出雲国譲り・ニニギ降臨〜神武東征〜崇神治世という
ふうに流れて行った日本の創成期。
これを語ると、日本創世記の真相が見えてくる!?
語れ。
2 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 19:07:31.69
紀元1世紀前後、
ニニギという部族長が配下の者を率いて、
江南長江流域から東の日の昇る島嶼の日向に降りたった。
(天下り)
それから四代後、神武がヤマトへ東征し、建国。
(吉備にとどまったり、河内方面で敗北して、熊野を迂回したりと
いろいろあったー建国伝承)
十代目崇神の時に統一への緒を開く。
(後に、ともにハツクニノスメラミコトという称号を奉られるが、
神武はヤマト地域に初めてクニを開いた王、
崇神は日本という国全体をヤマト国家としてまとめようとした
初めての王という意味)
ここにニニギより、二千年続く王国が始まる。
高天とは、現在の奈良県御所市高天周辺の地域で
このあたるには、高鴨、高木、高尾張などの地名が多くある。
徳川幕府の親藩・譜代大名の多くが三河発祥の土豪だったように、
ヤマト朝廷の天孫・天神・皇別などの天津神系の貴族の発祥地が
この高天周辺から発祥している。
この高天で発祥したヤマト朝廷は、出雲国譲りを達成し
日本をほぼ統一すると、各地に地方官を派遣して統治した。
その中で、九州南部の高千穂に派遣されたのが、ニニギ命だった。
彼は、ヤマト朝廷の初代倭王だった火明命の弟にあたる。
4 :
サガミハラハラ:2012/06/04(月) 19:38:30.09
邪馬台国は佐賀県小城市甘木である。
卑弥呼の墓は、小城公園内桜ケ岡(サクラオカ)である。
5 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 19:47:55.25
>>1 出雲の神々って古事記で描かれるのは
天照大神はじめ天孫族の敵役配置ぽっいよな
古代は九州南部の兵って無茶苦茶強かったらしい
九州北部に居たヤマトは何とか退けていたが被害甚大
嫌気がさして畿内に移住する事にした
畿内にはニギハヤヒの末裔が居た
ニニギより前にニギハヤヒは鳥海山に降臨し秋田に宮を作り、やがて畿内に移住していた
言うなれば「物部南征」を先にしていた
しかし神武東征のヤマト一族に負け、物部一族は神武天皇の配下になった
神武天皇も新しい嫁を貰って、めでたしめでたし
つまり、古代の京都美人は秋田美人だったのだw
7 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 20:14:02.80
>>6 何で秋田なんか出てくるの?
まったく歴史事に寄ってもないのに
それどころか秋田は何か汚点が多すぎる所なのにw
それに
いろんなスレで稀な秋田の美人度は疑問視されてるしね
9 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 20:26:48.90
10 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 20:34:58.83
>>3 高天原という地名は日本のあちこちに有る。有名なところでは霧島にも有る。いろいろな可能性を考慮せず、
自分の説が正しいと思い込む者は歴史の探求には向いていない。
>>9 ひど〜いw
わりと常識的な事が書いてあるぞ
でも考えてみろよ
博多美人 → ヤマトの故地
秋田美人 → ニギハヤヒの故地
京美人 → 上二つの集合
これで説明が着くwww
12 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:11:24.34
スレの程度が下がったな
もうここには用はないかな
>>12 世界中の神話を読み直してから出直して来てねw
記紀はギリシア神話より歴史的価値が有る
分かってないヤツ多すぎだなあ〜
記紀は叙事詩でなくて神官が伝えた歴史書なんだぞ
稗田阿礼は最高です世界一です
15 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:45:04.17
>>6 >古代は九州南部の兵って無茶苦茶強かったらしい
九州北部に居たヤマトは何とか退けていたが被害甚大
嫌気がさして畿内に移住する事にした
無教養の人間はいいかげんな事は言っちゃ駄目だな
『魏志倭人伝』には次のように記されている。
「女王国より以北には、特に一大卒をおいて諸国を検察させている。
邪馬台国の一大卒はつねに伊都国に(置いて)これらを治めている。」
卑弥呼の邪馬台国は邪まな考えが起こらないように北方を警戒して
中国の万里の長城みたいに漢民族が築いた北方の邪民族を防ぐみたいに
一大卒つまり伊都国に大軍事拠点を北方の押さえとして見張ってたんだよ
17 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 00:26:55.92
>>16 非常に抽象的な渡来人って朝鮮民族のことですか!?(笑)
以南って別に見下してるわけじゃないから以北を
当時の精神背後風景を考慮して歴史的記述を述べてるだけでね
>>17 なにを言いたいのか良く分からんw
熊襲の争いは激しかった
ヤマトは何度も九州に遠征している
19 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 00:41:06.84
>>18 激しいもなにも短い記述で
騙し打ちくらっただけだし熊襲は
日本書紀に拠るとケダモノみたいに書かれた
東北の蝦夷が一番激しい戦いしたって記録されてるぞ
歴史的事実として
何か重要な要素が隠されてたんだろうね
20 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 02:15:56.77
崇神天皇は実在したと思う。
おまえら、このスレのタイトル
>>1は良く考えているわw
ちゃんと、記紀にあった出来事の順番通りに流れを書いている。
出雲国譲り・ニニギ降臨〜神武東征〜崇神治世
っていうふうにな。
ここんとこ押さえてないを奴が多いので、話が通じないんだよ。
ヤマト朝廷は近畿で発生したんだよ。
最初の出雲国譲りってのは、近畿と出雲の戦い。
その後、全国制覇を達成した近畿王権は、九州高千穂に
王家の一族のニニギ命を地方官として派遣した。
その後、ニニギ命の後胤たちは日向の知事を歴任し
ニニギ命の曾孫のワカミケヌ命(神武)が、再び近畿本国に移住する。
そのきっかけが、近畿本国でクーデターが勃発したので
援軍としてかけつけたのがワカミケヌ命。
>>10 高天原という地名は日本全国にあるけど
高天という地名は、奈良県御所市高天ぐらいにしかない。
これが重要なのだ。
高天原というのは、たかまのはら、たかまがはら
という風に読み方が変わっていたけど
かわったばしょは、格助詞の部分なので
高天という場所があって、そこの原野という意味だと分かる。
日本全国にある高天原とは、記紀に書いてあったので、そこから後世に
発生した地名だという風に分かるけど
高天という地名の場合は、そうではない可能性が高いことがわかる。
23 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 07:03:45.12
>>21 そうだね。
神武東征より前に出雲国譲りが行われてる。
国譲りをされた畿内から天孫降臨したのがニニギか…?
ウガヤフキアエズは数代を一纏めにしたという説もある…?
>>23 畿内に居たのはニギハヤヒだぞ
同じく天神の子孫で降臨したと言っている
まったくその通りで同祖らしいが戦っている
東征時に畿内に居たのはニギハヤヒということはニギハヤヒが本家筋だったか?
同祖ということで自分・相手(ニギハヤヒ)を納得させることはできたがニギハヤヒは不本意だったろう
27 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 07:31:41.73
高天原から出雲にアメノホヒ。
畿内にニギハヤヒ。
日向にニニギ。
ニギハヤヒは偽物の天孫という説がある。
奴の正式名称は
天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命だろう?
天照国照彦天火明+櫛玉+ニギハヤヒ だよな。
櫛玉は、形見、ご落胤という意味があるので
天照国照彦天火明の御落胤のニギハヤヒ皇子みたいな意味だろう?
ニギハヤヒ命の子孫である物部氏は、ニギハヤヒ=火明と称し
自分たちは天孫だと自称したけど
皇室や尾張氏などは、それを認めてなくて、ニギハヤヒ≠火明とし、
物部氏は天孫ではなく天神とした。
あと、ニギハヤヒが降臨した場所は、河内国な。
九州の廃れっぷりを見るに九州ってそれほどたいした勢力じゃなかったんじゃないかな。
神武東征した後に九州から人がどばっと奈良に移ったの?
ニギハヤヒは、高天(御所市)の出身。
こから、河内に降臨したが
やがて、ヤマト(桜井市)にのぼって、
自分は、天照国照彦の形見の皇子だと自称した。
高天(御所市・葛城市)
ヤマト(桜井市)
高千穂(宮崎)
河内(大坂)
>>29 >>1の時系列を読め。
神武の一族は、もともとは近畿の出自で
近畿にいる本家の命令で九州南部の統治を任されていたに過ぎない。
33 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 08:10:08.39
>>29 昔の九州から見れば畿内が未開の蛮地。
もっと前は火山噴出物で九州は無人で東北が先進地。
34 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 08:12:05.55
河内に天降って大和に遷った。
つまり河内に上陸して大和に行った。
>>33 記紀をちゃんと読め。
神武さんは、日向は狭くて貧しいけど
畿内は豊かで広い土地と言っている。
神武東征より前も畿内が倭国の中心地。
>>34 あのな...
磐船神社という神社があってだな、
大阪府交野市の南端、天野川の渓谷沿いにあり、
「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる天野川を
跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの
舟形巨岩を御神体としている。
ニギハヤヒが天磐船に乗って天野川をこいで降臨したという伝承がある。
大阪湾から上陸したのではない。
現在の奈良県側から川を下って、現在の大阪府交野市に降臨したことになっている。
大阪府交野市私市9丁目19-1 をグーグル地図で調べてみい。
降臨させた元が奈良県御所市高天にあったのなら、
ニギハヤヒもニニギもニニギの子孫のイワレヒコも奈良中心の体制の中の人間だったことになる。
奈良を中心とする畿内〜九州の体制は降臨の時点でもう出来上がっていたと。
>>38 そうだよ。話が神武東征よりも広がってきたので
スレタイを変えた。
そうなんですか
まず前スレ読んでみますね
41 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 10:15:38.21
「神話」を「何らかの史実の反映」ではなく「歴史そのもの」と思い込んでいるバカが大手を振っているスレがここです。
神武東征は、日向神話と大和政権をつなぐために作られたお話
43 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 11:25:56.62
普通に考えればニギハヤヒというのは出雲に帰服した(かつての)天孫族の子孫だろう。
出雲大王の意を受けて大和の植民統治を請け負っていたが、
神武の軍勢に屈して高天原勢力に寝返ったと思われる。
その後の歴史は記紀にある通りで、最終的に出雲を服属させるのには崇神〜景行期までかかった。
神代の国譲りで出雲が服属した訳ではない。
国譲りは高天原側からの言い回しにすぎず、実態はただの相互不可侵条約。
ニギハヤヒは、「近畿地方以東に先行して進出した弥生人部族の共通祖先」の、
一つの象徴的表現なんじゃないのかね。
この「近畿以東」が、ずばり畿内なのか、あるいは東海(濃尾伊勢)なのかは分からない。
俺自身は、ニギハヤヒ≒アメノホアカリ≒スサノオ(ただし近畿以東太平洋側限定)
で、厳密な神格は違うが、同系統の部族神の統合体である、と理解しているが、
多数説ではないことは承知している。
>>42 何故日向神話を大和朝廷に無理やり繋ぐ必要が在るんだよw
朝鮮半島神話の方が権威付けになるだろ。
>>45 安本臭または古田臭がするといって、嫌われるかもしれないが、
日向神話なるものは、「福岡神話」と「宮崎神話」の2つに分かれるんじゃないか?
皇室が神話を編纂するに際して、ビルトインされていたのは福岡神話のほうで、
本当にそうだったかはともかく、
自らの氏族が、なんとなく瀬戸内海の向こう側、北部九州方面からやってきたのだ、
という原伝承があったのだと思われる。
ただし、「徳川氏の群馬起源伝承」と同じくらいの信憑性なんだろうけどね。
だが、それを神話に編纂する際に、宮崎の話にすり替えられた。政治的にそうする必要があった。
宮崎は、近畿勢と親和性の高い部族が住んでいた地域で、かつ地理的に孤立していて「人畜無害」。
ある種「桃源郷扱い」の出来る土地で、ここを故地とすることは、
神話のありがたみを高めこそすれ、特定の地方勢を刺激したり、分裂を促したりする効果は無い。
神話編纂者としては、「系譜の始祖を奪われて、自称格上の本家が出てくて叛乱される」ことが、
何より一番恐ろしいからだ。
47 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 13:27:37.56
筑紫の話はしょっちゅう出てくる。本来が記の天照とスサノオの生まれたところは
宮崎のアオキガハラではなく「筑紫の」小戸のアオキガハラと明記されてる。
後代に長崎が肥前(日前)熊本が肥後(日後)宮崎が日向とされたように
南九州は有明海を中心とした一つの勢力圏。
大きな意味では北部九州(中華)の外郭自治区で、中国からの文物の恩恵を受けつつも
独立を保っていた現地勢力だったと見るべきだろう。
かつての中原と西域のような関係であったのかもしれない。
一方筑紫平野のクリークや環濠が江南地域のクリークと全く同じ構造をしてる事から考えても
北部九州はあきらかに江南系中国人の直轄勢力があり、ある種の不可侵地域であったと考えれる。
おそらく、筑紫は大陸勢力が影響力を持ち続けていた「外国」で
大和王家が手を出せない権威を持っていたと考えたほうが自然ではないかな。
48 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 13:34:32.91
例えば
博多は本来、伯太とかく。
要するに太伯のとで、秦氏はハカタがなまったものという説もあり、
港が湊と書くのもそのためだという。
>>47 その説は、日本語音韻史として不成立。
「肥」の母音はイ乙で、「火」と同音だが「日」とは別音。
「肥」の上代推定音は、*pöy「ポェィ」となり、祖語音は*pö「ポェ(ホ乙)」となる。
(オェではなく、英語の曖昧母音のような音=緩い「ァ」だったという説のほうが、最近は有力だけどね。
この説を取れば、各々「ポァィ」「ポァ」となる)
他方、「日」は*piだ。一貫して「ピ」になる。この2つが混同されることは無い。
50 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 13:56:27.17
ちょっと変わったものでは、これらの土地名は番号なのでは、という話もある。
博多を中心に起点とし、その影響力が及んでいった地域を番号で呼んだ。
つまり、ひ、ふ、み。
ひのくに(一番目の征服地)の前、後ろ、向かう(出て行く・出征)でひ前、ひ後、ひ向。
ふのくに、つまり2番目の征服地の前後、で豊前豊後(大分)
三番目がみのくに、つまり三重、紀伊半島から近畿、
4番目がよのくに、つまり四国。
5番目がなこく、つまりなのくに、つまり名古屋。東海地方。
ここで、大和政権は確立し、出雲と和解・合併したのではないか。
もともと、ひふみは神事の際の言霊であるとされてるし、そのような名付けもありえる。
うん、でもごめん。実はこれ俺の妄想。
51 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 14:02:16.10
ああ、妄想ついでに言えばみこくは備国、吉備の事かもな。
そう考えればちゃんとしたから順になってんじゃん。
52 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 14:24:08.01
つまりこうか?
下から順に
ひ=ひのくに南九州
ふ=ふのくに北九州
み=みのくに瀬戸内海
よ=よのくに四国。
いつ・む=いつむうのくに中国
なのくに=尾張。
やのくに=羽田矢国。つまり近江。
このくに=滋賀ではいまもここくという。
とおのくに=遠江。東海。
ちなみにそれより北は「おう」という。
終という意味で、最果て。
奥州、おうしま(伊豆大島。もともとは伊豆列島は全体がおうしまだった)など。
53 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 15:06:31.93
なるほど、
奄美大島は「天(が)見(える)遠くの島」か。
54 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 16:05:16.10
そうだとすると
日本湾岸部各地に残る「久米」は沖縄の久米部族のことだという説を思い出させるな。
高天原は沖縄だったというあれだ。アマミキヨ伝説か。
天孫降臨は鹿児島だという説を採ったとすれば、
ヤマトタケルが何故熊襲をはじめに討ったか解り易い。
上陸地点にいるのがクマソなんだから最初に討つわな。
神武天皇は実は継体天皇と似たような立場だった
というのを今思いついた
>>54 津軽外三郡誌では「神武=台湾出身」説をほのめかしていた。
せっかっく、まともな話になっていると思ったら
また、途中からめちゃくちゃな話になっている。
戦国時代とか、幕末とか、源平合戦とかは
日本人の間でちゃんと歴史観が有るので、議論になりやすいが
古代に関しては、現在の日本人の間でちゃんとした歴史観が存在しないので
トンデモ説のオンパレード。
>>43 ほれほれ、また、記紀などに初歩的な知識もないから
そういうずれた方向に話が行く。
出雲国譲りは、神武東征よりもずっと前だ。
神武の三世代前に起こった出来事だ。
よって、神武東征の話に、畿内と出雲の対立などそんざしない。
>>44 最近の考古学の研究では、縄文と弥生の考え方も大きくかわってきており、
少なくとも、紀元前10世紀以前には弥生土器の時代が来ており
また、縄文時代にはすでに農耕が開始されたとみられている。
また、日本人は父方遺伝子でみると、縄文から弥生にかけて
さほど遺伝子に変化はない。
よって、日本神話の世界は、日本に農耕が起こって数千年
日本で弥生土器時代が起こって千年以上の時代が経過した話の可能性が強い。
よって、日本神話の世界では、縄文と弥生という話など殆どない。
>>45 ならないよ。日本神話では、朝鮮は常に属国扱い。
>>53 奄美、天見古い木簡や記録に「大島」なんて記述は無いよ。大島表記は最近の話だろ。
吉備や日向では数千年前の縄文後期の遺跡から陸稲プラントオパールが出土している。
日本書紀には「海見嶋」という表記は見えるらしいね
>>58 最近の弥生開始時の考古学的知見は、九州北部、というより博多周辺限定だよ。
従来は、紀元前3世紀頃に、突然北アジア形質の渡来人が押し寄せてきた、とされていたのが、
今は、紀元前10世紀以前に、少数の渡来者があって、
在来の九州人と混交した結果、「福岡で弥生文化のフルスペックが形成されたらしい」という説に変わった。
だが、近畿東海では、それより下る遠賀川式土器集団=弥生人第一陣の、名古屋までの東進と、
この地域における、在来縄文系との人種的・文化的二重構造性は、
依然として、考古学的通説として維持されている。
ここが一番面白いところで、縄文/弥生の対立が顕著なのは、近畿&中京地域。
これが、関東になると、遠賀川式第一陣が到達せず、弥生期においては形質は連続的で、
本格的な変化は、濃尾勢が東進する弥生後期以降になる。
埴原鈴木論争は、それぞれ地理的に正しかったのだ、と思う。埴原の人骨研究の本拠地は近畿。鈴木は関東。
近畿東海では二重(断絶)論、九州と関東では、中身は違うが単一(連続)論。
>>57 神話という物は一部だけ信じちゃダメだ
全体に意味が有る
>>63 ところが
最も古い弥生遺跡は渡来人の影が無い
出てくるのは縄文だけ
「神話」は神話だ。
なぜ「神代」と「人代」となぜ分かれているか考えろ。馬鹿どもw
>>21 >ヤマト朝廷は近畿で発生したんだよ。
>最初の出雲国譲りってのは、近畿と出雲の戦い。
>その後、全国制覇を達成した近畿王権は、九州高千穂に
>王家の一族のニニギ命を地方官として派遣した。
>その後、ニニギ命の後胤たちは日向の知事を歴任し
>ニニギ命の曾孫のワカミケヌ命(神武)が、再び近畿本国に移住する。
>そのきっかけが、近畿本国でクーデターが勃発したので
>援軍としてかけつけたのがワカミケヌ命。
>>32 >神武の一族は、もともとは近畿の出自で
>近畿にいる本家の命令で九州南部の統治を任されていたに過ぎない。
↑馬鹿そのものw神話があいまいな記述をいいことに好き放題。どうせ関某とかの妄想本の受け売りだろw
九州からやってきた神武が、大和のごく一部(葛城)を乗っ取って、成立した小さな「クニ」が、
崇神の代で大和の最有力地域の三輪を攻略。さらに急拡大して吉備、出雲などを服属させて畿内国家とも言うべき
勢力範囲となる。景行・ヤマトタケルで九州南部を攻略、仲哀・神功で九州北部を支配下にいれ大陸進出。
これが、記紀の示す日本統一のプロセスだ。神武以前に“前王朝”が大和から九州まで支配していた形跡なぞ何もないね。
68 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 00:42:27.80
>>67 横からだが
だから「国譲り」というのは実態としては、
出雲と高天原との間で交わされた相互不可侵条約でしかない。
高天原は出雲との関係が手打ちになったので、南九州に駒を進めることができた。
これが天孫降臨だ。
>>68 というより文字通り受け取ると「大国主(出雲政権)は葦原中国(畿内?)から撤退する」って意味なんじゃないか?
権益について北近畿と南近畿でぶつかり合うというシチュエーションがないとも言えない
高天原から派遣されたアメノホヒは大国主に心服して家来になり
続いて派遣された天若日子は、大国主の娘を嫁にもらい後がまに座ろうとしたぐらいだぞ
かなりの勢力を持っていたと考えられる
しかも国譲りの時は、子(配下の神)が大勢居るようなことを言ってる
日本中が大国主の配下だったんでないか?
今でも神無月とか伝承があるだろ
日本中の神が出雲に集まる、しかし諏訪神社の居候の神は免除されてるらしいw
日本の端の九州から神武天皇が出たって事は
国譲りで日本を支配した天孫が何故か衰退したって事を意味する
デタラメじゃない
海幸彦は超貧乏になり弟に泣きついて助けられた
これが衰退の伝承だと言える
大国主 国づくりに成功し栄える
国譲り 高天原が乗っ取る
山幸彦 天孫衰退
神武東征 辺境の末裔が盛り返す
記紀はこんなふうに自然に繋がっている
建御雷神に負けた建御名方が諏訪まで逃げたって事は
少なくとも出雲から諏訪までは大国主の勢力下だった事を意味している
諏訪には今も2系統の神社が有るぞ
つまり国譲りが史実である事の裏付けになる
>>66-68 何を言っているんかw
関坊なんて信じてないわw
出雲国譲りの実態は、母系継承でもあるんだよ。
高天とは、現在の奈良県御所市高天のことであり、
出雲国譲りとは、出雲VS近畿の戦争で、
出雲の王が、娘婿の近畿の王に国を譲った事件を言う。
戦国時代に例えるのなら、斎藤道三が娘婿の織田信長に
美濃を存分にと遺言書くようなもん。
高天=奈良県御所市高天周辺
高千穂=九州南部
出雲=島根県東部
以上だ。
出雲国譲りの痕跡は、播磨国風土記にあるよ。
播磨国は、古来から、近畿地方と中国地方の緩衝地帯。
ここで、出雲の王の大国主と、近畿の王の火明命が激突し
大国主は降参したという伝承が残っている。
そして、両者は義理の親子の関係でもあり、
大国主の娘婿が火明命だったことも分かっている。
77 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 07:46:21.28
国譲りまでは高天原よりも出雲の方が栄えてた。
で、いざその支配権を得てみると畿内やもっと東にまだまだ良い土地があった。
大和はまだ吉備のような強い勢力がいなかったので、よこせと迫るが断られ逆に兄が討死。
高天原本国から武器の供給を受け、内応工作も成功し騙し討ちで神武の勝利。
79 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 10:25:00.98
播磨国の印南野(加古川付近)は古代でもそこそこ繁栄していたらしい。
>>77 その時代のヤマトとは、桜井市周辺の限定された地域名。
現在の奈良県全域がヤマトとされたのは、もっと後の時代。
あと、おまえのに書いている二段目のレスから何を書いているのか分からない。
81 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 12:33:50.33
ホアカリとニギハヤヒはどこで一緒になったの?
大和葛城?
82 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 23:55:28.72
神武東征は3世紀末に起こった史実で銅鐸が廃棄された原因の一つである。
銅鐸は、奈良だけは紀元0年あたりを境に出土しなくなっているだろ。
大阪や琵琶湖では出土しているけど、奈良だけ空白地帯になっている。
これから、神武の大和入場は紀元0年よりかなり前(銅鐸の寿命から考えて100年以上)だと思うけど。
>>83 >銅鐸は、奈良だけは紀元0年あたりを境に出土しなくなっているだろ。
そうなの?まあ、よう知らんけど
紀元元年前後は、出雲国譲りの時期だと思うがね。
85 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 04:09:16.55
倭国王帥升(=スサノオ)が西暦100年頃。
卑弥呼の登場が170年頃。
国譲りはこの間の時期。
そうかもしれないな。
色々考えるけど邪馬壹國は南九州の日向じゃないかと思うんだ。
魏志倭人伝や後漢書東夷伝や神話や記紀の話的には最も辻褄が合うんだよ。
あるいは九州北部から日向に移ったのかもしれないと可能性も考える。
全部無視して純粋に考古学的に考えれば別の考えが有力になるんだが。
>>85 >倭国王帥升(=スサノオ)が西暦100年頃。
違う。この人物は記紀には記載されてないような無名の人物。
倭の面土国(メタ国)の王らしいので、
筑紫の米多国(メタ国)の国造だった人物の可能性が高い。
時代は欠史八代の初期だと思われ。
88 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 07:03:23.64
>>87 「倭面土」は「倭土面」の誤記で、イヅモと読む。
89 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 09:27:56.91
>>83 3世紀の遺構からでてるよ、纒向からも。
3世紀以前の畿内は大和朝廷や邪馬台国とは関係がない。
もちろん神武東征は3世紀より遡らない。
90 :
内大臣:2012/06/07(木) 10:03:51.84
銅鐸って何の為に使われてたの?
そしていつから衰退していったの?
それと卑弥呼や台与のシャーマニズムっていつ頃衰退していったの?
因果関係ある?
91 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 12:07:22.41
>>90 銅鐸は祭祀とか儀式で使われていたと思う。
原始的なシャーマニズムは
「まじないではなく、理屈で統治する方法」を説いた
漢籍が普及してから下火になったような気もする。
92 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 14:10:59.98
>>91 ありがとうございます!
でも、原始的シャーマニズムは理屈で指導ってどういうことですか?
魏志に『よく衆を惑わす』って記述がありますが、理屈=科学 的、自然現象を利用って意味でしょうか?
私がふと思いましたのが、国家の統治方法としての宗教的道具として銅鐸を使用していたとは考えられないのでしょうか?
銅鐸の出土地域は、過去に統一国家叉は連合体のような結び付きがあったような気がします。
それが卑弥呼の時代になり、銅鐸に代わる新しい統治方法=シャーマニズムが生まれて、銅鐸は衰退していったなんて考えられませんでしょうか。
>>89 ごめん説明不良。
紀元0年辺りから銅鐸のデザインが従来のシンプルなやつから派手な装飾でゴテゴテしたやつに変わってきたでしょ。
奈良ではこの派手な新型が出土してない。周辺の大阪や琵琶湖岸や三重からは出てるから、奈良だけが特殊。
新型の銅鐸は買わない(要らない)というコンセンサスが既に出来てたんじゃないかと。
>>92 横だけど読解ミスしてるよ
まあ
>>91の書き方も悪いけど
添削するとこうだな↓
>「まじないではなく、理屈で統治する方法」を説いた漢籍が普及してから
>原始的なシャーマニズムは下火になったような気もする。
95 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 15:59:13.83
>>93 確かにそういう傾向はあるかも。
イワレビコによるものかニギハヤヒによるものか、それとも別の要因かは謎。
>>88 読まないよw
漢字の音韻から学習しなおせw
>>89 紀元前1世紀のころから、畿内が中心だよ、倭国の。
それは、邪馬台国(ヤマト朝廷)の前身にあたる。
98 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 18:30:07.71
崇神天皇の時に画期があったのは間違いないが、
しかし、それ以前はずっと神武がたてた王国の範囲のままだったのだろうか。
七代孝霊天皇の時に王都をイワレから遷し、
八代孝元天皇の時に后を物部氏から迎えている。
七代孝霊天皇の時にすでにヤマト王権は、
ある程度の拡張路線に明確に踏み出したようだ。
当時は1年が360日でなくて180日だったから、
2700年前ってのは今の暦で2000〜2200年ぐらい前だったのでは?
>>98 > 七代孝霊天皇の時に王都をイワレから遷し、
> 八代孝元天皇の時に后を物部氏から迎えている。
史実っぽい出来事であるので、この2人の天皇は実在したのかもしれない。
地味な内政に手一杯で、戦争とかやらなかったので、当時は記憶されなかったのかもしれない。
もともと倭国では、祭祀王と俗世王の二元体制だった。
正統な倭王は、祭祀王のほうだが、
実質的に政治を行っていたのは、俗世王のほうだった。
神武〜開化までは、俗世王だったけど、祭祀王ではなかった。
俗世王と祭祀王の両方を兼ねるようになったのは、崇神から。
>>101 なぜわかるw
「わからないことはわからない」これでいいじゃないか。
あいまいな記述をいいことに(あるいは記述がなくても)勝手に想像膨らませるのは馬鹿の思考だ。
103 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 20:47:54.11
むしろ崇神は神器の鏡を宮中から叩き出したりして、
祭祀をないがしろにしたから祟られたんだがなあ。
104 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 20:52:57.32
>>102 これはある学者が唱えた説。
末子相続だとが、いろいろと唱えられている王位継承方法の一つの説。
実際は、王の意向や出自などさまざまな事情で決まったに違いないのを、
後付の理由でこねくりまわしたもの。
よくいわれる末子相続も原始時代ならともかく、
後の継承方法に結びついたとは思えない。
いろいろ考えてみると、基本は長子(嫡子)相続ではないか。
長子相続が儒教等の影響によって確立したという説も
いささか怪しい。
むしろ、神武は祭祀王として九州から招かれた王で、世俗王は他に居たのではないかと。
継体天皇みたいに。
106 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 21:41:08.37
ニギハヤヒが秀吉、ウマシマヂが秀頼、
神武が家康みたいなもんだろ
この時代ってさ。江戸時代と何が違うんだろう?
もう鉄は作れたんだよね?もっとちゃんとした街とかあってもいいと思うんだが、
藁乗っけた家にまだ住んでたのかね。
けど出雲大社とかはすごい建築技術なんだよね。だったらもうちゃんと街とか
あって良さそうな物だけど。
108 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 23:03:13.69
昔って人口増えるの遅くない?
今みたいに少子化じゃないのに。
食べ物だって稲作してたらとりあえずは大丈夫そうだけどなあ。土地に困っては
いないだろうし。
家に対する要望が違う。
当時の人は、竪穴式住居でいいんじゃね?って思っていたから竪穴式住居だった。
もし高床式じゃないと嫌だって思っていたら、高床式住居になってたと思う。
111 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 23:42:54.87
偉い人は高床式に住んでたと思う。
竪穴式よりかなり住み心地が良い。
どうせなら横穴式住居に住んでてくれれば良かったのに
横穴式住居のまま発展してたら遺跡とかになりやすくて
観光名所になったのになあ。
出雲大社も屋根は萱葺きだったろ
時代は後になるんだろうけど家形埴輪で形は分かるな
114 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 00:15:04.79
出雲大社は地震も無いのに倒壊することがあったらしい。
>>114 それは高層神殿の方
竪穴式住居は夏涼しく冬温かで意外と快適らしいぞ
高床式と季節で住み分けてたって説も有る
ただ竪穴式は湿地や川の側はダメ
竪穴住居って出入り口以外に窓も無いみたいだし蒸しそうだけどそうでもないのかな
117 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 01:02:30.15
>>109 医術も農業技術も未熟だから病気とか飢饉とかで
たくさん生んでもどんどん死んでしまう
118 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 01:04:12.65
>>116 てっぺんに空気穴あるし
何なら窓みたいなのついてることもある
119 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 01:18:34.96
吉野ヶ里では、いわゆる高層の宮殿の近くに、
王様用と王妃様用の竪穴式住居があった。
宮殿は仕事場的な扱いらしい。
日本に伝播 青銅器、商・西周と共通点 特殊な鉛含有
新井氏は、青銅器材料に含まれる微量の鉛を測る鉛同位体比法により、日中の青銅器計約3000個のデータを解析。
弥生関連の1052個を鉛同位体の比率の違いに注目して分類、共通点を探った。
その結果、弥生前期末から中期初めのものとされる青銅器は、
中国最古の王朝とされる商(殷、前17〜11世紀)や西周(前12〜8世紀)の時代に
多く見られる青銅器と、鉛同位体比が一致することが判明した。
鉛の種類としては極めて特殊なものが含まれていたという。
弥生時代については、国立歴史民俗博物館(歴博)が4年前、放射性炭素年代測定による分析の結果、
弥生期の幕開けは紀元前10世紀へさかのぼる−と発表して話題を集めた。
従来の定説では、日本へ青銅器が初めて流入したのは、前250〜200年。
遡上説をとる歴博によると前370年ごろ。
古代の住宅なんて、実のところ、よく分からない。
ローマの遺跡は石造りだから、現在でも残っているけど
日本の場合、木造建築だから、なかなか残らない。
>>116 まず屋根と言うか壁全体に断熱効果がある
床が土なので夏はひんやりと冷たい、
冬は雪や外気よりマシ、藁とか敷いてたと思う。
1ルームなので暖房効果が高い。しかも円形なので壁面積が最小、熱が伝わりにくい
エコ効率的には最新の住宅を軽く凌駕してると思う
問題はやはり灯りや湿気だろうな
124 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 16:08:29.51
>>107 博多湾の近郊は遺跡だらけだが、まだ極一部しか発掘されていない。
上流からの土砂が多く、潮位の差が大きく、しかも地盤が沈降しており、発掘が難しい。
もし全域が明らかになったら十分都市と呼べるレベルのものが見つかるかもしれない。
>>124 どうしてもこの時代の遺跡って街っていうより集落って感じなんだよな。
ちゃんと考えられて作られた街ってやっぱ飛鳥時代までいかないとないのかな?
中国から街づくりまなんで来たって事かな。
>>125 そんなことを言ったら、「パリは1860年まで集落だった」ことになるぞw
世界史の標準的な発想だと、都市と集落を分けるメルクマールは、
「領域との間に、明確な結界があるかどうか」
なんだけどね。
別に城壁でなくても、濠でもかまわないが、農村とダラダラ連続するものは都市とは言わない。
従って、首都圏(東京圏)は2012年に至っても、都市では無い。
これはネタではなく、フランス人の学者などで、真顔で主張する人がいまでもいる。
質問だけど、高倉下(天香具山)って本当に越の国に行ったと思う?
128 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 23:02:04.16
>>126 領域を区切る境界(城壁・壕等)なんて、
「都市インフラの一種」でしかないと思うけどなあ。
むしろ日本の場合そういう境界があると集落っぽいよね。
まあ平安京とかは境界あるんだろうけど、
弥生時代の集落のイメージってからぶき屋根に他の集落から守るための
丸く囲んだ壁か柵みたいなイメージ。
萱葺きや草葺き屋根の竪穴住居×数十〜数百程度の周囲にV字濠壕を巡らせ
祭祀施設、軍事施設、鉄器土器生産施設等も持つ環濠集落が最先端。
弥生時代末にはそれらの壕は土器等で埋め尽くされる。
131 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 23:41:36.77
132 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 23:54:39.02
茅葺き屋根の家は白川郷とか観光地化されたとこしか残ってないけど
昭和50年代くらいまでは各地の山間部の村にはまだ残ってた。
山のかなり標高の高いとこに茅を取るための共有地もあって入手も容易。
田植えは大人数の女性が主で今日は○さんとこ、明日は△さんとこ、て具合に順番に一気に終わらせる。
聞いたところによればこんな感じだったらしいです。
133 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 00:15:11.48
僕の母方の祖父が茅葺き職人で、仕事が無くなって酒に走って若死にしたとか……
今は茅葺き職人が少ないから高級で引く手数多
神社だと半年仕事とかなる
135 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 17:19:45.81
>>132 そうです。
子供の頃、実家で吹き替えをやったけど、専門の職人はいなかったと思う。
地域の人が職人だ。
毎年誰かの家が葺き替えるから、みんなが職人並みになってたんだろうね。
聞いたんでは、20年ごとくらいに吹き替えをしたらしい。
オレの家はその時、屋根全部じゃなくて四面のうちの一つを葺いた。
どこの家も一気に全部じゃなくて、一面とかだった。
その後、近所皆で助けあって屋根をふく習慣がなくなり、どこも瓦か
トタンになってしまった。
全部かどうかわからんがくま笹だった。葺替えが近づくと、葺き替え用の材料を
刈り取り、蓄えてた。
うちはその後トタン屋根になったが、暑くなったなあ。
かやぶきは冬暖かく、夏は涼しい。屋根が分厚い断熱材だから。
究極のエコ住宅だと思う。
136 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 17:20:38.48
・出雲と筑紫は弥生時代の先進地域。いわゆる「神代」の日本史は両地域を中心に展開する。
・スサノオは出雲の大王であり、筑紫と新羅を一時的に占領した。しかしその支配は長くは続かなかった。
・スサノオ後の出雲王は占領地域の経営から手を引き、
筑紫と相互不可侵条約を結ぶ。これが「国譲り」である。
・筑紫の豪族で、出雲に帰順した氏族もいくつかあった。
ニギハヤヒはおそらくそうした「出雲の天孫族」の子孫である。
・両国の和平期に、出雲は本州内陸、筑紫は南九州に進出して勢力を拡げた。
これが「天孫降臨」であり、天孫族とは要は武装開拓団を率いる軍事氏族のことである。
・神武東征は、筑紫に臣従する軍事氏族の長に過ぎなかった神武が、
一国の王となる事を求めて起こしたものであり、天孫族はこの創業によってはじめて「王家」となった。
137 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 17:52:51.58
伊勢神宮が30年ごとに建て替えるが
こうしないと昔の平均寿命では技術の継承ができなかったんだろうな。
138 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 18:00:04.14
方違えや忌のため、というのは後付けかもしれんね。
一種の公共事業でもあったはずだし。
139 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 18:16:08.39
竪穴式は冬は暖かく夏は涼しいという日本では最適の家屋らしいね。
土を掘る事によって冬の冷えた地表の寒さを、夏は暑さを遮断する。
結局それを止めてわざわざ床をつくり、暑さも寒さも我慢しなきゃならなくなったのは
多くの人が水はけの悪い低地に住むようになったから。
竪穴式はいずれも台地の、穴に水が入ってこないような場所にある。
今で言う高級住宅地だな。
床を作るというのは、かつてはそれ自体が低層民の証だったわけだ。
この時期からすでに刺青文化あったらしいけど。
竪穴式なのに刺青は入れれるぐらいの文化なんだな。
141 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 19:18:30.39
出雲は新羅植民地であり
筑紫は百済植民地であった
相変わらずトンデモ説のオンパレード。
記紀の編纂者たちは、完全に大失敗だろう?
後世の人間が、こんなにトンデモ説のオンパレードなんだからw
143 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 19:52:29.49
>>140 刺青の歴史はぶっちゃけ衣服の歴史と同じくらい古い。
>>139 スサノオの話なんてのは、ほんまに遠い神話の話だけど
大国主あたりの話から実在の話になってくる。
出雲国譲りの真相は、播磨国風土記によると
出雲の王だった大国主が、近畿の王だった火明命に降伏した話。
ちなみに、大国主の皇女に天道日女命という女性がおり
火明命の妃になっていた。
つまり、大国主は娘婿(義理の息子)の火明命に国譲りしたことになり、
これは母系継承の意味もある。
この火明命にはニニギ命という弟がおり、出雲国譲り語
九州高千穂に派遣される。
そのニニギ命の曾孫にワカミケヌ命がおり、後のイワレヒコ、神武天皇のことである。
神武東征の真相は、近畿王権内でクーデターがおこり、
それを九州分家だったワカミケヌ命(後の神武)が援軍して駆けつけた事件のこと。
近畿王権内では、火明命の後、香語山命、村雲命という風に直系で継承されていたが
ニギハヤヒという近畿王権の譜代豪族が、自分は火明命の櫛玉(御落胤)だと
主張して、妻の兄のナガスネヒコと一緒にクーデターを起こした。
145 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 19:55:26.78
>>142 人の悪口はいいからお前の思う「正解」を書けよ
待ってます○○降臨
考古学の常識が変わってきているだろう?
縄文時代、弥生時代の解釈も変わってきているし
考古学年代も大きく変化している。
日本神話の話って、どれくらいの時代の話かは分からないけど
最近だと、日本では、どんなに遅くとも5000年くらい前には農耕が
開始されていたというふうになっているので、
日本神話の話って、日本で農耕が始まって数千年、
日本で弥生土器の使用が開始されても、千年以上、経過した時代の話というふうに
なってきている。
よって、あの神話に話は、あえていうと、弥生時代になって
千年以上たった時代の話という風になるので、
それを縄文VS弥生という風に解釈するほうが問題になってくる。
実際さ。神武東征って何年の出来事だと思う?
卑弥呼が200年頃の人物だからその後に神武勢力が出来たとしても
300年ぐらいからの勢力だよね。
>>148 卑弥呼はモモソ媛命ならば、神武東征は紀元1世紀ごろの出来事だよ。
魏志倭人伝でも、卑弥呼の王朝は、卑弥呼が建国したのではなく
卑弥呼よりもずっと前に、卑弥呼の先祖(あるいは、親族?)によって
建国されたという風に記載されているし。
よく魏志倭人伝の解釈を間違えているやつが多いけど
その一つが、邪馬台国王朝の建国を卑弥呼擁立からとしているやつ。
違うだろう?と、
邪馬台国王朝が誕生したのは、卑弥呼よりもずっと前で
男の王によって建国された。
魏志倭人伝の作者は、その男王と卑弥呼を同族の同一王朝という風に
みなしている。
卑弥呼の前だろ。
151 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 21:33:47.20
研究者も素人もヤマト王権と邪馬台国ないし卑弥呼を絡めようと
する誘惑にこらえきれないくて、妄想に走る。
邪馬台国で現在も昔も確実な資料は通称「魏志倭人伝」しかない。
考古学資料も決定的なものは皆無。
鏡の件にしても、大いなる塚を作るという記述も
それが三角縁神獣鏡なのか前方後円墳のことなのか確定資料なし。
資料をないのをよいことに妄想だらけ。
資料がないからこそ、より実証的な研究が必要なんだが、
専門家もそこを逃げてるから、
古代史の分野が一番遅れている研究分野かもしれない。
152 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 21:34:13.36
>>136 なるほど。ニギハヤヒも出雲が出身ってことか。
ニギハヤヒの本名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊だよね。
ていう事は卑弥呼とヤマト朝廷の関係は?
卑弥呼は歴代女性天皇の誰かって事?
今邪馬台国は畿内説の方が有力なんだっけ?
154 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 21:40:11.70
多分、畿内説はもう息してないな。
最近は歴史、考古学系のプロでも、
匂わすことすら滅多になくなった。
九州説だとしたら神武が東征した後も九州で卑弥呼は勢力あったことにならない?
156 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 21:58:46.32
そもそも中国の史書が「倭国」として記述してるのは九州島を中心とする領域で、
卑弥呼はその「倭国」の女王なのだから、畿内大和の天皇系譜に該当人物などいるはずもない。
157 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:00:58.77
>>155 両方あったと思うよ。
九州は九州でやってて、
神武一族は新天地を目指した。
アメリカに移民しても、イギリスが消滅したりはしない。
158 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:09:50.33
実際、九州は筑紫君磐井の頃まで半独立状態だろう。
国内的には大和に臣従したふりをしながら、対外的には依然として
「倭国の大王」として振る舞っていた可能性もある。
>>157 そうだとしたら卑弥呼の末裔は残るよね?
オレが不思議に思ってるのは神武王朝に敵対してた勢力の痕跡が残ってない気がするんだよね。
蝦夷以外は。
例えば戦国時代は徳川が天下取ったけど毛利とか上杉とか有力大名は残ったわけじゃん。
神武東征して支配した地域の豪族みたいのはどうなっちゃったんだろうね。
160 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:37:11.29
>>159 九州は九州内部でずっと内戦してるから、
卑弥呼の勢力がずっと九州の大王の地位にあったかどうかわからない。
トヨの後すぐに狗奴国に滅ぼされた可能性だってある。
>>144 妄想ごくろうさん。
記紀が、わざわざ神武以前・以後で「神代」・「人代」を分けているのに、あんたは、どこから、どんな理由で
「神話」と「史実」を分けるわけ?
>ちなみに、大国主の皇女に天道日女命という女性がおり
>火明命の妃になっていた。
>つまり、大国主は娘婿(義理の息子)の火明命に国譲りしたことになり、
>これは母系継承の意味もある。
単に嫁を分捕られただけかもしれん。
>神武東征の真相は、近畿王権内でクーデターがおこり、
>それを九州分家だったワカミケヌ命(後の神武)が援軍して駆けつけた事件のこと。
そんなこと、どこに書いてある?
神武が日向を発った時、同行メンバーは、三人の兄弟、息子、中臣氏の先祖だけ。「軍勢」などではない。
で、吉備に三年も長居している。「援軍に駆けつけた」にしては、ずいぶんと小規模でのんびりしたことで。
自分の妄想の「論証」(?)のために、記紀の記述さえ都合よく無視する。だから妄想だというんだよ。
162 :
日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:46:58.00
>>159 > 神武東征して支配した地域の豪族みたいのはどうなっちゃったんだろうね。
東征の時期に限らず、滅ぼされずに残った氏族はすべて、古代ヤマト政権内で相応の地位を得たわけだが。
その事は当の記紀自体にちゃんと記述されてるんだから、読まずに不思議がってないでちゃんと読め。
耶馬臺國はヤマト国と読む
これマメな
164 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:00:56.03
アマという字を天と書くようになったのは明らかに後代の当て字。
道教の高天という思想があり、それを拝借したものと思われる。
万葉集にはアマノハラという句は出てもタカマノハラは全くない。
これは記紀の編纂者が意図的に支配を表す「高」をつけたもので、
一般人は高という字がついてる事も知らなったと事を示す。
アマとは「海」のことで、本来は「遥か遠くの」という意味を含む。
アマノハラとは遥か遠くの地、という意味にすぎない。
奇しくも古代シュメールでは海上の距離を計る単位はアマという。
もちろん、シュメール人が直接来ていたとは言わない。
考えられるのは、西アジア系の文化は一度、遥か日本にまで及んでいた時機があり、
それが日本の原宗教である可能性だ。
165 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:15:04.84
日本の太陽神はもともと天空神ではなかった。本来は朝日の神と夕日の神。
お正月を思い出して欲しい。
我々は朝日に向かってお祈りをするが、天空「高い」太陽には無関心だ。
ところが、中国は逆に太陽の誕生にはさしたる感情を持っていない。
彼らが尊ぶのは固定された「天」を定められた航路ですすむ太陽を管理している
より「高所」にいる天神であって、冬至はただの現象の一部にすぎない。
冬至の日は中国では太陽の誕生ではないのだ。
朝日・夕日を基準に冬至夏至を誕生と成長として尊ぶ信仰はエジプトやケルトなど太古の太陽信仰の土地に見られる。
かつては西アジア全域がこの宗教であったと思われる。
これらの事から見えてくるのは、日本の太陽信仰は非常に古く数千年の歴史があり
現在の天照信仰になったのは比較的近代であるという事事だ。
166 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:26:11.68
一つに、天照は延喜式という平安時代に編纂されたものでさえ、男神。
天照御魂神社や阿麻氏留神社など4の大社ですらそうで、低い社格のものを含めると数十に及ぶ。
これは日女(ヒルメ)信仰と社格の下克上が鎌倉時代に起こっている事を示す。
167 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 03:00:38.89
卑弥呼の「鬼道」は、太陽崇拝よりも蛇神信仰とかそういう感じだったんだと思うね。
卑弥呼の鬼道は占星術じゃないの?
>>168 中国伝来の占星術とか、原始道教とかシャーマニズムとかの「ごった煮」だったと思う。
日食のせいで卑弥呼は駄目になった説とかもあるよね。
所で卑弥呼が大和政権と関係あるなら
卑弥呼→男性権力者→トヨ?
と女性権力者→男性権力者→女性権力者
と移った事になるよね?推古天皇がっ最初の女性天皇だから
卑弥呼が大和政権の関係者だとすると関白とか摂政みたいな位置なのかね。
>>170 >卑弥呼が大和政権の関係者だとすると関白とか摂政みたいな位置なのか
いや、祭祀王でしょ。平たく言えば神主の親玉みたいなモンだよ。
政治・軍事は天皇家の祖(直接の祖先であるかは別にしても)である
崇神天皇が司っていたんだろうね。
172 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 10:36:37.78
>>171 伊勢神宮の斎女の職務権限をうんとパワーアップしたような感じだったと思う。
けど中国からすると「女王国」なんでしょ。
後、思ったんだけど日本って珍しいのかな。
ここまで歴史ある国なのに始まりがほとんど解ってないっていう。
日本書記読んでないんだけど。日本書記には当時の詳細なデータ乗ってるのかな?
どういう国がありどういう制度でどういう人が納めてましたみたいな。
>>174 >ここまで歴史ある国なのに始まりがほとんど解ってない
大和朝廷が成立したと思われる4世紀の出来事が全く記録に残って無いからな。
3世紀は卑弥呼の時代、5世紀になると朝鮮半島に進出するほど天皇家は
強大になってるのに、その間の肝心な4世紀の歴史が、日本に固有の文字が
無かった事と中国動乱の時期に入った為、記録に残されていない。
>>175 ヤマト朝廷=邪馬台国だろう?最近の考古学では、そうなりつつある。
高天の原は、葛城の高天の原のことだろう?どうみても。
そこから、九州高千穂に派遣されたのが、皇祖ニニギ。
当然、派遣されず留まったのが、ニニギの兄にあたるホアカリ。
178 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 11:58:49.96
卑弥呼は実在しない。
魏の使者も見ていないし誰も見たことがなかったはず。
何故なら実在しないから。
見たと言っていた人間が見たのは巫女。
記紀でもニニギ以来東征の時までアマテラスが命じた等度々書かれているが、
具体的な軍事行動を起こす時になると想像上の存在であったのが明らかになる。
アマテラスはキリスト教におけるキリスト、神社における御神体。
この前みた野球ニュースでびっくりだったんだが。
スコア表みたいのを出さなかったんだよね。ボードっていうのかな?
何回に何点入ってみたいなのあるじゃん。
あれを出さずに5対3で勝ちましたみたいの見た時はここまで落ちぶれたか
って感動しちゃった。
ごめん間違えた
182 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 12:40:48.39
九州の邪馬台国(高天原)が東遷し大和朝廷になった。
本当に記紀は分かりやすいな。
280 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:26:01.31 ID:sGoAT50E
三年前ごみんすに投票した連中、今どんな気持ち?
287 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:27:00.18 ID:P8V2Yy+50
>>280 橋下様なら何とかしてくれるとお経上げてるよ。
>>182 ヤマトは元々九州に有って
神武が畿内に移住した
卑弥呼はこの時代
そして九州のヤマトは消えた
今は佐賀市大和町という情けない状態
残念ながら佐賀市大和町が命名されたのは昭和で、それ以前に、大和の言葉はないんで、
全く関係はない
>>164 シュメール語と古い日本語をもっと比較しないとその考察は無意味じゃね?
187 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 22:21:18.40
>>186 ちょいと拝借したものだけれども、
豊玉姫(トヨタマヒメ)の歌
■原文
阿加陀麻波袁佐閉比迦礼杼斯良多麻能岐美何余曽比斯多布斗久阿理祁理
■漢文語訳
赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり
■シュメール語訳
aka dam,u sur gig rag.si lig dam kin gi u gush tab tuku ur,kil.
(アカ ダマユ サエ ヒガ レジ シ ラジ ダマ キン ガ ユ グシ タブ トク アルケル)
■シュメール語の日本語訳
私の愛した夫よ、
宮中の僧侶は(あなたが)病気だから祈祷をすると、布施をせがみます。
私の大君よ、もっと度重ねて消息を聞かせて下さい。手紙を頂くのを、心待ちに致しております。
こういう例はたくさんある。
188 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 22:42:35.61
神代文字って今の研究だとどうなってるの?後世の創作?ガセ?
万葉集は朝鮮語で読める(キリッ
190 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 23:38:21.90
崇神の前までにヤマト王権はどのくらい拡張していたのか。
河内、南山背、丹波までははっきりしているし、
吉備と境を接する播磨まで勢力は及んでいただろう。
東海もある程度勢力圏内に入っていたようだが、
どの程度の結びつきがあったのか、
まだまだ謎は多い。
やはりシュメール人が来ていたのか
192 :
日本@名無史さん:2012/06/11(月) 17:04:48.45
「アマ」はシュメールでも「神」だよ。
三国志東夷伝序文に粛慎の地の東海岸での古老の話として『異面の人、日の出所の近くに有り』とある
「異面の人」とは、やはりシュメール人のことだったのだろう
シュメール人なんて、トンデモ説だろうw?
シュメールひろしっていたな。マラソンの。
196 :
日本@名無史さん:2012/06/13(水) 12:29:29.93
新唐書日本伝にもあるように神武までは代々筑紫に住んでいた。
神武が畿内を滅して橿原に都をおいた。
197 :
日本@名無史さん:2012/06/13(水) 13:58:12.06
>>196 新唐書の言う倭国と日本の関係はそんな古い時代の事じゃなく、継体天皇の磐井討伐あたりの事だと思う。
198 :
大:2012/06/13(水) 15:03:32.14
>>192 名前:日本@名無史さん :2012/06/11(月) 17:04:48.45
>「アマ」はシュメールでも「神」だよ。
シュメール語のamaに「神」の意ない。
シュメール語のama は、
ama: "mother"
ama: chamber cell women's quarters
だけです。
筑紫島=九州全域、
そこの日向は、
現在の鹿児島県と宮崎県。
日本の創成期の混乱の要因は
日本書紀の編纂者が無理に編年体で書こうとしたために
無理やり年代を出そうとしたのが、後世の人間の大混乱になっている。
実際は、その時代、日本書紀が書かれた時代には
既に詳しい実年代はわからず、大まかな出来事しか分からなかった。
そう、ちょうど、古事記に記載されているようなこと。
そして、もう一つは、江戸時代に本居宣長という国学者が
邪馬台国九州説をぶちまけたこと。
201 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 03:38:37.08
「筑紫の日向」ってのが、
筑紫島の日向国なのか、
筑紫国の日向なのか、
証明は難しいな。
南面、障害物の無い領域だと思うがな。
神社伝承とか文献とか見ても
筑紫の日向は
宮崎県、鹿児島県の日向だけどな。
神武東征経路から見ても、それが自然だよ。
まあ、記紀にあることが嘘だというのなら仕方がないけど
でも、宮崎、鹿児島と解釈したほうが、整合性取りやすい。
福岡県あたりに日向をもってこうとしたら、
あれもこれも嘘だったとしなければいかず、
整合性をとるのに無理が多すぎる。
204 :
サガミハラハラ:2012/06/14(木) 07:21:46.90
いや、福岡日向説のほうが整合性がとれますよ。
日向は福岡市西区室見川流域にあります。(ヒナタと読む)
そこから、大宰府近辺の筑紫によって挨拶をしてから宇佐(現宇美町)に寄り、
そして岡の港から安芸国(現広島県)にと続きます。
書紀の編者は、一部誤解(速水の瀬戸)していますが。
筑紫の勢力下の日向だろう
場所は宮崎〜鹿児島東部
206 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 10:18:33.84
まあ、神武一行が船に乗って、豊後水道から宇佐、
そして瀬戸内海とその海沿いをたどるのは、
それほど無理はない経路だ。
207 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 11:12:14.44
「国の借金」はデマ
日頃メディアや、反日工作員が必死になって「国の借金」という単語を使い
財政破綻論を展開させていますが、現実、現在の日本には「政府の借金」は1000兆円近く存在いたしますが、
「国の借金」は存在いたしません。
朝日新聞やNHKは、雇い主である中国共産党より日本人に対して不安や政府に対する不信を持たせ、煽るために
局内の共産党員を使用して既に数十年間、「国の借金」を連呼し続けております。
<違和感なく「国の借金が1000兆円もある」という幻想に浸ってしまっている一般の方々は、朝日新聞やNHKに見事に騙され続けている訳です>
数十年もテレビや新聞から情報を得てきた方々の中には、「メディアが嘘を付く訳ない」と思う、そう思いたい方もいるでしょう。
しかし、長い目で見れば、もともと戦前から日本を転覆させるために存在してきた報道機関ですから、
これくらいの嘘は朝飯前で御座います。
それでも、「国の借金は1000兆円ある」と考えをお持ちの方は、複式簿記の勉強をしてから、日本のバランスシートをご覧ください。
実質中国の広報機関であるNHK、朝日新聞は、これからも嘘を付き続けます。デマを流し続けます。捏造し続けます。
---そのニュース 核心は、デマだ 長文失礼いたしました。---
神武さん婚姻関係見ても、今の宮崎や鹿児島の地名とか
そんなに関係することばかりだしなw
>>204 日向は、ヒムカ
日向は、ヒナタではない。
よって、アウト。
209 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 13:08:39.73
あれこれ想像を巡らせ古代浪漫を楽しむことを壊すような意図はないのですけど、
仮にも学問カテゴリのようだから要らない指摘をさせてもらいますが、気分を害しそうなら読まなくていいです。
筑紫国の日向とするには日本書紀を否定するしかありません。
なぜなら、
記紀に筑紫国の日向と記述している箇所は無い。
紀で九州島を筑紫洲と呼んでいる。
記紀成立時に筑紫国(筑前と筑後に分割されている)はなく、日向国はある。
後から紀で日向國という表現を使ったのは確定の意図であろうと予想される。
だからです。
日本書紀を否定される方もいますし、筑紫国の日向であるとの考えを完全否定する意図もありません。
記紀
古事記:「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
日本書紀卷第一第五段 :「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」
日本書紀卷第一第四段:「先生淡路洲 次大日本豐秋津洲 次伊豫二名洲 次億岐洲 次佐度洲 次筑紫洲 次壹岐洲 次對馬洲」
日本書紀卷第九 氣長足姫尊 ~功皇后:「日向國橘小門之水底」
後世解釈
神皇正統記神功皇后:「伊弉諾尊日向の小戸の川檍が原にてみそぎし給し時」
詠太神宮二所神祇百首和歌:「筑紫日向国橘の小戸川」
ニニギが何処からか流れてきて日向に上陸。大国主を出雲に追い出した事を正当化するのが古事記の神話。
真の正統と言うべきは出雲なのだろう。
高天原も出雲神族の住まう畿内であった…。
北陸・畿内・中四国・九州北西部を治めたほとんど古日本と言って良いのが出雲
九州ではどこがいちばん勢力があったのか、
文化も高かったかというと、いまの福岡県の博多平野、那珂川とか遠賀川の流域のいちばん栄えたところだ。
ところが、大和国家の起源になる神武天皇が出発したのは、そこではなくて、
いちばん遅れていた熊襲の世界、つまり宮崎県の日向国だ。
文化的にもぜんぜん別だから、そこから出たなどということは、歴史的事実とは考えられない。
大体、王様ってのは一番いい所に陣取って、
下っ端が命令で遠方地を開墾したり、
独立して新天地を目指したりするものだ。
イギリス王家がアメリカを目指しはしない。
スポンサーになることはあるかも。
>>213 なに言ってんだ?
東征は当然兄のイツセが隊長で主力も筑紫兵だったと考えられる
つまり弟の神武はお手伝い兵力
たまたま兄が死んで、東征を成功させた神武が頭になったから日向出発になっただけ
何も変な所はまったく無い
>>214 アレキサンダー大王は先頭になって敵に突っ込んだぞ
昔は肉弾戦だし初代の大王は小国から始まる
後ろに構えてちゃダメだ
戦って神話を作らなきゃ
217 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:27:52.66
大国になって神話ができちゃって、
代替わりでもしてしまったら、そうは王様は動かないよ。
218 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:27:06.30
九州王朝説といい北部九州の一部の人間は歴史史料というものを尊重しないし非常に恣意的に過ぎる。
真摯さや客観性がなく態度に非常に問題がある。
そんなのはもはや宗教だ。
219 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:38:14.11
この場に関したことを言えば、記紀を否定すると言うのなら、
国譲りも、天孫降臨も、東征も語る資格は無いだろう。
何に書いてあると思っているのかお聞きしたいものだ。
畿内説が強引だとか言われるがとりあえず最低限のマナーというか手続きは守っている。
何を目指しているのか分からないが最低限のものは守ってくれ。
ニニギは九州に降臨し神武は九州から出発した
これを否定している人は皆無に近い
神社の分布や由緒や
各地の伝承とか見ても記紀の信頼性は高い
ところでこう書いてある記紀を否定した歴史資料って何?
221 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 21:35:09.45
まあ、記紀を否定しているわけじゃなく、記紀はかなり意図的につくり変えているような部分も少なくないし、
ほぼ信用してよい記事もある。
そういうことじゃね。
記紀のどっちかを否定しなきゃならない場合もあるだろ.
個別具体的に例をあげると、たとえば継体天皇=ヲホト大王。
彼の本拠は『古事記』では近江国、『日本書紀』では越前国となっている。
近江国だと言う人は、日本書紀を否定することになるし、
越前国だと言う人は、古事記を否定することになる。
天孫降臨と神武東征に関しては一致してるしw
古事記に書いてなかったら日本書紀を参考にし
違っていたら古事記を参考にする
オレはこんな感じだな
日本書紀には改変が有ると思う、ただ古事記より詳しい記述も多い
古事記はボツになったぐらいだから、伝承の記録として信頼できる
224 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 23:01:13.45
神武東征やヤマトタケルなど軍事記事は書紀の方が詳しいね。
むしろ古事記の方は書紀のダイジェスト版みたいに見える。
ただし書紀の年紀はムチャクチャ。単純なミスがかなり多い。
大体、古代史の研究には三つの方法がある。
一つは、日本の古代の文献を材料にした研究だ。
記紀とか風土記等の文献だ。
もう一つは、東アジアの北部、中国や朝鮮半島の、つまり隣国の歴史書に
日本がどのように登場してくるかを探る。
主として中国の歴史書が参考になる。
『漢書』地理志や『後漢書』東夷伝、また『三国志』の一つ『魏志』の倭人伝の条などだ。
三つ目は考古学的研究で、古墳の発掘などから古代史を推定するためのさまざまな材料を得る。
記紀だけを根拠に語っていてもしょうがないだろ。
>>222 その場合は越前国とするのでは?
直後の文献で再び近江とするものが見当たらなければ。
競合すれば日本書紀>古事記
古事記に書いてなかったら日本書紀を参考にし改竄の可能性も考える
稗田阿礼の暗記に頼った古事記と、多数の人間が携わった日本書紀。
稗田阿礼をお札の肖像画にしたい
九州北部から邪馬台国が移動してきた、それが神武天皇の物語に反映しているという人もいるけど、
それだったら、記紀神話の中で筑紫がもっともっと重視されなければならないだろ。
ところがその筑紫が神代の巻では宗像の女神のほかは、まったくとりあげられていない。
大和政権は畿内勢力の発展と見るのがよいと考える。
神武東征の話しも、現実の反乱の起こる地方を神話のうえで、
「お前たちは反乱しているけれども、もとは天皇はお前たちのところから来たのだから、
身内ではないか」という話を作っておくほうがよかったんだろ。
熊襲の地は七世紀代も畿内政権に服従しなかったからな。
その可能性も最初から考えてたけど可能性はかなり低いと思ってるけどな。
全くの作り話でどこでも良いのなら基盤を磐石とするために畿内とした方が良いよ。
天皇が元はいわゆるよそ者なら畿内の人々の忠誠心低下につながりかねない。
九州の一地方勢力ならそこまでする必要があるはずもない。
過去臣従厚遇した話でも作れば良いんであって、何も天皇家の出自に繋げる必要は無い。
>>229 だから、それはハヤトだっつうのw
いい加減南九州の歴史を押さえろや中国もきな臭くなった。
232 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 00:56:13.72
筑紫の大王について詳細を述べたら、ニニギ氏族がただの家臣だったことがバレるではないか。
ただ神武東征の説話はどう見ても「成り上がり一代記」なんで、後は分かるな、察しろよってことだろうさ。
日向から東征した神武天皇が大和に入って最初の大王になる話が作り話とすると、
神の世界から大和に出現して、大和盆地の王者となるのが初代大王としての神武天皇ということになるな。
北日向の寺社が大友宗麟によって破却されたのもけっこう痛いんじゃないかあ
あれが残っていたらどれだけのことが分かったことか
高鴨神社の伝承だと
崇神天皇は神武直系を滅ぼして王朝を乗っ取ったらしい
つまりこれが欠史八代の理由だな
236 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 03:15:51.83
>>235 神器の鏡放り出したのはやっぱりそういう事だよなあ
欠史八代については、天皇家の由来を古くして水増しするために、
あるいは干支を合わせるために、推古天皇あたりでこの八人を入れたんだろう。
>>235 崇神は神武直系だよ。
というか、神武から崇神までは、正式な倭王(天皇)ではない。
別の王統があって、その王統を畿内から追放したのが、崇神の祖父の孝元。
崇神も神武の子孫だろうけど
正当な継承者で無かったて事かな
>>238 どこの伝承?
240 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 19:18:42.63
日本という国家が成立する時点において、
もっとも偉大な王だという認識が古代の為政者や歴史家にはあった。
しかし、考えてみると、神武や義経ほど一般の日本人の間では著名な存在ではなかった。
頼朝みたいな、偉大ではあるが親しみがわかない指導者ということのようだ。
各地方の神社の伝承のでは、
神武東征→神話の出来事→崇神即位
って順で推移する物が多いよね。
出雲の国譲りの前にスサノオが登場するのが重要
スサノオは出雲へ向かう前に高天原を追放されて
オオゲツヒメにご馳走されている
そしてオオゲツヒメを斬り殺して穀物を入手している
オオゲツヒメは国生み神話では粟国となっている
粟は阿波、四国の一部
出雲への経路に阿波があったということは、当然その
反対側に高天原があったということ
大化の改新より前の継体〜用明・32崇峻の部分の天皇の即位のしかたについて、
『古事記』『日本書紀』の伝承を見ると、豪族たちが天皇家の中からこの皇子に就任してほしい
という人を選んで三種の神器を捧げる形式をとっている。
群臣、つまり大和政権を構成している有力豪族たちが、合議によって次の大王を推挙している。
こういう形態が崩れて、天皇家がほかの豪族たちを完全に臣下にするのが律令国家だ。
そうなったあとは、元は対等に近い関係だったということは、いろいろな点でいわないほうがいい。
そこで、神宮はほかの神様とは違った特別なものになるし、天皇家もほかとは違って、天から降りてきた
特別な神様の子孫だということになった。
ほかの豪族たちは、神代以来天皇家の家来ということになってしまうということになると、
天皇家の最初の人物が大和にあらわれるときも、別の世界からあらわれて征服したということにしたほうがいいわけだ。
そのほうが、律令国家になってからの天皇の専制体制を説明するには都合が良い。
それを神話のうえに反映させたのが、『古事記』『日本書紀』だ。
卑弥呼が箸墓古墳の被葬者のモモソ媛命ならば、
欠史八代の時期に、倭国大乱(卑弥呼共立の切欠)が起こったことになる。
魏志倭人伝によると、邪馬台国を中心とした倭国は
男王が建国し、数十年続く
→歴年争いが起こる(倭国大乱)
→卑弥呼共立で鎮まる
とある。
魏志倭人伝を記した中国人の認識としては
この男王と卑弥呼は同族扱い、つまり、同じ王朝の人物として記した。
つまり、卑弥呼は建国者ではなく、あくまでも、中興の祖という扱い。
だとしたら、この建国したという男王は
神武さんのことなのか?という推測になるが
そう簡単な話ではないように思う。
ただし、倭国大乱の時期と欠史八代の時期が重なることは確か。
>>239 国宝海部氏系図ってやつだろう?
あれは、欠史八代の時期の当主について
京都朝廷から書くなと脅されていたものだから。
>>242 つまり、高天の原とは、現在の大阪府と奈良県の県境にある金剛山の裏側にあった。
金剛山という名称は大阪府側からの名称で
奈良県側からは高天山と呼ばれていた。
やはり畿内が高天原なのか
天之御中主神は宇宙の中心である北極星(天帝)であり、高天原は宇宙の事
高層神殿である出雲大社は天帝を祀る為の祭壇であり
最高神(祭司王)である高御産巣日神が天帝を祀る事で天と地を結び地上を治めた
しかし、ある時から天帝では無く、太陽を崇拝する一派に権力が移行し、天照大神が最高神となる
月読命が夜の食国を治めると言うのは、もともと暦を作り農民を指導する役目だったからだが
天帝崇拝派から天照大神を最高神とする太陽崇拝派に権力が移行する事でただの月の神になる
そして、出雲大社も高層神殿である理由を失い、衰退していった
つまり、高天原とは天帝を祀る神聖な空間であり、中心グループの帰属であるから
今はどこにも存在しないし、高天原と言う土地がどこかにあった訳でも無い
249 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 10:54:16.88
>>243 合議による王の推挙というのは、
裏を返せば服従儀礼でもある。
王と豪族との力関係にもよるが、
後継者はほとんど王が指定する王を追認することだった。
実際、合議によって決定したのは継体とかと特殊な事情の事例。
大伴金村などが中心になって、応神天皇の五代の孫を越前から迎えて即位させたと
『日本書紀』には書かれている。
大伴氏などが即位させたのか、継体天皇が実力で天皇の地位を奪い取ったのかということは、
問題になるところだが、『日本書紀』は、大伴金村が即位させたと受け取れるように書いている。
継体天皇は地方豪族の出身で、前王朝に出自を結びつけた可能性も考えられる。
大伴の一族かもな。
251 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 12:42:18.93
ニニギも神武天皇も天火明命の子孫の天孫族や。
>>250 そんなことするのなら、大伴金村が直接、天皇になればよいじゃんw
>>251 違う。
ニニギも神武天皇も天孫族だけど
天火明命の子孫ではない。
天火明命の弟がニニギ
そのニニギの曾孫が神武天皇
>>249 合議によって選ばれたのは、卑弥呼(モモソ媛命か?)もそうだなw
卑弥呼も継体も似たケース。
いずれも、王家の後継者争いが激化し決まらなくなって
そこで、臨時に家臣たちの合議で決める。
普段は、先代の王が決めるのが普通なんだけど。
中世で似たケースとしたら、
中世の足利将軍家もそうだ。
足利義教なんかも、家臣たちが籤引きできめたw
254 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 14:09:01.95
大伴金村は権力を握り、継体天皇は権威になったんじゃね。
よくあるパターンだ。
255 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 14:18:29.79
雄略が殺しまくってたとはいえ、星の数ほどいる応神・仁徳の子孫から、
1.金を持っている
2.担ぎやすい(あまり優秀過ぎない)
このあたりを選んだんだろう。
比較的に近かったのから選んだ。
で、応神5世孫か、仲哀5世孫かで、議論になった。
>>248 日本書紀には、直接、高天原という名称は出てこない。
それは天上という言葉に置き換わっているし
日本書紀では、神代と人代というふうに、明確に分けられていた。
しかしながら、それよりも前に書かれた古事記は違う。
高天原という名称が出てきて
なお、明確に神代と人代の区別もない。
高天原という名称は存在していたと思う。
それも、高天の原が正しいので、おそらく、正式な地名としたら
高天(たかま)という地名が正解であろう。
258 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 15:02:17.36
古事記は、帝紀と旧辞を書き直しただけのもの。
おそらく一体の書物としては残ってなかったか、
その時点で「古語」となって現代人では太安万侶レベルでも読めなかったか、
漢字以外の別の文字で書かれていたか。
日本書紀は、中国の書式に合わせた。中国かぶれの天武らしい政策。
259 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 15:16:43.80
古事記や日本書紀の新しい部分はちょっと違うが、
古い部分は旧辞と帝紀の二つの部分からなっている。
旧辞は説話とか物語だ。
帝紀のほうは、天皇家の代々の系譜を中心にしたもので、
系譜だけではなくて、天皇が死んでから送られる諡号、陵墓なども含んでいる。
古事記も日本書紀も、旧辞と帝紀が組み合わさってできている。
魏志倭人伝を読めばわかるけど
古代の倭国では、祭祀を行う正統な倭王と
実際の政治を行う最高権力者の
二人の王がいたことをうかがわせる。
そして、両者は親族だったようだ。
後の、天皇と関白・征夷大将軍を思わせる関係だ。
しかしながら、記紀を読むと、一人の天皇だけが記してある。
しかしながら、その謎に気が付いた人物がいる。
国宝海部氏系図についての本を書いた金久さんだ。
かれは、古代の倭国では、火明命とニニギ命の兄弟がいて
兄の火明命の後胤(尾張氏・海部氏など)が祭祀を継承し
弟のニニギ命の後胤(天皇家)が政治を継承したとではないのか?
と推測している。
261 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 19:41:05.69
日向の田舎に飛ばされてたのに、「王として政治を継承」もないだろう。
ニニギ氏族は本来、地方を治めるために派遣されていた分家筋の家臣で、王家ではなかった。
神武東征によりはじめて国持ちの君主家となったのだ。
>>261 ニニギの子孫は王家の親族だけど、王家ではなかった。
天火明命が初代の近畿倭王ならば、その男系子孫からが純粋な倭王家であり、
天火明命の弟のニニギ命の男系子孫たちは、純粋な倭王家ではなかったと思う。
分かり易い例えだと
徳川家の一族ある親藩大名は、初代将軍の徳川家康の男系子孫から認定された。
しかしながら、徳川家康よりも前の代に分かれた松平一族は
譜代大名とされた。
家康の弟の内藤信成も譜代大名だ。
こういう風に考えたら、天火明命が初代倭王ならば
その弟のニニギ命の男系子孫たちは
王家の親族ではあっても、王家の内一族にはならず、
最初から家来筋扱いだったと思う。
このことが、後世、現在の天皇家の正統性にとって障害になっていたと思われる。
263 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:28:41.49
>>261 日向の田舎つったってなあ
古墳時代前期に日向を上回る大国は吉備と畿内しかないんだぜ
おまえん田舎はどこよ?ふひひ
264 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:30:24.15
古事記には何故火明命の記述があるのか。
後に火明命はさまざまに利用されるが、古事記ではただニニギの兄というだけだ。
実際にニニギは末の子であった、という伝承が後世まで残っていた、
ということなのだろうか。
>>264 古事記によると、天火明命の別称は、天照国照彦。
おそらく、火明が諱で、天照国照彦が身分も表す通称。
天照国照彦とは、天津神と国津神の両方の支配者という意味で
文字通り、出雲国譲りによって天津神と国津神の両方の支配者に
なったことを意味している。
そして、その痕跡が、播磨国風土記や旧事本紀、海部氏系図にもあり、
播磨国で、出雲の大国主と高天の火明命が激突し
大国主が義理の息子(娘婿)の火明命に降伏した話が出てくる。
266 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:49:54.34
欠史八代は葛城山麓の一豪族だった神武の子孫達が
クーデターで出雲大国主を追放した時代。
事実上天皇ではなかったので欠史とし、国譲り神話として記紀には記録された。
267 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 21:03:47.89
なるほど…順序が違うがそうすると話として無理が無い
神武は大打撃を被りながらかろうじてヤマトの一豪族として入り込んだだけだものな
国譲りは詳しく書けるレベルではないことが起こったような気がする
268 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 21:10:59.72
今からテレビで女優・浅野温子が行く、出雲路1300年の歴史という
番組が放送されてる。
>>266 いやいや、微妙に違う。
大国主を倒したのは、天火明命。
出雲国譲りによって、大国主が娘婿の天火明命に降伏し
天火明命の天下が決まった。
この天火明命にはニニギ命という弟がおり、九州高千穂に地方官として派遣される。
その曾孫がワカミケヌ命(イワレヒコ=神武)。
後に、近畿では、ニギハヤヒという貴族が、天火明命の御落胤だと自称して
クーデターを起こしたので
近畿本家を助けるべく援軍として駆けつけたのが
九州分家のワカミケヌ命。これを後世、神武東征と呼ぶ。
その後、天火明命の後胤が正統な倭王として祭祀をおこない
実際の政治を、ニニギ命の後胤である神武皇統が行うようになったが
途中で、神武皇統が政治だけではなく、正統な倭王の証明である祭祀の権利まで奪おうとした。
それが、欠史八代の部分であり、魏志倭人伝でいう倭国大乱の部分である。
これは、結局、神武皇統のヤマトトトヒモモソ媛命(卑弥呼)が
祭祀を継承することで鎮圧されるにいたった。
270 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 21:51:30.48
国譲りの状況から見ると既に大国主は引退していて
事代主と建御名方が分割して跡を継いでいたのではないか。
山陰を事代主、北陸を建御名方。大国主の結婚相手を見ると
勢力範囲は北陸から山陰の広範囲に及んでいるので、その地域
が大国主の勢力範囲だったと思われる。丹波一宮は出雲神社であるし。
天火明命と天道日女命(出雲の大国主の皇女)との間に産まれたが
天香語山命。
彼は、父方が高天、母方が出雲という、両者の合一の象徴でもある。
この男系子孫こそが、正当な倭王の継承候補だった。
ヤマト三山の一つ、葛城地方にある天香久山は
この天香語山命からとった名前。
第二代から第九代までの大王たち、物語を欠くので欠史八代というわけだが、
物語がないのには理由がある。
第九代あたりまでの大王の皇子たちは、全国の中央・地方の豪族たちの祖とされ、
この部分に、じつに多くの氏族名が列挙されている。
中央の葛城・平群・蘇我などの有力大豪族や、地方では吉備氏をはじめ、信濃・近江・播磨の
国造級豪族、九州の火君や阿蘇君も、ほとんどの豪族は欠史八代の大王からの分流とされている。
つまり、中央・地方の大小の豪族群のほとんどの氏族の擬制的な本宗家として天皇家を位置づける
ために、欠史八代が設定されている。
系譜だけで物語を欠く理由も、ここにあるといえる。
>>272 なんでそんな人物が熊野にいて東征の後に越へ行ったんだろうね?
有力豪族それぞれの始祖を一通り並べて、「みんな親戚。仲良くしよう!」って話だよね。
276 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 23:26:19.71
欠史八代は単に始祖を並べて系譜にぶち込んだだけか。
そうなると、神武の次は崇神ってことになるな。
8代マイナスして、今上陛下は125-8=117代だな。
>>273 も、そういうのはいいよw飽きた。。。
考える力がないから、とりあえず言ってみた
みたいな説だな。。。
説得力ゼロ。
>>272 何のことだ??
なんか、時系列バラバラだな。
丹波の籠神社って、天香語山命が丹波に降臨したと伝承にあるけど
それは、海部氏が自分たちの先祖が天香語山命だと主張するためでしょう?
実際にもっと詳しく書かれている国宝海部氏系図のほうでは
天香語山命から何代か後の子孫の時に初めて
丹波の国造に任命されたみたいだし。
280 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 00:17:21.57
>>273 神武天皇からの本流(祭祀皇家)と傍流(世俗王家)との間で皇室内乱があったと聞きますが。
世俗王家側(崇神天皇)が勝利し、巫女を崇神側から立てることで納得したとか。
281 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 00:26:35.71
>>280 違う。
イワレヒコ(神武)の男系の直系子孫が崇神。
イワレヒコ(神武)〜三巻イリヒコ(崇神)が、これが世俗王家。
それとは別に祭祀王家があり、こちらが形式上は正統な倭王家だった。
天照国照彦こと、天火明命が初代の王であり、
その男系の直系が継承していた。
この天火明命にはニニギという弟がおり、
そのニニギの曾孫がイワレヒコ(神武)
282 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 00:28:11.11
先日亡くなった今上天皇の従弟の寛仁親王が
天皇家の女系宮家創立に激烈に反論してたよな
神武天皇から続くいにしえの染色体を守り通さないといけないと
283 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 00:33:37.24
アル中で体壊して障害者になり死んでいった男が言っていたことなど聞かなくてよろしい。
284 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 00:53:48.36
天照大御神をはじめとする神々は、神代の巻に出てくるが、
そういう神々が神社に祭られる由来が語られる話は、崇神・垂仁のところに集中してるな。
伊勢神宮もそうだし、出雲大社を天皇が祭る話もここで出てくる。
石上神宮の起源の話も垂仁朝だ。
疫病流行の祟りがあって、大神神社を大田田根子に祭らせたのも、崇神朝の出来事だ。
崇神・垂仁のあたりに神社の起源説話が集中しているところをみると、
神道祭祀が形式化していったのも、このあたりからだろうな。
>>284 三輪山の大物主は大国主の国づくりで語られる
これは国譲りの前だ
つまり大国主は畿内も支配してた
そして崇神の時代にも祀ったと語られる
祭祀の断絶が有る
崇神こと、三巻イリヒコは、
祭祀王と世俗王の両方を兼ねる最初の倭王じゃないの?
その前の準備段階があって、まず、世俗王の家系である神武皇統は、
天火明命の後胤を畿内から尾張に追放し
一族の女性のヤマトトトヒモモソ媛命に祭祀王を継承させた。(女王卑弥呼の誕生)
そして、三巻イリヒコ(崇神)が世俗王の地位に就いた時
大叔母のヤマトトトヒモモソ媛命の存命中は、彼女が祭祀王の地位にあり
彼女の死後、三巻イリヒコは自分の娘の豊鋤イリ姫命に祭祀を継承させながら、
徐々に祭祀王を形骸して、最終的に、自分が全てを制圧した。
三巻イリヒコが、どうも、大国主と天照の祟りを恐れていたんだよな?
その辺の経緯が、
>>269にあるんだな。
畿内王権の創設が、出雲国譲りが最初で、
大国主が、娘婿の天照国照彦(天照=天火明命)に国譲りし
その天照国照彦(天照=天火明命)の男系子孫が、本来の正統な倭王(祭祀王)
になっていた。
神武皇統たる三巻イリヒコ(崇神)は、この天照国照彦(天照=天火明命)の男系子孫ではなく
弟のニニギ命のほうの男系子孫。
よって、正統性はなかったわけで。
つまり、神武皇統が祭祀王の地位までつくことは、出雲国譲りの約束を破る行為でもあった。
287 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 03:34:25.27
古事記、日本書紀では、神スサノヲのように名前の上に神がつくのは神様だけで、
人間で名の上に神がつく人はいない。
記紀の天皇系譜の古いところの名前をみると、たとえば初代の神武天皇はカムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)だ。
神が上につくうえに磐余は大和盆地の地名だ。
もっと言えば、磐余は大和国城上郡、いまの桜井市の地名だ。
それの「彦」だから、磐余の地の土地神である。
『延喜式』神名帳を見ると、備中には吉備津彦神社の吉備津彦があるし、伊予には伊予豆比子、大和の生駒郡には伊古麻都比古神社がある。
神武のカムヤマトイワレヒコという名も、このように土地神の名を初代大王に使ったものと考えられる。
>>287 彦=日子
で、支配者とか、勢力者って意味だろう?
中世には、尾張守、三河守、薩摩守とあるように、
この時代には、イワレ彦、吉備津彦、ナガスネ彦とあった。
順序が逆じゃないっすか?
人に縁のある土地だったから土地神にしたと考えますけど。
延喜式の成立は平安時代900年代だし、少なくとも記紀成立より前まで遡れなきゃ
土地神の名を初代大王に使った、とは言えないんじゃないですか?
大概は延喜式くらいまでしか遡れないしそこまで遡れれば高級地名なんですけど。
290 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 04:18:00.64
彦
ヒ(日、太陽)とコ(子、男子)とから成り、太陽の子、
または太陽の神秘的な力を受けた子の意。
単独では使われず、尊称として男神や男子の名前の上または下に付けて用いた。
古典基礎語辞典 大野晋編 角川学芸出版
「カム(神)ヤマトイワレヒコの「ヒコ」は男神に対する尊称だ。
土地神の名だよ。
カミ=神=上=守だな。
古代の神も
中世以降の支配者層の守
も語源は同じだと思われる。
292 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 05:25:51.26
かみ(上)
カミ(神)は古形カムから変化してカミとなった語
(ミは上代特殊仮名遣い乙類)で、カミ(上、ミは甲類)とは上代ミの音に相違があり、別語。
かみ(長官・頭・督・守)
各行政機関の長。
「上」に同じ。
古典基礎語辞典 大野晋編 角川学芸出版
=ではなく別語だった。
神はアイヌ語か
296 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 14:25:23.91
>>265 それは後づけ。
「旧事本紀」なんてモロにニギハヤヒに結びつけている。
後世の解釈を剥ぎ取った後に何が残るのだろうかと考えた次第。
タマネギみたいになってしまうかもしれないが。
ただ、古代豪族が後付で自家を権威づけようとした意図はわかる。
特に日本書紀成立以後、
地神(国津神)系の豪族が天皇家の権威と結びつけようと、
火明命を利用したのだろう。
明らかに葛城土着の豪族鴨氏さえものが、
何とか天神系と結びつけようとして、大物主(三輪と出雲を絡めた神)
とか様々に取り入れている。
>>285 ×大国主は畿内【も】支配していた
○大国主は畿内【を】支配していた
「列島を睥睨支配する【島根半島を帝国首都とする大出雲帝国】論」に、嵌まってますよw
というのは、意地の悪い書き方だが、
「出雲」と聞いて、島根県をうっかり思い出してしまうのは、出雲論者の悪い癖だろうなあ。
これは、地図を見れば一目瞭然だが、北朝鮮の将軍様の縮地法並みの、地理的な荒唐無稽。
個人的には、
>>296は筋の良い議論だと思う。
俺以外で、出雲=島根県論から、無理をせず論理必然として脱出する議論を、初めて見たよ。
「出雲」は、天孫族からみて「ある属性の種族およびその祖たる神々」を示す、一般名詞と理解したほうがいい。
だから、複数の概念が「絡み」あっている。
>>296 いやいや、後付けは
物部氏が、自分の先祖のニギハヤヒを天火明命と同一視して
自ら出自を天神ではなく天孫としたことだろう?
時代も立っていたから、昔のことも分からなくなっていたのであろうが
ニギハヤヒと天火明命は本来は別である。
ニギハヤヒの正式名称が、天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命で
天照国照彦天火明+櫛玉+ニギハヤヒ命で、略して櫛玉命といわれていた。
櫛玉とは形見という意味で、これはご落胤を意味する。
つまり、ニギハヤヒは、自分は天火明命の御落胤ですと自称して
クーデーターを起こしたと思われる。
>>296 賀茂氏についても話が長くなるけど...
あんまり、きみが適当なこと言って、取り込んだとか論ぶちまけて
くわしく検討しないから、説明するわ。
賀茂氏には大きく分けて二系統があって、
一つは葛城地方土着の賀茂氏で、これは天神系の賀茂氏。
つまり、ヤマト王朝譜代の貴族な。
もう一つは、三輪山の祭祀家を自称する大田田根子命の末裔で
葛城土着の賀茂氏(鴨氏)に婿入りして、それを継いだ一族。
この太田田根子は、
自分を地祇(国津神、ヤマト王朝から見たら外様の貴族)だと自称していた。
陰陽道の名家で有名な賀茂氏はこちらで、
徳川家康も、この賀茂氏の末裔だと思われる。
あんまり、物事を深く見ず、何でもかんでも取り込んだと適当なことを言うべきではない。
300 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 17:47:38.64
>>298.299
二人が述べているようなことなど、百も承知。
だいたいその程度のことはネットを徘徊すればすぐにわかること。
301 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 18:09:24.34
弥生文化の流入ルートから考えれば出雲や筑紫が大陸・半島に近く、先進的に発展した地域であったのは自明の理。
大和は後発の新興国で、出雲や筑紫によって属領・植民地として争われていたが、次第に力をつけて旧宗主国を飲み込んだのだ。
そもそも大和という呼称も古くは「大倭」と表記し、旧来の「倭国」から見た新領土であることを示している。
(月氏→大月氏、等を参照。)
302 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 18:25:29.00
倭でヤマトと読むんだよ
>>301 弥生文化なんてものは、近代以降の人間が考え出したものだ。
古代において、弥生文化とか縄文文化なんて代物はない。
土器の種類だけで適当に考古学区分にしたにすぎない。
外国から文化が入ってくるのは、江戸時代末までずっと九州のほうが先だった。
戦国時代だって、最初に鉄砲隊が組織化されたのは、九州の戦国大名が先だったし。
だからといって、彼らが日本の中心になることはなかった。
あんまり、近代の西欧文明の流入とこの時代の文化流入を同一視するべきではない。
>>299 で面白いのは、ちゃんと父系による系統の違いを理解していたことだな。
ある意味、近世の大名なんかのほうが、その辺いい加減だった。
たとえば、葛城氏は、もともとは、大伴氏と同族の葛城氏がいたが、
そこへ武内スクネの末裔が婿養子に入っている。
そうしたら、以前からいる葛城氏と、その婿養子の葛城氏は
ちゃんと別系統扱いで新撰姓氏録に記載されている。
その当時も、父系、母系の違いをちゃんと意識していたことがわかる。
>>300 いや、分かってない奴、多いと思うよ。
指摘されて、慌てて、調べてみるやつが多いと思う。
ネットなんかでも、そういう知識ないままで語っているやつが
圧倒的に多数。
306 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 20:19:54.13
>>303 民族それ自体が形成されつつある段階と、政治体制が確立されて以降の事情を同列に語るなんてアホだな。
>>306 民族それ自体が形成されつつある段階という言葉自体
曖昧な概念だけどな。
これまでの長年、通説とされてきた考古学の概念では
日本の古代史が語ることができない。
なぜなら、近代以降の考古学じたい、土器編年というあいまいで
相対年代でしか割り出せないもので
絶対年代を無理に割り出そうとしたために、
整合性が全くとれなくなっているんだろうがw
日本で農耕が始まったのは、遅くとも紀元前4000年くらいと思われ
弥生土器の文化が始まったのも紀元前1000年くらいでは?と
最近、思われつつある。
日本神話の世界ってのは、出雲国譲りにしたって、
せいぜい紀元元年前後の話であり
日本神話の世界は、日本で農耕が始まって数千年、
日本で弥生土器の文化が始まって、千年経過した時代の話であって
とっくに、民族がほぼ形成された原風景が日本神話の世界。
国譲りはもっと前だと思うよ
日本書紀だと神武は「祖ニニギが天降ってから179万2470余年になる」と言ってるし
沖縄神話だと、天孫が1万7802年も統治していた事になっている
ニニギが神武のリアル祖父なら
神武東征の時にニニギや同行者は存命のはずだ
だが、そんな形跡はまったく無い
しかし記紀では天孫降臨の事をちゃんと覚えてる登場人物が居ない
なんで天神の子孫が二人居るの?とか混乱してる
>日本で農耕が始まったのは、遅くとも紀元前4000年くらいと思われ
こういう何でもかんでも遡らせれば良いと思っている池沼のせいで日本の考古学は壊滅した。
古事記はドコからが本当の話だと思う?
311 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:05:41.55
縄文時代の農耕は弥生人でそ。
大陸から人があふれる紀元前1000年ぐらいにならないとわざわざ船には乗らないと思う。
>>310 多少脚色があるとして、神武は実話。ニニギ&大国主も実話でモデル化。
スサノオとアマテラスはよくわからん。
313 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:23:34.82
>>311 縄文人自身が陸稲や果樹や畑作物を栽培していた。
水田による水稲耕作は弥生人がもたらし、縄文系の人々にも広まった。これが「倭人」の形成期。
314 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:26:42.56
>>312 スサノオとアマテラスは弥生期の大国である出雲と筑紫の関係がモデル化されたもの。
>>312 神武が実話だと思う根拠を教えて欲しい。
あと三韓征伐はあったのかね。
農耕は縄文血統系の発展。弥生は狩猟牧畜が本血統。
317 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:31:18.20
倭人という民族名がはじめて中国史書に出てくるころ、
日本には文献というものがなかったからな。
後に大和朝廷の時代になって、倭国という名で日本を呼び、
その時代の天皇は自分を倭国王といって中国に名乗り出ている。
そのころのことは記紀に、日本人みずからも記しているのだが、
大和朝廷のころの倭国の人が、いにしえの倭人そのものであるとは、
必ずしも言えない。
中国の歴史に最初に出てくる倭人とは、いったいどのような民族であったかを
研究するには、中国の資料による以外に方法はない。
中国の文献にいつごろから倭人が出てくるかというと、まず最初は『山海経』という本だ。
それによると「蓋国」という国が、「燕」の南、「倭」の北にあって、「倭は燕に属す」と書いてある。
燕というのは、戦国時代の強国の一つで、いまの北京付近を中心に、渤海湾北岸から遼東半島近くまで領有していた。
だから、『山海経』にいう倭人と、後になって日本に出てくる倭人とが同じものかどうかということは、疑問である。
318 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:50:16.67
>>316 弥生は南方系の稲作漁労民だろう。
北方系の狩猟民要素を持つのは天孫族。
弥生時代の前期に水田農業が急速に展開していったということだが、
それ以前は、狩猟と焼畑やってたんだろ。
弥生人、縄文人って、使用する土器の種類で
人種や民族を分ける発想自体、無理があるけどな。
そこには、何の根拠もない。
そもそも、弥生人ってのは、縄文人の末裔でもある。
新アジア人と古アジア人の混血一世は、北九州ぐらいの狭い地域しかなく
それ以外の地域は、そういった一世は殆どいなくて、
長い年月かけて徐々に混じっていったらしい。
あと、古アジア人と新アジア人の混血は殆ど
父方が古アジア人で母方が新アジア人の混血だったらしい。
そんなわけで、日本人は父方で見ると、アイヌが最も近い。
321 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:58:21.74
>>320 土器の呼称による時代区分は便宜的に用いているだけで、実際には水田稲作で分けてるんだけどな。
>>315 天皇家の歴史書として書かれているんだから、とくに否定される根拠でもない限り正しいと仮定するだろ。
そうしないと歴史学なんて古代は何もできない。
陸稲時代と水田時代ってのが正しい区分かもね。
>>319 長い間、弥生時代の始まりを2300年前とし、
そこから急速に農業が始まったとされてきた。
これは、近代以降の考古学で弥生式土器の利用をもって
農耕時代の始まりとし、その時代の土器編年の考えで
大まかに考えたもの。
しかしながら、土器編年というのは相対年代にすぎず
学者のさじ加減で古い時代になるほど数百年から千年以上のずれが出てくる。
また、土器の種類においても、縄文土器とも弥生土器とも判別できない土器もでてきており、
また、縄文土器の使用においても、水稲農耕が行われてきた痕跡も出てきている。
そして、陸稲などは、縄文土器が使用されてき、かなり早い段階から
行われてきたと目されており、そもそも、世界的には、土器の使用というのは
農耕の始まりをも意味するので、縄文時代は農耕時代と考えるのが自然なのだ。
そんなわけで、農業自体は5000年ぐらい前には日本で行われていた考えるのが自然で
水稲農業も3000年くらい間にはすでに日本で行われていただろうと
植物学者も言っていたはず。
あと、人種的には、アメリカの学会では、日本人は母方でみると、
4000年前から3000年前ぐらいに中国南部から
長い時間をかけて混じっていったらしい。
そんなわけで、ヤマト朝廷が創設された日本神話の時期は
およそ2000年前の出来事で
その時代は、日本に陸稲が始まって数千年、水稲が始まって1000年以上は経過した時代で
そういうわけだから、魏志倭人伝の卑弥呼の時代の倭国は
魏志倭人伝にもあるとおり、かなりの戸数の大国だということがわかる。
母系はアジア種はインドM系からの派生が殆どだが血統分けは可能だろうな。
>>311 縄文人は約5000年前には八丈島に渡り
その後も継続的に交流してるから
大陸の人が船に乗りたく無くとも、勝手に大陸に行ったと思う
オオゲツヒメの死体から生まれてくる作物の大半は畑作物だな。
アワや豆が死体の中から出てくるタイプのものは、たとえば、
中国の南部のヤオ族やアッサムのミリー族、シロン族などがある。
焼畑農耕民の共通の神話として、オオゲツヒメ型のものがあるというのが興味深い。
>>326 ヤマトは2000年前かもしれないが
大国主が国づくりを下のは、それより遥か以前だろ
>>330 大国主って名前は、固有名詞というよりも、一般名詞だと思うね。
鎌倉時代にたとえると、源頼朝や北条時頼のことを鎌倉殿といった。
大国主ってのは、鎌倉殿と呼ぶのと同じようなものだと。
だから、大国主ってのは、鎌倉殿と同じ呼び方なので
ソリャ、何代かいたかもしれない。
ニニギも神武も現地の嫁を貰ったな
当初は母系が弥生ではなかった
縄文人が土着の嫁を貰っていた
長い時間の後
弥生系の女が多い難民が大量に来た
こんなところだ
アイヌ人というのは、古アジア人と非常によく似ているらしい。
そうすると、シベリアを経由して東にやってきた文化というのは、
朝鮮半島に入ってきたのも事実だろう。
さらに、北をもっと東の方まで行って、直接に北海道に入った。
人間も入ったし、文化も入ったと考えるほうが、おそらく正確だろうな。
そうすると、日本列島の歴史というのは、なにも西からだけ開けたのではなくて、
北からも開けていたんだということは明瞭にいえると思う。
>>333 戦争なんかでは、海を渡るのは男のほうが多いよね。
女子供ばかり難民ということかな。
今年は神武天皇即位紀元皇紀2672年らしい。
何ら根拠がない話しだな。
紀元前6、7世紀だろ。
これはどんな証拠からも縄文時代だ。
建国も何も、国の成立についての材料が全然ない。
じゃあ、神話はどうか。
どこの国にも神話はある。
しかしそれは歴史的事実ではない。
弥生式の時代には何回かの渡来ブームがあって、これを渡来とするか帰化とするかの
議論があったが、国家が成立していないのに帰化という言葉を使うのはおかしいということで、
渡来ということになった。
縄文式というのはさらにその前の時代だ。
紀元2672年というのは、まことに乱暴な話だ。
>>336 だから、それは、お前のファンタジーだろう?
いまだと、紀元前10世紀ごろが弥生時代に開始時期になりつつある。
だから、紀元前6世紀のころでも、十分に弥生時代なんだけど
でも、古代は暦の数え方が違ったので、それを考慮したら
神武天皇は紀元後1世紀の人物だろう?
日本で陸稲が始まって数千年、日本で水稲が始まって千年以上
経過した時代に神武東征が起こっている。
しかも、ヤマト朝廷の建国は神武東征からではなく、
出雲国譲りからな。
>>335 父系と母系にばらつきが出てくるのは、社会的要因が大きんだろう?
たぶん、渡来人は男女半々が移民してきたんだが
彼らは、日本ではマイノリティなので立場が弱い。
そんなわけで、少数派である渡来系は婚姻の面では
現地人に比べて劣勢。
ただし、女性に関しては、優勢劣勢に関係ないんだよ。
分かり易く言うと、渡来系の女性は、現地人の男性と結婚できたんだけど
渡来系の男性は、現地人の女性に相手してもらえなかったんだろう?
なぜかというと、社会的に見て、渡来系は弱者だから。
>>336 ローマ建国紀元も、釈迦入滅紀元(仏滅紀元)も、イエスキリスト誕生紀元(つまり西暦)も、
史実としては誤りなのだから、皇紀元年が何年だって、大した問題では無いのですよ。
紀元というのは古今東西そんなものだ。
それを言うなら、建国記念の日のほうが恥ずかしいと思うけどね。
神武天皇が、「隋帝国採用の中国暦(寅月正月の太陽太陰暦)の1月1日に即位した」というほうが明らかな虚構で、
そもそも西暦紀元前660年に中国で使われていた暦は、寅月正月ではなかった。
史実の内部で前後関係に矛盾があるので、こっちはなんとかすべきだと思うw
>>336 渡来にブームなどなく、長い時間かけて徐々にというのが正解なんだろう?
だからこそ、日本語って孤立言語で、近親言語がない。
言語体系としては、縄文時代からの言語系がそのまま受け継がれていた。
>>339 というより、世界史の常識に真っ向から反する、明確な「逆傾斜」なんだよね>渡来要素の男女比
女系で辿ると、結構混血があるように見えるが、男系で辿ると、混血はかなり少ない。
これ、弥生時代最大の謎とされているが、よく考えれば難しいことではないと思うんだ。
社会的に優位かどうかよりも、もっと簡単に説明できる。
「渡来人男性は不細工で、特にモテなかったから、男系の血はあまり広がらなかった」
というだけなんじゃないかね。
もともと、考古学区分で土器の種類で
縄文時代と弥生時代という風に区分していたけど
今では、水稲の開始時期をもって、弥生時代というんだろう?
でも、それだと、もう、縄文とか弥生とかいう時代区分は
言葉として不適切だよな。
意味がややこしくて混乱するし。
誰かが新しい時代区分を考え付けばよいんだけどな。
そもそも、縄文時代、弥生時代なんて区分が出来たのは
近代に入って100年ほどなんだし。
>>342 社会的優位は大いに関係ある。
いつの時代でも、身分の高い男性と身分の低い女性は結婚することはあるけど
身分の低い男性と身分の高い女性は結婚することは殆どない。
つまり、弥生時代において
マジョリティの原住民は身分が高い側だが
マイノリティの移民は身分が低い側。
よって、原住民の男は、移民の女と婚姻出来たけど
移民の男は、原住民の女性と婚姻出来にくかった。
そういうことでしょう?
まあ、おそくとも
陸稲開始時期 5000年前後
水稲開始時期 3000年前後
出雲国譲り=ヤマト朝廷創設期 2000年前後
とこういう時系列になる。
>>341 いや、それにしては日本語は「系統論的に均一」すぎる。
日本語が、琉球方言も含めて、完全に単一の祖語に遡ることは、誰も否定できない。
というより、あまりにも当然の前提として、誰も疑うこと無く受け入れている。
「日本語の起源」なる問題は、「日本祖語の起源」であって、日本祖語の存在を疑う者はどこにもいない。
そして、比較言語学的に、こういう単一の祖語による同族言語集団は、
「ごく限られた地域に住んでいた集団が、爆発的に一気に広まった」と考えるのが普通だ。
おそらく、「九州北部のある1地方の1つの部族の言語」が祖語だったと思われる。
近畿のどこかでも論理的には成立可能だが、考古学的には福岡が一番据わりが良い。
>>344 北部九州や本州西端に入ってきた渡来住民が、完全なマイノリティ(社会的地位の低い少数者)だったとは、
俺はさすがに言い切れないと思うんだよなあ。
もしそうだったとしたら、多数派の生活様式は変わらなかったはずで、
そもそも、「弥生時代」なる区分を、20世紀の考古学者が提示するネタは存在しなかったはず。
20世紀前半には、関西地方に大量の朝鮮人が完全マイノリティとして流入し、
20世紀末には、中京地方にかなりのブラジル人が完全マイノリティとして流入しているが、
マジョリティとしての日本人の生活様式が、彼らの影響を受けて激変したということはまったくない。
このように、完全マイノリティの生活様式は、多数派はそれ自体を飲み込んで黙殺してしまう。
>>346 だから、それは縄文時代からの日本語なんだろう?
日本語に系統的に家族言語が琉球語しかないわけだから。
>>346 日本語は基本的に近畿地方の言語が全国を拡散した。
まあ、人類はアフリカから来たと考える、そこまでさかのぼると
中国大陸南部から日本へ来たのが最初らしいが...
そもそも、大昔は中国南部の人の言語は、語順は日本語と同じだったらしい。。。
今の中国語の祖語は四川とかタイとか、そっちのほうから広がったらしい。
中国大陸は混血大陸でも在るからな古層の保存は不可能。
社会科学院の大先生方が裏でこそこそ分子生物学でDNAのパズル合わせに汗水垂らしてる頃だろw
上で出雲国譲りについて面白いこと言っている人がいるけど
なかなか2ちゃんの掲示板で文字だけで説明しても
みんな分からないと思うよ。
個別にサイトを作って分かり易く図式で説明したほうが良いと思う。
>>351 有史以前の中国では、日本語、韓国語、満州語、蒙古語などと同じような
語順の言語がメインだったらしいが、
その後、現在の四川省やタイとの国境付近に、現在の中国語の祖語がでて
そこから中国全土に広まって、それ以前の言語を駆逐したらしい。
何故、駆逐できたかというと、中国語が表意文字を発明できたからで
中国人は会話できなくとも、書体で文字を使って意思の疎通ができた。
その結果、彼らの共通言語が、中国語の祖語になっていった。
354 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 03:32:47.48
日本で稲作農業をやりはじめたのが、西暦紀元前200年ころだ。
この頃に、朝鮮半島から渡ってきた渡来人たちが、農業技術や工具を伝えたわけだが、
その時に当然、言葉の問題がでてくる。
会話しながら、倭人が使っていた言葉に影響を与えたことはあるだろうな。
発音もそうだし、外来語を使うようになったけど発音が微妙に違う言葉とかが定着したりもしただろうな。
>>354 日本で稲作は開始されたのは、紀元前4000年くらいまで、
最初は陸稲農業など。
その後、紀元前1000年くらい前に水稲農耕が開始されたと思われる。
もともと、植物学の世界では、
日本列島や朝鮮半島南部で水稲が開始されたのは紀元前1500年前後
つまり、今から3500年前には行われたはずと言われてきたんだけど
最近、ようやく、考古学がそれにおいつて来たわけで。
考古学でも紀元前1000年、今から3000年前というところまで
有力になってきている。
約5000年前 陸稲開始時期
約3000年前 水稲開始時期
約2000年前 出雲国譲り=ヤマト朝廷創設期
約1950年前 神武東征=ヤマト朝廷内部でクーデター、九州分家の神武が援軍として駆けつける
約1850年前 倭国大乱=ヤマト祭祀皇家とヤマト世俗王家の対立でヤマト朝廷分裂
約1820年前 ヤマト世俗王家による統一 、世俗王家のモモソ媛命が女性祭祀皇として君臨
稲の分類に水稲と陸稲という分け方があるが、
この二つが区別されるようになったのは、
品種改良の進んだ後代のことで、古代の稲を考える場合に、
水稲と陸稲を厳密に区別する考え方は、現実的ではない。
事実、水稲の中には深水地帯に適するウキイネのようなものから、
天水田で栽培され、雨のすくない年には陸稲と同じ状況で生育するものまで、
いろいろ種類がある。
日本の焼畑には伝統的にオカボの栽培はほとんど見られず、それよりも雑穀類が
主として栽培されている。
ということは、日本の焼畑の基本的な部分は、稲作のフィルターを通って、
山地にひろがったものではなく、むしろ稲作が展開する以前に伝来し、
山地斜面にその分布域をひろげていたと考えざるを得ない。
焼畑から水田へ替わるのは、水田のほうが生産性が高いし、安定性があるからな。
日本で稲作が開始されたのは、紀元前500から600年ころになる。
というか、稲作がいつ始まったかなんて
絶対にわからんわ。
古い時代にさかのぼるほど、ずれも数百年単位で大きくなるし。
まあ、4000年前ぐらいじゃないの?
>>354 ブー
青森県弘前市の砂沢遺跡ですら2300年前
紀元前3〜4世紀頃には本州最北端まで水田は伝播していた
しかも弥生時代の日本の水田は水口に水路が有り
当時の朝鮮や中国より栽培技術が高かった
道具も木で作ったり日本の風土に合わせている
技術が入って来たと言うより日本が独自に進化させてる
360 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 06:05:54.81
絶対にわかんないなら、適当でいいじゃん
まあ、1万年前ぐらいじゃないの?
361 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 07:04:02.85
朝鮮渡来人が稲作や稲作技術を持って来たというのはもうほとんど完全に否定されてる
354は20年前の話
そろそろ土器編年を大きく変えないとな。
たとえば、古代の推定人口なんかでも、昔の考古学上の通説をもとに
算出したもので実態にそってない。
だから、卑弥呼の時代の推定人口と、
魏志倭人伝に書いてある倭国の戸数とは
全く整合性が取れないんだよ。
魏志倭人伝に書いてある倭国の戸数が事実ならば、
最近言われているように、日本の農耕の始まりが
当初、言われていたよりも古いと言うのは真実味を帯びてきている。
たとえば、紀元前3世紀に農耕が始まったとならば
卑弥呼の時代の倭国の人口は30万人ということらしい。
しかしながら、魏志倭人伝に書かれている戸数から推定すると
卑弥呼の時代の倭国の人口は少なくとも300万人以上ぐらい
いてもおかしくない。
稲作が伝わったのは、おそらく揚子江の下流域から中国の中部へ入って、
朝鮮半島南部から北九州へというルートなんだが、
稲だけがきたのではなくて、稲にともなう豊作の祭りや信仰なんかも、
当然入ったことだろう。
>>364 ×…揚子江→朝鮮→九州
○…揚子江→九州、または、揚子江→朝鮮
同じようなものが同時に伝わったってのが正解。
なんでも朝鮮を経由したってのはおかしいよ。
タイトルの出雲国譲り・ニニギ降臨〜神武東征の順は誤りで無いか?
天岩戸に登場する布刀玉命などが、二世代も後の事代主世代の天孫降臨に
お供として登場する。
ニニギのひ孫の神武が事代主の娘と結婚する。世代が合わない。
この問題を解決した人はいますか。
当時三国志の時代だっけ?
あれだけ中国の文明進んでたのなら。文化もっと入ってきててもおかしくないと思うんだけどな。
>>286 何で、いきなり、第7代孝霊天皇の卑弥呼と否定されてる倭迹迹日百襲媛命と桃太郎伝説の四道将軍の1人、彦五十狭芹彦命=吉備津彦
吉備津神社 -- 岡山県周辺に分布
吉備津神社(岡山県岡山市) -- 備中国一宮。吉備津彦信仰の総本社
吉備津彦神社(同上) -- 備前国一宮
吉備津神社(広島県福山市) -- 備後国一宮
御崎(みさき、おんざき)神社
艮御崎(うしとらみさき、うしとらおんざき)神社
田村神社(香川県高松市) -- 讃岐国一宮。讃岐の桃太郎伝説では、海賊に讃岐を襲われた倭迹迹日百襲媛命が対岸の吉備の国に進攻していた弟の吉備津彦命兄弟に助けを求めたことが、桃太郎伝説となったと伝わる。
(犬-犬島の住人、猿-猿王の住人、雉-雉ヶ谷の住人)とされる。
桃太郎神社(鬼無権現熊野神社) (同上)-- 田村神社と同系統の桃太郎伝説を伝えるが、その内容はより先鋭化されており、地元ナショナリズムの根強いものと化している。
楢神社(奈良県天理市) -- 昭和30年(1955年)頃まで五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)神社と称した。
まで語って置いて
次代第8代天皇の孝元天皇ともう一人の四道将軍、大彦命をスルーしてるのんッ
大彦命(おおひこのみこと) 阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君、筑紫国造の祖
少彦男心命(すくなおこころのみこと)一に云く。古事記では少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころのみこと)の名で次男とされる。
稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおびびのみこと、開化天皇)
倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)古事記では名前無し。
妃:伊香色謎命(いかがしこめのみこと。物部氏の祖・大綜麻杵の女、後に開化天皇の皇后・崇神天皇の母)
彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと) 武内宿禰の祖父(古事記では父)、磐之媛命の高祖父(古事記では曾祖父)、葛城氏・蘇我氏・平群氏・紀氏の祖
埴安媛(はにやすひめ。河内青玉繋の女)
妃:武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと) 邪馬台国と戦った狗奴国の卑弥弓呼という説もある。
阿倍臣
竹取物語
奥州安倍氏
滅亡奥州安倍の生き残り、鳥海三郎=安倍宗任が源義家の家臣、宗像の配下と成り
その子、孫が嵯峨天皇の皇子、光源氏=源融の曾孫渡辺綱の孫の松浦久の家に入り後継者と成った。
家柄が今の明治天皇から続く今上天皇の外祖母と言う事実。
明治天皇から続く今上天皇の外祖母と言う事実。×
今上天皇の四代前の明治天皇の外祖母と言う事実。○
武藤の藤原氏に入った那須与一の那須国造の祖も、大彦命の末裔で、系譜上では、安倍清明より遙かに近い家柄。
安倍としての松浦氏が、
武藤少弐水軍で合流してるからネ。
いや、天皇起源説は半分うそだから。
まぁいえば、ようは古代史っていうのはあれ世界の古代史の半分がうそ
シナ含めれば6割が嘘 半島含めれば99パーセントが嘘になる。
そして古代ようは
北方牙集団文化
イランアーリア文化
メソポタミア文化
マレー文化
この4つしか起源源流がないの。そしてこれは科学証拠もなんもかもあるし、
つじつまがあいすぎるからホント。そして超文明説は嘘だけど、
で極東に影響した文化は北方牙文化
アーリア文化
現地のマレー文化
の3つしかない。その中で地域の支配、主流文化は常にマレー文化である。
そしてその主流のマレー移動集団が
ちょうどタイミングよく2000〜3000年前に
大規模極東拡散する。これ起源微妙なんだが。
この拡散マレー文化、集落、文化というのが、極東の部族集落のルーツでおおきな影響を与え、
いわば、シナ古代史は嘘
でマレー集団のひとつが
神武
などである。そしてこのポリテクスは
西方アーリア系秦の東征
まで続きその1500年前から北方牙集団が南下してくる
チャートは
古代4文化が5000年前を期限にして
3000年前から拡散が始まる。
極東はマレーづけになる。
3000〜2000年前で
メソポタミアと牙文化
アーリア文化とマレー文化
が混じる。
1500年前 メソポタミアにアーリア文化が マレー文化に牙文化がまざる。
>>348 世界中のさまざまな言語分布を見る限り、
「日本列島全域に広がっていた縄文時代からの日本語」だったら、
日本語は、こんな「系統論的単一性が自明の言語」には、ならないはずなんだ。
典型例は、ニューギニア高地、(白人侵入前の)米国カリフォルニア州、南米アマゾンだが、
狩猟採集民または原始的な農耕民が、数千年程度安定して暮らしていて、
その地域の生産性が高く、極端な征服などが起きず、各部族が平和に暮らしている場合、
その言語は、天文学的な数の、似ても似つかない大量の言語を含む地帯になっていく。
つまり、小さな部族や、下手をすると家族単位で、生計が安定してしまうから、
「家族単位で、まったく異なる言語を話す。隣の家族とは全く会話が通じない。」のが当たり前という状態になる。
海は高速道路だからな同血統種族なら便利に使える。
>>366 全然、あやまりではない。
そんな時系列の間違いもするのか?
あと、イワレヒコ(神武)の畿内入国後の嫁さんは
古事記と日本書紀では記述が大きく異なる。
日本書紀では事代主の娘と結婚したとあるが
古事記では大物主の娘と結婚したとある。
そして、大物主は大国主と同一視する見方もあるが
古事記のほうでは、これは完全に他者だとわけている。
大物主というのは、三輪山の神主ぐらいの意味じゃないの?
つまり、古い古事記のほうでは、神武は畿内入国後
地元の三輪山の神主の娘と結婚したことになっているけど
新しい日本書紀では、ヤマト朝廷の前の覇者だった出雲の大国主の孫娘と
結婚したことになる。
日本書紀では、神武皇統が、出雲の嫁さんを貰ったという風に
話を改ざんしている。
>>379 要するに、神武皇統(今の天皇家)は
自分たちの先祖が出雲から嫁さんを貰って天下をとったことに拘ってたんだな。
だから、日本書紀では、古事記の内容と違う内容に改ざんした。
つまるところ、前の王朝である出雲から母系継承で受け継がれたことを拘った。
それが、倭王の正統性に繋がったから。
しかしながら、古事記にあるように、神武が畿内から貰った奥さんは
三輪山の某地主の娘に過ぎない。
そもそも、出雲国譲りは、神武さんよりも三代前のニニギの時代に起こって入り
その時に出雲の王の娘を嫁さんに貰って天下を取ったのは、天火明命。
皇祖ニニギの兄あたり、ニニギ自身ではない。
なるほど徳川家で例えると
オシホミミ=家康
ホアカリ=秀忠
ホノニニギ=頼宣
神武=吉宗
足利家も松平徳川家も、どちらの幕府も
同じ一族内でも、初代将軍の男系子孫か、
あるいは、その初代将軍の前の世代で分家したかどうかで
待遇に大きな違いが出てくる。
たとえば、足利将軍家の後継争いでも、鎌倉時代の足利家では
斯波家とか今川家とか吉良家にも継承権があるとか言われているが、
足利尊氏が初代将軍になって幕府を開いた以上
足利尊氏以降の子孫と、足利尊氏よりも前の世代で分家したものとでは
大きな境界ができる。
欠史八代は記紀編纂の過程において、神武天皇の国家起源を古くするために、
水増しした天皇だ。
歴史的に存在した天皇とはみとめにくい。
>>379 大物主神と事代主神は書(第二)で国譲り後、天に上って二心無いことを
披瀝していて、出雲系の八百万神の人であることが分かる。神武は出雲系の
后を迎えたことに誤りはない。しかし
この後、天孫降臨して、三代あとの神武が、この二人いずれかの娘と結婚
できたことの問題点が、解決できていない。
天孫降臨はもっと早い時代の出来事で、国譲り後しばらくして、東征が
行われたとすれば、考えられる世代のつながりとなる。
国譲り後南九州に向かった天孫降臨の疑問も解決する。
それなら天岩戸事件と天孫降臨に登場する人物が同じでも不思議ではない。
記紀は構成の誤りをしたのでないだろうか。
折角のレスですが、申しわけありません。
>>383 :日本@名無史さん:2012/06/19(火) 11:46:26.92
>欠史八代は記紀編纂の過程において、神武天皇の国家起源を古くするために、
>水増しした天皇だ。
謎が解けないから、匙を投げたみたいな説だな。
その説は疑問が多い。2600年って、あまりにも中途半端だ。
それでも、中国よりも短いし。
>>385 たいした謎じゃない。
旧辞的な部分がないのは、国家起源を古くするためと、
中央・地方豪族群のほとんどの氏族の、擬制的な本宗家として天皇家を
位置づけるために欠史八代が設定されている。
それ以外の目的がないから物語がない。
>>387 そうかあ?
神武東征なんて結構情けない物語だと思うが
あれを読んでも神武スゲーとは思わない
しかも九州に置いて来た嫁と実子に反乱されてるし
後の大和タケルとは全然違う
389 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 13:44:56.17
>>387 政権簒奪者だった崇神によって焚書されたと考えるのが自然。
まだマルクス史観の人がいる。
>>388 南北朝の話も逃げ回り物語。
将門にタジタジだった平氏一門・・
戦国の毛利・小早川・家康にも言える話。
>>387 だから、偽称するにしても中途半端なんだよw
国家期限を古くするのなら、最低、中国より古くするだろう?
394 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 16:15:27.96
壇君の半万年か、それはよくあるギャグとしても、
中国の場合、素でそれくらいまで遡れそうなのが恐ろしい。
>>255 雄略死後の朝廷の財政は、やっぱり苦しかったと思うね。
継体は交易とかで稼ぐ能力はあったような感じだから、そこを評価されて担がれた可能性はある。
継体は近江の人であり、越前尾張とも縁戚関係なので、その勢力範囲は
畿内より裕福だっただろう。その勢力をあてにした畿内の有力者も多かった
のでは。
天火明命という名は、現在の太郎みたいな
一般的な通称のような名前だったのではないだろうか
>>398 言語学的に再構成すると、
*ama-i + pö + aka-r-i か。
本体は、*pö+aka-r-i
この配列は、アルタイ諸語的(あるいは今の日本語的)な発想を取れば、
単なる形容詞表現というより、主語述語の一文になってる。
一般的な通称とするには、ちょっと構造が「重すぎる」ように思う。
あるいは、南方的な後置修飾の発想を読み込むか。とすると、重大な問題を提起するよね。
>>392 中国より古くする必要性なんぞないと判断したんだろ。
401 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 19:59:39.53
>>383 神武天皇の物語は架空の物語だろ。
最初っから畿内にいるんだから。
橿原の宮で即位したのを辛酉の年にしているのも後付けだしな。
辛酉の年には大革命が起こる、世の中が変わるという思想にあやかっただけだ。
この年に神武天皇の即位をおこなおうとすると、
どうしても古い時代を延ばさなきゃならない。
それで過去の天皇の物語や材料を増やしたり、
架空の天皇を入れたりして、天皇の年齢を百歳以上に延ばして、
この間を埋めたってことだな。
>>401 それなら、中国の4000年より長くしなかったのはなぜ?
どうせ水増しするなら5000年ぐらいにしとけばいいと思わない?
昔の人にとって風土記や古事記は理解不能なお伽話に感じたかもしれない
大国主が海に荷物を落として山(現姫路城など)になった
昔の人「姫路は海じゃない陸だろwww」
大国主が保津川を掘って丹の海の水を抜き亀岡盆地を作った
昔の人「亀岡は湖じゃない陸だろwww」
現代では播州平野が海だったことや亀岡盆地が湖だったことが判明しているので
何らかの伝承が残ったのは理解できるわけだが、昔の人には難しかっただろう
404 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 20:48:49.90
>>402 >それなら、中国の4000年より長くしなかったのはなぜ?
中国4000年より長くしなきゃいけない理由がみつからないからわからん。
それより、辛酉の年にこだわったんだろ。
>>どうせ水増しするなら5000年ぐらいにしとけばいいと思わない?
なんで水増しを5000年ぐらいにしなきゃならないのか意味がわからん。
逆に聞きたいんだが、なんで水増しするなら中国より長くしないといけないんだ?
>>404 日本書紀は中国向けの宣伝だろ。何言ってんだ?
>>403 それは大国主が大規模な土木工事をしたってことじゃないかな
同じような伝説は阿蘇山にも有る
カルデラ湖の水を抜いて農地にしたらしい
>>394 中国の人の歴史の場合、漢時代、又は、秦の始皇帝からで、それ以前の中国の歴史。遺跡は、倭人支配下の歴史。
それ以前の中国の歴史・遺跡は、倭人支配下の歴史。
稲作文化倭人の中国を騎馬民族の漢人が強襲し、日本ヘ追い詰められた歴史。
410 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 21:54:54.44
>>405 日本書紀は、王権の正当性をあきらかにするというはっきりした立場で
秩序づけられている。
6世紀以来の朝鮮の王国との交渉、7.8世紀の中国との朝貢関係において、外交上そうする
ことが有利だったからだ。
過去の天皇の物語や材料を増やしたり、架空の天皇を入れたりして、
でっちあげでも王権の正当性を公式の国史として漢文で書きなおしができりゃ、
中国向けにも王権の正当性をあきらかにするという宣伝目的は達成される。
その目的が達成されてるのに、なんで中国より長く水増しする必要があるんだ?
中国大陸の漢・秦の始皇帝以前の稲作時代の歴史・長江文明は、倭人が居た中国の時代なので、4千年・・5千年の中国大陸の話は、倭の話だろう。
神武からの世代逆算すると、イザナミ・イザナギの時代は、丁度、3千年前の話に成る。
>>401 1.神武天皇の物語は架空の物語だろ。
2.最初っから畿内にいるんだから。
3.橿原の宮で即位したのを辛酉の年にしているのも後付けだしな。
4.辛酉の年には大革命が起こる、世の中が変わるという思想にあやかっただけだ。
5.この年に神武天皇の即位をおこなおうとすると、 どうしても古い時代を延ばさなきゃならない。
6.それで過去の天皇の物語や材料を増やしたり、 架空の天皇を入れたりして、天皇の年齢を百歳以上に延ばして、 この間を埋めたってことだな。
1,2,3は、あんたの単なる空想。
3,4の説は俺も知っているけど、「辛酉の年だから1300年前でないかな?」という意味で、「1300年前にするために辛酉の年にした」 わけでないよ。
6についても、物語を作るなら全員の天皇に修辞したらいいし、年齢も10年ごとぐらいに交代したら代数も増えるから余計に箔がつくだろ?
1300年の国の40代目の天皇より、3000年の国の300代目の天皇のほうが良くない?ねつ造するんだったら。
こんなことを日本書紀の作者が気が付かないはずがないから、なんでそうしなかったのかねって言ってるの。
>>401 最初から畿内というか、「宇陀の山奥から降りてきた」んだよね>神武帝一族(つまり皇室の直系祖先)
それより前の話は、最初から伝承だったのだろう。
こう考えると、後世、大変によく似た始祖伝承を持つ一族が、日本の支配権を握っている。
徳川氏(松平氏)だ。
松平氏も、三河国の山奥(松平郷)から、岡崎平野に出てきたところは、細部はともかく、大きくは確実に史実。
ところが、徳川氏は、その前にはるか彼方の「群馬の新田からやってきた」という伝承を持っている。
ここは後付けに違いないと言われている。
橿原=岡崎、宇陀=松平郷、九州日向=群馬新田郷
と対応すると、よく似た話だということになる。真似したとは思えないけど、
こういう始祖伝承の前振り創出は、よくある話だということなんだろう。
長江文明(ちょうこうぶんめい)とは中国長江流域で起こった古代文明の総称。黄河文明と共に中国文明の代表とされる。文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入る
長江文明→周→秦→漢・・
>>410 鼻から架空天皇を入れるならライバルの中国並みに盛るよ。
417 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 22:16:11.08
>>410 日本書紀は、王権の正当性を公式の国史として漢文で書きなおしができりゃ、
中国向けにも王権の正当性をあきらかにするという宣伝目的は達成される。
その目的が達成されてるのに、なんで
過去の天皇の物語や材料を増やしたり、架空の天皇を入れたりして、
でっちあげる必要があるんだ?
なんか、あんたの文章のコピペだけで答えができるな。
>>406 土木工事はともかく、海だった時代や湖だった時代を知っている先祖からの
伝承が、古事記、風土記の成立に大きく関わっている。その他の古事記など
に載っている話も、多くそのような古代の伝承が挿入されていると考えられる
419 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 22:22:21.58
420 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 22:24:58.12
>>419 おいらは、記紀は概ね真実を記載しているという派閥だからこれでいいの。
欠史八代での神武以下八・九代を居ない者とした1300年前の著者の問題。
>>420 >記紀は概ね真実
真実の部分もあるだろうけどな、神武東征は架空だよ。
欠史八代は、神武天皇の国家起源を古くするために、水増しした天皇だ。
歴史的に存在した天皇とはみとめにくい。
423 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 22:33:56.51
天皇の経歴詐称するなら神農の子孫とでもした方がハクが付いてたろ
記紀は概ね真実なんだろ
424 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 22:34:09.19
>>422 いつごろの年代の人が、どういう目的で水増ししたの?
日本書記と同じく、大和朝廷側の視点で、従わぬ者の出自を史実から抹殺したのだろう。
コミンテルン史観でそ
>>422 畿内と筑紫の二重王政だったとすると
耶馬臺國や古代史に良く合致する
第7代孝霊天皇・第8代孝元天皇の子が桃太郎の四道将軍たちであるのが不都合なのは、
孝謙天皇(こうけんてんのう、養老2年(718年) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))は、日本の第46代天皇(在位:天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) - 天平宝字2年8月1日(758年9月7日))。
父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。
史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。即位前の名は阿倍内親王。
生前に宝字称徳孝謙皇帝の尊号が贈られている。続日本紀では終始高野天皇と呼ばれており、ほかに高野姫天皇・倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)とも呼ばれたこともある。
淳仁天皇を経て重祚し、第48代称徳天皇(しょうとくてんのう、稱コ天皇、在位:天平宝字8年10月9日(764年11月6日) - 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))。
孝謙天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%87 桓武天皇の母:高野氏の百済王族
古代吉備地方に居た、百済の王子と称する温羅「うら」
百済の第3王子筋を称する、多々良豪族の多々良氏の大内氏。
百済王敬福 百済王 敬福 (くだらのこにきし の きょうふ く、文武天皇 元年( 697年) -天平神護 2年6月28 日(766年8月8日 ))は
奈良時代 の貴族。摂津 亮・百済王郎虞 の三男。 官位は従三位 ・刑部 卿。
749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元 年)、陸奥守 在任時に 陸奥国 小田郡から 黄金が
発見されたことで知られる。
また橘奈良麻呂 の 乱や藤原仲麻呂 の乱の鎮圧にも功績があった。
-Wikipedia
孝謙天皇にしたがってた藤原仲麻呂=恵美氏を追放した。
吉備真備側に就いた、半島から逃げてきた百済人たち。
阿倍内親王を高野姫天皇と呼び、百済人たちは高野姓を賜った。
古事記の欠史八代とした勢力は、この百済人=高野氏族の意図した著作物。
431 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 23:07:38.69
>>427 俺は卑弥呼=ももそ姫派だったんだけど、
倭奴国、倭国王帥升等、讃〜武などは武の上奏文見ていると九州に王朝があってもおかしくないなと思えてきた。
遣隋使も、礼儀手続きを知らずに追い返されたし、倭五王とか細々とした九州王朝じゃなかったかなと思えてくる。
卑弥呼だけ畿内でほかは九州って説ない?
百済人は、5・6世紀辺りに最後の方で渡来して来た。
略伝 宣化天皇2年(537年)、新羅の任那侵攻に際し、朝鮮半島に派遣された百済人を救くった大伴狭手彦の話の時代で日本に渡来した最後の豪族。
時の朝廷をそそ抜かした中央蘇我氏により大伴狭手彦を百済救出に向かわさせ、移住し、蘇我は、代々、百済姫を嫁取りしてきた・・一族総洗脳され嫁を取らされて来たが正しいのか・・武内宿禰前後が婿入り帰化だったのかだろう。
大伴狭手彦
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/sadehiko.html
これが、後々の征夷・・奥州攻めの意義へと成って行く・・
なんかおかしなのが紛れ込んでるな
この意義こそが、中国大陸の侵略思想、世代を跨いで粛々と緩やかな侵略を果たすと言う思想を自で遣っている現在進行形の百済人の末裔の侵略思想。
高句麗渡来傀儡子の部落・・今の同和官僚支配体制そのもの。
1300年前・・1500年前からの百済渡来と欠史八代の末裔の水面下の闘争。
卑弥呼は豊鍬入姫で壹与は倭姫だろう。
祀りとまつりごとは同じなので、祭祀のトップが事実上、女王。
日本武に剣を授けたのも倭姫である。
剣を授けるというのは、王が将軍を任命する儀式である。
邪馬台国の場所が特定されないのも、二人の女王が放浪していた
からだろう。
百済渡来人の多くが国が滅びてやって来た難民だが
弥生系もそうだろう
積極的に日本に来る理由が無い
緒戦半島自体が難所みたいなもんだしw
439 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 23:36:33.48
欠史八代は、世俗王崇神が宗家を倒し名実共に天皇になる前のことだからだろ。
このスレで読んだぞ。
筑紫磐井の反乱を見てもわかるように、朝鮮諸国と同盟を結んで反乱を
起こす連中もいるからな。
441 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 23:39:06.26
いつごろから記録(伝承)を残すのが重要視されたかは、
やはり十代崇神の時からだろう。
ヤマトに建国した初代神武の記録(伝承)は、
どこの国でもある建国の伝承として語り伝えられてきたが、
その間の王の事績は特に際だったこともないので、
宮と妃と子の名しか残らなかったのだろう。
しかも、錯綜して伝えられている。
特に四代までの妃は古事記、書紀と違っている。
古事記の方が成立は古いが、
神武の妃を三輪系にしているのは作為的すぎる。
これは三輪系と出雲系の神の子として権威付け、神聖化しようと
したものだろう。
卑弥呼は合議で決まった女王だぞ
魏志倭人伝にそう書いてあるだろ
つまり卑弥呼以前に大国があったんだよ
443 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 23:51:22.25
倭姫が、鏡をもって伊勢に行っていると考えられているが、
鏡をもって歩いたということは、記紀に書いていない。
鏡の移動ということはどこにも書いていないのに、先入観で決め込んでいるとしか思えない。
したがって彼女に憑依したという解釈でよいと考える。
また、とんでも説だらけになってしまったよ、このスレww
>>442 魏志倭人伝をよめやw
卑弥呼は倭国邪馬台国の建国者じゃない
せいぜい、中興の祖ぐらいの立場。
卑弥呼の王朝を建国したのは、卑弥呼よりもずっと前に
彼女の先祖か同族によって建国されている。
何をいまさらw
このスレで、まともな説は一つもないw
あと、国家起源を古くするために
欠史八代で水増ししたとかいう説は
中途半端だ。
なぜなら、あの程度の水増しでは
中国よりも相変わらず短いわけだし。
よって、水増しの意味がない。
欠史八代の八って言うのは沢山のと言う意味だからね
例えば、徳川家康が幕府を開き、八代の将軍の治世を経て、慶喜の代に大政奉還をしました
その伝承が後の世に「間に八代だから慶喜が十代将軍」だと解釈された様なもの
欠史八代の人物は、実在しているけど
彼らが正当に倭王の地位を継承していたかどうかは分からんだろう?
これと似たようなことが中世にもあった。
南北朝時代だな。
江戸時代末までは、南朝の天皇は即位したことにされてなくて
ただの親王号で呼ばれていた。
それと似たようなことが欠史八代でもあったんだろう?
卑弥呼=モモソ媛命ならば、倭国大乱と欠史八代が同時期ということになるし。
450 :
日本@名無史さん:2012/06/20(水) 00:27:27.30
>>441 出雲と三輪の関わりは、
古来からの蛇信仰を利用したんだろ。
初代の神武はともかく、第二代から第九代までの物語を欠く八代の大王たち、
物語を欠くので欠史八代という。
>>448 欠史八代というが
2代目は後継ぎを決めた逸話が有る
反逆者を殺した業績も有る
正確には欠史七代でないのか?
国宝海部氏系図って、平安時代に書かれたものだけど、
あれを京都朝廷に提出しないといけなかったんだけど、
欠史八代と同時代の尾張氏・海部氏の当主のこと
書くなと京都朝廷から圧力をかけられて、その部分だけ削除して提出していたんだよな。
しかしながら、海部氏の当主はそれに逆らって、裏系図を書いて
こっそり残していた。
そして、そこには、その削除していた部分が残されている。
国宝海部氏見たらわかるが、明らかに間違がある。
とくに尾張氏との部分で、尾張氏のほうが嫡流なのに、
自分の海部氏の嫡流になっていたりする。
実際は、尾張氏は、尾張と丹波の両国の国主になっていて
一人で二か国の国主になっていただけであり
途中で、尾張氏の傍系が丹波尾張氏として海部氏に分家しただけなのだが。
そういう間違いは別として、あの系図で分かったことは
ヤマト朝廷創世記は、尾張氏・海部氏は、ヤマト朝廷の祭祀の長だった可能性が高く
一方、神武皇統のほうは、ヤマト朝廷の政治の長だった可能性が高い。
そして、両者は兄弟から分かれた同族で、このへんは海部氏系図だけではなくて
記紀、旧事本紀、新撰姓氏録で、だいたい、あっているのである。
454 :
日本@名無史さん:2012/06/20(水) 00:45:36.00
しかしながら、この尾張氏海部氏の先祖と神武皇統との
祭祀と政治の役割分担は、欠史八代の時代に大きく変わった。
くわしく言うと、神武皇統は政治の長だけではなくて
祭祀の長の地位も、尾張氏海部氏から奪おうとした。
その辺が魏志倭人伝の倭国大乱の時期と重なり
卑弥呼(モモソ媛命)擁立の切欠になったみたいです。
そして魏志倭人伝をみて分かるのだが、古代
倭国では祭祀をおこなうのが正当な倭王であり
実際の政治を行うトップは、正当な倭王ではなかった。
後に天皇は祭祀だけを行い、実際の政治は関白や征夷大将軍が行った
のと似ている面がある。
456 :
日本@名無史さん:2012/06/20(水) 00:58:03.71
祭祀王(No.1) 天火明命−−−−−男→尾張氏海部氏
世俗王(No.2) 瓊瓊杵尊→神武→崇神→天皇家
>>452 徳川家康の一代記を書いても跡継ぎの話は出てくる
二代目に繋がらないと初代が成立しないし、一代限りで終わってしまう
二代目自体は欠史八代に含まれる
欠史八代といっても、二代目の皇位継承に関しての
争いの話も出てくるし
崇神紀のところで、欠史八代の天皇の皇子や兄弟が
たくさん登場するし。
それこそ、卑弥呼の正体という説があるモモソ媛命も
欠史八代の終盤の天皇の皇女であり、兄妹でもある。
よって、欠史八代は言われているほど、何も書かれてないわけではない。
しかしながら、欠史八代の時代に何かはあったんだろうね。
京都朝廷は、海部氏に対して、欠史八代と同時代の
尾張氏・海部氏の当主のこと書くなと圧力加えていたし
魏志倭人伝の卑弥呼がモモソ媛命ならば、
卑弥呼共立の切欠になった倭国大乱は、
欠史八代の時期に起こったことになるし。
東征は倭国大乱の時期だったりしてね
■ 部と氏
※ 部: 職業集団を表す。田部・園部・犬養部・馬飼部・物部 など。
※ 氏: 血族集団を表す。部を統率する部族の長。
※ 氏の種類
地名にちなんだ氏: 蘇我・平郡・出雲・紀氏
部名や職能による氏: 中臣(祭祀を司る)・物部(武具の管理)・大伴(軍事を職掌)氏
なお、これらの氏のトップが氏上(うじのかみ)で氏神や氏寺を祀る。藤原氏の春日大社、源氏の石清水八幡宮、平氏の厳島神社などが氏神にあたる。
このようにして氏が増えて来ると何らかの方法で氏のランク別が必要となり、その結果出来たのが「姓」と言われている。そして、時代が下るに連れて氏と姓は混同され名字という概念が生まれて来た。
名字の由来
http://office-maeta.jp/office/contents/060828.htm
倭国大乱は普通に四道将軍の遠征や武埴安彦の乱だろう
>>396 応神王朝が武烈天皇で切れる。
どこかに血筋のつながった皇子がいないかというので、大伴金村が探しまわって、
丹波国で見つけたけれども、それはこわがってどこかへ逃げてしまった。
その次に、芦原温泉で有名な三国港というところがあるが、そこに応神天皇五世の
孫の男大迹王というのを見つけて、連れてきて天皇にした。
これが継体天皇。
継体天皇は、応神王朝を倒して、新たにいままでとは血筋のつながりのない王朝を建てたということになる。
火明は、ニニギの子
神武は、ニニギの曾孫
生きた時代が違うからね。
>>463訂正
火明は、ニニギの兄
神武は、ニニギの曾孫
生きた時代が違うからね。
ニニギと火明は、アマテラスの孫
異母兄弟だったら1世代以上年が離れているかもね
例えば
18の時の子 ホアカリ
38の時の子 ニニギ
>>462 エピソードは正しいけど血縁が無いと言うのは根拠が無くあなたの妄想でしょう。
>>466 そそ
世代誤差概念が欠落してるのと話してると無茶苦茶だな。
崇神天皇が四道・四方面に遣わした四道将軍の話は歴史的事実とは思えんな。
崇神天皇は四世紀はじめごろで御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)
という別名も持っているから、大和政権の初代の王の可能性はあるのだが、
まだ北陸や東海道まで支配するような勢力ではなかったと思う。
これは日本国家の統一過程を説明するために、すでに崇神天皇のときから
日本統一が進んでいたのだという考えのもとに、造作されたものだろう。
秦の始皇帝・惟宗島津氏は、國常立尊の末裔
アイヌは、西宮戎 蛭児の末裔
天皇家は、天照大神-正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊-天津彦彦火瓊瓊杵尊- 彦火火出見尊(山幸彦)-彦波瀲武鵜草葺不合尊(玉依姫)-神武天皇の末裔
宗像氏は、牛頭天王 素戔嗚尊と天照大神の末裔
出雲・千家・菅原道真・大江氏・毛利氏は、天穂日の末裔
隼人祖は、火闌降(海幸彦)の末裔
藤原氏は、津速産霊命の末裔
麻生氏は、高皇産霊命の末裔
麻生氏の系譜なんて、高皇産霊命を更に遡って、造化3神の天之御中主まで記載してるぞッW
神道解釈で、嫡子云々言い出すと、秦の始皇帝・惟宗島津氏は、漢族の祖神の万古=國常立尊の末裔で
天皇以下の日本人の真の支配層は、万古=國常立尊の中国人だと言い張らせる口実に悪用されてしまうぜっ
神武以前は、おとぎ話。
>>474 直径3メートルの柱が
出雲大社の敷地から見つかってるが何?
>>456 火闌降=海幸彦=火明命事じゃねーかッ
隼人薩摩人の祖と同祖とか・・尾張氏海部氏つつつ
西欧おとぎのオーク的存在の隼人薩摩人と同祖ですね。
了解。
久米氏・山部氏
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kume.htm 疲れた・・
久米氏は、もともと西南地方の隼人出身であろうといわれている。
「クメ」は、熊襲(くまそ)・肥人(くまひと)の「クマ」であり、海幸彦を祖とする隼人は、三品彰英氏著の「日本神話論」などによれば、海人であったとされている。
神武は、山幸彦の孫。
海幸彦=熊襲・隼人と大和朝廷との争いが現実で、神話は、非現実で火明命=海幸彦と山幸彦=大和朝廷の諍い。
>>477訂正
西欧おとぎ話のドワーフ的存在の隼人薩摩人と同祖ですね。
アイヌ土人のお仲間で蛭子で語った方が、イザナギとイザナミの長子で通せたんじゃあねーの・・つつ
終わりですか?
尾張
欠史八代を貶すに値しない血統。
海幸彦=熊襲・隼人なのを隠して、自爆してイメージ自ら貶めただけ。
土人は、思考も醜い・・。
熊襲・隼人から比べたら、まだ、藤原仲麻呂の恵美氏蝦夷アイヌの方がマシだな。
>>478 海幸彦は隼人の先祖であって、熊襲とは無関係だぞ
熊襲、ハヤト、ヤマトは元々同族だろ
山幸彦に復讐を誓った海幸彦の子孫も居るだろ
熊襲の居住地は人吉、小林、都城にかけての山間部。
隼人の主な居住地は、宮崎から日南海岸を通って志布志から
鹿屋へ抜ける海岸部。明らかに違う。
熊襲の居住地は熊本県南部・薩摩国北部で文化習俗的には長崎県などと似ている。
朝廷に用いられた方の隼人は薩摩国南部・大隅肝属平野が居住地。なんでは?
予想以上に複雑。
熊襲は他称(ヤマト呼称)、隼人は自称。
ヤマトが記した書の中で隼人と言ってるよ。
熊襲=クソだからな
お互いにかなり恨みが有ったようだ
熊襲が東征していたら
日本の歴史は全く違った物になっていただろう
瀬戸内海の大三島の越智氏の先祖は薩摩半島坊津出身で、神武東征の先方として
瀬戸内海に到達したとなっている。ただ祀られている神は摂津の三島地域からの勧請
だからややこしい。摂津三島は天王山、淀川、武庫川に囲まれた地域。
現在でいうと高槻、茨木、吹田、豊中、伊丹、尼崎など国道171沿線。
>>489 付き合う前は他称、付き合い出したら自称になるのが日本。
『令集解』に「たとへば隼人・毛人、本土にてはこれを夷人と謂ふ」とあるしな。
>>483 野獣の有様を詳細に日本書紀に観察された未開な蝦夷なんかと
天孫系隼人や熊襲を血統的にも歴史的にも比べた失礼にあたるだろ
令集解のころは数百年も時代が下って区別が付かなくなったんだよ
150年くらい前に乱が起きたことと記紀を一応読んでいる程度で当事者もいないし無理もない
性質に明確な違いがあって用いる討つの正反対の違いを設けたヤマトもそれを認識していたということだろう
ハヤトの古層血統は奄美以南だよw
>>496 どこが妄想だと言うのか指摘してみろ
事実と記述で確認できることから類推できることしか言ってない
乱が起こったところも鹿児島湾北端で薩摩国南部・大隅肝属平野から大きく離れた場所だ
>>498 類推じゃなくて妄想な。
しかも程度の低い妄想だ。
500 :
日本@名無史さん:2012/06/20(水) 17:29:31.27
>>497 じゃあ久米氏の本貫地はやっぱ久米島なのかね?
501 :
日本@名無史さん:2012/06/20(水) 18:40:29.49
>>499 指摘してみろって言ってんだから指摘しなよ。俺も知りたい。
倭国大乱は、四道将軍派遣や武埴安彦命の乱よりも前の時代だな。
武埴安彦命の乱が、狗奴国の乱で
四道将軍派遣戦争が、卑弥呼の死後に起こった戦い。
倭国大乱というのは、卑弥呼の即位の前にあった戦争。
時期的に言うと、欠史八代の中ごろ。
この時代は、系図で世代のずれがあるが、
それは単純に伝承が間違って伝わっている側面はもちろん、
この時代の豪族は、結婚、出産が早かったので
叔父さんよりも甥のほうが年上という場合が頻発していたからだろう?
たとえば、最初に産まれた子供が15歳の時の子供ならば、
最後に産まれた子供が60歳の時の子供とする。
その場合、その最初に産まれた子供の更に子供が15歳で生まれた場合、
なんと、甥のほうが叔父さんよりも30歳も年上という事態が生まれる。
いや、それどころか、その甥も15歳で子供を作ったら
なんと、その子供は叔父さんどころか、大叔父さんよりも15歳も年上だったりする。
こういう世代間のずれが、晩婚の現代人よりも頻発していたように思う。
徳川家康の松平家は早婚家系だな。
家康の長男の信康は、家康が17歳の時の子供だけど、
家康の末っ子の頼房は、家康が61歳の時の子供な。
信康には10代の時に既に娘がいたし、その娘は
家康の三男の秀忠よりも年上だったくらいだから。
信康に初孫は、頼房よりも10歳くらい年上。
つまり、信康の初孫は、信康の末弟よりも、11歳年上。
505 :
日本@名無史さん:2012/06/21(木) 01:27:35.56
日本書紀では、神武天皇から10代の崇神天皇までは7名、15代応神天皇までだと11名が100歳以上の年齢だ。
古事記では、15代までで7名がそうだ。
神武天皇の場合は、古事記が137歳、日本書紀では127歳で、やや不統一だがいづれにしても100歳以上。
1260年で一回りする辛酉の年に神武天皇の即位をおこうとすると、
どうしても古い時代を延ばさなくてはならない。
そこで、過去の天皇の伝承や材料を増やしたり、架空の天皇をおいたりして、
天皇の年齢を100歳以上に延ばして、この間を埋めたわけだ。
>>505 年代を遡らせようとするのなら、
天皇の代数を増やして年齢を自然な形にしたほうが良いだろう?
>>505 魏志倭人伝に「春に耕し、秋に収穫」を年紀にするってあるんだから
その辺の歳は半分にしろよ
日本書紀に、国の名前で朝鮮三国の高句麗という言葉が出てこないのが何故か?
という問題があるな。
高句麗のことをぜんぶ高麗と書いている。
新羅のあとで朝鮮を統一して、高麗国をたてるのは平安時代後半期だもんな。
新羅とか百済と書いてんだから、日本書紀が720年にできたら高句麗と書いてもいいはずなのに、
高句麗のことは高麗で統一されている。
>>505 そんな長生きするわけないじゃんw
日本書紀ってデタラメが多いなw
>>508 それが、まさに、現在の中国と韓国の歴史論争に繋がる。
三韓と高句麗を分けて考えていたわけ。
三韓とは、馬韓、辰韓、弁韓な。
高句麗は別の地域で、その版図も発祥地も満州。
高句麗は朝鮮半島の一部分をちょっと支配していただけ。
しかしながら、後に朝鮮半島で、その後継者を自称する
王氏の高麗という国が誕生した。
高句麗はかつて、高麗と略していた時代もあったので
まさしく、その末裔と自称したわけ。
しかしながら、その信憑性は謎。
ただし、どちら乗せよ、高句麗という国自体は、
そのほとんどが、満州の国であり、そこが発祥地だった。
王族は扶余といってツングース系と言われており、後の女真族に近い。
中国北部の契丹も、扶余。
しかし、それをいうのなら、百済の王族も扶余なので、
話がややこしくなる。
>>509 日本書紀は鎌倉時代にできたんだろw
それなら高麗で統一されているのも理解できるw
高句麗は、中国向けに高麗と略称していたこともある。
ちょっと、すれ違いの話。
でも高麗の末裔が日本に来てたよな
百済王の末裔も居るし
諸蕃ってやつだな。
>>377 >>377 >「家族単位で、まったく異なる言語を話す。隣の家族とは全く会話が通じない。」のが当たり前という状態になる。
ああ、それ分かるな。
その家族だけで通じる言い回しや言葉って有るからね。
同県内でも東西南北地域で言葉(方言)が違う事も多々有るし。
>>510 古い時代は、だいたい660年ぐらい引いて換算すれば、実年代が出てくる。
国譲りの神話は史実だよな?
520 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 02:59:36.00
神話に決まってんじゃんw
国譲りという事件はあったと思う。史実として書けないので神話調にしてごまかしたかと。大国主の国はどこの国かはわからない。
出雲が国譲りして、そこでヤマト朝廷の天下統一が確定して
その時にヤマト朝廷の初代倭王(初代天皇)が誕生してたはず。
しかしながら、日本書紀では、そこは神代の話という風にされていて、
ヤマト朝廷の始まりをそこから数代後の神武東征ということにし
そこでイワレヒコ(神武天皇)が初代倭王になったということにしている。
古事記の神話時代ってさ中国の扱いどうなってるんだろう?
あの時代すでに中国は強国で隣にいたわけでしょ?
対中外交で、天皇家の姓として「姫氏」を名乗っていたにもかかわらず中国の話は出てこないよね。
525 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 09:23:42.52
>>523 ヤマト政権は東北に行くのも苦労するくらいで
中国なんか出て来ないよ
神代で扱われてるのは西日本オンリー
主に出て来る外国は半島
ヤマト政権って国際的に孤立してたんだろうな
だから「神代から日本の覇権を握ってた」説はウソ
「出雲と筑紫に阻まれてひきこもってた」が正解
>>524 姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌
姓はアマじゃないのか?
それは向こうの思い込みだろう
528 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 13:13:56.03
日本が中国を蕃国視した段階で、日本が従属している中国との交渉が書けなくなった。
そういうことだろ。
>>529 それは日本書紀の時期の書じゃないし、大和朝廷≠邪馬台国説を取るやつの最大の論拠なんだが。
隋書倭人伝
後漢時代
西暦57年〜
前漢から後漢に推移する時の騒乱により、中国全体の人口は激減していた。
前漢末期の2年の記録が人口5767万だったものが、後漢初めの57年には2100万にまで激減している。
その後は徐々に回復し、100年後の157年には5648万にまで回復している。
しかし黄巾の乱から大動乱が勃発したことと天災の頻発により、再び激減して西晋が統一した280年には1616万と言う数字になっている。
動乱の途中ではこれより少なかった。
西暦220年
曹操や劉備らが争う動乱の時代に入る(詳しくは「三国時代」を参照)。
後漢は一応存在はしていたが、最後の皇帝献帝は曹操の傀儡状態であり、権力は無いも同然であった。
220年、曹操の子曹丕により、献帝は禅譲を強要されて、後漢は滅びた。献帝が殺害されたと誤った伝聞を受け、劉備が皇帝に即位し、以降三国時代に入る。
やはり、欠史八代は、意図して歴史から外された訳だね。
古事記著者により・・
天稚彦=大国主神=大黒様=安部天皇
>>530 多利思比孤は開皇20年(600年)と大業3年(607年)に随に使者を送った倭王だから
古事記や日本書紀と100年ぐらいしか違わない
西日本は全て大和朝廷の支配下だったから
天皇の誰かだと考えられる
>>532 アマベ、アベ
大黒様=大国主
538 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 18:44:18.26
>>533 隋書なのになんで後漢時代なんだ?
隋書って隋の時代の書じゃないの?
539 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 18:45:25.37
>>537 九州の王が大宰府を基点に、大和‐倭国‐大陸の中継外交を半自立的にやっていた可能性があると思う。
戦国期の対馬の宗氏みたいな感じ。
>>529 だから向こうの思い込みだろ
あまのたりしひこって言っても、あまは姓じゃなくて天(アマ)から力を受け継いでいるとか
神々しいって意味にすぎんと思うが
仮に世界一高い山に住んでるから高山のたりしひこですって言ったとして
それが姓であるとするには無理がある
>>540 新唐書は11世紀の宋期に書かれた後付書だから日本の記述に関しては史料的価値はないね。
旧唐書には、「倭国伝」と「日本国伝」という2つの書があり、倭国と日本国は元々別物で
元々小国だった「日本」という国が「倭」を乗っ取ったとある。
この記述の意味を巡っては様々な説があるが、日本書紀の時代に、連中にそう思わせるような
重大な権力移動があったと考えられる。
543 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 19:21:36.93
新唐書は、日本書紀を参考にして書かれたような雰囲気があるね。
>>542 大国主の倭を乗っ取った小国ヤマト
ヤマトは大倭と名乗り大和と名乗り
日本に改名した
545 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 19:37:35.30
出雲を獲った形跡はそれなりにあるのだが、
九州を獲った形跡も、畿内を獲った形跡もねえ。
まあ、日本史の謎だなや。
倭の五王っていうのもあるよね。
五王なんていうぐらいだから五ヶ国あった気もするんだが。
>>537 わりぃ・・
一晩中話してて、その辺り、ナチュラルハイに成ってて、もう、気が付かなかった・・つつ
それレスした後に寝て、今起きた・・鼻・喉風邪で、菌が入って食道炎で軽く辛い・・
もう、直り掛けだワ・・。
>>540 おっ・・
すっげッ
>王姓は阿毎氏
>天御中主(アマノミナカヌシ)
造化3神の天御中主
こんな、天御中主までの系譜、麻生氏以外観た事無かった・・
>>546 古代神話での戦国時代だね。
この時代、阿毎氏が天下統一してたんだ。
>>544 つまり、ジャポンを乗っ取ったヤーパン
ヤーパンはハポンと名乗りジパングと名乗り
ジャパンに改名した
…こういう事か?
ちなみに、南蛮は何時ヨーロッパに改名したんだ?
だから、平安時代、奥州安倍氏を源氏が狙い定め、征夷大将軍なんて茶番の為に、家の先祖の親兄弟を討ったのか・・
>>551 えーと、バカすぎて反応できないw
日本は大昔は「倭」だった。倭人倭国と呼ばれた
九州のヤマト勢力が畿内に進出し定住した
そのヤマト勢力は出雲を下し、自らを「倭王」と名乗った
中国にひたすら倭王とアピールした
そして「大倭」と書いてヤマトと読ませた
しかし、倭の字が気に入らない
よって「大和」にした
でも気に入らない。
ヤマト勢力は国の名前を「日本」にした
王も天皇にした
日本は倭とは微妙に違う、小国が倭を乗っ取った物である
これで記紀とも史書とも合致する
554 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 22:26:11.02
もともと倭だったら、堂々と倭と名乗ればいいんで、
大倭なんていう名前は、倭に対してコンプレックスがあるように感じるな。
ヤマトは神武天皇の出身であり倭の小国
邪馬台国と
大和国
名前にてるよね。同じ国っていう説が少ないのはなぜなんだろう?
>>557 耶馬臺國の風習が刺青してるとか裸足だとか
どうみても土人風で
後世の天皇史観に馴染まなかった
耶馬臺國が有名になったから自分とこだと主張はじめた
畿内勢力(高天原)が天孫降臨を命じた
↓
畿内勢力が出雲を下した
↓
天孫降臨を命じられた者の子孫が東征し畿内の一豪族として侵入成功
↓
さらにその子孫が大王となり天皇となった
560 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 22:49:45.25
旧唐書には三つの説が書いてある。
@日本は倭の別種だ、東方の日の出の辺境地帯にあるので、日本という名前になった。
Aある者は、いや、そうではなくて、日本となったのは倭という国名が
雅びでないと自分で考えるようになって、名前を変えたのだといっている。
Bある者は、いや、違う、日本はもともと非常に小さかったのだ、やがて倭国全体を統合したのが日本だ。
好きなの選べやw
561 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 23:06:16.30
>>560 A 倭 大倭 大和 日本
スサノオが畿内高天原で天照の神殿の座に糞をして気付かずに座った天照をウンコまみれにしたり
機織りしてる時に死体を投げ入れたりの狼藉を働いて天照をヒキコモリにした
≒スサノオが畿内を制した が諸豪族連合に敗れ出雲に退かせた
これと天孫降臨の前後はどうなってるんですか?
562 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 23:24:52.18
>>554 上の方で「三島から神を勧請して大三島」というヒントがある。
俺も月氏→大月氏の例を指摘した。
「Aから分かれた新領土」を「大A」と称する例は実は世界中にあり、珍しくない。
倭→大倭もそういうこと。
563 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 23:32:50.85
>>559 あのね、天孫が降臨したのは九州の高千穂なの。
人間が天から降ってくるわけない。
天孫降臨の物語は九州山地の西側にあった高天原の一族が九州山地を越えて日向の
コノハナサクヤ姫を娶る事で関係を持ったというお話。
高千穂から東の日向に向かっているわけだから高天原はその西にあると考えるのが自然。
これはすべて神武天皇の系譜を物語る為のお話の一部である。
564 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 23:33:58.99
>>560 つまりまとめると、小国にすぎなかった畿内のヤマトが、
昔ながらの倭国であった九州を後に征服したということだな。
記紀とも基本的に合致する。
日本という新しい国号については、畿内か九州か、
どちらが先に名乗りはじめたか不明だが、
いずれにしても畿内政権によって正式に採用された、と。
>>564 新唐書は、筑紫の神武が大和を征服したとはっきり言ってるんだが。
566 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 23:41:06.10
>>563 つまりニニギ氏族は北部九州=倭国の大王の分家で家臣だということだね。
567 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 23:46:13.34
>>564 「畿内のヤマト」なんてあるのだろうか?
もし畿内がヤマトだったのならなぜ神武が畿内に入った時に「ヤマト」という
地名が出てこないのだろう? ヤマトの大国主となぜ呼ばれなかったのだろう?
畿内はヤマトではなかったのだよ
ヤマトの地名は神武の子孫がクーデターで実権を握った後につけられたのだよ
>>565 新唐書で重要な情報は、
「代々の正統な倭王は本来筑紫を都としていた」
という部分。
後代的には、その王統が神武に至って大和に遷都したという認識になっているのだろうが、
記紀の語る東征以後の歴史はそういう認識と合致しない。
明らかに大和に倭国とは別の国を立て、そこを基点に日本列島を順次征服して行っている。
実際の歴史もそうであったはずである。
569 :
日本@名無史さん:2012/06/22(金) 23:51:17.91
570 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 00:11:54.63
毎は、時の大陸では、ベと発音した訳だね?
572 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 00:31:38.67
>>570 自分だけ分かってればいいという考えなら
ここに書き込まずにブログでやってくれ
バイが唯一近い発音。
阿毎アマ
アバイ
阿倍アベ
安倍
理に適ってるネ。
阿倍氏は、中国外交の担当で良く中国行ってたから、
そいつの話を中国人が勘違いしたか、阿倍氏自身がフいてたんじゃねえの。
577 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 00:49:05.59
筑紫の日向の高千穂の峰つったってよ。
高千穂の峰伝承地は九州に四つあるんだぜ。
宮崎県に行くと高千穂という町があって、そこの峰だといわれる。
鹿児島に行くと、霧島の山がそこだといい、または九住山だという伝説があるし、
祖母山だという伝説もあるわけだ。
神武東征物語をほんきにしている奴は、高千穂の峰についても、いろいろ考える必要があるんじゃねーのw
>>576 可能性としてないとは言えんわな。
日本書紀の中には、推古女帝が36年間、政治を行っていたとあるが、
随書によると、そのとき日本から行った遣隋使が、日本の現在の皇帝は女帝ではなくて
男帝だといっている。
こういうこともあるからな。
>>577 中国人にそのように主張してたのはほぼ間違いないだろ。
んで、わざとそのようなウソを言うメリットが思い浮かばない。
魏の時代には神武の影も形もないし、
中国人も「うちの昔の本にこう書いてあるけど、これあんたらの大将の先祖?」と
問いただしたりしてるだろうから、記述がないということは、そのような結びつきもない、もしくは
そのように主張してことになる。
これについては、上で誰か言ってたが、中国人に程度の低い蛮族扱いされたくないという理由で
隠蔽の可能性はないことはないが、古代中国の呉にいった周の太伯も現地の習俗に合わせて
入れ墨をしていたくらいだから、中国人にとってそれほど奇異と言うわけでもない。
となると、神武と称する九州人の畿内への移動は、大古墳群登場のやや前程度だろ。
当時からして神話の山、すなわち信仰の対象が確定しないというのは、
古代ギリシャで言うオリュンポス山が、今となってはいったいどの山かわからないというのと同じで
一見奇妙に見えるかもしれないが、これはまったく逆。
すなわち、日本書紀当時は、まだ支配下の諸部族の信仰の対象の統一を成し遂げていない
文化的には極めて脆弱な国家基盤しか持っていないことを意味する。
国家自体は幾多に分かれていても、文化的には統合が進んでいた古代ギリシャと逆の構図。
>>578 新唐書
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。」
つまり多利思比孤=用明天皇だと明確に記されている
>>579 ではなぜ仏教派と伝統宗教派が激しく争ったんだろうなー
崇神は三輪山と出雲を祀っているぞ
明確な信仰は記紀以前から有った
オリュンポスとは例が全然違う、高千穂は降臨地であって神々の住まいではない
日本において神々の住まいは各地の神社だ
>>580 >ではなぜ仏教派と伝統宗教派が激しく争ったんだろう
仏教派は文化的統一を舶来思想を使って早く進めたかった側だよ。
既存の信仰、たとえば天皇家の信仰対象の山をみんな信仰しろと言っても到底受け入れられる
状況ではなかった。「そんな山生まれてこの方見たこともねえし」の一言でお終い。
んで、「伝統宗教派」とあんたが一言で言うところに大きな勘違いがある。
これには、正反対の2つの主張がある。
一つは、仏教派と同様に文化的統一を早く進めたいが、その際連中と天皇家の共通の信仰対象を
全国つづうらうらで信仰しろ信仰を強制しろ、というもの。だが、上で述べたとおり、そんなむちゃな話が
すぐに通るはずがない。最強硬右派だね。
もう一方はそれぞれの地域の土着の信仰を認めよう。文化的統一は先延ばしにしようもしくはやりたくない
という主張だ。先延ばし論は中央の穏健派で、やりたくない論は地方の分権派だ。
このような政治状況でとりあえず勝利したのが仏教派。
「舶来宗教をみんな信仰しよう」なら、文化的統一強硬派にはもちろん、地方分権派にも言い訳が立つ。
「あんた方のこれまでの信仰はそれはそれとしてまんまで良いですよ」とね。
まさしく「和を以て尊しと為す」精神だ。
>崇神は三輪山と出雲を祀っているぞ
まさしく自らの支配下にその地域を置いたという強力な政治的メッセージじゃないか。
かつ神様の格としては、占領先の出雲の方が上だったことを意味する。
>日本において神々の住まいは各地の神社だ
これは「八百万の神」を信仰する神道に対する全くの無理解。
神社に祭ってある記紀の神話の登場人物なんぞまったく限られているだろ。
神社は後背の山の神様の対面所なんだよ。
つーか、あんたも信仰対象を山だとすぐ上で認めてるじゃないか??山がどうやって神社に住んでるんだよw
582 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 02:31:30.81
>>578 「新唐書」日本伝に「使者、情を以ってせず」とある。
使者が実情を話さないってことだ。
「故にこれを疑う。又、妄りに夸る」とある。
中国側が絶えず、これはなんだという気持になるぐらい、
日本側は非常に高姿勢な態度で中国側に接していたようだぞw
神武東征のころの日向ってのは
宮崎県と鹿児島県の両方。
>>560 :日本@名無史さん:2012/06/22(金) 22:49:45.25
>旧唐書には三つの説が書いてある。
>@日本は倭の別種だ、東方の日の出の辺境地帯にあるので、日本という名前になった。
>Aある者は、いや、そうではなくて、日本となったのは倭という国名が
>雅びでないと自分で考えるようになって、名前を変えたのだといっている。
>Bある者は、いや、違う、日本はもともと非常に小さかったのだ、やがて倭国全体を統合したのが日本だ。
要するに、倭国って名前は、出雲王朝の時代からの名前だったけど
それから、出雲の東にある畿内王朝が
出雲を倒して天下統一しても
それまでの倭国という対外的な名前を継承し続けてきたんだけど
それが嫌だったので、このたび代えてくれと。
何でも言うが、記紀を読めばわかるけど、神武東征で畿内王権が出来たのではない。
それよりも前の出雲国譲りによって、畿内王権による倭国が誕生した。
それ以前は、倭国では出雲が強く、対外的にも出雲が倭国の代表だった。
その畿内王権による全国統一時に、全国各地に地方官を派遣したが
そのなかで九州高千穂へ地方官として派遣されたのが、ニニギ。
このニニギの曾孫がワカミケヌで、後のイワレヒコ、神武天皇と呼ばれる人物。
ヤマトという地名は、山処(やまと)という一般名詞からきているが
ヤマト王朝のヤマトは、三輪山の麓にあった名称から来ている。
おそらく、ヤマト王朝は自分たちの王権をヤマトと言い出したのは
モモソ媛命がいた時代からだろうと思う。
587 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 08:26:17.08
「ヤマト」は古語で中央、都、京師、首府などの意味。
>>585 ニニギが降臨した後
大宮殿を建てた場所はどこだっけ?
記紀に明記してあるよな?
記紀を読んだ事有るよね?
倭国って言うのは、シナ人がヨーロッパを南蛮、日本を倭と呼んでいただけの事
日本で倭国なんてものを建国した訳じゃない
黄金の国ジパングを建国した事も、ジャパンを建国した事もない
英語で「JAPAN」と呼ばれる様に、中国語では「倭国」と言うらしいと考えていたが
「倭」に侮蔑的な意味があるのに気付いて「倭国」と呼ぶのはやめろ
これからは「日本」と呼べと決めただけ
それまでは「葦原中国」で、神武天皇以降が「大和」聖徳太子以降が「日本」
日本に倭国があった事は一度も無い
>>589 日本語の「ワ」には色んな意味が有る、和、輪
ワタシ、ワレ、ワレワレ
ワは方言だと、自分、貴方、両方使われる
日本人は自分たちをワと読んでいた形跡は至る所にある
魏志倭人伝でも、倭国、女王国、耶馬臺國を使い分けている
日本が葦原中国なら高天原は日本じゃない
高天原はもっと遠い海の果てに有った
592 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 12:51:48.62
やまと「大和・倭」
解説
「山のあるあたり」という意のヤマ(山)ト(処)か。
本来は今の天理市付近の小地名であったが、大和朝廷の勢力拡大に伴い、旧国名の一つとして
今の奈良県に当たる地域を指すようになり、奈良時代まで都だったことから、日本全体の称ともなった。
語釈
@大和国城上郡にあった郷名。今の奈良県天理市の一部。
「つぎねふや 山城川を 宮上り 我が上れば 青土よし 奈良を過ぎ 小楯 大和(夜麻登)を過ぎ
我が 見が欲し国は 葛城高宮 我家のあたり」<記歌謡58>
A旧国名。今の奈良県。畿内の一。『延喜式』では、添上 添下 平群 廣瀬 葛上 葛下 忍海 宇智 吉野
宇陀 城上 城下 高市 十市 山邊の十五郡を管し大国。都からの遠近による区分は近国。貢調時の所要日数は一日。
大和朝廷発祥の地で、平安遷都以前は日本の中心として、多くの宮都や陵墓が営まれた。
この国は周囲を山に囲まれ、特に南半分は吉野の山岳地帯となっている。
古代においても「青山四周れり」<書記神武即位前>や、『古事記』にも「山籠れる大和」などと表現され、
山に囲まれた国として特徴づけられていた。
表記は、古くは「倭」「大倭」。天平九年疫病の流行により「大養徳」と改めたが、同十九年「大倭」に復した。
さらに天平宝字二年(758)ごろ、「大和」と改めた。『古事記』では「倭」。『万葉集』では「倭」「山跡」「日本」にほぼ三分される。
読みは『和名抄』ではオホヤマト、『色葉字類抄』ではヤマト。
B日本国の異称。特に中古以降、「大和心」「大和言葉」「大和絵」などのように、カラ(唐)に対して、
日本特有の事物に冠しても用いられる。
古典基礎語辞典 大野晋編 角川学芸出版
神武って実在しないって言われるけど、いるんじゃないかって思うんだよね。
神武が架空で後の天皇が日本を統一したとしたら(たとえば10代天皇とかいわれてるけど)
その統一した天皇は大偉業を成し遂げたわけだからそれを後世に残そうと
するはずなんだよね。
「私は日本を統一したぞ。じゃあこの偉業は神武天皇がしたことにしよう」
ってならないでしょ?
594 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 20:39:25.48
>>593 それが戦後の妄想史観だと
十代崇神天皇の事績を2つに分けてとか
訳のわからない珍説奇説が無批判に流布されていた。
だから、逆皇国史観といわれる由縁でもある。
>>591 古代日本人の一人称はアレ、二人称はナレ
ワレはアレがなまった形では無く、謂われが元
「ワレは何々の誰々である」って言うのは謂われ(出自)を紹介してる訳
謂われだから、一人称にも、二人称にも使われる
例)ワレは何者だ?(お前は何処の誰か出自(謂われ)を言え)
「ワ」とは関係無い
魏志倭人伝は中国の書物
欧州の書物だとジャパン、ニッポン、エンパイアを使い分けてると主張する様なもの
倭国(ジャパン)女王国(エンパイア)邪馬台国(ヤマト、ニッポン)辺りが相当
高天原は海の向こうでは無く、空の向こうの宇宙
天之御中主神は北極星の事で、天帝思想と根源は同じなので
天之御中主神自身が何か行動を起こす事は無い
>>595 高天の原とは、高天の原野ぐらいの意味だろう?
高天という地名は、現在の奈良県御所市高天にある。
ここの領主は、高天彦といい、
ここには延喜式の名神大社に指定されている高天彦神社がある。
ここで重要なのは、高天原彦ではなく、高天彦だということ。
日本全国にある高天原は、古事記にある神話から、後世つけられた名称だが
高天という名称は、古事記が編纂されるずっと前からあった地名。
>>593 イワレヒコ・ワカミケヌ命は実在していたんだろうな。
その人物を、記紀が編纂されて数十年後に
神武天皇という名前を後付けでつけた。
>>596 地名と言うものは大体、後からつくもの
高天の原野くらいの意味しか無ければ、神話で重要な役割を果たさない
例え、古事記が編纂されるより前に命名されていても
「神話よりは新しい」
>>598 前から疑問なんだが、高天が
現在の奈良県御所市高天だと、何か、まずいことでもあるの??
出雲国譲りなんて、どうみても畿内と出雲の戦いなんだけどね。
地政学的に見て、九州と出雲が戦って、あういう話にはならんし
それ以外もそう。
出雲国譲りでは、播磨国風土記にも、播磨で両者が衝突した話が残っている。
戦国時代も、播磨で、織田と毛利が激突している。
出雲国譲りで、畿内が出雲を併合し、ほぼ天下を統一する。
その後、地方に地方官を派遣する。
その中で、九州高千穂には、畿内王朝の王家のものを派遣した。
それが、ニニギ命。ワカミケヌ命(神武)の曽祖父にあたる。
>>600 織田軍が播州で戦った相手は「毛利氏」だ。尼子氏ではない(すでに居ない)。これが最大のポイント。
この時点での毛利氏は、古代と地名を合わせれば、安芸を本拠地とし、吉備を押えて、播磨に進出した。
つまり山【陽】道を東進しているわけだ。
安芸国の毛利氏はかなり山賊臭いところがあるが、それでも日本海側の勢力では無い。
山陰というのは、日本海側に閉じ込められてしまうところなんだよ。
北陸や九州北岸へは海路で行けるし、あるいは朝鮮東岸との交易についても有利なところだが、
太平洋どころか、瀬戸内海を望むことすら大変だ。
>>601 本拠地の違いだけで、
毛利は出雲を抑えていたし
古代の出雲王朝も山陽側を抑えていただろうし。
高天の原とは、現在の奈良県御所市高天。
出雲国譲り当時は、ヤマトとは
現在の天理市・桜井市の地名であったが、
のちに畿内王権で、モモソ媛命が倭王に即位した時に
このあたりに御所をかまえていたので、
それが王権の名前になった。
>>602 出雲(島根県)の勢力は、いつ吉備(岡山)を押えていたんでしょう?
吉備を完全に押えないことには、播州には事実上出られませんよ。
>>600は議論がすり替わっていて、
「出雲」が、いつのまにか「中国地方の勢力」になっている。
ところが、そもそも、山陰が山陽を制圧したという事例は、歴史上も考古学的にも、実は一度も無い。
山陽が山陰を制圧した例なら、枚挙にいとまが無いが。
そして吉備だが、記紀の示すところでも、考古学的にも、ここは「畿内の最古参の盟友」だ。
徳川氏にとっての、浜名湖畔の井伊直政みたいなポジション。
極めて早い時期に、畿内の「軍門に下って」忠実な同盟国として地歩を固めている。
605 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 01:47:10.98
高天の原は記紀神話などで、天の神々が住むとされる天上世界のことだ。
高天の原は、地上の葦原の中つ国、地下の根の国(黄泉の国)と共に
垂直的な三層の世界像を構成する。
伊予の国の風土記にいう、伊予の郡。郡役所から東北方に天山がある。
天山と名づけるわけは、倭に天加具山がある、天から天降った時、二つにわかれて、
片端は倭の国に天降り、片端はこの土地に天降った。
天山ということのいわれはこれである。
>>599 > 前から疑問なんだが、高天が
> 現在の奈良県御所市高天だと、何か、まずいことでもあるの??
高天原では無く、高天が奈良県なんだろ?
自分が何を言ってるかわかってるの?
>>606 何を言っているんだか。。。
奈良県が高天だとは言っていない。
地名としたら、現在の御所市高天のあたりだといっている。
>>604 出雲は出雲だけを抑えていたわけではない。
少なくとも播磨は抑えていたし、
政略結婚を通じて北陸や北九州にも広範囲に盟約を結んでいた。
>>604 >そして吉備だが、記紀の示すところでも、考古学的にも、ここは「畿内の最古参の盟友」だ。
>徳川氏にとっての、浜名湖畔の井伊直政みたいなポジション。
>極めて早い時期に、畿内の「軍門に下って」忠実な同盟国として地歩を固めている。
ソースは?
まさか、モモソ媛命の時代の吉備津彦の話を言っているのか?
時代が違う。
出雲国譲りの話を言っている。
モモソ媛命や吉備津彦よりもずっと前、
神武よりもさらに前の話だ。
>>605 天孫降臨は高天原から天降るという神話だけど、
土地まで降ってくるとは面白いな。
地上の高天原はその二か所だな。
一度訪れてみたいものだ。
根の国は実際にどこにあるのか・・・みたいな話につながりそうな・・・
記紀の内容を見たら、
出雲と高天原の間に淡路があるんだよな。
あと、高天原とヤマト(天理市、桜井市あたり)が至近距離だった
ことがわかる。
出雲国譲りからすると、イワレヒコ(神武)が初代天皇なわけはない。
彼の三代前のニニギの時に出雲国譲りが起こっているので
その時に初代天皇が誕生したはずである。
じゃ、ニニギが初代天皇なのか?というと、それは違うだろう。
彼は辺境の九州高千穂に派遣されたわけだから。
播磨国風土記をよむと、出雲大国主が国譲りした相手は
ニニギの兄のホアカリだったことがわかる。
ホアカリは、大国主の娘婿になっていたことも分かり
大国主からホアカリへの母系継承だったことも分かる。
614 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 08:17:57.77
畿内説は、邪馬台国論争に詭弁やごり押しの手法を持ち込んだ。
無を有に変える手法で、何でもあり、どこでもありの状態にしてしまった。
論理的な思考が軽視され、思いつきやこじ付けが当たり前のように語られる。
じっくり積み上げてきたジグソーパズルを横で引っ掻き回すようなのが
闊歩している状態が現在の状況といえる。
論理的な思考能力のない人とは論争する意味がないわけで、これこそが
論争を避けたい畿内説の究極の目標だと言える。
国譲りは継承とかそんな生ぬるいものじゃないよきっと
戦があって出雲が敗れたから国譲りせざるを得なくなっただけのこと
しかもその戦はたぶん正当なものでなかった
なぜならという理由はあるんだけど結局推測でしかないので書かないけど
出雲の国譲りに関して色々と考察してる人は多いけど
何故、出雲大社は高層神殿である必要があったのか?
何故、出雲大社は高層神殿である必要がなくなったのか?
通常の神社では神座が正面を向いているのに
何故、出雲大社は中央の柱を左からまわらないと神座にたどり着かないのか?
何故、神魂(かもす)神社では反対に右回りなのか?
何故、出雲を屈服させた側の天照大神を始めとする八百万の神々が
屈服した側の出雲にわざわざ足を運ぶ必要があるのか?
ここら辺を無視して真実に辿り着く事は出来ないよ
キリスト教を無視してヨーロッパ史を語る位無意味
国譲りってただ単に降伏したってだけの話でしょ。
618 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 11:53:30.32
畿内の統治勢力が国譲りに際して出雲に対して書けないレベルの酷いことをやったんでしょ。
国譲りとぼかしてるけどはいそうですかと国譲りするわけないし。
さらに畿内のアマテラス系は畿内の勢力に簒奪されてる。
ニギハヤヒ=ホアカリを説いた書は無道を働いた側の自己正当化の虚言。
こういう利に忠実で倫理に欠けるところとか兵の弱さとか畿内っぽいし、
不正義が許せないとか兵の強さとか九州っぽいよね。
619 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 12:10:08.68
畿内人は遺伝子的に朝鮮人に近いしね。
畿内以外に畿内の味方がいなかった意味や、
地の利もない神武軍に畿内土着豪族たちが敗れることの意味。
記紀を書いた時には畿内を統治するようになっているのだし、
畿内の人々の先祖をあんまり酷いようにも書けなかったんでしょ?
出雲には十分な罪滅ぼしをやらなきゃならないくらいのことをやった。
出雲への非道は世間も周知のことで誤魔化し様がなかったから記紀にもそうしてきたと書いたんでしょう。
620 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 12:31:45.18
>畿内人は遺伝子的に朝鮮人に近いしね。
息を吐くように嘘をつく...
畿内人は朝鮮中国遺伝子が少し混ざってる感じ
朝鮮中国グループとは違うが
東北人から見れば近い
>>621 中国の揚子江あたりの江南人が日本に来て縄文人(アイヌ)と交雑したのが弥生人。東北は縄文人の比率が高いから色白で目がキリッとなった人が多くなる。いわゆる秋田美人。
朝鮮は関係ないよ。
>>619 > 出雲には十分な罪滅ぼしをやらなきゃならないくらいのことをやった。
書けない様な酷い事をする連中が罪滅ぼしなんて殊勝な事はしません
> 出雲への非道は世間も周知のことで誤魔化し様がなかったから記紀にもそうしてきたと書いたんでしょう。
誤魔化しようが無いのに嘘を書いたのか?
それとも、誤魔化しようが無いから酷い事をしてきたと書いたのか?
>>618も含めて、色々と日本語が怪しいんだけど…
何はともあれ、西日本を統一したんだから、その眼目である出雲の件にふれないわけにはいかんだろうに。
頭がおかしい人?
>>609 吉備津彦は、確実にずっと後の話。こんな話しかないことが、間接的に吉備の地位を裏付ける。
(これは、実は伊勢の地位とよく似ているんだね)
つうか、巻向の考古学的表徴が、恐るべき結論を導いている。
三輪山信仰の【勃興】は、巻向が全盛期を過ぎて衰退期になってからの話なんだ。
つまり、巻向が先、三輪が後。
そして、巻向には、東海とならんで吉備や阿波の影響が顕著に見られるし、
そもそも、巻向の前段階から、吉備は大和川水系の勢力と深い関係がある。
吉備は、大和盆地南端部の、ローカル首長権力成立直後段階から参画しているとすらいえる。
井伊直政どころか、安城譜代だったかもしれない。
山陰プロパーの太平洋側進出なんて話は、かけらも出てこない。
>>625 国譲りは神武東征の前
それに神武天皇の畿内の嫁の名前を思い出せ
九州に置いて来た嫁より明らかに格上の嫁
神武天皇は初代倭王ではない
その証拠に、東征後に天皇に相応しい嫁を探し
その嫁の名はヒメタタライスズヒメ
尊称のヒメが二つも付く高貴なお方。名はタタラ・イスズかな
しかも天孫では無い大物主の子孫
神武天皇はちょっと目立った豪族で、もっと格上の存在が居たのは確実だ
古事記では大国主が出過ぎた、国づくりもした
しかし大国主の存在は民間信仰に残ったが
その後歴史から消えた
日本書紀では大国主をバッサリ削除している
これも消したかった証拠だ
本居宣長が言ったように、日本書紀は唐心ばりばりのえげつない外交用文書ということかな。
神武の前に国譲りしてもらってるはずなのに
神武が東征してるってどういう事なんだろうな。
630 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 20:16:29.66
>>625 >巻向が先、三輪が後。
そこいら辺はどうかな。微妙な問題ではあるが、
纒向みたいな遺跡は残存物は発掘すればでるだろうが、
もともと山そのものが信仰の対象になっていたものに、
考古的な遺構を見いだせるがどうか。
文献資料が少ない古代については、
考古学的な知見は大事なことだが、やはりそれはあくまで補助的なこと。
だいたい関ヶ原の合戦なんて考古資料なんてあるかなしか、だから。
それゆえに、かつて壬申の乱でさえ疑われたことがある。
崇神の時代、疫病がはやる。→三輪の神の祟りだという神託がモモソヒメにくだる。
→三輪の神を祭る→祟りが収まり、ヤマトが回復する。
→纒向に宗教的な遺構を作る。
こういう時系列になるのではないか。
>>629 その答えは國譲り天孫降臨に続く山幸彦海幸彦の神話
ニニギの子で兄の海幸彦は、悪行が祟り米が取れず最後は溺れて死にかけた
つまり天孫王朝は天候不順かなんかで衰退し消えたんだよ
それを復活させたのが九州のカムヤマトイハレ彦(神武天皇)
記紀の神代は順序通り全部読むと
繁栄と衰退を書いた、ちゃんとしたストーリーになっている
いや、復活させたのは崇神天皇かな
神武天皇から欠史八代は出雲と共存路線だったようだ
633 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 23:10:17.97
国譲り神話というのは、
日本に限らず、どこの国、王朝にもある王権の正統性、神聖性を表現するもの。
過去の実体がどうであれ、天孫族、ヤマト王家、天皇家が
この国(日本、大八嶋)の支配者たるべく(高天が原の神々より)定められた
正統性を持っている、ということを神話の形にして、
提示したものであって、だからこそ神話で語られる。
王権神授説といわれる古代の王家の神話と同じ。
それは近世でも、徳川幕府は源氏より出ているからとか、
あるいは現代でも民主的な選書で選ばれたとかいう
正統性の論理と変わるところはない。
>>633 国譲り神話なんてほとんど無いぞ
日本以外にある国はどこ?
中国朝鮮には無い
まず、神話の初歩的に時系列も分かってないのが多すぎるだろうw?
戦国時代とか明治維新の話とかは
歴史小説やドラマなので、なんとなしに歴史観が日本人の間で
出来上がっているんだけど
記紀の日本創世記の話は、戦後、日本人から遠ざけられたから
初歩的な歴史観や時代感みたいなものが日本人にないので、
いわゆるトンデモ史観にひかかりやすくなっている。
>>633 >国譲り神話というのは、
>日本に限らず、どこの国、王朝にもある王権の正統性、神聖性を表現するもの。
そういうのは、神武東征の話のところですればよいだろうw
なんで、わざわざ、神武東征よりも前に出雲国譲りみたいな話を
面倒くさくもってきたのか?
そして、この話は日本書紀のほうでは薄めて書いている。
播磨国風土記では、出雲が直接、降伏したのは
皇祖ニニギではなく、ニニギの兄のホアカリのほうであり、
またホアカリは、大国主の娘婿だったことも書いている。
大汝命の子が火明命とされているものは播磨国風土記以外に例がなく、
日本書紀ではニニギノ命の子とされている。
播磨国風土記では石作連の祖神(姓氏録)として把握すべきであり、
古墳の石棺・石室の製造者の祖神と見てよい。
古墳逸話の一変種で伊和部または石作部系の伝承であろう。
飾磨の郡付近には古墳とともに岩石の露頭した山が多い。
>>635 「物語」の前後が、実は反対だったのでは?という議論は、古今東西よくある話なんだけど。
織田信長と豊臣秀吉の長幼をひっくり返したら、
それは直ちに「超時空太閤ファンタジー」になってしまうが、
神代の神話のストーリーが、実は逆だったのでは?と推測することは、
別におかしな話では無い。
>>637 日本書紀には、ホアカリは、ニニギの子だけではなく
ニニギの兄だとか、いろいろな説を記載している。
また、古事記には、ニニギの兄としている。
で、旧事本紀では、ホアカリは、ニニギの兄とされ
海部氏系図では、ホアカリは、ニニギの弟とされている。
ここで注目なのが、どちらも大己貴命の娘婿としているところ。
つまり、ホアカリは、大己貴命の娘婿だということは、
要するに、大己貴命の義理の息子ということになる。
>>638 そんな解釈していたら、もう
なんでもありなんだよw
641 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 18:01:33.60
本屋で古事記の解説本を見ていたら、天照大神がイラスト付きで男として
書かれているものがあった。ほとんどは女として書かれているが…。
これを見て、男と思う人がいたら、男か女かで論争の種になって、まとまりが
付かなくなる。これと同じように、市販の本が何でもありの状態ならば、
拠り所がなくなってしまう。
みんなが自分の読んだ市販の本を拠り所にしていたら、そりゃあ噛み合うわけ
がないな。
本来、唯一の拠り所となるはずの記紀でさえ、間違っているとのたまう人が
いるわけだから。
中世神話では男扱いされる事もある
スサノオに嫌がらせをされて岩戸に引きこもるような男とは思えないような描写が。
裸踊りしてたら、出てくるような神様
ひょっとしたら、裸踊りしてたウズメの尊は、
イケメンの男性だったのだろうか?
そこは男らしいよな
女なら天手力男とか腕力が必要なわけでもあるまいに
男神の可能性もあるとは思う
646 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 19:12:58.22
天照大神、男神説というのは、女神説同様確かにある。
記紀成立時は、持統、元明、元正と女帝の時代で、
草壁皇子、文武天皇という正統な男子後継者は若死にしている。
女帝の権威を高めるために、女神にしなければならなかった、
という説にも一理ある。
いろんな説があるから面白いんだよ。
日本の古代神は男女並立
男女ペアでこそ神
天照が男ならスサノオとの間に子が出来んだろw
地元には蛇に化身して斎宮に通うと言う伝説があるそうな
アマテラス=卑弥呼ってのはいつから言われるようになったのかね。
昔は三韓征伐した皇后=卑弥呼と思われてたわけでしょ。
651 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 20:03:20.84
>>649 日教組的な高校教師の本で得々とかいていたが、
それは中世に生まれた伝説で、三輪伝承も少なからず含んでいる。
>>650 > アマテラス=卑弥呼ってのはいつから言われるようになったのかね。
かなり早くからそう考える人はいたでしょ。
記録に残る残らないは別として。
本居本永?だっけと新井白石あたりが江戸時代の歴史学者らしいけど。
江戸時代あたりにもっとちゃんと遺跡発掘とかしておけばよかったのにね。
>>635>>640>>641 おまえさん、脳が18世紀だよ。19世紀ですらない。
18世紀。日本だと田沼意次や松平定信が存命だった時代。水野忠邦の時代にすら入れないw
古代文献を研究する歴史学では、19世紀には、すでに「順番墨守」なんて話は消えていた。
ニーブア、モムゼン、ランケなどの、古典古代文献やゲルマン神話の解釈をみてみ?
影も形もないほどに切り刻んで理解する。それが古典的な近代神話研究の手法。
日本神話に関しては、20世紀どころか、19世紀の学問の王道の導入が、皇国史観で拒否されていたんだな。
ドイツ被れの戦前日本だったが、この点だけは18世紀のまま。つまり文明開化していない。
江戸幕府が、キリスト教だけを徹底排除したように、大日本帝国は、日本神話の近代的な解釈だけは御禁制とした。
ぶっちゃけ今からでもやってほしい。奈良、福岡、佐賀あたり更地に
して徹底的に調査すれば結論でるだろ。住民なんて1千万ぐらいだろ。
どっか移住させればいい。
日本書紀や古事記の原本ていつなくなったんだ?ちゃんと管理されて
そうなもんなんだが全30巻全部原本なくなるってどうして。
応仁の乱かなんかで燃えちゃったのか?
神憑りして裸になってる埴輪が宮崎の古墳から出土してるよ。
その時には当然記紀は無い。
ごめん裸じゃないです。
神懸 埴輪 で検索すれば分かります。
659 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 21:53:01.62
歴史資料館や博物館で、いくつか裸の女性の土偶を見たが、
一つの土偶ならありがたみもあるが、
いくつもみると、祭祀がどうこう書いてあっても、
ただのエロフィギュアを、古代人も作っていたというだけ
にしか見えない。
660 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 21:56:55.55
>>650 誰でも考えること。でも、よく考えてみたら、天照大神が卑弥呼ならば、
その後に神武東征があって、もろ東遷説じゃないかとわかり、
畿内説は大慌て。恥も外聞もなく誹謗・中傷を始めたというわけ。
>>659 自分もそう思うw
説明は結局後付けだからどういう意味で作ったのかは分かりませんよね。
そういう物を古墳に置くかな?とは思うけど。
ヒの国、トヨの国とかでてくる九州には邪馬台国、卑弥呼を感じずには
いられないのも事実なんだよなあ。
>>660 誹謗中傷しているのは、おまえのほうだろう?
邪馬台国九州説って病気みたいなもん。
完全に邪教みたいなもんだよ。
記紀の編纂者や後世の人間が、
イワレ彦を初代天皇の神武天皇にしてしまたっから
それの解釈に振り回されてしまっている。
ヤマト朝廷の初代倭王は、ホアカリ命であり、
ヤマト朝廷の始祖の男神アマテルとして祭られているものは
彼のこと。
このホアカリの弟にニニギというのがいて、九州高千穂に派遣される。
それが、現在の天皇家の先祖。
>>632 :日本@名無史さん:2012/06/24(日) 22:33:18.29
>いや、復活させたのは崇神天皇かな
>神武天皇から欠史八代は出雲と共存路線だったようだ
だから、記紀をちゃんと読め。
出雲は、神武天皇の曽祖父のニニギの時代にはとっくに
国譲りしているw
666 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 08:38:09.93
>>663 無知は怖いな。
畿内説は、戦後、徹底して東遷説を軍国主義呼ばわりしてきた。
まさに、論争ではなく誹謗・中傷の類になる。
そういう中で生まれたのが、古田説や松本清張説。
ある人によると、戦争体験者にとって軍国主義者呼ばわりされるのは本当に
つらいものだった。次にどんなレッテルを貼られるかと思うと、なかなか
東遷説を口に出すことができなかった、と述べている。
>>666 いや、だから、畿内説と九州説をイデオロギーの闘争にしてはいけない。
というか、今では九州説のほうが反皇国史観だったりする。
畿内説のほうが、早い時期から、日本に全国規模の巨大王権が
あったことになるわけだから。
記紀を読めばわかるけど、神武が東征する以前から
神武の親戚筋が、大量に畿内に在住していた。
そして、神武が東征できた大義名分は、
自分の出自があなた方と同じだからと言っている。
そして、神武の三代前の出雲国譲りは、どうみても、畿内と出雲の戦争。
その時点で畿内を中心とした全国規模の王権が誕生したことを意味する。
668 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 09:36:59.23
>>667 ね、いまだに皇国史観なんて言葉を使っている。今は軍国主義といっても
何それ、という人が多いから、言葉を変えているわけだが、皇国史観なんて
わかったようで何のことかぜんぜんわからない。まして、邪馬台国論争と
どういうかかわりがあるのかわからない。まさに誹謗・中傷の類。
日本書紀には、神武天皇は、天香具山の赤土を使って土器を作り、地元の
祭祀をすることにより馴染もうとしている。即位してから、我々は天神の子で
あるから天神の祭祀をやろうということになった。
明らかに、違う文化が根底にあることを示している。
>>668 そりゃ、そうだろうw?
畿内の豪族と同じ出自とか言っても
九州で地方官を三代やって家系なわけだからw
それでも、ちゃんと天神の末裔だと告白しているしw
天忍穂耳命の後継者って、、称号から見て
どうみても、長男の天火明命であって
次男のニニギ命ではない。
実際に、出雲国譲りの後、辺境の九州高千穂に派遣されているしw
このニニギの曾孫が、ワカミケヌ命。
のちのイワレヒコ、西暦8世紀中頃には、神武天皇と呼ばれる人物だ。
671 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 12:12:06.14
日本初期の神武天皇記の天香山の赤土を云々と、
崇神天皇記の天香山の赤土を云々は表裏一体。
と言うか神武と崇神が実際に戦端を開き交戦した攻防戦を立場と時代を変えて記述。
登場人物や場所柄も酷似
どうやら神武側が一方的に侵攻侵略戦を仕掛けて崇神側が防衛抗戦を強いられたと思しき構図。
672 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 12:28:44.23
天火明命=天火火出見の命(ホホデミ)。(異名同神/元伊勢古社秘伝)
天火明命。又の名、彦火明命。
=天照国照彦天火明命。=天照御魂大神(天照大神♂)
神武天皇=神倭磐余彦火火出見命(ホホデミ)@日本書紀。
賀茂別雷大神(上賀茂神社)=天火明命。(異名同神/古社秘伝)
上賀茂神社は伊勢神宮に準じて祭祀が奉られ続いた大廟。
古名は賀茂別雷皇大神宮。
伊勢が斎宮制度が瓦解したのちも皇室が斉王を奉り続けた所以。
673 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 13:22:42.37
籠神社系の系図や伝承はトンデモだから、参考にはならん。
674 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 14:12:51.83
神武東征って明治の西南戦争みたいな
元は薩摩藩で同じだけど
地元に戻った西郷隆盛派閥
新政府の中核になった大久保利通派閥
のように同系統の分裂による戦いなのか
神武がいたとすると何年ぐらいに活躍してたとみるのが妥当なんだろうか?
日本書記だと紀元前660年らしいけど。さすがにコレは無理あるんでしょ?
卑弥呼が220年ぐらいらしいから。神武も同時期ぐらい?
>>675 紀元前後だろうな
>>665 だから記紀を良く読めw
ニニギの正当な後継者は衰退して死にかけている
しかも弟の山幸彦にその座を奪われた
それを助けたのが海神系だ、海神と言えばスサノオ系だ
677 :
サガミハラハラ:2012/06/26(火) 22:18:36.46
神武の橿原即位は西暦130年です。没年は149年で在位最終年は150年です。
678 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 22:27:20.67
今は崇神は実在の人物だろう、
というのがほぼ定説になっている。
ただ崇神の実年代が諸説あるが、3.4世紀というのは動かない。
それの十代前だから、天皇の平均在位年数、10〜15年で計算すると、
100年から200年くらいの間になるのではないか。
安本説なんかでは、平均年数から単純に逆算して、
崇神を350年くらいにして、
確か神武天皇を250年前後くらいにしていたようだが。
(邪馬台国東遷説)
崇神を250年前後において、
モモソヒメの箸墓と卑弥呼をからませようとする説もあるし、
(邪馬台国近畿説)
諸説紛々。
神武は卑弥呼より後の人物か前の人物かで随分変わるよね。
邪馬台国近畿説で具合が悪いのは、南と書いてあるのは実は書き違いであって、
ほんとうは東なんだというふうに、無理をしないと、「魏志倭人伝」に書いてある
とおりにはなかなか近畿にやってこない。
こういう弱点があることだ。
681 :
サガミハラハラ:2012/06/26(火) 22:46:17.26
記紀に邪馬台国が登場しないわけの一つは、卑弥呼邪馬台国が、神武九州から東遷してからのちの話だからですよ。
つまり、神武が東にさってから九州とは没交渉となったからです。ですから、天皇家中心の歴史書である記紀には卑弥呼邪馬台国は登場しないのです。
神武は卑弥呼より後の人とした方が話としてはおもしろそう。
>>681 それだと九州であらたに生まれた卑弥呼勢力と
東に移った神武勢力で争いになると思うんだが。
684 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 22:52:59.71
>記紀には卑弥呼邪馬台国は登場しないのです。
書紀では神功皇后の後注(後注ではなく本文と解釈する研究者もいる)
に記載されている。
もっともこれは神武紀元につじつまを合わせるために、
神功皇后の実在年代を250年前後に置いたという理由も考えられる。
685 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 22:53:32.61
卑弥呼よりまえでもあとでも、小規模豪族の離脱程度なら、
本体勢力は余り気にすまい。
直接喧嘩売ってくれば別だが、どっか遠くに消えてもわからない。
686 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 23:00:47.02
>>683 神武以後数代は畿内の平定で手一杯。
九州まで戦いに出る余裕なんかないよ。
卑弥呼と耶馬臺國が記紀に載っていないのは
それがヤマトの事だから
卑弥呼が誰かは分からないが
神功皇后が臺与だろう、幾つかの神社で豊玉姫と神宮皇后が混ざってる
15歳の妊婦で三韓成敗、まさしく神懸かりだな
大河の主人公に相応しい
688 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 23:04:48.85
現状の邪馬台国論争というのは、
確定的な資料は通称で「魏志倭人伝」しかないのに、
ヤマト王権の歴史と邪馬台国と無理矢理結びつけようと、
東遷説と近畿説とがデンパをとばしあっている状況。
689 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 23:11:54.23
とりあえず記紀の中に卑弥呼に比定できる人物はいないことは明白
だって当の書紀自体が
「神功皇后のことかも知れないけどよう分からん」
ってお手上げ状態なんだからな
日本書記とか古事記が出来たのって700年ぐらいでしょ?
680年ごろから作ってたらしいが。
たかだか500年前ぐらいの事もわからないのか。
当時ならまだ集落後ぐらいありそうな物だが。
日本国王となったのは天皇では無く、足利義満
日本国王として元と貿易したのは天皇では無く、九州の大名等
卑弥呼とか、邪馬台国が「日本の歴史」に出てこないのは
卑弥呼自体存在しないか、九州辺りの一地方勢力に過ぎないかだろ
仮に、九州の一地方勢力が倭王を名乗っていても
争いにはならないし、中央から見て何の問題にもならない
それは中国向けであって、国内の支配権とは関係無いから
倭のなの国王がなんたらっていう小さいハンコ
九州の田んぼからポロッと出てきたんだっけ?
692 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 23:49:12.20
>>690 文字による記録としては残っていなかっただろうが、伝承としては
残っていた可能性が高い。
たとえば、日向神話なんてのは、海の話ばっかり出てくる。
山に囲まれた大和で作られた話とは思えない。やはり日向の記憶が
あったのだろう。
693 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 23:50:31.84
当時の天皇ってのは、スメラミコトであって大王なんだから、九州に倭王がいたといてもそいつは格下になる。
その格下が、大陸の皇帝に形式的にへりくだって大陸から珍しいものを輸入してくれるなら、
その珍しいものの横取りすればいいんだから、直接取引するより便利な仕組みだろ。
後世の薩摩の琉球支配と思えばいい。迂回貿易というか鵜飼な。
それが上手くいってたのが邪馬台国までで、それ以降は百済が鵜になり、百済が駄目になったらいよいよ遣隋使。
694 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 00:03:21.30
×…それが上手くいってたのが邪馬台国までで、それ以降は百済が鵜になり、百済が駄目になったらいよいよ遣隋使。
○…それが上手くいってたのが倭の五王までで、それ以降は百済が鵜になり、百済が駄目になったらいよいよ遣隋使。
695 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 00:13:49.80
近畿説であれ、九州説であれ、
ヤマト王権と邪馬台国は没交渉と考える方が自然だろう。
崇神が日本の統一に乗り出すまではヤマト王権というのも、
婚姻によって徐々に支配地を拡げてはいたが、
奈良盆地、そして同盟に近い服従関係にあった物部の河内くらいの範囲しか
支配していなかった。
そして、300年前後の崇神の頃には邪馬台国はすでに消滅してしまった、
ということだろう。
魏志倭人伝をよく読め。
卑弥呼は、倭国邪馬台国の初代倭王ではなく、
あくまでも中興の祖という位置づけ。
倭国邪馬台国を建国したのは、卑弥呼と同族のずっと前の男王。
よって、卑弥呼=モモソ媛命でも十分に話が通じる。
じゃ、倭国邪馬台国を建国したのが、イワレヒコ(神武天皇)なのか?
というと、そう話は単純ではない。
魏志倭人伝によると
もともと倭国邪馬台国は、一人の男王によって建国され
その王統が数十年つづいたあと、倭国大乱が起こり
女王卑弥呼によって再統一したといっている。
魏志倭人伝によると、卑弥呼はあくまでも、この王統の一族という認識である。
もし、卑弥呼がそれ以前の王家と無関係ならば
卑弥呼が女王になった時点で易姓革命がおこったとされ
そこで新しい別の国が建国されたと解釈されるのだが
魏志倭人伝によると、
卑弥呼共立の前も後も、同じ国が続いたと解釈されているわけ。
少なくとも、紀元前1世紀から紀元後1世紀の間ぐらいに
畿内王権が出雲との戦いに勝ち、
そこで日本全国規模の王権を建国したはずである。
この王権の発祥地は、高天(御所市高天)で、
最初の首都は、高尾張(葛城)。
その時の畿内王権の大倭王は、天照国照彦。諱を火明(ほあかり)という。
ヤマト朝廷の建国の始祖として長い間、崇拝されていた男神アマテルとは、
彼のことである。
全国にある天照御魂神社に祭られているのは、彼だ。
播磨国風土記、旧事本紀を読むと、出雲の大国主の娘婿にも当たり
義理の父親の大国主から国譲りされたのが真相。
しかし、この天照国照彦には、ニニギという兄弟がおり、
出雲国譲り、つまり、畿内王権が全国統一したのちに
九州高千穂の地方官として派遣される。
このニニギこそが天皇家の先祖であり、ニニギの曾孫がワカミケヌ(イワレヒコ=神武)だ。
699 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 03:02:26.96
藤原一族が日本を乗っ取りそれ以前の歴史を改ざんして日本書紀や古事記を
編纂した、という結論に至っている。1300年も皆が騙されてきた。日本人は
騙され易い民族なのでしょう。しかし、本当のことも書かれているようなので、
それを手がかりにするしかないでしょう。
天孫降臨に関しては、伯耆国説
http://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi もあるので、参考にしてください。
>>699 トンデモには興味ありません。
記紀は言うほどに藤原氏には有利にはなっていません。
とくに家系に関する記述で、藤原氏には
さほど有利にはなっていません。
藤原氏の先祖の中臣氏は、ヤマト朝廷の中では中流クラスの譜代貴族にすぎず
敗者である大伴氏や物部氏や葛城氏、蘇我氏などのほうが、
よほど名門の家系という記述になっている。
701 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 07:21:49.29
>>696 近畿説の考古学者様は、卑弥呼を共立して新しい都である纏向を建設したと
言っておられる。
卑弥呼の数代前から、倭王とかあるいは倭国王がいたとしたらそれはどこにいた?
畿内説は何を言っても矛盾だらけになってしまう。取り繕っても取り繕っても
ほころびは拡大するだけ。
>>701 意味不明なのは、あなたのほう。
女王卑弥呼の王都は、三輪山の麓の纏向でしょうに。
この辺の地名がヤマトで、それが、この王朝の名前になった。
しかし、それ以前は、王都の場所も違っていた。
ヤマトの前は、高尾張が王都であり、これはのちに葛城と呼ばれる地域だ。
この王権の発祥地は、この高尾張よりも、
さらにやや南の高地にある高天という地域。
首都なんて、同じ王朝でも、飛鳥時代以降も絶えず変わっている。
近江、平城、河内、飛鳥、山背(京都)、東京など...
703 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 08:05:17.75
>>702 葛城の何という遺跡が候補になっている?
そこに纏向みたいなのがあるのかな?
704 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 08:11:28.97
葛城の高天地区は地元では古来、高天原と伝承されています。
国のまほろば。
705 :
蘇我入鹿:2012/06/27(水) 08:19:33.55
706 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 09:03:01.80
九州の隼人は仁徳紀とかでは、天皇や王子の近習であったと
早くから記されてようだが、どんな関係なの
707 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 10:00:17.91
>>676 記紀の正当性を説明してくれるか?
ニニギの転生周期は、国家「君が代」に記述されている
千代に八千代の「千代に」は、千年
源氏の開祖、安倍晴明(二代目)はニニギの転生体
平家は、ニニギの子孫
平家や源氏でも無い天皇家、どこに正義があるのか
708 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 10:40:59.23
>>707 記紀を拠り所にしなくて何を拠り所にするかという問題。
例えば、関が原の土をちょっと掘って、出てきた物で、戦国時代を語ろうと
すればとんでもないことになってしまう。
考古学で歴史を語るというのはそういうことなのだ。
709 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 11:46:53.54
日巫女だから宗教権威的存在で実際の王は男だったのだろう。
記紀に登場する天皇の宮も
モモソ媛命のあたりから、纏向周辺の地域になるけど
それよりも以前の天皇の御所は
現在の葛城市や御所市のあたりになる。
>>707 天皇が正当性を主張したのが記紀だ
しかし内容は単なる想像だとは言えない
出雲の高層神殿の柱跡の発見は記紀を見直す切っ掛けになった
つまり発掘されて無い記録が記紀に残っていた事になる
また古事記と日本書紀という二つで比較できる事も重要だ
また一本のストーリーになっている点も
単なる神話や伝承と比較して重要な利点である
>>710 地理的に見てもそうだな。
そこから徐々に中心地が移動したのは、誰にも想像できる。
九州に宮を構えた天皇も居たような気が
>>713 臨時に宮を構えた天皇もいる。
系図を見たら分かるけど、天皇家の事実上の最初の先祖は
天忍穂耳命。
この天忍穂耳命の次男がニニギ命。天皇家の先祖にあたり、神武の曽祖父にあたる。
出雲国譲りの直後、九州高千穂に派遣される。
一方、この天忍穂耳命の長男には天火明命がいる。
播磨国風土記、旧事本紀などから、
出雲の大国主は、娘婿(義理の息子)だった天火明命に
出雲を国譲りしたとある。
そして、記紀などによると、天火明命は通称を天照国照彦という。
文字通り、出雲国譲りを実現させ、天津神と国津神の両方の統治者になったことを意味する。
もともと、ヤマト朝廷は、男の太陽神アマテルを崇拝していたという説があるが
それは、天照御魂神社のことをいっており、ここに祭られているのが、
この天照国照彦・天火明命。
古代の日本は末子相続だから、兄弟が二人いたら、次男が正統後継者な
>>715 :日本@名無史さん:2012/06/27(水) 15:06:41.70
>古代の日本は末子相続だから、兄弟が二人いたら、次男が正統後継者な
そういう定説はありません。記紀を見ても、兄弟の順番に関係はない。
長男がついだり、次男がついだり、三男がついだり、ばらばら。
あと、火明命とニニギ命の系図に関しては
国宝海部氏系図のほうでは、ニニギ命が長男で、火明命が三男ということになっている。
717 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 15:30:18.16
末子相続がみられる と 末子相続だった は違うだろ…
古代は末子相続だったが、何代目だかの天皇の時に
「長子に継がせるべきなんだけど、末子の方に継がせたくて迷ってる」のが出てくる
この位の時期が大陸の影響で長子相続に切り替わっていく過渡期だと思う
大陸の影響を強く受けるまでの日本は末子相続
720 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 18:38:59.56
末子相続説(昔は最後に生まれた子が幼いから)
次男相続説(兄は祭祀を司り、弟が政治を司る)
諸説あるが、
実際は母の家柄がよくて、かつ王が後継者と見込んだ者が相続順位の第一位。
同母兄弟の中から兄、弟は問わない。
末子相続に末子相続なりの利点もあるしな。
722 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 18:43:42.40
母の家柄次第っつーのも外戚の横暴や酷ければ簒奪の危機に繋がってたけどどうにもならずに近代まで繰り返してきたな世界じゅうで
723 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 18:52:00.95
そもそも中国の歴史書ってめちゃくちゃだから魏志倭人伝に日本の歴史を無理に当てはめるのが筋違いかと。
たしか明の歴史書では信長は秀吉に殺された事になってたような。
秀吉に殺された事にしててもそう違ってないかもねw
処刑厳封改易してるし信長個人でなくても織田家を殺してたのは間違いないし
725 :
サガミハラハラ:2012/06/27(水) 19:31:14.31
王や長のような家計では、普通は、長子相続制であり、末子相続制ではありません。
つまりは、昔はその任務にたえうるような能力の人が相続するのであり、親が死んだときに、末子が10歳ぐらいであった場合などかんがえると、末子相続では無理があります。
726 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 20:25:35.01
基本はそうだろう。
長子相続は無用な継承争いを事前に防止するという意味も大ききと思う。
戦国時代なんかはその典型ではないかな。
ただ、古代ヤマト王権では、九代開化天皇は同母兄大彦をさしおいて王位
についている。
事情は不明だが、やはり、孝元天皇がより後継者に相応しいと思ったのだろう。
崇神天皇の夢占いのでも後継者決定の話もある。
ただ、これは裏を読めば、垂仁天皇の母が大彦の娘であるの対して、
異母兄のトヨスキイリヒコの母は尾張氏がどこかの娘だったので、
明らかに家柄が低かったことにもよるのだろう。
727 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 20:47:24.71
>トヨスキイリヒコの母
は木国賊、荒河戸畔の娘だった。
記紀を読めば、実際に末子相続だったのはわかるよ
ニニギも山幸彦も神武もそうだし
末子相続の利点は、一番若い子に継がせるので、寿命的に有利
かつ、経験の豊富な兄を「兄としての威厳を持ったまま」サポート役に出来る
コレは長子を後継者にして、次男以降を飼い殺しにするより効率的
「兄」「継承者の保護役」と言う安定したポジションは無用な継承争いを予防する
長子相続の戦国時代は継承争いが酷いしね
旗本でも、農家でも、長子相続の次男坊以下は悲惨だ
末子相続は古代日本人の知恵だと思う
729 :
サガミハラハラ:2012/06/27(水) 22:24:38.95
ニニギは葦原中国をおさめるために降臨せられたのであり、高天原の相続はしておりません。
山幸彦は、独立した家であり、三兄弟の筆頭として相続をしたわけではありません。
神武は上の兄達が皆なくなってしまったので、あとをついだのです。
上記三名は結果として末子相続にみえますが、実態は末子相続制による相続ではありません。
>>729 > ニニギは葦原中国をおさめるために降臨せられたのであり、高天原の相続はしておりません。
高天原は相続する物ではありません
葦原中国を治めるのは統治権を相続したからです
> 山幸彦は、独立した家であり、三兄弟の筆頭として相続をしたわけではありません。
天照大神から天皇まで皇統を繋げているのは山幸彦です
明らかに家督の継承者です
> 神武は上の兄達が皆なくなってしまったので、あとをついだのです。
初めから神武が継承者として東征をしています
兄が亡くなったのはその結果です
継承者が亡くならなくて幸いでしたね
> 上記三名は結果として末子相続にみえますが、実態は末子相続制による相続ではありません。
どう見ても、末子相続です
有り難う御座いました
記紀を記した時期からすればへんてこだから、もっともらしい口実つけてるだけやん。
732 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 22:56:08.65
>>730 たまたま神武が生き残ったから即位したんであって、最初から決まっていたとは言えないよ。
九州には妻子を残しているわけだし、その九州に九州家の跡取りが残っているやもしれぬ。つまり5人兄弟。
733 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 23:29:12.52
記紀では神武が東征を提案し、初めから王としての地位が確立していた、
と記してあるが、記紀を素直に読めば長兄のイツセが主導的立場にいたのは
明らか。
だから、すでにこの時代にして基本は長兄相続だったといえなくもないが、
あまりそれに固執すると我田引水になりかねない。
ただ、後継者争いというのはいつの時代、どの国でもかなりな混乱を引き起こす。
長子がよほど酷い人物とか、
王のお気に入りが長子以外の子どもだったり、
(応神から仁徳への継承時に継承争いがあった)
とか、何かの理由があってのことだろう。
記紀によれば、神武は鮫から生まれた鮫太郎。
漁業を生業とする一族との結びつきが非常に強い。
日本でも漁民は近代まで末子相続が標準的。神武の件と符合する。
735 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 23:44:41.35
漁民や狩猟民族は末子相続。めぼしい相続財産もないし、末弟に親の面倒を見させるのがいいから。大和初期のように新規開墾できる土地が沢山ある時代の農民も同じ。ただ、土地が手に入れられなくなると長男が家を継ぐようになる。
大阪の商家の場合、一種の母系制なんだけれども、男の子が生れると小さいときから道楽を教え、主にはさせない。
女の子が生れると優秀な子飼いの手代から養子をとって、この養子を主にする。
これはどういう考え方からくるかというと、女道楽では家は潰れないが、
直系当主の権威でもって「事業道楽」をやられると必ず潰れる。
だからまわりが誰もさからえない、超越的な「権威」から「権力」を骨抜きにして、安全圏においておこうというわけ。
養子の方は家つき娘に頭が上らないから、家業がうまく継がれて壮年すぎると公認でお妾をつけてやる。
いやらしいものだけれども、誰が開発した知恵かしらないが家を治める知恵としては大したものだと思う。
どうやら古代天皇家からのお家芸とみえる。
天皇家や武家と全く違うのは男系にこだわったこと。
商人の家ははっきり言って家としては価値は無い財の相続が至上で血としては断絶と等しい。
738 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 00:12:17.96
末子相続というのは原始時代の相続。
子どもが成人まで成長する確率が小さかった時代、
人々は生めよ増やせよ、そして他に娯楽もなかったから自然多産になった。
で、先に生まれた子と一番最後の生まれた子は親子ほどの歳の差が生じる。
成人した子は自分で食い扶持をさがせるほど成長しているが、
末子はまだ幼い。
そのために親は末子に自分の財産を譲ったという古代というより、
原始に近い社会の相続。
それを古代のより複雑化した社会に当てはめるのは、間違い。
神武は日向に居た訳だから
拠点である筑紫を継いでいない
筑紫を継いだのは兄
つまり神武は日向の婿
鬼嫁だったのかも・・・w
740 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 01:04:18.29
》700
ひょっとして○藤さん?あるいは藤○さん?
あまりにも藤原一族が多すぎて、反感を買うだけかもしれないが、
蘇我入鹿を殺したのは藤原鎌足、日本書紀を編纂したのは藤原不比等、
太安万侶の差し出した古事記元本を何度も書き直させたのも藤原不比等、
天武天皇の正当な血筋を引く長屋王を暗殺したのも藤原不比等の子。
天武天皇の正当性を証明するために古事記の編纂を始めたのではなかったか。
天武天皇も暗殺してその意思を逆手にとって藤原一族の正当性を書き連ねたのが日本書紀である。
古事記の元本とはかけ離れた修正がなされている。
天武天皇こそ正当な天皇である。
天智天皇(渡来人)はそのことを知っていたから、
正当な天皇の遺伝子が欲しくて娘たちを天武天皇に嫁がせた。
>>740 記紀全編に言える事は
生き残った側の天皇の正当性を書いてる
そこだけじゃない
冒頓単于は末子相続に反発したね。
母違いなんだけれども。
父王と継母と腹違いの弟を誅殺して力ずくで単于を継承した。
記紀をよめ。
別に末子相続じゃないぞ。
相続に兄弟の順番はない。
兄が相続する場合もあれば、真ん中の子が相続したり
全然ばらばら。
国宝海部氏系図で詳しのは、天忍穂耳命の子供は
天火明命とニニギ命だけじゃなくて、他にも記載していることだな。
あれだと、ニニギ命は長男は家督を継げず
次男の奴に継がせて、でも、そいつが早世したから
三男の火明命が継承したという感じだがな。
記紀を読めばわかるけど
あれは、徳川吉宗が、自分の祖父の徳川頼宣からの
和歌山藩の系図を歴代将軍に加えるようなもん。
実際には、徳川頼宣系が和歌山藩の藩主だった時に
江戸には全国を統治する徳川秀忠系の将軍たちがいた。
記紀でも、日向三代なんていうけど、ニニギ系が日向で知事やっているときに
畿内では、火明系が大倭王になっていたはず。
代を経て弟系が兄系を制したと…?
このスレって、自分の納得行かない意見が書き込まれると、発狂する人間が24時間はりついてるな
…と言うか、一人しかいないのか?
因みに、二代目天皇も末子相続だね
748 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 03:07:07.75
景行天皇の代にようやく九州に支配の手が及んだ、と記紀自身が記しているのに、
それ以前の時代にどうやって大和から日向に手下を派遣できるのか。
ニニギを日向に派遣したのは記紀に記述のない筑紫の大王であり、
神武はその支配を逃れて大和に攻め込み自立した。
畿内が政治的に発展するのはそれ以後で、
神武以前の畿内は倭国内部では大陸から最も遠い辺境の地にすぎなかった。
記紀を素直に読めばどうしてもこうなる。
>>747 そうだけど
二代目は兄が拒否したからだし
神武天皇は兄弟が死んでたし
制度としての末子相続では絶対に無いぞ
>>748 ならないw
それは熊襲が九州を奪還したからそうなったのでは?
>>747 その説が恥ずかしすぎるからみんなに指摘されてるだけ
751 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 06:51:27.86
籠神社系のトンデモ系図にトンデモ伝承を根拠にトンチンカンなこと言ってる奴より、
よほどまともってもんだ。
記紀を読んだら、なんとなく、出雲の大国主命って
ニニギに降伏したようなイメージになるんだけど...
播磨国風土記では違うんだよね。
>>748 :日本@名無史さん:2012/06/28(木) 03:07:07.75
>ニニギを日向に派遣したのは記紀に記述のない筑紫の大王であり、
>記紀を素直に読めばどうしてもこうなる。
おい、おまえ、言っていること矛盾しているぞw
>>748 景行天皇の時に九州まで手が及んだと書いてあるが
それ以前に、天皇家の先祖が九州を支配してないとは、どこにも書いてない。
要するに、どんな王権でも、たえず、統一、分裂を繰り返しているんだろう?
たとえば、江戸時代の天草四郎の乱なんて、どうとらえるかだ。
徳川家康が天下を統一したけど、その孫の徳川家光の時代に
九州の島原の乱を鎮圧するのに10万の大軍を派遣したわけだ。
だからといって、徳川家光の時代に、ようやく九州の島原に
手が及んだとは言わないだろう?
大国主は兄弟がたくさんいたらしいが、末っ子なんだよな。
大国主も末子相続だ。
大国主は系図がまちまちだろう?
日本書紀では、スサノオの子だとか、
スサノオの6世の孫とか、
うんで、なぜか、世代の違う大大大叔母さんぐらいと結婚したり、
系図が無茶苦茶というか。
>>756 世代が違うって言ってもちゃんと年齢みると納得できたりする場合もある。
光仁天皇なんて天智の孫で、あんなに天武系何代もやったのに
どういうこと?と思ったが各生年とか比較して納得できた。
>>757 天智とか、そういう時代じゃなくて
大国主以前のそういう話だろう?
大国主依然のスサノオのあたりは、ほんとうに世代が
ぐじゃぐじゃ。
生物学的に有り得ないから。
ただし、大国主や天忍穂耳命以降の話になると、
世代的には生物学的にはあり得る話になってくる。
たとえば、ニニギ命の後胤と天火明命の後胤では、
世代的なずれが少しできるが、あれは、当時の結婚が早かった
ことを思えば、じゅうぶん、ありえる世代的なずれだよ。
759 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 14:25:02.37
つまり、記紀が虚偽にも関わらず主張するつーことかw
記紀に階段状ピラミッドの所在地かいてあったのか?
記紀正当性が存在するのなら、アーク、階段状ピラミッドが書かれていて当たり前だよね
>>749 少なくとも、絶対にないと言い切れるのは長子相続の方だと思う
二代目天皇は継承者の方が武勇に優れていると言うエピソードだし
神武の兄は始めから補佐役だし、亡くなったのも継承者を守る陣形だったからとも考えられる
とりあえず、結果論だとしても、ずっと末子相続で継承されてきたのは事実
>>755 大国主もそうだし、日本武尊もそう、主役クラスは大体末っ子だよね
末っ子を中心に話が進んでる
応神天皇の時にも、兄を補佐役、末子を皇位継承者にしてる訳だけど
この時に「誰に継承させるか?」で迷っていたのは
大陸の影響で長子相続すべきでは?と言う考え方が出て来たからだと思う
この辺の時代を境に長子相続になっていったのでは?
761 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 15:01:42.65
応神、仁徳大王(天皇号はまだまだ後世の創作)以降、神代からの不文律の慣習であった末子相続から長子相続に180度転換。
系統、王朝が変わった事の傍証になりませんか?
因みに、素戔嗚尊も一応末子と言う事になっています。
で、日本歴代王統符(中古、円融天皇の御代に日本の朝廷が発給したもので留学生が中国の朝廷に提出した公文書)では
天御中主尊に始まって、・・・中略・・・沫那岐尊の次に伊弉諾尊(大王)。
次代が素戔嗚尊。その次が天照大神尊(大王)。その次が天忍穂耳尊(大王)。
記紀神話とは些か異なる伝承や系図があったと言うこと。
(記紀は皇室の私文書?既に当時は公式には一顧だにされていない)
円融天皇在位から1世紀ほど経った頃の書物、新唐書には、
日本の使者は実情を話さないと書いてある。
中国側はたいへん日本の使者を疑っていた。
公文書も疑ってかかる必要があるな。
763 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 15:22:22.79
文武天皇だったかは、
『つらつら思んばかれば素戔嗚尊は皇国の本主たり、依って津島天王社(津島神社。伊勢神宮の真北に位置)を我が国の総社(「日本総社」)を以て崇め奉る云々』。
また、
伊予一宮。大三島の大山祇神社は往古、皇室より「日本総鎮守社」の号を奉られています。
ご祭神の大山祇大神は素戔嗚尊のご別称。
古来武将等の尊崇厚く武具甲冑の奉納を数多受け、
国宝、重要美術品指定の多くがあります(武具武器類の八割とも)
神代から祭祀を続ける大祝家(宮司家)は天照大神の弟(=素戔嗚尊)の後裔を古来名乗り、
その系図(八十代?)を宝物館などで公開しています。
>>761 仁徳天皇というのは知ってるけど、仁徳大王みたいな漢風と和風を単にくっ付けた名前は誰がいつつけたの?
伊予の国の風土記にいう、−乎知の郡。
御島においでになる神の御名は大山積の神、
またの名は和多志(渡海)の大神である。
この神は難波の高津の宮に天の下をお治めになった天皇(仁徳天皇)のみ世に顕現なされた。
この神は百済の国から渡っておいでになり、摂津の国の御島においでになった。云々。
御島というのは津の国の御島の名である。(『釈日本紀』六)
どうやら、大三島の大山祇神社の祭神は百済の国から渡ってきた神さまとみえる。
>>761 一応、言っておくと「天皇(てんのう)」と言う漢字と音読みが無かっただけで
「天皇(スメラミコト)」と言う大和言葉は以前からあるよ
あと「大王」っていうのも中国の歴史書に書かれている場合はともかく
日本で大王と書かれている場合は「ダイオウ」では無く「オオキミ」ね
大王は当て字で、より正確には「大君」意味は「陛下」みたいな尊称
余談だけど、王政復古の「王政」っていうのは国王の政治では無く
孟子の言う覇者と王者の違いで
武力で治める徳川幕府を覇道政治、徳で治める天皇を王道政治としただけ
コレを知らないのか、わざとか「王政と言ってるから天皇は皇帝では無く国王だ!」とか言って
天皇を朝鮮国王と同列(か、それ以下)の日王扱いする人がいるから
騙されない様に気を付けてね
>>765 大山積神が百済の神とは知らなんだ。
娘の木花開耶姫と瓊々杵尊の息子が火々出見命。
火々出見命と豊玉姫の息子が鵜葺草葺不合命。
鵜葺草葺不合命と玉依姫の息子が神武天皇。
天皇家には神話の頃から百済の血が流れているようだな。
>>760 そりゃ、お前の勝手な推測だろうw?
単純に、一番出来の良い子供に継がせていただけだろう?
末子相続も長子相続もない。
769 :
蘇我入鹿:2012/06/28(木) 20:06:24.36
>>767 大山積神は普通に日本の神じゃないの?
記紀ではイザナギとイザナミの間に産まれたことになっている。
ただし、海の神だから、伊予の風土記なのでは、西暦8世紀当時に
そういう伝承が生まれたんじゃないの?
日本書紀と古事記では、そういう部分で伝承が違う。
たとえば、神武の三番目の兄貴は、
最初にできた古事記のほうでは、海に行ったみたいな記述だが
あとにできた日本書紀のほうでは、新羅に行ったことになっているしw
>>767 大山積神ってのは、ニニギの嫁さんの父神で登場するが
それよりもずっと前のスサノオやスサノオの息子ぐらいの嫁さんの父神で登場するだろう?
時系列に関係なく登場するから、そのへんを差し引いてみたほうが良い。
あと、大物主とか、女神天照とか、世代や時系列に関係なく登場する。
>>772 その人、九州の神社の宮司やっている人で
前に邪馬台国九州説に理解を示していた人だな。
でも、結局は、邪馬台国ヤマト説に固まりつつあるんだな、彼の中では。
774 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 20:41:13.51
神社伝承というのも資料としては不完全。
時に祭神が変わったりする。
前の方のレスであったが、
吉備津彦で有名な讃岐の田村神社のモモソヒメ伝説というのも、
近世か近代かかなり新しいものだろう。
>>774 神社伝承は所詮は口伝だもんな。
あと、記紀が書かれた西暦8世紀には、過去のことが忘れられていて
間違って伝えられていたのは事実でしょう。
とくに、西暦8世紀の情勢が色濃く残っている。
だからこそ、記紀、風土記なんかでも、史書によって
違うこと書いてある。
記紀でもわかるけど、なるべく出自の出発点を作るようにしていて
かならず誰かの神の子孫ということにしているのが特徴。
例外はニギハヤヒとかぐらいだな。
だから、その先の先祖が分からなければ、とりあえず目ぼしい
神様の子孫ということになるので
何世代にもわかって、その神様が登場し、生物学的に有り得ない
親子関係が登場する。
777 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 21:23:31.10
神社の格というかブランドというか、
そういうものを高めようとその時々で変わっていくのもある。
その点、記紀伝承の神武東征というのは、
記紀成立時点で天皇家はもともとヤマトにいた、とかとする伝承が都合がよいにもかかわらず、
出雲や吉備、あるいは北九州でもなくて、
ヤマト王権から見ても、とんでもない僻地になる日向から来た、
という伝承は無視できないものになる。
>>777 九州は九州では、熊襲とかがある辺境の地だしな。
ただし、神武がヤマトへ東征する大義名分は
自分が天津神の子孫だということで、
その天津神の子孫たちが住むのが、畿内地域だということである。
そして、神武が大阪湾から上陸戦を戦った時に
我々は天津神の子孫なのに、それを向かいにして戦うのは縁起よくないと言っている。
大阪湾から上陸しようとしたら、その向かいには、生駒山や金剛山がひりがえっている。
金剛山は大阪側からの地名ではそうだけど、奈良県側からは高天山といわれていた。
その高天山の麓の地名を高天といい、そのあたりの原野を高天原といった。
道路は未整備で大河に直面するたびに苦労する弥生の陸脳で考えれば日向はとんでもない僻地になる。
しかし海を道とする海脳で考えると僻地ではなくなるんである。近い。
さらにあちらからこちらに来る場合、紀伊半島に接岸して流れる黒潮の後押しがある。
神武は海路でやってきた。
782 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 22:18:42.70
もちろん誇張も創作も含まれるだろうが、
記紀の伝承というのは無視できないものがある。
戦後の一時期なんでもかんでも否定する風潮があって、
たとえばもっと古田よりもっと新しい伝承の奥州藤原氏なんか、
藤原の名をかたっただけだと言われいたが、藤原氏を証明する文書がでてきた。
戦国時代のぽっと出の大名ならば捏造もあるだろうが、
豊臣家などはまさにそう、
かなり古いところになると、正しい伝承もあるだろう。
ただし、神話と結ぶつけられた場合はかなりの捏造が加えられるやすくなるので、
要注意だが。
>>778 金剛山では無く、太陽に向かって戦うのは良くないと言って、太陽を背に戦った
…それにしても、どれだけ奈良の高天をプッシュしたいんだ?
しかし島根って今すごい寂れてるよね。
神話の国なのに。
785 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 22:45:30.21
古事記は日本書紀とくらべると、豪族にたいして気を使ってるな。
瓊々杵尊が降りてくるときの随伴する神々を見ると、
日本書紀の本文や第六の一書ではお供なしで降りてくる。
第二の一書、第四の一書からお供がだんだん増えるが古事記でいちばん増えて、
日本書紀の第一の一書でまた減る。
だから、お供の点でいえば、古事記がいちばん発展していて、たくさんのお供を連れて降りてきている。
このお供はだいたい豪族の先祖になるが、古事記にお供が多いのは豪族に対して、
かなり気を遣っていることのあらわれだな。
豪族の先祖をできるだけたくさんひき連れて降りてくるのは、
豪族からすれば自分の先祖は、天孫降臨のときから天皇さまにくっついているのだということになって、
ありがたいわけだ。
そういう氏族の希望を、古事記は非常に広く取り入れているが、その点は日本書紀はわりあいあっさりしている。
10世紀頃の徴税規模≒GDPでは、因幡、伯耆、出雲はそれぞれ尾張、備前、肥前などと並ぶ中堅の規模。
面積が小さいとは言え、古代史上中枢に位置していた和泉が隠岐や壱岐と並ぶ
最低のランクになっているのがやや意外。
百済は倭が建てた国
最近で言うなら満州
788 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 23:00:17.96
>>785 そうだね。
当時の政治的な思惑もあっただろう。
ただ、単独ではなくて、諸部族を率いて、
南九州に拠点を設けたことは間違いないだろうが。
後に、物部氏に手になる、
「旧事本紀」になるとめちゃく増えてしまうことになるが。
允恭天皇の代の時に偽りの出自を正そうという動きがでるが、
その時にはすでに、われわれもと天皇家が、
または伴となって天下った祖先と結びつけようとする傾向が濃厚になっている。
結局「由緒正しき」国津神系の氏族は今さら系譜を捏造するわけにもいかなくて、
そのままになってしまったのだろう。
>>785 律令制が完備してくると、豪族の気持ちなどは、まったく無視することはできないけれども、
それほど気にする必要はないということだろうな。
ところが完備する以前、つまり大宝律令、浄御原律令ができる以前は豪族がそっぽを向いたら
困るという気持が天皇の側にある。
古事記はそういう段階を表わしているのではないかと思う。
古事記に豪族への配慮とか無いと思う
日本書紀が天皇に配慮してたから削っただけ
大国主も削ったしな
791 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 23:50:51.30
唐の時代の中国人は、神話とか半分バカにしているから量を減らしたんだろ。
>>791 それは中華の皇帝が劣化した証拠なんだな
神話が伝承された歴史であったのか古代日本
中国も神話が歴史だった
秦の始皇帝とかな
おまいらって先代旧事本紀読んでるの?
信頼するしないはともかくさ。
古事記、日本書紀、旧事本紀、海部氏系図、延喜式、続日本紀、風土記など
これらを総合して判断すると
なぜ、ヤマト朝廷が出雲の神様も大切にするのかというと
彼らが天下を取ったのは、出雲の大国主から国譲りをされたからだ。
滅ぼしたのではなく、天下を譲られたみたいな形をとったので
それを自身の天下の正統性としていた。
では、出雲国譲りとは、どのようなものだったのか?
ヤマト朝廷の祖先は、現在の御所市の高天というところに発祥した豪族だった。
そこから勢力を拡大させ、畿内を中心とした大勢力になった。
大国主は、この高天の王に国譲りをした。その時の高天の王が、天火明命。
彼は、大国主の娘の天道日女命の旦那でもあった。
つまり、大国主の娘婿(義理の息子)でもあった。
彼は、はじめて天津神と国津神の両方の統治者になったので天照国照彦といわれた。
日本全国にある天照御魂神社に祭られる男の太陽神アマテルは、
この天火明命が正体であり、もともとヤマト朝廷の始祖として崇拝されていたのは、彼だった。
では、ここで現在の天皇家の先祖は何をしていたのか?
記紀を読もう。
すると、出雲国譲りで、出雲の大国主が天津神(高天)に降伏した後
天津神の一員のニニギが、九州高千穂に派遣される。
これを天孫降臨という。
このニニギこそが、現在の天皇家の先祖であり、イワレヒコ(神武天皇)の曽祖父にあたる。
あれ?皇祖ニニギは、出雲国譲りの主役ではないのか?
>>794でもいっているように、出雲国譲りの時の天津神のトップは、天火明命である。
記紀、旧事本紀、海部氏系図などで記述が多少違うが、
この天火明命とニニギ命は兄弟なのだそうだ。
ここまでくると、天皇家が、なぜ、三巻イリヒコ(崇神天皇)の時に
大国主と天照(実は男神アマテル=天照国照彦=天火明命)の祟りを恐れたのか
およそ想像はつくだろう。
三巻イリヒコ(崇神天皇)は当然、ニニギ、イワレヒコ(神武天皇)などの直系の男系子孫だ。
798 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 07:00:11.63
>>794 播磨国風土記だと、火明命の父親が大汝命(大国主)となっているんだな。
つまり、記紀の記述とは大きく違う。
火明命は、記紀などでは、天孫とされ、天忍穂耳命の息子とされ
ニニギの兄弟とされているから。
なぜかな?と思ってたけど、旧事本紀とかだと、天火明命の妃が天道日女命といって
大己貴命の娘となっている。
そういうことだったんだな。
799 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 07:13:56.24
>>789 古事記は、まだ天皇の権威が完全に日本を支配していない段階、
豪族の立場が相当尊重されているような時期のものだな。
古事記の以前に
国紀 天皇紀
という歴史書があったらしいけど。
本当?
801 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 10:37:52.74
古事記と日本書紀は編纂目的やその方法が大きく違う。
古事記は国内向け。
日本書紀は対中外交向け。
802 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 14:21:05.43
日本書紀は、中国の『文選』『史記』などから名文麗句を引いてきて文飾を加えていたりするからな。
803 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 16:02:25.71
>>800 聖徳太子や蘇我馬子によって編纂された『天皇記』・『国記』があると日本書紀に書いてある。
蘇我邸にあって乙巳の変(蘇我入鹿誅殺〜蝦夷自害)の時に焼失したと言われている。
古い歴史書なら、雄略天皇時代編纂の日本旧記といわれるものが日本書紀に引用されている。
ただ、関西には、以下のような言い伝えがある。眉唾ですが。
「法隆寺(四天王寺?)の秘密地下倉庫に『天皇記』・『国記』が密かに保存されている。
これが世に出たら大変なことになる。or いざ大事のときには世間に公表しろ!」
>>803 聖徳太子の時代ってまだ天皇って言葉はなくて大君だったと思うんだけど・
805 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 17:44:34.55
天皇って言葉は神武天皇の生前の名前でも使われているよ。
>>804 聖徳太子の時代の大君(大王)は蘇我家の馬子
807 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 18:55:50.40
日本書紀は、対中外交向け。
中国の外交官が訪日する前に、日本書紀で予習して、訪日するわけ。
そのためには、ちゃんと中国にわかるように記載しないといけない。
おそらく詳しい年代は分からなかったのに、
編年体で無理して書いているのもそう。
また、その場合、中国側の魏志倭人伝の記述との整合性をとらないといけなくなり、
卑弥呼と台与という二人の女王を、
神功皇后という一人の未亡人の皇后にあてているのもそう。
たぶん、年代を改ざんして、無理に卑弥呼と台与の年代に当てはめているのだろう。
でも、一人の女性の未亡人皇后を、二人の女王に当てはめるなど、どう見ても無理しておかしいし、
一方で、二人の女性天皇を作り出さなかったということは、いちおう、
年代以外は、そこそこ正直には書いたのだと思う。
808 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 19:09:41.51
>>806 蘇我馬子は、その時代は、天皇の外戚だっただけだろう?
関とかいうトンデモ系の歴史作家の本の読みすぎだろう?
日本書紀について、蘇我氏に関しては、
もともとは蘇我氏のほうが律令制度への改革派で
天皇家や中臣氏のほうが神権政治の守旧派だった。
そういうわけで、天皇家と中臣氏は、蘇我氏を滅ぼしたんだけど...
あとになって、天皇家や中臣氏も改革派に転向したので。。。
だったら、前に蘇我氏を滅ぼしたことは間違いだったことになるので
その箇所について、ぼかして書く必要が出た。そういうことだ。
あと、その大化の改新について、
日本書紀などでは、中臣鎌足や中大兄皇子が主役のように書いているけど
とうぜん、日本書紀の編纂には、彼らの子供である
藤原不比等や持統天皇らがかかわっている。
実際の主役は、孝徳天皇だったはずで、中臣鎌足や中大兄皇子は脇役だったはず。
日本書紀の天皇のたて方で、明治以後は変わったな。
明治以後は、天智天皇と天武天皇の間に弘文天皇をたてているが、
日本書紀には入っていない。
弘文天皇が入るのは、歴史学者の説ではない。
明治天皇の勅裁で政治的に決まったことだ。
天皇の系図など、どうにでもなるということのよい証左であろう。
810 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 19:22:20.79
>>809 系図がどうにでもなるというよりも
歴代天皇を誰にするのか?ってのは、時代によって解釈が違うということ。
なぜなら、誰が天皇に即位したかなんて、社会科学の世界だから。
ある人には彼が天皇だと思っても、別の人はそれを認めないみたいなことは常にあったわけだからw
南北朝時代なんてそうだろう?
二人天皇を名乗るやつがいたわけだから。
幕末までは北朝の天皇を正式な天皇にしたけど
明治になって政治的な理由で南朝の天皇を正統な天皇にした。
おそらく、日本書紀にある三巻イリヒコ(崇神天皇)の前の天皇たちもそうだろう?
結果的に、三巻イリヒコ(崇神天皇)の子孫たちが勝利者になったので
その先祖であるイワレヒコ(神武天皇)〜三巻イリヒコ(崇神天皇)を天皇とカウントするようになったが
魏志倭人伝の倭国大乱の記事や、欠史八代のあたりなんか
その時代に王位継承争いがあったことをにおわせているし。
811 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 19:30:24.72
>>809 欠史八代の設定は天皇家の由来を古くして水増しするために、
推古天皇のあたりでこの八人を入れたのであって、
いない天皇を系図にいれたという意味においては、
明治天皇の勅裁と似たようなもんだ。
>>811 いやいや、その水増し説ってのは、中途半端なんだよw
あの程度の水増ししたところで、中国よりも歴史が短いしな。
欠史八代のころの天皇は、要するに
正式な天皇でなかったんだろう?
中国の文献を見ても、倭国では、祭祀を行う正統な倭王と
実際の政治を行う最高権力者の二党体制だったらしいし。
水増し論って、確かに中途半端だよな。
前から、この説は納得いかなかった。
814 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 20:36:00.81
コミンテルン史観の人がいますね。日本書紀とか読まずに資本論でも読んでいたらいいのに。
815 :
サガミハラハラ:2012/06/29(金) 20:51:46.84
水増し論の原典は、天皇家の創始を中国の呉の太白の時代までさかのぼらせるためです。
魏略に曰く「自謂太伯之後」。つまり、之に会わせようとして、年代を伸ばしたのです。
欠史八代っていうけど。なんで架空だって決め付けてるの?
初代が優秀すぎたから特にすることなく上にいただけって事もありえるじゃん。
818 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 21:05:36.44
神武、崇神(そして、神功皇后、応神天皇)
後に漢風諡号を冠された天皇は画期をなす王だと考えられたことは間違いない。
ハツクニノスメラミコトという和風諡号を持つ、神武、崇神の業績は、
ヤマトに建国した王、日本の統一に乗り出した王、
ということで流れからして自然なのだが、
神武の業績を否定したいのは、
戦中の教育と戦後の偽善的な平和教育に毒されたとしか思えない。
古代の天皇の寿命を延ばして、建国年数を古い時代においている、
ということはすでに明治の学者が言っていることだし、
特に国家がそれに異を唱えたということもない。
日本の古代史分野が変なイデオロギーやらにとらわれすぎだろう。
戦後の変なイデオロギーに固まった学者様が上におられる
論文を書くにも参考文献として持って来る必要があるから知らないうちに感化されていくw
真ん中に戻そうと努めてもかなり時間がかかる
820 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 21:14:15.35
天皇の寿命が長いのは半年歴の影響だろ。
雄略天皇以降はごく普通の寿命。
821 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 21:32:15.78
実在や伝承を疑うのは当然の学問的検証というものだが、
戦後のものは疑うというより、初めから否定ありきの結論から出発している。
ただ、いろいろと読んでいくうちに、否定ありきの方が逆につじつまがあわなくなって、
妄想の度合いが高くなってしまっている。
否定の根拠はさしてない。
欠史八代というのも、たいした事績というか事件がなかったから、
伝承部分の記録が失せてしまっただけだけだろう。
古い小さな企業でも創業者の話は伝えられるが、
その後の代で特筆すべき事件でもない限り細かい話など忘れ去られるのと
同じことだろう。
都合のいいところだけ記紀から抽出して、
自説に援用するような学者ばっかりだ。
822 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 21:34:50.74
そう
自説を肯定できそうな記述や遺跡例だけを持って来る
こんなやり方がものすごく多くて
823 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 21:52:57.68
>>821 歴史学ってのは、結局自分の歴史観を説明するために事実を集める学問だからね。
その歴史観が狂っていると今の欠史八代派みたいに事実を認めないってことになる。
>>818 適当なことを言うなや。
神武の漢風諡号は、東征したことから、つけられた名前だろう?
だから、武力が強調された漢風諡号。
崇神に関しては、祟り神を恐れて、神様の祭り方を変えたからつけられた。
>>811 神武〜応神の部分は、まったく歴史事実とは考えられないからな。
系譜のうえでも、応神までは親から子へときちっと直系継承されている。
その点がおかしいんだよ。
仁徳のあとを継いだ大王たちは、その系譜も兄弟間と父子間の継承が混じっていて
実在の可能性が高いものになっている。
仁徳〜雄略間の六代は、中国史書にみえる倭の五王に比定される実在性の強い大王たちだ。
このあたりからは、かなり歴史事実を反映したものと考えられる。
>>825 >系譜のうえでも、応神までは親から子へときちっと直系継承されている。
>その点がおかしいんだよ。
どこがおかしんだよw
いちおう、付け加えておくがw
13成務天皇→14仲哀天皇のところは直系じゃないぞ。
また、南北朝合一から江戸時代初期までは、ほぼ10代直系で継承されている。
827 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 22:39:24.44
>>825 直系継承だけなら史実でないが、兄弟継承をちりばめていたら史実である。
??????
>>825 おまえの理論、むちゃくちゃw
直系継承だけなら史実でないが、兄弟継承をちりばめていたら史実である?
その理論が分かりません。
829 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 22:56:28.83
光格天皇から直系で7代目だよな。今上天皇。
(慶光天皇も含めたら8代目)
830 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 22:59:12.98
欠史八代というのは架空説の側からのバイアスにすぎない
系譜記事を見れば徐々に勢力範囲を広げていったのが分かるし、
むしろここを省くと歴史の流れが不自然
>>825 応神または仁徳のあたりから武烈までが河内大王家で、
継体以後は近江の豪族から発展した王朝で、継体以後の王家の血が、
現在の天皇家に続いているんだろ。
神武から第九代あたりまでの大王の息子たちは、全国の豪族たちの「祖」だ。
この部分にじつに多くの氏族名が列挙されている。
しかし物語がない。
つーことは、豪族群のほとんどの氏族の擬制的な本宗家として天皇家を位置づけるために、
架空の天皇をでっちあげて、欠史八代が設定されたということだ。
833 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 23:13:56.00
>>831 継体は別王朝だけど血はつながっているよ。
もし血縁がないならそれこそ捏造している。
舎人親王も馬鹿じゃないんだから。
>>806 蘇我氏が徹底して嫌われた訳は
天孫の家系でないのに天皇に取って代わろうとしたから
蘇我氏は仏教を利用し天皇を洗脳し操ろうとした
物部守屋を倒して最高権力を握るが
天皇を暗殺しやり過ぎ滅ぼされた
決めては先祖が天孫か否か
835 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 23:41:18.28
従来の学者の中にある偏見というのは、
そんなにヤマト王権が続いていたわけはない、
そんなに広い範囲を支配していたわけではない、
という妄想。
それは稲荷山の鉄剣銘が解読されてパニック状態になったことが如実に現している。
ほぼ倭の五王、武に比定されるワカタケルの時代に、
ヤマトの勢力がそんな地域にまで及んでいたはずはない、
という前提でしか歴史を見てこなかったためだ。
神武もいないし、欠史八代も架空だとする論法も根は同じ。
836 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 23:59:41.55
金錯銘鉄剣が出た時も孝元天皇は架空の天皇のはずなのになぜ?ってことになったよね。
>>834 だから、トンデモ歴史読み物の読みすぎ。
なんとなく、推理小説の題材としては、おもしろいかもしれないがw
蘇我氏は嫌われてはいないな。だって、彼らが皇別氏族の末裔だという風に記載されている。
藤原氏の中臣氏なんかは、天神ではあっても、天孫や皇別にはされていない。
家系の高貴さでは、記紀でも、蘇我氏>>>>>中臣氏という内容。
ただし、大化の改新のところでは、改革派だった蘇我氏を滅亡させてしまったので
それが、そののちに改革派の転向した天皇家や中臣氏にとって、不味かったので
その個所だけは、蘇我氏を悪者に書く必要があった。
そのことは、森博達先生が何でも指摘しているらしい。
それによると、記紀は中国向けの外交史書に使うので、その当時の正しい漢文で書くために
中国系の学者に書かせているらしいのでが
大化の改新のところだけ、あとで日本人が修正しているので、誤った漢文になっているらしい。
>>832 おまえ、でっちあげ病かw
でっちあげ、でっちあげwって
なんかの宗教でも入っているの?でっちあげ教とかw?
>>832 :日本@名無史さん:2012/06/29(金) 23:13:15.15
>神武から第九代あたりまでの大王の息子たちは、全国の豪族たちの「祖」だ。
>この部分にじつに多くの氏族名が列挙されている。
あの複雑な婚姻関係をでっちあげってか?
凄い面倒くさいことするなw
でも、あそこに書かれている豪族たちは、記紀の書かれた年代では
ほとんど衰退してしまっている豪族ばかりだぞw
そんな豪族のために、わざわざ気を使うのか?
しかも、その当時、圧倒的な権力を持っていた藤原氏中臣氏の先祖は
中流豪族扱いで、ほとんど存在感ない記述なんだしw
またキチガイが湧いてきやがったなw
婚姻関係はちゃんと混ぜとかなきゃ朝廷の支持基盤もへったくれもないだろうに。
「どいつとどいつがまぐわった」 勢力圏の変遷拡大以外ではこれが日本書紀の最重要のトピックだ。
事実だろうと何だろうとね。
842 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 00:48:10.81
タイソンに匹敵する日本人
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/boxing/1340981495/ 8 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:25:53.38
平将門
9 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:28:26.13
ひみこ
10 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 00:29:38.91
神武天皇
11 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:34:42.16
足利尊氏
12 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:36:49.08
西郷隆盛
13 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:38:54.45
加藤清正ならタイマンでも勝てそう
14 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:40:35.54
織田信長
15 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:41:34.81
徳川家康
16 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。[] 投稿日:2012/06/30(土) 00:46:37.60
福島正則
たしかに、でっちあげとか言っている人って
確信をもってそう主張しているのではなくて
どう解明して良いかお手上げ状態なので
さじを投げる意味で、そういっている人がほとんどだろう?
たぶん。
記紀の編纂時は、藤原氏の全盛期なんだけど
記紀には、中臣氏の先祖が活躍したようなのは、ほとんど記載ない。
大化の改新ぐらいで、ようやく有名になってきたぐらいだよね。
そういう面は割と正直だよな。
中臣氏ってのは、ヤマト朝廷の譜代豪族である天神家系なんだけど
鎌足が登場するまでは中流クラスの貴族なんだよね。
845 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 01:12:45.14
現代と違って紙をふんだんに使うことができないから捏造することは困難だと思うよ。
適当に捏造すると矛盾が生じて論理破綻してしまう。
記紀の編纂も、「業績を削除する」というタイプの修正はできても「創作する」というタイプは少ないと思う。
まあ、蘇我氏の業績を消したり、天武天皇の出生をごまかしたり、九州王朝を全削除したり。その程度だろ。
今の左翼の学者が好きそうな天皇家そのものをでっちあげることは困難だし必要ないと思う。
あと、記紀や新撰姓氏録の名前で重要なのは
尊称が、神(カミ)か尊(みこと)か命(みこと)だな。
このどれが使われるかによって、意味が大きく違ってくるように思う。
神(カミ)の尊称のある者は、実在してない人物だろう?
逆に命(みこと)の尊称のある者は、実在していると思う。
尊(みこと)の尊称のある者に関しては、
神と人との境界で、これも実在してない人間あつかいだけど
唯一、天皇家の直系の先祖にだけ尊(みこと)が贈られている。
なぜかというと、天皇は現人神という思想があったから。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/029/02900.htm
>>846 神と命は古事記と日本書紀で変わってる所が有る
あと記紀に現人神と言う思想は無いっぽい
重要なのは家系であって天皇と言う存在では無いからだ
かなりテキトーな理由で天皇を決めている
>>845 >まあ、蘇我氏の業績を消したり、
>天武天皇の出生をごまかしたり、
>九州王朝を全削除したり。その程度だろ。
蘇我氏が改革派だったのを滅ぼしてしまった後ろめたさはあるので
それに関しては削除したと思うけど
天武天皇の出生をごまかしたり、九州王朝を全削除したりは
流石にないわな。
天武天皇に関しては、尾張氏との関係で削除しているのが有名だな。
大海人皇子の名前は、尾張氏の傍流で配下の大海氏に養育されたから
つけられた名前らしい。
また、壬申の乱の時に、天武軍の半分以上が尾張氏の軍隊で、
大海人皇子は尾張氏にずっとかくまわれていた。
その後、天武天皇と尾張氏との間に三種の神器に関して喧嘩があった。
このへんが、後の続日本紀には書かれているけど、日本書紀では削除。
記紀が歴代天皇が葬られたとするそれぞれの古墳が先後関係も何もでたらめだってんで、
大古墳期時代の記述自体、史実をよく知らんで書いてるんじゃないか、もしくは、
何らかの理由でわざと嘘を書いてるんじゃないか、ということになったんだよ。
たかだか2〜300年前の、それも目の前にある巨大な構築物の史実がわからんほど、
畿内の人間がまるごと入れ替わったとは考える人間はあまりいない。
だから、後者の大規模な史実の隠蔽があったという説に大半は立つことになる。
古墳の規模からして、それなりの規模の政治権力があったことは間違いないんだからね。
>>837 殺された蘇我入鹿の死体は門の前に
打ち捨てられたんだぞ
この扱いは犬畜生以下
下半身を切られて弁明を願うものの叶わず惨殺、大雨の屋外に打ち棄てられたんだっけ>入鹿
853 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 01:49:28.61
>>845 書紀のヤマトタケルの説話は捏造し過ぎて矛盾だらけw
>>847 > あと記紀に現人神と言う思想は無いっぽい
現人神の文言はヤマトタケルのところに出るよ
>>853 大和タケルは天皇じゃないだろw
余りに強かったから現人神を讃えられただけ
855 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 01:58:00.09
日本書紀には「至貴なるを尊と曰ふ。自余をば命と曰ふ」とちゃんと注がつけられている。
もっとも尊い人、あるいは至貴の神には「尊」という字を使う、
そうでない自余の人には「命」という字を使うというふうに、
日本書紀編纂者は、書き方についての注をつけている。
こういう表現の区別には、中国の道教の影響がある。
道教では尊い神には尊を用い、自余の神々は佐命すなわち命だ。
道教で重要な神はたとえば元始天尊、そうでない神には某々佐命という使い方をしているので、
尊と命の使い方の区別にも、道教の影響がある。
856 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 02:09:41.08
>>851 ちゃんと読めや。
蘇我氏は家系的に悪くは書かれてない。
皇別氏族として書かれている。
ただし、大化の改新としては、逆賊者として書かれている。
なぜなら、その当時、蘇我氏は改革派であり、
天皇家や中臣氏は保守派だったから。
>>850 何を言っているのか、さっぱりわからん。
>>855 天皇家だけは、直系の先祖には、尊の尊称が付くけど
他の豪族は、最初の先祖の神様にだけ、尊の尊称がつく。
このことから、他の豪族の先祖の実在性を見たとき
その次の命が付く人物から、それがあるのでは?と思うのだ。
ヤマトタケルって勇猛というより、短気なんじゃね。
兄さんが朝寝坊なので父の天皇から起こしにいけと命ぜられて何をしたかというと、
兄さんを折りたたんで、薦に包んで捨てちゃったんだろ。
喧嘩の時に「たたんじまえ」とか言ってるのを聞いたことがあるが、
タケルの故事にならった表現かもしれんな。
ヤマトタケルってのは通称な。
諱というか、本名は、オウスノミコトだから、オウスだろうな。
863 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 06:27:09.56
>>855 確かに日本書紀にはそのように書かれているが、ニニギノミコトは
日本書紀では瓊瓊杵尊で、古事記では邇邇芸命となっている。
>>858 蘇我氏暗殺の後に大化の改新をしてる
それなのに守旧派とは?
石舞台は蘇我氏の古墳だったという説が有力
墓を破壊されるぐらい恨まれていたって事だ
あと家系的に悪く訳が無い
蘇我氏から皇后が出てるしな
865 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 09:14:06.87
>>845 権力、暗殺、暴力に身を任せれば、今現在より簡単に歴史を改ざんできるよ
しかも、権力者は、一部の部下しか接見が無い時代だったため、部下に圧力
を加えれば摩り替りが可能w
今は、ほぼ全ての国民に顔をさらけ出しているが為、リスクが少ない
記紀を主張する基地害が多いけど、契約の箱(アーク)の所在地も知らずに
自己主張できるのか?
イルミナティ、メイソンらは、契約の箱(アーク)の所在地や中身を知った
ので契約の箱(アーク)を連呼することを止めたようだww
866 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 09:14:54.67
ヤマトタケルってのは女装して熊襲王朝の王を騙し
暗殺し熊襲王朝の勇者名「たける」を奪い取った人物。
やはり歴史は勝者にて書き換えられる事例だ。
867 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 10:06:55.00
>>866 タケルというのは武勇者という普通名詞だから奪い取るも何もないけど。
868 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 10:22:21.81
古事記に
暗殺した熊襲王の弟より
「貴方は勇者だ、これからは勇者熊襲タケルからタケル名を
与えるのでヤマトタケルを名乗りなさい」と云われたとあったと思う。
勿論勝者の歴史で滅ぼした熊襲、ナガスネヒコらに対する理由付けだろうが。
ヤマトタケルって通称な。
鎌倉殿とか、太閤殿下とか、そういうかんじ。
一方、オウスノミコトとは、
源頼朝とか、羽柴秀吉とか、そっちのほう。
>>865 記紀を必死に否定するくせして
そうじゃない史書をあっさりと受け入れる神経が分からないね。
>>851 蘇我入鹿は、山背大兄王一族を皆殺しにしているでしょう?
そりゃ、憎まれる罪状が多かったわけでw
でも、蘇我馬子後胤一族はこれまで滅亡したけど
その傍系の蘇我氏一族は相変わらず政治家として、その後も存続している。
ナガスネヒコって、ナガスネの領主trてことだから、
今の近畿地方のどこかに、ナガスネという所領があったのかもね。
いや、足のスネの部分が異常に長かったんだよ。1mぐらい。俺はそう思う。
この当時の領主の官職に、彦(日子)ってのが、あったんだろう?
ナガスネ彦=ナガスネの領主
吉備津彦=吉備の領主
イワレ彦=イワレの領主
河内彦=河内の領主
などなど...
彦(日子)は官職じゃないよ
ちなみに、神武天皇は後世考えられた漢風諡号で
通称はイワレヒコ、諱はワカミケヌ。
だったはず。
中世以降の人物で分かり易く例えると
源義家は
通称は八幡太郎、諱は義家。
で、前近代の偉い人は、実は生前中は
通称で普段読んで、諱では呼ばれない。
だから、徳川家康も、普段は内府殿とか大納言とか呼ばれる。
場合によっては、通称は知られていても、諱は本人ですら忘れることがるレベル。
崇神天皇も後世の漢風諡号で、
生前中は、通称は三巻イリヒコ、諱はイニエ。
あと、不良の突然死だった仲哀天皇は、
通称だけは残っているけど、諱は残ってなかったりする。
世間的には通称で呼ばれていた証拠。
諱は極論、死後に有名になるレベルだったが。
たぶん、仲哀天皇の長男の皇子には、仲哀天皇の諱は伝わっていたはず。
>>869 違う。普通に神武天皇とか、聖徳太子みたいなもん
生きてる時から名乗っていた(とされる)のが違うだけ
鎌倉殿や、太閤殿下は天皇陛下や大君と同じで名前じゃないし
羽柴秀吉は丹羽と柴田から一字ずつ貰ってるんだから
熊襲からタケルの名を貰うのと大して変わらない
オウスはそもそも幼名みたいなもんで、熊襲タケルと戦う時には既にヤマトオグナを名乗ってた
尊と命の使い分けに関してだけど、細かい違いがあるのはあくまでも中国語であって
日本書記が細かく拘っているのは中国語で中国向けに書いているから
日本人からすればどっちも「ミコト」なんだからどうでも良い事
>>881 オウスは諱だろう?
ヤマトオグナが通称。それをヤマトタケルにかえただけの話。
>>882 たしかに、日本人向けにはミコトで同じだけど
日本書紀の編纂者からしたら、ちゃんと思想が込められている。
すくなくとも、尊と命の使い分けは、記紀編纂時の政治的な思想が入っているから
かなり参考になる。
むろん、その人物が存命中は、まだ漢字であらわす発想はないわけだし
どちらもミコトにすぎなかっただろうが。
885 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 15:04:44.86
>石舞台は蘇我氏の古墳だったという説が有力
墓を破壊されるぐらい恨まれていたって事だ
何か江戸時代まで天智天皇の古墳と言われてたらしい。
>>883 >>862で何を主張したかったのかは知らないが
>>869だと羽柴秀吉が「俺の名は太閤殿下だ!」と名乗ってる状態になるからおかしいと言っているんだが…
諱とか通称とかはどうでも良くて、熊襲以降は日本武尊が名前だから、オウスとは呼ばない
887 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 15:25:21.22
>蘇我入鹿は、山背大兄王一族を皆殺しにしているでしょう?
そりゃ、憎まれる罪状が多かったわけでw
後世にこの様に蘇我入鹿悪人伝説が植え付けられ殺されても当然の人物に
仕立て上げられる。
実際には林太郎天皇として飛鳥王朝で活躍していたが韓人(近江天皇?)に
暗殺され宮殿(斑鳩寺?)は焼かれその鎮魂のため法隆寺が建設され
救世観音として祀られた。では?
888 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 15:29:28.36
>>884 以前、日本書記では尊と命の使い分けがちゃんとしてるが古事記はメチャクチャ
だから、古事記はでっち上げだと言う様な記事を見た事がある
でも、日本語の口承で伝えられた話なら全て「ミコト」であって
尊と命の違いなんてある訳が無い
日本書記は中国語で中国向けに書いてるから細かいだけ
勿論、日本書記の編纂者の思想は、そこから読み取れるとは思うけど
あくまでも、日本書記編纂者の思想に過ぎない訳だから
漢字とか中国語に振り回されない方が良いと思っただけ
>>846とかさ
>>889 > 日本書記では尊と命の使い分けがちゃんとしてるが古事記はメチャクチャ
> だから、古事記はでっち上げだと言う様な記事を見た事がある
たしかにこれはひどい。
891 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 16:48:04.24
ナガスネヒコって極悪に古事記に書かれているけど
彼が何か悪い事した?
892 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 17:02:00.80
>>891 何も悪いことはしていない。
むしろイワレヒコという侵略者の追い払おうとして、
同盟者の物部一族に裏切られた悲劇の人物。
神武からすれば、ヤマトの正統な支配者を認めない不埒なまつろわぬ輩、
ということになる。
記紀の根幹をなす話が創作だとしたら、
こんな話にはならない。
893 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 17:02:04.47
蘇我入鹿は高市皇子(天皇)がモデルになっている部分があります。
又、蘇我馬子の崩年626年は天武天皇の崩年686年の一干支・60年前ですから、
馬子のモデルには天武天皇の部分があるということにもなります。
しかし、蘇我馬子は入鹿の祖父になるわけですから、高市皇子の祖父、天武天皇の父が該当するのが筋です。
しかし、「記・紀」では親子の混同はよくみられます。
天武天皇は大津皇子の父でもありますから、大津皇子と石舞台古墳が結びつくならば、石舞台古墳はもともとは天武天皇陵だったといえます。
ではなぜ、石舞台古墳はむき出しになっているのでしょうか。
それは改葬されているからです。
天武天皇改葬の記事はないではないかと思われるかもしれませんが、天武天皇がモデルと考えられる、ちょうど100年前にあたる敏達天皇の改葬は記述されています。
だから天武天皇は改葬されているはずです。
蘇我入鹿は高市皇子(天皇)、石舞台は天武稜、これは事実でしょうか?
各古墳が葬られている人間に関する記紀の記述がでたらめな理由は何だろうな。
895 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 17:38:22.08
日本の古代史も、ローマ帝国歴代皇帝のように語られる日が来るでしょうか?
なんか「ガンダムエース」の別冊で「サムライエース」だっけ?
時代劇専門雑誌みたいのにガンダムの作画の人が
ヤマトタケルの漫画連載してるね。微妙そうだが。
ていうか古代日本を映像化とか漫画化したので傑作ってあるのかな?
いまだにヤマトタケルっていうとビックリマンの印象なんだが。
ヤマト王子はビックリマンで主役級だったからなあ
イメージ濃いわw
俺も読みたい>古代日本を映像化とか漫画化した傑作
神武天皇は東遷に先立って、饒速日に相談してるな。
日本書紀にある神武天皇の条だ。
饒速日は物部氏の祖神。
やはり行くべきだということになって、東遷がはじまる。
そして河内に上陸して、物部氏の武将である長髄彦と対戦する。
神武の軍は負けて、今度は紀州のほうを大回りして大和へ入ってくる。
その神武がいろいろな部族を平らげたあと、最後にまた物部氏と対立する。
その対決のときに、長髄彦が「天つ神の子というものは、この世にふたりはいない。ところが汝は天つ神の子だという。
自分も天つ神の子孫である。汝は偽りをいうのであろう」といっている。
結局、長髄彦は最後まで戦って負けるんだが、その物部氏が倒れたことによって、はじめて大和が平定できたと書いている。
しかも、平定が終わったとき「天皇、素より饒速日尊は、これ天より降れるということを聞こしめせり」と記されている。
相手は敵として国つ神にならなければならないのを、神武はあえて、物部氏を天つ神の子孫だと認めている。
ここが不思議なところだ。
900 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 22:32:38.43
>神武天皇は東遷に先立って、饒速日に相談してる
?
書紀の一書で、ニニギより先に天下ってヤマトの行ったものだと知ってた、
と記されているだけだろう。
長髄彦と物部は同盟していて、結束してイワレヒコに抵抗したが、
ヤマトは長髄彦、物部は河内とだいたい勢力圏が別れていた。
物部は長髄彦を裏切りイワレヒコに帰順して、河内を安堵され、
イワレヒコは長髄彦その他を破ってヤマトに国を建てた。
もともと湿地の多かった河内は応神天皇の時に本格的な開発がなされた。
901 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 22:56:33.64
土蜘蛛ってどんな民族、王朝だったのですか?
902 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 23:05:55.91
>>899 天皇家が各国々を平定するわけだが、平定された各部族の祖神は、天皇家の神話、
つまり高天原神話の中に全部含まれている。
イザナギ・イザナミの子、あるいは天照大神の子という形式で入っている。
ところが饒速日尊だけは、天津神だといいながら高天原神話の中に入っていない。
宙に浮いた天津神になっている。
物部氏の祖先を、なぜ天津神と認めながら、しかもその後の高天原神話の中に入れなかったのか。
とにかく、そういう異質な物部氏が古く大和にいたということだろうな。
>>901 古事記だと「土雲」、よって隠語であり
出雲系の敵対勢力だと思われる
ニギハヤヒは、正式名称は、天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命。
略して、櫛玉命とも呼ばれている。
櫛玉=くしだま=奇魂=形見=遺児
つまり、櫛玉命とは、形見の皇子、遺児の皇子ぐらいの意味か?
よって、天照国照彦天火明櫛玉ニギハヤヒ命とは、
天照国照彦天火明の形見(遺児)の皇子のニギハヤヒ皇子
ぐらいの意味だと思われる。
つまり、天火明命≠ニギハヤヒ命
記紀でも新撰姓氏録でも、この認識であり、
よって、物部氏は天孫ではなく、天神としている。
しかしながら、天火明命=ニギハヤヒ命としているのは、物部氏であり、
彼らは自らを天孫と名乗っていたが、朝廷は認めてなかったもよう。
905 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 23:37:18.78
「帝都物語」には将門の首塚の石棺の
中に手足の長い骨が散乱していた骨は
葛城の土蜘蛛ではないか?とあったが違う?
土蜘蛛とは、土豪くらいの意味だろう?
.
>>888 ああ、そうみたいだな。
ナガスネヒコは、トミのナガスネヒコ、トミ彦ともいうんだな。
トミの領主だったんだな。
天火明命ってのは、記紀などでは、いろんな記述になっているが
総合してみると、皇祖ニニギの兄弟にあたる者。
物部氏の先祖のニギハヤヒは、自分は
この天火明命の櫛玉(形見、遺児)の皇子だと自称して
義理の兄のナガスネヒコと共謀してクーデターを起こしたんだけど
九州で分家していたニニギの曾孫のワカミケヌ(イワレヒコ=神武天皇)などに
乱を鎮圧されたって話が、神武東征の真相だと思う。
また、この東征にあたって、ワカミケヌの進軍の案内をした
ヤマトスクネや高倉下などは、天火明命の正式な後胤たちである。
>>906 九州にも畿内にも居るし西に本意広く分布してる
関東にも少し居る
ただ東北には居ないから何らかの勢力
土蜘蛛って銅とか鉄とか採掘してる人たちのことじゃないの?
またはそれを仕事にしている部族。
穴掘ってるから土蜘蛛ってイメージなんだけど。
それで、そのトミって今のどこよ?
トミが富として現在まで残っているとすればの話だが、富田林あたりか?
912 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 00:23:27.59
記紀ではニギハヤヒも天つ神としか記していない。
その後の、新撰姓氏録では神別の氏族に入れられている。
そして、「旧事本紀」でニニギの兄、天火明命だと強引に結びつけているだけ。
913 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 01:00:09.81
ニギハヤヒは高天原を裏切って大国主=出雲についた天孫系の豪族の子孫と考えれば辻褄は合う。
914 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 01:07:33.31
>>911 鳥見または登美と表記し奈良の生駒から旧富雄町にわたる地域、だそうな
>>912 新撰姓氏録では、ニギハヤヒの後胤の物部氏は天神あつかい。
天つ神=天神で、
その中でも、ヤマト王家の親族(アマテラス系)は、天孫。
更に、その中でも、
ヤマト王家の親族の中でイワレヒコ(神武)の男系子孫は、皇別。
よって、ヤマト朝廷で譜代の家臣の豪族系は、ただの天神とされた。
916 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 01:14:24.30
「旧事本紀」は平安朝につくられた偽書だ。
内容が間違っている書物という意味ではなくて、
序文に書いてある編著者と、つくった年代とが現実と異なっているという意味で偽書だ。
偽書ということばに惑わされて、偽書といわれるものを軽んずる傾向があるが、
それはよくない。
917 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 01:23:09.84
新撰姓氏録って嵯峨天皇 の命により編纂された古代氏族名鑑だろ。
記紀から約100年後の古代氏族名鑑なんぞ参考にはならん。
旧事本紀は偽書だと思うけど、少なくとも
物部氏がどのような解釈を持っていたかは参考になるな。
ヤマト王朝創世記は、幾重にも対立が過去にあったと思うね。
最初は、出雲国譲りで、これは、高天(ヤマトの前身)と出雲の対立で
高天が勝利し、出雲を併合した。
その時の高天の初代倭王は天火明命であり、その兄弟のニニギ命は
九州高千穂へ地方官として派遣された。
その次は、神武東征時代の話で、
高天の初代倭王であった天火明命の遺児だと自称するニギハヤヒという貴族が
義理の兄のナガスネヒコと共謀してクーデターを起こした事件。
これは結局、天火明命の正式な後胤たちである高倉下やヤマトスクネ、
そして、九州分家のニニギの曾孫であるワカミケヌ(神武)によって鎮圧された。
そして、その次は、欠史八代の中ごろで、倭国大乱の時期。
倭国大乱の結果、ワカミケヌの後胤であるモモソ媛命が正式な倭王になる。
おそらく、天火明命の嫡流の子孫たちは、尾張に追放。
『旧事本紀』の天神本紀に、物部氏の降臨神話が載ってるな。
物部氏は、十種の神宝をもって天から降りてくる。
饒速日尊、天神の御祖の詔を稟けて、天磐船に乗りて、河内国の川上哮峯に天降りまし、
すなわち大倭国鳥見の白庭山に遷ります。(中略)すなわち虚空見つ日本国というは、これなるか。
と書いてある。
つまり、はじめ河内国の哮(たける)峯におりた。
そして大和平野の西北端、現在の大和郡山市に当たる鳥見庄の白庭山に移ったというわけだ。
秋田物部文書によると
ニギハヤヒは空を周遊し鳥海山に降臨して秋田に住み
それから畿内に移住したと有る
秋田物部文書をトンデモという人も居るが
記紀だって空を飛んで九州の高千穂に降り立ったと書いてある
同類だ
>>919 磐船神社だな。
交野市の南端、天野川の渓谷沿いにある。
天野川にのって、高天・葛城地方から下ってきたといわれる地域。
>>921 ナガスネヒコの妹と結婚していたのが、ニギハヤヒ。
925 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 08:19:39.51
>旧事本紀は偽書だと思うけど
古代朝鮮の三国史記の内容は信用できますか?
926 :
sss:2012/07/01(日) 09:48:54.79
>>922 瓊瓊杵尊の日向降臨については、日本書紀はわりと簡単に日向の高千穂に
降りられた、と書かれている。
古事記の方はちょっと詳しくて、「天の石位を離れ、天の八重たな雲を
押し分けて、稜威の道別き道別きて、天の浮橋にうきじまり、そり立たして
筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りなさしめき」となっている。
これに対して、饒速日命の場合は、「天磐船に乗って飛び降ってきた者」と
書かれている。
どちらも天神の子ということで、同じところからやってきたものと思われる。
つまり、高天原からやって来たということになる。
927 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 10:42:02.15
>>925 漢語で記述しているのならある程度
ハングルで記述していたら嘘の根源wwwwww
>>929 ニニギもニギハヤヒも、高天王朝の命令で
出雲国譲りより後(天下統一より後)に
地方官として各地に派遣された一人だった。
ニニギは日向の高千穂に、ニギハヤヒは河内の川上哮峯に
地方官として派遣された。
ニギハヤヒの場合は、天磐船に乗って降臨。
これは水の上を移動する船かどうかは分からんが
その伝承地である磐船神社は天野川の渓谷沿いにあり、
天野川の川上から船に乗ってやってきたという伝承がある。
この川は、生駒山系から流れている川であり、
生駒とは、葛城地方(高天地方)から河内湾へ出る玄関地。
929 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 13:37:09.93
ニギハヤヒが天磐船に乗って降臨神社は高知にも秋田にもある。
930 :
コーチ:2012/07/01(日) 14:02:23.19
天孫降臨は朝鮮渡来の王族、貴族
931 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 14:10:36.05
日本書紀の最後のところに、国をたたえたことば、つまり国号が列記してある。
神武は、日本の国号を「秋津洲」と呼んでいる。
これは葛城王朝時代に、葛城山麓を秋津洲と呼んだのが後に日本の国号となったものだ。
その次に伊弉諾尊のたまわくとして「浦安国」と呼び、大己貴大神のたまわくとして、「玉垣の内つ国」と呼んでいる。
大己貴大神は、神話では三輪山の大物主神と同じなので、大和朝廷が名づけた国名だと思う。
ところが、その最後にこう書いてある。
饒速日尊の天磐船に乗りて、大虚空をめぐりて、この郷をおせりて、降り給うに至るに及びて、故、因りて目けて、虚空見つ日本国(やまとのくに)と。
「やまとのくに」という国号が、物部氏の祖先である饒速日尊、いいかえれば物部王朝というか、
物部氏が権力を握っているときにはじめて呼ばれたのだ。
ここでは奈良県の大和と区別するために、邪馬台国(やまたい)という発音でいうが、
正しくは邪馬台(やまと)と呼ぶべきだと思う。
しかし昔の「ト」は、いまの「チ」と「ツ」の中間の音だと考えてよい。
932 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 14:20:35.39
出雲国譲りをもって古代の天下統一と主張する人に質問だが、
考古学的根拠はあるのかね。
>>930 そんな可能性はまったく無い
古代の朝鮮半島は取るに足らない弱小勢力
海を渡る事すら出来なかった
ヤマトというのは、山処(やまと)という意味で
もともとは、現在の天理市や桜井市の小さい範囲の地名だった。
むろん、この地名は、一般名詞でもあるので、他の日本各地の山麓も
このように呼ばれていたところが多くあると思うが...
常識的なことだとは思うが、地政学的に見たら、おそらく、
大和盆地に誕生した王権というのは、
やや高台の御所市から葛城市、そこから桜井市と徐々に
高地から低地へ移転していったことはだいたい想像がつく。
御所市は金剛山のふもとであり、この金剛山を別名は高天山とよび、
その麓を、高天の原といった。
そして、その高天山に続くのが、葛城山であり、さらに続くのが生駒山。
この生駒山系から、天野川が発しており
ニギハヤヒの降臨地とされる磐船神社も、この天野川の渓谷沿いにある。
また、天野川は途中、淀川に合流し、そこで切れている。
>>932 考古学的根拠というか、そもそも、土器などの遺物で
歴史を推測すること自体、無理な話だよ。
そんなこといったら、愛知県出身の徳川家康が、
京都の天皇に最高権力者に認められ、東京で全国政権を樹立したことなど
文献上分かることで、考古学では絶対に想像もつかないことだから。
また、鎌倉時代の遺跡を調べたら、その当時、日本で最も大きな都市は
京都と博多だということが想像できるはず。
しかしながら、その当時の日本を支配していたのは
はるか東の辺境にあった鎌倉政権だった。
937 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 17:26:45.43
>>935 要するに考古学的事実と突き合わせるつもりはない、と。
自説の説得力を高める努力を放棄している訳だ。
それじゃ誰も信用しないね。
939 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 18:03:40.03
古代史研究に考古学を無視しては絶対にダメだ。
文献馬鹿はとかく考古学を軽んじるよな。
たとえば博多湾を中心とする北九州の地域からは、漢時代の鏡が百以上、
銅剣・銅鉾などは数百も出ている。
邪馬台国の比定地は、九州の中だけでも十近くある。
ところが、筑後川から南のほうに青銅器が一本も出ていない。
北九州を押さえていたという強大な邪馬台国が、青銅器一本も出ないところにあるわけないだろ。
文献馬鹿は、ただ地名が似ているというだけで、例えば妻は投馬だろうなどといっている。
とんでもないことだ。
考古学者にしても、投馬国になると岡山県の玉島だといい、あるいは児島半島だというけれども、
むかしはどちらも離島で、縄文の遺跡しかない。
邪馬台国というのは弥生の時代だ。
縄文の遺跡しかないようなところへ、ただ音が似ているからというので比定している。
こうしたいままでの邪馬台国研究というのは、一応棚上げすべきだと思う。
940 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 18:18:52.08
飛鳥昭雄の日本列島逆立ち論では説明出来ない?
飛鳥昭雄ってムーにトンデモ記事書いてるオカルトライターじゃんw
日本書記とか古事記作られたときに政府以外の人らは
まだ記録を残すみたいな事できなかったのかな?
日本書紀のないように裏づけが欲しいね。
風土記は記紀の後の文書だが、地方でまとめられた文書としては価値がある。
ただし、中央政府に阿った箇所をさっ引かないと史料として使えない。
「うちの……は、記紀言うところの……」みたいなお国自慢のところね。
944 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 19:12:35.41
蘇我家保存の国記、天皇記の写本でも見つかって欲しい。
>>936 まあ、考古学的に見て、かなり古い段階
おそくとも紀元前2世紀頃には広大な交易園が存在していたということだな。
考古学的資料で注目されるとしたら、たしか、
紀元1世紀前半鋳造の王莽の時代の通貨が
岡山で大量に発掘されていただろう?
あれなんか、凄い発見だけどね。
紀元1世紀前半には、中国の通貨が、すくなくとも吉備では出回っていたと。
ということ、それより以西や日本海側では、とうぜん、そういうものが
出回っていた可能性大。
というか、近畿でも、紀元前1世紀製造の前漢鏡の伝世鏡とか出てきたでしょう?
>>939 考古学と文献の両方で攻めないとダメだよ。
その場合、基本、文献をメインにして、考古学がそれを補強するという形。
邪馬台国の時代の研究とか、なぜ、迷走するのかというと、
その文献の数が少なすぎるからだよ。
考古学オンリーでは、実は歴史研究では殆ど分からない。
たとえば、日本の戦国時代の遺跡に、南蛮の考古学的遺物が発掘されるけど
この時代に文献が存在してなかったら、それをどうとらえるからだ?
纏向遺跡の研究、これなんて考古学の分野だけど
この遺跡のネーミングなんて、もろ記紀の記述からとっているし
もろ文献を意識して、調査しているんだよね。
纏向遺跡が起点になっているんだよ、実質的に現代の古代史研究は。
これで、魏志倭人伝と記紀の間に初めて
ある程度の整合性が出来るから。
>>945 広大な交易圏?
それは縄文時代から有った訳だが
卑弥呼=モモソ媛命ならば、
狗奴国王の乱とか、おそらく、武埴安彦命の乱だし、
また、卑弥呼共立の切欠になった倭国大乱は、
欠史八代の中ごろに起こった乱だということも想像できるようになる。
953 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 23:28:40.85
>>950 記紀の編者自体が整合性とれなくて困ってるのに何を言っているのか。
モモソ姫=卑弥呼が事実なら、記紀自体がとっくにそう記述してなきゃおかしい。
資料事実として、
「記紀と倭人伝の整合性をとる事は不可能である」
という事を認めない限り、真実に到達することは出来ない。
魏志倭人伝は「中国製」だからね
955 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 00:38:11.34
卑弥呼は九州王朝
仲哀天皇は九州に居住してる
よって卑弥呼は大和朝廷系だと言える
957 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 01:22:00.62
景行に降伏した(ことになっている)神夏磯媛の福岡県東部から大分県にかけての広大な範囲が邪馬台国。
神夏磯媛は象徴なのかすぐに降伏したが、由布院あたりとか三池の川上とか朝倉とか田川とかの各地の
実質統治者にあたる豪族は従わず(ということになっている)、攻め滅ぼされた(ことになっている)。
958 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 01:52:51.73
>>956 仲哀は九州討伐軍の大将として派遣された
ただの皇族で、天皇ではなかった疑いが濃厚にある。
皇族ですらなく、臣か、九州の豪族間の争いだった疑いが濃厚にある。
960 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 02:09:30.29
伝承、痕跡は4世紀
記紀には1世紀となっているのが、
記紀に作られた臭ぷんぷんである。
961 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 02:10:41.82
962 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 02:33:53.12
>>956 >仲哀天皇は九州に居住してる
居住した香椎宮を中心にする勢力の話である。
963 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 02:39:43.87
>>961 架空説の根拠は薄弱。
タラシの称号が突然7世紀に生まれたとは考えにくい。
むしろ後代の和風諡号こそ、古代の天皇号を元にして復古調に「造作」されたと見た方が遥かに自然だ。
964 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 02:55:58.44
むしろ九州のタラシヒコ王朝の事績が、
記紀に組み込まれたと見るべきだろう。
965 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 02:57:09.03
だから、畿内王朝系の記紀に、タラシヒコ系の記録が薄弱なのは
無理もないことである。
>>953 卑弥呼とモモソ媛命のどこが一番整合性がとれなかったのか?
一番は、年代に関してだよ。
では、なぜ、そこで整合性が取れなかったのか?
それは、暦の違いがあったから。
卑弥呼の時代は、春秋で1年としていたので、今でいうところの半年を1年と計算していた。
だから、古代の天皇は、やたら長寿なのだ。
しかしながら、日本書紀の編纂者たちは、そのことを考慮せずに
日本書紀と魏志倭人伝との整合性をとろうとした。
つまり、古代の人は長寿だったのだと納得して書いている。
その結果、どうしても整合性取れないから、神功皇后の年代を改ざんして
彼女ひとりを、卑弥呼と台与の二人の女王の年代と重ねるように書いている。
仲哀天皇の場合、タラシヒコという通称しか残ってない。
なぜなら、あういう不慮の死だったので、次の天皇になる人物に
諱が伝わってない。
おそらく、畿内で留守番していた彼の第一皇子は知っていたのであろうが。
正室の生んだ皇子たちは、側室の神功皇后の生んだ末っ子の応神天皇が即位した。
また、別の側室の運んだ第三皇子とみられる皇子も生き残って
彼の5代前の子孫と、継体天皇とので、皇位継承争いしている。
一云 天皇親伐熊襲中賊矢而崩也
畿内から九州まで統一しつつある巨大勢力の長の天皇が熊襲に討たれるとかありえるか
在地性極めて高し
>>968 それ以前に、畿内王権は九州から関東ぐらいまでの全国王権つくっているよ。
ただし、たびたび地方が独立化して、反乱起こす。
歴史が明確になってからも、なんども、中央政権は
地方での反乱討伐に軍を派遣しているだろう?
徳川幕府だって、島原の乱とか、長州征伐に軍を派遣したし。
平安朝だって、将門や純友の乱を討伐するために軍を派遣したりしている。
970 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 06:40:56.98
成務天皇あたりで国内の統一事業がだいたい完成する。
国内統一ができたらその次は何をするかというと、
今度は海外に勢力を伸ばす話になるのはよくあるパターンだ。
そこで出てくるのが、仲哀天皇と神功皇后の夫婦だ。
海外征服に成功すると、次の応神天皇の治世には、世の中が穏やかに収まった話になる。
宮都も造営すると同時に、海外領土から貢物を献上してきたという記事が次々に出てくる。
さらに物語の順序としては、この海外交渉の始まる時点で、王仁博士などが来なければならない。
もっと早いところで来ては困るわけだ。
天皇の支配領域がすっかり完成して、めでたしめでたしということになった応神天皇の治世で、
はじめて王仁博士が渡来して、皇子の菟道稚郎子の師となり、日本に文字や儒学を伝える。
これは、そのまま事実だったということではない。
王仁という人物に象徴される多勢の学者たちが来たのは事実だろうが、
それが応神天皇のときだというのは、史実と考えるべきではない。
王仁博士の渡来神話を、この応神朝に位置づけたことに意味がある。
971 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 06:47:35.86
景行天皇やヤマトタケルが攻めたばかりだろ
で仲哀天皇を討ち取るとかどんだけ強いんだよ熊襲w
どうなってんの日本書紀…
仲哀天皇が熊襲に討たれたとか言ってる奴は、
日本書紀を読んでないのがバレバレだなw
>>969 >たびたび地方が独立化して、反乱起こす
歴史が「明確に」なっていないことをいいことに、テメエが勝手に想像(創造)しているだけだろ。
>畿内王権は九州から関東ぐらいまでの全国王権つくっているよ
これも「神話」を無定見に拡大解釈しているだけのこと
974 :
sss:2012/07/02(月) 08:47:57.32
景行天皇は、日向に高屋宮を起して6年も7年もかけて熊襲と戦っている。
しかし、その息子の日本武尊も熊襲征伐に出かける。
それでも熊襲は健在らしく、仲哀天皇も熊襲を討とうとする。これは神功皇后の
お告げに従わなかったということで、病死し、熊襲征伐は行われなかった。
代わりに神功皇后は三韓征伐に出かける。
その後は、熊襲征伐の話は聞かない。熊襲は滅びていないということかな。
975 :
sss:2012/07/02(月) 09:06:33.58
しかし、熊襲の場合、何か悪いことをしたというわけでもなくて、
もっぱら、大和朝廷がちょっかいを出しているだけという感じかな。
邪馬台国九州説の場合、熊襲が狗奴国になりうるかどうかは微妙。
強いことは確かなんだろうが…。
高屋宮を起してから半年で襲國を悉く平定しているよ。
そのまま5年余り高屋宮に滞在して妻を娶ったり子作りしたりしてる。
その時も熊襲は滅びてないし仲哀天皇の後も滅びてない。
>>975 狗奴国は、どうみても、卑弥呼と同族だけどな。
邪馬台国の女王は、卑弥呼=媛命(ヒメミコ)
狗奴国の男王は、卑弥弓呼=彦命(ヒコミコ)
狗奴国は、あれは当時の漢文の音韻では、コノ国のこと。
どうみても、武埴安彦命のことだ。
モモソ媛命の甥にあたる。
>>707 君が言う
>源氏の開祖、安倍晴明(二代目)はニニギの転生体って
渡辺松浦分流の俺を含む、渡辺の一族に流れる血だよね。
嵯峨天皇の皇子の光源氏=源融の曾孫の御伽草紙の渡辺綱の孫の松浦久の娘婿と成った安倍宗任の子、平清盛の側近だった、松浦(安倍)太郎高俊。
>>970 実際に日本が朝鮮諸国を支配したかどうかは疑問だ。
百済はあとの時代になると王子を人質にして、斉明朝にその人質が王位に就いたりするので、支配していたのは確かだ。
そういう状態が昔からだということをいうために、神功皇后の話を入れて、海外にまで勢力を伸ばしたといいたいわけだ。
このときに、沖縄とか蝦夷を入れてもいんだろうけど、、この話ができるときのいちばん大きな問題は、朝鮮諸国の問題だ。
それより日本が上にあるのだということをいいたいのだが、、実際に日本が上かどうかというのは、時期によっていろいろだ。
倭の五王の時代は、百済は南朝で日本よりも上席に扱われている。
日本の軍隊が、実際に任那のあたりに駐屯していた時期もあって、時代によっていろいろだ。
記紀の物語がいつまとめられたということもあるし、まとめられた時期に、国際環境をどう考えていたのかということもあるが、
朝鮮諸国との交渉があったり、人質が来たりする中で、海外領土を征服した人をつくらなければならない。
そこで、巫女王である神功皇后が海外領土も征服した話をここに置いたのだ、というとらえ方ができると思う。
>>979 日本が支配していたのは、新羅まで。あと、伽耶。
百済に関しては、百済建国当時は傀儡化していたけど
その後、百済が勝手に中国と主従関係を結んだので
それによって、日本は直接的に支配する権利が無くなった。
だからこそ、倭の五王の上奏文の経緯になる。
倭王は、中国に対して、半島南部の軍事支配権を要求していたけど
その中から、百済だけは外して、認めた。
981 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 14:32:28.83
狗奴国は伊勢湾北部低地部の広大な開墾地で今の愛知県一宮市の萩原遺跡群を
中心とした濃尾平野一帯だろう。前方後方墳も尾張平野低地部が発祥地。
狗奴国=許乃国
狗奴国の男王・卑弥弓呼=彦命(ひこみこ)=武埴安彦命
狗奴国の副官の拘右智卑狗=河内彦(こうちひこ)
モモソ媛命の死の直前にあった大乱とは、武埴安彦命の乱。
卑弥呼の死の直前にあった大乱とは、狗奴国王の乱。
卑弥呼と卑弥弓呼は、もとより仲が悪かった。
モモソ媛命と武埴安彦命も、もとより仲が悪かった。
武埴安彦命は、孝元天皇の庶長子だったが、母方が側室なので王位につけなかった。
そこで、母方の実家である河内彦が、武埴安彦命を王位につけるために
挙兵をしたのが実情。
日本人の名前っていつから変わったんだろう?
○○○○○命
みたいな明らかに言いづらい名前から変わってたよね
健内すくね とか 蘇我入鹿
とかは今に通じる名前っぽい。蘇我氏は渡来系だからなのかな?
>>983 ○○○○○命はネ神道上の神話人物名
蘇我入鹿は、現実の歴史上の人物名
ミコトは尊称だから名前じゃない、ヒコもミコも尊称
前に付くには国は地域名が多い、それを除くと単純なのが多い
たとえば神武天皇はイワレ
神武の兄はイツセだから似てる
古事記の編者はアレ
エミシにもアテルイとかモレとかいたな
イワレは土地の名前だけどな
987 :
日本@名無史さん:2012/07/02(月) 23:39:03.94
地名+ヒコ(ヒメ)のパターンは多いよね
仲哀天皇のタラシナカツヒコもそうじゃないかって気もするんだがどうだろう
>>988 俺もそう思う。一地方の有力者程度ならともかく
何で、初代天皇の名前を地方名から取らないと行けないのか?
出身地も全然別だし
中世だって、地名で言う通称や尊称ってあるだろう?
鎌倉殿とか、鎌倉公方とか、三河守とか、駿河大納言とか...
古代のイワレヒコとか、吉備津彦とかも、全部、同じ。
たぶん、大国主も、意宇主(おうのぬし)からきているというし。
意宇(おう)とは、出雲の東部の郡の名前で、出雲の中心地だったのでは?と言われている地域。
言霊文化と言って、世間には本名を明かさず、通称を公表する文化。
古代なら、なおさらだが、中世だって、それが守られていて
たとえば、大河ドラマなのでは、頼朝殿とか、家康殿とか、登場人物たちが言うけど
実際は、スケ殿とか、内府殿とか、身分などを用いた通称で呼ぶことが多かった。
あと、浅野たくみのかみも、本名は浅野長矩だけど、通称のタクミノカミで呼ばれていたし、
大石内蔵助の内蔵助も通称で、諱というか本名は、大石良雄
記紀の天皇系譜の古いところの名前を見ると、
神武天皇はカムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)。
神が上につくうえに磐余は大和盆地の地名。
磐余は大和国城上郡、いまの桜井市の地名。
それの「彦」だから、磐余の地の土地神だよ。
992 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 02:28:49.02
〜大きな疑問〜
なんで、神武は宮崎なんかにいたんだよ!?
宮崎で日本を統治してたのか!?
ただの田舎の豪族の1人かよ!?
993 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 02:37:34.29
>>992 > ただの田舎の豪族の1人かよ!?
そうだよ。高天原でオオキミになる資格がないので、九州を飛び出して国を盗りに行った。
斎藤道三なみの成り上がり者。
994 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 03:23:10.20
卑弥呼、亡き後
内乱が起こっていたヤマトを統治する為に
ナガスネヒコのもとに「マスオさん」としてやってきたニギハヤヒ。
本来なら初代天皇になるはずだったが
ニギハヤヒが早くに亡くなってしまったので
その代わりとしてやって来たのが神武。
でも義父であるナガスネヒコはそれを認めず神武を拒む。
生駒から入れなかった神武はグルっと迂回して
見つからないようにヤマトに入る。
結局、政権闘争に敗れたナガスネヒコは弟のいる青森へ引越し。
残されたニギハヤヒの息子であるウマシマジは
神宝を神武に託し、自分も政権中枢に入る。
ここに神武を初代とする大和朝廷の楚が成立。
これが真実。
記紀に書かれてある神武東征は
神武をカッコイイヒーローに仕立てるための
実話を基にした完全なる創作フィクション。
だからニギハヤヒは日本の歴史から消されたんだよ・・・
995 :
日本@名無史さん:2012/07/03(火) 04:13:07.13
>>994 ニギハヤヒの代わりとして迎えられるほどの申し分ない「正統性」を神武が持っていたのなら、
それをその通りに記紀に書けば何も問題はないはずなのに、
わざわざ自らの正統性を打ち消すかのような成り上がりストーリーを「捏造」する訳がないだろ。
事実は、ニギハヤヒが大和に持っていた国と、神武勢力とは互いに無関係・没交渉であったと見るのが理の当然。
神武はニギハヤヒの意思に反して本当に武力で国を奪い、「自らの王統を創始した」、という記紀の記述をそのまま認める以外にない。
いつも、奈良の高天が高天原だー!とか言ってる人
公方や大納言が名前だと思ってたり、日本語能力が残念なんだけど
外国人なんだろうか?
あの方が嗚呼言われたのはそういう意味だったのか・・・
そんな遺恨があったのかwwwwwwww
>>996 そんなこと言ってないだろうがw
公方とか大納言は官位の名前だけど
前近代、身分の高い人は生前中、本名で呼ばれない。
通称で呼ばれたるするんだよ。
吉良上野介とか、浅野内匠頭とか。
だから、大河ドラマで、家康殿とか、三成殿とか、
登場人物が言うドラマがあるけど、それは間違いで
実際は、内府殿とか、じぶのしょう殿とかいうふうにいう。
>>994 卑弥呼は、神武やニギハヤヒよりも後の人物だろうが。
やっぱ精神異常者というより、
精神薬一度でも飲んじゃった人はネット接続禁止にスべきだわ。
煩悩を制御するなんとか識をやられちゃったなこりゃ
1001 :
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。