1 :
1:
バランスの取れた家康評価をしていきましょう
いまどき司馬(笑)の評価で家康語るやつなんかおらん。
3 :
日本@名無史さん:2012/03/19(月) 16:05:59.77
司馬遼太郎はサントリーロックフェラー系の典型的な戦後日本破壊工作員じゃなかった
4 :
日本@名無史さん:2012/03/20(火) 04:15:26.21
いやむしろ評価しているほう
ただ嫌いなだけ
評価はしているけど、家康が朱印船貿易では秀吉以上の成果を収めたとか、
ノヴァイスパニア(メキシコ)との通商を望んで田中勝介を渡海させたとか、
ウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンを顧問として重用したとか、
家康の開明的な面はまったく描かず、田舎の陰険な爺さん扱いしたんだよね。
家康に関しては明らかな不当評価だと思われる>田舎の陰険な爺さん
鎖国に関しては日本人の精神を培養したとしか評価してなくて
そこはさすがに「鎖国は百害あって一利なし」と言ってた海音寺潮五郎の影響を感じさせる
もっとも家康は鎖国政策じゃないけど
7 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 17:10:54.85
司馬遼太郎なんて今や
結局、国際金融資本、ニセユダヤ銀行家の子分って評価しかないわ。
じゃあ過大評価してる書を読めばバランス取れるじゃん
9 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 14:43:12.55
10 :
日本@名無史さん:2012/03/25(日) 16:39:51.70
というか小説家の書いた小説(所詮作り話)を信じるな
これは文学板で立てろよ
11 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 17:28:13.86
司馬遼太郎著の「城塞」を読むと家康は策略家として
非常に高く評価されてるよ
ただし陰気な家康は司馬の好みではないというだけ
豊臣秀吉のとびぬけの明るさや織田信長の破天荒さが好きで
そっちのほうが生き生きと描かれてる
12 :
日本@名無史さん:2012/04/03(火) 19:30:13.58
>>4 司馬さんてツンデレだよな
乃木さんなんかも軍人としては酷評してても、一介の人間としては好きなんだろうなーってのが伝わってくるもん
>>11 城塞こそ家康を「陰険な策略家」として定義づけた間違った徳川史観の決定打みたいなもんだぞ。
妄想が入りまくってるしまともに読むに値しない。あれがいちばん大阪民国ナショナリズムが色濃く反映されている。
大阪の陣はいつまでも徳川幕藩体制下に入ろうとしない豊臣家に家康がしびれ切らせて起こした戦だろ。
豊臣家も色々意地はあっただろうけど上方の百姓や大名が豊臣家に加担する可能性は皆無
ちなみに大石慎三郎は「信長の構想を引き継いだのが家康。秀吉は傍流」と言ってる
信長&秀吉=明と、家康=暗を分けるというのは恣意的分類に過ぎない。
家康個人は閉鎖主義的発想を持っていたわけでも何でもない。ノヴィスパンへの使節派遣しかり朱印船貿易しかり
結局、司馬の家康評価なんてほかに選択の余地がなかったからしょうがねえわ的なネガティブな評価で、
いかにも60年代の石投げて暴れる学生が多かった頃の評価だな。
15 :
日本@名無史さん:2012/04/08(日) 02:34:55.49
と言うか、戦国好きや歴女に、
家康って人気ない。
まあ偉大な策略家、政治家とは思うけど、
人物に面白味がない。
16 :
日本@名無史さん:2012/04/08(日) 13:49:52.21
>>15 「人物に面白みが…」、と言う時点で、
歴史をキャラで読んでるな。
あんな大政治家、面白いに決まってるだろ。
17 :
日本@名無史さん:2012/04/08(日) 15:15:03.73
>>13 なかなか家康に臣従しない秀頼に対して
大名から百姓に至るまで誰もが「秀頼を殺しちまえ!」という声が湧きあがり
渋々家康は秀頼を殺したというお前の考えもかなり偏った考え方だな。
18 :
日本@名無史さん:2012/04/08(日) 15:16:56.37
>>13 さすがに信長の後継者が家康だというのは飛躍しすぎだわ。
信長はむしろ家康を危険視して殺そうとしてたんじゃなかったっけ?
本能寺の変の時、明智光秀率いる軍隊は徳川家康を殺しに行くと聞いて
それで納得して攻めたというし。
信長の子供たちや秀吉の甥たちに対しても酷評している。
>>17 司馬遼太郎も作中で「秀頼さまにも困ったものだ、いいかげん新体制を認めろ」と諸大名に思わせているじゃんか。
司馬は関ヶ原での藤原惺窩と直江兼続の会話の描写なんか見る限り、
明らかに大坂の抵抗が「無名の師」であること自体は認めてるぜ。
>>18 大石が言ってるのは「路線の後継者」と言う意味だよ。
もっとも、秀吉を異端と見る大石史観も、家康を異端と見る司馬史観も不正確。
だいいち、家康は秀吉政権の東の重鎮なんだから、家康を抜いたら政権が崩壊する。
秀吉がなき後は家康に後事を託すのが当たり前だわ。
大石が秀吉を異端と見るのは、確か
・秀吉の朝鮮出兵時代の国内の疲弊がはなはだしかった
・対抗勢力、反対勢力への粛清が陰惨。信長のほうがマシだった
みたいなあたりかな。
秀吉時代は明るい時代どころか…
22 :
日本@名無史さん:2012/04/08(日) 22:51:49.80
>>20 >>21 そうそう。
司馬遼太郎は淀殿を「女が政治をするなんてとんでもない」と酷評し、
適当な男に政治をゆだねるべきだと断言している。
家康は適任ではなかったが他に誰もいなかったわけだ。
司馬はむしろ家康を非常に「良い人」に描いている。
孫の千姫を愛し、千姫の夫である秀頼を殺すつもりはないと言わせたりね。
まあ、史実では殺しちゃってるからその事実は家康ひいきのおまえでも認めざるを得ないわな。
23 :
日本@名無史さん:2012/04/08(日) 22:54:42.28
>>20 >秀吉がなき後は家康に後事を託す
秀吉は家康を信用し、幼い秀頼の後見人を任せた。
家康に後事を託すのは秀吉の意思だったわけだ。
まあ、秀頼殺して政権奪うとは思わなかっただけで。
朝鮮出兵してる暇があるなら家康を殺しておくべきだったというのが
後世の見解。
>>22 城塞を読んで「家康はいい人」と言う感想を持ったとしたらお前の読解能力はかなり深刻だな。
城塞は徳川幕府と言う権力が正当性を獲得するためにいかにグロテスクな悪行をやらかしたか、
と言う政治劇を描いてるから、家康は悪の権化の扱いなんだけどね。
豊臣公儀の命を悪用した三成(じっさい、秀頼にしてみたらいい迷惑)を討ち、
失敗した豊臣の平和に代わって、徳川の平和を樹立した家康の体制に参入する意思がないということは、
すなわち謀反の意思を公然と表明したも同然。家康はこれを討たなければ政権維持の大義を失うことになる。
司馬もそれは頭では分かってるんだけど、素直になれないんだな。
だいたいね、膨大な国力を傾けた対外遠征に結果的に失敗した上に、
豊臣家譜代衆の間で対立が深刻化して家康に仲裁を任せてる時点で豊臣政権はもう終わってるんだよ。
自浄能力がないということなんだから。関ヶ原の戦いは豊臣家の内部抗争から勃発した戦争だぜ。
そんな家に天下を維持する能力がないのは明瞭だろうが。
>>23の朝鮮出兵をしてる暇があるなら家康を殺せと言うのは、完全な後知恵。
唐入りが成功した場合、家康は単に小田原合戦後10年しか経ってない関東の統治にかかずり合い、
急激に膨張する豊臣政権譜代の中で埋もれる危険性すらあった。
家康はよく秀吉の意を受けて関東、奥羽の統治に協力し、後顧の憂いを断った功労者と言うべき。
その家康の新領の直近に上杉家を移封するなんてことやらかしてる秀吉のほうがはるかに無神経。
つまり家康が豊臣政権でのし上がったのは奇策を用いたからでも何でもない。
秀吉の唐入り構想のために関東に移ってまで協力して、大過なく任務を終えてるんだから、
秀吉も含めてドボンした上に内部抗争まで勃発してる豊臣家としては頭が上がるわけがない。
お家の存続の保証を家康に頼らざるを得ない。
なのに、天下無事平穏と言う世論を無視して大坂城で頑張ってるほうが戦国のアナクロニズムなの。
>>24 高杉晋作、坂本竜馬は学園闘争の闘士たちのアイドル。
「天地静大」を描いて、日米安保闘争の暴力と混乱を批判した山本周五郎と違って、
司馬は暴力主義、革命主義に対しては必ずしも否定的ではない。
1968年は明治維新百周年だが、左の暴力主義が学園闘争の闘士。右の暴力主義が維新マンセー連中だよ。
日米安保で新左翼が大江健三郎を批判して石原を支持したことでも分かるように、
新左翼はむしろ暴力主義肯定の右翼と親和性がある。
家康を過度に贔屓するつもりもないし、秀吉を過小評価するつもりもないが、
少なくとも唐入りが失敗し、秀吉が逝去し、幼君が残され、内部抗争まで勃発した時点で豊臣家はそのままでは存続不可能。
ちょうど桜田門外の変、坂下門外の変が勃発した後の江戸幕府が立ち直るのを期待するようなもの。
あと順逆を論ずるならば、秀忠は秀頼の岳父であり、家康は秀吉の実の妹の婿だったわけでな。
豊臣家最大の外戚の恩情に素直に従わない秀頼も問題っちゃ問題だ。
ついでに言えば大坂の陣でも、司馬は牢人諸将の意見に従えば大坂は徹底抗戦できた
みたいな書きっぷりだが、現実にはそんなことはまったくない。
真田と後藤の対立を司馬は「軍師二人」と言う短編できちんと描いてるからちゃんと知ってる。
徳川方は休戦交渉に際しても一貫して強気で臨んでいる。
妥協案を提示した大坂が折れざるを得なかったのが実情。
喧嘩停止とか海賊停止とか惣無事令とか、あるいは禁教令とか、
家康がやってることはほとんど秀吉の国内政策を引き継いでんだけどね
何で家康が秀吉路線を否定したみたいに言われるんだかほんとにナゾだわ
対外政策で言えば家康は三浦按針、ヤン・ヨーステンを顧問として置き、
ノヴァイスパニアとの通商を求めて太平洋を渡航させるなど、秀吉よりずっと開明的に行動している。
昔は、「織田がつき羽柴がこねし天下餅……」とかいって別に路線否定とまではいわれてなかったと思うが?
あくまでも「鳴かせてみせよう」と「鳴くまで待とう」のキャラの違いとしてイメージされていた。
ただ、三代目の鎖国政策が家康のイメージに投影されがちというのはあっただろうけど、それはあくまでもあまり詳しくない人のレベル。
>>29 それを言うなら秀忠は秀吉の義子だし(正室江は秀吉養女)、淀殿の義弟でもある。
だからこそ秀吉歯秀頼を託したのに、秀忠は義弟で甥である秀頼と義姉である淀殿を殺害した。
朝日姫は家康と結婚後1年半で逃げ帰り、間もなく没しているので家康との姻戚関係は解消されている。
親戚だから豊臣は徳川に従わなけれないけないというのならば徳川だってその義務があるということ。
現実に、家康は秀吉生前、秀吉との姻戚関係強化を願っていたくらいだから。
>>32 「座りしままに食うは徳川」は棚からぼた餅と言う含意。江戸時代末期の落首。
版元が処罰されてるから、肯定的な意味合いじゃなかったのは明らかだよ。
>>33 はっきり言って関ヶ原以降の豊臣家の対応はトゥーリトル、トゥーレイト。
討伐の憂き目にあったのは仕方ないよ。
まず豊臣政権譜代家臣が真っ二つに割れて関ヶ原の大乱を引き起こし、統治能力がないことを露呈した。
戦後処理を行った時点で、天下さまは家康しかなくなったのは明白になったわけだ。
ところが豊臣家は豊臣譜代の大名の仲介を頼みにしていっかな徳川家体制の中に位置づけられようとしない。
普通ならこの時点で討伐の対象になるところを、彼らの仲介やら秀吉遺児への義理やらで延ばし延ばしにしてたわけでしょ。
清正や浅野幸長みたいな仲介者が次々にいなくなった後でもまだ服属を拒み、
前田家を誘ったり、牢人衆を集めたりしてるんだから家康としては放置できないよ。
だいたい、主筋と言っても家康は秀吉の家臣ではない。
かつて家康が、同盟者の家臣に過ぎなかった羽柴秀吉に折れて政権運営に協力したように、
おとなしく徳川の平和に協力すれば、家康としては秀頼を大坂から出す程度がせいぜいだったはず。
現に家康は淀殿の江戸出府の条件で妥協しかけてるんだから。
何で豊臣家だけこんなワガママが許されるのさ。空気よめと言われても仕方ない。
大坂の陣だって、本来は強硬手段を取りたい所を、豊臣譜代衆に配慮して延期してただけなんだから。
それなのに牢人衆集めたりしてたらそりゃ討伐されても仕方ない。
方広寺鐘銘事件が言いがかりとみなされてるから家康の陰謀家ぶりが強調されてるけど、
「国家安康」は確かに無神経と言われても仕方ないよ。
はっきり言って大坂の陣を引き起こした責任は、余計な軍事的・政治的策動を繰り返した大坂方にある。
結局、大坂は牢人衆召し抱えによって逆に暴走して抑えが効かなくなったんだな。
片桐どころか、夏の陣直前には大野治長まで襲撃されるありさまで、外交的な当事者能力なんて皆無に等しかった。
それと城破りの講和条件に際しても、軍事力の凍結を積極的に志向する徳川方と、戦国的な講和と捉えた豊臣方でギャップがあった。
(総堀の埋め立ては豊臣側も同意した条件)。これは後に福島正則も甘く解釈して改易されている。
家康は国内平和の維持のために徹底した軍事力の凍結を諸大名に要求しているし、
実際に喧嘩停止の徹底などで村落の武装にも干渉している。
37 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 10:32:07.21
>>35 >主筋と言っても家康は秀吉の家臣ではない
えっ?
徳川家康は豊臣秀吉に臣下の礼を取っているよ
信長とはただの同盟者だったけど
それに家康は秀頼に臣下の礼を求めているよね?
臣下の礼などもとめずただ徳川の同盟者として大阪城から出て
領地替えに応じれば殺すつもりなどなかったなどただの妄想
38 :
日本@名無史さん:2012/04/21(土) 10:35:14.90
>>35 「豊臣を早く滅亡させて!」というのは誰もが願ったことで
徳川家康は必然性から正々堂々と大坂の陣を敷いたというのならば
そもそも鐘銘事件など起こさなくて良かった
徳川家があちこちの大名に粛清かけたように豊臣家を粛清すればいい
実際にはまだ豊臣家が主家と考える大名がいたから理由づけが必要だったんでしょ?
なんくせつけずに「粛清」のほうがまだましだった。
>>37 「主筋」と「家臣」は違う。
家康は臣下の礼は取ってるが、豊臣家の譜代の家臣とは違う。もともと自立の諸侯。
あと、家康が秀頼に臣下の礼を求めるのはそれと同じ。徳川幕府秩序の中に位置づけられろと言うこと。
当たり前の要求でしょ。それに秀吉と違って家康には秀頼の扱いに対して倫理的な困難がある。
いったんは秀吉政権を支える立場になり、豊臣家を主筋として自分の孫娘まで嫁がせているのだから、
秀頼が徳川体制に入る意思を示しても、殺したとなれば倫理的非難は免れられない。
それ以前に豊臣恩顧の大名が納得しない。
だから家康は秀頼に強硬手段を取れず、伝手を求めて何とか自発的に徳川体制に入ってもらおうとしたわけで。
おそらく秀頼が大坂城を出てたら、家康の一代に限っては豊臣家は身上を保障される。
秀頼が千姫に子を産ませて隠居すればなお安泰。少なくとも御家門以上の扱いにはなる。
家康は征夷大将軍任官の時点では秀頼を粛清しようなんて考えてないって。
関ヶ原の後で会見を申し入れて何度も断られてるけど、子供を派遣して関係繋いでるんだし、
千姫だって約束通り輿入れさせてる。
豊臣討伐はその後の展開によるもので、当初から滅ぼそうとなんて思ってない。
その後徳川体制が固まるのに反比例して秀頼が無断任官するわ、出仕もしないわ証人も出さないわ謁見もしないわ、
あげくのはてに前田家を誘ったり、牢人集めて対徳川政策で暴走始めちゃったから
平和的解決を断念して戦争に突入したわけで。
あとね国家安康は失礼よ。一応、家康の諱を避けるくらいの配慮はしないと、叱責食らっても仕方ないよ。
冬の陣の段階だって、家康から仕掛けた戦争ならもっと良いタイミングを選ぶわ。
途中で講和したりせず一気に攻め滅ぼしてるよ。総堀だって大坂方が同意した講和条件だぜ。
家康は豊臣家に対して相当配慮してると思うけどなぁ。
冬の陣の段階でも、豊臣家が牢人衆をコントロールできればまだ妥協の余地はあったと思うよ。
牢人衆がどうもダメらしいと見て、家康はあいつらを追っ払うか、自分たちが城を出なさいと言ってるわけで、
豊臣家の運命が決まったのは、牢人衆を召し抱えて北朝鮮化してからだな。先軍政治になっちゃっただろw
そういう意味じゃ、秀頼にとっては牢人衆なんて迷惑な存在でしかなかった。
>そもそも鐘銘事件など起こさなくて良かった
>徳川家があちこちの大名に粛清かけたように豊臣家を粛清すればいい
>実際にはまだ豊臣家が主家と考える大名がいたから理由づけが必要だったんでしょ?
とんでもない。加藤清正、池田輝政、浅野幸長ら豊臣−徳川間の周旋に当たった大名衆は
鐘銘事件の前に没してるから、大幅に豊臣譜代衆の抵抗勢力は減殺されている。
鐘銘事件ていどで他の大名衆は納得しないよ。出師の大義名分に乏しい。
家康としてはその前から急激に反徳川姿勢を強めていた大坂方を、この事件で呼び出して和戦を決める二者協議に入ったわけ。
ところがその徳川方の主張を持ち帰った手筋の片桐が謀殺されかけて手切れになり、開戦に至ってるわけだ。
このパターンは夏の陣の前の大野治長襲撃とまったく同じ。
城塞の頃は老練な家康像なんだからしゃーねーべ。
覇王の家んときもそうだっけ?
それは人によるな。
戦前でも家康は質素、忍耐、律儀などの側面が強調されておおむね人格者扱い
山本周五郎や山岡荘八は家康好きだしね。司馬のようにダークな人物として描くほうがマイノリティ
まあ、それが60年代の学生運動をやってた人間たちのメンタリティのようだが
司馬遷は謀略で金玉切り取られた。
当時の士大夫なら自決するのが普通の屈辱を耐え、その怒りと恨みで史記を書いた。
これは歴史というのは必ず誰かの感情なり、対場を反映した視点がはいってる事のあらわれでもある。
真に客観視した歴史などどこにも無い。
遼太郎はその「視点」が自分の主観で良いんだという事をどこかの時点で気がついたんだと思うよ。
以前読んだ史料で大阪の陣の頃は大阪征伐は止むを得ないという空気が大名の間
に漂っていたと書いてあった。
大阪方のかたくなさが不思議。服属さえすれば何らかの形でお家は存続出来たはず。
秀吉自身が織田家を簒奪し天下は強い者が得ていくというのを体現しているのに、
家康が同様の事をしても許せなかったのは何故なんだろう。
47 :
日本@名無史さん:2012/05/02(水) 20:52:48.40
>服属さえすれば何らかの形でお家は存続出来たはず。
大阪はその姿勢を終始貫いてる。
幕府発足以後はただの一大名にすぎないし、将軍である家康に臣従の挨拶もした。
結局、所領が大きすぎた事、関西という日本の要地を押さえていたため
徳川としても何かの名目をつけて討たざるを得なかった。
それにもう一つ、浪人問題もあった。
全国の不平氏族や浪人をまとめて始末するため大阪は利用された。
それは違うだろ。
まず慶長16年(冬の陣の3年前)の会見は妻の祖父との会見という名目で、幕府秩序への臣従かどうかの位置づけは争いがある。
さらに大坂の陣の前には無断任官、牢人徴募、はては前田家との同盟を模索するなど(…「城塞」の序盤に記されている)
露骨に幕府への敵対姿勢をむき出し始めた。
家康もこの動きを見て開戦に備えていたが、豊臣家が二条城会見で「宿題」であった臣下の礼をはっきり取っていれば、
以後、こんな問題は起きるはずがないし、起こしたとしたらすなわち「謀反」。
牢人問題に関しては、冬の陣で徳川方は不問に付す=罪を問わないと約束している。
しかし大坂方はここで牢人諸将とその軍事力を引き続き温存したまま。
これは、のちに福島正則に対しても一国一城令の徹底を求め、軍事力の凍結を強く求めた家康から見たら、
明らかな違約行為。
大坂方に同情的な解釈をすれば、家康と大坂方には認識ギャップがあった。
家康は文禄慶長から10年間引き続いた内乱・外征を終結させるために軍事力凍結を強く求めたのに対して、
福島や豊臣家は戦国時代的な「城破り」つまり、武力の行使を前提とした一時停戦としてその要求を受け取った。
だから総堀問題や牢人問題で講和条件を破ったと受け止めた家康が態度を硬化させてるんだよ。
>>46 大坂方に同情すべき点があったとすれば、軍事力の中核となる牢人諸将の召し抱えによって、
彼らが対徳川強硬路線を唱えて講和に反対した。
対徳川外交を担当した片桐が追放され、冬の陣の講和を纏めた大野治長が大事な折衝の段階で銃撃されるなど、
大坂はちょうど軍国主義日本のように軍部が独走した状態になり、まともな外交が出来なくなってたんだろう
たとえば織田有楽斎(長益)は関ヶ原の功労で大和、美濃に父子とも所領を与えられた大名であるが、
冬の陣では父子で大坂に入城して秀頼を助け、和睦斡旋に務めている。
戦況が絶望的になった夏の陣直前までも大坂にあったが、事態は彼の手に負える所でなくなっており、
「許可を得て」城を退去している。
徳川から豊臣に移籍した七手組の青木一重も、冬の陣の講和で徳川方との外交を担当していたが、
京で拘束され、大阪の陣後は出家している。
このように徳川・豊臣間の和睦を取り持とうと懸命な動きがあったにも関わらず、
結局、豊臣家は牢人諸将の暴走もあって生かせなかったんだよな。
司馬は織田長益や青木一重をスパイと決めつけて、やたらに牢人諸将をほめたたえるんだが、
その牢人諸将も譜代の毛利勝永を除いて、後藤、真田らは決して上意に忠実だったとは言えない
大野さんも城中で襲われたしね
城塞は「大坂は本気で戦えば徳川に勝てた」と言う大阪人司馬のルサンチマンの塊
>城塞は「大坂は本気で戦えば徳川に勝てた」と言う大阪人司馬のルサンチマンの塊
本気が出せないように家康は謀略打ってたでしょ。秀頼は最後まで出馬しなかったし。
城塞を史実と取り違えてるやつがほんとにいたのか。
>>53 謀略も何も、秀頼は後にも先にも一度も陣頭指揮してないじゃないか。どこで謀略だと分かるんだ。
お前まさか、秀頼が出馬してたら勝ったとかいう大ガセ信じてるのか。すごい洗脳効果だな
大阪民国人は執念深い
大坂は最強だ。文句あんのかてめーら。
秀頼は肥満で陣頭指揮取れなかった説まであるんだよな…
秀頼が天王寺合戦に出馬するのは難しいだろうね。
前日の道明寺合戦で真田信繁は後藤基次救援に時間的に齟齬を来たして失敗してる。
これだけで城内には真田に対する不信感が強まっただろう。牢人諸将間には対立もあったようだしね
しかも、天王寺合戦って実際は一刻半くらいの短時間で終わり、その直後に大坂城が炎上している。
秀頼が天王寺口まで出ている間に、追い詰められた城から内応者が出る可能性がある。
慌てて牢人をかき集めたはいいけど、牢人諸将を統制する力が譜代衆になくなってしまった。
もし譜代衆がきちんと統制してたら秀頼出馬もあり得ただろうが…
家康の本陣に迫ったと言っても、数万規模の激戦で旗本が混乱したくらいで、
家康が自刃を決意するほどの状況だったかと言えば明らかに創作だな。しかし司馬は創作は全面採用なんだよね
家康好き=山本周五郎、山岡荘八=暴力否定、秩序維持、漸進改革、学生運動その他暴力的運動に否定的=戦前の暴力と戦後の暴力の反省
家康嫌い=司馬遼太郎=暴力肯定、「この世には有益な暗殺もある」みたいなことを堂々と書いちゃう
で、60年代〜70年代前半だけは家康を異常に否定する基地外が増えた
しかしいつの世も平和と穏健と秩序維持が好きなので、家康は80年代以降再評価されて今に至る
と言うか現代の家康再評価は、家康は秩序維持者ではなく、天下泰平を達成し、
かつ秀吉みたいな殴り込みをせずに海外交易を活発に行った明るい男と言う評価なんだけどなw
長宗我部、木村らの諸隊が八尾と若江の戦闘で壊滅してるので手持ち戦力がない
65 :
日本@名無史さん:2012/09/01(土) 15:40:16.36
>>1 家康のことを根暗な性格とか決め付けてたのが行け好かなかった。
>>62 歴史を進めた暗殺は桜田門外事変だけ、と司馬先生は仰っておるじゃろ。
とにかく、徳川260年が日本を貶めたのは事実。
司馬は徳川政権は大坂を優遇してくれたと繰り返してるが
68 :
日本@名無史さん:2012/09/14(金) 14:11:02.33
69 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 06:07:25.36
利家が死んでも野望をむき出すことなく秀頼の後見をして豊臣を守れば忠臣かもしれんが
形としては御家乗っ取りかつ主人一家を殺害だから好かれるわけがないw
70 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 09:00:49.91
家康アンチといえばかくこーぞーじゃねえの
71 :
日本@名無史さん:2012/09/16(日) 18:33:08.44
>>69 家康は秀吉の遺命を忠実に守ってただけなのに
三成はじめ西軍陣営が野心剥き出しで暴走したから制裁した。
大坂の陣は淀殿と秀頼が無能かつアホだったから自滅した。
はい論破。
72 :
日本@名無史さん:2012/09/17(月) 00:12:35.58
>>71 太閤の御置目を守るどころか私的婚姻を進める家康
この時に利家ら四大老で家康をきっちり処断してればよかったw。
利家が死ぬや、お家乗っ取りの障害がなくなり
利長や景勝に帰国を勧めては謀反のでっち上げ
前田は屈服したが上杉は屈服しなかったので戦になった。
(上杉は国替え[加増も]があったので浪人を雇ったり、城の普請は当たり前)
関ヶ原後も主君の秀頼に戦勝を報告してるわけだが
そのまま豊家の家老を続けるような家康ではないねw
いよいよかつての主家を滅亡させる大坂の陣では
家康本陣が崩れ[三河物語]かつての主君の義元と同じ目に
あいそうになったのはご愛嬌w
>>66 全然事実ではない、江戸幕府は国内の内乱から喧嘩に至るまで武力発動を停止し、
高税率で取った税収をガンガンインフラ整備に回し中期からは驚異的な低税率を実現
おかげで民間に資本が蓄積され産業が発展、幕末には工場制手工業も始まり日本はあっという間に近代化に適応できた
すべて「今後は民衆はむさと殺されることはない」とお触れを出した権現様のおかげ
>>72 きっちり処分したら豊臣政権の大番頭がいなくなって内乱勃発なんですけど?
だから家康をある程度牽制した後は和解したんだろ
74 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 10:03:12.44
天領では国民負担率は30%以下。世界最低水準のアメリカよりはるかに小さな政府
百姓天国、商人天国、官僚は地獄、いつリストラされるか分からないから賄賂なんてもってのほかと言う世界
76 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 17:02:54.84
>>73 >中期からは驚異的な低税率を実現
えっ?江戸時代って末期になればなるほど税金足りなくて
庶民に重税課したり武士が内職したりしてたでしょ?
そもそも朝廷や幕府が徴税するのは農民からだけで
商人にはもともと税金が課せられていないから(室町幕府の政策である座だけが特殊だった)
権現様のおかげで工場制手工業が始まったわけでもなんでもない
77 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 18:23:53.31
田沼意次
78 :
日本@名無史さん:2012/09/28(金) 18:48:36.60
>>76 いや、渡辺崋山は伊豆で「天領の百姓は生活がどえらく楽ちんだから俺らも天領の百姓になりてえよ」
と言ってるのを聞いてあきれたと日記に書いている。天領の百姓の生活はうんと楽だよ
武士は地獄。だって米価がどんどん下がる上に、俸禄は変わらないから内職をせざるを得ない
しかし武士は公務員なので、公務員は超安月給
商人は元々税金が課されていないから、実際の国民負担率はもっと低かった可能性が高い
それは権現さまが軍事力凍結を宣言して喧嘩停止を徹底し、インフラ投資に熱意を注いだ延長線上にあるわな。
年貢率は天領の4公6民を標準としていました。将軍のお膝元の関東は関東郡代伊奈氏による独特の農業土木技術により新田を開墾し当初10年間は年貢を免除するなどの優遇政策を行いその間の実効年貢率は1公9民だったと記録が残っています。
(伊奈氏は天領の農民から「神様、仏様、伊奈様」と慕われていました。)「百姓は生かさず殺さず」という言葉は有名で、確かに徳川家の記録に残っていますが、発言したのは大久保長安で、
それを聞いた家康は「百姓は国の宝とんだ心得違いだ」と激怒したとの記録が残っています。明治時代になってから、新政府が自らの政権の優位性を主張するのに江戸時代の百姓は虐げられていたと、
その言葉のみを学校で教えたのが真実だそうです。
天領は実効で30%以下、諸藩は60%以上だな。薩摩や会津は70%は取ってるだろ
82 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 00:35:04.52
諸藩は参勤交代で大量のムダ金をドブに捨てることを強要されてたから
(会津みたいに、百姓から容赦なく搾り上げた年貢で大枚はたいて大見得張って、
幕府に尻尾振って喜んでる藩も多かっただろうが)、
天領よりも諸藩のほうが武士の生活が豪勢だったわけでもないだろう。
いずれにせよ、北朝鮮の将軍様一族並みの特権階級であったことに変わりはない。
83 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 00:45:48.74
84 :
日本@名無史さん:2012/09/29(土) 07:59:34.65
1721年→1846年の人口
周防66%増
薩摩62%増
陸奥18%減
東北11%減
関東13%減
中部14%増
近畿6%減
中国21%増
四国27%増
九州14%増
日本史再発見 理系の視点から(朝日選書)
天明・天保の飢饉があったので関東と奥羽は大打撃を受けたのは確かだな。
関東奥羽の開発で18世紀の前半までは高度経済成長だけど、その後が頭打ちなので
近畿がなぜ減ってるのかは知らないが。19世紀は気象的に西日本は比較的生産力をキープできたはず
司馬の家康は過大過少の前にまずキャラが違いすぎる
温厚な長者を装おうとしても生来の(祖父や父譲りの)癇癪玉みたいな性格が
終生直らなかったという家康が
なぜか感情の起伏のない古狸にw
>>80 明治政府が徹底して徳川暗黒史観を教え込んだんだよな。それが戦後も続いた。とんだ洗脳だぜ
88 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 14:03:47.05
こいつのせいで日本が100年は遅れたからな
幕末、明治になって一気にそのつけがきた
家康を人格者だとか徳川が神というほうがとんだ洗脳だぜ
>>86 司馬は、忠輝の説明の際に、徳川の血の中に時折現れる狂気の気質、
みたいなこと書いてて家康にもその気があったことに触れているよ
特に狂気が表に出すぎたのが忠輝とか忠直だが
91 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 18:42:10.08
30年前の歴史教科書を見ると、百姓は生かさぬように殺さぬようにとか、
慶安のお触書とか、とにかく徳川が百姓をいびってたことを示す怪文書は何でも教科書に載せていた。
中国共産党も顔負けの捏造教育
92 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 18:42:43.71
93 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 20:54:53.26
>>90 殺戮マシーンの両巨頭・信長、秀吉に比べればカワイイもんだろ。
94 :
日本@名無史さん:2012/10/12(金) 22:58:07.28
徳川幕府は、その愚民政策で日本を貶めたよな。
あの鎖国・農本主義政策への転換がなければ、絶対主義王政が花開き、
早期に西欧列強に伍して世界を主導、あの昭和の悪夢もなければ、明るい文化が育ち、
今頃は中国・南北朝鮮なんて存在せず、北方領土問題も起こらず、亜細亜に冨み榮え、強い平和な大国が出来ていた。
それと、主に豊臣政権時代の歴史を捏造、日本人の歴史知識を大きく歪めたことは万死に値する。
豊臣家康・羽柴秀忠と名乗らされ、武家家格制度の下、秀吉の完璧な統治・支配に服していたのに、
それを曲げて伝えよった。
>>94 逆だね。豊臣政権が続いていたらその後の明清交代で確実にちょっかいを出して清と対立関係に入る。
明からたきつけられるから間違いない。江戸幕府ほど厳しく内政不干渉に徹することが出来ない。
あと何より、江戸幕府は軍事力で豊臣政権を滅ぼし、関東に拠点を置いたことで
初期に強力な大名の配置転換とインフラ投資を断行した。結果、関西資本が関東に流入し東日本が飛躍的に成長した
武士が集住する大消費地・江戸が誕生したことで奥羽地方の生産が刺激され、波及効果で豊かになった。
豊臣政権の継続なら、東日本は東日本在地の大名のまま。ロシアの東漸に対して手を打てなかったに決まってる。
それまで「内陸部の経済後進地帯」だった東日本に大量に資金をつぎ込み、国土の均衡ある発展を可能にし、
内需主導の成長を実現し、東から来る米国・ロシアと言う二大国と通商をするに適した国家を作り上げた
畿内から江戸に前線を進めた功績だけで徳川は偉大だよ
しかも最終的には国民負担率が3割を切るという超低税率国家を実現したわけだから
江戸幕府の歴史捏造についてはどう?
98 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 17:07:36.09
新井白石・松平定信への賛美は、ほとんど捏造の産物なので、
「清貧や経済萎縮こそ日本を精強へ立ち直らせる」式の妄想を現在でも生んでいるこの両名は、ゴミ箱に捨てたほうが良い。
他は、綱吉は財政を立て直していた、とか萩原重秀(方向は正しいがちょっとインフレしすぎ)・田沼意次(この人は功罪あり)とか、
新井白石(天皇礼賛以外はデフレ強権でむしろ悪政)・松平定信(農村福祉以外は悪政だらけ)より取り上げるべき人間が存在する。
>>97 始祖家康の業績と豊臣政権からの簒奪過程については確かに捏造はあるが、事実は誤魔化せないから
「評価」で誤魔化してる部分が多く、それほどひどくはない。
水戸学なんて異物が誕生したのは江戸時代なればこそだろう。
100 :
日本@名無史さん:2012/10/14(日) 17:40:02.55
>>99 新井白石と松平定信は業績に詐称多し
両名の業績を信じるなかれ
101 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 18:25:21.42
松平定信は幕府の老中首座・将軍輔佐に就く前
白河藩主だった天明の大飢饉の最中である天明3年(1783年)であるが、
定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、
さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、
白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。
特に東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、
これは異例のことと言ってもよい。
102 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 18:29:40.39
>>93 織田・豊臣で天下統一がなされてて家康はあとは
豊臣秀頼一人を殺せば天下が取れる状態だったからだろ
家康も若い頃はかなりの人殺してるし息子と正室も殺してる
戦国大名数あれど正室殺したのは家康一人だけ
(正室殺しは信長の命令じゃないからw)
103 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 18:41:40.92
>>101 実際には将軍家の血筋であることを利用して
強引に米を買い占めたからであってそのせいで諸大名から顰蹙買ってますな
104 :
日本@名無史さん:2012/10/15(月) 20:34:05.89
そう。
当時米の買い占めは、東北諸藩への災害対策のため禁止されていた。
これを破って、飢餓を撒き散らしたのが松平定信だった。
東北は典型的なモノカルチャー経済だったんだな
江戸時代から戦前は需要の高い米
戦後は労働力を関東へ供給
宗主国が植民地に対してやる事のド典型だ
東北地域は植民地というよりは、薩摩が導入したサツマイモのような飢饉対策作物を
稲作増産の為に藩が禁止しちゃったから、飢饉への対処能力が年々低下して人口も減ることになった。
ジャガイモ? お助け芋とかいう名前で入ってきつつあったんですけど、藩が・・・・・・
お前、薩摩の調所の債務破棄と奄美琉球収奪なんてまともな藩のすることじゃないぞ。
薩摩は偉大だけど、毛が逆立つくらい恐ろしいことやってるんだから
それと仙台や南部、会津は酷かったけど、庄内みたいに北前船が入る日本海側はかなり豊かだな。
南部も、米作や表高に拘らなければ餓死者は少なかっただろう。あれは人災。
家康は偉大。司馬遼太郎が何と言おうと歴ゲーの能力値で世界中の人間が家康の偉大さを知っている
真田の草の者があと一歩で家康を仕留めていた。
日本の歴史にとって、これほど惜しいことはない。
あと一歩で命を奪われそうになったのに、真田家を取り潰さなかった徳川はやっぱり偉大だな
戦争がないのがそんなに良いのなら平安貴族は世界を統べる資格があるよ
↑じゃあ、今から内戦中の中東かアフリカへ移住してみろよ
115 :
日本@名無史さん:2012/10/20(土) 16:07:23.90
1807年 4月 丁卯事件択捉島 ナイホでロシアが上陸し会所を襲撃・略奪、
で択捉島警備の南部藩・津軽藩を 敗走させ、南部藩・津軽藩の6人が捕虜になる
戦争では無いが一方的にやられてたりはしてたみたいだな。
>>113 平安時代は奥羽、坂東や西海で戦争が頻発してるじゃないか
江戸時代には一揆や打ちこわしにすら作法があった
>>115 それには後日談があり、日本は4年後にディアナ号をひっ捕らえてロシア側の釈明を引き出している。
ゴローニン事件ね。最上徳内が得撫島まで探査を終えたのがその事件のわずか20年前のことだよ
入植が本格化したのは、さらに遅れてクナシリメナシの反乱の鎮圧後
117 :
日本@名無史さん:2012/10/21(日) 06:02:36.05
江戸時代の一揆で徳川軍が一村皆殺しにした
生瀬一揆に作法があったとは思えないが
ああ、江戸初期は普通にあるよ。喧嘩停止を徹底させるために当事者全員を磔刑にするとか秀吉もやってるから
しかし島原の乱・慶安の変以降は一揆は作法を守り、幕府は形式的には処罰しながら柔軟に対処する方針に転じた
その最たる例は天保義民事件の庄内藩だな。
欧米は日本より歴史が短いから、「欧米が戦争に明け暮れていた同じ頃、
日本の武家政権は長年戦がなく安定していた」と称賛される。
だけど、日本の長い歴史の中の江戸時代って、武家政権の一番最後で最大の成熟期なんだよね。
鎌倉・室町・織豊と、過去の武家政権を振り返り、同じ失敗を二度と起こすまいと
雁字絡めに規則や法律で縛った上での安定政権だったわけで
いや、江戸時代はたとえば事件を内済に委ねる割合が高い
たとえば窃盗程度の犯罪だったら役人が裁かず、村落共同体の仕置に委ねる
だから現代風にいう治安警備担当の公務員が極端に少なかった
規則でがんじがらめと言うのはまったく実態と異なるな
121 :
日本@名無史さん:2012/10/30(火) 12:07:18.97
奉行所の与力に、「金を出して頼めば、斬られた首もつながる」
つまり賄賂で、どうにでもなると言われていた。
むろん江戸時代には賄賂は悪い事ではなかった。
おおらかな時代だった。
山岡荘八読んでバランス取ればいい
厳しい法定刑が実際の運用で柔軟になり得たのはその通りだが
賄賂は少ない。それ時代劇のイメージw
山本周五郎のながい坂って、家康を意識してるんだよな。
シュリーマンが荷物改めを警戒して武士に袖の下を渡そうとしたら、役人が笑いながら断って
ざっと見せてくれればいいんだよと応対したんだね。
武士から民間人に至るまで、掛け値や心づけの習慣がまったくないので驚いた
126 :
日本@名無史さん:2012/11/05(月) 09:45:33.45
明治時代ですら家康人気は三傑でずば抜けていた
司馬の家康像は大阪人の私怨
人気なんてどうやって調べたwまあ認知度は1番かもな
上司が信長、部下が秀吉、父親が家康の人生だったらちょっと嫌かも
東洋の歴史上の人物では、秀吉、チンギスハン、家康の順番に人気があったらしいね。
西郷隆盛が4位。チンギスハンが2位と言うのは面白いなw
家康が偉大すぎて呼び捨てにするのがこわい
権現様と呼ぶことにする
じゃ俺はゴンちゃんと呼ぶわ
>>119 規則でがんじがらめって、じゃあその前の時代はどこがよかったんだい。
江戸時代の凄さは、暴力のコントロール。
もっとも暴虐な連中に自由を与えなかったから達成した繁栄。
134 :
133:2012/11/08(木) 16:56:00.44
↑今のはなしで。無視して。
ろくに読まずにレスしてしまった。申し訳ない。
135 :
日本@名無史さん:2012/11/09(金) 10:45:53.10
大阪の人って、過去に堺市が大野治胤に焼き討ちされた事実もあるのに、
それでもアンチ徳川なのかな。
>135
大阪夏の陣では大阪の町民が徳川方に略奪・暴行・殺人・人さらいなど
堺より酷い目に合ってるからね。
>>136 実際そんな具体的事象より、単純に大阪から首都機能を
奪われたのが癪に触るだけだと思うけど。
別に歴史を知ってる人も知らない人も家康嫌いだからな。
太閤好きの家康嫌いって生まれた時から刷り込まれるから、
どんなに歴史を学んでも「嫌い」って視点からなかなか抜けられない。
「嫌い」が先にたてば、悪いところが目に付くし、忘れられなくなる。
司馬の覇王の家のあとがきなんか、まさにそういう心情が現れてるように思うよ。
江戸時代を通じて大阪はアンチ江戸だが、
現実には太閤の大阪を滅ぼされて、それからは江戸幕府の物流集中策の中で大阪は発展する。
江戸時代の大阪は、江戸幕府のおかげで育った街なんだよ。
しかし感情は別。
特に江戸中期以降は、下り物に代表される産業技術先進地域としての座を江戸が発展することで脅かされるし、
歌舞伎役者も落語家も江戸下りをして帰って来ない。
絵画も尾形光琳等の安土桃山から、浮世絵や読本出版物は江戸の産業となる。癪に障ることが多かった。
それは司馬の無知だよ。慶喜が鳥羽伏見の前後で政権についてたらたぶん上方に政権を持ってきた。
その場合は大阪が政治の中心地になってた可能性がある。
新政府が勝ったからこそ江戸に移駐する必要があったわけでな。
>>137 頼朝は尾張人の流人、伊勢宗瑞は備中人の侵略者、家康は三河人の侵略者
でも東京人や静岡人は誰も文句言わないじゃん
なんで大阪だけそうなるんだよ
結局は特権意識だろ。たぶん大坂が京から遠く離れてたらそんな意識持たなかったと思われる。
圧倒的に流入人口、新参人口のほうが多い東京は、統治の実質さえ担保されるなら名目はどうでもいいと考える。
兵庫開港が遅れまくったから、横浜中心で対外貿易は動いてたしな
東京に来る以外ねえわ
生活スタイルも江戸市民は堅実、大坂市民は華美と言われた。
江戸市民の気前の良さと言うのは、江戸の地元資本家を讃える創作の可能性が高く、
実際はきわめて勤倹貯蓄型だったらしい。
慶喜政権なら
京=政治
大阪=外交
横浜・江戸=天領の首都と外港
長崎=西南諸藩の貿易港
みたいな形で、面白い日本の発展が見られたかもね。
ドイツ帝国のプロイセンとバイエルンみたいに。
江戸は徳川家の官僚群が統治可能だし、徳川家や東国諸藩は安心して大阪に詰められる。
>>122 山岡は山岡で史実とかけ離れてて
バランスますます悪くなるよw
146 :
日本@名無史さん:2012/12/02(日) 07:25:27.49
関ヶ原も大坂の陣も正当性があるのは家康側だと史料で証明されたし
そろそろ世間もアンチ徳川史観から脱却して欲しいよね。
むしろ江戸東京礼賛が鼻につく場合があるのだが。
江戸中期以降の関東東北の停滞・衰退を日本の衰退と言い換えたり。
148 :
日本@名無史さん:2012/12/03(月) 16:46:49.80
149 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 08:53:31.67
150 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 09:30:07.92
>>149 常識だというからにはたくさん一次史料があるんだよね。
正統性を証明できる一次史料の抜書きをしようよ。
徳川家康の評価が低いのは、彼自身というより徳川家光以降の「鎖国」「技術退化礼賛」が
江戸幕府自体の評判を落としている面が強い。
「江戸で技術退化なんて嘘だ、技術は進歩した平和な社会だったのだ」説の人は目が曇っている。
倹約令は財政好転が目的だったはずなのに、いつの間にか社会の倫理にされて社会全般に強要され、経済萎縮をもたらしただけだった。
倹約のためなら新技術や魅力のある商品は邪魔とされた。
1720年の老中からの命令では、食料、衣服、諸道具、書籍、菓子、玩具等あらゆるものに関して、新規の商品開発を行い、それを販売することを禁じた。
別の司馬批判スレでも言われてたけど
個人としては珍奇な物に目のなく進取の気風に富む家康に
徳川幕府の保守性を時間を逆戻しして覆い被せてるのが司馬だよね
まあ、積極財政に転じようとする安倍に
「質実剛健だか清貧武士道だか吹いて経済を萎縮させたのは保守の人々ですよね」と批判が飛んでくるのと同じ。
責任があるのは当人ではないが、前任者や後任の人間が悪いことをやると、彼らの悪行まで背負うことになる。
徳川家康自身は
・家系名門愛好者
・歴史オタク
といった面があり、彼の定めた米本位制に基く幕藩体制も、彼の治世に関しては必要なものだった。
しかし死後神君とされ無謬とされていくと、貨幣経済の伸展や海外の技術発展に抵抗し日本を抑圧する悪魔のような存在として
後世の日本に圧し掛かってくることとなった。彼の評判は神君とされることで貶められたともいえる。
大好きな唐頭の飾りだらけの派手な格好で若い旗本に
「武士は外見よりも中身だ」と説教した話で大笑いした
古参の家臣が「殿さんが一番、外見気にしとる」と突っ込んだと言う
家康自身、自分を重厚な人間に見せようとしていたんだろうな
ただ同時代人の記録でミーハーなおっちょこちょいだとばらされてしまっているという
>>153 「東洋では天変地異の責任まで背負わされます」
田沼意次・談
158 :
重要文化財:2012/12/09(日) 09:28:20.76
徳川家康の頭には、日本の事より、ひたすら、徳川家の天下保持を
いかに継承、継続させるかなかった。
そのため、鎖国して日本人を矮小化させ、島国根性を日本人に植え付けてしまった。
織田信長、豊臣秀吉のように、海外進出政策を取り続けていれば、豪州大陸や
樺太はとっくに日本人の植民地となり、太平洋でアメリカと戦うようなことも
なかった。
要するに、家康は田舎の土豪のような、自家中心的な、視野の狭い男。
このような男が天下を取ったことは日本民族の悲劇。
>>158が釣りなのか
スレのログすら読まないで書き込む真性馬鹿なのか
どっちか誰か教えて
思い込みだね。
家康って、もともと武闘派系の人が、元老になってみたら内憂外患で
内政重視シフトを引いてるうちにイメージ変わっちゃったみたいな人だね。
司馬遼太郎はさ、自分が崇拝してる秀吉と豊臣をマンセーする為なら、
脚色、嘘、完全なフィクションを意図的にわざとふんだんに盛り込むよね
地域性によって贔屓があるのは構わないんだけど、司馬が問題なのは、完全な史実とは違うフィクション小説にも関わらず、
随所に、意図的に事実であるかのようなミスリードを誘うように書いてる事
これは正直、不誠実だと思う
で、司馬史観に影響されてた歴史小説家までいるわけだし、
三英傑や歴史人物の評価って、そろそろ司馬史観から脱却するべきだと思うわ
まともな歴史研究者からは笑われてるんだろうけど、それでも、
特にニワカ歴史オタや一般人のイメージする三英傑や歴史人物の評価って、
司馬史観そのものでしょ
ぶっちゃけ、大阪の歴史好きで秀吉贔屓の人でも、まともな人は、
案外、司馬の事好きじゃないよね
大阪で聞いたの?
163 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 01:54:11.19
まずは
>>146こそが正しいことを広めないと。
いい加減関ヶ原は西軍こそが悪辣だったことを認識させないと
164 :
日本@名無史さん:2013/01/09(水) 10:38:18.50
>>161 「城塞」なんか読むと司馬は豊臣贔屓じゃないんだけどねー。
ただ、女は可愛くいつも男にしなだれかかって抱かれているのを無上の喜びとすべきで
淀殿のように表に出てくる女は嫌いな人だというのは思うけど。
家康の小説書く人は家康だけが聖人君子で家康以外は悪人設定であることが多いけど、
そういうのは構わないんだ?
小説読んで史実と勘違いするのってあなたみたいな人のことを言うの?
勝海舟の過小評価も異常だな
>>164 >小説読んで史実と勘違いするのってあなたみたいな人のことを言うの?
主観と客観の区別の付かない馬鹿の典型乙
167 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 18:24:09.62
「坂の上の雲」とか「翔ぶが如く」では、最初の方と最後の方で人物評価がひっくり返っている例があったな。
たとえば桐野利秋、篠原国幹らは最初の方では持ち上げられていたけど、最後の方では頭の空っぽな愚人扱い。
江藤新平に至っては、「歳月」では悲劇的な先駆者として描かれているが、「明治という国家」では名前すらスルー。
調べるうちに評価が変わるのは仕方ないけど、その都度、根拠も示さず断定的に語られるから、司馬小説慣れしていないと鵜呑みにしてしまうね。
168 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 19:00:11.44
>>164 「城塞」は、豊臣方は牢人諸将を上手く糾合すれば無尽蔵の財力をもって充分に徳川に対抗できた
しかし秀頼と淀殿の二元体制や、籠城諸将の裏切り、さらに譜代の旗本が腐ってたから負けたと言って悔しがってるだけで、
実態を認識していないもはなはだしいよ。
実際は牢人諸将の発言権が高まって城内が流される形になり、自滅を早めているし、
冬の陣ではオランダ船からの砲撃には大きな心理的効果があり、和睦に応じざるを得なかったのは大坂方
青木一重のように徳川−豊臣の停戦交渉に尽力した人間は裏切り者呼ばわりされてるが、実際には板挟みにあって城を出ている
夏の陣の毛利、真田らの突出も一刻ほどで終わっており、到底、情勢を覆すに至っていない
×
>>164 ○
>>169 167 も言ってるけど、司馬は自分の思い込みを投影して書き始めるので、
途中からその人物が自分の思い通りじゃなくて嫌いになると放り出してしまうんだよね。
大坂の陣の大坂方の扱い−特に秀頼や大野治長など−には、もろにそれが出てると思う。
171 :
日本@名無史さん:2013/01/13(日) 10:06:13.37
鎖国とかアホやろ。
>>169>>170 「城塞」は知将牢人による一発逆転のチャンスの浪漫を描いた物語で
豊臣の財力をもってすれば家康と豊臣は互角の戦いだったなんてどこにも書いてない
どこをどうよんでも圧倒的家康有利の中にあって豊臣方牢人の知略が見せ場
何を読んでいるんだお前はw
>>167 胡蝶の夢ではラストになって主人公が
途中から登場した関寛斎に変わった気がする
174 :
日本@名無史さん:2013/01/15(火) 13:34:04.52
城塞は淀君の人物造形が講談のまんまでワロタ
他のキャラが正誤はともかく一応史料などを引き合いにした「歴史小説」らしいものに
なってるだけに一際目立つ
>>172 秀頼が勝頼くらいだったら徳川と互角の戦いをさせてやれたなどと小幡景憲に言わせている
物語の開始当初は対徳川強硬派に属する大野治長マンセー、
牢人諸将の入城シーンの前は前田を叩きまくり毛利、島津、福島などにガッツリ期待
そいつらが結局大坂を見捨てると今度は牢人諸将をめちゃめちゃに過大評価
大砲ぶち込まれて数週間で講和に至った冬の陣を、徳川方が軍事的に劣勢だったのに淀殿の弱気だったかのように描く
夏の陣では長宗我部勢らが戦闘で大打撃を被った事実に触れてない
など、明らかに「問題は戦略だった」と思わせるような書き方をしている
さらに「軍師二人」と言う短編では真田、後藤の対立−広くは牢人諸将の統制困難−を描いているが城塞ではまったく触れられていない
牢人諸将が一致団結して整然と行動したようにストーリーを作っている
司馬は長編を描くときは、その前に短編でスケッチすることが多い
しかし長編になった時は短編で認識していた主人公サイドの問題点を全て捨象してひたすら好き嫌いで描く
176 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 11:39:20.26
「城塞」は大野や淀といった愚物が家康という巨人に翻弄され追いつめられ、
生き残る道さえ許されないという大筋。浪人衆のあれこれはただの彩りにすぎない。
司馬はその意味でも家康を決して過小評価していないし、当代随一の政治家であると認めてる。
ただ、とにかく嫌いなんだな、という個人的感情だけはモリモリ伝わってくるな。
177 :
日本@名無史さん:2013/01/16(水) 16:48:16.36
「太閤記」で司馬は家康は繰り返し律義で誠実な人だと書いてるぞ。
だから秀吉は家康と敵対することを嘆き、なんとか和睦したいと願った。
寡黙で無口な家康は司馬的には主人公とするほどの魅力はなかったんだろうが
あれを読むとむしろ司馬は家康を過大評価してる気がするよ
本当に家康は信長に嫡男を殺されてもなお信長に忠誠を尽くす悲劇の被害者なのかと
>>177 >寡黙で無口な家康
そこがもう認識の間違い
大一番の戦になると居ても立ってもいられず
馬の口取りから旗持ち太刀持ちまで手当たり次第に話かける落ち着きのないオッサンだw
それが家康にとっては平常運転なのに、焦ってた証拠だとか何とか書くのが司馬
>>176 淀殿や大野と言う「愚物」に大坂の敗因を矮小化させて、新参牢人諸将に丸投げすればいい勝負になった
などと言う珍説に傾いてるのが司馬なんだよ。現実には牢人諸将の暴走で大坂と徳川の和議への努力はぶっ壊されている
青木一重を徳川の回し者のように描いてるが、彼は懸命になって冬の陣の後に豊家安泰のための努力をして拘束されてるんだぜ
大坂の実力を知ったうえで家の安泰を図ろうとするやつは「裏切り者」
身の程もわきまえず城からの退去を拒否して暴走した牢人諸将(諸将の間でも対立あり)を過大評価
それが司馬だよ
181 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 04:23:30.83
>>180 読み物だから・・
雪村かっけーは講談のまんまや
182 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 11:12:47.22
>>180 一発逆転のチャンスを書いた小説だからそうなるだろ。
真田太平記だって一発逆転を狙うからそういう書き方になる。
何、お前は「何をどうしたって馬鹿牢人たちに勝ち目はなかった、
黙って長いものに巻かれて家康様に従ってればいいのに牢人たち大馬鹿」
という小説が読みたいの?
そんな小説売れないわw
183 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 11:17:50.38
>>178 小説だから色づけはされるわな。
落ち着きのない家康wにしようが無口な家康にしようが作家の自由だと思うが。
家康が爪をかむ癖がありかなりの癇癪持ちだった、だから激昂しそうになると
爪を噛んで黙って耐えた、って結構最近出てきた説だろ。
最新の研究成果を持って司馬はなぜ40年前にこう書かなかったんだ、
と馬鹿にするのもどうかと思うぞ。
>>179 戦況が少しでも不利になると
家康「腹を切るっ!、いや、敵陣に突っ込んで果ててやる!」
死産家臣「殿が錯乱した、どうしよう」
古参家臣「またはじまった……」
それが徳川家の日常風景w
新参家臣、なw
>>183 家康の情緒不安定というか癇癖なんて三河物語はともかく
当時の日記や書簡で普通に見受けられる事だと思うが
皮肉な事に徳川幕府が家康の当時の感覚では大人物らしくない面を糊塗として
作り上げた虚像の家康像を司馬は踏襲してるんだよね
描写が正反対なだけでその点では山岡と同じという
>徳川幕府が家康の当時の感覚では大人物らしくない面を糊塗として
作り上げた虚像の家康像
家康「貿易楽しーなー」
アダムス&ヨーステン「でしょ、でしょ」
百年後
幕閣「鎖国は神君様のご遺訓じゃ」
家康(霊)「おいおい」
>>183 178は司馬の小説の表現の話でなく一般認識の話だろ
>>182 司馬って小説を書いてる間に認識が変わることが多い。
典型的なのが翔ぶが如く。思い入れの対象だった桐野や篠原がただの馬鹿だったことを隠しきれなくなると、
どうでもいいやこんな馬鹿と言う感じで放り投げて終わる。
城塞もそういうパターンだよ。何とか大坂が徳川に勝てるチャンスがあったかのように書いていこうとして、
最初は大野、次に島津や毛利、そして牢人諸将と次々に思い入れの対象を変えてるが、最後に「もともと無理だった」
と言う結論に達して、家康のアホ―!みたいなことを言って終わってるw
>>183 司馬も家康が戦場ですぐ頭に血が上るタイプなのはちゃんと認識してるよ。
191 :
日本@名無史さん:2013/01/17(木) 20:11:47.76
>>189 そうか?
家康は虎視眈々と豊臣の首を絞めていって余念がない。
最期に家康のアホー!みたいなことは書いてない。
主人公は最初から牢人の一人でぶれていない。
大野に島津に毛利と次々主人公を変えているわけでもなし。
城塞は、タイトル通り秀吉があまりに堅固な城塞を残したことが淀殿、秀頼母子を勘違いさせ
身を滅ぼさせた、というのが主題の小説
193 :
日本@名無史さん:2013/01/19(土) 18:33:34.89
僕は徳川家康の小さいころの名前を竹千代といいます。
ある日、竹千代と爺が川沿いを歩いていると子供たちが石合戦をしていました。
爺は人数が多いほうが勝つと言いました。
竹千代は少なくないほうが勝つと言いました。
竹千代の言うとおり少なくないほうが勝ちました。
------------------------------------------------------
中学時代の同級生の読書感想文から引用。
冒頭の「僕は」は明らかに不要だが読者を引き付ける劇的な手法。
「多いほう」と「少なくないほう」の使用法は未だに謎。
>>191 だからその観察者である小幡景憲の認識が変化してるって。
ちなみに小幡景憲は物語を回す役であって「主人公」ではない
さらに家康が豊家の首を徐々に絞めていったというのが、司馬の完全なる錯覚
家康は豊家に振り回された側
事実は
・豊家の内部分裂が全国的内乱に発展してしまい、外戚であった家康が取り鎮める
・この時点で、お家騒動も自力で鎮められない豊家には天下様である資格がないことが明瞭になる
・家康自身は孫娘を輿入れさせて縁戚関係を結び、主家のテコ入れとともに秀頼との会見を図る
・豊家が会見に応じない。その後色んな人間が両家の関係を仲介しようとするがそれにも応じない
・さらに牢人を入城させ、前田以下恩顧の諸大名を誘うなど関東に対抗する姿勢を先鋭化させる=内乱を起こそうとした側は豊臣家
・しびれを切らせた家康、方広寺鐘銘事件で諱を勝手に分断した件から大坂を呼び出し、最終的な関係正常化を模索
ちなみに、家康の諱の分断は普通に無神経
・牢人の軍事力=大阪城=豊家の主 の結合が内乱の原因となっていると認識して、そのいずれかを解除するよう要求
ちなみに、現実的にもこの時点で城出るか、証人出して対徳川家和平を実現させないと秀頼が牢人に担ぎ上げられてしまう
・アフォな対徳川強硬派がこの条件を持ち帰った手筋の片桐暗殺未遂事件を起こし、片桐が退去
ちなみに、これは大坂方の対徳川外交の断交を意味する行為
どう見ても大坂が牢人引き入れた結果、先軍政治化していったのが両家の戦争の原因
それでも家康は講和条件として移封を条件に穏便決着の余地を残している
司馬以外は大阪の陣の原因が、「大坂方の」対徳川強硬姿勢の激化から始まっていることを認識している
開幕から10年経っても秀頼と家康の会見は曖昧な位置づけの下でしか行われてない
要はパックス・トクガワナに協力する意思がないと言うこと
諸大名が大坂方に呼応しなかったことでも明瞭だが、大坂は既に一地方政権でしかない
>ちなみに、家康の諱の分断は普通に無神経
>ちなみに、家康の諱の分断は普通に無神経
>ちなみに、家康の諱の分断は普通に無神経
197 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 15:10:58.66
>>195 さすがにそれは豊臣家の過小評価だわ
徳川が幕府を開いてから13年経っても尚、豊臣は
家康・秀忠が大軍を率いて攻め上り
わずか8歳の遺児さえ血祭りに上げ完全断絶させなければならなかった相手
秀吉の墓すら破壊して存在を否定しなければならなかった相手
ただの地方大名ならそれはないわ
198 :
日本@名無史さん:2013/01/24(木) 16:05:07.67
>>2で終わってた
てか司馬読まなくたって家康を好きになる奴は少ないと思うぞ
「人ばかり」みてると、見えてこない事実もあると思うけどね。土地に着目すると、興味深いことが分かる。
・家康は、なぜか大坂城【下】にだけは、一貫して、絶対に自分の屋敷を建てなかった。
・代わりに、秀吉が死去すると、家康は、秀頼後見と称して、大坂城【内】の西の丸に、天守閣まで建てて執務した
・関ヶ原戦後、大坂城に入れなくなると、家康は、伏見と駿府を、行ったり来たりするようになる(江戸に下らない)
・伏見と駿府を往復しながら、秀頼を、何とかして【大坂から誘い出そう】と苦心する。
・それでも、秀頼はなかなか大坂から【出てこない】。最後には出てくるけどね。
・ついに家康は、「あんたら【大坂城を出りん】よ。大和郡山に城があるもんで、そこで大名すれば良いじゃん。」
・この一言こそが、【豊臣家を挙げて、完全に火病状態】にさせ、大坂の陣に本格突入する契機になる。
・そして、大坂の陣では、家康は大坂城をじっくりと攻撃し、最終的に、【城も城下も丸ごと灰にして】しまう。
・その上で、【土砂で封印】して藤堂式の新しい城を作り、城下町の中心を、上本町から船場中之島へ、【数km移動】させる。
・大坂の大改造は松平忠明にさせるが、彼はすぐに大和郡山に転封され、「徳川大坂城」は幕府直轄地になる。
家康は、一貫して「大坂城の主になること」を、望んでいたように見える。
そして、豊臣家は、これだけは、断固拒否した。
大坂の陣とは、文字通り、「徳川氏による、大坂城奪取の戦い」だった。
なぜこれが必要だったのか?と言えば、『中央政庁所在地(実質的な「首都」)は、浪速である』という考え方が、
少なくとも、徳川家康と、豊臣家中で、共有されていたからではないだろうか。
家康も、豊臣家も、その認識だったからこそ、「奈良に引っ込め」の一言で、何より激怒した。
他の大名は分からない。すでに1600年代には、外様諸侯ですら、
続々と「秀忠」の城下である江戸に、自分の屋敷をたて始めていた。
そして、江戸に政庁を置く方針が固まっていたため、大坂は壊滅させた後完全改造して「首都の記憶」を葬った。
秀吉が生きてた頃の中央政調は伏見じゃないの?
>>198 家康は徳川暗黒史観が広まっていた明治時代ですら、三傑では秀吉に次ぐ人気だよ
雑誌の特集号がある
>>197 確かに豊家譜代衆の存在で家康が扱いに慎重になったのは事実だが、彼らの意向も徳川家打倒にはなかったし、
家康もこの時点では秀頼の処分なんか考えてない。早めに徳川の御家門になっておけばよかったのに馬鹿なことをと言うのが諸侯の大勢を占める
大坂の譜代衆は暴走する牢人衆に付いていけなくなり、冬の陣後にどんどん離脱している
しょせん牢人衆は何の成算もない戦に突入して豊家を滅ぼした逆臣
ちなみに御家門と言えども、この後に忠輝、忠直などは厳しく処断されている
秀頼は牢人を集めて徳川方とことを構えたのだから当たり前
>淀殿と大野
豊臣家滅亡の責任を押し付けられて、かわいそす
責任の有無はともかく
朝鮮帰りで関ヶ原でも兜首取ってる古強者の大野を戦を知らない青びょうたんみたいに
書くのは辞めろw
205 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 19:55:46.10
秀吉に比べると人気が落ちるのは当たり前
秀吉は創業者だが、家康は当主の幼少を利して主家を乗っ取っただけ
天下統一、刀狩、検地など、全て太閤の事跡
やっぱり、人だけ見てても、状況は読み解けないんだよ。
家康が畏れていたのは、ただの秀頼ではなく、「大坂にいる秀頼」だったんだよ。
もっと戯画化して言えば、「家康が畏れていたのは、秀頼ではなく大坂」ww
1600年代(00年代)後半には、人としての徳川(家)は、
天下人家系としての地位を、ほぼ盤石なものにしていた。
誰も、徳川家以外に従おうという者は、存在しなかった。
だが、土地に目を転ずると、状況は一変する。
家康は、箱根より西の駿府に隠居所を作り、伏見と駿府を行ったり来たりしている。
江戸は、全国の大名をかりだして、ぶっ通しで整備しているが、
1610年頃まで、計画上の想定市街地は、伊達政宗が一人で作っていた仙台にすら、及んでいない。
仙台だけではない。北国の前田は、二代目が、高岡に、本格的な都市建設を行う企みを始めている。
この時期、徳川は、「天下人」の権威は得ていても、
「俺たちがいるところが、天下の政庁である」という地理的カリスマは、獲得できていない。
この時期、徳川は伏見も京都も掌握している。でも、「首都制定権」を掌握できない。
秀頼が居座る「大坂」こそが、問題の焦点になるのは、当然だろう。
207 :
日本@名無史さん:2013/01/25(金) 23:52:47.69
>>204 明らかに三成とイメージごっちゃにされてるよな
三成だって中国戦線や淡路、賤ヶ岳で普通に槍働きしてただろ
>>205 その天下統一の際に惣無事令の東国への徹底に不可欠な役割を果たしたのが家康
さらに秀吉が放り投げた朝鮮出兵問題で撤兵から修交までぜんぶ片付けたのが家康
秀吉すらなしえなかった武力凍結政策を意図的に推進したのが家康
秀吉なんて信長の構想をちょろまかして失敗した雑魚、中継ぎ
210 :
日本@名無史さん:2013/01/27(日) 20:04:04.04
中継ぎでしかないのは家康
天下を統一し全国統治システムの基礎を作ったのは秀吉
211 :
日本@名無史さん:2013/01/28(月) 03:10:34.65
一つ上のレスも読めないバカ
幕藩体制は秀吉が基礎を作り家光が完成させる。
やはり家康は中継ぎだな。
>>209 雑魚に臣従して、雑魚が寿命で死なないと天下を取れなかった超雑魚が家康。
ってことになるから、そういう言い方はしないほうがいい。
215 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 01:51:46.17
ただ司馬の気持ちもわからなくはないんだよな。
俺も徳川家康が物凄く偉大な武将なのは理解してるし
秀吉死後の行動だって全然非難されるようなもんでもないし
人格的にも戦国大名の中ではかなりマトモな方だったのも知ってるが
それでも何故か生理的に好きになれないっていうかむしろ嫌悪してしまう。
多分、260年もの間江戸幕府によって神格化され続けたせいで胡散臭く見えるからかな?
俺は似たような理由で山形県民にやたら聖人君子化され
(と同時に伊達政宗や直江兼続へのネガキャンも行われてる)最上義光も嫌いだし。
でも、同じように時の政権主導で神格化された事がある楠木正成や北畠顕家は大好きなんだよね。
>>215 でも司馬の家康像はその江戸幕府の作った実像とはかけ離れた
虚像から都合のいいところを引っ張ってるだろw
217 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 14:54:49.58
新史太閤記では過小評価はされてない。
218 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 18:33:51.47
>>216 江戸幕府の作った実像=家康の実像ではないだろ
東照大権現さまってそんなに江戸時代にも
人気あったようにも見えない
明治42年1月1日に発行された冒険世界という雑誌の付録「全世界英雄番付」
東洋編
1 豊臣秀吉 2 チンギスハン 3 徳川家康 4 西郷隆盛
5 北条時宗 6 始皇帝 7 諸葛孔明 8 源頼朝 9 伊達政宗
10 織田信長 11 源義経 12 毛利元就 13 フビライハン 14 上杉謙信
15 武田信玄 16 源為朝 17 加藤清正 18 楠木正成 19 北条早雲
20 坂上田村麻呂
元勲・西郷隆盛や織田信長より家康のほうが明治人にはずっと英雄として認識されてるわけで。
ちなみに御雇外国人レフ・メチニコフの日記でも家康は「乱世をおさめた偉人」として認識されている
天下統一は秀吉の事業じゃないかと言われそうであるが、「豊臣の平和」はわずか数年で文禄慶長の役、それの後遺症としての関ヶ原の戦いで崩れ去っている
それに引き替え、パクス・トクガワーナは1615年から幕末まで250年にわたって続いている
>>219 「冒険小説」って編集長の作家・押川春浪氏の色が濃い独特の雑誌。
無差別に選んだ読者からのアンケートじゃなくて
冒険小説愛読者のアンケートなのでかなり偏ってる。
>>218 東日本では、結構広く信仰されていたようだよ>東照大権現
秀吉と信長の生誕地ずばりでもある、尾張名古屋だが、
からくり人形を載せた中京方面の山車の本場とされる、名古屋城下町最大の祭礼は、
江戸時代には、家康の命日に行われる東照宮祭だった。
明治以降gdgdになり、戦災で山車が9割方焼けてしまい、今では面影はない。
外様の仙台にも似た事情があって、
もともと天満宮があったとされる、オカルト的にも大変に重要な地を、東照宮に置き換えて、
仙台の鬼門を、なぜか家康が守る形になっている。
仙台城下最大の祭礼も、江戸期には東照宮祭だったらしく、
伊達政宗を祀る青葉神社を建てて、政宗の命日に「青葉祭り」をやるようになったのは、
明治以降のことらしい。
大坂にも東照宮があって、実際の大坂は、大坂の陣のあと、徳川氏が整備しなおして、
官需の物流を集中させて復活させた、「徳川の商業都市」なのだが、
東照宮に対しては、すでに江戸後期には、大坂の町人は冷淡だったそうな。
222 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 20:10:02.78
>>221 そら江戸時代には御家門の城下町には藩主が建てさせた天満宮があったし、
当然東照宮の祭礼もあった。
伊達忠宗は徳川家康の孫娘(秀忠養女)を正室にしておりやはり東照宮を遷宮。
そうすることが徳川将軍家への何よりの忠誠の証にもなったしな。
しかし、庶民人気があったかということは別物だろう。
庶民人気があったならば、徳川幕府が倒れた明治以降も、
地元民が東照宮の衰退を喜ばず、家康公の祭りを盛大にやっただろうから。
>>220 少なくとも家康は明治期の教科書では「偉人」として扱われている。
庶民人気がなかったら雑誌の付録とはいえ西郷超えなんてあり得ねえぞ。
ちなみに家康=権現様の事績については、明治期の御雇外国人が
庶民の芝居やら日本の通史やらを調べたあげく、英雄・偉人として認識してるんだって。
今だって家康と言えば、海外じゃ日本最大級の英雄として一般的に認知されている。
あと大衆小説のジャンルでも芳川英治、山岡荘八、山本周五郎ら圧倒的多数派は、
人格的にも家康評価派だからね。司馬みたいに家康を低評価する奴のほうが少数派。
>>223 教科書に「偉人」という項目はないw
それに、パクス・トクガワーナは、大航海時代に続き
植民地支配など戦争続きだった同時代のヨーロッパに比べ
日本の江戸時代は鎖国して海外からの影響を受けず海外へ派兵せず
大きな戦がなかったことを指していうもの。
徳川家康個人を評価したものではない。
偉人として「扱われている」と言うのが読めないのかお前は。
パックス・トクガワーナにしたって、家康の明確な国内の武力凍結政策から始まったのは明確なんだが。
だからこそ大坂城の和議で、大坂が牢人諸将を召し抱えたままだったことに対して違約と把握しているし、
家康没後になるが福島正則の処分でも、城破りを形式的な降参の作法と捉えた福島と、実質的な成果を求めた幕府で不可避的な対立が発生してるんだよ。
これだけ明確な構想を持っていた家康個人への評価ではないとか、詭弁もはなはだしい。
お前の理屈なら自分の没後に、全国的内乱に発展したお家騒動引き起こしてる秀吉はますます天下統一の評価に値しない理屈になるぞ。
>>222 もし、本当に有難がられていないのなら、大坂の東照宮がそうであったように、
公儀のお義理以外では、見向きもされないようになる。
城下最大の祭礼として、何百年も維持できるはずがない。
しかも、仙台城下の古い祭礼の山車は、風流山車であって、毎年趣向を凝らして作り直すものだった。
(今の花巻や北上の山車に近い。全国的に知られたイメージでは、システム上青森ねぶたに近い)
お義理だけで、こんな大層な行事を行うかね?
仙台には、他にも有力な神社はたくさんあった。そっちの氏神祭を発展させたって良かった。
都市の町人祭としての東照宮祭は、明治以降、軒並み消え去っていく。
だが、仙台の例が典型なのだが、
「祭りの枠組みを、家康から地元武将に置き換えてパクっている」んだよね。
「政宗の命日に青葉祭」というのは、あたかも伝統として馴染んでいるようで、
実は、「東照宮祭の伝統の、意図的な祭神すり替え」にすぎない。
列藩同盟の地域は、戊辰戦争で、二重の意味で、徳川的なるものが、否定されているはずなのだ。
その上で、屈折した形で、郷土意識が生まれている。なのに「おまえらトンキン万歳だろ」と揶揄される。
そこには、実際にはねじれた形での、奇妙な徳川側への崇敬意識があった。
本人には自覚がないのに、西国の人は、そこに変な徳川臭を見るのだろう。
会津藩士なんて、実際のところ、雪も降らないところからやってきた、ただの赤味噌野郎だぜ?
228 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 21:23:20.64
>>226 偉人として扱われている事実はない。はい、論破。
江戸幕府創設者という以上の評価は与えられていません。
パックス・トクガワーナは江戸幕府の治世350年に対する評価。
途中でどこかの将軍が開国してしまい海外派兵でもしようものなら
それですべておじゃんでござる。
うち、家康の治世わずか2年。
家康の生涯は死の前年まで戦争に明け暮れた上
大坂の町の大半を焼けきり8歳の幼児を殺すなど残忍なことをしている。
鎖国の成果は様々だ。
日本は文明に乗り遅れたわけだから。
パックス・トクガワ-ナは賛否両論。
229 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 22:26:56.50
家康が好きな人って、江戸幕府の功績の全てを家康の功績にしようとするよね
拡大しすぎなんだよ
230 :
日本@名無史さん:2013/01/29(火) 22:51:43.77
家康が死んでから島原の乱がおこってるし。
>>227 年に一回の祭りは昔から日本にあるもの。
江戸時代は藩主自ら、東照宮を信仰せざるをえなかったため
藩を上げてやってたからでしょ。
地元民には徳川家康に思い入れがなかったために、
天満宮を庇護する藩主がいなくなった明治以降、
あっさり他の祭神の祭りを盛大にやるようになった。
それ事態、家康好きじゃなかった証拠なんだって。
おなじみ、豊臣秀吉関係文書研究会の研究成果をまとめた、
「偽りの秀吉像を打ち壊す」(柏書房)が刊行されましたね。
徳川政府の罪は、奇計を用いて天下を簒奪したことや日本の針路を誤ったことはもちろん、
自身を正当化し秀吉の治世や業績を貶めるべく、歴史を捏造し、今日に至るまで一般大衆の歴史認識を歪めさせていること。
それが近年、山本博文・堀新・曽根勇二氏らの研究成果で修正されてきているわけで、
少しでも多くの国民に広まるといいな。
234 :
日本@名無史さん:2013/02/02(土) 07:05:42.69
『河原ノ者・非人・秀吉』 服部 英雄 (著
では、逆の意味で知られざる秀吉像が出てくる。晩年、ささいなことで血縁者、側近とその係累を
無残な仕方で殺生しまくっているという情報が、フロイス『日本史』に色々あるらしい。
フロイス『日本史』は徳川政権による秀吉像の捏造とは無関係なわけだから、
このあたりどう位置づけられるのか興味深い。
>>233 いまだに鎖国なんて言ってる山本じゃ話にならないよ
だいいち、前作も2,3年前にその面子で書いてるけどまったく広まらなかったでしょ
その二番煎じが当たるとでも思ってるのかと
それも当たり前の話で、研究者の流れは圧倒的に江戸時代再評価
いくら山本が吠えてもあと100年は変わらない
>>230 島原では松倉が斬首、寺沢が改易だ。
謀反でもないのに斬首なんて厳罰下したのは家康の武力凍結政策が示した方針の具現化だろ
江戸幕府は民衆の武装に対してはまったく容赦してないよ。
そして島原を最後に民衆の無差別的蜂起は発生しなくなり、一揆・打ちこわしに作法が形成された
島原の乱の両成敗を契機に、日本では平穏な形態での請願が普及して、現代の議会制まで繋がってるわけ。
民衆の武装が引いては大名の紛争に繋がってるんだから強訴や村落の闘争の厳禁は当たり前の話
それによって暴力が公権力に独占されることになった
天に唾してどうするんだと。ちなみに民衆の武装を禁じつつ年貢をほぼ開発に回して17世紀の高度成長を実現したんだけどね
家中すら制御できず10年で崩壊した豊臣政権にこれに匹敵する業績はあった?
秀吉の処断が信長や家康以上に過酷を極めて、庶民の反感を買ったのは有名だろ。
豊臣政権は正当性の問題をとっても外征政策をとっても後継者問題をとっても、そこまで無理しなきゃいけない政権だったんだよ
その外征政策は信長の構想のパクリだし
断言してもいいが、お前が17世紀前半に生きていたら一も二もなく徳川体制の武力凍結政策を支持するよ
第二次大戦から戦後の成長への転換に匹敵する政策転換を取り仕切ったのが家康
しかも家康は通商では秀吉以上に関心を抱いていた
公使による太平洋横断は勝海舟が最初じゃないから、法螺話を史実と間違えるなよ
>島原では松倉が斬首、寺沢が改易だ。
>謀反でもないのに斬首なんて厳罰下したのは家康の武力凍結政策が示した方針の具現化だろ
島原の乱は、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。
なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業、漁業、手工業、商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。
重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。
年貢を納められない農民に対し残忍な拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っている(その残酷さは反カトリックであったオランダ人すら辟易させるものであった)。
次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し過酷な取立てを行った。
松倉、寺沢への厳罰は搾取によって無用の乱を誘発したから。
>近年、山本博文・堀新・曽根勇二氏らの研究成果で修正されてきているわけで、
石田三成も一時期「凡将説はウソ→関ヶ原の結果は偶然」みたいな論理飛躍の「修正」がはびこったけど、
すぐに三成の能力は能力として認めたうえで
「松尾山占拠の時点で大垣城は詰み、政治的にも大義名分は家康にあり」と言う再修正になってるよ
山本のやってるのもまさにそれ。秀吉の「ポテンシャル」だけを見て、それ以外の要素を一切見てない
「秀吉は凄い奴だったんだよ→だから豊臣政権が続くのが正しいんだよ」などと言う混同はまったく成立しない
>>236 だから、搾取した領主を「斬首」と言う最も重い不名誉刑に処してるじゃないか
秀吉が大名を「斬首」した例があったら、挙げてみて。
九戸政実
山本ら秀吉関係文書研究会の説は、別に「豊臣政権が続けばよかった」と言っているわけではなく、
本当は、徳川も豊臣の全国支配構造の中に完全に序列化・埋没されていた、という真実を明らかにしただけ。
だから、彼らの研究成果はそれ単体として純粋に今日の日本の財産になった。
ま、別の角度からの見方で、豊臣政権が続けばよかったとワシは思うけれど。それは個人的な意見
徳川家の領地は太閤検地は行われていなかったと思うが
>>238 >武力凍結政策
なぁ、このスレで↑の言葉が入った珍妙なレスは全部君なのか?
何が「だから」なんだ?
その馬鹿げた言葉をきちんと定義してみろよ
これまでのどのレスにそんな主張がある
自分もその言葉に違和感を感じていた。
刀狩は違うのかね。
刀狩は民衆の武装を解除すると言うより、士農の身分的徴表を明らかにするのが主目的
徳川時代を通じての民衆の武装解除と、豊臣政権期のそれとは質も量もまったく違う
>>239 九戸政実は公儀に対する謀反人として斬首に処されており、領民への搾取によって斬首にされているわけではない
謀反人への斬首なんて古代からあるわ
>>242 学界の一部で使われているけど、江戸時代は武家政権と言う建前と、中世戦国を通じての大量の民間の武器保有があって、
武器の保有それ自体を禁圧できたわけではなく、ただ武力の発動を徹底的に「停止」させる政策を取っている
これは上方の町人たちの強い支持を受けている
豊臣公儀も武力凍結政策を取っているけれども、政権じたいが外征を行ったこと、その後に内乱が勃発したこともあり、
ほとんど説得力を持たなかったよ。家康も朝鮮出兵の段階では決して反対派ではなかったが、国是を世論の不満と合致させたことは事実
藤木久志とか使ってるんじゃね
家康にとっては文字だけでなく故事も良く知ってて便利な人間辞書
祐筆に毛が生えた程度の存在だった林羅山を天海、崇伝と同ランクの政治顧問
だったかのように粉飾し
家康が朱子学を重んじていたと捏造したのは松平定信だけど
鎖国が神君様の決めた国法だと捏造した犯人は誰だ?
>>244-245 >刀狩は民衆の武装を解除すると言うより、士農の身分的徴表を明らかにするのが主目的
江戸時代でも豪農・町人に制限はあっても所有自体は認められていたが
>秀吉が大名を「斬首」した例があったら、挙げてみて。
横レスだが、後から条件を次から次へと付けていくのではなく、言いだしっぺが言葉を明確化させることが先じゃねぃ?
>江戸時代は武家政権と言う建前と、中世戦国を通じての大量の民間の武器保有があって、
>武器の保有それ自体を禁圧できたわけではなく、ただ武力の発動を徹底的に「停止」させる政策を取っている
前段は正しいが、後段の武力の発動を徹底的に「停止」させる政策ってのは不明確「権限」ではないんだよね?
>豊臣公儀も武力凍結政策を取っているけれども
惣無事令のことを言っているなら認識が誤っている
>>244-245 秀吉の政策が完璧だったなんて思わない。
ただ江戸時代の基礎が作られたのは秀吉から家光の時代にかけてだよ。
家康が始めじゃない。
>>249 そういう話なら、信長から室町幕府という具合にいくらでも遡れる
スレタイが間違ってるんだよ
司馬の家康感は明治時代の古い歴史認識に立脚しとるから今の目で
見ると古くさいってだけで
幕府の政策への影響力なんかはむしろ過大評価気味
「過小評価」じゃなく「キャラが違う」って感じだな
前の方にもあるけど史実の「生涯プッツン」家康とキャラが違うって点では
山岡荘八と変わらないという
家康低評価、秀吉高評価は福沢諭吉が原因かと『文明論之概略』
>>252 家康は日頃から怒鳴りちらしたり駄々こねたりしてたから
ストレスがたまらず長生きしたのかもなw
>>250 誰が見ても中世に区分される室町は言いすぎだわ
家康が羽柴、豊臣を名乗ってたっていうのは本当?
豊臣家康、羽柴秀忠。とても名誉な氏姓賜与やんか。
しかも、徳川も「武家清華家」の一つに数えられたんやで。
どこの馬の骨とも分からん存在なのに、とても有り難いことよ。喜べや!
>>248 >江戸時代でも豪農・町人に制限はあっても所有自体は認められていたが
当初の主張が「刀狩も武装解除ではないか」
>>243と言うものだったのに対して
「刀狩は身分徴表を示すのが主目的」と反論したのに、「江戸時代でも制限つき武器所有は認められていた」
というのはどういう反論になっとるんですか?
武器所有は現代欧州や戦前の日本を見ても分かる通り「制限つきで認める」のは何ら異様なことではないよ。
>横レスだが、後から条件を次から次へと付けていくのではなく、言いだしっぺが言葉を明確化させることが先じゃねぃ?
横レスなら、島原の乱の斬首と、公儀への謀反と見なされた行為による斬首の違いくらい理解してからレスしたらどうか。
>前段は正しいが、後段の武力の発動を徹底的に「停止」させる政策ってのは不明確「権限」ではないんだよね?
単純に豊臣政権は全国統一から政権を維持できたのがわずか10年
家康から三代はかけた江戸幕府とは施策の徹底度が比較のしようもない
>惣無事令のことを言っているなら認識が誤っている
惣無事令と言うか、喧嘩停止令類似のものは秀吉の時代から出てる。
ただし家康はその徹底をより明確にしている。
>秀吉の政策が完璧だったなんて思わない。
>ただ江戸時代の基礎が作られたのは秀吉から家光の時代にかけてだよ。
>家康が始めじゃない。
「だったら秀吉も…」というツッコミは既に入ってるようだが、
豊臣政権はまず「家光の時代」まで天下様として後継する体制すら作れなかった。
そこで家康との差は歴然。終了。
秀吉過大評価論者って「豊臣家が続いてたら家康と同じことができた」と言うけど、
そもそも豊臣家が続いてない時点で負け。ここで納得するのが一般人
「続いてない時点で負け」に納得できず「断絶させたのは家康」と地雷を踏むのが司馬以下の信者。
だったら秀吉政権への家康の協力も抜かないとアンフェアだし、
家康が天下を簒奪したのは、彼と何ら関係ない豊家の譜代衆の争いが契機なので、反論も不適切。
>>260 「島原の乱の認識を誤っていた」ですむ話なのに、突っ走るからそれまでの話と整合性が取れなくなっちゃったことに気づいていないでしょ
俺は236-242-248であって他は関係無い
脳内で完結させずにさぁ「武力凍結政策」をきちんと説明しようっていう気は全くないの?
武力の発動を“徹底的”に「停止」させる政策とは何か
豊臣公儀も武力凍結政策を取っているけれども、政権じたいが外征を行ったこと、その後に内乱が勃発したこともあり、 ほとんど説得力を持たなかったとは誰の論文か
喧嘩停止令類似のものとは何か
この四つに答えてくれ
き・み・の言葉を明確化させることから逃げて、間違った思いつきによる言い逃れを永遠に続け、こちらは何時までも妄想を正し続けなければならないのかい
>>262 何が間違ってるんだ。島原の乱を契機に民衆側は無秩序な蜂起を自粛して作法ある抗議に切り替わり、
一方で仕置の失敗で斬首の処分を食らったのも事実だろ。
武力の「凍結」の例としては、例えば民衆の保有する武器の扱いがそうであったり、「城破り」がそうであったりする。
このスレに書いてあることを読んでみろよ。
福島正則の改易や大坂城の講和条件を「破った」と見なされている行為は、
徳川方にしてみたら、武力発動を半永久的に「凍結」させることを命じたのに福島や大坂方が従わなかった、
つまり相手のほうこそ違約をしているという認識によってる
ほんと無知ね
他人を無知だと罵るなら論拠を提示してね
スレに書いてあるというならレス番を明示するぐらいのことはできるだろ
令なのか文書なのか何を根拠にしての発言か明らかにできないのは、
きみがこの種の掲示板を読み漁っただけだからであって、
きみが自分に都合の良い書き込みを、フィーリングのみで理解した心算になっているから
豊臣政権の認識が数年旧いのがその証左、
誰かがネットに書いた与太書きを、ソースも確認せずに続けられている伝言ゲームの末端にいるのがきみだというにすぎない
違うというなら、自分の発言が何に基づいているのか即座に答えられるはず
きみのように人前で発言する資格の無い子供に、何を間違えているのか指摘し続けても無駄だということは、
経験上よく分かっている
俺様の演説を聞け!というスタイルを変えないなら、それはそれでかまわないけど
家康って自分で天下統一できなかった雑魚でしょ?
この時代で自分だけで天下取った人っていたっけ?
これまで関ヶ原合戦後の政治体制は、1つの説として二重公儀体制が主張されてきた。
…しかし、これまでの研究で批判されてきたように、遅くとも二代将軍秀忠が征夷大将軍になった慶長十年(1605)を境にして、
徳川公儀は徐々に優越的な地位を占めるようになってきた。
…関ヶ原以降、家康の目的は秀頼をいかにして、ほかの大名と同様に配下に収めるかにあった。
ところが、従来はおおむね家康が豊臣家の滅亡を企図して、着々と準備を進めたとされる。…果たしてそのように考えてよいのだろうか。
(中略)
…徳川方は、豊臣家を大坂冬の陣で潰すことなく、和睦によって解決を図ろうとした。
潰そうとすれば、豊臣家を潰すことができるはずである。
ここで改めて家康が提示した和睦条件を考えてみると、主たることは
@淀殿を江戸へ人質として送ること、A秀頼が大坂からほかの場所へ移ること、B大坂城に籠城した浪人衆を追い出すこと
に集約されよう。…家康からすれば、豊臣家が指示に従い、言うことさえ聞けばむやみに争う気持ちはなかったと考えられる。
…@Aの履行を求めないことは、徳川家の最大の譲歩であった。
しかし浪人衆は一向に大坂城を退去することなく、一部の豊臣家の重臣の不穏な動きが伝わることになった。
ここまで来ると、さすがの家康も他の大名に示しがつかなくなる。もはや豊臣家を滅亡に至らしめるより方法はほかになかったのである。
家康にしてみれば、むしろ当初の意図に反して、豊臣家を潰さざるを得なくなったと言うのが実情であろうと推測される。
…徳川公儀成立の過程において、豊臣家が臣従を潔しとしなかったため、やむを得ず滅ぼさざるを得なくなったとすべきであろう。
そこに至るまで、家康は最大限の努力あるいは譲歩をしたと考えてよいのである。
>>264 >他人を無知だと罵るなら論拠を提示してね
城わりについて、例えば大坂の陣以降の江戸幕府は「城の防塞新築・新規召し抱えの完全停止」を求めている。
大坂の陣での牢人衆の退去条件、および「惣堀」の解釈についての双方の相違は今さら述べるまでもないだろう。
たとえば福島正則は大坂の陣の6年前にも城普請で幕府に糾問されて許されているが、
家康は大坂の陣の直後に一国一城令を発し、これは従来と比較にならない強い規模で遵守が求められている。
5年後の福島は従前のごとく形式的な城の破却のみで済ませようとしたが、これは許されなかった。
おれの演説どころか、この程度の史実はその辺ググって当然知っていてしかるべきだと言ってんだよ。
>令なのか文書なのか何を根拠にしての発言か明らかにできないのは、
「喧嘩停止令」と言うのは、当然知っていると思うが、そういう個別の正確な法令名があるわけではない
たとえば豊臣政権下では「天下ことごとく喧嘩御停止の法」への抵触などと言う事件名、総称によって語られる。
お前のはなんか厳格故意説を聞いてるような感じだな。
>豊臣政権の認識が数年古い
その具体的根拠は?
お前の言い分によれば、数年古いと言うならソースをあげて「何が、何と比較して、どのような点で、どのような研究によって数年」古いか明示しなくてはならないはずだが。
徳川方の和睦条件は夏の陣直前に至るまで明確で、大坂方が牢人衆の暴走でメルトダウンした結果、
武力による討滅と言う事態にまで至ったとしか考えられない。
徳川公儀への臣従。
および、牢人衆の切断。
牢人の取締は幕府政策でもあったから、大坂だけが大規模な違反行為を続けてよいわけがない。
大坂はそのいずれも拒否するどころか、講和後の3月に早くも新規入城者の存在が問題となり、
和睦の当事者である大野治長らの知る所でもなく、和睦に尽力した織田長益らが収拾を諦めて城を出ざるを得なくなっている。
徳川方としてはもはやだれをカウンターパートとすべきか分からない状態で、これでは成敗されるのは当たり前。
>>264 >スレに書いてあるというならレス番を明示するぐらいのことはできるだろ
いまスレを読んだら、「城わり」について江戸幕府が対処を厳格化したと言う指摘は既に
>>36で出ている。
ちなみに「数年古い」と言う認識がまさか2年前に出たコレ↓に依拠しているのだとすれば中身読んでないんだろう
「豊臣秀吉と『豊臣』家康」(「消された秀吉の真実−徳川史観を超えて」、山本博文)
「小牧長久手の勝利」なんて神話はいま徳川公儀の優越性に評価を与える論者も大して支持してない。単に笠谷への反論だろ。
山本本って、この前のやつもそうなんだが、書名が実際の内容とくらべて攻撃的というか陰謀的なんだよな。
あと、この書籍ではちゃんと秀吉政権の末期に政権基盤がぜい弱化していたことにきちんと触れている。
272 :
264:2013/02/22(金) 20:52:05.67
飛ばし読みしたけど
聞かれたことには答えられないから関係ない話で誤魔化します
ということが書かれているでFA?
自分で言い出した「武力凍結政策」ですら「城わり」に置き換えて逃げるのか…
他人を罵るだけで、自らの論拠すら明確化できないことを「モノシリ」と言うのなら
君の言葉でいうところの「無知」と呼ばれても一向にかまわないよ俺は
日本語での意思疎通ができないようだし
家康評価のスレではなく
「司馬遼太郎」のと冠してあるスレタイの読めないお前も日本語能力問題あるけどな
このスレで“「武力凍結政策」を口にする奴”に、レスを付けるのは皆
日本語能力がない
ということでO.K.
司馬は地元贔屓で徳川が嫌いとよく聞くけど、
織田にも豊臣にも徳川にも縁もゆかりもない田舎に住む身としては、そういう気持ちはよく分からんな。
関西人の東京嫌いというやつだろ
俺に言わせれば、信州の三地域対立の方がよほど分からん
まだ津軽とかの方が心情的には理解できる
司馬は大坂の陣で物資搬入の生命線だった木津川口の戦い(19日)、博労淵の戦い(29日)には触れないね。
後者は薄田兼相が橙武者だったというエピで紹介しているが、これで勝敗の帰趨が決まり、
今福や鴫野も徳川方に接収されて長期籠城すら厳しくなっていた事実は意図的に無視している。
上にもあるけどむしろ過大評価してる面もあるよな
家康死後の主に秀忠が将軍・大御所時代に推し進めた施策によって
幕藩体制は完成したのに
家康が作り上げたみたいな書き方してる
晩年はさすがに年相応に老獪さも身につけてはいたが
基本的にあわてん坊でうっかりさんだからな家康w
秀忠がいなかったら短命に終わったか、あるいは鎌倉幕府のように乗っ取られたかも
家康、秀忠共に死んで
忠輝が後継いで外戚の伊達政宗に乗っ取られた火葬もあったな
秀頼の卑劣な瀬戸際政策に対して、正義の鉄槌を振り下ろそうとした秀忠や政宗を押しとどめ、
最後まで和平条件を提示し続けた家康の度量が偉大すぎてこわい
>>277 木津川口の戦いに触れると、司馬がageまくってた牢人5人のうちの1人、明石全登の惨敗に触れなくてはならない
夏の陣でも八尾方面で長宗我部勢が大打撃を被った事実に触れていなかったり、
冬の陣では佐竹勢の苦戦には触れるが、その後で上杉勢が側面から攻撃を加えて大坂を退かせたことも触れてない
だから小説だけ読んでいると、まるで大坂方が勝っているのに謀略で和議に持ち込まれたような錯覚に陥る
現実には家康は冬の陣で攻撃と同時に和議も進めており、牢人衆と大坂の分離、徳川への臣従さえ担保できればよいと言う態度だった
この点で秀忠とかなり対立している。
>>272 城わりは夏の陣の直後、諸大名が帰国前に一国一城令と言う形で誓約させられている。
もちろんこの時は家康存命。
なぜ城わりの徹底が豊臣平和令ならぬ「徳川平和令」の例示とならないのか、弁明を求める。
秀吉政権の時代にも城わりは行われていたが、以下の点で、特に大坂の陣後のそれと徹底度が違う
@中央政権による被征服地が主たる対象で、さらに大名が破却対象の城の取捨選択を行い国衆の城の破却のみが先行したこと
A豊臣政権自体が朝鮮出兵で肥前名護屋城の築城などを行っていたこと
さらに秀吉の没後の内乱期に再び築城が行われ、定着しなかったこと
(徳川政権も二重公儀体制の時期に築城を行っているが、大坂の陣後に自らも普請を停止して、
築城統制の徹底を定着させようとしたこと。これは諸大名の認識にもうかがえる)
B城わりが形式的なものでなく、構築物を全て破却する実質的な程度まで強いられたこと
あと徳川公儀は有力諸侯の合議ではなく、徳川譜代の家臣によって運営されていること。
武家諸法度なども豊臣政権と異なり誓詞の交換などによるのでなく、秀忠による発布の形を取っていること。
家康から秀忠への権力継承が円滑に進み、秀忠を頂点とする徳川公儀が大坂討滅時に10年を経過していたこと。
などから、機構としての安定性はかなり異なる。武家や民衆武装の統制や紛争についても、長期的で一貫性のある政策体系を打ち出すことが可能だった。
はい反論どうぞ。ろくな反論もないようだし、これでも反論がなければイチャモン吹っかけたあげく議論を放棄して逃げたと見なす。
>>279 秀忠の早世と言う仮定はもちろん考えられるが、家康は秀吉と異なり男子が何人もいたし、
何より秀吉と異なり関白に就任させて表のトップにした甥を自刃に追い込んで後継体制を混乱させるような愚は犯してない
伊達政宗?何言うてんの。あのオッサンは関ヶ原の後には豊家の臣従を促すべしとする強硬派に属するんだが
つか、家康・秀忠が健在で幕府が盤石だった史実での行動なんて
幕府の屋台骨が揺らぐ+外戚として権力振るえるという立場での行動の参考になるかよw
史実のように幕府がしっかりしてりゃ大阪役でも起きてくれないと加増の機会はないからそりゃ
強硬派にもなるわw
>>285 >>279は明らかに「徳川の後継体制が弱体化して外戚が乗っ取る可能性がいくらでもあった、例えば政宗なw」
と言う主張じゃないか。仮想だとか今さら誤魔化すなよ。ちなみに政宗は秀頼を大坂で放置することが将来、内乱の種にならないか、
関ヶ原後の早い段階で憂慮しているし、冬の陣の講和に「家康の意思に異を唱えて」秀忠派に属した諸侯にあたる
ちなみに女婿である忠輝は豊臣家とは比較的接点の多い家康の子。なのに「外戚」は対豊臣強硬派なんだが
色々見ても、後継者が混乱しまくった豊臣政権の転覆の可能性と比べて江戸幕府が転覆する可能性なんてはるかに低い
結局、豊臣家は大野・織田有楽あたりが諸侯の足並みの乱れを利用して家康と条件闘争に入ろうとしたら、
福島にすら諌められる有様でまったく目論見が外れ、目論見が外れたので家康と慌てて講和したら、
今度はリストラされる牢人衆が騒ぎ出して有楽さんを追い出すわ、大野さんを襲撃するわ、
好き勝手したあげく自滅した
秀頼はデブすぎて出馬すらできなかったと言うただそれだけの話なんだよw
>>287 誤魔化しもなにも
わざわざ「仮想」ではなく「火葬」と書いた意味わかってないだろこのバカw
はいはい誤魔化し乙
秀吉の意を受けた前田玄以が、早い時期から朝廷勢力に関与し、相当部分意のままにしてきた。
これに関連する記録・日記類原本から、玄以の仕事部分を抹消して写しを作り、広めていった、インチキ徳川文化ワロズ
家康は本当は豊臣家を滅ぼしたくなかったのに、豊臣家の方が空気を読めなかったから。。なんて、絵空事も甚だしい。
あの名古屋城の本丸、大天守‐小天守の造りを巡る話からも、早くから臨戦態勢やんか。
>>292 名古屋に関しては、家康の設計が、大坂対策だとしても、それでも壮大過ぎるんだよなあ。
現在の経済規模のおかげで、逆に騙されているところがあるが、
尾張のあの位置に、あんなに大きな城郭と、壮大で合理的な近世城下町を作る必要は、
単に秀頼を滅ぼす戦争のためだけなら、さまざまな反攻の想定をしても、実はなかったりする。
同じような、一見イミフの、極度の余裕のある縄張りとしては、他に仙台があるが、
これは、伊達政宗が、天下取りの妄想を捨て切れていなかったことを示唆すると言われる。
だとすると、名古屋は更に謎だよね。
294 :
日本@名無史さん:2013/03/04(月) 22:15:36.24
江戸時代が明治より良い時代だったとか思ってる人が世の中に結構いるのに驚く。
だからって秀吉が良かったとも思わんし、奈良時代が良いとも思わんけどね。
というか江戸時代って豊臣政権の政策を引き継いだものだからね。
大名でもないのにいまだに江戸時代を支持してるのは、損得勘定すらしたことがないんろ。
色々名目着けて献金強要される大商人や大棟梁以外の
商人や職人にとっては税金のない江戸時代の方が良かったろ
>>295 たしかに一部の商人や職人は良かったかもしらんが、
商人や職人は税金を納めないから、幕府がいろいろ規制してたんだろ。
297 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 11:44:24.59
2ちゃんねるは秀吉サゲ家康アゲは異常に多いよ
特に日本史板は在日の書き込みが多い
朝鮮民族を攻めた秀吉は無能のボケ、日本はどこにも出兵しませんと約束した
家康は朝鮮人の仲間だそうな
仮に秀吉が存命でも朝鮮を占領して維持できたとは思えないんだけどな。
299 :
日本@名無史さん:2013/03/05(火) 12:43:53.92
チョンの書き込みが多いな
>>299 秀吉存命中に本気でやっても、朝鮮南部を占領してただけなんだから、
その後に頑張っても朝鮮北部の占領は難しいだろ。
今の時代と違って対馬海峡を渡るのは大変な時代なのに、
南部だけ維持し続けるのは大変だ。
琉球に攻めようと朝鮮人からしたら知ったことではないからな。
>>297 チョンチョンいいながらそのチョンの妄想史を鵜呑みにするような
頭の悪いお前は知らないだろうが
秀吉が朝鮮攻め込んだせいで
朝鮮人よりも出征負担でむしろ日本人の方迷惑したんだがなw
朝鮮人で迷惑したのなんてふんぞり返ってた王族や両班だけで
大多数の民衆は元々生き地獄だから大差ねえw
中には日本軍を歓迎して見チンないした奴らまでいたんだぞw
道案内なw
そーいや扱いの悪い朝鮮ヘの帰国を断り、日本への帰化を願った
陶工をまるで故国に帰りたかったかのように書いたのも司馬だな
完全にウリナラファンタジーへの荷担だw
収奪するのが両班から日本軍に変わっただけだからな
しかも日本軍は必要な分しか徴発しないけど
両班は色々理由着けて法定分の税以上の物まで根こそぎ持って行くというw
306 :
日本@名無史さん:2013/03/07(木) 14:22:28.97
>>303 さすがチョンはすげえやw
向こうで豊臣秀吉と言えば悪人の代表だぞ
日本人にとっては大出世の最たる英雄なのに
>>306 >さすがチョンはすげえやw
機能性文盲乙w
>向こうで豊臣秀吉と言えば悪人の代表だぞ
禿げ山が多い、寺院が少ないといった関係ない事まで秀吉のせいにされてるからな
都合の悪い事を全部日本のせいにするいつもの朝鮮クオリティだろw
なんでお前らって朝鮮嫌いなくせにあいつらにの言う事をちゃんと検証しないで鵜呑み
にするわけw
>日本人にとっては大出世の最たる英雄なのに
歴史に詳しくないやつにだろw
なんで「太閤記」が出世の階段登り切ったところで終わると思ってるんだ
「主人公からラスボスにクラスチェンジ」が歴史好きのイメージだよw
どうして、かまってちゃんをスルーできないのか
>>275 >>276 スレ違いかもしれないけど、
大久保利通の遺骨が平成になってようやく里帰りできたという話を聞いたときは、
いくらなんでもあんまりじゃねーか、地元贔屓や判官贔屓ってオソロシスと思ったな。
>>307 >寺院が少ないといった関係ない事まで秀吉のせいにされてるからな
何しろ李朝の廃仏から守ってやった仏像を「盗んだ」とか言ってくるカスですからね
政権維持に失敗したのだから、政治家としての秀吉には辛い点が付けざるを得ないな
秀吉は秀次事件を引き起こした上に、小早川隆景と言う後継構想のキーマンを次々に失ってるから
東国仕置を家康に頼るほかない状態だった
家康が慶長16年(大坂の陣の3年前)の秀頼との会見の時点で大坂討滅を決意したなんて全く史実と異なる
7月の方広寺鐘銘事件から半年足らずで大坂が10万の牢人を集められるわけもなく、
冬の陣で家康は最初から和睦を前提として強攻を抑えていたことからも明らか
家康が豊家討滅の決意を固めたのは、夏の陣の直前の段階
一方で大阪方は駿府の家康には恭順の姿勢を見せる一方で
江戸の秀忠政権には楯突くという不可解な行動をしている
両者が一体の物である以上無意味な行動だが
当時、家康と秀忠の親子関係がしっくり行ってないとか
徳川家が大御所派と将軍派に分かれてる、といったような風聞でも
流れていてそれを鵜呑みにでもしたんだろうか
314 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 08:42:43.15
先日、本屋で立ち読みしてたら
徳川家康の強さの秘密は
戦国最強の三河武士と
繰り返し強調されていた。
315 :
あ:2013/04/30(火) 14:38:04.25
司馬の家康嫌いは、単に江戸に幕府を開いたのが理由だ。関西圏だったら嫌いになってない。
316 :
日本@名無史さん:2013/04/30(火) 17:24:02.18
司馬は頼朝嫌いじゃないよ?
同じく東国に幕府を開いたが。
317 :
日教組は日本の癌細胞:2013/04/30(火) 17:41:31.89
318 :
.:2013/05/01(水) 06:42:00.84
>>316 言葉足らずだったな。あの家康でも畿内に幕府を置いたならば、司馬は家康を不快には感じなかったと思う。
つまり、秀吉好きの司馬が徳川嫌いになるのに、江戸での幕府は十分に要素を満たした。
司馬が家康を嫌いな理由
@イメージ…外交より内政、通商より鎖国、暗黒の江戸時代と言う偏見
A倫理的偏見…主家である豊臣家の天下を乗っ取り、遺児を滅亡に追い込んだ
B大坂パトリオティズム…関東に大坂が打ち負かされたのが悔しい
結論的に言うと@Aは完全なる誤り、Bは司馬の勝手な被害者意識
暴走のあげく自力では牢人を排除できないと言う先軍政治に陥った豊臣家と牢人衆の切断でことを治めようとしたが、
結局、ご苦労知らずの秀頼がブチ切れて淀殿の和睦合意を蹴り、牢人衆と抱き合い心中しただけの話
>>319 思い切り乱暴な観測をするとさ、この国って関西と関東の勢力争いを延々としてきた、って見なせるよね
関西愛国の司馬さんにとって、禁中並公家諸法度を制定した徳川幕府は、やっぱり絶許だったんじゃね?
そう考えれば彼の家康嫌いも可愛いものかと
網野善彦が司馬の逆バージョンで、「日本社会の歴史」で採用したのも東西の王権の統合−分裂を軸とした世界観だから、
東西対決的発想じたいはおかしくないよ。ただし、網野は西の王権の長を敵視したり、東の王権のほうが優れてるなんて言ってはいない。
地域パトリオティズムって「中央一辺倒の歴史観に対して、地域の自律性を対置させる」ものであるわけで。
司馬の大坂パトリオティズムの場合は、西の東に対する開明性や文化的先進性を前提に話が進むんだな。
江戸時代暗黒史観がそうなんだけどさ。つまり、地域パトリオティズムを否定する方向で使われてる東西対決なんだよ
大阪人の自分は家康好きだよ
反対に司馬が嫌いだw
司馬が家康嫌いなのは別の人も言ってるように
秀吉好きなのと、江戸に幕府開いて260年余り続いたことだと思う
別に何を好きでも構わないけど、他を下げないと自分の好きなものを評価できないって
おかしいよ。
>>322 そもそも学術的に論じる場合、どちらかを敵視して、あっちが劣ってる、こっちが優れてるって
論じること自体がおかしい。とくに文化的なものに関してはね。嫉妬して他を下げるって、このへんお隣の国を思いうかべるな
司馬はその意味でまったく歴史的考察なんて出来てない。
本人は一応小説家と認識してたみたいだけど、ファンは歴史家と見做してるからやっかいなんだよ。
東京人が西郷さんの銅像が上野公園に立ってても、大村益次郎が靖国に祀られてても何にも気にしないのに、
司馬はいかにも気宇が狭い。
325 :
あ:2013/05/03(金) 17:44:15.19
司馬の三成好きも反家康だからだろうな。家康好きの松本清張との対談は面白かった。
しかし、司馬は家康の晩年にあった豊臣潰しを酷評していが、秀吉の晩年ほど醜いものは無いんだがな…
家康好きな桑田や津本とかと司馬は対談してるのかな?
家康も酷評だが劉邦とかまあ酷い言われ方だったわ、そこまでして項羽持ち上げたいかと
>>325 そこは司馬に突っ込みたい
>秀吉の晩年について
どかだったかのスレで山内の子孫の方が、武田鉄也に対して
ウチの先祖はそこまで酷くないって不満をもらしてたって見た。
徳川の子孫も司馬に対して思うところはあるんじゃないかと思う。
反対に自分がくそみそに言われてるのはどう思うんだろう、司馬。
まあ、司馬はあれだけ他人の先祖くそみそに評価してるから文句言えた義理じゃないけど
すでに亡くなってるしねw
司馬にとって秀吉は好きで結婚した相手の過去がド腐れビッチだったことを知ったが知らんぷり
家康は嫌いなのだが、悪口言い続ける内に気に入るという典型的なツンデレ
アンチはアンチでも、妖説太閤記のような愛のあるアンチ小説なら良いと思うけどな。
いくらなんでもそりゃねーだろと何度も突っ込んだけど、
主人公に思い入れがあるからこその小説だと思う(私見)。
>>280 今更なレスだがその辺は秀吉の遺言に対する配慮もあったのかなと思ったり。
家康個人はめちゃくちゃ意識してたと思うよ実際
だからギリギリまで大坂と講和条件模索したけど、その頃になったら秀忠の意向も無視できなかったのだろ
史料には秀忠が冬の陣の段階から主戦派、家康は開戦当初から和睦を模索していた
と言うのが明確に記されてるし、家康が秀忠と意思疎通しながら大坂の処分を決めようとしていたこと、
冬の陣の講和で家康が条件的に深追いせず、伊達政宗ら有力大名が反対したこととかちゃんと書かれてるんだけど、
司馬は家康の影響力を過大視して「それぜんぶ茶番だから」と言い張ってるので始末に負えない
司馬小説読んであくまで自分が感じた印象だが
能力は認めてるけど生理的に嫌い=家康。山県有朋
能力は認めてないけど一人の人間的には大好き=乃木さん
>>281 八尾の戦いも戦雲の夢読んでると颯爽と長曾我部が勝ったような印象受けるけど
実際は違うしね
司馬さんて資料読み込んでる割には戦略に無知なんじゃないかと思えてくる
書き方多々あるよね
戦争してる時点で、戦国時代の武将は全部、屑。
>>329 あれは確かに解釈を悪意に取りすぎたり、何もかも秀吉と両兵衛の陰謀に
してたりはするけど
普通の太閤記系がスルーする秀吉の残虐行為を史実通り描いてると言う面
もあるぞ
>>333 能力に関してはぶっちゃけ過大評価だw
関東転封で封土を「家康から与えられる」までは
伝来の土地の「家康に承認させて」いた三河武士団を家康が早々と掌握しているように
描いたり
秀忠政権以降が作った江戸幕府の保守的ゆえ盤石な体制を家康の発案にしたり
家康て小説だと若いころから
落ち着いて成熟してる描写おおいけど
実際どうなのよ
逸話見ると、それなりに血気盛ん
子供の時に知った歴史がオナニー歴史観だと知って愕然したわ
負けた奴ははいはい勝者のせいと敗者をびかするけど
敗者は今の民主党みたいな失敗した連中を美化しているようなもんだぞ
司馬に嫌われようが卑怯だろうがそれよりも国を破滅させなかったのがすべて
>>332 つうか、それは、知られている事実だけでも、当たり前の帰結なんだよね。
秀忠は、「関ヶ原の汚名返上」しか脳内に無く、「父の存命中に、戦闘で大活躍したい」という思いばかりが先立っている。
伊達政宗は、「豊臣征伐」が、建前上は明らかに秀吉の意志に反し、大義名分に欠くことはよくわかっている。
それでも強引に煽るのは、
徳川氏に「汚れ役」をやってもらって、ついでに徳川氏の権威も失墜させ、あわよくば「徳川の次」を狙っているから。
現実政治のパワーバランスとしては、これは妄想レベルなのだが、
ただの誇大妄想を、本当にリアル世界で実行しようとガチで試みるのが、政宗の政宗たるゆえんだw
だが、政宗の意図は、家康は重々承知だったと思われる。
逆に、家康としては、「政宗など諸侯が、豊臣氏誅滅を主張しているから、これは仕方ないんだよ」と言って、
権威の傷を、むしろ軽減させることができたわけで、政宗は、完全に家康の術中にハマっているw
政宗て家康に秀頼の身に何かあったら亡き秀吉に申し訳ないから秀頼保護しろって内容の書状出してなかったけ?
>>336 本能寺の変・秀吉黒幕説とか疑惑に過ぎない話はともかくとして、
明らかに史実である唐入り失敗と秀次一族粛清を無視せず、
秀吉が亡くなる最後の最後まで見届けてるところこそが愛だと思う。
主人公の良いところだけを見た物語なんて、作者の色眼鏡な自己満足に過ぎんよ。
判官贔屓だって、敗者の憐れなところだけを見て、敗北した原因には見向きもしないしな。
歴史ものの話を作るのなら、主人公の良いところも悪いところも見るべきだと思う。
勿論、こっちも商売だしの理由なら仕方ないし、
妖説は秀吉のヒーロー像を壊してやるという思惑も大いにあるんだろうが。
政治的に歴史を公平に見るべきだわ
司馬作品の盗作で話題になった池宮の逃げろ家康
あれは逆に家康を歪曲化しすぎだ
>>343 初期の家康と三河武士の力関係に関してはどの歴史小説より史実に近いと思う
忠犬どころか強欲な田舎者の集まりなあたり
それともあの三河武士像も史実から持ってきたんじゃなくワンクッションとして何か
元ネタ小説でもあるんだろうかw
>>337 晩年の大阪役でさえちょっと戦局不利になっただけで
「腹を切る、いや、敵に切り込んで切り死にする」と戦陣で恒例の自暴自棄癖を
炸裂さぜてました
ほとんど死ぬまで癇癪玉です
>>344 人物像に関しては
家康の人物矮小しすぎじゃね?
>>346 だからあくまで力関係の話だってば
人物像は確かに無能すぎる
むしろ天下を舐めている
当時三河武士からすると
利権奪う今川氏統治は不満だろうな
三河武士の中でも大所帯の大久保家(忠教)が
今川家の事をボロカスに書くの判る
三河そのものは搾取していたけど
広忠・家康親子にとってはむしろ後ろ盾として松平家の国主としての地位を担保してくれていた
恩人だからな義元は
清康が三河の小豪族たち駆逐し、義元が戸田氏など没落させて
国人層弱らせてくれたのも松平家の三河再統一にはプラスになったな。
そこまでお膳立てしてもまだ三河一向一揆や岡崎騒動などの
難関が家康には待ちかまえていたわけで
どんだけ難治の国だよ三河
>>341 作中人物では最後に最大の敵が逝ったのに寂寥感を感じる家康
あるいは秀吉の悪行全て知った上で「なぜかあの男嫌いにはなれませぬ」
と言った慶次あたりが作者の代弁者って感じがする
354 :
日本@名無史さん:2013/06/20(木) 21:40:08.98
>>352 信康事件も単なる内部抗争説も根強いんだよな
最近の研究だとどういう見解になってんだろう
石川数正出奔理由も派閥争い
三河武士て本当に結束強いのかい
356 :
日本@名無史さん:2013/06/21(金) 01:35:01.64
ケチで器が小さかったから。
秀吉をみてみろ、生きてる間はなんの反乱もなかった。
異論は認める
司馬
「家康は好きじゃないけど、実力は認めてあげるんだからね!」
山田風太郎
「アンチ秀吉本を書いたつもりで、
後天ロリとか、母妹も猿面とか、辞世の句もゴーストライターに作ってもらったとか、
色々悪口を並べちゃったけど、どうしてだか傑作と言われちゃってるんだからね!」
逆に、信長は残酷で恐ろしいと度々表現されてるけど、
これといった代表的なアンチ小説がないような気がする。
358 :
日本@名無史さん:2013/06/21(金) 14:10:35.89
司馬の世良修蔵評価がヒドい件
>>354 信康事件が岡崎騒動でしょ
今では単なる徳川家の内部抗争に
信長が裁定役として引っ張り出されたと言う説の方が強いね
信長死後の五徳姫に対する家康の厚遇見ても
>>355 浜松派閥との政争に負けた岡崎派閥のトップだったからな数正は
同じく岡崎派の服部半蔵もこのせいで本来なら徳川四天王クラスの
家康の腹心なのにずっと下のランクになっちゃって
後世には武将ではなく忍者の頭領扱い
義信謀反と一緒か
>>360 四天王でも酒井忠次は個人的に人質時代から家康の側近だったからそういう位置にいたけど
家柄的には酒井家は本来は家康と利害衝突する三河大土豪の一つだからね
本多忠勝と榊原康政は中規模土豪の上に分家(康政にいたっては家名継いだだけ説もあるし)
井伊直政は遠江人なのと比べて一人立場が違うんだよね
忠勝、康政、直政が家康子飼いの取立てで、忠次はあくまで国人
忠勝、康政、直政が長いこと家康直下の旗本の物頭だったのに対し、忠次だけは独立部隊と
して郎党と与騎を率いて毛色が違うし
本来ならそこに他国者かつ旗本の物頭の一人であった半蔵が入ってもおかしくなかった
まあおそらく数ある〜四天王で一番基準のブレたセレクトだろうな徳川四天王
岡崎→浜松時代の重鎮一人と江戸移封以降の出世頭三人だもん
ただ酒井を基準にしても本多ら三人を基準にしても、似たような身代と功績のやつが
四人揃わないから仕方なくこの四人にしたのかも
>>362 長篠くらいまでは半蔵は忠勝・康政と同格か
ことによると三方ヶ原での功績で旗本衆では頭一つ抜けた存在で
小姓から使番・奏者に抜擢されたばかりの直政よりずっと格上だったんだよな
それが江戸移封の頃には禄高十分の一以下という格差ができてた
やっぱり岡崎騒動が原因なのかね
ここで挙げられてるような忠義の三河武士()の実態だって
司馬の時代にも史料は充分あったよね
家康を本人とは似ても似つかない保守的な人間として描き
その一方で統率力を異様に過大評価してるのが司馬
字義通りの「過小評価」はしてないな
>>364 まあ服部家も半蔵が長命なら
あるいは二代目半蔵(祖父の半三から数えると三代目ハンゾー)がもう少し有能なら
関ヶ原後には譜代大名になれたと思うよ
二代目が無能すぎた
>>361 どっちも最小限の犠牲で内部抗争を終結させたと言える
武田の方は飯豊ら一部重臣にも腹切らせて相対的に親族衆の発言権を
強くした事が後々の命取りになったけど
>>365 家康が扱いかねていた面倒くさい三河武士を
江戸転封機に地盤を奪う事で国人から完全な家臣に再編成する機会を
与えたのは秀吉なんだよなw
三河一向一揆も単なる宗教信仰の問題じゃなくて
戦国大名化する上で庶家や豪族たちの力排除する必要あったとか
370 :
日本@名無史さん:2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN
age
司馬さんの秀忠評価ってどんなんだっけ
昔の小説だと秀忠凡庸説が多かったけど
今そうな風に秀忠象書いたら史実厨が煩そうなもんだ
372 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN
よくある疑問「秀吉は家康を殺しておけばよかったのに」
これは現実が見えていない世間知らずの意見。
家康を殺すことは可能だったかもしれないが、
死後のほうが荒れて大変になる。
徳川家臣団の蜂起や秀吉自身の信用失墜など。
かつて、日本国内の境目は国単位だった。
現代で例えれば、朝鮮人・中国人が日本国総理大臣になっても反乱が起きるだろう。
他国の人間が支配者になるのは難しい。
よそ者の家康が関東を支配するのは苦労したという。
そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
374 :
日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN
>>373 総力戦などしなくても秀吉が家康を殺せるチャンスは多くあった。
上洛させる時は非武装が基本だから。
大坂城で殺せただろうけど、秀吉は死後の処理が大変だと認識していた。
家康も同じ理由で自身は殺されないだろうと読んでいた。
総力戦で消そうとしても、北条家のように包囲できたかは疑問。
全ての大名家が征伐に参加するとは思えない。
特に、島津家と伊達家は秀吉の命令でも関東包囲までは行かないだろうね。
375 :
日本@名無史さん:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN
織田家を乗っ取った事じたいが不徳であり、これ以上の信用失墜はどうしても避けたい秀吉は家康を殺せなかった。
家康を殺すと秀吉の野心がなおさら浮き彫りになるからな。家康を生かす事で、織田家乗っ取りは万民のためと言い訳が出来たし大義名分となった。
だが、織田家を乗っ取った不徳は家康を助けただけでは払えない。やはり、秀吉はやり方を間違えた。家康に天下を与えるべく生涯を費やしたとも言えるのが秀吉だ
>>326 どんな風に書かれてたの?
関係ないけど劉邦は中国史の中でも屈指の過小評価されてる人物
無能な人物が天下取れるわけない
>>376 今「項羽と劉邦」手許に持っていないんでうろ覚えだけど、
項羽の首が懸賞にかけられて、漢の兵士5人が争奪して分けあったんだが、下品な欲望がこの快男児を殺したのだみたいな小説の締めだった
正しく
>>338みたいな書かれ方
項羽なんて戦闘が強いだけだろう。残酷だし。まだ本宮ひろ志の「赤龍王」の方が劉邦評価しているし項羽の実態に近いんじゃないかw
378 :
日本@名無史さん:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN
無能な人間でも天下取れるだろ
現に無能な徳川綱吉でも天下人
天下取るなんてほとんど運みたいなもん
世襲で将軍と創業者比べても・・
380 :
日本@名無史さん:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN
毛利アホ元とか馬鹿でも一歩間違えば天下取るチャンスはあったわけだしな
天下取りなんて運が90%だろ
だから取れてねえじゃねーかよw
アホ元レベルの馬鹿でも関が原でまともに戦う判断さえ下せば取れてた可能性高いんだろ
チャンスさえあれば誰でも取れるのが天下。
大内細川三好も中央での長期政権築いたけど
別に天下人として、天下でぬきんでたほどの能力や才覚があったようには見えないしねぇ
欧州の戦乱とかでも無能が国内統一とかあったんじゃなかったっけ?
>>382 まともな判断下せなかった現実
2ちゃんで吠えてないで自分が取ってから言えよ
385 :
日本@名無史さん:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN
>>384 天下なんてアホでもチャンスさえあれば取れる
現にアホの綱吉とか取ってるし秀忠も特段有能じゃない
有能でも逆に不運が続けば滅びる
現代でいえば麻生みたいな馬鹿でも人の上に立てるのと同じようなもん
386 :
日本@名無史さん:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN
現代でいえば運と要領の良さだけである程度出世した人間でも自分の上の重役とかその関係が不正だの病気だので
共倒れになれば自動的に自分がトップになるのと似たようなもんだろ
388 :
日本@名無史さん:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN
389 :
日本@名無史さん:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN
>>387 創業者だろうが関係ない
大体一代で全てをなしえた人物なんていない
大体他人が進めてきた統一過程を途中から入れ替わってほとんど終わってたところを成し遂げたとか
とか、動乱の影響で衰退傾向にあった所を外部から入ってきて纏め上げただけとか
そういうのが大半なので、本質的には世襲するのと変わらない
イングランド王のジョンとかヨーロッパの方の王なんて無能でも国内統一とかやりまくってる。
チャンスさえあれば天下なんて誰でも取れるし運が悪ければ有能でもころされる
麻生みたいな馬鹿でもトップに立てるのと一緒
「天下をとる」を世襲の意味で使う人初めて見たわ
どうでもいいけど
大内・三好は長期政権築いてないだろ
392 :
日本@名無史さん:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN
信長や秀吉よりは長期じゃん
>別に天下人として、天下でぬきんでたほどの能力や才覚があったようには見えないしねぇ
そうか?
三好政権・大内氏は当主の力量・カリスマにドップリ依存しすぎな印象だけど、
長慶、義興の才覚が抜きん出たからこそ、その死後衰退していった解釈してる。
394 :
日本@名無史さん:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN
私が思うに信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に
十河一存
斉藤義龍
1562年
三好義賢
1563年
細川晴元
細川氏綱
三好義興
1564年
安宅冬康
三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで
死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
しかし北条は謙信や信玄らがなかなか死ななかった。
これでは関東制覇も難しいだろう。
そういう意味では大内義隆や尼子晴久が死んだ元就もおいしい。
395 :
日本@名無史さん:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN
>389
それはいえてるね
馬鹿輝元とかでも親父の遺産のおかげでかなりのチャンスがあったし一時は中国全土毛利って勢いだったもんね
国内の3分の2も継いだ状態で親が死んで無能な子供が継承、とかだったら本人が無能でも関係なく
普通に統一なんて余裕だわな
外国の王様とかだと例えばイングランド王のジョンとか
無能で有名な人物だけどちゃんと国内統一を果たしてるし周囲の主要人物がタイミングよく死んだり
周辺分国が衰退期に入ってたりしたら必然的に天下が転がり込んでくるわなw
戦国の動乱期なんてドミノゲームみたいにアホみたいに勢力図がめまぐるしく塗り変わってるし
これが当主の能力で入れ替わってるなんてゲーム脳もいい所だよね
国内の統治反乱支配体制とか周辺国の状況国力など様々な要因が複合的に重なって勢力図が入れ替わってるだけでしょ
自演乙
楽して天下とったといえば
司馬炎、煬帝思い浮かべるな
二人ともまったくの無能でもないけど
イギリス史詳しくないんで
ジョン王とは知らないが
398 :
日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
確かに
『関ヶ原』もそうだが
司馬先生は家康を落として三成を立てすぎだな
しかも『城塞』も 家康が主役にしてはイヤらしく描きすぎ
>>398 それを間に受けて石田のファンが大暴れw
実際笑い事じゃないんだけどな
史跡での小早川への破壊行為とかまで行ったから
歴史が好きな自分は歴史小説はあまり読まない。イメージが刷り込まれるかもしれないから。
なので、実際に小説と史実混同してる人を見るとちゃんと勉強してくれって思う
なんで専門書や学術書読まないで小説読むんだろう?
小説は創作物なのに。それすらもわからない層がいるのか。
日本史系と世界史系だと日本史系の方が歴史小説から知識拾ってくる人が多いイメージがある
世界史系だとそういうことはあまりないイメージだ
ローマの勉強するのに塩野先生の本読む人はそういないんじゃないか?
やっぱり専門書の方に手を出すと思う
でも日本史だと小説に手を出す人が多い
消防の頃の話だから記憶が曖昧だけど、
俺が最初に読んだ家康の本は、あおむら純が描いた児童向けの漫画の伝記で、
小説と違って過度にマンセーもアンチもないから、歴史の人物に対して極端なイメージはつかなかったな。
秀吉の本では、ねねが夫の晩年を「秀吉様は人を殺すことが嫌いだったのに…」と嘆くシーンとかあったっけ。
やっぱり第一印象って大切だね。
401 :
日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
秀吉は農民。三成は茶坊主。
両人の権力への憧れや生き様が武士らしくない。それを司馬が好きなんだとしたらアホだな。
家康や信長は武士の品格があるが、秀吉には無い。
つまり俗物が司馬は好き。
観念的な謙信なんかも嫌いだろう。所詮は司馬も俗物
>>399 >ローマの勉強するのに塩野先生の本読む人はそういないんじゃないか?
司馬狂いの自分の父親が正にこれで・・
日本史は司馬、世界史というか欧州史は塩野で分かった気になっている
その他は新書ですらまず読まない
一般の職場じゃ正しい歴史知識より、有名な作家の書いた本を読んでいることを周囲にアピールする方がヒエラルキーが高いんだよ。
以前俺の傍でロートル爺さん二人が「騎馬民族征服説というのがあったなぁ」と唐突に話だした事がある。
まぁ数回の会話の遣り取りで終わったから内容なんかソノ二人は殆ど知らないんだろうが、
そういう話に割って入って「騎馬民族征服説は実証されず、初期と末期では全く違うことを言っているけど。どの話?」
と聞いたら俺の負けw
「お詳しいんですね」と、ベンチャラかますのが正しい若手社会人の知恵w
>>403 うちの職場は幸いにもあまりそういう人いない
反対に詳しい人がいる。
その人一度定年退職した人なんだけど
凄い話しやすい人で人生経験も豊富だし、自分もそういう人になりたいって思わせる人
みんな頼りにしてる
>>403 うんそんな風に話ブツ切りしたら会社じゃなくてどんな所でも嫌われるだろうよw
向こうは血液型占いや成吉思汗=義経くらいの軽い茶飲み話で話しているだけかもしれんのに
>うんそんな風に話ブツ切りしたら会社じゃなくてどんな所でも嫌われるだろうよw
>向こうは血液型占いや成吉思汗=義経くらいの軽い茶飲み話で話しているだけかもしれんのに
この板で司馬に文句を付けている香具師も、一般からみりゃドン引きだよな…
>>401 武士の品格って何?
主君を裏切ったり、言いがかり付けたり、ウンコもらしたりすること?
あんたうんこネタ好きだな
うんこ漏らしは史実じゃない。面白いネタだから有名だけど。
あと言いがかり云々は否定されてる説だ
ここ一応日本史板だぞ
否定している人間がいるってだけ
あと、うんこネタを書き込んだのは初めてだw
>>409 学術界では言いがかりなんて説は支持されてないよ
これ結構前から言われてるし
いまだに言いがかりって世間では認識されてるのは理解してたが
日本史板にまでこういうこという人がいるのに驚いた
歴史が本当に好きな奴が来るところって思ってたから
小説の話を持ち込んでくるとは思わなかった
司馬小説の話がしたいなら文芸書籍サロンや一般書籍に行ってくれ
そこでなら言いがかり云々言っても否定はされないだろ
うんこネタも家康がうんこ漏らしてる描写がある小説のスレで語ればいい
その小説の中では家康は脱糞したってことになってるからな
仲間もいるだろ
最初からこのスレ見なきゃいいんじゃねぃ?
国家安康の件は言いがかりだよ
家康が鐘をそのまま残したことがその証拠
>>411 学術界は事実を解明するところ。
言いがかりかどうかは事実じゃなく認識であり、学術界が決めることじゃない。
「学術界」なんて印籠を出してないで自分で考えて意見を言え。
>>414 >学術界は事実を解明するところ。
>言いがかりかどうかは事実じゃなく認識であり、学術界が決めることじゃない。
あなたの方こそなんで全然わかってないじゃん
その言いがかりだったとういう認識自体が誤りだったということだよ
諱を入れることは無礼だし、当時の天皇の諱まで入ってひっくりかえってる
当時の豊臣家と徳川家の微妙な関係の中にあってあの鐘の銘文は疑われても仕方ないよ
徳川家に対して反意がなかったとしても、礼を失する行為
家康の意図が問題なわけで、礼を失する行為だったから言いがかりじゃないってのがおかしいんだよ。
豊臣を臣従させるための口実づくりの意図がなかったと思ってるの?
本当に家康が激怒したんなら
>>413が言ってるように鐘を残さないと思うんだけど。
素朴な疑問なんだけど、司馬とか一部の小説家って、なんで秀吉の晩年を書かないんだ?
(横山光輝の漫画も賤ヶ岳の戦いでおしまい)
秀吉の汚点をもっと見たいでござるとかじゃなくて、純粋に歴史ものとして読みたいんだが。
外国への侵略は現代の価値観では駄目っても、人の歴史は侵略戦争の連続だし、
アレクサンドロス大王、チンギスハン、ナポレオンとかは確実にアウトで、世界史の教科書が修正の墨汁まみれになるじゃねえか。
(良いとは言わんが)秀吉のやったことって、大陸じゃ日常茶飯事に行われてることで、
世界史レベルの暴君と比べたら、秀吉は別に異端でもないと思うんだけどな。
そもそも、歴史に名を残した人物って、偉大な英雄として布団で死ぬよりも、暗い最期を迎えた方が多いと思うんだが。
家康が評価されてないというなら、秀吉だってまっすぐに評価されてないと思う。
物書きの気持ちって、いまいちワカンネ。
418 :
日本@名無史さん:2013/08/12(月) NY:AN:NY.AN
大陸雄飛こそ男のロマンだからな。
馬賊・流賊の頭領になるのも良いな。
>司馬とか一部の小説家って、なんで秀吉の晩年を書かないんだ?
終戦後、吉川英治が 『新書太閤記』の筆を何故折るのか語っている(文庫の巻末に書いてある)
大作家にああいう風に書かれてしまうと後の作家は書きづらい罠
他人に期待せず、君が先鞭をつけて秀吉の晩年を書けばいいんじゃねぃ
家康がうんこ漏らした話て三河物語か何かが元ネタだっけ?
徳川方の大久保が書いたんだから本当だと思ってた
421 :
日本@名無史さん:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN
浜松市住みで地元伝説集から家康逃走伝説を調べてみましたが、脱糞の話はありませんでした。そのかわり、多くの町に伝説が残っており、その数約百話。餅を食い逃げした話は有名ですが、脱糞しながら餅を食い逃げした話は現在では否定されてるみたいです。
吉川英治の三国志も孔明が死んだところでオワットるやないか
423 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN
>>293 確かに名古屋って場所は冷静に見ると、あの当時の交通の観点からいけば
熱田からちょっと離れていて中途半端な位置だし、水害に強いという面からみても
中途半端な位置に思える(犬山でも小牧山でも末盛でもなく、なぜか那古野)。
>>365 三河武士が強かったからではなく、むしろさほど強兵ではない分頑固なまでに
保守的で余計な事を考えず一本気だったからこそ天下が取れたのかもしれんね。
どっちかといえば、強兵な三河武士=薩摩武士って感じがする。
424 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN
薩摩が強兵だったとすると
強兵薩摩軍&高性能鉄砲部隊を率いながら相良・土持・伊藤・志賀・甲斐・立花・高橋などに負けまくった島津は
武将の能力がゴミクズレベルに低かったと言う事か。
425 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN
水俣城攻防戦とか耳川とか関が原とか木崎原とか明らかに島津は大軍なのに
寡兵とか捏造しまくってるからね。
426 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN
>>424 要は家老・奉行クラスで優秀な指揮官はあまり多くなかったと思う>薩摩
逆にそのクラスではそこそこ優秀な指揮官はいたが、兵卒の人は中の上じゃないかな>三河
立花氏や伊東氏はどっちかといえば真田氏、村上氏、津軽氏、最上氏みたいな存在。
薩摩の文章はアテにならん(キリッ
薩摩の文章に関ヶ原では大軍だと書いている
このバカが彼方此方で薩摩を叩いているのか
薩摩否定が昨今の風潮なのか…
428 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN
薩摩の文書というかあてにならんのは軍記な。
兵力に関しては比較的信憑性がマシな薩藩旧記雑録だと水俣城攻防戦で115000の大軍動員してるのがわかるし
耳川でも最近の研究だと40000以上の大軍が集結してる。
関が原合戦に関しては石田三成人数書立や慶長見聞集でちゃんと5000の兵力動員してるのがわかるし
1000だの300だのは島津の講談ネタでしかない。
429 :
日本@名無史さん:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN
耳川も沖田畷も宣教師の記録くらいしか資料がないし、沖田畷なんて有馬軍が龍造寺を破っただけの戦いで
それを島津の功責に捏造してるから酷いよな
御船城の甲斐親直に負けまくり
その子の甲斐親英にも負けまくり
御船城が攻略できずターゲットを高森城にしたら見事に謀られた島津は高森惟居の反撃に壊滅的ボロ負けを喫して相良領まで大敗走。
天正10年に島津の先鋒となり戦死した相良義陽の死と同時に相良領八代を奪い取っていた島津との最前線の堅志田城で負けまくって攻略を断念していた島津が
天正11年に堅志田城の押さえとして花山城を築いていたが、
天正13年に勝ちに乗じて堅志田城を防衛するために阿蘇軍を率いた親英に花山城が攻略されてしまう弱さを発揮。
阿蘇合戦に大敗した島津は、ついに相良を戦わず降伏させた際と同様の圧倒的大軍で北上。
それでも親英に大苦戦。
親英に勝てない義弘は、親英との和睦交渉の席でいきなり拉致り、弓矢の前では偽りもありと開き直り連行したために阿蘇氏は滅亡。
そういや宝満山城を守っていた宗茂の弟の統増に対しての和睦交渉でも
島津は城兵の命を助ける&母の宋雲院と統増の立花城への移動の安全保証の約束がありながら
宋雲院と統増を拉致り、立花城攻めにおいて高満城兵を前線に出して弓矢の盾にして宗茂に降伏すれば違う場所に城と領地を与えると提案してきたが宗茂はまったく信用しなかったな。
島津の戦を冒涜し、武門を辱める行為の数々は卑劣かつ悪質な犯罪者ですらある。
いつも負けまくり圧倒的大軍でないと勝てない弱島津の捏造マンセーは見るに耐えない愚劣さだ。
あと義弘が妻子がいる加久藤城をワザと兵を少なくして
油断させて伊東に攻めさせたとか、相良をウソ情報で撤退させたとかw
おまえ相良と婚姻関係だった大隈の菱刈氏の大口城が陥落した時点で加久藤城は背後に大口の新納が配置れてんだから安泰だろ。
油断させておびき出したとか完全に捏造デタラメw
だいたい大口陥落で菱刈氏衰退に拍車がかかったので
東郷や渋谷も島津側に走っト周辺が島津一色に塗られた状況・・・そんな状況の場所を相良がわざわざ攻めるわけねーだろw
伊東に飫肥を攻め取られた島津は日向への唯一の出入口になった大口方面に戦力集中してんだぞw
しかし島津弱いね。
相良に負けっぱなしだもんな。
薩摩からの入口に過ぎない水俣城攻防戦でも大敗しまくりで
最後は家久31000 義弘31000 義久53000で水俣城700を囲んで和睦に追い込んだにすぎんからな。
この時に竜造寺が援軍を出さなかったから助かったが
もし出してたらまた水俣攻略失敗してたなw
島津側公式記録の肥後合戦陣立日記・肥後水俣陣立記や薩藩奮記雑録
天正7年9月から琢磨・八代衆700の守る水俣城のある葦北庄侵攻を開始した島津軍は連戦連敗だよ。
特に天正8年9月の佐敷計石合戦での相良大勝はすさまじいものだったとか。
それで最後は11万5000を投入して、かる石之尾に家久・征久熊牟礼に義弘
出水本陣が義久の総力戦で相良義陽が大軍に背後を断たれる恐れから佐敷から八代へ撤退し
竜造寺に援軍を求めたものの援軍は来ず天正9年9/27に和睦開城。
432 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
軍記はダメで慶長見聞集はイイというのも面白い解釈だが
石田三成人数書立でググっても2chしかでてこんというのも何ともw
三成書状のことを指しているとして、それは何処で確認できるんだ?
433 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
慶長見聞集は軍記じゃなく名前通り見聞集だし
石田三成人数書立なんて愛知県史でも大阪編年史でも思いっきり出てきてる基本中の基本の史料なんだが。
脚色創作入れまくりの島津軍記や講談の島津の兵力捏造を盲信してる馬鹿にいっても無駄だろうけど。
434 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
wikiやネットサイトしか読まない馬鹿がこのスレにはいるんだな。
島津が兵力を捏造しまくるのは毎回の事だからね。
耳川でも木崎原でもそうやって捏造寡兵で大勝利したとか妄想をデッチあげてるし。
436 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
>wikiやネットサイトしか読まない馬鹿がこのスレにはいるんだな
幕府公史を軍記といったり、同時代に書かれていない伝聞録は軍記じゃないから信用できるとか言っている奴もいるからなw
何より俺の手元の大阪府史・市史から大津史に至るまで、ふつーに軍記・軍談が参考資料に掲載されているのに
一度も市史の類を見たことない奴が熱心に語っちゃってるところで察してやれ
「ソースは2ch」つーか「僕ちゃんが発見した新事実!」を熱心に2chで布教しているんじゃないかと思うと何とも微笑ましい
437 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
軍記とか軍功記って各大名家が作成した家記や家譜を下敷きにさらに脚色や創作いれて作っただけなんだが。
>>何より俺の手元の大阪府史・市史から大津史に至るまで、ふつーに軍記・軍談が参考資料に掲載されているのに
参考資料に掲載されたからといって信憑性があるわけではない。ただ著者が他の史料見てないか他の史料が発見されずにそれに依存するしかないから
引用してるだけ。
>>幕府公史を軍記といったり
はぁ?何の史料の事いってんだ?江戸期作成の史料なんてそれこそ同時代史料じゃないから信憑性なんか皆無だわアホ。
>>同時代に書かれていない伝聞録
慶長見聞集が同時代史料じゃないというソースは何だ?愛知県史とかでも一次資料と並べて扱われてるし
兵力の記述を見ても、石田三成人数書立とほぼ符号するし島津の糞講談とか軍記に比べりゃ遥かにマシなんだがw
>>一度も市史の類を見たことない
発行の古い郷土史とかだと一次資料の発見が遅れてて軍記に依存するしかないから仕方なくひっぱってきてるだけだろ。
例えば岡山県の地方史とかでも、80年代以前は軍記に依存しまくってたが90年代になって岸田氏によって沼本家文書とか岡家文書とかが
紹介されてようやく同時代史料に基づく旧説の再検討や新たな史実掘り起こしが進められていったんだし
438 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
島津の軍記や講談が一次資料とか陣立書より信憑性あると思ってる馬鹿はスレにこなくていいよ
439 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
歴史を語りたいなら最低限愛知県史資料編織豊3くらいは見てこないと話にならん。
440 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
島津の捏造合戦
木崎原の戦い→一次史料皆無の島津軍記オナニー
戦場が義弘統治下のホームグラウンドでありながら、義弘の兵力の方が極端に少ない謎
まるで諸葛亮孔明並みの予言力で、伊東軍の逃走経路を算出し、都合よく配置した上に、
都合よくその場所へ島津の援軍も到着する軍記丸出しストーリー
そもそも伊東氏の家臣を疑う乱政で人心がすでに離散していて自壊状態の不満を外敵へ向けさせただけのアホ戦だったとする話も。
耳川の戦い→これは宣教師の記述くらいでしかまともに史料なし。当然、当然兵力についてもまったく不明。
宣教師によればそもそも大友軍は島津と戦う気gはなく、総大将の田原からして、
島津との間で勢力圏を決めて和睦するためにきたようなもんだった。
出陣の目的は豊後から離れた場所でのキリスト教と宣教師をどういう手段で追放するかの会議だった。
沖田畷の戦い→これも宣教師の記録からしかまともなことはわからない。
宣教師によれば、もっとも竜造寺と激しく戦ったのは有馬。隆信戦死場所も有馬陣前方。
島津はロクに働いていない。島津側の資料には鍋島が島津に内通し、隆信のいる場所へ案内してくれたと記される。
戸次川の戦い→これも宣教師の記述が一番マトモに書かれている。
これによれば豊後に来た仙石はさっそく略奪を開始し、あまりの暴虐に豊後民から見放される。
大友義統などから戦闘は時期尚早と反対されるが反対意見をすべて無視して無謀な進出を強行して敗北。
泗川の戦い・露梁津の海戦→半島はザコなので自慢にすらならない。
むしろのちに関が原で一緒に戦うことになる軍団長の小西の功績を盗んで記述してる疑いが濃厚。
関ヶ原退却戦→兵力5000もいたのに、寡兵の本多や忠吉に部下をほとんど殺され、
家久の子である豊久の犠牲を強要しての単なる大敗走。豊久討ち死にで家久の家は実質滅亡。
あまりのボロ負けに、島津を親の仇と思っている立花宗茂に自分を守って九州へ連れて行ってくれと哀願。
441 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
8/19義弘→忠恒 「連連御家中在京之人衆七千人之御盛」「然処九州衆過半被成在京、当時秀頼様御用ニ被相立候
在国之衆者皆々被召上候、其上分国よりも御人衆馳走可仕由被仰聞候間」
島津は領国の兵ほとんど関が原に連れてきてる(8/20義弘→本田正親書状で惣在国之人集ハ彼表へ在番可申付と書いてる)
石田三成人数書立にも美濃口 羽柴兵庫頭(島津義弘) 五千人と書いてるし
伊達家文書の関が原合戦時の記録にも同様の人数。 後合戦後徳川が敵方島津を褒めたなんて事実はない
敵中突破って島津軍5000は徳川方にほとんどぶち殺されて数十騎で命からがら帰ってきたんだがw
真田文書・石田三成人数書立・慶長見聞書 羽柴兵庫頭(島津義弘) 五千騎
8/20義弘→本田正親書状 惣悉在国之人集ハ彼表へ在番可申付
島津が寡兵とか馬鹿じゃね
基本的に島津は戦えば必ず負ける軍隊なので毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ
例えば伊東崩れと呼ばれる伊東氏滅亡の時も圧倒的な大軍だった。
天正4年(1576年)8月島津義久が率いる30000の大軍勢から攻撃を受ける。
守りを固める伊東勘解由の高原城には370余人ほどの兵しかいなかった。
伊東義祐は城兵を救うべく援軍を出したが、圧倒的な兵数差一戦も行えなかった。
これにより伊東崩れと称される伊東氏崩壊が始まり翌年には豊後へ逃避行をしている。
相良の援軍として1556年から大口城へ入り駐屯した赤池長任とその配下の岡本頼氏
この両名に島津はフルボッコ&報復攻撃の連続で義弘は完全に涙目。
なにしろ1568年に赤池長任が死去するまでの10年以上に渡りまったく落ちる気配すらなかった。
赤池が死去した翌年にやっと落城。
ちなみに島津の豊後侵攻で大友にボコボコにされて岡城方面から肥後へ抜ける退却路を封鎖され
家久がフルボッコされながら日向へ落ちて行った佐伯地方から
義弘もズタボロになりながら脱出を図った時に
義弘が死にそうなのを助けて殿を務めて命を救ってやったのが相良からの援軍の岡本頼氏。
島津に先鋒隊蹴散らされ根白坂でも大軍の援軍到着前まで窮地に追い込まれた豊臣遠征軍より
島津を寡兵で撃退しまくった相良や伊藤、土持、伊藤、甲斐、志賀、大友の方が戦上手
佐伯惟教って日向の高城救援に向かっていた島津家久の軍勢を遭遇戦で大破してんだよな。
本戦前夜に田北鎮周が「この戦自体が反対だったが先陣を任されたからには潔く突撃して死んでみせる」と自暴自棄発言。
翌日に自殺突撃するので、これでは作戦もなにもないと嘆いて続いて自殺突撃して息子ともども殉じてしまうが、
あとを継いだ孫の佐伯惟定は義弘と義久の両方をボコボコにして秀吉から激賞されてるし、まさに島津キラー佐伯。
多分だけど『歴史群像』辺りの通俗雑誌に、島津家は関ヶ原に5千だか6千だかの兵がいたとの記事があり、
それを真に受けたのだろう。
レスの流れをみるに、もし立場が逆で、相手が『慶長見聞集』を根拠に何か言えば「北条五代記」を根拠に
『慶長見聞集』を全否定しそうな雰囲気。
他のスレでも、類似の軍記全否定発言が見られるけど、歴史学的には何が書かれているかが重要で、
軍記だから駄目という見方はしない。
このことは、以前は誰も手を出さなかった『甲陽軍鑑』が、近年では積極的に史料として採用されていることか
らも分かる。
一応書いとくけど、平成の事業(バブル末期)で各地の市町村史が再編されたが、役所が編纂したと言って
も予算の少ない町村史は、実質(実績の無い)個人への丸投げや、経緯の分からない方針で編集されてい
るから、学術誌とは明確に一線を引くべき。
446 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
>>多分だけど『歴史群像』辺りの通俗雑誌に、島津家は関ヶ原に5千だか6千だかの兵がいたとの記事があり、それを真に受けたのだろう。
何それ?何月号のどこに書いてるの?つか、こんだけ
>>441-442で史料提示してるのに歴史群像引用とかアホかw
>>相手が『慶長見聞集』を根拠に何か言えば「北条五代記」を根拠に『慶長見聞集』を全否定しそうな雰囲気。
見聞集は軍記じゃねーよアホ
一応聞き書きだから聞き書きや覚書を参考にして作成された家記や家譜を下敷きにして創作や脚色交えて書かれた軍記や講談とは比較になんねーよアホ
>>軍記全否定発言が見られるけど、歴史学的には何が書かれているかが重要で軍記だから駄目という見方はしない
軍記は基本的に一次資料類が乏しい時にしかたなくひっぱってくるだけ。家譜や家記を下敷きに創作や脚色まじえて書かれた物だから
基本的に直接的なソースとしては使わない
>>このことは、以前は誰も手を出さなかった『甲陽軍鑑』が、近年では積極的に史料として採用されていることからも分かる。
軍艦も見直されてはきてるけどそれを直接のソース元になんかしねーよ馬鹿
>>予算の少ない町村史は、実質(実績の無い)個人への丸投げや、経緯の分からない方針で編集されているから、学術誌とは明確に一線を引くべき。
お前の言ってるのは通史編の方な。資料編は基本史料がそのままのってるだけだから編集も糞もない。
447 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
島津の捏造合戦
木崎原の戦い→一次史料皆無の島津軍記オナニー
戦場が義弘統治下のホームグラウンドでありながら、義弘の兵力の方が極端に少ない謎
まるで諸葛亮孔明並みの予言力で、伊東軍の逃走経路を算出し、都合よく配置した上に、
都合よくその場所へ島津の援軍も到着する軍記丸出しストーリー
そもそも伊東氏の家臣を疑う乱政で人心がすでに離散していて自壊状態の不満を外敵へ向けさせただけのアホ戦だったとする話も。
耳川の戦い→これは宣教師の記述くらいでしかまともに史料なし。当然、当然兵力についてもまったく不明。
宣教師によればそもそも大友軍は島津と戦う気gはなく、総大将の田原からして、
島津との間で勢力圏を決めて和睦するためにきたようなもんだった。
出陣の目的は豊後から離れた場所でのキリスト教と宣教師をどういう手段で追放するかの会議だった。
沖田畷の戦い→これも宣教師の記録からしかまともなことはわからない。
宣教師によれば、もっとも竜造寺と激しく戦ったのは有馬。隆信戦死場所も有馬陣前方。
島津はロクに働いていない。島津側の資料には鍋島が島津に内通し、隆信のいる場所へ案内してくれたと記される。
戸次川の戦い→これも宣教師の記述が一番マトモに書かれている。
これによれば豊後に来た仙石はさっそく略奪を開始し、あまりの暴虐に豊後民から見放される。
大友義統などから戦闘は時期尚早と反対されるが反対意見をすべて無視して無謀な進出を強行して敗北。
泗川の戦い・露梁津の海戦→半島はザコなので自慢にすらならない。
むしろのちに関が原で一緒に戦うことになる軍団長の小西の功績を盗んで記述してる疑いが濃厚。
関ヶ原退却戦→兵力5000もいたのに、寡兵の本多や忠吉に部下をほとんど殺され、
家久の子である豊久の犠牲を強要しての単なる大敗走。豊久討ち死にで家久の家は実質滅亡。
あまりのボロ負けに、島津を親の仇と思っている立花宗茂に自分を守って九州へ連れて行ってくれと哀願。
448 :
忍法帖【Lv=4,xxxP】(1+0:5) :2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
司馬先生は何だかんだいって薩長史観に染まってるからなあ・・・。
明治時代を良く言うためには江戸時代や家康を貶めるのは当然の帰結。
449 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
司馬の馬鹿のせいで八幡和郎みたいな薩長マンセーアンチ東国のアホ史観の輩が増えたんだよな
>司馬先生は何だかんだいって薩長史観に染まってるからなあ・・・。
>明治時代を良く言うためには江戸時代や家康を貶めるのは当然の帰結。
司馬はどっちかーつーと、軍隊時代の私怨で昭和を否定したいから明治を肯定している希ガス
大久保専制については江戸時代にも有り得ないと批判しているしな
無条件の批判は昭和だけで、明治や江戸は肯定・批判ありきと言われると一寸違うような…
451 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
最近彼方此方で見かける「グンキガー」君は同一人物っぽいね もうどうでもいいから最後に所感を書いて火病を見物しようか
>言ってるのは通史編の方な。資料編は基本史料がそのままのってるだけだから編集も糞もない
編集ってのは刊行する際の方針の事じゃねぃ
>軍艦も見直されてはきてるけどそれを直接のソース元になんかしねーよ
見直され、ソース(?)として活用されているのが現実かと
>軍記は基本的に一次資料類が乏しい時にしかたなくひっぱってくるだけ
近年の論争全否定つーか争点を全く理解してなきゃ書けない理屈だ罠
>家譜や家記を下敷きに創作や脚色まじえて書かれた物だから
意味不明 まぁ「俺が認めない文章は全てグンキ」君に軍記の定義なんか無いのは分かってるけどw
>見聞集は軍記じゃねー
公史も軍記じゃないよね 気に入らないものはグンキ・グンキと決め付けている君には、どうでもいい区別なのだろうが
>聞き書きだから
聞き書きも軍記も軍談も史料批判が必要だということでは何も変らない
>発行の古い郷土史とかだと一次資料の発見が遅れてて軍記に依存するしかないから仕方なくひっぱってきてるだけだろ
根拠の無いというより事情を全く知らない門外漢の妄想乙!
452 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
>例えば岡山県の地方史
発行が新しけりゃ内容が新しくなるのは当たり前じゃねぃ?何が言いたいのかさっぱり分からん
>愛知県史とかでも一次資料と並べて扱われてる
県史で並べて表記されているからって何?何時から県史は学術書並みになったの?
>兵力の記述を見ても、石田三成人数書立とほぼ符号するし島津の糞講談とか軍記に比べりゃ遥かにマシ
意味も分からず使用しているであろう君の大好きな言葉“一次資料”の取捨選択は君だけの特権と思い込むのは自由だが、その勢いで君の珍説を表の場で公開してはどうだろうか
匿名掲示板でだけ熱心に布教するのは人類にとっての損失(←補足が必要そうだから書いとくけどコレは当て擦りの類だからw
>江戸期作成の史料なんてそれこそ同時代史料じゃないから信憑性なんか皆無
え〜と“聞き書き”は史料じゃないから江戸期作成でも無問題? 俺がバカなのかな自分でも何を言っているのか分からなくなってきた
>参考資料に掲載されたからといって信憑性があるわけではない
そう思うなら君が書いとくべきだよね
>愛知県史でも大阪編年史でも思いっきり出てきてる基本中の基本の史料
これでは県史に採用されただけで無条件に信用すべきだと他人に強いているようにしか読み取れない
君だけが分かっていても意味が無い。他者が読んで主張を理解できる文章を書く訓練ができてないからこういう独り善がりな文で他の同意が得られると勘違いしてしまう
453 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
>>編集ってのは刊行する際の方針の事じゃねぃ
だから資料編の編集方針が予算の少ない町村史は、実質(実績の無い)個人への丸投げや、経緯の分からない方針で編集されているから
>>見直され、ソース(?)として活用されているのが現実かと
見直されてなんかない。昔の軍記マンセー作家が書いた本ほど軍記引用が多様されてるからな
>>近年の論争全否定つーか争点を全く理解してなきゃ書けない理屈だ罠
近年の論争の基本は軍記は創作脚色だから否定→一次資料重視の流れになってるから全く理解してない馬鹿はお前
>>意味不明 まぁ「俺が認めない文章は全てグンキ」君に軍記の定義なんか無いのは分かってるけどw
そんなもん常識だろ。光成準次氏も藤田達雄氏も谷口央氏も普通に書いてる。
>>公史も軍記じゃないよね 気に入らないものはグンキ・グンキと決め付けている君には、どうでもいい区別なのだろうが
公史って江戸期の編纂史料だから信憑性なし。
見聞集って名前がついてるし創作っぽい話とか軍談とかが講釈つきで載ってないから軍記じゃないとアホでもわかるだろタコ
名前からして見聞集って書いてるじゃねぇか
>>聞き書きも軍記も軍談も史料批判が必要だということでは何も変らない
聞き書き→一応は実地体験をそのまま書いてるだけで無駄な脚色とか創作とかは入ってない(これは原文よみゃわかる)
軍記→藩士たちが幕府に提出した家譜などを下敷きに脚色創作入れまくって妄想ばかり挿入して書いただけ。
軍記よめば一次資料にない無駄な情報が後ろ付けで次々面白おかしく挿入されてていかに嘘ばっかデッチあげられてるかわかる
>>根拠の無いというより事情を全く知らない門外漢の妄想乙!
そりゃお前の事だろタコ
>>発行が新しけりゃ内容が新しくなるのは当たり前じゃねぃ?何が言いたいのかさっぱり分からん
とりあえず山本浩樹氏の「織田・毛利戦争の地域的展開と政治動向」の3ページ目でも読んで出直してきてくれ。
454 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
>>県史で並べて表記されているからって何?何時から県史は学術書並みになったの?
軍記は軍記として別個にまとめられてるしそもそも見聞集って名前がついてる時点で軍記じゃない。つか、軍記にありがちな
創作とか脚色まじえた無駄な情報とか引用が全くかかれてない。お前軍記もろくに読んだ事ないだろ。一次資料にない事を挿入されてる家譜や家記の情報に
さらに余計な創作を入れてるから、例えば長久手合戦とかでも一次資料→覚書→家記・家譜→軍記・軍功記・合戦記になるに従って物凄い創作情報が加わって
膨大な量に増えていってるんだがw
しかも物によっちゃ軍記の原文にも「〜家記ニイウ、」とか引用してる事しっかり原文に書いてるんだが。
>>意味も分からず使用しているであろう君の大好きな言葉“一次資料”の取捨選択は君だけの特権と思い込むのは自由だが、その勢いで君の珍説を表の場で公開してはどうだろうか
一次資料→同時代の人間が書いた創作脚色なしの実地史料
軍記→一次資料より信憑性低い覚書や聞書を下敷きにして書かれた家譜や家記をさらに下敷きに創作脚色いれまくって書いた捏造話
匿名掲示板でだけ熱心に布教するのは人類にとっての損失(←補足が必要そうだから書いとくけどコレは当て擦りの類だからw
>>え〜と“聞き書き”は史料じゃないから江戸期作成でも無問題? 俺がバカなのかな自分でも何を言っているのか分からなくなってきた
はぁ?聞き書きは直接伝聞情報をそのまま書いただけだろうがw
何も下敷きにしてないし創作も入れてないから原文読んでも実にあっさりした内容だわアホ
>>そう思うなら君が書いとくべきだよね
何がいいたいのかわからん。
>>これでは県史に採用されただけで無条件に信用すべきだと他人に強いているようにしか読み取れない
お前が
>>432でググっても出てこないとかいうから載ってる本を教えてやったんだろうがw
>>君だけが分かっていても意味が無い。他者が読んで主張を理解できる文章を書く訓練ができてないからこういう独り善がりな文で他の同意が得られると勘違いしてしまう
だから人数書立がググって出てこないからどうこういうアホがいるからお前に教えてやったんだろうがw
455 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
島津の軍記や講談が一次資料とか陣立書より信憑性あると思ってる馬鹿はスレにこなくていいよ
456 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
歴史を語りたいなら最低限愛知県史資料編織豊3くらいは見てこないと話にならん
457 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
wikiやネットサイトしか読まない馬鹿がこのスレにはいるんだな。
時間がかかったわりに内容が無くてガッカリした
お前には失望した
もっと火病的なレスを期待したのになぁ…
459 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
つか軍記でいいなら本多の軍功記とかだとわずか500で島津軍4500を悉く討ち取って
薩摩まで敗走させたことになってるんだよな
460 :
日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
>>459 それどころか姉川の磯野の11段崩しとかもありになる件。
北条氏康なんかは8000で80000の兵打ち破った基地外チート武将になるなw
>時間がかかった
459 名前:日本@名無史さん 投稿日:2013/08/31(土) 16:51:20
460 名前:日本@名無史さん 投稿日:2013/08/31(土) 16:52:52
>>459 この間一分三十二秒の早業である
チト笑タ
戦における総大将としての家康は、はっきいって最悪に近い戦績。家康が総大将で勝った戦があったのか?と首を傾げるくらい。
信長の下での連合軍としての時に限っては勝利が多いのだが・・・姉川とか長篠とか。これは織田軍による采配の功績のほうが大きかろう。
関ヶ原では実際には到着していなかった可能性とか、大阪では圧倒的兵力差で包囲していたのにもかかわらず、真田幸村によって家康本陣は壊滅、家康本人も討ち取られる寸前だったという。
姉川で大勝利したのは大軍朝倉を蹴散らした家康のおかげだし
織田が包囲網勢に滅亡寸前までに追い込まれながら武田の猛攻を必死に支えてたのは100%家康のおかげ。
志賀の陣でも金ヶ崎攻囲戦でも徳川方は活躍してるし上洛戦にも参陣するなど
信長が畿内を平定できたのはほとんど家康のおかげといっていい。
あと大阪の陣で徳川方本陣が壊滅・家康討死寸前とかは後世の講談なので信憑性が全くない。
家康がいなかったら信長なんて武田に瞬殺されてただろうな
家康は常に寡兵で大軍の朝倉・今川・北条・豊臣・石田などと戦い常に勝利納めてきたからね
だからこそ天下を取れたわけで。
常に圧倒的大軍で寡兵の斉藤・長島一向宗・北畠・武田・浅井・朝倉・本願寺・赤井など相手に負けたり
苦戦をしまくって光秀に殺されて滅ぼされた信長より遥かに戦上手でしょ
氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、
宇都宮、梁田、那須、小山、太田
その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。
信長は、浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。
氏康>>>>>>>信長
信長や秀吉は畿内や美濃に大苦戦し生涯を終えた。
家康は武田に苦戦したが畿内や美濃は瞬殺した。
武田>>>>家康>>>>>>>>>>>>>>>>雑魚織田
信長は山県、馬場、家康より弱い。
信玄は山県、馬場、家康よりずっと強い。
謙信は信玄より強い。
謙信>>信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
>姉川で大勝利したのは大軍朝倉を蹴散らした家康のおかげだし
また妄想厨の連投かよorz
大久保が法螺話を書いたなんて根拠は全くないし
例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
当代記のその方面の記述は基本的に信長記のトレースだから全く参考にならない
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのはそれ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
また織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
姉川は例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
姉川の徳川活躍が嘘とか言ってるのは谷口とか堀とかアンチ徳川の史料無視の馬鹿学者くらいだよ
上記のように根拠もあるし信長も書状で徳川が1万五千もの圧倒的大軍の朝倉勢を切り崩したと書いてる(6月28日付け細川藤孝宛て書状)
また水藤氏は朝倉はこの合戦に関する史料を残さず、逆に徳川側には豊富に存在するのも徳川の勝利をよく表していると書いてる(大日本史料第10篇之4)
また一乗谷にはたくさんの石塔・石仏に混じって「元亀元年6月28日為春捜全芳禅定門」やまたその他数種類の銘文を持つ石塔や石仏が残され
いずれも姉川の合戦で徳川と戦った朝倉勢の討ち死にした者を弔うために残された一族が造設したとされる
wiki丸ごとコピペの張り合わせw
472 :
日本@名無史さん:2013/09/14(土) 17:42:53.29
>>465 石田相手の時は寡兵ではないと思うが。西軍は見かけの数は多くても内情はアレだから。
東軍も三成にくしで凝り固まってるだけの軍隊じゃん。
西軍は一応内府たがい条とか家康の専横に対して諸大名連署で結成された公儀の軍。
当時石田三成襲撃事件後失脚した三成でもあれだけ大軍が集結したんだから、いかに
家康の傲慢なやり方に異を唱える連中が多かったって事だろ。
>石田相手の時は寡兵ではないと
寡兵ではないが大身の武将は殆どいないから烏合の衆ではある罠
別の言い方をすると家康本体は軍としての体を為していない
西軍は畿内方面だけで18万もいたからな。
無理矢理私婚を推し進めまくったり島津の領土問題に介入して豊臣蔵入り地を削ったり
奉行衆らの糾弾に対して軍事力で跳ね除けたりもうめちゃくちゃやってるからな。
家康が「天下殿」の風聞を得た後でさえ西軍に大量に兵が集まったのは、ひとえに
この勝手な振る舞いをけしからんと思った大名が多かったからだろうし
家康の事を書いた「覇王の家」は途中で書くのが嫌になったかのように投げっぱなしで終わる。
なんか、家康の事を好きになろう、理解しようと頑張ってみたがやっぱダメだったという感じ。
司馬遼太郎は家康が秀頼を討伐する意思は一貫していたというけど、
史料を見る限り家康は大坂とは講和模索派であって、秀忠と一線を画していたのは明白。
だから何回も何回も大坂退去で秀頼と牢人衆を切断しようとしている。
>>475 まったく関係ないよ
西軍の主力は上杉討伐のために動員された諸侯で、石田家や宇喜多家ですらその例外ではない
三成が豊臣公儀から勝手に命令を引き出して足止めを食わせたに過ぎない
正統性だけで言えば、手続を踏んで節刀を賜った家康の側のほうが圧倒的にある
司馬だって「関ヶ原」で、三成の「義」に対して唐入りに疲れた天下人心の「仁」を対置させ、
さらに戦後に三成に「わしの義は諸侯に利を食らわせたにすぎなかった」と悟らせて終わらせてるのに
司馬が大坂オナニーのために書いた小説を本気で信じ込んでるのが信者
480 :
日本@名無史さん:2013/12/15(日) 12:13:54.58
>>479 私はおおらかな歴史を持つこの民族に生まれたことを誇りに思う。 (司馬遼太郎
あれだけよく書いても人気が出ないって相当だよな
司馬遼太郎に名家好きと評された家康が、成り上がりとは言え豊臣関白家を根絶やしにしたのは残念
いや秀吉は名家じゃねぃし
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ
濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
清洲建設・墨俣一夜城は太閤記の糞講談 取り立てらたのではなく最初から丹羽と並ぶような大身だっただけ
太閤記は年次レベルで間違いあるような糞講談なのは常識
墨俣一夜城とか農民出身とか長久手の戦いが池田の献策とかデタラメばかりデッチ上げて秀吉マンセーしてる糞史料
1565年時点で既に領土安堵状だし1568年でも大身丹羽と並ぶような立場で領土安堵状出してるし
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
津田や木下は織田の一門でしょ。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに織田家でかなりの地位にいたことがわかるし
一次資料初見は重臣や大名しか出せない領土安堵状。
信長公記でも初登場が一軍の指揮官だしそもそも木下は織田の親類衆だし
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
マジレスすると秀吉の実家は卑賎の身分どころか皇室のながれをくむ名家なんだが
母の大政所の父は、朝廷で帝の側近として重用された荻中納言だということは判明してる
天皇の信頼あつく、朝廷の任を終えたあと、尾張中村の荘園を領土として拝領した
そしてそこで土着して名門豪族として栄えた
東照大権現
■日本人(モンゴロイド)が差別される理由〜人種差別の本質は容姿差別〜
皆さんはダウン症をご存知でしょうか?染色体異常が原因と思われる病気で、身体、
知能の発達が著しく低くなります。この病気は世界中で見られるのですが、とても奇妙な、
そして興味深い特徴があるのです。それはこの病気を持って産まれた人はいかなる人種でも
皆同じ顔をしていると言う事です。そして、その顔とはまさにモンゴロイドそのものなのです。
欧米でも中東でもアフリカでもモンゴロイドの顔をした人がしばしば産まれているのです。
そのため、外人はモンゴロイド顔にとても敏感なのです。
勿論、周りの人はそれが遺伝子に異常を持って産まれたであろう事を知っていますが…
これは同じモンゴロイド顔をした日本人同士が議論していても決して理解できる物ではありません。
■「ダウン症候群」=「Mongolism(蒙古人症)」または「mongolian idiocy(蒙古痴呆症)」
ダウン症は、1866年に英国の医師ジョン・ラングドン・ハイドン・ダウンが初めてその存在を発表しました。
ダウン医師は発達の遅れを持つ子供の中に両親は違っていても、兄弟のようによく似た子供達が
いることを発見しました。ダウン症の特徴は、モンゴリアン(蒙古人)の特徴とよく似ていることから、
ダウン医師はヨーロッパ人の中で能力の劣った蒙古系の人種が生まれてきたと考えました。
そしてモンゴリズム(蒙古症)という名を付けたのです。その後、1965年にWHOによって
ダウン医師の名前から「ダウン症候群」を正式な名称とすることが決定されました。
■ダウン症の特徴はモンゴロイドの特徴
ダウン症の容貌の特徴に短頭・首が太く短い・低身長・短い手足
凸凹してない平面顔・筋緊張低下・内眼角贅皮(蒙古ひだ)・厚いまぶた
平坦な鼻根・あごが未発達・エラなし・直毛…
全ての特徴が現れる訳ではありませんが、モンゴロイドはダウン症の特徴が多く集まっています。
コーカソイドでも、この病気を持って生まれてくるとモンゴロイドのような顔になります。
1 名前: 名無し三等兵 [本代を返せ!] 投稿日: 2013/04/24(水) 07:17:16.64 ID:???
俺が大学1年生の時、日露戦争100周年と言う事で、TVでは
色々な特番が組まれ、関連書籍も多く出ていた。
そこで、以前から人気のあった「坂の上の雲」を読んだ後、
歴史・軍事の専門家の書いた日露戦争の書籍を読んだ。
そして、ショックを受けた。
司馬はフィクションを封印し真実しか書かず、資料は参謀本部が
残した前線の地図だけで物語を演繹的に構成したと言っていたが、
「坂の上」は、機密日露戦争史を丸パクリしただけの一から十まで
大嘘のオンパレード小説もどきだったことが判明した。
実際には乃木は有能な将官だったし、海軍がゴリ押しした二○三高地
攻略も必要なかったし、第三軍に児玉の干渉はなかったし、東郷は
日本海海戦の直前に連合艦隊を対馬近辺から移動することも考えたし、
児玉は参謀次長になった時、田村怡与造の作戦案を滅茶苦茶に修正
しまくり だったし、・・・
司馬に騙されている人は専門書とか読まないの?
3 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2013/04/24(水) 08:37:55.15 ID:???
司馬で歴史を語る奴がいるのは事実だが
それは司馬のせいじゃない
4 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2013/04/24(水) 10:05:59.17 ID:???
歴史小説を一瞬でも史実だと思い込んだ
>>1が悪い
5 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2013/04/24(水) 10:12:51.15 ID:???
>>1 大学生になっても歴史書と歴史小説の区別が付かないとか、どんだけ頭が悪いんだよ
これがゆとり脳か…
493 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 09:40:22.37
考えてみりゃ家康の独立は朝鮮の独立みたいなもんだな。
今川が敗れたドサクサで独立。戦はしてない。
評価してなかったっけ?
司馬に限らず
家康の能力は認めるが嫌いって小説家多くないか
大抵史実の戦馬鹿でうっかりさんの家康と似ても似つかぬ
家康像を勝手に作って勝手に嫌ってるけどね
前にも言われてたけど
徳川幕府が捏造した「幕府を打ち立てた神君様」という虚像を
信じちゃってるんだよね
政治能力に関しては逆に過大評価している
徳川幕府が「幕府を打ち立てた神君様」なんて全く作ってないし
むしろ江戸期は秀吉のハッタリ逸話ばかり流行しまくってて
江戸期を通じて秀吉はかなり人気があったし
家康は逆に本人が情けない姿を書かせたりして謙虚だったから
今に伝わるようなぶひぶひいいながら逃げ回る小物みたいな虚像ができて
司馬はそれをさらに創作脚色しまくって、現代のドラマみたいなアンチ家康路線が完成した。
家康が信玄相手に脱糞したとか大坂の陣で幸村相手に逃げ回ったとか国家安康にケチをつけて宣戦布告したとか
家康が秀吉の墓を暴いたとか、大坂の陣で主戦派で、無理矢理講和して堀を埋める路線を主張したとか
全部江戸期の講談だしな。
499 :
日本@名無史さん:2014/03/31(月) 08:21:33.60
>>496 江戸時代にも徳川政権にも秀吉が人気ってことは
秀吉って人気者だったんじゃね?
江戸期の講談や創作が秀吉マンセーな逸話だらけだったから大衆受けしただけ。
墨俣一夜城や中国大返し、美濃攻めでの活躍、金ヶ崎の退き陣、城攻めの達人、農民からの出世話。上月で秀吉が涙したという逸話
全部同時代史料にはない江戸期の創作にしかないハッタリ逸話。
勿論初出は秀吉が書かせた天正記に端を発するものもあるがな
逆に家康はクソもらしの小物とか悪く描かれるようになった。
501 :
日本@名無史さん:2014/03/31(月) 15:41:56.72
>>500 秀吉って人気あったんだなあ
江戸時代でも秀吉が人気あるって凄くないか
秀吉が大衆に元から嫌われているなら、秀吉が死んでから間もない時代のマンセー小説なんて受け入れないしなwwwww
秀吉が死んでからの時代に大した開きはないから、正当性のない残虐非道祭りなら大衆はそんなマンセー話は受け入れないしな常識的に考えてwww
徳川政権でさえ受け入れたりしている時もあるって事は、好敵手なんだろうな
普通なら「悪人を褒め称える作品なんてやめろ!こんなのいらない!」ってなるよね
はだしのゲン騒動を思い出した
過小評価もそうだし、日本の偉人を侮辱し、もう片方を上げるやり方は嫌いだわ
人気もクソも江戸幕府の創作した逸話が秀吉マンセーのアホ脚色ばっかだったから
秀吉は一般大衆に人気が出たってだけだろ。
大体、天正記を元ネタにした創作エピが太閤記やそれを元にした各大名家の家譜など時代を下るにつれて
大袈裟に書かれて一般に広まっただけだし、結局秀吉がハッタリ喧伝しまくった
大返しだの墨俣一夜城だの農民からの出世話が、秀吉マンセーな軍記とか、アンチ家康の親秀吉の大名家などに
語り継がれて、家康は逆にクソ漏らしだの豊臣の国家安康にケチをつけただの、
無理矢理停戦させて騙し討ちで堀を埋めようとしただのアホみたいな捏造エピを書かれて、それが元で
家康は人気がなくなり、秀吉は人気が出ただけ。
江戸期は秀吉のハッタリ逸話ばかり流行しまくってて
江戸期を通じて秀吉はかなり人気があったし
家康は逆に本人が情けない姿を書かせたりして謙虚だったから
今に伝わるようなぶひぶひいいながら逃げ回る小物みたいな虚像ができて
司馬はそれをさらに創作脚色しまくって、現代のドラマみたいなアンチ家康路線が完成した。
家康が信玄相手に脱糞したとか大坂の陣で幸村相手に逃げ回ったとか国家安康にケチをつけて宣戦布告したとか
家康が秀吉の墓を暴いたとか、大坂の陣で主戦派で、無理矢理講和して堀を埋める路線を主張したとか
全部江戸期の講談だしな。
安定した時代になると支配階級も固定化され庶民は出世の道を閉ざされてしまう
要するに夢を持てなくなるわけ
秀吉人気はそうした時代背景があったからこそとも言える
固定化された支配層に対するアンチテーゼだよね
つまり、江戸幕府や大衆から好かれているって事だろ
悪い奴なら死後間もない時期からこうも持ち上げられない
受け入れられないって事への反論がない
コピペしかできない機械状態だから、コピペを超えるレスをされたら壊れた機械のように返答できなくなるのか
509 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 05:46:48.13
普通なら「悪人を褒め称える作品なんてやめろ!こんなのいらない!」ってなるよね
↑正論
510 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 07:59:30.28
嫌われてるなら人気でないわなwww
いや、秀吉の垂れ流した天正記の逸話を元に、
江戸幕府や江戸時代の講談家によって秀吉の虚像が作られただけなんだが。
そもそも秀吉って元々高い身分だったんだろ。
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる
秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。 秀吉は親類だから公記での初登場でも すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が 氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。 完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は最低でも1565年時点で織田家でもかなりのレベルの地位の領主だった事は間違いない
領土安堵状出してるのは丹羽佐久間柴田など大身とされる連中だけだし
そもそも他家の場合大名しか出してない例も多々あるほど。
秀吉の丹羽と島田との連署で兼松正吉・佐々平太に領土安堵状が出されたのは1568年6/10。
また秀吉はこれ以前永禄8年11/3に坪内利定一族に尾張下野村などの所領安堵状を出してる
木下秀吉判物写
三百貫文 下野
七拾貫文 十町名
二拾貫文 宮田
…(以下略)
あと丹羽と名を連ねている事に見られるように
領土安堵状は一定階級以上の人間しか基本出さない(丹羽は永禄7年12/27に尾張笠覆寺の修理田を安堵状出してるし
永禄8年7/15に佐々柴田と連署で尾張寂光院の寺領を安堵状出してる)
秀吉譜代は前野蜂須賀川並衆堀尾加藤福島と尾張出身者やその近辺の美濃のものが多いから
秀吉が尾張時代から基盤持ってたのが自然とわかる
秀吉はかなり残虐な性格だったけど、江戸幕府と江戸の講談でいい人みたいに捏造して
現代ドラマみたいな虚像が出来ただけ。
フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。
その後妹も同じように殺されてる。
秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
フロイス第二0章
私は毎日、かの暴君(関白)の卑劣で下品なことどもを数々話し聞かされ、ただただ驚き入るばかりであります。
彼は自らを汚濁と不浄の堆積と化してしまいました。と申しますのも、それ以外に彼を例えようもなく、彼を語り得ないからであります。
彼の野心はあまりにも増長し過ぎた結果、彼をして自らの高位とか尊厳を慮る事を許さぬばかりか、人間本来の勤めまでまったく忘れさせるに至りました。
かくて彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣った物となり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し
人々をば追放に処して、その封録所領を没収する有様で、彼には他人の封禄を横領するのに道理もなにもないのです。
日本の君候達は、関白の寵愛を保ち、滅ぼされまいとの一念から、心ならずも能力の許す限りの贈物を毎年彼に捧げるのですが、関白はすでに
・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
宇留津城の悲劇
秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は
高橋元種の小倉城を攻略。高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらな
る抵抗をしめしていた。
そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)
攻略に取りかかる。しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要
害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねて
いたのだった。
そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳
ぎ渡っているのを兵士が目撃する。報告を受けた小早川隆景は検使
の黒田官兵衛と相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より
攻撃を開始。
浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略す
るのだった。この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した
男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することにな
り、周防灘が赤く染まったそうである。
秀吉は既に不忠をやらかしまくってるからな。
本来なら信雄や信孝を主君に彼らの命令で織田家の政務に励むのが筋目。
何せ、自分を相当な身分まで引き立ててくれた家の恩人の息子なんだからね。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった
同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してる
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくる
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
織田家後継者として利用した秀信や一時的な当主となった信雄や、信孝など有名どころ以外でも
信純、秀勝、信勝、信包など織田一族は悉く秀吉によって改易か行方不明(おそらく暗殺)か所領大減少だもんな。
本来なら、彼らの下で、織田家のためにつくすのが織田家家臣である秀吉の役目。
何せ、自分を相当な身分まで引き立ててくれた家の恩人の息子なんだからね。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる
ドラマみたいな馬鹿な妄想の秀吉像が出来上がったのは秀吉が書かせた天正記とか太閤記に端を発し
次に江戸幕府の各藩が提出した家記や家譜が太閤記をトレースしまくってかかれさらに脚色や創作を入れまくって作らされたから
アホみたいな秀吉の虚像ができあがったってだけの話。
中国大返しも農民からの出世話も金ヶ崎の退陣も墨俣一夜城も美濃攻めでの活躍話も播磨で上月で涙したとかも
全て悉く太閤記や天正記などのハッタリ喧伝に端を発する、秀吉やその周辺のホルホル脳が垂れ流した歪曲情報が元で広まっただけだし
江戸時代になるとますます秀吉マンセーのアホ創作逸話が脚色つきで語られるようになったからな
秀吉がマンセーされるようになったのは司馬小説とか現代ドラマの影響が大きいだろ。
手取川で柴田が突進主張して秀吉が理にかなった退却を主張して喧嘩別れになったとか
信長の本願寺攻めでの窮地を救ったなんて江戸期の講談にすら出てきてない完全なアホ創作逸話だし。
何の罪もない朝鮮に出兵して朝鮮人を殺しまくり迫害しまくった秀吉は外道中の外道。
日本が朝鮮人に現代でも恨まれまくってるのは秀吉と東条英機の愚考のせい。
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
秀吉が朝鮮出兵やってなけりゃ拉致被害者はすんなり帰ってきてた。
そもそも拉致なんてされてたか怪しい。
524 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 14:36:11.38
キモイよ
信長を暗殺したのも状況から考えて秀吉くさいからなあ
状況から考えて秀吉首謀以外ありえないだろ。
毛利と秀吉の和平交渉が運よく成ったから備中を引き払っただけだし
情報の真偽を確かめる事なく即座に行動を起こしたのは秀吉があらかじめ計画した証拠だろ。
ただでさえ備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるというありえない事態が起きてしかもその情報を秀吉は鵜呑みにしてるわけで。 。
秀吉の通った高松〜播磨間は味方や秀吉策源地播磨の領国内のまっただ中なのに
事前の準備がないも糞もない。秀吉が変に備えて事前に準備を行っていたと書いてる学者だっていくらでもいるわけで。
毛利が運よく和議に乗ってくれた上にわずか1日半で遥か遠くの京の変事が、敵であるはずの
秀吉方陣営に飛び込み、しかもその真偽を検証する事なく鵜呑みにするという棚ボタ奇跡が起きたのが本能寺の変
明らかに秀吉は京の変事をあらかじめ知って予想し事前に準備しまくってただけ。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即している
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくる。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がない
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてる
光秀が単体での謀反ならアホとしかいいようがないだろ。織田家主殺しの汚名負ったせいで
光秀直属系12000以外織田家臣全て敵に回す事になったんじゃねーか。秀吉が来なくてもどの道ころされるしかねーわアホ
大返しなんて大袈裟な誇張のつく事秀吉は何もやってないし
秀吉方策源地のど真中を行軍してるのに水や食料なんてないわけない。
軍隊が何日も生きるために食料も水も不可欠でもしそれがないのに秀吉が行軍させて成功させたとしたら
兵士の生命力が凄いのであって秀吉は本物の馬鹿としかいいようがないわけで。
527 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 16:08:38.90
>>511 >いや、秀吉の垂れ流した天正記の逸話を元に、
>江戸幕府や江戸時代の講談家によって秀吉の虚像が作られただけなんだが。
つまり、江戸幕府や庶民に人気があった証明だな
死んで間もない時期に、嫌われ者が人気になるワケがない
嫌われ者を活躍させて持ち上げるワケがないw
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
>>527 順番が違う。
秀吉のハッタリ喧伝「天正記」→太閤記→それをトレースした家記家譜→講談→一般大衆に人気
であって
人気→講談になったわけではない。
>>527 嫌われ者とかどうとか関係ない。
例えば嫌われてるものでも、マスコミがハッタリ喧伝でいい人みたいに宣伝すれば
庶民はマスコミからしか情報得る手段がないので、自然と人気は出る。
庶民なんて、その人の情報を知る手段が、講談と軍記くらいしかないんだから、
唯一の情報手段が秀吉マンセーのハッタリや捏造だらけなら、それを信じるしかなくなるだけ。
秀吉がマンセーされるようになったのは司馬小説とか現代ドラマの影響が大きいだろ。
手取川で柴田が突進主張して秀吉が理にかなった退却を主張して喧嘩別れになったとか
信長の本願寺攻めでの窮地を救ったなんて江戸期の講談にすら出てきてない完全なアホ創作逸話だし。
532 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 16:20:49.50
>>529 だから、嫌いな相手のハッタリなんて受け入れないよねって話
庶民が秀吉を嫌っているなら、そもそもそんなハッタリ講談受け入れないよね
533 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 16:23:17.01
>>530 つまり庶民は秀吉を嫌ってない
秀吉が悪だと思っている庶民は当時から少なかった
って証明だね
庶民が秀吉を知る手段なんて講談や軍記くらいしかないんだから当たり前だろ。
太閤記とか悉く秀吉マンセーな逸話ばっかりで、庶民が秀吉がハッタリ喧伝した天正記の内容に
さらに面白おかしく脚色まじりで書かれただけだし
535 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 16:27:22.60
フロイスってキリスト教で日本を洗脳しに来たクズ
キリスト教を弾圧したから秀吉バッシングをしたのがフロイス
536 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 16:31:58.95
>>534 つまり、大衆は秀吉を嫌ってない
大衆が嫌うレベルの悪事を秀吉はしてない
それどころか庶民ではない江戸幕府までが秀吉を認めたと
>>514-519のように秀吉は悪事をやりまくってたが、豊臣が必死に隠蔽し
豊臣に協力した徳川も、事実を隠しまくってたから、庶民は知らなかっただけ。
庶民が秀吉の事績を知る手段なんて軍記や講談くらいが唯一の手段で、
その軍記講談が秀吉マンセーだから秀吉は歪曲された虚像でもって人気が出ただけ。
当時のキリスト国家は侵略だらけだったし
フロイスもその仲間だから反キリスト教にはファビョって当然
秀吉の活躍なんてほとんどプロパガンダで捏造されてるだけだしな。中国大返し、墨俣一夜城、美濃三人衆調略、農民からの出世話、金ヶ崎の退却戦。
全部秀吉によって捏造された太閤記や天正記などの講談軍記ネタが元ネタとなって現代まで語り継がれてドラマで再現されてる。
ドラマじゃやらないけど秀吉は地味に虐殺が多いからね。宇留津城や鳥取城で殺しまくってるし
朝鮮の役でも殺しまくってる。
秀吉の兄弟だといって名乗ってきた連中(秀吉が調べた結果それが本当だとわかった)を殺したりもしてる。
秀次やその親族を殺しまくった事もあったし。
フロイスは京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど 秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
>>537 つまり、大衆は秀吉を嫌ってない
大衆が嫌うレベルの悪事を秀吉はしてない
それどころか庶民ではない江戸幕府までが秀吉を認めたと
敵ボスの徳川でさえ秀吉好きだったなら、秀吉はやはり人気あったんだな
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
秀吉が朝鮮出兵やってなけりゃ拉致被害者はすんなり帰ってきてた。
そもそも拉致なんてされてたか怪しい。
フロイスの日本史は、最初はフロイスらが秀吉に布教活動を認めてもらいたい一心でこびへつらってたから
秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
>>514-519のように秀吉は悪事をやりまくってたが、豊臣が必死に隠蔽し
豊臣に協力した徳川も、事実を隠しまくってたから、庶民は知らなかっただけ。
庶民が秀吉の事績を知る手段なんて軍記や講談くらいが唯一の手段で、
その軍記講談が秀吉マンセーだから秀吉は歪曲された虚像でもって人気が出ただけ。
・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
秀吉は既に不忠をやらかしまくってるからな。
本来なら信雄や信孝を主君に彼らの命令で織田家の政務に励むのが筋目。
何せ、自分を相当な身分まで引き立ててくれた家の恩人の息子なんだからね。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった
同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してる
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくる
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
549 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 16:40:18.73
戦乱時代だから敵は殺されて当然
秀次事件も謀反疑惑等があるから
後ろめたい事がないならあそこで秀吉を裏切りはしない
ドラマみたいな馬鹿な妄想の秀吉像が出来上がったのは秀吉が書かせた天正記とか太閤記に端を発し
次に江戸幕府の各藩が提出した家記や家譜が太閤記をトレースしまくってかかれさらに脚色や創作を入れまくって作らされたから
アホみたいな秀吉の虚像ができあがったってだけの話。
中国大返しも農民からの出世話も金ヶ崎の退陣も墨俣一夜城も美濃攻めでの活躍話も播磨で上月で涙したとかも
全て悉く太閤記や天正記などのハッタリ喧伝に端を発する、秀吉やその周辺のホルホル脳が垂れ流した歪曲情報が元で広まっただけだし
江戸時代になるとますます秀吉マンセーのアホ創作逸話が脚色つきで語られるようになったからな
本能寺の変は状況から考えて秀吉首謀以外ありえないだろ。
毛利と秀吉の和平交渉が運よく成ったから備中を引き払っただけだし
情報の真偽を確かめる事なく即座に行動を起こしたのは秀吉があらかじめ計画した証拠だろ。
ただでさえ備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるというありえない事態が起きてしかもその情報を秀吉は鵜呑みにしてるわけで。 。
秀吉の通った高松〜播磨間は味方や秀吉策源地播磨の領国内のまっただ中なのに
事前の準備がないも糞もない。秀吉が変に備えて事前に準備を行っていたと書いてる学者だっていくらでもいるわけで。
毛利が運よく和議に乗ってくれた上にわずか1日半で遥か遠くの京の変事が、敵であるはずの
秀吉方陣営に飛び込み、しかもその真偽を検証する事なく鵜呑みにするという棚ボタ奇跡が起きたのが本能寺の変
明らかに秀吉は京の変事をあらかじめ知って予想し事前に準備しまくってただけ。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即している
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくる。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がない
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてる
光秀が単体での謀反ならアホとしかいいようがないだろ。織田家主殺しの汚名負ったせいで
光秀直属系12000以外織田家臣全て敵に回す事になったんじゃねーか。秀吉が来なくてもどの道ころされるしかねーわアホ
大返しなんて大袈裟な誇張のつく事秀吉は何もやってないし
秀吉方策源地のど真中を行軍してるのに水や食料なんてないわけない。
軍隊が何日も生きるために食料も水も不可欠でもしそれがないのに秀吉が行軍させて成功させたとしたら
兵士の生命力が凄いのであって秀吉は本物の馬鹿としかいいようがないわけで。
552 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 16:41:20.88
>>545 侵略者であるフロイスが、侵略者の味方をしないからネガキャンしただけだな
553 :
日本@名無史さん:2014/04/01(火) 16:41:57.03
>>546 つまり、大衆は秀吉を嫌ってない
大衆が嫌うレベルの悪事を秀吉はしてない
それどころか庶民ではない江戸幕府までが秀吉を認めたと
敵ボスの徳川でさえ秀吉好きだったなら、秀吉はやはり人気あったんだな
証明してくれてありがとう
秀次が謀反起こした疑惑なんて微塵もねーよアホ
つか秀次は当時の関白で家督を約束された身なんだから、
謀反も糞も秀次が当主で秀吉がむしろ従うのが道理だろうが
>>552 フロイスの日本史は、最初はフロイスらが秀吉に布教活動を認めてもらいたい一心でこびへつらってたから
秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
フロイスの日本史は京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615 秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど 秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
秀吉が朝鮮出兵やってなけりゃ拉致被害者はすんなり帰ってきてた。
そもそも拉致なんてされてたか怪しい。
>>514-519のように秀吉は悪事をやりまくってたが、豊臣が必死に隠蔽し
豊臣に協力した徳川も、事実を隠しまくってたから、庶民は知らなかっただけ。
庶民が秀吉の事績を知る手段なんて軍記や講談くらいが唯一の手段で、
その軍記講談が秀吉マンセーだから秀吉は歪曲された虚像でもって人気が出ただけ。
織田家後継者として利用した秀信や一時的な当主となった信雄や、信孝など有名どころ以外でも
信純、秀勝、信勝、信包など織田一族は悉く秀吉によって改易か行方不明(おそらく暗殺)か所領大減少だもんな。
本来なら、彼らの下で、織田家のためにつくすのが織田家家臣である秀吉の役目。
何せ、自分を相当な身分まで引き立ててくれた家の恩人の息子なんだからね。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる
秀吉がマンセーされるようになったのは司馬小説とか現代ドラマの影響が大きいだろ。
手取川で柴田が突進主張して秀吉が理にかなった退却を主張して喧嘩別れになったとか
信長の本願寺攻めでの窮地を救ったなんて江戸期の講談にすら出てきてない完全なアホ創作逸話だし
何の罪もない朝鮮に出兵して朝鮮人を殺しまくり迫害しまくった秀吉は外道中の外道。
日本が朝鮮人に現代でも恨まれまくってるのは秀吉と東条英機の愚考のせい。
ドラマみたいな馬鹿な妄想の秀吉像が出来上がったのは秀吉が書かせた天正記とか太閤記に端を発し
次に江戸幕府の各藩が提出した家記や家譜が太閤記をトレースしまくってかかれさらに脚色や創作を入れまくって作らされたから
アホみたいな秀吉の虚像ができあがったってだけの話。
中国大返しも農民からの出世話も金ヶ崎の退陣も墨俣一夜城も美濃攻めでの活躍話も播磨で上月で涙したとかも
全て悉く太閤記や天正記などのハッタリ喧伝に端を発する、秀吉やその周辺のホルホル脳が垂れ流した歪曲情報が元で広まっただけだし
江戸時代になるとますます秀吉マンセーのアホ創作逸話が脚色つきで語られるようになったからな
宇留津城の悲劇
秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は
高橋元種の小倉城を攻略。高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらな
る抵抗をしめしていた。
そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)
攻略に取りかかる。しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要
害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねて
いたのだった。
そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳
ぎ渡っているのを兵士が目撃する。報告を受けた小早川隆景は検使
の黒田官兵衛と相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より
攻撃を開始。
浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略す
るのだった。この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した
男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することにな
り、周防灘が赤く染まったそうである。
秀吉がマンセーされるようになったのは司馬小説とか現代ドラマの影響が大きいだろ。
手取川で柴田が突進主張して秀吉が理にかなった退却を主張して喧嘩別れになったとか
信長の本願寺攻めでの窮地を救ったなんて江戸期の講談にすら出てきてない完全なアホ創作逸話だし。
日本は何回もたいした理由もなく何の罪もない朝鮮人の住む半島に侵略して
何の罪もない朝鮮人相手に虐殺や売春を繰り返してたし
日本人が朝鮮人に恨まれてるのも、日本人の過去のやったアホな侵略と虐殺など非道行為のせいである。
秀吉みたいなゴミがいなければ朝鮮人拉致被害者はさっさと帰ってきてるし
朝鮮半島からうらまれたり
韓国への日本への挑発も起きていない。
全部たいした理由もなく半島に侵略したり何の罪もない半島人を虐殺しまくった秀吉のせいだ。
今日もキチガイのコピペ連投が炸裂してるな
まっとうな意見だと思うが
自演乙
コピペ連投して荒らす奴を見ていると
韓国の声闘を思い出す
大きな声でひたすら騒いで、相手が疲れるのを待つ幼稚なケンカ
↑信者関係なく、おまえはコピペ連投キチガイとして有名になってるよ
色んなスレを連投で荒らすキチガイとしてさ
秀次事件って面白いな
3.1粛清の理由
菊亭晴季の娘(一ノ台・秀吉の側室であったが病を得たため暇を出され親元に帰された)を見初め、
晴季と相談し秀吉に黙って継室としたが、石田三成の讒言で秀吉がそれを知り、嫉妬に狂って罪状をでっち上げ処断したとする説(『川角太閤記
』)や、
秀吉が秀次を養子にして関白職を譲った後に秀頼が生まれてしまい、我が子可愛さに秀次に後嗣権を与えてしまった事に後悔したという説
[11]
、秀次が「殺生関白」と称される乱行を繰り返したためとする説
[11]
、秀次が秀吉に無断で朝廷に多額の献金を行なった事を秀吉や三成らが謀反の準備と判断したとする説[4]
など諸説あり、未だにどれが理由かは明確ではない。
また秀次は朝鮮出兵や築城普請などで莫大な赤字を抱えた諸大名に対して聚楽第の金蔵から多額の貸し付けを行なっていたが、この公金流用が秀吉の怒りに触れたとする説[12]
、この借財で特に毛利輝元に対して秀次はかなりの額を貸し付けており、輝元はとても返しきれないくらい借金していたのだが、
秀次と秀吉の関係悪化を見て秀次派として処分されるのを恐れ自衛のために秀次からの借金の誓書を謀反の誓約書として偽って秀吉に差し出し、秀吉が秀次謀反と判断したとする説などもある[12]。
573 :
日本@名無史さん:2014/04/02(水) 03:32:56.63
>>572 どれが真相かわからないのか
身内死刑にするくらいだからかなりの理由がないと無理だよな
>>555-556 つまり侵略者であるフロイスが、
侵略者の味方をしないから侵略者の本性を現してネガキャンしただけだな
異国の侵略者フロイスの事を鵜呑みにする奴w
>>558 大衆は秀吉を嫌ってない
大衆が嫌うレベルの悪事を秀吉はしてない
それどころか庶民ではない江戸幕府までが秀吉を認めたと
敵ボスの徳川でさえ秀吉好きだったなら、秀吉はやはり人気あったんだな
証明してくれてありがとう
徳川は秀吉好きだったんだなあ
>>574 フロイスの日本史は、最初はフロイスらが秀吉に布教活動を認めてもらいたい一心でこびへつらってたから
秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
フロイスの日本史は京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615 秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど 秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
秀吉が朝鮮出兵やってなけりゃ拉致被害者はすんなり帰ってきてた。
そもそも拉致なんてされてたか怪しい。
>>514-519のように秀吉は悪事をやりまくってたが、豊臣が必死に隠蔽し
豊臣に協力した徳川も、事実を隠しまくってたから、庶民は知らなかっただけ。
庶民が秀吉の事績を知る手段なんて軍記や講談くらいが唯一の手段で、
その軍記講談が秀吉マンセーだから秀吉は歪曲された虚像でもって人気が出ただけ。
織田家後継者として利用した秀信や一時的な当主となった信雄や、信孝など有名どころ以外でも
信純、秀勝、信勝、信包など織田一族は悉く秀吉によって改易か行方不明(おそらく暗殺)か所領大減少だもんな。
本来なら、彼らの下で、織田家のためにつくすのが織田家家臣である秀吉の役目。
何せ、自分を相当な身分まで引き立ててくれた家の恩人の息子なんだからね。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる
秀吉がマンセーされるようになったのは司馬小説とか現代ドラマの影響が大きいだろ。
手取川で柴田が突進主張して秀吉が理にかなった退却を主張して喧嘩別れになったとか
信長の本願寺攻めでの窮地を救ったなんて江戸期の講談にすら出てきてない完全なアホ創作逸話だし
何の罪もない朝鮮に出兵して朝鮮人を殺しまくり迫害しまくった秀吉は外道中の外道。
日本が朝鮮人に現代でも恨まれまくってるのは秀吉と東条英機の愚考のせい。
ドラマみたいな馬鹿な妄想の秀吉像が出来上がったのは秀吉が書かせた天正記とか太閤記に端を発し
次に江戸幕府の各藩が提出した家記や家譜が太閤記をトレースしまくってかかれさらに脚色や創作を入れまくって作らされたから
アホみたいな秀吉の虚像ができあがったってだけの話。
中国大返しも農民からの出世話も金ヶ崎の退陣も墨俣一夜城も美濃攻めでの活躍話も播磨で上月で涙したとかも
全て悉く太閤記や天正記などのハッタリ喧伝に端を発する、秀吉やその周辺のホルホル脳が垂れ流した歪曲情報が元で広まっただけだし
江戸時代になるとますます秀吉マンセーのアホ創作逸話が脚色つきで語られるようになったからな
宇留津城の悲劇
秀吉による九州征伐において小早川勢を主力とする中国勢2万8千は
高橋元種の小倉城を攻略。高橋元種は筑豊の香春城に退却しさらな
る抵抗をしめしていた。
そのため中国勢は香春城の属城の宇津留城(現福岡県築城郡椎田町)
攻略に取りかかる。しかし宇津留城は周囲を深田と沼に囲まれた要
害の城であり、2万を超える中国勢も攻略に手間取り攻めあぐねて
いたのだった。
そんな中、城の周囲をうろつく1匹の白い犬が現れ、沼の浅瀬を泳
ぎ渡っているのを兵士が目撃する。報告を受けた小早川隆景は検使
の黒田官兵衛と相談の上、翌朝より白い犬が泳いで渡った地点より
攻撃を開始。
浅瀬を見つけた中国勢は数にものをいわせ1日で宇留津城を攻略す
るのだった。この宇留津城、城主の加来与次郎は討ち死に降伏した
男女約400名も見せしめのため全て磔になり処刑されている。
この磔になった遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄することにな
り、周防灘が赤く染まったそうである。
>>576 スルーしすぎw
つまり侵略者であるフロイスが、
侵略者の味方をしないから侵略者の本性を現してネガキャンしただけだな
異国の侵略者フロイスの事を鵜呑みにする奴w
大衆は秀吉を嫌ってない
大衆が嫌うレベルの悪事を秀吉はしてない
それどころか庶民ではない江戸幕府までが秀吉を認めたと
敵ボスの徳川でさえ秀吉好きだったなら、秀吉はやはり人気あったんだな
証明してくれてありがとう
徳川は秀吉好きだったんだなあ
フロイスの日本史は、最初はフロイスらが秀吉に布教活動を認めてもらいたい一心でこびへつらってたから
秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
フロイスの日本史は京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615 秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど 秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
秀吉が朝鮮出兵やってなけりゃ拉致被害者はすんなり帰ってきてた。
そもそも拉致なんてされてたか怪しい。
>>514-519のように秀吉は悪事をやりまくってたが、豊臣が必死に隠蔽し
豊臣に協力した徳川も、事実を隠しまくってたから、庶民は知らなかっただけ。
庶民が秀吉の事績を知る手段なんて軍記や講談くらいが唯一の手段で、
その軍記講談が秀吉マンセーだから秀吉は歪曲された虚像でもって人気が出ただけ
>侵略者であるフロイスが 侵略者の味方をしないから侵略者の本性を現してネガキャンしただけだな
>異国の侵略者フロイスの事を鵜呑みにする奴w
>>576-577で全て論破されてます。
>>大衆は秀吉を嫌ってない 大衆が嫌うレベルの悪事を秀吉はしてない それどころか庶民ではない江戸幕府までが秀吉を認めたと
>>敵ボスの徳川でさえ秀吉好きだったなら、秀吉はやはり人気あったんだな
>>578-
>>584
秀吉がマンセーされるようになったのは司馬小説とか現代ドラマの影響が大きいだろ。
手取川で柴田が突進主張して秀吉が理にかなった退却を主張して喧嘩別れになったとか
信長の本願寺攻めでの窮地を救ったなんて江戸期の講談にすら出てきてない完全なアホ創作逸話だし。
589 :
日本@名無史さん:2014/04/02(水) 18:49:42.69
>>587 論破になってなくてワロタwww
つまり侵略者であるフロイスが、侵略者の味方をしないから侵略者の本性を現してネガキャンしただけ ←これへの論破になってない
異教徒侵略者フロイスがバテレン追放等にキレてネガキャンしただけとしか
フロイス鵜呑みとかアホだろ
異国の侵略者フロイスの事を鵜呑みにするアホw
>>578-584論破になってなくてワロタw
むしろそのレスが証明したことが
つまり、大衆は秀吉を嫌ってない
大衆が嫌うレベルの悪事を秀吉はしてない
それどころか庶民ではない江戸幕府までが秀吉を認めたと
敵ボスの徳川でさえ秀吉好きだったなら、秀吉はやはり人気あったんだな
証明してくれてありがとう
徳川は秀吉好きだったんだなあ
敵は殺されて当たり前だなw
>>侵略者であるフロイスが、侵略者の味方をしないから侵略者の本性を現してネガキャンしただけ ←これへの論破になってない
>>異教徒侵略者フロイスがバテレン追放等にキレてネガキャンしただけとしか
>> フロイス鵜呑みとかアホだろ 異国の侵略者フロイスの事を鵜呑みにするアホw
フロイスの日本史は、最初はフロイスらが秀吉に布教活動を認めてもらいたい一心でこびへつらってたから
秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
フロイスの日本史は京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615 秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど 秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
>>大衆は秀吉を嫌ってない 大衆が嫌うレベルの悪事を秀吉はしてない それどころか庶民ではない江戸幕府までが秀吉を認めたと
>>敵ボスの徳川でさえ秀吉好きだったなら、秀吉はやはり人気あったんだな
>>578-
>>584 で全て論破されてるのにアホかお前
順番が違う。
秀吉のハッタリ喧伝「天正記」→太閤記→それをトレースした家記家譜→講談→一般大衆に人気
であって
人気→講談になったわけではない。
嫌われ者とかどうとか関係ない。
例えば嫌われてるものでも、マスコミがハッタリ喧伝でいい人みたいに宣伝すれば
庶民はマスコミからしか情報得る手段がないので、自然と人気は出る。
庶民なんて、その人の情報を知る手段が、講談と軍記くらいしかないんだから、
唯一の情報手段が秀吉マンセーのハッタリや捏造だらけなら、それを信じるしかなくなるだけ。
庶民が秀吉を知る手段なんて講談や軍記くらいしかないんだから当たり前だろ。
太閤記とか悉く秀吉マンセーな逸話ばっかりで、庶民が秀吉がハッタリ喧伝した天正記の内容に
さらに面白おかしく脚色まじりで書かれただけだし
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
秀吉が朝鮮出兵やってなけりゃ拉致被害者はすんなり帰ってきてた。
そもそも拉致なんてされてたか怪しい。
・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
本能寺の変は状況から考えて秀吉首謀以外ありえないだろ。
毛利と秀吉の和平交渉が運よく成ったから備中を引き払っただけだし
情報の真偽を確かめる事なく即座に行動を起こしたのは秀吉があらかじめ計画した証拠だろ。
ただでさえ備中京都間をわずか1日半で情報が駆け抜けるというありえない事態が起きてしかもその情報を秀吉は鵜呑みにしてるわけで。 。
秀吉の通った高松〜播磨間は味方や秀吉策源地播磨の領国内のまっただ中なのに
事前の準備がないも糞もない。秀吉が変に備えて事前に準備を行っていたと書いてる学者だっていくらでもいるわけで。
毛利が運よく和議に乗ってくれた上にわずか1日半で遥か遠くの京の変事が、敵であるはずの
秀吉方陣営に飛び込み、しかもその真偽を検証する事なく鵜呑みにするという棚ボタ奇跡が起きたのが本能寺の変
明らかに秀吉は京の変事をあらかじめ知って予想し事前に準備しまくってただけ。
本能寺の変後一気に奸臣と化し謀略で織田家を乗っ取るクズっぷりからすれば
秀吉首謀説はかなり秀吉の性格に即している
切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくる。
背後は南条宇喜多が守ってて端から心配する必要がない
毛利軍は雑魚だからそうがかりで攻め込んでも宇喜多に大敗したり
南条4万石程度も攻略失敗したりしてる
光秀が単体での謀反ならアホとしかいいようがないだろ。織田家主殺しの汚名負ったせいで
光秀直属系12000以外織田家臣全て敵に回す事になったんじゃねーか。秀吉が来なくてもどの道ころされるしかねーわアホ
大返しなんて大袈裟な誇張のつく事秀吉は何もやってないし
秀吉方策源地のど真中を行軍してるのに水や食料なんてないわけない。
軍隊が何日も生きるために食料も水も不可欠でもしそれがないのに秀吉が行軍させて成功させたとしたら
兵士の生命力が凄いのであって秀吉は本物の馬鹿としかいいようがないわけで。
織田家後継者として利用した秀信や一時的な当主となった信雄や、信孝など有名どころ以外でも
信純、秀勝、信勝、信包など織田一族は悉く秀吉によって改易か行方不明(おそらく暗殺)か所領大減少だもんな。
本来なら、彼らの下で、織田家のためにつくすのが織田家家臣である秀吉の役目。
何せ、自分を相当な身分まで引き立ててくれた家の恩人の息子なんだからね。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる
秀吉は既に不忠をやらかしまくってるからな。
本来なら信雄や信孝を主君に彼らの命令で織田家の政務に励むのが筋目。
何せ、自分を相当な身分まで引き立ててくれた家の恩人の息子なんだからね。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる
主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった
同じ宣教師の日本史だと秀吉は自分の親族だと名乗りでた人間(偽者ではなく本物)を問答無用に殺してる
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくる
佐々・信孝・秀次etc...
関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
ドラマみたいな馬鹿な妄想の秀吉像が出来上がったのは秀吉が書かせた天正記とか太閤記に端を発し
次に江戸幕府の各藩が提出した家記や家譜が太閤記をトレースしまくってかかれさらに脚色や創作を入れまくって作らされたから
アホみたいな秀吉の虚像ができあがったってだけの話。
中国大返しも農民からの出世話も金ヶ崎の退陣も墨俣一夜城も美濃攻めでの活躍話も播磨で上月で涙したとかも
全て悉く太閤記や天正記などのハッタリ喧伝に端を発する、秀吉やその周辺のホルホル脳が垂れ流した歪曲情報が元で広まっただけだし
江戸時代になるとますます秀吉マンセーのアホ創作逸話が脚色つきで語られるようになったからな
日本は何回もたいした理由もなく何の罪もない朝鮮人の住む半島に侵略して
何の罪もない朝鮮人相手に虐殺や売春を繰り返してたし
日本人が朝鮮人に恨まれてるのも、日本人の過去のやったアホな侵略と虐殺など非道行為のせいである。
秀吉みたいなゴミがいなければ朝鮮人拉致被害者はさっさと帰ってきてるし
朝鮮半島からうらまれたり
韓国への日本への挑発も起きていない。
全部たいした理由もなく半島に侵略したり何の罪もない半島人を虐殺しまくった秀吉のせいだ。
何の罪もない朝鮮に出兵して朝鮮人を殺しまくり迫害しまくった秀吉は外道中の外道。
日本が朝鮮人に現代でも恨まれまくってるのは秀吉と東条英機の愚考のせい。
602 :
日本@名無史さん:2014/04/02(水) 21:22:58.84
>>590-600 反論になってないオウム返しでワロタw
さすが同じコピペで1年以上粘着するキチガイ
お前はキチガイであるのを自覚しろよ
異教徒侵略者フロイスのネガキャンというのはスルーで、フロイス鵜呑みwwww
都合の良い情報を信じているだけのアホw
外人異教徒侵略者フロイスを鵜呑みにするとかアホかwwww
元から秀吉が嫌われているなら、大衆も徳川も秀吉持ち上げないよねwwww
敵を殺しただけとしか思われてないw
戦国時代は農民も戦争一揆で敵を殺すのだから当然な話
フロイスの日本史は、最初はフロイスらが秀吉に布教活動を認めてもらいたい一心でこびへつらってたから
秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
フロイスの日本史は京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615 秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど 秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
順番が違う。
秀吉のハッタリ喧伝「天正記」→太閤記→それをトレースした家記家譜→講談→一般大衆に人気
であって
人気→講談になったわけではない。
嫌われ者とかどうとか関係ない。
例えば嫌われてるものでも、マスコミがハッタリ喧伝でいい人みたいに宣伝すれば
庶民はマスコミからしか情報得る手段がないので、自然と人気は出る。
庶民なんて、その人の情報を知る手段が、講談と軍記くらいしかないんだから、
唯一の情報手段が秀吉マンセーのハッタリや捏造だらけなら、それを信じるしかなくなるだけ。
庶民が秀吉を知る手段なんて講談や軍記くらいしかないんだから当たり前だろ。
太閤記とか悉く秀吉マンセーな逸話ばっかりで、庶民が秀吉がハッタリ喧伝した天正記の内容に
さらに面白おかしく脚色まじりで書かれただけだし
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
秀吉が朝鮮出兵やってなけりゃ拉致被害者はすんなり帰ってきてた。
そもそも拉致なんてされてたか怪しい。
>>514-519のように秀吉は悪事をやりまくってたが、豊臣が必死に隠蔽し
豊臣に協力した徳川も、事実を隠しまくってたから、庶民は知らなかっただけ。
庶民が秀吉の事績を知る手段なんて軍記や講談くらいが唯一の手段で、
その軍記講談が秀吉マンセーだから秀吉は歪曲された虚像でもって人気が出ただけ。
織田家後継者として利用した秀信や一時的な当主となった信雄や、信孝など有名どころ以外でも
信純、秀勝、信勝、信包など織田一族は悉く秀吉によって改易か行方不明(おそらく暗殺)か所領大減少だもんな。
本来なら、彼らの下で、織田家のためにつくすのが織田家家臣である秀吉の役目。
何せ、自分を相当な身分まで引き立ててくれた家の恩人の息子なんだからね。
秀信を主君とするなら、秀信のために東奔西走し、秀信成人後は秀信に領土も官位も全て渡すのが
織田家家臣である秀吉の務め。
それが利用するだけ利用してポイ捨てした秀吉の不忠っぷりはずば抜けてる。
あろう事か、代理の当主になってもらった信雄にいちゃもんつけて改易までやってる
信包など他の親類もいつの間にか蚊帳の外まで追い出されてる
秀吉がマンセーされるようになったのは司馬小説とか現代ドラマの影響が大きいだろ。
手取川で柴田が突進主張して秀吉が理にかなった退却を主張して喧嘩別れになったとか
信長の本願寺攻めでの窮地を救ったなんて江戸期の講談にすら出てきてない完全なアホ創作逸話だし
ドラマみたいな馬鹿な妄想の秀吉像が出来上がったのは秀吉が書かせた天正記とか太閤記に端を発し
次に江戸幕府の各藩が提出した家記や家譜が太閤記をトレースしまくってかかれさらに脚色や創作を入れまくって作らされたから
アホみたいな秀吉の虚像ができあがったってだけの話。
中国大返しも農民からの出世話も金ヶ崎の退陣も墨俣一夜城も美濃攻めでの活躍話も播磨で上月で涙したとかも
全て悉く太閤記や天正記などのハッタリ喧伝に端を発する、秀吉やその周辺のホルホル脳が垂れ流した歪曲情報が元で広まっただけだし
江戸時代になるとますます秀吉マンセーのアホ創作逸話が脚色つきで語られるようになったからな
・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
608 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 11:29:17.07
>>603-607 相変わらず反論になってなくてワロタw
さすが同じコピペで1年以上粘着するキチガイ
お前はキチガイであるのを自覚しろよ
異教徒侵略者フロイスのネガキャンというのはスルーで、フロイス鵜呑みwwww
都合の良い情報を信じているだけのアホw
外人異教徒侵略者フロイスを鵜呑みにするとかアホかwwww
元から秀吉が嫌われているなら、大衆も徳川も秀吉持ち上げないよねwwww
敵を殺しただけとしか思われてないw
戦国時代は農民も戦争一揆で敵を殺すのだから当然な話
つまり、大衆は秀吉を嫌ってない
大衆が嫌うレベルの悪事を秀吉はしてない
それどころか庶民ではない江戸幕府までが秀吉を認めたと
敵ボスの徳川でさえ秀吉好きだったなら、秀吉はやはり人気あったんだな
本当に悪逆なら大衆が言い伝え嫌わないとおかしいしなあ
秀吉くらい有名人なら火消ししきれないしなw
>>侵略者であるフロイスが、侵略者の味方をしないから侵略者の本性を現してネガキャンしただけ ←これへの論破になってない
>>異教徒侵略者フロイスがバテレン追放等にキレてネガキャンしただけとしか
>> フロイス鵜呑みとかアホだろ 異国の侵略者フロイスの事を鵜呑みにするアホw
フロイスの日本史は、最初はフロイスらが秀吉に布教活動を認めてもらいたい一心でこびへつらってたから
秀吉に接触しまくったあげく、秀吉マンセー誇大喧伝を書きまくってたが
秀吉が布教を禁じるとわかったので、秀吉マンセーしても仕方ねえやと思った宣教師たちが、秀吉のありのままの姿を書くようになっただけでしょ。
布教禁止前のフロイスの記述なんかは、秀吉の一次資料の軍令書と並べると、全くあってる記事がないくらい酷い捏造っぷりで史料として使い物にならないけど
その後はちゃんと正確な秀吉の残虐性を記すようになってきてるし。
フロイスの日本史は京以西の秀吉の捏造フィルターを通した戦果とハッタリを間に受けまくって 秀吉をマンセーしまくってるよ。
小牧長久手合戦の記述とか見ると、秀吉が佐竹らに当てたハッタリ喧伝のまんまの内容がそのまま書かれたりして、ほとんど正しい記述がないくらいだし。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1372941295/614-615 秀吉の歪曲情報や、書状にもないハッタリばかりデッチあげて書かれてるほど 秀吉マンセーしまくってる。
そんな歪曲デッチあげ史料ですら、秀吉の悪魔的所業をつらつらと書きまくってるんだから、秀吉がいかに悪行の限りをつくしていたかわかるな
秀吉がアホな侵略戦争やったおかげで馬鹿みたいな数の罪のない朝鮮人と日本人が犠牲になった。
秀吉は現代のポルポト。
>侵略者であるフロイスが 侵略者の味方をしないから侵略者の本性を現してネガキャンしただけだな
>異国の侵略者フロイスの事を鵜呑みにする奴w
>>576-577で全て論破されてます。
>>大衆は秀吉を嫌ってない 大衆が嫌うレベルの悪事を秀吉はしてない それどころか庶民ではない江戸幕府までが秀吉を認めたと
>>敵ボスの徳川でさえ秀吉好きだったなら、秀吉はやはり人気あったんだな
>>578-
>>584 を悉く無視するアホ乙
611 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 16:22:57.25
秀吉は戦国のあしながおじさんだろ。
秀吉の評価を下げて一体何がしたいのかね
中国人は有料の反日施設には見向きもしないが
朝鮮人は反日施設に喜んで金を払い見に行くそうだ
614 :
日本@名無史さん:2014/04/05(土) 12:20:44.34
>>609>>610 だから反論になってないってw
こびへつらう異教侵略者フロイスがディスられて本性漏れただけとも言えるw
615 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 21:32:54.92
基地外のせいでだいぶ亀レスになったが
>>498 松平定信とかそのあたりがてめえらの偏った思想に立脚した政策を
「神君様のご遺訓」とか捏造してたんだよ
それを鵜呑みにして保守的な鎖国主義者という誤った家康像を書いた
のが司馬
徳川幕府は秀忠とその幕僚の「作品」だよな
家康は幕府を開いただけ
秀吉って実は大阪や名古屋よりも京都でとおとばれてる。
619 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 21:54:32.33
時代祭りに絶対家康が登場しないのも、
京都人の秀吉大好きのせいだな。
確かに、秀吉死去直後から、京都の町衆は秀吉追慕に熱狂していて、
家康は抑えるのに苦労していたし、
明治維新後も、すぐに豊国社を再建する運動が立ち上がった。
これはいいんだけど、
大坂も、江戸時代の内から、秀吉を密かに崇敬し、家康と徳川政権を陰でディスる心情が広まっていた。
東照宮について、江戸時代のうちから「内心馬鹿にする」記述が残ってる。
畿内の在郷でも、幕末に長州藩が、反徳川のプロパガンダ闘争を始めると、
住民たちがあっさり乗ってきて、尼崎藩(譜代)を散々困らせた。
確かに、江戸時代を通じて、上方には「反徳川政権」&「豊臣追慕」の意識が底流していたのは、
確実だと思われる。だが、その理由は、これじゃないかと思うんだよね。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7242.html 豊臣政権の時代というのは、「畿内一極集中」がピークに達した時代だった。
江戸時代は、三都と言われながらも、京都も大坂も在郷も、畿内はその人口的地位を急激に下げていく。
豊臣秀吉というのは、『畿内の繁栄・栄光の夢の時代の体現者』だったんだろう。
この「畿内の栄光の時代」を終わらせ、東国に政治経済の中心を攫っていき、畿内の地位を地盤沈下させたのが、
他でもない徳川家康だった、という理解が、畿内では、漠然としたものではあるが、通底していたんじゃないかね。
徳川が江戸に日本の中心をおいてなかったと思うと恐ろしいね
622 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 06:59:29.98
そら今の京都作ったの秀吉だからな。
京都人が追慕するのも当然じゃねえの?
623 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 08:45:26.20
大阪人が「太閤さんの作った総構えの内だけが大阪や」なんて
断じて言わないけど、
京都は言うな。
「太閤さんの作らはった御土居の内側だけが京都や」
昔住んでた下京区の南のほう、馬鹿にされてた……
本来日本人の気質からすると
秀吉や信長みたいな独裁者は苦手なはずなんだが
二人とも人気高いんだよな。
625 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 19:44:37.28
>>624 家康も信長秀吉に劣らぬ独裁者じゃん。
信長との違いは独裁者になるまで相当時間が掛かったって事。
家中の独裁権をゲット出来たのは秀吉の傘下に入って関東に移った時点だろうね。
毛利元就も家中の独裁権握るには時間掛かったから、この点だけは信長が異例と言えるけど。
626 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 19:59:53.65
617
どうみても家光
家康、秀忠は誰かしらの影響がつきまとっている
つまり独立性なし
神君に持ち上げたのは家光
627 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 20:10:30.90
624
信長はみてる限りは独裁者って面はそんなに強くない
戦そのものからは1975年ころにはもうリタイアしてるからな
つか斎藤攻略からだとまともには10年くらいなんだよな
信長は暴虐の王だからな。
629 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 20:49:20.63
信長もヴラド串刺し公並みに殺してるけど、
関白になつた秀吉も、女房や坊主を虐殺。
家康は大阪の陣で降伏した兵士を相当虐殺しているし、
みんな大して変わんない。
>>629 秀吉・家康は信長と違って寛大な印象あるが、
じっさい調べたら普通に城攻めで撫で斬り虐殺してるしな。
631 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 01:00:01.35
信長は本能寺で大分印象損してる。
あの後、後世になってから信長が光秀をいびったという話が作られて流布されたのが大きいな。
確かに性格が短期で激昂しやすいのは事実だけど。
しかし政治的には結構我慢強くて寛大で、裏切り者を何度も許してる。
攻め滅ぼした相手も殺すとは限らない。
よく言われるように信長は世論を気にする性格だったから、必要とあらば殺さずに追放とかで済ますんだよね。
裏切られる事が多いのも信長の性格のせいにされてるけど、
実際はあの時代旗幟をコロコロ変える人間が多かったわけで、信長だけ多いってわけでもない。
特に畿内の武家の節操のなさはこのスレの人間ならよくわかるだろうてw
信長とか同時代に生きてないからいいけど、同時代に生きてたらとんでもなく嫌な野郎だよ
633 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 05:59:17.72
信長はやはり精神異常のケがあったろう。
門徒、女子供皆殺しで喜ぶさまみていると。
秀吉は劣等コンプゆえの残酷さ。
晩年は老人性の痴呆で良心がなくなったかも。
家康はなんか「戦略的残酷さ」みたいなのがあって、
必要とあらば皆殺し。
まあ一番「冷静」ではあるな。
一番仕えたくないのが信長だ。
634 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 06:02:48.93
徳川宗家(松平容保子孫)は
翻訳家のオッサンが越南女と駆け落ちして、事実上滅んだよな。
御三家御三卿も、ぼ絶滅らしい。
635 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 20:59:29.13
そりゃあ将軍家からみてバイバイシ〜ンとは言え三管領筆頭の斯波氏の陪臣だった信長は中央の政治や権力争いを見てきたであろうから
それに比べて単に田舎もんの家康が相対的に評価が低くなるのは仕方ないんじゃね
仮に信長は早くに横死し義元のような重石もなくなんかの拍子で三河や尾張を纏めて上洛出来たとしてもたいした事出来ないだろ
感覚は田舎もんのままだろうから
尾張や三河をまとめて上洛すれば、もう既に天下が手に入ったようなものだろ。
尾張美濃伊勢近江山城で合計260万石はあるだろうし、人口も非常に多い上に、鉄砲など武器性能面や
技術面でも恵まれてる。
信長の場合は自国がチート国力だったし
斉藤が三代続けての内紛や幼君やクーデター騒ぎで自壊してた上に
足利嘉昭が尾張を訪問して上洛を促し、嘉昭の要請に応えて
浅井や和田ら甲賀衆や六角義秀らが、上洛戦や斉藤攻めで協力しまくる超絶ヌルゲーがあったから
何もしなくても天からボタ餅が降ってくるように大版図と天下に最も近い地位が手に入った。
信長ほどヌルゲーな大名はいないからな。
斉藤…道三・義龍・龍興と三代続けての内紛と幼君で混乱しクーデター騒ぎで弱体化しきったまともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢… 木造・長野・神戸・関・北畠など完全に内紛で分裂、自壊
今川…たまたまおきた遠州騒乱と松平独立で極度に弱体化
六角… 観音寺騒動と対浅井の敗戦で極度に弱体化、信長の斉藤攻めや上洛戦では信長に大いに協力
足利将軍家… 三好や松永らの反逆で権威が落ちきり形骸と化し信長に助けを求める
播磨但馬丹波…守護の赤松・小寺・別所など衰退した弱小勢力しかいない
摂津… 石高がわずか12万石しかない
浅井…もともとは織田方で上洛戦や斉藤攻略などで信長を大いに助ける。石高はわずか10万石程度
波多野…石高は10万石以下。
上杉…謙信死後の御館の乱や新発田の乱で自爆崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除
信長があれほど簡単に畿内での支配が可能になったのは
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。
斉藤が三代続けての内紛や幼君での混乱・クーデター騒ぎで弱体化しきっててまともに抗戦するものが皆無で自落していったし
義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけ。
その上さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてただけ。さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になる。
信長がチートスタートなのははっきりしてるだろ。
そもそも信長が大名への返礼で虎や豹の皮や絹織物と言った唐国からの輸入物ばっかり贈ってる時点で経済的屈強さを物語ってる。
今川戦にしたって天文23年には信長は斎藤軍の援軍をもらい、知多半島の尾三国境にある村木城を奪い、
お隣の刈谷城の水野の安全保障を示すことで知多半島戦線を優位に進めてる。
つか発生年代からして超デタラメな桶狭間の戦いって捏造軍記だろ。
後世に作りだされた写し以外の原本確認できる一次史料からわかるのは義元が不慮になったと書いてあって、
思いがけない突然死があったと書いてるだけで、ムリくり桶狭間の戦いと結びつけているだけだし。
そもそも米による収入以外に商業による上りと税関収入がある。
信長の祖父の信貞が勢力を拡大させたのは木曽川と伊勢の通商路の津島社とその門前町と港を支配できたから。
そして信秀も熱田社とその門前町と港を支配し伊勢と知多半島に渡る商業圏を手に入れたから。
祖父や父によって二大商業圏を手に入れていたことで織田は抜きん出た国力を持つ強国を成立させていた。
それは朝廷への圧倒的献金額でもはっきりしている。
博多を押さえさらに中国との貿易をしていた大内ですらカスレベル。
経済的にはチートスタートなんだが
実際に支配してた土地は尾張の内二郡程度だったろ
司馬は後藤基次と真田信繁の関係が決して良好でないと言う前提で『軍師二人』
という短編を書いているから当然史料知ってると思うのだが、牢人諸将はバラバラ。
夏の陣でも 後藤 vs真田 vs毛利 という醜い争いが発生していた可能性が高い。
牢人を引き入れたことが豊家滅亡という、当事者の誰もが事前に予想しなかった事態を引き起こした。