【初心者】スレッド立てる前に質問をPart29【歓迎】
1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 22:28:38.66
BS−TBSで放送中の河井継之助、ソースは全部司馬か?
TV局は何時まで童門冬二なんかを使い続けるんだろうか…
>BS−TBS
ガトリング最強!キター
昔の人の命名に興味をもったんですが
武士、武将はほとんど秀勝とか直政みたいな漢字二文字系ですよね?
一方で◯右衛門とか◯兵衛のような名前もあります。
身分やら何やらで名付けのセオリー、流行り廃りがあったと思うのでそういうのを知りたいです。
日本人の名前がどうやって形作られていったのか、良い本などあったら教えて下さい。
5 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 18:35:16.85
例えば源判官義経の場合、「源」は姓で「判官」は官位、「義経」は諱(いみな)となる。
諱は日常的には使われない。普通は官位が有れば官位で呼ぶ。官位が無い場合は仮名で呼ぶ。
仮名には幾つかの種類が有る。太郎、二郎のように順番を示すのは排行名。義経は官位を貰う以前は
源九郎義経と名乗った。仮名には他に受領名(ずりょうめい)、東百官(あずまひゃっかん)などがあるが
説明は省くのでググれ。
ちなみに武田信玄の場合、武田は苗字で姓は源となる。信玄は出家後の法名。
[古代]
大和時代の神名や貴人の名には、美称や尊称が付されるのが常であった。
例えば、天鈿女(あめのうずめ)命の〈天〉は美称、〈命〉は尊称であって、実名は鈿女である。
天国排開広庭天皇(あめのくにおしはらきひろにわのすめらみこと)(欽明天皇)のうち、〈天〉は美称、〈国排開〉は威力を示す尊称、〈天皇〉は尊号であって実名は〈広庭〉である。
これは奈良時代の高官であった中納言阿倍朝臣広庭と同名である。
大和時代の人名は男女とも複雑で無定則的であるけれども、接尾語として彦(ひこ)、比売(ひめ)(姫、媛、比黄)、郎子(いらつこ)、郎女(いらつめ)、足(たり)、比登(ひと)、女(め)、
戸弁(とべ)、麻呂、雄(お)(男)、子(男女ともに)、君(男女ともに)等が名に付される例が多かった。
複雑、無定則的であるから後代に姿を消した名が少なくない。
奈良時代になると前代の名にみられた著しい多様性や無定則性はしだいに影をひそめ平明化した。
男性名では接尾語の麻呂が優位を占め、郎子、彦、子(男性名としての)などは消え、または廃れた。
麻呂を接尾語にもたない名の場合、2字の名(例えば、家守、広足、牛養(うしかい)、川継、継縄(つぎただ)、等々)が優勢となった。
比登は人と記され、二文字名の一つに用いられた(例えば、旅人、東人(あずまびと)、国人、祖(おや)人、等々)。
男(雄)もわずかにみられるが(勝雄、諸男、刷雄など)、これに対応する女性用の接尾語の女(売)(め)が圧倒的優位を保つのに対して劣勢となった。
こうして〈女(め)〉は〈麻呂〉と対応関係を結ぶに至った。
奈良時代の女性名では、戸弁、姫、君は消失し、接尾語は〈女〉に統一される形勢となった。
また郎女の語は劣勢となり、奈良時代の末には影をひそめたが、他方〈子〉字が女性名用の接尾語に採用される気運が生じた(宮子、弟兄子(おとえこ)、若子、等々)。
平安時代になると男性名の大部分は2字で構成されるに至った。
麻呂は丸(まろ)に変わり上流社会では幼名に用いられ庶民の間では男性に多い名となった。
嵯峨天皇は、賜姓源氏の皇子に融(とおる)、信(まこと)、弘(ひろむ)、常(ときわ)、寛(ひろし)のような一文字の名を与えたが
男性の一文字の名は嵯峨源氏や仁明源氏の伝統となった。
また同天皇は、親王や内親王の名に乳母の氏の名を採る慣例をやめ、親王には2個の佳字(秀良(ひでよし)、忠良のような)を、内親王には×子型を賜った。
また賜姓源氏の皇女を×姫と名づけた(潔(きよ)姫、全(また)姫、盈(みつ)姫など)。
復興された×姫型の名は、さほど影響を及ぼさなかったが、×子型の名の方は、上昇気運にあった子型の女性名の流行に拍車を加えた。
ただ庶民の間では、女型の女性名が依然として圧倒的であった。
平安時代中・後期の上流社会では、男性は幼名(童名)を帯び、元服に際して2字の実名(諱,名乗)をつけるのが恒例となった。
紀貫之の幼名が阿古久曾であったことは知られているが、これはわざと汚い文字を用いた辟邪(へきじや)的な幼名である。
このころから男性には,通称(呼名)がつけられた。
元来これは、実名敬避の習俗を背景としているが、太郎、次郎、三郎など排行(はいこう)(年齢順の数による称呼)が古い型式の通称であった。
平清盛の通称の〈平太〉は、平氏に生まれた一男の意味である。
庶民は、2字の諱をもたず、幼名または通称だけで呼ばれることが多かった。
武士などは、住地(荘園)を家名とし、家名と通称で呼ばれ、氏名と諱とは公式の場合に用いられた(熊谷次郎→平直実)。
公式には、氏名+諱が、略式には家名+通称が呼ばれ、家名+諱は1871年(明治4)まで違法であった
(例えば略式は西郷吉之助、公式には平朝臣隆盛となり、西郷隆盛は、1872年以後の戸籍名である)。
女性の諱は、×子型に統一されたが、これは裳着、宮仕え、叙位に際して命名されるのが常であった。
女性の通称には、大い君、中の君、三の君(庶民の場合は、姉子、中(なかんの)子、三(さんの)子)があり、また×氏女(うじのによ)が広く用いられた。
平安時代後期には、千寿女、万寿女のような佳名型の通称(時によっては実名)が多くみられたが、後代のセン、マンといった名はそれらに由来している。
[中・近世]
鎌倉時代から南北朝時代にかけて上流社会の男性は、公家、武家とも、氏名+諱を公式の名とし、家名+通称を日常の名とした。
通称には、排行名のほか百官名(幸嶋左衛門尉、難波刑部縁、朝山右馬大夫、足利木工助(もくのすけ)、新田大炊助のような)が盛んに用いられた。
上流社会の女性名は、公式には子型の諱であったが、日常生活ではもっぱら通称が用いられた。
叙位、任官の場合を別とすれば、普通には通称が用いられ、通称の本名化がみられた。
鎌倉時代には、仏教的な通称(薬師女、千手女、如来女、拘沙(ひさ)女、金梼羅女、伊王女、夜沙(やさ)女、袈裟(けさ)女、等々)も数多くみられた。
室町時代の男性名には、さほど大きな変化はなかったが、排行名・百官名が複合したり、他の文字が加わったりして通称は複雑化した。
排行名も、本来の源一郎、橘三、藤三郎等から変化した藤(藤原)吉(橘)郎、吉蔵、弥太郎、三郎兵衛、右衛門太郎のような名が普及した。
百官名では、四等官部を落とした左衛門、右兵衛などのほか、大学、隼人(はやと)、刑部(ぎようぶ)、主税(ちから)、弾正(だんじよう)、采女(うねめ)のような通称もみられた。
上流社会における子型の諱は変わらなかったが、通称の方は、阿茶(あちや)、阿茶々、伊茶、ちやち、あこゝ等の新しい名の導入によって幾分面目を改めた。
貴族庶民の別なく、通称には女字の脱落と仮名書き化が相当進んだ(とら、かめ、わか、いちの類)。
しかし一方では、千代女、若鶴女といった旧型式の名もみられた。
女性名の接頭詞としての〈お〉は、軽い敬称ないし愛称として南北朝時代に始まるが、室町時代において漸増した(御ふく女、お今、おあちや、等々)。
安土桃山時代には女字の脱落と仮名書き化が激しい勢いで進行した。
豊臣秀吉の正妻は木下ねねであって、〈ね〉または〈ねい〉ではない。
〈ねね〉という名は、鎌倉時代前期に早くもみられるが、この時分には珍しくない名となっていた。
〈ね〉や〈ねい〉という女性名は、この時代の文献には検出されないが、〈ねね〉とその妹の〈やや〉とは、そのころにはありふれた女性名であった。
しかしそれでは叙位の対象にならないから、彼女は公式の名を平朝臣寧子と定め、その名で従一位に叙されたのであった。
江戸時代の庶民の女性名は、ほとんど仮名書きであり、大部分が2文字である(はつ、せん、せい、かめ、とら等々)。
これらはしばしば接頭語の〈御〉をつけて呼ばれた。
現在、各地に残るおびただしい宗門人別改帳によって江戸時代の女性名は無数に知ることができる。
室町時代から江戸時代にかけて庶民は家名を失い名だけで呼ばれた。
江戸時代において商人の場合には、屋号を名の上に冠したが(越後屋八郎右衛門、俵屋藤兵衛のように)家名を称するには許可が必要であった。
徳川三百年の泰平にあって文運が隆昌するにつれて諱や通称のほかに多種多様な異名が用いられた。
遊女の源氏名などは、さまざまな《吉原細見》などから多数知ることができる。
中世の文書を読み下したいのですが、全然読み下せません。
読み下し方が学べる本があれば教えてほしいです。
ちなみに文書に関しては釈文になっているので、漢字自体はわかります。
12 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 16:41:55.15
戦国時代の敵の武将同士は普通に言葉が通じたんですか?(つまりお国なまりの関係で)。
そして成り上がりの戦国大名は御所で公卿と会話できたんですか?(つまり御所言葉がしゃべれないと何かと不都合じゃなかったのか)
それから江戸時代の各地の上級武士はお国なまりを使っていたのですか?それとも「上級武士言葉」みたいなのがあったんですか?
質問が多くなりましたが日本史に不慣れなものですのでお許し下さい。
>>12 信長、秀吉の天下統一戦よりも前は、敵対する武将なんてたいてい隣国同士
多少聞きづらくてもだいたい隣国程度の方言は通じたでしょ
信長、秀吉の頃になって、畿内の武将が九州とかに行ったりするとさすがに、方言の違いが厳しくなって、
すんなり会話できなかったりしたとは思う
ただ、地方の大名でも、畿内の商人と接する機会はよくあったろうから、地方の大名の言葉を畿内の者が
わからないことは多くても、その逆は比較的少なかったのではないかと思う
御所言葉は、明智光秀みたいに教養のある武将でないと厳しい
だから信長は、一時期、光秀を京都の担当にした
逆にあえて、そんなのわからない成り上がりの秀吉を光秀と組ませて京に置いたのが信長の人事の妙
公家との友好的な付き合いは光秀に任せて、公家側からの都合の悪い申し立てなどに対しては、秀吉が
「あー、おまえらの言うとることはさっぱりわからん、こっちがこうせい、と言うておるのだからそれに従えば
ええんじゃ!」と開き直った対応をする担当だったのではないかと想像できる
江戸期には参勤交代があったので、江戸に参府する武士たちの共通語として、現代の標準語に近いものが
形成された
ただし、あくまで江戸での標準語で、お国では当然、地元の言葉を使った
14 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 17:22:14.34
15 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 22:17:42.83
大河とかで、織田とか羽柴は訛ってたりするけど、
伊達とか最上とか佐竹は訛ってないな
今川なんかおじゃってるのに
質問です、
日蓮は日蓮宗の布教に当たり、三災七難を上げて、日蓮宗を信じなければまだ起こっていない他国侵逼の難・自界叛逆の難も起きると言って改宗を促しましたが、
実際のところ日本が上から下まで日蓮宗に改宗したところでその二難は防げたのでしょうか──『防げた』と日蓮宗信者の方々は主張しているのでしょうか?
いくら日本人が金科玉条のごとく「南無妙法蓮華経」と唱え続けたところで、内乱はまだしも外国からの侵略を防げるとは思えないのですが……。
17 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 15:19:25.58
ものすごく初歩的な質問なんですが、天皇家の先祖は大陸系の騎馬民族と考えてよろしいんでしょうか。
>>17 そのように主張する学者もいる
が、皇室や古い神社などの古くからの儀式やしきたりなどには農耕民族的なものが多く、遊牧民族的な
風習(たとえば動物を生贄に捧げたりする儀式など)はほとんど伝わっていないことや、馬具の出土が
乏しいことなどから、ほとんどの学者からは支持されていない
19 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 20:21:44.75
20 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 21:12:43.42
何で北条時宗亡き後の鎌倉幕府執権はマイナーな人間がコロコロ入れ替わったの?
有名なのは貞時と高時くらいじゃん
21 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 21:22:31.35
日蓮宗を信じなければではなく「法華経を用いなければ」です。
日蓮在世に日蓮自体は天台沙門、法華経の行者と名乗ってました。
日蓮宗の宗名は日蓮滅後に付けられた名です。
鎌倉時代当時は日蓮以外の人々も神仏によるご利益を心底信じている
時代なので神仏により外敵退散の奇跡を信じていたと思います。(例、元寇の神風)
現実的にも神仏のご加護を信じ蒙古相手にゲリラ戦をやったので。
でも確かに法華経の国教しても蒙古来襲はあったでしょうね?その時は
「法難」として指導していたかも知れませんね?
もっとも現代においても国立戒壇を建てなければ日本が滅ぶなど時代錯誤主張
している顕何とか会などありますが。
>>20 得宗家の家督に権力が集中して、執権はお飾りのポストになったから、
北条一門の有力な家系の人がたらいまわしで就任するようになった。
>>10 > 江戸時代の庶民の女性名は、ほとんど仮名書きであり、大部分が2文字である(はつ、せん、せい、かめ、とら等々)。
> これらはしばしば接頭語の〈御〉をつけて呼ばれた。
>
なるほどなるほど
24 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 19:54:11.74
>>20 北条家は得宗と呼ばれた嫡流が執権を優先世襲したが
短命の得宗が多く(毒殺された者が多かったと推測される)
新たな得宗が幼少の場合傍系が執権に就任して得宗が成人するまでの「中継ぎ」となった
短期間で得宗に執権を譲る傍系中継ぎ執権が多かった
25 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 22:44:37.25
古代はともかく、日本には剣なんて普及してなかったのに、
どうして剣術・剣道なんですか?
なぜ刀術・刀道ではないの?
26 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 23:58:39.27
>>25 中国では刀(片刃)と剣(両刃)が明確に区別され、それぞれ「刀術」と「剣術」という言葉がありますが、
日本ではこれが混ざってしまい、片刃の日本刀を使って行う武術を「剣術(剣道)」という風習が広まったようです。
剣術(剣道)の流派には北辰一刀流、心形刀流のように刀の文字がつかわれると言った混同が起こっています。
27 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 10:09:38.37
江戸時代以前の法律・法令・条約(日本絡み限定)で現在も有効なものってある?
連帯保証人制度
>>26 つまりは、昔の人はおおらかというとアバウトだったんですね。
しかしなぜか「剣は武士の魂」とか「二剣流」とは言わないな。
剣の道を究めるとは言うけど、刀の道を究めるとは言わないし。
どこが違うんだろう?なにか心の琴線に引っかかるものが有るのか?
2行目以後は単なる感想です。
31 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 11:02:52.55
義経が最初に奥州に行ったとき、
秀衡はどうして本物だと確信できたの?
32 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 12:27:46.81
>>31 常盤の母の再婚相手である一条長成のいとこに藤原基成という人物がおり
基成は娘を奥州藤原氏初代藤原秀衡に嫁がせていた。
義経が奥州へ逃げたのは藤原基成の口添えだったと言われている。
少し遠いが、奥州藤原氏と親戚だった。
>常盤の母の再婚相手
訂正
常盤の再婚相手
34 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 14:16:45.71
何故、今の天皇陛下には軍隊の階級がないのですか?
wikipediaによると昭和天皇の意向ということですが
これは事実上、昭和天皇が終戦を意思を表したとも考えられますが
なぜなんでしょうか?
35 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 14:18:02.97
軍隊の階級という表現がおかしかったですね
なぜ軍歴がないのですか
軍隊がないから
37 :
日本@名無史さん:2012/07/05(木) 17:50:25.13
>>34 当時皇族は10歳になると軍職に就く定めになっており
昭和天皇は学習院初等科時代にこれについていた
ただし10歳で実戦に出れるはずもなくあくまでも名目上の軍職
当時の皇太子明仁親王(現在の天皇)が満10歳になったのは昭和18年12月
すでに太平洋戦争は過激さを極め児童が名目上の軍職に就く時代ではないという判断らしい
この時点で昭和天皇が終戦を望んでいたかは不明
ミミズ文字的に宗と上を誤字ってあり得ますか?
39 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 09:27:18.71
TVや本を見ていて疑問に思ったのですが、
藤原氏は、平安時代までは藤原不比等、藤原道長と呼ばれているのに、
鎌倉時代以降になると鷹司、九条と苗字が変わるのはなぜでしょうか?
40 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 09:55:53.08
>>39 「藤原」は姓です。
鷹司や九条も姓は「藤原」で、公式文書にはすべて藤原で署名します。
鎌倉時代頃から嫁入り婚となり邸が父から息子へ伝領されることになり、
同族が代々同じ邸に住むようになったことから、
代々鷹司邸に住む藤原氏を「鷹司」代々九条邸に住む藤原氏を「九条」と呼ぶようになりました。
尚、鷹司や九条は「苗字」であり、「姓」はあくまでも藤原ということになります。
苗字じゃないよ
42 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 13:30:46.22
名字だよ?
藤原、橘、源、平(後に、これらに加えて豊臣)は、朝廷が与えた「姓」
藤原氏や源氏は、一族が増えて、各地に家を立てて移り住んでいたので、時代が下ると同姓の家が多くまぎらわしくなる
現代の我々も、たとえば大阪に住んでる伯父がいるとすれば、「大阪の伯父さん」となどと地名で呼んだりすることがあるが
それと同じように、同姓の一族の中のどの流れかを区別するために、役職や、住んでいる屋敷や、土着した土地などで
呼んだ通称が定着したものが「苗字」(名字)
たとえば、室町幕府の足利家は、源氏なので姓は源、足利荘を領地としていたので苗字は足利
近代では、姓と苗字がごっちゃになり、同じように扱われている
鷹司は家名、足利は名字、源平藤橘は姓だよ
名字と家名って、由来が違うものなの?
全く違います
昔読んだ「漫画日本の歴史」(のあるシリーズ)の話なのですが、「関ヶ原の戦い」について「日本史上初めて、天皇を大義名分としなかった(武士だけによる)戦い」と説明していました。
(むろん、地方大名同士の争いなど小規模な戦いを除いての話だとは思いますが)
しかし、関ヶ原の戦いに天皇を持ち出さなかったというのは何か日本史上で意味のあることなのでしょうか?
ストーリーを作った人が進歩史観にかぶれていただけじゃないかと疑ってしまうのですが……。
応仁の乱も日本を二分する戦いでありながら天皇を担いでなかったはずだが・・・
どういう歴史観でそういう話になったのか不明ですね。
49 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 20:11:23.90
寛文八年に京都禁裏で起きた「禁闕騒動」ないし「女中騒動」というのは、
具体的にはどんな事件だったのですか?
若き公家らの「淫風」「不良」が問題視されたようですが、天皇に仕える女官や側室らと
若い公卿らとの乱交じみた振る舞いがあったのでしょうか?
他のスレで聞いたものの回答を貰えなかったので、こちらでお尋ねします。
なお出典は「徳川実記」寛文八年十月二十五日条その他です。
応仁の乱、一応南朝皇裔を担いだ時期はある。
さほど意味はなかったようだけど。
>>50 応仁の乱では細川勝元が後花園上皇の中立表明の院宣を、無理やり西軍討伐の院宣に読み替えて
利用したりしてる。
関ヶ原のときも後陽成天皇が勅命によって東軍細川幽斎を助けたり
天皇が全く関わってないわけでもないんだよね
53 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 18:43:44.58
武田兵や徳川兵は農民兵だから強兵、織田兵は傭兵や商兵主体だから弱兵だと良く聞く。
農兵は自分の土地を守る為に命懸けだが、傭兵はしょせんは雇われで商兵は土地が無くても命さえあれば食っていけるから簡単に逃げ出す、という説はわからんでもない。
尾張の国は土地が肥え近隣よりも石高が高かったと言われてるから、農業に専念させるため信長は農兵はほとんど使わずに傭兵や商兵を使っていたんかな?
それとも地域性みたいなもん?
54 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 18:54:57.17
>>53 武田やらの農民兵は自分の土地を守るということにかけては命がけだが
領土拡大のため他国へ攻めていくということに関しては了解しにくい
武田が結局それほど大きくなれなかった原因だろうけど
尾張も信長が出るまでは農民兵が主体でした
豊臣秀吉の父は足軽と呼ばれる半農半武の存在だったといいます
しかし、信長が出ると鉄砲を多様。
鉄砲隊は使い方や集団での規則正しい打ち方など日々の訓練が大事で
農作業の合間に徴兵した農民兵ではまにあわず
金で集めた専用部隊を整えるようになったと言います
この専用部隊に金で集められたのが商兵でした
商兵は諸国を放浪して物を売り歩くため、尾張で儲け話があると聞いて集まってきたのでしょう
同じ農民兵でも、文化や商業が進んでいる先進地域だと、比較的弱兵になりがちで
尾張の兵は割と弱兵だった
どうせ弱兵なら傭兵、商人兵でもいいってこともあったし、弱兵でも勝てるようにするために
大量の鉄砲を欲したという面もある
農民兵とかまだ信じてるのか。そんなものはない!
あと兵農分離も戦国期には存在しない!もちろん信長もそんな事はやってない。
と言うか信長の軍制はむしろ遅れた、鎌倉室町と大差ない古いものだ。
史料から見る限り、足軽の兵種別編成など武田のほうがずっと先進的な軍制を行ってる。
信長が最終的に勝利したのは軍役を提供できる武士を大量に確保できたから。それだけだ。
>信長が最終的に勝利したのは軍役を提供できる武士を大量に確保できたから。それだけだ。
それじゃあただの思考停止ではないですか。
なぜ大量に確保できたまで解明しないと、
なんの説明にもなってないですよ。
>>57 端的に言えば信長は自分に帰順すれば国人地侍層の既得権益を丸呑みしたため。
そのため畿内で三好政権がせっかく着手してた惣村の政権による直接把握と支配もご破算にした。
織田政権になって国人地侍層による間接支配に戻るのだ。
信長は反改革で既得権益者を糾合して勢力拡大した武将だよ
59 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 20:04:23.26
織田信長の勢力拡大と彼の死(本能寺の変)に関してイエズス会はどの程度関与しているのですか?
諸説あって定まらないのですか?
>>56 >農民兵とかまだ信じてるのか。そんなものはない!
>あと兵農分離も戦国期には存在しない!
いきなり矛盾してるぞ
兵農分離が存在していないなら、兵は農民兵だろ
>武田兵や徳川兵は農民兵だから強兵、織田兵は傭兵や商兵主体だから弱兵だと良く聞く。
嚆矢は徳富蘇峰かな?国民的作家である司馬氏が吹聴したので日本の作家は皆こう書いているけど作家の主観だからこれ
>農兵は自分の土地を守る為に命懸けだが、傭兵はしょせんは雇われで商兵は土地が無くても命さえあれば食っていけるから簡単に逃げ出すという説はわからんでもない。
使いモノになる農民は農作業に必要なので惣村側がださないので基本的に農兵は役に立たない
後北条氏がブチキレテ役に立たない人間を送り込んだら厳罰云云という文章が残っている
>尾張の国は土地が肥え近隣よりも石高が高かったと言われてるから、農業に専念させるため信長は農兵はほとんど使わずに傭兵や商兵を使っていたんかな?
尾張の国の土地が肥え近隣よりも石高が高くなったのは秀吉時代以降のはなし
戦国時代は今日基準となっている太閤検地の数字の半分以下
>>60 ちがう。農村は人を指してもそれは軍夫、人夫であり兵ではない。
兵になるのは農民ではなく農村であぶれた次男三男などの余剰人口であり、これが足軽となり
侍層によって組織された。これを給人という。
「農民」は村を形成し村の生産を担う中心であり、村はそういう大切な人員を戦国大名に提供したりしない。
そもそも戦国大名の軍隊には(戦国以前からそうだが)、戦力として百姓はいないのだ。
63 :
53:2012/07/12(木) 20:52:10.04
色んなレスどうも。
となると、結局は織田兵が弱兵と言われるのは出自や地域性関係無く豊臣徳川以降の政権の創作って事なのかね?
特に俺が言った事には情報を付けて答えてくれるが、自分の答えらしい事は言ってくれない61中心に再度尋ねたい。
>>62 農村であぶれた者が兵ならば、兵と農は分離していたってことだろ
「兵農分離も戦国期には存在しない!」という主張と矛盾している
65 :
61:2012/07/12(木) 21:04:06.87
>特に俺が言った事には情報を付けて答えてくれるが、自分の答えらしい事は言ってくれない61中心に再度尋ねたい。
君の文量に応じて書いてあげるよ
最近の壷は他人を道具扱いするような奴ばかりでウンザリしているから長文語りはしない
>結局は織田兵が弱兵と言われるのは出自や地域性関係無く豊臣徳川以降の政権の創作って事なのかね?
何故織田が弱兵なの?信長が美濃を取るのに十年かかったから?
それは兵の質にのみ起因する問題なのかな?
>>64 ちがう。戦国の軍隊は軍夫、人夫を農村からの提供に頼っているし、様々な物資の提供、
また城の補修などの軍役も化している。彼らがいなければ軍隊は機能しない。
その意味で戦国の軍隊は農村に頼りきった構造になっている。
軍役、賦役が銭納となり、軍隊を形成するものを全て城下町でまかなえるようになったのは江戸期、徳川家光の時代くらいだ。
いわゆる「兵農分離」は、この時期に起こった現象である。
67 :
53:2012/07/12(木) 21:18:50.09
>>65 説明が足らずに気を悪くしたら申し訳ない。
俺にはあんたに一方的に否定された気がした。
信じて貰えるか知らんけど、俺は世間では弱兵と言われる織田兵を率いた信長が天下に王手をかけたからこそ戦国時代が変わったと思うから聞いたんだ。
68 :
61:2012/07/12(木) 21:38:28.01
いや、まぁ、俺もココ数年はイラついているから。すまん。きちんと会話が可能な質問者なら俺も誠意を示せるよ。
ん〜ちょいと自分語りをすると俺は十年前にはコノ板で信長の革新性を否定していたんだよね
ところが某コテが世界史板で俺の書いていることをコピペしてソノコテ自身の見識であるかのように語りだしたんだ(苦笑
だから最近は信長の革新性を語っちゃおうかなと真に一貫性がなかったりする
世界史教科書的に「パックスOOOOO」という統一政権の出現が商業の発展と軌を一にするという指摘は古くからあり
70年代には織田政権の功として鈴木良一という方が既に述べておられる
後段の信長により戦国時代が変わったという視点に問題はないよ
だけど前段は一寸意味不明
一旦パソコンを切るから続きがあるなら午前零時頃か明日の夜ね
65は正しいことを言っても受け入れてもらえないタイプの人かしら、口調的にいって
70 :
53:2012/07/12(木) 21:56:48.33
とりあえず少しでもわかって貰えたなら良かった。
なんつーか、世間は簡単に信長を否定してるけどそれは豊臣徳川政権以降の宣伝を信じたから否定する人間が多いと思ってたんだ。
それに今までのレスを見ると強兵弱兵ってのは兵の出自では無い、創作だってので終わる答えばっかだったん気がしてね。なら、地域性というか県民性から兵の強弱があるのかと思ってさ。
信長が残虐な暴君という宣伝工作を一番したのは豊臣秀吉なw
72 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 22:36:14.02
74 :
日本@名無史さん:2012/07/12(木) 23:42:07.93
>>71 実際の信長殿は穏やかだったのでしょうか?
76 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 01:37:21.07
寛文八年に京都禁裏で起きた「禁闕騒動」ないし「女中騒動」というのは、
具体的にはどんな事件だったのですか?
若き公家らの「淫風」「不良」が問題視されたようですが、天皇に仕える女官や側室らと
若い公卿らとの乱交じみた振る舞いがあったのでしょうか?
他のスレで聞いたものの回答を貰えなかったので、こちらでお尋ねします。
なお出典は「徳川実記」寛文八年十月二十五日条その他です。
どなたか回答のほど願い居りまする。
>>74 イエズス会陰謀説って立花京子ちゃんでしょ?
あの人まともな研究者からはその著書で「文献がちゃんと読めてない」って名指しで言われるような人だぞw
だいたい備中の秀吉すら通信の問題で本能寺に関わることは不可能だというのにどうやってヨーロッパの
イエズス会がw
まだ「本能寺の黒幕は宇宙人」って言ったほうが納得できるわw
>>75 別に穏やかじゃないが創作物で出てくるようなキチガイじゃない。
社交的でノリの良いおっさん。>信長
>>74 ちょっと考えればわかることだ
イエズス会が信長殺して何の得がある?
戦乱の状況では布教活動も安定して継続できない
キリスト教布教に寛容な信長が日本を統一してくれた方が、当時のイエズス会にははるかにありがたい
現に、織田政権が倒れたおかげで、その後、秀吉、徳川政権はキリスト教禁令の方向に向かってる
仮に光秀が天下を取っていたとしても、保守的な彼がキリスト教に寛容な政策をとるとは思えない
80 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 08:39:40.95
>>71 信長暴君説は明智光秀のせいでしょ
有識故実に詳しく美男だったという光秀(才色兼備ガラシャの父でもある)
が謀反を起こすなんて相当なことがあったに違いない、
信長が大勢の前で光秀を叱責し、人質を殺すような暴君だったからなのよ、という論理
81 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 12:39:27.11
>>59の質問をした者ですが、
>>77>>79なるほど、信長の「死」については解りました。では
>>59のもうひとつの質問である信長の勢力拡大とイエズス会の関係はどうでしょう。
鉄砲を活用するには硝石の寡占的入手が必要になりますが、硝石の寡占的入手とイエズス会(および彼らを窓口とした南蛮勢力)との結びつきが有利だったと思いますが。
>>81 無い。
というかそもそも信長は南蛮勢力と直接接したことがない。
信長にとって南蛮人とは九州から和船に乗り換えてちょっぴりやってくる珍しお客さんにすぎない。
信長とイエズス会のどっちを過大評価してるのか知らんが、そんなものはSFの世界の話だな。
あと硝石貿易のメインは南蛮船じゃなくて中国船な。
しかも政治的に全く統制されてないからわざわざ特定の勢力と結びつく意味が無い。
どのくらいいい加減かといえば秀吉の唐入りの時、明もマカオのスペイン勢力も硝石の日本への禁輸措置を行ったが
日本軍は全く問題なく鉄砲を打ちまくっていた。
国内生産もかなりあったようだが、中国船との闇貿易が秀吉の唐入りを支えたと考えていい。
84 :
日本@名無史さん:2012/07/13(金) 20:48:15.44
なるほど、ありがとう。
闇にまぎれて生きる
86 :
日本@名無史さん:2012/07/19(木) 19:31:02.46
寛文八年に京都禁裏で起きた「禁闕騒動」ないし「女中騒動」というのは、
具体的にはどんな事件だったのですか?
若き公家らの「淫風」「不良」が問題視されたようですが、天皇に仕える女官や側室らと
若い公卿らとの乱交じみた振る舞いがあったのでしょうか?
他のスレで聞いたものの回答を貰えなかったので、こちらでお尋ねします。
なお出典は「徳川実記」寛文八年十月二十五日条その他です。
どなたか回答のほど願い申し上げます。
88 :
日本@名無史さん:2012/07/21(土) 22:55:02.88
>>86 良質問あげ。
ごめん。私は分からないので。
ただ、猪熊事件(天皇の妃が参加した乱交事件)とか、
古くは、とはずがたり(天皇の愛人が天皇が隣の部屋で聞き耳たててる中で他の男と寝る、とか他の男の子供出産とか)とか、
乱交じみたことは数多くあったから「淫風」という記述があるなら乱交があったんでしょう。
私も質問。良質問の後くだらない質問で申し訳ないですが
足利将軍木像梟首事件のあと、将軍の首はどうやって繋げたんでしょうか?
一木造りみたいなものを想像していたのですが、もともと取り外せるような作りになっているのでしょうか?
90 :
日本@名無史さん:2012/07/22(日) 20:52:35.50
>>89 ありがとうございます。
最近等持院に行ったのですが、誰でも簡単に小さいものなら盗めてしまいそうな警備?(というかガラス以外は何も像を守ってない)だったので、大丈夫なのかな?と思っていました。
木像の首はどこから切られたのか、或いは抜かれたのか全く分からなかったので。
現在は手首はあったと思うので、返って来たんでしょうか。元々のものとは違うのかな。
で、ちょっと気付いたのが、足利義詮像が、他の義詮像とはあまり似ていなかったこと。伝藤原光能像とは私の感覚だと全く似ていませんでした。
でも見る人によっては似ているように感じる人もいるようで面白いですね。
寺の受け付け等のオバ、いやお姉さんたちが和やかでとても気に入ってしまってまた行きたいと思うお勧めスポットになりました。
少し話がズレましたが、回答ありがとうございました。
フェラチオって日本ではいつから始まったのでしょうか
一番旧い記録はいつくらいからのものでしょうか
92 :
日本@名無史さん:2012/07/23(月) 21:46:22.90
寛文八年に京都禁裏で起きた「禁闕騒動」ないし「女中騒動」というのは、
具体的にはどんな事件だったのですか?
若き公家らの「淫風」「不良」が問題視されたようですが、天皇に仕える女官や側室らと
若い公卿らとの乱交じみた振る舞いがあったのでしょうか?
他のスレで聞いたものの回答を貰えなかったので、こちらでお尋ねします。
なお出典は「徳川実記」寛文八年十月二十五日条その他です。
誰人なりとも識者の確たる回答をたまわり度きもの也。
嫌がらせ?
94 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 01:47:13.28
95 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 14:09:32.87
義経の子供は由比ヶ浜に沈められたとのことですが
素っ裸のまま海に投げ込んだのか、何かに包んで海に落としたのか
気になる…
重し付けて放り込んだんじゃない?
97 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 20:37:21.47
>>95 吾妻鏡によれば
「(頼朝は静の赤子を)安達新三郎に命じて由比ヶ浜に捨てさせた。
新三郎が御使として赤子を受け取りに行くと、静は赤子を差し出すことを拒んだ。
(静は)衣に包んだ赤子を抱き伏し、数刻泣き続けたので新三郎がいさめた」
赤子は衣をまとっていた模様。
98 :
日本@名無史さん:2012/07/27(金) 07:27:27.04
質問
よく桶狭間の戦いなどで「今川義元の歯黒首」などといいますが、歴史上、男性がお歯黒を塗っていたのは官位で言うとどれぐらい以上で、いつ頃の時代なのでしょうか。
教えて頂けると嬉しいです。
>>91 鎌倉時代に成立してる稚児之草子にはフェラチオの絵が書かれている。男同士のだけど。
100 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 18:20:15.14
明治維新で薩摩が勝利者となった背景には、琉球を事実上支配していた事が関係あるんですか?
男色についてお聞きしたいのですが、主君と家臣との間でそのような行為をする時は
どちらの尻穴に入れるのでしょうか?
102 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 17:06:01.67
「境界線上のホライゾン」という作品について語りたいのですが、
この板に該当するスレはありますか?
歴史好きの作者が書いているので、語りたいと思ったのですが
103 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 18:24:50.56
世界史板の同じようなスレに比べて、このスレは答えてくれる人がいないね。
>>100 うろ覚えだが琉球を隠れ蓑に中国と密貿易をして蓄財し、その資金を元に藩政改革して
雄藩として活躍できたんじゃなかったかな。
>>102 ライトノベルの板なりに帰られよ。
105 :
日本@名無史さん:2012/07/31(火) 22:46:54.96
古代史、とくに奈良の歴史・伝承等を勉強したいと思っています
その方面で優れた学者、書籍などがありましたら教えていただきたい
徳川光圀の娘はなんで旗本に嫁いだの?
107 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 10:10:10.95
実は女装した光圀
110 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 02:01:33.33
例えば、一万年前の地表って現在の地表より何メートルも下にあると思いますが、極端な話し、これから先には富士山が小さな山になるぐらい地表が上がるんですか?
1万年程度でそんな変わるかよ
112 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 18:37:46.19
地表が上がるんじゃない
地球温暖化で海面が上昇して
今の多くの山地が
ただの高地になるんだ
地表が上がるより富士山が侵食されて小さな山になる方が早い。
114 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 19:56:29.89
ホコリやチリで地表が上がるの?
人や車の通わないところならね
あとどうでもいいことだが富士山は自噴式の山としては世界一高い山なので
埋もれる前に噴火する方が先だと思われ
まぁ埋もれることはないけどw
>>110 えっと…
マジレスすると、絶対的な意味では陸地部分の、さらに山以外だけが高くなる事はないよ(長い目で見てだけど)
相対的には、寒くなると海水が減るから陸地全体の面積が増える(山も高くなるけど低海抜地も増える)
実際には隕石で地球の質量は増えてる(大気は宇宙に逃げてるけど)
その隕石は地面より海に多く落ちるから、陸地より海底を、つまり海面を押し上げる(無視できるくらいだけど)
マジレスなのか、突っ込み待ちなのか分かりにくい…
前半がマジレスで後半は突っ込み待ち?
で、古墳時代から現代まで何センチぐらい地表が上がってるの?
古墳時代の遺跡がどのくらいの深さにあったかの平均を取れば求められそうだな。
けーすばいけーす
前方後円墳とか見てると、あんまし上がったようには思えないけどな
古代の古墳は近隣の住民によって木材の伐採などで利用され続けていた。
戦国期には城郭に使われたりもした。
>>110はそもそも、遺跡が埋まることと、土地の隆起をごっちゃにしてないか?
まずそこから教えるべきだろう
遺跡が埋まるのは、洪水の時などに水が運ぶ土砂や、風が運ぶ土砂(日本なら黄砂とか)、それらの上に
育った植物の落ち葉や枯死体の腐食で作られた腐葉土(それを養分にさらに植物が繁茂する)、火山灰、
人為的な工事などによるもの
山ができるのは、それらとは関係なく、火山から噴出した溶岩の堆積や、プレートの運動によって高い圧力の
かかった地表にしわがよるためで、これには普通、何百万年、何千万年という時間がかかる
まあ、火山の場合は、昭和新山みたいに、いきなり小さい山ができたりすることもあるけどね
124 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 12:11:13.90
ここは何のスレだ。
水戸徳川家の極位は正三位?従三位?どっち?
実家の蔵から江戸時代の朱印帳?(納経帳?)が見つかったんだけど、価値があるのかな
今の福井県から東北まで行って、関東東海経由でお伊勢さん、関西を回って福井まで
田植え後に出発して、稲刈り位に帰ってきてる
一般的な価値があるのならどこかに寄付するし、たいした価値がないなら一人でで眺めて楽しむことにする
墨で何か書かれた小判(ググったら武蔵墨書小判?とか言うらしいですね)の存在を知ったのですが、
墨書は何のために行われたのでしょうか?
また、これは実際に墨書きされた状態で流通したのでしょうか?
流通したなら墨は流通過程で薄れたり消えてしまったりしなかったのでしょうか?
どうか教えてください。
墨書はね
「わたし発行者ですけど、この金のカタマリは
こういう品質でこういう価値があることを保証しますよ」と書いてあるの
一個一個に鑑定書付き、とでも言えばいいのかも
その状態で「流通」したんだけど、扱ってるうちに、もちろん墨書は消えちゃうよ
その度にまとめて発行者のところに持ってって、書き直してもらったの
もっとも現在の市場における紙幣・貨幣みたいに考えるのはちょっと違うよ
現在だって金(ゴールド)のインゴットを所有してる人はいるけど、それを通常の支払いに
使うことは多分、あんまりないよね いわばそういうレベルのものなの
基本的に所蔵とか贈答とかに用いられるものだったので、それで充分だったの
とはいえ、いかなる意味においても墨書は面倒臭いので、主流にはなりませんでした
極印の方が楽だもんね
130 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 14:31:55.26
別スレで質問しましたが答えが得られなかったので質問させてください。
崇徳院は「皇を民に、民を皇に」という言葉を残して死に
後に怨霊となって恐れられ明治政府すら崇徳院の怨霊を
恐れたと聞きますが確かにその後、天皇家から武士に
政権が移ったりしましたがこれも「皇を民に、民を皇に」という
崇徳院の呪いの成就と捉えていいのでしょうか?
さらに第二次世界大戦に負けてGHQの占領下に
主権が天皇から国民に移ったのなんかはまさに
「皇を民に、民を皇に」だと思いますがやはりこれも
崇徳院の呪いなんでしょうか?
あのヨーロッパでさえリヒテンシュタインやモナコのように
絶対君主制の国があるというのに。
そもそもつくり話。崇徳院がこの世を恨んで死んだという記録は一切存在しない
>>130 呪いが成就したかどうかを歴史学的に証明できない
井沢史観での質問なら答えようもあるが、
ムー史観には答えようがない
>>129 とても分かりやすい回答ありがとうございました。
水利のある巨大な古墳について教えてください。
古墳と近い周辺の水田について
1.位置選定は独立、丘を利用するが水田を潰してでも古墳を建設した。
2.開墾と古墳造成はセットになったひとつの公共事業。
3.無関係、水田が古墳用の水利を利用して後から開墾された。
そう、明治維新の時に天皇などの陵墓の整備にあたって問題になったことの一つに陵墓の水を灌漑に使っている付近の農家の説得があった。
時代劇で何度か観たことありますが、実際合戦で敵の大将が打ち取られたら、他の兵は抵抗もせずに逃げ帰るものなのですか?
>>137 無抵抗に逃げると追い打ちを食らって被害が拡大するので、組織が維持されている場合は抵抗しながら撤退します。
維持するのが難しいから総崩れが多いけどね。
ありあとうございます
例えば桶狭間も龍造寺隆信が討ち取られた沖田畷の戦いでも、大将が討ち取られた当初の混乱が、部将達によって
収まると組織的撤退に移行する。壊乱というのはめったに起こるものではない。
木っ端微塵に壊乱したのは関ヶ原の石田とか宇喜多とか、あのへんくらいだろう。
142 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 10:33:46.82
「摂政」は、二官八省や令外官の中に含まれませんか?
摂関は元から令外官だろうが
本当だ
資料集のリストに載ってなかったので違うと思ってました
ありがとうございました
145 :
日本@名無史さん:2012/08/14(火) 21:44:41.19
篤姫の再放送観てて、よく阿部老中の部屋に上に上がる階段が映ってるんですけど、御殿は2階立てだったんですか?
147 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 09:00:16.25
拙者、儂(わし)、某(それがし)、僕(やつがれ)、俺(おれ)
などは身分や性別によって違ったのでしょうか
よろしくお願いします
>>147 拙者、某…目上に対して
僕…同格、旧知な者に対して
俺…武士以外が使う
儂…そんな私称は存在しない
女は大体、俺だったらしい
150 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 11:57:29.83
>>147 拙者某は自分を下に見せる武士言葉
僕は元服前、俺は女言葉
儂は主(ヌシ)がなまってできたもの
151 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 13:15:27.99
>>149-150 ありがとうございました
他に自分を意味する言葉とかはあったんでしょうか?
>>151 ちょっと意味はちがうかもしれんが、文章で「我等」とか書いてあっても「われわれ」ではなく、「わたし」という意味
>>151 天皇は朕、公方は余、武家の娘は妾(わらわ)
>>150 幕末の志士に僕(この頃には発音はボク)が流行ってたんだよね
>>151 東北では「わ」や「お」が自分を意味するとこもあるよ
確かまだ通じるはず
155 :
日本@名無史さん:2012/08/15(水) 13:38:17.31
公家公卿は麿
文学板では歴史の話を論説ふうにのべるものが多い。
事実関係をたしかめようとすると粘着のレッテルを貼られるという文化。
日本史板ではソースなしの推論を”知的”とみなす文化がありますか?
>>156 やたらソースにこだわる奴は居ます。そうなると何も話せない状態に陥ります。
そうすると、文学板も歴史板もたいして変わらないですね。
他の人の意見も聞きたいところですが、ありがとうございました。
連投してしつれい。やっぱ「事実は小説より奇なり」で、事実の面白さを知りたいと思っちゃうんだよね。
事実と「史実とされているもの」は違います。事実はタイムマシンが出来ないと判らない事だらけです。
タイムマシンで過去に行った場合、バタフライ効果で歴史が変わってしまう
卑弥呼が天照大神だとしたら、
台与(臺與または壹與)は、いったい、どの神様なんだろう?
豊受大神
やっぱり!
それなら、つじつま合うんだなあ…。
いや、違う!
「豊玉の姫の命」ではないかと思うんですが…。
それで、つじつまが合う。
何でだよ。豊玉はワダツミの娘であって天照大神の関係者じゃない。
豊受大神は伊勢神宮に居るんだから天照大神の関係者だ。
167 :
日本@名無史さん:2012/08/22(水) 12:10:08.04
平安末期に源氏と平氏以外に有力な武士は居なかったの?
>>167 秀郷流藤原氏。北関東から東北にかけてはこの支族だらけ。
169 :
日本@名無史さん:2012/08/22(水) 13:14:43.11
>>168 大河みてると全然出て来ないけど中央には関わらなかったの?
>>169 頼朝の乳母の比企氏とか小山氏とかが秀郷流藤原氏で、今の時期の頼朝を実質支えている。
ああそうそう、それ以前に大河で頼朝と自分の娘の子供ぬっころした伊東氏も秀郷流
なんつーか地味だな…
トン
秀郷流ではないけど、派手なのがお好みなら、奥州藤原氏がいるじゃないか
伊東祐親は甥の工藤祐経の領地である伊東を取り上げて自分のものにしてしまう油断も隙のあったもんじゃない
奴なのに大河での描き方は無いよな。
175 :
日本@名無史さん:2012/08/22(水) 21:53:50.16
176 :
日本@名無史さん:2012/08/22(水) 22:14:44.27
今まで発見された埋蔵金はどこで発見されてるんですか?
城跡とかベタな所じゃないですよね?
今まで埋蔵金なんぞ発見されてない
178 :
日本@名無史さん:2012/08/22(水) 22:59:14.15
横レスですが…、
昭和五十年代に栃木県山中で発見されたのは、「埋蔵金」じゃあないのですか?
歴とした江戸幕府祕匿の金銀延板、と確認されてますが。
まあ、幕府も、江戸を死守しようなんて頭から考えてなかった何よりの証拠ですね。
戦乱や火災で非難する時などに、持っていけない財産を一時的に庭などに埋めて隠すようなことはあった
しかしそれは、あくまで緊急避難のための一時的なもの
安全になればすぐに戻って掘り出して回収する
たまたまその人間が死んでいると、そのまま埋まっていて、後で発見される、といったことは、古今東西よくある
だが、そういう非常時の短期的な埋蔵ではなく、計画的に大量の金銀を長期埋蔵しておく、なんてことは
ほとんどない
そんな金があったら、誰だって、いつでも使えるように自分の蔵に置いておく
埋めてしまったら、急に必要になった時に、わざわざ掘り出さなければならない
しかも、埋蔵したら、いつ誰にたまたま見つけられて、失ってしまうかわからない
金をずっと埋蔵しておく、そんなことをするやつはまずいない
いるとすれば、ただのバカとしか言いようがない
大名だの幕府だのの埋蔵金伝説なんてのは、上記の一時的に埋められていた物を発見した事例や、金を
掘りあてられたらいいなという願望から生まれた、根拠のないただの幻にすぎない
>>178のケースは、おそらく、一時的に隠し、すぐに掘り出して使う予定だったのが、あっという間に幕府が
崩れてその機会がなくなり、そのままになってしまったのだろう
180 :
日本@名無史さん:2012/08/22(水) 23:38:26.29
確かに、一時的な貯蔵みたいな感じでしたね。
勘定方及び担当老中の引継ぎ公文書も発見されてわかったこと。
天領で、ちゃんと番所も有った由。
予期せぬ幕府崩壊でそのままになって、結局、新政府に引継ぎされずじまいだった
ようだとの報道でしたね。
ただ、ミソは、江戸城内ではなく地方の公領内だったことですね。
大名や幕府となると埋蔵金のことを知ってる人は複数いるわけで、掘り起こしたり、言い伝えることもなく何故埋まったままだったのかの経緯の方が気になる
>今まで埋蔵金なんぞ発見されてない
質問者が自演臭いことをやっているので突っ込んだ話はやらねぃけど
函館で600年位前に埋められた古銭数十万枚が40年位前に発見されている
本州以南は質問者がうぜいので言わない(苦笑
質問者ですけど、みなさんありがとうございます。
>>182さん、自演なんてしてませんよw
昔、じいちゃん家の裏で古銭を数枚見つけたことあるけど、回りを掘ったら良かったかな。
備蓄銭すなぁ
新撰組で「局を脱するを許さず」とありますが、戦闘で怪我をして
もう刀を持てなくなった隊士はどうなったんですか?
そろばんが出来るなら経理とかにまわされたのかな。
また怪我が重くて日常生活に支障をきたす人とかはどうなったんでしょう。
特例で抜けられたんでしょうか?
186 :
日本@名無史さん:2012/08/28(火) 02:03:59.18
低学歴の無知人間です。
武士の時代の最初の、源氏平氏や南北朝の時代のことがまったくわかりません。
「おーい竜馬」で幕末のことが理解できたように、その時代のことがよくわかるマンガってないでしょうか?
・源氏と平氏の争いかと思ったら、源氏同士で争ったりしてるらしい
・幕府を作った頼朝よりも義経という人の方が人気があるらしい
・幕府を作れなかったくせに平氏の人が大河ドラマになったりしてる
・日本で左遷されるくらい弱かったくせにチンギスハンになった人がいる
・武士が出てくる前に強かった藤原氏とかがいつのまにか出てこない
・源頼朝が作った幕府なのに平氏でもない北条という人が出世してる
・金閣寺を作った人は源氏でも平氏でもないのはなぜなんだ!
・江戸時代の徳川氏と同じくらい10人以上将軍がいるのに一人も暴れん坊将軍みたいなドラマになっていない
↑
こういうところがとっつきにくい印象のもとになってます
>>186 その辺は漫画を読むよりHARAKIRIとかSengokuみたいなゲームをプレイした方が理解が早いと思います
>>186 その辺の有名なマンガはちょっと思い浮かばない
探せば、あまり有名でない作品ならあるかもしれないけど
君のが箇条書きにしていることがらひとつにひとつひとつについて、説明をすることもできるけど、
そうしてほしい?
とりあえず、1つだけ、義経がチンギスハンになったってのは大ウソ、単なる伝説
結局漫画日本の歴史を読むのが一番いいのではないだろうか
190 :
186:2012/08/28(火) 20:32:11.80
レスありがとうございます。
やはりこれといった作品はないんですね。
なんというか、事実はもちろん、なんとなく時代の雰囲気とか各キャラ
の特徴とか知るのにマンガっていいんですよね。
嘘だとしても「義経とチンギスハンはキャラが似てるから」そういう伝説ができたとか、
そういうことが実感できるようになりたいなあと思ってます。
>>188 説明はいいです。自分の目標としてとっておきます。ありがとうございました。
奈良時代から平安時代にかけて
死後に反乱に加担していたのが発覚し、
すでに死んでいるために処刑できないから
代わりに遺骨がムチ打ち刑に処された人物がいたとおもうのですが
だれでしたっけ?
たしか藤原氏の貴族だったとおもうのですが。
豐臣秀吉はなぜ過小評価されるのか?
むしろ過大評価だ。
刀狩とか太閤検地とか、あのへんがデタラメ政策だったことはもうとっくにわかってる。
>>191 死後に起きた事件との関連で罪を問われた当時の有名な人物なら
大伴家持のことではないでしょうか。
195 :
日本@名無史さん:2012/09/01(土) 23:58:56.28
スカパーの番組で、あるタレントさんが
「建設現場で遺跡が出てきたときに、やっかいだからそのまま
見ないふりをして土で埋めちゃうことがあるらしい」と言ってました。
遺跡の調査がはじまったら建設がストップしてしまうからだと。
もしそれが本当なら、古代史研究にとってむちゃくちゃ重要な決定的な
遺跡が、安アパート建設のためにあっけなく破壊されてしまったということが
これまでにあったかもしれないということですよね?専門家的にはそういう可能性
を考えると悔しくないですか?
また、そう考えてみたら、日本ってもう、ほとんどの土地が開発されてビルとか家が
建ってるか、耕されて田畑になってます。
もう古代史の新発見って事実上可能性ゼロなんじゃないでしょうか?
>>195 現に新しい遺跡が幾つも見つかってる事を知らないからそういう事が書ける。
もっともっと見つかってた可能性。。。
『もう古代史の新発見って事実上可能性ゼロなんじゃないでしょうか?』
>>195 > そのまま見ないふりをして土で埋めちゃう
いつのことか知らないが、近年の話なら、そんなことは絶対に無いと断言できます。
違法行為というリスクを冒すメリットが工事業者に全く無いからです。
理由は、業界慣習と会計学と金融の専門的な話になるので省略。
ともかく、施主が居る工事の遅延であれ、施主の無い自社在庫用工事の遅延であれ、
業者は全く損しない困らないということ。
手抜き工事で安く上げて売抜ける場合と全然性質が違います。
> もう古代史の新発見って事実上可能性ゼロなんじゃないでしょうか?
そんなことは、全くありません。むしろ、逆です。
ここ五年十年は、遺跡発掘が過去のどの時期よりも最も盛んな時期です。
特に、ここ三年ほどが一番盛んですし、古代に限らずどの時代もです。
過去に例の無かつたことです。
たとえば、三角縁神獸鏡の発見が七百枚を越えたのも、纏向遺跡の発掘が飛躍的に
進んだのも、本能寺の一端が発掘できたのも等々、皆、この三年内です。
建設工事・土砂工事・住宅工事が多くなると、それに比例して遺跡発見も多くなってる現状です。
特に、最近の古代・中世の遺跡発見は、従来の歴史研究をくつがえすものばかりです。
工事中に遺構・遺物が出てきて、(わざと)重機でぶち壊して・・・ってことは、少なからずあったわね。
緊急調査になったら、調査費用は負担になるし、工期は延びるしで、業者としては困っちゃうわよね。
202 :
日本@名無史さん:2012/09/02(日) 09:17:21.77
天智=翹岐(百済王子)
天武=ヨンゲソムン(高句麗大莫離支)
中臣鎌足=智積(百済大佐平)
これはマジですか?
204 :
日本@名無史さん:2012/09/03(月) 00:26:45.18
すみません、埋蔵金の話が少し前に出てるので、以前から思ってた疑問について質問させてください。
江戸末期のお金が、今発掘されたとして
そのお金と言うのは、どういう価値があるんですか?
・考古学的価値
・純粋に金含有による金の価値
どっちなんでしょうか
今更、昔の小判が出てきたって・・・・と思うので
考古学的価値はあまり無いでしょうね。
今までに幾らでも出てますから。
金貨なら純金を抽出した価値が当然ありますが、
今、金価値、極端に下ってるしなあ。
普通に考えて江戸末期のお金が見つかるとしたら銭である可能性が高い。
>>205 実際に今も埋まってるとすると
埋めた人と、掘ろうとしてる人って、結局何の利益も無いですよね
ははは・・・
上様と公方様の呼び方に使い分けがあったんですか?
>>208 公方様というのは足利義満以降は、征夷大将軍、もしくは征夷大将軍を経験した武家政権の主催者、
あるいは鎌倉公方など室町将軍家傍流の地方政権の主宰者をさした。
上様というのは戦国期では「殿」の上位者ということであり例えば毛利元就なども息子の家督を譲ったあと
「上様」と呼ばれている。
コレが豊臣政権〜徳川政権の間に、武家政権の主宰者の独占となった。
前方後円墳かも知れぬから、持山を十一億円で売って呉れないかと行政から言われてますが、
売るのが公共精神に適ったことなのでしょうか?
「断ればどうなるのか」と問えば、「それは自由です」と一応言われてますが。
何しろ、全面活用の山で、賃貸料、小作料、入会権料等年三千万円強の収入があります。
先頃の長期間に亘る調査結果からの話だと言うのですが、
小生は「違う!」と主張するのです。
確かに双ヶ岡状ですが、片方から登って向こうの端へ降りるのに三十分近く掛かる。
これでは仁徳天皇陵よりも大きいことになるではないかと言うても認められません。
↑都合により、上のレス取り消します。
質問も取り下げます。
この作文・・・10点ですわ
日本の民法は借主の権利が強いからな
こんだけ権利関係の錯綜した不動産を根拠も不明なまま
行政が手をだすつーのは……考えるとオラ惑惑してきたぞ!
214 :
日本@名無史さん:2012/09/08(土) 20:19:01.36
平氏源氏は世界史的に言えば中国やローマの軍人皇帝時代の軍閥とか
中東史でいうマムルーク軍団とかと似たようなものなんですか?
基本的なことでなかなかよくわかりません。
>>214 全然違います。中央から派遣された武人貴族と、地方の軍事治安機関であった国衙軍が
主従性で合体したのが武士団です。
元寇で対馬の住人は壊滅したが、その後の住人って他から移民してきたの?
なんか
>>214は軍人の集団を平氏や源氏と思っているのでは?www
なるほど。では皇族から外されて臣下の身分になる時に「平」の姓を貰った人の子孫が平氏。
同様に「源」を貰った人の子孫が源氏。その後は中央で出世を目指す家系とか地方に下って
開発領主になる家系とか様々有ります。
219 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 20:15:47.98
出家した大名がいますが、出家前と後では何か変わることがあるのですか?
>>219 出家をした場合基本当主を引退した、ということになります。
すなわち家督を息子に譲り、例えばその屋形や城では、政務をとっていた主殿から
隠居部屋や隠居城に移る、ということになります。
>>221 謙信は後継者争いになってるのを見るとやってない。いずれにしても家康が大御所として将軍の秀忠の背後で
実権を握り続けたのと同様に、隠居しても実権は握ってる事が多いだろう。
なんで松平から徳川に改姓したんだろう?
松平でも別によくない?
秀吉の改姓はわかるけど家康のはわからん。
>>223 新田源氏松平(世良田、得川)だと前例がないため三河守に任官できなかったから。
近衛前久の仲介で「藤原姓徳川」を表明して初めて三河守になれた。
水戸黄門で弟がいるけど姉に婿をとって跡継ぎにするとの殿様の考えに弟を産んだ奥方が殿を殺そうとってよくやってるパターンの話をやってたんだけど、
男の子がいるのに娘の婿を跡継ぎって届けだして幕府は受け取ってくれるの?
現実だったら。
>>224 その前例って何なんですかね?
三河守と言えば古くは源範頼を連想するし、藤原系徳川じゃ
なくても別にいいんじゃねって気もするが。
>>226 んだから松平が名乗っていた新田源氏世良田・得川系での任官の前例がなかったってこと。
お前がきがする言うても実際に当時問題になったんだからしょうがねえだろ。
近衛前久書状とか見れ。
228 :
日本@名無史さん:2012/09/15(土) 00:37:46.83
火縄銃は、ドラマや映画みたいに、横隊で一斉射撃するのではなく、
ばらばらに狙撃していたという話を聞いたのですが、事実ですか?
あと、銃が伝来する前の、
弓矢もハリウッド映画などででてくる雨みたいな弾幕攻撃ではなく
同様な使い方だったのでしょうか?
229 :
日本@名無史さん:2012/09/15(土) 07:47:09.50
>>227 「新田源氏世良田・得川系」とやらではなく賀茂姓な
賀茂姓→藤原姓→源姓という流れ
新田氏は征夷大将軍になったことが無いんだから、
後に源姓に改姓した理由にならんだろうがw
>>229 アホか。松平は最低でも清康の時点で新田源氏名乗っとるわ
>>228 弓矢は狙いをつけて射るもの。初期の火縄銃は精度が低くて中らないから敵に脅しをかける物だった。
それを信長が長篠で弾幕を張る的な使い方をして価値を高めたというのが通説。
その後、精度が上がって狙撃するようになるのかな?来年の大河ドラマの新島八重は戊辰戦争の時に
女だてらに会津若松城に籠って敵を狙い撃ちしたっていうから。
232 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 04:19:40.96
中卒レベルだと思って、端的に教えてください。
織田信長と豊臣秀吉の二人ですが、
俺の知識によると、どちらも最終的なゴール直前で負けてます。
明智光秀に殺されたのと、大阪夏冬の陣の敗戦。
だから、織田幕府も豊臣幕府も出来ませんでした。
なのに、どうしてこの二人のことを「天下人」と言うのですか?
それに「楽市楽座」とか「刀狩り」とか、そういうことをやったらしいし。
つまり、この二人は、幕府を作るほどまでは行かなかったけど、
自分の領土(ほとんど日本全体に近いくらい大きい)の中ではいろいろな政策を実施するくらい
権力者になった、ということなんでしょうか?
つまり、足利氏や徳川氏は最終的なゴールまで行ったけど、まあ、この二人もそれに近いところまで行った
から「天下をとった」と言っていいということですか?
京都を支配して、天皇の権威を利用して色々できた事が大きいだろうね。
あと秀吉は武官のトップである征夷大将軍の代わりに文官のトップである関白になっているし、大坂の陣は彼の死後だからゴールまで行ったと言っていい。
234 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 07:50:43.37
>>230 松平清康は世良田名字を自称しただけで任官していない
それと「新田源氏」なんて造語は勘弁してくれ
知ったかぶりは恥ずかしいぞ
>>234 そもそもお前が何を言ってるのか解らん?
新田源氏が造語?お前、もしかして歴史の勉強したことないんじゃないか?
236 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 08:32:49.56
松平清康は源姓を自称していただけだったので、
徳川家康は自称の源姓では任官できず、
藤原姓で任官した、ということがわからない?
それと、新田氏はあくまでも清和源氏
清和源氏義重流とか清和源氏新田(氏)流と言ってくれ
>>236 いやいやいや
近衛前久や朝廷の記録を見ても自称が問題になったなんてヒトコトも出てないから。
君のそのけったいな説はどこで勉強したんだ?
238 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 09:02:00.95
「新田源氏世良田・得川系での任官の前例がなかった」から任官できなかったのではなく、
松平氏では先例が無かったので、藤原姓徳川に改姓した
それでようやく任官できた
>>232 信長の頃は天下って畿内を指していたんじゃなかったっけ?
240 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 09:49:10.20
世良田頼氏が三河守に任官しているという先例があるから、
松平氏が世良田氏流が自称じゃなければ、
わざわざ改姓しなくても任官できるだろ
>>224の
>新田源氏松平(世良田、得川)だと前例がないため三河守に任官できなかったから。
がそもそもの間違い、
と丁寧に書いてあげれば良かったかな?
初心者相手に不親切だったと反省してる
>>240 朝廷に任官した記録た残ってなかったの。だからさあ、近衛前久や朝廷の記録読めよ。
根本史料を読まずにお前の感を延々語られても困るんだよ
242 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 09:59:46.46
とっくに知っているからご心配なく
そもそもお前は、世良田頼氏の三河守任官すら知らなかったんだろ?
>>242 だからさあ、お前はその記録が朝廷に存在しない、東鏡にしか出てこないものだってことも
知らなかったんだろ?
244 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 11:25:56.35
ひょっとしたらとは思っていたけど、
「新田源氏」などという言葉遣いをしている人にそこを突っ込まれると思ってなかった
ちなみに「東鏡」じゃなくて「東鑑」か「吾妻鏡」な
吾妻鏡の件は確かに証明できないので、
「源義家の子孫と認定された家が先例が無いという理由で三河守になれないと思っているの?」にしておくわ
そもそも織田信秀はどうなんだ、という話になるぞw
>>244 なんだ、「新田源氏」って言葉が一般的に使われていることを知らなかったことが、そんなに恥ずかしかったのかw
246 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 11:38:43.78
じゃあ論文に「新田源氏」と書いてみれば?
日常会話の中で「新田源氏」という言葉を使っているヒトがいるのかもしれないし、
それをとやかく言うほど野暮ではないが、
(例えるなら、幸村?信繁だからwww と誰でも知ってることを敢えてひけらかすような)
学問の場で「新田源氏」という単語は使わないし、見たことも聞いたこともないぞ
行基みたいに民間人を教化した僧侶って、どうやって民衆に教えを広めていたんでしょうか。
識字率も相当低かったでしょうし、お経の意味も分かるとは思えません。
仏像や仏画を見せても「なんだこれは?」みたいな反応しかなかったのでは。
250 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 13:12:21.50
えーと・・・ぬか喜びさせて申し訳ないが、
>>247も私も「中世史の査読付論文」のつもりで言っているのであって、
文化史の論文を示されても困るのだけど
ましてや「新田(源氏)」という記載に至っては、全くニュアンスが異なるだろ
253 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 14:15:55.05
>>252 初心者ではない限り当たり前のことをなんでわざわざ書かないといけないんだ、
と思ったら、確かにスレタイに【初心者歓迎】とあったなw
しかし、初心者なら初心者らしく、知ったかぶりはやめてくれ
防人って意味があったのでしょうか?
鎌倉時代の元寇までに侵攻ってあったのでしょうか?
255 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 16:01:57.87
>>225 後継者は当主が決めることなのであって、幕府にとっては、息子だろうが娘婿だろうが
叔父甥従弟だろうが義理の弟だろうが構わない。血縁があろうとなかろうとどうでもいいことです。
申告されているかどうかが重要です。
>>254 元冦ほど大規模ではなかったけど何度もありました。主に新羅の海賊によるものです。
>>248 日蓮のように辻説法で教義を広めたのではなく、
布施屋という労役に従事する者のための施設や、橋をかけたり、
池堤などを各地に築くことによって民衆に支持されました。
仏教の教えが最高!!!というよりは、ありがたい行基様のありがたい教えという感じでしょうか。
キリスト教の貧民救済や医療行為も同じような発想でだと思いますが、
仏教が国家のためだけのものであった時代ですからね。
>>254 新羅の朝鮮半島統一がそれほど驚異だったということです。
結果的に唐と新羅の仲違いが幸いしたけど
何で武士は盾を使わなかったのでしょうか?
259 :
248:2012/09/16(日) 20:57:09.89
>>257 なるほど、教義というよりは、まずは役に立つものを作って心をつかんでいったという感じでしょうか。
日蓮は辻説法で広めていったということは、
それだけ民衆の文化レベルが高まったということでしょうね。
>>258 よく、日本史の本で「武士の成立」とかの章があるじゃん
大体は平安時代だと思うけど、盾の歴史をググったら多分平安時代にもあったって結果になるんじゃないかな
矢戦を意識した大鎧相手に敢えて矢戦を挑まれたなら、盾があったほうが有利でしょ
まあ、これは置き盾の場合だけど
手持ちの盾の場合はその前の時代に廃れてる
どうも太刀(広く言えば日本刀な)の成立が関係してるようで、時代は下って秀吉の朝鮮役でも、個人の戦闘では手持ち盾装備の相手を圧倒してるから必要性がなかったのかも
明も鉄砲や鎗だけでなく刀にも注目してる
ランス突撃や、鈍器でぶん殴る戦闘が主流にならなかったからかもしれないけど
>何で武士は盾を使わなかったのでしょうか
盾と片手剣の組み合わせより
刀、一択の方が打撃力があるから
広大な開豁地が多くない日本では地形が盾代わりになるし
整地された防御陣地を攻めるときには置き盾を用いて使い分けている
>>258 大型の「置き盾」は普通に使ってるし、小型で携帯式の「手盾」というものもあった。
小田原の役の時。攻め手で唯一小田原城総構の中に攻め込んだ井伊直政は片手に鉄製の手盾を持って
突入したという記録がある。
鎌倉幕府の将軍は三代で源氏の将軍が終わりますが、源氏が就くという決まりのようなものはなかったのですか?
>>263 いわゆる摂家将軍は頼朝の姉の血を引いているし、
そのあとは天皇の王子を将軍として迎えている。
皇子、もしくは頼朝系の血統という貴種原理は存在したと考えられる
>>263 そんな決まりは無いし、後に源氏でないと征夷大将軍になれないと言われるのも俗説にすぎない。
>>265 俗説ではない。足利将軍の時代にそういう征夷大将軍の河内源氏原理というものは打ち立てられている。
どうしても崇徳上皇に同情してしまいます。
鳥羽、後白河法皇はなぜ崇徳院を嫌ったのしょう?
268 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 21:40:32.02
今日寺田屋に行ったんだけど
京都の中心からかなり遠いんだね
歩いていくとすると片道で半日はかかる
普通に定宿としては不便じゃなかったのかしら
薩摩藩邸とか長州藩邸とかその他もろもろの幼児とかある場合
それに今はさびれてるけど昔はかなり栄えていたのかな?
>>266 じゃ何で江戸幕府の4代家綱が死んだ後は宮将軍で良いんじゃねなんて意見が出るんだ?
>>269 > じゃ何で江戸幕府の4代家綱が死んだ後は宮将軍で良いんじゃねなんて意見が出るんだ?
え?お前そんな俗説信じてるの!?うわぁ…
>>270 >269じゃないけど、信長の三職補任の件も俗説?
>足利将軍の時代にそういう征夷大将軍の河内源氏原理というものは打ち立てられている。
もう少し、詳しく解説お願いできますか?
272 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 23:39:02.94
質問です。
大化の改新で焼失したとされる歴史書で
『天皇記』『国記』以外には何があるのでしょうか。
ある講義を聴いているのですが、聞き取れません。
「くごみやくおんぎょう」のように聞こえるのですが
試行錯誤して検索したのですが、
なにぶん日本史は全くの素人の為か、
上記ふたつしかヒットしませんでした。
よろしくおねがいします。
>>270 大老酒井忠清が朝廷から有栖川宮幸仁親王を次期将軍に迎えようと画策したことは、『徳川実紀』等の史料にも載っている
それが史実でなかったとしても(近年ではたしかにそういう説もある)、そういう史料的根拠から多くの学者が長く信じてきた
ことを、「俗説」とは言わんだろ
274 :
日本@名無史さん:2012/09/18(火) 04:23:18.26
>>267 分からない
有名な『古事談』の白河院云々も同時代の他の史料じゃ確認できないから証拠不足過ぎるし。
>>273 そもそも幸仁親王は系譜上は(一応)結城秀康の子孫だから、鎌倉幕府の摂家将軍に近い。
結城秀康―松平忠直―亀姫(寧子)…後西天皇―幸仁親王
…は養子関係
>>273 「史料的批判によって今は俗説となった」って事だな
清盛を見てて疑問に思ったことが。
当時、徒歩の郎党が弓を使うというのは妥当な演出なんですか?
騎馬武者が弓を持ち、随伴する徒は置き盾や長刀を携行するのが基本だと思っていたのですが。
277 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 01:14:58.09
>>276 同じく平清盛を見て思ったのが
清盛って伊勢より東つまり名古屋とか伊豆とか鎌倉に生涯で一度でも行ったことあるの?
多分無いんじゃないの。
>>276 そこまで考証してないんじゃないの。SF考証とか時代考証とかいうのは出来上がってきたシナリオで撮影に
入れるように最小限の修正をするとか、シナリオが成立するように理屈をこねるとか、そういうもの。じゃないと
撮影スケジュールが間に合わなくなるから。
279 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 01:36:44.15
>>278 清盛は東は伊勢、西は広島、南は熊野、北はどこだろうかな?
あ、でも、肥後守とか太宰大弐の時に現地に赴任してれば九州まで行ってる事になる。
赴任しないで目代を派遣してれば安芸までになるけど。
北は判らん。
281 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 02:48:29.93
知らん
知らぬ
>>276 平治物語絵巻(鎌倉期)などを見ても、
数は少ないものの弓を携えた郎党の姿が散見される。
ドラマを見てないので、劇中でどうのように描かれたかはわからないけど
まったくの誤りというわけではないですよ。
脇坂安治が大坂の陣で中立を守ったって記述をウィキペディアや巷の解説本で目にしたのですが
ソースとなる一時史料はわかりますか?
また、本当だとしたらどのような政治的な事情があったのでしょうか?
豊臣家への忠義立て、だけとも思えませんし
秀吉の朝鮮出兵のとき、強盗の如くいきなりお前の土地よこせと攻め込んだんですか?
竹島みたいに強盗の如くいきなりお前の土地よこせと攻め込んだのかってこと?
ネトウヨにはつらい質問だったね…スマンコ(´・ω・`)
288 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 15:55:17.93
認定&思考停止…オカワイソウニ
あ…また黙り込んじゃった…(´・ω・`)
通り道だっつーの。
秀吉は朝鮮なんぞにはまるで興味がなかった
>>285 明を攻めるからお前らは道案内しろ、だっけ?
そんな風にならった
296 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 08:09:31.22
薩摩藩についてですが、現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したとwikiに載ってたのですが
宮崎県の南西部って今の何市に当たるのでしょうか?
時代劇観てたら、薄っぺらい布団しか出てきませんけど、昔は厚い布団はなかったんですか?
人工繊維のない江戸時代に
綿の入った布団なんて
大商人と上級武士だけのぜいたく品
庶民は紙の布団
あるいは衣類をありったけ被って寝てた
299 :
忍法帖【Lv=2,xxxP】(1+0:5) :2012/09/24(月) 16:45:27.75
日本にも董卓のようなやつはいるのですか?
事実はともあれ酒池肉林やりたい放題といわれるような
300 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 16:59:29.05
>>296 西から、えびの市・小林市・都城市・宮崎市の西半分(高岡など)が江戸時代の薩摩藩に入ります。
逆に伊東家の領土が日南市・宮崎市南部(田野・清武など)、
高鍋秋月家が串間市です。宮崎市中央部は入り乱れていて説明できません。
301 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 17:07:44.73
302 :
日本@名無史さん:2012/09/24(月) 17:12:04.84
>>299 やりたい放題といえば、聖武天皇から藤原頼道、
後醍醐天皇に足利義満、織田信長に豊臣秀吉、
徳川家光に新井白石、徳川吉宗に松平定信、
水野忠邦に松平容保と揃っておりますが。
304 :
忍法帖【Lv=2,xxxP】(1+0:5) :2012/09/24(月) 19:10:59.60
>>301>>302 ありがとうございます
無双シリーズで遊んでいて戦国にも董卓みたいなやつ居ないの?と思い質問をしたので見たことある名前がちらほらあり嬉しいです
通い婚っていつからいつまで続いたんですか?
>>305 京における「家」の成立で消滅するから、だいたい鎌倉後期くらいまで
天皇家の先祖は朝鮮人なんですか?
>>308 天皇家の起源は一切解明されていません。
朝鮮系という説も含めて、断定しているのは妄想以外の何物でもありません。
朝鮮系の可能性も否定できないわけですね。
天皇自身が言ってなかったっけ?
312 :
日本@名無史さん:2012/09/25(火) 22:41:14.28
それ、桓武天皇の母親が百済の王族の子孫だったという話でしょ。
渡来系の血が入っているということを、朝鮮人だとすると
現在の日本人は、大抵、朝鮮人ということになってしまうのじゃないの?
天皇家だからこそ、古代からの家系図があるからはっきりわかることで。
仮に欧州で「某王室には千年前に黒人が一人混じっているから、現在のその王室は全員黒人だ」と
誰かが発言しても、誰もまともに相手をしないだろうな。
以前中国人のコミュニティでも同種の話題を見かけたけど、そのときは、
「朝鮮人は中国人を見境無く、朝鮮人だと言っている」と呆れられていたり揶揄や嘲笑されていたけどね。
定期的に「天皇は朝鮮人」と書き込むルーチンワークに対し、まじめに相手をする2chの民度の高さを再確認した。
まず日本人とはなんぞや?どの時期からのことをいう?
人類は元を辿ればアフリカだ
南方スンダ系にしろ、大陸、半島系の血ももちろん入ってるだろうさ
>>314 ヤマト朝廷が畿内を中心とした統一的政治勢力を作りそれを日本と呼び始めてから>日本人
江戸時代やそれ以前、太平洋と日本海はそれぞれどのように呼ばれていたのでしょうか?
船乗りなんかには、呼び名があったろうと思うのですが
相模灘とか豊後水道とか地域ごとの名前はあったろうけど、太平洋とか日本海のような括りは無いんじゃなかろうか。
最近の領土問題の関係で、日本海が北海や日本海と呼ばれていたと
取り上げられることがあるけれど、地図上のことで実際に呼ばれていたわけではないようですね
日本海、太平洋側も廻船が盛んに行き来していたわけだから、名前くらいありそうなものですが
識者を待つ!!!
日本の神話は大陸の存在無視ですか?
>>320 どの時代までを神話というかによるけど、朝鮮半島については
新羅から神様が来たとか、神功皇后が攻めたとかいうことで間接的に登場する。
古事記だと、百済や新羅までは登場するが、唐も含めて高麗以北は完全に無視
日本書紀にあらわれる対外的な(中華世界観的な)日本ではなく、やまとの帝国意識をあらわしてるらしい
324 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 13:53:10.58
実際に呼ばれていたわけではないよ。もっと具体的なことを質問してるのだと思う
326 :
日本@名無史さん:2012/09/30(日) 15:50:41.11
学生時代の先生がオスマン帝国・清といったアジアの2大帝国は17世紀の状態のまま
19世紀を迎えたと言っていました。
これに間なしては世界史板で質問して解決済みなのですがその先生は19世紀の日本は
既にオスマン帝国・清を社会、政治、文化、軍事の面で上回っていてむしろすでに
欧米列強並みの水準を持っていたと言っていたですが本当ですか?
江戸幕府の日本はオスマン帝国や清よりも軍事政治経済社会で進んでいたのでしょうか?
そこまで言うのは自己顕示が過ぎる。
江戸時代の日本は寺小屋があった?
李氏朝鮮には朱子学を教える書堂・郷校・書院とあって、科挙の準備で学生は懸命であった。
「朝鮮には車輪がない、水車もない、農機具が中国と比較しかなり劣っている、田は新技術だが阻害するな」(朝鮮国内の文献)
この時期(李朝)から朝鮮半島の技術は周辺諸国と比較し見劣りがするようになってきている。森林伐採が文明の衰退を招来していたとも言われる。
つまり、朝鮮半島ではいわゆる「朱子学の頚木」とか言われる権威主義による文明衰退が起こっていたと判断される。
現在の日本でも自称保守を名乗る人が「経済を捨てろ、清貧こそ真理」とか一方的に言い張ってむやみに経済破壊をする、あれと同じ弊害が蔓延していた。
日本とその他の国を分けたのは、明治維新以降の改革が主と判断したほうが良い。
逆に言えば、この時期にきちんと改革をしていれば中韓両国ともにその後の悲惨はなかったと思われる。
明治維新の改革を可能にしたのは江戸期の民間資本の蓄積であって、江戸期なくして明治維新がありえなかったのも
また確かである
>江戸幕府の日本はオスマン帝国や清よりも軍事政治経済社会で進んでいたのでしょうか
現在の米をみるのに全人口の1%に満たない勝ち組のWASPをみるのと
中西部の教育のない粗野な住民をみるのとでは全く感想が変わってくるように、その種の質問にそぐわない回答・考え方がある
327がそのタイプだね
328に追記すると、冷戦時代の東側諸国において東ドイツやチェコはソ連に劣らないかソ連以上の生産性を示したのに対し
他の東側諸国の生産性が見劣りしていたのは民族性と自由主義経済の洗礼を受けたのかの違いと言われている
国家の発展は、軍事政治経済社会というシステムの上下ではなく、社会の変化を一般国民が受容できる準備が出来ているかどうかにかかっている
上からの体制改革が劇的な変革を行えないのは歴史を顧みれば自明
330 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 02:22:07.71
本を探していますl。
第二次大戦中の重巡洋艦にアルミはあまり使われてなかったとか
その他色々知りたいことが書いてあった本です。
ひょっとしたらご存知のかたがいらっしゃるかと思いまして。
よろしくお願い申し上げます
ええと、質問の意味がよくわからない
大戦時の日本の金属、原料事情についてでしょうか。それとも軍事的なことですか
大戦当時、帝国海軍をはじめ各国の重巡にアルミは使われていないかと
戦艦、軽巡、駆逐艦にも使われていませんね
大戦後も軽量化のために用いられたけど、デメリットも多いために
上部に多少使われた程度じゃないすか
以前に読んだ具体的な本のタイトルをお探しなのだろうけど、
もっと具体的なことを書いたほうがいいと思いますよ
艦船そのものなら一隻について書かれたものはもちろん、
月刊誌も出ているくらいだから
332 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 14:21:52.12
>>328と
>>329は有害な主張を含んでいると思う。
「日本人は優秀だから周辺各国にこれからも優越する」、これは全くあてにならない。
言語も技術も運用次第では容易に衰退する。
例えば朝鮮半島では、高麗時代まであったはずの製陶技術も製鉄技術も、森林が消えたのか次代に受け継がれることはなかった。
逆に彼等は、「朱子学を信じている我が民族は、漢民族も含めた他国に優越する」と自らを規定していた。
実際は農業でも工業でも、ありとあらゆるところに綻びが生じていたにもかかわらず、だ。
ちょうど文藝春秋の編集者達が、「経済をいくら破壊しても日本は日本だから優越する、これぞ武士道だ」と主張しているのにも似ている。
彼等の主張は極めて有害、亡国思想だろう。
技術は維持発展継承しなければ受け継がれることはない。
「資産老人愛護の円高デフレ歓迎! 輸入品が安ければ国内の農業なんて捨てれば良い!工場も技術もみんな国外に移転しちゃえ!」なんて
定年を迎えた老人達に一定の支持があるようだが、それでは日本の今後は極めて暗い。
金融資産は歩留まりが悪く、数世代以上は受け継がれない。
なくなったときに日本は全てを失ってしまう。日本の優位を強調する自称保守の人間が日本の基礎を掘り崩していることを、私は憂慮する。
おいおいキチガイ涌いちゃったよ
国家・民族を論じるのに全体的な見方と
枝葉末節に拘って論者に都合の良い摘み食いで語るのと
二つの方法があるってことだね
後者の方は見えないものまで見えているようで、何か語りだしちゃったみたいだけどw
見物するのも面白いかと
全体的なことを唱えると、「日本が優越しているしこれからも絶対に優越するのだ」、という主張はあまりに夜郎自大。
例えば朝鮮半島の教育は年々劣悪化しているが、昔は結構日本へ僧や朱子学者が文化人として来訪していた。
その程度の優越など、経済を破壊すれば容易に崩れてしまうものなんだよ。
日本は武士道がある神国だから絶対倒れない、だから質実剛健で経済など破壊せよ、とか言い出す馬鹿は実際は日本の根幹を破壊している。
経済力の上に武士道など思想は成立している。
思想を掲げる人間が物質を省みないのは、李氏朝鮮やバブル退治と同じ自滅だ。
面白いから続けてくれ
色色、敵が多そうで大変だなw
朝鮮からの電波と文藝春秋の老害を同時に敵に回そうというのか。
必要なのはここよりもカウンセリングなんだろうなあ
340 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 12:25:02.98
まあ、今頃消費抑制で精神を鍛えろなんて言っている老害は精神病院行きが正解。
話は苛烈だが間違いはない。産業には国内消費が必要だ。これを抑制すれば技術停滞を起こす。
現在では、清貧武士道を語る人間が行動では最も反日というのが歴史の皮肉だね。
清貧武士道なんか語ってる人いるか?
>>340 日本経済が破たんしても日本には武士道があるから道徳心や秩序は失われないー、
なんてのはありえない、という話をしてるんだろ
内需さえ拡大させれば海外との輸出入が完全に途絶えても
日本は豊かでいられる、なんて話がおかしいわけで
日本は資源が足りないから原料輸入なしに国内だけで供給できるものなんて
限られているのに
で、それはこのスレッドと何か関係有るのかね?
日本は経済がなくても一等一流、という言い方におかしいと文句がついただけでしょ
たしかにそれじゃあ朝鮮の「ウリは朱子学を信じているから世界の頂点ニダ」と変わらない
この辺でこの話題は終わらせたいが
>内需さえ拡大
こういうことを言っている奴って、日本の内需がどんだけでかいか
全く理解していないんだよな
プラザ合意以前から病院で昏睡していて、今、目を覚ましたのか?
つー認識の奴ばかり
>>345 いやいや342は内需がどれだけでかくても資源が輸入されるのが前提って言ってるんだろww文盲かよww
くやしかったんだね
ごめんね持て余しているであろう過大な自負心に傷をつけちゃってw
問題の所在を懇切丁寧に説明しても「文盲」には理解できないよね
皆僕が悪いから許してね
>>321ですが
言語学板で聞いたほうがいいでしょうか
理学部なんだが日本史やりたくなった
まずは教科書から始めようと思うんだが、詳説日本史と新日本史ならどっちが良さげ?
詳説は網羅性・新日本史は掘り下げてあるとか言われてもどれくらい違うのか分からん
大学入試の難関大レベルの知識と歴史観を味わいたい
351 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 16:18:16.09
井沢の「逆説の日本史」お勧め(笑
大学受験用の日本史教科書は山川出版社の詳説日本史が定番とされています。
一部「自虐史観で改悪された」など雑誌正論などで言われていますが、定番の地位は揺らいでいません。
よってこれを中心に進めるとして、同社の日本史用語集と穴埋め日本史ノートを併用する学習がよく行われます。
一通り終わったら大手出版などから出ている全数十巻の日本史シリーズ本に手を出すことになります。
これには左右・地域分断主義から中央集権主義まで特色がありますが、まあ明らかな嘘は藤村旧石器程度でしょう。
井沢のはその後で勝手に読む読み物です。
354 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 22:11:33.84
平安時代末期、木曽義仲は何も知らない田舎者、という扱いをされたとされますが、
当時、田舎というのはどのあたりのことだったんでしょうか?
北海道や東北、九州は含まれるとして。江戸も江戸時代前までは田舎でしたよね。
木曽はそんなに田舎だったんでしょうか。
秋田の多賀城市周辺なんかは逆に都会だったんでしょうか?
源頼朝が鎌倉に幕府を置くというのは何でわざわざ超ド田舎に?みたいな感覚だったんでしょうか?
足利尊氏などは公家とも交流があったようですが、田舎者扱いはされなかったんでしょうか?(京都生まれ説もあるようですが)
飽和状態の近畿に対抗出来る未開な野暮な田舎平野関東に
尾張生まれの独立心の強い源頼朝は
近畿に支配権のシガラミを残していた平家や天皇公家に対抗上、幕府を開いた
356 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 23:19:27.97
357 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 00:13:13.32
回答ありがとうございます。
>>355 なるほど。確かに平氏は結構女性陣もしぶとかったですもんね。
ただ、やはり大姫とかを入内させようとしていたり、そういう点ではやはり鎌倉は遠すぎたような気もします。
>>366 秋田だと思い十数年生きて(多賀城を知ってから。10代というわけではないです)きてしまいましたが宮城だったようです。すみません。
>>354 京の都とか奈良(南都)の周辺以外は田舎。北海道は支配の及ばない人外の地。
木曽は田舎というか山。義仲は山出しの猿というイメージだ。
多賀城は奥州の国府だけど秋田と山形は奥州じゃなくて羽州(出羽の国)。
元々は西の太宰府、東の多賀城という位置づけだったけど、太宰府と違って外交の窓口ではないし、
蝦夷討伐の拠点としての役割は坂上田村麻呂が築いた鎮守府胆沢城に移ったので地位が低下した。
奥州藤原氏の都である衣川は京にも負けない繁栄だったらしい。都人から見れば田舎扱いだけど。
359 :
日本@名無史さん:2012/10/07(日) 17:57:41.66
>>358 ありがとうございます。
いろいろ参考になりました。今も都区内以外は田舎みたいな風潮もありますし、そんな感じだったんですね。
北畠親房全否定のスレはここですか?
>>354 源氏物語では宇治でも「鄙びた」土地ですよ
平安時代の貴族たちから見れば洛中以外は鄙びた土地という認識だったと思います
足利尊氏の頃になると少し違うと思います
鎌倉は150年間将軍のお膝元として発展し親王将軍もいましたしね
親王将軍について鎌倉下向した上杉氏のような公家もいましたし
第二のキのようになっていたと思います
大正天皇が生まれる前、昭和天皇が生まれる前の
皇位継承権第一位はだれですか?
363 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 00:04:08.88
明治天皇と大正天皇は、姉妹はいたけれど兄弟はみな死産か夭折なので、
孝明天皇も明治天皇も、他の選択は考えなかったと思われますが。
>>364 閑院宮の当主は養子だから有栖川宮より格下になるのでしょうか?
>>362 昭和天皇は祖父明治天皇の在位中に誕生しており、
誕生前の皇位継承第一位は父大正天皇(当時は皇太子)
大正天皇は明治天皇の第三皇子で、兄2人は大正天皇が生まれる前に死亡
当時あった宮家は有栖川宮家・閑院宮家・伏見宮系(伏見宮家は分家多数)
江戸時代、光格天皇の例を見ると天皇と血縁の近い順が優先されるので
有栖川宮家だろうね(閑院宮家は伏見宮系からの養子)
368 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 00:09:57.51
今川とか武田とかが
京に上って天下に号令しようとしたって、誰が言い出したんですか?
子供の頃、「京都の隣に住んでる大名が天下とればいいのにアホだな」
とか、「織田が京都に上って天下とってるのに、武田には効き目ないの?」とか思ってました
369 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 00:51:57.62
和歌(短歌)について教えてください。
百人一首とか〜和歌集とか恋の歌が多いですよね。
恋文みたいなもので好きな人とかに送ったものだったんですよね。
そんなプライベートなものがどうして和歌集とかになって
1000年も残ってるんですか?
ラブレターとかメールとかプライベートなものなら
ほとんど世に出ず、消えていってもよさそうなもんですが。
わかる方いましたら、よろしくお願いします。
ラブレターであると同時に、芸術作品でもあったわけですよ
恋人に捧げるために作詞したラブソングが、結果的にミリオンセラーになった、みたいな感じ
371 :
日本@名無史さん:2012/10/13(土) 06:06:18.85
てことは相手に送ると同時に公開もしたってことなんですかね。>和歌
歌会とかで謳ったのが残ってるってのはわかりますけど。
有名なコピペみたいに人口に膾炙したんじゃね(震え声)
古今和歌集 仮名序 紀貫之
やまと歌は
人の心を種として
よろづの言の葉とぞなれりける
世の中にある人
事 業しげきものなれば
心に思ふことを見るもの聞くものにつけて
言ひいだせるなり
花に鳴くうぐひす
水に住むかはづの声を聞けば
生きとし生けるもの
いづれか歌をよまざりける
力をも入れずして天地を動かし
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ
男女のなかをもやはらげ
猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり
和歌とはこういう認識をされていたわけだ
>>368 「天下に号令する」というのは要するに将軍や天皇の権威を利用して自分に従わせようとすることですが、権威だけでは従わない者が現れた時にそいつをやっつける力を持っていなければなりません。
織田信長の前に京都を支配していた三好氏、その前の細川氏はどちらも畿内から四国東部にかけての狭い範囲にしか影響力を及ぼすことができず、内紛によって弱体化し滅亡しました。
>>371 恋の歌の場合は、むしろ送られた側の方が、「あたしぃ、彼氏からこーんな素敵な歌もらっちゃったー!」って
周囲に自慢して見せびらかしたんじゃね?
>>369 歌集などは後の時代の人が先人の残した記録から選定しますから、
記録が残ってないもの(完全プライベートのラブレター)は残っていないはずです。
百人一首の恋の歌も歌会で読まれたものがほとんどですよ。
特に男性官僚は宮中や大臣家で開かれる歌会参加は必須ですから。
日記からの引用もあります。女性の歌に多いですね。
378 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 13:58:10.64
>>377 ありがとうございます。
やはりそうなんですね。
残っているのは記録のあるもので、プライベートなものではないんですね。
学校ではあたかも恋文であるかのように習ったような記憶があります。
残ってるものは公式?なものなどで
お目当ての人に歌を送ったり返す文化があったと
ちゃんと教えないと日本中に大きな誤解を生みますよね。
377の説明ならすごく納得いきます。
>>374 ありがとうございます
今川や武田は、上洛して三好(松永?)や織田に対して実力で排除できる自信があったんでしょうね
とすると「天下に号令」ってのは、誰が言い出したわけではなく、当時からそういう認識があったって事ですね
>>379 少なくとも織田に関しては、上洛ってことはイコール織田勢力崩壊ってことだろ
>>380 今川や織田は「敵地に乗り込む」だけだけど、
武田は「敵の中枢に乗り込む」って感じですか?
>>381 つーか上洛の前に織田の本拠地である美濃尾張を通るわけで、ここを武田に無事通過させるような自体になったら
その瞬間織田は根無し草ですよ。
>>382 確かに、三好みたく「ちょっと戻ればいいや」ができませんね
ありがとうございます
江戸時代になると大規模な紛争はないまま200年以上過ぎますが
この間、本来は戦闘集団であったはずの武士は
ほとんど戦闘をすることはなくなったしまったと思うのですが
彼らはそんな時代の中で武士階級の存在意義をどう考えていたのでしょうか?
>>385 時代によって違う
大雑把に分けると、元禄の頃くらいまでは自分たちが武装装置であることが第一義だった
そこから文化文政あたりまで治世者・護民官としての意識が育っていき、幕末の頃くらいには
自分たちが公共のための存在という意識すら育った。
387 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 09:46:52.16
>>386 それはないよ
武士だって自分が命を落とす戦はなるだけやりたくない
安定した幕府に仕えて公給をいただく公務員でいたい
幕末に活躍したのは下級武士や農民上がりだからね
(新撰組は農民上がりが結構いた)
>>387 だから386であってるじゃん。どこがそれはないよ?
公務員=公僕=公共の為の存在、であってるだろう。
どのみちほとんどは存在意義なんて余分なこと考えないでしょう。
その日その日生きていければそれで良いだけで。
改易とか、幕末になってその生活が崩れたり、そのおそれが強くなれば、
何か思うかも?いや、その時はそれどころじゃないか。
そんなのはいつの時代も変わらないと思うけど。
391 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 17:30:01.73
>>388>>389 幕末になってからようやく公務員意識が芽生えたんじゃなくて
幕府成立の最初からずっとそうだ
最初も最後も武士は幕府の命令でいつでも出陣することが求められた
しかし、その実はあまり実力行使したくない公務員
>>391 「軍役」って言葉知ってる?そういううものがいつから会ったかも含めて。
上昇意識が強いやつは、食うに困る武士とは言えない最低ランク、
その辺は戦争大歓迎だろうが。
まああと、戦自体や殺し合いが好きな異常者。
そんなのは別として、できればなるべく戦いたくないのが人情。
戦争したくない、戦場に出たくない者が多いからこそ、
軍役なんてものがあるような気も。
進んで参戦したがるなら、むしろ人数制限が必要になりそうな。
395 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 12:05:33.54
>>392 明治時代に徴兵令が課されたとき、
人民が「軍役」をどうとらえたか知ってる?
皆進んで軍役につきたがったとかw
皆進んで軍役につきたがったのはわかった
それより、どうとらえてたか知りたい
「ちょっと死んでくるw」とか
「わしは銀シャリが食えればいいんじゃ」とかあるじゃん
397 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 14:20:21.86
>>396 現実問題、国民からは「血税騒動」が起こってるだろ
そもそも皆進んで軍役につきたがったという史料があるのかよ
>>395 > 明治時代に徴兵令が課されたとき、
> 人民が「軍役」をどうとらえたか知ってる?
> 皆進んで軍役につきたがったとかw
それはどこの史料に出てるんだ?そういう記録が本当にあるなら是非知りたいんだが。
それこそ徴兵令の開始はどんな記録を見ても国民から総スカンを食らっていたのに。
399 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 15:53:15.02
>>398 >>392に聞いたら?
395は392に対して「皆進んで軍役につきたがったとか」
と皮肉って言ってるんだから
401 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 17:28:37.18
>>400 392って、武士は好きで選んで「軍役」についてたと思ってる
アホなんだ
「役」という字の意味がそもそも
本来は人を遠くへ赴かせること、
そこから転じてつらい仕事をさせる、
または義務として人をこき使わせる労働や戦争を指す。
どう考えても肯定的な意味がある言葉ではない。
明治期とかなら農村で食えない次男坊とかが三食食べれる軍に進んで入ったくらいのことはあるんじゃない。食べる手段として。
現代でも最貧国の就職希望ランキングで軍隊はトップだよ
なんせ食事も住むとこも着るものまで用意されているんだから
徴兵だからそういう事を望む人間が軍隊に取られるわけじゃねえっつーの。
徴兵の意味わかってねえだろ
職業軍人の話がどうして徴兵制の話題で出てくるのかイミフ
家計を食い潰す「ヒキコモリ」という「ゴクツブシ」が家をでて
家族に収入をもたらすということの「家族の喜び」を認めたくないんですね
分かります
今、NHKでやってますけど
江戸時代の質素倹約って経済政策的には間違いだっていう結論なんですか?
政府支出がどうたらとか。。。。
BS朝日の郡上八幡の方が面白いんじゃねぃ
NHKのあのクソみたいな番組を信じるあなたが心配です
質素倹約で歳出を減らすだけでは不十分で、収入を増やす商品開発なども必要です。
質素倹約だけでは経済が回らないのでじり貧になるだけ。
例えば江戸幕府はたびたび絹の着物を奢侈であるとして禁止してますが、
それだと生糸産業が打撃を受けることになります。
>>413 江戸幕府は農民には絹を着ることを禁じていたが(享保の改革では商人や工業従事者も)、
武士階級はそんなことないだろ
大奥の女性たちが絹を着ることを禁じられ、貧相な麻を着ていたとか聞いたことがない
415 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 23:09:04.26
>>409 幕府の質素倹約令はどれも大失敗でした。幕府の求める「米価高」と「米価以外の価格低下」が全く実現しなかったのです。
何故幕府が米価高を求めるのかというと、当時の武士は給米制度で、領地から生産される米を貰って生活していたからです。
そして江戸時代は石高制(米が取れる藩ほど権威が高い)に基き、新田開発や他作物から稲作への転換が盛んであり、米の生産量は増大していました。
米が余ると人は米を売って他の物品に手を出します。諸色(野菜・菜種・蝋・木綿・生糸・藍・紅花、海産物など)への需要が増大してゆきます。
また文化も栄え、見世物小屋や出版事業・観光も盛んになってきます。その結果、江戸時代を通じて年々米の値段は低下していました。
武士は、諸色や読本などに手を出す一方で米の値段が下がり、年々逼塞してゆきます。
このためこれら諸色や見世物小屋などの流通販売を制限し、金がこれらに流れないようにすれば武士が生活できるのでは、として出されたのが倹約令です。
しかしこれは大失敗でした。
例えば、商品を作る際は生産、流通、販売と過程があるわけで、
岡っ引きが諸色を扱う商人らを捕まえて虐めていると、流通が滞って、生産している農村が売り先がなくて貧窮するわけです。
しかも諸色は実は武士も欲しいと思っている必需品です。商人を虐めて商品が出回らないと、商品はヤミ売買が増え値段も上昇しました。
商業は破壊、値段は上がって、しかも非合法販売だけが増えるという最悪の展開を引き起こし、どの倹約令もいつの間にか撤廃されてしまいました。
416 :
日本@名無史さん:2012/10/17(水) 23:38:18.45
この問題の本質は、江戸幕府の基本であった石高制が矛盾を孕んでいたと考えることが出来ます。
石高制:米がたくさん取れる藩ほど偉い
・各藩共に米増産への意欲が異常に高かった
→救荒作物や商品作物の耕作禁止
→藩の石高は上がっても藩は飢える(米価が下がる・飢饉に弱い・米以外の商品が無い)
一方、米以外の色々な商品は諸色と呼ばれ、米が増産されるにつれて需要が増してゆきます。
制度として米が増産されるなら、諸色から税金を取るべきだったんですよ。
田沼意次は株仲間(同業者組合)を作り、彼等に専売権を与える代わりに課税を行いました。(松平定信が後任に就くと潰しました)
西南雄藩と呼ばれる諸藩も特産品を育成し、特権商人を任命し彼等から課税しました。
ところが江戸幕府は倹約令によって却って彼等商人を潰すことに熱意を燃やした。しかも商業が潰れるだけで諸色は高騰を続けた。
幕府の財政は年々悪化の一途を辿ることになります。
>>409 政府が倹約するのは一見いいことのように思えるけど、政府という国で最も大きな組織が過度に
金を使わないようになると、世の中に金が回らない
過度な倹約政策では、経済が活性化しない、というか不景気をもたらす
現代でも、無駄な公共事業は問題だが、だからといって突然公共事業を全部やめたりしたら
バタバタ倒産する企業が続出して経済がとんでもないことになるよ
日本の南北朝時代では南朝は三種の神器を所持していたので分かるのですが、
北朝は何を持って正統な天皇だと主張していたのでしょうか?
>>418 もともと後醍醐天皇は、足利尊氏の擁立した北朝の光明天皇に三種の神器を渡して皇位を譲らされていました
ところが後醍醐は後になって、「あの三種の神器は偽物だよーん、本物はこっち、だから光明天皇の即位なんて無効」
と主張して、吉野で南朝を起こしたのです
北朝側の人々にしてみれば、その主張自体、かなり嘘くさく思えたでしょう
仮に南朝の神器の方が本物だと認めるとしても、三種の神器がない状態で即位した天皇なら、源平合戦の時代の
後鳥羽天皇という前例もあるのですから、後醍醐が皇位を譲った時点で、光明天皇(とその系統の北朝の天皇)は
正規の天皇です
>>418 >>419 結局、神器はあってもなくてもあまり変わりがない
ちなみに光明天皇の践祚日は建武3年8月15日で神器なしで践祚
尊氏が後醍醐天皇を幽閉して三種の神器を取り上げたのが11月2日
この間約3か月間は神器なしの天皇だったことになる
また、観応の擾乱の際にも後村上天皇が北朝が三種の神器だと主張するものを取り上げているので
北朝の後光厳天皇はまた神器なしで即位している
422 :
日本@名無史さん:2012/10/18(木) 15:03:59.17
>>420 「商は詐」=「下々の奴等は物を使うな、安値で武士に引き渡せ」
という、御都合主義が質素倹約令を出す江戸幕府にはあったわけですよ。
生産も消費もあり金が行き交うから流通が続くのに、松平定信らは末端の商店を苛めれば無限に安値で物が手に入ると思っていた。
中国でスーパーを襲った愛国青年と、松平定信は同じです。
両統迭立の時代って結構長くつ続きましたが、なぜ直系で継承されなかったのでしょうか?
現在の価値観からすると、すごく違和感がありますね
当時は院政といって、藤原氏の摂政関白にがんじがらめな天皇はさっさと辞めて、
元気なうちに荘園をたくさん持った上皇として権勢を振るうというのが確立していたんですよ。
すると若いうちに天皇を辞めないといけないので、息子は死亡率の高い若年者です。
兄弟で天皇位を持ち回りしたほうが都合が良いわけです。
実の兄弟ならまだしも、兄弟の息子の代、更に息子の代となってくると既に相手に近親の情も湧きにくい。
近年も、モッタイナイ精神の大切さを知れ!とか一部の雑誌が提唱したら、
物が売れなくなって給料が下がって、かえって人々にとって高価になっちゃったという事象がありました。
大量生産大量消費が一個あたりの価格を下げるという事実に、清貧を語る人は気付くべきだと思います。
>>423 日本の皇室は伝統的に兄弟相続です。
古代から、天皇が一人で独裁政治を敷くというより、同母兄弟が助け合って
政治を行ってきたという経緯があったのだと思います。
兄が死ぬと、まだ若年の兄の子より政治に熟練した弟が大王になりました。
兄系、弟系、それはしばしば政変などで一方が淘汰されて一本化されることが多かったのですが、
鎌倉時代に始まった両統迭立は、力をつけた鎌倉幕府が朝廷二分による朝廷弱体化を狙って
二系統維持を意図的に推進したため、長く続いたのです。
>>420 兄弟相続は院政期にはじめて行われた相続法ではありません。
5世紀の倭の五王時代からありました。
いや、両統迭立は、鎌倉幕府側が積極的に推進したというよりも、朝廷側が勝手に後継問題で争って収拾が
つかなくなったので鎌倉幕府に調停を委ねたら、幕府側は「んなもんどっちでもいい、そんなにもめるなら、
交代で天皇出しゃいいだろ」ってなったような感じ
少なくとも始まった当初は朝廷の弱体化を狙ったものではなく、むしろどっちかというと朝廷のためによかれと
思っての政策だよ
>>427 違うよ。
後嵯峨天皇は病弱な兄の後深草天皇を退位させ、弟の亀山天皇を即位させた。
そして、亀山天皇の皇子(後宇多天皇)を皇太子に立てた。
普通ならば、皇統は亀山の系統(大覚寺統)で一本化されるところだった。
しかし、後宇多が西園寺家を外戚としないことに不満を持った関東申次西園寺実兼が、
鎌倉幕府に頼んで後深草庶子の立太子を実現させた。つまり、この時代の天皇の位は鎌倉幕府が決めていた。
では、鎌倉幕府が親幕公家である西園寺家の言うまま後深草に皇統を一本化させようとしたのかといえばそうではなく、
両統が主張するままにその時々で皇太子を決め、意図的に一本化はさせていない。
鎌倉幕府は正安3年、10年ごとに両統から交代で天皇を出す両統迭立を提示。
鎌倉幕府滅亡までこれを意図的に維持させていた。
>>428 幕府の介入というよりは関東申次の西園寺実兼に振り回されたのが正しい。
後深草の子の伏見が天皇になれたのに実兼の力があったのは事実だが
この時の大覚寺統は浅原某の宮中乱入事件のせいもあって次の天皇も
持明院統のものになったが伏見が実兼の家人といっていい京極為兼を重用することに
反発して大覚寺統に寝返ったために皇統の移動が行われた。
幕府は朝廷に対しては消極的で正中の変で後醍醐を退位させなかったように上の
浅原事件でも真相究明、処罰者を出すこともなかった。幕府高官は金沢貞顕のように
保身栄達のために鎌倉在住を望み、京都政界への関心は低かった。大仏維貞のように
京周辺の悪党・海賊追討が研究者から異常な出来事のように捉えられていることからもよくわかる。
素人くさいな
>>429 後嵯峨上皇は天皇家の家父長として亀山天皇の皇太子に亀山の皇子をつけ、
亀山の系統に皇統を伝えることを望んでいながら(これは大宮院も証言している)、
自分の後の院政を行うべき天皇家の家父長は「鎌倉幕府の御意のままに」としたことに
二朝分裂の発端がある。
これは後嵯峨上皇自身、出家するはずだったが、鎌倉幕府の命で即位した背景によるもの。
承久の乱以後の天皇の地位は鎌倉幕府にゆだねられていた。
正中の変の際には後醍醐天皇が釈明のために鎌倉幕府へ使者を送り、
「無関係」とされたために譲位を命じられなかっただけ。
正中の変自体、怪しい奴を白状させて裏を取る前に討ち取ってしまったから、
いざとなった時に立証が困難になった。
433 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 13:22:53.08
よく農民が「先祖代々からの土地〜」って言いますけど
ジャア、この人たちは地主で、小作人になった事は一度もないって事ですかね?
いえ、おそらく自分の所有地は少なく
小作人として他の地主の土地を耕し、戦後農地改革でこの所有権を得た人がかなりの部分を占めています。
水呑み百姓ということばがあるように
江戸時代の農民は、本当に飲酒、喫煙、
喫茶、芝居見物はご法度だったのですか?
436 :
日本@名無史さん:2012/10/25(木) 01:40:38.18
朝廷が軍事力を失った鎌倉時代から江戸時代の間、
天皇の護衛や御所の警備は誰が行っていたのでしょうか?
それぞれの時代の幕府が武士を派遣していたのですかね?
事実上、中央政府がなかった戦国時代とかどうしていたのでしょう?
平和なイメージがある江戸時代も実は治安は悪かったといいますし
無防備だったのはありえないと思うのですが。
>>435 禁制があるということは、守らなかった人がいるということです。
経済上全然悪くないので見てみぬ振りが多く、
逆に担当者が朱子学清貧に舞い上がって無理に守らせたら、鳥居耀蔵や熊本民謡「キンキラキン」になってしまいます。
>>436 検非違使・武者所
↓(11世紀、白河上皇)
北面武士設立、朝廷の武力化
↓(承久の変)
北面武士弱体化・邸内警護のみへ
社会一般に清貧を広げるだなんて、経済を破壊しないと実現しないということ。
だから二十数年前の清貧主義者は、日本を破壊して、自らの清貧武士道という思い入れを実現しようとした。
彼ら伝統保守主義者は、おかしい人たちだったんですよ。
鎌倉室町は京の朝廷を警備する「禁裏大番」って軍役が基本的に全国の武士に課せられてた
お聞きしたいんですけど
京都の商人に財政難の時に、幕府が「朝廷の予算が足りないから、金貸してくれ」って頼んで
それを維新の時に帳消ししたという話を聞いたんですけど
朝廷の資金管理って幕府が全てが代行してたんですか?
江戸時代の朝廷に自己資金はほとんどありません。
律令制はほぼ崩れていますし、代わりに天皇や上皇が保有した院(寺院)の荘園も、
平安貴族と同様に後の時代に大部分は失っています。
そのため特に室町以降、朝廷は官位販売に熱を上げます。
有力僧侶や武士に(実質は保証しないけど)朝廷公認の官位を与え、代わりに金品を得ていました。
これも江戸時代に幕府によって規制(禁中並公家諸法度など)され、代わりに朝廷は幕府からの支援で生きることになります。
支援は織田信長・豊臣秀吉の時には7000石/年、徳川家康は10,000石/年、後に増額されて30,000石/年
その他に豊臣秀吉時代に定められた京都の土地収入、宇治と田原への茶税などがあります。
朝廷貴族は別枠で100,000石/年、これらの知行は実際は幕府京都郡代が管理していたとされています。
公家は軍役などがないので、武士に比べて所領は少なくても生活は案外楽だったらしい
武士も棍棒を使用したと聞きました。
鬼の金棒のようなものを持った図は見つけたんですが、考古学的な実物は残ってるんですか?
特に木製のものに興味があります。
唐棹ならずっと農民一揆などで使われたと思うのです。
しかし、兵士の持つ武器となると棍棒は、太平記の時点では柏木棒だの鉄棒だの色々記載があるのですが、
だんだん鑓や薙刀と統合されてしまい、棒のみというと逮捕用とかが主となり、あまり戦闘では出てこないものへ変化してゆきます。
(鉄砲・弓矢・投石→長槍・薙刀→太刀・棍棒 と有効距離に従って使ってゆくと、どうしても打ち付けないといけない棍棒は不利)
反面、帯刀を許されなかった農民でも実践できたため、多くの武術の基本として江戸時代に流布します。
江戸時代の捕り方では六尺棒などが使われます。
445 :
日本@名無史さん:2012/10/30(火) 19:55:55.93
江戸時代の大名と旗本の違いは、石高が1万石以上かそれ未満かで分けるようですが、
これって幕府から見てのことですよね?
地方の大大名だと家老でも1万石以上を拝領してるのもいた思いますが、
そういう場合は何と言うのですか?
陪臣だが、そういう存在はだいたい大名格と言って、大名に準ずる扱いを幕府から受けたりしてる
でも明治維新の後の華族令の時には少し損をしたかもしれません。
三万五千石の尾張成瀬家は当初男爵で後に子爵なんですが、
陪臣は、一万石以上が華族で、三万石あってもだいたい男爵家になっています。
独立大名(一万石以上)は子爵以上なので、一段劣った扱いをされたということになります。
448 :
445:2012/10/30(火) 21:42:24.65
どうもありがとうございました。
>>444 実物は残ってないんですね
どうもありがとうございました
江戸時代の捕り方とか拷問用具とかには鉄を巻いた棒とかあるかもしれません。
素朴な疑問なんですが
ヨーロッパは北米南米などに移民し、日本も北米南米朝鮮満州に移民しましたけど
そう考えると、ヨーロッパと日本ってどっちが資源や食糧事情で豊かだったんでしょうか?
食糧事情によって移民が出たと本で読んだんですが。
ヨーロッパ ってめっちゃ範囲広すぎて一概に言えません。
著者が日本人で後世まで日本にて広く読まれた兵法書は何かあるでしょうか?
有名に仮託された実際は作者不明の偽書とかでもいいです。
宮本武蔵の五輪書は異様なくらい海外で読まれてるな
甲陽軍鑑(戦国甲斐武田氏の軍法、とされている書)とか
兵法家伝書(江戸柳生 柳生宗矩)とか
万川集海(忍術の書)とか
456 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 21:59:16.13
昭和五輪書は?
万川集海は広く読まれたのか?
大江匡房による孫氏解釈本である「闘戦経」とか
山鹿流兵学「武教全書」全三冊とか
北条流兵学「兵法雌鑑」「兵法雄鑑」「士鑑用法」とか
上泉信綱の新陰流軍学書、「訓閲集」(同名に大江家の陰陽学の本があるが、それとは別)とか
「広く読まれた」と言えるほどになると難しいね。
まず、一般人が兵法など学ぶことはそれほどないから、
武士などが読んでいた前提になるけど、
完全に奥義扱いされてた書物なんて広く読まれているわけないし。
でも、山鹿流兵学なんて誰も知らないのに評判だけが広まって、
忠臣蔵で大石蔵之助が鳴らすのは、現実には兵法書にも講義にも一切ない「山鹿流陣太鼓」だったりする。
そのような江戸時代の兵学も、幕末に高島流のゲベール銃を使った密集突撃術が入り、
更にライフル銃と共に西洋式砲術・散兵術(大村益次郎・赤松小三郎)が入って、ほとんど役立たずになってしまった。
正親町三条実愛が大臣家をたてにごり押しして、伯爵から侯爵に
昇爵したが、実際大臣家と蔵人頭を出す羽林家、名家の旧家とは
どの様な差異があったのだろうか?
家格が完全に固定された近世においては、その差異は無いどころか、
寧ろ官位官職の補任に於いては逆転現象が見られる。
ただ、家領の領地状だけは、大臣家以上と従一位が判物、それ以下は
朱印状と区別され、平堂上は従一位にならなければ判物は受けれなかった。
その意味では大臣家は10万石以上の大名と同格の扱いではあるが。
さて、大臣家と言うからには、当然極官は大臣のはずであるが、
近世においては、三大臣家からの大臣補任はたった4例しかなく、
三条西家が1人、中院家が3人で正親町三条家は比較的短命な当主が続いたためか、
0である。
次へ
ただ、三条西実条と中院通村は右大臣にまで昇任しており、
大臣家の面目を保っている。
他に羽林家から3人が、名家からも3人が内大臣になっているが、
中御門宗条は東山帝の、櫛笥隆賀は中御門帝の外祖父のためと思われる。
つまり、近世においては摂家、清華家以外の任内大臣10例のうち、
大臣家の補任はたった4例に過ぎないのである。
そして、人臣の極位である従一位も大臣家の中では、
中院家しか任じられていない。一方、羽林家と名家では計23家が
従一位に昇っており、蔵人頭を出す旧家では、滋野井家、今城家、
東園家などを除いてほぼ従一位になっている。
次へ
464 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 19:42:36.87
従一位が補任資格となる准大臣についても、近世以前には中院家には
補任例があるが、近世では3家共その例が無い。
慶長16年に烏丸光宣が任じられてから、文久2年の広橋光成まで、
羽林家4人、名家7人の計11人が准大臣となっている。
「幕末の宮廷」に「准大臣になると御上と同様で、准大臣と従一位は、
旦那と家来ほどの違いがございます」との記述がある様に、
現官の官職ではないにせよ、摂家や清華家以下の公家から見れば、
いかに憧れの地位であったのかが分かる。
これ以外にも、従三位となる上階の年齢、参議、中納言、大納言の
就任期間の年月等、羽林家、名家の上級家とは全く差異はない。
近世においては摂家と清華家もその差が隔絶したように、幕府の統制上、
摂家とそれ以外の公家と言う区別化の中で、大臣家の様な中二階階級は
完全い埋没してしまったのだろう。
しかし、正親町三条愛の爺さんゴネ得とは言え、よく頑張ったね。
以上
阿呆か
岩倉具視 公爵や、
転法寺三条(単に三条)実美 公爵、
中山忠能 侯爵、
正親町三条(後に嵯峨と苗字を変えた)実愛 侯爵、
西園寺公望 侯爵(のち公爵)
四条隆謌 侯爵
醍醐忠順 侯爵
中御門経之 伯爵(のち侯爵)
大原重徳 伯爵
澤為量 子爵(息子の代から伯爵)
とかいうあたりの公家は、明治維新での新政府側への貢献が大きく、勲功がそれまでの家格に加算されている。
下級公家の岩倉が公爵になっている時点で家格だけで決めてないのはすぐわかるな。
>>464 大臣家だからこそ近世には准大臣の例がないのでは。
468 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 22:14:04.77
江戸時代のうどん・そばって現在よりも美味しかったの?
「美味しい」ってのは人によって違う基準なので人それぞれとしか
さあ。
江戸の醤油の歴史をひも解けば、上方(龍野・湯浅などの近畿・引田・小豆島)からの下り醤油の時代
銚子・野田の時代とありまして、元禄や享保の時に関東で濃口醤油が発生します。
一方薄口醤油は安土桃山に龍野で開発されたとされています。
というわけで醤油はあり。
鰹節は、江戸時代始まり頃に紀伊印南浦で燻す乾燥法が生まれ、土佐でカビ付け法が開発されます。
これが伊豆と薩摩に伝播し文化文政の頃には土佐・伊豆・薩摩の特産品となります。
というわけで鰹節も少し遅れて出てきます。
昆布は古代から日本で食べられていたもので、特に中国では近年まで養殖されていなかったので日本の輸出品でした。
というわけで昆布もあり。
後は一般的な調味ですが、うどんが一般的に麺類としては早く、蕎麦は当初は蕎麦掻などとして用いられ、
麺になってから江戸時代に各所でうどんを駆逐する形で成長します。京都のにしんそばは幕末に成立とされています。
そもそも地域によって味付けや材料の質違うからな
472 :
日本@名無史さん:2012/11/08(木) 01:02:31.95
大学の視聴覚メディア概論の課題で
「ガニエとブリッグズのメディア選択のための6つの要因を調べなさい」というモノが出ました
ググってもあんまり出て来ません。
ご存知の方は教えていただけますでしょうか?
日本史学は教育工学ではありません。
他を当たってください。
江戸後期に七味が広まるまで、うどんの薬味は胡椒だったとか
475 :
日本@名無史さん:2012/11/09(金) 12:17:17.73
小説などを読むと、織田信長は軍律が厳しく、戦場で農民ら非戦闘員に
乱暴狼藉を働くと厳罰に処していたようですが、上杉謙信や武田信玄とか
はどうだったんでしょうか?
>>475 戦国時代には、兵士に敵地での「乱捕り」(略奪)を許すのがむしろ普通
自分の国を守る時はともかく、よその国に攻め込むような戦に農民兵を動員できるのがなぜかといえば
そういう役得があるからだ(農民が出稼ぎ感覚で集まる)
小説などで信長軍が軍律を厳しくできたというのは、おそらく信長軍は兵農分離が進んでいたからそれが
できた、という理屈だろう
もっとも、実際には言われているほど信長軍の兵農分離は進んでいたわけではないようなので、軍律の
ほうもあやしいと思う
そもそも武田信玄や上杉謙信の軍事行動の場合、
攻められた地域は、作物は刈られ住民は奴隷として連行されました。
それが戦国の戦闘です。
そもそも信長の軍の軍律が厳しかったというのは京都市内だけだった可能性が高い。
三河物語には信長の上洛戦の時、織田軍が山城に入ったとたん大略奪行為を行った事が記されている。
『孫子』では必要なものは現地調達しろと書かれている通り、
必要なものは略奪するのは当時としては立派な兵法の範疇。
>475
上杉謙信や武田信玄に限らず軍の乱暴狼藉を許さないとの制札が
進攻軍と現地の寺社・農村との間で事前に取り決められているのは戦国時代では普通のこと
十数年前に藤木久志氏が戦場での奴隷狩りや乱暴狼藉があったことを紹介したために
そのことのみがクローズアップされて喧伝されているが
同氏はソノ著作で、境目の村が略奪を防ぐための事前工作が恒常化されていている例が多数あることをきちんと述べておられる
むろん事前工作が不出来だったり、懲罰的に略奪を行うために制札が発行されない事例もままあるけどね
まぁ極端な話の方が人口に膾炙しやすいのは人の常だが(苦笑
むしろ>480の方が例外的
戦国時代は略奪が行われないのが普通だったとは驚きだね!
ヒャッホッーと戦場で悪行の限りを尽くしたために
農民が逃散して無人の田畑を領土化することが戦国大名にとっては当たり前で
あいつら経験から何も学べない無能な馬鹿ばかりというのがこのスレでは常識なのにな
ネットで小知恵を誇らしげに語る俺たちこそ史上最高の賢者(キリッ
ずいぶんと極端な説がいきなり飛び出したな。
逃げた農民はどうなるのですか。
昔は荒地を開墾したりしたら、そこの土地に住み着いても良かったんでしたっけ?
486 :
日本@名無史さん:2012/11/09(金) 22:13:03.75
戦国時代が略奪と虐殺の数々で荒廃し人が住めない地獄絵図か
厳しい規律と交渉により略奪や虐殺などもっての外の騎士道世界かの
どっちかじゃないとダメな人なのだろう
略奪や虐殺が存在すること
そしてそれを抑止するために規律や交渉もあったこと
この両者は全く矛盾しないことなのだが
>>484 おそらく
>>480,487は、司馬遼太郎スレで「坂本龍馬は汚らわしい商人、我ら武士は商業を破壊し人のうえに立つ正義」と唱えている人。
朱子学=江戸武士道で頭がおかしい。鳥居耀蔵を相手にしていると思えば良い。
酷い嘘つきだからあまり係わり合いになるべきではない。例外を基本と強弁する人。
475ですが、みなさんどうもありがとうございました。
490 :
日本@名無史さん:2012/11/09(金) 23:06:58.18
そんなに礼儀ばっかり唱えている戦いが主流なら、江戸時代から元禄初期まで人口が増え続けた理由が説明できません。
確かに後の統治を考えて意図的に略奪を禁止する場合はありますが、それを中心に行うにはこの時代の戦国大名には財力が足りません。
地域の占領には、戦勝方兵士(農村出身兵)による敗北側農村への略奪奴隷化がつきものだったと覚えておくべきでしょう。
>>487を見た限りでは略奪される前に自分達からミカジメ料を払って勘弁してもらったような感じだな。スキャンしたものじゃなくて書誌情報がほしい。
>>485 少なくとも東国の場合は、村単位で朝散して国境地域に逃げ、そこで国境の両側の領主と交渉し
有利な条件を出した方に定住し農作業を行った。
493 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 17:03:00.44
戦争の度に人狩りや略奪が行われたということは、
武田と上杉が十年以上領有を争った北信は、
皆死ぬか、奴隷になるか、逃げ出すかで、
誰も耕す人がいなかったの?
だから城を守るのさ。
奴隷にされたくないからね。
戦国時代の大河ドラマとか司馬の小説とか読んでも、
奴隷については出てこないですよね。
奴隷ってどんな生活を強いられてたのですか?
496 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 17:34:24.25
>だから城を守るのさ
城を守っていれば、田んぼは荒らされないの?
青刈りといってね、敵地の稲刈り前の田んぼに実っているなら勝手に収穫、
実っていなかったら馬に食べさせちゃったり単に切ってしまったりする。
そのため防衛側が食糧支援をしたりしないといけない。
出来ないなら農民が戦争なしに向こうに逃げてしまう。
498 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 17:45:28.71
それで十年以上も収穫のない田を奪い合うの?
あと、兵糧が減るから、民間人は城から追い出されるんじゃなかったけ?
普通は戦争は一回起きたら数年は起こらない。
川中島の場合、武田と上杉が地域大国であったため、両方とも食糧の輸送が出来た。
それと、城から民間人を追い出すのは糧食が尽きたとき。全て追い出すなんて思っていたならあなたは変。
500 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 17:56:39.15
普通は戦争は一回起きたら数年は起こらないなんて思っていたならあなたは変。
そもそも上杉・武田の話を聞いているのに…
>川中島の場合、武田と上杉が地域大国であったため、両方とも食糧の輸送が出来た。
川中島って…何年のときに何があったのかではなくて、民間人の動向が質問の根幹なんですけど?
>それと、城から民間人を追い出すのは糧食が尽きたとき。全て追い出す
無くなってから追い出すの?
それってかなり間抜けな話ですね。
>>500 話を逸らしてはいけません。
あなたは質問ではなく、嘘を押し付けようと画策しています。
502 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 18:07:01.06
アンカーミス?
質問を装ったうそつきが怒られているだけでしょ
504 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 18:15:20.74
>>499で良いと思うけどね。
>>500は、「地域の民間人は両大国の面子をかけた食糧輸送で守られていた」ということを認めたくない
争論の為に争論を仕掛ける手合い。無視したほうが吉。
505 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 18:27:33.24
昨日は戦場で民間人は一方的な被害者
今日は民間人は威信をかけて守られた保護対象者
ここは楽しいインターネッツですね
ヒドい負け惜しみだ
内容が特徴的だからすぐ分かるよなこいつ
回答者だと思い込んでいる素人が質問の内容を規定して
質問を捻じ曲げることで回答した気分に浸るスレには似つかわしいことで(苦笑
にしてもまぁw
発言に責任を負わない誰かが何処かで書いたものを読んだからという薄弱な思い込みだけで
全く論拠を提示できないまま「ネットで見かけたことが此の世の真実!」と思い込めるのは幸せな脳細胞だことで
それに川中島の戦いの実相も知らない奴が回答者の中心なのも嘆かわしい
「略奪をしない方が長期的な目でみれば有益である」という理屈は否定しないが
その理屈だと人類史上で略奪がほとんど起こらなかったことになるんよね
こうだったらいいな
はあくまで理想であり現実ではないって典型的な例
日本語の読み書き能力が不自由な奴が、昨日から積極的に書き込んでいるね。
>>510 それは、今日も見えない敵と戦っている孤独な闘士
>>509のことか?
俺も参加したいんだけど、何処のスレに書いてある誰と戦っているんだろうか。
いや、
>>500と
>>508以外はかなりまともと思う
意図する虚偽の方向に回答者を扇動できなかったので、あたり構わず怒っているだけ
じゃコレ↓が、当時は一般的だったということが書かれている本を教えて。
>そのため防衛側が食糧支援をしたりしないといけない。
>出来ないなら農民が戦争なしに向こうに逃げてしまう。
あぁ、一般的じゃなくてもいいや。
次
なんだ逃げちゃったよw
ココは言ったもん勝ちの醜いスレでつね
「逃げる百姓、追う大名」だろうね。
今川義元へ惣村代表が、税を上げるなら村を捨てて別の領主の土地へ行くと主張した文書が見える。
また、流入してきた農民へ米を提供し定着を図った記述もある。
518 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 22:29:40.55
馬鹿が逃げながら勝利宣言?
戦火で失われた財産を領主が補償したソースを尋ねたら
納税交渉がソースだと関係ない話を持ち出すことで回答したと皆が納得しなければいけないスレw
多分川中島の人だろうが日本語の会話が不自由そうだな(苦笑
まあ話の流れ的には、学問板としての正しい解答は、
>>497が海津城は農民のアジールだったことを示す一次資料、
戦後に農民へ食料を配給した資料が必要なわけだが。
俺は期待している。もったいぶらずに教えて欲しいな。
それで黙るんじゃねぃ?
また話に沿った題材が出たら議論をすり替えか
それだから馬鹿にされる
522 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 23:35:37.14
それと、海津城は武田氏が侵略拠点として新たに作った城だから、住民は入らないと思う。
そのあたりの知識もなく
>>520のような主張をしているのだから、素人は困る。
たしかにw
>497と>517が別人だとは考えにくいね(苦笑
俺は>520のようにハードルを上げないから大名が戦中・戦後に在地領民へ無償(?)の援助を行ったとするソースだけでいいよ
無償か有償かは明記して欲しいが…
じゃ城って何処だよw
>522
川中島には数千人規模で篭城できる城がないから、新たに造られたのが海津城なのにwwww
頭、大丈夫か
>>522
流石に質問スレでソース出せって議論までおっぱじめたいなら
専用のスレでも立ててそっちでやってくれ
えーと、北信濃の上杉方の城は長沼城・大倉城・葛山城などですね。
長尾氏(後の上杉氏)の配下にあった信州島津氏の領地で、
ここより南、村上氏の領土を武田氏が侵略併合したことから川中島の戦いが始まります。
戦いは紆余曲折がありますが武田氏有利に進み、信州島津氏も一族の半ばは武田氏に降伏します。
この地の「島津家文書」によると永禄6(1563)年、武田信玄は上杉軍と一緒に逃げた長沼の地下人(農民・一般人)を戻すよう島津氏に命令しています。
城は地域領主にとって兵士=農民の避難所であり、その地の兵士の移動は農民の移動でもあったということ。
528 :
日本@名無史さん:2012/11/10(土) 23:58:47.87
>>527 えーと所謂川中島の戦いってのは謙信が元北信の在地領主に頼まれて信玄領へ攻め込んできた一連の戦闘ね
なんで関係ない話をもってくるの?馬鹿なの?馬鹿すぎて死んじゃうの?
話題逸らしのそのレスの間違いを書き込まれる度に全部指摘しなきゃいけないの?
530 :
日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:22:59.52
自演じゃないなら、何で川中島の戦いも知らない香具師が、
何人も横レスいれてんだ。
川中島の話だけをソースに延々と話している人の方が特異だからなんだけどね
532 :
日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:25:12.30
ああ、苦笑君はストレスに弱かった。馬鹿な行為を相手に指摘されたら本当に馬鹿と化してしまった。
これって黄色い救急車型逃亡? 確かにあっちの世界に行ってしまったら、ご愁傷様としか声はかけられないが。
533 :
日本@名無史さん:2012/11/11(日) 00:28:28.55
えーと川中島の話が続いていると思っていたら
いつの間にか全然関係ない奴等が混じっていたでござるってことでFA?
どうりで日本史上有数の戦いに頓珍漢なレスが混じるわけだ
日本語の会話ができないなら来なきゃいいのに・・・
結局、戦国期の城は特に地域領主の場合、その地域の兵士=農民のアジールだったでFAですな。
やっと結論が付いたよ。別の話題へいこう。
よろしくお願いします。
あるサイトを見ていたら(抜粋です)、
『多聞院日記』に秀次の正室・一の台(菊亭晴季娘)について
「金銀過分に菊亭殿の娘奉行にて、方々預けられおわんぬ。曲事とて、究竟の女姓衆三十四人一度に生害」という不行状が、伝わっています。
という記述がありました。
自分なりに役してみたんですが、
「金銀を大量に菊亭殿の娘の尽力であちこちに預けられた。けしからないことだと言って、結局女性など34人が一度に殺された」
真偽はともかく、文章の内容は一の台が金銀を不正にあちこちに隠した、ということでしょうか?
正しく訳していただけるとありがたいです。
なにせ戦国オタ以下の奴が「僕ちゃんの考えた戦国合戦」を語るスレだからな(苦笑
最後は不様と言うよりこんな馬鹿が一日中ネットに張り付いているんだなということを思い知らされて
薄ら寒いわ
平たく言えば、「豊臣秀次の妻が、お金があったので頼母子講的にあちこちに貸していたら、豊臣秀吉がけしからんといって関係者34人を一度に殺しちゃった」
という記述なのですが、正確というと自信はありません。
一説には、「秀次の後の摂政関白も秀次の息子へ」という根回しをしていて秀吉の逆鱗に触れたとか推測されたりもするのですが、
あまりこの分野は詳しくありません。
戦国時代には略奪も規律もあったという当然の話題でここまで盛り上げられたことが驚き。
539 :
日本@名無史さん:2012/11/11(日) 04:11:20.04
「規律があった」でファビョッた、日本語が苦手な工作員が大活躍しただけじゃん。
誰を相手に戦っていたんだろう・・・・
「規律があった=略奪はほとんどなかった」という
極端な人が一人いたせいでしょうね。
軍法で規定すれば略奪も虐殺も激減するのであれば、
それほど楽で素晴らしいことはないのでしょうが。
スレタイも読めない小学生以下の連中ばかりだということは分かった
日本語が苦手な苦笑くん、暴れて周りから笑われるの巻
・戦国時代の戦闘で、農民は両者に税負担をするなりして戦闘を避けた場合もあった
・しかし戦闘後に乱取り(略奪暴行)自由、奴隷化拉致が横行していたのも確か
・そのため特に地域領主の場合、地域の城に兵士、つまり地域の農民を収容することが通例
「農民は戦闘には絶対に加わらないし被害もない」
「戦闘で農民の防衛手段なんてねーよ、逃げるだけ」
この二つはどちらも間違い
長州藩は36万石もあったのに
150石の高杉晋作が家格が高いとか言われてたのが良く分かりません
士分なので仕官クラスとは思いますが3万石5万石の小藩ではないので
1000石、2000石クラスゴロゴロいると思うのですが
それが家老職でも200石程度なのが長州藩。
家康に厳封されたときに、リストラはしなかったからじゃなかったっけ。
小倉藩の家老の宮本家は4000石だったよね。
>>537 ありがとうございます!
なるほどそういうことですね。
しかし、嫡男は一の台が産んだわけではないし、頼母子講したからと言って側室ほとんど全員処刑というのは見方としては厳しいですね。
しかし、昔のお姫様は結構行動力があったのかもしれないですね。
なんだか、歴史を知らない人が嘘を貼ってますなあ
>>548は偏りのある俺様説なので信じる必要なしなのですが
550 :
日本@名無史さん:2012/11/11(日) 22:17:08.21
質問です。
1 鎌倉幕府は、元寇終結後、どの程度の期間、第3次元寇が来るかも知れないと警戒し続けていたのでしょうか?
2 室町幕府や江戸幕府は、明寇や清寇の可能性について論じ、対策をとっていたのでしょうか?
(少なくとも書類上の防衛方針ぐらいはあったのでしょうか?)
3 室町や江戸の幕府が明・清の侵攻を考慮していなかったとしたら、既に元寇と言う事例があるにもかかわらず、
なぜ攻めてこないと思えたのでしょうか?
551 :
日本@名無史さん:2012/11/11(日) 23:00:54.66
東海道五十三次の宿場町間の距離ですが、
平塚と大磯の間が27町(2.9km)
御油と赤坂の間が16町(1.7km)
石薬師と庄野の間が25町(2.7km) と特に短くなっています。
なぜこんなに短い距離に宿場町が置かれる事となったのでしょうか?
>>550 1.鎌倉幕府は元の再々来襲に備えています
・1293年に鎮西奉行を九州に設置
・堡塁の維持
・九州下向御家人は九州に定着
これらの負担は評判が悪く、九州で反北条(後の足利尊氏歓迎)の機運を高めることになります。
(明と「日本国王良懐」(懐良親王)との日明貿易)
(明と「日本国王源道義」(足利義満)との日明貿易)
(明と豊臣秀吉との戦争「文禄の役」「慶長の役」)
・明の神宗万暦帝「茲に特に爾を封じて日本国王と為す」←豊臣秀吉「私はお前の臣下ではない」「朝鮮王子が人質として来ない」
2.江戸幕府は明・朝鮮との停戦交渉を推進します。
軍事圧力は、朝鮮への外交文書の中には脅迫めいた文言があるようですが、具体的に軍を動かした例は知りません
・日本と朝鮮との外交交渉における対馬藩の文書偽造(柳川一件)
・明への勘合貿易復活要請(本多正純による福建総督あての信書、琉球の使節に乗じた江戸幕府の親書送付)
日本と朝鮮との貿易は、対馬藩の捏造もあり、朝鮮側では徳川将軍を「日本国王」とし、
日本側では朝鮮通信使を日本への朝貢使と看做すという虚偽に乗っかった形で復活しますが、
日本と明との貿易は明が拒否したため進みませんでした。清代も含め明との貿易は私貿易(中国側から見ると密輸)の形をとります。
ちなみに、幕府は明滅亡時に、明から度々援軍要請がありましたが全て断っており、
清とは何らの外交関係も結ぼうとしませんでした(中国僧からもたらされた清は蛮族政権という見解を墨守)
3.江戸幕府は海外防備を、特に江戸時代中期からまるで考えようとしていません。(例 松平定信の蝦夷地荒蕪策)
これは蝦夷地ではロシア人入植者、ロシア軍の侵入という形で綻びを生じ、
長崎ではフェートン号事件を引き起こします。
理由は、松平定信らが朱子学馬鹿だったのだとしか私には考えられません。
>>653 太閤秀吉の歴史上の功績を教えず、朝鮮の侵略者扱いしているのは明らかに戦後の日教組の策略だと思う
島津とクリスチャンがやった非人道的な奴隷売買は胸糞の悪くなる事ばかり
当時の奴等がしでかした事が正確に伝えられていれば切支丹弾圧〜鎖国を何故したのか読み解ける
信長の時から始まっていた事柄だけど秀吉が当時の国際問題に対し完全に蹴りを付けた
この功績は計り知れない
一歩間違えていたら日本はフィリピン・インドネシアなどの東南アジア諸国と同じ奴隷国家となっていた
>>553 >太閤秀吉の歴史上の功績を教えず、朝鮮の侵略者扱いしているのは明らかに戦後の日教組の策略だと思う
江戸時代の儒学者はお前の中では完全無視かよwwww
>>553 戦前の戦争教育でも讃えられたのは三韓出兵に勝利した神功皇后だけで
豊臣秀吉の朝鮮出兵は別に讃えられてなかったんだけどな
太閤秀吉の歴史上の功績は皆知ってるだろ
明治以降現在までに秀吉と言えば好きな日本の偉人1位を何度もとってるんだから
>>555 息を吸う用に嘘を吐くな
加藤清正が大陸進出の象徴のように扱われたことも知らんのか
>>552 秀吉は日本国王に封じる国書を受け入れているぞ。頼山陽の嘘をそのまま書くなよ。
室町幕府同様五山のアドバイスから受け入れたんだろうが。
定信以降無策というのも間違い。ロシアの接近に対して江戸湾警備や東北諸藩の警備体制
を敷いている。その後のロシアとの緊張状態になるに従い、蝦夷地を直轄にしているし、
最終的にゴロヴニン事件を穏便に処理することで北辺は平和に回帰したことは「外交」が
まともに機能していたことを歴史が証明している。
あとフェートン号はイギリス船だろうがここはニュー速+ではないぞ低レベルな煽りをするな。
どうも552は頼山陽の件といい江戸幕府は外圧に対処できなかっただの徳川sage明治維新age
のゆがんだ歴史観に支配されているようだな。
558 :
日本@名無史さん:2012/11/17(土) 12:37:39.90
江戸時代、町人でも旅をするときは自衛用の脇差の携行が許されていたそうです。質問ですが、
1 この旅用脇差は、その町人が購入する私物ですか?それとも役所から借りる物ですか?
2 私物の場合、旅が終わり脇差が無用になったら売却するのが決まりですか?
3 借り物の場合、旅が終われば当然返却するでしょうが、出発点と終点が同じ旅なら良いですが、
引越しを伴う片道旅の場合は、どうするのですか?
559 :
日本@名無史さん:2012/11/17(土) 14:36:45.94
>>557 間違いを正々堂々と書いても困る。
松平定信が無策だったから空地をロシア人が占領してきた。
>>558 自分で買ったもの。
町人でも脇差のたぐいは普通に持っていたし、幕府もさほど咎めるようなことはしていない。
>>559 アホか。当時の日本御防衛限界も考えず帝国主義的に拡張しろって言いたいんだな。
だいたい空地ってなんだよ?ロシアが取ったのは無住の地か?
お前みたいなのを当時の状況を無視した歪んだ歴史観の持ち主っていうんだ。
>>560 松平定信は、蝦夷地を放置し和人入植を行わなければ国境の安全を保てると主張しています。
欧米人の言う「無住の地」化ですね。
田沼の交易基地設置や漁業開発が権益保持としては常道であり、松平定信の主張は言語道断なものでした。
事実、ロシア人は寒すぎたシベリアよりは沿海州、樺太の開発に積極的となり、日本はこの後防衛上軍備が必要となってしまいます。
>お前みたいなのを当時の状況を無視した歪んだ歴史観の持ち主っていうんだ。
これはあなたに奉るのが相応しい。
フェートン号事件も、防備に無策だった当時の日本の状況を示す例でしょう。
江戸幕府は時代を追うにつれ、海外の技術を入れず防備を放棄する傾向を強めてゆきます。(海国兵談禁書処分、高野長英投獄など)
その結果が黒船来航であったということ。
>>561 田沼意次のやったことは蝦夷地からの収奪的搾取にほかならない。
そのためアイヌからは大きな反感を持たれていた。
その悪化した現地状況への対応が、民政の安定を主眼においた松平定信の政策にも影響しているのに
君のようなパワーゲーム史観ではその点が見えないのでしょう。
>>562 > 江戸幕府は時代を追うにつれ、海外の技術を入れず防備を放棄する傾向を強めてゆきます。(海国兵談禁書処分、高野長英投獄など)
> その結果が黒船来航であったということ。
頭がオカシイのか歴史を知らないのか、歪んだ通俗読み物で歴史を知った気になっているのか知らんが
江戸幕府は時代が下がるに連れ海外情報の収集にどんどん熱心になっていき、技術の取り入れも盛んで、
黒船来航も何年も前から察知していたし、ペリートの考証も日本側の一方的勝利といっていいほどの完勝だった。
そういうこと、知らないでしょ、君
565 :
564:2012/11/17(土) 17:00:10.15
>>536,537
どこからそのような文を仕入れてくるのかは知りませんが、
あなたの見解はまともな歴史研究者は否定しております。
産経新聞の中には時に度を越した日本偉大論が出てくることがありますが、
あれを真に受けるとこのような文を平気で書くようになるのでしょう。
松平定信の蝦夷地放棄策は、定信の意図とは違いロシアの侵入という形であっさり破られました。
民心の安定? 異人との接触を禁止したために却ってロシア人による略奪暴行が多発しました。全く安定せず不穏になりました。
あなたは「民心の安定」という嘘をついた。
阿部政権はペリー来航は察知していても対策は一切行わず、江戸への侵入を許しました。
会議だけだったんですよ。
その完勝以降日本の金流出は?
江戸幕府の行動を贔屓目で見ようとすると、このような間違いを書くのでしょう。
>そういうこと、知らないでしょ、君
あなたに相応しい言葉ですね。無知のあなた。
どうも江戸時代を崇拝したいばかりに、嘘を並べている人が目立ちます。
そこまで江戸時代は良い時代ではありませんよ。
>>567 本当に何もわかってないな。時系列を見ることもしてないだろ。
金流出などの問題が起きたのはぺりーではなくその後のアメリカの全権特使ハリスの交渉以降。
しかもそうなった理由は幕府の方針のせいではなく、君みたいなのが大好きな上意勢力がこの交渉に反対の立場で介入して
日本の国内が混乱したためだ。アメリカとの交渉で負けたのではなく国内の混乱に付け入られたんだよ。
その後、関税自主権を喪失したのも長州や薩摩の勝手に起こした対外戦争で立場が弱くなった所を付け入られた。
はっきり言うと最大の癌が攘夷派だった。
明治維新なんてものは、もっとスムーズに行えるはずだった日本の近代化をいたずらに混乱させたものにすぎない
だったら、なぜ明治時代にならないと日本の人口は増加に転じないのでしょう。
「松平定信は農民のことを考えていました」と江戸時代好きの人から数々の政策が挙がっても、江戸時代の関東東北は人口が増えないんですよ。
何故明治時代の各種の政策は江戸時代には出来ないのでしょう。
>その後、関税自主権を喪失したのも長州や薩摩の勝手に起こした対外戦争で立場が弱くなった所を付け入られた。
>はっきり言うと最大の癌が攘夷派だった。
>
>明治維新なんてものは、もっとスムーズに行えるはずだった日本の近代化をいたずらに混乱させたものにすぎない
正反対ですね。明治維新がなければ日本は再生できなかった。江戸幕府は日本の近代化の障害でしかなかった。
>>570 それは君の解釈にすぎないがな。どっちにせよ学問的態度ではないな。
>産経新聞の中には時に度を越した日本偉大論が出てくることがありますが
どっちもどっちで本質論ではなく瑣末な事柄を針小棒大に書いていて見苦しいが
ニュー速民っぽいバカな煽りを唐突に書き込まれると「巣から出てくるな」と言いたくなる罠(苦笑
卑弥呼の時代にも天皇がいたと思うんですけど、何故天皇そっちのけで、巫女みたいなのを指導者にしたのですか?
まだいなかったから。
>>572 あなたの主張するソースを明かしただけですよ。
そんなに根拠のないことを主張したければ、そちらに帰ってくださいとしかいえませんがね。
>>573 分かりません。
宇佐神宮の比売大神などと同一視する意見もありますが証拠は全くありません。
皇祖の誰かにする説(畿内説)と九州王朝の女王とする説もありますが、どちらかというと畿内説の方が現在優勢でしょうか。
まあ、苦笑)と書いてあれば、嘘つきの罵倒カキコだけどな
577 :
573:2012/11/18(日) 00:07:19.64
>>570 20世紀になってやっとできたことを維新のおかげなんてよく言えたものだ。
田沼賛美をして自分が賢いことをアピールしたいだけの目立ちたがり屋
がまた現れたか。所詮明治維新を過度に持ち上げたいだけの連中に踊らされているに過ぎんのに。
戦後日本人の平均寿命はやっと60歳を超えたが明治維新をやった連中はなぜできなかったのかねぇw
未だに金流出が膨大なんてのはとっくに統計的に否定されたものを。未だにこんな俗説を信じているようでは
笑いものになるだけだよ。
田沼賛美の賢者さんはもっとブログのような落書きよりちゃんとした学者が責任編集したものを読んだほうが
いいよ。
>>578 反論できずに中傷を吹くようでは、(苦笑さんって荒らしだから、という評判がますます固定されるだけだと思う。
江戸時代を誇りたいなら、「明治の業績は全て江戸時代のおかげ、でも明治の悪い点はすべて明治のせい」なんて手前勝手は言わないこと。
ブログ信者の(苦笑さん、あなたは学者の説も知らない。
580 :
日本@名無史さん:2012/11/18(日) 17:13:03.14
>>578 >戦後日本人の平均寿命はやっと60歳を超えたが明治維新をやった連中はなぜできなかったのかねぇw
江戸時代を通じ日本人の体格は年々身長も低く栄養失調となり、梅毒や脚気などが骨格に現れる遺体が増えてゆきます。
明治からが復興でした。人口も寿命も体格も明治を期に回復し、現在の状態となります。
健康面でも江戸時代は最悪の時代でした。
581 :
日本@名無史さん:2012/11/18(日) 17:16:14.29
>>578 >未だに金流出が膨大なんてのはとっくに統計的に否定されたものを。
金流出及び経済不均衡問題は幕末からの貿易の主要課題でした。
否定する説の方が俗説だったと私は記憶しています。あなたはよほどいかがわしい文書を金科玉条のように掲げている。
荒らしに無暗に反応されても困る
>バカセ
いや、煽ってももう君の相手はしないから
それと関係ない他人を根拠もなく敵認定する状態が続くならマジ病院行けよ(苦笑
負け惜しみだけが得意な荒らし
苦笑厨は質問には答えない
586 :
日本@名無史さん:2012/11/19(月) 01:46:34.63
一ノ谷の戦いで平家が敗北したのは、源義経の作戦によってではなく
後白河院の謀略によってだ、という話があるそうですが、
実際はどうだったのでしょうか?
一の谷は戦い自体が虚飾に満ちていてあまりわかりません。
物語によると源義経が山の上から駆け下って勝ったということになるのですが、
実際に現地に行ってみると、大部隊を降ろすような傾斜よりはるかに急です。
ゆえに、崖から下った部隊は物語が伝えるより小部隊であった、もしかすると存在しないかもしれないということになっています。
また、戦い自体は神戸で東からの源範頼軍の襲来に備えていた平知盛軍が、
丹波から南下し、播磨を経由して西から攻めた源義経軍(指揮していたのは土肥実平)に包囲されたという形をとります。
後白河院については、平家から三種の神器を得る代わりに講和を行おうとしていたとされており、
講和の知らせに油断していた平家軍が強襲を受けて敗北したという側面もあります。
(休戦中にに攻めてきた、違反じゃないかという平宗盛の抗議書状が残っています。)
588 :
日本@名無史さん:2012/11/19(月) 21:33:32.04
プロイセンは宮廷費を削減して自国の産業の発達のために使いましたが徳川幕府はそういうことはやらなかったのでしょうか?
19世紀初頭の日本の産業は西欧のそれと比べてどれくらい遅れていましたか?
田沼意次は大奥を含む江戸城内の経費を削減しました。
例 御納戸金(将軍の私生活費)1750年(徳川家重の親政期):2万4600両→1771年(田沼時代):1万5000両
これは松平定信らの強い批判を浴び、彼の失脚の原因の一つとなりました。
例 「上様に差し上る御膳部やお召物、すべて粗末すぎる。倹約と吝嗇の区別わきまえないのか。また御代々伝わる武器の管理怠り、手入れ不十分である。」
(「田沼主殿頭へ仰渡さるるの趣」、史料としては「田沼罪状二十六カ条」、松平定信らが田沼追い落としを策し世間に流布させた文書)
このため、田沼が松平定信に追放されると予算は濫費され、田沼時代に171万7529両あった幕府の備蓄金もなくなってゆきます。
つまり宮廷費を削減しようとした人はいましたが、政敵に失脚させられて形にならなかったわけです。
また、19世紀初頭の各産業をみると、
欧州 日本
農業(18世紀 輪栽式農業(例 ノーフォーク農法)) 一部に商業的生産
紡績(1771 アークライトの水力紡績工業) 手工業
鉄鋼(1784 ヘンリー・コートの溶鉱炉) たたら製鉄
鉄道(1831 マンチェスター・リバプール間開通) なし
造船(1838 ブルネルの大西洋横断蒸気船) 千石船
機械(1712 ニューコメンの蒸気機関、1769ワットの蒸気機関) 水車利用など
軍事(1855 アームストロング砲) 1614 徳川家康による青銅砲(カルバリン砲など)導入
規格化(1765 グルボーバル・システム) 手作り一品物
産業革命以降の欧州の技術的発展に日本は取り残されていました。
これが防備力の不備として、被侵略地域となるとの恐怖を日本の有識者に与えていました。
>>589 > 田沼時代に171万7529両あった幕府の備蓄金もなくなってゆきます
浅間山噴火のこと知らないのか。お前本当に馬鹿なんだなあ
幕府の備蓄金がなくなったのは江戸城経費なんてチンケな理由じゃなく
浅間山噴火などの災害や全国的な飢饉に対応したのが大きな理由だよ。
田沼はこのような災害への対応が遅く消極的で大きな批判を受けた。
松平定信は出費は大きくても積極的にコレに対応し、民生優先の政治を行った、と現在は評価されている
フリントロック銃はなぜ日本に入ってこなかったのでしょうか?
オランダ商館から情報を入手していなかったのでしょうか?
幕末まで延々と火縄銃を装備していたのは国防上重大な弱点だと思うのですが。
平和な時代なので武器の開発は幕府が望まなかった。以前TV鑑定団で見たけど、
国友鍛冶が空気銃を完成させたら音のしない空気銃は暗殺の道具として危険であるとして
禁止されたらしい。
>>590,591
それは事実に反しています。災害以外の松平定信の行った出費は蝦夷地失政など大きく、幕府破綻の遠因に数えられています。
595 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 19:09:56.74
>>591 江戸時代を通じ、特に関東東北では人口も寿命も下がっております。
松平定信の為政が民政中心だったのか疑問です。
稲作中心主義は改まらず、農村の飢餓は解消されなかったし、
都市でも収容した人間の半数以上が死亡した人足小屋が民政とは評価できないでしょう。
現在では、松平定信への評価は最悪と言われるまで落下しています。
>>594 >>595 > 災害以外の松平定信の行った出費は蝦夷地失政など大きく、幕府破綻の遠因に数えられています。
どこで?誰がどこでどのようにそう言ってるの?
> 江戸時代を通じ、特に関東東北では人口も寿命も下がっております。
> 松平定信の為政が民政中心だったのか疑問です。
寿命が下がったというのは飢饉の影響だし、人口減自体は江戸中期の大開発時代の終了により
九州などを除いて起こった長期的現象であり、定信の政策に責任を求められるものではない
というか、まさか田沼時代に寿命や人口が伸びたとでも?
> 現在では、松平定信への評価は最悪と言われるまで落下しています。
だから、どこでどんな人がどういうふうに言っているのか、論拠を書いて下さい。
どうせキミは、風雲児たちあたりを読んでころっと「田沼は正義!進歩的!近代的!」なんて信じちゃったんでしょうけど
あれ、嘘っぱちだから。
現在はむしろ、俗説的な行き過ぎた田沼賛美を修正している方向にあります。
その中で松平定信の再評価も進んでいます。
597 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 22:06:15.34
>>596 あなたの主張は全く筋が通りません。
松平定信の「改革」は民生優先の政治だったとあなたは主張しますが、寿命も低下し人口も減少と良いところがないんです。
また、松平定信の蝦夷地放置政策及び異人接触禁止政策は、その後のロシア人入植と襲撃を誘発し、
幕府は蝦夷地防衛のため守備隊を派遣しました。以後幕府は守備隊の維持費用に頭を悩ますことになります。
田沼の交易や漁業基地建設の方が数段まともでした。
現在はむしろ、根拠のない過去の松平定信礼賛説はすっかり排除される傾向にあり、松平定信はまるで評価されない人間の一人となっています。
しかも自らが提案した江戸警備部隊派遣が白河藩に下ると、警備任務のない桑名藩に移封を申請してしまった。
自分で言ったことも守らない無責任さ。松平定信はとても為政者として良い人間だったとはいえない。
>>597 言ったもんがちだと思っているなこいつは。定信以下の歴史は警備よりも交渉が重要だということだよ。
田沼の交易だの漁業基地だのの言うとおり、幕府が蝦夷での直轄経営で大赤字になったから松前に返したんだよ。
いい加減自分が無知なののを認めて見るだけに戻りなよ。IDが出ないから連投して何人も投稿しているように見せ
られるとでも思っているのかね。
600 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 23:21:14.64
松平容保厨房の言うことは筋が通っていません。
蝦夷地開発の経過
1.松前藩の侵略略奪
2.田沼意次による交易基地設置、漁業基地開発、地理探査、和人入植地模索
3.松平定信による田沼の計画全面破棄、蝦夷地放置策、異人接触禁止策
4.ロシア人の来訪、日本側の接触拒否で略奪侵略へ
5.日本、防衛隊設置を余儀なくされる(出費増)
結局、松平定信の蝦夷地開発禁止と異人接触禁止策が、ロシア人の入植と日本領への略奪侵略を生みました。
田沼の交易漁業基地設置でよかったんですよ。松平定信がそれを破ったから、結局は防衛隊配置で出費だけが膨らんだ。
松平定信を擁護することなど出来ません。松平定信ほど無知で無能だった為政者は少ない。
601 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 23:29:29.65
戦国時代、備中高松城の戦い。
毛利軍の増援到着が、秀吉軍が高松城を包囲し、水攻めを開始した後と遅れてしまった理由は何でしょうか?
秀吉軍が来るのは分かっていたけど、何らかの理由で増援を出すのが遅れたのか?
それとも当時の毛利側の情報収集能力・伝達能力では、秀吉軍が姫路城から出発し西進した事を察知できなかった
のでしょうか?
宇喜多家が織田側に付いた時点で備前備中国境線が最前線になるのは分かるのですが、毛利軍が秀吉軍到着
より前に高松城周辺に到着し防備を固められなかった理由は何でしょうか?
>>599 >幕府が蝦夷での直轄経営で大赤字になったから松前に返したんだよ。
松前藩は利益を上げていました。そして田沼の計画は交易基地・漁業基地だけでなく和人入植も含んでいました。
それが領土確定には一番良かったと思います。
それが松平定信の場合、蝦夷地を放置してロシア人に入植されたり、接触を拒否して略奪に向かわせたり、
挙句の果てに防衛軍を設置するという多大な出費を幕府に強いたわけですから、幕府を滅ぼした元凶扱いされても仕方がありません。
羽柴秀吉軍が姫路城を発したのは3月15日、4月2日に宇喜多の軍勢と共に当時最前線だった岡山から毛利領へ侵入します。
高松城に到着したのは4月14日。直ちに高松城北東側の高地にあった支城を攻略し、南側の平野部の支城も攻略します。
4月27日と5月2日に高松城総攻撃を実施しますが堅城で陥落しません。
そのため秀吉軍は毛利軍の救援を恐れ、城の南西を流れる足守川を防衛拠点に高松城の包囲を行います。
この時に城攻め案として浮上したのが水攻めで、5月7日に工事を開始し12日で堤は完成、19日には水を満たし始めたといわれています。
毛利軍の小早川隆景が到着したのが5月22日。
4月2日との開きが約一月と三週間、4月14日との開きが一月と一週間。決して遅い対応ではありません。
例えば天文9年(1540年)、尼子氏が毛利氏の吉田郡山城を攻めた場合、8月10日に月山富田城から出た尼子軍が吉田郡山に到着するのは9月4日です。
毛利軍の進軍は当時の戦いで標準的なものでしょう。ただ単に秀吉軍が圧倒的に敏速だったということになります。
604 :
602:2012/11/22(木) 22:34:19.73
レスありがとうございます。何と、毛利軍が遅いのではなく、秀吉軍が早かったと。これは全く予想しておりません
でした。
>>602 松前は海防なんか全くしなかったからな。だからロシアとの緊張時には幕府直轄地になった。
入植は実際に入植した八王子千人同心が多数の死者を出したように絵にかいた餅にすぎん。
定信は東北諸藩に海防対策を命じたが社会的負担が重く途中でやめている。
当時の日本が天明期の疲弊から脱していないのだから当然だわな。こんなことになるなんて
天才的政治家w田沼は何をやっていたのやらw
606 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 23:01:59.42
>>605 机上の空論を掲げて松平定信を擁護するのはおかしい。
例えば八王子千人同心の蝦夷地入植は寛政12(1800)年の時であり、田沼は全く関係ない。
むしろ寛政の遺臣とされる、松平定信の改革が継続された時代として松平定信擁護者が主張している時期だ。
そのような時期の失政を、松平定信ではなく田沼に押し付けようとする神経を疑う。よほどの捏造者しかこのような行為はしない。
そして田沼の計画では、交易基地と漁業基地建設の延長線として入植が計画されていたのであり、
寛政の時のような、既にロシア船が出没していたから防衛上遮二無二配置したということではない。
松平定信の蝦夷地遺棄策が蝦夷地におけるロシア人の入植を呼び、これが松平定信による異人接触拒否策と相まって
ロシア人による蝦夷地略奪行為を生んだ。そのために幕府は巨費を払って防衛部隊を配置した。
全ての原因は松平定信から始まっている。松平定信程無知蒙昧かつ失政を重ねた為政者もいない。
しかも松平定信自身が提言した関東沿岸警備でも、白河藩に役目が回ってきた途端に移封を要請し
桑名へ引っ越してしまう。自分で言ったことも守らない奴が松平定信。
蜜人というのは、ウイグルあたりで老人が死期を悟って
自ら人々を救うために蜜人となる発願を立て、それ以降体を洗い清めて
蜂蜜のみを食らい続ける、そのうちに小便や大便までが蜜のようになり
この老人が死ぬと蜂蜜を満たした石棺に沈められ、墓地に葬られる
その後百年たつとこの棺が掘り返され、ふたを開けられるがそのとき
死体は蜜に溶け、棺の中にはただ蜜が有るだけだという、これを蜜人といい
骨折した物がこの蜜人を一舐めすれば、たちどころに癒えたという。
>>606 ロシアとの外交を正常化させたのは軍事力の増強でなくゴロヴニン事件から始まる対話だ。
くだらん入植計画なんかでなくな。田沼なら経営がうまくいったなんてのは妄想でしかないな。
天明の大飢饉に無為無策で江戸の打ち壊しで将軍家治にも見限られた田沼が
一体どんな天才的な経営能力があるというのかね。たまには商業の振興なんていう
教科書の羅列的な文字でなく専門書から引くなりして書いてみたまえ。
>>608 具体的な反論が出きず中傷へ転じましたか。
ロシアとの外交は松平定信の方針で決定的に曲げられ、大黒屋などの尽力はありますが好転には至りませんでした。
以後、ナポレオン戦争に伴うロシアの進出停止を挟み、沿海州と樺太はロシアの入植対象として日本との軋轢を深めてゆきます。
妄想で松平定信を擁護しようとしても、幕府の財政を傾かせた倉米制度以外、どこにも彼に業績などありはしないのが事実です。
専門書といっても、あなたの引用するものは数十年以上前の既に否定された説の羅列に留まっております。
あなたの説は現在では否定されたものばかりです。
610 :
日本@名無史さん:2012/11/24(土) 10:17:19.68
鎧兜に身を固めた戦国武士達の熱中症対策はどのようにとられていたのでしょうか?
鎧兜の色は黒が多く、衣服の色も濃い目で日光を吸収しやすいですし。
会津征伐等、夏に行われた合戦もあるので気になりました。
水分塩分補給して、後はひたすら我慢だけだったのでしょうか?
やはり熱中症で倒れるものが多かったのでしょうか?
>>610 鎧をつけるのは合戦直前になって初めてだよ
>>609 田沼賛美はもうやめたのかねw君のような人が頑張らなければ
また賄賂政治家に逆戻りだよ。
ロシアとの軋轢とは何かね、詳しく記述しなよ。あと大黒屋光太夫じゃなく
高田屋嘉兵衛な。軍事行動はフヴォストフの独走に過ぎず、その後処罰されている。
日露当局は外交における当事者能力を持ち戦争を回避し、平和につなげた、これが歴史だよ。
勝ち負けに異常にこだわる田沼賛美君にはこんな歴史は信じたくないのだろうが
ロシアを侵略者とみなすなど幕末の攘夷論者と変わらん江戸後期の幕府外交への
無知をよく見せてくれたね。
613 :
日本@名無史さん:2012/11/24(土) 13:26:17.40
>>611 大河ドラマではよく、行軍中も見に付けているようだけど、
あれは間違い?
>>613 臨戦態勢、あるいは城下での凱旋以外は嘘
>>612 根拠のない主張だけが松平定信愛玩者の特徴ですが、
松平定信の交流拒否姿勢が事態を悪化させたことについては議論を放棄し、逃亡しているのが滑稽でなりません。
無知蒙昧たる松平定信及びその支持者の皆さんは、議論の本質は逃げ中傷だけを残す有害生物ですね。
それで、あなたの呼ぶ(松平定信寄りの)専門書が、現在では真実性を否定されているという事実についても逃亡ですか。
>>612 松平定信支持者の言う功績とは何でしょう。
松平定信の主張「蝦夷地を荒廃させて置けばロシア人は入植しない」
→実際はシベリアより温暖だったのでロシア人は優先入植してきた
松平定信の主張「異人との接触を立っておけば異人は接触して来ない」
→実際は食料及び燃料を求め、略奪占領を開始しました。
そのため、交易基地や漁業基地建設を意図した田沼時代ではなく、
松平定信以降の蝦夷地は、防衛部隊を幕府の費用で配置した負担の大きい地域へと変わってゆきます。
松平定信の行政に良いところなど一つもないんですよ。江戸後期の幕府外交への無知とは、
まさにロシアを侵略者とみなすなど松平定信の行動そのものです。
>>616 支持者とかそういう変な方向に持って行ってるのがおかしい
必死になって論点をそらそうとしているのはキミの方だよ
618 :
日本@名無史さん:2012/11/24(土) 15:43:46.84
>>617 私は事実を指摘し、松平定信を愛玩する人は
>>612のように事実から逃げ中傷を撒いてゆきます。
無知の象徴として
>>612は掲げられるべきでしょう。
反論も出来ずに
>>615,616らをスルーし注意をしたつもりというのは解せません。
>
>>612の中傷煽り(しかも根拠なし)は最低だが、それに軽くけんかを買うのもどうだか
>>611 身に付けないとなると、自分で担ぐの?
余計重たい気もするが
622 :
日本@名無史さん:2012/11/25(日) 20:31:44.36
ヤマト王権とヤマト朝廷を区別するのは何でですか?
623 :
日本@名無史さん:2012/11/25(日) 21:28:17.25
安土城は、本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の
後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城
のため、1585年(天正13年)をもって廃城されたと伝わっているそうです。
安土城の維持・増強でなく、すぐ近くに八幡山城を新設した理由は何でしょうか?
>>622 実態の判らないそれが既に朝廷であったように受け取られる事を避ける為です。
>>623 いろいろありますが。城としてみれば安土は狭苦しく城下町の拡張性がなく、
何より時代遅れの、しかも規模の小さい山城だったことが上げられます。
626 :
623:2012/11/25(日) 22:35:35.62
>>625 明快なレスありがとうございます。疑問解決です。
>>624 この場合の「朝廷」が備えるべき条件は何ですか?
>>621 足軽だって、鎧が必要だろうに。
あんな連中に従者がいるのか?
>>628 全身を覆うような立派な鎧や兜を身に着けるのは上級の武士だけ
足軽はせいぜい、胴巻きと陣笠程度
>>627 要するに大王(おおきみ)の力が他の豪族達に君臨する位強かったのかどうかって事です。
と、書いてしまいましたが、そもそも大王だったのかすら判りません。
>>630 つまり、政治システムがよく分からない時代のことは、とりあえず王権とでも呼んでおこうという態度ですか?
>>631 大和朝廷につながるにしてもことさら大和朝廷(ひいては天皇家)を古く見せかけるのは宜しくないという事でしょう。
633 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 15:43:25.70
>>231 >初期の火縄銃は精度が低くて中らないから敵に脅しをかける物だった。
>それを信長が長篠で弾幕を張る的な使い方をして価値を高めたというのが通説。
「鉄砲隊を三列に並べて武田の騎馬隊を破った」
歴史の授業では上のように教わったが、これって今では間違いだとされているの?
本当はどのようにして戦ったんだろう
>>633 「鉄砲隊を三列に並べて武田の騎馬隊を破った」と矛盾は無いよ。
>>231が書いてる「弾幕を張る的な使い方」は的を狙わず一斉射撃すること。
馬防柵で騎馬隊の足を封じた上で三列に並べた鉄砲隊が順番に斉射する。
火縄銃も早合というのを使うと『熟練者なら発砲後の次弾発射準備が18〜20秒で完了する。』と
いうことなので三隊で繰り返せば狙わなくても殲滅できる。
636 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 09:31:35.28
足利尊氏の人と成り、人望があった理由を教えてください
637 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 09:44:06.79
>>636 尊氏に特別な人望があったというより、尊氏の出自が武家社会ではよかったこと
(清和源氏の中でも歴代当主が北条氏から正室を娶り鎌倉幕府内での地位が高かった)
あとは味方についた武将には恩賞を惜しげもなく呉れてやったことだろう
室町幕府は歴代の幕府の中で一番直轄地(天領)が少なかったらしい
だから座をつくったり七口つくったりして生活する必要があったとか
>>636 この頃の武士たちは、土地問題、経済問題でいろいろ不満を持っていた
鎌倉幕府がその不満を解消してくれなかったので、倒幕に協力したものの、新たにできた後醍醐天皇の政権は武士に
とっては前よりひどい
で、そんな時に、
>>637さんが言うように出自もよくて気前のいい尊氏がいた
だから尊氏は、全国の武士にとって、自分たちの利権を守ってくれる政権を築いてくれるという期待の星となった
一時は九州まで落ちたのに、すぐに勢力を盛り返すことができたのはまさにそのため
つまり、こういうこと
国民(武士)は、自民党(鎌倉幕府)政権がひどかったので潰してみたら、次の民主党(後醍醐)政権がもっとひどかった
そんなところに、名門出身で、国民に受けのいい政策を掲げた政治家(尊氏)が現れたので人気が出た
639 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 12:44:28.35
徳川家康の男系子孫って一体何人ぐらいいるの?
日本史上、天皇家除いてに最も子孫を残した人物じゃね?
子供の数で言えば子孫の家斉の方がずっと多い。
>>639 藤原氏のほうが末裔はよほど多い
徳川など清和源氏新田流庶流得川氏の末裔を称していたにすぎない
643 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 18:19:29.47
南北朝時代の各勢力の支持基盤ってどうなってんの?
644 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 18:36:03.15
>>643 そんなもの正確にわかったら学会驚天動地だわ。
肖像画って、同じような構図ばっかですが、描き方にルールがあるんですか?
そしてそうだとすると、なんで島津義弘の肖像画は正面向いてるんですか?
649 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 10:51:59.65
>>643 北朝支持勢力、南朝支持勢力と言う意味かな。大雑把にはわかっていますね。
前者は尊氏ら天皇を中心にしながらも武家政権を支持する勢力で、
後者は天皇中心の政治を原則とする後醍醐支持勢力、特に畿内の当時「悪党」と呼ばれていた勢力でしょう。
後醍醐崩御後は、幕府に兄弟間の内訌が起きたり、
幕府内での反主流の守護大名が南朝方に付いたりと当事者の思惑で対立構図が変わったりします。
>>649 いやもっと細かくしりたい
戦国時代と違って勢力が地方ごとにブロック化されてないからよく判らなくて
尊氏なんかは東国武士なのに九州で再起を図ってたりするし
北畠親房も一時期常陸で勢力作ってたり悪党の赤松円心が公家にコネもってるとか謎のつながりがあったり
公家も武家もフットワーク軽くて領国も配下の武将もかなり流動的だから部下たちは何を思って従ってたのかなと
>>647 仁孝天皇生母(勧修寺経逸女)の母が、家康の子孫である鹿野藩池田仲庸の娘ということなんだろうけど、
勧修寺家の家譜には母は家女房と明記されていて、後世の人が経逸正妻を母と勘違いしたものと思われる。
ちなみに勧修寺家譜によると、数多くいる経逸の子女のうち、
飛鳥井雅重女の所生が、勧修寺良顕と女子(早世)、
池田仲庸女の所生が、男子(早世)、女子(正親町三条公則室)、芝山国豊、女子(坊城俊明室)、冷泉為起、
母名なしが1名、ほか14名が母は家女房となっている。
>>644 昭和天皇の母が徳川家康の子孫というならまだわかるのだが
徳川家康ー徳川秀忠ー徳川家光ー千代姫ー徳川綱誠ー徳川吉通ー三千君ー
九条植基ー二条宗基ー二条治孝ー九条尚忠ー九条道孝ー九条節子(大正天皇皇后)
653 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 17:29:50.05
>>650さん
>>649を回答した者ですが、
>>645さんのいうとおり、詳細の正確なところは不詳なのかも。
専門書で調べる手もありますが、自分も知りたいので、他の方の回答を期待します。
>>650 南北朝時代は尊氏自身北朝についたり南朝に寝返ったりしている
九州は尊氏復帰の足掛かりとなった地域であるが、その後は今度は
南朝から鎮西大将軍に任じられた懐良親王(後醍醐皇子)の拠点となり
懐良親王が明に朝貢するなど南朝方の一大拠点となっていたりする
そうかと思えば足利尊氏と対立する足利直冬(尊氏庶子・義直養子)も
九州で軍を立て直していたり
寝返りが多いから○年時点での勢力図、といった解説しかできない
655 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 17:59:25.93
>>651 国会図書館で調べたけれど、
堀河康親室(岩倉具視実母)も、母、勧修寺経逸継室(池田仲庸娘)となってましたで。
一体、どれがただしいのやらさっぱりわかりませんわ・・・
656 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 20:55:13.15
岩倉具視の子孫の加山雄三がテレビ番組で上野東照宮に参拝したとき、
「ご先祖様をさかのぼると、東照大権現様にいきつくんですよ」と
あのバカの加山雄三が、珍しく神妙な顔をして語っていたのが印象に残っているわ。
加山雄三と徳川家とどうつながるのか、いまだにわからんが。
「正しい」ってのは、DNA鑑定でもしないと結論は出ないでしょうな。
しかしここは歴史板ですから、史料の解釈の仕方に主眼を置きますと、
妾腹の生まれであっても、記録上嫡母や父の嫡妻が「母」とされるケースは間々みられ、
場合によっては養子に行った先の養母が「母」となっている例もあったりしまして、
他史料の突き合わせなどで整合をはかる必要がありましょう。
国会図書館の史料が何という書物なのか、誰の手になるものか、にもよりますが、
家譜の場合、普通の系図集では名前さえ削除されていそうな兄弟姉妹の母親までを細かく載せていることがあり、
(だからといってそれが絶対に正しいということにはなりませんが)
妾腹なのに父の正室が「母」とされることはあっても、正室腹の者が家女房腹と記されることは
まあ滅多に無いでしょうから、私はそちらの史料を重視するという考えでのぞんでおります。
幕末の幕府ってどうしてあんなにだらしなくなっちゃったの?
朝廷に一々開国の許可を求めたり、長州が大兵連れて京都に来ても文句もいわず
薩摩に脅されて文久の改革を押し切られてたり。
往年の幕府の権威はどこで消えたんでしょうか?疑問で仕方ないです。
659 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 17:37:03.37
前例主義でなんとかくうまく運営してたところに
前例にない事が起こっちゃったから
>>658 幕末の将軍に統治能力がなかったというのはあるでしょう。
ペリー来航時の将軍家定は一説に軽度の脳障害があったと言われ
老中の一人に過ぎない堀田正俊に政治は丸投げでした。
長州征討の頃の将軍家茂は12歳で将軍となり若年。長州征討の最中、21歳で没してしまいました。
将軍の血筋が血統で決まる以上、能力がなくても若年でも将軍になれるようになったため、
50代で征夷大将軍になった初代家康のような老獪な将軍がいなかったということです。
知的障害の将軍は家重もいたし家治も老中に投げっぱなしだったけど、幕府の権威は強かったよ?
>>661 家治は聡明で自分で政治を執っていた
一時期田沼意次を信任しその意見を取り入れていたが統治能力がなかったわけではない
家重は障害者だったため父の大御所吉宗が隠居後も幕政を統治し続けていた
吉宗が死んでから家治の将軍就任までは吉宗の享保の改革の遺産があったおかげで
たまたま何も起こらなかったと言われている
663 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 20:10:04.42
質問です。
すごく昔の話なので、たぶん日本史板でいいと思います。
天皇陛下が、韓国の誰だかに「自分はおたくの国と縁がある」とかなんとか
何年か前に発言したということですが、これは本当なんでしょうか?
発言があったことはどうやら本当らしいですが、ただのリップサービスってことはないと思います。
しかしわからないんだけど、
わが天皇陛下が、韓国とどんな縁があるってんでしょうか?事実なんですか?
また、2ちゃんねるで、現在の朝鮮人は古代とは別の民族だと読んだことがありますが、
天皇陛下との縁があるのは、すでに存在しない民族ということなんでしょうか?
そもそも天皇家の起源(天から降臨されたとかではない意味での起源)なんて、誰も知らないですよね?
664 :
日本@名無史さん:2012/11/29(木) 20:22:26.30
>>663 2001年12月23日、天皇陛下は68歳の誕生日を迎えた際のお言葉で、翌年の日韓共同主催ワールドカップの予定の話題に触れ、
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招聘されるようになりました。
また、武寧王の子、聖明王は日本に仏教を伝えたことでしられております」と述べた。
桓武天皇の生母高野新笠は「続日本紀」に百済武寧王の子孫を称する渡来系と記されており、
天皇陛下はその血を引いていると言ったもの。
665 :
日本@名無史さん:2012/11/30(金) 01:02:58.87
「人国記」によると、薩摩大隅の人間は、忠義や礼を気にせず、死を受け入れているように描写されてますが、
自分のイメージする薩摩は、島津の引き口や郷中教育など儒教の匂いが強い地域です。
薩摩人が儒教に傾倒し始めるのは、いつからですか?
>>665 > 島津の引き口や郷中教育など儒教の匂いが強い
儒教的価値観だとどちらも極めて野蛮なんだが。江戸時代の儒教教養も薩摩はせいぜい上級武士止まり。
儒教的道徳が定着したのはぶっちゃけ明治以降だろう。
薩摩の場合、儒教とは関係なし。
あれは年長者をいたわると言いながら、若衆の言うことには逆らえない。
朱子学や儒教などよりもずっと以前にある、腕っ節の強い連中を中心にした集団規律と考えれば良い。
薩摩の場合、朱子学の導入は戦国期、京都の戦乱から逃げてきた仏教僧による薩南学派の形成と
福昌寺などを中心とする禅宗教育の一環としての朱子学研究が中心とされる。
しかしこれが武士に浸透していたかというと、西郷隆盛が周辺学生と開いたのが近思録輪読会だったわけで、
入門程度の学習本を読もうかという段階。薩摩藩の一般武士は朱子学ではなく派閥力学というか、若衆の掟のようなもので動いていたと思われる。
島津斉彬も、「薩摩藩士の(国学や朱子学等の)学習程度はとても低く、弟の島津久光だけは感心する」と言っている。
但し上層部は、自らに都合の良いものはすぐ自らの見解にした。
上杉家や吉良家と縁があったのに、忠臣蔵が好評となると「忠臣蔵のように藩の武士は藩主に仕えるものであり、幕府に仕える必要はない」
と言って幕府に対立する論拠にしてしまった。
>>666 >>668 ありがとうございます。
男社会のマッチョイズムをみると、すぐ儒教の影響だとおもうのはいけないですね。
でも、若衆独断専行の代わりに、朱子学老害もいなかったんだよ。
どちらが良いか悪いかは判断が付き難い。
江戸時代や、それ以前の日本で、「降伏」の意思表示をするにはどうしていたのでしょうか?
現代なら、物品においては白旗を掲げる、動作においては手を上げる等があります。
常陸国風土記の行方郡のくだりには、降伏の意図で「白幡」をかがけたという記述が見られるそうですが、
一方で、白旗は源氏の旗、白旗一機、徳川家康等の軍旗と、降伏とは真反対の使用がなされていますし。
昔はどうやっていたのでしょう?
>>672 両手を上げるのが降伏のサインというのは、ヨーロッパが発祥
早くから貨幣経済が発達していた中世ヨーロッパでは、捕虜は身代金を支払えば解放されたし、戦争で捕虜を
とる側も身代金が目当てだから、「武器を捨てたことを表す両手を上げたポーズが降伏のサイン」というような
ことが自然に決まっていた
日本では、そもそも身代金目当てで捕虜をとる習慣がない(敵将の家族や重臣など、重要人物を人質的に捕虜
にすることはあったが)ので、負けた側が捕虜になるためのサインなど存在しない
集団が降伏の意思を示すには、軍使を派遣してその旨を伝えるしかない
その辺りの西洋の戦時法・慣習は、騎士団経由でアラブから伝わったもんだけどね。
江戸時代の三百諸侯の領地と石高が詳しく載ってる全国地図はよく見るけど、
豊臣政権下の細かい諸侯を含めた全国地図は見たことありません。
どこかにないでしょうか?豊臣政権の一万石の領主とか、小領主について興味があるので。
676 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 18:58:09.89
>>675さん
個別にはわかっていますから、有志あたりが作っているかもしれません。
豊臣政権時代(1590年〜1600年ころ)は、
検地の途中で「石高制」が確立していなかったことがひとつ原因。
それと大名領地が確定していませんので、
江戸時代のように「石高一覧地図」が作りにくいことから、
学者や教科書編集者も、その作成に消極的なことが原因と思われます。
徳川家康は高齢にも関わらず、なぜ大阪の陣に自ら出たのですか?
後継者たちに任せておけばよかったのではと思うのですが。
>>677 端的に言えば戦に出れるほど元気だったからです。
679 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 20:39:19.54
戦国時代に、小笠原信興という武将について。ウィキペディアによりますと、
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E8%88%88 高天神城の戦いで、「・・・降伏した後、ほどなくして病死したとも言われている。また、
『北条記』によれば、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、北条氏政を頼って小田原に逃れたが、
ここで織田信長の命令を受けた氏政によって殺されたとされている。
別の資料では氏政の庇護を受けたものの、天正18年(1590年)に北条氏が滅亡したとき、
家康によって捕らえられ、過去の降伏の罪を咎められ処刑されたとされている。」との事。
もちろん真相は分かりませんが、
・もし信長が信興殺害命令を出したとしたら、どのような理由が考えられるでしょうか?
・もし家康が処刑したとしたら、別に信興は寝返ったわけでなく、家康が、
援軍を送らず見捨てた城の指揮官が戦った上でやむなく降伏しただけです。なぜ降伏をとがめられたのでしょうか?
織田信長は武田勝頼の武田氏を滅ぼし、織田軍の一員として当時の徳川家康はいたから。
当人の責任でなくても、敵に降伏した者は追随者を出さないために評価を下げる。
ましてその降伏した相手が滅んでしまったのだから、敵将よりも評価は下。
>>678 まだまだ血気盛んだったということですか。
結果的には、翌年亡くなってしまうのは皮肉なこと。
つーか、豊臣滅ぼして徳川の世を安泰にするまでは死ねないぜって一念で健康を保ってたから
その目標がなくなって、急に老け込んだんじゃね?
本物の家康は関ヶ原で死んで、影武者を使っていたから。
豊臣滅ぼして用済みになった影武者が始末されただけ
家康は豊臣を滅ぼすと言うよりも、むしろ融和策をすすめるため大阪の陣に自ら出てきたフシがある。
冬の陣の講和も家康と淀殿周辺の主導。
対決したがっていたのは秀忠と秀頼、及びその周辺。
685 :
日本@名無史さん:2012/12/03(月) 08:49:19.62
知らなかったんだけど最近は邪馬台国は近畿にあったという説が当たり前になってるの?
金印は九州から出てきてるし、近畿にあるとしたら邪馬台国が近畿以西の山陽山陰北部九州全て制圧か
勢力圏にした超巨大な古代帝国になってしまうと思うんだけど、無理はないの?
素人に教えてください
>>685 俺は元々九州説だったけど近畿説に有利な遺跡ばかり出てる現状です。
近畿に有って、近畿周辺程度の勢力でも全く問題ないです。瀬戸内や北九州と友好関係が出来ていれば
往来に何の支障も無いです。そうで無かったら朝鮮半島も勢力圏ですか?
>>685 >知らなかったんだけど最近は邪馬台国は近畿にあったという説が当たり前になってるの?
近畿は候補地が一箇所しかないから、そこだけをずっと発掘してたら結構いろいろ出てきたんで、
なんとなく有利になってきたって感じ。
九州は有力候補地があり過ぎることがあだになって、発掘のペースがかなり遅い。
全体としてみれば凄いものがうじゃうじゃ出てるが、だからといって、
それが邪馬台国との決定的な繋がりを示すものじゃないところが弱み。
>>686 倭人が魏にやって来れるようになったのは、朝鮮で通せんぼしてた公孫氏が滅亡したからじゃなかったっけ?
公孫氏程度で通行できないんなら、山陽山陰はともかく豪族が群雄割拠してた北部九州を通れるの?
中国の書にまで倭国大乱とか書かれてるぐらいの内戦状態だったのに、100年も経たないうちに畿内の豪族が
中国と往復できる安定性や、地の果ての魏に使者を送る必要性があるの?
689 :
日本@名無史さん:2012/12/03(月) 12:34:57.61
100石の知行地を持っていても、役に付いてなかった武士は、
普段はどんな生活をしてたのですか?
武芸や学問とかですか。
知行地持ってたら領地の経営だろ常考
>>688 倭国大乱をみんなで卑弥呼を担いで収めたから通れるようになったし、御輿としての卑弥呼の権威を
高める為に使者を送って金印を貰う必要が有った。
488 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] : 投稿日:2012/12/03 09:26:59ID:RC/vqUba0 [1/1回(PC)]
名前:可愛い奥様[] 投稿日:2012/12/03(月) 09:18:26.68 ID:Qt45Fz4s0
16 +4:名無しさん@13周年 ::2012/12/03(月) 02:18:01.01 ID: xm0FnEtg0 (1)
500 名前: イエネコ(西日本)[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 00:21:44.74 ID:9Ejy1hpx0 [2/2]
道路保全技術センター wikiより
財団法人道路保全技術センター(どうろほぜんぎじゅつセンター、英: Road Management Technology Center、現在は解散)は、
日本の国土交通省所管の財団法人。
道路および道路構造物の保全や調査研究、道路管理システムの提供、技術指導や資格制度の運営などを行っていた。
行政刷新会議による2010年5月の事業仕分けにより、2011年3月31日をもって解散[1]、同年11月30日付で清算手続きが終結した。
ちょw
道路保全技術センター
事業
・調査・研究および開発技術の提供
・レーダーを用いた路面下空洞探査、道路の防災管理、トンネルの保全、道路標識や路上工事削減に関する調査・研究などを行った。
トンネルの保全・・・
>行政刷新会議による2010年5月の事業仕分けにより、2011年3月31日をもって解散[1]、同年11月30日付で清算手続きが終結した。
>九州は有力候補地があり過ぎることがあだになって、発掘のペースがかなり遅い。
>全体としてみれば凄いものがうじゃうじゃ出てるが、だからといって、
>それが邪馬台国との決定的な繋がりを示すものじゃないところが弱み。
九州説が衰退したのは、近畿説の揚げ足取りだ・け・を二十年以上続けているから
直近の「近畿説の揚げ足取りだけではない九州説」って誰の何よ?
695 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 02:12:01.50
今の壱岐対馬住人って、元寇で生き残った人の末裔が増えたんですか?
それとも、元寇後、大規模な入植があったんですか?
696 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 23:33:19.76
凄まじい。既成政党を打破とか言ってるけどお前のとこが一番独善的
共産党やナチスより酷い妙ちくりんな集団
前科者も複数紛れて、いかにも大阪らしい
無党派さん[] 投稿日:2012/12/03(月) 21:55:03.05 ID:3W6Dp3GZ [11/13]
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012120300800 維新 比例名簿の登載順位は次の通り。
(丸囲み数字は順位。同一順位の重複立候補者名は省略。前=前職、元=元職、新=新人。敬称略)
【北海道=4人】(1)重複候補3人 (4)米長知得(新)
【東北=11人】(1)小熊慎司(新)=福島4区 (2)重複候補2人 (4)重複候補8人
【北関東=18人】(1)上野宏史(新)=群馬1区 (2)石関貴史(前)=同2区 (3)重複候補14人 (17)植竹哲也(新)(18)仲田大介(新)
【南関東=20人】(1)小沢鋭仁(前)=山梨1区 (2)松田学(新) (3)重複候補16人 (19)田中甲(元) (20)横田光弘(新)
【東京=22人】(1)石原慎太郎(元) (2)今村洋史(新) (3)山田宏(元)=東京19区 (4)重複候補18人 〔22〕上村昭徳(新)
【北信越=10人】(1)中田宏(元) (2)重複候補8人 (10)堀居哲郎(新)
【東海=14人】(1)藤井孝男(元) (2)今井雅人(前)=岐阜4区 (3)重複候補11人 (14)近藤浩(元)
【近畿=40人】(1)東国原英夫(新) (2)西村真悟(元) (3)重複候補8人 (11)三宅博(新) (12)重複候補28人 〔40〕喜多義典(新)
【中国=8人】(1)重複候補6人 (7)藤井昇(新) (8)谷本彰良(新)
【四国=7人】(1)重複候補4人 (2)重複候補2人 (7)大内淳司(新)
【九州=19人】(1)松野頼久(前)=熊本1区 (2)重複候補17人 (19)黒仁田典之(新)
マスコミに踊らされる前に、中身見たほうがいいな
697 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 02:24:06.76
学者が「天照大神」を「アマテラス」と呼ぶようになったのは、なぜですか?
「太陽の沈まない国」を「太陽の沈まない」と呼ぶような奇妙な感じがするんですが…
698 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 08:24:19.22
>>697 ただ略して言ってるだけでしょ。
「天照御大神」の名称の読みは「あまてらすおおみかみ」。
神社や本ではそう表記されていますよ。
699 :
日本@名無史さん:2012/12/05(水) 23:01:03.35
松の廊下刃傷事件とその結末はご存知の通りですが、
もし、浅野長矩が刀を抜かず、素手で吉良義央に暴行を加え、よって吉良が、
1 全く、又はほとんど治療を要しない軽傷を負った場合。
2 本格的な治療を要し、又は治療後も身体機能が低下するほどの重傷を負った場合。
3 死亡した場合。
それぞれ当時の状況としてはどの様な御沙汰が下ると予想されるでしょうか?
なんで安土伏見時代じゃなくて安土桃山時代というのですか?
701 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 00:54:57.71
>>698 ありがとうございます
称号じみた名前を略すのは、学者としてどうなんだとおもいますがね
イギリスもダメ?
>>699 「もしも」は私はやりません。
しかし刀を使わず、涎をたらしながらえへえへえへと叫んで殴りかかったとするなら、本当の狂人扱いされて
減封の上で浅野大学が後を継いで終わりだったかもしれません。
浅野の罪は、「勅使臨席の幕府正式行事中に舞台の上で自称素面で乱暴狼藉を働いたこと」です
>>700 伏見城の山が明治の時点で城がなくなっていて桃山だったから
>>699 怪我を負わす事が無かったとしても江戸城内での喧嘩自体がかなりヤバい。
狂人扱いされない限り多分改易。
つまり、これだけのことをやらかした浅野の免責には、彼が狂人であることが絶対に必要だった。
だから犯行後の彼の「私は正気」陳述がお家存続には致命的だった。
取り調べ官は何度も問い質したとされており、事実確認よりは、翻意を暗に求めていたとされている。
だが浅野は空気が読めなかったのか、何か理由があったのか、自分が正気だという主張を変えなかった。
なんで浅野は刃物を抜いて人を切りつけただけで改易になって
軍勢を率いて京都を焼き討ちにした長州はお取り潰しにならなかったの?
三家老の切腹で免除とか処分甘すぎじゃね?
>>708 天皇がお住まいの京都御所内で刃物を抜いたわけじゃないだろ
どんと焼でも京都御所は燃えてない
御所に鉄砲ぶち込んだだろ
712 :
699:2012/12/06(木) 20:53:04.01
皆さん、レスありがとうございました。私の想像よりはるかに暴力沙汰がご法度だったのですね。
ケンカの一つも出来ない江戸城じゃあ
議事堂内で刃物振り回したら逮捕されるよなぁ
714 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 23:26:54.17
>>700 秀吉の伏見城があった伏見山の異称(別名)を、桃山というとあります。山川『日本史小辞典』
それで、学者が信長の安土城の安土と秀吉の伏見城の桃山を並べて、
織豊政権時代のことを「安土桃山時代」としたらしいです。
715 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 00:08:19.36
>>714続き
秀吉は桃山(伏見城)には、あまり居なかったので、
「安土大阪時代」と呼ぶべきだという学者もいるとのことです。
そもそも、秀吉の生きていた時代には、「桃山」という地名はなかったしね
江戸時代に、伏見城の跡地に桃が植えられて、その地が「桃山」と呼ばれるようになった
伏見に秀吉がいた時代を「桃山時代」と呼ぶのは、いわば、後に「東京」と呼ばれる場所に政権があったからって
徳川幕府の時代を「東京時代」と言うようなもの
「安土伏見時代」、もしくは「安土大坂時代」と言う方が正しいと俺も思う
717 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 02:28:40.51
いやべつに正しい決まりとか無いから
織豊時代でいいんじゃね?
>>716 それは嘘
秀吉は大坂城にほとんどいなかった
秀吉は関白時代は聚楽第、関白を譲った後は伏見城に住んだ
秀吉が醍醐の花見に出かけたのは伏見城からだし、
秀吉が遺言をして死んだのも伏見城
720 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 19:53:27.63
なら、安土伏見時代でもいいわけだ。しかし、それを「安土桃山時代」としゃれたいい方を、
最初に使ったのは誰だろうね!
721 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 22:16:41.11
桃の木はいつ植えて、安土桃山時代っていつまでを言うの?
それによっては桃山でも何らおかしくないよね
あまり細かいことを言いだすと、足利幕府の義満より前の頃を室町時代と言うのもおかしいってことになるが
会津藩の白虎隊って、なんで少年だけで組ませたんですかね?
普通はそういう年齢別の部隊ってありえないらしいが。
老練な武士がいたら、集団自殺の悲劇も避けられたと思う。
壮年の会津兵が全て出払ってたから。
藩校で一応の軍事教育を受けてきたお子様をかき集めたのが白虎隊。
あと、人手不足を補うため年端のいかない武士の子弟をかき集めて戦に参加させたのは
会津の専売特許ではなくて、大なり小なりの藩は似たようなことはやってた。
二本松が比較的有名かな
会津藩は戦える藩士やその家族を総動員しなければならなかった
そして、そいつらを編成して、朱雀隊(18〜35歳)、青龍隊(36〜49歳)、玄武隊(50歳以上)を作った
同時に作られた18歳未満の部隊が白虎隊だったというだけのこと
726 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 23:16:54.28
捕り物系の時代劇に登場する人々で、
・犯人捕縛の際に同心、岡っ引きに同行するモブ戦闘員みたいな人々。
・岡っ引きは私服(?)だが、その人達はおそろいの紺色か茶色の作務衣みたいな服を着ている。
・武器は長い棒で、十手は持たない。
・犯人と同心・岡っ引きが格闘している最中は、周囲でちょうちん持って「御用だ御用だ」と言っているだけで
ほとんど戦力として役に立っていない。
・犯人を捕縛後、連行する時ぐらいしか役目が無い。
こんな役の人々が登場しますが、何と言う役職・身分の人なのでしょうか?
実在したのでしょうか?それとも時代劇の演出で架空の存在でしょうか?
>>723 本来は前線に出る部隊じゃなかったんだよ。
若年層ということで、後ろで荷物運びの指揮とか補助員に使えれば良いかと思って作られた部隊。
それが、まともなほうがさっさと陣を引き払って鶴ヶ城に籠もってしまったので、取り残されたわけ。
728 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 23:23:34.03
型かあるから 型破り、何も無ければ、型なし(無錫せいきょう?さんだったかな)
{エタ頭 中村勘三郎さんに哀悼の念を込めて・・・・合掌}
>>726 あれは時代劇のモブ。
実際は、同心とされる下級武士までが奉行所の人間で、その下に岡引(関西では手下という)という公認ヤクザの親分がいる。
岡引が配下の下っ端ヤクザを抱え、彼らも捕り方として活動する。
横からすみません
天正13年に姉小路秀綱を裏切り、松倉城に火を放った藤瀬新蔵はその後どのような末路を辿ったのでしょうか?
資料が見つからず困っています
何卒ご協力ください
>>726 小者ってヤツじゃないかな
全く架空の存在ではないけど、武家奉公人の「小者」とは微妙に違うような、でも、かぶるような感じ
時代劇はもちろん脚色されてるけど、
三つ道具じゃなくて六尺棒(実際に六尺の長さとは限らない)とか、
梯子なんかを使ってるね
多分、身分や立場を表現してるんだと思う
足軽はもちろん中間より下の身分で、
なおかつ同心などに私的に雇われた、奉行所に公認されてない立場
決まった「制服」があったわけでもない
>>724>>727 せめて指揮官としてご隠居したような高齢の武士を
付けられなかったのかなと残念に思う。
一人生き残った人も相当つらい思いしたみたいだし。
さて、「清見村誌 資料編」というのを見ると、藤瀬新蔵という人は現在の岐阜県高山市清見町藤瀬に墓碑があるようです。
それ以上のことは岐阜県立図書館に行ってみないとわかりません。
>>733 ありがとうございます
夜分遅くに失礼いたしました
735 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 03:23:04.10
秀頼は秀吉の子供ではない、という説があるそうですが、
実際はどうだったのでしょうか?
江戸時代の大奥ほど厳重ではないにしても、
浮気をさせないように対策をとってるでしょうし、
秀吉は秀頼を認知してますよね?
またこの説はいつごろから言われるようになったのでしょうか?
秀吉存命中の頃から、陰では噂されていたのでしょうか?
736 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 07:33:25.04
京都所司代や、京都、伏見の各奉行所の与力、同心たちは、
王政復古の大号令で徳川さんが京都を立ち退いたあと、どうなったの?
一緒に大坂に撤退したの?
大坂町奉行所の与力、同心たちも、慶喜さんが逃げたあと江戸に撤収?
737 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 09:23:08.75
大坂城代とか京都所司代にも与力や同心が付属していたらしいけど、
町奉行所の役人との職務のちがいがよくわからない。
町奉行付与力同心=警察
大阪城代付与力同心=行政官と軍隊
所司代付与力同心=行政官
江戸幕府では与力や同心という単語は課長と社員みたいな感じで職を表すのではなくて
職階を表しているようなもの。
>>736 王政復古の大号令により京都所司代や各奉行所はすべて廃止された
それから後のことは個人によってバラバラ
ちなみに京都所司代を勤めていた松平定敬は徳川慶喜と行動を共にし
慶喜と同じ寺で謹慎、その後明治新政府から謹慎を解かれている
>>732 だから前線に出す予定では無かったんだってば。
741 :
日本@名無史さん:2012/12/08(土) 23:46:15.52
天海が明智光秀だったって説はもうガセ確定したの?
ってか、中世に100歳を超える人間なんて存在したの?
742 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 00:03:22.90
戦国時代に南蛮人や紅毛人、明国人が日本で交易をしてたってことは日本人の通訳がいたってことだよね?
こういう通訳してた人って何者なの?例えば混血児とか?
特に語学の教育機関があったという話は聞いたことないし…
>>739 松平定敬の行動記述に疑問あり。
たしか
・鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜に連行されて、松平容保と一緒に江戸へ
・徳川慶喜から江戸退去を通告され、桑名藩の飛び地だった越後国柏崎へ
・柏崎の桑名藩代官が新政府恭順派だったので殺害、奥羽越列藩同盟・会庄同盟と行動を共にして新政府と開戦
・負けて会津藩内へ撤退
・会津も負けそうなので仙台藩へ、榎本艦隊に拾われて函館へ
・榎本政権崩壊に伴い新政府へ降伏
・新政府の監視下で謹慎
・西南戦争で薩摩が討てるとして義勇軍に参加
だったと思うが。
倭寇がいい例のように国籍不明の人間が九州、中国福建、東南アジアにはうじゃうじゃおり
人間の移動は非常に頻繁で複数言語を扱える人間は相当いた。
746 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 13:28:46.81
ほう、それは興味深い話だ。
非常に興味があるので良かったら、複数言語を扱える人間は相当いたというソースを教えて欲しい?
747 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 04:20:54.22
聚楽第のように、政庁を第と名付けるのは、日本や中国で他に例がありますか?
それとも秀吉の独創ですか?
種子島に南蛮船が漂着した時は乗船していた中国人が通訳して、日本側とは筆談した。
>>747 室町幕府が
花の御所=室町第、金閣などの足利義満の政庁=北山第
なのですが。
>>749 浅学で失礼。
足利義詮辺りが使いだしたネーミングセンスですか?
ちなみに足利義詮の三条坊門殿も、三条坊門第とも言います。
ちなみに後に京都御所になった里内裏である土御門東洞院殿=堀河殿=土御門殿も土御門第ともいいます。
これらは藤原氏の邸宅だったりしたものなどで、つまり、「第」は平安時代から豪勢な邸宅に普通に使われていた語なのではないかと思います。
ちなみに藤原道長の邸宅の一つであった里内裏の一つ、土御門殿=上東門第は、後に京都御所になった土御門東洞院殿とは別です。
「土御門殿」は三つくらい同じ名の建物が別々にあるので注意です。
>>749>>751 室町第=室町殿、北山第=北山殿、土御門第=土御門殿ともいう。
第と殿は同義語。
男性の貴人を指す「殿」という呼び名はもともと邸宅を差した言葉。
753 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 12:12:37.55
なんで刀匠には和泉守兼定みたいに受領した名前が多いの?
私称ですか?
江戸時代にも○○守って名乗ってる刀匠がいるけど、そもそも職人風情が官位を僭称してよかったの?
754 :
終わる関東:2012/12/13(木) 17:46:05.34
都内はセシウム ダイオキシン ベンゼン ガンマ線 放射線
癌で人口調整 年金 いらない税金対象者
755 :
終わる関東:2012/12/13(木) 17:51:50.62
電磁波 スカラ波 放射線 ストロンチウム90
性産む 放射線環境通信インフラ
癌を増やす計画はヒロポン 軍需工場でヒロポン ポン ポン
ポン 産めよ育てよお国にの時代ミたい
756 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 18:11:24.67
秀吉が清洲会議で担ぎ上げた三法師ってその後どうなったの?
関白になったあたりで消されたの?
757 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 19:02:50.76
>>756 生きてるよ
三法師は元服して織田秀信と名乗り、9歳で秀吉から岐阜13万石を与えられて
祖父織田信長が築城した岐阜城の城主となった
秀吉が没するまでは養子として厚遇されていた
秀吉死後の関ヶ原の戦いで西軍に味方したため徳川家康によって改易され
高野山に追放、出家
その後高野山からも追い出され26歳で没している
758 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 09:54:56.19
太閤検地や江戸幕府の幕藩体制によって消滅させられた「国人」と呼ばれる在地豪族集団の
ルーツって何なんでしょうか?平安時代の田堵とかでしょうか?
それとも平安時代から田堵と呼ばれる勢力があったので、もっと古く古墳時代の豪族などにも由来しているのでしょうか?
759 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 14:39:06.69
国人というコトバは、鎌倉幕府滅亡後南北朝時代室町初期から、
よく登場するようになります。意味としては、地方の在地領主一般を指します。
在地に経営基盤を持っていました。
古くを尋ねれば平安時代の田堵もその系譜に入ると思いますが、
直接的には鎌倉時代の地頭・荘官(荘園の管理人)が、国人の前身だと考えられます。
有名どころでは、戦国大名・毛利元就などが国人出身ですね。
鎌倉時代って後の国人が発生する規模で地頭や荘官を設置してたっけ?
国人の配置するにはかなり集権的な権力が必要だったと思うけど、寄り合い所帯の鎌倉幕府が
そこまで権力あったのかな?
おそらく新たに配置したというよりも、もともとの在地勢力のうち鎌倉幕府にすり寄ってきた連中を
任命して、任せたって感じだと思う
762 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 17:17:54.33
毛利氏の外には、島津氏が鎌倉幕府から、薩摩大隅日向三カ国守護兼島津荘地頭職に、
補任されていますね。これも室町期には守護大名、戦国期には戦国大名と成長していますね。
こんにちは。あたしはカウガール。
AAとして成り上がるため、スレを巡る旅をしています。
__
ヽ|__|ノ モォ
||‘‐‘||レ _)_, ―‐ 、
/(Y (ヽ_ /・ ヽ  ̄ヽ
∠_ゝ ` ^ヽ ノ.::::::__( ノヽ
_/ヽ /ヽ ̄ ̄/ヽ
764 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 19:21:47.36
古文書なんか残せる方は、権力者か其の手下でしかなく文盲が殆どの時代を、
全体感で語るのはいかがなものでしょう。
たとえば、万葉集が編纂された時代、日本の文盲率はいかほどだったでしょう。
一部の権力者やその周辺の書き残した古文書に意味はあるが、自慰的要素も強いのでは?
日本史は古文書や遺跡等に頼らなければ学問として成り立ちません。
歴史学者のジレンマをついてますが、仕方が無いとご理解ください。
時の権力者により、廃棄された古文書もあるでしょうが、無いから語れません。
権力者の歴史、権力者に背かない古文書、隠された古文書もあり、歴史学は中世以前は謎解きです。
文盲の話ですが、耳の痛い話です。万葉集も当時の日本人は存在すら知りません。字が読めないし、印刷技術も無いのですから・・・
其の意味で、御経は耳から入ってきますし、目で仏像や寺院は確認できますので仏教は広がったのでしょう。
朝廷の研究者もいますが、朝廷内部やその関係筋の文献でしか研究できません。文献も後に書かれたものも有り、真実性も疑問視されるのも事実です。
歴史とは今残ってる資料等による謎解きと理解ください。
新たな歴史資料が出てきて、今の説が覆されることも往々にあります。(考古学者の捏造事件もありました・・・わからなければ考古学の歴史も変わったかも?)
私見ですが、戦国大名の文献は捏造が多いと思います(勝てば官軍????負ければ歴史から去るか悪者???)
765 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 20:15:09.54
>>764 イヤイヤそれも一つの見方、
いろいろな見解が生じるのが歴史学に限らず学問の常道。
だから学者間で議論して、通説らしきものが形成されるのです。
アクマで一般論ですが。
766 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 20:36:46.15
>>758 >>759 Wikipediaから
国人(こくじん)とは、主に鎌倉時代の地頭層から発し、
南北朝時代から室町時代にかけて諸国の開発に推進した武士層のこと。
国人は、平安時代中期に成立した後期王朝国家体制の下で荘園と公領の管理者となった荘官・郡司・郷司・保司の階層や、
そこに出自することの多かった鎌倉時代以降の地頭の系譜を引く在国の領主の一般的呼称で、
同時代的に使われた資料用語である。<
とありますので、ご質問の「国人」とは、
平安中期の荘官・郡司・郷司→鎌倉時代の地頭を出自ないしは前身とする在地領主層の総称と考えられます。
後に戦国時代には、戦国大名に成長した国人もいました。
豊臣秀吉は百姓から信長に取り立てられたっていうけど
実際は草履を温たエピソードが創作されるくらいだから、近習みたいな立場だったんでしょ?
その時点で信長に目通りすら許されないそんじょそこらの足軽よりよっぽど凄いと思うんですが
いかがでしょうか?
>>767 それどころか、秀吉は20代の頃、信長の尾張時代から信長の奉行として文書を発給しているほどの人間であり、
むしろ織田家家中のエリートだったと考えられる。
こうなるとますます秀吉の出自が謎。
いつどのように信長に目をかけられるようになったんだろう
塙直政の例があるように抜擢は秀吉に限った話ではない。
平安時代のないしのすけって帝のお手つきだったんですか?
772 :
日本@名無史さん:2012/12/17(月) 23:13:21.22
コンビニに貼ってあるポスターを見て疑問に思ったことを質問します。
時代劇映画のポスターなんですが、お殿様みたいな人が、お姫様っぽい
女の人を抱き寄せてキスしようとしてました。
場所は広い畳敷き(たぶんお城の中)だったと思います。
江戸時代の人って、キスしてたんですか?それも武士が?お城で?
私としては
・キスとかそういうのは明治以降に西洋から伝わったと思ってたから意外。
・江戸時代の武士が、男女対等な雰囲気で性的行為をするわけないとイメージしてたから意外。
なんですが。
どうですか?
>>772 秀吉は孫にキス(口吸い)したいと手紙に書いてるらしい。男女のそれとは違うが。
それはそれとして時代劇とはいえ、今時は男尊女卑的では女性の支持を得られない。
作品にも依るけど。(つまり、何て映画?)
>>773 秀吉が手紙の中で(私がいない間)他の者に口吸いされていると思うと
残念だと言っているのは、お拾い(後の豊臣秀頼)、つまり息子だぞ
>>772 江戸時代の浮世絵に男女間の口吸いに近い絵がある。
男尊女卑とはなんの関係もない。
日本の男尊女卑は明治時代に形成されたもので、それ以前は
それほどではなかったと言われている。
安土桃山時代までは女性が表(政治が行われる場所)へ出入りすることが許されていたし
江戸時代の武士社会でも大奥の女中たちが将軍に純然たる影響力を持ち
女性官僚たちに多額の給与が支払われていた
(公家社会はもっと女性の力が強かった)
>>774 あー、そうだ。何で孫なんて書いちまったんだよ、俺…。
気持ちは分かる。溺愛ぶりはどーみても初孫をかわいがるジジイだからなw
ところで秀吉は何百人もの側女を持ったのに妊娠したのが淀だけというのはあまりにも不自然
じゃないだろうか?秀頼の父親は絶対に秀吉ではないと思うがいかがだろうか
777 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 19:27:48.39
日本における健全なリベラルは西園寺公望で終わってて、以降はリベラル勢力=売国奴という
意見があったのですが、どうして日本のリベラルは他国に媚びるだけのゆがんでしまったのでしょうか?
>>776 >妊娠したのが淀だけ
長浜城主時代に南殿との間にもうけた石松丸(秀勝)は無視か?
>>777 自分の価値観を絶対にしか見えない人間にはそう見えるんでしょうな。
昭和天皇は戦後アメリカに平身低頭でしたが彼もリベラル売国奴でしょうか?
本人は喜ぶかもしれませんね。
780 :
日本@名無史さん:2012/12/18(火) 23:09:58.49
江戸時代や、更に昔のの人々の髪型。
坊主頭は、仏門に入った人や一部の医者だけでしょうか?
(正規武士は、頭髪の決まりがあるから、さすがにいけないだろうが、)
庶民や浪人が「長い髪はうっとうしいなあ。俺は仏門や医学とは関係ないけど、丸坊主にしよう。」と
坊主頭にするのはかまわなかったのでしょうか?
それとも関係者以外の丸坊主は禁止事項だったのでしょうか?
先生〜 アメリカに平身低頭したらリベラル売国奴という理屈が分かりませ〜ん。
アメリカに強硬な態度をとった戦後指導者って誰でつか?
782 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 13:58:09.53
>>778 石松丸が秀吉の子だと明確に記載された一次史料は何もない
鶴松が死んだとき失意のあまり髷を切り、鶴松のために壮麗な菩提寺を建設、
鶴松の菩提寺の傍に自身の廟(墓)を造らせたほどの秀吉が
石松丸の菩提寺だという長浜の寺に何もしていないのもおかしいし
783 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 17:14:28.85
>>780 本当に毛がなくなってしまった人以外は、まずしなかったのではないかと。
古来、髪型は自らの身分を示す重要なスタイルであり、剃髪はその放棄を意味します
ですから、刺青のように処罰の一つでもありました。かなりの重罪なんですよこれは。
784 :
日本@名無史さん:2012/12/19(水) 18:54:06.30
>>780 特に丸坊主禁止令も出されていませんが
古今、絵巻物でも浮世絵でも美男は髪がありますからねえ。
丸坊主が美意識にフィットした時代ってないんじゃないでしょうか?
秀吉は手紙の中で織田信長から「禿鼠」と呼ばれていますが、
けして褒め言葉じゃありません。
785 :
780:2012/12/19(水) 23:04:28.01
昔の丸坊主に関して、レスありがとうございます。
昔の坊主頭はそういう扱いだったんだあ。
丸坊主愛好者としては (´・ω・`)ショボーン であります。
>>781 777の基準ではそのようなので777に質問してね。
781=777かもしれんがw
787 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 00:06:21.05
江戸城内には茶坊主なんていたな!正式名称なんだったかな!
>>786 777の言う外国は特アだと思うのに
781は何故米限定なの?781が読解力の無いバカな子なの?
789 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 09:08:28.18
>>787 茶道はもともと僧侶が始めたものだったので
(栄西が宋から茶を持ち帰り、禅宗僧が眠気さましに飲んだのが始まり)
茶道家は伝統的に剃髪していたようです(千利休も剃髪していました)
室町幕府以降、大名たちは好んで茶坊主を置いていたようです。
江戸城では表坊主・奥坊主を置き、城内茶室の管理をさせていました。
男子禁制の大奥さえ、剃髪した茶坊主は性別がないとされて入ることが許されていました。
また、江戸城内には御坊主と呼ばれる女性の剃髪した女中もいて、
これもまた性別がないとされて、羽織袴という男装をして
本来女性の立ち入りが禁止されていた中奥への出入りが認められていました。
790 :
日本@名無史さん:2012/12/20(木) 23:08:47.37
>>788 アメリカの奴隷の自己紹介ありがとうございますw
それとも名誉白人のつもりかなw
人間誰しも何かの奴隷なんだから
それがあめりかさまでも悪くないんじゃないの
中国の奴隷になってチベット・ウイグルのような目にはあいたくないし
朝鮮人の奴隷になって毎日土下座は嫌だし
それを考えれば
ハリウッドのポップなノリに騙されてアメリカナイズされた方がマシだ罠
794 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 00:36:45.79
現代人は会社の奴隷ww
鎌倉時代に貴族や寺社の荘園が武士に横領されたのですが、
横領を防げなかったんですか?
横領を防ぐだけの軍備をケチってるから横領されたような気が。
>>795 荘園の横領は室町時代なんだが。
鎌倉期はむしろ荘園全盛時代。鎌倉幕府は当時、日本最大の荘園領主。
797 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 09:50:34.64
>>795 796さんも回答しています。そのとおりです。
鎌倉幕府はむしろ荘園構造を保護する立場です。幕府は地頭による土地の押領を取り締まっていました。
その解決方法として荘園領主と地頭で現地の土地を分ける「下地中分」なんていう解決方法もありました。
鎌倉幕府が崩壊して南北朝・室町期にはいるとその秩序が壊れ、守護による横領なんてのが出て来ます。
798 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 13:48:14.53
>>795 多分、荘園領主の座が貴族や寺社から武家へ移ったことを言ってるんだろう。
荘園を実質管理している地頭たちが、従来国司や賊から土地を守るために天皇や貴族に荘園を寄進していたものを、
鎌倉幕府に寄進して幕府の力で所領安堵してもらうようになった。
天皇や貴族、寺社に守ってもらうよりも鎌倉幕府に守られたほうが安全、と考えたからで
まあ、幕府の武力が当時一番強いと考えられたからなんだが。
>>798 さんの言うとおりのことを疑問に思ってました。
なるほど、頼れるのが貴族や寺社から武家政権に移ったわけですね?
ではなぜ室町時代には横領され放題になったんでしょう?
守る気があれば土佐の一条家みたいに守れたと思うんですが。
やはり軍備をケチったのかな?
>>799 物凄いわかりやすく説明すると、鎌倉幕府というのはすべての武士を掌握した政権ではなく、
はっきり言って武家政権としては不完全だった。
で、鎌倉幕府支配下の武士、即ち『御家人』に入らない武士は『、本所一円地住人』と呼ばれ、
この「本所」というのは荘園を指すことからも解るように、公家や寺社などの武力であった。
ところが鎌倉幕府が崩壊し室町幕府が出来ると、室町幕府は、守護を通して、日本全国すべての武士を
ピラミッド状に組織する事に成功した。すなわち、それまでの本所一円地住人も室町幕府につらなる
被官構造の一端を担ったわけだ。つまり、それまで公家や寺社の武力であった彼らも武家政権の側に入ってしまった。
これと、南北朝以降の動乱により相対的に朝廷や寺社の権威権力が低下したこともあり、横領頻発という
事態になった。
無論室町幕府もこれを座視していたわけではなく、横領した荘園の返還などを命じてはいるものの、
地方支配を担う守護、守護代は自分たちの被官の利益を優先するので、多くは黙認されてしまった。
まあそれまでの権門の武力が幕府に吸収されたと考えるといい
801 :
日本@名無史さん:2012/12/21(金) 19:44:38.23
電車に貼ってあった日能研の広告によるとくじ引きでリーダーが決まったケースが日本史にあるらしいんだけど誰でしょうか?
結果、良かったの悪かったの?
>>801 足利義教。良かったか悪かったかは、悪将軍と呼ばれ最期は家臣に謀殺されたあたりから察しろ
>>801 oh…
くじ引きでリーダーを決める事によるいい点と悪い点を述べよって問題だったけど少なくとも悪い点はありそうだな
トン
足利義教ググってみたけど万人恐怖とか書いてあってやべぇな
日本史には暗君はいないと思ってたけどこいつは絵に書いたような暗君や…
>>804 暗君ではなく超有能だったからたちが悪いんだが
彼は中央集権化の権化のような人で、彼が生きていれば守護大名の連合体のような室町幕府は、
その姿を幕府を中心とした新たな政体に変えたはずです。事実9分9厘成功していましたし。
守護大名にとっては恐怖だったでしょうけどね。
くじだったからこそ「天意である」と守護大名を蔑ろにした政策とれたのかな?
>>807 くじとはいえ足利義教は3代将軍足利義満の実子だから
継承権が全くないところから連れてきたわけでもなんでもないしな。
むしろ、将軍教育受けてなかったことで守護大名たちから馬鹿にされまいと
必死になりすぎた結果の恐怖政治だと思う。
正式な後継じゃなかった武田勝頼みたいに皆に認められようと
領土拡大に無駄に頑張りすぎて家臣離反みたいな。
>>806 無理無理。くじ引き将軍が粛清したのは武力を持たない公家や
鎌倉公方のように関東管領や京都扶持衆という潜在的な敵を持つ弱者に過ぎない。
それで自分の力を過信して一色あたりを殺したら赤松に殺された。
「犬死」の評価は不当とは言えないだろう。
三大格式などの格式について質問ですが、格とは令を時代に合ったものに補完して行くため、法令を新設したり、時代にマッチしない令を削除する機能を持った法制度で
式とは不明瞭な令の規定を細かく定めたり、格として新設される法令の採用基準や、削除される法令の削除基準などにもなったもの
と言う解釈で正しいのでしょうか?
そして、令外官自体は法令ではありませんが、令外官の新設も格の機能の1つだったのでしょうか?
義経って人気者のはずなのにスレが一つもないのはなぜ?
812 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 11:09:06.28
戦国時代の武将で、2回以上謀反や裏切りをし、なおかつ主に制圧されても、殺されずにいた人がいます。
なぜ、このように2度目の謀反や裏切りが制圧された後でも主に粛清されずに済んだ人がいるのでしょうか?
1度ならず2度までも逆らえばさすがにアウトだろうと思うのです。
上杉と北条の間を行ったり来たりの関東地方の城主連中とか。
逆に言うと、主が「2度目の裏切りは首謀者も追随者も死刑。空いた席には生粋の部下を付ければ良い。」
と単純に決裁できない事情は何があるのでしょうか?
制圧した裏切りの首謀者と追随者を単純に処刑するとどのような不利益が生じる恐れがあったのでしょうか?
半分独立状態なんじゃね
>>812 物凄い簡単に言うと、負ける前に再寝返りによる身分保障を勝ち取っているから。
強い方に付くのが戦国の世の習いであり、それを処罰とか言ってたら調略に乗ってくれる者が居なくなる。
伊達政宗は若い頃はなで切りとかしてたけど、そういう事をしてると投降する者が居なくなり戦が長引く。
>812
一応聞いておきたいんだけど
戦国時代の武将で、2回以上謀反や裏切りをし、なおかつ主に制圧されても、殺されずにいた人と
戦国時代の武将で、2回以上謀反や裏切りをし、なおかつ主に制圧されて殺された人との
比率は君の中でどうなっているの?
後者が圧倒的に多いはずだと思い込んでいるようにみえるが…
日本史を初期から勉強したくなった
何から読めばいい?
このスレはじめから
>>817 各出版社から「日本の歴史」系の通史モノが出てるから、それを最初から読むのが一番早い。
図書館とかにあるから行ってみ。なるべく最新のものを読め
820 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 15:48:25.24
江戸時代、小作人は子孫を続かせることができたのですか?
現在、田中や中村という苗字が多いのは、富農の子孫の方が多いからだと聞いたんですが、本当ですか?
これらについて、もし本や研究があれば教えてください。
全時代を俯瞰的に見ることが出来るような薄い通史本ないですか?
受験参考書ですが「日本史講義 時代の特徴と展開」は面白かったです
国家主義系左翼なら、岩波新書「日本の歴史」(井上清)
地域分断・他者罵倒系地域主義なら、岩波新書「日本社会の歴史」(網野善彦)
右派系国家主義なら、講談社学術文庫「物語日本史」(平泉澄)
律令時代以降、租庸調が基本的な税制となっていますが
租は地方財政に、庸調は都に運搬された様ですが、都で食べる米ってどこから出てたんですか?
平安時代以降、租庸調による税制が崩れかかって来てからは、公営田などが出てきて、中央の財政を支えた様ですが
租庸調施行時点では租は主に地方財政として使用される事が前提となっていた様で、そもそも都に持ってくるつもりもない様ですし・・・
>>824 「田令によれば、田租として納められた稲穀は一旦正倉として納められて正税とされたが、そのうちの一部を
租を納める農民の個人負担により精米して所属する国に対して指定された時期に都へと運び、朝廷の
大炊寮に貢進して京官官人の常食(月給)に充てられた。」
租の一部が都へ運ばれたらしい。これを年料舂米(ねんりょうしょうまい)というらしい。
義経は最初なぜ鞍馬寺から平泉に行ったのてますか?藤原一族が受け入れてくれる確証はあったのですか?
母の常磐御前が一条長成の嫁になっていて、長成の母方の従兄弟にあたる藤原忠隆の子の藤原基成が
秀衡の舅であり、親戚関係にあった。その縁で仲介してくれたんじゃないかと言われている。
829 :
日本@名無史さん:2013/01/01(火) 09:40:40.94
日本書紀と古事記で訓にあてる漢字が違うのはなぜですか?
例えば、尊と命(みこと)
>>829 同じ訓に当てる漢字表記が複数有ったという事です。基本的に当て字な訳だから。
池上彰の起源は江戸時代の辻講釈ですか?
>>830 使い分けに意図はなかったんですか?
ただ単純に著者の好みで漢字があてられてたんですか?
余り意図はなかったと思う
昔の日本人は書式は拘っても字の表記はそこまで拘っていない。
ずっとあとの時代になっても「酷い」を「非道い」と当て字したりしてるからなぁ。
人名でも当て字でも平気だったりするし。
>>817 ですが、まずは日本の歴史漫画セット借りてきたので読んでみます
ちなみに親戚の小学生に借りた
837 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 21:36:24.63
天皇、上皇、法皇、誰が1番偉いんですか?
>>837 その時代とポジションによる。あと上皇、法皇になっても「院」を形成できないと実権は無い
839 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 21:59:57.07
>>837 上皇、法皇というのは通称で、律令にある言葉では太上天皇が正しい。
律令によれば太上天皇は天皇と同等で天皇の業務を共に保管する立場にあった。
天皇が勅を出すのに対して太上天皇は院宣を出して臣下に命令することができた。
もっとも太上天皇は天皇より年上であることが多く、
天皇の父母、祖父母など直系尊属であることも多かったため、大きな力を持つことが少なくなかった。
摂関政治期には摂関となった天皇の外戚が退位した天皇の力を排除して大きな権力を持ったが
摂関家が天皇と外戚関係を持たなくなった院政期以降、再び上皇や法皇が力を握った。
尚、出家した上皇のことを法皇と呼び、上皇と法皇で権限に違いがあるわけではありません。
841 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 21:44:33.49
俺も質問です
天皇が法皇を兼ねるのはOKですか?
やっぱ天皇は神官のトップだから、おおっびらに出家したらマズイ?
>>841 無理
天皇はいろんな意味で神聖な存在そのものだから。
>>841 天皇が出家したいと思ったら退位するしかないし、逆に言えば出家した時点でもう天皇ではない
花山天皇なんて、藤原氏にとってジャマだったから、言葉巧みに出家させられてしまった
>>842-843 ありがとうございます
身分としての天皇自身には仏教が絡む余地がないんですね
>>844 >仏教が絡む余地
天皇は出家して僧侶になってしまったら退位するしかなかったけど
仏教を信仰すること自体は大いにやってよい
在位のまま寺を建てることはたくさんの天皇がやっているからね
出家ってのは、本来なら、俗世のしがらみを捨てなきゃいけないからね
それまでの仕事とか、家族とか、そういうものを一切捨てて寺に入って修業するのが本来の姿
その意味では、法皇って存在も実はおかしいんだけど、まあそのへんは日本的というか、ウヤムヤ
権力者の形だけの出家みたいなものが確立されちゃった、みたいな感じ
権力者というのは金はあるので既存の別の寺に入って修行するのではなく
自邸内に寺を建てて自邸にいながらにして仏事を行うということを可能にした
法皇が院御所内に建てた寺としては後白河法皇が院御所法住寺殿内に建てた
蓮華王院(現在の三十三間堂)や院御所六条殿内の長講堂が有名だし、
鳥羽法皇が鳥羽離宮内に建てた安楽寿院というのもある。
上流貴族も同じで、藤原道長が出家後、自邸土御門殿の隣に建てた法成寺がある。
僧侶というのは本来肉食や女犯も禁じられるがこれも権力者には甘かった。
花山法皇は出家した後で乳母子とその娘を親子丼し子をもうけたが
さすがにおおっぴらに我が子だというわけにもいかず放置されていた。
そこで花山法皇の父冷泉上皇の養子にしてもらい、花山法皇の2皇子が親王宣下を受けている。
これも院政期になれば出家後に生まれた子でもおおっぴらに親王・内親王として我が子認定している。
848 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 17:22:07.64
悪党という存在が良くわかりません
支持基盤や統治体制、社会的位置付け(賊との違い)などについて教えて下さい
鎌倉幕府の支配体制の枠組みの外で実質的にその土地、地域を支配していたのが悪党
当時の支配体制に入っておらず、しばしばそれと対立したという意味においては、賊の一種といえなくもない
>>848 >>849はかなり古い認識だな。
「悪党」は一種の海藻を表すというより、漠然と反社会的行動をしていた連中をそう読んでいた、というのが正しい。
なのでそのへんのチンピラも悪党だし、郎党抱えた正規の武士でも、半社会的なことをしていれば悪党。
なので悪党といっても個々によって実態は様々だ
849と何が違うのか分からんのは
俺の頭が悪いからか?
852 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 08:53:14.34
土地を支配してなくても反社会的な連中は悪党ということ?
853 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 09:23:54.00
鎌倉幕府の支配下にあってもちょっとやんちゃな武士なら悪党って?
朝廷の支配下にも幕府の支配下にもない独自武力を持つ土豪連中が
悪党だろう
854 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 09:50:02.60
悪党(あくとう)
鎌倉中・末期から南北朝内乱期にかけて、反幕府、反荘園(しょうえん)体制的行動をとった在地領主、新興商人、有力農民らの集団をいう。
Yahoo!百科事典[執筆者:佐藤和彦]
855 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 18:04:58.47
最近、教科書から聖徳太子の名前が消えて、厩戸皇子に改められてると聞きました。
理由は生前使われてなかったからということですが、
同時代の推古天皇という名前も後世つけられた漢風謚号なはずです。
聖徳太子という名前は何がまずいんですか?
856 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 18:58:05.65
>>855 あの時代に皇太子が存在しなかったからだろう。
天皇を謚号で呼ぶのは構わないんだが、皇太子でなかった人物を太子呼びは明らかにおかしい。
しかも、現在では、皇太子のまま即位せずに死んだ人物を慣例的に太子呼びしていないんだよな。
醍醐天皇の皇太子保明親王は皇太子のまま没し、文彦太子の名が贈られたが、
この太子号は学者の本等でほとんど用いられない。保明親王の名で書かれる。
聖徳太子と厩戸皇子は水戸黄門と水戸光圀の関係に近いって聞きましたが
そんなものなのでしょうか?
>>857 文意から察すると、
だいたい「そんなもん」です
納得いかない場合は質問内容を明確にすれば、
誰かが用語の定義付けから答えてくれると思いますよ
860 :
日本@名無史さん:2013/01/10(木) 23:00:49.23
聖徳太子といえば、摂政は令外の官なんでしょうか?
聖徳太子は摂政を務めたのに令外の官ってのがいまいち納得できません。。
>>860 それ以前に聖徳太子が生きていた時代には律令が無いので令外の官も無いです。
律令に定められていない官が令外の官なワケですから。
862 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 11:43:23.31
忍者の実態をまじめに研究した本ってあるんですか?
863 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 16:01:24.73
内容が間違ってたり電波だったりしてもまじめに研究してることには変わりないですよ
864 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 22:20:18.56
>>861 なるほど、感謝です。
新設の官職だけじゃないってことですね。
>>864 新設の官職だけど、新設の基準が律令だから、律令以前の時代に令外の官は無いという事です。
866 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 20:28:13.55
昔、お伊勢参りが一世一代の旅イベントだった時代。
伊勢神宮周辺に住んでいて、お伊勢参りが日常的に出来る人々にとっての
一世一代の旅先はどんなところがあったでしょうか?
蟻の熊野詣
868 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 20:36:25.47
江戸時代、武士の不正取締りは目付が行っていたそうですが、
市中での現行犯なら、町奉行所所属の与力同心岡っ引きでも武士を逮捕できたのでしょうか?
状況にもよりますが正規の武士(旗本や大名家家中)なら基本的には逮捕はできません。
町奉行から目付けや当該の藩邸に連絡され、そこで処分という形になります。
ただし現行犯で捕まったものが身分などを名乗らなかった場合は、当然ながら身分不詳ということで逮捕できます。
>>866 伊勢の人間については不勉強だけど、
金比羅・熊野なんかも人気だし、
少し離れた地域だと善光寺・富士山・日光あたりもありそう
近いように見える熊野でも、講で旅費を積み立てたりしなきゃ簡単には行けない人間も多かったので
一生一度って感覚はあるんじゃない?
江戸の人間の富士講でもそうだったからだけど
学術板なのに推測ばっかでスマン
872 :
866:2013/01/13(日) 10:15:56.66
皆さんレスありがとうございました。旅は良いものですね。
873 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 20:07:04.37
隼人と蝦夷の待遇の違いはなんでですか?
かたや天孫扱いで天皇の近習を許され、
かたや俘囚などという不名誉な名前で呼ばれ畿内以外に住まされた。
隼人の祖先が天皇と同祖であるというのは、隼人を懐柔するための方便だというのはよく聞くんですが、
それがヤマトの辺境支配法だったとしても、なんで蝦夷は同じような方法をとらなかったのか気になります。
マシュー・ペリーはペルリと呼ばれていましたが
「マシュー」の部分はどう発音されていたんですか?
875 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 22:13:11.27
>>873 隼人は奈良時代までに完全に朝廷の支配下に置かれていました。
これは日本書紀や古事記の編纂時までに朝廷の家来になっていたということが重要だと思います。
その当時の朝廷に仕える主な氏族は皆神別や皇別として取り入れられましたから。
しかし、蝦夷は平安時代末期になっても朝廷の支配下に完全に入らないまま。
蝦夷地とされた北海道を日本が支配するようになったのは松前藩が置かれた江戸時代ですし、
正式に日本に編入されたのは明治時代です。
蝦夷は長らく自治を敷き日本の一部となるのが遅かったため長らく異境の蛮族とされたのです。
九州南部が朝廷の完全な支配下にあったとはいえない仁徳天皇の時代にすでに、
隼人は天皇の近習であったとある
早いうちから降伏した蝦夷は、ずっと俘囚扱いだったのに
天孫降臨?
>>874 良い質問。私も知りたい。
ヤン・ヨーステンがやようす(漢字失念)、やようすが八重洲の由来になったくらいだし、ウィリアム・アダムスが三浦按針、アメリカが亜米利加、イングランドがイギリスで英吉利、ってことを考えると、まつう→まつ→松、とか?w
その中に三浦按針を混ぜるのは如何なものか?
>>876 早いうちから降伏した蝦夷は蝦夷と呼ばれていない。
関東以北は蝦夷の土地だったのにいつのまにか
関東は坂東武士と呼ばれる屈強の兵の産地とされた。
江戸時代は江戸にて贅沢禁止令が何度か出されていますが
贅沢を禁止するとどのように景気に良い影響が出たのでしょうか?
すみません、ログ読んだら似た質問への解答がありましたので質問は取り下げます。
質問を取り下げたというのにレスするのもなんだけど
贅沢禁止令ってのは、別に景気をよくするためのものじゃないよ
というか、逆に景気は悪くなる
884 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 02:35:33.80
影武者って本当にいたのですか?
いた場合の待遇とかはどんなもんだったのでしょうか。
本当にいたよ
「元の木阿弥」って言葉の語源になった木阿弥とかね
映画やドラマなんかだと役者が二役で演じて、顔も瓜二つの人間が影武者になっていたりするけど
実際には、体格や年齢が近ければ顔はそんなに似ている必要はない
テレビも写真もない時代、そもそも本人の顔がそんなに知られていないから
待遇はいろいろだろうね
単に敵の刺客の目標を分散させる程度の影武者なら、近侍の警護の者とそう変わらない扱いだろうし
木阿弥のように、影武者を立てて本人の死を隠す場合なら、本人と同じ衣食住があてがわれたろう
886 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 05:34:42.04
戦国時代ネタが好きな若者を対象にしたネタを一本書くことになりました。
ネタの大まかな流れは、戦国武将がビーバップ系不良だったらという設定です。
・史実で徳川家康が「内府」という地位にいた(らしい)ことから、彼が、周りから「太ったナイフ」と呼ばれ恐れられていた。
・不良がカツアゲで金品を強要しようとしたら、相手が松永久秀で、お金を出すことを拒み爆死
・信長の上履きを隠し、陰湿ないじめをする秀吉
などのネタを織り込んで行こうと思っていますが、私自身は、それほど歴史に詳しいわけではなく
例えば「内府」をないふと読むかどうかすら分かりません
上記のネタは、ウケるウケないは別にして、戦国時代好きの若者に通じるでしょうか
内府は「ないふ」で読みは正しいのですが、面白いかどうかは分かりません。
知識としては豊臣政権期から関が原関連ドラマを見た人なら徳川家康と分かるはずです。内府と石田治部少輔(石田三成)は対になる言葉です。
それ以降は将軍様になったり大御所様になったり神君になったりですが。
繰り返します、面白いかどうかは私には全くわかりません。
>>886 徳川家康が史実で内大臣となったのは豊臣政権末期の慶長元年(1596年)家康55歳の時のことなので
松永久秀や織田信長存命中から「ナイフ」呼びは史実的にはおかしい。
あと、家康主人公で描くなら松永久秀や下駄捕り時代の秀吉との絡みがほとんどないことかな。
挙げている3つのネタに統一性がなく、誰を描きたいのか分からない。
>>886 内府ってのは「内大臣」のこと。家康は1596年になってる。
戦国好きなら「家康=内府」は知ってるだろうさ
悪いことは言わん。歴史をネタにしたいのなら
まず、ネタを使い込めるまで勉強しな。
>史実で徳川家康が「内府」という地位にいた(らしい)
>「内府」をないふと読むかどうかすら分かりません
戦国オタに討ち取られるぞ(笑)
やつら妄想・史実に関わらず知識量は半端じゃ無いからな
たいしてその分野が得意でもない作家やマンガ家が、編集者から「こういうの書いてくれませんか」と
言われて、断れないというのはよくある話だ
1行目の記述から、
>>886はどうもそういう立場っぽいように思えるな
歴史ギャグをやるなら、やはり歴史知識を身につけた方がいい
読みやすいものからでいいから、とにかく、まずはその時代についての本を読みまくれ
わからないことは、ネットでもいいからとにかく自分で調べるくせをつけろ
あと、パクリはいけないが、他の作家の作品も参考に見ておけ
戦国時代の歴史ギャグ作品なら、重野なおきの「信長の忍び」が秀逸だ(歴史知識も割としっかりして
いる上に、4コママンガとしても面白い)
あとは君のセンスしだいだ
>>886 太ったナイフがカツアゲするんなら相手は前田利長とか上杉景勝だな。時代は秀吉が死んだあと、
関ヶ原までの間になる。
上杉景勝に凄んだら逆に睨み返されてビビった、なんて書くとクスリとくるかもしれない。景勝は凄い
迫力だったらしいから。「花の慶次」でおなじみの前田慶次も景勝にはいたずらできなかったらしい。
江戸時代の藩経営には、経済学の知識がある程度不可欠だと思うんですが
経済行政に責任を持つ立場の人は、当時どのような教科書を使って経済を学んだのでしょうか?
中国の古典でしょうか?
>>892 基本的には、江戸時代の武士は経済学方面はダメダメだった
だからこそ、幕府も諸藩もどんどん財政が悪化した
なぜなら、武士の学問は儒教であり、儒教は基本的に金儲けを卑しいこととしているので、武士の間では、
経済学に類する考え方が発展しないから
もちろん、中には必要に迫られて経済政策を進めた藩主や重臣もいるが、それは個人の直感的な発想に
基づいていたり、前任者に教えられたことだったり、商人出身者を取り立てて顧問にしたりしてのことで、
体系的に経済学に類する学問を学んでのことではない
よくそんなドンブリ勘定で300年近く泰平が続いたもんだね。
経済は行政が介入しなくても何一つ問題ない証拠じゃないか
895 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 13:33:11.85
江戸時代に、「経済」なんて観念・感覚は無かったし、本来その必要も無かったんだ。
幕府や各藩、旗本が幾ら借金してようが、そのまま放っておけば良かった。
自然の勢いとして、闇貿易したり紙幣を多発したりして物価をどんどん上げるだろうし、
世の中どうってことなかった。
それを一部の者が、財政改革や商人規制なんてやるから…
896 :
日本@名無史さん:2013/01/18(金) 13:50:38.23
>>892 荻生徂徠や太宰春台、本居宣長、佐藤信淵らは経済学の著書もあるし、
江戸時代に経済学の分野は全く無知だったわけではない。
(儒学者が経済学もやることが多かったのは事実だが)
市場経済をにらんで特産品を造り、雄藩となった藩もある。
ただし、広く幕府や諸藩すべてに普及するものではなかった。
鎖国をしていた日本では特産品を生み出しても内需に頼るしかなく
海外に売って貿易で儲ける手段がなかった。
幕府や諸藩で経済を動かす主体とされていたのはあくまでも米で、
江戸時代は寒冷期に当たるため気温が低く米たびたび凶作で飢饉に陥り、
幕府も諸藩も質素倹約で乗り切るしかなかった。
>史実で徳川家康が「内府」という地位にいた(らしい)ことから、彼が、周りから「太ったナイフ」と呼ばれ恐れられていた
内閣総理大臣織田信長というコミックにネタとしてあった希ガス
898 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 05:58:15.81
>>896 商品作物を忌避し、稲作強制=石高up=藩の対外地位向上 に固執。
飢饉で大被害
>>898 お前米こそが最大の商品作物だったこと忘れてるだろ。
900 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 13:39:18.62
戦国時代の弓矢について。
火縄銃の普及に伴って出番は少なくなったと思いますが、火縄銃の普及した軍勢における実用武器
としての弓矢の扱いはどうなったのでしょうか?
火縄銃に取って代わられ、戦場で見ることはまずなくなったのか?
それとも弓矢は、火縄銃に比べて雨でも使える、即応性・連射性が高い、火薬(硝石)が要らない、
といった事から、補助的武器として、戦国末期〜安土桃山の大規模合戦でも使われ
続けたのでしょうか?
901 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 14:35:56.77
>>900 弓矢は戦国末期〜安土桃山時代にも主要な戦闘具です。
当時の火縄銃は飛距離が短く、敵をなるべく身近に引きつけて防戦するために使われることが多く、
こちらから攻め込んだり、遠くの敵に対して用いるものではなかったからです。
関ヶ原の戦いのときには全世界の3割にあたる鉄砲が投入されたと伝えられますが、
その割合は3割程度で、15万の兵士に対して鉄砲の数は4万5千丁であったとされています。
現代兵器に例えると
火縄銃→個艦防空ミサイル
弓→近接防御火器システム
近接?
弓は集団で用いると、恐るべき効果を発揮する
例えば「遠矢」という技法
これは早い話、やや遠方の、例えば遮蔽物を挟んだ敵に対し、仰角をつけて矢を射る技法であって、
集団で遠矢=上空から雨あられと矢が降る=やや遠方の敵を面で制圧できる
これは、臼砲弾のような弾道を描ける火砲が、対象段列上空に砲弾を多数、射出する技術が確立するまで、
あるいは、遮蔽物そのものを破壊できるだけの破壊力が火砲に伴うまで、
代替の効かない手法であったと言える(少なくとも火縄銃では無理)
何が言いたいかっていうと、
銃(というより火砲だが)が火縄銃のレベルならば、弓は補完する兵装としてまだまだ重要だってことです
だから使われ続けましたのよ♪
906 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 07:12:10.86
>>899 年々値下がりするものが商品作物として相応しいと考えているとしたなら、
あなたは酷い馬鹿者です。
鉄砲は、足軽など身分の低い兵の武器で、弓の鍛練は中級〜上級の武士のたしなみ、みたいなイメージがある
時代劇でも、鉄砲をあれだけ導入した信長が、本能寺では自分は弓で戦ったり
908 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 11:44:25.56
米は酒とかの加工原料でもあるから商品価値は高いんだな
>>906 アホか。米と他の商品作物との相対的な価格価値見たこと無いだろ?
そのうえ米は一粒が100倍以上に増えるんだぞ?費用対効果が段違いだ。
イメージや現代的な価値観で語るなよ。
米のいいとこは備蓄がきくとこだわね。
だからお金のかわりになるぐらいだし。
911 :
900:2013/01/20(日) 13:57:26.61
皆さんレスありがとうございました。 弓矢やるな。
912 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 15:39:14.71
豊臣政権下における武断派と文治派について。
武断派とされる加藤清正、福島正則ら。
文治派とされる石田三成、大谷吉継、小西行長ら。
しかし彼らの経歴を見るに武断派も良い内政を行い、文治派も戦闘で活躍しています。
両者文武両道の印象を受けたのですが、どこら辺が武断・文治の分かれ目となるのでしょうか?
>>912 そもそも武断派文治派というのは、事態を説明するための後世作られた言葉でしか無い。
>>908-910 君は知性が低いなあ。
そして米は江戸時代を通じ、年々価値が下がっていた。
例えば紅花などと価格比較をした場合、費用対効果で米は遥かに劣る。
米を重視した藩は所詮斜陽を免れなかった。
>>914 > 例えば紅花などと価格比較をした場合、費用対効果で米は遥かに劣
へー
初めて聞いた。肥料費などを含めての生産性、ちゃんと把握した上で言ってるんだろうなあ…
史料を提示して。何時の時代のどこの地域で、どういった調査によって得られた結論か
ちゃんと出せよ。そのくらい出来るでしょ?
横レスだが江戸時代には山形の諸藩で紅花栽培をして現金収入を得たから今でも山形=紅花の
イメージが有る訳で、それは米では実現できない事だった。何故なら江戸時代の米はもっと暖かい
地方でないと安定して作れなかったからだ。もともと亜熱帯の植物だし。
戦国時代と室町時代の半ば〜後半では庶民の生活様式って何か変わりましたか?
変わったならば南蛮貿易を機に変わったことはありますか?
南蛮貿易をしたからという点だけではなく
時代の流れ的なものも含め変わったことを教えて下さい
>>915 たぶん、ヒヨウタイコウカ、って単語を使いたいだけじゃないか。
スルーすっべや。
>>917 実は歴史でいちばんわかりにくいのが記録に残らない
庶民関連なんだが、様式とか庶民とかあまりに大雑把なので
もっと具体的に絞ると各ジャンルで答えやすくなる。
ちょ〜おおざっぱレスだと、室町や戦国なんてのは
後の時代区分なだけなので山野で暮らす庶民には
何の影響も関係もなかったろう、てとこかな。
もちろん戦争が起きれば大変、起きなければそれなりに平和
それも住んでる場所によるしね。
>>917 確実に言えるのはキリシタンに入信した人にとっては大きな違いが有ったろう。
>>919,
>>920 ありがとうございます
内容を絞ると日常生活レベルの変化が知りたいです
使う道具が増えただとか食事内容とか服装か流行諸々
それか何の影響も無かっただろうということは「戦国時代の生活」みたいなものを調べると
室町時代後期の生活も分かると思っていいのでしょうか?
>>921 羅紗とか天鵞絨とかいった布地もその時代に入ってきたんではなかろうか。
庶民には縁が無いかもしれないけど。
天麩羅とか金平糖などの食品も。(こっちは庶民にも縁がありそう)
大商人とかはともかく、一般的な当時の庶民には縁がないだろ>天麩羅・金平糖
>>918 論理で負けて逃亡するのは、米作至上主義者の常套ですよ。
年々稲作が価格低下に悩み、東北諸藩が疲弊していった事実を考慮しない主張です。
江戸時代の反省をしないから、今になってもあの地域は疲弊したまま。
つまり、もう関税で保護しなきゃ成り立たない農業は辞めろという事か。
>>924 何だ、結局データ出せないのか。
ただの印象論だけかよ
927 :
日本@名無史さん:2013/01/21(月) 18:49:16.09
江戸時代の稲作の不合理を主張し、反論は
>>909のような印象論だけというのが事実です。
江戸の稲作重視以降、凶作続きの関東東北に、稲作が有利な作物であったとはとても思えません。
虚偽で稲作は素晴らしいと主張するには、江戸時代の関東と東北は悲惨すぎるんですよ。
その原因は、気候に合わない稲作への傾斜。
>>922,
>>923 ありがとうございます
結局この100年位じゃあんまり庶民の生活は変わらなかったってことですかね
>>928 確かにあまり変わらないかもだけど、
娯楽で庶民に小将棋が広まりだしたり
日常の中で鉄製品が増えたり
木綿栽培が普及したりしてる
九州だと、輸出小麦の需要が増えてるので何らかの影響はあったかも
>>928 道具はさらに各ジャンル、仕事か日常か、で研究は
されてるのでヒマな時にググれば面白いと思うよ。
ただ大まかな変化はあっても記録が残らないから
具体的なことははっきりしないわけね。
食事、服装もそうで、地方とその暮らしによるでしょう。
例えば江戸初期の将軍献上品と奈良の朝廷献上品を
比較すれば各地方での特産がわかって、そうしたオコボレ
みたいなのを食べてたんだろなぁ、ということはわかる。
でもメニューが残るわけじゃないからテストの解答的には
答えられない、というわけで。
庶民じゃなくて公家さんだと奈良平安ぐらいからそれとなく記録が
あるから、食物誌でググればおおまかなとこはわかる。
将棋で小将棋が普及したのは江戸の参勤交代から
だろうからもう少し後かもしれない。最古の図面は家忠日記ね。
鉄はこれまた面白い分野でヤマタイコクにまで遡るけど
鎌倉のガイタン法から普及したからもう少し前から
広まってるかな。
これによって耕作地が増え所領争いとか戦国への一環
というような理解ではいいと思う。
>>928 とりあえず永原慶二の『戦国時代―16世紀、日本はどう変わったのか』を読んでみるといい。
読んだのが結構前なので、かなりうろ覚えで、今手元に無いんで上手く説明できないんだが。
>>931 >ただ大まかな変化はあっても記録が残らないから
>具体的なことははっきりしないわけね。
そういうことを知るために、考古学というのがあるんだよ。
法令も、その時代の大衆文化を推測する鍵になることがある
何が禁止されたかがわかれば、逆説的にそれがその時代によく行なわれていたことを示すからね
後は絵画資料だね。
洛中洛外図は超定番。
法令というのは江戸以降だとわかりやすいけど
室町〜戦国にはあまり明解なのはないからなぁ。
よく引用されるのは食べ物にまつわる狩猟とか
服装とかなんだけど、それから逆算してわかるのはやはり
「推測」になるからね。
絵画史料は面白くて、ものすご〜く細かい専門分野
なんかでいろいろ引用されてるわね。
平安時代の庶民がどうして高い下駄をはいてたか、とか。
937 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 02:46:13.26
アテルイ伝で、長岡京の場面で映っている塔は何寺の見立てでありませうや?
第三回の20分余りのところで登場します。
>>937 漫画板で聞いたら?
日本史板の人は漫画の内容はそんなに詳しくない
940 :
日本@名無史さん:2013/01/26(土) 23:30:57.27
(時代劇や、「岡っ引き」で画像検索したら出てくる画像で、)
岡っ引きがはいているズボンのような履物の、名称は何でしょうか?
袴より動きやすそうです。
股引(ももひき)じゃないの!?
戦国時代、戦に行った人は参加するだけでも何か報酬を貰えたんですか?
合戦になって一つも首をあげられなかったら参加し損?
そもそも雑兵の首一つ当たりどんな褒美がもらえたんですか?
>>943 合戦に参加するのは軍役であり「義務」。
なので基本、出るだけで報酬というのはない(ごく特殊な例外はある)
雑兵にとって、合戦に出る「役得」は、略奪。
これが増床への実質的報償といっていい。
あと雑兵首に価値はない。
せいぜい討ち取った人間がそいつの鎧や着物をぶんどれる程度。
>雑兵首に価値はない
これまじ?可児才蔵が関ヶ原で討ち取った17首級は名のある武士の首なの?
才蔵すごすぎ
>>945 名があるというか、物頭以上だな。とって価値のある首は
織田信長が一向一揆と戦ったとき、殺した信者の鼻を削がせて戦功を報告させたとか、
豊臣秀吉が朝鮮出兵でやはり殺した兵士の耳を削がせて持ち帰り
戦功を調べたのち耳塚として葬ったとか色々あるけどな。
勿論、一向一揆で戦った信者など農民だし、
朝鮮出兵で持ち帰った耳だって徴兵された農民。
> 勿論、一向一揆で戦った信者など農民だし、
違う。国人地侍層が中心だ
949 :
940:2013/01/27(日) 22:56:27.07
レスありがとうございます。股引か。股引って息の長い衣装なんだなと感心しました。
これまで股引は、明治以後の洋装化にともないズボン下として登場・普及した衣装だと思っていました。
>>948 いや、農民。
有名な加賀国は「百姓の持ちたる国」と当時の史料でも出てくるでしょ。
浄土真宗は既存宗教が手を付けなかった農民層に信者を獲得したことで
室町時代に爆発的に信者を増やした。
今でも北陸などは農民の末裔に浄土真宗(一向宗)信者が多い。
>>949 >これまで股引は、明治以後の洋装化にともないズボン下として登場・普及した衣装だと思っていました。
それはステテコではなかろうか。着物の下にも着用したようだけど。
>>944-948 ありがとうございます
じゃあドラマなんかで農民が「手柄立てて褒美貰って引き立ててもらうんだ」
とか言ってるあれは、割と夢物語なんですね
物頭ってそう簡単になれないし首も取れないですよね?
>>952 いや、それも極論。
一生食うや食わず生活よりもしかしたら
勝ち馬についてけば出世できるかもしれん。
そういうのは現代と同じ。
まずはコンビニバイトから始めて
クビになるやつもいれば、そこそこ独立して出世するやつもいる。
そういう一般論してはドラマは別に間違ってもないし
何時いかなる時代でも、世界中どこでもチャンスはあったろうと
いう話ね。
細かい定義はまた別の話さ。
>>952 半農半士の雑兵にすぎない足軽出身の豊臣秀吉が
天下を執れるくらいだからチャンスはあった。
ただし豊臣秀吉は当時としてもかなりの小男で、弓が強いとも刀が強いとも伝わっていない。
秀吉本人の個人的な武術で天下を取ったというよりも
策略に長け、他人の心中を一目で悟って行動し、稀に見る人誑しであったこと。
あとは勇気も必要だな。秀吉は自分で綿密な奇襲の計画を立てたら先頭に立って軍を誘導した。
そういう意味では武功も上げていた。
>>955 > 半農半士の雑兵にすぎない足軽出身の豊臣秀吉
もう、そんな俗説を言うのはやめようよ!
『太閤記』のデッチ上げ。出自や身分を惨めに描いたのは。同様名類書皆同じ。
早くから物頭。軍団長とまでは言えなかったかも知れないが、大隊長クラス以上。
年令から遡って推察して、織田家に仕えて間のない時期からそういう身分。
既に太刀を差して、当時余程のことであった月代も剃っていた形跡がある。
ゆえに、身分はもっと上で事実上の軍団長だったかもしれぬが、
その時期の織田家の内情自体に一部わからない部分がある。
出自も尾張中村の相当の富家、名主並み。のちの庄屋の役目をしていたかまでは不明。
織田家仕官は、過去父親が仕えていたから。
父親が大した身分でなかったから、「卑賤の出」と付け入られる余地があった。
『太閤記』は、徳川の世が安定した時代。
秀吉が紛れもない天下人だったことは、誰しも周知の時だから、
出自や元の身分を徹底的に貶めて、権現様との落差を強調し、
豊臣家が徳川に潰されても当然の本質であった、悪いことではなかったとする意図。
幕府を気にした記述なわけ。
当然、『太閤記』は、太閤人気を当て込んで出したものだが、
権現様との接点で、権現様より目上にさえ置かなかったら、
織田家内での出世や天下取りをどのように描こうが自由。
だから、ああいう記述になって、秀吉はいつも権現様と対等以下の立場振舞い。
↑「過去父親が仕えていたから。」→「過去父親が仕えていた縁。」
要するに、仕官は、織田家の引き抜き。
何かで才能を見出されたのでしょう。ほぼ当初から物頭以上だったんだから。
決して、秀吉側からの就職活動ではない。
↑織田家内での出世譚は、『一休さん』のトンチ話がみんな作り事であるのと同日。
すべて、でっち上げ。
> 「過去父親が仕えていた縁。」
すなわち、富家であったわけだから、織田家には、縁故採用として秀吉に相当の信用があったわけ。
単に有能人物を見出してどこの人物でも良いとの採用でなかったという意味。
960 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 16:49:15.81
>>956−
>>959 秀吉が、相当の富家、名主出身で、信長に出仕したのは信長からの引き抜き、
織田家に仕えて間のない時期から隊士長クラスって、何の史料に載ってるの?
まさか日本史板で史料なしで言ってないよね?
秀吉は、史料で確認できる部分でも、20代にはすでに信長の奉行として自分の名前で文書を発給していた。
つまり、すでに有力な信長近習の一人だったということだ。
いくらなんでも秀吉が貧農出身で、しかもそれまで信長と接点のない人間出会ったらコレほどの若さで
これだけの信頼を得られるとは考えにくい。
秀吉はごく早い段階から、信長の側近くに仕えていたと考えるのが自然だろう。
962 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 18:01:16.70
>>961 秀吉の史料の初見って、永禄8年(1565年)の
「木下藤吉郎秀吉知行充行状」でしょ?
坪内氏に知行を認める文書だが、信長近習だとは限らない。
しかしそのことと秀吉の出自の特定とは何の関係もない。
秀吉の実家がそれほどの名門だったのならば、
まずは秀吉の実父木下弥右衛門の文書が残るでしょ。
963 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 18:02:17.52
「木下藤吉郎秀吉知行充行状」のときに秀吉29歳。
20代にはすでに〜ってギリギリ20代だけどな。
964 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 19:12:22.35
>>964 史料資料って言うけどね、こんにちでは史学をやるほどの者にはほとんど常識じゃないの。
どういう立場の人間か知らぬが、何とか史学の講座取ってみて教員教授に頼んでみたら。
史資料の大まかなタイトルリスト位い、もらえるかも。
>>965 常識がないのはあなた。
史料に基づかないトンでも説を書く人を非難するために
トンでも説を書く人に史料の提示を求めただけ。
何を勘違いしているのか知らないけれど、
この時代の史料を何も知らないので誰か教えてください、
なんてあなたに聞いていませんが?
>>948 >>950 東海も北陸も、一向宗(特に本願寺系)の主力戦闘員は農民だけど、
それをまとめる(担がれる)のは在郷の侍階級
なるほどなぁ、それなりの研究家でも
秀吉は足軽家とか豪農とかにおわすのがいるけど
軍記ものと結果論からの妄想なのか。
そしてそれを読んだ子が、学会ではこうですよ、とか
知ったかするわけか。
木下家関連のかすかに残る婚姻関係とか
その後から推測する家系図系の専門家は
いるみたいね。
長浜初期秀吉配下の部下の名前から
尾張出身でないかとか推定してそっから
秀吉の出自あたりの話につなげたり。
秀吉政権後でも配下の武将をたどってくと
尾張につながる苗字があったりして
これは歴史とはまた違った手法?だから
少し面白い。
ただご存知のように家系図は日本史では
一次史料とは認められないからあまり
日本史の専門的なところではとりあげられなくて
あくまで異分野の話にはなってしまうんだけどね。
>>967 だから、主力戦闘員の農民が鼻を削がれて信長に戦功として報告されたんだ。
勿論、これらは名もない者たちなので首である必要はない(首を持ち帰っても誰かわからん)。
逆に武将クラスなら首になるからね。
ただ殺した人数を知るために鼻が持ち去られ、戦功として報告された。
>>968 ルイス・フロイスの「日本史」は?
これに「関白(秀吉)は貧しい百姓の倅として生まれた」という一説がある。
そもそも秀吉が貧しい百姓の生まれというのは、秀吉自信が天下取りの過程で喧伝していたフシがある。
徳川史観とか言う奴は史料詠んでない
>>971 でも、ルイス・フロイスの「日本史」は秀吉存命中の史料だろ。
ねねや大政所、秀長など秀吉の出自を詳しく知っているはずの人物も生きており、
あまりにも実際とかけ離れたことを書いたとは考えづらい。
>>971 「貧しい」は、慣用的形容詞で謙辞でもある。
ほかの者は、織田にしろ徳川にしろ、武田・上杉・伊達・北条・今川、
みんな生まれながらの大名である。
ひきかえ自分は、小名・家老でさえなく、生まれは民間人(百姓)であった。
>>971 秀吉は存命中に御伽衆の大村由己に命じて自分の伝記を記させた
「天正記」 というものがある。
これによれば、秀吉の母大政所は萩中納言の娘で宮仕えをしているうちに天皇(正親町天皇)
の手がつき、一子を孕んで秀吉を産んだと記されている。
秀吉が生前、わざと自分の出自を貶めていたようにはとても思えんな。
>>970 そのあたりが普通の解釈の元でしょな。
ただ、フロイスは人によって扱いがかなり違う。
最近は細かい訳とかも出てるし文化風俗面では
とても貴重な扱いなんだけど
歴史の一次史料としては非常に軽視する人が多い。
フロイス自身が誇大妄想家であり宣伝のための
誇大表現だろうという感じで。
このあたりは問題なんだけど
少し話がそれるかな。
>>972 フロイスには、茶々、は出てこないらしい。
これから逆算して、ねねたちと違って茶々はそんなに
目立つタイプではなかったのではないか、という
専門家がいる。
少なくとも、ねねVS茶々、なんてドラマ的なものを
排除する意味でなかなか面白い着眼点とは思う。
>>976 低い身分でも「出生」は特別、って理論でしょ?
別に珍しくもない話だよ。三国志の劉備玄徳みたいなもんだ。
出生が「貴種」であるなら逆に低い身分だった、とするほうが宣伝効果がある
フロイス「日本史」は学者があまり興味を示さないらしい。
完訳が遅れた或いは遅れている原因。
別にフロイスが悪いというわけではないが、
宿命的な欠陥として根本的で全般にわたる最大の点は、
日本の実状をよくわかっていない記述
偏見錯誤に基づく視点
伝聞・噂の断定的記述
本国での一般への公刊を目的とした原稿であること
従って、特に、政治面・政治家(武将)についての個々の記述は信用できないものが多い。
事実、わかっていることと齟齬するものがしばしば。
(例)
厚遇された信長に、その出身のことを「素性」としか翻訳できないポルトガル語を使用している。
信長が明智をいじめたとまことしやかに書いている。
客観的なものに対してはかなり正確なんだよね。
こないだも岐阜城の発掘でそれが証明された。
そして人間に対しても非常に分類的というか
失礼だが、異国の動物的評価みたいなところがあって
こういうのはかえってもう少し評価してもいいようには思う。
数量的でなく主観的なものはやはり一次史料からはどうしても
はずれてはしまうんだが、「信用できない」ときめつけてしまうのも
またちと史料吟味のなんとか至上主義に偏るきらいを感じる。
>>978 スレの流れ読んでる?
971は秀吉本人が天下取りの過程でわざと貧しい百姓の出身だと宣伝していたというので、
秀吉本人はそんなこと宣伝してない、と書いただけ。
偉大な人物に誰それの落胤説が出るのも毎度のこと。
>>979 フロイスは光秀が信長に足蹴にされたという話を聞いたということを淡々と描くのみで、
「いじめた」とは書いていない。逆に、こんにちの人が本能寺の変の原因の一つは
信長の横暴ではありえないとするがために、そもそも信長がそんなことをするはずは絶対になく
そんな噂が流れた事実も一切ない、と一方的に思い込むほどのことではないだろう。
フロイスの「日本史」にある明智光秀の出自、
「彼(光秀)はもとより高貴の出でではなく、信長の治世の初期には
公方様(将軍)の邸の一貴人兵部太輔(細川藤孝)と称する人に奉仕していたのである」
は、こんにち光秀の出自を知る同時代史料として重みを増しており、かなり重要視されている。
982に同意だ。
信長の公武関係については結論ありきの面が強い。
光秀が足蹴にされた件も、直後に変が起ってるから
かえって信憑性はある、というように考えるところだろう。
もちろん結果見ての創作かもしれないし
真偽はまた別だが、フロイスの創作、とする証拠も
出ようがないし日本史自体を「信用できない」という根拠に
なんかも使えないだろう。
『武功夜話』並みの扱い、ってのをぢかに聞いたことある。
ネットや三流新書で見たとかではなく、然るべき筋から対話で直接聞いた。
『武功夜話』はそれ自体が偽書の可能性がある時点で同列には……
『武功夜話』って、偽書なの?
発見当時、津本陽ほか錚々たるメンバー計三人のもっともらしい鼎談が
講談社から出していたの読んだことあるが、
「新しい発見」「歴史を書き換える」とか大層な評価だったよ。
>>986 ほぼ間違いなく偽書だよ。それも昭和になって作られたものの
>>984 「武功夜話」は「太閤記」「信長公記」らの軍記物の中でも
特に信憑性低いだろ
然るべき筋って誰?ちゃんとした論文で論証した学会の人なら
勿論名前出していいだろ
三流雑誌編集者とかなしね
「日本史」は史書であって同列に扱うべきではない
なんか話がかみあってなくね?
>>984は、「武功夜話は偽書でない」と言ってるのではなく、
「(フロイスの日本史が)武功夜話と同じぐらい信憑性が低い」って言ってるだけじゃねーの?
もちろん、偽書と史料を同列に扱うべきでないってのはその通りだけど
990 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 14:04:28.89
鎌倉幕府滅亡の折りに現れた妖霊星は、何彗星だったのでしょうか?
>>989 だから、そう言ってるんだよ
ルイス・フロイスの「日本史」の信憑性は高い
偽書の「武功夜話」などと同列ではない
同列の偽書だといっている学者がいるなら
その名前を出せと言っているの
>>984 日本史を武功夜話並みの扱いとか、冗談は顔だけにしろ
>>990 元ネタの太平記では北条高時の館に怪しい連中が現れ「天王寺の妖霊星を見ばや」と歌い踊った、という話であって彗星なのかどうかさえ明らかではありません。火星の大接近だったという説もあります。
http://ch08180.sapolog.com/e97407.html 一応、1301年にハレー彗星が出現したことはわかっていますが高時はまだ生まれていないし、他の名前がある彗星で700年前に観測されたもののどれがそうだとわかっているものはないんじゃないでしょうか。
994 :
日本@名無史さん:
>>993 まことに以て忝なうござりまする。
あつく御礼を申し上げる次第にござります。