
爾が国、若し難あれば、朕、安んぞ敢えて救わざらんや。朕、不庭の国を征するに、
爾が国の出師し助戦すること、亦た其の分なり。爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、
米三、四千石を載すべきを造れ」
147 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 17:22:06.20
>>142 攻め込まれるまでは使者を無事に返し、攻め込んで来たから応戦しただけの日本を非難する一方で
欲に眩んで使者騙し討ちにしたから攻め込まれ、しかも民衆ほっぽりだして
離島に逃げ込んで30年近く挑発しては降伏しの繰り返しで
蹂躙されまくった高麗は何故か「粘り強く抵抗」したと美談のように語る風潮はどうしたものか。
三別抄なんて内部分裂起こしてgdgdだっただけなのに
三別抄でググったら三別抄こそが文永の時に日本を救ったとかアホなこと抜かすブログが出るわ出るわ。
高麗とかモンゴルの女貰ってこれでワイもモンゴル貴族や!ってありがたがってるただの下僕
学校の授業で「素直にモンゴルの属国にならなかった」なんて自国の歴史を批判的に教えてるのなんて
世界中で日本だけだろ。
これがどれだけ狂ったことが、自分の頭で考えることができる歳になったら気付かないと。
本来なら少弐兄弟や河野通有は救国の英雄として取り上げられるべき人物なのに。
今や救国の英雄扱いは三別抄・台風・高麗人民・南宋人民・ベトナム人民だからな。
>>151 日本に対してはモンゴルに抵抗したことを批判しておきながら、日本以外の国に対しては
モンゴルへの抵抗を英雄扱いって滅茶苦茶なダブルスタンダードだよね
いや、日本=悪ってスタンダードが徹底されてるだけだろ
>>140 異国警固番役も正嘉年間に軍令出てる
「新御式目」
一、警固詰番事、
為諸人煩労基之由、有其聞、仍同前、
正嘉三年二月九日
>>144 でも結局軍事的にしりぞけて、なーんにも問題なかったから
結局正しい判断だったということだよね
あれこれの軍事力考慮して妥当な判断したといえる
元だってそのうちあっさり滅びたしさ
負けたのにいきがって戦争した、というなら非難されるのは仕方ないが
勝ったんだから防衛戦争してもオッケーだよ
>>154 その頃から倭寇が始まって高麗軍との武力衝突がしばしばあった
それは高麗の報復を恐れての警戒軍令だよ
>>156 その頃の高麗はモンゴルの侵略で虫の息だよ
鎌倉幕府が恐れるような状態じゃない
当時鎌倉幕府が日本への攻撃を恐れるような存在はモンゴルだけしかない
158 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 01:06:47.34
>>149 少なくとも俺の記憶ではそんな教育はしてなかったぞ
まあもうよく覚えていないが
159 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 01:27:12.95
そりゃ先生が偏ってればねえ
一騎打ちがどうの言って嬉しいそうに武士をバカにしてたのだけは覚えてる
161 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 12:28:40.13
日本史の教師がムキになって神風を否定していたのが笑えた
神風が正しかったのか
163 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 17:53:02.99
「戦前は神風が吹いたと言ってましたが、神風は絶対に吹かなかったんですっ」とか
どっちだっていいやん
それより早く弁当食いてえぇwwwwwwwwwwwww
しかし、元も無謀な戦争をふっかけたもんだな
一時勝っても長期にわたって戦線維持するのは不可能だろ
上陸して拠点を築けないぐらいの戦力だったからそれ以前の話だが
弘安の役の神風までなかった事にされそうな勢いだなw
日本は神の国だから神風で勝った
167 :
日本@名無史さん:2012/07/08(日) 17:22:40.55
でも50万ぐらいの大軍だったら危なかったかも
168 :
日本@名無史さん:2012/07/08(日) 17:29:05.06
50万も派兵したら元が傾いてるよw
そもそも、どうやって50万も揃えるの?
50万もかき集めるなんて難しいし、莫大な兵糧に大量の軍船も用意しなければならない。
弘安の役の後、第三次遠征計画で何時までたっても10万も集められなかったのに
50万なんてできないと思うけど。
金とかパガン朝とかマムルーク朝、キエフ、ポーランド、ドイツ相手の戦いではモンゴルの兵数は数万程度
マムルーク朝は同数程度の兵数でかろうじて撃退してる
アッバース朝の首都を攻略してカリフを処刑した時のモンゴルの兵数も十数万だし
陳朝ベトナムだけが兵数30万以上になってベトナムが勝利しているが数は胡散臭い
十数万は遠征では殆ど最大動員兵力なんだろう
171 :
日本@名無史さん:2012/07/08(日) 21:34:30.60
春秋戦国、楚漢、三国志の歴史をみれば
統一王朝なら50万60万は集めようと思えば集められる
ただ軍船作りは無理そう
>>170 元側史料によるベトナム侵攻の兵数
第一次ベトナム侵攻 3000名
チャンパ侵攻 2万5000名
第二次ベトナム侵攻 2万名 + チャンパ侵攻軍
第三次ベトナム侵攻 9万3700余名
元は、もともと交易を求めてきたわけで、それに従わないなら、
兵を送って倒そうとしたが失敗した。
次に、南宋滅ぼしたから、その兵力と朝鮮の兵で大軍作って
日本に上陸した後、降伏させようとしたんじゃないか?
http://sakura.a.la9.jp/japan/ 米国下院 慰安婦決議 撤廃ホワイトハウス請願署名協力お願いします!
リンク先に簡単な署名の仕方が書いてあります。
国が強く抗議しない今、我々国民が政治を動かしていかなくてはなりません。
国民による政治主導の先駆けとならんことを。
農具も積んでいたと言うし、とりあえず九州占領くらいして屯田させるつもりだったんだろう。
>>171 おいおい、三国志の頃の人口なんて蜀で60万とかだぞ?
物語とかの兵力100万とかは実際は10分の1以下だと思ったほうがいい。
176 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 01:18:24.98
太平記なんかは数万とかは多分本当だろうけど
数十万は明らかに10倍くらい兵力盛ってるよな。
>>174 農具を積んでいたなんて信頼できる史料には書いてない。
せっかく九州を征服したのに、元軍がわざわざ農作業なんてするわけないだろ。
当然、農作業なんて日本人にやらせて元軍はそれを搾取するつもり。
弘安の役の際にクビライが遠征軍に与えた訓示
「朕、聞く、漢人の言に『人の家国を取るには、百姓・土地を得んことを欲す』と。もし尽く百姓を殺さば、
徒らに地を得るとも何の用かあらん」
ただ、日本軍を倒した後にどうやって十数万もの軍勢を養うつもりだったのかは
気になるな。
いきなり、人口が十万以上も増えれば食糧の確保も大変だろうし。
長期的に見て、勝った暁には屯田させようとしてもおかしくはないと思うんだよね。
海戦の経験が乏しかったから、陸戦と同じ感覚で攻めただけだろうな。
食料や女は現地調達、というか兵に対するご褒美感覚だろう。
>>178 征服する時の兵数がそのまま統治する時の兵数ってことはないだろ。
元だって10万もの精鋭部隊は当然他の東南アジアや中央アジアの戦線にも転用したいだろうし。
>>180 それはそうだけども、日本のように人口の多い国を統治しようとすれば
やはり多くの軍勢を必要としたんじゃないかな。
182 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 17:41:59.78
そういえば、北海道と沖縄でも元冦があったんだっけ?
183 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 18:37:48.85
樺太と沖縄だね
しかし、モンゴルって世界征服が趣味なんだと思うわ。沖縄とか樺太とか、どうでもいいやんとおもう。
樺太には兵1万で瑠求には兵200人を派兵したみたいだけど
樺太ごときに兵1万ってすげえな。
なんもないだろ。あんなところ。
186 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 19:37:21.30
樺太は元に朝貢してたニヴフがアイヌに攻め立てられたから
援軍として兵を出したわけだけど
琉球やジャワを攻めたのはなんでなんだぜ?
187 :
日本@名無史さん:2012/07/09(月) 20:01:03.12
元はフィリピンも攻めたの?
188 :
相模太郎北条時宗:2012/07/09(月) 22:31:03.58
フィリピンは攻めていない
東南アジアではミャンマー、ベトナム、インドネシアを攻めた
189 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 00:14:16.85
琉球は海上拠点の目的とか?
元軍は沖縄なんて攻めてないよ
元史に記述があるのは琉球じゃなくて瑠求
この瑠求って台湾のことだから
191 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 17:57:35.25
台湾を明確に発見したのは大航海時代のポルトガル人だぜえ
192 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 18:30:53.49
>東南アジアではミャンマー、ベトナム、インドネシアを攻めた
元はその勢いでオーストラリア、南極を攻めて(というより発見?)
して欲しかった。
193 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 18:54:45.10
南北アメリカも征服(発見)して世界帝国というか地球帝国にして日本を攻めて欲しかったな
地球帝国元vs日本で撃退とか胸が熱くなるな
194 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 19:17:08.59
だいちょうぶ。
チンギスハーンは義経だから?元の里帰り。
195 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 19:18:47.14
>フィリピンは攻めていない
何で?忘れてたわけ?
義経とジンギスカンじゃあ年代が違うだろ。
197 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:03:22.98
>フィリピンは攻めていない
何で?忘れてたわけ?
あとでアメリカに怒られるから
時宗は病弱?
元寇が終わってすぐに死んだし(´・ω・‘)
199 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:25:34.41
北条得宗家って病弱が続いてるよな
血の近い者どうし結婚が多かったからだろ
201 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:56:23.95
チンギスハーンは反町だろ?
202 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:24:23.29
オゴタイとかフビライに比べて影薄い。
203 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:59:59.02
時宗に限らず北条氏は時氏辺りから早死する人ばっかりだね。
>>200 古代の皇室も近親婚が多かったけど普通に長生きしてるよ。
204 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 00:39:38.87
暗殺でもされてたんじゃないか?
205 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 00:51:54.84
天下の国営放送様によると
四代執権経時 毒殺
五代執権時頼 毒殺
六代執権長時 暗殺
>>203 いやいや近親婚により生まれた個体が障害持ちや病弱になり易いというのは生物学的に正しい
>>204 短命は得宗だけじゃないのだ
分家の連中も赤橋を筆頭に若死にしてるし
得宗家の男子も女子もばたばたしんでる
泰時なんて息子も娘も全員若死にされたからな
あんな短期間で近親婚がどーのなんてないと思う
体質だろう
208 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 01:04:50.08
その割に時政〜泰時は普通に60くらいまで生きてるし
時村は70近くまで生きてるし、北条実時や実政親子も50ちょいと
まあ当時としては割と標準的な年齢で死んでるな。
確かに中世の他の有力武士の一族と比べたらやたら早死してる人が多いが。
209 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 02:20:30.05
盲腸でも死ぬ時代だから。
210 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 02:38:03.49
時村じゃなくて政村だわ
211 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 06:05:02.53
北条氏の子孫いますか?
212 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 07:36:44.62
分家の子孫なら阿蘇神社に
213 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 12:20:40.92
生き延びてるやつみてるから長生きにみえるが
時政の両親も兄弟も出てこないのは死んでる可能性あるぞ
甥?の時定は顔をだすけどさ
政子や義時や泰時の母親も早世してるんでないかな
得宗家でも政範は若死にだしさ
214 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 13:03:27.55
>>213 北条時政は政治の舞台に出てきたときすでにいい年だったんだから
その両親が死んでいても不思議はないんだが
それに政子・義時の母も泰時の母も北条氏ではないだろう
この時代は出産で死ぬ女性が多いため女性の早世は一概に遺伝のためとは言えないし
(源頼朝の同母妹坊門姫や、頼朝・政子の孫娘竹御所はいずれも難産で死亡)
215 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 13:14:06.37
某S会の会長になられた方は子孫では?
時政の兄弟姉妹が出てこないのは、父親が早くしんでそもそも少なかったのかもな
>>215 それは後北条氏では
217 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 23:38:45.39
北条時政の弟なら北条時定がいるだろ
義経に協力していた源行家や源有綱を討ち取った武将だぞ
218 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 10:35:34.10
大河には出て来ないが北条時頼の弟にも時定いるよな
元寇のときは肥後に下向して時宗死後まで生きてた
219 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 00:57:57.64
そもそも時政の父親は誰なんや?
220 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 01:05:50.82
その辺りはわかってない
どっかの一次史料にないもんかねえ
221 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 05:02:30.09
>後北条氏では
氏政は小田原で切腹、氏直は高野山で亡くなってるので
親戚筋が小田原陥落、明治維新以後も血脈を継いでたわけですか?
223 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 17:43:31.59
八幡蒙古記以外でも一代要記では日本が文永の役で負けたことになってる
224 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 22:48:33.88
ていうか公家や神社の記録ではまるで武家政権への当てつけのように
武士敗北と神風を強調してやがるなw
当の元軍や武士達の記録が無ければマジで騙されてたな。
225 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 23:50:29.70
武士が元軍を撃退したら寺社は恩賞を貰えない
そりゃあ、必死で武士をけなす罠w
226 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 00:11:29.68
むしろ武士が勝ったとはとても言い難い戦況だったからこそ
都を中心にそういう噂が立ったのを利用したってのが真相だろ。
227 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 00:16:50.06
>>217 源行家や源有綱を討ち取った北条時定は、北条時政の弟ではなく、
甥もしくは従兄弟。
家系図によって甥か従兄弟かで移動があるみたいだが、弟ではないよ。
228 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 00:42:41.63
九州の寺社なら祈祷だけではない
石塁作りの人夫、異国警固番役のための兵や食糧も出してる
229 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 01:50:40.86
>>226 元寇以上に楽勝だった応永の外寇ですら、京都に最初の情報が来たときは
割と焦り気味だったし実際に九州上陸されたらそんなもんじゃね
230 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 12:34:10.00
高句麗王の子孫の三別抄の抵抗がなければ、日本は元寇の餌食になっていたでしょう。
韓国と同じように釣り目のジンギスカンの子孫たちに牛耳られる蛮国になっていたかもしれません。
白村江の戦の時も百済軍の抵抗がなければ、唐は日本へも進出して、属国になっていたでしょう。
太平洋戦争の後も、朝鮮半島を南北に割譲されなければ、日本が東西に分割統治されていたでしょう。
要するに、朝鮮半島は、古代から日本のスケープゴートだったのです。
日本のスケープゴートである天皇家が朝鮮から来たのもごく自然なことです。
231 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 17:54:10.28
すいません、元史の一部を誰か訳して頂けませんか?
太宗三年八月,命撒礼塔征其国,国人洪福源迎降于军,得福源所率编民千五百户,旁近州郡亦有来师者。
撒礼塔即与福源攻未附州郡,又使阿兒秃与福源抵王京,招其主王r,r遣其弟怀安公王侹请和,许之。置京、府、县达鲁花赤七十二人监之,遂班师。
232 :
日本@名無史さん:2012/07/17(火) 21:40:42.53
わからんちん
234 :
日本@名無史さん:2012/07/18(水) 19:38:54.55
>>233 中国のサイトからコピペしました。
Wikipediaに訳が載っているんですか?
235 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 10:35:07.72
>>230 >高句麗王の子孫の三別抄の抵抗がなければ、日本は元寇の餌食になっていたでしょう。
文永・弘安の役では東路軍は900隻の船で来た。
三別抄の抵抗の有無はそれほど影響しません。
と言うか、東路軍に渡海作戦の経験をさせているのだが?
>白村江の戦の時も百済軍の抵抗がなければ、唐は日本へも進出して、属国になっていたでしょう。
白村江の戦は百済の残党に要請されて行ったものではないのか?
>太平洋戦争の後も、朝鮮半島を南北に割譲されなければ、日本が東西に分割統治されていたでしょう。
当初は日本が分断される予定だったが、共産主義の拡大を恐れたアメリカが単独(一部オーストラリアやイギリス)で統治した。
朝鮮半島が分断されたのは、北朝鮮がソ連・中国に事大し、南朝鮮がアメリカに事大しただけのこと。
>日本のスケープゴートである天皇家が朝鮮から来たのもごく自然なことです。
2000年前から倭は新羅に何度も攻め入ってますが?
中国の歴史書にも「倭人と思われる人々が朝鮮半島南部にいた」と書かれていますが?
236 :
日本@名無史さん:2012/07/20(金) 11:09:51.75
>>235 >文永・弘安の役では東路軍は900隻の船で来た。
つまり900隻の船に乗れる人数は、数年前だろうが後だろうが決まっている。
237 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 00:11:12.21
歴史って奥が深いな
238 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 01:24:14.97
239 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 23:27:27.95
そんだけ船をこさえたのに日本の領土を寸土も領有できないとは大損だな
>>230 在日チョンの出鱈目な歴史認識の見本だなw
1回目は威力偵察
2回目は台風で運悪く負けただけ
世界最強の高麗軍が負ける訳無い
世界最強なのに属国にされて大都まで参勤交代ww
244 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 16:57:02.46
245 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 20:44:24.20
ヨーロッパ「やべロシア、ポーランドおちたどうしよ」
ヨーロッパ「あれwwあいつら帰ってく何でwwwww」
――――――――――――極東――――――――――――
日本「ふヒヒwwまた神風サーセンwwwwww」
246 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 23:39:04.98
モンゴル(元)って結局
日本、韓国、中国に謝罪、補償してないよね?
247 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 02:48:47.14
南無八幡大菩薩
248 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 04:16:31.27
モンゴル(元)には蹂躙されてもいいんだ?
でも相手が倭寇とか秀吉だと文句言うんだ?
どこにでも奴隷根性や事大主義者はいるもんだw
空襲で10万人殺した軍人に勲章上げる民族もいるんだからw
250 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 04:07:18.64
第一次のときは使者を切っておいてなんの準備もしてないよね
水城まで押し込められて
第二次は石塁を築きシスティマティックに防衛している
斬ったのは文永と弘安の間に来た使者だぞ。
>>250 とりあえず元寇と時宗のwikipediaを声に出して3回読め
このスレで議論したいならそれが前提だ
253 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 22:51:24.82
ウィキ読めだって wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
相手にしちゃ駄目だよw>ウィキ読め
(それはそれとしてwikipediaをwikiって言うなと何度言えば)
文永の前に使者斬ったと思ってるやつがいるのか
教育が悪いな
そういう奴はwikipediaのレベルがちょうどよかろう
258 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 22:17:37.93
大都を日本人が訪問して皇帝に拝謁を求めた話だけど、
日本の史料にないから信用するに足りないと本に書いてあった
邪馬台国は存在しないのかw
珍説だな。
対馬の宗や大宰府の少弐の動向など公卿の日記などからわからんよ。
大河ドラマぐらいみればいいのに
おまえらは和睦の使者ではない、降伏を促しにまいったのじゃ
(文永の時の)補償なくして和睦などありえん
つって執権殿が斬首を命令してるよ
261 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 16:01:25.88
>>252 wikipediaは最近のへんてこな説でだいぶ曲げられているよ。
元軍は百道原から帰ったことになっているし。
金方慶伝を無理に読んで「倭兵大敗伏屍如麻」を壱岐のことにしているし。
>>261 壱岐云々の解釈はともかく、鳥飼潟決戦説とかの最近の記事は佐藤鉄太郎氏の軍事分析が出典じゃん
八幡ノ蒙古記を妄信するあんたの主張の方がよっぽどへんてこだと思うがな
263 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 17:50:21.89
>>262 ではあんたは日本軍の水城への撤退もなかったと主張するわけか?
>>261 「倭兵大敗伏屍如麻」だけど元軍は逃げ帰りました、となってしまう問題が。
265 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 20:50:21.92
>>264 なんで問題かわからない。
日本軍は大損害を受けて水城へ撤退したが、元軍もまた損害が大きかった。
「官軍不整」という通り。
だからそれ以上の作戦をあきらめて撤退した。
日本軍がいなかったから全軍の一夜での乗船は成功したが、風雨は計算外だった。
実によくわかるすじがきだ。
>>264 「倭兵(に)大敗し(官軍の)屍伏すこと麻の如し」が転記ミスで…いや、さすがにないか。
>>263 水城へ撤退したかどうかなど知らん。資料からは確認できないから
個人的には、夜になったら水城に引き上げるという日本軍の予定行動を
八幡ノ蒙古記の作者が「元軍に大敗して水城へ敗走」
という風に脚色したのではないかとも考えている
なんだ?軍板でフルボッコにされた馬鹿がこっちに流れてきたのか?
269 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 00:05:22.75
>>267 >夜になったら水城に引き上げるという日本軍の予定行動を
日本軍が勝とうが負けようが、またそれが予定の撤退であろうが敗走であろうが、
ともかく日本軍が水城へ引き揚げれば
>>265のすじがきは成立する。
その場合、元軍はどこから引き揚げようが、あるいは博多・箱崎をどう処理しようが
自由だ。
それでいいのかな?
「それでいいのかな?」とか聞かれてもなあw
>>267では「こういう可能性もある」という推測を示したに過ぎないんだが
記録が残っていない以上何とも言えんし、
あんたみたいに自分の推測を人に押し付けるつもりもないから
一日で作戦継続を断念し、夜間に兵を回収して夜のうちに出港というのが
正しいなら「元軍は大敗して逃亡した」がほぼ動かないところだろう。
1 相当数の事故死者を覚悟の夜間乗船をやるのは、全滅を避ける手段がそれしかないから。
2 昼間より遙かに困難で時間が掛かる夜間撤退できたということは、昼間降ろした時に比べ
「乗せるべき兵士が大幅に減っているから時間が掛からなかった」事を示唆している。
今日上陸したばかりの未知の土地、昨日来たばかりの未知の湾で
灯火管制したまま3万の兵を乗船させ、900艘の船を出航させる。
何時間かかるだろう。
274 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 08:58:33.57
>>271 >一日で作戦継続を断念し、夜間に兵を回収して夜のうちに出港というのが
>正しいなら「元軍は大敗して逃亡した」がほぼ動かないところだろう。
もうひとつ、「日本軍が元軍撤退の現場にいなかった」もほぼ動かない。
>>273 >灯火管制したまま3万の兵を乗船させ、
灯火管制はやらなかったと思う。
箱崎宮などの燃え上がる火で海が照らされていたとすれば灯火管制は意味ないだろう。
>>274 そこなんだが、日本軍だって物見くらい出す。明かりに困らないほど街が燃えている
(そんなに燃え続ける物なのか?)なら、元軍の乗船は日本の察知するところとなろう。
そうなっていないと言うことは、元軍は闇夜に紛れて逃げた。つまり箱崎宮は燃えていないか
あるいは、乗船地点はかなり離れた場所となるのでは?
概算してみよう。
元軍陸上兵力およそ3万、上陸用舟艇が900隻の1/3で300隻として
一隻あたり100人を輸送する必要がある。
元軍の全兵士が現代の海兵隊もびっくりの練度に鍛え上げられていたと想定して
上陸用舟艇に乗り込むのに一人5秒、上陸用舟艇から大型艦の甲板までよじ登るのに30秒と仮定する。
海岸から大型艦までの移動は、余裕を持って片道1時間としよう。
海岸にきっちり整列して「撤退する、乗船せよ」の号令が掛かってから大型艦に乗船終了するまでの
所要時間は(5秒×100人)+(1時間)+(30秒×100人)だから
2時間ほどだ。移動に1時間、整列して船を割り当てるのに1時間かけても3時間あれば収容と撤退は終わる。
なお上陸用舟艇が100人を一度に運べない場合は、輸送回数が1回増えるごとに2時間プラス。
さらに撤退を決定するまでの会議の時間が追加される。
この季節の北九州なら、日の入りから日の出までおよそ14時間。単純計算では一夜で3万人の収容はできそうだが、
これに暗闇という問題がどのくらい影響するかと、日本側に察知されるリスクについては、識者のご見解が欲しい所。
南宋戦線を完全に無視して語っている連中は何を言っているのだか。
文永終了の翌年に南宋軍の主力が大敗して臨安の政府が降伏していることや
次席宰相のバヤンが司令官だということにしろこちらの緊張は日本の比ではないのに。
趣味のカテゴリの連中の局地的な優劣にこだわるメンタリティを持ち込まんで欲しいものだ。
278 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 10:22:13.17
>>276 もうひとつの問題は馬だ。
3万のうち実戦兵力が2万(あとは補助人員)、そのうち10%が騎兵だとしても
2000頭の馬がいる。本船1隻あたりでも7頭だ。
これをどうやって積んだのか。
私の考えを言えば、馬は上陸用舟艇につないで泳がせたのではないか?
でないと上陸用舟艇が転覆する。
そして本船まで来たらデリックのようなもので吊り上げたのではないか?
上陸するときはこの逆。浅瀬まで来るとつながれて泳いでいる馬が先に
足が立つから飛び乗ればたちまち騎兵ができあがる。
ともかく、撤退の際は馬の吊り上げ作業がある。上陸用舟艇の往復とは別に
本船側の作業としてできただろうけどね。
279 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 13:36:49.10
>>275 >そうなっていないと言うことは、元軍は闇夜に紛れて逃げた。
そうなっていないと言うことは、日本軍が物見を出さなかったのだ。
280 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 17:02:57.24
だれかが「佐藤鉄太郎」を教えてくれたのでぐぐると、「元寇後の城郭都市博多」
という本を今出しているらしい。
1万円以上して高いから国会図書館で読もうと思っているが、紀伊国屋のページに
短い解説が載っていて、それによると博多は元寇後に都市計画がなされて、江戸時代
の地図に見るような碁盤目の姿になったらしい。それまでは自然発生的な都市だった
のだろう。
このような都市計画は、都市が災害で壊滅した後に行われることが多いが、博多の
場合は元寇で灰燼に帰したことが契機だったのではないか?
そのへんを佐藤鉄太郎はどのように言っているのか、読んだ人がいたら教えて!
281 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 20:49:57.36
南無八幡大菩薩
威力偵察名目の棄民戦略にすぎないモンゴルになんとか神威で勝っただけで
やーやー我こそはのパフォーマンスコンクールしてたガラパゴス武士が強いわけが無い
八幡関連と武家の報告で食い違いがあるのはそれぞれ別の戦いを記述してるだけ
284 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 00:45:04.68
南無八幡大菩薩
285 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 08:11:04.56
>>283 >元軍は闇夜に紛れて逃げた。つまり箱崎宮は燃えていない
いかに闇夜であろうと三万の人間と二千の馬がいっせいに動けば物音がする。
それに気づかなければ物見と言えない。
また、物見が気づいたとして、それでどうなるのか。
終日戦って、負傷者を抱えながら13kmの道を歩いて水城にたどりつき、深夜にようやく
寝ついたばかりの武士たちが、物見の報告を聞いて起きだし、また13kmの夜道を
博多にとって返し、その上に危険な夜戦を行うのか?
それを期待するのは酷というものだ。
赤坂あたりに留まっているのならともかく、水城まで引き揚げたと言うことは、
その日の戦は終わりという意思表示だろう。
>>278 本来の運用法はそんな感じなのかな。
ただ、この撤退に限っては馬を捨てて逃げたかも知れない。
287 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 15:54:04.00
>>286 >ただ、この撤退に限っては馬を捨てて逃げたかも知れない。
それも考えたけど、2000頭の馬がうろうろしていたらなにか話が残りそうなものだ。
大宰府の戦利品になったとか。
最初から2000頭も連れてこなかったとか、
大敗したら馬も大半が失われるとかもあり得るな
289 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 18:23:16.53
>>288 >最初から2000頭も連れてこなかったとか、
少なくとも2000頭はいる。
蒙古襲来絵詞にもかなりの数の騎兵が描いてある。試みに歩兵との割合を数えてみると、
騎兵が15%ぐらいだったと思う。
また、八幡ノ蒙古記で少弐が劉に追いかけられる場面で歩兵と騎兵の数を書いているが、
これもそのくらいの割合だったと思う。
だから10%といいうのは控えめだ。
290 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 15:23:50.25
「元寇後の城郭都市博多」の古本をアマゾンに注文した。
読んだら内容を紹介するから請御期待。
博多が元寇後に碁盤目の計画都市に生まれ変わったのはなぜか?
面白そうだな
一方で佐藤鉄太郎氏は文永の役で博多は焼かれていないと主張してなかったか?
293 :
日本@名無史さん:2012/08/07(火) 15:43:10.33
>>292 そう言っているらしいね。
一方で、焼けてもいない町を強引に都市計画したというのは日本ではあまり
聞いたことがない。
そこのところをどうつじつま合わせているかを読みたい。
>>293 何もしていない自分から言うのも悪いけど、
できればジョー・ニッケルのように「対象にオープンな気持ちで向かい」、
「盲目的な信奉者ではなく、頑なな否定論者でもなく、あらかじめ結論を用意しない調査者として」
その本を読んでもらいたいものだね
295 :
日本@名無史さん:2012/08/07(火) 18:18:02.36
>>294 私は佐藤鉄太郎という人が「あらかじめ結論を用意した人」であるかどうかを検証したいのだ。
296 :
日本@名無史さん:2012/08/07(火) 20:23:41.46
モンゴルの白鳳も北條氏の三つ鱗つかってるけどモンゴルから伝わったのかな?
また三つ鱗はピラミッドの形してるけど関係あるのだろうか?
297 :
重要無名文化財:2012/08/08(水) 11:11:48.36
文永の役は、元にとっては大規模な威力偵察に過ぎなかった。
本気で日本侵攻を目標としたものではない。実質一日の戦闘で、撤退したのは
既定の作戦行動。
当時、元の主攻撃方面は南宋で、後代のどこかの軍人のようにやたらと戦域を
拡大するようなことはしなかった。
今でも、神風説を信じているのは愚の骨頂。博多湾では風はふいてはいない。
船団に帰路、晩秋の大陸からの季節風に遭遇した可能性はある。
文
本
既
当
拡
今
船
( ̄ー ̄)??
文永の役における元の意図が議論の対象となるのは、動員兵力があまりにも少ない事が主因であろう。
わずか4万、船員などを除いた実兵力では3万前後の兵力で日本を征服することは、いかに世界最強の
モンゴル帝国軍でも到底不可能であることに、異論はないだろう。
では日本征服には到底足りない軍を送ってきた理由は何か。解釈は大きく2つに分かれる
解釈1 元は日本を著しく過小評価し、4万で征服可能と考えていた
解釈2 元軍には日本征服以外の目的があった(真の目的は何か、それは達成されたかで、この解釈はさらに細分化される)
軍板の元寇スレでは、他の遠征軍との規模比較から解釈1が多数意見のようである。
一方
>>297氏の唱える威力偵察説は、解釈2の代表例である。しかし、威力偵察説は次の進行までの期間が長すぎること
弘安の役で威力偵察の成果が活かされている形跡が(空前の規模以外)見つからないのが難点である。
1〜2万程度の兵力で滅ぼされたパガン朝や国中焼け野原にされたハンガリー涙目過ぎるな。
いや、本気で日本を攻め落としたいなら、もう一桁上が最低限必要でしょう。
>>301 そんなこと元は知らんがな
あんたの意見は文永の役の結果を知っている現代人だからこそ言えることだろ
>>299 次の侵攻までの期間が長かったのは、南宋を先に落としてから日本侵攻という
大枠の計画があって、南宋を落とすのに予想外に時間がかかったからではないだろうか
威力偵察の成果が活かされなかったのは、元朝の組織が大きくなりすぎて
引き継ぎができなくなっていたからではないか
大枠の計画だけが残ってひとり歩きしてしまった
304 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 09:04:19.72
威力偵察なんて定義しだいだ。
現代の軍事学に照らして厳しく定義すれば威力偵察説を否定する根拠にことかかない。
しかし昔の戦争に現代の定義をあてはめることがそもそもの間違い。
「国書を送っているが奴らは返事をよこさないな。けしからん。一つ、脅しを兼ねて
小当たりに当たって見るか」
これでも十分に威力偵察である。
そして、威力偵察の成果は十分に生かされた。つまり、元は日本軍を容易な弱敵と見て、
次は屯田の準備までして来た。
ただ、その「成果」が誤りであっただけだ。
>>304 その理屈だと、文永の役で元軍は戦略目標を達成できたことになるよね
ならなんで元史には「日本軍は破った。それなのに軍の編成は乱れ矢も尽きてしまったので、ただ四境を略奪して帰った」
とか言い訳染みたことが書いてあるの?
なんで高麗史には「征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」とか書いてあるの?
出兵目的が「威力偵察」で、しかもそれが大成功だったならこんな精彩を欠く記述はせず、
戦略目標を達成した、大成功だったと書くだろ、普通w
>>304 日本軍を容易な弱敵と見たならなんで14万の大軍で攻めて来るんだよw
あ、南宋兵が棄民目的の屯田兵だったなんて言うなよ?
日本遠征に当てられた南宋兵は新附軍、つまりは南宋滅亡後に降伏した兵の中から
クビライの親衛軍に選抜された精鋭だからなw
南宋攻略の一環というのもイミフ。
どう考えても、その四万を普通に南宋攻めの増援に当てた方が効率良いでしょ。
308 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 14:56:36.50
>>305 >「・・ただ四境を略奪して帰った」 とか言い訳染みたことが書いてあるの?
軍を引くとき言い訳を書くのは元史のお約束。大汗の命に背いて南宋攻めの軍を
一週間で帰した言い訳は「長雨が続いたから」。
>なんで高麗史には「征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」とか書いてあるの?
それは年表だから最大限省略した文章。恐らく省略の結果文章の続きが悪くなったので敗れたこと
にしてしまった。
省略する前の文章は元宗世家(元宗の一代記)にある。
「冬十月・・・金方慶・・・與元元帥忽敦・・洪茶丘・・征日本、至一岐島、撃殺千餘級、分道以進、
倭却走、伏屍如麻、及暮乃解、會夜大風雨、戰艦觸巖崖、多敗・・・軍不還者無慮萬三千五百餘人」
省略する前は倭却走、伏屍如麻だから高麗軍が戦い敗れたとは正反対。
>>306 >日本軍を容易な弱敵と見たならなんで14万の大軍で攻めて来るんだよ
こんどは征服目的だからそのくらいは必要だろう。
309 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 15:10:29.20
>>309 「通説ではモンゴル人の将官の下江南より徴発された兵員が従事したと言われている江南軍の実態が、
南人である范文虎の指揮の下江南平定に従軍した漢軍と選抜された新附軍の混成部隊であった」
「江南平定前後、降伏した南宋軍人のうち精鋭は選抜されクビライの親衛軍である侍衛新軍にあてた。
軍役にそぐわない兵は帰農し、残りは蒙古漢軍の指揮下に分散して配置された。
李庭の預かった兵においてもその半数を新附軍が占めている」
「この侍衛新附軍を日本遠征に使用したことは世祖本紀に「給征日本回侍衛新附軍冬衣」とあることでも
明らかである」
「新附軍については「八幡愚童訓」「日蓮上人画讃註」らの記事から屯田目的の非戦力であったとする論もあるが、
漢文史料からそれらの事実を読みとることはできない。むしろ侍衛新軍に選抜された兵は精鋭であり、
諸路に分属した兵も十分に兵役に適すると判断された兵である以上、
江南軍に属した新附軍も十分な戦力として配属されたと考える方が自然であろう」
・・・堤一昭「弘安の役の江南軍について」より
「弘安の役の江南軍について」はここで読める
https://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:1hk4THSbmeoJ:www.geocities.jp/kmj_appli /report/rekisi2.doc+%E4%B8%96%E7%A5%96%E6%9C%AC%E7%B4%80%E3%80%80%E7%B5%A6%E5%BE%8
1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%9E%E4%BE%8D%E8%A1%9B%E6%96%B0%E9%99%84%E8%BB%8D%E5%86%AC
%E8%A1%A3&hl=ja&gl=jp&pid=bl&srcid=ADGEESg4KZUWexxlQoKnPbWYlvx4D-qZrJQoCECXSlu4th_
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312 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 18:36:25.74
>>311 >>310 >>311の資料によれば侍衛新附軍が江南軍のなかにいたようだが、それが江南軍の全てというわけでは
あるまい。
現に同資料によれば、江南軍のなかに答剌罕軍(ダラハン軍)がいたことは間違いないという。
ダラハン軍とは、
>>309の資料によれば、江南進攻の際に一般から募集した非正規軍で、食糧の支給を
受けずもっぱら掠奪を行うと言う、言わばごろつき部隊だ。
>>304 当時としてはモンゴル帝国史上空前(これ以降はもっと大規模もあるが)の大規模派兵を
「小当たり」とは…
>>312 > ダラハン軍とは、
>>309の資料によれば、江南進攻の際に一般から募集した非正規軍で、食糧の支給を
> 受けずもっぱら掠奪を行うと言う、言わばごろつき部隊だ。
食糧の支給を受けない? 渡洋遠征で、しかも敵の守りが堅く略奪どころか上陸もままならない戦いで
こういう兵がいたら…味方から略奪しているのだろうか?
314 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 22:06:12.11
>>313 >当時としてはモンゴル帝国史上空前
いいかげんなことを言ってはいけない。
それより半世紀も前の第一次ヨーロッパ遠征は威力偵察と言われるが、兵力は約4万だった。
これはもちろん漕ぎ手など含まないから、戦力は文永の役の元軍より大きい。
>食糧の支給を受けない? 渡洋遠征で、しかも敵の守りが堅く略奪どころか上陸もままならない
>戦いで こういう兵がいたら…味方から略奪しているのだろうか?
ソースを示しているのだから自分で読んだら?
南宋戦のごろつき部隊、ダラハン軍は南宋降伏後いったん解散されたが、再編成された。
たぶんそれ以降は正規軍で、それが江南軍に加わった。
正規軍とはいえ、前身が前身だから軍隊としてはどうかな、というわけ。
315 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 17:36:08.66
いわゆる福田文書を載せる。ウィキペディア「元寇」に載っている。
福田兼重申状写「右、去年十月廿日異賊等龍(襲カ)衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、
各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、
馳入大勢之中、令射戦之時、兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、
希有仁令存命、不分取許也、」
武家文書を読むのははじめてだが、なんとか読んで見よう。間違いがあったら指摘してくれ。
「右、去年十月廿日、異賊ら襲い渡りて早良郡に寄せ来たるの間、各々当所に相い向かうべく仰せ
蒙るの間、鳥飼潟塩浜に馳せ向かわしめて防戦せしむるのところ、彼の凶徒百道原に引き退くにつき、
大勢の中に馳せ入りて射戦せしむるの時、兼重鎧の胸板・草摺などに箭三筋射立てられおわる、
およそ大勢の中と雖も希有に存命せしめ、分取り許さざるなり」
「せしむる」などと書いているのは「令」の字で、使役形になっているがこれは単なる謙譲語で、
書き手じしんの動作である。
「分取」とは首を取ることで、要するに「危うく首を取られないで済んだ」と言っているのだと思う。
316 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 17:44:24.14
ごめん、読みに欠落があったので補って再掲する。
「右、去年十月廿日、異賊ら襲い渡りて早良郡に寄せ来たるの間、各々当所に相い向かうべく仰せ
蒙るの間、鳥飼潟塩浜に馳せ向かわしめて防戦せしむるのところ、彼の凶徒ら引き退くにつき、
百道原に懸け落とさしめ、大勢の中に馳せ入りて射戦せしむるの時、兼重鎧の胸板・草摺などに
箭三筋射立てられおわる、およそ大勢の中と雖も希有に存命せしめ、分取り許さざるなり」
317 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 20:28:10.06
福田文書から読み取れるのは、武士が元軍の戦術的退却に引き込まれ、大勢に取り囲まれて
生命を危うくするという、八幡ノ蒙古記に書かれているのと同じ状況である。
福田兼重は「希有に」存命したが、このことを裏返せば「希有」ではなかった多くの武士
たちがいたことになる。
また言えば、福田文書は書き手の負傷で終わるのであるから、戦闘そのものの終わりに
ついては何も言っていない。
318 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 20:55:49.51
それでは佐藤鉄太郎は福田文書をどのように引用および解説しているだろうか。
佐藤鉄太郎著「元寇後の城郭都市博多」から引用する。
<引用始め>
右、去年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、
令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶)徒等、令懸落百路(道)原、
この史料によれば、日本の武士達は文永十一年十月廿日に元軍と鳥飼潟塩浜に
於いて合戦を行い、その後、「彼山」の「凶徒」が「引退」と、つまり祖原山の
敵軍(元軍)が引き退いた、逃げ出したので、「令懸落百道原」と、日本の武士たちが
百道原に戦って追い払って、逃亡させた、ことを明確に記している。
<引用終わり>
319 :
日本@名無史さん:2012/08/11(土) 21:29:54.63
おわかりだろうか。
まず佐藤鉄太郎の、福田文書の引用の仕方に大きな問題が二つある。
その一つは「彼山(凶)徒等」である。
もともとの写しではこれは「彼山(凶カ)徒等」となっている。これは原文が「彼山徒等」と
読めたので、「山」の字は「凶」の字の誤記であろう、という意味である。
佐藤の引用ではこの「カ」が抜けているので、「凶」が脱落しているともとれるようになり、
その結果「山」と「凶」が両方とも生きるようになった。上に見るように、この結果は
解説に十分に生かされているから、「カ」が抜けたのは恐らく意図的である。
二つ目の問題は引用が「令懸落百道原」で終わっており、その後に続く福田の苦戦の状況が
ない。これは恐らく、戦闘がここで終わって、元軍の撤退につながったという印象を与える
ためであろう。
次に解説の大きな問題は、上記「山」の字が生きたことと関連して、この「山」が祖原山の
ことであるという、原文のどこにもない地名を持って来たことである。これもまた元軍の
撤退に関連していると思われる。つまり、原文通りならばそれは海岸のみの戦況なので、
祖原山の元軍が残ってしまうからであろう。それでは元軍がそのまま撤退したという結論に
つながらないので困るのである。
このような細工は、恐らく学者相手では通用しないが、一般の素人の読者には通用すると思って
やっているのであろう。学者の素人だましは「希有」なことではない。
元軍が鳥飼潟合戦の後、そのまま百道原から撤退したという説が正しいかどうかは別として、
その説を導くための佐藤鉄太郎の姿勢には疑問を感じざるを得ない。
320 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 15:28:19.24
次に敵方の記録から見よう。最もよく引用される高麗史金方慶伝である。
文永の役の戦闘記事のみ抜き出せば下記の通り。
入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、倭請降、後來戰、
茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、
方慶如植不少却、拔一嗃矢、弱゚大喝、倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、
伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、諸軍與戰、及暮乃解、
読みは解釈によって分かれるが、私の解釈によって読んで見る。
対馬島に入りて甚だしき衆を撃殺す。壱岐島に至れば倭兵岸上に陳す。之亮及び方慶婿の趙卞之を逐う。
倭は降ることを請い、後に来たりて戦い、茶丘と之亮卞が千余級を撃殺す。三郎浦に船を捨て、道を
分かって進み、殺すところ過当なり。倭兵突き至りて中軍を突き、長剣左右に交わる。方慶植えたる如く
却かず、一嗃矢を抜き、声を励まして大喝すれば倭辟易して走る。之亮、忻卞、李唐公、金天禄、申奕ら
力戦す。倭兵大敗し、伏屍麻の如し。忽敦曰く、蒙人戦いに習うと雖も何を以てか此に加えん。諸軍与に
戦い、暮れに及んで乃ち解く。
321 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 15:49:44.39
解釈が分かれるのは「三郎浦」をどこと見るかである。ウィキペディアや、恐らく佐藤鉄太郎らは
これを壱岐の地名と見る。しかしそれはあり得ない。なぜなら壱岐の話は「捨舟三郎」の前で
地名、経過、人名、戦果まで揃って完結していると見られるからである。
私は三郎浦を早良郡と見る。理由はまず音の一致である。早良は現在の音は「サワラ」であるが、
当時の音は「サウラ」であったと思われる。なぜなら「早」の字の当時の読みは「サフ、サウ」であり、
「早良」で「サウラ」となるからである。一方、「三郎」の朝鮮語音は「サムラン]で、類似する。
また到着を示す字が重複を嫌って、対馬、壱岐、三郎浦でそれぞれ入、至、捨船となっているが、
捨船はこのなかで最後の上陸地であることを暗示するとも取れる。
322 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 16:07:39.95
次に問題となるのは「分道而進」と「中軍」である。これについては金方慶伝の上記の文章の
前の段にヒントがある。原文を載せないが、そこには高麗軍を左軍、中軍、右軍の三軍に分け、
それぞれに指揮官を置き、金方慶は司令官であると同時に中軍の指揮官に任じることが述べられて
いる。
「分道而進」はこの三軍が、上陸地点からそれぞれの目標に向かって進んだことを言っていると
思われる。そして、後で述べることと関連するが、金方慶指揮する中軍は祖原山に進撃してこれを
占領し、ここに本陣を築いたと思われる。
そして恐らく右軍が赤坂山を、左軍が鳥飼潟を目指した。
確認すれば、ここまで述べたことはすべて高麗軍の行動である。高麗軍はこの段階では先遣隊として
単独で戦っているのである。そのように考える理由は後に述べる。
323 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 20:55:50.68
高麗史金方慶伝の「捨舟三郎浦」から「伏屍如麻」までは高麗軍単独の戦闘であり、高麗軍が
先遣隊として働いている描写である。なぜそれが言えるか。
カギはクドゥンの台詞をはさんで続く「諸軍與戦」にある。この「諸軍與戦」がなぜここにあるか
というと、これ以降は蒙漢軍等の主力部隊が追及、参戦したことを示すためである。
なぜそんなことが言えるかと言うと、弘安の役の壱岐戦の記述との比較による。
金方慶伝の弘安の役の壱岐戦の記述に、「周鼎先与倭交鋒、諸軍皆下與戦」 という文章がある。
これは金周鼎という高麗軍の部将が「先に倭と鋒を交えた」すなわちまさに先鋒を勤めた、
その後に「諸軍皆下與戦」つまり高麗軍以外の「諸軍が舟を下りて共に戦った」つまり後続部隊として
参戦したことを言っている文章である。「先」の字があるからそれが明瞭になる。
「諸軍與戦」という句にはこのような意味があり、かつその前の文章を受けて働くことが、上記の
例からわかる。
して見れば文永の役「捨船三郎浦」の後の「諸軍與戦」も決してそこから切れて別の文章になる
のではなく(もともとそんな無茶なことはあり得ないが)、前の文章を受けて、蒙漢軍等の主力部隊が
参戦したことを言っていると見られる。
前の文章とは「捨船三郎浦」に始まって「伏屍如麻」に終わる文章であり、「三郎浦」での金方慶の
活躍を述べる文章だ。その後にクドゥンの賛辞が入るからわかりづらくなっているが、それを
はさんで「諸軍與戦」が後続の軍の参戦を述べているわけだ。
というわけで、ここでの戦いでは金方慶軍が先鋒であり、先遣隊であることがわかるのである。
324 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 10:33:18.60
元軍が百道原に追い落とされて、そのままそこから撤退したという説がもてはやされている。
佐藤鉄太郎や、その影響を受けたと思われるウィキペディアなどがこの説を唱えている。
この説や類似する説を、便宜上「そのまま撤退説」と呼ぶことにする。
そのまま撤退説がよりどころとする主な史料としては、蒙古襲来絵詞の他にいわゆる福田文書が
ある。しかし上に述べたように福田文書は、その一部ではなく全体を見るならば、また無理な
解釈をせず素直に読むならば、元軍の後退に引き込まれて突入した武士が大勢に取り囲まれて
危うく脱出するという、八幡ノ蒙古記でおなじみの戦闘状況を述べているに過ぎないことが
わかった。
このような戦闘において、武士たちが百道原や姪浜まで突入したとしても、その地域を確保して
元軍を圧迫するというような、「そのまま撤退」につながるような状況では到底なかったと
考えられる。
一方、相手方の史料である高麗史金方慶伝を検討することによって、高麗軍が先遣隊として
ある時点まで単独で戦っていたこと、またその戦闘の結果「倭兵大敗、伏屍如麻」という状況が
現出した「後に」、蒙漢軍等の主力部隊が追及して参戦した(諸軍與戦)ことがわかった。
つまり、「倭兵大敗、伏屍如麻」の状況は、この日の戦闘の終盤の状況ではなく、高麗軍と日本軍
との間に起こった初期の戦闘が終わった後の状況であり、この「後に」主力部隊との間の本格的な
戦闘が始まったのである。
以上を踏まえて、この日の戦闘を時間を追って再現して見よう。
相変わらず長いだけで中身の無い文章だことw
日本は最初調子よかっただけで元が本気出したら一気にぼこられたのか
327 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 14:46:47.41
深夜、先遣隊の高麗軍が早良郡一帯に、主力の蒙漢軍が今津浜に上陸を開始する。
高麗軍は20日朝までに祖原山に司令部を置き、さらに赤坂山と鳥飼潟に進出する。
午前8時ごろ、菊池勢が赤坂山の高麗軍を攻撃して後退させる。孤立を恐れた鳥飼潟の高麗軍も後退。
竹崎勢と白石勢が祖原山に向かって攻撃。福田勢などが百道原、姪浜に向かって攻撃。
(これらの攻撃は個々の小集団の突入であり、地域を確保するものではなかった。高麗軍は
祖原山〜百道原の戦線を維持した)
今津浜から陸路進撃した蒙漢軍が高麗軍に追及し、参戦する。日本軍はじりじり押され、赤坂山
を取られる状勢となる。
包囲および元軍の水城への先回りを恐れた日本軍は博多・箱崎を放棄。箱崎神宮の宮司たちが
ご神体を奉じて避難。
元軍の別動隊が箱崎浜に無血上陸、箱崎神宮を焼く。
日本軍は赤坂山の奪回を試みるが失敗、夕刻に水城への撤退を開始。
蒙漢軍の劉復亨が小部隊を率いて日本軍のしんがりを追撃し、矢傷を負う。
元軍が軍議で撤退を決め、明け方までに乗船して撤退。
(註)遠征軍の総称を便宜上、元軍と呼んでいる。
328 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 15:51:48.31
>>327 >個々の小集団の突入であり、地域を確保するものではなかった。
小集団の突入だったら地域を確保できないとか意味不明理論。
赤坂山、鳥飼山がその小集団によって確保されたのは事実。
>祖原山〜百道原の戦線を維持した
バカ丸出し。当時の軍隊に戦線なんて作れるわけねーだろwww
>元軍の後退に引き込まれて突入した武士が大勢に取り囲まれて
>危うく脱出する
危うく脱出したとは一切書いてない。
戦争で危険な目にあうのは当たり前。
>今津浜から陸路進撃した蒙漢軍が高麗軍に追及し、参戦する。
根拠なし。新手が出現したという話は
史料上一切確認できない。
「高麗史」の記述も素直に読めば
「みんなで一緒に戦いました」というそれだけの意味。
>日本軍はじりじり押され、赤坂山
>を取られる状勢となる。
根拠なし。逆襲された話は一切存在しない。
>日本軍は博多・箱崎を放棄。
根拠なし。それだけでなく「八幡蒙古記」の
博多に避難民が集まっていた記述と矛盾する。
>日本軍は赤坂山の奪回を試みるが失敗、
全く根拠なし。
329 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 15:55:05.56
ちなみに戦線ってのは、WWIの西部戦線とかを指す。
中世〜近世の軍隊はまず人数が足りないし、
火力も低いので、
あんな風に薄く広がったらすぐ突破されてしまう。
当時、戦線なんて存在しないし、存在し得ない。
当時の戦争は点を巡る戦争だった。
330 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 15:57:50.97
ちなみに赤坂山、鳥飼山にいたのが朝鮮軍っていう
根拠のない憶測は、
「蒙古襲来絵詞」によってあっさり否定できる。
竹崎・白石にボコられてるのはどうみてもモンゴル兵です。
>>224 背景には朝廷勢力と武家勢力の対立か?
神社とかも祈祷で勝ったという形にしたいのか。
それと
三別抄を助けなかったのは、中立を維持したからって言ってみる(´・ω・`)
結局、北条時宗なんて微塵もですに他の元寇スレと変わらないな
333 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 16:57:17.65
>>328 >小集団の突入だったら地域を確保できないとか意味不明理論。
小集団が突入しても暴れ回るだけでまた帰って来る、いったん後退した敵はまたもとの場所を占める、
ということならば地域を確保していないではないか。
八幡ノ蒙古記が述べるのはまさにその状況。
>赤坂山、鳥飼山がその小集団によって確保されたのは事実。
それは別に否定していない。
では聞くが、祖原山と百道原はその小集団によって確保されたのか?
334 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 17:08:22.70
>>329 >当時、戦線なんて存在しないし、存在し得ない。
>当時の戦争は点を巡る戦争だった。
それはその通りだ。「戦線」という言葉は誤解を招くので単なる「線」に訂正する。
しかし「点」と言っても攻城戦ではないからまったくの点ではない。
現に祖原山に向かった竹崎に対して敵は迎撃隊を出して来て、祖原山より手前の
場所で戦闘が行われた。
つまり点と言っても一定の地域を支配するための基点なのだ。
335 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 18:13:24.92
>>330 >竹崎・白石にボコられてるのはどうみてもモンゴル兵です。
まあ、モンゴル兵はあまりいなかったが、蒙漢軍兵士のこととしよう。
高麗軍と蒙漢軍は外観(装備?)で識別できるというソースは何か?
336 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 18:25:41.35
>>328 >「みんなで一緒に戦いました」というそれだけの意味。
そんな幼稚園児みたいなことを字数を使ってわざわざ書くのか?
「諸軍與戦」の意味については
>>323に詳しく書いたからもういちどよく読むように。
>逆襲された話は一切存在しない。
一切存在しない? 八幡ノ蒙古記に「赤坂にまで乱入し」とあるではないか。
元軍が「そのまま百道原から撤退した」という記録なら一切存在しないけどね
337 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 19:14:19.54
>>336 >>323の理論は飛躍と憶測の繰り返しで論ずるに足りない。
既に述べたように「蒙古襲来絵詞」のモンゴル兵図像とは完全に矛盾。
>一切存在しない? 八幡ノ蒙古記に「赤坂にまで乱入し」とあるではないか。
全文引用↓
>元軍は勝ちに乗じて今津、佐原、百道、赤坂まで乱入して、
>赤坂の松原の中に陣を布いた。
御前の言う状況と全くそぐわない。
文脈からして第一次赤坂の戦いを、
八幡神に都合よく捻じ曲げたものだろう。
338 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 19:16:11.83
>>333 信頼性:
一次史料>>>>>>越えられない壁>>>>>八幡の蒙古記
>では聞くが、祖原山と百道原はその小集団によって確保されたのか?
史料を読めばそうとしか読めない。
339 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 22:36:03.56
>>337 >既に述べたように「蒙古襲来絵詞」のモンゴル兵図像とは完全に矛盾。
だから、その図像がモンゴル兵とどうして断定できるのか、と聞いているのだが。
>>338 >史料を読めばそうとしか読めない。
ぜひその、そうとしか読めない資料を教えてくれ。
念のためだが、日本軍が祖原山と百道原を確保した、という史料な。
>>339 元軍は撤退してるから
日本軍が祖原山と百道原を確保した
が正解
341 :
日本@名無史さん:2012/08/14(火) 09:07:25.30
>>340 君の結論はもう知っている。
そうじゃなくて、君は
>>338で、
>史料を読めばそうとしか読めない。
つまり、日本軍が祖原山と百道原を確保したとしか読めない史料がある、と
言ったのだ。
その史料を教えてくれ、と言っているのだが。
342 :
日本@名無史さん:2012/08/14(火) 09:12:20.46
>>340 あ、それから蒙古襲来絵詞の兵士図像がモンゴル兵と断定できるという根拠もよろしく。
>>341 数ヶ月ぶりに書き込みしたんだけど
私の結論を知ってるとは
記憶力がいいですね
344 :
日本@名無史さん:2012/08/14(火) 09:54:44.00
345 :
日本@名無史さん:2012/08/14(火) 14:55:31.73
それにしても「そのまま撤退説」は、なんと多くの史料を否定することか。
八幡ノ蒙古記:夕刻の戦闘、博多箱崎の放棄、水城への撤退、水城街道での劉復亨負傷
一代要記:「宰府軍等みな逃げ終わりぬ」
高麗史金方慶伝:「倭兵大敗し、伏屍麻の如し」「暮れに及んですなわち解く」
元史:「その国に入り、戦ってこれを敗る」
これらの史料のうちどれか一つでも認めれば「そのまま撤退説」は成立しない。
これだけのものを否定しなければ成立しない学説は、どこかおかしいのだ。
それでは「そのまま撤退説」が何に準拠するのかと言えば、それは蒙古襲来絵詞と福田文書だ。
これらの史料は確かに貴重な「一次史料」には違いない。しかし性質が違う。
頭書の各資料は事件全体の最終的な評価であるか、事件全体に亘って述べた歴史記述であるか、
どちらかだ。
それに対して絵詞や福田文書は、限られた範囲の時間および地域における個人の記録だ。
絵詞や福田文書が信頼できる、だから日本軍が勝った、というのは、例えて言えば
真珠湾攻撃における一パイロットの報告書を見付け出して、
これは一次史料だから信頼できる、この史料によれば太平洋戦争で日本は勝った、と
主張するようなものだ。
それを言ったら元史や高麗史だって日本人に聞き取り調査したとは思えないし、
一次史料でも何かしらの欠陥はある
>>345 どの程度の期間占領したと考えているの?
348 :
日本@名無史さん:2012/08/14(火) 18:18:54.88
>>346 >それを言ったら元史や高麗史だって日本人に聞き取り調査したとは思えないし、
日本人に聞き取り調査したのでない元史、高麗史と、
モンゴル人、高麗人に聞き取り調査したのでない八幡ノ蒙古記とが一致しているからこそ
信憑性が高まる。
349 :
日本@名無史さん:2012/08/14(火) 18:22:00.96
>>347 >どの程度の期間占領したと考えているの?
質問の意味がわからない。
どの側によるどこの占領?
>>349 元々日本側の領土で
それを元が占領したんでしょ?
そしてそれを日本側が取り戻した
その時間割
351 :
日本@名無史さん:2012/08/14(火) 20:15:56.69
>>350 九州の話ならば元軍は19日の午後10時ごろ上陸を開始した。
帰ったのは21日未明と思われる。
だから1日と数時間滞在した。
>>351 どこで戦ったとか、意見の割れてるところは全部無視すると
19日。午前に上陸して日本側と戦闘になった。この夜、元軍兵がどこで寝たかは判らない。
20日。よく解らないが多分終日戦っていたんだろう。その夜、元軍は徹夜で夜逃げした。
21日。朝、日本側が見たら元軍はいなくなっていた。
こういうタイムスケジュール?
353 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 09:52:45.72
>>352 ちゃんとそう書いたのだが上陸は19日午前じゃなくて午後10時。深夜だ。
(一代要記に十九日亥の刻とある)
だから19日には大きな戦闘は無い。
そして敵軍は翌朝午前8時ごろまでに赤坂山、祖原山、鳥飼潟に進出していた。
(八幡ノ蒙古記に、辰の刻ごろに戦が始まった、とある)
赤坂山の敵への菊池勢の突撃で戦闘が始まった。
これに続く竹崎、白石、福田らの突撃も全て朝方のことと見られる。
354 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 14:32:34.58
「そのまま撤退説」のもう一つの根拠が、劉復亨が百道原で少貳景資に射られて負傷したと
いう説だ。
総大将の少貳景資が前線に出てくるほどだから鳥飼潟戦は両軍の一大決戦であった、これに
敗れた元軍が百道原から「そのまま撤退」した、というわけだ。
しかし百道原は福田兼重が突撃して大勢に取り囲まれ、「希有に」も首を取られないで済んだ、
と言っているほどの戦場だ。
そんな危険なところに総大将が出て来て、元軍の副将と射程距離で相まみえ、しかも自ら敵を
射止めるというのは、いくらなんでも講談ではないか?
劉復亨百道原負傷説の根拠は「武藤系図」だ。「弘安蒙古出来時、蒙古大将於百道原射留ラル」
この資料は弘安の役と書いてあるので、その分信憑性が落ちる。
ところがここに援軍があらわれた。「新元史」だ。劉復亨伝として次の文章がある。
「戦于百道原、復亨披赤甲、縱横指揮、鋒鋭甚。日本将三郎景資射復亨墜馬、乃引軍還。」
劉復亨が百道原で戦って三郎景資に射られて落馬したと書いてある。日本の百道原説者が泣いて
喜ぶ内容だから、「外国の史料にもある」と言ってさかんに引用される。
では新元史とは何か。なんとこれは1920年代に中華民国の人が編纂した歴史なのだ。そんなものは
武藤系図などの日本の資料を参考にしたに決まっている。武藤系図の裏付けにはならない。
武藤系図の話は、文永の役で景資が敵の大将を射止めたという言い伝えと、弘安の役で景資が百道原
で指揮したという言い伝えとが合体してできあがった家伝であろう。
355 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 22:07:16.51
昭和にも彼のような政治手腕のある人がいれば、
無駄な戦争なんて起きなかったろうと終戦の日に思う。
356 :
日本@名無史さん:2012/08/16(木) 11:02:48.70
八幡ノ蒙古記の、劉復亨射落とし事件のくだりを載せておく。
読みやすくするために、文体はそのままだが仮名遣い、漢字遣いを現代文風に直している。
戦、辰刻より始まりしが、日も暮れ方になりしかば、あなたこなたにさゝやき事こそ多くなりにけれ、
何事にかあらんと怪しみしに、しよせん武力及ばず、水木城に引き籠もり、支えて見んと、逃げ支度を
こそ構えたりけれ、これを聞くより遅しやとて、我先に落ち行くが多かりければ、いよいよ臆病神に
誘われて今は一人も戦わんと思う者こそ絶えにけれ、ここに大将小貳景資、蒙古の大将と思しくして、
丈七尺ばかりの大男、髭は臍あたりまで生い下がりたるが、赤鎧に葦毛なる馬に乗り、十四五騎うち連れ、
徒人七八十人あい具して追いかくる、その時、景資が旗のせみ口を鳩翔りしかば、八幡大菩薩の御影向と
頼もしく思い、屈強の馬廻に弓の上手がありしかば、それに下知して、逸物の上馬に乗せ、一鞭打ちて
馳せ出させたり、かの奴原を見返りて、よっ引き放つ矢、一番に駆けたる大男の直ん中を射つらぬき、
逆さにこそ落ちたりけれ、付き添いたる郎党ども、これを驚き抱え入りける紛れにぞ、景資、水木城の
方へ引き返す、その時、同じ葦毛馬に金作りの鞍置きて馳せ出たる異敵を追い廻し捕えたり、この者に
彼の大男を尋ぬれば、蒙古一方の大将、流将公と言う者なりとぞ。
357 :
忍法帖【Lv=2,xxxP】 :2012/08/16(木) 12:21:07.53
北条宗政の1281年の死去は戦傷死なのかな?
358 :
日本@名無史さん:2012/08/16(木) 13:48:43.25
八幡ノ蒙古記によれば、20日夕刻の自然休戦は、日本軍側では、個々の自発的戦線離脱という
形を取った。大将の少貳景資は、軍律をもってそれを制止するだけの権威を持たなかった。
かと言って、立場上、大将が先に撤退するわけには行かないから、成り行きとして少貳景資と
その供回りがしんがり軍を勤めることになってしまった。
蒙古軍は、撤退する日本軍を追撃するだけの余裕を持たなかった。朝からの戦いで損害や疲労
が大きかったからである。しかし劉復亨は野心を抱いた。彼は親衛隊を率いて、遠目にも高位
の武士とわかる景資を生け捕りにしようと、景資の一隊を追撃したのである。
八幡愚童記では一対一で劉に追われた景資が苦し紛れに射た矢が当たったと、やや講談調に
なっているが、八幡ノ蒙古記はよりリアルである。景資は弓の名手である一人の部下に、良馬
を与えて迎撃させたのである。良馬は逃げるときの算段であろう。
ただ一騎で向かうのであるから、その使命は敵将を射ることのみである。そしてその部下は
見事に使命を果たした。八幡神の加護はつけたりである。
以上のように、八幡ノ蒙古記の記述は、この事件に関していささかの講談調もない。いかにも
リアルである。最も講談調なのは「そのまま撤退説=劉復亨百道原負傷説」であり、やや
講談調なのは八幡愚童記である。
パフォーマンスさんの欠陥は、中世の領主連合軍の指揮命令系統が近代の機械的軍隊のそれと同一ではないことをもって、
日本側の統制欠如と見なしていることにある。
各部隊の長=領主の裁量の範囲内での戦闘停止は当然の判断であり、例えば領主が敵前逃亡を行ったような事例は一切ない。
日本側の軍律紊乱を無理やり認定しているに等しい。
つーか「さん」とか敬称を付けちゃったけど今読んだらデタラメな説を相変わらず唱えてるのを見ると
パフォ くらいでいいや
361 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 08:47:21.80
>>359 >各部隊の長=領主の裁量の範囲内での戦闘停止は当然の判断であり、
全く君と同意見だ。
領主の判断であって総大将の判断/命令ではない。
それを「自発的戦線離脱」と言ったのだ。
>日本側の軍律紊乱を無理やり認定しているに等しい。
私がどこで「軍率紊乱」という言葉を使ったかな?
君の言う通り、それが中世のいくさの姿なのであって、別に軍率紊乱ではない。
私が「軍律をもってそれを制止するだけの権威を持たなかった」と言ったのは、
近代の軍隊や当時の元軍とは軍律のあり方が違うことを言っただけだ。
当時の日本の内戦の常識なのは理解できたとしても、
そんな戦い方してたら、日本勢弱いんじゃないの?
合戦中に総大将が後もう一押しと思っても、
前線の領主達が損害に耐えられなくないと判断したら、離脱しちゃうんでしょ?
合戦が成り立たないでしょ。
そうなると、やっぱり集団戦法とってた元軍の方が強そうだよね
363 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 09:22:02.14
攻め手の元軍はその多くが元軍が攻め滅ぼした前王朝や周辺国(朝鮮半島ほか)の遺臣や遺民。
実際のところ侵攻軍の内実は前時代の厄介者の廃物利用&粛清処分(クリンナップ)対策が本音で、
元帝国にしてみればメンツは削がれたけど蚊に刺された程度の損害。
何しか元帝国はユーラシア大陸を殆ど席巻したモンゴル世界帝国の本宗家ですから。
>>355 時宗はそんな果断なリーダーでもない。二月騒動の名越時章を殺した、御内人への
処分といい、文永後の異国征伐計画をこっそり中止したりなど、一門や御家人、御内人
のあいだで死ぬまでゆれ続けたのが実際だよ。
365 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 19:17:03.09
366 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 20:54:03.79
徳川は河内源氏 江戸城をつくったのは摂津源氏
367 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 21:15:19.31
大田どうかん→小田原北條→徳川家康
368 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 22:27:34.11
太田道灌とは、稲荷山鉄剣で有名な大彦の末裔。
日本書紀によると、笠原直使主と笠原直小杵は武蔵国造の地位をめぐり争っていた。
安閑天皇元年(534年)、小杵は上毛野君小熊の力を借りて、使主を殺害しようとした。使主は大和朝廷に助けを求め、小杵を破った。
敗れた上毛野国(太田天神山古墳)と、武蔵南部(荏原台古墳群)の力が弱くなり、勝利した武蔵北部(埼玉古墳群)の力が強くなったとする説がある。
しかし、太田氏は滅んだわけではない。太田氏は、江戸時代まで、古墳時代から続く古豪として北関東に大きな勢力を持ち続けていたのだ。
凄いじゃないですか。
>>365 戦争で奮闘した御家人、本所一円地の住人、甲乙人のような非御家人たちは
ろくに恩賞ももらえずすでに始まっていた社会の液状化を促進させた結果だけどね。
特に後者は非御家人の扱いなのに異国警固の負担もさせられるようになる
ふんだりけったりな結果になった。
>>362 日本軍=プロフェッショナルの軍隊。部隊指揮官レベルがある程度の裁量権を許された上で、有機的に連携していた
蒙古軍=かね・銅鑼・太鼓で箸の上げ下ろしまで指図しなければ統制が保てない軍隊だった
司令部に戦況の情報がリアルタイムで集まらなかった場合でも、
各部隊長の判断で戦機を捉え得る。優れたシステムだよ。ただし統制力がもともと欠如してる軍隊には実行不可能
>>364 未曽有の国難にあって対処を誤らなかった。当たり前のことが有事に当たり前に出来る、これはすごいこと。
どこかの総理のように、有事にかっこいいことをしようとして逆にドツボるのがいるでしょ。
その指導力は認めざるを得ない。
御家人への恩賞問題が鎌倉幕府滅亡に繋がったという従来の学説は今でも有力なのか?
幕府滅亡に恩賞問題を絡める見解は既に過去のものだと思われる。
元寇を契機とした鎮西探題設置などが原因の一つとして挙がることは挙がるが、直接的関連性はないうえに、
幕府が倒れたから結果的にネガティブに見られるという側面が強いのは否めない
>>372 幕府の滅亡は本所一円地への対処を誤って大量の不平分子を生み出したことだけど
対蒙古戦の恩賞問題は御家人、非御家人の構造改革をもたらし、北条一門がかつての
平氏一門のように全国への浸透につながった。この蒙古襲来前後のなしくずし的な幕府による
全国統治は理念や組織力の欠如による約束された失敗だったといえる。守護代が利権欲しさに
港を焼き討ちするようでは山口組や工藤会が知事や市長をやっているのと変わらん。
>>371 結局蒙古戦の恩賞は霜月騒動による安達泰盛一派の没収領地をあてるはめになり、
北条一門への粛清も行われる最悪の結果をもたらしたがな。
未曾有の国難とやらはしのげても身内の問題は対処できなかったわけだ。
それこそが幕府及び自身の子孫への災いの種になったのだがな。
それは執権北条氏に対する評価が辛すぎるね。
それに北条一門が全国に浸透したことそれ自体はべつに構わないんだよ。
鎌倉幕府の滅亡は、高時政権が得宗の病弱と言う要因ゆえに積極的な対朝政策を取りにくかったと言う要因が大きい。
だいたい元の国書に対しては朝廷も「ふざけんじゃねえ」と言う趣旨の返書をしようとしたが、
幕府に黙殺しなさいと言われて止められている。国論は一致しており、文永の役は幕府の責任ではない。
376 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 01:38:09.36
九州の御家人には国土防衛をやってもらう代わりに
関東御領や荘園領主の土地を分かち与えたり
年貢の軽減など、幕府は色々と気を使ってい罠
恩賞問題で幕府はほろんだと言ってる人が多いが、
九州で討幕の動きが大きく展開されたとは思えないんだが
足利・新田・楠木・赤松・足助・土岐・名和・佐々木は元寇とは関係ないだろ
(元寇関係では、時宗の抜擢で足利一門の吉良満氏が越前守護になってるぐらいか)
あっちから攻めてきた敵を倒したからといって領地が得られるわけでもなく、
賠償金を請求できるわけでもなく、ただただ指をくわえているしかない。
北条氏は自分の領地を削って分け与えられるほどの金持ちでもないし、
戦費は消費税率引き上げで賄うしかないんじゃないのか?
元への内通者ってことで、誰かを討伐するか、
高麗に攻めこめばいいじゃん
380 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 16:04:17.49
そういう知恵が働かなかったんだろうな。
381 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 18:57:21.35
>>378 不思議なことに元寇以後に九州御家人の領地が増えている件
382 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 19:00:27.56
>>981 どうやって増やしたんだ?
北条家の直轄領でもくれたのか?
竹崎さんも増えているんだよな。
馬も貰ったみたいだし
385 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 21:31:32.65
>>384 幕府は朝廷と交渉して貴族の領地や寺社の領地
の地頭職を鎮西御家人に分け与えていた。
あと北条氏領・関東御領・守護領の地頭職も与えている。
恩賞と言うよりは第三次元寇に対する備えのため。
あと幕府は鎮西御家人が四国や本州に分散して持っている所領を、
九州に集中させるようにしていたらしい。
>>378 なぜ戦国時代に日本は豊かになったのでしょう
おかしいね、どこからも何も取ってなくて争ってただけなのにね
と考えてみるとすぐに分かる。
387 :
忍法帖【Lv=2,xxxP】 :2012/08/21(火) 09:34:56.32
非常時に中央と地方を密にして、トップダウンができるようにするために、
北条一族の守護職独占・御内人の重用は当然だが、
非常時が過ぎてもそれを続けたため、北条氏による幕府の私物化と受け止められて
嫌悪感を抱かれたのだろう
それに御家人の貧窮化・悪党化が幕府への不満に拍車をかけた
得宗被官だった可能性が濃厚な楠木
六波羅の職員だった赤松
大物御内人安藤蓮聖一族
後醍醐について幕府滅亡へ導いた連中の中で真っ先に動いた連中は幕府構成員が多い。
特に在京の六波羅職員は探題の仲時の最期までには離反したものが多く(蓮聖の子助泰が有名)
鎌倉幕府の滅亡は京周辺の監視役達の造反が口火となったといえる。
この連中に共通している流通支配に絡んだ富裕層だということからも
元弘の乱は革命というよりは下克上に近い。
あのね(´・ω・`)
たった二回それも短期間で終ったイメージなの、元寇は。
それなのに、ここまで書き込むって凄すぎ
多分、あの当時の武士や蒙古より詳しいんじゃない?
それでいて、トリビリ過ぎて枝葉末節の議論も置きまくっていると思うの
結局文永の役は武士の負けでつね
武士はふるぼっこにされたけどたまたまモンゴルの矢が尽きて命拾いした
>>391 で、博多大宰府を防衛した日本軍に対し元軍は何らかの戦略目標を達成できたの?
戦争の勝敗は何人殺したかじゃないぞ
略奪によりある程度の収穫を得ました!(キリッ
>>393 南宋攻撃の側面支援。鎌倉には禅宗の中国僧や留学帰りの僧が
多数いたから、大陸の情勢は分かっていた。だから幕府は文永後、
幕府の支配を本所に拡大させ、兵士や物資を徴発し九州に防御施設を
作ったんだろうが。
先生!その兵力を素直に南宋攻撃に当てた方が効率が良いと思います!
180 名無しさん (2010/07/27(火) 23:20:41 ID:Rgi7bxPARA)
「文永の役威力偵察説」と並ぶインチキ学説に、「元寇は対南宋戦の側面作戦説」がある。
要するに、クビライは日本なんかどうでもよかったが、南宋を孤立化させるために攻めて来ただけって説ね。
勿論、史料的根拠なんて一切無し。
それどころか、クビライ自身が「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ」と明言してることも完全無視。
南宋を孤立化させるためにしては文永の役のタイミングが遅すぎるし、南宋征服後に行われた弘安の役は
一体何なんだ?なんてことも気にしない。
更に滅茶苦茶なのは、多くの学者連中が「文永の役威力偵察説」と「元寇は対南宋戦の側面作戦説」を
同時に採用してること。
ちょっと考えればわかるけど、「文永の役威力偵察説」と「元寇は対南宋戦の側面作戦説」って絶対に
両方同時には成立しない。
結局のところ、連中は日本がモンゴル帝国に勝ったことを認めたくない一心で、思考停止状態なんだよね。
398 :
日本@名無史さん:2012/08/22(水) 15:08:44.76
>>397 >ちょっと考えればわかるけど、「文永の役威力偵察説」と「元寇は対南宋戦の側面作戦説」って絶対に
両方同時には成立しない。
どうして両方同時には成立しないのでしょうか?
威力偵察説が真なら二段階侵攻前提の二正面作戦になって側面作戦足り得ない
400 :
日本@名無史さん:2012/08/22(水) 21:42:42.69
元軍は冬の季節になると海が荒れて帰るに帰れなくなることを恐れた、というのが短期作戦説の
一つの根拠だが、
冬の対馬海峡が当時の航海技術では渡れなかったというのはどのくらい本当だろうか。
>>400 かなりマジというか、汽船の普及までは日本行き航路は結構命懸け。
ただ、今年のカレンダー見て旧暦10月20日って、グレゴリオ暦だともう12月入ってるじゃないか!
冬の嵐が怖いなら春まで延期しろよ。
ていうか、もし一歩間違えて帰れなくなったらどうする気だったんだろうか?
>>397 金を攻めた時も同時に朝鮮を攻めている。なにもおかしくない。
モンケが南宋を攻めた際はフビライは大理を攻めている。
モンゴルの多方面戦略を知らんものがちょっとなんてどの口で言うのやら。
結局のところ日本がモンゴルに勝ったことを必要以上に持ち上げたいだけなんだよな。
慢性的な知識不足が招いたもといえる。
>>403 多方面戦略が常道のモンゴル帝国を「元寇は南宋攻略の側面説」に持っていったのは
日本が勝ったことを認めたくない連中だろ。
そもそもいくら交易してたからって、南宋からかなり遠く離れた日本を
南宋を牽制するためという理由がメインだと
兵を送るメリットとデメリットが釣り合わないな。
お次は「朝鮮半島の支配を確立する為に半島へ兵を動かす大義名分」説辺りが飛び出すかな?w
樺太や琉球にも出兵するぐらいだから単なる征服欲だろ
4万の軍勢で日本凹れたって言うならなんで弘安の役では14万も増やしたんだろうな
他でも戦闘あって余裕あった訳じゃないだろうに対日本に過剰に増やしすぎなんじゃない?
兵士を矢を増やすべきだなw
>>387 嫌悪感なんてどの時代でもあるよ。
江戸時代初期だって大胆な改易転封で徳川家親藩、譜代の前線はどんどん西国に伸びている。
410 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 08:45:24.98
>>406 文永の役は威嚇と偵察の短期作戦で4万。
これで日本与し易しと見たから弘安の役では征服〜屯田の長期作戦で14万。
>>410 九州上陸から1〜3日程度戦闘して撤退しただけで3割を失いましたという
偵察から得た結果が「与し易し」となる思考回路が判らない。
412 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 09:21:13.96
>>411 船が難破して溺死者が出るのは戦闘とは無関係。
偵察結果は「その国に入りてこれを敗る」「倭兵大敗して伏屍麻のごとし」
>>412 それ対馬壱岐の戦闘の描写では?
元軍には対馬壱岐は日本の入り口に過ぎず、わずかな守備兵しか常駐してないとの認識がなかった。
あと九州上陸戦のわずか1日の撤退は、壱岐での日本武士・住民の抵抗が原因になってる可能性もある。
そもそも弘安の役以上の兵力送りこんだのなんて南宋の時くらいやんか。
与し易しなんて感じてたんならそれこそパガンの時みたく二万程度で十分と見做すでしょ。
>>410 元軍は三千人の兵力で陳朝の首都昇龍を陥落させ属国化、
七千人でパガン朝ビルマを滅ぼし、チャンパ侵攻軍は2万5千人で首都ヴィジャヤを攻め落してる
日本遠征と同じ渡海作戦であったジャワ侵攻軍も二万人程度
威嚇と偵察が目的にしては文永の役の四万という兵力は多すぎる
>>402 おそらく一歩間違えれば帰れなくなる可能性を知って参戦した高麗の水夫頭や部将もいたと思われる。
だから戦況不利を契機に早期撤退論が支持を得たのかも。金方慶ってあの記述の通りの主張をしていたなら、かなり無能な将軍だね。
417 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 14:39:01.44
>>413 >それ対馬壱岐の戦闘の描写では?
いや、本土戦だ。
金方慶伝の壱岐の戦いは、「捨船三郎浦」の前までで、到着地、戦況、殊勲者の人名、戦果まで
入って完結している。
その後に「捨船三郎浦」で、三郎浦=早良郡に上陸して本土戦の記述が始まる。
高麗史だから書かれているのは高麗軍の活躍だ。その戦果としての「伏屍麻の如し」を総司令官の
クドゥンが賞賛するせりふがあり、その後に「諸軍與戦」で蒙漢軍と共同での戦闘になり、
それが「暮れに及んですなわち解く」で自然休戦になって例の軍議の話につながる。
なんの不自然さもない。
418 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 15:08:04.00
>>416 >威嚇と偵察が目的にしては文永の役の四万という兵力は多すぎる
それらの国々に較べたら日本が軍事大国であることを知っていたからじゃないの?
それに、4万の兵力で日本で越冬する計画でなかった限り、時期的(季節的)に言って
短期作戦であったとしか考えられない。
なんのための短期作戦か? その説明が威嚇と偵察だ。
他の国々と同じように首都を制圧して屈服させ
悠々と帰るつもりだったとは考えないの?
420 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 18:42:57.63
>>419 漕ぎ手などを除けば実力3万以下の、補給を全く持たない軍隊にそれをやらせようと言うの?
>>420 元あるいは高麗は、それが可能だと考えていたのではないか?
>>416 金方慶というか、高麗の事情かもしれないな。
言い出しっぺなのだから自業自得かも知れないが、日本侵略準備が
高麗にかけた負担は並大抵ではなかったようだ。
「出直しとなったら高麗は国が傾く」。そういう危惧を抱いた金方慶は
文永でけりをつけることに未練が残っていたというのはどうだ?
423 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 20:35:40.87
>>421 それが可能かどうか、やって見るのも偵察のうちだ。
>>423 その理論だと、撃退されたあらゆる軍隊は偵察任務に成功したことになるな。
「やってみたが駄目だった」という情報を得られたという理由で。
425 :
日本@名無史さん:2012/08/23(木) 21:11:22.11
時宗が死んだ後も攻めてきたら
日本オワタって具合になってそう
>>425 偵察任務を帯びていたと考える根拠は、偵察を命じた命令書とか見つかったの?
それとも元軍の行動結果からの考察?
後者だとしたら
>>419のつもりでいたけど失敗したのではなく、当初からの予定通りと
判断した理由は?
「航海技術的に異常な実施時期」「極端に短い九州滞在」「あまりにも危険な撤退手段」が
当初からの予定通りだとしたら、元の作戦立案者は乱心していたとしか思えないな。
>>420 ジャワ遠征軍は補給を全く持たず、水夫も含めて2万の軍勢でジャワ島を制圧してるよ
もしこの部隊が日本の時みたいに沿岸部で撃退されていたら「単なる威力偵察で予定通りの撤退だった」ことになるの?
大体4万の兵と軍船を犠牲にして手に入れたい情報ってなんだよ
アホらしい
もっと早く攻め込むつもりだったのが遅れちゃって、でもお役所仕事だから
止めるに止められなくて「航海技術的に異常な実施時期」になったのかもね
つーかただ単に見積もりが甘かっただけなんじゃないかね
現地で略奪しながら大宰府落せると思ってたんだろうな
壱岐対馬松浦党は数の暴力で凹れたんで調子乗ったら日本の本隊相手に形勢不利にされて撤退
432 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 08:19:13.25
>>427 >偵察任務を帯びていたと考える根拠は、偵察を命じた命令書とか見つかったの?
一般論で質問されたから一般論で答えたのだ。
「偵察を命じた命令書とか見つかったの?」という質問は、4万で完全征服を命じた
命令書が見つかってからにしてね。
あ、「征日本」はだめだよ。単に遠征すれば「征日本」だから。
433 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 08:54:55.81
>>428 >ジャワ遠征軍は補給を全く持たず、水夫も含めて2万の軍勢でジャワ島を制圧してるよ
>もしこの部隊が日本の時みたいに沿岸部で撃退されていたら「単なる威力偵察で予定通りの撤退だった」
>ことになるの?
全くその通り。ただし「威嚇と偵察」ね。
ジャワ遠征は文永の役とよく似ていて、朝貢の求めに応じないジャワの王朝に対する威嚇を
目的とした短期作戦だった。
この時の元軍は、たまたま起こっていた内乱の一方の勢力と同盟して共同作戦したので他方を滅ぼす
ことができた。
それで帰り支度していたら、同盟した勢力が裏切って攻勢をかけたので元軍は壊滅して逃げ帰った。
こんな偶然がなかったら、元軍はある程度の打撃を与えて「威嚇と偵察」の目的を達し、いったん
引き揚げて相手の出方を見ただろう。
434 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 09:07:04.90
>>429 >大体4万の兵と軍船を犠牲にして手に入れたい情報ってなんだよ
はじめての手合わせなんだから得られた経験の全てが情報だ。
>>422 金方慶があくまで継戦を主張したとしたら、出直しのための出費が原因じゃなくて、
1日で撤退したらフビライの女婿である忠烈王の立場がないという政治的配慮によるものかも知れないね。
戦況不利は分かっていても、強硬論を吐かざるを得なかったのかも。取締役が議事録に異議を留めるようなものかな。
>>426 いや、遠征準備には数年を要するし、霜月騒動は弘安8年だから到底日本の準備不足に付け込むことはできないよ。
>>434 すると得られた経験の全てに基づいて日本征服に10数万は必要と判断したわけだから、
日本軍は文永の役で蒙古軍の認識を根底から変えるほど勇戦敢闘したことになるよね?
438 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 09:44:49.64
>>437 14万と言っても内容はたいしたことないし。
こんなんで十分、と考えて屯田まで準備したのだから相手を甘く見たとも取れる。
ちなみに第三次ベトナム遠征は30万以上だ。
>>438 >14万と言っても内容はたいしたことないし。
江南軍は投降した南宋兵の中から選抜された新附軍や南宋平定に従軍した漢軍、
クビライの親衛軍に抜擢された精鋭侍衛新軍などから構成されてるわけだが
中にはダラハン軍のような非正規軍も含まれるとはいえ、
明らかに棄民や屯田目的の非戦力などではなく十分な戦力として配属されてる
>ちなみに第三次ベトナム遠征は30万以上だ。
それあくまでもベトナム側の主張ね。
「元史」によれば第三次派兵の兵力は9万人程度
>>433 >ジャワ遠征は文永の役とよく似ていて、朝貢の求めに応じないジャワの王朝に対する威嚇を
>目的とした短期作戦だった。
元史なり当時の文献に威嚇目的の短期作戦だったと書いてあるの?
それともまた想像?
441 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 15:05:42.36
>>439 >江南軍は投降した南宋兵の中から選抜された新附軍
選抜したのが新附軍なのではない。新附軍というのは南宋の投降兵を元軍に組み入れた
ものの総称だ。ピンからキリまで含んでいる。
>クビライの親衛軍に抜擢された精鋭侍衛新軍などから構成されてるわけだが
侍衛新軍ではなく侍衛親軍ね。
親衛軍とは言っても、いつもクビライを守っている訳ではなく、地方の平定や屯田などもやる
漢人編成の軍隊だ。
元史に、江南軍を一万人増員することを申請してクビライが許可したが、同時に申請した
馬2000頭は許可しなかったという話が載っているそうだ。そこから、江南軍はほとんど歩兵
だったのではないかと推定している人もいる。
まあ棄民はあんまりだとしてもばりばりの精鋭というわけでもないな。
442 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 15:19:32.78
>>441 >選抜したのが新附軍なのではない。新附軍というのは南宋の投降兵を元軍に組み入れた
>ものの総称だ。ピンからキリまで含んでいる。
投降した南宋兵がすべて元軍に組み入れられたわけではなく、
軍役に適さないと判断された者たちは帰農させられてる
そういう意味での選抜
444 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 18:20:56.82
>>443 だから兵士としてぎりぎりOKまでを含んでいる。下の方はね。
>>442 指揮官が処罰されていないから成功だとも言えまい。
弘安の役で東路軍の指揮官は処罰されていない。江南軍の指揮官は
かなり後に処刑されているが、敗戦ではなく部下を見捨てて敵前逃亡したからだ。
弘安の役も元から見たら成功なのか?
446 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 21:05:03.72
>>445 >指揮官が処罰されていないから成功だとも言えまい。
失敗だったとも言えまい。
>弘安の役で東路軍の指揮官は処罰されていない。
命を奉じて頑張っているうちに天災に会ったのだから責任は果たしているだろう。
東路軍指揮官が処罰されなかった理由は、3つの可能性が考えられる。
A 弘安の役は元にとっては成功であり、指揮官は任務を果たしたのだから
処罰されるわけがない(いわゆる棄民説はこの文脈か)
B 失敗の原因が、指揮官の責任に帰す物ではなかった。
(例えば「14万の兵でも日本征服は不可能だった」と認められた)
C 本来処罰されるべきだが、何らかの政治的理由で処罰できなかった。
(そんな強力なコネがあったのかは疑問だが)
448 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 21:23:10.96
外交センスのなさが、領土問題を大きくし、国家存亡の危機を招いてしまった点で、
北条時宗と野田総理はイメージがダブルところがある。
ちょっと待ってくれ。時宗が直面した領土問題とは
「日本全土の帰属」だべ。選択の余地があるまい。
外交センスは充分にあった。鎌倉・大宰府は国際情勢を把握した上で元に対処した。
開戦前夜の動きなんか面白い
もう完全にパフォーマンスさん意地になっちゃってるね。
元寇での日本軍健闘説を言うやつは右翼だとでも思ってるんだろう。
違うんだっつの、、、
>>448 外交センスのなさと言うけど、竹島問題は李明博の上陸から始まったリアクションだよ
そして実効支配をする側はなるべく騒がないのが鉄則。彼のご乱心に日本側は困ってるのが実情
元寇も同じだね。文化的経済的関係の深い南宋を攻撃している国が、
武力行使を仄めかせて友好を求めてるんだから、日本としては国書を黙殺するほかない
>>452 だが、今回の日韓親書騒動を見ていると
鎌倉幕府は「かかってきやがれ」と返書すべきだったのではないかとは思う。
454 :
日本@名無史さん:2012/08/24(金) 23:12:12.18
李大統領は今期限り。韓国民も悪ふざけは嫌いだといっている。
文永の役以降は使節団斬首っていうとっても判りやすい返答してるよね
幕府は文永の役で戦ってみて元恐るるに足らずって判断になったんだろうな
>>455 恐れるに足りようが足りまいが、全面戦争以外の選択肢は無い状況ですしね。
しかも使節が諜報活動してたとなれば斬るしかない。
>>452 ことの始まりは慰安婦だよ。アメリカでまた「The Facts」の連中が慰安婦を侮辱する
行為に出たから竹島に飛び火したんだよ。日本の報道では今になって連日お祭り状態になっているが
慰安婦問題での韓国の沸騰振りに日本政府は鈍感すぎたといっていい。やっと日本が韓国と
同様の興奮状態になったのが正しい認識だよ。
日本軍健闘説を素直に信じたい単純な451は弘安後もフビライは再度の遠征の準備を始め
幕府は異国警固の役を御家人達に課しているように何も終わっていないことをわかっていないんだろうね。
最終的に終わったのは江南で反乱が頻発したこととハイドウに応じて反乱を起こした東方三王家
によるものだけどね。
終わって無いなら何なのか
もう一度来れば勝てたとでも?
とりあえず元の威力偵察なる物は、やらない方がマシくらいに
役に立っていないんじゃないか?
460 :
日本@名無史さん:2012/08/25(土) 08:54:59.72
>>447 >東路軍指揮官が処罰されなかった理由は、3つの可能性が考えられる。
>B 失敗の原因が、指揮官の責任に帰す物ではなかった。
(例えば「14万の兵でも日本征服は不可能だった」と認められた)
Bでいいと思うが( )のなかがおかしい。
「天災だから仕方がない」が最も誰もが納得しやすい理由だと思うが?
>>460 単純に天災だけだと「上陸すれば回避可能な災害を回避出来なかったのは指揮官の無能」に
なってしまうので。本気で不可抗力となるとこのレベルでないと。
462 :
日本@名無史さん:2012/08/25(土) 09:07:29.06
>>451 >元寇での日本軍健闘説を言うやつは右翼だとでも思ってるんだろう。
別に日本軍健闘を否定してはいない。日本軍はよくやったと思うよ。
ただそれを主張するあまり、
日本軍は水城に撤退しなかった、とか
元軍は博多・箱崎に足を踏み入れなかった、とか
まで発展するならば、それは事実と違う、ということを言っているだけ。
まあ、右翼と言うよりは自然なナショナリズム感情だね。
学者たちといえどもその影響を免れない。
「入其国敗之」を「敗らんとするも」と呼んでまだ敗れていないことにしたり、
「捨船三郎浦」ろ壱岐のこととしたりする、
漢文の読み方もその表れだ。
463 :
日本@名無史さん:2012/08/25(土) 09:16:41.80
モンゴル高原から朝鮮半島を経て日本列島に渡る道筋はあまりにも遠い。
モンゴル大帝国の失敗は、あまりにも戦線を拡大しすぎたことだ。
大日本帝国も平洋戦争でそれと同じ過ちを犯した。
なぜなら、同じツングース系が軍で主導権を握ってしまったからだ。
この戦争でツングース系は多くが戦死し世界は良くなったのだけれど、
この67年で、繁殖力にものを言わせてまた増えだし、世界で悪さを始めた。
戦争は再び起こるだろう。
では、文永の役で元軍指揮官が免責された理由が
「指揮官の責任に帰さない失敗」ではなく「任務達成」と考えられるのは何故か?
文永の役の時、日本側兵力をおよそ10万と誤認していたのだから、皇帝への報告は
「臣らは勅命を奉じ、4万の兵を率いて日本を攻めました。対馬、壱岐は順調に攻略しましたが
九州に上陸したところ、日本は即日のうちに推定10万の兵馬を揃えて反撃してきました。
官軍は勇戦したものの、あまりの激戦に1日で矢が尽きる程の有様でした。
指揮官は現有兵力による日本攻略は不可能と判断し、即時撤退を決断しました」
となるだろう。これが認められれば、普通に免責じゃないか?
弘安レベルの大敗でも指揮官に軍紀違反や重過失がなければ免責されるくらい、元の軍紀が
公平な物であるなら、処罰されたか否かで作戦の正否を語るのは難しいだろう。
465 :
日本@名無史さん:2012/08/25(土) 09:31:41.39
最近、いろいろと考えるところがあった。一つは元史の:
「日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬」だ。これに対しては
「日本の太宰府周辺に上陸地から向かうには、軍勢約二、三万ほどが必要でしょう」という
いいかげんな訳がつけられており、これを大宰府が攻撃目標であった証拠とする人もいる。
大宰府とはなにか。最近読んだところによると、奈良時代には博多と赤坂からそれぞれ
1本の直線道路が南下し、それぞれ水城の東西の関門を通って大宰府に通じていたそうだ。
つまり当時は、大宰府と博多・赤坂は一体に構成された、日本の西の玄関口であった。
また、鎌倉時代には博多はほとんどチャイナタウンだったのだが、その住民の中国人が
中国の故郷に建てた墓に生前の居住地として「日本大宰府博多」と刻まれており、現在
でも読めるそうだ。つまり博多は「太宰府市博多区」のようなものとして認識されていた。
これらから考えると、元史の記述は大宰府の名で博多・箱崎・赤坂などの一帯を指して
いる可能性がある。そうであれば訳文も:
「大宰府等の処の下船地はいずれも接岸可能で、二三万の兵を動かすことができましょう」
と素直に読めるのである。つまりこのあたりが遠浅で、上陸適地であることを言っている
に過ぎないのである。
466 :
日本@名無史さん:2012/08/25(土) 09:58:42.61
>>464 >処罰されたか否かで作戦の正否を語るのは難しいだろう。
困難な使命であれば、成功か失敗かを判断するのは難しい。
しかし私がもともと言っているのは成功か失敗かではなく、長期作戦か短期作戦かだ。
文永の役のクドゥンは1日で兵を返しても責任を問われることを恐れなかった。
弘安の役の元軍は「累戦して利あらず」「軍中大疫あり、死者およそ三千人」で、
文永の役よりももっと困難な状況にあったのに「聖旨」を重んじて、つまり責任を
問われることを恐れて、なお粘った。
この違いはなんだと思う?
一度失敗してるからじゃね
>>462 >日本軍は水城に撤退しなかった、とか
元軍は博多・箱崎に足を踏み入れなかった、
だから、それがわけのわからない神官が書いた書物にしか載っていないのが
問題になってるわけで…
469 :
日本@名無史さん:2012/08/25(土) 13:41:54.01
>>464 答えがないのでこちらで答えてあげよう。
金方慶伝の、弘安の役の軍議で「聖旨」と言っているのは「6月中旬に壱岐で江南軍と会うように」
というものである。
6月中旬を過ぎて江南軍は到着しない一方、東路軍の状況は破滅的だった。回軍の口実は
揃っていたが、それを決定するには至らなかった。
責任を問われるのが怖かったからである。そして滞軍を保証する食糧は、3ヶ月分を
持参してなお1ヶ月分を残していた。
以上のような状況は「長期作戦」を示唆している。ただし3ヶ月は中期作戦と言ったほうが
いいかもしれないが、また江南軍が追加の食糧をもたらす予定だったかもしれない。
文永の役はどれだけの食糧を持って来ていたのか、記述がない。しかしクドゥンが撤退の
タイミングを判断するのに、上記のような時間的なしばりがなかったことは確実であろう。
文永の役は短期作戦であったと判断するゆえんである。
クドゥンって文永の役の論功行賞後、ぱったり消えるね。
どうしたんだろうか。
471 :
日本@名無史さん:2012/08/25(土) 14:32:06.43
>>468 >わけのわからない神官が書いた書物にしか載っていない
それこそが神話だ。後宇多天皇の「一代要記」にちゃんと書いてある。
「宰府軍など皆逃げ終わりぬ」
>>471 はぁ?一代要記のどこに博多が占領されたとか書いてるの?
当時の博多は数万人が暮らす九州一の大都市だよ?
なんで、神官しか書いてないのさ。
それに一代要記を信じるなら、突如現われた兵船2艘が元軍を撃退したとかいうホラ話も信じないとね。
そういえば、八幡ノなんとかという書物の著者も突如炎の中から現われた兵船2艘が元軍を撃退したことに
なってるのね。
たぶん、こういった寺社関係のホラ話が当時から蔓延していて一代要記の著者もはこ崎宮のホラ話の影響を
受けている可能性があるね。兵船2艘まで一致してると完全に一代要記の著者が影響を受けているか、寺社関係者やろと想像がつく。
一代要記の著者は不明だけど恐らく朝廷に近い人物の著者やと、内容からわかる。
恐らく、当時のはこ崎宮と朝廷の深いつながりを考えると一代要記の著者が
はこ崎宮の神官の元軍は私達が撃退しましたという自己申告をそのまま載せた可能性も十分あるね。
>>436 なるほど
でも数年後に攻め込まれたら((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
各地の寺社の主張をそのまま信じると幕府なんか関係なく、神仏の御加護で元を撃退したことになるしね
>>474 平禅門なら大丈夫でしょう。文永の役だって二月騒動の2年後に起きてる
鎌倉の政変は全国的内乱と言うより宮廷革命に近いから対外防備体制はあんまり変わらない
477 :
日本@名無史さん:2012/08/25(土) 18:55:30.24
>>472 >一代要記のどこに博多が占領されたとか書いてるの?
宰府軍が逃げてしまった、ということは取りも直さず、博多が元軍の自由になったということだ。
占領しようとしまいとね、
>なんで、神官しか書いてないのさ。
神官が書いたとは限らない。皇室の系譜に詳しいところから、恐らく貴族だろう。
>一代要記を信じるなら、突如現われた兵船2艘が元軍を撃退したとかいうホラ話も信じないとね。
いつも書くが、神霊談があるから全体が信用できないというのは、太平洋戦争の兵士の手記に
「天佑神助」と書いてあるから手記全体が信用できないというのと同じだ。
>兵船2艘まで一致してると完全に一代要記の著者が影響を受けているか、寺社関係者やろと想像がつく。
成立は一代要記のほうが八幡の蒙古記よりはるかに早い。
一代要記の成立は後宇田天皇の時と言われているが、後宇田天皇の在位は1274~1287年、文永の役の当年
から、弘安の役の6年後までだ。これ以上の「同時代資料」はない。
このような同時代資料において、細部に間違いや歪曲があったとしても、大筋を変えることはできない。
逃げてもいない太宰府軍を逃げたとは書けないのだ。
一代要記の関係部分の全文についてはまた改めて。
478 :
日本@名無史さん:2012/08/25(土) 19:07:26.84
>>472 ごめん、
>なんで、神官しか書いてないのさ。
は、八幡ノ蒙古記だけが博多占領を書いているという意味だね。
これへの答えは一番上の答えに含まれる。
一代要記の著者が貴族だろうというのは君と一致しているようだ。
479 :
日本@名無史さん:2012/08/26(日) 01:48:50.04
これは神官の日記だから× 武士だから○とか
そんな単純な理屈は学問の世界では通用せんから
そもそも九州の神官だって荘園から兵や人夫、食糧を出してるだろう
480 :
日本@名無史さん:2012/08/26(日) 02:06:01.55
威力偵察だろうとなんだろうとさ
二万を超える兵で上陸、周辺の手勢を掻き集めただけの一万に満たない日本兵に阻止され逃げ帰った
これは変わらぬ事実だろ?
武士には勝ったけど神の国なのでびびって帰った
482 :
日本@名無史さん:2012/08/26(日) 08:14:52.72
>>480 そう、
そして日本軍が水城に撤退して博多・箱崎を敵手に委ねたこともまた変わらぬ事実
>>479 >いつも書くが、神霊談があるから全体が信用できないというのは、太平洋戦争の兵士の手記に
「天佑神助」と書いてあるから手記全体が信用できないというのと同じだ。
おいおい、おもっくそ利害関係のある寺社関係者が神によって元軍を撃破したというのと
太平洋戦争時の純粋な自然発生的な神仏に対する祈りはまったく別だろう。
そもそも、太平洋戦争時でも戦勝を神に祈願することはあっても、戦闘自体が神の登場によって
勝利した話などないし。
>成立は一代要記のほうが八幡の蒙古記よりはるかに早い
八幡ノ蒙古記とかいう書物のホラ話も書かれた直後にできたわけないやん。
文永の役当初からはこ崎宮の神官たちがはこ崎宮の神が元軍を撃退していたと
主張していたのを後に八幡ノ蒙古記にまとめただけと考えるほうが自然。
そして、文永の役の当初から主張されていたはこ崎宮のホラ話をはこ崎宮と深い繋がりのあった
朝廷の関係者の書物である一代要記の著者がはこ崎宮の主張をそのまま載せただけともみれる。
>逃げてもいない太宰府軍を逃げたとは書けないのだ。
どんなことを書こうが一代要記の著者の自由。幕府による検閲もないんだし、そんな強制力も
ないんだから元軍は神様によって撃退されましたと書こうが咎める者は誰もいない。
>>479 神官だから×なのではなくて、数万人も暮らす博多が占領されたというのがたった一人の神官の書物にしか
確認されないことを鵜呑みにすることが×なんよ。
上陸一日で途中で逃げているのに占領した
それって占領なの?
一旦占拠よね
言葉は正しく使わないとね
でも太平記でも神仏妖怪の話はよく出てるけど
史料としてあげられるだろ
そして唯一、博多を元軍が占拠したとする八幡ノ蒙古記では、博多を元軍から救ったのは誰としているか?
箱崎宮の神様たちだそうだ。ますます、眉唾物だね。
数万人も暮らす博多が占拠されて幕府も誰もそのことに関して触れないのはおかしいしね。
当時の博多には承天寺や櫛田神社があったにも関わらず、箱崎宮以外の寺社仏閣は博多が占拠されたなんて
記録を一切残していないし。
488 :
日本@名無史さん:2012/08/26(日) 15:15:29.63
マッカーサーが上陸したことも、いずれ昭和史から抹殺されるかもしれない。
日本の復興はマッカーサー1人でなしえたことではないし、進駐軍の業績なんか書く残す必要がない。
ましてや、元はとっくに滅んでいるわけだし、神国日本は戦争に負けたことがないということで全く問題ない。
>>481 ほんとにね。八幡ノ蒙古記の記述を信じるなら武士には勝ったけど神様に負けて帰ったことになるんだから、
どっちにしても元軍に負けたはずがないんだけどねw
490 :
日本@名無史さん:2012/08/26(日) 22:23:50.49
じゃあ
>>315で参加した武士自ら負けを認めてるのはどう説明するの?っと。
当時の武士の最高の勲功は戦死だから問題ない。
蒙古襲来絵詞でも竹崎の安達への直訴シーンでも安達が竹崎に
どのような功績があったのか聞く際に竹崎の一党に討ち死にや負傷したものがいたか聞いている。
492 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 08:40:40.77
>>491 >当時の武士の最高の勲功は戦死だから問題ない。
なるほど、それなら「倭兵大敗伏屍如麻」も全く問題ないね。
相手から見れば大勝に見えるのが問題と言えば問題だが。
493 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 08:53:51.70
>>490 >>315の読みは落ちがあったので訂正する。
誤:彼の凶徒百道原に引き退くにつき、大勢の中に馳せ入りて
正:彼の凶徒ら引き退くにつき、百道原に懸け落とさしめ、 大勢の中に馳せ入りて
意味は大して変わらないが。
>>492 そもそも日本人の社会構造は公の国家に属するよりは私のイエに属する
のが一般的だよ。この関係は契約的なものではなく、個人の人格も支配する
のだからイエの存続を考えれば死んで忠勤をアピールすればまさに「奉公」になる。
>>490 それのどこが「武士自ら負けを認めてる」文書なんだ?
元軍を追い払った後、調子に乗って追撃したら敵の殿に包囲されてヤバかったくらいにしか読めないが
>>482 敵手に委ねようが委ねまいが、現実問題として博多は占領されていないのだから意味無い
歴史群像「北条時宗」によれば、文永の役の元軍は三か月分の兵糧を持ってきたらしいな
(出典は「蒙古襲来 その軍事史的研究」になってたから今度借りてみる)
弘安の東路軍の兵糧が4.5か月分らしいから、文永の役は日本をちょっとビビらせてすぐ帰るような短期作戦ではなく
少なくとも大宰府くらいは攻め落すことを想定していたんじゃなかろうか
498 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 11:18:44.15
>>494 それはこっちの都合。
敵から見れば日本兵がたくさん死んでるのは「倭兵大敗」でしかない。
さっさと足利幕府に滅ぼされてください
500 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 12:11:38.91
>>491 戦死が最高の功名ではないよ
戦死も兵法新論の記述のとおり賞揚に値するものだが
戦いにおいて一番の功名となるのは一番乗り、一番首(当時では先登または先駆けと言うかも)
有名なのは一の谷の熊谷直実、宇治川の佐々木高綱、藤戸の佐々木盛綱かな?
>>500 偽装退却だとする根拠は?
百道原に懸け落とされた元軍が福田らを殲滅した後、
再び鳥飼潟に押し寄せてきたとかいう記録があるなら別だけど
503 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 13:38:19.81
>>487 >八幡ノ蒙古記では、博多を元軍から救ったのは誰としているか?
>箱崎宮の神様たちだそうだ。
博多を救ったなどとは書いてない。八幡ノ蒙古記によれば博多は灰燼に帰した。
「博多に迷いし人々」とは博多に避難した人々ではなく博多に住んでいて逃げ惑った人々という意味だ。
第一、当時の沖の浜は文字通りの砂浜で、上陸作戦の適地だった。そんなところに避難する筈がない。
>数万人も暮らす博多が占拠されて幕府も誰もそのことに関して触れないのはおかしいしね。
例によって記録がなければ事実もないの論法だろうが、残っている記録の総量が圧倒的に少ない、
というかゼロに近いのだからその論法は成り立たない。
つまり、焼けなかった、略奪されなかったという記録もないということだ。
武士は負けた
元軍は勝って逃げ帰った
>>503 165 :日本@名無史さん:2011/11/25(金) 14:17:47.01
>それにしても、800年も経ているのに、残っている記録が全てではないと何故
考えないのか、それが不思議だ。
そもそも、百道原のような何にもないところでも戦闘記録が残っているのに
当時の都会で寺社仏閣が多くある博多で、誰も蒙古軍が博多に上陸したと記して
いないことを不思議と感じないのか、それが不思議だ。
それと、なぜ史料にないことを君はあったと言えるのかね。
現場を見てきたのなら、その理屈は成り立つが、状況判断と史料から判断するしか
現代ではできないのだよ。史料からわかることは上記の事実だけ。
506 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 17:47:15.20
>>505 >状況判断と史料から判断するしか現代ではできないのだよ
その通りだね。史料が圧倒的に少ないのだから、状況判断を加えなければ起こったことの再現はできない。
ところで私は江戸時代の想像図を見て、沖の浜は岸壁だったという誤った考えを持っていたが、最近読んだ
「中世都市博多を掘る」(だったかな)で、これが間違いであることを知った。
沖の浜は自然の砂丘であって、主な船着き場は陸側の博多浜(仮称)のほうにあった。
つまり沖の浜は上陸作戦の適地であった。その証拠に、文永の役の後、沖の浜には防塁が築かれている。
この防塁がきっかけとなって、その後に沖の浜が港らしくなって行くのだ。
現在の中央埠頭のそばから、3本の元軍錨石が揚げられているが、これは当時の沖の浜の
数百メートル沖にあたる。恐らくこのぐらいの沖に本船を停泊して、上陸用舟艇を発進するのが
上陸方法だったのであろう。
ただし、私は博多において元軍と日本軍との間で戦闘があったとは思わない。
日本軍はそれ以前に博多を放棄したと思うからだ。その根拠は八幡ノ蒙古記。
なお、上記図書は発掘に当たった十人ぐらいの学者の共著であるが、そのなかの一人が「博多は元寇で焼かれた」
と言っている。ただしそれが発掘に基づくのかどうかは遂に読み取れなかった。
507 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 17:49:14.24
>>506 江戸時代の想像図とは、江戸時代に描かれた中世博多の想像図、という意味だ。ごめん。
>>503 東日本大震災で「東京は無事だった」と明言した記録が残っていなければ
東京は焼け野原になっていたはずと言ってるのと、あまり変わらないんじゃ?
509 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 20:12:13.26
>>508 ちょっと違うね。
「東京は無事だった」という記録も、「東京は焼け野原になった」という記録も、どちらもゼロであれば、
それは「便りのないのは良い便り」で、東京は無事だったという判断になるのか?ということだ。
しかし博多の場合はそれとも違う。
八幡ノ蒙古記には、2カ所に火災の記事がある。一つは「博多に迷いし人々」が帰ってみれば家は焼けていた
という記事、もう一つは避難した神官達が水城近くの避難先から振り返ると「あちらこちらに」火の手が
上がっていたという記事(博多か箱崎かは言ってない)。
これを信じるのか信じないのかという選択が先にある。
博多を掠奪したモンゴルは満足して帰ったんだな
511 :
日本@名無史さん:2012/08/27(月) 21:57:03.98
福岡には、タモリとか井上陽水とか武田鉄矢とかチューリップとか異才がそろっている。
大陸から、活躍の場を求めてやってきた山師が多い街だ。
元にも鎌倉幕府にも義理がないから、奴らは勝ち馬に乗ったのだろう。
そういう状況がすでにあったということさ。
病院行け
時宗が作らせた博多湾の石塁を世界遺産にすべきだ
514 :
日本@名無史さん:2012/08/28(火) 09:09:19.68
八幡ノ蒙古記について、戦況の記述は論議が多い。
私はオブザーバーみたいな位置にあった人からの聞き取り記録であろうと思うが、
全くのでっち上げとする人もいる。
しかし、この部分を全て除外したとしても、箱崎宮のご神体避難の話が残る。
この部分のリアリティ、ドキュメンタリー性は、なかなか否定できるものではない。
そこでこれを受け入れるならば、そこからいくつかの問題が浮かび上がってくるのだ。
その一つは、ご神体避難の状況である。ご神体避難の動機は、日本軍が博多箱崎を
放棄したからだと書いてある。この動機はよくわかる。誰しも、保護してくれる
武力がないのに座して侵略者を待つ心境にはならない。満洲引き揚げ者の人たちは
ことに身につまされるであろう。
そして、結果としてご神体は無事避難することができた。ということは、避難を準備し、
安全に脱出するだけの時間的余裕があったということだ。そのことは取りも直さず、
元軍はまだ入って来ていなかったことを意味する。すなわち、日本軍の博多箱崎放棄と、
元軍の侵入との間には時間差があったということだ。その間、博多箱崎は真空地帯だったのだ。
私が、博多箱崎では「戦闘がなかった」と考える理由である。
515 :
日本@名無史さん:2012/08/28(火) 20:14:54.78
>>498 倭兵大敗って、3万の兵を以て10万と錯覚した1万の兵と戦い、これを水城へ退けたからじゃないのか?
516 :
日本@名無史さん:2012/08/28(火) 21:00:33.11
>>515 高麗史金方慶伝で、高麗軍諸将の奮戦を述べた後に「倭兵大敗、伏屍如麻」と続いている。
高麗史だからこれは高麗軍の戦闘状況である。
この後に「諸軍與戦」で蒙漢軍と共同での戦闘となり、「及暮乃解」で自然休戦となる。
日本軍の水城へ撤退はこの後である。
だから「倭兵大敗」の段階では日本軍はまだ水城へ撤退していない。
>>514 神体避難の件、逆に創作を感じるのは私だけだろうか? ご神体は結局無事な訳だし。
神威によって元軍が退けられたというストーリーを成立させるには、街が大被害を受けねばならない。
だが、神威によって箱崎は無事でしたでは大被害が成立しない。一方でご神体が焼けてしまったら
神威もへったくれもない。
518 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 10:55:22.52
>>517 ご神体避難は神威を宣伝するための創作である。
箱崎の大被害もまた創作である。
ということでいいか?
>>518 そういう質問の仕方は卑劣だと思わないか?
相手を罠にかけようとしてるみたいでみっともないぞ
普通に箱崎宮が焼失しているという事実を指摘すればいいのではないの?
(とはいえこの焼失も誰の放火によるものか確証は無いが)
520 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 13:19:45.89
>>519 >そういう質問の仕方は卑劣だと思わないか?
なぜびびるのか?
君の説を要約して、確認しているだけではないか。
もういちど書こう。
ご神体避難は神威を宣伝するための創作である。
街の大被害もまた創作である。
ということでいいか?
「箱崎」は君の文章に従って「街」に直した。
522 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 13:53:05.77
>>521 では
>>517君の答えを待つとしよう。
ご神体避難は神威を宣伝するための創作である。
街の大被害もまた創作である。
ということでいいか?
都合の悪い部分は創作とするのが基本
>>517です。お返事遅れました。
>>519さん、巻き添えを食わせてしまったようで恐縮です。
まず、箱崎が燃えた事自体が創作であるという件、正直考えないでもありません。
ですが同時に「ご神体燃えたのでは?」とも疑っています。
私がご神体脱出の話を疑う理由は、「神威」は何に宿るのかという点です。
神威により白装束軍団が箱崎神社から現れて元軍をやっつけた。これが創作であることに
疑いを持つ人はいないと思います。ですが「何故こんな話になるのか」は疑って然るべきでしょう。
燃える神社から必死に持ち出して守ったご神体。持ち出した神官から見れば、これこそ神威の宿るものでしょう。
ならば神威は、ご神体によりもたらされると書くのが普通。つまり「天からご神体の下に白装束軍団が降りてきた」とか
「燃える神社から白装束軍団がご神体を救い出した」とかの物語になりそうなものです。
なのに白装束軍団は、何故か神威を持ち出し済みの「抜け殻」である神社から出現するのです。
「必死にご神体を持ち出して八幡の神威を守った」というのが事実なら、その後に続く創作が「持ち出したの全然無意味」
というのは異常です。
その他に、元軍が即日撤退したなら、「ご神体の旅」は一日以内で終わったんじゃないかなんてのもありますが、
主要なのは「創作内容が変」です。
では何故こんな現象が起きたのか。これは想像するしか無いでしょう。八幡ノ蒙古記全体が適当に書かれた物なのか
最初にあった説話は「ご神体の所から船が現れて元軍を追い払った」だったのに、後で白装束軍団の話が混じったのか
実はご神体も神社ごと燃えちゃったのか、ご神体を持ち出したという人と神威で元軍を追い払ったという人が別々に
いたのか、正直判りません。ただ、
元が攻めてきた⇒ご神体持ち出した⇒神威により元軍は打ち負かされたの流れのなかで、持ち出し話が浮いています。
故に私は、持ち出し話があるからこそリアリティを疑う次第
525 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 21:26:43.97
>>524 八幡ノ蒙古記をちゃんと読んでなくて、ただ脳内だけで書いているのがわかった。
一度ちゃんと読んでから出直してくれないと、コメントしようがない。
一つだけ言っておけば、ご神体避難の話はそれだけ完結した体験談だ。これはリアリティがある。
白装束の話はそれとは一応切り離された付加的な霊験談。
ご神体との関係が気になるようだが、そんなもの、神様のことだ。いくらでもリモートコントロール
できるだろうさ。
526 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 21:29:30.34
さて、一代要記だ。
『一代要記』後宇多天皇 文永十一年十月条
「十月五日、異國群勢襲來之由、自宰府申之、同十三日、異國軍兵亂入壹岐島、同十四日、彼島守護代荘官以下
被悉打取云々、對馬以同前、同十九日亥刻、攻來筑前國早良郡、同二十日始合戰、 宰府軍等背北了、爰同日亥刻許、
兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、測知是神明之化儀也、即異國軍兵退散、彼兵船一艘留之、所乗之人數
六十人許、云々、」
「十月五日、異国群勢襲来の由、宰府よりこれを申(の)ぶるに、異国軍兵壱岐の島に乱入し、かの島の守護代
荘官以下ことごとく打ち取らる、云々。対馬以って前に同じ。同十九日亥の刻、筑前の国早良郡に攻め来たる。
同二十日合戦始まり、宰府軍等背北しおわる。ここに同日亥の刻ばかり、兵船二艘出で来たり、暗天に合戦す。
凡慮の及ぶところにあらず、これ神明の化儀(けぎ)と測り知る。すなわち異国軍兵退散す。かの兵船一艘これを
留む。乗るところの人数六十人ばかり、云々。」
「宰府よりこれを申(の)ぶるに」だから、太宰府からの報告によれば、という伝聞形式になっている。
壱岐、対馬と来て早良郡の話になるから、文章の流れから言えば「宰府軍等背北しおわる」も同じ太宰府報告に
含まれるのであろう。そうであれば太宰府じしんが「負けました」と言っていることになる。
さらに兵船二艘の話も含まれるのか分らないが、最後に云々があるからその可能性もある。
すると「凡慮の及ぶところにあらず、これ神明の化儀(けぎ)と測り知る。」だけは著者の感想の挿入か。
527 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 21:48:17.84
一代要記について、注目すべき所を二、三書けば、
早良郡に上陸したのが十九日の亥の刻(午後十時頃)となっている。すると元軍は徹夜で揚陸していたのか。
元軍は暗夜の水陸両用作戦を訓練していたのかもしれない。二十日夜の撤退もあるし。
その二十日夜のことだが、一代要記は「同日亥の刻ばかり」つまり二十日の午後十時頃、例の二艘の兵船が
出て来て、それが元軍撤退につながった、と言っている。
元軍がたった一日で帰ったと言っているのは八幡ノ蒙古記だけ、と言う人が多いが、それは事実ではない。
少なくとももう一つ,一代要記がある。
528 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 23:17:47.43
>>526 ごめん、例によって読みの文に落ちがあったので訂正して再掲する。(壱岐前後の日付のみ)
「十月五日、異国群勢襲来の由、宰府よりこれを申(の)ぶるに、同十三日異国軍兵壱岐の島に乱入し、
同十四日かの島の守護代 荘官以下ことごとく打ち取らる、云々。対馬以って前に同じ。同十九日亥の刻、
筑前の国早良郡に攻め来たる。 同二十日合戦始まり、宰府軍等背北しおわる。ここに同日亥の刻ばかり、
兵船二艘出で来たり、暗天に合戦す。 凡慮の及ぶところにあらず、これ神明の化儀(けぎ)と測り知る。
すなわち異国軍兵退散す。かの兵船一艘これを留む。乗るところの人数六十人ばかり、云々。」
なお「宰府軍等背北しおわる」の「背」を「皆」として「宰府軍等皆北(に)げおわる」と読む向きも
あるが、ここではウィキ所載の原文にしたがった。どちらにしても意味は大して変わらない。
529 :
日本@名無史さん:2012/08/30(木) 21:02:17.27
早良郡といったら、元軍に追われた高句麗の反乱軍、三別抄の後方支援部隊の居住地のことではないのか?
サワラビとは侍のことだし、その粛々たる居住いが日本の侍文化形成に大きな影響を与えたのだろう。
それまでの鎌倉幕府の御家人は、文化的にも農民と区別がなかったのだ。
530 :
日本@名無史さん:2012/08/31(金) 11:10:48.28
一代要記の文永の役の記事は、大宰府からの報告の覚え書きであるらしいことがわかった。
だとすればそれは現地にいる武士の大宰少貳職から、京都にいる大宰府トップの大宰権師(貴族)への
報告である。
一代要記の筆者は大宰権師(または次席の大宰大貳)から情報を得られる地位にあった貴族であろう。
「兵船二艘」もまたその報告に含まれていたとするならば、この話を入れたのはなぜか。
恐らく、「宰府軍等背北了」と「即異国軍兵退散」とのつじつまを合わせるためであろう。
つまり元軍は勝ったのになぜ一日で帰ったのかという、今日我々が頭を悩ませ、この板のメインテーマ
ともなっているおなじみの問題である。
大宰府もまた答えを見付けるのに苦労して、霊異の兵船を登場させたのであろう。
では兵船二艘は大宰府の発明だったのかと言えば、そうかもしれないし、またはその元になる話が
すでに巷間に生じていたのかもしれない。
例えば撤退乗船の現場を襲った海上ゲリラとか、または元軍の同士討ちとかを物陰から見た人がいて、
それに尾ひれがついたうわさ話が生じた、などが想像される。
朝廷/寺社が宗教的、因習的で、幕府/武士が実際的、合理的であったというような単純な図式ではない。
幕府もまた、軍事的な迎撃準備を進めると同時に寺社に対しては敵国降伏の祈祷を命じる立場にあったの
である。
531 :
日本@名無史さん:2012/09/01(土) 05:57:32.93
南無八幡大菩薩
モンゴル帝国VS九州の一部
勝者:九州男児の圧勝
真の勝者:戦争を口実に本所に介入できるようになった得宗権力すなわち御内人
九州男児で勝ち組だったのは御内人の家来になったものだけだよ。
: /)__∧ Λ_Λ ∧__(\
| |`∀´> ◯< `∀´ >◯ <`∀´| .|
| 〈) \ ./ (〉 ノ
‐‐‐‐‐‐‐/´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
 ̄ ̄| | ̄| 元軍の ..| ̄ | | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
 ̄ ̄| | ̄| 日本侵略を | ̄ | | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
 ̄ ̄| | ̄| お祝います. | ̄ | | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
 ̄ ̄| | ̄| | ̄ | | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
 ̄ ̄| | ̄t______by__曰蓮__レ ̄| | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
 ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄.| | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
 ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄.| | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
>>534 元にもだが東路軍で死にまくったご先祖様にも失礼だな
リンク貼ってんじゃねえよ。
スレ開始早々湧いたじゃねえか
モンゴル帝国ってもフビライの時代だから衰退期だもんな
これが金王朝滅亡からワールシュタット、アッバース朝を打ち負かすあたりの最盛期のモンゴル帝国を撃退したのだったら快挙かもしれんが
その頃、東では高麗が血みどろの総力戦を展開していた真っ最中で、日本は平和だったな
幕府の外交音痴が文永・弘安の役を呼び寄せたという分析が研究者にも多いなあ。
東アジア秩序が日本と蒙古の二国間関係で成り立つような発想なのね。
文永の役に関してはあの対応しかないわけだし、現実に武力を用いた以上は再襲来の拠点である高麗を潰すというのも、
あるいは使者を鎌倉まで連行はしてきていることも無視されるんだから。
幕府の外交音痴は否定しようのない事実だと思うがなぁ
隣国の高麗が最初にモンゴルの侵攻を受けた1225年の時点で、仮に負けて高麗が征服されたら次は日本だと考えて対策を打つべきだったと思う
ワールシュタットのときは神聖ローマ帝国が、負けたら次は我が身ということでヨーロッパ中の諸侯から軍をあつめてガチで対決して、完敗して死体の山になったんだよな
とはいえ高麗はその後50年頑張ったわけだから、日本と協力してたら勝てたかもな
>>540 お前さん1225年の数年前に何が起きたと思ってんだよ。
治天の君に弓を引いた男が没した1年後だぞ。
幕府外交は文永の役まではほぼ問題なく説明できるが、杜世忠を鎌倉まで連行しながら斬ったあたりの経緯が分からないんだな。
しかし文永の役の前の少弐氏の動きを見てると、理由なく斬ったとはとても思われない
かといってスパイ行為を働いた説も、根拠がよく分からないなあ
渡海して攻めるって難しいって
感想になる元寇の教訓
親書を返送したんだっけ
>>544 渡海して攻めるのが難しかったわけではなく、単純に日本を攻めるのが難しかった。
文禄慶長の役では防備を整えてなかった李王朝は簡単に王宮を追われている。
>>541 ワールシュタットの欧州軍なんて日本の武士団と比較にならない烏合の衆。
内輪もめがお家芸の欧州の軟弱騎士どもが負けたからって、日本武士と同列に語られては困る
日本軍が朝鮮半島に展開してたら江南ルートで九州直撃されました
なんて展開もありえるから高麗と協調するのは難しいかと
宋高麗日本の同盟で元にあたる手はあるが、スケールでかすぎて戦場に出るだけで大変だわ
結局史実通りやるのが一番楽なんじゃねーの
対馬とかは被害担当でサーセン
天山ウイグル王国やオイラート、カルルクのように、戦わずしてモンゴル帝国に帰順してその先への侵略の手助けをした国も珍しくないわけだし
高麗とモンゴル帝国も1218年に黒契丹が高麗に侵入したときに共同してこれと戦ってるわけだから、その時点で戦わずに帰順してもおかしくなかった
もしそうなってれば、元寇は1220年ごろ実行されてたろう
日本は隣国がウイグルやオイラートではなく高麗だったことに感謝しないといけないな
550 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 09:11:39.24
>>547 ワールシュタットと比較するなら、同じ時点で、同じ場所に、同数の日本武士を投入したら
モンゴルに勝てたか?
ということでどうぞ。
551 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 15:59:37.63
>>549 フビライほど「海」に関心があったカーンは後にも先にもいなかった。
元寇は「フビライの戦争」だった。
第三次日本遠征がフビライの死によって沙汰止みになったのでもわかる。
>>551 フビライの好みの問題で大軍を動かして戦争なんかできるわけない。
もともとモンゴルの悲願は南宋を破って中国を完全征服することであって、その南宋と通交している日本を切り離すためにモンゴルへの従属を求めたのであって、
第2次日本遠征の時点で南宋が滅んでいたからそもそも第3次は必要なかったし、第2次自体、南宋棄民を処理するという目的に変わった。ただそれだけ。
553 :
日本@名無史さん:2012/09/11(火) 21:38:49.07
南宋棄民説復活祭
555 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 08:50:05.29
>>551 >フビライの好みの問題で大軍を動かして戦争なんかできるわけない。
いやいや、独裁者の「好み」を抜きにしては歴史は成り立たない。
アレキサンドルがなぜアフガニスタンやインドまで行ったか、理屈で説明したって
しょうがないのだ。
フビライの「好み」については「モンゴル帝国の興亡 杉山昌明」を読むといいよ。
武将の面子見ればガチで獲りに来てるのに棄民目的とか
>>555 アレキサンドルはインダス川の手前で部下に反対されてやむなく引き返してるが
独裁者の「好み」が万能でないことのいい例証ありがとうな
ベトナムもフビライの時代に3回侵略されては撃退してるが、4度目の侵略計画はフビライの死で中止されたな
しかしだからといってベトナムが島国だったと言えるだろうか
ベトナムも貧相なほぼ裸とこん棒装備でよく勝てたな
560 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 18:11:56.15
>>558 フビライのベトナム侵攻は陸路と海路の両方だったが、メインは海路だった。
ベトナムは島国ではないが、元にとっては「海」に属していた、つまり海路で行く国だった。
その点では日本やジャワと同じ。
>>550 もちろん。鎌倉じゃなくてウィーンに幕府があったら、日本武士団はたちどころに蒙古軍を撃退してるよ。
悪く見ても双方損害多数でモンゴル軍撤退だな。
ワールシュタットやカルカで欧州諸侯軍が大敗したのは、兵員の質が低いのもあるが統制力が信じがたいほどバラバラだったのがでかいんだから。
文永の役、弘安の役の日本軍の勇戦敢闘とは比較するのも失礼。
お前これは200年後の英仏戦争の末期の段階でもそうなんだぞ。領土争いがある諸侯が勝手に戦線は離脱して領地に帰るともう軍が維持できないんだから。
鎌倉武士団は千早赤坂の大苦戦の段階ですら、サボタージュは起きたが名越高家戦死まで軍の崩壊現象なんて起きてない。
圧倒的に王権、もしくは武士団を纏める幕府の統制が行きわたってるんだよ。
しかも動員力も段違い。文永に先立つ奥州合戦の段階で大手軍2万以上、承久の乱でも10万近い武士を動員してる。
ものすごい勘違いがあるようだけど、この時期の欧州と日本じゃまったく格が違うから。
日本は大国で、軍事動員力も後備まで含めて10数万の武士を動員できる。
前線の九州武士団は承久の乱の負け組の在地系の御家人で、御家人の金城湯池だった東国の精鋭より劣る二軍。
それが主力で蒙古軍14万を撃退してるんだから。
日本が人口大国で、中世から軍事大国で、王権が極めて強い国家だったという前提から考えたら何の不思議もない。
>>559 ベトナムはモンケ時代に聖宗が蒙古に服属貢納しているし、チャンパ攻撃の際も領土通過や徴発を認めている。
勝ち方もゲリラ戦での勝利で、日本軍のように真正面から会戦して打ち破ったわけではない。
バグダン川の戦いの後も元と宗属関係を維持している。通交すら拒否した日本とは違う。
滅亡はしたものの南宋のほうがはるかに強大。
やはりこれは日本とベトナムの国力差。
>>548 史実通りで正解は正解だが、臨安陥落は1276年(建治2年)。
鎌倉には宋人が大勢いて首脳部に助言を行っていたと考えられる。
臨安府が陥落したら南宋にも軍事拠点が出来ることを恐れての高麗への進攻策だったのかも知れない。
高麗遠征にもそれなりの根拠はいくつか考えられるんだな。
565 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 02:52:00.56
>>560 元にとって「海路で行く国」だったのはベトナムではなくチャンパではないかな。
元は南宋を攻めるためベトナムを通過しようと雲南から侵入して敗退、
チャンパには海から侵入しようとて失敗、
今度は陸路でチャンパを攻めるためにまたベトナムを通過しようとして失敗。
566 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 09:36:09.66
>>565 ベトナム遠征もメインは海路だ。
兵士に担がせた食糧の重みでつぶれた隋の高句麗遠征の昔から、陸路の遠征は食糧輸送がネック。
フビライの第三次ベトナム遠征では艦隊で軍を送る一方、大輸送船団で食糧を後送したが、
その輸送船団がベトナム軍に焼き討ちされたことから撤退に追い込まれた。
その撤退も艦隊で河から海に出ようとしたところを焼き討ちされて壊滅した。
戦いの決は水上にあった。
>>566 焼き討ちだっけ?
暴風雨で沈んだという話もあって、元寇と合わせて3度も暴風雨で沈んだことからさすがに造船業者が疑われて以後軍艦を作るのをやめたという話もある。
568 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 15:28:51.21
大リーグボール2号は水に弱い!
蒙古軍も水に弱い!
騎馬民族の宿命だぜ、とうちゃん。
570 :
日本@名無史さん:2012/09/13(木) 23:28:10.13
南無八幡大菩薩
南無東照大権現
また武士世界最強説ですか。懲りないですね
新羅三郎源義光
彼こそは源氏の本流。
清和源氏とは新羅からの渡来人の家系。
天皇家から婿養子をもらって源氏を名乗るも、すぐに天皇の血筋は途絶えた。
しかし一度得た清和天皇直系とういう名声は、前九年の役で野功績とともに広がった。
574 :
日本@名無史さん:2012/09/15(土) 10:44:58.83
>>563 >(ベトナム軍の)勝ち方もゲリラ戦での勝利で、日本軍のように真正面から会戦して打ち破ったわけではない。
戦い方がどうであろうと、ベトナム軍は第三次遠征のときは元軍を壊滅させて司令官を捕虜にした。
それに較べたら日本軍はただ元軍を撃退しただけだ。
またゲリラ戦というなら、カルカ川の戦いなどでは兵力で劣るモンゴル軍がゲリラ的に戦って、
ロシア・遊牧民連合軍を壊滅させた。
ベトナムのゲリラはアメリカ軍よりも強いからのぅ
576 :
日本@名無史さん:2012/09/15(土) 11:42:39.01
ベトナムの兵士は史上最強、元もアメリカも、結局、ベトコンを落とせなかった。
577 :
日本@名無史さん:2012/09/15(土) 13:19:49.99
>>566 少なくともフビライの第一次・第二次ベトナム遠征は陸路だったんじゃないの?
特に第一次は南宋もまだ生きていたし妨害されるだろう
578 :
日本@名無史さん:2012/09/15(土) 14:15:13.20
>>577 その通りだね。
第一次・第二次の陸路侵攻で食糧不足に苦しんだのに懲りて第三次は海陸両路になった。
しかし総司令官のトゴンは陸路軍のほうにいるから海路がメインと言うのも無理があったな。
混戦の中、恐ろしい鉄仮面を着けて、鬼神の如く一騎当千のように暴れてる武士集団に
背後から必死で何度も斬り付ける蒙古軍兵士
「アイヤー、ドンッ、ドンッ、ドンッ」
しかし、武士は無傷なので背後を斬り付けられてる事を知らない
しかし、頑張る蒙古軍兵士
「ドンッ、ドンッ、ドンッ」
武士「何か音がするような・・・気のせいか・・」
「ドンッ、ドンッ、ドンッ」
背後からドンドンとする音に気がついた武士
武士「この音はお前か!さっきからドンドンうるせぇーぞ!」
「ズバッ」 「ズバッ」
蒙古軍兵士「ギャーッ」
END
580 :
日本@名無史さん:2012/09/15(土) 15:19:43.51
ベトナムは未開のジャングルに阻まれて攻撃できなかっただけで、ベトナム人は地の利を生かしたゲリラ戦以外はできない。
そこへ行くと鎌倉時代の日本は、戦いで勝ち名乗りを上げることを武士の誉れとしていたし、
壇ノ浦の戦いなど海戦経験jも豊富だったことから元といえども苦戦していたことは間違いない。
まあ、弓の性能とか、劣後する部分も多かったけれど、嵐によって勝利したというのは謙遜だ。
弓の性能のどこが劣後していたと?
殺傷力では圧倒的に和弓が優っているし、射手の技術的にも日本武士のほうが高度。
速射性で辛うじて蒙古弓のほうが若干上くらいだろう。
3万程度の軍勢で攻めてきたら1日で継戦不可能になるなんてのは当たり前だわな。
14万ですら幕府の増援を待つまでもなく海上で干上がるしかなかったのに
2度の合戦で生還率は半分行ってないだろう。蒙古帝国空前絶後の大惨敗だわいw
同じ騎射といっても全然スタイルが違うから、比較するのが無理だろ?
モンゴル騎兵は密集隊形で近づいて、距離に応じて弩や短弓を打ち込んで
そのまま離れる。
鎌倉武士は重装騎兵が散発的に突進して至近距離から射撃、射落として
とどめを刺す。
世界を制したモンゴル騎兵と言えども、上陸戦〜狭い北九州の平地での乱戦
では、力の生かしようがあるまい。
逆に鎌倉武士が大陸に攻め込んだら、大量の換え馬に支えられた機動力に
翻弄され、あらゆる距離で撃ちまくられて負けるだろう。
>>579 ドラマや映画では俳優の顔がわかる様に、武士は仮面付けて無いけど
当時は鎧=仮面防具が標準装備だから、元寇の時も武士は全員怖い仮面付けて戦闘してたんだよな
そりゃモンゴル軍もビビるだろ
鎌倉時代に面頬はまだ誕生してないと思われ。
せいぜい半首
>>581 モンゴルの弓は馬上で使いやすいように特殊な合板を用いて工夫されたもので、
見た目より射程距離がかなり長かった。それは矢の速度も殺傷力も上だったということ。
日本側が長弓を使うようになったのはその射程距離に対抗するため。
日本が長弓を使っていたのは縄文時代から確認されることなんだが…
もっと言えば、元寇以前から武士の主力武器は長弓だ。
元寇の影響など全くない。
日本の長弓も複合弓だよ。
世界的にも騎射用の長弓は珍しい。
つまり、世界でもトップクラスの破壊力。
一方、モンゴルでは長距離では弩を使う。
短弓はあくまで接近戦用。
日本の長弓はむしろだんだん小型化していってる
小型化しても長弓だけど
モンゴル弓は漆とか塗ってないから湿気ですぐにダメになりそうだな
まぁ元寇ではその点を踏まえて明の弓を使ったと思うが
>>583 戦場になったのは福岡平野だよ。騎兵の総数も日本軍のそれ以上だったことは間違いない
594 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 20:27:47.81
南無八幡大菩薩
南無妙法蓮華経
この国難は為政者が法華宗を信じぬせいじゃー!
神風ってなかったの?あったの?
598 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 22:39:18.73
今回も中国船団1000隻が尖閣諸島へ向かったけれど、
台風16号が襲来して、柳条湖事件のメモリアルデー9月18日には間に合わなかった。
これがもし、気象衛星やレーダーのないころなら、1000隻の中国漁船団も護衛艦も沈没しただろう。
結局、船があっても、気象に関する知識がないと東シナ海も玄界灘も渡れないということだ。
>>597 10万人の首をはねるのもなかなか大変なので、後片付け的な意味では神風はあったね。
戦争の結末に影響はないけど
大半が鷹島に逃れてるから結局掃討戦でめんどくさい後始末してるべ
ごみの後始末まで日本にさせおって。
602 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 11:50:27.02
法華経のおかげだな
>>597 暴風雨の記録は中国側の記録にあるだけで、日本側の記録にはまったくない。
しかも季節から考えて台風が来たとは考えられない。
どうみても高麗水兵の反乱。
今回尖閣問題中で沖縄上空16号通過したり
去年福島事故後の夏は東北を台風が素通りしたこと考えると
ないとは言い切れないいんだよなァ。
神風が吹きわたり、元の船団を壊滅においやった
それでないと困ったんだよ、幕府やら祈祷を行った寺社仏閣がさ
実際に恩賞名目で寄進を要求している
勝手に武器の矢から何から尽きて帰っただけにも拘らず
そうしておきたかったのは九州等の御家人の幕府への不満を
封じ込みたかった。自分達も祈祷を行わせて元に対処懸命にしていた
そう思わせたかったんだ。文永の役に関して神風は確実になかったね。
606 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 21:04:59.64
中国人は飽きっぽいな。
反日デモも、すっかりやめてしまった。
元寇も、結局は、実労部隊は中華人で、一回うまくいかなかったらきっぱりあきらめてしまったのだろう。
中華人は、いつの時代もこうなんですよ。
607 :
日本@名無史さん:2012/09/19(水) 21:24:25.79
南無八幡大菩薩
608 :
日本@名無史さん:2012/09/20(木) 00:16:56.08
北条時宗
贈従一位
世界最大の大国から日本を守った事により贈位。
元寇の時点でもうモンゴル帝国は衰退期で
分裂したうちの中国を含む部分にできた小国が元なんだけどな
元が小国・・・だと・・・
フビライはモンゴル皇帝でしょ?
612 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 13:41:00.24
>>605 >文永の役に関して神風は確実になかったね。
向こうが遭難したと言ってるのだから風は吹いたんだろう。
神風かどうかは別にして。
文永の役はただの低気圧だろう
文永での沖に出て帰還途中の大シケ遭遇なんぞ日本には何の関係も無いでしょ
弘安だって2ヶ月も海上で漂流させられてれば台風シーズンの海なら荒れる日だってあるだろうし
当時のオンボロ船なら何の対策もしてなけりゃ被害も出る
だけど教科書に出てくるような元を壊滅させるような神風は吹いてないと思ってる
南宋や高麗に船を造らせたから台風の被害を拡大させたとか
変なことをいう人がたまにいるけど、南宋と高麗以外に
それなりの造船技術がある地域なんて他にないよな。
それに日本に侵攻して2ヶ月以上も武士の抵抗で海の上でもたついてたら
台風に遭って当たり前。
神風でもなんでもない。
あ、間違ってた。南宋じゃなくて江南だな。
>>617 そういうブログは信用しないほうがいい。
例えば、朝鮮人憎しで文永の役で高麗兵が2万4千だったと高麗兵が主力のように
書かれているが、実際は蒙漢軍2万5千に対して高麗兵は8千だ。
主力の蒙漢軍の三分の一程度しか高麗兵はいなかった。
>>618 そうなの、ありがとう。思わず信じちゃうところだった
ネットは便利だけど、何を信じて何を疑うか難しいところだよねえ
620 :
日本@名無史さん:2012/09/23(日) 21:38:24.10
中国の力が付けた時、世界は大混乱に陥るのは歴史の常識。
また、中国はアジアで覇権主義を唱えだした。
しかし、中国は一度たりとも日本遠征を成功させたためしがない。
日本は中国に負けたことがないのだ。
まあ、今回も、日本は国内の守りを固めれば、指導者が北条時宗でも野田首相でも大丈夫。
いずれ中国は衰えて、最貧国に逆戻りするだろう。
宋と言えばMと言う印象があったため洗衣院の話ってやらしくて興奮したけど、
漢人の歴代王朝も謀反人の貴族や皇族に同じことしてたと知ってなあんだと思った
>>619 ブログの序盤を見れば危ない人が書いてるのはすぐ分かるだろ
623 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 07:52:38.36
>>602 実際はこんなかんじw
: /)__∧ Λ_Λ ∧__(\
| |`∀´> ◯< `∀´ >◯ <`∀´| .|
| 〈) \ ./ (〉 ノ
‐‐‐‐‐‐‐/´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
 ̄ ̄| | ̄| 元軍の ...| ̄ | | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
 ̄ ̄| | ̄| 日本侵略を | ̄ | | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
 ̄ ̄| | ̄| お祝います. | ̄ | | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
 ̄ ̄| | ̄| .| ̄ | | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
 ̄ ̄| | ̄t______by__曰蓮__レ ̄| | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
 ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄.| | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
 ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄.| | ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄| |
ー売国奴ー
命を懸けて元軍を蹴散らした少弐景資より、元寇を予言したとかでふんぞり返ってる日蓮の方が
元寇関連で名が通ってる皮肉。
それでもさあ、基礎知識ないだろ。さすがに日蓮の如何に
偉大なる業績であったかは、目ん玉ひんむいたけどさ、
そっちはな、知らないと信じちゃうしね。それでも日蓮って
もっとまともな人かと思っていた。あれじゃ詐欺じゃん
>>620 >しかし、中国は一度たりとも
>日本遠征を成功させたためしがない。
白村江の戦いの後に2000人の唐人が進駐してるけど...
>>626 それは違くね?外交使節の護衛で来ただけだろ。
2000人で本気で遠征してきたならあっという間に皆殺しだわな
宗助国も護国の英雄としてもっと評価されるべきだよね。
日蓮は宗助国が逃げたから対馬の住民虐殺が起きたと遺文に書き残しているけど、
何をソースにしてそんなこと書いたんだろう ?
>>624 しかも日蓮は、元寇の時、
「私の法華経を信じないから日本は征服されて滅びるのだ、ざまあみろ」などと主張し、
元が撃退されると、
「日本は何故征服されなかったのだ、私の法力が足りなかったのか? そんな馬鹿な」と大ショックだったと伝わっております。
631 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 22:36:41.46
福岡県民は立ち上がる時「やー!」というのは、
サワラビの習慣を受け継いだからだった。
元軍が1日で撤退を決めたのは、もしかしたら対馬・壱岐の戦闘で予想外に抵抗が頑強だった
と言うことがあるのかもしれないな。
真相はどうだったの、文永の役だけど
神風は吹いたの?
それとも単に火をつけられ武士の強さにあわてて
逃げ帰って嘘な報告をしただけ?
日本史スレで遊んでっから一次資料なんて捏造、為政者に
言いように書かれているってのはよ〜くわかっている
吹いてない。吹いたとしても、日本から逃げ帰る途中の出来事だから神風ではない。
新暦11月下旬の玄界灘は、神風が吹かなくたって荒いんだから船が引っ繰り返っても当たり前。
最前線で戦った少弐景資や河野通有は英雄や軍神としてもっと讃えられるべき
637 :
日本@名無史さん:2012/09/27(木) 02:31:00.50
平成の元冦、尖閣事件
北条時宗はだれが適当?
今回はそもそも攻めてくる気がないから、時宗の出番はない 体裁が悪いからうろうろしてるだけ
と言うかスレチ 政治ネタはよそで
神風は捏造?武力のみで勝てたわけ?
北条政権の強固さを自負するなら武士団で勝てたと素直に書けばいいのでは?
なぜわざわざ台風が来たと書く必要があったのだろう。
大きな台風のおかげで勝てたとは武士として恥ずかしいことでしょ。しかも二度も。
本当なら伏せるはず それをあえて書いた。
台風であぼんしたことにしておけば恩賞不要
>>639 文永の役では暴風雨は日本側史料に記載なし。
弘安の役でも日本軍の圧勝ペースで、暴風雨の結果、船が損壊して上陸した侵攻軍を武士が刈った。
むしろ神風論は京都や鎌倉で加持祈祷をしていた僧侶達の勲功誇示として登場し、
その中に日本を呪っていたはずの日蓮の教団の名もあった。
幕末の異国船来航のときには、幕府は「今回の異人は強くて元寇のときみたいには行かない」
と朝廷への奏上でちゃんと書いてる。武士が追い払ってのであって神風で勝ったと言う認識ではなかったんだな
江戸幕府は鎌倉幕府と違って明清交代に対しては徹底して不介入政策、幕末の来航では開国方針を早々と決定して成功。
成功体験に縛られないあたりはすごい。アホだったのが神風を言い出したその後だが
明治以降の教育がその方針だったんだよね
神風たれ、敵艦隊に突貫せよで、桜を奨励してソメイヨシノを
ふやしまくったり、お国のために散って本望で誰かが考えたね
言論統制、すなわち為政者に都合のいい教科書つくり
それ以外の意見は許さない、歴史歪曲も辞さない、そんな感じじゃないか
現場で頑張った少弐景資や河野通有達の功績を封殺したんだ
646 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 17:46:50.51
明治以降というよりは、日露戦争以降だな。
実戦までの準備に時間と金をかけた明治の軍とは異なり、
大正昭和初期には武士道がもてはやされ、精神で何でも乗り越えられるという超人であることが求められた。
精神論の象徴として会津武士道が上げられ、盛んに顕彰されたのもこの時期だ。
物質を伴わない精神優先主義は日本を滅ぼす。大戦もバブル退治も会津武士道と共にやってきて、日本を破壊していった。
元寇と関連しない話題はよそで
648 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 22:03:46.67
明治維新と元寇は一連の歴史の流れ。そこに違和感があるのでしょうか?
もしかして、バカなの?
>>648 神風についての把握がどこで変化したかの議論なら関連するが、
明治維新と元寇がどう関連するんだ。近代史板でやれ、アホ
650 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 04:18:14.93
神風は、鎌倉武士団の勝利を祈願するように頼まれた寺社が、「私たちが祈祷祈願したから神風が起きて勝利した、恩賞よこせ」と主張するために誇大広告に使った。
尖閣諸島問題で中国が攻めてきたら、また神風が吹いて追い払ってくれる。
日本は天皇を中心とした神国だから、不可侵。
>>646 俺はこのレスも神風について、元寇につながる議論だと思うけどな
実際、当時世界的に見て日本人武士は最高レベルの戦闘力を持っていたと思われる
弓矢の性能は追随を許さぬ秀でた物であった。
江戸期でヨーロッパの産業革命に遅れをとってしまった感があるが
それ以前の鎌倉、戦国時代は他を圧する。これこそが元寇の役の勝因だった。
文永の役は陸地で撃退された元軍が帰還途中の嵐に遭遇で大惨事だが、
弘安の役は長崎側で江南軍と東路軍の合流再編して北から回って博多湾狙いの途中で
日本側に鷹島近海で迎撃されて、もたついてるところで台風到来、鷹島に避難上陸するも船あぼん
将軍クラスは残った船で撤退、下っ端10万人は指揮系統も無いまま鷹島に残されて
無造作に日本軍に刈り取られて人生終了って流れだよな
日本軍の船は台風やり過ごす間どうやってたの?
654 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 18:35:01.51
まだ空が穏やかだった昨日の時点で、台風16号のような暴風が到来することは、当時の人には予測不可能だったろう。
こういう時に蒙古が襲来すれば、どういうことになるか?
数万の大船団が荒らしを避ける入り江などないではないか。
鎌倉幕府が長続きすれば、武士の功績も評価されたろうにね
蒙古を撃退したのは武士でなく天皇を中心とした「神国」であることにされ
建武の新政となる
封建制の限界がそこなんだな
国より自分の所領が大事という
日本の武士団や恩賞システムは対外戦争用に作られていなかった
竹島は返したほうがいいかも。
尖閣は譲歩したほうがええ。
日本は滅びた方がええ。
元軍が勝った方がええ。
もっとも当時の戦争観では神仏の力も戦力のうちだったから、恩賞を貰うこと自体は当然なんだな。
現代で言えば…、政府に入ってなくても、新聞やシンクタンクの研究員も勲章をもらうようなものかな。
武神八幡神を祭る八幡神社は、ますます栄えたんだろう?
>>659 当時どころか戦時中は時宗に叙勲している始末なんだが。
まあ宣伝力は九州田舎武士団より中央までつながる寺社の方が圧倒的だろう
昭和初年代の論文がやばかった。
あの時代の論文って「稲村ケ崎の干潮の原因は神威である」とか平気で書いてあるから。
何でも神通力が原因。そこら辺からボタンのかけ違いが始まり現代にいたる
文永の役は神風で勝ったとかが広まったのは戦後だろ。
戦前の教科書には文永の役で神風の記述は一切無く、武士団の奮戦で撃退したと
ちゃんと書いてた。
神風とかふざけたこと書きだしたのは自虐ブームが起こった戦後から。
>>653 歴史群像北条時宗では日本の船は小型だから陸に引き揚げていたのだろうとか
書いていたが、本当のところはわからないな。
まあ、島に押し込められてる元軍艦隊に比べて、日本側は適当な停泊地を選びやすかったし
漁師などからの知識・情報提供があったろうし、その辺は日本側は有利だな。
下っ端の元軍兵士は大変だな
そりゃあ、大変だろう。
船の上じゃあ、女は抱けないし、狭い船内でどこもむさ苦しい男だらけの中で
生活だからな。食事もバリエーションはほとんどないだろうし。
で、戦闘になれば意味のわからないくらい突進してくる命知らずの武士たちの
と戦わないといけいないし、夜は夜で夜襲の恐怖で眠れなかったろうし。
まともに三大欲求を満たされた者はいなかっただろう。
最後は将軍たちに見捨てられて武士たちに捕えられて処刑されるか溺死するかとか
悲劇以外の何者でもない。
でも、捕えられた対馬の女とかが船内に監禁されて性奴隷にされていたかもな。
想像すると恐ろしい。
文永の役はかなりの精鋭すぐって来ているんだよな
向こうの武器もさえてなかったし、何か玉投げマシンみたいなのも
機動力欠いてさ、弓も毒塗りはジャングルの蛮族そのものだよな
草原と馬を駆って戦うのは得手にしても勝手違っただろうし
其処に台風だろ、恐怖で錯乱、早々逃げ帰った、王者蒙古もかたなしだよな
いっけねえ、弘安の役の間違いだった
ごめん、寝ぼけた
>>664 学術論文レベルでは昭和初年度から神風説が登場してるよ。
累進課税や保険制度と同じように、戦前と戦後の分断は、実際はこの頃から始まっている
それ以前は日元戦争は単なる戦争の1つだったが、これ以降は戦中・戦後の違いはあれ
「日本の国難を救った、何か超自然的な意義のある戦争」になった。
その前提があるから、今でも蒙古を過大評価する人間が後を絶たない。メークミラクルだと考えないといけないから相手は10倍くらい強かったことにされる
実際は日本が勝つべくして勝った戦争。
と言うか戦中に猛威を振るった「神風」を合理的に解釈しようとしてヘンな方向に行ったのが戦後歴史学界。
戦後は神の力なんて全否定だから。それで11月に台風だとか変な話になった
日本の記録には暴風どころか異常な気象はまったく記録されてない
暴風雨によって沈んだというのは、高麗が元にそう報告したというだけであり、事実かどうかはかなり怪しい
事実だろ。高麗の高官金センが溺死しているし、1万3500人も帰ってこなかった
と言ってるのだから捏造のしようがない。
てか、1万3500人もの中には当然蒙古兵や漢兵もいたわけだから捏造のしようがないわ。
ちなみに日本側にはちゃんと記録あるから。ちゃんと調べろよ。
俺は付け焼刃で調べた
割って入ってゴメンネ、文永の役だろ
『八幡愚童訓』には一夜明けると元軍船が消えていた
公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』賊船数万艘が海上に浮かんでいたが、俄かに逆風が吹き来たり、
本国に吹き帰った
日本側の資料はこんなもので元が勝手に帰ったんだ、博多湾では少なくとも
この時に暴風雨はなかった
『高麗史』日本軍との戦闘で苦戦を強いられた元軍は撤退を決め、日本からの
撤退途上で暴風雨に遭遇した
『五檀法日記』19日と20日の2日に渡って武士と元軍との間で戦闘があり、結果、元軍兵は退散した
『帝王編年記』20日に武士と元軍とで合戦があり、日本軍は元軍軍船一艘を取り志賀島に押し留め、その他の元軍をすべて追い返した
『関東評定伝』文永十一年十月五日、蒙古異賊が対馬に攻め寄せ来着。少弐資能代官・藤馬允(宗資国)を討つ。同24日、
大宰府に攻め寄せ来たり官軍(日本軍)と合戦し、異賊(元軍)は敗北した
これらからして文永の役は博多湾を夜のうちに出向、日本海の真ん中で暴風雨に
あったと推論つけるという俺の不勉強極まりない結論だ
675 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 20:29:04.97
歴史学者とお前らの意見ってなんで違うの?
>>674 それもう定説やから。
未だに「文永の役に神風はあったか」とか騒いでるのはちょっと時代錯誤な感じだな。
>>675 「お前ら」「歴史学者」って具体的には誰?またその意見ってどんな意見?
杉山じゃね
威力偵察、棄民説:杉山正明
武士達の実力勝ち:佐藤鉄太郎
これ以外は教科書通りの説唱えてる奴ばっかだな。
そんな大先生達ばかりがここに邪魔してないわけで
俺はまず定説を押さえることに意義がある
元寇を勉強にきている
まだ高句麗、元、南宋の事情を押さえてないし、難しいね
大陸事情が絡むからなあ。先は遠い……
『高麗史』以外に暴風雨の記載がないんだから、そこから実際に暴風雨があったと信じるほうが難しい
三別抄が日本遠征船を焼き討ちするなどの抵抗をしていた高麗人が、帰還中わざと船を沈めて蒙古兵を大虐殺し、暴風雨があったと報告したと考えたほうが腑に落ちる
そういや最初に元が日本を挑発する国書を日本に送ろうとした1267年、
高麗の宋君斐・金賛らはモンゴル使節を巨済島まで連れて行って対馬の方角の海の荒れ方などを見せて、日本までの航海が危険だ困難だと訴えて、
モンゴル使節をそのまま何もさせずに本国に送り返してるな。
状況証拠ありまくりだw
>>681 お前、もう書き込むなよ。日本側に暴風雨の記録はあるっての。
大宰府庁下文「就中蒙古凶賊等来着于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹、異賊失命、
乗船或沈海底、或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉、」
ちなみに文永の役の2年後に書かれた下文だ。
文永の暴風雨の記録が少ないのは弘安の役のように戦闘中に台風を受けたのではなく
撤退中に起こった不運にすぎなかったからだろう。
>三別抄が日本遠征船を焼き討ちするなどの抵抗をしていた高麗人
これ何の資料に載ってるの?妄想?
それに蒙古人を殺すためにわざと船沈めて、同じ高麗人大量に道ずれにするとかアホかとw
文永の役の季節で台風はありえんが普通の低気圧で海があれるくらいのことはあるだろう
ふつうにウィキペディアに書かれていることを妄想とは恐れ入る
>>683 2年後ってことは既に高麗で「暴風雨があった」と既成事実化されたあとだから無意味
同時期の日記には暴風雨のことは全く触れられていない
例えば信長が延暦寺を焼き討ちして大量焼死させたのを
同じ日本人大量に殺すとかアホかと
と言うだろうか
元寇のつい1年前まで、国を分けて日本遠征賛成派と反対派が命懸けで戦争してたこと忘れてないか?
>>686 だったら資料だせよ。
>>687 お前、本当に馬鹿すぎて泣けてくるわ。
『高麗史』が編纂されたのは1451年だ。文永の役の2年後に書かれた大宰府庁下文
が参考にできるわけがない。
ちなみに『高麗史』は各種の資料をまとめた資料だけど、元ネタとなったのは
恐らく忠烈王死後に書かれた忠烈王の実録からだろう。現存はしていないが。
どちらにしろ、王の死後にまとめられる実録が大宰府庁下文より早く編纂される
ことはなかったことは確実だ。
ちなみに文永の役直後の公家の広橋兼仲の日記に「去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來、吹歸本國、」とある。
暴風雨ではないが、大風が元軍を襲ったとリアルタイムで日記に記されているのだ。
また、鎌倉時代に書かれた八幡ノ蒙古記にも「たまゝゝ沖に、にけたるは、大風に吹しつけられにけり」とあり
なんらかの気象現象が元軍を襲ったのは疑い様がない。
>>688 ああ、ここまでくるとキチガイだな。
国内の戦争に「日本人だから殺せない」なんて発想があるわけないだろw
>元寇のつい1年前まで、国を分けて日本遠征賛成派と反対派が命懸けで戦争してたこと忘れてないか?
おいおい、そんな戦争ないってwどこでそんな戦争があったんだw
>>690 元寇について知らんやつがこのスレにくるなよ
>>690 おまえ三別抄のことを知らずに今まで元寇語ってたのかよ…
三別抄が日本遠征に関して反乱を起こしたとか新説だな。
そんなに自信があるのなら根拠を示したらどうだ?w
三別抄はただ、高麗モンゴル勢力から排除された武官たちの抵抗ってなだけ。
日本遠征とか関係ないし。
なんだ単なる嵐じゃねえか
ウィキ見ればわかるようなことに根拠を示せとは恐れ入った
相手して損した
三別抄はただ、高麗モンゴル勢力から排除された武官たちの抵抗ってなだけ。
日本遠征が賛成とか反対とかで戦ったのではないし。
日本遠征に乗り気じゃない朝鮮人はわざと手抜きした船作ったり、沈めたりして日本を救った
しかし北九州島嶼地域の日本人は倭寇となって朝鮮半島を襲撃し恩を仇で返した
って方向に持って行きたいのかな
698 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 22:09:30.21
馬鹿で教養のない御家人達は敵に突っ込んで行って各個撃破されましたでいいじゃん
バンザイ突撃かよww
ってか、ボロ負けした連中が高麗征伐とか言い出すかね?
なんだかなぁ
恩とか仇とか、そんな宗教じみた話を歴史に持ち出すやつって胡散臭いよな
昔は確かに、秀吉の朝鮮出兵とか近代の日韓併合とかで朝鮮から恨まれることばかり日本がやってて、
その後ろめたさをごまかすために、じつは元寇のとき高麗人は日本攻撃に積極的だったみたいな話を捏造して、後ろめたさを帳消しにしようとしたアホもいたけどさ
まぁ、もしそのとき謂われなく悪者扱いされたことをいまだに朝鮮人たちが恨んでいるなら謝るけどさ
だからって、そんな恩着せがましい話にすることはないと思うんだ
要は、モンゴル相手に40年以上戦争し続け、朝鮮全土を死体の山にして、これ以上戦争したくなかったってことじゃん
それって、結果的に日本が助かったのは事実だとしても、日本を救ったとか、恩だとかいう話じゃないと思うんだ
恩とか仇とか恨みとかいう言葉を抜きに、客観的に歴史を見る必要があるんじゃないかな
後ろめたさwwwwww
新羅の入寇とか応永の外寇とか知らないのかよwwwww
日韓併合に至っては半ば救済処置にも等しいのに。
一瞬で鎮圧された三別抄なんて元軍にとっちゃ日本侵攻前の体のいい予行演習くらいにしかならなかったろ
肩慣らしにはちょうど良かっただろうね。
上陸作戦未経験の元軍としては。
まあ、博多湾から上陸しても内陸で撃退されてるんだから意味ないけど。
645年 大化の新羅の賊
780年 遣新羅使廃止
811年 弘仁の新羅の賊
813年 弘仁の新羅の賊
869年 貞観の入寇
893〜95年 寛平の韓寇
997年 長徳の入寇
1019年 刀伊の入寇
1274年 文永の役
1281年 弘安の役
この頃前期倭寇
1389年 高麗の対馬侵攻
1396年 李成桂の壱岐対馬討伐
1419年 応永の外寇
この頃後期倭寇
対馬は大変だな
高麗の造船技術ってそれなりに優れてたんだな。
台風で一番被害の少なかったのが高麗船らしいし。
しかし、車輪も無く建築レベルも低レベルだった李氏朝鮮を差し置いて
高麗が大量の優れた軍船を造ったというのがどうも信じられないな。
元寇以前から何度も襲撃あるんだから造船技術がないわけがあるまいて
>>707 いや、すごいのは世界最先端の造船技術を持っていた江南地方で造られた船より
頑丈ってところ。
朝鮮半島の船が頑丈だったのは極めて簡単な話。
丈夫な木材をひたすら組み込んであったから。
構造自体は至って原始的な代物でスピードはあまり出なかった。
710 :
日本@名無史さん:2012/10/04(木) 20:21:21.55
水中翼船と原理を同じくする帆付きカヌーは、季節風に乗って飛ぶように海上を走行した。
日本海を半日で渡ったのではないだろうか?
181 :世界@名無史さん:2012/10/04(木) 15:12:54.75 0
漢民族でも北方の騎馬民族でも、体質的に乳糖を消化できない。
そんなモンゴル人がなぜ「世界一発達した遊牧文化」を築けたか?
それは乳を加熱なり発酵なりして利用しているからだ。
中尾佐助が昭和19年にモンゴルを訪れた際、生乳を所望して美味そうに飲むと
周囲のモンゴル人から奇異の目で見られたという。
あの日本人、腹を壊さないか、と。
中尾が彼らに「あなた方は生乳を飲まないのか」と尋ねたところ、
「親を亡くした赤ん坊は生乳を飲む」
「大人は茶に入れて飲む。大人が生乳を飲むと下痢をする」
との答えが返ってきた。
つまり、モンゴルでは赤ん坊に家畜の乳を飲ませているわけだ。
ちょっとオモロカッタから乗っけておくね
興味深い
ああそういう人向けの何とか牛乳とかいうのがあるね。
昔小学校の頃、雪印の工場見学で見せてもらったことあるわ
大航海時代と言えばお茶だろ、つまるところそこまで茶の文化は
なかったわけでさ
ミルクテイにしたってさ、肝心の紅茶は流入以前だった
このミルクと茶の混淆という発想のきっと原点の文明なのかな
ミルクのある処は遊牧民ならふつうにあるだろ
でも茶がない、モンゴルには古来から双方あったんだね、きっとさ
日本にお茶はあってもさ、焙じ茶と煎茶にミルクは今でも入らないしね
相性の問題があるわな
モンゴル帝国が弘安の役の15万を超える軍勢を動員した戦いって他にどこがある?
ヨーロッパ侵攻→2万
襄陽・樊城の戦い→10万
ベトナム侵攻→9万
マムルーク侵攻→2万
対南宋戦争だと、戦争全体ではもっと多くの兵力をつぎ込んでいたかも知れないが、
対国家で、比較的短期間で、しかも1つの戦闘局面に15万の兵を送り込んだ例はないのでは?
ルーシやポーランドの時はウィキペ見たらそれぞれ8万と5万ってあるが
おや、ワールシュタットでは欧州側が数的に優勢で、モンゴル軍は2万程度でしょ
いや、ワールシュタットのモンゴル軍+モヒの戦いのモンゴル軍+αって事らしい
722 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 00:25:41.39
723 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 13:10:30.58
南無八幡大菩薩
>>722 これで棄民説みたいな異説は動揺しそうだね。
ほとんどの研究者は日和見だから、武士健闘論が市民権を得るかも知れない。
>>724 それほど堅固な船が沈むようだと神風のようなトンデモ説が復活するかもw
日和見なのは戦前の神風を無邪気に信じ、今は御家人をはじめとする武士
が戦ったとか思っているアカデミックには程遠い連中だろ。
繋いであったんだよ
727 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 11:58:37.98
結局、粗製乱造説ってどこから出てきたの?
棄民説論者の妄想だろう
根っこは平和を愛するウリナラが元に抵抗して助けてやったニダ
日本人は感謝しるってとこじゃないの
あの国「実はあの船ワザと粗悪に造ってるしww
日本相手に本気出してねーしww」
さしずめこんなとこ
弘安の役の時の船だったら、長きにわたる停泊で腐ってしまった可能性が…
732 :
日本@名無史さん:2012/10/27(土) 09:11:18.15
船が腐るってないない
733 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 11:33:48.97
経団連の米倉みたいに日元で仲良くして商売の妨げにならない様にとか言う商人はいなかったのか?
別に商売の妨げになってないし、文永の役で日本に破れてから
クビライは日本の商人を保護して貿易を奨励するなど下手に出てた。
むしろ、弘安の役の大敗を受けて元の軍事力が弱体したため、武士らが
武力を背景に強引に元に渡って貿易して、要求が通らなければ皆殺しにしたり
暴れたい放題だった。
735 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 13:51:13.33
鎌倉幕府が大陸から情報を入手するルートって禅僧ばかり言及されてるけど、むしろ貿易関連の
ルートの方がはるかに重要だよ。
南宋はモンゴル軍に対抗するため大量の火薬兵器を必要としたけど、その材料の硫黄は日本からの
輸入に頼ってた。
そしてその硫黄貿易を管理してたのが鎌倉幕府。
つまり、当時の鎌倉幕府は大陸の軍事情勢に直接的な利害関係を持ち、常に最新の情報を
入手できる立場にあったってこと。
中国のやつに聞いたら「日本人は謙遜して台風が原因だと言うけど、
中国では台風=神風なので軍国主義とみられるから逆効果じゃないか
武士が健闘したのは事実で、むしろ南宋と鎌倉幕府は利害関係にあったというほうを強調してほしい」
と言ってたな。
謙遜してるのではなくて、歴史学者や教育機関が武士の奮戦を隠そう隠そうとする
のが原因だな。
武士の奮戦に関する資料を教科書に掲載したら一気に日本人の元寇に関する意識は
変わると思うよ。
738 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 17:11:07.22
>>735 逆に考えれば、その硫黄に目をつけたから攻めてきたとも考えられないかな?
739 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 18:05:30.97
すまん。教えて。日本軍の中に美少女武者とか美少女巫女武者とかいなかったの?
元軍のなかに美少女モンゴル兵とか美少女高麗兵とか美少女宋兵とか美少女ウイグル兵とか美少女女真兵とか
そういうの無いのかしら。
生活かかってるオッサン達の話ばっかでなんかあれだから、萌も欲しい。
創作でもいい
騎馬遊牧民に、女戦士なんていたの?
女戦士は南方イメージ。
ムーランは騎馬遊牧民に抵抗する中国人じゃん。
『美少女高麗兵』これは絶対にいない。
朝鮮半島で少女を見てきた私が言っているのだから確実だ。
>>738 色々考えると面白いね。無学祖元、蘭渓道隆をはじめとして宋人ブレーンもいたわけだし、
鎌倉幕府の外交・諜報戦略に関する研究があったら読んでみたい。
何かいい文献ないかな。
まともな鎌倉幕府の外交・諜報戦略に関する研究なんて無い。
学者連中は最初から結論ありきだし。
例えは、日本から南宋に渡った禅僧が帰国して太宰府で「南宋と同盟が成立した」
って報告したら普通は日本側から南宋に同盟呼び掛けたと思うじゃん。
学者連中の説明は何故か逆なんだよ。
747 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 03:36:18.14
南無八幡大菩薩
鎌倉幕府は南宋人や商人にばかり情報を頼ってないんだよね。
例えば、1272年には日本船と通じた高麗人が処刑されているし
元史には元朝の領内にも鎌倉幕府のスパイが諜報活動を行っており
日本人の間者が捕縛されたという記事もある。
749 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 19:39:02.41
元寇が軍記物語として広まらなかったのが不思議だな。
なんか華々しさを感じない戦いだったんだろうか?
750 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 00:30:29.72
台風が来たせいで神社のプロパガンダに使われちゃいますた
>>749 なんでだろうね。悪役に魅力がないんじゃないかな。
悪役扱いにしろ主役扱いにしろ負ける側に魅力や同情するところが薄いとか。
平家、義経、楠木正成、項羽、孔明、真田幸村
負け組だけど負ける悲劇に拠る魅力みたいなのあるけど、
元にそんなの感じられない。ただの侵略者だから。
戦った日本武将で戦死した方にはとても惹かれるけど。
『予章記』とか『菊池軍記』とかあるじゃん
753 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 11:09:58.57
今日のNHKスペシャル 蒙古襲来(幻の巨大軍船)
で、多くのことが明らかになるだろう。
>>749 軍記物になりにくいんだわな。相手がどこの馬の骨とも知れない連中だから。
あと、相手方に個人的武勇やリーダーシップで、日本に一目置かれるような存在がいなかったのも大きい。
好敵手のカップリングがないから、単なる賊徒討伐になって、お話にならないんだよ。
同じ異賊との戦いでも、相手方に目立つ奴が1人いればもっとお話になったんだがな。
強いて言えばフビライがそうなんだけど、彼は前線に出てきてないしね
モンゴルは名のある武将を送ろうとは思わんかったのかな?
阿塔海あたりは一応期待のエースだったんだろうか。
劉復亨とか超名のある武将だぞ。
モンケ汗の南宋遠征では釣魚山の戦いで武功を上げてるし、アリク・ブケの乱ではクビライ汗とともに
カラコラムまで遠征し、カラコラム占領という重責を任されてる。
モンゴル皇帝2代にわたって皇帝直属部隊の中核を担ったエリート中のエリート。
758 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 15:52:53.08
>>753 nhkに何を期待してるんだ。
恐らく、武士の奮戦を矮小化して元軍はこんなにすごい軍隊でした!
神風が凄かったのであり、武士がすごいのではありませんよ!
元軍は本当は日本と同盟したかったんですよ!それを無視した幕府はおろか。
棄民ですよ威力偵察ですよ!
のオンパレードに決まってる。
ナンギャダイこそ、多大なる戦績により昇進し、この家の地位を高めた人物といえる。
世祖クビライの時代の彼の履歴は次のとおりである。彼は若くから父マチュとともに従軍したが、
父の死後、「都元帥府の経歴」となった。この後、襄陽攻撃にアジュにしたがって参加していることから
都元帥アジュの麾下にいたことがわかる。襄陽戦の功で「漢軍千戸」となり、バヤンの南宋遠征に従う。
そして南宋朝廷への使者となり賈似道との交渉にあたり、さらに臨安の無血開城に活躍する。
バヤンの命により宋の玉璽をクビライに齎らし、帰途には南宋の君臣をクビライのもとに送れとの
密命を伝えた。この際に安撫司ダルガチとなり、ブジェク家のアラカン、董文炳とともに浙江・福建平定を
担当した。至元十五年以前に「蒙古軍副都万戸」、江東宣慰使となり、さらに江東按察使に昇進した。
ふたたび江東宣慰使となった際も以前どおり「万戸」であったという。至十八年に「都元帥」として
第二次日本遠征軍を率いたが、"未だ至らずして還った"という。この「都元帥」は日本遠征に伴う
一時的なものであったらしい。日本遠征失敗後、「もと管したる出役軍」とボロミルなる人物の軍団と
合体して、「万戸」として健康に駐屯した。その後一時雲南行省平章政事として金歯、緬国の征討に
むかうが病のため召喚され、南京等路宣慰使、河南道宣慰使を歴任する。至元末年には
"父の職を襲って"、「蒙古都万戸」となっていたこと、「探馬赤軍」が彼の管轄下にいたことが確認できる。
「元代華北のモンゴル軍団長の家系」堤一昭
760 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:49:11.36
NHK
博多は文永の役で焼かれたってさ
762 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 20:04:16.23
明らかになるどころかミスリードしまくりだろうな
763 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 20:15:05.11
元寇の巨大船の碇に使われた石は福建省の泉州産の花崗岩だということがわかった。
大阪湾の泉州は、福建省からの渡来人(今風にいえば、華僑)の支配地だったわけだし、
元寇は、鎌倉幕府の打倒を狙って泉州からの渡来人の手引で行われたものだ。
しかし、情報が事前に漏れて、返り討ちにあったのだ。
のだのだいっているおれも、野田総理も渡来人。
のだは、朝鮮語の「ニダ」が訛ったもの。
元寇は、実は、華僑が北九州の支配と狙ってフビライを煽ったものだ。、
しかい、モンゴル人による日本支配を快く思っていない勢力によって阻止された。
こういうことだ。
NHKをうのみにせず、背景まで読めば、わかることは多いのだ。
>>758 普通に鎌倉武士の奮戦で勝ったと言ってたぞ
お前誇大妄想の気があるんじゃね?
765 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 21:38:01.38
降伏した南宋人が海におぼれて死んじゃった。あまった男って
かわいそう。そういう運命だったんだ。新天地求めて農機具も
運んできたらしい。
>>764 日本と朝鮮半島2000年 蒙古襲来見てから言え。
さらにこの番組について言えば、台風の後の元軍殲滅戦がなぜか触れられていないし
博多が焼かれたとか根拠の無いことも言ってたろ。
いきなり、武士がやられてるところから始まってるのも印象操作だし。
うわぶしつよいってなると、今度は鷹島での10万人虐殺、残虐非道って扱いになりそうだ
でも、今回のはマシだったよ。
ちゃんと、元が最新技術を動員して本気で日本に攻めてきた事は言っていたから。
今までのNHKの番組は根拠もなく「クビライは本気じゃなくて、棄民だったんだよー」って言いかねなかった。
ただ、モンゴル、モンゴルって連呼して元とは言わなかったり、高麗が元の領土から除外されてたり
やはり、中韓に対する配慮も見え隠れした。
NHKスペシャルを見たけど、元が領土侵略した土地は赤く塗られていて朝鮮半島は青くしていたな。
さすがNHKだな。
771 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:05:35.16
>>767 >さらにこの番組について言えば、台風の後の元軍殲滅戦がなぜか触れられていないし
台風で船が沈没して、やっと陸にたどり着いたと思ったら、待ち構えていた武士に虐殺された。
14万の元軍(といっても実際は朝鮮人や中国の南京辺りで徴用された中華民族)がほぼ壊滅状態にされたのだから、
血崎という名称がそのままの惨状だったのだろう。
南京大虐殺を連想させるそんな惨状をNHKは公共の電波を使って宣伝できるか?
日本が交易拒否したことなんて無いじゃん。
日本は元寇の前も後も一貫して交易推奨。
第一、世界中で征服戦争やってるモンゴル帝国が日本だけは交易で満足するなんてありえない。
それが分ってるから鎌倉幕府は拒絶したのに国際情勢に疎いNHKには理解できないのか・・・
今回のスペシャルは結構鎌倉武士に好意的だったね
神風も彼らの奮闘あってのものって言ってたし
まあNHKにしては上出来ってとこでしょ。
近年ネットでアホどもがどや顔で語ってた威力偵察だの棄民だのを否定したんだし。
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776 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 15:14:40.50
ベトナムのチャン・フン・ダオやシリアのバイバルスは英雄扱いされてるのに、
日本の北条時宗や少弐親子が英雄にならないのは、なんでだろう?
そもそも、日本に民族の英雄っているのか?
未だに神風連呼してるのって何なんだろうな
そんな都合のいい物なんか無かったってのに
番組は見れないこともなかったが、半藤一利のうざいことうざいこと。
779 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 19:37:33.49
>>776 逆に考えるんだ。
1人の英雄に頼らなくたって、みんなで力を合わせて
困難を切り抜けられるのが日本人なんだとそう考えるんだ。
>>776 菊池武房、少弐景資、河野通有、、、
英雄いっぱいいると思うけど?
日本の民族の英雄
源頼朝、北条時宗、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、幕末以降は腐るほど
↑
この人ら、海外じゃ相当有名なんだけど
明治初年のあたりから幕府創立者なんか紹介されてたし
北条時宗に限っては、戦前は英雄視されていたのは確か。
織田信長や源義経より人気があった。
「全世界英雄番附」 明治42年1月1日発行
(アンケート形式で人気投票した結果)
1 豊臣秀吉
2 チンギスハン
3 徳川家康
4 西郷隆盛
5 北条時宗
6 始皇帝
7 諸葛孔明
8 源頼朝
9 伊達政宗
10 織田信長
11 源義経
12 毛利元就
13 フビライハン
驚くべきはフビライの人気が戦前高かったというのが驚かされる。
三国志演技すでに猛威振るってるのかw
演義
786 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 20:45:01.88
義経=チンギスハン説、そんなのに踊らされた明治の人。乙
鎌倉時代は室町時代(除く戦国時代)よりはマシだけど
今1つパッとしない感じはするな
鎌倉時代の人物、事件などを利用した物語などは、
現代では江戸時代の人物、事件に起きかえられているんではないかなあ。
青砥藤綱から大岡越前、北条時頼が水戸黄門みたいに。
そのうち明治大正昭和の頃の人物に置き換わってしまうかもしれない。
一般人の超簡単な歴史イメージ
鎌倉時代
・頼朝が初めて幕府を開く
・元寇
室町時代
・なんか文化が発達した気が。あと、金閣寺、銀閣寺そんな感じ
・戦国時代が始まった
安土桃山時代
・信長とか秀吉とか戦国時代真っ盛り
徳川時代
・家康とか家光とか吉宗とか色々将軍が出てきた
・文化も発達
・明治維新前夜
こんな感じのキーワードじゃないのかな?
鎌倉時代は将軍又は執権で言えるの3人居れば歴史詳しい方じゃね?
多分2人、下手したら1人
関東では鎌倉や北条氏の人気は家康凌ぐのでは?
792 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 21:35:50.40
自民・公明じゃ何も変わらない
「民主」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「みんなの党」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「小沢」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「維新の会」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「石原」ならなんかやるだろ ←いまココ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「第三極大連合」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
>>791 鎌倉、小田原ならいざしらずって感じじゃね?
地元だと執権北条は影が薄い。後北条の方がまだマシな程
あと地元の御家人が有名人かどうかで変わりそうだな
徳川の知名度に勝てるわけがないだろうけどさ
795 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 11:21:45.62
決定版!やらせブームの作り方!!
1 数の原理
操作可能なランキングは全て操作
売り上げは自社買いで伸ばす
人気の根拠を数値に求め、スポンサーへのプレゼンに使用
動画サイトはとにかく再生回数を増す
それらの数値を総合して「売れている感」をバックに
メディアで煽っていく
1-2白痴の量産
洗脳し易い環境を維持していくため、あらゆる手段を使い、愚民を増やし続けることに努める。合法、非合法は問わない
2 安価主義
極めて安いギャラ、権利関係等の無償提供によりメディアへの敷居を下げ
大量露出による継続的刷り込み作業を可能にする
3 資金調達
税金を毟り取る
政府が出資する文化推進枠などの補助金を全部横取りし、工作資金に使う
(文化推進枠は元々、政府と広告代理店が税搾取の為に作ったオブラート)
北条一族は、日本で一番政治力の高い一族だったと思う
でも、マイナーなんだよな…
そんなことはないよ。少なくとも足利氏よりはずっと有名。
やはり南関東と言う首都圏のお隣に故地があることが大きい。
>>791 家康は別格だけど、執権北条氏ファンも最近は増えてるよ。
もともと泰時、時頼、時宗、金沢実時、貞顕とか知名度の高い人物がいるからね。
陰謀や暗殺のイメージだけがネックだったので
てか北条氏は800年前の話しで家康は400年前の話
家康が400年前の源平北条足利を尊敬していたように
現代人は家康を見ている。源平北条氏辺りは古すぎてピンとこないんだな。
北条にはどうしても源氏を追い落としたマイナスイメージが…
しかし、よく対処したもんだよ。
伊豆の小土豪が貴種を担いで平氏を破り、幕府を乗っ取り、上皇を破り、世界帝国の元を斥けたんだから
凄いとしか言いようがない
執権北条氏は滅亡する時に裏切り者が出ていない、名越流ですら
小田原北条氏は一族で闘争がない 驚くべき現象
鎌倉時代はご恩と奉公で成り立っていて
忠義なんて言葉は戦国からのような気がする
北条足利は出来事が殺伐としている
とはいえ北条血族の結束は固い
足利氏は時代状況もあったとはいえ、一族内部で開幕当初から兄弟で殺し合いまくったのに比べたら、
執権北条氏は一族の殺し合いが少ない部類だよ。。。
元を世界帝国とは言わないな
世界帝国モンゴルが、衰退期に入って4分5裂したうちの、中国部分が元
806 :
日本@名無史さん:2012/11/08(木) 18:00:00.64
衰退はしてないでしょ。
衰退どころか南宋攻略で強力になってる。
で神風が吹いたか。
809 :
日本@名無史さん:2012/11/08(木) 21:05:57.64
決定版!やらせブームの作り方!!
1 数の原理
操作可能なランキングは全て操作
売り上げは自社買いで伸ばす
人気の根拠を数値に求め、スポンサーへのプレゼンに使用
動画サイトはとにかく再生回数を増す
それらの数値を総合して「売れている感」をバックに
メディアで煽っていく
1-2白痴の量産
洗脳し易い環境を維持していくため、あらゆる手段を使い、愚民を増やし続けることに努める。合法、非合法は問わない
2 安価主義
極めて安いギャラ、権利関係等の無償提供によりメディアへの敷居を下げ
大量露出による継続的刷り込み作業を可能にする
3 資金調達
税金を毟り取る
政府が出資する文化推進枠などの補助金を全部横取りし、工作資金に使う
(文化推進枠は元々、政府と広告代理店が税搾取の為に作ったオブラート)
テレビで神風が吹かずに上陸されたら侵略されたようなこと言ってたけど
やっぱ負けてたのかな?
いや、上陸してるし。弘安の話でしょ?
本土と陸続きの志賀島に上陸したところを日本軍に襲撃されて敗退、海上へと叩き出されてる
どうして神風神風いうやつが多いんだろうね。教科書はいま文永は神風で教えてないだろ。
弘安はせめてwikiくらい見てきたの?10万人が海に沈んでくれたら、その後の大規模な掃討戦なんて必要ないだろ
沈んでくれなかったから這い上がってきたやつを攻めて屍山血河にするしかなかったわけで
>>812 NHKの番組が敵の事情で勝てたような言い方だったから
やっぱ台風が来なくてもフルボッコでしょ
よく見落とされてるのは、元軍は文永も弘安も一旦は上陸してから
海にたたき出されているという点だな。
弘安の役なんて6月6日に上陸して二日後から起こった大規模な志賀島の海陸上戦で
元軍は海に叩きだされてるんだから。
元側の資料では壊走した東路軍の総司令官の洪茶丘が武士に追い回されて、馬に乗って逃げ回った
という記録があるくらい、陸上戦でも武士は強かった。
815 :
日本@名無史さん:2012/11/09(金) 12:15:44.18
モンゴル自身が上陸しても日本には勝てないと認識してたから。
「たとえ順風を得て彼岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、わが師に後援はない。
万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛渡することはできない。」
クビライが第三次日本遠征をしようとした時、家臣から日本相手に勝ち目はないし、今度負けたら元朝の
命取りになるって大反対されて、結局は諦めたんだよね。
NHKは隠してたけど、第三次日本遠征が行われなかったのはベトナムの影でも何でもなく、モンゴル帝国内で
日本と戦っても負けるだけだと考えられてたからなんだよ。
816 :
日本@名無史さん:2012/11/09(金) 14:02:43.55
むしろ日本遠征が大失敗に終わったのが元朝にとってケチのつき始めだったろ。
その後の遠征には殆ど失敗してるじゃん
ベトナムに派遣した軍船はたった500艘だろ?
過大評価しすぎだわ。
明と懐良親王の逸話を見る限り、蒙古帝国を一蹴した鎌倉武士の遺産が近代まで日本を守ったとすら言えるかも知れない。
源氏と平家は百済系と新羅系の渡来人同士の争いてことでおk?
お前がそう思いたいならそう思っとけば?
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822 :
日本@名無史さん:2012/11/11(日) 09:03:12.62
>814
>元側の資料では壊走した東路軍の総司令官の洪茶丘が武士に追い回されて、馬に乗って逃げ回った
洪茶丘は東路軍の総司令官じゃないだろ。
それから馬に乗ってじゃなく馬を棄てて逃げた。高麗史金方慶伝によればね
馬を捨てて徒歩で逃げたって、その方がさらにピンチじゃないですか。
>>822 洪茶丘はヒンドゥーとともに東路軍の総司令官として東征元帥に任命されてる。
よって、東路軍には総司令官が二人いたということ。
>>823 志賀島の海ノ中道で指揮を執っていたけど、敗北したので山に駆け上がったということじゃない?
志賀島は山ばかりだから。
>>822 それと高麗史節要によれば、馬に乗って逃げたことになってる。
どっちが正しいかは不明。
826 :
日本@名無史さん:2012/11/11(日) 19:40:23.58
要は逃げたってことだろ
827 :
日本@名無史さん:2012/11/11(日) 21:30:01.50
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828 :
日本@名無史さん:2012/11/12(月) 13:38:05.12
いずれにせよ、集団戦闘を行うモンゴル軍にお笑いパフォーマンスしながら一騎打ち挑んで返り討ちにあったのに変わりない
>>828 元軍総司令官忽敦の戦況認識。
「忽敦 「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、少数の兵が力量を顧みずに
頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。
疲弊した兵士を用い、日増しに増えるであろう敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。
撤退すべきである」
あらあら、お笑いどころか、焦りきってますな。
で、忽敦の判断のもとで撤退を決めた元軍は、日本軍から逃れたいがために天候を見計らいもせず、
危険や夜間撤退を強行して慌てて逃げ帰った結果、嵐に飲み込まれ自滅w
830 :
日本@名無史さん:2012/11/12(月) 15:45:59.61
騎兵は結束す=騎兵が集団突撃する
と他国の文献に見なされた武士の戦術がなんだって?
831 :
日本@名無史さん:2012/11/12(月) 19:42:01.85
俺が今日読んだ歴史学者が書いた本にはそんな事書いて無かったぞ
いくら2ちゃんねるとはいえ、日本史板は学問の板なのだから願望で語るのはやめて欲しいんだが・・・
どの本にも「やァやァ我こそはァ・・・(笑)」と互いに名乗って、敵に突撃して各個撃破されたとしか書いてないしな
元寇以前、海外から侵略された経験が皆無にひとしいからなぁ
武士の戦術がこうなるのはしかたないな。
お前たちは馬鹿だ。せめて高校の日本史くらい学んでから、この板に来てくれたまえ。
832 :
日本@名無史さん:2012/11/12(月) 19:50:01.61
つっても竹崎さん自身がそういうの否定してるからなあw
名乗りをあげてて各個撃破されたという説の根拠って何?
>>831 で、その歴史学者さんは元寇の基本史料であるこういった史料はちゃんと引用してるんだろうな?
『高麗史』金方慶伝(文永の役の際の軍議の様子)
金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った
軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っており、
我が軍は自ずから戦うことになる。これは秦の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。
再度戦わせて頂きたい」
忽敦 「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、
多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増えるであろう敵軍と
相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」
『日田記』
「筑前国早良郡二軍ヲ出シ、姪ノ浜、百路原両処二於テ、一日二度ノ合戦二討勝テ、異賊ヲ斬ル事夥シ」
『福田文書』
「右、去年十月廿日異賊が襲来し早良郡に来着。各々当所に馳せ向かうようおおせ蒙られ、鳥飼塩浜において防戦のところ、かの凶徒等を百路原に駆け落とした」
『蒙古襲来絵詞』詞四
「たけふさ(武房)にけうと(凶徒)あかさか(赤坂)のちん(陣)をか(駆)けお(落)とされて、ふたて(二手)になりて、おほせい(大勢)はすそはら(麁原)に
む(向)きてひ(退)く。こせい(小勢)はへふ(別府)のつかハら(塚原)へひ(退)く、」
『元史』
「「たとえ順風を得て彼岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、わが師に後援はない。
万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛渡することはできない。」
『論倭』
「「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。
いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、
戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を
燔して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。(中略)士気を喪い国体を弱めるのは、これより大きな
ことはない。しかし、その地を取っても国に益することはなく、またその人を掠しても兵を強めることはない。」
『心史』
「「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。
戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。倭刀はきわめて鋭い。
地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし。」
『汎海小録』
「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、
刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。
人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」
『高麗史』
「日本兵突進、官軍潰、茶丘棄馬走、王萬戸復横撃之、斬五十餘級、日本兵之退、茶丘僅免、翼日復戰敗績、」
『元史』
「七日日本人が来て戦い、わが軍は盡く死に、二三萬が捕虜となった。」
『心史』
「辛巳6月の半ば、元賊は四明より海に出る。大舩7千隻、7月半ば頃、倭国の白骨山(鷹島)に至る。土城を築き、
駐兵して対塁する。晦日(30日)に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。
韃(蒙古)軍は半ば海に没し、舩はわずか4百餘隻のみ廻る。20万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、
倭人のためにことごとく殺される。山の上に素より居る人なく、ただ巨蛇が多いのみ。伝えるところによれば、唐の東征軍士は
みなこの山に隕命したという。ゆえに白骨山という。または枯髏山ともいう」
文永の役では、元軍は海岸線に張り付くので精一杯な上に
征東左福元帥・劉復亨が重傷を負って、夜中にトンズラ。
中世で最も避けなければならない危険な夜間な出航を日本軍から
逃れたいがために行い海の藻屑と消える。
弘安の役では、志賀島の陸上戦で東路軍東征都元帥・洪茶丘が
武士に追い回されながら敗走。
壱岐島に逃げるも追撃してきた武士に苦戦して壱岐島も放棄。
モンゴル人司令官・クドゥーハスが戦死。
台風の後、鷹島に避難していた10万が武士に皆殺しにされる。
>>831 名乗りは@戦功の証人を作るため、A家の名誉と結びついているが、
異賊相手にAは通用しない。ちなみに日本史教科書の内容は元史の記述と整合しないので海外から批判があったりする。
そもそも、保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱、承久の乱とか全部集団戦法なんだが…。
それに、敵側の元朝人王ウンが『汎海小録』 で「騎兵は結束す。」と日本の武士を
評してるように、一騎打ち云々は全くもって馬鹿らしい話だよ。
ちなみに『汎海小録』で指摘されてる「騎兵は結束す。」は蒙古襲来絵詞において白石通泰らの
軍勢が騎兵を密集させて突撃させているのと合致している。
というか、時には名誉を懸けた一騎討ちだってしたかも知れないが、それが
「一騎討ちしかしない、できない」になっちゃうわけ?
>>840 用は「世界最強のモンゴル兵に武士ごときが勝てるわけがない」というのが根っこに
あって広まった典型的な珍説だと思うよ。
この手の話は他にもあって、慶長の役で日本軍が餓えていたという印象操作のために
蔚山城の篭城戦の屏風絵を見せて、日本軍全体が餓えて苦戦していたように見せようとする
本が多い。
ところが、慶長の役においては、実際は餓えていたのは蔚山城に篭城していたわずかの兵だけで
その餓えた兵士たちは援軍を得て、明・朝鮮軍に2万の戦死者をださせるほどの完勝を遂げている
ことは絶対に触れようとしない。
それにあの餓えた日本軍の屏風絵には続きがあって、壊走する明・朝鮮軍を追撃する日本軍の絵も
存在するが、全く知られていないし、ネットでも検索にかけてもあまり出てこないほど無視されている。
元寇にしたって、棄民説、威力偵察説、粗製乱造説、全部「世界最強のモンゴル兵に武士ごときが
勝てるわけがない」という日本蔑視思想が根底にある。
信じられないことに戦後の学者連中が元寇で「侵略主義」だと非難してるのは、元や高麗の方じゃなく
日本の方なんだよな。
元や高麗の日本侵略には「戦役」って言葉を使い、被害者の日本が反撃しようとしたら「侵略」のレッテル
貼って叩く。
異国征伐は「高麗が戦役で疲れてる弱みに付け込んだ日本の侵略主義」って一体どういう理屈だよ?
こんな頭のおかしい連中にまともな学術研究ができるはずない。
治承寿永の内乱、南北朝と高時政権などに関してはそれなりに意欲的研究があるのに、
対外戦争でこれほど水準が低いと言うのは、もはや一種のタブーなんだな。
その結果、馬鹿学者しか手を付けなくなり、棄民説などと言う信じがたい学説が登場して海外の研究者を呆れ果てさせている。
「ワトソン君、なぜ守旧的な鎌倉武士が世界最強蒙古帝国に勝ったのかと問うから訳が分からなくなるのだよ。
前提が間違っていたとしたらどうだね?密室など、どこにもありはしなかったのだ」
「元軍は大規模な軍事行動を二度起こしたが、彼らはこの中で殺戮と破壊のみに終始した。
元軍は、その大部分の戦いで勝利し、九州地方の大部分を席巻した。彼らはほとんど敗れることなく、
多くの将軍が子孫末代まで続くほどの名声を得た。こうした観点から見ると、
元軍が起こした戦争はイピロスのピュロス王やハンニバルが起こした戦争と似たところがある。
ピュロス王やハンニバルともに、彼らが起こした戦争を通じてイタリア半島の広い地域を荒廃させ、
ローマの主導権を脅かし、ほとんどの戦闘を勝利に導いた。しかし結局、戦争そのものには敗北した。
一方、元朝と彼らの間には異なる点がある。ピュロス王やハンニバルを倒した相手はローマであり、
その後ローマはギリシャを征服してカルタゴを破壊した。
一方、日本は、元朝による征服は退けたものの、戦争に勝ったとは言いがたいのが実情であつた・・・
>元軍は、その大部分の戦いで勝利し、九州地方の大部分を席巻した。
九州地方の大部分どころか、文永の役では浜辺に張り付くので精一杯で
弘安の役では陸繋島の志賀島に上陸したものの、砂州伝えの武士団に攻められ
海に叩き落されてるんだけど…
釣りだよね?
訂正
「元軍は大規模な軍事行動を二度起こしたが、彼らは恥を上塗りしただけであった。
『日本一艦』によると、「元忽必列…元兵漲海之外、得其民安焉、用之喪兵足以為恥、」とあり
後の時代にも元寇の敗戦は「兵を喪い、以って恥を為すに足る」と言われるほど後の時代の嘲笑の対象となった。
また、明の時代には日本に軍事恫喝をしてきた洪武帝は、日本側が要求を跳ね除けると
日本征討論を展開してきた態度を一変させ、激怒しつつも泣く泣く元寇の恥を重ねるだけだと思い
日本征討を思い留まったという。」
『明史』日本殿「帝得表慍甚、終鑑蒙古之徹、不加兵也、」
「多くの将軍が子孫末代まで続くほどの名声を得た。」というのは末代まで悪い意味での名声を残した
という意味なら正しいね。
私は40代なんだけど学校教育で神風で勝ったとは習っていなかったように記憶する。
神風が吹くといった思想の元になっただったように記憶する。
竹崎さんの苦戦の絵はてつはうがあったんだよってのが見せたくて選んでいるんじゃないか?
既に火薬があったこと、てつはうって言っても鉄砲ではなく爆弾みたいなものだってのは習ったように記憶する。
神風や神国思想は太平洋戦争のころしきりに宣伝されたのではないのだろうか?
そう。戦時中の末期に戦局が不利になるにつれて神風が吹聴されて
戦後は、武士の活躍を認めたくない学者たちが「神風による勝利」を継承した
感じだな。
見事に戦中の神国思想と戦後の自虐史観が融合した稀有な例。
>竹崎さんの苦戦の絵はてつはうがあったんだよってのが見せたくて選んでいるんじゃないか?
選び方がおかしいのだよ。例えば、この絵を使って「日本側は一騎打ちをしていた」と説明してる
教科書があるが、竹崎季長の後ろには白石勢百騎の軍勢が描かれているが、そこはスルーしている。
また、あの絵は逃げる蒙古兵を追う竹崎季長の絵なんだけど「逃げる蒙古兵」がトリミングして
カットされている。
また、文永の役でも元側の史料に明確に「このまま戦えば捕虜となってしまうから
撤退するしかない」と書かれているのに、撤退理由を書かなかったり「最新鋭の武器を装備し日本側を
悩ましたが、暴風雨で敗退した」と平然と嘘をつく。
結局、なにが何でも子供たちに「日本強い」と思わせたくない思想家たちの影が反映されているんだよね。
>>845 その文章、ウィレム・ブート教授の朝鮮出兵評のまんまパクリじゃねえかww
バレないとでも思ったのか?キチガイ野郎ww
「六年半という期間、日本軍は大規模な軍事行動を二度起こしたが、彼らはこの中で殺戮と破壊のみに終始した。
日本側の地上軍は、その大部分の戦いで勝利し、朝鮮半島地域の大部分を席巻した。彼らはほとんど敗れることなく、
多くの将軍が子孫末代まで続くほどの名声を得た。
こうした観点から見ると、 日本軍が起こした戦争はイピロスのピュロス王やハンニバルが起こした戦争と似たところがある。
ピュロス王やハンニバルともに、彼らが起こした戦争を通じてイタリア半島の広い地域を荒廃させ、
ローマの主導権を脅かし、ほとんどの戦闘を勝利に導いた。しかし結局、戦争そのものには敗北した。
一方、日本と彼らの間には異なる点がある。ピュロス王やハンニバルを倒した相手はローマであり、
その後ローマはギリシャを征服してカルタゴを破壊した。
一方、朝鮮や中国は、日本による征服は退けたものの、戦争に勝ったとは言いがたいのが実情であり、
再び戦争以前の状態に戻ったのである。 」
モンゴルが攻めてきたのは日本の外交姿勢に問題あったみたいに教えてるのだって問題だと思うよ。
当時の世界で、外交でモンゴルの侵略思い止まらした国や、モンゴルが交易だけで満足した国が
一体どこにあるんだよ?
不可避だった戦争に現実的な対応した鎌倉幕府を、まったく実現性のない絵空事を掲げて叩く。
鎌倉幕府と戦後の学者連中と、外交オンチなのは一体どっちなのさ?
一週間前のNHKの番組でも、半藤とかいう奴が偉そうに鎌倉幕府を
外交オンチみたいに非難していたな。
>>853 あれでも侍の奮戦は強調してたけどね。
なんかNHKにむりやり日本の非をしゃべらされんじゃねえ?
と疑問に思ったわ。
NHKは放送前に念入りにリーハーサルをやって、ほとんど
決められた通りにしかいえないって聞いたことがある。
>台風の後、鷹島に避難していた10万が武士に皆殺しにされる。
毎日新聞の百人切りかよ
こんなことを書くやつがいるから、
南京大虐殺とかがまかり通るんだよな。
誇張は良くない。
856 :
日本@名無史さん:2012/11/13(火) 20:56:49.98
>>855 誇張じゃなくて元側の史料に書いていることだよ。日本人が言ってることじゃない。
『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「八月一日、風破舟。五日、文虎等諸将各自択堅好船之、
棄士卒十余万于山下。七日日本人来戦、盡死。余二三萬為其虜去」
それって「嵐で死んだ+日本軍にやられた」の合計が10万であって、内訳は不明だよね?
>>858 山に捨てると言ってるんだから地上にいた軍勢のことを言ってるんだよ。
棄士卒十余万于山下。衆議推張百戸者為主帥、号之曰張総管、聴其約束。方伐木作舟欲還」
とあるように、十万の兵が木を伐って船を造って撤退しようとしたと言ってるのだから
間違いなく、地上(鷹島)にいた兵士が十万といってる。
元史の十余万って誇張どころか寧ろ他の史料より少ない数字なんだよな。
台風の後置き去りにされ日本軍の掃討戦で壊滅した兵数は高麗史だと十三、四万で心史だと二十万。
日本軍はやーやー我こそはの雑魚な上に最低でも10万人虐殺したのか
>>860 実際のところ、心史のいうように元軍は20万以上いたんじゃない?
東路軍の水夫が1万8千とは高麗水夫のことしか書いて無いし、江南軍3500艘の水夫数が
不明。
江南軍10万を兵士数と考えたらとてつもない兵力だったような気がするんだが。
1艘で40人載せたとして、3500艘なら14万。4000艘強なら16万〜17万。
水夫数万も含めてこのあたりが限界では。よって東路+江南で10余万、それに水夫数万
このあたりが実数の限界だろう。20万はさすがに考えにくい。
865 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 08:51:14.81
しかし十万人もどうやって殺したんだろう
鎌倉武士は何人くらいだったのかな
866 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 11:35:44.27
兵10万人以上壊滅ががモンゴル帝国に相当大きなショックを与えたのは間違いない。
弘安の役の後でクビライが日本に使者を送ろうとしたら、船員が使者を殺して逃亡しちゃうくらい。
辿り着いたら最後二度と生きて帰れない修羅の国みたいに思われていたんじゃないか。
二度に渡るモンゴルの襲来によって、兵数十万と糜餉数百万を失い鎌倉幕府に勝算は無かったが、暴風雨によって戦禍は終息へ向かった。
やっぱ日本は神の国だったんだな
北條氏が神に近い存在なんじゃね
>>864 高麗史の記載によると900艘に1万5千の水夫がいることがわかるから、
江南軍の軍船を単純計算すると約六万人の水夫は必要だったことがわかる。
だたし、高麗船にくらべて江南の船はずっと大きく、東路軍よりさらに多くの
水夫が江南軍には必要だったことと思う。
とすれば、江南軍の合計人数が10万にの場合、10万のうち7万以上が水夫だった
ということになる。これはおかしいと思う。
やはり、10万の兵士とは別に、他に7〜8万の水夫が動員されたんじゃないか?
とすれば、東路軍約5万5千、江南軍17万人で22万以上ということになる。
>>868 『明史』朝鮮伝の部分を改変するなよ。
正しくは、
「中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、 ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに
至り乱禍は終息した」
873 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 21:30:02.72
神風が吹かなくとも日本の武士は蒙古を追っ払った
ってことでおk?
874 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 21:39:32.83
もし、神風が吹かなければ、今頃、日本列島の住民の多くは、朝鮮人と同じように吊り目で、ニダニダ言ってたろう。
台風が無くても余裕で勝ってるよ。
合流して十数万となっても、武士団が恐くていっこうに上陸できなかったわけだし。
日本側には戦闘には間に合わなかったけど、中国地方の長府にまで本州の本隊6万騎が
進軍してきていた。
むしろ、あのタイミングで台風があって良かったよ。台風によって元軍の司令官は
日本軍に捕らえられることなく、兵士を捨てて逃げられたわけだし。
台風が無ければ、ヒンドゥーやハン文虎は捕らえられて処刑されたかもしれない。
台風がなければ、上陸すらままならない船の上で疫病に苦しみ夜襲に怯える対陣が続くと。
……なんか、地獄が見えるんですけど。
武士はぶっちゃけ日本海のおかげだな
騎士もほぼモンゴル軍に鎧袖一触で打ち破られてるのを見ると
こいつらカッコつけてるだけでめっさ弱いww
平戸で合流再編してから博多へ向けて艦隊出航して
海上で迎撃にでた日本勢と激突してるタイミングで台風来て鷹島避難なわけだから
台風が無ければどうなってたかはその海戦での優勢がどっちにあったかで変わる
そこに関してなんか記述無いの?
その海鮮については日本側が夜襲で被害を与えて鷹島に撃退したって流れ。
博多を占領されても瀬戸内あたりに誘いこんだら有利じゃね?
敦賀あたりから京を占領されても紀伊や信濃、甲斐の内陸部からゲリラ戦で撃退する
881 :
日本@名無史さん:2012/11/15(木) 01:35:09.07
モンゴル帝国自身が無事に上陸できても日本には勝てないと認識していたよ。
だから3回目の元寇をできなかった。
「たとえ順風を得て彼岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、わが師に後援はない。
万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛渡することはできない。」
さらに言えばモンゴル帝国は元寇の後、日本からの襲撃に怯えつづけていた。
明州に都元帥府を設置して防衛しようとしても、その明州城が日本人の襲撃で焼失しちゃうし。
元寇の結果、完全に鎌倉日本はモンゴル帝国より強いって格付けが決まっちゃったんだよ。
>>871 水夫を入れてなら、20万は超えてると思う。だいたい自分もそんな計算
>>877 欧州諸侯軍が簡単に撃破されてるのは、戦士や兵器の質以前に、まず軍団としての統制力の問題。
玄界灘に関して言えば、文永の役で蒙古軍は惨憺たる敗軍にも関わらず追撃を受けなかっただけ幸いと言える。
上陸させず、元軍を船に閉じ込めたままにしていたおかげで、嵐は非常に日本側に有利に働いた。
でもどうして上陸して拠点を作ることができなかったんだろう?
10万だよ10万。武士はどうやって上陸を防いだんだろう?
敵船に乗り込んでさえいる。日本側が押してるわけはなんだったんでしょう?人数?武器?防具?戦術?
884 :
日本@名無史さん:2012/11/15(木) 09:22:13.22
江南軍は全軍が博多まで来れたのでしょうか?
来る途中で行方不明、遭難沈没などは無かったのでしょうか?
>>883 理由は簡単。武士の士気の高さ。元の人々が証言してる。
鄭思肖『心史』
「倭人は狠、死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。
勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。
倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、
戦守の計を為すべし」
王ツ『汎海小録』
「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、
珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、
弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」
呉莱『論倭』
「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。
いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、
艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を
満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。
(中略)士気を喪い国体を弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても
国に益することはなく、またその人を掠しても兵を強めることはない」
『元史』
「たとえ順風を得て彼岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、わが師に後援はない。
万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛渡することはできない。」
>>884 江南軍は博多湾まで来て無いよ。
江南軍は東路軍と平戸島に合流して伊万里湾の鷹島へと移動した。
『元史』相威伝によると、鷹島に移動した元軍は「まず太宰府を攻めようと
欲したものの、遲疑(すなわち躊躇)して軍を發することができなかったところ、
八月一日に台風に遭った」とある。
合流して1ヶ月も無駄に海上を漂い続ける元軍なのであった…
>刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。
この部分の意味がよくわからない・・・詳しい人教えてつかあさい
>>887 「刀は長くて極めて鋭い物を造り、鞘に入れて抜き差しする。
ただ、弓は木を以って造り、矢は威力は強いが、遠くには届かない。」
って感じかな。
>>888 よくわかったよ。ありがとう
しかし当時の主武器であるはずの弓よりも刀の方が印象に残ってたというのは凄いな
個人的な妄想なんだけどね、騎兵突撃をしてるでしょ。敵の矢が飛んでくる中だったり、船に乗り込んだり。
サムライチャージに結構ビックリしたんじゃないかなあ。
たまに調子に乗りすぎて、あら孤立してるわってことがあるんだろうけど。
蒙古襲来絵詞みると、騎馬の機動力をいかして距離を保って騎射するんじゃなく、
騎兵で突撃しながら騎射してるんだな。すごいな
鉄の鎧兜に覆われて隙間ないしだから出来るのかな。
井沢元彦の僕の考えた最強の信長軍レベルの妄想だな(笑)
日本刀が印象に残ってたのは、海戦の接舷攻撃の恐怖のせいじゃないかな。
陸戦ではまず近距離から射ち込む和弓の威力が印象に残っただろうから。
武士はパルティア・ショットでなく、追物打だからな
犬追物の訓練通りだよ
>>890 弓矢を防ぐことに特化した鎌倉武士の鎧は、モンゴル軍にとっては
相性が悪いかも。やはり重装甲の騎士に対しては射程で勝てたが、
武士は飛び道具持参だし。
青朝龍矢白鳳のようなモンゴル兵に手も足も出なかったくせに・・
白鳳の家紋は三つ鱗。 なんなんあれ? 北條と和解したの?
18世紀のトルコ軍も三つ鱗だし。日本の公家は大陸が先祖ってことか?
三つ鱗は蛇信仰の紋章だと思ってる
うちも三つ鱗だが、先祖をたどると大蛇にたどりつく
武士は弓箭の兵なのだが、射撃の速度的にはどうだったのか興味があるね。
おそらく速射性を確保するために、顔の後ろくらいまでで引くのはやめたと思う
>>895 おまえ日本人なら横綱の名前くらいちゃんと書けよな。何だよ青朝龍ってw
射てども射てども大鎧を着込み、なかなか死なない武士たち。
長年の調練で鍛えあげられた正確無比の和弓の強弓がうなりをあげては
また一人、また一人と確実に蒙古兵を射倒していくのであった。
蒙古襲来絵詞で、和弓を受けて盾が貫通して蒙古兵が倒れこむ場面があるけど
元軍の盾では和弓は防げなかったのかもね。
朝鮮中国はモンゴルと陸続きだけど
海戦の主体は高麗と南宋軍
なので上陸をビビった
平成の侍ことネトウヨが妄想を語る気持ち悪いスレと化しているなwww
よくある誤解で、元軍は海での戦いが苦手だからどうのっていうのは
間違い。元軍は、陸上で敗北してから海に逃げ込んでるわけだから
海の方が安全と元軍が考えて自ら海戦を望んだといえる。
>>903 じゃあ、資料を出して反論してみろよカス。
和弓での騎射は左にしか射てないのかと思ってたけど、そうでもないのかな。
907 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 00:59:31.21
>>905 俺は大学の教授が書いた元寇関連の本をあらかた読んだが、このスレに書いてあった事なんか書いてない。
お前たちは嘘をついている。
我田引水な史料をコピペを羅列しただけで反論した気になってるのが笑える。
頼家や時宗がやってみせた小笠懸は馬手の的を射ぬく競技
ただ、子供のほうが成功しやすく、大人はあえてする必要はなかっただろう
>>907 書名は?
このスレに書いてあることは出展が付いてるよ。
たとえば小笠懸は吾妻鏡に記述がある。
あらかた読んだと言う時点でお前はウソついてる。
ちなみに杉山なんてのはナシだぞ。あれは中国の研究者にも嘲笑されてるトンデモ説。
壱岐対馬を攻略し九州にも攻め込んだから、これで鎌倉幕府も恐れをなし元に恭順を誓うと思ったから兵を退いた。
その退却途中に暴風雨にあった。
今日読み終えた戦国の軍隊という本に書いてあった。
「戦国の軍隊」近いうちに読もうと思ってたのにそんなデタラメ書いてあるのか。読むのやめたわ
元軍がろくな戦果も上げられないまま、不本意な撤退に追い込まれたことは元史日本伝にも明記されてるわけだがw
日本弱いって結論ありきでもいいからもう少しマシな理屈をひねり出せよw
>>911 それは仮説でしょう。蒙古襲来って最近、すごく仮説が増えたんだよね。
元・高麗側の史料は上にずらずら挙げられてるし、日本は蒙古襲来絵詞と言う一級史料が残ってる。
あと9年前の軍事史学の元寇特集号とか、佐藤さんの研究書もちょっとお高いけど売ってるでしょ。
他には福岡県史とかかな?
いずれにせよ、誰が何を言ってるかより、史料を素直に読むことが必要だと思われる。
なんかね諸悪の根源は八幡蒙古記じゃないかと思うんだけどね。
それと戦後のゲリラ戦信仰=米軍に抵抗するベトナム軍の世代が重なって、
弱かったけどそれなりに粘って、天候を利用して第1回目は何とか撃退して、
その次は結構頑張って…みたいなスポ根歴史になった気がするわけ。
そのほうが、逆境から世界帝国を退けたドラマを求める当時の日本のメンタリティに合ってたんじゃないかと。
坂の上の雲とかと同じだね。日本をひたすら弱く、ロシアをひたすら強く描くと言う。
エンターテイメントとしてはそれが正しいな
>>911 こういう説の根拠がどこにあるのか興味ある
物証はないが心証では確かだ
>>907 元軍の撤退理由なんて元側の資料『高麗史』に日本軍との戦いで苦戦して
これ以上戦う事に危機感を抱いたから撤退したと書いてるのに
元軍が苦戦してることがバレるから、ひたすら無視して全く資料的な裏づけが
ないのに威力偵察とか珍説に走る戦後の歴史学者たち…
そもそも、威力偵察なら天候を見計らいもせず、中世では最も危険とされる
玄界灘の夜間での出航を強行してまで撤退するわけないじゃん…
そのせいで、その夜に暴風雨に遭ってるわけだし。
撤退を強行しなければならない、何かがあったとしか考えられんでしょ。
座礁した兵士も見捨ててさ。
そんなに武士が活躍するのが気に食わないのか?と言いたくなる。
907とか、自分で考えられないお子ちゃまなんだから無視しとけよ。
907なんて、ママが言ってたから正しいもんってレベルだぞ。
それでも、説を掲げるならそれなりの根拠があるんじゃない?
もしそうじゃないなら、自分は史学科じゃないから史学会の事情とかわかんないけど、ちょっとヤバいんじゃない?
根拠なんて無い。
戦後は暴風雨で元軍が敗退したというのが、明らかな間違いであることが
問題になって、その代替として絶対に認めたくない「日本強い」以外の撤退理由を模索した結果、
現れた珍説なんだもの。
>>920 じゃあ怪我したり病気になったらどうするんだ?
とりあえず病院に行って医者に診察してもらうだらう?それと同じだ
歴史学者は歴史の専門家、医者は病気の専門家だろ
考える力があるお前は庭先で採ってきた雑草を煎じて飲むのか?
>>898 甲冑つけたら兜の吹き返しが邪魔になるから
顔の前までしか引けない
>>923 ちゃんとした論文読んだ人ならわかるけど、本来なら学説ってこと細かく根拠が提示してあって、
それを読めば誰でも検証可能になってる。
ところが元寇はまともな根拠の無い珍説のオンパレード。
あきらかにおかしなことになってるんだよね。
どんな分野でも外部から検証の目がなければ腐敗する。
だから現在ではさまざまなジャンルでソースを可能な限りオープンにし、外部の意見を積極的に
取り入れていこうという流れになってるわけで。
歴史研究は長年あまりにも閉鎖的だったため、腐敗の極みみたいな状態になってるんだよ。
まあフランキ砲はあの時代ないしな(笑)
928 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 19:30:10.54
>>925 元寇なんて当時使われなかった用語を使っている時点で他人を批判する資格のないことを
自覚してくれ。
局地的優勢に目を囚われすぎるのはオタクの特徴ですな。お前が批判する学者達は
「神風」「鎌倉武士」だのの英雄伝説などに興味はないのよ。日本史板に立てたスレにもかかわらず
社会情勢への無知を晒すからネトウヨと揶揄されていることにも気づかないようだな。
お前のような「外部」が口をはさんだから戦前のような皇国史観による腐敗が起きたんだよ。
蒙古襲来のような「点」に固執する輩は趣味板でくだを巻いていいればいいのよw
>>929 学者連中は「秀吉の朝鮮侵略」なんて当時使われなかった用語を平気で使ってるのに随分都合がいいね。
学者連中が興味あるのは真実ではなくイデオロギーだけ。
外部からの批判に全く耐えられない、トンデモ学説しか唱えられない無能な連中に存在価値なんて無い。
おまえは今まで洗脳されできたことに気付かず、アホみたいな珍説を無批判に信じ込んでいたって
現実が受け入れられないだけね。
どっちが無知を晒してるのか、ちょっとは頭を使って考えてみたら?
931 :
日本@名無史さん:2012/11/17(土) 13:45:46.17
”ネトウヨ”なんて日本人が使わない言葉をわざわざ持ち出してくる時点で
お里が知れたなw
>元寇なんて当時使われなかった用語を使っている時点で
これ、言い始めたらキリがないような・・・
>>929 まず元史、高麗史を読むように。元史はデタラメだから俺は威力偵察説を主張するぜと言うのはその研究者の自由。
誰も相手にしないだけだ。
そしてここは政治板ではない。去れ。
ちなみに学者も、さすがに台風説は無理があるので次第に武士の健闘にシフトしてきてるんだがな。最近は教科書は武士の勝利説に移行してるし。
威力偵察説や棄民説がトンデモなのも分かってるが、いきなり説をシフトするとうるさいので一時そっちに逃げてる感があるな。
2006年に高校で日本史習ってたけど元寇の勝因は暴風雨って書いてたよ。
日本の教科書は、やっぱりおかしいな。
文禄・慶長の役で「李舜臣」は必ず載ってるのに、元寇の武士の活躍はあまり
取上げないな。
李舜臣なんて、実際は日本側が水上の警戒をしていなかった初期だけしか
活躍していないし、李舜臣がどうので戦局が変わったことなど一度たりとも
無かったのに。
李舜臣を取上げるくらいなら、文永の役で日本側が劉復亨を負傷させたこととか
志賀島の戦いとか取上げてもいいんじゃないかとも思える。
日本から見れば元寇は「侵略してきたから応戦する」でしかないから、
日本から見た元寇は、どう戦いどう勝ったに終始するしかない。
何故元は日本に攻めてくるのかを問うても、北条時宗は
「そんなのフビライに聞いてくれ」
としか答えようがないだろうし。
>>936 日本の教科書は、元寇でも「三別抄」の活躍はちゃんと取り上げてるだろ
>>933 元史、高麗史の日本関係の記事だけでなく南宋関連の記事も読んでから言ってね。
戦前のように歴史を物語にして扇動の道具に使いたのはアジテータの自由だが、せいぜい馬鹿を煽って
くれよ。
そしてここは軍事板ではない。オタクのキモい思想を晒す行為は嘲笑の種でしかないよ。
>>938 三別抄なんて、たった約150隻の軍船と兵1万(半分以上が高麗兵)に鎮圧された
雑魚であることは絶対に触れないよな。
それも渡海作戦未経験としては、ヒンドゥー、洪茶丘、金方慶といった後の日本侵攻軍
の司令官にとって良い経験になったともいえる。
>>936 それは知らなかった・・・
大したことがないのか、陳舜臣
943 :
日本@名無史さん:2012/11/18(日) 15:58:15.05
>>943 朝鮮出兵で朝鮮水軍が仕事をしていたら、日本は朝鮮に上陸できない。
上陸しても補給が続かないので戦にならない。
ましてや上陸して築城なんてできない。
でも、実際は朝鮮まで渡海して、築城して、戦闘して勝っている。
補給線がつながっているんだな。
だから、朝鮮水軍はまともには働いていない。どうでもいいようなとこで、働いてただけ。戦局に効果はない。
944 :
日本@名無史さん:2012/11/18(日) 16:38:02.76
>>939 偉そうに能書き垂れるからにはその南宋関連の記述とやらを根拠に有益な主張が出来るんだろうな?
NHKの日本と朝鮮半島なんて番組では三別抄の防戦が日本への侵攻を遅延させたっていう開いた口が塞がらない内容をやってたなww
とりあえず鎌倉幕府も朝廷も連中からの救援を無視したのは今の日本人も見習うべきだな
>>945 三別抄が遅滞させたから日本側は防備を整えれたんだ!とか言ってたくせに
文永の役は日本軍が一方的にボロ負けで、元軍は威力偵察とか言ってたっけ?
ボロ負けだったんなら、三別抄のおかげで防備を整えられたというのは
嘘になることがわかっていないんだから、あの番組はヤバイ。
完全に言ってることが支離滅裂だったのが笑えたのを覚えている。
日本武士は役立たずというのが教育界の常識
このスレにも無学な荒らしがやってくるようになったな
>>948 前からちょろちょろ来てたろ
まあ放置しとけばいんじゃね
950 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 16:03:43.25
>>914 >あと9年前の軍事史学の元寇特集号とか
その雑誌も読んだけど、「蒙古襲来絵詞に見る日本武士団の戦法」は独断が多いな。
この人は詳しく調べていることはわかるんだけど、結論となると一挙に飛ぶ。
「え?どうしてそうなるの?」と言いたいところが何カ所かある。
こういうのが現在のウィキペディア「元寇」の基調にまでなっているのだからいやになるね。
↑まさにお前が言うな。コンクール君。
文永の役で元軍が日本軍によって赤坂より西の鳥飼、百道原に押し込められたまま逃げ帰ったってのは
史料から確定してる事実
953 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 17:49:30.06
>>953 蒙古襲来絵詞、日田記、福田兼重申状、大友頼泰覆勘状写(都甲文書)だよ
>>943 俺が教科書で習った時は亀甲船とか銅像が載っていたが
まさに、虚妄の「英雄」なのか。
教科書執筆者は史学者ではなく、バイト君が書いてんだなw
>>955 スレ違いになるが、亀甲船を本当に使ったかは疑わしい。
ただ、李舜臣が「あの戦で一番頑張った朝鮮の将」であることは
正しいんじゃないかな。相対的な意味で。
957 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 20:07:23.33
>>954 >蒙古襲来絵詞、日田記、福田兼重申状、大友頼泰覆勘状写(都甲文書)だよ
いずれも戦い全体のほんの一部だな。
蒙古襲来絵詞の文永の役部分はご存知の通り。
福田兼重申状は百道原まで行っているが大勢の中に駆け入って矢を受け、「稀に存命」すなわち
「珍しくも命助かった」と言っている。珍しくなかった武士はやられたんだな。
都甲文書はただ鳥飼潟で戦ったことがわかるだけ。
日田記は百道原と姪浜と2回行っているが、ただ駆け通っただけかも知れない。それに家伝の類いだ。
ぜんぶ合わせても「確定した事実」にはほど遠いな。
>>957 ほんの一部じゃなく、それが元軍博多湾上陸後の戦闘の全てだよ。
だって他の場所で戦闘があったという史料が無いじゃん。
あきらかに確定事項だろ。
普通(の国内戦なら)確実に死ぬような数相手に突撃したけど
敵があまりにも弱かったので生き残るという珍事が起きました
だったりして。
960 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 20:38:21.83
>>958 全てだと言う根拠はなにもないが、全てだとしても私が言ったことは成り立つ。
「元軍そのまま撤退した」「日本軍水城へ撤退しなかった」の証拠にはなり得ない。
>>960 他に戦闘があったという史料が無いというのは、立派に全てだと言う根拠だよ。
そのまま撤退した元軍を追って日本軍は兵船300艘で追撃してるのに水城へ撤退したわけないじゃん。
>>956 朝鮮ではマシな人か。
そういえば元寇に関しては、朝鮮の将軍とか
紹介しないのは優秀なやつがいなかったんだろうな
963 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 22:06:43.86
>>961 >他に戦闘があったという史料が無いというのは、立派に全てだと言う根拠だよ。
では、数千騎いた日本軍の中でたったこれだけしか戦っていないのか?
>兵船300艘で追撃してるのに水城へ撤退したわけないじゃん
また兵船300艘か。もはや信仰だな。
>>962 金方慶すら知らんのに書き込むとか信じられんな。2回の戦争で散々強硬意見した
イノシシのように見えてここの日本万歳教連中の言うところの「敗戦」で損害を抑えて帰還した
ようなことは評価する目も持たん節穴か。
古くは白村江、新しくは南方諸島での玉砕の損害がわかるように外征の失敗が全滅同然
の惨状を呈するのは珍しくないのに。殺した数でしか戦争を評価できんようでは鎌倉時代の
御家人の価値観と変わらんな。
965 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 22:25:27.97 BE:271898922-2BP(0)
>>955 幾つかの戦闘で勝ったのは事実。日本軍に戦術転換させてるのも事実。
それ以降、体勢を整えた日本軍に勝ててないだけ。
勝った朝鮮の将軍が他にほとんどいないんだから、朝鮮で英雄扱いするのはある意味当然だろう。
だって、他の英雄っていったら、誰だかわからない侍大将を道連れに崖に飛び込んだ売春婦ぐらいしかいないんだぞ。
>>964 文永の早期撤退に関してはクドゥンを誉めるべきだし
弘安に関しては、ほぼ壊滅やろ
てか白村江が全滅なら文永の役も十分全滅レベルの敗北じゃねえかw
結果的には1/3程が戦死または行方不明だったようだが
日本に留まって戦い続けた弘安では、9割以上が未帰還だったことを思えば
文永の役は損害を最小限に抑えたと言えるのではあるまいか。
2009年
「小泉に騙された!言ってることはよくわからんが、民主党なら、この閉塞的な社会を打破してくれそう。」
↓
2012年
「民主に騙された!言ってることはよくわからんが、橋下なら、この閉塞的な社会を打破してくそう。」
↓
2016年
「維新に騙された!言ってることはよくわからんが、今度出来る新党なら、〜〜〜」
↓
2020年
「新党に騙された!言ってることはよくわからんが、今度の新・新党なら、〜」
↓
以下無限ループ
>>963 残念ながら日本軍の追撃も史料的に確定事項だからな。
仕方ないから俺も妥協するよ。
20日、日本軍は兵船300余艘で敗退した元軍を追撃した。
そして、兵船に乗り切れなかった日本軍が夜になると水城に撤退した。
これなら文句ないだろ。
ageバカ
>>957>>960>>963…「パフォーマンスコンクール」、通称「パフォ」と呼ばれる基地外
大宰府決戦説を唱えるも、軍板で完全論破されて日本史板の巣に逆戻り
>>964…「棄民くん」(在日説あり、杉山説信者)
特徴…「御家人の奮戦」を勝因に挙げると狂ったように噛みつきます
武士が活躍するのがよほど気に食わないらしい
パフォコン君ってここの出身だったのか
弘安で10万近くの将兵を見捨てて自分達だけ逃げ帰った事を評価って
元の海上戦力を事実上壊滅させちゃったのに
仙石秀久は長宗我部の戦力の削減と自らの無傷での撤退を成功させた名将です(キリッ
>>963 >では、数千騎いた日本軍の中でたったこれだけしか戦っていないのか?
関ヶ原の戦いの書状が残ってるからといって、書状の人物しか戦っていたことに
ならんわけないだろ。
それよりも、関ヶ原の戦いは本当は信濃国で起こっていた!と主張するならそこでの
合戦記録が無ければ、無いと断定してもいいよ。
>また兵船300艘か。もはや信仰だな。
八幡ノ蒙古記信仰にとりつかれてるのはどこの誰だったっけ?(それも八幡ノ蒙古記の自分に
都合のいい記述のみを信仰)
976 :
サガミハラハラ:2012/11/21(水) 08:50:56.26
話がそれるが、もし日本が大和朝廷時代の任那を失わずに保持していたとしたら、元寇の攻撃をもろに受けたとおもうのであるが、
それに対しどのくらいの抵抗ができたのであろうか?
簡単に任那を放棄したであろうか。
977 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 08:56:39.20
>>961 >他に戦闘があったという史料が無いというのは、立派に全てだと言う根拠だよ。
これを裏返せば戦われた全ての戦闘には史料が残されているということだ。
では聞こう。
1)20日の鳥飼潟戦闘より前に起こって、松坂党が打撃を受けた戦闘があったということは
一般に認められている。この松坂党の戦いについてはどんな「史料」が残されているのか?
2)日本軍が300艘の軍船で壱岐まで追撃して元軍を破ったという華々しい戦闘については
どんな「史料」が残されているのか?
あ、何百年か後に書かれた単なる年代記じゃなくて、福田文書のような戦功関係の同時代史料
のことだよ。
978 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 09:40:02.52
>>977 ごめん、書き間違った。
松坂党 → 松浦党
>>977 松浦党は20日の鳥飼潟戦闘の前の戦闘で打撃を受けたんじゃないよ。
松浦党の山代諧が対馬で戦死してるけど、肥前の山代諧が10月5に対馬に居たわけないんだから、
鳥飼潟戦闘の後で敗退した元軍を壱岐対馬と追撃する際に打撃を受けということ。
「山代 廣生諧字彌三郎。文永十一年。蒙古合戦討死。干對馬。」
『松浦党大系圖』
で、山代諧の戦死については息子の山代栄に恩賞与えらえた同時代史料残ってる。
「将軍家政所下 肥前国恵利
(山代栄)亀丸
右依亡父山代諧三郎諧昨年蒙古合戦勲功賞、所被宛行他者、早守先例、可致沙汰之状、所仰如件、以下」
980 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 13:18:05.49
>>979 2)については答えがないな。答えられないのかな?
もういちど質問を載せておこう。
2)日本軍が300艘の軍船で壱岐まで追撃して元軍を破ったという華々しい戦闘については
どんな「史料」が残されているのかな?
あ、何百年か後に書かれた単なる年代記じゃなくて、福田文書のような勲功関係の同時代史料
のことだよ。
>>980 だから、2)についても松浦党が元軍追撃してたって史料出したじゃん
982 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 13:31:20.73
>>981 元軍を壱岐対馬へ追撃して撤退に追い込むほどの戦闘を松浦党だけでやったのか?
他の武士たちは行かなかったのか?
>>982 菊池氏も追撃戦に参加してたよ
「有隆赤星三郎 文永十一年十月廿日於壱岐對馬筑前所々有軍功蒙古大将討取、」
『菊池系圖』
「有隆赤星三郎 人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、」
『菊池系圖(別本)』
984 :
六朝書生:2012/11/21(水) 13:56:16.88
蒙古人席捲歐亞 為禍之深 史所僅見也 即吾國亦未倖免而貴國敗之 是天意乎
日本軍は追撃戦もやってたかもしれないってこと?
それなら元軍が夜間の撤退に拘った理由が理解できる。
元軍が中世では絶対に避けられていた、かなり危険な玄界灘の夜間出航を強行したのは
日本側の追撃を逃れるためだったってことだな。
日本軍に圧勝しましたけど、慌しく、めっちゃ危険な夜間に天候も見計らいもせずに
出航しましたよ!とか全然説得力無いし。
元軍は海の向こうの危険より陸上にいる方が危険と判断したってことでしょ。
スレの寿命が終わる時に
時宗も最後の仕事を終えて旅立ちます・・・
>>976 兵站線が長すぎてモンゴル軍が陸伝いに半島南部へ投入可能な兵力なんてごく僅かだよ。
恐らく1万人以下。
唐は海軍力があったから半島南部の百済も征服できたし、大和朝廷にも勝てたわけで。
半島のその他の地域が全部モンゴルに帰順して率先して協力するようになれば別だけど、
それまでは海運に支えられた日本の方が圧倒的に有利。
988 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 20:07:30.93
>>983 系図じゃだめだ。いつ書き込まれたものか全くわからない。
福田文書のような勲功関係の同時代史料を出せと言っただろ。
結局10月5日に対馬で討たれた山代諧以外には無いんだな。
じゃあ壱岐追撃はなかったんだ。君によれば記録のない戦いは無いんだからね。
それにしても系図の書き込みが全くあてにならないことがよく分ったよ。
少弐景資の百道原敵将射殺もこれでますます信憑性なくなった。教えてくれて有難う。
>>988 系図は立派な史料じゃん。
菊池氏の活躍が目覚ましかったことや、松浦党の犠牲者が多かったことは、他の史料だって認めてること。
疑う理由がないでしょ。
壱岐対馬への追撃がこれだけ明確な証拠として残ってるのに現実から目を背けちゃダメね。
990 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 20:21:22.07
>>958 >ほんの一部じゃなく、それが元軍博多湾上陸後の戦闘の全てだよ。
>だって他の場所で戦闘があったという史料が無いじゃん。
「それが全て」というのが「鳥飼潟周辺でしか戦闘はなかった」と言い換えていいのなら、
それには私は全く賛成なのだよ。
なぜなら、祖原山も赤坂山も百道原も、すべて鳥飼潟の周縁部にあるのだから。
だから日本軍が夕方まで戦って遂に自然休戦になり、赤坂付近から水城街道を撤退して行ったとしても、
その直前まで鳥飼潟戦闘を戦っていたことになるわけだ。
また博多で戦闘が行われたことも無かった。なぜなら元軍が博多に上陸したとしても、それは日本軍が
博多を放棄した後の無血上陸だから。
鳥飼潟しか戦闘はなかった。全く賛成。
991 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 20:28:49.85
>>989 >系図は立派な史料じゃん。
一般論で言ってもだめ。
そりゃ、誰が誰の子かは系図でわかる。(それさえ捏造されるのはザラだが)
しかし個人名につけて書き込まれた事績はいつ書き込まれたか全くわからない。
極端なこと言えば江戸時代に書き込まれたことだってあり得る。
何度も言うが勲功関係の同時代史料を出してくれればそれでいいのだよ。
なければ壱岐追撃もなし。
>>990 日本軍が博多を放棄した後、元軍が博多に上陸したら、博多が被害を受けたとを裏付ける史料が何一つ
存在しないなんてことは有りえないな。
つまり、日本軍の博多放棄も元軍の博多上陸も一切無かったってことは史料上証明されてること。
もう一度念押しとくけど、日本軍の博多放棄も元軍の博多上陸も一切無かった。
もうそろそろ現実見ようぜ。
>>991 山代諧が対馬へ追撃して勲功受けてるだろ。
菊池氏の系図だって別々に伝わった2系統が、それぞれ元軍を対馬まで追撃したと記してるんだから、
文永の役においてそういう事実があったとしか考えられない。
994 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 20:53:17.53
>>993 >山代諧が対馬へ追撃して勲功受けてるだろ。
いいや。山代諧は10月6日の対馬防衛戦で戦死したのだ。
同時代史料によればね。
系図はダメ。
>>994 元軍博多上陸説には、そもそも何の史料も存在しないじゃん。
あんたが系図はダメとか言える立場じゃないだろ。
何の史料も存在しない妄想守るために、現実に存在する史料を否定するとかおかしいだろ。
「元軍博多上陸は妄想でした」「日本軍は対馬まで追撃してました」って認めろよ。
996 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 21:01:41.68
>>992 「それが全て」「鳥飼潟しか戦闘は無かった」であっても
両様に解釈し得ることがわかってもらえればそれでいいのだよ。
つまり「鳥飼潟しか戦闘はなかった」ことから、一義的に「元軍そのまま撤退」や「日本軍の水城撤退なかった」が
導かれることは無いのだ。
それをそのように言っているのが「蒙古襲来絵詞に見る日本武士団の戦法」だ。
読んでみるとよくわかるよ。
このあたりが勝ち勝ち山の震源地だと私は見ている。
>>996 両方の解釈なんてあり得ない。
「鳥飼潟しか戦闘はなかった」ことから、「元軍そのまま撤退」や「日本軍の水城撤退なかった」という
結論しか出てこないじゃん。
>「元軍そのまま撤退」や「日本軍の水城撤退なかった」
こんなの元軍が危険な夜間撤退を強行してるんだから証明できてるじゃん…
13kmも向こうの水城に敗走した日本軍を尻目に慌しく、天候も見計らいもせず
危険な夜間出航なんてする必要はないし。
元軍は危険な夜間出航して海の危険に乗り出す賭けに出る方が、陸にいる武士の方が危険と考えたってこと。
999 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 22:39:06.34
>>998 元軍も苦戦していたってことだよ。そんなの誰でも言ってることだ。
苦戦していたからこそ撤退を考えた。
どうせ撤退するのなら、日本軍が水城へ撤退してくれて、困難な水際撤退が妨害されない
今夜こそが撤退のチャンスだと見たのだ。
>元軍は危険な夜間出航して海の危険に乗り出す賭けに出る方が、陸にいる武士の方が危険と考えたってこと。
これは全くその通りだと思うよ。
昼の敵はやっつけたが新手が夜襲して来ないとは限らないし。
危険な夜間出航と言ってもたった一隻座礁の犠牲で済ませたことは元軍の練度の高さを示している。
まあ嵐を予測したかどうかはわからないが、今と違って天気予報があるわけじゃなし。
別に不自然なところはないね。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。