【幸隆〜】真田氏について語る【〜近現代】

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1日本@名無史さん

・真田幸隆(幸綱)から近現代の話までOKです。

・少しでも真田氏と関係ある話題なら脱線もOKです。

・映画、ドラマ、小説、講談、軍記物等の話も歓迎、子孫ネタも歓迎です。
2日本@名無史さん:2012/06/15(金) 12:10:53.54
真田幸隆の出自が謎
3日本@名無史さん:2012/06/15(金) 19:23:38.43
幸隆

真田頼昌を棟綱の娘婿とする説
海野棟綱の子である幸隆が頼昌の養子になった説
4日本@名無史さん:2012/06/15(金) 19:58:42.33
真田本家(伯爵家) 現当主は宇和島伊達家からの養子であった10代幸民の男系。伊達政宗の男系でもある。

伊達政宗(仙台@)−忠宗(仙台A)−綱宗(仙台B)−宗贇(宇和島B)−村年(宇和島C)−村候(宇和島D)−
山口直清(旗本)−直勝(旗本)−伊達宗城(宇和島G)−真田幸民(松代I)−幸正−幸治−幸長−幸俊(現当主)
5日本@名無史さん:2012/06/15(金) 20:10:16.00
江戸期の上田藩内にこんな話が伝わっていた。
「真田幸隆が箕輪に走る前、その領地は藩内の甲石・原・横尾の三村
 千六、七百貫文(石高にして三、四千石)であった。」

その証にとされていたのはこの三村にのみ正税のほかに外田役米として
米八十九石(甲石二十八石・原三十四石・横尾二十六石、およそ300俵)が課せられていたことであった。
幸隆がこの地を去り、その主家であり小県の一帯を支配していた海野氏が滅んでも
その支族妻子の危急を忍びなく思った村々の者たちは年々それだけの物を供し続けた。
それが綿々と続き遺習となって残ったのがその役米であるという。
6日本@名無史さん:2012/06/15(金) 20:11:54.72
羽尾氏という豪族が上州吾妻郡にいた。

本姓は滋野、家紋は六文銭であの真田氏とは同族であり
四阿山を挟んでほぼ隣同士という間柄であった。
天文10年(1541年)の海野平合戦に海野氏が敗れ、その下にいた真田幸隆が上州に脱出した際
当時の当主羽尾幸全はその手助けをしたという。

この二人が再び相まみえたのは永禄6年(1563年)9月、敵味方に分かれてだった。
当時真田幸隆は信濃先方衆として武田家に仕え
同じく武田に仕える鎌原氏を支援するために吾妻郡にやってきた。
羽尾幸全は上杉に臣従しており、同じく上杉に臣従した岩櫃城の斉藤憲広の援軍として
岩櫃城に立て篭もる。

幸隆は3000の兵を持って攻め立てたが、天険を利用した山城である岩櫃城はなかなか落ちない。
力攻めは不利と悟った幸隆は和睦を結んんで一時兵を引くと同時に調略を開始
城主の甥弥三郎、羽尾幸全の弟である幸光・輝幸を寝返らせ城を落した。
幸世はこの時討ち死にしたとも越後に逃れたともいわれるが、消息は不明である。
形はどうあれ幸隆は恩人を攻め滅ぼしたのだ。

この時裏切った幸光・輝幸であるが、その後は真田氏の有力家臣として活躍し
幸隆の子昌幸の代には岩櫃城、沼田城の城代になっている。
が、天正9年(1581年)謀反の疑いをかけられ粛清された。
7日本@名無史さん:2012/06/15(金) 20:41:23.63
天文16年(1547年)
8月、武田晴信が志賀城の志賀清繁(笠原清繁)を攻める。
上野国から上杉憲政の援軍として金井秀景が来襲するが、小田井原で迎え撃つ。武田方は板垣信方を大将として、 飫富虎昌、上原昌辰とともに真田幸隆が参戦して勝利する。

天文17年(1548年)
上田原合戦
真田幸隆は、武田晴信の家臣として上田原で村上義清と戦う。この戦で武田方は、板垣信方や甘利虎泰などの重臣を戦死で失っている。
2月22日、村上義清は上野国高山(安中)の小領主小林氏に佐久郡の知行を条件に援軍を要請。すでに板垣信方ほかを討取り、武田方の敗北は時間の問題だと伝えている。

天文18年(1549年)
3月、真田幸隆は望月一族を懐柔。望月源三郎、望月新六郎が武田氏に服属し、 真田幸隆は所領安堵の朱印状を望月源三郎に伝達した。 真田幸隆の活躍が確実な文献に見える最初である。 真田幸隆の工作に応じて蘆田氏(依田新左衛門)、伴野氏らも武田方に降る。
8日本@名無史さん:2012/06/15(金) 21:13:15.70
天文20年(1551年)

5月26日、真田幸隆は戸石城を不意を襲って乗っ取る。

7月25日、武田晴信が信濃に出陣する旨を飫富虎昌が真田幸隆に連絡する。これは飫
富虎昌と上原昌辰宛ての武田晴信の書状であり、 武田晴信が佐久、小県郡へ出馬する
ことを伝えた後、「尚、この趣、真田方へ物語り有るべく候」とあって、佐久郡小諸城
主飫富虎昌、内山城主上原昌辰と同列に扱っていることにより、 真田幸隆の武田家臣
としての地位が固まったことが明らかである。
9日本@名無史さん:2012/06/15(金) 21:13:58.68
天文22年(1553年)
川中島合戦 4月9日、宿敵村上義清は武田方によって葛尾城を攻落され、長尾景虎を
頼って越後へ亡命している。ここでも真田幸隆は大須賀氏を調略しており、真田幸隆の
活躍が大きかったことが窺える。 真田幸隆は戸石城の普請の実務担当をつとめた。

8月10日、真田昌幸を人質として甲府へ送る。代わりに真田幸隆は、武田晴信から上
田秋和の350貫の地を与えられる。真田昌幸が奥近習衆(小姓)に出仕した頃、 曽根
総次郎、曽根与一、金丸平八郎(土屋昌恒)、三枝勘解由、三枝新十郎含めた6名があげ
られる。

弘治2年(1556年)
長尾氏v.s.武田氏 真田幸隆は埴科郡東條の雨飾城を攻め落とし、城将となる。
10日本@名無史さん:2012/06/15(金) 21:20:17.43
真田は明治維新の時点で信之の女系が当主だったのは
大和郡山の柳沢、越後三日市の柳沢、高家武田の3つ
いずれも真田幸弘の娘と柳沢信鴻の子である柳沢保光の子孫
大和郡山の柳沢、高家武田は現当主も信之の女系だが
郡山の柳沢は更に女系となり今は女系の女系となっている
三日市の柳沢は現当主が信之の女系の血を引くかどうかはわからない
11日本@名無史さん:2012/06/15(金) 21:38:43.06
映画「真田幸村の謀略」1979年 東映 監督:中島貞夫 カラー 185分

なんと幸村が家康を討ち取ってしまう。

語り「翌年、幕府は家康病死云々」

夏の陣以降の家康は影武者説を採った破天荒なストーリーだった
12日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:03:29.94
真田幸隆が登場するドラマ
大河「武田信玄」
大河「風林火山」
13日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:18:45.58
幸隆の働きなら幸隆が海野を継いでてもおかしくないはずだが、実際には信玄の次男が海野を継いでる
であるからして幸隆は海野の嫡系ではないと推察するのが妥当では?
14日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:25:12.34
海野の名跡を信玄次男に継がせるという条件で幸隆を武田家側にさせた

ソースは大河ドラマ風林火山ですw
15日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:30:21.95
長寿武将

北条長綱 享年97
龍造寺家兼 享年93歳
真田信之 享年93歳

 万治元年(1658)10月17日に信之が93歳の高齢で没すると、鈴木右近は2日後に殉死した。右近の享年は75歳または85歳。
 当時の幕府は殉死を禁止していたが、右近は信之生前より殉死の約束をしてい
たらしく、また右近自身も高齢であったことから幕府から特別に許可が降りたといわれている。

 信之の隠居所だった大鋒寺には信之の墓の傍らに右近の墓が建てられている。 現在も松代真田まつりでは信之(真田家現当主)の側近くには鈴木右近(右近の子孫)の姿が見られる。

鈴木右近の出奔・帰参の前後に大きな戦い(関ヶ原・大坂の役)があることから、真田氏の諜報官であったとする説があるが、証拠になるような史料は見当たらない。

鈴木右近の墓  長野県長野市松代町法泉寺
http://nakahori2.mints.ne.jp/shiseki/hon110-21.jpg
16日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:35:23.45
現在の武田家は信玄次男・海野信親の系統

信玄期の信濃侵攻で征服した信濃国小県郡の国衆海野幸義の娘を娶り海野氏の名跡を継
承するが、一向宗(浄土真宗)の僧である長延寺実了の弟子となり出家し、竜芳と号した
17日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:51:36.61
天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14,500。 岡山口は大野治房ら4,600。 別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000?が布陣

七手組が出陣しなかったことが悔やまれる
18日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:57:15.67
真田家は信之以外にも矢沢頼綱や真田信尹みたいに意外と長命が多い
19日本@名無史さん:2012/06/15(金) 23:08:33.11
その日、真田信之の家臣・木村渡右衛門は、江戸からの至急の書状を受け取った。
「!そうか、親父殿が・・・・・・」
真田家江戸家老の要職を務める渡右衛門の父・木村縫殿助は、今や死の床にあった。

昼も夜も無く渡右衛門は駆け続け、江戸藩邸へ向かった。
「父上!」
「・・・おぅ、間に合うたか・・・実はな、お前に頼みがある。わしは鈴木右近とある約束を交わし、誓紙まで書いたが
この有り様では、もはや約束も果たせぬ。お前、このまま国元へ帰り、誓紙を右近に返して謝ってくれ。」

真田家の名物男、鈴木忠重は国元で奉行職を歴任していた。
「そんな・・・誓紙を返すだけなら、他の者でも良いではありませぬか。せっかく急いで来たのです。
ここで、ご病状を看取らせて下さい。」

「いやいや、自分の体は自分が一番分かる。こたびは、もはや助からぬ。結果が分かるゆえ、看取るに及ばず。」
「しかし・・・」「たわけッ!!」
瀕死のはずの縫殿助が、鬼の形相を見せた。
「侍の親子が、国や主家を別にして死ぬ事など珍しくもないわ!末期に汝の顔など見とうもないわ、早く帰れ!!」

(わけの分からん約束事の誓紙一枚のために、親父の死に目に会えんとは・・・)
怒りと涙にまみれながら、渡右衛門は国元への道を急いだ。
20日本@名無史さん:2012/06/15(金) 23:09:24.64
「確かにお渡しした。では、拙者はこれで。」
「ああ、待て待て。その顔ではお主、父御の言いつけに納得しておらぬな?だがなお主、この件の他に縫殿助から
何か遺言を授かったかな?」
「・・・・・・」

「それはな、縫殿助がお主という立派な倅を持ったがために、『他に思い残す事は無い』という信頼の表れよ。
その証拠にお主の面構え、縫殿助をそのまま若くしたようじゃ。縫殿助が、うらやましい・・・」
「・・・・・・・・・・・・」

「そこで、だ。縫殿助に似たるお主に、わしと縫殿助の『約束』を引き継いでくれたら、幸いじゃ。」
忠重は渡右衛門に、誓紙の中身を見せた。
「これは・・・!心得申した。ぜひ私に父の約束、果たさせて下され!」



明暦4年(1658)、鈴木右近忠重、主君に殉じ切腹。幕府より殉死の禁が出される中、「右近ならば苦しからず」と
特に許されての殉死であり、忠義の臣・鈴木右近は、歴史に名を残した。

その見届け役の名を、木村渡右衛門という。
21日本@名無史さん:2012/06/15(金) 23:19:33.68
>>16
織田・徳川による武田攻めで自害した悲運
しかし血は残った
22日本@名無史さん:2012/06/15(金) 23:28:22.04
永禄4年(1561年)

5月、真田幸隆は西上野に出陣。

9月21日、真田幸隆・真田信綱父子、川中島合戦に参戦。 真田幸隆・真田信綱父子は、妻女山を攻める。

斎藤憲広によって鎌原城を攻め落とされ、羽尾幸全が斎藤方として城代となる。真田幸隆は甘利昌忠とともに鎌原城を奪還する。
23日本@名無史さん:2012/06/15(金) 23:51:28.70
歴史のif
長篠の戦いがなく、昌幸は武藤喜兵衛のまま生涯を終えた。

現代人から見て武藤喜兵衛はカッコいい名前になっていただろうか?
24日本@名無史さん:2012/06/16(土) 00:08:27.19
赤備え

飯富虎昌、山県昌景、小幡信貞、浅利信種、井伊直政、真田信繁、北条綱高


第二次長州征伐では赤備えであったことがかえって格好の的となり、夜間にも関わらず
長州軍の狙撃を容易にした。この為、彦根藩兵は由緒ある鎧を脱ぎ棄てて逃走した。
25日本@名無史さん:2012/06/16(土) 01:13:31.79
真田昌幸、信幸、信繁のうち信繁にだけ豊臣姓が下賜されたのが不思議だ
26日本@名無史さん:2012/06/16(土) 02:02:52.74
信繁に豊臣姓下賜(史実)は、真田太平記には、なぜか出てこないな
27日本@名無史さん:2012/06/16(土) 02:05:41.84
28日本@名無史さん:2012/06/16(土) 02:08:23.45
信繁は豊臣性を持ってたので、息子と一緒に秀頼の親衛隊長みたいな感じになってたっぽい。
そのためどうも目立つポジションには居たらしいが、実戦でどれだけ活躍したかは全く疑問。
29日本@名無史さん:2012/06/16(土) 02:09:18.48
真田家の人たちはほんと有能なんだけど
知行が能力に追いつかないのは何故だろうね、下剋上の世の中で
のし上がれてないじゃん、毛利や宇喜多はのし上がったけど
30日本@名無史さん:2012/06/16(土) 02:10:03.61
昌幸が生きてれば大坂方を利用して高値で幕府に寝返るだろうな。良くも悪くもそういう人間だw
31日本@名無史さん:2012/06/16(土) 02:54:54.15
後藤基次の近習、長沢九郎兵衛の証言によると
真田丸は「真田と長宗我部で半分ずつ受け持っていた」という

32日本@名無史さん:2012/06/16(土) 03:00:25.36
>>29
大名として独立した時点で周囲は徳川、北条、上杉と大国だらけ。小牧・長久手で徳川滅亡でもあれば飛躍のチャンスがあったかもしれない

関ヶ原の際に昌幸が東軍についていたとしても真田の兵力(小勢)では加増は大してなかったと予想
33日本@名無史さん:2012/06/16(土) 03:10:42.58
>>17
七手組が小身過ぎて役に立たない。親衛隊なら秀吉時代にもう少し強化・厚遇しとくべきだった。
34日本@名無史さん:2012/06/16(土) 03:42:09.47
>>27
織田信長の六男のほうの織田信秀は羽柴姓と豊臣姓の両方を下賜されている珍しい例
35日本@名無史さん:2012/06/16(土) 03:49:04.98
木下秀吉
羽柴秀吉
平 秀吉
藤原秀吉
豊臣秀吉
36日本@名無史さん:2012/06/16(土) 04:11:57.72
真田本家(伯爵家) 現当主は宇和島伊達家からの養子であった10代幸民の男系。伊達政宗の男系でもある。

真田男爵家 9代幸教の子・幸世が本家から別家した系統。8代幸貫の系統であり徳川家康・吉宗の男系だったが、現在は女系。

真田解勘由家 2代信政の長男・信就の系統。旗本から後に松代藩士となり明治維新まで存続。

仙台真田家 信之の弟・信繁(幸村)の二男・片倉守信(真田大八)の系統。仙台藩士として明治維新まで存続。

越前真田家 信之の叔父・昌輝の系統。福井藩士として明治維新まで存続。

旗本真田家 信之の叔父・信尹の系統。旗本として明治維新まで継続。
37日本@名無史さん:2012/06/16(土) 04:18:13.02
真田は、山家郷と称する村里の一角にある。狭まった谷の奥には、霊峰四阿山が裾野を
引いているのが望まれ、その山を源流に、清冽な流れの神川が、山家郷を潤している。
山家郷という雅な古名に表象されるような雰囲気が、この郷を包んでいる。
真田氏は、真田幸隆以前については確実な名が伝えられておらず、事績として伝わるも
のもない。真田氏が海野氏の嫡流と称したことにより、本当の先祖の方が抹殺されてし
まったためともいわれている。『寛政重修諸家譜』では真田幸隆が真田氏の祖としてい
るが、鎌倉中頃に海野氏から分かれたとされており、室町時代中期にも真田の名がいく
つかの記録に残っているため、古くから真田に根づいていた一族であるという説が濃厚
であり、真田幸隆が真田氏の祖であるという説は現在では否定されている。
真田郷は古代の官牧地域であり、経営には大伴氏があたっていたとされており、滋野氏
が入部する前から根を張っていたという説もある。
享保16年(1731年)に江戸藩邸が類焼したとき、多くの記録や文書が焼失したこと
もあり、さらに他大名に比べて家史の編纂事業が大幅に遅れていたこともあって、真田
氏に関する史料はあまりにも貧弱であり、幕末にやっと家臣河原綱徳らが命により編纂
した『真田家御事蹟稿』ができあがるが、『綱徳注記』によれば、すでに関連史料の多
くが散逸してしまっていたという。『真田家文書』『群馬県史』『信濃史料』『新編信
濃史料叢書』など、近年真田氏の研究が進むにつれて、江戸期の編纂物に頼ってきた真田氏の歴史が見直されてきている。
38日本@名無史さん:2012/06/16(土) 05:36:39.41
武田家滅亡後、真田昌幸を頼ったのは婿の小山田壱岐守、原隼人祐の子供兄弟、板垣修理、内藤、瀬下若狭、大熊五郎左衛門、羽田筑後、加茂、安中、白倉、丸山、花形、軍配者来福寺など。
39日本@名無史さん:2012/06/16(土) 06:16:48.12
戦国の浮き草〜〜真田信繁〜〜

悲しい九度山生活・・・父(昌幸)が死去し一層寂しい九度山生活に。
40日本@名無史さん:2012/06/16(土) 06:51:39.37
天王寺・岡山の戦い

天王寺口は茶臼山に真田信繁、子の真田幸昌、一族の真田信倍ら兵3,500、茶臼山前方
に真田信繁寄騎の渡辺糺、大谷吉治、伊木遠雄ら兵2,000、茶臼山西に福島正守、福島
正鎮、石川康勝、篠原忠照、浅井長房ら兵2,500、茶臼山東に江原高次、槇島重利、細
川興秋(兵数不明)、四天王寺南門前には毛利勝永勢、木村重成・後藤基次の残兵など
6,500が布陣した。

岡山口は大野治房を主将に新宮行朝、岡部則綱らが、後詰に御宿政友、山川賢信、北川宣勝ら計4,600が布陣した。

茶臼山から北西に離れた木津川堤防沿いに別働隊明石全登勢300、全軍の後詰として四天王寺北東の後方に大野治長、七手組の部隊(計15,000?)が布陣した。
41日本@名無史さん:2012/06/16(土) 07:23:22.03
「御前に侍りまするは豊臣が家臣真田左衛門佐信繁にござりまする」
42日本@名無史さん:2012/06/16(土) 07:24:39.50
タイプミスしてた

「御前に侍りまするは豊臣が朝臣真田左衛門佐信繁にござりまする」
43日本@名無史さん:2012/06/16(土) 08:03:04.81
>>38
小山田壱岐守茂誠:高遠城に籠城したほうの小山田氏。真田信繁からの手紙で有名に。


原隼人祐の子供兄弟のうち原隼人佑貞胤は越前松平家家臣。大坂の陣で真田信繁を徳川方(幕府方)に勧誘しようとしたとも伝えられる。


板垣修理(板垣信方の孫)第一次上田合戦に参加

瀬下若狭:第一次上田合戦に参加


大熊五郎左衛門(天目山で戦死した大熊朝秀の子孫):小田原の陣の際の上州松井田攻めにて殿を務めた
(ドラマ真田太平記では真田信幸が北条勢に包囲されたが、この話を元ネタにした創作か?)



羽田筑後:大坂の陣では長男、次男、三男が大坂方(三人とも戦死とも行方不明とも)。四男と五男が徳川方(幕府方)。


安中
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-462.html に出てくる安中作右衛門か?


白倉:白倉武助。(同姓の白倉武兵衛は勝頼期の沼田攻めで昌幸の旗本)


花形:武田氏滅亡後に真田氏を頼った(その後はよく分からない)


軍配者来福寺:原仁兵衛 http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/bcb15ef90858e1688584d853b46167e7
44日本@名無史さん:2012/06/16(土) 17:38:10.77
大阪の役の真田信繁の旗印は総赤に金線
45日本@名無史さん:2012/06/16(土) 17:45:26.16
> 自民石原幹事長、信之と幸村を堂々と間違え産経に突っ込まれる
>
>
> 「真田幸村のような心境」自民幹事長、愛知県知事と会談
>
>  「親子で戦うことになった真田幸村のような心境だ」。自民党の石原伸晃幹事長は1日、
> 愛知県の大村秀章知事から父親の石原慎太郎東京都知事に新党結成を促すよう求められ、
> 親子が敵味方に分かれ「関ケ原の合戦」に臨んだ戦国武将を引き合いに、苦しい胸の内を明かした。
>
>
>  石原氏が引用した真田幸村は関が原の合戦で父とともに西軍に、兄は東軍に加勢し敵対関係に。
> 幸村からみれば親子対決ではなく、兄弟対決が正解だが、石原氏は親子対決を回避したい心境を強調したかったようだ。
46日本@名無史さん:2012/06/16(土) 18:26:52.58
昌幸は二度の上田合戦だけでなく丸子の合戦やその前後の攻防でも大久保兄弟、鳥居、菅沼、保科、平岩、依田、諏訪など
信濃衆や戦歴豊富な武田旧臣や徳川古参の連中を苦しめてるしやはり防戦には長けている
47日本@名無史さん:2012/06/16(土) 18:29:43.03
根強い影武者説

家康の死は、大坂夏の陣から一年、徳川政権安定に至るまで伏せられ、翌元和二年四月、初めて病死として公表された
48sage:2012/06/16(土) 18:46:29.66
夏の陣で真田信繁隊から部隊壊滅までは逃亡者が出なかったのは凄いなー
49日本@名無史さん:2012/06/16(土) 18:47:31.06
 さて、真田家には「吉光のお長持」というのが代々伝わっていた。家老でさえ中を見たことがなく、常に4人の不寝番がいた。
中身は家康から拝領した吉光の短刀が納められいるとされたが、明治になって開けたときとんでもないものが入っていた。
なんと石田三成から届いた書状をはじめ、徳川家を敵にしていたころの危険な証拠書類が詰まっていた。
これが徳川幕府に発覚すれば、取り潰しの好材料になっていたにちがいない。
従順温和といわれた信之が危険な証拠書類を焼却せず、わざわざ不寝番をおいて秘蔵し、
後世に伝えたのは仇敵であった徳川家に対する反骨精神のあらわれであろうか。


まあ、これを信之の幸村や昌幸に対する本当の気持ちが
表れてたと解釈したら泣けるんだが
50日本@名無史さん:2012/06/16(土) 19:41:44.54
九度山の村人がはるばる信州から流されて来たどこの馬の骨かわからん連中を慕うようになったていうのはある意味すごい話だな
信繁はなんか人を惹き付ける魅力を持っていたに違いない
信繁の部下たちが最後の突撃で一人残らず討ち死にしたのは不思議だと当時から書かれてたしね
普通はあんな状況なら逃げたりする者も絶対いるはずなのにね
51日本@名無史さん:2012/06/16(土) 19:43:27.09
長野県民も薄情な連中だよな
二百年も治めてくれた真田家の創始者信之のことは一言も出さず次の大河ドラマには幸村をの一点張り
52日本@名無史さん:2012/06/16(土) 19:44:09.85
幸村は美化されすぎなんだよな
功績と言えば大阪冬・夏の陣しかないし。
他は親父さん同伴
53日本@名無史さん:2012/06/16(土) 19:45:41.25
昌幸主役で大河だったら最高だろうな
信玄・謙信・信長・秀吉・家康とそろい
合戦は川中島から。
54日本@名無史さん:2012/06/16(土) 19:48:32.57
信濃国松代藩主真田伊豆守幸貫は、閣老に起用され、従四位下侍従、信濃守に官位を改め、松平の姓を許され、松平信濃守幸貫と名乗り、海防掛を兼務した
55日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:17:49.86
真田昌輝の子は松平家に仕えてる
その松平忠直の部下・西尾が真田信繁を討ち取るわけだが…
56日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:34:19.23
むしろ大阪夏の陣は毛利勝永の方が活躍してるだろ
真田が勝ってる部分って知名度だけだ

57日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:35:17.10
戦国最強の上杉謙信と最前線と互角で戦い抜いた真田幸隆(幸綱)こそ史上最強の鬼謀
58日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:36:36.03
武田信玄が勝てなかった村上義明を1日で葬り去り
織田信長でさえ避けて山本勘助も武田信繁も戦死させた上杉謙信と最前線でタメを張って生き残り

もはや真田一族開祖の幸綱こそスーパーチート
59日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:39:11.88
火坂の年表小説の真田大河は絶対見たくないなぁ
でも、地元民がキャンペーンやッているのは火坂版大河なんだよなぁ
60日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:46:44.58
大阪に在る南宗寺に家康の墓が在る
大阪の陣の時に家康が死んで葬られたという伝説の在る寺

眉唾に思えるが
寺の境内は三つ葉葵の瓦が張り巡らされ 秀忠、家光の参拝した形跡が在ったりしてあながち嘘ではないのかもと思えるのが面白い
61日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:48:26.88
自称子孫も含めた子孫の数

信綱系 福井県を中心に約700人
昌輝系 福井県を中心に約530人
信之系 宮城県を中心に約3170人
信繁系 宮城県を中心に約2240人
62日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:50:11.95
>>61
わざわざ信綱系を名乗る人がいるのか
去就のはっきりしている昌輝-信正系ならともかく
63日本@名無史さん:2012/06/16(土) 21:08:01.66
当時、歴史読本に記載された。池波先生と
真田六文会の皆様の座談会の記事を
抜粋してあります。

「 歴史読本 」 昭和60年5月号


池波正太郎
    「真田太平記」を語る 聞き手:真田六文会

http://www.geocities.jp/roodstar2005/rekisi.html

池波:樋口角兵衛ってのが出てくるでしょ。上田に樋口角兵衛の子孫て人が
    いるんですよ。女の人でね。

六文会:そうですってね。

池波:「うちの先祖は、あんな男じゃありません」とかね。夜中に電話かかって
    くるんですよ。

六文会:でも、最後にはうまくどんでん返しがありますもんね。

池波:ぼく、角兵衛のことは、悪く書いていない。

六文会:書いてないですよ、ちっとも。
64日本@名無史さん:2012/06/16(土) 21:08:53.76
真田家って10万石でありながら、何で最初は子爵だったの?
伯爵に昇格した理由についてご存知の方いらっしゃいますか?
65日本@名無史さん:2012/06/16(土) 21:09:44.64
「幸村」の名が見られるようになったのは江戸時代で、寛文12 年(1672 年)成立
の軍記物語『難波戦記』がその初出であると考えられる。その『難波戦記』が人気
を博し、広く読まれたため「信繁」ではなく「幸村」とすることのほうが一般的と
となったと言えるであろう。時代が下るにつれ「幸村」の名があまりにも普遍化し
てしまったため、幕府編纂の系図資料集である『寛政重衆諸家』や兄・信之の子孫
が代々藩主を務めた松代藩の正史にまで「幸村」が採用されている。
66日本@名無史さん:2012/06/16(土) 21:14:14.59
>>64
侯爵→公爵・水戸徳川圀順(1929.11.18先祖光圀・斉昭の功)
伯爵→侯爵・宇和島伊達宗徳(1891.4.23父宗城の維新の功)
伯爵→侯爵・越前松平茂昭(1888.1.17父慶永の維新の功)
子爵→伯爵・旧大村藩大村純雄(1891.4.23父純煕の戊辰戦争の功)
旧津和野藩亀井茲明(同日父茲監の維新の功)
旧松代藩真田幸民(同日維新の功)
旧佐土原島津忠亮(同日父忠寛の維新の功)
67日本@名無史さん:2012/06/16(土) 21:23:18.59
真田信之の手許には石田三成との手紙が保管されていた。
「さいつ殿(=真田伊豆守信幸殿)」と書かれており気安い仲だった模様。

真田家には「吉光のお長持」というのが代々伝わっていて家老でさえ中を見たことがなく、
常に4人の不寝番がいて厳重保管されていた。

中身は家康から拝領した吉光の短刀が納められいるとされたが、
明治になって開けたときに短刀の他に石田三成から届いた書状をはじめ、徳川家を敵にしていた頃の危険な証拠書類が詰まっていた。

これが徳川幕府に発覚すれば、取り潰しの好材料になっていた。
従順温和といわれた信之が危険な証拠書類を焼却せずに 秘蔵していた理由は謎。

京都伏見の大名屋敷の地図を見てみると、
石田屋敷は近隣にあり(三成屋敷の右斜め上に真田信幸屋敷)、ここではご近所同士だった。

危険な証拠書類を焼却せず、不寝番をおいて秘蔵して後世に伝えたこの行為は、仇敵徳川家に対する反骨精神のあらわれと考えられ、真田信之もまた「真田」の血の者であったと言うことであると思われる。
松代藩への当地換えの時に、上田藩の検地資料を焼き払い、上田城の灯篭や植木をすべて抜いて持っていった等、忠誠を誓う反面、反骨する面も持っていた模様。
さすが、家名を守った最大の功労者はその中身も一味違っていた。
68日本@名無史さん:2012/06/16(土) 21:32:46.56
滝川三九郎一積

昌幸の娘・於菊を妻にしていた縁から、討死にした真田信繁の娘を養女に迎え、伊予松山藩家老・蒲生郷喜に嫁がせるなどたびたび真田氏のために働いた。

しかし寛永9年(1632年)になって、突如としてこれら信繁の娘を養女として他家に嫁がせたことなどを罪状にされ、幕府使番の職を解かれて除封されてしまう。
69日本@名無史さん:2012/06/16(土) 21:33:48.34
武田家旧臣のうち老中を輩出したのは真田と土屋だけ。
70日本@名無史さん:2012/06/16(土) 21:40:23.31
『大坂落城のみぎり、城中より年の程十六、七ばかりの容顔美麗なる女性、白綾の鉢巻し白柄の長刀を杖つきて重綱公の陣へ出けり。重綱公これを連れ帰りたまいて後室とす』(片倉家文書「老翁聞書」)

片倉が信繁の子供たちを保護した理由は多々あれど、
これは出来過ぎたストーリーのような気が。

ドラマ真田太平記第44回では滝川三九郎一積を通して阿梅を片倉家へ
嫁がせたという説のほうをを採って描いている
71日本@名無史さん:2012/06/16(土) 22:12:22.28
完子以外の豊臣の子孫

秀次の娘の一人は梅小路家に嫁ぎ、明治でも子孫は続いている。
一人は真田幸村の側室になり、娘を産み、
その娘は岩城家に嫁ぎ、これも子孫は明治でも続いている。

その他にもある。
福島正則は秀吉の従兄弟
加藤清正は又従兄弟
青木秀以も従兄弟
小出秀政は、秀吉の義理の叔父、その子は秀吉の従兄弟

大阪夏の陣の後に大阪を与えられた松平忠明の妻は小出氏の出身。
子孫は明治まで続いている。大阪城を与えられたのは
豊臣氏の縁者であったからではないだろうか?
72日本@名無史さん:2012/06/16(土) 22:18:11.81
>>66に追加

公家華族、大名華族で爵位が上がった例。

「公家華族」
侯爵→公爵・西園寺公望(1920.9.7多年の功)
侯爵→公爵・徳大寺実則(1911.4.21多年の功)
伯爵→侯爵・四条隆謌(1891.4.23多年の軍功)
伯爵→侯爵・嵯峨公勝(1888.1.17父実愛の維新の功)
伯爵→侯爵・中御門経明(1888.1.17父経之の維新の功)
子爵→伯爵・大原重朝(1888.1.17父重徳の維新の功)
子爵→伯爵・沢為量(1891.4.23祖父為嘉の維新の功)
子爵→伯爵・壬生基修(1891.4.23維新の功)
男爵→子爵・岩倉具明(具視の孫・分家1891.4.23)

「大名華族」
侯爵→公爵・水戸徳川圀順(1929.11.18先祖光圀・斉昭の功)
伯爵→侯爵・宇和島伊達宗徳(1891.4.23父宗城の維新の功)
伯爵→侯爵・越前松平茂昭(1888.1.17父慶永の維新の功)
子爵→伯爵・旧大村藩大村純雄(1891.4.23父純煕の戊辰戦争の功)
旧津和野藩亀井茲明(同日父茲監の維新の功)
旧松代藩真田幸民(同日維新の功)
旧佐土原島津忠亮(同日父忠寛の維新の功)

公家で最初から公爵になったのは五摂家と三条・岩倉のみです(岩倉具視は死去していたのでその跡継ぎにです)
73日本@名無史さん:2012/06/17(日) 00:57:20.31
真田家って小県郡の小領主にすぎない家だろ。
しかも乗っ取りぽい。
74日本@名無史さん:2012/06/17(日) 01:01:22.45
>>60
一説に家康の幼名は
二郎三郎。
同じく幸隆の幼名も二郎三郎。

もちろん二人が同一人物だと言いたいわけではなく
「二郎三郎」という幼名は
何か特別な由来を表しているのではないかと
怪しんでいる。

たとえば人身売買で買われた子とか。
75日本@名無史さん:2012/06/17(日) 01:16:00.39
幸隆の正体は小県郡と上州の境あたりを
テリトリーにする山岳ゲリラだな。
76日本@名無史さん:2012/06/17(日) 01:52:39.05
真田弾正忠幸隆 1513〜1574年

真田頼昌の次男。
真田幸綱、蝮弾正、鬼弾正、二郎三郎、源太左衛門、一徳斎、海野小太郎ともいう。
真田頼昌の次男として永正10年(1513)に松尾古城で生れる。本名は真田幸
綱。 真田幸隆の妻は海野棟綱の娘ともされているが、現在では否定されている。一
族羽尾氏の娘羽尾殿を妻としていたが早世してしまい、後に重臣河原隆正(河原丹波
守)の妹河原殿を娶ったとされている。妻河原殿は「松代長国寺」の過去帳に「喜山
理慶大姉、文禄2年(1593年)8月11日卒、真田弾正忠幸隆入道之妻」とある
が、天正8年(1580年)没説、天正20年(1592年)没説もあってはっきりしない。
天文10年(1541年)、村上義清、武田信虎、諏訪頼重ら連合勢に尾ノ山、海野
平、祢津を集中攻撃され、海野棟綱とともに信濃を追われ上野国箕輪城の長野氏を頼り身を寄せる。
天文11年(1542年)〜天文12年(1543年)頃には、武田晴信の東信濃攻略
の道案内という役割を荷い、武田傘下に加わる。以後、怨敵村上義清の戸石城の攻
略、上州吾妻郡の攻略など、信濃国内の調略に手腕を発揮した。 武田晴信の謀将と
して常に第一線で活躍し、武田家の勢力拡大に貢献した。 長尾景虎(上杉謙信)をし
て「我、弓を取らば真田に劣らぬが、知謀は7日後れあり。真田いる限り信濃をと
ること安からぬ」といわしめた。
天正2年(1574年)5月19日に没す。享年62歳。法名は一徳斎殿月峰良心庵主。長谷寺に葬られている。
77日本@名無史さん:2012/06/17(日) 05:09:21.59
大河ドラマ葵徳川三代

大坂夏の陣、天王寺・岡山の戦い

真田幸村(演:西郷輝彦)「敵も聞け、味方も聞け。関東勢百万と候え、男はひとりもなく候!いざ決戦に及ばん」


講談そのままw
78日本@名無史さん:2012/06/17(日) 05:55:36.37
>>76
矢沢頼綱が幸隆の弟であることは間違いないようだ
そして矢沢頼綱の父が真田頼昌であることも間違いないようだ
だがね〜、あくまでも弟つながりで幸隆の父が真田頼昌であるらしいとされてるだけなんだよね
79日本@名無史さん:2012/06/17(日) 06:29:45.36
>>78
>矢沢頼綱が幸隆の弟であることは間違いないようだ

ドラマ真田太平記でもその設定でした

語り「昌幸の叔父にあたる」

真田昌幸「叔父ご(=矢沢頼綱)」って台詞が印象的
80日本@名無史さん:2012/06/17(日) 07:01:06.04
真田信繁の孫は大名

亀田藩第3代藩主・岩城重隆
母は真田信繁の娘・顕性院(豊臣秀次の外孫)
81日本@名無史さん:2012/06/17(日) 07:08:58.33
豊臣秀次の娘の中に、真田信繁に嫁いだ女性がいました。その女性は父・秀次の処刑の際は「既婚である」という理由で蓮座を免れているんです
82日本@名無史さん:2012/06/17(日) 08:44:42.61
矢沢頼綱と真田頼昌が実の親子である事は現存する資料から確実視されているが、
頼綱と幸隆が実の兄弟だと証明するに足る資料は、確かなかったはず・・
頼綱の実兄だから、頼昌とも実の親子だろう、という推定のレベル
幸隆は頼昌の娘婿という説もあり、そうなると頼綱とは義理の兄弟という事になる

>>79
頼綱も、「御館様」と「源五郎殿」を使い分けてたよね
昌幸と2人きりで、苦言を呈する時には「源五郎殿」と言っていた
83日本@名無史さん:2012/06/17(日) 09:04:27.89
2代信政の長男信就が家督を継げなかった理由はなんなのんでしょうか?

自分がかつて調べたところだと
・将軍家光に謁見した際に粗相(小便を漏らした)してしまい、「真田家の相続まかりならん」と家光が激怒した説。
・母親が2代目小野お通であり、家督を継ぐものの生母として如何なものか?+お通自体も殿様の生母になるのを嫌がった説。
なんですけど。

あと信就は、かなり変わり者(今で言うオタク)で、部屋の閉じ篭って絵や句ばかり作っていたという話しも何かで見た事があります
いずれにしろ、父信政死去後の沼田との騒動では、弟の幸道ではなく沼田の信利を支持しているし
父や祖父(信之)との関係は良くなかったと言う事ですよね?
まあでも幸道に子がなく、旗本の分家に養子に出していた信弘が4代目を継いで、以後男系女系含めて残ったのは信就の血統だし
勘解由家自体も松代に移って家として今も存続しているし、立派な屋敷も残っている
84日本@名無史さん:2012/06/17(日) 09:15:33.69
>>80
その子孫は現存。「豊臣秀次系&真田信繁系」の女系だけど女系でも子孫は子孫。

>>82を見て走馬灯のように記憶が蘇った

矢沢頼綱「源五郎殿。そなた源三郎(信幸)を嫌っているのか」
真田昌幸「(前半失念)源三郎は出来が良すぎまする。時折恐ろしくもなりまする」(だっけ?正確な台詞は忘れました)
85日本@名無史さん:2012/06/17(日) 09:32:58.21
>>83
長男信就の母親である二代目小野お通は真田氏に入るのを遠慮したため、信就は信政の長男であるにも関わらず勘解由という姓を名乗り、分家を立てました。


私には答えは全く分からないけど「表向かざる歴史」として史料に残らなかったのかな?
86日本@名無史さん:2012/06/17(日) 09:39:21.81
お伏殿 1587〜1679年

小野宗鑑尼、お犬、国子、円子。二代小野お通とも呼ばれる。小野お通の一人娘。
母同様、箏曲の演奏、書道などに秀でていたとされる。やがて、真田信之の次男真田信
政の側室となり、長男真田信就を産んだ。松代へ住み、八橋流箏曲を同地へ伝えた功績
もある。延宝7年(1679年)12月18日に没したとされる。墓所は江戸下谷の広徳
寺桂徳寺。なお、真田信就の七男真田信弘が松代藩4代藩主に就任しており、お通の血
は松代藩主から真田家の歴代に流れていることになる。
87日本@名無史さん:2012/06/17(日) 09:43:48.60
真田氏の分流・真田勘解由家

真田勘解由家は、初代藩主真田信之の子二代信政と京の小野お通の子(二代目お通)圓子との間に生まれた信就を始祖とする家です。通称勘解由信就は長子でしたが大名家に入ることを好まず末弟の幸道が三代目を継ぎました。
幸道には子がなかったため、信就の六男信弘が四代目藩主となりました。
勘解由家は四代目は祢津家から養子を迎えました。
建物は、約160年前、花の丸の長局を移築したもので、その前は茅葺きでした。
現在もお住まいのようで、外からの見学のみです。門前に説明看板があります。
88日本@名無史さん:2012/06/17(日) 09:54:06.78
>>83
>部屋の閉じ篭って絵や句ばかり作っていたという話しも何かで見た事があります


土岐頼芸と似たタイプだな
89日本@名無史さん:2012/06/17(日) 15:58:24.24
>>56
どっこいどっこいでしょ
どっちも奮戦したで良いじゃん
90日本@名無史さん:2012/06/17(日) 16:56:49.69
信繁は大名討ち取ってないでしょ
91日本@名無史さん:2012/06/17(日) 18:41:11.50
大名は討ち取ってないけど、
片倉重綱を討ち取る寸前ぐらいまでは行った。
92日本@名無史さん:2012/06/17(日) 20:50:12.20
天文20年       ○真田幸隆×村上義清●
詳しい資料はないが、戸石城内にいたと思われる知人を通して裏切り工作を行った。
こうして、二度も信玄を破った義清は越後へ逃亡。この功により、小県郡の所領を安堵される。

            ○真田幸隆×上野諸城●
永禄6年岩櫃城、同8年嵩山城、同9年箕輪城、元亀3年白井城という堅城を次々と攻略、
いずれも城内から内通者を出して、自壊させるやりかたで、幸隆の非凡な才能が伺える。

天正7年        ○真田昌幸×藤田信吉(北条)●
沼田城を攻略するため、重要な支城となる名胡桃城・小川城を調略している、翌年沼田城開城。

天正13年       ○真田昌幸×徳川●
家康は昌幸を討伐するため7000の兵を派遣、昌幸は2000人弱でこれを迎え撃った。
昌幸は巧みな戦術で徳川軍を翻弄し、一日で1200余りの兵を討ち取り、負傷者をあわせると、
徳川軍の半数近くが戦闘不能に、家康は援軍に5000人を送るも、昌幸は決戦を避け、
ついに城を落とすことは出来なかった。

これと同時に北条は20000の兵で沼田城を攻撃するも、矢沢頼綱に撃退される。

天正18年       ○真田昌幸×北条諸城●
前田利家・上杉景勝らとともに、北条の諸城を攻撃。中央がなかなかはかどらない間に、
松井田城、箕輪城、鉢形城などを攻略した。

というように、真田幸隆・昌幸は城攻め、特に調略を得意としている、野戦が少ないのは、
武田時代は、武田軍として出陣したため、取り立てて記録には残らず、独立後は、
北条・徳川・上杉と野戦を仕掛けるにはあまりにも強大な相手に囲まれていたからだろう。
だが、信綱・昌輝・昌幸・信繁と、槍働きで評価されている者も多く、大阪の陣では
信繁の出したと伝わる昌幸の遺案を見ても野戦が下手であるとは、一概には言えない。
93日本@名無史さん:2012/06/17(日) 21:21:07.65
昌幸は武田滅亡後の大勢力を泳ぎ回る割に
沼田問題など理不尽な事には相手が徳川でも
屈しない所が好きだ。でも関ヶ原後は徳川に許しを乞う姿がな…
まあそこで終らず信繁がやってくれたから、話のいいスパイスに
なってるけどな
94日本@名無史さん:2012/06/17(日) 21:24:53.50
結城秀康の家臣に真田一族がいるのは以外に知られてない
津軽の家臣は有名かな
95日本@名無史さん:2012/06/17(日) 21:34:06.36
いや、秀康のアンチ家康っぷりはそれなりに有名だろ
96日本@名無史さん:2012/06/17(日) 21:38:42.09
真田信利は
真田家の歴史の中では黒歴史かい?
97日本@名無史さん:2012/06/17(日) 21:42:18.08
>>96
暴君と言うしかないかと
98日本@名無史さん:2012/06/17(日) 21:44:20.66
真田信利がまともな人だったら、松代と沼田合わせて13万石だった
99日本@名無史さん:2012/06/17(日) 21:55:57.17
真田太平記の毛利勝永はよかったなぁ。あと関係ないけど関ヶ原の平塚為広も。
100日本@名無史さん:2012/06/17(日) 22:03:14.21
信利が暴君になった理由は長子の家系なのに本家継げなかった恨みかな?
101日本@名無史さん:2012/06/17(日) 22:14:04.54
明暦2年(1656年)、祖父の松代藩主真田信之が隠居したのに伴い、叔父信政は本家松
代藩を相続し、沼田領は信利が領有することになる。ところが、信政は僅か2年後の明
暦4年(1658年)2月に死去し、松代藩はまだ存命だった隠居の信之の決定により、信政
の子の真田幸道を後継者とし、幕府に届け出た。その時、信利は信之の長子信吉の子で
あることを理由に「松代藩の後継者は自分である」と幕府に訴え出て撤回を求めた。

信利には正室の実家の土佐藩や老中で下馬将軍酒井忠清が後ろ盾となり、大規模な家督
騒動を展開したが、6月、幕府は幸道をもって松代藩の後継者と最終決定した。このと
き、幕命により、沼田領は松代藩から独立して正式に沼田藩として立藩している。
102日本@名無史さん:2012/06/17(日) 22:17:05.45
信利は10万石の松代藩に対抗するため、寛文2年(1662年)より領内総検地を断行し、
表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打出し幕府に報告した(沼田藩改易後、幕
府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった)。また、沼田城を修築して
五層の大天守閣を立て、江戸の藩邸も松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装したた
め、領民は重税を強いられ多数の餓死者を出すなど、ますます窮乏していった。
103日本@名無史さん:2012/06/17(日) 22:27:23.85
杉木茂左衛門
1681年、沼田領77村の農民のために直訴を決意。大老酒井忠清を訪ねるが門前払いにあ
う。茂左衛門は知恵をめぐらし、輪王寺の紋箱に入れた訴状をわざと茶屋に置き忘れ、
茶屋の主人に届けさせた。主人は将軍徳川綱吉に訴状を届け、沼田藩主真田信利は改易となった。

1686年、杉木茂左衛門は直訴の罪で妻子もろとも磔刑に処された。実は赦免の使者が出
ていたのだが、使者が到着する前に刑が執行されてしまったと言われている。
104日本@名無史さん:2012/06/17(日) 22:58:41.54
矢沢頼綱がいなければ昌幸は沼田を取れなかっただろうし、
取れていたとしても第一次上田合戦で北条に取り返えされていたと思う。
一族の年長者として、当主である甥の昌幸を良く補佐し、
その子の信幸、信繁兄弟の後見として歴史に名を残す武将に育て上げた手腕は見事だと思う。
自らの子である頼康も、昌幸、信之の右腕として活躍したし。
矢沢頼綱あってこその真田三代だと思う。
105日本@名無史さん:2012/06/17(日) 23:06:01.04
名胡桃事件があってもなくても豊臣秀吉は遅かれ早かれ北条は潰しただろうなー
106日本@名無史さん:2012/06/17(日) 23:24:37.02
信玄好きとしては、信繁より幸隆、昌幸のが好きだなぁ。信繁も信玄の弟を尊敬してて名をつけたんだよね昌幸が       
信玄・謙信に天才と言われた幸隆格好よすぎ。信玄に、我が眼と言われた昌幸も格好よすぎ   

真田の旗の六紋銭はあの世の駄賃という意味と生涯、信玄公の恩顧を忘れぬ為と言う意味もある 
真田一族の仇敵であった武田家だが、若き日の信玄の才能を見抜き、真田家の復興をたくし、忠誠を誓い仕えた幸隆は真田家の名を残した中興の祖
107日本@名無史さん:2012/06/17(日) 23:27:17.11
大坂の陣で豊臣方には総大将レベルがいないよな。そういう連中は徳川につくか関ヶ原で没落しているし。
108日本@名無史さん:2012/06/17(日) 23:37:32.09
しいて上げれば長宗我部盛親。
しかし、かれを総大将とするのには反対する連中が多そうだな。
能力的なことでなくて、身分というか地位というか格というか豊臣政権との
かかわりにおいてというか。
109日本@名無史さん:2012/06/17(日) 23:45:09.90
武田信繁は昌幸が武人として最も尊敬していた武将であった。
武田信繁は兄・信玄をよく補佐していた名将であったが、川中島の合戦の折
窮地に立たされた信玄を守るために、信玄の影武者となり敵陣に突っ込み、
壮絶な死を遂げている。信玄と容姿・背格好ともによく似ていたため、合戦の
時には信玄の影武者として出陣していた。日ごろから、「兄の身代わりに
なって死ねれば本望」と話していたという。
昌幸は武田信玄・信繁兄弟の固い絆に感銘を受けており、
嫡男の信幸の後に生まれた男子にはためらうことなく
信繁とつけたのである。
110日本@名無史さん:2012/06/17(日) 23:48:24.11
真田信繁の人柄

「左衛門佐は、ものごと柔和忍辱、物静かで、言葉少なく、怒り腹立つことがなかった。」
とは信繁の兄・信幸の言葉である。
真田信繁というと、大坂の陣での家康陣への突撃が印象に強いために、
勇猛な将というイメージがある。
しかし、柔和で心やさしい人物であったようである。
また、大坂に入城した時もいろいろと周りに気を配っている。
日常は穏やかでありながら、いざという時は武勇を発揮する。
その性格が多くの人から信頼を集め、大坂の陣では、まとまりの
無い筈の浪人衆を見事にまとめたのであろう。
信繁にはカリスマ的な要素があったのである。
大坂夏の陣直前の手紙では、その必死の覚悟を述べているが、
悲壮がったりしておらず、淡々と述べられている。
その手紙は信繁の性格をよく表している。
111日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:01:07.98
真田昌幸が存命だったとしても

昌幸「城を出て戦うべきです」
淀殿「秀頼公は誰が守るのじゃ?戦線が伸びきっておる上に少なき守備兵の中で関東方に攻め込まれたら何とする! その上大坂城は太閤殿下が築きし(ry」
112日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:24:23.97
昌幸も軍団長レベルでの活躍を見てみたかったな。
部隊長としては十分過ぎるくらい有能なのはわかるが
113日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:30:33.84
謙信がワシに8千の軍勢を与えれば、この世のどんな軍でも打ち破ると言ってる
んだが、大坂の陣の信繁は、15万の軍に対して家康の目前までいってる。
急造の兵でなくて、越後兵クラスの洗練があれば家康を討ち取れていたのだろうか
謙信いわく、手・足の如く動かせる兵はせいぜい7、8千くらいのもんだということ
なんだろうけど。信繁の鬼神の突撃で、この言葉にも信憑性があるんではと思ってしまう。
114日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:33:50.05
>>111

籠城は兵力で劣りながらも援軍が来るのを耐え、援軍が来たら挟撃に持ち込む戦術
更に当時の情勢を見ると、援軍に当たる勢力が無いのと、豊臣の勝利条件が、
家康を倒して権威が消えたときに、家康の権威で集まった兵力と同等の兵力(豊臣方)の存在に対し
外様勢が秀忠に絶対の忠義を尽くして消耗戦を繰り広げるよりも、一端終結して群雄割拠の再スタートに落ち着かせるものと思われる

昌幸が大阪に入城していたなら、全面的な野戦に持ち込むよりも
大阪+昌幸の難攻不落の威光を持って、戦わずして家康との和睦になった可能性もある
開戦しても、大砲を撃ち込まれたくらいでは、淀を叱責し降伏は起こらず
籠城しながら隙を突いての不意打ちが、幸村よりも上手く運んだと思う

和睦による不穏分子がのさばりながらも徳川の治世か
家康討ち死による数十年太平の世が遅れたか
どちらにしても冬の陣で結果が出て、夏の陣は起こらない
115日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:35:42.95
>>107-108
織田信雄か有楽斎が総大将に付く噂あったんみたいだけど
彼らなら一応亡き信長の親族てことで多少の威光はあったんじゃ
116日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:41:36.89
織田頼長

元和元年(1615年)4月、大坂夏の陣に際し、大坂城を退去する。一説には、豊臣家の
総大将の地位を望んだものの、叶わなかったためという。大坂城退去後は京都に隠遁
し、茶の湯(現在の茶道)に専念して有楽流を継承する。頼長は豊臣家の部将であった
ため、長益は領地を分与することを控え、幕府も領地を与えず、大名に列することはなかったようである。
117日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:48:59.94
真田信繁と徳川家康の違いは、楠木正成と足利尊氏の違いと似たようなものだ。
ゲリラ隊長と軍司令官に必要な資質は必ずしも一緒ではない。
人の将たる者と、将の将たる者の違いではなかろうか。
118日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:51:27.56
大坂の陣での大坂方に足りなかったもの

淀殿への恫喝役
119日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:54:38.02
>>118
豊臣方総大将って一応豊臣秀頼だよね。
大叔父の織田信長は14歳で家督を継いだというのに
秀頼は23歳にもなって子供2人もいて何してたの?
120日本@名無史さん:2012/06/18(月) 01:02:21.01
信繁は1570年生まれ説がある
理由は上杉に人質に出されるとき、元服前で
19歳で元服してないのはおかしいだろうということらしい
まだ弁丸を名乗ってたことを証明する書状があるそうな
121日本@名無史さん:2012/06/18(月) 01:08:57.71
信綱も昌輝も長篠で討死してなかったら昌幸並に活躍してそうだ
122日本@名無史さん:2012/06/18(月) 01:10:07.12
実際は武勇ばかりの信繁より、
信之の方が苦労したんだろうなあ。

それでも憎みあってたわけじゃなく,
きちんと兄弟として情もあったようだし。
互いにやるべきことをやったんだろうなあ。
123日本@名無史さん:2012/06/18(月) 01:26:51.88
>>54
譜代になれたのは、小松姫のお陰だな。
ただ老中になれたのは、当人が養子で将軍の曾孫だったからだろうね。
124日本@名無史さん:2012/06/18(月) 01:31:26.26
>>120
>まだ弁丸を名乗ってたことを証明する書状があるそうな

天正13年(1585)6月24日 諏訪久三宛真田弁丸安堵状
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/sanada/siryo/sandai/070102.html


125日本@名無史さん:2012/06/18(月) 01:40:08.99
真田家の血筋は回りまわって伊達政宗・片倉景綱・真田信之の血を一応引いてる
126日本@名無史さん:2012/06/18(月) 01:59:50.37
真田信綱
通称:源太左衛門尉
生年:天文六年
没年:天正三年五月二十一日、長篠城にて戦死、享年39
追号:信綱寺殿大室道也大居士
葬地:小県郡横尾村大柏山信綱禅寺
父:真田幸隆
母:河原氏(丹波守藤原隆正妹)
室:於北(村上一門井上新左衛門養女高梨政頼妹・花翁妙栄大姉・天正八年二月十日薨)
子:与右衛門―五郎兵衛(松平昌家家中)―以後越前福井藩に伝承
子:女(信之室・信吉母)

真田昌輝
通称・別名:兵部丞・信輝
生年:
没年:天正三年五月二十一日、長篠城にて戦死
追号:風山良薫大禅定門
葬地:小県郡横尾村大柏山信綱禅寺
父:真田幸隆
母:信綱に同じ
室:
子:信武(五郎兵衛)―七之助―以後越前福井藩に伝承?

出典は「信綱寺殿御事蹟稿」
127日本@名無史さん:2012/06/18(月) 02:09:26.49
信綱は家督継いでる天正2年閏11月11日付「蓮華童子院宛所領安堵状」と
元亀4年(天正元年)12月22日付「河原綱家宛一字書出」と、信綱が残した書状が2通あるが
幸隆が死んですぐ家臣の河原又次郎に一字拝領の判物を発給してるから
すぐ継いだものと推測

ちなみに1574年は八月に改元してるが武田はそのまま元亀年号を使ってる
織田に対する明確な敵対表明
128日本@名無史さん:2012/06/18(月) 02:16:47.13
天正年号については、元亀四年七月二十一日に信長が元号勘文を奏上し
七月二十七日に天正改元の詔が発せられ
翌二十八日に改元された。永禄から元亀への改元の時も天正を奏上しているから
信長にとっては足掛け四年でようやく達成された意義のある元号
ということで「天正」は信長主体で実施された元号なので
武田は政治的意味合いで天正の使用を拒否しているわけ
129日本@名無史さん:2012/06/18(月) 02:17:30.67
>>125
マジで?
信之の血はどこから?
130日本@名無史さん:2012/06/18(月) 02:29:23.91
>>129
>>125は信之と信繁(→仙台真田家や秋田真田家)の書き間違えでは?

若しくは

真田家の血筋は回りまわって伊達政宗・片倉景綱・真田信之の血を一応引いてる

真田家の血筋は回りまわって伊達政宗・片倉景綱の血を一応引いてる???
131日本@名無史さん:2012/06/18(月) 02:36:06.52
現代まで続く信之の血筋は女系のみ

信繁の血筋は某家に姉夫婦の息子が養子に入った時点で女系のみとなった(しかし江戸時代に何度か養子が入っているので、果たして血筋は???)
132日本@名無史さん:2012/06/18(月) 02:37:57.33
北条が沼田や名胡桃などを欲しがる。しかし、昌幸は”北条のようなチンカス
どもに沼田等をやれるかー”と激怒。以後にらみ合い

徳川は北条に沼田保証、真田にはそんなことないと二枚舌外交
(昌幸の弟が家康の家臣だったので多少の融通はできた)
というのも秀吉との戦いがあったため、信濃どころではない

小牧・長久手がある程度、ケリがついたが、北条・真田は
徳川がくるのを待ってたかのように待機

結果、大きい北条を取り、徳川が上田へ、北条が沼田へ
同時侵攻を画策

黙ってやられるのを見過ごすわけにいかない昌幸は上杉、
そしてその先の秀吉を見据えて(当時は上杉も秀吉の傘下)同盟
信繁を差し出す

ところが家康病気で上田は8千ほどで駿府を出撃

昌幸、北条を含めて撃退
133日本@名無史さん:2012/06/18(月) 02:43:02.41
>>132続き
家康激怒で、自身も出陣を決断するが上杉も背後にいるし、
秀吉も尾張・三河への進入も考えられたから、断念

家康も秀吉の傘下に収まるで、真田との和睦に応じる

(秀吉なんかに頭は下げんと)基地外ぶってた北条よりも、
戦って勝った真田に相通じるモノを感じて稲姫(当時)を信幸の
嫁にすることで同盟をはかる。

(それでも)北条は沼田を欲しがる

できるだけ無血で終わらせたい秀吉・家康は昌幸に
沼田をあげるように要求、昌幸は認める(代わりの土地をその代わりにもらう)

でも北条は秀吉には頭は下げない、さらに名胡桃城を要求

(秀吉の調略説もあるが)北条、名胡桃を攻撃

同盟を結んでた家康までも堪忍袋の緒が切れて、日本全国vs北条の戦いになる

結果、北条家滅亡、結果名胡桃も沼田も取り返し
134日本@名無史さん:2012/06/18(月) 02:55:34.62
沼田城って結構攻め辛い城だったろうって思う
上杉謙信も冬に越後に帰れないときは沼田城に居たって話もある

だから徳川vs上田城(昌幸)、北条の大軍vs沼田城(矢沢頼綱)のとき
守り抜けたんだろうと思う
135日本@名無史さん:2012/06/18(月) 02:57:52.10
>>81
一説によると、秀次自害→側妾斬首の一連の騒動の中で、三成、昌幸、佐竹義宣、北の政所が、秀次の幼い姫(隆清院とその姉)の助命運動をしたとか
136日本@名無史さん:2012/06/18(月) 03:22:44.29
137日本@名無史さん:2012/06/18(月) 03:42:48.41
なぜ家康は、大坂城に近い九度山に、徳川家に危険な親子(昌幸・信繁)を蟄居させたのだろう。
138日本@名無史さん:2012/06/18(月) 05:09:03.21
幸隆には

嫡男信綱を主君として
次男昌輝を猛将に
三男武藤喜兵衛(昌幸)を軍師にして

三本の矢の如く真田家を盛り立てていこうという
ビジョンがあったんだろうな。
139日本@名無史さん:2012/06/18(月) 07:19:14.89
真田太平記(ドラマ)

主家武田家滅亡

真田昌幸「弟御は徳川につけと・・・」
矢沢頼綱「信尹殿が・・・」

真田信尹の登場はなかった。この台詞での登場一回のみだった。
140日本@名無史さん:2012/06/18(月) 08:21:02.86
信繁は一般的には過大評価されていて、2chでは過小評価だな。
大坂城防衛の大綱は、昌幸から授かっていたとはいえ、
真田丸の配置やら、また徳川方を数部隊も全滅させた斉射、
家康本陣を後退させた突撃など、戦術的にみて普通に優れている。
人間的にもなんとなく誠実さがうかがえる。

ただ、祖父と父が桁外れの鬼才だったためなんとなく凡庸にみえてしまうし、
昌幸のように、戦術面での勝利を戦略的勝利にもつなげるという計算ができなかった。
信繁の戦術は局地的な勝利にとどまり、それが大局に影響を及ぼすことがなかった。
それが昌幸との大きな違いで、評価が低くなってしまう原因。
141日本@名無史さん:2012/06/18(月) 08:49:18.07
>>139
武田が主家か
142日本@名無史さん:2012/06/18(月) 09:05:11.37
真田って信玄に組しないで独自でやっていった方が覇権争いに食い込めそうなのにね
143日本@名無史さん:2012/06/18(月) 09:07:56.08
しかし家康は、信繁が配流先に妻を同行するのをよく認めたなぁ。
子を産ませて自分を討つため決起しかねないって思わなかったのかな。、
宇喜多のように遠い離島に流せばまず心配ないけど、大坂に近い九度山でしょ。
実際大助が生まれてそうなった。
信之や北政所、母方の実家とかに引き取られなかったのかね。
144日本@名無史さん:2012/06/18(月) 09:13:11.04
昌幸正室の出自に関しては諸説あり、『沼田記』に見られる遠山右馬助娘説が可能性と
して考えられている。また、宇多頼忠の娘説のほか、『寒松院殿御事蹟稿』など昌幸正
室を公家の菊亭晴季の娘とし、長女から次男信繁までの母とする説があるが、婚姻時期
が武藤家の養子となる以前の小姓時代に想定されるため否定され、晴季には在京奉公時
の旧主信虎の娘が嫁いでいるため、旧主家との姻戚を示すための意図であったとも考え
られている。柴辻俊六『真田昌幸』、寺島隆史「昌幸の妻妾」『真田昌幸のすべて』
145日本@名無史さん:2012/06/18(月) 09:22:16.40
>>141
?????
146日本@名無史さん:2012/06/18(月) 09:26:57.99
長篠の戦いは(そもそも無かった3段討ちや
武田軍は無謀にも特攻、全部鉄砲で死亡。
はたまた酷いのになると1万5千で上洛とかあって)
情報がいろいろ錯綜してるけど

昌輝が織田の柵を1つ突破したが、銃などで討死に
で、撤退命令により、信長軍の執拗な追撃にあい、勝頼をかばって信綱討死に

昌幸は説1・軍師のような立場なので勝頼の側にいたから助かった。
説2・病気ということで長篠には参戦してない。
説3・説2の追加だが、武藤家からは誰もでないのは申し訳ないから
9歳の信幸が代わりに参戦。(当然、後方待機で助かった)
ようは足利高氏が新田の鎌倉攻めのさいに息子を形だけでも
(新田だけに手柄を独占させないため)参戦させたような感じで。
147日本@名無史さん:2012/06/18(月) 10:06:29.72
第一次上田合戦における昌幸は評価できるけど、第二次上田合戦は昌幸が凄いってよりも秀忠がミスしただけな気がする。
第一次は徳川軍を撃退したけど、更なる援軍等がくる可能性があったからね。(家康が病に倒れて、何とか和睦に持ち込めたが)

第二次の昌幸の目的は時間稼ぎで、秀忠としても上田城を落す必要性はないし(前回、失敗したことを考えれば)5千程度の押さえを置いて素通りすればいいのに。
148日本@名無史さん:2012/06/18(月) 10:09:51.30
真田は、山家郷と称する村里の一角にある。狭まった谷の奥には、霊峰四阿山が
裾野を引いているのが望まれ、その山を源流に、清冽な流れの神川が、山家郷を
潤している。山家郷という雅な古名に表象されるような雰囲気が、この郷を包んでいる。
真田氏は、真田幸隆以前については確実な名が伝えられておらず、事績として伝
わるものもない。真田氏が海野氏の嫡流と称したことにより、本当の先祖の方が
抹殺されてしまったためともいわれている。『寛政重修諸家譜』では真田幸隆が
真田氏の祖としているが、鎌倉中頃に海野氏から分かれたとされており、室町時
代中期にも真田の名がいくつかの記録に残っているため、古くから真田に根づい
ていた一族であるという説が濃厚であり、真田幸隆が真田氏の祖であるという説
は現在では否定されている。
真田郷は古代の官牧地域であり、経営には大伴氏があたっていたとされており、
滋野氏が入部する前から根を張っていたという説もある。
享保16年(1731年)に江戸藩邸が類焼したとき、多くの記録や文書が焼失し
たこともあり、さらに他大名に比べて家史の編纂事業が大幅に遅れていたことも
あって、真田氏に関する史料はあまりにも貧弱であり、幕末にやっと家臣河原綱
徳らが命により編纂した『真田家御事蹟稿』ができあがるが、『綱徳注記』によ
れば、すでに関連史料の多くが散逸してしまっていたという。『真田家文書』
『群馬県史』『信濃史料』『新編信濃史料叢書』など、近年真田氏の研究が進む
につれて、江戸期の編纂物に頼ってきた真田氏の歴史が見直されてきている。
149日本@名無史さん:2012/06/18(月) 10:21:31.12
真田源太郎 *1390〜*1450年

永享10年(1438年)の結城合戦に、真田源太郎、真田源五郎、真田源六郎らの名が
見られることから、真田氏は真田幸隆以前より真田の地に土着していたことが明らかと
なった。応永7年(1400年)の大塔合戦にも真田(実田)の名が見られる。
150日本@名無史さん:2012/06/18(月) 12:09:08.43
安房守(安房)、伊豆守(伊豆、豆州)、左衛門佐、薩摩守、主計頭、清州侍従、弾正少弼、但馬、
長門守、治部少輔(治部)、刑部少輔(刑部)、大和守、三河守、武蔵守、美濃守、佐渡守、右府、
修理、木工頭、左京大夫、越前守、左近将監etc.


官職名をふんだんに使った真田太平記は名作
151袴垂保輔 ◆LmrL2hSV9g :2012/06/18(月) 13:45:38.06
尾張家といえば、飛鳥時代までさかのぼれる、藤原家と肩を並べる名族である。
たかだか戦国大名の九男が名乗ってよい姓ではない。

その伝でいえば、真田家という豪族は源経基よりずっと前からあり、
それは河内の渡辺家や紀伊の鈴木家のように、血縁集団ではない。
それが大伴、海野、禰津などの豪族から婿や嫁を一人貰えば、
全員がその後裔を名乗るのも、織田、豊臣、徳川らと同様である。
幸隆の父親もそのような真田庄の半農半武の男だったのだろう。

つまり、何が言いたいかというと、
もし真田アサミが真田幸隆の子孫を称しても、何の差支えもないということだ。
152日本@名無史さん:2012/06/18(月) 16:38:51.94
昌幸と幸村については、その評価事跡がほとんど徳川とかぶっていて、結局のところ、"あの家康相手に"というのが根本にある。
家康嫌いの真田好きにとっては、そこが苦しい部分だ。
あと、真田家歴代最大版図を築き、上信にまたがる滋野領国、滋野姓海野氏嫡流真田家の夢、幸隆の夢を実現したのは真田信之であった。
関ヶ原前の犬伏以降も、三成や景勝は沼田経由で書状をやりとり(必ず沼田越しにするよう指示)していて、それらの書状は無事届いている。
とても興味深い事実で、幸隆以来の生き残り精神発揮、昌幸・信幸父子の深謀遠慮が見て取れる。
153日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:04:37.67
松代は、真田資料館が真田一色だったな。
海津城はしょぼかったし・・・・大本営の洞穴が松代では一番の見所だったと思う。
154日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:11:49.79
埼玉の忍城は真田に攻められながらも落城しなかった。

総大将は真田ではなく石田三成だが。
155日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:17:43.71
>>153
真田宝物館のこと?
そりゃ、当時の真田家当主の真田幸治氏(戦前は伯爵)が当時の松代町に真田家伝来のものを寄贈したんだから真田一色にきまってるがな
幸治氏は戦時中は松代に疎開していて、地元の旧制中学を卒業している
幸治氏の親父の幸正氏も、民間に払い下げられていた松代城の一部を買い戻して遊園地として開放しているし、維新後も松代と関りを持ち続けているよね

松代城は10万石クラスの大名の居城としてはしょぼいのは認める
信州で言えば松代藩以下の石高の藩の居城だった、松本、上田、小諸、諏訪の方が城としては立派だったと思う
156日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:24:11.10
信之は子や孫の教育には失敗した気がする
信綱、昌輝、昌幸、信尹を育てた幸隆の方が偉い。弟(頼綱)も立派だったし
157日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:28:24.35
幸隆が武田に仕官したのが河越夜戦あたりとかもう少し遅いってのが結構見るけど
昌輝が岩尾城で生まれていることを考えたら身重な夫人を歩かせたにしても
遅くとも天文十二年には武田に仕えてるはずだと思う
158日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:29:44.27
松代藩は幕末期において実石はどれくらいのものだったの?
戌の満水のあと、千曲川の河道を変えてからは大規模な水害もなくなって石高は増えてもいいようなもんだけど
新田藩として埴科藩が復活してれば面白かったんだが
でも、分知してやる男子がいなかったか・・・
159日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:37:37.72
先祖は、清和天皇の皇子の貞元親王。
この皇子が関東に下り滋野の姓を名乗った。
その滋野氏の子孫が海野、祢津、望月。
ちなみに木曽義仲に仕えてた海野幸親は幸隆の父の先祖。
幸隆は最初海野幸隆という名だったが、武田信虎と村上に真田郷を追われ、
再起を願い武田晴信に仕えることを決めた時
故郷の真田の姓に変えた。
でも何の文献か忘れたけど、それよりもっと以前の文献に、
「実田」の名があり、それが実田=真田ではないかとも言われてる。
160日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:48:08.67
紀州藩初代の頼宣は信之を尊敬していて、よく信之を紀州邸に招いていたそうだ。
で、信之が格上の頼宣を訪ねる場合は、門の前で輿を降りるのが礼儀だったが 
高齢の信之に配慮し、頼宣は玄関先まで輿で入るのを許していたそうだ。
頼宣の嫡男で2代藩主となる光貞に初めて甲冑を着させる儀式の際、兜の緒を締めたのも信之。
こういう縁もあり、頼宣の二男で西条藩初代の松平頼純の娘は、松代藩4代藩主真田信弘の正室となっている。
つまり、8代将軍の吉宗と信弘の正室は従兄弟同士。また、松代藩8代藩主真田幸貫は吉宗の曾孫。
161日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:51:39.58
>>159
その説は昔の通説では? 今は幸綱は海野氏説、矢沢氏説、元々真田氏説とか色々あってよくわかってないはず
162日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:59:13.40
幸綱の「幸」は海野家の通字である「幸」、
「綱」は棟綱の「綱」、
で、嫡男に与えるとしたら普通は「幸」?「綱」?
信綱の「信」は晴信からの偏諱だと思う
163日本@名無史さん:2012/06/18(月) 21:02:14.41
滋野氏が源氏というのは諏訪氏や木曽氏が源氏だというレベルでは?
164日本@名無史さん:2012/06/18(月) 21:19:25.46
165日本@名無史さん:2012/06/18(月) 21:21:36.21
真田太平記での信之の表現は感動・感心した。
昌幸・幸村のように派手な意地と野心は通さなかったけど、
水面下で家名を残すためにどれだけ辛抱し知恵を巡らせたのかが
伺える。
というわけで池波最高
166日本@名無史さん:2012/06/18(月) 21:31:49.64
第二次上田合戦

秀忠は昌幸の嫡男・信幸に命じて、まずは無難に昌幸に対して開城を求める。
老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹する。
秀忠は数日を空しく費やした後で昌幸の真意を知り激怒、上田城攻略を決意したとされる。

数日時間を稼いだ時点で目的は達成している。
戦は徳川方が仕掛けたもの。
真田昌幸としてはもう時間は稼げたのだから、ぶっちゃけ素通りされてもよかったんじゃないか。
3万8千の大軍を食い止めて決戦に参加させなかったのだから(これは結果的に、だけど)
もし関が原で西軍が勝っていたら莫大な恩賞が貰えただろうに。
167日本@名無史さん:2012/06/18(月) 21:42:48.12
真田信之辞世の句 「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」
168日本@名無史さん:2012/06/18(月) 22:16:44.96
毛利勝永が奮戦したのはスゲーと思うよ
もっと評価されてもいい、彼が主力部隊と
五分に渡り合ったからこその信繁の家康本陣突撃

しかし、当初想定していた連携作戦が破たんしたのも
毛利隊の突出が原因とも言われている

まあ、信繁が立てた作戦がはまったとしても、
歴史が変わるほどにはなってない気がする
169日本@名無史さん:2012/06/18(月) 22:25:16.56
しかし信繁公も、自分の巡り会わせた人生を生きたい様に生きて死んだだけなのに、勝手に其れを高く評価されたり低く評価されたり…。
“悲劇の英雄”に認定されたかと思えば、逆に“戦国最大の過大評価”と言われたり…。

大坂城内と同じで心が休まりませんなぁ。
170日本@名無史さん:2012/06/18(月) 22:30:42.93
信繁の評価は、大坂城に集まった浪人達を短期間でまとめ上げた手腕だよ。
家康本陣に特攻をかけたことは事実だが、江戸以降の脚色が一騎当千の武将像となってしまった。
「背は低く、白髪で、前歯が欠けていた」が実像
171日本@名無史さん:2012/06/18(月) 23:02:03.13
幸隆については、いろいろな説がある。棟綱の子・孫・娘婿とか。
最近有力視されているのは、棟綱の娘が真田氏に嫁いで産んだという説だと思う。
172日本@名無史さん:2012/06/18(月) 23:04:47.12
『真田家系図』
棟綱の子

『寛政重修諸家譜』
棟綱-幸義-幸隆(棟綱の孫)

『真武内伝』
棟綱の子、幸義と幸隆は兄弟

『浅羽本信州滋野三家系図』
鎌倉時代に幸春が真田。故に幸隆から始まったものではない。

『良泉寺矢沢系図』
棟綱の娘が真田頼昌に嫁ぎ、その子が幸隆(棟綱の孫)

『白鳥神社石和家海野系図』
良泉寺矢沢系図と似ている。幸隆は棟綱の娘の子(棟綱の孫)

『飯島家滋野正統家系図』
棟綱の娘が幸隆に嫁した(娘婿)
173日本@名無史さん:2012/06/18(月) 23:15:31.97
真田幸村の二男・大八を祖とする仙台真田家も現当主の爺さんまでは男系だったが、
ここで男系が絶え、姉夫婦の子が養子に入り、その子が現当主。

それ以前の問題として仙台真田家の江戸時代の系図が怪しい
174日本@名無史さん:2012/06/18(月) 23:23:29.22
>>150
登場人物を絞ったおかげでそう出来た
175日本@名無史さん:2012/06/18(月) 23:30:24.39
大塔合戦に参加した「実田」氏、
結城合戦に参加した「真田源太・源五・源六」
海野氏から分かれた「真田幸春」
結局、幸綱へ繋がる正確な系譜は分かっていない訳で、
そうである以上、幸綱以降、真田氏が主張する海野氏嫡流を
真田氏の系統として語るのが自然かと。
176日本@名無史さん:2012/06/18(月) 23:53:50.73
武田家における幸隆の地位は外様(先方衆)
だけど城番を任されるなど実際の扱いは譜代に近い
信玄が出家すると自分も出家したように信玄との個人的な繋がりも伺える
177日本@名無史さん:2012/06/19(火) 00:04:04.15
大坂冬の陣のあと、4ヶ月の間に小山田壱岐守宛(妻は村松殿で左衛門佐の姉)
に出した真田左衛門佐の書状は2通残っています。
一通は、壱岐守の長男小山田之友が冬の陣に参戦していたが(当然東軍)、この
家臣が帰国の際に信繁を訪ねて、故郷の姉へ差し出す手紙の飛脚を務めた時のも
のです。
もう一通は信繁とその手紙に対する小山田家からの見舞い状が届けられて、その
返事として信繁が書いたものです。
最初の手紙は「思いがけなく戦となり、さぞかしけしからぬ事とお思いでしょう。
無事戦は終わり、私は死なずにすみました。お目にかかって是非お話ししたいこ
とがあります。(中略)近況を詳しく申し上げたいのですが、使いの者が急いで
いますので、いずれ機会がございましたら、また手紙など差し上げたいと思いま
す。」といった内容で、姉夫婦を始め、松代の真田家に迷惑をかけた事を詫び、
また会いたいですねと言っています。
ところが2ヶ月後の返事では「遠いところお使者とお手紙を賜り、忝なく思いま
す。私の身上は殿様の寵愛一通りではありませんが、何かと気遣いの多いことで
す。一日一日明日をも知れぬ暮らしを過ごしています。(中略)何かと承りたい
事もございますが、定めない浮き世ゆえ、一日先のことは分かりかねます。何
とぞ私ごときは、どうか浮き世に生きている者とはおぼしめし下さいますな。」
と、完全に遺書のような内容となっています。
和平成立直後はそれなりに喜んでいたのでしょうが、その後二ヶ月で死を覚悟し
たのでしょう。
178日本@名無史さん:2012/06/19(火) 00:06:36.82
かわいそうなのは、このとき信繁宛にこの手紙を届けた小山田家の使者。
信繁の手紙には追伸として「御使者が少々取り乱しており、取り急ぎ
このように一紙にしたためました」と断り書きが書かれている。
その時の信繁の周りは、使者がガタガタブルブル取り乱すような状況。
使者としては早々に立ち去りたくて、信繁にゆっくりと手紙を書く時間
を与えなかった訳だね。
179日本@名無史さん:2012/06/19(火) 00:25:57.07
慶長5年(1600年)の関ヶ原での敗戦報告(9月中旬)〜上田没収(開城)の12月12日まで昌幸・信繁親子は何してたんだろう
180日本@名無史さん:2012/06/19(火) 01:13:23.31
系図の整合と年代を考えて。
棟綱は幸綱の祖父ではなく伯父か舅またはその両方くらいが落とし処だと思う。
幸義は幸綱の義兄あたりで落ち着く感じで。
181日本@名無史さん:2012/06/19(火) 01:24:02.44
>>173

信繁の子、大助が片倉家に匿われて、片倉守信と名乗り仙台藩士となる。
1712年に真田を名乗るようになるが、男系は絶えて
(本家からの養子で途中一時男系が復活するが)女系で幕末を迎える。
182181:2012/06/19(火) 01:25:38.25
×大助
〇大八
183日本@名無史さん:2012/06/19(火) 01:53:48.19
武田家滅亡後、昌幸は自国の領民と滅亡した武田の旧臣達の為に
身の振り方を考えていたのである。
徳川から見れば信用なら無い奴でも
家臣、領民から見れば、「英断できる」トップ。
信頼されていなければ上田城で死んでいただろう。-

第一次上田合戦では領民が支援してくれなかったら、ひねり潰されていたのは確実だから。
184日本@名無史さん:2012/06/19(火) 02:31:09.41
■昌幸時代の真田家家臣団概要

●譜代(幸隆・信綱の代からの家臣)
矢沢・常田・河原・春原・宮下・深井・矢野・丸山
●旧武田給人
大熊・浦野・海野・鎌原・池田

●吾妻衆
湯本・折田・唐沢・一場

●沼田衆
中沢・森下・田村

●寄騎衆(沼田攻略の際につけられた寄騎)
藤田・金子・恩田・渡辺・発地

●小県郡土豪(小県郡統一で臣従)
禰津・望月・室賀・出浦・丸子
185日本@名無史さん:2012/06/19(火) 02:49:19.76
・長男

地場産業の経営者であり、見事に会社の土台を作り上げた偉大な人物である。
全国的な知名度は低い(除く財界)が知る人ぞ知る人物であった。

・次男

重役として勤務していた会社が突如倒産したのち、兄からの仕送りなどを頼って、十数年間にわたりニート生活を送っていたが、
ある日、フィールズ賞受賞の知らせが届く。その知らせと同時に死去し、全国を驚かせた。
186日本@名無史さん:2012/06/19(火) 03:12:35.84
真田氏の本姓は海野氏若しくは滋野氏。
もちろん清和源氏とは全く関係ない。祖とされる貞保親王は実在しない。
畏らく諏訪氏と同じく神官か、または安曇氏・小岩嶽氏と似た家系かも
187日本@名無史さん:2012/06/19(火) 03:38:03.34
http://mignon.ddo.jp/assembly/mignon/go_kisi/sanada.html
昌幸と信幸の対局と伝わる棋譜
188日本@名無史さん:2012/06/19(火) 03:54:05.53
島田 秀平(しまだ しゅうへい、1977年12月5日 - )は、日本のタレント、お笑い芸人、占い師。

先祖に真田信繁に仕えた島田太郎兵衛がおり、島田で9代目である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E7%A7%80%E5%B9%B3
189日本@名無史さん:2012/06/19(火) 04:01:25.71
「真田随想録」の上巻は幸隆主役
本は絶版だけど
http://shinshu.fm/MHz/66.32/
190日本@名無史さん:2012/06/19(火) 06:02:09.07
>>185
いつ信之が会社の土台作るようなことしたんだよ、自分で親父捨てて徳川に付いたの?
弟がいなきゃもっと知名度低い人物を知る人ぞ知るとは言いません
191日本@名無史さん:2012/06/19(火) 06:05:13.79
真田信之は通説や真田太平記等とは違い、秀忠の下でも譜代格の大名としてむし
ろ優遇されていた。
(真田家自身は、正之の入ったことにより急拡大した保科家との、旧武田閥の中
での競争意識があったようだが)

観光面

真田っていうと西軍のヒーローって認識で広まってるし、そういうのを求めて上
田等にやって来る人もいるだろうから、どうしても徳川的なるものがまとわりつ
いてくる真田信之は観光面で扱いに困るのかもしれない。
192日本@名無史さん:2012/06/19(火) 06:21:08.55
家康移封の際に小笠原・諏訪・木曽といった面々は関東に領地替えとなったが、
真田だけは領地替えにならず、小県を安堵され更に吾妻・沼田を与えられた。
これは本来の滋野氏の領国であり、秀吉が滋野氏嫡流として本願地を真田に与えた事を意味する。
また、上田城からは金箔瓦や菊紋の瓦が出土されているが、
これは秀吉の許可がなければ出来ない事で、
真田家が特別な位置付けをされていた事が伺える。
193日本@名無史さん:2012/06/19(火) 06:28:18.10
「信繁」の子孫と確実に言える存在は全国にゼロ
194日本@名無史さん:2012/06/19(火) 06:28:32.75
昌幸の側近は参謀のような立場じゃあないよ
仮にそうだとすると高坂山県とかも一時期参謀だったってことになる
195日本@名無史さん:2012/06/19(火) 06:31:18.31
信繁は断片的な史料とか見ると、どうも秀頼の馬廻りみたいなことしてたっぽいんだよなあ。
華々しく戦った他の牢人衆と、ちょっと役割が違った感じ。

上田市なんかにしたら「真田信繁は大坂の陣では実際には何やってたか良くわからない人です」
なんて事にしたら大河にできないからなw
196日本@名無史さん:2012/06/19(火) 06:36:41.10
後藤基次の近習、長沢九郎兵衛の証言によると
真田丸は「真田と長宗我部で半分ずつ受け持っていた」という。
197日本@名無史さん:2012/06/19(火) 07:30:12.63
・大坂の陣における信繁

信繁は昌幸の後継として元10万石大名待遇で
牢人衆の中でも大軍を率いるノウハウを持つ数少ない武将として
元20万石の長宗我部と元7万石の毛利とともに特別待遇を受けたとのこと
信繁自身はすかんぴんだが豊臣家が優遇してどんどん与力を付けてくれたわけだ

・大阪の陣の真田信繁の旗印は総赤に金線
http://www.interq.or.jp/red/yukimura/sanada/gunki.html

・真田氏の「信」は武田晴信からの偏諱由来

・幸隆(幸綱)、まだやっているのか?という話題↓
https://twitter.com/kurmacf/status/179058158399012866
198日本@名無史さん:2012/06/19(火) 07:36:14.20
199日本@名無史さん:2012/06/19(火) 07:52:27.48
六連銭の由来は、水島の戦いで幸広が戦死し、
その後、子の幸氏の代から使われた物だというのが
真田家文書である「御書上」にある。
これが正しいかどうかは定かじゃないけど、
1435年に記された「長倉追罰記」に海野一族の羽田氏が
六連銭を使用していたとあるので、
この頃には既に海野氏の家紋として使われていたようだね。
六連銭は六道銭で、幸綱が六道のいずれに落ちても構わないという
覚悟から六連銭を用いたという逸話は確かにあるけど、後付けだろうね。
ちなみに幸綱使用と伝わる六連銭の旗指物が残っているので、
昌幸が使い始めたってのは違う。
200日本@名無史さん:2012/06/19(火) 07:54:10.72
真田丸正面には、越前・松平忠直、彦根・井伊直孝、仙台・伊達政宗、伊勢・藤堂高虎、その他十余藩数万の大軍が布陣していたが、その中から、加賀・前田利常の軍一万四千が、主力となって総寄せが開始された。
201日本@名無史さん:2012/06/19(火) 08:08:41.70
202日本@名無史さん:2012/06/19(火) 08:14:07.84
聚遠楼跡 → 明徳寺 → 西楽寺 → 恵明寺 → 松井須磨子墓 → 林正寺 → 妻女山 → 恩田杢邸跡 → 旧真田邸 → 真田勘解由邸 → 旧白井家表門 → 松代藩文武学校 → 象山神社 → 象山地下壕 → 旧横田家住宅 → 松代藩鐘楼 → 長国寺 → 浄福寺 → 大林寺
http://www2.pf-x.net/~sanraku/shinano03/
203日本@名無史さん:2012/06/19(火) 09:58:51.15
>>187
将棋と思ったら囲碁か。囲碁はルールすら全然分からんなー
将棋の棋譜なら将棋ソフト使って両者(昌幸、信幸)の棋力を推定できるのだが

>>189
> http://shinshu.fm/MHz/66.32/
ネット小説として少しは読めるか?

>>201
旧真田邸御殿
http://www2.pf-x.net/~sanraku/shinano03/images/0017.htm
これが素晴らしい
204日本@名無史さん:2012/06/19(火) 11:32:52.20
>>203
俺も碁はあまりくわしくないが、なんとなくわかったことがある
両者とも地を囲うより、相手を殺すタイプ
戦術より戦略を重視する碁だと思った
205日本@名無史さん:2012/06/19(火) 16:31:13.54
道州制(地方への権限委譲)で日本がなくなる

テレビで韓国ドラマばかり流れても、見なければ良いので大きな問題はありません
しかし、地方分権で警察組織・権力を地方の犯罪については国から移管し
採用条件・組織等も地方で自由に決めれるようになったらどうなるでしょう。
今のテレビ局が数十年前に在日枠を受け入れて、今や完全に在日朝鮮人に乗っ取られ
都合の悪い報道は一切しなくなり、民主党が与党になったように
地方分権された警察組織が数年後に、反日感情を持った外国人に支配される可能性はないでしょうか
在日の犯罪は取り締まられず、日本人の犯罪は過大な罰を与えられたりしないと言い切れるでしょうか。
地方分権は日本全国の地方自治体を、中国・韓国のコントロール化に置くための工作活動に等しいのです。。

維新に近い、みんなの党は道州裁判所を設ける案もだしてます。
橋下氏(維新)の大阪都構想しかり
東海の大村氏、河村氏も地域政党を作って国政で候補者をだす予定です。
選挙まで時間はあります、検討すべきです。
206日本@名無史さん:2012/06/19(火) 18:44:24.54
>>156
孫は信利のことだろうけど
子供子育てなんて失敗してたっけ
孫にしても問題あったの信利だけで他は普通
207日本@名無史さん:2012/06/19(火) 18:49:46.19
>>67
真田家の重要文書は、江戸時代中期に3つの箱に分けられていたものを2つに整理した
というような話しを見た事があるので、家老も中身を知らなかったというのは俗説では??
不寝番の話しも、夜中にイザ火事と言う時、すぐ籠を担いで逃げなきゃいけないからという理由であって
別に三成の書状云々の話しではないと思うが
他藩でも似たようなもんじゃないの?
208日本@名無史さん:2012/06/19(火) 19:01:06.76
>>206
兄弟2人揃って大阪で敗走したヘタレだろ
母親に「どちらか1人死ねば良かったのに」とバッサリ
信吉は信之に「そんな事で恩賞出してたら、いくら領地があっても足りんぞ」と嘆かれ
信政も死後のお家騒動の原因も親父との不仲だし

かたや信繁の息子は立派な最後を遂げた
209日本@名無史さん:2012/06/19(火) 19:31:45.11
真田太平記の真の主人公って佐平次でいいんだよね?
210日本@名無史さん:2012/06/19(火) 19:32:16.54
信濃の名族滋野三家は
武田信虎の小県郡侵攻により滅んだ。
海野棟綱は上州に逃れ
この機会に謀略により
小県郡乗っ取りを計ったのが
真田幸綱である。
211日本@名無史さん:2012/06/19(火) 19:35:06.96
のちに真田幸村の家臣
真田十勇士に
海野、禰津、望月
の滋野三家がそろっているのは
偶然ではない。

真田家が謀略により
彼らを支配下においた
歴史を表している。

212日本@名無史さん:2012/06/19(火) 19:56:08.06
上州吾妻郡は真田に
とって特別な地である。
213日本@名無史さん:2012/06/19(火) 20:20:09.20
武田信虎により
郷土をおわれた海野棟綱、真田幸綱は
上州吾妻群にいた海野一族の一派羽尾幸全を頼った。
214日本@名無史さん:2012/06/19(火) 20:25:50.36
このあたりは関東管領上杉氏の勢力下である。

この地で小県郡の元領主海野棟綱の消息は途絶える。

やがて幸綱は仇敵武田に
寝返り、小県郡に帰還する。

さらに武田とともに
上州吾妻郡に攻め入り
当地の領主斎藤氏と
ともに
恩人羽尾幸全をも滅ぼしてしまうのである。
215日本@名無史さん:2012/06/19(火) 20:26:14.53
>>209
真田幸村
216日本@名無史さん:2012/06/19(火) 20:29:16.34
>>208
その信繁父子を養いつづけたのは宗家の信之。
流人でありながら、昌幸や信繁が十年以上も生き続け、子をなし、鷹狩り・連歌など、
流人・最低限どころか移動自由がない隠居程度の生活ができたのは信之が援助を惜しまなかったから。
幕府の目という危険を顧みず、"真田家"としての筋を通した信之。
もし信之が御家安泰を優先し、幕府の威勢に怯えていたなら最大戦犯の真田父子に援助などできはしない。
その場合、真田父子は流人の例にもれず短期間で死亡しただろうし、信繁は倅も娘も儲けようがなかった。

そして、その"真田家"の武威を示したのが信繁父子、どちらがどうとかいう問題ではない。

信之の倅は、かたや真田宗家のサラブレッドたる長子信吉と、徳川家連枝につらなる本多女正室腹の次子信政。
信吉が嫡子とみなされていたため、正室腹の信政が不満を持った。
真田宗家出の側室(昌幸は他家へ養子に出ていた身であり、家督継承にあたって宗家家臣団の支持が必要だった)
・徳川縁の正室(言わずもがな徳川家との関係上)
・倅どもの家督相続暗闘・・・本来なら信政が嫡子とされるはずだが、信之は己が意志を通した。信吉の早逝によって更に問題が深刻化した。

外様大名の多くが遠国へ転封・改易のうきめにあう中、信州・上州の所領を守り、滋野姓海野氏嫡流真田家の夢を守るため、信之は内憂外患、堪え難きを堪えた。







217日本@名無史さん:2012/06/19(火) 21:25:11.93
最後の藩主幸民氏の長男幸正氏は何をしてた人(職業)かわかりますか?
現在、アメリカ大使館宿舎になっている旧真田家中屋敷は、恐らく戦時中までは真田家の屋敷として
使用されていたと思われますが、米国大使館に売却された経緯とか分かる方いらっしゃいますか?
218日本@名無史さん:2012/06/20(水) 02:57:38.28
>>208
ありゃ叔父さんの本多忠朝が悪い
本人は名誉挽回と息巻いたはいいが突出しすぎたせいでアボーン

敗走した本多勢が後陣にまで雪崩込んで
他の隊にも迷惑かけ収拾付かなくし
挙句の果てに家康まで危なくしたんだぞ
219日本@名無史さん:2012/06/20(水) 22:26:14.10
夏の陣での徳川勢(冬の陣もか?)連携も糞もねえ
参戦した大名も隊に属してても、それぞれ個人でバラバラで戦ってるみたい
220日本@名無史さん:2012/06/20(水) 23:03:18.43
真田信繁:人生一番長く暮らした場所は九度山
221日本@名無史さん:2012/06/21(木) 01:56:26.56
滝川一益は上野国を保持できなくなり、自身の本拠である伊勢長島
に退去することに決めた。この時、一益は上野国衆を箕輪城に招き
集め、別れの酒宴を開いたという。一益は用心のため上野国衆の人
質を伴って進み、碓氷峠で人質の一部を、21日に信濃・小諸城につ
くと全員を解放した。上野国衆は一益を津田秀政の守る松井田城まで送ったという。

こうして信濃に入った一益は、安全に信濃を通過するために人質を
得ようとして、徳川家臣となっていた佐久郡の有力国衆・依田信蕃
に使者を送った。信蕃はこれを了承し、佐久郡・小県郡の国衆の人
質と、息子・依田康国を同行させたが、木曽郡の木曾義昌が一益の
通行を拒否してきた。この人質の中には真田昌幸の母も加わっていたという。

一益は義昌に「通してくれれば佐久郡・小県郡の人質を進上しよ
う」ともちかけ、義昌はこれを了承した。一益は義昌の居城・福島
城 (信濃国)で人質を引き渡し、ようやく織田の領国である美濃に入
ることができた。一益は清洲にて三法師(織田秀信)に拝礼後、伊
勢に帰ったという。なお、この途上にあった6月27日には清洲会議が
開かれており、一益は出席していない。
222日本@名無史さん:2012/06/21(木) 02:10:15.20
滝川一積は大坂の役で戦功を立てており、別家を立て1千石の旗本となったが、徳川氏
と敵対した真田信繁の娘達を保護したことから改易となっている(後に一積の子で一益
の曾孫にあたる滝川一明が旗本として滝川氏を再興した)。
223日本@名無史さん:2012/06/21(木) 04:58:57.06
>>217
幸民氏の男系子孫・真田御本家(松代真田家)の現当主でも、その答えは知らないのでは?
224日本@名無史さん:2012/06/21(木) 05:07:57.43
>>217
アメリカ大使館は牛久藩跡であり、アメリカ大使館官舎は、松代藩真田家跡から三井本家屋敷になり財閥解体により接収されたものだそうです。
225日本@名無史さん:2012/06/21(木) 05:26:39.91
山之手殿・・・寒松院ともいう。 武田晴信の養女として真田昌幸に嫁ぐ。真田信幸・真田信繁らの母。
出自については諸説あり、未詳のままになっているのだが、松代藩の重臣河原綱徳は『寒松院殿御事蹟稿』において、各説を上げている。

@菊亭晴季の娘。『滋野世紀』『真武内伝』などの一説。

A正親町実彦の娘。 菊亭晴季の養女として真田昌幸に嫁ぐ。『滋野世紀』の一説。『取捨録』『樋口系図』など。

B宇田頼忠の娘。『諸家高名記』などや『真武内伝』の一説。

C宇田頼次の娘。『真武秘伝記』など。

D遠山右馬亮の娘。『沼田記』『続武家閑談』など。

E正親町氏の娘。 武田晴信の養女として真田昌幸に嫁ぐ。『綱徳家記』。
226日本@名無史さん:2012/06/21(木) 05:49:07.43
武田氏家臣から近世大名化した真田昌幸の正室(山之手殿、寒松院殿)の出自には諸説
あり、『寒松院殿御事跡稿』によればこれを晴季の娘とし、長女から真田信之・真田信
繁らの母であるとしている。しかし、信幸らの出生時期や菊亭晴季のおよび子女の生年
を考証すると、婚姻が昌幸の小姓時代に想定されるため、現在では後世に生じた脚色で
あるとされている。(柴辻俊六「妻妾と子女」『真田昌幸』)

真田太平記の見過ぎで公家出身と思い込んでしまうのだが、やはり違うんだな。
陪臣の三男に嫁ぐわけないか。
227日本@名無史さん:2012/06/21(木) 08:49:54.67
>>25
真田信繁に豊臣姓を与えた理由は知らないが、一般論として↓

有力大名や一族には豊臣姓・羽柴氏を、織田旧臣には主に羽柴氏を
功績のあった者には主に豊臣姓を与えたのは
豊臣政権の支配原理がこういった族姓的紐帯に基づく物だったって事。
228日本@名無史さん:2012/06/21(木) 09:30:38.10
真田家の親戚
http://mytown.asahi.com/chiba/news.php?k_id=12000001206180002

大河に「本多忠勝」、大多喜で始動
2012年06月18日

徳川四天王の一人で、大多喜10万石の城主だった本多忠勝(1548〜1610)や
息子、娘を主人公にしたNHK大河ドラマの実現を、という動きが地元の大多喜町で本
格化している。町あげての誘致実行委の君塚善利会長(78)は「ハードルは高いが頑張る」と意気込んでいる。

 一部が大多喜藩の領地だった市原市など近隣自治体には「立候補」のあいさつを進め
ており、忠勝の生地の愛知県岡崎市や、縁のある三重県桑名市、長野市、兵庫県姫路市
にも協力のお願いに出向く予定。町で「忠勝サミット」を催すプランもある。

 消防署横に縦4メートル、横6メートルの馬に乗り、ヤリを手にした忠勝の大看板を
設置した。近く、約200本ののぼり旗で機運を盛り上げる。これまで7千人分集めた署名をさらに増やす。

 忠勝は、徳川家康の側近として生涯に50余度の戦に臨み、負けたことがないと伝わる。「花も実もある武将」と君塚さん。

 江戸に幕府を開いた家康が、ひざ元の房総の抑えとして忠勝を配した。領主、石高は
その後変わるが、忠勝時代の城や城下町づくりが今日の同町の基礎につながっている。

 2代目城主の忠朝は慶長14(1609)年に、御宿沖で遭難したスペイン船乗組員
317人の命を救ったことで知られる。

 家康も乗組員を厚遇した。スペイン国王がお礼に贈った洋時計(国の重文)を静岡市
の久能山東照宮が所蔵していて、5月に訪れた大英博物館の専門家が、「世界に一つし
かない貴重品」と鑑定したばかり。

 「戦国から太平の世に移る日本の歴史を背景に大河ドラマとして取り上げれば、多く
の人の共感を得られる。地域振興にも役立つ」と誘致趣意書。
229日本@名無史さん:2012/06/21(木) 10:13:21.08
源次郎信繁の初陣とされる小田原征伐

昌幸・信幸・信繁が率いた兵は3千と言われるが
3千も連れていったら国許には兵が皆無
230日本@名無史さん:2012/06/21(木) 11:57:24.92
肥前名護屋在陣

昌幸・信繁(上田) 兵数千人

信幸(沼田) 兵数700人

計:千七百人

真田家にとっては相当な負担になったものと推測される
231日本@名無史さん:2012/06/21(木) 13:18:57.52
七百人渡海する予定だったらしいが、
中止になったのは不幸中の幸いだったろうか
232上田藩主・松平伊賀守忠優:2012/06/21(木) 17:31:43.66
あげ
233日本@名無史さん:2012/06/21(木) 20:12:52.64
>>227
むしろ豊臣姓以外で任官する方が珍しいかと
羽柴名字は上位層のみだけど
234日本@名無史さん:2012/06/21(木) 22:30:45.47
235日本@名無史さん:2012/06/21(木) 22:49:22.19
豊臣姓を下賜されていないのが相当いるようだ>>が233>> 234
236日本@名無史さん:2012/06/21(木) 22:53:51.37
>>234
豊臣姓下賜一覧表を見ると豊臣姓以外での任官結構いるような
237水野忠邦:2012/06/22(金) 00:27:07.68
真田幸貫は、官位を従五位下伊豆守から従四位下侍従信濃守に進め、松平の姓を許され、松平信濃守幸貫と名乗り、加班の列に加えられた
238日本@名無史さん:2012/06/22(金) 03:15:39.85
真田太平記では信繁が人質として、いきなり春日山城に行ったことになっているが

『矢沢文書』では、信繁は、まず海津城へ。

上杉が真田に五千の援軍(『景勝一代略記』)(援軍五千は真田太平記でも採用)

信繁は海津城から春日山城へ。
239日本@名無史さん:2012/06/22(金) 03:16:11.23
第一次上田合戦で特筆すべきは沼田城の矢沢頼綱。
北条は三万八千もの大軍で沼田城を攻めたが落城せず撤退。

その2か月後、石川数正の出奔により徳川勢上田から撤退。

なお、石川数正出奔の後に
・木曾義昌 徳川から寝返り豊臣傘下へ。
・小笠原貞慶 同上
240日本@名無史さん:2012/06/22(金) 06:28:06.00
小田原征伐の北陸支隊
前田(1万8千)、上杉(1万)、真田(3千)、松平康国(4千)

※兵数は諸説あり

北条の大道寺軍との碓氷峠の合戦が信繁の初陣のようである。
「時ニ源次郎信繁、自身ニ働キ、手ヲ砕キテ高名アリ、敵ヲ追ヒ崩サル。」

真田太平記では虚空蔵山での戦(VS上杉)が信繁の初陣となっていたが、ソースなし。
241日本@名無史さん:2012/06/22(金) 06:29:32.88
7月21日に下野国犬伏に到着した時、石田三成からの書状(密書)が真田父子の元に届いた。


書状は長束正家、増田長盛、前田玄以の連署状であり、内容は以下の通りであった。


急度申し入れ候。今度景勝発向の儀、内府公上巻之誓紙ならびに太閤様御置目に背かれ、秀頼

様見捨てられ、出馬候間、おのおの申し談じ、楯鉾に及び候。内府公御違の条々、

別紙に相見え候。此旨尤と思い召し、太閤様御恩賞を相忘れられず候はば、秀頼様へ御忠節あるべく候。恐々謹言。



7月15日
長大正家(花押)
増右長盛(花押)
徳善玄以(花押)
242日本@名無史さん:2012/06/22(金) 08:30:24.85
信繁への豊臣姓授与
真田家は、幸隆以来滋野姓海野氏嫡流という事を強烈にアピールし続けてきた。
その時点では、信繁はまだ人質で部屋住みの身分であり、嗣子とされ沼田城二万七千石の主となり、家康養女を妻にした信幸とは比較にならないほどの待遇差だった。
おそらくだが、大谷吉継女を妻に迎えた時、公儀(豊臣家)は、いずれ別に所領を与え真田別家として取り立ててやろうとの思惑があり、豊臣姓を与えたのは宗家とは別の豊臣子飼いの意味が含まれていたのかもしれない。
秀吉子飼いの大谷吉継女を妻に迎えた信繁だったが、当時、果たしてこの縁組みを本人や父兄が快く思ったかどうかは??がつく。
業病(因縁病)とされたらい病を病んだ吉継の閨閥は、信繁以外は全く不明だ。
敦賀城6万石の大名だが、本人・嫡子吉治とも妻は不明で、他家との縁組みの形跡が信繁以外皆無である。
信繁夫妻は少なくとも5~6年大坂にいたが、夫妻の間に子ができるのは九度山配流以降で、14年の間になんと6ないし7人の子女を儲けている。
この事実から、大坂当時の武将真田信繁自らの嗣子は、大谷系譜を望んでいなかったのではないかと思われる。
ただ何にせよ、豊姓真田家としての信繁は微妙で特殊な立場だった事だろう。
243日本@名無史さん:2012/06/22(金) 21:26:37.71
真田信幸も豊臣姓で任官しているから成り立たないと思うが・・・
244日本@名無史さん:2012/06/22(金) 22:07:36.14
>>243
豊臣姓下賜一覧表
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F

信幸の名前、なぜか無し
245日本@名無史さん:2012/06/22(金) 22:56:46.50
>>243
豊臣姓授与は時の公儀(豊姓羽柴宗家)の事情、いわゆる成り上がりであった豊臣姓に箔をつけていくための一過程であり、
各々個人的関係によって授与されたとみられ、乱発と言われてもおかしくない位の賜姓者数だった。
(例えば、徳川家康は源姓だったが、天下をとってもいちいち諸将に源姓を与えたりしていない。する必要がないからである。)
ただ重要な事として、羽柴の名字を与えられた者のみ、公称としての豊臣朝臣を許可したとされる。
真田宗家は終始滋野朝臣を名乗っているが、豊臣公儀時代に、昌幸ないし信幸が便宜上の賜姓豊臣氏となった事も考えられなくはない。
ただ信頼性のある記録上、真田家の賜姓豊氏は信繁のみであって、
そこに何らかの意図があったとするなら、非常に興味深い事と思う。
246日本@名無史さん:2012/06/23(土) 03:57:49.17
真田昌幸は武田家崩壊後、信州上田を再起の地とする。年貢半減で民衆の心を掴み、武
田の浪人を召し抱えて一等地を与え、古参の家臣と同等に扱った。北条氏と徳川氏の勢
力争いで上田の戦略上の重要性が増す中、昌幸は農民に土地の所有を認め、当時進んで
いた兵農分離とは逆の路線を選択。自分たちの土地を守る・郷土を守りたいとの意識に繋がる。

北条が軍を上田に進めた際には、農民・町人が進んで築城工事に加わり、三の丸まであ
る上田城を見た北条軍は引き揚げる。天正13(1585)年、徳川家康は領土割譲を迫るが
昌幸は拒否。7000の徳川軍に対し真田軍は城下の者全てを城に入れ、2000人で篭城。

三の丸を徳川軍にわざと破らせ、引き付けてから反撃に出た真田軍。大木を転がし、混
乱した所を鉄砲で撃つ。側面から突撃し徳川軍は町に退却。だが、城下町の至る所には
柵を仕掛けておき、行く手を阻んだ所で火を放った。徳川軍は5人に1人の割合である
1300の死者を出し撤退。真田軍の死者は40人ほどだった。

慶長5(1600)年8月、西軍に付いた昌幸に家康は、秀忠軍3万8000人を差し向ける。真
田軍2500人では勝ち目は無かったが、昌幸は「敵の首一つに百石を与える」と振れを出
す。続々と集まる町人や百姓。身分を超えた郷土防衛戦が始まる。

9月6日、秀忠軍の面前で舞を舞って挑発した昌幸に、攻撃命令も無く攻めかかる秀忠
軍。煮えたぎった粥を浴びせ掛け、手製の矢竹の弓矢で攻撃する町人や百姓達。真田軍
は千曲川に敵を追い込み、せき止めていた水を放流。秀忠軍は上田城攻略を諦め関ヶ原
に向かったが、合戦には間に合わなかった。
247日本@名無史さん:2012/06/23(土) 08:48:10.17
大阪夏の陣の真田信繁隊の家康本陣突撃を描いたドラマは複数あるけど

@突撃までの戦闘シーン
A突撃
B真田隊壊滅
C真田信繁討死

Bを描いたドラマがなぜかない
248日本@名無史さん:2012/06/23(土) 08:50:11.05
>>245
>ただ信頼性のある記録上、真田家の賜姓豊氏は信繁のみであって、
>そこに何らかの意図があったとするなら、非常に興味深い事と思う。


信繁のみの理由は永遠の謎か???
249日本@名無史さん:2012/06/23(土) 18:28:46.24
信繁って名前に拘る奴は、学生時代のテストでも天皇の名前を本名で書いて
ペケを貰ってたわけ?
250日本@名無史さん:2012/06/23(土) 19:51:51.42
真田右馬佐頼昌 1487〜1523

真田幸綱の次男。
矢沢頼昌、右馬允、右馬助、真田道端大禅定門一翁宗心大居士ともいう。
海野幸棟娘婿。真田幸隆や矢沢頼綱らの父。松尾古城主。大永3年(1523年)3
月15日没。真田氏の中興の祖といわれる。
真田幸綱の次男であり、矢沢氏を継いでいたが長男(名前は不明)が早世のため真田
氏を継いだといわれる。松代藩士山口直昌が寛政11年(1700年)に記した『信
綱陽泰両寺記』や落合保考が寛文元年に記した『つちくれ鑑』などに「真田道端公
の古墳なりとて…」と真田頼昌の名がある。矢沢氏の菩提寺である良泉寺に伝わる
系図にも、やはり真田頼昌の名が記されており、 真田頼昌から真田幸隆や矢沢頼
綱、常田隆家らが生まれたとなっている。
真田頼昌には長男真田綱吉、次男真田幸隆、三男矢沢頼綱、四男常田隆家、五男鎌
原幸定、六男真田幸景、七男真田綱重がいるとされている。 真田綱重だけは現在は
真田綱吉の長男とされており、真田頼昌の七男説は否定されている。
真田幸隆は真田氏を「滋野三家でも本家筋とされる海野氏の直系である」と自称し
ている。真田氏の苗字の地真田は、海野氏の本拠であった本海野ともほど近い。 真
田幸隆は海野氏の直系として海野宗家を継いで後に、真田に居住したためその地名
から真田姓としたことになったとする説もあるのだが、この説は現在では否定され
ており、真田氏は海野氏の一分流にすぎなかったのだが、 真田幸隆は天文10年
(1541年)の海野平合戦での宗家の没落をかえって逆用し、海野氏の系譜をそっ
くり自分に結び付けてしまったものとみられるのである。しかし、その真偽はとも
かくとして、真田幸隆、そして三男真田昌幸が活躍した戦国末期の争乱のなかで、
真田氏が大きく力を伸長していく上で、「真田氏海野嫡流説」は、単に家柄を飾る
以上の重大な意味を持っていたものとみられる。
251日本@名無史さん:2012/06/23(土) 19:53:50.72
真田幸隆は天文15年(1546年)頃には武田晴信の家来として、その才能を認め
られ重用され、頭角を現していた。この真田幸隆の活躍のなかでも特筆すべきこと
の1つに、上州吾妻郡の攻略があげられる。吾妻郡は真田とは鳥居峠を境として接
する地でもある。 真田幸隆は永禄6年(1563年)には同郡の中心拠点といえる岩
櫃城を、ついで永禄8年(1565年)には獄山城を攻め落とし、 武田晴信より同地
の経営を任されている。この地での真田幸隆の活躍は、やがて真田幸隆の三男真田
昌幸に受け継がれ、武田氏旗下でのこととはいえ、吾妻郡、利根郡の両郡という北
上州一帯が、真田氏の実質的な大領地となっていくこととなる。
吾妻郡には鎌倉時代以来、海野氏の一族が進出し、それぞれの地名をとって栄えて
いた。 真田幸隆、真田昌幸の吾妻郡における活躍の間には、これらの内の多くの武
士が真田氏の配下となり、後の真田藩家臣団の中核が形成されていったわけでもあ
る。このような吾妻郡攻略作戦のなかで、真田氏を自称した同氏が海野氏の嫡流で
あるとする説は、我々の想像以上の力を発揮することになったのかもしれない。
252日本@名無史さん:2012/06/23(土) 19:54:31.41
戦国末期から近世にかけて、その武名を天下にとどろかせた真田氏であるが、 真田
幸隆以前の真田氏については、ほとんど知られるところがない。真田氏の名が見え
る最古の文献は、室町時代前期の応永7年(1400年)信濃守護小笠原氏と、東信
濃・北信濃の武士団との間に行われた大塔合戦について記した『大塔物語』であ
る。このなかに祢津遠光の配下として「実田横尾曲尾の人々」が見られる。「実」
にサナと振り仮名があることや、横尾・曲尾とも真田に隣接する同じ真田町内にあ
る地名であるところよりみても、この「実田」は真田であり、真田氏の祖先であろ
うとみられているわけである。しかし、その後は真田幸隆が武田晴信の家臣となっ
て活躍をはじめるまで、確かな史料には全くその名を見出すことができない。
この事実を裏返せば、真田幸隆の出現までの真田氏は、言わば名もない小土豪で
あったことになる。真田区の北東方向にそびえる四阿山の頂上に祀られている白山
権現の里宮である山家神社があるが、そこには真田幸隆の長男真田信綱と三男真田
昌幸が、それぞれ真田家の家督を相続するに際して発給した「四阿別当の儀」につ
いての安堵状が伝わっている。これらをはじめとする諸事実からみても、真田氏は
古くから真田の地を本拠としていた土豪であったことについて、疑問を狭む余地は
ない。海野氏の正系を継ぐ真田幸隆が、初めて真田に移ってその地名に改名したな
どどいう話は、明らかに成立し得ないわけである。
真田頼昌は大永3年(1523年)3月15日に没す。真田道端大禅定門一翁宗心大
居士。なお、真田頼昌の妻(真田綱吉や真田幸隆、矢沢頼綱の母)は天文9年(1540年)4月26日に没したとされる。
253日本@名無史さん:2012/06/23(土) 19:59:17.64
松代藩の分地であった沼田領は、1658年2月に松代藩主信政が没すると、松代十万石の
相続争いが、沼田3万石の城主信直(信利)と信政の六男で二歳の信房(後の幸道)と
の間に起き松代藩は紛糾した。信直を応援したのは父信吉(信之の嫡男)の妻の実家
(信直は庶子で「沼田町史」は母の名を小野お通としている。)の厩橋15万石の大老酒
井雅楽頭忠清と信直の妻の実家の高知20万石の山内対馬守忠豊。それに親類の高力左近
太夫高長、真田勘解由信就などで、信房を擁立したのは祖父の信之と信政に従って松代
へ移ってきた家臣団であった。この争いは深刻であったが6月に到ってようやく信房に決定した。

この時から今まで松代藩の分地であった沼田領がはじめて独立したが、信直の心中は
「真田氏の嫡男系でありながらそれを無視された」として不満であったに違いない。そ
して信之、信政が沼田城から持ち去った軍用金の返還を求める訴訟を幕府に提出したりする。

信直は1681年11月22日「両国橋の普請を助け勤むるのところ、材木の事により不束のき
こえあり、しかのみならず、旦封地の制度もよからざるのむね上聞に達し、御気色こう
ぶりて城地を没収せらる」として改易となった。昌幸が沼田に入城してより百年、信之
が城主となってより九十年、真田氏五代は沼田城から消えた。信直に対する幕府の糾問
十ヶ条は以下の通りである。

両国橋架替用材が納期に納まらなかった。
百姓を無暗に使役した。
飢に及ぶ百姓を苦しめ救わなかった。
奢り増長し美酒美女を愛した。
旧臣に暇を出し新参者を取立て役付けた。
殺生禁断の地迦葉山で遊猟した。
行列先を横切ったとして幼児を切った。
先代が開発した農地を再検地して大きな年貢をかけた。
由緒ある重臣譜代の多くに暇を出した。
百姓町人の訴訟を取上げなかった。

この糾問を分析すると幕府の一方論告の面もあるが、信直は勿論明君ではなかったらし
く、重臣のなかから塚本舎人、麻田権兵衛、宮下七太夫が改易の日の翌23日に自決して
いる。この三人は地位を利用して私欲を図ったと伝えられている。
254日本@名無史さん:2012/06/23(土) 20:10:26.30
河原殿 1522〜1593年

河原氏、恭雲院ともいう。

海野氏重臣河原丹波守隆正の妹。真田幸隆に嫁ぐ。天文10年(1541年)、海野氏没
落のとき兄河原隆正は武田晴信に降伏し仕えたとされるが、身を隠していたともされ
る。 河原殿は真田幸隆に嫁いでたので、真田幸隆の浪人生活を考えると、相当苦労し
たと思われる。 真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信尹の四男を産んだ。もう1人
真田高勝がいるが、これは河原殿の出生かどうか不明である。だが、いずれにせよ彼女
は五人の男子を父に劣らぬ武将に育て上げた。真田氏は、河原殿だけでなく正室たちが
しっかりしている。もし彼女たちが子どもたちの教育を誤っていれば、真田昌幸、真田
信幸、真田信繁という名将は存在しなかったであろう。 河原殿の没年は天正20年
(1592年)5月20日とも、翌文禄2年(1593年)8月1日ともいわれる。長男真
田信綱を16歳で産んだとされるため、享年は72歳になる。
255日本@名無史さん:2012/06/23(土) 20:24:12.68
真田右馬助綱吉 1510〜1570年

真田頼昌の長男。

真田綱義、右馬之亮、右馬允ともいう。 真田幸隆の兄で真田頼昌の長男。実在の明らかな人物だが素性は諸説ある。

武田家臣として「海野衆」の1人に名があがる。生島足島神社所蔵の武田将士起請文
(重要文化財)の署名者のなかに「真田右馬助綱吉」なる人物の名前が見られる。この起
請文は永禄10年(1567年)に武田晴信が、その配下の武将より徴したものである
が、そのなかの「海野衆」の1人として、真田綱吉の名を見ることができるわけであ
る。 真田頼昌とは通称(官途)までも一致している(頼昌は「佐」であるが佐と助はどち
らも「スケ」)ことからも真田頼昌と真田綱吉、この二人は全くの他人ではあり得ない
ことは明らかというべきであろう。その関係については未だに言及されたものを見ない
ものの、 真田頼昌が大永3年(1523年)没との年代からすると真田頼昌と真田綱吉
とは父子と見てよいだろう。さらに、その「右馬佐」という通称を襲名している点から
は、真田綱吉こそが真田頼昌の嫡男であったという事実を物語っている。と考えるべき
ではないだろうか。 真田幸隆と矢沢頼綱が兄弟との定説と、真田頼昌の嫡男が真田綱
吉であろうとの推論をあわせてみれば、 真田頼昌の長男が真田綱吉で、次男が真田幸
隆、三男が矢沢頼綱ということになる。これは矢沢頼綱を真田頼昌の三男としている
『矢沢氏系図』(その兄二人の名は記していない)と偶然かどうか合致することにもな
る。だが、真田綱吉の系統は、真田氏系図にはもちろん、同家家臣団のなかにも全く見
出すことができない。弟真田幸隆が武田晴信に引き立てられて活躍し、真田家興隆の基
礎を築き、さらにその三男真田昌幸が独立した大名へと目覚しい上昇を遂げてゆくなか
で、真田家の枠の外へはじき出され、さらにその存在した事実さえ消されてしまったの
であろうか。
海野家重臣深井棟広の娘深井殿を妻としており、真田綱吉には長男真田綱重がいる。
法名は「壽泉院眞相勸喜大禪定門」という。これは東御市和(かのう)東深井の深井幸p
氏のお宅の過去帳にあり、また高野山蓮華定院にて正村金右衛門が供養しているという。
256日本@名無史さん:2012/06/23(土) 20:29:39.11
真田右馬亮綱重 1535〜1620年

真田綱吉の長男。
深井綱重、深井右馬介、右馬助、右馬之亮、萩原綱重ともいう。深井院實譽宗眞居士。
母は海野家重臣深井棟広の娘。沼田の市場備中守の娘を妻とし、松代藩士となった正村
家から養子を迎えたとされる。 真田綱重は松代にて没している。その後は松代藩と
なったころ48騎の脱藩で長野県小県郡深井村に帰農したとされ、真田家というよりも
海野家意識が強かったようで、家紋も六連銭ではあるものの「離れ六文」ではなく
「くっつき六文」を使用したとされる。松代藩の48騎浪人事件については、長野郷土
史研究会の機関紙に寺島隆史先生の論文に詳しく載っており、48騎は信濃史料叢書第
4巻98項に所収されている。このなかに「深井右馬介」が旧地深井村(東御市和)へ帰
農したと記載されている。

真田綱重は真田頼昌の七男という説もあるが、年代が真田幸隆やその弟たちと近いこと
からいわれているのであろう。

真田頼昌はすでに大永3年(1523年)に没しているので、真田頼昌の七男という説は否定されている。
信濃史料叢書第23巻545項に真田氏が上田在城時代の深井村の知行史料(深井正氏
所蔵)が掲載されていて、それらの資料によれば「深井右馬助」が深井村知行地として
いたことが書かれている。このことからも真田綱重が深井氏を称していたことは明らか
である。萩原の姓であるが、真田綱重がなぜ萩原綱重と称したのかは不明で、今後の研
究で明らかになることを期待している。
257日本@名無史さん:2012/06/23(土) 22:03:38.72
よく調べたものだなあ
258日本@名無史さん:2012/06/23(土) 22:22:59.82
ここで恭雲院の情報が出てくるとは思わなかった
259日本@名無史さん:2012/06/24(日) 11:47:35.02
歴史小説家伊東潤は著書『戦国風雲血風録』中で、名胡桃事件を真田昌幸の謀略と考察
している。北条が健在ならば沼田の地は取り戻せない。そのため邦憲を篭絡してあえて
城を奪取させ、北条との開戦のきっかけとした。そして事件の後深く反省した素振りを
見せて最前線の外曲輪を猪俣邦憲は志願したが、開戦早々に真田の陣に降り、以後の消
息は一切不明と記している。それについて昌幸が篭絡の餌とした空手形が秀吉に知られ
ないために、戦後のどさくさに紛れて邦憲とその一族を闇から闇へ葬ったのだろう、と
考察している。

※真田太平記では豊臣秀吉謀略説を採用
260日本@名無史さん:2012/06/25(月) 13:46:42.39
真田源八郎 *1585〜*1640年

慶長20年(1615年)5月6日の夜、真田信繁は従士を呼び「私は亡き父の遺
言を守り、一国の主ともなり、各々へも加恩すべきところ、天運すでにつき、討
ち死に決まった。各々方は私のため二心なく尽くしてくれて誠にありがたいが、
皆信州に妻子のある身である。帰国して妻子を育てよ。私は秀頼に頼まれ、武門
の義理、死を決めている。これが今生の名残りだ。」と諭した。従士たちは同音
に答えた。「我々は御先祖より御厚恩にあずかっている者です。今日お暇を賜わ
るとならば、一同切腹します。」そこで一同は盃を傾けて明日の奮闘を誓った。
真田信繁は真田源八郎を呼び、形見の自筆の一巻を持たせ、強いて上田へ帰らせ
た。この真田源八郎は播州姫路城主池田備後守利隆に仕えて80歳まで長命し、この物語をした。
261日本@名無史さん:2012/06/25(月) 13:55:20.43
真田左馬助信勝 1575〜1609年

真田昌幸の三男。
弥十郎、左馬介、左馬之助ともいう。真田昌幸の三男として生れる。

妻は牧野康成の娘。関ヶ原敗戦後、真田昌幸、真田信繁父子に伴い紀州へ従っ
た。兄二人とは母も異なり、年齢も相当離れている。幕臣となっている点からみ
て、九度山から戻ってからは長兄真田信幸の引き立てがあったものと思われる。
後に旗本となり、慶長10年2月、将軍徳川秀忠上洛のとき大御番組として供奉
した。慶長14年9月、江戸において戸田半之丞氏勝(戸田興勝)と喧嘩して殺さ
れた。また一説には徳川秀忠に従って大番組として京都滞在中6月19日に戸田氏勝と論争し斬殺されたともいう。
262日本@名無史さん:2012/06/25(月) 13:56:05.18
真田内匠昌親 1577〜1632年

真田昌幸の四男。
昌勝、弥太郎、主計介ともいう。真田昌幸の四男として生れる。

真田信勝が四男で、真田昌親が三男の説もある。内村郷平井村に住む。平井村は
現在の丸子町。関ヶ原敗戦後、真田昌幸、真田幸村父子に伴い紀州へ従った
275人の1人。寛永9年に死去。墓は松代大林寺と善光寺にある。 真田昌親
の長男真田蔵人と次男真田多聞の墓も善光寺境内にあるという。なお、真田昌幸
の娘七人は、真田長兵衛、保科弾正、宇田頼次、妻木彦右衛門らの室になってい
る。 真田昌親の三男真田孫七郎信親は、2000石を分与されたが、養子真田
信弘が、藩主真田幸道の養子となり、宗家を継いだため断絶。
263日本@名無史さん:2012/06/27(水) 14:02:30.09
264日本@名無史さん:2012/06/27(水) 14:48:37.58
wikiならまだしも、他サイトの文章を無断転載かよ
265日本@名無史さん:2012/07/01(日) 03:19:36.29
映画「真田幸村の陰謀」で
幸村が凱旋する家康の輿に襲い掛かり暗殺するは
都市伝説的にもアリなの?
一応家康の首塚とか家康墓所のお寺が大阪にあるらしいが?
266日本@名無史さん:2012/07/01(日) 07:39:56.71
夏の陣以降の家康影武者説は一応ある
267日本@名無史さん:2012/07/03(火) 08:50:02.81
268日本@名無史さん:2012/07/03(火) 12:40:01.48
影武者説は小笠原何とかで千姫と会見した時
影武者と見破られるのだっけ?
269日本@名無史さん:2012/07/03(火) 16:13:11.39
7歳で大坂城に輿入れしてから19歳の大坂の役まで
大坂城から一歩も外へ出たことがなかった千姫が
祖父家康の顔を鮮明に覚えてるって凄いがな
270日本@名無史さん:2012/07/06(金) 15:23:01.64
慶長5年(1600)7月晦日 真田昌幸宛石田三成書状
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/sanada/siryo/sandai/090502.html

上方の趣、大方御使者見聞候。先づ以っておのおの御内儀方大刑少(大谷吉継)馳走申され候の条、御心安かるべく候。
271日本@名無史さん:2012/07/06(金) 17:32:20.46
「真田幸村の謀略」の突っ込みどころは大野治長が淀君を後ろからバッサリやるところと、家康の首が垂直にぶっ飛ぶところでござんす
272日本@名無史さん:2012/07/07(土) 11:20:56.68
関ヶ原の戦いの少し前、犬伏で父や弟と別れた真田信幸は小山に駆けつけ、
舅・本多忠勝と同宿した。
夜になって、同じ信濃出身の保科正光が密かに訪ねて来て、信幸に耳打ちした。

「お主、なぜここに来られた?徳川は譜代が多い、外様がこの先どう扱われるか、
良くお考えあれ。かく言うわしも、真田より先に徳川についた身ながら、この戦に勝っても
遠い磐城へ移封されるらしい。
わしの今の失意、お主ならお分かりだろう?もう一度考え直されよ!」
信幸は答えた。
「私は既に決めたのです。もう言わないで下され。」

説得を断念した保科が去ると、入れ違いに忠勝がやって来た。
「今、黒い鎧の武者が出て行ったようだが、誰が来ておられたのかな?」
信幸が動揺を隠して黙っていると、忠勝が言った。
「フン、あの鎧は保科であろう。おおかた、「所領に帰れ」とでも説きに来たか。」
驚く信幸に、忠勝は続けた。
「なァに、あの帰り方では、あやつは逆にムコ殿の腹でも探りに来たのだろう。
何も心配する事はない。」

忠勝の言葉通り、戦後に信幸改め信之は父・昌幸追放後の上田領を相続できたし、
保科は本領・高遠を安堵された。
「このように、舅どのは戦の機微に練達するばかりでなく、洞察力も神の如しであった。」
後々まで信之は語ったという。
273日本@名無史さん:2012/07/07(土) 11:22:36.72
5代真田信安の娘が島原藩深溝松平家の松平忠恕の正室に入り、2人の子が松平忠馮で、
以後島原藩は、忠馮−忠候−忠誠−忠精と真田の女系が続くがここまで。
忠恕、忠馮は男子が何人かいるから、ひょっとしたらこちらに女系で残っているかもしれない。
真田は男系最後の6代幸弘のあと、7代幸専、8代幸貫と女系で繋ぎ、
幸貫も、松平忠馮の子を真田幸忠として養子にとるが、残念ながら亡くなってしまい、自分の孫の幸教に継がせた。
幸貫もなんとか真田の血統を残そうと努力したがダメだった。
274日本@名無史さん:2012/07/30(月) 12:13:30.67
275日本@名無史さん:2012/08/13(月) 23:55:13.70
276日本@名無史さん:2012/08/27(月) 23:25:01.25
信就系は信之の血は残ってる?
277日本@名無史さん:2012/09/01(土) 07:05:31.72
語りつくされているが、信之、信繁とも男系の血筋は絶えている。
と言うか、幸隆の男系の血筋は、信綱、昌輝(越前真田家)、昌幸(真田伯爵家)、信尹(旗本真田家)、金井高勝とも絶えている。
幸隆の弟である矢沢家、常田家の系統も男系は絶えている。
信之の女系の系統なら、高家武田家が郡山藩柳沢家経由で現在も血を受け継いでいる。
278日本@名無史さん:2012/09/21(金) 14:22:01.42
そうでもない
279日本@名無史さん:2012/10/09(火) 22:36:10.37
今の松代の御当主は慶応理工学部の電子工学の教授じゃなかったか
慶応での恩師の教授も旧真田藩士の子孫だったんだよな
周囲に明かしてなかったのに学部4年生の研究室配属での志望者の面接で
真田っていう名前の学生が出現したから「まさか旧主筋の縁者?」とびびりながら
身元を聞いたら「当主です」って言われて平伏しそうになった、という有名な逸話が
あるよなww
指導してる最中も郷里の旧藩士の集会で守り役状態だったからすげー気が重かった
って話が数年前の朝日新聞夕刊コラムだかに出てたはず
280日本@名無史さん:2012/10/11(木) 10:51:58.46
ネットで「真田幸村」「信州真田」を名乗る中年コスプレーヤー
よしお(群馬県沼田市・43才)中古下着集めが発覚し話題に
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1298778555/
281日本@名無史さん:2012/11/22(木) 05:21:55.11
>>279

2009年、朝日新聞

87年4月。慶応大学理工学部で数学を教えている教授の前島信は、新入生の名簿を見ていて、ヤバイと感じた。
「真田幸俊」という名前の学生がいたからだ。
前島は東京育ちだが、先祖は「六文銭」の旗印で有名な信州の真田家に戦国時代から仕えた名門の家柄だ。

授業の後、「君、真田家と関係があるの?」と尋ねた。「14代当主です」と言われ、思わず「すいません」と口走ってしまった。

「もうハハーッて感じで。すぐに思ったのは、まさか悪い成績を『殿』につけるわけにはいかないんで、この子、本当に出来てくれるといいな、と」

幸いなことに成績は優秀で、現在、同じ学部の電子工学科で教える准教授になっている。

その真田幸俊が旧松代藩10万石、真田家の家督を継いだのは、父が亡くなった14歳の時だった。
翌年が善光寺の、数えで7年に1度の御開帳の年。回向柱の奉納は藩政時代から松代藩が行う伝統の儀式で、裃姿で出席し、挨拶状を読み上げた。
完璧にやらなければ、との思いから、緊張で声が震えた。

後日、菩提寺の住職から言われた。「失敗しても、お殿様はいいんです。その代わり、堂々としていて下さい」
なるほど、と合点がいき、以来、気が楽になった。

幸俊は大学生の頃から、毎年、秋の「松代真田まつり」に駆けつけ、有名な幸村の兄で藩祖の信之(信幸)役の騎馬姿で練り歩く。カナダに留学中も、このために帰国したほどだ。
長男が生まれた時、地元に報告すると、大喜びだった。次男の時は「これで真田家は安泰だ」と言われた。

恋愛結婚した妻の綾子は肩の荷がおりたとホッとしたが、幸俊が頭を悩ませたのは息子たちの名前だ。
「『幸』の下の字が、もう大変。先祖の名前になく、姓名判断でいい画数の漢字となると、残り僅か。息子の代では付ける漢字が殆どないはず」
282日本@名無史さん:2012/11/22(木) 08:21:50.83
いまでも、旧藩主家の当主と旧藩士の子孫の間には、そういう明治時代みたいな感情があるんだな。
283日本@名無史さん:2012/11/23(金) 00:12:42.52
信幸ではなく、幸貫の末裔だろ
284日本@名無史さん:2012/12/31(月) 08:49:04.91
.
285日本@名無史さん:2013/01/20(日) 12:48:52.62
>>283
伊達政宗の末裔だな

伊達政宗(仙台藩初代)
伊達忠宗(仙台藩2代)
伊達綱宗(仙台藩3代)
伊達宗贇(宇和島藩3代)
伊達村年(宇和島藩4代)
伊達村候(宇和島藩5代)
山口直清(旗本)
山口直勝(旗本)
伊達宗城(宇和島藩8代)
真田幸民(松代藩10代)
真田幸正(伯爵)
真田幸治(伯爵)
真田幸長
真田幸俊

真田家と宇和島藩伊達家は、宇和島藩2代伊達宗利の娘・豊姫が、松代藩3代真田幸道の正室として嫁いでおり、江戸時代初期よりお付き合いがあった様子。
豊姫は輿入れする際、故郷を偲ぶ品として杏の種を持ち込み、松代藩も杏仁は咳止めの効果があるとして栽培を奨励。後には地域の特産となり藩の専売となっている。
旧松代藩内の森地区(千曲市森)は現在も日本一のあんずの里として有名で、市の農業、観光を支えている。
このあんずが取り持つ縁で、旧更埴市(千曲市)と宇和島市は姉妹都市となっている。
松代には、この豊姫の関係?の末裔か「伊豫田」姓の人が結構いる。
286日本@名無史さん:2013/01/20(日) 13:19:25.01
松代藩と伊予国だと
松代藩4代真田信弘の正室が伊予西条藩松平頼純の娘が正室として嫁いでいるので、伊豫田姓はこちらの関係かもしれない。
頼純は紀州藩初代徳川頼宣の子である。
頼宣は信之を尊敬しており、信之を紀州邸に招いては熱心に武辺話しを聞いたり、自分の子の具足親になってもらったという逸話が残っているが、
ひょっとしたら頼純の具足親が信之であり、その縁で真田家に娘を嫁がせたのかもしれない。
松代藩8代の真田幸貫は徳川吉宗の男系子孫であり、真田家は紀州系とも関わりが深かったものと思われる。

信之を尊敬していたというと、磐城平藩初代内藤忠興も信之を尊敬しており、
真田家と縁組したいとの事で、信之の二男で松代藩2代信政の娘を自分の二男で湯長谷藩初代遠山政亮の正室に迎えている。
信政が亡くなり、後継を巡って遠戚大名を巻き込んだお家騒動となるなか、忠興は信之が推す幸道を支持する立場に回る。
90歳を超えた信之が後見となる事を条件に幸道の松代藩相続が認められるが、まもなく信之も亡くなってしまい、忠興が幸道の後見となっている。
287日本@名無史さん:2013/01/24(木) 03:24:53.98
>>279
そういう逸話を聞くと虫酸が走る
288日本@名無史さん:2013/02/11(月) 00:46:29.87
真田信之と血の繋がった子孫はいるの?
289日本@名無史さん:2013/02/11(月) 01:16:19.47
>>281
前島氏は上田、松代を通じて代々真田家に仕えた家臣。一族の中には、真田昌幸・信繁(幸村)父子にお供して
和歌山県の九度山に移った人々もいたと伝えられます。
ttp://www.sanadahoumotsukan.com/facilities/facility.php?n=10
290日本@名無史さん:2013/02/11(月) 01:32:09.25
>>281
先祖と同じ名前でもいいんじゃねー
291日本@名無史さん:2013/02/11(月) 02:11:54.81
>>290
伊達政宗みたいなものか。
292日本@名無史さん:2013/02/13(水) 03:49:42.85
293日本@名無史さん:2013/03/17(日) 01:18:08.44
親戚に真田家臣の家が多いのだが、ただ江戸期というよりも江戸初期において
真田家の家臣で松代移封には付いて行かず帰農した。郷土史によると身分的には
給人らしいのですが上田藩時代は城下町集住は進んでいない感じなのかな?

 結構な数の親戚がそういった家系なので惜しいというか残念というか
294日本@名無史さん:2013/03/28(木) 20:55:43.02
大村隆子
伊東宏子
竹内輯子
295日本@名無史さん:2013/04/08(月) 13:53:15.56
  
296日本@名無史さん:2013/05/25(土) 02:49:54.95
  
297日本@名無史さん:2013/05/25(土) 16:45:36.32
信濃國松代藩主・真田伊豆守幸貫は遠江國浜松藩主・水野越前守忠邦によって、帝鑑間席から召し出され、
奏者番や寺社奉行といった業務経験がないのにも関わらず、ただちに老中に抜擢をされ、官位も従四位下侍従、信濃守に昇格、
併せて松平の姓を許され、松平信濃守幸貫と名乗り、御用部屋に入った。
298まちゃ:2013/05/26(日) 19:25:02.30
真田十勇士かっこいい。霧隠才蔵がすき。
299日本@名無史さん:2013/06/04(火) 11:55:58.42
霧隠才蔵ってアオレンジャーだよな
300日本@名無史さん:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。
真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。
信玄政権から勝頼政権への移行で、
構造改革があって引退してるんじゃないか?
長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、
秋山のことは引き寄せてから今日、
磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。

実際、長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、
信綱は登場しないし、
山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど。

天正元年7/30の時点では、
武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、
天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。
よって信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。
301日本@名無史さん:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN
信綱に跡取りにできる息子がいなかったからこその対応なんじゃないの?
302日本@名無史さん:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN
楠幸村について語りましょう。
303日本@名無史さん:2013/09/01(日) 18:25:34.99
六連銭には銭がくっついているのと離れているのがあって
真田氏と海野氏が使い分けていたというのは本当?
本当なら離れているのとくっついてるのどっちが真田?
304日本@名無史さん:2013/10/03(木) 15:07:52.55
.
305日本@名無史さん:2013/10/05(土) 21:57:41.72
歴女1000人に聞く 訪ねたい城下町ランキング

1位 京都
「平安京」など古都のイメージが強い京都は「城下町として発展した地域もある」。
伏見は大阪や近江と陸路や水路でつながる要衝で、豊臣秀吉が伏見城を築き商業が栄えた。
「伏見の酒」が発展したのもこのころで、今も酒蔵が立ち並び往時をしのぶことができる。
坂本龍馬ゆかりの旅館「寺田屋」など幕末の名所は女性ファンでにぎわう。
世界遺産の二条城は徳川家が建造したものだが、以前には場所は違うものの織田信長の二条城などがあった。

2位 姫路 白鷺城眺めて散策 

3位 金沢 戦災免れた武家屋敷 
前田家の加賀百万石の城下町として栄えた。
茶屋街も、日本3名園の一つの兼六園と並び、女性の観光客に人気だ。
金箔や加賀友禅などの伝統工芸も多く、資料館巡りも楽しめる。
306日本@名無史さん:2013/10/29(火) 21:26:01.73
最近、ふと気になるのが、千姫の再婚にあたり、真田は何もしていないこと何だよね。
少し前に読んだ福田千鶴氏著書「江の生涯」に、大名正室の仕事に祝事の際の贈答の手配があるとあったから、
千姫の再婚に真田が何もしないのは、不自然だと思う。
307日本@名無史さん:2013/12/16(月) 20:54:58.63
幸隆

昌幸

信之(松代藩初代)

信政(松代藩2代)

信就(旗本。真田勘解由家初代)

信弘(松代藩4代。旗本真田信親養子→松代藩3代幸道養子)

貞徳院(大和郡山藩2代藩主柳沢信鴻継室)

柳沢保光(大和郡山藩3代藩主)

女(外山光施室)

外山八千代(竹内治則室→島津久光養女)

島津(竹内)輯子(松代藩10代藩主真田幸民継室)

幸正(伯爵)

幸治(伯爵)

幸長

幸俊(現当主)
308日本@名無史さん:2013/12/27(金) 00:38:44.56
残念ながら幸正伯の母は竹内氏ではなく最初の夫人大村氏です
竹内氏の子供は末っ子の清棲伯のみであとは全員大村氏の子供です
309日本@名無史さん:2014/01/13(月) 16:24:07.14
 
310日本@名無史さん:2014/01/14(火) 21:42:39.16
大阪夏の陣で家康を討死させた真田
311日本@名無史さん:2014/03/04(火) 01:26:56.53
私の母親なんですが旧姓が真田なんです
詳しく書くと特定されちゃうのでザックリで済まんが出身は山形県の某市
それで本家の墓なんですが家紋が六文銭なんですわ
周りの墓も結構な割合で六文銭が見られるんですが
やっぱり夏の陣の残党が逃げ帰ってきて定住したのですかね?
312日本@名無史さん:2014/03/04(火) 18:19:45.78
山形県なら羽黒山の山伏となった幸隆の庶子の清鏡か幸村の庶子の宥清に関係があるかも

ttp://hirasan.canada2194.com/yamagatameisyo2.html

鎌倉時代にも真田家久という人物が羽黒山にいたらしいので、そっちかもしれないね
家久と戦国真田氏の関係については不明
313日本@名無史さん:2014/03/04(火) 18:45:11.19
江戸時代、松代藩の藩政は厳しく、圧政から一揆が頻発
一揆首謀者は打ち首
また、重税軽減を松代藩に願い出れば、その首謀者も磔
また幕府に訴え出れば、松代藩が叱りを受けるため、その首謀者のみならず
その村ごと焼き討ち、親類縁者皆殺しと相成った
松代城焼失は、そんな村人の恨みを買っての事と思われる
314日本@名無史さん:2014/03/31(月) 12:52:45.69
沼田藩の圧政は酷かったらしいな
315日本@名無史さん:2014/03/31(月) 12:55:18.29
なんか裏がありそうな感じだな
ほんと江戸時代って謎が多い
316日本@名無史さん:2014/03/31(月) 13:00:41.06
313
石高で家格がきまってたからだろ
表高と裏高なんて水戸藩あたりもやってる
一揆は多いよ
317日本@名無史さん:2014/03/31(月) 13:08:01.47
裏高低いのに表高が高ければその分、普請や出費は多くなるからな
重税になるの当たり前
318日本@名無史さん:2014/06/08(日) 17:02:37.07
水戸藩は八公二民だっけ
319日本@名無史さん:2014/06/08(日) 17:50:20.14
水戸藩は藩政開始時からろくでもない糞藩だよな
旧佐竹家臣の帰農庄屋相手に態度が気に入らないと、庄屋の村を藩兵数百で包囲

怒った佐竹旧家臣の庄屋は村民五百人で武装し、合戦開始

結果四ヶ月にも及ぶ合戦で村民皆殺しにした糞藩

永遠に糞水戸藩を許すな
320日本@名無史さん:2014/06/08(日) 18:40:53.16
村民つっても、そいつら戦時になれば一領具足みたいなもんで
新領主に反抗すれば当然討たれるのは仕方ないんだぞ
321日本@名無史さん:2014/06/08(日) 18:50:05.75
だけらって態度気に入らないだけで五百人も皆殺しなんて糞すぎる
322日本@名無史さん:2014/06/08(日) 19:04:56.48
>>319
それ俗説な

瀬谷義彦著 『茨城の史話』 「生瀬の乱を考える――有力な慶長七年説」

・だがここで『大子町史』に結集された益子公朋氏の慶長七年説に注目する必要がある。 それは長い間大子地方を含む水戸藩北郡の郡吏として、領民とじかに接していた加藤寛斎の前記の
『常陸国北郡里程間数記』の慶長七年説と、事件後藩命によって小生瀬村の再興のため大子村から移住した旧家大藤家の分家に残る書き上げの慶長七年説とを、地元の伝承を忠実に伝えているものとして評価し、
慶長七年十月を強く主張するものである。その事件の内容を要約すると次のようになる。

 慶長七年佐竹氏の秋田転封後(中略)。そこで家康の命で佐竹転封後の慶長七年六月、常陸地方を治めるため水戸に派遣されていた重臣の一人芦沢信重(伊賀守)が、一隊を率いて生瀬地方に来り、村民を皆殺しにした。
その時村民が逃げこんだ場所が地獄沢といわれ、今日でも正式な地名として残っている、というのである。

 そこで益子氏は、佐竹義宣が転封を命ぜられた時、国元の家老に夏年貢の取立てを指示した書状があることをあげて、前の手代というのが佐竹氏の配下で、後から督促に来たのが、交代した領主側の役人であったとしたならば、
この騒動は慶長七年の領主交代の混乱に伴う偶発事件とも考えられ、地元の伝承とも一致するとされる。実に耳を傾けるべき説明であるが、交代した新領主というのは、当然武田信吉ということになるが、
武田が正式に水戸城主となったのは、慶長七年十一月であるから、村民皆殺しという事件が起こった十月には、まだ正式に水戸城主はいなかったわけである。この時期の旧佐竹領は、一時的ではあったが、幕府の
直轄支配地だったわけで、それを治めるために派遣されたのが、芦沢らだったことになる。
323日本@名無史さん:2014/06/08(日) 19:05:27.77
 この領主交代に至るまでの、城主不在の空白時には、すでに述べたことではあるが、七月下旬の家臣車丹波らによる水戸城奪回の計画があり、十月には車らが水戸で処刑されるという、大きな事件があった。
生瀬の乱はこうした時に起こったということになると、まず佐竹領接収のため家康から派遣されて、水戸、太田などを中心として各地の治安維持にあたった重臣大久保忠隣、本多正信の連名で六月に出された
条例を思い出さざるを得ない。それによると、佐竹の家臣の中には、禁令にもかかわらず、農民に期限もこないのに年貢を催促したり、どさくさにまぎれて、種々の乱暴を働き、勝手に農民を斬ったりして監視の眼のとどかない
山林を盗伐する者も出たという(『水戸市史』上巻)。

 一方佐竹の領国引渡しが進み、七月中旬に大体終わった直後、例の車丹波の一揆である。このように生瀬乱前の情勢を概観すると、旧佐竹領内農村では、不測の事件が起こってもおかしくない情勢だったことが分かる。
かくて生瀬乱の慶長七年十月説は、他の諸説とくらべて、最も有力なものとなる。私も以前の主張の不十分だった点を反省して、慶長七年説をとることに躊躇しない
324日本@名無史さん:2014/06/08(日) 20:09:01.49
という説だろ
元々佐竹家臣が佐竹治世時にそのような失態があるならまだしも、
ない。さらには生瀬村を皆殺しにしたのはまぎれもなく水戸藩ではある

どう考えても権力しゃか書き換えたもんでしゅ
325日本@名無史さん:2014/06/08(日) 22:17:52.42
>>324
おまえ上の記事全く読んでないだろ。せめてちゃんと読めよ
326日本@名無史さん:2014/06/09(月) 13:39:24.37
佐竹氏も支配に従わない
常陸平氏諸豪ぶち殺してるし

小生瀬村一揆の実情も似たようなもんだろ
よくある事件さ
327日本@名無史さん:2014/06/09(月) 13:47:53.78
平氏の話か〜
328日本@名無史さん:2014/07/07(月) 21:44:49.85
>>326
やらなかったら改易されるもんな。最上が改易されたのも
強い力を持った重臣が大勢いたからだし。
329日本@名無史さん:2014/11/08(土) 08:25:02.89
昌幸と幸村ってどっちの方がすごいの?
330日本@名無史さん:2014/11/30(日) 09:55:04.41
>>469
浅野幸長は秀次事件で能登に配流され、豊臣家を見限っている。
豊臣秀頼に関しては、憎しみこそあれ同調する理由は一片もない。

だから、姫路に置いた池田輝政と同様、豊臣秀頼への嫌がらせとして紀州に置いた。
331330:2014/11/30(日) 09:56:52.45
すいません、誤爆です。
332日本@名無史さん:2014/11/30(日) 12:01:58.80
>>329
幸村(信繁)は大坂の陣の一発屋だろ
333日本@名無史さん:2015/01/15(木) 23:30:16.87
本多忠勝愛用の名槍・蜻蛉切が11年ぶり展示 佐野美術館で2月15日まで
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150111-00000007-it_nlab-cul
334日本@名無史さん:2015/01/16(金) 13:35:48.93
来年は信繁ってだれ?の嵐だろうな。
335日本@名無史さん:2015/01/21(水) 10:09:58.70
大河ドラマで「信繁」使用とは
336日本@名無史さん
典厩だよね