謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!66

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1神奈川県民
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

邪馬台国は、三世紀に日本列島に存在したとされる国の一つであり
古代史最大の謎として人々の関心は高い。
この日本建国に関わる邪馬台国、女王卑弥呼について議論をしましょう。

前スレ http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1329999700/
リンク http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle
25月21日は金環日食だぉ!:2012/05/19(土) 00:10:24.65
卑弥呼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC

・・・卑弥呼の死

・・・卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たり、邪馬台国畿内説では卑弥呼の墓は古墳の可能性がある。箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)とする説もある。九州説では、平原遺跡を卑弥呼の墓とする説[2]などがある。

天文学者の斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では9月4日)に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。
井沢元彦も『逆説の日本史』でこの説を支持している。[3]さらに、橘高章と安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、
247年の日食が原因で卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。

しかし、現在の正確な計算では、いずれの日食も、邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり[4]、
部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。・・・
3日本@名無史さん:2012/05/19(土) 20:28:21.08
卑弥呼さんの主食はたぶん稗だったんだらとはおもふが

稗神社は日吉神社に名札かえて首にぶら下げちゃっているんだよな

稲の神様って狐だけど稗栽培していた人たちにも狐は鼠とる益獣

なああんか列島の犬はなんかきつねっぽい狗だな

たぶん鮮卑の先祖の東胡とか

そのまたそれの先祖の土人なんかも狐はお友達のぱあとなあだったんだよな
4日本@名無史さん:2012/05/19(土) 20:38:08.97
では踊らせていただきます

♪ わたしーのー ラバさーん 酋長の娘ェー

   色はー 黒いーがー 南洋じゃ 美人ー アソレ

   赤道ォー 直下ー マーシャル群島ー

   ヤシのー 葉陰で− テクテク踊るー   アソレ

   踊れ 踊れー 踊らぬ人にィー     

   誰がー お嫁にー  ゆーくーものかァー アソレ

   昨日ー 浜で見たァー 酋長の娘ェー   

   今日はー バナナのー 葉陰でェ眠るー


失礼いたしました

   
5日本@名無史さん:2012/05/19(土) 20:42:14.30
たぶんさ

「ヒエ」は「稗」って書くけど

もとのは「稗穢」だったんだとおもふよ

遼東遼西あたりで展開していた古い時代の土人のシンボルのの龍が

のちの時代になって中華に導入されたっぽいってゆうよね
6日本@名無史さん:2012/05/19(土) 20:49:09.21
ヒエ喰うときにはぽろぽろこぼれちゃうから

おちゃわん持って喰わんといかんらしいけどな
7日本@名無史さん:2012/05/19(土) 20:55:10.17
なんで? ダイエットとか健康ブームとかで?
8日本@名無史さん:2012/05/19(土) 21:57:56.61
なあんかしらんけど

おちゃわん持って喰うスタイルってとても珍しいらしいよ
9日本@名無史さん:2012/05/20(日) 01:22:32.94
>女王卑弥呼の共立を何時とするか?
>そして、何のための共立か?
>何もなければ、無理をして共立する必要は無い。
倭人伝の書き方をみれば、共立は魏志が対象とする時代、すなわち魏時代の出来事である。
そのことは、倭人伝、後漢書が共立時の卑弥呼を「年已長大」(かなりの年齢)などとしている
ことで裏づけられる。共立された後の卑弥呼の業績が何も記載されていないことも共立されて間
がないためなのだ。
卑弥呼が魏へ使者を送ったのは、自らの就任あいさつだ。倭国は乱が収まったばかり。
だから、実質的敗者である以北の国々は女王国の厳しい監督下にあった。

10日本@名無史さん:2012/05/20(日) 18:35:44.98
「年已長大」は(かなりの年齢)ではないのね

くだんの生徒に虐められるのお好きなぢいちゃんが

かって三國志全体の用例調査したとかの知らんのかな?
11日本@名無史さん:2012/05/20(日) 18:57:23.88
調査の結果、いくつ見つけたのかな? 百、それとも千?
12日本@名無史さん:2012/05/20(日) 19:42:58.00
共立は魏代ではない

『桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。』(後漢書)
桓帝在位期間(146年ー167年)
霊帝在位期間(168年ー189年)
少帝在位期間(189年)
献帝在位期間(189年ー220年)

『漢靈帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼為王。』(梁書)
光和 (178年ー184年)

13日本@名無史さん:2012/05/20(日) 19:49:37.64
後漢書も梁書も倭人伝をどう解釈したらいいのか迷ったあげくの誤訳にすぎない。
そんなものを頼りに倭人伝を解釈しようってのが間違いなんだ。
14日本@名無史さん:2012/05/20(日) 19:54:25.31

ふざけた都城人が考えることよりはるかに信頼できる。

15日本@名無史さん:2012/05/20(日) 19:58:25.23
後漢書は、倭国乱の時期を「桓霊間」とする。これは、146年ー189年の間という
長い期間をいっている。これは分かるだろうね。
一方、梁書は、「漢靈帝光和中」と表現しており、光和中すなわち178年ー184年
の間、すなわち僅か5、6年の間の話だと言っているんだ。
後漢書と梁書は倭国乱の期間というものがまったくちがっている。どちらかは、
完全に間違えている。両方まちがえている可能性も十分にある。
そんなものがあてになるかな?
16日本@名無史さん:2012/05/20(日) 20:35:44.11
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩狥葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王國中遂定


土人の酋長さんたちはお互いに血縁関係とかがあっても

もめるとすぐに殺し合いとかするから痛いのな

てかもめているのが常態でいつも乱れていたりしたんだろ

さらっと千餘人くらい殺しちゃうし

酋長さんが死んだらさらっと百餘人とか道連れにしちゃったりするんだよね
17日本@名無史さん:2012/05/20(日) 21:19:28.01
『桓霊間』というのは146年から189年の間ずーっと乱だったとは書いてない
靈帝光和中に倭国大乱が始まったとも書いてない
少帝、献帝在位中に倭国が大乱だったとも書いてない

これらから倭国大乱の開始時期については不明確であるが、一女子が共立され乱が治まった時期は
ある程度絞られる

18唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/20(日) 22:14:41.29
>共立は魏代ではない

北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…

後漢時代には、倭奴國は、それ相応の勢力を誇っていた。
その倭奴國は、靈帝光和中(183年寒冬、後漢の乱れはじめ)から乱れはじめ、
遞相攻伐,歴年無主。←公孫氏と対峙中 魏使が倭奴國を訪れ、朝貢を要請する。
朝貢は、倭国の代表として出なくてはならない。
だから、倭奴國は、大和(邪馬台国)までの協力を得て、卑弥呼を共立するのである。
この朝貢が無ければ、分裂のままでも何の問題もない。
狗奴国と対峙していても、何の問題もない。
問題なのは、魏が東夷倭国を冊封体制へ組み込むためである。
半島南部は、小国家群であった、そこに認められたのは、馬韓人の辰王のみ。
倭国においては、卑弥呼と倭王の2王位体制ではあるが、この2王は離れた地域である。

239年に女王卑弥呼は認められる。
正始元年に倭王を認める。 
女王卑弥呼だけでは、不安であったから、邪馬台国に倭王をたてる。
19日本@名無史さん:2012/05/20(日) 22:18:59.36
>『桓霊間』というのは146年から189年の間ずーっと乱だったとは書いてない
光和年間以外は治まっていたとも書いてないな。

>靈帝光和中に倭国大乱が始まったとも書いてない
そうかね。私は光和中に始まり、光和中に終わったように読むが。
君の読み方だと、光和中に終わったとも書いてないとなるね。

>少帝、献帝在位中に倭国が大乱だったとも書いてない
治まっていたとも書いてないよ。

>開始時期については不明確であるが、一女子が共立され乱が治まった
>時期はある程度絞られる
そうかなあ。後漢書によれば靈帝の末か少帝、献帝の時代になりそうだが。



20日本@名無史さん:2012/05/20(日) 22:30:53.75
>>19
>後漢書によれば靈帝の末か少帝、献帝の時代になりそうだが。

前のレスは読んでる?

>>12なんだけどな…
21太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/20(日) 22:31:18.77
靈帝の時代ころが日本の孝靈天皇の時代あたりに位置する。
22唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/20(日) 22:34:01.90
崇神天皇十年冬十月乙卯朔。詔群臣曰。今返者悉伏誅。畿内無事。唯海外荒俗。騷動未止。
崇神天皇十一年是歳。異俗多歸。國内安寧。

考古学がいう、2世紀末に各地の土器が纏向にもちこまれた。
それが、崇神11年であるから、詩人5,6年の飢饉は、新羅192,3年であり、
後漢193年 6月寒風冬のごとし。この時空になる
倭奴國においては、乱の始まりから10年が経過している、そこへ追い打ちをかける
飢饉が襲ったのであれば、倭奴國も持ちこたえられず、大王を立てることが出来なくなる。
“暦年無主”の時空がここにある。
23太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/20(日) 22:38:56.37
崇神5,6年≠新羅192,3年
24太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/20(日) 22:44:59.83
漁師でもない航行未経験の千人もの腹ペコ農民が畿内から半島渡海なぞ
出来ない。これを出来るで強行する野郎は、精神病院ご歓迎。ww

ガソリンの無い自動車千台が走行で出来っこないのと同様だ。
25卑弥呼は朝鮮にいた:2012/05/20(日) 22:54:22.83
新羅本紀によれば、卑弥呼は既に173年に新羅に遣使している。
で、仮に173年に共立されたとし、そのとき35歳だったと仮定する。
そうすると景初2年(238年)のときは100歳である。

>>21
細国先生、孝霊天皇の在位は前290〜前213でおます。
26日本@名無史さん:2012/05/20(日) 23:00:38.62
>>20
>>12なんだけどな…
どうゆう趣旨かな? どう読んでいるのか分からないが。後漢書だけの
読み方でね。

27日本@名無史さん:2012/05/20(日) 23:05:04.14
後漢書ってちょっとまぬけなそそっかしいあれだろ
28日本@名無史さん:2012/05/20(日) 23:05:32.50
>>26

>>9からの話の流れ見えてる?

29太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/20(日) 23:08:50.90
>孝霊天皇の在位は前290〜前213でおます。

朝鮮にいた氏よ。あんたもコチラのコテハンを傷つけるのか?

その年代は見かけの年代であり、実年代はそこではない。
30唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/20(日) 23:10:39.64
>新羅本紀によれば、卑弥呼は既に173年に新羅に遣使している。

これは、天日矛来訪の姫大神の渡海であり、その姫を追いかけて天日矛が来訪するのである。
169年 大彦誕生
173年 新羅 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神。
同年 (天日矛) 姫を追いかけ渡来。
176年 モロスケ 多遲摩母呂須玖
187年 開化崩御 .184年 彥坐皇子命
196年 ヒラナギ 多遲摩比那良岐
203年 山代大筒城真若王
209年 伽耶(任那)建国。新羅、伽耶に援軍
216年 多遲麻毛理。次多遲摩比多訶。次清日子。(ホツマでは、田道間守は清日子の子と成って
いるがキヨヒコを長男とし、田道間守の親代わりと見た方がよさそう)
222年 迦爾米雷王
239年 田道間守の渡海 
240年 田道間守殉死
240年 多遲摩比多訶児、葛城 之高額比賣命
240年 息長宿禰
259年 気長帯姫誕生?
274年 気長帯姫 応神を産む。
31日本@名無史さん:2012/05/20(日) 23:10:56.15
何を言いたいのかな? 後漢書だけで読むことはしないってことかな?
32太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/20(日) 23:16:24.27
大祓祝詞の天津金木の段は、大中臣からのインチキ編年を壊滅させよと
いう、古代から未来人への下命文面である。
天津金木(天津神算木)とは崇神紀の三輪山の説話のある三輪(半径3の
円)の球化の 体積=表面積 の数式をいう。 天津神算木は

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (r=3;**は冪乗)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335     B.C.3113年 9月7日 マヤ文明元年 始原年月日

右辺の主値は ☆1/13 B.C97 崇神天皇 即位
右辺第二桁目から ★死値 A.D.130 景行没年

崇神即位年の真の年代は右辺の数列を3分して 113 097 335 とする時

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位見かけ年 B.C.97(0は 西暦0年 除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引ジョーカー数 335年

 335−97=238年    西暦0年を除くから1年分詰まり、以下を得る。

 238−1=237年=景初元年=崇神天皇即位元年(実年代)

天津神算木の右辺第二桁から

 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位

を得る。主値 崇神から仁徳の年代までが一つの区切りの時代であることを
天津神算木は教示している。これが三輪王朝年代である。その後は後三輪
王朝年代に入るのだ。
33日本@名無史さん:2012/05/20(日) 23:59:13.57
>>31
ああ、お前都城かよww

>倭人伝、後漢書が共立時の卑弥呼を「年已長大」(かなりの年齢)などとしている
ことで裏づけられる。

後漢書が共立の時期を間違えてると読んでるんだろ?
倭人伝の共立が239年直前で「年已長大」、後漢書は共立が190年前後で「年長不嫁」
だったら後漢書は裏づけになってないだろ
34唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/21(月) 00:15:22.64
>>24

>畿内から半島渡海なぞ

どの文献にも「畿内から・・・」とは書かれていない。
創作か?

6月倭(倭)に大きい飢饉があって男女千余人が船に乗って来て食糧を物乞いした.
南側田舍のんびりする地に住むように命じて食糧と働き口を与えた. これが
ウェポ(倭圃, 倭人たちの菜麻畑)だ.

>崇神即位年の真の年代は右辺の数列を3分して 113 097 335 とする時

これは、太タヌキ殿の創作であることを認める。
考古学とも文献とも整合しない。
35日本@名無史さん:2012/05/21(月) 01:09:53.08
>後漢書は共立が190年前後で「年長不嫁」
>だったら後漢書は裏づけになってないだろ
190年前後で「年長不嫁」だと言った覚えはないがね。
36日本@名無史さん:2012/05/21(月) 01:43:34.05
>>35

>そうかなあ。後漢書によれば靈帝の末か少帝、献帝の時代になりそうだが。>>19

37日本@名無史さん:2012/05/21(月) 06:29:09.97
献帝の在位期間は、189年ー220年だろ。幅があるわけだ。
それに、「後漢書によれば靈帝の末か少帝、献帝の時代になりそうだ」と言ったのは、
あなたの読み方ならば、ということだ。
私は共立が190年前後だとは、言っていないよ。

38日本@名無史さん:2012/05/21(月) 06:31:56.25
おおぉ!!! 太陽が・・・・・・・・!!!
39日本@名無史さん:2012/05/21(月) 06:51:18.06
こんなことで卑弥呼を殺すか?
40日本@名無史さん:2012/05/21(月) 11:36:51.98
いい加減基地外オタばっかで気持ち悪い。
邪馬台国関係者はこんなんばっかだし
そりゃ専門家ほど邪馬台国とは距離置くわけだw
41太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/21(月) 14:06:11.19
>>34
整合しないなどとほざくだけで、抽象的文句の域を出ない。
オマエの主張でなく、どこがどのように整合しないのかという話を全然
言うことができない。

 崇神即位元年=237年

ということは、3倍年暦で年代を下降すれば、崇神没年=259年 となる。

このことは古事記の 崇神没年=258年(戊寅) の説と1年違いで整合
して来る。つまり文献と整合しないというオマエの文句はデタラメであり、
古事記とは権威ある文献であるから、整合しないと言ったオマエの書きこみ
はオオウソである。

崇神天皇崩御は259年であり、1年違いは正解内に在る。
42太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/21(月) 14:20:57.08
>神功元年前年は日食が数日間も続く←嘲笑ww

これは、空腹多ヌキ殿の創作であることを認める。
これこそ考古学とも文献とも整合しない。

今朝の日食を見ても数日間も継続はありえず、それを数日間継続すると
言い張る宿主は、熱帯ジャングルの蛮族級の〜超S級妄想の脳内と判断出来、
宿主は精神病院に寝泊りすることが求められる。ppp
43日本@名無史さん:2012/05/21(月) 18:37:43.16
>>37 シラス都城

>歴代の史書は、いずれも魏志をひねくりまわして書いているだけだ。
そんなくだらん史書は全て横に置いて、魏志を素直に読んでみろ。

誰かとのやりとりで後漢書は裏づけには使えんように書いてたようだが?

44卑弥呼は朝鮮にいた:2012/05/21(月) 18:46:08.80
>>41
崇神天皇 在位 前97〜前30
45太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/21(月) 18:49:38.91
>>44
>崇神天皇 在位 前97〜前30

だからこれは見かけの年代だよ。実年代ではない。
46日本@名無史さん:2012/05/21(月) 19:40:52.71
>>43
重要性の問題だよ。まずは魏志をちゃんと読めということ。
倭人伝以外もまったく役に立たないとは言っておらん。
書かれている意味を良く考えれば、役に立つこともある。
素人には難しいかも知れんがね。
47唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/21(月) 20:25:52.58
>どこがどのように整合しないのかという話を全然 言うことができない。

正朔とは、春1月朔とあれば、それを認めなければ“正朔”にならない。
朔は29.53日ごとに巡り、12ケ月を1年とする。これでは、太陽と整合しないので
19年に7回の閏を置く。

太国3倍年は、書紀の3年を充てる。
書紀の1年は、12ケ月を1年とし、朔と季節でそれが正しいという主張をしている。

崇神天皇五年 國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣
崇神天皇六年 百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。
崇神天皇十一年 異俗多歸。國内安寧。

崇神5年は、飢饉と餓死。
翌春崇神6年 逃散(離散)のピークをむかえる。
崇神11年には、四道将軍派遣の結果として、各地の人々が纏向に集まる。
その崇神世中に任那建国もある。
太タヌキ殿は崇神世を、太国2倍年と言うが、崇神5,6年が1年となることは無い。
また 崇神即位元年=237年 239年からは、半島を魏が管理する。その時代に
任那建国は無い。伽耶などは、魏の決めた辰王に従うだけである。
辰国はもと6国、分かれて12国となる。これが、魏の関与する前の伽耶の実態。
48太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/21(月) 21:57:19.30
>正朔とは、春1月朔とあれば、それを認めなければ“正朔”にならない。
朔は29.53日ごとに巡り、12ケ月を1年とする。これで、日食は継続するので
274年に数日の蝕を置く。

全然オマエのは計算狂い。ww
49唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/21(月) 22:02:28.69
>これで、日食は継続するので

これは、太タヌキ殿の書紀の読み方である。
だから、そのように読むのであれば、太国倍年で証明すれば良いことである。
なお太国倍年で百済王家を見る場合、太国倍年で、太国1年とするためには、百済本紀の数年が必要となる。
だから、”倍年”は成立しない。
50太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/21(月) 22:03:44.61
宿主空白年は、書紀の0年を充てる。
書紀の0年は、12ケ月を空年とし、朔と季節でそれが正しいという主張をしてない。

>太国2倍年言ってはいない。言ってないことを言うんじゃない。
崇神の代は3倍年暦だ。デタラメを言うな。おっ、そうだったな。オマエ
は退院歴が忘れられないわけだ?ww

空腹多ヌキ殿は成務世を、57年分空年と言うが、成務元〜60年が空年となることは無い。
また 崇神即位元年=237年 239年からは、半島を魏が管理する。その時代に
任那建国は有る。伽耶などが、魏の決めた辰王に従おうと関係ない。
51太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/21(月) 22:09:09.03
>これで、日食は継続するので

これは、空腹多ヌキ殿の書紀の読み方である。
だから、そのように読むのであれば、宿主空年で証明するのが出来ないことである。
なぜなら、権威たる現代天文学の日食学は皆既日食での全欠け(暗黒)が
日を経ての数日間でなく、常夜にならない少夜の数分間にとどまる。

なお太国倍年で百済王家を見る必要はなく、宿主空年で、宿主0年とするためには、百済本紀の120年が撹乱妨害となる。
だから、”空年”は成立しない。

52唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/21(月) 22:12:20.09
太国倍年で説明してくれ。

神功皇后摂政四九年(己巳二四九) 千熊長彦
神功皇后摂政五十二年(壬申二五一)九月 七支刀
神功皇后摂政五五年(乙亥二五五) 百濟肖古王薨。
神功皇后摂政五六年(丙子二五六) 百濟王子貴須立爲王。
神功皇后摂政六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
神功皇后摂政六五年(乙酉二六五) 百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。
応神天皇三年(壬辰二七三) 百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇。
応神天皇十六年(乙巳二八五) 百濟阿花王薨。
応神天皇二五年(甲寅二九四 百濟直支王薨。即子久爾辛立爲王。王年幼。
53太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/21(月) 22:18:51.41
宿主空年で説明してくれ。

しかも具体的にな。
いままでの抽象的飾り文句羅列の誤魔化し書きこみはけっこうだ。

神功皇后摂政四九年(己巳二四九) 千熊長彦
神功皇后摂政五十二年(壬申二五一)九月 七支刀
神功皇后摂政五五年(乙亥二五五) 百濟肖古王薨。
神功皇后摂政五六年(丙子二五六) 百濟王子貴須立爲王。
神功皇后摂政六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
神功皇后摂政六五年(乙酉二六五) 百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。
応神天皇三年(壬辰二七三) 百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇。
応神天皇十六年(乙巳二八五) 百濟阿花王薨。
応神天皇二五年(甲寅二九四 百濟直支王薨。即子久爾辛立爲王。王年幼。
54唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/21(月) 22:21:39.12
>なお太国倍年で百済王家を見る必要はなく、

なお太国倍年で日本書紀の記事を見る必要はなく、
↑ こういう主張か?
であるならば、実践しているからご心配なく。
55太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/21(月) 22:24:16.17
ではないから心配はない。百済王家は日本書紀ではない。
56唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/21(月) 22:38:11.78
>しかも具体的にな。

具体的もなにもない、日本書紀の記事はこの年代で読めばよい。
それ以上の説明は必要が無い。

神功皇后 275年〜343年・・・69年
神功52年 326年 七支刀。
応神天皇 344年〜386年・・・43年
仁徳天皇 313年〜399年・・・87年


57太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/21(月) 22:38:27.92
>朔は29.53日ごとに巡り、12ケ月を1年とする。これでは、太陽と整合しないので
>19年に7回の閏を置くが、さらに整合しなくなる空年をたらふく うんと入れる。

こんなので当時の年代が把握できるなら、オマエのやる前に誰かがすでに
やってるぜ。ww そん単純計算で真の年代把握が出来ると思って
いるオマエは、小賢しい脳内だな。ww オマエの単純幼稚性がミエミエ。

今朝の日食でその経済効果は264億数千万円であることを関西大学大学院の
某教授が解説していたが、万円までだぞ。

オマエ1円玉計算をしてないがどうなるのか? 教授に質問してみい。
す〜ぐこいつは紀違いだとオマエが影で冷笑されるだろう。ppp
58太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/21(月) 22:41:19.37
>>56
つまり説明が出来ないことを認めたわけね。ww

ハハッ、無説明論なら誰でも出来る。即興で恣意的勝手にオマエが決め
たということよ。つまり価値は0点以下だ。
59唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/21(月) 22:46:09.88
>百済王家は日本書紀ではない。

日本書紀には、百済王家が書かれている。
これは、差し込み記事では無く、日本の記録である。

PS
嶋王も日本の記録であり、金石文と合致する。
60唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/21(月) 23:12:51.46
>こんなので当時の年代が把握できるなら、オマエのやる前に誰かがすでに やってるぜ。

太タヌキ殿には思いもつかなかった手法である。
そして、明治以来 百済本紀を正しいとして編年は考えられてきた。
七支刀=369年で16日丙午の存在しない年。
これを正しいとするかぎり他の文献とは整合させられない。
考古学はこの数字を捨てて、50年ほど年代を遡上させた。
この考古学に合わせれば、崇神は2世紀末からになる。
だから、崇神世と整合する文献が存在する。

明治時代以来の”倍年“が存在出来ないことも史学は認めている。
残るのは太陰暦しかない。
しかし、太陰暦は百済本紀と整合しない。
61太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/21(月) 23:34:04.65
空腹多ヌキ殿
金石文は改刻痕がある。つまり単純に整合してるなどとは言えない。
嶋王は日本人だと言い張っても、半島専門だ。猫氏がマラソンに出られないこと
を考えれば、嶋王で簡単には整合してるなどとは言えない。

考古学はこの数字を考えて、50年ほども年代を遡上できてない。
この考古学に合わせれば、崇神は3世紀前半からになる。
だから、崇神世と整合する文献(→大祓祝詞:天津金木)が存在する。

zzzzzz・・・・・
62卑弥呼は朝鮮にいた:2012/05/21(月) 23:38:32.96
唐松山氏も太国氏も、崇神天皇の代に任那が建国されたという点では意見が一致しているようだ。
たしかに書紀には、大駕洛国にミマキの名を与えてミマナとしたという話が一説として書かれている。

しかし桓檀古記に面白い記述がある。
番韓は蚩尤の後孫の蚩氏から始まり、それが30代ほど続き、徐氏がその後を継ぎ、それが40代ほど続き、
その後を箕氏が継ぎ(いわゆる箕氏朝鮮)、それが6代続いて衛氏朝鮮となるのだが、
その徐氏の4代目に任那という王がいる。

ついでにいうと、馬韓の王に瀆蘆とか斯羅という王もいる。
瀆蘆は例の南で倭と接する瀆蘆、また新羅は斯羅とも云った。

桓檀古記は面白いぞ。貴重な情報の宝庫。これを読んで数々の疑問が氷解した。
また、エッ、まさか、と思うような情報もある。
契丹古伝と桓檀古記。これを読まずして満州、遼東、朝鮮について語ること勿れ。
63日本@名無史さん:2012/05/21(月) 23:41:49.10
契丹古伝と桓檀古記
偽書に惑わされおって。見ちゃいられん。
64唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/21(月) 23:54:54.81
神功四十九年己巳春三月。・・・千熊長彦
神功六十四年甲申。百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。

【383】ネムル王(奈勿聖帝)7年  正月, 修養制(水羊祭)を行った. (323年癸未、神功49年)
三月夫余流民三十戶又來降・・・倭臣熊彦美而善辯・・・熊彦=千熊長彦
【384】ネムル王(奈勿聖帝)8年 (338年神功64年甲申)
夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之 (384年甲申)の位置の記事
付与の斤数(謹須)が死んで(□) チムリュ(枕流)が立った.

323年 奈勿聖帝7年 三月夫余流民・・・千熊長彦。
324年 奈勿聖帝8年甲申 夫余謹須殂

奈勿聖帝紀と神功紀は同じ記事であるが、年代が整合しない。
そして、【383年奈勿聖帝7年】とした場合、韓国考古学の言う北方扶余の遺物
(4世紀初め)が60年ほど狂う
考古学と整合させるためには、崇神を2世紀末まで引き上げたと同様に
60年ほど引き上げねば、整合しない。
奈勿聖帝7年を“323年癸未、神功49年”と60年引き上げ
奈勿聖帝8年甲申の記事を【338年神功64年甲申】の差し込みとする。
65唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/21(月) 23:59:18.34
欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。
ホツマによれば、崇神58年にツノガアラシトの訪問を受け、兵を授ける。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。

考古学が50年遡上したのであれば、文献史学も50年遡上しなければ整合しない。
66太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/22(火) 00:01:50.63
小用で起きちまったな。w

明治時代以来の”空年“が存在出来ないことも史学は認めている。

明治時代以来、”臭魔伝“も存在出来ないことも史学は認めている。

残るのは記紀と天津神算木位しかない。

しかし、空白年は記紀と整合しない。

さあてと、こんどこそ練る。zzzzz・・・・・・
67日本@名無史さん:2012/05/22(火) 01:46:31.11
くうらんばかりでなんもみえね
68太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/22(火) 10:11:00.63
考古学が50年遡上してないんだから、文献史学も50年遡上しないで整合する。

なお秀魔電とはそんじょそこいらにいるタダのオッサンが妄想を入れこんで書き
こんだ危険史想の書であり、各々方は宿主のように脳内を宿主のように秀魔虫に
蹂躙されないよう重々用心されたい。

69卑弥呼は朝鮮にいた:2012/05/22(火) 13:01:01.90
契丹古伝は浜名寛祐が奉天で入手した文書で、その文書がデタラメな文書であるかどうかは不明である。
「契丹古伝」は、その文書についての浜名寛祐の考証研究の書であって、その考証は十分読むに値する。

桓檀古記はさまざまな撰述者の書を集めたものであって、中にはややいかがわしいものもあるとはいえ、
偽書として葬り去るには惜しい、貴重な情報に溢れている。

ホツマ伝は読んだことはないが、これだって、真偽は自分で読んで判断すればよいのであって、
偽書とされているから読まない、というのは惜しいことである。

記紀だって、疑おうと思えば疑えるのであって、事実、津田左右吉以来、
日本の学者はそれを全面的には信用していない。

私は、卑弥呼の当時の朝鮮や中国東北部の民族や国家の正確な分布図を把握したいために
契丹古伝や桓檀古記を読んでいるのであって、そういう興味のある人は、まず読んでみればよい。
偽書であるか否かは、読んで自分で判断すればよい。興味のない人は読まなければよい。
70唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/22(火) 17:30:01.31
>考古学が50年遡上してないんだから、文献史学も50年遡上しないで整合する。

つまり、現在の考古学年代を信じるんだな?
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html
纏向新偏年

崇神 188〜216年(基本的に38年の空白)
新羅に合わせれば188年から29年間、後漢に合わせれば189年から28年間。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神11 年異俗多帰]
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
纏向2類(中)・纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁末年]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳 埴輪(庄内式穴あき壺)田道間守の殉葬。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行による九州
纏向4類(前)・纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)  仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
71日本@名無史さん:2012/05/22(火) 17:46:41.26
ホケノは布留0出てるのに、どういうわけだかあえて無視してるよ。石野談
72太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/22(火) 18:39:50.87
>>70の編年は妖魔の毒書 秀魔電 に染めたインチキ創作であ〜る。
>現在の考古学年代を信じるんだな?←宿主は現在の考古学年代を信ぜず。

大中臣の下命
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。

天津神算木:表面積(右辺の  」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)

 4πr**2=113.09733552923255658」46・・・

右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。

大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。

 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

の実年代を得る。これに外れる編年は完全なデタラメである。。
本物は天津金木だ。 当然 崇神即位年≠188年
73太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/22(火) 18:53:29.14
>景行 240〜261年(38年の空白)←↓大ウソ
景行の代に38年分の空年は存在しない。
ここが↓合わない限り、それ以前の数字に迫ることはできない。

【景行在位年代年表】

景行元年 景行天皇 即位:紀
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后:紀
景行3年 紀伊行幸:紀
景行4年 美濃行幸:紀
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建 :由緒等
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建:同上
景行7年 国々の神社に奉幣:九鬼文書
景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山竹生島と同頃発現:由緒等
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生:紀
景行13年 熊襲平定:紀
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生:由緒等、紀
景行17年 宮崎県 子湯 行幸:紀
景行18年 筑紫諸国 行幸:紀
景行19年 筑紫から還幸:紀
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ:紀
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座:由緒等
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ:法勲寺跡 讃留霊王神社伝承
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命:香川善通寺市大麻神社伝承
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立:由緒等
景行25年 武内宿禰 北陸巡察:紀
景行26年 景行天皇 軍議を開く:佐賀 王子権現 高寺縁起
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定:紀
景行28年 日本武尊 凱旋復奏:紀
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀:由緒等      〜続く
74太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/22(火) 18:54:50.81
景行の代に空年は存在しない。

【続 景行在位年代年表】

景行31年 比地良山 杉の大木 香を放つ:伊豆山縁起
景行33年 久留米 大善寺玉垂宮 創建:高良玉垂宮神秘書
景行36年 胆咋宿禰 五十琴姫を妃とし五十功彦命を生む:大成経
景行39年 始めて熊野新宮を建つ:歴史徴(radio氏)
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す:紀
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立:由緒等
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建:由緒等
景行43年 日本武尊 死:紀
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ:由緒等
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る:由緒等
景行51年 若帯日子 立太子:紀
景行52年 播磨稲日大郎姫 死:紀
景行53年 東国 行幸:紀
景行54年 東国から還幸:紀
景行55年 彦狭島王 死:紀
景行56年 御諸別王を東国領に命ず:紀
景行57年 坂手池を造る:紀
景行58年 近江巡幸:紀
景行59年 熊野行幸:熊野年代記
景行60年 景行天皇 崩御:紀
75唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/22(火) 19:57:41.86
>景行の代に38年分の空年は存在しない。

神功皇后摂政四九年(己巳二四九)三月 千熊長彦
神功皇后摂政五十二年(壬申二五一)九月 七支刀
神功皇后摂政五五年(乙亥二五五) 百濟肖古王薨。
神功皇后摂政五六年(丙子二五六) 百濟王子貴須立爲王。
神功皇后摂政六四年(甲申二六四) 百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
神功皇后摂政六五年(乙酉二六五) 百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。

1年のながさをごまかすと、百済王家の説明が出来ない。
つまり、景行治世が60年であると主張した場合、60回四季が巡る時空が必要である。
まあ、1年の日数も主張できない太国倍年であるから、“2倍年”には四季が2順する場合もある。
そうした場合、編年は、若い年代から積み上げただけのものである。
神功紀でつまずいているから、景行までたどり着けていない。
76唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/22(火) 20:24:08.62
景行元年春三月,辛未朔 275468日とした場合。
景行元年秋七月,己巳朔  275586日。
景行二年春三月丙寅朔戊辰 275823日。
景行三年春二月庚寅朔 276147日。
景行四年春二月甲寅朔甲子 276531日。
景行四年冬十一月庚辰朔 276797日。

書紀は1年の長さを、“朔”と季節で主張している。
ここに、太国倍年の入る余地は無い。
書紀の主張を認めつつ、書紀の編年を正常な長さにするためには空白年の差し込みが有効である。
この空白年の差し込みを書紀は認めていない。であるならば、後世にこの空白年を記事で
埋めても、書紀は否定しないが、その場合正しい編年を正朔で求められなくなる。
だから、正しい長さは考古学と文献の整合性に求められる。
77唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/22(火) 20:40:40.55
> 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

ホケノ山古墳(225〜250年)楽浪鏡・壺型埴輪・石囲い木槨墓(楽浪方面の墳墓)
桜井茶臼山 最初の△鏡の副葬墓。

ホケノ山を崇神天皇即位元年あたりで説明する必要がある。しかし、考古学は
2世紀末に各地の土器が纏向に持ち込まれたとする。そして
ホケノ山と箸墓(260±10年)の中間に庄内式土器が九州に持ち込まれる。

658−421=237年 この計算値は、考古学も文献も関係しない無意味な数字である。
78日本@名無史さん:2012/05/22(火) 20:59:28.54
ホケノは箟被のついた銅鏃が出てる。
これを4世紀に二次埋葬したという解釈を合理的と考えるかどうか。
他にもたくさん出ている小型丸底土器も布留1。
発掘担当者の関川もホケノは4世紀説。
79日本@名無史さん:2012/05/22(火) 21:57:37.45
卑弥呼が死に、しばらくは男王たちの共存か卑弥呼がわりの王を建てたが
うまくいかなかった。
で、とよの擁立と相成った。
うまくいかなかった理由はなんだろう?
また最初から、とよを擁立しなかった理由はなんだろう?
80日本@名無史さん:2012/05/22(火) 22:10:11.66
たいしたことないのにえらそおにふるまいたがりのがおったのさ

女の王さまがふつうのところ空気嫁ないのがでしゃばって男王に自薦したんだろさね
81日本@名無史さん:2012/05/22(火) 22:14:35.65
とよちゃんちっちゃかったから
82唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/22(火) 22:17:29.28
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku277.htm より
ホケノ山古墳のある纏向には垂仁天皇の纏向の珠城の宮や、景行天皇の纏向の日代の宮が
あり、この地域に都があったころ纏向遺跡も作られたと考えれば、垂仁・景行天皇の時代
(4世紀後半)にホケノ山古墳が作られたことと整合する。

考古学と文献が合致しなければ、正しいと言えない
上記の主張であれば、崇神は3世紀末になるが、3世紀半ば以降半島は、魏・晋が管理する。
だから、この時代に、崇神世の任那建国が設定できない。
ホケノ山は、初期の埴輪、埴輪発生期の墳墓である。埴輪は、垂仁末からになる。
魏志、邪馬台国官伊支馬 伊支馬はイクメと読み、垂仁とすれば、垂仁は239年崩御であり、
ホケノ山に埋葬される。このホケノ山に田道間守の殉葬墓は付加される。
ホケノ山は、任那建国から1世代の時空がある。
238年に魏使は狗邪韓国を訪れる。当然大和の情報も手に入れている。
239年 共立卑弥呼の朝貢、この時点で女王卑弥呼は認められている。その翌年
240年 カテイ等は邪馬台国を訪れ、その王に倭王位を認める。
倭王位を認められたのは、景行からとなり、景行が倭国を統一する。
箸墓(260±10年)は最初の大王墓。

垂仁・景行天皇を4世紀後半に設定する文献が存在しない。この設定は、七支刀=369年でもない。
つまり、設定にその基準が認められない。
83唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/22(火) 22:26:10.07
気候と社会の共振現象 年輪降水量。
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf

日本の歴史を、年輪降水量に合わせると。
西暦20年代 唐古、鍵の環濠を埋める洪水(降雨)。考古学:弥生中期後葉。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。

 降水量が多い時期が続く=異常気象である。
年輪降水量グラフは、年輪年代法に基づく。
日本に於いても、183〜193年頃は寒冷期である。
新羅 192年 4月大雪。(後漢 193年 6月寒風冬の如し。)
新羅 193年 6月倭人飢餓の為渡来する。=弥生後期末の出来事である。
新羅 209年 伽耶に援軍。三国遺事 加羅 541年 建国330年で新羅に身を寄せる。

唐古、鍵遺跡や近江伊勢遺跡など各地の遺跡が衰退する。=居住地の放棄。
青谷上寺地遺跡の人骨は食人を表す。
2世紀末 纒向遺跡に各地の土器が集まる。

この出来事を書紀に当てはめると
崇神5年 民の疫病=餓えの病、餓死。民の疫病は朝廷に及ばない、ただ困惑させる。
崇神6年 民の離散。逃散は「餓え」でのみ説明出来、疫病では説明出来ない。
同12年の記事 寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。
(高句麗本紀 256年 九年 十二月 無雪 大疫。この“大疫”は飢饉である。)
考古学:唐古、鍵の住民は居を山辺に移す。
崇神11年 四道将軍の派遣の結果として、異俗多帰。地方の民を連れ帰る=考古学:2世紀末各地の土器。
崇神58年 新羅209年ころ
崇神5年=新羅192年・崇神58年≒新羅209年。崇神世は西暦187〜220年の域を出ない。
84太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/22(火) 22:32:21.66
>1年のながさをごまかすと、百済王家の説明が出来ない

半島文献を基点とすれば、120年の大揺れで編年の真は壊滅する。
120年のこんな年代差がある半島文献を中心において年代をああだこうだ
言っても、その悪魔のささやきには動じない。半島文献はこのため参考に
しかなえめらず、この大揺れのため半島文献のほうは合わないのは別に
不合理にはならない。w

具体的に言えず抽象的書きこみで実際には〜
1年の日数も主張できない宿主空年であるから、“空白年”には四季が0順する場合となる。
そうした場合、編年は、若い年代から積み上げただけのものである。
永元元年=499年でつまずいているから、顕宗までもたどり着けていない。
85唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/22(火) 22:38:29.35
>また最初から、とよを擁立しなかった理由はなんだろう?

とよ=壹與=五百野姫13才
五百野姫は、240年景行元年生まれと思われる。
卑弥呼が共立された239年には生まれていない。
86太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/22(火) 22:39:16.31
>>84 訂正
× 参考にしかなえめらず
○ 参考にしかならず


書紀は1年の長さを、“朔”と季節を後つけで主張している。
ここに、宿主空年の入る余地は無い。

書紀の主張を認めつつ、書紀の編年を正常な長さにするためには空白年の差し込みが有効でない。
この空年は>>73>>74で誤魔化しが効かない。全然空年がないのだ。wwwww
87太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/22(火) 22:45:52.81
崇神即位=188年 この計算値は、考古学も文献も関係しない無意味な数字である。
なぜか? 宿主は説明したことがいまのいままで1度もなく出来ない。

魏志、邪馬台国官伊支馬 伊支馬はイクメと読めず、垂仁とならず、垂仁は239年崩御でない。
239年鏡の多出する事由が説明できず、ウインドウズ95使用が1995年でなく2045年だとかいうよう
な○ンマな編年である。ww なお官は絶対天皇にはなれず、インチキは軽く露呈している。
88太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/22(火) 22:49:38.82
壹與≠五百野姫13才

邪馬台国では「臺」の字とつかい、ここでは「壹」の字を使っており、
インチキ勝手な恣意的メチャクチャである。つまりデタラメそのもの。
89唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/22(火) 23:08:46.91
>邪馬台国では「臺」の字とつかい、ここでは「壹」の字を使っており、

邪馬台=ヤマトでは「臺」の字とつかい、壹與=五百野姫では「壹」の字を使っており、読みが違う。

>崇神即位=188年 この計算値は、考古学も文献も関係しない無意味な数字である。
崇神5年=新羅192年であれば、崇神即位は187年。
計算値と言うほどのものではない。

>邪馬台国官伊支馬 伊支馬はイクメと読めず、
238年時点の楽浪方面の発声を漢字に変換したとすれば、この程度はその許容範囲、範疇に入る。
90太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/22(火) 23:15:40.77
>邪馬台=ヤマトでは「臺」の字とつかい、壹與=五百野姫では「壹」の字を使っており、読みが違う。

それが恣意的だということよ。いずれか一方しか使えない。これを好き勝手に字を選択してたということであり、
デタラメ・メチャクチャ論そのものだ。ppp

崇神5年=新羅192年でないから、崇神即位は187年でない。

>邪馬台国官伊支馬 伊支馬はイクメと読めず、
>238年時点の楽浪方面の発声を漢字に変換したとすれば、この程度はその許容範囲、範疇に入る。

まったく許容はされない。官はわが神州では絶対に天皇にはなれない。
つまり朝敵が言い出すデタラメだ。
91唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/22(火) 23:22:35.08
>書紀は1年の長さを、“朔”と季節を後つけで主張している。

その文献は?
無いんだろ。
書紀の太陰暦には、計算値でも正しい朔でもできない小さなユラギがある。
計算値や19年7潤の積み重ねであれば、後付はできるが、この小さなユラギを再現せねば
日本書紀の太陰暦にならない。
だから、後付が出来ないんだ。
92太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/22(火) 23:23:00.35
崇神5年≠新羅192年・崇神58年≠新羅209年。崇神世は西暦187〜220年の域を出る。
93日本@名無史さん:2012/05/22(火) 23:26:55.82
道鏡さんとかなんかは可能性とか絶無ではなかったんだよな

8世紀になっても皇位継承のルールとかてきとおでふらふらだったんだよね
94唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/22(火) 23:34:03.22
西暦  年号元旦朔  増し(章)調整(日)  暦日 朔干支 中国朔
42年  神武元年庚辰朔 3章1日 0日 辛卯 辛卯 東漢光武帝建武18年 西元42年2月9日
64年  綏靖元年壬申朔 1章1日  8033日 甲申 甲申
78年  安寧元年庚申朔      13142日 癸巳 癸巳
83年?  懿徳元年己卯朔 3章0日        安寧と同じ暦
94年  孝昭元年丙戌朔 3章0日 18988日 己未 己未
120年 孝安元年乙酉朔 4章2日 28467日 戊午 戊子 ☆
146年 孝霊元年壬辰朔 3章1日 37976日 丁亥 丁亥
165年 孝元元年辛未朔 2章1日 44916日 丁卯 丁卯
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 丁未 丁未
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 己未 己未 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日 乙未 乙未
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日 辛亥 辛亥 ☆
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日 癸卯 癸卯
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 庚戌 庚辰 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔      85106日 丁巳 戊午 ☆ 
313年 神功39年丁巳朔 太歳  98986日 丁丑 丁丑

313年 仁徳元年丁丑朔    98986日 丁丑 丁丑 ここより中国の暦とほぼ同等
400年 履中元年壬子朔    130761日 壬子 壬子 ここより中国の暦と同等?

「増し」は、4章(6940日×4)に付き1日(調整)を減ずる。合計33章−9日の増し
神功39年太歳の年を、仁徳元年とする。
書紀の暦日から、使われたであろう日数を中国の暦と同期させた。
書紀の主張“正朔”は正しい。これは古記の主張する閏を使用し、
仲哀9年を章の最後の年とする。
2重暦であれば、上記の如きユラギが朔に生じる。
このユラギまでをも一つの計算式でははじき出せない。
だから、後付は否定される。
95太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/22(火) 23:34:49.49
その文献は?
在るんだよ。一例でいいのは臭魔電だ。
これには四季がついてない年月日冒頭文がうんとある。書紀は四季がその
殆どについてるんだから、臭魔電が書紀の原典ならば書紀が臭魔電の四季の
ついてない文に季語をつけて書紀を完成させたのさ。ww

つまり〜
立派に文献で後つけだと分かる。かように朝廷の書庫の書紀の原文に
なった原書群には四季が全部ついてるわけがなく、ついてない書がうんと
あったのさ。書紀はほとんど四季がついてるんだから、後つけだ。ww

>計算値や19年7潤の積み重ねであれば、後付はできるが

19年7潤がどうのこうの言っても、これくらいで全編年が出来ると思
ったら大アマだ。そんなんで出来るなら、とうの昔に誰か編年を完成して
おる。暦は途中に暦法の変更を行った時代がかなりあるので、その単純さ
では到底到達できない。出来るは浅薄脳男のすること。pp
そうだろう、1円玉数えも○ンマな遊びでは・・・ハハハッ・・・www
シヌまで真の年代の策定は到底できない。

zzzzz・・・・・
96太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/22(火) 23:37:12.92
zzzzzzzzz・・・・・×
>>94の編年は妖魔の毒書 秀魔電 に染めたインチキ創作であ〜る。
>現在の考古学年代を信じるんだな?←宿主は現在の考古学年代を信ぜず。

大中臣の下命
古代からの真の年代を計測する贈り物たる天下の宝器。これが天津神算木
(天津金木)である。天津祝詞の太祝詞事には大中臣からのニセ編年壊滅
せよとの下命がある。天津神算木の文がそれだ。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)の
球化の 体積=表面積 の数式をいう。崇神紀には三輪山の話がある。

天津神算木:表面積(右辺の  」 は先頭から20桁目の区切り **はベキ)

 Cπr**A=@13.09733552923255EDG」46・・・

右辺先頭あたりに 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけ年代)がある。

大祓祝詞に曰く 「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

太祝詞事は二十(フト)祝詞事であり、右辺を20桁での区切りを示唆。
20桁目にかかっての三数は 658 だが、等号にまたいで左辺先頭から三数
の 421 を得る。(文字数は除く) つまり天津金木の両端数である。
○数字〜

 658−421=237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

の実年代を得る。これに外れる編年は完全なデタラメである。。
本物は天津金木だ。 当然 崇神即位年≠188年

zzzzzz・・・・・
97唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/23(水) 00:40:06.10
>崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

崇神5,6年の百姓猛災は?
崇神11年の異俗多帰は?
崇神世の任那建国は?

これらすべてが存在しない年代である。
だから、魏使は、238年に倭奴國に朝貢を促す。
239年にそれに応えるかたちで、卑弥呼共立と朝貢。
240年 カテイ等が邪馬台国を訪れる。

98卑弥呼は朝鮮にいた:2012/05/23(水) 09:22:22.70
瀆盧國についてはこういう情報もある。

密記注曰:蓋馬國,一云熊心國,在北蓋馬大嶺之北,距勾茶國二百里。
勾茶國,舊稱瀆盧國,在北蓋馬大嶺之西。
月漬國,在其北五百里。稷臼多國,或稱賣句餘國,舊在五難河,後爲瀆盧國所破,遂移于金山居之。
勾茶國,本艾、蒜所産也,艾煎服以治冷,蒜燒食以治魔也。

北蓋馬大嶺というのはどこか知らないが、長白山脈だとすると、その西にあったのだ。
かなり古い時代からあった由緒ある国だと思われる。
倭人伝の瀆盧國も、われわれは弁辰の中の一国としか捉えていないが、
かなりの大国だった可能性がある。

ちなみに熊心國というのは今のハルピンあたりにあったのだ。
五難河とはどこかまだ調べていないが、こういうのをコツコツ調べるのが学問の醍醐味である。
99卑弥呼は朝鮮にいた:2012/05/23(水) 09:30:21.65
一部訂正

熊心山は今の舒蘭(吉林の北、ハルピンの南)とあるから、
熊心國もそのあたりだと思われる。

100太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/23(水) 11:08:18.84
>これらすべてが存在しない年代である。
どこに存在しないとあるのか?
勝手に決めるな。
101唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/23(水) 11:26:42.65
>どこに存在しないとあるのか?勝手に決めるな。
>237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

崇神5,6年の百姓猛災は?
崇神11年の異俗多帰は?
崇神世の任那建国は?

これらの出来事を、文献と考古学の知見に合わせる。
たとえば、
崇神5,6年の百姓猛災は、後漢193年の冷夏、飢饉。または、新羅192,3年
崇神11年の異俗多帰は、2世紀末の各地の土器の持ち込み
崇神世の任那建国は、三国遺事の221年、または、新羅209年

同じように出来るんだろ?
太国倍年は数字の連呼のみで何の主張も取り入れられない。

102唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/23(水) 11:47:16.33
http://www.city.ichihara.chiba.jp/~maibun/isekimore17.htm
17 土器が動く その1 南中台遺跡
およそ、邪馬台国の卑弥呼が存命のころ、西暦2世紀末から3世紀前半のあたりに、
「土器の移動」が汎列島規模で突然活発になります。
奈良県纒向遺跡では、出土土器全体の約15%が他地域から運ばれてきた土器で占められています。
103唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/23(水) 13:01:29.65
訂正
× 崇神世の任那建国は、三国遺事の221年、または、新羅209年
○ 崇神世の任那建国は、三国遺事の211年、または、新羅209年

三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。

仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
104太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/23(水) 14:54:52.43
>たとえば、
>崇神5,6年の百姓猛災は、後漢193年の冷夏、飢饉。または、新羅192,3年

崇神5,6年≠新羅192,3年

当然だな。もともと41年も説明できずさらに188年でさえ説明したことが
ないオマエの主張は無説明でこうだと言い張ってるだけで、何ら根拠が
ない。つまり、宿主空年は数字の連呼のみで何の主張も取り入れられない。


おまけに当時に千人もの農民が航行未経験で漁師ではなくさらに糧食の
持ち合わせのない空腹の状態で渡海できると言い張るオマエは、今後1年位
メシを食わず実験してみたらどうだ?ww
まあ2〜3日でもうバンザイだろう? 腹が減っては戦が出来ないのは
当然だな。いくら年代を説明無しに強引にあわせても、飢餓のままでは渡海
は不可能。それでも言うなら、精神病院で聞いてみろ。ppp
105唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/23(水) 17:19:51.53
>崇神5,6年≠新羅192,3年
>237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年

崇神5,6年の百姓猛災は?
崇神11年の異俗多帰は?
崇神世の任那建国は?
やはり説明できないのか。
数字の主張はできても、そのウラはとれない。
239年卑弥呼の朝貢。
240年 カテイ等が邪馬台国を訪れる。
ここに、崇神5,6年の記事は無い。
106太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/23(水) 18:42:02.66
西暦41年の神武即位は?
188年の崇神即位は?

やはり説明できないのか。

(崇神世の任那建国は軽く動く。120年もズレりゃぁ、そんなものは
後で整合してくる。)

数字の主張はできても、そのウラはとれない。


崇神5,6年の百姓猛災は?←質問の意味不明だ。オマエの脳内点検をしろ。
崇神11年の異俗多帰は?←同上
107唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/23(水) 19:08:23.48
>質問の意味不明だ。オマエの脳内点検をしろ。

逃げるに長けた太タヌキ殿。
>237年=崇神天皇即位元年(真の年代)=景初元年
これを使って日本書紀の記述が正しいかどうかを検証しなくては整合するとはできない。
崇神世の任那建国は?、太タヌキ殿は無視できるとの発言があった。
つまり、書紀の記述を無視できるという態度である。
書紀の記述を無視すれば、太国倍年が出来る。
正朔も月も季節も無視すれば、太国倍年が出来る。
後に残るのは?
使い物にならない編年(太国倍年)だけか?

>崇神世の任那建国は軽く動く。120年もズレりゃぁ、そんなものは後で整合してくる。

太国倍年の誤差は120年と言う意味か?
まあそれだけあれば、その中には正しい年代も含まれているであろう。

崇神天皇十二年(乙未前八六)春三月丁丑朔丁亥。詔曰。朕初承天位。獲保宗廟。明有所蔽。徳不能綏。
是以陰陽謬錯。寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。然今解罪改過。敦禮神祇。
寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。は、同5,6年の出来事である。
108太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/23(水) 20:06:26.63
西暦41年の神武即位は?
188年の崇神即位は?

な〜んだ、やはり説明できないのか。pupu・・・
早くしろい。

数字の主張はできても、そのウラはとれない。

上を使って日本書紀の記述が正しいかどうかを検証しなくては整合するとはできない

崇神世の任那建国は?、半島人?空腹多ヌキ殿は無視できないとの発言があった。
つまり、41年の臭魔電カラのオマエの創作記述を説明できないという態度である。

41年の説明を無視すれば、宿主空年が出来る。
正朔も月も季節も前付けすれば、それらから抜けだらけの臭魔電が出来る。
後に残るのは?
使い物にならない編年(宿主空年)だけか?

オイ、早く41年の説明をなんとかしろ!! オイ、具体的に〜〜逃げるな。
109太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/23(水) 20:06:41.63
西暦41年の神武即位は?
188年の崇神即位は?

な〜んだ、やはり説明できないのか。pupu・・・
早くしろい。

数字の主張はできても、そのウラはとれない。

上を使って日本書紀の記述が正しいかどうかを検証しなくては整合するとはできない

崇神世の任那建国は?、半島人?空腹多ヌキ殿は無視できないとの発言があった。
つまり、41年の臭魔電カラのオマエの創作記述を説明できないという態度である。

41年の説明を無視すれば、宿主空年が出来る。
正朔も月も季節も前付けすれば、それらから抜けだらけの臭魔電が出来る。
後に残るのは?
使い物にならない編年(宿主空年)だけか?

オイ、早く41年の説明をなんとかしろ!! オイ、具体的に〜〜逃げるな。
110唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/23(水) 20:20:55.25
太タヌキ殿が何を知りたいのかわからない。
これか?
西暦  年号元旦朔  増し(章)調整(日)  暦日 朔干支 中国朔
42年  神武元年庚辰朔 3章1日 0日 辛卯 辛卯 東漢光武帝建武18年 西元42年2月9日
64年  綏靖元年壬申朔 1章1日  8033日 甲申 甲申
78年  安寧元年庚申朔      13142日 癸巳 癸巳
83年?  懿徳元年己卯朔 3章0日        安寧と同じ暦
94年  孝昭元年丙戌朔 3章0日 18988日 己未 己未
120年 孝安元年乙酉朔 4章2日 28467日 戊午 戊子 ☆
146年 孝霊元年壬辰朔 3章1日 37976日 丁亥 丁亥
165年 孝元元年辛未朔 2章1日 44916日 丁卯 丁卯
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 丁未 丁未
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 己未 己未 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日 乙未 乙未
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日 辛亥 辛亥 ☆
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日 癸卯 癸卯
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 庚戌 庚辰 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔      85106日 丁巳 戊午 ☆ 
313年 神功39年丁巳朔 太歳  98986日 丁丑 丁丑

313年 仁徳元年丁丑朔    98986日 丁丑 丁丑 ここより中国の暦とほぼ同等
400年 履中元年壬子朔    130761日 壬子 壬子 ここより中国の暦と同等?

「増し」は、4章(6940日×4)に付き1日(調整)を減ずる。合計33章−9日の増し
神功39年太歳の年を、仁徳元年とする。
書紀の暦日から、使われたであろう日数を中国の暦と同期させた。
書紀の主張“正朔”は正しい。これは古記の主張する閏を使用し、
仲哀9年を章の最後の年とする。
2重暦であれば、上記の如きユラギが朔に生じる。
このユラギまでをも一つの計算式でははじき出せない。
だから、後付は否定される。
111唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/23(水) 20:39:07.42
書紀は正朔を主張している。だから、太陰暦で書紀と正しい暦が主張できなければ
ならないが、
治世の短い天皇は、次の天皇と暦を同一としたと思われる。
例えば
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 丁未 丁未
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 己未 己未 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日 乙未 乙未
開化の治世から3章こと57年を差し引くつyまり3年の治世となるが、
3+57年では、57年に太陰暦の秘密が隠されていることがバレる。
そこで、同じ暦とし、57年の秘密を隠す。
崇神68年―2章こと38年を差し引くと治世30年となる。
垂仁99年=239年 邪馬台国官伊支馬。で動かない。
99年―4章(76年)=治世23年
垂仁元年は、217年が算出される。ここから先は崇神世になる。
崇神5年は、新羅192年か後漢193年である。
新羅192年に合わせれば、崇神元年は188年となり、余りの1年は開化の治世に組み込まれる。
後漢193年に合わせれば、崇神元年は189年となり、余りの2年は開化に組み込まれる。
112太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/23(水) 21:57:51.04
1円玉数えはもういい。1日調整だとぅ〜?
pupupu・・・わらわせっるな。ww

そんなものは大取引たる編年には影響はない。1円玉なんか数えてたら、
死ぬまでかかる。たかが1日で年代の影響は限りなく0だ。何を言って
るんだ?wwwww

オマエ紀は確か〜?
倉西女史もサガミハラハラ氏もそんなことはやってないのは、そんなやり方
はクソの役にも立たないからやろうとしないわけだ。ただオマエだけ熱心に
1円玉を計算して年代がどうのこうの叫んでるわけで、そんな正確がメシの
1粒だけで半島渡海ができると錯覚するんだろう。

オマエ早く精神病院へ行ってしっかり診察してもらってこい。
どうやら真性のようだ?
113太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/23(水) 22:07:20.66
>>110
そんなものは具体的説明にならない。
抽象的数字の得体の知れない羅列であり、その具体性という〜地について
な〜い。
メトンの章数だけで真の年代が知れると思っているオマエの稚拙で単純な
脳内のひどさに、ただ呆れるだけ。ww

それは完全なデタラメであると断定する。
114唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/23(水) 22:16:57.33
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html
寺沢薫 案 (畿内 大和) 弥生第W様式と第X様式の変わり目が神武即位。
纏向新偏年

纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神11 年異俗多帰]
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
辻土坑1は、垂仁の珠城宮築造時に掘られ、大型建物には任那からの朝貢者が関与している。

考古学に合わせるとはこういうことであり、120年も誤差があるという太国倍年ではできない。
247年 ついに韓滅ぶ。滅ぼしたのは魏であり、魏・晋が半島を管理する時代に任那建国は無い。
115太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/23(水) 22:22:27.91
臭魔伝を読めば、いたるところの年月日の各冒頭文に四季がついてない。
ところが書紀は殆どそこのほぼ全文に四季がついてるんだから、臭魔伝
が書紀の原典なら臭魔伝の四季の無い文のところに四季をつけたという
ことになるのだ。だから臭魔伝が書紀の原典ならば、四季は後付けが当然
となる。

各文献の年月日の各冒頭を見てみい。四季のついてるのもあれば四季の
ついてない書もある。ところが書紀はそれが殆どついておる。だから原書群
を各採用したときに、四季をつけたということは動かない。

このことは書紀の四季とは後つけだったということが断定される。
116太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/23(水) 22:25:43.22
古代史の盲者同然の考古学に合わせるとはそんなことであり、

120年も誤差があるを見て見ぬふりする宿主空年では真の年代は確定できない。
117太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/23(水) 22:34:09.67
新羅192年・後漢193年冷夏凶作 ≠ [崇神5年]
118唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/23(水) 22:36:44.53
神武天皇元年(辛酉前六六〇)正月庚辰朔◆辛酉年春正月庚辰朔。
垂仁天皇三十年(辛酉一)正月甲子《六》◆卅年春正月己未朔甲子。

神武天皇元年を西暦元年春正月己未朔に設定して“正朔”を守れるのか?
干支は日に一つづつ配されて―660年を書紀が主張する。
空白年が無い場合年ごとにその干支を消化しなければならないが、
書紀の1年は、太陰暦の1年が配されていることは、この日々の干支が主張している。
干支が後付であれば、今からでも後付が出来るはずである。
太タヌキ殿には、これが出来ない。これまで誰も後付に成功していない。
しかし、後付に成功せねば、後付を証明できない。
太国倍年には120年も誤差があるからそれが出来ないのか?
であるならば、太国倍年の修正が先決である。

>1円玉数えはもういい。1日調整だとぅ〜?pupupu・・・わらわせっるな。ww

笑われるのは、太タヌキ殿であるからかまわない。
後付の証明が先決である。
119唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/23(水) 23:02:40.35
神武天皇元年(辛酉前六六〇)正月庚辰朔◆辛酉年春正月庚辰朔。8777
垂仁天皇三十年(辛酉一)正月甲子《六》◆卅年春正月己未朔甲子。249836
唐高宗顯慶6年 歲次:辛酉 生肖:雞 西元661年2月5日(星期五)起 1月丁酉朔490894
-660年から1年までは241059日
1年から661年までは241058日 661年は平朔ではない。

241059日を消化しなければ、西暦1年にならない。
1日を数えられない太国倍年で、後付の証明をする。
笑われるのは誰だ?
120日本@名無史さん:2012/05/23(水) 23:56:13.64
中学校、高等学校の歴史の授業は退屈でいつも眠気を覚えていました。面白くなく興味も持てませんでした。なぜか?
真実が教えられていないからです。人間は本能的に無価値なものに惹かれないようにできているのです。
南京事件は実在したのか?従軍慰安婦はいたのか?そういった論争を意図的に惹起して極東の諸国間の関係を
ギクシャクさせたい人たちがいます。当然、軋轢を起こす目的であえて歴史を恣意的に解釈しています。
我々は歴史の真実を知ることで現代社会の病巣を知ることができます。
ヒットラーは金融ユダヤ勢力が起用した「戦争製造装置」でした。世界戦争を引き起こし、世界をベルリンを境に東西に分け
戦後のイスラエルの建国を実現し、そして、あえて戦争に負けることで収束させる役割でした。米英ソもヒットラーとグルでした
戦後は南米で安寧に余生を過ごしています。常に背後に黒幕が控えていました。そんなことは学校の教科書には書いてありません
ソ連は、米欧のユダヤ人が結集してロマノフ王朝を力尽で引きずり下ろして捏造した「ユダヤ独裁国家」でした
ロシア=ソ連ではなかったのです。プーチンの治世の今、ロシアはやっとユダヤ支配から脱却して飛翔しようとしています
これも世界史の教科書のどこにも書いてありません。真実が書いてあれば、世界史教科書は最高に面白い垂涎の書なのです
坂本龍馬は日本にどんな利益をもたらしたのか?米英の武器・阿片・黒人奴隷貿易商人の傀儡となって
薩長のために武器や戦艦を調達し、徳川幕府を薩長が打倒する手伝いをしただけです。それ自体が、愛国的行為なのか?
甚だ疑問に思います。テレビでは竜馬を持ち上げて特集を組んだり、政界では平成の竜馬を気取った輩が幅を利かせているようです
歴史の真実を知れば竜馬の再来など誰も喜びません
121唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/24(木) 00:08:52.22
>120年も誤差があるを見て見ぬふりする

ネムル王 7年禺聖未383] 正月, 修養制(水羊祭)を行った. (323年癸未神功49年己巳)
狂信(光臣)をイボルチァン(伊伐□)で三考, 百貨(白花)を稟奏(稟主)にした
.
三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多 聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗
3月, 付与(夫余)の流民(流民) 30号(戸)がまた投降して来た.
付与(夫余)が倭(倭)とお互いに上通(相通)して毎年その民を受け入れて都城と田舍に分散させて配置した.
ウェシン(倭臣) ウングオン(熊彦)は美しくて話術が良くて子供(阿□)とお互いに情を通じてその言葉を聞き
入れる事が多いのでお吸物である(国人)らが離反(離反)してあるいは私たちに来てあるいは高句麗に行った
りした.
ネムル王 8年[甲申384] 正月, 木神制(木神祭)を行った.
夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之
付与の斤数(謹須)が死んで(□) チムリュ(枕流)が立った. (338年戊戌・神功64年甲申)

ネムル王 7年の記事は323年癸未神功49年己巳である。
ネムル王 8年に記事は、書紀の干支を使用した差し込み記事である。338年戊戌・神功64年甲申

120年差をこのようにちゃんと説明している。
倍年ではできないから、百済本紀に従うしかないだろうが。
伽耶の北方扶余系の遺物は、韓国考古学は4世紀初めからと説明している。
だから、383年では無く323年になるのである。
323年癸未から己巳年までは46年
仁徳元年、313年癸酉から神功39年己未年までは46年
百済本紀が神功紀の干支を使用するから120年差になったのである。
[甲申384]−338年戊戌=46年
122唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/24(木) 00:20:44.89
>当然、軋轢を起こす目的であえて歴史を恣意的に解釈しています。

逆だ、韓国考古学は、百済本紀より半世紀早い年代を主張している。
考古学と百済本紀を整合させるためには、百済本紀を半世紀遡上させなければならない。
そうするとどうなるか?
今の設定は、七支刀=369年で16日丙午の存在しない年である。
つまり、百済が存在しない日付を刻印した。百済のバカな行為を容認する。
なぜならば、七支刀=326年5月16日丙午(西晋17日丙午)を支持した場合
神功49年の出来事は事実となる、つまり、百済は領土分与を以って建国となる。
この事実を七支刀=369年に設定した場合、日韓の学者が領土分与も建国もあり得ないという確認がなされている。

歴史の事実より、韓国人の心の安寧が優先される。
123唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/24(木) 00:30:18.74
そして、卑弥呼も日本の歴史も解明されない。
日本の歴史が解明されないのであれば、百済が倭を応援して発達させたという思考になる。

奈勿大圣神帝纪ネムルデソンシンジェギ) @323年 7年(AD383)正月里子(水羊=癸未)
@三月夫余流民三十户又来降夫余与倭相通年年受其民散置都鄙倭臣熊彦美而善辩与阿尒相
通多听其言故国人异反或归于我亦归于丽
Aファシー(火豕=丁亥、AD387) 禁买扶余女为妻先是小民无妻者多买扶余女子扶余怨之至是命禁之仍许加耶民相婚
Bファンシ(黄豕=己亥、AD399)黄豕正月以扶余降民分置南路择其有技者属于各典以通其才

❶3月扶余の流民30戸がまた来降してきた、扶余と倭は相通じており年々その民を受け入
れ、町や村に散置してきた。熊彦(千熊長彦)は美男で良く弁舌がたち民(与阿=子供)と
仲が良い。ゆえに国民はその言を聞き、高句麗や新羅に帰属した。
❷扶余人の嫁が不足するから、伽耶人が扶余の女との結婚を禁止する。
❸己亥年正月 扶余の降民を南路に分置し、技術者をその才能にあわせ各典に配属する。

千熊長彦は扶余人が伽耶などに移住した時代の人物である。その時期を韓国考古学は
4世紀に入ったあたりと認識しているから、千熊長彦は323年であり、AD383
にはなりえない。

http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm
E4世紀以後、金官伽耶時代の木槨墓から中国系とは異なる北方農耕遊牧民文化の副葬品が出土する。
騎馬用甲冑・馬具・・・・

124唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/24(木) 00:32:59.74
http://cafe.daum.net/newhuman/Ci2X/605?docid=UnMBCi2X60520100305110049
直訳
ハーブ大聖霊提起(奈勿大圣神帝纪)上

他のデータの内容がでたらめにかき混ぜていた文書からのハーブ大聖霊提起の記録だけ別に抜き出して作成してみるとひょっとして間違いがあったのかもしれません。
抜けている部分や解釈が間違ってところがあれば指摘してください。
ハーブ大聖霊提起(奈勿大圣神帝纪)
月内神経(月嬭神经)で話す。

"ファンギェ(黄鸡:油349/289?)4月、

60年違いの記事が混合されているという認識であるが事実は
60年差と46年差の記事の混合である。
125唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/24(木) 00:47:42.77
>南京事件は実在したのか?従軍慰安婦はいたのか?

南京事件は実在した。ただし時間の経過とともに大きくなっている。
最終的には南京の住民全てを殺してもまだ足りない人数になっている。
従軍慰安婦はいた。日本生まれの日本人も半島生まれの日本人(半島は日本)も関係ない。
そして、兵士は、そこで若い女性をおもちゃの如くに扱ったのも事実である。
それが戦争というものだ。
126日本@名無史さん:2012/05/24(木) 00:58:30.60
>>120の(続き) ※これは宣伝

関ヶ原の戦いで一人の19歳の武将が、東西軍どちらにつくかでそれから先の300年以上の歴史が決まってしまった
もし、彼がもうひとつの選択肢を選んでいたら、徳川幕府は400年前に滅んでいたであろう
関ヶ原の後、豊臣家の存続に尽力したひとりの大名が49歳で「毒殺」されずにあと10年生きていたら、今頃
日本の首都は大阪であったろう。そんな仮想の話が、実はとても新鮮で興奮を呼ぶのです
それほど、歴史というのは「脆弱」でちょっとしたきっかけで全く異なる展開をしていたはずなのです
これは現代でも全く同じなのです。小沢一郎さんが冤罪裁判を脱して日本の首相に就任すれば
日本のみならず世界全体が信じがたい変化を遂げます。世界の歴史が変わります。歴史の{もしも」が現在進行形の「今」をも説明してくれます
真実の歴史を知ることにより、現代の政治経済状況も実に平易に理解することができます
911も311も放射能パニックも謀略であること、消費増税もTPPも小沢冤罪裁判も黒幕の思惑が働いていることがすんなりと理解できます
だからこそ、真実の歴史を知る必要があるのです。本書を通じて、その真実に辿りつてください
そして、ひとりの日本人としていかに行動すべきか指針を見つけてください。(今回も「小説」の形態で出版いたします。)

リチャード・コシミズ第八作:「リチャード・コシミズの新しい歴史教科書」
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201205/article_117.html

第8作を6月に出版いたします。先行予約を受け付けます。複数冊での予約を歓迎します
先行予約いただいた方には、書籍と一緒に以下の特典DVDをご提供します
127唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/24(木) 01:35:38.28
>彼がもうひとつの選択肢を選んでいたら、徳川幕府は400年前に滅んでいたであろう

希望的観測ね。
関ヶ原で豊臣が勝つ可能性は、それでも低い。
勝ったところで、以後を考えれば、数年長らえるのがやっとであろう。
なにしろ豊臣には屋台骨が無い。
128日本@名無史さん:2012/05/24(木) 04:00:29.44
その話は、こっちでやれ。

リチャード・コシミズ〜世界の構造-15
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1333306274/
129太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/24(木) 18:24:49.81
神武天皇元年を西暦41年に設定して“正朔”を守れるのか?
干支は日に一つづつ配されても空日空月があり―660年を書紀が主張する。
空白年が無い場合も年ごとにその干支を消化の必要はないが、
書紀の1年は、倍暦の2,3年が配されていることは、この日々の干支に関係ない。
臭魔伝から分かるように干支が後付であるから、今からでも臭魔伝に四季の
ない文を全て摘出して後付が出来るはずである。
空腹空年多ヌキ殿には、これがばれて出来ない。これまで誰かが後付に成功している。
しかし、後付に成功したから、後付を証明できる。臭魔伝には四季抜け多く
これで、もう証明終わり。ppp
宿主空年には120年も誤差があるからそれが出来ないのか?
であるならば、宿主空年の葬式が先決である。

>1円玉数えはもういい。1日調整だとぅ〜?pupupu・・・わらわせっるな。ww

笑われるのは、空腹空年多ヌキ殿であるからかまわない。とりわけ日食が
数日間日を経て継続すると言う噴飯物の主張は臥海の物笑いの種である。pp
後付の証明は臭魔伝の四季抜けから証明終わりである。 ww
130太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/24(木) 18:29:36.87
1円玉241059枚を消化しなければ、西暦1年にならない証明は出来てない。
1円を数えらる宿主空年で、後付の証明をするのか?ww
笑われるのは誰だ? 噴飯節の日食数日間続くとか絶対なれない天皇に天皇
の家来が就任するというのは臥海人の各腹をゆすらせる大笑い腹笑いの
タネとなるppp

131唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/24(木) 20:39:01.10
おっ、太タヌキ殿こちらでしたか。

>[9303] RE:倍年は存在した その2 Name:太国  NEW! 2012/05/24(木) 14:21
>盲目考古学は軽く動かせる。

考古学編年を太国倍年に整合させてみてくだされ。

132唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/24(木) 20:41:08.65
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。
東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。

ここへ崇神を配さなくてもよいが、この出来事は文献と合致している。
冷夏、飢饉、餓死、食人、そして逃散。
後漢193年は2世紀末であり、日本においても、この時空で大きな変化があった。
青谷上寺地遺跡の人骨は、食人をあらわす。
各地で人々が移動したということは、大規模な飢饉、逃散がおこったということである。
だから、この時空は動かない。

さあ、動かしてみて!!
133日本@名無史さん:2012/05/24(木) 21:06:19.08
その前に邪馬台国論争へ、ホツマ真理教を持ち込むのをやめろよ。
134唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/24(木) 21:51:56.13
>>133

けつの穴の小さいこと。
135日本@名無史さん:2012/05/24(木) 21:56:46.03
でかけりゃいいってもんでもないw

136唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/24(木) 22:10:26.95
そりゃいえる。
けつの穴が小さいとは、腹が小さいということでもある。
腹とは肝っ玉である。
つまりなんでも呑み込める腹は、けつの穴も大きい。
すぐに、下痢を起こすやつの腹は小さい。

まあみていな、もうじき太タヌキ殿が考古学編年を太国倍年に合わせてくれるだろうから。
もし、それが無いときは、太タヌキ殿が8畳敷きの大風呂敷を広げたことになる。
137太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/24(木) 22:38:48.44
9323] RE:倍年は存在した その2 Name:太国   NEW! 2012/05/24(木) 22:10

文献となんか合致してまい。強引のこじつけ。
それが空腹の千人が畿内から半島に到達できると
思ったら大間違いだ。ww
千人乗りの大船を調達できるわけがない。ww

大祓祝詞の天津金木の段の後に、オマエのように
間違いやすい編年の失敗をいさめるために次ぎの文
でオマエのような野郎を痛撃している。

「大津辺に居る大船を舳解き放ち艫解き放ちて
 大海原に押し放つが如く・・・・・」

農民渡海は無謀な編年だということよ。ppppp・・・

出来ないことを軽く出来てしまうように都合を
つけるオマエの脳内のひどさは、まぁ早く松沢病院に
駆けつけろ。今日は本館7階建てが松沢病院で完成
したそうだから、オマエ東京スカイ・ツリーの一番乗り
の代わりに松沢病院の1番バッターとして歓迎され
るだろう。ウワッハッハ・・・ww

松沢病院へ行ったら、診療医に唐松沢病院と改名するよう頼んでみろ。ppp
さらに唐松山病院としてもらうのか〜?wwwww・・・
138唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/25(金) 01:14:16.13
>それが空腹の千人が畿内から半島に到達できると思ったら大間違いだ。ww

畿内からとするから、渡海は難しくなる。九州であれば、相攻伐、暦年無主の時空だ。
吉野ヶ里の衰退もこの辺りではないのか? 新羅本紀は倭人としか表記していない。
後漢193年 6月寒風冬のごとし。この寒風、冷夏が畿内にまで及ぶ中間の九州もその範疇に入る。

考古学編年を50年引き下げれば、青谷上寺地遺跡の食人骨も同時に動く。これを239年に設定できるのか?
3世紀初頭で終了する前原王墓も50年引き下げられる。
そうすると、暦年無主の時空が無くなり倭奴國王まで存在しなければならない。

考古学は簡単には動かない。であれば、現在の考古学の数字に合わせるしか方策はない。
崇神即位のころにホケノ山古墳(225〜250年)埴輪の存在が説明できない。
崇神死亡時に箸墓、円筒埴輪。どうにもならんだろ?

狂っているのは、太国倍年である。それと、太タヌキ殿も狂っている。
書紀の記事をねつ造して作られたものが太国倍年である。
書紀は、1年の中に四季を配している。正常だ。
太国倍年の1年には四季が正しく配されていない。狂っているだろ?そして、それをねつ造したのは
ほかでもない、太タヌキ殿である。
太国神功3倍年、百済王家を見る場合は、太国1年に四季が3順せねばならない。
だから、倍年は否定されているんだよ。
太国1年に四季が3順する。これを正常な人間は3年と言う。

139日本@名無史さん:2012/05/25(金) 01:59:48.22
お前は、畿内説なのか九州説なのか、はっきりせい! >唐松山
140唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/25(金) 07:16:00.43
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
141太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/25(金) 11:14:04.53
>>138
九州は崇神年代では外国であるから、そんな遠国の百姓の千人の行動記事なんぞは
記紀に載るわけがない。あのころ外国の記事が記紀に載せるものは半島の遣使とか
畿内に関係できそうな戦争とかの特殊の場合のみであり、畿内から外国に相当
する九州とその辺の離島の出来事なんぞ畿内とは無関係だ。

すなわち崇神紀の農民の記事はもっぱら畿内あたりの千人の農民であって、
新羅192年とかの半島渡海の千人とやらは対馬あたりの畿内と関係のない農民の
話であって、崇神5,6年の記事にはならない。つまりオマエの主張は外国書紀と
いうものがあるんならありうることで、日本書紀の記事ではない。

対馬等の農民の出来事は畿内では重要ではなく、記紀に誤理押しのひどい無理
がオマエの最低なる判断脳内だということなのだ。ww

狂っているのは、宿主空年である。それと、空腹空年多ヌキ殿も狂っている。
書紀の記事をねつ造して作られたものが宿主空年である。
書紀は、1年の中に後付けで四季を配している。正常だ。それは臭魔伝に四季が
抜けてる文が多いことから、後杖けは立証された。オマエはこれに答えられない。

宿主空年の1年には四季が正しく配されていない。狂っているだろ?そして、それをねつ造したのは
ほかでもない、空年多ヌキ殿である。空年だから、1年に四季が0順しかない。
宿主神功空白年、274年を見る場合は、宿主1年に日食が365日も継続せねばならない。
だから、空年は否定されているんだよ。そして数日間日食継続の合言葉は喜んで
松沢病院の新本棟が歓迎してくれるぞ。ppp

宿主空年に四季が0順する。これを正常な人間はインチキと言う。
142唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/25(金) 19:09:14.75
>九州は崇神年代では外国であるから、そんな遠国の百姓の千人の行動記事なんぞは
記紀に載るわけがない。

当然載っていない。
載っているのは、唐古・鍵遺跡などの民であろう。
弥生後期後半まで、繁栄した唐古・鍵遺跡は、大量の土器を環濠に廃棄し、環濠は埋没する。
以後、唐古・鍵遺跡に住む住人が大幅に減る。
唐古・鍵などの住民は、その後東方山麓に住み着く。この時空が各地の土器の持ち込みでもある。

唐古・鍵遺跡に何が起きて、放棄ともいえる変化が起きたか?
この出来事は、唐古・鍵遺跡にとどまらない、近江伊勢遺跡・日本海側各遺跡など。
これだけ変化があれば、時代も動く。
弥生後期後半が弥生終末期へと動く。時代は、2世紀後半、2世紀末とできる場所である。

さて、太タヌキ殿 考古学は動きました?
早く、拝見したいもんだ。
143太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/25(金) 19:59:47.49
唐古・鍵遺跡が九州でないと認めたなら、これが対馬まで進展するわけも
ない。つまりオマエのひどい誇張拡張であり、何ら説得力は無い。

つまり崇神5,6年が192,3年とは合致しない。両者は全然関係ない。
オマエは空腹千人不可能渡海をごり押ししてデタラメを主張したということ
だ。ww

すべてオマエの強引のこじつけ。
それが空腹の千人が畿内から半島に到達できると
思ったら大間違いだ。ww
千人乗りの大船を調達できるわけがない。ww

大祓祝詞の天津金木の段の後に、オマエのように
間違いやすい編年の失敗をいさめるために次ぎの文
でオマエのような野郎を痛撃している。

「大津辺に居る大船を舳解き放ち艫解き放ちて
 大海原に押し放つが如く・・・・・」

農民渡海はごり押しの無謀な編年だということよ。ppppp・・・

さて、空腹空年多ヌキ殿 考古学は止めました?
早く、拝見したいもんだ。
144唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/25(金) 20:54:07.77
>唐古・鍵遺跡が九州でないと認めたなら、これが対馬まで進展するわけもない。

そうか?
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。[一]袁山松書曰:
「是時羣賊起,天下始亂。讖曰:『寒者,小人暴虐,專權居位,無道有位,適罰無法,
又殺無罪,其寒必暴殺。』」
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。[一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」
養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」
獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。

対馬どころか、大陸は大変な事態に直面しているんだが・・・。
対馬は、最初から食料が足りないから、九州で食料が調達できなければ、半島だ。
前原王墓は、200年ころで終了する。
であるならば、九州王朝奴國は、193年あたりから立ち行かなくなっている、そう考えるべきだ。

考古学を50年引き下げれば、暦年無主とする時空が無くなる。
今の考古学を否定して時代を引き下げることはできない。
であれば、太国倍年は、考古学と文献を失う。

太国倍年は、大海に浮いた泥船。
でしょ?太タヌキ殿。
145太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/25(金) 22:14:37.81
対馬のへんは千人の居所であって、大陸が大変だ.は畿内となおさら関係
ない。九州で食糧が超脱されても畿内の農民とは関係ない。

対馬の千人の農民が半島へ行っても、畿内の記紀の原書群には当時の外国
にあたる対馬の農民記事なぞ関係ないので畿内での重要情報ではなく、
書紀に載せるほど特筆されない。

空腹多抜きの泥船同然で、飯も食えない千人もの渡海未熟の農民が大海を
渡れるわけもなく沈没だ。ウワッハッハ!

考古学を50年引き下げれば、暦年無主とする時空が無くなる説明が
オマエは出来ない。
今の盲目考古学を否定して時代を引き下げることは軽くできる。
であれば、宿主空年は、盲目考古学とだっこし臭魔伝を失う。

宿主空年は、大海に浮いた泥船。
でしょ?空腹多ヌキ殿。
146唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/25(金) 22:19:01.92
>今の盲目考古学を否定して時代を引き下げることは軽くできる。

では、お手並み拝見。
147太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/25(金) 22:21:55.46
お手並みは2〜3年前に言ったろう。オマエの考古の測定から50年も
のぼせた位置にあったのを忘れたのか?

オマエは考古考古というだけで、それではその人間はどこのどいつだよ?
言えないんだろ?><
148太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/25(金) 22:23:38.54
>>147 訂正
× オマエの考古の測定から50年も
のぼせた位置にあったのを忘れたのか?

○ オマエのは考古の測定から50年も
のぼせた位置にあったのを忘れたのか?
149日本@名無史さん:2012/05/25(金) 23:06:14.33
唐松山は畿内説か九州説かはっきりしろ。
意味不明な妄想ばかりで、何言っているかさっぱりわからん。
150日本@名無史さん:2012/05/25(金) 23:16:11.14
唐松山は畿内説
畿内説はこんなのばっかり
151唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/25(金) 23:25:43.26
>お手並みは2〜3年前に言ったろう。

はぐらかすお手並みはお上手ですね。
では、再度
>今の盲目考古学を否定して時代を引き下げることは軽くできる。

では、お手並み拝見。
152唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/25(金) 23:27:22.44
 景初二年六月 倭女王遣大夫難米等詣郡求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏送詣京都
 其年十二月詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王彌呼

 正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔賜金帛錦刀鏡采物 
倭王因使上表荅謝詔恩

北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。

景初3年12月に女王卑弥呼は官位を授与している。
だから、正始元年の倭王は、別人である。
倭国は九州女王と大和倭王の2王体制。
153唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/26(土) 00:13:27.67
其年十二月詔書。 この時点で女王卑弥呼は認められている。
正始元年奉詔書。 同一人物に2度も詔書を発行することは無い。
倭王因使上表荅謝詔恩 =晋書 正始元年 東倭重譚納貢。

卑弥呼は、詔書むくいるカタチで洛陽を訪れている。
邪馬台国には、詔書を持って 梯儁等が訪れる。
だから、新倭王は、使いを洛陽に派遣する。
154卑弥呼は朝鮮にいた:2012/05/26(土) 09:36:35.32
太国vs唐松山の編年論争が延々と続いているが、新羅は文武王のときに国史の大改修を行っている。
このときに国史の捏造が行われたと思われる。百済も高句麗も滅びた後だから、何を書こうと自由である。
新羅にとって都合の悪いことはすべて消されたと思われる。

その意味で、新羅本紀の内容と編年はあまり信用できない。
また三国史記も、あまり信用できない。

記紀、中国の正史、三国史記。こういう正当史書とされているものより、
契丹古伝や桓檀古記などに、歴史の真実の一端が語られているのではないか。
155太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 15:55:40.88
とぼけて知らぬふりのお手並みはお上手ですね。
では、再度
>今の盲目考古学の威を借りての時代を引き上げることは具体的にできる。

では、50年ものぼせて上げたオマエの千葉考古班鑑定値逸脱のお手並み再拝見。

抽象的でなく、地についた言ってみろ。ww
156太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 16:00:34.00
>>149
宿主は畿内説かつ九州説かつ畿内兼九州説とを毎回毎回クルクルクルクルと
景行に合わせる為の恣意的操作によりカメレオンの体表のように変わり、
猿猴の落ち着きない挙動の如く、松沢行きデタラメ盲象論を展開します。
157太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 16:13:54.11
>倭国は九州女王と大和倭王の2王体制。

否定してたのが2極を肯定したんだね。ww

まぁ、またクルクルクルクル松沢七変化を宿主は化け狸のごとく変わるに
違いない。pp
158日本@名無史さん:2012/05/26(土) 16:17:22.41
× 唐松山

○ カメレオン山

○ 風見鶏山

○ 蝙蝠山
159太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 16:30:55.36
>意味不明な妄想ばかりで、何言っているかさっぱりわからん。

宿主は侍従を天皇だとか言っています。
超S級のデタラメ・盲象ぶりです。ww

これは秀魔伝という恐ろしい大麻汚染の如き妄想書に冒された奴の脳内が、
秀魔虫という盲象エイリアンにクグツ支配されていることからのご本尊で
ある景行に合わせるという秀魔電のカリスマ化から記紀の転覆を狙うための
確信的危険史想の行動に基づくことにて、インチキ・デタラメの羅列で
あり、各々方はこの恐ろしい虫に支配されないよう重々用心警戒を
する必要に迫られています。
160日本@名無史さん:2012/05/26(土) 17:04:25.44
 伊勢“夫婦岩”に異変!根元まで露出の不気味…巨大地震の前兆か
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120425/dms1204251119006-n1.htm

伊勢「夫婦岩」の古文書記録は相当古い。 古代神道の重要なご神体。
この岩の間の海底に、半島出身の大王の墓があるという。
冬至に巫女が太陽神に祈りをささげていた。
161太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 17:28:10.96
鏡を当時コンパスを使用して製作していたという。

239年鏡もこれだな。当時の鏡作が崇神6年に鏡の改鋳をしたというが、
これもコンパスでだろう。239年が文献と考古学的に観て、崇神6年近隣に
位置することが判明した。宿主空年は葬式送り。ww
162唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/26(土) 17:39:27.28
>>154 >三国史記も、あまり信用できない。

編年は韓国人も疑問視している。下記がそれ。

ハーブ大聖霊提起(奈勿大圣神帝纪)上 | 私たちの歴史の研究[、ポムグル] 月内神経(月嬭神经)で話す。
"ファンギェ(黄鸡:油349/289?)4月、・・・
※月内神経(月嬭神经)はダルリェテフ(达礼太后)が作ったものだというのに、・・・どこまでが月内気
(月嬭神经)の引用であり、出展のか、正確な区別が困難です。 考慮してお読みください。

何が混載されているかと言うと、
奈勿大圣神帝纪の主体部は、60年遅い、北方扶余はこの時空。
扶余と書かれた百済の部分は、46年遅い。
談徳は、そのままの時空。
この3種類の時空を混載している。
163唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/26(土) 17:57:21.61
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁末年]
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]

編年を50年引き下げれば、弥生X様式が崇神になる。
△鏡の副葬は、桜井茶臼山からである。
この中間には、楽浪鏡(公孫氏)の時代がある。

なかみの見えないごった煮 太国倍年。
考古学の数字を動かせば、すべてが動く。
纒向新編年とは、纒向だけの問題ではない。各地の考古学者が集まって
各地の土器と年代の整合性を突き詰めたものが、新編年なのだ。
だから、50年引き下げれば、倭奴國の歴年無主の時空が無くなる。
暦年とは、暦は19年7潤の積み重ねである。だから、この時空が暦年の基礎となる
2章ならば38年。こういう長い時空を暦年と称す。
暦年無主の存在しない時空では、239年銘の説明が出来ていない。

164太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 18:30:34.58
景行元年が239年じゃぁ、鏡多出の重要記事なんて無いからなぁ。ww

つまりウィンドウズ95が1995年ころ集中して使用されたのは誰でも
分かる出来事だったように、これが古代史論の究欠紀 宿主がいう50年後の
2045年に集中使用されたものではない如く鏡作神社の文献の鏡作改鋳の
行われた崇神6年9月にその活動が記事にあり、オマケに宮中の重要事に
直結してくる崇神6年の崇神天皇の倭笠縫の日神の鏡を祭祀した年代と1年
の狂いもなく一致しており、崇神6年に畿内鏡作が鏡作りに専念して
いたことがうかがわれるもので、かように考古の出土鏡と書紀と鏡作神社
の文献が出揃っており、このことは崇神6年が 239年=景初3年 の年代
が近接整合することを意味して考古と文献が一致していることがハッキリ
する。考古は盲目であり記紀が盲導犬に相当するものであるが、鏡の銘文は
文献といえる文で出来ておるから、ここは盲目ではない。

畿内からこの鏡が多出することは、鏡作の活動の盛んな崇神6年に239年鏡
という日本製鏡が大陸人を含めて畿内人が製作したものと判明だ。

これで宿主空年は空年佛の葬式送り。ウワッハッハ!!
165太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 18:36:42.49
ホレ、57年の↓空年はどこにも無い。bububu・・・
成務元年 成務天皇 即位
成務2年 景行天皇を山の辺の道陵に葬る
成務3年 (熊野年代記)熊野 大波で民屋が多く流さる
成務4年 国々に首を置く
成務5年 金神社(岐阜市)物部臣賀夫良命 国造赴任
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務41年 宝蔵院(愛知県刈谷市)同年 創立
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 成務天皇 崩御
166太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 18:41:01.06
1995年集中使用を50年後の2045年に 動かす のが古代史論の究欠紀
たる宿主とは

なかみの見えないごった煮 宿主空年。
考古学の数字 2045年のようにを動かせば、すべてが動く。
167太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 18:51:53.96
侍従が天皇だと言い張る宿主は、日食が数日間継続するという主張を
頑張っている。ppp

これがオオウソのインチキであることは、21日の日食で明白であり、
小学生でも継続するというウソを見破れる。ww
168唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/26(土) 19:25:35.01
>ホレ、57年の↓空年はどこにも無い。bububu・・・

まったくだ。
太国3倍神功紀とは、太国1年に四季が3順しないと百済王家の数字にならない。
つまり、60年分の記事には、四季が60順する時空が必要となる。
しかし、太タヌキ殿の主張する考古学編年にその時空が存在するか?
崇神が景初3年銘をいれたとするならば、
太国崇神は、弥生後期第X様式から、布留1式までの時空となる。
そうすると、崇神治世68年でも足りない。
169日本@名無史さん:2012/05/26(土) 19:45:59.82
邪馬台国基地外だらけだなwww
170ローガン:2012/05/26(土) 19:48:16.13
ここは治ってるのか。kohada.はあかんなあ。
171日本@名無史さん:2012/05/26(土) 20:07:37.92
存在したわけもない天皇がどうたらっておばかばっかりだす
172日本@名無史さん:2012/05/26(土) 20:18:38.50
正直に過去の履歴を公開できない王家とゆうものは

あっちこっちから美味しそうな酋長さんピックアップしてきて

年代順に流し込んで整形してからに

嘘で自らの過去を装飾しがちなもんだよな

んでそのケースの場合においては

流し込まれた美味しそうな酋長さんたちの記事は

もとネタベースで少し曲げて記述されたりすることもあったりするから

嘘で自らの過去を装飾された編纂物も

あながちまるでの役立たずとゆうことでもないのさな
173唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/26(土) 20:34:09.53
>景行元年が239年じゃぁ、鏡多出の重要記事なんて無いからなぁ。ww

景初3年銘とは、何をあらわす?
そこから突き詰めねば、答えは出ない。
魏(景初3年)と全く関係が無ければ、不必要である。
太タヌキ殿は、その年が景初3年であったからこの銘を鋳れたとのたまうが、
魏と交渉を持ったことのない崇神にとっては、無意味な模様でしかない、つまり、まだ漢字を知らない。
そして、△鏡は晋時代の暦である。卑弥呼とは関係のない、その後の鏡である。
300年で舶載鏡と倣製鏡は分けられ、そのどちらにも景初3年銘は存在する。
300年時点で、大和は多少の漢字を知っている。または、文字と認識できている。
ということは、300年ころを考えねばならない。
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。(東夷九種は東夷9国となる。)
280年。281年。282年。286年馬韓等。287年。288年。289年。290年。
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。
東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。東夷校尉を離れた文淑を東夷が尋ねる。
304年 建武元年六月 東夷校尉崔,鮮卑大都督慕容廆等一百八十人上書勸進,
308年 永嘉の乱始まる。

この東夷に倭国大和は含まれる。
そして、東夷の中では、そこそこの位置を占める。
東夷の中では、最高の位置でもよい。
その根源が、邪馬台国官伊支馬の朝貢にある。
174日本@名無史さん:2012/05/26(土) 21:46:11.00
卑弥呼様に会いたい
175太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 22:05:04.86
空腹多抜き殿

まったくだ。
宿主空白神功紀とは、宿主空年に四季が0順しないと日本書紀の数字にならない。
つまり、空白年分の記事には、四季が0順する時空が必要となる。
しかし、空年多ヌキ殿の主張する考古学編年にその時空が存在するか?
崇神が景初3年銘をいれたとするならば、
太国崇神は、弥生後期第X様式から、布留1式までの時空となるとは定まらない。
そうすると、崇神治世68年でも足りないとは言えない。
何故か? 考古では1年単位でしぼれっこない。ただし出た考古ブツで
年代があるのは使い物になりうる。239年が景行元年では鏡作が透明人間
さながら。ppp
176太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 22:13:08.01
>魏と交渉を持ったことのない崇神にとっては、無意味な模様でしかない、つまり、まだ漢字を知らない

畿内から景初3年銘文鏡が多出していて王権威学者が舶来ではないと言って
る以上、相当魏と間接的には関係があるということになる。畿内から出て
るから、この主張は暖簾に腕押しなり。ww

>この東夷に倭国大和は含まれる。
>そして、東夷の中では、そこそこの位置を占める。
>東夷の中では、最高の位置でもよい。

そうなると
漢書王莽伝(元始5年=西暦5年)

 東夷王 大海を渡り国珍を奉ず



 神武元年≠西暦41年

が成立しない。つまり41年説はデタラメとオマエは認めたわけね。ww
177太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 22:16:09.66
>>176 訂正
×
神武元年≠西暦41年

が成立しない。


神武元年≠西暦41年

で等号が成立しない。
178唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/26(土) 22:34:36.27
>考古では1年単位でしぼれっこない。

だから、文献とも整合させねばならない。
239年 邪馬台国官伊支馬による都市牛利の派遣。
ここが畿内大和の発展の基本となる年なのである。
その記年は、晋の時代になる。これが、現在の考古学の考え。

ホケノ山(225〜250年)楽浪鏡、埴輪(特殊壺)埴輪は垂仁末からであるから、
ここに垂仁を配すことが出来る。であるならば、伊支馬は垂仁になる。

>考古学編年にその時空が存在するか?
西暦  年号元旦朔  増し調整   暦日
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日 
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日 
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日 

暦日は実際の日数の積算であり、空白年は”4章1日”で表記している。
1章=6940日、4章につき1日を減ずる。空白年を日数に変換して、実際の日数に加えれば、書紀の日数となる。
事実の日数との誤差は1日であろう。
各天皇紀には、積算すると”4章1日”などの空白年が存在する。
だから、実際の日数(年数)が考古学と合致すればよい。
179唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/26(土) 22:53:59.99
漢書王莽伝(元始5年=西暦5年)  東夷王 大海を渡り国珍を奉ず で
 神武元年≠西暦41年 が成立しない。

北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
王莽伝も倭奴國の朝貢だろ?
大和の初は、垂仁による田道間守が最初。
書紀に神武時代の朝貢の記事は、無い。
そして、5年目頃は、畿内をまとめる重要な時期。
神武天皇三一年(辛卯前六三〇)四月乙酉朔◆卅有一年夏四月乙酉朔。皇與巡幸。
因登腋上■間丘。而廻望國状曰。妍哉乎國之獲矣。
それ相応に平定できたのは、31年ころ?
180太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 22:55:52.84
>であるならば、侍従伊支馬は天皇垂仁になる。

ハハハッ・・・ 松沢病院ご歓迎 pupupu・・・
181太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 22:59:10.16
>262年 成務元年甲申朔 3章1日←ハハッ↓57年空年が見当たらない 大ウソ
成務元年 成務天皇 即位
成務2年 景行天皇を山の辺の道陵に葬る
成務3年 (熊野年代記)熊野 大波で民屋が多く流さる
成務4年 国々に首を置く
成務5年 金神社(岐阜市)物部臣賀夫良命 国造赴任
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務41年 宝蔵院(愛知県刈谷市)同年 創立
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 成務天皇 崩御
182唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/26(土) 22:59:32.68
前漢鏡を副葬するのは、前原など九州の墳墓であり、
畿内で前漢鏡の副葬は見つかっているのか?
無ければ成立しないだろ。
183唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/26(土) 23:05:34.12
この墳丘墓が吉武遺跡樋渡墳丘墓です。
樋渡墳丘墓

樋渡墳丘墓は、径約24mのほぼ円形の墳丘墓で、墳丘は削平を受けていますが
約2.5mの高さが残っていました。墳丘内には、甕棺墓27基、木棺墓一基があり、
年代は前一世紀から後一世紀と見られています。木棺墓と6基の甕棺墓には、
銅剣・鉄剣・鉄刀のうちいずれか一口が副葬されており、鉄鏃、前漢鏡(重圏
文星雲鏡、面径約8cm)、玉類を持つものもありました。
184太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 23:06:27.08
>240年 景行元年壬申朔 2章0日(38年の空白)←↓大ウソ
景行の代に2章38年分空年は存在せず、偉そうにメトン出しても空年無し

【景行在位年代年表】

景行元年 景行天皇 即位:紀
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后:紀
景行3年 紀伊行幸:紀
景行4年 美濃行幸:紀
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建 :由緒等
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建:同上
景行7年 国々の神社に奉幣:九鬼文書
景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山竹生島と同頃発現:由緒等
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生:紀
景行13年 熊襲平定:紀
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生:由緒等、紀
景行17年 宮崎県 子湯 行幸:紀
景行18年 筑紫諸国 行幸:紀
景行19年 筑紫から還幸:紀
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ:紀
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座:由緒等
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ:法勲寺跡 讃留霊王神社伝承
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命:香川善通寺市大麻神社伝承
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立:由緒等
景行25年 武内宿禰 北陸巡察:紀
景行26年 景行天皇 軍議を開く:佐賀 王子権現 高寺縁起
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定:紀
景行28年 日本武尊 凱旋復奏:紀
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀:由緒等
185太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 23:07:23.37
空年38年は無い。

【続 景行在位年代年表】

景行31年 比地良山 杉の大木 香を放つ:伊豆山縁起
景行33年 久留米 大善寺玉垂宮 創建:高良玉垂宮神秘書
景行36年 胆咋宿禰 五十琴姫を妃とし五十功彦命を生む:大成経
景行39年 始めて熊野新宮を建つ:歴史徴(radio氏)
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す:紀
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立:由緒等
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建:由緒等
景行43年 日本武尊 死:紀
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ:由緒等
景行46年 建部神社(滋賀県)日本武尊を祀る:由緒等
景行51年 若帯日子 立太子:紀
景行52年 播磨稲日大郎姫 死:紀
景行53年 東国 行幸:紀
景行54年 東国から還幸:紀
景行55年 彦狭島王 死:紀
景行56年 御諸別王を東国領に命ず:紀
景行57年 坂手池を造る:紀
景行58年 近江巡幸:紀
景行59年 熊野行幸:熊野年代記
景行60年 景行天皇 崩御:紀
186唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/26(土) 23:14:12.26
>>181

考古学でその時空を証明する必要がある。
例えば、
纏向4類(後)箸中山(260±10年、最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)  仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区、西新町遺跡)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山  308年永嘉の乱
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 [313年仁徳元年]
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳 
纏向5類(後プレ)椿井大塚山  [323年神功49年]
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。316年晋滅亡、兵の引き上げ

纏向5類(プレ)渡海。纏向5類(後プレ)316年晋滅亡。
成務仲哀とできる時空は、わずかである。
187唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/26(土) 23:31:44.89
公孫氏、東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,
(東夷九種)を東夷九國にしてその他は各九國に付して治めた可能性が有る。

公孫度→康→文懿→欽→東夷校尉文俶。
文俶は東夷校尉となり、290年 文俶は惠帝(290〜306)に仕える。

266年 泰始二年 十一月己卯,倭人來獻方物。
273年 泰始九年 夏四月戊辰朔,日有蝕之。(神功元年 あづないの罪)
274年 泰始十年二月,分幽州五郡置平州。
276年 咸寧二年二月丙戌,東夷八國歸化。秋七月,東夷十七國內附。
277年 咸寧三年是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落 內附。
278年 咸寧四年三月東夷六國 來獻。是歲,東夷九國內附。
280年 太康元年六月東夷十國歸化。秋七月,東夷二十國朝獻。
281年 太康二年三月東夷五國朝獻。夏六月,東夷五國內附。
282年 太康三年九月,東夷二十九國歸化,獻其方物。
286年 太康七年八月,東夷十一國內附。是歲,扶南等二十一國、馬韓等十一國遣使來獻。

この中に倭国が含まれないと思っているのか?
188唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/26(土) 23:38:21.58
公孫氏、東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,

ホケノ山(225〜250年)楽浪鏡。埴輪
ここに楽浪鏡があるということは、任那を通じて公孫氏と関係があったのである。
公孫氏は、238年で滅ぶ。

だから、編年を50年も引き下げると説明がつかなくなる。
△鏡はともかく、卑弥呼の鏡は邪馬臺國王が受け取っている。

189太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/26(土) 23:39:05.34
>成務 262〜265年(基本的に57年の空白)は↓ホレッ、大ウソww
成務元年 成務天皇 即位
成務2年 景行天皇を山の辺の道陵に葬る
成務3年 (熊野年代記)熊野 大波で民屋が多く流さる
成務4年 国々に首を置く
成務5年 金神社(岐阜市)物部臣賀夫良命 国造赴任
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務41年 宝蔵院(愛知県刈谷市)同年 創立
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 成務天皇 崩御
190唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/27(日) 00:00:03.61
成務13年 山梨岡神社
社伝によれば、日本武尊東征の際の勧請とする。 熊野権現と国立明神を合わせた神社で、
『甲斐国志』では、社名を熊野権現としている。 風土記には「山梨岡」、

日本武尊は成務時代の人物か?
191日本@名無史さん:2012/05/27(日) 00:08:21.68
トムとジェリーかよお前ら
192唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/27(日) 00:37:15.27
景初3年 『詔書報』 詔書にむくいるかたちで朝貢をし、そこで女王卑弥呼は認めれれる。
正始元年 『奉詔書』 詔書を奉じて倭国を訪れる。奉じただけでは、相手の同意をまだ得ていない。
同意した相手(倭王)は、洛陽に謝意を伝える使いを派遣する。
倭王因使上表荅謝詔恩=正始元年 東倭重譚納貢。
女王卑弥呼と倭王は、同一人物とはできない。2王は離れた地域でなければならない。
同一地域に2王は成立しない。

邪馬臺國王はその位を正始元年に認められる。
239年 景初3年 邪馬台国官伊支馬。都市牛利(たしうり、)
ホケノ山(225〜250年)楽浪鏡・埴輪(穴あき壺)
193太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/27(日) 11:38:22.38
そんなことを言ってはいな〜い。
山梨の語源になると言ってるんだよ。

時代の人物を言うくらいなら、日食が数時間続くというオマエの脳内の考え
たデタラメを恥じるの先だ。ww
194日本@名無史さん:2012/05/27(日) 11:47:24.15
年齢制限のない健全サイトにまで無差別に表示される、
携帯エロバナーを撲滅するべく具体的な行動に移そうというスレです
http://c.2ch.net/test/-/internet/1323983294/i
195唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/27(日) 15:24:53.89
>日食が数時間続くというオマエの脳内の考えたデタラメを恥じるの先だ。ww

先の金環食は長く続いた。
日食が数日間続くという太タヌキ殿の脳内の考えたデタラメを恥じるの先だ。ww
弥生後期後半は、200年ころまでである。
弥生後期後半が、250年ころまで続くという太タヌキ殿の考えを修正するのが正しい。
太タヌキ殿が主張する、太国3倍年の神功紀。これで、記事である百済王朝を見た場合、
1太国3倍年には、四季が3順する普通の3年間が必要である。
太国倍年が成立しないことは、太タヌキ殿も認めざるを得ない。
つまり、成務60年分の記事で証明できるのは、四季の60順分の時空である。
196太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/27(日) 15:42:35.00
オマエだろうよ。日食が数日間日を経て続くを今後も変えないで編年し、
274年をそのインチキ神功摂政前年だと言い張ったのは・・・。ww

コチラは日食の全欠けは数分間しか起こらないと言って、オマエの日食が
数日間続くというオマエの松沢病院希望説をデタラメ論だと折伏してるわけ
だ。www  コチラが言ってるだと〜ppp ハハハ・・・これでは檻の中で
すごすんだな。><

空腹多ヌキ殿が主張する、宿主空年の神功紀。これで、記事である神功前年から見た場合、
1宿主空年には、四季が0順する普通の空年間が必要である。
宿主空年が成立しないことは、空腹空年多ヌキ殿も認めざるを得ない。
つまり、成務60年分の空年主張で証明できるのは、四季の0順分の時空である。
197日本@名無史さん:2012/05/27(日) 16:08:40.32
二人とも檻の中で乳繰り合ってろキチガイコンビ
198太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/27(日) 16:13:55.98
>>197
オマエもついでにどうだ。ww
199唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/27(日) 17:27:26.02
>日食の全欠けは数分間しか起こらない

この闇を、「日夜有別」と書いている。
これを、「日々を夜がわける」と読むのが太タヌキ殿。
晝暗如夜。已經多日。
晝=明るい。夜=暗い。 これが通常の常識。日食時には、
日の中で、明るい→暗い→明るい。という事象が起こる。これを
「已經多日」とと表記したものなのである。

太タヌキ殿は、四季が2順、3順する1年が存在すると主張する。
日を夜(闇)が分ける。このように認識するのが正解である。
「四季が2順、3順する1年が存在する」と同様に「日々を夜が分ける」と読む。
1日の中で「すでに多く日を経る」なのである。
まあ、暗黒の数日間であれば、太国倍年で証明してくれるであろう。
弥生後期後半は、250年ころまで。こちらの証明もしてくれるのかな?
弥生後期後半に布留1式(△鏡)は含まれる。
200太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/27(日) 18:21:27.27
そんなのはすりぬけは即興の裏づけもなしのいい訳であり、何ら信用性は
無い。
数分間の皆既なら常に夜だという「常夜」でなく「少夜」と書くのが
当然だ。

つまり日を経てという数日間も、また常夜だという永い夜が継続したという
記述が神功元年前年の記述だから、これは日食ではな〜い。

空年多ヌキ殿は、四季が0順、零順する多年が存在すると主張する。
日を夜(闇)が分ける。このように認識するのは核心の箇所ではない。
「四季が0順、零順する1年が存在しない」と同様に「日々を夜が分ける」と
読まないから『分』の文字はない。。
数日の中で「すでに多くの日を経る」の数日間なのである。

まあ、暗黒の数日間であれば、宿主空年がインチキである事が証明される。
神武元年は、41年ころまで。こちらの証明も抽象的数字の羅列でなく、
具体的に証明してくれるのかな? まぁまた数字の羅列でそれ以上説明でき
ない。できないんではインチキ・デタラメである。
弥生後期後半に布留1式(△鏡)は含まれるといっても、盲目考古では
精度がよくて10年であり1年の精度は無い。ただし考古のブツに年号が
あれば文献ともなるから、これは信用度が大きい。
201唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/27(日) 19:13:56.44
http://logsoku.com/thread/awabi.2ch.net/poverty/1327754284/

 韓国南部の貝塚で、弥生時代の滋賀県北部を中心に使われた土器が出土した。
韓国の遺跡では、玄界灘を挟んで向き合う九州系の弥生土器が見つかっているが、近畿系の土器は初めてだ。
時期は倭国(古代日本)が乱れ、各地域の勢力が互いに争っていたとされる弥生後期後半(2世紀後半)。
卑弥呼が邪馬台国で女王となる直前だ。

崇神(188〜216年) ホ34129 ミマナのアヤ
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき ツノひとつ あるヒトこゝに
たゝよえり コトバきゝゑず ハラのトミ ソロリヨシタケ よくしれば これにとはしむ そのこたえ ワレはカラクニ
キミのミコ ツノガアラシト
202唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/27(日) 19:33:22.55
弥生中期後半前漢鏡埋蔵地の実年代私見
http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/page018.html

 私は、中国と日本の文物文化の時間差は、通常で半世紀以上、まれには1世紀以上に及
ぶ例があるとみています。
 私は半世紀以上の年代差をあてる考え方ですので(70年の年代差で用心のために±30年)
 従って立岩式甕棺の弥生中期後半後期は、紀元1世紀中葉±30年にあたることになり、弥生後期初頭
とされる橋口氏のKWa 式(桜馬場式甕棺)に貨泉6〜8枚が出ている伝承により【東宮裾k1】、私見
では弥生中期は紀元90年±30年の時期で終了すると考えざるを得ないことになります。

神武(42〜63年)弥生後期の始まり。
つまり、弥生中期の終了は、40年程度で良い。年代差修正は、ここで20年。
203太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/27(日) 19:50:56.14
崇神(≠188〜216年)
204唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/27(日) 20:15:41.30
青谷上寺地遺跡 抜粋。
 鳥取県青谷町青谷、青谷上寺地遺跡から出土した弥生時代後期後半(約千八百年前)
の頭がい骨三点から脳の一部が確認され 今回の発見について、井上教授は「気温の低い季節に死亡し、粘土質の土や水(湿地)の中に急速に埋没したため・・・
脳が残っていた頭骨には、刀か、やじりによるものと見られる4カ所の殺傷痕があった。
少なくとも90数体分が出土した。遺跡では人骨がバラバラに散乱していた。出土した人
骨には殺傷痕のあるものも多く、殺傷痕は性別、年齢を問わず、胸骨、背骨など人体の前
後も問わずに残っているという。また、この弥生人達は、遺物や骨の形などから判断して、
渡来系の可能性が高いと考えられている。

考古学の言う時代を50年引き下げると、これも崇神(237〜)で説明する必要がある。
崇神をここに設定すれば、崇神(188〜216年)となる。後漢193年冷夏。
飢饉。飢餓、餓死、食人、翌春に逃散のピークが来る。

>崇神(≠188〜216年)。この時空が嫌なら、崇神(237〜)で説明する必要がある。
205唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/27(日) 20:17:19.87
  奈良盆地には拠点集落といわれる、弥生中期から後期の環濠集落が存在する。
主な拠点集落として、磯城郡田原本町の唐古・鍵遺跡をはじめ、天理市平等坊・岩屋遺跡、桜井市芝遺跡、桜井市大福遺跡、橿原市四分遺跡、御所市鴨都波遺跡などが知られる。

不思議なことに、弥生後期後半から末ころ、ほぼ時を同じくして環濠が一斉に埋没するのである。唐古・鍵遺跡では大量の土器が環濠に捨てられ、埋め立てられている。土器は意図的に捨てられたらしく形をとどめるものが多い。
奈良盆地では弥生後期後半に、なにか大きな社会変動が起きたと考えられる。
206日本@名無史さん:2012/05/27(日) 22:00:31.62
青谷上寺地の人骨は食人じゃなかろー

207太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/27(日) 22:06:58.52
崇神(188〜216年)とならない。

237年はとうに説明済みだ。

↑この時空が嫌なら、神武(41〜)で説明する必要がある。
しかしいつも馬鹿らしい抽象数字の羅列でその具体性は説明できない。ww
208日本@名無史さん:2012/05/27(日) 22:10:08.54
>>205
外部勢力の関与
209唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/27(日) 22:56:56.91
青谷上寺地遺跡・近江伊勢遺跡・奈良盆地各遺跡、これらの変動は、すべて後期後半で説明されている。
特に、青谷上寺地遺跡の人骨は、バラバラに解体されている。
崇神6年、民の離散。この時であれば、これは、新羅192,3年倭人大餓・後漢193年冷夏。
この出来事ひとつで説明できてしまう。
四道将軍は、この時の逃散し、山野に流浪する旧農民をもとの農民に返す。
これで、畿内安穏となる。もし放置すれば、各地に強盗・盗賊団の発生を招く。

239年にこのような出来事を設定できるか?
無理がある。鏡を作る民も離散している。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
[一]袁山松書曰:「是時羣賊起,天下始亂。
讖曰:『寒者,小人暴虐,專權居位,無道有位,適罰無法,又殺無罪,其寒必暴殺。』」

適罰無法,又殺無罪, ←飢えがひどければ、人々は殺し合い、相食む。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。
養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」。刑罰慘也←刑罰にあたらない罪で人を殺す。
もちろん、食料にするため。

この様な出来事のあった元の居住区に帰ることを拒否する人々は、奈良東山麓に居を移す。
その後処理として、それまでの全てを濠に捨て、命を落とした民の鎮魂の意味もこめて
モモソ姫の墳墓を築く。
だから、残った民はこぞって参加したのである。
210唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/27(日) 23:04:02.59
>常に夜だという「常夜」でなく「少夜」と書くのが当然だ。

「常夜行」とは、(天の)常の夜の行い。
これが、昼間に行われたから、記事となったのである。
通常の夜ならば、記事にならない。
1年が120日とか、1ケ月が10日とか、”年”や”月”の単位を知らないものの言い分。
211日本@名無史さん:2012/05/27(日) 23:04:43.73
長雨とそれに伴う洪水の結果だろ
そして日照の儀式を行って名声を得たのが天照こと卑弥呼
212日本@名無史さん:2012/05/27(日) 23:07:47.11
青谷上寺地の人骨は男は30代、女は20代が多いんだぜ。赤ちゃんの骨が約10体分。
全身に殺傷痕がある。集落で一番役に立たないジイさん達が若モン襲って、ジジとババで食って
生き延びてどーすんだよwww

213太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/27(日) 23:10:30.98
1年が120日とか、1ケ月が10日とか、”年”や”月”の単位を知らないものの言い分。

オマエは1年が265日だとか385日だとか言ってるから、オマエは”年”や”月”の単位を知らないものの言い分
と、オマエ自身が”年”や”月”を知らないと言ったことになる。ww
214太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/27(日) 23:13:16.00
「常夜行」とは、(天の)常の夜の行いではない。「常」にとは永続性を
いい、数分間ではない。
これが、昼間に行われていても、少夜と書かない記事となったのである。
215日本@名無史さん:2012/05/27(日) 23:14:19.18
太国の肩を持つわけではないが、日食が何日も続くわけがない
何日も続いて日照が切望される状況というのは長雨しかない
216日本@名無史さん:2012/05/27(日) 23:18:02.96
>青谷上寺地遺跡の人骨は、バラバラに解体されている

当初は村ぐるみで惨殺されて溝に遺棄されたとの見方があったが
一体ごとの骨の散乱状態を調べた結果、戦死者の骨が掘り起こされて
他の埋葬骨と一緒になったと推測されている

217日本@名無史さん:2012/05/27(日) 23:24:26.54
二次葬とかって関係してる?
218唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/27(日) 23:30:34.42
三國史記 卷第二十三 百済本紀第一  始祖温祚王
三十三年 春夏 大旱 民饑相食 盜賊大起
己婁王 三十二年 春夏 旱 年饑民相食

半島の民にあっては、飢饉に相食むのは常識。だから、青谷上寺地でも常識。
そこに住み続けるのも常識の範囲である。
大和では、同じことが常識の範囲を超えた。だから、人々は居住区を捨てたのである。

>戦死者の骨が掘り起こされて

脳みそが腐らず残るためには、再葬はない。

>日照が切望される状況というのは長雨しかない

夜の如き闇の説明にはならない。
219日本@名無史さん:2012/05/27(日) 23:38:11.55
>脳みそが腐らず残るためには、再葬はない

再葬じゃないだろ。 生で食ったのか?w


220太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/27(日) 23:43:45.38
オーストラリラ北部で生起する日本列島がスッポリ包まれる極超大雲のような
気候現象が起きて、数日間という長きに渡り天の暗黒状態がつづいたという記述
が書紀の神功元年前年の記事であり、この前の月曜日の金環日食とか今までの
皆既日食でも全欠け(但し前者はリング状が残る)はたかが数分間の夕暮れか
一時真っ暗の少夜であり、常夜という形容の〜常に永い夜の状態とは言えない。

うっちゃりはいくら言い訳を考えても、奴の即興のデタラメ抗弁と分かる。
221日本@名無史さん:2012/05/27(日) 23:46:17.80
>>218
天気雨しか見たことないの?
変わった人だね
222唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/27(日) 23:46:58.80
首は食わずに捨てる。
体は、解体して食べる。その骨を一括して捨てる。
だから、バラバラなのである。
再葬とするためには、頭がい骨がなさすぎる。
223太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/27(日) 23:58:31.93
>>215
なお、稀代のデ〇パを把握して下さい。
224日本@名無史さん:2012/05/27(日) 23:59:04.91
戦利品として持っていかれたんじゃないの?
225唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/28(月) 00:00:48.60
>天気雨しか見たことないの?

雨なら雨の状況説明は要らない。

あづないの罪を説明するために使われている。
晝暗如夜。
あづないの罪とはア=太陽・ヅ=月。これが重なって空から消える。両方とも見えない。
祝子二人を同じアナに埋める。二人が重なって亡くなる。
雨の説明か?
226日本@名無史さん:2012/05/28(月) 00:02:23.63
だから再葬じゃないだろって。
走って逃げ回ってる住民を全身に矢で射て殺すのか?
人骨には焼かれた痕でもあるのか?
あのさ、こじつけずに状況からもっとも可能性の高いのを選択しろよw

227唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/28(月) 00:03:53.63
>戦利品として持っていかれたんじゃないの?

台湾の高尾族か。
甕棺墓にも、傷を受けた遺体はある、首は付いている。
228日本@名無史さん:2012/05/28(月) 00:09:30.84
最古の首塚って将門塚?
229日本@名無史さん:2012/05/28(月) 00:10:59.09
>>212
いわゆる出雲の国譲りだな。実質的には、高天原によって征服された。
崇神天皇の時代に頻発する災いは、このときの出雲の祟りだと考えられた。
そこで、出雲の大物主神が祀られるようになり、出雲征服の主導者である
天照大神と倭大国魂神(高皇産霊尊)は宮殿を離れざるを得なかった。
230唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/28(月) 00:17:00.90
>こじつけずに状況からもっとも可能性の高いのを選択しろよw

とりあえず、畿内全域で大変化があった。
これを戦争の正にするためには、戦争とできる遺物が各地で出土しなければならないが
それがない。九州は思考外とする
考古学は、これを2世紀末ころとする。後漢193年、新羅192,3年と時代は同期する。
飢饉、大餓であれば、この変化に人為は働かないで、すべての変化を一括して説明できる。
この過酷な自然現象を除外すると、人為が働かなくてはならないが、
記紀にそれとできる記述が無い。遺物の確認もできない。
しかし、大変化は存在する。考えてくれ。
231唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/28(月) 00:29:31.88
>いわゆる出雲の国譲りだな。実質的には、高天原によって征服された。

これは、結果論であり、その過程が見えない。
現実は、近江の大物主が崇神に仕え、自身は出雲に引っ込む。
そのために、初子タタネコを崇神に仕えさせる。
その初めに何が起きたか?が重要なのである。
飢饉の惨状を悲観した近江伊勢や、トヨケが崇神に身を寄せる。
翌年には、大物主が崇神に領土を託す。
北陸方面には、離散した、北方の住民が南下してくる。それを押さえるべく大彦を派遣する。
旧朝廷派は、庶母出身の崇神を倒すべく、ハニヤスの乱を画策する。
232太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/28(月) 10:52:03.00
>>218
稀代のデ〇パを把握されたい。
233太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/28(月) 14:59:04.35
>>221→>>?
 ↓
稀代のデ〇パを把握されたい。
234日本@名無史さん:2012/05/28(月) 16:34:33.01
もう唐松山は、出入り禁止でいいだろう。
235唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/28(月) 19:14:03.14
>こじつけずに状況からもっとも可能性の高いのを選択しろよw
崇神5,6年=新羅192,3年この設定以外なら、
太タヌキ殿が崇神5,6年=239年と唱えているから、太タヌキ殿に聞くという手がある。
236太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/28(月) 19:50:32.13
崇神5,6年=239年この設定以外での、
空腹多ヌキ殿が崇神5,6年=新羅192,3年と唱えているから、空腹多ヌキ殿に聞くという手があるが、
当然千人空腹狸の農民仲間は渡海できないから、後者は泥船沈没論のデタラメ。

237太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/28(月) 19:56:23.36
>>234
稀代のデ○パを把握してるようですね。
238唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/28(月) 20:35:06.78
>稀代のデ○パを把握してるようですね。

だから、それを確信に変えるべく
崇神5,6年=239年=考古+50年。で教えてあげなさいよ。
239太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/28(月) 21:49:20.08
>崇神5,6年=239年=考古+50年。で教えてあげなさいよ。

とぼけキング兼空腹多ヌキ殿

 オマエのは50年も鑑定値から逸脱してたわけで、50年引くんだよ。
千葉歴博考古の鑑定値はコチラが正解である。ちゃんと鑑定の幅の範囲内
にピタリと入っていタので、こちらの自慢だな。ww

このときオマエのは50年も忍者のインチキ・エンタメ高飛びだったのだ。
つまりオマエのは当時の掲示板スレ人の中で最も鑑定値からひどく逸脱して
たわけで、すでにオマエの〜大中臣に叛旗を掲げるインチキは露呈済み。
240日本@名無史さん:2012/05/28(月) 22:29:30.67
橋下 「今の歴史教育はおかしい。現代史をもっと教えるべき。ナウマン象とかどうでもいいだろハゲ」
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1338211209/
241唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/28(月) 22:53:30.11
http://inoues.net/study/uso_rekihaku.html
歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤か
も出土し、箸墓が築造された時期の土 器と考えられている「布留(ふる)0式」が
使われた期間を240〜260年に絞り込んだ。

 箸墓古墳はこれまで、土器の形式によって年代を絞り込む考古学的手法によって、27
0年前後の築造とされ、中国の史書「魏志 倭人伝」に記された卑弥呼の次の女王、壱与
(いよ)の墓との説もあった。放射性炭素を利用した年代分析は、炭化物に不純物が混じ
ると年代がずれ、誤差が大きいとして、批判的な見方も根強い。研究チームは、箸墓古墳
出土の土器だけでなく、周辺の古墳で見つかった土器でも測定を試みており、ここでも、
同様の年代が出たことから、「分析結果の精度は高い」としている。

年代測定を行った国立歴史民俗博物館の研究チームは、箸墓古墳や他の遺跡出土の土器な
ど数千点の放射性炭素年代を調査。箸墓古墳の周(しゅうごう)から見つかった「布留0
(ふるゼロ)式」とよばれる土器は、西暦200〜300年代の測定結果が出されたが、
これより少し新しいとされる形式の土器「布留1式」では270年ごろと割り出したこと
などから、「布留0式」を240〜 260年に絞り込むことができたという。
242唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/28(月) 23:04:18.27
>千葉歴博考古の鑑定値はコチラが正解である。

太タヌキ殿は、箸墓(240〜260年)を正解とする。
私は、箸墓(260±10年)であるから、10年の誤差である。

箸墓(240〜260年)円筒埴輪
太国 崇神元年=237年
円筒埴輪は、崇神世に存在するんですか?
 
243太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/28(月) 23:11:21.14
今それをこっそり置いたらどうなるんだ?
244太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/28(月) 23:13:43.52
空腹多抜き殿
皆既日食は、数日間継続するんですか?
245太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/28(月) 23:17:58.48
空腹ツツミ多ヌキ殿

侍従が天皇だそうですが?ww
246唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/28(月) 23:49:27.89
>今それをこっそり置いたらどうなるんだ?

朝顔形埴輪を首まで埋めると穴あき壺の胴半分を埋めるでは、見た目があまり変わらない。
ホケノ山の穴あき壺は、木槨が腐って落ち込んだ時に同時に中に落ち込んだ。
多少の差はあっても、埴輪は胴半分を埋める。
その後の祭祀で饗献した土器は、埋めることは無い。だから、墳丘裾部に転がり落ちた土器は、
正しい墳丘築造時とは限らない。祭祀が50年後であれば、50年後の土器が使われる。

ただし、注意しなくてはならないのが、後方部への再葬、埴輪を含む部分で新しくなっている可能性がある。

箸墓の土器は布留0式である。庄内3式が九州へ持ち込まれた後の墳墓となる。
そして、△鏡は布留1式の桜井茶臼山以後。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行による九州
纏向4類(前)・纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)  仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]

太タヌキ殿は、今の考古学の数字をそのまま使うのですか?
247唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/29(火) 00:11:38.61
>これより少し新しいとされる形式の土器「布留1式」では270年ごろと割り出したこと
273年日食・桜井茶臼山を磐余若桜宮の指標とすれば、
273年の日食は、神功元年の指標とできる。
248唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/29(火) 00:29:37.65
>侍従が天皇だそうですが?ww

誰が、何天皇を侍従としたんですか?
249太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/29(火) 10:39:37.64
そんなものは垂仁の埴輪の勅で、先帝の時代の陵墓にも埴輪を起きましょうとか
とかなったことからだ。
まだ先帝の時代の影響がかなり残っておる。

全然問題はない。問題なのは日食が数日間続くとか垂仁天皇が侍従との一人二役
だとか空腹農民がメシも永く食わないで千人も渡海したとかいう松沢病院ご歓迎
の話をしてる奴の脳内の構造だ。ppppp
250太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/29(火) 10:49:09.81
>成務 262〜265年 ←大ウソ(↓基本的に57年の空白は無い)  
成務元年 成務天皇 即位
成務2年 景行天皇を山の辺の道陵に葬る
成務3年 (熊野年代記)熊野 大波で民屋が多く流さる
成務4年 国々に首を置く
成務5年 金神社(岐阜市)物部臣賀夫良命 国造赴任
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務41年 宝蔵院(愛知県刈谷市)同年 創立
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 成務天皇 崩御
251唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/29(火) 20:22:33.85
>先帝の時代の陵墓にも埴輪を起きましょうとかとかなったことからだ。

研究チームは、箸墓古墳出土の土器だけでなく、周辺の古墳で見つかった土器でも測定を試みており、
ここでも、同様の年代が出たことから、「分析結果の精度は高い」としている。

太タヌキ殿、太国倍年は、なんでもアリなんですね。
私の場合、成務・仲哀は布留0式に収まると考えております。
太タヌキ殿はその成務をどの時代と?
252太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/29(火) 22:01:23.91
空腹腹ツツミ多抜き殿

ププ・・・ なんでもありはコチラの言うセリフだ。ww

精度が高いとはどうしてで分かるんだネ?
た〜だ精度が高いというだけで、何の根拠がどこにある?www

オマエが精度が高いと理由もなしに言ってるだけのこと。
精度はよくて10年でいいほうだ。1年単位の精度なんかない。
笑わせるな。ww
253唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/29(火) 22:40:33.66
日本書紀+文献+考古学の知見。
この三身一体。

>精度はよくて10年でいいほうだ。1年単位の精度なんかない。

太国倍年の精度はよくて10年でいいほうだ。1年単位の精度なんかない。
と言いたいんですかね?
太国倍年の崇神元年=237年。
箸墓=240±10年 埴輪の存在。
埴輪の存在から、箸墓はモモソ姫の墳墓としては落第である。
その落第の年代に崇神を配することも落第である。


254太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/29(火) 22:45:56.84
オマエは埴輪を運べない体躯なのか?ww

ハシより重い物を持ったことがない。//

ww〜なるほどねぇ〜〜。pp
255太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/29(火) 22:47:14.57
大中臣の指示は誤魔化しがない。

落第文書は秀魔電。
256唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/29(火) 23:15:38.10
323年 神功49年 半島占拠・領土分与・千熊長彦
326年 神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)
これを正しいと出来るのは、奈勿大圣神帝紀。
奈勿大圣神帝7年水羊(癸未)【323年・383年】
三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多 聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗

韓国考古学は、北方扶余の遺物を3世紀末か4世紀初めと言う。
であるならば、奈勿大圣神帝7年は、323年が正しい。
奈勿大圣神帝7年 323年癸未・神功49年己巳 千熊長彦。
奈勿大圣神帝10年 326年丙戌・神功52年壬申 七支刀。

このように、神功紀が引き延ばされているという事実はない。
この数字が正しければ、
神功皇后 275年〜343年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山 誉田御廟山までは110年。
応神天皇 344年〜384年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。

この様な編年が得られる。
275年≒布留1式≒桜井茶臼山。
257太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/29(火) 23:28:29.06
347年にアンタレスの脇に超新星は輝かない。ww

それに 応神344年で 息子の
仁徳がそれより古い313年〜。bububu・・・

まぁ松沢病院候補だな。ww
258唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/29(火) 23:35:18.77
>オマエは埴輪を運べない体躯なのか?ww

研究チームは、箸墓古墳出土の土器だけでなく、周辺の古墳で見つかった土器でも測定を試みており、
ここでも、同様の年代が出たことから、「分析結果の精度は高い」としている。

箸墓に埴輪を運ぶだけじゃ不足である。
埴輪は、共出する土器とも編年が整合する。
箸墓の埴輪は、最初期の円筒埴輪である。
だから、後からの持ち込みではない。

259太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 00:03:33.98
ハハハ・・・ 腹ツツミ空腹多抜きどの

オマエのは〜

応神の息子のほうが年代が先で、親の応神のほうが年代が後。ブブブ・・・

狂ってるんか? これでオマエはオマエの自説がおかしいと感じないんだから、
自説に誤りはないかという左右確認と後方確認をオマエは無視、さらにブレーキ・
ペダルという妄想暴走を食い止める脳内の活動が完全に錆付いているようだな。

真性となると〜?、もはや治療は困難。wwwww

>>215>>234殿
応神と仁徳が狂って年代が逆さになってる宿主の脳内構造を見て、〜把握して
もらいたい。
260太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 00:09:46.21
同様の年代が出たところで制度が高いとは言えない。

こんなことは昨今の物理学上のニュートリノ測定でも似たようなことがあった。

これではダメだ。
261唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/30(水) 00:15:10.66
>応神と仁徳が狂って年代が逆さになってる宿主の脳内構造を見て、〜把握してもらいたい。

允恭天皇四年(乙卯四一五)九月 盟神探湯。これにより、世継ぎが書き換えられる。
ほんと真っ正直なんだから。
262日本@名無史さん:2012/05/30(水) 01:01:49.51
もういいから、新潟に帰りなさい > 唐松山
263太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 10:12:29.58
>>261
>ほんと真っ正直なんだから。

通常のまともな人間なら、
「アレ? コレはおかしいぞ? 応神と仁徳が重複在位
 でしかも年代が父のほうが後代、息子のほうが先代になっている?? これは
 この論を考えた俺の組み立て方に重大な考え違いがあるに違いない。これでは
 ダメだ。
 もう一度、原点に帰って間違いとなった問題個所を見つけてやり直そう。」

〜と、こういう判断をする者こそブレーキ、左右後方確認をしっかりやれる正常脳
の人物なのだ。そしてこれが殆どの人間だ。

オマエは〇ンマらしく、こんな噴飯編年論の不合理にま〜だ気がつかない。ww
つまりオマエの論理の組み立てにおいて、完全に失敗の用心を考える脳内の
ブレーキ・ペダルが錆付いているのだ。年代が応神と仁徳で逆となってて、その
超ひどい論の組み立てが逆のため妄想だと気付かぬオマエの支離滅裂さ?ww

早く松沢病院の門戸を叩いてそのひどい脳内を診てもらうんだな。
こんな論説では真性か〜?
264太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 10:21:54.57
そんなもので書き換えられるわけではない。

オマエの脳内判断の重大錯誤であり、日食が数日間続くとか侍従が天皇だとか、
仁徳が応神の父だとか〜、確かに超S級の盲象度だ。

オマエは治療しなけりゃだめだな。あまりにもひどい脳内だ。
知能程度もだいぶ低いのか?

早く松沢さまにご厄介になれ。
265唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/30(水) 11:15:36.74
> もう一度、原点に帰って間違いとなった問題個所を見つけてやり直そう。

その結果
古事記の崩御干支 編年考察 古事記の干支を仲哀9年(応神誕生)に合わせ検証すると。
崇神 ??丙寅??
成務天皇 262年〜265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。神功275年〜343年。
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 秋津遺跡=軽嶋の明宮。4世紀前半3代分の時空。
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯
履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申 404年帯方界への侵攻で兄王行方不明になる。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑

神功〜仁徳は書き換えられている。
応神誕生から仁徳崩御までの時空は、記紀とも同じになる。

太タヌキ殿:「考古学の言う纒向編年は50年古い」
太タヌキ殿:「埴輪のある箸墓は、250年前後の墳墓である」
太タヌキ殿:「崇神元年=237年」
ここで、もう一度、原点に帰って間違いとなった問題個所を見つけてやり直そう。だろ?

まず、自分の編年、太国倍年の原点は、πで正しいか? 

266太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 14:27:01.30
腹ツツミ空腹多抜キ殿

後代の応神仁徳あたりが五重在位とかいう松沢行きご推薦論では、より上代
の編年は総崩れだ。つまりオマエのは完全なデタラメ。

応神が仁徳より後代で仁徳が応神の先代では、紀違い甚だしく、記紀は
応神が先代で仁徳の父であり息子の仁徳が当然応神の後代としてる。これが
記紀の主張であり、オマエのは 逆さクラゲなす多陀用幣流琉 の逆記紀
そのものであり、松沢病院がこれを感づけば、ス〜グ オマエに宿泊券が
プレゼントされよう。pppppppppp

オマエは日食が数日間継続する論を強行しておりさらに侍従が天皇だとか
子が父の代であり父が子の代だという論説をまっ正直だとか抜かして、その
デタラメぶりにオマエの脳内が感知出来えない逆クラゲ脳内ブレーキの
さび付きが際立って、いかれている。どうやら真性か〜〜??wwwww
267太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 14:34:59.11
埴輪は軽く移動可能である。
垂仁が埴輪にしようと勅すれば、当然先代の陵墓等にも埴輪を置くのはそれ
が徹底してた証拠である。なんら不合理はない。

オマエは箸より重いものを持ったことのないひよわさか? // ww

大中臣は臭魔伝を書いたタダのおっさん野郎ではない。タダのおっさんの
言うことにはノー・チェックで信用度は希少そのもの〜あまり役立たず。

いずれの選択が信用度が高いのか。当然高いのは朝廷のエリートたる大中臣
の文言のほうだ。田舎者のタダのおっさんの書は落第文書である。
268太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 14:40:16.61
>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 秋津遺跡=軽嶋の明宮。4世紀前半3代分の時空。
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯

     ↑
父の応神が後の年代であり息子の仁徳が先の代だというこの論は、松沢病院から入所の合格通知
がもらえるえらく○ンマな まっ正直 格子戸駐留考察であろう。ww
269太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 14:44:20.64
>成務天皇 262年〜265年←検証すると ↓ 57年空年が大ウソだと分かる。
成務元年 成務天皇 即位
成務2年 景行天皇を山の辺の道陵に葬る
成務3年 (熊野年代記)熊野 大波で民屋が多く流さる
成務4年 国々に首を置く
成務5年 金神社(岐阜市)物部臣賀夫良命 国造赴任
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務41年 宝蔵院(愛知県刈谷市)同年 創立
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 成務天皇 崩御
270唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/30(水) 16:32:22.72
>当然先代の陵墓等にも埴輪を置くのはそれが徹底してた証拠である。なんら不合理はない。

葬儀のやり直しか?
古墳の年代は、土器と埴輪と副葬品で決まる。
ホケノ山 楽浪鏡。石囲い木槨墓。初期の埴輪(庄内式の穴あき壺)225〜250年
箸墓 布留0の指標。埴輪(布留式の穴あき壺、円筒埴輪)。260±10年
この円筒埴輪は、メスリ山より古い。

>成務天皇 262年〜265年←検証すると ↓ 57年空年が大ウソだと分かる。
これを、考古学で証明するためには、太国倍年と考古学を合致させる。
崇神=237年。箸墓の年代は、土器や埴輪からの推定である。
箸墓に250年±10年とできる埴輪を後世に置く。これを垂仁の仕業と推定するならば、
垂仁末は250年±10年になるのか?
箸墓の土器や埴輪は、250年±10年と千葉の考古館がいう。
箸墓本体は、何時作られ、だれの墳墓か?
埴輪の後付説は、”崇神=237年”を否定している。


271太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 16:50:06.40
盲目考古なんぞは権威が薄い。

そんなもんではひっくり返らないね。

それより父と子の年代が逆転してるオマエの脳内のひどさを思い知れ。

無感覚ならば、オマエは松沢病院から招待状が来ておかしくない脳内だ。ww
272唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/30(水) 17:04:07.25
>盲目考古なんぞは権威が薄い。

それならば、太タヌキ殿が正しいとした『箸墓=240〜260年』はどうする?
撤回か?
太国倍年に権威は無い。だからその場その場で立場を変える。
書紀の記事を書き換え、考古学の記事もかきかえる。それでやっとπを得る。
πは迷惑だろうな。πは円周率しか主張していないのに、1兆ケタもあれば、どんな数字でも存在するという。

太タヌキ殿の脳内のひどさを思い知った。
273太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 18:04:25.53
>それならば、空腹ツツミ多ヌキ殿が正しいとしない『箸墓=240〜260年』はどうする?
撤回か?
宿主空年に権威は無い。だからその場その場でクルクルと立場を変える。
書紀の記事を書き換え、考古学の記事もかきかえる。それでやっと臭を得る。
臭魔伝は迷惑だろうな。臭は景行までしか主張していないのに、12代しかなければ、13代からはどんな年数字でも存在するという。

空腹ツツミ多ヌキ殿の脳内のひどさを思い知った。
274唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/30(水) 19:18:15.51
>『箸墓=240〜260年』はどうする?
もともと、箸墓は270年ころであった。
この箸墓に卑弥呼を取り入れようとしたフライングである。

239年 邪馬台国官伊支馬は垂仁である。
273年日食は神功元年に差し込まれる。
纏向3代を正しいと出来る文献との整合性。
崇神5,6年=新羅192,3年
崇神58年≒新羅209年≒伽耶541年の330年前。
239年 邪馬台国官伊支馬は垂仁。
273年日食。
326年 神功52年 七支刀。
この様に文献を読めば、その読み方はおのずと決まる。

箸墓は庄内式土器が九州へ上陸した後の墳墓である。
男王は、247年ころ死亡した卑弥呼を継ぐ。
倭人伝の男王のころの戦いは、景行による九州遠征と重なる。


275太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 19:27:04.80
>官伊支馬は垂仁である。

侍従の身分あたりは天皇にはなれない。所詮別人である。
猿が人間だとぬかしてるも同然のデタラメである。
官伊支馬は垂仁でない。

日食は日を経ての数日間の継続は生起しない。いずれも松沢病院招待券を
頂ける噴飯説である。

勿論父応神が息子仁徳の後の年代になるもデタラメであり、これも率先して
診療医が応招を求める噴飯の精神病院ご歓迎の論。ppppp
276太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 19:28:40.10
崇神5,6年i≠新羅192,3年

千人もの空腹多抜きの友人の渡海は絶望の泥舟。
つまり等号はインチキ説なり。
277唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/30(水) 19:41:23.75
だから、否定したければ、否定できるだけの文献を寄せ集めればよい。
倍年を主張したければ、倍年が使われていたと出来る文献を出せばよい。

しかし、πはしょせん円周率であり、文献たりえない。
1年とは四季の1順であり、四季1順を基本としない1年は地球上の暦たりえない。
278唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/30(水) 19:53:17.20
>応神が息子仁徳の後の年代になるもデタラメであり、

だから、
応神末は383年
仁徳末は399年が支持を得る。
しかし、応神誕生から仁徳崩御までを時空に直す必要がある。
太国3倍神功は、百済王朝から見れば、成立しない。
合わせる文献も無い太国倍年を根拠に否定しても、痛くもかゆくもない。
ところで、太タヌキ殿は、まだ箸墓=240〜260年を否定していない。
箸墓の編年は、箸墓の土器と埴輪である。
太国倍年に齟齬のあることは明白である。

文献も提示できなければ、考古学とも齟齬をきたす太国倍年。
この太国倍年をどう使うの?
もちろん歴史の説明には使えない。
279太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 20:57:56.96
だから、否定したければ、否定できるだけの文献を寄せ集めればよい。
倍年を主張したければ、倍年が使われていたと出来る文献を出せばよい。

しかし、πはしょせん円周率であるも、文献たりえる。何故か、πは数字という文字
である。大祓祝詞は文献である。

1年が四季の1順とは原則であり、四季1順を基本としない1年も地球上の暦たりえる。
たりえないなら、オマエの言うアスス暦の1年385日と1年265日は四季では
はみ出し日か不足とかが出て、ピタリ四季の配分はできずオマエの言い分は
自語相違であるオマエ自身自認している。

それに古代エジプト暦は3季暦である。つまりオマエの言い分は基本のとき
には通用するも、必ずしもそうとは言えない。
280太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 21:03:47.80
応神末は383年で
仁徳末は399年が支持を得るといっても先頭年のほうが各々逆である。
だから、応神誕生から仁徳崩御までを時空にやり直す必要がある。

太国3倍神功は、百済王朝から見て、論議しないでよい。どうせ120年揺れ
てるから、半島のはアテにはならない。
合わせる文献も粗悪な宿主空年を根拠に否定しても、痛くもかゆくもない。
ところで、空年多ヌキ殿は、まだ箸墓=240〜260年を否定している?
箸墓の編年は、箸墓の土器と埴輪では駄目。
宿主空年に齟齬のあることは明白である。

文献も提示できなければ、盲目考古学をおともとする宿主空年。
この宿主空年をどう使うの?
もちろん歴史の説明には使えない。侍従が天皇では松沢から招待状だ。ww
281唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/30(水) 21:11:57.08
>先頭年のほうが各々逆である。

だから、書き換えがある。
この書き換えも、主張している。
しかるに太タヌキ殿は
神功紀が合わない事への言及はない。
282唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/30(水) 21:22:43.30
まだ箸墓=240〜260年を否定している?
>箸墓の編年は、箸墓の土器と埴輪では駄目。

箸墓に飾られた土器の編年は、240〜260年である。
土盛りはそれに合わせただけ。
この土器は、崇神元年327年の直後に造られる?
土器が後の時代のものであれば、 崇神元年327年を得ることはできない。
なにせ、その後世が240〜260年とされるからである。

では、その場合崇神は何処を占めるか?
その答えが2世紀後半なのである。
283太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 22:11:52.52
空腹多抜き宿主よ
神功にすり替えて晦ますなよ。
今言ってるのはオマエの編年のうち、応神が仁徳の子であり仁徳が応神の父
であるとなる松沢病院ご招待が出来る特設部分の表だぜ。ppp

尻尾が順当だとこの編年でいいわけしてるが、死ぬときが仁徳が応神より
後だから前はそれでいいだろうとオマエはオマエの自説を弁護しているもの
で、生まれるときが子の仁徳より応神の父が後では、そろそろ松沢病院から
招待状がもらえる竜頭蛇尾ならぬ蛇頭竜尾の〜多抜きのシッポ見え見えで、
これでは松沢病院ご停泊おめでとう〜だ。ハハハ・・・wwwww
284太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 22:16:29.87
オマエは任那が211年だとか三国遺事を掲げて文献要素では無いとオマエが
豪語している数字の計算で説明しているが、211年というのは、倍暦精密
逆算で崇神天皇の誕生年に相当する。

だから任那がミマキ(崇神)からの国名ということは、任那建国211年が
崇神の誕生年を基点としたということなのだ。こちらに不合理はない。
285太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/30(水) 22:22:12.08
天津神算木 (r=3)

 4πr**2=113.09733552923・・・

これは○数字で

 4πr**A=@@3.09733552923・・・

等号をまたいで○数字のA@@で

 崇神天皇誕生年=211年(実年代)

を得る。任那建国211年だとしでも不合理はなかろう。当然だなww

なお左辺の主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位 は解説済み。
286日本@名無史さん:2012/05/30(水) 23:11:44.19
古墳の数では毛野王国のほうが畿内を上回るというじゃありませんか。
応仁や仁徳が台頭する以前は、北関東が優位だったんじゃないのでうか?
つまり、邪馬台国は毛野国だ。

そういう前提で調べれば、わかってくることもあるのに。
287唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/31(木) 00:04:15.70
>三国遺事を掲げて文献要素では無いとオマエが豪語している数字の計算で

これを計算という。
欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。

仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。

541−330=211←小学1年生レベルだぞ。
だいじょうぶかあ?
288唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/05/31(木) 01:01:31.50
541−330=211←小学1年生レベル。これを計算と呼ぶ太タヌキ殿は、
数字を数字として扱うことが出来ない。
だから、等号をまたいで○数字のA@@で 崇神天皇誕生年=211年(実年代)を得る。
等号をまたぐなど、計算とは呼ばない。
ただの、こじつけ。
これからは、太国こじつけ倍年とでも呼びましょうか?

289太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/31(木) 11:05:58.14
オマエが考えた

 541−330=211

は小学1年生レベルなんだ。pppppppp

この計算はオマエだからな。コチラの計算ではなわけだ。ww
自分で腹ツツミ空腹多抜きどのはオマエ自身を小学生レベルと思っているわけだ。

いやオマエは小学生以下だろう。ww
日食が数日間継続しないのは小学生でも分かる。プハハハ・・・
日食が数日間継続して神功元年前年にあてることこそ、こじつけだ。

オマエの使うアスス暦の1年385日、1年265日は四季が1順しないのが自明だが、
これでは自語相違だな。まぁオマエの支離滅裂性が増幅拡大している観点だな。
290太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/05/31(木) 14:11:25.97
>>289 訂正
× コチラの計算ではなわけだ。ww
〇 コチラの計算ではないわけだ。ww
291唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/01(金) 07:15:48.28
>コチラの計算ではないわけだ。ww

こじつけの数字。
意味のない数字。
歴史の数字ではない、πをいじっただけの数字。
歴史では、使い道のない数字。
しかも、現在は崇神しか主張していない。

>任那建国211年だとしでも不合理はなかろう。当然だなww
誕生年が即位年であれば、不合理は無い。しかし、即位は27才だろ?
編年に不合理がある。
任那建国211年、崇神誕生年で そのお礼が、崇神末。不合理だろ?
しかも、半島の国々は解体され、郡の属領の時代だ。

292太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/01(金) 11:00:40.27
三輪山の説話は歴史の数字である。
これは単なる伝説ではない。まともに書紀を読めば伝説だが、三輪とは半径3の
円のことである。神社の注連縄も円形なのがあるのは、このためだ。

その円の球化の数式の左辺冒頭に

 1月13日 崇神97年 があるのは、即位年月日をこの数式から知悉して定めたと
いうことになるのだ。当然実年代 237年 と実年代 崇神誕生の 211年 がある。

このことは任那が崇神の名から国名をつけたとして、その建国を崇神誕生の
211年に定めたということである。正にコチラに不合理はない。

不合理は渡海も千人の空腹野郎が出来るだとか日食が数日間も継続するとか
侍従が天皇になるとかの松沢病院から招待状が届いて然りの妄想論説だ。ww
293日本@名無史さん:2012/06/01(金) 20:48:38.93
道州制(地方への権限委譲)の危険性

テレビで韓国ドラマばかり放送されても、見なければ大きな問題はありません。
しかし地方分権で警察組織、権力の一部を国から地方に移管し
採用条件・組織等も地方で自由に決めれるようになったらどうなるでしょう。
今のテレビ局が数10年前に在日枠を受け入れて、今や完全に在日朝鮮人に乗っ取られ
在日の都合の悪い報道は一切しなくなり、民主党が与党になったように
地方分権された警察組織が数年後に、反日感情を持った外国人に支配されないでしょうか。
在日の犯罪は野放しで、日本人の犯罪は過大な刑を与えられたりしないでしょうか。
地方分権は日本全国の地方自治体を、反日国家のコントロール化に置くための工作活動に等しいのです。

維新に近い、みんなの党は道州裁判所を設ける案もだしてます。
橋下氏(維新)の大阪都構想
中京圏の大村氏、河村氏も地域政党を作って国政で候補者をだすみたいです。
まだ時間はあります、じっくり検討してください。
294唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/01(金) 23:23:43.82
>等号をまたいで○数字のA@@で 崇神天皇誕生年=211年(実年代)を得る。

これで、崇神世の任那建国が主張できるのであれば、
239年←ここに垂仁誕生を持って来れば、
邪馬台国官伊支馬による都市牛利も成立する。
イクメはミマキの官である。
295太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/01(金) 23:42:30.68
>イクメはミマキの官である。
意味不明? ミマキとは何者か?地名か?
どうやら崇神の侍従が垂仁だと思ってるらしいがww、垂仁は皇太子であり、侍従
ではない。ww 頭がおかしい?〜松沢病院候補となるとなんでもありだな。pp
天津神算木 (r=3)とは  4πr**2=113.09733552923・・・
これは○数字で

 4πr**A=@@3.09733552923・・・

等号をまたいで○数字のA@@で

 崇神天皇誕生年=211年(実年代)

を得る。任那建国211年だとしでも不合理はなかろう。当然だなww

天津神算木の以下の〇数字は

 4πr**2=@@B.◎HF33552923・・・

〇数字は左辺の主値 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位

また、天津神算木の以下の〇数字は

 4πr**2=1@B.◎9733552923・・・

上の〇数字から通説にて

 B.C.130年 崇神天皇 立太子

かように、天津神算木には崇神の誕生、立太子、即位の三つの年数がセットに
なって指示されている。かように天津神算木の崇神の主要年代が出揃っている。
296日本@名無史さん:2012/06/02(土) 09:04:32.92
古代にπアールなんてあったのですか?びっくりしました。
日本にもピタゴラスの子孫が来ていたのですね?
邪馬台国の起源はギリシャにあったのです。
297日本@名無史さん:2012/06/02(土) 09:10:07.67
円周率の近似値は使われていたよ
298日本@名無史さん:2012/06/02(土) 09:28:57.80
もちろん直径と円周の比率というのは経験則でわかるだろう
必ずしも計算は必要ない
一点からヒモを伸ばしヒモの先端でぐるっと円をかいた場合
ひもの長さが何歩、円周が何歩と出すのは難しくはない
299日本@名無史さん:2012/06/02(土) 11:36:24.28
1辺の長さが3:4:5の比率の三角形を作ると直角三角形になる。
これは、どんな大きさでも相似形になるから、簡単に直角が作れる。
吉野ヶ里遺跡の掘っ立て柱もこの方法で柱の位置を決めたことは確かだ。
こう言った経験則にもとずく原始的な数学の定理が
縄文時代から知られていたことは確実だろう?
300日本@名無史さん:2012/06/02(土) 11:51:02.59
>>191
>トムとジェリーかよお前ら
 ほんと・・・
 トムとジェリーが怒りだしそうだ。

 同じ事を、グルグルと実りの無い、怒号が飛び交っているだけだ。
 ガキじゃ、ねーんだから、論理的に・・・

「謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!66」だけを、ここまで読んできた。
お二人とも、読み手にご自分のお考えを理解、支持して欲しいことだと思う。
過去の経緯は判らないが・・・

唐松山さん
言われていることに反論するだけでなく、ともかく誤解されていると考えるなら。
誤解されるような表現があったのだろう。
それを撤回、訂正すれば、読んでいて不快に思える発言は無くなると思う。

論議や研究が進むに従って、過去の考えが変わっても不思議ではない。
変わった理由を明確に説明できなくとも、何も不思議ではない。
勿論、変わった理由を説明するほうが、読み手は納得する。
過去はこう考えていたが、今はこう考えていると、示せば、理解し易い。
読んでいて不快に思える発言は無くなると思う。

太国さん
天津神算木が根拠に良く出て来る。
それなりの根拠をお持ちなのだろうが、数字がそれほど多桁で並んでいる書を、私は見たことは無い。
ある書を、こう読むのだとの主張をしても、普通の読み手は納得できない人が大多数だ。
仮に、多桁で並んでいる書が有ったとしても、10世紀以前では、正確な値は、せいぜい10桁か、そこいらだと思う。
根拠が理解できない状態では、読み手は主張を、理解・納得することが、非常に困難で、読み飛ばされると思う。

お二人を中心とした論議を楽しみに読み始めているが、残念なことである。
昭和87年6月2日
301太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/02(土) 14:45:15.36
当時巨大な数字は計算できていたと観る。
八百万神だとか記紀にある。

たとえば仁賢天皇は億計尊という。これは億の計算が出来るという感じの名で
ある。さらに古代の秘義たる亀卜鹿卜とやらは総称的名称でか、「大兆」という
言い回しがあるわけで、これは兆よりもっと大きい数値だという卜占の名なの
である。これを考えても、ほんの一部の朝廷の衆だろうが、大きい数字の使用は
あったと観て可である。

古代文明の中で最も大きい数字を使う級の文明が古代マヤ文明であり、
天津神算木(r=3)

  4πr**3/3=113.09733552923・・

から両辺をまたいで

 B.C.3113年 9月7日 マヤ文明 始原年月日

を得る。
尚、崇神即位元年は 天津神算木から 237年 であり、これから古事記の
崇神没年干支(戊寅)が1年違いでの259年←258年の正解を得る。

258年説の方はけっこういるが、彼らの説が正解なのである。
302日本@名無史さん:2012/06/02(土) 19:55:15.92
>>301 犬国

馬鹿者。
マヤは20進法だ。


303太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/02(土) 20:00:15.66
>>302
マヤは20進法でない箇所もある。
コチラは古代マヤ文字はけっこう読める。
マヤ文字の字典ももう8回も読んだ。

オマエはそれの初心者か〜?w
304日本@名無史さん:2012/06/02(土) 20:13:12.33
>>303 犬国

じゃあマヤの暦で B.C.3113年 を

… ・ ・ … と表しうているのか?

それに今の西暦が制定されたのが6世紀でそれも実際のキリストの生誕とはズレていると言われている。

つまり ちょーのーりょく でキリストの生誕がいつかを知っていてもダメ。

いい加減にしろ基地外

305日本@名無史さん:2012/06/02(土) 20:29:38.40
>>302
今の日本でも、10進法もあれば12進法もあれば2進法もある罠
306日本@名無史さん:2012/06/02(土) 21:02:18.54
つうかね マヤの所謂「ロングカウント」の起点、紀元前3114年は
あくまで今日の暦に換算して紀元”前”3114年

無論マヤにすれば原点なのだから0年。
「3114」なんて数字は出てこない。

小学生が考えても分かる。

マヤが今日の西暦と同じ「紀元」を持っていて
それで10進法で表現して初めて出てくる数字。

こいつ頭大丈夫か?
307太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/02(土) 22:05:51.35
B.C.3114年はグレゴリウス暦でいう場合である。
B.C.3113年は天文暦での計算である。
天津神算木(天津金木)は

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ (**は冪、r=3)

天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097

B.C.3113年 9/7 マヤ文明元年 基点日 (天文暦)

と想われる?それは以下の事由による。

@説 B.C.3114年 9/8 マヤ文明元年 基点日(グレゴリオ暦)
   「マヤ文字解読辞典」047頁 マイケル・D・コウ著 創元社刊

A説 B.C.3114年 9/6 マヤ文明元年 基点日(グレゴリオ暦)
   「神秘の王朝 マヤ文明展」234頁 八杉佳穂述 TBS 国立科学博製作

天文暦のB.C.3113年は結局グレゴリオ暦のB.C.3114年であることから、
@とAと、分断の天津神算木の誤差は1日である。だから真の同元年
基点日は 9/7 であろう。
308太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/02(土) 22:09:27.69
>>307 [続き]
前説の場合
 9/7が着座の日(マヤ暦での0日)になり、9/8は1日になる。
 着座の日の翌日の1日が基点になっている。

後説の場合
 9/6が着座(同上)の日になり、同日が0日だということだな。だから
 1日は 9/7と なる。
 着座の0日を基点としており、翌日が1日となる。

いずれかが真ということだ。

天津神算木の等号の両辺をまたいで年代のB.C.3113年が成るが、
左辺のほうは3のみである。このことはこのマヤ文明元年が三輪(半径
3の円)に象って始原を決めたということを示唆している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前説(9/8説)は9/7をマヤ暦の着座(チュム)の日とした場合であり、
この日を0日とみなせば翌8日が第1の日となりこっちを基点日とする。
天津神算木のほうは着座の日(9/7)を示している。

後説(9/6説)は同日を着座の日として9/6を0日と為しこれを基点日
とするわけだが、第1日たる翌日の7日は0でなく第1日という始めの数
の日ともとれるから、天津神算木では第1日のほうを示して7日とし、
後説は0日基点なのである。 いずれかが真だということだ。
309日本@名無史さん:2012/06/02(土) 22:10:54.36
ユリウス通日もヨロシク
310卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/02(土) 22:31:31.28
これまで真剣に見たことは一度もなかったが、太国さんよ、

4πr**2=113.09733552923・・・
4πr**3/3=113.09733552923・・・

左辺が異なるのに、右辺はどちらも同じ数値じゃないか。なんだこれは。
311太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/02(土) 22:45:16.77
r=3の場合は、右辺は双方同じよ。

計算してごらん。ジョーカーも以前貴殿と同じことで突いてきたが、奴は
自分で計算し、そこの件は納得してたようだ。
312卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/03(日) 09:13:24.27
では崇神即位元年を割り出すときには r**2 を掛け、
マヤ暦元年を割り出すときには r**3 を掛け、それを3で割る、という、
その違いはどこから来るのかな?

たとえば神武紀元を割り出すときには何を掛けるんだ?
313太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 10:42:10.60
どちらでも出るよ。

神武紀元は元年の1年だから右辺先頭の1でもう成り立つし、明示して
あるわけでもない。

ただ古代マヤ文明元年基点日は B.C.3114年 8月11日 説があり、今でも
マヤ研究の権威の一人の青山和夫先生はこの説を支持している。
                           (ユリウス暦)

 「マヤ文明」青山和夫著 岩波新書1364 35頁

これの場合、神武即位月日の2/11と月日に於て丁度半年の差があり、間接的
に2倍年暦の存在性がここにある。ただし神武治世においては3倍年暦で
あって、3代安寧の代から2倍暦の行使がメインとなる。神武の代では、
2倍年暦は影での存在行使ということになろう。
大祓祝詞の祓いでは、6月末なのは当然2倍年暦の行使の区切りになる。
314日本@名無史さん:2012/06/03(日) 10:56:55.84
マヤ文明とヤマ壱国は姉妹国。
女王国にお歯黒と刺青、風俗も一緒ですね。
もちろんカレンダーも同じ物を使っていたけれど、
古の昔、太平洋をわたって移住したのでしょう。

しかし、方やスペイン人の侵入、方や騎馬民族の侵入で滅びました。
315太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 10:57:24.76
>>313
ああそうかそうか。どちらでもないものがあるね。訂正。

マヤ文明元年始原日は表面積でなく体積のほうだ。

表面積のほうの2113年となるのは、これは130代天皇の即位年月日に関わ
る数値年数だと卜事が出得る。立太子年月日関連値かも知れない?

A.D.2113年以後あたりからは、おそらく130代天皇の治世になるだろう。そ
つまり、これはおよそ百年後だな。
316太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 11:01:11.48
>>314

マヤ(魔矢)−D→−−−−−−・・・・・−−−−→◎ヤマト(矢的)
317太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 11:06:32.17
318太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 11:56:52.95
>>312
天津金木

 4πr**3/3=113.09733552923・・・

天津金木を 末打ち断ちて

 4πr**3/3≠113.097335

右辺は十桁に不足の全九桁であるが、両辺移行して

 113.097335≠4πr**3/3

ここのまたぎを含む数列 973 354 から(4を入れて十桁と観る)

 973−354=619

B.C.619年 神沼河耳尊(綏靖) 立太子 
319卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/03(日) 12:37:19.02
>>313-318
いや、だから、そういうことではなくて、崇神即位元年や、マヤ暦元年や、神沼河耳尊立太子年を割り出すのに、
いろいろ複雑な操作を施しているが、その操作の根拠は何かと訊いているんですよ。

それに綏靖立太子がB.C.619年なら、神武即位はそれ以前になるわけで、
あなたの、神武即位は紀元0年という主張は、崩れるわけだが。
320太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 12:48:06.22
いつどこに操作とかの根拠がどうのこうのと書きこんだのか?
操作は大祓祝詞にある。

天津金木は本打ち切り末打ち断ちて ちゃんと大中臣からの操作が書かれて
ある。ただマヤ文明元年始原年月日はストレートに出て来たものだな。

別に例示的列挙の一つを掲げたもので、崩れるわけがあるまい。

崩れるのは貴殿のウガヤとか神武の名が数万年も世襲的か〜? 継続して
るとかの主張だよ。記紀ではウガヤは3代だ。それで記紀を丸飲みで
信じなさいというなら、貴殿のその数万年がどうのとかいう主張は記紀に
逆らうということになるが・・・? どうなんだ?
321太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 12:52:40.72
それで神武即位5年、大陸に即位の祝い
として神武が国珍を奉じてたことが
漢書王莽伝 元始5年(=西暦5年)

 東夷王 度大海事国珍

の文にて記録となっている。 これなど 神武即位元年=西暦元年 の
補強証拠だ。東夷王は神武天皇だな。
322卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/03(日) 17:08:13.35
どうも太国どんは私の言うことを理解していないみたいでおますな。

つまり、たとえば、崇神即位元年を割り出すときに、なぜ r**2 を掛け、
マヤ暦元年を割り出すときには、なぜ r**3 を掛け、それを3で割るのか、ということを訊いているんざます。

その理由、その根拠を訊いているんだす。
綏靖立太子の年を割り出すのに、なぜ、両辺移行して またぎを含む数列 973 354 から、
973−354=619 を出すのか、その理由を聞いているんだす。

崇神即位元年やマヤ暦元年を割り出すときとは異なった操作をしているが、
その理由は何なのかを聞いているんざます。

あるときはA、あるときはB、あるときはC…の方法を用いているが、
その理由は何なのかをお尋ねしてるんでおます。
323太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 18:24:45.31
それは大中臣が今いなんではどうしようもないよ。

大中臣は、天津金木を本打ち切り末打ち断ちて とやってるんだから、
それに従ってその通りコチラは作法しているわけで、
古神道の秘儀の行使だというほかはない。

2のほうじゃ、B.C3113年にはならないわけだね。
いずれにせよ天津金木は二本立てということだな。
だって体積でも表面積でもr=3の場合はいずれも同数値になるわけで、
これは宇宙の真理つまり数学の定理的法則からそうなるんだから、どうして
かと言われてもだ、1+1=2 がどうしてなんだと言う如く、それが
定理公理じゃあ受け入れるほかはあるまい。

それよりもなぜ記紀がウガヤ3代と言っていて記紀を貴殿はそのまま信じ
なさいと言いながらこれに逆らって、ウガヤ朝70数代とかの主張をして
いるのか? これでは自語相違のウソの矛盾であるぞ?
324太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 18:26:12.38
B.C.619年が神沼河耳尊の立太子年だという通説を知らんのか?
325太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 18:31:41.69
あるときはどうのこうのと言うが、天津神算木は一個の行使という単純な
ものではないからだよ。
一件の内容しかないものではない。

ウガヤは3代と記紀にあるが、そうでなく70数代なのか?
これでは記紀をそのまま信じませんと貴殿は遠まわしに主張してることに
なる。貴殿自身はそのまま信じない、他人はそのまま信じろということか?
これでは恣意的ではないのか? どうなんだぁ?
326卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/03(日) 19:05:10.05
だからその天津神算木というのは、Aの場合はこれ、Bの場合はこれ…と方法が書いてあるのか?
たとえばマヤ暦元年を割り出すときはこれこれしかじかの計算をする、というようなことが。

たとえば広島に原爆が落とされた年を割り出すときにはどういう計算をするのだ?
その割り出し方が書いてあるなら、それをここで実演してもらいたい。
広島に原爆が後された年は西暦何年ですか? あるいは皇紀何年ですか?
327太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 19:56:37.50
実演とかの〜そういうことをコチラは聞いてるんじゃぁないんだよ。

記紀ではウガヤが三代だと書かれているだろうが・・・。
あんたはコチラにも記紀をまるごと信じないさいと言ってたわけだがね。
あんたは記紀と違いウガヤ朝70数代とかの数万年継続してるとかのような
ことを確か書きこんでいたようだったが、これはあんた自身は丸呑みして
ないということを意味するんだよ。

これをどう釈明するのかね?

〜コチラは結構説明してますよ。確かに充分でない箇所もあってあんたは
不満があるのかも知れんが、あんたはコチラの設問を全然答えてないという
ことなんだがねぇ〜。なに、全然回答出来ないのか〜〜?
どうなんだい?  数万年とやらはどう割り出したんだね?

コチラこそ聞きたいんだがねぇ〜? 待ってるぜ。
328卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/03(日) 21:32:01.44
ウガヤ朝のことは、たしか倭姫命世記にも、70万年ほど続いた、みたいなことが書かれていたはずで、
そのような伝承があったのだろう。紀が、ニニギ降臨から179万年経過した、云々と書いているのも、
そのような文書か伝承があったからだと思われる。

もちろんそのような数字をそのまま信じる必要はなく、実際には紀元前一万年以後のことなのかもしれないのだが、
しかし実際に179万年経過したと考えてもおかしくはないのである。

というのは紀元前一万年以前はアトランティス時代と呼ばれる時代に属すからで、
民族の伝説というものは、たいていはその時代に起きたことが後世に伝承されたものだからである。

さらにそれ以前にレムリア時代というのがあって、神話というのはたいていはこの時代のことである。
たとえばアダムとイブの話はこの時代のことなのである。
イザナギとイザナミの話もこの時代のことだろうし、アマテラスとスサノオの話もこの時代かもしれない。
ニニギの降臨はおそらくアトランティス時代の話で、179万年前というのはアトランティス時代なのである。

ウガヤもアトランティス時代で、一万年ほど前にアトランティス大陸は沈没する。
沈没後が神武の時代である。実際の神武が前660年頃の人物だとしても、
ウガヤから神武までの世代はすべて省略されているのである。
329卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/03(日) 21:44:45.19
さあ私は答えたぞ。次はおぬしに答えてもらおう。
大中臣と天津神算木についてネットで調べたが、これしか出てこなかった。

http://misogi.org/misoginoniwa.htm

天津神算木の本が市販されているとは思えないから、太国どんは神道団体にでも属しているのか?
いずれにせよπを使っているということは、古くから伝えられている方法ではなく、
近代に至って誰かが古書を参考にして、自分なりに解釈して作り上げた方法なのである。

0から9までの数字があれば、適当な理屈をつけて、どんな配列も可能である。
太国どんは数のマジックに欺かれているのである。
330太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 22:25:41.21
なにを逃げてるんだ?
いかにも答えたふりをしてるだけだ。記紀にはウガヤ3代とあるんだよ。

その答えでは、記紀をそのまま信じなさいと君はしてないだろうが?
記紀の内容はおおむね間違いはないと観てるが、丸呑みで信じなさいと
いう君の語は、その内容ではおかしいではないかね?w

神道団体に属するとかいうのは、コチラの言うセリフの君への応問だよ。

アトランティスだとかレムリアだとか、無いとは言わないが、それを言う
からには何処にその根拠があるのか? 言えないなら、ジョン・カーター
とか類のSF板かオカルト板でも行きな。
331太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 22:27:56.31
それとも、そのミソギノニワとかいうのが君の所属先なのか??
332太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 22:31:03.59
どんな配列も可能ではない。

πは 3.14159265358979323846264338・・・ 以外の配列はない。
333日本@名無史さん:2012/06/03(日) 22:53:34.83
卑弥呼ってSかな?
334太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 23:13:41.11
>>329
朝鮮男氏はいわゆるナマの通説年代を知ってないようだな。w

崇神天皇即位のそのナマの通説年代と月日は何年何月何日なのか?
答えてみろ。言えるか〜?
335太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/03(日) 23:26:53.04
朝鮮男氏よ

天津金木の分断行使は大中臣の作法である。
これを舐めるということは、君が大中臣に対し弓を引くということになる。

ということは、朝鮮男氏は古代史論での(朝鮮敵の意味でなく)朝敵に
変貌したこととなる。

別に配列を変えなくても主値は不動不変にあり、数式だからどんな
暴君でも破壊が出来ない。つまり天津金木は皇位と同様、金剛不壊である。

いくら朝鮮男氏が否定しても、天津金木は数式のため葬り去りは不可能で
あり、未来永遠に一系無窮と並行して三輪の真の年代が後代へ伝達される。
三輪山の三輪とは、半径3の円のことである。

朝鮮男氏よ。まぁあきらめるんだな。w

いくら大中臣に弓を引いても、天津金木には君の圧力は効果が無い。
コチラは大中臣の作法を取り次いで、書きこんでいるだけのことである。
336卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/04(月) 09:58:06.99
太国はまだ何にも分かってないな。
だから古代の血統なんてのはすべてが書き込まれているわけではないのだ。
ニニギからウガヤまでにも何万、何十万…の子孫が存在したが、それらはすべて省略されているのだ。
ウガヤから神武までにも何十、何百もの子孫がいたが、全部省略されているのだ。
アダムからカインとアベルまでにも何百万年もの年月が経過し、その間に当然子孫はいたが、すべて省略されているのだ。
というのは古代人には個人意識が無かったのである。アダムの子孫は自分はアダムだと思っていたのだ。
信じられないかもしれないが、本当のことだ。人類に個人意識が芽生えたのはアトランティス時代の末期だ。
まあアトランティスやレムリアの話はいつかゆっくりと話すとしよう。
大西洋のことをアトランティック・オーシャンという。アトランティスの海という意味だ。そこにアトランティス大陸はあったのだ。
レムリア大陸は今のインド洋にあった。伝説でもトンデモでもない。本当のことだ。

私が配列と言ったのはπの数字の並び方ではない。
0から9までの数さえあれば、適当な理屈をつけて、どんな数でも作ることができるということだ。
事実おぬしは973−354という計算(=理屈。この理屈の根拠が示されていない。)で619 という数を作り出した。

ナマの通説年代? 何のことだ。そんなものは知らん。私が知っているのは紀に記載されてある干支だけだ。

天津金木のことをおぬしはどうやって知ったのか。本が市販されているのか? Amasonで検索しても出てこなかったぞ。
337卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/04(月) 10:51:46.29
私は記紀をそのまま信じろと書いてきたが、実は記紀にも一抹の疑いは持っている。
それは、記紀には、アトランティスの大異変のことと思われることが何も書かれていないからである。
たいていの民族の伝承にはそのことが語られている。
たとえば契丹古伝や桓檀古記にも「海漠象変」とか「洪水」のことが書かれていて、
その後、西から異族が侵入してきたと書かれている。
これはアトランティスから逃れてきた人々のことなのである。

アトランティス大陸は一度に沈んだのではない。長期間かけてゆっくりと沈没したのである。
その間に人々は、主に北方ルートと南方ルートに分かれて逃げた。
北方ルートをたどった人々は、ゴビ砂漠に集まり、そこから各地に散らばった。
日本人は最も遅れてアトランティスから逃げた民族である。
338卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/04(月) 11:00:58.81
ノアの方舟の洪水とはアトランティスを沈没させた大異変のことである。
アトランティスの崩壊後、小氷河期があったようで、それが終わった後、
ノアの方舟がアララト山に漂着したという話である。

これが、舟に乗って降臨したというニニギの話に似ているので、
ニニギの降臨は紀元前一万年頃のことかな、と私は思っていたのだが、
紀には179万年前と書かれていたので、ああ、そうか、ニニギの降臨はアトランティス時代のことか、と思ったのである。
339太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/06/04(月) 11:06:55.68
>だから古代の血統なんてのはすべてが書き込まれているわけではないのだ。
ニニギからウガヤまでにも何万、何十万…の子孫が存在したが、それらはすべて省略されているのだ。
ウガヤから神武までにも何十、何百もの子孫がいたが、全部省略されているのだ。


古代のことが全て書かれてないのが分かるなら、天津神算木にもその全てが書かれ
ていないことくらいあんたも分かるだろうがね。
それに記紀のウガヤの個所は3代だと書かれているんだよ。だからあんたは記紀を
そのまま丸呑みで信じてないことを白状したことになる。これではあんたは
自語相違だということなのだ。もう少し慎重に脳内を働かせるんだな。あまり
丸呑みしろなどと〜スレ民にウソを言うな。

天津神算木も主だった歴史の節目を数字で指示してるわけであり、また配列を
変えないでの指示たる数値も在る。それにこれはあんたに使う作法ではなく、宿主
を折伏するためのもので、奴のカルト・ホツマに蹂躙された脳内を矯正する薬で
あるための使用なわけで、あんたにどうのこうの言われる筋合いのものでは
ない。目的はそこにあるのだ。
しかし書きこんだとなると第三者の衆目に触れることはやむを得ず、本来は見せ
ることをしないでいたんだったが、宿主が稀代の超S級の妄想野郎のため、
今回衆目に触れることを許容し、奴のインチキを祓うために書きこんだものだ。

だからあんたはその余計に預かれたものであるも、あんたから文句をつけられ
るのは筋違いであり、迷惑である。
340卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/04(月) 11:20:27.88
太国よ、何回も同じことを言わせるな。
ウガヤ三代と書かれていても、実際は179万年前のニニギから前660年の神武まで、
代表して三人の名しか書かれていないということだ。
それを勘違いして、たった三代だからせいぜい百年間くらいのことだろう、
などと考えるととんでもない誤りを犯すことになるのである。
私はウソを言っているのではない。古代の文献とはそういうものだと心得よ、と忠告しているのだ。

それから、自語相違というのは、普通は自家撞着と書くのだw
341唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/04(月) 21:40:49.76
>崇神天皇即位のそのナマの通説年代と月日は何年何月何日なのか?
>答えてみろ。言えるか〜?

↑太タヌキ殿はこれを答えられない。
342唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/04(月) 22:42:34.01
[9624] 2ちゃん 日本史板 卑弥呼は朝鮮にいた男殿(規制のため) Name:太国   NEW! 2012/06/04(月) 15:41
2ちゃんでまたしても本日規制されて書きこめないので、
ここに書きこむことにした。

2ちゃん 日本史板 卑弥呼は朝鮮にいた男殿

古代史論での大中臣の朝敵 朝鮮男氏は、記紀を丸吞みでそのまま信じな
さいとうるさく書きこんでいたが、当人自身はそうではなく、そのままに
信じることをしてなかったのを〜これで当人が自認してるのがこの書きこみ
で判明したのである。

記紀のそこんところに代表だとは書かれていないわけで、彼はスレ民を
欺いていたことがこれで確認出来たことになる。つまり言葉に責任を
持って性格なようで、いい加減な野郎だということをミエミエとした。

さらにアトランティスだとかレムリアだとか、そのうちムーも主張して
来るんだと思うが、ムーはチャーチワードの創作、残り二つの大陸を否定
する根拠もないのでどっちつかずでいるが、彼に聞きたいのは、では
アトランティスとレムリアが今から何万年何千万年以前のとき、地球上の
どこそこに所在してたのかという具体的数字とその場所を根拠、史料等を
掲げて説明しておらず、ただ××万年のどこそこであってそこに万世一系
の天皇がべらぼうな長寿で数千代あるいは数万代継続してたとか〜、
た〜だそれだけであり、抽象的に終始しており、なんらそれ以外の具体的
内容を持ち合わせていない。
343唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/04(月) 22:43:32.47
太タヌキ殿の続き
これで論説なのか〜?と、彼の脳内の構造を疑うばかりである。
いずれにせよそれらの所在がいつどこでどのようにして存在し、現在存在
しなくなったのかの、史料根拠等、出来たらウラヅケを取ってから言えば
いいことで、彼はおそらくそんなことはやっておるまい。夢想のSF的
エンタメと彼の所属している神道カルトの教義の可能性が強いようで、
これでは全く信ずるに値せず、ここの点数は0点に近い。

しかしながら、まだ宿主よりは脳内がマシな点があり、氏は早急に脳内
論説の進行の前後左右確認とブレーキ・制動ペダルのしっかりした行使を
望むべきものであり、宿主のような2ちゃん一の盲象を根付かすことの
ないようされるべきである。

本日の規制で、当分2ちゃんへの書きこみは出来ない状況にある。
344唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/04(月) 22:49:25.02
>当分2ちゃんへの書きこみは出来ない状況にある。

ご入院なされたのですか?
345日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:00:05.19
太国のプロバイダはどこだ?
しょっちゅう規制がかかるな
346唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/04(月) 23:17:35.61
>2ちゃんでまたしても本日規制されて書きこめないので、

ロバイダの問題じゃあないだろ。
347日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:27:18.31
やっぱり一人二役だったのか
348唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/04(月) 23:29:19.19
>松沢病院ご歓迎の話をしてる奴の脳内の構造だ。ppppp

自分自身の病状を正しく認識できていない。
他人が狂っているとの認識は、自分は酔っていないと主張する酔っ払いと同じレベルだ。
だから、強制入院させられたのであろう。
349レス長たらし毘古:2012/06/04(月) 23:43:27.40
えーと、ウガヤ朝のお話があったので、どちらに組するとも無く通りすがりの
横槍。(反論は受け付けます)

ウガヤさんを「お一人」とする古事記解釈は、当方も古事記を解釈分析する
立場から、懐疑の余地はあるかと仮設しています。ウガヤ朝何万年と言うの
までは眉唾ですが、ウガヤ期がたった一代とは限らず、むしろ、「吸収された
前出雲王朝の末えいの歴史」を凝縮してウガヤフキアエズさんに(血脈として
は)集積された、あたりの可能性で仮設を組み立てております。

つまり、スサノウ〜大国主〜出雲国譲り、に至る、「実際の数十代(程度)」
の、逸話筋を古事記神代部分に配置し、その末代の血脈筋をこれの最終後継者
であるウガヤフキアエズとして「個人」に終結させ、古事記血脈大筋に、
前出雲王朝の末えいの血脈筋を融合させたと、こう言う仮設になります。
(古事記編纂期研究時には、「その頃(ウガヤフキアエズの頃)くらいに
前出雲と現大和の王朝の血脈自体は完全融合した」とすると、編纂時点では
前出雲の血が入っている事はそれほど重要ではない大昔の話となります)

前出雲王朝の血脈で確実に辿れるのが、古事記時代の歴史研究者においては
大国主とその子供達の「国譲り」までであったが、その後もその末えい血脈
は継続したが、「その間に有名な人が現れず」「わからなかった」ために、
ハッキリとつながっていると主張できなかった。(もしくは逆に主張したく
なかった)
従って、その間の「偉業」は全て大国主(国譲り前)に終結され、血脈は
その最終後継者ウガヤフキアエズ個人として古事記には表記された。この
構図なら、大和王朝サイドも、前出雲王朝サイドも、どちらも傷つかない。

そして、この「ハッキリとしたつながり」を完全否定したのこそが、古事記
が編纂される前に、蘇我氏を討ち果たした天智天皇。と言う仮設。
「ハッキリとしたつながり」を強く主張したのこそが、蘇我氏。と言う仮設。
350日本@名無史さん:2012/06/04(月) 23:58:01.30
仮説だろ
351唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/04(月) 23:58:03.50
ホ15160 クニおさむ ワレみるススキ チヱヨタビ わがミもコトシ フソヨヨロ いまたさかりの
カキツハタ のちモモヨロを ふるもしる

国治 我見る稲穂 千枝四度 我が身も今年 24ヨロ いまだ盛りの
カキツバタ(盛夏) 後百、万を 振るも知る。

神話時代の 百万は、振り。修飾。
神武からは、太陰暦の引き伸ばしである。
太陰暦は、19年7潤の積み重ねであるから、19年単位の空白を差し込んでも太陰暦に大きな異常は出ない。
正確に見れば、1日程度の誤差が出る。

この太陰暦の日数を2等分、3等分しても、太陽暦とは整合することが無い。
なぜならば、19年の倍数で太陽と同期するのが太陰暦である。
だから、19年は、2,3の倍数ではない。よって、太陽と同期しない。


352唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/05(火) 00:04:02.58
ホ09124 サホコクニ かえてイツモの クニはこれ

荒神谷に鉄剣が埋納され、サホコクニから、出雲と名を変える。
353唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/05(火) 00:14:34.60
ホ30025  ヲシクモと ナガスネうてば にけゆくを をひてカハチに とゝまりて タケチノコリと
アウヱモロ ヤマトのソフに ふせがしむ モノヌシかえり ヲシクモは カハチにゆきて
ヲシホより カスガをまねき ヒラヲカの ヤシロまつりて カミとなる ツクシのタネコ
モをおさめ ヨカミまつりて アウヱモロ カワチをかねて おさめしむ ヲヲモノヌシは
アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも サホコみな タミをおさめて
しつかなり いまアマキミの クラヒなる

神武が大和に入植した時に、大物主は、近江に入り、北陸から出雲までを領土とする。
近江伊勢遺跡は、弥生後期と共に繁栄し、後期後半に衰退する。
“サホコ”は弥生中期と後期を分ける位置(1世紀半ば)にある。≒推定 荒神谷の鉄剣は、この時に埋納される。
後期後半とは、後漢193年冷夏、新羅193年倭人大餓。である。
354レス長たらし毘古:2012/06/05(火) 00:20:39.03
>>350
もちろん仮説です。仮説で構築された複雑系構築模型を、当方は仮設(架説)
と表現していますので、当方用語で述べたまで。仮設を仮説と解釈して頂いて
も当方は全く問題無いです。

ちなみに、蘇我氏が前出雲王朝の残滓末えい亜流である可能性は、誰だったか
さんも述べておられました。信じる信じないはもちろん、聞く人まかせです。
(まあ、ここらへんの真偽によって、蘇我イルカが「天皇(大王)かのよう
に振舞った」の意味合いが変って来るんですね、ハイ)
出雲の亜流でウガヤフキアエズと何らかのつながりがあり、武内宿禰を祖先に
持つ子(つまり蘇我イルカ)が、「大王のように振舞って」も、なんら問題は
(当時は)無かった可能性がわずかに浮上します。
355日本@名無史さん:2012/06/05(火) 00:40:26.72
慌ててレス長を出しててきたか
一人三役だったんだな
356レス長たらし毘古:2012/06/05(火) 00:56:29.03
つまり、天智大王時代に、(誰かさんの都合で?)焼失してしまった、蘇我と
聖徳太子が編纂した歴史書は、イルカの血筋を「担保」してた可能性ね。

古事記を素直にそのまま読むと、蘇我の祖神は神武東征以前に神の全ての行事
に参加しておらず、神武以降数代目の分家からの出の家臣である武内宿禰から
の古事記筋参加、となっております。これでそのままイルカが大王の如きに
振舞ったら、勿論これは大問題でしょう。

しかし、もし仮に、大国主の子孫→ウガヤフキアエズ→武内宿禰が、一本
つながった筋があり、ウガヤフキアエズが大物主神話体系にあり、崇神大王
の「大物主神復興祭」を期に、崇神大王時代以降「旧出雲の権威の部分復活」
がなされ、その結果として蘇我氏が中央政治に入り込んで行けた、と架空
すれば、当時の蘇我氏は、当然「古事記とは違う系統の歴史」を保有していた
可能性が高くなります。

もしもし、(IFIFなので、ま、歴史と言うよりかは読み物として読んで
下さい)上記が「一本につながって」いるならば、蘇我氏は、前出雲の末えい
としてウガヤフキアエズにて王統に一回融合し、そこから武内宿禰(の役職)
のまま血脈を守り続けるので、継体大王の「隔世継承」を是とするなら、
場合によっては、武内宿禰を媒介として「隔世継承資格者」を名乗る事が
可能になって来ます。(え?そこまでは遡れない?いやいやどうかな)

アマテラスとスサノウの関係を、アマテラス>スサノウ、とする古事記解釈の
ままなら、もちろんそんな「遡り」は不可能でしょう。だがしかし、その時点
ではまだ、アマテラス>スサノウ、が確定していなかったとしたら、果たして
どうでしょうか?なんせ、アマテラス>スサノウを担保している最古文献が
古事記なのですから。で、「都合よく燃えてしまった歴史書」のすぐ後に、
蘇我氏を討ち果たしたサイドによって書かれたのが、古事記なんですから。
357レス長たらし毘古:2012/06/05(火) 01:09:33.13
>>355
三役どころか、ニ役すらやるヒマが無いんですが。。。;^^Aま、信じても
信じなくてもいいですが。(誰かとお間違いかと思われますが、多分その人
ともカナリ食い違っていると思いますよ、当方の架説は)

まとめると、
@ウガヤフキアエズ一人一代は、疑える余地はある。
Aウガヤフキアエズは数代〜数十代の可能性がある。ウガヤフキアエズ世代
によって、「王統血脈神話」は大きく二つの歴史観に分流する可能性がある。
Bその一つが失われた蘇我氏系神話を構築していた可能性が有る。
Cその「もう一つの神話体系」は、蘇我イルカのほぼ大王の如き権威権力を
担保し得た可能性がある。

ま、こんな感じです。横槍失礼しました。(ペコ)
358日本@名無史さん:2012/06/05(火) 01:24:28.87
レス長たらし毘古氏の説は、ざっくりとした話としていいんでないですか?

出雲王権・九州王権・畿内王権の覇権交代を、あたかも「王権が滑らかに
継承されている」かのように偽装して書くか、はたまた王権が交代している
のを認めながら書くのかでしょう。

今日にもいる出雲の語り部伝承(部外秘)や筑紫舞を調べれば、この辺は
明らかなんですけどね。
359レス長たらし毘古:2012/06/05(火) 01:46:24.96
>>358
ザックリと読んでいただける寛容さには感謝します。まさしく、偽装して書く
か交代を認めながら書くか、の混在だから、解釈が至難ですねぇ。
まあ、しかし、当方は古事記ですら、卑弥呼・邪馬台国の欠片はどこかには
散在しているとも思っていますが。(書かないのも勿体無いし、隠し覆す
には大きすぎる。敢えて隠したならその動機は何なのか?トカ。。。)
まあ、そもそも卑弥呼・邪馬台国自体が疑えるっちゃー疑える話でもあるので
かなり振り幅が大きい話でもあります。
ま、どうせ探すのなら「在る筈」として探した方が楽しいワケで。逆に
「在る筈が無い」探しなら、今度は魏志倭人伝の方の虚偽(か過誤)を
説明しきらないとならないとなりますね。
360卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/05(火) 09:52:58.81
太国があいかわらず私の趣旨を理解していない発言をしているので書いておこう。
記紀に嘘が書いてあるわけではないのである。記紀にアマテラス−ニニギ−ウガヤと、
三代の如く書いてあっても、それは何百万年にも亘る世代のことを省略して書いてあるだけですよ、
それを心得た上で記紀を読みなさいよ、と私は言っているのである。

これは古文献を読む上での常識であって、この基本中の基本を知らないから、
アダムは紀元前四千年頃の人物だとか、訳の分からないことを言いだすのである。
アダムはレムリア時代で、カインとアベルはアトランティス時代の話である。
学者が想像しているような、たかだか数千年前の話ではない。

アトランティス大陸は大西洋にあった。レムリア大陸はインド洋にあった。
ついでにいうと、ムー大陸などというものは無い。

アトランティス時代は、大雑把にいえば新生代、レムリア時代は、大雑把にいえば中生代に相当する。
それ以前にさらにヒュペルボレアス時代、ポラール時代というのがあった。もちろんそれ以前にも地球の歴史はある。
この程度のことは、一部の人にとっては常識である。
361卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/05(火) 10:03:09.26
さてしかし、アトランティス時代に、アトランティス大陸以外に現在の諸大陸があったのか、
またそれら諸大陸に、アトランティス人以外の諸民族が住んでいたのか、ということは私は知らないのである。

だからたとえば、ウガヤ以前のことが、アトランティス大陸の話なのか、それとも日本列島の話なのかということは私は知らないのである。
しかしアトランティスの沈没を逃れた人々が現在の諸大陸に散らばっていったことは確かで、
日本列島にもそのような人々が逃れてきたことは確かだと思われる。それは紀元前一万年以後のことである。
362日本@名無史さん:2012/06/05(火) 14:20:19.57
嘘という語が出たので、全然違う話を指摘しておきますが、
古事記は「列島政権が中国側の配下にあった」ことを隠ぺいし切れていないですが、
日本書紀は、徹底的に隠ぺいしています。
書記がそれを隠蔽しているために、ずいぶん無理な歴史になりました。
363日本@名無史さん:2012/06/05(火) 16:50:09.51
>古事記は「列島政権が中国側の配下にあった」ことを隠ぺいし切れていない
どこかにそんな記事があったかな?
364唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/05(火) 18:36:40.82
>日本書紀は、徹底的に隠ぺいしています。

神功渡海とは、晋の冊封体制への参加であり、倭は、半島で警察行為を行う。
この事実を、百済本紀に同期することにより、隠ぺいされるのである。
百済本紀自体の編年が間違っている。
365日本@名無史さん:2012/06/05(火) 21:50:37.28
>>364
自演に対しての反省の弁は無しなの?
366唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/05(火) 22:04:28.76
>>365

太タヌキ殿の入院見舞いにはいったのか?
367日本@名無史さん:2012/06/05(火) 22:16:47.44
>>366
343から344の流れは何?

何で自身の書き込みに対してそんなレスしてるの?
368日本@名無史さん:2012/06/05(火) 22:40:18.09

      _,,.. - 、 
     ,.-'      `' 、.     
   ,r'       ,rfn、 \         太国=唐松山
    ,'  ,rffn.   '"     ヽ   
   .i  '"     ,riiニヽ.   ',.    これは酷い自演ですね。
   {  ,riiニヽ      _.    ',   
   !   ,..  _,,.. -‐' _,..r'  i
   ',   '、., __ ,.. -‐''"゙  }  | 
    `、  ヽ        !   }
     '、  ヽ      ./   !
     \  `ヽ==='゙    ,'
       ' 、        / .
        `''‐   . r'
369唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/06(水) 01:28:08.70
発掘調査現場から(241回) 広報「わかざくら」 平成21年7月掲載 ・纒向遺跡第162次調査
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/index.html

  第162次調査の調査地は、纒向駅のすぐ西側にあります。
 調査区は南北に傾斜する微高地上に位置しており、その地形に合わせて整地土が厚く盛
られ、平坦な土地をつくっています。整地土内からは庄内式期古相(3 世紀前半)の土器
が出土しており、下層遺構は主にこの時期に構築されます。また、これらは庄内3式期(3
世紀中頃)の溝によって壊されていることから、こ の時期に廃絶するものと考えられます。

改めて20 次調査成果を再検討したところ、SB‐101の西側約10.5mの位置に他の柱列と
軸線を揃えた柱列の存在も明らかとなりました。そのため、大規模な整地 を行なった微高
地上を東西に3棟の建物と柵などが強い規格性のもとに構築されており、これらの遺構群
が纒向遺跡の中でも何らかの特別な施設の一部となる可 能性があります。

庄内式期古相(3 世紀前半)の大型建物(垂仁珠城宮)の跡に、土盛りと整地をして
3世紀中頃の景行日代宮(土盛りをすれば土地は乾く=ヒ、整地=代)
370唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/06(水) 02:07:22.54
ホケノ山古墳
http://bell.jp/pancho/travel/yamanobe/hokeno_yama.htm
コウヤマキ製のくりぬき式木棺の破片を、放射性炭素(C14)年代測定法で分析した結果、築造時期が3世紀第2四半期(225〜250)ごろと判明。
箸墓古墳 Wiki
出現期古墳の中でも最古級と考えられており3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳である。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-90529.htm
千葉歴博は、箸墓(240〜260年)という。
土器編年
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html
纏向新編年
纏向3類(前)=南溝黒色粘土1下=ホケノ山=239年 邪馬台国官伊支馬=イクメ=垂仁。
371日本@名無史さん:2012/06/06(水) 09:46:49.12
神功皇后ちがうん?
372卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/06(水) 09:53:20.18
隠蔽といえば、中国と朝鮮の史書も隠蔽している。たとえば揆園史話にこうある。

高句麗之方盛也 强兵百萬 南擊吳越 北挑幽燕齊魯 恒虎威於漢方 
百濟則跨渤海而略遼西晉平 越草海而占越州 
新羅鯨濤萬里 陳雄兵於明石 刑白馬而盟赤關

桓檀古記にも似たような記事があった。高句麗や百済が呉越の地にまで進出している。
注目すべきは新羅…盟赤關の記事だ。この赤關はおそらく赤關帝と謂われた関羽のことだろうと思う。
新羅が蜀と同盟を結んでいたという驚くべき記事だ。

揆園史話は偽書とされているが、読んでみると、憂国の士が書いた書という感じで、
著者はいろいろ考証しながら書いている。決していかがわしい書ではない。
文化という言葉が出てきて、それが偽書である証拠だといわれているが、
これは文が化した(呼称が変わった)という意味であり、カルチャーという意味で書いているのではない。

桓檀古記には寧古塔という地名が出てきて、それが偽書である証拠とされているのだが、
契丹古伝に然矩丹という地名が出てきて、浜名寛祐はこれを寧古塔に比定した。
つまり寧古塔という地名は古くからあったと思われ、それだけでは偽書である証拠とは言えない。
373日本@名無史さん:2012/06/06(水) 10:08:26.16
いい加減邪馬台国とかやめろよw
そんなん考えるだけ時間の無駄だ
374卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/06(水) 10:27:15.23
一部訂正

文化がカルチャー、文明、という意味で使われている箇所もある。
しかしカルチャー、文明という意味の文化という言葉は本当に近代以前には無かったのか?
375卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/06(水) 12:48:34.90
誰も何も書かないので雑感を−

契丹古伝、桓檀古記、揆園史話…を読んできて、地名や河川の大体の見当が付いたが、
イマイチ分らないのが卒本、卒本川である。通説では渾江流域とされているようだが、
その根拠は何なのだろう。どうも違うような気がするのだが。

それはさておき契丹古伝を再読してみて、あらためて浜名寛祐という野の学者の考証の的確さに驚かされた。
この著は古典的名著である。浜名寛祐はこの著で名を残した。
376日本@名無史さん:2012/06/06(水) 15:40:14.04
>>375

あんた、そのコテハンやめなさいよ。誰からも信用されないから。
377卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/06(水) 17:02:53.16
>>376
苦笑。だからおぬしも、あと二十年か三十年経って、人間的に老成してきたら、
少しは朝鮮説にも耳を貸すようになるのだよ。

君らはまだ若い。三、四十代の生意気盛りだ。浜名寛祐なんて読む気にもならないだろうが、
そのうち、こういうものもじっくり読んでみようか、という気になってくるのだ。
378唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/06(水) 17:11:44.75
>神功皇后ちがうん?

神功皇后の指標は、あづないの罪。
ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる。つまり、日食である。
327年、北陸で見られたという、完全食。
このあたりから50年ほど後が、
326年 神功52年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)。
つまり、神功・応神紀はそのままの長さでなくてはならない。
允恭4年のクガダチで世継ぎは書き換えられている。
百済本紀と王家が整合しない。だから百済本紀などは、書き換えられている。
それは、正しい年代に、百済王家を書紀の干支と同じところへ注入している。
(奈勿大聖神帝)
ネムル王 7禺聖未383] (水羊祭)三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多 聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗
(323年癸未・神功49年己巳)3月, 付与(夫余)の流民(流民) 30号(戸)がまた投降して来た.
付与(夫余)が倭(倭)とお互いに上通(相通)して毎年その民を受け入れて都城と田舍に分散させて配置した.
ウェシン(倭臣) ウングオン(熊彦)は美しくて話術が良くて子供(阿□)とお互いに情を通じてその言葉を聞き入れる事が多いのでお吸物である(国人)らが離反(離反)してあるいは私たちに来てあるいは高句麗に行ったりした.

ネムル王8年[甲申384] 正月, 木神制(木神祭)を行った.
夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之
(338年戊戌・神功64年甲申) 付与の斤数(謹須)が死んで(□) チムリュ(枕流)が立った.
379日本@名無史さん:2012/06/06(水) 18:09:09.05
>>377

馬鹿言え、お前のほうが年下だろ。
380日本@名無史さん:2012/06/06(水) 21:53:33.23
>神功皇后ちがうん?

ちがう。
4世紀後半の神功皇后を卑弥呼としたいため干支を2周早めた。
それが300年論争の元。
381日本@名無史さん:2012/06/06(水) 22:02:12.95
>>378
奈勿大聖神帝って何だよ。
わけわからんもの出さないでくれ。
382唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/06(水) 22:30:43.26
>干支を2周早めた。

奈勿7年(383年・323年癸未・神功49年己巳)北方扶余の伽耶入植。千熊長彦。
奈勿8年(393年・338年戊戌・神功64年甲申) 仇首王の死亡と枕流の即位。
百済本紀 384年枕流王即位

北方扶余の伽耶入植を韓国考古学は、3世紀末か4世紀初めを主張している。
であるならば、奈勿7年(323年癸未・神功49年己巳)が支持される。
この場合、七支刀=326年 東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)になる。
百済本紀 384年枕流王即位←ここに甲申年は無い、だから、
369年 七支刀には、16日丙午の存在しない年があてがわれる。
 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
存在しない日付を刻んだとなれば、百済王家の資質が問われ、その尊厳も否定される。

七支刀=326年 東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)を支持した場合
書紀の神功49年の出来事は正しい。
七支刀=369年 東晉廢帝太和4年?月16日丙午(存在しない日付)を支持した場合
書紀の神功49年の出来事は否定されている。

書紀の記述が正しいのであれば、奈勿8年仇首王の死亡と枕流の即位は、差し込み記事である。
383日本@名無史さん:2012/06/06(水) 22:40:01.61
>北方扶余の伽耶入植を韓国考古学は、3世紀末か4世紀初めを主張している。

へぇ〜主張するのは勝手だが、それならば3世紀末か4世紀初めの馬具を紹介してもらおうか。
そんなものないはずだが?
384唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/06(水) 23:19:34.16
294年 モクホ(木虎:甲寅)正月、ガクガン(角干)は、陸軍の頭上(六军头上)であるため、
姫もユンボク(戎服)を備え、着馬に乗って将士の朝礼を受けた。
書紀の記述に間違いが無いのであれば半島の歴史書を書き換える。
書き換えは、考古学の知見を尊重する。

奈勿大圣神帝纪ネムルデソンシンジェギ) @323年 7年(AD383)正月里子(水羊=癸未)
@三月夫余流民三十户又来降夫余与倭相通年年受其民散置都鄙倭臣熊彦美而善辩与阿尒相
通多听其言故国人异反或归于我亦归于丽
Aファシー(火豕=丁亥、AD387) 禁买扶余女为妻先是小民无妻者多买扶余女子扶余怨之至是命禁之仍许加耶民相婚
Bファンシ(黄豕=己亥、AD399)黄豕正月以扶余降民分置南路择其有技者属于各典以通其才

❶3月扶余の流民30戸がまた来降してきた、扶余と倭は相通じており年々その民を受け入
れ、町や村に散置してきた。熊彦(千熊長彦)は美男で良く弁舌がたち民(与阿=子供)と
仲が良い。ゆえに国民はその言を聞き、高句麗や新羅に帰属した。
❷扶余人の嫁が不足するから、伽耶人が扶余の女との結婚を禁止する。
❸己亥年正月 扶余の降民を南路に分置し、技術者をその才能にあわせ各典に配属する。

千熊長彦は扶余人が伽耶などに移住した時代の人物である。その時期を韓国考古学は
4世紀に入ったあたりと認識しているから、千熊長彦は323年であり、AD383
にはなりえない。

http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm
E4世紀以後、金官伽耶時代の木槨墓から中国系とは異なる北方農耕遊牧民文化の副葬品が出土する。
騎馬用甲冑・馬具・各種鉄製品・蒙古鉢形冑・桂甲・轡・ 木芯鉄張り輪鐙が出土。
初めて殉葬が確認される。北方系の墓制が前時代の墓をつぶして築造したので大成洞遺跡では、重なった墳墓があった。

385唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/06(水) 23:51:18.06
294年 モクホ(木虎:甲寅)正月、ガクガン(角干)は、陸軍の頭上(六军头上)であるため、姫もユンボク(戎服)を備え、着馬に乗って将士の朝礼を受けた。
300年庚申ウォン(白猿:)8月、光明后が保反公主を産んだ。
303年癸亥フクシ(K豕)4月には、軍神(群臣)が光明后を尊崇し、シンフ(神后)とした。
307年丁卯(赤兎)2月、先代ニトグム(先今)類(儒礼)が崩じた
【9月、高(康世)の娘チョンガン(千康)を付与太子(夫余太子)ギルス(吉须)の妻とした。】
310年庚午金馬(金马) 【神功50年庚午10月、高句麗(丽)の理由(斯由)が付与(夫余)と戦って死んで息子曲げ(丘夫)が即位した。】
314年甲戌 モクグ(木狗) シンフ(神后)が第(帝)の娘バンダン(方丹)を生んだ。
315年乙亥(木豕)2月、シンフ(神后)が聖者(圣子)に夫(副君)をした。
【神功55年乙亥11月、グンチョゴ(近肖古)が死ぬと(殂)と谨须が立った。 渤海(发亥)を送って弔問した。】

儒禮泥師今 284~298
307年丁卯(赤兎)2月、先代ニトグム(先今)類(儒礼)が崩じた
ここに10年程度の齟齬があるのかもしれないが、
後漢193年冷夏=新羅192年4月大雪とここでは1年の齟齬までである。
儒禮泥師今自体は、馬韓人の王であろうから、ここで10年の齟齬が生まれたのか?
386日本@名無史さん:2012/06/06(水) 23:58:31.04
>>384
>その時期を韓国考古学は4世紀に入ったあたりと認識しているから

そこちょっと疑問 土器の比較からもう数十年古いと思う
387唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/06(水) 23:59:29.49
儒禮泥師今 284~298 ≒307年丁卯(赤兎)2月、先代ニトグム(先今)類(儒礼)が崩じた
この数字は、
奈勿8年(393年・338年戊戌・神功64年甲申) 仇首王の死亡と枕流の即位。
百済本紀 384年枕流王即位
この違いでもある。

388日本@名無史さん:2012/06/07(木) 00:34:57.17
>>384
>騎馬用甲冑・馬具・各種鉄製品・蒙古鉢形冑・桂甲・轡・ 木芯鉄張り輪鐙が出土。

4世紀後半ね。
3世紀末か4世紀初めの馬具なんてないでいいね。
扶余ってたしか2世紀に騎馬軍あったはずだから扶余ではないということだね。

あと、奈勿大圣神帝纪ネムルデソンシンジェギ)って何?
389日本@名無史さん:2012/06/07(木) 20:19:26.56
姫皇子で女の王様と言う意味なんだろうか
日の巫女で太陽神を祭祀する巫女なんだろうか
390日本@名無史さん:2012/06/07(木) 20:31:23.92
まあ、呉に対する魏の牽制なのよ。嘘並べても牽制にならん。
391唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/07(木) 22:33:14.53
>奈勿大圣神帝纪ネムルデソンシンジェギ)って何?

いまから、4,5年前に出てきた資料で、
奈勿麻立干 356~402と同一人物であるが、そこに書かれた年の干支は、新羅本紀などと違うのではないか?
という疑問が韓国でも起こっている。
奈勿大圣神帝纪における、儒禮泥師今 〜298 ≒307年丁卯(赤兎)2月、先代ニトグム(先今)類(儒礼)が崩じた
儒礼が正しければ、奈勿は317年即位となる。

つまり、半島の史書3国史記は、編年が間違っている。
だから、七支刀=369年から割り出された 崇神時代=卑弥呼が否定され
纏向が2世紀末となる。
2世紀末に崇神を配さない限り、纒向の説明はできない。これが、日本考古学の選択した時代背景であり、
韓国も50年遡上するから、北方扶余系遺物が4世紀前半となる。
http://cafe.daum.net/newhuman/Ci2X/605?docid=UnMBCi2X60520100305110049
直訳
ハーブ大聖霊提起(奈勿大圣神帝纪)上

他のデータの内容がでたらめにかき混ぜていた文書からのハーブ大聖霊提起の記録だけ別に抜き出して作成してみるとひょっとして間違いがあったのかもしれません。
抜けている部分や解釈が間違ってところがあれば指摘してください。
ハーブ大聖霊提起(奈勿大圣神帝纪)
月内神経(月嬭神经)で話す。

"ファンギェ(黄鸡:油349/289?)4
392唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/07(木) 22:47:28.72
http://inoues.net/korea/yumemura_dojyo.html
夢村土城は、5世紀前葉からの遺構が確認されているが、遺構以外で4世紀に遡るべき遺物が土城内に
みられることも事実であり、土城内に未知の「4世紀の遺構」が存在した可能性は残っている。

韓国の歴史は百済本紀が正しいとして編年されている。
百済本紀が正しければ、考古学と文献は整合するはずである。
「未知の4世紀の遺構」は、文献の正しさを疑っている。
だから、
七支刀=369年神功52年は、誤りであり
七支刀=326年神功52年という数字が浮上する。
これで、「未知の4世紀の遺構」は、解消し、伽耶の北方扶余も4世紀前半になる。

ただし、七支刀=326年神功52年を選択した場合、49年の半島占拠と領土分与は事実となり
百済建国は、この領土分与によりなされる。
393日本@名無史さん:2012/06/07(木) 23:47:12.38
>いまから、4,5年前に出てきた資料で、


すまんがどこからどう出てきたのか説明してくれ。
どうせ私撰のパチモンだろう。


>2世紀末に崇神を配さない限り、纒向の説明はできない

できるよ。
崇神は4世紀前半で何も問題ない。
394唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/08(金) 00:13:58.99
>崇神は4世紀前半で何も問題ない。
ほんとか?
条件は、考古学の数字を大幅に書き換えない。10年、20年は誤差の中だ。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神11 年異俗多帰]
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白) 纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する→纏向2類(中)・纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁末年]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳 埴輪(庄内式穴あき壺)田道間守の殉葬。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行による九州
纏向4類(前)・纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)  仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山  308年永嘉の乱
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 [313年仁徳元年]
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳 316年晋滅亡、兵の引き上げ
纏向5類(後プレ)椿井大塚山  [323年神功49年]
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
旧纏向5式  326年七支刀、大量の渡来人 旧編年 纏向5式(新)〜6式 (布留2〜3)
  仲津山古墳
旧纏向6式 須恵器を伴う 370年前燕滅亡 TK73石津丘古墳
395唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/08(金) 00:59:17.37
http://cafe.daum.net/sijeong7101/G59v/65?docid=1IQacG59v6520100607201857

奈勿大圣神帝元年 丁丑 十一月 加耶君守克殂 慕訶立 以宣失爲太后 時加耶與倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女爲妻 而不聽宣失之言 遣使責之
夫餘與麗爭地 戰于木〈十月 謹須以兵三萬 襲平壤 故至是丘夫使其弟伊連 來功也〉
付与(夫余)が高句麗とゼングジ(争地, 敵とお互いに占めようと争う地, 戦略的要衝地)してチォングモック(青木)から争った.

奈勿元年の条件として、倭や伽耶が従わなかった“朝廷”が無ければならない。
316年西晋滅亡。
317年丁丑 この時伽耶は、倭王女を妻としたため、朝廷の言うことを聞かなかった。
夫餘與麗爭地。 辰王=桂林=新羅。濊貊=不耐濊=扶余=百済。*注 扶余には、北方扶余と百済が含まれる。
この時、不耐濊は郡の守備に就いている。

辰王= 今夫余句麗及中原諸國 皆用男君故 兵强國大 我國獨重女君 故雖立夫帝 而無異私嬖 國威大損 幸今神后有以好童太子欲定國嗣之意 宜早立太子 以定男統

その十二國は辰王に属す。辰王は常に馬韓人を用いてこれを作(な)し、世世相繼ぐ。辰王は(辰韓人が)自ら立ちて王となるを得ず。
【魏略にいわく、明らかにそれ流移の人為(た)り、ゆえに馬韓の制するところとなる。】
新羅は女系王族であった。

新羅が女系から男系に切り替えたのは、316年西晋滅亡から数年後のことである。
396日本@名無史さん:2012/06/08(金) 10:19:55.90
だから纏向遺跡は3世紀から4世紀で3世紀後半あたりが最盛期。
祟神は4世紀初めあたりで問題なし。

いい加減、韓国考古学なんて卑弥呼と関係ないもの出すのやめてくれないか。

ウソを100回貼り付けても本当にならないよ。
397唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/08(金) 23:02:51.32
>いい加減、韓国考古学なんて卑弥呼と関係ないもの出すのやめてくれないか。

日本の史学は、どこを正しいとして編年されているか?
それは、百済本紀の百済王家だ。
七支刀=369年で百済王家につなぐ。
369年≒神功52年 だいたいこの程度の数字を正しいとして、崇神世=卑弥呼が割り出された。
つまり、纒向遺跡が3世紀半ばからで箸墓が4世紀初めあたり。
これが、昔の編年である。
しかし今現在、考古学は纒向を2世紀後半からとし、箸墓は3世紀半ばである。
だから、日本書紀の編年は、この知見に従い50年程度遡上しなければ、考古学と史学の整合は無い。
崇神を引き上げれば、神功52年七支刀も引き上げねば、半島の歴史と整合しない。

ここで、半島の考古学と史書の再点検が必要となる。
韓国考古学は、百済本紀を正しい歴史とできていない。なぜならば、考古学4世紀前半の知見を
4世紀後半とする歴史書との整合性だ。

>ウソを100回貼り付けても本当にならないよ。
太タヌキ殿に言ってくれ、



398唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/08(金) 23:16:47.09
・纒向遺跡第166次調査(1)〜大型建物のその後〜

写真 纒向遺跡第166次調査は卑弥呼や邪馬台国の時代と同じ3世紀前半の時期の大型建物が発見され、
話題となった発掘調査です。今回見つかった建物は調査状況や建築学的な検討から南北19.2m×東西
12.4mの規模として復元されていますが、実際に検出できた建物の痕跡は東側半分だけでした。これ
は建物が廃絶した後、後の時代の人々がこの地を利用したことにより、建物西側の痕跡が失われたた
めです。今回は3世紀の建物ではなく、それと重なり合う200〜300年ほど新しい時代の遺構について
見ていきたいと思います。

纏向の大型建物は、3世紀前半と3世紀半ば。
それから、2,300年後にまた建物が建てられる。
つまり、箸墓以後の建物が無い。4世紀初めには、秋津遺跡に移動する。
秋津遺跡とは、応神の軽嶋の明宮だ。
天皇家が纏向を離れるのは、景行の後である成務からである。これと箸墓以後の宮殿が纏向に無い事は
箸墓までが、いわゆる纒向3代であり、2世紀後半から箸墓までの7,80年間なのだ。

399日本@名無史さん:2012/06/08(金) 23:18:59.97
>韓国考古学は、百済本紀を正しい歴史とできていない。
>なぜならば、考古学4世紀前半の知見を
>4世紀後半とする歴史書との整合性だ。

日本語は不自由ですか?
400唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/08(金) 23:39:13.61
纒向遺跡第167次調査

柱穴群(北から) 纒向遺跡は弥生時代終末期〜古墳時代前期前半頃(3〜4世紀前半頃)に栄えた集落跡であり、
大型の前方後円墳である箸墓古墳や出現期の古墳である東田大塚古墳などの古墳が多く確認されています。また、
最近の成果では3世紀前半の大型建物跡が発見され、邪馬台国論争に一石を投じることとなりました。今回の第
167次調査は大型建物跡が見つかった場所から南東に約600mの巻野内地内で行われました。
 今回の調査地の周辺には巻野内石塚古墳や小川塚古墳などがあります。また、東側で実施された第42次調査では、
4世紀初め頃の鶏形埴輪や冠帽形埴輪が出土しています。これらのことから新たな古墳の存在が確認できることを期
待されましたが、残念ながら古墳に関係するものは確認できませんでした。

五社神古墳
2008年2月22日に実施され16名が立ち入った。前方部東側の墳丘裙やや外側ではそれまで知られていなかった
円筒埴輪列が原位置のまま確認された。

形象埴輪が4世紀初めからであるならば、五社神古墳はそれ以前に設定される。
そして、古事記によれば、成務以後でもある。
401唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/09(土) 00:26:18.77
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳。邪馬台国官伊支馬(イクメ)、都市牛利(たしうり)
景行天皇 240年〜261年 2章 晋書正始元年東倭重譚納具。箸墓は箸陵(263年)。
成務天皇 262年〜265年 ≒3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。
仲哀天皇 266年〜274年 ≒0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜343年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山 誉田御廟山までは110年。
応神天皇 344年〜384年仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
この数字から得られる神功49年己巳は、323年癸未である。であるならば、
奈勿大圣神帝8年 木神、甲申 (神功64年甲申)は、差し込みとなる。

奈勿大圣神帝7年 水羊、癸未 倭臣熊彦=千熊長彦 (神功49年己巳)
三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多 聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗
3月, 付与(夫余)の流民(流民) 30号(戸)がまた投降して来た.
夫余が倭とお互いに上通(相通)して毎年その民を受け入れて都城と田舍に分散させて配置した.
ウェシン(倭臣) ウングオン(熊彦)は美しくて話術が良くて子供(阿□)とお互いに情を通じてその言葉を聞き入れる事が多いのでお吸物である(国人)らが離反(離反)してあるいは私たちに来てあるいは高句麗に行ったりした.
奈勿大圣神帝8年 木神、甲申 (神功64年甲申)
夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之

奈勿大圣神帝8年 木神、甲申 (神功64年甲申)が、差し込みであれば、
韓国考古学と整合することは無い。
402日本@名無史さん:2012/06/09(土) 06:38:36.13
>>399
目ぇ合わせちゃダメ
403唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/09(土) 13:44:58.56
結局、4世紀が説明できない卑弥呼では、間違いがある。
卑弥呼は、邪馬台国に存在しなかったし、
邪馬台国は、九州では無かった。
404日本@名無史さん:2012/06/09(土) 13:52:06.18
邪馬台国は四国にあったのだ。
405日本@名無史さん:2012/06/09(土) 15:44:03.30
>>397
>日本の史学は、どこを正しいとして編年されているか?
>それは、百済本紀の百済王家だ。

わけわからん。
年輪年代と整合した土器編年だ。

>しかし今現在、考古学は纒向を2世紀後半からとし、箸墓は3世紀半ばである。
>だから、日本書紀の編年は、この知見に従い50年程度遡上しなければ、考古学と史学の整合は無い。
>崇神を引き上げれば、神功52年七支刀も引き上げねば、半島の歴史と整合しない。

古事記での崇神の没年は戊寅・318年と考えて何か不都合あるのか?

>ここで、半島の考古学と史書の再点検が必要となる。

韓国でも年輪年代研究者いるみたいだがどこまで進んでるのかな?

わ け わ か ら ん
406日本@名無史さん:2012/06/09(土) 15:52:20.79
>>398
>纏向の大型建物は、3世紀前半と3世紀半ば。

奈良東部に宮を移すのは祟神だろ。
祟神は4世紀初めなので纏向の大型建物は天皇家ではないということになる。

纏向遺跡の出土土器で1番が伊勢・東海49%、
2番が北陸・山陰17%。
これを説明してくれ。

407唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/09(土) 16:00:57.22
>年輪年代と整合した土器編年だ。

これは、考古学編年だ。
百済本紀の百済王家を指標とするのが文献史学の編年。
残念ではあるが、百済王家を指標とする文献史学と考古学が整合することは無い。

>韓国でも年輪年代研究者いるみたいだがどこまで進んでるのかな?

韓国考古学は伽耶の北方扶余系遺物を、3世紀末、4世紀初めからとする。
これは、3国史記と半世紀の齟齬がある。文献は4世紀後半を指す。

>古事記での崇神の没年は戊寅・318年と考えて何か不都合あるのか?
古事記の崩御干支 編年考察 古事記の干支を仲哀9年(応神誕生)に合わせ検証すると。
崇神 ??丙寅??
成務天皇 262年〜265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。神功275年〜343年。
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 秋津遺跡=軽嶋の明宮。4世紀前半3代分の時空。
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯
履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申 404年帯方界への侵攻で兄王行方不明になる。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑
允恭天皇 412年〜453年 甲午・・・(426年?) 413年倭と高句麗は東晋へ朝貢。翌年新羅の医者。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。(賛)
安康天皇 454年〜456年 ・・・・珍・済  元嘉二十年(443年)、倭国王の済
雄略天皇 457年〜479年 己巳・・・461年己巳 (462)済死し、世子興遣使貢献す。
清寧天皇 480年〜484年  顕宗天皇 485年〜487年  賢天皇 488年〜498年  武烈天皇 499年〜506年
継体天皇 507年〜533年 丁未・・・(499年?)

崇神と継体の干支が何を意味するか不明であるが、時空はほぼ同じであり、允恭4年の盟神探湯で神功から仁徳
紀には書き換えがある。
408唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/09(土) 16:27:57.35
文献史学と考古学編年が整合しなくてはならない。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html
寺沢薫 案 (畿内 大和) 弥生第W様式と第X様式の変わり目が神武即位。
纏向新偏年
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神11 年異俗多帰]
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する

途中省略
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)  仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山  308年永嘉の乱
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 [313年仁徳元年]
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳 
纏向5類(後プレ)椿井大塚山  
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。316年晋滅亡、兵の引き上げ
旧纏向5式  326年七支刀、大量の渡来人 旧編年 纏向5式(新)〜6式 (布留2〜3)
  仲津山古墳
旧纏向6式 須恵器を伴う 370年前燕滅亡 TK73石津丘古墳
TK216誉田御廟山古墳 渡海(274年)から110年後。
399年(406?)ON46大仙古墳
409日本@名無史さん:2012/06/09(土) 18:22:33.87
>>407
>仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生


あんたマジでこんな時代だと思ってるの?
ウザいからもう消えろ。
纏向新偏年を出してそれらしく装っても意味ねぇから。
410日本@名無史さん:2012/06/09(土) 19:14:56.88
唐松山は、ホツマ真理教の世界で一人、妄想に浸って
意味不明な言葉を発して、錯乱状態です。
411唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/09(土) 19:22:19.17
>纏向新偏年を出してそれらしく装っても意味ねぇから。

纏向新偏年が狂っていると言いたいのか?
纏向新偏年は、考古学の編年だ。
これに文献を整合させる。

>古事記での崇神の没年は戊寅・318年と考えて何か不都合あるのか?

この数字で、書紀に書かれた記事と整合出来れば文句は無い。
そして、神功紀の百済王朝へつなぐ。

私の主張では、百済王家を50年程度遡上させねば整合しない。
412日本@名無史さん:2012/06/09(土) 19:37:22.29
>纏向新偏年が狂っていると言いたいのか?

おまえが狂っていると言ってるんだよ。
413日本@名無史さん:2012/06/09(土) 21:00:04.37
>>378
>神功皇后の指標は、あづないの罪。
 年代を特定する考え方としては同意出来ます。

>ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる。つまり、日食である。
 と、貴殿は主張しているが、日本書紀、巻九に次の様に有る。大体で書くと
 「更遷小竹宮小竹此云之努適」小竹宮に移動し
 「是時也昼暗如夜已経多日時人曰常夜行之也」となったので、
 「皇后問紀直祖豊耳曰是怪何由矣」なんでだと聞いたら、
 「時有一老父曰伝聞如是怪謂」老人は伝え聞いたことによると
 「阿豆那比之罪也」と答えた。
 「問何謂也」意味が判らんと問うた。
 「曰二社祝者、共合葬歟」二つの神社の祝を共に葬ったことだと言った。
 「因以令推問巷里」近く里に問い合わせた。
 「有一人曰小竹祝与天野祝共為善友」小竹祝と天野祝は善き友だった・・・・

 阿が太陽、豆が月とは、私には、見出せない。
 過去に根拠をお示しになっていたかも知れないが、あらためて根拠をお教え戴けると有りがたい。

私の想像
 禍福は糾える縄の如しという言葉がある。
 万葉仮名の読み方としては「豆」は「づ」であると承知した上、単なる連想だが「あざなう」と「あづなう」は同義の様に思える。
 あざなう=よりあわせる
 このほうが後続の文に抵抗無く続くと思うがどうであろうか。
 ・・私は二人の祝は、神功皇后軍に、一緒に縛られて生き埋めにされたと妄想しているからかもしれない。

>327年、北陸で見られたという、完全食。
 過去は273年と云っていたと思いますが、間違いですね?

私の想像
 日食の様に日時は定まらないが、火山灰の可能性も否定できない。
 九州の九重の黒岳が「約1700年前に大規模マグマ噴火」とありました。他にもあるかも知れません・・・
414唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/09(土) 21:54:55.03
>327年、北陸で見られたという、完全食。
>過去は273年と云っていたと思いますが、間違いですね?

ご指摘どおり、私の間違い。 273年の日食が正しい。

>火山灰の可能性も否定できない。
この時代の遺跡に降灰の記録が無い。
則日暉炳。日夜有別。すなわち日のカゲがきらめく。
降灰では、きらめかない。

274年 神功渡海
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。(東夷九種は東夷9国となる。)

274年の渡海であれば、晋による渡海要請、または命令であり、渡海に武力は要らない。
ただ、軍隊を連れて行けば良い。
であるならば、これ以前に軍隊が組織されていなくてはならない。
使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特置した一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る
「大倭」と書いて「ヤマト」と読む。

大和が九州に軍を置けるのは、景行による九州遠征と重なる。
そうなると、それ以前に何があったか?
邪馬台国官伊支馬(イクメ・垂仁)による都市牛利(たしうり・田道間守)の派遣
正始元年に倭王位授与。晋書正始元年東倭重譚納具。
魏は、大和に関与し、倭国平定を目論む。乱れているのは、卑弥呼を共立した九州。
この平定の戦いの中で卑弥呼、男王の相次ぐ死。
大和は、壹與(五百野姫)を軍隊付きで、筑紫に派遣する。
415唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/09(土) 22:10:42.44
私の主張する神功紀は275年からであり、百済本紀の王朝とは50年ほど早い。
だから、3国史記を書き換えねば整合しない。
幸いなことに、私の主張に沿う文献として、奈勿大圣神帝纪(ネムルデソンシンジェギ)が出てきた。
新羅の奈勿王なのだが、3国史記と年代齟齬がある。
奈勿大圣神帝纪(ネムルデソンシンジェギ)- ハンムンボン を検討

神功49年 323癸未・皇二四九己巳・7年(AD383)正月里子(水羊=癸未)。千熊長彦
336丙申 ・皇二六二壬午 書紀百濟記云 壬午年
神功64年 338戊戌・皇二六四甲申・8年(AD384)正月牧神(木神=甲申)。夫余谨须殂
枕流立其母阿尒执政遣千世吊之
応神3年壬辰の前年345乙巳・皇二七一辛卯・白土(白兎=辛卯、AD391)年 十一月辰斯卒于狗原阿尔乃立阿
莘为君

神功49年 323癸未・皇二四九己巳・奈勿大圣神帝7年←ここを正しいとすれば、
後は、書紀の干支での差し込みである。
416日本@名無史さん:2012/06/09(土) 22:15:19.05
唐松山は、百万言を費やしてもその意味不明にて妄想世界。
417唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/09(土) 22:21:43.71
274年 仲哀9年 神功渡海 応神誕生
313年 仁徳即位  数字的に齟齬は無い。
384年 応神崩御 誉田御廟山まで110年、書紀の主張の中にある。
399年 仁徳崩御 大山陵 誉田御廟山と大山陵の年代差に違和感はない。

しかし、これを正しい世継ぎとは認定できない。
だから、書紀は允恭4年のクガダチで世継ぎの書き換えを認めている。
418日本@名無史さん:2012/06/10(日) 00:56:40.07
奈勿大圣神帝纪なんてどこからどう出てきたかも言えないパチモン史料は意味なし。
419日本@名無史さん:2012/06/10(日) 01:00:40.18
>274年 仲哀9年 神功渡海 応神誕生
>384年 応神崩御

応神は110歳?
おめでたい人もいるもんだw
420卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/10(日) 09:41:46.79
>>418
お前がパチモンだ。どんな史料も大切にしろ、馬鹿者。
>>419
おめでたいのはお前だ。古代の王が長寿なのはよくあることだ。もっと真剣に考えろ、馬鹿者。
421日本@名無史さん:2012/06/10(日) 09:56:34.23
一、町村のシャーマンみたいな人で日本を
総て立ってワケではないでしょ?

騒ぎ過ぎ。
422日本@名無史さん:2012/06/10(日) 11:40:19.26
>>414
唐松山さん
ご回答有難うございます。

>>ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる。つまり、日食である。
> (「と、貴殿は」から「た・・・・」迄を省略)
> 阿が太陽、豆が月とは、私には、見出せない。
> 過去に根拠をお示しになっていたかも知れないが、あらためて根拠をお教え戴けると有りがたい。

この部分のお答えはないのでしょうか。貴殿が、お考えになった根拠はどこにあるのでしょうか。
貴殿が、信じていると言うのなら、それは貴殿のお考えですから否定しませんが、読者の同意は得難いと考えます。

>>火山灰の可能性も否定できない。
>この時代の遺跡に降灰の記録が無い。
 このお考えは成立可能であると考えます。

>則日暉炳。日夜有別。すなわち日のカゲがきらめく。
>降灰では、きらめかない。
 貴殿の解釈は理解しましたが、ビギナーには難しく感じます。

ご参考まで、  以下のような記録も見られますが、降灰の痕跡が発見されたという記事を見いだせません。
文禄五年(慶長元年)閏七月十三日(1596年9月5日)未明,主として畿内(山城,大和,摂津,河内,和泉)に甚大な被害をもたらす地震がおきた.
醍醐寺の当時の座主であった義演の著した『義演准后日記』によれば,文禄五年六月二十七日の正午から,京都で土器の粉のようなものが雨のように四方を曇らせて降り始め,草木に積もって大地は霜の朝のように白くなった.
降り積もった灰は少なくとも二日後まで観察できた.当時の公卿たちの日記である『舜旧記』や『孝亮宿禰日次記』にも同様の降灰記録がある.
また,宣教師たちの記録によれば,この灰は大阪と堺にも降り,降灰時に空は日食時のように暗くなり,京都と伏見の降灰は終日続いたという.

>274年 神功渡海
 申し訳ありません。 まだ、読み始めたばかりのビギナーですので、以降については、悲しいことに、
 知識無きため理解できませんので、コメント出来ません。

お手数かと存じますが、ビギナー向けの根拠を含めたご説明、ご指導もお願い致します。
423日本@名無史さん:2012/06/10(日) 11:54:09.92
>422
おたくは、ビギナーとはいえスジがいいので
ぜひコテハン(ハンドルネーム)で投稿して下さい
注目してますよ
424日本@名無史さん:2012/06/10(日) 13:08:19.79
>>420
馬鹿チョンへ

>どんな史料も大切にしろ、馬鹿者。

だからどこからどう出てきたか答えろよ。

>古代の王が長寿なのはよくあることだ。もっと真剣に考えろ、馬鹿者

古墳時代の平均寿命は40もねぇぞ。
倭人伝に書かれてるのは大げさなだけ。
425日本@名無史さん:2012/06/10(日) 13:08:39.23

280 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:26:01.31 ID:sGoAT50E
三年前ごみんすに投票した連中、今どんな気持ち?

287 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:27:00.18 ID:P8V2Yy+50
>>280
橋下様なら何とかしてくれるとお経上げてるよ。
426唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/10(日) 21:52:20.71
> 阿が太陽、豆が月とは、私には、見出せない。
あづないの罪とは、祝子二人が同じ穴に葬られる罪でもある。
太陽と月が一つになってなくなる。

アは、天であり太陽なのだ。
ホ35012 ミヨのハツ アキアにをくれ フユおさめ
垂仁元年 秋太陽に遅れが発覚 冬至日の変更。
つまり、垂仁元年は19年7潤の最終年になる。
 
「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、
十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。閏を置かざれば、未だ三年に盈(みた)ざるに一月差
(たが)ひ、正月を反て二月と為す。
「古記」は、「大宝令」の注釈書であって、天平一〇(七三八)年頃に成立したという。その頃の日本国で
は、儀 鳳暦が行われていた。儀鳳暦は、章法から脱却した破章法による暦法であって、「古記」が示すよう
な固定的な閏月の型を示さず、閏月は次第に進行する性質を 持っている。「古記」が解説する暦法は、儀鳳
暦ではない。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin16/rekihouz.html

仲哀元年に閏11月が存在する
仲哀9年の“朔”は、閏12月の存在を示唆する、垂仁元年はこの閏12月のライン上に存在する。
古代から太陰暦は使われていた。
427唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/10(日) 22:13:55.17
垂仁天皇元年(壬辰前二九)正月戊寅《二》◆元年春正月丁丑朔戊寅。
仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)二月甲子
200+29−1=228。228/19=12章。
書紀の太陰暦は、引き延ばされている。しかし、元年、末年で見る限り、太陰暦は使われている。
だから、引き延ばしの方法は、推定できる。
その方法とは、まず書紀には「正朔j」の文字がある(崇神世)だから、太陰暦で読めねば
ならない。
太陰暦とは、19年7潤の積み重ねであり、ここに空白の19年7潤を差し込んでも、
太陰暦としては、わずかな違いしか出ない。
だから、計算でも19年の積み重ねでも、書紀の太陰暦は再現できない。
しかし、狂いはわずかであり、太陰暦を否定できない。
書紀に書かれた数字を太陰暦のまま圧縮出来るか?
増しは1章こと19年7潤=6940日が基本で4章につき1日(調整)を減ずる。
潤月は古記に従い、仲哀元年閏11月から逆算する。

西暦  年号元旦朔  増し調整   暦日
42年  神武元年庚辰朔 3章1日    0日 西元42年2月9日辛卯朔
途中省略 この間の増し 16章5日
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日 
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日 
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日 
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔      85106日  344年 応神元年〜
313年 神功39年丁巳朔 太歳  98986日 

313年 仁徳元年丁丑朔    98986日 神功39年太歳を元年とする。
400年 履中元年壬子朔    130761日 
428唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/10(日) 22:17:30.90
西暦  年号元旦朔  増し(章)調整(日)  暦日 朔干支 中国朔
42年  神武元年庚辰朔 3章1日 0日 辛卯 辛卯 東漢光武帝建武18年 西元42年2月9日
64年  綏靖元年壬申朔 1章1日  8033日 甲申 甲申
78年  安寧元年庚申朔      13142日 癸巳 癸巳
83年?  懿徳元年己卯朔 3章0日        安寧と同じ暦
94年  孝昭元年丙戌朔 3章0日 18988日 己未 己未
120年 孝安元年乙酉朔 4章2日 28467日 戊午 戊子 ☆
146年 孝霊元年壬辰朔 3章1日 37976日 丁亥 丁亥
165年 孝元元年辛未朔 2章1日 44916日 丁卯 丁卯
184年 開化元年庚午朔 3章0日 51856日 丁未 丁未
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 己未 己未 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日 乙未 乙未
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日 辛亥 辛亥 ☆
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日 癸卯 癸卯
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 庚戌 庚辰 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔      85106日 丁巳 戊午 ☆ 
313年 神功39年丁巳朔 太歳  98986日 丁丑 丁丑

313年 仁徳元年丁丑朔    98986日 丁丑 丁丑 ここより中国の暦とほぼ同等
400年 履中元年壬子朔    130761日 壬子 壬子 ここより中国の暦と同等?

「増し」は、4章(6940日×4)に付き1日(調整)を減ずる。合計33章−9日の増し
神功39年太歳の年を、仁徳元年とする。
書紀の暦日から、使われたであろう日数を中国の暦と同期させた。
書紀の主張“正朔”は正しい。これは古記の主張する閏を使用し、
仲哀9年を章の最後の年とする。
2重暦であれば、上記の如きユラギが朔に生じる。
このユラギまでをも一つの計算式でははじき出せない。
だから、後付は否定される。
429唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/10(日) 22:26:22.76
私の編年が正しければ、日本書紀は下記の如く、文献と考古学が整合する。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html
寺沢薫 案 (畿内 大和) 弥生第W様式と第X様式の変わり目が神武即位。
纏向新偏年
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神11 年異俗多帰]
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
纏向2類(中)・纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁末年]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳 埴輪(庄内式穴あき壺)田道間守の殉葬。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行による九州
纏向4類(前)・纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)  仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
430日本@名無史さん:2012/06/10(日) 22:26:28.76
>古墳時代の平均寿命は40もねぇぞ。
>倭人伝に書かれてるのは大げさなだけ。
そんな資料があるものか。

431唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/10(日) 22:28:45.48
>>428 の頭に追加。
日数表記では、よくわからないのであれば、その干支を中国の暦日と同期させる。
書紀に書かれた数字を太陰暦のまま圧縮出来るか?朔干支を中国と同期させて検証。

432日本@名無史さん:2012/06/10(日) 23:35:15.48
>>430
>そんな資料があるものか

魏志倭人伝に「倭人はたいへん長生きで、一〇〇歳、あるいは八、九○歳まで生きるとあるだろ。
知らないのかおまえ。
433日本@名無史さん:2012/06/10(日) 23:37:20.15
>>429
何度も同じ物貼り付けるなよ。
274年神功渡海とか言われて「あぁそうですか」となるわけないだろ。
434日本@名無史さん:2012/06/11(月) 02:17:27.63
倭人は、歳時を1年とカウントするから、
春と秋とが来るごとに新年とするわけだ。
だから年齢も今の二倍となる。
435日本@名無史さん:2012/06/11(月) 16:09:51.61
>>432
文章の読めない奴だな。「古墳時代の平均寿命は40もねぇ」という資料だよ。
436卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/11(月) 16:58:10.42
>>434
こんなことを本気で考えている奴がまだいるのか。やれやれ…。
437日本@名無史さん:2012/06/11(月) 17:13:43.88
>>435
少しは自分でググれボケ。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1325687448


15歳以上に達した者の平均死亡年齢の時代変遷は、
人口問題研究家の小林和正氏によると、

縄文時代: 男31.1歳/女31.3歳
弥生時代: 男30.0歳/女29.2歳
古墳時代: 男30.5歳/女34.5歳
室町時代: 男35.8歳/女36.7歳
江戸時代: 男43.9歳/女40.9歳
(古人骨より推定)
1891〜98年調査:男55.7歳/女57.1歳
1965〜66年調査:男70.3歳/女75.0歳
(人口統計)
438日本@名無史さん:2012/06/11(月) 18:07:28.40
>>436

魏志倭人伝に書いてあるのに、無視する馬鹿がいるとは呆れるな。やれやれ・・・
439日本@名無史さん:2012/06/11(月) 19:00:49.18
誤読だ。
440日本@名無史さん:2012/06/11(月) 19:30:34.75
>>423
   /ヽ / /⌒\
 / /ヽヽ|/⌒\ii|\
 |/ /ヾゞ///\\|
 |/   |;;;;;;|    \|
       |;;;;;;|
       |;;;;;;|ヘ⌒ヽフ     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
       |;;;;;( ・ω・)    |                      |
       |;;;;⊂   }   <  ブタもおだてりゃ木にのぼる   |
       |;;;;⊂,____,ノe    |                      |
       |;;;;;;|         \_____________/
       |;;;;;;|
       |;;;;;;|
有難うございます。
疲れそうなので、考えます。
ご指導宜しくお願い致します。
441日本@名無史さん:2012/06/11(月) 19:58:32.22
>>426 唐松山さん、有難うございます。

>> 阿が太陽、豆が月とは、私には、見出せない。
>あづないの罪とは、祝子二人が同じ穴に葬られる罪でもある。
 日本書紀「二社祝者、共合葬歟因」の部分ですね。(私の妄想は別として)そうなんだと納得しています。

ちょっと、独り言。何時ごろ祝子二人が亡くなったのでしょうね。
 「更遷小竹宮小竹此云之努適」に居て、「因以令推問巷里」して、判ったのが「有一人曰小竹祝与天野祝共為善友・・・」。
 「乃開墓視之実也故更改棺?各異処以埋之」。小竹宮では認識していない程、昔のことなのでしょうか。それを今更ですが、天変地異を恐れ、縁起を担いだのでしょうね。

>太陽と月が一つになってなくなる。
 「昼暗如夜已経多日時人曰常夜行之也皇后問紀直祖豊耳曰是怪何由矣時有一老父曰伝聞如是怪謂阿豆那比之罪也」太陽も、月も、表現されていない様に思います。
 祝子二人が太陽と月を代表していると言う趣旨なのでしょうか。一方の神社は太陽を、もう一方は月を祀っていたと考えるべきなのでしょうか。

 3世紀中ごろの西日本で見られたと思える日食をザッと調べてみました。間違いが有ったらお許し下さい。
 243・ 6・ 5、244・ 5・24、245・11・ 7、247・ 3・24、248・ 9・ 5、254・10・29、255・10・18、260・ 1・30、261・ 6・15、262・ 6・ 4、262・11・29、264・ 4・14、266・ 9・16
 271・11・20、273・ 5・ 4と、かなりの頻度で日食が起きてたようです。日食を初めて見て驚いたという人は非常に少なかった様に、私には思えます。

>アは、天であり太陽なのだ。
>ホ35012 ミヨのハツ アキアにをくれ フユおさめ
>垂仁元年 秋太陽に遅れが発覚 冬至日の変更。
 ホツマツタヱに拠ると「ア」は太陽を示しているということを仰っているのですね。
 なるほど、それも一理あります。 お手数ですが「ヅ」が月を示しているという部分もお教え願います。

ホツマツタヱを知りませんでしたので、探して見ました。
 「ミヨノハツ アキアニオクレ フユオサメ ハハイマナソコ」は「御世の初 秋天に遅れ 冬納め 母 今 七十九歳」で
 冬納めには、先帝のモガリを終えて冬に埋葬したという解釈も有るようですね。
 
つづく・・
442日本@名無史さん:2012/06/11(月) 20:15:05.07
>>426 つづき
>「古記」は、「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、
>十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす。
 ご説明有難うございます。
 十九年=一章は理解できます。ここでは、何をもって一年と称しているのでしょうか?
 一章とは、一年目はそのまま、二年目もそのまま、三年目には閏の九月を入れる、四年目はそのまま、五年目はそのまま、六年目には閏の六月を入れる、以降同様。
 と19年まで考えて宜しいのでしょうか?

>閏を置かざれば、未だ三年に盈(みた)ざるに一月差(たが)ひ、正月を反て二月と為す。
 未だ三年に盈(みた)ざる以降がスッキリしないのです。お教え願えますでしょうか。

>「古記」は、「大宝令」の注釈書であって、天平一〇(七三八)年頃に成立したという。その頃の日本国で
>は、儀 鳳暦が行われていた。儀鳳暦は、章法から脱却した破章法による暦法であって、「古記」が示すよう
>な固定的な閏月の型を示さず、閏月は次第に進行する性質を 持っている。「古記」が解説する暦法は、儀鳳
>暦ではない。
 サイトのご紹介有難うございます。「古記」とは「令集解古記」を示しておられるのですね。
 申し訳ありませんが、見るのが精一杯で、内容や趣旨は今も理解できていません。

>仲哀元年に閏11月が存在する
 「即天皇位秋九月丙戌朔尊母皇后曰皇太后冬十一月乙酉朔詔・・・・諸国俾貢白鳥閏十一月乙卯朔戊午」の部分ですね。
 と、いうことは、章の初めから11番目の年、つまり11年目ですね。

>仲哀9年の“朔”は、閏12月の存在を示唆する
 古記の暦なら、仲哀元年が11年目で9年は19年目で十二月に閏となることは理解できました。朔と閏の関係が理解できません。。

>垂仁元年はこの閏12月のライン上に存在する。
 双方とも閏の12月があるから、章の最後の年の19年目に当たるという意味ですね。
 つまり、閏のある月が判れば、19の倍数と、干支などと組み合わせてその年が西暦何年になるか判定し易すくなると言うことですね。
 それは、便利ですね、知りませんでした。有難うございます。

>古代から太陰暦は使われていた。
 月の満ち欠けを元にした暦の意味ですね。
443唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/11(月) 22:04:50.33
>祝子二人が太陽と月を代表していると言う趣旨なのでしょうか。一方の神社は太陽を、もう一方は月を祀っていたと考えるべきなのでしょうか。

その辺は、わからないがホツマによれば、夫婦の場合もある。
ホ28136 わがイノチ アメがしらすと ヤモカミを めしてワレヨを いなまんと サルタにアナを
ほらしむる マナヰにちきる アサヒミヤ をなじトコロと のたまえば モロをとろきて
ととむれば いやとよワレは タミのため ニガキをはみて モナソミヨ フチヰモトシを ながらえて・・・

ホ02008 アウのメオ オはアメとなり ヒノワなる メはクニとなり ツキとなる カミそのなかに あれまして ・・・
ホ32214 アにツキひとつ ハハはツキ シモメはホシよ これをめす

夫婦の場合なら、完全に太陽と月が同時になくなる。
444日本@名無史さん:2012/06/11(月) 22:10:41.25
ホツマなんか偽書だろが
445日本@名無史さん:2012/06/11(月) 22:32:41.24
>>443
纒向遺跡出土土器トップ2

@伊勢・東海系49%
A北陸・山陰系17%

この意味がさっぱり分からないだろ?w

>纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行による九州

こんな事を言ってる時点で分からないのは当たり前だ。
446唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/11(月) 22:33:46.86
>月の満ち欠けを元にした暦の意味ですね。

古記の示す固定的な閏月の型を示す。
1章=19年7潤=6940日。4章につき1日を減ずる。
書紀は、この暦法で書かれているとみてよい。
しかし、19年7潤では、”朔”に不整合が出る。
それは、私が分析した如く、正しい暦に空白の暦を重ねた場合発生する。
”朔”が固定であれば、正しい暦に空白の暦を重ねることはたやすい。

447唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/11(月) 23:32:16.78
@伊勢・東海系49%
A北陸・山陰系17%

纏向遺跡の土器だろ?
纏向は、崇神・垂仁・景行3代の都だ。

2世紀末、各地の土器が持ち込まれる。←この土器の分析ではない。
垂仁世、倭姫は、伊勢に神宮を開設する。その時どうこうしたのが、大彦の子孫であるアヘ・タケヌガワだ。
そして、景行と共に九州へ、また、関東へと勢力を広げる。
景行が九州へ上陸した時には、まだ卑弥呼は生存していた。
九州での戦いの最中に、卑弥呼・男王と相次いで死亡する。
景行は、壹與(五百野姫)を軍隊付きで伊勢から筑紫へ派遣する。

使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る
「大倭」と書いて「ヤマト」と読む。
この記事は、日本武尊の九州遠征、関東遠征の直後であり、
大和(邪馬台国)が倭国を統一した直後の記事になる。
それは、箸墓(最初の大王)直前である。
448唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/11(月) 23:35:49.86
倭国は、倭奴國卑弥呼と邪馬台国倭王の2王体制である。
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。

東倭とは、倭奴国に対する言い回しであり、統一倭国を大倭と表記する魏書。
449唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/11(月) 23:44:57.72
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
 其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。
 正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金・・・・
倭王因使上表答謝恩詔。 ←晋書正始元年東倭重譚納具。

其年十二月、詔書報倭女王、詔書にむくいる朝貢で、親魏倭王卑彌呼を授与。
正始元年、梯儁等、奉詔書 梯儁等は、詔書をささげて倭国を訪問。

一人と見るには、「詔書にむくいる朝貢」と「詔書をささげて」で順序が逆転してしまう。
逆転でない証拠が、「倭王因使上表答謝恩詔」なのである。
450唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/11(月) 23:56:48.20
>ホツマなんか偽書だろが

はい、その主張には一理ある。それは、ホツマでは暦が使われている。
ホツマを真書と言えば、その正しい太陰暦は?と問われることは必定。
正しい暦を再現できなければ、ホツマを真書と肯定した学者は無能のレッテルを張られる。
無能のレッテルを張られるより「ホツマは偽書」とホツマを葬れば、無能の学者の地位も安泰。

ホツマの太陰暦は、垂仁元年が19年7潤の最終年、いわゆる朔旦冬至の年にあたる。
書紀の仲哀元年は閏11月があり、古記の言う最終年(朔旦冬至)は仲哀9年にあたる。
仲哀9年から12章前が垂仁元年になる。
ここで、双方の太陰暦は、古記の言う太陰暦と整合する。

まあ無能の学者を信じるか信じないかはあなた次第。
451日本@名無史さん:2012/06/12(火) 00:21:54.41
>>447
>2世紀末、各地の土器が持ち込まれる。←この土器の分析ではない。
>垂仁世、倭姫は、伊勢に神宮を開設する。その時どうこうしたのが、大彦の子孫であるアヘ・タケヌガワだ。
>そして、景行と共に九州へ、また、関東へと勢力を広げる。
>景行が九州へ上陸した時には、まだ卑弥呼は生存していた。
>九州での戦いの最中に、卑弥呼・男王と相次いで死亡する。
>景行は、壹與(五百野姫)を軍隊付きで伊勢から筑紫へ派遣する


全く違うね。
北陸・山陰系17%の説明が出来てないじゃないか。
17%というのは河内の10%をも超えてるんだ。
これを説明してくれ。
それと庄内式土器は九州北部には見られるが、
景行が宮を作ったといわれる宮崎西都原には見られないのだ。
変だよね?
つまり景行天皇なんて全然関係ないのだよ。
452日本@名無史さん:2012/06/12(火) 00:31:08.64
>>450

馬鹿だな、ホツマの全体像を原典批判しないうちに、
ホツマの1部分に首を突っ込み、ミクロな話に埋没したら、
単なるホツマ真理教の信者になり下がるだろ。

ちゃんと原典批判が出来てからやれよ、偽書マニア。
453唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/12(火) 22:07:06.00
>景行が宮を作ったといわれる宮崎西都原には見られないのだ。
>変だよね? つまり景行天皇なんて全然関係ないのだよ。

違っているね、宮崎西都原は重要拠点に入らなかった。しかし、ここも渡海以後は、それ相応な
拠点となる。それは、大和朝廷と大隅隼人とのパイプとなる。

長畑馬場遺跡
http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/ruin.php?id=3100
長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき) 平戸市大島村前平1456
本遺跡は弥生時代中期中頃を中心とし、古墳時代初頭まで継続している。住居址は弥生時代中期のもので、
同時に甕棺、土坑、箱式石棺からなる墳墓群も形成さ れている。出土遺物は多彩であるが、特に土師器は
畿内の庄内系の土器の影響下に成立した在地甕である。 本遺跡が位置する大島村は、壱岐とは一衣帯水の地
であり、また平戸や生月、北松浦の半島は交易のルート上にあり、五島列島や対馬を含めて同じネットワーク
で結ばれた集団であったことが推測される。

景行 諸県は玄海町諸津。イズミ媛。(250年ころ)
神功 田油津媛は田平媛。(274年渡海)
倭国乱の平定は、渡海ルートの管理でもある。

北陸は、大彦以来であり、気比大神は、半島系の鉄を扱う商人グループ。
ツノガアラシトや天日矛につながる。
垂仁は、天日矛に住む場所を認可する。それが、阿波・淡路島・播磨・丹波・穴穂などである。
454唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/12(火) 22:28:53.96
使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る

ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ まつるいわひは
ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば
ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし つかえしむ

景行時代は、北部九州に力点を置いて管理する。
渡海ルートが使えなければ、鉄は、大和に頼るしか方法は無い。
それから、景行の戦い方に注目すると、戦闘力の弱い周辺部から戦いを始め
最後に狗奴国の主体部である熊本方面を攻める。
この戦法は、倭人のそれではない。倭人の戦法は、最強の主体部の殲滅が先となるが、
そんな戦法はとられていない。つまり、戦い方は、魏の関与が認められる。
455日本@名無史さん:2012/06/12(火) 22:38:29.69
>>453
>違っているね、宮崎西都原は重要拠点に入らなかった。しかし、ここも渡海以後は、それ相応な
拠点となる。

6年も留まってるのに重要拠点でないわけないだろう、ごまかすな。

>北陸は、大彦以来であり、気比大神は、半島系の鉄を扱う商人グループ。
ツノガアラシトや天日矛につながる。

纏向遺跡の北陸・山陰土器を四道将軍で解くのか?
残念ながら四道将軍ゆかりの会津の古墳は4世紀前半なんだよね。
あんたの年代間と全然違う。

そんな年代間なら例えばホケノ山を誰の墓と考えてるんだ?
456日本@名無史さん:2012/06/12(火) 23:26:01.71
唐松山は、一人で妄想に耽ってるだけだから、
質問に答える能力はありませんよ。
457日本@名無史さん:2012/06/12(火) 23:30:55.19
>>443
唐松山さん
>その辺は、わからないがホツマによれば、夫婦の場合もある。(>443唐松山さん)
 有難うございます。この質問は私が「あづないの罪」を、私なりに、理屈付けをするための妄想でしたので、ご勘弁願います。

「あづないの罪」について、質問が悪くて、何度も同じ事でご面倒をお掛けしましております。

>あづないの罪とは、祝子二人が同じ穴に葬られる罪でもある。(>426唐松山さん)
>太陽と月が一つになってなくなる。(>426唐松山さん)
 ここが、私には理解しきれず、何度も、お聞きしているところです。

今まで、お答え戴いた大体は次の様だと考えております。
>「あづない」とは「ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる」(>378唐松山さん)
 根拠:ホツマツタヱによる解釈、「アは、天であり太陽なのだ。」(>426唐松山さん)
>なるほど、それも一理あります。 お手数ですが「ヅ」が月を示しているという部分もお教え願います。(>441 私)

>「あづないの罪とは、祝子二人が同じ穴に葬られる罪でもある。」(>426唐松山さん)
 根拠:日本書紀「有一老父曰伝聞如是怪謂阿豆那比之罪也問何謂也対曰二社祝者共合葬歟」
>日本書紀「二社祝者、共合葬歟」の部分ですね。(私の妄想は別として)そうなんだと納得しています。(>441 私)

日本書紀の「阿豆那比之罪」を、「太陽と月が一つになってなくなる罪」に、置き換えると、唐松山さんの説明が成立つ様にも思えます。
しかし、「細かいことを言っている」と思われるかも知れませんが、「罪が有って、罰がある」、これが普通だと考えます。

そういう目で、あらためて、日本書紀を読むと
 「阿豆那比」 という罪を犯したことが原因で、 「昼暗如夜已経多日時人曰常夜行之也」 の罰が下ったと言っているように思えてなりません。

「あづない」とは「ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる」。(>378唐松山さん)

「ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる」のは罰であると思えるのです。
これを罪と称しているので、私には理解しきれないように思えるのです。

ここをどう考えれば良いかを、唐松山さんにお願いしているのです。
458唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/12(火) 23:34:46.86
残念ながら四道将軍ゆかりの会津の古墳は4世紀前半なんだよね。

四道将軍ゆかりのアイヅは今の岐阜県だろ?

>ホケノ山を誰の墓と考えてるんだ?

纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
纏向2類(中)・纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁末年]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳 埴輪(庄内式穴あき壺)田道間守の殉葬(東瀬戸内の壺)。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散

纏向中期の大型建物は、景行日代宮である。
その直前のホケノ山は、崇神世の任那建国後の墳墓である。
459日本@名無史さん:2012/06/12(火) 23:35:04.65
>>446
唐松山さん
>1章=19年7潤=6940日。4章につき1日を減ずる。
 1章=19年はご説明戴きました。>426
 1章=19年+7潤なのでしょうか、となると前回のご説明とは異なるように思います。
 19年7潤=6940日なのでしょうか。
 7潤とはなんでしょうか。
 19年に7回の閏月を入れるということでしょうか。
 4章につき1日を減ずる。これは76年経過(4×19)するたびに1日減らすの意味ですね。
 ところで、以前お聞きしましたが、古記での一年とはどう決めているのでしょうか。
 365日でしょうか、それとも、冬至、夏至、春分、秋分などを基準に言うのでしょうか。

>書紀は、この暦法で書かれているとみてよい。
 なるほど、ほとんどは「1章=19年7潤=6940日。4章につき1日を減ずる」で宜しいのですね。

>しかし、19年7潤では、”朔”に不整合が出る。
>それは、私が分析した如く、正しい暦に空白の暦を重ねた場合発生する。
 ごめんなさい。
 私には、全く理解できません。
 ここで仰っている”朔”の意味すら理解できません。
 お教え願います。
 正しい暦とはなんでしょうか、判りません。
 空白の暦は想像で、実際にはなかった時間の経過を暦に組入れたものと思いますが、いかがでしょうか。

>”朔”が固定であれば、正しい暦に空白の暦を重ねることはたやすい。
 上が理解できませんので、私には理解できません。
460唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/12(火) 23:40:24.03
欽明天皇二年(五四一)四月◆夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。

仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。
鉄を掘る倭人は、伽耶の許しを得た垂仁が派遣した、阿波などの勢力(天日矛系)ではないか?
その場合天日矛系は新羅より楽浪のにおいがする。

ホ34129      ミマナのアヤ
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり
461唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/12(火) 23:54:50.35
>ここをどう考えれば良いかを、唐松山さんにお願いしているのです。

天変地異が神による仕業なら、それを神がはたした罪との概念が生まれる。

あづないの罪
あつないの罪とすることも可能であろうが、熱ないの罪ともとられかねない。
ヰソヤホハヅキ 崇神58年8月。 この場合のヅキは月である。
462日本@名無史さん:2012/06/12(火) 23:57:10.46
>>458
>四道将軍ゆかりのアイヅは今の岐阜県だろ?


アホかおまえ。
会津の一箕古墳群は4世紀前半からの古墳群だ。


>纏向中期の大型建物は、景行日代宮である。

違うね。
景行は4世紀だよ。
まぁ応神を110歳にしてるあんたには分からないだろうね。

福島の会津
463唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/13(水) 00:15:17.47
ホ33047 ヰトシゑやみす ナカバかる ムトシタミちる コトのりに たしがたしかれ
 ツトにをき ツミカミにこふ

崇神5年 飢饉 餓死 6年逃散 通常の出来事に足すことはできない
罪のなかに起き 罪神に乞う。

後漢193年 6月寒風冬のごとし。新羅193年倭人大餓。
天変地異は、神の与えた試練である。だから、神に許しを請う。
日食も神の与えた天変地異にふくまれるのであれば、これも罪の中に含まれる。

6940日/29.53=235.015ケ月 
19年×12ケ月+7月=235ケ月。
1日は、0.03日程度である。よって4章につき1日を減ずる。
(6940日×4章−1日)/76年=365.25日 これが四分暦の基本である。
464唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/13(水) 00:28:52.78
>>459 さんへ

先にあげた、編年表の1章は6940日であり、調整は4章につき1日を減ずる1日になる。
だから、実数も29.53で割れば月数に直せる。
実数に増し(章−調整)を足せば、書紀の日数になる。

つまり、書紀の日数と実際に経過した日数の両方を記述している。
数字を干支に変換するのであれば、
=CHOOSE(MOD((69),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")
&CHOOSE(MOD((69),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")

数字を干支に変換できる。 ”69”の数字は変更可能であり、上段と下段の数字が違っていても構わない。
上段と下段は、エンターで段をちがえてあるから、式として使う場合には削除する必要がある。
465唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/13(水) 00:31:53.57
追加
69を61に変更すれば、甲子になる。
466唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/13(水) 00:40:21.13
変更
=CHOOSE(MOD((D3+59),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&CHOOSE(MOD
((D3+59),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")

d3の数字を干支に変更。
467卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/13(水) 12:56:22.83
唐松山先生は人に説明するのが下手だな。
一度に多くを書きすぎるし、原文の引用が多すぎる。

手取り足取り、少しずつ説明してくれないと、読んでいる人には理解できない。
468日本@名無史さん:2012/06/13(水) 17:46:51.06
× 唐松山先生は人に説明するのが下手だな。

○ 朝鮮馬鹿と唐松山は、オカルトや妄想だけだな。
469卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/13(水) 18:43:29.72
× 朝鮮馬鹿と唐松山は、オカルトや妄想だけだな

○ ここの連中はアカデミックな学問しか知らない無知蒙昧な輩ばかりだな
470日本@名無史さん:2012/06/13(水) 19:08:12.85
アカデミックな学問しか知らない?
冗談でしょ
学問的な議論の進め方を知らない妄想家の巣窟だろ
471橙犬者:2012/06/13(水) 20:07:46.20
>>461
唐松山さん有難うございます。

私のお聞きしたことを再度書き出すと
「阿豆那比」 という罪を犯したことが原因で、 「昼暗如夜已経多日時人曰常夜行之也」 の罰が下ったと言っているように思えてなりません。(>457 私)
「ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる」のは罰であると思えるのです。これを罪と称しているので、私には理解しきれないように思えるのです。(>457 私)

唐松山さんの今までのお考えの大体をあらためて見ると。
神功皇后の指標は、あづないの罪。(>378唐松山さん)
ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる。つまり、日食である。(>378唐松山さん)
あづないの罪とは、祝子二人が同じ穴に葬られる罪でもある。(>426唐松山さん)。
太陽と月が一つになってなくなる。(>426唐松山さん)。

唐松山さんの今までのお考えから、私が類推を含めて、考えたこと。
「昼暗如夜已経多日時人曰常夜行之也」=日食=ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる=太陽と月が一つになってなくなる(>378 + >426唐松山さん)
ここまでは異議(日食とは考え難い)はありますが、ご意見も成立すると考えています。
従って、同意出来ない範囲では有りません。これは実際に発生したと思われる自然現象を示しているのでしょう。ここに、罪の字が入ってくると、私の頭は大混乱です。

私が理解しきれない箇所を整理したつもりが以下
唐松山さん
「昼暗如夜已経多日時人曰常夜行之也」=「ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる」=「阿豆那比之罪」≒「祝子二人が同じ穴に葬られる罪でもある」

「昼暗如夜已経多日時人曰常夜行之也」=「ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる」=罰
「阿豆那比之罪」=罪であり、罰とは異なると、私は考えました。つまり「昼暗如夜已経多日時人曰常夜行之也」≠「阿豆那比之罪」

>天変地異が神による仕業なら、それを神がはたした罪との概念が生まれる。(>461 唐松山さん) 
 罰ではなくて、「神がはたした罪との概念」であると、唐松山さんはお考えになっている。
 つまり、神が「昼暗如夜已経多日時人曰常夜行之也」=「阿豆那比之罪」と決めたと、唐松山さんはお考えであると捉えて宜しいのですね。
 お考えをお知らせ戴き、有難うございます。
つづく
472橙犬者:2012/06/13(水) 20:08:45.33
>>461
つづき
>あづないの罪
>あつないの罪とすることも可能であろうが、熱ないの罪ともとられかねない。
 はい、判りました。

>ヰソヤホハヅキ 崇神58年8月。 この場合のヅキは月である。
 ヰ ソ ヤ ホ ハ    ヅキ
 五 十 八   八(葉) 月 でしょうか。

 「ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる」とありました。「ア」は明確にお示しになっていました。
 ここでは「ヅキ」となっていますが、ご主張にあった「ヅ」には続きが有りませんでした。「キ」は省略された形なのでしょうか。
473橙犬者:2012/06/13(水) 20:11:04.21
>>464
唐松山さん
有難うございます。
>先にあげた、編年表の1章は6940日であり、調整は4章につき1日を減ずる1日になる。
 4章は4×6940=27760日となるが、実際には4×6940-1=27759日が4章なのですね。

>だから、実数も29.53で割れば月数に直せる。
 27759÷29.53=940.027・・・・ヶ月
 29.53とは何ですか、朔(新月)から朔(新月)までの日数でしょうか。

>実数に増し(章−調整)を足せば、書紀の日数になる。
 申し訳ありません。何を仰っているのか全く判りません。
--------------------------------------------
唐松山さんにとっては、私の問い合わせなどは、
理解できて当たり前、知っていて当たり前のことばかりで、頭の中から、反射的に出てくることを書き込んでおられることと思います。
また、連想して出て来るものが、種々多く有り過ぎて、連想途上に次々と現れた連想から、結論が出ているのでしょう。
その連想の経緯が多すぎるせいで、表現から抜けたまま、書き込んでおられるように見えます。
そのため、どうして、そのような結論になるのか、私には、皆目、判らないことが多くあります。
なんとなく、類推できるものも、ありますが、私の頭は、到底、全てまで回りません。
折角の、ご深慮ご賢察ご意見が、大変勿体無いように思います。

全てのことを、こと細かく説明しきれないのは当然ですので、易しく説明してあるサイトなどもご紹介戴き、
こう書いてあるなどと、コメントを入れて戴ければ、理解の一助となり、大変有り難いことだと思います。
お聞きしているのに、グダグダと面倒くさいことを申し上げ、申し訳ありません。
私は、唐松山さんのように鋭くも、記憶力も、理解力も、連想力なども無いのです。
ビギナーの指導育成のためとお考えいただきたいと思い、お願い致します。
--------------------------------------------
つづく
474橙犬者:2012/06/13(水) 20:12:24.20
>>464
つづき
>つまり、書紀の日数と実際に経過した日数の両方を記述している。
>数字を干支に変換するのであれば、
>=CHOOSE(MOD((D3+59),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&CHOOSE(MOD
>((D3+59),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
 エクセルの組込みベーシックで、日数から干支を求める式かと想像しました。

>数字を干支に変換できる。 ”59”の数字は変更可能であり、上段と下段の数字が違っていても構わない。
>上段と下段は、エンターで段をちがえてあるから、式として使う場合には削除する必要がある。
 利用するなら、一つの式を、上の行と、下の行に分割してあるので、改行は除けと言う意味ですね。

>59を61に変更すれば、甲子になる。
 そうですか。 

>d3の数字を干支に変更。
 はい、セルD3に入れた数字を干支に変換する式ですね。
475日本@名無史さん:2012/06/13(水) 21:33:22.32
オカルト古代史や妄想古代史は、自分のブログでやってください。
476唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/13(水) 22:13:35.89
太陰暦とは、月の朔望を数えて1年を算出する暦法である。
暦入門(2)  益山 健 より
現代の知識から考えると,四分暦が1年を365+1/4日としているのはユリウス暦と同じであり,実際の太陽年
は365.2422日ですから約130年で1日進んでしまいます。月の方は平均朔望月29.530589日ですか
ら300年あまりで1日のずれを生じます。太初暦でも事情はほとんど同じです。
なお,いま言ったのは現在の値であって,漢代の太陽年は今より0.0001日ほど長かったようです。

約130年で1日進んでしまいます。= ミヨのハツ アキアにをくれ フユおさめ

42年  神武元年庚辰朔 3章1日 0日 辛卯 辛卯 東漢光武帝建武18年 西元42年2月9日
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日 辛亥 辛亥 ☆

72320日/29.53=2449.03月。19年は235ケ月であるから、2350ケ月で190年。
72320日/365.25=198.00年。42年+198=240年
景行元年までの増しは、28章と調整8日
28×6940=194320日、 194320−8=194312日
実際に流れた日数+空白の差し込み日数=日本書紀に書かれた日数となる。

72320日+194312日=266632日
266632日/365.25=729.9986年=730年間
神武天皇元年(辛酉前六六〇)正月庚辰朔〜景行天皇元年(辛未七一)=730年間
神武元年庚辰朔=0日
景行天皇元年正月壬申朔←この記事が無いので、春三月辛未朔の59日前の干支を使用する
景行天皇元年正月壬申朔=266632日

つまり、神武元年からの実数を数字(72320日など)であらわし、書紀の日数にするためには、
虚数(増し、2章0日など)を加える。
実数とは、私の編年の日数である。
477唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/13(水) 22:55:54.49
崇神天皇十年(癸巳前八八)七月己酉《廿四》◆十年秋七月丙戌朔己酉。詔群卿曰。導民之本。在於教化也。
今既禮神祇。災害皆耗。然遠荒人等。猶不受正朔。

「猶不受正朔」書記はこの記事で、太陰暦が使われていたと主張している。
つまり、-660年は、正しい太陰暦を引き延ばしたがための数字である。
太陰暦は、19年7潤の積み重ねである。
だから、正しい暦に空白年の増しを差し込んでも、太陰暦の大枠は外れない。
しかし、一つの太陰暦で説明するには“朔”に微妙なユラギが出る。
だから、一つの太陰暦での説明が出来ない。
二つの暦が使われていた場合は、私の編年のようにうまく説明が出来る。
しかし、神功52年七支刀を百済本紀に合わせようとすると、太陰暦の編年がうまくゆかない。
275年 神功元年であれば、326年神功52年七支刀=東晉明帝太寧4年丙戌5月16日丙午(東晋17日丙午)
で説明することが出来る。
神功52年七支刀を百済本紀に合わせて、否定される書記の記事。
326年神功52年七支刀であれば、書記の記事は事実となる。
百済建国は、323年神功49年の領土分与により独立を果たすことが出来た、となる。
478メ(もうすぐねる):2012/06/14(木) 00:20:16.39
ヤマト魂、ヤマトナデシコ、なんて良く聞くが・・・・
日本建国はヤマト、すなわち近畿の奈良を中心とする、地域から始まる。

次に隋書倭国伝に

邪靡堆(ヤマト)とは、魏志の云う邪馬臺(ヤマト)なり

と明記されてる通り、ヤマタイではなく、ヤマトと読むべきことが分かると思う。
実は、隋書にてもう『邪馬台国問題』は解決済みだったりするんじゃないんですか?
479メ(もうすぐねる):2012/06/14(木) 00:24:09.49
卑弥呼、臺与に続く女王国が、
本州を拠点とする天皇家の人物であることは揺がない事実じゃなかろうか?

あとは鍵を握るとされる、ヤマトトヒモモソヒメ、祟神天皇をどう当てはめていくか・・・
480メ(もうすぐねる):2012/06/14(木) 00:33:20.50
久々に登場したが、そろそろ寝ないといけない・・・
九州説?九州王朝説?可能性は、ほぼないだろうね・・・

ではzzzzzzzzzzzzzzzz
481日本@名無史さん:2012/06/14(木) 00:37:58.77
弥生遺跡が少ない奈良に、
邪馬台国がある可能性はまずない。

弥生遺跡が多い兵庫のほうが、
まだ可能性はあるだろう。
482メ(もうすぐねる):2012/06/14(木) 00:45:42.27
>>481
遺跡というのは「墓」を含む古代の爪痕なんですが、大王が必ずしも
現在の弥生遺跡が残ってるところに住んでいたとは限らない。
中には、巨大な墓を持たない大王が居たんではなかろうか?
そして、国家の夜明けともいうべき日本建国は奈良から始まったというのは
日本全国のみなさんが御存じのとおり「奈良」じゃないだろうか。
483日本@名無史さん:2012/06/14(木) 00:56:15.27
8世紀開始と同時に始まる平城京は、
確かに奈良ですがね。

事実上、大和朝廷が自他共に認める対外的な
政治をはじめるのは平城京から。

それ以前はとたんに信頼性が落ちる。

聖徳太子非実在説まで出る始末。
484日本@名無史さん:2012/06/14(木) 01:14:02.99
>>479
雄略の前まで半年暦が使われていると仮定して年表を圧縮してみたらいい。
祟神天皇が180年ごろの即位になる。
当然、雄略〜武烈のころは暦が混乱しているからこんなに単純じゃないけど大筋でいい感じになる。
485日本@名無史さん:2012/06/14(木) 01:39:17.55
>>478
>邪靡堆(ヤマト)とは、魏志の云う邪馬臺(ヤマト)なり
>と明記されてる通り、ヤマタイではなく、ヤマトと読むべきことが分かると思う。

これで解るのは、邪靡堆と表記されたものが、、魏志で邪馬臺と表記されたものと同一ということだけで、
発音まではわからないと思うよ。
486日本@名無史さん:2012/06/14(木) 07:19:09.15
邪靡堆とは、魏志の云う邪馬臺なり
倭人伝にいう邪馬台国は隋使がきた当時もそのとおり存在した。
そして、その邪馬台国のある倭国は阿蘇山がある。
筑紫よりも東は倭国の植民地。

487日本@名無史さん:2012/06/14(木) 07:33:05.31
記紀に「臺」を「ト」と発音させた例はない
488日本@名無史さん:2012/06/14(木) 07:47:14.39
日本の正史とされる古事記と日本書紀は、8世紀に編纂された対中国・朝鮮外交指針書であり、同時に国威発揚的な歴史書でもある。

皇祖神・天照大神(卑弥呼)に続く、初の統一全国政権である大和朝廷の歴代大王がかつて中国皇帝に冊封を受けた倭王であった史実を隠す目的で、
干支60年暦を逆手に取り、歴史を過去に遡って繰り返すことで、実在の天皇の在位を伸ばしたり、中国皇帝の名前を参考に架空の天皇を創って埋め、
意図的に中国・朝鮮の歴史書に登場する「倭王」と歴代天皇(大王)が対応しないようにしてある。

そこで記紀が伝える本当の歴史を記述した部分と作意をもって歪曲した部分を、対外資料と遺跡・遺物を元に仕分けて、
首尾一貫した説明を追求するのが古代史研究者の最終目標である。具体的には、

-1世紀、後漢・光武帝から金印を授かり冊封を受けた漢倭奴(伊都)国王
-2世紀、後漢・安帝に朝貢した倭王「帥升」→倭国大乱
-3世紀、魏・明帝から金印を授かり冊封を受けた倭王「卑弥呼」と倭王「台与」 【箸墓古墳?】
-空白の4世紀を経て                          【広開土王碑、七支刀】
-5世紀、宋に朝貢した倭の五王(讃・珍・済=安東将軍・興・武) 【関西巨大古墳?】
-6世紀、継体に滅ぼされた筑紫君磐井
-7世紀、隋・煬帝に書簡を送った倭王「阿海多利思北孤」(阿蘇山の記述)=厩戸皇子? 

これらがどこ(北九州?or近畿?)でどう繋がるのか、同時代の【遺跡・遺物】と矛盾ない説明を求めて、百家争鳴となっている。
489卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/14(木) 09:06:50.75
>>487
いや、あったと思うが。うろ覚えで書いているので何とも言えんが。
490唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/14(木) 09:10:40.57
>3世紀、魏・明帝から金印を授かり冊封を受けた倭王「卑弥呼」と倭王「台与」 【箸墓古墳?】
>空白の4世紀を経て                       【広開土王碑、七支刀】

倭奴国王位継承卑弥呼と邪馬台国倭王の2王体制。
百済本紀につなごうとすると、空白の4世紀となる。
広開土王碑の文言は正しい。、七支刀は、16日丙午の年である。
広開土王碑の文言が正しければ、5世紀に関西巨大古墳を造れない。
491日本@名無史さん:2012/06/14(木) 11:13:05.69

「国の借金」はデマ

日頃メディアや、反日工作員が必死になって「国の借金」という単語を使い
財政破綻論を展開させていますが、現実、現在の日本には「政府の借金」は1000兆円近く存在いたしますが、
「国の借金」は存在いたしません。

朝日新聞やNHKは、雇い主である中国共産党より日本人に対して不安や政府に対する不信を持たせ、煽るために
局内の共産党員を使用して既に数十年間、「国の借金」を連呼し続けております。

<違和感なく「国の借金が1000兆円もある」という幻想に浸ってしまっている一般の方々は、朝日新聞やNHKに見事に騙され続けている訳です>

数十年もテレビや新聞から情報を得てきた方々の中には、「メディアが嘘を付く訳ない」と思う、そう思いたい方もいるでしょう。
  しかし、長い目で見れば、もともと戦前から日本を転覆させるために存在してきた報道機関ですから、
これくらいの嘘は朝飯前で御座います。

それでも、「国の借金は1000兆円ある」と考えをお持ちの方は、複式簿記の勉強をしてから、日本のバランスシートをご覧ください。
 
  実質中国の広報機関であるNHK、朝日新聞は、これからも嘘を付き続けます。デマを流し続けます。捏造し続けます。
   
 ---そのニュース 核心は、デマだ       長文失礼いたしました。---
492卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/14(木) 12:43:42.09
>>488
後半はともかく、前半はただの空想w
493日本@名無史さん:2012/06/14(木) 12:53:14.71
>>490
>倭奴国王位継承卑弥呼と邪馬台国倭王の2王体制。

倭奴国王を継承したのが邪馬台国女王・卑弥呼じゃないの?
494日本@名無史さん:2012/06/14(木) 13:06:37.06
>>2
>しかし、現在の正確な計算では、いずれの日食も、邪馬台国の主要な比定地である九州本島
>や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり[4]、
>部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。

これ間違いだからね。wikiは学会の意見を正確に取り入れてはいないから。
地球の自転の遅れを示すΔTという値を、間違って見積もって出した結果だからね。


248年の皆既日食は、見れたとしても東北だけで、北九州でも見れなかったし近畿でも見れなかった。
247年の皆既日食は、北九州の北部では見れた可能性が高い。近畿では微妙。

これが最新の学説だよ。
495日本@名無史さん:2012/06/14(木) 13:07:53.18
つまり、日食から言っても、ほぼ九州説で決まりそうな感じな。
496日本@名無史さん:2012/06/14(木) 14:09:05.16
お馬鹿なメの妄想について

× 邪靡堆(ヤマト)とは、魏志の云う邪馬臺(ヤマト)なり
   と明記されてる通り、ヤマタイではなく、ヤマトと読むべきことが分かると思う。

○ 邪靡堆(ヤマツイ)とは、魏志の云う邪馬臺(ヤマダイ)なり
   と明記されてる通り、国名表記が変遷したことが分かると思う。
   ただし畿内説詐欺では、何でもかんでもヤマトと読んで、全国にたくさんある
   ヤマト地名も無視して、畿内大和の証拠だと無茶な論理を振りかざしている。
497日本@名無史さん:2012/06/14(木) 14:19:26.85
近畿説は諦めたほうがいいと思うよ。
モモソヒメ=卑弥呼はネタだったし、纒向からも
邪馬台国を思わせる出土は皆無だしね。

とくに、モモソヒメ=卑弥呼がネタだったのが決定的だね。
これで近畿説はほぼ死んだ。
498日本@名無史さん:2012/06/14(木) 14:33:33.63
宮内庁から箸墓の本格的な発掘許可が出たら九州説は憤死しそうだねw
499日本@名無史さん:2012/06/14(木) 14:40:05.41
>>497
死んでないよ。
中国からの舶載品である小札革綴冑が10数例発掘されてるが、
ほとんど畿内からだ。
九州では石塚山古墳だけだったと思う。
時期的には3世紀後半〜4世紀前半の古墳だということを考えると、
トヨの朝貢時の舶載品であろう。
これは邪馬台国畿内説のおおきな根拠になる。

ただモモソヒメ=卑弥呼はネタだと思う。
500日本@名無史さん:2012/06/14(木) 15:46:21.33
魏志倭人伝に出てこない舶載品が出てきても、関係ないんだよな。
「宮殿、楼観、城柵」のセットや「魏の鏡」や「魏や倭の錦」が出てこないとな。
501日本@名無史さん:2012/06/14(木) 16:21:40.90
>>500
何でもかんでも詳細に全部書き込まれてるとでも思ってるの?
三角縁の長方形鈕孔の考察からも華北の工房であることは確実なんだよ。
あきらめろ。
502日本@名無史さん:2012/06/14(木) 16:45:10.69
北九州にあった邪馬台国は卑弥呼の死後、台与の代で魏の影響力から離れ、国土中心点を求めて東遷し、大和朝廷となった。

北九州で径百歩の塚が見つからないのは、遷都後卑弥呼の陵墓を管理できなくなるという理由で破却されたためである。

東遷後、最初に造られたのが王墓と貯水池を兼ねた箸墓古墳であり、大和朝廷初代大王・台与の墓である。
503日本@名無史さん:2012/06/14(木) 17:09:17.68
>>501
そういうアホな事を言うから近畿説はダメだって言われるんだよ。

>>502
トヨと箸墓では時代が合わない。半世紀〜1世紀ほどずれる。
504日本@名無史さん:2012/06/14(木) 17:13:54.67
畿内説はもう諦めたほうがいいと思うよ。
元々学会は九州説に傾いていたんだが、それを一発大逆転する
ものとしてモモソヒメ=卑弥呼説が出てきた。

でもこれがまるでネタだったw

近畿を積極的に邪馬台国があったと考えたほうがいい証拠って
実にゼロになってしまった。

もうどう見てもアウトですな。
505日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:41:39.23
畿内説は、もう支えようがない前世紀の遺物説だよ。

共産主義は悪徳資本家を排して理想社会を築くのが売りだったのが、
実は悪徳ユダヤ人資本家ロスチャイルドがユダヤ人マルクスを支援して
帝政ロシアを倒すために、「共産主義宣言」を書かせたのがバレてしまった。
現在の金融資本家ユダヤ人はみな共産主義者だったのもバレてしまった。

また、ヒトラーがユダヤ人を迫害したことになっていたが、じつは
悪徳ユダヤ人資本家ロックフェラーがユダヤ人ロスチャイルドの孫、
ヒトラー(もちろんユダヤ人)を支援して、各地のユダヤ人を集め
させて、新ユダヤ国家イスラエルに送り込んだのがバレてしまった。
ヒトラーはユダヤ人に囲われて、戦後も生き永らえて100歳近くまで
南米で生きたこともバレてしまった。

畿内説も、△鏡だの箸墓だのが、みな詐欺だったことがバレてしまった。
畿内説をきっぱりと捨てることから、新たな古代史研究が始まるのだ。
506日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:55:22.67
>>504
中国製の小札革綴冑が畿内を中心に出る事について反論できてないが?
507日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:56:05.84
>>506

それなに?
508日本@名無史さん:2012/06/14(木) 19:58:16.91
>>507
>>499に書いたが分からなければ自分でググれ。
509日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:05:34.01
>>506

誰も、反論する必要も感じてないのではないかと。
510日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:06:41.74
>>506
だからそういうアホなことを言っているから近畿説はダメなんだと言ってるだろ。

>>500
511日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:09:35.34
>>506

>>500

これはひとつの象徴だと思うよ。いかに近畿説がダメかのね。
諦めたほうが精神衛生上いいと思うがね。
どう見ても全然可能性が無い。

とにかく、邪馬台国は近畿にあったと考えたほうがいい証拠ってゼロなんだから。
何もない。全然無い。
512日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:12:15.84
>>509
>反論する必要も感じてないのではないかと

反論できないと言う事だねw

まぁ九州説ってもはや宗教だねw
513日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:13:57.22
>>512

な、これだろ。>>500って言ってるのにねwww

で言うことは、「反論できないんだな」wwww

また自己紹介が始まったwww

近畿説の特徴がこの自己紹介。何かって言えば、すぐに自己紹介が始まるwwww

514513:2012/06/14(木) 20:19:40.36
>>512
>九州説ってもはや宗教だね

そのとおりです、ハイ。
反論できないっす。
515511:2012/06/14(木) 20:27:35.42
自演ダセッw
516510:2012/06/14(木) 20:29:31.07
待て、>>514は自演じゃねぇよ。

そういう俺は自演だけどねw
517515:2012/06/14(木) 20:32:53.71
>>515
反論できないと人を自演扱いかよw
518515:2012/06/14(木) 20:33:53.89
あ。515は俺だった。
519999:2012/06/14(木) 20:34:34.34
俺こそが真の自作自演w
520日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:39:30.04
もう誤魔化すしか手が無くなりましたか。
まあそうでしょうなw
521日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:40:29.66
近畿説はゾンビ。自分が死んでることに早く気づきなさいwww

悪霊退散www

522日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:42:30.29
なんと惨めな畿内説。
涙出そう。
523日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:44:16.53
これからは九州説の天下!
524日本@名無史さん:2012/06/14(木) 20:48:27.64
邪馬台国ブームの夢をもう一度

我らが九州説の手に!!
525橙犬者:2012/06/14(木) 20:49:06.40
>>476
>暦入門(2)  益山 健 より
ご紹介、有難うございます。こんなサイトを見つけました。http://homepage2.nifty.com/o-tajima/rekidaso/calendar3.htm

>現代の知識から考えると,四分暦が1年を365+1/4日としているのはユリウス暦と同じであり,
>実際の太陽年は365.2422日ですから約130年で1日進んでしまいます。
 はい、4年で約1日、約130年で約31日、つまり約1月のズレですね。

>月の方は平均朔望月29.530589日ですから300年あまりで1日のずれを生じます。
 ごめんなさい。理解できません。

>42年  神武元年庚辰朔 3章1日 0日 辛卯 辛卯 東漢光武帝建武18年 西元42年2月9日
 「辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位」(この年が何故西暦42年に比定できるかが判りません。何故3章1日になるかも判りませんが、それはさておき)

 0042年 2月 9日は旧暦 42年1月 3日 先負です」
 http://www3.biwako.ne.jp/~nobuaki/qreki/index.html

 【西暦】42年2月9日【旧暦】42年1月3日●六曜先負(せんぶ)
 【年の干支】●十干:壬(みづのえ)●十二支:寅(とら)【日の干支】●十干:癸(みづのと)●十二支:巳(み)
 http://cgi5.synapse.ne.jp/~todoroki/cgi-bin/kyu-reki/k-reki.cgi?type=0&year=42&month=2&mday=9&hour=10&now=0

 和暦 垂仁)71年1月3日 グレゴリオ暦 42/02/09 ユリウス暦 西暦42年2月11日 ユリウス日  1736440 干支年 壬寅 干支日 癸巳 六曜 先負
 和暦 垂仁)71年1月1日 グレゴリオ暦 西暦42年2月7日 ユリウス暦 42/02/09 ユリウス日  1736438 干支年 壬寅 干支日 辛卯 六曜 先勝
 http://maechan.net/kanreki/

 同じ結果が、出ないのです。朔は表示されませんので、もう少し調べまてみます。

>240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日 辛亥 辛亥 ☆
>この日は72320日目に相当する。
 72320日というのは、何処からお求めになったのでしょうか。

申し訳ありませんが、ここまでが、今日の限界です。
526日本@名無史さん:2012/06/14(木) 21:17:34.23
ま、邪馬台国は九州にあったでOK

ここはこれからは記紀の編年および干支に関するスレということで
527日本@名無史さん:2012/06/14(木) 21:25:14.35

これからは九州説の天下!
邪馬台国ブームの夢をもう一度
我らが九州説の手に!!
ま、邪馬台国は九州にあったでOK



      _| ̄|_| ̄|  | ̄|_| ̄|__| ̄|_| ̄|   | ̄|_| ̄|_| ̄|
      |_  _||  | ̄    |  |     |  | ̄   |  |     ̄|
       r┘└へ|  |二コ ┌'|  |二コ ┌|  |二コ ┌'|  |二コ ┌┘
      〈 〈]  ゜,、〈|  | o  ヽ| | o  ヽ|  | o  ヽ|  | o └「 ̄\
      ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ
        ____                ____                ____
      /⌒  ⌒\          ./⌒  ⌒\          ./⌒  ⌒\
    o゜((●)) ((●))゜o        o゜((●)) ((●))゜o       o゜((●)) ((●))゜o
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l_j_j_j と)   | |  |     / l_j_j_j と)    | |  |     / l_j_j_j と)    | |  |     /
528日本@名無史さん:2012/06/14(木) 21:29:10.13

これからは九州説の天下!


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     |;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ          |・ |―-、       |  病室戻ろうね・・
     |::( 6  ー─◎─◎ )          q -´ 二 ヽ     |
     |ノ  (∵∴ ( o o)∴)         ノ_ ー  |     |
   /|   <  ∵   3 ∵>          \. ̄`  |      /
   ::::::\  ヽ        ノ\           O===== |
   :::::::::::::\_____ノ:::::::::::\        /          |

529日本@名無史さん:2012/06/14(木) 22:24:00.80
邪馬台国論は

かつて詐欺の畿内説に翻弄され、幾多のオカルトにも汚染され、
近頃やっと九州説諸説同士で、落ち着いて研究できるようになったね。
530唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/14(木) 22:27:40.89
>>525 :橙犬者さん
>申し訳ありませんが、ここまでが、今日の限界です。

計算値を使おうとすると、まあそういうことになる。
そこで、中国王朝の“官暦”を使う。
http://sinocal.sinica.edu.tw/
これは、台湾電子文献の工具箱にある。
たとえば、240年であれば、
魏少帝正始元年 ?次:庚申 生肖:猴 西元240年2月10日(星期一)起
その1月から12月までの“朔”は、
辛亥・辛巳・庚戌・庚辰・己酉・己卯・戊申・戊寅・丁未・丁丑・丙午・丙子、となる。
東晉明帝太寧4年 ?次:丙戌 生肖:狗 西元326年2月19日(星期六)起 の場合
壬辰・辛酉・辛卯・庚申・庚寅・己未・己丑・戊午・戊子・丁巳・丁亥・丙辰
東晉廢帝太和4年 ?次:己巳 生肖:蛇 西元369年1月24日(星期六)起 の場合
壬子・壬午・辛亥・辛巳・庚戌・庚辰・庚戌・己卯・己酉・戊寅・戊申・丁丑・丁未
369年には、16日丙午が存在しない。だから7支刀をここにはおけない。
531唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/14(木) 23:24:50.15
後漢の滅亡後に魏、呉、蜀の各々は、三者が互いに対立し、それぞれに個別の暦法を採用しました。
漢の後継者となる蜀では、暦法の面でも後漢四分暦をそのまま受け継ぎましたが、
魏は景初暦、呉は乾象暦を使用し、
それぞれ受命改制のイデオロギーに従って新たに天命を受けたことを天下に表明しました。

元嘉暦では、1ヶ月を29+399/752日とするが
それ以前の4分暦では、暦法上の1ヶ月の数字が正確でないために、月は300年で1日狂った。
その時の太陽年は、365.25日であった。

元嘉暦・・・19年7閏法・・・
1月=22207/752=(29+399/752)日
1年=365+(75/304)日=〔365.247日〕・・・現行の太陽暦は365.242日ですので、
大変優れている。
(ちなみに304=19*16です)
1紀=608年=7520月=222070日=3701*60+10日
1元=6紀=3648年

(ちなみに304=19*16です)←ここで月は1日の狂いがあった。ということは、
“399/752”この部分の数字がこれほど精度が良くなかったということである
だから、計算値とは合致しないのである。あまり深く考える必要はないとおもわれる。

この狂いを暦法上で修正するために、次々と新しい暦法が生まれるのであるが、
暦法はそのままにして、“塑日”だけを変更しても、誤差は修正される。
まあ、私の主張する数字は、この問題にまでは踏み込んでいないから、その程度の誤差は含まれる。
奈良時代の暦は、正確であるだろう、であるならば、奈良時代から過去へさかのぼれるのが”朔”である。
誤差を1日程度内包しているが、書記の太陰暦は”正朔”を主張しているから、正しい太陰暦に変換できるはずである。
その場合の、ひとつの復元案として、私の主張する太陰暦がある。

532日本@名無史さん:2012/06/14(木) 23:30:07.21
いくら暦法をひっくり返しても、古代史は見えてこないよ。
重箱の隅で行き詰るだけ。
533レス長たらし毘古:2012/06/15(金) 03:22:49.12
またしても通りがかりの一言主ですが、モモソ姫説はネタと言われてしまった
ので、またしてもネタを主張しに来ました。
はい、当方は、卑弥呼=モモソ姫論者です。当時(崇神以前まで)は九州が
本国で、近畿が属国だったと言う架空立場です。
本国(九州東北)が後継争いで疲弊した後に、近畿(これが今日の言う
大和)の推挙でモモソが本国(九州東北)で大王となります。(それが開化
大王と伝承されます)
モモソ姫没後に、残念ながらモモソ姫の後継者タケハニヤス彦が、崇神大王
(当時皇子)によって討伐されます。
モモソ姫は淡路島〜北四国〜河内〜九州東北部を直接領する存在で、その死後
タケハニヤス彦の戦いと沙保の戦いの二度の戦いで、完全にその後継血統・
後継格式は途絶えます。勝ち残った崇神大王の子孫が、近畿に「遷都」し、
「その時期の東日本の歴史」を古事記へと伝えます。

これで、近畿に鏡が大量にあるのも、北九州に巨大な櫓式集落があるのも、
どちらも説明可能となります。卑弥呼の外交接見場所が北九州(当方は九州
東北部と想定)となり、卑弥呼の継承遺品を押収したのが、崇神大王(から
数代含む)となります。この場合、卑弥呼の墓は、淡路島を意識した場所、
と想定するのが自然と思われます。淡路島は奇しくもイザナギが古事記上神話
にて最後に生息が確認される場所となっております故。と言う架説。
534日本@名無史さん:2012/06/15(金) 07:48:48.66
開化は文明開化に通じるなw

ちなみに箸墓は、延暦寺根本中堂の真南に9世紀になって造られたという説もある
535日本@名無史さん:2012/06/15(金) 08:01:35.56
関西の巨大古墳も平安時代の失業対策だったという伝承があるよ。

現に堺大山古墳(伝仁徳陵)の三重目の堀は江戸時代に追加されてるし。

宮内庁が発掘させないのは、前方後円墳が平安時代の築造であることがバレからだって。
この国ではすべてを万世一系の記紀の記述に合わせて、絶え間なく遺跡が造られてきたらしい。
神武天皇陵も明治時代になって造られたしね。だから古代史はいつまで経っても解明されない。
古代史が暇人の道楽と言われる所以。
536日本@名無史さん:2012/06/15(金) 10:19:35.24
説だけなら大和三山はピラミッド、
二上山は宇宙船の基地なんてのもあるぞw
537日本@名無史さん:2012/06/15(金) 10:44:25.18
>>533
8代孝元天皇の墓は前方後円系にはなってるが後の時代の物といわれてる。
実質、天皇家で初めて前方後円墳を採用したのは10代祟神天皇だ。
おそらく母方の墓制を採用したのだろう。
ということは祟神陵(行燈山)以前の前方後円墳は物部氏の墓ということになる。
実際、物部は奈良東部を地盤にしている。
ホケノも箸墓も物部で考える以外ないのだ。
538唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/15(金) 10:50:53.70
>卑弥呼=モモソ姫論者です。当時(崇神以前まで)は九州が本国で、近畿が属国だったと言う架空立場です。

邪馬台国官 伊支馬は 都市牛利を派遣する。
女王卑弥呼は、大夫難升米。 書記では、難斗米(ナトベ)となっているから
奴=難であり、倭奴国になる。
539唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/15(金) 11:04:14.29
大和と半島・中国との関係は、
崇神(ミマキ)63年に、任那(狗邪韓国)からの朝貢。
任那(狗邪韓国)建国は、そのお礼の朝貢の直前になる。
垂仁(イクメ)末の田島守の派遣からである。
540唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/15(金) 12:50:28.93
>ホケノも箸墓も物部で考える以外ないのだ。

ホケノ山の穴あき壺(庄内式)は、初期の埴輪である。
箸墓は、次の時代の埴輪である。
桜井茶臼山は、穴あき壺。
メスリ山は、円筒埴輪。

ホケノ山(225〜250年)は、倭人伝の邪馬台国官伊支馬(イクメ)の都市牛利(たしうり)を派遣。
541唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/15(金) 12:54:55.81
三国史記の4世紀は引き下げられている。
新羅  9代 伐休泥師今 184~196 192〜3年のできごとは後漢193年であり、1年の齟齬。
13代 味鄒泥師今 262~284
14代 儒禮泥師今 284~298
17代 奈勿麻立干 356~402 味鄒王の甥であり婿。母は休禮夫人金氏。
妃は味鄒王の娘保反夫人金氏。新羅の古代国家を整備し以後金氏が王位を世襲した。
542日本@名無史さん:2012/06/15(金) 16:28:02.88
>>540
>ホケノ山の穴あき壺(庄内式)は、初期の埴輪である。
>箸墓は、次の時代の埴輪である。
>桜井茶臼山は、穴あき壺。
>メスリ山は、円筒埴輪。


だから何が言いたいの?
さっぱりわからん。
543日本@名無史さん:2012/06/15(金) 16:59:07.50
唐松山の議論は、誰にも意味が分からない。
何を論じているのかも不明だ。
本人の脳に障碍があるのだろう。
544日本@名無史さん:2012/06/15(金) 18:17:46.01
九州説って安本と古田で神武天皇の時代に300年近い差があったよね。
こんなの変だよ。
いい加減、一つにまとめたら?w
まぁ九州説を唱えてる時点で、自分はアホだと自己紹介してるようなもんだw
545日本@名無史さん:2012/06/15(金) 18:52:33.01
よく畿内説は「九州説は一つにまとめろ」と連呼するが、
基本資料が魏志倭人伝しかない状況の中で、一つにまとまる方が不思議。

畿内説が、いかに「奈良大和、まずありき」の発想なのか、
が明瞭となる、好個の証左と言えよう。実証は無視しているのだ。
546日本@名無史さん:2012/06/15(金) 18:59:43.86
少ない情報の中で、それぞれが考えたらたくさんの場所になってしまうのはしょうがない。

巻向箸墓とか、誰かのリップサービスに固まってしまうのは、それぞれが考えてない証拠やね。
547日本@名無史さん:2012/06/15(金) 19:43:12.42
九州説がまとまる必要などないが、まずは畿内説詐欺をやめさせるのが先決。
548卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/15(金) 19:44:10.49
畿内説と九州説のバトルはもう終わりだ。
卑弥呼の遣使は南韓の任那から出発した。

これで確定。
549日本@名無史さん:2012/06/15(金) 19:53:11.94
いや、それオカルトだから。
550日本@名無史さん:2012/06/15(金) 20:02:47.70
まあ、まとまることはない。ただお国自慢しとるだけだから。
551日本@名無史さん:2012/06/15(金) 20:04:43.49
あ、奈良自生もお国自慢と同列な。
552日本@名無史さん:2012/06/15(金) 21:06:23.70
畿内説の弱点は卑弥呼の鬼道がどんなものだったかまったく説明できないことですね
日本を統一するような宗教なのにその後の日本にまったく影響を与えていないという
おまけに鏡を配ったとかその鏡は魏に特別に作ってもらったものだとか
魏は自分のところとはまったく関係ない宗教のために特別に鏡を作ってくれたんですかね
この鏡何に使うのって聞かなかったんですかね
553卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/15(金) 21:20:25.30
鬼道に焦点を当てて、卑弥呼は日本人ではなかったと結論付けた伊作は、ある意味では着眼点が鋭い。
ただ彼は、邪馬台国は日本だと思っていたので、朝鮮説に思い至らなかった。そこが惜しい。

しかし、曲がりなりにも本を出したということは立派なことで、なかなかできることではない。
早い話、名無しの人間の中にもけっこうよく勉強していると思われる奴もいるのだが、
本を書けるほどの知性は感じられない。
554橙犬者:2012/06/15(金) 21:32:21.01
>>530
唐松山さん
>そこで、中国王朝の“官暦”を使う。http://sinocal.sinica.edu.tw/これは、台湾電子文献の工具箱にある。
 唐松山さんの「42年  神武元年庚辰朔 3章1日 0日 辛卯 辛卯 東漢光武帝建武18年 西元42年2月9日」を使って見ました。
 「西元42年2月9日 → 東漢光武帝建武18年(歳次壬寅)1月1日」と出ました。朔ですね。

 http://maechan.net/kanreki/ (換暦)のユリウス暦の欄に42/02/09を入れると
 「和暦 垂仁)71年1月1日 グレゴリオ暦 西暦42年2月7日 ユリウス暦 42/02/09 ユリウス日  1736438 干支年 壬寅 干支日 辛卯 六曜 先勝」
 これは“官暦”と一致しているようです。 (干支日は判りませんが)

>東晉廢帝太和4年 歳次:己巳 生肖:蛇 西元369年1月24日(星期六)起 の場合 壬子・壬午・辛亥・辛巳・庚戌・庚辰・庚戌・己卯・己酉・戊寅・戊申・丁丑・丁未
>369年には、16日丙午が存在しない。だから7支刀をここにはおけない。
 七支刀は何年の話であるかを、十六日丙午との象嵌から候補を求めようとしているのですね。
 朔日は普通に考えると、辛卯(ですよね)になる筈ですが辛卯の朔日は無い。辛卯の朔日が有る年を探し求めるお考えですね。
 神功皇后摂政52年の記事は西暦何年のことかを求められる。

>元嘉暦では、1ヶ月を29+399/752日とするが
>それ以前の4分暦では、暦法上の1ヶ月の数字が正確でないために、月は300年で1日狂った。
 漸く意味が判った気がします。元嘉暦と4分暦とは一ヶ月の日数?に細かな違いがあった。
 暦間の差が積もっていき、300年経つと、約一日となる。でしょうか??

>私の主張する数字は、この問題にまでは踏み込んでいないから、その程度の誤差は含まれる。
 つまり1日程度の誤差は出る可能性がある。 そうでしょうね。元も正しいとは言い難いのですから。

>書紀の太陰暦は”正朔”を主張しているから、正しい太陰暦に変換できるはずである。
 日本書紀の暦の朔が正しければ、その可能性は高いですね。

全てを理解はできませんでしたが、 やっと、朔日の干支と、閏月のことを細かく仰っている趣旨が判ってきました。
たしかに、推古紀以前では閏月の記載が乏しいので、朔日の干支から閏月を推定しようとしているのですね。
555日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:01:58.65
伊作は一本眉だ
556日本@名無史さん:2012/06/15(金) 22:04:06.50
伊作は口臭がきついらしいぞ
557唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/15(金) 23:21:18.06
>朔日の干支から閏月を推定しようとしているのですね。

仲哀元年閏十一月。
古記が正しければ、仲哀9年に閏12月が来て、このライン上に垂仁元年がある。
古記の主張通りか否かは、その主張する通りの位置に、”朔”がくるかを調べれば良い。
調べた結果は、大丈夫だろうと思われる。
ただし、
仲哀元年266年このライン上に仁徳八十七年399年が来る。
仁徳八十七年は閏年であるが、閏11月ではない。
中国においては、399年は閏年ではない。
中国の暦の7潤は、
418・419・420閏・421・422・423閏・424・425・426閏・427・428閏・429・430・431閏・432・433・434閏・435・436閏
これ以前は、このライン上が閏年になる。

七支刀は、16日丙午の存在する年、その候補として
東晉明帝太寧4年 ?次:丙戌 生肖:狗 西元326年2月19日(星期六)起
東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)使う暦が違えば、1日の違いは出る。
神功52年が326年であれば、神功元年は275年が得られる。
273年日食がその指標となる。

558レス長たらし毘古:2012/06/15(金) 23:26:14.19
>>534
>開化は文明開化に通じるなw

その例えをとった場合、卑弥呼=モモソ姫=開化大王は文明開化の基礎を
作ろうとした人物になりますが、実際の当時の文明開化を成し遂げたのは
崇神大王と、結果としてこうなったと架説しております。そして、それ以前の
地方官は「評(こおり)」と呼ばれていた。結果的にこの評制度は崩壊し、
後にこの役職の一部が国司へと様変わりしていきます。

>ちなみに箸墓は、延暦寺根本中堂の真南に9世紀になって造られたという説もある

ちなみに当方は、卑弥呼=モモソには拘っているが、その最終埋葬地が必ず
しも箸墓である必要には拘ってはいません。先述どおり、銅鏡の発見地は、
卑弥呼の直後に最大権力を握った者によって左右され得ます。(押収して
自分の保管庫に格納したとかも有り得るしね)あくまでも、卑弥呼の最終
埋葬地は、「淡路島を意識した場所」と言う表現に私個人は留めています。
559唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/15(金) 23:28:32.19
>これは“官暦”と一致しているようです。 (干支日は判りませんが)

私の編年は、中国の干支に合わせているから、整合するのは当たり前。
4章につき1日を減ずる。この正しさは、さらに突き詰める必要がある。
ただ、概ね正しいとできる数字にはなっている。

そこで、神功52年が326年とできる文献が存在するか?
ここへ出てきた文献が、奈勿聖帝紀なのである。
奈勿大聖神帝  7年水羊(383/323年癸未)
三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多 聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗
3月, 付与(夫余)の流民(流民) 30号(戸)がまた投降して来た.
付与(夫余)が倭(倭)とお互いに上通(相通)して毎年その民を受け入れて都城と田舍に分散させて配置した.
ウェシン(倭臣) ウングオン(熊彦)は美しくて話術が良くて子供(阿□)とお互いに情を通じてその言葉を聞き入れ
る事が多いのでお吸物である(国人)らが離反(離反)してあるいは私たちに来てあるいは高句麗に行ったりした.
奈勿大聖神帝 8年木神(384/324甲申)
夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之

倭臣熊彦=千熊長彦は、神功49年の登場、323年癸未であれば、神功52年326年が得られる。
しかし、神功64年甲申の前年ではない。
ここに文献どうしの不整合がある。
文献の不整合は、考古学の知見で直す必要がある。
560レス長たらし毘古:2012/06/15(金) 23:41:12.79
>>537
>ということは祟神陵(行燈山)以前の前方後円墳は物部氏の墓ということになる。

墳墓様式の画期と言う意味では共感できます。その前提の場合は卑弥呼=
モモソ姫の墳墓は必ずしも前方後円墳の形状を採用していないと言う可能性
が高いと言う事に結果なりますね。実際、大王没後しばらくたってから
墳墓を作るのが当時のならわしですから、それ以前直前の様式か、初期の
前方後円墳か、のどっちかになると思います。
但し「物部氏の墓」に限定されるかどうかだけは違和感が残りますが。
(近畿地方他氏の可能性を排除しきれない私個人)
561レス長たらし毘古:2012/06/15(金) 23:55:50.01
>>552
>日本を統一するような宗教なのにその後の日本にまったく影響を与えていない

まさしくその断絶こそが、当方の架説における、「開化〜崇神間の断絶」なの
です。開化=モモソ(=卑弥呼)によって、本来なら用途どおりに使われる筈
だった銅鏡は、開化が怪死し、崇神大王が次の最終権力者となった事で、
「単なる権威を示す為の宝」と位置付けられ、こっち派に寝返った地方勢力へ
積極的に「褒美」として配られる事となります。配ったのが地方から出土し
ます。配りきれなかったか、あるいは途中で配るのが惜しくなった分が、蔵の
中で1600年ほど眠る事になります。

>この鏡何に使うのって聞かなかったんですかね

卑弥呼(=モモソ=開化)陣営は、多分それを十二分に知っていたと思います
が、残念ながら、その知識は、その後の二度の戦い(タケハニヤス彦の戦と
沙保の戦い)によって敗北陣営と共に消え去ってしまったと想定しています。
562レス長たらし毘古:2012/06/16(土) 00:12:59.46
なぜ銅鏡デクノロジーは消え去ったと(当方は)想定しているのか?

それは古事記にそのヒントがあります。沙保の乱によって沙保ヒメが最後に
没する際に「わざわざ相手陣営のヒメ」を「自分の後継者として推挙指名」
してから没します。
戦争の最中に、「自分の後継者は敵の一族のヒメだ」とわざわざ指名して
没すると言う歴史現象は、まずありえ難いと考えます。ならばそこをどう
読み解くか?
当然、そこで沙保ヒメの息子の延命がヒントとなります。沙保の幼い息子も
皇子(の一人)ですから、よっぽどの理由がないと敵対勢力は生存を許さない
と思われます。しかし、古事記ではこの息子、その後余生をまっとうします。
ここから類推するに、息子皇子の助命と、沙保ヒメが持っている何らかの
権威(権利)の放棄指名、が交換条件されたと考えるのが自然です。

さてさて、上記のように想定した場合、鏡のテクノロジーまでわざわざご丁寧
に敵方に教えるでしょうか?例え教えるにしても、息子の生存が担保される
までは教えないと考える方が妥当です。つまり、鏡のテクノロジーの枝葉を
指名と共に教えたとしても、その基幹OS(起動OS)は息子に伝えるか、
或は伝えない方が、むしろ確実に息子は生き残れる筈なのです。

こう想定した場合、少なくとも銅鏡のテクノロジーは、表上は「そこで
途絶えた」と架説した方がその後の古事記のストーリーからも自然だと思われ
るのです。
563日本@名無史さん:2012/06/16(土) 00:34:12.06
相手陣営のヒメ? 姪だろ?
564唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/16(土) 00:34:23.11
>、沙保ヒメが持っている何らかの権威(権利)の放棄指名、

この乱は、どこで発覚した?
それは、久米氏の館だ。

垂仁天皇五年(丙申前二五)十月己卯朔◆五年冬十月己卯朔。天皇幸來目。居於高宮。時天皇枕皇后膝而晝寢。
垂仁天皇二七年(戊午前三)是歳◆是歳。興屯倉于來目邑。〈屯倉。此云彌夜氣。〉
565レス長たらし毘古:2012/06/16(土) 00:38:11.19
この元反乱勢力の皇子(自勢力の皇子でもある:父方)は、その後、中央政治
にこそ復帰しませんが、その後ののんきだね旅巡り余生は、むしろ古事記にて
「ご丁寧」に表記されています。なぜか?

ここは、以下のような推測を述べて、今夜は終ろうと思います。皇子の助命を
許したその後の中央政権は、「銅鏡テクノロジー」を何とか完全に入手した
かった。銅鏡は目の前にある。沙保の持つ権威権力は全て指名後継させた筈。
でも、ついに最後まで「銅鏡テクノロジー」を究明する事ができなかった。
かといって、一度助ける事を条件付けで約束した沙保の息子を、殺すと脅して
吐かせるわけにもいかない。むしろ死んでしまったら元も子もない。手をかけ
てしまったら、折角指名までさせて継がせた「沙保ヒメの既得権益=伊勢の
巫女の権威権力等々」すら、再び失ってしまうかもしれない。

だから、息子を監視付きで泳がせた。その監視の報告は逐一献上され、結果
としてその息子の旅巡り物語だけが古事記に残された。
将来「誰かがこの旅巡り物語から銅鏡デクノロジーを読み解いてくれる」事を
期待して。。。
ま、古事記を信頼する限り、息子本人はまだ幼かったので、直接は知るはず
もないと当時権力者も思っていたでしょうね。だがしかし、その取り巻きは、
知ってたかもしれない。少なくとも当初は「そう」思われていた。。。
566レス長たらし毘古:2012/06/16(土) 00:46:35.52
>>563
>相手陣営のヒメ? 姪だろ?

古事記上の表記は、タケハニヤス彦の乱も、沙保の乱も、ミカドのかなり近い
近親者ですよ。それが「イクサ」をしてるワケです。姪と叔母様が、同一陣営
だったと考える方が考えにくい。
まあ、敵でこそなくても、中立陣営だったとしても、成り立つ話ではあります
が、その場合、沙保の息子の延命が必ずしも担保され難い話となってきます。
この人も、反乱勢力の叔父さん(=沙保ヒコ)を持っていると言う点以外は、
充分帝位継承主張できる「皇子」なのですから。
帝位継承可能者が確実に殺されない為には、むしろ、姪が敵陣営だったと考え
た方が自然に思えます。
567レス長たらし毘古:2012/06/16(土) 00:51:12.89
>>564
>この乱は、どこで発覚した?それは、久米氏の館だ。

久米氏って誰?久米氏の館ってどこ?すまんのう、浅学で。。。シオシオ
調べてみますぁー♪
568日本@名無史さん:2012/06/16(土) 03:04:01.33
「銅鏡テクノロジー」ってどういった次元の技術?
鋳造技術のこと?
569日本@名無史さん:2012/06/16(土) 03:10:37.68
卑弥呼は倭錦の女王。
モモソは倭錦と無縁の別人。
570日本@名無史さん:2012/06/16(土) 09:34:51.88
山口百恵のように、さっさと引退して神話になったのだろう。
今では普通のデブおばば、道ですれ違っても気づかれない。
571日本@名無史さん:2012/06/16(土) 20:32:49.47
>>560
>但し「物部氏の墓」に限定されるかどうかだけは違和感が残りますが。
>(近畿地方他氏の可能性を排除しきれない私個人)

例えば日向時代からの盟友・大伴氏が大王家を差し置いてあんな大きな墓を作れたか?
無理。
作れるのは大王も一目置く氏族ということ。
結局、神武はナガスネヒコ相手に苦戦したうえトドメをさせなかった。
やってくれたのは誰か。物部の祖ニギハヤヒ。
大王家は物部に大きな借りがあったはず。
物部が好き勝手に大きな墓を作っても咎められなかったはず。

それともう一つ。
ホケノ山古墳を契機として鉄の出土量で畿内が北九州を上回る。
弥生時代は北九州が圧倒してた事を考えると、
北九州から「鉄の大親方」的人物が畿内入りしたということ。
それは北九州に強い縁がある物部以外にないと思われる。
572橙犬者:2012/06/16(土) 20:57:00.79
>>557
唐松山さん
>古記の主張通りか否かは、その主張する通りの位置に、”朔”がくるかを調べれば良い。
 「令集解古記」に十九年を一単位とする「章」について説明がある。
 唐松山さんがご自分の意見が正しいことを主張する根拠として述べていると判りました。

まず「章」についての私の復習
太陰暦は新月となる日を「朔」と称し、一ヶ月を新月から新月まで(約29.53日)としている。
一ヶ月が約29.53日なので、12ヶ月は約354.36日となる。ところが実際の一年は約365.24日。
毎年発生するこの約11日の差を調整しないと、同じ月、同じ日であっても、季節が次第にずれる。

これを調整するのが十九年七潤。
十九年を一単位(章)としてのどの部分(年)に、閏月を入れるかを定めた。閏が七回有るので十九年七潤(閏)。
三年目は閏九月、六年目閏六月、九年目閏三月、十一年目閏十一月、十四年目閏八月、十七年目閏五月、十九年目閏十二月を入れると定めた。

十九年七潤法によると 19年=6939.55(日)∵19(年)×12(月)×29.53(日)+7(潤)×1(閏月)×29.53(日)=6732.84+206.71=6939.55
現在では 19年=6939.56(日)∵19(年)×365.24(日)=6939.56(日)
19年を一単位とすればズレは0.01日、ほぼ無視できる範囲に収まる。
(厳密には、約29.53日を一ヶ月としているので、朔日をどう決めるかなど、他にも細かな問題が発生するらしい)

年の表現は干支でされ、60年で繰り返し、月は今と同じだが、閏月は、前月に続けて、五月、六月、閏六月、七月。
日の表現も干支が基本で、60日で繰り返し、閏の影響は受けない。朔日は一日となる。

ある月が閏と判ると、19年一単位の何年目かが判る。ex.閏八月なら、ある章の十四年目。
朔日の干支から、朔日は約29.53日ごとに現れ、干支の周期は60日ごとから、双方が成立する年が絞れる。
閏月が入ると朔日の干支が(29.53ずつ)ずれ、閏月が有ったかどうか判定できることになる。

ここからが、ご主張の中身です。
>仲哀元年閏十一月。古記が正しければ、仲哀9年に閏12月が来て、このライン上に垂仁元年がある。
 前半はそのとおりだと判りました。垂仁元年以降が、また判らなくなりました。閏月を干支と朔で求めたでしょうか?
 ホツマツタヱでしたっけ? 途中ですが頭が痛くなりました。一休みです。
573日本@名無史さん:2012/06/16(土) 21:03:27.49
>>572
おー、よく理解できた。
唐松山とはえらい違うな。
574卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/16(土) 22:07:40.79
ここは比較的まともな議論がなされているので、ここで訊こう。
倭王武の上表文の、次の箇所は何と訳すのか。

1 道遥百済 遥は、経て、と読まれているが、そう読めるのか。
2 臣亡考済 これが、どう考えてもさっぱり分らない。
575日本@名無史さん:2012/06/16(土) 23:25:38.00
>>574
いいとこに着目したね
576レス長たらし毘古:2012/06/16(土) 23:58:14.03
>>568
当方は「銅鏡テクノロジー」の最有力候補は、現時点では「情報伝達ツール」
と考えております。銅鐸警報を使った音速的伝達手段より速く、またノロシ
可視を使った光学的伝達手段より天候に左右されにくいからです。この伝達
手段によって、敵情報や伝令情報は、格段に速度と精度が上がります。
>>569
同時代、近世代別人と言う反論までは、まだ当方の架説の範囲でも可能です。
絶対に別人であるとするならば、是非「非モモソである事」を説明願いたし。
577日本@名無史さん:2012/06/16(土) 23:59:41.65
>>574
2 臣亡考済
ここのの済は人名だろ
578唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/17(日) 00:06:55.89
>仲哀9年に閏12月が来て、このライン上に垂仁元年がある。
垂仁元年春正月,丁丑朔・冬十月,癸卯朔・十一月,壬申、2年春二月,辛未朔
丁丑・丁未・丙子・丙午・乙亥・乙巳・甲戌・甲辰・癸酉・癸卯・壬申・壬寅・辛未
2年 辛丑・辛未
仲哀9年 三月,壬申朔・夏四月,壬寅朔・ 秋九月,庚午朔・冬十月,己亥朔・十二月,戊戌朔
癸酉・癸卯・壬申・壬寅・辛未・辛丑・庚午・庚子・庚午・己亥・己巳・戊戌・戊辰
神功元年 丁酉・丁卯・丙申、 三月,丙申朔。

朔の干支を数える限り、垂仁元年と仲哀9年には、閏12月が存在する。
垂仁治世99年は、引き伸ばされているが、記事は“正朔”が守られている。
だから、垂仁治世99年を正常な長さに変換する場合でも、“正朔”は守らなければならない。
つまり、正常な長さの場合も、垂仁元年と仲哀9年は、閏12月のラインとなる。
ただし、垂仁紀は、引き伸ばされているのであるから、その中間の年は、このライン上に存在しなくとも良い。
確実にライン上に存在できるのは、元年と末年のみ。
ホ37202 あくるハル ヤヨヒにかえる 明年春 3月に帰る
タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ 田道間守 時至9ヶ月24日後
カクのキヨサホ カグヨサホ もちきたるマに 果木の木4棹 果草4棹持ち来る間に
キミまかる ミヤゲなかばを ワカミヤえ なかばをキミの ミササキに さゝげもふさく
これゑんと はるかにゆきし トコヨとは これ得んと 遙かに行きし 常世とは
カミのかくれの をよびなき フリをなじむの 神隠れの及び無き、“振り”を馴染むの
トトセぶり あにをもひきや しのぎゑて 10年ぶり 何思いきや 凌ぎえて
さらかえるとは 更変えるとは。(暦の更新)
垂仁90年は同99年であり、その翌年は、景行元年となる。
579唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/17(日) 00:21:08.94
239年 邪馬台国官伊支馬(イクメ)、都市牛利(たしうり)
常世とは神隠れの及び無き  239年魏明帝崩御が暦の数字に影響を与えない。
垂仁崩御(90年=99年)暦の数字に影響を与える。
大和〜洛陽往復約10ヶ月。帰着は景行元年春3月。
田道間守の葬儀を許すとは? 垂仁陵への殉葬の許可?
ホケノ山に殉葬墓、半島式墳墓。
ホ37225 モトヒコに ユルシハたまひ モをつとむ ハナタチバナが
サツキまつ ヨハにうむコに ミコトのり ムカシのヒトの オをとゝむ オトタチバナと
ナをたまひ にたるスガタの ヲシヤマに とつぐハハコも おんめぐみ ふかきゆかりの
タメシなるかな

田道間守の遺児オトタチバナ姫は景行元年生まれ、同じく景行元年生まれの日本武尊。
景行27年 日本武尊16歳 景行28年にオトタチバナは日本武尊へ嫁ぐ。
景行28年は同40年と同じ年であり、オトタチバナは関東で子供を産んだ時に亡くなる。
走水での入水ではない。
オトタチバナと日本武尊の遺児もワカタケルである。←仲哀では無い。
580レス長たらし毘古:2012/06/17(日) 00:30:52.70
>>571
>例えば日向時代からの盟友・大伴氏が大王家を差し置いてあんな大きな墓を
作れたか?無理。作れるのは大王も一目置く氏族ということ。

古事記を素直に読んだ上での当時豪族関係から組み立てたら確かに仰るとおり
である事は否定はしません。「大王も一目置く氏族」である点は明白です。
問題は、大王も一目置く氏族が、果たして当時物部氏「だけだったか?」が
まだ当方は確定に至っていないだけの話です。
卑弥呼を古事記から探し出す為だけにあえて不敬を畏れず古事記を懐疑で
読み解くと言う特殊限定の場合に限り、当時はまだ物部以外にも有力豪族が
複数いた可能性があると当方は類推し、あえてその関係性を仮想的に再構築
する作業の途中で当方は彷徨っているのです。
貴方が物部氏で確信している根拠の充分な説明は感謝します。今後も当方も
精進して更にほんの少しでも卑弥呼の邪馬台国へ近づけたらと願います。

> それは北九州に強い縁がある物部以外にないと思われる。

従って、ご説の内でこの点のみがまだ懐疑中です。当方は古事記表記内に
おける「塗り替え作業」の可能性を否定しない立場ですので、乱暴な言い方
になるかもしれませんが、例えば「O氏」であった所を、物部時代(これを
仁徳大王前後〜蘇我氏系大王以前)中に、「O氏→物部氏」へと塗り重ねて
いたとしたら、古事記で主張する所の物部氏の「立場や役割」の一部は他氏
であったかもしれません。勿論架説ですが、完全否定もこれはまだしばらく
難しいのではないかとも思われます。
さて、その場合(あくまでもその前提の上ででの限定ですが)「北九州の
有力豪族」と言えば?そう、神武大王の渡海をサポートした前宇佐氏
(後代の移住宇佐氏とは別と想定します)がいます。神武大王東征以降しば
らくの間は、前宇佐氏≧物部氏、となるのが自然かと思われます。例えば
この可能性もあると言う事ですし、まだまだ他もあるかもしれません。
(つまり、卑弥呼時代が、大和王権における「物部氏の復権」以前に位置
する場合の可能性ね)
581日本@名無史さん:2012/06/17(日) 00:46:27.29
道遥百済 道は遙かに百済を経て遠い。
臣亡考済 臣はへりくだって自分のことを言ってる言葉。つまりは武。
     亡考は亡き父。済は倭王済。
     わたくしめの亡き父済。
582レス長たらし毘古:2012/06/17(日) 01:37:54.62
閑話休題、時に乱暴すぎる当方の架説の非礼を、また一度ここでも謝っておき
ますが、先日述べた「当時は北九州が本国で近畿が属国」と言う架説ですが、
これも、古事記表記からあえて無理して読み解いた解釈である事を認めた
上で、その架説の理由となる所も、この機会に述べておきます。

まず、「神武東征」前後、どう読み解いても、普通に読み解いた場合、卑弥呼
(がいたとされる時代)は、国力や政治立場は北九州<近畿、となります。
ですから、素直に読み解いた場合、邪馬台国が仮に倭人分布域内であった場合
は、「近畿」しか想定できない、となります。ここがそもそもの邪馬台国論争
の主要患部と言う事にもなります。そして、その場合は魏志倭人伝は完全に
「何かを間違っている」と言う結論にしかなりません。それはそれでいいん
です。ただそれだと邪馬台国は見つからないんじゃない?ってだけの事です
から。但し、そこで、敢えて「邪馬台国を古事記から見つけ出す」だけの
為に、以下のように架説します。

◎西暦250〜350はまだ北九州勢力に対する近畿勢力の「独立戦争の真っ最中」
だったとしたら?

古事記は、これを完全に空白にします。神武東征が順調に終り、神武大王の
子供の世代において、(北)九州と近畿の関係は、明白に「終了」している
からです。(つまり、語るまでも無い事実、とこうなります)
この「独立戦争」こそが、神武大王の子供の世代(の相続争い)に始まり、
沙保の乱にて完全に完了したとしたら?そう、古事記の見え方は、大分違った
物に見えてきます。
一見関係無いように思われますが、神武大王の祖先の、古事記では山幸と
呼ばれた、海幸兄さんと喧嘩して和睦した、あの有名なご兄弟ですが、普通の
「兄弟相続」の概念で考えますと、少々ひっかかる不思議さを兼ね備えている
逸話でもあります。古事記どおりに読むと、近畿と北九州の本属関係は、ある
程度ツジツマが合ってるようにも見えます。上手い表記です。
583レス長たらし毘古:2012/06/17(日) 01:41:41.33
だがここで、「もしあの時、あんな美談のようには和睦してなかったら?」と
邪推した場合、以下のストーリー内逸話の不自然さが気になります。

◎なぜ山幸は「釣り針と海王の娘」を手に入れなければならなかったか?
◎なぜ山幸の子孫(=神武大王)は地元北九州を離れ近畿に遠征移住したか?

そう、このキーワードがあるお陰でしか、近畿の北九州への由緒的優越は担保
され得ないのです。従って、解釈によっては、「当時は北九州≧近畿」だった
可能性も排除しきれない、とこう言う架説の余地が生じます。
海幸山幸兄弟が、完全なる和睦を果たさないまま、北九州本国での兄弟派閥
勢力のゆるやかな拮抗競合は続きます。弟の子孫は、ひょっとしたら、北九州
を追われたのかもしれません。しかし、近畿で一発逆転大成功を納めます。
一族が代々悲願として来た、「近畿の完全制圧」を、ついに成し遂げます。
兄の子孫とは言え、この一族的功労は認めないわけには行きません。

ここで、海幸後継者派閥(=北九州)と山幸後継者派閥(=近畿)との関係は
ほぼ対等となります。緩やかな兄弟相続分割概念ですから、しばらくはこの
ままでも良かったのかもしれません。緩やかになれあいつつ、時に激戦、時に
休戦を繰り返しつつ日々は過ぎます。だがしかし、ここで、魏からハイテク
分隊が、「国書」を携えてやって来ます。一枚岩じゃないと舐められるし、
かと言って、実情はそれほど一枚岩でもありません。(出雲や東国の要素も
重ねると、とてもとてもニ三枚岩)
584レス長たらし毘古:2012/06/17(日) 01:43:14.59
そこで、ある女性(当方はモモソヒメと仮定)を東西で「共立」します。
だがしかし、古事記(の元となる逸話)はこの時期はとっくに「一枚岩
だったよ」と主張します。そして、卑弥呼なる女性が誰であるか?は古事記
から見つからない(見つけ難い)ようにします。なぜなら、卑弥呼外交に
不満な勢力が、卑弥呼が没した後に、政権に就いたからです。と言う架説。
この、「女王隠し」は、少なくとも古事記編纂の時代より、だいぶ前であると
想定した方が自然です。ですので遣隋使・遣唐使時代以降は、ますますもって
「この卑弥呼って女王はだあれ?」状態になります。
本属関係架説は、このような理由からの妄想となっております。余地はある
よね?(完全に無いと言われる方は、是非矛盾指摘を宜しくお願いします)
585日本@名無史さん:2012/06/17(日) 01:46:38.68
もう、この時点で100%間違ってますが?

>卑弥呼(がいたとされる時代)は、
>国力や政治立場は北九州<近畿、となります。

長崎〜熊本〜福岡の三角地帯のほうがはるかに上でしょ。
586日本@名無史さん:2012/06/17(日) 01:48:34.46
あと、卑弥呼とモモソの共通点が全くないから、別人です。
同一人物と断定したいなら、その方が論証が必要になる。
587日本@名無史さん:2012/06/17(日) 01:49:56.75
少なくとも弥生時代の遺跡数は福岡県のほうが、
奈良県の三倍あるからねえ
588レス長たらし毘古:2012/06/17(日) 02:00:13.11
>>585
ええ、そう言ってますが?で、しかしながら古事記はそう主張していると
言ってるだけですが?

>>586
モモソヒメが、神武系列の血脈しか古事記に描かれていないので、普通に
読めば当然そうなります。でも、神武系列と「ほかに何処の血脈との間の
子孫か?」までは、幸か不幸か良くも悪くも表記されつくしているワケでも
ありません。モモソヒメ(勿論近時代別人でも構いませんが)が「共立」
される為には、その共立される人は、近畿の子孫であると同時に、九州の
子孫でもある(或は出雲とかも想定できます)、と言うケースの場合の方が
より「共立される条件」を満たしやすくなる筈です。と言う余地。
589日本@名無史さん:2012/06/17(日) 09:31:27.04
まったくちがうものをこじつけてみたところで仕方ない・・・
590卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/17(日) 09:33:02.30
>>581
なるほど、考には父の意味があるのか。知らなかった!

>>582-583
山幸海幸の話はアトランティス時代の話ですよ。
まあ、ざっと百万年くらい前の話。
591日本@名無史さん:2012/06/17(日) 10:15:04.16
>>579
>ホケノ山に殉葬墓、半島式墳墓。

どこがなんだよ。
いい加減にせい。
592日本@名無史さん:2012/06/17(日) 11:59:27.38
>>580
>問題は、大王も一目置く氏族が、果たして当時物部氏「だけだったか?」が
>まだ当方は確定に至っていないだけの話です。

>例えば「O氏」であった所を、物部時代(これを
>仁徳大王前後〜蘇我氏系大王以前)中に、「O氏→物部氏」へと塗り重ねて
>いたとしたら、古事記で主張する所の物部氏の「立場や役割」の一部は他氏
>であったかもしれません。勿論架説ですが、完全否定もこれはまだしばらく
>難しいのではないかとも思われます。



纏向遺跡の搬入土器が、

1位・伊勢・東海系49%
2位・北陸・山陰系17%

3分の2を占める。
これは異常な数字だ。
しかし物部の祖・ニギハヤヒの息子の宇摩志麻遅命(ウマシマジ)で説明できる。

http://kamnavi.jp/mn/nisi/iwami.htm
「宇摩志麻遅命は天香具山命とともに物部の兵を率いて
尾張、美濃、越国を平定し、天香具山命は伊夜彦神社(弥彦神社)に鎮座したが、
宇摩志麻遅命はさらに播磨、丹波を経て石見国に入り、
都留夫、忍原、於爾、曽保利(いずれも川合周辺)の兇賊を平定、
厳瓮を据えて天神を奉斉し、安の国と名付けた。」

尾張、美濃、越国、丹波を経て石見国(山陰)って纏向遺跡の搬入土器そのままだ。
593日本@名無史さん:2012/06/17(日) 15:22:18.54
>>588

ええ、ですから古事記がなぜそういう書き方(いわば嘘)をしたのかを
原典批判するのが学問の正しい考え方なわけです。

無理な仮説を何重にも重ねないと成立しない仮説は、間違いだと
知るべきでしょう。
594日本@名無史さん:2012/06/17(日) 16:13:09.78
古代史界はひどい有様ですが
そのうちよくなるでしょう
旧石器捏造も発覚しました
そして記紀には架空の天皇など一人も出てこないことも証明されるでしょう
記紀に書かれたことは全部捏造だと決め付けて
自分に都合のいい自由な創造が許される時代は終わるでしょうね
595卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/17(日) 17:14:33.59
>>594
その通り。君は利口だね。
ところがここでそういう正論を書くとキチガイ扱いされるのだ。
596唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/17(日) 17:26:02.54
>>591

http://bell.jp/pancho/travel/yamanobe/hokeno_yama.htm
ホケノ山古墳
■前方部裾の葺石の一部を取り除き、瀬戸内系の壷・東海系の壷を副葬した木棺が埋葬してあった。
■主体部の埋葬施設は石積木槨(長さ約7m、幅約2.7m)で、その中に刳抜式木棺(コウヤマキ製
5m)が収められていた。
■ 石積木槨からは、鋼鏃60本以上、鉄鏃60本以上、素環頭大刀1口、鉄製刀剣類10口前後、
その他に加飾壷、画紋帯同向式神獣鏡、破砕鏡、鉄製農工具などが出土した。
■ コウヤマキ製のくりぬき式木棺の破片を、放射性炭素(C14)年代測定法で分析した結果、築造時
期が3世紀第2四半期(225〜250)ごろと判明。

(2)平成9年(1997)5月、前方部東斜面で、木棺と壺2個を埋めた埋葬施設が見つかった。
埋葬施設は古墳の完成直後、葺石を壊して長さ4・2m×幅1・2mの穴を掘り、長さ2・2m×
幅45cmの木棺を納め、その外側に2個のつぼ(高さ77cm最大径65cm、高さ26cm
最大径24cm)が供えられていた。
この部分が、殉死した、田道間守の殉葬とできる。

597唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/17(日) 17:42:21.54
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁末年]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳 埴輪(庄内式穴あき壺)田道間守の殉葬。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
598日本@名無史さん:2012/06/17(日) 18:20:43.97
>>596
だからそれのどこが殉葬墓であり半島式墳墓なのだよ。
何言ってるんだおまえ。
599日本@名無史さん:2012/06/17(日) 18:25:10.25
>>596
田道間守なんておまえのくだらない推測だし、
殉死と殉葬の区別さえついてないじゃないか。
600唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/17(日) 18:51:20.41
ホ37220 ノコシフミ ミコみたまひて カグキミが ハナタチバナは かれがツマ ヲシヤマやりて
よばしむる チチモトヒコと のぼりくる ミコよろこびて モトヒコに ユルシハたまひ モをつとむ

田島守は垂仁の墓前で殉死する。
その葬儀の許可を景行がする。
葬儀に天皇の許可は不要だ。であるならば、なんの許可か?
造りたての垂仁墓に副葬の許可であれば、許可は絶対必要である。

菅原と茅原。菅茅は植物学的に同等である。
つまり、読みに当てた漢字により、地名が変化する、よくあることだ。
601日本@名無史さん:2012/06/17(日) 19:13:59.40
>>594
中国の歴史書に登場する1C「漢委奴国王」2C「帥升」3C「卑弥呼」5C「倭の五王」6C「筑紫君磐井」7C「阿毎多利思北孤」ら歴代「倭王」は、
大和朝廷の大王ではなく、7世紀白村江の戦いで滅びた九州王朝の大王だったとする「九州王朝説」。

倭国=九州王朝、大和朝廷=関西扶桑国とするこの二王朝並立説は、
記紀的な大和朝廷一元史観の見直しを迫る画期的な説ではあるのだが…問題も多い。


-邪馬台国と大和朝廷の関係(九州王朝の祖になったのか?東遷して大和朝廷に、敵対していた狗奴国が九州王朝の祖となったのか?)
-九州王朝と大和朝廷が並立していたとすればその力関係、役割分担はどうしていたのか?
-関西巨大古墳の被葬者は九州にいた倭の五王か?同時期の大和朝廷の大王墓はどこに造られたか?

これらに明快な答えが出せない限り、仮説の域を出ないであろう。
602日本@名無史さん:2012/06/17(日) 19:33:12.69
>>600
そうするとあんたはホケノ山を垂仁の墓と見てるのかw
100年ずれてら。
603卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/17(日) 22:09:58.31
垂仁は在BC29−70だから、二百年ずれてるな。
604日本@名無史さん:2012/06/17(日) 22:55:47.21

>>603
おまえ書紀をそのまま信用してるのかよw
古事記では、

崇神 没 戊寅 紀元318
垂仁 ?
景行  ?
成務 没  乙卯 355

だからまぁ垂仁没はおおよそ330年ごろだな。
605卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/17(日) 23:15:34.94
>>604
それが津田史学なのである。
ここに参加している連中の九割までが津田史学と考古学という、
同じ土俵の上に立って論戦しているのである、畿内論者も九州論者も。

それではだめなのである。箸墓が三世紀か四世紀かを議論する前に、
記紀では崇神は紀元前となっているのだから、箸墓も紀元前ではないか、
と考えてみることが大切なのである。
606日本@名無史さん:2012/06/17(日) 23:25:04.78
>>605
卑弥呼は朝鮮にいたなんてハンドルで何をほざいてるのやらw
607日本@名無史さん:2012/06/17(日) 23:25:42.25













ハンコ貰うてるって 難升米さんでないの
608日本@名無史さん:2012/06/17(日) 23:51:37.69
>>605

津田史学に縛られているのはお前のほうじゃないか?
そろそろ自首しなさい。
609レス長たらし毘古:2012/06/17(日) 23:53:00.25
>>592
紹介いただいたURL確認してみました。同URLにて以下のようにあります。

>社殿の創建は継体天皇八年(513年)。以降兵火などで焼失、宝暦三年
(1753年)再建、 安政三年(1856年)大修理、現在に至る。

この「物部神社創建」の時期は継体大王の御世となっているそうです。これは
継体大王の頃には既に物部氏の復権と再興が「達成した」と言う意味の資料
として貴重だとは思います。しかし同時に、「わざわざその時(継体大王
の時代)」になぜ物部氏の子孫が「そのような主張」をしたか、と言う点も
重要になって来ます。
「その頃やっと物部氏の子孫が自分達の始祖話(ウマシマジの話)」が中央
政治にて公言主張できる程度に復権した、とも解釈できます。
実際「物部〜〜」なる人物名は、記・紀のみに限らずも、ウマシマジ以降は
それほどの有名人は輩出しておらず、何百年とたってやっと「物部アラカイ」
などの物部スターが再出されるのも、これもこの継体大王前後の時代となって
いる事も併せて考えてみる必要もあるかもしれません。

つまり、物部神社の主張のとおりなら、古事記における「神武時代〜継体
時代(短く見積もっても400年前後)」における、物部氏の著名人の
「あまりの少なさ」が、これも違和感を感じざるを得ません。従って、当方
は、その間の物部氏(ウマシマジの子孫)は、まだまだ「被征服者の立場」
からは完全に脱していなかった、と言う架説の方が自然に思えます。
610レス長たらし毘古:2012/06/17(日) 23:56:32.19
>>609続き

この架説の場合、「卑弥呼がいたとされる時代」は、物部氏は「どの程度
中央政界で有力者だったか?」を述べる上では多少の脆弱性を生じます。
勿論、有力者の一角であった可能性を完全否定もしませんが、古事記を読む
上で、「その間の(大王以外の)有力氏族」は物部氏のみと言うワケでも
ありません。
物部氏が復権を成し得る事が可能な規模の歴史イベントは、当方はいくつか
想定しています。
@継体大王を連れて来て据えた時
A武烈大王前後の争乱期
B神攻皇后の遠征期
C崇神大王の治世下
当方は、このBとCは明らかに物部以外の他氏と把握してますので、早くても
Bの頃と想定します。Aのイベント時で物部氏の子孫の立ち回りによっては、
継体大王時に「氏神神社創建を果たした」事がごく自然に思えて来ます。
そして、当方は卑弥呼の時代をモモソの時代と仮定してますので、当然Cと
同じくくらいか、それより前、と把握しています。
611レス長たらし毘古:2012/06/18(月) 00:08:10.06
>>593
>ええ、ですから古事記がなぜそういう書き方(いわば嘘)をしたのかを
原典批判するのが学問の正しい考え方なわけです。

古事記を「純粋な歴史書」と考えれば教義原理的にはその弁は理解できます。
しかし、古事記の編者も、そして当然ここでの当方も、古事記は「純粋な
歴史書だ」などとは誰も規定していません。
当方は、古事記は(ある部分までは)お家説話集だ、と最初から規定して
この弁を始めてますので、この点も併せて、別に編者や原典を史学学究的に
批判する必要性も全く感じません。

それともう一つ。貴方自身は、「嘘」としか解釈していないようですが、
必ずしも「嘘」だけとも当方は申してません。勿論、都合の為の嘘も少なくは
ないでしょう。嘘の場合は、その嘘をついた「都合」を明白にすべきだと言う
鋭いご指摘には当然当方も同感です。
問題は、「本当にわからなかった部分」と言うのも混在している点です。これ
も混在している以上、「あんたそれ嘘ねー!」と全否定もできない、と、
か様に申し上げてるだけなんですね、当方は。
612レス長たらし毘古:2012/06/18(月) 00:17:21.37
>>590
>山幸海幸の話はアトランティス時代の話ですよ。まあ、ざっと百万年くらい
前の話。

ご指摘ありがとうございます。あたしゃーそれよりかはもうちっと最近だと
思っておりますが。。。ま百万はともかく、神武大王の代より、思ったより
昔かもしれませんね。その可能性は否定しません。
逆に、アトランティスの時代の方が1万〜10万年程度の古さかもしれませんね。

今回も各種皆様、鋭いご指摘並びに新境地のご高説、誠にありがとうござい
ました。毎回目から竜王の鱗が落ちるような心境で拝見させていただいて
おります。今後も見かけましたら、手加減の歓迎を頂ければ幸いです♪
613日本@名無史さん:2012/06/18(月) 00:35:05.56
>>611


記紀の編纂者は、中国側の史書を意識して書いています。
古事記が単に昔話集なら、なにも歴史書の体裁にする必要はないでしょう。
「倭が王権の立場として過去はこうであった」と言いたいがための歴史書なわけです。
中国側の史書と食い違う「女王」の存在を、「当たらずと言えども遠からず」という
著名女性を配しておくことで、畿内王権と邪馬台国は別な国なのに、あたかも同一
国家であるとも解釈が残るような効果を狙っているわけです。
意図して
614レス長たらし毘古:2012/06/18(月) 01:01:55.02
>>613
>中国側の史書と食い違う「女王」の存在を、「当たらずと言えども遠からず」という著名女性を配し〜(中略)〜畿内王権と邪馬台国は別な国なのに、
あたかも同一国家であるとも解釈が残るような効果を狙って〜(中略)〜
意図して

えと、その意図が強くなるのが、むしろ古事記でなく日本書紀だととらえて
ますが、当方。
古事記の序には、「主要な前史は蘇我と共に燃えてしまってわからない」と
ちゃんと明記してありますので、古事記の段階では、別段その意図があっても
なくても問題はありません(それゆえ史料価値が下がる事も否定はできません
が)
むしろ「意図はなかったが欠落してた部分を古事記で見出し」た結果、日本
書紀で「意図的にそのような効果を持たせた」と言う解釈の方が自然に
思えます。(そっちは当方も否定はしません)
物部氏や太氏が、その「空白の時代」もずっと大王の側で控えていた有力豪族
で有り続けていたら、当然その「空白」は生じ様がありません。しかし、
物部氏は蘇我時代を挟んで二度、中央政界からは遠ざけられ、太氏にしても、
天武天皇の就任でやっと国書をまかされる場所まで復権できました。
つまり、「空白の時代」を連綿と語り伝えれた氏族が必ずしも「勢ぞろい
していない」点で、古事記の「欠落部分は発生した」と考えた方が自然です。
615日本@名無史さん:2012/06/18(月) 02:04:40.65
>>614

一般論ですが、古事記を書いたときには、まだ九州王権の王室記録が
手に入っていませんので、あまり緻密なことを古事記に盛り込めませんでした。
古事記を編纂後に九州王権の記録倉庫を発見、ごっそりと資料が手に入った
ようです。これを使って新たに日本書紀を編纂しました。中国の属国であった
証拠となるような部分も、日本書記ではきれいさっぱり削除しました。
616日本@名無史さん:2012/06/18(月) 06:32:54.30
雄略系の「倭の五王」が中国皇帝の一将軍にすぎなかったなんて、恥かしい過去は消したいもんね。

今は写真やネットがあるから、芸能人の整形前写真がどんどん流失してしまうけどw
617日本@名無史さん:2012/06/18(月) 06:46:54.24
寺社などの記録などをかき集めると九州年号と思われる逸年号が
約500件ほど残存している。

それどころか、奈良時代以前の白鳳時代という時代区分そのものが、
正史に無い年号である。

また、消し忘れたのか続日本記にもいくつか残っているそうである。

これらは九州王朝の名残とみてよかろう。
618日本@名無史さん:2012/06/18(月) 06:58:51.37
>>617
九州王朝論者に聞きたいのが、関西巨大古墳の被葬者は誰だと思ってるワケ?
619日本@名無史さん:2012/06/18(月) 07:13:33.07
畿内王権の豪族と見て良かろう。
620日本@名無史さん:2012/06/18(月) 07:22:22.01
>>619
関西巨大古墳の被葬者=応神系の大和朝廷大王≠九州王朝(倭)の五王 でオケ?
621日本@名無史さん:2012/06/18(月) 07:23:18.60
大体何を根拠に「九州王朝の九州年号」だと判断するんだw
九州、大宰府周辺なんて単なる半島や大陸に近い出張所だよ。
622日本@名無史さん:2012/06/18(月) 07:30:21.13
>>620

個人的には畿内の古墳群は、九州王朝系ではないと思っているが、
検証は難しいな。

九州王朝は白村江で滅んでいる。
九州年号の痕跡も、白村江以降しばらくは続いたが、
七世紀いっぱいでついに終了して、畿内年号に移行した。

残党がなんとか再興しようとしたのかもしれないが、無理だったか。
623日本@名無史さん:2012/06/18(月) 07:36:01.56
>>622
サンクス。九州王朝仮説というものがだんだん分かってきた希ガス。
次↓のうち、貴兄の見解やいかに。

@邪馬台国がそのまま九州王朝になった
A邪馬台国は台与の代で東遷して大和朝廷になり、狗奴国が九州王朝になった
Bそれ以外




624日本@名無史さん:2012/06/18(月) 08:30:17.04

>>623
個人的な見解では3番
九州王朝は筑紫王朝
邪馬台国は肥国豪族連合で別物
但し境界は年代によって多少変化するだろう。

クナ国が、肥国視点で、筑紫を指すのか、
熊襲国を指すのか、不明

625日本@名無史さん:2012/06/18(月) 08:34:36.36
東遷、東征に関しては、主流ではない
一豪族が敵の割りと少ない場所に
潜り込んだという印象。
626日本@名無史さん:2012/06/18(月) 08:46:21.79
狗奴国は邪馬台国の南とあるので、邪馬台国が筑紫連合なら肥国(熊本)、肥連合(熊本)なら薩摩隼人。

もし仮に邪馬台国が瀬戸内海を東遷してヤマト王権になったのなら、狗奴国(熊襲国)はまさに因縁の敵ということになる。

>>625
だとすると、神武東征とは、
邪馬台国内の権力闘争で非主流派となり、邪馬台国内に居られなくなった豪族・神武が、大和朝廷内に居場所を見つけ、やがて軒下を借りて母屋を取ったとも取れるNe
627日本@名無史さん:2012/06/18(月) 08:49:31.36
>>623
九州王朝説にも、いろいろ分派があっていろいろだが、
正統派の見解では、@が正解。

邪馬台国はそのまま九州王朝=倭国となった。
近畿天皇家は、それとは別王朝で「日本国」
倭国は東遷はしていない。白村江の後、日本国が倭国にとって代わった。
628日本@名無史さん:2012/06/18(月) 08:54:50.26
邪馬台国を筑紫とするのは不可能です。
狗奴国の北にあるのは邪馬台国か奴国でおそらく奴国です。
旧筑紫国や肥前国は末廬国、伊都国、奴国、不彌國でほぼ使い切っています。
神武が筑紫国から東征したと記紀のどこにも書いていません。
神武は日向国から東征に向かったととはっきり書いてあります。
捏造はよくないですよ。
629日本@名無史さん:2012/06/18(月) 09:00:49.58
皆さんよくご存知の通り邪馬台国は水行十日陸行一月。
對海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国と連続か放射で述べた直後の水行十日陸行一月です。
邪馬台国を畿内に持って行くことは出来ても筑紫国に持って行くことは不可能です。
630日本@名無史さん:2012/06/18(月) 09:04:23.04
>>627
九州大王家(年号あり・前方後円墳なし)と近畿大王家(年号なし・前方後円墳あり)の関係は、朝廷(年号あり・天守閣なし)と幕府(年号なし・天守閣あり)の関係みたいなもん?
631日本@名無史さん:2012/06/18(月) 09:23:50.14
>>630
それは、正統派九州王朝論としては、まだ未解決の問題。
個人的には、そのように主張する人はいる。
632日本@名無史さん:2012/06/18(月) 09:25:26.86
大和朝廷は、中国から列島の覇者と認めらた九州王朝へのコンプレックスから、本拠地、河内と大和の両平野に巨大古墳を造ったとも言えそうだNe

ちょうど安土桃山時代の3人の成り上がり(天下人)が朝廷&貴族社会への血統的コムプレックスと実力的優越感から、巨大な黄金天守閣を建てたように。

九州王朝(朝廷)を潰してしまうより、その歴史や伝統に裏付けられた権威を利用したほうが、大和朝廷(天下人)も東国制覇がやりやすかったとw

つまり、九州王朝と大和朝廷はもちつもたれつの関係と想像する。
633卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/18(月) 09:50:06.28
>>612
アトランティス時代は、少なくとも百万年は続いた、らしい。

話変わって、九州年号が議論されているようだが、
それは百済(であろうと新羅であろうと構わないが)の年号かもしれないわけで、
とにかく朝鮮半島も視野に入れて考察しなければいけないよ。

九州王朝なんてものは無くて、もしあったとしたら、百済の王族が、
大宰府あたりに、治外法権的に居住していて、倭王を名乗っていたかもしれないのだ。

君らの議論は単純すぎる。もっといろんな可能性を想定しないといけないよ。
634唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 12:28:29.95
>>602
>そうするとあんたはホケノ山を垂仁の墓と見てるのかw 100年ずれてら。

そのズレを考古学で指摘できるか?
ホケノ山の穴あきつぼは、桜井茶臼山の穴あき壺に先行する埴輪である。
ホケノ山に先行する埴輪は存在しない。であるならば、ここを垂仁末と出来るか?
239年 邪馬台国官 伊支馬、都市牛利(たしうり)。これを、垂仁と田島守にできれば良い。
つまり、それ以前に崇神を配せるか?

纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
東田土坑4 =最後の長頸壷と小型長頸壷の流行
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?任那建国]
216年 任那より朝貢、
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]  辻土坑1= 小形器台・小形丸底鉢が成立する
纏向2類(中)・纏向2類(後) 纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)

崇神治世68年から空白(2章=38年)を差し引く。新羅192年に合わせれば、188〜217年まで。
後漢193年に合わせれば、189〜218年まで、垂仁 217〜239年(76年の空白)と1,2年の齟齬。
この齟齬を、開化(治世60年−空白(3章=57年)と同じ暦とする。
開化184〜188年・崇神189〜216年・垂仁217〜239年・景行240〜261年。
635卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/18(月) 12:35:40.52
私はこれまで、記紀を素直に信じよ、と説いてきたのだが、実は少し疑いを抱き始めている。
というのは、桓檀古記に、中国東北部や朝鮮半島から渡った人物が、日本で王となった、
とも解釈できる記事が、二三あるからである。

それに、日本は百済の属国だったという説があるようで、これまではばからしくて読みもしなかったが、
読んでみる必要もあると思うようになった。
というのは、倭王武は、百済王として即位する前の武寧王のことだという説があり、
これが妙に説得力があるのである。

とにかく百済を抜きにして古代史は語れないという気がしてきた。
636唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 12:53:07.26
ここで問題となるのが、神功52年七支刀と百済王家である。
七支刀=369年 16日丙午の存在しない年。←説明ができない。
説明ができない年に百済王家をつなぐ=説明できない。
何が説明できないのか?それは、韓国考古学の年代論である。
漢城夢村土城には、未知の4世紀遺構が存在する。
伽耶の北方扶余(騎馬系遺物)は、3世紀末か4世紀前半からであるが、百済本紀の百済王家とは、
半世紀のズレがある。
つまり、神功52年七支刀と百済王家を半世紀引き上げる必要がある。半世紀引き上げると
323年癸未 奈勿大聖神帝7年水羊
三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多 聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗
3月, 付与(夫余)の流民(流民) 30号(戸)がまた投降して来た.
付与(夫余)が倭(倭)とお互いに上通(相通)して毎年その民を受け入れて都城と田舍に分散させて配置した.
ウェシン(倭臣) ウングオン(熊彦)は美しくて話術が良くて子供(阿□)とお互いに情を通じてその言葉を聞き入れ
る事が多いのでお吸物である(国人)らが離反(離反)してあるいは私たちに来てあるいは高句麗に行ったりした.
甲申 奈勿大聖神帝8年木神
夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之

323年 神功49年 倭臣熊彦=千熊長彦。
326年 神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年丙戌 生肖:狗 西元326年2月19日 
東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)が得られるが、
神功64年 甲申夫余謹須殂枕流立の前年ではない。(384年甲申)
しかし、北方扶余は4世紀前半となる。
考古学を信じれば、(384年甲申神功64年)は書記の干支を使用した差込記事となる。
637卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/18(月) 12:59:10.29
唐松山氏に是非言っておきたいことがある。

>七支刀=369年

これが根本的な誤りなのである。
なぜかといえば七支刀は百済から贈られたものである。
その七支刀に泰■という中国年号を使うはずはないのである。
泰■というのは百済の年号である。

だから七支刀=369年として編年を試みるのはキッパリと止めたほうが良い。
638日本@名無史さん:2012/06/18(月) 16:32:42.93
>>634
>そのズレを考古学で指摘できるか?
>ホケノ山の穴あきつぼは、桜井茶臼山の穴あき壺に先行する埴輪である。
>ホケノ山に先行する埴輪は存在しない。であるならば、ここを垂仁末と出来るか?
>239年 邪馬台国官 伊支馬、都市牛利(たしうり)。これを、垂仁と田島守にできれば良い。
>つまり、それ以前に崇神を配せるか?


何で崇神をそんな時代に配するんだよ。
4世紀前半行燈山古墳で何も問題ない。
あんたがひとり韓国のパチモンの書物で時代を間違えてるだけ。
639唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 16:34:07.92
辰王=桂林=新羅。
濊貊=不耐濊=扶余=百済。*注 扶余には、北方扶余と百済が含まれる。

不耐濊は、郡の下働きをナリワイとする。
316年 西晋滅亡。
317年 奈勿大聖神帝 元年(AD377/317)軸(丁丑)5月の倒産 (桃の後に山が付いていない) で船位を受け、宮(明宫)
で即位した。 天下の罪人を買うた。 父巻いて(末仇)ガクガンをノプイオ第(帝)と、母ヒュリェ(休礼)グンジュルル
テソン(太圣)とした。 義父デソジ(大西知)を宇宙(太公)とした。
十一月加耶君守克殂慕诃立以宣失为太后时加耶与倭相通不遵朝廷之令至是以倭王女为妻而不听宣失之言遣
使责之
夫余与丽争地战于木 <十月谨须以兵三万袭平壤故至是丘夫使其弟伊連来功也>
付与(夫余)が高句麗とジェンジ(争地、 敵とお互いにしようと争う地、戦略的要衝地 )して青木(木)で戦った。

317年時点で、伽耶と倭は、西晋の冊封体制からの離脱。(仁徳4年課役の停止)
その時、不耐濊は、まだ郡に属し、高句麗と戦っている。
前燕慕容氏は、東晋の年号を使い続け、まだ独自の年号は持たない。

辰王=新羅が女系から男系へシフトを決めたのは、奈勿大聖神帝じだいである。
百済独立は、神功49年の領土分与をもっての独立である。
そのお礼の文言と共に七支刀がもたらされる。
百済は、343年時点で、高句麗とともに前燕に帰順する。
640日本@名無史さん:2012/06/18(月) 16:36:29.03
>>610
>物部氏が復権を成し得る事が可能な規模の歴史イベントは、当方はいくつか
>想定しています。
>@継体大王を連れて来て据えた時
>A武烈大王前後の争乱期
>B神攻皇后の遠征期
>C崇神大王の治世下
>当方は、このBとCは明らかに物部以外の他氏と把握してますので、早くても
>Bの頃と想定します。

崇神天皇の母は物部だよ。
もっと言えば婚姻絡みで物部が外威となった時期。
神攻皇后の息長氏も物部から出てる。
641日本@名無史さん:2012/06/18(月) 16:40:05.72
>>636
>伽耶の北方扶余(騎馬系遺物)は、3世紀末か4世紀前半からであるが、百済本紀の百済王家とは、
>半世紀のズレがある。


だから3世紀末か4世紀前半の伽耶の騎馬系遺物とやらを見せてくれよ。
そんなもんねぇよ。
4世紀後半ならあるけどね。
何でいつまでも朝鮮人のウソに付き合ってるんだよ。
642日本@名無史さん:2012/06/18(月) 16:44:00.12
>>635
>倭王武は、百済王として即位する前の武寧王のことだという説があり、
>これが妙に説得力があるのである。

ねぇよ。
何で百済王・武寧の墓が半島にある倭人の前方後円墳より小さいのだ?
いい加減なやつだな。
643唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 16:46:06.18
>何で崇神をそんな時代に配するんだよ。
>4世紀前半行燈山古墳で何も問題ない。

崇神世には、任那建国がある。
魏・晋が半島を管理する時代に、任那建国は設定できない。
埴輪の導入は、垂仁末からであり、景行は九州へ遠征する。そして、関東、東北までをも領土とする。
それを証明するものが、
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行による九州
纏向4類(前)・纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]

使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る
「大倭」と書いて「ヤマト」と読む。

つまり魏時代とせねば、文献とも整合しない。
「大倭」を市の監督官に仕立て上げても、庄内式土器に席巻される九州北部。
644唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 16:59:26.73
http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm
3世紀から4世紀はじめに流入した北方文化の源流は「遼東と高句麗の北方、吉林省北部(現在の
黒竜江省)騎馬農耕民族の扶余」と申教授は推定しているが、流入理由には言及していない。

323年癸未 奈勿大聖神帝7年水羊
三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多 聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗
3月, 付与(夫余)の流民(流民) 30号(戸)がまた投降して来た.
付与(夫余)が倭(倭)とお互いに上通(相通)して毎年その民を受け入れて都城と田舍に分散させて配置した.
ウェシン(倭臣) ウングオン(熊彦)は美しくて話術が良くて子供(阿□)とお互いに情を通じてその言葉を聞き入れ
る事が多いのでお吸物である(国人)らが離反(離反)してあるいは私たちに来てあるいは高句麗に行ったりした.

申教授が何故言及しないか?
文献を引き上げれば、それで解決する。
神功49年を323年に特定すれば、ここが百済建国となる。領土分与により百済建国。
これを受け入れられない韓国人のアイデンティティー。
空白の4世紀は、事実に優先する。
645日本@名無史さん:2012/06/18(月) 17:02:22.42
>>643
>崇神世には、任那建国がある。
>魏・晋が半島を管理する時代に、任那建国は設定できない


そんなものあんたの主観。
任那が崇神時代に大和朝廷に朝貢してきたね。
別にそれでいいじゃん。
その朝貢以降、日本に大量の鉄が輸入され、
全国各地に大きな古墳が作られるが、
古墳造営と鉄具は不可欠だしね。
考古学と文献があってるじゃん。

>纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行による九州

それ物部によってもたらされたものだから。
やがて半島にまで土師器が渡っていくよね。

だから何?
646唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 17:03:17.12
夢村土城は、5世紀前葉からの遺構が確認されているが、遺構以外で4世紀に遡るべき遺
物が土城内にみられることも事実であり、土城内に未知の「4世紀の遺構」が存在した可能
性は残っている。
http://inoues.net/korea/yumemura_dojyo.html
647唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 17:06:12.52
http://cafe.daum.net/newhuman/Ci2X/605?docid=UnMBCi2X60520100305110049
直訳
http://translation.infoseek.ne.jp/
ハーブ大聖霊提起(奈勿大圣神帝纪)上

他のデータの内容がでたらめにかき混ぜていた文書からのハーブ大聖霊提起の記録だけ別に抜き出して作成してみるとひょっとして間違いがあったのかもしれません。
抜けている部分や解釈が間違ってところがあれば指摘してください。
ハーブ大聖霊提起(奈勿大圣神帝纪)
月内神経(月嬭神经)で話す。

"ファンギェ(黄鸡:油349/289?)4月、・・・

奈勿大圣神帝纪は三国史が書き換えられている証拠でもある。
648日本@名無史さん:2012/06/18(月) 17:09:12.26
>>644
>http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm
>3世紀から4世紀はじめに流入した北方文化の源流は「遼東と高句麗の北方、吉林省北部(現在の
>黒竜江省)騎馬農耕民族の扶余」と申教授は推定しているが、流入理由には言及していない


@3世紀(後半)から4世紀はじめに流入した連中が4世紀後半ごろ騎馬文化を受け入れる。
A騎馬文化を持った連中が3世紀(後半)から4世紀はじめに流入した

どっちが正しい言い方か?
正解は@

ウソだと言うなら3世紀(後半)から4世紀はじめの騎馬文化を見せろって。
649日本@名無史さん:2012/06/18(月) 18:19:20.92
「騎馬農耕民族」かいな

なんとまぬけな複合ターム設定してくれたもんだな

ちび馬しかおらんとこでも「騎馬民族」扱いだから

まあそこいらへんの延長なんだろうね
650唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 18:34:03.61
"ファンギェ(黄鸡:油349/289?)  美醜先制(味邹仙帝)がこれを聞いて倒産(桃
山)からギルリェルル上げ夫婦になることを命じた。
翌年金具(金狗:ギョンスル350/290?)3月日に達し・・・半月後、夕方になってから雷
雨(雷雨)が忽然と起きテギが動いて産室に入るとダルフ(达后)が、自らの神話(神
火)を奉じて彼を撫でた。 姫がついにガクガンの膝を抱えて出産したら、・・・
これハーブ(奈勿)と名付けて奴婢(奴婢)を加えてシン(神米)を下賜したら姫とガク
ガンの喜びは計り無言だった。
294 モクホ(木虎:ガプイン)正月、ガクガン(角干)は、陸軍の頭上(六军头上)であ
るため、姫もユンボク(戎服)を備え、着馬に乗って商売(将士)の条例(朝礼)を受け
た。

651卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/18(月) 18:43:19.84
>>642
ばかだな。墓の大きさなんか何の関係もないだろが。
円墳と前方後円墳だから、そりゃ大きさは違うさ。
墳墓にはお国柄があるから三韓は日本のような大きな墓は作らなかった。それだけだよ。

それより、ねぇよ、などという言葉を使うのはやめてくれ。一体何歳なんだ、お前は。
そういう言葉に、お前のチンピラぶりと低能ぶりがモロに出ているのだ。
652唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 18:55:27.46
306年丙寅ファホ(火虎:病因)10月、シンフ(神后)が娘東灘(东炭)を生んだ。
307年丁卯赤土(赤兎:精妙) 2月、先代ニトグム(先今)類(儒礼)がブンハヨトダ。 二月先今儒礼崩
9月には、高(康世)の娘チョンガン(千康)を付与太子(夫余太子)ギルス(吉须)の先
(妻)とした。
九月以康世女千康妻夫余太子吉须
308年 黄(黄龙:戊辰)2月、付与(夫余)が言葉を捧げた。
9月、ユモグンジュ(乳帽宫主)がフン(薨)したので、ナヘジェ(奈解帝)の娘だった。 モグン(母宫)が言った。
"オクモテフ(玉帽太后)である。 系(鸡徒)の主(主)になっておよそ30年だからデソゴン(大西公)の母である。 "

10奈解泥師今 196~230 昔 伐休王の孫。昔伊買の息子。妃は11代助賁王の姉の娘。
11助賁尼師今 230~247 昔 伐休王の孫。母は玉帽夫人金氏。妃は10代奈解王の娘阿爾兮。
12 沾解泥師今 247~261 昔 伐休王の孫。助賁王の弟。
13 味鄒泥師今 262~284 金 慶州金氏の始祖金閼智6代孫。母は朴伊?の娘朴氏。妃は光明夫人昔氏。
沾解王が息子無しに死んで大臣たちの推戴で王になった。
14 儒禮泥師今 284~298 昔 助賁王の長男。母は朴氏。
15 基臨泥師今 298~310 昔 助賁王の孫や次男という説がある。
16 訖解泥師今 310~356 昔 奈解王の孫。母は助賁王の娘命元夫人昔氏。基臨王が息子無しに死んで貴族によって推戴された。
17 奈勿麻立干 356~402 金 味鄒王の甥であり婿。母は休禮夫人金氏。妃は味鄒王の娘保反夫人金氏。
新羅の古代国家を整備し以後金氏が王位を世襲した。

新羅本紀では、世継ぎが整合しない。
653日本@名無史さん:2012/06/18(月) 18:59:53.61
邪馬台国問題に終止符打たれて無いみたいなんだけど
まだ、だらだら言い合っているスレみたいなんだけど
654ローガン:2012/06/18(月) 19:04:04.13
>>637:卑弥呼は朝鮮にいた
>その七支刀に泰■という中国年号を使うはずはないのである。泰■というのは百済の年号である。

横失礼。翰苑蕃夷部百済に「六甲にしたがいて年を標す」とあり、その注記、引用括地志に「宋の元嘉暦を用い、その紀年は別号なく、六甲を数えて次第となす。」
六甲とは干支のこと。参考になれば。
655日本@名無史さん:2012/06/18(月) 19:04:17.49
キムチ教とホツマ教の宗教対決ですから、終止符など有り得ません。
656唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 19:05:46.85
310年庚午金馬(金马:ギョンオ) 8月、ダルリェテフ(达礼太后)が倒産(桃山)からブーン(崩)ハニー百害あって姫(白海公主)が彼に代わった。
ダルリェフ(达礼后)は、武道(巫祷)と予知(预知)と陰陽(阴阳)とオウン(五运)をジャルハヨ当時の人々が神(神)とされ言った、 "月内
(月嬭)は、神経(神经)を持っている "と言った。 春秋69歳だった。
10月、高句麗(丽)の理由(斯由)が付与(夫余)と戦って死んで息子曲げ(丘夫)が即位した。 十月丽斯由与夫余战死子丘夫立

312年壬申水原(水猿:妊娠)6月、ギリムジェ(基临帝)がブーン(崩)ハニー春秋が43歳だった。 第(帝)は、(光明)シンフ(神后)の布製(胞弟)
であり、父はゴルスクガクガン(乞淑角干)であった。
313年癸酉フクギェ(K鸡:聖酉)5月、ボバンゴンジュ(保反公主)が賛美(绛服)して火を取った(执火)。
314年甲戌 モクグ(木狗:ガプスル)容易(首月:正月の)、刀流(道留)が息子店頭(长畏)を生んだ。 シンフ(神后)が第(帝)の娘バンダン
(方丹)を生んだ。
315年乙亥目視(木豕:点に留意しま)2月、シンフ(神后)が聖者(圣子)に夫(副君)をした。
11月、グンチョゴ(近肖古)がずらりと(殂)と兵站学(谨须)が立った。 渤海(发亥)を送って弔問した。 十一月近肖古殂谨须立遣发亥吊之
657日本@名無史さん:2012/06/18(月) 19:13:02.37
卑弥呼朝鮮と唐松山とは、ある種、同じタイプの人間だな
658唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 19:13:39.54
307年丁卯赤土(赤兎:精妙) 2月、先代ニトグム(先今)類(儒礼)がブンハヨトダ。 二月先今儒礼崩
奈勿大聖神帝 元年(AD377/317)軸(丁丑)5月の倒産 (桃の後に山が付いていない) で船位を受け、宮(明宫)で即位した。
天下の罪人を買うた。 父巻いて(末仇)ガクガンをノプイオ第(帝)と、母ヒュリェ(休礼)グンジュルルテソン(太圣)とした。 義父デソジ(大西知)を宇宙(太公)とした。

14 儒禮泥師今 284~298 昔 助賁王の長男。母は朴氏。
15 基臨泥師今 298~310 昔 助賁王の孫や次男という説がある。
16 訖解泥師今 310~356 昔 奈解王の孫。母は助賁王の娘命元夫人昔氏。基臨王が息子無しに死んで貴族によって推戴された。
17 奈勿麻立干 356~402 金 味鄒王の甥であり婿。母は休禮夫人金氏。妃は味鄒王の娘保反夫人金氏。

新羅本紀では、世継ぎが整合しない。
307年丁卯 二月先今儒礼崩 が正しければ、奈勿麻立干は、317年即位となる。
659卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/18(月) 19:27:10.23
>>654
しかし百済年号があったと思われる資料がある。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga20.html

それに泰■を日本の学者は太和と解しているようだが、
七支刀にわざわざ泰という彫り難い字を使うとは思えない。
こういう金石文では、大概、彫り易い字を使うのが普通なのである。
660日本@名無史さん:2012/06/18(月) 20:42:12.62
卑弥呼は朝鮮も、たまにはまっとうなコトいうね
661唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 21:07:32.77
東晉明帝太寧4年 3月16日丙午はある、5月16日丙午(東晋17日丙午)
東晉廢帝太和4年 16日丙午の無い年である。

太≒泰、同じに扱われることはある。
323年明帝太寧4年 東晋は、320年ころ洛陽奪回を断念し、戦争を集結させる。
320年時点で、楽浪・帯方が明帝太寧を認識していても、その正しい文字までを認識していたか?
320年時点で切り捨てられた、楽浪・帯方。
明帝太寧4年に5月は存在しない。
それでも晋の年号を刻む百済、それを受け取る倭。
百済が東晋に朝貢するのは、前燕の滅んだ372年。
371年 応神廿八年秋九月。高麗王遣使朝貢。
仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月◆冬十月。呉國。高麗國並朝貢。
東晋の使者は、倭国をさきに訪れている。
662卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/18(月) 21:08:52.96
ついでにいうと、上のサイトに挙げた南郷村からは「大王」の銘を持つ鈴が出土しているのだが、
隅田八幡神社の鏡の銘にも「大王」とあり、船山古墳の大刀の銘にも「大王」とある。
つまりこれらの「大王」とは百済王のことなのである。

(という説がある。)
663橙犬者:2012/06/18(月) 21:09:50.50
>>578
唐松山さん
>垂仁元年春正月,丁丑朔・冬十月,癸卯朔・十一月,壬申、2年春二月,辛未朔
>丁丑・丁未・丙子・丙午・乙亥・乙巳・甲戌・甲辰・癸酉・癸卯・壬申・壬寅・辛未
>2年 辛丑・辛未
 これは、垂仁元年と二年の理屈の上での朔日の干支の並びですね。

朔日は、基本的には大の月(30日)と小の月(29日)の繰り返しなので、確認すると、
丁丑 丁未 丙子 丙午 乙亥 乙巳 甲戌 甲辰 癸酉 癸卯 壬申 壬寅 辛未=閏12月 辛丑 庚午。
垂仁元年 閏12月暦(29日間)
  1   2   3   4   5   6   7   8   9  10
 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅 己卯 庚辰
 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子 己丑 庚寅
 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌 己亥(庚子)

垂仁二年の正朔は庚子の筈だが、 庚子の翌日の辛丑となっている。(日本書紀の二月の辛未朔から逆算)
12月と正月に大の月が二ヶ月続くことになる。
垂仁元年閏12月を30日間としたか、朔を一日調整したのだろう。
いずれにせよ、垂仁元年には閏12月が入っていたと考えられるから十九年七潤の十九年目。

仲哀元年の閏十一月乙卯朔は十九年七潤に従うと、十一年目の閏十一月に当る。
そこから十九年七潤に従って類推すると仲哀九年は、十九年目で閏十二月になる。
朔から調べての確認は、頭が痛くてギブアップ。(仲哀九年春二月癸卯朔・・・閏十二月)

つまり、双方から垂仁元年と仲哀九年の間には19×N年の隔たりが有る。

>神功元年 丁酉・丁卯・丙申、 三月,丙申朔。
 神功紀と仲哀紀の整合性を意味しているのでしょうか?

>垂仁紀は、引き伸ばされているのであるから、その中間の年は、このライン上に存在しなくとも良い。
>確実にライン上に存在できるのは、元年と末年のみ。
 間に、空の年月が入っているという意味でしょうか? ラインの意味は十九年七潤のことでしょうか。
664唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 21:21:01.55
>しかし百済年号があったと思われる資料がある。

百済は、近肖古王の末頃、文字を得て記録を残す。
つまり、七支刀の頃文字を得る。
この近肖古王が、建国から数十年後であるならば、百済は、文字もなしに治世が行われたのか?
665卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/18(月) 21:31:47.23
>>664
よく知らないが、百済は、中国と通好するになっても、中国年号は使わなかったらしい。
>>654を見ても、年号は使わないとあり、これは中国年号も使わないことを意味している。

ところが>>659は、中国年号は使わないが、自国の年号を使っていたと思われる資料なのである。
666卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/18(月) 21:48:47.40
>>664
調べてみると、百済が最初に中国に朝貢したのは、東晋の太元年間(376−396年)のようだ。
369年はそれ以前。中国と通交もしないうちから中国年号を使用したとは思えない。
667日本@名無史さん:2012/06/18(月) 21:59:49.18
>>651
>ばかだな。墓の大きさなんか何の関係もないだろが。

あるに決まってるじゃねぇか、馬鹿かおまえ。
668唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 22:29:42.44
>神功元年 丁酉・丁卯・丙申、 三月,丙申朔。
 神功紀と仲哀紀の整合性を意味しているのでしょうか?

仲哀9年閏12月が存在すれば、それは、神功元年 丁酉の29日か30日前。
仲哀九年春二月癸卯朔から10ヶ月後。
癸卯から6前が丁酉である。小の月が6回存在して、神功元年丁酉が得られる。
閏月が存在しなければ、30日ほど前の干支が得られる。
12月戊戌朔から、三月,丙申朔の間に推定できる干支は、戊辰・丁酉・丁卯・3月丙申朔

>その中間の年は、このライン上に存在しなくとも良い。

垂仁90年は、同99年である。
ラインで言えば、90年≠99年になる。ライン上にない。
書記に潤月がほとんど存在しないのは、「垂仁90年は、同99年である」このような暦の使用では
潤月を表示できない。
つまり、何故書記の暦は引き伸ばされているのか?この部分に閏の記述されない秘密がある。
古代朝廷のシノギは種かしであり、農事暦(24節気)を隠す意味がある。
太陰暦をランダムに引き伸ばし、その数字が正しいと主張するために、朔を書き込む。
このままでは、正朔、つまり19年7潤を見失っては元も子もない。
だから、空白年は章の倍数となる。
しかし、3年程度の治世に章の倍数では、章が何かバレるから、次の天皇と暦を同じにする。
669卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/18(月) 22:31:06.63
>>667
お前が、ねぇよ、などと一言で片付けやがったから、カチンときて、屁理屈を書いただけだw

それに、前方後円墳の方が大きいから倭人の方が勢力があった、というなら、
それはそれで私の説には都合がいいのだ。つまり倭は南韓を押さえていたわけで、
そこに卑弥呼や倭の五王がいたという説はますます有利になるのだ。
670唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 22:36:09.91
開化天皇 184年〜187年 ≒3章-1年 1、2年の異常 開化崇神は同じ暦
崇神天皇 188年〜216年 ≒2章+1年 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。
これは、新羅192年=崇神5年とした場合であり
後漢193年6月寒風冬のごとしを崇神6年とした場合
開化天皇 184年〜188年
崇神天皇 189年〜216年となる。その理由は、
239年 邪馬台国官伊支馬を垂仁としたためである。
671日本@名無史さん:2012/06/18(月) 23:04:47.19
>>669
>それはそれで私の説には都合がいいのだ。つまり倭は南韓を押さえていたわけで、
>そこに卑弥呼や倭の五王がいたという説はますます有利になるのだ。

何で有利になるのだよw
672唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 23:06:36.88
>369年はそれ以前。中国と通交もしないうちから中国年号を使用したとは思えない。

だから、百済の前身を考える必要がある。
百済の前身は、奈勿大聖神帝紀の扶余である。
その扶余とは、
晋代まで、「不耐濊」、すなわち不耐城の候王が、濊国を代表するものだとした。

『三国志』巻4魏書第4三少帝紀正始7(246)年条
 七年春二月,幽州刺史毌丘倹討高句麗. 夏五月,討濊貊,皆破之.韓那奚等数十国各率種落降.
不耐濊こそ後の百済である。

不耐濊は、郡の下働きをナリワイとする。
倭は、神功渡海(274年)以降冊封下で、1大卒の行為を半島で行う。
316年西晋滅亡。
323年 神功49年 半島の占拠。同領土分与。これにより、不耐濊は百済を建国する。
唯千熊長彦與百濟王。至于百濟國登辟支山盟之。復登古沙山。共居磐石上。時百濟王盟之曰。若敷草爲坐。恐見火燒。
且取木爲坐。恐爲水流故居磐石而盟者。示長遠之不朽者也。是以自今以後。千秋萬歳。無絶無窮。常稱西蕃。春秋朝貢。
則將千熊長彦。至都下厚加禮遇。亦副久■等。而送之。

この記事を正しいとできる場所は、323年である。

673レス長たらし毘古:2012/06/18(月) 23:13:11.46
>>640
>崇神天皇の母は物部だよ。もっと言えば婚姻絡みで物部が外威となった時期。

ご指摘ありがとうございます。ざっと調べさせていただいた所、それを担保
する資料は、先代旧事本紀と新撰姓氏録あたりかと思います。これはどちらも
日本書紀よりだいぶ以降の書物となっております。卵鶏どっちが先かの話を
越える事は無いと思います。従って、当方の架説においては否定も肯定もする
気も起きません。

>神攻皇后の息長氏も物部から出てる。

こちらは、とりあえずのざっと調べにおいては担保する所がどこなのかが
(当方の調査努力不足かもしれませんが)調べ当たりませんでした。むしろ
蘇我に近い方の可能性の方が今の所当方は強いです。
674唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/18(月) 23:24:03.18
崇神天皇の母は庶母である。
つまり、いかがわしいしこめなのである。
675レス長たらし毘古:2012/06/18(月) 23:42:22.43
>>592
>尾張、美濃、越国、丹波を経て石見国(山陰)って纏向遺跡の搬入土器その
ままだ。

さて、従って、今一度失礼ながらここまで戻ります。なぜ物部神社はこのよう
に「主張しなければならなかった?」かです。
つまり、「その地域(=)尾張、美濃、越国、丹波、石見」の「領有権」こそ
が、物部神社を建てた時の物部氏にとって、「重要」だったからです。
蘇我氏(その他、当時の非物部の有力豪族全てに可能性が残存)が仮に、
「その地域」の領有権を主張しようとした場合「四道将軍(=崇神大王期)」
までしか遡れません。従って、他氏が領有権を主張しようとした場合、

「いやウチはウマシマジ様の頃(四道将軍の時代より何世代も前)からです」

と言う事によって、「尾張、美濃、越国、丹波、石見」の領有権を他氏より
差別化できるのです。そして、なぜこの差別化が可能かと言うと、結果として
物部神社創建時「まで」に、「纏向」を抑えたからなのです。
「纏向」の保管品は、継体大王の時代に、物部氏が纏向を抑えた、と言う事
より以前の証明には、必ずしも確定できません。
(勿論物部氏がずっと大事に保管してたとも言えるが、継体大王期直前までに
蒐集した保管庫を抑えたとも言える余地がある、と言う意味です)
676レス長たらし毘古:2012/06/19(火) 00:02:55.27
>>675続き
継体大王期〜欽明大王期の間の物部氏が、なぜに「尾張、美濃、越国、丹波、
石見を支配し続けていた」と主張しなければならなかったか?そう、それこそ
が欽明大王時代の、物部VS他氏(蘇我も含む)構造の為です。いわゆる倭の
五王の時代から欽明大王の時代まで、有力豪族は、常に自分が他氏より優越な
権威を持っていると言い続けなければなりません。
つまり、大王がどなた様であれ、第一氏族の族長は自分の氏が他氏に比べて
「最優秀である」と言う構図を演出しなければなりません。
(蘇我と共に焼けた、蘇我による史書も、当然その傾向があったでしょう)

さてさて、そこで、当初の当方の架説に戻ります。古事記も、当然そうなって
いるのです。当方の架説は古事記からは「蘇我氏は可能な限り削除された」
ですので、当然そこには「不自然な空白」が、まるで木を引っこ抜いた時の
根の穴のように、ぽっかりと、そして無造作に不整然として開くはずです。

従ってそれをパテで埋める作業も当然必要になって来ます。その一つが
「当時の物部氏」であったとしても、これはおかしくない話ではあります。
「尾張、美濃、越国、丹波、石見」は、一体誰が所有してたか?
これは、ウマシマジ様大好き派と、四道将軍大好き派と、大和武尊様大好き派
では、当然「領有史」は相違してくる筈、となります。
677卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/19(火) 09:37:54.57
>>672
不耐濊が後の百済だという説はじっくりと検討する必要がある。
なにしろ百済の建国は謎に包まれている。

ところで唯千熊長彦與百濟王…云々は例の奈勿大聖神帝紀かな?
ざっと見たが、それらしき文は見出せなかったが。
678卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/19(火) 09:43:39.13
失礼。
唯千熊長彦與百濟王…は日本書紀の文か。
なにしろ日本書紀も所蔵してないので分らなかった。
しかし紀にこんな文があるとは知らなかった。
じっくり読んだつもりだが…。
679唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/19(火) 10:42:05.97
高句麗は遼東の東千里にあり、南は朝鮮・[シ歳]貊と、東は沃沮と、北は夫餘と接す。
正始三年、宮、西安平を寇ず。其五年、幽州刺史毋丘儉の破る所となる。語は儉伝にあり。

辰王=桂林=新羅。濊貊=不耐濊=扶余=百済。*注 扶余には、北方扶余と百済が含まれる。
不耐濊
[シ歳]は南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と接し、東は大海に窮す、今朝鮮の東皆その地なり。
正始六年、楽浪太守劉茂・楽浪太守弓遵、領東の[シ歳]、句麗に属するを以って、師を興し
これを伐つ。不耐侯等、邑を挙げて降る。その八年、闕に詣り朝貢す。詔しさらに不耐[シ
歳]王を拝す。居所民間に雑在し、四時郡に詣り朝謁す。二郡軍征賦調あるに、役使を供給
す、これを遇すること民の如し。
辰国
その十二國は辰王に属す。辰王は常に馬韓人を用いてこれを作(な)し、世世相繼ぐ。辰王は(辰韓人が)自ら立ちて王となるを得ず。【魏略にいわく、明らかにそれ流移の人為(た)り、ゆえに馬韓の制するところとなる。】
新羅は女系王族であった。

半島には、この三勢力しか存在しない。
680日本@名無史さん:2012/06/19(火) 10:47:35.60
>>676
>これは、ウマシマジ様大好き派と、四道将軍大好き派と、大和武尊様大好き派
>では、当然「領有史」は相違してくる筈、となります。


ウマシマジと四道将軍と大和武尊では綺麗に時代がずれてるよね。
纏向遺跡は前方後円墳開始期にあたるので、
神武と同時代のウマシマジが有力だと思う。

前方後円墳は有年原田中墳墓や萩原墳墓など、
瀬戸内発祥説が有力なので、
これも後の播磨物部や三野物部などを擁する物部氏が関与した可能性が高い。
北九州に庄内土器を運び前方後円墳を作ったのも物部であろう。
681卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/19(火) 12:57:34.23
>>679
濊君南閭の城というのは、うろ覚えだが、たしか遼源の南あたりだったと思う。
不耐城がどこかはまだ調べていない。

不耐濊が後の百済になったというからには、不耐濊とは卒本夫余だとしなければならないが…。
そもそも朱蒙とは何時頃の人なのか、まだまじめに調べたことがない。

ただ不耐濊は卒本夫余だというのは、たいていの人は笑うかもしれないが、ありえることである。
682卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/19(火) 13:01:14.25
話変わって、調べれば調べるほど、倭とは百済(あるいは馬韓)ではないかという気がしてきた。
そのうち、ぼつぼつ書いていくつもりだ。
683日本@名無史さん:2012/06/19(火) 15:29:10.40
>>682
そんなヨタ話なんて書かなくていいから。
684日本@名無史さん:2012/06/19(火) 15:33:55.02
× 調べれば調べるほど、倭とは百済(あるいは馬韓)ではないかという気がしてきた。

○ 調べれば調べるほど、俺らは在日コリア工作員ではないかという気がしてきた。
685ローガン:2012/06/19(火) 16:39:28.96
661:唐松山
>東晉明帝太寧4年 3月16日丙午はある、5月16日丙午(東晋17日丙午)東晉廢帝太和4年 16日丙午の無い年である。

それ吉祥句。「造百練」に同じ。
686卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/19(火) 17:05:07.59
>>681は私の記憶違いで、華麗城が遼源市の遼山の南だったと思う。どこかにメモしておいたつもりだが見つからない。
不耐城というのは千山山脈の東で、渾江流域ではないか。つまり通説の卒本夫余の地域。
不耐濊といえば、たいていの人はもっと東の日本海方面と解していると思うが、そうではないのであるよ。

>>683-684
読みたくてウズウズしているだろうから、お楽しみに。
687日本@名無史さん:2012/06/19(火) 17:14:43.80
世の中にはまま方向音痴でかつ理解する能力とか低いひともいたりするが
688卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/19(火) 19:07:35.40
『梁書』高句麗伝に 

又到丸都山、銘不耐城而還 

とあって、丸都と不耐城を同一視しているな。
ついでにいうと丸都は今の白山市らしい。

しかし温祚が百済を建国したのはこれよりずっと以前のはずだから、
不耐濊が百済になったのではないな。
689日本@名無史さん:2012/06/19(火) 19:18:00.88
倭が百済だったら、百済が倭に七枝刀を送る必要もまったくないし、
百済が滅んだ時に倭も滅亡していることになるが、実際には
倭は滅亡せずに、百済の遺臣が倭に逃げ込んでいる。
690卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/19(火) 19:19:11.35
しかし丸都山は吉林省延吉市帽児山だという説もある。

どちらにせよ、唐松山氏には申し訳ないが、不耐濊が百済になったのではないな。
691唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/19(火) 21:00:48.59
高句麗が下句麗と呼ばれた時代もあったな。
高句麗の南部に不耐濊が存在したわけであるが、その地域を辰国が扶余と呼ぶことのできる
民族であったか?
ソウル、漢城の土器は馬韓土器ではない。
つまり、百済は馬韓から発生したのではない。

神功49年 百済を誘っての半島占拠に大きな戦いは記録されていない。
つまり、晋亡き後 半島にある武力は、倭と百済が2分する。
辰国は女系国家であり、馬韓人を王とする。大した武力は持っていない。
百済王子貴須の嫁は、辰国からもらっている。

高句麗とは対峙しても、その南は、倭国の領土となる。
692唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/19(火) 21:16:32.88
百濟國,其先出自夫餘。其國北去高句麗千餘里,處小海之南。
其民土著,地多下濕,率皆山居。有五穀,其衣服飲食與高句麗同。

高句麗の南に位置し、不耐濊と呼ばれた勢力は、西晋滅亡まで郡の下働きをしていた場合
北方扶余と倭は認識があり、不耐濊と倭は認識がないと出来るか?
北方扶余と南方扶余をひっくるめて、扶余と表現する奈勿大圣神帝纪。
693唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/19(火) 22:01:31.67
>>685 ローガンさんお帰り。
神奈川県民さんがさみしがっていましたよ。
694卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/19(火) 22:07:52.87
>>691-692
奈勿大圣神帝纪を読んだわけではないから何とも言えないが、
高句麗も濊も鴨緑江以北にあった。鴨緑江以南には馬韓があった。

馬韓の平壌が高句麗の首都になっていることを思うと、
馬韓は高句麗に吸収されたのだろう。

百済は外来者で、馬韓の伯済国が百済になったというのはおそらく嘘で、
仮に本当だとしたら、温祚が移って建国したのが伯済で、それが百済になったということだろう。
695日本@名無史さん:2012/06/19(火) 22:20:24.79
福島の勿来の関と関係がありそうですね。
696唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/19(火) 23:08:59.50
>高句麗も濊も鴨緑江以北にあった。

紀元前の話ならば納得できなくもないが、魏・晋時代とはできないのでは?
高句麗の南に不耐濊があり、その南に辰国があり、辰国の西に馬韓がある。
魏・晋時代、不耐濊は、民間に雑居する。
697日本@名無史さん:2012/06/19(火) 23:50:44.94
帯方郡は半島東岸、永興湾にあったという俺の説に近づいてきてないか?
以前、書き込んだ時は全く相手にされなかったが

乍南乍東という経路は半島西部というより半島東部の海岸線
半島南西部は海の難所であり、当時の船で航行可能だったとは思えない

平壌から漢江以北=馬韓→帯方郡→高句麗
永興湾=辰韓→帯方郡→高句麗

こんな感じなんじゃ
698日本@名無史さん:2012/06/19(火) 23:52:48.43
× 平壌から漢江以北=馬韓→帯方郡→高句麗
◯ 平壌から漢江以北=馬韓→楽浪郡→高句麗
699日本@名無史さん:2012/06/20(水) 05:35:55.15
乍南乍東は、しばらく南へ行き、それから東へ行ったというだけのこと。
半島の東海岸でそれをしたら日本海真っ直中ですね。
700卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/20(水) 09:14:36.27
>>696
いや、そんなことはない。
馬韓は、中国の正史によれば280〜296まで中国に朝貢しているから、
すくなくともその間は平壌を都としていた。
高句麗が平壌遷都したのは、公式によれば427年。
つまりそれまでは高句麗は鴨緑江以北にあった。

面白いのは、台与の最後の朝貢が266年。
その後、馬韓が280年から296年まで朝貢する。
この間、倭の朝貢は絶えているわけで、倭とは馬韓ではないかという推測が生まれる。

ひとつ疑問を書いておくと、高句麗が平壌に遷都したというその平壌が、
はたして今の平壌であるかどうかは疑問の余地がある。
701卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/20(水) 09:39:38.43
基本的に濊貊、夫余、高句麗などは満州。
半島は辰(馬韓、辰韓、弁辰)である。(辰が辰韓とも書かれるので注意を要する。)

しかし満州族も朝鮮族も源は同一なのである。
百済の最後の王子が辰の人と墓誌に書かれているのはそのためだろう。
百済は夫余氏のはずだが、辰の人と書かれているのである。
ただしもしかしたら百済の王系に夫余系と辰系があったのかもしれぬ。

702日本@名無史さん:2012/06/20(水) 10:43:21.94
>>700
>面白いのは、台与の最後の朝貢が266年。
>その後、馬韓が280年から296年まで朝貢する。
>この間、倭の朝貢は絶えているわけで、倭とは馬韓ではないかという推測が生まれる。


おまえの頭が馬韓だろ。
703日本@名無史さん:2012/06/20(水) 10:53:15.18
倭が馬韓だったら、馬韓と呼ぶ必要はないだろよ
704卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/20(水) 12:40:32.94
>>702-703
そうとは限らない。
そうやって単純に倭と馬韓は別、倭と百済は別…などと考えるからダメなのである。

たとえば、誰も注目していないが、夫余の王が濊王の印を貰っていたという事実がある。
ということは、扶余王は、濊王として朝貢したのである。

馬韓が、最初は倭王として朝貢したが、
のちには馬韓王と名乗って朝貢したということも考えられるわけである。
705日本@名無史さん:2012/06/20(水) 12:48:39.25
>>704
>馬韓が、最初は倭王として朝貢したが、
>のちには馬韓王と名乗って朝貢したということも考えられるわけである。

おまえの脳みそに蛆が濊てるんだろ。
706日本@名無史さん:2012/06/20(水) 12:48:50.15
朝鮮半島の南半分は「倭人の住む地」だから、馬韓だろうとなかろうと、
半島側の倭人が登場するのは当たり前。

カナダにドイツ人やフランス人がいるのとおなじ。
だから、カナダとドイツは同じ国だの、カナダとフランスは同じ国だの、
思い込む方が馬鹿なだけだ。
707卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/20(水) 13:18:11.58
>>706
>朝鮮半島の南半分は「倭人の住む地」だから
この認識に達しているのはエライ。

しかしまだまだ甘い。
楽浪海中在倭人
これは中国にとって倭人とは半島人であったことの表現である。

大体、公孫氏が滅ぼされたときに、最も早く朝貢すべきは、
楽浪や帯方に最も近かった馬韓であるべきで、
半島の南部にあった倭にはそんな必要はないわけである。

そこから考えても、卑弥呼の倭は馬韓である。
五王の倭は南韓の倭だろう。
708日本@名無史さん:2012/06/20(水) 13:26:16.95
「海中」ってことは、日本列島の倭人が主だよ。半島倭人は付帯的勢力。
709日本@名無史さん:2012/06/20(水) 14:52:51.85
>>707

シッシッ…
クズは消えろ。
710卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/20(水) 17:02:46.84
>>708
何回言っても分らない奴がいるな。中国には半島という概念がなかったのだよ。
だから朝鮮半島に住んでいることを表現するのに、海中にあり、と書いたのだ。

魏略曰 其子及親留在國者 因冒姓韓氏 準王海中 不與朝鮮相往來

準王海中と書いてあるだろ?
これは準王は朝鮮半島にいて、遼東の朝鮮とは往來しなかった、という意味だ。

>>709
不良で低能のチンピラには用はない。
711日本@名無史さん:2012/06/20(水) 17:16:08.23
>準王海中
いやこれは、文字通り海中にいた可能性がある。
つまり陸から逃げて、近海の島に隠れ住んでいた、と。

中国の歴史物語でもよくある話だよ。近海の島に身を潜めるというのは。
712日本@名無史さん:2012/06/20(水) 17:21:18.38
朝鮮半島北限を鴨緑江と定義してあげると

遼東郡に配属された故空地の領域は朝鮮半島内にあるのね

遼東の朝鮮とはそこの場所ですねえ

西安平はもと箕氏のなれのはてのシマだったけど

鉅燕が叩いて追っ払ってからに遼東郡を設定したのでありました。

本桓の上殷台のとかはモロもとのが箕氏のなれのはてのシマだったぽいネーミングだ罠
713卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/20(水) 17:23:57.92
>>711
いや、そういう意味じゃない。
準王は韓地で王になったと書いてあったはず。その後絶滅した、と。
馬韓で王になったとか、馬韓の東の地を割いてもらったとか、いろいろ所伝がある。
714日本@名無史さん:2012/06/20(水) 17:27:48.24
てぽドンのとこからきむちのとこにお引越ししただけだろ
715唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/20(水) 17:36:06.83
>準王海中と書いてあるだろ?

済州島な。
716卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/20(水) 17:36:20.04
>>712
故空地が何のことか知らないが、箕子が衛満を居住させたのは番朝鮮の西だ。
燕、斉、趙の民を住まわせたのも番朝鮮の西だ。
今の遼西か、あるいは大凌河以東〜遼河以西だと思われる。
とにかく西に住まわせたとどの史書にも書いてある。
717日本@名無史さん:2012/06/20(水) 17:42:07.18
準王の子孫は絶えたということは

辰王は箕氏のなれのはての流れではないんだよね

辰王は女王かもしれんけどね

箕氏のなれのはての面倒とかみてあげたんだよね

んでそのちょびっと前のことだけど

辰王は秦の始皇帝の子孫の生き残りが逃げてきたときにも

狗邪國のあたりの土地わけてあげたんでしょ

「拘邪秦支廉」とゆうのはその時のこと自慢してからの名乗りだ罠

あたかも「多利思北孤」が

「哆唎」の土地切りわけてあげたの自慢してるのと同類なんだ罠
718日本@名無史さん:2012/06/20(水) 18:26:44.52
弁辰與辰韓雜居 亦有城郭
衣服居處 與辰韓同
言語法俗 相似

弁辰 合二十四國

(弁辰)十二國亦有王
其人形皆大 衣服巨エ
長髮亦作廣幅細布法俗特嚴峻

弁辰の中にいるのが秦王さんで

辰韓の中に秦王さんがいるのでわないのね

辰韓十二國の王が馬韓の月支國にいる辰王さんなんだよね

んで 月支國には官の「魏率善邑君」なんかもおったりするんだよね
719日本@名無史さん:2012/06/20(水) 18:52:00.09
>>710

いいや半島へは、中国からの使節が陸行で行っているから、
朝鮮半島を絶対に島と間違えたりしない。
720唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/20(水) 18:55:16.63
辰韓十二國の王が「魏率善邑君」なんかじゃないのか?
721卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/20(水) 18:56:31.76
普通は秦人は秦韓に配置されたと考えられているわけであるが、参考までに。

珂洛秦弁支廉 (契丹古伝)

これが国名の羅列かどうかは不明だが、仮にそうだとすると
珂洛(伽耶、加羅)秦(秦韓、辰韓)弁(弁韓、弁辰)か。

支廉は、浜名寛祐は秦弁支廉から読んで「すべしらす」=統治すると解している。
722卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/20(水) 19:05:09.11
>>719
樂浪海中有倭人 

この文が書かれたころには、まだ中国人は半島の地を踏んでいない。
723唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/20(水) 19:21:02.13
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,

当然、倭国はどの位置にあるかを訪ねて、その位置を把握していると見るべきだ。
なにしろ金印まで授けるのであるから、位置ぐらいは把握しているだろう。
魏の使者は、この倭奴國を目指して来日したのであるから、伊都国程度で止まってもおかしくない。
倭奴國は、急遽女王卑弥呼をたててこれに応ずる。
其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。
卑弥呼は、詔書にむくいる朝貢。
724日本@名無史さん:2012/06/20(水) 19:22:38.22
>>720
それもらったわ

辰韓十二國の酋長さんの中には「魏率善邑君」のひともおった

辰韓は8ヶ國が魏の直轄化されちゃったけど4ヶ國は無事きのこっている

● 王莽地皇(20-23)時廉斯鑡爲辰韓右渠帥 ← 辰韓の幹部

● 後漢 「韓人廉斯人蘇馬ィ等詣樂浪貢獻 光武封蘇馬ィ爲漢廉斯邑君」

後漢のときも直轄化して「縣」とかにしないで「邑」で領域指定とかやってた

ちんさんは辰韓十二國の酋長さんの中に王がおるとは書いていない。
725唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/20(水) 19:37:22.05
倭奴國が、急遽女王卑弥呼をたててこれに応ずる。倭奴國は疲弊している。
だから、魏は倭国に新たな王をさがす。
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、・・・。倭王因使上表答謝恩詔。
正始元年に梯儁等は、詔書をささげて来日する。
北史 至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
倭王因使上表答謝恩詔=晋書正始元年東倭重譚納具。
726唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/20(水) 19:47:11.01
>辰韓十二國の酋長さんの中に王がおるとは書いていない。

中華が王の称号を授与しない限り、せいぜい”官”と表現される程度だ。
”自稱大夫”と書かれることもある。
”自稱王”となれば、対等なほど強い国でなくては。
727日本@名無史さん:2012/06/20(水) 19:47:49.89
辰韓と秦韓を結びつけるのは誤読なんだろ

なかみ秦韓はガチで弁辰とリンクしている

弁秦のを弁辰って書いて秦のこと目立たないようにしているのかも

秦王さんのほうも目立たないようにこそっとお使いとか出していても不思議とかないよね

始皇帝の子孫のお使いとかきたら中国のほうは扱いに困ったりするだろうけどさ
728唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/20(水) 19:54:05.16
自らが王と思っていた連中に、邑君では、その意味を知れば当然怒る。
そして、戦いを挑んで負ける。
729日本@名無史さん:2012/06/20(水) 20:05:55.52
臣幘沾韓忿さんね

おこって攻めたとかっておこちゃま読みしたりするのもおるが

それって辰韓12ヶ國のリアルなボスだったひとだろ

鉄の利権とか取り上げられちゃったかわいそおな馬韓出のひとなんだろうね
730唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/20(水) 21:09:53.96
欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.

金冠伽耶は、建国330年之中,享廟禮曲,永無違者.と言っとるから
怒らなかったのか。
小国家群の割に足並みが揃っていないな。
731日本@名無史さん:2012/06/20(水) 22:46:43.09
百済は日本の属国ですよ
百済の王子なんか小さいころ日本で育ってたんですよ
おそらく日本語をしゃべっていたでしょう
百済に関しては三国史記より日本書紀のほうが詳しくて正確だったりします
百済は新羅に滅ぼされた国ですからね

あと垂仁天皇がBC29-70って言うのも間違ってます
記紀を書いた人たちは西暦なんて知りません
皇紀では何年って書いてあるけど西暦では何年かわからないって言うのが正しい読み方です
昔の日本ではどんな暦を使っていたのかわからないと素直に認めるのが謙虚な資料の読み方です
732唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/20(水) 23:21:15.97
>皇紀では何年って書いてあるけど西暦では何年かわからないって言うのが正しい読み方です

こんなことを言っているから、韓国の言いなりなのだ。
>百済は日本の属国ですよ
それを正しいとする読み方を西暦で表記できなければならない。
現在は、
七支刀=369年で百済王家へ歴史をつなぐ。
日本書紀の文言は、多方が否定される。これをひっくり返すためにも、西暦に整合させる必要がある。
書記には”正朔”の文字がある。つまり、引き伸ばされた書記の編年を妥当な年代に縮めても”正朔”で読めなくてはならない。

はっきり言うと、百済王家は、書記の干支を使用した差込なのである。
だから、120年差などと丁度の数字になるが、日本の歴史を百済王家につなげた上で、120年差を解消できるか?
という話になるが、不可能である。
この数字は書記の中だけでは解決できない。解決するためには、書記を西暦に整合させ、かつ百済王家を書き換えなくてはならない。

>昔の日本ではどんな暦を使っていたのかわからないと素直に認めるのが謙虚な資料の読み方です
これでは、書き換えは不可能だ。
733日本@名無史さん:2012/06/20(水) 23:31:14.08
日本は百済の属国ですよ。
新羅系が奪回したのが大化の改新で、
多羅系が幅を利かせたのが平家政権で、
高句麗系が巻き返したのが鎌倉幕府。

日本列島の歴史は、朝鮮半島の歴史の巻き戻しだ。
734日本@名無史さん:2012/06/20(水) 23:55:26.07
百済は日本の属国です
新羅は日本と高句麗と二重に属国でしたが高句麗の属国一本に絞りました
高句麗は朝鮮人じゃなく満州人の先祖です

新羅は唐の力を借りて朝鮮半島の南半分を統一しましたが
すぐ唐の属国になりました
735唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/21(木) 00:06:52.11
奈勿聖帝 六年 玄馬 正月芝公伊伐飡 兜花稟主 芝公儒禮帝子 母碧芝味鄒帝女 322
與倭和親互市交婚稱其國曰野 (新羅本紀312?)
倭(倭)と和親してホシ(互市)を開いてギョホン(交婚)したがその国を野党(やまと)と称した.

ネムル王(奈勿聖帝)7禺聖未383] 正月, 修養制(水羊祭)を行った. (323年癸未、神功49年)
三月夫余流民三十戶又來降・・・倭臣熊彦美而善辯・・・熊彦=千熊長彦

夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之 (383年癸未)の位置の記事
付与の斤数(謹須)が死んで(□) チムリュ(枕流)が立った. (338年神功64年甲申)

내물왕 9년 목계(木鷄:을유385) 정월, 325年の位置
10月, チムリュ(枕流)が卒(卒)と弟陳謝(辰斯)が立った

내물왕 10년 화구(火狗:병술386) 정월, (書記326神功52年丙戌)
3月, 若旦那(道寧)などが伽揶(加耶)に使臣に行って船室太后(宣失太后)を謁見して来た.
付与(扶余)が官房(関防)を大きく設置して高句麗(句麗)に備えた.
736唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/21(木) 00:08:35.49
事実
323年神功49年=奈勿大圣神帝纪7年(AD383)。60年の差がある。
338年神功64年=奈勿大圣神帝纪8年(AD384)。46年差ではあるが年の干支が
日本書紀と整合する。
日本書紀の編年は、奈勿大圣神帝纪を使用していない。
百済本紀は日本書紀より後で編纂されている。
近仇首王即位から腆支王即位までの時空は、百済本紀と日本書紀で違いは無い。
ここから推論を下せば、
正しい奈勿大圣神帝纪に百済王家などを差し込んでいる。
そして、高句麗に占領された、占領百済の王朝が抜かれて編纂されたのが百済本紀である。
737唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/21(木) 00:14:54.44
http://cafe.daum.net/newhuman/Ci2X/605?docid=UnMBCi2X60520100305110049
直訳
ハーブ大聖霊提起(奈勿大圣神帝纪)上

他のデータの内容がでたらめにかき混ぜていた文書からのハーブ大聖霊提起の記録だけ別に抜き出して作成してみるとひょっとして間違いがあったのかもしれません。
抜けている部分や解釈が間違ってところがあれば指摘してください。
ハーブ大聖霊提起(奈勿大圣神帝纪)
月内神経(月嬭神经)で話す。

"ファンギェ(黄鸡:油349/289?)

韓国人も記事の混載を認めつつある。
ただし、60年差の混載と考えているが、事実は46年差なのである。
当然60年差の記事もあるから、3種類の時代が混載されている。
738唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/21(木) 00:42:02.69
No.10091 近肖古王- 肖古王= 120年. 投稿者:radio 投稿日:2009/10/28(Wed) 00:37

百済王記草稿王 9, 肖古王(草稿王) 在位 29年 226年 - 254年
三国史記百済本紀近肖古王 17, 近肖古王(近肖古王) 在位 30年, 346年 ~375年

即位年 346年- 226年= 120年偏差.
退位年 375年- 254年= 121年偏差.
*そうするので, 日本書紀著者は歪曲されなかった草稿王紀年を見たから,
肖古王と 近肖古王の偏差が 120年差があることを報告, 日本書紀を 2甲子= 120年を引き上げたのです.

120年差は、書記の干支を使用したためであるとラジオ氏に忠告したら怒っていた。
323年癸未 奈勿大聖神帝7年水羊
三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多 聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗
3月, 付与(夫余)の流民(流民) 30号(戸)がまた投降して来た.
付与(夫余)が倭(倭)とお互いに上通(相通)して毎年その民を受け入れて都城と田舍に分散させて配置した.
ウェシン(倭臣) ウングオン(熊彦)は美しくて話術が良くて子供(阿□)とお互いに情を通じてその言葉を聞き入れ
る事が多いのでお吸物である(国人)らが離反(離反)してあるいは私たちに来てあるいは高句麗に行ったりした.
倭臣熊彦=千熊長彦。
甲申 奈勿大聖神帝8年木神 きのえさる
夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之

神功49年の記事を、百済本紀が参照することはない。
神功64年甲申謹須殂枕流立の記事を参照することは考えられる。
であるならば、 
323年癸未 神功49年己巳の記事は、
383年甲申 神功64年甲申より信頼できる。

739卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/21(木) 09:48:02.31
>>731
百済が日本の属国であるかどうかはさておき、
>あと垂仁天皇がBC29-70って言うのも間違ってます
この根拠は何かな?

垂仁天皇がBC29-70というのは紀に書かれている干支を逆算していくとそうなるというだけで、
紀に垂仁天皇はBC29-70と書いてあるわけでもないし、皇紀何年と書いてあるわけでもないよ。
とにかく垂仁天皇BC29-70が間違いだというのなら、その根拠を聞かせてもらいたい。

話変わって、今、奈勿大聖神帝記を読んでいるのだが、唐松山氏よ、
ここに出てくる夫余は百済でござるよ。
740日本@名無史さん:2012/06/21(木) 12:28:34.60
ハーブ大聖霊提起(?勿大?神帝?)って、何? 初耳f.だけど
741卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/21(木) 12:35:57.01
奈勿大聖神帝記。けっこう面白い情報が載っているではないか。
こういうものを活用しない手はない。

しかし唐松山氏が挙げている翻訳はかなり無茶苦茶だぞ。
742日本@名無史さん:2012/06/21(木) 12:41:22.45
○○に刃物を見せちゃいかんと云っただろ
743日本@名無史さん:2012/06/21(木) 12:43:42.83
邪馬台国スレでしか出てこないドンデモ本
744卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/21(木) 12:49:31.03
三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通年年受其民散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗

阿尒は百済の枕流王の母、阿爾である。
故國人は、ゆえに國人は、と訳すのだろうが、あるいは、故國の人は、と訳すのか。
國人は夫余(百済)国人のことだろうが、あるいは倭国人のことか。
745卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/21(木) 17:19:01.02
いやー、参ったな。奈勿大聖神帝記を読み終えたが、よく見ると、新羅の初代からのが全部あるんだな。
高句麗のもあるようだ。高句麗のは高句麗史略という書のようだが、新羅の書の題名は何だろう。

これらを原文で全部読もうと思えば半年はかかりそうだ。
どこかの出版社から翻訳は出ていないのか。

満州源流考も途中で停滞したままだし、少なくともあと一、二年は読書に追われそうだ。
746唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/21(木) 19:44:35.04
>國人は夫余(百済)国人のことだろうが、あるいは倭国人のことか。
>阿尒は百済の枕流王の母、阿爾である。

國人は楽浪・帯方の人間
阿尒は子供と訳されるが、身分の低い人々だろう。
747日本@名無史さん:2012/06/21(木) 21:19:20.33
太国って氏んだの?
748日本@名無史さん:2012/06/21(木) 21:29:59.76
唐松山に頃されました。
749日本@名無史さん:2012/06/21(木) 21:34:32.36
太国は、プロバイダー変えろ矢
もしくは2chの会員になれ=>規制なくなるぞ
750卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/21(木) 23:06:05.84
>>746
唐松氏よ、本気で書いているのか?

熊彦が百済王母の阿爾と懇ろになって、阿爾の言うことばかり聞くので、
百済の国民が離反して、我が国新羅や高句麗に帰化するようになった、という意味だよ。
751卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/21(木) 23:19:39.90
いや、もしかしたら、百済に移り住んだ倭国人が、
熊彦に離反して、新羅や高句麗に移るようになった、という意味か。
752卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/21(木) 23:27:48.31
あるいは阿爾が熊彦の言うことばかり聞くので、国民が離反したという意味か。
753唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/21(木) 23:30:43.71
熊彦とは、千熊長彦だ。神功49年にあたる。

夫余與倭相通年年受其民散置都鄙  韓国考古学は、北方扶余の伽耶方面への入植を
3世紀末か4世紀初めという。

故國人異反或歸于我亦歸于麗  ゆえに国人(楽浪・帯方)は我(辰国)や高句麗、どこに帰属しても良い。
阿尒(民)は、それを聞いて、千熊長彦に従う。
古墳時代の前期と中期を分けるのは、この半島からの入植者だ。
その入植者は、七支刀とともに渡来する。
そもそも人民には帰属の自由などというものは存在しない。
それがこの時は、各自が自由に決められた唯一の場所になる。
晋が滅び、まだ百済も建国されていない。新羅はまだ女系から男系へシフトを決めたばかりだ。
民はこの先のことを考えたとき、戦争のない倭国への渡来を自分の意思で決定したのである。

313年 神功49年 この時空であれば、半島占拠が可能であり、建国できた不耐濊こと百済は倭国に
臣従することを自ら決定したのである。
754唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/21(木) 23:43:45.10
9 伐休泥師今 184~196 昔 ?解王の孫。昔角干の息子。母は只珍?禮夫人金氏。阿達羅王が息子無しに死んで貴族によって推戴された。
10 奈解泥師今 196~230 昔 伐休王の孫。昔伊買の息子。妃は11代助賁王の姉の娘。
11 助賁尼師今 230~247 昔 伐休王の孫。母は玉帽夫人金氏。妃は10代奈解王の娘阿爾兮。
12 沾解泥師今 247~261 昔 伐休王の孫。助賁王の弟。
13 味鄒泥師今 262~284 金 慶州金氏の始祖金閼智6代孫。母は朴伊?の娘朴氏。妃は光明夫人昔氏。沾解王が息子無しに死んで大臣たちの推戴で王になった。
14 儒禮泥師今 284~298 昔 助賁王の長男。母は朴氏。
15 基臨泥師今 298~310 昔 助賁王の孫や次男という説がある。
16 訖解泥師今 310~356 昔 奈解王の孫。母は助賁王の娘命元夫人昔氏。基臨王が息子無しに死んで貴族によって推戴された。
17 奈勿麻立干 356~402 金 味鄒王の甥であり婿。母は休禮夫人金氏。妃は味鄒王の娘保反夫人金氏。新羅の古代国家を整備し以後金氏が王位を世襲した。
18 實聖麻立干 402~417 金 母は昔登保の娘伊利夫人昔氏。妃は味鄒王の娘 阿留夫人金氏。

307年丁卯 2月、先代ニトグム(先今)類(儒礼)がブンハヨトダ。 二月先今儒礼崩
312年壬申水原(水猿)6月、ギリムジェ(基临帝)がブーン(崩)ハニー春秋が43歳だった。
第(帝)は、(光明)シンフ(神后)の布製(胞弟)であり、父はゴルスクガクガン(乞淑角干)であった。
儒礼崩から、奈勿即位までは10年である。

新羅本紀は書き換えられているから、世継ぎの説明ができない。
新羅192,3年のできごとは、後漢193年の出来事と1年違っているだけ。
新羅209年の出来事も、1年遅らせれば、
欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。

金冠伽耶(狗邪韓国、任那)は211年正月を建国元年で説明できる。
だから、伐休泥師今を50年も引き下げられない。
755唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/21(木) 23:52:41.93
322年 6년[임오382/322] 정월, 현마제(玄馬祭)를 행하였다.六年正月行玄馬祭
倭と和親してホシ(互市)を開いてギョホン(交婚)したがその国を野党(ヤマト)と称した.与倭和親互市交婚称其国曰野 【野=野党=ヤマト】
七月夫余禿山城主布髣ヲ三百人來降命居六部夫余請還之不許
323年 ネムル王 7禺聖未383] (水羊祭)三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多 聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗
(323年癸未・神功49年己巳)3月, 夫余の流民 30戸がまた投降して来た.
付与(夫余)が倭とお互いに上通(相通)して毎年その民を受け入れて都城と田舍に分散させて配置した.
ウェシン(倭臣) ウングオン(熊彦)は美しくて話術が良くて子供(阿□)とお互いに情を通じてその言葉を聞き入れる事が多いのでお吸物である(国人)らが離反(離反)してあるいは私たちに来てあるいは高句麗に行ったりした.

直訳文を掲載するのは、わたしの書き換えでないということでもある。

七月夫余禿山城主布髣ヲ三百人來降命居六部夫余請還之不許
不耐濊は、まだ自領を持っていない、衰退する郡と自分等の行く末を考えれば、
そこから逃げ出すのは当然の結論である。
この時空を60年後で説明すると、禿山城は、漢城の近くであるから、場所が間違っていると言い訳をする。
時空が狂っているのであり、場所と出来事に狂いはない。

756卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/22(金) 09:36:50.74
>>753-755
だからその直訳も、あなたの解釈も、間違いなのですよ。

夫余謹須殂枕流立其母阿尒執政 ←枕流の母、阿尒が執政となったと書いてある。

十月枕流卒弟辰斯立 ←枕流も辰斯も百済王。だから夫余とは百済のことなのです。

唐松氏よ、しっかりして下さい。
757日本@名無史さん:2012/06/22(金) 10:43:50.60
唐松氏は誰かの解釈を頂戴して拡散しているだけなのでわ

「奈勿大聖神帝紀」全体に目を通していないとゆうのは明白

ちゃんと読めばええのに
758日本@名無史さん:2012/06/22(金) 11:36:29.27
万葉文字は音韻と音訓がゴッチャになり 如何様にも自分の意思どおり
解釈できるから信用できぬ考古学で解釈が正当。
759日本@名無史さん:2012/06/22(金) 13:27:48.20
考古学のほうが好き勝手に解釈してるよ。
760卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/22(金) 17:40:29.29
婆娑尼師今記を読んでいたら、こんな記事が出てきた。

多波那君薨而無嗣 其妃請奉彡尼今爲夫 惠后許之 命水路大師 裝船百艘 而送之

どうやら多波那国は実在の国のようだぞ。
761日本@名無史さん:2012/06/22(金) 18:14:35.62
ざっとみでおいしそおなところで

秦人符良等七人 漂至

秦主問 “鷄林何爲新羅” 答曰 “時代變革 名號改良 今何與古 同乎”

きむち語での落書きは「前秦」のことみたいに理解しているようだけど

これってちがうだろ 狗邪の秦王さんのことだろ

あと

加耶に 慕訶とゆう酋長さんがおりまする

この酋長さんって「慕」姓なあんだよね
762日本@名無史さん:2012/06/22(金) 18:45:26.54
よくわららんけどさ

奈勿大聖神帝紀に引用されてる月嬭神經とゆうのは漢字仕立てっぽいよ

ここのには唐松氏の意図に反して

「いきながたり姫」の生息時期は4世紀後半だと書いてあるけどさ
763卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/22(金) 19:44:50.76
>>761
たしかにこの秦主が秦王なら時代が全然合わない。
しかし秦というのは単に中国を指しているのかもしれないのだ。
狗邪の秦王さんというのは稗箕狐の妄想。

慕から慕容氏を連想しているのか?
北扶余の始祖が解慕漱で二代目が慕漱離。
これもなんとなく慕容氏と関係がありそうな名だ。
764日本@名無史さん:2012/06/22(金) 19:51:28.21
邪馬台国など妄想だらけになるからやめとけww
こんなんオカルトの領域だよ。
765日本@名無史さん:2012/06/22(金) 19:55:46.98
>>763
山門郡のとこにある「こうやの宮」まで連想とかしてみてわ
766日本@名無史さん:2012/06/22(金) 20:06:19.55
もおそおついでに

故 此大國玉~
(中略)
亦娶 ~屋楯比賣命
生子 事代主~
767日本@名無史さん:2012/06/22(金) 20:16:35.39
さらに

事代主のはフルネームので 八重事代主

邪穢事代主のが正規表現かもよ

「濊」は「穢」から置き換えだとゆう説もあったりするよ
768日本@名無史さん:2012/06/22(金) 21:30:12.03
>>765
またあのお人形さんかよw

769卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/22(金) 22:05:36.98
>>764
オカルトでも何でもなく、もう答えは出ている。卑弥呼は馬韓の女王。

大体、あの時代、新聞もテレビもラジオもないのだから、
魏と公孫氏が戦争をしていることさえ近隣諸国以外は知らない。
知っていたと思われるのは夫余、濊貊、高句麗、馬韓くらいなもの。
その中で遼東半島の帯方郡を訪れたと思われるのは馬韓だけだ。
夫余、濊貊、高句麗なら楽浪郡を訪れる。

馬韓は帯方郡(遼東半島)のすぐ南にあった。
魏が密かに帯方郡を占拠したことも知ることができた。
戦争は海城や襄平で行われているのだから、遼東半島は安全地帯である。
だから魏と公孫氏の交戦中でも帯方郡を訪れることができた。
そんな芸当ができるのは馬韓だけなのである。

日本にいては、そんなことは絶対に出来ない。
日本は魏と公孫氏が交戦していることさえ知らなかっただろう。
770卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/22(金) 22:18:11.68
日本の遣使が大夫と自称したこと、
遣使のトップが難升米という名前だったこと、
一大率という官吏がいたこと、
これらも実は百済と深く関係している。
771日本@名無史さん:2012/06/22(金) 22:23:42.21
ハァ・・・
772卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/22(金) 22:32:30.52
それからまた、
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等

台与の遣使に率善中郎將とあるから、これは倭の官である。
ところが邪馬台国にこんな官はない。
ところが馬韓には中郎將という官があった。
773日本@名無史さん:2012/06/22(金) 22:35:23.59
ハァ?

掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

オマエはたった100文字前の文字列も無視かw
774日本@名無史さん:2012/06/22(金) 22:37:40.44
率善中郎將は倭の官でわないよ

率善中郎將は魏の官でしょ

きむさんはあたまわるいふりわざとしてるの?
775日本@名無史さん:2012/06/22(金) 22:41:19.45
>馬韓には中郎將という官があった

ふむふむ。
で?
776卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/22(金) 22:48:05.30
>>772 は私の早トチリ。弘法も筆の誤り。
>>770 については近いうちに詳しく書くからお楽しみに。
777日本@名無史さん:2012/06/22(金) 22:49:23.02
きむさんはちゃんとごめんなさいするからえらいなあ
778日本@名無史さん:2012/06/22(金) 22:55:29.29
えらいけどむちだw
779唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/23(土) 00:03:59.90
>遣使のトップが難升米という名前だったこと、
>一大率という官吏がいたこと、

書記は、難斗米 ナトベ な(奴・難)の人間である。
一大率は大倭が、女王国(九州)に特置したんだよね。
だから、掖邪狗は大和の人間であり、伊声耆掖邪狗(伊勢のベテランいわか)なんだよね。
780唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/23(土) 00:30:15.34
>夫余謹須殂枕流立其母阿尒執政 ←枕流の母、阿尒が執政となったと書いてある。
>十月枕流卒弟辰斯立 ←枕流も辰斯も百済王。だから夫余とは百済のことなのです。

謹須が死んだとき、その世継ぎの枕流はまだ幼い。だから母阿尒が執政となった
その幼い枕流を殺して、謹須の弟辰斯が立つ。
応神天皇三年(壬辰二七三)是歳◆是歳百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇。
345乙巳 白兎 応神2年
陳謝(辰斯)が子供(阿爾)といっしょに救援仮宮(狗原行宮)で出て狩りで事としたらグックインドルがたくさん彼を責めた.
781日本@名無史さん:2012/06/23(土) 00:36:49.40
>>776
>私の早トチリ。弘法も筆の誤り。

おまえのどこが弘法なんだよ。
膀胱炎のようなツラしやがって。
782唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/23(土) 00:42:42.87
書き直し
謹須が死んだとき、その世継ぎの枕流はまだ幼い。だから母阿尒が執政となった
その幼い枕流を殺して、謹須の弟辰斯が立つ。

345乙巳 白兎 応神2年辛卯
陳謝(辰斯)が子供(阿爾)といっしょに救援仮宮(狗原行宮)で出て狩りで事としたらグックインドルがたくさん彼を責めた.
応神天皇三年(壬辰二七三)是歳◆是歳百濟辰斯王立之失禮於貴國天皇。百濟國殺辰斯王以謝之。

子供(阿爾)が「母阿尒執政 ←枕流の母」で良いわけがない。

そして、この年の記事は、
10月, 高句麗がグァンミソング(関彌城)を打って奪った.
10月にウオック(于屋)などがグァンミソング(関彌城)を落ちた.
陳謝(辰斯)が子供(阿爾)といっしょに救援仮宮(狗原行宮)で出て狩りで事としたらグックインドルがたくさん彼を責めた.
391年辛卯の年があてがわれている。
391年は、高句麗が南下を始めた頃になる。
こんな時に、百済は辰斯王を殺して、倭国に謝罪しているのである。
そんな悠長なことをしていられる時期ではない。
783唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/23(土) 00:48:53.55
350年庚戌 応神天皇七年(丙申二七六)九月◆七年秋九月。高麗人。百濟人。任那人。新羅人。並來朝。

応神2年辛卯 が広開土王碑のいう辛卯年にはなり得ない。
784卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/23(土) 09:14:35.37
>>782
枕流王は百済の第15代の王、先代の近仇首王の嫡子。母は阿爾夫人。

唐松氏よ、Wikiにちゃんと書いてあるぞ。
785卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/23(土) 09:30:55.06
昨夜、寝ながら考えていて、ふと気にになったことがあったので調べてみた。

馬韓が最初に朝貢したのは277年。晋の時代だ。
ところが馬韓には魏率善邑君とか中郎將という官があった。
これは明らかに魏の時代に採用した官だろう。
ということは朝貢する前からそのような官名を用いていたことになる。

たしかに、密かに帯方楽浪二郡を定めた後に、
諸韓国の臣智に邑君の印綬を加賜し、その次は邑長を与えたという記録がある。
しかし中郎將の印綬を与えたとは書かれていない。
もちろん、書かれていないからといって与えていないとは限らないが。

とにかく倭の使いには中郎將の印綬を与えているのである。
ゆえに卑弥呼の倭とは馬韓である可能性があるのである。
786日本@名無史さん:2012/06/23(土) 10:09:13.75
国というより、今の県レベルの小国がたくさんあって、
諸人こぞりて朝貢してただけだろう。
その朝貢といっても、地元で採れた特産品持って行って、
代わりに、たいして価値のない金印だの鏡だのをもらう。観光みたいなものだ。

まあ、小国では作れないものだから、ありがたいものとして神宝にしたという。
787日本@名無史さん:2012/06/23(土) 11:28:12.75
朝鮮なんたらさんは、少し勉強不足だね。
偏った知識で無理な理屈は墓穴掘るだけだよ。
788卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/23(土) 11:38:48.51
>>786
そんないいかげんな論は学界では通用しない。伊作が見たら怒るぞ。
中国の皇帝は県レベルの小国に金印を与えたりはしない。

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

この文をよく読んでみよう。倭奴国は倭国の中の一国と認識されている。
そんな国に金印を与えたりはしない。事実、印綬と書かれてはいるが金印とは書かれていない。

この記事だけで、志賀島の金印は偽物だと分かる。
789唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/23(土) 11:41:01.20
367・307年丁卯赤土(赤兎:精妙)9月には、高(康世)の娘チョンガン(千康)を付与太子(夫余太子)ギルス(吉须)の先(妻)とした。 九月以康世女千康妻夫余太子吉须
370・310年庚午金馬10月、高句麗(丽)の理由(斯由)が付与(夫余)と戦って死んで息子曲げ(丘夫)が即位した。 十月丽斯由与夫余战死子丘夫立
375・315年乙亥11月、グンチョゴ(近肖古)がずらりと(殂)と兵站学(谨须)が立った。 渤海(发亥)を送って弔問した。 十一月近肖古殂谨须立遣发亥吊之
384・324 甲申 奈勿大聖神帝8年木神 きのえさる 夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之

>唐松氏よ、Wikiにちゃんと書いてあるぞ。

Wikiは百済本紀の丸写しだろ?
この時代設定に誤りがあるという主張には使えない。
娘チョンガン(千康)が阿尒なのか?
枕流がチョンガンの子供であれば、15歳は超えている。其母阿尒が執政をとることはない。

392 阿シン王即位アシン(草冠+辛、阿芳、枕流王の子)
枕流王は、謹須殂の時点で嫁をもらっているのか?
であるならば、枕流王誕生は、367・307から1年後になる。其母阿尒が執政をとることはない。

どうだ?
書き換えの検証は必要だろ?
790日本@名無史さん:2012/06/23(土) 11:41:19.61
>おまえのどこが弘法なんだよ。
 膀胱炎のようなツラしやがって。

www
791唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/23(土) 11:50:05.96
訂正 時空設定にミスがあった。
百済
375 近仇首王即位キンキュウシュ(須、近肖古王の子)
384 枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子)
385 辰斯王即位シンシ(枕流王の弟)
392 阿シン王即位アシン(草冠+辛、阿芳、枕流王の子)
枕流王は、謹須殂の時点で嫁をもらっているのか?
であるならば、枕流王誕生は、367・307から1年後になる。其母阿尒が執政をとることはない。
792日本@名無史さん:2012/06/23(土) 12:10:11.84
唐松
>>757

おまいは高句麗王の在位年代までまとめてずらしたいとゆうエロいひとだな

「奈勿大聖神帝紀」全体に目を通してから書き込めよ
793日本@名無史さん:2012/06/23(土) 12:38:47.92
>>786,788

濊(わい)
今朝鮮之東皆其地也
戸二萬

この程度の戸数を纏め上げる大酋長さんなら王に任命されたりできるんだよね

まあ今の県レベルののなら戸二萬とかは軽くクリアしちゃうな
794唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/23(土) 12:45:44.20
383・323年癸未 奈勿大聖神帝7年水羊 三月夫余流民三十戶又來降 千熊長彦。
384・324 甲申 奈勿大聖神帝8年木神 きのえさる 夫余謹須殂枕流立

神功皇后摂政四九年(己巳二四九)三月  千熊長彦
神功皇后摂政五十二年(壬申二五一)九月 久■等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口。
神功皇后摂政五五年(乙亥二五五) 百濟肖古王薨。
神功皇后摂政五六年(丙子二五六) 百濟王子貴須立爲王。
神功皇后摂政六四年(甲申二六四) 百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
神功皇后摂政六五年(乙酉二六五) 百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。

神功49年の記事を、神功64年の前年とすることはできない。
384年百濟國貴須王薨。から逆算した神功49年は、369年になり、この年を記年したものが
七支刀とされる。
しかし、書記の文言は、この時空ですべて否定されている。
343年時点で、百済は存在し、前燕に帰順している。だから、否定は正しい。
であるから、書記の言い分を正しいとできる時空を設定する必要がある。
それが、323年癸未 神功皇后摂政四九年(己巳二四九)なのである。
この場合の百済王家は、書記の干支を使用した差込記事となる。
323−249=74年 神功・応神紀に74年を加えた年が正しい時空になり
神功皇后摂政三九年(己未二三九)プラス74年は、仁徳天皇元年(癸酉三一三)になる。

この時空設定で、「書記の文言は全て正しい」とできる。
795唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/23(土) 12:51:19.79
>「奈勿大聖神帝紀」全体に目を通してから書き込めよ

307年丁卯赤土(赤兎:精妙) 2月、先代ニトグム(先今)類(儒礼)がブンハヨトダ。 二月先今儒礼崩
312年壬申水原(水猿:妊娠)6月、ギリムジェ(基临帝)がブーン(崩)ハニー春秋が43歳だった。

新羅 298 基臨王即位(助賁王の孫)

新羅本紀をどこまで正しいとできるか?という問題でもある。
新羅192年=後漢193年で1年の齟齬しかない。
新羅209年≒211年伽耶建国。 ここまではほぼ正しい。

奈勿麻立干 356~402 金 味鄒王の甥であり婿。母は休禮夫人金氏。妃は味鄒王の娘保反夫人金氏。新羅の古代国家を整備し以後金氏が王位を世襲した。
奈勿に世継ぎができない新羅本記に間違いがあるという主張でもある。
796卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/23(土) 13:04:48.97
神功紀には婆娑尼師今(在位80-112)から枕流王(在384-385)まで登場しているわけで、要するに無茶苦茶なのである。
だから「書記の文言は全て正しい」などということに拘る必要はない。

記紀と三国史記のどちらが正しいかということではなく、
記紀と朝鮮史書と中国史書、この三者で完全に一致している記事を探し出して、それを編年の基準にすればよい。
ところが、そういう記事が、おそらく一つもないのである。だから史家は困惑している。
797日本@名無史さん:2012/06/23(土) 13:28:39.63
透かして見たら阿爾はいきながたり姫の兄で辰の女王さまだってよめた
798唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/23(土) 13:53:14.24
[218] 婆娑尼師今記 32년, AD157년 Name:radio  2010/01/05(火) 21:40 [ 返信 ]
*新羅王の伝記パー四尼師今32年、AD111年.
三十二年夏四月城門自毀自五月至秋七月不雨32年(111)夏4月に声紋(城門)が自ずから崩れた。 5月から秋7月まで雨が降らなかった。
*AD157年- AD111年= 46年偏差. パー四32年で一致する。

婆娑尼師今 80~112 朴 儒理王の次男。王陵は慶州新羅五陵。

新羅本紀を書き換えれば、奈勿麻立干 356~402 が正しいと認識できるという考え方である。

ここに出てくる“46年偏差”とは、120−74=46であり
私の主張する 神功39年(己未二三九)=仁徳天皇元年(癸酉三一三)、癸酉+46=己未
と同等の主張になるのだ。
しかし、この時代まで書き換えると、新羅192年=後漢193年という時代設定を失うことになる。

ラジオ氏の主張を見たければ、韓国で探してくれ。
799唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/23(土) 14:38:30.69
>記紀と朝鮮史書と中国史書、この三者で完全に一致している記事を探し出して、それを編年の基準にすればよい。

崇神5,6年=新羅192,3年=後漢193年 この記事を正しいとすれば
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。

仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり

これが正ければ、崇神は188〜220年の範疇を出ない。
考古学の言う、纏向(2世紀末各地の土器が持ち込まれる)崇神10年異俗多帰。

史書と考古学は、この数字で合致する。
800日本@名無史さん:2012/06/23(土) 15:29:20.24
>>799
>史書と考古学は、この数字で合致する。

まぁあんたが言うように応神天皇110歳としたら合うのだろうねw
801日本@名無史さん:2012/06/23(土) 15:42:09.98
異常に長寿な場合、むしろ一致させると
不味いパターンか
802唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/23(土) 15:53:49.01
>まぁあんたが言うように応神天皇110歳としたら合うのだろうねw

神功・応神紀に書かれた百済王家をどう捉えるか?という問題でもある。
書記の百済王家を正しいとした場合、応神110年を正しいとしなければならなくなる。
だから、允恭4年のクガダチで世継ぎは書き換えられていると読む。
応神軽嶋の明宮は、秋津遺跡であろう4世紀初めから3代分の時空がある。
その後ろに、大隅宮を配せば、110年は可能となる。
古事記の崩御干支 編年考察 古事記の干支を仲哀9年(応神誕生)に合わせ検証すると。
崇神 ??戊寅??
成務天皇 262年〜265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。神功275年〜343年。
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 秋津遺跡=軽嶋の明宮。4世紀前半3代分の時空。
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯
履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申 404年帯方界への侵攻で兄王行方不明になる。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑
允恭天皇 412年〜453年 甲午・・・(426年?) 413年倭と高句麗は東晋へ朝貢。翌年新羅の医者。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。(賛)
安康天皇 454年〜456年 ・・・・珍・済  元嘉二十年(443年)、倭国王の済
雄略天皇 457年〜479年 己巳・・・461年己巳 (462)済死し、世子興遣使貢献す。

古事記で読める366年を応神末に配しても誉田御廟山はちと苦しい。
この年代は書き換えられていると見るのが妥当だろう。
803日本@名無史さん:2012/06/23(土) 16:58:16.27
>秋津遺跡=軽嶋の明宮

軽嶋の明宮は橿原市大軽町が有力だろ。
そんな都合よく秋津遺跡にしないでくれ。
80年ほど時代がずれてる。
804唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/23(土) 17:56:19.71
明宮 明つ宮 あきつ 秋津 似ているだろ。

ホケノ山の穴あきつぼは初期の埴輪である。 茅原・菅原
スゲ、カヤは植物学的には同一である。読みに当てられた漢字により、読み方が変化する。
庄内式土器の九州持ち込みは、このホケノ山の直後である。
誰が持ち込んだか?書記によれば景行になる。
長畑馬場遺跡
http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/ruin.php?id=3100
長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき) 平戸市大島村前平1456
本遺跡は弥生時代中期中頃を中心とし、古墳時代初頭まで継続している。
住居址は弥生時代中期のもので、同時に甕棺、土坑、箱式石棺からなる墳墓群も形成さ れている。
出土遺物は多彩であるが、特に土師器は畿内の庄内系の土器の影響下に成立した在地甕である。 
本遺跡が位置する大島村は、壱岐とは一衣帯水の地 であり、また平戸や生月、北松浦の半島は
交易のルート上にあり、五島列島や対馬を含めて同じネットワークで結ばれた集団であったことが推測される。

景行 諸県は玄海町諸津。イズミ媛。(250年ころ)
神功 田油津媛は田平媛。(274年渡海)
倭国乱の平定は、渡海ルートの管理でもある。
274年 神功渡海
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。(東夷九種は東夷9国となる。)

この時空であれば、神功渡海とは、晋の冊封体制への参加であり
使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る
「大倭」と書いて「ヤマト」と読む。1大卒の行為を半島で行う。
805日本@名無史さん:2012/06/23(土) 20:12:21.23
>明宮 明つ宮 あきつ 秋津 似ているだろ。

秋津なら秋津宮とすればいいだけ。
なに理屈こいてるんだよ。
806卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/23(土) 21:02:12.06
祗摩紀を読んでいたら面白い記事を見つけた。

(二十五年)十一月 召文女主好妙 廢其夫允明 自立

召文国に女王が即位したという記事である。
祗摩は三国史記では在位112〜134だが、祗摩紀では在159〜191。
祗摩二十五年は183年。ちょうど卑弥呼が即位した頃だ。

ただし召文は慶尚北道義城郡に比定されていて、私のイメージとは異なる。
私は卑弥呼がいたのは馬韓か百済、任那だと想定しているので。
即位の状況も夫の王を廃しての即位だから、卑弥呼とは異なっている。
807唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/24(日) 01:35:05.68
>祗摩は三国史記では在位112〜134だが、祗摩紀では在159〜191。

159-112=47。
神功39年(己未二三九)=仁徳天皇元年(癸酉三一三)、癸酉+46=己未と同等の主張になるのだ。
私の主張と同じ誤差を見つけたのか。
この扱いは、注意したほうが良い。
新羅192年=後漢193年でこの時点では、1年の狂いである。
323年癸未 神功49年己巳
46年の狂いを、私はここで調整している。
808唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/24(日) 01:36:46.52
321年 神功47年丁卯赤土(赤兎:ひのとう)9月には、高(康世)の娘チョンガン(千康)を付与太子(夫余太子)ギルス(吉须)の先(妻)とした。 九月以康世女千康妻夫余太子吉须
324年年 神功50年庚午 金馬10月、高句麗(丽)の理由(斯由)が付与(夫余)と戦って死んで息子曲げ(丘夫)が即位した。 十月丽斯由与夫余战死子丘夫立
329年 神功55年乙亥11月、グンチョゴ(近肖古)がずらりと(殂)と兵站学(谨须)が立った。 渤海(发亥)を送って弔問した。 十一月近肖古殂谨须立遣发亥吊之
323年癸未 神功49年己巳 奈勿大聖神帝7年水羊 三月夫余流民三十戶又來降 千熊長彦。
338年 神功64年甲申 奈勿大聖神帝8年木神 きのえさる 夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之
奈勿大圣神帝9年 木鷄 きのととり
(325年乙酉 神功51年?) 2月, 付与(扶余)が閑散(漢山)に仏事(仏寺)を創建した.
339年己亥 神功65年乙酉 10月, チムリュ(枕流)が卒(卒)と弟陳謝(辰斯)が立った.
326年丙戌・神功52年壬申 奈勿大圣神帝10年火狗 ひのえいぬ
3月, 若旦那(道寧)などが伽揶(加耶)に使臣に行って船室太后(宣失太后)を謁見して来た.
付与(扶余)が官房(宮殿)を大きく設置して高句麗(句麗)に備えた.
809唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/24(日) 01:57:53.62
>祗摩は三国史記では在位112〜134だが、祗摩紀では在159〜191。

これは、百済本紀の百済王家を正しいとした場合、新羅本紀を、46年程度
引き下げれば、百済本紀と新羅本紀が整合する、というところから始まっている。
私の主張は、百済本紀を46年引き上げれば、神功・応神紀と整合し、
新羅209年あたりを崇神世に配置すれば整合する、というものである。

だから、3国史の4世紀は、46年程度狂っている。
3世紀の始めでは、ほとんど狂いがない。
狂いのある3国史に書記を整合させることはできない。
狂いのある百済本紀に新羅本紀を整合させても、書記はあわない。
810唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/24(日) 11:29:35.37
時平州刺史、東夷校尉崔自以為南州士望,意存懷集,而流亡者莫有赴之。
意廆 拘留,乃陰結高句麗及宇文、段國等,謀滅廆以分其地。
318年 太興初,三國伐廆,

318年頃、平州刺史、東夷校尉崔は、高句麗等と同盟を結び、慕容氏を
滅ぼそうとする。
それに先立ち、高句麗が楽浪、帯方を滅ぼしていたら?(313年?)
東夷校尉崔の支配地域である以上、同盟は成立しない。
319年に崔が高句麗へ出奔することにより、楽浪、帯方地域は、慕容氏の
管理下に置かれる。
323年 百済へ領土分与。翌年、楽浪を攻める高句麗、けちらす慕容氏、
横から百済が高句麗王を殺す(百済本紀371年?奈勿大聖神帝8年木神 )。
これにより、百済は、慕容氏と敵対しない。
342年 高句麗は大敗し、軍を駐留させられる。以後 高句麗・百済等は前燕に帰順する。
370年前燕滅亡。これを受けて、百済は東晋に使者を送る。
371年 応神天皇二八年九月。高麗王遣使朝貢。
370年 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。
応神28年≒仁徳58年。
280年 応神天皇三七年 通呉。

百済本紀を無視すれば、このような数字が得られる。
811卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/24(日) 12:51:27.08
今日は逸聖紀を読んでいるのだが、これにもいろいろと気になることが書いてある。

八月 新羅王逸聖立 遣使來貢
七月 新羅以近宗女勿氏歸我 勿氏母乃新羅先王祇摩之女密華夫人也…

逸聖紀というのは新羅史のはずなのに、
まるで新羅が別の国であるかのように書かれている。
新羅と、のちに新羅と称される国は別の国なのである。

七月 以汗介爲都都娘 介以汗昔女 善於神事 能禱雨致雨 且有姿色 其徒奉爲女主 上許爲都都娘

汗介という女が神事に優れていて、よく雨を祈って雨を降らせるので、都都娘とした、と書かれている。
都都娘という語に注目。ヤマトトトヒモモソ姫を連想させる。
トトヒモモソ姫というのは巫女的な女に与えらる職掌名だった可能性がある。
812唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/24(日) 14:44:52.82
逸聖泥師今 134~154
開化 ワカヤマト ネコヒコノミコ
ソヒヤヨヒ モチにまたうむ トトヒメは ともにミユキや ご両人とも死亡。
孝霊 146年〜164年
ヤマトフトニノ アマツキミ 
3年(148年)ミトシハル・・・ナツウチメ ヤマトクニカが ミツコうむ ナはみなヤマト モモソヒメ
崇神189年〜 崇神10年 198年モモソ媛の葬儀 享年51歳
ホ36002 ヤマトヒメカミしつむアヤ
ミトセのち ナヅキソムカに うむミコの ナはヤマトヒメ あとやみて カナヅキフカに ハハまかる

斎女とは、幼くして母を亡くした女児が宮に預けられて成長したのちの姿である。
813唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/24(日) 15:14:39.79
その法律は言った、 "我が国は、シンゴル(神骨)、ソンゴル(仙骨)、ジェゴル(才
骨)は、国の大(大经、 最も基本的なプロットは、大規模な法則 )であり、骨品を定めるも
のなのに、完全無欠せず、公正でないがあります。
神の父親の類似(儒礼)は帝位にいアニハル敵神生んだわけで神は父としていなかっ
たし、神の祖父美醜(味邹)が帝位にいアニハル敵神の母親を生んだわけで神(外)お
じいさんジラしなかったので、これが神が極めて円筒にここはバーです。
神の母親が淫乱であることを好きで多くの夫を置いたわけで、神が類似の息子ではな
いといっても神が十分に訴えることもできなかったが、神の容姿はこれまでにと大変似
ている音はシンフ(神后)についても、知っているところです。 どう ぞ、神に類似の
息子になるようにしてくださり、父と息子の間には間違っていないようにさ、最初ので
す。

辰国(新羅)の系図は、その国の上層部でもよくわかっていない。
その世継ぎを産んだ后でさえ誰の子供であるかを把握していない。
814日本@名無史さん:2012/06/24(日) 16:02:15.13
女系で系図つければすべて表現可能なんだろうけど

無駄に男系相続ルール前提にした系図とかでっちあげてみてもね


52歳の女酋長がかって子守して育てた26歳の若者のこと使用して

子供ぽろぽろとかって

土人の男酋長さんつとめるのもつらいもんだわな

815日本@名無史さん:2012/06/24(日) 16:08:48.82
うわぁ…新羅ってとんでもない土人習俗だったんだ…
816日本@名無史さん:2012/06/24(日) 16:23:34.64
子守して育ててもらったおねえさんとなんとなく出来上がってしまった

たまたまそのおねえさんは母親の年の離れた異母妹だった

これならどこにでもありそうなおはなしだけどな
817日本@名無史さん:2012/06/24(日) 17:08:37.13
亂淫ではなくってふつうなことですと

K龍(392) 二月 神后(光明后)崩 于寢宮
帝(奈勿)爲之不食
保反曰 "母后雖多功 汝若不食 吾誰爲夫"
帝(奈勿)乃與保反行祥 葬神后(光明后)于長陵 分骨于各夫髣ヒ
神后(光明后)乃阿爾兮聖后之第七女也
身長七尺 重二百斤 一食盡一豚 能善ク歌神事
繼阿爾兮爲雌皇 四十余年
易夫帝五位 皆有子女

味鄒帝女 莫姫 仁竦 足竦 卒留 古留 道留 丹判 迊判 雍判 保反 内留
儒禮帝女曰 其炭
基臨帝女曰 束炭 斤丹 昔丹
訖解帝女曰 方丹
今帝子曰 好童
叔丹女曰 成丹

春秋六十九(324-392) 王孫數百人
性至仁愛民 不喜亂淫
推夫帝副君 外不用私臣
國中大事令 決于骨老上仙 不以私行
以此國治掛 孝者塡道 國中盡白
818唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/24(日) 19:57:13.51
奈勿聖帝 四年 正月 行白龍祭 (320)(AD380)
ドングボ(登保)各間が死んだ.
内海制(奈解帝)の孫で祖母は玉貌(玉帽)太后で, お父さんは重くて(仲解)太子と言って,
お母さんはドングセ(登世)弓奏で鳥糞(助賁)提議マボックニョ(摩腹女)だ. ・・・
三公が王を守ったしそんな縁由で太公(太公)の例で葬った. 春秋 64歳だった.

奈解泥師今 196~230
助賁尼師今 230~247
沾解泥師今 247~261
儒禮泥師今 284~298
基臨泥師今 298~310
訖解泥師今 310~356
奈勿麻立干 356~402

助賁尼師今 247+64才=320年?
この狂いをどう整合させるか?ここに狂いが存在することは確かである。
819橙犬者:2012/06/24(日) 19:57:46.27
>>668
唐松山さん
解説有難うございます。漸く解説の一部が理解できたように思います。

>仲哀9年閏12月が存在すれば、それは、神功元年 丁酉の29日か30日前。
 「仲哀九年に閏十二月が存在するならば、閏十二月の朔は、神功元年の正月の朔である丁酉の29日前となるのが暦上は正しい。
 しかし、観測上の朔(新月)や、当時の暦を考えると、閏十二月の朔は30日前であった可能性も否定はできない。」
 (仲哀九年春二月癸卯朔と明年春三月丙申朔から逆算すると、仲哀九年の一年後の正月朔は丁酉と推定できる)

>仲哀九年春二月癸卯朔から10ヶ月後。
 「二月癸卯朔だから、三月壬申朔、四月壬寅朔、五月辛未朔、六月辛丑朔、七月庚午朔、八月庚子朔、九月己巳朔、十月己亥朔、
 十一月戊辰朔、十二月戊戌朔、次が閏十二月丁卯朔にあたり、二月癸卯朔から10ヶ月後となる。」

>癸卯から6前が丁酉である。
 「干支のならびで見ると、甲午、乙未、丙申、丁酉、戊戌、己亥、庚子、辛丑、壬寅、癸卯、甲辰で、丁酉は癸卯の六つ前にある。」

>小の月が6回存在して、神功元年丁酉が得られる。
 「小の月は、二月癸卯朔以降は、四月壬寅朔、六月辛丑朔、八月庚子朔、十月己亥朔、十二月戊戌朔、閏十二月丁卯朔と6回存在して、
 続いて、神功元年正月丁酉朔が得られることになる。」

>閏月が存在しなければ、30日ほど前の干支が得られる
 「仲哀九年に閏十二月が存在しなければ、神功元年正月の朔は、30日程度前の干支となり丙寅、丁卯、戊辰のいずれかになる。」

>12月戊戌朔から、三月,丙申朔の間に推定できる干支は、戊辰・丁酉・丁卯・3月丙申朔
 「12月戊戌朔と、明年春三月丙申朔の間に入る朔を推定すると、閏十二月は丁卯朔か戊辰朔、正月丁酉朔、二月丁卯朔、となる。」

>その中間の年は、このライン上に存在しなくとも良い。
 このラインという言葉が理解できません。 19年7潤のルールをラインと称しているのでしょうか。

>垂仁90年は、同99年である。
>ラインで言えば、90年≠99年になる。ライン上にない。
 全く理解できません。 初心者に判り易く解説して戴きたいと思います。 ここが、判らないので以降の理解は不可能です。申し訳ありません。
820日本@名無史さん:2012/06/24(日) 20:03:42.18
四十余年 易夫帝五位 皆有子女
味鄒帝(-362)女
  1.莫姫
  2.仁竦
  3.足竦
  4.卒留
  5.古留
  6.道留(352-376)
  7.丹判
  8.迊判(-390)
  9.雍判(358-)
 10.保反(360-)
 11.内留(362-)
儒禮帝(-367)女曰
 12.其炭(364-)
基臨帝(364-372)女曰
 13.束炭(366-)
 14.斤丹(369-)
 15.昔丹(371-)
訖解帝(370-)女曰
 16.方丹(374-)
今帝(奈勿) 子曰
 17.好童(376-)
叔丹 女曰
 18.成丹(381-)

春秋六十九(324-392)
821日本@名無史さん:2012/06/24(日) 20:07:15.33
17.好童(376-) を除きすべてが女の子

男の子も産んでるだろおから

たぶん30名もぽろぽろ生んじゃっているのでしょう
822卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/24(日) 21:04:01.39
甘文女主旭京産孿 (逸聖紀)
加耶阿修殂 其妻毗可自立 以庶子宇理爲繼夫 (阿達羅紀)

甘文や加耶も女王だったようだ。
卑弥呼の時代、日本にも朝鮮にも女王がけっこう存在したのだ。
823日本@名無史さん:2012/06/24(日) 21:19:49.83
百済関係のところだけ抜き出してみた

赤兎 九月(367) 以康世女千康 妻夫余太子吉湏(近仇首王須:在位375-384)
黃龍 二月(368) 夫余獻馬
白羊 十月(371) 麗斯由(高サ)與夫余戰死 子丘夫立(371)
赤牛 正月(377)(元年) 神后(光明后)副君(奈勿) 受朝
三年 正月 行黃兎祭(379) 公兌忽明 使夫余
四年 正月 行白龍祭(380) 三月 夫余入貢
五年 正月 行金蛇祭(381) 三月 夫余獻 良馬一雙
六年 正月 行玄馬祭(382) 七月 夫余禿山城主布 率三百人來降 命居六部 夫余請還之 不許
七年 正月 行水羊祭(383) 三月 夫余流民三十戸又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
            倭臣熊彦 美而善辯 與阿尒相通 多聽其言
            故國人異反 或歸于我 亦歸于麗
八年 正月 行木神祭(384) 夫余謹須(近仇首王)(375-384)殂 枕流(384-385)立
            其母阿尒執政 遣千世吊之
K龍 正月(392) 三月 送夫余象于我


枕流のかあちゃんの阿尒が執政

奈勿のところのほうの阿爾は女大酋長の呼称みたいだから別物なんでそね
824卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/24(日) 21:57:59.06
>>823
奈勿大聖神帝紀から抜き出したのか?
この文献は三国史記とは紀年がずれているから、
これらの西暦年はおかしい。

いや、三国史記に照らしてもおかしい。
奈勿帝は在356−402だから。
825わすれもの:2012/06/24(日) 22:07:32.89
白兎(391) 七月 麗王談コ(好太王)(391-412) 大破扶余 石峴等十城 皆降之
     九月 談コ(好太王)(391-412) 遣婁夫等 責帝 起兵伐扶余 乃命味斯品等 佯作聲應 以麗婢三人 皆爲宮人
     十月 麗拔闕彌城 辰斯(餘暉)(385-392)與阿爾 出狗原行宮 以田獵爲事 國人多非之
    十一月 辰斯(餘暉)(385-392)卒 于狗原阿爾乃立阿莘(392-405)爲君
        帝遣道寧等 于談コ(好太王)(391-412) 以土物答之
        談コ(好太王)(391-412)曰 "汝君愛臣馬兒 願欲見之"
826唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/24(日) 22:09:23.75
>>819 >その中間の年は、このライン上に存在しなくとも良い。

それは、次のような編年が考えられるからである。
217 垂仁天皇元年(壬辰前二九)元年春正月丁丑朔戊寅。
217 垂仁天皇元年(壬辰前二九)冬十月癸卯朔癸丑。
217 垂仁天皇元年(壬辰前二九)十一月壬申朔癸酉。
218 垂仁天皇二年(壬辰前二八)二年春二月辛未朔己卯。
218 垂仁天皇三年(甲午前二七)三年春三月。
218 垂仁天皇四年(乙未前二六)四年秋九月丙戌朔戊申。
218 垂仁天皇五年(丙申前二五)五年冬十月己卯朔。
219 垂仁天皇七年(戊戌前二三)七年秋七月己巳朔乙亥。
220 垂仁天皇十五年(丙午前十五)十五年春二月乙卯朔甲子。
220 垂仁天皇十五年(丙午前十五)秋八月壬午朔。
221 ソヤトシサツキミコニシキ イリヒコの イムナヰソキネ
222 フソマフユ うむミコヤマト オシロワケ イムナタリヒコ
225 垂仁天皇二三年(甲寅前七)廿三年秋九月丙寅朔丁卯。
225 垂仁天皇二三年(甲寅前七)冬十月乙丑朔壬申。
225 垂仁天皇二三年(甲寅前七)十一月甲午朔乙未。
227 垂仁天皇二五年(丙申前五)廿五年春二月丁巳朔甲子。
227 垂仁天皇二五年(丙申前五)三月丁亥朔丙申。
228 垂仁天皇二六年(丁巳前四)廿六年秋八月戊寅朔庚辰。
229 垂仁天皇二七年(戊午前三)廿七年秋八月癸酉朔己卯。
229 垂仁天皇二七年(戊午前三)是歳。興屯倉于來目邑。〈屯倉。此云彌夜氣。〉
230 垂仁天皇二八年(己未前二)廿八年冬十月丙寅朔庚午。
230 垂仁天皇二八年(己未前二)十一月丙申朔丁酉。
231 垂仁天皇三十年(辛酉一)卅年春正月己未朔甲子。
232 垂仁天皇三二年(己亥三)卅二年秋七月甲戌朔己卯。
827日本@名無史さん:2012/06/24(日) 22:17:15.65
味鄒帝(-362)
儒禮帝(-367)
基臨帝(364-372)
訖解帝(370-)
今帝(奈勿)
828日本@名無史さん:2012/06/24(日) 22:20:29.41
推夫帝副君 外不用私臣

「副君」になると「帝」と呼ばれるらしいね

「夫帝」 「夫帝」 
829日本@名無史さん:2012/06/24(日) 22:22:07.00
福田赳夫
830唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/24(日) 22:23:00.30
続き
233 垂仁天皇三四年(乙丑五)卅四年春三月乙丑朔丙寅。
234 垂仁天皇三五年(丙寅六)卅五年秋九月
235 垂仁天皇三七年(戊申八)卅七年春正月戊寅朔。
236 垂仁天皇三九年(庚午十)卅九年冬十月。
237 垂仁天皇八七年(戊午五八)八十七年春二月丁亥朔辛卯。
238 垂仁天皇八八年(己未五九)八十八年秋七月己酉朔戊午。
239 垂仁天皇九十年(辛酉六一)九十年春二月庚子朔。
239 垂仁天皇九九年(庚午七〇)九十九年秋七月戊午朔。
239 垂仁天皇九九年(庚午七〇)冬十二月癸卯朔壬子。

誤記 九十九年秋七月,戊午朔
九十七年秋七月,戊午朔であれば、存在できる。
冬十二月,癸卯朔 から逆算すると99年は閏年になる。
7月乙巳・乙亥・甲辰・甲戌・癸卯・癸酉・12月癸卯
99年秋乙巳朔程度の数字が得られる。であるから、九十九年秋七月,戊午朔は誤りになる。
秋七月といえば、垂仁が倒れた月に当たる、そしてまもなく死亡したのであろうが
ここに97年を指す朔が存在する。


831橙犬者:2012/06/24(日) 22:31:01.05
>>826
すみません。

>その中間の年は、このライン上に存在しなくとも良い。

 ここで、仰っている「ライン」とはなんのことですか。

 19年7潤の暦を判断の参考に出来ないという意味ですか。

 日を示す干支が当てにならないという意味ですか。

 年を示す干支が当てにならないという意味ですか。

 朔が当てにならないという意味ですか。

 それとも、他の意味でしょうか。

 ラインとは何を指し示しているかが、判らないのです。
 データを示されても、 どんな視点で読めば良いかが判断出来ないで困っています。
832日本@名無史さん:2012/06/24(日) 22:43:11.87
卑弥呼は脳の90%を使用していた。
それに身体がついて行けず若くして死んだ。
死んだって表現より、壊れたって言った方がいいかも。
見た目は女性だったかもしれないけど、中身はどうだったのかな
833日本@名無史さん:2012/06/24(日) 22:44:32.05
「奈勿大聖神帝紀」のは「月嬭神經」たらからひっぱって

みたこともないへんな支干駆使してからに53年間順番に記述がある

あちこちに百済と高句麗の記事掲載してなかみの年代のがいつのか明確化されるようなおつくりで

これ使用してもよほどにへんなひとでもへんに年代ずらしたりするのはとてものこと_

ただしここのの書いてある中身はいわゆる新羅のふりして書いてはいるけど

どこぞの酋長さんのところの村史のたぐいの拾ってきてからに

アップしているもんだかよくわかりませんとゆうところ

へんに恥ずかしげも無くあけっぴろげでご開帳しておるから

編集したやつのの成立自体はよほど古い時期なのかもかと

ネタ本のほうはゆうまでもないだろうけど
834唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/24(日) 22:46:26.48
>>824
おかしい、おかしいとなるだろ。
奈勿帝は在356−402だから。
だから、奈勿大聖神帝紀に登場する人物と世継ぎが合わない。
奈勿大聖神帝紀の登場人物は、奈勿帝356−402と同じである。

835日本@名無史さん:2012/06/24(日) 22:55:32.80
いっぱんてきにきれいに整理されて書いてあるのは後日の作品であることが多いんだよな

よくあるパターンは

2系統の酋長さんとこのを一本化しちゃってへんに古いほうにずれちゃう

あと

でじゃぶ工作して古いほうに足し増ししたりのも
836日本@名無史さん:2012/06/24(日) 22:59:46.11
女大酋長さんところの男めかけが「帝」と呼ばれているわけで

男めかけのが端境期とかがなくってへんにオーバーラップしちゃうと

男めかけの「帝」は一時的に二人同時に存在するとかのもあり得るしね
837唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/24(日) 23:30:06.91
>>831
>19年7潤の暦を判断の参考に出来ないという意味ですか。

そのとおり。
空白年で水嵩してあれば、それは、中間の年代である。
初年度と末年度、及び水増しのない年代にしか使えない。
だから、潤月も記載しない。記載はされなくとも、書紀の太陰暦であればそれだけの数の潤月
が存在する。
そうすると、正しい24節気の場所が隠される。
古代朝廷のシノギは種かしである。種を貸すと同時に、24節気で編纂された農事暦を教える。
その農事暦の事実は24節気が握っているが、民の知ることのできるのは
月齢を数えることだけであり、19年7潤で1章となる事実を知らない。
であれば、種かしは安泰となる。
それが崩れるのが仲哀からであり、渡海とも重なる。
半島との連絡には、月日は重要な情報であるからこれを違えることはできない。
一方、国内の治世は、種かしから屯倉経営にシフトしている。
暦を知られても、影響は最小限に抑えられる。
民の太陰暦を知る範囲は、
ミ06102 ヒトのイキ ササナミもこれ
3・3・(2・3・2)・3 程度である。
838唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/25(月) 00:41:03.34
垂仁天皇217年〜239年 治世23年 増し76年 合計99年
実際に流れた時空は、23年であり、そこへ空白76年を刻んで差込み、合計が99年となる。
治世99年を23年に縮めるのであるから、その中身の閏年は、99年の場合と違ってくる
のはやむを得ない。
すべての年が記載されているとは限らない。記事のない年もある。それを含めて
23年が、太陰暦から見た妥当な数字であろう、不足と見るのであれば、あと19年を
足すのがルールである。
全体の長さは、太陰暦に整合させる必要はあるが、その細かい年度まで閏年に整合させる
ことはできない。できるとすれば、99年を認めた場合のみとなる。
だから、中間はその閏年の影響を受けない。総年数にそれだけの潤月が含まれれば良い。
正確無比に再現できれば、そこには潤月が存在するはずである。
そのためには、差込に使われたであろう太陰暦も正しく再現できなければならないが
空白は空白であり、それを正しいとできる数字は持ち合わせていない。
実際に使われた正しい太陰暦と空白の太陰暦は、同一と考えられるが、
その使用法までを再現できるか?
まあ、ほとんど不可能と考えたほうが早い。挑戦してみる価値はあるが、道のりは遠い。
まず、自分の考えた太陰暦が歴史と整合するか?
私はまだこの段階である。
歴史と整合すれば、実際の年月と、空白の年月に分けることができる。
潤月の差込場所も大枠では決まるが、その中身の編年が正しくできなければ、中身を分析
する意味がない。
839卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/25(月) 12:50:51.54
今日は阿達羅紀を読んでいるのだが、
どうも夫余(百済)と新羅は漢水の北にあったような書きぶりである。
さらに召文は穢王之後と書いてある。

南韓の召文の始祖が穢王だというのはどうも信じ難い。
漢水というのは、もしかしたら、鴨緑江のことか。

で、この文献は鴨緑江以南にあった辰の歴史を綴ったものなのか。
840卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/25(月) 13:04:26.41
召文には二人の女王がいた。

紫聖女主 (B.C.118 - B.C.99)
好妙 (A.D.184.10 - A.D.196.8)

このうち好妙がちょうど卑弥呼の時代と重なる。
ただし召文が南韓にあったのか満州にあったのかは議論の余地あり。

とにかく女王というのはけっこういたのである。
841日本@名無史さん:2012/06/25(月) 15:14:50.85
朝鮮にいた!
のはさすがにぶっ飛んだ説として否定できるが
否定的だとしても、だから読む価値が無い、いうこととは同義では無い。

そもそも邪馬台国の比定が
恣意的な解釈の違いだけで成立してしまっているような現状では
仮に【いかに飛躍した都合の良い解釈だとしても】
充分に読む価値はあるとおもう。

つうわけで、否定しながらも見ている奴はいる、ということなので
正々堂々と論の展開をしてくれ。

ただ、自説に対する否定的な指摘に即、相手を卑下するような反応はつまらん。
たとえ相手が自説を馬鹿にしているのが分かっていても、だ。
あと他人のレスで都合の良いところだけ取るのも、な。
842日本@名無史さん:2012/06/25(月) 16:19:27.07
「卑弥呼は朝鮮」氏は、あまり信用はできんが、
伊作に比べれば相当マシ。のほほんとしてるし。

ま、好きに理論展開してくれ。まったりと読んでるぞ
843日本@名無史さん:2012/06/25(月) 17:02:03.84
神戸福原物語 [単行本] 北川 冬樹  この人の本を読みなさい。
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844卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/25(月) 17:21:14.60
なんとか阿達羅紀まで読み終えた。

召文女主好妙 廢其夫允明 自立 ←183年(136年)女王立つ。

加耶阿修殂 其妻毗可自立 以庶子宇理爲繼夫 ←219年(160年)女王立つ。

正月 召文妙コ王殂 紅鳳碧海黃雲暖玉宝雲牧丹妙雲好蛙 八世主爭立 國中大亂  ←228年(169年)
女主楚雲請救 乃命山乙率仙徒二千人 與盤述 入召文 靖其亂立 楚雲子妙楚爲王 ←どことなく倭国大乱に似ている。

加耶君毗可殂 女美理神立 以宇理爲夫 ← 231年(172年)女王から女王にバトンタッチ。

召文と加耶で、女王が立ったり大乱が起きたり、女王から女王にバトンタッチが行われている。
この文献と三国史記とでは年代がややずれているが、ほぼ卑弥呼の時代だ。
で、これらのことが倭国大乱、卑弥呼共立として中国に伝わったのか…と思っていたら、こんな記事があった。

五月 倭女王遣其弟狛比古等 獻其土物 請交易物貨 乃立倭典 與之通聘 ← 232年(171年)
845日本@名無史さん:2012/06/25(月) 19:05:18.78
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846橙犬者:2012/06/25(月) 20:11:00.34
>>838
唐松山さん、有難うございます。
19年7潤の暦の約束事をラインと仰っていたのですね、そして、19年7潤の暦の約束事は何時でも使える訳では無いということですね。

>初年度と末年度、及び水増しのない年代にしか使えない。
 「19年7潤の暦は、或る天皇の初年度と末年度、そして水増ししていない年代だけで使われている。」

>だから、潤月も記載しない。記載はされなくとも、書紀の太陰暦であればそれだけの数の潤月が存在する。
 「書紀に閏月の記載は無くとも、書紀の太陰暦には19年7潤分の閏月が含まれているはずである。」

>垂仁天皇217年〜239年 治世23年 増し76年 合計99年
 「垂仁天皇は217年から239年までの、治世23年で、そこに76年(4章)を加え、書紀では99年としていると、見ている。」

>23年が、太陰暦から見た妥当な数字であろう、不足と見るのであれば、あと19年を足すのがルールである。
 「23年が妥当な治世と考えるが、不足すると考えるなら、19年7潤暦から考えて19年単位で加えるのが自然である。」

>その使用法までを再現できるか?まあ、ほとんど不可能と考えたほうが早い。
 仰るとおりだと思います。

19年7潤暦を理解しようと、仲哀紀と神功紀の朔を整理しています。
そこで、「阿豆那比の罪」と日食の関係で気付いたことがあります。

神功皇后は二月に入ってから、橿日宮から穴門豐浦宮に移って、天皇之喪を収めて、海路で難波に向かったと有ります。
紀の国の小竹宮まで、移動以外にも種々の用件を処理していましたから、当時ですし、頑張っても、二日以上は掛かったと思います。

そして小竹宮の「阿豆那比(あずない)の罪」云々事件を処理し、三月丙申朔庚子の日に武内宿禰等に忍熊王を撃つよう命じています。

ここで、朔と日食の関係です。
日食が起きるのは、新月の時(朔日)だけのようです。

二月の朔の日には、まだ香椎宮に神功皇后は居ました。三月の朔の日は「阿豆那比(あずない)の罪」云々の事件は終わっています。
従って、「阿豆那比(あずない)の罪」と日食の関係は、非常に考え難いことに気付きました。
847唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/25(月) 20:57:37.18
>日食が起きるのは、新月の時(朔日)だけのようです。

日食が起きるのは、新月の時(朔日とその前日)だけのようです。

323年が神功元年に当てはまれば、そのような見解となるが
私の場合、239年邪馬台国官伊支馬を垂仁と断定し、都市牛利(たしうり)を田島守と読む
187年 崇神元年壬午朔 2章1日 52948日 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章1日 63904日 
240年 景行元年壬申朔 2章0日 72320日 
262年 成務元年甲申朔 3章1日 80352日 
266年 仲哀元年庚寅朔 0章0日 81799日 成務と同じ暦の可能性が有る
275年 神功元年丁酉朔     85106日  344年 応神元年
313年 神功39年丁巳朔 太歳  98986日 

313年 仁徳元年丁丑朔    98986日 神功39年太歳を元年とする。

だから、あづないの罪は、差込となる。
それから、仲哀の中間の空白がなんであるかがわからない?

275年 神功元年
323年 神功49年 千熊長彦
326年 神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)
848日本@名無史さん:2012/06/25(月) 22:19:54.11
【6月25日 AFP】京都府長岡京市の宇津久志(Utsukushi)古墳(5世紀)から、1〜4世紀の間に帝政ローマの職人によって作られたとみられるガラス玉3点が発見された。
奈良文化財研究所(Nara National Research Institute for Cultural Properties)が22日発表した。

 薄い黄色をした直径5ミリほどのガラス玉の中央には穴が空いており、全体に細かな金箔が見られる。同研究所が成分を分析したところ、「ナトロン(蒸発塩)」と
呼ばれる帝京ローマの職人がガラスを溶かす際に使用していた化学物質が見つかっており、また金箔を間に挟むなどしながらガラスの層を重ねていく
「重層ガラス」という比較的高度な手法が用いられていた。

 同研究所の田村朋美(Tomomi Tamura)研究員によれば、帝政ローマから日本に持ち込まれたと考えられる重層ガラスの装飾品が発見されるのは
極めて珍しく、このたび見つかったガラス玉は国内最古の部類に入るという。

 共和政ローマの終焉と共に紀元前27年に始まった帝政ローマは、コンスタンティノープル(Constantinople)が陥落した1453年まで続き、
その領土は地中海沿岸を中心に、北は現在の英国まで広がっていた。

 イタリアから約1万キロ離れた今回の日本における発見は、帝政ローマの影響力がどの程度東方まで及んでいたのかを調べる手がかりとなると同時に、
これら装飾品が日本まで運ばれた経路の解明につながると田村研究員は述べている。(c)AFP

http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2886200/9157721
849唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/25(月) 22:33:31.41
追加情報
 同古墳の出土品にはインドや東南アジアの産物と見られるガラス玉もあったといい、分析した奈文
研埋蔵文化財センターの田村朋美研究員は「重層ガラス玉はシルクロードからの流通と考えられがち
だが、材質の変化に応じ、海上などさまざまなルートが考えられる」と話している。

 奈良県橿原市の5世紀半ばの古墳でも重層ガラス玉が見つかっているが、成分は分析されていない。
850日本@名無史さん:2012/06/25(月) 22:36:53.56
ローマ人が来てたに違いない
851日本@名無史さん:2012/06/25(月) 22:38:15.61
ペルシア人も来ていた
852日本@名無史さん:2012/06/25(月) 22:40:20.08
アメリカ人も来ていた
853日本@名無史さん:2012/06/25(月) 22:42:09.12
世界の中心だったんだ
854日本@名無史さん:2012/06/25(月) 22:53:47.61
マジで古墳時代にはペルシャ人が来てたふしがあるな
855唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/25(月) 23:42:51.43
5世紀半ばといえば、倭王の朝貢があるからその時入手した?
856日本@名無史さん:2012/06/25(月) 23:47:17.93
芝山古墳群の埴輪はあれはこっちの人達じゃなかろう
857日本@名無史さん:2012/06/25(月) 23:47:59.58
皇室が古代ユダヤの末裔というのも冗談ではすまなくなってきたな。
858日本@名無史さん:2012/06/25(月) 23:49:13.70
朝貢とか関係なく
そういう財物を持って大陸から渡来してきた人が大勢いたんだろ
現代で言えば円をダイヤに替えて外国に移住するような感覚かな
859日本@名無史さん:2012/06/25(月) 23:58:06.18
三雲・井原遺跡で出土した黄色と紫色のガラス小玉も成分分析したらいいのにな
860橙犬者:2012/06/26(火) 00:00:32.93
>>847
唐松山さん、有難うございます。
>日食が起きるのは、新月の時(朔日とその前日)だけのようです。
 前日も候補とは、気付きませんでした。 有難うございます。

>323年が神功元年に当てはまれば、そのような見解となるが
 私は神功元年が西暦何年だとは言っておりません。 神功元年が何年であっても、阿豆那比之罪の事件が新月の時かどうかが問題だと思うのです。
 阿豆那比之罪の事件は二月の新月の時でも、三月の新月の時でも、無い時ですから、日食であるとは言い難いと思います。

唐松山さんが2012/06/18(月)に668で次の様に、「3月丙申朔の位置」を仰っています。
>仲哀9年閏12月が存在すれば、それは、神功元年 丁酉の29日か30日前。
>仲哀九年春二月癸卯朔から10ヶ月後。
>癸卯から6前が丁酉である。小の月が6回存在して、神功元年丁酉が得られる。
>閏月が存在しなければ、30日ほど前の干支が得られる。
>12月戊戌朔から、三月,丙申朔の間に推定できる干支は、戊辰・丁酉・丁卯・3月丙申朔

神功皇后は筑紫橿日宮から二月に移動を開始して、「三月丙申朔」庚子に武内宿禰に戦闘を命じている。
この間に、阿豆那比之罪の事件がありました。

唐松山さんが2012/06/06(水)に378で次の様に「あづないの罪=日食、273年、北陸で見られた」と仰っています。
>神功皇后の指標は、あづないの罪。
>ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる。つまり、日食である。
>273年、北陸で見られたという、完全食・・>>414
 
 この二月と三月の間に差込が有ると言うならば、あづないの罪も差込で有ることを否定できなくなると考えます。
 神功皇后の指標自身が崩れるように思います。

>だから、あづないの罪は、差込となる。
 この意味が全く理解できません。 唐松山さんの主張される神功皇后の指標が崩れてしまいます。

>それから、仲哀の中間の空白がなんであるかがわからない?
 申し訳ありません。私には全く判りません。
861唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/26(火) 00:46:22.46

時有從王之妾。曰弟橘媛。穗積氏忍山宿禰之女也。啓王曰。今風起浪泌。王船欲沒。是必海神心也。願以妾之身。
贖王之命而入海。言訖。乃披瀾入之。暴風即止。船得著岸。故時人號其海曰馳水也。

其入海弟橘比賣命。生御子。若建王。〈 一柱。 〉
ホ40343 アヅマヂえ ゆけばサガムに ミアエなす マシテシをがみ なきいわく ヒメほろぼして
まみえゑす キミもナンタに トラカシハ サカキミスガタ たてまつる キミみたまえば ヤマトタケ 
いけるスガタに あふごとく ヒトタビあいて よくにたる かれはメグロと そのサトを ナづけたまわる

記紀の記事をすべて率直に認める必要は無い。
日本武尊関東遠征の時、弟橘媛は、入海して死亡したことになっているが、弟橘媛の出産は、関東で行われた。
若建王出産後、弟橘媛は死亡するのであるが、乳幼児を残して入海したのか?
まあ、話の上ではそのようになっているが、出産時に死亡したとする方が妥当だろう。
ホツマでも入海したと書かれているが、景行が訪ねた段では、出産時の死亡である。


編年の設定位置は、239年だけではい。
後漢193年=崇神5年
326年 神宮52年 七支刀。
七支刀もその銘から容認できる位置は限られる。

七支刀から逆算すれば神功元年は275年になる。
日食の273年は得られない。
これを無理して273年に設定すれば、他の設定すべてが狂う。

323年神功49年 千熊長彦

323/383年癸未 奈勿大聖神帝7年水羊
862日本@名無史さん:2012/06/26(火) 08:03:08.72
>>860
前日というよりも、月齢を基にした太陽太陰暦の日付の読み方による。因果関係が逆。
863卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/26(火) 18:46:22.94
今日は實聖紀まで読んだ。

九月 加耶女與半阿 爭位 ←145年(99年) 女と男が王位を争う。

加耶阿修殂 其妻毗可自立 以庶子宇理爲繼夫 ←219年(160年)女王立つ。

加耶君毗可殂 女美理神立 以宇理爲夫 ← 231年(172年)女王から女王にバトンタッチ。

加耶女君美理神殂 命述明往吊之 ← 281年(220年)女王から男王?へ。

加耶河道殂 女河理立 ← 282年(221年)男王?から女王へ。

加耶女君河理禪 于其夫孝道  ← 287年(226年)女王から男王へ。

加耶君孝道 禪于其女河理智 迎宣威爲婿 ← 313年(250年)男王から女王へ。

加耶君慕訶卒女厚蟾立 ← 男王から女王へ。

加耶女君厚蟾以其夫舍訶爲王 ← 女王から男王へ

加耶はやたらと女王が即位している。
864日本@名無史さん:2012/06/26(火) 18:56:24.24
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865日本@名無史さん:2012/06/26(火) 20:04:34.06
婆娑尼師今紀 (126-158)
(128)   三年  八月 推火草八等合 加耶兵 欲納良刀 于卞山 吉門迎 戰于黃山津口
               大破之 虜獲千餘 乃進其爵 爲波珍
          十一月 良刀南奔 阿那加耶奉使請罪
(132)   七年  五月 聖父與太聖 遊卞山 加耶遣使獻神鹿 于太聖及聖父
(134)   九年十二月 行大祭 閼川加耶樂浪召文之民 亦許入列 家給人足 行不賚粮 狗不食糟
(137)  十二年  五月 金官加耶與月奈等七國作亂 命吉門爲征虜大將軍 討平之
(137)  十二年  七月 上謂摩帝曰 "朕以寡コ臨國無威 扶余加耶 去益猖獗如之 何則好乎"
                  摩帝曰 "臣之愚計 莫如通色 相親 以機制之" 上善之
(143)  十八年  二月 加耶反賊圍馬頭城
(145)  二十年  九月 加耶女與(居陀)半阿 爭位加耶襲居陀 長世聞 急救之戰沒
               上怒 命吉門率京騎一千 引南水勇士五千 三路掩殺 大獲勝利
(146)二十一年  正月 吉門將伐加耶 其世主正見 遣其次子朱日 謝罪 願世世爲藩
               上命朱日留都 召吉門歸
(149)二十四年  七月 大雹 殺鳥群 于推火 命還朱日 于加耶 其妻氏正子 同歸
(150)二十五年  正月 加耶世主遣其三子裔 入朝
          十二月 音汁伐與悉直谷爭界 王命其地老辨之 地老曰
               "加耶王子裔多智 可以立議" 上許之
(158)三十三年十一月 加耶世主正見殂 子朱日立 自稱阿豉今
866日本@名無史さん:2012/06/26(火) 20:05:37.59
阿達羅紀 (213-243)
(215)   三年七月 加耶世主阿修獻方物             阿修♂┳毗可♀
(216)   四年四月 多婆那以迎烏カ爲君                  ┃
(217)   五年三月 野人來獻土物 請文師二人藥師二人        ┃
(219)   七年七月 加耶阿修殂 其妻毗可自立 以庶子宇理爲繼夫 宇理♂┳毗可♀
(223)  十一年四月 毗可生 宇理女美理                     美理♀
(225)  十三年十月 上與加耶女主毗可 盟于黃山
(231)  十九年二月 加耶君毗可殂 女美理神(9歳)立 以宇理爲夫 宇理♂┳美理神♀
(235)二十三年九月 加耶君(美理神)夫宇理殂 河智爲繼夫      河智♂┳美理神♀
(237)二十五年二月 美理神生 河智子河道                   河道♂
867日本@名無史さん:2012/06/26(火) 20:15:45.09
                         (阿達羅帝 213-243)
(232)(阿達羅)二十年 五月
         倭女王遣其弟狛比古等 獻其土物 請交易物貨
                   乃立倭典 與之通聘
                         (奈解帝 257-291)
                         (助賁帝 292-309)
                         (沾解帝 310-324)
                         (味鄒帝 325-349)
                         (儒禮帝 350-364)
(363)K豕    四月 群神尊光明后 爲神后
(364)鼠   十二月 副君基臨受禪  (基臨帝 364-370)
(370)金馬    五月 副君訖解受禪  (訖解帝 370-377)
(375)木豕    二月 神后(光明后)以聖子(奈勿)爲副君
(376)火鼠   十一月 神后(光明后)生副君(奈勿)子好童
(377)赤牛    四月 尼今(訖解帝)乃決意行禪(奈勿元年)
                         (奈勿帝 377-401)
(382)(奈勿)六年 二月 與倭和親 互市交婚 稱其國曰野
(383)(奈勿)七年 三月 夫余流民三十戸又來降
           夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
           倭臣熊彦 美而善辯 與阿尒相通 多聽其言
           故國人異反 或歸于我 亦歸于麗
868卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/26(火) 21:47:26.84
奈勿大聖神帝紀などを含む、原題不明の謎の文献をずっと読んでいるのだが、
これはやはり桓檀古記で馬韓(莫朝鮮)とされている、朝鮮半島全体の国家の歴史である。
鶏徒牛徒羊徒…等が出てくることから分かる。これは檀君の国に特徴的だった馬加牛加…等の諸加のこと。
夫余や高句麗にその諸加の制が残っている。

この文献で新羅と書かれているのは吉林にあった満州の新羅である。
夫余と書かれているのは遼東半島にあった百済のこと。
狗利などと書かれているのは通説より北方にあった高句麗のことである。
閼川と書かれているのは、慶州にある小さな河川ではなく、おそらく鴨緑江のことである。

つまり我々が新羅の王だと思っていた初期の王は、実は馬韓の王なのである、おそらくは。
869日本@名無史さん:2012/06/26(火) 21:53:27.38
こいつはなかみが緻密だから『三國史記』なんか玩具に見えちゃうよね
870唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/26(火) 21:59:30.27
>婆娑尼師今紀 (126-158)

婆娑尼師今 80~112

126-80=46年
もとは、ラジオ氏かな?

871唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/26(火) 22:04:27.23
ところで
2名いる肖古王(近肖古王)が一人になるかな?

274年 百済王記(百済王気) 仇知王(旧地王) 27年,AD214年
二十七年 甲午 四月 田氏生王子素古 王酷愛之欲立為太子重用亀宮属
27年(AD214年) 甲午 4月, 田氏(全氏)が王子 素古(小太鼓)を生んだ. 王が彼を非常に愛して太子に立てるシブオして,
亀宮(ググング)の専属たちを 重用(中庸)した.
307年丁卯赤土(赤兎:精妙) 2月、先代ニトグム(先今)類(儒礼)がブンハヨトダ。 二月先今儒礼崩
9月には、高(康世)の娘チョンガン(千康)を付与太子(夫余太子)ギルス(吉须)の先
(妻)とした。 九月以康世女千康妻夫余太子吉须
314年 百済王紀(百済王気) 肖古王(草稿王) 29年,AD254年.
二十九年 甲戌 正月 王禅位於太子仇首 而自処於山宮及狗原 而主祭祀 号曰太上神王 太子即位於南宮 親執内外兵事
定沙氏□氏真氏解氏之爵位
29年 甲戌 1月王が 太子(太子) 仇首(鳩首)に 禅位(選委)をする, 自ら 山宮(サングング)と 狗原(救援)で住んで祭祀を
主管の下だった. 号(号)は 太上神王(テサングシンワング)といった. 太子(太子)が 南宮(南宮)から 即位(即位)した.
親しく 内外兵事(内外兵士)を執政する, 沙氏(サシ), □ 氏(伯氏), 真氏(陳氏), 解氏(該氏)の作為を決めてやった.
872日本@名無史さん:2012/06/26(火) 22:05:34.82
玩具みたいな『三國史記』なんから引き出した年のスケール玩具とか無駄にありがたがってもね
873卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/26(火) 22:12:04.54
>婆娑尼師今紀 (126-158)
これはこの文献のサイトに書かれている年代で、誰かが比定したのだろう。
それがラジオ氏と呼ばれる人かどうかは知らない。

しかしこの文献の原題は何というのだ? 唐松氏は知らないのか?
874卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/26(火) 22:15:26.52
>>871
この仇知王のことを知りたいのだが、三国史記には載っていない。
百済王記というのはネットで原文を見ることができるのだろうか?
875日本@名無史さん:2012/06/26(火) 22:16:30.09
赤兎 (367) 九月 以康世女千康 妻夫余太子吉湏(近仇首王須375-384)

無駄にいぢらなくても「じくう」に齟齬とか無いけどね
876日本@名無史さん:2012/06/26(火) 23:15:42.34
祇摩♂(159-191) - 密華♀ - 夫余~左平~吉宣♂(-225) - 吉宣女♀田氏~爲仇知(-225)妻<br>
(225)(阿達羅)十三年 仇知殂 乃立素古爲君<br>
     仇知弟古尸亦與田氏潛通 生子田氏子素古 時仇知太子

わやだわな
877日本@名無史さん:2012/06/26(火) 23:17:13.76
ごみはいってたりしてごめんな
878唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/26(火) 23:20:16.15
>無駄にいぢらなくても「じくう」に齟齬とか無いけどね

大有りなのだ。
六年 玄馬 322/382年
七月夫余禿山城主布髣ヲ三百人來降命居六部夫余請還之不許
付与(夫余)の禿山城主(禿山城主、京畿道) ポリュング(布隆)が 3湧括導いて投降して来ると六部(六部)に居住するように命じた.
付与(夫余)が彼を送還することを請じたが承諾しなかった.

<見解> 382年であれば、禿山城は京畿道計算違い近所だ.
322年であれば建国前であり、国土を持たない扶余(百済)の一部が逃げ出す。

あとは、考古学との整合が取れない。
百済本紀の世界は、考古学よりほぼ50年遅い。

伐休泥師今 192年=後漢193年。=崇神5年飢饉。
新羅193年 倭人大餓。=崇神6年逃散。  ここは動かない。

昔の考古学より今の考古学が50年遡上したのであれば、文献も50年遡上せねば合わせることができない。
46年という数字は、干支では得られない。
その46年違いの干支が実在する。それが、書紀の干支(神功・応神紀)なのである。

>百済王記というのはネットで原文を見ることができるのだろうか?
たぶん ラジオ氏が書き込んでいる?
探す価値はある。



879唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/26(火) 23:28:59.62
RE:仁徳天皇元年は、313年ではない (その3) Name:radio 2012/03/23(金) 09:32
>奈勿大圣神帝纪ネムルデソンシンジェギ) @32>3年 7年(AD383)正月里子(水羊=癸未)
>@三月夫余流民三十户又来降夫余与倭相通年年受其>民散置都鄙倭臣熊彦美而善辩与阿尒相
>通多听其言故国人异反或归于我亦归于丽


誰許諾を受けて奈勿大聖神帝紀を二重に年度を表示ですか?
誰許諾を得たんですか?
唐松山さんわがまま史書の年度を二重で表示しても良いですか?
それでは気持ちが良いですか?
実力がなければ.. 静かにいれば.. 悪口を言われないです.

もし奈勿大聖神帝紀の年度を二重で表示する唐松山さんの醜態が直らなかったら.. あなたに呪いを下げます.
警告します.
880唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/26(火) 23:32:22.40
> [7695] RE:仁徳天皇元年は、313年ではない (その3) Name:radio  NEW! 2012/03/23(金) 12:59
>
> 漢文解釈もできないくせにどうして 2重で年度を表記しますか?
> 奈勿大聖神帝紀を引用するな.
>
> あなたたちは死ぬまで三国史記を持って墓まで行くとドエザンヌか言葉だ.
> 続いて 奈勿大聖神帝紀を 辱になるようにする 者は radioが呪いを下げる!!!!!!!!!!

呪いを下す
で検索すると見つかりますね。
しかし、ここは
呪いをかける

まあこんなところですかね。
881日本@名無史さん:2012/06/26(火) 23:34:20.32
伯済と百済とは分けて考えるの良いのよ
百済は晋代には遼西右北平におったんだろ
すり替わる前後で両方「扶余」と呼ばれていたりするんだよな
314頃にライン引いてあげるとすり替わったのはラインの後側とゆうことにはなるがな
882唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/26(火) 23:36:31.18
まあ 韓国の歴史であるから、韓国人に任せて盲信すればよいという態度で
考古学との齟齬などの質問には、答えを貰えなかった。
883唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/26(火) 23:59:19.20
>314頃にライン引いてあげるとすり替わったのはラインの後側とゆうことにはなるがな

316年 西晋滅ぶ。
ここから、半島は大きく変わるのである。

新羅が女系から男系へかえるのもこの時点。
軍隊を再編するのもこの時点。
この時点では、濊貊=不耐濊=扶余=百済 百済は郡の守備についている。
だから、この時点で、百済と高句麗の戦いはある。
342年に高句麗は、前燕に大敗し、以後前燕に基準するから戦いは無い。
魏・晋が管理する時代にも、地方勢力どうし(百済と新羅など)の戦いは無い。

もし戦いがあれば、時代を疑うのが常識である。

884唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/27(水) 00:01:15.73
訂正
×342年に高句麗は、前燕に大敗し、以後前燕に基準するから戦いは無い。

○342年に高句麗は、前燕に大敗し、以後前燕に帰順するから戦いは無い。
885橙犬者:2012/06/27(水) 00:02:20.49
>>861
唐松山さん、有難うございます。
>記紀の記事をすべて率直に認める必要は無い。
 私もそうだろうと思っています。 ホツマについては知識が僅かですので、何も申し上げられません。

>七支刀もその銘から容認できる位置は限られる。
 仰るとおり、容認できる西暦は限られると思います。
>七支刀から逆算すれば神功元年は275年になる。
 私には判断できませんが、可能性は否定しません。

>日食の273年は得られない。
>これを無理して273年に設定すれば、他の設定すべてが狂う。
 阿豆那比之罪を根拠として、日食だと仰っているのでしょうか?
 「他の設定すべてが狂う」この部分は、申し訳ありませんが、私には判断できません。

○唐松山さんが2012/06/25(月)に>847で次の様に、「日食が起きる時」を仰っています。
 私(橙犬者)が2012/06/25(月)にした「日食が起きるのは、新月の時(朔日)」についての発言>846に対して
T.唐松山さんは、「日食が起きるのは、新月の時(朔日とその前日)だけのようです。」と訂正してくださいました。

U.唐松山さんが2012/06/06(水)に>378で次の様に「あづないの罪=日食、273年、北陸で見られた」と仰っています。
>神功皇后の指標は、あづないの罪。
>ア(太陽)とヅ(月)が同時に無くなる。つまり、日食である。
>273年、北陸で見られたという、完全食・・>>414

T.「日食が起きるのは、新月の時(朔日とその前日)だけのようです。」と唐松山さんが訂正してくださいました。
U.「阿豆那比之罪=日食」と唐松山さんは主張されています。
 双方から、阿豆那比之罪(日食)が起きた日は、「朔日とその前日」となります。

 西暦何年の話かは別として、紀の国の小竹宮での阿豆那比之罪(日食)の事件は
 神功皇后が筑紫橿日宮から二月に移動を開始して、「三月丙申朔」庚子に武内宿禰に戦闘を命じる迄の間にありました。

●「阿豆那比之罪=日食」の主張が成立する根拠が理解できなくなったのです。
886橙犬者:2012/06/27(水) 00:03:50.26
>>862
日本@名無史さん、お教え有難うございます。
日食と朔日の関係を、判り易くお教え戴けると有りがたいのです。
手当たり次第、日食と朔日について、読んでみましたが、難しくて理解しきれないないのです。
頭が悪いのも有るのですが・・・・
旧暦一ヶ月は約29.53日のようですので、次第に日付にズレが生じるまでは判ったつもりなのです。
そこからが・・・???
887日本@名無史さん:2012/06/27(水) 00:09:45.92
大国に変わる別キャラを生み出したか
888唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/27(水) 00:15:50.83
奈勿聖帝 四年 正月 行白龍祭 (320)(AD380)
ドングボ(登保)各間が死んだ.
内海制(奈解帝)の孫で祖母は玉貌(玉帽)太后で, お父さんは重くて(仲解)太子と言って, お母さんはドングセ(登世)弓奏で鳥糞(助賁)提議マボックニョ(摩腹女)だ. ・・・
三公が王を守ったしそんな縁由で太公(太公)の例で葬った. 春秋 64歳だった.

助賁尼師今 230~247  ・沾解泥師今 247~261 ・儒禮泥師今 284~298
基臨泥師今 298~310  ・訖解泥師今 310~356 ・奈勿麻立干 356~402

いずれにせよ、新羅本紀の世継ぎは狂っている。
干支の60年違いや、46年違いといった数字が割り出されている。
この違いを修正して、3国史記の数字を整合させなければ歴史の数字とはならない。
百済王家を46年前に設定すれば、七支刀=326年になり、書記の記述は正しいとなる。
韓国人はこの数字を好まないから、新羅本紀の数字を引き下げようとする。
現在、韓国の歴史は百済本記を基本として語られている。
だから、4世紀前半の説明ができない(韓国考古学と編年の上には50年の齟齬がある)
新羅本紀を百済本紀に整合させてもこの空白は埋まらない。
空白を埋める方法は、百済本紀を新羅本紀に整合させる。 奈勿麻立干を儒禮泥師今・基
臨泥師今に整合させる。
その結果としての、書記の言い分を認めることができない。
百済建国は、領土分与を持ってなされた。こんな結果を認めるくらいなら、
未知の4世紀前半を受け入れる方が、心の安寧を得られる。
889唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/27(水) 00:35:35.20
>>885
>「他の設定すべてが狂う」この部分は、申し訳ありませんが、私には判断できません。

編年を何のためにするか?
それは、正しい位置を把握し、世界の歴史へ組み込めるようにすることである。
だから、正しい太陰暦による正しい位置の把握である。

後漢193年=新羅192年=崇神5年。
239年邪馬台国官伊支馬=垂仁末年。
274年 神功渡海
275年 神功元年
323年 神功49年 半島占拠と領土分与及び千熊長彦。
326年 七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)

313癸酉 神功39年己未=大歳を仁徳元年とする。
神功紀と百済王家は120年差。
神功39年己未と313癸酉は、74年差(120−74=46年差でもある)

奈勿大圣神帝7年 水羊、癸未 倭臣熊彦=千熊長彦 (神功49年己巳)
三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多 聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗
3月, 付与(夫余)の流民(流民) 30号(戸)がまた投降して来た.
夫余が倭とお互いに上通(相通)して毎年その民を受け入れて都城と田舍に分散させて配置した.
ウェシン(倭臣) ウングオン(熊彦)は美しくて話術が良くて子供(阿□)とお互いに情を通じてその言葉を聞き入れる事が多いのでお吸物である(国人)らが離反(離反)してあるいは私たちに来てあるいは高句麗に行ったりした.
奈勿大圣神帝8年 木神、甲申 (神功64年甲申)
夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之

癸未と神功49年己巳は46年差であるが、翌年の記事では、120年差となる。

890日本@名無史さん:2012/06/27(水) 00:38:15.81
>>888

(奈勿)四年(380)
正月 行白龍祭
    碧狒伊伐飡 村氏 稟主
三月 夫余入貢 登保角干卒
四月 大水 山崩十三所
    尊末仇角干爲世神葛文王
    末マ角干亦如之 親祀花林及月嬭諸廟
    内留生 馬兒女舍留
    太聖生 女俊勿 于海宮
    選民 武藝特出 脅力過人 異技熟工者 屬于兵官 薦引發告者 亦有賞賜
    加耶 慕訶 獻其庶妹思氏
六月 置土武典 部曲州郡武士
七月 豊麥 得三年穀 民多棄之 命收官廩
    宝色伊伐飡 勿仁 稟主
九月 行大場
十月 麗使 方夫流至 甚無禮 三生欲殺之 帝止之 厚遇而送之 夫流歸告 鷄林有君
891唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/27(水) 00:51:56.36
癸未と神功49年己巳は46年差(76年差)であるが、翌年の記事では、120年差となる。
つまり、120年差とは、神功紀の干支を差し込んだものである。

>六月 置土武典 部曲州郡武士
>十月 麗使 方夫流至 甚無禮 三生欲殺之 帝止之 厚遇而送之 夫流歸告 鷄林有君

ここが新羅の軍の再編成になる。
西晋が滅んでから、60年以上後とできるか?
320年であれば、
(319年) 高句麗 冬十二月、晋の平州刺史「崔」が(慕容廆に駆逐され)奔って来た。
の翌年であり、高圧的態度もある。
892唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/27(水) 19:43:36.81
朝鮮上古史 (1) :: 바람따라 구름따라
朝鮮上古史 제 1 편 총론
http://hys5005.tistory.com/m/post/view/id/666
直訳 抜粋
しかし、朝鮮人が読んで、朝鮮や外国人が知っている朝鮮住んでいるすべてのこぶのついた朝鮮小
夜、正しい朝鮮史ではなかった。 どうせの記録がそのような多間違っているのであれば何に基づ
いて正しい朝鮮史を建てるか?・・・

4.母丘検(グァングゴム)の侵略と第2丸都(環刀)の陷落
http://hys5005.tistory.com/667
直訳
紀元 245年頃に上がトンチョン王のひんぱんな侵入を心配して , 幼主自社グァングゴムを送って数だけの軍事
に侵略して来るので王が非類数 ( 沸流水 ) でこれをそう争ってグァングゴムを大きく撃破して 3千余人を首
を切って , 両麦曲 ( 梁貊谷 ) まで追撃してまた 3 千余人を首を切った . 王は , "上の多くの軍事が私たちの
少ない軍事だけできない ." して , ここに多くの長寿たちは後方で戦うことを見物するようにして王が自ら鉄
器 ( 鉄騎 ) 5 千を従えて進撃したが , グァングゴムなどが私たちの軍事が少ないことを見て死ぬ力をつくして
血戦をして進んで来るので , 王の軍事が退却したら後軍が驚いて崩れていよいよ惨敗して上限軍事が 1 万 8
千を超えた .

このけんかに対する記事は金腐食が三国志と肉 ( 古記 ) を混ぜっ返して高句麗本紀に記録して入れたので
先後の記事がお互いに矛盾するのが多い .・・・定時 5 年と 6 年はトンチョン王 18 年と l9 年だ . しか
し三国志本紀には定時 7年に , "幼主自社グァングゴムが高句麗を打った ( 幽州刺史母丘倹 討高句麗 ). "
と言って高句麗本紀と当たる . どっちを従うことが正しいことか ?
893唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/27(水) 19:46:22.23
第 8 編南方の多くの国の对高句麗空手同盟(攻守同盟)
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?hl=ja&prev=/search%3Fq%3D%25EB%258B%25A8%25EC%259E%25AC(%25E4%25B8%25B9%25E9%25B
http://translate.googleusercontent.com/translate_c?hl=ja&prev=/search%3Fq%3D%25EB%258B%25A8%25EC%259E%25AC

新羅は、元々その地方の高句麗と遠く百済と近く高句麗より百済との関係がより複雑にした。 しかし、三国史記に
載っている新ラ•百済関係の記録は信じが少ないから、その一、二例を見よう。 要するに、新羅が脱解尼師今(脱解
尼师今)以来、百済とお互いに2百人ほどの少ない軍の歴史(沿革)も伝えられていないワサン(蛙山)鳳山(烽山)
などを、ほぼ毎年奪ってペアトギゴンたが、・・・
894日本@名無史さん:2012/06/27(水) 20:02:02.99
895日本@名無史さん:2012/06/27(水) 20:10:34.02
上の1989年にでてきた『花郎世記』のネタ本のが

『月嬭神經』 (月のおっぱい神伝)
奈勿大聖神帝紀 上
http://blog.naver.com/xual/120101901257
奈勿大聖神帝紀 下
http://blog.naver.com/xual/120101901311
896橙犬者:2012/06/27(水) 20:58:07.04
>>889
唐松山さん、有難うございます。
○唐松山さんが2012/06/26(火)に>861で次の様に、仰っています。
>七支刀から逆算すれば神功元年は275年になる。
>日食の273年は得られない。
>これを無理して273年に設定すれば、他の設定すべてが狂う。
 私がご質問した理由を省略してしまい、誤解を招くようなお問い合わせになりましたことを、お詫び致します。

唐松山さんが、色々な知識、傍証などから編年全体をお考えになり、編年を試みていらっしゃることは承知しております。
私(橙犬者)は間違いなくそうであろうと考えております。

そこに、「他の設定すべてが狂う」とのお言葉があり、ビックリしました。

沢山の根拠から、編年を試みておられますので、「阿豆那比之罪=日食」部分はその中のほんの一部であると考えておりました。
「阿豆那比之罪=日食」が、異なってきたからといって、「他の設定すべてが狂う」とは、考えられなかったのです。

●そして、唐松山さんが強く主張されている「阿豆那比之罪=日食」に、 より強力な根拠で、他にも影響を与えるような理由があるのかと思ったのです。

それで、私(橙犬者)は2012/06/27(水)の>885で、「他の設定すべてが狂う」この部分は、「申し訳ありませんが、私には判断できません。」と、お聞きしたので

す。

しつこいのですが。 私(橙犬者)は2012/06/27(水)の>885で、申し上げた趣旨の
T.「日食が起きるのは、新月の時(朔日とその前日)だけのようです。」と唐松山さんが訂正してくださいました。
U.「阿豆那比之罪=日食」と唐松山さんは主張されています。

 双方から、阿豆那比之罪(日食)が起きた日は、「朔日とその前日」となります。
 西暦何年の話かは別として、紀の国の小竹宮での阿豆那比之罪(日食と唐松山さんが主張されている)の事件は
 神功皇后が筑紫橿日宮から二月に移動を開始して、「三月丙申朔」庚子に武内宿禰に戦闘を命じる迄の間にありました。

 つまり、阿豆那比之罪の時に、新月(朔日とその前日)は存在しないと考えます。
●「阿豆那比之罪=日食」の主張が成立する根拠が理解できなくなったので、根拠を、ご説明戴きたいのです。
897唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/27(水) 21:56:28.60
>>896仲哀天皇 266年〜274年 ≒0章 273年日食(神功元年に注入)

273年 5月 4日 食率0.944(大和の推定値)最大16時56分。
中国なら、西晉武帝泰始9年4月戊辰朔が候補かな?
九年夏四月戊辰朔,日有蝕之。

898卑弥呼は朝鮮にいた:2012/06/27(水) 22:01:13.25
今日は目先を変えて、始祖<芻牟大帝>紀と百済王記の仇知王紀を読んでみた。
どちらも収穫が多かったが、特に仇知王紀が有益だった。

仇台は仇知ではない。公孫度の娘を娶ったのも仇台ではない。仇知である。
仇知は公孫康の娘も娶っている。

しかし仇知王紀がすばらしいのは、紀年が中国史書とピッタリ一致していることである。
唐松氏よ、これは必読だ。絶対的な編年の基準に使える。

逸聖尼師今 (192-212) ←仇知王紀
逸聖尼師今(134-154)←新羅本紀とは58年差がある。

肖古王 (226-) ←仇知王紀
肖古王(166年 - 214年)←百済本紀とはちょうど60年差がある。
そのためかどうかは知らないが百済本紀には仇知王が脱落している。

延優(山上王)(197-)←仇知王紀
山上王(197-227)←高句麗本紀とはピッタリ一致している。

http://www.histopia.net/zbxe/free/17412

↑編年に関心を持つ人は必読。神功と応神は60年ずらせば(古くすれば)良いことが分かった。
899唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/27(水) 22:09:13.57
つまり、この日食は、時と場所が書かれていない、差込記事である。
ただし、時空を設定するためには、日食は重要な情報である。
この日食が、神功元年あたりにあったことは、情報として、書紀編纂者は得ていた。
だから、差し込んだのではないかと推測している。
この日食は、計算値によると、北陸で全食が見られたと思われる。
神功の出発地だ。神功に近い筋が持っていた情報ということだろうと思う。
900唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/27(水) 22:34:28.64
11.02.14. 21:58 ラジオ様カフェーにウルブルデワングゾンがよく整理されている. 本当にこぎれいな文だ. ところがナクラン王自白が誰なのか遂に捜し出すことができなかった.
時間がある時ウルブルデワングゾンを耽読して見る必要があるようだ.まさしく付与の旺盛は該氏(解氏)で, 百済の旺盛は該氏(解氏)からヨシ(余氏)に変貌しました.
ところで付与王余弦(余玄)と瀬(余蔚)は付与王だと称しています.

確かに性がヨシ(余氏)です.
それでは余弦と瀬は百済のワングギェです.
それなら余弦は誰でしょうか? 彼の在位期間は 346年までです.
百済にこのような者がいましょうか? あります. すぐギェワングですね.
すぐ余弦がギェワングであることです.
チェックギェワング->分署王で分署王が非類王に暗殺されると付与の王で上がったのですね.
その基盤はおおよそジンピョンググン位と思います.
そして余弦が死ぬと近肖古王の本格的な在位が始まったと書いておいたのです.

346−46=300年 このあたりが肖古王を一人とした場合の
肖古王即位である。
329年己丑・神功55年乙亥 肖古王崩御。

まあ、半島の文献があてにならないということを理解しただけでも大前進だ。


901唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/06/27(水) 22:53:54.75
>しかし仇知王紀がすばらしいのは、紀年が中国史書とピッタリ一致していることである。

だから、それはラジオ氏の編纂なんだって。
後漢193年=新羅192年=崇神5年
欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。

崇神世に任那建国を認める当方としては、この設定を見捨てるわけにはゆかない。
902卑弥呼は朝鮮にいた
>>901
ラジオ氏が仇知王紀の干支を書き換えているということか?