それでも邪馬台国は九州にあった13

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1日本@名無史さん
 
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前スレ   それでも邪馬台国は九州にあった12
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1329627586/
2日本@名無史さん:2012/03/15(木) 01:53:12.44
3日本@名無史さん:2012/03/15(木) 02:12:39.04
邪馬台国はどこですか?
4日本@名無史さん:2012/03/15(木) 02:15:10.66
山門です。
5日本@名無史さん:2012/03/15(木) 04:52:21.98
古事記では、九州は、筑紫、肥、豊、熊襲、の4つにわかれていたと
書かれている。
景行天皇の熊襲退治でも、移動したのは
北九州から大分、宮崎にかけてである。

つまり、熊本は熊襲ではない。

熊襲=クナ国であるかの確証はないが、
熊襲=クナ国であると仮定するなら、

熊本はクナ国ではない。

そして、大和朝廷と関係が深いのは、
神武の宮崎日向や、神託の大分宇佐の
熊襲地域である。
6須磨虎:2012/03/15(木) 07:58:59.39
レス満杯で昨夜書けなかったところ。

>>992
>東夷伝の主要国の夫余と高句麗は方可二千里、韓は方可四千里と面積が書かれている。
陸続きの土地で古くから中国人の通交があって、把握できていたということだろう。

>倭地については周旋可五千餘里と書かれている。
30ヵ国を隈なく訪問できなかったといってる。倭人は里程を知らずだ。倭人からの聞き取りということもない。
どう考えても、倭地の外周距離を知るわけはないし里程で書けるわけもない。
実はこれだけで、周旋可五千余里が倭地の外周距離というバカ論は消滅する。

>周旋が魏使が訪れた距離ではサマにならんだろう。
邪馬台国への往復距離を含めた踏破距離(参問して回った距離)だ。ほかは遠絶で訪問できなかったといっている。

>>993
>滋賀県を周旋したとするとき、
その「周旋」が外周距離か巡った踏破距離かだが、前者だというバカの一人か?
「周旋」は「回る・巡る」という動詞だ。上の >>992 に対する俺の返答を吟味して考えなおせ。
「周旋可五千余里」が九州の北部半分の外周だというのもいるが、
この「面積」比較図をみて、それが妥当だと説明できるか?。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/f4/c4afed3c1180627af5a733f45ef279d2.jpg?random=221fb9124f64f0ec00d4b1a6fb15626b

これだけの現実を前に、さらには300を超える動詞用例があるのに、
たった一つか二つ、名詞用例に見えそうなのを引っ張りだしてきて、ご都合読みをして、
「倭人伝の周旋可五千余里も名詞用例で外周距離だ」というバカがいたな。
●実は、「周旋可五千余里」を倭国の外周距離と読んでは、九州説も畿内説も成り立たないのだ。
7日本@名無史さん:2012/03/15(木) 08:00:54.50
邪馬台国は、
     / /             _      _
 / ̄ ̄  ̄ ̄7         | |  r¬ .| |
 ~ ̄7 / ̄7 /         | |  | |  | |
   / /  / /   _    П| |П| |П| |
  / /   / /   / /    レ| | U| |.U| |
  / /   / /__/ /     / /  | |  | |
 / /  ___/     / /  | |  | |
  ̄             / /   |  | |
                ̄       .Ll で決まり!

・・・くやしかったら「近畿」と大きい字で書いてみろやw
8須磨虎:2012/03/15(木) 08:04:39.97
レス満杯で昨夜書けなかったところ。
供述をコロコロかえる万引き犯みたいな「縄文人の精神構造」。

>>977  
難解な原文提示に対するにわか読みで、俺の時系列の入れ違いを攻撃。

>孫権の配下の諸将がこぞって反対した言葉の中に「周旋数千里」がある。
>諸葛恪が撫越将軍・丹陽太守に任じられる前のことだ。
確かにそうだが、ここは俺の時系列が違っていた。
やぶ蛇で、この文章が反対理由の一つとして「丹陽まで諸郡を巡って数千里もある」
といったものだということが鮮明になった。本題はあくまでも「周旋」だ。

一方では、「諸葛恪の申し出は却下されて丹陽には行っていない」と俺の読みにを否定した。
だが、諸葛恪は撫越将軍・丹陽太守に任じられ。結果として軍功をあげた。
以前このことを指摘したが、
(翻訳本を手に入れるのに時間がかかったと見えて)、今になってこういう。

>諸葛恪が撫越将軍・丹陽太守に任じられたのは反対に逢いながらも
>「(自分の計画は)必ず成功すると盛んに上申したからである。
>そして撫越将軍・丹陽太守に任じられた諸葛恪は丹陽に赴き、
>民を帰順させる事に成功したと書かれている。

俺が「難解だと」とことわって「こんなもんか」といった程度に翻訳した部分をつつく一方で、
自分が「諸葛恪の申し出は却下されて丹陽には行っていない」といったウソについては微妙にそらし、
諸葛恪が撫越将軍・丹陽太守に任じられて丹陽に入って軍功をあげた「経緯説明」へ逃げて、
「この部分には周旋数千里はもちろん出て来ない」と、俺の時系列入れ違い攻撃にすり替えている。

こいつが、2ちゃんの板で軽蔑されてきたわけが分かろうというものだ。
9須磨虎:2012/03/15(木) 08:19:42.82
>>7
周旋可五千余里を倭国の外周距離と読んでは、九州説も畿内説も成り立たない。
そういう読みで執拗に粘るのは、周旋可五千余里を倭国の外周距離とした場合の
三韓と倭国の面積比較がまったく意識にない単純バカだ。

30ヵ国を隈なく訪問できなかったといってる。
倭人は里程を知らずだ。周旋可五千余里が倭人からの聞き取りということもない。
中国人が踏破せずに倭地の外周距離を知るわけはないし、里程で書けるわけもない。
ということからも、周旋可五千余里は中国人の実地踏破距離という結論に落ち着く。
ここでいう実地踏破距離とは、倭地訪問(調査)距離だ。
それが、「参問倭地……周旋可五千余里」だ。

これで、「周旋可五千余里は倭国の外周距離」というバカ丸だしは、もう出ないだろう。
10須磨虎:2012/03/15(木) 09:18:07.99
枝葉に逃げまくり、本題すり替え切り返し専門の「縄文人潰し」。

>逃げたわけではない。改めて検討しよう。もう一度「如水火」の例文を前後の文章も付けて示してくれないか。
▼春秋左伝/昭公
「王至矣、国人殺君司馬、将来矣。君若早自図也、可以無辱。君若早自図也、可以無辱。衆怒如水火焉、不可為謀」。
▼史記/ー楚世家
「王至矣! 国人将殺君、司馬将至矣! 君蚤自図、無取辱焉。衆怒如水火、不可救也」。
漢文学の大博士が「衆の怒りは(洪水や火事のように)激しい」と解釈してるが。……●抜き差しならず・返答なし

お前が引っぱり出した辞書の意味説明も用例もみな動詞だった。
これで勝負はついている。……↓↓↓↓これに対するマンガ的返答
>単語や熟語を辞書で見れば動詞しか書かれていなくても文章として意味をとれば周旋を周囲としてもよいのだ。
そんな理屈がどこで通用するか。……●筋の通らないジャリ論で・返答なし

>「周廻する3万里」とか「周廻する五千餘里」は意味としては「周囲3万里」や「周囲五千餘里」と同じだろ。
(本題は周旋で)「周廻する3万里」とか「周廻する五千餘里」の話ではない。……●稚拙なすり替え・返答なし

問題は、 「その山は高下、周旋3万里」か、「その山は高く、下は周旋3万里」かだ。
麓や山裾ののことを「下」と書いた用例を探してこいや。……●もともと無理解釈につき・返答なし

「5神山巡り35万里」は地球を何周する理屈か回答せ。……●恐ろしくて計算できず・返答なし

「其山高下周旋三万里、其頂平処九千里。」「山之中間相去七万里」について。
得体の知れない神仙空想話に登場する記録だ。
それほどにいかがわしい記録を議論材料にするのがまともだとでもいうのか。……●文献検証の常識論はスルー

ほれ。逃げまくり。話題すり替えで放置している宿題が多すぎるようだな。もう出てはこれまい。
11卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/15(木) 09:37:16.48
参問倭地周旋可五千余里
この記事は日本の地理風俗を述べた部分の総括として書かれている。その後に朝貢記事が続く。
ということは、これは陳寿の、日本の地理についての最終判断である。

ということは、伊作の言うように、日本の諸島を経巡って五千里ほど実地踏破しましたが、
あとは遠絶なので途中で引き返しました、という意味に取るには無理がある。

そうではなく、倭地について様々なデータを参照して推測すると、倭地をざっと一周すると五千里くらいだろう、
という意味だと思われる。

尚、伊作は、周旋五千里を倭地の外周距離と考えると、韓地の方四千里との整合性がなくなるから、
周旋五千里は倭地の外周距離ではない、と見なしているが、
それは陳寿の里数表記が正しいという前提に立っているからである。

私のように、陳寿の里数表記はいいかげんな修辞、推測だと思えば、
周旋五千里は、陳寿が推定した倭地の外周距離である、という結論に至る。
12日本@名無史さん:2012/03/15(木) 09:43:50.02
ある程度の誤差はあるだろうが、
松浦についた時点で、一万里なので残りは二千余里。

往復して四千余里。

ちょっと寄り道したか、余が500里程度なら、
寄り道しなくでも五千里に達する。
13日本@名無史さん:2012/03/15(木) 09:45:06.17
女王国に行く過程で、倭の地を五千里ほど回った、ってことだろ。
14須磨虎:2012/03/15(木) 10:51:02.05
>>13
そういい続けているんだが。
ウソをついてまで、我を通そうとする神経。
不正な論拠提示の上にまやかし解釈を並べてまで我を通そうとする神経が理解できん。

邪馬台国は魔物だ。
タッチした人間をほぼ例外ななく狂わせる。
狂わされず邪馬台国問題に向かい合える人間と出会いたいものだ。
15須磨虎:2012/03/15(木) 10:55:09.81
>>11 朝鮮
俺に構うな。俺のコメントに関与するな。汚らしい。
妄想スレッドでも立てて、好き勝手なことを垂れてろ。
てめえみたいなトチ狂いが、邪馬台国をオタクジャンル貶めるのだ。
16須磨虎:2012/03/15(木) 10:56:40.91
>>12
俺説とほぼ同じ考えだな。いいことだ。
17日本@名無史さん:2012/03/15(木) 11:23:21.54
偏執病(へんしゅうびょう、偏執症、パラノイア、英: paranoia)は、精神病の一種で、体系だった妄想を抱くものを指す。自らを特殊な人間であると信じたり、
隣人に攻撃を受けている、などといった異常な妄想に囚われるが、強い妄想を抱いている、という点以外では人格や職業能力面において常人と変わらない点が特徴。
これが日常生活や仕事の遂行に支障をきたすレベルにまで達したものが、妄想性パーソナリティ障害(paranoid personality disorder)とされる。
症状 [編集]

被害妄想 - 挫折・侮辱・拒絶などへの過剰反応、他人への根強い猜疑心(さいぎしん)。自分は特別で何者かに監視、要注意人物と見られていると思う。
誇大妄想 - 超人、超越者、絶対者という存在へと発展する。
激しい攻撃性 - 誹謗中傷など。弱肉強食というような考えで弱者に対して攻撃的である。
自己中心的性格 - 自分が世界の中心ではという妄想で絶対者ではないかという妄想。
異常な独占欲 - 独占欲は多数から100%に向かう。独裁者的な妄想を持つ。
悪魔主義 - 悪魔的なものに美しさを見る。
(wikiより)
18卑弥呼の都は久留米:2012/03/15(木) 12:23:58.04
>>11

「參問倭地 絕在海中洲島之上 或絕或連 周旋可五千餘里」

この記事は日本の地理風俗を述べた部分の総括として書かれている。その後に朝貢記事が続く。
ということは、これは陳寿の、日本の地理についての最終判断である。

ということは、伊作の言うように、日本の諸島を経巡って五千里ほど実地踏破しましたが、
あとは遠絶なので途中で引き返しました、という意味に取るには無理がある。

そうではなく、倭地について様々なデータを参照して陳壽が推測するところ、
倭地の端から端までがざっと五千里くらいの群島(島列)だろう、という意味になる。

陳寿は、里数表記が正しいという前提を基に、或絕或連するところの群島(島列)の長さを、
五千餘里と計算推測をしているのである。


「周旋」は、必ず回り巡り一周する意味だとするのは間違いである。
「周旋」は、単に回り巡るだけの意味に過ぎない。

「郭奉孝年不滿四十 相與周旋十一年 阻險艱難 皆共罹之」魏書十六鄭渾傳
上記の場合、十一年の時間を回り巡ったと述べているのである。
時間は回り巡っても元に戻ることはできない。
十一年前から十一年後に片道通行で行き着くだけである。
19須磨虎:2012/03/15(木) 12:25:52.94
>>17 よう偏執長。
こんな投稿をして悦に入っているお前のことだよ。
20須磨虎:2012/03/15(木) 12:26:19.70
>>18 「R2廃馬」朝鮮
>陳寿の里数表記はいいかげんな修辞、推測だと思えば、
「いいかげんな修辞、推測だと思えば」て……、
勝手に思って通用するならこんな楽なことはないぜ。ぷ

「倭人伝の記録はいい加減」というのは、都合のいい解釈をするための逃げの手段だ。
それは同時に、記録専門史官の職務と立場と姿勢について、
歴史記録の書かれ方・保存のされ方・継承のされ方、
さらには歴史書の書かれ方といった「歴史書の歴史」に関する無知をさらすも同然だ。
まともな話が少しはまともに通じたかな?

いまどき、「倭人伝の記録はいい加減」といえば、それだけで誰も相手にしない。
浅薄表層かじりで陳腐な駄論をまくしたて、
それで古代史愛好家を騙せるとでも思っているのなら、身のほど知らずもはなはだしい。

21卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/15(木) 12:44:58.84
周旋とは、誰かが書いていたように、要するに、経巡るという意味だろう。
また経巡るというのは、必ずしも周囲を回り巡るということではないから、
周旋五千里というのは往路だけの距離であると解釈することも可能ではある。

しかしその場合でも、伊作のように、実地踏破した距離を書いただけだ とか
>>12-13の人のように、女王国までの往復の距離だとか、女王国に至るまでに回った距離だと見なすのは無理だろう。
>>13について言えば、女王国が倭地の最南端にあるならその解釈も成り立つが、
陳寿は、おそらく、女王国が倭地の最南端(べつに南端でなくともいいが)にあるとは思っていないからである。
22日本@名無史さん:2012/03/15(木) 12:54:02.87
>>17
まさしく、伊作のことだ。
さすがは、医学的分析。
23日本@名無史さん:2012/03/15(木) 12:57:26.38
なぜ、木下姓が多いか?
24卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/15(木) 13:02:21.61
と、ここまで書いたところで重要なことに気付いた。>>18の久留米氏の考えに近いのだが、
要するに陳寿は、倭地は、北から南へ、ほぼ直線状に、群島が、或いは絶え或いは連なり、点在していると見なしていたのではあるまいか。

そう考えると、不弥国から水行する理由が分かるのである。
つまり陳寿は、末蘆国から不弥国までが一つの島内に在ると考えていたのである。
それも九州のような広大な島ではなく、せいぜい末蘆、伊都、奴、不弥の四国しかない、
比較的小さな島だと考えていたのではあるまいか。

そこから水行して別の島である投馬国に至り、そこから水行してまた別の島である邪馬台国に至る、と。
25卑弥呼の都は久留米:2012/03/15(木) 13:21:13.69
>>21
>陳寿は、おそらく、女王国が倭地の最南端(べつに南端でなくともいいが)にあるとは思っていないからである。

女王の境界の南に狗奴國があるとあるから、女王國が倭地の最南端ではない。

女王の境界の南の倭地は、陳壽が計算推測して五千餘里としたのである。

*「可五千餘里」の「可」は推量を示す。「方可四千餘里」の「可」と同じく推量を示す
26卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/15(木) 13:43:02.71
>>24の説をイメージ的に描けばこうなる。↓は南を指す。
狗邪韓国(韓半島)

島 (対馬国)
↓ 
島 (壱岐国)

島 (末蘆国 伊都国 奴国 不弥国)

島 (投馬国)

島 (邪馬台国=女王国。その東に倭種の島あり)

島々 (遠絶傍国)

島 (狗奴国)
27卑弥呼の都は久留米:2012/03/15(木) 13:58:45.10
陳壽の推量は漠然とした推測ではなく、彼の知るデータを基に計算推量したものである。

對海國の例
對海國の実際の大きさは、東西約200里、南北約800里で、
その面積は約160,0000方里である。

陳壽は、約160,0000方里の面積と同じ正方形の面積を計算し、
√(160,0000方里)=400里×400里≒方可四百餘里
28日本@名無史さん:2012/03/15(木) 14:33:45.66
花、花、花、花……‐‥ー…


妄想の花。
29日本@名無史さん:2012/03/15(木) 15:46:50.05
「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
 【石井こうき オウム 統一教会】

オウム、北朝鮮、麻原サブリミナル、左翼政権誕生→阪神大震災、サリン
韓流信奉、韓国、韓流サブリミナル、(反日)左翼政権誕生→東日本大震災、原発事故


似ているね
てかそのものか。 そうか、統一教会、朝鮮総連、民団→民主党
30須磨虎:2012/03/15(木) 21:26:37.30
とどめ。



周旋5000余里を倭国の外周距離とした場合の、
三韓の領域と倭国の領域面積比較。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/e6/6ee5030653086c59e4003a8f0198ad7d.jpg?random=3923189d2da164743677fe6a69b252e6

これでは、九州説も畿内説もまったくなり立たない。
周旋5000余里は、魏の使節たちが訪問調査して回った距離ということだ。
31須磨虎:2012/03/15(木) 21:33:01.26
最初からいい続けてきたことを、
ここまで図式説明しないと分からないバカばかり。
32日本@名無史さん:2012/03/15(木) 21:36:17.48
風俗的に九州ぽいけど
33日本@名無史さん:2012/03/15(木) 21:49:58.43
>>30
1里何メートルのか表記してください
34雷鳥:2012/03/15(木) 22:31:14.40
>>18 :卑弥呼の都は久留米
>「郭奉孝年不滿四十 相與周旋十一年 阻險艱難 皆共罹之」魏書十六鄭渾傳
>上記の場合、十一年の時間を回り巡ったと述べているのである。

それは間違った解釈ですね。
郭奉孝(郭嘉)は38歳で夭折しています。
魏書十六の郭嘉伝に以下の記述があります。
嘉深通有筭略,達於事情。太祖曰:「唯奉孝為能知孤意。」年三十八,自柳城還,疾篤,太祖問疾者交錯。及薨,臨其喪,哀甚,謂荀攸等曰:「諸君年皆孤輩也,唯奉孝最少。
天下事竟,欲以後事屬之,而中年夭折,命也夫!」乃表曰:「軍祭酒郭嘉,自從征伐,十有一年。每有大議,臨敵制變。臣策未決,嘉輙成之。平定天下,謀功為高。不幸短命,
事業未終。追思嘉勳,實不可忘。可摎W八百戶,并前千戶。」

「軍祭酒郭嘉,自從征伐,十有一年。每有大議,臨敵制變。」とあります。「相與周旋十一年 阻險艱難 皆共罹之」は曹操が荀ケに出した手紙の内容で「奉孝は40に満た
ない年だったが11年間一緒に戦い、困難は全て共にかぶった。」という意味です。
「11年間巡り歩いた」という意味ではありません。
35日本@名無史さん:2012/03/15(木) 22:41:32.32
>>30 :須磨虎
倭地というのは女王に属する国々(倭国)で對海国と一大国を除いた部分のことでしょう。
福岡県、佐賀県と大分県の一部が周旋五千餘里に入るのでしょう。意外に正確じゃないですか。
36日本@名無史さん:2012/03/15(木) 22:50:28.31
福岡佐賀から見れば
大分は遠いよ。
37日本@名無史さん:2012/03/15(木) 22:52:00.04
大分県の一部て高地性の猿の王国かよ
38日本@名無史さん:2012/03/15(木) 22:54:28.81
大分県の一部って日田のことかね。
日田なら何とか福岡佐賀圏内かな
39日本@名無史さん:2012/03/15(木) 22:58:39.73
邪馬台国とは佐渡島だ。
佐渡島には造船に向いた巨大な杉があり、古代造船基地があった。
しかも、金は露天掘りの必要はなく道に落ちているような黄金の島だったのだ。
女王卑弥呼は魏の侵略を恐れ島の所在そのものを隠して朝貢していたのだ。
だんだんわかって来ましたね。
40卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/15(木) 23:02:23.75
>>30
>これでは、九州説も畿内説もまったくなり立たない。

そうじゃなくて、「だから陳寿の書いていることはデタラメだ」と見なすのが正解なのである。
陳寿は、日本の地理を、ろくに把握していないのである。
41日本@名無史さん:2012/03/15(木) 23:05:40.03
短里と一月行千里で、距離と方向と日数は
かなり正確に収まるんだけどなあ。
42日本@名無史さん:2012/03/15(木) 23:06:35.09
傍國合計でななまん余戸でいいんだ
43日本@名無史さん:2012/03/15(木) 23:08:54.56
久留米はむつごろうの天国だからして傍國にもカウントとかできないな
44卑弥呼の都は久留米:2012/03/15(木) 23:39:14.42
>短里と一月行千里で、距離と方向と日数は
>かなり正確に収まるんだけどなあ。
あと、水行一日千里も。

バッチリですね。
➀ 末盧國の津は古松浦湾の南岸
➁ 伊都國は佐賀市大和
➂ 奴國の城柵は佐賀市中心部
➃ 不彌國の城柵は吉野ヶ里
➄ 卑弥呼の都する所は久留米南部
➅ 投馬國の城柵のひとつは瀬高
➆ 邪馬壹國の城柵のひとつは八女市立花
45日本@名無史さん:2012/03/15(木) 23:51:02.22
「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
 【殺された石井こうきの発言から】


オウム、北朝鮮、麻原サブリミナル、左翼政権誕生→阪神大震災、サリン
韓流信奉、韓国、韓流サブリミナル、(反日)左翼政権誕生→東日本大震災、原発事故

似ているね
てかそのものか。 そうか、統一教会、朝鮮総連、民団→民主党
46卑弥呼の都は久留米:2012/03/15(木) 23:53:34.75
>>43は方向音痴
久留米の何処にムツゴロウがいる?
47日本@名無史さん:2012/03/16(金) 00:17:39.45
http://maps.google.co.jp/maps?q=33.437977,130.570536 三国の鼻1号墳

ここのが岬に築いた黎明期の前方後円墳のなら

八女市立花あたり・・・たちばなって岬なんだろ

久留米はむつごろうの天国でもへんでないはずだろ
48日本@名無史さん:2012/03/16(金) 00:41:46.93
有明海みたいなところは潮の干満の差がでかいから

海から攻めてくる敵に対しては

これ以上無いという高レベルの防衛能力を備えているとゆうことにはなるが

潮が引いたらずぶずぶで船出するタイミングだとかも限定されるけど

船出すること自体はきわめてらくちん
49日本@名無史さん:2012/03/16(金) 01:00:10.32
道が整備されて無いだろう古代では海に面してるほうが危ないかも
50卑弥呼の都は久留米:2012/03/16(金) 01:03:37.42
>八女市立花あたり・・・たちばなって岬なんだろ

見当違い。
地図見ろや。
八女市立花は矢部川中下流域の南岸

みやま市瀬高は有明海の海岸と多島海(現矢部川下流域)。
女山神籠石のあるところ。
51卑弥呼の都は久留米:2012/03/16(金) 01:11:24.78
   
狗奴國は上記八女市立花とみやま市瀬高に攻め込んできたのです。
52日本@名無史さん:2012/03/16(金) 01:22:47.94
>>50
http://watchizu.gsi.go.jp/oldmap25k.html?longitude=130.51066900000&latitude=33.160439000000

ほら海抜10mしかないじゃん このあたりが海岸線だぞ
53日本@名無史さん:2012/03/16(金) 01:39:50.51
久留米くんのためにとりあえず貼っておいてあげよお

http://www.maff.go.jp/kyusyu/seibibu/kokuei/18/kantaku/img/kantakuzudai.jpg
54卑弥呼の都は久留米:2012/03/16(金) 02:30:00.99
>>52   
みやま市瀬高:弥生時代の地形と遺跡分布
http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage1.htm

狗奴國が攻めてきたのは、みやま市山川町から。
みやま市山川町が狗奴國と投馬國(女王國)の攻防地

もうひとつの攻防地
狗奴國が攻めてきたのは、八女市立花町県道4号と国道3号沿い。
八女市立花町県道4号沿いが狗奴國と邪馬壹國(女王國)の主戦場。

>>53
どうもありがと
でも、もっと詳しい時代別の地図も持っています。
55卑弥呼の都は久留米:2012/03/16(金) 03:00:50.61

帯方郡から末盧國の距離が水行十日(11400餘里)。
末盧國から八女市立花(邪馬壹國南部城柵)の距離が、陸行一月(千餘里)。

帯方郡から末盧國の距離が水行十日(11400餘里)。
末盧國からみやま市瀬高の島々(投馬國中南部城柵)までの距離が水行十日。(倭人から伝聞)
この水行十日は狗奴國の勢力圏である天草灘と島原湾を通過しなければならない。
故に、帯方郡からみやま市瀬高の島々までの距離が水行二十日。

56日本@名無史さん:2012/03/16(金) 03:33:48.62
>>34
自分としては曹操が郭嘉の死を悼んだ文章だと思うので
郭奉孝は年は40に満たなかった(のに死んでしまった)
(各地を)いっしょに巡ること11年、その艱難辛苦をみなともにしてきた
という意味だと思うけどね
つまり、周旋は時間的な意味ではなく、
11年間、側近として各地を移動するなどしてともに過ごしてきたという空間的な意味でとるほうが
わかりやすいと思うけどね
57日本@名無史さん:2012/03/16(金) 04:17:37.41
>>6
支那人崇拝はいささか気持ち悪い
方可四千里などという距離感覚というのは
ほぼ、人が実際歩いて確かめたのを当地の人に聞いてという場合が多いのだろうから
幾何学的な距離を期待するのはおかしい
実際の地理というのは平地じゃないから、山あり谷あり、地図上の直線距離で考えれるものではない
まあ、勾配が30度あることは稀であろうから、1.7倍未満に収まるのは確かであろうとしてもな
また当時は国境意識が存在しない、あるとすれば自然環境が境界となる、河や山、あるいは人工的につくった関などで
とすれば獣道すらない山頂上を歩いて距離を測る酔狂はいないのだから
国の広さというのは、人が歩いていける場所で、地形的にかなり限定できる閉じた空間を
方形で近似したものということになる。当時、そこまで正確に方形近似する数学的知識はなかったであろうから
かなりおおざっぱにその土地当局権力が通用する境界の上から下までの長さを一辺として、計算しただけとしていいだろう
当時としたらそれだけでもだいたいの国家規模が知れる情報であったろう。
そして、里程の測り方といえば、もう単純に足で歩いて何歩か、というだけの話。江戸時代ですらそう。
こんなのはその地域をすみずみまで何十年も商って歩いている商人にでも聞けば知れることだ。
幾何学的な距離ではなく、感覚的距離が元になったデータであるということが大事。

だから、滋賀県の例でいえば、周旋といった場合、琵琶湖廻りに各地を見ることができる街道の長さに言及したもの
とも言えるし、滋賀県が敵対地域であるならば、隣接県の周りの距離から概算したものが周旋の答えになろう。
58須磨虎:2012/03/16(金) 10:32:37.85
>>35   >>57
それで、世間に通用するか? 勝手に、バカげた妄想願望をほざいてろ。
59須磨虎:2012/03/16(金) 10:57:39.73
>>57 >支那人崇拝はいささか気持ち悪い

こいつにはとくに警告しておく。
歴代天皇家は祭祀精儀礼からフアッションに至るまで中国文化に満ちているが、
これは支那人崇拝か?
お前もそうやって中国人が発明した漢字を使っているし、
漢和辞典に載っている言語はほとんど中国語だが、
発音こそ違えほとんど日本語として使われている。
民族の基本中の基本たる言語表現に漢字を使ってるお前も支那人崇拝か?

俺たちは、天子を頂点とした古代帝国の歴史の中に差し込まれた
日本帝国の前身たる倭国の歴史を探求している。
古代の中国人の知識と感性と価値観で書かれた歴史書に頼って
古代日本の歴史を探求するからには、
当時の価値観と知識で望むのがベストというスタンスだ。それだけだ。

「支那」などという現代日本人の差別言語を発する者に何が分かるか。
お前らチャラ男にどう見えるかは知らんが、俺は熊本という尊王思想の根強い土地で、
「神風連」の精神を叩き込まれて育った男だぜ。
60卑弥呼の都は久留米:2012/03/16(金) 11:58:54.06
>>56
「相與周旋十一年」
>(各地を)いっしょに巡ること11年
>周旋は時間的な意味ではなく、11年間、側近として各地を移動するなどしてともに過ごしてきたという空間的な意味

上記のように読むのは日本語読みではないでしょうか。
其の様な意味の漢文では、
「相與周旋□十一年」となり、
□には何か適切な字が入るのではないでしょうか。「了」とか「於」とか?

「周旋十一年」では、「十一年」が「周旋」の目的格の語となってしまいます。
「周旋」を動詞として捉えるなら、「十一年」は目的語となります。

以上の様に考えますが。いかがなものでしょうか。
61卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/16(金) 12:29:20.06
支那という言葉が差別語であるかどうかは議論のあるところであり、
呉智英などは一貫して差別語ではないと主張しており、小谷野敦などもそれに同調している。

また神風連の精神を叩き込まれて育ったという割には記紀を信じていないらしいのは如何なものか。

おまけに卑弥呼の弟=一大率=スサノオなどと考えているようでは常識が疑われる。
62卑弥呼の都は久留米:2012/03/16(金) 12:50:28.66
「支那」は漢字の意味にシナ人が不快感を持つのであって、
片仮名で「シナ」とすれば差別用語とはならない。

「シナ」を差別用語とするならば、「China」「Chine」も差別用語となる。


63日本@名無史さん:2012/03/16(金) 13:00:55.47
差別的意味合いで使っているか否かが問題だと思う
64日本@名無史さん:2012/03/16(金) 13:01:03.48
フランス語その他でも、
だいたい発音は「チナ」「シナ」系統だろうしな
65くらも天狗:2012/03/16(金) 13:12:19.26
女王国に位置は天体側流の結果であるからはっきりしている。北緯32度付近である。もう邪馬台国の議論は辞めて、その後の歴史の研究に歴史の研究をすべきである。
66日本@名無史さん:2012/03/16(金) 14:22:28.11
>>59
常識の範囲を書いただけだが・・・。
うぃきでも ほら

>ただ、「里」は長い距離であるので、直接計測するのは困難である。
そこで、1里歩くのにかかる大体の時間から、その時間に歩いた距離を1里と呼ぶようになった。
人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里
(36町里、40町里、48町里など)が存在することになるが、目的地までの里数だけで
所要時間がわかるという利点がある。しかし、やはりこれでは混乱を招くということで、
江戸時代には、様々な里の存在は認めた上で、36町里を標準の里とすると定めた。

ほかにも
ttp://homepage3.nifty.com/ayumi_ho/tagajohi1.htm
国内の資料でも想定できないものがある

ほかにも
ttp://blogs.yahoo.co.jp/hidatugutoyotomi/archive/2010/06/12
看羊録、朝鮮人が書いた日本地志だが
>遠敷・大飯・三方の3郡からなり、南北1日半の距離
らしい。東西の間違いだろ、故事類苑には
>若狹國ハ、ワカサノクニト云フ、北陸道ニ在リ、東ハ越前、近江、西ハ丹後、南ハ丹波、
>近江ニ界シ、北ハ海ニ至ル、東西凡ソ十二里、南北凡ソ四里
南北が四里なら、一日もかからない。通常感覚で一里一時間だからな、半日ですむ
常識的に考えて、東西を南北とまちがえたと見ていい。
こいつは南北と東西の区別もつかない、馬鹿だったのか?という問題ではない。伝聞だからまちがう、それだけ

古代人ならなおさらそんなことはあっただろうお
67日本@名無史さん:2012/03/16(金) 14:57:59.34
>>60
そこまで詳述するほど理知的な時代じゃないと思うがね
了とか於つけるほうが日本語くさいわ
そもそも言語を文法で理解できると信じるのは勝手だが
文法で分析するにも限界があると思ったほうがいいよ
言葉ってのは生き物だから、感覚的に慣れる方が正しいと思う

持論はさておき、周旋すること11年は補語でいいでしょ
南北三日程と表現することも可能なんだし
68日本@名無史さん:2012/03/16(金) 15:31:25.09
キチガイスレが白痴スレになりました。終了。
69須磨虎:2012/03/16(金) 15:40:45.95
>>61  朝鮮
俺がハナにもかけないので、横ちゃりで攻撃することにしたか。
どこにもいる、いじけた精神的田舎者よ。

>支那という言葉が差別語であるかどうかは議論のあるところであり、
てめえなどとが口出しする必要はない。使った人間のニュアンスで感じ取るものだ。

>神風連の精神を叩き込まれて育ったという割には記紀を信じていないらしいのは如何なものか。
だんだん、人格攻撃モードになってきたな。
漢魏晋宋代の歴史を消して創作された部分は採用しないといっている。
他人を批判したり他人の意見を持ち出して言及するときは、ちゃんと正確に把握してからいえ。

>おまけに卑弥呼の弟=一大率=スサノオなどと考えているようでは常識が疑われる。
これも認識不足だ。ほんとに外道だなてめエ。
卑弥呼の弟が、一大率という大ぎょうな肩書きで、偉そうに振る舞っていたが、
やっていたのは、卑弥呼関係の文物のチェックだけ。というのが俺の自論だ。

スサノオはねえぜ。事実誤認による批判は誹謗だぞ。
かつてSSSが「アマテラスは卑弥呼だ」といい張ったとき。
それならば、アマテラスには弟が二人いたが、これはどうなるのか。
ツキヨミという目立たない弟と、卑弥呼の政治を手伝っていたという弟。
荒ぶるスサノオと卑弥呼の血縁と思われる卑弥弓呼。
こういう図式ならば、「アマテラスは卑弥呼」も抵抗がない。

こういったのを、ごっちゃにして無礼なことをいうな。
どうでもいい。俺のことに言及するなら。てめえは汚らわしい。
70須磨虎:2012/03/16(金) 15:42:07.23
>>66
内容をみると俺の>>59 に対する返答ではあるまい。
アンカー違いのようだな。
71須磨虎:2012/03/16(金) 15:43:33.93
>>61  朝鮮野郎
こいつにも警告しておく。
発言してもいないことを発言したようにいうのは誹謗・侮辱だぞ。

他人を批判したり他人の意見を持ち出して言及するときは、
ちゃんと正確に把握してからいえ。
72日本@名無史さん:2012/03/16(金) 15:48:44.42
>>70
君当てだよww
魏志はオーパーツかってくらい超時代的に信用しすぎているきらいがあるから
固すぎな頭を、よく現実に照らして考えなおす様にさとしているのさ

記紀が歴史改竄というのもいいすぎ
君の持論なら仕方ないから、強いるわけじゃないが
客観的に見て、決めつけにしか見えないと思うが
73日本@名無史さん:2012/03/16(金) 15:51:08.61
>>60, >>67
「相與周旋十一年」
周旋を「つきあい」という意味に解している辞典もありますよ。
4.引申为交往;交际应酬。 三国 魏 曹操 《与荀ケ追伤郭嘉书》:“ 郭奉孝 年不满四十,相与周旋十一年,险阻艰难,皆共罹之。
http://www.longwiki.net/周旋
74日本@名無史さん:2012/03/16(金) 15:57:00.80
>他人を批判したり他人の意見を持ち出して言及するときは、
>ちゃんと正確に把握してからいえ。

お互い気を付けましょう。
75日本@名無史さん:2012/03/16(金) 16:08:33.94
こりゃ、交際応酬だなww
言語か心かお互いの意志を応酬させることを周旋と言っているわけか
76日本@名無史さん:2012/03/16(金) 16:31:01.19
>>10 :須磨虎:
>問題は、 「その山は高下、周旋3万里」か、「その山は高く、下は周旋3万里」かだ。
>麓や山裾ののことを「下」と書いた用例を探してこいや。……●もともと無理解釈につき・返答なし

下 
《說文》底也。 とあるよ。「其の山は高く、底は周旋三萬里」でいいんじゃね。

>「5神山巡り35万里」は地球を何周する理屈か回答せ。……●恐ろしくて計算できず・返答なし

周代の里で計算すれば35万里は地球を約0.7周することになるんじゃね。

>「其山高下周旋三万里、其頂平処九千里。」「山之中間相去七万里」について。
>得体の知れない神仙空想話に登場する記録だ。
>それほどにいかがわしい記録を議論材料にするのがまともだとでもいうのか。……●文献検証の常識論はスルー

別に構わんのじゃね。神仙世界のことを述べたものだからさ。現実世界の地理じゃないんだからさ。
あんたみたいなことを言ったら、聖書や仏教の教典やお伽噺や小説の文章はみ〜んな議論材料にできんよ。
77須磨虎:2012/03/16(金) 17:06:28.06
>>73
>周旋を「つきあい」という意味に解している辞典もありますよ。

誰かが提示していたが、郭嘉伝に「軍祭酒郭嘉、自従征伐十有一年。每有大議臨敵制変」あるという。
ここでは、「軍祭酒として、11年間征伐軍につき従った」とある。
これは動乱期の軍事行動の話だ。各地の対立勢力を征伐して回る軍事行動が「転戦」だ。
総合して考慮すれば、曹操のいう「相與周旋十一年」は、
「郭嘉は曹操につき従って11年間共に転戦した」と翻訳すべきだろう。
『三国志』には周旋を転戦の意味に使った用例がほかにも多く登場する。

「相与周旋十一年、険阻艱難皆共罹之」
11年間交際して「ともに艱難辛苦を体験した」てか?
11年間応酬して「ともに艱難辛苦を体験した」てか? 何のこっちや。
「郭奉孝年不滿四十 相與周旋十一年 阻險艱難 皆共罹之」
この例文だけで、交際だの応酬だのと、その辞書の見識が浅すぎるようだ。
78須磨虎:2012/03/16(金) 17:07:14.23
>>72
>君当てだよww
内容がお角違いだ。妄想よがりか寝言ならほかでいえ。

>超時代的に信用しすぎているきらいがあるから
明確な理由があってそうしてる。
俺の「歴史書の歴史」という論考でもみて勉強しろ。

>記紀が歴史改竄というのもいいすぎ
漢魏晋宋という国名すらない。漢魏晋宋代の歴史がない。
この部分創作だというのだ。筋が通ってるだろ。

>君の持論なら仕方ないから、強いるわけじゃないが
ならば黙ってろ。

>客観的に見て、決めつけにしか見えないと思うが
ならば、漢魏晋宋代の歴史を消してる事実をどう説明するんだ?

>>74
>お互い気を付けましょう。
こういうことで、俺が他人の論旨を誤解して発言してると思わせる手法な。
女の腐ったようなこ汚い口論手法だ。
すぐに心理が透けて見えるような投稿するようじゃ、ただのボンクラだな。

79須磨虎:2012/03/16(金) 17:14:30.55
>>76
ようよう。
ずいぶん時間がかかったな。
で・出てきたのは↓↓↓このていたらくか。

>《說文》底也。とあるよ。「其の山は高く、底は周旋三萬里」でいいんじゃね。
山裾、麓という意味で「下」を使ってる用例を出せと要求したが。
こんどは「山の底」てか。わらわら

>周代の里で計算すれば35万里は地球を約0.7周することになるんじゃね。
とんだ空想物語というわけだ。

>別に構わんのじゃね。神仙世界のことを述べたものだからさ。
最初「哲学的思想がどうこう」といったのは撤回か?

>現実世界の地理じゃないんだからさ。
三流扱い、偽書物扱いを受けるような書き物の一文を論証に使った時点でボツだ。タコ
80須磨虎:2012/03/16(金) 17:42:35.01
>>76   百面相ダボハゼ縄文人に引導。

山のサイズをいうのならば、高さを真っ先に書くものだ。
お前の解釈では、高さを書かず山裾の周囲の距離だけ書いたという。(説明不十分)

山のサイズをいうのならば、5神山のうちどの山か名を特定する。
お前の解釈では、「その山」で5神山のどの山のことか分からん。(対象不確実)

俺の解釈はこうだ。 「その山(5神山)は高下(高いの低いのもあり)、周旋3万里」
お前の解釈はこうだ。「その山は高く、下は周旋3万里」

お前の低学歴解釈というものは毎度このていたらくで、
文章にならん読みと解釈を披瀝してゴリ押する。
さらに陳腐。
山裾、麓という意味で「下」を使ってる用例を出せと要求したが。
「下=底也とあるよ」
「其の山は高く、底は周旋三萬里でいいんじゃね」。

下とは「山の底」の意味で、これが山裾・麓の周囲のことをいうんだと。
81卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/16(金) 17:43:34.20
伊作は、記紀が、漢魏晋宋代の歴史を故意に消している、と考えているようだが、そんなことはあるまい。
その時代は、中国との国家的交流がなかったから、書かなかったまでだ。中国との正式な交流は推古の時代だから。

それ以前に、しばしば、呉がどうしたこうしたという記事が出てくる。これがおそらく中国のことだろう。

記紀が、卑弥呼のことも倭の五王のことも書かなかったのは、それは日本のことではないと見なしたからで、それ以外の理由はない。
べつに、学者が想像しているように、中国に朝貢したという屈辱的な事実を隠蔽しようとした、というわけではあるまい。

とにかく戦後の日本人は、記紀を疑うことばかりに必死になっているのである。
おかしな国民である。記紀を信用せずに、中国人の書いたものを尊重しているのだから。
82須磨虎:2012/03/16(金) 19:33:08.28
>>81
>記紀を信用せずに、中国人の書いたものを尊重しているのだから。
史実の記録と継承に、時には命を賭けた史官がいた中国とは、
歴史に対するモチベーションが違う。無知のタコが
知りもしない世界について憶測と見切り発車の発言をするたびに、
てめえの浅薄さが露呈して恥をかくだけだぜ。

『三国志』はそのよき伝統が息づいていた最後の歴史書だ。
(とくに東夷伝については『後漢書』東夷伝の登場によって、
文章伝世の伝統は間違った方向に走ってはちゃめちゃになる)。

ま・こんな話をしても、半島よがりのゴミには馬耳東風だろ。
83須磨虎:2012/03/16(金) 19:36:09.43
>>81 朝鮮にいた
おれは・ちょーせん・と聞いただけで・ムシズが走るんだ。
あっちいってろ。ウジ虫同然のカス。
84日本@名無史さん:2012/03/16(金) 19:46:56.14
>>83
なんだ、おまえこそ差別してんじゃんよ
85須磨虎:2012/03/16(金) 19:50:56.34
ほれ 朝鮮。ウンとかスンとかいえ。
>おまけに卑弥呼の弟=一大率=スサノオなどと考えているようでは常識が疑われる。
卑弥呼の弟が、一大率という大ぎょうな肩書きで、偉そうに振る舞っていたが、
やっていたのは、卑弥呼関係の文物のチェックだけ。というのが俺の自論だ。

スサノオはねえぜ。事実誤認による批判は誹謗だぞ。
かつてSSSが「アマテラスは卑弥呼だ」といい張ったとき。
それならば、アマテラスには弟が二人いたが、これはどうなるのか。
ツキヨミという目立たない弟と、卑弥呼の政治を手伝っていたという弟。
荒ぶるスサノオと卑弥呼の血縁と思われる卑弥弓呼。
こういう図式ならば、「アマテラスは卑弥呼」も抵抗がない。

こういったのを、ごっちゃにして無礼なことをいうな。 は汚らわしい。
86須磨虎:2012/03/16(金) 19:52:17.48
>>84
>なんだ、おまえこそ差別してんじゃんよ
そういう投稿があることは想定済みよ。タコ
好き嫌いをいうのは自由だ。文句あるか。
87ほれほれ:2012/03/16(金) 20:18:53.14
《説文》黄帝居姫水 以姫爲氏 周人嗣其姓
《正韻》箕 堅溪切 音姫

(((((箕氏朝鮮=姫氏朝鮮)))))

《詩・大雅・韓奕箋》韓 姫姓之國也 後爲晉所滅 故大夫韓氏以爲邑名

(((((姫氏朝鮮 大夫韓氏僭號稱王)))))

《韓傳》侯準既僭號稱王 爲燕亡人衞滿所攻奪
     將其左右宮人走入海居韓地 自號韓王
     其後絶滅 今韓人猶有奉其祭祀者
     漢時屬樂浪郡 四時朝謁

(魚豢)魏略曰 昔箕子之後朝鮮侯 見周衰 朝鮮侯亦自稱爲王(BC323頃)
(魚豢)魏略曰 其子及親留在國者 因冒姓韓氏 準王海中 不與朝鮮相往來
88須磨虎:2012/03/16(金) 20:26:47.29
>>87
それでナニ。
俺の神経を逆なででもしたつもりか。半端ぼんくら
箕氏朝鮮=姫氏朝鮮とか衛満朝鮮ての、何だか知ってるのか。

趣味も悪いが、頭もそうとうに悪いな。
書き込みにも人品が出るが、ツラもさぞや、汚い風体してるんだろうな。
89日本@名無史さん:2012/03/16(金) 20:36:02.94
魚豢さんが魏略に書いているけど

南の地に亡命後の韓は、「不與朝鮮相往來」

韓の領域と朝鮮の領域は区別されて認識されていますです

現行の意味内容に引き摺られて

「韓」と「朝鮮」のラベルを曖昧のままでごっちゃにしてやるのは

3世紀の史的解析作業をやろうとするときには

まず回避しなきゃならないところですねえ

そこらへんのことさえ気付かない●鮮くんには留年していただくしか無いかも。

90日本@名無史さん:2012/03/16(金) 20:38:12.10
ぱんぱあすのいさくとかしらんわ じいしきかじょおってやつかな

けっか いさくにまめでっぽう とかだったのかな
91日本@名無史さん:2012/03/16(金) 20:40:35.07
いさくは 三韓とか 書いていたから 韓傳とかまじめに読み込んでないんだろうな
92日本@名無史さん:2012/03/16(金) 21:02:29.48
>>88
伊作の顔が浮かんでしまった。
93日本@名無史さん:2012/03/16(金) 21:06:09.59
それでも伊作の場合は

帯方郡治七縣のあたりはおさえられていそうだから

●くんよりはまだまし
94日本@名無史さん:2012/03/16(金) 21:17:56.10
伊作の場合は

范曄のまぬけ読みのこと憎んでいるようだからまだ好感がもてたりもする

てかね范曄のまぬけ読みやっつけるくらいの気概をもてばええのにさ
95雷鳥:2012/03/16(金) 21:22:21.49
80 :須磨虎
>お前の解釈では、「その山」で5神山のどの山のことか分からん。(対象不確実)
五つの山があるとあって其山とくるのであるから、
五つの山の全てが同じ高さで同じ大きさだから単数の其山としたとしか解釈のしようがない。

>俺の解釈はこうだ。 「その山(5神山)は高下(高いの低いのもあり)、周旋3万里」

五つの山を巡った距離が三万里とか言っていなかったか?あなたの訳では「周旋3万里」が何のことか分からないが。
それに周旋が動詞で「周り巡る」ならその主語(周り巡るという動作を行うもの)は何ですかな?

こういう解釈もある。
「その山は高下(頂上から麓まで)旋回して降りる(登る)に三万里」
登るにしても降りるにしても一直線に歩けるものではない。回って登り降りする。その距離が三万里。
9676:2012/03/16(金) 21:32:36.56
>>79 :須磨虎
>>別に構わんのじゃね。神仙世界のことを述べたものだからさ。
>最初「哲学的思想がどうこう」といったのは撤回か?

俺は「哲学的思想がどうこう」なんて言ったことはねえよ。誰かが「哲学的思想的な話だから」とは言っていたけどよ。
それによう、神仙世界のことは哲学的思想的な話の範疇に入るもんじゃね。
97日本@名無史さん:2012/03/16(金) 21:36:57.55
>>92
あなたもですか。私も直ぐに目に浮かびました。
98日本@名無史さん:2012/03/16(金) 21:41:12.79
このごろ筑紫の民さんの姿が見えませんね。
99卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/16(金) 21:46:32.29
俾彌孤もしつこいなw

卑弥呼は朝鮮にいた、と聞いて、古朝鮮のあった遼東を思い浮かべる人はいないのだよ。
卑弥呼の時代、古朝鮮はすでに無いのだから。
100日本@名無史さん:2012/03/16(金) 21:47:47.19
朝鮮縣についてはどおなの?
101日本@名無史さん:2012/03/16(金) 21:55:06.87
濊(わい)
南與辰韓
北與高句麗 沃沮接
東窮大海
今朝鮮之東皆其地也

ここでゆってる「朝鮮」ののなかみはなんなの?
102日本@名無史さん:2012/03/16(金) 22:03:32.15
>>98
無コテでサクの応援と攻撃キャラに成り下がっているようだ。
103日本@名無史さん:2012/03/16(金) 22:13:07.18
あれっ "姫氏朝鮮" とかって初公開なのかな?
104卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/16(金) 22:16:24.47
>>100-101
卑弥呼は朝鮮にいた、と聞いて楽浪郡朝鮮県を思い浮かべる人はまずいないと思うが、
101は質問されて初めて気づいた。たしかに、この「朝鮮」は何を指しているのだろうか。

内容からすると朝鮮県のことを指しているようだが、朝鮮県のことを朝鮮とは言わないだろう。
これは重要な問題だ。おそらく学者も気づいていないだろう。

もしかすると鴨緑江と長白山脈の北で、且つ楽浪郡などの南を朝鮮と呼んだのかも。
105雷鳥:2012/03/16(金) 22:20:22.08
>>77 :須磨虎
>かが提示していたが、郭嘉伝に「軍祭酒郭嘉、自従征伐十有一年。每有大議臨敵制変」あるという。
>ここでは、「軍祭酒として、11年間征伐軍につき従った」とある。

それは私が提示したものである。
周旋(古語として)には
・交際応酬(関係を持つこと、交渉すること、間を取り持つこと、接待、など 。応酬は酬(酒、贈答物)に答える、接受すること。
・対処する、取り組む、戦う。
・サークルを描くように回る(こと)。
という意味がある。三国志には上記三つの意味のそれぞれが使われている。
106須磨虎:2012/03/16(金) 22:21:09.26
>>94
>范曄のまぬけ読みやっつけるくらいの気概
ほれ。よーく見れ。
東夷伝はデキの悪い助手か弟子が書いたのだろうが。

『後漢書』倭伝の検証と批判
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/d8acdb6277b397612b984f538f823e26
107須磨虎:2012/03/16(金) 22:27:09.58
>>105
ご苦労だったな。
現代のクソ辞書の用例や解釈を持ち出したところで、みな動詞だ。
この現実からは逃げられんぞ。出任せのホラ吹き野郎

お前の主張はどうした?
つまらん枝葉に毎別し始めたが、
周囲・外周という「名詞」というのは撤回したのか?
108日本@名無史さん:2012/03/16(金) 22:27:15.90
109雷鳥:2012/03/16(金) 22:36:45.65
>>107 :須磨虎
周旋可五千餘里は「一周五千餘里と見なせる」という意味である。
この周旋を動詞とすればどのような訳になるのですかな?
110雷鳥:2012/03/16(金) 22:44:48.88
>>107 :須磨虎
>現代のクソ辞書の用例や解釈を持ち出したところで、みな動詞だ。

そうですかな?
三国志07 魏書07 呂布臧洪傳第七にある下記の文中にある周旋はどうですかな。
僕小人也。本、因行役、寇竊大州。恩深分厚、寧樂今日自還接刃!每登城勒兵、望主人之旗鼓、感故友之周旋。撫弦搦矢、不覺流涕之、覆面也。
111日本@名無史さん:2012/03/16(金) 22:48:40.28
>>106
全体的にみてよく出来てるけどね

でもさ指摘しているまぬけ読みのところは良く知られているとこばかりだな

新規ののまぬけ読みとか指摘してあげなきゃだめじゃん

范曄のまぬけ読みやっつけるってレベルにしてはオリジナリティがどうもね

もっと範囲広げて読めばまだまだごついのが転がっていたりするよな
112須磨虎:2012/03/16(金) 22:50:45.66
>>109
けけけー。今度は一周五千餘里と「見なせる」てか。

魏使は僅か9ヵ国しか回っていない。
倭人は里程を知らず。
隈なく回ってもいない倭地の外周を里程で出せるわけがない。
里程知らずの倭人から里程を聞き取れるわけがない。

これを意識した程度の低い詭弁のニューバージョンだな。
遠絶で訪問もしていなければ、詳しく把握していない倭地の外周距離を、
一周五千餘里と「見なした」てか。ターコ
113須磨虎:2012/03/16(金) 22:52:04.72
>>111
そういうのを、「ごまめの」歯ぎしりというのだ。
114日本@名無史さん:2012/03/16(金) 22:53:30.58
いさくさんて素直じゃないんだね褒めてあげているのにさあ。。。。。
115須磨虎:2012/03/16(金) 22:55:46.84
>>110
お前はどう読みどう解釈する。
「自分はこう読む」とお前の読みと判断を書いて
みなに判断を仰いだらどうだ?

相手に先にやらせて、重箱の隅しよーって魂胆だろうが、
どいつもこいつも同じ手口できやがるが、いやな性格してるぜ。
116日本@名無史さん:2012/03/16(金) 22:57:53.07
もとのが粗雑なもまいにしては上出来じゃに

何故かそれなりに抑制とかも効いているしね
117日本@名無史さん:2012/03/16(金) 23:07:45.17
いさんばくはつするのとかおそいなあ

ただいまごまめが歯ぎしり中ですすばらくおまちください
118雷鳥:2012/03/16(金) 23:24:55.61
112 :須磨虎
>魏使は僅か9ヵ国しか回っていない。
>倭人は里程を知らず。
>隈なく回ってもいない倭地の外周を里程で出せるわけがない。
>里程知らずの倭人から里程を聞き取れるわけがない。

女王に属する国々が何処にあるかを承知していないでは倭国の高官は務まらんでしょ。
里程を知らずと言っても、歩いて1日だとか2日だとかは言えるでしょう。
こことここの間は末盧国から伊都国までの距離と同じだとか半分だとかは言えるでしょう。
そのような倭人からの聞き取り調査結果を考証整理した結果が周旋可五千餘里でしょう。
実に簡単なことです。
119雷鳥:2012/03/16(金) 23:33:02.83
>>115 :須磨虎
>>110
>お前はどう読みどう解釈する。

あの文を読めないのですかな?
あの文(感故友之周旋)の周旋は名詞だということが分かりませんかな?
120日本@名無史さん:2012/03/16(金) 23:33:40.04
>>106
つまり、「邪馬壹國」が正しくて「邪馬臺國」は間違っているということか?
121須磨虎:2012/03/16(金) 23:42:17.77
>>118
詭弁に詭弁を重ねてどうするか。

>>119
読めないから読んで見せろや。 んー?
122須磨虎:2012/03/16(金) 23:55:17.63
へへへ。待ったが返答なしか。
もう寝る時間だ。先手をうって締めるとするか。

何度か書こうかと思ったがなー。日本語にも「周旋」てあるぜ。
これは「斡旋する」「仲介する」だ。
古くは不動産仲介業者を周旋屋といったもんだ。

で・ナニ? 「斡旋・仲介」という名詞の意味があるといいたいわけか。
万歩譲って、それがどうした。
周旋は「外周」だ「周囲」だということになるのか。ボケ
枝葉に食いついた毛虫みたいな野郎だな。
123日本@名無史さん:2012/03/17(土) 02:56:31.35
まだ周旋でもめてるのか、こまった連中だねえ。
@ 周旋は一周ではない。巡っていくとという程度の意味。倭地の回りに沿って向こう側まで
 行った距離。つまりは半周だ。一周説の連中はどこの一周だと思っているのかな?
 一周が五千里=約400キロの島なんぞないだろ。
A 使者が実際にうろうろした距離ではない。そんな距離を書いたところで何の意味もない。
 周旋五千余里は倭の地の大きさを示した重要な語句。
 
124日本@名無史さん:2012/03/17(土) 11:35:52.49
「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
 【殺された石井こうきの発言から】


オウム、北朝鮮、麻原サブリミナル、左翼政権誕生→阪神大震災、サリン
韓流信奉、韓国、韓流サブリミナル、(反日)左翼政権誕生→東日本大震災、原発事故

似ているね
てかそのものか。 そうか、統一教会、朝鮮総連、民団→民主党
125大訂正!:2012/03/17(土) 12:01:02.57
>>118 名前:雷鳥 :
>こことここの間は末盧国から伊都国までの距離と同じだとか半分だとかは言えるでしょう。

その通りですね。陳寿もおなじ表記になっている。
それが、 「東南陸行五百里 到伊都國 」と
「 南至投馬國水行二十日」
「 南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月」です。
里程を日数に変へ、「五百里」と「二十日」を並列させてある。
だから、この里程と日数には、「余」という誤差がない。
その上で、「水行十日陸行一月」で千里をあらわしている。
「投馬國」も「邪馬壹【臺】國」も起点は「末廬國」です。
故に、「投馬國」と「邪馬壹【臺】國」間の距離が里程対比で五百里になるのは、「都」の離国五百里がその前提にあるからです。 
勿論、千里は約432kmです。
126大訂正!:2012/03/17(土) 12:18:55.01
「又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至」・・・@

「 參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里」・・・A
@ の「可」は『ほぼ・だいたい・約』で
A の「可」は『さしわたし』

「船行一年」を里程に置き換えるなら
一年=360日とし、20日=五百里。
360÷40日(20日×2)=九千里。

九千里=432km×9=3888km

東南船行3,888kmではぼ至る。

127日本@名無史さん:2012/03/17(土) 12:35:36.28
A の「可」も『ほぼ・だいたい・約』だろ
128卑弥呼の都は久留米:2012/03/17(土) 12:39:30.86
>>123を修正
まだ周旋でもめてるのか、結論は出た。
@ 周旋は一周ではない。巡っていくとという程度の意味。
  倭地の向こう側まで行った距離。つまりは横断だ。
  倭島列の端から端までの距離が約5000里(約350km)と言うことだ。
  倭島列とは對海國(対馬北岸)から狗奴國(熊本平野南部)までの陸海の範囲だ。
  一周説の連中はどこの一周だと思っているのかな?

A 使者が実際にうろうろした距離ではない。
  そんな距離を書いたところで何の意味もない。
  周旋五千余里は倭の地の大きさを示した重要な語句。
 
129大訂正!:2012/03/17(土) 12:40:56.10

>>127
>A の「可」も『ほぼ・だいたい・約』だろ

陳寿は『馬から落ちて落馬した』等の記述はしないだろう。

「可」が約で、「余里」の「余」はどうすんの。





130雷鳥:2012/03/17(土) 13:00:30.02
>>121 :須磨虎
>>118
>詭弁に詭弁を重ねてどうするか。

ほほう。あなたには>>118が詭弁に見えますか。
自分の説に都合の悪いものはなんでも詭弁なんですな。

>>122 :須磨虎:2012/03/16(金) 23:55:17.63
>で・ナニ? 「斡旋・仲介」という名詞の意味があるといいたいわけか。
>万歩譲って、それがどうした。

>>110 をもう一度読み直しなさい。あなたの
>>107 :須磨虎
>現代のクソ辞書の用例や解釈を持ち出したところで、みな動詞だ。 」
という主張に答えたものですよ。
周旋にはいくつもの意味があり、動詞としても用いられるが名詞としても用いられるのですよ。
>>110は「斡旋・仲介」に近い意味の周旋が名詞として使われた例ですよ。
あなたの主張(みな動詞だ)は間違いだということが分かりましたか?

自分の間違いは絶対に認めないでは議論になりませんよ。


131日本@名無史さん:2012/03/17(土) 13:15:19.15
>>129
「大体五千里余り」で何もおかしくない
132卑弥呼の都は久留米:2012/03/17(土) 13:16:58.20
   
「又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至」・・・@

「 參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里」・・・A

@Aの「可」は推量で、別途情報資料から計算して得た根拠のある推測。

@「船行一年」を里程に置き換えるなら
  船行一年=海行一年、海行一月≒千里から

  船行一年=海行十二月≒一万二千里≒840km

  帯方郡⇔女王國(不彌國):一万二千餘里(840km)
  女王國(不彌國)⇔女王の都:隣接地域(試算14km≒二百里)
  女王の都⇔侏儒國:四千餘里
  侏儒國⇔裸國・黒齒國:一万二千餘里(840km)

  帯方郡⇔裸國・黒齒國:二万八千二百餘里(1974km≒2000km)
133日本@名無史さん:2012/03/17(土) 13:30:24.28
http://www.iokikai.or.jp/kodai.hayato,kumaso.html

熊襲も隼人も同じ部族。日本書紀の伝承記録から見ても、3〜4世紀のころの中央政権に抵抗した南九州の人々が熊襲と
呼ばれ、中央政権に服属した5世紀代以降に隼人と呼ばれたと見て良いであろう。考古学上の成果から
も同じような見解が出来るようである。

旧日向の国は今の宮崎県、鹿児島県(大隅、薩摩)であり、その中心は大隅。大隅隼人の支配は西都にまで及んでおり、
西都原古墳が形成された。串間から発見された国宝の玉壁、鹿屋市の吾平山陵付近から発見されハート形の象嵌が確認
された中尾遺跡の刀剣、大崎町の神領古墳から発見された武人埴輪(女性を思わせるような精巧な埴輪)、同じ大崎町の
横瀬古墳の二重環濠が確認され環濠まで含めると九州最大になること、鹿屋市の立小野古墳の横穴式古墳から出土した
大量の鉄器、鹿屋市王子遺跡の棟持ち造りを含む大集落跡、鉄器、航海跡などから大隅が中心であったと思われる。

今後も新たな遺跡等が発見されると面白いが東串良町唐仁古墳の大塚古墳、九州でも最大級の前方後円墳内の石室は
国指定により調査できないが是非調査してもらいたい。

大隅は邪馬台国よりも狗奴国の可能性が高い。邪馬台国は九州北部か生目古墳のある宮崎市内か。
そうすると邪馬台国は西都と大隅の熊襲に挟まれていたことになる。
134日本@名無史さん:2012/03/17(土) 13:39:05.40
つーか@の「可」は「至」の前にあるから助動詞だよ船行一年で至るべし、つまり船行一年で行けるよってこと
135日本@名無史さん:2012/03/17(土) 13:40:05.24
古事記では、九州は4つの頭にわかれており、
筑紫、豊、肥、熊襲、だったという。

肥と熊襲は別物のようだ。
136大訂正!:2012/03/17(土) 13:47:24.47
ほれ、↓の「可」は『さしわたし』だ。
「其南有侏儒國 人長三四尺 又南K齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年」・・・・梁書

侏儒(小人)の國から倭まで「四千餘里」・(1728km)。
侏儒(小人)の國から「K齒國 裸國」までの『さしわたし』は一年=3888km。

「船行可一年」の「可」は『さしわたし』。

137日本@名無史さん:2012/03/17(土) 14:00:46.80
短里で一月行千里だと、航行一年で、沖縄から台湾の間ってところか。
138日本@名無史さん:2012/03/17(土) 14:35:42.93
>>136
その「可」は「ほぼ、大体、約」だろ
139日本@名無史さん:2012/03/17(土) 14:36:51.42
>>136
全然根拠になってないじゃん。
140卑弥呼の都は久留米:2012/03/17(土) 14:43:26.07
>>134
>つーか@の「可」は「至」の前にあるから助動詞だよ船行一年で至るべし、つまり船行一年で行けるよってこと

魏志倭人伝では、そうだね。うっかりしてた。

でも、梁書では推量の「可」だね。

141雷鳥:2012/03/17(土) 15:39:09.40
>>128 :卑弥呼の都は久留米
>>123を修正
>まだ周旋でもめてるのか、結論は出た。
>@ 周旋は一周ではない。巡っていくとという程度の意味。
> 倭地の向こう側まで行った距離。つまりは横断だ。

周旋はcircleを描くように廻ることですよ。単に弧を描くや横断では周旋になりません。
周旋可五千餘里の周旋は周囲あるいは一周の意味ですね。
片道のことだという文例はありませんよ。
142日本@名無史さん:2012/03/17(土) 15:44:51.73
>>141
周囲あるいは一周という文例を出してよ
143日本@名無史さん:2012/03/17(土) 15:53:51.14
宋書夷蛮伝東夷条にあるのは高句麗国、百済国、倭国の三国

順帝升明二年,遣使上表曰「封国偏遠,作藩於外,自昔祖禰,躬カン甲胄,跋渉山川,不遑寧処。
東征毛人五十五国,西服衆夷六十六国,渡平海北九十五国,以下省略」
詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王。

ここから征西により66国を平定したことと、海を渡り北岸の任那加羅新羅が在った95国を征服したことが解る
つまり、西へ拡張する余地があり更にそこから北へ渡海することの出来る位置に在ったわけだから
九州ではなく畿内と見るのが妥当。
144日本@名無史さん:2012/03/17(土) 16:00:20.49
漢語の周旋は行って戻るという意味
145卑弥呼の都は久留米:2012/03/17(土) 16:14:49.88
>>141
>周旋はcircleを描くように廻ることですよ。単に弧を描くや横断では周旋になりません。
>周旋可五千餘里の周旋は周囲あるいは一周の意味ですね。
>片道のことだという文例はありませんよ。

一周のことだという文例もありませんよ。

「周旋」は単に「巡る」の意味だからです。

周旋は倭人伝の地理誌部分の最後のまとめに出てきます。
だから、倭地の大きさについて述べていると見るべきです。

倭地は、「絶在海中洲島之上 或絶或連」とあり、海の中の島列であると捉えられています。
だから、「周旋」は、倭地即ち島列の端から端までを巡ったことを意味しているのです。

「周旋可五千餘里」をより正確に表現すれば、「周旋」は倭地を縦断したこと表しており、
その縦断距離が五千餘里だと述べていると判断します。

146日本@名無史さん:2012/03/17(土) 16:21:17.09
まだやってるう
147卑弥呼の都は久留米:2012/03/17(土) 16:29:15.09
>>143
原文とおり嫁

東征・・・・・・征した。近年新たに征服したのである。
西服・・・・・・服した。征したのではない。以前から服しているのである。
渡平海北・・・・平らげた。以前からの反抗的な地域を平定したのである。
148日本@名無史さん:2012/03/17(土) 16:30:50.34
>>128
むつごろうさんもいけんよね

無駄に対海國起点に調整してくれちゃったりしてさあ

起点は狗邪韓國

何故なら狗邪韓國は紛れも無く倭地と看做さざるを得ないからだよね

狗邪韓國が倭地では無いとするには余程の詭弁が要求されるのでした。
149日本@名無史さん:2012/03/17(土) 16:34:09.42
世有王の解釈に多々あるが、一般的解釈として
伊都国にのみ王がいるし帯方郡からの使者もここを窓口として滞在するようだから
対馬の宗氏と同じで、パイプ役として、女王国に飲み込まれずに残った国なのではなかろうか
だから奴国が女王国の境界とされているのだろう、また狗邪韓国も倭勢力でありながら女王国に含まれない
さりとて、女王国が広義の意味での倭国の覇権をにぎっていることには変わりなく、また女王国内各国も国としてのかたちを維持している
華夷秩序における内臣と外臣の関係にあたろうか
また伊都国は後の大宰府の領域にあたるわけで、都からとくに一大卒が置かれ九州諸国を監督していた。
また原則、外国の使者は伊都国に外交文書をとどけ、ここからは女王国の役人が卑弥呼にまで
文書を届けることになっていた。
使者が倭国内をどれほど自由に動けたが問題となってくるわけだが
水行30日、陸行一月の距離感のなさ、おそらく各国で倭人は何日か勤めをしていたための鈍行であろうが
このことから、おそらく伝聞をそのまま描いたのであり、使者は倭国についての地理感が正確でない。
つまり、使者は行動がかなり限定されていた。
貿易窓口周辺でしか、活動をゆるされず、卑弥呼への謁見はなかった。

万二千里は奴国までの距離を省略していた煩瑣な距離コミで多めに計算したものであろう
周旋五千里は使者が許されて、拠点から拠点へと移動できた倭国内の旅程で、倭国の広さをおおざっぱに伝える情報ではないか
150日本@名無史さん:2012/03/17(土) 16:41:05.74
>>147
ああそこのの中心地は久留米周辺部にちがいないのよ

30國そこそこグループのところのメンバーが東夷のパートで66國に増えてるじゃん

東夷のヒストリー陳述しているのが倭王武の上表文じゃに

従って「東征毛人五十五國」のメインのは

「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」のだろ
151日本@名無史さん:2012/03/17(土) 16:44:01.87
>>147
漢語での強硬さを並べると、平=征>>服、服は穏健に支配下へ置けた場合
一般的に、征は敵を討つ場合、平は夷狄を討ち従える場合に使う
どっちみち畿内からの視点であることに変わりない
152卑弥呼の都は久留米:2012/03/17(土) 16:44:18.89
>>148
狗邪韓國は倭であるが、倭地ではない。
狗邪韓國は、韓地の狗邪國の意味。
歴韓國の韓國は、韓地の倭人の國の意味。

しかし、狗邪韓國の沿岸の海は倭地に含まれていると考えることもできる。
此の場合、他に矛盾点が出てくるので、此の考えは捨てざるを得ない。
しかし、完全否定しているものではない。
153雷鳥:2012/03/17(土) 16:46:06.80
>>142 :日本@名無史さん:2012/03/17(土) 15:44:51.73
>>141
>周囲あるいは一周という文例を出してよ

はいはい。
・丹楊地勢險阻、與吳郡、會稽、新都、鄱陽、四郡鄰接、周旋數千里、
・參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。




154日本@名無史さん:2012/03/17(土) 16:50:54.29
>>152
狗邪韓國は倭であるが、倭地ではない。
狗邪韓國は、韓地の狗邪國の意味。
歴韓國の韓國は、韓地の倭人の國の意味。

いいよいいよ それでいいよ

でもさ ふつうに外人の観光客とかがスタートするのは国外からので

参問するのの起点は最初に寄り道した国内のとこだとゆうのはへんだよ
155日本@名無史さん:2012/03/17(土) 17:00:44.60
投馬國は、海辺の国
邪馬壹【臺】國は、内陸の国?
156卑弥呼の都は久留米:2012/03/17(土) 17:01:09.69
>>153
「丹楊地勢險阻、與吳郡、會稽、新都、鄱陽、四郡鄰接、周旋數千里」

與吳郡、會稽郡、新都郡、鄱陽郡に囲まれた地域の長径は五千餘里(350km)ですよ。
157日本@名無史さん:2012/03/17(土) 17:02:36.28
>>155
そういうことになるよな
158卑弥呼の都は久留米:2012/03/17(土) 17:02:42.15
>>155
>投馬國は、海辺の国
>邪馬壹【臺】國は、内陸の国?

yes
159日本@名無史さん:2012/03/17(土) 17:05:48.09
>>152
狗邪韓國は半島南部の倭領。
>>153
其山高下周旋三万里,其頂平処九千里。
160日本@名無史さん:2012/03/17(土) 17:06:51.98
>>153
それだけじゃ「周囲あるいは一周」という意味かどうか不明だろ
前後の文とその訳を提示すべき
伊作の方がまだマシ
161日本@名無史さん:2012/03/17(土) 17:08:51.17
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

陳さんは「絶」のをダブらせて使用したかったらしいよ
162日本@名無史さん:2012/03/17(土) 17:14:19.85
>>159
烈子湯問「其山高下周旋三万里,其頂平処九千里。」

一周でも片道でもなく、往復で使われるのが基本。
163日本@名無史さん:2012/03/17(土) 17:22:30.43
毛唐のひとたちには海の領有権に類するみたいな発想とかは希薄なんだろうな

海でぶった切られた島々とかとちょっとでかめな島とかに

均一な名称のの官がばら撒かれているのとかも不思議だったのかもしれんよね

卑狗とか卑奴母離とかの分布は 對海國, 一大國, 奴國, 不彌國 にあって

名前の上だけでは相当均質ぽいってゆうかね
164日本@名無史さん:2012/03/17(土) 17:35:22.45
「或絶或連」ののところは

なわばりもっている國國のが

お互いに境が接していたり離れていたりしてからに

トータルではすっかすかので

國國が順番にとか分岐してとかありました

とゆうふいんきかもな
165須磨虎:2012/03/17(土) 18:09:43.19
>>130
>周旋にはいくつもの意味があり、動詞としても用いられるが名詞としても用いられるのですよ。
名詞としても用いられたと断定しているわけではない。
「万歩譲って」斡旋の意味で対応したのだ。のぼせるな。

>「斡旋・仲介」に近い意味の周旋が名詞として使われた例ですよ。
「斡旋・する・こと」、「仲介・する・こと」だ。純然たる名詞といえるのか?

>あなたの主張(みな動詞だ)は間違いだということが分かりましたか?
お前が提示した事典の解釈と用例に対してこういった。
「現代のクソ辞書の用例や解釈を持ち出したところで、みな動詞だ 」
なにが間違いだ。事実だったろ。

>>141
>周旋はcircleを描くように廻ることですよ。
周旋は、一周とか半周とか片道だとか往復だとか、一元的に断定できる表現ではない。
天体の運行を言う場合は周期と同じ意味になるし、
戦場を転戦する場合、状況によって(迂回や逆戻りなど)色んな巡り方をする。
むろん、周旋と表現した場合の基点と終点が同じ場合は往復ともいえる。
使われている状況で意味は異なるのだ。ホラ吹き野郎

>単に弧を描くや横断では周旋になりません。
入った先で巡り・回ることもある。円弧や矩形に回ることもある。

>周旋可五千餘里の周旋は周囲あるいは一周の意味ですね。
ウソをいうな。

>片道のことだという文例はありませんよ。
お前のマネで、重箱の隅をすれば一つぐらいあるだろう。
その場合は、「間違い発言」というわけだ。けけらけら
166須磨虎:2012/03/17(土) 18:10:06.63
何か盛んに勘違いしてるがいるようだが。
周旋は、一周とか半周とか片道だとか往復だとか、一元的にいえる表現ではない。
もっと柔軟性と幅のある理解の仕方をしろ。

それから、ひどく勘違いしてるか「わがまま願望」をいうバカがいるが、
周旋した距離は倭地の広さとは無関係だ。これは倭地の領域に関する表現ではない。
167須磨虎:2012/03/17(土) 18:17:11.04
>>142
>周囲あるいは一周という文例を出してよ

>>153  >はいはい。
>丹楊地勢險阻、與吳郡、會稽、新都、鄱陽、四郡鄰接、周旋數千里、
>參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

無学者が、自論に都合よく、遮眼帯競走馬的視野で・読んだ場合の文例だ。
そういう解釈が成り立たない決定的現実を幾つも見せたが、引くにひけないらしい。
こんなのを相手にするな。
168日本@名無史さん:2012/03/17(土) 18:22:42.80
>>157
ならない。
169日本@名無史さん:2012/03/17(土) 19:16:25.59
倭人伝の里数は実際の5〜6倍で書かれている
ということは日数についても5〜6倍で書かれていると見るのが妥当であろう
こう考えればすんなりと九州で落ち着く
170日本@名無史さん:2012/03/17(土) 19:58:16.08
学者の説でも倭人伝の数字はすべて白髪三千丈式に十倍で書かれているのではないか、と発表している人もいますよ。
171日本@名無史さん:2012/03/17(土) 20:22:53.71
日数もそうだってのは論理的では無いな
172日本@名無史さん:2012/03/17(土) 20:35:29.98
釜山〜対馬まで千里(約50Km)
対馬〜壱岐まで千里(約50Km)
壱岐 方三百里(壱岐の東西約15Km・南北約15Km)
壱岐から松浦まで約千里(約50Km)
陳寿が記載した里程に整合性は存在する
173日本@名無史さん:2012/03/17(土) 20:44:06.24
里数も日数も距離を表しているのだから里数のみ数倍で日数は実数という方が論理的整合性が無い
174日本@名無史さん:2012/03/17(土) 21:25:41.40
>>169に同意

行程論なら、里程と日数を1/6すれば、あとは誤差の範囲内で収まる。
それ以外のトンデモ解釈は一切必要がない。

しかも、それほど多くはないが、隋書や周里算経、九章算術などの
数値的根拠も存在する。
175日本@名無史さん:2012/03/17(土) 21:28:23.33
それは推測であって論理じゃないっしょ
176卑弥呼の都は久留米:2012/03/17(土) 21:33:08.92
周髀算経
177日本@名無史さん:2012/03/17(土) 21:40:54.70
>>172
1千里は約80`でしょ。
帯方郡から馬韓沿いにジクザグ行って倭人の北限狗邪韓国まで踏破距離が約560`
狗邪韓国から渡海して対馬まで約80`、対馬から壱岐まで約80`
壱岐から松浦まで約70`、松浦から多久まで約40`、多久から佐賀まで約10`
佐賀から熊本を経て菊池まで踏破距離にして約100`、大体12000里と合致する。
>>170
頭のおかしい学者も沢山居るからな。
178卑弥呼の都は久留米:2012/03/17(土) 22:10:07.65
1千里は約70`でしょ。
帯方郡から海岸沿いに沿岸航行し倭人の狗邪韓国まで航海距離が約490`
狗邪韓国から渡海して対馬まで約70`、対馬の半周が約56`、
対馬から壱岐まで約70`、壱岐も半周が約42`、
壱岐から古唐津湾の中原津約70`、
古唐津湾の中原津から佐賀大和惣座まで約35`、佐賀大和惣座から佐賀市中心部まで約7`、
佐賀大和惣座から吉野ヶ里まで約7`、
帯方郡から佐賀市中心部まで、及び、帯方郡から吉野ヶ里までの距離合計は、それぞれ約840`となる。
約840`は帯方郡から女王國までの12000餘里と一致する。
179日本@名無史さん:2012/03/17(土) 23:38:44.55
三国史で有名な千里をかけると言われた赤菟馬、
類まれなる名馬であることは間違いないけれど、千里を走ることはできないことは明白。
人を乗せて長距離を走るときは必ず買え馬を用意したのだ。

>>178の説の通り、70`程度の距離を千里と表現したのだろう。
中国人は、こういう誇張した表現が大好きな民族なのだ。
だまされるな。
180日本@名無史さん:2012/03/17(土) 23:39:24.90
やらせA 就活中
(p)http://livedoor.blogimg.jp/jin115/imgs/3/1/31a6f8e6.jpg
やらせB 就職後
(p)http://livedoor.blogimg.jp/jin115/imgs/2/b/2b790359.jpg


世論調査もこんな感じで捏造してます


 東京にある6つのキー局の内、製作から財務まで一貫して朝鮮人が行ってるテレビ局が1つ
 中国共産党から毎年大量の反日工作費が流れているテレビ局が2つ
 もろに北朝鮮と繋がっているテレビ局が1つ  
年寄はまだまだテレビという外国人に騙され続ける



オレオレ詐欺なんて年寄がどれだけ騙されやすいかという社会実験でしかない
馬鹿はいつまでも騙される
181日本@名無史さん:2012/03/17(土) 23:46:25.67
>>179
一日に70kmだったら人間でも走れる。
こんな距離を走って名馬とはとても言えないな。
182日本@名無史さん:2012/03/17(土) 23:54:40.41
熊襲=隼人ですが、日向の大半は熊襲ではないですよ。
東岸平野部と南西盆地部の境が山間部になっておりますが、このあたりを境に南西部が熊襲だったのは確実。
西都原や茶臼原、新田原、三財、三納、生目等の古墳群は非熊襲。
熊襲と最も激しく争っていた地域であると思われます。
戦死であろう傷を負った遺体等も出土している。
183卑弥呼の都は久留米:2012/03/18(日) 00:00:17.04
   
陸上哺乳類で長距離移動が最も速いのは人間。

人間に優る陸上哺乳類はいない。
184日本@名無史さん:2012/03/18(日) 00:28:04.41
>>179
その1千里は実際に使われてた里で約400`
短里が使われたのはほぼ東夷の記述に関してのみ
北狄や西域の情報は実際の里を使って記述されてる。
185日本@名無史さん:2012/03/18(日) 00:36:34.43
>>178
90`約1300里足りないから、吉野ヶ里の線は消えたね。
186日本@名無史さん:2012/03/18(日) 00:40:40.93
まちがってむつごろうの楽園に卑弥呼がいたとしら

鏡なんかでぴかぴかやったって誰も褒めてくれたりしないだろ

やっぱさ むつごろう天国の卑弥呼の場合の武器は鏡なんかじゃなくて

玉だよね玉玉玉玉

「干珠・満珠」の二つの宝珠が神宝ので、むつごろう天国の卑弥呼の場合のの武器だろ
187卑弥呼の都は久留米:2012/03/18(日) 00:52:15.41
>>185
君の計算間違い。

490km+70km+56km+70km+42km+70km+35km+7km=840km=12000里

7000里+1000里+800里+1000里+600里+1000里+500里+100里=12000里=840km
188日本@名無史さん:2012/03/18(日) 00:58:15.44
>>187
島の全周を勝手に足さないようにw
189日本@名無史さん:2012/03/18(日) 01:07:10.08
柳川〜菊池川河口間が佐賀〜柳川間のほぼ2倍になるね。
190卑弥呼の都は久留米:2012/03/18(日) 01:29:07.40
>>188
>島の全周を勝手に足さないように

島の半周しか足していません。
191日本@名無史さん:2012/03/18(日) 03:11:34.81
>>190
釜山から対馬と壱岐の沿岸を航行して松浦まで来ると約230`
その計算では4000里を大きく超えてしまう、よってその計算は間違い。

そもそも、その工程だと邪馬台国の一つ手前の国で止まってしまうので
あまりにも牽強付会でお話にならない。
192卑弥呼の都は久留米:2012/03/18(日) 07:54:27.59
>>191
半島南岸狗邪韓國から対馬と壱岐の沿岸を航行して唐津中原末盧國まで来ると308`。
4400里だ。
帯方郡漢城から唐津中原末盧國までは計798`。
11400里だ。
唐津中原末盧國から佐賀大和伊都國まで35`、500里。
佐賀大和伊都國から佐賀市中心部奴國まで7`、100里。
佐賀大和伊都國から吉野ヶ里不彌國まで7`、100里。

合計、帯方郡漢城から佐賀市中心部奴國まで840`、12000里。
合計、帯方郡漢城から吉野ヶ里不彌國まで840`、12000里。

故に、奴國と不彌國は女王國。
邪馬台国も女王國で不彌國の南側のお隣。
193大訂正!:2012/03/18(日) 12:58:52.95
>>141 :雷鳥
>周旋はcircleを描くように廻ることですよ。単に弧を描くや横断では周旋になりません。
>周旋可五千餘里の周旋は周囲あるいは一周の意味ですね。

『周旋はcircleを描くように廻ることですよ。』
という解釈は『旋』を動詞としての解釈でしょう。
その『旋』に『周』を癒着させて「周旋」と熟語にしたのは説文解字に置いてです。
ここにおける「周旋」の本来の意は、『軍旗をたてて足で行軍した領域を刺す』という軍事用語でしょう。
だから、その行軍距離を円周行軍距離とおくことは難しいだろう。
だから、「可」という一文字を挿入して行軍距離の最大径、所謂さしわたしとしてある。

「周旋可  五千餘里」と記述されているのであって「周旋  可五千餘里」ではない。


194日本@名無史さん:2012/03/18(日) 13:08:57.89
>>192
勝手に史書の数字を改竄するなよw

半島南岸の倭領狗邪韓国から末慮国まで3000里、1里80m換算でも240`
195日本@名無史さん:2012/03/18(日) 13:39:55.51
この時代、定規で測ったみたいにぴったりになるわけがない
196日本@名無史さん:2012/03/18(日) 13:48:08.85
>>182
そうですか。日向の大半は熊襲ではないですか。一部は熊襲だろうけど、
西都原は熊襲か、でなければ地名から都萬国かなとも思いますが。
邪馬台国ではないにしても旧日向の国が神話に封じ込められて歴史から
無視されていることは確かです。
197日本@名無史さん:2012/03/18(日) 13:53:55.85
西都原にいた部族が熊襲に攻められ熊襲の勢力圏となり西都原古墳を
築いたとも考えられ曽於の君が葬ってある可能性もないでしょうか?
198日本@名無史さん:2012/03/18(日) 14:12:18.37
>>196
高塚式の墳墓というのは、山信仰のようなのがあると思う。
逆に、そういうのを好まない人々もいると思われる。死生観が異なるというか…。

宮崎平野から肝属平野はそういう死生観の異なる人々が混在していると考えられる。
高塚式の古墳もあれば、地下式横穴墓のような独特の墓もあるからである。
一方で、高塚式の墓が見られない地域もある。熊襲や隼人などの敵対勢力は
こういう地域に住んでいたんじゃなかろうか。
199卑弥呼の都は久留米:2012/03/18(日) 15:11:26.09
>>194
>勝手に史書の数字を改竄するなよ
>>195
>この時代、定規で測ったみたいにぴったりになるわけがない

定規で測ったようなぴったりした数字なので、
勝手に数字を改竄していません。

@「始度一海千餘里 至對海國」
上記は「千餘里の大きさの海を初めて渡ると對海國に至る」と書いてあるのだ。
A「又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國」
上記は「千餘里の大きさの海を又南へ渡ると一大國に至る」と書いてあるのだ。
B「又渡一海千餘里 至末盧國」
上記は「千餘里の大きさの海を又南へ渡ると末盧國に至る」と書いてあるのだ。

以上@AB全ては、「幅千餘里の海を渡る」の意味である。
つまり、@ABでは対馬と壱岐の沿岸航行について全く触れていないのである。

しかし、両島の沿岸航行なしに海峡を渡ることは、その潮流妨げられて不可能なのである。
200日本@名無史さん:2012/03/18(日) 15:44:01.60

やっと気づいたAKBの宣伝に税金が使われている件。そしてその税金は民主党にも流れている。

報道規制とあらゆるランキングの操作、CD等売上の捏造、サクラ動員の証拠画像等はこちら
やっと気付いた「AKBに電通が絡んでる」ではなく「AKBの正体が電通」な件 その120
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1331752286/

AKBも韓流もワンピース(集英社)も同じ広告代理店の捏造人気  
201日本@名無史さん:2012/03/18(日) 15:52:17.42
202日本@名無史さん:2012/03/18(日) 16:02:46.60
203日本@名無史さん:2012/03/18(日) 16:05:58.50
http://maps.google.co.jp/maps?q=34.295409,129.353414

ここのの水道を東に抜けて沿岸流に乗って南下したとおもうよ
204日本@名無史さん:2012/03/18(日) 16:27:23.27
http://maps.google.co.jp/maps?q=35.240011,128.775558
狗邪韓國はこのあたりらしいけど

対馬に逝く時は内海を抜けて

http://maps.google.co.jp/maps?q=34.755153,128.447342

ここの水道抜けてさらに南に船首を向けてあげると

東方向にフェリーグライドしてからに対馬西岸に辿り着く

205日本@名無史さん:2012/03/18(日) 16:54:52.35
太宰府市梅ヶ丘1丁目

http://www.panoramio.com/photo/34643511

ここのは南北の川のの水源にあたる分水嶺ですねえ

まあふね使って移動するのがふつうにでふぉだからなあ

使わなくなったから池にした?

http://maps.google.co.jp/maps?q=33.492468,130.539189
206日本@名無史さん:2012/03/18(日) 19:50:36.95
     _______                     __
    // ̄~`i ゝ                    `l |
    / /        ,______   ,_____    ________  | |  ____ TM
   | |     ___ // ̄ヽヽ // ̄ヽヽ (( ̄))   | | // ̄_>>
   \ヽ、   |l | |    | | | |    | |  ``( (.  .| | | | ~~
      `、二===-'  ` ===' '  ` ===' '  // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二=''
                         ヽヽ___//   日本
         ______________  __
         |街宣車の正体  朝鮮人工作員     .| |検索|


207日本@名無史さん:2012/03/18(日) 21:32:23.75
http://maps.google.co.jp/maps?q=33.251626,130.491142

十連寺とかって微妙なネーミングだけど倭王とか俀王さんの故郷だろうな

ここに玉垂のが居座りはじめたのが367年とからしいから

久留米さんはほんと早漏ってやつだな

ここから東北東に続く島か半島かのの先端みたいかんじね

水沼だか三潴だかののはむつごろうの天国に決まりだわな
208日本@名無史さん:2012/03/18(日) 22:33:12.86
>>197
その可能性もそうでない可能性も全否定はできないけど
古墳の築造時期のみから考えると西都原にいた部族が熊襲に攻められ〜は少し難かなと思える
西都原以前に曾於周辺に大規模古墳が見られない
熊襲の本拠地は曾於肝属あたりだと勝手に思ってる

以下全長100m以上の古墳の築造時期

生目1号墳 3世紀後半(宮崎市)
川南11号墳 3世紀後半〜4世紀初め(川南町)
生目3号墳 4世紀半ば(宮崎市)
生目22号墳 4世紀後半(宮崎市)
川南39号墳 4世紀末(川南町)
女狭穂塚古墳 5世紀前半(西都市)
男狭穂塚古墳 5世紀前半(西都市)
児屋根塚古墳 5世紀前半(西都市)
菅原神社古墳 5世紀前半(延岡市)
計塚古墳 5世紀半ば(児湯郡高鍋町)
                          唐仁大塚古墳 5世紀後半(肝属郡東串良町)
松本塚古墳 5世紀末(西都市)
下北方古墳 6世紀初め(宮崎市)
                          横瀬大塚山古墳 6世紀〜7世紀(曾於郡大崎町)
209日本@名無史さん:2012/03/18(日) 22:59:12.82
南九州特有の武具を中心に馬なども副葬品にされる軍事色の濃い地下式横穴墓が5世紀前半〜7世紀初めに
諸県地域を中心に鹿児島県側や宮崎県側の西都原(北限)まで見られる
特に集中しているえびの市あたりが長期or大規模な係争地帯だったんではないかと思う
隼人は7世紀末以後の熊襲の別称
210卑弥呼の都は久留米:2012/03/19(月) 16:01:40.39
>>199の続き
対馬壱岐沿岸の潮流
@対馬西沿岸・対馬西水道(朝鮮海峡)
 常に北向きの速い潮流が流れている。
 半島沿岸側は、潮流が弱くなったり逆転流があることもあるが、
 対馬沿岸よりは、北向きの速い潮流が弱まることがない。
 速い潮流と風の影響で海は常に荒れている。
A対馬東沿岸・対馬東水道(対馬海峡)
 北向きの潮流が流れているが南向きの反転流が発生する。
 海岸寄りは弱い潮流。
B壱岐北西海上・対馬東水道南部(対馬海峡南部)
 北東向き又は東向きの潮流が常に流れている。
C壱岐東沿岸
 常に南向きの潮流が流れている。
D壱岐南沿岸・壱岐水道
 平均は非常に遅い東向き潮流。
 潮汐の影響により潮流は常に東西方向で逆転している。
E壱岐西沿岸
 常に北向きの遅い潮流が流れている。
211卑弥呼の都は久留米:2012/03/19(月) 16:02:23.96
魏使の往路
@巨済島付近から南東に出発した舟は、北向きの速い潮流に流されながら、
 対馬西北部沿岸に到着する。
A舟は海流に逆らわず、対馬北沿岸を東へ回り込み、対馬東沿岸沿いを南下する。
 対馬南沿岸から舟を南方向に進めると、北東又は東向きの潮流に流されて、
 壱岐北部に到着する。
B壱岐北部沿岸では、西向き潮流の時間帯を避け、東に舟を進める。
C壱岐東沿岸では南向きの潮流に乗って、唐津湾奥の末盧國に到着する。

魏使復路
@唐津湾から北へ進んできた船は、壱岐南沿岸を西へ進み、
 このとき名護屋沖通過
A壱岐西沿岸を北上し、壱岐北部では西向きの潮流に乗って
 できるだけ西に進む。
B西行き潮流の無くなる海域から、舟を北方向に向け、
 対馬東水道の東北方向潮流を横断し、対馬南沿岸に到着。
C舟は対馬南沿岸から対馬西沿岸沿いに北上する。
 対馬西水道は波の荒れた海域なので、
 対馬西沿岸から離れるのは対馬北端を過ぎてから。

まとめ
魏使は往路において壱岐対馬のそれぞれの北沿岸と東沿岸を半周している。
魏使は複路において壱岐対馬のそれぞれの南沿岸と西沿岸を半周している。
212日本@名無史さん:2012/03/19(月) 17:08:36.21
でっていう…
213日本@名無史さん:2012/03/19(月) 21:13:53.27
>>210
帯方郡から馬韓の沿岸沿いに航行して、倭人の北限にある狗邪韓国まで踏破距離が約560`
狗邪韓国から渡海して対馬まで約80`、対馬から壱岐まで約80`
壱岐から松浦まで約70`、松浦から多久まで約40`、多久から佐賀まで約10`
残るのは12000里に足りない距離と、水行20日陸行1か月の記述だけど
佐賀から有明海沿岸で上陸して菊池まで行くと約100`、大体12000里と合致する。
214日本@名無史さん:2012/03/19(月) 21:43:48.27
20日かかるか?波のない有明沿岸で
215日本@名無史さん:2012/03/19(月) 21:46:31.36
潮が引いたら移動とかできなくて暇だから

むつごろうさんいぢって遊ぶんだよな
216卑弥呼の都は久留米:2012/03/19(月) 23:17:48.15
>>213
1000里=80kmとして書き直すと

帯方郡から馬韓の沿岸沿いに航行して、倭人の北限にある狗邪韓国まで踏破距離が約560`
狗邪韓国から渡海して対馬まで約80`、対馬の北辺東辺海岸沿いを64`
対馬から壱岐まで約80`、壱岐の北辺東辺海岸沿いを48`
壱岐から唐津まで約80`、唐津から佐賀惣座まで約40`、
佐賀惣座から吉野ヶ里まで8`
佐賀惣座から佐賀市内まで8`

吉野ヶ里と佐賀市内は女王國の入口国、合計960`、12000里と合致する。
217日本@名無史さん:2012/03/20(火) 00:11:49.27
>>214
距離が1/5だから、水行4日陸行6日ならそんなもんだろう
218日本@名無史さん:2012/03/20(火) 05:57:07.68
距離はものさしがちがうってことで理解できるが
日にちは各国でちがうってことはありえないだろう
219日本@名無史さん:2012/03/20(火) 07:33:49.39
そりゃそうだ。日程の短縮は方角を読み替えるのと同じ暴挙だな。
220日本@名無史さん:2012/03/20(火) 07:49:05.77
>>218
短里は史書の記述でしか使われてない
時間も短日を使ったと考えてもおかしくはないな
1日は4時間48分だ
221卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/20(火) 08:58:59.09
あいかわらず、短里が実在した、あるいは倭人伝は短里で書かれている、
という確実な証拠もないのに、それを基に論を組み立てたり、

帯方郡は遼東に在ったと思われる様々な文献があるのに、
それを無視して、帯方郡はソウルに在った、という通説を鵜呑みにして論じたり、

久留米氏のように、地名を無視して、短里と方角だけで論を組み立てたり…。
いいかげん飽きた。周旋論争の方がまだましだ。
222日本@名無史さん:2012/03/20(火) 10:42:07.32
帯方郡は漢城近辺にあったのが現実だぞ在チョンw
願望は歴史ではない、史実を受け容れような在チョン
223卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/20(火) 12:39:59.34
朝鮮 在列陽東 海北山南 列陽属燕 (山海経。列陽とは遼陽、海とは渤海。)
楽浪郡 故朝鮮国也 在遼東 (後漢書の註)
高句麗は遼東の東千里にあり…丸都の下に都し… (東夷伝。丸都は現在の集安。好太王碑が立っている。)

楽浪は遼東に在り、その東に高句麗があった。高句麗本紀によれば、
後漢の光武帝が楽浪を討伐し、その領土を後漢の郡県とし、このとき薩水以南の地が後漢に属するようになった、とある。
この薩水を学者は清川江と解釈していて、それが通説になっているが、それでは理屈が合わない。
この薩水とは渾河である。

通説を鵜呑みにせず、資料を読んで自分で考えると、
帯方郡は遼東に在り、薩水とは渾河であることが分かる。
224卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/20(火) 12:51:31.81
渾河→渾江に訂正。
225日本@名無史さん:2012/03/20(火) 13:55:15.36
釣れますか?
226日本@名無史さん:2012/03/20(火) 14:01:18.19
>>220
ワロタ
227日本@名無史さん:2012/03/20(火) 14:07:17.94
>>223
楽浪郡 故朝鮮国也 在遼東 (後漢書の註)

「故」とゆうのは 「周代、春秋戦国の頃のことでしたとさ」 とゆうこと

「楽浪郡」ののルーツのことを謂うておるのだよ

歴史的な思考ができないひとはしょうがないよな

周代、春秋戦国の頃の箕氏・姫氏・韓氏がボスのの古朝鮮が

鴨緑江河口域付近にまぶされていたとしても何等不思議とかは無いよ
228日本@名無史さん:2012/03/20(火) 14:18:15.90
>>223
朝鮮 在列陽東 海北山南 列陽属燕 (山海経。列陽とは遼陽、海とは渤海。)


ここのの「朝鮮」は周代、春秋戦国の頃のの箕氏・姫氏・韓氏がボスのの古朝鮮で

鴨緑江河口域付近にまぶされていたののにちがいとかは無いよ


「列陽属燕」のの「燕」は「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」のの「鉅燕」ののことだよ

これはここにある「自尊爲王」(BC323)ののそれだよ

【(魚豢)魏略曰
昔箕子之後朝鮮侯 見周衰
燕 自尊爲王(BC323)欲東略地
朝鮮侯亦自稱爲王
229日本@名無史さん:2012/03/20(火) 14:24:42.11
>>223
高句麗 在遼東之東千里 南與朝鮮 濊貊 東與沃沮 北與夫餘接

ここのは高句麗の四至の表現だわな

在遼東之東千里 (←西側の境界)
南與朝鮮 濊貊
東與沃沮
北與夫餘接

●鮮くんは馬鹿読みとかもうよそうね
230日本@名無史さん:2012/03/20(火) 15:48:45.30
伊作はどうした?
231日本@名無史さん:2012/03/20(火) 15:51:26.73
他人から認められたくて、認められたくて、認められたくて、認められたくて
本出したり、サイト作ったりして
邪馬台国論争に 森村伊作あり と存在証明をして自分の人生を意義あるものに
したかったんだろうがねえ プ
馬鹿だと認められただけで終わりそうだな ゲラ
232卑弥呼の都は久留米:2012/03/20(火) 16:10:16.02
>>221
>久留米氏のように、地名を無視して、短里と方角だけで論を組み立てたり…。

地名は時の権力者によって変更されることが多いから、
地名べったりの論は避けなければならない。
史書に記載された東夷においては、7世紀前半まで、短里が使われていたのは明らか。

方向は物理の法則。方向を90°以上間違えるのは誤読による錯誤以外にありえない。

地勢気象も物理の法則に従う。地勢気象も考察の対象として論を組み立て無ければならない。

潮流は地球物理の法則。潮流を論に組み入れることにより歴史的ルートが解明される。
@対馬海峡の潮流は、魏使のルートに重大な影響を与える。
A有明海の反時計回りの潮流は投馬國の位置を決める。
B大阪湾の時計回りの潮流は、神武の日下への進入敗退路を決めている。
C唐津湾の潮流は、末盧國の津が鏡山の西側古松浦湾にあったことを示している。
Dその他
233日本@名無史さん:2012/03/20(火) 16:23:30.17
●鮮くんは「卑弥呼は韓にもいたかも」 とかにコテかえすればええのに
234日本@名無史さん:2012/03/20(火) 16:29:34.61
倭人伝では短里という尺度が使用されているとのことですが
卑彌呼が献上した「班布二匹二丈」や壹與が献上した「異文雜錦二十匹」
魏帝より下賜された「絳地交龍錦五匹、蒨絳五十匹、紺青五十匹」、
「紺地句文錦三匹、白絹五十匹、五尺刀」
これらも魏の公式尺度の約6分の1ということでしょうか?
それとも倭人伝では2つの尺度が混在しているのでしょうか?
235日本@名無史さん:2012/03/20(火) 16:41:38.28
さあ?短里だけ他の単位から独立して存在してると
考えてるんじゃないか?
短里の根拠としてる天文書にも寸や尺は出て来るが、
それらは通常の長さになってるから。
236日本@名無史さん:2012/03/20(火) 16:48:53.31
尺寸は上肢の下椀部ののをメジャーにしたのだけど

歩里のは下肢の動きのをメジャーにしたのだから

メジャーのの系統がちがうんだよな
237日本@名無史さん:2012/03/20(火) 16:56:54.72
そういや歩も短いから卑弥呼の墓の大きさも
その分小さいって言う人も居たなあ
238日本@名無史さん:2012/03/20(火) 17:08:19.92
>236
歩も里も尺(元々は手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さ、後に公定尺)
の6倍、1800倍でしょ?
239日本@名無史さん:2012/03/20(火) 17:19:30.04
ふむ、松浦までは公定里の1/6程度で記録されているのは
ほぼ確実なわけで、尺や歩が公定単位と同じなら、
どこかで変換係数が変更されているわけだが、
どこで修正されてるんだろうね。

一里360歩が60歩なのか、
一歩6尺が一歩1尺なのか。

このへんの6の倍数の単位に、なにか有りそうな気がするが、
正直、ちっともわからない。
240日本@名無史さん:2012/03/20(火) 17:25:10.02
九州王朝説ってどれくらい信じられてるの?
241日本@名無史さん:2012/03/20(火) 17:31:51.94
>>238
尺のの本義はここらへんあたりだろ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BA%E9%AA%A8
242卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/20(火) 17:36:38.33
>>227-229
何が言いたいのか、さっぱり分らん。まぶされて、とはどういう意味だ?
で、結局お前は楽浪郡や高句麗がどこにあったと言いたいのか。

私は、それらは鴨緑江と長白山脈の北にあったのだろうと言っているのだ。
高句麗はもしかしたら長白山脈の南にもあったかもしれないが、
楽浪郡は鴨緑江の北(おそらく鴨緑江にまでは及んでいない)にあったことは確かだろう。

とにかく、やんわりと人を傷つけるような文を書くのはやめろ。
243日本@名無史さん:2012/03/20(火) 18:19:50.18
結論 歴史的な思考ができないひとはしょうがないよな

BC10世紀頃 鴨緑江河口域付近に古朝鮮の種が播かれて古朝鮮は半島域に枝を伸ばした

BC4世紀頃の蓋國はその拡張された古朝鮮の謂いとすべきです

半島北部西岸の境界線は2つあります

 ○ ひとつは古朝鮮の種が播かれたところ

 ○ あとひとつは拡張された古朝鮮が鉅燕・秦・前漢の燕王廬綰のときにやられて「西界」を失った後の

             浿水, 滿潘汗, 現在の安州市が河口にある清川江のの境界線だすよ

燕王廬綰のからみで衞滿が韓氏を南方に追って正統古朝鮮は終焉だけど

衞滿がやっつける前に韓氏の準に朝鮮藩屏として居ても良いとされたのは「西界」だすよ

その後、浿水のラインをがっつし超えて縄張り張っていた衞滿を(BC108)武帝がやっつけて漢四郡を設置

従ってこのとき発生した楽浪郡は

旧衞滿の縄張りを割って設定された「諸縣」を統べる「郡」だからして

遼東にそれがあったりしたら「楽浪郡」連絡事務所とかってお名前だっただろうさね
244日本@名無史さん:2012/03/20(火) 18:37:00.17
>>223
後漢書群国志
遼西郡秦置。洛陽東北三千三百里。五城,戸万四千一百五十,口八万一千七百一十四。
遼東郡秦置。洛陽東北三千六百里。十一城,戸六万四千一百五十八,口八万一千七百一十四。
楽浪郡武帝置。洛陽東北五千里。十八城,戸六万一千四百九十二,口二十五万七千五十。
遼西郡治の陽楽から遼東郡治の襄平まで約140`、帯方郡の在る漢城周辺まで700〜800`

如何なる正史にも、楽浪郡 故朝鮮国也 在遼東という文は存在しない
在チョンは現実を受け容れような
245卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/20(火) 18:38:38.21
>>227
これは楽浪郡のルーツを述べた文章ではない。
後漢時代の、あるいは後漢書が書かれた時代の、楽浪郡に位置について述べた文章だ。
>>228
お前にいちいち指摘されなくても、山海経の文章だから、古朝鮮について述べたものであることは言うまでもないのだ。
>>229
お前に言われなくても、これが四至の表現であることくらいは分かる。
お前は何が言いたいのだ。この文から、高句麗が遼東の東にあると読むのがなぜ馬鹿読みなのだ。
>>243
だったらそれを文献で証明してみろ。
246卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/20(火) 18:50:47.27
>>244
遼西郡も遼東郡も楽浪郡もすべて洛陽の東北にあるではないか。
だから楽浪郡が韓地にあったはずがないのである。

帯方郡はその楽浪郡の南の数県を分割して帯方郡としたもの。
つまり帯方郡というのは、もとの楽浪郡内の一地域。
だから帯方郡が韓地にあったはずがない。
247日本@名無史さん:2012/03/20(火) 18:54:09.25
>>246
はぁ?当時朝鮮半島は中国の影響下だったのは確実だろ文献資料で?

お前の国の三国史記読んでみろよw
248日本@名無史さん:2012/03/20(火) 18:54:38.72
>>245
>>243のはこれのの要約だすよ

【(魚豢)魏略曰
昔箕子之後朝鮮侯 見周衰
燕 自尊爲王(BC323)欲東略地 朝鮮侯亦自稱爲王
欲興兵逆撃燕 以尊周室
其大夫禮諫之乃止
使禮西説燕 燕 止之不攻
後子孫稍驕虐
燕 乃遣將秦 開攻其西方取地二千餘里
至滿潘汗爲界
朝鮮遂弱 及秦 并天下 使蒙恬築長城到遼東時
朝鮮王否立 畏秦 襲之 略服屬秦 不肯朝會
否死其子準立
二十餘年而陳項起(BC209) 天下亂
燕 齊 趙 民愁苦 稍稍亡往準 準乃置之於西方
及漢以廬綰爲燕王 朝鮮與燕 界於浿水
及(廬)綰反入匈奴 燕人衞滿亡命
爲胡服東度浿水 詣準降
説準求居西界 故中國亡命爲朝鮮藩屏
準信寵之 拜爲博士 賜以圭封之百里 令守西邊
滿誘亡黨 衆稍多
乃詐遣人告準言漢兵十道至求入宿衞 遂還攻準
準與滿戰 不敵也】
249日本@名無史さん:2012/03/20(火) 19:15:59.59


ホリエモンのブログ 元ニート


でググれwwwwwwwwwwwww
こいつのコラム痛すぎwwwwwwwwwwww
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250日本@名無史さん:2012/03/20(火) 19:23:20.49
>>246
漢城も平壌も洛陽より大分北にあるだろ低能。
そもそも楽浪郡や帯方郡は遼西や遼東と地続きなの
洛陽から東北に向かうの、解る?

帯方郡は公孫家が穢貊、馬韓を討ち従えて南へ領土を拡張した後に
楽浪郡から分割されたの。解る?
前漢の支配は半島の大部分に及び南部のみが漢の領土ではなかった。
後漢時代になっても漢城の北部近郊まで楽浪郡が覆っていて
公孫氏が韓族を討ち従えて領土拡大したので広くなり過ぎ帯方郡を置いたの、解る?
251日本@名無史さん:2012/03/20(火) 19:24:48.35
>>250
多分わかってないからスルー汁。
新羅の王脱解王が倭人と書いたら粘着されたりしたから
多分リアルチョソ。
252日本@名無史さん:2012/03/20(火) 19:31:03.83
日本史板にも在チョンは蔓延ってるのかよ‥
世界史板ならまだしも日本史嫌いだろうに
253日本@名無史さん:2012/03/20(火) 19:48:19.22
>>227
楽浪郡 故朝鮮国也 在遼東 (後漢書の註)


だいたいにおいて

『後漢書(續漢書)』郡國志五(幽州刺史部)にこんなのないのね

釣られちゃいましたよw
254日本@名無史さん:2012/03/20(火) 19:51:15.76
倭人ってすごいよな
瓢箪っで日本海を渡るか
255日本@名無史さん:2012/03/20(火) 19:58:11.77
脱解王の生まれたところも近畿説と九州説に分かれてるよね。
多婆那国はどこらへんが有力なのかで邪馬台国の場所も分かりそう。
256卑弥呼の都は久留米:2012/03/20(火) 20:59:52.07
>>236
>>238
尺は、元々は手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さ
歩は、元々は足の踵から爪先までの長さ

故に、尺と歩は全く別の単位体系
尺は、物の長さを測る単位 約18cm
歩は、地面の長さを測る単位 約23cm
257日本@名無史さん:2012/03/20(火) 21:13:58.36
上古音だと多(タ、ター、クァー、タツ)婆(パー)那(ナー)国
中古音だと多(タ)婆(プァ)那(ナ)国
思い当たる国がまったく無い‥風速国?
258卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/20(火) 21:31:04.16
>>248
原文を上げてくれても読む気がしない。ポイントは浿水か。
浿水の比定は諸説あるので何とも言い難い。

しかし俾彌孤は、やはり他の奴らよりは、少しはましかな。

>>247-253
文章を見ただけでどの程度の人間か分かる。
伊作や夢幻の方がはるかにまし。
伊作や夢幻は決してこういう文章は書かない。
259日本@名無史さん:2012/03/20(火) 21:43:01.88
>>257
吉野ヶ里遺跡にもほど近い、福岡県八女市立花町というところがあります。
多婆那国都は八女市。スバり来ましたね。
260日本@名無史さん:2012/03/20(火) 21:54:08.21
>>258
ほんとうは樂浪郡初元四年(117)の縣別の戸数口数が列挙された木簡が出てるんだよ

見てみるかい?

http://www.geocities.jp/pikupopodemi/rekisi/ronbun/rakurou.htm
http://www.donga.com/photo/news/200904/200904130136.jpg
261日本@名無史さん:2012/03/20(火) 22:11:21.38
>>259
南西に80`行くと大村諫早ら辺に出るねw
262日本@名無史さん:2012/03/20(火) 23:31:26.26
>倭人伝は短里で書かれている、という確実な証拠もないのに、
韓は方四千里、対馬国は方四百里、一支国は方三百里。短里で書かれているという
確実な証拠だろう。
263日本@名無史さん:2012/03/20(火) 23:40:51.58
んだな。
264日本@名無史さん:2012/03/20(火) 23:43:38.08
>>262
対馬国と一支国の面積比がおかしいです
265日本@名無史さん:2012/03/20(火) 23:56:17.00
韓国:98480平方キロ:方四千里=16000000平方里=94864平方キロ
対馬:708.5平方キロ:方四百里=160000平方里=948.64平方キロ
壱岐:133.8平方キロ:方三百里=90000平方里=533.61平方キロ


韓国と対馬は短里でいい具合。
対馬はかなり誤差が大きいな。
つっても、公里だともっととんでもないことになるけど。
266日本@名無史さん:2012/03/20(火) 23:57:04.70
>対馬はかなり誤差が大きいな

「壱岐」の間違い。
267卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/20(火) 23:58:35.13
>>260
途中まで読んだ。実に有益な考察だ。残りは明日にでも読むつもりだが、私が思うに、
浿水は大凌河、列水は遼河、帯水は太子河か渾河だろう。すべて現在の遼寧省の河川だ。

前漢地理誌に、楽浪郡浿水とあり、
地理誌遼東郡の註に、王険城 在楽浪郡浿水之東、とあり、
史記朝鮮列伝の註に、浿水 出遼東塞外 西南至楽浪県 西入海、とある。

要するに浿水は楽浪郡にあり、楽浪郡は遼東に在ったわけである。
268日本@名無史さん:2012/03/21(水) 00:00:46.83
当の中国人が短里なんか無いって言ってるから無いのだろうな
269日本@名無史さん:2012/03/21(水) 00:29:07.95
>>264
おかしくないと思うが。どうして?
270日本@名無史さん:2012/03/21(水) 00:31:41.08
短里なんて物は無く、通常の里の約6倍で書かれたという事だと思うよ
何故6倍で書いたかは分からないけど
271日本@名無史さん:2012/03/21(水) 00:43:13.67
邪馬台国が大和政権と関係ないとすると九州はないんじゃないかな?
大和政権が元々九州から伸し上った勢力でしょ?
九州近辺に邪馬台国あったら知ってると思うんだよね。

だから当時大和政権と関係なかった本州の勢力が邪馬台国なんじゃないかな。
272日本@名無史さん:2012/03/21(水) 00:57:04.56
>>268
短里なんて無いが、史書に描かれる東夷の記述で
伝統的に1/5〜1/6の縮尺が使われたのも事実だしまあ

>>267
漢書地理志に「王険城」という単語は一度も出て来ない。捏造するなよ在チョン
楽浪郡の条に浿水が出て来るが西流して海に入るとしかない。捏造するなよ在チョン
史記朝鮮列伝に、浿水出遼東塞外西南至楽浪県西入海という記述は無い。捏造するなよ在チョン

加えて、王献上は平城に比定されてるのだから
王険城が遼東郡と楽浪郡の郡境を流れる浿水之東に在ったのは当然
273日本@名無史さん:2012/03/21(水) 02:12:54.65
東夷の記述と言っても倭、韓だけですからね
正確性にも欠けるし、全ての里数を1/5〜1/6の縮尺とするのはちょっと安易ですね
274日本@名無史さん:2012/03/21(水) 06:17:15.15
>短里なんて無いが、史書に描かれる東夷の記述で
>伝統的に1/5〜1/6の縮尺が使われたのも事実だしまあ
「1/5〜1/6の縮尺が使われたのも事実」。そのことを指して短里と呼んでるだけだよ。
魏で2種類の里が使われていたのか、東夷だけで中国とは別の里が使われていたのか
そんなことはどうでもいいことだ。

>東夷の記述と言っても倭、韓だけですからね
高句麗や沃沮も短里で書かれているようだね。

275日本@名無史さん:2012/03/21(水) 06:35:44.43
「事実」と「思い込み」の区別はつけような
276日本@名無史さん:2012/03/21(水) 07:27:38.80
事実とは、集団思い込みのことである。
以上。
277日本@名無史さん:2012/03/21(水) 08:34:40.23
だから朝鮮人は嘘をつく
278日本@名無史さん:2012/03/21(水) 08:59:51.79
ゲスは邪魔
279日本@名無史さん:2012/03/21(水) 09:18:40.84
東夷伝中のごく一部の里数が5倍〜6倍になっていることが確認できるというだけでしょう
一定の縮尺が使われていることは確認できません

280卑弥呼の都は久留米:2012/03/21(水) 09:58:37.11
>>268
>当の中国人が短里なんか無いって言ってるから無いのだろうな
>>272
>短里なんて無いが、史書に描かれる東夷の記述で
>伝統的に1/5〜1/6の縮尺が使われたのも事実だしまあ

現代中国人は、7世紀以前のシナ人にとっては、何処の馬の骨か判らぬ奴。
7世紀以前のシナ人≠現代中国人=馬の骨野蛮人

紀元前11世紀に、短里が使われていたのは、周髀算経により明らか。
(周髀算経の原著は紀元前11世紀に成立)

根拠資料(漢文に弱く、自然科学に弱いと理解不能かも)
➀「正極之所游,冬至日加酉之時,立八尺表,以繩繫表顛,希望北極中大星,
 引繩致地而識之。又到旦,明日加卯之時,復引繩希望之,首及繩致地而識其端,
 相去二尺三寸。故東西極二萬三千里,其兩端相去正東西。中折之以指表,
 正南北。加此時者,皆以漏揆度之。此東、西、南、北之時。其繩致地所識,
 去表丈三寸,故天之中去周十萬三千里。」
➁地球自転軸の歳差運動(紀元前11世紀には、天の北極と北極星のなす角度は5°)
281卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/21(水) 10:56:13.85
>>260
このサイトの著者の考察はすばらしい。ただ、「2考古学的な比定地の考察」以下はすべて間違っている。
これを読むと、楽浪とは河北省を遼寧省を含む地域で、帯方郡は列水(遼河)以南の地域だったことが分かる。

浿水出楽浪鏤方東入海(説文解字)
浿水出楽浪鏤方縣 東南過臨浿縣 東入於海(水経注)  

この記事から考えると浿水は灤河としか考えられないが、

漢興、為其遠難守、復修遼東故塞、至浿水為界、屬燕。(史記朝鮮列伝)

によれば長城の外にあるのだから大凌河である。

列水が遼河であることは

列、水名。列水在遼東(郭璞注山海經)

からほぼ明らか。

楽浪が河北省であることは、

樂浪遂城縣有碣石山、長城所起 (史記夏本紀に引く太康地理志)

から明らかである。碣石山が山海関の近くにあったことは考古学的に明らかになっているらしい。
282卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/21(水) 12:36:29.97
高句麗本紀を読んでいるのだが、面白い記事を見つけた。146年秋8月に、

王が将軍を派遣し、後漢の遼東西安平県を襲撃し、帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を奪いとった、とある。

これを見ても帯方や楽浪というのが遼東の地名であることは明白ではないのか。

尚、72年に藻那国を、74年に朱那国を討伐した、という記事がある。
〜那国というのは倭人伝の〜奴国というのに音の上で似ている。
283卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/21(水) 17:04:36.36
高句麗本紀にまた面白い記事を見つけた。385年に高句麗は遼東を襲撃するのだが、

これより前に、燕王の垂が、帯方王の慕容佐に龍城を守らせていた。

とある。これを見ても、帯方というのが遼東の地名であることが分かる。

また百済本紀には靺鞨が北から侵入したという記事が頻繁に見られる。
通説のように楽浪郡や帯方郡が百済の北に置かれていたのなら、
靺鞨は、楽浪や帯方に無断でその領土内をズカズカと通り、百済に侵入したのだろうか。
284卑弥呼の都は久留米:2012/03/21(水) 19:38:57.18
>>283 to 卑弥呼は朝鮮にいた

三國史記を鵜呑みにするなよ。
特に年代について。
三國史記は日本書紀と同類。


285日本@名無史さん:2012/03/21(水) 19:58:03.25
>>280
周髀算経が書かれたのは前漢時代。
中国で最も古い具体的な天体運行の記録は紀元前6世紀のもの。
>>281
史記にも漢書にも大遼河の記述はある、漢魏時代の浿水は鴨緑江。
長城は平壌近郊まで続いていたことが発掘調査で判っている。
楽浪郡は北朝鮮から南韓にかけての地域に在った郡。
>>283
前燕は高句麗を属国にしていたのだから、帯方王を名乗っても何ら不思議無い。
後燕の武帝は呉王だったが常山を守備していた、つまり常山は江南に在ったのだ。はいはい
靺鞨には北の蛮夷という字義(玉篇参照)がある、高句麗や中国では本来の靺鞨の意味で使ったが
百済や新羅では穢貊を指して靺鞨と使っていた。百済本紀の靺鞨はあらゆる穢貊系集団を指す。
286卑弥呼の都は久留米:2012/03/21(水) 21:40:19.68
>>285
>周髀算経が書かれたのは前漢時代。
>中国で最も古い具体的な天体運行の記録は紀元前6世紀のもの。

周髀算経の元になったものが書かれたのが紀元前11世紀。

➀の文の内容。
「希望北極中大星」の大星は北極星のこと。
北極星は、天の北極点(北極樞)の周りを直径10°こ角度で回転していると書いてある。
即ち、天の北極点(北極樞)と北極星(大星)のなす角度が5°と書いてあるのです。

➀の文の書き出しは「欲知北極樞」とあり、北極樞(天の北極点)の求め方を書いた文なのです。

➁の文の意味
地球自転軸の歳差運動により、天の北極点と北極星が為す角度が5°であったのは紀元前11世紀だった。
・・・現在の天文学では既知の事実・・・

➀と➁から周髀算経の原資料が書かれたのは紀元前11世紀だったことは間違いありません。
  ➀から立体的な幾何で5°が求められます。
➁紀元前11世紀の北極点の天球上の位置と北極星が小熊座β星であったことは調べれば判ります。
(現在の北極星は小熊座α星)

周髀算経として編纂された(書かれたのではない)のが前漢初頭と一般的に言われています。
287日本@名無史さん:2012/03/21(水) 21:55:22.84
東夷伝の里数の縮尺とは関係ないんじゃないの?
288日本@名無史さん:2012/03/21(水) 21:55:46.13
いや、だからさ。もし九州にあったならもっと有名になってるはずでしょ、
場所がわからなくなるなんて事ないんじゃないかな?

当時の九州は日本で一番人が居たであろうところで、そんなところに
中国に貢物できるような大国があったのならば、ちゃんと日本書記とかに出てきてるでしょ。
289日本@名無史さん:2012/03/21(水) 22:05:17.59
>>276本質を突いてますね。
290日本@名無史さん:2012/03/21(水) 22:12:39.15
>>285
---------------------------------------
「遼山」→「遼水」→「安市」 -- 「西安平」「北安平」
「遼」
「遼隊」(遼陽)←→「遼陰」
「遼西」←→「遼東」
「大遼水」←→「小遼水」「小水」「蘇水?」 -- 「小水貊」
---------------------------------------
「西界」「西方」「西邊」
---------------------------------------
「浿水」→「搨n」「樂鮮亭」
                遂城(遂成) 【秦築長城之所起】
---------------------------------------
「分黎山」→「呑列 」→「列水」→「列口」&「黏蝉」
「帶水」→「帶方」      「朝鮮縣-屯有縣-帶方縣」(43%)
---------------------------------------
291日本@名無史さん:2012/03/21(水) 22:14:11.06
対馬は南北に82kmの縦長の島だから、着けた港によって狗邪韓國〜對馬國と對馬國〜一大國の
の距離にかなり幅がでるしね
292日本@名無史さん:2012/03/21(水) 22:16:27.37
景行、成務、仲哀の天皇と神功皇后は、
実際には4世紀前後の九州の人だろうね。

九州以外で仕事をした形跡がない。
九州での事跡での、神社の創建などは
4世紀から5世紀とされるものが多い。
293卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/21(水) 22:26:47.34
>>285
呑列 分黎山、列水所出西至黏蟬入海行八百二十里
列口 郭璞注山海經曰:列 水名 列水在遼東

楽浪郡の内の二県が列水(遼河)の近辺にあるのだから、楽浪郡が遼東に在ったのは明らか。
碣石山は山海関の近くにあったのだから、長城所起の長城は平壌近郊まで続いていた長城ではない。
遼東を襲撃したときに帯方王に守らせていた。遼東と帯方が関係あると解釈するのが普通。
仮に穢貊が靺鞨であったとしても、ズカズカと帯方郡を無断で通過したのだろうか。

東夷伝には公孫康が帯方郡を置き、その後倭韓が帯方に属した、とあるが、
帯方郡が設置された204年から公孫氏滅亡の238年までの間に、
新羅本紀にも百済本紀にも高句麗本紀にも、楽浪郡や帯方郡の記事は一切無く、
韓が帯方に属したというような形跡はまったくない。
294日本@名無史さん:2012/03/21(水) 22:27:25.41
邪馬台国が大和朝廷になったんなら。もっと堂々と記紀に残ってるはずでしょ。
295日本@名無史さん:2012/03/21(水) 22:40:24.75
唐に敗戦した後に、日本がかつて中国に朝貢して蔑字で正史に記録されてるような内容はそのまま記紀には書かないだろう。
296日本@名無史さん:2012/03/21(水) 22:49:47.05
>>294

そのとおり、
従って、大和朝廷と邪馬台国は繋がっていないと考えるのが正しい。
297日本@名無史さん:2012/03/21(水) 22:55:23.55
金印も、記紀には一切書かれていない。
8世紀に記紀が編纂された時点では、
大和朝廷に金印の伝承は残っていなかったと見るべき。

その理由は、繋がっていない別の政権だったから、
というのがひとつの候補になる。
298日本@名無史さん:2012/03/21(水) 23:08:26.73
ここは九州説を語るスレだろう?
瞬殺されるような万年ネタで他説を誹謗するくらしか書くことは無いのかw
299日本@名無史さん:2012/03/21(水) 23:09:56.27
中国の天子の臣下として玉の下のクラスの金印をありがたく頂戴しましたと
正史に記述する国ってあるんだろうか…
300日本@名無史さん:2012/03/21(水) 23:14:04.67
>>293
列水とは大同江のこと、楽浪郡に流れてるのは当然
何の根拠も無く遼河認定とは妄想も甚だしい、酷い在チョン症だな。

中国北方に在った長城は平壌近郊まで続いていた長城と同一の物
おまえの妄想は現実から大きく乖離している、現実を受け容れろ。

百済と新羅が建国する数世紀も前の出来事なのだから記録が残っている筈もない。
高句麗の記述が無い?現実から眼を背けるな。高句麗はカン丘倹により首都を二度落とされ
全土を蹂躙されて宗廟を暴かれ、高句麗王が国外へ逃亡した話が載っている。
楽浪帯方の記録が無い?両郡の太守が兵を起こして反乱した韓族を滅ぼした記録が残っている。
301日本@名無史さん:2012/03/21(水) 23:14:11.56
石っころとか珍しくもないしねぴかぴかのがええのよ
302日本@名無史さん:2012/03/21(水) 23:15:52.46
宮内庁が蓋してる南九州掘ってみろや。何故そんなとこまで出しゃばって来てんだ抜け作がw
303雷鳥:2012/03/21(水) 23:21:54.27
アク禁でしばらく書き込めなかった。

>>280 :卑弥呼の都は久留米

【魏略曰、昔箕子之後朝鮮侯、見周衰、燕自尊爲王欲東略地、朝鮮侯亦自稱爲王、欲興兵逆撃燕以尊周室。・・・・
箕子朝鮮については実在を疑う向きもあるようですが、
箕子は周の時代に朝鮮半島北部(漢時代の楽浪郡の辺り)に入って建国したので、度量衡は周のものを用いた
と推定されますね。子孫が衛氏に国を奪われてからは半島南部の韓に逃げてそこで王になったので韓でも周の
度量衡を用いたと推定されますね。
衛氏朝鮮も箕子朝鮮の度量衡を引き継いでいた可能性が大ですね。従前の度量衡を変えるのは大変面倒ですから。
衛氏朝鮮が漢に滅ぼされて楽浪郡等が置かれてからも度量衡はそのまま引き継がれた可能性も大ですね。
後漢時の公孫氏支配時代も度量衡はそのまま引き継がれた可能性が大ですね。
魏の支配下に入っても度量衡の変更はなかったでしょうね。変えるのは大変面倒ですから。

というわけで、帯方郡では周の里(1里約70m)を使って事務を行っていたのかも知れませんね。
304日本@名無史さん:2012/03/21(水) 23:37:57.99
九州王朝と畿内王権は、互いに別々にやってたってことやね。
305卑弥呼の都は久留米:2012/03/21(水) 23:44:13.83
>>303
周髀算経のデータから計算した場合は、
1里≒76m

魏志から隋書までの東夷伝のデータから計算した場合は、
1里≒70m
306日本@名無史さん:2012/03/22(木) 00:03:29.15
周髀算経は天文書で、実際に地上の測量で使用された形跡が無い。
各東夷伝の地理情報は魏志倭人伝のコピペの部分が多いからほとんど意味ないし。

229年、西域から正真正銘の大帝国である大月氏国の使者が来て
「親魏大月氏王」に任じたのにのに何故か西域伝が無い。
曹氏と司馬氏の争いのある部分じゃ、魏志は中立の立場じゃ書かれていないのだろう。
307日本@名無史さん:2012/03/22(木) 00:48:28.17
>>306
>周髀算経は天文書で、実際に地上の測量で使用された形跡が無い。

読んだことないのですか?
それとも馬鹿ですか?
308卑弥呼の都は久留米:2012/03/22(木) 00:51:49.44
>>306
>周髀算経は天文書で、実際に地上の測量で使用された形跡が無い。

北極樞(天の北極)の測定は、実際の地上の測量です。
1里≒76mも、実際の地上の測量です。


>各東夷伝の地理情報は魏志倭人伝のコピペの部分が多いからほとんど意味ないし。

隋書等は魏志倭人伝のコピペではありません。

>「親魏大月氏王」に任じたのにのに何故か西域伝が無い。
>曹氏と司馬氏の争いのある部分じゃ、魏志は中立の立場じゃ書かれていないのだろう。

魏晋朝に都合の悪いことがあったので、省略したのでしょう。
魏晋朝の利害の立場から中立で書けなかったのでしょう。
309日本@名無史さん:2012/03/22(木) 01:36:33.31
>>307-308
古代中国人の思考実験に過ぎないと思うぜ。
なにせ一例しか挙げられてないし、
計算に出てくる数値は1寸、1里、百里。
普通に考えリャあまりに作為的だろ。
310日本@名無史さん:2012/03/22(木) 02:37:00.25
どっちかというと、「定義」かな。
赤道から北極までの1/10000を1kmとする。
といったように、

南中時の影の長さが一寸変化する南北方向の距離を、
千里とする、というように。
311日本@名無史さん:2012/03/22(木) 06:39:22.10
>>310
普通に読めば、100里行ったところで測量した結果、
影の長さがが1寸違うよって話で、定義とは思ええないけどな。
312日本@名無史さん:2012/03/22(木) 08:43:51.15
わざわざ測量の技術者を連れてきたり指南車を持ってきたとも思えないし
倭国に至るまでの距離なんて目分量だろう

そして中華とは違って街道の整っていない地域では回り道や獣道を通るわけで必然的に距離は長くなる
それで五倍以上もの差ができるかは分からんけど、相当な違いが出てきてしかるべきだと思う
313日本@名無史さん:2012/03/22(木) 09:23:02.19
街道の繋がっていない南蛮・西南夷や南海諸国の距離は概ね正確
日本を含めた東夷地域のみがほぼ正確に5倍換算で記述されてる

それと商代の1尺は17cm弱で後代と比べかなり短いから短里とは違う気がする
314日本@名無史さん:2012/03/22(木) 09:26:10.28
渡海や水行で倍、あるいは半分になるくらいなら、
ある程度許容できなくもないが、
5倍、6倍となると、個人的には許容しにくいなあ。

あくまでも個人的にだけどねえ。
315日本@名無史さん:2012/03/22(木) 09:53:10.04
実測なら周代の天文書で使われた里など使用するはずがないし、伝聞によって元資料が作られたとしても
韓の大きさが実際より極端に大きくなることは当然司馬懿にはわかる
316須磨虎:2012/03/22(木) 09:54:39.50
>>234
>「班布二匹二丈」「異文雜錦二十匹」 「絳地交龍錦五匹、蒨絳五十匹、紺青五十匹」、
>「紺地句文錦三匹、白絹五十匹、五尺刀」 これらも魏の公式尺度の約6分の1ということでしょうか?
違う。これは皇帝の詔書中の文言であって、『倭人伝』が書いた尺度ではない。
正しい「考え方、整理の仕方」が、正しい分別を可能にするものだ。

>>270
>短里なんて物は無く、通常の里の約6倍で書かれたという事だと思うよ
その通り。「短里」という造語を使った時点で眉唾ものになる。

>何故6倍で書いたかは分からないけど
天災の計算ではこうなる。
司馬懿軍の洛陽から遼東までの行軍距離4000里と、
『後漢書』郡国志のいう洛陽から遼東ま3600里を勘案すると、6倍〜6.5倍になる。
単に6倍と仮定すれば、50歩が1里という計算になる。(300歩1里の6分の1)
魏の公式尺度で50歩は72メートル。
(『倭人伝』の1里は72メートル。卑弥呼の墓の径100歩は24メートル)

天才は、これを短里とはいわない。事実から割り出した事実だ。
317須磨虎:2012/03/22(木) 09:57:13.64
それにしても、天才のいう6倍〜6.5倍説がコンセンサスを得て
定着してきたようだな。いいことだ。

なにしろ事実だから・どうしょもない。
318日本@名無史さん:2012/03/22(木) 10:20:44.84
誇張だね
319卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/22(木) 10:41:45.44
>>300
何の根拠もなく、そんな通説を述べられても困るのである。
私はちゃんと根拠を出している。

列、水名。列水在遼東(郭璞注山海經)
樂浪遂城縣有碣石山、長城所起 (史記夏本紀に引く太康地理志)
碣石山が山海関の近くにあったことは考古学的に明らかになっているらしい。

それと私は、高句麗の記述が無い、などとはどこにも書いていない。
また、三国史記には、帯方郡が設置された204年から公孫氏滅亡の238年までの間に、
楽浪郡や帯方郡の記事は一切無く、 韓が帯方に属したというような形跡はまったくない、と書いたまでだ。
他の史書の記録について述べたのではない。

一つ聞きたいことがあるが、古い時代の長城が平壌まで続いていたという文献資料はあるのか?
また発掘されたそれが長城であるという証拠はあるのか?
敵の襲来を防ぐために築かれた城壁が地下に埋もれるなんてことがあるのか?
現実に万里の長城は埋もれもせずにちゃんと残っているわけだが。

とにかく根拠も出さずに、楽浪郡も帯方郡も韓半島にあったのだと強弁するのはやめてもらいたい。
320日本@名無史さん:2012/03/22(木) 11:07:22.55
今の長城は明代のものだよ
321日本@名無史さん:2012/03/22(木) 11:13:08.67
周髀算経の一里が77m程度。

公里435mとすると、435/77≒5.65

陳寿さんが机上で扱いやすい換算値を使用しているとすれば、
6倍換算、あるいは1/6換算かな。
322卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/22(木) 11:33:03.65
新羅本紀による楽浪郡・帯方郡関係記事

前28 楽浪の軍隊が侵入しようとした。
36 楽浪の軍隊が侵入。
37 高句麗が楽浪を攻め滅ぼした。
40 華麗、不耐の二県が侵入しようとしたが貊国が打ち破ってくれた。

たったこれだけ。しかもこの楽浪は楽浪国であって、楽浪郡ではない。

百済本紀による楽浪郡・帯方郡関係記事

前15 使者を楽浪に派遣、国交を開かせた。
前11 楽浪と和親を失う。
前8 楽浪は靺鞨に瓶山柵を襲撃させた。
前6 王「わが国は東に楽浪があり、北に靺鞨がいて…」云々
前2 楽浪が侵入してきた。
前1 楽浪の牛頭山城を襲撃しようとしたが、大雪のために引き返した。
246 魏の毌丘倹が楽浪太守・劉茂、朔方太守王遵らと高句麗を討伐した。王はその隙に乗じて楽浪の辺境の住民を略奪させた。
286頃 高句麗が帯方を討とうとしたので、帯方がわが国に救援を要請してきた。出兵して救った。
304 楽浪の西部の県を襲い奪った。王が楽浪太守が派遣した刺客によって殺害された。

これだけ。紀元前の記事は楽浪国であって楽浪郡ではない。
紀元後も、百済が楽浪郡や帯方郡の支配下に入ったというような記事はない。
323卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/22(木) 11:38:04.85
286頃 高句麗が帯方を討とうとしたので、帯方がわが国に救援を要請してきた。出兵して救った。

この記事も、王が帯方の王女を夫人としていたため要請に従ったもので、
百済が帯方の支配下に入っていたためではない。
324卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/22(木) 15:51:48.03
高句麗本紀による楽浪郡・帯方郡関係記事

37 高句麗が楽浪を攻め滅ぼした。
44 光武帝が楽浪を討伐し、郡県とした。
47 蚕友部落の一万余家が楽浪に来て後漢に投降した。
146 遼東を襲撃し、帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を奪った。
246 毌丘倹が玄菟から出発し侵入してきた。倹は丸都城を攻め落とし、将軍王頎に王を追撃させた。
    紐由が魏の将軍を殺し、魏軍は楽浪から撤退した。
313 楽浪郡に侵入し、男女二千余人を捕虜とした。
314 南に帯方郡を侵略した。
355 燕王が(高句麗?)王を征東大将軍・営州刺史・楽浪公に封じた。
385 遼東を襲撃した。燕王が帯方王の慕容佐に龍城を守らせていた。佐は司馬郝景に救援させたが、
    わが軍はこれを撃破し、ついに遼東・玄菟二郡を陥落させ、男女一万人を捕虜にして帰国した。

これだけ。南に帯方郡を侵略した、とあるが、原文が分らないので何とも言えない。
また百済本紀に「わが国は東に楽浪があり…」という意味不明な文があるので、
三国史記の方角記事には全幅の信頼を置くことはできない。
325雷鳥:2012/03/22(木) 17:44:16.44
>>321
>周髀算経の一里が77m程度。
>公里435mとすると、435/77≒5.65
>陳寿さんが机上で扱いやすい換算値を使用しているとすれば、
>6倍換算、あるいは1/6換算かな。

陳寿は換算などしていないでしょう。魏使の報告関連の資料にあった里数をそのまま書いたのでしょう。
梯儁は帯方郡太守の弓遵が倭国に遣わした使者です。この梯儁に従った吏官や武官や案内人などは韓や倭国についての
知識のある現地人(帯方郡や韓に居住する者)が大半だったでしょう。
とすれば帯方郡や韓の地で使われていた周の里で報告書が書かれた可能性が高いでしょう。
帯方郡から狗邪韓国までの距離七千餘里は魏使が初めて測ったものではなく既に知られていたものでしょう。
狗邪韓国から末盧国までの渡海距離も既に知られていた(半島と九州を行き来する人々の長年の経験から割り出した)もの
でしょう。
倭国内では陸路は歩測したのでしょう。普通の成人男子の歩幅は約70cmですから100歩で1里ですね。楽な測り方ですね。


326笑っ虎:2012/03/22(木) 18:24:04.86
>>325
>普通の成人男子の歩幅は約70cmですから100歩で1里ですね。

「里」という距離数値を成人男子の歩幅の数で計ったというわけか。
はつ耳だな。
327日本@名無史さん:2012/03/22(木) 19:11:29.15
じゃあ、どうやって測ったの?
328日本@名無史さん:2012/03/22(木) 19:30:45.48
一歩 25.7cm で歩むと  300歩=1里 だから  1里は 77.0m になります。

一歩 25.5cm で歩むと  300歩=1里 だから  1里は 76.5m になります。

一歩 25.0cm で歩むと  300歩=1里 だから  1里は 75.0m になります。

身体尺とゆうやつですねえ。


「周里」は身体尺としてまともな数値ののでしたから

東夷の業界で常用されていたのかともおもはれる「周里」カウントののを

むだに尺度統一企画とかしてできた「虚里」とかに差し替えるには

さすがに気が引けたんだとはおもっふがね
329日本@名無史さん:2012/03/22(木) 19:41:20.36
ふつうのひとがふつうの歩み方をして歩んで歩数カウントしたら

誤差とか一割くらいで収まったりするかなあとはおもふがね。 

ふつうでないひととかならそれなりののおないほせいとかするだろうしね。
330日本@名無史さん:2012/03/22(木) 20:03:22.55
>>325

そういえば、ちょっと思い出したのだが、
周代の田制は、十歩×十歩=百歩で一畝、
十畝×十畝=百畝を一項とする。というのを読んだことがある。

今はちょっと忙しいので、あとで探してみる。
331日本@名無史さん:2012/03/22(木) 20:10:10.35
332日本@名無史さん:2012/03/22(木) 20:36:58.81
     _______                     __
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   \ヽ、   |l | |    | | | |    | |  ``( (.  .| | | | ~~
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テレビが言えない民主党のスポンサー=韓国北朝鮮
あとはもうわかるよな

333日本@名無史さん:2012/03/22(木) 21:24:34.89
>>319
事実に基づく根拠ではなく願望の生み出した空想な。

山海経にも郭璞の注にも列水の名は出て来ない
よって(郭璞注山海經)という論拠自体がウソ。

まず碣石とは碑石のことで、各地に碣石山がある。
山海関近隣にある碣石山は遼西郡内で長城の内側に在るため
遼東の西に楽浪郡と遼西郡があることになり数多の文献と矛盾する
よってこの碣石山を指す可能性は消える。

碣石山は高麗つまり高句麗にある。長城は今も残っている。遂城県は平壌の南である。とある
よって、この碣石山とは平壌近郊にある碣石だと解る。
晋書地理志:秦長城起楽浪遂城県。←史記の注釈に際して使われた太康地理志のこと
資治通鑑:杜佑以為此碣石在高麗中。佑曰、碣石山,在漢楽浪郡遂城県,秦長城起于此山。
       今験長城東截遼水而入高麗,遣址猶存。
地理韵編今翻:遂城在今朝鮮平壤南。
文献以外にも、平壌近郊で発見されてる長城は分析の結果2000年以上前の建造と断定されている。
334日本@名無史さん:2012/03/22(木) 21:27:36.38
>>319
帯方郡は晋の滅亡まで置かれていた。
三国志東夷伝に韓族が帯方郡へ朝貢していた記録がある
また反乱を起こしたものの討ち滅ぼされたという記録も残る。
これが形跡でないのなら、一体何なのか。非常に理解に苦しむ
335竹斯の民:2012/03/22(木) 21:49:27.87
質問です、どなたかご回答願います。

@大宰府関連で、関谷・とうれぎ土塁に関する情報
 一部では築造の方向(敵を意識した)が「北」というものがありますが、
 詳しい方の回答を願います。

A大宰府関連で、竹内焼土層に関する情報
 学習院大学のC14測定によれば焼土層の測定は1600年前(5世紀)
 ということですが、詳しい方の回答を願います。
336雷鳥:2012/03/22(木) 22:11:17.23
>>328
>「周里」は身体尺としてまともな数値ののでしたから

普通の成人男子の歩幅がほぼ3尺ということで、(現代日本での歩数の数え方での)100歩が1里というわけです。
多少の誤差はあるでしょうが、極めて簡単で迅速に行える距離測定法ですね。初めての土地での距離測定としては
これで十分でしょう。
337卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/22(木) 22:15:41.47
>>333については後でゆっくり考えるとして、百済王の、
「わが国は東に楽浪があり、北に靺鞨がいて…」云々が気になったので調べてみると驚くべき情報を得た。
なんと百済は遼西にあったという文献資料があるのだ。

『宋書』巻97 列伝57 夷蛮 東夷 百済国「百済略有遼西。百済所治、謂之晋平郡晋平県」
『梁書』巻54 列伝48 諸夷 東夷 百済「晋世句驪既略有遼東、百済亦拠有遼西・晋平二郡地矣、自置百済郡」
『南史』巻79 列伝69 夷貊 東夷 百済「晋世句驪既略有遼東、百済亦拠有遼西・晋平二郡地矣、自置百済郡」
『通典』「百済、又、拠って遼西・晋平二郡を置く、今の柳城・北平の間なり…」(柳城というのは龍城で、今の朝陽だそうである。)

これらの資料は晋代に高句麗は遼東も領土にしていたことを示している。
とすれば高麗の時代もそうだったかもしれない。とすれば、
今験長城東截遼水而入高麗,遣址猶存。
は、長城は遼河を横切って高麗(遼東)に入っている、とも読めるわけである。
大体、千山山脈や鴨緑江を越えて平壌にまで続いていたというのは非現実的である。
338日本@名無史さん:2012/03/22(木) 22:19:27.73
>>208
そもそも推定年代が意図的に機内よりになっているとしたらどうなんだろうか?
巻向もだが最近機内を邪馬台国にしようという機運を感じます。

大隅でも王子遺跡、その他と総合的に考察すると面白いんだけど。
339卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/22(木) 22:29:21.66
列水はどこにあったか。

「朝鮮に湿水、洌水、汕水あり、三水合して洌水となる」 (「史記三注本」の『史記集解』)
「列は水の名、列水は遼東にあり」(『後漢書郡国志』)『資治通鑑』の「漢記」
「列口、県名なり、列水の河口は遼東にあり」(『資治通鑑』の「漢記」)

これから、遼東方面を見ると、三水合して「洌水となる」河は「太子河」であり、合流するのが「遼河と「渾河」であることがわかる。
尚、「漢書地理志」に列水の記載あり、起点や全長なども太子河に合致するそうである。
340日本@名無史さん:2012/03/22(木) 22:53:00.04
>>335
そもそも「竹内焼土層」なんて存在していない
学習院が公開しているデータを遡って見てみればいい

入力を誤った学習院にも非があるが、
どこにあるのか、どんな性格の土層であるのかの確認をせず、
分析対象が適切であるのかの検討もしないで
ただ自分たちに都合がいいというだけで採用してしまうのが
九州王朝説のクオリティだということがよく分かる事例だ
341日本@名無史さん:2012/03/22(木) 23:09:49.61
>>337
宋、梁、南史の書名から解る通り、晋というのは東晋のことで、高麗というのは高句麗の自称。

長白山付近はなだらかで低い山塊だし、実際に長城は燕山山脈や遼河を横断している。

長城が遼河を横切って高句麗に入っている時点で、太康地理志の「楽浪遂城県有碣石山
、長城所起」に出て来る碣石山は、山海関付近にある遼西郡の碣石山ではなくなる。

東晋の時代に華北へ流入したモンゴル系の諸燕や諸魏は、朝鮮半島には興味が無く
高句麗を属国とするだけで満足していて、高句麗は前燕等から遼東半島の領有を許されているが
遼西は平原に恵まれ有史以前から度々遊牧民が占拠した地域で、高句麗が領有した時期は無い。

>>339
遼東郡は大同江西岸まで広がっていたから、大同江である列水が遼東にあるのは何ら不思議無い。
太子河の古称は大梁河。
342卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/22(木) 23:22:33.14
『周書』百済伝 
百済者、其先蓋馬韓之属国、夫余之別種。有仇台者、始国於帯方。
百済は、その先は蓋し馬韓の属国で、扶余の別種。仇台という者がおり、帯方に於いて国を始めた。

『梁書』百済伝
其国本與句驪在遼東之東、晋世句驪既略有遼東、百済亦拠有遼西、晋平二郡地矣、自置百済郡。
その国は本は高句麗と(ともに)遼東の東に在り、晋の時代、高句麗すでに遼東を略有し、百済もまた遼西の晋平二郡を占拠し、自ら百済郡を置いた。

『宋書』百済伝
百済国、本與高麗倶在遼東之東千余里、其後高麗略有遼東、百済略有遼西。百済所治、謂之晋平郡晋平県。
百済国、本は高麗とともに遼東の東千余里に在り、その後、高麗が遼東を略有し、百済は遼西を略有した。百済の治する所、これを晋平郡晋平県と謂う。

『通典』百済伝
晋時句麗既略有遼東、百済亦拠有遼西晋平二郡。今柳城、北平之間。
晋の時代、高句麗すでに遼東を略有し、百済もまた遼西晋平の二郡を拠有した。今の柳城と北平の間である。
343日本@名無史さん:2012/03/22(木) 23:29:05.48
>>340 >そもそも「竹内焼土層」なんて存在していない
344卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/22(木) 23:30:40.08
>>341
千山山脈というのは長白山ではないよ。
燕山山脈や遼河を横断しているとしても、千山山脈や鴨緑江を横断しているとは限らないと思うが。

遼東郡が大同江西岸まで広がっていたという説は聞いたことはないが。
345竹斯の民:2012/03/22(木) 23:32:59.05
>>343 誤 失礼
>>340 >そもそも「竹内焼土層」なんて存在していない
ならば、回答無用
346卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/23(金) 09:07:22.46
高句麗本紀によると、

121年 王は馬韓・濊貊の一万余騎を率いて玄菟城を包囲した。
122年 王は馬韓や濊貊とともに遼東に侵入した。

とあるのだが、これがどうも不審である。というのは百済本紀によれば、
馬韓は百済の南の国境の熊川以南にあるはずだからである。

しかし百済が通説よりずっと北方にあったとすれば、上の記事も、
百済王の「わが国は東に楽浪があり…」という発言も、少しは理解できるものとなるのである。
347笑っ虎:2012/03/23(金) 09:30:32.04
最近は、さほど意味のある会話が見当たらない。無理に矯正したくなるのはこんなところか。

>294   >邪馬台国が大和朝廷になったんなら。もっと堂々と記紀に残ってるはずでしょ。
大和朝廷が大和朝廷は九州勢力によって成ったというストーリーになっているが。

>>295  >蔑字で正史に記録されてるような内容はそのまま記紀には書かないだろう。
臣と称して朝貢していた時代(漢魏晋宋代)の歴史がほぼ完全に除外されている。

>296  >従って、大和朝廷と邪馬台国は繋がっていないと考えるのが正しい。
そういう論理的脈絡は成立し得ない。

>>297  >8世紀に記紀が編纂された時点では、大和朝廷に金印の伝承は残っていなかった。
>その理由は、繋がっていない別の政権だったから、というのがひとつの候補になる。
「その理由」は、消したかった後漢代の歴史事象だから消した。

>299  >中国の天子の臣下として
実質的に臣下となった事実はない。
天子を頂点とした外交作法にのっとって、形式的に臣と称したにすぎない。

>玉の下のクラスの金印をありがたく頂戴しましたと正史に記述する国ってあるんだろうか…
玉や圭こそ、天子が諸王・諸侯を封じるときに与えるものだ。
「倭国王に封じる」という文言使用した正史はない。せいぜい「為す」「徐す」「進めて号す」だ。
どだい、天子の支配領域の外(藩外)にある異民族国の王を「封じる」という道理はない。
(もともと天子が支配する国でもないのに「封じる(与える)」はなかろう。
いかに中華思想の傲慢中国人とて、そこまで無節操ではなかったのだ。こういう説明が理解できるか?
348日本@名無史さん:2012/03/23(金) 09:35:35.90
ちょんこじゃないすけど、
晋が崩壊したとき、八王の乱あたりぐらいからかなり異民族が流入してたんじゃないすかね
遼西経略説ではないけど、百済の先祖の扶余系民は後漢末からシナ帝国に異民族として雇われながら
食客なりのかたちをとりながら、遼西に移り住んでいたのが、晋が崩壊した折に独立して広く統治権を
握った。だけど激動の華北地域ではやはり生き残れず、百年もせず海を渡って馬韓の地に移り住んできた
だけどおそらくその地の国にとりいっただけであって、既存の伯済にとりこまれ、諸外国の力をとりこんだ
馬韓中の国が急速に力をもって百済として統一された、という説はありえないですかね
もしそうであれば、百済本記の伝承も既存民族の神話をとりこんだとして理解できそうだと思いますが
349卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/23(金) 09:39:56.47
私は考古学には懐疑的な人間なので、万里の長城が平壌まで続いていたなどと聞いても納得しない。
三国史記を読むと○○柵を作ったとか△△柵を攻撃したという記事がしばしば出てくる。
こういう柵の遺跡を長城と勘違いしているのではあるまいか。

Wikiで虎山長城を調べると
虎山より東側に北朝鮮の平壌に伸びる燕の時代の長城の遺構があり、虎山長城も燕の時代の長城との説もある。
実際には、明の時代の建造物ではなく高句麗が築いた「泊灼城」の遺構といわれている。
漢民族の明が満洲を制圧していたことを示し、満洲が古来より中国の不可分の領土であることを誇示宣伝するための工作との見方もある。

いずれにしても平壌の長城は燕の時代の物であり、
樂浪遂城縣有碣石山、長城所起
は、秦漢時代の長城を指していると思われるから、
楽浪が平壌にあった、というのは詭弁だと思うのである。
350日本@名無史さん:2012/03/23(金) 10:08:48.81
三国史記では晋より前に三国の記事がでてくるが、かなり倭との関連が強い
また魏志では半島南部に倭の勢力が根をはっている
広開土王との戦いにしても、百済新羅の名はでてきても、日本は三韓征伐としている
認識としてはやはり半島は韓族が支配的な人口を占めており
北魏あての上表に百済が扶余系の流民をひきうけていた可能性をしめしていても
高句麗が百済新羅を扶余系の民族が混じっている子分としながら、反対に日本側は古来つきあいのあった韓族であると見て、主導権の奪い合いをしていたのではないだろうか。
さらに
自晉以後、呑并諸國、據有馬韓故地。其國東西四百里、南北九百里、
南接新羅、北拒高麗千餘里、西限大海、處小海之南
とあるのは、百済の力の増大ののち、半島における倭人の国家が百済にとりこまれたことを示しているのではないか、
倭の五王の記述からして依然として倭の力は見られるものの、やはり国家意識としては
扶余系とまざった韓族の国である百済のアイデンティティ意識の浸食をくいとめることができなかった
ということではなかろうか
351卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/23(金) 10:24:21.27
玄菟郡はどこにあったか。

高句麗本紀によれば、毌丘倹が玄菟から出発し侵入してきた、とある。
丸都城とは現在の集安であると仮定すると、玄菟はそれより西であると思われる。
とすれば、私の推定では、千山山脈から渾江の間にあったのではなかろうか。

単単大嶺というのは長白山脈だと考えられているようだが、もしかすると千山山脈ではないのか。
漢の四郡というのは、通説よりずっと狭小だったのではあるまいか。

以上はあくまで想像であるから、批判されても応答しないので、そのつもりで。
352日本@名無史さん:2012/03/23(金) 10:44:04.39
いくらこじつけてみても、倭の地は洲島にあったと明記されている、朝鮮半島にあったとかいうのはトンデモにすぎない。
353日本@名無史さん:2012/03/23(金) 10:48:54.14
>>352
倭の本拠が列島にあったことは否定しないよ
遼西の記述の謎解きがしたいわけで
354卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/23(金) 11:47:33.91
訂正

楽浪郡 故朝鮮国也 在遼東

これは後漢書巻一 光武帝紀にあるそうである。
355笑っ虎:2012/03/23(金) 11:50:25.35
>>337
>なんと百済は遼西にあったという文献資料があるのだ。
ウソをいうな。朝鮮の「ウソ」を料理しとこう。

「百済は遼西にあった」ではない。「百済が遼西を侵略した」だ。
・『宋書』「百済略有遼西。百済所治、謂之晋平郡晋平県」
・『梁書』「晋世句麗既略有遼東、百済亦拠有遼西、晋平二郡地矣、自置百済郡」
・『南史』「晋世句麗既略有遼東、百済亦拠有遼西、晋平二郡地矣、自置百済郡」
・『通典』「晋時句麗既略有遼東、百済亦據有遼西、晋平二郡。今柳城、北平之間。」
これらはみな、百済があった所の話ではなく、「百済が侵略した・占領した」という話だ。
しかも韓国の学界以外では眉唾ものの話で、
韓国学界ですら、「百済が遼西を攻撃した・進出した」と表現している。

>>349 
>「楽浪遂城県有碣石山、長城所起」
「楽浪の遂城県に碣石山あり、長城の起する所」
このウソについては、>>333がちゃんと論破している。

いったい何の意図があってウソをついてまで我論を押し通そうとするのか。
こんなウソを片隅で言い通したからと、いったい何の得があるというのか。
こんなに構わず、唐松並みに無視して勝手にさせとけばいい。
356笑っ虎:2012/03/23(金) 11:59:00.86
>>354
>楽浪郡 故朝鮮国也 在遼東
>これは後漢書巻一 光武帝紀にあるそうである。

「あるそうである」ではない。
俺が、「後漢書光武帝紀にはないから原典を提示しろ」といったが、
その時も提示せず、どこぞの怪しいサイトを紹介したっけな。
俺が調べたら「漢籍の書棚」というサイトが掲載していた。
初、樂浪人王調據郡不服。【樂浪郡故朝鮮國也在遼東】秋、遣樂浪太守王遵撃之、郡吏殺調降。
遣前將軍李通、率二將軍、與公孫述將戰於西城、破之。

これがそもそもの出典かも知れないが、【 】つきのところを見ると、
これとて別の文献からの引用をのようだが、出典が不明だ。
自ら出典を提示てへきないような得体の知れない記録を持ち出すな。
357日本@名無史さん:2012/03/23(金) 12:03:14.83
>>355
でもそれなら、つづく文の
自晉以後、呑并諸國、據有馬韓故地
が解読できないじゃないか
晋の時代のあと、諸国を併呑して馬韓の故地を拠有した、とある

ここでの晋とはあくまで西晋の都が陥落するまでをさしているのだろうけど
前秦が華北を統一するまでの50年足らずで、百済が半島に位置していない限り
すくなくとも広開土王碑の記述と沿わなくなる
358日本@名無史さん:2012/03/23(金) 12:11:01.65
>>356
後漢書のようですよ
楽浪、郡、故朝鮮國也、在遼東、秋
とありますね
359日本@名無史さん:2012/03/23(金) 12:18:40.10
莽曰樂鮮。屬幽州。
【應劭曰:「故朝鮮國也。」師古曰:「樂音洛。浪音狼。」】←注ね。

幽州はかつての朝鮮国があったところなので
朝鮮って名前を扱っている時点で、かつて朝鮮は漢に属していたことがあるってことは自明なんでしょうけど
朝鮮の人は朝鮮半島北部は幽州に含まれないって必死になってるんですか?
迷惑な話ですね
360卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/23(金) 12:41:20.96
私はもう君らと論争しようとは思わないのである。
私は嘘をついてまで我論を押し通そうとしているわけでもなく、在日朝鮮人でもないのである。
私は、ただ単に、楽浪郡や帯方郡は韓半島にあった、とか、
卑弥呼が日本から魏に朝貢した、という通説に疑問を抱いているだけなのである。

>幽州はかつての朝鮮国があったところなので

その「かつての朝鮮国」が古朝鮮で、それは遼東に在ったと私は主張しているわけである。

私に言わせれば、私の主張がなぜこれほどの反感を買うのかが分らないのである。
楽浪郡が遼東に在ったという文献をいろいろ提示しているのに、君らは躍起になってそれを否定しようとしているのである。
なぜそこまで否定しようとするのか。何かイデオロギー的な問題でもあるのか。
361日本@名無史さん:2012/03/23(金) 12:56:08.39
いや、君の関連するところをググると
ttp://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=79786&servcode=400§code=400
がヒットするわけだがwww
白頭山の件で朝鮮は、朝鮮半島には入らなかったって必死になってるんでそ?www

それと、楽浪海中有倭人というのはどう考えるの?
少なくとも楽浪が海に面してないと意味が通じないでしょ
少なくとも倭人は半島に近いところに勢力をもっていて
海岸に沿って北上して楽浪と接点をもっていたと見るべきなのだから
楽浪は漢にとって西北限であり、異国と接する州であることは自明。

で、君は、遼東半島は楽浪に入るけど、鴨緑江以南には楽浪に入らないという
日本人からすればあんま気にならないことを必死にここで貼り続けているわけで
かなり気持ち悪いとしか思えないわけだが
362卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/23(金) 13:00:51.78
私はもう伊作とも論争しようと思わないのだが、
樂浪遂城縣有碣石山、長城所起
これを書いた人も読んだ人も、長城とあれば秦漢時代の長城を思い浮かべたはずなのである。
平壌にまで続いていたという燕代の長城を思い浮かべた人はまずあるまい。

また、樂浪郡故朝鮮國也在遼東 というのは註だが、その註に出典があったかどうかは不明である。
註にまで出典を明記せよ、と言われても困るのである。
そこまで厳格さを要求されたら、学者だって音を上げざるをえない。
363卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/23(金) 13:15:00.57
>>361
そのサイトは残念ながら検索できなかった。
白頭山の件であれこれ言った覚えはないのだが…。

楽浪海中有倭人
私はこれは渤海周辺あるいは韓半島あたりに倭人がいる、と解釈しているのである。
これが日本人を指しているとは到底思えないのである。

君らは畿内説と九州説を採用しているわけだから、
鴨緑江以南が楽浪郡に含まれても含まれなくてもどうでもいいだろうが、
私は朝鮮説だから気になるのである。
364笑っ虎に蜂:2012/03/23(金) 13:19:33.90
『後漢書』帝紀
劉宋 范曄撰  【唐 章懐太子註】
光武帝紀
(建武)六年六月初、樂浪人王調據郡不服。【樂浪郡故朝鮮國也在遼東】
秋、遣樂浪太守王遵撃之、郡吏殺調降。
遣前將軍李通、率二將軍、與公孫述將戰於西城、破之。

 【唐 章懐太子註】  
李賢(651-684)のの註付きのが出来上がったのが676年  ○

668年に高句麗潰して
  安東都護府を「平壌」に設置し、「鴨緑江下流域」及び「遼東地区」を管轄  ○
  熊津都督府を熊津に設置し、旧百済領をを管轄
  鶏林大都督府を新羅に設置し、新羅王を鶏林州大都督に任命

その後、唐朝と新羅の間に「羅唐戦争」が発生
安東都護府は旧高句麗遺領の大部分を放棄し、676年に遼東城に移転  ○

註付けた時には「安東都護府」が「平壌」で機能していて
「平壌」あたりは拡張された「遼東」域みたいなものじゃに


なほ、ここに出てくる「樂浪人王調」は
AD30年に「樂浪郡吏」に裏切られて殺された人だけどいぢりどころ満載の話題のひとですねえ
365日本@名無史さん:2012/03/23(金) 13:24:19.95
>>362
 おまいもおばかさらしてるのね ごめんなさいとかするかい?

その註に出典があったかどうかは不明である
その註に出典があったかどうかは不明である
その註に出典があったかどうかは不明である
366日本@名無史さん:2012/03/23(金) 13:29:24.46
>>362
遼東でないところから木簡が出てきているんだからいいかげんおばかなこと言い張っても無駄

燕の長城のの痕跡は文献上からも芋蔓式に拾い上げられちゃったりするからさ
367卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/23(金) 15:52:30.64
>>365-366
俾彌孤よ、私はその註に出典があったかどうかは知らない、という意味で書いたのだ。
木簡がどこから出ようと、それが楽浪郡が平壌にあったという証拠にはならない。
燕の長城が実際にあったにせよ、
樂浪遂城縣有碣石山、長城所起
の長城が燕の長城を指しているとは思えない。

お前はそれほど漢籍の知識があるのに、どうして楽浪郡が遼東に在ったと認めようとしないのだ?
むしろそれが私には不審だ。ただ単に以前私にバカにされたことへの憤懣からなのか?
368卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/23(金) 16:00:55.99
さて話題は変わるが、面白い記事を見つけたので紹介しておく。
讖緯説の1260年というサイクルは間違いで、1320年が正しいという指摘だ。

http://grnba.com/iiyama/html/20070919220541/index.html
369日本@名無史さん:2012/03/23(金) 16:09:33.14
http://www.youtube.com/watch?v=RciEIpyYq-o&feature=related
放射説っていうのを知ってすごいと思ったんだけどこれで完璧に説明つかないの?
370笑っ虎:2012/03/23(金) 16:14:41.09
>>364
李賢らが註を入れた唐代には、
楽浪郡は遼東域とみなされていた・というのか?
371笑っ虎:2012/03/23(金) 16:34:06.66
>>362 朝鮮
>伊作とも論争しようと思わないのだが、
はじめから論争などしていない。お前の無知とウソを暴いてるだけだ。
「何でも朝鮮半島、何でも高句麗」を叫ぶ輩ともずいぶんやり合った。
狡猾で「ああいえば・こういう」。素手でつかんだウナギみたいな奴らよ。

その手口は2パターン。
@日本との言語・習俗・地名・人名・墓制・古代遺物など、
「共通とみえる」要素をつまみ出しては、朝鮮由来だ・高句麗由来だという。
A文献を漁って、自論に有利と「見える」記録を引っぱり出しては、朝鮮だ・高句麗だという。

お前は(修行が足りないが)Aのパターンだな。
しかも、自ら引っ張り出した文献の信憑性や記録の性格などは無批判に、
表層的に書いてあることを都合良く解釈して論拠に使う所はまったく同じ。

たった一つか二つのいかがわしい記録を持ち出したからと、
掃いて捨てるほどある歴史事実や記録事実を覆すことは不可能なのだが、
そのあたりには気が回らない。
歴史と向かい合う人間に必要なモラルがまったく欠落している。
372日本@名無史さん:2012/03/23(金) 16:52:37.87
どうでもいいけど、邪馬台国関係の個人サイトって入るとミディ音楽鳴りはじめるの多いんだけど
あれ なんなの?うざいんすけどwせめてOFF機能つけろよと
373日本@名無史さん:2012/03/23(金) 16:57:34.22
>>372
インターネットオプションで切ってるよ
374卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/23(金) 16:59:06.27
楽浪郡はどこにあったか。

楽浪は郡。もとの朝鮮国なり。遼東に在り。『後漢書巻一光武帝紀』

朝鮮、音は潮仙。国は遼東に在り。『十八史略巻之二漢孝武帝三十七』

楽浪郡が統括した県の名に「朝鮮・列口・帯方…」がある。『漢書地理志第八』

漢の武帝の元封三年、朝鮮を滅し分ちて楽浪・玄菟・臨屯・眞番四郡を置く。即ち今の奉省南蓋平・海城・復州等処に在り。『長白征存録』
※奉省=今の遼寧省遼河以東渾江以西、南蓋平=今の蓋県

奉天府の東南は、遼東・楽浪・玄菟三郡、及び朝鮮の地なり。『大清一統志巻五十七盛京統部表』 ※奉天府=今の遼寧省瀋陽市

帯方郡はどこにあったか。

帯方県を按ずるに、疑うらくは、亦、今の省境に在り。『奉天通志巻五十三沿革志』
※帯方県=帯方郡帯方県、省=奉天省=今の遼寧省東部方面

帯方は列口県に有り。『山海経巻十二・海内北経』
375日本@名無史さん:2012/03/23(金) 17:30:47.10
>>369
>放射説っていうのを知ってすごいと思ったんだけどこれで完璧に説明つかないの?
放射式が正しいって考え方は文献史学者の間では有力だよ。
考古学者など行程記事を無視しようという学者が毛嫌いしているけどね。
376日本@名無史さん:2012/03/23(金) 17:45:12.69
>>375

動画で完全に邪馬台国は鹿児島にあったんだ!って納得してしまったんですが
まだ矛盾が生じてたりするんでしょうか?w
377日本@名無史さん:2012/03/23(金) 17:53:50.70
>>376
後は掘るのみです。
378日本@名無史さん:2012/03/23(金) 17:57:41.69
倭人伝そのものを見ても、放射式なのかどうかはわからない。
放射式でなくても、1/6換算すれば、特に問題なく九州内で収まる。
逆に1/6換算しなければ、九州どころか日本にも収まらない。

つまり、放射式でも放射式でなくても大差はない。

そこで、自分は、放射式の根拠が確定するまでは、
連続式で考える。
379日本@名無史さん:2012/03/23(金) 18:26:00.93
でも、放射式で南九州にあるっての、畿内にあるっていうのと同じくらい
蓋然性がないんじゃないの?鉄の関係で、北九州をまとめるほどの力がないってことになるんでしょ?
鉄厨の意見が聞きたい
380日本@名無史さん:2012/03/23(金) 18:40:23.42
>>358
後漢書本文じゃなくて、李賢の注の部分。
「楽浪、郡、故朝鮮國也、在遼東」までが注。
「秋」は本文。
381日本@名無史さん:2012/03/23(金) 18:56:35.91
>>357
百済は海を渡って遼西へ攻撃を掛けたんだよ。
馬韓族は黄海の島嶼部にも分布していた海洋の民でもあるし
馬韓の先祖も紀元前2千年紀に島嶼部や黄海沿岸へ広まった
韓とは付いているが馬韓は素の韓族とは文化も言語も異なる。
382日本@名無史さん:2012/03/23(金) 19:27:00.79
>>381
遼西に拠有したのは晋のときでしょ
晋のあとに馬韓に拠有したと書いてあるんだが?
383日本@名無史さん:2012/03/23(金) 19:48:28.75
>>376
放射式が正しいということは理解されているんだが、伊都国を玄界灘沿岸の
怡土に比定する人たちが多いんだよ。だから、放射式を適用しようとしても
どうしてもうまくいかないんだ。
引用されている動画は、放射式の説明はうまくできている。そのとおりだろう。
しかし、狗奴国の位置が問題だね。倭人伝によれば、北九州の伊都国は女王国に
従がっていた。狗奴国が熊本あたりにあったのではその狗奴国を飛び越えて伊都
国が南九州の勢力と手を結ぶというのはどうみても不自然だ。
それに使者が有明海を南下したというのは、敵国の眼前を通過することになる。
そんな危険なことをするはずはない。
つまり、狗奴国の比定がまちがっているんだよ。
384日本@名無史さん:2012/03/23(金) 19:50:32.22
>>382
「晋のあとに馬韓に拠有した」と読める文は存在しない、また捏造。

史書を読めば解る通り、高句麗は略で、百済は据
略は経略や攻略、一方の据は占有や占拠の意味しかない。
385日本@名無史さん:2012/03/23(金) 19:56:21.87
>>384
>自晉以後、呑并諸國、據有馬韓故地
はじゃあなんなの?
386日本@名無史さん:2012/03/23(金) 20:12:31.16
○ 遼東郡 縣十八 17.番汗(縣) 沛水出塞外 西南入海        『漢書地理志』
○ 遼東郡 十一城 10.番汗               『後漢書(續漢書)郡國志』
○ 【(魚豢)魏略曰 
  「燕乃遣將秦 開攻其西方取地二千餘里 至滿潘汗爲界 朝鮮遂弱」】『三國志魏書』

「滿潘汗」の「滿」は「衛滿」の「滿」だろ 

「滿潘汗爲界 朝鮮遂弱」だからだいぶん攻め込まれている 

○浿水 水西至搨n入海 莽曰樂鮮亭             『漢書地理志』

「浿水」は 「沛水」と河口とかコモンのだな

ここらへんまで長城続いているのはがちだし「浿水」は「清水江」だな

西隣の「滿潘汗」はもう「遼東郡」だしね

もうさ 「遼東」は「朝鮮」まで達していた でいいんじゃに

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/choujo.jpg
387日本@名無史さん:2012/03/23(金) 20:19:29.58
388日本@名無史さん:2012/03/23(金) 20:22:40.48
>>385
なんなのも何も、『宋書』にも『梁書』にも『南史』にも『通典』にも
そんな文は存在しない。
遥か後代に書かれた通考に出て来るだけ
389日本@名無史さん:2012/03/23(金) 20:36:26.42
>>388
それに根拠がない理由は?
390日本@名無史さん:2012/03/23(金) 20:52:10.92
ちなみに通典の

百濟 、即漢末夫餘王尉仇台之後、【後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」】初以百家濟海、
因號百濟。晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。【今柳城、北平之間】自晉以後、
呑并諸國、據有馬韓故地。其國東西四百里、南北九百里、南接新羅、北拒高麗千餘里、西限大海、
處小海之南。國西南海中有三島、出黄漆樹、似小榎樹而大。六月取汁、漆器物若黄金、其光奪目。
自晉代受蕃爵、自置百濟郡。義熙中、以百濟王夫餘腆【佗典反】爲使持節、都督百濟諸軍事。
齊並遣使朝貢、授官、封其人。

どのへんが注になるの?最初の晋平二郡までであとすべて注ってこととかありえるの?
391日本@名無史さん:2012/03/23(金) 21:15:32.59
>>389
唐代に書かれた史書と違い、宋代に書かれた通考は一次史料に拠らず
史書や典章書から採ってる。つまり、間違いがあればそのまま

>>390
どの途、歴史が主の宋書、梁書、南史には無い表現で、志が主の通典にしかない。
それに「呑并諸国」とあるような統合前の段階なら、据有と表現しても不自然さは無い。
392日本@名無史さん:2012/03/23(金) 21:30:33.12
>>391
>宋代に書かれた通考は一次史料に拠らず
三国史記は信用できないということでおk?

>志が主の通典にしかない。
通典にはあるとは認めるってことでおk?

>それに「呑并諸国」とあるような統合前の段階なら、据有と表現しても不自然さは無い。
後漢朝に仕え、晋のとき独立して遼西を領有し、晋のあと遼西をすてて半島に移り住んだってことでおk?
その国の範囲はどう考えても遼西を含むほどの大きさはないからね
393日本@名無史さん:2012/03/23(金) 22:01:16.96
>>392
当然だろうw

通典にはあるね。宋書、梁書、南史を見て無かったので、そこで打ち切った。

尉仇台の居た場所が何所か解らないし、百家で海を済ったのも何時の話か解らない以上
何とも言えないね。
馬韓の中の1つから興った国なのは動かしようが無いから
遼西での略奪後に居ついたのが居たのかもしれない。
楽浪郡や遼東はまず百済が4世紀後半に奪い、その後に高句麗が南下してきたからね。
394日本@名無史さん:2012/03/23(金) 22:03:50.09
ていうか邪馬台国が九州にあったとして当時の人口ってどれくらいよ?
痕跡がなぜ残ってないの?
395日本@名無史さん:2012/03/23(金) 22:08:03.52
馬韓の中の1つから興った国なののは動くかもしれんよ
396日本@名無史さん:2012/03/23(金) 22:10:58.84
「初以百家濟海 因號百濟」とかって渡海人だね。。。。
397日本@名無史さん:2012/03/23(金) 22:13:54.56
>>393
でも、馬韓はすくなくとも魏志に、衛満から逃れた箕準が韓王をなのったとあるから
韓は扶余が到来する以前から韓の名をもっていたことが分かる
しかも、百済が馬韓中の国であるとした史書は後漢書以降のもので、そのときにはもう百済は半島に
限定された国になっている
百済が馬韓の中の国というのはどう考えても、すでに馬韓があったところに百済は後から来たという
解釈になると思うが、どうだろう?
398日本@名無史さん:2012/03/23(金) 22:14:07.05
鬼道、卑弥呼は祭司王だろ。宗教的な権威地はかって列島上に存在したのか?出雲?
399日本@名無史さん:2012/03/23(金) 22:16:10.72
>>396
それは国号の由来だから、いつ渡海したかは言及されてない
おれは、遼西の海岸から逃げて、半島に来たのだと思う
400日本@名無史さん:2012/03/23(金) 22:28:14.61
>>394

福岡、熊本、佐賀には、弥生遺跡はびっしり残ってるぜ。
当時海でなかった丘陵地帯は、ほぼ全域が弥生遺跡だ。

県単位で言えば、福岡は奈良に比べて、弥生時代の銅器が
10倍以上。鉄器は100倍以上出土している。

人口密度も10倍程度はあるだろう。

むしろ、奈良は弥生遺跡が少ないとも言えるが。


401卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/23(金) 22:29:00.50
>>386
沛水出塞外 西南入海 
塞は長城で、海は渤海。だから沛水は大凌河。浿水はおそらく遼河。   

衛満朝鮮のあったところが古朝鮮=遼東。
遼東が鴨緑江以南にも広がっていた、などというのは欺瞞。
402日本@名無史さん:2012/03/23(金) 22:40:43.31
他所から渡海して来たのが居付いて、馬韓の 8.百濟國の暖簾引き継いだのかもな

看板同じでもなかみがちがうとかさ

晉時句麗既略有遼東
百濟亦據有遼西 晉平二郡【今柳城 北平之間】
自晉以後 呑并諸國
據有馬韓故地

力抜けた後のので 晉の支配領域のが餌で

句麗が遼東のを略で

遼東にいた百濟の種のが心太して遼西にずれてからに

句麗にさらに心太されてからに渡海人と化して

馬韓ならぬもとのが晉のの帯方郡の七縣とかのあたりに

お船に乗って移動してからに入植とかしたんでなかったのかなあ

なあんかね 伊妹さんとかがでっちあげた新國のような希ガス
403日本@名無史さん:2012/03/23(金) 22:44:04.05
>>397
馬韓国というのはなくて、ある地域、もしくはある地域の住人を馬韓、弁韓、辰韓と呼んだ。

前後漢の時代には百済はまだ建国すらしていないから
晋代以降に編纂された三国志、後漢書以降の登場なのは当然。
馬韓地域にあった数十国の中の1国が百済になったと書かれているから
もともと馬韓地域にあった国の1つなんだと思う。
404日本@名無史さん:2012/03/23(金) 22:44:49.28
がちで遼東が鴨緑江以南にも広がっていたとおもふよ
405日本@名無史さん:2012/03/23(金) 23:00:07.11
>>402-403
俺もそんな希ガス
でも、ちょっと関係ないが、韓国人はDNA的に漢人系と江南系が半々くらいだったから
韓人は民族的に男が抹殺されるような混ざり方はしてないと思うんだよね
406日本@名無史さん:2012/03/23(金) 23:10:31.59
>>404
ガチも何も今の平安北道は遼東郡に属するだろうがw
407日本@名無史さん:2012/03/23(金) 23:13:30.13
>>378
それが正解だよ。
408唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/03/23(金) 23:22:16.26
>馬韓地域にあった国の1つなんだと思う。

百済土器と馬韓土器は違う。
だから、百済が馬韓を治めるのは継体天皇になってからなのである。
後の百済とできる勢力は、不耐濊しか存在しない。
辰王=桂林=新羅。濊貊=不耐濊=扶余=百済。*注 扶余には、北方扶余と百済が含まれる。
不耐濊
[シ歳]は南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と接し、東は大海に窮す、今朝鮮の東皆その地なり。
正始六年、楽浪太守劉茂・楽浪太守弓遵、領東の[シ歳]、句麗に属するを以って、師を興し
これを伐つ。不耐侯等、邑を挙げて降る。その八年、闕に詣り朝貢す。詔しさらに不耐[シ
歳]王を拝す。居所民間に雑在し、四時郡に詣り朝謁す。二郡軍征賦調あるに、役使を供給
す、これを遇すること民の如し。
409日本@名無史さん:2012/03/23(金) 23:41:24.01
じゃあ、尉仇台を祖とする上表は同じ扶余のよしみを利用した僭称ということなの?
410日本@名無史さん:2012/03/24(土) 00:25:05.14
640 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/18(土) 15:05:47.13 ID:sskgsjsc0 [2/2]
『平清盛』プロデューサー在日朝鮮人 磯智明(反日・天皇制度廃止論者)のプロデュース作品

@『監査法人 (2008)』反体制・反社会

A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会

B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会


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韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C ←よく痴漢やヤクで捕まるのはここの工作員


テレビが言えない民主党のスポンサー=韓国北朝鮮
あとはもうわかるよな
民主党は、朝鮮人だらけ。
野田はどうだろうか。韓国人の集いに出席し、韓国人暴力団から賄賂を貰っている野田は

411日本@名無史さん:2012/03/24(土) 00:27:31.69
大河の時代考証役って大概お飾りだけど
今回は流石にブチ切れたのか、前任者がクビになってたな
412卑弥呼の都は久留米:2012/03/24(土) 00:30:11.72
4世紀以前の百済は同じ扶余のよしみを利用した僭称とみる。
413卑弥呼の都は久留米:2012/03/24(土) 00:32:48.98
>>412は表現が変なので、取り消し。
414日本@名無史さん:2012/03/24(土) 00:45:48.79
905:名無し会員さん:2011/04/23(土) 08:06:19.36 ID:OEk3bQxB
東京ボディビル連盟は復興支援に熱心なんだけど、

連盟理事が太田祐宇樹の震災ネタを問題視してる
http://2chnull.info/r/sportsclub/1209049856/901-1000
上記の両国板の発端は 下記8 1 7 あたりから。
http://unkar.org/r/sportsclub/1209049856
 
http://questionbox.jp.msn.com/qa3411036.html
415日本@名無史さん:2012/03/24(土) 06:00:39.42
>>378
>倭人伝そのものを見ても、放射式なのかどうかはわからない。
読解力がないんだな。

>放射式でなくても、1/6換算すれば、特に問題なく九州内で収まる。
>つまり、放射式でも放射式でなくても大差はない。
放射式で考えるか連続式で考えるかで、投馬国と邪馬台国の位置関係はまったく異なるよ。

>そこで、自分は、放射式の根拠が確定するまでは、連続式で考える。
妙な弁解だな。分からんのなら、両方で考えてみるべきだろ。

416日本@名無史さん:2012/03/24(土) 06:41:40.55
ちなみに日本書紀は白山きくりひめのことだそうですよ
417日本@名無史さん:2012/03/24(土) 06:43:43.30
紀記って真実を語らずしてそういう内容をもった本達ってことなのかな
418日本@名無史さん:2012/03/24(土) 07:56:20.59
後漢書
秋、宮遂率馬韓、?貊數千騎圍玄菟。夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人、與州郡并力討破之、斬首五百餘級
?や馬韓は高句麗に従って、玄菟郡までいってたみたいですね(121年)

唐会要
百濟者。本扶餘之別種。當馬韓之故地。其後有仇台者。為高麗所破。以百家濟海。因號百濟焉。
その後ってありますね。扶余の後ってことですか?馬韓の故地(馬韓があったところ)に当たるの時系列的に後ということですか?
419日本@名無史さん:2012/03/24(土) 09:00:17.95
当時文字なかったわけでしょ。せめて中国語あたりを輸入できてればなあ。なんとかなったのに。
420日本@名無史さん:2012/03/24(土) 09:04:23.49
ここは邪馬台国九州説スレだ。漢文の研究をしたい奴は漢文スレを立てて別にやれ。
朝鮮の歴史を研究したい奴は朝鮮スレを立てろ。
ここは邪馬台国九州説を論じ合って、候補地がいくつも有る九州説を一つの候補地に絞る
ためのスレだ。認識を改めていただきたい。
そこで問題を一つ。魏の使節団が上陸した場所は唐津と証明されているわけではない。
壱岐・唐津間はあまりにも距離が短くとても千里とは認め難い。壱岐・神湊のほうが千里に近い。
こう考えると使節団が上陸したのは神湊の可能性が唐津よりも高いと思われるが如何。
421日本@名無史さん:2012/03/24(土) 11:13:18.47
>>420
疑問その1 「末盧國」と言う地名を無視していないか?
疑問その2 「神湊」に上陸するくらいならなぜ博多に上陸しなかったのか?
422日本@名無史さん:2012/03/24(土) 11:17:02.94
「魏の使節団が上陸した」順に倭人伝に書かれているkという根拠もない
423日本@名無史さん:2012/03/24(土) 13:37:19.55
>>421
末蘆国=松浦半島と「音」だけに頼って決め込むのは学究としてはパースケだろう。
博多の海岸線は3世紀と今は違う。邪馬台国が九州東海岸寄りに有ったとすれば
なるべく東寄りに上陸するのは当然だ。
424日本@名無史さん:2012/03/24(土) 13:40:14.38
人間の条理として上陸した順に倭人伝に書くだろうことは疑う余地が無い
425日本@名無史さん:2012/03/24(土) 13:45:34.92
倭人伝の著者は上陸していませんがな。
426日本@名無史さん:2012/03/24(土) 13:45:58.21
>>423
そうは言っても末蘆国(mat-la若しくはraa)と松浦は一致し過ぎてるしなあ
427日本@名無史さん:2012/03/24(土) 13:49:27.73
シロート談義は飽きたよ
428日本@名無史さん:2012/03/24(土) 14:29:49.68
>>420
せめて「邪馬臺國」と表記しろよwwwwww
429日本@名無史さん:2012/03/24(土) 14:35:55.65
>>423 >>426

「末蘆国」って文字ちがっているけどわざとやってるの?
430日本@名無史さん:2012/03/24(土) 15:09:35.88
>>423
>末蘆国=松浦半島と「音」だけに頼って決め込むのは学究としてはパースケだろう。

なんだ?自前の好きな場所に邪馬台国をもって行きたくて「末盧國」は無視か?


>邪馬台国が九州東海岸寄りに有ったとすれば ・・・

なんだ?自前の邪馬台国は宇佐か?日向か?


まぁいいや、その自説を文献と考古を根拠に展開してみろよ
431日本@名無史さん:2012/03/24(土) 15:14:30.03
自分の比定地はここだから、ここに上陸してもらわないと困るゥ 困るゥ
432日本@名無史さん:2012/03/24(土) 15:16:57.31
>>423
やれやれムゲ尿九州版が出てきたか・・・あまり長くするなよ。
433日本@名無史さん:2012/03/24(土) 15:19:20.06
末蘆國     蘆 芦 あし、よし
----------
莫廬      廬 いお、いおり、いえ
----------
末盧      盧 飯器 酒器
斯盧        《解頤新語》瓠細腰者 曰 蒲盧
瀆盧              蜂細腰者一曰 蒲盧
----------
434日本@名無史さん:2012/03/24(土) 16:43:11.56
640 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/18(土) 15:05:47.13 ID:sskgsjsc0 [2/2]
『平清盛』プロデューサー在日朝鮮人 磯智明(反日・天皇制度廃止論者)のプロデュース作品

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A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会

B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会


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あとはもうわかるよな
民主党は、朝鮮人だらけ。
野田はどうだろうか。韓国人の集いに出席し、韓国人暴力団から賄賂を貰っている野田は


435筑紫次郎:2012/03/25(日) 00:30:36.72
伊都国が糸島にあったと仮定すれば
倭人伝は
方角が違う、
距離が合わない、
伊都国の人口が違う、
簡単に水行でいける伊都国へ上陸しないで獣道のような悪路を五百里も陸行したことになる。
不弥国から南水行と書いてあるのに南水行できない。
以上から
完全に道に迷ってしまい邪馬台国の場所は皆目見当がつかなくなる。

最近では
予断、先入観念に捕らわれず
伊都国が糸島にあったと考えない正しい判断をする人も多くなったが
もっと多くの人が正しい解釈をして
学者の反省を促したいものである。
436日本@名無史さん:2012/03/25(日) 01:48:40.91
晋の時代の伊都国はチータ国だから糸島は無いわ
437日本@名無史さん:2012/03/25(日) 06:35:49.59
>>420
音だけではない。方向が明記されていないとはいえそれまでのコースからすれば南だからだろう。
唐津は最も合理的だ。
438卑弥呼の都は久留米:2012/03/25(日) 11:26:49.26
上陸地点は唐津

>>420
>>437
>方向が明記されていないとはいえそれまでのコースからすれば南だからだろう。
>唐津は最も合理的だ。

文を丁寧に読みましょう。
「始」「又」の使い方から、渡海方向は常に南です。

>>420
>壱岐・唐津間はあまりにも距離が短くとても千里とは認め難い。壱岐・神湊のほうが千里に近い。
>こう考えると使節団が上陸したのは神湊の可能性が唐津よりも高いと思われるが如何。

唐津の比定場所がが間違っている。
到着点は、湊ではなく津である。
末盧國の漢字も終着地の津を意味している。
末蘆國の上陸地点は、現唐津港より南にあった3世紀の古松浦湾南端の津である。


439日本@名無史さん:2012/03/25(日) 15:04:29.09
妄想おじいさん
440卑弥呼の都は久留米:2012/03/25(日) 15:45:39.22
>>433
瀆盧國 : 大河の畔の水がよどんだところの国

洛東江沿いの沼に面した港としてなりたつ国の意味
現在の大邱広域市付近

洛東江沿いは大邱以南が倭、大邱が洛東江沿いの倭の北限。
瀆盧國は、倭との接界だから、倭人社会と弁辰社会が鄰接している地域
瀆盧國の港に居るのが倭人。周囲の平野部に居るのは弁人辰人
441日本@名無史さん:2012/03/25(日) 17:12:07.35
神代文字とかはどう考えてるの?エセ?
442卑弥呼の都は久留米:2012/03/25(日) 20:32:54.44
>末蘆國の上陸地点は、現唐津港より南にあった3世紀の古松浦湾南端の津である。

末盧國の津は、虹の松原の南、鏡山の南西、現松浦川の東、中原遺跡である。

443卑弥呼の都は久留米:2012/03/25(日) 23:40:45.60
みんな死んだの?
444日本@名無史さん:2012/03/26(月) 00:31:58.53
朝鮮人犯罪があまり報道されない、そしてテレビが日常的に嘘を吐く理由。

韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8 

韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6
TBSテレビ     、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6  ←オウムに坂本弁護士の自宅の住所を教えて殺させた犯罪幇助のテレビ局

大韓毎日   、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F
東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13

京郷新聞  、、、、、、〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2
産経新聞東京本社  〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2
(サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社)

朝鮮日報   、、、  〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1

韓国日報  、、、、  〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F
読売新聞東京本社 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1

東亜日報   、、、  〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2
朝日新聞東京本社 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2(AFP、NYT)

日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
445日本@名無史さん:2012/03/26(月) 20:25:00.35
>>430、431
じぁーあんた達、魏の使節団が唐津に上陸したと立証してみろよ。できれば邪馬台国論争はぐーっと解決に近づくわなぁ。さーやれっ。
446日本@名無史さん:2012/03/26(月) 21:01:22.65
公孫氏を滅ぼしたばかりの進駐軍がさらに軍を派遣する余裕なんて無いと思うけどね
447日本@名無史さん:2012/03/26(月) 23:25:22.18
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1331743869/30
いさくしのそうていした韓地

韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里

帶方は韓地からはずれたその北の方にある

帶方七縣も同上になりますよ
448卑弥呼の都は久留米:2012/03/27(火) 16:22:20.69
玉砕全滅か?
449日本@名無史さん:2012/03/27(火) 16:40:13.02
末盧國の末盧は松浦川沿岸ではなく、実は松浦半島の方の末盧説
これなら距離もピタリと合う
450日本@名無史さん:2012/03/27(火) 17:18:22.78
>魏の使節団が唐津に上陸したと立証してみろよ。
唐津がもっとも合理的。他に合理的に比定できる地はない。
451日本@名無史さん:2012/03/27(火) 18:10:05.11
一般的には常識とされている、
 真実は一つだけ
 怒りは自然な感情
 戦争・テロは無くならない
 死刑には殺人の抑止力がある
 虐められる側にも虐めの原因がある
 自己チューな人間ほど自己愛が強い
などの間違いを解説ちう m9(`・ω・)ビシ
義務教育では教えない最新哲学  感情自己責任論
452日本@名無史さん:2012/03/27(火) 18:31:18.79
肥前国最古の神社
http://maps.google.co.jp/maps?q=33.555833,129.890556

ここの南にある入り江に着して高台に上がってご宿泊

出発は東南に向けて港まで木の葉をなかば掻き分けて発でよいかな
453日本@名無史さん:2012/03/27(火) 18:33:59.99
伊作は死んだのか
454日本@名無史さん:2012/03/27(火) 19:46:45.03
唐津で上陸して東南陸行五百里、伊都国は佐賀市周辺となる。
そこならば、南へ水行ができる。怡土や博多湾沿岸では南への水行は不可能。
となれば、伊都国=佐賀と比定する方がよほど合理的だ。
佐賀から南へ水行となれば、畿内説など成立する余地はない。水行十日陸行一月、
行き先は南九州に決まっているよ。
455日本@名無史さん:2012/03/27(火) 19:51:15.43
456日本@名無史さん:2012/03/27(火) 20:13:27.66
>>450
ウマシカか?。その合理性を立証してみろと言ってんだ。できないなら口を出すな。
457日本@名無史さん:2012/03/27(火) 20:34:39.50
何でみんな一斉に消えたの?
人事異動の季節だから?
四月になったら新たなコテが現れて工作活動が再開されるの?
458日本@名無史さん:2012/03/27(火) 20:35:51.94
>>454
南九州の遺跡はあまり知識がないので、よかったら漢式鏡が出土している
遺跡を教えてください。
459日本@名無史さん:2012/03/27(火) 20:36:25.38
コテは無職のじいさんばかりだろ 人事異動はないわ
460日本@名無史さん:2012/03/27(火) 20:58:18.34
コテいなくて平和でいいじゃん
461日本@名無史さん:2012/03/27(火) 21:58:54.60
>漢式鏡が出土している遺跡
前漢鏡は宮崎市、日南市、西都市などの神社に伝世している。
後漢鏡は延岡の古墳などから出てるよ。三国鏡は持田古墳群などから
何枚かでているね。
462日本@名無史さん:2012/03/27(火) 22:21:28.97
テレビで
女性に人気の
とか言っているのを見て真に受けて買い求めに走る女とか見てると テレビっ言う宗教の信者なのかと思ってしまう


やらせA 就活中
(p)http://livedoor.blogimg.jp/jin115/imgs/3/1/31a6f8e6.jpg
やらせB 就職後
(p)http://livedoor.blogimg.jp/jin115/imgs/2/b/2b790359.jpg

世論調査もこんな感じで捏造してます
いい加減、目覚めなさい

日本という国は、そういう特権階級の人たちが、楽しく、幸せに暮らせるように、
あなたたち凡人が、安い給料で働き、高い税金を払うことで、成り立っているんです。
そういう特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでいるか知ってる?

今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。 

世の中のしくみや、不公平なんかに気づかず、
テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、会社に入ったら、上司の言うことを大人しく聞いて、
戦争が始まったら、真っ先に危険な所に行って戦ってくれればいいの。
463日本@名無史さん:2012/03/27(火) 22:30:56.89
>>461
ありがとう。
464日本@名無史さん:2012/03/27(火) 23:16:54.21
>>454
途中で東に曲がっちゃうけど、佐賀から船で10日、陸を一月旅したら
畿内までたどり着いちゃわない?
465日本@名無史さん:2012/03/27(火) 23:53:33.59
投馬国の日数と邪馬台国の日数を足して、水行一月、陸行一月なら、
距離的には畿内にたどり着かないこともない。

しかし、方向が違うのと、万二千余里の説明がつかなくなる。
公里でも短里でも。
466日本@名無史さん:2012/03/27(火) 23:56:51.33
しかし南に船で10日航海したら、そこからさらに南に旅できる陸など無いだろう。
つまり「佐賀をスタート地点とする」「船で10日、陸を一月旅する」を満たすためには
途中どこかで曲がらなければならない。どこで、どっちに曲がるかが問題だ。
467日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:00:10.61
>万二千余里の説明がつかなくなる。
邪馬台国まで万二千余里だと思うのはまちがいだ。
伊都国までで万五百里。残りの千五百里=水行十日陸行一月という等式
は絶対に成立しない。万二千里は女王国の始まるところでその奥が深い
と考えなければいけない。
468日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:00:45.94
鏡とか絹とかの出土量が佐賀の場合にはさみしすぐるわ
469日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:03:31.09
>>468
吉野ヶ里は佐賀県です。
470日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:03:56.77
>船で10日航海したら、そこからさらに南に旅できる陸など無いだろう。
そんなことはないさ。南に二十日進んでも戸数五万の大国があったんだ。
これも九州の中と考えなければいけない。
ということは、舟は非常にゆっくりしたものだということだな。

471日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:09:19.59
佐賀市から島を避けて南下し、水俣あたりまで120キロほど。
水行一日は10キロ強か?いくら古代でもゆっくりすぎない?
472日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:10:36.61
>>467
不弥国まで10700里

連続式か放射式かで考え方は変わるが、
仮に連続式で考えると、水行一月、陸行一月=二月

隋書より、だいたい一月行は短里の千里に近い距離なので、
二月行=二千里
余まで入れて、合計12700里。
473日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:13:32.24
使者を案内するときに、毎日進むなんてことはないよ。
2日進んだら一日休みてな調子だろう。
それに、当時はどうやって食事を用意する? 寝るところはどうやって作る?
いろいろ時間がかかることばかりだぜ。進むのに使える時間はほんの少しだ。
474日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:15:02.10
畿内なら邪馬台国は大和なんだろうが、なぜ陸行一月もしなきゃならないのかものすごく不可解。
難波や河内湾から一月もかかるはずがない。
水行すると大回りになりすぎるのでやむをえず陸行したはず。
475日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:15:58.40
>>472
帯方郡から末盧国まで十か月かかって来たってか? 
いくら何でも掛かりすぎだろう。
476日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:16:03.04
吉野ヶ里は植民の砦みたいな感じだな

鏡とかざくざく出ないところではあるがな

出てくるのたのしみにするようなところでなくて

ちょっとでも掘ると出てきて困るとゆうところが

女王國のまわりだな
477日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:23:03.42
>>475
短里は公里の1/6だ。
日数も同様に1/6してくれ。
それで隋書に書かれた一月行の距離に近いものになる。

それで全体では、二月、60日くらいが実際の日数だろう。
478日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:27:33.23
海上での歩数カウントするのは仮想上でするわけだからエロたいへんだわな
479日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:28:32.32
行程記事が正確なら日数だけ間違える訳無かろう
方角を間違えるより難しいわ
480日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:30:53.37
>短里は公里の1/6だ。日数も同様に1/6してくれ。
無茶苦茶なこじつけだな。一日の長さは大陸だって東夷だって変わらんよ。
481日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:33:22.20
>>480

それはそうだが、隋書倭国伝、百済伝では、
そのくらいの距離を一月行としているのは事実なのだ。

だから、日数表記も実際に掛かった日数ではなく、
距離表記の一種と見ている。
482日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:35:26.75
海上での歩数カウントする場合は

水面基準での仮想上のカウントだろうから

きょくたんなはなし

流れに逆らって定点に張り付いて移動とか無しなんかの場合にも

メーターどんどんあがたりするんだろうな
483日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:36:44.01
朝鮮人犯罪があまり報道されない理由、テレビ番組が息を吐くように嘘を付く理由

韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8 

韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6
TBSテレビ     、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6  ←オウムに坂本弁護士の自宅の住所を教えて殺させた犯罪幇助のテレビ局

大韓毎日   、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F
東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13

京郷新聞  、、、、、、〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2
産経新聞東京本社  〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2
(サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社)

朝鮮日報   、、、  〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1

韓国日報  、、、、  〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F
読売新聞東京本社 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1

東亜日報   、、、  〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2
朝日新聞東京本社 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2(AFP、NYT)

日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C

484日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:37:24.17
隋書倭国伝も百済伝もググれば、現代語訳が幾つか出てくる。
それと実際の地図を測定してみれば、一月行の距離が、
7〜80キロ程度なのがわかるだろう。
485日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:37:38.93
>隋書倭国伝、百済伝では、そのくらいの距離を一月行としているのは事実なのだ。
そんなことは簡単には言えないよ。

486日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:38:57.83
>>477
>日数も同様に1/6してくれ。

そりゃ駄目だ。記載通りに読むべきだ。
ただし
其餘旁國遠絶不可得詳から
勅使は
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国
以外の国へは行っていない。
つまり
不弥国の南にある国が投馬国で
投馬国の南にある国が邪馬台国だ。

水行二十日水行十日陸行一月は所要日数ではない。
何らかの理由がある日数であり
距離とは完全に無関係だ。

水行二十日水行十日陸行一月を根拠に
投馬国邪馬台国の場所を推定するのは間違い。
不弥国の南にある国が投馬国で
投馬国の南にある国が邪馬台国だ。
途中に他の国は無い。
487日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:45:11.44
>>486
紀行文なのか、軍事記録なのかで扱いが変わるだろう。

実際に掛かった日数であり、距離と関係がないという立場は、
紀行文としての立場だろう。

自分は軍事記録に近い情報であり、後の通行の目安になる情報であるという
立場だ。だから、数字はそのまま距離を示していると見ている。

そして、それ以外については同意だ。
488日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:45:11.77
>不弥国の南にある国が投馬国で、投馬国の南にある国が邪馬台国だ。
そりゃ駄目だ。記載通りに読むべきだ。日数を無視してはトンデモにすぎん。

489日本@名無史さん:2012/03/28(水) 00:52:20.94
みんな邪馬壹國が欲しいんだねw
490日本@名無史さん:2012/03/28(水) 01:03:02.46
>>485-486
百済から済州島まで水行3ヶ月と書かれてるから
1/5、1/6、換算で間違いないと思う
491卑弥呼の都は久留米:2012/03/28(水) 01:11:40.05
伊都國は末盧國東南500里の佐賀平野。

倭人伝文中の「到」について。
「從郡至倭」に対応する語が「到」である。
狗邪韓國で倭に「到」着。
伊都國(イト)で以前の倭都(イト)に「到」着。

倭都とは、卑弥呼共立以前の倭國王の首都。
卑弥呼共立以前の倭國王とは、倭國王帥升の王統。

492日本@名無史さん:2012/03/28(水) 01:25:01.43
>>487
じゃあ距離で書いた方がよかったのでは?
493日本@名無史さん:2012/03/28(水) 01:25:25.58
>>487
>紀行文なのか、軍事記録なのかで扱いが変わるだろう。
>実際に掛かった日数であり、距離と関係がないという立場は、
>紀行文としての立場だろう。

軍事記録でも紀行文でもない。
勅使が倭へ来た目的を実行するための日数であり、
その目的に気付かせるための記述だ。

>>488
>そりゃ駄目だ。記載通りに読むべきだ。日数を無視してはトンデモにすぎん。

其餘旁國遠絶不可得詳から
勅使は
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国
以外の国へは行っていない。
だから
所要日数と考えるのは間違い。
494卑弥呼の都は久留米:2012/03/28(水) 01:27:26.76
>隋書倭国伝も百済伝もググれば、現代語訳が幾つか出てくる。
>それと実際の地図を測定してみれば、一月行の距離が、
>7〜80キロ程度なのがわかるだろう。

其の通り。
それだけではない。

[身冉]牟羅國済州島の大きさから、俀國九州諸島の大きさを計ると、
一月行の距離が、7〜80キロ程度なのがわかる。
495日本@名無史さん:2012/03/28(水) 01:30:44.62
>>490
百済から済州島まで水行3ヶ月と書かれてるから

根拠にならんだろ?
496日本@名無史さん:2012/03/28(水) 01:33:22.74
単に3日の誤記かも知れん。
497日本@名無史さん:2012/03/28(水) 01:39:42.30
伊都国は1000戸しか住んでおらず、その東南100里の奴国が20000戸でデカいから
そこが吉野ヶ里なんでねーの。その東100里の不ミャ国が久留米で
川を下って水路を行く事4日で着く投馬国が有明湾岸の何所か
498卑弥呼の都は久留米:2012/03/28(水) 01:44:46.78
   
「水行1日」も「陸行1月」「海行1月」「船行1年」も、
「里」より大雑把な距離の単位。

水行1日≒陸行1月≒海行1月≒船行1月≒1000里
船行1年≒船行12月≒12000里
499卑弥呼の都は久留米:2012/03/28(水) 01:55:36.01
>>495
>百済から済州島まで水行3ヶ月と書かれてるから根拠にならんだろ?
上記は間違い。
百済から済州島まで海行3月と書かれてる。

百済から済州島まで210〜240km。
海行3月=210〜240kmだから、
海行1月=70〜80km
500日本@名無史さん:2012/03/28(水) 01:59:40.05
>>497
>伊都国は1000戸しか住んでおらず、その東南100里の奴国が20000戸でデカいから
>そこが吉野ヶ里なんでねーの。その東100里の不ミャ国が久留米で

http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG
伊都国は佐賀大和都渡城付近
奴国は佐賀大和〜吉野ヶ里
不弥国は吉野ヶ里
吉野ヶ里から久留米の間は弥生時代遺跡がほとんど無い。
当時は海だったと考えられる。
距離も12q以上あるので
一般的に直線では進めないことを考慮すれば百里よりも二百里に近い。
501日本@名無史さん:2012/03/28(水) 03:29:28.86
>>499
一日3kmも動いてない件について
何やってたんだよww
502日本@名無史さん:2012/03/28(水) 04:14:25.34
中華な国の優雅さアピールですね
503日本@名無史さん:2012/03/28(水) 04:36:59.69
低湿で平坦すぎる土地は生産に向いてなかったっぽいよ。
山地に近い少し傾斜のある平地、下手すれば台地のようなところとか。
そういう土地の方が水を巡らせやすい。
504日本@名無史さん:2012/03/28(水) 07:20:33.86
>伊都国は1000戸しか住んでおらず、その東南100里の奴国が20000戸でデカいから
>そこが吉野ヶ里なんでねーの。その東100里の不ミャ国が久留米で
当時は筑後川の両岸には吉野ヶ里クラスの集落がたくさんあったと考えられているよ。

505日本@名無史さん:2012/03/28(水) 08:14:13.37
当時の筑紫平野は
甘木〜朝倉〜北野〜久留米、八女〜筑後〜高田〜大牟田〜荒尾〜と
山沿いに
佐賀大和〜吉野ヶ里と同じようにびっしりと遺跡が密集している。
多少遺跡があ薄いのは吉野ヶ里〜鳥栖だけ。

筑紫平野の中央部は
現在の筑後川の両眼を含めて無数の島があり
絶在海中洲島之上或絶或連と言う状態。
http://flood.firetree.net/?ll=33.5000,130.0400&z=5&m=1
506日本@名無史さん:2012/03/28(水) 08:19:56.72
507日本@名無史さん:2012/03/28(水) 08:30:00.91
そうっすね
堆積が進んでなくて海岸線が海進○mとかと似たような形になる
特に河川下流域で海岸線の位置が大きく違う
大阪平野に河内湖(河内湾)てのがあったんだけど、あれがわかりやすいよ
508卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/28(水) 08:41:34.63
>百済から済州島まで海行3月と書かれてる

これはつまり百済が遼西にあったと思われる記録である。
百済が韓国にあったのなら、三か月もかかるはずがない。
509日本@名無史さん:2012/03/28(水) 08:53:07.00
百済は渡海済みなんだから済州島ぢゃないだけさ
510日本@名無史さん:2012/03/28(水) 08:58:46.95
堤防壊れたら有明海沿岸の土地は現在でも相当水没しちゃうよ

日本海側とちがって有明海沿岸のは干満の差が馬鹿でかいから

ふつうに二万戸とかの國なんて成立するわけとかないよね
511卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/28(水) 09:09:15.06
『北史』百済伝
其南 海行三月有耽牟羅國…西行三日 至貊國千餘里云。

南に海行三月で耽牟羅國(済州島?)があるということは、百済は遼西にあったとしか考えられないのだが、
西行三日で貊國に至るというのは不可解で、要するにあまり信を置けない史料である。
512日本@名無史さん:2012/03/28(水) 21:15:16.63
邪馬台国朝鮮半島説? つまり倭国は日本列島ではないって事?
513日本@名無史さん:2012/03/28(水) 21:47:00.60
>>493
>所要日数と考えるのは間違い。

所要日数だよ。 でなきゃ、伝にわざわざ記載する意味がねえだろ。
514日本@名無史さん:2012/03/28(水) 21:52:34.51
史書は報告書じゃなく白書みたいなもんだから
515日本@名無史さん:2012/03/28(水) 21:54:42.48
>>513
>所要日数だよ。 でなきゃ、伝にわざわざ記載する意味がねえだろ。

所要日数と考える限り、無理な解釈をするしかなくなる。
邪馬台国の場所は永久に判らない。

普通は
所要日数でなければ記載する意味がない。
ところが
明らかに所要日数ではないのに記載してある。
と言う事は
水行二十日水行十日陸行一月と言う日数に記載するだけの重要な意味があるという事だ。
516日本@名無史さん:2012/03/28(水) 22:01:06.81
漢の時代から中国人は何故か東夷に甘いよ
商、周の礼儀が残っているとか、温和だ剽悍だ折目正しいだとか、略奪をしないとか
517日本@名無史さん:2012/03/28(水) 22:09:23.17
>>493
>勅使は対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国
>以外の国へは行っていない。だから所要日数と考えるのは間違い。
所要日数であることを否定する理由になってないな。
使者は投馬国や邪馬台国へ行った。となれば、所要日数を書くことはできたわけだ。

>>515
>所要日数と考える限り、無理な解釈をするしかなくなる。
無理な解釈はまったく不要。素直に解釈すればいい。それで何も問題はない。

518日本@名無史さん:2012/03/28(水) 22:09:46.27
>>515
>水行二十日水行十日陸行一月と言う日数に記載するだけの重要な意味があるという事だ。

だから、その意味を考察し主張すべきだろう。
それが、俺の主張だ。 結論の連呼をいつまでやってるんだ!
「重要な意味」があるんだろ?
519日本@名無史さん:2012/03/28(水) 22:17:34.55
例えば水行3日というのが、実際に船で3日掛かったのではなく
距離の単位でしかないというなら、里と水行○日を使い分ける必要はどこにあるの?
520卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/28(水) 22:19:20.69
>>512
私への質問か? そう、倭が日本とはかぎらない。

楽浪海中有倭人←渤海周辺に倭人がいるという認識。
白狼水(大凌河上流)は…東流して倭城の北に至る、蓋し倭地人これに移る ←これも渤海周辺に倭人がいるという認識。

陳寿はたしかに日本(と韓国南部)を倭と認識しているようだが、
それ以前の中国が倭をどこと認識していたかは不明。

卑弥呼が朝貢した倭とは、常識的には日本か韓国南部だろうが、
馬韓、弁辰、加耶、さらに靺鞨、濊貊なども候補に入れておく必要がある。
521日本@名無史さん:2012/03/28(水) 22:21:00.31
>>498
なら全部1000里とか12000里と書けば良いじゃないか。
522日本@名無史さん:2012/03/28(水) 22:41:03.40
>>520
早速のご回答ありがとうございます。
しかし三国志東夷伝に準拠するなら、倭人と習俗が異なる
馬韓、弁辰、濊が倭であるというのは大いに疑問です。

また日本列島と朝鮮半島南部、すなわち常識的にいう倭の領域
(倭人国家の可能性が高い加耶を含む)には、他とは異なる民族が
いたと見られること、倭人条に見られる倭人の習俗は女王国がかなり
温暖な地である事を示唆すると考えると、朝鮮半島中部以北に位置するのは厳しいのでは?
523日本@名無史さん:2012/03/28(水) 22:49:56.93
>陳寿はたしかに日本(と韓国南部)を倭と認識しているようだが、

倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑 陳寿は倭人がいるところは島だと
明記してるだろ。韓国南部は島ではない。
524日本@名無史さん:2012/03/28(水) 22:59:21.42
まあ、倭の領域であったってことだろうね>半島南部
525日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:05:01.67
山島でないところに倭の領域なんてないさ。
526日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:12:38.98
>>517
>所要日数であることを否定する理由になってないな。

対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国以外の国は
其餘旁國遠絶不可得詳と記載していることや
連周旋可五千餘里から所要日数ではない。

>無理な解釈はまったく不要。素直に解釈すればいい。それで何も問題はない。

で、
不弥国投馬国邪馬台国は何処になるんだ?
どこにも特定できないはずだ。

>>518
>だから、その意味を考察し主張すべきだろう。

水行二十日水行十日陸行一月が所要日数ではあり得ないことを認識し認めてからの話だ。
527日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:16:14.43
楽浪海中とは、

楽浪は当時、漢王朝の最も東の支配地であり
その認識された楽浪という支配地名を用いることによって「東端」という意味を表す
楽浪海中とは、楽浪の周辺海域という意味ではなく
東端にある海域という意味
528日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:19:27.20
つまり中国より東であれば、ほぼどこでも「楽浪海中」の要件を満たすと?
529日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:20:27.52
>>524

当時中華王朝以外に領域と言う概念は存在しない
だから「韓」は領域で表現せずに「三種」という概念を用いてこれを紹介している

倭の領域などと言うものは存在しない。
530卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/28(水) 23:20:28.69
>>522
私は倭人伝の行程記事や地理風俗気候記事は完全に無視しているのです。
というのはそこに書かれているのはたしかに日本もしくは南方の風俗だからです。

しかし朝貢したのは日本とは限らない。加耶か任那日本府が倭国と名乗って朝貢したのかもしれない。
さらに馬韓、弁辰、加耶、靺鞨、濊貊…かもしれない。
というのは倭の五王が中国に献上した品が貂皮と人参なのだからwww
これは韓国南部というより北鮮か満州の特産物なのだから。
531日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:27:32.81
>>528

>つまり中国より東であれば、ほぼどこでも「楽浪海中」の要件を満たすと?

そうではないだろう
楽浪という支配地名を明記する事によってその支配する地域概要が明確になり
中国を中心とする東でもその範囲は自ずと限定されることになる
つまり、その倭人は
中国に挨拶に来るときは、必ずその支配地域である楽浪を一度経由しなければならない地域と言うこと
だから「楽浪海中有倭人」
532日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:38:12.32
とにかく、島でない朝鮮半島に倭人の国はないんだよ。
533日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:38:12.63
>加耶か任那日本府が倭国と名乗って朝貢したのかもしれない。

それは100%あり得ない話で
「倭国」というのは中国王朝側が外交上相手に対し便宜上明記するもの
「国」という概念は、あくまでも中国側が持つ概念だ
534日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:39:45.46
>>530
女王国の位置を求めるのに、その出典である倭人伝を無視して
倭の五王を重視するのか、理解に苦しみます。また、倭の五王の記事が
邪馬台国が日本列島ではないという根拠になるというのも理解出来ません。

通説に従えば卑弥呼が朝貢したのはAD238年。品物は奴隷と班布です。
倭の五王の朝貢は、AD413年以降と考えられていますから、200年も後です。
これは現代の産業と矛盾するから、江戸時代の習俗は日本ではあり得ないと
主張しているようなものではありませんか?

極論ですが、この200年間に倭が朝鮮半島を征服してしまったなら、
「女王国は日本列島」「倭の五王が貂皮と人参を献上」は両立します。
535日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:40:32.88
>>523
半島南部にあった狗邪韓国は倭人の国、そう書いてる
536日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:41:15.80
考古学的事実や諸文献を突き合せれば、半島南部が倭の領域だったのは明らかっぽいけどね
537日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:43:01.94
「任那日本府」 -- 「日本府」はおまけでついてるだけ

「彌馬那」が「任那」で「壬那」は「北那」
538日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:45:56.21
>>526
>投馬国、邪馬台国以外の国は、其餘旁國遠絶不可得詳と記載していることや
>連周旋可五千餘里から所要日数ではない。
意味不明だな。理由になってないね。 

>不弥国投馬国邪馬台国は何処になるんだ?
>どこにも特定できないはずだ。
なぜ、特定できないはずって話がでてくるのかな?

普通に読んで不弥国、投馬国、邪馬台国は特定できるよ。










539日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:47:38.08
>>535
>半島南部にあった狗邪韓国は倭人の国、そう書いてる
誤読だな。そんなことは書いてない。

540日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:52:21.54
割り込み大変申し訳ありません。
自称霊能者さんへ。
要は仁より上になんかあるだろうっつうんだが、
救え中国学問界
541日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:52:55.89
でーばでもてて、盛衰満杯は与え組。まるで韓国人対日本人
542日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:53:16.75
すいません。エラーでたもんで。
543日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:54:03.19
>>538
>普通に読んで不弥国、投馬国、邪馬台国は特定できるよ。

だからその場所を聞いている。

>なぜ、特定できないはずって話がでてくるのかな?

可能なら所要日数だと考えるべきで
邪馬台国論争はとっくに決着しているはずだ。
決着してい無いという事実が特定できないことを証明している。
違うというなら
その場所をを特定してその場所を提示すればよかろう。
544日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:57:29.37
ランダム対ランダムってどうなるの?
545日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:58:36.69
他所行きますんで
546日本@名無史さん:2012/03/28(水) 23:58:38.26
>>543
伊都国がどこにあったかは理解しているのかな? 伊都国は佐賀市付近だ。
そこから東へ百里、不弥国は吉野ヶ里付近だよ。
伊都国から南へ水行二十日、投馬国は薩摩川内付近だな。
伊都国から南へ水行十日陸行一月、邪馬台国は日向だ。何も問題はないだろ。
547日本@名無史さん:2012/03/29(木) 00:15:23.21
【漢委奴國王】』ってなんて読むのかな?
548日本@名無史さん:2012/03/29(木) 00:17:42.53
>>539
ほれ、三国志と後漢書のどちらも倭の最北西端を、半島南部の狗邪韓国だとしている。

倭人在帯方東南大海之中,(中略)従郡至倭,循海岸水行,歴韓国,乍南乍東
, 到 其 北 岸 狗 邪 韓 国 ,七千余里, 始 度 一 海 ,千余里至対馬国。

倭在韓東南大海中,(中略)其大倭王居邪馬台国。楽浪郡徼,去其国万二千里
, 去 其 西 北 界 拘 邪 韓 国 七千余里。
549日本@名無史さん:2012/03/29(木) 00:18:38.67
>>546
>伊都国から南へ水行十日陸行一月、邪馬台国は日向だ。何も問題はないだろ

何も問題はないどころか何も解決していない。
まともな思考力のある人ならば誰でも失笑するだろう。

@伊都国から南へ水行十日陸行一月かけて日向まで行って途中に国は無かったのか?
水行十日陸行一月の間に他の国へは一国たりとも寄らなかったのか?
そんなことはあるまい。
其餘旁國遠絶不可得詳と言うのは他の国へは一国たりとも寄らなかったと言う意味だぞ。

A邪馬台国は日向で周旋可五千餘里はどの範囲だ?
末盧国と日向を入れて周旋可五千餘里で収まるわけが無かろう。

B自郡至女王國萬二千餘里から
末盧国から邪馬台国まで二千里しかない。
日向までは行けまい。

C投馬国薩摩川内、邪馬台国日向に否定したら
その南にあるはずの狗奴国は何処に否定するつもりだ?

D場所を特定できたと言っているが
伊都国から南へ水行十日陸行一月がどうして日向になるんだ?

何も問題はないどころか何も解決していない。
まともな思考力のある人ならば誰でも失笑するだろう。
550日本@名無史さん:2012/03/29(木) 00:24:40.45
>>546
何も問題はないのじゃなく
日向に邪馬台国を強引に誘致しようとしているだけだな。
551日本@名無史さん:2012/03/29(木) 00:45:19.69
南に水行十日か一月、陸行一月。温暖で、夏冬とも生の野菜を食べ、みんな裸足。
古墳も九州随一。日向も立派な候補地だろう。
552日本@名無史さん:2012/03/29(木) 00:49:46.56
一月行を短里千里に換算するだけで、全て解決。
これは、だいたい、実距離の1/6である。
553日本@名無史さん:2012/03/29(木) 01:07:23.31
>>548
>三国志と後漢書のどちらも倭の最北西端を、半島南部の狗邪韓国だとしている
どちらの読み方もまちがっているな。
三国志は倭の北の対岸にある狗邪韓国という意味。
後漢書は、倭の西北の境にある狗邪韓国という意味。
いずれも狗邪韓国が倭の国だというわけではない。
554日本@名無史さん:2012/03/29(木) 01:17:46.85
>>549
>水行十日陸行一月の間に他の国へは一国たりとも寄らなかったのか?そんなことはあるまい。
寄らなかったんだろ。いかんか?

>末盧国と日向を入れて周旋可五千餘里で収まるわけが無かろう。
周旋というのが一周だと思い込んでいるな。ぐるりと回って向こうへいくというだけだ。
末盧国から九州東南端まで、これが五千里だと言ってるんだよ。

>自郡至女王國萬二千餘里から末盧国から邪馬台国まで二千里しかない。
>日向までは行けまい。
二千里で到達するのは邪馬台国ではない。女王国と書いているだろうが。
女王国の始まりだよ。邪馬台国は女王国の奥の奥だ。 二千里にこだわるのは間違い。

>狗奴国は何処に否定するつもりだ?
大隅半島か種子島か、どちらも可能性はあるな。

>伊都国から南へ水行十日陸行一月がどうして日向になるんだ?
薩摩川内までが水行二十日。そしたらその半分の水行十日で上陸する所は八代
あたりだろう。そこから南へ道があるだろうが。道に従えば、行き先は日向だ。





555日本@名無史さん:2012/03/29(木) 03:23:52.76
>>553
コテを外したのか、漢文も読めない妄想ハングラー。

従郡至倭,循海岸水行,歴韓国,乍南乍東,到其北岸狗邪韓国
楽浪郡より倭へ至るには、韓地域を経て、南へ東へ、海岸沿いに海路を行くと、倭の北の境である狗邪韓国へ到着する。

楽浪郡徼,去其国万二千里,去其西北界拘邪韓国七千余里。
楽浪郡から巡り、其の国へ行くこと一万二千里、其の北西の境である狗邪韓国へ行くこと七千余里。

どちらも狗邪韓国が倭の国という意味だ、事実を受け容れような。
556日本@名無史さん:2012/03/29(木) 03:43:23.88

     _______                     __
    // ̄~`i ゝ                    `l |
    / /        ,______   ,_____    ________  | |  ____ TM
   | |     ___ // ̄ヽヽ // ̄ヽヽ (( ̄))   | | // ̄_>>
   \ヽ、   |l | |    | | | |    | |  ``( (.  .| | | | ~~
      `、二===-'  ` ===' '  ` ===' '  // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二=''
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         |街宣車の正体  朝鮮人工作員     .| |検索|←をクリック!!


テレビが言えない民主党のスポンサー=韓国北朝鮮
あとはもうわかるよな
民主党は、朝鮮人だらけ。
野田はどうだろうか。韓国人の集いに出席し、韓国人暴力団から賄賂を貰っている野田は
557日本@名無史さん:2012/03/29(木) 03:53:46.51
俺は強どの本買えばいいかすごい迷った。
558日本@名無史さん:2012/03/29(木) 03:54:26.96
強い気あびて統合失調症
559卑弥呼の都は久留米:2012/03/29(木) 03:56:09.45
>>548
>三国志と後漢書のどちらも倭の最北西端を、半島南部の狗邪韓国だとしている。

其の通り。

しかし、狗邪韓國は韓地の倭としている。
それに、「歴韓國」の韓國も韓地の倭だ。

周旋可五千餘里の倭地は、狗邪韓國から「度一海千里」をした大海中の倭だ。

倭人が居住する大海中に絶え連なる山島洲島海域が「倭地」だ。
560日本@名無史さん:2012/03/29(木) 03:58:01.96
上はちょっと作った。
本推薦したいがなあ・・・
561日本@名無史さん:2012/03/29(木) 03:58:44.46
janeから消すわ。
562日本@名無史さん:2012/03/29(木) 06:43:34.06
>>555
>狗邪韓国が倭の国という意味だ、事実を受け容れような。
思い込みだな。山尾が次のような文例をあげている。「魏志倭人伝」

新唐書地理志に次の文がある。「又五日行して海zに至る。蕃人これを質という。
南北百里なり。北岸は即ち羅越国、南岸は即ち仏逝国なり。・・・又西してzを
出ず。三日にして葛葛僧祇国に至る。仏逝の西北隅の別島に在り。・・其の北
岸は則ち箇羅国なり。」葛葛僧祇という島国の海をへだてた北の対岸に箇羅とい
う国があるのである。
563日本@名無史さん:2012/03/29(木) 06:50:59.84
蓋國は外国です
蓋國は朝鮮です
朝鮮で政権盗られた王は韓に逃げてきます
韓はいちおう朝鮮とはちがいます
朝鮮王が逃げて来るところが韓です
蓋國の北側は鉅燕の時もありましたよ そんときは
蓋國は倭の北に在りましたよ 従って
韓は倭と称されていた時期もちょとはありましたねえ
韓はその昔は辰國と称されていた時期もちょとはありましたねえ
しょぼい辰王さんがいたって書いてあるからこれもがちですねえ
辰王さんは居候さんみたいなかんじですよ てか
「加優呼」さんて「卑弥呼」さんのなかまあかなあ

「加優呼」さんのお仕事のひとこまで
----------------------------------------
信鬼~ 國邑各立一人主祭天~ 名之天君
又諸國各有別邑 名之爲蘇塗 立大木 縣鈴鼓 事鬼~
諸亡逃至其中 皆不還之 好作賊
----------------------------------------
「信鬼~」ってゆうと 「鬼道使い」さんなんでしょね
彼女 たぶん彼女も「天~」を祭る「天君」だみたいですよ
「立大木 縣鈴鼓 事鬼~」で「鐸舞」なんかもあるんですってさ

いちばん終いのところは 「アジール」ぽいこと書いてあるなあ
564日本@名無史さん:2012/03/29(木) 08:25:40.00
>>526

水行二十日水行十日陸行一月が所要日数ではあり得ないことを認識し認めてからの話だ。

じゃ、何にために記載されたと考えてるの?
565日本@名無史さん:2012/03/29(木) 08:35:31.75
566日本@名無史さん:2012/03/29(木) 09:28:39.10
邪馬台国九州説は日教組の陰謀
567卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/29(木) 09:32:38.78
>>534
陳寿の東夷伝や倭人伝ばかりを尊重するのはやめよう。
中国には他にもいくつもの文献があるのだから。

それと私は、邪馬台国は日本ではない、とは言っていないのである。
私は、ごく単純に、邪馬台国は大和で、卑弥呼とは神功皇后の噂が中国に伝わったものだろう、と考えているのである。

ただ、日本から朝貢した、とは思っていないわけで、加耶や任那が倭国を名乗って朝貢したこともありうると思っているわけで、
さらにその倭国というのが、馬韓、弁辰、靺鞨、濊貊…である可能性すらあると思っているのである。

そんなことはありえない、という>>533のような意見もあるわけであるが、
絶対にない、と決めつけることはやめようと思っているのである。

半島南部が倭に属するか否かで細かい議論が続いているようだが、これも、
どちらとも決められない以上、決めつけるのはやめようと思うのが私のスタンスである。
568日本@名無史さん:2012/03/29(木) 11:32:54.94
>>557
本は誰が書いたかで内容が全く異なる。
邪馬台国研究は、倭人伝に始まり、倭人伝に終わる、と言っていいかもしれないな。
569日本@名無史さん:2012/03/29(木) 11:44:47.90
640 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/18(土) 15:05:47.13 ID:sskgsjsc0 [2/2]
『平清盛』プロデューサー在日朝鮮人 磯智明(反日・天皇制度廃止論者)のプロデュース作品

@『監査法人 (2008)』反体制・反社会

A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会

B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会


日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C ←よく痴漢やヤクで捕まるのはここの工作員


テレビが言えない民主党のスポンサー=韓国北朝鮮
あとはもうわかるよな
民主党は、朝鮮人だらけ。
復興が遅れるのも当たり前。脳がない奴が大臣やってるから
野田はどうだろうか。韓国人の集いに出席し、韓国人暴力団から賄賂を貰っている野田は

570卑弥呼の都は久留米:2012/03/29(木) 12:48:25.33
>>564
>>水行二十日水行十日陸行一月が所要日数ではあり得ないことを認識し認めてからの話だ。
>じゃ、何にために記載されたと考えてるの?

「水行二十日・水行十日と陸行一月・船行一年・海行三月と三月行・五月行」は、
倭人が使っていた距離単位による距離の3種類の表現方法。
シナ側で直接測定したものでない場合は、現地人からの伝聞を記載。
直接測定の場合は「里」、伝聞の場合は「日」「月」「年」で記載。

「○行」は移動方法
水行 : 循海岸移動、淡水(湖沼江河川水路)移動
陸行 : 陸上移動
海行 : 海上移動(渡海を伴う)
船行 : 海上沿岸移動(渡海を伴うとは限らない)
行  : 移動方法を定めない

距離表示単位
1日 : 凡千里、70〜80km
1月 : 凡千里、70〜80km
1年(=12月):凡万二千里、850〜1300km  

補足
「行一日」、「一日行」は、凡3.3里(1月の30分の1)
571大訂正!:2012/03/29(木) 13:25:11.19
>>570 名前:卑弥呼の都は久留米

>「○行」は移動方法
て、
誰が決めた。

行の清代段玉裁『說文解字注』には、

「从彳亍。彳,小步也。亍,步止也。」

とある。
それ故

「行」とある時、そこが一連の行程の終焉を意味する。
ということだ。

だから、
末廬國⇒伊都國
末廬國⇒奴國⇒不彌國
末廬國⇒投馬國
末廬國⇒邪馬壹【臺】國 

いう行程である。

陳寿は記述している。
572日本@名無史さん:2012/03/29(木) 13:34:09.46
自分の意見はともかく、
他人の意見を勝手に訂正しちゃダメだよ。
573日本@名無史さん:2012/03/29(木) 19:11:19.80
>>562
妄想ハングラーの願望に基づく捏造解釈はもういいから

従郡至倭,循海岸水行,歴韓国,乍南乍東,到其北岸狗邪韓国
〜至倭 〜到其北岸 から解る通り、「到其」は倭国に到着した事を指す。
つまり、楽浪郡から海路7000里で倭国の北の境である狗邪韓国へ到着する。

三日至葛葛僧祗国,在佛逝西北隅之別島,国人多鈔暴,乘舶者畏憚之。
其北岸?箇羅国。箇羅西則哥谷羅国。
〜至葛葛僧祗国 〜其北岸?箇羅国 から解る通り、葛葛僧祇という島国の北岸に在ったのが箇羅国。
574日本@名無史さん:2012/03/29(木) 20:35:38.55
どれもこれも推測・仮説に過ぎないのだから、その辺をわきまえた書き方があるだろ
断定口調の輩はそういうバランス感覚が皆無なのだろうが
575日本@名無史さん:2012/03/29(木) 21:37:17.91
>>571

>「行」とある時、そこが一連の行程の終焉を意味する。
ということだ。


行、坑也。 つまり「あげる」也
あげるのは勿論「足」

足をあげて前に進むことを「行」といいます。


一連の終焉という意味は発生しません。
576卑弥呼は朝鮮にいた:2012/03/29(木) 22:47:49.95
百済国…西渡海至越州 (旧唐書 百済伝)
百済 西界越州…皆踰海乃至(新唐書 百済伝)

百済の西は海で、その海を渡ると越州(浙江省)である、という認識。

中国人の地理観は唐書が書かれた時点でもこの程度。
やれ倭人伝は短里だとか、倭人伝の里数は正確だとか、
倭人伝の里数は6倍で書かれている、などと論じるのは如何なものか。
577日本@名無史さん:2012/03/30(金) 09:28:51.44
>>573
>妄想ハングラーの願望に基づく捏造解釈はもういいから
山尾はまともな学者だよ。その山尾を 妄想ハングラー呼ばわりとはね。思い込みだけ
ではどうにもならんよ。

>「到其」は倭国に到着した事を指す。
伊都国の「到」はどうするんだい。狗邪韓国で倭国に着いた、伊都国でまた倭国に着いた
では何を言っているのか分からんね。

>葛葛僧祇という島国の北岸に在ったのが箇羅国。
葛葛僧祇国の北岸が箇羅国? 葛葛僧祇国の中ならば北岸も葛葛僧祇国だろうが。




578大訂正!:2012/03/30(金) 12:39:36.27

575 名前:日本@名無史さん :2012/03/29(木) 21:37:17.91

>行、坑也。 つまり「あげる」也
>あげるのは勿論「足」
坑は伉の間違いかNe.
「行、坑也。」なら両足が揃ったじょうたいだろう、つまり静止した状態DA.
>足をあげて前に進むことを「行」といいます。
それは、
「而後爲行者也。」でしょう。
これは、「行」の意で、それを分解すると、
「彳亍。彳,小步也。亍,步止也。」だ、と云う。
だから、「彳,小步也」は進むで「亍,步止也。」は止まる。だ。
止まった先は無いから
『その一連の行程の終焉』という意
になる。
「坑也。」は『穴』だよ〜〜〜〜〜。。。。。

579大訂正!:2012/03/30(金) 13:37:19.90
「而後爲行者也。」でしょう。
は、
「伉足而前也。」かね。

580日本@名無史さん:2012/03/30(金) 14:15:59.89
>「彳,小步也」は進むで「亍,步止也。」は止まるだ。止まった先は無いから
>『その一連の行程の終焉』という意になる。
「止まった先は無い」などというのは勝手なこじつけ。また進めばいいだけのことだ。


581大訂正!:2012/03/30(金) 14:23:20.60
【彳亍彳】という文字が存在するなら

彳で進む、亍で止まる、彳で進む

名無しの要望を満たすだろう。 藁。。。
582日本@名無史さん:2012/03/30(金) 17:03:14.01
>>577
妄想ハングラーが願望に基づき捏造解釈するのは勝手だが、現実は受け容れないと

韓在帯方之南,東西以海為限,南与倭接,方可四千里。
つまり、韓は南を倭と接し海とは接していない。

從郡「至倭」(ここ重要),(中略),「到其北岸」(ここ重要)狗邪韓國,
楽浪郡から倭へ至る、行程を挙げ、倭の北の境である狗邪韓国に到着する。と記す

東南陸行五百里,到伊都國,
東南へ陸行五百里で伊都国に到着。

三日至葛葛僧祗国,(中略)。其北岸「則」(ここ重要)箇羅国。
葛葛僧祗国の北岸が即ち箇羅国。
583日本@名無史さん:2012/03/30(金) 17:12:04.73
>つまり、韓は南を倭と接し海とは接していない。
海を隔てていても「接」ということを知らないな。接触だけではない、
接近も接なんだよ。

>倭の北の境である狗邪韓国に到着する。と記す
倭の北岸というのは、倭の北方の岸というだけのこと。その岸が倭に属する
と言っているわけではない。

>葛葛僧祗国の北岸が即ち箇羅国。
葛葛僧祗国と箇羅国は同じ国なのかい、それとも別の国なのかい?




584日本@名無史さん:2012/03/30(金) 18:04:33.85
>>583
>海を隔てていても「接」ということを知らないな。接触だけではない、
>接近も接なんだよ。

だったら、東西南以海為限と書いてるだろ
585日本@名無史さん:2012/03/30(金) 19:19:01.32
>>583
>在帯方之南,東西以海為限,南与倭接,
東西を海で隔てられ、南を倭と隣接する。言い逃れの余地は無いだろw

>到 其北岸狗邪韓国
倭の北境である狗邪韓国、に到る。倭の北の果てだと書いている

>楽浪郡徼,去其国万二千里,去其西北界拘邪韓国
12000里で倭の西北の境である拘邪韓国へ行く、そう書いている。

>三日至葛葛僧祗国,(中略)。其北岸「則」箇羅国。
葛葛僧祗国の北岸は「即ち」箇羅国。
即ちで葛葛僧祗国の北岸と箇羅国を=としてる
586日本@名無史さん:2012/03/30(金) 21:42:09.75
>>584

>だったら、東西南以海為限と書いてるだろ

次に倭人伝が続くので「限」を使用する事はありません。

韓の東西は「海」と限ることで東西に位置する伝としては存在しないが、南は倭人伝が用意されているので
海を限りとすることをしなかった

という事情だ。
587日本@名無史さん:2012/03/30(金) 21:47:30.44
其北岸狗邪韓国の其は大海を指し、決して倭ではありません。

其北岸とは、大海の北に岸(狗邪韓国の)
588日本@名無史さん:2012/03/30(金) 21:55:57.17
韓地の南には倭地があり倭の縄張りの海峡がありさらに渡ると倭地があり

とゆうつくりですねえ

韓地には内部の方までたくさんの倭人がちらばっていますねえ
589日本@名無史さん:2012/03/30(金) 22:02:59.09
卑弥呼さんは蛇とかが好物の祈り姫じゃろて

皇帝さんのとこもそれ知っているはずだから

金印でてきたらやっぱ蛇のおつまみのだろうさね
590日本@名無史さん:2012/03/30(金) 22:05:54.86
>>588

>韓地には内部の方までたくさんの倭人がちらばっていますねえ

それを言い出したら
帯方郡にも洛陽にも倭人の形跡は記録として存在します。

現在だって世界中に日本人は散らばり存在しています。

>韓地の南には倭地があり

倭人在帯方東南大海之中。
この一文を重視すれば、倭地が半島の南部に存在したなんて馬鹿なことは言わなくなる
倭人は飽くまでも大海の中に存在する島の住人という設定だ
591日本@名無史さん:2012/03/30(金) 22:07:55.83

委鬼 から 金印もろたのが

委 の 邪馬 の 鬼 むすめだからして

陳壽さんて頭ええよね
592日本@名無史さん:2012/03/30(金) 22:12:36.90
>>578

>『その一連の行程の終焉』という意

終焉しないからこそ
形容詞的使用で(固定していないさま)という意味が生じているんだろ
終焉してしまってはその意味は固定されてしまう。
593日本@名無史さん:2012/03/30(金) 22:16:00.57
帯方縣なんて帯水の北向きの流れのところにあって

朝鮮縣から50〜60km南のとこにあったんだよね

えろ北のほうの朝鮮の地のはしらんけど

北緯37度を限る厳密な意味での韓地なんてさ

   倭人で ぢゃぶぢゃぶ ぢゃん
594日本@名無史さん:2012/03/30(金) 22:29:31.32
倭人在帯方東南大海之中。

半島の南岸も「帯方東南大海之中」にありますねえ

ちゃんと読めばわかりそうなものなのにさ。
595日本@名無史さん:2012/03/31(土) 00:04:02.40
>>594

それは個人的にそう思っているだけで、「あります」ということを証明できていませんね
証明できなければ
たんなる個人的な思い込みということになります。
596日本@名無史さん:2012/03/31(土) 00:09:34.06
オッカムのかみそりって知ってる?
無理矢理こじつけて読まなくても、素直によめば半島南部は倭の領域だよ
事実、半島南部には日本人がつくった古墳がある
597日本@名無史さん:2012/03/31(土) 00:21:43.41
侵略って形でなく平和的に半島南部に移住して生産活動をしてた
598日本@名無史さん:2012/03/31(土) 00:57:30.47
>>594
諦めろ、妄想ハングラー
>韓在帯方之南,東西以海為限,南与倭接,
漢文を読める人間なら誰がどう読んでも、三韓は東西のみが海で隔てられ
南は倭と隣接していたとしか読めない
599日本@名無史さん:2012/03/31(土) 00:58:24.06
>>597
倭人系の民は

半島列島どちらが中心というわけでも無しに

そこいらじゅうに生息していた

倭人系かどうかという判断は中華の人が名前付けてやっているわけだから

ちょっとずれた倭人系のひとのグループのこと

ちがうお名前で呼んでいたかもしれんよ

例えば * とかさあ

あと金属器持ち込んだグループとかが毛色がちがうのに

なかむつまじくやらかしていたりとゆうのもあるしね
600日本@名無史さん:2012/03/31(土) 14:40:34.06
韓も倭ももともと大陸にいたんだよ
倭人は江南から船に乗ってやってきた米と魚を食べてる人たち
韓は華北から歩いてきた人たち
もともと朝鮮半島にあった国は衛氏朝鮮も漢四郡も公孫氏も魏も
華北の人が立てた国だ
朝鮮半島には華北から来た人が一番多かったと思うよ
でも朝鮮半島南部には船でやって来た倭人がたくさんいたと思うよ
601日本@名無史さん:2012/03/31(土) 16:49:35.78
1 名無しさんにズームイン! [] Date:2012/03/28(水) 08:28:15.02  ID:NWYs/2ZP Be:
 やらなけゃいけない
 電○の各局への圧力が半端ないんです
 昨日、一昨日前田AKB卒業ネタやった情報番組全てが前田AKB卒業ネタ中の毎分で視聴率がダダ下がりしました。
 各局本音では毎分視聴率ダダ下がりするこのネタははやりたくなかったけど原子力村以上に電○からの圧力が凄いんです

ブーム捏造、枕営業、自社買い、サクラの動員そして
AKBの捏造ブームのために税金が大量に使われている証拠がこちら

やっと気付いた「AKBに電通が絡んでる」ではなく「AKBの正体が電通」な件 その122
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1332925336/

テレビの捏造ブームに騙されるな
602日本@名無史さん:2012/03/31(土) 18:21:28.94
普通に読んだら海のそこになるらしいが。そこに沈んでるって可能性はないかな?
603日本@名無史さん:2012/04/01(日) 08:16:01.31
604日本@名無史さん:2012/04/01(日) 08:48:10.28
あ?
605日本@名無史さん:2012/04/01(日) 08:55:17.68
東夷伝の都は洛陽ではなく、仮の洛陽となる帯方郡庁が東夷にとっての玄関であり、仮の都となる。
606日本@名無史さん:2012/04/01(日) 09:20:04.89
>普通に読んだら海のそこになるらしいが。
ならんよ。大和へもっていきたい連中が海だというだけだ。
607日本@名無史さん:2012/04/01(日) 09:25:16.23
>>585
>葛葛僧祗国の北岸は「即ち」箇羅国。
>即ちで葛葛僧祗国の北岸と箇羅国を=としてる
葛葛僧祗国と箇羅国は同じ国なのかい、それとも別の国なのかい?


608日本@名無史さん:2012/04/01(日) 11:16:55.62
>>607
ああ君は漢文が読めないのか、勉強しておけばよかったのに残念な奴だな。
609日本@名無史さん:2012/04/01(日) 12:35:07.64
漢字が読めない以前に、論理的な思考が出来ないようだ。
610日本@名無史さん:2012/04/01(日) 17:04:03.49
はは、どちらとも答えようがないらしい。正しい読み方をしていないからだよ。
611日本@名無史さん:2012/04/01(日) 19:33:46.03
漢文どころか日本語も読解できてなかったなw
612日本@名無史さん:2012/04/01(日) 21:28:14.63
理論でだめとなると罵詈雑言、まあ、いつものパターンだな。
613日本@名無史さん:2012/04/01(日) 21:30:44.41
>>612
既に教えてやってる
>葛葛僧祗国の北岸は「即ち」箇羅国。
>即ちで葛葛僧祗国の北岸と箇羅国を=としてる。

漢語を知らないのか、日本語が読めないのかどっちだ?
白状すれば教えてやるぞ、現実を受け容れたくないってのは無しな
614日本@名無史さん:2012/04/01(日) 21:33:28.78
何回言ってもわからない奴にはバカとしか言い様がない。
すると必ず罵倒はいけませんとくる。いつものパターンwww
615日本@名無史さん:2012/04/01(日) 21:58:28.04
>葛葛僧祗国の北岸は「即ち」箇羅国。
>即ちで葛葛僧祗国の北岸と箇羅国を=としてる。
そんなことは誰も問題にしていないよ。当然のことだ。
で、葛葛僧祗国と箇羅国は同じ国なのか、それとも別の国なのか
を聞いているんだがね。理解できないのかな?
それこそ、国語も分かってないみたいだね。

616日本@名無史さん:2012/04/01(日) 22:53:16.69
同じ国だろうな
617日本@名無史さん:2012/04/01(日) 23:13:53.69
>>615
妄想ハングラーが日本語と漢文を苦手なのは判ったが
人にはちゃんと下から目線でお願いしなきゃダメだぞ
いまから春秋の筆じゃなく、日本語馬鹿方言に翻訳してやるから。

>韓在帯方之南,東西以海為「限」,南与倭「接」,
東と西を、海で、隔てられ(南は海で隔てられず)、南は、倭と、隣接している。

>従郡至倭,(中略),到「其北岸狗邪韓国」,
倭の北境である狗邪韓国、に到る。

>三日至葛葛僧祗国,(中略)。其北岸「則」箇羅国。
葛葛僧祗国の北岸は、即ち、箇羅国である。
618日本@名無史さん:2012/04/01(日) 23:49:31.39
>>3-4
なるほど! 知らなかった・・・

畿内説は滅んだか。
619日本@名無史さん:2012/04/02(月) 00:51:00.69
>葛葛僧祗国の北岸は、即ち、箇羅国である。
箇羅西則哥谷羅國と続いているな。葛葛僧祗国=箇羅国=哥谷羅國かな?
620日本@名無史さん:2012/04/02(月) 00:57:10.26
>>619
んなわけねーから、葛葛僧祗国≠箇羅国
621日本@名無史さん:2012/04/02(月) 01:17:09.24
>>620
>んなわけねーから、葛葛僧祗国≠箇羅国
そうだろうね。
ということは、次のようになる。
其北岸狗邪韓国。其は倭だから、倭≠狗邪韓国。これが榎や山尾、安田、そして謝
らが指摘しているところ。いわば通説だね。
だが、>>617氏にはそのことが理解できないらしい。

622日本@名無史さん:2012/04/02(月) 01:26:26.68
>>621
其北岸「則」箇羅国の其北岸と箇羅国は則で結ばれてるのに対して
到「其北岸狗邪韓国」では其北岸狗邪韓国が一語で、其処に到るが掛かる
これは、三韓の東西に海があり、南には海が無く倭と隣接すると記した
韓在帯方之南,東西以海為「限」,南与倭「接」,という記述に一致する。

漢文が読めない妄想ハングラーの願望に基づく捏造はもういいから
623日本@名無史さん:2012/04/02(月) 01:35:12.01
>>622
榎「邪馬台国」に次のように説明されていることなんぞ読んだこともないんだろうな。

支那書の外国関係の記事の「A国がB国に接す」とか「A国はB国に界を接す」とかいう表現は、必ずしも常に両者の
領域が文字通り接続していることを意味しない。それはA国とB国との距離に関係なく、A国とB国との間に支那人に知
られている第三国のない場合にも用いられる記述の形式である。このことは、漢書西域伝などについてみれば明瞭で、崑
崙山脈の北のいわゆる南道にあった扜弥や于闐などがタクラマカン砂漠を隔てて北道(天山南路)の亀茲・姑墨と接すと
あるのなどはその一例である。
624日本@名無史さん:2012/04/02(月) 01:46:55.82
>>623
海は別なんじゃないかな。大陸の人間にとって海は隔てるものとの認識。
三国志・韓伝には「(韓は)東西は海を以って限りと為し、南は倭と接する」とある。

狗邪韓国の場合は倭の北岸というわけで、韓の北岸というと全く意味が通じないが、
倭の北岸ならば、なんとなく理解できる。倭の北の方なんだなみたいな。
625日本@名無史さん:2012/04/02(月) 02:00:23.99
倭のコアなところは海で

コアなところを起点にしてあま下ったりとかして

そのまわりに陸地の活動領域確保していたんだろ
626日本@名無史さん:2012/04/02(月) 02:03:10.79
倭の岸だと思うからいけないんだよ。倭というのは、方角の基点を示した語にすぎず、
岸にかかる語ではない。岸がどこに属するかはまったく触れていないんだよ。
つまり、倭の北の方の(朝鮮半島の)岸にある国というだけのことさ。
627日本@名無史さん:2012/04/02(月) 02:11:17.49
>>623
史書の外国伝の「A国がB国に接す」とか「A国はB国に界を接す」とかいう表現は、概ね
以下の様に両者の領域が文字通り接続していることを意味する。

鮮卑の条 其地東接遼水,西当西城。 未有名通於漢,而自与烏丸相接。
陸遜伝 「関羽接境,如何遠下,後不当可憂也?」

韓在帯方之南,東西以海為限,南与倭接,とあるように、南を敢えて東西と区別している点から
海には面せず、倭と隣接していたことが解る。
628日本@名無史さん:2012/04/02(月) 02:15:40.31
對海國も一大國も

無良田 食海物自活 乘船南北市糴

差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 で

食い物不足して困るから米買ってきて喰ってる

対価は何で支払うんだろうかな?

たぶん

攫ってきた奴婢とか鉄とかでお米の対価支払うんだとはおもふが
629日本@名無史さん:2012/04/02(月) 02:34:15.52
>>627
唐会要には次のような記事があるよ。

百濟者、本扶餘之別種、當馬韓之故地。其後有仇台者、為高麗所破、以百家濟海。
因號百濟焉。大海之北、小海之南、東北至新羅、西至越州、南渡海至倭國、北渡
至高麗。

倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。
正北抵新羅。南與越州相接。

つまり、百済に関し南渡海至倭國と明記し、倭国についても北限大海と書いている。
にもかかわらず、すぐに、倭の西北は百済と接するとしている。海が間にあっても接
を用いているわけだ。これは、南與越州相接も同じだろ。中国越州と接していると言
うわけだ。
630日本@名無史さん:2012/04/02(月) 03:43:32.64
>>621
>其は倭だから

これが間違い
海岸に循って水行していて、「其の北岸」といえば、船が進んでいる海の北岸。
つまり「其」は、船が進んでいる海のこと。
631日本@名無史さん:2012/04/02(月) 03:47:16.46
>>629
三国志・後漢書には以下に続く文章群があるよ。つまり、接を隣接する場合に使っていると解る。
東夷列伝 韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西,有五十四国,其北与楽浪,南与倭接,
楽浪郡が馬韓の北にあり、楽浪郡が馬韓と隣接していたのは、妄想ハングラーも御存知の通り。

陸遜伝 「関羽接境,如何遠下,後不当可憂也?」
呉と蜀が荊州で隣り合っていたのは、妄想ハングラーも御存知の通り。

文聘伝 太祖先定荊州,江夏与呉接,
魏と呉が江夏とその東〜東南一帯で隣接していたのは、以下省略。

徐邈伝 明帝以凉州絶遠,南接蜀寇,以邈為凉州刺史,
魏と蜀が涼州と益州で隣り合っていたのは、以下省略。

韓在帯方之南,東西以海為限,南与倭接,と
南を敢えて東西と区別して海に隔てられとしていない点から、
南は海と面していなかったことが解る。つまり、倭と隣接する状態しかありない。

また、西方に関しても中国と接す、とはなっていない。つまり、陳寿は海が在った為に接を用いなかった
仕方ないね、唐会要は三国志から700年以上、白村江の戦いから300年以上後に書かれたのだから。
現に唐会要は唐代の史料から引用された記事しか載ってないよ。
632日本@名無史さん:2012/04/02(月) 03:52:14.19
>>623
その榎説は、2chでも何度かでてきてる。
榎が倭人伝読みすぎて、漢文読解センスがゲシュタルト崩壊をおこした結果だと思うよ。
海と砂漠は決定的に違う。
漢・三国・晋の当時、砂漠の支配権を取り合って戦争した記録はあるけれど、
海の支配権を取り合って戦争した記録は無い。
633日本@名無史さん:2012/04/02(月) 06:42:16.80
>接を隣接する場合に使っていると解る。
接は隣接する場合ばかりでなく、間に海があっても接というに妨げがないと言って
いるんだ。隣接する場合を出しても、海がある場合を否定する理由にはならない。

>南を敢えて東西と区別して海に隔てられとしていない点から、
>南は海と面していなかったことが解る。
接は比較的近い距離のときに使う。東西にはそうゆう国がなかったというだけだ。

>西方に関しても中国と接す、とはなっていない。
接と表現する距離か否かはそれぞれの判断だからね。


634日本@名無史さん:2012/04/02(月) 06:53:01.96
>榎が倭人伝読みすぎて、漢文読解センスがゲシュタルト崩壊をおこした結果だと思うよ。
榎だけではないさ。 山尾も、「3世紀後半の史官は朝鮮半島南部を「倭」と称していた
とまで言ってよいかとなると、私ははっきり否と答えざるをえない。」と述べている。

635日本@名無史さん:2012/04/02(月) 07:12:25.55
>>630
>つまり「其」は、船が進んでいる海のこと。
其を海と解するのは、極めて少数説だね。そして、そう解釈した場合には
狗邪韓国を倭とする理由はなくなる。

636日本@名無史さん:2012/04/02(月) 07:15:55.88
>>634
>「3世紀後半の史官は朝鮮半島南部を「倭」と称していた
>とまで言ってよいかとなると、私ははっきり否と答えざるをえない。」

この世代の人たちは、日韓併合のトラウマがあって、
半島に倭(日本)の領土があったなんてとんでもないという思いがあるんだろう。
実際、戦後の時期にそんな主張をしたら、ものすごい批判を受けただろうね。
だから、漢文の解釈のほうをそれに合わせようとするから、
海を挟んでも接するといえるなんて理屈を捏ねなければならなくなる。
637日本@名無史さん:2012/04/02(月) 07:19:56.39
>>635
>狗邪韓国を倭とする理由はなくなる。

韓伝に、南は倭と接するとあり、狗邪韓国は倭人伝に載っているんだから倭の一部。
「其」が倭である必要はどこにもない。
日韓併合の呪縛から脱するべきだよ。
638日本@名無史さん:2012/04/02(月) 07:32:11.46
>>633
稀な例を一般化してはいけないよ。

>接と表現する距離か否かはそれぞれの判断だからね。
その通り。三国志では>>631に挙げた様に隣り合った状態を表すのに用いている例が多い。
唐会要では倭国の西は越州だとしているが、三国志では馬韓の西が中国だとはしていない
日本から越州より、三韓から山東半島のが大分近いにも拘らずね。時代の違いだろう

後漢書東夷列伝を見るとよりはっきり解る
>馬韓在西,有五十四国,其北与楽浪,南与倭接,
楽浪郡と倭を並列して、南北を接するとしている。
>>634
はっきり言って古代朝鮮史に関わる学者は、この手の保身の為に節を曲げ事実を捻じ曲げる屑が多いね
井上、鳥越を筆頭とする日本の学会の実証主義とはかけ離れた捏造史観の持ち主が。
639日本@名無史さん:2012/04/02(月) 09:03:09.20
>>629
僕は唐会要の内容に疑問を感じているんだけれど、それは置いておいて、
唐会要の記述が正しいと仮定しよう。
そして、海を挟んでいても接すると表現できる例だという君の主張が正しいとも仮定しよう。

すると、北が海に限られて、なおかつ、西北は百済に接し、真北は新羅に抵するとあるから、
海による「限」という状況と、「接」「抵」は、同時に成り立つ状況ということになる。

三國志の韓伝が海を挟んで接している状況を説明しているのなら、
韓の南では、「接」であると同時に、海によって「限」であるから、
「東西南以海為限、南與倭接」でなければならないよ。
それが唐会要と同じ書き方だから。
ところが、わざわざ、東西は海で限られていると書きながら、
南は海で限られているとは書いていない。

つまり、唐会要の接と限の用法が、三國志の時代でも同じだとするならば、
むしろ、東西に「限」と言い、南に「限」と言っていないということは、
南は海を挟んで接しているのではなく、陸続きの「接」である証拠となるんじゃないのか。
640笑っ虎:2012/04/02(月) 09:42:33.34
朝鮮半島南部の島嶼域には倭人が棲息していた倭があった事実は動かないし、
馬韓と辰韓でも、倭に近い所では文身をするモノがいたとう。
それほどに倭人文化が浸透していたという証拠になる。
ほれ。「(弁辰の)涜盧国は倭と界を接す」とあるだろう。

「接す」という表現だけをみると、砂漠を隔てて接すと書いた用例もあるし、
海を隔てて接すと書いた用例もある。
これらを持ち出して意味を横滑りさせて、「だから『倭人伝』の場合も」という手法は、
こういう場で最も多くみられるイージーな論法だが、歴史考察ではやってはいけない帰納法だ。
文字は複数の意味を持つし単語も複数の意味や用法がある。
その中で、その文節の性格・文章構成などから文意を広く見渡して、
どういう意味で使われているかを判断するのが解読だ。
書かれている次元と場所と状況も違えば、書物も著者も異なる用例をそのまま当てはめるのは、
初歩レベルの加減計算と何ら変わるところはない。

ほれ。書いてる人間のほうが遥かにフレキシブルだぜ。
「東沃沮は高句麗・蓋馬大山の東にあり、大海に濱(ひん)して居る。北はユウ婁、夫余と、南はワイ貊と接す」。
「ユウ婁は夫餘東北1000余里にあり、大海に濱(ひん)す。南は北沃沮と接し、その北の極まる所を知らず」。
「ワイは南を辰韓と、北は高句麗、沃沮と接し、東は大海を窮(きわ)む」。
 
「大海に濱す」は大海の水ぎわで、「大海に接す」と同じ意味。
「東は大海を窮む」も大海の水ぎわで、「大海に接す」と同じ意味になる。
文章というものはリズムとテンポと「変化」を重視する。
同じ意味でも表現に変化をつけるのは常道だ。文字の違いにチマチマとらわれる必要はない。
重要なのは韓の場合だ。
「南は海をもって限りとす」 「南は大海の窮み」「南は大海に濱す」とも書いていない。
こうした比較の点からも、韓人領域の南の境界には海ではなく倭があったことが分かる。
この接すは、陸続きで接していたことを述べている。いじょ
641日本@名無史さん:2012/04/02(月) 09:44:41.56
上のレスを言い直すと、

>>633のレスにある

>接は比較的近い距離のときに使う。東西にはそうゆう国がなかったというだけだ。

という解釈にたてば、「限」と「接」は背反で同時には成り立たない。
「限」であれば「接」ではない。
ところが唐会要を>>629氏のように、「海を挟んでいても接と言える」ことの証拠にしようとすると、
北は「限」であると同時に「接」でもあることになる。
北と北西は違うという反論は、内容から通らない。
「接」と「限」は同時に成り立つ状況と言うことになる。

つまり>>629>>633は矛盾している。
>>629が正しければ、>>633という解釈が成り立たなくなり、
唐会要は、むしろ三國志韓伝は陸続きの接である証拠となる。

>>629>>633は、同一人物だったら自己矛盾しとるよ。
642日本@名無史さん:2012/04/02(月) 09:46:37.76
>>641>>639の補足ね。間に別人のレスが入ってた。
643日本@名無史さん:2012/04/02(月) 10:00:52.31
>「東西南以海為限、南與倭接」でなければならないよ。
一生懸命考えたようだが、それも一つの表現としてあり得るというだけだね。
そうでなければならないなどという問題ではない。
「東西以海為限、南與倭接」、これで東西には近い他国はない、南は倭に近い
ということを示したとみて何も不自然ではない。
644日本@名無史さん:2012/04/02(月) 10:29:09.88
>>643
だから、唐会要を証拠に持ち出せばという前提で話をしてる。

唐会要は、倭と百済は海で限られながら接しているとなっている。
つまり、唐会要を証拠に出す限り、近い遠いは関係ないということになるから、

>東西には近い他国はない、南は倭に近い

という解釈は成り立たなくなる。
だから、東西は海に限られているが、南は限られていない。
つまり陸続きとなる。

ただし、唐会要のこの部分は、文章がおかしくて、
どうも編纂者が具体的な地理を知らないまま適当に資料を切り張りしている印象があって、
信用できない。
だから、唐会要にこう書いているから、陸続きだと決め付けることはしない。
645日本@名無史さん:2012/04/02(月) 11:02:40.37
>唐会要を証拠に出す限り、近い遠いは関係ないということになるから、
>>東唐会要を証拠に出す限り、近い遠いは関係ないということになるから、
>東西には近い他国はない、南は倭に近いという解釈は成り立たなくなる。
そんなことはないな。唐会要だって近い、遠いを考えて書いているだろう。
近いとか遠いとかは相対的なものだ。簡単には決めつけられない。
646日本@名無史さん:2012/04/02(月) 11:18:00.46
>>645
もう一回、よく考えてごらん。
遠いから限と書いて、近いから接と書いたのなら、
限と接は同時に成り立たないだろう。
ところが、唐会要では、限であり接であると書いてある。

具体的に内容を見ると、倭の北は海に限られる。
正北は新羅に抵り、その隣にある百済とは接と書いてある。
新羅は遠いのに百済は近いというのはおかしい。
新羅が限であり抵であるように、
百済も限であると同時に接である。
つまり、唐会要の用例では、接と限に遠い近いの区別は無い。
接していても海で限られるかどうかは解らないから、別に説明しなければならない。
実際、唐会要は限であって接であると説明している。

唐会要を証拠に持ち出すと、逆に三國志は陸続きと解釈しろということになる。
647笑っ虎:2012/04/02(月) 11:20:25.83
●『旧唐書』南蛮・西南蛮伝 (表現方法にも色々あるという見本)。
「接す」という意味の用例としては、「接す・隣す・界を隔てる」。
海が陸地の限りとなる用例としては、
「小海が隔てる・大海を臨む・大海と隣す・大海と界(さかい)す・大海に尽きる」などがある。
さらには、大海の中にある島が墮和羅と「接す」や
海中の洲がバリ島やカンボジアと「接す」といった用例がある。

林邑国/北與驩州接。
盤盤国/北與林邑隔小海
陀洹国/在林邑西南大海中、東南與墮和羅接
訶陵国/在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接、南臨大海。
墮和羅国/南與盤盤、北與迦羅舍佛、東與真臘接,西隣大海。
墮婆登国/東與訶陵、西與迷黎車接、北界大海。
南平獠/東與智州、南與渝州、西與南州、北與涪州接。
東女国/東與茂州、党項接、東南與雅州接、界隔羅女蛮及白狼夷。
驃国/東隣真臘国、西接東天竺国、南盡溟海

距離感覚や接し方などは、書いた本人の感性に左右される面が強いので、
「接す」の意味を一元的に決めつけるのは短絡すぎる。

※へ理屈蛇足。ここでは、現在のインドネシア半島やインドネシアにあった島嶼を紹介しているが、
現代人のグーグルアース的俯瞰で、編纂者の「想定縮尺」をA4画面に置き換えてたとえる。
(このあたりの言い回しを短絡して誤読するなよ)
『三国志』東夷伝筆者はA4画面いっぱいに朝鮮半島中部以南を描いて説明しており、
『旧唐書』南蛮・西南蛮伝の筆者は、A4画面にインドネシア半島とインドネシア諸島が収まる縮尺で説明している。
必然的に、同じ「接する」という表現でも、後者は海を隔てても接するといえる縮尺ではあるぞ。
648日本@名無史さん:2012/04/02(月) 11:31:43.31
>>647
文例の紹介、ありがとう。
649笑っ虎:2012/04/02(月) 11:36:49.67
>>646
>三國志は陸続きと解釈しろということになる。

『三国志』韓伝の「倭と接す」は、陸続きで接していたことを述べている。
この「倭と接す」が海を隔てて倭国・倭地と接する意味だと譲った場合、
ここでいう倭地は対馬か九州島か?
対馬ならば、対馬の数倍も大きい州胡とは「接す」としないで、
朝鮮半島に比べれば豆粒のような対馬と「接す」はおかしかろう。
九州島ならば、あれほど詳しく紹介している対馬と壱岐を飛び越して、
かつ3000余里もあるという海峡を挟んで朝鮮半島と九州が接すもなかろう。

要するに、朝鮮半島南部には倭と呼ばれた倭人の棲息エリアがあった。
それだけのことだ。
650笑っ虎:2012/04/02(月) 11:38:20.82
>>648
素直に礼をいわれたのは・初めてじゃないかな。
てれちゃうぜ。
651日本@名無史さん:2012/04/02(月) 11:52:28.30
>>617
女王国があって、女王が都としている邪馬台国があるというけど、二つはちがう国なの?

>>629
唐会要のころはもう任那日本府はないよ
しかもこの場合、接するとは交遊するって意味じゃないの?
新羅とは抵するとあるんだから
652日本@名無史さん:2012/04/02(月) 12:12:38.13
>>643
それは文章表現として美しくないと思うが
東西以海為限、亦南是也。与倭能接。ぐらいは書くと思うが
地理的な説明をいきなり省いて、通交を書くことはないし、
まぎらわしい表現もしないと思う
653日本@名無史さん:2012/04/02(月) 12:41:26.95
>>651
>新羅とは抵するとあるんだから

この抵は、「こばむ・さからう」 という意味じゃなくて、
「あたる・ふれる・いたる」 という意味。
真北には新羅があるという意味。
654日本@名無史さん:2012/04/02(月) 13:31:45.73
>ここでいう倭地は対馬か九州島か?
二者択一で考えるのはどうかな。倭地を九州島を中心に考えても、倭の領域としてはそ
の周辺の島々、つまり対馬国も含めて考えるものだ。朝鮮半島からみれば、その島が見
える。そうなれば、倭と接していると言って不自然ではない。
655大訂正!:2012/04/02(月) 13:36:28.93
「東西以海為限」

「限」は
境とOKでしょう。
境は境界と解釈していいでしょう。

>『三国志』韓伝の「倭と接す」は、陸続きで接していたことを述べている。
>この「倭と接す」が海を隔てて倭国・倭地と接する意味だと譲った場合、
>ここでいう倭地は対馬か九州島か?

>>646
>三國志は陸続きと解釈しろということになる。


【「倭と接す」が海を隔てて倭国・倭地と接する意味だと譲った場合、】

譲る必要はない。
海を隔てて倭国と「接」で正しいかいしゃくです。

>ここでいう倭地は対馬か九州島か?

「方可 四千里」ですから、
北緯22度から北緯24度の間となるだろう。

656日本@名無史さん:2012/04/02(月) 13:46:56.71
>>653
越とは接するとあるのだから、意味なく使い分けはしていないと思うよ
百済と南朝とは倭は親交をむすんでいたことを示しているだと思う
抵は相当する、相対する、という意味でとったほうが妥当だよ
657日本@名無史さん:2012/04/02(月) 14:17:34.26
あと、北岸の件だけど、どこから見て北岸かということが大切だと思われる。
ここでは常識的に倭から見て北にある岸ということになろうが
結果的に、北九州は南岸ということになる。
もし、倭が島だけしか領域をもっていなければ、北九州を北岸というのではないだろうか
広く対馬海峡を統治していたという認識があったからこそ、対岸を北、此岸を南と指示していたと見ると
思うのだが、どうだろう?また、鉄をもとめていた倭人が半島に移住していなかったということはありえない。
また、新羅建国神話とて、倭人が深く関わっている以上、倭に親近する勢力が半島に存在していなければいけない
658日本@名無史さん:2012/04/02(月) 14:30:08.20
北岸という言葉には二通りの使われ方があるんだよ。九州の北岸福岡とかいうのは、ごく
普通の使われ方だね。この場合は、九州の岸に福岡があるということだ。
もう一つの使われ方が、倭人伝にいう倭の北岸。これは倭が方角の基点を示しているだけ
で岸の所属については何も言っていない、ということ。
二つをどのように見分けるかとなれば、普通の使われ方の場合には、その北に川あるいは
海があるということだな。倭人伝のような使われ方の場合には、狗邪韓国の北には水がない。
これは普通の使用法ではなく、方角の基点を示したにすぎないということになる。
まあ、普通の使い方しか知らない漢文になれていない連中がごちゃごちゃ言ってるわけだ。
659日本@名無史さん:2012/04/02(月) 14:32:14.83
従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
このような文脈の中で、其れの指示するところが、海を主体としてその北側にある岸ということはありえないと思う
倭について話をしているのだから、その北岸とは倭の北岸と見るのが自然と思う
660日本@名無史さん:2012/04/02(月) 14:38:21.68
>>659
海が主体になるんじゃない。海に浮かんでいる船の中にいる魏の人間から見て北の岸ということ。

郡から倭に至るには、海岸にしたがい水行する。
その動作は何処でおこなわれてる?海でおこなわれてる。
動作の主体は何処にいる?海にいる。
基点は郡だし、郡から倭に至るのは魏の人間。
倭が方角の基点になることはない。
661日本@名無史さん:2012/04/02(月) 14:46:24.06
>>660
船の中にいたとき書いたってことか?
そんな記録を報告書に書くか?ふつう
あとで整理して正式に残すのがふつうだろ、そうでなければ不備があったとしたほうがましだよ
あとから冷静に書き直すなら、韓の南岸、倭の北岸で書いてるよ
662大訂正!:2012/04/02(月) 14:51:14.50
>>660 名前:日本@名無史さん

久しぶりだね。 河童さん。

日本列島を時計方向に90度反転して
「其北岸」所謂、倭の北岸は何処か
一目霊山です。 笑。。。。。
663日本@名無史さん:2012/04/02(月) 15:28:11.81
郡から両岸をみたうち、その北側の方ということなら理解できるか
だけど、文脈上、意味が通らなくなるんだよな、これだと。
郡より倭に至るに、と言っておきながら、以後倭に至ると一切出てこないんだよ
倭が東南の海からやってくることは理解しているが、ここからが倭と言っているところがないんだ。
つまり、倭人がつくっている国を倭国と言っているのであって、それぞれの国々は同族意識はあっても、統一されていないということなのだろう。
漢人は、海の向こうに島があり、そこから人口がどんどん渡ってくるという状況があり、この状況を表現するとき
向こう側にあるものを倭とよび、そこから来る人を倭人と呼んでいる。
それで、半島南岸にも倭人が多く住みだして、倭人主体の国も築かれ始めた。
これを指して、狗邪韓国と言い、郡より倭に至ると書かれて、はじめに書かれている国名ということではないのか。
664日本@名無史さん:2012/04/02(月) 15:45:59.54
>>661
>船の中にいたとき書いたってことか?

郡から倭に行く人の視点で行程の説明を書くということ。
「乍南乍東」とあるだろう。
郡を出発して、船が南を向けば岸は東、船が東を向けば岸は北。
だから「乍南乍東到其北岸狗邪韓国」と書いている。
ちなみに「始度一海千余里」には方角が無い。
それは、其北岸が船から見ての方角だからこそ。
船の北に岸があるから、北には行けない。
東西は岸沿いになるから海を渡るにはならない。
海を渡るのは南しかない。
だから方角が無い。
これが倭の北岸だったら、そこからどの方向に海を渡るのか解らない。
実際、対馬以降は方角が書かれてるし、
その方角は移動者の視点から方角が書かれてる。
其北岸だけ倭が基点なんて不自然すぎる。

>>662
河童と一緒にしないでねw
665日本@名無史さん:2012/04/02(月) 15:48:54.78
>>661
しつこいくらいに言っとかないと解らないかもしれないので、言っとくけど、
船の中で書いてるわけないからね。
この文章を書いた人間が、陸に居ながら、
郡から倭まで移動する者の視点に立って説明をしたということだからね。
666日本@名無史さん:2012/04/02(月) 16:04:24.03
朝鮮人犯罪があまり報道されない、そしてテレビが日常的に嘘を吐く理由。

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韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C ←NHKの社員がよくチカンやヤクで捕まるのはここの工作員

640 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/18(土) 15:05:47.13 ID:sskgsjsc0 [2/2]
『平清盛』プロデューサー在日朝鮮人 磯智明(反日・天皇制度廃止論者)のプロデュース作品
@『監査法人 (2008)』反体制・反社会
A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会
B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会
667日本@名無史さん:2012/04/02(月) 16:31:19.26
>>665
だったら、郡から半島南部に至る過程で、半島南部は南岸だな
乍南乍東到其南岸狗邪韓国
で問題ないと思うが。郡から船で陸伝いに南端まできたのだから。

北岸というのは、半島と列島の間に大きな海が存在していることを前提に書いている
でなければ、いきなり北岸に来たとはいわない。
つまり、船視点と言いながら、船での行先の航路を知っている人視点になっている。
しかも、両岸を意識した言葉であるということは、対馬海峡を渡ることを主眼においた視点ということだ。
海峡にいた人から情報を教えてもらった可能性が高い
しかも、それを記録に残す時点で、そのまま描いているということは、その情報提供者の認識を
とくに不自然に思わなかったということだろう。
半島南部は、倭の領域である可能性は限りなく高い。

とりあえず、倭に行く人視点ではないことは確実に云えるだろうな。
668日本@名無史さん:2012/04/02(月) 17:30:32.57
又南渡一海千餘里 名曰瀚海(はんかい) 至一大國
669日本@名無史さん:2012/04/02(月) 17:42:46.67
倭人は漢字使いでしたねえ
670日本@名無史さん:2012/04/02(月) 17:44:10.18
より厳密には

倭人の酋長さんたちは漢字使いでしたねえ
671日本@名無史さん:2012/04/02(月) 17:58:03.38
>>662

残念なから河童の投稿じゃないのは「郡より倭に至る」と書いた
時点で明白だ。
672日本@名無史さん:2012/04/02(月) 18:19:17.10
朝鮮人犯罪があまり報道されない、そしてテレビが日常的に嘘を吐く理由。

韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8 

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673日本@名無史さん:2012/04/02(月) 18:27:44.55
>>640 :笑っ虎
>文字は複数の意味を持つし単語も複数の意味や用法がある。
>その中で、その文節の性格・文章構成などから文意を広く見渡して、
>どういう意味で使われているかを判断するのが解読だ。

全くそのとおりだ。この人は相当な人物だろう。
この人の解読法によれば
參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
の「周旋可五千餘里」は「周囲五千餘里ほどである」と解釈すべきだね。
魏使が巡り歩いた距離は五千餘里ほどである では倭国全体像にならないからね。
674日本@名無史さん:2012/04/02(月) 18:28:51.77
>>667
海に浮かぶ船から北に見える岸を南岸とは言わないよ。
水域の北にある岸も北岸というんだよ。
黄河の北岸と言ったとき、黄河の流れの中から見て北にある岸を指すよ。
黄河の北側の大地の南の端の岸だからといって南岸とは言わないだろ。
陸地の北にある岸だけを北岸というと勘違いしているから、

>だったら、郡から半島南部に至る過程で、半島南部は南岸だな

などという間違いをするんだよ。
だから船から見る限り、半島南部は北岸であって南岸ではありえないよ。

>北岸というのは、半島と列島の間に大きな海が存在していることを前提に書いている
>でなければ、いきなり北岸に来たとはいわない。
>つまり、船視点と言いながら、船での行先の航路を知っている人視点になっている。

これも同じ思い込みからきているよ。
675卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/02(月) 18:46:50.40
以前に一度書いたことがあるのだが、こういう考え方もあるぞ。つまり、
われわれは魏使が釜山あたりに着いたと考えているから、その北岸という表現が理解できないのであって、
魏使がたとえば巨済島に着いたと考えればよいのである。

ただ陳寿は巨済島については何の情報も持っておらず、それが島であることも知らず、
そこがとにかく倭の北岸であり、狗邪韓国と呼ばれていることだけを聞いていたのである。
676日本@名無史さん:2012/04/02(月) 19:10:13.93
>>664
其は至倭を受けて倭を指しているから倭が基点で当然、其とはそういう意味の漢語だからね
677日本@名無史さん:2012/04/02(月) 19:19:14.50
>>674
史書は行政文書や報告書などの史料を基に編纂するものだから
船上視点は絶対に無いんだよ
678笑っ虎:2012/04/02(月) 20:03:46.51
●愚鈍で頑迷なる者たち。
>>643
>「東西以海為限、南與倭接」、これで東西には近い他国はない、
「馬韓の西に州胡という大きな島がある」といっている。
九州島はそれよりも遥かに離れている。だが「州胡と接す」とはいっていない。
西には山東半島が突き出ているが、これと接すともいっていない。

>>654
>朝鮮半島からみれば、その島が見える。そうなれば、倭と接していると言って不自然ではない。
「馬韓の西に州胡という大きな島がある」といっている。
九州島はそれよりも遥かに離れている。だが「州胡と接す」とはいっていない。

>>655
>「東西以海為限」の 「限」は境とOKでしょう。
「東西は海をもって(陸地の・版図の)限界となす」だ。
>海を隔てて倭国と「接」で正しいかいしゃくです。
俺が提示した現実問題をすべて解決してからいえ。

>>673
>參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
>の「周旋可五千餘里」は「周囲五千餘里ほどである」と解釈すべきだね。
頑迷の極みだな。30ヵ国隈なく踏破していないと『倭人伝』が吐露している。
それだけでそのクソ解釈はボツだ。なんで周囲の距離が「里程」でわかる?
>魏使が巡り歩いた距離は五千餘里ほどである では倭国全体像にならないからね。
お前説でいえば、倭国の外周距離が倭国全体像か。意味不明だぞ。
30ヵ国のうち現実に踏破した距離はその程度ということだ。
これが倭国の外周距離ならば、まったく理屈に合わん事実も提示したろ。
かんたかな面積比較で分かることだ。も一度見れ。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/e6/6ee5030653086c59e4003a8f0198ad7d.jpg?random=eb251a3a857f8e5858cbf88e56696088
679日本@名無史さん:2012/04/02(月) 21:05:44.31
>>674
すまないがまったく理解できない。
海峡渡海中に書かれたもんなのか?これ

其北岸狗邪韓国に至る、って狗邪韓国に着いて、さらにはるか通過した後の対馬海峡渡海中に
今渡ってる海峡の北岸にある狗邪韓国につきますって書いているってことか?

そんなやさしさの欠片も感じさせない案内図があるか
著者は読者にエスパー能力でも期待してたのか!
680卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/02(月) 22:23:24.22
たとえば東西を流れている河川を航行する場合、その北岸といえば、その河川の北岸を指す。

で、其北岸狗邪韓国というとき、其の、が海あるいは対馬海峡を指すなら、文章としては不自然ではない。
しかし文脈からすると、其の、は倭もしくは韓地を指しているとしか解せない。

ゆえに、其北岸狗邪韓国に至る、というのはどう考えても変な文章なのである。
681日本@名無史さん:2012/04/02(月) 22:41:43.51
だから 瀚海が倭の酋長連盟の中心領域だって

中央酋長さんがいるとこが伊都だったり女王の園だったりで

韓地の方からもお使いが行ったり来たりして影響力があったりしてる

韓地の方へは

だいぶ中に入ったところにも血縁関係のある酋長さんがいたりしてる

馬韓だから関係ないとかってゆうのも無い
682日本@名無史さん:2012/04/02(月) 22:57:25.55
いま懐かしいHNが出たので振り返ってみれば、毎日こんなわからず屋達相手にしていた河童さんて
改めて凄いと思った。
683卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/02(月) 23:05:48.36
南与倭接
この文を読んで、海を隔てて倭と接している、と解釈する人は、十人のうち一人か二人だろう。

しかし狗邪韓国が倭国に含まれるか否かについては、意見が分かれると思う。

そもそも狗邪韓国がどの国を指しているかが不明である。
狗邪は加耶なのか、では韓国の韓は何か、金官国の官を韓と書いたのではないのか…。
684日本@名無史さん:2012/04/02(月) 23:07:38.93
弁辰の地からいずるところの鉄の流通に関してゆうと

あり得そうな仕切り組の大酋長のは凡そ7グループほど程想定されるわ

----------列島側-------------
1.女王・伊都王
2.狗奴(唐津・平戸・五島)
3.投馬(貊岐・出雲・若狭)
-----------瀚海--------------
4.狗邪(金海周辺)
5.半路(伽耶山の麓)
6.月支(劣化した辰王)
7.不耐(濊貊本家)
----------半島側-------------
685日本@名無史さん:2012/04/02(月) 23:22:27.45
>南与倭接
この文を読んで


一部を抜粋して「こんな解釈する人」なんて

文章はぶつ切りにして自由解釈しろと何処の世界で学習した?
686日本@名無史さん:2012/04/02(月) 23:50:46.27
>>678 :笑っ虎
>●愚鈍で頑迷なる者たち。

それはおまえのことだな。

>>673
>>參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
>>の「周旋可五千餘里」は「周囲五千餘里ほどである」と解釈すべきだね。
>頑迷の極みだな。30ヵ国隈なく踏破していないと『倭人伝』が吐露している。
>それだけでそのクソ解釈はボツだ。なんで周囲の距離が「里程」でわかる?

>>673の言う事が理に適っている。魏使が巡った距離など書いて何の意味があるのだ?
倭地の概略の大きさを示さなければ話にならんだろ。
里程で分かるというのではない。倭地に関するいろいろな資料を基に勘案すれば周囲五千餘里ほどだろうと
推定しているのだ。

>かんたかな面積比較で分かることだ。も一度見れ。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/e6/6ee5030653086c59e4003a8f0198ad7d.jpg?random=eb251a3a857f8e5858cbf88e56696088

福岡県、佐賀県、大分県の一部が含まれる大きさだな。かなり正確な推定じゃないか。
これで熊本が狗奴国だということが明確になったな。
687日本@名無史さん:2012/04/03(火) 00:07:14.68
佐賀とかって1mでもこれじゃに

むつごろうさんの楽園だからしてむりじゃろ

http://flood.firetree.net/?ll=33.2749,130.2930&z=6&m=1&t=1
688日本@名無史さん:2012/04/03(火) 00:16:12.03
689日本@名無史さん:2012/04/03(火) 00:24:39.10
くるめのは ひかえめので これ

http://flood.firetree.net/?ll=33.3000,130.5000&z=6&m=6&t=3
690日本@名無史さん:2012/04/03(火) 00:25:21.78
三国志に出て来る「周旋・・里」と周旋の後に距離が書かれた例は倭人伝の『參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」
と呉書諸葛恪伝の「丹楊地勢險阻、與吳郡、會稽、新都、鄱陽、四郡鄰接、周旋數千里、山谷萬重、其幽邃民人」しかない。
後者は丹楊の地勢について述べている文章中にあり、「周旋數千里」を誰かが「巡り歩いた距離は数千里」では意味をなさない。
丹楊の大きさ(広さ)を示すものとして「周囲は数千里ある」と解釈すべきである。

なお、三国志には周囲(周围)や周匝の用例が見当たらない。これらの意味で周旋が用いられているのかも知れない。
691日本@名無史さん:2012/04/03(火) 00:31:29.35
692日本@名無史さん:2012/04/03(火) 00:37:42.83
こうやってあそぶと分水嶺とかが拾えたりする

http://flood.firetree.net/?ll=33.4922,130.5398&z=7&m=40&t=3
693日本@名無史さん:2012/04/03(火) 00:49:56.45
ぶっちゃけると、邪馬台国は韓国にあったんだよ。
そういう物的証拠が出てきてるんだけど、それらをひた隠しにしてる。
天皇も韓国人だよ。
694日本@名無史さん:2012/04/03(火) 04:25:55.98
楽浪郡は今の北京に在って、燕斉の故地に在った三韓国沿岸を南へ東へ行き
蓬莱辺りから今の大連に在る対馬国へ渡る、其処から再度黄海中の小島へ
また渡海し漸く辿り着くのが倭国の末慮国現平壌付近だ
伊都国が今の海州、奴国が漢城、不弥国は広州となる
更に水行20日で現公州の投馬国、水行10日陸行30日で着く光州が邪馬台国である。
695風の中のゴキブリ:2012/04/03(火) 04:49:36.86
伊作不在時は閑古鳥が鳴いていたこのスレも、伊作が来ると伸びるな。
696日本@名無史さん:2012/04/03(火) 06:06:12.63
>「周旋數千里」を誰かが「巡り歩いた距離は数千里」では意味をなさない。
>丹楊の大きさ(広さ)を示すものとして「周囲は数千里ある」と解釈すべきである。
大きさを示すものであることはそのとおりだろうが、それが周囲ということにはならない。
始まりから終わりまで巡った距離ということだろう。
697日本@名無史さん:2012/04/03(火) 06:12:00.49
>>678
>「馬韓の西に州胡という大きな島がある」といっている。
>九州島はそれよりも遥かに離れている。だが「州胡と接す」とはいっていない。
州胡は馬韓伝の中で触れられているにすぎない。独立の国として論じるほどの対象とは
考えられていないということだな。

698日本@名無史さん:2012/04/03(火) 06:18:08.55
>>697
魏晋の頃までは州胡程度でも国として扱ってたよ
三韓諸国は大半が小規模な部族ばかり、壱岐もそう
699日本@名無史さん:2012/04/03(火) 09:25:54.03
>>676
>其は至倭を受けて倭を指しているから倭が基点で当然、

其は「循海岸水行歴韓国乍南乍東」を受けている。なかでも「水行」を受けている。

>>677
>船上視点は絶対に無いんだよ

「乍南乍東」の南や東はどこから見た南・東だと思う?
倭から見た南や東ではないよ。郡から見たものでもない。
移動している者からみた南・東。
「南渡一海」の南はどこから見た南だと思う?
移動者が対馬まで来て、対馬から見て南だろう。
末盧国のところで、「東南陸行」の東南って何処から見た東南?
移動者が末盧国まで来て、末盧国から見て東南。
行政文書だろうが報告書だろうが、道順を説明するということはそういうこと。
700卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/03(火) 09:30:51.55
>>685
とにかく、海を隔てて接していた、と読むべきだとか、
舟に乗っている視点で書かれているから、其北岸、と書かれているのだ、とか、
狗邪韓国は倭には含まれない、などと強硬に主張しているのは、おぬしだけのような気がするのだが…。

>>693-694
いよいよこういう人が出てきたかと思うと楽しくなる。
もしかしたら冗談で書いているのかもしれないがw
701日本@名無史さん:2012/04/03(火) 09:35:51.75
>>700
海を隔てて接していた、と読むべきだとか、狗邪韓国は倭には含まれない、
というのは、ごく一般的な読み方だよ。
702日本@名無史さん:2012/04/03(火) 09:42:01.66
>>679
たとえば駅から君の家までの道順を説明するときを考えてごらん。

駅から僕の家に至るには、駅から南に行き、それから東に行き、
その北側に百貨店が見えたらそこから南に向きを変えて橋をわたる。

この説明は、駅から君の家まで移動する者の視点で方向が書かれている。
でも、君は駅から家まで、実際に移動しているわけではないだろう。

それに、「その北側に百貨店が見えたら」というところで、いきなり「僕の家の北」になるわけがないだろう。
駅から移動してきた者から見て北ということ。

君が友達に、駅から家までの道順を説明するとき、
駅から移動する友達の視点に立って方角を説明するだろう。
だからといって、君が実際にその道順を移動しながらでなければ説明できないなんて考えるか?
移動者の視点で説明しているからと言って、
海峡渡海中に書かれたなんていう発想になるのが理解できない。


(乍南乍東の解釈は一回ずつと繰り返すのと二通りあるけれど、
ここでは一回ずつとして説明しとく)
703日本@名無史さん:2012/04/03(火) 09:48:44.58
>>700
船に乗っている視点で書かれているというのは僕の主張だけど、
僕は海を隔てて接しているには反対だし、
狗邪韓国は倭に含まれると考えている。

>>701
日韓併合のトラウマがあった戦後という社会風潮に影響された時代だったから、
そういう説が唱えられていただけのこと。
戦後の思想的影響から脱すれば、
半島の南で倭と韓が接していたと読むのがごく普通な解釈。
過去の事実としてどうだったかは別にして、
漢文としては、そうよむのが自然。
過去の事実は、今後、考古学が明らかにしてくれるだろう。
704日本@名無史さん:2012/04/03(火) 10:17:31.66
>>702 >>703
>船に乗っている視点で書かれている
おもしろいが、漢文的には無理だね。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
漢文で「其」とある以上、それは前に出てきているものを受けるはずだ。
海はかかれていない。

705日本@名無史さん:2012/04/03(火) 10:29:32.85
>半島の南で倭と韓が接していたと読むのがごく普通な解釈。
>過去の事実としてどうだったかは別にして、漢文としては、そうよむのが自然。
あなたはそう信じているのかも知れないが、それは言葉を知らないからだろうね。
706良識の俎(まないた):2012/04/03(火) 10:35:01.16
朝鮮半島南部域には確かに倭があった。

郡より倭に至るには(…………その北岸の狗邪韓国に到る)、7000余里。
この一文が7000余里という経過距離で結ばれていることから、倭に到ったことが分かる
つまり、「郡より倭に至るには」の倭が、朝鮮半島南部域の倭であることが分かる。

「その北岸」は「朝鮮半島南部域にあった倭の北岸」という意味か。
「倭の領域の最北岸に到った」というのであれば、狗邪韓国は倭の領域内にあったことになるし、
「倭の領域の北の対岸に到った」というのであれば、狗邪韓国は倭の領域外にあったことになる。

さて、願望空想言説連呼諸氏の願望空想やいかに。
707日本@名無史さん:2012/04/03(火) 11:04:57.08
「郡より倭に至る」に続く行程の説明は、邪馬台国に至ったところまで続くの
だろう。途中で切ってあれこれいうのは見当違いかな。
708日本@名無史さん:2012/04/03(火) 11:28:13.87
>>704
>漢文で「其」とある以上、それは前に出てきているものを受けるはずだ。
>海はかかれていない。

699 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2012/04/03(火) 09:25:54.03
>>676
>其は至倭を受けて倭を指しているから倭が基点で当然、

其は「循海岸水行歴韓国乍南乍東」を受けている。なかでも「水行」を受けている。
709日本@名無史さん:2012/04/03(火) 11:41:44.81
だれかタイムマシンを発明しろ
710大訂正!:2012/04/03(火) 11:48:29.57
「韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。」
>>655
>「東西以海為限」の 「限」は境とOKでしょう。
>「東西は海をもって(陸地の・版図の)限界となす」だ。

なにおそんなにとんがってるんだ。
この「限」は虎ちゃんは名詞としてるのか?
そうじゃないだろう。 ここの「限」は動詞だろうYO。
この「限」」をより正確に解釈すれば、
「韓」の領域は
『海を以って隔てる』
だろう。
だから、
次の「南與倭接」も陸続きでないことが理解できる。
解るかね。
韓には制海権・海上権は成立していないんだよ。 中華帝国から見ればね。

>海を隔てて倭国と「接」で正しいかいしゃくです。
俺が提示した現実問題をすべて解決してからいえ。

これも、やるか?
711日本@名無史さん:2012/04/03(火) 12:12:30.92
>>710
>『海を以って隔てる』

これだったら、「為」の字が消えてしまってるよ。
「海を以って限と為す」
なんだから、限は名詞だよ。
「海を以って限る」だったら動詞だけど、そうすると為が消えちゃうからね。
そんで、東西は海を以って限りと為すのに、南は海を以って限りと為していない。
つまり、南は陸続き。
712卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/03(火) 12:34:38.22
韓在帶方之南 東西以海為限 南與倭接
この南與倭接を、海を隔てて倭と接す、と読むのは特殊な読み方。

到其北岸狗邪韓國
これを、舟に乗っている人の視点で書かれているので其北岸と書かれている、と解釈するのも特殊な読み方。

東南至奴國百里
これを放射説で読むのも特殊な読み方。東南に行けば奴国がある、という意味なら、東南百里有奴国と書くはず。
713日本@名無史さん:2012/04/03(火) 13:08:13.10
>>689
ば〜か。
そりゃ逆だぜ。
投稿が増え始めると必ず伊作が来るのだ。
714日本@名無史さん:2012/04/03(火) 13:15:23.16
>この南與倭接を、海を隔てて倭と接す、と読むのは特殊な読み方。
特殊な読み方ではない、ごく普通の読み方なんだよ。
当時、国の領域というものをどのように考えていたかが問題だな。国境が
接触しているなんてのはごく稀な事例だ。間には砂漠がある、山がある、
海がある、それが普通さ。高句麗方二千里などという場合、人の住まない
山の真ん中に境界を考えると思うかね? 山の麓、人の住んでいる範囲を
領域と考えて方二千里などというわけだ。
人の住まない砂漠や山や海は飛ばして「接」という。それだけのことだな。

715大訂正!:2012/04/03(火) 13:16:25.77
>>711
虎さんじゃないいんだ。。。。
>「海を以って限と為す」
で、異存はないが、
限,界也。・・・・小尔雅
限, 竟也。・・・・清代段玉裁『說文解字注』
土地之所止皆曰竟。・・・・清代段玉裁『說文解字注』
からも、
韓の東西の領域は竟。海は韓の領域に入らない。

>東西は海を以って限りと為すのに、南は海を以って限りと為していない。
>つまり、南は陸続き。

「與」の解釈はCUTかい。
この「與」は韓の状況ではなく「倭」の状況でしょう。
それなら、
倭の環境は「與」からも周りは全て海だNe.

716日本@名無史さん:2012/04/03(火) 13:21:32.89
>これを放射説で読むのも特殊な読み方。東南に行けば奴国がある、という
>意味なら、東南百里有奴国と書くはず。
史書には放射説で書かれていることに異論のない記事というのもたくさんあったな。
君の言うような書き方をした放射式記述はあったかな?

717日本@名無史さん:2012/04/03(火) 13:27:30.93
>>715
>「與」の解釈はCUTかい。

與に勝手に意味を付加してるね。
與は、現代日本語に訳せば「と」。
「與倭」は「倭と」
それ以上でもそれ以下でもない。

>倭の環境は「與」からも周りは全て海だNe

倭の周りが海かどうかと「與」は、まったく無関係。

>>716
横からだけど、
放射説で異論のない記事というものは、
誰が読んでも、初見で読んでも、放射説で読むよ。
古くから連続で読んでて、どうしても行き着く場所がわからなくて、
苦し紛れに放射説で読んで、邪馬台国はここだ!と言うようなものは
放射式の記述じゃないよ。
718大訂正!:2012/04/03(火) 13:48:52.84
>>717 名前
>>「與」の解釈はCUTかい。

>與に勝手に意味を付加してるね。
>與は、現代日本語に訳せば「と」。
>「與倭」は「倭と」
>それ以上でもそれ以下でもない。

『與は、現代日本語に訳せば「と」。 』
君、頭大丈夫なの。
200年代の言葉を現代日本語で訳して得られるものは妄想だけDA.

與:黨與也。・・・清代陳昌治刻本『說文解字』
黨與也。黨當作攩。攩,朋群也。・・・・清代段玉裁『說文解字注』
と、あるけどね。

青草・・・・・


719日本@名無史さん:2012/04/03(火) 14:07:35.16
>>718
一つの漢字に一つの意味しかないと思っているのかい?
與には党与の意味もあるけれど、現代日本語の「と」に相当する意味もある。
大漢和は「與」に47コの意味を挙げている。
なのに、説文解字の一つの意味だけで漢籍全部を解釈できるとでも思ってるのだろうか?
漢籍がなんでも説文解字で読めると思ったら大間違い。
720日本@名無史さん:2012/04/03(火) 14:18:28.12
>『與は、現代日本語に訳せば「と」。 』
君、頭大丈夫なの。
200年代の言葉を現代日本語で訳して得られるものは妄想だけDA.°

あんたの頭は大丈夫では無いようだね、
721良識の俎(まないた):2012/04/03(火) 14:28:35.26
>>719
あたり。バカバカしくて相手にできる手合いじゃない。

幾つもある意味の中から、別の意味で使われている僅かな用例を持ち出して、
そっちの意味で使われているという邪道帰納法が多すぎる。
それが表社会では絶対に通用しない「赤恥もの」の手法だと知ってるから、
こういう、「日陰の湿った公衆便所の落書き壁」みたいな所に出没するわけだ。

この手合いはウソや小細工解釈・不正解釈・何でもありで、
とにかく反対意見を通そうとする。それで自己満足する類いだな。
722大訂正!:2012/04/03(火) 14:40:07.17
>>721 名前:良識の俎(まないた

下らんグジャグジャは同でもいいから、
韓在帶方之南 東西以海為限 南與倭接 の
與を解釈して見せろ
それを俺が介錯してやるから。

それからだ。


「與」
723日本@名無史さん:2012/04/03(火) 14:41:36.74
>>722

よく説文解字を持ち出す人がいるけれど、使い時を考えないとだめだよ。

説文解字というのは、後漢時代の許慎が、先秦時代に書かれた儒家経典を読むために
先秦時代に使われていた篆書に立ち返って文字の意味を編纂したもの。
漢代に使われていた文字は篆書ではなく隸書。
つまり、説文解字は漢代の人にとってさえ古語辞典だった。

晋の陳寿の文章を説文解字で読もうなんて、
現代人の文章を古語辞典で読もうとするのと同じこと。
もちろん説文解字が参考になる場合もあるけれど、
それは、現代日本語の解釈に古語辞典が参考になる場合があるのと同じ程度。

説文解字は漢代以降の文章を読むための字書ではなくて、
金石文などの先秦のものを読むときに参考にすべきもの。
724大訂正!:2012/04/03(火) 14:51:46.25
>>723

清代段玉裁て、何時の時代の人だ。

清の時代での解釈を明確にしているんじゃないの。

725日本@名無史さん:2012/04/03(火) 14:55:49.49
海で限られていると言っているのは東西でしょ
南は倭と接しているって言ってんじゃん
726日本@名無史さん:2012/04/03(火) 14:59:53.78
竹島に韓国軍を置かせるように言ったのも朝鮮人だらけの民主党だからな
未だに勝手に侵犯しているなんて考えの人は居ないよな
もちろんJAL、エルピーダは民主党による国策倒産
ここら辺は新聞読んでちゃ判らない


「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
 【殺された石井こうきの発言から】

そうか、統一教会、オウム、朝鮮総連、民団→朝鮮人だらけの民主党
すべて繋がっている
727日本@名無史さん:2012/04/03(火) 15:56:49.29
>南は倭と接しているって言ってんじゃん
接は近いってだけなんだが・・

728日本@名無史さん:2012/04/03(火) 16:00:36.71
>放射説で異論のない記事というものは、誰が読んでも、初見で読んでも、放射説で読むよ。
異論がない以上、当然だろ。何を言ってるのかな?
しかし、異論があっても放射式に読むべき記事はあるんだよ。
今はそれが問題なんだ。
729日本@名無史さん:2012/04/03(火) 16:03:03.87
>>724
説文解字は、後漢の許慎が編纂したもの。
清の段玉裁は、これに注をほどこした人。
段注は、その字が清の時代にどう使われているかを説明しているものではない。
あくまで許慎の書いたものへの注であって、先秦時代にその字がどうであったかを
清の時代の訓詁学の成果によって補足説明している。

言語は時と共に変化するのだから、
先秦時代より400年以上あと、説文解字編纂からでも200年ちかくあとの、
三國志編纂の時代の意味・用法が、説文解字とは違いがあってあたりまえ。

400年以上前っていうと、日本で言えば、
関が原以前の言葉の意味で、現代日本語の解釈をしようというようなもの。

730日本@名無史さん:2012/04/03(火) 16:06:26.28
>>728
放射式の書き方というのは、誰が読んでも初見で読んでも放射式にしか読めない。
それが放射式の書き方。
異論があっても放射式に読むなんて、倭人伝くらいのもんでしょ。
他に何かある?
あったら教えてください。
731日本@名無史さん:2012/04/03(火) 16:22:08.37
>異論があっても放射式に読むなんて、倭人伝くらいのもんでしょ。
分かってるじゃん。倭人伝が異論があっても放射式に読むものだというなら、
それで結構だ、何も言うことはないよ。

732日本@名無史さん:2012/04/03(火) 17:09:46.53
無い物ねだりだってわかっているけど、こんな時こそ河童さんがいてくれるといいんだが
733日本@名無史さん:2012/04/03(火) 17:13:53.14
>>731
>分かってるじゃん。倭人伝が異論があっても放射式に読むものだというなら、
>それで結構だ、何も言うことはないよ。

異論があっても放射式に読むんだと主張する人がいる文章なんて倭人伝くらいのものでしょう。
と言う意味。
つまり、放射式に書かれた文章は、本来、異論が出るような性格のものではないということ。

それで、倭人伝以外に、解釈に異論が出てる放射式の文章ってあるの?
なければ、

>しかし、異論があっても放射式に読むべき記事はあるんだよ。

というのは間違いで、倭人伝解釈でゴネてるだけということになるよ。
734日本@名無史さん:2012/04/03(火) 18:14:05.43
>>699
従郡至倭,循海岸水行,歴韓国,乍南乍東,到其北岸狗邪韓国,七千余里。

循海岸水行,歴韓国,乍南乍東,までは「至」に係るんだよ。
其北岸狗邪韓国が倭に係る。

>「乍南乍東」の南や東はどこから見た南・東だと思う?
従郡至倭,となってる以上、楽浪郡から見ての方角だよ。
到其北岸狗邪韓国,七千余里。で、倭国領狗邪韓国へ到着して一区切り
次の文は倭国領狗邪韓国が基点になる。
735日本@名無史さん:2012/04/03(火) 18:35:32.42
>>733
邪馬台国までの道のりを示すのが目的だろう。
放射式に記載する目的も理由もない。
途中にない国は
中国諸韓国と交流の深い糸島や博多の国すら記載してない。
736日本@名無史さん:2012/04/03(火) 22:48:56.06
>>734
賛成ノ
737日本@名無史さん:2012/04/04(水) 01:04:43.01
>>734
漢文で後ろから前にかかるって何だよw
英語じゃないよ
738日本@名無史さん:2012/04/04(水) 01:10:50.49
後ろから前じゃなくて、倭人伝だから、文脈上倭にかかっていると判断しているのだと思うが
739日本@名無史さん:2012/04/04(水) 06:29:11.70
>>735
>邪馬台国までの道のりを示すのが目的だろう。
>放射式に記載する目的も理由もない。
邪馬台国だけではなく、倭のもう一つの大国投馬国までの道のりも示している
んだよ。原資料を書いた使者たちは、自分たちが実際に訪ねた奴国、不弥国、投馬国
が邪馬台国へのルートからは外れるがそれも書いておこう、そのためには放射式が適
当だと判断したんだろう。
740日本@名無史さん:2012/04/04(水) 06:33:02.53
>放射式に書かれた文章は、本来、異論が出るような性格のものではないということ。
ほう、どんな要件があったら放射式だと確定できるのかな?

741日本@名無史さん:2012/04/04(水) 09:28:45.00
>>739
単純に奴国、不弥国、投馬国が邪馬台国へのルート上にあったってだけでしょ
742良識の俎:2012/04/04(水) 10:44:13.33
>>739 >>741
投馬国の場合、「道里・戸数」のうち道里が抜けているが、
それでも、
投馬国は邪馬台国へのルート上にあって実際に訪問した理屈になるのか?
743日本@名無史さん:2012/04/04(水) 11:06:41.01
道里というのは里数に限らない。水行20日というのが道里だよ。

実際に訪問していない国について伝聞で書くならば、旁国について
書けないはずはない。侏儒国や裸国、黒歯国についてさえ伝聞なら
ば書けるんだ。
旁国について書いてないというのは、倭国内については実際に訪ね
た国に限るという書き方だったということだろう。
744日本@名無史さん:2012/04/04(水) 11:13:20.79
僅かながら選挙の匂いが漂ってまいりました。

                    _____________
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                    ||    その民主党員  . |
                    |l -――-               |
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             〈       _ノ∧ 厶=7  ,.-、) 人ノ
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745日本@名無史さん:2012/04/04(水) 11:35:43.03
>>739
そりゃ誤読だ。
746日本@名無史さん:2012/04/04(水) 11:37:20.65
>>742
その通りだ。
747大訂正!:2012/04/04(水) 11:45:12.63
御託を並べても肝心の「與」に付いてはノーコメントか。・・・・
>>729
>言語は時と共に変化するのだから、
>先秦時代より400年以上あと、説文解字編纂からでも200年ちかくあとの、
>三國志編纂の時代の意味・用法が、説文解字とは違いがあってあたりまえ

何が言いたいのだ。
「三國志」の翻訳は出来ないから止めろといいたいのか?

説文にしろ、『說文解字注』にしろ、その時代の人が理解出来るようにその時代の言葉に直してある。
それを、現代の言葉で解釈することは、それはそれでいいだろう。
その解釈の仕方を問題にすべきで
説文や説文注を参考に出来ないとは単に閉鎖的でしかない。

748大訂正!:2012/04/04(水) 11:53:21.58
>>739
>>735
>>邪馬台国までの道のりを示すのが目的だろう。
>>放射式に記載する目的も理由もない。
>邪馬台国だけではなく、倭のもう一つの大国投馬国までの道のりも示している
んだよ。原資料を書いた使者たちは、自分たちが実際に訪ねた奴国、不弥国、投馬国
が邪馬台国へのルートからは外れるがそれも書いておこう、そのためには放射式が適
当だと判断したんだろう。

至倭の本線記述は
邪馬壹【臺】國迄の道のりではなく
狗邪韓國から伊都國までです。

奴国、不弥国、投馬国 馬壹【臺】國は
伊都国に到る迄の複線として記述している。

749日本@名無史さん:2012/04/04(水) 11:54:41.75
説文や説文注を参考にするのは結構だが、参考に仕方を知らない者が
使うと単なるこじつけに落ちてしまう。
750大訂正!:2012/04/04(水) 12:35:18.07
>>749

では、
こじつけない例をしめしてみろ。
それができないなら、
こじつかえか否かを何で決めるんだ。

名無しの鈍重さんよ。
751日本@名無史さん:2012/04/04(水) 12:50:45.15
>こじつかえか否かを何で決めるんだ。
難しい問題だな。簡単な方法としては、誰が言ってるかを見ることだな。
大訂正が言ってることはたいがいこじつけだ。
752大訂正!:2012/04/04(水) 13:00:22.75
>>751 名前:日本@名無史さん
>>こじつかえか否かを何で決めるんだ。
>難しい問題だな。簡単な方法としては、誰が言ってるかを見ることだな。
大訂正が言ってることはたいがいこじつけだ

こじ付けじゃないない解釈を書き込んでから言えYo.
例えば、

「與」

は、どうだ。

介錯は引き受けるから書きこしてごらん。 藁。。。。
753日本@名無史さん:2012/04/04(水) 13:44:05.81
>>748
>自分たちが実際に訪ねた奴国、不弥国、投馬国が邪馬台国へのルートからは外れるがそれも書いておこう、
そのためには放射式が適当だと判断したんだろう。

邪馬台国へのルートからは外れる奴国、不弥国、投馬国を書いて何の意味があるの?
奴国、不弥国、投馬国と邪馬台国は記載するひつようのあるどんな関係?
また
邪馬台国へのルートからは外れる奴国、不弥国、投馬国を書いたのなら、
当然書くべき邪馬台国へのルート上にある国は何故書いてないんだ?

陳寿はそんな馬鹿ではないだろう。
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国が邪馬台国へのルート上にある国だ。
754大訂正!:2012/04/04(水) 13:52:27.00
>>753 名前
↑を何の根拠ももたない
こじつけ
書きこという。

先ず、
到と至を峻別することから
はじめなさい。

「從郡至倭」の
狗邪韓國迄の到。

狗邪韓國から伊都國迄の到。

二行程分割で記述されている。

「到」は二点間行程ではない。
複線があるから、「到」記述し、
至の二点間行程と峻別して記述されている。

755日本@名無史さん:2012/04/04(水) 14:03:50.06
>邪馬台国へのルートからは外れる奴国、不弥国、投馬国を書いて何の意味があるの?
倭国の実態をそれだけ正確に伝えることになるよ。

>当然書くべき邪馬台国へのルート上にある国は何故書いてないんだ?
ルート上にある国? どの国があったというのかな?
ないと思うよ。あったとしても、少なくともその国の首都は通っていない。

756日本@名無史さん:2012/04/04(水) 14:08:25.73
>>754
>先ず、到と至を峻別することからはじめなさい。
>「到」は二点間行程ではない。
複線があるから、「到」記述し、
至の二点間行程と峻別して記述されている。

妄想だ。
貴方が勝手に作った法則など何の意味もない。
757大訂正!:2012/04/04(水) 14:08:56.79
>>755 名前:日本@名無史さん
>>邪馬台国へのルートからは外れる奴国、不弥国、投馬国を書いて何の意味があるの?
>倭国の実態をそれだけ正確に伝えることになるよ

伊都国以下に記述されている
里、水行、陸行に誤差が 零なのは何故だ?

それを、追跡すれば何が出てくるかNa? 藁。。。
758日本@名無史さん:2012/04/04(水) 14:15:29.16
>>754
>伊都国以下に記述されている
里、水行、陸行に誤差が 零なのは何故だ?

里の誤差が 零はありえないだろう。

>それを、追跡すれば何が出てくるかNa? 藁。。

妄想。 
759大訂正!:2012/04/04(水) 14:35:01.02
東南陸行五百里
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
の誤差は幾らだ。
 妄想をかきこしてごらん。

始度一海千里
又南渡一海千里
又渡一海千里
には、全て「余」という誤差が記述されている。

伊都国からは誤差なし。
何故か
解るか、君たちの探求ではまだ理解できるところまで到達していない。
と、
いうことだ。
760日本@名無史さん:2012/04/04(水) 14:52:48.46
>>759
>東南陸行五百里
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
の誤差は幾らだ。

書いてない誤差を考慮する必要など無い。

>伊都国からは誤差なし。

「ここから駅まで2q」と言っても誤差が0ではない。
「伊都国からは誤差なし。」は間違い。

>解るか、君たちの探求ではまだ理解できるところまで到達していない。
と、いうことだ。

誇大妄想。
761大訂正!:2012/04/04(水) 15:08:05.81
>>760

救いようがない馬鹿か?

対比も出来ない
単細胞の持ち主。

762日本@名無史さん:2012/04/04(水) 15:18:04.92
大訂正は自分の頭を訂正しろ!
763日本@名無史さん:2012/04/04(水) 15:22:46.61
日数表示の国は遠方でわからないという事だね。
まっ、所詮九州に邪馬台国は有り得ない話です。
764日本@名無史さん:2012/04/04(水) 15:48:22.64
>>761
救いようがない馬鹿はお前。
765日本@名無史さん:2012/04/04(水) 16:29:51.28
>>752
>こじ付けじゃないない解釈を書き込んでから言えYo. 例えば、「與」は、どうだ。
「與」が韓の状況ではなく「倭」の状況だって?(>>715
まったく、くだらないこじつけをしたもんだね。 「與」にはなかまと手を合わせる
という意味がある。そこから、二つのものの近しい関係という意味が出てくる。
訳文としては、「及び」とか「と」と言われるやつだ。
南與倭接は、韓国と倭との関係を言うから「與」としているわけで、読み下すときには
単に「と」と訳せばいいんだよ。


766日本@名無史さん:2012/04/04(水) 19:03:23.61
>>765

>韓国と倭との関係を言うから「與」としているわけで

それは少し違います。
ここで関係に該当する文字は「接」で、「與」に関係の意味はありません。
「與」はA與(と)Bと訳されるように、Aに対するBの位置
というように、関係ではなくそれぞれが置かれた環境(位置)です。
767日本@名無史さん:2012/04/04(水) 19:06:49.45
>>763

>日数表示の国は遠方でわからないという事だね

わからなければ日数表記すらできません。
だから「日数表示の国は遠方でわからないという事だね」という解答にはなりません。
768日本@名無史さん:2012/04/04(水) 20:59:57.86
僅かながら選挙の匂いが漂ってまいりました。

                    _____________
                    ||                      |
                    ||   ちょっと待て .  .     .|
                    ||         .           |
                    ||    その民主党員  . |
                    |l -――-               |
                     '"´: : : : : : : : :`丶 . 帰化鮮人|
                 ':.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ______|
                  /.::.::./.::.::.::.:j.::.::.:|.:ム;ヘ.::.:ハ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                  ,'.::.::.::i.::.::.::.:/|.::.:: l/  `|.::./7
                :.::.::.::j:|.:!.:_:/´|_.::_」   くV <|
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           /         \∨ ∨  /  ニW }  )
             〈       _ノ∧ 厶=7  ,.-、) 人ノ
           }⌒ヽ     `<__,>イ  |__ノ| |/∨
           /   ヘ   /  │  丶ノ.| |   \
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769日本@名無史さん:2012/04/04(水) 23:00:21.71
河童登場?
770日本@名無史さん:2012/04/04(水) 23:42:14.03

帯方郡から狗邪韓国まで水行7000余里で狗邪韓国。
.狗邪韓国から始めて海を1000余里渡ると対馬国。
対馬国から1000余里渡ると一大国。
一大国から1000余里渡ると末廬国。
末廬国から東南500里陸行すると伊都国。
(伊都国から)東南に100里進むと奴国。
(伊都国から)東へ100里行くと不弥国。
(伊都国から)南へ水行20日で投馬国。
(伊都国から)南に水行10日と陸行1月で邪馬台国。

全て連続説をとったとしても「南に水行10日と陸行1月」で畿内のどこかに批定するのは不可能。
畿内説が出てくること自体が不可思議。
邪馬台国は九州のどこか。
771日本@名無史さん:2012/04/04(水) 23:51:00.85
大阪湾北岸から南に水行10日で和歌山のどこかへ上陸してそこから陸行1月で大和w
意味不明の行動
772日本@名無史さん:2012/04/04(水) 23:59:50.80
>>767
>わからなければ日数表記すらできません。
だから倭人の伝聞でOKです、正確にわかってりゃ里数で書くよ。
773日本@名無史さん:2012/04/05(木) 00:21:45.17
>>770
順次式で
始度一海千餘里至對馬國
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
又渡一海千餘里至末廬國
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至投馬國
南至邪馬台國
で判る場所に邪馬台国はある。

水行二十日水行十日陸行一月は
他に理由のある日数だから場所比定に考慮しては駄目。
774日本@名無史さん:2012/04/05(木) 00:34:12.89
順次式で
始度一海千餘里至對馬國
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
又渡一海千餘里至末廬國
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至投馬國
南至邪馬台國

到を使用しているのは狗邪韓国と伊都国へ向かう時だけ。
双方に共通しているのは大きく迂回しており、直線的に進んでいない。

対馬国、一大国、末盧国へは海路だから迂回の必要はない。
奴国、不弥国へは百里から隣接している状態なので迂回の必要はない。
結論から言えば
投馬国、邪馬台国もほぼ隣接している状態なので迂回の必要はない。

つまり
倭人伝では
迂回した場合に到、
迂回してない場合に至を使用している。

到《解字》学研漢和大辞典
会意兼形声。到は「至+音符刀」。至は、矢が一線に届くさま。刀は、弓なりにそったかたな。まっすぐ行き届くのを至といい、弓なりの曲折をへて届くのを到という。
775日本@名無史さん:2012/04/05(木) 00:45:05.68
順次式で
始度一海千餘里至對馬國
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
又渡一海千餘里至末廬國
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至投馬國
南至邪馬台國

対馬国、一大国、末盧国、伊都国の場合は到、至の前に距離が記載してある。
距離は千里と五百里。
国と国の間には海か山があり隣接していない。
つまり
到、至の前に記載してある距離と方角が次の国へ到着するための条件となっている。

奴国、不弥国の場合は百里しか進んでいなくて
国と国は隣接していると考えられる。
つまり、
到、至の前に記載してある方角だけが次の国へ到着するための条件となっている。

結論だけ言えば
投馬国、邪馬台国もほぼ隣接している状態なので
到、至の前に記載してある方角だけが次の国へ到着するための条件となっている。
776日本@名無史さん:2012/04/05(木) 00:47:00.97
>水行二十日水行十日陸行一月は他に理由のある日数だから場所比定に考慮しては駄目。
ごまかしては駄目だね。
777日本@名無史さん:2012/04/05(木) 00:49:32.50
>>772
直線じゃなくうねうねしてたんじゃないの
舟で南下して川沿いに北東方向へ遡上とか
778日本@名無史さん:2012/04/05(木) 01:09:03.36
自女王国以北其戸数道里可略載其餘旁國遠絶不可得詳とある。
自女王国以北にあると勅使に判っているのは
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国だけ。
つまり
女王国(邪馬台国)より北にあると判っている国については
(通ってきたから)戸数道里を略載できるが
その他の国については判らないと述べている。

確かに
対馬国、一大国、末盧国、伊都国までは途中にあるのは
海か山であり他の国はない。

また、
伊都国(佐賀平野、佐賀大和)以降は有明海沿岸を進むことになる。
ところが
当時有明海沿岸は九州で最大の人口地帯で、最大の人口密集地帯なのである。
海岸沿いは隙間無く人口が密集しており、人口過疎地帯はない。

其餘旁國遠絶不可得詳と言うことは
伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の間に他の国は無かったという事である。
つまり
不弥国の次にあるのが投馬国であり
投馬国の次にあるのが邪馬台国なのである。

しかも
伊都国から有明海沿岸を進むのであるから、次にある国と言えば
国と国はほぼ隣接した状態以外にはあり得ないことになる。
779日本@名無史さん:2012/04/05(木) 01:13:13.47
>>777
>直線じゃなくうねうねしてたんじゃないの

その通りだろうが川沿いと言うより島から島へだろう。
問題は
何のためかということだ。
780日本@名無史さん:2012/04/05(木) 01:20:54.13
順次式で
始度一海千餘里至對馬國
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
又渡一海千餘里至末廬國
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至投馬國
南至邪馬台國

http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG
伊都国=佐賀大和、都渡城
奴国=佐賀大和〜吉野ヶ里
不弥国=吉野ヶ里
投馬国=三潴郡、筑後(投馬国の下妻がある)、八女郡(上妻がある)
邪馬台国=山門郡(ヤマト)〜大牟田〜荒尾、玉名
781日本@名無史さん:2012/04/05(木) 01:29:12.41
>不弥国の次にあるのが投馬国であり、投馬国の次にあるのが邪馬台国なのである。
仮にそうだとしても、不弥国の首都と投馬国の首都、投馬国の首都と邪馬台国の首都
はかなり離れていたはず。その道里が書かれていないというのは不自然。

782日本@名無史さん:2012/04/05(木) 01:30:29.50
參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
(倭地について見聞きしたところでは、海中洲島之上に孤立しており、
離れたり連なったりして周旋すれば五千餘里ばかりである。)

【絶在海中洲島之上或絶或連】
http://flood.firetree.net/?ll=33.2467,130.3188&z=5&m=5
783日本@名無史さん:2012/04/05(木) 01:35:39.24
>>781
>その道里が書かれていないというのは不自然。

いづれ理由は提示するが
かけない理由があったから書かなかったし、
書かなくても判る場所にあるからかかなくてもよかった。
784日本@名無史さん:2012/04/05(木) 01:46:31.47
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月

と魏志倭人伝にあるので水行陸行十日二十日を全無視するのは結果ありきなんでは
書かれていないことを推定するのは良いのだけど
渡や行の意味を無視して改めての話と仮定して狗邪韓国からと仮定して南に水行10日と陸行1月で邪馬台国ならなんとか大和に比定できる
785日本@名無史さん:2012/04/05(木) 01:59:17.91
九州北部まで一月ほどなのは平安中期の延喜式によるもので弥生末期古墳初期を一緒に考えるのは無理。
「自女王國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
女王国以北の国は戸数や道里が略載できるが、その傍(以南)は遠絶で詳しくわからない。
西から邪馬台国に来たのなら以西は分かる、以東は分からない、以北は分かるなんて書き方はしない。
786日本@名無史さん:2012/04/05(木) 04:30:47.94
だよなあ
畿内だとしたら日本海沿岸沿いに水行して若狭に上陸するしかない
787日本@名無史さん:2012/04/05(木) 04:42:36.99
辰韓含んだ弁辰24ヶ國は4-5万戸

5万戸の投馬國は弁辰レベルの國國連盟とみなければならない

この条件に合致するような國國のまとまりとゆうとかなり限定されてくる

さらに

投馬國除いた女王29ヶ國のグループとの関係が良好な國國のまとまりだな

石見+出雲+伯耆+因幡+若狭+α ここらへんがまとまっての5万戸の投馬國だな

神話の条件とかも満たしているしね
788日本@名無史さん:2012/04/05(木) 07:05:28.49
そんなデカい国があってたまるかw
789日本@名無史さん:2012/04/05(木) 07:06:47.73
>>772
あなたはOKかも知れないが、倭人からの伝聞を掲載するのは
三国志じゃなく、記紀。
魏の歴史とはなんら関係のない日本史。
790日本@名無史さん:2012/04/05(木) 07:09:25.50
投馬国5万戸、邪馬台国七万戸は単一の国の戸数として記載されている。
倭の30国との関係からもそれは動かない。
戸数が多いから国々の連名とみるというのは、ご都合主義的解釈だな。
791日本@名無史さん:2012/04/05(木) 07:27:55.09
>>788
ヒント。

人口密度
792日本@名無史さん:2012/04/05(木) 08:15:33.40
>>784
>渡や行の意味を無視して

ご都合主義

>狗邪韓国からと仮定して

無理すぎる

>水行10日と陸行1月で邪馬台国ならなんとか大和に比定できる

ぷっ!
そんな何でもありの解釈なら
四国でも宮崎でも沖縄でも、何処でも好きな場所に比定できる。
793日本@名無史さん:2012/04/05(木) 09:23:44.15
>>785
>その傍(以南)は遠絶で詳しくわからない。

【傍】
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&stype=0&dtype=5&p=%E5%82%8D&oq=
何んで南になるの?
移動して来た両側にある国々じゃないの?

【次有】【傍連】
しかも連続してるんだろ?
794日本@名無史さん:2012/04/05(木) 09:38:46.46
以北の対義語は以南だからなー
旁國=傍らの国は遠絶で詳しくわからない
邪馬台国じたいがそれまで述べた国からは離れた遠絶の地にあったということやもしれぬ
795良識の俎:2012/04/05(木) 09:46:19.47
>>783
>いづれ理由は提示するが
もう聞き飽きた。

>かけない理由があったから書かなかったし、
理由を「考え中」のようだが、思いつかないらしい。

>書かなくても判る場所にあるからかかなくてもよかった。
進歩がない。
796日本@名無史さん:2012/04/05(木) 09:48:01.11
女王国以北というのは女王国よりも北、倭人伝の用法では以北に女王国は入らない。
旁国は傍らの国、すなわち使者が訪れた投馬国や邪馬台国の傍らにある国だ。
女王国=邪馬台国とすると、邪馬台国よりも北に旁国があってはならないことになるが
女王国が旁国を含むとなれば邪馬台国よりも北に旁国があっても「以北は道里戸数が
略載できる」という記事に反しないことになる。
797日本@名無史さん:2012/04/05(木) 09:53:59.39
>以北の対義語は以南だからなー
確かにそうなんだが、以北・・以南・・と書くと、女王国そのもののことは
何も書いていないことになる。そこで以北・・其の余・・と書いてるんだな。
798日本@名無史さん:2012/04/05(木) 10:51:02.56
>>796
「邪届伊都、傍連斯馬」
「次有斯馬國〜」・・最初の国に次がある。
「次有奴國。此女王境界所盡」・・最後の国は女王国に含まれると思われる。

以北の国々から邪馬台国に至るまでの移動路の傍らの国々であり、連続している。
「其餘旁國」とは、以北の国々、女王国両方に含まれると思う。
799卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/05(木) 11:02:33.45
普通、斯馬国〜奴国までの二十一国が、旁國遠絶の旁國だと見なされているようだが、
読み方によっては、それらは旁國ではなく、女王国以南にある国々だと解釈することもできる。

というのは、次有〜次有〜と書かれているからである。つまり、
女王国以南に、順番に、斯馬國、 巳百支國…が有る、という書き方だからである。

つまり旁國遠絶不可得詳の旁國は、女王国以北も含めて、女王国周辺の遠絶な国々は、
何の情報も得られなかったので書けませんでした、と言っているのである。

斯馬國以下の二十一国は、その旁國遠絶な国々ではなくて、
女王国以南にある国として情報が得られたので書いておきます、ということである。

こういう解釈も可能なのである。
800大訂正!:2012/04/05(木) 11:30:17.65
>>766 :日本@名無史さん
>>765
>>韓国と倭との関係を言うから「與」としているわけで
>それは少し違います。
>ここで関係に該当する文字は「接」で、「與」に関係の意味はありません。
>「與」はA與(と)Bと訳されるように、Aに対するBの位置
>というように、関係ではなくそれぞれが置かれた環境(位置)です。
名無しさんの解釈は↓
與:黨與也。・・・清代陳昌治刻本『說文解字』
黨與也。黨當作攩。攩,朋群也。・・・・清代段玉裁『說文解字注』
の通りですね。
朋群、朋類という関係環境が成立していた。

『與はと』との解釈は、間違いではないが、
その奥に『朋群、朋類という関係環境』を内包させた上での『と』である。

801無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/05(木) 11:46:21.66
>>770
帯方郡〜韓国   歴韓国であって「水行」とは記述されていない

それに韓国方四千里であって、縦横足せば八千里になるぞ
802大訂正!:2012/04/05(木) 11:50:19.10
>>756 :日本@名無史さん
>>754
>>先ず、到と至を峻別することからはじめなさい。
>>「到」は二点間行程ではない。
複線があるから、「到」記述し、
至の二点間行程と峻別して記述されている。

>妄想だ。
>貴方が勝手に作った法則など何の意味もない。
2chの塵よ。 梁書を読み直してから出直して来い。

「名未盧國
又東南陸行五百里 至伊都國
又東南行百里 至奴國 
又東行百里 至不彌國 
又南水行二十日 至投馬國 
又南水行十日 陸行一月日 至邪馬臺國」
↑が「行」と「至」の組み合わせによる二点間表記方だ。
「行」の先は無い、一国、一国でぶつ切りにして記述してある。
至伊都國・至奴國・至不彌國・至投馬國・至邪馬臺國の
起点は、未盧國だ。
魏志も同じく伊都國・奴國・不彌國・投馬國・邪馬臺國

起点は未盧國だ。
里程は「為國邑」の「國邑」の概念で記述してある。

803日本@名無史さん:2012/04/05(木) 11:54:30.00
>>702
>2chの塵よ。 梁書を読み直してから出直して来い。

人間の屑よ。お前は二度と出てくるな。
804日本@名無史さん:2012/04/05(木) 12:05:42.34
>>402
漢文読めないのによく勝手な能書きたれますね、
又があるからさらにその上にと言う事で連続式に読む証拠ですよ。
805日本@名無史さん:2012/04/05(木) 12:18:43.00
相変わらず九州脳はパズル遊びしかする事ないんだなw
九州に邪馬台国は間違っても無い。
鉄器や鏡がいくら出土しようが無駄だ。
倭人伝の記述にも無いことをいつまでも引きずるなよw
806日本@名無史さん:2012/04/05(木) 12:20:02.24
>>800

「與」の解釈や使用目的はいたって簡単。


「AB」「AとB」の違い。
AとBの間にスペースが必要な場合、
漢文では“與”を、日本語では“と”を使用。
807大訂正!:2012/04/05(木) 12:23:23.92
>又があるからさらにその上にと言う事で連続式に読む証拠ですよ。

「行」の一文字を抹消したら
そうなるだろう。
残念ながら、
「行」の一字があるから、
連続式では読めないのYo.

行:人之步趨也。从彳从亍。
从彳亍。彳,小步也。亍,步止也。

「行」は
進んで止まるDA.
808日本@名無史さん:2012/04/05(木) 12:43:15.04
>>807
>「行」の一字があるから、
連続式では読めないのYo.

何とアホな事を。
「行」の一字があろうが無かろうが
又があれば連続式なの。

>「行」は進んで止まるDA.

何処まで馬鹿なんでしょね。
809日本@名無史さん:2012/04/05(木) 13:02:17.45
倭人伝は説文で解読できるとか言ってる馬鹿な人がいるみたいだけど、
大訂正!って、その関係者なのかな?
810日本@名無史さん:2012/04/05(木) 13:02:25.36
>>783
>いづれ理由は提示するが
かけない理由があったから書かなかったし、
書かなくても判る場所にあるからかかなくてもよかった。

読者は中国人ですよ。 大丈夫ですか?
「天才、筑紫、久留米」の中じゃ、貴方に頑張ってもらいたいが・・・
今のところ、天才説が一番「理」にかなっているよ。

「説明、言い訳」でなく「納得、説得」でなきゃねっ!
一応、期待してます。
811日本@名無史さん:2012/04/05(木) 13:05:06.38
倭人伝が放射式であることは文献史学者の間では通説だ。
トンデモに持って行きたい奴だけが連続式を主張する。
812日本@名無史さん:2012/04/05(木) 13:42:03.07
>>811
それ、どこの文献史学者だw
そもそも、通説を形成するほどの数の文献学者はかかわってない。
倭人伝なんて研究しても、何の成果も出ないし業績にならないから、
いまどきの文献学者は見向きもしない。
813筑紫次郎:2012/04/05(木) 14:35:19.08
>>810
>>かけない理由があったから書かなかったし、
>>書かなくても判る場所にあるからかかなくてもよかった。
>読者は中国人ですよ。 大丈夫ですか?

不弥国の南に投馬国(すぐ南)
投馬国の南に邪馬台国がある
と判るはずで陳寿は書いたのだが
実際には中国人にも難しすぎたようだ。

>「説明、言い訳」でなく「納得、説得」でなきゃねっ!

言い訳も説得もするつもりはない。
真実を知りたい人に説明するだけ。

ただし
本当に知りたい人がいればの話。
一つ説明すればそれが新たな謎となるので
一つの説明で簡単に理解できはしないから。

時が来るまでは少しずつ啓蒙活動。
今では昔と比較すれば
伊都国が佐賀平野にあったと正しく判断する人が多くなって
大変喜ばしい。

次は
水行二十日水行十日陸行一月が所要日数でないことに多くの人が気付いてほしいものだ。
814日本@名無史さん:2012/04/05(木) 15:35:00.82
>伊都国が佐賀平野にあったと正しく判断する人が多くなって大変喜ばしい。
これは○。

>水行二十日水行十日陸行一月が所要日数でないこと
誰が読んでも所要日数。それを誤魔化しては駄目。

総合してまだ落第だな。
815日本@名無史さん:2012/04/05(木) 16:03:30.68
>>814
>誰が読んでも所要日数。それを誤魔化しては駄目。

That's right
816日本@名無史さん:2012/04/05(木) 18:00:25.50
>>810
>「天才、筑紫、久留米」の中じゃ、貴方に頑張ってもらいたいが・・・
>今のところ、天才説が一番「理」にかなっているよ。

「帯方郡から水行二十日で投馬国、帯方郡から水行十日陸行一月で邪馬台国」という天才の説の何処が
理に適っていると言うの?

「魏使(梯儁ら)の来倭は戦時下だったため狗奴国の攻撃を避けて末盧国(唐津)に上陸し、陸路で
邪馬台国(熊本)に向かった」という天才の説の何処が理に適っているの?

「水行1日=千里が当時の常識であった(読者には分かることであった)」の何処が理に適っているの?

「梯儁は使者ではなく警護の武官だった」の何処が理に適っているの?

「卑弥呼は中国で初期道教を学んだ帰国子女or渡来人であった」の何処が理に適っているの?

「一大率は卑弥呼の男弟である」の何処が理に適っているの?

まだまだあるが、とりあえずはここまで。
817筑紫次郎:2012/04/05(木) 18:33:12.86
>>814
>>水行二十日水行十日陸行一月が所要日数でないこと
>誰が読んでも所要日数。それを誤魔化しては駄目。

所要日数と考えるからいつまでたっても邪馬台国の場所を特定できない。

>総合してまだ落第だな。

謝銘仁よりも貴方の判断が正しいとは思えない。
判断能力に問題のある貴方とは論争したくない。
〓〓〓〓
決して実際に道を進めた《所要日数》のことを意味しているのではない。
【季刊邪馬台国86号P.149・謝銘仁・中国文学者、社会学博士、元国立台湾師範大学教授】
〓〓〓〓
818良識の俎:2012/04/05(木) 18:40:37.44
>>816
>「帯方郡から水行二十日で投馬国、帯方郡から水行十日陸行一月で邪馬台国」
>という天才の説の何処が 理に適っていると言うの?
それしか読みようがないのだ。どうしょもない。

>「魏使(梯儁ら)の来倭は戦時下だったため狗奴国の攻撃を避けて末盧国(唐津)に上陸し、陸路で
>邪馬台国(熊本)に向かった」という天才の説の何処が理に適っているの?
博多に直行しなかった理由を「戦時下の来訪」と明確に説明したのは天才だけだが。

>「水行1日=千里が当時の常識であった(読者には分かることであった)」の何処が理に適っているの?
正確にに計測しようのない海路距離は、日数単位か千里単位で「表記した」ものだ。
陸路距離とは無縁の表記方法だ。
俺に対して友好的でないのは構わんが、単に「水行1日=千里」と、誤解させるような書き方をするな。

>「梯儁は使者ではなく警護の武官だった」の何処が理に適っているの?
節を与える権限は天子のみ、使節を立てる権限も天子のみ。
太守風情が使節を立てることはできない。厳然たる事実だ。
疑うならば、中国の儀礼をそのまま踏襲してきた宮内庁に行って確認してこい。
中国の対応も儀礼も相手の格による。とくに外交使節に軍人は起用しない。これも事実だ。

>「卑弥呼は中国で初期道教を学んだ帰国子女or渡来人であった」の何処が理に適っているの?
森羅万象の学問たる道学(黄老学)を学ぶ高度な中国語素養と知識と理解力は、生粋の土着倭人にはない。
しかも、中国で最も盛んになる190年頃に鬼道をマスターしていたという
空間的・時間的・習得資質などの面から、生粋の倭人だった可能性はゼロだ。
姑息ものたちが、「卑弥呼の鬼道は大陸の鬼道とは違う」と必死でいうんだろうな。

>「一大率は卑弥呼の男弟である」の何処が理に適っているの?
『倭人伝』の担当者は、この二人については自国の歴史書に名を記すに不適格と判断した。
この二人は、ともに偉い権力者のようだが、倭国大変のときに何も働いていない。
卑弥呼姉さんの威光を傘に、偉そうに振る舞っていた弟をして、卑弥呼の政治を手伝っていたという。
実態は、一大率という大ぎょうな名で、卑弥呼関係の文物の検査だけをしていた。そゆことだ。
819日本@名無史さん:2012/04/05(木) 20:58:10.35
邪馬台国については帯方郡からの日数で表記したってぇのはまだ分かる
だが何で投馬国についても帯方郡からの日数で表記する必要があるのか?
820日本@名無史さん:2012/04/05(木) 21:16:55.45
>>817
謝銘仁がいう日数論はそんなにおかしくないよ。実際に道を進めた日数ではなく、
適宜の休日等を含めた日数だと述べているんだ。それは「所要日数」にほかならない。
それを、「所要日数ではない」とする君の理解がおかしいんだよ。
821日本@名無史さん:2012/04/05(木) 21:23:10.18
>>818
詭道は道教と全く完全に別物な
822日本@名無史さん:2012/04/05(木) 21:39:22.88
>>818 :良識の粗相
なんだこいつは?根拠のない戯れ言ばかりだな。
823良識の俎:2012/04/05(木) 21:54:25.77
>>822
カラ念仏はいいから、一つ一つ、根拠のある否定文言を並べてみろ。タコ
824良識の俎:2012/04/05(木) 22:06:01.74
>>822
ああ・そうだ。
一つ言い忘れていた。

小学生の作文レベルの拙い反論はよしてくれよ。
そういうのを、お前のいう「たわごと」というのだ。
825日本@名無史さん:2012/04/05(木) 22:20:31.06
>>824
詭道とは儒教でも道教でもその他諸子百家の学でもない淫祀のことを指した
826日本@名無史さん:2012/04/05(木) 23:19:18.30
日数も1/6すれば、投馬国、邪馬台国が九州内に収まるのは
当然のことながら、水行一年も奄美大島か沖縄あたりに収まる。

一月行を435キロとし、その1/6を72.5キロにした場合。
827日本@名無史さん:2012/04/05(木) 23:20:35.74
>>822

あまり関らない方がいい、たんなる変わり者の粘着だから。
自分を天才と吹聴する事でお山の大将気取りの孤独な老人なんだから。

もし関り合うならとことんヨイショすると、単純だから直ぐに木に登るから面白いよ。
828日本@名無史さん:2012/04/05(木) 23:30:00.98
学べば学ぶほど人は学問の深さを思い知り、
謙虚になるものだと、亡くなった父が言っていた。
829日本@名無史さん:2012/04/05(木) 23:37:24.89
残り寿命の少ない人は何言ってもいいんだよ
生きている証を灯さないと

どうせ早急に結論の出る題材じゃないんだ

出放題のホラを吹いておけば
死ぬまで面白おかしく生きられるじゃないか
830筑紫次郎:2012/04/05(木) 23:46:50.53
>>820
>適宜の休日等を含めた日数だと述べているんだ。それは「所要日数」にほかならない。
それを、「所要日数ではない」とする君の理解がおかしいんだよ。

〓〓〓〓
決して実際に道を進めた《所要日数》のことを意味しているのではない。
【季刊邪馬台国86号P.149・謝銘仁・中国文学者、社会学博士、元国立台湾師範大学教授】
〓〓〓〓
【●決して●実際に道を進めた《所要日数》のことを意味しているのではない。】
を強引に否定までして何処に邪馬台国を誘致したいの?
熊本?鹿児島?宮崎?
たとえ所要日数だと強弁しても
他の局面でも矛盾が続出するばかりでますます強弁するしかなくなる。
831日本@名無史さん:2012/04/05(木) 23:55:22.51

「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
 【殺された石井こうきの発言から】

そうか、統一教会、オウム、朝鮮総連、民団→朝鮮人だらけの民主党

そして低視聴率反日大河ドラマ
すべて繋がっている
832日本@名無史さん:2012/04/06(金) 00:01:04.30
>>826
>日数も1/6すれば、投馬国、邪馬台国が九州内に収まる

何でもありだね。
節度も何もあったものじゃない。
833日本@名無史さん:2012/04/06(金) 00:15:47.07
>>829
そうだね
残り少ない人生を楽しんで過ごしてもらうために、周囲が気を使ってあげないとね。
834日本@名無史さん:2012/04/06(金) 01:14:20.12
>>830
また日向厨相手に謝銘仁かよ。
835日本@名無史さん:2012/04/06(金) 01:20:31.27
>>830
謝銘仁は次のように言っているぜ。

魏使一行が不弥国→投馬国→邪馬台の間を、水行・陸行した合計日数六十日から
行事暦に従って休日をはぶき、さらに潮流・天候や祭道・占ト・乗り物などの都
合、糧食の補充などのために、前進を控えた日数を差し引くと、実際に道を急い
だ日数はごく限られるのではなかろうか。

私も、使者らは2日進んだら一日休みぐらいのペースだったのではと思っている。
謝とほとんど同じ想定になるかと思うのだがね。謝とちがうのは、謝が連続説、私
が放射説だというところだ。

836筑紫次郎:2012/04/06(金) 01:43:11.37
>>835
またもや日向厨なのか?
私とは無関係に宮崎の根拠を述べればよい。
まともな人は相手にしないと思うがね。

誰からも相手にされないからと言って
いい加減
私にまとわりつくのは止めろよ。
837日本@名無史さん:2012/04/06(金) 02:04:34.16
ならば、「所要日数ではない」なんてトンデモは言わんことだ。
838筑紫次郎:2012/04/06(金) 02:12:38.61
>>837
〓〓〓〓
ここに出てくる「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」は、休日や節日や
いろいろな事情によって、ひまどって遅れたり鬼神への配慮などから
道を急ぐのを控えた日々などをひっくるめた総日数に、修辞も加わって記されたものである。
決して実際に道を進めた《所要日数》のことを意味しているのではない。
〓〓〓〓
と述べている。
【いろいろな事情によって、ひまどって遅れたり】の日数も含まれるのだから所要日数ではない。
邪馬台国を宮崎に誘致したいのだろうが
貴方の都合や思いこみに従うわけにはいかない。
839筑紫次郎:2012/04/06(金) 02:17:01.42
>>837
「トンデモは言わんことだ。」
と言って
まともな主張を封じようとするトンデモを何度か見た。

トンデモを基準にすれば
まともな主張はトンデモに見えるわけだ。
840筑紫次郎:2012/04/06(金) 02:24:03.84
>>837
宮崎説なんてのはトンデモだ。
倭人伝の行程記事で宮崎へ間違いなく行ける人は一人もいないはずだ。
倭人伝の行程記事で宮崎へ行けると言うのなら
四国でも沖縄でも畿内でも好きな所へいけるだろう。
841筑紫次郎:2012/04/06(金) 02:27:45.38
>>837
貴方こそ宮崎説などというトンデモはさっさと撤回すべきだ。
842日本@名無史さん:2012/04/06(金) 02:29:56.95
>【いろいろな事情によって、ひまどって遅れたり】の日数も含まれるのだから所要日数ではない。
適宜の休日等が含まれたらとたんに「所要日数ではない」ってことになるのかな?
君はそういう誤魔化しで日数記事を無視したいのだろうが、そんなことでは誰も納得しないだろうよ。
比定地がどこになるかは、正しく読んだ結果、自然に導かれることだ。
誤魔化しで読んだのでは正しい結論は得られない。
843日本@名無史さん:2012/04/06(金) 02:34:13.58
>宮崎説なんてのはトンデモだ。
宮崎説のどこがトンデモなのかな? 説明できないならばそれこそ思い込みだぜ。
844日本@名無史さん:2012/04/06(金) 03:10:25.78
トンデモとは思えないけどね・・むしろ最も無理なく自然に思える文章だけ見れば
宮崎と仮定しても距離日数に別に不合理なところはない
別の話だが神話や地名をみるとあそこに何か勢力があったことは間違いない
実物としてあそこにある3世紀の卑弥呼直後の時代の多数古墳は何だったのかっつー話で
何もないわけがないね
絶対宮崎が邪馬台国とは言わん北部九州の方が可能性が高いと思えるような状況もあるし
倭人伝だけ見たらの話だ
845日本@名無史さん:2012/04/06(金) 03:15:39.27
まあ、宗教権威地は南な感じはするな。
846日本@名無史さん:2012/04/06(金) 07:06:27.39
北部九州は行程解釈でも気象風土条件でも無理だろ。
大体奴国で伊都もある。温暖でもねーしな。
847日本@名無史さん:2012/04/06(金) 07:16:02.45
宮崎は狗奴国だったとかクマソだったといって目を背けようとする傾向があるようだ。
しかし、そうとしたら、弥生後期から古墳時代、その勢力は倭国とは別の勢力として、
中国と通交したはずだろう。しかし、中国史書を精査しても、倭国とはちがった勢力が
我が国にあった気配はない。
848日本@名無史さん:2012/04/06(金) 10:00:15.71
宮崎の鉄の出土は、北部九州と比べればかなり少ない。
大陸と直接交易せずに、北部九州から入手したものかもしれない。
849日本@名無史さん:2012/04/06(金) 10:06:03.78
肥前国風土記では、以前は九州は、筑紫、肥、豊、熊襲
にわかれていると書かれている。

境界線が変化する可能性はあるが、筑紫、肥、豊の領域は
かなり明確であり、宮崎が熊襲国の一部である可能性は高い。
850日本@名無史さん:2012/04/06(金) 10:44:45.89
それより古事記だろ。
851日本@名無史さん:2012/04/06(金) 11:15:09.66
>宮崎の鉄の出土は、北部九州と比べればかなり少ない。
>大陸と直接交易せずに、北部九州から入手したものかもしれない。
交易はあっても、非常に少なかったということだろう。
持衰の話が伝えるように、南九州から大陸へ渡るというのは命がけだったんだ。
852大訂正!:2012/04/06(金) 11:33:07.02
>>808
ホイ! 2chの塵Yo.
 お前は、掃除機で吸い取るか箒で掃き飛ばすことができると思ったが、無理のようだな。
お前は粗大塵だ、それも生塵の悪臭が漂い鼻が曲がるほどのだ。

>>807
>>「行」の一字があるから、
>>連続式では読めないのYo.
>何とアホな事を。
>「行」の一字があろうが無かろうが
>又があれば連続式なの。

>>「行」は進んで止まるDA.
>何処まで馬鹿なんでしょね。
悪臭漂う粗大塵の名無し。
「行」を解釈してみろ。
まともな解釈ができれば「又」も解決する。
まさか、
「行」を日本語の『行く(go)』と思いこんでるのではないだろな。
もし、『行がgo』だと解釈できる例があるなら挙げてみろ。
名詞でも動詞でも代名詞でもいいから。

853日本@名無史さん:2012/04/06(金) 13:09:03.93
倭人伝に倭国は鉄が豊富なんて何処にも書かれてないけどな。
854日本@名無史さん:2012/04/06(金) 13:23:30.12
>>852
>もし、『行がgo』だと解釈できる例があるなら挙げてみろ。
>名詞でも動詞でも代名詞でもいいから。

横からだが
《廣韻》適也,往也,去也。
855大訂正!:2012/04/06(金) 13:57:33.26

>>854 名前:日本@名無史さん
>>852
>横からだが
>《廣韻》適也,往也,去也。

有難う。
とりあえず、
適:之也。从辵啻聲。
辵:乍行乍止也。从彳从止
結局、
「行」は進んで止まる
であることの
念おしですね。

行くという根底座っているものは、『進んで止まる』です。



856大訂正!:2012/04/06(金) 14:06:33.10
往也

やりますか?

古文从辵。

ともあり、

辵:乍行乍止也。从彳从止。

ですから、
俺の主張からは逃れられないだろう。

今回は
釣りを楽しませていただきました。
 名無しさん有難う。

857日本@名無史さん:2012/04/06(金) 14:19:01.47
>>856
去はどうした?
858大訂正!:2012/04/06(金) 14:35:12.20
「去」か?

これは面白いから
 明日だ。
お前の妄想を根底からひっくり返してやる。

「去」は人と関連して
初めて使える「行」だ。

859大訂正!:2012/04/06(金) 14:36:29.27
>初めて使える「行」だ。

此処での行は日本語の行くという解釈だ。
860日本@名無史さん:2012/04/06(金) 14:38:09.43
>>858
往:之也。
適:之也。
之:出也。

行=適=之=出

「出」に「止」という意味は無い。

1、古今韻會には「彳,左歩也。亍,右歩也。左右歩倶挙、而後為行者也」
  釋名には「両脚進曰行。行、抗也。抗足而前也」(抗は「挙げる」の意味)
  どちらの文献も「行」に「止まる」の意味を付与していない。
  説文の編纂者の許慎も明言していない。清の段玉裁が言ってるだけ。

2、仮に段玉裁の説が正しくて、「行」の原義に「止まる」の意が含まれていたとしても、
  行=適=之=出などの例から、すでに「止まる」の意味から離れた
  「GO」の意味・用法が一般化していたことがわかる。

説文解字は、古文経学家の許慎の研究成果であり、
ある文字について先秦時代の意味・用法を網羅したものではなく、
先秦時代にそのような意味・用法があったということでしかない。
説文に掲載されている意味・用法以外には無かったという証拠ではないし、
まして、漢代以降に派生した意味・用法についてはノータッチ。
だから、三國志の文章で、「説文にこうあるから、こうだ」というのを振り回しても、あまり意味なし。
861大訂正!:2012/04/06(金) 14:51:05.09

適:之也。从辵啻聲。

从辵啻聲。
は飛ばすNo.

辵:乍行乍止也。从彳从止。

だよ。
862日本@名無史さん:2012/04/06(金) 15:46:24.33
>>861
語源は否定していない。
語源は>>860にも紹介したように異説があって、
証拠が無い以上水掛け論にしかならない。

オレは、語源の話をしているのではなく、語源以外に派生した意味・用法があると言っている。
それが「行=適=之=出」の意味・用法。
これは、具体的に文章の中で用いられている例がたくさんあるので、
水掛け論ではなく事実。
だから、「辵:乍行乍止也。从彳从止。」であっても、
「行=適=之=出」の意味・用法が存在することとは何も矛盾しない。
わかる?
863日本@名無史さん:2012/04/06(金) 20:08:12.99


ホリエモンのブログ  元ニート  でググれ


腹よじれてワロタwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
864日本@名無史さん:2012/04/06(金) 20:14:52.57

-----朝日新聞やNHKが煽る「国の借金」について

日頃メディアや、反日工作員が必死になって「国の借金」という単語を使い
財政破綻論を展開させていますが、現実、現在の日本には「政府の借金」1000兆円近く存在いたしますが、
「国の借金」は存在いたしません。

朝日新聞やNHKは、雇い主である中国共産党より日本人に対して不安や政府に対する不信を持たせ、煽るために
局内の共産党員を使用して既に数十年間、「国の借金」を連呼し続けております。

<違和感なく「国の借金が1000兆円もある」という幻想に浸ってしまっている一般の方々は、朝日新聞やNHKに見事に騙されて続けている訳です>

数十年もテレビや新聞から情報を得てきた方々の中には、「メディアが嘘を付く訳ない」と思う、そう思いたい方もいるでしょう。
  しかし、長い目で見れば、もともと戦前から日本を転覆させるために存在してきた報道機関ですから、
これくらいの嘘は朝飯前で御座います。

それでも、「国の借金は1000兆円ある」と考えをお持ちの方は、複式簿記の勉強をしてから、日本のバランスシートをご覧ください。
 
  実質中国共産党の持ち物でありますNHK、朝日新聞は、これからも嘘を付き続けます。デマを流し続けます。捏造し続けます。
     

  -------そのニュース、核心はデマだ。             長文失礼いたしました。---------- 
865日本@名無史さん:2012/04/07(土) 09:44:11.58
説文からのこじつけは駄目だってことで決着ね
866良識の俎:2012/04/07(土) 10:14:06.14
もういいか?

いかにもど素人談議らしく、何かにつけて重大な発見でもしたかのように、
一元的に意味づけをしたがるタコがいるが、
古代の文筆家たちは漢字や漢字語句をもっと柔軟性のある使い方をしているぞ。

@適を「すすむ」という動詞に使用した例。
▼辰韓伝「其耆老伝世,自言古之亡人避秦役来適韓国、馬韓割其東界地與之」。      
その耆老、世々伝えんと自ら言う。いにしえの亡人(亡命者)、秦の役を避けて韓国に適(すす)み来たる。馬韓、その東界の地を割って、これを与える。
A之を「ゆく」という動詞に使用した例。
▼『史記』秦始皇本紀「三十二年、始皇之碣石、使燕人盧生求羨門高誓」。
三十二年、始皇、碣石に之(ゆ)き、燕人盧生をして求羨門の高誓を求めせしむ。
▼『晋書』倭人伝「宣帝之平公孫氏也。其女王遣使遣、至帯方朝見」
宣帝、公孫氏を平げに之(ゆ)く也。其の女王、使を遣わして、帯方に至り朝見す。
B行は「行く」だけじゃなく、行程を意味する用例が多い。
陸行・水行・船行。東南行、東西5月行。

卒業シーズンも終わった。いい加減に、狭窄視野丸出しの談議から卒業しろ。
867日本@名無史さん:2012/04/07(土) 10:21:05.87
顔に鮫除けの呪いである渦巻きを描いた海族系の倭人ていうのは、今でも日本各地の漁港に住んでますね。
海神(わだつみ)を信仰する安曇系の渥美さん、安曇さん、東さん、泉さん、出雲さん、内海さん、穂積さん、お元気ですか?
868日本@名無史さん:2012/04/07(土) 10:22:26.01
邪馬台国は埼玉のあるだよ
さきたま古墳群が卑弥呼の墓だぁよ
869日本@名無史さん:2012/04/07(土) 10:48:56.30
卑弥呼はいわゆる富士王朝の女王。
したがって、富士山そのものが卑弥呼の墓なのだ。
径百余歩(百歩=144km)
870良識の俎:2012/04/07(土) 10:59:29.06
>>867
>顔に鮫除けの呪いである渦巻きを描いた海族系の倭人ていうのは、
>今でも日本各地の漁港に住んでますね。

これは初耳だ。俺の研究にとって非常に重要なこと。
事実ならば、詳しい地名や写真を紹介してほしいのだが。
871良識の俎:2012/04/07(土) 11:03:43.98
>>866 のついしん。
文章にはテンポとリズムがある。視覚的な文字づかいの変化がある。
とくに中国語は発音の韻を大切にするという。

臨機応変というか。文章の韻や文字使いに変化をつける意味で、
色んな文字・語句づかいや表現をする。
その中の文字や語句の意味を画一的な意味に固定することほど愚かなことはない。
872日本@名無史さん:2012/04/07(土) 11:11:16.50
>>870今は渦巻きは描いてねえけれど、そこらへんにいっぱいいるだろう?
873大訂正!:2012/04/07(土) 11:12:05.79
>>862
>だから、「辵:乍行乍止也。从彳从止。」であっても、
>「行=適=之=出」の意味・用法が存在することとは何も矛盾しない。
>わかる?
理解に苦しむ「行=適=之=出」を強調しての論旨。
倭人伝は、「宋語や魯語」の方言で記述されているの?
それとも
「邪馬壹【臺】國」の「邪」は
『魯の後であり、古秦の後』である事を根底に置いて
「行=適=之=出」を強調しているの?
>>866 名前:良識の俎
>もういいか?
の、紹介文も全て、『魯、秦』と係わっている代表だ。
良識の俎よ
大儀であった。笑。。。。。。





874良識の俎:2012/04/07(土) 11:33:02.95
>>873
このバカ何がいいたいんだ? みなも相手にするのをやめとけ。

「友達は選ぶもの」と親や教師から教わったろう。
裏街道の「ごまのはえ」とかかわってもタメにはならんぜよ。
875良識の俎:2012/04/07(土) 11:35:16.22
>>872
もとより百も承知。

俺が質問した理由はここにある。天才の片鱗をみれ。
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/
876大訂正!:2012/04/07(土) 11:42:24.29
>>874 名前:良識の俎

自称だけの天才Yo.

「行」=「適」=『之(行く日本語)』と展開するのは
宋魯語の方言だ
と言う事も
知らないんだろうな。 

天才てそんなもんなの・・・・笑。

ホレ、泣け、喚けそして鳴け・・・はははっは・・・・

877良識の俎:2012/04/07(土) 12:18:54.78
>>876
天才は直感力も優れていてな。
いかがわしいのと危険な匂いのする奴はすぐに察知する。
お前もその一人だ。コケザル
878大訂正!:2012/04/07(土) 12:29:31.54
>>877 :良識の俎:
>>876
>天才は直感力も優れていてな。
>いかがわしいのと危険な匂いのする奴はすぐに察知する

御託はどうでもいい。




「行」=「適」=『之(行く日本語)』と展開するのは
宋魯語の方言だ 。

と、云うことが理解できたかね。

お前の邪馬台国論の城壁など
アッというまにぐずれ落ちる
砂上の楼閣のようなもんだ。
何故なら、所詮寝言にすぎないからだ。

そりゃ〜〜自称天才にとって俺は危険極まりない存在だろう。

鳴かしてほしけりゃ向かって来い。 笑・・・・・・
879良識の俎:2012/04/07(土) 12:58:46.63
>>878
>お前の邪馬台国論の城壁など
表社会で通用する知識と論理で「アッという間に」に崩してみろ。
大口だけを叩くところをみると、「あたらめ」の隠れ別ハンか? 
たまたま目にした「ゴミネタ」を鬼首もので連呼してるが、
どこまで続くか見物させてもらうぜ。
880卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/07(土) 13:01:03.53
伊作はあいかわらずバカな解釈をしているなw
宣帝之平公孫氏也
これは普通、宣帝の公孫氏を平らぐるや、もしくは、宣帝の平らぐ公孫氏なり、
と読まれているのであって、宣帝、公孫氏を平げに之(ゆ)く也、などとは読まれていない。

伊作という男も、同じことを百回言っても理解しようとしない。

ついでにいうと、適は、すすむ、ではなく、往く、だろう。
割其東界地與之は、その東界の地を割きてこれに与う、だろう。           
881日本@名無史さん:2012/04/07(土) 13:06:56.89
>>878
>「行」=「適」=『之(行く日本語)』と展開するのは
>宋魯語の方言だ 。

それ違うよ。もう一度、説文の段注をよく読んでみて。
それから、方言は確かに方言なんだけど、
説文段注のこの部分の方言って何のことだかわかってる?
田中防衛大臣をいじめるような、ちょっと意地の悪い質問だけどw
882日本@名無史さん:2012/04/07(土) 13:08:20.05
卑弥呼=ひみこ=ひよこ=玉子=たま=さいたま

883良識の俎:2012/04/07(土) 13:16:22.04
>>878 大訂正!

邪魔くさい「ごまのはえ」退治。
お前が三流資料に依拠してほざく「與」の意味が何だかは知らんが、
そのまんまの意味で、以下のすべてを読めるなら読んでみせろ。
並立助詞の「と」は別の意味で読めたらナイスだな。けらけら

●『三国志』東夷伝
夫余/南與高句麗、東與挹婁、西與鮮卑接。
高句麗/南與朝鮮・濊貊、東與沃沮、北與夫余接。
東沃沮/北與挹婁・夫余、南與濊貊接。
挹婁/南與北沃沮接。言語不與夫余・句麗同。
濊/南與辰韓、北與高句麗・沃沮接
韓/東西以海為限、南與倭接。

●『旧唐書』南蛮・西南蛮伝
林邑国/北與驩州接
盤盤国/北與林邑
陀洹国/東南與墮和羅接
訶陵国/東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接
墮和羅国/南與盤盤、北與迦羅舍佛、東與真臘接,
墮婆登国/東與訶陵、西與迷黎車接
南平獠/東與智州、南與渝州、西與南州、北與涪州接
東女国/東與茂州・党項接、東南與雅州接
884大訂正!:2012/04/07(土) 13:23:31.83
適、宋魯語也
を、俺は『方言』と置いた。
君の「方言」は『言語の幅、所謂言語の変化』だろう。
が、
適が宋魯語で漢語からは方言であることには変わりはない。でしょう。
だから、
「適」を「行」と解釈するのは前者と係わっている場合でしょう。
敢えて、「行」を「適」⇒「之」と記述している。
885日本@名無史さん:2012/04/07(土) 13:38:05.33
>>884
意地悪い質問して悪かった。
「方言」は、漢代の揚雄が書いた書物の名前だよ。
886大訂正!:2012/04/07(土) 13:38:27.66
>>883 名前:良識の俎

所詮、お前は

止まった時計

だ。 笑。。。。。
887良識の俎:2012/04/07(土) 13:39:20.98
>>880  朝鮮はあっちに住んでろ妄想トンカチ
誰かが横ちゃりしてくると想定していたが、「宣帝之平公孫氏也」 これな。
82で、てめえなど足もとにも及ばない文献研究者たちともやってきた天才論だぜ。

>これは普通、宣帝の公孫氏を平らぐるや、
・「宣帝の」てかタコ。「誰々が」という意味で「之」を使うのは普通の日本語。
「宣帝、〜「始皇、〜」「武帝、〜」ですべて名で区切っている。
・「平らぐるや」てかタコ。也を「〜すると」という意味で「〜や」と読むのも普通の日本語だ。

>もしくは、「宣帝の平らぐ公孫氏なり」と読まれているのであって、
どこの世界にそんなヘタな読みをするバカがいるか、ハッタリもいい所だぜ。

>「宣帝、公孫氏を平げに之(ゆ)く也」などとは読まれていない。
これが、歴史書の書き方を「読んだ」大人の読みだ。

>適は、すすむ、ではなく、往く、だろう。
「古之亡人避秦役来適韓国」
天才読み「いにしえの亡人、秦の役を避けて韓国に適(すす)み来たる」。
朝鮮人読み「いにしえの亡人、秦の役を避けて韓国に適(往き)来たる」てかタコ。
     「いにしえの亡人、秦の役を避けて韓国に往来する」てかコケザル。

>割其東界地與之は、その東界の地を割きてこれに与う、だろう。
「馬韓割其東界地與之」      
・天才読み「馬韓、その東界の地を割って、これを与える」。
・朝鮮人読み「馬韓、その東界の地を割きてこれに与う」。
問題にするほどの違いがあるか・この野郎。
どうや、この天才に対抗することだけが目的の横ちゃりのようだな。
目立つ天才を攻撃して自分が目立とうという魂胆か・小者。
888日本@名無史さん:2012/04/07(土) 13:42:54.27
邪馬台国=やまたいこく=山の大国=群馬

の可能性も捨てきれない
889大訂正!:2012/04/07(土) 14:00:56.95
>>885 名前:日本@名無史さん
>>884
意地悪い質問して悪かった。
「方言」は、漢代の揚雄が書いた書物の名前だよ

その方言集を基に
行の方言適で行を展開するのは何故?
890大訂正!:2012/04/07(土) 14:13:31.02
「宣帝之平公孫氏也」

「之」を行くと読めるか否かは

宣帝か公孫氏が
宋か魯の後

有る事が大前提。
891良識の俎:2012/04/07(土) 14:45:40.59
>>890 「ごまのはえ」退治。

『史記』秦始皇本紀
「三十二年、始皇之碣石、使燕人盧生求羨門高誓」。
三十二年、始皇、碣石に之(ゆ)き、燕人盧生をして求羨門の高誓を求めせしむ。

これはナニ。お前のいう
「宋か魯の後 で 有る事が大前提」とかいう、我流独善ではどうなるんだ?
裏街道のごまのはえ。
892日本@名無史さん:2012/04/07(土) 14:49:20.63
ほいや〜〜〜 あああ〜ああ〜あああ〜 ああああああ〜

♪イ・ヨ・マン・テ〜 燃えろかがり火〜 あ〜あ〜満月だ〜
893日本@名無史さん:2012/04/07(土) 15:09:30.84
「国の借金」について

日頃メディアや、反日工作員が必死になって「国の借金」という単語を使い
財政破綻論を展開させていますが、現実、現在の日本には「政府の借金」1000兆円近く存在いたしますが、
「国の借金」は存在いたしません。

朝日新聞やNHKは、雇い主である中国共産党より日本人に対して不安や政府に対する不信を持たせ、煽るために
局内の共産党員を使用して既に数十年間、「国の借金」を連呼し続けております。

<違和感なく「国の借金が1000兆円もある」という幻想に浸ってしまっている一般の方々は、朝日新聞やNHKに見事に騙されて続けている訳です>

数十年もテレビや新聞から情報を得てきた方々の中には、「メディアが嘘を付く訳ない」と思う、そう思いたい方もいるでしょう。
  しかし、長い目で見れば、もともと戦前から日本を転覆させるために存在してきた報道機関ですから、
これくらいの嘘は朝飯前で御座います。

それでも、「国の借金は1000兆円ある」と考えをお持ちの方は、複式簿記の勉強をしてから、日本のバランスシートをご覧ください。
 
  実質中国共産党の持ち物でありますNHK、朝日新聞は、これからも嘘を付き続けます。デマを流し続けます。捏造し続けます。
   
 ---そのニュース 核心は”デマ”だ。       長文失礼いたしました。---
894良識の豆:2012/04/07(土) 15:39:34.58
 
895日本@名無史さん:2012/04/07(土) 15:50:15.03
水行→対馬→水行→(ここから九州)A国→歩行→B国→歩行→
C国→水行→邪馬台国

って記述だから本州の可能性の方が高くない?
国名は失念したからアルファベット表記しちゃったけど。
896卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/07(土) 16:01:45.61
伊作はバカとしか言いようがない。
私が無コテで書いていたころ、漢文には〜之〜也という構文があって、
その例を三つほど挙げたら、ピタッと反論がやんだので、理解したのかと思っていたら、
いまだにバカな読み方に拘っている。

韓国に適(往き)来たる、ではない。来りて韓国に往く、だ。

これを与う、と、これに与う、では大いに違うではないか。
東界の地を与える、のと、(東界の地を)亡人に与える。全然意味が違う。
897日本@名無史さん:2012/04/07(土) 16:37:11.96
>>889
>その方言集を基に
>行の方言適で行を展開するのは何故?

明日、時間があればレスします。

>>890
宋は殷の末裔。魯は周公旦が治めた国。
宋魯の方言ということは殷周系統の人の言葉ってことだから、
とうぜん、宣帝も公孫氏も宋魯の後だけど、
之を行くと読むかどうかと、そんなことは関係ない。

「宣帝之平公孫氏也」
これは「宣帝の公孫氏を平らげるや」としか読みようがない。

来適の適は「適、往也」よりは「適、至也」の意味だろう。
つまり「来適」は「きたりいたる」だけど、「らいてき」と読むほうが訓読としてはカッコいい。
卑近な例でいうと「流動」なんかも「ながれうごく」でなく「りゅうどう」と読む。
898良識の俎:2012/04/07(土) 18:32:32.64
性懲りもなく、トチ狂った東夷各地の所在ホラを流すかと思えば、
いっちょ前ツラして漢文だか魏にまで口だししやがって、目障りな野郎だぜ。

>>896  
>漢文には〜之〜也という構文があって、
>その例を三つほど挙げたら、ピタッと反論がやんだので、
日本語読みの用例などあるはずがない。勝手に都合のいい読みをして見せたんだろ。

>来りて韓国に往く、だ。
ほうれ。「その例」とやらもこの調子でバカ読みを開陳したんだろ。タコが
「古之亡人避秦役来適韓国、馬韓割其東界地與之」。      
いにしえの亡人、秦の役を避けて韓国に適(すす)み来たる。
馬韓、その東界の地を割って、これを与える。

楽浪郡に移入した難民がさらに韓の地へ流入してきた。
「来りて韓国に往く」なんて痴呆のカタコトだ。タコ

>これを与う、と、これに与う、では大いに違うではないか。
馬韓がこいつらに、韓地の東側を分割して住まわせた。
之を「これ」という代名詞で使った用例。(前に提示した語句を再度述べる場合に使う)。
・好捕魚鰒、水無深浅皆沈沒取之...好んで魚鰒を捕るが、水の深浅となく無皆「これ(魚鰒)」を取る。
・国有市交易有無、使大倭監之...「国々に市有り有無を交易す。大倭をして「これ(市の交易)」を監さしむ。
問題の箇所は、分割した土地を流入者に与えたというのだ。

>東界の地を与える、のと、亡人に与える。全然意味が違う。
お前の読みが違ってる。
よくもまあ、恥ずかしくもなく、我流のバカ解釈のうのうといえるもんだ。朝鮮外道。
そろそろ消えろ
「恥かしい」という概念がなくモラルが違うから、のうのうとやっていられるのか?
899良識の俎:2012/04/07(土) 18:46:53.33
>>897
>「宣帝之平公孫氏也」
>これは「宣帝の公孫氏を平らげるや」としか読みようがない。
だから。「宣帝が」という意味で「宣帝の」と読むのは日本語だ。
断定の也を「平らげると」という意味で「平らげるや」と読むのも日本語だ。
すでに詳しく提示したことだ。

>来適の適は「適、往也」よりは「適、至也」の意味だろう。
文字の意味について言及しているのだろうが、意味不明だ。

>「来適」は「きたりいたる」だけど、「らいてき」と読むほうが訓読としてはカッコいい。
んなことはどうでもいい。
来適という単語が熟語でもあるのか。そして、その意味は何だ?
「来訪、来去、来奔、来往、来到、来帰」などに加えて、新しい熟語でも作る気か?  タコが

来適という熟語あれば、いわれなくても真っ先に使ってる。
ないし、適には「行く・赴く・進み行く」という意味があるから、
最も妥当な「進み来たる」と翻訳したのだ。
なにを目を三角にして「四の五の」いうか。ボケ
900良識の俎:2012/04/07(土) 18:56:09.00
めんどうだが再掲する。どっちの読みが出しいか検証だ。
●『晋書』倭人伝「宣帝之平公孫氏也。其女王遣使遣、至帯方朝見」
従来の安易読み @「宣帝の公孫氏を平げるや、その女王、使を遣わして帯方に至り朝見す」
天才の読み A宣帝、公孫氏を平げに之(ゆ)く也。其の女王、使を遣わして、帯方に至り朝見す。
どっちの読みが出しいか検証だ。

▼之を「の」と読ませて所有格として使った用例
・夏后少康之子封於会稽…「少康の子」・断髮文身以避蛟龍之害…「蛟龍の害」
▼之を「の」と読ませて所在格として使った用例
・帯方東南大海之中...「大海の中」・當在会稽東冶之東...「会稽東冶の東」
▼之を「これ」という代名詞で使った用例
 人や物や事象を指し示す代名詞だが、前に提示した語句を再度述べる場合に使う。
・好捕魚鰒、水無深浅皆沈沒取之...「これ(魚鰒)を取る」・国有市交易有無、使大倭監之...「これ(市の交易)を監さしむ」

▼「之」を人名のあとにつけて「誰それが」という使い方はしない。
・宣王攻破新城...「宣王、新城を攻めて破る」
・司馬宣王遣将軍胡遵等追討...「司馬宣王、将軍胡遵等を遣わして追討す」
 (そもそも中国正史が「誰々が」という時は名前で切り、之「の」という文字は使用しない)
 之を「〜の」と読み「〜が」という意味に使うのは日本語用法である。

▼也を「なり」と読んで断定助詞に使った用例
・辰韓者古之辰国也...「辰韓は古えの辰国なり」・如中国用粉也...「中国の粉を用いる如くなり」
▼也を「や」と読む場合の用例
・疑問、詠嘆、反語、呼びかけなどに用いる助詞の「〜や」。
中国語では「〜やいなや(〜すると)」という意味の接続助詞では使わない。
すなわち、「宣帝の公孫氏を平らげるや」という読みは日本語読みであり、
これを「宣帝が公孫氏を平らげると…」という意味に解釈するのは、まったくの日本語解釈である。
901卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/07(土) 18:56:12.97
>>898 バカ伊作
〜之〜也という構文(〜は。〜のは。〜ときには。)の例。

子之哭也、壱似重有憂者。子(孔子)の哭するや、いつに重ねて憂いある者に似たり。
夫子之至於是邦也、必聞其政。夫子のこの邦に至るや、必ずその政を聞く。
宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見。宣帝の公孫氏を平らぐや、その女王遣使して帯方に至り朝見す。

来適は>>897の説明が妥当だろう。

東界の地を与える。(東界の地を)亡人に与える。
どちらでも読めるが、普通は後者のように読む。

伊作はもう頭が硬直化している。ただの頑固爺さん。
902日本@名無史さん:2012/04/07(土) 20:25:51.12
卑弥呼の宗女、トヨ=とよ=トヨタ=豊田=愛知県

って線もあるな
903良識の俎:2012/04/07(土) 20:26:20.55
>>901
タチの悪い野郎が。ウソを並べて手間とらせやがる。
都合のいい所を持ち出して、ウソ読みをして読んでみせて、ウソつき朝鮮人はかくいう。
>子之哭也、壱似重有憂者。子(孔子)の哭するや、いつに重ねて憂いある者に似たり。
これは『礼記』檀弓下にある一文。
「孔子過泰山側、有婦人哭於墓者而哀。夫子式而聴之、使子路問之曰:「子之哭也、壹似重有憂者」
孔子、泰山側を過ぎる。墓に於いて哭す婦人あり、而して哀。
夫子、式して之を聴く。子路をして問いて曰わしむ:「子の哭するや、重なる憂いある者に壹に似る」

孔子が泰山の側を通り過ぎるとき、墓で泣く婦人がいて哀しげだった。
孔子は式(車の前方の手すりの横木)に手をついて聴いていたが、弟子の子路に問わせた。
「あなたが泣いているさまは、憂いが度重なっているように見えます」
「子之哭也」の「子」は相手に対する尊称であって孔子のことではない。
ここにある「也」は「や」だが、詠嘆・呼びかけの用例で、「あなたが泣いている様子は」という意味で、
「子の哭するや」など読んで「孔子が泣くと」という意味ではない。お前の読みはまったくのウソだ。

>夫子之至於是邦也、必聞其政。夫子のこの邦に至るや、必ずその政を聞く。
これは『論語』学而篇の中の一文。まず、「夫子之至於是邦也」ではない。これはウソ
正しくはこうだ。「夫子至於是邦也、必聞其政」で、「夫子之」の「之」という文字はない。

「夫子、是の邦に至るなり。必ずその政を聞く」。
「孔子(先生)はこの国に到着した。必ず(この国の)政について聞くだろう」。
(「……それは「こういうこと」なのだろうか」という、子禽の子貢への質問がつづく。
これに対して、「それは、孔子の温・良・恭・倹・譲な人柄による」と述べた問答の部分)。
「夫子のこの邦に至るや」では、まったくの日本語読みだ。タコ

>宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見。
これはすでに十分に吟味した。
904良識の俎:2012/04/07(土) 20:28:22.85
>>901 モラルなき朝鮮人

>>来適は>>897の説明が妥当だろう。
その >>897に対する返答を再掲しよう。いいツラの皮してるぜ・モラルなき朝鮮人

>「来適」は「きたりいたる」だけど、「らいてき」と読むほうが訓読としてはカッコいい。
来適という単語が熟語でもあるのか。そして、その意味は何だ?
「来訪、来去、来奔、来往、来到、来帰」などに加えて、新しい熟語でも作る気か?  タコが
来適という熟語あれば、いわれなくても真っ先に使ってる。
ないし、適には「行く・赴く・進み行く」という意味があるから、
最も妥当な「進み来たる」と翻訳したのだ。 なにを目を三角にして「四の五の」いうか。ボケ

>東界の地を与える。(東界の地を)亡人に与える。 どちらでも読めるが、普通は後者のように読む。
知ったふりしてハッタリカマすな朝鮮人。ほれ・再掲だ。

>これを与う、と、これに与う、では大いに違うではないか。
馬韓がこいつらに、韓地の東側を分割して住まわせた。
之を「これ」という代名詞で使った用例。(前に提示した語句を再度述べる場合に使う)。
・好捕魚鰒、水無深浅皆沈沒取之...好んで魚鰒を捕るが、水の深浅となく無皆「これ(魚鰒)」を取る。
・国有市交易有無、使大倭監之...「国々に市有り有無を交易す。大倭をして「これ(市の交易)」を監さしむ。
「古之亡人避秦役来適韓国、馬韓割其東界地與之」。      
いにしえの亡人、秦の役を避けて韓国に適(すす)み来たる。 馬韓、その東界の地を割って、これを与える。


恥ずかしいという概念がないから、それでも「のうのう」と居座るんだろうな。
905卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/07(土) 21:12:40.74
>>903-904 樵夫の伊作
子を孔子と解したのは私の間違いかもしれないが、
意味は〜之〜也という構文で、〜は。〜のは。〜ときには。で合っているのではないか。

夫子之至於是邦也 これは漢和辞典にこういう文例が載っていたから提示しただけ。

来適を、来適と読もうと、来たり至ると読もうと意味は同じ。
お前のように、進み来たる、などとぎこちない読み方をするよりはるかにまし。

文脈からすると、亡人に与う、と読むほうが適正なのである。
宣帝之平公孫氏也 これも同じ。
文脈からすると、宣帝の公孫氏を平らぐや、と読むほうが適正なのである。
お前だってそれくらいは解っているはずだ。
906卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/07(土) 21:36:08.76
夫子至於是邦也 必聞其政

ネットで調べたが、みんなこれを、夫子のこの邦に至るや、必ずその政を聞くと読んでいる。
伊作のように、夫子、是の邦に至るなり などと読んではいない。

伊作も実にいいかげんな奴だ。
907日本@名無史さん:2012/04/07(土) 21:46:12.15
みんな頭いいのう〜。尊敬するだ。
908良識の俎:2012/04/07(土) 22:13:22.13
>>905
>子を孔子と解したのは私の間違いかもしれないが、
そういうイージーなでたらめ解釈を吹く所がお前のモラル欠如だというのだ。

>意味は〜之〜也という構文で、〜は。〜のは。〜ときには。で合っているのではないか。
何がいいたいのか、誰も分かっていないと思うぞ。

>夫子之至於是邦也 これは漢和辞典にこういう文例が載っていたから提示しただけ。
「載っていたから提示しただけ」というモラル感覚が日本人にはないのだ。

>来適を、来適と読もうと、来たり至ると読もうと意味は同じ。
「来たり至る」などとは書いていない。

>進み来たる、などとぎこちない読み方をするよりはるかにまし。
最も分かりやすい読みだ。どっちがまともか・観客に問え。
おっと、自演の名無しによる自己支援投稿はなしだぞ・姑息もの。

>文脈からすると、亡人に与う、と読むほうが適正なのである。
前に提示した語句を繰り返す用法を提示した。あがくな。
文脈などと、聞きかじりのセリフは片腹痛いぜ。

>文脈からすると、宣帝の公孫氏を平らぐや、と読むほうが適正なのである。
「宣帝の公孫氏を平らぐや」では日本語だといってる。


サル山のハナたれがボスザルに挑むかのように、一気にお山の大将を狙う体だな。
タマにそういうのがいるが、潰されたら再起不能よ。
909良識の俎:2012/04/07(土) 22:20:44.31
>>906
>「夫子至於是邦也 必聞其政」
>ネットで調べたが、みんなこれを、夫子のこの邦に至るや、必ずその政を聞くと読んでいる。
>伊作のように、夫子、是の邦に至るなり などと読んではいない。
いまになって調べたてか。コソ泥根性そのまんまだな。
これは、諸国歴訪ほする中で、弟子が問答するシーンだ。
「新たにこの国に到着したが、孔子先生はここでも政について聞くのだろうな。
それはこういうことなのか」と質問したセリフだ。
「この国に到着したら必ず政を聞く」ではない。
砕いていえば、「この国でもまた政を聞く(ことだろう)」だ。

>伊作も実にいいかげんな奴だ。
お前がいい加減だということだけが露呈しているが。シラジラしいぜ。
モラル欠如の朝鮮人
910日本@名無史さん:2012/04/07(土) 22:22:27.01
伊作の論争は、大騒ぎする割には、たいした内容はないな
どこかでピントがずれてる
911良識の俎:2012/04/07(土) 22:23:04.96
>>907
>みんな頭いいのう〜。
本当に頭がいいのは俺だけだ。しかも正直だ。不正や小細工をしない。

>尊敬するだ。
だから。尊敬するのは俺だけにしとけ。
912良識の俎:2012/04/07(土) 22:28:21.37
>>910
>伊作の論争は、大騒ぎする割には、たいした内容はないな
俺に対する異論を投げる奴の内容がないのだ。
くだらないから相手にしないでいると、
相手をしてもらいたくて・くだらないことでからんでへくる。
しょうがないので相手をしているが、もともとくだらいな内容だ。

>どこかでピントがずれてる
お前が本筋を読むだけの能がないのだ。
くだらないやりとりなのだが、
わかる奴には、大いに参考になる話をしている。
913良識の俎:2012/04/07(土) 22:30:54.67
サル山のハナたれが、ボスザルに挑むかのように、一気にお山の大将を狙うやつ。
で・ボスザルがちょっと本気になれば、噛み合いにも何にも・なりゃしない。
914卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/07(土) 22:50:28.52
>>908
意味は〜之〜也という構文で、〜は。〜のは。〜ときには。で合っているのではないか。

合っているではないか。に訂正。ちゃんと意味は合っているではないか、バカタレ。

普通の漢和辞典に、也の助辞解説として、ちゃんと〜之〜也という構文の形で載っている。
意味は、〜は。〜のは。〜ときには。

他のレスは、あほらしくて答える必要もない。

とにかく伊作がこれほど理解力のない、おまけに度量のない男だとは思わなかったというのが正直なところだ。
915良識の俎:2012/04/07(土) 23:15:40.20
>>914
>〜之〜也という構文で、〜は。〜のは。〜ときには。で合っているのではないか。
意味が不明だ。砕いて説明する能力もないか。

>普通の漢和辞典に、也の助辞解説として、ちゃんと〜之〜也という構文の形で載っている。
その説明の頭に日本語の用法であることを示す「国」という文字はないか・確認しろ。

>他のレスは、あほらしくて答える必要もない。
ウソを暴いたのだ。応えられるわけがなかろう。逃げ口上は敗北宣言も同然だ。

>伊作がこれほど理解力のない、おまけに度量のない男だとは
てめえの・ウソつき・でたらめ垂れ流し・を恥じることが先だ。
おっと、恥じることを知らない朝鮮人には無理な注文だったな。
916良識の俎:2012/04/07(土) 23:16:50.08
俺が2ちゃんにやってきて以来。
かかわってきた口論・議論の90%は、
不正解釈・小細工解釈・独善我流解釈のを暴くことだった。
残の10%が、とんでもや誤解の矯正。

不正解釈・小細工解釈を正当化せんと、
さらに不正や小細工を重ねるクソ野郎ばかり。
教わったのは、「日本人にもセコいのが多い」ていうことだけだ。

中でもこの朝鮮人野郎は汚い。
917日本@名無史さん:2012/04/07(土) 23:16:56.27
ヒマだのう
918日本@名無史さん:2012/04/07(土) 23:21:04.89
いさくうう なんかつまらんのおお あきたわ
919良識の俎:2012/04/07(土) 23:24:21.53
この朝鮮人野郎は汚いうえに、下品で知性が欠落している。
明らかに知的レベルの低い野郎が、
この天才にウソやごまかしが通用すると思ってるだけでヘドがでるぜ。

920良識の俎:2012/04/07(土) 23:26:26.75
●観客に告ぐ
この朝鮮人は、好きになようにやらせて無視するように。
張り合いをなくして飽きるまでやらせておけばいい。
921日本@名無史さん:2012/04/07(土) 23:45:01.66
>不正解釈・小細工解釈を正当化せんと、
>さらに不正や小細工を重ねるクソ野郎ばかり。

・帯方郡から狗邪韓国までの七千餘里を水行七日に換算するのも不正解釈・小細工解釈じゃないか?
・參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里の「參問倭地」を「魏使(の関係者)が訪問調査した」
 と解釈し、「周旋可五千餘里」を「魏使(の関係者)が周り巡った距離は五千餘里ほどである』と解釈するのも 
 不正解釈・小細工解釈じゃないか?
922日本@名無史さん:2012/04/07(土) 23:55:03.14


全国紙社内でも
共産党員の人数は、一位が朝日で212名、二位が毎日で151名、三位が
日経で131名、四位が読売で12名、最下位が産経で11名であった。この順位を見ると
反米や中朝賛美、防衛アレルギーや自虐史観を喧伝する
左翼傾向の度合いと、共産党員数はピッタリと重なっている。
朝日と毎日については実数はその何倍にもなるとのこと

  要するに朝日や毎日なんかは共産党員がつくっている新聞であり、「赤旗」と何ら変わりない(477頁)

 NHKには内部に22の共産党支部があり、昭和63年の調査では東京都下だけでも、98名
以上のキャスター、アナウンサー、ディレクター等が共産党員であることが確認されている。
この共産党員数は、テレビ朝日やTBSと並んでテレビ業界の上位3位に入るものである。

つまりNHKが反日左翼史観プロパガンダ番組を放送し続けるのも、共産党の指示に沿っての
ことなのだ。自由主義国で公共放送を共産主義勢力に支配されているのは、日本と韓国、
この2カ国だけである
≪祖国を蝕む「内なる敵」を斬る!≫
923良識の俎:2012/04/07(土) 23:55:31.12
>>921
おー、今度は名無しできたか。

>帯方郡から狗邪韓国までの七千餘里を水行七日に換算するのも
俺の場合は、ちゃんと理路の整った根拠を提示した上での見解だ。
理路の段階に不正や小細工あれば指摘しろ。

>參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里
>の「參問倭地」を「魏使(の関係者)が訪問調査した」 と解釈し、
参問の意味と状況から「訪問調査」と翻訳したが、秀逸だろ。

>「周旋可五千餘里」を「魏使(の関係者)が周り巡った距離は五千餘里ほどである』と解釈するのも
一つや二つ、都合のいい用例を持ち出して都合良く解釈してこれを論拠にするのではなく、
同じ『三国志』が使っている用例を10例以上あげて比較検証した上での結論だ。
これ以上の検証方法はあるまい。手法や解釈に不正や小細工があれば指摘するといい。

てめえの自論に都合がわるいからだろうが、ろくな検証もせず、
一つか二つ、都合よく解釈できそうな用例を持ち出して 
これを根拠に否定せんとする手法(論拠ねつ造)よりは遥かにまともだぜ。
924日本@名無史さん:2012/04/08(日) 00:06:49.53
くだらない。
925怒っ虎:2012/04/08(日) 00:19:09.39
>>918
この天才の論には、ものの道理が分かる者や
論理思考にすぐれた者にとっては、なかなか反論のしようがない。
論理で組み立てた論だから、論理で対抗しようがないのだ。

まとわりついてくるのはバカな野郎ばかり。
バカがバカさ加減に気づかず、恥とも思わず、バカな解釈をタテに逆らってくる。
もともとバカな意見に対応して、そのバカさ加減を暴いてやってるのだ。
つまらんことは明白よ。眺めていて不満ならば、
そういうお前が、「つまる話題」でも投稿したらどうだ。演技オタクの歯抜け口臭爺い。

>>924
そういうお前がいちばんくだらいが・自覚できてないようだな。
どいつもこいつも、風船頭に口先をくっつけたような野郎ばかり。
926風の中のゴキブリ:2012/04/08(日) 02:12:30.68
伊作の求心力はスゴすぎるな。
半端ねえ。
927日本@名無史さん:2012/04/08(日) 07:18:35.39
>>900
>▼「之」を人名のあとにつけて「誰それが」という使い方はしない。
> 之を「〜の」と読み「〜が」という意味に使うのは日本語用法である
>これを「宣帝が公孫氏を平らげると…」という意味に解釈するのは、まったくの日本語解釈である。

これは、日本語用法じゃなく、
主語と謂語(述語のこと)の間に「之」を置いて「主謂短語」を形成する用法。
「也」は、文末ではなく文中に用いる場合、語気の停頓を示す。
だから「主語+之+謂語(+也)」で、ひとつの短語になる。

参考までに中国語サイトを貼っておく。
このサイトはたまたま見つけたものだけど、
内容は『文言虚字』という本を下敷きにして説明してるので信用してよい。

ttp://www.fed.cuhk.edu.hk/young_lit/Month36/word2.htm
還有些「之」字,放在主語和謂語的中間。
例如【里仁】第四「君子之於天下也?無適也?無莫也?義之與比」。
(這裏的「之」的作用可?是化句子形式為主謂短語。
句子形式是主語和謂語的配合,現在使主語變成加語,謂語變成端語,就成了短語的形成了,稱為「主謂短語」)。

  七、「也」有用在句中,表示停頓的語氣,正如白話的「?」字用法。
例如【里仁】第四「子曰?君子之於天下也?無無莫也?義之與比」。
【公治長】第五「子謂子貢曰?女與回?對曰?賜也?何敢望回?回也?聞一以知十?賜也?聞一以知二」。
928日本@名無史さん:2012/04/08(日) 08:09:11.79
漢文の読み方なんて、いろいろ
それに執拗にこだわっても詮無し。
こだわるなら、内容にこだわれ

英文を、後ろから訳すか、カンマで区切って前から訳すか
......そんなことは些細な問題。どっちでも良い。
929日本@名無史さん:2012/04/08(日) 08:19:11.11
>>928
>そんなことは些細な問題。どっちでも良い。

同意。
わき道の話ばかりで、本論はまったくダメ。
夢GENにコテンパンにやられてる。

 「詳しさ」の自慢話ばかり。 

>こだわるなら、内容にこだわれ

これまた同意。
930日本@名無史さん:2012/04/08(日) 09:13:05.12
>>928
>>929
大本の話は、
「行」に「止まる」なんていう意味はない。説文解字を持ってきても、それは変わらない。
だから、
>倭人伝に「行」があるから放射読みなんだ
という説は成り立たない。
それだけ。
放射読みか連続読みかが、わき道なら漢文読解なんか必要ないな。
931日本@名無史さん:2012/04/08(日) 09:27:29.20
>倭人伝に「行」があるから放射読みなんだという説は成り立たない。
そのとおり。
だいたい、そんな単純な話で連続式か放射式かが決まるなら苦労はしないな。
文章はそれぞれの書き手が苦労して書いていくもの。絶対の約束事があるわけ
ではない。いろいろな要素から真意を探るしか仕方ないのさ。

932日本@名無史さん:2012/04/08(日) 09:29:19.89
出雲あたりでFA?
933卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/08(日) 09:59:33.99
>>915
伊作は漢和辞典の引き方も知らないようだから、教えといてやろう。

私が持っているのは角川書店の「新字源」だ。これで「也」を引く。
いろいろな意味が載っているが、そこに載っているのがすべてではない。
→付・助辞解説とある。付録の巻末の助辞解説を見よ、という指示だ。
するとそこに本文以上にたくさんの意味と用例が載っている。
その一つに、(訓みは)や(意味は)は。のは。ときには。指示。提示。とあり、文例として、
子之哭也、壱似重有憂者。
夫子之至於是邦也、必聞其政。
が載っている。いちいち難しい漢籍を繙かなくても、普通の漢和辞典にちゃんと載っているのである。
934日本@名無史さん:2012/04/08(日) 10:17:54.72
横からだが、岩波文庫の論語の注には、
是邦ー「是」は特定の一国をさすのではなく、孔子の周遊した国々をさす不定指示詞。
とある。
935怒っ虎:2012/04/08(日) 11:39:51.42
●ゲス料理

>>927
ろくでもない頭でこ難しいことに首を突っ込むな。
・「之」を「誰それが」という意味で「誰それ之」と書いた用例があるか。
・「也」を「や」と読んで「ナニナニすると」と書いた用例があるか。
・「〜之〜也」を「誰それのナニナニするや」と読ませて、
・「誰それがナニナニすると」という意味に使った中国語用法があるか否か。
簡単な話なんだぜ。あるなら出せ。
ただし、あの朝鮮人みたいな姑息な手はなしだ。フェアにやること。

>>928
>それに執拗にこだわっても詮無し。
ウソまでついて凸用には軟体する盗っ人みたいなのがいることが問題なのだ。

>こだわるなら、内容にこだわれ
エラぶって、あと先の見えないバカなことをいうな。重要な問題と内容的に関わる話だ。

>......そんなことは些細な問題。どっちでも良い。
表層的、いっちょ噛みなら、よそでやれ。

>>929
>わき道の話ばかりで、本論はまったくダメ。
お前が何か一つでも、正面から本論で議論できたのか? ゲス

>>927 >>928  >>929
ゲストリオ。お前らにこそ何の存在価値があるというのか。んー?
936日本@名無史さん:2012/04/08(日) 11:43:05.51
ヒマだのう
937日本@名無史さん:2012/04/08(日) 11:48:35.47
>>935
中国語読めないの?
938怒っ虎:2012/04/08(日) 12:01:13.40
ぬけぬけと。居座るつもりらしいな。モラルなき朝鮮人

>>933
>私が持っているのは角川書店の「新字源」だ。これで「也」を引く。
俺の安物の漢和辞典よりも信頼がおけない奴だ。
・子之哭也、壱似重有憂者。
「子の哭するや」の子は孔子ではなく「あなた」という尊称だったな。
「や」は「孔子が泣くと」という接続助詞ではなく、
「あなたの泣く様子をみると」という助詞だったな。勝負あり。

・夫子之至於是邦也、必聞其政。
まだ執拗にウソを提示するか。原文には「之」はないと己も認めたろう。外道
「夫子、至於是邦也、必聞其政」だ。
これについては、次のレス >>934がいいことをいっている。

>「是」は特定の一国をさすのではなく、孔子の周遊した国々をさす不定指示詞」とある。
角川書店ではなく「岩波文庫の論語の注」にあるんだそうだ。タコ

「夫子、是の邦に至るなり。必ず其の政を聞く」。
諸国を周遊歴訪する中で、孔子が(次なる)国に到着した。そこで弟子の子禽が子貢に問うた。
「夫子が(次なる)国に至った。(ここでもまた)必ずその(国の)政を聞く(ことだろう)」。

汚らわしいから消えろ・モラルなき朝鮮人
939怒っ虎:2012/04/08(日) 12:05:48.15
>>937
>中国語読めないの?
ここの参加者はむろん、倭人伝に手を出す日本人で
「中国語が読める」という人間は皆無に近かろう。

てめーは・読めるのか?  クソ野郎が
俺は「馬鹿だがかっこつけたい」と白状してるようなもんだな。
940怒っ虎:2012/04/08(日) 12:12:07.47
利口ぶって投稿内容に不満をいう名無しの外道ども。
ハンドルつくって、客が集まるような投稿をしてみせろ。
「つまらん」というのなら、てめえが「つまる」話題を提供しろ。
中身が空洞の風船頭に、
いっちょ前の「くちばし」貼り付けたようなゲスが。

てめえの頭を両手で抱えて左右に振ってみろ。
「カラ・カラ」という、乾いた軽い音がするんじゃないのか?
941日本@名無史さん:2012/04/08(日) 12:16:10.95
チェルネンコ伊作がお送りする「恍惚の邪馬台国」
942日本@名無史さん:2012/04/08(日) 12:16:47.71
伊作が大活躍できる局面と、なってまいりました〜〜
943大訂正!:2012/04/08(日) 12:26:24.04
自言古之亡人避秦役来適韓國
>>897 :日本@名無史さん
>>889
>>その方言集を基に
>>行の方言適で行を展開するのは何故?
>明日、時間があればレスします。

>来適の適は「適、往也」よりは「適、至也」の意味だろう。
>つまり「来適」は「きたりいたる」だけど、「らいてき」と読むほうが訓読としてはカッコいい。
來は正韻に至也,還也,及也。とあり、又
適も正韻に如也,至也。とある。
來も適も至との解釈が出来るが
何故、同じ言葉を繰り返す如く記述されているのか?
自言古之亡人とは誰のことだ。
適と言う方言と関係した者たち
つまり、
自言古之亡人と同族だから馬韓を割って与えたのかね。
楚によって滅亡した魯の末裔なら
邪馬台国の宗祖とは同族に当たる。

名無しさん!




944日本@名無史さん:2012/04/08(日) 12:27:51.56
>>939
日本人の書いた解説は、日本語解釈だという。
中国語サイトを紹介すれば、中国語は読めないという。
つける薬が無い。
945日本@名無史さん:2012/04/08(日) 12:44:36.22
>>943
とりあえず説文解字の段注の部分を訳すと

爾雅の釈詁には「適は之往である」とある。
方言には、「逝・徂・適は往である。適は宋・魯の語である」とある。

と言う意味。
噛み砕いて謂うと、
漢代の標準語で「往」という語は、各国では逝・徂・適といわれていて、
そのなかで適は宋・魯の言葉である。
という意味。逝も徂も、それぞれ別の国で往の意味で使われている。

でも、本当は方言では、適の一般的な用法ではなくて、
「嫁に行く」ことを各国でどう言うかを書いているようなので、
説文のここの注に、方言のこの部分を使ったのはどうかなあ、
ちょっと相応しくないんじゃないかなあと、
段玉裁さんの判断を疑問に思う。
当時は、今のように電子テキストがないし、用例集めも検索で一発というわけにはいかなかったから、
あまり責めるのも酷かな。
946卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/08(日) 12:49:20.05
常識ある、まともな人間の読み

宣帝之平公孫氏也 →宣帝の公孫氏を平げるや
夫子至於是邦也 →夫子のこの邦に至るや

樵夫の伊作のバカ読み

宣帝之平公孫氏也 →宣帝、公孫氏を平げに之(ゆ)く也
夫子至於是邦也 →夫子、是の邦に至るなり

伊作の読み方だと、そこで文がプッツンと切れていることになる。
しかし文はその後にも続いているのであり、文脈から考えると常識的な読み方が正しいのである。
宣帝之平公孫氏也
これも、宣帝の平らぐ公孫氏也、とも読めるのだが、文脈から言って、宣帝の公孫氏を平げるや、と読むのが正しいのである。

〜之〜也という構文をどうしても認めたくないようだが、
それほど疑うなら漢文の学者にでも聞いてみればよい。
947日本@名無史さん:2012/04/08(日) 12:59:01.69
>>943
其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。

其の耆老 傳世して自ら言う 古之亡人 秦の役を避け韓國に來適し、
馬韓 其の東界の地を割(さ)きて之に與うと。

辰韓の老人たちは代々伝えてこう言っている。
昔の亡命者が秦の役を逃れて韓国までやってきて、馬韓がその東部の土地を割いて亡命者たちに与えた。

自言古之亡人の「自」は辰韓の人々。古之亡人は辰韓のご先祖さんで秦から亡命してきた人々。
948大訂正!:2012/04/08(日) 13:12:06.42
>>945
>>943
>でも、本当は方言では、適の一般的な用法ではなくて、
>「嫁に行く」ことを各国でどう言うかを書いているようなので、
>説文のここの注に、方言のこの部分を使ったのはどうかなあ、
>ちょっと相応しくないんじゃないかなあと、
>段玉裁さんの判断を疑問に思う。
「嫁に行く」の「行」は、人が主体、主語として介入している。
この時には、「行」の「止まる」の意が霞、「行」の語源が捩じれる。
が、
「行」の「止まる」の部が昇華したのではない、潜在しているのだ。

語源の多くは、現象、行為が主質である。
・・・・・。




949日本@名無史さん:2012/04/08(日) 13:20:49.71
>>923 :良識の俎
>>帯方郡から狗邪韓国までの七千餘里を水行七日に換算するのも
>俺の場合は、ちゃんと理路の整った根拠を提示した上での見解だ。
>理路の段階に不正や小細工あれば指摘しろ。

君は理路の整った根拠を提示したと言うが、それは君の錯覚に過ぎん。誰も納得していないよ。七千餘里が何故水行七日に換算出来るの?
これは冗談だが、七千里なら水行1日=千里の七倍で修辞的にも可だが七千餘里では行1日=千里の七倍とは言えんからね。

>>參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里
>>の「參問倭地」を「魏使(の関係者)が訪問調査した」 と解釈し、
>参問の意味と状況から「訪問調査」と翻訳したが、秀逸だろ。

あほか。件の文章は倭地についての総括的な叙述だ。魏使の行動報告書じゃないのだ。魏使の巡り歩いた距離などを書いて何になるのだ?

>>「周旋可五千餘里」を「魏使(の関係者)が周り巡った距離は五千餘里ほどである』と解釈するのも
>一つや二つ、都合のいい用例を持ち出して都合良く解釈してこれを論拠にするのではなく、
>同じ『三国志』が使っている用例を10例以上あげて比較検証した上での結論だ。
>これ以上の検証方法はあるまい。手法や解釈に不正や小細工があれば指摘するといい。

三国志にある周旋の用例の中で後に里数が書かれた例は二つある。他の例はこれらの2例とは周旋の意味が異なる。
周旋・・里という用例は該当地域の大きさ、広さを示すものとすれば文章が無理なく通じる。
950日本@名無史さん:2012/04/08(日) 13:22:06.17
>>948
そもそも説文の意味の説明と形の説明を混同しているよ。
「行」は、原初に作られたときは「とまる」の要素があったけど、
説文編纂の段階で、既に「とまる」の意味は脱落していて、「GO」の意味しかなくなってる。
以下説明。

説文は、篆字 意味説明 文字の構成要素 の順に記載してある。
たとえば
「(篆字)辵:(意味説明)乍行乍止也。(構成要素)从彳从止。」
を見てみると、原初に文字の形が作られるときに「止」の要素が入っていたことは、
从彳从止。の部分でわかる。
その「止」の要素が、許慎が説明したい文字の意味にも生きているので、
「乍行乍止也」のように、意味説明の部分にも「止」が書かれている。

「行」のほうを見ると、形の構成要素には「亍」があるけれど、
「行」の意味説明の部分には「亍」も「止まる」もなく、
「歩」と「趨」としかない。
「歩」と「趨」の要素としての「止」は、「とまる」ではなく、
よく知られているように「足」の意味。
それは、段注にもそう書かれている。
だから、説文解字には、「行」の意味説明部分に「止まる」という意味は全く書かれていない。

これは、「行」という文字が作られた段階では「止まる」という原義を含んでいたとしても、
許慎が説明しようとした「行」の意味・用法には、
すでに「止まる」という意味は無くなっていたという証拠。
951卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/08(日) 15:31:31.96
>>934の意見を参考にすると、ますます森村田吾作の説は不利になる。
なぜなら>>934の意見によれば、是邦は、この国、ではなく、国と訳すべきだということになるが、

私の説なら、夫子が国に至ると、必ずその政を聞く、と訳することができ、
孔子が国に来ると、どんな国でも必ず政治について相談を受ける、とすんなり意味が通じるが、

田吾作の説だと、夫子が国に至るなり、で、何の意味も成さない。
夫子が国に至るなり、必ずその政を聞く、では文章がブツ切りである。
952日本@名無史さん:2012/04/08(日) 16:02:48.20
>>951
>>934の意見を参考にすると、ますます森村田吾作の説は不利になる。

不利になるもなにも、間違ってる。岩波文庫の訳は
「うちの先生(孔子)はどこの国にいかれても、きっとそこの政治の相談をうけられる。
それをお求めになったのでしょうか、それとも〔向こうから〕持ちかけられたのでしょうか。」
953日本@名無史さん:2012/04/08(日) 16:09:19.34
伊作は、高校時代に漢文が赤点だったからな
954日本@名無史さん:2012/04/08(日) 16:14:15.34
「行」だから放射式だってんならとっくの昔に中国人がそう読んでるっつーの
955卑弥呼は朝鮮にいた:2012/04/08(日) 17:29:12.39
漢末 倭人亂 攻伐不定 乃立女子為王 名曰卑彌呼
宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶

名を卑彌呼という。宣帝の公孫氏を平らぐや、その女王遣使して帶方に至り… ←すんなりと意味が通る。

名を卑彌呼という。宣帝、公孫氏を平らげに之くなり、その女王遣使して帶方に至り… ←前後の文に何の脈絡もない。
956大訂正!:2012/04/08(日) 17:33:05.30
行,
人之步趨也。从彳从亍。凡行之屬皆从行。戶庚切
人之步趨也。步,行也。趨,走也。二者一徐一疾。皆謂之行。
从彳亍。彳,小步也。亍,步止也。

《爾雅·釋宮》堂上謂之行,堂下謂之步。
《釋名》行,伉也,伉足而前也。 
又《廣韻》適也,往也,去也。


走也。从走芻聲。


止也,一曰亡也。从亡从一。



957大訂正!:2012/04/08(日) 17:35:48.61
《韻會》从彳,左步。从亍,右步也。左右步俱舉,而後爲行者也。
958日本@名無史さん:2012/04/08(日) 18:39:19.04
そのまま読んだら九州のはるか南に出ちゃうんでしょ
一字一字厳密に読んだってしょうがないよ
全体の大雑把な流れでみたら九州で間違いないでしょ
959日本@名無史さん:2012/04/08(日) 19:54:38.45
松浦までの距離から逆算されるいわゆる短里が、公里の1/6に近い距離なのは、
周知のことだと思うが、それと同様に、ひと月分の行程距離を1/6すれば九州に収まる。
途中の距離も地勢関係も一致する。

逆に1/6しなければ、何もかもが成立しない。

ただ、魏志倭人伝や隋書倭国伝、百済伝が、なぜそんな比率で
書かれたのかはわからない。
960日本@名無史さん:2012/04/08(日) 20:08:00.83
もともと魏志倭人伝なんていい加減なものなんだよ
方角か距離かどちらか一箇所だけが間違っていてあとはすべての記述が完璧とか思うほうがどうかしてるね
間違いが30箇所くらいあるかも知れないじゃないか
そんな厳密に読んだってしょうがないよ
大雑把に読めばいいよ
北九州に女王のいる都があってその南に小さな国が30くらいあってそのまた南に熊襲がいて
東に向かって海を渡るとそこにもまたいろいろな国があるってことでいいじゃないか
961日本@名無史さん:2012/04/08(日) 20:25:09.64
魏は基本的には内陸国家で船による航行は河川の航行を前提にしていた。
その河川と言うのは黄河・長江という大河で、川幅数キロ、場合によっては数十キロに及ぶ。
その様な状況に於いては河川のどちら側の岸にそって航行くるかが大事になってくる。
「南水行」を南へ水行するというのは明らかな間違い。
南岸に沿って航行したと読むべき。
当然、水路は東西に伸びていたということになる。
962日本@名無史さん:2012/04/08(日) 20:44:58.16
そんな訳ねーだろw
963日本@名無史さん:2012/04/08(日) 20:45:40.84
瀬戸内海川じゃねーし!
それに邪馬台国の南にもまだ国があったって書いてあるじゃん
いっぱい国の名前が並んでてさらに南には熊襲がいたって書いてあるし
964日本@名無史さん:2012/04/08(日) 20:48:57.64
キチガイばっかしや
965日本@名無史さん:2012/04/08(日) 20:57:26.22
ここは信じたいものしか信じないキチガイのソウクツだからな
966日本@名無史さん:2012/04/08(日) 21:25:26.33
それに魏志倭人伝には邪馬台国連合が成立したなんて一言も書いてないからな
畿内説の人によるともともと倭国王すいしょうなんかは北九州にいたけど
倭国大乱が起こってその戦争に疲れた北九州や吉備や出雲や大和が共同で王を立てたって
でも魏志倭人伝には倭国がほかの国に攻められてそのあとその攻めてきたほかの国と一緒になって新しい王を立てたなんて
一言も書いてないから
そんな風に解釈できるようなことマジで書いてあるの

倭国内部で争いがあって王様のいない時期があったけど
新しく女王をたてて収まりましたとしか解釈できないと思うんだけど
よその国に攻め込まれたって書いてないよね
967日本@名無史さん:2012/04/08(日) 22:49:53.25
>>958
九州からでるように速度設定をするから出るんだろ。
出ない程度の速度を考えればいいことだ。
968日本@名無史さん:2012/04/08(日) 22:51:27.28
>>959
>逆に1/6しなければ、何もかもが成立しない。
自分で考えたことはあるのか? そんなくだらんことしなくても、十分に
成立するよ。

969日本@名無史さん:2012/04/09(月) 00:28:16.36
>>968
それでは、1/6しなくても成立する説を説明してもらいましょうか?
970日本@名無史さん:2012/04/09(月) 00:30:12.68

1 名無しさんにズームイン! [] Date:2012/03/28(水) 08:28:15.02 ?ID:NWYs/2ZP Be:
 やらなけゃいけない
 電○の各局への圧力が半端ないんです
 昨日、一昨日前田AKB卒業ネタやった情報番組全てが前田AKB卒業ネタ中の毎分で視聴率がダダ下がりしました。
 各局本音では毎分視聴率ダダ下がりするこのネタははやりたくなかったけど原子力村以上に電○からの圧力が凄いんです

ブーム捏造、枕営業、自社買い、サクラの動員そして
AKBの捏造ブームのために税金が大量に使われている証拠がこちら

やっと気付いた「AKBに電通が絡んでる」ではなく「AKBの正体が電通」な件 その124
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1333533082/
テレビの捏造ブームに騙されるな

971日本@名無史さん:2012/04/09(月) 01:16:21.37
>>969
宮崎
972日本@名無史さん:2012/04/09(月) 01:17:34.02
>>969
北九州から水行十日陸行一月で邪馬台国だろ。九州を南下すればいいんだよ。
隋書だって南北は三月行といっている。一月行はせいぜい百キロ程度さ。
973日本@名無史さん:2012/04/09(月) 01:34:25.49
>>971 >>972

まず、北部九州、松浦まで合計一万里、公里であれば4350キロ、
1/6の短里にしないのであれば、まずこれから説明してもらわないとね。
974日本@名無史さん:2012/04/09(月) 01:52:23.14
それは1/6したわけではない。単に一里=80メートルぐらいの単位を使って
いただけだろう。
975日本@名無史さん:2012/04/09(月) 01:57:19.71
>>974

それでもいいよ。
それを短里と表現するということだから。

公里の1/6でも、短里でも、表現するところは同じ。
976日本@名無史さん:2012/04/09(月) 01:57:48.20
そんな単位は無いでしょ
977日本@名無史さん:2012/04/09(月) 02:01:43.79
ついでに、>>972、とはほぼ同意。
一月行を70〜80キロと見ているけどね。

これも、一般的な旅程、一日あたり15キロで、一月行450キロの
1/6であることには違いはない。
978日本@名無史さん
1/6説の新しいところは、日数表記の部分を、
一日あたり15キロ弱の行程として、それを1/6しただけ。
あとは、短里の部分も全て、先人の説を踏襲している。

ただ単に短里説の1/6を日数表記にも適用したに過ぎない。

それで、殆どの行程が矛盾なく説明できる。