1 :
日本@名無史さん:
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。
1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
(日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。
朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
前スレ
邪馬台国は西都原(宮崎県西都市)である
http://logsoku.com/thread/awabi.2ch.net/history/1296451185
前スレの流れがわかるようにかいつまんだテンプレート
日向の古墳で卑弥呼の墓の候補は、西都原81号墳などで、
畿内なら箸墓古墳だろうけど、
出土品の新旧ぐらいしか、つまり何世紀に作られたか、ぐらいしか記されておらん。
ttp://www.gurunet-miyazaki.com/kankouti/saitobarumain/kofun/81gofunhappyo0592-1.jpg 畿内から九州に入った土器文化として代表的な
ものに櫛目波状文土器が挙げられる。
それは、弥生中期に畿内に発生した櫛描文土器
文化が瀬戸内海を経て九州に入り、弥生後期〜
終末期における九州東部(大分県・宮崎県)で
顕著な発展をとげたものである。
>宮崎が邪馬台国とか言ってるやつは、何が根拠なんだ。
倭人伝のとおりに進めば宮崎だ。それに中国が王侯に与えた玉璧がでているのは
宮崎だけだ。弥生時代から古墳時代にかけ連続して繁栄していたことが考古学的
に確認できるのも宮崎だけだ。
どう進んだら宮崎なんだよww
玉璧って串間のやつだろ?箱書にかいてあるだ
けで、本当に串間の遺跡からでたのかもわから
ない。
上北方の笠置山墳墓にしろ生目古墳群の近くの北にあるものは
確実に生目より古くて、古墳時代の範囲すら出かねないからもはや古墳ではないということで
面倒や前提が覆るのを怖がって調査しないということらしいが
これらが事実ならもう確定だろうな
箸墓古墳 撥形前方後円墳
全長280m 後円部直径157m/高さ22m 前方部幅125m/高さ13m
生目1号墳 撥形前方後円墳
全長136m、後円部直径86m/高さ17m 前方部幅65m/高さ12m
生目古墳群(いきめこふんぐん)にある地下式横穴墓1号墳は全長136メートル、高さ17メートルの前方後円墳。
一説にわが国最古の前方後円墳といわれ、畿内の箸墓古墳はこの古墳を2倍に拡大した相似形と言われている。
これが神武東征の動かぬ証拠だ。
>水行一日を千里、陸行一月を二千里という換算で、
水行10日は距離の不明確な帯方郡から末盧国までの海路1万余里。
末盧国から陸行2000里が1ヵ月。
投馬国への水行10日も末盧国までの海路1万余里と、
ここから先、残りの水行10日は、里程を知らない倭人の手漕ぎ倭船による日程。
(中国人は投馬国へは行ってはいない)。
>陸行一月を二千里という部分の 根拠がよくわからない。
1万2000里から海路10日の1万余里を引くだけ。根拠など無用。
>短里二千里なら、150キロ〜160キロ程度だが。
短里など持ち出さなくても、魏の公式尺度の6〜6.5倍で書かれているという事実がある。
>>214 >水行十日陸行一月が、帯方郡からの距離なら、
>不弥国から先の距離は記載していなかったことになる。
1000家(1000戸ではない)の不弥国は、邪馬台国エリアに入る最終関門の官衙とみた。
>距離がないのは、全行程から引き算して求めよという、
「簡潔にして饒舌」をもってよしとする歴史書は、行間のほうが饒舌な場合が多い。
不弥国から邪馬台国までは、残りの陸路1300里。バカでも計算できる。
ただし、すべて魏の公式尺度の6〜6.5倍で書かれている。
>水行陸行の日数表記は、 距離を表していると解釈する。
だ・か・ら。
「日数表記」が「距離を表している」とは日本語にもなっていなかろう。
いずれにしても、「邪馬台国が墓場の西都原」などとは現実からほど遠い願望空論だ。
玉璧って串間から出たと江戸時代に書かれてる話だろ
串間は高鍋藩が治めた飛地だ
高鍋藩の本領には古墳群がいくつかあるんだが原因は不明だが過去の盗掘がひどい
幕府領だった西都原の妻・穂北は状況は良いけどな
6 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 00:26:08.09
>>4 万二千里では邪馬台国までは行かないぞ。末盧国から二千里(150〜170キロ)
はせいぜい熊本だ。
7 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 00:33:11.91
10000里で約700kmだからな
末盧国から残り2000里だとどんなに遠くても熊本だな
直線じゃ行けないし
8 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 00:58:41.50
伊都国から先を考えれば、残りは千五百里だ。これは百キロから百二十キロ。
倭人伝が書く水行十日陸行1月とは絶対に合わない。
つまり、万二千里というのは、邪馬台国までの距離ではない。女王国までの距離に
過ぎないってことだよ。で、女王国とは何だ?って話になる。
9 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 01:11:14.82
女王国とは何か? ここで注目すべきは、旁国の奴国について「此女王境界所尽」
とあることだ。当然、これは奴国までは女王国だってこと。
つまり、万二千里の所から境界の尽きる奴国までの間にある国々が女王国に属する
国々だってことだな。
10 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 01:15:15.92
自郡至女王國、萬二千餘里
末廬國までに1万里、伊都国までに10500里使ってる
残り1500里だと熊本の八代あたりになるな
陸行で二千里しか使えないのに陸行一月ってどういうこと
12 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 01:34:58.98
女王国の北の境界までが二千里なんだよ。
邪馬台国までが二千里なのではない。邪馬台国までの距離は良く分からない
から水行十日陸行一月と日数で書いているんだ。
13 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 01:44:52.95
境界までの距離だというと拒否反応を起こす連中が多いが、魏志は何度もそうゆう
書き方をしているんだよ。扶余は玄莵を去ること千里に在り、高句麗は遼東の東千里
に在り、これらはどれも国の境界の話だ。
14 :
いい男:2012/05/17(木) 06:18:24.45
>>4 この名無しは誰だ? まるで俺説のコピーだが。
どこかで俺が書いたのをコピペしたのか? 気味がわるいぜ。
孫引きするのは構わんが、「伊作説」と断りを入れろや。
15 :
岸総理と昭和天皇は「はとこ」:2012/05/17(木) 11:35:15.57
こういうこと?
水行10日が帯方郡→末盧国の10000余里
『南至投馬國水行二十日』
これも帯方郡からかかる日数
つまり末盧国から水行10日陸行0日が投馬國
『南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月』
末盧国から水行0日陸行30日
『次有奴國 此女王境界所盡』
奴國は伊都国から南東へ100里=陸行数時間、帯方郡から10600里(海路10000陸路600)で水行10日陸行2日ほど
伊都国と奴國との境界までを記していて2万戸を有する奴國は当然さらに奥へ続く
同様に帯方郡から12000里、末盧国から2000里約150kmが女王國との境界までの距離
女王之所都は境界からまだまだ進まなければならない
九州から出ることもじゅうぶん可能になって九州説には不利な考え方だね
ただ当時の手漕ぎ舟で1日に1000里70〜80km進めるのかという疑問が
>>14 ごめん
>2>3>4は前スレからのコピペ
時期を考えれば当然かとは思うけどほとんど無視されてる例の二つ。
同時期築造で隣り合ってる例の狭穂塚×2はどういうふうに受け止める?
コノハナサクヤヒメはどうかと思うしやっぱ日向髪長媛と父君の墓なんかね?
同時期に同じ場所にあれだけ接して作ってるしかも九州1番目と2番目の規模だ磐井比定陵墓よりかなりでかい。
明らかに異様なことが起こってるが先がぼんやり見えてるからあんまりおもしろくはないか。
男狭穂塚は謎が残るが女狭穂塚はどう見ても5世紀のシロモノで、
それまでぼんやりだった大和朝廷にはっきり組み込まれた証左に思える。
もっと古い生目のはずれにあるものと笠置というものが興味深い。
笠置というのはなんだかよくわからんが。
笠置とか上北方とか笠置山と教育委員会とか遺跡資料リポジトリとセットで検索しても出てこん
21 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 23:45:37.25
>>16 デタラメな読み方をして辻褄を合わせてみたところで何にもならん。
22 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 02:31:01.59
「魏志倭人伝」には「男子は大小と無く、皆黥面(げいめん)文身す」とあるから、
当時の日本人の男は大人も子供も顔や体に入れ墨をしていたらしい。水に潜って魚をとる海人が大魚の襲撃を防ぐまじないにしたのが、
後に飾りとなったのだという
▲ならば入れ墨のない者は当時の役所をクビになったのか??とは、むろん大阪市での職員への入れ墨調査を聞いて頭をよぎった妄想である。
役所が職員の入れ墨の有無を一斉調査するというのもびっくりだが、「110人」という調査結果にも驚いた向きが多かろう
▲そういえば最近タトゥーと呼ばれるファッション感覚の入れ墨を就職活動を機に消す手術をする若者が多いという。
欧米の映画などをまねて気軽に入れたタトゥーも、いざ職探しとなれば入れ墨がアウトローのシンボルとされてきた日本社会の市民感覚に突きあたる
▲さて映画では片肌脱いで桜吹雪を見せる遠山の金さんこと町奉行、遠山景元には本当に入れ墨があったか。
放蕩(ほうとう)ざんまいの若い頃に遊び仲間と腕に桜の入れ墨をしたと記すのは元幕臣の漢学者、中根香亭だ。
旗本の子弟が「武家彫り」などという入れ墨をした時代だ
▲だが香亭によれば、幕府で昇進をとげてからは常に肌着をきつくまとい、夏も脱ぐことがなかったという。
さて景元は「若気の至り」を後悔したのかどうか。ともあれこと奉行としては若い時の体験ゆえに下情に通じたみごとな裁きをしたと香亭は絶賛を惜しまない
▲大阪市職員の入れ墨事情は人それぞれだろうし、何らかの措置が必要なケースもあろう。
ただ未来の景元を失わぬようにするのも組織の「マネジメント」だ。
毎日新聞 2012年05月18日 00時16分
http://mainichi.jp/opinion/news/20120518k0000m070123000c.html
23 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 17:58:37.49
魏志倭人伝とか連続とか放射?とかそういうのは習った覚えがあるけどそれしか知らん俺に言わせれば
デタラメなのか正しいのか分からない
>>16さんの読み方でも西都原か知らんけどこのへんに持って来れるんじゃね?w
帯方郡って朝鮮半島でしたよね?
『南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月』 てのはつまり南に邪馬壹國があって舟で10日歩いて1ヶ月って意味なんでしょ?
舟で10日てのは九州の北の海岸に着いたってことでしょ
そこから1ヶ月?南ときてる?w
最強すぎるだろwww
それとも鹿児島とかなんですかね
アホが汚してすまんけど
24 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 19:09:59.53
伊都国から南へ水行十日陸行1月で邪馬台国へ到達するということですね。
当時の旅はゆっくりしたものですし、2日歩いたら1日休みみたいなペースです。
平均すれば、1日6、7キロという進行速度、邪馬台国は南九州です。
>>23 素直に読めばそうなるな。先入観が無い子供に読ませてもそうなる。
医学のある分野の権威の人とか自然科学者とか理系の人が読んでもそうなるらしく、そういう本も出てる。
ただそうすると考古学的視点から考える考古学者はなんなのかという話になって意図せず考古学を侮辱することになる。
学者じゃない趣味でやる一般人はそんなこと知らんし考え方が見れれば良いだけの話なんだけどな。
>>24 それがどうも末廬國から陸行30日じゃないかという話の>16>23なんだがそうすると九州を出る可能性が出てくるな
でたらめ読みなのか
いやそうならんwすまん
邪馬壹國の南には狗奴國がなきゃならん。
なので南が海の鹿児島は地理的に無理がある。
鹿児島は投馬國ということになってて、大隅から球磨にかけて狗奴國というのがここでの話だな。
あくまでこの場ではな。
次有斯馬國〜次有奴國 此女王境界所盡 ときて
其南有狗奴國 とくるんだが、これにも不都合な点がない。
奴國にとっても邪馬壹國にとっても南方に狗奴國があるのだから。
28 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 19:45:13.24
>それがどうも末廬國から陸行30日じゃないかという話の>16>23なんだが
水行十日が末盧国までの話だとか、陸行1月が末盧国からだというような読み方は、
漢文を読める者ならば絶対にしないデタラメ読みだよ。
29 :
いい男:2012/05/18(金) 20:01:32.24
>漢文を読める者ならば
行程記事の文章構成をみれば、起承転結で転じた部分の語順がまるで違っていることに気づく。
中国語は語順が重要な言語で、語順が違えば読み方も意味も違ってくる。
お前らタコは、読み変えが必要な文章を、バカづらさげて続け読みしてるだけだ。
偉そうに大口叩くな。
俺はセンターで7割レベルの漢文力だw
魏志倭人伝を手元に持ってないので、ここで出てる
『南至投馬國水行二十日』
『南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月』
『次有奴國 此女王境界所盡』しか知らない
探してみます
倭人在帯方東南大海之中依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島方可四百餘里
土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活乗船南北市糴
又南渡一海千餘里名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里
多竹木叢林 有三千許家 差有田地耕田猶不足食 亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國 宮曰爾支 副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王皆統属女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰兒馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲 支次曰奴佳醍 可七萬餘戸
自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有窮臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里
計其道里當在會稽東冶之東
場所比定に関するとこだけ抜粋
すまんけど字は違うとこがあるし改行も空白も分かりやすく入れただけ
陸行一月を好きな方位にするなら、最初から行程なんて考えなくていいんじゃない
どうせ進んだ距離も目的地に合わせてるだけだから
34 :
いい男:2012/05/18(金) 21:36:48.44
>>30 なんだ・その「センターで7割レベルの漢文力」て。
中国語の古文と古文の文法が正しく分かるのでなければ、
7割レベルの読みで決まったというような、無責任な断定はしてくれるなよ。
35 :
いい男:2012/05/18(金) 21:41:03.23
36 :
いい男:2012/05/18(金) 21:43:23.41
おっと。
これも日本では俺独自のものだ。
先の例のように、クレジットも入れずパクったり無断使用は禁じる。
37 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 21:57:43.92
>>31>>35乙!
ありがてぇ
勉強みたいに強いられるんじゃないこういうのおもしろいな
よーく考えてみますありがとう
>>33 素直に読めってんならもっともだよな。
南至邪馬壹國で水行十日陸行一月なんだから南に水行十日して上陸して南に陸行一月しなきゃならない。
でもそれならそのまま水行すればいいだけで不自然。
陸行で北に逆戻りするようなのも不自然。
上陸地点から西〜南西か東〜南東なのが自然だと思うんだよな。
陸行ならどこ行ってもいいってわけでもないよ。
中国天子の代理として日本に来る目的は一つ
日本の植物やら見て廻ったおっさんみたいにあっちこっち歩き回ったりしないよ
船でズドンだよ 魏も戦時下で暇じゃないんだから
本当に陸行一月したのか縛り上げて白状させたいな
戦の最中の狗奴国を避けるために外縁を通るように九州山地を延々と
前に八代→坂本村→五木村→水上村→椎葉村→西米良村→西都とか言われてるが
たしかに一月くらいかかりそうだが歩きたくないよ
陸行一月って狗奴国とか特殊な事情があっても全国規模で見ても限られてるんじゃないの
41 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 23:30:32.73
>>40 それは平家の落人のたどった道みたいだな。
上陸地点は川内だな
唐浜という地名が残ってる
そこから川内川経由だろ
43 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 00:55:42.27
>南至邪馬壹國で水行十日陸行一月なんだから南に水行十日して上陸して南に陸行一月しなきゃならない。
>でもそれならそのまま水行すればいいだけで不自然。
伊都国が怡土ならば、確かにそのまま水行すればってことになる。しかし、倭人伝のとおり進んで
伊都国=佐賀市付近ならば、陸行五百里も合理的だよ。海流に逆らって西回りに船を進めるのは大変
だ、陸行して有明海側に移動することは労力的にも安全面でも十分に考えられる。
44 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 01:17:43.46
「魏志倭人伝」には「男子は大小と無く、皆黥面(げいめん)文身す」とあるから、当時の日本人の男は大人も子供も顔や体に入れ墨をしていたらしい。
水に潜って魚をとる海人が大魚の襲撃を防ぐまじないにしたのが、後に飾りとなったのだという
▲ならば入れ墨のない者は当時の役所をクビになったのか??とは、むろん大阪市での職員への入れ墨調査を聞いて頭をよぎった妄想である。
役所が職員の入れ墨の有無を一斉調査するというのもびっくりだが、「110人」という調査結果にも驚いた向きが多かろう
▲そういえば最近タトゥーと呼ばれるファッション感覚の入れ墨を就職活動を機に消す手術をする若者が多いという。
欧米の映画などをまねて気軽に入れたタトゥーも、いざ職探しとなれば入れ墨がアウトローのシンボルとされてきた日本社会の市民感覚に突きあたる
▲さて映画では片肌脱いで桜吹雪を見せる遠山の金さんこと町奉行、遠山景元には本当に入れ墨があったか。
放蕩(ほうとう)ざんまいの若い頃に遊び仲間と腕に桜の入れ墨をしたと記すのは元幕臣の漢学者、中根香亭だ。
旗本の子弟が「武家彫り」などという入れ墨をした時代だ
▲だが香亭によれば、幕府で昇進をとげてからは常に肌着をきつくまとい、夏も脱ぐことがなかったという。
さて景元は「若気の至り」を後悔したのかどうか。ともあれこと奉行としては若い時の体験ゆえに下情に通じたみごとな裁きをしたと香亭は絶賛を惜しまない
▲大阪市職員の入れ墨事情は人それぞれだろうし、何らかの措置が必要なケースもあろう。
ただ未来の景元を失わぬようにするのも組織の「マネジメント」だ。
▽毎日新聞 2012年05月18日 00時16分
http://mainichi.jp/opinion/news/20120518k0000m070123000c.html
45 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 04:54:46.04
以下は言語学者の川崎氏の主張抜粋の引用。
「 狗加は犬トーテムだ。証明は略し、これが高句麗では桂寠部となり、王を出す部族となる。
ご承知のように韓国では犬を食べる。トーテムとは崇拝する事はあっても、自分の神を食べる事はありえない。
このことからして朝鮮の人々は犬族を今でも快く思っていないようだ。
犬族は印欧系であるという。エジプトで犬はエルと発音しそれが転じてエン、インになった。
En-g-land、G−er-man In−d、Ira−q、Ira−n すべてに、enとinが入っている。
これはすべてアーリア人の国であることを証明している。つまり、犬族はアーリア人だったと言う事だ。
狄(てき)は犬ヘンに火、犬族で拝火教徒、もしくは製鉄部隊を示している。」
地理的なものや、時間軸から考えても隼人の犬吠がこの流れを汲んでいると考えるのは自然な事だろう。
高句麗と隼人は同根であり、南九州の支配民族であって原住民族とは別種だと考えられる。
薩摩藩は類のない上士下士の身分差が激しい国だったが、逆に言えば、他の地域のように旧勢力を一掃できなかった事実を示す。
鎌倉以降に中央から任命された島津氏が、それ以後は下士として扱われる事になった旧勢力に対し
政治的譲歩せざるをえなかったほど強固な政治地盤を持っていた事を示す。
さらに後年、秀吉も家康も、それぞれ薩摩を解体するチャンスがあったにもかかわらずこの地域には一切触れようとしていない。
これはなぜか。
46 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 04:59:23.63
一方で大和民族は鳥トーテム。
ここでも引用しよう。
「 猪加はいのしし、あるいは豚を表す部族であるが、トーテムとしてとてもふさわしいとは思えない。
朝鮮、中国ではその発音は「ちょ」であり、殷時代の主力、鳥トーテム部族と思われる。
殷のマークは「三本足烏」であり、高句麗の伝説、ヤタガラスそのものである。
「猪奴部」と書いて「ちょなべ」すなわち、順奴部であろう。
そして、いのししはヰであり、「ヰなべ」と読める。雄略12年、建築の専門家として、猪名部御田が登場する。
彼等は建築の達人だったのだ。三重県の員弁、猪名部神社は猪加の事だ。
原シナ人として殷王朝時代に燕を建国していた。しかし、牛族の周が殷を倒し、
塩族・牛族が燕の国王に「召公」を封じたため、満州方面に逃亡した。
日本では、「い」と「ヰ」を区別しない。
しかし、伊勢は「伊勢」であり、井上は「ヰのうえ」である。チョンナで木を削るのは猪名部の名残である。」
つまり、近畿勢力は中国の古代勢力、現シナ人だと見ていい。
要するに、大雑把にって、弥生人主力が彼らに当たると見ていいだろう。
47 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 06:21:10.51
では、銅鐸文化である旧近畿勢力は一体何者であるのか?
言うまでもなく銅鐸は牛の首飾りであり、牛トーテムの象徴であると見ていい。
牛トーテムはその発祥であるオリエントのものだ。
もう引用はアレなので略すが、言語的に見て銅鐸文化圏にその名残は多い。
つまり時間軸はこうだ。
3万5千年前→バイカル文化系定着。原日本人。
2万5千年前→姶良カルデラ形成。九州全滅。南方系がその後定着(熊襲)
3千年前→中央平原を移動してきた牛トーテムの民(ヒッタイト系火信仰)到達。近畿に政権。
2千300年前→中国から鳥トーテム渡来。
太陽信仰(アマテラス)と火信仰(スサノオ)のウケイ(政略結婚)が行われる。
連邦国家の邪馬台国(大和国)の誕生。
近畿を中国勢力(銅鐸系)が制圧し、出雲に旧勢力が存続する。
最初期の出雲大社がオリエントのピラミッドや祭壇に酷似してる点などを踏まえても、
出雲の方が古い勢力の名残である事は間違いない。
製鉄民(火信仰)もその激動の中渡来し、南九州に政権。隼人。
都井岬の馬の遺伝子から、馬もこの時にもたらされたと考えられる。隼人とは速人、つまり騎馬民族)
彼らが親衛隊となった理由も、同じ渡来系の戦闘に長けた民族だったからだろう。
2世紀頃→気候変動で政変。内紛。南中国系が駆逐され、北方中国系(銅鏡系)が政権を取る。
その後戦乱の時代が続く。
5世紀頃→九州の大和政権の傍流が隼人と連合。東征、近畿を制す→大和朝廷の誕生。
48 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 06:33:49.07
>現シナ人だと見ていい。
間違えた。原シナ人。
49 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 06:51:20.21
つまり、日本の武士(支配階級)の源流は大きく二つの民族に分かれるという事だ。
片方がオリエント系。後に騎馬系が融合。これが源氏。
もう片方が中国系の周王朝封建将軍の系列であり、平氏。
みなもと(である旧勢力)を平らげる、というのがおおもとの暗喩だろう。
50 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 07:06:34.36
絵がうまければ、漫画家にはなれるかも・・
>>39 だよな〜
後の時代みたいに牛車や籠に乗せるでもなく使者も歩くんだろーに
平家の落人の隠れ里になるようなそんな険しい道を通るか?って話で
東回りか横断するなら阿蘇高千穂経由だろうJK
それなら21国のうちいくらか通ってることになるね
52 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 13:10:37.48
53 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 13:12:32.77
出雲は古い古い原日本人正当日本的勢力で時期だけ考えればメソポタミアとかそんな影響を受けたかもね?
天孫は中国色が濃い新興勢力
どっちにしろ出雲の方が歴史が古い
55 :
日本@名無史さん:2012/05/19(土) 13:48:54.14
崇神天皇のおり、一度、出雲の御神体が大和に引き渡されている。
これは神主の留守に行われ、事態を知った神主が激怒し返還を求めたところ、殺された。
その御神体が三輪山にあるとも言われるが、その後も幾度か朝廷は出雲に人をやって
出雲の神体の調査を行っている。
この辺り良くわからないが、御神体だけではどうやら意味が分からないものだったらしい。
しかし、この事から確実に言える事は、出雲は伊勢よりも古く全く異質の宗教であったことが伺える。
出雲は毎年冬の初め頃西の海から海蛇がやってくるんだよね
重要なタンパク源として蒲焼にしておいしくいただいてたのかな
58 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 09:00:06.18
>5世紀頃→九州の大和政権の傍流が隼人と連合。東征、近畿を制す→大和朝廷の誕生。
古墳時代の途中で勢力交替があった形跡はない。
59 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 10:25:21.36
現代人の感覚では川や海を国境にしたがるが、それは軍事的技術が発達した国の話であって
国境は即ち気候区分の事だった。
九州と朝鮮南部、黄海は同じ気候で、同じ生活形態だった。
つまり、魏などからすれば、この地域は丸ごと同じ地域だった可能性は高い
それを踏まえて考察すると、
http://www.kyuhaku.com/pr/exhibition/exhibition_s17.html 中程の地図を見れば解る通り、実はこの地域の中心は熊本である事が解る。
大きな意味での倭国、はこの地域の事だったろう。
むしろ近畿や紀伊半島は同じ気候区分に属しながらも、はずれの辺境だった。
同じ考えでいくと、出雲を含む日本海沿岸、東海・関東は全く別の気候で
これらの地域は生活形態が違い、即ち倭国ではなかった。
狗奴国とはこれらの地域の事であったのだろう。
60 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 10:52:44.07
アジア大陸に近いのが九州、それが倭国というのは理解できますね。
しかし、熊本が中心として支配力をもったかとなると・・・
61 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 18:34:54.66
筑紫国なら博多湾岸、太宰府付近、場合によっては久留米付近に
中心部が移ることもあるだろう。
肥国なら、北部の菊池玉名と南部の熊本宇城八代
に動くこともあるかな。
佐賀に移す可能性は低いかもしれない。
62 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 19:14:05.15
相変わらず大多数バカ多いな
筑紫国とか肥国なんて国名は
邪馬台国時代からず〜と時代が下った
後に勝手に付けられた固有国名詞だろ
絶対的な固定観念に囚われすぎなんだよ
63 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 20:20:29.87
64 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 20:24:26.53
延喜式で既に肥後と呼ばれている。
同時代の他の地域と批准しても、
字面は当て字であるが、音は変わらない場合がほとんど。
うてな遺跡のうてなって「台」を「うてな」って読むんだな
熊本説の人ってこれに惑わされちゃってるのか?
66 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 21:53:09.24
延喜式って平安時代だよ
67 :
日本@名無史さん:2012/05/20(日) 21:58:56.78
肥前国風土記の時代ですでに肥前国であり、
それ以前は肥国であったと書かれている。
どのくらい遡るかは不明だが、
風土記以前であることは確実である。
68 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 19:20:20.47
天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊、あめにぎしくににぎし あまつひたかひこ ほの ににぎのみこと。
普通に解釈すれば、これは本来名前ではなく
天下全てがにぎやかに、天高く稲穂豊かなり、という祝詞の序文であろう事は想像に易い。
しかし、この日高彦、日が高い、はいかにも日向っぽくて男狭穂塚にふさわしく感じるけれども
実際にはこれは「ひこひこ」と読むのだろう。彦の彦であるから、孫の事。
そう考えるとこの名前にはルーツが見え隠れする。
では誰の孫であるか、といえば天照大神の孫で、あめ、は中国の天慶思想で
あまつ、はアマテラス家系である事を示す。
この事からもアマテラスが本来、男性神である事が伺える。(天皇家は父系だからね)
にぎしく、はにぎやか、つまり多くの国を従えた豊かな国、であり連邦国家の覇王である事を示す。
その意味で解釈すればホのニニギは
ひがにぎやかの神子、つまり「日の御子」であって卑弥呼の事である事が解る。
もっとも、卑弥呼とは人名ではなく役職名だろう。
つまり、倭国連邦議長国天照の孫、日御子という意味。
男狭穂塚が本当にニニギの陵墓であれば、そこには間違いなく邪馬台国の証、
魏製の銅鏡がはいっているだろう。
穀璧は魏でなく呉のものということなんだけど二股してたのかな?
呉血統だが俺のところにも朝貢して来てるぞっつう牽制だろ。ハッタリ作り話の可能性も大だなw
71 :
日本@名無史さん:2012/05/22(火) 22:26:28.09
>穀璧は魏でなく呉のものということなんだけど二股してたのかな?
南九州はもともとは呉と通交していたんだろう。その南九州が北九州を破り、
九州全体を支配することとなった。そこで、魏と通交することを考えたって
ことだろうな。
水行10日and陸行30日でなくて、水行10日or陸行30日の可能性はないの?
投馬国には同じ方向で水行20日だから、orなら投馬国への道程の中間点の海岸から遠くないところにあることになる。
其餘旁國遠絶不可得詳 が駄目になるけど。
さらに遠いところにある投馬国について分かってるじゃないかって。
やっぱりandなのか…
73 :
日本@名無史さん:2012/05/23(水) 07:59:28.29
>水行10日or陸行30日の可能性はないの?
学者でその主張をする人はいるが、駄目だろうね。投馬国については、陸行が書いてない。
それにorならば又はとか或いはという語句を入れるだろう。
or読みは距離を短くしたいがために無理をしているんだよ。
実際に旅した時に南至と東至を間違えるわけがないが、
書き記す時に誤った可能性を完全否定までできる根拠はないな。
南でなく東に向かったとすれば、水行10日+陸行1月で大和に行けるだろうな。
昔ながらの投馬国=妻国を捨てきれん
ミミとかミミナリとかかなり日向くさい
個人的には、古墳群形成より前の時代の日向の中心は現在の妻=西都に確定するほどではなく、
平野部で3つか4つの勢力に分散していて、そのうち最大勢力が宮崎市あたりにあったと思っているし、
また、日向国レベルの広域地名でツマと呼んでいたのか、そもそも当時にツマと呼ぶ地名があったのか
ってところで疑いが生まれるが、そう言うならどこでも同じだし投馬=妻、都万を捨てきれませんわ
狗奴国の狗古智卑狗=菊池彦といった熊本狗奴国説なら、その北が奴国か邪馬台国。
邪馬台国の場所が伊都国からにせよどこからにせよ水行10日and/or陸行30日というところで
「熊本狗奴国の北=邪馬台国説」は破綻するので、熊本狗奴国の北にあるのは奴国になるしそのあたりに位置するのはたぶん奴国だ。
投馬国=日向で狗奴国=熊本で奴国=福岡なら邪馬壹國はどこだとなると大和になるのか。
南至投馬国はだいたい合っているが、南至邪馬壹國が誤りで東至邪馬壹國が正解、邪馬壹國を畿内大和に比定しても叩かれるほどではないはず。
でも次有○国は全部九州内のようにも思える。
76 :
日本@名無史さん:2012/05/23(水) 23:03:33.43
南九州と同じ地名が、実は北関東に再現されているのに驚くだろう。
77 :
日本@名無史さん:2012/05/23(水) 23:24:21.55
>>74 それを言ったら「陸行一月」は「陸行一日」の誤写である可能性も否定できないでしょ
>>76 そういう地名の相似をまとめたサイトとかないかな?
80 :
日本@名無史さん:2012/05/24(木) 06:18:55.94
>>74 >書き記す時に誤った可能性を完全否定までできる根拠はないな。
南は、女王国以北や女王国の東渡海千里などと関係しており、誤写説はとうてい
成立しないよ。
81 :
日本@名無史さん:2012/05/24(木) 06:43:20.92
>>75 投馬国=妻国という類似に気を引かれているようだが、地名の類似はいくらでもある。
投馬国=薩摩国ということも考えられるね。宮崎を投馬国とすると、使者が邪馬台国を
訪ねる前に何で投馬国を訪ねたのかを説明することも難しい。
南至邪馬壹國
自女王國以北其戸道里可得
自女王國以北特置一大率檢察諸國
南と書いた後に以北と二回言ってるし書き誤りではなくて本当に南だったか、南と思い込んでいたってことだろうな
東だったのに南と思いこんだ可能性が無いとは言えないが
83 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 02:15:01.18
>>81 邪馬台国を訪ねる前に投馬国を訪ねてたんかね?
投馬国は訪ねてないんじゃないかと思ったりする
邪馬台国すら訪ねてなかったりして?
生目古墳群の1号墳が箸墓の相似形なら、3世紀後半には大和の墓制の下にあったということで、
すでに大和は畿内から九州に至る勢力となっていたということ。
つまり3世紀中ごろの邪馬台国はほとんど確実に大和。
使者の勘違いか日向の在地勢力が詐称したのだろう。
畿内の支配はゆるやかな体制でまだまだ地域勢力が強かっただろうし。
85 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 06:43:08.26
>生目古墳群の1号墳が箸墓の相似形なら、3世紀後半には大和の墓制の下にあったということで、
>すでに大和は畿内から九州に至る勢力となっていたということ。
伊都国、奴国などが女王国に統属していたことは明らかなのに、北九州に箸墓の相似形古墳はない。
初期古墳とされる柄鏡式古墳は、大和に比べ日向の方が圧倒的に多い。
日向で始められた墓制が大和に持ち込まれたと見るべきだよ。
86 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 18:54:53.51
柄鏡形は日向の特色と言えるくらい数が多いが畿内には数えるほどしかないな
柄鏡形に関しては畿内に持ち込まれた形式…かもしれない
撥形は知らん
どっちにしても日向にしろ九州にしろこのへんの撥形は規模の面で箸墓に到底及ぶものではないので
箸墓当時にはかなりの勢力差があったんだろ
87 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 19:44:14.30
古墳を造ったのは、全国同じ政治勢力だよ。だから、墓の大きさは勢力差を表
すものではない。単にそこに労働力がどれだけあったかに過ぎない。
88 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 20:32:21.11
そう。古墳を作ったのは全国同じ「畿内」の勢力である。
畿内の古墳築造技術者が派遣されて現地の人々を労働者として徴用して造った。
最初は畿内大和が中心の連邦国家で後は集権化が進んだ。
それはひとつの推論で証拠はないだろ〜
関係ないけど景行天皇とかヤマトタケルの遠征譚とかあれも
天皇自ら畿内からわざわざやって来て6年も仮の宮に住むなんて
前方後円墳より前方後方墳の方が古そうなんだけど、
前方後方墳から前方後円墳が派生したという可能性はないんかね?
91 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 22:16:52.92
畿内が勢力の中心でないことは考古学的に間違いないね。
で、吉備からきたとか、出雲からきたとか言われてるが、どう考えても
辻褄が合わない。南九州にまで勢力をのばしたなんて到底無理。
思いっきり感覚でしかないが
大型前方後円墳があるところは
その時期に開拓されたところという
印象をもっている。
古い弥生集落が比較的少なく、
組織力、技術力をもった集団が
新たに入って開拓したのではなかろうか。
そもそも、人がすでに住んでいたら
追い出すのも一苦労だ。
大型古墳は農地開拓の残土処理と威信誇示の一石二鳥
>>90 あやしいな
前方後方墳は古い時代の畿内にも点在するし中国地方から北陸東海関東にまで及ぶ
>92>93
すごく合理的な推測乙
開墾するときに出た不要な石は古墳の葺き石用にどこかに集めてとっておいたのかもしれない
葺き石をおよそどこから持ってきたのか調査してくれないものかねー
河原由来か台地由来か低地由来かくらいが分かればどのくらい開墾されてたかの推測にも役立ちそう
>>94 神郷亀塚古墳の前方後方墳より古い前方後円墳ってあるの?
これより古い前方後方墳だとはっきり言えるものはないんでないの
弥生時代の方形墓に造り出しみたいに後方部を付けたものをどう扱うのかとか
神郷亀塚やホケノ山古墳とか檍1号からは木槨が見つかってることで共通するけど=中国なのかしらん
中国から直接影響を受けたのかこういう墓にしているらしいということでそうしてみたのか分からんよね
西都原の100号墳見てくればわかりますぜ。発掘時のまま葺き石が保存されてる。
やっと運べそうな大きなものから小石まで大きさは様々で別に規格があったわけではないみたいだ100号の場合は。
開拓で出た石を有効活用してたのかもしれん?
次このへんに造るから要らない石や土はここに置いといてねって具合で集めとけば造るときに効率よく造れそうだ。
川原なりどこかで拾って運んでくるならだいたいの大きさを決めて持ってきた方が見た目にも良さげでそうしそうなもの。
99 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 01:40:17.83
>大型前方後円墳があるところはその時期に開拓されたところという印象をもっている。
それより、軍を駐留させた所と考えたらどうかな?
兵にその訓練のため開拓や古墳造りなど力仕事をさせたということ。
巨大な山まで造って見せつければ、被征服者に対する力の誇示にもなる。
100 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 02:14:47.08
弥生後期から古墳初期は余剰人員を養う生産力が無いから、
失業対策・公共事業でもある軍の駐留はできないじゃないかな。
初期稲作はどの国も奴隷制社会だから、農閑期の奴隷でしょ。
奴隷は兵でもあるし、暇にすると叛乱の可能性もあるからね。
101 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 02:24:36.43
初期稲作は邑共同体による開墾・営農・防衛だ。
環濠集落や「邑人の墓」的家族埋葬的集団埋葬墳墓から読み取れる。
抗争によって巨大化していく過程で虜となった人々を奴婢としたのは初期ではない。
環濠集落が衰退していく時期には鉄鏃が刺さったり陥没骨折したり生々しい遺体も出土したりする。
防衛しきれなかった集落の降伏した兵や身寄りのなくなった人々が哀れにも奴婢にされたんだろう。
103 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 08:46:21.02
纒向の大型建物は古墳造りのための施設という見方があり、その遺跡からは各方面の土器が出土している。
恐らく各地からの労働力が集められたのだろう。
しかし北部九州の土器はなぜか出土しない。
これは古墳造営の労働に九州からの人々が携わっていないという事である。
104 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 09:43:42.24
九州は宮崎を除いて、かなり古墳時代後期になるまで、
大型前方後円墳がない。
さらに、それより後までそれをうわまわる大型円墳もある。
たまたま前方後円墳を採用する豪族もあっただろうが、
円墳を作り続ける豪族もいたということ。
各地域の豪族は、それぞれわりと自由な墓制であることが伺える。
これは、外部からの統一勢力による広域支配がされてないことをいみする。
105 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 09:50:42.50
奴隷の定義が難しいが、奴隷を大量に集めた集団があるようなものは考えにくい。
各豪族、豪農の下人として、利用されるような形式だろう。
奴隷だけがたくさんいても、それを食わすだけの土地を確保し、
指揮運用するのはそう簡単ではないのだ。
106 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 10:36:59.06
参考とするならばピラミッドは良い例だろう。
107 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 12:20:52.79
西都原というくらいだから、東都原もあったことは明白。
宮崎と大和は、もともと対をなす複都で
気候の変動や社会の変化によって、東都のほうが栄えることになったということだろう。
東征したというから、的外れな論争になるわけで、もともと兄弟国だったのだ。
西都原は斎殿原と言っとろーがw
そして
>>104、定型化した古墳のうち最古形式のバチ型前方後円墳は福岡・苅田の石塚山古墳というものもある
109 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 19:35:00.79
大隅地方からの巨大古墳、象嵌模様の太刀、全国でも珍しい武人埴輪、棟持造りの大集落、など続々出土している。
また、朝鮮南部の伽耶の故郷は大隅の鹿屋とも言われている。
西都原と佐土原ってどっちが古い呼称なの?
国生みでは佐度と記載されてるようだが
111 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 19:48:11.20
西都原は古代より斉殿原(さいとのはる)と呼ばれていたが、江戸時代に西都原(「さいとのはる」から「さいとばる」へ)の呼称が定着したとされる。
だから、西の都ではないし、東都原という地名はないのではないか?
因みに、前宮崎県知事、東国原は宮崎県都城の出身だが、東国原の姓は、義父の姓で、隣の鹿児島県曽於氏にある姓で、
西国原もある。
112 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 21:12:57.87
島津氏分家の山田氏がヤマダ電機創業者山田昇のルーツ
徳川家康が島津義久のいとこに当たる垂水島津家系の以久に
関が原以後に宮崎県佐土原に旧領地を与え
島津以久の家臣として山田氏が佐土原藩に入封したのが始まり
また都城か!
せめてスレタイに関係あること喋れよ
西都市がんばれよ
115 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 18:48:54.27
>>104 >外部からの統一勢力による広域支配がされてないことを意味する。
多くの古墳は、宮崎の地が古墳時代を通じて繁栄していたことを示している。
そして、その宮崎は、他から支配された形跡がない。ということは、宮崎が
他を支配していたからにほかならない。
古事記のお話のうえでは景行天皇が仮宮を営んで6年も住んでるよ
景行天皇って纒向日代宮が都で纒向日代宮は奈良で奈良は外部だよね
117 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 22:16:33.18
景行、成務、仲哀天皇は、タラシヒコの名を持つ、
いわゆるタラシヒコ朝の天皇。
そして、痕跡からは4世紀前後と推測されているが、
記紀では1世紀のことと書かれている。
相当、記紀の上では書き換えられていることが予想される。
118 :
日本@名無史さん:2012/05/28(月) 23:12:37.80
隋書では6世紀後期の倭王は多利思比孤と書かれている。
タラシヒコ朝の系譜に連なる血統である可能性は高い。
また、「このあと、ついに途絶えた」とも書かれている。
そのまま信じれば、倭王の系譜は7世紀中に途絶えたことになる。
その後、7世紀後半から畿内政権が台頭し、
歴史に現れるのは偶然だろうか。
自由な墓制とは思えないな
円墳や前方後円墳や方墳の枠から出てる形はない
箸墓の相似墳の時代からずっと全長は基本140m前後までで最大でも200mを上回らないように規制されてる
宮崎にしかない古墳の形は無い
生目1号墳は規格に収まらない可能性があるかもしれないようにも思える
日本書紀には書かれてないが、古事記の景行天皇の件は纒向ってこともあって色々想像させられる。
景行天皇は仮宮滞在の後にまた纒向に帰ってる。
纒向は制式化された古墳のうち最古とされる箸墓古墳のある纒向。
こっちに来たときにもたらされたのかな?
景行天皇の推定在位年は箸墓築造の時期ではないし、比定陵墓は箸墓ではないし撥形でもないんだけど。
自由って言うか定型化されたようなしっかりした形してないように見えるね。
一言に撥形って言うけど西都原の何号墳だったか後円のあんなとこに造り出しがあったり
生目のも楕円のように見えるし後円のとこがどうなってるのか等高線を見てもよくわからない。
楕円してるのは他にもあるけど。
122 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 07:22:44.87
それより特徴的なのは横穴墓だろ。
123 :
日本@名無史さん:2012/05/29(火) 18:41:44.53
地下式横穴墓は庶民や将兵の墓ではないの?
地下式横穴墓の造られた地域≒古墳が造られてる地域
板石積石室墓は=古墳がほとんど造られてない地域
ビジュアル的に全然違う。
生死観が違ったのか、独自の墓制を作って結束力を高める必要があったか。
戦争があったのは記紀でも出土遺体でも明らか。
125 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 05:17:00.66
地下式横穴墓の造られた地域は邪馬台国、板石積石室墓が造られた地域は
投馬国だね。
地下式横穴墓と地下式板石積石室墓を似たようなもので同じく熊襲隼人の地域と考える人もいるのだけど、有り得ないことだよ。
まず地下式横穴墓と地下式板石積石室墓と分布も築造開始時期も全然違う。
板石積石室墓は弥生時代中期後半ごろに作られ始め、地下式横穴墓は5世紀初めごろに宮崎平野の生目古墳群で作られ始めてる。
地下式横穴墓が作られ始めたのは邪馬台国直後の3世紀後半の時代より150年くらい後。
つまり宮崎平野では3世紀後半から墳丘古墳が造られ始め、5世紀には地下式横穴墓も並行して作られはじめた。
その150年の間に初めは宮崎平野だけだった墳丘(高塚)を持つ古墳が大隅半島の肝属平野まで広まった。
肝属平野で墳丘古墳が造られ始めた時期と地下式横穴墓が作られ始めた時期はあんまり時間差がない。
地下式横穴墓が作られた地域と墳丘古墳築造/稲作の行われた地域はだいたい一致してるんじゃないかな。
魏志倭人伝直後の時代なら、まだ墳丘古墳は大隅肝属までは及んでない。
板石積石室墓は球磨・天草芦北・薩摩北部で作られてて、弥生時代中期後半ごろに始まり、古墳時代にも連綿と営まれて、この地域には墳丘古墳もほとんど無い。
地下式横穴墓を作るようになったのは理由があって、板石積石室墓の存在を意識してのものではないかと思う。
どこが投馬国かはよく分からないけど、地下式横穴墓も板石積石室墓も無い地域か宮崎平野かな?
完形の地下式板石積石室墓は芸術モニュメントのようだわ素晴らしい
地下式横穴墓は見た目で分かる古墳と違って全然分からんから相当埋もれてんだろうな
民衆の墓って感じだったんかね
128 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 20:03:57.45
>板石積石室墓は弥生時代中期後半ごろに作られ始め、地下式横穴墓は5世紀初めごろに
>宮崎平野の生目古墳群で作られ始めてる。
どこからそんな資料をもってきたんだ? 板石積石室墓や地下式横穴墓は古墳時代のもの
だ。正確な時代は分かっていない。地下式横穴墓が4世紀になかったとどうしていえる?
129 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 20:15:15.52
土器等の出土品から年代が分かったもののうち5世紀の初めごろが最古ってことで
その通り4世紀になかったとは言えない。まだ分からない。
墳丘と違って分かりにくいしまだまだ多くのの横穴墓が埋まってることは予想される。
>>125 奴国の南か邪馬台国の南には狗奴国がなきゃならん
奴国の南の板石積みエリアが狗奴国だとすれば
その南に残る薩摩川内市以南の薩摩半島(投馬国)に5万戸は過大な気がする
南を回って水行二十日で投馬国の妻で宮崎平野全域と都城盆地肝属平野等を合わせてなんとか5万戸が可能かもしれん
邪馬台国はどこか知らんとこにある
131 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 21:29:20.80
>奴国の南の板石積みエリアが狗奴国だとすれば
狗奴国を先に決めようとするから、妙なことになるんだよ。
狗奴国はしょせん倭人伝以外には出てこない国だ。官も一人しか書かれていない。
小国だと考えれば、それがどこか決めるのは後で十分だ。
132 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 21:54:43.39
>>126 地下式横穴墓の分布は完全に山地側、特にえびの市に偏っている。
そして、生目は大淀川沿いにある事を考えても、その豪族は
中央に居を構えた高地性の貿易民族の特徴を示している。
恐らく稲作とは直接は関係がなく、中央アジアのカタコンブナヤと関係が深いのではないか。
(ただし年代的にはずれがある事から、直接渡来していたとは思えない)
恐らく、5世紀という年代は中央集権の曙で、とにかく鉄が必要だった。
しかし当時の遺跡から察して北九州と出雲の勢力が近畿の最大の敵性国家なのは間違いない。
日本の製鉄が始まるのはさらに後代であるから
近畿勢力はどこかからか鉄を調達せねば生き残れなかった。
生目は大淀川の川縁にある。
これは生目〜えびの〜川内川という鉄の道があった事を示しているのではないか。
133 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 22:16:48.94
大陸の突厥は高地性で、大河と要地を押さえて眼下の農耕民を支配する。
これは海幸山幸の成立時期ともかぶるのではないか。
宮崎は平野が狭い。
にもかかわらず、生目も西都原もなぜあれほど巨大な墳を造営できたか。
それは畿内との鉄貿易の富だったのではないか。
日向最大勢力の諸方君牛諸井(モロカタノキミウシモロイ)はどことなくそれを伺わせる。
彼の先祖の墳は諸方山の山頂にあり、周囲には高地性住居が広がり
中央アジアと同じ斜面農業を営む。
彼自身は男狭穂塚に眠るとされるが、その近くの尾鈴山(御鈴山)五十鈴(馬の首飾り)川、
耳川(御川)の隣、おそらくは船着き場であった金が浜、その隣が御倉が浜.
そう紐解けば、畿内勢力が何故あれほど日向に肩入れするのか解けてくる。
しかし、日向勢力が百済との中間貿易で栄えたのは白村江の戦いまでだろう。
大和勢力は仕入れルートを失い、亡国の強烈な危機感から、
出雲と和解して国内勢力の統一を図るからだ。
134 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 22:18:47.14
>恐らく、5世紀という年代
間違い。3世紀
135 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 22:35:44.11
ちなみに御蔵が浜の東端には伊勢さまと呼ばれる大御神社がある。
天照を祭り、旧名を濱の脇神社という。
古い港は防衛の城が隣接されてあり、それが後に神社となる。
この神社が鉄の一時保管場所であり、近畿勢力の出張所だったのかもしれない。
136 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 23:07:51.82
なんか、西都原じゃないような気がしてきました。
ごめんなさい。、やっぱりドロップアウトです。
137 :
日本@名無史さん:2012/05/30(水) 23:17:01.44
>>135 >近畿勢力の出張所
神武軍団が征伐しにいくまで近畿にわショボイ農耕文化しか無かった訳だがね
神武は伝説で別の話
弥生持代宮崎平野で稲作がされていたのは間違いないが規模は大きくはないと思われ・・、
弥生の只中の頃の北部九州はもっと大規模で大勢力だったろうと想像される、
が、弥生末に急に集落が衰退してしまう。
弥生時代末期に何かあったのか。
>>136 最も古い時期の前方後円墳だけを見れば、、、
生目のが136m、檍のと西都原のが50m台で最初のうちの中心は西都原ではなかったかもしれない。。。
>>138 >神武は伝説で別の話
神武伝説は、じゃあどうして創られたんだうか?
140 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 00:09:56.48
>が、弥生末に急に集落が衰退してしまう。
>弥生時代末期に何かあったのか。
簡単な話だ。倭国の乱で敗北したのさ。
別に宮崎平野の稲作が小規模なわけいじゃないぜ
弥生時代から古墳時代にかけても絶えることなく集落遺跡があちこちに点在している
集落が放棄され墓域に変わった場所もある
弥生時代末に溝に大量に土器が打ち棄てられてる場所もある
すごい規模でたぶん故意に土器が棄てられて埋められたような吉野ヶ里近辺のように激しくはない
古墳時代には古墳時代の集落跡があって絶えてない
民衆の墓だろ…みたいに地下式横穴墓を舐めたらいかん
地下式横穴墓からは鏡とか武器とか馬具とか金製品とか出土したりして古墳より出土品が豊富で豪華だったりもする
古墳は盗掘されまくってるとこもあるしそういうことも予想して分かりにくい横穴墓に副葬品を集めた…てこともあったのかもしれない
畑がいきなり陥没して調査したらそんなものがあったりするんだからなw
まだまだロマンは尽きないぜ
143 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 08:03:40.60
前方後円墳の方が一般的な墓だったのかも。全国にあるんだからな。
大王は誰もが造るような墓は造らんだろ。
144 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 10:56:17.07
墳の形や大きさは王権の系譜の象徴。
形は非常に重要で、個性を求めて変わったものなど作らない。
関連する墳墓同士は大きさにもある程度決まり事があったようだ。
弥生時代の日本の墳墓は九州や太平洋側が円墳、
日本海側や東日本は遅れて方墳が作られていく。
出雲の四隅突出型方墳もその類型と見ていい。
そのルーツはいずれも大陸の墳丘墓で
盛り上げた円形まんじゅう部分に埋葬するのが中国型、
埋葬した土より地下に埋葬する方形が北方型と大雑把にはわけられる。
日本の場合もほぼ同じ。
前方後円墳は王権の成立とともに両勢力が婚姻を繰り返し、
一つの勢力圏に統合されていく過程で合体されたと見ていい。
基本的には石室の位置は中国型の埋葬法に準じ、
前方(前衛)後円(主将)の配置を採り
方部の方が面積が小さいことが多い事から、中国側勢力が主導権を握っていた事がわかる。
145 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 12:15:59.09
>>137 大御神社の脇に伊勢が濱という小さな湾がある。
その隣の太平洋に突き出た半島を「米の山」と言う。
この山に登ると西に四国が見え、南は西都あたりまで一望できる。
これは博多湾の要地に突き出た同名の「米の山」と展望条件がとても似ている。
日向の米の山は由来がはっきりしないが、博多の米の山は「久米の山」である事がはっきりしており、
神天皇の先鋒、天櫛津大久米命にちなむとされる。
この「久米」は本来「クマ」とよむ。
つまり、もともとは「クマノヤマ」が正しい。
犬トーテム、大和の親衛隊となった隼人のことで、日本では軍事関連の地にクマとイヌの名前が多い。
近畿には言うまでもなく近畿と東日本と海洋路を結ぶ最要衝に紀伊半島「熊野山」がある。
(ただ、クマとクマソは違う。中国ではソは南方系の蛮族民族をさしクマは高句麗のククリ人のことをさす)
「博多〜瀬戸内海〜紀伊ライン」は、
出雲勢力圏を包囲する上で非常に重要な大和側の物流ラインであったと考えられるが
倭国大乱で博多の湾口としての機能がストップし、瀬戸内海も吉備勢力圏に堕ち、
やむなく「熊本〜えびの〜日向〜宇佐〜土佐〜紀伊ライン」を作ったのだろう。
146 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 12:52:21.33
延喜式まで南九州はひとくくりに熊曾国と言われていた。
つまり「ひのくに」になったのは平安より後で、
それは「縁起の良い名前にせよ』という朝廷の指示があったから。
要するに、西都原を中心とする勢力は
鉄のルート確保のためにヤマトタケルに討たれたたクマソの事であって
邪馬台国ではないだろう。
147 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 13:05:35.19
>南九州はひとくくりに熊曾国と言われていた。
九州に熊はいないよ。クマソと呼んだのは隼人の反乱以後だろう。
148 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 13:09:29.96
つまりこういう事だ。
對海國:対馬。
一大國:壱岐。
末盧國:最初の上陸地点、東南に500里の陸行。これは「まつりこく」と読む。
斎の国、つまりここが宮崎。←
伊都國:その東南に、奴國。位置関係と読みからこれが伊予。
奴國:伊都国の東南100里距離から察するのまだ四国。
不彌國:奴國の東100里 ぐるりと瀬戸内海にはいる。音と位置関係から吉備の事だ。
投馬國:不彌國の南に水行20日(距離ではない。)トマはクマのこと。熊野。紀伊半島の事。
邪馬台国:不彌國の南。つまり畿内。
149 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 13:12:04.65
末盧國:最初の上陸地点、東南に500里の陸行。これは「まつりこく」と読む。
斎の国、つまりここが宮崎。←
後にまとめてひのくにと呼ばれ事からも、宮崎と熊本は同じ勢力圏にあった。
こう考えれば、全てつじつまが合う。
150 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 13:42:10.37
延喜式で土佐の国は「ドシュウ」と読む。つまり「奴の国』
151 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 17:51:48.67
九州は風土記成立以前に、
筑紫、肥、豊、熊襲、
に分かれていた時代があったと書かれている。
肥後南部と薩摩北部が狗奴国なら、その北の熊本平野は奴国であり同時に邪馬台国である、とすれば可。
行程日数距離は、帯方郡起点にしたりすれば合わせられる。
日向国設置は7世紀でしょ?
それなら風土記より前だし記紀より前だから何も問題ないと思うけど
日向って言っても大隅も薩摩も含むから従わない熊襲の領域も含んでいたけど
7世紀ってハヤトが朝廷に従った後?
前だよ。
熊襲を球磨囎唹とするものもあって、「唹」は置き字で読まないと思う。
球磨囎唹と書いて「くまそお」と読まずに「くまそ」と読んだはず。
前スレにもあるけど同様に今の西都市都於郡は元は覩唹と書いて「と」と読んでいた。
囎唹っていうのが今の曽於市や曽於郡と違って霧島市や湧水町や姶良町あたり。
霧島市は大隅国府のあったところで、最後の乱の起こった場所。
球磨囎唹地下式板石積石室墓の分布域内。
156 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 19:56:25.34
>行程日数距離は、帯方郡起点にしたりすれば合わせられる。
漢文が読める者は、そんな読み方は絶対にしないよ。
157 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 21:08:47.21
>>155 邪馬台国「やまたいこく」→大和「やまと」
とか
山背国「やませこく」→山城国「やましろこく」
言葉の綾を多様する癖の裏読みするのも重要だね
158 :
日本@名無史さん:2012/05/31(木) 23:07:34.73
>>147 面白い話をしてあげよう
古代、熊とは朝鮮民族のメタファーだったんだよ
宮崎の縄文晩期の鉄滓・鍛冶炉跡ってどこにあるの?
ガセ?
結局いつごろ畿内に組み込まれたのか次第
弥生末には緩い体制が出来上がってたんなら邪馬台国は大和なんだろ
最低限意識的には同一感を持ってないと同一規格の墳を作ろうとはせんだろう
大和勢力が及ぶ前に戦とかやってたのだろうか…
そういうとこが知りたいな
「南至投馬國水行二十日」は「南至邪馬壹國水行十日陸行一月」より難なく持って来れる。
末盧國から五百里、百里、百里、の組み合わせでは北部九州を出れない。
そこからおよそ南の方へ水行二十日出来る場所はこのあたりしかない。
北部九州から東至邪馬壹國水行十日陸行一月にすれば大和へ行ける。
東至投馬國水行二十日では吉備くらいまで行けるとして、吉備から水行十日で大阪湾岸に上陸して
陸行に移行するまでは自然だが一月も陸行したら通り過ぎて中部地方のどこかに行く。
てことで投馬国。
162 :
日本@名無史さん:2012/06/01(金) 09:25:43.91
>末盧國から五百里、百里、百里、の組み合わせでは北部九州を出れない。
当然だよね。
>そこからおよそ南の方へ水行二十日出来る場所はこのあたりしかない。
このあたりって北九州かな? 玄界灘沿岸では南へ水行はできないぜ。
>北部九州から東至邪馬壹國水行十日陸行一月にすれば大和へ行ける。
方角を無視すればかな。しかし、方角を無視してはいかんね。
>てことで投馬国。
意味不明だな。
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
の北部九州のどこかの不彌國から分岐して
南至投馬國水行二十日 と 東至邪馬壹國水行十日陸行一月 で
西都原のあたりにあるのは投馬国ということでは
>>162 >そこからおよそ南の方へ水行二十日出来る場所はこのあたりしかない。
玄界灘沿岸からなら関門海峡を通過して、きっちり南には行けないが可能な限り南へ向かって20日、
>北部九州から東至邪馬壹國水行十日陸行一月にすれば大和へ行ける
のだが、全連続説を採って北部九州から東至投馬國水行二十日(吉備?)で、
その投馬国から東至邪馬壹國水行十日陸行一月とすると、奈良盆地を通り過ぎてしまうので、
奈良に邪馬台国を持って行くには都合が悪い。
分岐点を北部九州にして、北部九州から南至投馬國水行二十日、
北部九州から東至邪馬壹國水行十日陸行一月とすれば奈良に邪馬台国を持って行ける。
ってことだよ。言葉が足りなかった。
東至邪馬壹國水行十日陸行一月
水行十日で吉備(備後)の西端、そこから陸行一月で畿内大和だ
関門海峡出口から230kmくらいか
南至投馬國水行二十日
西都にしろ生目にしろ檍にしろ大きい川を遡って水行だけでズドン
関門海峡出口から350kmくらいか
距離だけ考えれば水行20日でなく15日くらいにしなきゃならない
東に吉備までは海流に押される形になることが多いのに対して、
南に日向まではほとんど海流に向かう形になるからこんなものだろ
さらに瀬戸内海は内海だから多少大胆な航路も取れるかもしれないが
豊後水道から南は外海に面するから海岸に張り付くように行きたい…てのもあるかも
邪馬台国は大和で投馬国は西都だった
すれ違いだがいろんな方向から考えてみるってことで
166 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 10:08:52.78
>>164 趣旨は分かったが、方角無視はやっぱり駄目だ。それに、投馬国と邪馬台国は
同じく南とされている。投馬国と邪馬台国の比定地は同じ方向でなければ行け
ない。投馬国は書かれているとおり、邪馬台国は南は東に訂正ではまったくの
御都合主義。
どちらも記述どおり南にするなら水行10日が分岐点なんだろうが
水行100kmあまりの八代付近に持って来るには10km/dayくらいにしなきゃならんよ
水行230kmあまりで阿多に比定すべき南薩までだいたい同じペースで持って来れるけど
1日で水行10kmはゆっくりすぎる気もするね
南周りで来ようとすれば500kmは超える
168 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 12:25:20.19
過去の航海実験では
だいたい人の歩行速度と
同じ程度の速度が多い
古代には超高速の帆付きのカヌーがあったそうじゃないか。
そのまま速度を上げていくと、パラグラーだーのように空を飛べたのではないのか?
170 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 14:18:20.64
>>169 そんな気がするよね
確か爆サイでも同じような意見を書いてる人がいたなぁ
171 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 15:46:56.91
邪馬台国の南を四千余里行くと種子島・屋久島(侏儒国)があり
その南(南東)長い距離を船行すると奄美諸島(裸国)があり
また沖縄(黒歯国)ある
卑弥呼邪馬台国の鬼道の方角に千余里を海を渡ると又、
集落(国)があり雑倭人種が存在している。
テラノドンのような大型の翼竜がまだ生息していて飼いならされていたという説もある。
ライト兄弟が飛行機を発明しなければ、ワットが蒸気機関を発明しなければ、
現代人ももっと別の形で空を飛んでいたはず。
173 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 18:43:54.92
www
174 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 18:47:03.56
客観的中国歴史書の魏志倭人伝は頭脳を鍛えてくれる
ポリネシアとかの人間は帆付きのカヌーで外洋に出るメンタル持ってたんだろうが
陸で寝起きして陸で糧を得てる陸の民はムリだろ
対馬海峡を渡海する時も怖くて早く陸のそばに行きたくて必死に漕いでたろたぶん
176 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 19:05:30.53
>>175 なんでポリネシアとかw
話が飛びすぎ
卑弥呼邪馬台国の倭人国を語るスレなんだから
もともと中華と日本の交易ルートは会稽経由
それが、中華が半島を支配下に置いたことによって、半島経由での交易が可能になった
魏志倭人伝はその歓びによって書かれてるわけだが
現実問題として一日に何時間くらい漕ぎ続けられるもんかねえ
>>177 魏と呉は対立してんだろ?そこで云う処の中華は何処血統の何者よ?
中華の本流は、漢→魏(晋)じゃないのか?
181 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 21:03:35.04
大馬鹿が多すぎて笑ってしまうな
満腹なんだよ(笑)
宇宙の中心民族と自意識を持った漢民族が
陰陽5行を発想し世界で最っとも合理的な文字漢字を構築した
漢民族いや中華民族の洛陽こそが人類の中華と哲学されたんだよ
まぁ日本を含めてまだまだドンデン返しの裏があるんだけどな
具体的に一般知能だと理解出来ないだろうから教えられないけどな
俺が中華と書いてるのは中国と書くと現在の中国と関連付けられてしまうから
はっきり言って、連続性はない
いや、今の中国指導知識層も馬鹿じゃない漢民族の否定修正に入りかけたよ。完結させるかお手並み拝見。
184 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 21:20:40.00
中華=中央
自称中央ね
自称中央じゃないからハリボテじゃないから
あれだけ影響力持つ文化骨格を創造出来たんじゃね?
日本のODAがなければ今でも貧民国家のまま
そういう意味で日本自民党の罪は深い
ミンスはそれ以下だが
188 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 08:41:18.66
磐井の乱や熊襲征伐で討たれた磐井や熊襲の支配地域の住民はどうしたかというと、奴婢として東国に送られているのではないでしょうか。
例えば、茨城県には下妻、上妻、中妻の地名が残ります。
しかも、位置関係は上中下の関係になっておらず、上妻からの移住者の村が上妻という関係なのかもしれません。
群馬県熊谷市には妻沼町もあり、熊襲からの移民の村ではないかと思うのです。
武蔵には、高麗郡や新羅郡もあり、関東の歴史は毛野氏や大伴氏の征服地と関係があるのではないかという気がします。
また、関東には岩井の地名も多く、平将門とも関係がありそうです。
磐井の乱や熊襲討伐での戦いのあった地名を確認してみて、
茨城県の下妻、上妻、中妻というところの地名の初出の時期や元の名を調べてみたらいいよ。
まず和名類聚抄とかで。
戦いの地は遠い西方や北方でその時代までに妻(西都)の近くで戦いのあった記録はひとつも見たことはないのだけどね。
いつツマと呼ばれ始めたのかどの範囲をツマと呼んでいたのかはっきり分からない。
ただ分かるのは文献での初出の時期とその時点でのおよその範囲だけ。
191 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 11:30:37.43
妻(西都)などという地名にこだわっていては駄目だろう。そこは、単に投馬国の
兵が動員されて駐屯していた地にすぎないかも知れん。
ローカルな話なんだけど妻は都万神社があったから出来た地名だろ?
妻は穂北の中のほんの一部にすぎん
地名として古くて広いのは穂北じゃないのと
都万神社は古い時代からあったらしいけど…まあわからん
穂北があって上穂北と下穂北があって下穂北の中の一部に妻があったっつーことだよ
妻と都万神社はまた別の話
なぜ、九州で神武と出会ったはずの木花之佐久夜毘売が富士浅間神社の主祭なのか?
そして、なぜ九州と関東に妻の地名が共通するのか?
妻地名は、西都原以外では、八女市にも上妻にもありますね。
なぞが謎を呼びます。
妻地名が全国的にあるのは知ってる
だから重要になるのが初出の時期だよ
196 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 13:33:24.56
まだやってんのか
一律ヤマトに反抗してヤマトと戦ったた地だとか言ってる人はその時代のこのあたりの状況をほんのわずかでも見てないだろ
日向つっても当時は日向大隅薩摩合わせて日向で広いから状況が全く違うつってんのに
日向、大隅東南部、大隅北西部、薩摩北部、薩摩南部で状況も墓制の様子も全く違うわけだよ
そのへんのとこはすぐ分かるのに見もしないでいつまでもバカなこと言ってるんだから
いつまでたってもこの種の人が絶えないんだからネットとかしょせん便所なんだな
便所の落書き場で落書きしていけばいいんだよ
>>191 妻と西都原は駐屯地と墓場斎殿原で本拠は都城かw
198 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 11:38:45.29
>日向、大隅東南部、大隅北西部、薩摩北部、薩摩南部で状況も墓制の様子も全く違うわけだよ
墓制がちがうからといって、直ちに国が異なるということではない。地形、人種、武器、生活様式
などいろいろな要素を見当しなければいけない。
西都は伊都国の王、ニニギが天孫降臨した際に、拠点に名付けた地名と思う。
襲の新しい伊都の意で、襲の伊都、ソイトとすべきところ、ソイの文字が
無いので西を採用したのでなかろうか。その結果、西都となった。
これなら都の文字が残ったことの説明がつく。
斉殿では都が残ったことの説明がつかない。
西都なんて地名はありませんから〜
絶対無かったとは言えないけど確認不可だよ
言われてる穂北や都万やあと三宅とかはあったかもしれないね
たかだか5、600年前ならそれと同じか近い地名はあったろうね
600年くらい前の地名は今もだいたい残ってるし
201 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 12:44:43.77
仮説1について
・西都原は明治以降の呼び名らしい
・由来は「斎殿原」
・古くからの地名は「可愛田原(えのたばる)」らしい
202 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 12:54:09.51
204 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 20:06:46.49
畠山遺跡だね。
たたらの跡と見られる箱も見つかっている。
五ヶ瀬川は討ち死にした神武の兄の五瀬尊、
五十鈴川は嫁の媛蹈鞴五十鈴媛命に何か関連がある気がしている。
205 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 20:37:16.19
東征中に死んだ神武の前妻のあひらつ姫は
海幸彦(火闌降命・火照命)の子孫で、阿多の小椅君(オバシノキミ)の妹。
つまり海人系隼人の事だろう。
このあひらが語源となっていると思われる油津、姶良郡、吾平、は南九州にある。
これが久米部の事を表すのはほぼ間違いないと思う。
206 :
日本@名無史さん:2012/06/05(火) 21:08:23.28
延岡には土々呂の地名が残っているけれど、静岡の登呂遺跡の他にも、関東に土々呂、瀞(とろ)の地名が散見されます。
いずれも縄文時代から続く集落で、川が大きく回り込んだ肥沃な土地で、川の流れの緩やかなところといった意味のようです。
たとえば、埼玉県埼玉市の土呂、埼玉県秩父郡長瀞町など、九州からの移民の集落とみられる地名があります。
>>201 可愛(えの)と言うと可愛山陵が思い浮かぶが関係あるんだろうか?
208 :
日本@名無史さん:2012/06/06(水) 01:50:55.52
大分まではやってきてるアマノヒホコは都怒我阿羅斯等のことだとされるが、
角荒籬人という字に変える事もできそう。
角荒籬とは大陸系の牛の角兜をかぶるヒッタイト系民族の事ではないかという指摘もある。
神武は東征するときに都農で軍を招集してる。
周囲に製鉄民関連の名前が残ってるし何か関連があるのではないか。
209 :
日本@名無史さん:2012/06/07(木) 21:59:10.31
>>181 奴らの中華意識は西アジアの先進性へのコンプレックスだよ。
彼らは自分たちの周りには大した奴らはいないが、そのもたらされる文物や知識で
遠く西の果てには自分たちが及びもつかない国がある事を知っていた。
だからこそ声を大にして俺が中心って言い続けてきたんだよ。
周りの子分達に自分が文化の仲介者にすぎない事を悟られないためにね。
その卑屈さは現代まで残っている。
彼らは中華中華と叫びながら、前から白人が来るとそそくさと道をあける。
210 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 13:18:10.52
今日の読売新聞に邪馬台国までの行程が書かれていたが、邪馬台国の位置は
宮崎平野になっていた。
211 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 13:28:02.72
>>210それが最近の世間の常識ですよ。
みんさん、ずいぶん遅れてますね。
そこに比定とか天変地異の前触れか
確信が無いなら読者数最多の畿内に比定するはずんだが
213 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 15:01:51.34
読売新聞なら、読者数最多は関東だろ。
邪馬台国関東説
215 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 17:29:26.38
>>210 読売とってないからわからないんだけど、どんな行程になってました?
東回り?九州山地横断?
おそらく記述になるべく忠実に読んでるはずだから、九州山地横断になるんでは?
個人が語ったり個人の出版物の中でなら見れるんだけど新聞ってのは記憶にないわ。
日本史の資料集で投馬国?とされているのは見たことあるが。
読売見たいんだがw
さすがジャイアンツのキャンプ地の宮崎
218 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 21:29:53.00
絶対固定観念を神は嫌う
何故って?
都合が悪いから
219 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 21:48:14.63
>>215 新潟大学脳研究所の中田力という人がコンピュータを使って推定したというもので、
行程としては、熊本市あたりが投馬国で、八代から球磨川をさかのぼり、
人吉から湯前を通って、一ツ瀬川を下るコースになっている模様。
話は変わるが、今年は古事記編纂1300年ということで、書店には古事記関係の本が並んでるね。
220 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 21:53:33.06
>>219 ちなみに、このコースを車で通った経験からすると、このコースを歩いて
行くのは無理。地図的にはありえても実際には無理だと思う。
やはり、景行天皇記にあるように、えびのから小林を通って宮崎着が妥当。
221 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 22:28:30.74
車で行けるところが歩いていけないわけはない。
但し、コースとしてはどうかな。南ではなくなる。
九州自動車道で鹿児島まで走ったが、
八代越えてからトンネルの連続。
きつかった。
九州山地、侮れねえな
223 :
日本@名無史さん:2012/06/10(日) 22:55:58.79
>>222 確かにトンネルが多くて、難所だが、あれはまだ入り口に過ぎない。
>>221 九州山地を横切っているわけだが、球磨川から一ツ瀬川繋がりで行けるかも
しれないな。
伊都國から伝送される文書、賜物はどういうコースで宮崎に着くの、行程記事と同じ?
全行程東回りの水行で行くんじゃないか?
瀬戸内海が政情不安定で海上が危険だとかそんな特殊事情があれば九州山地を横断するようなコースで行くかもしれないな。
226 :
日本@名無史さん:2012/06/11(月) 06:37:07.23
使者が大事な品々を倭人に渡すわけはない。使者を案内しながら一緒に運ぶんだよ。
227 :
日本@名無しさん:2012/06/11(月) 13:20:57.17
投馬国は、出雲だよ
邪馬台国は、やはり、
畿内
ここは西都原俯瞰の邪馬台国スレ
別の考えがあるのなら畿内説の別スレ行けば
いや本気で言ってるわけじゃないよ
そんな現物の材料がない
ただ記述見たらなんかここに持って来れそうだwってことで悪ノリ半分くらいだよ
西都原って古い時代の古墳は割と少ないし大きくないしムリがあるんではないの
古い時代には生目を盟主とする西都や檍や川南あたりを加えた連合体みたいなのはあった気もする
投馬国は出雲とされることもあるし
出雲が薩摩なんて異説も見たことあるな
邪馬台国は、やはり、畿内が6、7割方
10日でなくて数日だろうが南に水行して陸行とそれらしく持っては来れる。
球磨が通行できないなら北を通って椎葉南部や米良を通って来るなら1ヶ月くらいかかりそうだがそこで現実味が薄れる。
一月も山中をバカみたいだw
発想を変えれば理に適っているかも知れないな。
一行は異国の服装をした使者と共数人、それとこちらの護衛少数だろうか。
平野部を通って人々の目に晒すのは望ましくないかもしれない。
何か持っているのは確実だろうし賊に襲撃されたり、一般人も賊化するかもしれないな。
その点で海上を通って上陸して直ぐほとんど無人の山間を通ることは理に適っている。
どうしても使者の安全を確保しなきゃならないし、労をかけても山中を通っても不思議ではないな。
賊出没より獣出没の危険が多少高まる方が遥かにマシ。
水行の日数が10日でなく数日なこと以外は全部合致する。
海は怖い、平野も怖い、獣しかいない山中のほうが安全か まるで落人だな
それで玄界灘の治安を確保できていたわけか
自分は怖くはないし命も惜しくなくても他人の安全を考えれば怖くなるものだ
内心快く思ってない国が軍勢を以って襲撃すれば安全確保なんか不可能だ
水軍は持ってたんじゃないの
西都原の舟形埴輪は復元して漕いでみたら速度は2ノットくらいしか出なかったそうだけど
高い波にも耐えられるようにしてて割と外洋向き渡海向きだったらしい
2ノット出れば壱岐まで9時間弱、壱岐から対馬まで13時間弱、対馬から釜山まで15時間弱で
ぶっ通しで漕げばなんとか明るいうちに渡れる。
236 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 01:55:34.68
>>231 考え方がぜんぜん逆だろう。魏から使者が来たんだ。倭国側は国威を示す機会として
利用し、使者を鄭重にお迎えするわけだよ。使者一行は少なくとも2、30人はいる
だろう(そうでなければ、韓国内で襲われたりするかもしれん)、それを案内する一
大率の配下も何人もついていただろう。ちょっとした大名行列と考えるべきだ。
つーことは船団を組んでやってきたのか
当時の船は漕ぎ手10人前後で漕ぎ手以外は数人しか乗れないっぽいぞ
八代から球磨盆地を避けて昔の主流の尾根筋を通る行程で椎葉南部米良経由でも150キロくらいにしかならんみたいだ。
草木を払いながら道なき道を行っても1か月かかるかってのは疑問があるな。
やっぱ相当の兵で出迎えて一行で行列作って敢えて見せるくらいのことやれないと。
国々や民衆や使者側への評価にも繋がるし見栄を張らなきゃならない場面。
239 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 07:01:56.69
そんな小さな船ばかりではない。東夷伝を良く読んでみな。
もし球磨が狗奴国の一部なら一時休戦協定結んで敢えてその只中を通って見せ付けるくらい出来なきゃ
特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之の邪馬壹國にふさわしくない。
そんなことが可能だったんだろうかね?
241 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 07:15:20.42
邪馬台国と北九州を結ぶ道はある程度は整備されていたはずだ。しかし、そこを
ゆっくりと進む。山道ならば150キロあったら一か月はかかるよ。
2日進んで一日休みぐらいのペースだろう。
狗奴国は大隅半島あたりに考えるべきだろう。狗奴国の中を通ったら道里戸数くら
い書くだろうが。
242 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 08:39:08.73
ところで、西都原から高千穂峰は見えたんだったかな。
見えたよなあ。確か。
宮内庁が南九州の遺跡抑えてるて本当か?
とっとと掘りまくれよ。なに南九州迄口出ししてんだよ。
244 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 11:47:20.30
なんでこんなセコい話が続いてるんだか・・・
使者というのは要するに軍隊だよ。今みたいなルートの安全性なんか皆無なんだから。
どの時代も使者は軍艦に乗ってやってくる。国の偉容をを見せつける必要があるからな。
いまのアメリカが空母で敵国に乗り付けるのと同じだよ。
三国時代の戦艦は「楼船 」と呼ばれる、周囲に板を立て並べて、矢石を防ぐように作られた大型船。
標準で長さ20m前後、艪の数は片舷20前後。大きなものはこの倍程もあったという。
孫権が東南アジアに送った船には一隻あたり600人から700人の乗員を乗せていた。
それが一艘ではなく複数船団を組む。一艘ではいかな軍艦と言えど海賊には美味しすぎる餌だから。
外洋は普通、海賊の方が海上の制海権を握っていて軍艦はその中を突破せねばならなかった。
魏は呉以上の規模で使者を送ったはずだよ。
同じ時期にカシュガルなんかに送った使者は大体7、8年、長い人間だと15〜16年かけて往復している。
動きながら情報を収集し、隊商なんかとも行動をともにして商売もして、ひと財産稼いでから帰国する。
そういう私腹を肥やせるからこそ、危険な任務に長い時間をかけられる。
当時の遠国使者はそれが普通だったんだよ。
>>243 南九州の国分平野から霧島山系を掘り返したら
歴史がひっくり返るかもしれないんだろうな
花は霧島、たばこは国分、邪馬台国は東海
>>242 見えるんだっけ?ぎりぎり見えそうだけど
とりあえず宮崎市内からなら見える
とんがったお山の高千穂峰
248 :
日本@名無史さん:2012/06/12(火) 22:49:12.69
かもめのジョナサンなら見えるかもよ(笑)
目を閉じて心を研ぎ澄ませれば見えないものなどないのだ
250 :
日本@名無史さん:2012/06/13(水) 09:29:45.01
そうだな、虚心坦懐、これが大切だよ。馬鹿な学者どもは、水行陸行というとまず
机上の計算で1日何キロとか計算し、現実の地理と合わないとか言い出す。しかし、
3世紀に倭国に渉ってきた連中が水行、陸行で1日どれだけ進んだのかなど分かりは
しない。いろいろな速度を想定し、合理的に解釈していくことが必要だ。
道じゃないとことか、一応道でも草や倒木なんかの障害物があるとこを歩いて行くと、時速2キロとか1キロくらいまで落ちるよ。
北部九州から東へ水行10日陸行1月の畿内の大和が邪馬台国
北部九州から南へ水行20日の日向は投馬国とほぼ確定しております
253 :
日本@名無史さん:2012/06/13(水) 16:11:04.49
邪馬台国の方角はまちがい、投馬国の方角は正しいってか。
まあ、どちらの比定もまちがいだな。
254 :
古式古墳:2012/06/13(水) 17:09:40.49
柄鏡形の前方後円墳は古い形式で撥形に近い形のものもあります。
以下は後方部が撥形または柄鏡形のうちいくつか(他にもあります)。
時期的には3世紀後半〜4世紀後半ごろに作られたものです。
全長、後円部直径・後円部高さ、の順。
周溝などの外縁部を含まない墳丘本体のみの規模です。
【西都市】
茶臼原23(柄鏡形)29m、17m・2.3m 茶臼原24(柄鏡形)29m、18m・2m
西都原13(柄鏡形)79.5m、44m・7.2m 西都原35(柄鏡形)70m、37m・6.5m
西都原72(柄鏡形)79m、50m・7.4m 西都原81(撥形) 53m、33m・4〜7m
西都原83(柄鏡形)84m、44m・6m 西都原88(柄鏡形)48m、21m・3m
西都原90(柄鏡形)96m、51m・7.2m 西都原91(柄鏡形)63m、35m・4.5m
西都原92(柄鏡形)53m、29m・5m 西都原95(柄鏡形)79m、42m・6.2m
西都原99(柄鏡形)61m、32m・3.8m 西都原100(撥形) 57.3m、32.7m・3.5m
西都原225(柄鏡形)74m、45m・6.4m
【延岡市】
南方1(柄鏡形)71m、35m・5.1m 南方10(柄鏡形)79m、52m・5.2m
【川南町】
川南11(柄鏡形)106m、59m・7.8m 川南39(柄鏡形)114m、64m・11.5m
【高鍋町】
持田1(柄鏡形)120m、65m・10.5m 持田47(柄鏡形)53.2m、30m・4.2m
持田48(柄鏡形)78m、50m・7.3m
【国富町】
本庄13(柄鏡形)75m、44m・5.5m 本庄15(柄鏡形)73m、40m・4.8m
本庄18(柄鏡形)80m、42m・5.5m
【宮崎市】
檍(あおき)1(撥形)52m、35m・4.5m 生目1(撥形)136m、86m・17m
生目3(柄鏡形)143m、88m・12.7m 生目22(柄鏡形)101m、60m・9.2m
【串間市】
福島4(柄鏡形)60m、30m・3.5m
※畿内 箸墓(撥形)280m、157m・22m
西殿塚(撥形)230m、145m・16m 椿井大塚山(撥形)175m、110m・20m
3世紀後半〜4世紀後半が確かでこれだけ差があったらなー
卑弥呼が死んだのは248年3世紀よって魏志倭人伝の時代と時間差がない
256 :
日本@名無史さん:2012/06/13(水) 19:30:54.30
非常に素朴な疑問なのだが、
宮崎にも畿内周辺にも非常に沢山の大型古墳がある。
時期的にも広く見積もっても、3世紀から6世紀位だろう。
また崩されたと思われるものを含めれば、もっと多くなるだろう。
その間に王様は何十人、場合によっては何百人いたのか。
王様の墓だけでなく、高官の墓も含まれるとしなければ
これほどの墓が作られることはあるまい。
どの程度の高官までがこれらの墓を作ることができたのか。
各時代の王だけであれば、これほどたくさんの墓は、
ありえないのではないかとおもわれるのだが。
西都の場合は地域首長というより分割共同統治者のような感じがする
同じ形式のモノがあるってことは少なくとも影響は受けていたってことでかなり重大な意味があるな
串間は朝鮮半島を経由せずに中国の呉方面と直接交易を行うための秘密玄関口だよ。
荘園制が入って来るまでの南九州ってそういえば歴史を知らない
島津が入って来るまでってどうだったの?
串間は国指定史跡の古墳も無いし注視されとらんがアソコはあやしい
穀璧は呉から入手したんだろ
あそこはなんかある
261 :
日本@名無史さん:2012/06/14(木) 07:10:35.28
穀璧は中国と通交して侯と認められた人物がいた証拠。ほかにないのだから
当時としては倭国でもっとも有力な王だったということだろう。
中国の盗掘品だろう
刺激が強すぎる言動は控える
264 :
日本@名無史さん:2012/06/15(金) 06:14:57.34
無茶苦茶なことを言うというのは、それだけ穀璧が重要なものだということの裏返しだよ。
もし大和から同じような穀璧がでたら畿内説の学者どもは邪馬台国確定と言い切るだろう。
串間の串は櫛から来たと串間の人に聞いたことがある。
紀の一書(第四)天孫降臨の際の「くし日の二上峯」から来たとの説も
ある。
串間は夏至の日の、高千穂峰の真南に当たり海への出口にあたるので、
奇し日の奇しがもとと考える。
壁の出土も奇し土地柄への畏敬なのだろう。
串間神社は彦火火山見尊が祀られていて、ここに住んだこともあるのだろう。
^^
^-^
江戸時代から言われているように、投馬国だと思うんですけど。
妻とか都萬だけでなくて彌彌(みみ)という特異な人名(地名?)にも親和性がありますよね。
方角も合ってるし舟で20日とかそのくらいかかってたんでしょ。
邪馬台国は奈良県だと思うな。
>>265 そうだよ。昔は櫛間って書いてたって。
櫛馬なんて異論も。
櫛には不思議とかそんな意味もあったみたいだね。
270 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 03:12:55.84
狗奴国のシマだあ。
地名でも言葉でも、漢字に囚われすぎると本意を誤るリスクがやはり高いな。
音で考えるようにしないと
272 :
日本@名無史さん:2012/06/16(土) 03:35:02.59
邪馬台国は奈良県ですょ
邪:ye
馬:ma
台:tai
邪馬台=Yamato
邪馬台国=Yamato国=大和国
スサノオに退治されたヤマタノオロチとは、つまり、邪馬台国のこと。
渡来系の異民族の手で皆殺しにされたのだろう。
記録は神話以外に残っていない。
遠い昔の出来事なんだ。
伊邪那岐命は
伊都国の伊
邪馬台国の邪
奴(那)国の那
から来ているという説を見た。
魏志倭人伝と古事記がつながり、なるほどと思った。
275 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 02:23:33.69
>>272 肝心のヤマトという地名が奈良にできたのは7世紀だ。
ヤマトとは山門、つまり山に囲まれた盆地という意味だから、日本全国に類似の地名がある。
奈良盆地が国の中心になったために、ヤマト=国名のように使われだしたということです。
奈良という言葉も百済語で国(この場合は集落)という意味だし、
言葉は時代とともに変化するということだ。
百済語w香ばしいね奴がこんなとこまで入り込んでたんだね
「つま」っていう狭域地名が広域地名になっていた可能性もあるということだな
そんな例はいくらでもあるしな宮崎って郡名と県名の関係だって他県のそれだって同様だものな
>159縄文晩期の鉄滓・鍛冶炉跡やプラントオパールについて知りたい。
ネット上ではかするけど詳しく分からない。
これだと図書館でも真偽詳細は分からない気がする。
公開されてないのかな?
二つの地名の一字を合わせて、新しい地名とすることもある。
ニニギは国造りにあたり、伊都国と邪馬台国の一文字から
都馬国としたいと考えた。そのまんまではいけないので
古代人特有のなぞかけで投馬国にしたと考えた。
神社のほうは都がのこり、都萬となった。
高千穂峰より西の投馬国を区別するために、襲の投馬(ソトマ)
または襲の都萬(ソツマ)転じてサツマとなった。
という根拠のない妄想をした。
ぶっちゃけ今の漢字は後世の当て字だから
字自体はなんも意味ないよ
ヒントになるのは読みだけ
282 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 16:10:35.62
勝手に奈良を百済語にするな。ならす、なる
から来ていて平和、平らかな町という意味で
平城をあてる。
本気で奈良を百済語だと思い込んでる学部生、院生いないだろうなw
あをによし(青丹よし)奈良
伊都国と邪馬台国からとって都馬って思いつかなかった
伊都国はあちこちに隠れ伊都を残しているように思う。
例
田川郡糸田町のイトダ
東征時、田川市の船尾山の木を切り出し、船を作った時の
川出し地に残る位登(イトウ)古墳
邪馬台国は山の伊都(ヤマイト)を、発音あいまいな
邪馬壱(ヤマイ)や邪馬台(ヤマト)言っていたのでは
ないだろうか。
大隅の国の一の宮「国分八幡宮」→(俗称)「鹿児島神社」
社伝によれば、鹿児島とは籠島で海彦山彦伝説で皇室の祖先を竜宮に案内した海神の船、
「目無堅間の籠船」が発着したところという由来になっている。
奄美出身の大山麟五郎は、鹿児島は水夫(かこ)の島と解した方が簡明だがと谷川健一との対談本で妄想してた。
>254
志布志湾沿岸には鹿児島県では例外的に全長124mの横瀬古墳と全長140mの唐仁大塚古墳があるのだけど5世紀以後築造とされてる
後方部が大きすぎ長すぎ発達しすぎているせいだろうか…?
二段というのも重要度を下げてしまう原因になってる
唐仁は古い形の要素もあるんだが結論として5世紀後半
5世紀までなると重要度が落ちる
畿内では400mを超えるほどまで超巨大化しているころ
唐仁は古い可能性がありそうなんだけどな
大崎町以北は大隅国が置かれた後も日向国で宮崎県だったこともあるんだよな
むかーし、志布志に住んでたけど、唐仁原さんっていたよ
唐仁原は鹿児島の苗字というイメージだけど、鹿児島に中でも大隅と日向の境の辺りのイメージがあるな
唐仁原さんは、唐から来たんだろうか
鹿児島や都城に多い江夏さんも大陸から渡来
291 :
日本@名無史さん:2012/06/19(火) 19:44:06.74
>>289 薩摩焼の祖・新羅系初代沈壽官も子孫は
鹿児島の苗字らしい大迫って氏名になってる
鹿児島の大陸系要素については秀吉の朝鮮出兵の時に連れて来た人と
弥生時代以前に自発的に渡って来た人を区別せにゃならんな
どうやら昔は薩摩南部を除く鹿児島と宮崎は時に戦争しとったようだ。
どこだったか忘れたが志布志湾の古墳群からは日向から運んだと思われる石棺が出土しておる。
4世紀には志布志湾までは及んでいなかった。
5世紀に新規土地を獲得し移住し危険を冒しながら新規開拓してかなり強引に象徴としての前方後円墳を作った。
という仮定を考えている。
やっぱり戦争してたんかねえ
お隣さんとは平和裏にやらにゃいかんよ
そんなに耕す土地が欲しかったのか?
平和裏自主的に稲作・古墳文化を受け入れた可能性もあると思いますよ。
3世紀後半とか政治体制はどうなってたんだろうね?
西都と宮崎市内には奈良なんかと同じタイプの古墳があったみたいだけど
298 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 09:27:42.02
日向と畿内は同じような古墳がある。畿内の箸墓などが大きいので、そこが発祥だ
と信じられていたが、それが間違いであることがわかってきた。
畿内にはさしたる弥生遺跡はない。畿内の古墳を造ったのは、吉備の方からやって
きた勢力だ。そして、吉備の前はとなると出雲だ。そして、出雲の前はとなると九州。
九州を統一した倭国が本州に勢力を広げていった、その倭国の看板としてでかい古墳を
造っていった、ということだろう。吉備、畿内に勢力をのばしたころにでかい墓を造る
ようになったので、九州には逆輸入みたいになってるが、政権が畿内にあったわけでは
ない。
古墳の広がりは大和朝廷の成立よりずっと早い。
大和朝廷は、既に古墳のあった地域を次々と平定していったように見える。
どうやら、大和朝廷成立以前に、九州から東北南部にかけて、経済的文化的つながりのある多数の都市国家があり、
それは、都市国家の共和制ローマが、独裁のローマ帝国に置き換わっていった歴史に似ている。
どうやら、そういう帝国という仕組みは、ゲルマン民族の大移動によってもたらされたものらしい。
300 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 11:38:15.45
何をもって大和朝廷が存在したとみるのかな?
確かに、ローマ帝国では、歴代皇帝の名前が伝えられている。
一方、大和朝廷というのは仮の名前に過ぎず、歴代天皇の名前も後付けで捏造されたものだ。
社会の成熟度ではローマとは大きな差が生まれた。
男の上に女が重なっている
中国のもの、ヤマトのもの、ハヤトのもの、南方のもの、色んな文化のミキシング。
妄想だけど穀璧絡みで呉と直接交易の可能性を考えるね
色んな勢力とほとんど関係無しに海のみで通じてる
串間を出発し大隅半島南岸沿いに航行し佐多岬から外洋渡海へ
竹島、硫黄島、黒島を経てひたすら西へ
真西に行ければ長江下流に着く
海流の影響でずれても難破沈没しなければどこかに着ける
後世遣唐使でも難破の危険のあった難しい航路ではあるけれど
三島村の黒島から杭州湾の東にある諸島まで675kmすな。
20〜30日かかるんなら、淡水と食物が絶対要る。
ここを航行していたとするにはほとんど調理いらずの食物の保存技術があった証拠も要る。
途中に島も無いし、ちゃんとした調理も水の補給もできない。
島伝いの南西諸島を行くのとは話が違いますぜ。
306 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 22:31:58.29
家ごと漂流すればいいだけじゃん
震災の漂流物は北太平洋海流に乗って行ったから着いたんだろ?
海流に任せても中国には着かん。
だいたい北に流される感じで中国に近付けば反流で南に流れるっぽい。
銚子沖からカリフォルニア沖まで1年近くかけて漂流した漁船があったな
乗組員は全員死亡してた
畿内の威信財、絵画土器が日向へ
金属器が畿内の新しい威信財へ
畿内・日向で前方後円墳が同時発生
引き金を引いた出来事として海幸彦山幸彦の話が思い浮かぶ
310 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 23:22:27.21
蛋民とかしらんの?
311 :
日本@名無史さん:2012/06/23(土) 23:36:06.20
葦とか使うヴァージョンなんかもあったかとはおもふが
航海に出てどこに行ってたのかとかこういう話は嫌味が無くて夢があっていいわ
南西諸島以南と行き来してた確かな証拠品もあるんだな
知らんかった
いや現在と当時の気候を比べてどうなのか次第か
アクセサリーに使ってた貝が奄美以南でないと採れないそうなんだが
西都にしても生目にしても他にしても川のそばの高台上に古墳がある。
縁のとこにあるやつは人々が暮らしてたたところや川を行き来する舟からも見えてたろうな。
天に近いところに作ろうとしたり守り神としようとしたんだろうかな。
高地性集落の分布から見られる通り、日本は瀬戸内海を挟んで南北にわかれて争っていた
どちらも元は奴(那)国という統一された勢力だった
その本拠地は東海
北側の勢力は羅国を名乗り総社が本拠地
後に出雲に幽閉される
南側の勢力は邪(耶)国を名乗り大和を本拠地に
後に大和王権になった
日向は第三勢力で南側勢力と結びつき南側勢力勝利の要因となった
北側勢力は奴(那)国の時代からの主流派で呉と結びついていた
彼らは南側勢力のことを狗那国と呼んでいた
南側勢力は新しく朝鮮半島北部の支配者となった呉といち早く結びついたことで南北抗争に勝利した
北側勢力は南側勢力のことを狗那国と呼びその記録は呉に残った
南側勢力は北側勢力のことを土蜘蛛と呼びその記録は日本の正史に残った
× 新しく朝鮮半島北部の支配者となった呉といち早く結びついたことで
◯ 新しく朝鮮半島北部の支配者となった魏といち早く結びついたことで
奴国って明らかに北部九州にあった国だろ…
東海って?
かつて東海から九州まで統治した勢力の残存勢力か?
狗奴国が勝利したと言うの?
わけわからん
東海と大和の関係、大和と日向の関係(絵画土器)を考えるとこれしか結論がない
319 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 23:18:50.05
そんなことはないな。南九州が北九州を支配下に置いた。それから北九州を先兵と
として本州、四国を支配下に収めた。それで何か問題があるか?
ある
たとえば弥生時代の鉄鏃の出土数に筑紫と数倍の差があって日向宮崎の方が少ない
単純な軍事力でも数倍の差はあったろ
古墳時代には急激に増えるが東征は古墳時代ではないだろ
321 :
日本@名無史さん:2012/06/24(日) 23:49:39.71
宮崎が少ないからどうだってのかな?鉄鏃の数で勝敗が決まるものではない。
古墳時代に入って日向が繁栄を続けている。南北の戦いで日向が勝利した証拠だ。
322 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 11:51:15.53
土佐は都佐でハタの国、西都と土地関係も正しい。
邪馬台国は四国だよ。
323 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 12:51:05.35
325 :
日本@名無史さん:2012/06/25(月) 22:41:46.33
四国は死国。
生きた人間はいけない。
何かの映画でも見たのか?w
鏃は戦をやりあった地域で必要以上に大量に出るものではないの?
宮崎の弥生の鏃は狩猟用と最低限の防衛用と思う。
周りが険しい山で海路以外で簡単には来れんけど環濠集落はあった。
戦というより賊からの自己防衛用。
古墳時代には戦争やったんだろうな。
鏃はね、他のは多種、多数出てるの?
329 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 16:08:22.13
日向の弥生遺跡を研究したことないの?
土佐に住んでたころ、年寄りがガタイが良くて驚いたな
婆さんでさえ、骨太で体格が良い人が多かった。
南から黒潮に乗ってやって来たのならあれぐらいのガタイがないといけなかったんだろう。
おいおい…
天叢雲は出雲神話でスサノオがヤマタノオロチから捕ったものだぞ
抗議が来ても知らんよw
>>329 8世紀の日向国の範囲だと、延岡に鉄工房跡あるけど高千穂、延岡はちょっと微妙だな
盆地は論外として宮崎市内中心部は未知(どの程度調査してるのか)
全体として3世紀以前の遺跡出土鉄製農具工具は見たことない
弥生の鉄器なら出土してる。
宮崎市内の環濠集落の一例
環濠として機能したのは弥生中期。
後期に廃絶、近隣に移動、墓域化。
他出土遺物は土師器、弥生土器、ヤリガンナ、石斧、石包丁、石鏃、鉄鏃、鉄剣、他鉄器など。
鏃出土は、
竪穴住居35竪穴状遺構20計55のうち3、土壙43のうち5。
円形周溝墓2か。鉄剣出土。
…に見えた。保証はしない。
武器類は圧倒的に少なく思えた。
近隣にも弥生前期から営まれ時期が重なる可能性のある環濠集落があるが戦争してたとは思えないな。
むしろ同族っぽい。保証はしない。
ネット上で見れる。
>>333 古墳群のそばしか調査してないように見える
見えるだけか
噂によれば宮崎駅の東には古墳群があったが明治に破壊されたそうな
336 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 21:38:32.64
邪馬台国と神武の生きた時代をほとんど同時としてる漫画を見たことある
邪馬台国の時代に死にかけの老婆卑弥呼と神武少年みたいな感じだった
神武のいるとこと邪馬台国の場所は違って大国邪馬台国の武力侵攻に良い感情を抱いてない
漫画の中では邪馬台国は南に狗奴国があって争ってたと思う
記憶が違ってるかもしれないけどなんて漫画だったかな
337 :
日本@名無史さん:2012/06/26(火) 21:55:12.46
>>331 薩摩剣士隼人の薩摩之歌姫プリモーゼは
十戒モーゼの娘って設定
コノハナサクヤヒメ?
鉄器はどこから入手してたんだろうな
どこかで製鉄して加工してたはずなんだがどこか近くにあるんだろうか??
延岡まで行ってたのかな?
340 :
日本@名無史さん:2012/06/27(水) 08:04:55.35
延岡に見つかったと言うことは、他にもあったと言うことだよ。
遺跡の発見なんて、実在したものの何十分の一、何百分の一といった程度さ。
>>336 安彦のマンガか?あれはトンデモ本だぞw
卑弥呼には子がいないのにバンバン作るし。
342 :
蘇我入鹿:2012/06/27(水) 12:44:03.91
トンデモでも絵とセリフで見ると面白いよね
本物を読んでみたくなれば読んでみればいいし
バカはメディアで簡単に騙されるんだよ。
マンガは読みやすいだけにタチが悪い。
未だに手塚版卑弥呼像を想定する奴も多いからな。
345 :
日本@名無史さん:2012/06/28(木) 01:53:08.11
考古学に割かれる予算は極わずか。
大規模調査ができるのはたまに運良く幹線道路の工事中とかに遺跡にぶつかった時だけ。
調査が終わるまで工事が進められないから、土建屋からあちこちに圧力がかかって特別予算がおりる。
宮崎は新幹線でも通らない限り、しばらく新しい発見は無いだろう。
東九州道の工事でいくつか遺跡にかかって調査したみたいやね
この説ってやっぱり伊都国から舟で十日、山の中を一月かけてやって来たってことになってるんですか?
どうして陸路に切り替えて一月も歩いてきたのか、その点理に適った説明がありませんよね?
舟でや大分県南下だとか鹿児島県の南を回って来る方が陸路一月より楽なんじゃないかと。
講演会や本もあるみたいなんですが、どう説明されてるんでしょうか。
失敗できない旅だから。
持衰にあるように倭人は極端に渡海を恐れる。
内海(日本海も含む)に比べて、外洋は波が高く、
特に一発大波というのがあるので沿岸航行は非常に危険らしい。
別の話ですがもし神武が日向から出発したのなら、外洋に面した日向灘を北上したことになるのですけど、
航海を恐れて避けてたなら海路でなく陸路で北上しそうですけどね。
理由として考えられるのは、陸路を他の勢力に阻まれていた。
そもそも大分と宮崎の間は山が険しい。
あと、日向の北の美々津から出発したというのは、
出来るだけリスクを減らす意味もあったんじゃないかな。と思います。
山が険しいからこそ海を行くように思うのですが、美々津から海路というのは合理的ですね。
自分たちに危険を課して航海することと、使者にも危険を課して航海すること、意味が違う。
348の通り失敗出来ない旅だから、海路より陸路が安全と思えば時間がかかってもそちらを選ぶ。
とは言うけど邪馬台国はここじゃないから安心していいよw
言ってる人たちも本気でそんなことは思ってないはず
状況証拠が弱すぎるもんな
大陸、南西諸島との南方航路、鉱物資源の豊富な四国から紀伊、関東に繋がる中央構造線を考えると
宮崎は地理的に海路上重要な拠点だから弥生前期から北部九州人が移住し(檍遺跡)、
後期に破鏡も出ると思うのだが(下那珂遺跡)
陸路だと少なくとも20箇所以上の安全に宿泊できる拠点がなければらないし
しかもそれらの拠点には國はなかったことになる
今の政治地理史観で列島を観ない方がいいな。江戸にしろ古代畿内域にしろ後付の権威領域だろ。
ちなみに、徳島の庄遺跡で発見された弥生前期のかんがい用水路は、この時代の用水路は北部九州で数例見つかっているだけで
北部九州と非常に堅密な関係があったと考えられている
後から出来た権威領域は無視して自然地理で考えてるよ
考古学の分野の発見が足りない
357 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 00:31:30.98
>>347 >>348 日数の問題だろ。水行20日でようやく川内だ。舟で薩摩半島の先端をまわって宮崎へ
きたらそれだけで四十日、上陸してから更に十日はかかる。
八代付近から陸行1月の方が早く着く。
358 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 10:41:51.25
359 :
日本@名無史さん :2012/06/29(金) 11:23:55.44
米も縄文時代中期に、大陸南部から台湾、琉球を経て九州南部に伝わったんでしょ
幕末の西南雄藩も、この辺の藩だし
昔は西南から海路で日本に色々新しい物や技術が入って来てたって事だろ
南西方面由来の遺物もあるみたいだけどどれだけ行き来があったのやら
覗き見ただけなんだが、数年前に宮崎市佐土原町で弥生後期の遺跡が見つかったらしい。
竪穴住居120石庖丁149砥石87弥生土器コンテナ450個分超で鉄器は鉄鏃5と刀子1しかないそうだ。
環濠はない。
以下素人考えなんだけど、平和的にどこかへ移動して鉄器は全部持って行ったか、
忘れた物は部外者に持って行かれたんだろうかと考えてもどうなんだろうな。
標高40mで高地性集落の様相もあるらしいけどそれでもあまりに無用心というか…。
近隣の環濠のある集落も後期早々に環濠が用を成さなくなってるのは早すぎるような。
よそでは倭国大乱とか言って戦の最中、吉野ヶ里の環濠が最発達するのは3世紀なのに
このへんは平和だったのか?
いったいどうなってたんだろう。
周りを全て険しい山と海に囲まれた僻地であるがゆえの桃源郷の平和ボケ
倭国大乱?なにそれ?おいしいの?
7世紀迄ハヤトも闊歩した領域だぜw
上の遺跡も環濠の用をなさなくなった近隣の環濠集落っていうのもそこに載ってないものなんだが、
いったん環濠を作りながら早い時期に埋没させててしまったことはどんな意味があるのかなあと考えた。
全国的に環濠は埋められて用いられなくなるんだけど時期はまだ後。
>>364では環濠は必ずしも防御の意味ではなくて形式的なものがあるというように書かれてるな
367 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 21:45:37.01
日向に攻め込めるほどの勢力は、そうはない。
368 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 21:52:03.17
ひとつの用途として、環濠には地下水面を下げて、
排水する効果がある。
水を貯める、いわゆる堀ではない。
竪穴式住居だからね
竪穴住居内に水が貯まらないように環濠を巡らせたってことか
371 :
日本@名無史さん:2012/06/29(金) 23:29:57.82
>>367 航海術を持つ集団でないと難しいな。
それなりに道が出来て兵站確保が出来るようになった後の時代とは違う。
まず山中行軍で3分の1が熊・狼等に襲撃され脱落、
3分の1が崖を転落し、あるいは飢えで死亡。
3分の1に減った疲れきった落武者のような軍を撃退するのは簡単。
戦国時代にこの山地を落ちて行った人々は山中で相当数が死亡した。
明治の西南戦争でも薩軍の精鋭600名も脱落せず山中突破できたのは400名。
追われて一番険しいとこを通るわけじゃないだろ
薩軍は山中で小戦闘を繰り返しながら縦断して鹿児島の官軍を突破して城山を確保した
精鋭中の精鋭ならこのくらいできる
流れぶった切ってスレ違いの妄想で申し訳ないけど、神武東征を史実とするのに勝手な作為をやるなら
欠史八代と景行、成務、仲哀は架空で、神武→崇神→応神の順ではないのかな。
景行、成務、仲哀の九州や朝鮮の話は神武の日向での話や北部九州による朝鮮侵攻の話をくっつけた。
崇神は3世紀後半から4世紀初めの人物で、神武は3世紀中頃前後の人物なのではないかな。
垂仁は3世紀中ごろから末頃で、日向に残した子なんでは…?
垂仁の活目尊イクメイリヒコと生目1号墳の生目というのはただの偶然なのか…
生目という地名の初出なんかはだいぶ後世になってても遥か以前から由来があったのでは…
なんて考えてみたりもする。
生目なんて地名はかなり奇抜でただの偶然でそうなのかどうか。
生目1号墳は箸墓と同形式だとされてるよね。
箸墓が神武や崇神の墓だったりして。
日向の鉄鏃出土数程度でも当時の畿内に比べれば多い。
険しい山に阻まれた僻地であるがゆえに北部九州を抜け駆けして東征を可能にした。
瀬戸内海も通らず四国沖を通っていきなり紀伊半島から侵入した。
せこいけど。
妄想ごめん。
375 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 08:07:37.69
隼人は仁徳紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されて
いるんだろ
生目1号墳は手研耳が異母弟たちに殺されたことを知って嘆き悲しんだ人々
によって箸墓の2分の1の相似墳として作られた手研耳の墓である。
発掘調査をしても棺は無いかあっても遺体の痕跡は無いだろう。
なんつってな
377 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 11:04:44.21
古墳は駐留軍の訓練を兼ねて造ったものにすぎない。
だから、大きな古墳が造られているところには大勢の兵士が集められていたと
いうだけのことで、そこに大王がいたというわけではない。
378 :
三太穴:2012/06/30(土) 11:55:30.94
西都原は、古代名の斎殿原を書き換えたにすぎない。
西都という呼称が3世紀の古くからあったわけではない。
そもそも、都と「と」と読むのは8世紀以降だろう。
ひれ以前の古い呼称は都万がいい実例で、「つま」と読んでいるではないか。
西都は国造や伴造が登場するよりも古い時代、
大和政権直轄地の一つとして「児湯の県(あがた)」と呼ばれていた。
西都市と西都原は、その名残りの児湯郡にすっぽり囲まれている。
3世紀の呼邑国が大和政権直轄地となり、ここに倭国の国営墓域が造営された。
それが西都原の古墳群ではないのか?
こんな所が3世紀倭国の都だったわけがなかろう。
世迷いごとは寝言と一緒で、みなが聞き流すものだ。
379 :
三太穴:2012/06/30(土) 11:58:55.75
ひれ以前の古い呼称は都万がいい実例で、「つま」と読んでいるではないか。
↓↓
それ以前の古い呼称は都万がいい実例で、「つま」と読んでいるではないか。
とにかくこれで、
「邪馬台国は西都原に存在した」などと赤恥言説は誰もいわなくなり、
この与太スレッドも閑古鳥が鳴くことになる。
380 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 14:42:33.07
西都原は斎殿原から転じた割と新しい地名なことは知ってるし
昔からあるのは都万「つま」とも思うし西都原に「邪馬台国は西都原に存在した」とも思わん
>>377は少し疑問
つーのは254を地図上で見れば平野部各地にうまい具合に分散してるし西都原以外のはたぶん代替わりで似たような規模の物つくってる
これ小地域首長墓だろ
邪馬台国がどこにあったかの議論は別として
斎殿原のことはこのスレの
>>1の5、にも書いてあるから
なぜこのおじさんがしきりにこのことをもちだすのか理解できん
確かこのおじいさんは旁國の地名語呂合わせはやらんといっていたはずなんだが
はっきり言って主張してるやつらも悪ノリ半分みたいな感じだろ
大王とかおらん
縁地ということではあるのかと思ったりはする
383 :
三太穴:2012/06/30(土) 16:48:40.78
>>381 そうよ。最初に書いた時点でしばらく消沈したが、
忘れた頃にまたぞろ無茶をいいだす。
纏向もそうだったが、墓場を邪馬台国だななどと、有害情報を垂れるからだ。
そういうことをなぜ・しきりにいうのか・それこそ分からんぞ。
384 :
sage:2012/06/30(土) 16:53:34.37
ええいおまえらは黙ってろ
語るなら壮大な話にしろ
コスい話にしてつまらなくするなバカタレが
385 :
三太穴:2012/06/30(土) 16:57:42.83
もともと、コスい話なのだ。
壮大にすればウソが大きくなるだけ。
386 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 16:59:04.82
邪馬台国は熊本だろ
387 :
三太穴:2012/06/30(土) 17:07:43.34
ん・数ある中の仮説の一つにすぎん。
要は手順と手法の問題よ。
駄説にならんよう、
まっとうな手順と手法にのっとって正直な論考を心がけただけ。
たいしたシロものでもねーよ。
388 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 20:44:17.78
景行さんの熊襲退治では北九州から始まって、
宮崎で終わって一息ついたわけだが、
鹿児島隼人はとういう扱いだろうか。
すでに景行天皇についていたのか、
それとも手が出せなかったのか。
宮崎でかなり長く滞在しているから、
しばらく色々やっても、手を出せずに
あきらめたと取れなくもない。
389 :
三太穴:2012/06/30(土) 21:09:46.30
景行天皇の事績が知りたいなら日本書紀のの巻第七を読めば分かるよ。
誰でも読まなきゃ知らんし読めば分かることを知ってる知らないでどうこう言うような精神は持ち合わせてないけど、
読んでないし読んでもまともに読む気もないのならF式宗教でもやってればいいんでないの。
違うとか根拠が無いとか想像だとか断って前置きしてのものなら趣味でも学問でも許されることだが
断りも入れずそう書かれているように捻じ曲げて流布するようなことを捏造と言う。
391 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 10:06:19.86
景行天皇の事績というのは、古事記にはまったく書かれていない。
日本書紀ででっち上げたことが明らかだ。
欠史八代と景行・成務・仲哀天皇、神功皇后は色んな理由で実在可能性がかなり疑われてるな。
出来事としてはそこまで否定すべき根拠はないけどな。
393 :
日本@名無史さん:2012/07/01(日) 21:18:49.99
肯定する根拠がないことが問題だよ。
景行天皇以降は、九州の4世紀の豪族を当てはめただけ
3、4世紀ごろから最近(〜720年)までの先祖や各地の伝承を足してるように思う。
倭国大乱って例えば寒冷化で食料や土地(耕作地)を巡る争いが広範な地域で起きたんではないかな。
宮崎なら少々寒冷化しても大丈夫だろ。
北の方はそうはいかないかもな。
397 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 20:35:20.09
海洋民族(海幸彦)を思い出して。黒潮で列島を北上、鹿児島と静岡が
黒潮のルートにあり、鰹節作りが盛んなわけ。
神奈川の箱根の九頭龍神社の祭神は誰か?ニニギ、アタツヒメ、山幸彦。
この3人の親子は南九州出身。
398 :
日本@名無史さん:2012/07/06(金) 21:10:31.32
古代海民集団ゴロ族とは
海洋民族(海幸彦)の事ですか?
行きはよいよい 帰りはこわい
黒潮は一方通行
今日の各紙に載ってた柄付き石斧の出た場所なんだけどその石斧が使われてた時代に開墾してたの?
くわやくいが出てるそうですけど
401 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 00:05:01.15 BE:1783347473-2BP(0)
>>401 またまたw
そうやって自分のサイトのリンク踏ませて
IPブッコ抜きしようとかww
403 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 15:15:48.52
最近、読売新聞に載った記事です。
http://rekisitannbou.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/-m-bec7.html 最近の科学的な検証の方が派閥、偏見、主観がなく客観的。学会は当然認めないが。
天孫降臨神話とは大陸(中国南部か)から海流に乗り渡来した航海民族が、鹿児島県薩摩半島の
坊津付近に流れ着き、大隅半島へ渡り、@王子遺跡(鹿屋市) → 曽於・都城 → 宮崎 → 西都原 と
A王子遺跡(鹿屋市) 肝属川河口(神武東征の碑あり) → 日南 → 宮崎 → 西都原 と@Aから移動したと思われる。
鹿屋市の王子遺跡が2000年前の南九州最大の集落跡で、伊勢神宮の建物の基となったと思われる棟持造り、
鉄の矢じり、瀬戸内海まで航海していた痕跡が出土。2000年前で大集落は住居だけ残して人は消えている。
桜島、霧島等の大噴火で集団移転したのではないだろうか。それが南九州からの神武東征ではなかろうか。
また、北九州の勢力も出雲 → 吉備 → 畿内と移動した。これは軍事又は文化的移動だったのか?
こう考えると神話と古墳も合致してくる。因みに、鹿屋市と都城市の間の曽於市に弥五郎なる巨人伝説がある。
これは熊襲の首長で曽我氏の祖、竹内宿寝とも言われています。また、都城市の山之口、日南市にも兄弟がいますが、
特に日南はハルクホーガンそっくり。巨人伝説=トルコ系又はユダヤ系の渡来人では。これも神話と同じ地域です。
日向神話、宮崎県と思われていますが、日向は宮崎県、鹿児島県からなり、その中心は大隅です。熊襲征伐、やまとたけるが
内之浦から大隅に入り、熊襲をだまし討ちし、くまそたけるが亡くなる寸前に自分の名前を授けてやまとたけるを名乗らしたとか。
これも熊襲(後の隼人)を大和政権が服属させ、その後大隅の国が日向から独立し日本書紀も編纂。面白い動きです。これと同じことが
西南の液後にもにも行われ、鹿児島県、宮崎県が幾度も変えられ今に至っています。
404 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 16:43:35.56
405 :
日本@名無史さん:2012/07/07(土) 18:08:58.97
>特に日南はハルクホーガンそっくり
顔みたのかよw
407 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 07:20:28.45
>>403 引用の読売の説は、伊都国を有明海沿岸と考えたのは大進歩ですね。ただ、まだ連続説で読んでいるところ
が問題。放射式に読むことに気づかなければいけない。
行程をまともに考える学者の多くは放射式ですよ。
その学者とは文学部史学科の学者のことではないだろ。
全然門外漢の理系の学者にいきなり魏志倭人伝を読ませて説いてもらったらここに持って来ること多いよなw
すると当然と言えば当然だけど専門の学者の多くが激怒する
自説を持った愛好家はもっと激しくて口汚く罵るっていう…
一読しただけならここに持って来れそうじゃん!?って飛びつきそうだけど
いろいろと見ていくうちに誰だってそれは難だなって思うよ
西都原だって大和周辺の古墳の縮小版で大和側に付いた地方豪族か大和の出先機関か何かだろうって思うし
411 :
日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:15:24.77
合理的な思考ができる学者は、だいたい九州説だよ。記紀を読んで大和朝廷が
畿内で発生したと思い込んだ連中が、やみくもに畿内説に固執しているだけだ。
その証拠に九州説に対してまともに反論した奴はいない。感情的な罵倒、非難
だけだ。
ここが邪馬台国って言ってる人は7万戸の住居があったと思ってるの?
狗奴国はどこ?
卑弥呼の墓はどれ?
邪馬壹国は狗奴国との紛争で魏に仲介してもらって戦況報告もしていたらしいけど
大和〜九州北部まで治める邪馬台国が、九州南部の一地方勢力の狗奴国との紛争で
そんなことを必要とするだろうか…?という疑問。
邪馬壹国にとって狗奴国は脅威で狗奴国にやられてしまってもそこまで不思議ではないくらいの逼迫度があるように思える。
邪馬壹国の南に隣接して狗奴国があって、軍事力ではそこまで大差があったわけではないのかなあと思う。
414 :
日本@名無史さん:2012/07/11(水) 23:07:05.74
邪馬台国はかなり広かったんだろうな。戸数千戸の集落が70カ所あれば
七万戸だ。まあ、都は三千とか五千とかあったろうけど。
戸数1000の集落跡が見つかってるのかえ?
戸数120の集落なら600近く要りますがな
触れられていないようなので出すけれども、新富町に川床遺跡というのがありますよ。
弥生後期から古墳時代への移行期だそうです
鉄鏃72鉄剣5刀子7他にやりがんな等
円形周溝墓が30〜40方形周溝墓が5〜6で全長20mを超えるものもあるそうです
10くらいから水銀やベンガラの顔料も検出されているそうです
古墳時代だけれども同じく新富町の上薗遺跡ってとこからは竪穴住居が400軒以上見つかっています
もちろん同時に400ではないが…
レジュメパンフレット類を見ただけだから正誤は保証しかねますけど。
生目の1号墳と3号墳って墳丘の形から年代を推測してるだけで真実はわかってないはずだよ
例えば箸墓がああいう年代にされてるから・・てことで
1号墳とか調査と言える調査はしてないはず
參問倭地絶在海中洲之嶋上或絶或連周旋可五千余里
北部九州の唐津〜博多〜北九州〜宇佐〜竹田〜阿蘇〜筑後平野南部〜佐賀〜唐津
くらいで400km弱くらいになる。
この中に狗奴國は入っていない。
水行20日だとか同10日陸行1月の投馬國、邪馬壹國を入れることが出来るか否か。
そして、女王之南又有狗奴國(魏略)。
女王国が北部九州で、邪馬台国は大和、西都原は投馬国だと思うのですけどね。
今の妻とか都万神社、西都市の前の自治体名は妻(ツマ)町だったでしょ?
西都原から取って市名にして、西都原の西都は昔は斎殿って書いた。
南至投馬國水行二十日、東海岸を南に水行20日で問題ないし。
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 なんかは魏の人が混同した…のかなあと。
421 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 13:53:14.37
http://kagoshima.pmiyazaki.com/yagoroudon/ 弥五郎三兄弟です。鹿児島県曽於市岩川、都城市山之口、日南市飫肥。
風貌、体格から渡来人と思われるが、大陸から海路薩摩半島笠沙を経由して大隅半島
内之浦、志布志湾波見から南九州へ拡がった渡来人が熊襲。
日向神話は今の宮崎県と思われているが、日向(ひむか)は宮崎県、鹿児島県(薩摩半島、
大隅半島)で、その中心は大隅半島。渡来人の熊襲が勢力を南九州まで拡げ、同じ一族から
邪馬台国と狗奴国が分かれたと思われる。邪馬台国は宮崎で狗奴国は大隅半島か。
422 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 15:43:56.00
邪馬台国の邪馬台とは何か?
議論が十分尽くされていませんね。
実は前方後円墳とは相撲の土俵ですよ。
後円部の一番上のマウンドで相撲を取らせて落ちたほうが負けです。
前の男王が死ぬと新王の座をかけて男たちのさしの勝負が繰り広げられる。
負けた者は殺され、殉葬される。埋められたのは奴婢というのは全くの誤り。
大きな国になれば、戦いは何日もかけて繰り広げられるのです。
いろいろ考えてみるんだけど、邪馬台国は大和のことでしょうよ。
九州北部には共立王や象徴として女王のようなものを立てたこともあったんだろね。
ここらは狗奴国の一部かなあとか、投馬国は出雲かなあと、いや邪馬台国だと
考えてみるのだけど、結局投馬国がここで落ち着きました。
邪馬台国がどことか言い放題だし意味ないねw
天孫降臨も日向国と書いているのに筑紫国らしいしなw
424 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 21:35:03.32
投馬国でも狗奴国でも熊襲でもなんでもいいはよぅ掘れ!
どんどん掘れ!予算上げろ!
>>421 何の根拠も無いけど
宮崎平野〜串間〜志布志〜鹿屋〜鹿児島市より南 は気が合う感じがしない?
盆地〜霧島〜鹿児島市より北〜球磨と違うくない?感触が。
弥生の遺跡は盆地の方が多いだろ
土器は北の方から入ってきたんだよな
銅鐸も銅矛も銅矛も鏡も少ないか無い
素人なのでよく知らんのだけど
弥生も終わりになって急に…て感じじゃなかったっけか?
鏡は全国にひとつも類例が無いのが出たらしいが数としては少なすぎるな
428 :
日本@名無史さん:2012/07/15(日) 00:44:11.51
しろとくんだこまが攻め込んでくるようになるとさ
熊襲の女酋長さん困ってしまって不安のない楽園に逃げてきたんだろ
戦乱を嫌って北九州から逃げてきた人がいたのかもしれんね
純粋に開拓動機でやって来たりさ
そういう人たちはまず平野の海の近くに住んだろうな
男狭穂塚とか女狭穂塚の名称は垂仁天皇のとこで出てくる兄妹のあぶない関係、
あの顛末を気に入った誰かが名付けたんであって(たぶん)、名称から想像を巡らすのは無意味。
近所の普通のおばちゃんですら男狭穂女狭穂の竣工はそんなに昔じゃないと知ってる。
古いのは○号墳と事務的に付けられた実質名も無き古墳てことも知ってる。
だからニニギとかコノハナサクヤヒメの墓と言われても「それはちょっと…ねえ」みたいな感じ。
社会科で触れる地元の小学生ですら教師によってはそのへんをそれとなく言われたりもあるはずで、
昔の人や新聞や紹介文と一般人の意識の差は結構大きい。
名付けた人は記紀の狭穂姫狭穂彦を連想したんだろう
なんであんなにくっついてるのか知らん
素人に言わせたら肝属平野の塚崎16号とかは形だけ見たらかなり古い可能性がある?
…ように見えるんだけどどうなんだろうね。
土器編年とかどうなってんのか知らんのだけど。
肝属平野は宮崎平野と重なる状況を同じくするところがあるんではないかな。
434 :
日本@名無史さん:2012/07/25(水) 21:11:57.87
肝属といえば、篤媛にも出てくる肝付尚五郎(後の小松帯刀)の実家だ。
江戸時代には島津氏の一家臣になり下がっていたが、元をただせば、古墳時代から続く南九州の豪族だった。
島津氏のほうは、藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津荘の荘官(下司)として九州に下り勢力を拡大、
その子の惟宗忠久が、新興勢力である源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされ、
出自の卑しい新参者といえる。
近くには市来式土器の出土地もあるしね
古くから人が住み着いて一定規模の勢力を誇っていたのかな
肝属はかなり気になるな。
素人目だし何も知らんのだけど状況が変に見える。
肝属の弥生時代や古墳時代のはじめあたりの遺跡はどんなになってんのかな。
437 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 13:20:54.59
肝属平野〜曽於〜都城〜宮崎市〜西都までは同じ一族の感じがします。
○神武天皇関係
・神武天皇を祭っている宮崎神宮
・神武天皇の父母の墓 鹿屋市吾平山陵
日南の鵜戸神宮、神武天皇の父親等を祭っている
・神武東征の碑
鹿児島湾に面した霧島市福山町、宮浦神社
志布志湾に面した東串良町柏原町の肝属川河口にある神武東征の碑、戸柱神社の祭神はスサノオ
日向市美々津にある神武東征の碑
http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/archive/2012/2/2 ○遺跡、古墳
・東串良町、唐仁古墳 肝付町、塚崎古墳、大崎町、横瀬古墳 神領古墳
鹿屋市、王子遺跡 立小野遺跡 中尾遺跡
宮崎市、生目古墳 西都市、西都原古墳 その他もあり
438 :
日本@名無史さん:2012/07/26(木) 13:22:48.22
肝属平野は大隅国が置かれた後も日向国の部分があるな。
肝属もだろうけど、東九州道の建設に伴って調査がされたようだ。
弥生後期から古墳あたりにかかる集落遺跡は新富町で宮ノ東、向原第1、
川南町で尾花A、赤坂、湯牟田などがあったようだ。
中でも宮ノ東は弥生中期後葉〜後期前葉のものが38軒、古墳時代のもの
が418軒、尾花Aは布留1・2期を最盛期に弥生中期末から古墳中期前半に
かけて246軒の竪穴建物や鉄器200点が出土したらしい。
向原第1は6軒、赤坂は23軒、湯牟田は24軒らしい。
向原第1は軒数は少ないが1軒から多くの鉄鏃や鉄片が出土したらしい。
ミカン科種子、マメ科種子、モモ核なども検出されて炭化材や炭化米のC14
年代測定も行われてるよう。ここ数年でいろいろ見つかってる。
>>438 それや
隼人の乱のときの宇佐神宮と隼人のあれはなんなんだろ
単にまつろわぬ者としての熊襲や隼人じゃないだろ
あやしすぎるわ
志布志とかその先とか鹿屋の結構近くまで日向国で宮崎県だったんだがね
442 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 11:26:00.14
狗奴国を邪馬台国と対立する大国だと考えるのが間違いだな。
単に卑弥呼と卑弥弓呼の仲が良くないだけだ。
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)→神武東征>>瀬戸内海>>大和
....................隼人(鹿児島)
日向投馬国王と筑紫邪馬台国女王「台与」との婚姻後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国(後の熊襲)を滅ぼし、
その男系子孫であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東遷(東征)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。
大和朝廷における、投馬国(日向)系大王と邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系「天皇」、筑紫系「天皇」の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都
>>442 雑魚相手にわざわざ帯方郡まで応援要請に出かけるだろうか?
445 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 22:56:42.04
檄を作りて告諭す。つまりは「争ってはならぬ」と諭したということだ。
当然のことながら、それは邪馬台国に対するだけではなく、狗奴国に対する檄
でもある。なんで狗奴国が魏のいうことを聞くのか?
狗奴国も魏に対する朝貢国だからだよ。邪馬台国などと一緒に朝貢していたと
いうことだ。つまりは元々は狗奴国も邪馬台国連合の中の国だったが、卑弥呼
共立の課程で反発し連合からでたにすぎないとみるべきだろう。狗奴国も旁国
の一つ、それが正解だろう。
446 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 23:00:30.18
そうなると、朝貢国同士、戦うことは御法度だということを考えんとな。
邪馬台国側としては、実力では簡単に勝てる相手でも勝手につぶしたら魏から
文句がつきかねない。魏に対して事情を説明し、万一、本当の戦闘になったときに
魏に理解してもらえるよう環境整備をしたまでのことだろう。
そうかもしれないしそう考えるともっともだけど、狗奴国も魏に朝貢していたというのは想像だ
もしかすると狗奴国は邪馬台国を滅ぼし得るのだが、魏の威を恐れて魏の言う事を聞いた
のかもしれないし
448 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 01:53:39.13
>狗奴国も魏に朝貢していたというのは想像だ
今、使訳通じる所30国と書いてあるだろうが。
狗奴国が朝貢していたなら、戸数不明というのはおかしい。
狗奴国が邪馬台国に敗れたのでなければ、大和朝廷にまつろわぬ熊襲との関連も説明できない。
450 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 15:08:43.85
日向の国から、大隅の国が分化したのと、熊襲征伐の後、日本書紀が編纂されたのが同じ頃。
日本書紀は藤原不比等が編纂させたとも言われ、藤原氏に都合の悪い部分を改ざんさせたとも
言われてます。藤原氏らが国賊として暗殺した蘇我入鹿の祖、竹内宿寝は熊襲の出だった可能性
もあり。その後、島津荘園の肝付氏(大伴氏)、島津氏(秦氏)との対立。明治維新後の征韓論
による西郷の下野、幾度となく変更された県境。
東九州道、その他の工事により今後、新たな遺跡、証拠が発見されるだろうが大隅地域の発見物も
鹿児島県が力をいれるどころか、全て否定する動きで、中尾遺跡の象嵌剣、神領古墳の武人埴輪に
しても全て中央政権から地元の有力者に送られたものだ。この地域にはそのような物を作れる勢力は
ないと。では、作れる豪族がいないのになぜ中央から離れたこの僻地(今の感覚で)に中央政府が気を
使わないといけないのか。調査もぜすに鼻から蓋をする始末。鹿屋の王子遺跡も伊勢神宮の建物の基では
ないかと言われたがすぐ埋めてしまった。これも謎。
とにかく、宮崎、大隅は今後蓋をせずに調査を行うべき。
451 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 15:31:58.36
>狗奴国が朝貢していたなら、戸数不明というのはおかしい。
朝貢したからといって戸数を報告するわけではない。30国が朝貢しているんだ。つまり
旁国はすべて朝貢国。分かってるのかな?
>狗奴国が邪馬台国に敗れたのでなければ、大和朝廷にまつろわぬ熊襲との関連も説明できない。
倭人伝の解釈に記紀を持ち込まないことだ。
記紀の読み方は難しいんだよ。
一つの国の中に大和朝廷と熊襲があったとする。一つの国ということは、支配被支配の形はでき
あがっているということだ。熊襲が大和朝廷に服従していないということは、大和朝廷が熊襲に
服従しているということを意味する。この論理が分からないと記紀は読めない。
452 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 15:41:18.06
>>451 >一つの国の中に大和朝廷と熊襲があったとする
一つの国ということは、支配被支配の形はでき
あがっているということだ。
いや、その概念がおかしい。何が根拠になってるの?
一つの国って何をさしてるわけ?
そもそも平安時代以降も大和朝廷に与してない地域はたくさんあったわけで。
熊襲はその一つ。それだけの事だよ。
453 :
正統派九州説:2012/07/29(日) 17:30:06.19
>>445 >「争ってはならぬ」と諭したということだ。
たかだか禄高300石の掾史が、皇帝が王と承認した倭国王や、
皇帝が拝した禄高2000石の中郎将に「争ってはならぬと諭した」てか。
>なんで狗奴国が魏のいうことを聞くのか?
>>446 >魏から文句がつきかねない。
歴史上、倭国が中国王朝に従属・臣従した事実はない。
冊封という言葉の真意を誤解して、知ったふりして使うのがいるが、
あれは現代の日本人が造った造語だ。意味を誤解するな。
国家間の関係を錯誤したまま勝手な意見を足れるな。害毒だ。
>>448 >今、使訳通じる所30国と書いてあるだろうが。
「通じる」にも「意思が通じる・情報が通じる・道が通じる」など色んな意味がある。
・「魏の世、匈奴遂に衰え、更に烏丸、鮮卑に爰(換)わり及び東夷ありて、使譯時に通じる」魏書・東夷伝
・使驛(譯)通於漢者30許国………使驛(譯)所伝極於此矣。『後漢書』倭伝
「使譯して漢に通じる者30国ばかり」………「使譯の伝える所ここに極まる」。
・「また使驛を数遣わし動静を通じ、塞外の羌夷に耳目の吏(事)をなさしむ………」後漢書』西羌伝
・「648年に至り、また新羅に附して表を奉じ、以て起居を通じる」『旧唐書』倭国伝
>>449 >狗奴国が朝貢していたなら、戸数不明というのはおかしい。
そういうことだ。
魏と交流があったのであれば、「其餘旁国遠絶不可得詳」と21カ国名の羅列で済ませることはない。
>>451 >朝貢したからといって戸数を報告するわけではない。30国が朝貢しているんだ。
魏政府としても朝貢の担当窓口による使者からの聞き取り調査などで相応の国情は把握する。じょーしき
そうしなければ対応の吟味・検討もできない。
「使者と通訳がお互い往来」していれば、「其餘旁国遠絶不可得詳」とは絶対にならない。
歴史を勉強をした形跡もなし。認識不足のまま、エラそうにこういう所でよく書くよなー。
名無しの気楽なところか。
454 :
正統派九州説:2012/07/29(日) 17:34:02.18
よこしまな動機で立てた願望言説のスレッドだから、
投稿にも内容がないし、ウソばかりだな。
455 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 17:53:30.02
>禄高300石の掾史が・・・
皇帝の使いだ、石高は無関係。
>歴史上、倭国が中国王朝に従属・臣従した事実はない。
認めたくないのかも知れんが、朝貢したことは事実。史書に明記されている。
「朝献せんことを求む」「大隋礼儀の国あり、故に朝貢させた」「臣、下愚なりと
いえども・・」
>魏政府としても朝貢の担当窓口による使者からの聞き取り調査などで相応の国情は把握する。
隋の役人も聞いているようだな。しかし、倭の戸数は書かれていない。
456 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 18:03:36.23
>一つの国って何をさしてるわけ?
我が国で中国と通交していた国は倭国だけなんだよ。その倭国は、倭王武の上表文
で分かるように列島の大部分を統一し、朝鮮半島にまで出兵していた。
支配していなかったのは東北、北海道ぐらいのものだろう。支配できない地域がた
くさんあったなどというのは根拠がないね。大和村長はほかの地域とは無関係だろうが。
お付き合いで送った、お中元やお歳暮を子供に見せびらかして
みんな父ちゃんの部下からだから父ちゃん凄いだろって吹かすのは大昔から一緒
458 :
正統派九州説:2012/07/29(日) 19:30:50.46
バカどもが。
韓国は、こんどは対馬は韓国の領土だったといってくるだろう。
朝貢しただけで属国になるのならば、
沖縄だけじゃなく、日本本土も中国の領土だといわれても文句はいえんぞ。
歴史というものを、そこまでの責任をもって発言してるのか。
俺がお前ら軽薄者を怒るのも、ちゃんと理由があるんだぜ。
459 :
正統派九州説:2012/07/29(日) 19:40:34.85
他人ごとのように好き勝手にいうのも自由だが、歴史に関しては軽いことをいうな。
尖閣諸島の問題も竹島の問題も、「歴史」という学術的に解決できる問題なのだ。
それを、売国奴よろしく・ぐちゃぐちゃにしてるのがお前らタコどもだ。
正しい歴史をちゃんと見る勇気すらないクソ野郎ども。
ごめんなさい
461 :
正統派九州説:2012/07/29(日) 20:06:30.65
いいか。
中国皇帝が倭国に対して「王」と承認するにおいて、「封ず」と表現したことはない。
せいぜいが「王と為す」「除す」「進めて号す」だ。
形式的な上下関係を前提としたお付き合いだからだ。
古代の中国王朝のほうが、お前らよりも遥かに常識と礼儀をわきまえてるぜ。
中国という国は、王朝はじまって以来清王朝に至る数千年間、
自らが決めた5服・9服の内と外(藩外)を明確に分けてきた。
その長い歴史の中で、東の大海の中の小島を侵略して自領とした史実はない。
尖閣諸島については、
ごく近世の歴史動向をあげ足して「日本の領土ではない」と主張しているが、
だからといって中国の領土だったという理屈にはならない。ガキでも分かることだ。
中国との国際関係について、そこまで考えて邪馬台国を語れ。
>>453 >魏と交流があったのであれば、「其餘旁国遠絶不可得詳」と21カ国名の羅列で済ませることはない。
>「使者と通訳がお互い往来」していれば、「其餘旁国遠絶不可得詳」とは絶対にならない。
全く同意。
463 :
正統派九州説:2012/07/29(日) 20:38:54.75
歴史を探求する意義と目的を明確に認識している者と、
ただ、邪馬台国を好きな所へ持って生きたがタコとの違いを、
まざまざと見ることになたわけだ。
>>462 >全く同意
よぉーし。
俺の論理には誰も、娑婆で通用するほどの論理でもって抗し得ることはない。
俺がいう「古代の儀礼としきたり」は、論証の必要のない常識ごとだからな。
最強の九州説よ。
464 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 22:20:10.81
>「使者と通訳がお互い往来」していれば
魏が何をもって使訳を通じると言っているのか、検討したことがないみたいだな。
30国がそれぞれ使者と通訳をお互い往来させているなんて、解釈されてはおらんよ。
邪馬台国が使者を派遣するときに倭国の国々に声をかけ、倭の国々全部の代表ということで
行った程度だろうと解釈されている。知らんかったのかな?
465 :
日本@名無史さん:2012/07/29(日) 22:28:29.03
>>462 で、使訳通じる30国とはどこのことだと思っているのかな?
邪馬台国「卑弥呼」が魏に朝貢したのに対抗して、交戦相手の狗奴国「卑弥弓呼」が呉に朝貢してたって可能性はないかな?
「親魏倭王」卑弥呼vs「親呉倭王」卑弥弓呼
卑弥呼と卑弥弓呼の戦いって、魏と呉の代理戦争だった可能性もアルヨ!
同じく想像したことある
>魏と呉の代理戦争
>>466-467 スゴい着眼点!
日本の政治は、未だに40年来の角福戦争の泥仕合で動いてるからなw
自民党(親米・旧福田派)vs. 民主党(親中・旧田中派)
国会はさながら米中の代理戦争だし、民族の行動原理は1800年経っても大して変わらんのかもな
さらに想像を逞しくすれば、呉の孫権の重税を逃れてきた難民も保護してやったりしてたんジャマイカ?
狗度国が邪馬台国に制圧された後、呉の技術者や鏡職人たちは大和朝廷に引き取られて帰化し、
西国の再開発や東国の開墾(土木・治水)指導、三角縁神獣鏡の製作に従事したんだと思われ
訓読みが呉音のもその名残なんジャマイカ?
470 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 05:47:24.03
【研究】「日本の神道の起源は韓国の檀君神話」 国際脳教育総合大学院のホン教授★2
1 :そーきそばΦ ★:2012/08/01(水) 03:10:00.89 ID:???0
【ソウル聯合ニュース】日本で古くから信仰されてきた宗教「神道」は
新羅時代初期に日本に渡ったとされる新羅の王子、
天日槍(アメノヒボコ)により始まったとする主張が韓国で提起された。
国際脳教育総合大学院のホン・ユンギ碩座教授(寄付金で研究活動をする教授)は
来月9日、 「北東アジア古代史における共通分母の発掘」をテーマに開かれる国際学会で、
「檀君神道と天日槍王子の太陽神信仰の日本伝来研究」と題する研究論文を発表する。
ホン教授はこの論文で、福井県にある気比神宮の主祭神は伊奢沙別命であり、
これは新羅の天日槍を指しているとし、
「新羅の天日槍王子は日本の人格神となった初の韓国人人格神だ」と主張した。
「日本書紀」によると、天日槍王子は第11代天皇・垂仁天皇のころに日本へ渡り、
熊神を神主として祭った祭壇・熊の神籬(ひもろぎ)や赤石などを垂仁天皇の元へ持参したとされる。
ホン教授は、天日槍王子が日本の先住民に進んだ稲作や鉄の技術と併せ、
熊の神籬を通じて檀君天神信仰の文化を伝えたとし、熊の神籬は日本の神道の始まりになったと主張している。
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1343758200/
>>470 15世紀だか16世紀だかに成立した史料も存在しない脳内神話を持ち出されても
472 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 07:19:19.75
大体古代朝鮮は倭人が主で今の韓国人と人種が違う。
アメリカが古代インディアンの歴史、功績を自慢してるようなもの。
中国だって「絹や火薬や羅針盤を古代中国は発明したんだ、世界は中国に
感謝しろ」なんて言ってたっけ?
韓国人起源は釈迦、キリスト、孔子、漢字、ピタゴラスと全て病的トンデモ説ばかり。
でも何故か?マホメットは韓国人、コーランは韓国人が書いたとは言ってないな?
473 :
正統派九州説:2012/08/01(水) 09:05:14.03
>>469 伊都は、呉音なら「いつ」、漢音なら「いと」。
都万は、「つま」で呉音。西都「さいと」は漢音。
「いと」とか「さいと」は漢音で、
8世紀以降にもたらされた読み方なわけだ。
7世紀の隋書が都斯麻(つしま)と書いているからには、
3世紀の倭人伝の都は「つ」と読むのが本道なわけだな。
で・末廬から東南に500里陸行すれば、
徐福が上陸した津で手を洗った井戸があった。
今では「寺井津」という地名として残っている。
手洗いの井津(いつ)なんちゃって・よ。
ああそうそう。
古代中国人がいう「津」は海浜港じゃなく、
河川の渡し場・岸から岸への渡船場だから。
474 :
正統派九州説:2012/08/01(水) 09:08:54.79
「都」と「津」。
本道に沿って紳士的に解釈すれば、邪馬台国のあったエリアもだいたい、
誰が考えても同じような所に落ち着くわけだ。
むろん、わけもなく、有明海を通って
九州島東側に回り込むなどというバカはいない。
こういうことは、小学生に説明したらすぐに理解するぞ。
475 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 09:15:33.25
それじゃ邪馬台国は四国だろ。
西の都に対して都佐国だからな。
476 :
正統派九州説:2012/08/01(水) 09:22:37.64
>>475 だ・か・ら。
日本人が都を「と」と読むのは8世紀以降。「と」と読む地名は意味なし
都がつけば邪馬台国ならば、3世紀の好古都も都支も邪馬台国だ。タコ
477 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 09:37:22.88
都に佐と付くのは意味あるんだぜ、無知なカス野郎。
478 :
正統派九州説:2012/08/01(水) 09:39:08.50
中国人の合理性・論理性・計画性・戦略性は、
三国時代よりも遥か以前から「もうええ」というほど見せられてきた。
その卓越した合理性と論理性と計画性からなる中国人使節団が、
「なぜ」、威信と誇りを背負って本国から乗ってきた大型船を途中で乗り捨て、
獣道のような陸行をしたあとで、粗末な倭船に便乗して水行20日かけて投馬へ立寄り、
そこからさらに水行10日と陸行30日もかけて邪馬台へ行ったというのか。
そもそもこの部分の解釈が、現実論として絶対にあり得ないのだ。
しかるに、何の論理的理由説明もできずに、行程・日程記録を続け読みしている。
要するに、死人に口なしで古代人をコケにして、勝手にデタラメを吹いてるだけだ。
威信と誇りを背負って本国から乗ってきた大型船を途中で乗り捨て、
獣道のような陸行をしたあとで、
粗末な倭船に便乗して水行20日かけて投馬へ立寄り、
そこからさらに水行10日と陸行30日もかけて邪馬台へ行った。
その理由を論理的に説明できる奴は、
日本人1億3000万人の中で。ただの一人もいやしない。
それでも平気でこういう不条理を宣うのむだから日本人はウソつきが多い。
しかも罪悪感がないときてるから始末が悪い。
479 :
正統派九州説:2012/08/01(水) 09:42:09.40
>>477 だ・か・ら。
8世紀以前に都佐があって「つさ」とでも読んだのか?
「とさ」と読むのなら西都「さいと」と同じで、
3世紀の古代史談議とは何の関係もない。ほかでやれ
480 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 09:48:21.88
都佐以前は波多国だけどな。
それで意味がわからないバカは日本史関わるのが間違いだ。
奄美市名瀬に伊津部(いつぶ)という字名があるけど、それも伊都部かな
確かに奄美諸島の中では一番都会といえばそうかも
482 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 10:26:35.07
>本国から乗ってきた大型船を途中で乗り捨て、獣道のような陸行をしたあとで、
>粗末な倭船に便乗して水行20日かけて投馬へ立寄り、そこからさらに水行10日と
>陸行30日もかけて邪馬台へ行ったというのか。
連続説はまちがい。放射式で読むのが正解だよ。末盧国から有明海沿岸の伊都国に
陸行し、そこから水行10日陸行1月で邪馬台国だ。急げば10日もあれば到達で
きる距離だろうが、倭国側としては魏の使者を迎え、鄭重に案内したんだ。
そのぐらいかかるさ。
483 :
正統派九州説:2012/08/01(水) 10:40:53.80
>>482 >伊都国に 陸行し、そこから水行10日陸行1月で邪馬台国だ。
これも、俺のいう「バカづらさげた続け読み」と何も変わらんが。
ほれ。
本国から乗ってきた大型船を途中で乗り捨て、獣道のような陸行をしたあとで、
粗末な倭船に分乗して、
そこから水行10日と陸行30日もかけて邪馬台へ行ったというのか。
な・50歩百歩の「日本人らしいウソ」だ。
484 :
正統派九州説:2012/08/01(水) 11:13:18.75
邪馬台国にちょっかいを出すしょくん。
♪自分を騙しちゃー・いけないよ〜
邪馬台国への道はどんな道だったんだろうといつも思う
上に「獣道」と書いてる人がいて、確かにマツラは
「草木茂盛して行くに前人を見ず」と書いてあり獣道のようだが
それは「山海にそいて居る」からで平地が少なかったからだろう
いつからそこに人が住んでいるのかにもよろうが、縄文時代から何千年も住んでいるとしたら
国と国を結ぶ、今の我々が考えるような普通の道が無かったとは思えない
486 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 13:13:16.84
>>483 >大型船を途中で乗り捨て、獣道のような陸行をしたあとで、粗末な倭船に分乗して、
>そこから水行10日と陸行30日もかけて邪馬台へ行ったというのか。
邪馬台国が遠いところにあるなら仕方ないだろうが。
南九州へ行くにはそれが1番安全、簡明な方法なんだよ。
487 :
正統派九州説:2012/08/01(水) 13:31:51.93
>>486 だ・か・ら。
「卓越した合理性と論理性と計画性からなる中国人使節団が、 なぜ」
という前文章が抜けているぞ。ここを省略しなくちゃ抜き差しならないだろ。
泣き言か言い訳みたいな方便しかいえず、
現実論として、なぜそうしたのかが論理で説明できなければクソ論だ。
488 :
正統派九州説:2012/08/01(水) 13:34:18.39
>>486 >邪馬台国が遠いところにあるなら仕方ないだろうが。
「遠いところにある」とは、どこから遠いというのだ?
ガキじゃあるまいし。
邪馬台国には、外海から便利な「最寄りの大きな港」はなかったのか。
山国でもあるまいし、そんな王都がどこにあるか。
489 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 13:46:41.18
そうっすね
最初に思ったが、なぜ陸行30日もしたのか不明っていうか不自然だ
なるべく近くまで例えば奈良なら河内湖まで水行で行ってそこから最小限の陸行で行くだろって思う
ところで、末盧国で陸行に切り替えてるってことは自分らの船をそこに泊めて以後の水行は倭の船で行ったってことでいいですよね?
>邪馬台国には、外海から便利な「最寄りの大きな港」はなかったのか。
>山国でもあるまいし、そんな王都がどこにあるか。
私の町はかつて国府が置かれ山陽道の駅もありましたが、
その跡地というのは本当に山の麓といった場所です。
なぜこんな所に?と思うような場所ですが、調べてみると、
当時はその辺りまで海だったのだそうです。
そこまで海だったら平地なんて無いじゃん!!という感じです。
邪馬台国の時代なら、なおさら平地なんて無かったんじゃないでしょうか?
児島半島って半島じゃなくて江戸時代まで島だったんだよね
干拓で広げたとこは特に海岸線がだいぶ内陸まで入り込んでたようだね
492 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 15:52:23.95
>>487 邪馬台国が都城盆地だったと考えてみろ。末盧国から西回りで水行するのは海流に逆行し
難所を通ることになる。東回りも同様に難所があり関門を抜けて南下するときは海流に
逆行だ。それよりは、有明海を南下し、八代あたりで上陸し山を越えた方がずっと安全、
早く着ける。1番の近道であり、それに勝るコースはないんだよ。
@ 又渡一海千餘里 至末廬國
A 東南陸行五百里 到伊都國
B 東南至奴國百里
C 東行至不彌國百里
D 南至投馬國水行二十日
E 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
伊都国から分岐でEはDの水行と半分重複しながらEの水行10日の地点から分岐ということか。
伊都国からの放射にしろ連続にしろBまで連続
B→Cの連続とすれば、二万戸の奴國を百里≒7、8kmで通過して不彌國に至るとしなきゃならない。
連続ではなくて伊都国からBCDEの放射と思わせる理由のひとつ。
Aを東北水行五百里 到伊都國として、東南至奴國数百里、東行至不彌國数百里、
不彌國からDとEに分岐するか、D→Eの連続で水行十日陸行一日にすれば畿内になる。
494 :
正統派九州説:2012/08/01(水) 17:52:32.66
>>489 >なぜ陸行30日もしたのか不明っていうか不自然だ
「狗奴国との戦時下、海路を捨てて臨時の陸路ルートを通った」
というのが、ただ一人、この俺が提起した、異常な陸行の理由だ。
>自分らの船をそこに泊めて以後の水行は倭の船で行ったってことでいいですよね?
末廬から先は陸行だけだ。ここが臨時の上陸地。
>>490 >邪馬台国の時代なら、なおさら平地なんて無かったんじゃないでしょうか?
どだい。外海からの侵攻にさらされやすい海岸ベリに王都など築かないよ。
>>492 >邪馬台国が都城盆地だったと考えてみろ。
考えたこともない。なぜならば、邪馬台国じゃないから。
>有明海を南下し、八代あたりで上陸し
「八代あたり」は狗奴国か隼人の領域じゃないのか? 何が安全だターコ。
遠浅干潟の東沿岸は沿岸航行ができない。
有明海といっても西側の深みを通ることになる。
引き潮に乗って漕ぎ出せば2〜3日で縦断できる。20日もかからん。
表社会では絶対に通用しない陳腐な足取りしか思いつかんだろ。
バカが考える願望言説などそんなもんだ。
>>493 ごちゃごちゃと・ウザいぜ。
倭人伝の行程はもっとシンプルで明確で合理的だ。
陸行1ヶ月かかったのは
やっぱり使者を輿のようなものに乗せて
担いで運んでたんじゃないかなあ?
歩かさんでしょ、偉い人を?
496 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 18:40:26.24
水行10日陸行30日は帯方郡からの所要日数のこと
陸行ぶんは朝鮮半島内の陸行でほとんど使い切って末廬國の時点で残りは陸行数日と水行数日しかない
497 :
正統派九州説:2012/08/01(水) 19:15:26.67
>>496 いつまでも、時代遅れの「辻褄合わせ論」を信じてろ。
なお、当スレッドを訪問するのは本日をもって最後とする。
邪魔した。
最後って
いつでも好きに来たらいいのに
499 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 19:22:48.24
>>494 >「狗奴国との戦時下、海路を捨てて臨時の陸路ルートを通った」
屁理屈を考えないといけないってことが間違ってる証拠だ。そういえば、山賊とか
海賊を持ち出して説明しようって奴もいたな。
>>邪馬台国が都城盆地だったと考えてみろ。
>考えたこともない。なぜならば、邪馬台国じゃないから。
思い込みで思考を狭めるのは畿内説と同じだ。
>「八代あたり」は狗奴国か隼人の領域じゃないのか?
これも思い込みだな。そんなところに狗奴国はない。女王国よりも南だ。
隼人は女王国の勢力内だ。何の問題もない。
西都は投馬でーす。
501 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 19:56:29.25
思い込みだけでは何にもならん。
>>497 なぜそんなことを言うかね
顔も見えない匿名のネット上とはいえ寂しいだろ
また気が向いたらいつでも来てくれよな
誰でも彼でも来ればいいし得るもの無いとか思って嫌になったら去ればいいんだけどさ
枯れ木も山の賑わいって言うしね
そうだよ、FacebookやTwitterだと辞める宣言した後戻りにくいだろうけど
ここはIDも出ないきがるな
匿名掲示板なんだからいつでも戻ってくればいいんじゃない?
2ちゃんってやっぱりいいよね
>>494 末廬國から陸行だけ?
水行十日は帯方郡から末廬國までに使い切って、残りは末廬國から陸行一月ってこと?
たしかに倭の船に乗り換え積み替えるのも変な気もする。
陸行に移ったら陸行onlyなのが自然か。
干満の差が大きい有明海は干潮時には広い範囲が陸地化するので、
海岸に近いとこボケーっと行ってると座礁して動けなくなったりしていたはず
停泊しながらなら満潮の時に早めに切り上げて接岸上陸しながらだったかなあと想像
507 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 21:57:45.63
松浦から、佐賀を通って、筑後川まで陸行
筑後川から船に乗って、有明海に出る。
有明海に出たら、ちょいと突き出た大牟田、荒尾で停泊
又海に出て、宇土半島の根本に到着。
ここからは山の中で人吉まで山道。
人吉盆地の隠れ里が卑弥呼の国だ。
隠れ里というほど人吉盆地は小さくはないけど。
人吉盆地、えびの盆地、都城盆地と、盆地が並んでいるけど、
人吉は熊本県、えびの、都城は宮崎県
つまり、人吉は肥国、えびのと都城は日向国、当時は熊襲国かな。
人吉に住んでいる卑弥呼は、いわばクナ国(熊襲?)との、
最前線の肥国側にいたわけだ。
普通重要な宗教的指導者を最前線に置くか?、
というところだが、むしろ卑彌呼の神威でクナ国を
抑えることが望まれていたのかもしれない。
>>502-
>>504 宮崎の人達は温厚で人柄がいいね
いつもああ言ってすぐ戻って来るからだいじょぶだよ
509 :
日本@名無史さん:2012/08/01(水) 22:46:50.07
まだ狗奴国=熊襲の思い込みから脱却できないのか。熊襲というのは、記紀の作者が
邪馬台国の代名詞として使った言葉だよ。
>>499 >何の問題もない。
お前の頭に重大な問題がある。
人吉盆地といえばあそこでも花弁状住居が出てるな
遺跡を総括して弥生文化の普及度合いはどんなだったんだろか
花弁状住居は従来宮崎平野から大隅肝属地域にかけて多く出て特許状態だったが阿蘇でも北部九州でも出てるw
宮崎でも率から言えばマイナーな部類だと思うけど交流があったことの証ではありそうだ
盆地だし台風の被害も和らげてくれて稲作には向いてそうだ
免田式土器が九州北部から南部まで広がっているとこを見ると想像以上に交流は盛んだったのかもわからんね
513 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 05:17:22.16
>>510 そんなことを言ってるようじゃ、本州の古墳から隼人の盾がでていることすら
知らんな。
514 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 05:49:26.00
草木茂盛して行くに前人を見ずって藪こぎしている解釈?
草原でなく見通しが悪いってことで箱根程度の難所であったかもしれないが
それなりに整備された道だと思う。
515 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 06:26:08.62
516 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 06:42:35.20
阿波が重要なのは間違いない
517 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 07:52:19.91
阿波か、泡沫候補ってやつだな。
阿波を重要視すると必然的に半島由来を主張出来ないからな。
工作員がムキになるからわかりやすいw
>>513 璧だろうが盾だろうが
邪馬台国の根拠にはならない。
520 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 21:03:10.79
イザナギ・イザナミ神話の淡路島こそ邪馬台国。
記紀を素直に読めばすぐにわかることをなんで信用しないのだろう?
521 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 21:24:03.52
元々は中国大陸発案の道教から来ているからな
所詮日本神話おける国造りイザナギ・イザナミ神話って
俺、宇佐支持派
523 :
日本@名無史さん:2012/08/02(木) 22:04:00.14
>>521 この一件があるから記紀は除外する乙
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1341485535/545 卑弥呼は大日霊女(おおひみこ)が有力説
西暦247年と248年に2回ほど日食になったとか
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
http://www8.tok2.com/home2/rekishi/himiko.htm 大日霊女(おおひみこ)
別名:大日霊女貴尊(おおひみこむちのみこと)
諡号:撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)
日向王国国王伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の娘として151年頃生まれる。
須佐之男命の侵攻により、降伏し彼の妻となり、三女を儲ける。
須佐之男命の死後、跡を継いだ大国主を補佐する。
大国主の死後は、相続人の事代主が幼少だったため、九州王国の女王として君臨する。
相続反対派との間で数年間争いがあったが、武御名方を出雲から追放することによって終結する。
大国主時代に九州統治の責任者だった猿田彦に出雲を統治させた。
末子3人の子には有力な南日向豪族の娘達を娶わせ統治させた。
239年に魏の皇帝に使者を出し、241年には孫の伊波礼彦尊を大和王朝の伊須気依姫の婿として送り込むことに成功する。
247年に西都にて亡くなる。
大日霊女は、弟子を卑弥呼とし何代も就任させ長生きしているように偽装した?
宇佐は日本書紀でもあやしいことを書いてる
阿波は魏志倭人伝の記述に合う箇所が多い
女王国を久留米や熊本あたりとして自女王國以北特置一大率と南に狗奴国の条件と合う
ここらは魏が下賜したはずの鏡が100枚も出てないというか全然少ないな
鏡がまとめてどっさり出たり花弁状住居が四国なり吉備なり畿内で僅かでも出れば面白いんだがな
つか花弁状住居って最古は佐賀になってるんじゃなかったっけ
525 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 00:12:44.99
>璧だろうが盾だろうが邪馬台国の根拠にはならない。
古墳は隼人勢力が造ったものだという証拠にはなるよ。
璧だろうが盾だろうが古墳だろうが邪馬台国の根拠にはならない。
大和朝廷と邪馬台国は別勢力。
527 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 06:58:43.57
オノコロ島は博多湾のコロ島、ノコ島だという説があるな。
528 :
日本@名無史さん:2012/08/03(金) 07:54:57.06
>>526 別も何も大和朝廷なんてものはない。まだ分からんのか。
>>528 邪馬台国は南九州にはない。
南九州は狗奴国の可能性が僅かにあるだけ。
まだ分からんのか。
悲惨な奴だ。
花弁状住居のあの出っ張りはベッド?
2mくらいのものや子供サイズのもあるみたいだけど
1軒に7〜8名ぶんくらいありそうなのも多い
円周上に並んだようなのもあれば円形から遠くて部屋みたいになってるのもあるね
ベッドというより寝起きしたり私物を置いたりプライベートのためにあんな造りになってるのかな
532 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 17:45:46.14
>>529 南九州に邪馬台国があったと思わないんなら
いちいちココに書き込まないじゃないの?
533 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 19:52:54.02
>>529 行程も風土も合わない、いくら掘っても遺跡もでない畿内説の
悔しさなんだろう。
大集落と言える遺跡は見つかってるが王や首長の所在地と思えるような群を抜くと言える規模の住居や建物が出ない
首長と言えるような周溝墓ならたくさんあるが
鉄器は出るけど一般レベルの住居や土坑からばかりという
社会主義のような社会だったのか?
535 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 20:10:17.36
花弁状住居はアフリカの一夫多妻制の一家をイメージしてしまう。
主人の家と幾つかの食料庫を中心にして、周りに妻子の家が
一件づつ円形に立ち並ぶ。
花弁状の部分は主人が管理していた食料庫じゃないかな?
魏志倭人伝には一夫多妻制の様子が書かれているね
食料庫なら虫害を防ぐための高床式倉庫ではないかな?
出っ張りは物置とか棚みたいなものかなあと思ったりもするけど、
真ん中の窪みで調理保温しながら食事して語ってあとは各自ベッドに行ってた
そんな様子にちょうど良い感じ
537 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 20:41:17.35
たくさん住むにしては、真ん中の円形部分は12畳弱しかなかった。
佐賀のやつだが。
真ん中にいろりやかまどと食料品、調理道具まで入れたら、
残りの空間におしくらまんじゅうになっちまう。
だから、そこに一夫多妻制の主人と、複数の妻と子が住んでいるとは思わない。
538 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 20:46:13.34
複数の妻と子が住めるサイズじゃないな
あれは一夫一妻の夫婦と子供や父母といった家族単位の住居だろうな
花弁状住居は大分や四国まで分布してるんだな。
何年か前に佐賀で見つかった時は結構騒がれたな。
540 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 22:23:13.59
南九州人が各地に進出していた証拠だろうな。
541 :
日本@名無史さん:2012/08/06(月) 07:57:47.33
竪穴式住居は小さいのが多いからな。花弁状住居はそれに比べれば
かなり大きい。
東九州道の工事に係る調査で調査できたのは工事に係る幅だけ
それで弥生時代と古墳時代に限っても数百の住居跡と遺物が出た
遺跡は外に続いているのだがそれはまたの機会
推してしるべしだろう
遺跡遺物から想定される状況はこれからも変わっていく
大隅半島から宮崎平野まで、もっと本格的な調査して欲しいですね
ん〜やっぱ条件当てはめると宮崎にしか、辿り着けない
弥生時代後期や古墳時代前期に都城盆地がどうなっていたのか不明
もし平野部と異にするとしても宮崎平野は肝属平野とは同一文化圏だったと思う
古墳も作る、花弁状住居も作る、地下式横穴墓も作る、臨海部である
都城盆地はだいぶ後にならないと古墳を作ってないんだよね
でも地下式横穴墓も花弁状住居もあるのは共通するね
546 :
日本@名無史さん:2012/08/07(火) 16:22:26.47
都城盆地には大王や高級官僚が住んでいたから墓のような不浄のものは遠くに
造ったんだよ。いくら先祖の墓だって毎日眺めるのは憂鬱だろ。
じゃあどんどん掘って大王の住まいに相応しい遺跡を盆地から出そうぜ
いくら説を出しても同じ所でウロウロするだけで結局何も進まんよ
中間点の都城盆地と敵対しながら宮崎平野-日南串間-肝属平野を領域とする国なら戦線が広大になって危険すぎる。
都城盆地を統一した勢力が南北の隣接地を併合して宮崎平野-都城盆地-肝属平野を領域とする国が出来上がったとするのが自然で無理が無い。
景行天皇の話が本当なら小林市とえびの市の境あたりが西の国境だったらしい。
小林市にヒナモリ岳がある。
ヒナモリとは国境近くに置かれた国境警備隊のようなものと思われる。
妄想ーもうそうーもううそーもう嘘
ここにいる有志は、宮崎住みが多いのかな?
自分は鹿児島住みだけど、発掘イベント企画してくれれば手伝いに行きたいな
県民市民向けの体験発掘みたいなのは行われることもあるな
553 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 13:28:53.55
宮崎だとか都城盆地だと言っても広いからねえ。工事等で遺跡などがみつかったときに
掘り進めるということにならざるを得ない。
554 :
日本@名無史さん:2012/08/08(水) 14:41:36.67
九州で古代人が一番好みそうな場所は都城盆地といわれる。
宮崎平野や肝属平野は住みにくい。津波も来るからずっと以前から住み続けて
いたような場所とは思えない。
すなわち、宮崎平野などは新参者の住むところ。当然、旧来からの在住者で
ある都城盆地の勢力とは争いになる。
争ったのかどうなのかはっきり分かってないよな
都城、小林、えびの辺りで遺跡がそれなりに出れば、こんな条件合うとこ他にないんだが・・・
しかも聖地のお膝元だし・・・と思う東京者でした。
じもぴー頑張れ
宮崎市とか西都原は、陸行1ヶ月で、ん〜って感じ
沿岸全部そうだけどね
伊都国から西ルートでも、東ルートでも、やっぱこの辺になると思われ。
都城は全国でも稀な住みやすい盆地だと思うよ
558 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 15:28:57.90
倭人伝が書く行程と完全に合致する。風土も合う。周旋五千里や東渡海千里とも合う。
おびただしい古墳も邪馬台国があったためであれば、納得できる。
璧に鏡、溶鉱炉、どれも邪馬台国ならば理解できる。
周旋五千里は長崎を除く北部九州を一回りするのにちょうど良いサイズだよ
平均値 都城 宮崎 延岡
気温 16.5 17.4 16.6
降水量 2481.8 2508.5 2292.1
日照時間 1939.6 2116.1 2125.2
雪日数 3.8 1.3 3.1
真冬日日数 0 0 0 最高気温0度未満
冬日日数 40.2 16.0 26.1 最低気温0度未満
夏日日数 147.8 137.9 137.5 最高気温25度以上
真夏日日数 68.2 59.5 55.9 最高気温30度以上
猛暑日日数 2.9 4.5 2.0 最高気温35度以上
≧100mm日数 3.3 3.0 2.6
≧10m/s日数 2.2 18.3 15.8
極値
最高気温 37.1(1994) 38.0(1966) 38.5(2004)
最低気温 -9.8(1970) -7.5(1904) -7.0(1976)
月最深積雪 15(1959) 3(1945) 7(1984) cm
561 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 20:58:29.47
>周旋五千里は長崎を除く北部九州を一回りするのにちょうど良いサイズだよ
一回りは周旋とは言わない。周匝というんだ。
平均値 佐賀 福岡 大阪 奈良
気温 16.5 17.0 16.9 14.9
降水量 1870.1 1612.3 1279.0 1316.0
日照時間 1969.0 1867.0 1996.4 1823.0
雪日数 15.3 17.1 15.5 22.5
真冬日日数 0 0 0 0 最高気温0度未満
冬日日数 24.6 4.3 6.8 52.9 最低気温0度未満
夏日日数 145.8 132.4 139.0 130.8 最高気温25度以上
真夏日日数 70.6 57.1 73.2 63.9 最高気温30度以上
猛暑日日数 9.7 5.5 11.6 8.3 最高気温35度以上
≧100mm日数 1.8 1.4 0.3 0.3
≧10m/s日数 23.5 13.3 24.9 0.6
極値 佐賀 福岡 大阪 奈良
最高気温 39.6(1994) 37.7(1994) 39.1(1994) 39.3(1994)
最低気温 -6.9(1943) -8.2(1919) -7.5(1945) -7.8(1977)
月最深積雪 21(1959) 30(1917) 18(1907) 21(1990) cm
563 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 22:06:29.66
>>561 周旋とは何のことですか?
片道とか図にすれば半円状?
邪馬って山って意味?
耶馬溪に山国川なんてのもあるし、以北21国に出てくる邪馬国ってここじゃね?
山ならやっぱ高千穂峰だろう、巫女的な存在なら余計ここにいそうだ
高原あたりの謎の神社の下掘ったら神殿跡とか出てくんじゃね?
って妄想はダメですか?
565 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 22:13:09.13
巡って向こうの端に行く。半周ということだな。
566 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 22:15:46.48
>>565 そうなんですか
わかりましたありがとう
>>564 同意
耶馬溪に山国川があって中津市で海に注いでる
以北21国に出てくる邪馬国はそこだとかなり確信してる
邪馬国の隣が鬼国、これは宇佐市あたりじゃないかな
鬼国は鬼ヶ島の総社に決まってるだろーに
邪馬国の隣(前)は鬼奴国だった…
邪馬国の隣(後)が躬臣国
570 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 23:04:31.66
鬼国=岡山県総社市
鬼は本来の鬼って意味で言ってるんじゃないと思うよ
いつもの、おもいっきり蔑称当て字
中国語でなんて発音すんのか知らんけど「き」って音を無理やり鬼にしてる感じ
倭だの卑しいだの邪魔だの奴だの欺だのひどい奴らだ
572 :
日本@名無史さん:2012/08/09(木) 23:29:08.40
鬼の道はどおなの
斯馬國…下関、斯馬の関 己百支國…厚狭 伊邪國…防府周辺?、ヤまぐち? 郡支國…徳山、櫛ケ浜
彌奴國…柳井? 好古都國…岩国、厳島 不呼國…廿日市? 姐奴國…広島、太田川流域?
対蘇國・蘇奴國…広島・江田島?、蘇州からの渡来人=家船の民? 呼邑國…呉、ごぉの訓読み化
華奴蘇奴國…福山? 鬼國…岡山、ごぞんじ鬼ヶ島 為吾國…相生 鬼奴國…揖保川流域? 邪馬國…夢前川流域?
躬臣國…姫路 巴利國…播磨 支惟國…紀伊 烏奴國…津、安濃津・穴津
奴國…近江or東海
つぎに斯馬国(しまこく)がある。
つぎに已百支国(いわきこく)がある。
つぎに伊邪国(いやこく)がある。
つぎに都支国(ときこく)がある。
つぎに弥奴国(みなこく)がある。
つぎに好古都国(をかだこく)がある。
つぎに不呼国(ふここく)がある。
つぎに姐奴国(さなこく)がある。
つぎに対蘇国(とすこく)がある。
つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。
つぎに呼邑国(おぎこく)がある。
つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。
つぎに鬼国(きこく)がある。
つぎに為吾国(いごこく)がある。
つぎに鬼奴国(きなこく)がある。
つぎに邪馬国(やまこく)がある。
つぎに躬臣国(くじこく)がある。
つぎに巴利国(はりこく)がある。
つぎに支惟国(きくこく)がある。
つぎに烏奴国(あなこく)がある。
つぎに奴国(なこく)がある。
これは、女王の境界のつきるところである。
(国名の読みの根拠については、安本美典著『卑弥呼は日本語を話したか』[PHP研究所刊]参照)
この国名の読み方はいかがなもんだろう?
斯馬国(しま) 已百支国(きはき) 伊邪国(いや) 都支国(つき)
弥奴国(みな) 好古都国(はかつ) 不呼国(ふこ) 姐奴国(そな)
対蘇国(つそ) 蘇奴国(そな) 呼邑国(こゆ) 華奴蘇奴国(かなそな)
鬼国(き) 為吾国(いご) 鬼奴国(きな) 邪馬国(やま)
躬臣国(くし) 巴利国(はり) 支惟国(きい) 烏奴国(うな) 奴国(な)
かなあ?
都城はトキ、ツキと読める盲点
都支国と郡支国、どちらかは明確な間違い
中国って一つの漢字に複数の音があったりすんの?
時代が変われば音が変わることもあるだろうけど
同じ時代なら一つの漢字に一つの音じゃないの?
だとすれば伊都国がイトコクなら都支国はトキコクだと思うけど
都はツが呉音でトが漢音
いろいろ読んでみたんだけど自分は都はツと読むべきと言う人が多いみたいだ
3世紀の中国は上古音から中古音の過渡期です
魏、晋は南方の呉と対立し勝利した王朝です
三国志内の「都督 都尉 武都 都亭侯 鄴都」をどのように発音したかで考えるといいでしょう
日本には5〜6世紀に百済より仏教経典とともに呉音(中古音のうちの南朝の音韻、百済音、対馬音ともいわれる)が伝わりました
この頃に日本で地名に当てられた漢字は呉音でしょう
その後7〜8世紀に漢音(中古音のうちの唐代長安音)、12世紀〜19世紀に唐音(近古音)が伝わります
581 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 06:15:04.07
日向の古墳は、槨はあるのか?
古墳時代初頭築造の檍1号墳という古墳で超例外的に木槨とそこへ続く墓道が見つかっているよ
檍というところは弥生時代の水田跡や集落跡、丹が塗られた土器とか甕棺も出てる。
584 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 12:08:54.90
木槨と石槨とでは、木槨の方が古いんだろうね。で、木槨よりも前の形となると
どんな形になるのかな?
前というか 礫槨 粘土槨 の前はもう支石墓
586 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 13:20:43.68
となると、古墳時代の一番古い埋葬方法は 礫槨 粘土槨ということかな。
その分布状況はどうなっているのかな。
いや、時系列でくっきり分けられるものではないし、一つの古墳群に異なる槨が共存
するから地域で分けられるものでもないと思うが
そういう情報見つけたら教えて
少し昔の想像以上に北方と行き来があったようだな
三国志の時代ですよ
大陸中を移動してた時代
やっぱり船で移動してたんかな
船の実物とか出土したら面白いだろな
591 :
日本@名無史さん:2012/08/12(日) 23:50:36.59
>>587 弥生時代の墓は槨がなかったのだから、古墳も最初は無槨だったんだよ。
早い時期の古墳で槨がないものがいくつもある所、そこが古墳発祥の地の
候補となる。
粘土槨は弥生期の方形周溝墓にも見られます
593 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 09:45:40.83
粘土槨というのは、槨のうちに入らんだろ。
木槨や墓道は中国の墓制
角材を使用するとこまでそっくり
595 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 00:09:02.68
少しまともな意見があった。橋本達也「古墳研究と熊襲・隼人」
これまで鹿児島の古墳時代研究史を中心をなしたのが、その多様な墓制を熊襲・隼人に
対応させて論じることであった。古墳時代像を提起した1980 年代以降の考古学研究はほ
とんど引用もされてこなかった。
熊襲・隼人は7世紀後半以降の古代国家の枠組みの中に位置づけられた存在であって、
九州南部の古墳時代人の実体ではない。まずは、資料分析に基づいた古墳時代研究が基本
である。各種資料の型式学的研究、他地域資料との比較による地域間関係、首長系譜の展
開など古墳時代全体の動態の中で地域を再検討する視点が必要である。
それらを通して九州南部古墳時代社会の地域的特質が明らかにすれば、地域の側からの
多元的な視点による新しい古代国家形成史像の構築に大いに貢献し得ると思う。しかし、
そこに『記紀』の記述を前提とした特殊性を強調したなら、古墳時代社会の中での相対的
な評価から切り離されてしまい新たな視点は生み出さない。
これからの九州南部の古墳時代研究に、熊襲・隼人は不要であると筆者は考える。
596 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 09:58:51.96
ぼくの爺ちゃんが邪馬台国宮崎説だったんだよなあ。
まさか西都原とは思わなかった。
597 :
出土地不明:2012/08/17(金) 13:53:44.69
卑弥呼は、西都原に埋葬されたかもしれないが、
台与は、箸墓に眠っているよ。
598 :
日本@名無史さん:2012/08/17(金) 20:21:41.97
箸墓って360年頃だろ
箸墓の撥形っていうあの形は祭祀で登りやすくするために改善策として広げた等と書かれている
柄鏡形が撥形より後なら広がりがカットされたってことになるんだけど、論理的になんかおかしくないかね
600 :
日本@名無史さん:2012/08/20(月) 11:01:14.88
柄鏡形と撥形は別系統のデザインということのようだよ。
だから、時期的には平行して造られたとされている。
601 :
日本@名無史さん:2012/08/28(火) 11:33:21.29
とにかく畿内の古墳は槨があるものばかりだ。倭人伝が伝える墓は槨がない
という。畿内でないことは明らかだな。
ヤマト王権は奈良なわけでしょ
なんで自分達の神話をわざわざ、全然遠い辺境の地九州、しかも高千穂峰なんてとこから神が降りてる話にしてんだろうな
地元発祥なら普通に地元の話でいいじゃんね。
もっと言うなら富士山でいいじゃんね。不思議だ
やっぱ関連あるとしか思えないわ〜
自分達の祖は、邪馬台国卑弥呼だって言ってるようなもんじゃね
だいぶ過疎ってきたね
604 :
日本@名無史さん:2012/09/03(月) 23:30:25.19
邪馬台国が九州にあったことをごまかせないと思ったから高千穂を描いたんだろう。
>>603 正統派九州説さんという方が激怒してもう最後にすると出て行った経緯があってだな…
根拠無く妄想で語るなというわけなんだけど
根拠となる中国や朝鮮のマイナーな書まで読まないからなー
ファンにも初心から学者並みの人までいろいろだから
遺跡から当時を想像とかは皆共通して語れるんだけどな
可能な限り倭人伝に近付けて読めば有力候補地になるのはわかっとる
世論はそこで止まるわけじゃないからな
否定材料が見つかるたびに萎むんで肯定材料を出していくしかない
607 :
名無しさん@恐縮です:2012/09/06(木) 15:07:05.53
当時の地理上で、人が歩き易い道を歩き、当時の海岸線に従い、海でいける処は
船で行き、邪馬台国を目指した魏の旅団に正確な測定出来る人がいる時は、
距離の単位を(里)で記録し、否の場合は(日)で旅程を表しているのでは。
結果、今の熊本近辺から宮崎日向に辿り着き、そこが邪馬台国であったと
魏の旅団は本国に報告したのではないだろうか。
この考えを正とすると、近畿説はまったく有り得ないことになりそう。
宮崎の縄文晩期〜弥生初めは遺跡遺物が激減するんだよな
鹿児島の場合は宮崎以上に赤ホヤ土の時期はやっぱ中断してるだろ
その後最盛期を迎えて急に衰退して上のごとくの宮崎
ニニギ以後の話が本当なら弥生末から古墳前期までの間しかありえんよな
縄文晩期とか人がおらん
今は埋め戻されてる本野原遺跡も例に漏れない
612 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 18:00:55.42
またまた大隅から重要な石剣が出土。発見された場所は海からは遠い(古来は海がかなり内陸部まで進入していた)。
祭司用に使用されたとしたら高隈山(1300m弱)を仰ぎみる位置にあるので高隈山はやはり霊山だったのか?
霧島の麓の高原町、狭野神社近辺の地名は祓川だが、高隈山の麓も祓川だ。
昭和9年に宮内庁指定となり調査不能となった東串良、唐仁古墳群の大塚古墳、大崎の横瀬古墳、鹿屋市王子遺跡、
鹿屋市吾平町の吾平山陵近辺、肝付町高山の塚崎古墳など徹底的に調査すべきだ。必ず、出てはいけないものが出るはず。
>>612 何かあるだろうね
古代日本の政体は言明しなくても朝鮮半島の所縁が定説になってるけど、もしかしたらそれすらも覆す?ぐらいの
鹿児島の霧島山周辺は徹底的に調査してほしいね。
掘れば覆すようなものが出る可能性を秘めてておもしろいよな。
西都近くの話だが宮ノ東遺跡ってところは竪穴住居が400軒とか見つかってるんだが、あそこは
内陸に入り込んでいた海の尽きる港みたいなとこなんですよね。
中心は別にあってまだ内陸。首長以上の政務・居住地に相当する遺跡があるのはそこ。
古墳は地域首長に相当する二段、皇族に連なる者に相当する三段がいくつもあるんだから、
絶対にあるのだがまだ無い。
邪馬台国って熊襲なの?
>>615 たぶんそう
でないと邪馬台国のことが記紀に出てこない理由がない
しかも、仲哀天皇が北部九州に遠征した時点で既に存在していなくて、伊都国が対戦相手になってる
で、伊都国は負けて、国王の五十迹手は伊都国の三種の神器である八尺瓊、白銅鏡、十握剣を天皇に差し出している
伊都国について記紀にこれだけ詳しく書いてあるのに、邪馬台国について何も書いてないってことは、既に滅んでいたからとしか考えられない
熊襲とは霧島山の西方の勢力である。
618 :
日本@名無史さん:2012/09/10(月) 16:28:22.17
古事記が書く熊曽国は宮崎県と鹿児島県を合わせた範囲だね。
熊曽国は広義の熊襲だ。
霧島山を境として東西で墓制が異なる。
境界域にヒナモリという地名(駅名・山岳名)が見える。
勢力が異なっていた少なくとも異なっていた時期が相当長期間あった。
仲哀天皇の遠征時には邪馬台国は滅んでいたか、邪馬台国そのものだったか、
または九州北東部の大分周辺か、だろう。
墓制が明確に異なるのは5世紀以後では
古墳時代の初期の4世紀前半には現在の薩摩川内市にも前方後円墳が作られていたと思う
その後も薩摩の西の海岸近くには小規模な古墳が作られることがあったようだけれど
あくまでも例外的で鹿児島県では大隅南東部の肝属郡あたりが圧倒的多数だし規模も大きいですね
南極でピラミッド発見されたしね
日本の古代文明も何か大発見がないかな
>>621 邪馬台国よりそっちのほうがおもしろそう
あれは与太話だw
南極大陸は人類誕生より遥か以前から氷雪に覆われとりますがな
大発見があれば面白いけどね
東スポ以外のソースって無いの?
なんかStephen Hannardって矢追純一みたいな人だね
富士山がピラミッドって言ってるようなもんだ
>>621 南米に近いところなら信じてもいいが、それ以外なら眉唾。
>>624 それなら『エイリアンVSプレデター』という映画で見ました。
地球人はプレデターと猿の相の子なんだろう?
632 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 01:11:32.90
>>632 結局、これと言った決め手のような成果もなく終わったのか
こんな四半世紀かけた大規模な発掘作業やったら、日本全国同じような出土品があるんじゃないか?
佐賀なんて、半島と近いだけのただの入口
いいから、日向、霧島、大隅半島、この3点を結んだ地域を掘りまくれ
634 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 11:32:41.52
人が住んでいたところには、それなりの遺跡が眠っていることだろう。
だから、たまたま見つかった遺跡にこだわって国を比定するなんてのは
まちがいなんだよ。
635 :
日本@名無史さん:2012/10/01(月) 11:43:04.69
福岡も佐賀も、事実上遺跡の線引が出来ないくらいに、
まんべんなく出るからなあ。
ちょっと鳥栖まで行けば、環濠集落3つ発見されてるし、
ピンポイントで場所を比定するのは大変だ。
>>633 筑後川を挟んだ小郡に、吉野ヶ里の5重の環濠を上回る7重の環濠集落の遺跡がみつかったが
結局、そんなのありふれてるってことで、ぶっ潰されて工業団地になった
宮崎には5重どころか環濠のある集落遺跡じたいがあんまりないね
西弥護面を埋め戻して、住宅にするくらいだからな。
639 :
日本@名無史さん:2012/10/02(火) 07:57:55.41
宮崎は天然の要害に囲まれている。外敵に攻め込まれたことがなかったのだろう。
宮崎に環濠集落はあったけどとっとと無くなったってことらしいが
よそで環濠造営が全盛期を迎えるころには埋められてた
…というのを見ましたけど
641 :
日本@名無史さん:2012/10/03(水) 23:22:58.11
環濠集落がなくなったって?
日本の城郭を見ろよ。城下町を見ろよ。環濠集落そのものじゃないか。
戦国時代の寺内町とかもそうだね
環濠が作られなくなったのは治安が良くなったからじゃないの
外敵から攻められ、統一され、国軍が域内鎮撫することになり環濠がいらなくなったんだろう。
海幸山幸の戦いでは山幸が勝ったってことでここらを統一したのは都城あたりだったりしてな。
644 :
名無しさん@お腹いっぱい:2012/10/05(金) 23:41:59.13
唐津に上陸後、南東に陸行したと記述されている。
記述通りに、旅程を進めれば、有明海沿岸を水行し
熊本から陸行、宮崎平野に至ることとなり、邪馬台国は
その場所に比定できる。
645 :
日本@名無史さん:2012/10/05(金) 23:56:49.53
そうだね。邪馬台国を日向とする説にはこれまで反論らしい反論はでていない。
こまかい場所はともかく、おおまかなところでは正解だろう。
考古学的にもおびただしい古墳が邪馬台国の存在を裏付けている。
その古墳のうちその時代直後に作られたものは限られる
その時代に近いものは生目や檍、それと西都原のごく一部の古墳だろう
647 :
日本@名無史さん:2012/10/06(土) 09:20:41.40
>>602 高千穂ってのは、固有名詞じゃなくて高い山って説があるからな。
日本書紀では完全に固有名詞化しているがな
高千穂は霊仙山
その日向の方角(東)には久士布流多気(=養老の滝)がある
多賀の仙峰→高千穂
652 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 05:31:30.79
王がいるのは伊都国・倭国・狗奴国.20の旁国についてはわからない.
「女王之所都」は「都せし」と過去(完了)形に読む.
つまり、当時、邪馬台国には王はいない.
王だった卑弥呼が国を離れ、
倭国王となり、首都が置かれていた伊都国に住んでいたからだ.
倭国には直接の国民・領土がないことが倭人伝解読のポイントだと思う.
653 :
日本@名無史さん:2012/10/11(木) 11:47:02.83
国というのは、主権者(王)、領土、領民がいてこそ成立するものだ。
3世紀に王がいない国なんてあるものか。
原始共産制とか直接民主制みたいな国もあったかもしれんよ
宮崎の円形(方形)周溝墓の墓群では水銀や弁柄(酸化鉄顔料)が
塗られてたりなかったりで差はあったので、少なくとも私有の概念とか
意識の差はあったんだろうね。
古墳が作られるようになると歴然とするけど。
秋篠宮が生目の杜を来訪されるそうですね
どうせなら1号墳を見ていただきたいんだけど見学困難につきスルーだろうなあ
秋篠宮は、天皇の地位を狙っているんじゃないのか?
そのための布石を打っているのだろう。
宮崎平野は土器的に瀬戸内文化圏
花弁状住居の広がりは相互に行き来していた証
甕棺など北九州から入ってきたものもある
免田式など近場に発したものもある
木槨は中国由来だ
659 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 00:52:56.94
>花弁状住居の広がりは相互に行き来していた証
瀬戸内にたくさんあるとか?
北部九州での発見例もあるけどごくわずかだった気がする
九州外では愛媛で見つかった例があったかな?
661 :
日本@名無史さん:2012/10/22(月) 07:07:19.56
>宮崎平野は土器的に瀬戸内文化圏
瀬戸内の土器が多いと言うことは、瀬戸内から物資を送っていたということでしょう。
つまりは、瀬戸内が日向の支配下に入ったということですね。
なんでや
優れた物だったから隣接するとこから順にじわじわ伝わってきたんだろ
遠く離れたとこに/からいきなり送った/送られたとかそういうのもあるかもしれんけど
皿などの食器類なら人が動いた証拠。
壺瓶などの貯蔵器なら、モノが送られた証拠だろう。
664 :
日本@名無史さん:2012/10/25(木) 05:46:58.67
瀬戸内の人が日向に移住したという形跡はないな。銅鐸も出ておらんし・・・
もしかすると銅鐸か?っていう金属器が出土したことはあったらしい
状態が酷いので何なのか不明なまま結局銅鐸は未だゼロだなたしか
666 :
日本@名無史さん:2012/10/26(金) 23:38:50.66
畿内が九州を征服したのならば、当然、自分たちが使っていた銅鐸を広めただろう。
九州に銅鐸がないってことは、畿内勢力が九州に進出したなんてことはないってことだよ。
667 :
日本@名無史さん:2012/10/27(土) 00:41:52.57
吉野ケ里から小型銅鐸の鋳型が出てくるから、
全くなかったわけじゃなかろうが、
それほど興味がありそうな感じじゃないな。
668 :
日本@名無史さん:2012/10/27(土) 06:44:50.90
小型銅鐸なんておもちゃみたいなもんだろ。
小さいのは本来の用途である、鈴、鐘、として
使った可能性が高いらしい
銅鐸は何に使ってたんだろう
集合合図とか?
祭りじゃね
博多どうたくとかあるだろ
672 :
日本@名無史さん:2012/10/29(月) 11:23:24.29
畿内の土器は九州に運ばれている。しかし、九州の土器は畿内に運ばれていない。
物資の流れは、畿内から九州だ。
673 :
日本@名無史さん:2012/10/29(月) 11:37:29.50
本格的な鉄器の普及は九州の方がだいぶ早い
674 :
日本@名無史さん:2012/10/29(月) 13:18:38.46
宮崎では弥生時代から製鉄が行われていたそうだ。
あくまで、かもしれないの域だろ
宮崎(日向)とは限らんし
676 :
日本@名無史さん:2012/10/29(月) 16:35:03.06
豐葦原之水穗國は褐鉄鉱がザクザクですって
677 :
日本@名無史さん:2012/10/29(月) 17:20:24.52
褐鉄鉱は砂鉄や黒鉄鉱より、もう一手間、還元が必要。
後世ならそれでも何とかなるが、
製鉄萌芽期には、ちと難問っぽい。
678 :
日本@名無史さん:2012/10/29(月) 17:24:55.20
炭焚きなんだろうけど高温たもつには砂鉄よか褐鉄鉱のが簡単らしいよ
679 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 17:01:07.87
日高氏の本によると、笠置山墳丘墓を中心とする宮崎平野中心部から数々の製鉄にまつわる痕跡が発見されたら
しいのだ。膨大な製鉄にまつわる遺物のほかに、周辺には明らかに製鉄にまつわる伝承が数多く残されていた。
市教委なりが発掘しないのはそこまで見積もってないからじゃないの
681 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 19:32:00.49
弥生時代、日向で製鉄が行われていたことは以前から言われているから
珍しいこととは思わんのだろ。
682 :
日本@名無史さん:2012/11/01(木) 19:52:44.50
地名からして、五十鈴川お金が浜、尾鈴山(御鈴)、銀鏡と
それらしき名前がてんこもりだしな。
尾鈴山の近くには矢研の滝とか征矢原とかそんな地名があるね
郡 郷
臼杵郡 氷上、智保、英多、刈田
児湯郡 三宅、穂北、三納、覩唹、韓家、平群、大垣、都濃
那珂郡 田島、夜開、新名、於部
宮崎郡 江田、島江、田辺、飫肥
駅 北→南
長井→川辺→苅田→美禰(美彌)→去飛→児湯→[国府]→当磨→江田→救麻→救弐→水俣→島津
[国府]→亜椰→野後→夷守→真斫
685 :
日本@名無史さん:2012/11/02(金) 19:46:27.11
日高氏の笠置山の話、いろんな時期(弥生時代後期、古墳前期の墳墓、古墳、古代?の製鉄遺構など)の遺構を単一時期にしてるだろw
遺跡は複数時代に跨っていることが多いもんな
笠置山というのは大淀川から見えるんかいな
生目1号墳は川つーか対岸からも見えるそうで
川が交通路になってて往来者に誇示する目的もあったみたいだ
688 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 01:35:49.12
大淀川は河口部は広い範囲を蛇行してるので時代ごとに川の位置が違う。
しかし、庄内川と接続してる生目付近はずっと昔からあの場所に川があったようだ。
生目からは西都に直結する県道があり、その両脇にも古墳群が続く。
個人的に投馬国が西都の妻である事は確実だと思う。
689 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 02:10:54.51
東南へ500里陸行すると伊都国→糸島。これはほぼ確定だとして。
記述の仕方から見て、この伊都国が滞在地(博多)であって、
下記の距離や方角は博多を起点に並記したものだと考えられる。
東南に100里進むと奴国に至る→阿蘇
東へ100里行くと不弥国に至る→宇佐
南へ水行20日(瀬戸内海ルート)で投馬国に至る→都農。美々川港。投馬の官吏がミミと呼ばれている。
南に水行10日陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る(「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」)
ここで注意したいのは、邪馬台国の範囲だ。
大淀川流域の墓制から考えて、その勢力範囲は上流の都城、えびのから庄内川をくだった九州西岸まで達する。
博多湾から九州西岸沿いに南に10日は庄内川河口、陸行一月はそこから生目まで。
現在の出水>伊佐>えびの>小林>生目ルートは、朝鮮半島からもたらされる「鉄の道」だった可能性が高い。
690 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 02:27:22.60
では、何故筑紫平野ではないのか。
大陸から近い筑紫の方が何かと有利に思える。
その鍵が3世紀という時代背景だろう。
元々熊本と宮崎は諸県山を中心とした同じ「ヒノクニ」であって
後代に「日・肥」に分かれただけだ。
単純に、古代日本としては強大な勢力圏であっただけでなく、
寒冷化の激しい3世紀にあって、温暖な宮崎平野は二毛作、三毛作によって収穫量が大きい。
筑紫平野の「本家」をしのぐ事になったのだろう。
そして、その墓制と遺跡から、筑紫と出雲は大陸からの流入が激しく
長い戦乱が続いていた事が解っている。
ゲルマンの南下がローマを衰退させ分裂に追い込んだように、
渡来人の侵入が筑紫と出雲の権力を衰退させ、分家である宮崎が台頭したのだろう。
691 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 02:37:38.86
記述では、邪馬台国は中国の温暖な海南地方に気候が似ている、とある。
日本においてその場所は九州東岸以外にない。
東日本ではこの時期、茨城や宮城の遺跡が忽然と姿を消し
江戸湾に面した千葉に遺跡が出現する。
また、大陸に置いても経済と食料生産の拠点が北方の中原から
徐々に南方に下り始めている点も注意すべきだ。
この時代は世界的に、経済・居住の中心は南下したのである。
692 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 09:32:08.43
>東南へ500里陸行すると伊都国→糸島。これはほぼ確定だとして。
これがだめだろう。方角距離とも合わない。
>東南に100里進むと奴国に至る→阿蘇
>東へ100里行くと不弥国に至る→宇佐
伊都国までが五百里だろ。百里で阿蘇や宇佐に行くわけがない。
投馬国、邪馬台国の比定も筋が通ってないな。
693 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 09:58:29.73
縄文の海進期は、相当地球温暖化が進んでいて、
魏の国があった中国北東部でもそれほど寒くなかったし、
緯度のほか海流の関係で、東北地方まで相当温暖で吹きは降らなかったのだと思われる。
邪馬台国は、津軽十三湊だろう。
694 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 10:06:55.35
邪馬台国の場所はほぼ特定されてるよ。
宇佐だよ。
邪馬台国が会稽東冶(呉)の東方海上に位置する規定、
旅程距離5倍の法則、長距離旅程は方位が南の法則、
方位時計まわりのずれの法則、水行10日陸行1月の新解釈、
からほぼ推定されてる。
「大和朝廷成立の謎 古代出雲王国から邪馬台国へ」っていう本だよ。
695 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 18:14:40.09
全部ひっくり返せばどこへでも比定できるさ。
投馬国くさい
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利
妻、都万、都萬、当磨
久留米付近にツマの地名が残ってるし、
位置的にも、この辺が投馬国と比定するのは賛成。
筑後川を下って久留米、全行程合計で水行20日ってことかな
699 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:18:14.65
これ言い出すとアレなんだが、距離はあまり重要じゃない。
魏の当時の一里が75mだとすると国同士の距離が近すぎる。
東南に100里行って東100里、と読んでも、それぞれ東南と東に100里と読んでも
僅か20キロ圏内に3カ国が隣り合ってすっぽり入ってる事になってしまう。
人口密度が低い時代に、そんな密集地域を「3カ国」と外人が分類したとは思えない。
700 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:23:29.37
「3カ国」ってどこのこと?
701 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:23:52.11
普通の感覚で考えて、距離と方角のどちらが重要か、とすれば明らかに方角だ。
距離は測るのが難しいし、高低差によって進むスピードが違う。
しかし、方角は図るのは簡単だし、なによりもこれを間違えてしまうと致命的だ。
距離は「遠いじゃねえか糞が」ですむが方角を間違えたら永遠にたどり着けない。
市町村役場をイメージすれば、そんなもんだろ。
703 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:27:49.59
わしがむらの土人のひめさまとかがごろごろ
704 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:29:33.95
そう解釈すると、魏志倭人伝は一貫して東南にと向かってる。
魏から見て東南は九州であって、「さらにその先に(南に)」狗奴国があるとしている以上、
狗奴国が熊襲擁する鹿児島で、宮崎・熊本が邪馬台国であろう事は
数々の遺跡状況からも間違いがないように思える。
古事記国産み神話の筑紫島の下りでは、
肥国熊本の名前が妙に特別扱いされてるように感じる。
706 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:32:52.53
>>699 すっぽり入るというわけではないさ。それぞれの国の首都が近くにあったという
だけのことだ。有明海に出る港を首都としていれば、必然的に近くにならざるを
えない。背後の領域は広大だったのだろう。
707 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 12:36:21.67
南九州は、何といっても中国から王と認められた証拠の玉璧が出ているし、我が国で
もっとも進んだ建築物や船の埴輪も出ている。ほかにそれに匹敵する地はない。
708 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 20:00:12.85
邪馬台国は宮崎にきまっとる!
日向は、ヒムカ=卑弥呼と呼ぶ。
隣はトヨ=豊の国
709 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 23:08:32.35
壹與はイヨ=伊予。愛媛県である。そして次代は・・・
東征の正体はこれだ!
江戸時代発掘で状況が不明なとこが多い穀璧コクヘキはおいそれと飛び付くわけにはいかんのだ
中国南部からベトナム北部を領域とする南越国の王も所有していたらしいが…
711 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 01:11:59.04
以前から多くの人間に指摘されてるが、
生目古墳群はその資料的価値の割に扱いが極めてぞんざいで保存状態はすこぶる悪い。
円墳部には県道が走り、周囲の土がはぎ取られ、消失し、手入れもされていない。
西都原古墳群の扱いと比すまでもなく、もはや悪意をすら感じる。
噂では、その周囲の土地をはぎ取ったのは昭和初期の頃であるらしい。
行ってみれば解るが、周りは変哲もない田舎の田甫。
わざわざ土をはぎ獲らねばならない理由は何もない場所なのだ。
最近のGPS調査と周外囲部の調査で解ってきた事は、
方墳の一部がどうやら後代に盛られている形跡がある、という事。
本来は円墳の両側面に丘があり、方墳は細い突出であったらしい。
その昭和初期に丘が削られ、その土で無理矢理前方後円墳に仕立て上げたようなのだ。
現在はその部分に道路が突っ込んでいて、もはや面影は全くない。
少し、古墳に詳しい人間なら、その形を聞いてピンと来るはずだ。
岡山県倉敷市の盾築古墳にそっくりなのだ。
盾築古墳は2世紀後半、もしくはもっと古い型の古墳と考えられ、
これも副葬品の消失疑惑や墳墓周囲の破壊など物議をかもした日本最古の古墳である。
712 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 03:54:31.54
日本には、宮崎の古墳群が日本最古であると困る勢力が存在する・・・
713 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 04:32:56.57
地下式横穴墓は中央アジアの製鉄民族の墓だ。
日本ではこの大淀川流域〜えびのにしか存在しない。
というか、えびのの方がむしろ本場であるかもしれない。
規模はどれも小さいが、数なら圧倒的にえびのの方が多い。
宮崎は弥生時代のたたら跡があり、明らかに日本最古の製鉄産地である。
これは、弥生時代にこの地に中央高原から製鉄民が訪れていた事を示す。
南端・都井岬の野生馬のDNAも中央アジアの古い血統であることが解っている。
高天原とは大陸の中央高原の事ではないのか。
だからこそ、はじめは気候の似たえびの〜諸県山を根拠地としていたのだろう。
この地域の山々は木が少なく草が多い。
ちなみに、この地域の森林は古くから管理され、照葉樹ではなく落葉広葉樹や針葉樹が植えられてきた。
これは、一度山が全部禿げてしまった事を示している。照葉樹は禿げた山では育たないからだ。
霧島連山がもたらす鉄鉱脈を武器に、彼らは支配力を高めていき、
やがて、大淀川を下って、海人族である現地人を屈服させ生目を根拠地にした。
それが海彦山彦伝説のあらましなのではないだろうか。
中国南部→沖縄→ここ近辺→へ遺伝子の移動があったとされているらしいけど
それは例えば越が滅ぼされた時にやむを得ず海上に逃れた人々の移動の痕跡ではなかろうか
山幸が海へ向かうとか…容易には考えられないが向かわざるを得ないなら仕方ない
長い年月をかけて新旧いろいろな伝承がミックスされていったんではないかなと
想像に過ぎないんだけど
地下式横穴墓は中央アジア系の墓だとかも聞く
平野部には北部九州からの移民であろうと思われる遺跡もあるし
知らないのか台風が来ればまともに風を受けて吹き飛ぶだろう場所に住居を設けたり移住を匂わせるものあり
とにかく色んな由来が想像されるものがあって祖がひとつではないことは明らか
電波が過ぎる都城。
ほとんど想像じゃないか。
地下式横穴墓ってのは魏志倭人伝とかの時代には無い。
今も次々に見つかってるので今後どうなるか不明だが、
発生地はえびのと生目とほぼ同時の可能性がある。
その後も古墳は作られ続ける。
こいつはいったいなんなんかね。
中央アジア系?
717 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 22:51:03.11
古墳は全国で造られている。つまり、特別のものではないってことだ。
特別な墓は地下式横穴墓だよ。高千穂の山に直接抱かれて眠る。これこそ、
高千穂に降臨した天孫の墓場にふさわしい。
718 :
日本@名無史さん:2012/11/06(火) 01:24:43.55
天皇陵発掘が禁止されているその理由は
全部、地下式横穴墓だから。
…という理由なら楽しいね。
719 :
日本@名無史さん:2012/11/07(水) 18:39:06.78
弥生なら平野部より都城盆地の方が進んでるような感じだね
思いっきり謙遜的に見積もって遅くとも縄文晩期BC1000の水田跡はある
さらに下の地層からもプラントオパールが高密度に検出されているよって
電波都城ならどうすることやら
その縄文晩期のは形も滅茶苦茶で畦の区画による一枚一枚が狭い。
弥生が終わるころには四角くなって水田一枚の面積も広がってるけどまだ狭い。
そのころの北部九州の水田は一枚が数畝くらいのとても広いものもあるんだよ。
723 :
日本@名無史さん:2012/11/11(日) 15:21:27.29
そのあたりは円形方形周溝墓もあるし前方後円墳もあるし地下式横穴墓もあるし共通するとこが多いみたいですね
一部だけど弥生時代の竪穴住居数はこんな感じ「らしい」
高千穂 宮ノ前第2(7) 古城(25) 五ヶ村(5) 神殿A(8)
延岡市 黒仁田(4)
日向市東郷町 鶴内野中水流(34)
美郷町西郷区 内野々(10)
川南町 藏座村(2) 国光原(7) 赤坂(23) 湯牟田(24) 尾花A(246うち庄内式までは60〜くらい?)
高鍋町 大戸ノ口第2(12) 野首第1(11) 毛作第4(8) 牛牧原(7)
新富町 向原第1(6)
西都市 宮ノ東(781〜?うち弥生後前までは40〜くらい?)
宮崎市佐土原町 下那珂(120)
宮崎市清武町 権現原第1(2) 下星野(3) 浦田(6) 権現原第1(2)
宮崎市大字熊野(学園木花台) 熊野原(20) 前原北(33) 前原西(3) 今江城(3) 堂地東(20) 堂地西(2) 浦田(6)
宮崎市 石ノ迫第2(35) 下郷(22) 車坂・山下(25) 間越(2) 椎屋形第1(19) 上の原第1(6) 右葛ヶ迫(3) 市位(4)
都城市 平田(47) 今房(18) 山ノ田第1(12) 諸麦(12) 筆無(3) 下大五郎(12) 働女木(12)
小林市 内屋敷(2)
高原町 荒迫(8)
日向から庄内土器は出ているのかな?
庄内式に平行していた時期という意味だろうね
笠置山
布留式なら結構あったんじゃないか搬入品であろうということで
しかしながら霧島市で成川式という在地土器と布留式が同じ竪穴住居から出土したということでどう解釈すべきなのかってのがある
ぱっと見で庄内式のように見える弥生土器ならあった気がするが時期も合わないしたまたま似てるだけだろう
ここらと畿内で多く出土するものは古墳時代だが二段逆刺鏃っていう凶悪そうな鉄鏃だろか
730 :
日本@名無史さん:2012/11/12(月) 10:06:15.48
ありがとう。和泉黄金塚古墳からは熊襲の楯が出ているからねえ。近畿へ行った軍人が
土産を持ち帰ったか、近畿からの物資が分けられたかってことじゃないかな。
楯に巴型銅器が付いたものだな.
巴型銅器なら、すでに、唐古、鍵に持ち込まれている。
唐古、鍵を征服したとき落としたんだろ。
733 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 01:02:10.17
なにを言っているんだ?
734 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 02:19:51.94
隼人は南九州と畿内の両方に「本家」があってどっちが正統なのかはわからない。
しかし、そのルーツは大陸の南方ではなかろうかと思う。
中国では古来から高砂族やミャオ族を最強の傭兵として前線に配置していた。
北方の騎馬民に唯一対抗出来る歩兵として。
クメ、クマ、コメという地名が黒潮のなれ込む地域に多数存在する事は偶然じゃなかろう。
735 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 02:35:52.92
そんなんだwww
736 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 04:10:24.00
沖縄の久米島、鹿児島の熊襲、熊本、博多湾の久米山と久留米、
そして宮崎と四国は米だらけ。
日向市米ノ山(こめのやま)西都市久米田(くめだ)米良大橋(めらおおはし)北諸県郡 三股町 上米満(かみよねみつ)中米満(なかよねみつ)
野尻町米川内川(こめかわうちがわ)高鍋町 真米(まごめ)西米良村(にしめらそん)元米良(もとめら)
向上米良(むかえかんめら)上米良(かんめら)米良稲荷橋(めらいなりばし)門川町 米の山(こめのやま)
美郷町 米上(こめかみ)米花(よなばな)高千穂町 米糸(よねいと)
鹿児島県にも多い。鹿児島市 米倉(よねくら)阿久根市 米次(こめつぐ)
出水市 米ノ津前(こめのつまえ)米ノ津中(こめのつなか)米ノ津町(こめのつまち)
米ノ津東(こめのつひがし)米ノ津港(こめのつこう)米ノ津川(こめのつがわ)
米ノ津橋(こめのつばし)南さつま市 米島(こめじま)米瀬(こめぜ)米山鼻(こめやまばな)
出水郡長島町 米山(こめやま)蒲生町 米丸(よねまる)米丸上(よねまるかみ)湧水町 米永(よねなが)
大島郡 知名町 小米(こごめ)
紀伊半島の熊野、岡山の久米、徳島米津(よなづ)阿南市 久留米田(くるめだ)米島(よねじま)。
四国はさらに本場だ。四国東海岸は田舎だったため戦乱による地名の変更が少なかったからだと推察される。
高松市 久米山(くめやま)久米池(くめいけ)丸亀市 久米氏(きみょうじ)坂出市 久米町(くめちょう)
松山市 久米窪田町(くめくぼたまち)南久米町(みなみくめまち)
米野町(こめのまち)北久米町(きたくめまち)立岩米之野(たていわこめのの)今治市 久米(くめ)
宇和島市 安米(あこめ)米津(よねづ)安米崎(あこめざき)
大洲市 古久米武田(ふるくめたけだ)米津(よなづ)久米川(くめがわ)
伊予市 米湊(こみなと)東温市 久米領(くめりょう)北宇和郡 松野町 久米地(くめじ)
高知市 米田(よねだ)宿毛市 米碆(こめばえ)香美市 米野(こめの)安芸郡 奈半利町 米ヶ岡(よねがおか)
高岡郡 四万十町 米奥(よねおく)米の川(こめのかわ)幡多郡 黒潮町 米原(こめはら)
737 :
日本@名無史さん:2012/11/14(水) 04:24:08.79
同じく黒潮のぶつかる関東地方にも米関連は多い。
これは、一体何を示すかというと、米の移動経路、
そして神武東征の経路だ。
戦争では自給自足が当然の時代。
栄養価の高い米を持っている軍隊が有利であるのは明らか。
屯田兵として毎年少しずつ開墾しながら東進し、近畿に至ったのだろう。
神武東征の軍事的英雄・久米氏は、文字通りこの「米」そのものの事なのかもしれない。
久米氏が天皇家の眷属である事は記紀にも記されており、天皇自身の事だったろう。
天皇家の支配の根幹は「米の種籾貸し」であるからだ。
昆虫や鳥や龍を描いた弥生の絵画土器が出てるそうで…鳥は分かるけど龍?ってどこから思いついたのか入ってきたのか
>>737 米の付く地名がいつごろから使われてたのかもあるだろうけど理系的見地から人の移動はあったようだとしている見解も多い
中国南部に発し南西諸島を経て/経ずにここらから畿内に至る遺伝子の移動はあったとしている見解がある
B54とB46遺伝子だったかな
740 :
名無しさん@お腹いっぱい:2012/11/14(水) 20:53:26.18
唐津からの東南に陸行500里・・・倭人伝の旅程を素直に
解釈すれば、邪馬台国は日向近辺である説に矛盾はない。
西都原は綿津見の国
それも都ではなくて、只の祭祀場
竜はワニとか
恐竜の骨で想像されることもある
和多都美神社は薩摩半島の南端の枚聞神社の別名だっけかな
大隅の国の一の宮「国分八幡宮」→(俗称)「鹿児島神社」(延喜式)社伝によれば、鹿児島とは籠島で海彦山彦伝説で皇室の祖先を竜宮に案内した海神の船、「目無堅間の籠船」が発着したところという由来になっているとか
744 :
日本@名無史さん:2012/11/15(木) 07:35:54.11
沖縄が竜宮だな。
東シナ海の海人族(隼人)の戦力を引き入れた中央アジア系製鉄民(生目勢力。イクメ=久米)が
渡来&現地勢力(江南・半島人&縄文人)を駆逐していくのが記紀のあらまし。
上位軍事氏族の久米氏が南方系中国風の格好であるのに対し、
あちこちの征伐に駆り出されこき使われている物部氏などは北方系。
侍(もののふ)が頭頂部を剃るのは明らかに北方中央アジア由来の風習。
745 :
日本@名無史さん:2012/11/15(木) 07:52:01.31
生目勢力はその墓制から、中央アジアでもかなり西方の鳥トーテム・
火信仰地域から渡来しているのは間違いない。
その文化的背景をユダヤと共有している民族だった片鱗はある。
以外に知られていないが、ケガレを払う盛り塩は、本来、塩ではなく砂だ。
古代西アジアに広く痕跡が残る風習で、これを巨大化した者がピラミッドであるという。
賀茂神社などはいまだにこの風習を守っている。
笠沙って村興しのために根拠無く付けられた地名なんだよな。
あるいは和多都美神社という名称も・・・
記紀に関係ある同じ地名がたくさんあるときは記紀を読んで後世付けられたのが殆どなはずで
地名が本物ていうか本当に由来があるかはどのくらい昔まで遡れるかが重要だよ
平成に出来たのもあるし昭和までしか遡れなかったりもあるし
748 :
日本@名無史さん:2012/11/16(金) 22:31:27.26
四道将軍大彦とその息子武渟川別が落ち合ったのは会津だし、
会津に大国があったことは間違いありません。
福島県耶麻郡、邪馬台国は祟神天皇時代までここにあった。
749 :
日本@名無史さん:2012/11/17(土) 05:58:10.88
いきなり遠い所かぶっこみがきた
>>744 侍が頭頂部を剃るのは大分後じゃんw
元寇より後なんじゃない?
751 :
日本@名無史さん:2012/11/19(月) 07:46:08.22
平安時代からだね。
この時代は大陸でも満州族が強盛になって南下し、北朝鮮から日本を伺っていた。
ソイツらの髪型が日本人には何かすげえ超先端パンクファッションに見えたのかもしれん。
武士ってのはそういうのが好きな連中だしな。愚連隊みたいなもんだから。
752 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 13:08:55.57
加茂神社の加茂とは鴨、海洋族の鴨族との説あり、鹿児島は鴨の島が鹿児島となった説、
カゴメの籠との説もあり。また、古来、鹿児島とは桜島のことだとの説もあり。
鹿児島〜宮崎県は古来、ひむか(日向)の国で、日向神話、記紀の中心は、
薩摩半島南端の笠沙から大隅半島にかけてであり、都城〜宮崎〜西都へ勢力を拡げた
可能性が高い。史跡、伝承、記紀、神話等の繋がりが多い。東九州道の建設で、
貴重な品が出土している。まだまだ今から多くのものが出るだろう。南九州の歴史の
解明されるのも近い。しかし、それを封じてきた現勢力が黙っているか?
753 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 13:25:21.95
20年くらい前までは、南九州の古墳は全部5世紀以降だと言っていたが、
最近はそんなことは言えなくなった。そうなると、南九州の古墳はいつ造られたの
か、畿内との先後関係はという問題がでてくる。畿内説としては頭の痛いところだ。
鹿児島、宮崎と熊本の間は、霧島山系を中心とした山で相当隔絶されてるからね
別世界だったとしても何の違和感もない
特に平野部は瀬戸内海方面や北部九州との交流があったのは確実だけどね
相当隔絶されているけど、陸路を行く場合は阿蘇から阿蘇火砕流で谷が埋められて
比較的なだらかな高千穂を経て日向平野部へ向かう経路を通っていたと思う
756 :
日本@名無史さん:2012/11/26(月) 21:04:19.59
西南戦争の時に西郷軍は九州山地の中を駆け巡っている。邪馬台国時代だって
九州山地をさほど苦にはしなかっただろう。
西郷軍が九州山地を駆け回る局面って、
敗走してバラバラになった時じゃなかろうか。
そうだよ
延岡で包囲突破して鹿児島を目指す時にわざと険しいとこを通った
米良から須木とか現在でも酷道265とか言って普通は通行を避けようとする険しいとこだ
険しい山中でも小部隊と小戦闘を繰り返しながらだったし脱落して死亡した人もいたはず
追いにくい、深い山中じゃないと逃げ切れないもんね。
そういえば、磐井の敗走も、冷水峠から筑豊の
山中に逃げこんでるな。
761 :
日本@名無史さん:2012/11/27(火) 10:29:17.06
当時は食糧確保のために狩りが盛んだったろう。ということは、現代よりも
ずっと山道などは整備され利用されていたと思うよ。
組織的な整備もされないで通るに任せるくらいだったら道と分かる程度のお粗末なもの
…だけど徒歩しかないから通行量は今の人道より多いし使える道ではあったかもしれんね
関係ないけどこれで最後って言ってた伊作さん?帰ってきてくれたらいいんだけどな
763 :
日本@名無史さん:2012/12/01(土) 16:54:07.67
道で言えば、宮崎県椎葉村と熊本県五家荘が平家落人村で有名だが、大隅半島南部の内之浦、佐多や
薩摩半島南部の川辺、種子島、喜界島も平家落人部落です。これらは海上から上陸した。
椎葉村などが人跡未踏の秘境と言っても鶴富姫など多数の平家が行けたわけだから
道はあった。その手引きはサンガの衆ではなかっただろうか?一方、佐多などは海上
からでないと行けない程、ほんとうに人跡未踏の秘境で源氏も追っては来れなかった。
http://kamodoku.dee.cc/kaya-kou.html これはご参考に。
サンカって三角寛の捏造でしょ
捏造が立証された部分もあるしね
戦後のあの業界のレベルって…
時間はかかるけど人は通れたさ
秘境と呼ばれるとこでも尾根沿いならなだらかだ
戦国時代なら豊後との間で大軍が行き来してるけど東西方向はあんまり聞かないな。
整備後の交通の話はあてにならんか。
弥生なら初の鉄鏃は高千穂から出土とかなんとか…延岡だったっけ?
とにかく鉄鏃は北から入ってきたのは確か。まあ中国東北部からなんだから当然か。
768 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 21:23:02.24
西都は神武が東遷したあとの邪馬台国の後裔の繁栄が残されたところ。
東の都(大和国=邪馬台国)が奈良盆地であるのに対しての西の都。
しかも、景初2(3)年の卑弥呼がいた当時の邪馬台国の所在地は西都ではない。
卑弥呼がいた当時の邪馬台国の所在地は宇佐周辺である。後に宇佐から西都に移り
神武は日向から東遷したんだよ。
高天原は宇佐ってことか
770 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 22:05:15.72
神武がなぜ東遷したか?
それは奈良盆地に首都を置いていたニギハヤヒの治めていた大国と九州にあった
邪馬台国が合併し、ニギハヤヒの治めていた大国が邪馬台国=大和国と名乗らなければ
ならなくなったため。
771 :
日本@名無史さん:2012/12/06(木) 22:51:40.37
神武が東遷したといっても、倭国の主力は日向に残ったままなのだよ。
そう解釈しなければ、隋書の倭王が男王だったと言うことの説明がつかない。
大が名門の小を飲み込んで、小の名前を継いだけれど、中身は大そのものってのは良くありますね。
773 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 00:31:23.91
ニギハヤヒの治めていた大国がなぜ邪馬台国と合併し大和国=邪馬台国と
名乗らなければいけなくなったのか?
それは呉が晋に滅ぼされたから。
ニギハヤヒの大国は呉と同盟していたが、呉が邪馬台国と同盟していた晋(魏)に
滅ぼされた。
ニギハヤヒの大国は晋に滅ぼされる脅威に怯え、邪馬台国との合併を選択した。
そして神武は東遷し大和朝廷初代神武天皇となった。
「大和朝廷成立の謎」という本で読んだ。
774 :
日本@名無史さん:2012/12/07(金) 09:54:55.39
ニギハヤヒの大国って畿内のことか?畿内は朝鮮から銅を手に入れていたんだろう。
呉と同盟していたというのは、不自然な話だ。筋の悪い考え方の本だな。
西都原は元は斎殿原だけど妻都の原じゃないの?
妻の都。投馬国の都。
776 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 18:37:09.48
肝属地域の重要性は承知いたしておりますが宮崎について語らせていただくなら、
宮崎市の生目古墳群から南西1.5kmほどのところに柏原という大字名があります。
奈良県橿原市と宮崎市は姉妹都市です。
778 :
日本@名無史さん:2012/12/09(日) 21:09:01.29
つまり神武天皇が九州の地名を畿内に移したと
厚鹿文(あつかや)は景行天皇に討伐と言うか計で命を落としたことになってるよ
厚鹿文の鹿文は鹿屋に通じるんではないの?
肝属平野は5世紀から日向と同じ形式の墓(地下式横穴墓)の分布域だし、
東端海岸付近には4世紀から前方後円墳がある
鹿屋はこの分布域にぎりぎりかかるかかからないかで地域間の抗争があったとしても
不思議ではないんだけど、本当に天皇が自ら遠征されたのかなあと疑問があるね
アツカヤ、サカヤの本拠比定地は鹿児島湾北岸の霧島市付近。
アツカヤ・サカヤの討伐後どうしたかといえば、日向高屋宮に6年滞在して子を残している。
肝属から西都原への遷都だろう。
実はそれが神武で、景行天皇のこの部分は神武の事跡を重複させたものだ。
肝属川河口の柏原はまさに東端の海岸で唐仁古墳群の傍
地下式横穴墓は肝属川中流域の鹿屋市東部まで分布する
782 :
日本@名無史さん:2012/12/10(月) 20:46:18.62
宮崎県西諸県郡高原町に神武天皇を祀る狭野神社と神武天皇が生まれた
皇子原がある。宮崎市にやはり神武天皇を祀る宮崎神宮がある。
鎌倉時代初期に北西の皇宮屋(皇宮神社)から現宮崎神宮に遷したらしいな
784 :
日本@名無史さん:2012/12/11(火) 20:38:30.80
>>774 ちょっと遅くなったが、
それなら聞くが邪馬台国は魏から銅を手に入れていたのか?
考えが悪いのはそちらでは?
ニギハヤヒの治めていた大国がなぜ邪馬台国と合併し大和国=邪馬台国と
名乗らなければいけなくなったのか?
それは呉が晋に滅ぼされたから。
ニギハヤヒの大国は呉と同盟していたが、呉が邪馬台国と同盟していた晋(魏)に
滅ぼされた。
ニギハヤヒの大国は晋に滅ぼされる脅威に怯え、邪馬台国との合併を選択した。
そして神武は東遷し大和朝廷初代神武天皇となった。
「大和朝廷成立の謎」という本で読んだ。
魏呉両国に二股していた邪馬壹國の卑弥呼は、丸都城を落とし、高句麗人数千人を
斬首した魏に滅ぼされる脅威に怯え、魏との誼を一層密にした。
786 :
日本@名無史さん:2012/12/11(火) 22:00:13.10
>>785 「大和朝廷成立の謎」によれば、藤原不比等が「日本書紀時空間操作の法則」
を操って呉服、呉音の伝来を改ざんして、呉の国と濃密な交流のあったニギハヤヒの大国が
弥生時代の日本に存在していたことを日本古代史から消してしまった、ということだけど、
邪馬壹国が魏、呉両国と二股していた場合も呉との交流の事実を消してしまおう、と考えても
おかしくないかな。その線も考える余地があるかも。
>>785 倭国は大乱してた
その内の一つの勢力が呉と通じてて、その勢力に対立してた卑弥呼の勢力が、
敵の味方の敵は味方ということで、魏と結びついたんだろう
魏としても、敵の味方の敵は味方ということで、それを歓迎したわけ
788 :
日本@名無史さん:2012/12/12(水) 10:07:33.67
>>786 魏の使者は、倭国が呉と通交したことを知ってるよ。持衰の話はその
裏付けだ。中国云々というのは呉とのこと。倭国は呉との交流を隠し
たりはしていない。
789 :
日本@名無史さん:2012/12/13(木) 22:23:56.51
>>788 そうか、倭国は呉との交流を隠したりしてないんだ。
ということはやっぱり、呉の国と濃密な交流のあったニギハヤヒの大国が
弥生時代の日本に存在していたことを日本古代史から消してしまいたいために、
藤原不比等が「日本書紀時空間操作の法則」を操って呉服、呉音の伝来を改ざんした、
ということになるね。
それでは、なぜ藤原不比等はニギハヤヒの大国が 弥生時代の日本に存在していたことを日本古代史から消してしまわなければ
ならなかったのか?
790 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 23:02:16.49
>呉の国と濃密な交流のあったニギハヤヒの大国
最初から勘違いをしているのではないかな?
そもそもニギハヤヒは敵国に寝返った裏切り者
792 :
日本@名無史さん:2012/12/27(木) 19:49:58.98
呉の太白の子孫が薩摩半島南端、笠沙に上陸したのが天孫降臨の話しで、
住むのに適さないため大隅半島の肝属川河口へ上陸し勢力を鹿屋、大崎、曽於、
都城と延ばした。これが熊襲、後の隼人で、彼らは呉の末裔だと自称している。
最近の遺跡からも早い時期から大隅地方に大集落があったこと、古墳だけでなく
大陸との関係を示す出土品が出ていることから吾平山稜の神話も事実に基づくもので
あったことが伺える。曽於市岩川の弥五郎、熊襲の首長とも竹内宿寝とも言われているが、
巨人、風貌から渡来人であろう。同じ弥五郎三兄弟の日南の弥五郎はも白人系の風貌。
日向神話(宮崎県、鹿児島県)、南九州に伝わる伝承、古墳、最近の遺跡から、縄文人の
日本に大陸から呉の子孫が南九州に渡り地元の縄文人と結ばれ勢力を宮崎まで拡げたが、
開聞岳、桜島、霧島などの活火山の噴火で住めなくなり移住したのが一つの神武東征であり、
また、勢力を北九州や朝鮮(伽耶)まで延ばした勢力が畿内へ移動したのも神武東征ではなかろうか?
朝鮮の伽耶、大隅時半島の中心、鹿屋、同じ熊襲ではなかろうか?鹿屋と書いてかのやと読むが、
素直に読めばかや、江戸時代には鹿野屋と読ませたこともあった。鹿屋の鹿とは大王、帝王の意で、
鹿屋とは大王のいる館とも取れる。また、たかやが省略されて鹿屋とも取れる。こういう説も
聞きましたが、いかがでしょうか?
ついでに、吾平山稜(神武天皇の父母の墓)のある隣町、高山町(現肝付町)は神山とも言われ、
その高山の奥地に国見山(現肝付町内之浦)がり、その山には高屋山稜があり本居宣長を始め
ほとんどの国学者が比定していたが、明治維新後、溝辺が高屋山稜と比定されてしまいました。
これもきな何か政治的なきな臭さを感じます。
霧島付近に韓国岳(からくにだけ)があるのが気になるな
韓国岳の初出は?
風土記には出てないよね
2001年くらいに都城で縄文晩期の水田跡が見つかっているのだけど、肝属平野ではどうなっているんだろうか。
見つかる可能性がありそうなんだが。
いずれにせよ弥生時代には宮崎平野にも肝属平野にも広がっていく。
前方後円墳の築造開始は宮崎平野、地下式横穴墓はえびのか宮崎平野。
韓国岳は山頂とかえびの高原あたりの荒涼とした風景から虚国→韓国とか…よくわかりません。
796 :
鋭利庵:2012/12/28(金) 08:39:34.57
西都原は、古くは斎殿原(さいとのはる)といった。
これが「さいとばる」と詰まるのは江戸時代で、これに西都原の文字を当てた。
だが、西都原よりも遥かに古く「子湯の県(あがた)」時代から
この地の中心だった都満(都万)という地名は、現在でも「つま」と読む。
都を「と」と読むのは中古音の唐時代・長安地方の音(漢音)だが、
これが日本に入って定着するのは、
8世紀当時の代表的・先進の文献たる『日本書紀』が
都をことごとく中古音の「つ」で使用していることからも、
『日本書紀』が編まれた9世紀以降だろう。
(中古音時代の『隋書』は対馬を都斯麻と書いているし、むろん、3世紀の『倭人伝』が書いた伊都を「いと」と読むのも新しい日本語漢音読みだ。
伊都を「いと」と読むところに実は日本古代史の大きな欺詐がある)。
「西都」の文字づらにとらわれて「西の都」などという、
ガキみたいなたわごとをいうのはやめろ。
そんなことよりも、「斎殿」がどういういみなのか、
斎殿というべき建造物の遺跡があるのか。これを考えるのが歴史探究というものだ。
斎殿……文字通り葬祭センターであり、
ここの古墳群を何世紀にもわたって継続的に運営できたのは、
「倭国」という国家組体制にほかなるまい。
古墳(墓場)があれば「そこが都だ権力中枢だ」というのもガキの発想だ。ちっ
797 :
鋭利庵:2012/12/28(金) 08:55:25.90
舌足らずだった。
九州島東側は山脈の斜面が海近くまで迫り、豊富な農業生産ができる立地にはない。
つい近年まで、そば・むぎ・いも・ひえなどの栽培が盛んだったところだ。
かろうじて、宮崎平野から肝属郡にいたる平地がある。
ここが九州島東側における弥生の人口密集地の一つだ。
「たかをくくる」という言葉があるが、
米の産出高が国力・兵力を左右する時代のこと。
西都原には、何世紀にもわたって古墳群を運営するだけのキャパはない。
ここに何世紀にもわたって古墳群を継続的に運営できたのは、
「倭国」という国家組体制にほかなるまい。 というわけだ。
大淀川河口部から肝属郡にまたがる前方後円墳は、
比較的豊かなこのあたりを支配した豪族の墓地だろう。
西都原と生目の古墳群の性格的な違いがここにある。
墓域は勢力拠点中枢の都市(都など)の郊外に設けるものだ。
むろん、この地を支配した勢力拠点は墓場とは離れたところにあったはずだ。
通例としては、通交に便利な大河川の中流部から上流部にある「盆地」。
願望妄想・願望空論はもういい、目をさませ。
798 :
日本@名無史さん:2012/12/28(金) 10:28:24.32
>>796 >>797 基本的にそのとおりだろうな。倭人伝の行程に従ってそのまま進めば南九州へたどり着く。
そして、そこの風土は倭人伝が伝えるところにぴったりだ。
九州随一の古墳群、数々の遺物、これらからもそこに大国が存在し、古墳時代を通じて
繁栄を続けていたことは疑う余地がない。
となれば、そこが倭人伝の伝える邪馬台国であることは明白だろう。
そんな簡単なことがこの国の学者どもには理解できないらしい。
799 :
鋭利庵:2012/12/29(土) 09:39:30.39
>>798 きみのは古代倭国の過小評価の産物だ。
>倭人伝の行程に従ってそのまま進めば
正確な距離測定が不可能な海路距離は、実際とは無関係に、
1航海1000里単位か1日単位表記だった事実。1日航海を1000里単位で評した事実。
『倭人伝』の陸路距離は魏の公式尺度の6倍でかかれている史実。
これを馬得た上で『倭人伝の行程に従ってそのまま進めば、南九州へはたどり着かない。
>九州随一の古墳群
熊本には塚原古墳群があって、規模も数も西都原とどっこいどこいだが。
しかも、大小の土まんじゅうを無秩序につくった古墳群とはわけが違って、
墳形ごとに区画割りされて、計画的組織的な一大墓域づくりがうかがわれる。
>そんな簡単なことが
きみの考え方が簡単すぎるのだ。
西都原の古代名は「子湯の県」。いまでも児湯郡というだろ。ここが「呼邑国」だ。
諸県郡と肝属郡にまたがる肥沃なとちを任されたのが投馬国。その本拠地は都城。
きみは、古代倭国の実力を過小評価して、九州島東側を過大評価している。
800 :
鋭利庵:2012/12/29(土) 09:41:15.18
2012年のおわりに、願望妄想論を叩き潰しておく。
●卑弥呼が日本の歴史から消えたわけ
『日本書紀』の編纂者たちが『三国志』倭人伝に目を通しているのは紛れもない事実なのに、
『日本書紀』には卑弥呼と邪馬台国が登場しない。
(当麻の王子(投馬)、イオキイリヒコ(五百支)、ミミ(弥弥)など部分的にパクって、
とんでもない出自の人物として使用している)。
つまり、『日本書紀』には、本場中国の天子に対して「日出る処の天子が日没する処の天子に」と、
対等な口上を述べるようになる隋以前(漢・魏・晋・宋代)の歴史がない。
中国天子に臣とへりくだって朝貢外交を展開していた時代を消して、
中国王朝に対して一人前の発言をするようになった時代から書いているのである。
かくして、紀元前後から400年〜500年間の漢・魏・晋・宋代の体験の記憶を抹消して、
この期間の歴史を作り変えている。
この時点で、編纂者たちは史実との整合性をまったく考慮してはいない。
というよりも、史実を消して創り変えるのが彼らの仕事だったからである。
その過程を推察すれば、本物を含む幾つかの土器をたたき割って、
それらの破片を拾い集めてつなぎ合わせ、
ありもしなかった異様な形の土器に復元するような作業をしているはずである。
そこに史実が紛れ込んでいたとしても、それは脈絡を寸断された断片でしかない。
まず、『日本書紀』の創作された神話部分は史実とはほど遠いこと、
この部分を明確に認識しておく必要がある。
801 :
鋭利庵:2012/12/29(土) 09:47:18.19
●次に『日本書紀』妄信の信者たちへ
『日本書紀』の編纂者は、『倭人伝』をみて歴史の中心は日向(宮崎県)にあったと解釈したらしく、
神話の中心を日向の地から始めている。ここに、『日本書紀』の大きな矛盾がある。
矛盾とは、神話の始まりを日向の地から始めているにもかわらず、
この地を豊葦原瑞穂国あるいは葦原中国としていることである。
九州東側の宮崎県側には豊葦原というほどの湿原はない。
そもそも『日本書紀』の神話は、日や火のほかには高千穂、瑞穂の国、
倉稲魂、天忍穂耳、天穂日、稲田など稲と穂がつく神々と、
天狭田、長田、田心姫、狭長田、奇稲田姫などなど、田と稲作に関連した名の神々で溢れている。
天照大御神の神話にさえ、天狭田と長田の用水路、畔等が登場する。
神話時代を、開墾と灌漑がなった水田耕作の時代として書いているのだ。
日本列島において、本格的かつ組織的な水田耕作が最も早く行なわれたのが、
九州北部の佐賀平野〜筑紫平野であることは考古事実にみるまでもない。
しかるに、水田耕作が少なかったはずの日向を葦原中国としたのは大きな矛盾である。
『史記』には平原広沢とか平原沼沢という言葉が出てくるが、
これは水田用開墾に適した一等地を意味する。そのロケーションは読んで字のごとく、
葦しげり浮き島が点在する一大湿地帯、まさに「豊葦原」である。
九州で平原広沢とか豊葦原といえるほどの大湿地帯を抱えていたのは、
筑後川河口域を中心とした有明海北部沿岸一帯である。
『日本書紀』の創作神話を、
その信憑性の検証もせずに何の根拠もなく「正しい」との前提の上で、
都合よく鵜呑みして語る手法が、客観的歴史として妥当か否か。
ここのところから議論すべきなのだ。
市井には宮崎説の本も結構あるしここで叩き潰しても潰れんよ
公的機関や専門の学者の人たちは主張したりはしませんけどね
邪馬台国が明確に定まって明確に否定されるまでどこの説でも自由だ
否定するのも自由なので徹底的に叩き潰してほしい
>>801 有明海に比べれば規模は小さいながら宮崎の海岸部にも湿原が広がっていたよ
沿岸の数列の高地は旧砂丘、低地は入り江や湿原から水田へと変えられていった
804 :
鋭利庵:2012/12/29(土) 10:45:52.21
>>802 >>803 情けない願望空論だろ。
そういうことしかいえいなのが、願望空論の証拠でもある。
何でもいいから、創作神話をたよりに論じるときは、
その神話が史実であることを論証するのが、まっとうな手順というものだ。
これをできる奴は、それこそ日本に一人もいない。現実だよな。
805 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 12:16:56.51
葦原中国とは高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界、すなわち日本の国土。
特に日向がそれだというわけではない。
かえって日向は支配者らの地、すなわち神々の地、高天原というイメージではないかな。
806 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 12:52:28.91
邪馬台国は宮崎県高千穂町なりの説が登場したようですな
高千穂から四国の物部、そして近畿
808 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 16:29:39.21
地下式横穴墓は確認されているだけで1000以上でそのほとんどが調査に及んでない。
ああいう形なので膨大な数のそれが未発見で埋もれている。
地下式横穴墓では鉄鏃・骨鏃・鉄剣・鉄斧・鉄鎌・刀子・甲冑・馬具・貝釧(腕輪)などが副葬される。
刀子は文房具としての側面もあるが幼児にも副葬している。
被葬者には老年もいれば女性もいれば乳幼児もいる。
個人・家族・男女ペアで葬られている。
どこでもそうだろうけど思いを巡らす材料があって面白いね。
811 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 18:59:02.05
812 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 19:12:36.52
天孫降臨は大陸からの渡来。船で渡ってきたことから鹿児島県笠沙に上陸し、
大隅半島肝属川河口から再上陸し北上。当時高千穂などの名称はなかっただろうから、
渡来人が最初に目撃した山は野間岳か開門岳、金峰山。それか郷里の山に似ていた
霧島の高千穂の峰のことか。高千穂町の高千穂は単なる山岳信仰か肥の国の影響か?
813 :
日本@名無史さん:2012/12/29(土) 19:19:24.01
>>811 そのあたりの塚崎古墳群はwikipediaには中・後期と書いてあるけど、たぶん前期に遡るものを含んでる。
>>812 北の高千穂は神(高千穂神社?)領にせよと延岡藩に対して一揆を起こしている
816 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 12:30:07.56
そう、高千穂町ならば乍東乍南と書くはずなんだよね。それがないから、伊都国を
玄界灘沿岸に比定することはできない。となると、・・・
そうですね。
現実の地勢地形距離をみれば下記が即していますね。
末蘆国から2000余里、東南到陸行1月
北の高千穂って相当山間だし南の霧島山高千穂峰みたいな目立つ山体の山は無いぞ
弥生時代の遺跡とか鉄器とかは出てるけども
819 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 16:25:52.84
乍東乍南と書かなくても良い所が水行の出発点なんだよ。つまり従来の伊都国、奴国、不彌國の
比定はまちがっていたということだ。
乍東とか乍西とか書かなくても良い港となると、周防灘か別府湾、それに有明海の沿岸しかない。
そして、末盧国から東南五百里といえば、有明海沿岸の佐賀市付近で決まりだよ。
820 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 18:02:35.65
>>801 日本書紀に書かれている日向は今の宮崎県でなく薩摩・大隅半島を含み中心は
大隅半島。だから、日本武尊が熊襲征伐をした。熊襲征伐の後に日本書記が作られ、
薩摩、大隅が分国した。日本書紀は蘇我入鹿を暗殺してクーデターを起こした連中が、
真実を隠すために作られた歴史書の気がする。
821 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 18:04:51.84
天孫降臨で舟を使ったとか、言ってる人がいるが、出典は何ですか?
822 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 18:09:57.66
>有明海沿岸の佐賀市付近で決まりだよ
なるほど、方角修正しなくていいし、田はたくさんあるし、人口も多そうだし。
あと1500里。
>真実を隠すために作られた歴史書
ロマンあるよね
824 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 19:02:20.40
>>822 あと1500里で邪馬台国へ到着するわけではない。着くのは女王国の入り口。
邪馬台国へは行程記事のとおりに伊都国から水行十日陸行1月が必要だ。
女王国は万二千里のところから始まり、南の奴国で終わることを注意すべきだ
>>820 大隅と言っても鹿屋市あたりを境として北西と南東では墓制が違う
826 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 20:14:36.39
>伊都国から水行十日陸行1月が必要だ。
>女王国は万二千里のところから始まり、南の奴国で終わる
水行十日陸行1月は「時間」、万二千里は「距離」
距離÷時間、距離×時間、はOKだけど、
距離+時間、は数学的にあまり意味をなさないんじゃないの、魏書はそういう取扱いだとおもうんだけど
827 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 20:33:05.81
所要時間で表すのも距離の表し方の一つだよ。西域伝でも読んでみな。
里数と日数を適当におりまぜて表しているから。
倭人伝が投馬国、邪馬台国について日数で表示したのは遠すぎて正確な里数を
書くことが難しかったからだよ。
828 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 21:06:18.84
>自女王国以北其戸数道里可得略載、
女王国以北(女王国を含む)は「道里」を略載と書いてるから、文字通り「里数」の記載あるはず
よって水行陸行の時間を表す「日数」は、その補助的説明(状況説明)では??
829 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 21:16:33.72
女王国以北というのは、奴国までのことね。なお、日数表示も道里を表示した
ことになるよ。
830 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 21:53:48.01
日数表示はすなわち時間表示だ、決して里数・道里ではないな
卑弥呼の昔も千数百年経た現在も、帯方郡から末盧までの距離は変わらぬ
しかし所要時間は水行の数十日から航空機の数十分に変わった
距離と時間を混同しちゃんぽんに扱ってはならぬ
ま、魏の書記官がどう理解してどう書いたかではあるが、かなり高度かつ論理的な書き方と読んだ。
千数百年も読み続けられてるからには、駄作ではない。
831 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 22:40:44.90
道里というのは、「みちのり」だ。つまりは、どのくらいでいけるかということであって
里数に限った話ではない。これ通説ね。
832 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 23:08:49.57
文系人間は日数にとらわれすぎの傾向にあるな
まず日数に関わるところをポストイットで目隠しし、それから通読してみることだ
そうすれば魏王朝の高等書記官の意図する文章骨格がはっきり読み取れる
834 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 23:13:44.98
>>833 だから日数に関わるところを目隠しして読んでみなされ
明日は新しい倭人伝で目が覚める
835 :
日本@名無史さん:2012/12/30(日) 23:31:48.77
日数を全部里数に置き換えて読んでみな。一日百里ぐらいでいいだろ。
836 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 08:25:23.76
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
始度一海、千餘里至對馬國。又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。
又渡一海、千餘里至末盧國。東南陸行五百里、到伊都國。東南至奴國百里。
東行至不彌國百里。南至投馬國水行二千里。南至邪馬壹國、女王之所都、水
行千里、陸行三千里。
837 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 08:58:22.39
こちらをおすすめ:
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
始度一海、千餘里至對馬國。又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。
又渡一海、千餘里至末盧國。東南陸行五百里、到伊都國。
東南至奴國百里、東行至不彌國百里、南至邪馬壹國女王之所都(陸行千三百里)。
自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絕不可得詳。
自郡至女王国万二千余里。
838 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 09:13:56.28
すなわち原文で
南至投馬國水行二十日
とし、あえて里数を書かなかったのは、女王国より南にあることを暗に示すためと思う。
839 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 19:53:15.35
日向に邪馬台国があったんなら、隼人って何もんだい?
>>840 古層残存勢力だろ。
大和朝廷も遅い時期迄野放し朝廷警護に迎えるなど奇妙な関係だ。
842 :
日本@名無史さん:2012/12/31(月) 20:27:09.22
隼人なるものは
後々、女王国に忠誠を誓うことになった狗奴国の人々じゃないの
高千穂は北部九州と行き来するための通り道
何らかの原因で他が少しでも通行難となればここを通る
熊本-阿蘇-高千穂と来て五ヶ瀬川沿いに下り南下
こう略記すればわかりやすいな:
從郡至倭、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
始度一海千餘里至對馬國、南渡一海千餘里至一大國、渡一海千餘里至末盧國。
東南陸行五百里到伊都國、東南至奴國百里、東行至不彌國百里、
(南至投馬國水行二十日 ←時間的な描写形容)
南至邪馬壹國女王之所都(差引陸行千三百里)。
(水行十日、陸行一月 ←時間的な描写形容)
自女王国以北其戸数道里可得略載。
自郡至女王国万二千余里。
(始度一海)
この旅の始点はここからである
(南至投馬國水行二十日 ←時間的な描写形容)
旅の始点から船二十日で投馬国の港に着く
あえて距離里数を書かないことで、女王国より南にあることを示すものである
(南至邪馬壹國女王之所都水行十日、陸行一月 ←時間的な描写形容)
旅の始点から船十日、
そこに船を待たせ、歩いて1月の内陸に、邪馬壹國の女王の都がある
(自郡至女王国万二千余里)
都合合計すれば、郡から女王国まで1万2000余里である
(補足説明)
末盧國から歩いて二千里(約150km)、不彌國からは千三百里(約975km)の内陸に女王の都はある
九州でこれに該当する場所はいくつかあるであろう
その中で、北の高千穂(宮崎県高千穂町一帯、古の上高千穂)は最有力候補地の一つである
この町は、天孫降臨にまつわる神話・伝承・史跡に溢れている
女王国以北の山岳陸行ルートに想定されるのは325号線沿いである、
途中宿場に想定される沿線上野・田原には多くの古墳も残されている
以上、邪馬台国高千穂説の補足
失礼しました。誤植訂正します。
(誤)千三百里(約975km)→ (正)千三百里(約97.5km)
848 :
日本@名無史さん:2013/01/01(火) 12:51:46.74
>末盧國から歩いて二千里、不彌國からは千三百里の内陸に女王の都はある
万二千里で到達するのは女王国の入り口にすぎないということが理解できていない。
また、行程記事が放射式に書かれていることも分かっていない。新年早々、落第
答案とは残念だな。
邪馬台国かは分からないけど、ヤマト政権建てた人々の祖先は宮崎から来たとおもいっきり神話で書いてある
いや、神武は神代ではなく人代。神話ではない。
851 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 07:23:29.36
>>845 >旅の始点から船二十日で投馬国の港に着く
旅の始点からとは書いてない。そのように読むべき理由がない。
残り1300余里が、合計水行ひと月、陸行ひと月。
随書などで、だいたいひと月が短里千里なので、
余の部分を加えて、残り二千里。
熊本南部か、人吉に該当する。
人吉なら陸行ひと月、つまり陸行千里80キロの理由も納得できる。
宇土半島の付け根から、内陸に入って約80キロ。
854 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 07:44:57.34
>随書などで、だいたいひと月が短里千里
そんなことはどこにも書いてないはずだが。
855 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 08:49:11.43
隋書百済伝、三月行、実測距離240キロより
856 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 08:55:52.38
どちらにせよ、1300里+余が残りの距離。
この単位系で、「余」が千里以上ということはない。
千里以下であろう。500里以下かもしれない。
そこに水行一月、陸行一月。
一月の距離は千里以下である。
さらに、公里での千里は435キロと、本当に一月で旅行するのに
妥当な距離である。
これを、松浦までの短里と同様に1/6にしたのが、
倭人伝の日数に相当する距離であろう。
魏志倭人伝は、マルコポーロの東方見聞録とは性格を異にするとおもう
これは魏王朝の手になる「倭人白書」とも言うべき体裁の公文書
女王国の資料はもとより数多くの資料を集めて原稿を整え、さらに高等官が編集したものと思う
これを頼りに魏使が郡の大型外洋武装艦を指揮して倭国を検察出来ることをも想定していると理解すべき
かくして命より大切な本艦だから、行けるところまでこの艦で行くの立場を貫くはず
倭の潮来船みたいなのに乗り換えて有明海を行くなんざありえぬと思う
よって陸行一月は、本艦では行けない内陸、の意味と思われる
858 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 16:01:27.92
>>855 >実測距離240キロより
ヘナムからは百キロぐらいだよ。
859 :
日本@名無史さん:2013/01/03(木) 23:49:12.13
>行けるところまでこの艦で行くの立場を貫くはず
陸行五百里は船ではいけないな。
860 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 04:59:19.77
861 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 05:00:08.99
862 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 11:42:43.75
2〜3世紀。各遺跡の土器の出土状況を調べると、畿内や吉備地方などの土器が、北部九州の遺跡で
数多く出土していることが分かった。一方、北部九州の土器は畿内や瀬戸内などではほとんど見られ
ないという。土器はそれぞれの土地の人たちが持ち運んだとみられ、人の流れをそのまま反映してい
る。そのため、畿内や瀬戸内の人々が北部九州にどんどん移動したことは示すものの、北部九州から
畿内に大挙して移った事実は見られないという。白石氏は「考古学的には東遷説にみられる『九州か
ら畿内へ』という動きは見られない」と指摘する。
記事の主眼は、上記の部分かな。白石のいいかげんなこじつけ理論だ。
土器は物資の流れに従って動くもの、畿内の物資が北九州に流れているということは、北九州が
畿内を支配する立場にあったということだ。
当然の話だろ。考古学者は何と言ってきた? 大和に各地の土器が集まっている、大和が中心だ
った。そう言ってきたはずだ。北九州の関係のみその逆を言う、場当たり的デタラメ。
>>859 新井白石・本居宣長いらい、畿内論者も九州論者もすべて糸島伊都国説
しかし末蘆から糸島までは荒波打ち寄せる断崖絶壁の難所続き、
糸島に用があるなら郡の艦で壱岐から糸島へ直行すればすむこと、那の津へも同様
あえて末蘆に艦を入港繋留させたのは、仰せの通りわけがあったはず
今の唐津線沿いに陸行し、佐賀平野の伊都国へ向かう必要があったからにちがいない
道も平坦な街道ウオーキングにすぎぬ
はて、過去の論者は何をトチくるったのか???
864 :
sss:2013/01/04(金) 15:35:29.76
>>862 古代、土器を作っていたのは女性とされる。土器を見ると小さい手で作られた
ことがうかがえるからといわれる。それに、土器を身分の高い人間が作るとは
考えにくい。
当時、貧しくて商品を作れない地域のもっとも重要な交易品は人間では
なかったかと思っている。欲しいものがあるときに交換できるものが
ない場合は人間を差し出すわけである。
そのように考えると、九州にほかの地域の土器があることの理由がわかる
ような気がするし、逆の理由もわかるような気がする。
真偽はともかく、このような考え方も出来る。
いろんな考え方が出来るわけだから、考古学者が土器で東征とか
西征とかを語るのはおかしいと思う。
865 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 16:17:04.90
考古学者の考え方は、畿内に最大の古墳が存在する、従って畿内に最高の権力者がいた
ことはまちがいあるまい、その権力者は倭国王にほかなるまいというところにあるんだよ。
あとは、畿内説を前提にして古墳の年代を決めたり、西征を語ったりしているだけのこと。
畿内説にとって今1番苦しいのは、日向の古墳をどう説明するかだね。
以前は、日向の古墳は形は古くても造られたのは5世紀以降だ。畿内発生の古墳が地方に
伝播したのだから、そうに決まっている、とバッサリ片づけていたんだが、だんだんとそ
れが通用しなくなってきた、弥生時代が弱い畿内、瀬戸内勢力が3世紀に突然日向まで支
配下においたとは言いにくい、そこが頭の痛いところさ。
鹿児島の高千穂の峰はこの2000〜3000年来、大小の噴火を成して地元村落を壊滅させてきた
都城市も降灰数十cmでポンペイの遺跡と化したことすらある
さようなところに天下られても小国は迷惑千万
天孫のご降臨なぞ行われる道理がない
高千穂への天孫降臨は、宮崎平野の土着の豪族が創作した単なる神話
まったくだ
白石館長、小畑記者、ともども地元の悲劇迷惑をお考えあってほしいよ
土着の豪族って、嶋津家のこと??
870 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 16:55:20.24
記紀が書かれた8世紀の時点で作為の天孫降臨の地選定に日向勢力の意向が働いたというのはどうかなあと思う
そのころには九州の隅々まで大和朝廷の勢威が行き渡って単なる地方豪族の意向とか今さら気にしない
日向神話の潮満珠など津波を思わせるし、他の話も海とのつながりが深かったことを
連想させる。だから畿内の勢力がそれを創作したとはまず考えにくい。
わかるのは、理由はともかく神武以前については、畿内にあったはずの伝承ではなく
日向の伝承の方をそのまま受け継いでいるということ。
8世紀には南九州は単なる地方豪族だったのかもしれない。だから選定とかは関係なく
日向の伝承という意識もなく、自らの正史としてそのまま書いただけだと思う。
記紀の通りだとアマテラスとスサノオとツクヨミは日向で生まれたことになるんだが…そこまでするか?
作為として朝廷がこんな話を作りあるいは採用するというのは不可思議すぎる
自分の先祖ですがな
かつての入り江か湿原で当時狭間のような水田域の最奥部に位置する江田神社は津波で全壊
>>872 >>873 白村江以降、唐や新羅の進攻に備えて、九州を一枚板にすることが急務だった
ゆえに隼人や熊襲から大宰府の背後を襲われないように彼らの神話をうまく取り込んで、
彼らに同族意識をもたせようとしたってのはどう?
宮崎江田神社
歴史上、たびたび津波に洗われていたのかなあ、恐ろしや宮崎市
>寛文2年(1662年)、外所地震の大津波により社殿を失ってからは衰退し、
>一村落の産土神の扱いとなっていた。
>>877 朝鮮が日本に演ってるのと同じだぜw洗脳出来たのか?
自らの王の出自を卑下するのはやり過ぎだと思う。
記紀の神武神話で、神武の畿内入り以前に、親戚筋がいたような記述があるんで、
瀬戸内海から周防灘にかけて、互いにちょいちょい交流があって、
行き来もしてたんだろうな。
>>880 日向神話って、別に出自を卑下してはいないんじゃない?
天孫が、山神や海神の娘と結婚するって話だし
「日向神話をそのまま受け取ると、初代天皇である神武天皇のなかには南九州の土着
の民の血が多く入っていて、天孫族の血はわずかに八分の一であるということになる。
そして南九州のハヤトは後に大和朝廷から卑しめられた民族である。
しかるに天皇の祖先が
"文化果つる"九州からやって来て、天皇の血のなかに多分にハヤトの血が入ってい
るというのは、やはりそれが事実であったからではないだろうか。記紀の作者は意
外に素直な気持ちをもっていて、事実をそのまま語ったのではなかろうか。」
たけし
884 :
日本@名無史さん:2013/01/04(金) 23:20:49.81
仮に、記紀編纂の際の資料に、
「神武天皇は身長57m、体重550t」
と書かれていた場合、
記紀編纂者の編集方針として、おかしいと思っても、それをそのまま書く立場なのか?
それとも、おかしな所は削ってしまう立場なのか?
この方針次第だよね。
そもそも隼人は卑しめられていたのかな?
なんか通説みたいになってるけど
発見されやすい古墳(高塚墳)だけでなく発見されにくい地下式横穴墓からの武器馬具等の出土数
を考えると勢力的に相当だったと思う。
派遣された将兵の墓というわけでなく子供老人家族の墓という感じだし在地のものでしょう。
>>877 それは考えるけどやりすぎで、逆に相当割合が史実やその脚色だったのではないかと思わせる。
>>885 史実とすれば、卑しめる必要が出てくる。
もう本家で主は畿内の大和朝廷なのだから。
>>887 そりゃ、天皇家>隼人の関係を示す必要はあったと思うけど、
だからといって、部民>隼人だったとは限らないでしょ
889 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 04:08:45.96
>>884 記紀編纂は明らかに有力者のルーツや天皇家の正当性に重点が置かれている。
特に紀は国外に誇示するための公式文書だから、建前論、見栄えや根底の思想性、
つまり「文化度」を重視してる。我々は野蛮人ではありませんよ、と。
そんな書に、「王様の体重550トン」という記載があったら国のメンツに関わるだろうな。
890 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 09:57:21.76
隼人というのは、南九州人の呼称。優れた人々ということかな。
熊襲はそれとは少し違う。一見貶めているように見えるが実はとんでもない意味を持つ。
まつろわざる者、つまり服従しない者だ。一つの国の中の人は最高権力者すなわち大王
の支配に服するのが当然の話。となると、まつろわざる者というのは何か? 大和の方
が熊襲にまつろっていたということしかなさそうだね。
891 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 14:14:26.01
天孫降臨は大陸から渡来した部族の話。天から人が降りるあんてありえないが、
中国の北方民族やモンゴルには天孫降臨の神話がある。朝鮮の檀君神話もこれをまねたものだろう。
今の朝鮮民族の先祖はバイカル湖畔から移動してきたとも言われている。
南九州が文化不毛地帯などとんでもない話で、縄文時代はそうだったかもしれないが、
弥生時代になると渡来人の影響か大集落や、鉄製武器などが出土している。
http://www.hayato.com/mado/hayato_kaiyo.html 鹿屋市高須町も榎木原遺跡から出土した土器は岡山県倉敷市船元(ふなもと)貝塚
で多量に出土している。榎木原遺跡から出土した船元式土器について、鹿児島県考古学会は、
岡山から送られたものだろうと。この土器の土質は榎木原遺跡の土地と同じなんだが。
その後、大隅から出土した、象嵌模様の剣、楯持ち武人埴輪、全て中央政府から送られた
ものだろうと一蹴。しかし、先ほど出土した西日本最古の石剣にはコメントの仕様がなかったようだ。
王子遺跡、2000年前の大集落、鉄の鏃や瀬戸内海との交易も確認されたがすぐ埋められた。
2000年前に忽然と跡だけ残した大集落。多分、火山の大噴火で逃げたものと思われるが深く探求
すべきだった。いや、わざと無視した感さえある。さらに、最近、近くから匹敵する最大集落発見。
神話、遺跡等から、南九州経由で四国、出雲、熊野、天草、五島、越前、津軽などへ渡来人は移動した
のだろう。その最終地が大和では。大阪から出土した遺跡にも隼人の風俗を表すものが出ているようだし、
神武東征も、大隅宮浦(鹿児島湾側)〜と大隅柏原(志布志湾)〜船出し、多分、日南、宮崎を経て日向美々津〜
大分、瀬戸内海へと渡ったか、神武東征は移民であり、複数に分かれて行われたかもしれない。
薩摩半島笠沙〜大隅へ移動し、そこへ根付いた者、一部は北上し都城から宮崎、西都、日南から宮崎へ移動。
本家の大隅が火山の避難で移動したのとそれに応じた一族も移動したのか。
892 :
日本@名無史さん:2013/01/05(土) 14:30:02.37
■日本人は古代人のDNAを保持している、世界でも珍しい民族である
1928年、シベリアのバイカル湖辺のマクソホン村で『マリタ遺跡』が発見された。
これらの遺物は日本(北海道の嶋木遺跡、柏台遺跡など)でも発見されている。
また日本で発掘された縄文人の人骨からミトコンドリアDNAを抽出した結果、バイカル湖
周辺に住むブリヤート人のDNA構造と同種であることが判った。
ttp://j-myth.info/memo/m_dna_mtdna01.gif ttp://falcon238.img.jugem.jp/20120919_2324365.jpg 朝鮮半島や中国人は南方系O系統であり、日本人は現在世界で極めて希少のD系統を、
その最大集積地点として高頻度で受け継いでいる。これ以外は山岳のチベットにのみ存在する。
またこのD系統は、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、
Y遺伝子の中でも非常に古い系統である。
D2系統がアイヌ人88%、沖縄人56%、本土日本42〜56%(参考までチベット33%)で、
韓国ではほぼ0%である。
事実上アイヌと本土日本人は大差がなく、アイヌに南方系を足したのが本土日本人となる。
アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体分析でもYAPハプロタイプ
(D系統)が扱われ、さらにチベット人も沖縄人同様50%の頻度でこのYAPハプロタイプを
持っていることを根拠に、
縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前の
氷河期に陸続きの北方ルートで北海道に到着したとするシナリオを提出した。
大半を占めるシベリア系の遺伝子基盤に中国大陸中南部系を追加しただけで日本人の
90%を占める。残りの10%は東南アジア系等のさまざまなDNAで、今の朝鮮半島人のDNAと
似たものは僅かに5%程度。
これらの事実から、日本人は北方型蒙古系の古く希少なDNAを持つ民族であると推測される。
との一文あり。
古来、縄文人は大陸北方から渡来したのだろうが、弥生人は中国南方だろう。
薩摩三州のうち、大隅国と日向国からは高千穂峰が拝める
東西は鹿児島県姶良市から宮崎県都城市まで、その両市を結ぶ線より南の地域は
山の合間から高千穂峰が見える
高千穂峰を取り巻くいくつかの神社は霧島神社を称する
高千穂峰なんだから高千穂神社があってもよいと思うのだが、どっかにあるのかねえ
誰とは言わないがここに専用スレッド?が用意されているのだから時と場合を考えずに書かないようにな
気分悪くするかもしれんよ
相手を考えて流れとか空気を読んで書きなさいな
896 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 05:45:56.42
天孫降臨地は福岡県だろうね。
神武は宮崎かもしれんが。
ないない
898 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 18:06:16.26
>>894 奄美大島にも徳之島にも高千穂神社があるね
除福伝説は、むしろ後世町おこしとして増えたものだよ
>>899 探せば、あちこちあるもんだねえ
ありがと、当たってみるわ。
930年代に編纂された和名類聚抄には日向国臼杵郡智保郷として見える。
国名郡名郷名は二字にすべしってのがあって、同抄の地名には削ったり読まない置き字を足したり
で無理矢理二字にしたものがある。置き字の例が覩→覩唹
記紀を見る限りでは南の高千穂峰が有力なんだけれど、由来の古さや確かさが足りない。
三国名勝図会で矛峰(高千穂峰)+火常峰(御鉢)で二上峰と称したとあるけれども、
三国名勝図会は江戸後期の薩摩藩による編纂だ。
903 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 21:12:46.96
霧島の場合は霧島六社権現という。
霧島神宮。霧島岑(みね)神社。狭野神社。東(つま)霧島神社。霧島東神社。
夷守神社は明治時代に霧島岑神社と合祀された。
高千穂神社は、霧島というよりも西臼杵郡高千穂町にある。
高千穂峰の天逆矛は、霧島東神社の神宝とされるから、高千穂峰は
霧島東神社の管轄かな?
狭野神社は高原町にあり、近くに皇子原(おうじばる)がある。
ここで神武天皇は生まれたとされる。狭野は神武天皇の幼名。
北の高千穂ってところは底に谷川沿いが断崖でその上が台地状になってそこが古来からの農耕や居住の場。
高所から見ればそのような水田と集落があちこちに散在するのが見える。
高千穂神社等がある付近の中心地はそのあたりで最も広大な可生産可住緩傾斜面。
弥生時代の遺跡もそのような緩傾斜面にある。
下から見ると山にしか見えないわけだが登っていくとそんなことになっていて、さながら高天原の如し?と思えるかもしれない。
くしふる(くしひ)神社もあるんだが
続日本後紀(869年)に「日向国无位高智保皇神」とあるし和名類聚抄の智保郷は高智保のことで間違いないかなと思うんだが…。
それでも主観で南かなあと思う方が強いかもしれない。
そうそう稲作が深く絡みそうだ。
奄美みたいな稲霊を閉じ込める様な祭りはそこら辺に無いの?
906 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 22:18:47.88
宮崎の弥生時代の墓から、鏡が出た事あったか?
弥生の墓から出た鏡は知らないあっても僅か
破鏡なら普通の竪穴住居から出てた
908 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 22:32:50.75
>>906 考えてみれば、弥生時代の中国鏡の出土は玄界灘沿岸が突出している。
有明海沿岸は意外に少ない。吉野ヶ里遺跡の墳丘墓からも出ていない。
熊本もあまり聞かない。宮崎はほとんど聞かないな。
909 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 22:38:29.11
だが、玄界灘沿岸というのは、地理的な関係で出ているだけだろう。
鏡が出ているから倭国の中で特に強国だったと見るのはどうかな。
鏡なんて本物は何処か?配った奴の正体が重要。古代貝輪もそう。権威物を誰が配ったかだ。
911 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 22:46:02.21
>>909 まあ、鏡に対する考え方の違いという人もいる。
吉野ヶ里遺跡からわかるように、有明海沿岸の方が集落の規模は大きいから
国力はあったと考えられるし。。
魏が言うところによれば卑弥呼は鏡好きなので鏡がまとまって出た遺跡は卑弥呼所在地主張の強みになる
弥生終末〜古墳初の鏡が少なすぎるとこは弱みになる
913 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 23:23:38.67
そうでもないな。鏡をほしがったということは、それまでさほどなかったため
だと考えることもできる。大きな鏡をもっていたところが魏のさほどでない鏡
をありがたがるとは思えん。
914 :
日本@名無史さん:2013/01/06(日) 23:51:29.78
それに、天皇家のルーツ地ならば、王権シンボルの鏡が出ろ所でなければならない。
考えることはできるけども、下賜された鏡百枚の影も形もほとんど無いのは弱みになっても強みにはならんね。
百枚全て配ったかもしれないし半分配ったかもしれないし一枚たりとも配らなかったかもしれない。
取る立場を選ぶことで弱みとすることを避けることは出来ても強みにすることは出来ない。
多数出たところは取る立場によって強みとすることが出来る。
天皇家でなく卑弥呼のことだけどな
纏向あたりから鏡百枚まとめて出るかもな
糸島市の遺跡から、方格規矩鏡数十枚が出て、
近隣の古墳で、一??二枚ずつ出てくるね。
919 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 12:22:26.99
平原の方格規矩四神鏡は長年、中国鏡と言われてきたが、王仲殊さんによると
中国鏡ではないそうだ。
920 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 12:38:05.60
921 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 12:39:01.64
平原から、日本産とされる大型内行花文鏡が出るから、
傍製鏡をつくる技術はあるだろうな。
模倣製鏡って、
明治維新の時のお雇い外国人ならぬ、お雇い中国人みたいな人がたくさん来て、
弥生日本の銅鐸職人たちを指導して作ったのかな?
923 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 13:28:23.65
>>920 詳しくはわからないが、「日本ではこういうのも中国製と言っているんですか」
みたいな発言を何かで見たことがある。
924 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 13:34:50.94
朝鮮から流れてきた銅職人が作ったことも考えられる。
倣製鏡の素朴な出来を見ると、銅鐸職人達が火縄銃みたいに見よう見まねで作った希ガス
926 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 15:06:10.27
日本の職人を馬鹿にしてはいけない。
種子島を見ただけで、あっという間に、日本は世界有数の鉄砲生産国になった。
927 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 17:28:02.75
糸島の鏡は大陸では一枚もでない、超巨大なものがある。
コンプレックスを抱えている人はとにかくやらない方がいいだろうね
実名で始めたSNSで仕事とは言え何人か病んでるような相談されたよ
一度始めたら辞められなくて、さらに事態を悪化させてる
リア充時期っていうのは、モテ期と一緒で一生続くわけじゃないが
悪い時は、自分が引き立て役として利用されてる気がするみたいで、残酷だけどそれは事実だからね
人生うまく行ってる人と、不器用な人が分かりやすく一覧になってるのが実名SNSだよ
誤爆
まあね、本に書いてあるのみて蒸気船自前ででっちあげちゃうような土人さんたちだからしてね。
932 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 21:22:43.93
933 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 21:25:05.58
ああ 玉 だたね 玉かあ 玉玉玉
934 :
日本@名無史さん:2013/01/07(月) 21:30:33.86
柚比本村遺跡
佐賀県鳥栖市柚比町字前田/梅坂/永田/神山/弥生が丘5・7・8丁目
佐賀県のは大英博物館方式だから出土地が良くわからない場合が多いし
出たところが分からなくなったりすることもあるみたいだからカス
935 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 00:24:24.75
女狭穂塚は北葛城郡広陵町の新木山古墳とほとんど相似。
173号墳は天理市の行燈山古墳と相似とまではいかないが似ている。
畿内政権との強い関連、おそらく畿内政権の主導のもとで作られたのでしょう。
畿内に類例がないものもたくさんありますけどね。
地下式横穴墓と一体化というか地下式横穴墓を埋葬主体部とする前方後円墳とか
明らかに地場のものじゃないの?時代は5世紀以降とか後になるだろうけど
全国各地に相似に近いものがあるけど地域の主体性を阻却する根拠は示されているのかな?
937 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 08:44:29.52
>畿内政権との強い関連、おそらく畿内政権の主導のもとで作られたのでしょう。
畿内の方が日向の指導で造ったとも考えられるね。
畿内の方がでかいので…
相似だとして西都原173は行燈山の5分の1か6分の1の相似墳?
女狭穂塚は新木山の9割の相似墳?
相似って出てるのは全部畿内が最も大きいでしょ?
支石墓も原郷域より末端で発達してるだろ。北回り系の奴w
940 :
日本@名無史さん:2013/01/12(土) 10:39:56.43
そういえば、「其死有棺無槨、封土作冢」だから、
ひつぎあり、部屋なし、なので、
石室などがある古墳は、卑弥呼の古墳ではないね。
そして、甕棺も棺であり、直接埋めることから、
いちおう倭人伝に該当する埋葬方法であるといえる。
まあ、甕棺でなくても、直接埋めていれば問題なしだけど。
相似の場合、でかいほうがあと造り
スレ違いだがサッカー鵬翔決勝進出おめ
14日に京都橘と決勝だそうです
方形周溝墓や円形周溝墓はあるんだから古墳発生の条件はあるんじゃないの
周溝墓が無いところってのも無いかもしれんけど
甕棺とか水銀の朱や酸化鉄の朱も出ているよ
新富町新田字川床というところで円形周溝墓+方形周溝墓+
木棺墓+土壙墓 計195基が見つかっておるらしい。
出土鉄器は鉄鏃が73…木の葉型(弥生末?)が大半、鉄剣が5、
刀子7、やりがんな5、鉄斧5が出土しておるそうだ。
ここの円形周溝墓は最大のものが直径24m次に20m程度×2、次に10数m×数基、次に…ということらしい。
945 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 07:34:06.69
鳥居に使う黄色がかった朱色は酸化鉄系だな。
水銀朱は美しい紫寄りの赤色
鏡がこんなに少ない宮崎は泡沫の域を出ることはない
947 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 18:41:53.36
素人の発想だな
日本の考古学の鏡に対する熱情はすごいね
949 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 18:54:11.18
大きい家(竪穴式住居)程度の古墳を作るのは、
人が扱える範囲での、精一杯の敬意の表現として納得できるが、
全景が見渡せないような巨大古墳は、個人的敬意のレベルではないな。
何か別の意味がある。
卑弥呼は鏡を100枚下賜されている
北部九州以外の数十枚も出ていない地域は泡沫と言わざるをえないな
951 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 19:10:52.43
>巨大古墳は、個人的敬意のレベルではないな。何か別の意味がある。
被征服者に対し、圧倒的な力を見せつけているんだよ。
大分県佐伯市竜神池のボーリング調査では、
邪馬台国のころ、西日本では巨大・大・中・小の地震と噴火が相次いでいたらしい
現在の東日本、いやそれ以上だったのかもしれない。
おそれおののいた人々は、巨大な古墳を作り、有力者を葬って、地下の荒ぶる神々を抑え込もうとした
しかしそれでも余震・噴火は収まらず、古墳はますます巨大化し、殉死者も増えていった
それが終息に向かったのは、埴輪の祖、野見宿彌登場の頃からである
というのは、いかが??
953 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 19:16:11.50
大和には火山がないからなあ。
火山はないが、古墳の調査では液状化のあとが見つかってるんだろ
圧倒的な力を見せ付けるのは巨大なものをひとつ作ることを定期的にやれば良い。
小さなものを作ったり地下式横穴墓のような地域墓制を古墳に取り入れたりする必要は無いですね。
956 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 19:38:30.03
宮崎の古墳群は、畿内の古墳群に比べて、
原始的なものだとはいえそうだ。
神武東征ほど話をでかくするつもりはないが、
大型古墳を是とする価値観を持つ部族の一つが、
畿内文化に溶け込んだ可能性はある。
それから、畿内で洗練されていく。
西都原の巨大2古墳を見ると、
水の乏しい台地の上だけに、とにかく素朴に巨大なものを作りたかったんじゃないかと思った
あの素朴さを思い出しながら、もしかして巨大地震と噴火に恐れおののき、クニ中を挙げて祈りつつ・・・、と思った。
洗練されているイメージは鬼の窟古墳
959 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 20:37:53.92
>>955 地下式横穴墓は被支配者に力を見せつけるために造ってるわけではないだろ。
古墳を定期的に一つ? たくさん造った方がすごいだろうが。
うん。だから地下式横穴墓を前方後円墳の埋葬部に取り入れるってのは
その地域在地の勢力が築造していた証だろうなあと。
961 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 21:40:11.38
そうだろうね。で、何か?
962 :
日本@名無史さん:2013/01/14(月) 22:36:19.28
古墳というか冢は山信仰だろうな。
要するに高いところが好きというわけ。
記紀の天上の国、高天原なんてのに通じるかも。
熊本県の古墳は山の上に作られたものが多い。
明らかに高いところが好きな人たちといえる。
その意味からすると、地下式横穴墓に眠る人たちは
異なる信仰の持ち主ということになるかもしれない。
しかし、副葬品は古墳と同じようなもので豪華なのも多いのだが。
963 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 12:20:00.17
素戔嗚尊が大軍を率いて九州に侵攻。
大歳尊(後のニギハヤヒ)に筑紫(北九州)方面を任せて自らは宇佐に行宮を営んで日向王朝と対峙。
阿波岐原に都していた伊耶那岐命を下して姫御子の大日霊女貴命と政略結婚。
西都原に九州経営の行宮を遷しす。
後に出雲へ還御。
大日霊女貴命は姫の狭依媛命(市杵嶋姫命)を連れてたびたび素戔嗚尊の元へ通ったらしい。
(八重垣神社の壁画)
娘婿の大己貴尊が義父に倣い九州経営のため西都原に遷り
多紀理毘売命を娶って阿遅鋤高彦根尊(武角身尊/高鴨大御神)。天道姫命(高光姫命)。伊毘志都幣彦命(事代主)を産む。
大己貴尊は西都原で崩御。
964 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 11:25:37.33
鏡が出ないから宮崎はなし、と上で言ってるが、逆だと考える脳みそはないのか?
つまり、東征の際全部持って出て、諸地方に配りきってしまった、と。
だから地元には残ってない。
(あるかもと推察される古墳は全部天皇系で、発掘調査が禁止されている)
考えてみてほしい。
日向はウシモロカタモロイの娘を天皇家に妻合した際、明らかなる特別な厚遇を受けている。
他地方を見ても、そのような有力地場勢力に対し、鏡を送っていないなどあり得ない。
つまりこれは、送る必要がなかった、なぜなら、本来が日向から分散した物だから、と考えれば納得がいく。
965 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 11:39:04.69
そうだね。だいたい、北九州みたいに大きな鏡を作っていたところでは、魏から
小さな鏡をもらって喜ぶとは思えないよ。弥生末期まで鏡を持たなかったところ
だから卑弥呼は鏡をもらって喜んだんだろう。
その鏡は、まずは九州内の国々に配ったはずだ。そして、東征したときに、それ
らが本州各地に持ち出されたと考えるべきだろうな。
それに遺物なんてものは数枚出たら、当時はその数十倍のものがあったと考えな
るべきじゃないかな。未発見のものや錆びてなくなったものなどを考えないとね。
まこと卑弥呼が鏡を抱え込んでいても役にたたない、宝の持ち腐れとはまさにこのこと
天下にあまねく配ってこそ鬼道の鏡
鏡が何かしてくれるわけではないことをあの時代に冷静に見れるかどうか
見れたとすれば欲しがる人たちに配ってこそ意味が有るってのはまさにその通り
968 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 13:01:51.12
三角縁神獣境が淡路島の某古墳より一つ出土。
辺津鏡(須佐之男命のころ)に招来。沖津鏡(卑弥呼のころに招来?)
十種神宝。伝世の王権の徴。叉の名を八咫鏡・・・
969 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 13:03:31.71
内宮と外宮
なにしろ鏡を下賜した中国側が、衆を惑わす、などと史書に平気で書くくらいだからねえ
>名を卑弥呼と曰う 鬼道能く事とし衆を惑す
昔々、西都原古墳群と卑弥呼の関係を尋ねたら
鉄製品が出土するので全部5世紀以降だからまるきり関係ない、と聞かされたものだ
でも最近は、早中晩いろいろ有ると言われるようになったんだねえ
972 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 19:19:54.06
資料によっては鍛冶屋のあとと、製鉄のあとを、ごっちゃにしている例があるので、
よく調べないと足をすくわれる。
西都原の中には弥生時代の墳丘墓もある
航空で見ると、川を渡った向こうの基地や畑地の回りにもたくさん古墳群をみれるんだね
すごいところだ
yahooの方が鮮やかではっきり見えるよ
空自基地とか戦闘機が興醒めだって思う人もいるけど時代のコントラストぶりがなかなか良いって人もいる
川を渡った向こう側は特に公園化されてなくて、車で走ってると
畑の中に無造作に古墳が目に入るのが面白い。
古墳は基本的には保護されてきたからな
墓暴きは重罪だった…が、高鍋藩領内のは盗掘されまくりで
棺が墳丘上に放置されてたり古墳の上を墓地にしたりやられ放題
高鍋には暴かれた古墳の被葬者の鎮魂のための供養寺がある。
手入れされているだけに、古墳群だけみると、観光古墳公園とおもってしまうんだよね
その点、畑の中によっきり古墳があって、
そこを突然、戦闘機が轟音立ててかすめて行ったりすると、映画のセットじゃねえんだな、と妙に実感わくんだなこれが。
同意
西都原みたいな古墳の周りに花が植わって花見とかそれもいいんだけど
最低限の保護はされるけど戦闘機とか生活の中で作らない自然ぶりも良いよな
978ですが墓地にされたのは墳丘の経年劣化で自然地形としての盛り上がりと
区別が付かなくなってのことかもしれないと思い、誤りの可能性に気付きました。
いやきっとそうだと思い申し訳なく思います。
あのような言い方は配慮が足りませんでした。すみません。
西都原に倭国大乱の痕跡があれば、邪馬台国の候補地になれるのになぁ…
墳丘と分かる状態でと思い込み、既に判別不可になっていた可能性に考えが及びませんでした。申し訳ない。
いちいち謝らんでよか
すまん
倭国大乱の痕跡は無い…と思う
987 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 09:23:40.99
吉野ケ里から鳥栖にかけての集落に、戦の痕跡があるのは既出だが、
熊本から大分の県境の旧大野町で大量の矢尻、鏃が出ているんだな。
景行天皇の熊襲退治の痕跡か?
そう熊本と大分の県境付近の山間で大量の鏃が出ているんだよな
あのあたりは弥生時代の鏃としては相当な大量出土地帯じゃなかったっけ
あのあたりが争乱地帯だったんだろうか
989 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 10:12:13.82
どうゆう状態で出ているの?
集落内出土
ネット上でも公開されてる尾花A遺跡というのを見てみれ。
場所は川南町、東九州道の工事にかかる発掘調査じゃ。
竪穴住居246軒規模のAD100-400頃に集中する遺跡。
漫然と建築されたわけでなくAD250くらいに異変が見られる。
鉄器も多いしC14年代測定なんかもたくさんやってる。
考古学ファンには面白い。
http://goo.gl/maps/UvYrx 既に道路になっとる
調査区域は道路建設にかかった50×500m内ほどの細長い23,400u(2.34ha)
南方の一ツ瀬川近くの宮ノ東遺跡も同様でこの道路建設にかかる区域だけ
ということで図面を見ると外に続いていることが明白
広い平野の中でたったこれだけの幅でピンポイントでこんな偶然があるかという
993 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 08:43:48.46
だが賊軍のように書かれた熊襲熊曾国なのです。
やはり台地の上に住んでたか、
そのころ起こった巨大地震と巨大津波で川沿い低地にあった集落はぜんぶ持って行かれ、相当な混乱をみたはず
995 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 10:18:56.18
持田古墳群からは三角縁神獣鏡が2面でていて、京都椿井大塚山古墳などと同じ型で作られた
「天王日月」銘の同范鏡である事が解っている。
しかも興味深いことに、旧48号墳は円墳で、こちらの方が椿井より古い可能性が高い。
交流があったんだろうけど布留式に似た土器や瀬戸内系の土器もたくさん出ている
993に関して建日別熊曾国日向国についてもっと明らかになると良いのだけどな
工事にかからなきゃ地下に埋もれてたんだしかかって良かったな
>>994 >>875を考えたんだがこの立地だと津波は関係ないね
当時津波の記憶や伝承もあったんだろうな
川沿いの水田は海抜6〜8m、台地の上の発掘現場は55m前後で、もちろん水がない
毎日の水汲みは重労働だが、そこに住まざるをえなかったんだろうね。
平成のホンワカ現代人より、古代の人々が進歩的じゃないか
998 :
日本@名無史さん:2013/01/20(日) 10:50:03.48
>>993 一見賊軍のように書かれているが、実はそうではない。熊襲こそ邪馬台国なのだよ。
その証拠に熊襲が悪いことをした事実はどこにも書かれていない。
日本書紀だって恥ずかしいことをしたのは景行天皇だと書かれている。
景行天皇は、一時的に四面楚歌になった日向(宮崎平野)の命令で熊襲(邪馬台国等)を
退治した弥五郎だと思ってる。その後、ヤマトの名を禅譲されたのではないか。
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